巻第三十八(上)
大智度論釋往生品第四之上
1.菩薩摩訶薩の来処の差別
2.菩薩摩訶薩の利鈍の差別
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大智度論釋往生品第四之上(卷三十八)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


菩薩摩訶薩の来処の差別

【經】舍利弗白佛言。世尊菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。能如是習相應者。從何處終來生此間。從此間終當生何處。 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、能く是の如く習相応すれば、何処にか終りてより、此の間に来生し、此の間に終りてより、当に何処にか生ずべし』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じて!』、
是のように、
『習応することができれば!』、
何処に終って、
『此の間』に、
『生じ!』、
此の間に終って、
『何処』に、
『生じることになるのですか?』、と。
  習相応(じゅうそうおう):習従相応( adapting to )、適応して実践する( to practice adaptively )。
  参考:『大般若経巻7』:『爾時舍利子白佛言。世尊。安住般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。從何處沒來生此間。從此處沒當生何處。佛告具壽舍利子言。安住般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。有從他方佛土沒來生此間。有從睹史多天沒來生此間。有從人中沒生此人中。舍利子。若菩薩摩訶薩安住般若波羅蜜多。從他方佛土沒來生此者。是菩薩摩訶薩速與般若波羅蜜多相應。由與般若波羅蜜多相應故。轉生便得深妙法門疾現在前。從此已後恒與般若波羅蜜多速得相應。在所生處常得值佛。供養恭敬尊重讚歎。能令般若波羅蜜多漸得圓滿。舍利子。若菩薩摩訶薩安住般若波羅蜜多。從睹史多天沒來生此者。是菩薩摩訶薩多為一生所繫。布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多自在現前。常不忘失。亦於一切陀羅尼門三摩地門自在現前。常不忘失。舍利子。若菩薩摩訶薩安住般若波羅蜜多。從人中沒生人中者。是菩薩摩訶薩除不退轉。其根昧鈍。雖勤修般若波羅蜜多。而不能速與般若波羅蜜多相應。又於一切陀羅尼門三摩地門未得自在。又舍利子。汝後所問安住般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。從此間沒當生何處者。舍利子。是菩薩摩訶薩由與般若波羅蜜多恒相應故。從此處沒生餘佛土。從一佛國至一佛國。在在生處常得值遇諸佛世尊。供養恭敬尊重讚歎。乃至無上正等菩提終不離佛』
佛告舍利弗。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。能如是習相應者。或從他方佛國來生此間。或從兜率天上來生此間。或從人道中來生此間。 仏の舎利弗に告げたまわく、『是の菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、能く是の如く習相応すれば、或は他方の仏国より、此の間に来生し、或は兜率天上より、此の間に来生し、或は人道中より、此の間に来生す』。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
是の、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じて!』、
是のように、
『習応することができれば!』、
或は、
『他方の仏国より!』、
『此の間』に、
『来生し!』、
或は、
『兜率天上より!』、
『此の間』に、
『来生し!』、
或は、
『人道中より!』、
『此の間』に、
『来生するのである!』。
舍利弗。從他方佛國來者。疾與般若波羅蜜相應。與般若波羅蜜相應故。捨身來生此間。諸深法要皆現在前。後還與般若波羅蜜相應。在所生處常值諸佛。 舎利弗、他方の仏国より来たる者は、疾かに般若波羅蜜と相応し、般若波羅蜜と相応するが故に、身を捨てて、此の間に来生し、諸の深き法は、要ず皆前に現在し、後にも還って般若波羅蜜と相応し、所生の処に在りて、常に諸仏に値う。
舎利弗!
『他方の仏国より来る!』者は、
疾かに、
『般若波羅蜜と相応し!』、
『般若波羅蜜と相応する!』が故に、
『身を捨てて!』、
『此の間』に、
『来生すれば!』、
『諸の深い法』』が、
要ず( should )、
皆、
『前に( in front of )!』、
『現在する( to appear )!』ので、
後には( after )、
還って( again )、
『般若波羅蜜』と、
『相応することになり!』、
『所生の処』に於いて、
常に、
『諸仏』に、
『値うのである!』。
舍利弗。有一生補處菩薩。兜率天上終來生是間。是菩薩不失六波羅蜜。隨所生處一切陀羅尼門。諸三昧門疾現在前。 舎利弗、有る一生補処の菩薩は、兜率天上に終りて、是の間に来生す。是の菩薩は、六波羅蜜を失わずして、所生の処に随うて、一切の陀羅尼門、諸の三昧門疾かに前に現在す。
舎利弗!
有る、
『一生補処の菩薩』は、
『兜率天上に終って!』、
是の、
『間』に、
『来生したのである!』が、
是の、
『菩薩』は、
『六波羅蜜を失うこともなく!』、
『所生の処に随って!』、
常に、
『一切の陀羅尼門、諸の三昧門』が、
疾かに、
『前に!』、
『現在するのである!』。
舍利弗。有菩薩人中命終還生人中者。除阿毘跋致。是菩薩根鈍不能疾與般若波羅蜜相應。諸陀羅尼門三昧門不能疾現在前 舎利弗、有る菩薩は、人中に命終りて、還って人中に生ずる者なり。阿毘跋致を除き、是の菩薩の根は鈍にして、疾かに般若波羅蜜と相応する能わざれば、諸の陀羅尼門、三昧門も、疾かに前に現在する能わず。
舎利弗!
有る、
『菩薩』は、
『人中に、命を終えて!』、
還って、
『人中に!』、
『生じる者である!』が、
『阿毘跋致を除けば!』、
是の、
『菩薩』は、
『根が鈍であり!』、
疾かに、
『般若波羅蜜』と、
『相応することができず!』、
『諸の陀羅尼門、三昧門』も、
疾かに、
『前に!』、
『現在することができないのである!』。
【論】問曰。是般若波羅蜜中眾生畢竟不可得。如上品說。舍利弗如一切眾生不可得。壽者命者乃至知者見者等。眾生諸異名字皆空無實。此中何以問從何所來去至何所上。眾生異名即是菩薩。眾生無故菩薩亦無。又此經中說。菩薩但有名字無有實法。今舍利弗何以作此問。 問うて曰く、是の般若波羅蜜中に、衆生は畢竟不可得なること、上の品に、『舎利弗、一切の衆生の不可得なるが如く、寿者、命者、乃至知者、見者等の衆生の諸の異名字も、皆空にして実無し』、と説けるが如し。此の中には、何を以ってか、『何所より来たり、去りて何所の上にか至る』、と問える。衆生の異名は、即ち是れ菩薩なり。衆生無きが故に菩薩も亦た無し。又此の経中に、『菩薩は但だ名字有りて、実法有ること無し』、と説けり。今、舎利弗は、何を以ってか、此の問を作す。
問い、
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『衆生』は、
『畢竟じて不可得であり!』、
上の、
『品』中に、こう説く通りである、――
舎利弗!
『一切の衆生が不可得であるように!』、
『寿者、命者、乃至知者、見者』等の、
『衆生の異名』は、
皆、
『空であり!』、
『無実である!』、と。
此の中には、
何故、こう説くのか?――
『菩薩』は、
『何所より来て!』、
『何所の上に去って、至るのか?』、と。
『菩薩』が、
『衆生』の、
『異名ならば!』、
『衆生が無ければ!』、
『菩薩』も、
『無いはずである!』。
又、
此の、
『経』中には、
『菩薩』は、
但だ、
『名字が有るだけで!』、
『実の法は無い!』と、
『説かれているのに!』、
今、
『舎利弗』は、
何故、
『此の問』を、
『作したのですか?』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1習応品』:『佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一切我常不可得。眾生壽者命者生者。養育眾數人者。作者使作者。起者使起者。受者使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可得空故。但以名字說。菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜。不見我不見眾生。乃至不見知者見者。所說名字亦不可見。』
答曰。佛法中有二諦。一者世諦。二者第一義諦。為世諦故說有眾生。為第一義諦故說眾生無所有。 答えて曰く、仏法中には二諦有り、一には世諦、二には第一義諦なり。世諦の為めの故に、衆生有りと説き、第一義諦の為めの故に、衆生は無所有なりと説く。
答え、
『仏法』中には、
『二諦が有り!』、
一には、
『世諦!』、
二には、
『第一義諦である!』。
『世諦を説く!』為めに、
『衆生が有る!』と、
『説き!』、
『第一義諦を説く!』為めに、
『衆生は無所有である!』と、
『説く!』。
  参考:『中論巻2観行品』:『諸行亦如是。有增有減故不決定。但以世俗言說故有。因世諦故得見第一義諦。所謂無明緣諸行。從諸行有識著。識著故有名色。從名色有六入。從六入有觸。從觸有受。從受有愛。從愛有取。從取有有。從有有生。從生有老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等。如是諸苦皆以行為本。佛以世諦故說。若得第一義諦生真智慧者則無明息。無明息故諸行亦不集。諸行不集故見諦所斷身見疑戒取等斷。及思惟所斷貪恚色染無色染調戲無明亦斷。以是斷故一一分滅。所謂無明諸行識名色六入觸受愛取有生老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等皆滅。以是滅故五陰身畢竟滅更無有餘。唯但有空。是故佛欲示空義故。說諸行虛誑。』
  参考:『中論巻4観四諦品』:『問曰。(中略)復次 空法壞因果  亦壞於罪福  亦復悉毀壞  一切世俗法  若受空法者。則破罪福及罪福果報。亦破世俗法。有如是等諸過故。諸法不應空。答曰 汝今實不能  知空空因緣  及知於空義  是故自生惱  汝不解云何是空相。以何因緣說空。亦不解空義。不能如實知故。生如是疑難。復次 諸佛依二諦  為眾生說法  一以世俗諦  二第一義諦  若人不能知  分別於二諦  則於深佛法  不知真實義  世俗諦者。一切法性空。而世間顛倒故生虛妄法。於世間是實。諸賢聖真知顛倒性。故知一切法皆空無生。於聖人是第一義諦名為實。諸佛依是二諦。而為眾生說法。若人不能如實分別二諦。則於甚深佛法。不知實義。若謂一切法不生是第一義諦。不須第二俗諦者。是亦不然。何以故  若不依俗諦  不得第一義  不得第一義  則不得涅槃  第一義皆因言說。 言說是世俗。是故若不依世俗。第一義則不可說。若不得第一義。云何得至涅槃。是故諸法雖無生。而有二諦。』
復有二種。有知名字相。有不知名字相。譬如軍立密號有知者有不知者。復有二種。有初習行。有久習行。有著者。有不著者。有知他意者。有不知他意者。(雖有言辭知其寄言以宣理) 復た二種有り、有るいは名字の相を知り、有るいは名字の相を知らず。譬えば軍立の密号を知る者有り、知らざる者有るが如し。復た二種有り、有るいは初めて行を習い、有るいは久しく行を習う。有るいは著する者なり、有るいは著せざる者なり。有るいは他の意を知る者なり、有るいは他の意を知らざる者なり。
復た、
『二種有り!』、
有るいは、
『名字の相』を、
『知り!』、
有るいは、
『名字の相』を、
『知らない!』。
譬えば、
『軍立の密号( the password of an army )』を、
『知る者が有り!』、
『知らない者が有るようなものである!』。
復た、
『二種有り!』、
有るいは、
『初めて!』、
『行を習い!』、
有るいは、
『久しく!』、
『行を習う!』。
有るいは、
『著する者であり!』、
有るいは、
『著さない者である!』。
有るいは、
『他の意』を、
『知る者であり!』、
有るいは、
『他の意』を、
『知らない者である!』。
為不知名字相初習行著不知他意者。故說無眾生。為知名字相久習行不著知他意者。故說言有眾生。 名字の相を知らず、初めて行を習い、著して他の意を知らざる者の為めの故に『衆生無し』、と説き、名字の相を知り、久しく行を習い、著せずして、他の意を知る者の為めの故に、説いて、『衆生有り』、と言う。
『名字の相を知らず!』、
『初めて、行を習い!』、
『衆生に著して!』、
『他の意を知らない!』者の為めに、
『衆生は無い!』と、
『説き!』、
『名字の相を知り!』、
『久しく、行を習い!』、
『衆生に著さず!』、
『他の意を知る!』者の為めに、
『衆生は有る!』と、
『説くのである!』。
舍利弗以天眼明見六道眾生生死善惡。於此無疑。但不知從他方無量阿僧祇世界諸菩薩來者故問。有諸大菩薩。從此間終生他方無量阿僧祇佛國。舍利弗天眼所不見故問。 舎利弗は、天眼明を以って、六道の衆生の生死、善悪を見て、此に於いて疑無く、但だ他方の無量阿僧祇の世界より諸菩薩の来る者を知らざるが故に問えり。有る諸大菩薩の、此の間に終りてより、他方の無量阿僧祇の仏国に生ずるは、舎利弗の天眼の見ざる所なるが故に問えり。
『舎利弗』は、
『天眼明を用いて!』、
『六道の衆生』の、
『生死や、善悪』を、
『見る!』ので、
此には、
『疑』が、
『無い!』が、
但だ、
『他方の無量阿僧祇の世界より!』、
『諸菩薩が来ることを、知らない!』が故に、
『問うたのであり!』、
有る、
『諸の大菩薩が、此の間に終って!』、
『他方の無量阿僧祇の仏国』に、
『生じること!』は、
『舎利弗の天眼』の、
『見えない所である!』が故に、
『問うたのである!』。
復次有聲聞人。見菩薩行六波羅蜜。久住生死中漏未盡故。集種種智慧內外經書。而不證實際未免生老病死。愍而輕之言。此等命終以三毒未盡故當墮何處。如佛說諸凡夫人常開三惡道門。於三善道為客。於三惡處為家。三毒力強。過去世無量劫罪業積集而不取涅槃。將受眾苦甚可愍之。如是等小乘人輕愍是菩薩。 復た次ぎに、有る声聞人は、菩薩の六波羅蜜を行じて、久しく生死中に住するも、漏の未だ尽きざるが故に、種種の智慧、内外の経書を集むるも、実際を証せずして、未だ生老病死を免れざるを見て、愍れみ、之を軽んじて言わく、『此れ等の命終るに、三毒の未だ尽きざるを以っての故に、当に何処にか堕すべき。諸の凡夫人は、常に三悪道の門を開けば、三善道を客と為し、三悪処を家と為す。三毒の力強く、過去世の無量劫の罪業積集すれば、涅槃を取らずして、将に衆苦を受くべきは、甚だ之を愍れむべし、と仏の説きたまえるが如し』、と。是れ等の如き小乗人は、是の菩薩を軽んじて愍れむ。
復た次ぎに、
有る、
『声聞人』は、
『菩薩』が、
『六波羅蜜を行じて、久しく生死中に住しながら!』、
未だ、
『漏が尽きない!』が故に、
『種種の智慧や、内外の経書』を、
『集めるばかりで!』、
『実際を証することなく!』、
未だ、
『生老病死を免れない!』のを、
『見て!』、
是の、
『菩薩を愍れみ、軽んじて!』、こう言う、――
此れ等の、
『命が終れば!』、
未だ、
『三毒』が、
『尽きない!』が故に、
何処に、
『堕ちることになるのか?』。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『諸の凡夫人』は、
常に、
『三悪道の門を開き!』、
『三善道の客であり!』、
『三悪道が家である!』、と。
『三毒の力は強く!』、
『過去世、無量劫』の、
『罪業』を、
『積集する!』が故に、
『涅槃を取ることなく!』、
『衆苦』を、
『受けねばならない!』。
是の、
『人』は、
『甚だ愍れむべきである!』、と。
是れ等のような、
『小乗人』は、
是の、
『菩薩』を、
『軽んじて、愍れむのである!』。
舍利弗於一切聲聞中為第一大法將。知有是事。欲令眾生起敬心於菩薩故問。佛以三事答。一從他方佛國來生。二從兜率天上來。三從人道中來。 舎利弗は、一切の声聞中の第一の大法将なれば、是の事有るを知り、衆生をして、菩薩に敬心を起さしめんと欲するが故に問えるに、仏は、三事を以って答えたまえり、『一には他方の国より来生し、二には兜率天上より来たり、三には人道中より来たり』、と。
『舎利弗』は、
一切の、
『声聞』中の、
『第一の大法将であり!』、
是の、
『事が有る!』のを、
『知る!』が故に、
『衆生』に、
『菩薩に対する敬心を起させようとした!』が故に、
『仏』に、
『問うたのである!』が、
『仏』は、
『三事を用いて!』、こう答えられた、――
『般若波羅蜜に習応する菩薩』は、
一には、
『他方の仏国より!』、
『来生し!』、
二には、
『兜率天上より!』、
『来生し!』、
三には、
『人道』中より、
『来生するのである!』、と。
問曰。如從他方佛國來者。以遠故舍利弗不知。兜率天上人道中來者何以不知。 問うて曰く、他方の仏国より来たる者の如きは、遠きを以っての故に、舎利弗は知らず。兜率天上、人道中より来たる者を、何を以ってか、知らざる。
問い、
『他方の仏国より来る!』者は、
『遠い!』が故に、
『舎利弗』も、
『知らないだろう!』が、
『兜率天上や、人道中より来た!』者を、
何故、
『舎利弗』が、
『知らないのですか?』。
答曰。舍利弗不知他方佛國來者故問。佛為如所應分別答有三處來。 答えて曰く、舎利弗の、他方の仏国より来たる者を知らざるが故に問えるに、仏は為めに応に分別すべき所の如く、三処より来たる有りと答えたまえり。
答え、
『舎利弗』が、
『他方の仏国より来た!』者を、
『知らない!』が故に、
『問う!』と、
『仏』は、
『舎利弗が分別すべき!』所を、
『三処より来た者が有る!』と、
『答えられたのである!』。
問曰。世間有六道。何以故。於天中別說兜率天來。人道中不分別處所。他方佛國來者。亦不分別天道人道。 問うて曰く、世間には六道有り。何を以っての故にか、天中に於いて別して、兜率天より来たるを説き、人道中には処所を分別せず、他方の仏国より来たる者も亦た天道、人道を分別したまわざる。
問い、
『世間には、六道が有る!』が、
何故、
『天』中に於いては、
『兜率天より来る!』者を、
『別に説き!』、
『人道』中には、
『処する所』を、
『分別せず!』、
『他方の仏国より来た!』者も、
『天道より来たのか、人道中より来たのか?』を、
『分別しないのですか?』。
答曰。六趣中三是惡道。惡道中來受苦因緣。心鈍故不任得道。是故不說。 答えて曰く、六趣中の三は、是れ悪道なり。悪道中より来たれば、苦を受くる因縁に、心鈍きが故に道を得るに任えず。是の故に説きたまわず。
答え、
『六趣』中の、
『三』は、
『悪道であり!』、
『悪道中より来た!』者は、
『苦を受けた因縁』の故に、
『心が鈍く!』、
『道を得る!』に、
『任えられない!』ので、
是の故に、
『三悪道』を、
『説かれなかったのである!』。
問曰。三惡道中來亦有得道者。如舍利弗大弟子牛足比丘。五百世牛中生。末後得人身足猶似牛。而得阿羅漢道。復有摩偷婆尸他比丘。五百世生獼猴中。末後得人身得三明六神通阿羅漢猶好跳躑。以有餘習故。如是等皆得道。何以言不任。 問うて曰く、三悪道中より来たるも亦た道を得る者有り。舎利弗の大弟子の牛足比丘の如きは、五百世、牛中に生じ、末後に人身を得るも、足は猶お牛に似たりて、而も阿羅漢道を得たり。復た摩偸婆尸他比丘有りて、五百世、彌猴中に生じ、末後に人身を得て、三明、六神通の阿羅漢を得るも、猶お跳躑するを好めるは、餘習有るを以っての故なり。是れ等の如きは、皆道を得たるに、何を以ってか任えざると言う。
問い、
『三悪道中より来ても!』、
『道を得た!』者が、
『有る!』。
例えば、
『舎利弗の大弟子』の、
『牛足比丘など!』は、
『五百世、牛中に生じた!』ので、
『末後に、人身を得ても!』、
猶お、
『足』が、
『牛に似ていた!』が、
而し、
『阿羅漢道』を、
『得ることができたのであり!』、
復た、
『摩偸婆尸他という!』、
『比丘が有り!』、
『五百世、彌猴中に生じた!』ので、
『末後に、人身を得て!』、
『三明、六神通の阿羅漢』を、
『得ながら!』、
猶お、
『跳躑すること!』を、
『好んだ!』のは、
未だ、
『餘習』が、
『有ったからである!』。
是れ等のような者は、
皆、
『道』を、
『得たのである!』が、
何故、
『任えられない!』と、
『言うのですか?』。
  牛足(ごそく):不明。
  摩偸婆尸他(まゆばした):梵名azvajit、巴梨assaji、又蜜婆私詫、或は阿説示、頞鞞等に作り、馬師、馬勝と訳す。五比丘の一にして、舎利弗、目連帰仏の因縁を為す。『大智度論巻11上注:阿説示』参照。
  跳躑(ちょうちゃく):ぴょんぴょん跳ぶこと。
  参考:『大智度論巻84』:『譬如蜜婆私詫阿羅漢。五百世在獼猴中。今雖得阿羅漢猶騰跳樹木。愚人見之即生輕慢。是比丘似如獼猴。是阿羅漢無煩惱心而猶有本習。』
  参考:『分別功徳論巻4』:『馬師比丘者。從佛受學。方經七日。便備威儀。將入毘舍離乞食。於城門外遇優波坻舍。遙見馬師威儀庠序法服整齊。中心欣悅。問曰。君是何等人。曰吾是沙門。曰君為自知為有師宗耶。曰有師。師名為誰。云何說法。答曰。吾師名釋迦文。天中之天三界極尊。其所教誨以空無為主。息心達本。故號沙門。優波坻舍聞此妙語。即達道跡。坻舍同學本有要誓。先得甘露者。當相告示。即辭馬師至拘律陀所。拘律陀見來顏色異常。疑獲甘露。尋問得甘露那。曰得也。甘露云何。甘露者達諸法空無也。拘律尋思復得道跡。馬師所以威儀第一者。以宿五百世為獼猴。今得為人性猶躁擾。出家七日即改本轍。學雖初淺善宣尊教。使前睹者悅顏達教。以威儀感悟故稱第一。身子所以稱智慧第一者。世尊又云。欲知身子智慧多少者。以須彌為硯子。四大海水為書水。以四天下竹木為筆。滿中人為書師。欲寫身子智慧者。猶尚不能盡。況凡夫五通而能測量耶。故稱智慧為第一』
答曰。雖有得者少不足言。又此人先世深種涅槃善根。小有謬錯故墮惡道中。償罪既畢涅槃善根熟故得成道果。 答えて曰く、得る者有りと雖も、少くして言うに足りざればなり。又此の人は、先世に涅槃の善根を深く種うるも、小し謬錯有るが故に悪道中に堕し、罪を償いて既に畢れば、涅槃の善根熟せるが故に道果を成ずるを得たり。
答え、
『道を得た者も有る!』が、
『少ししかない!』ので、
『言うに足りないのである!』。
又、
此の、
『人』は、
『先世に、涅槃の善根を深く種えたのである!』が、
『謬錯が少し有った!』ので、
『悪道』中に、
『堕していた!』が、
『罪を償って、既に畢った!』時には、
『涅槃の善根が熟していた!』が故に、
『道果』を、
『成ずることができたのである!』。
此中不說聲聞道。但為得阿耨多羅三藐三菩提。前身後身次第。譬如從垢心起不得次第入無漏。中間必有善有漏心。以無漏心貴故。言於三惡道出不任次第得阿耨多羅三藐三菩提心。天人阿修羅則不然。 此の中に声聞道を説かざるは、但だ阿耨多羅三藐三菩提を得んが為めなり。前身、後身の次第は、譬えば垢心の起るによりて、次第に無漏に入るを得ざるも、中間に必ず、善の有漏心有るも、無漏心を以って貴ぶが故に、『三悪道より出づれば、次第に阿耨多羅三藐三菩提の心を得るに任えず、天、人、阿修羅は則ち然らず』、と言えるが如し。
此の中に、
『声聞道を説かない!』のは、
但だ、
『阿耨多羅三藐三菩提を得させる為め!』に、
『説かれたからである!』。
『前身や、後身の次第』も、
譬えば、こういうことである、――
『垢心が起る!』が故に、
次第に、
『無漏』に、
『入ることはできない!』が、
『中間』には、
必ず、
『善の有漏心』が、
『有るはずなのに!』、
『無漏心を貴ぶ!』が故に、こう言うのである、――
『三悪道を出ても!』、
次第に、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を得る!』には、
『任えられない!』が、
『天、人、阿修羅ならば!』、
則ち、
『然うではない!』、と。
下三天結使利而深。上二天結使深而不利。兜率天結使不深不利。所以者何。常有菩薩說法故。是故不說餘處。或有少故不說。色界諸天得道者不復來下。未得道者樂著禪味故不下。以著味故智慧亦鈍。是故不說。阿修羅同下二天故不說。 下三天の結使は利にして深く、上二天の結使は深けれど利ならず。兜率天の結使は深からず、利ならず。所以は何んとなれば、常に菩薩の説法有るが故に、是の故に余処を説かず。或は有ること少きが故に説かず。色界の諸天の道を得る者は復た来下せず。未だ道を得ざる者は、禅味に楽著するが故に下らずして、味に著するを以っての故に智慧も亦た鈍なれば、是の故に説かず。阿修羅は、下二天と同じきが故に説かず。
『下の三天』の、
『結使』は、
『利であって、深く!』、
『上の二天』の、
『結使』は、
『深いが、利ではなく!』、
『兜率天』の、
『結使』は、
『深くもなく、利でもない!』。
何故ならば、
『常に!』、
『菩薩の説法が有るからである!』。
是の故に、
『兜率天を説いて!』、
『余処を説かないのである!』。
或は、
『有っても少い!』が故に、
『説かれないのである!』。
『色界の諸天』は、
『道を得た!』者は、
復た、
『来下するこなく!』、
『道を得ない!』者は、
『禅味を楽しんで、著する!』が故に、
『来下せず!』、
『味に著する!』が故に、
『智慧も鈍い!』が故に、
『説かないのであり!』、
『阿修羅』は、
『下の二天と同じである!』が故に、
『説かれないのである!』。
他方佛國來者。從諸佛前來生是間諸根猛利。所以者何。除無量阿僧祇劫罪故。又遇諸佛隨心教導故。如刀得好石則利。又常聞誦正憶念般若波羅蜜故利。如是等因緣則菩薩心利。 他方の仏国より来たる者は、諸仏の前より、是の間に来生すれば、諸根猛利なり。所以は何んとなれば、無量阿僧祇劫の罪を除くが故に、又諸仏の心に随いて、教導したもうに遇うが故に、刀の好き石を得るが如く、則ち利なり。又常に般若波羅蜜を聞いて誦し、正しく憶念するが故に利なり。是れ等の如き因縁あれば、則ち菩薩の心は利なり。
『他方の仏国より来た!』者は、
『諸仏の前より、是の間に来生して!』、
『諸根』が、
『猛利である!』。
何故ならば、
『無量阿僧祇劫』の、
『罪』が、
『除かれている!』が故に、
又、
『諸仏』が、
『心のままに、教導される!』のに、
『遇う!』が故に、
譬えば、
『刀』が、
『好い石』を、
『得たかのように!』、
則ち、
『利であり!』、
又、
『般若波羅蜜を常に聞いて、誦し!』、
『正しく、憶念する!』が故に、
『心が、利であるように!』、
是れ等のような、
『因縁』で、
『菩薩の心』は、
『利なのである!』。
人中來者此間佛弟子。聽般若波羅蜜集諸功德。捨身還生是間。或於異國土雖無有佛值遇佛法。聽受書寫正憶念。隨力多少修福德智慧。是人諸根雖鈍堪受般若波羅蜜。以不見現在佛故心鈍。 人中より来たる者は、此の間に仏弟子となり、般若波羅蜜を聴いて、諸の功徳を集め、身を捨てて、還って是の間に生じ、或は異国の土に於いて、仏有ること無しと雖も、仏法に値遇し、聴受して書写し、正しく憶念し、力の多少に随いて、福徳の智慧を修すれば、是の人の諸根鈍なりと雖も、般若波羅蜜を受くるに堪うるも、現在の仏を見ざるを以っての故に心鈍なり。
『人中より来た!』者とは、
此の間の、
『仏弟子として!』、
『般若波羅蜜を聴いて!』、
『諸功徳』を、
『集めながら!』、
『身を捨てれば!』、
『還って!』、
是の、
『間』に、
『生じる者である!』か、
或は、
『仏の無い!』、
『異国土』に於いて、
『仏法に値遇して!』、
『聴受し、書写し!』、
『正しく、憶念して!』、
『力の多少に随って!』、
『福徳の智慧』を、
『修めた者である!』が、
是の、
『人』は、
『諸根が鈍いながらも!』、
『般若波羅蜜を受ける!』に、
『堪えられる!』が、
『現在の仏を見ない!』が故に、
『心』は、
『鈍なのである!』。
他方佛國來者利根故。修行般若波羅蜜疾得相應。以相應故常值諸佛。值佛因緣如先說。 他方の仏国より来たる者は、利根なるが故に、般若波羅蜜を修行すれば、疾かに相応するを得、相応するを以っての故に、常に諸仏に値う。仏に値う因縁は、先に説けるが如し。
『他方の仏国より来た!』者は、
『利根である!』が故に、
『般若波羅蜜を修行すれば!』、
疾かに、
『般若波羅蜜』と、
『相応することができ!』、
『相応する!』が故に、
常に、
『諸仏』に、
『値うのである!』。
『仏に値う因縁』は、
先に、
『説いた通りである!』。
  参考:『大智度論巻29』:『問曰。有為之法欺誑不真皆不可信。云何得如願不離諸佛。答曰。福德智慧具足故乃應得佛。何況不離諸佛。以眾生有無量劫罪因緣故。不得如願。雖行福德而智慧薄少。雖行智慧而福德薄少。故所願不成。菩薩求佛道故。要行二忍。生忍法忍。行生忍故。一切眾生中發慈悲心。滅無量劫罪。得無量福德。行法忍故。破諸法無明。得無量智慧。二行和合故何願不得。以是故。菩薩世世常不離諸佛。復次菩薩常愛樂念佛故。捨身受身恒得值佛。譬如眾生習欲心重受婬鳥身。所謂孔雀鴛鴦等。習瞋恚偏多生毒虫中。所謂惡龍羅剎蜈蚣毒蛇等。是菩薩心不貴轉輪聖王人天福樂但念諸佛。是故隨心所重而受身形。復次菩薩常善修念佛三昧因緣故。所生常值諸佛。如般舟三昧中說。菩薩入是三昧。即見阿彌陀佛。便問其佛何業因緣故得生彼國。佛即答言。善男子。以常修念佛三昧憶念不廢故得生我國。』
問曰。兜率天上。何以但說一生補處。不說二生三生。 問うて曰く、兜率天上は、何を以ってか、但だ一生補処を説いて、二生、三生を説かざる。
問い、
『兜率天上』は、
但だ、
『一生補処』を、
『説くだけで!』、
何故、
『二生や、三生』を、
『説かないのですか?』。
答曰。人身罪結煩惱處所。唯大菩薩處之則無染累。如鵝入水水不令濕。如是菩薩一切世間法所不能著。所以者何。佛自說因緣。不失六波羅蜜諸陀羅尼門諸三昧門。疾現在前。是菩薩於是世界應利益眾生。其餘菩薩分布十方。譬如大智慧人已在一處。其餘大智則至異處。是故不說。 答えて曰く、人身は罪、結、煩悩の処する所なれば、唯だ大菩薩のみ之に処して、則ち染累無し。鵝の水に入るに、水の湿しめざるが如し。是の如く菩薩は一切の世間法の著す能わざる所なり。所以は何んとなれば、仏自ら因縁を説きたまわく、『六波羅蜜を失わざれば、諸の陀羅尼門、諸の三昧門は、疾かに前に現在す』、と。是の菩薩は、是の世界に於いて、応に衆生を利益すべし。其の餘の菩薩は十方に分布す。譬えば大智慧の人、已に一処に在れば、其の餘の大智は、則ち異処に至るが如し。是の故に説かず。
答え、
『人身』は、
『罪、結、煩悩』の、
『処する所であり!』、
唯だ、
『大菩薩のみ!』が
是の、
『人身に処しながら!』、
『染累( a pile of affliction )』が、
『無いのである!』。
譬えば、
『鵝が、水に入っても!』、
『水』に、
『湿されないよう!』、
是のように、
『菩薩』は
『一切の世間法』に、
『著されることがないのである!』。
何故ならば、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
『六波羅蜜を失わなければ!』、
『諸の陀羅尼門や、諸の三昧門』が、
『疾かに!』、
『前に現れる!』、と。
是の、
『菩薩』が、
是の、
『世界』に於いて、
当然、
『衆生』を、
『利益することになる!』ので、
其の、
『餘の菩薩』は、
『十方』に、
『分布することになる!』。
譬えば、
『大智慧の人』が、
已に、
『一処に在れば!』、
『餘の大智』は、
『異処』に、
『至るようなものであり!』、
是の故に、
『説かれないのである!』。
復次有人言。但說大者不限於小。 復た次ぎに、有る人の言わく、『但だ大の者を説いて、小を限らず』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
但だ、
『大の者を説かれただけで!』、
『小』が、
『限られたわけではない!』、と。
復次餘天中來生者餘處當廣說。 復た次ぎに、餘の天中より来生する者は、余処に当に広説すべし。
復た次ぎに、
『餘の天中より来生する!』者は、
『余処』に、
『広説されるはずである!』。
人中死人中生者。不如上二處。何以故。以人身地大多故。身重心鈍。以心心數法隨身強弱故。又諸業結使因緣生故。 人中に死して、人中に生ずる者は、上の二処に如かず。何を以っての故に、人身は、地大多きを以っての故に、身重く、心鈍なればなり、心心数法の身の強弱に随うを以っての故に。又諸の業結使の因縁の生なるが故なり。
『人中に死んで、人中に生じる!』者は、
『上の二処』に、
『及ばない!』。
何故ならば、
『人身』は、
『地大が多い!』が故に、
『身が重く!』、
『心が鈍いからである!』。
何故ならば、
『心心数法』は、
『身の強弱に随うからである!』。
又、
『人身』は、
『諸業の結使の因縁より!』、
『生じるからである!』。
彼二處來者是法身菩薩。變身無量以度眾生。故來生是間。人道中者皆是肉身。 彼の二処より来たる者は、是れ法身の菩薩にして、身を無量に変じ、以って衆生を度せんが故に、是の間に来生す。人道中の者は、皆是れ肉身なり。
『彼の二処より来た!』者は、
『法身の菩薩』が、
『身を無量に変じて!』、
『衆生』を、
『度する為め!』の故に、
是の、
『間』に、
『来生するのである!』が、
『人道中より来た!』者は、
皆、
『肉身の菩薩である!』。
問曰。阿毘跋致菩薩不以結業受身。何以故人道中說。 問うて曰く、阿毘跋致の菩薩は、結、業を以って身を受けざるに、何を以っての故にか、人道中に説く。
問い、
『阿毘跋致の菩薩』は、
『結使や、業の因縁』の故に、
『身』を、
『受けるのではない!』のに、
何故、
『人道』中に、
『説くのですか?』。
答曰。來生此間得阿毘跋致。未捨肉身故。以鈍根故。諸陀羅尼三昧門不疾現在前不疾現在前故不疾與般若相應 答えて曰く、此の間に来生して阿毘跋致を得れば、未だ肉身を捨てざるが故に、鈍根なるを以っての故に、諸の陀羅尼、三昧の門、前に現在すること疾かならず、前に現在すること疾かならざるが故に、般若波羅蜜と相応することも疾かならず。
答え、
『此の間に来生して!』、
『阿毘跋致を得れば!』、
未だ、
『肉身を捨てない!』が故に、
『鈍根である!』が故に、
『諸の陀羅尼や、三昧の門』が、
『前に現れる!』のが、
『疾かではなく!』、
『疾かでない!』が故に、
『般若波羅蜜と相応すること!』も、
『疾かではない!』。



菩薩摩訶薩の利鈍の差別

【經】舍利弗。汝所問菩薩摩訶薩與般若波羅蜜相應。從此間終當生何處者。舍利弗。此菩薩摩訶薩從一佛國至一佛國。常值諸佛終不離佛。 舎利弗、汝が所問の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜と相応すれば、此の間に終ってより、当に何処にか生ずべきとは、舎利弗、此の菩薩摩訶薩は、一仏国より、一仏国に至り、常に諸仏に値えば、終に仏を離れず。
舎利弗!
お前は、こう問うたが、――
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜と相応すれば!』、
『此の間に、命を終って!』、
『何処に、生じるのか?』、と。
舎利弗!
此の、
『菩薩摩訶薩』は、
『一仏国より、一仏国に至りながら!』、
常に、
『諸仏』に、
『値い!』、
終に、
『仏』を、
『離れることはない!』。
舍利弗。有菩薩摩訶薩。不以方便入初禪乃至第四禪。亦行六波羅蜜。是菩薩摩訶薩得禪故生長壽天。隨彼壽終來生是間。得人身值諸佛。是菩薩諸根不利。 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、方便を以って、初禅、乃至第四禅に入りて、亦た六波羅蜜を行ぜず。是の菩薩摩訶薩は、禅を得るが故に長寿の天に生じ、彼の寿の終るに随いて、是の間に来生し、人身を得て、諸仏に値うも、是の菩薩の諸根は利ならず。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『初禅、乃至第四禅に入って!』、
『六波羅蜜を行じながら!』、
『方便を用いない!』ので、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『禅を得た!』が故に、
『長寿の天』に、
『生じることになり!』、
『彼の天の寿を終えてから!』、
是の、
『間』に、
『来生する!』ので、
『人身を得て!』、
『諸仏』に、
『値ったとしても!』、
是の、
『菩薩の諸根』は、
『利ではない!』。
舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。亦行般若波羅蜜。不以方便故捨諸禪生欲界。是菩薩諸根亦鈍。 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初禅、乃至第四禅に入りて、亦た般若波羅蜜を行ずるも、方便を以ってせざるが故に、諸禅を捨てて欲界に生ずるも、是の菩薩の諸根も亦た鈍なり。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『諸禅、乃至第四禅に入って!』、
『般若波羅蜜』を、
『行じていた!』が、
『方便を用いない!』が故に、
『諸禅を捨てて!』、
『欲界に生じても!』、
是の、
『菩薩の諸根』も、
『鈍である!』。
舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入虛空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。行十力乃至大慈大悲。是菩薩用方便力不隨禪生。不隨無量心生。不隨四無色定生。在所有佛處於中生。常不離般若波羅蜜行。如是菩薩賢劫中當得阿耨多羅三藐三菩提 舎利弗、有る菩薩摩訶薩は初禅、乃至第四禅に入り、慈心乃至捨に入り、虚空処、乃至非有想非無想処に入り、四念処、乃至八聖道分を修し、十力、乃至大慈大悲を行ず。是の菩薩は、方便力を用いれば、禅に随いて生ぜず、無量心に随いて生ぜず、四無色定に随いて生ぜず、有らゆる仏所に在りて、中に於いて生じ、常に般若波羅蜜の行を離れず。是の如き菩薩は、賢劫中に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。
舎利弗!
有る、
『菩薩摩訶薩』は、
『初禅、乃至第四禅に入り!』、
『慈心、乃至捨心に入り!』、
『虚空処、乃至非有想非無想処に入り!』、
『四念処、乃至八聖道分を修め!』、
『十力、乃至大慈大悲』を、
『行じる!』が、
是の、
『菩薩』は、
『方便力を用いる!』が故に、
『諸禅、四無量心、四無色定に随って!』、
『生じることはなく!』、
有らゆる、
『仏の処』中に、
『生じて!』、
常に、
『般若波羅蜜の行』を、
『離れることがない!』。
是のような、
『菩薩』は、
『賢劫(現在劫)』中に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることになる!』。
【論】問曰。舍利弗今問前世後世。佛何以故前世中三種答。後世中廣分別。 問うて曰く、舎利弗は、今、前世と後世を問えるに、仏は何を以っての故にか、前世中の三種を答えて、後世中に広く分別したもう。
問い、
『舎利弗』が、
今、
『前世、後世』を、
『問う!』と、
『仏』は、
何故、
『前世』中には、
『三種』を、
『答えて!』、
『後世』中には、
『広く!』、
『分別されたのか?』。
答曰。人以肉眼不見過去未來故。而生邪疑。雖疑二處而未來世當受故廣分別。譬如已滅之火不復求救。但多方便防未來火。又如治病已滅之病不復加治。但治將生之病。 答えて曰く、人は、肉眼の過去、未来を見ざるを以っての故に、邪疑を生じ、二処を疑うと雖も、未来世には、当に受くべきが故に、広く分別す。譬えば已に滅せる火は、復た求救せず、但だ多く方便して、未来の火を防ぐが如し。又治病は、已に滅せる病は、復た治を加えず、但だ将に生ぜんとする病を治するが如し。
答え、
『人』は、
『肉眼が、過去、未来を見ない!』が故に、
『邪疑』を、
『生じる!』が故に、
『過去、未来』の、
『二処』を、
『疑うことになる!』が、
当然、
『未来世を受けねばならぬ!』が故に、
『広く!』、
『分別するのである!』。
譬えば、
已に、
『火が滅しておれば!』、
復た、
『家財』を、
『求救することはなく!』、
但だ、
『多く方便して!』、
『未来の火』を、
『防ぐようなものであり!』、
又、
『病を治す!』のは、
『已に、滅した病』に、
『復た、更に!』、
『治を加えることではなく!』、
『但だ、生じようとする!』、
『病』を、
『治するようなものである!』。
復次佛無量辯才自恣。舍利弗所問雖少佛廣為其說。如問與般若波羅蜜相應一事。而佛種種分別。如貧者從大富好施者乞。所乞雖少所與甚多。佛亦如是。有無量無漏佛法具足之富。以大慈悲好行施惠。因舍利弗少問故。佛為大眾廣分別說。 復た次ぎに、仏は、無量の辯才を自ら恣にしたまえば、舎利弗の所問は、少しと雖も、仏は広く、其の為めに説きたまえり。般若波羅蜜と相応せる一事を問えるに、仏は種種に分別したもうが如く、貧者は、大富にして施を好む者より乞うに、乞う所は少しと雖も、与うる所の甚だ多きが如し。仏も亦た是の如く、無量、無漏の仏法の具足せる富有りて、大慈悲を以って、好んで施恵を行じたまえば、舎利弗の少しの問に因るが故に、仏は大衆の為めに、広く分別して説きたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『無量の辯才を、自ら恣にされている!』ので、
『舎利弗』の、
『所問』は、
『少しであっても!』、
『仏』は、
『舎利弗の為めに!』、
『広く説かれるのである!』。
例えば、
『般若波羅蜜と相応するという!』、
『一事』を、
『問うただけでも!』、
『仏』は、
『種種に分別して!』、
『答えられるのである!』。
譬えば、
『貧者』が、
『施を好む大富より!』、
『乞えば!』、
『乞う所が少くても!』、
『与える!』所は、
『甚だ多いようなものである!』。
『仏』も、
是のように、
『無漏の仏法の具足した!』、
『富』が、
『無量に有り!』、
『大慈悲』の故に、
『施恵を行う!』のを、
『好まれる!』ので、
『舎利弗』の、
『少しの問』に、
『因る!』が故に、
『仏』は、
『大衆の為め!』に、
『広く分別して説かれるのである!』。
復次是般若波羅蜜中種種因緣譬喻多說空法。有新發意者。取空相著是空法。於生死業因緣中生疑。若一切法畢竟空。無來無去無出無入相。云何死而有生。現在眼見法尚不應有。何況死後餘處生。不可見而有。如是等種種邪疑顛倒心為斷。是故佛種種因緣廣說有死有生。 復た次ぎに、是の般若波羅蜜中の種種の因縁、譬喻は多く、空法を説けるに、有る新発意の者は、空相を取りて、是の空法に著し、生死の業の因縁中に於いて、疑を生ずらく、『若し一切法にして畢竟空の無来、無去、無出、無入の相なれば、云何が死して、生有らんや。現在眼に見る法すら、尚お応に有るべからず。何に況んや死後の余処の生は、不可見なるに、而も有らんや』、と。是れ等の如き種種の邪疑、顛倒の心を断ぜんが為めに、是の故に仏は、種種の因縁もて、広く、死有り、生有るを説きたまえり。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜中の種種の因縁、譬喻』は、
多く、
『空法』を、
『説いている!』ので、
有る、
『新発意の者』は、
『空相を取って!』、
是の、
『空法』に、
『著し!』、
『生死の業の因縁』中に、
『疑』を、
『生じて!』、
こう言うだろう、――
若し、
『一切法』が、
『畢竟空であり!』、
『無来、無去、無出、無入の相ならば!』、
何故、
『死んでいながら!』、
『生』が、
『有るのか?』。
『現在の眼に見る!』、
『法すら!』、
『尚お、有るはずがない!』。
況して、
『死後の余処の生など!』、
『不可見の者』が、
『有るはずがない!』、と。
是れ等のような、
『種種の邪疑や、顛倒の心を断じる為め!』の故に、
『仏』は、
『死も、生も有る!』と、
『種種の因縁』を、
『広く説かれたのである!』。
問曰。無有死生因緣。何以故。人死歸滅。滅有三種。一者火燒為灰。二者虫食為糞。三者終歸於土。今但見其滅。不見更有出者受於後身。以不見故則知為無。 問うて曰く、死して生ずる因縁は有ること無し。何を以っての故に、人死して滅に帰すれば、滅に三種有りて、一には火焼いて灰と為し、二には虫食いて糞と為し、三には終に土に帰すればなり。今は、但だ其の滅を見るも、更に出づる者有りて、後身を受くるを見ず。見ざるを以っての故に、則ち無と為すを知る。
問い、
『死んで生じるような!』、
『因縁』は、
『無い!』。
何故ならば、
『人』が、
『死んで!』、
『滅に帰すれば!』、
『滅には、三種有って!』、
一には、
『火に焼かれて!』、
『灰と為り!』、
二には、
『虫に食われて!』、
『糞と為り!』、
三には、
終に、
『土に帰するからである!』。
今は、
但だ、
『人』が、
『滅する!』のを、
『見るだけで!』、
更に、
『出た者が有って!』、
『後身を受ける!』のを、
『見ることはない!』ので、
『見ない』が故に、
『死後に出る者は無い!』と、
『知るのである!』。
答曰。若汝謂身滅便無者。云何有眾生先世所習憂喜怖畏等。如小兒生時或啼或笑。先習憂喜故。今無人教而憂喜續生。又如犢子生知趣乳。豬羊之屬其生未幾。便知有牝牡之合。 答えて曰く、若し、汝、『身滅すれば、便ち無し』、と謂わば、云何が衆生の先世に習う所の憂喜し、怖畏等有らんや。小児の生ずる時、或は啼き、或は笑うが如きは、先に憂喜を習いしが故に、今人の教うる無きに、憂喜の続いて生ずるなり。又犢子の生まれながらに、乳に趣くを知り、猪羊の属の、其の生じて、未だ幾ばくならざるに、便ち牝牡の合有るを知るが如し。
答え、
若し、
お前が、こう謂うならば、――
『身が滅すれば!』、
便ち、
『無である( nothing is existent )!』、と。
何故、
『衆生が先世に習った!』所の、
『憂喜、怖畏』等が、
『有るのか?』。
例えば、
『小児が生まれた!』時、
『啼いたり!』、
『笑ったりする!』のは、
先に、
『憂、喜』を、
『習った』が故に、
今、
『教える!』、
『人が無くても!』、
続いて、
『憂、喜』が、
『生じるようなものである!』。
又、
『犢子』は、
『生まれながらに!』、
『乳に趣くこと!』を、
『知り!』、
『猪羊の属』が、
『生まれて、未だ幾ばくもならないのに!』、
便ち、
『牝牡の合が有ること!』を、
『知るようなものである!』。
子同父母好醜貧富聰明闇鈍各各不同。若無先世因緣者不應有異。如是等種種因緣知有後世。 子は、父母を同じうするも、好醜、貧富、聡明、闇鈍は各各同じからず。若し先世の因縁無くんば、応に異有るべからず。是れ等の如き種種の因縁もて、後世有るを知る。
『子』は、
『父母を同じうしながら!』、
『好醜、貧富、聡明、闇鈍』を、
『各各、同じくしない!』が、
若し、
『先世の因縁が無ければ!』、
『異』の、
『有るはずがない!』。
是れ等のような、
『種種の因縁』で、
『後世が有る!』と、
『知るのである!』。
又汝先言不見別有去者。人身中非獨眼根能見。身中六情各有所知。有法可聞可嗅可味可觸可知者。可聞法尚不可見。何況可知者。有生有死法亦可見亦可知。汝肉眼故不見。天眼者了了能見。如見人從一房出入一房。捨此身至後身亦如是。 又、汝が先に言わく、『別に去る者有るを見ず』、と。人身中に、独り眼根のみ、能く見るに非ず。身中の六情には、各知る所有り。法の可聞、可嗅、可味、可触、可知なる者有り。可聞の法すら、尚お見るべからず。何に況んや可知の者をや。有生、有死の法も亦た可見にして、亦た可知なるも、汝が肉眼の故に見ず。天眼には、了了に能く見る。人の一房より出でて、一房に入るを見るが如く、此の身を捨てて、後身に至るも亦た是の如し。
又、
お前は、
先に、こう言ったが、――
別に、
『去る者が有る!』とは、
『見ない!』、と。
『人身』中には、
独り、
『眼根だけ!』が、
『見ることができるわけではない!』。
『身中の六情』には、
各、
『知る!』所が、
『有るのである!』。
有る、
『法』が、
『可聞の者や!』、
『可嗅、可味、可触、可知の者であった!』としても、
『可聞の法』すら、
尚お、
『見ることはできない!』。
況して、
『可知の法』は、
『尚更である!』。
『有生の法や、有死の法』も、
『可見であり!』、
『可知である!』が、
お前には、
『肉眼である!』が故に、
『見えないだけであり!』、
『天眼の者』には、
『了了に!』、
『見ることができるのである!』。
譬えば、
『人』が、
『一房を出て、一房に入る!』のを、
『見るように!』、
此の、
『身を捨てて、後身に至る!』のも、
『是の通りなのである!』。
若肉眼能見者。何用求天眼。若爾者天眼肉眼愚聖無異。汝以畜生同見。何能見後世可知者。 若し肉眼にして、能く見れば、天眼を求めて、何に用いんや。若し爾らば、天眼と、肉眼とには愚聖の異無し。汝は、畜生と見ること同じきを以って、何ぞ能く、後世の可知なる者を見んや。
若し、
『肉眼で、見ることができれば!』、
『天眼を求めても!』、
何のように、
『用いるのか?』。
若し、
『爾うならば!』、
『天眼も、肉眼も!』、
『愚、聖の異』が、
『無いことになる!』。
お前は、
『畜生が見るのと、同じなのに!』、
何故、
『後世という!』、
『可知の者』を、
『見ることができるのか?』。
如人死生。雖無來去者而煩惱不盡故。於身情意相續更生身情意。身情意造業亦不至後世。而從是因緣更生受後世果報。 人の死、生の如きは、来去する者無しと雖も、煩悩の尽きざるが故に、身、情意に於いて相続し、更に身と情意を生じ、身と情意の造る業は、亦た後世に至らざるも、是の因縁によりて、更に生じて、後世の果報を受く。
例えば、
『人の死、生』は、
『来去する者は無い!』が、
『煩悩が尽きない!』が故に、
『身、情意』に於いて、
『煩悩』が、
『相続する!』ので、
更に( newly )、
『別の身、情意』を、
『生じる!』。
『身、情意の造る!』、
『業』も、
亦た、
『身、情意と同じく!』、
『後世』に、
『至ることはない!』が、
是の、
『業の因縁によって!』、
更に、
『身、情意が生じることになり!』、
『後世の果報』を、
『受けるのである!』。
  情意(じょうい):梵語 sattva? の訳、精神的要素/心/精神( spiritual essence, spirit, mind )の義、心心数法( the mind and the mental function )の意。又有情、衆生と訳す時は、精神的存在/生活する存在( spiritual being, living being )の意。
譬如乳中著毒。乳變為酪。酪變為酥。乳非酪酥。酪酥非乳。乳酪雖變而皆有毒。此身亦如是。今世五眾因緣故更生後世。五眾行業相續不異故而受果報。又如冬木。雖未有花葉果實。得時節會則次等而出。如是因緣故知有死生。 譬えば乳中に毒を著くれば、乳は変じて酪と為り、酪は変じて酥と為るに、乳は酪、酥に非ず、酪、酥は乳に非ず、乳、酪は変ずと雖も、皆毒有るが如し。此の身も亦た是の如く、今世の五衆の因縁の故に、更に後世に生じ、五衆の行業相続して、異ならざるが故に、果報を受く。又冬の木は、未だ花葉、果実有らずと雖も、時節に会うを得れば、則ち次第に出づるが如し。是の如き因縁の故に、死して生ずる有りと知る。
譬えば、
『乳中に、毒を著ければ!』、
『乳が変じて、酪と為り!』、
『酪が変じて、酥と為る!』時、
『乳は、酪でも酥でもなく!』、
『酪も酥も、乳ではなく!』、
『乳も、酪も変じた!』のに、
『乳、酪、酥』には、
皆、
『毒が有るようなものである!』。
此の、
『身』も、
是のように、
『今世の五衆の因縁』の故に、
更に、
『後世』に、
『生じれば!』、
『五衆の行業』が、
『相続して、異らない!』が故に、
『果報』を、
『受けるのである!』。
又、
『冬の木』は、
未だ、
『花葉、果実が無くても!』、
『時節に、会うことができれば!』、
『次第に、出るようなものである!』。
是のような、
『因縁』の故に、
『死んで、生じることが有る!』と、
『知るのである!』。
復次現世有知宿命者。如人夢行疲極睡臥覺已憶所經由。又一切聖人內外經書皆說後世。 復た次ぎに、現世に宿命を知る者有るも、人の夢行するに疲極し、睡臥し、覚め已りて経由する所を憶ゆるが如し。又一切の聖人の内外の経書は、皆後世を説けり。
復た次ぎに、
『現世』に、
『宿命を知る!』者が、
『有った!』としても、
譬えば、
『人』が、
『夢中に旅行して!』、
『疲極し!』、
『睡臥して!』、
『覚めてから!』、
『経由した!』所を、
『憶えているようなものである!』。
又、
『一切の聖人の内、外の経書』にも、
皆、
『後世』が、
『説かれている!』。
復次現世不善法動發過重。生瞋恚嫉妒疑悔。內惱故身則枯悴顏色不悅。惡不善法受害如是。何況起身業口業。 復た次ぎに、現世の不善法の動発する過は重く、瞋恚、嫉妒、疑悔を生じ、内より惱すが故に、身則ち枯悴し、顔色不悦なり。悪不善法の害を受くること是の如し。何に況んや身業、口業を起すをや。
復た次ぎに、
『現世の不善法の動発する!』、
『過は重く!』、
『瞋恚、嫉妒、疑悔』を、
『生じて!』、
『内より惱す!』が故に、
『身は、枯悴し( wan and sallow )!』、
『顔色は、不悦である( displeased )!』。
『悪、不善法より、受ける!』、
『害』は、
『是の通りである!』が、
況して、
『身業、口業を起せば!』、
『尚更である!』。
  枯悴(こすい):憔悴。弱々しく顔色が悪い( wan and sallow )。
  不悦(ふえつ):不機嫌( displeased, annoyed )。
若生善法淨信業因緣。心清淨得如實智慧。心則歡悅身得輕軟顏色和適。以有苦樂因緣故有善不善。今定有善不善故。當知必有後世。但眾生肉眼不見。智慧薄故而生邪疑。雖修福事所作淺薄。 若し善法を生ずれば、浄信の業の因縁もて、心清浄となりて、如実の智慧を得、心、則ち歓悦して、身に軽軟を得、顔色和適なり。苦楽の因縁有るを以っての故に、善不善有り。今定んで善、不善有るが故に、当に知るべし、必ず後世有るを。但だ衆生の肉眼に見ず、智慧薄きが故に、邪疑を生じ、福事を修すと雖も、所作浅薄なり。
若し、
『善法を生じれば!』、
『浄信の業の因縁』の故に、
『心が清浄となって!』、
『如実の智慧』を、
『得る!』ので、
『心が歓悦して!』、
『身は、軽軟となることができ!』、
『顔色は、和適する!』。
『苦、楽が有るという!』、
『因縁』の故に、
『善、不善が有る!』と、
『知れば!』、
今、
『善、不善が有る!』と、
『心』に、
『定めた!』が故に、
当然、
『後世が有る!』と、
『知ることになる!』が、
但だ、
『衆生』は、
『肉眼に見えず、智慧が薄い!』が故に、
『邪疑』を、
『生じる!』ので、
『福事を修めながら!』、
『所作』が、
『浅薄なのである!』。
譬如藥師為王療病。王密為起宅而藥師不知。既歸見之乃悔不加意盡力治王。 譬えば、薬師は王の為めに病を療すに、王密かに為めに宅を起つも、薬師は知らず。既に帰りて、之を見るに、乃ち意を加えざるを悔い、力を尽して、王を治するが如し。
譬えば、
『薬師(衆生の譬喻)』が、
『王(善法の譬喻)の為めに!』、
『病(不善法の譬喻)を治療していた!』ので、
『王は、密かに!』、
『薬師の為めに!』、
『宅(善法の果報の譬喻)を起てた!』が、
『薬師』は、
『宅が有るのを知らず!』、
『帰った!』時、
『宅を見て!』、
『王の為めに!』、
『意を加えなかった!』のを、
『乃ち( at last )、悔い!』、
『力を尽して!』、
『王』を、
『治療したようなものである!』。
復次聖人說今現在事實可信故。說後世事亦皆可信。如人夜行嶮道導師授手。知可信故則便隨逐。比智。及聖人語可知定有後世。汝以肉眼重罪比智薄故又無天眼。既自無智又不信聖人語。云何得知後世。 復た次ぎに、聖人の説く、今現在の事実の信ずべきが故に、後世の事を説けば、亦た皆信ずべし。人の険道を夜行するに、導師手を授くれば、信ずべきを知るが故に、則ち便ち随逐するが如し。比智もて、聖人の語に及べば、定んで後世有りと知るべし。汝は、肉眼の重罪の比智薄きを以っての故に、又天眼無く、既に自ら無智なるに、又聖人の語を信ぜず。云何が後世を知るを得んや。
復た次ぎに、
『聖人の説く!』、
『今、現在の事実は、信じられる!』が故に、
『後世の事を説いても!』、
皆、
『信じられるのである!』。
譬えば、
『人』が、
『険道』を、
『夜行する!』時、
『導師が、手を授ければ!』、
『信じられる道である!』と、
『知る!』が故に、
則ち、
便ち( easily )、
『随逐するようなものである!』。
『比智』が、
『聖人の語に及べば!』、
『定んで、後世は有る!』と、
『知ることになる!』が、
お前は、
『肉眼であり!』、
『重罪の果報として!』、
『比智が薄い!』が故に、
『天眼』も、
『無い!』。
既に、
『自ら、無智である!』のに、
『聖人の語』も、
『信じない!』。
何故、
『後世の事』を、
『知ることができるのか?』。
  比智:梵語 anvaya-jJaana の訳、推論して知ること( the knowing from infering )、既知の事実に関連して知る智慧( the wisdom to know what is linked to the well-known facts )、推論の智慧( the wisdom of infering )の意。
復次佛法中諸法畢竟空。而亦不斷滅。生死雖相續亦不是常。無量阿僧祇劫業因緣雖過去。亦能生果報而不滅。是為微妙難知。若諸法都空者。此品中不應說往生。何有智者前後相違。 復た次ぎに、仏法中には、諸法は畢竟空にして、而も亦た断滅せず、生死は相続すと雖も、亦た是れ常にあらず。無量阿僧祇劫の業の因縁は、過去なりと雖も、亦た能く果報を生じ、而も滅せざれば、是れを微妙にして知り難しと為す。若し諸法にして、都て空ならば、此の品中に、応に往生を説くべからず。何んが有智の者にして、前後相違せんや。
復た次ぎに、
『仏法』中には、
『諸法』は、
『畢竟空でありながら!』、
『断滅せず!』、
『生死』は、
『相続しながら!』、
『常ではない!』。
『無量阿僧祇劫』の、
『業の因縁』は、
『過去でありながら!』、
而も、
『果報を生じさせて!』、
『滅することがない!』。
是れが、
『微妙であり!』、
『知り難いということである!』。
若し、
『諸法が、都て空ならば!』、
此の品中に、
『往生』を、
『説くはずがない!』のに、
何うして、
『有智の者が説いて!』、
『前後』が、
『相違するのか?』。
若死生相實有。云何言諸法畢竟空。但為除諸法中愛著邪見顛倒故。說畢竟空。不為破後世故說。汝無天眼明故疑後世。欲自陷罪惡。遮是罪業因緣故。說種種往生。 若し死して、生相実に有らば、云何が、『諸法は畢竟空なり』、と言う。但だ諸法中の愛着、邪見、顛倒を除かんが為めの故に、畢竟空を説くも、後世を破らんが為めの故には説かず。汝は、天眼明無きが故に、後世を疑いて、自ら罪悪に陥らんと欲す。是の罪業の因縁を遮せんが故に、種種の往生を説きたまえり。
若し、
『死んでも!』、
『生相』が、
『実に有れば!』、
何故、
『諸法は、畢竟空である!』と、
『言われたのか?』。
但だ、
『諸法』中の、
『愛着、邪見、顛倒を除く為め!』の故に、
『畢竟空』を、
『説かれたのであり!』、
『後世を破ろうとされた!』が故に、
『畢竟空』を、
『説かれたのではない!』。
お前は、
『天眼明が無い!』が故に、
『後世』を、
『疑って!』、
自ら、
『罪悪』に、
『陥ろうとしている!』。
是の、
『罪業の因縁を遮る為め!』の故に、
『種種の往生』を、
『説かれたのである!』。
佛法不著有不著無。有無亦不著。非有非無亦不著。不著亦不著。如是人則不容難。譬如以刀斫空終無所傷。 仏法は、有に著せず、無に著せず、有無にも亦た著せず、非有非無にも亦た著せず、不著にも亦た著せず。是の如き人は、則ち難を容れず。譬えば刀を以って、空を斫れば、終に傷つくる所無きが如し。
『仏法』は、
『有にも、無にも、有無にも、非有非無にも!』、
『著することなく!』、
亦た、
『不著』に、
『著することもない!』。
是のような、
『人を、難じる!』のは、
『容れられない( be not suitable )!』。
譬えば、
『刀で、空を斫っても!』、
終に、
『傷つける!』所が、
『無いようなものである!』。
  (よう):<動詞>[本義]収容する( hold, contain )。寛容/寛大にする( tolerate )、許可する( permit, allow, admit, endure )、留める( take sb. in )、飾る( decorate )、悦ぶ/歓喜する( please )、応当( ought )、待つ( wait )、必要( need )、用いる/使用する( apply, employ )。<名詞>容貌( appearance )、模様( pattern )、法則/規則( rule )、礼儀/礼法( rite )。<形容詞>急がない( unhourried )、適する( suitable )。<副詞>恐らく/大概( perhaps )、[反問を表示する]どうして/豈に( how )。
為眾生故。隨緣說法自無所著。以是故中論中說
 一切諸法實  一切法虛妄 
 諸法實亦虛  非實亦非虛 
 涅槃際為真  世間際亦真 
 涅槃世無別  小異不可得
是為畢竟空相。畢竟空不遮生死業因緣。是故說往生。
衆生の為めの故に、縁に随いて法を説きたもうも、自ら著する所無し。是を以っての故に、中論中に説かく、
一切の諸法は実にして、一切の法は虚妄なり
諸法は実亦た虚にして、実に非ず亦た虚に非ず
涅槃の際を真と為すも、世間の際も亦た真なり
涅槃と世とに別無く、小異すら得べからず
是れを畢竟空の相と為せば、畢竟空は生死の業の因縁を遮えず。是の故に往生を説きたまえり。
『衆生の為め!』の故に、
『縁に随って( according with external conditions )!』、
『法』を、
『説かれた!』が、
自らは、
『著する!』所が、
『無い!』ので、
是の故に、
『中論』中に、こう説くのである、――
『一切の諸法は、実でありながら!』、
『一切の法』は、
『虚妄である!』。
『諸法は実でも、虚でもありながら!』、
『実でもなく!』、
『虚でもない!』。
『涅槃の際を真とすれば!』、
『世間の際』も、
『真であり!』、
『涅槃と世間に、別は無く!』、
『小異すら!』、
『得ることはない!』、と。
是れが、
『畢竟空の相であり!』、
『畢竟空』は、
『生死の業の因縁』を、
『遮ることはない!』ので、
是の故に、
『往生』を、
『説かれたのである!』。
  随縁(ずいえん):梵語 pratyaya-prtiitya の訳、調和して/条件的原因、或は環境による結果として、譬えば波が風によって生じるような。又環境に調和して( According with, or resulting from conditioning causes, or circumstances, as waves result from wind; also, according to circumstances. )の義、縁により生起する現実に従って行動すること( To act according to the reality of dependent arising )、外的影響を基礎とする事物の生産( The production of things based on external influences.)の意。
  参考:『中論巻3観法品』:『若我是五陰  我即為生滅  若我異五陰  則非五陰相  若無有我者  何得有我所  滅我我所故  名得無我智  得無我智者  是則名實觀  得無我智者  是人為希有  內外我我所  盡滅無有故  諸受即為滅  受滅則身滅  業煩惱滅故  名之為解脫  業煩惱非實  入空戲論滅  諸佛或說我  或說於無我  諸法實相中  無我無非我  諸法實相者  心行言語斷  無生亦無滅  寂滅如涅槃  一切實非實  亦實亦非實  非實非非實  是名諸佛法  自知不隨他  寂滅無戲論  無異無分別  是則名實相  若法從緣生  不即不異因  是故名實相  不斷亦不常  不一亦不異  不常亦不斷  是名諸世尊  教化甘露味  若佛不出世  佛法已滅盡  諸辟支佛智  從於遠離生』
  参考:『中論巻4観涅槃品』:『復次 涅槃與世間  無有少分別  世間與涅槃  亦無少分別  五陰相續往來因緣故。說名世間。五陰性畢竟空無受寂滅。此義先已說。以一切法不生不滅故。世間與涅槃無有分別。涅槃與世間亦無分別。復次 涅槃之實際  及與世間際  如是二際者  無毫釐差別  究竟推求世間涅槃實際無生際。以平等不可得故。無毫釐差別。』
問曰。若般若波羅蜜一相所謂無相。云何與般若相應。從一佛國至一佛國常值諸佛。 問うて曰く、若し般若波羅蜜は一相、謂わゆる無相なれば、云何が般若波羅蜜と相応して、一仏国より、一仏国に至りて、常に諸仏に値うや。
問い、
若し、
『般若波羅蜜が、一相であり!』、
謂わゆる、
『無相ならば!』、
何故、
『般若波羅蜜と、相応しながら!』、
『一仏国より、一仏国に至って!』、
『常に、諸仏と値うのですか?』。
答曰。般若波羅蜜攝一切法。譬如大海。以是故不應作難。 答えて曰く、般若波羅蜜の一切法を摂すること、譬えば大海の如く、是を以っての故に、応に難を作すべからず。
答え、
『般若波羅蜜』は、
譬えば、
『大海のように!』、
『一切の法を摂する( to hold all dharmas )!』ので、
是の故に、
『難』を、
『作すべきではない!』。
復次汝自說般若波羅蜜一相無相。若無相云何有難。汝則無相中取相。是事不然。 復た次ぎに、汝は、自ら、『般若波羅蜜は一相にして無相なり』、と説けば、若し無相なれば、云何が難有らんや。汝は、則ち無相中に相を取るも、是の事は然らず。
復た次ぎに、
お前は、
自ら、こう説いている、――
『般若波羅蜜』は、
『一相であり!』、
『無相である!』、と。
若し、
『般若波羅蜜が無相ならば!』、
何故、
『難じること!』が、
『有るのか?』。
お前は、
則ち、
『無相』中に、
『相』を、
『取っているのである!』が、
是の、
『事』は、
『然うでない( be wrong )!』。
復次因般若波羅蜜故。行念佛三昧等諸善法生值諸佛。 復た次ぎに、般若波羅蜜に因るが故に、念仏三昧等の諸善法を行じて、生じて諸仏に値う。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜に因る!』が故に、
『念仏三昧等』の、
『諸の善法』を、
『行じれば!』、
『生じるごとに!』、
『諸仏』に、
『値うのである!』。
復次行般若波羅蜜者。深入大悲如慈父見子。為無所直物故死。父甚愍之。此兒但為虛誑故死。諸佛亦如是。知諸法畢竟空不可得。而眾生不知。眾生不知故於空法中深著。著因緣故墮大地獄。是故深入大悲。以大慈悲因緣故得無量福德。得無量福德故生值諸佛。從一佛國至一佛國。 復た次ぎに、般若波羅蜜を行ずる者は、大悲に深く入ること、慈父の子を見るに、、直する所無き物の為めの故に、死すれば、父甚だ之を、此の児は、但虚誑の為めの故に死せり、と愍れむが如し。諸仏も亦た是の如く、諸法の畢竟空にして、不可得なるを知るも、衆生は知らず。衆生は、知らざるが故に、空法中に深く著し、著の因縁の故に大地獄に堕せば、是の故に深く、大悲に入れば、大慈悲の因縁を以っての故に、無量の福徳を得、無量の福徳を得るが故に生じて、諸仏に値い、一仏国より、一仏国に至る。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜を行じる!』者は、
深く、
『大悲』に、
『入る!』が、
譬えば、
『慈父が、子を見る!』と、
『子』は、
『無所直( worthless )の物の為め!』の故に、
『死んでいた!』。
『父』は、
『子を甚だ愍れんで!』、こう言う、――
此の、
『児』は、
但だ、
『虚誑の為め!』の故に、
『死んだのだ!』、と。
『諸仏』も、
是のように、
『諸法』は、
『畢竟空、不可得である!』と、
『知る!』が、
『衆生』は、
『諸法は、不可得である!』と、
『知らない!』。
『衆生』は、
『知らない!』が故に、
『空法』中に、
『深く、著し!』、
『著の因縁』の故に、
『大地獄』に、
『堕ちる!』ので、
是の故に、
『深く、大悲に入れば!』、
『大慈悲の因縁』の故に、
『無量の福徳』を、
『得ることになり!』、
『無量の福徳を得る!』が故に、
『生じるごとに!』、
『諸仏』に、
『値い!』、
『一仏国より!』、
『一仏国』に、
『至るのである!』。
  (じき):<形容詞>[本義]真直ぐ( straight )。垂直( vertical )、正直/公正/不偏私( honest, fair )、率直( frank, straight forward )、正当( due )、適切な( appropriate, correct, right )。<副詞>真直ぐに/直接/直に( directly )、故意に( intentionally )、突然( unexpectedly )、只だ/僅かに( only )、簡直( absolutely, literally )、単に/独り( only, alone )。<動詞>真直ぐにする( straighten )、不正を正す( redress (an injustice) )、直面する( confront, face, in face of )、遇う( meet )、順番にする( take turn )、請け負う/担任する( undertake, assume the office of )、価値がある( be worth )。<名詞>代価/価値( value, worth )。<連詞>即使( even, even if )。<介詞>~の時に当たり( at that time )。
是菩薩從此間死彼間生。彼間死復至彼間生。如是乃至得佛終不離佛譬如有福之人從一大會至一大會。或有是間死彼間生。於彼以五神通力故。從一佛國至一佛國。供養諸佛度脫眾生。是初菩薩。 是の菩薩は、此の間に死して、彼の間に生ずるに従いて、彼の間に死して、復た彼の間に至りて生じ、是の如く、乃至仏を得るまで、終に仏を離れず。譬えば有福の人の一大会より、一大会に至るが如し。或は是の間に死して、彼の間に生ずる有り、彼に於いて、五神通の力を以っての故に、一仏国より一仏国に至り、諸仏を供養して、衆生を度脱す。是れ初の菩薩なり。
是の、
『菩薩』は、
『此の間に死んで、彼の間に生じてから!』、
『彼の間に死んで!』、
復た、
『彼の間に生じ!』、
是のようにしながら、
乃至、
『仏』と、
『作ることができるまで!』、
終に、
『仏』を、
『離れることがない!』。
譬えば、
『有福の人』が、
『一大会より、一大会に至るようなものである!』。
或は、
『是の間に死んで、彼の間に生じる者も有り!』、
『彼の間』に於いて、
『五神通の力を用いる!』が故に、
『一仏国より、一仏国に至って!』、
『諸仏を供養し!』、
『衆生を度脱するのである!』が、
是れが、
『初の菩薩である!』。
佛國者。十方如恒河沙等諸三千大千世界。是名一佛土。諸佛神力雖能普遍自在無礙。眾生度者有局。諸佛現在者。佛現在其佛國土中者。 仏国とは、十方の恒河沙に等しきが如き、諸の三千大千世界にして、是れを一仏土と名づく。諸仏の神力は、能く普遍して、自在、無礙なりと雖も、衆生の度する者には、局(かぎ)りあり。諸仏現在すとは、仏の其の仏国土中に現在することなり。
『仏国』とは、
『十方の恒河沙に等しいほど!』の、
『諸の三千大千世界』を、
『一仏土』と、
『称する!』。
『諸仏の神力』は、
『普遍して、自在、無礙である!』が、
『衆生の度される!』者には、
『局りが有る( be a part of all )!』。
『諸仏が現在する!』とは、
『仏国土』中に、
其の、
『仏』が、
『現在することである!』。
第二菩薩無方便入初禪。乃至行六波羅蜜。無方便者入初禪時不念眾生。住時起時亦不念眾生。但著禪味不能與初禪和合行般若波羅蜜。是菩薩慈悲心薄故功德薄少。功德薄少故為初禪果報所牽生長壽天。 第二の菩薩は、方便無くして、初禅に入り、乃至六波羅蜜を行ず。方便無き者は、初禅に入る時、衆生を念ぜず、住する時、起つ時にも亦た衆生を念ぜずして、但だ禅味に著すれば、初禅と和合して、般若波羅蜜を行ずる能わず。是の菩薩は慈悲心薄きが故に、功徳も薄少にして、功徳薄少なるが故に、初禅の果報に牽かれて長寿天に生ず。
『第二の菩薩』は、
『無方便で!』、
『初禅に入り!』、
乃至、
『六波羅蜜』を、
『行じるのである!』が、
『無方便の者』は、
『初禅に入る時にも、住する時にも、起つ時にも!』、
『衆生』を、
『念じず!』、
但だ、
『禅味』に、
『著するだけなので!』、
『初禅と和合して!』、
『般若波羅蜜』を、
『行じることができない!』。
是の、
『菩薩』は、
『慈悲心が薄い!』が故に、
『功徳』が、
『薄少であり!』、
『功徳が薄少である!』が故に、
『初禅の果報に牽かれて!』、
『長寿天に生じるのである!』。
復次不能以初禪福德與眾生共迴向阿耨多羅三藐三菩提。如是等無量無方便義。 復た次ぎに、初禅の福徳を以って、衆生と共に阿耨多羅三藐三菩提に迴向する能わず。是れ等の如く、無方便の義は無量なり。
復た次ぎに、
『初禅の福徳を用いて!』、
『衆生と共に!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向することができない!』。
是れ等のように、
『無方便』の、
『義( meanings )』は、
『無量である!』。
長壽天者。非有想非無想處。壽八萬大劫。或有人言。一切無色定通名長壽天。以無形不可化故。不任得道。常是凡夫處故。或說無想天名為長壽。亦不任得道故。或說從初禪至四禪。除淨居天皆名長壽。以著味邪見不能受道者 長寿天とは非有相非無想処にして、寿八万大劫なり。或は有る人の言わく、『一切の無色定を通じて、長寿天と名づけ、無形にして化すべからざるを以っての故に、道を得るに任えざれば、常に是れ凡夫の処なるが故なり』、と。或は説かく、『無想天を名づけて長寿と為すは、亦た道を得るに任えざるが故なり』、と。或は説かく、『初禅より、四天に至るまでは、浄居天を除いて、皆長寿と名づく。味に著し、邪見なるを以って、道を受くる能わざる者なり』、と。
『長寿天』とは、
『非有相非無想処であり!』、
『寿』は、
『八万大劫である!』。
或は、有る人は、こう言っている、――
『一切の無色定を通じて!』、
『長寿天』と、
『称する!』が、
『無形であり、化することができない!』が故に、
『道を得る!』に、
『任えられない!』が故に、
是れは、
『常に!』、
『凡夫の処である!』、と。
或は、こう説いている、――
『無想天』を、
『長寿』と、
『称する!』のは、
是れも、
『道を得る!』に、
『任えられないからである!』、と。
或は、こう説いている、――
『初禅より、四禅に至るまで!』を、
『浄居天を除いて!』、
皆、
『長寿』と、
『称する!』のは、
『味に著して、邪見する!』が故に、
『道』を、
『受けることができないからである!』、と。
還生人間。值佛者。以本發阿耨多羅三藐三菩提心故。或於禪中集諸福德。所以者何。彼間著味善心難生故。如經中說。如佛問比丘甲頭土多地上土多。諸比丘言。地土甚多不可為喻。佛言。天上命終還生人中者如甲頭土。墮地獄者如地土。 還って人間に生じ、仏に値うとは、本、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せるを以っての故に、或は禅中に於いて、諸の福徳を集むればなり。所以は何んとなれば、彼の間は味に著して、善心の生じ難きが故なり。経中に説けるが如し。仏の比丘に、『甲頭の土多しや、地上の土多しや』、と問いたもうが如きに、諸比丘の言わく、『地の土は甚だ多く、喻と為すべからず』、と。仏の言わく、『天上に命終りて、還って人中に生ずる者は、甲頭の土の如く、地獄に堕せる者は地の土の如し』、と。
『還って人間に生じて、仏に値う!』とは、
本、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発した!』が故に、
或は、
『諸禅』中に於いて、
『諸の福徳を集められたのだろう!』。
何故ならば、
『彼の間』は、
『禅味に著して!』、
『善心が生じ難いからである!』。
『経』中に、説かれた通りである、――
例えば、
『仏』は、
『比丘』に、こう問われた、――
『甲頭上』の、
『土』が、
『多いか?』、
『地上』の、
『土』が、
『多いか?』、と。
『諸比丘』は、こう言った、――
『地上の土』は、
『甚だ多く!』、
『喻えようもありません!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『天上に、命を終えて!』、
『還って、人中に生じる!』者は、
『甲頭上の土のように!』、
『少く!』、
『地獄に堕ちる!』者は、
『地上の土のように!』、
『多いのである!』、と。
  甲頭(こうづ):爪先。
  参考:『雑阿含経巻16(442)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊以爪甲擎土已。告諸比丘。於意云何。我爪甲上土為多。此大地土多。諸比丘白佛言。世尊甲上土甚少少耳。此大地土甚多無量。乃至算數譬類不可為比。佛告比丘。如甲上土者。若諸眾生。形可見者。亦復如是。其形微細。不可見者。如大地土。是故。比丘。於四聖諦未無間等者。當勤方便。學無間等。佛說是經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。如陸地。如是水性亦爾。如甲上土。如是眾生.人道者。亦復如是。如大地土。如是非人亦爾。如甲上土。如是生中國者亦爾。如大地土。如是生邊地者亦爾。如甲上土。如是成就聖慧眼者。亦復如是。如大地土。如是不成就聖慧眼者亦爾。如甲上土。如是眾生知此法.律者。亦復如是。如大地土。如是眾生不知法.律者亦爾。如知。如是等知.普知。正想.正覺.正解。法無間等亦如是。如甲上土。如是眾生知有父母亦爾。如大地土。如是眾生不知有父母亦爾。如甲上土。如是知有沙門.婆羅門家之尊長。作所應作作福。此世他世畏罪行施。受齋持戒亦爾。如大地土。不知有沙門.婆羅門家之尊長。作所應作作福。此世他世畏罪行施。受齋持戒。亦如是說。如甲上土。如是眾生不殺.不盜.不邪婬.不妄語.不兩舌.不惡口.不綺語亦爾。。如大地土。如是眾生不持諸戒者亦爾。如是離貪.恚.邪見。及不離貪.恚.邪見。亦如是說。如甲上土。如是不殺.不盜.不邪婬.不妄語.不飲酒。如大地土。如是不持五戒者亦爾。如甲上土。如是眾生持八戒者亦如是。如大地土。如是眾生不持八戒者亦爾。如甲上土。如是眾生持十善者亦如是。如大地土。如是眾生不持十善者亦如是。如甲上土。如是眾生從地獄命終。生人中者亦如是。如大地土。如是眾生從地獄命終。還生地獄者亦如是。如地獄。如是畜生.餓鬼亦爾。如甲上土。如是眾生從地獄命終。生天上者亦如是。如大地土。如是眾生從地獄命終。還生地獄者亦如是。如地獄。如是畜生.餓鬼亦爾。如甲上土。如是眾生人道中沒。還生人道中者亦如是。如大地土。其諸眾生從人道中沒。生地獄中者亦如是。如地獄。如是畜生.餓鬼亦爾。如甲上土。其諸眾生從天命終。還生天上者亦如是。如大地土。其諸眾生天上沒。生地獄中者亦如是。如地獄。畜生.餓鬼亦如是』
問曰。鈍根者二十二根中何者是。 問うて曰く、鈍根とは、二十二根中の何者か、是れなる。
問い、
『鈍根』とは、
『二十二根』中の、
何の、
『根』が、
『鈍いのですか?』。
答曰。有人言慧根能觀諸法。以久受著禪味故鈍。有人言信等五根皆助成道法。以受報著味故鈍。 答えて曰く、有る人の言わく、『慧根は、能く諸法を観ずるも、久しく禅味を受けて著するが故に鈍なり』、と。有る人の言わく、『信等の五根は、皆成道を助くる法なるも、報を受けて味に著するを以っての故に鈍なり』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『慧根』は、
『諸法を観るものである!』が、
久しく、
『(色界の身)を受けて!』、
『禅に著する!』が故に、
是の、
『慧根』が、
『鈍となるのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『信等の五根』は、
皆、
『成道を助ける!』、
『法である!』が、
『(涅槃の)報を受けて!』、
『味』に、
『著する!』が故に、
是の、
『五根』が、
『鈍となるのである!』、と。
有人言。菩薩清淨福德智慧因緣故。十八根皆利。罪故則鈍。眼等六根如法華經說。命根不為老病貧窮等所惱。安隱受樂是為命根利。喜樂等五根了了覺知故言利。復次受樂時知樂無常等過隨逐不生貪欲故利。餘受亦如是。信根牢堅深固。難事能信故言利。餘亦應如是隨相分別。男根淨者。得陰藏相。不著細滑故。知欲為過是為利。 有る人の言わく、『菩薩は清浄福徳の智慧の因縁の故に、十八根は皆利なるも、罪の故に則ち鈍なり。眼等の六根は法華経に説けるが如く、命根は老病、貧窮等に惱されず、安隠にして楽を受くれば、是れを命根の利と為す。喜楽等の五根は了了にして覚知するが故に利なりと言う。復た次ぎに、楽を受くる時、楽の無常等の過の随逐するを知れば、貪欲を生ぜざるが故に利となり、餘の受も亦た是の如し。信根牢堅、深固なれば難事を能く信ずるが故に利と言い、餘も亦た応に是の如く相に随って分別すべし。男根浄なれば、陰蔵相を得て、細滑に著せざるが故に、欲を過と為すを知り、是れを利と為す。
有る人は、こう言っている、――
『菩薩の十八根』は、
『清浄な福徳の智慧の因縁』の故に、
皆、
『利であり!』、
『罪の因縁』の故に、
皆、
『鈍である!』。
『眼等の六根』は、
『法華経』に、
『説かれた通りであり!』、
『命根』は、
『老病、貧窮等に惱されず!』、
『安隠であり!』、
『楽を受ければ!』、
是の、
『命根』は、
『利となり!』、
『喜、楽等の五根』は、
『了了に覚知する!』が故に、
『利である!』と、
『言われる!』。
復た次ぎに、
『楽を受ける!』時、
『楽』には、
『無常等の過が随逐する!』と、
『知れば!』、
『貪欲を生じない!』が故に、
『楽根』は、
『利となり!』、
亦た、
『餘の受』も、
『是の通りである!』。
『信根』が、
『牢堅、深固であれば!』、
『難事を信じることができる!』が故に、
『利である!』と、
『言われ!』、
『餘の根』も、
是のように、
『相に随って!』、
『利、鈍』を、
『分別せねばならない!』。
『男根が、浄ならば!』、
『陰蔵相を得て!』、
『細滑に著さない!』が故に、
『欲は、過である!』と、
『知る!』ので、
是の、
『男根』は、
『利である!』、と。
  十八根(じゅうはちこん):二十二根中より、三無漏根の未知当知、已知、具知根と、男根、或は女根を除く、眼根等の六情根と、命根と苦、楽、憂、喜、捨根の五受根と、信、精進、念、定、慧根の五根とに男、女根中の一を加う。
  参考:『妙法蓮華経巻2譬喩品』:『謗斯經故  獲罪如是  若得為人  諸根闇鈍  矬陋攣躄  盲聾背傴  有所言說  人不信受  口氣常臭  鬼魅所著  貧窮下賤  為人所使  多病痟瘦  無所依怙  雖親附人  人不在意  若有所得  尋復忘失  若修醫道  順方治病  更增他疾  或復致死  若自有病  無人救療  設服良藥  而復增劇  若他反逆  抄劫竊盜  如是等罪  橫羅其殃  如斯罪人  永不見佛  眾聖之王  說法教化  如斯罪人  常生難處  狂聾心亂  永不聞法  於無數劫  如恒河沙  生輒聾啞  諸根不具  常處地獄  如遊園觀  在餘惡道  如己舍宅  駝驢豬狗  是其行處  謗斯經故  獲罪如是  若得為人  聾盲瘖啞  貧窮諸衰  以自莊嚴  水腫乾痟  疥癩癰疽  如是等病  以為衣服  身常臭處  垢穢不淨  深著我見  增益瞋恚  婬欲熾盛  不擇禽獸  謗斯經故  獲罪如是  』
復次三善根利故名為利。菩薩或時於三無漏根不證實際故利。與利相違故鈍。 復た次ぎに、三善根の利なるが故に、名づけて利と為し、菩薩は、或は時に三無漏根に於いて、実際を証せざるが故に利にして、利と相違せるが故に鈍なり。
復た次ぎに、
『三善根(三無漏根)が利である!』が故に、
『根が利である!』と、
『称する!』。
『菩薩』は、
或は時に、
『三無漏根』に於いて、
『実際』を、
『証さない!』が故に、
是の、
『三根』が、
『利となる!』ので、
是の、
『利に相違する!』が故に、
『根』が、
『鈍なのである!』。
  三善根:三毒に対して三善根を立つ、即ち一には無貪、二には無瞋、三には無癡なり。此の三者は皆無量の善法を生ずる根本と為すが故に善根と名づく。「仏説大集法門経巻上」に、「復た次ぎに、三不善根は、是れ仏の所説なり。謂わく貪不善根、瞋不善根、癡不善根となり。復た次ぎに、三善根は、是れ仏の所説なり。謂わく無貪善根、無瞋善根、無癡善根となり」と云い、「大智度論巻30」に、「善根とは、三善根、無貪善根、無瞋善根、無癡善根なり。一切の諸の善法は、皆三善根従り生じて増長す。藥樹、草木の根有るに因るが故に生、成、増長を得るが如し。是を以っての故に名づけて善根と為す」と云える是れなり。<(丁)
  三無漏根:二十二根中の最後の三根なり。意根、楽根、善根、捨根、及び信、勤、念、定、慧の九根は見修無学の三道に依りて、而も三根を立つ。一には未知当知根、此の九根の見道に在る者なり。見道に在りて、未だ曽て知らざる所の四諦の理を知らんと欲して行動すれば、之を未知当知と謂う。二には已知根、彼の九根の修道に在る者なり。修道に在りて、既に四諦の理を知了すと雖も、而も更に余る所の煩悩を断ぜんが為に、彼の四諦の境に於いて数数了知すれば、名づけて已知と為す。三には具知根、彼の九根の無学道に在る者なり。無学道に在りて已に知るに、四諦の理を知了すと為す、其の知を具有するが故に名づけて具知と為す。此の三根は皆無漏なり。旧には之を未知欲知根、知根、知已根と訳す。「倶舎論巻3」、「大智度論巻23」等に出づ。<(丁)
問曰。第三菩薩若能捨禪。云何言無方便。 問うて曰く、第三の菩薩は、若し能く禅を捨つれば、云何が、『方便無し』、と言う。
問い、
『第三の菩薩』が、
若し、
『禅を捨てることができれば!』、
何故、
『方便が無い!』と、
『言うのですか?』。
答曰。是菩薩命終時。入不善心捨諸禪定方便。菩薩若入欲界繫善心若無記心。而捨諸禪入慈悲心。憐愍眾生作是念。我若隨禪定生。不能廣利益眾生。 答えて曰く、是の菩薩は、命の終る時、不善心に入りて、諸の禅定の方便を捨つればなり。菩薩にして、若し欲界繋の善心、若しは無記心に入れば、諸禅を捨つるも、慈悲心に入りて、衆生を憐愍して、是の念を作さく、『我れ、若し禅定に随うて生ずれば、広く衆生を利益する能わず』、と。
答え、
是の、
『菩薩は、命の終る!』時、
『不善心に入って!』、
『諸の禅定の方便』を、
『捨てたからである!』。
『菩薩』が、
若し、
『欲界繋』の、
『善心や、無記心』に、
『入れば!』、
『諸禅を捨てても!』、
『慈悲心』に、
『入る!』ので、
『衆生を憐愍して!』、こう念じるはずである、――
わたしが、
若し、
『禅定に随って!』、
『色、無色界』に、
『生じれば!』、
『広く!』、
『衆生』を、
『利益することができない!』、と。
生欲界者有十處。四天下人六欲天。三惡道菩薩所不生。鈍根者如第二菩薩說。 欲界に生ずる者には、十処有り、四天下の人、六欲天なり。三悪道は菩薩の生ぜざる所なり。鈍根の者は、第二の菩薩に説けるが如し。
『欲界の生じる!』者には、
『十処有って!』、
『四天下と、六欲天である!』。
『三悪道』は、
『菩薩』の、
『生じる所ではない!』。
『鈍根の者』は、
『第二の菩薩』に、
『説いた通りである!』。
第四菩薩入位得菩薩道。修三十七品。能住十八空乃至大慈大悲。此名方便。上二菩薩但有禪定直行六波羅蜜。以是故無方便。第四菩薩方便力故不隨禪定無量心生。所以者何。行四念處乃至大慈大悲故。命終時憐愍眾生。願生他方現在佛國。續與般若波羅蜜相應。所以者何。愛樂隨順般若波羅蜜故。 第四の菩薩は、位に入りて、菩薩道を得、三十七品を修して、能く十八空、乃至大慈大悲に住す。此れを方便と名づけ、上の二菩薩は、但だ禅定有れば、直だ六波羅蜜を行ずるも、是を以っての故に方便無し。第四の菩薩は方便力の故に、禅定に随わずして、無量心生ず。所以は何んとなれば、四念処、乃至大慈大悲を行ずるが故に、命の終る時、衆生を憐愍すれば、願いて、他方の現在の仏国に生ずるも、続いて般若波羅蜜と相応すればなり。所以は何んとなれば、般若波羅蜜に隨順するを愛楽するが故なり。
『第四の菩薩』は、
『菩薩位に入って、菩薩道を得!』、
『三十七品を修める!』ので、
『十八空、乃至大慈大悲』に、
『住することができる!』。
此れが、
『方便である!』。
『上の二菩薩』は、
『但だ、禅定が有るだけなので!』、
直だ( easily )、
『六波羅蜜』を、
『行じても!』、
是の故に、
『方便』が、
『無いのである!』。
『第四の菩薩』は、
『方便の力』の故に、
『禅定に随わなくても!』、
『慈、悲、喜、捨の無量心』が、
『生じる!』。
何故ならば、
『四念処、乃至大慈大悲を行じる!』が故に、
『命が終る!』時、
『衆生』を、
『憐愍する!』ので、
『願って!』、
『他方の現在の仏国』に、
『生じても!』、
『続いて!』、
『般若波羅蜜』と、
『相応するからである!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜に隨順すること!』を、
『愛楽するからである!』。
問曰。此是何等菩薩。 問うて曰く、此れは是れ、何等か菩薩なる。
問い、
此の、
『菩薩』は、
何のような、
『菩薩ですか?』。
答曰。佛自說跋陀劫中菩薩。或有非跋陀劫中菩薩。但取其大者。 答えて曰く、仏の自ら説きたまわく、『跋陀劫中の菩薩なり』、と。或は跋陀劫中の菩薩に非ざる有るも、但だ其の大なる者を取りたまえり。
答え、
『仏』は、
自ら、こう説かれている、――
『跋陀劫(賢劫)』中の、
『菩薩である!』、と。
或は、
有る、
『菩薩』は、
『跋陀劫中の菩薩でないかもしれない!』が、
但だ、
『大の者』を、
『取られたのである!』。
  跋陀劫(ばつだこう):梵語bhadra-kalpa、賢劫と訳す。現在の住劫なり。「大悲経巻3」に、「阿難、何が故に名づけて賢劫と為す。阿難、此の三千大千世界は、劫の成ぜんと欲する時、尽く一水と為る。時に淨居天、天眼を以って観るに、此の世界の唯一大水たるを見、千枝に諸の妙蓮華有るを見る。一一の蓮華に各千葉有り、金色、金光大いに明るく、普く照らす。香気芬薫として、甚だ愛楽すべし。彼の淨居天、此れを見已るに因って、心に歓喜を生じ、踊躍すること無量なり。而も讃歎して言わく、「奇なる哉、奇なる哉、希有なり、希有なり、此の如き劫中には、当に千仏の世に出興すること有るべし」と。是の因縁を以って遂に、此の劫を名づけて之を号するに賢と為す」と云い、「悲華経巻5」に、「此の仏世界は当に娑婆と名づくべし(中略)、時に大劫有り名づけて善賢と曰う。何なる因縁の故に劫を善賢と名づくる。是の大劫中に千世尊有り、大悲を成就して世に出現す」と云える是れなり。<(丁)
問曰。云何名跋陀。云何名劫。 問うて曰く、云何が跋陀と名づけ、云何が劫と名づくる。
問い、
何を、
『跋陀』と、
『称し!』、
何を、
『劫』と、
『称するのですか?』。
  跋陀(ばつだ):梵語 bhadra の音訳、祝福された/幸先の良い/幸運な/順調な/幸福な( blessed, auspicious, fortunate, prosperous, happy )、善良な/慈悲深い/親密な/親切な( good, gracious, friendly, kind )、卓越した/公正な/美しい/可愛らしい/喜ばしい/親愛な( excellent, fair, beautiful, lovely, pleasant, dear )の義、偉大な( great )の意。
  (こう):梵語 kalpa の音訳、劫簸とも訳す、良く調えられた( well-managed )の義を有する動詞語幹( √(kLp) )より派生した語、適切な/有能な( proper, fit, able, competent )の義、伝説的長時間の単位/伝説では人間の43億2000万年にして、世界の存続期間を表わす単位であり、梵天の一ヶ月は此の30劫に相当するものと考えられる( a fabulous period of time, a period of four thousand, three hundred and twenty millions of years of mortals, measuring the duration of the world;a month of brahmaa is supposed to contain thirty such kalpas. )の意。
答曰。如經說有一比丘問佛言。世尊幾許名劫。佛告比丘。我雖能說汝不能知。當以譬喻可解。有方百由旬城溢滿芥子。有長壽人過百歲持一芥子去。芥子都盡劫猶不澌。 答えて曰く、経に説けるが如し、有る一比丘の仏に問うて言わく、『世尊、幾ばくをか、劫と名づくる』、と。仏の比丘に告げたまわく、『我れは、能く説くと雖も、汝は知る能わざれば、当に譬喻を以って解すべし。有る方百由旬の城に、芥子を溢滿して、有る長寿の人、百歳を過ぐるごとに、一芥子を持ち去るに、芥子都て尽くるも、劫は猶お澌(つ)きず』、と。
答え、
『経』には、こう説かれている、――
有る、
『一比丘』が、
『仏に問うて!』、こう言った、――
世尊!
何れほどを、
『劫』と、
『称するのですか?』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
わたしに、
『説くことができたとしても!』、
お前には、
『知ることができない!』ので、
『譬喻を用いて!』、
お前に、
『理解させよう!』。
有る、
『百由旬四方の城』に、
『芥子』を、
『溢滿したとして( to fulfill )!』、
有る、
『長寿の人』が、
『百歳を過ぎるごとに!』、
『一芥子』を、
『持ち去り!』、
『芥子が、都て尽きても!』、
猶お、
『劫』は、
『澌きないのである!』、と。
  溢滿(いちまん):満ちあふれる。盈満。
  (し):尽きる。
  参考:『大智度論巻5』:『阿僧祇義。菩薩義品中已說。劫義佛譬喻說。四千里石山有長壽人。百歲過持細軟衣一來拂拭。令是大石山盡。劫故未盡。四千里大城。滿中芥子。不概令平。有長壽人百歲過一來取一芥子去。芥子盡。劫故不盡。菩薩如是無數劫。發大正願度脫眾生願名大心要誓。必度一切眾生斷諸結使。成阿耨多羅三藐三菩提。是名為願』
又如方百由旬石。有人百歲持迦尸輕軟疊衣一來拂之石盡劫猶不澌。時中最小者六十念中之一念。大時名劫。劫有二種。一為大劫。二為小劫。大劫者如上譬喻。 又、方百由旬の石を、有る人百歳ごとに、迦尸の軽軟の畳衣を持ちて、一来ごとに之を払い、一尽くるも、劫は猶お澌きざるが如し。時中に最小の者は六十念中の一念にして、大の時を劫と名づく。劫には二種有りて、一を大劫と為し、二を小劫と為す。大劫は上の譬喻の如し。
又、
『百由旬四方の石』を、
有る、
『人』が、
『百歳ごとに、一来し!』、
『迦尸の軽軟の畳衣を持って!』、
此の、
『石』を、
『払い!』、
『石が尽きてしまっても!』、
猶お、
『劫』は、
『澌きないようなものである!』。
『時』中の、
『最小』は、
『六十念(一弾指頃)』中の、
『一念であり!』、
『最大』の、
『時』が、
『劫である!』。
『劫』には、
『二種有り!』、
一には、
『大劫であり!』、
二には、
『小劫である!』が、
『大劫』は、
上の、
『譬喻の通りである!』。
  畳衣(じょうえ):襞付きの衣。
  迦尸(かし):梵名kaazi、国名。十六大国中の一。迦尸とは本竹の名なり。此の国に此の竹を出すを以っての故なり。「慧苑音義巻上」に、「迦尸とは、西国の竹の名なり。其の竹は箭幹と為すに堪う。然れば其の国に多く此の竹を出すを以って、故に斯の名を立つ。其の国は即ち中天竺に在り、憍薩羅国の北隣に境す、乃ち是れ十六大国の一数なり」と云える是れなり。<(丁)
  (ねん):梵語 kSaNa の訳、刹那と音訳する、一一の瞬間的時点/瞬時/一瞬( any instantaneous point of time, instant, twinkling of an eye, moment )の義。極小時間の単位( measuring of a extremely short times )、弾指の頃を60念と為す( 60 kSaNas are contained in a moment of such as a snap with the fingers )の意。
  参考:『大智度論巻30』:『問曰。如經說。一彈指頃有六十念。若一念中能至一方恒河沙等世界尚不可信何況十方恒河沙等世界時少而所到處多。』
劫欲盡時眾生自然心樂遠離。樂遠離故除五蓋入初禪。是人離生喜樂。從是起已。舉聲大唱言。諸眾生甚可惡者是五欲第一。安隱者是初禪。眾生聞是唱已。一切眾生心皆自然遠離五欲入於初禪。自然滅覺觀入第二禪。亦如是唱。或離二禪三禪亦如是。 劫の尽きんと欲する時、衆生は自然に心遠離を楽しみ、遠離を楽しむが故に五蓋を除いて初禅に入れば、是の人は離生喜楽なり。是より起ち已りて、声を挙げ大唱言すらく、『諸の衆生の甚だ悪むべき者は、是れ五欲なり。第一に安隠なる者は是れ初禅なり』、と。衆生、是の唱を聞き已りて、一切の衆生の心は皆、自然に五欲を遠離して、初禅に入り、自然に覚観を滅して、第二禅に入り、亦た是の如く唱えて、或は二禅、三禅を離るるも亦た是の如し。
『劫が、尽きようとする!』時、
『衆生』は、
『自然に!』、
『心』が、
『遠離』を、
『楽しみ!』、
『遠離を楽しむ!』が故に、
『五蓋を除いて!』、
『初禅』に、
『入るのである!』が、
是の、
『人』は、
『離生喜楽(初禅天)である!』が、
是の、
『初禅を起つ!』と、
『声を挙げ、大いに唱えて!』、こう言う、――
『諸の衆生』の、
『甚だ!』、
『悪むべき!』者は、
『五欲であり!』、
『第一に!』、
『安穏な!』者は、
『初禅である!』、と。
『衆生』が、
是の、
『人が、唱える!』のを、
『聞く!』と、
一切の、
『衆生心』は、
『皆、自然に五欲を遠離して!』、
『初禅』に、
『入り!』、
『自然に、覚観を滅して!』、
『第二禅』に、
『入り!』、
亦た、
是のように、
『唱えて!』、
亦た、
『二禅や、三禅を離れる!』のも、
『是の通りである!』。
  (しょう):<動詞>[本義]唱導/先唱する( precent )。発起する( promote )、歌唱/吟詠する( sing )、演じる( play )、呼ぶ/呼びかける( call out, cry )。<名詞>歌( song, chant )。
三惡道眾生自然得善心。命終皆生人中。若重罪者生他方地獄。如泥犁品中說。是時三千大千世界無一眾生在者。爾時二日出乃至七日出。三千大千世界地盡皆燒盡。如十八空中廣說劫生滅相。 三悪道の衆生は、自然に善心を得て、命終れば、皆人中に生ず。若し重罪ならば、他方の地獄に生ずること、泥梨品中に説けるが如し。是の時三千大千世界には、一衆生の在る者すら無く、爾の時、二日出で、乃至七日出でて、三千大千世界の地は尽く、皆焼け尽くること、十八空中に広説せる劫の生滅相の如し。
『劫の尽きようとする!』時、
『三悪道の衆生』は、
『自然に!』、
『善心』を、
『得て!』、
『命が終れば!』、
皆、
『人中に生じる!』が、
若し、
『重罪ならば!』、
『他方の地獄』に、
『生じる!』のは、
例えば、
『泥梨品』中に、
『説いた通りである!』、
是の時、
『三千大千世界に在る!』者は、
『一衆生すら!』、
『無い!』。
爾の時、
『二日、乃至七日』が、
『出る!』ので、
『三千大千世界の地』は、
『尽く、皆!』、
『焼き尽きる!』。
例えば、
『十八空中に広説した!』、
『劫の生滅相の通りである!』。
  泥犁品:『大智度論巻16上毘梨耶波羅蜜義』参照。
  十八空:『大智度論巻巻31上十八空義』参照。
復有人言。四大中三大有所動作故。有三種劫。或時火劫起燒三千大千世界。乃至初禪四處。或時水劫起漂壞三千大千世界。乃至二禪八處。或時風劫起吹壞三千大千世界。乃至三禪十二住處。是名大劫。 復た、有る人の言わく、『四大中の三大には動作する所有るが故に、三種の劫有り。或は時に火劫起りて三千大千世界の、乃至初禅の四処を焼き、或は時に水劫起りて三千大千世界の、乃至二禅の八処を漂壊し、或は時に風劫起りて三千大千世界の、乃至三禅の十二住処を吹壊す。是れを大劫と名づく』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『四大中の三大』には、
『動作する所が、有る!』が故に、
『三種の劫』が、
『有り!』、
或は時に、
『火劫が起って!』、
『三千大千世界の、乃至初禅の四処』を、
『焼き!』、
或は時に、
『水劫が起って!』、
『三千大千世界の、乃至二禅の八処』を、
『漂壊し!』、
或は時に、
『風劫が起って!』、
『三千大千世界の、乃至三禅の十二住処』を、
『吹壊するのであり!』、
是れが、
『大劫である!』、と。
小劫亦三種。外三大發故世界滅。內三毒發故眾生滅。所謂飢餓刀兵疾病。 小劫にも亦た三種有り。外の三大発るが故に世界滅し、内の三毒発るが故に衆生滅す。謂わゆる飢餓、刀兵、疾病なり。
『小劫にも三種有り!』、
『世界の外に!』、
『三大が発る!』が故に、
『世界』が、
『滅し!』、
『世界の内に!』、
『三毒、謂わゆる飢餓、刀兵、疾病が発る!』が故に、
『衆生』が、
『滅するのである!』。
復有人言。時節歲數名為小劫。如法華經中說。舍利弗作佛時正法住世二十小劫。像法住世二十小劫。佛從三昧起。於六十小劫中說法華經。是眾小劫和合名為大劫。劫簸秦言分別時節。跋陀者秦言善。 復た有る人の言わく、『時節、歳数を名づけて、小劫と為す』、と。法華経中に説けるが如し、『舎利弗の仏と作る時は、正法は世に二十小劫住し、像法は、世に二十小劫住す』、『仏は三昧より起ちて、六十小劫中に於いて、法華経を説きたもう』、と。是の衆小劫の和合を名づけて、大劫と為す。劫簸とは、秦に時節を分別すと言い、跋陀とは、秦に善と言う。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『時節、歳数』を、
『小劫』と、
『称する!』、と。
例えば、
『法華経』に、こう説かれた通りである、――
『舎利弗が仏と作る!』時、
『正法』は、
『二十小劫』、
『世に住し!』、
『像法』は、
『二十小劫』、
『世に住する!』、と。
又、こうも説かれている、――
『仏は三昧より起って!』、
『六十小劫』中に、
『法華経』を、
『説かれた!』、と。
是の、
『衆の小劫の和合』を、
『大劫』と、
『称するのである!』が、
『劫簸』とは、
秦には、
『時節を分別する!』と、
『言い!』、
『跋陀』とは、
秦には、
『善である!』と、
『言う!』。
  劫簸(こうは):梵語kalpa、又劫波、劫跛に作り、分別時節と訳す。長時なり。<(丁)
  参考:『妙法蓮華経巻2譬喩品』:『爾時佛告舍利弗。吾今於天人沙門婆羅門等大眾中說。我昔曾於二萬億佛所。為無上道故常教化汝。汝亦長夜隨我受學。我以方便引導汝故生我法中。舍利弗。我昔教汝志願佛道。汝今悉忘。而便自謂已得滅度。我今還欲令汝憶念本願所行道故。為諸聲聞說是大乘經。名妙法蓮華教菩薩法佛所護念。舍利弗。汝於未來世過無量無邊不可思議劫。供養若干千萬億佛。奉持正法。具足菩薩所行之道。當得作佛。號曰華光如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。國名離垢。其土平正清淨嚴飾。安隱豐樂天人熾盛。琉璃為地有八交道。黃金為繩以界其側。其傍各有七寶行樹。常有華果。華光如來亦以三乘教化眾生。舍利弗。彼佛出時雖非惡世。以本願故說三乘法。其劫名大寶莊嚴。何故名曰大寶莊嚴。其國中以菩薩為大寶故。彼諸菩薩無量無邊不可思議。算數譬喻所不能及。非佛智力無能知者。若欲行時寶華承足。此諸菩薩非初發意。皆久殖德本。於無量百千萬億佛所淨修梵行。恒為諸佛之所稱歎。常修佛慧具大神通。善知一切諸法之門。質直無偽志念堅固。如是菩薩充滿其國。舍利弗。華光佛壽十二小劫。除為王子未作佛時。其國人民壽八小劫。華光如來過十二小劫。授堅滿菩薩阿耨多羅三藐三菩提記。告諸比丘。是堅滿菩薩次當作佛。號曰華足安行多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。其佛國土亦復如是。舍利弗。是華光佛滅度之後。正法住世三十二小劫。像法住世亦三十二小劫。』
  参考:『妙法蓮華経巻1序品』:『爾時如來放眉間白毫相光。照東方萬八千佛土。靡不周遍。如今所見是諸佛土。彌勒當知。爾時會中有二十億菩薩。樂欲聽法。是諸菩薩見此光明普照佛土。得未曾有。欲知此光所為因緣。時有菩薩。名曰妙光。有八百弟子。是時日月燈明佛從三昧起。因妙光菩薩說大乘經。名妙法蓮華教菩薩法佛所護念。六十小劫不起于座。時會聽者亦坐一處。六十小劫身心不動。聽佛所說謂如食頃。是時眾中。無有一人若身若心而生懈惓。日月燈明佛。於六十小劫說是經已。即於梵魔沙門婆羅門及天人阿修羅眾中。而宣此言。如來於今日中夜當入無餘涅槃。時有菩薩。名曰德藏。日月燈明佛。即授其記。告諸比丘。是德藏菩薩。次當作佛。號曰淨身多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。佛授記已。便於中夜入無餘涅槃。佛滅度後。妙光菩薩。持妙法蓮華經。滿八十小劫為人演說。日月燈明佛八子。皆師妙光。妙光教化。令其堅固阿耨多羅三藐三菩提。是諸王子。供養無量百千萬億佛已。皆成佛道。其最後成佛者。名曰燃燈。八百弟子中有一人。號曰求名。貪著利養。雖復讀誦眾經而不通利。多所忘失。故號求名。是人亦以種諸善根因緣故。得值無量百千萬億諸佛。供養恭敬尊重讚歎。彌勒當知。爾時妙光菩薩。豈異人乎。我身是也。求名菩薩汝身是也。今見此瑞與本無異。是故惟忖。今日如來當說大乘經。名妙法蓮華教菩薩法佛所護念。』
有千萬劫過去空無有佛。是一劫中有千佛興。諸淨居天歡喜故名為善劫。淨居天何以知此劫當有千佛。前劫盡已廓然都空。後有大水。水底涌出有千枚七寶光明蓮華。是千佛之相。淨居諸天因是知有千佛。以是故說是菩薩於此劫中得阿耨多羅三藐三菩提 有る千万劫の過去は空しくして、仏有ること無し。是の一劫中には千仏の興る有れば、諸の浄居天の歓喜するが故に、名づけて善劫と為す。浄居天は、何を以ってか、此の劫に当に千仏有るを知る。前の劫の尽き已るに、廓然として、都て空しく、後に大水有りて、水底より涌出せる千枚七宝の光明の蓮華有り。是れ千仏の相なれば、浄居の諸天、是れに因りて、千仏有るを知る。是を以っての故に説かく、『是の菩薩は、此の劫中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得』、と。
有る、
『千万劫の過去』は、
『空しく!』、
『無仏であった!』が、
是の、
『一劫』中に、
有るいは( perhaps )、
『千仏』が、
『興ることになる!』ので、
『諸浄居天が歓喜して!』、
是の故に、
『善劫』と、
『称するのである!』。
此の、
『劫』には、
『千仏』が、
『有るはずだ!』と、
何故、
『浄居天』は、
『知ったのか?』、――
『前の劫が尽きてしまう!』と、
『廓然として( being open and quiet )!』、
『都て!』が、
『空しくなった!』が、
後に、
『大水が有って!』、
『水底より!』、
有る、
『千枚の七宝の光明の蓮華』が、
『涌出したのである!』が、
是れは、
『千仏の興る!』、
『相であり!』、
『浄居の諸天』は、
是の、
『相に因って!』、
『千仏が有る!』のを、
『知ったのである!』。
是の故に、こう説かれている、――
是の、
『菩薩』は、
此の、
『劫』中に於いて、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るだろう!』、と。
  (う):<動詞>[本義]所有する( have, possess )、無に対す。存在する( there be )、取得/獲得/占有する( get, seize )、待つ( wait )、発生する/発る( happen )。<形容詞>[一部分の表示]ある( some )、[不定の表示]ある( one )、[過去の一時期の表示]ある時( at a certain(time) in the past )。<副詞>或は( perhaps )。又( and )。
  参考:『大悲経巻3礼拝品』:『阿難。如我經中亦復說言。乃至受持四句偈等。如是說者。我為鈍根薄德少智諸眾生故。隨宜而說。阿難。我為一切無歸眾生為作歸趣。無舍眾生為作舍宅。無護眾生為作救護。無明眾生為作燈明。盲無目者為作眼目。阿難。一切外道癡冥無智不能自救。何能救他正作歸趣。阿難。我為一切天人教師。憐愍一切諸眾生者於當來世法欲滅時。當有比丘比丘尼於我法中得出家已。手牽兒臂而共遊行。從酒家至酒家。於我法中作非梵行。彼等雖為以酒因緣。於此賢劫一切皆當得般涅槃。阿難。何故名為賢劫。阿難。此三千大千世界。劫欲成時盡為一水。時淨居天。以天眼觀見此世界唯一大水。見有千枚諸妙蓮華。一一蓮華各有千葉。金色金光大明普照。香氣芬薰甚可愛樂。彼淨居天因見此已。心生歡喜踊躍無量而讚歎言。奇哉奇哉。希有希有。如此劫中當有千佛出興於世。以是因緣。遂名此劫號之為賢。阿難。我滅度後此賢劫中。當有九百九十六佛出興於世。拘留孫如來為首。我為第四。次後彌勒當補我處。乃至最後盧遮如來。如是次第汝應當知。阿難於我法中但使性是沙門污沙門行。自稱沙門形似沙門。當有被著袈裟衣者。於此賢劫彌勒為首。乃至最後盧遮如來。彼諸沙門如是佛所。於無餘涅槃界次第當得入般涅槃。無有遺餘。何以故。阿難。如是一切諸沙門中。乃至一稱佛名一生信者。所作功德終不虛設。阿難。我以佛智測知法界非不測知。阿難。所有白業得白報。黑業得黑報。若有淨心諸眾生等。作是稱言南無佛者。阿難。彼人以是善根必定涅槃得近涅槃。流注相續入涅槃際。何況值佛在世親承恭敬。謙下迎送尊重供養。及佛滅後供養舍利者。阿難。彼沙門性污辱沙門。自謂沙門形似沙門者。乃至應有一稱佛名。何況餘心能生敬信種諸善根。』


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