巻第三十八之上

 

home

 

 

大智度論、釈往生品第四之上

菩薩の三種の来処

菩薩の三種の利鈍

 

 

 

 

 

 

 

大智度論、釈往生品第四之上

大智度論釋往生品第四之上(卷三十八)

 聖者龍樹造

 後秦龜茲國三藏鳩摩羅什譯

大智度論、釈往生品第四の上(巻三十八)

  聖者龍樹造り、

  後秦亀茲国三蔵鳩摩羅什訳せり

 般若波羅蜜を行じて習相応する菩薩は、何処より来て此の間に生まれるのか?

 

菩薩の三種の来処

【經】舍利弗白佛言。世尊菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。能如是習相應者。從何處終來生此間。從此間終當生何處。佛告舍利弗。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。能如是習相應者。或從他方佛國來生此間。或從兜率天上來生此間。或從人道中來生此間。

舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、能く是の如く習い相応すれば、何処に従って終り、来たりて此の間に生じ、此の間に従りて終り、当に何処に生ずべき』と。仏の舎利弗に告げたまわく、『是の菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずるに、能くかくの如く習い相応すれば、或は他方の仏国従り来たりて、此の間に生じ、或は兜率天上従り来たりて、此の間に生じ、或は人道中従り来たりて、此の間に生ず。

 舎利弗は、

   仏に白して言った、――

   『世尊!

      菩薩摩訶薩は、

        般若波羅蜜を行じて、

        是のように、

          習って相応したならば、

        何処に、

          終って、此の間に来て生まれ、

        此の間に、

          終って、何処に生まれるのですか?』と。

 仏は、

   舎利弗に告げられた、――

   『是の、

      菩薩摩訶薩は、

        般若波羅蜜を行じて、

        是のように、

          習って相応したならば、

      或は、

        他方の仏国より来て、

        此の間に生まれ、

      或は、

        兜率天上より来て、

        此の間に生まれ、

      或は、

        人道中より来て、

        此の間に生まれる。

舍利弗。從他方佛國來者。疾與般若波羅蜜相應。與般若波羅蜜相應故。捨身來生此間。諸深法要皆現在前。後還與般若波羅蜜相應。在所生處常諸佛。

舎利弗、他方の仏国従り来たる者は、疾かに般若波羅蜜と相応し、般若波羅蜜と相応するが故に、身を捨てて来たりて此の間に生ず。諸の深法の要は皆、現に前に在りて、後には還た般若波羅蜜と相応し、所生の処に在りて常に諸仏に値う。

    舎利弗!

      他方の仏国より来た者は、

        疾かに、

          般若波羅蜜と相応し、

          般若波羅蜜と相応するが故に、

            身を捨てて、

              此の間に来て生まれると、

              諸の深法の要は、

                皆、

                  現れて前に在るので、

        後には、

          還た、

            般若波羅蜜と相応して、

              生まれた所に在って、

                常に、

                  諸仏に値うのである。

舍利弗。有一生補處菩薩。兜率天上終來生是間。是菩薩不失六波羅蜜。隨所生處一切陀羅尼門。諸三昧門疾現在前。

舎利弗、一生補処の菩薩有り、兜率天上に終り、来たりて是の間に生ず。是の菩薩は、六波羅蜜を失わず、所生の処に随いて一切の陀羅尼門、諸の三昧門、疾かに現じて前に在り。

    舎利弗!

      有る、

        一生補処の菩薩は、

          兜率天上に終ると、

          是の間に来て生まれるが、

        是の菩薩は、

          六波羅蜜を失っていず、

          生まれた処に随って、

            一切の陀羅尼門、

            諸の三昧門が、

              疾かに現れて、

              前に在る。

舍利弗。有菩薩人中命終還生人中者。除阿毘跋致。是菩薩根鈍不能疾與般若波羅蜜相應。諸陀羅尼門三昧門不能疾現在前

舎利弗、菩薩の人中に命終りて、還た人中に生ずる者有り。阿毘跋致を除けば、是の菩薩は根鈍にして、疾かに般若波羅蜜と相応する能わず、諸の陀羅尼門、三昧門は疾かに現じて前に在ること能わず』と。

    舎利弗!

      有る、

        菩薩は、

          人中にて、命が終り、

          還た、

            人中に、生まれる。

        是の菩薩は、

          鈍根であり、

          般若波羅蜜と、

            疾かに相応できず、

          諸の陀羅尼門、三昧門も、

            疾かに現れて、

            前に在ることはない。

【論】問曰。是般若波羅蜜中眾生畢竟不可得。如上品說。舍利弗如一切眾生不可得。壽者命者乃至知者見者等。眾生諸異名字皆空無實。此中何以問從何所來去至何所上。眾生異名即是菩薩。眾生無故菩薩亦無。又此經中說。菩薩但有名字無有實法。今舍利弗何以作此問。

問うて曰く、是の般若波羅蜜中に、衆生の畢竟じて不可得なること、上の品に、『舎利弗、一切の衆生は不可得なるが如く、寿者命者乃至知者見者等の衆生の諸の異名字は、皆空にして実無し』と説くが如し。此の中に何を以ってか、『何れの所従り来たりて、去りて何れの所の上にか至る』と問う。衆生の異名は即ち是れ菩薩なり。衆生無きが故に菩薩も亦た無し。又此の経中に説かく、『菩薩は但だ名字のみ有りて、実法の有ること無し』と。今、舎利弗は、何を以ってか、此の問を作せる。

 問い、

   是の『般若波羅蜜』中には、

     『衆生は、

       畢竟じて不可得である』ので、

   上の品には、

     こう説いている、――

     『舎利弗!

       一切の、

         衆生は、

           皆、

             不可得であるように、

       寿者、命者、乃至知者、見者等の、

         衆生の諸の異名は、

           皆、

             空であって実が無い』と。

   此の中には、

     何故、

       『何処より来て、

          何処の上に至る』と問うのか?

     『衆生の異名』とは、

       是れは、

         『菩薩』である。

       即ち、

         『衆生』が無ければ、その故に、

         『菩薩』も無いはずである。

   又、

     此の『経』中には、

       こう説いている、――

       『菩薩は、

          但だ、

            名字が有るのみで、

            実法は無い』と。

   今、

     舎利弗は、

       何故、此の問を作すのか?

 

  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1習応品』:『佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有名字佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字受想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一切我常不可得。眾生壽者命者生者。養育眾數人者。作者使作者。起者使起者。受者使受者。知者見者。是一切皆不可得。不可得空故。但以名字說。菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜。不見我不見眾生。乃至不見知者見者。所說名字亦不可見。

答曰。佛法中有二諦。一者世諦。二者第一義諦。為世諦故說有眾生。為第一義諦故說眾生無所有。

答えて曰く、仏法中には二諦有り、一には世諦、二には第一義諦なり。世諦の為の故に、『衆生有り』と説き、第一義諦の為の故に、『衆生に所有無し』と説く。

 答え、

   仏法中には、

     二諦が有り、

     一は、『世諦』、

     二は、『第一義諦』である。

   即ち、

     世諦であるが故に、

       『衆生は有る』と説き、

     第一義諦であるが故に、

       『衆生は、所有が無い』と説くのである。

 

  参考:『中論巻2観行品』:『諸行亦如是。有增有減故不決定。但以世俗言說故有。因世諦故得見第一義諦。所謂無明緣諸行。從諸行有識著。識著故有名色。從名色有六入。從六入有觸。從觸有受。從受有愛。從愛有取。從取有有。從有有生。從生有老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等。如是諸苦皆以行為本。佛以世諦故說若得第一義諦生真智慧者則無明息。無明息故諸行亦不集。諸行不集故見諦所斷身見疑戒取等斷。及思惟所斷貪恚色染無色染調戲無明亦斷。以是斷故一一分滅。所謂無明諸行識名色六入觸受愛取有生老死憂悲苦惱恩愛別苦怨憎會苦等皆滅。以是滅故五陰身畢竟滅更無有餘。唯但有空。是故佛欲示空義故。說諸行虛誑。

  参考:『中論巻4観四諦品』:『問曰。(中略)復次 空法壞因果  亦壞於罪福  亦復悉毀壞  一切世俗法  若受空法者。則破罪福及罪福果報。亦破世俗法。有如是等諸過故。諸法不應空。答曰 汝今實不能  知空空因緣  及知於空義  是故自生惱  汝不解云何是空相。以何因緣說空。亦不解空義。不能如實知故。生如是疑難。復次 諸佛依二諦  為眾生說法  一以世俗諦  二第一義諦  若人不能知  分別於二諦  則於深佛法  不知真實義  世俗諦者。一切法性空。而世間顛倒故生虛妄法。於世間是實。諸賢聖真知顛倒性。故知一切法皆空無生。於聖人是第一義諦名為實。諸佛依是二諦。而為眾生說法。若人不能如實分別二諦。則於甚深佛法。不知實義。若謂一切法不生是第一義諦。不須第二俗諦者。是亦不然。何以故  若不依俗諦  不得第一義  不得第一義  則不得涅槃  第一義皆因言說。 言說是世俗。是故若不依世俗。第一義則不可說。若不得第一義。云何得至涅槃。是故諸法雖無生。而有二諦。

復有二種。有知名字相。有不知名字相。譬如軍立密號有知者有不知者。

復た二種有り。名字の相を知る有り、名字の相を知らざる有り。譬えば軍の密号を立つるに、知る者有り、知らざる者有るが如し。

   復た、

     二種有り、

       『名字の相を知る』者が有り、

       『名字の相を知らない』者が有る。

     譬えば、

       軍が、

         『秘密の号令』を立てると、

       それを、

         『知る』者が有り、

         『知らない』者が有るように。

復有二種。有初習行。有久習行。有著者。有不著者。有知他意者。有不知他意者。(雖有言辭知其寄言以宣理)為不知名字相初習行著不知他意者。故說無眾生。為知名字相久習行不著知他意者。故說言有眾生。

復た二種有り。初めて習行する有り、久しく習行せる有り。著する者有り、著せざる者有り。他の意を知る者有り、他の意を知らざる者有り。(言辞有りと雖も、其の言に寄せて以って理を宣ぶるを知る)。名字の相を知らず、初めて習行し、著して他の意を知らざる者の為の故に、『衆生無し』と説き、名字の相を知り、久しく習行し、著せずして、他の意を知る者の為の故に、『衆生有り』と説く。

   復た、

     二種有り、

       『初めて習行する』者が有り、

       『久しく習行する』者が有る。

     又、

       『著する』者が有り、

       『著さない』者が有る。

     又、

       『他の意を知る』者が有り、

         ――(言説が有れば、其の言説に寄せて以って理を宣べているのだと知る者

       『他の意を知らない』者が有る。

         ――(言説が有るのを知るのみで、其の以って宣べる所の理を知らない者

   即ち、

     『名字の相を知らない』者、

     『初めて習行する』者、

     『著する』者、

     『他の意を知らない』者の故に、

       『衆生は無い』と説き、

     『名字の相を知る』者、

     『久しく習行する』者、

     『著さない』者、

     『他の意を知る』者の故に、

       『衆生は有る』と説くのである。

舍利弗以天眼明見六道眾生生死善惡。於此無疑。但不知從他方無量阿僧祇世界諸菩薩來者故問。有諸大菩薩。從此間終生他方無量阿僧祇佛國。舍利弗天眼所不見故問。

舎利弗は、天眼の明を以って、六道の衆生の生死、善悪を見れば、此に於いては疑無きも、但だ他方の無量阿僧祇の世界従り、諸の菩薩の来たるを知らざれば、故に問うのみ。諸の大菩薩有りて、此の間に従りて終り、他方の無量阿僧祇の仏国に生ずるも、舎利弗は、天眼の見ざる所なるが故に問えり。

   舎利弗は、

     天眼の明を以って、

       『六道の衆生』の、

         『生死、善悪』を見て、

       此に、

         『疑い』は無いが、

     但だ、

       『他方の無量阿僧祇の世界』より、

         『諸の菩薩が来る』ことを知らないが故に、

         是れを問うた。

   諸の大菩薩が有って、

     『此の間』に終って、

     『他方の無量阿僧祇の仏国』に生まれるが、

   舎利弗の、

     『天眼』には見えないが故に、

     『問うた』のである。

復次有聲聞人。見菩薩行六波羅蜜。久住生死中漏未盡故。集種種智慧內外經書。而不證實際未免生老病死。愍而輕之言。此等命終以三毒未盡故當墮何處。如佛說諸凡夫人常開三惡道門。於三善道為客。於三惡處為家。三毒力強。過去世無量劫罪業積集而不取涅槃。將受眾苦甚可惑之。

復た次ぎに、有る声聞人は、菩薩の六波羅蜜を行ずるも、久しく生死中に住して漏未だ尽きずして、故に種種の智慧、内外の経書を集むるも、実際を証せず、未だ生老病死を免れざるを見、愍んで之を軽んじて言わく、『此れ等は命の終にも、三毒の未だ尽きざるを以っての故に、当に何れの処にか堕すべし。仏の説きたもうが如くんば、諸の凡夫人は常に三悪道の門を開き、三善道に於いて客と為り、三悪の処に於いて家を為すと。三毒の力は強くして、過去世無量劫の罪業積集せんに、而も涅槃を取らざれば、将に衆苦を受くべし。甚だ之を愍むべし』と。

 復た次ぎに、

   有る声聞人は、

     菩薩が、

       『六波羅蜜を行ずるが、

          久しく、生死の中に住して、

          未だ、漏が尽きず、

        故に、

          種種の智慧や、内外の経書を集めても、

          実際を、証することができずに、

        未だ、

          生老病死を免れない』のを見て、

     之を、

       愍み軽んじて、こう言う、――

       『此れ等は、

          命が終れば、

          三毒が、

            未だ、尽きないが故に、

            何処に、堕ちるのだろうか?

        仏が説かれたように、――

          凡夫人は、

             常に、

               三悪道の、門を開いている。

               三善道の、客でありながら、

               三悪処を、家としている。

             三毒の、

               力が強いのは、

               過去世無量劫の、罪業が積集していからだ。

             涅槃を取らなければ、

               衆苦を受けることになる。

             之は、

               甚だ愍むべき者である』と。

 

  惑之:他本に従い、愍之に改む。

如是等小乘人輕愍是菩薩。舍利弗於一切聲聞中為第一大法將。知有是事。欲令眾生起敬心於菩薩故問。佛以三事答。一從他方佛國來生。二從兜率天上來。三從人道中來。

是の如き等の小乗人は、是の菩薩を軽んじて愍むも、舎利弗は、一切の声聞中に於いて第一の大法将為り、是の事有るを知りて衆生をして、菩薩に於いて敬心を起さしめんと欲するが故に問えば、仏の三事を以って答えたまえり。一には他方の仏国従り来たりて生ず、二には兜率天上従り来たる、三には人道中従り来たると。

   是れ等の、

     小乗人は、

       是の菩薩を、軽んじて愍むが、

     舎利弗は、

       『一切の、声聞』中の、

       『第一の、大法将』であり、

       已に、是の事が有ると知ってはいたが、

       衆生に、

         『菩薩を敬わせよう』として、

         『問うた』のである。

   仏は、

     三事を以って、答えられた、――

       一は、『他方の仏国』より来て生まれた者、

       二は、『兜率天上』より来た者、

       三は、『人道中』より来た者である。

問曰。如從他方佛國來者。以遠故舍利弗不知。兜率天上人道中來者何以不知。

問うて曰く、他方の仏国従り来たる者の如きは、遠きを以っての故に舎利弗は知らざらん。兜率天上、人道中の来たる者は何を以ってか、知らざる。

 問い、

   『他方の仏国』より来た者は、

     遠いが故に、

     舎利弗は、知らなかった。

   『兜率天上』と、

   『人道中』の者は、

     何故、

       知らなかったのか?

答曰。舍利弗不知他方佛國來者故問。佛為如所應分別答有三處來。

答えて曰く、舎利弗は、他方の仏国より来たる者を知らざるが故に問えるに、仏は為に所応の如く分別して、三処より来たる有りと答えたまえり。

 答え、

   舎利弗は、

     『他方の仏国より来た者』を知らないが故に、

     問うたのであるが、

   仏は、

     『分別した方がよい』と思って、

     『三処より来た者が有る』と答えられたのである。

問曰。世間有六道。何以故。於天中別說兜率天來。人道中不分別處所。他方佛國來者。亦不分別天道人道。

問うて曰く、世間には六道有り。何を以っての故にか、天中に於いては、別して兜率天より来たるを説き、人道中には処所を分別せず、他方の仏国より来たる者も亦た天道、人道を分別せざる。

 問い、

   世間には、

     『六道』が有る。

   何故、

     天中には、

       『兜率天より来た』と、別に説き、

     人道中には、

       『処する所』を、分別せず、

     他方の仏国より来た者も、亦た、

       『天道、人道』を、分別しないのか?

答曰。六趣中三是惡道。惡道中來受苦因緣。心鈍故不任得道。是故不說。

答えて曰く、六趣中の三は是れ悪道なり。悪道中より来たるは、苦を受くる因縁に、心鈍なるが故に道を得るに任えず。是の故に説かず。

 答え、

   『六趣中』の、

     三は、

       『悪道』であり、

     悪道中より来た者は、

       『苦』を受ける因縁で、

       『心』が鈍であるが故に、

         『道を得る』に任えない。

     是の故に、

       説かないのである。

問曰。三惡道中來亦有得道者。如舍利弗大弟子牛足比丘。五百世牛中生。末後得人身足猶似牛。而得阿羅漢道。復有摩偷婆尸他比丘。五百世生獼猴中。末後得人身得三明六神通阿羅漢猶好跳躑。以有餘習故。如是等皆得道。何以言不任。

問うて曰く、三悪道中より来たるも、亦た道を得たる者有り。舎利弗の大弟子牛足比丘の如きは五百世、牛中に生じて末後に人身を得たるも、足は猶お牛に似たり、而も阿羅漢道を得たり。復た、摩偸婆尸他(まゆばした)比丘有り、五百世、獼猴中に生じて末後に人身を得、三明、六神通の阿羅漢を得たるも、猶お跳躑を好む、余習有るを以っての故なり。是の如き等は皆道を得。何を以ってか、任えずと言う。

 問い、

   三悪道中より来た者も、亦た、

     『道を得た』者が有る。

   例えば、

     舎利弗の大弟子の、

       『牛足比丘』などは、

         五百世、『牛中』に生まれ、

         末後に、

           『人身』を得たが、

           『足』は、

             猶お、『牛』に似ていた。

       而し、

         『阿羅漢道』を得たのである。

     復た、

       『摩偸婆尸他(まゆばした)比丘』は、

         五百世、『獼猴中』に生まれ、

         末後に、

           『人身』を得て、

           『三明、六神通の阿羅漢』を得たが、

         猶お、

           『跳躑』を好んだのである。

   是れ等は、

     皆、

       『道』を得ているのに、

     何故、

       『任えられない』と言うのか?

 

  牛足(ごそく):不明。或は仏弟子憍梵波提ならん?『大智度論巻2()注:憍梵波提』参照。

  摩偸婆尸他(まゆばした):梵名azvajit、巴梨assaji、又蜜婆私詫、或は阿説示、頞鞞等に作り、馬師、馬勝と訳す。五比丘の一にして、舎利弗、目連帰仏の因縁を為す。『大智度論巻11()注:阿説示』参照。

  参考:『大智度論巻84』:『譬如蜜婆私詫阿羅漢。五百世在獼猴中。今雖得阿羅漢猶騰跳樹木。愚人見之即生輕慢。是比丘似如獼猴。是阿羅漢無煩惱心而猶有本習。

  参考:『分別功徳論巻4』:『馬師比丘者。從佛受學。方經七日。便備威儀。將入毘舍離乞食。於城門外遇優波坻舍。遙見馬師威儀庠序法服整齊。中心欣悅。問曰。君是何等人。曰吾是沙門。曰君為自知為有師宗耶。曰有師。師名為誰。云何說法。答曰。吾師名釋迦文。天中之天三界極尊。其所教誨以空無為主。息心達本。故號沙門。優波坻舍聞此妙語。即達道跡。坻舍同學本有要誓。先得甘露者。當相告示。即辭馬師至拘律陀所。拘律陀見來顏色異常。疑獲甘露。尋問得甘露那。曰得也。甘露云何。甘露者達諸法空無也。拘律尋思復得道跡。馬師所以威儀第一者。以宿五百世為獼猴。今得為人性猶躁擾。出家七日即改本轍。學雖初淺善宣尊教。使前睹者悅顏達教。以威儀感悟故稱第一。身子所以稱智慧第一者。世尊又云。欲知身子智慧多少者。以須彌為硯子。四大海水為書水。以四天下竹木為筆。滿中人為書師。欲寫身子智慧者。猶尚不能盡。況凡夫五通而能測量耶。故稱智慧為第一

  跳躑(ちょうちゃく):ぴょんぴょん跳ぶの意。

答曰。雖有得者少不足言。又此人先世深種涅槃善根。小有謬錯故墮惡道中。償罪既畢涅槃善根熟故得成道果。此中不說聲聞道。但為得阿耨多羅三藐三菩提。前身後身次第。

答えて曰く、得る者有りと雖も、少ければ言うに足らず。又此の人は、先世に深く涅槃の善根を種えたるが、小し謬錯有るが故に悪道中に堕し、罪を償うこと既に竟れば、涅槃の善根熟するが故に成道の果を得たり。此の中に声聞道を説かずして、但だ阿耨多羅三藐三菩提を得んが為にのみ前身、後身次第す。

 答え、

   『得た』者は有るが、

     『少し』であるので、

     『言う』に足りない。

   又、

     此の人は、

       先世に、

         深く、

           『涅槃の善根』を種えたが、

         少し、

           『謬錯』が有ったので、

           『悪道中』に堕ちたのである。

       罪を償えば、

         既に、

           『涅槃の善根』が熟しているので、

           『道果を成ずる』ことができる。

    此の中には、

      『涅槃を得る』為の、

        『声聞道』を説かないが、

    但だ、

      『阿耨多羅三藐三菩提を得る』為にのみ、

        『前身と、後身とが次第する』のである。

譬如從垢心起不得次第入無漏。中間必有善有漏心。以無漏心貴故。言於三惡道出不任次第得阿耨多羅三藐三菩提心。天人阿修羅則不然。

譬えば垢心従り起つも次第に無漏に入るを得ず、中間に必ず善の有漏心有るが如きは、無漏心の貴きを以っての故なり。『三悪道を出でて、次第に阿耨多羅三藐三菩提心を得るに任えず』と言うも、天、人、阿修羅なれば則ち然らず。

   譬えば、

     『垢心』より起ったとしても、

       次第に、

         『無漏に入る』ことはない。

     中間に、

       必ず、

         『善の有漏心が有る』のは、

         『無漏心は貴い』からである。

   『三悪道を出たとしても、

      次第に、

        阿耨多羅三藐三菩提心を得るに任えない』と言うが、

   『天、人、阿修羅』であれば、

      そうではない。

下三天結使利而深。上二天結使深而不利。兜率天結使不深不利。所以者何。常有菩薩說法故。是故不說餘處。或有少故不說。色界諸天得道者不復來下。未得道者樂著禪味故不下。以著味故智慧亦鈍。是故不說。阿修羅同下二天故不說。

下三天の結使は利にして深く、上二天の結使は深くして利ならず、兜率天の結使は深からずして利ならず。所以は何んとなれば、常に菩薩有りて、法を説くが故なり。是の故に余の処は説かず。或は少しの故に説かざる有り。色界の諸天の道を得たる者は、復た来下せず、未だ道を得ざる者は、楽しんで禅味に著するが故に下らず、味に著するを以っての故に智慧も亦た鈍なり。是の故に説かず。阿修羅も下二天に同じきが故に説かず。

    『下三天の結使』は、

      『深く』、

      『利い』。

    『上二天の結使』は、

      『深い』が、

      『利くない』。

    『兜率天の結使』は、

      『深くなく』、

      『利くもない』。

    何故ならば、

      常に、

        『菩薩の説法』が有るからである。

    是の故に、

      『余の処』は説かない。

    或は、

      『少し』であるが故に、

      説かない。

    『色界の諸天』は、

      『道を得た』者は、

        もう、

          『来下する』ことはなく、

      『道を得ない』者は、

        禅味に楽著するので、

          『下る』ことはない。

        禅味に著すれば、

          『智慧が、鈍る』からである。

      是の故に、

        説かない。

   『阿修羅』は、

     下二天と同じであるが故に、

     説かない。

他方佛國來者。從諸佛前來生是間諸根猛利。所以者何。除無量阿僧祇劫罪故。又遇諸佛隨心教導故。如刀得好石則利。又常聞誦正憶念般若波羅蜜故利。如是等因緣則菩薩心利。

他方の仏国より来たる者は、諸仏の前従り来たりて是の間に生ずれば、諸根猛利なり。所以は何んとなれば、無量阿僧祇劫の罪を除くが故なり。又諸仏の心の随に教導するに遇うが故なり。刀の好石を得たれば則ち利なるが如し。又常に般若波羅蜜を聞誦し、正憶念するが故に利なり。是の如き等の因縁に、則ち菩薩心は利なり。

   『他方の仏国より来た』者は、

     『諸仏の前』より来て、

     『是の間』に生まれるので、

       諸根が、

         『猛利』である。

     何故ならば、

       『無量阿僧祇劫の罪を除く』からである。

     又、

       『諸仏が、

          心の随(まま)に、教導する』のに遇うからである。

     譬えば、

       『刀』が、

         『好い砥石』を得て、

         『利くなる』のと同じである。

     又、

       常に、

         『般若波羅蜜』を、

           『聞誦し』て、

           『正憶念する』から、

             『利くなる』。

     是れ等の因縁で、

       『菩薩心が、利い』のである。

人中來者此間佛弟子。聽般若波羅蜜集諸功德。捨身還生是間。或於異國土雖無有佛遇佛法。聽受書寫正憶念。隨力多少修福德智慧。是人諸根雖鈍堪受般若波羅蜜。以不見現在佛故心鈍。他方佛國來者利根故。修行般若波羅蜜疾得相應。以相應故常諸佛。佛因緣如先說。

人中より来たる者は、此の間の仏弟子にして、般若波羅蜜を聴いて諸の功徳を集め、身を捨てて還た是の間に生ぜしなり。或は異国土に於いて、仏有ること無しと雖も、仏法に値遇し、聴受し書写し、正憶念して、力の随に多少、福徳の智慧を修む。是の人は、諸根鈍なりと雖も、般若波羅蜜を受くるに堪え、現在仏を見ざるを以っての故に心鈍なり。他方の仏国より来たる者は、利根なるが故に、般若波羅蜜を修行すれば、疾かに相応を得。相応を以っての故に常に諸仏に値う。仏に値う因縁は先に説けるが如し。

   『人中より来た』者は、

     『此の間』の、

       『仏弟子』であり、

         『般若波羅蜜』を聴いて、

         『諸の功徳』を集めたので、

     『身』を捨てれば、

       還た、

         『是の間』に生まれるのである。

   或は、

     『異国土』で、

       『仏』は無いが、

       『仏法』には遇うことができ、

         『聴受』し、

         『書写』し、

         『正憶念』し、

       『力の多少』に随って、

         『福徳、智慧』を修める。

     是の人は、

       諸根は、

         『鈍い』ながらも、

         『般若波羅蜜を受ける』に堪えられる。

       何故ならば、

         『現在の仏を見ない』ので、

         『心が鈍い』のである。

   『他方の仏国より来た』者は、

     『利根』であるが故に、

       『般若波羅蜜』を修行すれば、

       疾かに、

         『相応する』ことができ、

     『相応』の故に、

       常に、

         『諸仏に、値う』のである。

   『仏に値う因縁』は、

     先に、説いたとおりである。

 

  参考:『大智度論巻29』:『問曰。有為之法欺誑不真皆不可信。云何得如願不離諸佛。答曰。福德智慧具足故乃應得佛。何況不離諸佛。以眾生有無量劫罪因緣故。不得如願。雖行福德而智慧薄少。雖行智慧而福德薄少。故所願不成。菩薩求佛道故。要行二忍。生忍法忍。行生忍故。一切眾生中發慈悲心。滅無量劫罪。得無量福德。行法忍故。破諸法無明。得無量智慧。二行和合故何願不得。以是故。菩薩世世常不離諸佛。復次菩薩常愛樂念佛故。捨身受身恒得佛。譬如眾生習欲心重受婬鳥身。所謂孔雀鴛鴦等。習瞋恚偏多生毒虫中。所謂惡龍羅蜈蚣毒蛇等。是菩薩心不貴轉輪聖王人天福樂但念諸佛。是故隨心所重而受身形。復次菩薩常善修念佛三昧因緣故。所生常諸佛。如般舟三昧中說。菩薩入是三昧。即見阿彌陀佛。便問其佛何業因緣故得生彼國。佛即答言。善男子。以常修念佛三昧憶念不廢故得生我國。

問曰。兜率天上。何以但說一生補處。不說二生三生。

問うて曰く、兜率天上は、何を以ってか、但だ一生補処の菩薩を説いて、二生、三生を説かざる。

 問い、

   『兜率天上』は、

     何故、

       但だ、

         『一生補処』のみを説いて、

         『二生、三生』を説かないのか?

答曰。人身罪結煩惱處所。唯大菩薩處之則無染累。如鵝入水水不令濕。如是菩薩一切世間法所不能著。

問うて曰く、人身は、罪、結、煩悩の処所にして、唯だ大菩薩のみ之に処するも、染累無し。鵝は水に入るも、水は湿ならしめざるが如し。是の如き菩薩は、一切の世間の法の著す能わざる所なり。

 答え、

   『人身』は、

     『罪、結、煩悩の処する所』であり、

   唯だ、

     『大菩薩』のみが、

       之に、処して、

       『染の累積』が無いのである。

   譬えば、

     『鵝』が、

       水に、入っても、

       『湿されない』のと同じである。

   是のような、

     菩薩は、

       一切の、

         『世間の法』に、

         『著される』ことがない。

所以者何。佛自說因緣。不失六波羅蜜諸陀羅尼門諸三昧門。疾現在前。是菩薩於是世界應利益眾生。其餘菩薩分布十方。譬如大智慧人已在一處。其餘大智則至異處。是故不說。

所以は何んとなれば、仏は自ら因縁を説きたまわく、『六波羅蜜、諸の陀羅尼門、諸の三昧門を失せず、疾かに現に前に在り』と。是の菩薩は是の世界に於いて、応に衆生を利益すべし。其の余の菩薩は十方に分布す。譬えば大智慧の人、已に一処に在れば、其の余の大智は則ち異処に至るが如し。是の故に説かず。

     何故ならば、

       仏は、

         自ら、その因縁をこう説かれた、――

         『六波羅蜜、

          諸の陀羅尼門、

          諸の三昧門は、

            失われずに、

            現に、前に在る』と。

     是の菩薩は、

       是の世界で、

         『衆生を、利益する』ものであり、

     其の余の菩薩は、

       十方に分布して、

         『衆生を、利益する』のである。

     譬えば、

       『大智慧の人』が、

         一処に、已に在れば、

       『其の余の大智慧』は、

         異処に、至るようなものであり、

     是の故に、

       説かない。

復次有人言。但說大者不限於小。

復た次ぎに、有る人の言わく、『但だ、大を説けば、小を限らず』と。

 復た次ぎに、

   有る人は、

     こう言う、――

     『但だ、

        大を説けば、

        小を限らない』と。

復次餘天中來生者餘處當廣說。人中死人中生者。不如上二處。何以故。以人身地大多故。身重心鈍。以心心數法隨身強弱故。又諸業結使因緣生故。

復た次ぎに、余の天中より来生する者は、余の処に当に広く説くべし。人中に死して、人中に生ずる者は、上の二処に如かず。何を以っての故に、人身は地大多きを以っての故に、身は重く心は鈍し。心心数法は身の強弱に随うを以っての故なり。又諸の業の結使の因縁生ずるが故なり。

 復た次ぎに、

   『余の天中より来生した』者は、

     余の処で、

       広く、説くことにする。

   『人中に死んで、人中に生じた』者は、

     上の、

       『兜率天上、他の仏国』の二処には、及ばない。

     何故ならば、

       『人身』は、

         『地大が、多い』が故に、

           身が、『重く』、

           心が、『鈍い』。

         即ち、

           『心心数法は、身の強弱に随う』からであり、

         又、

           『諸業の、結使の因縁が生じる』からでもある。

彼二處來者是法身菩薩。變身無量以度眾生。故來生是間。人道中者皆是肉身。

彼の二処より来たる者は、是れ法身の菩薩なり。身を変ずること無量にして、以って衆生を度せんが故に是の間に来生せり。人道中の者は皆是れ肉身なり。

   彼の、

     『二処より来た』者とは、

       是れは、

         『法身の菩薩』であり、

           『身を、無量に変じ』て、

           『衆生を、度す』ために、

           『是の間に、来生した』のである。

     『人道中』の者は、

       皆、是れは、

         『肉身』である。

問曰。阿毘跋致菩薩不以結業受身。何以故人道中說。

問うて曰く、阿毘跋致の菩薩は、結業を以って身を受けず。何を以っての故に、人道中に説く。

 問い、

   『阿毘跋致の菩薩』は、

     『結業』を以っては、

     『身を受ける』ことはない。

   何故、

     『人道中に来生する』と説くのか?

答曰。來生此間得阿毘跋致。未捨肉身故。以鈍根故。諸陀羅尼三昧門不疾現在前不疾現在前故不疾與般若相應

答えて曰く、此の間に来生して阿毘跋致を得るも、未だ肉身を捨てざるが故に、鈍根なるを以っての故に、諸の陀羅尼、三昧門は疾かに現じて前に在らず。疾かに現じて前に在らざるが故に、疾かに般若と相応せざればなり。

 答え、

   『此の間に来生した』者が、

     『阿毘跋致を得ていた』としても、

     未だ、

       『肉身を、捨てない』が故に、

       『鈍根である』が故に、

       『諸の陀羅尼門、三昧門』が、

         疾かに、現じて、

         前に、在ることがない。

       疾かに、

         現じて、前に在ることがないが故に、

         疾かに、

           『般若波羅蜜と相応しない』のである。

 

 

 

 

 

菩薩の三種の利鈍

【經】舍利弗。汝所問菩薩摩訶薩與般若波羅蜜相應。從此間終當生何處者。舍利弗。此菩薩摩訶薩從一佛國至一佛國。常諸佛終不離佛。

舎利弗、汝が問う所は、『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜と相応するに、此の間に従りて終れば、当に何れの処にか生ずべし』となり。舎利弗、此の菩薩摩訶薩は一仏国従り、一仏国に至りて、常に諸仏に値い、終に仏を離れず。

 舎利弗!

   お前の問うた、――

     『菩薩摩訶薩が、

        般若波羅蜜と相応すれば、

          此の間に終って、

          何処に生まれるのか?』とは、

 舎利弗!

   此の菩薩摩訶薩は、

     『一仏国』より、

     『一仏国』に至って、

       常に、

         『諸仏に値い』、

       終に、

         『仏を離れない』のである。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。不以方便入初禪乃至第四禪。亦行六波羅蜜。是菩薩摩訶薩得禪故生長壽天。隨彼壽終來生是間。得人身諸佛。是菩薩諸根不利。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は方便を以ってせずして、初禅乃至第四禅に入り、亦た六波羅蜜を行ず。是の菩薩摩訶薩は、禅を得たるが故に長寿天に生じ、彼の寿の終るに随いて是の間に来生し、人身を得て諸仏に値う。是の菩薩の諸根は利ならず。

 舎利弗!

   有る菩薩摩訶薩は、

     『方便』を用いずに、

       『初禅、乃至第四禅』に入り、亦た、

       『般若波羅蜜』を行ずるが、

   是の菩薩は、

     『禅』を得たが故に、

       『長寿天』に生まれて、

       『彼の寿命』が終れば、

         『是の間』に来て生まれ、

         『人身』を得て、

         『諸仏』に値うが、

   是の菩薩の、

     『諸根』は、

       『利』ではない。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。亦行般若波羅蜜。不以方便故捨諸禪生欲界。是菩薩諸根亦鈍。

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は初禅乃至第四禅に入り、亦た般若波羅蜜を行じ、方便を以ってせざるが故に諸の禅を捨てて欲界に生ず。是の菩薩の諸根も亦た鈍なり。

 舎利弗!

   有る菩薩摩訶薩は、

     『初禅、乃至第四禅』に入り、亦た、

     『般若波羅蜜』を行ずるが、

     『方便』を用いないが故に、

       『諸禅を捨て』て、

       『欲界に入った』のである。

   是の菩薩の、

     『諸根』は、

       『鈍』である。

舍利弗。有菩薩摩訶薩。入初禪乃至第四禪。入慈心乃至捨。入虛空處乃至非有想非無想處。修四念處乃至八聖道分。行十力乃至大慈大悲。是菩薩用方便力不隨禪生。不隨無量心生。不隨四無色定生。在所有佛處於中生。常不離般若波羅蜜行。如是菩薩賢劫中當得阿耨多羅三藐三菩提

舎利弗、有る菩薩摩訶薩は、初禅乃至第四禅に入り、慈心乃至捨に入り、虚空処乃至非有想非無想処に入り、四念処乃至八聖道分を修め、十力乃至大慈大悲を行ず。是の菩薩は方便力を用いて禅に随うて生ぜず、無量心に随うて生ぜず、四無色定に随うて生ぜず、有らゆる仏の処に在りては中に於いて生じ、常に般若波羅蜜の行を離れず。是の如き菩薩は賢劫中に当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。

 舎利弗!

   有る菩薩摩訶薩は、

     『初禅、乃至第四禅』に入り、

     『慈心、乃至捨心』に入り、

     『虚空処、乃至非有想非無想処』に入り、

     『四念処、乃至八聖道分』を修め、

     『十力、乃至大慈大悲』を行ずる。

   是の菩薩は、

     『方便力』を用いるが故に、

       『禅に随って、初禅乃至三禅に生まれたり』、

       『無量心に随って、第四禅に生まれたり』、

       『四無色定に随って、無色界に生まれたり』することはなく、

     『有らゆる仏の処』に於いては、

       『その中』に生まれて

       常に、

         『般若波羅蜜の行』を離れない。

   是のような、

     菩薩は、

       『賢劫中』に、

       『阿耨多羅三藐三菩提を得る』のである。

【論】問曰。舍利弗今問前世後世。佛何以故前世中三種答。後世中廣分別。

問うて曰く、舎利弗は、今、前世と後世とを問えるに、仏は、何を以っての故にか、前世中には三種に答え、後世中には広く分別したまえる。

 問い、

   舎利弗は、

     今、

       『前世と、後世』とを問うたが、

   仏は、

     何故、

       前世中を、『三種』に答えられ、

       後世を、『広く』分別されたのか?

答曰。人以肉眼不見過去未來故。而生邪疑。雖疑二處而未來世當受故廣分別。譬如已滅之火不復求救。但多方便防未來火。又如治病已滅之病不復加治。但治將生之病。

答えて曰く、人は、肉眼を以って過去、未来を見るが故に、邪疑を生じ、二処を疑うと雖も、未来世は当に受くべきが故に広く分別せり。譬えば、已に滅せる火は復た救を求めず、但だ多く方便して未来の火を防ぐが如し。又病を治するに、已に滅せる病は復た治を加えず、但だ将に生ぜんとする病を治するが如し。

 答え、

   人は、

     『肉眼』で、

       『過去、未来』を見るが故に、

         『邪疑』を生じて、

         『二処』を疑うが、

       『未来世』は、

         『受けなくてはならない』が故に、

         『広く分別された』のである。

   譬えば、

     已に

       『滅した火』に、

         『救を求める』ことはないが、

     但だ、

       『未来の火』には、

         多くが、

           『方便』して、

           『防ぐ』ようなものである。

   又、

     病を治するに、

       已に、

         『滅した病』に、

           『治療を加える』ことはないが、

       但だ、

         『生じようとする病』は、

           『治療する』のと同じである。

復次佛無量辯才自恣。舍利弗所問雖少佛廣為其說。如問與般若波羅蜜相應一事。而佛種種分別。如貧者從大富好施者乞。所乞雖少所與甚多。佛亦如是。有無量無漏佛法具足之富。以大慈悲好行施惠。因舍利弗少問故。佛為大眾廣分別說。

復た次ぎに、仏の無量の辯才は自ら恣なれば、舎利弗の問う所少しと雖も、仏は広く其の為に説きたまえり。問うが如きは、般若波羅蜜と相応するの一事なれども、仏は種種に分別したまえり。貧者の、大富にして好施の者従り乞うに、乞う所は少しと雖も与うる所は甚だ多きが如し。仏も亦た是の如く、無量にして無漏の仏法具足するの富有り、大慈悲を以って好く施恵を行じたまえば、舎利弗の少しの問に因るが故に、仏は大衆の為に広く分別して説きたもうなり。

 復た次ぎに、

   仏の、

     『無量の辯才』は、

       自ら、恣であるが故に、

     『舎利弗の問い』は少いが、

       広く、其の為に説かれた。

   問うたのは、

     『般若波羅蜜の相応の一事』であるが、

   仏は、

     『種種に、分別された』のである。

   譬えば、

     『貧者』が、

       『大富の好施の者』より乞えば、

         『乞う所』は少しでも、

         『与える所』が甚だ多いように、

     『仏』も、亦た、

       是のように、

       『無量の無漏の仏法の具足した富』が有るので、

         『大慈悲』を以って、

         好んで、

           『施恵』を行われ、

       『舎利弗の少しの問』に因るが故に、

         仏は、

           『大衆』の為に、

           『広く、分別して説かれた』のである。

復次是般若波羅蜜中種種因緣譬多說空法。有新發意者。取空相著是空法。於生死業因緣中生疑。若一切法畢竟空。無來無去無出無入相。云何死而有生。現在眼見法尚不應有。何況死後餘處生。不可見而有。如是等種種邪疑顛倒心為斷。是故佛種種因緣廣說有死有生。

復た次ぎに、是の般若波羅蜜中の種種の因縁、譬喩は、多く空法を説く。有る新発意の者は、空相を取りて、是の空法に著し、生死の業の因縁中に於いて疑を生ずらく、『若し一切法にして畢竟空ならば、無来無去、無出無入の相なり。云何が死して、而も生有らん。現在、眼に見る法すら、尚お応に有るべからず。何に況んや、死後の余処の生の不可見にして而も有らんや』と。是の如き等の種種の邪疑、顛倒心を断ぜんが為に、是の故に仏は種種の因縁もて、広く死有り、生有りと説きたまえり。

 復た次ぎに、

   是の般若波羅蜜中には、

     種種の因縁、譬喩で、

       多く、

         『空法』を説くが、

     有る『新発意』の者は、

       『空』中に、

         『相を取っ』て、

         『是の空法に著し』、

       『生死の業の因縁』中に、

         『疑』を、このように生ずる、――

         『若し、

            一切法が、

              畢竟じて、

                『空』ならば、

                『無来、無去、無出、無入の相』である。

            何うして、

              死んでから、

                『生』が有ろうか?

          現在、

            『眼に見る法』でさえ、

            『有る』はずがない。

          況して、

            『死後』の、

            『余処の生』など有るはずがない』と。

   是れ等の、

     『種種の邪疑、顛倒心』を断つ為に、

     是の故に、

       仏は、

         種種に因縁して、

         広く、

           『死が有る』、

           『生が有る』と説かれたのである。

問曰。無有死生因緣。何以故。人死歸滅。滅有三種。一者火燒為灰。二者虫食為糞。三者終歸於土。今但見其滅。不見更有出者受於後身。以不見故則知為無。

問うて曰く、死生の因縁は有ること無し。何を以っての故に、人は死して滅に帰すればなり。滅に三種有り、一には火焼きて灰と為す、二には虫食いて糞と為す、三には終に土に帰す。今は但だ其の滅を見るのみにして、更に出づる者有りて、後身を受くるを見ず。見ざるを以っての故に則ち無と為すことを知る。

 問い、

   『死生の因縁』は無い!

     何故ならば、

       人が、

         死ねば、

         『滅に帰す』からである。

     『滅』には、三種有り、

       一には、『火』が焼いて、『灰』にし、

       二には、『虫』が食って、『糞』にして、

       三には、終に、『土』に帰すである。

     今、

       但だ、

         『其の滅』を見るのみで、

       更に、

         『出る者』が有って、

         『後身を受ける』のを見たことがない。

       即ち、

         『見ない』ことを以っての故に、

         『無い』と知る。

答曰。若汝謂身滅便無者。云何有眾生先世所習憂喜怖畏等。如小兒生時或啼或笑。先習憂喜故。今無人教而憂喜續生。

答えて曰く、若し汝は、『身滅すれば便ち無なり』と謂わば、云何が、衆生の先世に習う所の憂喜、怖畏等有らん。小児は生時に或は啼き、或は笑うが如きは、先に憂喜を習えるが故に、今人の教うる無きも、憂喜は続いて生ず。

 答え、

   若し、

     あなたが、

       『身が、

          滅すれば、

          無となる』と謂うならば、

   何故、

     衆生の、

       先世に習った所の、

       憂喜、怖畏等が有るのか?

   例えば、

     小児は、

       生時に、

         啼いたり、

         笑ったりするのは、

       先世に、

         憂喜を習うからであり、

       今、

         人が教えなくても、

         憂喜が続いて生ずるのである。

又如犢子生知趣乳。豬羊之屬其生未幾。便知有牝牡之合。子同父母好醜貧富聰明闇鈍各各不同。若無先世因緣者不應有異。如是等種種因緣知有後世。

又犢子の如きは、生まれながらにして乳に趣くを知り、猪羊の属は、其の生まれて未だ幾ばくならざるに、便ち牝牡の合有るを知る。子は、父母を同じうすれど、好醜、貧富、聡明、闇鈍は各各同じからず。若し先世の因縁無くんば、応に異有るべからず。是の如き等の種種の因縁もて後世有りと知る。

   又、

     『犢子』は、

       生まれながらに、

       乳に趣くことを知っている。

     『猪羊の属』は、

       生まれて幾許でもないのに、

       牝牡の合を知っている。

     子は、

       父母が同じでも、

         好醜、貧富、聡明、闇鈍は、

         各、

           同じではない。

       若し、

         『先世の因縁』が無ければ、

         『異なる』はずがないのである。

   是れ等の、

     種種の因縁で、

       『後世は有る』と知ることができる。

 

  牝牡(びんむ):獣畜のオス、メス。

又汝先言不見別有去者。人身中非獨眼根能見。身中六情各有所知。有法可聞可嗅可味可觸可知者。可聞法尚不可見。何況可知者。

又汝が先に言わく、『別に去る者有るを見ず』とは、人身中には、独り眼根のみ能く見るに非ず。身中の六情には各知る所有り。有る法は、可聞、可嗅、可味、可触、可知の者なり。可聞の法すら尚お見るべからず。何に況んや、可知の者をや。

 又、

   あなたは、

     先に、

       『別に、去る者を見ない』と言ったが、

   人身中の、

     『眼根』だけが、

       独り、

         『見ることができる』のではない。

   身中の、

     『六情』は、

       各、

         『知る所』が有り、

       ある法は、

         『可聞』であり、

         『可嗅』であり、

         『可味』であり、

         『可触』であり、

         『可知』の者なのである。

     即ち、

       『可聞の法』でさえ、

         『見ることはできない』、

     況して、

       『可知の法』を、

       何うして、

         見ることができようか?

有生有死法亦可見亦可知。汝肉眼故不見。天眼者了了能見。如是人從一房出入一房。捨此身至後身亦如是。若肉眼能見者。何用求天眼。若爾者天眼肉眼愚聖無異。汝以畜生同見。何能見後世

有生有死の法も、亦た可見にして亦た可知なり。汝は肉眼の故に見ざるも、天眼なれば了了に能く見る。是の人の、一房従り出て一房に入るが如く、此の身を捨てて後身に至ることも亦た是の如し。若し肉眼にて能く見ば、何んが天眼を求むるを用いん。若し爾らば、天眼も肉眼も愚も聖も異無けん。汝は畜生を以って見を同じうす、何んが能く後世を見んや。

     『有生有死の法』は、

       『可見』であり、亦た、

       『可知』でもある。

     あなたは、

       『肉眼』の故に、

         『見えない』としても、

       『天眼の者』ならば、

         『了了に、見える』のである。

     是のように、

       『人』が、

         『一房』を出て、

         『一房』に入るように、

       即ち、

         『此の身』を捨てて、

         『後の身』に至る。

     若し、

       『肉眼』で、

         『是れを見られる』のであれば、

       『天眼』を求めて、

         『何に用いよう』とするのか?

     若し、

       そうならば、

         『天眼も、肉眼』も、

         『愚も、聖』も、

           『異なり』が無いことになる。

     あなたの、

       『見』は、

         『畜生』と同じであるのに、

       何うして、

         『後世』を見られるのか?

可知者。如人死生。雖無來去者而煩惱不盡故。於身情意相續更生身情意。身情意造業亦不至後世。而從是因緣更生受後世果報。

可知とは、人の死生の如きは、去来する者無しと雖も、煩悩尽きざるが故に、身情意に於いて相続して更に身情意を生ず。身情意は業を造るも、亦た後世に至らず、而も是の因縁従り、更に生じて後世の果報を受く。

   『可知』とは、

     譬えば、

       『人の死生』に、

         『去来する者』は無いが、

         『煩悩』が尽きないが故に、

           『身、情、意が相続し』て、

         更に、

           『身、情、意を生じる』のである。

       『身、情、意』は、

         『業を造る』が、

         『後世に至る』ことはない。

       而し、

         『是の因縁』により、

         更に、

           『身、情、意』が生じて、

           『後世の果報』を受けるのである。

譬如乳中著毒。乳變為酪。酪變為酥。乳非酪酥。酪酥非乳。乳酪雖變而皆有毒。此身亦如是。今世五眾因緣故更生後世。五眾行業相續不異故而受果報。又如冬木。雖未有花葉果實。得時節會則次等而出。如是因緣故知有死生。

譬えば乳中に毒を著くるに、乳は変じて酪と為り、酪は変じて酥と為り、乳は酪、酥に非ず、酪、酥は乳に非ずして、乳、酪は変ずと雖も、而も皆毒有るが如し。此の身も亦た是の如し。今世の五衆の因縁の故に更に後世の五衆を生じ、行業相続して異ならざるが故に、果報を受く。又冬木は、未だ花葉、果実有らずと雖も、時節に会するを得れば、則ち次第して出づるが如し。是の如き因縁の故に死生有りと知る。

    譬えば、

      『乳』中に、

        『毒』を著ければ、

          『乳』は変じて、『酪』と為り、

          『酪』は変じて、『酥』と為るが、

        而し、

          『乳』は、『酪でも、酥』でもなく、

          『酪や、酥』は、『乳』ではない。

        即ち、

          『乳や、酪』は、

            『変じた』にもかかわらず、

          『酪にも、酥』にも、

            皆、

              『毒が有る』のである。

      『此の身』も、亦た、

        是のように、

        今世の、

          『五衆の因縁』の故に、

          更に、

            『後世の五衆』を生ずる。

        即ち、

          『行業』は、

            『相続して、異らない』が故に、

            『果報を受ける』のである。

    又、

      『冬の木』に、

        未だ、

          『花葉、果実』が無いとしても、

        時節に会えば、

          『次第に、出る』のと同じである。

   是のような、

      因縁の故に、

        『死生が有る』と知ることができる。

復次現世有知宿命者。如人行疲極睡臥覺已憶所經由。又一切聖人內外經書皆說後世。

復た次ぎに、現世に宿命を知る者有り。人、夢に行きて疲極し睡臥するに、覚め已りて経由する所を憶するが如し。又一切の聖人、内外の経書は皆後世を説けり。

 復た次ぎに、

   現世に、

     『宿命を知る』者が有り、

   例えば、

     人が、

       夢中に、

         『歩行』し、

         『疲労』が極まって睡り臥せたとき、

       覚め已れば、

         『経由した所』を憶えているのと同じである。

 又、

   『一切の聖人』や、

   『内外の経書』は、

     皆、

       『後世』を説いている。

 

  人行:他本に従い人夢行に改む。

復次現世不善法動發過重。生瞋恚嫉妒疑悔。內惱故身則枯悴顏色不悅。惡不善法受害如是。何況起身業口業。

復た次ぎに、現世の不善法は動発すれば過重く、瞋恚、嫉妒、疑悔を生じて内に悩すが故に、身は則ち枯悴し、顔色は悦ばず。悪不善法の害を受くること是の如し。何に況んや、身業口業を起さんをや。

 復た次ぎに、

   現世に、

     『不善法』が動発すれば、

       『過』が重い。

       『瞋恚、嫉妒、疑悔』を生じて、

         『内から悩す』が故に、枯悴して、

         『顔色』が悦ばしくない。

   『悪、不善法』で、

     『害を、受ける』とは、

       是のようである。

   況して、

     『身業、口業』を起せば、

     言うまでもない。

 

  不善法(ふぜんほう):心数法中の大小の煩悩地法、及び大不善地法等の不善法を云う。

若生善法淨信業因緣。心清淨得如實智慧。心則歡悅身得輕軟顏色和適。以有苦樂因緣故有善不善。今定有善不善故。當知必有後世。但眾生肉眼不見。智慧薄故而生邪疑。雖修福事所作淺薄。

若し善法を生じて業の因縁を浄信すれば、心清浄にして如実の智慧を得、心は則ち歓悦して、身に軽軟を得、顔色は和適す。苦楽の因縁有るを以っての故に善、不善有り。今、定んで善、不善有るが故に、当に知るべし、必ず後世有りと。但だ衆生の肉眼の見ざるのみ、智慧薄きが故に邪疑を生じ、福事を修むと雖も、作す所は浅薄なり。

   若し、

     『善法』を生じて、

     『業の因縁』を浄信すれば、

       心が、

         『清浄』となって、

         『如実の智慧』を得る。

     則ち、

       心が、『歓悦』して、

       身が、『軽軟』となり、

       顔色は、『和適』するのである。

   即ち、

     『苦楽の因縁』が有ることを以っての故に、

     『善、不善』が有るのであるが、

   今、

     定んで、

       『善、不善』が有るが故に、

     必ず、

       『後世が有る』と知るのである。

   但だ、

     衆生は、

       『肉眼』には見えず、

       『智慧』が薄いが故に、

         『邪疑』を生ずるので、

       『福事』を修めたとしても、

         『作す所』は浅薄なのである。

譬如藥師為王療病。王密為起宅而藥師不知。既歸見之乃悔不加意盡力治王。

譬えば薬師の、王の為に病を療ずるに、王は、密かに宅を起たしむ。而も薬師は知らず、既に帰りて之を見、乃ち悔やむも意に加えず、力を尽くして王を治するが如し。

   譬えば、

     薬師が、

       王の病を治療していたが、

     王は、

       密かに、

         宅を起ってしまった。

     薬師は、

       それを知らずにいて、

       既に、帰ったのを見て、

       ようやく、悔やむことになったが、

       それを、意に加えず、

     但だ、

       力を尽くして、

       王を治療するようなものである。

復次聖人說今現在事實可信故。說後世事亦皆可信。如人夜行嶮道導師授手。知可信故則便隨逐。

復た次ぎに、聖人は今現在の事の説くに、実に信ずべきが故に、後世の事を説いても、亦た皆信ずべし。人の嶮道を夜行するに、導師手を授くれば、信ずべきことを知るが故に、則ち便ち随逐するが如し。

 復た次ぎに、

   『聖人』が、

     『今、現在の事』を説けば、

       『実に、信じなくてはならない』が故に、

     『後世の事』を説いても、亦た、

       『皆、信じなくてはならない』のである。

   譬えば、

     人が、

       『夜行』するとき、

         『嶮道』にて、

         『導師』が手を授ければ、

       『信じなくてはならない』と知るが故に、

         容易に、

           『随逐する』のと同じである。

比智。及聖人語可知定有後世。汝以肉眼重罪比智薄故又無天眼。既自無智又不信聖人語。云何得知後世。

比智、及び聖人の語に、定んで後世有りと知るべし。汝は肉眼、重罪にして比智薄きを以っての故に、又天眼無し。既に自らに智無く、又聖人の語を信ぜざれば、云何が後世を知ることを得ん。

   『比智』と、及び、

   『聖人の語』で、

     『定んで、後世は有る』と知ることができる。

   あなたは、

     『肉眼』で、

     『罪』が重く、

     『比智』が薄いことを以っての故に、

   又、

     『天眼』が無く、

     既に、

       自ら、

         『無智』であり、

       又、

         『聖人の語』を信じない、

     何うして、

       『後世を知る』ことができようか?

 

  比智:比較して知る智慧なり。又十一智中の一。即ち色無色界中の無漏智を云うこともある。『大智度論巻23()』参照。

復次佛法中諸法畢竟空。而亦不斷滅。生死雖相續亦不是常。無量阿僧祇劫業因緣雖過去。亦能生果報而不滅。是為微妙難知。若諸法都空者。此品中不應說往生。何有智者前後相違。

復た次ぎに、仏法中には、諸法は畢竟じて空なり。而も亦た断滅せず。生死は相続すと雖も、亦た是れ常ならず。無量阿僧祇劫の業の因縁は、過去なりと雖も、亦た能く果報を生じて滅せず。是れを微妙にして知り難しと為す。若し諸法は都て空ならば、此の品の中に、応に往生を説くべからず。何んが有智の者にして、前後相違せんや。

 復た次ぎに、

   仏法中には、

     『諸法』は、

       畢竟じて、

         『空』であるので、

       亦た、

         『断滅しない』のである。

     『生死』は、

       相続するが、

       亦た、

         『常である』のでもない。

     『無量阿僧祇劫の業の因縁』は、

       過去の事であっても、

         『果報を生ずる』のであり、

       而も、

         『滅しない』のである。

   是れは、

     『微妙』であり、

     『知り難い』ことではあるが、

   若し、

     『諸法』が、

       都て、

         『空』ならば、

       『此の品』中に、

         『往生』を説くはずがないのである。

   『有智の者』であれば、

     何うして、

       『前後を相違する』ことが有ろうか?

 

  諸法畢竟空而亦不断滅:諸法中に無我なるが故に畢竟空と云い、而も生死相続するが故に亦不断滅と云う。又有我の故に生死無く、無我の故に生死有りの意深察すべし。

若死生相實有。云何言諸法畢竟空。但為除諸法中愛著邪見顛倒故。說畢竟空。不為破後世故說。汝無天眼明故疑後世。欲自陷罪惡。遮是罪業因緣故。說種種往生。

若し死生の相は実に有れば、云何が、『諸法は畢竟じて空なり』と言う。但だ諸法の中に愛著し、邪見し、顛倒することを除かんが為の故に、『畢竟じて空なり』と説くのみにして、後世を破らんが為の故には説かず。汝は、天眼の明無きが故に、後世を疑い、自ら罪悪に陥らんと欲すれば、是の罪業の因縁を遮せんが故に、種種の往生を説くなり。

   若し、

     『死生の相』が、

       『実に、有る』のであれば、

     何故、

       『諸法は、畢竟じて空である』と言うのだろうか?

     但だ、

       『諸法』の中に、

         『愛著』し、

         『邪見』し、

         『顛倒』するのを除く為の故に、

           『畢竟じて、空である』と説くのであり、

       『後世』を、

         『破る』為の故に、

           説くのではない。

   あなたは、

     『天眼の明』が無いが故に、

       『後世』を疑って、

         『自ら、罪悪に陥ろう』としている。

   是の、

     『罪業の因縁』を遮するが故に、

     『種種の往生』を説くのである。

佛法不著有不著無。有無亦不著。非有非無亦不著。不著亦不著。如是人則不容難。譬如以刀斫空終無所傷。為眾生故。隨緣說法自無所著。

仏法は、有に著せず、無に著せず、有無にも亦た著せず、非有非無も亦た著せず、不著にも亦た著せず。是の如き人は、則ち難を容れず。譬えば刀を以って空を斫らんとするも、終に傷つくる所の無きが如し。衆生の為の故に、縁に随うて法を説くも、自らは著する所無し。

   『仏法』は、

     『有』に著さず、

     『無』に著さず、

     『有無』にも亦た著さず、

     『非有非無』にも亦た著さず、

     『著さない』ことにも、亦た著さない。

   是のような、

     人であれば、

       『難を容れる』ことはない。

   譬えば、

     刀で、

       『空』を斫っても、

       終に、

         『傷つける所』が無いように、

     『衆生』の為の故に、

       『縁』に随って、

       『法』を説くが、

     自らには、

       『著する所』が無いのである。

 

  譬如以刀斫空終無所傷:蓋し「中論」に依りて空を案ずるに有無、断常等の二律背反の立場を有する論議は皆互いに譲らざれば、即ち是れ戯論なるのみ、而も尽きざる議論に由って最重要事は閑却せられん。一切の立場を捨てて心を空しうすれば戯論せず。残るは但だ与えられれば喜び、取られれば泣くという第一に堅固なる立場のみ。即ち三歳の嬰児にすら猶お容易に理解せらるる因果報応の理法を奉じて、止悪修善、乃至六波羅蜜を行ずれば、何なる論議にも傷つけられない堅固心を得ると説くのである。

以是故中論中說

 一切諸法實  一切法虛妄

 諸法實亦虛  非實亦非虛

 涅槃際為真  世間際亦真

 涅槃世無別  小異不可得

是為畢竟空相。畢竟空不遮生死業因緣。是故說往生。

是を以っての故に、『中論』中に説かく、

  『一切の諸法は実なり、一切の法は虚妄なり、

   諸法は実にして亦た虚なり、実に非ず亦た虚に非ず。

   涅槃の際を真と為すも、世間の際も亦た真なり、

   涅槃と世との別無きこと、小異すら得べからず』と。

是れを畢竟空の相と為す。畢竟空なれば生死の業の因縁を遮せず。是の故に往生を説くなり。

 是の故に、

   『中論』中には、こう説いている、――

     『一切の、

        諸法は、実であり、

      一切の、

        諸法は、虚妄である。

      諸法は、

        実であり、亦た、

        虚であり、亦た、

        実でもなく、虚でもない』、

     『涅槃の際は、

        真であり、

      世間の際も、

        亦た、真である。

      涅槃と、

        世間とに別は無く、

        小異すら得られない』と。

  是れが、

    『畢竟空の相』である。

  即ち、

    畢竟じて、

      『空』であれば、

      『生死の業の因縁』を遮することはなく、

    是の故に、

      『往生』を説くのである。

 

  参考:『中論巻3観法品』:『若我是五陰  我即為生滅  若我異五陰  則非五陰相  若無有我者  何得有我所  滅我我所故  名得無我智  得無我智者  是則名實觀  得無我智者  是人為希有  內外我我所  盡滅無有故  諸受即為滅  受滅則身滅  業煩惱滅故  名之為解脫  業煩惱非實  入空戲論滅  諸佛或說我  或說於無我  諸法實相中  無我無非我  諸法實相者  心行言語斷  無生亦無滅  寂滅如涅槃  一切實非實  亦實亦非實  非實非非實  是名諸佛法  自知不隨他  寂滅無戲論  無異無分別  是則名實相  若法從緣生  不即不異因  是故名實相  不斷亦不常  不一亦不異  不常亦不斷  是名諸世尊  教化甘露味  若佛不出世  佛法已滅盡  諸辟支佛智  從於遠離生

  参考:『中論巻4観涅槃品』:『復次 涅槃與世間  無有少分別  世間與涅槃  亦無少分別  五陰相續往來因緣故。說名世間。五陰性畢竟空無受寂滅。此義先已說。以一切法不生不滅故。世間與涅槃無有分別。涅槃與世間亦無分別。復次 涅槃之實際  及與世間際  如是二際者  無毫釐差別  究竟推求世間涅槃實際無生際。以平等不可得故。無毫釐差別。

問曰。若般若波羅蜜一相所謂無相。云何與般若相應。從一佛國至一佛國常諸佛。

問うて曰く、若し般若波羅蜜は一相にして謂わゆる無相ならば、云何が般若と相応して、一仏国従り一仏国に至りて常に諸仏に値わん。

 問い、

   若し、

     般若波羅蜜が、

       『一相』、謂わゆる、

       『無相』であるならば、

   何うして、

     般若波羅蜜と相応すれば、

       『一仏国』より、

       『一仏国』に至り、

     常に、

       『諸仏に値う』ことができるのか?

答曰。般若波羅蜜攝一切法。譬如大海。以是故不應作難。

答えて曰く、般若波羅蜜には一切の法を摂すればなり。譬えば大海の如し。是を以っての故に応に難を作すべからず。

 答え、

   般若波羅蜜は、

     『一切法』を摂するので、

   譬えば、

     『大海』のようである。

   是の故に、

     『難を作す』には相応しくない。

復次汝自說般若波羅蜜一相無相。若無相云何有難。汝則無相中取相。是事不然。

復た次ぎに、汝は自ら説かく、『般若波羅蜜は一相にして無相なり』と。若し無相なれば、云何が難有る。汝は則ち無相中に相を取るも、是の事は然らず。

 復た次ぎに、

   あなたは、

     自ら、

       『般若波羅蜜は、一相無相である』と説いたが、

     若し、

       『無相』ならば、

     何故、

       『難ずることが有る』のか?

   あなたは、

     則ち、

       『無相』中に、

       『相を取る』が、

     是の事は、

       そうでないのである。

復次因般若波羅蜜故。行念佛三昧等諸善法生諸佛。

復た次ぎに、般若波羅蜜に因るが故に、念仏三昧等の諸の善法を行じて、生じては諸仏に値うなり。

 復た次ぎに、

   『般若波羅蜜』に因るが故に、

     『念仏三昧』等の、

     『諸の善法』を行じて、

       『諸仏に値う』ことができる。

復次行般若波羅蜜者。深入大悲如慈父見子。為無所直物故死。父甚愍之。此兒但為虛誑故死。

復た次ぎに、般若波羅蜜を行ずれば、深く大悲に入りて、慈父の子を見るが如し。直する所の物の無きが為の故に、死せば父は甚だ、『此の児は、但だ虚誑の為の故に死するのみ』と之を愍(いた)む。

 復た次ぎに、

   『般若波羅蜜』を行ずれば、

     深く、

       『大悲』に入るので、

     『慈父』が、

       『子』を、

         『直する所の物が無い』と見るが故に、

         『死ぬ』と、

       『父』は、

         甚だ之を愍んで、こう言う、――

         『此の児は、

            但だ、

              人を誑そうとして、

              死んだ振りをしているのだ』、と。

諸佛亦如是。知諸法畢竟空不可得。而眾生不知。眾生不知故於空法中深著。著因緣故墮大地獄。是故深入大悲。以大慈悲因緣故得無量福德。得無量福德故生諸佛。從一佛國至一佛國。

諸仏も亦た是の如く、『諸法は畢竟じて空にして得べからず。而も衆生は知らず。衆生は知らざるが故に、空法中に深く著し、著の因縁の故に大地獄に堕す』と知りたもう。是の故に深く大悲に入れば、大慈悲の因縁を以っての故に、無量の福徳を得、無量の福徳を得るが故に生ずれば諸仏に値い、一仏国従り一仏国に至るなり。

   『諸仏』も、亦た、

     是のように、知られたのである、――

       『諸法は、

          畢竟じて、

            空であり、

            得られないが、

        而し、

          衆生は、

            知らない。

          衆生は、

            知らないが故に、

              深く、

                空法中に著し、

                空に著する因縁の故に、

                  大地獄に堕ちている』と。

     是の故に、

       深く、

         『大悲』に入り、

         『大慈悲の因縁』を以っての故に、

           『無量の福徳』を得、

           『無量の福徳』を得た因縁の故に、

             『世間』に生まれて、

               『諸仏』に値い、

               『一仏国』より、

               『一仏国』に至るのである。

是菩薩從此間死彼間生。彼間死復至彼間生。如是乃至得佛終不離佛譬如有福之人從一大會至一大會。或有是間死彼間生。於彼以五神通力故。從一佛國至一佛國。供養諸佛度脫眾生。是初菩薩。

是の菩薩は、此の間に従り、死すれば彼の間に生ず。彼の間に死すれば、復た彼の間に至りて生ず。是の如く乃ち仏を得るに至るまで、終に仏を離れず。譬えば有福の人の一大会従り、一大会に至るが如し。或は是の間に死して彼の間に生ずる有り、彼に於いて五神通の力を以っての故に、一仏国従り、一仏国に至り、諸仏を供養して衆生を度脱す。是れ初の菩薩なり。

   是の菩薩は、

     『此の間』に死んで、

       『彼の間』に生まれ、

     『彼の間』に死んで、復た

       『彼の間』に至って生まれ、

     是のようにして、

       『仏を得る』に至るまで、

       終に、

         『仏を離れない』のは、

     譬えば、

       有る、

         『有福の人』が、

           『一大会』より、

           『一大会』に至るようなものである。

   或は、

     有る、

       『是の間に死んで、彼の間に生まれる者』は、

         『彼の間』に於いて、

         『五神通の力』を以っての故に、

           『一仏国』より、

           『一仏国』に至り、

             『諸仏』を供養して、

             『衆生』を度脱する。

   是れが、

     『初の菩薩』である。

佛國者。十方如恒河沙等諸三千大千世界。是名一佛土。諸佛神力雖能普遍自在無礙。眾生度者有局。諸佛現在者。佛現在其佛國土中者。

仏国とは、十方の恒河沙等の如き諸の三千大千世界は、是れを一仏土と名づく。諸仏の神力は、能く普く遍じて自在無礙なりと雖も、衆生の度す者には局(かぎり)有り。諸仏現に在りとは、仏は現に其の仏国土中に在る者なり。

   『仏国』とは、

     十方の、

       『恒河沙にも等しい諸の三千大千世界』であり、

     是れを、

       『一仏土』と名づける。

     『諸仏の神力』は、

       『普遍、自在、無礙』ではあるが、

     『衆生の度す者』には、

       『限られた世界』が有るのである。

   『諸仏が現に在す』とは、

     『仏』の、

       『現に、其の仏国土中に在す者』である。

第二菩薩無方便入初禪。乃至行六波羅蜜。無方便者入初禪時不念眾生。住時起時亦不念眾生。但著禪味不能與初禪和合行般若波羅蜜。是菩薩慈悲心薄故功德薄少。功德薄少故為初禪果報所牽生長壽天。

第二の菩薩は、方便無くして初禅に入り、乃ち六波羅蜜を行ずるに至る。方便無しとは、初禅に入る時、衆生を念ぜず。住時、起時にも亦た衆生を念ぜず、但だ禅味に著して初禅と和合して、般若波羅蜜を行ずること能わず。是の菩薩は、慈悲心薄きが故に功徳薄少なり。功徳薄少なるが故に、初禅の果報の牽く所と為りて、長寿天に生ず。

   『第二の(不利根の)菩薩』は、

     『無方便』で、

       『初禅』に入って、乃ち、

       『六波羅蜜を行ずる』に至るのである。

     『無方便』とは、

       初禅に入る時、

         『衆生を念じず』、

       住時にも、起時にも、

         『衆生を念じない』ことであり、

       但だ、

         『禅味を味わう』だけで、

         『初禅』と和合して、

           『六波羅蜜を行じられない』ことである。

   是の菩薩は、

     『慈悲心』が薄いが故に、

       『功徳』が薄少であり、

       『功徳』が薄少であるが故に、

         『初禅の果報』に牽かれて、

         『長寿天に生まれる』のである。

復次不能以初禪福德與眾生共迴向阿耨多羅三藐三菩提。如是等無量無方便義。

復た次ぎに、初禅の福徳を以って、衆生と共に阿耨多羅三藐三菩提に迴向する能わず。是の如き等の無量なるは無方便の義なり。

 復た次ぎに、

   是の菩薩は、

     『初禅の福徳』を以って、

       『衆生』と共に、

       『阿耨多羅三藐三菩提に迴向する』ことができない。

   是れ等は、

     無量であり、

     『無方便の義』である。

長壽天者。非有想非無想處。壽八萬大劫。或有人言。一切無色定通名長壽天。以無形不可化故。不任得道。常是凡夫處故。或說無想天名為長壽。亦不任得道故。或說從初禪至四禪。除淨居天皆名長壽。以著味邪見不能受道者

長寿天とは、非有想非無想処にして、寿八万大劫なり。或は有る人の言わく、『一切の無色定は、通じて長寿天と名づく。無形にして、化すべからざるを以っての故に、道を得るに任えずして、常に是れ凡夫の処なるが故なり』と。或は説かく、『無想天を名づけて長寿と為す。亦た道を得るに任えざるが故なり』と。或は説かく、『初禅従り四禅に至るまで、淨居天を除いて皆長寿と名づく。味に著するを以って邪見し、道を受くること能わざる者なり』と。

   『長寿天』とは、

     『非有想非無想処』であり、

     寿は、

       『八万大劫』である。

   或は、

     有る人は、こう言う、――

       『一切の無色定は、

          通じて、

            長寿天と名づける。

          皆、

            無形であり、

            化すことができないが故に、

            道を得るに任えられないので、

          常に、

            是れは、

              凡夫の処である』と。

     或は、こう説く、――

       『無想天を、

          長寿天と名づける。

          亦た、

            道を得るに任えないからである』と。

     或は、こう説く、――

       『初禅より、四禅に至るまでは、

          淨居天を除いて、

          皆、

            長寿天と名づける。

          即ち、

            禅味に著し、

            邪見であることを以って、

            道を受けることのできない者である』と。

還生人間。佛者。以本發阿耨多羅三藐三菩提心故。或於禪中集諸福德。所以者何。彼間著味善心難生故。如經中說。如佛問比丘甲頭土多地上土多。諸比丘言。地土甚多不可為。佛言。天上命終還生人中者如甲頭土。墮地獄者如地土。

還た人間に生じて、仏に値うとは、本、阿耨多羅三藐三菩提心を発せるを以っての故に、或は禅の中に於いて、諸の福徳を集む。所以は何んとなれば、彼の間は味に著して、善心生じ難きが故なり。経中に説くが如きは、仏の比丘に、『甲頭の土多きや、地上の土多きや』と問いたもうが如きに、諸の比丘の言わく、『地の土の甚だ多きこと、喩と為すべからず』と。仏の言わく、『天上の命終りて、還た人中に生ずる者は、甲頭の土の如く、地獄に堕つる者は地の土の如し』と。

   『還た人間に生まれて仏に値う』とは、

     本、

       『阿耨多羅三藐三菩提心を発した』が故に、

     或は、

       『禅中』に於いて、

         『諸の福徳を集めた』のである。

     何故ならば、

       『彼の間』では、

         『禅味に著する』と、

         『善心が生じ難い』が故に、

           『或は』であり、

           『必ず』ではない。

     『経』中には、

       こう説く、――

       仏は、

         比丘に、こう問われた、――

         『爪先の、土が多いか?

          地上の、土が多いか?』と。

       諸の比丘は言った、――

         『地上の、

            土は、甚だ多く、

            譬喩とすることはできません』と。

       仏は、こう言われた、――

         『天上で、

            命が終って、

            還た、

              人中に生じる者は、

                爪先の土ほどだが、

              地獄に堕ちる者は、

                地上の土のようである』と。

 

  甲頭(こうづ):爪先。

  参考:『雑阿含経巻16(442)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊以爪甲擎土已。告諸比丘。於意云何。我爪甲上土為多。此大地土多。諸比丘白佛言。世尊甲上土甚少少耳。此大地土甚多無量。乃至算數譬類不可為比。佛告比丘。如甲上土者。若諸眾生。形可見者。亦復如是。其形微細。不可見者。如大地土。是故。比丘。於四聖諦未無間等者。當勤方便。學無間等。佛說是經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。如陸地。如是水性亦爾。如甲上土。如是眾生.人道者。亦復如是。如大地土。如是非人亦爾。如甲上土。如是生中國者亦爾。如大地土。如是生邊地者亦爾。如甲上土。如是成就聖慧眼者。亦復如是。如大地土。如是不成就聖慧眼者亦爾。如甲上土。如是眾生知此法.律者。亦復如是。如大地土。如是眾生不知法.律者亦爾。如知。如是等知.普知。正想.正覺.正解。法無間等亦如是。如甲上土。如是眾生知有父母亦爾。如大地土。如是眾生不知有父母亦爾。如甲上土。如是知有沙門.婆羅門家之尊長。作所應作作福。此世他世畏罪行施。受齋持戒亦爾。如大地土。不知有沙門.婆羅門家之尊長。作所應作作福。此世他世畏罪行施。受齋持戒。亦如是說。如甲上土。如是眾生不殺.不盜.不邪婬.不妄語.不兩舌.不惡口.不綺語亦爾。。如大地土。如是眾生不持諸戒者亦爾。如是離貪.恚.邪見。及不離貪.恚.邪見。亦如是說。如甲上土。如是不殺.不盜.不邪婬.不妄語.不飲酒。如大地土。如是不持五戒者亦爾。如甲上土。如是眾生持八戒者亦如是。如大地土。如是眾生不持八戒者亦爾。如甲上土。如是眾生持十善者亦如是。如大地土。如是眾生不持十善者亦如是。如甲上土。如是眾生從地獄命終。生人中者亦如是。如大地土。如是眾生從地獄命終。還生地獄者亦如是。如地獄。如是畜生.餓鬼亦爾。如甲上土。如是眾生從地獄命終。生天上者亦如是。如大地土。如是眾生從地獄命終。還生地獄者亦如是。如地獄。如是畜生.餓鬼亦爾。如甲上土。如是眾生人道中沒。還生人道中者亦如是。如大地土。其諸眾生從人道中沒。生地獄中者亦如是。如地獄。如是畜生.餓鬼亦爾。如甲上土。其諸眾生從天命終。還生天上者亦如是。如大地土。其諸眾生天上沒。生地獄中者亦如是。如地獄。畜生.餓鬼亦如是

問曰。鈍根者二十二根中何者是。

問うて曰く、鈍根とは、二十二根中の何者か是れなる。

 問い、

   『鈍根』とは、

     『二十二根』中の、

       何者であるのか?

答曰。有人言慧根能觀諸法。以久受著禪味故鈍。有人言信等五根皆助成道法。以受報著味故鈍。有人言。菩薩清淨福德智慧因緣故。十八根皆利。罪故則鈍。眼等六根如法華經說。命根不為老病貧窮等所惱。安隱受樂是為命根利。喜樂等五根了了覺知故言利。

答えて曰く、有る人の言わく、『慧根は、能く諸法を観ずるも、久しく禅味を受けて著するを以っての故に、鈍なり』と。有る人の言わく、『信等の五根は、皆道法を助成するも、報を受けて味に著するを以っての故に、鈍なり』と。有る人は、『菩薩は清浄にして、福徳の因縁の故に、十八根は皆利なるも、罪の故に則ち鈍なり。眼等の六根は、法華経に説くが如し。命根は、老病、貧窮等の悩す所と為らず、安穏にして楽を受く、是れを命根の利と為す』と言い、喜楽等の五根は、了了に覚知するが故に、『利なり』と言う。

 答え、

   有る人は、こう言っている、――

     『慧根は、

        諸法を観るものであるが、

        久しく、

          禅味を受けて著するが故に、

          鈍である』と。

   有る人は、こう言う、――

     『信等(信、精進、念、定、慧)の五根は、

        皆、

          道法を助成するが、

          禅天に生じる報を受けて、

          禅味に著するが故に、

            鈍である』と。

   有る人は、こう言う、――

     『菩薩は、

        清浄であり、

        福徳の因縁の故に、

        十八根(眼等の六根、男(女)根、命根、苦楽憂喜捨の五根、信等の五根)は、

          皆、

            利であるが、

            罪の故に、

              鈍となる。

      即ち、

        眼等の六根は、

          『法華経』に説くようであり、

        命根は、

          『老病、貧窮』等に悩されず、

          『安穏に、楽を受ける』のであれば、

        是れは、

          『命根の利』である。

        喜楽等の五根は、

          了了に覚知すれば、

          『利である』と言う』と。

 

  参考:『妙法蓮華経巻2譬喩品』:『謗斯經故  獲罪如是  若得為人  諸根闇鈍  矬陋攣躄  盲聾背傴  有所言說  人不信受  口氣常臭  鬼魅所著  貧窮下賤  為人所使  多病痟瘦  無所依怙  雖親附人  人不在意  若有所得  尋復忘失  若修醫道  順方治病  更增他疾  或復致死  若自有病  無人救療  設服良藥  而復增劇  若他反逆  抄劫竊盜  如是等罪  橫羅其殃  如斯罪人  永不見佛  眾聖之王  說法教化  如斯罪人  常生難處  狂聾心亂  永不聞法  於無數劫  如恒河沙  生輒聾啞  諸根不具  常處地獄  如遊園觀  在餘惡道  如己舍宅  駝驢豬狗  是其行處  謗斯經故  獲罪如是  若得為人  聾盲瘖啞  貧窮諸衰  以自莊嚴  水腫乾痟  疥癩癰疽  如是等病  以為衣服  身常臭處  垢穢不淨  深著我見  增益瞋恚  婬欲熾盛  不擇禽獸  謗斯經故  獲罪如是  

復次受樂時知樂無常等過隨逐不生貪欲故利。餘受亦如是。信根牢堅深固。難事能信故言利。餘亦應如是隨相分別。

復た次ぎに、楽を受くる時に、楽の無常等の過の随逐するを知れば、貪欲を生ぜざるが故に利なり。余の受も亦た是の如し。信根は、牢堅にして深固なれば、難事を能く信ずるが故に、『利なり』と言う。余も亦た応に是の如く相に随って分別すべし。

 復た次ぎに、

   『楽を受ける』時、

     楽は、

       『無常等の過が随逐する』と知って、

       『貪欲』を生じなければ、

       即ち、

         『利』であり、

   余の(苦憂悲捨)受も、亦た、

     是のようである。

   『信根』が、

     『堅牢』であり、

     『深固』であれば、

       『難事』ですら、

         『信ずることができる』ので、

       『利である』と言う。

   余の(勤念定慧)根も、亦た、

     是のように、

       『相』に随って、

       『分別』すればよい。

男根淨者。得陰藏相。不著細滑故。知欲為過是為利。

男根の浄とは、陰蔵相を得るなり、細滑に著せざるが故に。欲を過と為すと知る、是れを利と為す。

   『男根が浄である』とは、

     『陰蔵相』を得れば、

       『細滑()』に著さず、

       『欲は過である』と知るので、

     是れが、

       『利』である。

復次三善根利故名為利。菩薩或時於三無漏根不證實際故利。與利相違故鈍。

復た次ぎに、三善根は、利なるが故に名づけて利と為す。菩薩は、或は時に三無漏根に於いて、実際を証せざるが故に利なり。利と相違するが故に鈍なり。

 復た次ぎに、

   『三善根(無貪、無瞋、無癡)』が、

     『利』であるが故に、

     『利』と名づける。

   菩薩は、

     或は、

       時に、

         『三無漏根(未知欲知根、知根、知已根)』に於いて、

           『実際を証さない』ことが、

           即ち、

             『利』であり、

           『利』と相違するが故に、

             『鈍』である。

 

  三善根:三毒に対して三善根を立つ、即ち一には無貪、二には無瞋、三には無癡なり。此の三者は皆無量の善法を生ずる根本と為すが故に善根と名づく。「仏説大集法門経巻上」に、「復た次ぎに、三不善根は、是れ仏の所説なり。謂わく貪不善根、瞋不善根、癡不善根となり。復た次ぎに、三善根は、是れ仏の所説なり。謂わく無貪善根、無瞋善根、無癡善根となり」と云い、「大智度論巻30」に、「善根とは、三善根、無貪善根、無瞋善根、無癡善根なり。一切の諸の善法は、皆三善根従り生じて増長す。藥樹、草木の根有るに因るが故に生、成、増長を得るが如し。是を以っての故に名づけて善根と為す」と云える是れなり。<(丁)

  三無漏根:二十二根中の最後の三根なり。意根、楽根、善根、捨根、及び信、勤、念、定、慧の九根は見修無学の三道に依りて、而も三根を立つ。一には未知当知根、此の九根の見道に在る者なり。見道に在りて、未だ曽て知らざる所の四諦の理を知らんと欲して行動すれば、之を未知当知と謂う。二には已知根、彼の九根の修道に在る者なり。修道に在りて、既に四諦の理を知了すと雖も、而も更に余る所の煩悩を断ぜんが為に、彼の四諦の境に於いて数数了知すれば、名づけて已知と為す。三には具知根、彼の九根の無学道に在る者なり。無学道に在りて已に知るに、四諦の理を知了すと為す、其の知を具有するが故に名づけて具知と為す。此の三根は皆無漏なり。旧には之を未知欲知根、知根、知已根と訳す。「倶舎論巻3」、「大智度論巻23」等に出づ。<(丁)

問曰。第三菩薩若能捨禪。云何言無方便。

問うて曰く、第三の菩薩、若し能く禅を捨つれば、云何が、『方便無し』と言う。

 問い、

   『第三の(鈍根の)菩薩』は、

     若し、

       『禅を捨てる』ことができたのならば、

     何故、

       『方便が無い』と言うのか?

答曰。是菩薩命終時。入不善心捨諸禪定方便。菩薩若入欲界繫善心若無記心。而捨諸禪入慈悲心。憐愍眾生作是念。我若隨禪定生。不能廣利益眾生。生欲界者有十處。四天下人六欲天。三惡道菩薩所不生。鈍根者如第二菩薩說。

答えて曰く、是の菩薩は、命の終る時、不善心に入りて、諸の禅定、方便を捨つ。菩薩は、若し欲界繋の善心、若しは無記心に入りて、而も諸の禅を捨つれば、慈悲心に入りて、衆生を憐愍して、是の念を作さん、『我れは若し禅定に随うて生ぜば、広く衆生を利益すること能わざらん』と。欲界に生ずとは、十処有り、四天下の人、六欲天なり。三悪道は菩薩の生ぜざる所なり。鈍根とは、第二の菩薩に説くが如し。

 答え、

   是の菩薩は、

     命の終る時、

       『不善心』に入って、

         『諸の禅定』と、

         『方便とを捨てた』のである。

   菩薩は、

     若し、

       『欲界繋の善心』か、

       『無記心』に入って、

         『諸の禅定を捨てた』のであれば、

       『慈悲心』に入って、

         『衆生』を憐愍し、

         是の念を作すのである、――

         『わたしが、

            もし、

              禅定に随って生まれたならば、

              広く、

                衆生を利益することができない』と。

   『欲界に生ずる』とは、

     『四天下、六欲天の十処』が有り、

     『三悪道』は、

       『菩薩の生まれない処』である。

   『鈍根』とは、

     『第二の菩薩』に説いたとおりである。

第四菩薩入位得菩薩道。修三十七品。能住十八空乃至大慈大悲。此名方便。上二菩薩但有禪定直行六波羅蜜。以是故無方便。

第四の菩薩は位に入れば、菩薩道を得、三十七品を修め、能く十八空乃至大慈大悲に住す。此れを方便と名づく。上の二菩薩は、但だ禅定有りて、直ちに六波羅蜜を行ず。是を以っての故に、無方便なり。

   『第四の菩薩』は、

     『菩薩道を得る位』に入って、

       『三十七品』を修め、

       『十八空、乃至大慈大悲』に住する者であり、

     此れ(三十七品、十八空、乃至大慈大悲)を、

       『方便』と名づける。

   上の(第二、第三の)二菩薩は、

     但だ、

       『禅定』が有るのみで、

       直ちに、

         『六波羅蜜』を行ったが、

     是の故に、

       『無方便』である。

第四菩薩方便力故不隨禪定無量心生。所以者何。行四念處乃至大慈大悲故。命終時憐愍眾生。願生他方現在佛國。續與般若波羅蜜相應。所以者何。愛樂隨順般若波羅蜜故。

第四の菩薩は、方便力の故に、禅定、無量心に随って生ぜず。所以は何んとなれば、四念処乃至大慈大悲を行ずるが故に、命の終る時、衆生を憐愍し、願うて他方の現在の仏国に生じ、続いて般若波羅蜜と相応すればなり。所以は何んとなれば、般若波羅蜜に随順することを愛楽するが故なり。

   『第四の菩薩』は、

      『方便力』の故に、

        『禅定、無量心』に随って、

        『初禅、乃至四禅に生じる』ことはない。

      何故ならば、

        『四念処、乃至大慈大悲』を行ずるが故に、

        命の終る時、

          『衆生』を憐愍して、

          『他方の現在の仏国に生まれたい』と願い、

        相続して、

          『般若波羅蜜と相応する』からであり、

        何故ならば、

          『般若波羅蜜に随順する』ことを愛楽するからである。

問曰。此是何等菩薩。

問うて曰く、此れは是れ何等の菩薩なる。

 問い、

   此れは、

     何のような菩薩か?

答曰。佛自說跋陀劫中菩薩。或有非跋陀劫中菩薩。但取其大者。

答えて曰く、仏は自ら説きたまわく、『跋陀劫(ばつだこう)中の菩薩なり。或は跋陀劫に非ざる中の菩薩有り。但だ、其の大なる者を取るのみ』と。

 答え、

   仏は、

     自ら、こう説かれた、――

     『跋陀劫(ばつだこう、賢劫)中の菩薩か、

      或は、

        非跋陀劫中の菩薩が有り、

      但だ、

        其の大の者を取るのみである』と。

 

  跋陀劫(ばつだこう):梵語bhadra-kalpa、賢劫と訳す。現在の住劫なり。「大悲経巻3」に、「阿難、何が故に名づけて賢劫と為す。阿難、此の三千大千世界は、劫の成ぜんと欲する時、尽く一水と為る。時に淨居天、天眼を以って観るに、此の世界の唯一大水たるを見、千枝に諸の妙蓮華有るを見る。一一の蓮華に各千葉有り、金色、金光大いに明るく、普く照らす。香気芬薫として、甚だ愛楽すべし。彼の淨居天、此れを見已るに因って、心に歓喜を生じ、踊躍すること無量なり。而も讃歎して言わく、「奇なる哉、奇なる哉、希有なり、希有なり、此の如き劫中には、当に千仏の世に出興すること有るべし」と。是の因縁を以って遂に、此の劫を名づけて之を号するに賢と為す」と云い、「悲華経巻5」に、「此の仏世界は当に娑婆と名づくべし(中略)、時に大劫有り名づけて善賢と曰う。何なる因縁の故に劫を善賢と名づくる。是の大劫中に千世尊有り、大悲を成就して世に出現す」と云える是れなり。<(丁)

問曰。云何名跋陀。云何名劫。

問うて曰く、云何が、跋陀と名づけ、云何が劫と名づくる。

 問い、

   何を、

     『跋陀』と名づけ、

   何を、

     『劫』と名づけるのか?

答曰。如經說有一比丘問佛言。世尊幾許名劫。佛告比丘。我雖能說汝不能知。當以譬可解。有方百由旬城溢滿芥子。有長壽人過百歲持一芥子去。芥子都盡劫猶不澌。又如方百由旬石。有人百歲持迦尸輕軟疊衣一來拂之石盡劫猶不澌。

答えて曰く、経に説くが如し。有る一比丘の仏に問うて言わく、『世尊、何許を劫と名づくる』と。仏の比丘に告げたまわく、『我れは能く説くと雖も、汝は知ること能わず。当に譬喩を以って解くべし。有る方百由旬の城に芥子を溢滿す。有る長寿の人、百歳を過ぐるに、一芥子を持ちて去る。芥子は都て尽くれども、劫は猶お澌(つ)きず。又方百由旬の石の如し。有る人、百歳にして迦尸(かし)の軽軟なる畳衣を持ち、一来して之を払う。石は尽くるも、劫は猶お澌きず。

   『経』には、こう説いている、――

     有る一比丘が、

       仏に、こう問うた、――

       『世尊!

          幾許を、

            劫と名づけるのですか?』と。

     仏は、

       比丘に、こう告げられた、――

       『わたしが、

          説いても、

          お前には、知ることができまい。

        譬喩を以ってすれば、

          解すこともできるだろう、――

          方百由旬の城が有り、

            芥子が充満していた。

          長寿の人が有り、

            百歳を過ぎるごとに、

            一芥子を持ち去った。

          芥子が都て尽きてしまっても、

            劫は、

              猶お尽きないのである。

        又、譬えば、

          方百由旬の石が有った。

          有る人が、

            百歳ごとに、

              迦尸(かし、地名)の軽軟の畳衣を持って、

              一来しては之を払った。

          石が尽きても、

            劫は、

              猶お尽きないのである』と。

 

  溢滿(いちまん):満ちあふれる。盈満。

  畳衣(じょうえ):襞付きの衣。

  迦尸(かし):梵名kaazi、国名。十六大国中の一。迦尸とは本竹の名なり。此の国に此の竹を出すを以っての故なり。「慧苑音義巻上」に、「迦尸とは、西国の竹の名なり。其の竹は箭幹と為すに堪う。然れば其の国に多く此の竹を出すを以って、故に斯の名を立つ。其の国は即ち中天竺に在り、憍薩羅国の北隣に境す、乃ち是れ十六大国の一数なり」と云える是れなり。<(丁)

  参考:『別訳雑阿含経巻4(66)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤  獨園。爾時波斯匿王。於閑靜處。作是思惟。頗有一法。能得現利。及後世利。作是念已。往詣佛所。頂禮佛足。退坐一面。白佛言。世尊。頗有一法。能得現利。後世利不。佛告王曰。我有一法。修行增廣。現在未來。多所饒益。所謂修行。不放逸法。現得利益。來世亦利。譬如大地。能生百穀。一切草木一切善法。亦因不放逸生。不放逸增長。不放逸廣大。大王猶如大地。一切種子。因地而生。因地增廣。一切眾生。因不放逸。亦復如是。一切根香中。黑堅實香。最為第一。此事亦爾。一切善法。因不放逸。堅實香中。赤栴檀。為第一。此事亦爾。一切善法。因不放逸為本。不放逸者。是實法因。不放逸者。善法生處。一切華鬘中。乾陀婆梨琴華鬘。最為第一。一切善法中。不放逸第一。餘如上說。一切水生華中。青蓮華第一。一切善法中。不放逸第一。餘如上說。一切畜生跡中。象跡最大。一切善法中。不放逸第一。餘如上說。如與賊戰。能先諸鬥。名為第一。一切善法。不放逸第一。餘如上說。一切獸中。師子第一。善法之中。不放逸第一。餘如上說。一切樓觀。高波那寫。最為第一。善法之中。不放逸第一。餘如上說。一切閻浮提樹。閻浮提界上樹。最為第一。善法之中。不放逸為第一。餘如上說。一切詹婆羅樹中。鳩羅苦婆羅。最為第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切波吒羅樹中。錦文芭吒羅為第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切樹中。波利質多羅。為第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切山中。須彌山第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切金中。閻浮檀金第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切妙衣。迦尸衣第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切色中。白為第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切鳥中金翅為第一。諸善法中。不放逸第一。餘如上說。一切明中。日光為第一。不放逸法。亦復如是。餘如上說。如上說諸修行善行。不放逸者。是其根本。是其生因。是故大王。汝今應修不放逸法。亦應依止不放逸法。王若如是。王之夫人。及以妃后。亦不放逸。王子大臣。及諸官屬。亦復如是。若不放逸。即是守護中宮內外。以不放逸故。倉庫盈滿。王不放逸。則為自護。并護一切。爾時世尊。即說偈言 不放逸最勝  放逸多譏嫌  今世不放逸  後世得大利  現利他世利  解知二俱利  是名為健夫  明哲之所行  佛說是已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行

  参考:『大智度論巻5』:『阿僧祇義。菩薩義品中已說。劫義佛譬說。四千里石山有長壽人。百歲過持細軟衣一來拂拭。令是大石山盡。劫故未盡。四千里大城。滿中芥子。不概令平。有長壽人百歲過一來取一芥子去。芥子盡。劫故不盡。菩薩如是無數劫。發大正願度脫眾生願名大心要誓。必度一切眾生斷諸結使。成阿耨多羅三藐三菩提。是名為願

時中最小者六十念中之一念。大時名劫。劫有二種。一為大劫。二為小劫。大劫者如上譬。劫欲盡時眾生自然心樂遠離。樂遠離故除五蓋入初禪。是人離生喜樂。從是起已。舉聲大唱言。諸眾生甚可惡者是五欲第一。安隱者是初禪。

時の中の最小なる者は、六十念中の一念なり。大なる時を劫と名づく。劫に二種有り、一を大劫と為し、二を小劫と為す。大劫は上の譬喩の如し。劫の尽きんと欲する時、衆生は自然に、心に厭離を楽(ねが)い、遠離を楽うが故に五蓋を除いて、初禅に入る。是の人は生を離れて喜楽し、是れ従り起ち已りて、声を挙げ大いに唱言すらく、『諸の衆生の甚だ悪むべき者は、是の五欲第一なり。安穏なる者は、是の初禅なり』と。

   『時中』の、

     最小は、

       『六十念中の一念』であり、

     大時は、

       『劫』と名づけられる。

   『劫』には、

     二種有り、

     一は、『大劫』であり、

     二は、『小劫』である。

   『大劫』は、

     上の譬喩のとおりであるが、

     『劫の尽きようとする時』、

       『衆生』は、

         自然に、

           心が楽しんで遠離する。

         遠離を楽しむが故に、

           『五蓋(貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑法)』が除かれて、

           『初禅』に入る。

         是の人は、

           『生』を離れて、

           『喜楽』し、

           是より起つと、声を挙げ、

           大いに唱えて、こう言う、――

           『諸の衆生の、

              甚だ悪むべき者は、

                是の五欲が第一である。

              安穏な者は、

                是の初禅である』と。

眾生聞是唱已。一切眾生心皆自然遠離五欲入於初禪。自然滅覺觀入第二禪。亦如是唱。或離二禪三禪亦如是。

衆生は、是の唱を聞き已るに、一切の衆生心は、皆自然に五欲を遠離して、初禅に入らんと欲し、自然に覚観を滅して第二禅に入り、亦た是の如く唱えて、或は二禅を離る。三禅も亦た是の如し。

       『衆生』は、

         是のように唱えるのを聞くと、

         『一切の衆生心』は、

           皆、

             自然に、

               『五欲』を離れて、

               『初禅』に入り、

             自然に、

               『覚観』を滅して、

               『第二禅』に入り、亦た、

               是のように唱え、

             或は、

               二禅、三禅を離れる時も、亦た、

               是のように唱える。

三惡道眾生自然得善心。命終皆生人中。若重罪者生他方地獄。如泥犁品中說。是時三千大千世界無一眾生在者。爾時二日出乃至七日出。三千大千世界地盡皆燒盡。如十八空中廣說劫生滅相。

三悪道の衆生は、自然に善心を得て、命終れば皆人中に生ず。若し重罪なれば、他方の地獄に生ず。泥犁品中に説くが如し。是の時、三千大千世界には、一の衆生の在る者無し。爾の時、二日出で、乃至七日出づ。三千大千世界の地は、尽く皆焼尽す。十八空中に広く、劫の生滅相を説くが如し。

       『三悪道の衆生』は、

         自然に、

           『善心』を得て、

           命が終ると、

             皆、『人中』に生じる。

         若し、

           『重罪』の者であれば、

             『泥犁品』中に説くように、

             『他方の地獄』に生じる。

     是の時、

       三千大千世界には、

         『一衆生』すら、

           在る者は無い。

     爾の時、

       『二日』が出てより、乃ち、

       『七日』が出るに至って、

       『三千大千世界の地』は、

         尽く、

           皆、焼け尽きるが、

     『十八空』中に、

       広く、『劫の生滅相』を説いたとおりである。

 

  泥犁品:『大智度論巻16()毘梨耶波羅蜜義』参照。

  十八空:『大智度論巻巻31()十八空義』参照。

復有人言。四大中三大有所動作故。有三種劫。或時火劫起燒三千大千世界。乃至初禪四處。或時水劫起漂壞三千大千世界。乃至二禪八處。或時風劫起吹壞三千大千世界。乃至三禪十二住處。是名大劫。小劫亦三種。外三大發故世界滅。內三毒發故眾生滅。所謂飢餓刀兵疾病。

復た有る人の言わく、『四大中の三大には、動作する所有るが故に、三種の劫有り。或は時に、火劫起こりて三千大千世界を乃ち初禅の四処に至るまで焼き、或は時に、水劫起こりて、三千大千世界を乃ち二禅の八処に至るまで漂壊し、或は時に風劫起こりて三千大千世界を乃ち三禅の十二住処に至るまで吹壊す。是れを大劫と名づく。小劫も亦た三種なり、外の三大発るが故に世界滅し、内の三毒発るが故に衆生滅す。謂わゆる飢餓、刀兵、疾病なり』と。

   復た、

     有る人は、こう言う、――

       『四大中の、

          三大には、

            動作する所が有るので、

            三種の劫が有る。

        或は、

          時に、

            火劫が起こると、

            三千大千世界は、乃ち、

              初禅の四処に至るまで、

              焼き尽くす。

        或は、

          時に、

            水劫が起こると、

            三千大千世界は、乃ち、

              二禅の八処に至るまで、

              漂わせて破壊する。

        或は、

          時に、

            風劫が起こると、

            三千大千世界は、乃ち、

              三禅の十二住処に至るまで、

              吹いて破壊する。

        是れを、

          大劫と名づける。

        小劫にも、亦た、

          三種有り、

          外には、

            三大が発るが故に、

            世界が滅し、

          内には、

            三毒が発るが故に、

            衆生が滅する。

            謂わゆる、

              飢餓、刀兵、疾病である』と。

復有人言。時節歲數名為小劫。如法華經中說。舍利弗作佛時正法住世二十小劫。像法住世二十小劫。佛從三昧起。於六十小劫中說法華經。是眾小劫和合名為大劫。

復た有る人の言わく、『時節、歳数を名づけて小劫と為す』と。法華経中に、『舎利弗は仏と作る時は、正法の世に住すること二十小劫、像法の世に住すること二十小劫なり』、『仏は三昧従り起ちて、六十小劫中に於いて、法華経を説く』と説くが如し。是の衆の小劫の和合を名づけて大劫と為す。

 復た、

   有る人は、こう言っている、――

     『時節、歳数を、

        小劫と名づける。

      法華経中に、

        こう説かれている、――

        『舎利弗が、

           仏と作る時は、

             正法は、世に二十小劫住し、

             像法は、世に二十小劫住す』、

        『仏は、

           三昧より起たれて、

             六十小劫中、法華経を説かれた』と。

   是の、

     衆の、

       『小劫の和合』を、

       『大劫』と名づける。

 

  参考:『妙法蓮華経巻2譬喩品』:『爾時佛告舍利弗。吾今於天人沙門婆羅門等大眾中說。我昔曾於二萬億佛所。為無上道故常教化汝。汝亦長夜隨我受學。我以方便引導汝故生我法中。舍利弗。我昔教汝志願佛道。汝今悉忘。而便自謂已得滅度。我今還欲令汝憶念本願所行道故。為諸聲聞說是大乘經。名妙法蓮華教菩薩法佛所護念。舍利弗。汝於未來世過無量無邊不可思議劫。供養若干千萬億佛。奉持正法。具足菩薩所行之道。當得作佛。號曰華光如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。國名離垢。其土平正清淨嚴飾。安隱豐樂天人熾盛。琉璃為地有八交道。黃金為繩以界其側。其傍各有七寶行樹。常有華果。華光如來亦以三乘教化眾生。舍利弗。彼佛出時雖非惡世。以本願故說三乘法。其劫名大寶莊嚴。何故名曰大寶莊嚴。其國中以菩薩為大寶故。彼諸菩薩無量無邊不可思議。算數譬所不能及。非佛智力無能知者。若欲行時寶華承足。此諸菩薩非初發意。皆久殖德本。於無量百千萬億佛所淨修梵行。恒為諸佛之所稱歎。常修佛慧具大神通。善知一切諸法之門。質直無偽志念堅固。如是菩薩充滿其國。舍利弗。華光佛壽十二小劫。除為王子未作佛時。其國人民壽八小劫。華光如來過十二小劫。授堅滿菩薩阿耨多羅三藐三菩提記。告諸比丘。是堅滿菩薩次當作佛。號曰華足安行多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。其佛國土亦復如是。舍利弗。是華光佛滅度之後。正法住世三十二小劫。像法住世亦三十二小劫。

  参考:『妙法蓮華経巻1序品』:『爾時如來放眉間白毫相光。照東方萬八千佛土。靡不周遍。如今所見是諸佛土。彌勒當知。爾時會中有二十億菩薩。樂欲聽法。是諸菩薩見此光明普照佛土。得未曾有。欲知此光所為因緣。時有菩薩。名曰妙光。有八百弟子。是時日月燈明佛從三昧起。因妙光菩薩說大乘經。名妙法蓮華教菩薩法佛所護念。六十小劫不起于座。時會聽者亦坐一處。六十小劫身心不動。聽佛所說謂如食頃。是時眾中。無有一人若身若心而生懈惓。日月燈明佛。於六十小劫說是經已。即於梵魔沙門婆羅門及天人阿修羅眾中。而宣此言。如來於今日中夜當入無餘涅槃。時有菩薩。名曰德藏。日月燈明佛。即授其記。告諸比丘。是德藏菩薩。次當作佛。號曰淨身多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。佛授記已。便於中夜入無餘涅槃。佛滅度後。妙光菩薩。持妙法蓮華經。滿八十小劫為人演說。日月燈明佛八子。皆師妙光。妙光教化。令其堅固阿耨多羅三藐三菩提。是諸王子。供養無量百千萬億佛已。皆成佛道。其最後成佛者。名曰燃燈。八百弟子中有一人。號曰求名。貪著利養。雖復讀誦眾經而不通利。多所忘失。故號求名。是人亦以種諸善根因緣故。得無量百千萬億諸佛。供養恭敬尊重讚歎。彌勒當知。爾時妙光菩薩。豈異人乎。我身是也。求名菩薩汝身是也。今見此瑞與本無異。是故惟忖。今日如來當說大乘經。名妙法蓮華教菩薩法佛所護念。

劫簸秦言分別時節。跋陀者秦言善。有千萬劫過去空無有佛。是一劫中有千佛興。諸淨居天歡喜故名為善劫。

劫簸(こうは)は、秦に時節を分別すと言う。跋陀は、秦に善と言う。千万劫の過去有り、空しうして、仏の有ること無し。是の一劫の中に千仏の興ること有り。諸の淨居天の歓喜するが故に名づけて、善劫と為す。

   『劫波(こうは)』は、

     秦に、

       『分別時節』と言う。

   『跋陀』は、

     秦に、

       『善』と言う。

     『千万劫の過去』が有り、

       空しく、

       『無仏』であったが、

     『是の一劫中』に、

       『千仏の興る』ことが有り、

       『諸の淨居天』が、

         『歓喜した』が故に、

         『善劫』と名づけたのである。

 

  劫簸(こうは):梵語kalpa、又劫波、劫跛に作り、分別時節と訳す。長時なり。<(丁)

淨居天何以知此劫當有千佛。前劫盡已廓然都空。後有大水。水底涌出有千枚七寶光明蓮華。是千佛之相。淨居諸天因是知有千佛。以是故說是菩薩於此劫中得阿耨多羅三藐三菩提

淨居天は、何を以ってか、此の劫に当に千仏有るべきを知る。前劫尽き已るに、廓然として都て空し。後に大水有り、水底に有る千枚の七宝の光明の蓮華を涌出す。是れ千仏の相なり。淨居の諸天は、是れに因って、千仏有るを知る。是を以っての故に、『是の菩薩は、此の劫中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得』と説くなり。

   『淨居天』は、

     何を以って、

       『此の劫は、

          千仏が有ることになる』と知ったのか?

     『前の劫』が尽きると、

       廓然として、

       都てが、

         『空』であった。

       後に、

         『大水』が有り、

         『水底』に、

           『千葉の七宝の光明の蓮華』が涌出した。

         是れが、

           『千仏の相』である。

       『淨居天』は、

         是れに因って、

           『千仏が有る』と知ったのである。

   是の故に、

     こう説く、――

     『是の菩薩は、

        此の劫中に、

          阿耨多羅三藐三菩提を得る』と。

 

  参考:『大悲経巻3礼拝品』:『阿難。如我經中亦復說言。乃至受持四句偈等。如是說者。我為鈍根薄德少智諸眾生故。隨宜而說。阿難。我為一切無歸眾生為作歸趣。無舍眾生為作舍宅。無護眾生為作救護。無明眾生為作燈明。盲無目者為作眼目。阿難。一切外道癡冥無智不能自救。何能救他正作歸趣。阿難。我為一切天人教師。憐愍一切諸眾生者於當來世法欲滅時。當有比丘比丘尼於我法中得出家已。手牽兒臂而共遊行。從酒家至酒家。於我法中作非梵行。彼等雖為以酒因緣。於此賢劫一切皆當得般涅槃。阿難。何故名為賢劫。阿難。此三千大千世界。劫欲成時盡為一水。時淨居天。以天眼觀見此世界唯一大水。見有千枚諸妙蓮華。一一蓮華各有千葉。金色金光大明普照。香氣芬薰甚可愛樂。彼淨居天因見此已。心生歡喜踊躍無量而讚歎言。奇哉奇哉。希有希有。如此劫中當有千佛出興於世。以是因緣。遂名此劫號之為賢。阿難。我滅度後此賢劫中。當有九百九十六佛出興於世。拘留孫如來為首。我為第四。次後彌勒當補我處。乃至最後盧遮如來。如是次第汝應當知。阿難於我法中但使性是沙門沙門行。自稱沙門形似沙門。當有被著袈裟衣者。於此賢劫彌勒為首。乃至最後盧遮如來。彼諸沙門如是佛所。於無餘涅槃界次第當得入般涅槃。無有遺餘。何以故。阿難。如是一切諸沙門中。乃至一稱佛名一生信者。所作功德終不虛設。阿難。我以佛智測知法界非不測知。阿難。所有白業得白報。黑業得黑報。若有淨心諸眾生等。作是稱言南無佛者。阿難。彼人以是善根必定涅槃得近涅槃。流注相續入涅槃際。何況佛在世親承恭敬。謙下迎送尊重供養。及佛滅後供養舍利者。阿難。彼沙門性辱沙門。自謂沙門形似沙門者。乃至應有一稱佛名。何況餘心能生敬信種諸善根。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著者に無断で複製を禁ず。

Copyright(c)2011 AllRightsReserved