巻第三十七之下

 

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常に、諸仏に値って離れない

合と不合(法と法)

法性を得る

法性を出す

法性に入る

法性を得る法

合と不合(法性と空)

合と不合(眼等と空)

仏土を浄めて、衆生を成就する

 

 

 

 

 

 

 

常に、諸仏に値って離れない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。疾得諸陀羅尼門諸三昧門。在所生處常諸佛。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。初不離見佛。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、疾かに諸の陀羅尼門、諸の三昧門を得るに、所生の処に在りて常に諸仏に値い、乃ち阿耨多羅三藐三菩提を得るに至るまで、初より仏を見るを離れず。舎利弗、菩薩摩訶薩は是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         疾かに、

           諸の陀羅尼門、

           諸の三昧門を得て、

         所生の、

           処に、在りながら、

           常に、諸仏に値い、

         初より、乃ち、

           阿耨多羅三藐三菩提を得るに至るまで、

           仏を見て、離れない。

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       是のように、習応するのである。

     是れを、

       『般若波羅蜜と相応する』と名づける。

【論】釋曰。陀羅尼三昧門如先說。疾得者。福德因緣故心柔軟。行深般若波羅蜜故智慧心利。以是故疾得。如上說五功德故疾得。

釈して曰く、陀羅尼、三昧門は先に説くが如し。疾かに得とは、福徳の因縁の故に心柔軟に深般若波羅蜜を行ずるが故に智慧の心利なり。是を以っての故に、疾かに得ること、上説の如く、五功徳の故に疾かに得るなり。

 釈す、

   陀羅尼、三昧門は、

     先に説いたとおりである。

   『疾かに得る』とは、

     菩薩は、

       福徳の因縁の故に、

         心が柔軟になり、

       深い般若波羅蜜を行ずるが故に、

         智慧の心が利になるので、

     是の故に、

       『疾かに得る』のである。

   即ち、

     上に説いた、

       五功徳の故に、

         『疾かに、得る』。

 

  五功徳:即ち般若波羅蜜を行じて得る五功徳にして謂わゆる(1)魔不得便、(2)世事得随意、(3)諸仏護念、(4)諸天擁護、(5)重罪軽受なり。『大智度論巻37()』参照。

所生處常諸佛者。是菩薩除諸佛母般若波羅蜜。其餘一切眾事皆不愛著。是以在所生處常諸佛。如人常喜鬥諍生還活地獄。復執刀杖共相加害。婬欲多故常受胞胎又作婬鳥。瞋恚多故還生毒獸蛇虺之屬。愚癡多者如燈蛾赴火地中隱蟲等。是諸菩薩愛敬於佛及實相般若波羅蜜。及修念佛三昧業故。所生處常諸佛。

所生の処に常に諸仏に値うとは、是の菩薩は諸仏の母なる般若波羅蜜を除いて、其の余の一切の衆事に、皆愛著せず。是を以って所生の処に在りて常に諸仏に値う。人の常に闘諍を喜ぶが如きは、生きながら活地獄に還り、復た刀杖を執りて共に相加害す。婬欲多くば故に常に胞胎を受け、また婬鳥と作る。瞋恚多くば故に還って毒獣蛇虺の属に生ず。愚癡多き者は灯蛾の火に赴き、地中の隠虫等の如し。是の諸の菩薩は、仏及び実相、般若波羅蜜を愛敬し、及び念仏三昧を修むる業の故に、所生の処に、常に諸仏に値う。

   『所生の処に常に諸仏に値う』とは、

     是の菩薩は、

       諸仏の母である、

         『般若波羅蜜』を除いて、

       其の余の、

         『一切の衆事』には、

           皆、愛著しない。

       是を以って、

         『所生の処』に、在って、

         常に、

           『諸仏に、値う』のである。

     例えば、

       人が、

         常に、

           闘諍を喜べば、

         生きながら、

           活地獄に還り、

           復た、刀杖を執って、

           共に、相加害するのであり、

         婬欲が多いが故に、

           常に、胞胎を受け、

           又は、婬鳥と作り、

         瞋恚が多いが故に、

           還た、毒獣、蛇虺の属に生まれ、

         愚癡が多ければ、

           灯蛾が、火に赴いたり、

           地中に、隠れる虫等に生まれるのであるが、

     是の、

       諸の菩薩は、

         仏、及び、

           『実相と、般若波羅蜜とを愛敬し』て、

           『念仏三昧を修める業に、及ぶ』が故に、

         所生の処に於いて、

           『常に、諸仏に値う』のである。

復次如先菩薩願見諸佛中說。終不離見佛者。又人雖一世見佛更不復。如毘婆尸佛時。王師婆羅門雖得見佛及僧。而惡口毀呰言。此人等如畜生不別好人見我不起。以是罪故經九十一劫墮畜生中。

復た次ぎに、先に、菩薩は願うて諸仏を見るの中に説くが如し。終に仏を見るを離れずとは、又人は一世に仏を見ると雖も、更にまた値わず。毘婆尸仏の時の如し、王師婆羅門は、仏及び僧を見ることを得と雖も、悪口毀呰して言わく、『此の人等は畜生の如く、好人を別たず、我れを見て起たず』と。是の罪を以っての故に、九十一劫を経て畜生中に堕せり。

 復た次ぎに、

   先に、

     『菩薩は、願うて諸仏を見る』の中に説いたように、

   終に、

     『仏を見て、離れない』のである。

   又、

     『一世』に、仏を見るが、

     更に、

       『復た、値う』ことはない。

   例えば、

     毘婆尸仏の時、

       『王師の婆羅門』は、

         『仏、及び僧』を、

           見ることができたが、

           悪口、毀呰して、こう言った、――

           『此の人等は、

              畜生のように、好人を別たず、

              わたしを見ても、起たない』と。

         『是の罪』を以っての故に、

           九十一劫を経ると、

           『畜生』の中に堕ちたのである。

 

  毘婆尸仏(びばしぶつ):梵名毘婆尸vipazyin、又毘鉢尸、微鉢尸、鞞婆尸、毘婆沙、維衛に作り、勝観、種種観、種種見等に訳し、又弗沙puSya、底沙tiSya等とも名づく。過去七仏の第一仏にして、即ち過去荘厳劫中出現の仏なり。「長阿含巻1大本経」に其の種姓及び弟子等を説き、毘婆尸仏は過去九十一劫前に出世し、其の時人寿八万歳(或は八万四千歳)なり。父を槃頭bandhumaaと名づけ、刹利種にして姓は拘利若koNDJJaを姓とし、母を槃頭婆提bandhumatii、子を方膺、時の王を槃頭、王城を槃頭婆提と名づけ、波波羅paaTali樹下に於いて成道し、初会の説法に十六万八千人、二会の説法に十万人、三会の説法に八万人を度す。其の中、騫陀khaNDa、提舎tissaの二人を上足となし、執事の弟子を無憂asokaと名づくと云い、又巴梨文大史mahaavaMsa,iには、然灯仏を首とする二十四仏中の第十九仏となせり。但し其の弟子等の数は諸経に依りて同じからず、巴梨文長部経diigha-nikaaya,14.mahaapadhaama-suttantaには、初会の弟子を六百八十万人、時の人寿を八十万歳とし、七仏経には初会の弟子を六万二千人、七仏父母姓字経には初会の弟子を十万人、二会の弟子を九万人、三会の弟子を八万人となし、「増一阿含経巻44」には、初会に聖衆百千六万八千、第二会に十六万、第三会に十万あり、皆阿羅漢を得。仏寿は八万四千歳、百歳中聖衆清浄にして瑕瑾なく、「忍辱為第一、仏説無為最、不以剃鬚髪、害他為沙門」の一偈を以って禁戒となせりと云い、又「仏母大孔雀明王経巻上」には、無憂azoka樹下に坐して成道すと云えり。毘婆尸の語義に関しては、「華厳経疏巻17」に、「毘婆尸とは此に翻ずるに四あり、謂わく浄観、勝観、勝見、徧見なり。月の円なるが如く智満ずるは是れ徧見なり。魄尽き惑亡ぶるは是れ浄観なり。既に円にして且つ浄なるは是れ勝観、勝見なり」と云えり。又「毘婆尸仏経」、「雑阿含経巻15」、「増一阿含経巻45」、「出曜経巻2」、「生経巻4」、「旧華厳経巻7仏昇須弥頂品」、「大般涅槃経巻20梵行品、巻40」、「大宝積経巻46」、「大乗大集地蔵十輪経巻7懺悔品」、「観仏三昧海経巻10念七仏品」、「仏名経巻8」、「仏母大孔雀明王経巻下」、「孔雀王呪経巻下」、「観薬王薬上二菩薩経」、「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経巻1」、「須弥塞五分戒本」、「四分律比丘戒本」、「摩訶僧祇律大比丘戒本」、「十誦比丘波羅提木叉戒本」、「七仏讃唄伽他」、「大毘婆沙論巻177」、「倶舎論巻18」、「大智度論巻9、巻22」、「翻梵語巻1」、「華厳経探玄記巻5」、「玄応音義巻17」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻18、巻26」等に出づ。<(望)

  毀呰(きし):そしる。

  参考:『大智度論巻29』:『常欲不離諸佛者。菩薩世世所生常諸佛。問曰。菩薩當化眾生。何故常欲佛。答曰。有菩薩未入菩薩位。未得阿鞞跋致受記別故。若遠離諸佛。便壞諸善根沒在煩惱。自不能度安能度人。如人乘船中流壞敗。欲度他人反自沒水。又如少湯投大冰池。雖消少處反更成冰。菩薩未入法位。若遠離諸佛以少功德無方便力欲化眾生。雖少利益反更墜落。以是故新學菩薩。不應遠離諸佛。

  参考:『大智度論巻33』:『目多迦名出三藏及摩訶衍。何等是。如佛說。淨飯王強令出家作佛弟子者佛選擇五百人堪任得道者。將至舍婆提。所以者何。以其未離欲。若近親里恐其破戒故將至舍婆提。令舍利弗目乾連等教化之。初夜後夜專精不睡。勤修精進故得道。得道已佛還將至本生國。一切諸佛法還本國時與大會諸天眾俱住迦毘羅婆仙人林中。此林去迦毘羅婆城五十里。是諸釋遊戲園。此諸釋子比丘處舍婆提。時初夜後夜專精不睡故。以夜為長從林中來。入城乞食。覺道里長遠。爾時佛知其心有一師子來禮佛足在一面住。佛以是三因緣故說偈 不寐夜長  疲惓道長  愚生死長  莫知正法  佛告比丘。汝未出家時其心放逸多睡眠故不覺夜長。今初夜後夜專精求道減省睡眠故覺夜大長。此迦毘羅婆林。汝本駕乘遊戲不覺為遠。今著衣持缽步行疲極故覺道長。是師子鞞婆尸佛時作婆羅門師。見佛說法來至佛所。爾時大眾以聽法故無共語者。即生惡念發惡罵言。此諸禿輩與畜生何異。不別好人不知言語。以是惡口業故。從鞞婆尸佛乃至今日。九十一劫常墮畜生中。此人爾時即應得道。以愚癡故自作生死長久。今於佛所心清淨故當得解脫。如是等經名為出因緣。於何處出。於三藏摩訶衍中出故名為出。云何名因緣。是三事之本名為因緣經。

復次深念佛故終不離佛。世世善修念佛三昧故。不失菩薩心故。作不離佛願。願生在佛世故。種佛業緣常相續不斷故。乃至阿耨多羅三藐三菩提。終不離見佛。

復た次ぎに、深く仏を念ずるが故に終に仏を離れず、世世に善く念仏三昧を修むるが故に、菩薩心を失わざるが故に、仏を離れざる願を作して、在仏の世に生まれんと願うが故に、仏に値う業縁を種え、常に相続して断ぜざるが故に、乃ち阿耨多羅三藐三菩提に至るまで、終に仏を見るを離れず。

 復た次ぎに、

   深く、

     『仏を、念ずる』が故に、

     『終に、仏を離れない』のである。

   世世に、

     『善く、念仏三昧を修める』が故に、

     『菩薩心を、失わない』が故に、

     『仏を離れない願を作し』て、

     『在仏の世に生まれようと、願う』が故に、

     『仏に値う業縁を種え、常に相続して不断である』が故に、

   乃ち、

     『阿耨多羅三藐三菩提を得る』に至るまで、

     『終に、仏を見ることを離れない』のである。

問曰。此是果報事。云何說與般若波羅蜜相應。

問うて曰く、此れは是れ果報の事なり。云何が般若波羅蜜と相応すと説く。

 問い、

   此れは、

     『果報の事』である。

   何故に、

     『般若波羅蜜と、相応する』と説くのか?

答曰。般若波羅蜜相應故佛。或時果中說因故。相應有二種。一者心相應。二者應菩薩行。所謂生好處遇諸佛。常聞法正憶念。是名相應

答えて曰く、般若波羅蜜と相応するが故に仏に値うなり。或は時に果中に因を説くが故なり。相応に二種有り、一には心相応す、二には菩薩行に応ず。謂わゆる好処に生じて、諸仏に値遇し、常に法を聞いて正しく憶念す。これを相応と名づく。

 答え、

   『般若波羅蜜と、相応する』が故に、

     『仏に、値う』のである。

   或は、

     時に、

       『果を、説く』中にも、

       『因を、説く』からである。

   『相応』には、

     二種有り、

     一には、

       『心が、相応する』のであり、

     二には、

       『菩薩行に、相応する』のである。

       謂わゆる、

         『菩薩行』は、

           『好処』に、生まれて、

           『諸仏』に、値遇し、

           『法』を、常に聞いて、

           『憶念』を、正すので、

       是れを、

         『相応』と名づける。

 

 

 

 

 

合と不合(法と法)

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不作是念。有法與法若合若不合。若等若不等。何以故。是菩薩摩訶薩不見是法與餘法若合若不合若等若不等。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、是の念を作さず、法と法と有るに、若しは『合す』、若しは『合せず』、若しは『等し』、若しは『等しからず』と。何を以っての故にか、この菩薩摩訶薩は、是の法と、余の法と若しは合す、若しは合せず、若しは等し、若しは等しからず、と見ざればなり。舎利弗、菩薩摩訶薩は是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         是の念を作さない、――

           有る、

             『法と、法』とは、

               若しは、

                 『合する』、

                 『合しない』、

                 『等しい』、

                 『等しくない』、と。

     何故ならば、

       是の菩薩摩訶薩は、

         是の、

           『法と、法』とは、

             若しは、

               『合する』、

               『合しない』、

               『等しい』、

               『等しくない』と、見ないのである。

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       是のように習応する。

     是れを、

       『般若波羅蜜と相応する』と名づける。

【論】釋曰。一切法無有法與法共合者。何以故。諸法無少分合故。譬如二指有四方。其一方合三方不合。不合多故。何以不名為不合。

釈して曰く、一切法には、法と法と共に合する者の有ること無し。何を以っての故に、諸法には少分の合無きが故なり。譬えば二指に四方有り、其の一方は合して、三方は合せざるが如し。不合多きが故に、何を以ってか、名づけて不合と為さざらん。

 釈す、

   『一切法』には、

     『法と、法とが共に合する』ことが無い。

   何故ならば、

     『諸法』には、

       『少分が、合する』ことが無いからである。

   譬えば、

     『二指』は、

       各、『四方』が有り、

       其の、

         『一方』のみが合して、

         『三方』が合しないのであり、

       『不合』が多いが故に、

         何うして、

           『不合』と名づけないのか?

 

  :総じて不合を言う。

問曰。以有合處故名為合。云何言不合。

問うて曰く、合の処有るを以っての故に名づけて合と為す。云何が不合と言う。

 問い、

   『合処』が有るからには、

     『合』と名づけるものである。

   何故、

     『不合』と言うのか?

答曰。合處不為指是指分。但是指分更無指法。以二指相近故。假名為合更無合法。

答えて曰く、合の処を指と為さず、是れは指の分なり。但だ是の指の分には、更に指の法無し。二指の相近づくを以っての故に、仮に名づけて合と為すも、更に合の法無し。

 答え、

   『合処』は、

     『指』ではなく、

     『指の分』だからである。

   但だ、

     是れは、

       『指の分』であり、

     更に、

       『指の法』は無い。

   『二指』が、

     『相、近づく』が故に、

     仮に、

       『合』と名づけるが、

     更に、

       『合の法』は無いのである。

復次色香味觸總名為指。但觸有合力餘三無合。以是故不得言指合。

復た次ぎに、色、香、味、触を総じて名づけて指と為す。但だ触にのみ、合する力有るも、余の三に合無し。是を以っての故に、『指は合す』と言うことを得ず。

 復た次ぎに、

   『色、香、味、触』を、

     総じて、

       『指』と名づける。

   但だ、

     『触』にのみ、

       『合する力』が有るが、

     『余の三』には、

       無いので、

   是の故に、

     『指は、合する』と言えない。

復次如異類同處不名為合相。各異故。諸法亦爾。地相地中水相水中火相火中。如是性異不名為合。以是故言無有法與法合。若合若不合

復た次ぎに、異類同処の如きは、名づけて合と為さず。相の各異なるが故なり。諸法も、亦た爾り。地相は地中なり、水相は水中なり、火相は火中なり。是の如く性異なれば名づけて合と為さず。是を以っての故に言わく、『法と法と合すること有ること無し。合無きが故に亦た不合も無し』と。

 復た次ぎに、

   『異類』が、

     『同処』であるようなものは、

       『合』と名づけない。

     『相』が、

       各、『異なる』からである。

   『諸法』も、

     亦た、そうである。

       『地の相』は、『地の中』に在り、

       『水の相』は、『水の中』に在り、

       『火の相』は、『火の中』に在るが、

     是のように、

       『性』が、

         『異なる』ならば、

         『合』と名づけないのであり、

     是の故に、

       『法と、法とは、

          合することが無く、

          合が無いが故に、

          不合も、亦た無い』と言うのである。

 

  若合若:他本に従い無合故亦無に改む。

等者。一切法一相故名等。以皆是有相皆是無常相。皆是苦相。皆是空無我相。皆是不生不滅相。事無異故名為等。不等者。各各別相故。如色相無色相堅相濕相。如是等各異不同。是名不等。

等とは、一切法は一相なるが故に等と名づく。皆是れ有相なり、皆是れ無常相なり、皆是れ苦相なり、皆是れ空無我相なり、皆是れ不生不滅相なり。事の無異なるが故に名づけて、等と為す。不等とは、各各別相なるが故なり。色相、無色相、堅相、湿相の如き、是の如き等は、各異なりて不同なり、是れを不等と名づく。

   『等』とは、

     『一切法』は、

       『一相』であるが故に、

       『等』と名づける。

   即ち、

     皆、『有相』であり、

     皆、『無常相』であり、

     皆、『苦相』であり、

     皆、『空、無我相』であり、

     皆、『不生、不滅相』であり、

   即ち、

     事の、

       『無異』であることを、

       『等』と名づけるのである。

   『不等』とは、

     各各は、

       『別相』であるが故に、

     例えば、

       『色相』であり、

       『無色相』であり、

       『堅相』であり、

       『湿相』であり、

     是れ等のように、

       各、

         『異なり』、

         『不同』であるが故に、

       是れを、

         『不等』と名づける。

菩薩不見等與不等。何以故。一切法無故。自性空故無法。無法故不可見。不可見故無等不等。等與合是習相應。不合不等是不相應。

菩薩は、等と不等とを見ず。何を以っての故に、一切法は無きが故なり。自性は空なるが故に無法なり。無法の故に不可見なり。不可見の故に等と不等と無し。等と合とは是れ習相応なり。不合、不等は是れ不相応なり。

   菩薩は、

     『等』と、

     『不等』とを見ない。

   何故ならば、

     『一切法』は、

       『無い』からである。

   即ち、

     『一切法』は、

       『自性』が、

         『空』であるが故に、

         『法』が無く、

       『法』が無いが故に、

         『不可見』であり、

       『不可見』であるが故に、

         『等』も、

         『不等』も無いのである。

     此の中、

       『般若波羅蜜』に就き、

         『等』と、

         『合』とが、

           『習相応』であり、

         『不等』と、

         『不合』とは、

           『不相応』である。

問曰。何以不說相應竟然後讚歎。

問うて曰く、何を以ってか、相応を説き竟りて、然る後に讃歎さぜる。

 問い、

   何故、

     『相応』を説き竟ってから、

     『讃歎』しないのか?

答曰。聽者厭懈是故佛讚歎果報功德。聞者心得悅樂故

答えて曰く、聴く者厭懈すれば、是の故に仏は果報の功徳を讃歎したまい、聞く者は心に悦楽を得るが故なり。

 答え、

   聴く者が、

     厭足、懈怠するからである。

   是の故に、

     仏は、

       『果報の功徳』を讃歎され、

     聞く者は、

       『心に、悦楽を得る』のである。

 

  讃歎:経中先に説ける分、即ち『復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。疾得諸陀羅尼門諸三昧門。在所生處常諸佛。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。初不離見佛。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應』を指す。

 

 

 

 

法性を得る

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不作是念。我當疾得法性若不得。何以故。法性非得相故。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずるに、是の念を作さず、『我れは当に疾かに法性を得べし』、若しは『得ざるべし』と。何を以っての故に、法性は得の相に非ざるが故なり。舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

       是の念を作さない、――

       『わたしは、

         疾かに、

           法性を、得るであろう』、

         若しくは、

           『法性を、得ないであろう』と。

     何故ならば、

       『法性』は、

         『得の相』でないからである。

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       是のように、習応する。

     是れを、

       『般若波羅蜜と、相応する』と名づける。

【論】釋曰。法性者諸法實相。除心中無明諸結使。以清淨實觀得諸法本性。名為法性。性名真實。以眾生邪觀故縛正觀故解。菩薩不作是念。我疾得法性。何以故。法性無相無有遠近。亦不言我久久當得。何以故。法性無遲無久。法性義如如法性實際義中說

釈して曰く、法性とは、諸法の実相なり。心中の無明、諸の結使を除き、清浄の実観を以って諸法の本性を得るを、名づけて法性と為す。性は真実と名づけ、衆生は邪観を以っての故に縛、正観の故に解なり。菩薩は、是の念を作さず、『我れは疾かに法性を得ん』と。何を以っての故に、法性は無相にして、遠近有ること無ければなり。亦た、『我れは久久にして当に得べし』と言わず。何を以っての故に、法性には遅無く、久無ければなり。法性の義は、『如、法性、実際義』中に説けるが如し。

 釈す、

   『法性』とは、

     『諸法の実相』である。

   即ち、

     『心』中の、

       『無明』と、

       『諸の結使』とを除き、

     『清浄』の、

       『実観』を以って、

       『諸法の本性』を得る。

     是れを、

       『法性』と名づける。

   『性』とは、

     『真実』と名づける。

   即ち、

     『衆生の性』は、

       『邪観』を以っての故に、『縛』であり、

       『正観』を以っての故に、『解』である。

   『菩薩』は、

     是の念を作さない、――

     『わたしは、

       疾かに、法性を得る』と。

   何故ならば、

     『法性』は、

       『無相』であり、

       『遠近』が無いからである。

   亦た、

     『わたしは、

        久久にして、得るだろう』とも言わない。

   何故ならば、

     『法性』に、

       『遅』も無く、

       『久』も無いからである。

   『法性の義』は、

     『如、法性、実際の義』中に説いたとおりである。

 

  如法性実際義:『大智度論巻32()』参照。

 

 

 

 

法性を出す

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見有法出法性者。如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、法の法性を出す者有ることを見ずして、是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         『有る法が、

            法性を出す』と見ない。

     是のように、

       習応するならば、

     是れを、

       『般若波羅蜜と、相応する』と名づける。

【論】釋曰。無明等諸煩惱。入一切法中故。失諸法自性。自性失故皆邪曲不正。聖人除卻無明等。諸法實性還得明顯。譬如陰雲覆虛空清淨性。除陰雲則虛空清淨性現。若有法無明不入者。是則出於法性。但是事不然。無有法出無明者。是故菩薩不見是法出法性者。譬如眾流皆歸於海。如粟散小王皆屬轉輪聖王。如眾小明皆屬於日

釈して曰く、無明等の諸の煩悩は、一切法の中に入るが故に、諸法の自性を失し、自性失するが故に、皆邪曲にして不正なり。聖人は無明等を除却するに、諸法の実性は還た明顕なるを得。譬えば陰雲の虚空の清浄の性を覆えるに、陰雲を除けば則ち虚空の清浄の性現わるるが如し。若し法有り、無明入らざれば、是れ則ち法性を出す。但だ是の事は然らず。有る法の無明を出す者の無ければなり。是の故に菩薩は、是の法は法性を出すと見ず。譬えば衆流は皆海に帰するが如く、粟散の小王は皆転輪聖王に属するが如く、衆小明は皆日に属するが如し。

 釈す、

   『無明』等の、

     『諸の煩悩』が、

       『一切法』中に入るが故に、

     『諸法』は、

       『自性』を失い、

       『自性』を失うが故に、

       皆、

         『邪曲』であり、

         『不正』である。

   『聖人』は、

     『諸法』より、

       『無明』等を、除却するが故に、

     『諸法』の、

       『実性』は還た、明顕するのである。

   譬えば、

     陰雲が、

       虚空の清浄の性を覆い、

     陰雲を除けば、

       虚空の清浄の性が現れるように、

   若し、

     『法』に、

       『無明』が入らなければ、

       『法性』を現出するはずであるが、

   但だ、

     是の事は、

       そうでない。

     『法』が有っても、

       『無明を、現出する者』が無いからである。

   是の故に、

     菩薩は、

       『是の法』は、

         『法性を、現出する者』であると見ない。

     譬えば、

       衆流は、皆海に帰し、

       粟散の小王は、皆転輪聖王に属し、

       衆小明は、皆日に属すのと同じである。

 

  粟散(ぞくさん):粟の散らばりたるが如し。

  衆流皆帰於海等:衆流に於いて海を得ざるが如く、法に於いても法性を得る能わざるを云う。

 

 

 

 

法性に入る

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不作是念。法性分別諸法。如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、是の念を作さず、『法性もて、諸法を分別せん』と。是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

       是の念を作さない、――

       『法性で、諸法を分別しよう』と。

     是のように、

       習応すれば、

     是れを、

       『般若波羅蜜と、相応する』と名づける。

【論】問曰。何以故不作是念。法性分別諸法。

問うて曰く、何を以っての故にか、『法性もて、諸法を分別せん』と、是の念を作さざる。

 問い、

   何故に、

     是の念を作さないのか?

     『法性で、諸法を分別しよう』と。

答曰。為著法性貴於法性。以是因緣生諸結使。是故不作是念。

答えて曰く、法性に著する為に、法性を貴ぶ。是の因縁を以って、諸の結使を生ずれば、是の故に是の念を作さず。

 答え、

   『法性』に、

     『著する』為の故に、

     『法性を、貴ぶ』のであり、

   是の因縁を以って、

     『諸の結使を、生ずる』のである。

   是の故に、

     是の念を作さない。

問曰。若法性空一相無相。云何分別諸法。

問うて曰く、若し法性は空にして、一相無相ならば、云何が諸法を分別する。

 問い、

   若し、

     『法性』が、

       『空』であり、

       『一相、無相』ならば、

   何のように、

     『諸法』を、

       『分別する』のか?

答曰。得是法性滅無明等諸煩惱。破諸法實相者。然後心清淨智慧明了知諸法實。隨法性者為善。不隨法性者為不善。

答えて曰く、是の法性を得て、無明等の諸の煩悩の、諸法の実相を破す者を滅し、然る後に心清浄、智慧明了たりて、諸法は実に法性に随う者を善と為し、法性に随わざる者を不善と為すと知る。

 答え、

   『是の法性』を得て、

     『無明』等の、

       『諸の煩悩』の、

       『諸法の実相を破る者』を滅すると、

     其の後、

       『心』が、清浄になって、

       『智慧』が、明了になり、

     『諸法』は、

       実に、

         『法性』に随えば、『善』であり、

         『法性』に随わなければ、『不善』であると、知るのである。

 

  :諸法の性は実に一相、無相であり、彼我、此彼の差別なく皆平等なれば、其の法性に随う者は善であり、随わない者は不善である。

如婆蹉梵志問佛。世尊。天地間有善惡好醜不。佛言有。婆蹉言。我久歸命佛。願為我善說。佛言。有三種惡三種善。十種惡十種善。所謂貪欲是惡。除貪是善。瞋恚愚癡是惡。除恚癡是善。殺生是惡。除殺生是善。乃至邪見是惡。除邪見是善。能如實分別善惡。是我弟子入於法性。名為得道

婆蹉梵志の仏に問えるが如し、『世尊、天地の間に善悪、好醜有りや不や』、仏の言わく、『有り』と。婆蹉の言わく、『我れは久しく仏に帰命せり。願わくは我が為に善く説きたまえ』と。仏の言わく、『三種の悪と三種の善、十種の悪と十種の善有り。謂わゆる貪欲は是れ悪なり、貪を除く是れ善なり。瞋恚、愚癡は是れ悪なり、恚、癡を除く是れ善なり。殺生は是れ悪なり、殺生を除く是れは善なり。乃ち邪見に至るまで是れ悪なり、邪見を除く是れ善なり。能く如実に善悪を分別すれば、是れ我が弟子にして、法性に入り、名づけて得道と為す』と。

   『婆蹉梵志』が、

     仏に問うた、――

     『世尊!

        天地の間には、

          善悪、

          好醜は有るか?』、

   『仏』は、

     言われた、――

     『有る』と。

   『婆蹉』は、

     言った、――

     『わたしは、

        久しく、

          仏に帰命している。

        願わくは、

          わたしの為に、

          善く、説かれよ!』、

   『仏』は、

     言われた、――

     『三種の悪、三種の善、十種の悪、十種の善が有る。

        謂わゆる、

          貪欲は、悪であり、

            貪欲を除くは、善である。

          瞋恚、愚癡は悪であり、

            瞋恚、愚癡を除くは善である。

          殺生は、悪であり、

            殺生を除くは、善である。

        乃至、

          邪見は、悪であり、

            邪見を除くは、善である。

      能く、

        如実に、善悪を分別すれば、

      是れは、

        わたしの弟子であり、

        法性に入る者である。

      是れを、

        得道と名づける』と。

 

  :当に知るべし、三善、十善は法性に入り、三悪、十悪は法性に入らざるを。

  婆蹉(ばしゃ):()仏弟子の一と為す。又婆嗟に作る。常に苦行を修めて、仏に称讃さる。「増一阿含経巻3」に、「我が声聞中第一の比丘とは、(中略)身を露座に苦しめ、風雨を避けず、謂わゆる婆嗟比丘是れなり」と云えり。(二)仏の同時代の人と為す。阿含経典に依れば、曽て多次、教を仏及び仏弟子、大目揵連等の人に請うに、命と身との関係に関して、即ち如来に後の死有り、或は後の死無し、我有り、或は我無し、世間常、或は無常等を問うこと有り。「雑阿含経巻34」に、其の事蹟、時を記載し、之を称して婆蹉種出家(巴梨、vacchagotta paribbaajaka)と為す。婆蹉は原印度の種族名と為す。(三)梵名vaatsi-putriiyaの略称。又筏蹉に作り、具さに婆蹉富楼、跋私弗底梨与と為し、犢子部と訳す。即ち小乗二十部の一なり。此の部派は、説一切有部由り分派して出づる者にして、「非即非離蘊之我」を称え、并びに之を過去、現在、未来、無為及び不可説の五法蔵中、不可説法蔵に摂して、其の教義の一大特色と為す。日本学者赤沼智善の説に拠れば、此の部派の名称の由来は、該部派内の諸師は乃ち当時印度十六大国中の跋蹉国(梵vatsa)の比丘なるに由りて、故に部派の名を、遂に筏蹉子(vaatsii-putriiya)と称するに至れり。<(佛)

  参考:『雑阿含経巻34(964)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有婆蹉種出家來詣佛所。與世尊面相慰勞已。退坐一面。白佛言。瞿曇。欲有所問。寧有閑暇為解說不。爾時。世尊默然而住。婆蹉種出家第二.第三問。佛亦第二.第三默然而住。時。婆蹉種出家白佛言。我與瞿曇共相隨順。今有所問。何故默然。爾時。世尊作是念。此婆蹉種出家長夜質直。不諂不偽。時有所問。皆以不知故。非故惱亂。我今當以阿毘曇律納受於彼。作是念已。告婆蹉種出家。隨汝所問。當為解說。婆蹉白佛。云何。瞿曇。有善法耶。佛答言。有。婆蹉白佛。當為我說善.不善法。令我得解。佛告婆蹉。我今當為汝略說善.不善法。諦聽。善思。婆蹉。貪欲者是不善法。調伏貪欲是則善法。瞋恚.愚癡是不善法。調伏恚.癡是則善法。殺生者是不善法。離殺生者是則善法。偷盜.邪婬.妄語.兩舌.惡口.綺語.貪.恚.邪見是不善法。不盜。乃至正見是則善法。是為。婆蹉。我今已說三種善法.三種不善法。如是。聖弟子於三種善法.三種不善法如實知。十種不善法.十種善法如實知者。則於貪欲無餘滅盡。瞋恚.愚癡無餘滅盡者。則於一切有漏滅盡。無漏心解脫.慧解脫。現法自知作證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。婆蹉白佛。頗有一比丘於此法.律得盡有漏。無漏心解脫。乃至不受後有耶。佛告婆蹉。不但若一。若二.若三。乃至五百。有眾多比丘於此法.律盡諸有漏。乃至不受後有。婆蹉白佛。且置比丘。有一比丘尼於此法.律盡諸有漏。乃至不受後有不。佛告婆蹉。不但一.二.三比丘尼。乃至五百。有眾多比丘尼於此法.律盡諸有漏。乃至不受後有。婆蹉白佛。置比丘尼。有一優婆塞修諸梵行。於此法.律度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三。乃至五百優婆塞。乃有眾多優婆塞修諸梵行。於此法.律斷五下分結。得成阿那含。不復還生此。婆蹉白佛。復置優婆塞。頗有一優婆夷於此法.律修持梵行。於此法.律度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三優婆夷。乃至五百。乃有眾多優婆夷於此法.律斷五下分結。於彼化生。得阿那含。不復還生此。婆蹉白佛。置比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷修梵行者。頗有優婆塞受五欲。而於此法.律度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三。乃至五百。乃有眾多優婆塞居家妻子。香華嚴飾。畜養奴婢。於此法.律斷三結。貪.恚.癡薄。得斯陀含。一往一來。究竟苦邊。婆蹉白佛。復置優婆塞。頗有一優婆夷受習五欲。於此法.律得度狐疑不。佛告婆蹉。不但一.二.三。乃至五百。乃有眾多優婆夷在於居家。畜養男女。服習五欲。華香嚴飾。於此法.律三結盡。得須陀洹。不墮惡趣法。決定正向三菩提。七有天人往生。究竟苦邊。婆蹉白佛言。瞿曇。若沙門瞿曇成等正覺。若比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷修梵行者。及優婆塞.優婆夷服習五欲。不得如是功德者。則不滿足。以沙門瞿曇成等正覺。比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷修諸梵行。及優婆塞.優婆夷服習五欲。而成就爾所功德故。則為滿足。瞿曇。今當說譬。佛告婆蹉。隨意所說。婆蹉白佛。如天大雨。水流隨下。瞿曇法.律亦復如是。比丘.比丘尼.優婆塞.優婆夷。若男.若女。悉皆隨流。向於涅槃。浚輸涅槃。甚奇。佛.法.僧平等法.律。為餘異道出家來詣瞿曇所。於正法.律求出家.受具足者。幾時便聽出家。佛告婆蹉。若餘異道出家欲來於正法.律求出家.受具足者。乃至四月於和尚所受衣而住。然此是為人粗作齊限耳。婆蹉白佛。若諸異道出家來於正法.律欲求出家.受具足。聽於和尚所受依。若滿四月聽出家者。我今堪能於四月在和尚所受依。若於正法.律而得出家.受具足。我當於瞿曇法中出家.受具足。修持梵行。佛告婆蹉。我先不說粗為人作分齊耶。婆蹉白佛。如是。瞿曇。爾時世尊告諸比丘。汝等當度彼婆蹉出家於正法.律出家.受具足。婆蹉種出家即得於正法.律出家.受具足。成比丘分。乃至半月。學所應知.應識.應見.應得.應覺.應證。悉知.悉識.悉見.悉得.悉覺.悉證如來正法。尊者婆蹉作是念。我今已覺所應知.應識.應見.應得.應覺.應證。彼一切悉知.悉識.悉見.悉得.悉覺.悉證。今當往見世尊。是時。婆蹉詣世尊所。稽首禮足。於一面住。白佛言。世尊。我於學所應知.應識.應見.應得.應覺.應證。悉知.悉識.悉見.悉得.悉覺.悉證世尊正法。唯願世尊為我說法。我聞法已。當獨一靜處。專精思惟。不放逸住。思惟。所以善男子剃除鬚髮。著袈裟衣。正信出家學道。乃至自知不受後有。佛告婆蹉。有二法。修習多修習。所謂止.觀。此二法修習多修習。得知界.果。覺了於界。知種種界。覺種種界。如是。比丘。欲求離欲。惡不善法。乃至第四禪具足住。慈.悲.喜.捨。空入處.識入處.無所有入處.非想非非想入處。令我三結盡。得須陀洹。三結盡。貪.恚.癡薄。得斯陀含。五下分結盡。得阿那含。種種神通境界。天眼.天耳.他心智.宿命智.生死智.漏盡智皆悉得。是故。比丘。當修二法。修習多修習。修二法故。知種種界。乃至漏盡。爾時。尊者婆蹉聞佛所說。歡喜作禮而去。爾時。婆蹉獨一靜處。專精思惟。不放逸住。乃至自知不受後有。時。有眾多比丘莊嚴方便。欲詣世尊恭敬供養。爾時。婆蹉問眾多比丘。汝等莊嚴方便。欲詣世尊恭敬供養耶。諸比丘答言。爾。爾時。婆蹉語諸比丘。尊者。持我語。敬禮世尊。問訊起居輕利。少病少惱。安樂住不。言。婆蹉比丘白世尊言。我已供養世尊。具足奉事。令歡悅。非不歡悅。大師弟子所作皆悉已作。供養大師。令歡悅。非不歡悅。時。眾多比丘往詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。尊者婆蹉稽首敬禮世尊足。乃至歡悅。非不歡悅。佛告諸比丘。諸天先已語我。汝今復說。如來成就第一知見。亦如婆蹉比丘。有如是德力。爾時。世尊為彼婆蹉比丘說第一記。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行

 

 

 

 

法性を得る法

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不作是念。是法能得法性若不得。何以故。是菩薩不見用是法能得法性若不得。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、是の念を作さず、『是の法は、能く法性を得』、若しくは『得ず』と。何を以っての故に、是の菩薩は、『是の法を用うれば、能く法性を得』、若しくは『得ず』と見ざればなり。舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

       是の念を作さない、――

       『是の法は、

          能く、

            法性を得ることができる』、

          若しくは、

            『法性を得ることができない』と。

     何故ならば、

       是の菩薩は、

         『是の法を用いて、

            能く、

              法性を得ることができる』とも、

            若しくは、

              『法性を得ることができない』とも見ないからである。

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       是のように、

         習応する。

       是れを、

         『般若波羅蜜と相応する』と名づける。

【論】釋曰。云何得法性行八聖道分得諸法實相。所謂涅槃是名得法性。

釈して曰く、云何が、法性を得る。八聖道分を行じ、諸法の実相を得、謂わゆる涅槃は、是れ法性を得と名づく。

 釈す、

   何のように、

     『法性を、得る』のか?

   即ち、

     『八聖道分』を行じて、

       『諸法の実相』を得るのであり、

   謂わゆる、

     『涅槃』を、

       『法性を得る』と名づける。

復次性名諸法實相。法名般若波羅蜜。菩薩不作是念。行般若波羅蜜得是諸法性。何以故。般若波羅蜜及諸法性。是二法無有異。皆畢竟空故。云何以般若波羅蜜得達法性

復た次ぎに、性を、諸法の実相と名づけ、法を般若波羅蜜と名づくるに、菩薩は是の念を作さず、『般若波羅蜜を行じて、是の諸の法性を得ん』と。何を以っての故に、般若波羅蜜及び諸の法性の、是の二法は異有ること無く、皆畢竟じて空なるが故なり。云何が、般若波羅蜜を以って法性に達することを得ん。

 復た次ぎに、

   『性』を、

     『諸法の実相』と名づけ、

   『法』を、

     『般若波羅蜜』と名づけるが、

   菩薩は、

     是の念を作さない、――

     『般若波羅蜜を行じて、

        是の諸法の性を得よう』と。

   何故ならば、

     『般若波羅蜜』及び、

     『諸法の性』の、

       是の二法は、

         『異なり』が無く、

       皆、

         畢竟じて、『空』だからである。

     何うして、

       『般若波羅蜜』を以って、

         『法性に、達する』ことができよう?

 

 

 

 

 

合と不合(法性と空)

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。法性不與空合。空不與法性合。如是習應。是名與般若波羅蜜相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、法性は、空と合せず、空は法性と合せず。是の如く習応す。是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         『法性』は、『空』と合しないのであり、

         『空』は、『法性』と合しないのである。

     是のように、

       習応すれば、

     是れを、

       『般若波羅蜜と、相応する』と名づける。

【論】釋曰。菩薩不觀法性是空。不觀空是法性。行空得法性。緣法性得空。以是故無異。所以者何。是二畢竟空故

釈して曰く、菩薩は、『法性は、是れ空なり』と観ぜず、『空は、是れ法性なり』と観ぜざるも、空を行じて法性を得、法性を縁じて空を得。是を以っての故に、異無し。所以は何んとなれば、是の二は畢竟じて空なるが故なり。

 釈す、

   菩薩は、

     『法性は、空である』と観ず、

     『空は、法性である』と観ないが、

   而し、

     『空』を行じて、『法性』を得、

     『法性』を縁じて、『空』を得るので、

   是の故に、

     『空』と、『法性』とに、

       『異なり』が無いのである。

   何故ならば、

     是の二は、

       畢竟じて、『空』だからである。

 

 

 

 

 

合と不合(眼等と空)

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。眼界不與空合。空不與眼界合。色界不與空合。空不與色界合。眼識界不與空合。空不與眼識界合。乃至意界不與空合。空不與意界合。法界不與空合。空不與法界合。意識界不與空合。空不與意識界合。是故舍利弗。是空相應名為第一相應

復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、眼界は空と合せず、空は眼界と合せず、色界は空と合せず、空は色界と合せず、眼識界は空と合せず、空は眼識界と合せず、乃至意界は空と合せず、空は意界と合せず、法界は空と合せず、空は法界と合せず、意識界は空と合せず、空は意識界と合せず。是の故に、舎利弗、是の空相応を名づけて第一相応と為す。

 復た次ぎに、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         『眼界』は、

           『空』と合せず、

           『空』は、『眼界』と合しない。

         『色界』は、

           『空』と合せず、

           『空』は、『色界』と合しない。

         『眼識界』は、

           『空』と合せず、

           『空』は、『眼識界』と合しない。

       乃至、

         『意界』は、

           『空』と合せず、

           『空』は、『意界』と合しない。

         『法界』は、

           『空』と合せず、

           『空』は、『法界』と合しない。

         『意識界』は、

           『空』と合せず、

           『空』は、『意識界』と合しない。

   是の故に、

     舎利弗!

       是の、

         『空相応』を、

           『第一の相応』と名づけるのである。

【論】釋曰。眼界不與空合空不與眼界合者。眼是有。空是無。空有云何合。

釈して曰く、眼界は空と合せず、空は眼界と合せずとは、眼は是れ有、空は是れ無なり。空と有と云何が合する。

 釈す、

   『眼界』は、

      『空と、合せず』、

   『空』は、

      『眼界と、合しない』とは、

   即ち、

     『眼』は、『有』であり、

     『空』は、『無』である。

   何うして、

     『空が、合する』のか?

復次菩薩種種因緣分別。散滅是眼眼則空。空無眼名因本故有。眼空空亦無。分別是眼空是非眼空。是則眼不與空合。又空不從眼因緣生。何以故。是二法本自空故。乃至意識界亦如是。

復た次ぎに、菩薩は種種の因縁もて分別して、是の眼を散滅するに、眼は則ち空なり。空に眼の名無く、本に因るが故に眼の空なる有り。空も亦た、『是れ眼の空なり、是れ眼に非ざる空なり』と分別すること無し。是れ則ち眼は空と合せざるなり。又空は眼の因縁より生ぜず。何を以っての故に、是の二法は本より自ら空なるが故なり。乃ち意識界に至るまで、亦た是の如し。

 復た次ぎに、

   菩薩は、

     種種の因縁で、

       是の、

         『眼』を、

           分別し、

           散滅すれば、

         『眼』は、

           『空』である。

         『空』に、

           『眼の名』は無いが、

         本に因るが故に、

           『眼の空』という名が有る。

       亦た、

         『空』には、

           分別も無い、――

           『是れは、眼の空である』、

           『是れは、眼でない空である』と。

       是れは、

         『眼』は、

           『空』と合しないのである。

       又、

         『空』が、

           『生ずる』のは、

           『眼の因縁』によらない。

       何故ならば、

         是の二法は、

           本より、

             自ら、『空』だからである。

   乃ち、

     『意識界』に至るまで、

       亦た、是のようである。

問曰。此中何以不說五眾等諸法但說十八界。

問うて曰く、此の中、何を以ってか、五衆等の諸法を説かずして、但だ十八界のみを説く。

 問い、

   此の中に、

     何故に、

       『五衆等の諸法』を説かず、

     但だ、

       『十八界』のみを説くのか?

答曰。應說或時誦寫者忘失。復有人言。若說十八界則攝一切法。有眾生於心色中錯。心法中不錯。應聞十八界得度。是故但說十八界。

答えて曰く、応に説くべきも、或は時に誦写する者忘失す。復た有る人の言わく、『若し十八界を説かば則ち一切法を摂せん。有る衆生は、心色中に於いて錯り、心法中に錯らず。応に十八界を聞いて度を得べし』と。是の故に、但だ十八界を説く。

 答え、

   説くべきであるが、

     或は、

       時に、『誦写の者』が忘失したのか?

   復た、

     有る人は、こう言う、――

       『若し、

          十八界を説けば、

          一切法を摂する。

        有る衆生は、

          『心と、色』との中にて、錯り、

          『心数法』の中には、錯らないので、

        若し、

          『十八界』を聞けば、

          『度を、得る』はずである』と。

      是の故に、

        但だ、

          『十八界』のみを説いたのである。

 

  参考:『大智度論巻36』:『問曰。若爾者何以故復說十二入十八界。答曰。眾義應爾。入界義異。佛為法王。為眾生故或時略說或時廣說。有眾生於色識中不大邪惑。於心數法中多有錯謬故說五眾。有眾生心心數法中不生邪惑。但惑於色。為是眾生故說色為十處。心心數法總說二處。或有眾生於心數法中少生邪惑。而多不了色心。為是眾生故說心數法為一界。色心為十七界。

問曰。何以名為第一相應。

問うて曰く、何を以ってか、名づけて第一相応と為す。

 問い、

   何故、

     『第一の相応』と名づけるのか?

答曰。空是十方諸佛深奧之藏。唯一涅槃門更無餘門。能破諸邪見戲論。是相應不可壞不可破。是故名為第一。

答えて曰く、空は是れ十方の諸仏の深奥の蔵なり、唯一の涅槃門にして更に余の門無し、能く諸の邪見、戯論を破す。是れに相応すれば、不可壊、不可破なり。是の故に名づけて第一と為す。

 答え、

   『空』は、

     十方の諸仏の、

       『深奥の蔵』である。

     唯一の、

       『涅槃の門』であり、

       更に、余の門は無い。

     能く、

       『諸の邪見、戯論』を破るので、

   是れに、

     相応すれば、

       『不可壊』であり、

       『不可破』である。

   是の故に、

     『第一』と名づける。

 

 

 

 

 

仏土を浄めて、衆生を成就する

復次佛自說第一因緣。所謂

復た次ぎに、仏は自ら第一の因縁を説きたもう。謂わゆる、

 復た次ぎに、

   仏は、

     自ら、『第一の因縁』を説かれた。

   謂わゆる、

【經】舍利弗。空行菩薩摩訶薩不墮聲聞辟支佛地。能淨佛土成就眾生。疾得阿耨多羅三藐三菩提。

舎利弗、空行の菩薩摩訶薩は、声聞辟支仏の地に堕せず、能く仏土を浄めて衆生を成就し、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得。

 舎利弗!

   『空行』の、

     菩薩摩訶薩は、

       『声聞、辟支仏地』に堕せずに、

         『仏土』を浄めて、

         『衆生』を成就するのであり、

       疾かに、

         『阿耨多羅三藐三菩提』を得る。

舍利弗。諸相應中般若波羅蜜相應為最第一。最尊最勝最妙為無有上。何以故。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜相應。所謂空無相無作。當知是菩薩如受記無異。若近受記。

舎利弗、諸の相応中、般若波羅蜜の相応を最第一にして、最尊、最勝、最妙と為し、上の有ること無しと為す。何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜相応、謂わゆる空無相無作を行ずればなり。当に知るべし、是の菩薩は受記に異なりの無きが如し、若しは近く受記せん。

 舎利弗!

   『諸の相応』中に、

     『般若波羅蜜の相応』が、

       『第一』であり、

       『最尊、最勝、最妙』であり、

       『其の上』は無い。

   何故ならば、

     『是の菩薩摩訶薩』は、

       『般若波羅蜜の相応』、

       謂わゆる、

         『空、無相、無作』を行ずるからである。

   こう知るがよい、――

     『是の菩薩』は、

       『受記』と異なりが無く、

     若しくは、

       『受記』に近づいている、と。

舍利弗。菩薩摩訶薩如是相應者。能為無量阿僧祇眾生作益厚。是菩薩摩訶薩亦不作是念。我與般若波羅蜜相應。諸佛當授我記。我當近受記。我當淨佛土我得阿耨多羅三藐三菩提。當轉法輪。

舎利弗、菩薩摩訶薩は是の如く相応すれば、能く無量阿僧祇の衆生の為に益を作すこと厚し。是の菩薩摩訶薩は、亦た是の念を作さず、『我れは、般若波羅蜜と相応す』、『諸仏は当に我れに記を授くべし』、『我れは当に近く記を受くべし』、『我れは当に仏土を浄むべし』、『我れは阿耨多羅三藐三菩提を得て、当に法輪を転ずべし』と。

 舎利弗!

   菩薩摩訶薩が、

     是のように、

       相応するならば、

         無量阿僧祇の、衆生の為に、

         厚く、益を作すことができる。

   是の菩薩摩訶薩は、

     亦た、

       是の念を作さない、――

       『わたしは、

          般若波羅蜜と、相応している』、

       『諸仏は、

          わたしに、記を授けるだろう』、

       『わたしは、

          近く、受記するだろう』、

       『わたしは、

          仏土を、浄めなくてはならない』、

       『わたしは、

          阿耨多羅三藐三菩提を得て、

          法輪を転じよう』と。

何以故。是菩薩摩訶薩不見有法出法性。亦不見有法行般若波羅蜜。亦不見有法諸佛授記。亦不見有法得阿耨多羅三藐三菩提。何以故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不生我相眾生相乃至知者見者相。何以故。眾生畢竟不生不滅故。眾生無有生無有滅。若法無有生相滅相。云何是法當行般若波羅蜜。

何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は、『法の法性を出す有り』と見ざればなり。亦た『法の般若波羅蜜を行ずる有り』と見ず、亦た『法の諸仏記を授くる有り』と見ず、亦た『法の阿耨多羅三藐三菩提を得る有り』と見ず。何を以っての故に、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、我相、衆生相、乃至知者見者の相を生ぜざればなり。何を以っての故に、衆生は畢竟じて不生不滅なるが故なり。衆生には生有ること無く、滅有ること無し。若し法に、生相滅相有ること無ければ、云何が、是の法にして、当に般若波羅蜜を行ずべき。

   何故ならば、

     是の菩薩摩訶薩は、

       『有る法が、法性を出す』と見ない、亦た、

       『有る法が、般若波羅蜜を行ずる』とも見ない、亦た、

       『有る法に、諸仏が記を授ける』とも見ない、亦た、

       『有る法が、阿耨多羅三藐三菩提を得る』とも見ないからである。

   何故ならば、

     菩薩摩訶薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         『我相、衆生相』、乃至、

         『知者相、見者相』を生じないからである。

       何故ならば、

         『衆生』は、

           畢竟じて、『不生、不滅』であるが故に、

         『衆生』には、

           『生』も無く、

           『滅』も無いからである。

       若し、

         『法』に、

           『生相』も無く、

           『滅相』も無いならば、

         『是の法』に、

           『般若波羅蜜を、行ずる』ことがあろうか?

如是舍利弗。菩薩摩訶薩不見眾生故。為行般若波羅蜜。眾生不受故。眾生空故。眾生不可得故。眾生離故。為行般若波羅蜜。

是の如く、舎利弗、菩薩摩訶薩は、衆生を見ざるが故に般若波羅蜜を行ずと為す。衆生を受けざるが故に、衆生は空なるが故に、衆生は不可得なるが故に、衆生は離るるが故に、般若波羅蜜を行ずと為す。

 是の故に、

   舎利弗!

     菩薩摩訶薩は、

       『衆生を、見ない』が故に、

         『般若波羅蜜を、行ずる』のであり、

       『衆生は、受けない』が故に、

       『衆生は、空である』が故に、

       『衆生は、不可得である』が故に、

       『衆生は、離れる』が故に、

         『般若波羅蜜を、行ずる』のである。

舍利弗。菩薩摩訶薩於諸相應中為最第一相應。所謂空相應。是空相應勝餘相應。菩薩摩訶薩如是習空。能生大慈大悲。菩薩摩訶薩習是相應。不生慳心。不生犯戒心。不生瞋心。不生懈怠心。不生亂心。不生無智心

舎利弗、菩薩摩訶薩は諸の相応中に於いて最第一の相応、謂わゆる空相応と為し、是の空相応は余の相応に勝る。菩薩摩訶薩は是の如く空を習いて能く大慈大悲を生ず。菩薩摩訶薩は是の相応を習いて、慳心を生ぜず、犯戒心を生ぜず、瞋心を生ぜず、懈怠心を生ぜず、乱心を生ぜず、無智心を生ぜず。

 舎利弗!

   菩薩摩訶薩は、

     『諸の相応』中の、

       『最第一の相応』、

     謂わゆる、

       『空相応』であり、

     『是の空相応』は、

       余の相応に勝る。

   菩薩摩訶薩が、

     是のように、

       『空』を習えば、

         『大慈大悲』を生ずることになる。

   菩薩摩訶薩は、

     是の、

       『相応』を習えば、

         『慳心』を生じず、

         『犯戒心』を生じず、

         『瞋心』を生じず、

         『懈怠心』を生じず、

         『乱心』を生じず、

         『無智心』を生じない。

【論】釋曰。不墮聲聞辟支佛地者。空相應有二種。一者但空。二者不可得空。但行空墮聲聞辟支佛地。行不可得空空亦不可得。則無處可墮。復有二種空。一者無方便空墮二地。二者有方便空則無所墮。直至阿耨多羅三藐三菩提。

釈して曰く、声聞、辟支仏の地に堕せずとは、空相は応に二種有るべし、一には但空、二には不可得空なり。但だ空のみを行ずれば声聞、辟支仏の地に堕し、不可得空を行ずれば、空も亦た不可得にして、則ち処として堕すべき無し。復た二種の空有り、一には方便無き空にして二地に堕す、二には方便有る空にして則ち堕す所無く、直ちに阿耨多羅三藐三菩提に至る。

 釈す、

   『声聞、辟支仏に堕ちない』とは、

     空相には、

       二種有るということである。

       一には、『但空』、

       二には、『不可得空』である。

     即ち、

       但だ、

         『空』を行ずるのみでは、

         『声聞、辟支仏地』に堕ちるのである。

       又、

         『不可得空』を行ずれば、

         『空』も、亦た、

           『不可得』であるので、

           『堕ちる処』が無いのである。

   復た、

     二種の空が有る、

       一には、

         『無方便空』で、

           『二地』に堕す、

       二には、

         『有方便空』で、

           『堕す処』が無く、

         直ちに、

           『阿耨多羅三藐三菩提』に至る。

 

  直至阿耨多羅三藐三菩提:即ち方便を六波羅蜜、空を般若波羅蜜と為し、菩薩行は則ち阿耨多羅三藐三菩提なれば、直ちに至ると云うなり。

復次本有深悲心入空則不墮。無大悲心則墮。如是等因緣不墮二地。

復た次ぎに、本より深き悲心有りて空に入れば則ち堕せず。大悲心無くんば則ち堕せん。かくの如き等の因縁に二地に堕せず。

 復た次ぎに、

   本より、

     『深い悲心』が有って、

       『空』に入れば、

       『堕ちず』、

     『大悲心』が無くて、

       『空』に入れば、

       『堕ちる』のであるが、

   是れ等の因縁で、

     二地に堕ちないのである。

能淨佛世界成就眾生者。菩薩住是空相應中無所復礙。教化眾生令行十善道及諸善法以眾生行善法因緣故佛土清淨。以不殺生故壽命長。以不劫不盜故。佛土豐樂應念即至。如是等眾生行善法則佛土莊嚴。

能く仏世界を浄め衆生を成就すとは、菩薩は是の空相応中に住して、復た礙する所無く、衆生を教化して十善道及び諸の善法を行ぜしめ、衆生の善法を行ずる因縁を以っての故に、仏土清浄なり。不殺生を以っての故に寿命長く、不劫不盗を以っての故に仏土豊楽にして念に応じて即ち至る。かくの如き等、衆生善法を行ずれば則ち仏土は荘厳す。

 『能く、仏世界を浄めて衆生を成就する』とは、

   菩薩は、

     『是の空相応』中に住すれば、

       もう、

         『礙る所』が無く、

         『衆生』を教化して、

           『十善道』、及び、

           『諸の善法』を行わせる。

     則ち、

       『衆生』が、

         『善法を、行う』因縁を以っての故に、

       『仏土』は、

         『清浄』である。

         即ち、

           『不殺生』を以っての故に、

             『寿命』が長く、

           『不劫不盗』を以っての故に、

             『仏土』は豊楽で、

             『物』は念に応じて至る。

         是れ等のように、

           『衆生』が、善法を行うことが、

           『仏土』を、荘厳するのである。

問曰。教化眾生則佛土淨。何以別說。

問うて曰く、衆生を教化すれば則ち仏土浄し。何を以ってか、別して説く。

 問い、

   『衆生を、教化すれば、

    仏土は、浄まる』と、

   何故、

     特別に、説くのか?

答曰。眾生雖行善。要須菩薩行願迴向方便力因緣故。佛土清淨。如牛力挽車要須御者乃得到所至處。以是故別說。

答えて曰く、衆生は善を行うと雖も、要ず菩薩の行願、迴向、方便力の因縁を須つが故に、仏土清浄なり。牛力の車を挽くに、要ず御者を須ちて、乃ち至る所の処に到るが如し。是を以っての故に別して説く。

 答え、

   衆生は、

     『善』を、行うが、

   必ず、

     『菩薩』の、

       『行願、回向、方便力』の因縁を待つが故に、

       『仏土が、清浄になる』のである。

   譬えば、

     牛力が、

       車を挽くのに、

         必ず、御者を待って、

         ようやく、至る所の処に到るのと同じである。

   是の故に、

     別して説く。

疾得者行是空相應無有障礙。則能疾得阿耨多羅三藐三菩提。

疾かに得とは、是の空相応を行ずれば、障礙有ること無く、則ち能く疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得。

   『疾かに、得る』とは、

     『是の空相応』を行ずれば、

       『障礙が、無い』ので、

     疾かに、

       『阿耨多羅三藐三菩提を、得る』ことになる。

問曰。先說空相應。今說般若波羅蜜相應。後說無相無作相應。有何差別。

問うて曰く、先に空相応を説き、今は般若波羅蜜相応を説き、後には無相無作相応を説く。何なる差別か有る。

 問い、

   先には、

     『空相応』を説き、

   今は、

     『般若波羅蜜相応』を説き、

   後に、

     『無相、無作相応』を説く、

   何のような、

     『差別が、有る』のか?

答曰。有二種空。一者般若空。二者非般若空。先言空相應。聽者疑謂一切空。故說是般若波羅蜜空。

答えて曰く、二種の空有り、一には般若空、二には非般若空なり。先に空相応と言うに、聴者疑うて一切空と謂うが故に、『是れ般若波羅蜜の空なり』と説く。

 答え、

   二種の空が有る。

     一は、『般若空』であり、

     二は、『般若空』でない。

   先に、

     『空に相応する』と言ったが、

     聴者は、

       疑って、

         『一切は空である』と謂うので、

     故に、

       是れは、

          『般若波羅蜜の空である』と説くのである。

復有人疑。但言空第一。無相無作非第一耶。是故說空無相無作相應亦是第一。何以故。空則是無相。若無相則是無作。如是為一名字為別。

復た有る人の疑わく、『但だ空のみ第一と言うや、無相、無作は第一に非ざるや』と。是の故に、『空、無相、無作相応も亦た是れ第一なり。何を以っての故に、空なれば則ち是れ無相なり、若し無相なれば則ち是れ無作なればなり。是の如く一の為に、名字を別と為す』と説く。

 復た、

   有る人は、

     疑って、こう言う、――

       『但だ、

          空のみが、第一であり、

          無相、無作は第一ではないのか?』と。

   是の故に、

     こう説く、――

     『空、無相、無作相応も、

        亦た、

          第一である。

        何故ならば、

          空であれば、無相であり、

        若し、

          無相ならば、無作である。

      是のように、

        一ではあるが、

        名字を別にするのである』と。

最上故言尊。破有故言勝。得是相應不復樂餘。是為最妙。如一切眾生中佛為無上。一切法中涅槃無上。一切有為法中善法習相應為無上。餘義如讚般若品中說。

最上故に尊と言い、有を破するが故に勝と言い、是の相応を得て復た余を楽わざる、是れを最妙と為す。一切衆生中に仏を無上と為すが如く、一切法中に涅槃を無上と為し、一切有為法中に善法の習相応を無上と為す。余の義は、讃般若品中に説くが如し。

   最上であるが故に、

     『尊』と言い、

   有を破るが故に、

     『勝』と言い、

   是の、

     相応を得たならば、

     もう、余を楽しまないので、

   是れは、

     『最妙』である。

   一切の、

     『衆生』中に、

       『仏』を、最上とするように、

   一切の、

     『法』中には、

       『涅槃』は、無上であり、

   一切の、

     『有為法』中に、

       『善法の習相応』は、無上である。

   余の義は、

     『讃般若品』中に説くとおりである。

 

  讃般若品:摩訶般若波羅蜜経巻2歎度品他。

問曰。若能行如是空相應便應受記。云何言如受記無異若近受記。

問うて曰く、若し能く是の如き空相応を行ずれば、便ち応に受記すべし。云何が、『受記に異なりの無きが如し、若しは受記に近づく』と言う。

 問い、

   若し、

     是のような、

       『空相応』を行ずれば、

     疾かに、

       『受記』すべきである。

   何故、

     『受記と異なりが無い、若しくは受記に近い』と言うのか?

答曰。是菩薩新行道肉身未得無生法忍。未得般舟三昧。但以智慧力故。能如是分別深入空。佛讚其入空功德故。言如受記無異。有三種菩薩得受記者。如受記者近受記者得受記者。如阿毘跋致品中說。三種如此中說。

答えて曰く、是の菩薩は新に道を行じて、肉身は未だ無生法忍を得ず、般舟三昧を得ず、但だ智慧力を以っての故に、能く是の如く分別し、深く空に入れば、仏は其の入空の功徳を讃ずるが故に、『受記に異なりの無きが如し』と言えり。三種の菩薩有り、受記を得たる者、受記の如き者、受記に近づける者なり。受記を得たる者は、阿毘跋致品中に説くが如し。二種は、此の中に説くが如し。

 答え、

   『是の菩薩』は、

     新に、

       『道』を行じて、

     肉身は、

       未だ、

         『無生法忍』を得ず、

         『般舟三昧』を得ないが、

     但だ、

       智慧の力を以って、

         是のように、『分別』し、

         深く、『空』に入る。

     仏は、

       其の、

         『空に入る功徳』を讃ずるが故に、

         『受記と異なりが無い』と言うのである。

   三種の、

     『菩薩』が有る、

       一には、『受記を得た者』、

       二には、『受記のような者』、

       三には、『受記に近い者』である。

     『受記を得た者』は、

       『阿毘跋致品』中に説かれている。

     二種は、

       此の中に説くとおりである。

 

  阿毘跋致品:摩訶般若波羅蜜経巻16不退品。

  三種:他本に従い二種に改む。

問曰。如此說相應第一無上。云何不與受記。

問うて曰く、此に説くが如く、相応すれば第一無上なるに、云何が受記を与えざる。

 問い、

   此に説くように、

     相応すれば、

       『第一無上』であるならば、

     何うして、

       『受記を、与えない』のか?

答曰。餘功德方便禪定等未集但有智慧。是故未與受記。

答えて曰く、余の功徳、方便、禅定等は未だ集らず、但だ智慧のみ有れば、是の故に未だ受記を与えず。

 答え、

   余の、

     『功徳、方便、禅定』等が、

       未だ、集らず、

   但だ、

     『智慧』のみが有る。

   是の故に、

     未だ、『受記を、与えない』のである。

復次是菩薩雖復利根智慧。餘功德未熟故。聞現前受記或生憍慢。是故未與受記。所以讚歎者。欲以勸進其心。利根者行是空相應。如受記無異。鈍根者行是空相應。若近受記。

復た次ぎに、是の菩薩は復た利根にして、智慧ありと雖も余の功徳の未熟なるが故に、現前に受記を聞かば、或は憍慢を生ぜん。是の故に未だ受記を与えず。讃歎する所以は、以って其の心を勧進せんと欲す。利根の者は是の空相応を行じて、受記に異なりの無きが如く、鈍根の者は是の空相応を行じて、若しは受記に近づく。

 復た次ぎに、

   『是の菩薩』は、

     利根で、

       『智慧』が有るとしても、

     余の功徳が、

       『未熟』であるが故に、

     現前に、

       『受記』を聞いて、

         或は、

           『憍慢』を生ずる。

       是の故に、

         未だ、

           『受記』を与えないが、

         讃歎する所以は、

           『其の心』を

             『勧進』しようと欲するからである。

   『利根の者』が、

     『是の空相応』を行ずれば、

       『受記』と、異なりが無いようであり、

   『鈍根の者』は、

     『是の空相応』を行ずれば、

     若しは、

       『受記』に、近づく。

令眾生常安隱得涅槃。是名利益。復有二種利益。一者離苦。二者與樂。復有二種。滅眾生身苦心苦。復有三種。天樂人樂涅槃樂。復有三種。離三界入三乘。如是菩薩摩訶薩無量阿僧祇利益眾生。眾生義如先說。

衆生をして常に安穏にして涅槃を得しむ。是れを利益と名づく。復た二種の利益有り、一には苦を離る、二には楽を与う。復た二種有り、衆生の身苦と、心苦とを滅す。復た三種有り、天の楽、人の楽、涅槃の楽なり。復た三種有り、三界を離れて三乗に入る。是の如く菩薩摩訶薩は、無量阿僧祇に衆生を利益す。衆生の義は先に説けるが如し。

   『衆生』に、

     『常に安穏で、涅槃を得させる』、

   是れを、

     『利益』と名づける。

   復た、

     二種の利益が有る、

       一には、『苦より離す』、

       二には、『楽を与える』である。

   復た、

     二種有る、

       衆生の、

         『身の苦』を滅すると、

         『心の苦』を滅する、

   復た、

     三種有る、

       『天の楽、人の楽、涅槃の楽』、

   復た、

     三種有る、

       三界を離れて、

         『三乗』に入る。

   是のように、

     菩薩摩訶薩は、

       無量阿僧祇に、

         衆生を利益する。

   衆生の義は、

     先に説いたとおりである。

 

  参考:『大智度論巻35』:『問曰。如我乃至知者見者為是一事為各各異。答曰。皆是一我。但以隨事為異。於五眾中我我所心起故名為我。五眾和合中生故名為眾生。命根成就故名為壽者命者。能起眾事如父生子名為生者。乳哺衣食因緣得長是名養育。五眾十二入十八界等諸法因緣是眾法有數故名眾數。行人法故名為人。手足能有所作名為作者。力能役他故名使作者。能造後世罪福業故名能起者。令他起後世罪福業故名使起者。後身受罪福果報故名受者。令他受苦樂是名使受者。目睹色名為見者。五識知名為知者。

世人有大功勳則生憍心求其報賞。以求報故則為不淨。

世人は、大功勲有れば則ち憍心を生じて、其の報賞を求む。報を求むるを以っての故に則ち不浄と為す。

   『世人』は、

     『大功勲』が有れば、

       憍慢心を生じて、

       其の『報賞』を求める。

   則ち、

     『報賞』を求めるが故に、

       『不浄』である。

菩薩則不然。雖與般若波羅蜜相應利益無量眾生。無我心無憍慢故不求功報。如地雖利物功重不求其報。以是故說。是菩薩不作是念。我與般若相應。諸佛當受我記若近受記。我當淨佛土得無上道轉法輪。轉法輪義如先說。

菩薩は則ち然らず、般若波羅蜜と相応して無量の衆生を利益すと雖も、我心無く、憍慢無きが故に、功報を求めず。地は物を利する功重しと雖も、其の報を求めざるが如し。是を以っての故に説かく、『是の菩薩は、是の念を作さず、我れは般若と相応す、諸仏は当に我れに記を受くべし、若しは受記に近づく、我れは当に仏土を浄めて無上道を得、法輪を転ずべしと。』と。転法輪の義は、先に説くが如し。

   『菩薩』は、

     そうでない。

       『般若波羅蜜』と相応するので、

       『無量の衆生』を利益するのであるが、

     而し、

       『我心』が無く、

       『憍慢心』が無いが故に、

         『功の報』を求めない。

     譬えば、

       地は、

         物を利して、

           功が重いが、

         其の、

           報を求めないのと同じである。

   是の故に、

     こう説く、――

     是の菩薩は、

        是の念を作さない、――

        『わたしは、般若波羅蜜と相応している』、

        『諸仏は、わたしに受記するだろう』、

        若しくは、

          『近く、受記するだろう』、

         『わたしは、

            仏土を浄めて、

            無上道を得、

            法輪を転ずるだろう』と。

  転法輪の義は、

    先に説いたとおりである。

 

  参考:『大智度論巻25』:『轉梵輪者清淨故名梵。佛智慧及智慧相應法是名輪。佛之所說。受者隨法行是名轉。是輪以具足四念處為轂。五根五力為輻。四如意足為堅牢輞。而正懃為密合輪。三解脫為榍。禪定智慧為調適。無漏戒為塗輪香。七覺意為雜華瓔珞。正見為隨右轉輪。信心清淨為可愛喜。正精進為疾去。無畏師子吼為妙聲能怖魔輪破十二因緣節解輪。壞生死輪離煩惱輪。斷業輪障世間輪破苦輪。能令行者歡喜天人敬慕。是輪無能轉者。是輪持佛法。以是故名轉梵輪。復次佛轉法輪。如轉輪聖王轉寶輪。

問曰。何等法出法性。

問うて曰く、何等の法か、法性を出す。

 問い、

   何のような、

     『法』が、

       『法性を、出す』のか?

答曰。此中佛說。所謂行般若波羅蜜者。行般若波羅蜜者即是菩薩。知者見者即是眾生。法性中眾生變為法性以是故菩薩自不生高心。不從眾生求恩分。不見諸佛與受記。

答えて曰く、此の中に仏の説きたまわく、『謂わゆる般若波羅蜜を行ずる者なり』と。般若波羅蜜を行ずる者は、即ち是れ菩薩なり。知者、見者は即ち是れ衆生なり。法性中に衆生は変じて法性と為る。是を以っての故に、菩薩は自ら高心を生ぜず、衆生より恩分を求めず、諸仏の受記を与うるを見ず。

 答え、

   此の中に、

     仏は、

       こう説かれている、――

       『謂わゆる、般若波羅蜜を行ずる者である』と。

   『般若波羅蜜を行ずる者』、

     是れは、

       『菩薩』である。

   『知者と、見者』、

     是れは、

       『衆生』である。

   『法性』の中には、

     『衆生』は変じて、

     『法性』と為るのであり、

   是の故に、

     『菩薩』は、

       自らは、『高慢心』を生じず、

       衆生より、『恩分』を求めず、

       諸仏が、『受記を与える』のを見ないのである。

如菩薩空佛亦如是。如行者空得阿耨多羅三藐三菩提者亦空。何以故。佛自說菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不生眾生相乃至知者見者相。菩薩行般若波羅蜜。尚不生法相。何況眾生相。何以故。佛自說因緣。是眾生畢竟不生。不生故不滅。若法不生不滅即是法性相。法性即是般若波羅蜜。云何般若波羅蜜行般若波羅蜜。

菩薩の空なるが如く、諸仏も亦た是の如し。行者の空なるが如く、阿耨多羅三藐三菩提を得し者も亦た空なり。何を以っての故に、仏は自ら説きたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、衆生相、乃至知者、見者の相を生ぜず』と。菩薩は般若波羅蜜を行じて、尚お法相すら生ぜず、何に況んや、衆生相をや。何を以っての故に、仏は自ら因縁を説きたまわく、『是の衆生は畢竟じて不生なり。不生の故に不滅なり』と。若し法にして不生不滅なれば、即ち是れ法性の相なり。法性は即ち是れ般若波羅蜜なり。云何が、般若波羅蜜にして般若波羅蜜を行ぜん。

   『菩薩』が、

     『空』であるように、

   『仏』も、

     亦た、

       『空』である。

   『行者』が、

     『空』であるように、

   『阿耨多羅三藐三菩提を得る者』も、

     亦た、

       『空』である。

   何故ならば、

     仏は、

       自ら、こう説かれている、――

       『菩薩摩訶薩は、

          般若波羅蜜を行ずる時、

            衆生相を生じず、

          乃至、

            知者相、見者相を生じない』と。

     菩薩は、

       般若波羅蜜を行ずる時、

         尚お、『法の相』すら生じない、

         況して、『衆生相』は言うまでもない。

     何故ならば、

       『是の衆生』は、

         畢竟じて、

           『不生』であり、

         『不生』であるが故に、

           『不滅』だからである。

     若し、

       『法』が、

         『不生』であり、

         『不滅』ならば、

       是れは、

         『法性の相』である。

     『法性』とは、

       是れは、

         『般若波羅蜜』である。

       何うして、

         『般若波羅蜜』が、

           『般若波羅蜜を、行ずる』のか?

菩薩不受眾生者不受神但有虛妄計我。眾生空者。眾生法無所有故。眾生不可得者。以實智求索不可得故。眾生離者。一切法自相離故。一切離自相者。如火離熱相等。如相空中廣說。第一相應勝餘相應如上說。

菩薩は衆生を受けずとは、神を受けず。但だ虚妄して我を計することの有るのみ。衆生は空なりとは、衆生の法は所有無きが故なり。衆生は不可得なりとは、実智を以って求索すれば不可得なるが故なり。衆生離るとは、一切法自相を離るるが故なり。一切は自相を離るとは、火の熱相を離るる等の如し。相空の中に広く説くが如し。第一の相応は、余の相応に勝るとは、上に説くが如し。

   『菩薩』が、

     『衆生』を受けないとは、

       『神』を受けないのである。

     但だ、

       虚妄して計する、

       『我』を受けないのである。

     『衆生』が、

       『空』であるとは、

       『衆生の法』は、

         『無所有』だからである。

     『衆生』が、

       『不可得』であるとは、

         『実智』を以って求めても、

         『得られない』からである。

     『衆生』を、

       『離れる』とは、

         『一切法』は、

           『自相』を離れるからである。

         『一切法』が、

           『自相』を離れるとは、

         譬えば、

           火が、熱相を離れるのと同じであり、

           相空の中に広く説いたとおりである。

     『第一の相応』は、

       『余の相応』に勝るとは、

         上に、説いたとおりである。

 

  相空:大智度論巻31十八空義品自相空参照。

菩薩行是眾生空法空深入空相應。憶本願度眾生。見眾生狂惑顛倒於空事中種種生著。即生大悲心。我雖知是事餘者不知。以教化故生大慈大悲。亦能常不生破六波羅蜜法。

菩薩は是の衆生空、法空を行じて深く空相応に入るも、本願の度衆生を憶えて衆生を見れば、誑惑し空事中に顛倒して、種種に著を生ず。即ち『我れは是の事を知ると雖も、余の者は知らず』と大悲心を生じ、教化を以っての故に大慈大悲を生じて、亦た能く常に六波羅蜜を破することを生ぜず。

   菩薩は、

     是の、『衆生空、法空』を行じて、

     深く、『空相応』に入り、

     本願の、

       『衆生を度する』を思いだして、

       『衆生』を見ると、――

         『空事』中に、

           『狂惑、顛倒』して、

           種種に、

             『著』を生じている。

     即ち、

       『わたしは、

          是の事を知っているが、

          余の者は知らない』と

       『大悲心』を生じ、

       『教化する』ことを以っての故に、

         『大慈大悲』を生じ、亦た、

       常に、

         『心』を生じて、

         『六波羅蜜の法』を破らない。

所以者何。初發心菩薩行六波羅蜜。以六惡雜行故六波羅蜜不增長。不增長故不疾得道。今知諸法相拔是六惡法根本。

所以は何んとなれば、初発心の菩薩は六波羅蜜を行ずるに、六悪雑行を以っての故に六波羅蜜は増長せず。増長せざるが故に疾かに道を得ず、今は諸法の相を知りて、是の六悪法の根本を抜けばなり。

       何故ならば、

         『初発心の菩薩』が、

           『六波羅蜜』を行ずる時は、

             『六悪雑行』を以っての故に、

               『六波羅蜜』を増長しないからである。

           増長しないが故に、

             疾かに、

               『道』を得られないが、

             今、

               『諸法の相』を知って、

               『是の六悪法の根本』を抜いたのである。

所以者何。菩薩知布施為善。慳心不善。能墮餓鬼貧窮中知慳貪。如是自惜其身著世間樂故還生慳心。是菩薩輕物能施重物不能。外物能內物不能。以著我著受者以取相著財物。以是故破檀波羅蜜。雖有所施而不清淨。是菩薩行空相應故不見我。亦不見世間樂。云何生著而破檀波羅蜜。

所以は何んとなれば、菩薩は布施を善と為し、慳心は不善にして能く餓鬼、貧窮中に堕すと知り、慳貪の是の如きを知るも、自らは其の身を惜んで世間の楽に著するが故に還た慳心を生ず。是の菩薩は軽物を能く施すも、重物は能わず。外物を能くするも、内物は能わず。我に著するを以って受者に著し、相を取るを以って財物に著す。是を以っての故に、檀波羅蜜を破し、施す所有りと雖も、清浄ならず。是の菩薩も、空相応を行ずるが故に、我を見ず、亦た世間の楽を見ず。云何が著を生じて、檀波羅蜜を破せん。

       何故ならば、

         菩薩は、

           『布施は、

              善である、

            慳心は、

              不善であり、

              餓鬼、貧窮の中に堕とす者である』と知り、

           『慳貪』は、

             是のようである、と知りながら、

           自らは、

             『其の身』を惜んで、

             『世間の楽』に著する。

           故に、

             還た、『慳心』を生ずるのである。

         『是の菩薩』は、

           『軽物』は施すが、

             『重物』は施せない。

           『外物』は施せるが、

             『内物』は施せない。

         即ち、

           『我』に著し、

             『受者』に著するを以って、

           『相』を取って、

             『財物』に著するを以って、

         是の故に、

           『檀波羅蜜』を破るので、

             『施す所』が有っても、

             『清浄』ではない。

         『是の菩薩』が、

           『空相応』を行ずるが故に、

             『我』を見ず、

             『世間の楽』も、亦た見ないのである。

           何うして、

             『著』を生じて、

             『檀波羅蜜』を破るのか?

問曰。若不見我不見世間樂。故不破亦應不見檀。云何行布施。

問うて曰く、若し我を見ず、世間の楽を見ざるが故に破せずんば、亦た応に檀を見るべからず。云何が布施を行ずる。

 問い、

   若し、

     『我』を見ず、

     『世間の楽』を見ないが故に、

       『檀波羅蜜』を破らないのであれば、

   亦た、

     『檀波羅蜜』も見ないはずである。

   何故、

     『布施』を行うのか?

答曰。是菩薩雖不見布施。以清淨空心布施作是念。是布施空無所有。眾生須故施與。如小兒以土為金銀。長者則不見是金銀。便隨意與竟無所與。餘五法亦如是。以是故雖同空破慳而不破檀。

答えて曰く、是の菩薩は布施を見ずと雖も、清浄の空心を以って布施して、是の念を作さく、『是の布施は空にして無所有なり。衆生須むるが故に施与す』と。小児は、土を以って金銀と為すも、長者は則ち是れを金銀と見ざるが如し。便ち意の随に与え竟りて与うる所無し。余の五法も亦た是の如し。是を以っての故に、空に同じて慳を破すと雖も、檀を破せず。

 

 答え、

   『是の菩薩』は、

      『布施』を見ないが、

        『清浄の空心』を以って、

        『布施』するのであり、

        是の念を作すのである、――

        『是の布施は、

           空であり、

           無所有であるが、

         而し、

           衆生が求めるが故に、

           施与するのである』と。

      譬えば、

        小児は、

          土を、

            金銀であるとするが、

        長者は、

          是れを、

            金銀だとは見ないので、

            意の随に与え竟って、

            与える所が無くなるのである。

   余の五法も、

     亦た、是れと同じである。

   是の故に、

     『空』に同ずることにより、

       『慳』を破って、

       『檀』を破らないのである。

舍利弗。菩薩摩訶薩住是空相應中。能常不生是六惡心

大智度論卷第三十七

舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の空相応中に住して、能く常に是の六悪心を生ぜざるなり。

大智度論巻第三十七

 舎利弗!

   菩薩摩訶薩は、

     是の、空相応中に住するので、

     能く、是の六悪心を生じないのである。

 

大智度論巻第三十七

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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