復次佛自說第一因緣。所謂 |
復た次ぎに、仏は自ら第一の因縁を説きたまえり。謂わゆる、 |
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『第一である!』、
『因縁』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、――
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【經】舍利弗。空行菩薩摩訶薩不墮聲聞辟支佛地。能淨佛土成就眾生。疾得阿耨多羅三藐三菩提。舍利弗。諸相應中般若波羅蜜相應為最第一。最尊最勝最妙為無有上。何以故。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜相應。所謂空無相無作。當知是菩薩如受記無異。若近受記。 |
『舎利弗、空行の菩薩摩訶薩は、声聞、辟支仏地に堕ちざれば、能く仏土を浄めて衆生を成就し、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得る。舎利弗、諸の相応中に、般若波羅蜜の相応を最第一、最尊、最勝、最妙と為し、上有ること無しと為す。何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜相応を行ずればなり。謂わゆる空、無相、無作なり。当に知るべし、是の菩薩は、受記の如きと異無く、若しは近く受記せんと』。 |
舎利弗!
『空を行じる!』、
『菩薩摩訶薩』が、
『声聞、辟支仏地に堕ちなければ!』、
『仏土を浄めて!』、
『衆生を成就し!』、
疾かに、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るのである!』。
舎利弗!
『諸の相応( any concomitance )』中には、
『般若波羅蜜の相応( the concomitance with PrajnaP. )』が、
『最第一であり!』、
『最尊、最勝、最妙であり!』、
『無上である!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜の相応』、
謂わゆる、
『空、無相、無作』を、
『行じるからである!』。。
当然、こう知らねばならない、――
是の、
『菩薩』は、
『受記した!』のと、
『異』が、
『無いか!』、
若しくは、
『近く!』、
『受記するだろう!』、と。
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相応(そうおう):◯梵語 yukti の訳、適切さ/適当さ/相応しさ( suitableness, adaptedness, fitness, propriety,
correctness )の義、関連した/付随する/共同体/連結した/共存する( be associated with, be concomitant
with, combination, be bound together, existent together )の意。◯梵語 saMprayukta,
saMyukta の訳、一緒に軛に掛かる/共に結合した( youked or joined together )の義、心が、諸の心数法が共起共存すること(
The concomitance of mind with mental functions )の意。 |
参考:『大般若経巻7』:『舍利子。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。由與如是空相應故。不墮聲聞獨覺等地。嚴淨佛土。成熟有情。速證無上正等菩提舍利子。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。諸相應中與般若波羅蜜多相應。為最第一。最尊最勝最上最妙。最高。最極。無上無上上。無等無等等。何以故。舍利子。此般若波羅蜜多相應最第一故。即是空相應。即是無相相應。即是無願相應。由此因緣最為第一。舍利子。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。與如是般若波羅蜜多相應時。當知即為受記作佛。若近受記。舍利子。是菩薩摩訶薩由此相應。能為無量無數無邊有情作大饒益。舍利子。是菩薩摩訶薩不作是念。我與般若波羅蜜多相應。不作是念。我得受記定當作佛。若近受記。不作是念。我能嚴淨佛土。不作是念。我能成熟有情。亦不作是念。我當證得所求無上正等菩提。轉妙法輪度無量眾。何以故。舍利子。是菩薩摩訶薩。不見有法離於法界。不見法界離於諸法。不見諸法即是法界。不見法界即是諸法。不見有法修行般若波羅蜜多。不見有法得佛授記。不見有法當得無上正等菩提。不見有法嚴淨佛土。不見有法成熟有情。何以故。舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不起我想。有情想。命者想。生者想。養者想。士夫想。補特伽羅想。意生想。儒童想。作者想。使作者想。起者想。使起者想。受者想。使受者想。知者想。見者想故。所以者何。我有情等畢竟不生亦復不滅。彼既畢竟不生不滅。云何當能修行般若波羅蜜多。及得種種功德勝利。舍利子。是菩薩摩訶薩。不見有情生故修行般若波羅蜜多。不見有情滅故修行般若波羅蜜多。知諸有情空故修行般若波羅蜜多。知諸有情非我故修行般若波羅蜜多。知諸有情不可得故修行般若波羅蜜多。知諸有情遠離故修行般若波羅蜜多。知諸有情本性非有情性故修行般若波羅蜜多。舍利子修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩。諸相應中與空相應。最為第一。與般若波羅蜜多相應。最尊最勝無能及者。舍利子。諸菩薩摩訶薩。如是相應普能引發如來十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲大喜大捨。十八佛不共法。三十二大士相。八十隨好。無忘失法。恒住捨性。一切智。道相智。一切相智。及餘無量無邊佛法。舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。與如是般若波羅蜜多相應故。畢竟不起慳貪犯戒忿恚懈怠散亂惡慧障礙之心。布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。任運現前無間無斷』 |
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舍利弗。菩薩摩訶薩如是相應者。能為無量阿僧祇眾生作益厚。是菩薩摩訶薩亦不作是念。我與般若波羅蜜相應。諸佛當授我記。我當近受記。我當淨佛土我得阿耨多羅三藐三菩提。當轉法輪。 |
舎利弗、菩薩摩訶薩の是の如く相応する者は、能く無量阿僧祇の衆生の為めに益を作すこと厚けれども、是の菩薩摩訶薩は亦た是の念を作さず、『我れ、般若波羅蜜と相応すれば、諸仏は当に我れに記を授くるべし。我れは当に近く受記すべし。我れは当に仏土を浄むべし。我れ阿耨多羅三藐三菩提を得れば、当に法輪を転ずべし』、と。 |
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜に相応すれば!』、
『無量阿僧祇の衆生の為め!』に、
『厚く!』、
『益を作すことになる!』が、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、こう念じないのである、――
『わたしは、般若波羅蜜と相応している!』とか、
『諸仏は、わたしに記を授けるはずである!』とか、
『わたしは、近く記を受けるはずである!』とか、
『わたしは、仏土を浄めねばならない!』とか、
『阿耨多羅三藐三菩提を得て、法輪を転じるだろう!』、と。
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何以故。是菩薩摩訶薩不見有法出法性。亦不見有法行般若波羅蜜。亦不見有法諸佛授記。亦不見有法得阿耨多羅三藐三菩提。 |
何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は、有る法の法性を出づるを見ず、亦た有る法の般若波羅蜜を行ずるを見ず、亦た有る法に諸仏の授記するを見ず、亦た有る法の阿耨多羅三藐三菩提を得るを見ざればなり。 |
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
有る、
『法』が、
『法性より出る!』のを、
『見ず!』、
有る、
『法』が、
『般若波羅蜜を行じる!』のを、
『見ず!』、
有る、
『法』に、
『諸仏が授記する!』のを、
『見ず!』、
有る、
『法』が、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』のを、
『見ないからである!』。
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何以故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不生我相眾生相乃至知者見者相。何以故。眾生畢竟不生不滅故。眾生無有生無有滅。若法無有生相滅相。云何是法當行般若波羅蜜。 |
何を以っての故に、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、我相、衆生相、乃至知者、見者の相を生ぜざればなり。何を以っての故に、衆生は畢竟じて不生不滅なるが故に、衆生に生有ること無く、滅有ること無ければなり。若し法に生相、滅相有ること無ければ、云何が是の法にして、当に般若波羅蜜を行ずべき。 |
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、
『我相、衆生相、乃至知者相、見者相』を、
『生じないからである!』。
何故ならば、
『衆生は、畢竟じて不生不滅である!』が故に、
『衆生』には、
『生も、滅も無いからである!』。
若し、
『法』に、
『生相も、滅相も!』、
『無ければ!』、
是の、
『法』が、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『行じねばならないのか?』。
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如是舍利弗。菩薩摩訶薩不見眾生故。為行般若波羅蜜。眾生不受故。眾生空故。眾生不可得故。眾生離故。為行般若波羅蜜。 |
是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は、衆生を見ざるが故に般若波羅蜜を行ずと為し、衆生を受けざるが故に、衆生の空なるが故に、衆生の不可得なるが故に、衆生の離なるが故に、般若波羅蜜を行ずと為す。 |
是のように、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『衆生を見ない!』が故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じているのであり!』、
『衆生を受けない!』が故に、
『衆生は空である!』が故に、
『衆生は不可得である!』が故に、
『衆生は離である( every being is separete from their nature )!』が故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じているのである!』。
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舍利弗。菩薩摩訶薩於諸相應中為最第一相應。所謂空相應。是空相應勝餘相應。菩薩摩訶薩如是習空。能生大慈大悲。菩薩摩訶薩習是相應。不生慳心。不生犯戒心。不生瞋心。不生懈怠心。不生亂心。不生無智心 |
舎利弗、菩薩摩訶薩を、諸の相応中に於いて、最第一の相応と為す。謂わゆる空相応なり。是の空相応は、餘の相応に勝るればなり。菩薩摩訶薩は、是の如く空を習いて、能く大慈大悲を生ず。菩薩摩訶薩は、是の相応を習いて、慳心を生ぜず、犯戒心を生ぜず、瞋心を生ぜず、懈怠心を生ぜず、嬾心を生ぜず、無智心を生ぜざるなり。 |
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『諸の相応』中の、
『最第一』に、
『相応する!』、
謂わゆる、
『空』に、
『相応するからであり!』、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『空を習いながら!』、
『大慈大悲』を、
『生じさせるのであり!』、
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『相応を習ったので( having learnt the concomitance )!』、
『慳、犯戒、瞋、懈怠、乱、無智の心』を、
『生じないのである!』。
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【論】釋曰。不墮聲聞辟支佛地者。空相應有二種。一者但空。二者不可得空。但行空墮聲聞辟支佛地。行不可得空空亦不可得。則無處可墮。 |
釈して曰く、声聞、辟支仏の地に堕せずとは、空相応には二種有り、一には但だ空なり、二には不可得空なり。但だ空を行ずれば、声聞、辟支仏地に堕し、不可得空を行ずれば、空も亦た不可得なれば、則ち処の墮すべき無し。 |
釈す、
『声聞、辟支仏の地に堕ちない!』とは、――
『空の相応には、二種有り!』、
一には、
『但空であり( the only emptiness )!』、
二には、
『不可得空である( the enptiness of unattainability )!』。
但だ、
『空を行じるだけでは!』、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちることになる!』が、
『不可得空を行じれば!』、
『空』も、
『不可得である!』が故に、
則ち、
『堕ちるべき処』が、
『無いことになる!』。
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但空(たんくう):ただ空であるに過ぎない( 'only empty' )。内空、外空、内外空、乃至無法有法空の大乗十八空に属さない空にして、即ち声聞、辟支仏の著する空。小乗の不完全な空の説明に於いて、大乗は空に対する著を見る、何故ならば,、その中に於いて空が解釈されているからである。而し大乗の空に関する見解によれば、どのような空も、決して解釈されることはない(
In the incomplete explanation of emptiness of the Hinayana school, the
school of Mahayana sees an attachment to 'emptiness' , because wherein
emptiness is understood, but in the Mahayana's view of emptiness, any emptiness
could be never understood. )。 |
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復有二種空。一者無方便空墮二地。二者有方便空則無所墮。直至阿耨多羅三藐三菩提。 |
復た二種の空有り、一には無方便の空は、二地に堕し、二には有法便の空は、則ち堕する所無く、直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至る。 |
復た、
『二種の空が有り!』、
一には、
二には、
『方便の有る空』は、
『堕ちる!』所が、
『無く!』、
直ちに、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』に、
『至る!』。
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方便(ほうべん):梵語 upaaya の訳、接近( approach )の義、目的を達成する為めの何物か/手段/術策/策略/方法/技術( that
by which one reaches one's aim, a means or expedient (of any kind), way,
stratagem, craft, artifice )の意。 |
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復次本有深悲心入空則不墮。無大悲心則墮。如是等因緣不墮二地。 |
復た次ぎに、本、深き悲心有りて空に入れば、則ち堕せず、大悲心無ければ則ち堕す。是れ等の如き因縁は、二地に堕せず。 |
復た次ぎに、
本、
『深い悲心を有する!』者が、
『空に入れば!』、
則ち、
『二地』に、
『堕ちない!』が、
『大悲の心の無い!』者が、
『空に入れば!』、
則ち、
『二地』に、
『堕ちることになる!』。
是れ等のような、
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能淨佛世界成就眾生者。菩薩住是空相應中無所復礙。教化眾生令行十善道及諸善法以眾生行善法因緣故佛土清淨。以不殺生故壽命長。以不劫不盜故。佛土豐樂應念即至。如是等眾生行善法則佛土莊嚴。 |
能く仏世界を浄めて、衆生を成就すとは、菩薩は、是の空相応中に住すれば、復た礙うる所無く、衆生を教化して、十善道、及び諸善法を行ぜしめ、衆生の善法を行ずる因縁を以っての故に、仏土清浄にして、不殺生を以っての故に寿命長く、不劫不盗を以っての故に仏土豊楽にして念に応じて即ち至る。是れ等の如く衆生善法を行ずれば、則ち仏土の莊嚴なり。 |
『仏世界を浄めて、衆生を成就させる!』とは、――
『菩薩』は、
是の、
『空相応中に住すれば!』、
復た( never again )、
『礙る所が無く( there is nothing obstructive )!』、
『衆生を教化しながら!』、
『十善道や、諸の善法』を、
『行わせ!』、
『衆生が善法を行じる!』、
『因縁』の故に、
『仏土』が、
『清浄であり!』、
『不殺生』の故に、
『寿命』が、
『長く!』、
『不劫、不盗( not taking by force and not robbing )』の故に、
『仏土が豊楽であり!』、
『念じるがままに
( anytings are responsive to their needs and )!』、
『即ち、至る( to appear instantly )!』。
是れ等のような、
『衆生の行う善法』が、
則ち( that is )、
『仏土の莊嚴である!』。
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問曰。教化眾生則佛土淨。何以別說。 |
問うて曰く、衆生を教化すれば、則ち仏土浄し。何を以ってか、別に説く。 |
問い、
『衆生を教化すれば!』、
『仏土』は、
『清浄である!』のに、
何故、
『別に!』、
『説くのですか?』。
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答曰。眾生雖行善。要須菩薩行願迴向方便力因緣故。佛土清淨。如牛力挽車要須御者乃得到所至處。以是故別說。 |
答えて曰く、衆生は善を行ずと雖も、要(かなら)ず菩薩の行、願、迴向、方便力の因縁を須(ま)つが故に、仏土清浄なり。牛力の車を挽くに、要ず御者を須ちて、乃ち所至の処に到るを得るが如し。是を以っての故に別に説けり。 |
答え、
『衆生が、善を行ったとしても!』、
要ず( necessarily )、
『菩薩の行、願、迴向、方便力の因縁』を、
『須たねばならず( must need )!』、
是の故に、
『仏土』は、
『清浄なのである!』。
例えば、
『牛力を用いて!』、
『車』を、
『挽けば!』、
要ず、
『御者』を、
『須たねばならず!』、
乃ち( and then )、
『所至の処( the destination )』が、
『有るようなものであり!』、
是の故に、
『別に!』、
『説かれたのである!』。
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疾得者行是空相應無有障礙。則能疾得阿耨多羅三藐三菩提。 |
疾かに得とは、是の空相応を行ずれば、障礙有ること無く、則ち能く疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得ればなり。 |
『疾かに得る!』とは、――
是の、
『空相応を行じれば!』、
『障礙』が、
『無くなり!』、
則ち、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『疾かに、得られるからである!』。
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問曰。先說空相應。今說般若波羅蜜相應。後說無相無作相應。有何差別。 |
問うて曰く、先に空相応を説き、今は般若波羅蜜相応を説き、後には無相、無作相応を説くに、何の差別か有る。 |
問い、
『先に、空相応を説き!』、
『今、般若波羅蜜相応を説き!』、
『後に、無相、無作相応を説くのには!』、 何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
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答曰。有二種空。一者般若空。二者非般若空。先言空相應。聽者疑謂一切空。故說是般若波羅蜜空。 |
答えて曰く、二種の空有り、一には般若の空、二には非般若の空なり。先に、『空に相応す』、と言えば、聴者疑いて『一切は空なり』、と謂うが故に、『是れ般若波羅蜜の空なり』、と説く。 |
答え、
『二種の空が有り!』、
一には、
『般若という!』、
『空であり!』、
二には、
『般若でない!』、
『空である!』。
先に、
『空に相応すると、言う!』と、
『聴者が疑って!』、
『一切は空なのか?』と、
『謂う!』。
是の故に、
是れは、
『般若波羅蜜の空である!』と、
『説くのである!』。
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復有人疑。但言空第一。無相無作非第一耶。是故說空無相無作相應亦是第一。何以故。空則是無相。若無相則是無作。如是為一名字為別。 |
復た有る人の疑わく、『但だ空第一と言えば、無相、無作は第一に非ずや』、と。是の故に、『空、無相、無作相応も亦た是れ第一なり』、と説く。何を以っての故に、空は則ち是れ無相、若し無相なれば、則ち是れ無作なり。是の如く一と為すも、名字を別と為す。 |
復た、
有る、
『人』は、こう疑う、――
但だ、
『空が第一である、と言う!』のは、
『無相や、無作』は、
『第一ではないのか?』、と。
是の故に、
『空、無相、無作の相応』も、
亦た、
『第一である!』と、
『説くのである!』。
何故ならば、
『空ならば!』、
則ち、
『無相であり!』、
『無相ならば!』、
則ち、
『無作だからであり!』、
是のように、
『一でありながら!』、
『名字』を、
『別にするからである!』。
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最上故言尊。破有故言勝。得是相應不復樂餘。是為最妙。如一切眾生中佛為無上。一切法中涅槃無上。一切有為法中善法習相應為無上。餘義如讚般若品中說。 |
最上の故に尊と言い、有を破るが故に勝と言うに、是の相応を得れば、復た餘を楽しまずして、是れを最妙と為す。一切の衆生中に仏を無上と為し、一切法中には涅槃無上なるが如く、一切の有為法中には、善法の相応を習うを無上と為す。餘の義は、讃般若品中に説けるが如し。 |
『最上である!』が故に、
『尊』と、
『言い!』、
『有を破る!』が故に、
『勝』と、
『言い!』、
是の、
『相応を得れば!』、
復た、
『餘』を、
『楽しむことはない!』ので、
是れが、
『最妙である!』。
『一切の衆生』中には、
『仏』が、
『無上であり!』、
『一切の法』中には、
『涅槃』が、
『無上であるように!』、
『一切の有為法』中には、
『相応を習う善法』が、
『無上である!』。
『餘の義』は、
『讃般若品』中に、
『説いた通りである!』。
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問曰。若能行如是空相應便應受記。云何言如受記無異若近受記。 |
問うて曰く、若し能く是の如き空相応を行ずれば、便ち応に受記すべし。云何が、『受記の如きに異無く、若しは受記に近し』、と言う。 |
問い、
若し、
是のような、
『空相応を行じれば!』、
便ち( soon )、
『受記するはずなのに!』、
何故、こう言うのですか?――
『受記などと、異が無いか!』、
若しくは、
『受記』に、
『近いかである!』、と。
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答曰。是菩薩新行道肉身未得無生法忍。未得般舟三昧。但以智慧力故。能如是分別深入空。佛讚其入空功德故。言如受記無異。 |
答えて曰く、是の菩薩は、新たに道を行ずれば、肉身に未だ無生法忍を得ず、未だ般舟三昧を得ず、但だ智慧力を以っての故に、能く是の如く分別して、深く空に入れば、仏其の空に入る功徳を讃ずるが故に、『受記の如きに、異無し』、と言えり。 |
答え、
是の、
『菩薩』は、
『新たに、道を行じる!』が故に、
『肉身』には、
未だ、
『無生法忍』を、
『得ず!』、
未だ、
『般舟三昧』を、
『得ていない!』が、
『但だ、智慧の力』の故に、
是のように、
『分別して!』、
『空』に、
『深く入ることができる!』ので、
『仏』は、
其の、
『菩薩』の、
『空に入る功徳』を、
『讃じる!』が故に、こう言われたのである、――
『受記した!』のと、
『異が無い!』、と。
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有三種菩薩得受記者。如受記者近受記者得受記者。如阿毘跋致品中說。三種如此中說。 |
三種の菩薩有り、受記を得る者、受記せるが如き者、近く受記する者なり。受記を得し者は、阿毘跋致品中に説けるが如し。三種は此の中に説けるが如し。 |
『三種の菩薩が有り!』、
『受記を得た者と!』、
『受記に似た者と!』、
『近く受記する者とである!』。
『受記を得た!』者は、
『阿毘跋致品』中に、
『説かれた通りであり!』、
『三種』は、
『此の中に!』、
『説く通りである!』。
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問曰。如此說相應第一無上。云何不與受記。 |
問うて曰く、此の説の如く、相応は第一無上なれば、云何が受記に与(あずか)らざる。 |
問い、
此の説のように、
『空に相応して、第一無上ならば!』、
何故、
『受記』に、
『与らない( cannot be permitted )のですか?』。
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答曰。餘功德方便禪定等未集但有智慧。是故未與受記。 |
答えて曰く、餘の功徳の方便、禅定等を、未だ集めず、但だ智慧のみ有れば、是の故に、未だ受記に与らず。 |
答え、
『餘の功徳である!』
『方便、禅定等が、未だ集らない!』のに、
但だ、
『智慧のみ!』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『受記』に、
『未だ、与らないのである!』。
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復次是菩薩雖復利根智慧。餘功德未熟故。聞現前受記或生憍慢。是故未與受記。 |
復た次ぎに、是の菩薩は、復た利根の智慧なりと雖も、餘の功徳の未だ熟せざるが故に、現前に受記を聞くも、或は憍慢を生じ、是の故に未だ受記に与らざるなり。 |
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
復た( moreover )、
『利根の智慧であっても!』、
未だ、
『餘の功徳』が、
『熟していない!』が故に、
『現前に受記を聞いた!』としても、
是の故に、
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所以讚歎者。欲以勸進其心。利根者行是空相應。如受記無異。鈍根者行是空相應。若近受記。 |
讃歎する所以は、以って其の心を勧進せんと欲すればなり。利根の者、是の空相応を行ずれば、受記の如きと異無し。鈍根の者、是の空相応を行ずれば、若しは受記に近づかん。 |
『讃歎する所以( the reason to praise )』とは、
『讃歎を用いて!』、
其の、
『心』を、
『勧進しようとするからである( want to encourage )!』。
『利根の者』が、
是の、
『空相応を行じれば!』、
『受記など!』と、
『異が無く!』、
『鈍根の者』が、
是の、
『空相応を行じれば!』、
『受記に!』、
『近づくかもしれない!』。
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令眾生常安隱得涅槃。是名利益。復有二種利益。一者離苦。二者與樂。復有二種。滅眾生身苦心苦。復有三種。天樂人樂涅槃樂。復有三種。離三界入三乘。如是菩薩摩訶薩無量阿僧祇利益眾生。眾生義如先說。 |
衆生をして、常に安隠ならしめ、涅槃を得しむれば、是れを利益と名づく。復た二種の利益有り、一には苦を離れしめ、二には楽を与う。復た二種有り、衆生の身苦、心苦を滅す。復た三種有り、天の楽、人の楽、涅槃の楽なり。復た三種有り、三界を離れしめて、三乗に入らしむ。是の如く菩薩摩訶薩は、無量、阿僧祇に衆生を利益す。衆生の義は、先に説けるが如し。 |
『衆生』を、
『常に、安隠にさせて!』、
『涅槃を、得させれば!』、
是れを、
『利益する!』と、
『称する!』が、
復た、
『利益には、二種有り!』、
一には、
『苦』を、
『離れさせ!』、
二には、
『楽』を、
『与えることである!』。
復た、
『二種有り!』、
『衆生』の、
『身苦、心苦』を、
『滅することである!』。
復た、
『三種有り!』、
『天の楽を与え!』
『人の楽を与え!』
『涅槃の楽を与えることである!』。
復た、
『三種有り!』、
『三界を離れさせて!』、
『三乗に入れることである!』。
是のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『衆生』を、
『無量阿僧祇に利益するのである!』。
『衆生の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
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参考:『大智度論巻35』:『問曰。如我乃至知者見者為是一事為各各異。答曰。皆是一我。但以隨事為異。於五眾中我我所心起故名為我。五眾和合中生故名為眾生。命根成就故名為壽者命者。能起眾事如父生子名為生者。乳哺衣食因緣得長是名養育。五眾十二入十八界等諸法因緣是眾法有數故名眾數。行人法故名為人。手足能有所作名為作者。力能役他故名使作者。能造後世罪福業故名能起者。令他起後世罪福業故名使起者。後身受罪福果報故名受者。令他受苦樂是名使受者。目睹色名為見者。五識知名為知者。』 |
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世人有大功勳則生憍心求其報賞。以求報故則為不淨。菩薩則不然。雖與般若波羅蜜相應利益無量眾生。無我心無憍慢故不求功報。如地雖利物功重不求其報。以是故說。是菩薩不作是念。我與般若相應。諸佛當授我記若近受記。我當淨佛土得無上道轉法輪。轉法輪義如先說。 |
世人に大功勲有れば、則ち憍心を生じて、其の報償を求め、報を求むるを以っての故に、則ち不浄と為す。菩薩は則ち然らず、般若波羅蜜と相応して、無量の衆生を利益すと雖も、我心無く、憍慢無きが故に功報を求めず。地の、物を利する功重しと雖も、其の報を求めざるが如し。是を以っての故に説かく、『是の菩薩は、是の念を作さず、我れは諳若と相応す。諸仏は当に我れに記を授くべく、若しは受記に近づかん。我れは当に仏土を浄め、無上道を得て、法輪を転ずべし』、と。転法輪の義は、先に説けるが如し。 |
『世人』は、
『大功勲が有れば!』、
『憍心を生じて!』、
其の、
『報償』を、
『求める!』が、
『報を求める!』が故に、
其の、
『功』は、
『不浄である!』。
『菩薩は、そうでなく!』、
『般若波羅蜜と相応して、無量の衆生を利益しながら!』、
『我心も、憍慢心も無い!』が故に、
『功報』を、
『求めない!』。
譬えば、
『地が物を利して!』、
『功が重い!』のに、
其の、
『報』を、
『求めないようなものである!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
是の、
『菩薩』は、こう念じない、――
『わたしは、般若波羅蜜と相応している!』とか、
『諸仏は、わたしに授記するか、受記に近づいたはずである!』とか、
『わたしは、仏土を浄めて、無上道を得、法輪を転じるはずだ!』と。
『転法輪の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
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参考:『大智度論巻25』:『轉梵輪者清淨故名梵。佛智慧及智慧相應法是名輪。佛之所說。受者隨法行是名轉。是輪以具足四念處為轂。五根五力為輻。四如意足為堅牢輞。而正懃為密合輪。三解脫為榍。禪定智慧為調適。無漏戒為塗輪香。七覺意為雜華瓔珞。正見為隨右轉輪。信心清淨為可愛喜。正精進為疾去。無畏師子吼為妙聲能怖魔輪破十二因緣節解輪。壞生死輪離煩惱輪。斷業輪障世間輪破苦輪。能令行者歡喜天人敬慕。是輪無能轉者。是輪持佛法。以是故名轉梵輪。復次佛轉法輪。如轉輪聖王轉寶輪。』 |
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問曰。何等法出法性。 |
問うて曰く、何等の法か、法性より出づる。 |
問い、
何のような、
『法』が、
『法性より、出るのですか?』。
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答曰。此中佛說。所謂行般若波羅蜜者。行般若波羅蜜者即是菩薩。知者見者即是眾生。法性中眾生變為法性以是故菩薩自不生高心。不從眾生求恩分。不見諸佛與受記。 |
答えて曰く、此の中に仏は説きたまえり。謂わゆる『般若波羅蜜を行ずる者なり』、と。般若波羅蜜を行ずる者は、即ち是れ菩薩なり。知者、見者は即ち是れ衆生なり。法性中に衆生変じて、法性と為れば、是を以っての故に菩薩は、自ら高心を生ぜず、衆生より、恩分を求めず、諸仏の受記を与うるを見ず。 |
答え、
此の中に、
『仏が、説かれている!』、
謂わゆる、
『般若波羅蜜を行じる者である!』、と。
『般若波羅蜜を行じる!』者とは、
即ち、
『菩薩であり!』、
『知者、見者』とは、
即ち、
『衆生である!』。
『法性』中に、
『衆生が変じて!』、
『法性と為るのである!』が、
是の故に、
『菩薩』は、
『自ら!』、
『高心』を、
『生じることなく!』、 『衆生』に、
『恩分( the reward for virtue )』を、
『求めず!』、
『諸仏』が、
『受記を与える!』のを、
『見ないのである!』。
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如菩薩空佛亦如是。如行者空得阿耨多羅三藐三菩提者亦空。何以故。佛自說菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不生眾生相乃至知者見者相。 |
菩薩の空なるが如く、仏も亦た是の如し。行者の空なるが如く、阿耨多羅三藐三菩提を得る者も亦た空なり。何を以っての故に、仏の自ら説きたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、衆生相、乃至知者、見者の相を生ぜず』、と。 |
『菩薩が、空であるように!』、
『仏』も、
『空であり!』、
『行者が、空であるように!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得た!』者も、
『空である!』。
何故ならば、
『仏』は、自ら、こう説かれている、――
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『衆生相、乃至知者相、見者相』を、
『生じない!』、と。
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菩薩行般若波羅蜜。尚不生法相。何況眾生相。何以故。佛自說因緣。是眾生畢竟不生。不生故不滅。若法不生不滅即是法性相。法性即是般若波羅蜜。云何般若波羅蜜行般若波羅蜜。 |
菩薩は般若波羅蜜を行ずるも、尚お法相を生ぜず、何に況んや衆生相をや。何を以っての故に、仏は自ら因縁を説きたまわく、『是の衆生は畢竟じて不生にして、不生なるが故に不滅なり』、と。若し法にして不生、不滅なれば、即ち是れ法性の相なり。法性とは即ち是れ般若波羅蜜なり。云何が般若波羅蜜にして、般若波羅蜜を行ずるや。 |
『菩薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
尚お、
『法相すら!』、
『生じない!』、
況して、
『衆生相』は、
『尚更である!』。
何故ならば、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
是の、
『衆生は、畢竟じて不生であり!』、
『不生である!』が故に、
『不滅だからである!』。
若し、
『法が、不生不滅ならば!』、
即ち、
是れは、
『法性の相であり!』、
『法性』とは、
即ち、
『般若波羅蜜である!』。
何故、
『般若波羅蜜』が、
『般若波羅蜜』を、
『行じるのか?』。
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菩薩不受眾生者不受神但有虛妄計我。眾生空者。眾生法無所有故。眾生不可得者。以實智求索不可得故。眾生離者。一切法自相離故。一切離自相者。如火離熱相等。如相空中廣說。第一相應勝餘相應如上說。 |
菩薩は、衆生を受けずとは、神を受けずして、但だ虚妄して、計我する有り。衆生の空とは、衆生の法の無所有なるが故なり。衆生の不可得とは、実智を以って求索するも、不可得なるが故なり。衆生の離とは、一切法は自相を離るるが故なり。一切は自相を離るとは、火の熱相を離るる等が如し。相空中に広説するが如し。第一相応は、餘の相応に勝ること、上に説けるが如し。 |
『菩薩が、衆生を受けない( does not accept any living being )!』とは、――
『神を受けることなく( does not accept Atman or any soul )!』、
但だ、
『虚妄の計我( a fabricated self )』が、
『有るだけである!』。
『衆生の空』とは、――
『衆生という!』、
『法』は、
『無所有( nothing existant )だからである!』。
『衆生の不可得』とは、――
『衆生』は、
『実智を用いて、求索しても!』、
『不可得だからである!』。
『衆生の離』とは、――
『一切法』は、
『自相』を、
『離れるからである!』。
『一切が、自相を離れる!』とは、――
譬えば、
『火』が、
『熱相を離れる等であり!』、
例えば、
『自相空』中に、
『広説した通りである!』。
『第一相応が、餘の相応に勝る!』とは、――
上に、
『説いた通りである!』。
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受(じゅ):梵語 upaadaana の訳、自分の為めに取る行為、着服する行為( the act of taking for one's self,
appropriating to one's self )の義、知覚する/気がつく/習う/知識を身につける/受容する/許す/含むこと( perceiving,
noticing, learning, acquiring (knowledge), accepting, allowing, including
)の意。
計我(けが):梵語 aham iti, aatmeti の訳、我と呼ばれるもの( that called "I" )の義、偽造された自己(
a fabricated self )の意。 |
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菩薩行是眾生空法空深入空相應。憶本願度眾生。見眾生狂惑顛倒於空事中種種生著。即生大悲心。我雖知是事餘者不知。以教化故生大慈大悲。亦能常不生破六波羅蜜法。 |
菩薩は、是の衆生空、法空を行じて、深く空相応に入り、本願を憶して、衆生を度するに、衆生の狂惑、顛倒して空事中に於いて種種に著を生ずるを見て、即ち大悲心を生じ、『我れは、是の事を知ると雖も、餘の者は知らず』と、以って教化せんが故に大慈大悲を生じ、亦た能く常に、六波羅蜜を破る法を生ぜず。 |
『菩薩』は、
是の、
『衆生空、法空を行じて!』、
『深く、空相応に入り!』、
『本願を憶して( recalling his past vows )!』、
『衆生』を、
『度そうとする!』が、
『衆生が狂惑し、顛倒して!』、
『空事』中に、
『種種に、著を生じる!』のを、
『見て!』、
即ち、
『大悲心』を、
『生じ!』、
『わたしは、是の法を知っているが、餘の者は知らない!』ので、
『衆生を教化しようとする!』が故に、
『大慈、大悲』を、
『生じ!』、
亦た、
『常に!』、
『六波羅蜜を破る法』を、
『生じさせない!』。
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所以者何。初發心菩薩行六波羅蜜。以六惡雜行故六波羅蜜不增長。不增長故不疾得道。今知諸法相拔是六惡法根本。 |
所以は何んとなれば、初発心の菩薩は、六波羅蜜を行ずるに、六悪を以って、行に雑うるが故に、六波羅蜜増長せず。増長せざるが故に道を得ること疾かならず。今、諸法の相を知りて、是の六悪法の根本を抜く。 |
何故ならば、
『初発心の菩薩は、六波羅蜜を行じながら!』、
『六悪( 慳、犯戒、瞋、懈怠、乱、無智)』を、
『行に雑える!』が故に、
『六波羅蜜』が、
『増長せず!』、
『増長しない!』が故に、
『疾かに!』、
『道を得ることができない!』が、
今、
『諸法の相を知って!』、
是の、
『六悪法の根本』を、
『抜くのである!』。
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所以者何。菩薩知布施為善。慳心不善。能墮餓鬼貧窮中知慳貪。如是自惜其身著世間樂故還生慳心。 |
所以は何んとなれば、菩薩は、布施を知りて善と為し、慳心は不善にして、能く餓鬼、貧窮中に墜つと、慳貪を知ること是の如きに、自ら其の身を惜んで、世間の楽に著すれば、故に還って慳心を生ずればなり。 |
何故ならば、
『菩薩』が、
『布施』は、
『善である!』と、
『知り!』、
『慳心は不善であり!』、
『餓鬼や、貧窮』中に、
『堕ちさせる!』と、
是のように、
『慳貪』を、
『知りながら!』、
自ら、
其の、
『身を惜んで!』、
『世間の楽』に、
『著すれば!』、
是の故に、
『還って!』、
『慳心』を、
『生じるからである!』。
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是菩薩輕物能施重物不能。外物能內物不能。以著我著受者以取相著財物。以是故破檀波羅蜜。雖有所施而不清淨。是菩薩行空相應故不見我。亦不見世間樂。云何生著而破檀波羅蜜。 |
是の菩薩は、軽物は能く施すも、重物は能わず。外物は能くするも、内物は能わず。我に著するを以って、受者に著し、相を取るを以って、財物に著すれば、是を以っての故に檀波羅蜜を破り、施す所有りと雖も、清浄ならず。是の菩薩は、空相応を行ずるが故に、我を見ず、亦た世間の楽を見ざるに、云何が著を生じて、檀波羅蜜を破らん。 |
是の、
『菩薩』は、
『軽物を布施することはできる!』が、
『重物』を、
『布施することはできず!』、
『外物を布施することはできる!』が、
『内物』を、
『布施することはできず!』、
『我に著する!』が故に、
『受者』に、
『著し!』、
『相を取る!』が故に、
『財物』に、
『著する!』ので、
是の故に、
『檀波羅蜜を破って!』、
『施す所が有りながら!』、
『清浄ではない!』。
是の、
『菩薩』は、
『空相応を行じる!』が故に、
『我』を、
『見ることなく!』、
亦た、
『世間の楽』を、
『見ないのに!』、
何故、
『著を生じて!』、
『檀波羅蜜』を、
『破るのか?』。
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問曰。若不見我不見世間樂。故不破亦應不見檀。云何行布施。 |
問うて曰く、若し我を見ず、世間の楽を見ざるが故に破らざれば、亦た応に檀波羅蜜を見ざるべし。云何が布施を行ぜんや。 |
問い、
若し、
『我や、世間を見ない!』が故に、
『檀波羅蜜』を、
『破らなければ!』、
亦た、
『檀』を、
『見ることもないはずである!』。
何故、
『布施』を、
『行じるのですか?』。
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答曰。是菩薩雖不見布施。以清淨空心布施作是念。是布施空無所有。眾生須故施與。如小兒以土為金銀。長者則不見是金銀。便隨意與竟無所與。餘五法亦如是。 |
答えて曰く、是の菩薩は、布施を見ずと雖も、清浄の空心を以って布施すれば、是の念を作さく、『是の布施は空、無所有なるも、衆生の須むるが故に施与せん』、と。小児の土を以って金銀と為すに、長者は則ち是れ金銀なりと見ず、便ち随意に与え竟りて、与うる所無きが如し。餘の五法も亦た是の如し。 |
答え、
是の、
『菩薩』は、
『布施を見ない!』が、
『清浄の空心を用いて!』、
『布施しながら!』、こう念じる、――
是の、
『布施は、空無所有である!』が、
『衆生が、須める( they are needing it )!』が故に、
『施与しよう!』、と。
譬えば、
『小児』は、
『土』を、
『金銀だとする!』が、
『長者』は、
是の、
『土は金銀である!』と、
『見ない!』ので、
意のままに、
『与えてしまい!』、
『与える所が無くなるようなものである!』。
餘の、
『五法(持戒、乃至智慧)』も、
『是の通りである!』。
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以是故雖同空破慳而不破檀。舍利弗。菩薩摩訶薩住是空相應中。能常不生是六惡心 大智度論卷第三十七 |
是を以っての故に同じく空なりと雖も、慳を破りて、檀を破らず。舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の空相応中に住すれば、能く常に是の六悪心を生ぜざるなり。
大智度論巻第三十七 |
是の故に、
『空相応』は、
『但空と、同じ空でありながら!』、
『慳を破るだけで!』、
『檀を破らないのである!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『空相応中に住して!』、
常に、
『六悪心』を、
『生じさせないのである!』。
大智度論巻第三十七 |
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