巻第三十七(上)
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大智度論釋習相應品第三之餘(卷三十七)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


薩婆若は、三世と合しない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。薩婆若不與過去世合。何以故。過去世不可見。何況薩婆若與過去世合。薩婆若不與未來世合。何以故。未來世不可見。何況薩婆若與未來世合。薩婆若不與現在世合。何以故。現在世不可見。何況薩婆若與現在世合。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應 『復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずれば、薩婆若は、過去世と合せず。何を以っての故に、過去世は不可見なればなり。何に況んや、薩婆若の過去世と合するをや。薩婆若は、未来世と合せず。何を以っての故に、未来世は不可見なればなり。何に況んや、薩婆若の未来世と合するをや。薩婆若は、現在世と合せず。何を以っての故に、現在世は不可見なればなり。何に況んや、薩婆若の現在世と合するをや。舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く習応すれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく』。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『薩婆若』は、
『過去世』と、
『合することはない( not to unite with )!』。
何故ならば、
『過去世』は、
『不可見だからである!』。
況して、
『薩婆若が、過去世と合する!』など、
『言うまでもない!』。
『薩婆若』は、
『未来世』と、
『合することはない!』。
何故ならば、
『未来世』は、
『不可見だからである!』。
況して、
『薩婆若が、未来世と合する!』など、
『言うまでもない!』。
『薩婆若』は、
『現在世』と、
『合することはない!』。
何故ならば、
『現在世』は、
『不可見だからである!』。
況して、
『薩婆若が、現在世と合する!』など、
『言うまでもない!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『習応すれば!』、
是れが、
『般若波羅蜜』と、
『相応するということである!』。
  (ごう):合一する/合一させる( to unite )、又は二つの事物を合併する( or to combine two things )、梵語 saMgati, saMsarga, saMnikarasa の訳。二つの事物を一体にさせる( For two things to become one body )、梵語 sahaa の訳。根、境、及び自己との結合に依って、意識の特別な作用の産出( The production of the special function of consciousness by the connection of objects, organs and self )、例えば根境和合して触( contact )を生ずるが如し。◯梵語 upanaya の訳、適用の義:因明に於ける五支作法の第四支、喩を以って、提起された問題の論証に適用すること( 'Application.' In Buddhist logic 因明, the fourth component of the five-part syllogism 五支作法. Applying the major premise 喩 to the term of the proposition )、◯梵語 upasaMhaara の訳、調和( to harmonize )、触( contact )、合意/一致( To agree, to accord with )、因と縁との結合( The union of causes and conditions )の義。
  薩婆若(さばにゃ):また一切智とも称す。一切種智、道種智を併せて三智と称す。『大智度論巻37上注:一切智、一切種智、道種智』参照。
  一切智(いっさいち):梵語薩婆若sarva-jJataaの訳。又sarva-jJaa、或はsarva-jJaana、又薩婆若多、薩云若、薩芸然に作る。一切智性の義。三智の一。内外一切の法相を了知する智をいう。「法華経巻3化城喩品」に、「仏の一切智の為に大精進を発す」といい、「無量寿経巻上」に、「設し我れ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説する能わずんば正覚を取らじ」と云い、又「仁王護国般若波羅蜜多経巻下奉持品」に、「無漏界を満足したる常浄解脱の身、寂滅不思議なるを名づけて一切智と為す」と云える如きこれなり。其の解釈に関しては、「尊婆須蜜菩薩所集論巻9」に、「一切智とは其の義云何。或はこの説を作す、一切を覚知するこれを薩芸然と謂う。猶お書に明らかなれば則ち書師と名づくるが如し。復た次ぎに一切の事に於いて知ること自在なるこれを薩芸然と謂う」と云い、「倶舎論巻29破我品」には、「纔かに作意する時、知らんと欲する所の境に於いて無倒の智起こる、故に一切智と名づく。一念に於いて能く頓に遍く知るに非ず」と云い、又「菩薩地持経巻3」には、一切の界、事、種、時に於いて無礙なる智を一切智と名づく。界とは世界衆生界、事とは有為無為、種とは因果界趣等の分別、時とは三世なり。此等の一切を了知して、遺余なきを一切智となすと云い、又「大日経疏巻1」には、「釈論に薩婆若多と云うは即ち一切智なり、一切とは謂わく、名色等の無量の法門に、各一切の法を摂す、かくの如く無量の三四五六等、乃至阿僧祇の法門に一切の法を摂す。この一切の法の中に一相、異相、漏相、非漏相、作相、非作相等あり。一切の法に各各の相、各各の力、各各の因縁、各各の果報、各各の性、各各の得、各各の失あり。一切智慧の力の故に、一切の世、一切の種を尽く遍く知解す、これを薩婆若と名づく」と云えり。其の所得の人に関しては、「大毘婆沙論巻15」に、「仏は能く名の辺際を知るを以っての故に一切智と名づく。有説は仏及び独覚は名の辺際を知る。余は知ること能わず。有説は仏及び独覚と到彼岸の声聞とは名の辺際を知る、余は知ること能わず。評して曰わく、初説を善しと為す。唯だ仏のみ能く名の辺際を知る。余は皆一切智あることなきが故に」と云えり。之に依るに説一切有部の正義は、一切智を以って唯だ仏の所得となすも、余の師は独覚及び声聞にも通ずとなしたるを見るべし。又「大品般若経巻21三慧品」には、「薩婆若はこれ一切の声聞辟支仏の智、道種智はこれ菩薩摩訶薩の智、一切種智はこれ諸仏の智なり」と云えり。これ一切智を以って三乗共智とし、一切種智を唯だ仏の所得となすの説なり。「大智度論巻27」に一切智と一切種智との別を論じ、有人は別なしとし、又有人は一切智は総相なり、因なり略説なり、総じて一切法中の無明の闇を破し、一切種智は別相なり、果なり広説なり、種種の法門を観じて諸の無明を破するを云うとし、天台にては一切智を空智、一切種智を中道智とし、而して四教の中、蔵通二教の果人は一切智、別円二教の果人は一切種智を得るとし、「華厳経随疏演義鈔巻16」には、一切智を根本智、一切種智を後得智なりとし、又真言にては一切智を権智即ち後得智となして、之を一切種智と同一視し、共に貶して顕教の分斉なりとし、別に一切智智を立てて実智とし、之を一切智中の最第一となせり。又「雑阿毘曇心論巻8」、「大乗義章巻19」、「観音玄義巻下」、「異部宗輪論述記」等に出づ。<(望)
  一切種智(いっさいしゅち):梵語sarvathaa-jJaanaの訳。三智の一。一切法の寂滅相及び行類差別に了達する仏所得の智をいう。「大品般若経巻21三慧品」に、「一相の故に一切種智と名づく。謂わゆる一切法の寂滅相なり。復た次ぎに諸法の行類相貌を名字に顕示して説くを、仏は実の如く知る。ここを以っての故に一切種智と名づく」と云えるこれなり。又「大智度論巻27」に、「声聞辟支仏は、尚お別相を尽くして一衆生の生処の好醜、事業の多少を知ること能わず。未来現在世も亦かくの如し。何に況んや一切衆生をや。一閻浮提の金の名字の如き尚お知ること能わず。何に況んや三千大千世界をや。一物の中の種種の名字に於いて、若しは天語、若しは龍語、かくの如き等の種種の語言の金に名づくるもの、尚お知ること能わず。何に況んや能く金の因縁、生処、好悪、貴賎、因って福を得、因って罪を得、因って道を得ることを知らんや。かくの如き現事尚お知ること能わず。何に況んや心心数法をや。謂わゆる禅定智慧等の諸法なり。仏は尽く諸法の総相と別相とを知るが故に名づけて一切種智と為す」と云い、又「大乗起信論」には、「自体に一切の妄法を顕照し、大智用無量の方便ありて、諸の衆生の解を得べき所に随って、皆能く種種の法義を開示す、故に一切種智と名づくることを得」と云えり。天台が此の智を中道智、又は空仮中を照らす智とし、四教の中には、別円二教所得の智と為せるは、一切智に対して解したるなり。又「大智度論巻50、巻84」、「往生論註巻下」、「摩訶止観巻3」、「観音玄義巻下」等に出づ。<(望)
  道種智(どうしゅち):道の種別を知る智の意。具さに一切道種智と云い、又道種慧、道智、或は道相智とも名づく。三智の一。即ち世間出世間の一切道門の差別を遍知する菩薩不共の智を云う。「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩、道慧を得んと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。菩薩摩訶薩、道慧を以って道種慧を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。道種慧を以って一切智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし」と云い、「大智度論巻27」に之を解し、「道は一道に名づく、一向に涅槃に趣くなり。(中略)復た十道あり、所謂十無学道、十想道、十智道、十一切処道、十不善道、十善道、乃至一百六十二道、かくの如き等の無量の道門あり。かくの如き諸道を尽く知り遍く知る、これを道種慧と名づく」と云えるこれなり。これ能く諸道の差別を知悉するを道種慧と名づけたるなり。又前引大智度論の連文に道種智を以って一切智を得と説くに関し、「問うて曰わく、経の中に説くが如き、六波羅蜜三十七品十力四無所畏等の諸法を行じて一切智を得と。何を以っての故に、此の中但だ道種智を用って一切智を得と説くや。答えて曰わく、汝所説の六波羅蜜等は即ちこれ道なり。この道を知り、この道を行じて一切智を得るに何の疑う所ぞ。復た次ぎに初発心より乃ち坐道場に至り、其の中間に於ける一切の善法を尽く名づけて道と為す。此の道の中に分別思惟して而も行ずるこれを道智と名づく。此の経の後に説くが如し、道智はこれ菩薩の事なり」と云えり。これ総じて六波羅蜜等の中に於いて分別思惟して行ずるを道種智と名づくることを明にせるなり。天台家に於いては之を空仮中三観の中の仮観に配し、塵沙を破して成ずる所の化道の智となせり。「摩訶止観巻3上」に、「若し従空入仮して薬病種種の法門を分別せば、即ち無知を破して道種智を成ず」と云い、又「仏智、仮を照らして菩薩の所見の如くなるを道種智と名づく」と云える其の意なり。又「観音玄義巻下」には、下中上及び上上の四智を分別し、生滅の一切智を下智と名づけて蔵教に、体法の一切智を中智と名づけて通教に、道種智を上智と名づけて別教に一切種智を上上智と名づけて円教に配し、又五眼の中には之を法眼に対せり。又「断般若波羅蜜多経巻6至巻10」、「大智度論巻84」、「摩訶止観巻2下、巻3下」、「法華経玄義巻3下」、「金光明玄義巻上」等に出づ。<(望)
  参考:『大般若経巻5』:『復次舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。不觀一切智與過去若相應若不相應。何以故。尚不見有過去。況觀一切智與過去若相應若不相應。不觀一切智與未來若相應若不相應。何以故。尚不見有未來。況觀一切智與未來若相應若不相應。不觀一切智與現在若相應若不相應。何以故。尚不見有現在。況觀一切智與現在若相應若不相應。舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。與如是法相應故。當言與般若波羅蜜多相應』
【論】釋曰。菩薩行般若波羅蜜。不觀薩婆若與過去世同。何以故。過去世是虛妄。薩婆若是實法。過去世是生滅相。薩婆若非生滅相。過去世及法求覓不可得。何況薩婆若與過去世合。 釈して曰く、菩薩は般若波羅蜜を行じて、薩婆若は過去世と同じなりと観ず。何を以っての故に、過去世は是れ虚妄にして、薩婆若は是れ実法なり。過去世は是れ生滅相にして、薩婆若は生滅相に非ず。過去世、及び法は求覓するも得べからず。何に況んや、薩婆若の過去世と合するをや。
釈す、
『菩薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『薩婆若は、過去世と同じだ!』と、
『観ることはない!』。
何故ならば、
『過去世は、虚妄である!』が、
『薩婆若』は、
『実法であり!』、
『過去世は、生滅相である!』が、
『薩婆若』は、
『生滅相でない!』が故に、
『過去世や、過去の法』を、
『求覓しても!』、
『得られないからである!』。
況して、
『薩婆若が、過去世と合するなど!』、
『言うまでもない!』。
  求覓(ぐみゃく):探し求める。求索。
復次佛自說因緣。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不見過去世。何況薩婆若與過去世合。未來現在世亦如是。未來世除生滅相其餘義同。 復た次ぎに、仏の、自ら因縁を説きたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずれば、過去世を見ず。何に況んや、薩婆若の過去世と合するをや。未来、現在世も亦た是の如し』、と。未来世は、生滅相を除けば、其の餘の義は同じ。
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれた、――
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『過去世』を、
『見ることはない!』。
況して、
『薩婆若が、過去世と合するなど!』、
『言うまでもない!』。
『未来、現在世』も、
亦た、
『是の通りである!』、と。
『未来世は、生滅相を除けば!』、
『餘の義』は、
『現在、過去と同じである!』。
復次以時故說有三世。過去未來現在。時義如一時中說。 復た次ぎに、時を以っての故に、三世の過去、未来、現在有りと説く。時の義は、『一時』中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『時を用いる!』が故に、
『三世の過去、未来、現在』が、
『有る!』。
『時の義』は、
『一時』中に、
『説いた通りである!』。
復次薩婆若是十方三世諸佛真實智慧。三世者從凡夫虛妄生。云何與薩婆若合。譬如真金不與弊鐵同相。 復た次ぎに、薩婆若は、是れ十方、三世の諸仏の真実の智慧なり。三世は、凡夫の虚妄より生ず。云何が薩婆若と合せんや。譬えば真金の、弊鉄と相を同じうせざるが如し。
復た次ぎに、
『薩婆若』は、
『十方、三世の諸仏』の、
『真実の!』、
『智慧である!』が、
『三世』は、
『凡夫』の、
『虚妄より!』、
『生じるのである!』。
何故、
『薩婆若』と、
『合するのか?』。
譬えば、
『真金』が、
『弊鉄( rusty iron )』と、
『相を同じうしないようなものである!』。
問曰。如隨喜品中說。菩薩摩訶薩念過去現在諸佛薩婆若智慧等諸功德。迴向阿耨多羅三藐三菩提。云何言過去現在世不與薩婆若合。 問うて曰く、随喜品中に説けるが如く、菩薩摩訶薩は、過去、現在の諸仏の薩婆若の智慧等の諸功徳を念じて、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するに、云何が、『過去、現在世は、薩婆若と合せず』、と言う。
問い、
『随喜品』中には、こう説かれているのに、――
『菩薩摩訶薩』は、
『過去、現在の諸仏』の、
『薩婆若の智慧等の諸功徳を念じて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向する!』、と。
何故、こう言うのですか?――
『過去、現在世』は、
『薩婆若』と、
『合しない!』、と。
答曰。若以著心取相念薩婆若者。不名迴向阿耨多羅三藐三菩提。譬如雜毒食初雖香美後不便身。若菩薩分別過去現在諸佛薩婆若者。應與三世合。今不取相故則無有合。 答えて曰く、若し著心を以って、相を取り、薩婆若を念ずれば、阿耨多羅三藐三菩提に迴向すと名づけず。譬えば、毒を雑えた食は、初め香美なりと雖も、後に身に便ならず。若し菩薩、過去、現在の諸仏の薩婆若を分別すれば、応に三世と合すべし。今、相を取らざるが故に、則ち合有ること無し。
答え、
若し、
『著心を用いて、相を取り!』、
『薩婆若を念じれば!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向する!』と、
『称されることはない!』。
譬えば、
『毒を雑えた食』は、
『初め、香美であっても!』、
『後に!』、
『身に不便な( be hard on his body )ようなものである!』。
若し、
『菩薩』が、
『過去、現在の諸仏』の、
『薩婆若』を、
『分別すれば!』、
当然、
『三世』と、
『合するはずである!』が、
今、
『相を取らない!』が故に、
『三世と合すること!』は、
『無い!』。
  不便(ふべん):便利でない/適切でない/不適切な/耐えがたい( inconvinient, inappropriate, unsuitable, hard on )。
問曰。菩薩亦念未來世當成佛。薩婆若亦自念我當得薩婆若。是名與未來世薩婆若合。云何言不合。 問うて曰く、菩薩は、亦た『未来世に当に仏の薩婆若を成ずべし』、と念じ、亦た自ら、『我れは、当に薩婆若を得べし』、と念ずれば、是れを、『未来世の薩婆若と合す』、と名づく。云何が、『合せず』、と言う。
問い、
『菩薩』が、
亦た、
未来世には、
『仏の薩婆若を成じねばならない!』と、
『念じたり!』、
亦た、
自ら、
わたしは、
『薩婆若を得ねばならない!』と、
『念じれば!』、
是れは、
『未来世の薩婆若』と、
『合したことになる!』。
何故、
『合しない!』と、
『言うのですか?』。
答曰。薩婆若過三界出三世。畢竟清淨相。行者但以憶想分別我當得是薩婆若。如世間法憶想當有所得。而是事未生未有。時節未至因緣未會都無處所。云何當與合。如明當服蘇今已憶臭。 答えて曰く、薩婆若は三界を過ぎて、三世を出で、畢竟清浄の相なり。行者は但だ憶想を以って、『我れは、当に是の薩婆若を得べし』、と分別し、世間法の如きを、『当に所得あるべし』、と憶想するも、是の事は未だ生ぜず、未だ有らず、時節未だ至らず、因縁未だ会せざれば、都て処する所無し。云何が、当に与(とも)に合うべき。明けて当に蘇を服すべきに、今已に臭を憶ゆるが如し。
答え、
『薩婆若』は、
『三界を過ぎて、三世を出ており!』、
『畢竟清浄』の、
『相である!』が、
『行者』は、
『但だ、憶想する!』が故に、
わたしは、
是の、
『薩婆若を得ねばならぬ!』と、
『分別するだけである!』。
例えば、
『世間法など!』を、
『所得が有るはずだ!』と、
『憶想したとしても!』、
是の、
『事』は、
未だ、
『生じたのでもなく!』、
『有るのでもなく!』、
未だ、
『時節』が、
『至ったのでもなく!』、
未だ、
『因縁』が、
『出会ったのでもない!』ので、
都てに( nowhere )、
『処所( that where something is )』が、
『無い!』のに、
何故、
是の、
『法』と、
『合することになるのか?』。
譬えば、
『明日、蘇を服することになっていれば!』、
『今、已に!』、
『蘇の臭』を、
『憶える( to think of )ようなものである!』。
  処所(しょしょ):居所。
  (そ):紫蘇。
又如迦栴延弟子輩言未來世中菩提。語菩薩言。若能修相好身者。我當來處之。如貴家女自恣無難。遣使語貧家子言。汝好莊嚴房舍幃帳種種備具。我當來處汝家中。如是說者是不如法。以是故不得以薩婆若與三世合。 又、迦栴延の弟子輩の言えるが如きは、『未来世中の菩提の菩薩に語りて言わく、『若し能く相好の身を修すれば、我れは当に来たりて処すべし』、と。貴家の女の、自ら恣(ほしいまま)にして、難ずる無く、使を遣して、貧家の子に語りて言わく、『汝、好く房舎を幃帳もて莊嚴し、種種に備具すれば、我れは、当に来たりて、汝が家中に処すべし』、と。是の如く説かば、是れ如法にあらず。是を以っての故に、薩婆若を以って、三世と合するを得ず』、と。
又、
『迦栴延の弟子輩』は、こう言っている、――
『未来世中の菩提』が、
『菩薩に語って!』、こう言うのは、――
若し、
『相好の身を修めれば!』、
わたしは、
『来て!』、
『処する( to place myself there )だろう!』、と。
譬えば、
『貴家の女』が、
『自ら、恣にして!』、
『難じられること!』も、
『無く!』、
『貧家の子に、使を遣して!』、こう言うようなものである、――
お前が、
『房舎』を、
『幃帳で、好もしく莊嚴し!』、
『種種に備具すれば!』、
わたしは、
『来て!』、
『お前の家』中に、
『処するだろう!』、と。
是のように、
『説けば!』、
是れは、
『如法ではない!』。
是の故に、
『薩婆若』は、
『三世と合するはずがない!』、と。
  (し):<動詞>往く/適く/去る( go to, leave )。<代名詞>[人或は事物を指す]此れ/あれ( this, that )、[他に相当]彼の( he, his, she, her, it, its, they, them )。<助詞>[所属を示す]の( of )、[直上の語が動詞であることを示す]。
  幃帳(いちょう):ひだを寄せたカーテン( drapery )。
  備具(びぐ):準備がととのう( prepared )。
  参考:『大智度論巻4』:『復次有人言。阿耨多羅三藐三菩提住是身中若身相不嚴。阿耨多羅三藐三菩提不住此身中。譬如人欲娶豪貴家女。其女遣使語彼人言。若欲娶我者。當先莊嚴房室除卻污穢塗治香熏安施床榻被褥綩綖幃帳幄慢幡蓋華香必令嚴飾。然後我當到汝舍。阿耨多羅三藐三菩提亦復如是。遣智慧使未來世中到菩薩所言。若欲得我先修相好以自莊嚴。然後我當住汝身中。若不莊嚴身者我不住也。以是故菩薩修三十二相。自莊嚴身為得阿耨多羅三藐三菩提故。是時菩薩漸漸長大。見老病死苦厭患心生。夜半出家。六年苦行。食難陀婆羅門女益身十六功德石蜜乳糜。食竟。菩提樹下破萬八千億鬼兵魔眾已。得阿耨多羅三藐三菩提。』
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻177』:『問菩薩於身為有愛慢而莊嚴耶。答不爾。問云何。答菩薩為欲降伏世間恃色憍慢不受化者令受化故。以諸相好而莊嚴身。復次為顯佛所有法皆殊勝故。謂色力族姓眷屬名譽財富自在。智見功德皆悉殊勝。若不爾者。則所說法無人信受。是故菩薩莊嚴其身。復次欲與阿耨多羅三藐三菩提作所依器故。所以者何。殊勝功德決定依止殊勝之身。彼未來阿耨多羅三藐三菩提義。語菩薩言。汝欲令我在身中者。先令汝身清淨殊勝。以諸相好而莊嚴之。若不爾者。我亦不能於汝身生。譬如有人欲娉王女迎至室宅。彼密遣使而語之言。汝欲令我至舍宅者。先應灑掃除去鄙穢。懸繒幡蓋燒香散花種種莊嚴。吾乃可往。若不爾者。我亦不能至汝舍宅。是故菩薩莊嚴其身。』
問曰。餘法甚多。何以但說薩婆若。 問うて曰く、餘法は甚だ多し。何を以ってか、但だ薩婆若を説く。
問い、
『餘法は、甚だ多い!』のに、
何故、
但だ、
『薩婆若を説くのですか?』。
答曰。是薩婆若菩薩所歸趣。深心欲得。於三世中求索故。 答えて曰く、是の薩婆若は、菩薩の帰趣する所にして、深心に得んと欲して、三世中に求索するが故なり。
答え、
是の、
『薩婆若』は、
『菩薩』の、
『帰趣する所であり( to be followed )!』、
『深心に、得ようとして!』、
『三世』中を、
『求索するからである( to search for )!』。
  帰趣(きしゅ):梵語 abhigama の訳、接近( approaching )の義、追求( following )の意。
  求索(ぐさく):◯梵語 abhinanda の訳、望む/欲求する( wish, desire for )の義、探し求める( look for )の意。◯梵語 paryeSTi の訳、探索/捜索( searching for )の義。
問曰。何以不於有為無為法中求。 問うて曰く、何を以ってか、有為、無為法中に求めざる。
問い、
何故、
『有為、無為法』中に、
『求めないのですか?』。
答曰。後當說一切法中求 答えて曰く、後に当に一切法中に求むと説くべし。
答え、
後に、こう説くことになるだろう、――
『一切法』中に、
『求める!』、と。



五衆、十二入は薩婆若と合しない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。色不與薩婆若合。色不可見故。受想行識亦如是。眼不與薩婆若合。眼不可見故。耳鼻舌身意亦如是。色不與薩婆若合。色不可見故。聲香味觸法亦如是。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應名與般若波羅蜜相應 『復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずれば、色は薩婆若と合せず、色は不可見なるが故なり。受想行識も亦た是の如し。眼は薩婆若と合せず、眼は不可見なるが故なり。耳鼻舌身意も亦た是の如し。色は薩婆若と合せず、色は不可見なるが故なり。声香味触法も亦た是の如し。舎利弗、菩薩摩訶薩の是の如く習応するを、般若波羅蜜と相応すと名づく』。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『色』が、
『薩婆若』と、
『合することはない!』、
何故ならば、
『色』は、
『不可見だからである!』。
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』。
『眼』が、
『薩婆若』と、
『合することはない!』、
何故ならば、
『眼』は、
『不可見だからである!』。
亦た、
『耳鼻舌身意』も、
『是の通りである!』。
『色』が、
『薩婆若』と、
『合することはない!』、
何故ならば、
『色』は、
『不可見だからである!』。
亦た、
『声香味触法』も、
『是の通りである!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『習応すれば!』、
『般若波羅蜜』と、
『相応したことになる!』。
【論】問曰。何以但說五眾十二入。不說十八界十二因緣。 問うて曰く、何を以ってか、但だ五衆、十二入を説きて、十八界、十二因縁を説かざる。
問い、
何故、
『但だ、五衆、十二入を説きながら!』、
『十八界、十二因縁』を、
『説かないのですか?』。
答曰。應當說。或時誦者忘失。何以知之。佛所說五眾十二入十八界十二因緣事垢淨。五眾十八界十二入十二因緣名為事。不定是垢不定是淨。是中或有結使生。或有善法生。如田定能生物隨種皆生。眾界入十二因緣是為事。六波羅蜜乃至一切種智是為淨種。 答えて曰く、応当に説くべきに、或は時に誦者忘失せん。何を以ってか、之を知る。仏の所説は、五衆、十二入、十八界、十二因縁の事の垢、浄なり。五衆、十八界、十二入、十二因縁を名づけて、事と為すに、是れ垢なりと定らず、是れ浄なりと定らず。是の中に或は有る結使生じ、或は有る善法生ず。田の定んで、能く物を生じ、種に随いて皆生ずるが如し。衆、界、入、十二因縁は、是れを事と為し、六波羅蜜、乃至一切種智は、是れを浄種と為す。
答え、
『当然、説くべきであっても!』、
或は時に、
『誦者』が、
『忘失することもある!』。
何故、知るかといえば、――
『仏の所説』は、
『五衆、十二入、十八界、十二因縁という!』、
『事』の、
『垢、浄である!』が、
『五衆、十八界、十二入、十二因縁』を、
『事と称すれば!』、
是れは、
『垢である!』とも、
『定らず!』、
是れは、
『浄である!』とも、
『定らない!』ので、
是の中に、
或は、
有る、
『結使が生じ!』、
或は、
有る、
『善法が生じる!』。
譬えば、
『田』は、
定んで、
『物』を、
『生じさせることができる!』が、
皆、
『種に随って!』、
『生じるようなものである!』。
『衆、界、入、十二因縁が、事であり!』、
『六波羅蜜、乃至一切種智』は、
『浄種である!』。
所以不說垢者。是菩薩結使已薄不以自惱。是故不說。又菩薩智慧深入解諸法空。無諸煩惱但集諸功德。以是故應說十八界十二因緣。 垢を説かざる所以(ゆえ)は、是の菩薩は結使已に薄れ、以って自ら悩ませざれば、是の故に説かず。又菩薩の智慧は深く入りて、諸法の空を解すれば、諸煩悩無く、但だ諸功徳を集む。是を以っての故に、応に十八界と、十二因縁を説くべし。
『垢を説かない所以( the reason not to explain the pollution )』は、
是の、
『菩薩の結使は、已に薄れて!』、
『自らを!』、
『悩ませない!』ので、
是の故に、
『説かない!』。
又、
『菩薩の智慧』は、
『諸法の空に深く入って、解する!』ので、
『諸煩悩が無くなり!』、
『但だ、諸功徳のみ!』を、
『集めるからである!』。
是の故に、
『十八界や、十二因縁』は、
当然、
『説かれなくてはならない!』。
如色等事中不應有薩婆若合。所以者何。是薩婆若三世中不可得故。色等事中亦不可得。是皆世間因緣和合無有定性 色等の如き、事中には、応に薩婆若と合する有るべからず。所以は何んとなれば、是の薩婆若は、三世中に不可得なるが故に、色等の事中にも、亦た不可得なるは、是れ皆、世間の因縁和合にして、定性有ること無ければなり。
『色等の事』中などに、
『薩婆若と合する!』など、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
是の、
『薩婆若』は、
『三世』中に、
『不可得である!』が故に、
亦た、
『色等』の、
『事」中にも、
『不可得であり!』、
是れが、
『皆、世間の因縁和合であって!』、
『定性』が、
『無いからである!』。



六波羅蜜、乃至八聖道分は薩婆若と合しない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。檀波羅蜜不與薩婆若合。檀波羅蜜不可見故。乃至般若波羅蜜亦如是。四念處不與薩婆若合。四念處不可見故。乃至八聖道分亦如是 『復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずれば、檀波羅蜜薩婆若と合せず、檀波羅蜜は不可見なるが故なり。乃至般若波羅蜜も亦た是の如し。四念処は、薩婆若と合せず、四念処は不可見なるが故なり、乃至八聖道分も亦た是の如し』。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『檀波羅蜜』が、
『薩婆若』と、
『合することはない!』。
何故ならば、
『檀波羅蜜』は、
『不可見だからである!』。
乃至、
『般若波羅蜜』も、
『是の通りである!』。
『四念処』が、
『薩婆若』と、
『合することはない!』。
何故ならば、
『四念処』は、
『不可見だからである!』。
乃至、
『八聖道分』も、
『是の通りである!』。
【論】問曰。五眾等是世間法。可不與薩婆若合。六波羅蜜云何不與合。 問うて曰く、五衆等は、是れ世間法なれば、薩婆若と合せざるべし。六波羅蜜、云何が与に合せざる。
問い、
『五衆等は、世間法であり!』、
『薩婆若』と、
『合することもないだろう!』が、
『六波羅蜜』が、
何故、
『合しないのですか?』。
答曰。六波羅蜜有二種。一者世間。二者出世間。為世間檀波羅蜜故說不與合。出世間檀波羅蜜應與合。 答えて曰く、六波羅蜜には二種有り、一には世間、二には出世間なり。世間の檀波羅蜜と為すが故に、与に合せずと説くも、出世間の檀波羅蜜なれば、応に与に合すべし。
答え、
『六波羅蜜には、二種有り!』、
一には、
『世間』の、
『六波羅蜜であり!』、
二には、
『出世間』の、
『六波羅蜜である!』。
『世間の檀波羅蜜である!』が故に、
『合しない!』と、
『説かれた!』が、
『出世間の檀波羅蜜ならば!』、
当然、
『合するはずである!』。
復次菩薩行六波羅蜜。漏結未盡。不得與佛薩婆若合。 復た次ぎに、菩薩は、六波羅蜜を行ずるも、漏結未だ尽きざれば、仏の薩婆若と合するを得ず。
復た次ぎに、
『菩薩が、六波羅蜜を行じても!』、
『漏結が、未だ尽きていなければ!』、
『仏の薩婆若』と、
『合することはない!』。
復次佛說六波羅蜜空尚不可見。何況與薩婆若合。三十七品亦如是。 復た次ぎに、仏は、六波羅蜜は空なれば、尚お不可見なりと説きたまえば、何に況んや、薩婆若と合するをや。三十七品も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『仏』は、
『六波羅蜜は空であり!』、
『尚お、不可見である( yet that is unvisible )!』と、
『説かれた!』。
況して、
『薩婆若と合することなど!』、
『尚更である!』。
亦た、
『三十七品と合すること!』も、
『是の通りである!』。
問曰。是六波羅蜜雜有道俗故。三十七品趣涅槃道云何不合。 問うて曰く、是の六波羅蜜は、道俗を雑えて有するが故に、三十七品は、涅槃に趣く道なるに、云何が合せざる。
問い、
是の、
『六波羅蜜』には、
『道、俗を雑えて!』、
『有するのである!』から、
是の故に、
『三十七品』は、
『涅槃に趣く!』、
『道である!』のに、
何故、
『合しないのか?』。
答曰。三十七品是二乘法但為涅槃。菩薩為佛道。是故不合。 答えて曰く、三十七品は、是れ二乗の法にして、但だ涅槃の為めなり。菩薩は仏道の為めなれば、是の故に合せず。
答え、
『三十七品は、二乗の法であり!』、
但だ、
『涅槃の為め!』の、
『道である!』が、
『六波羅蜜という!』、
『菩薩の道』は、
『仏道の為め!』の、
『道であり!』、
是の故に、
『合することはない!』。
問曰。摩訶衍品中有三十七品。亦是菩薩道。云何不與薩婆若合。 問うて曰く、摩訶衍品中には、三十七品有り、亦た是れ菩薩の道なり。云何が薩婆若と合せざる。
問い、
『摩訶衍品』中には、
『三十七品有り!』、
是れも、
亦た、
『菩薩の道である!』。
何故、
『薩婆若』と、
『合しないのか?』。
答曰。有菩薩以著心故。行三十七品多迴向涅槃。是故佛說不合 答えて曰く、有る菩薩は、著心を以っての故に、三十七品を行ずるも、多く涅槃に迴向す。是の故に仏は合せずと説きたまえり。
答え、
有る、
『菩薩は、著心を用いる!』が故に、
『三十七品を行じながら!』、
多くは、
『涅槃』に、
『迴向している!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『合しない!』と、
『説かれたのである!』。



仏の乃至十八不共法は薩婆若と合しない

【經】佛十力乃至十八不共法不與薩婆若合。佛十力乃至十八不共法不可見故。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應 『仏の十力、乃至十八不共法は、薩婆若と合せず。仏の十力、乃至十八不共法は、不可見なるが故なり。舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く習応すれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく』。
『仏の十力、乃至十八不共法』が、
『薩婆若』と、
『合することはない!』。
何故ならば、
『仏の十力、乃至十八不共法』は、
『不可見だからである!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『習応すれば!』、
是れが、
『般若波羅蜜』と、
『相応するということである!』。
【論】釋曰。是十力乃至十八不共法。雖是妙法為薩婆若故行。以菩薩漏結未盡故。不應與薩婆若合。 釈して曰く、是の十力、乃至十八不共法は、是れ妙法なりと雖も、薩婆若の為めの故に行ずれば、菩薩の漏、結未だ尽きざるを以っての故に、応に薩婆若と合すべからず。
釈す、
是の、
『十力、乃至十八不共法は、妙法である!』が、
『薩婆若の為めに行ずれば( doing it with the aim to get the Sarvajna )!』、
『菩薩の漏、結が、未だ尽きていない!』が故に、
『薩婆若』と、
『合するはずがない!』。
復次佛十力等法有三種。一者菩薩所行雖未得佛道漸漸修習。二者佛所得而菩薩憶想分別求之。三者佛心所得。上二種不應與合。下一種雖可合而菩薩未得。是故不合。 復た次ぎに、仏の十力等の法には、三種有りて、一には、菩薩の所行にして、未だ仏道を得ずと雖も、漸漸に修習す。二には、仏の所得なれば、菩薩は憶想、分別して之を求む。三には、仏心の所得なり。上の二種は、応に与に合すべからざるも、下の一種は、合すべしと雖も、菩薩は、未だ得ざれば、是の故に合せず。
復た次ぎに、
『仏の十力等の法』には、
『三種有り!』、
一には、
『菩薩の所行であり!』、
『未だ、仏道を得ていなくても!』、
『漸漸に( gradually )!』、
『修習するものである!』。
二には、
『仏の所得である!』が故に、
『菩薩』は、
『憶想、分別して!』、
『求めようとするだけである!』。
三には、
『仏心の所得である!』。
『上の二種』は、
『薩婆若』と、
『合するはずがなく!』、
『下の一種』は、
『合することができたとしても!』、
『菩薩』は、
『未だ、得ていない!』が故に、
『合することはない!』。
復次空故不可見。不可見故不合。是以皆言不可見故 復た次ぎに、空なるが故に不可見、不可見なるが故に合せず。是を以って、皆、『不可見なるが故に!』と言えり。
復た次ぎに、
『十力等の法』は、
『空である!』が故に、
『不可見であり!』、
『不可見である!』が故に、
『薩婆若』と、
『合しない!』ので、
是の故に、
皆、こう言われたのである、――
『不可見だから!』、と。



仏、菩提は薩婆若と合しない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。佛不與薩婆若合。薩婆若不與佛合。菩提不與薩婆若合。薩婆若不與菩提合 『復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずれば、仏は薩婆若と合せず、薩婆若は仏と合せず、菩提は薩婆若と合せず、薩婆若は菩提と合せず』。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じれば!』、
『仏』は、
『薩婆若』と、
『合することなく!』、
『薩婆若』は、
『仏』と、
『合することなく!』、
『菩提』は、
『薩婆若』と、
『合することなく!』、
『薩婆若』は、
『菩提』と、
『合することはない!』。
【論】問曰。菩薩及菩薩法。可不與薩婆若合。云何佛及菩提復不與合。 問うて曰く、菩薩、及び菩薩の法は、薩婆若と合せざるべし。云何が、仏、及び菩提も、復た合せざるや。
問い、
『菩薩や、菩薩の法』が、
『薩婆若』と、
『合することがないとしても!』、
何故、
『仏や、菩提までが!』、
『復た、合しないのですか?』。
答曰。佛是人。薩婆若是法。人是假名。法是因緣。眾生乃至知者見者無故佛亦無。眾生中尊上第一是名為佛。是故不合。 答えて曰く、仏は是れ人にして、薩婆若は是れ法なり。人は是れ仮名にして、法は是れ因縁なり。衆生、乃至知者、見者無きが故に、仏も亦た無し。衆生中の尊上第一なる、是れを名づけて仏と為せば、是の故に合せず。
答え、
『仏が、人ならば!』、
『人』は、
『仮名であり!』、
『菩提が、法ならば!』、
『法』は、
『因縁である(≒the cause of Buddha )!』。
『衆生も知者、見者も無い!』が故に、
『仏』も、
『無いことになり!』、
『衆生中の尊上第一』を、
『仏』と、
『称する!』ので、
是の故に、
『仏も、菩提も!』、
『合しないのである!』。
復次得薩婆若故名為佛。若佛得薩婆若。先以是佛不須薩婆若。若非佛得薩婆若者。何以言佛得薩婆若。以是故和合因緣生不得言先後。 復た次ぎに、薩婆若を得るが故に、名づけて仏と為す。若し仏、薩婆若を得たまえば、先に是(ここ)を以て、仏は薩婆若を須(ま)ちたまわず。若し仏、薩婆若を得たもうに非ざれば、何を以ってか、『仏は、薩婆若を得たもう』、と言う。是を以っての故に和合の因縁生は、先後を言うを得ず。
復た次ぎに、
『薩婆若を得られた!』が故に、
『仏』と、
『称するのである!』が、
若し、
『仏』が、
『薩婆若』を、
『得られたならば!』、
是の故に、
『先に、仏が薩婆若を得られなかった!』時、
『薩婆若』を、
『須たれなかったことになる( did not await )!』。
若し、
『仏』が、
『薩婆若』を、
『得られなかったならば!』、
何故、こう言うのか?――
『仏』は、
『薩婆若』を、
『得られた!』、と。
是の故に、
『和合の因縁より、生じた!』者に、
『先、後を言うこと!』は、
『得られない( be not suitable )!』。
  (とく):<動詞>[本義]獲得する( get, obtain, gain )、発見する( discover, obtain, find out )、知る( hear of, learn about )、捕獲する( catch )、成功/完成する( succeed )、適合する( fit befit, suit )、具備する( have, possess )、できる/能くする( can )、得意である/満足する( be proud of, revel in )、看る( see )。<名詞>収穫/心得( what one has learned )、徳/道徳( virtue )。<副詞>必須/必ず( must, have to )、必然( will be sure to )。<形容詞>適合した/正確な( suitable, right )。<助詞>[動詞の後に置き可能を表す]、[動詞と補語の中間に置いて可能を表す]。
復次離佛無薩婆若離薩婆若無佛。得薩婆若故名佛。佛所有故名薩婆若。 復た次ぎに、仏を離れて薩婆若無く、薩婆若を離れて仏無く、薩婆若を得るが故に仏と名づけ、仏の所有なるが故に、薩婆若と名づく。
復た次ぎに、
『仏を離れて、薩婆若は無く!』、
『薩婆若を離れて!』、
『仏は無い!』。
『薩婆若を得る!』が故に、
『仏』と、
『称し!』、
『仏の所有である!』が故に、
『薩婆若』と、
『称する!』。
問曰。佛是人故可不與合。菩提是無上道云何不合。 問うて曰く、仏は是れ人なるが故に与に合せざるべし。菩提は是れ無上道なるに、云何が合せざる。
問い、
『仏は、人である!』が故に、
『薩婆若』と、
『合しないとしても!』、
『菩提は、無上道である!』のに、
何故、
『合しないのか?』。
答曰。菩提名為佛智慧。薩婆若名為佛一切智慧。十力智為菩提。第十一如實智名為薩婆若。二智不得一心中生。 答えて曰く、菩提を名づけて、仏の智慧と為し、薩婆若を名づけて、仏の一切の智慧と名づけ、十の力、智を菩提と為し、第十一の如実智を名づけて、薩婆若と為すも、二智は一心中に生ずるを得ず。
答え、
『菩提とは、仏の智慧であり!』、
『薩婆若』とは、
『仏の一切の智慧である!』。
『十力、十智』を、
『菩提』と、
『称し!』、
『第十一の如実智(知如実智)』を、
『薩婆若』と、
『称する!』が、
『菩提、薩婆若の二智』は、
『一心』中に、
『生じることはない!』。
復次是十力等諸佛法及佛菩提。皆是菩薩憶想分別非實。唯佛所得薩婆若是實。今此菩提是菩薩菩提。是心中虛妄未實。云何與薩婆若合。 復た次ぎに、是の十力等の諸仏の法、及び仏の菩提は、皆是れ菩薩の憶想、分別にして、実に非ず。唯だ仏の所得の薩婆若のみ、是れ実なり。今、此の菩提は、是れ菩薩の菩提にして、是の心中は虚妄にして、未だ実にあらざるに、云何が薩婆若と合せんや。
復た次ぎに、
是の、
『十力等の諸仏の法や、仏の菩提』は、
皆、
『菩薩の憶想、分別する所であり!』、
『実ではない!』。
唯だ、
『仏の所得である!』、
『薩婆若のみ!』が、
『実である!』。
今、
此の、
『菩提』は、
『菩薩』の、
『菩提であり!』、
是の、
『心』中は、
『虚妄であり!』、
『未だ、実ではない!』が故に、
何故、
『薩婆若』と、
『合するのか?』。
復次此經中佛自說不合因緣 復た次ぎに、此の経中に、仏は自ら、合せざる因縁を説きたまえり。
復た次ぎに、
此の、
『経』中に、
『仏』は、
自ら、
『合しない因縁』を、
『説かれている!』、――
【經】何以故。佛即是薩婆若。薩婆若即是佛。菩提即是薩婆若。薩婆若即是菩提。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是習應。是名與般若波羅蜜相應。 『何を以っての故に、仏は即ち是れ薩婆若にして、薩婆若は即ち是れ仏なり。菩提は即ち是れ薩婆若にして、薩婆若は即ち是れ菩提なればなり。舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、是の如く習応すれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく』。
何故ならば、
『仏が、薩婆若であり!』、
『薩婆若』が、
『仏であり!』、
『菩提が、薩婆若であり!』、
『薩婆若』が、
『菩提だからである!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
是のように、
『習応(修習・順応)すれば!』、
是れが、
『般若波羅蜜』と、
『相応するということである!』。



五衆の有無、乃至我非我、相無相を習わない

復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不習色有不習色無。受想行識亦如是。不習色有常不習色無常。受想行識亦如是。不習色苦不習色樂。受想行識亦如是。不習色我不習色非我。受想行識亦如是。不習色寂滅不習色非寂滅。受想行識亦如是。不習色空不習色非空。受想行識亦如是。不習色有相不習色無相。受想行識亦如是。不習色有作不習色無作。受想行識亦如是。 『復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、色の有を習わず、色の無を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の有常を習わず、色の無常を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の苦を習わず、色の楽を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の我を習わず、色の非我を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の寂静を習わず、色の非寂静を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の空を習わず、色の非空を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の有相を習わず、色の無相を習わず、受想行識も亦た是の如し。色の有作を習わず、色の無作を習わず、受想行識も亦た是の如し』。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
『色』が、
『有であるか、無であるか!』を、
『習わない( be not attached to a comprehending that )!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『有常であるか、無常であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『苦であるか、楽であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『我であるか、非我であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『寂滅であるか、非寂滅であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『空であるか、非空であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『有相であるか、無相であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『色』が、
『有作であるか、無作であるか!』を、
『習わない!』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  (じゅう):◯梵語 abhyasta の訳、繰り返された/数々修行された/練習された( Repeated, frequently practised, exercised )の義、暗記された( learnt by heart )の意。◯梵語 adhyasita の訳、又著、貪とも訳す、確信された/決定された/理解された( ascertained, determined, apprehended )の義、有る理解に執著する( to be attached to a comprehending )の意。
  参考:『大般若経巻5』:『復次舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。不著色有。不著色非有。不著受想行識有。不著受想行識非有。不著色常。不著色無常。不著受想行識常。不著受想行識無常。不著色樂。不著色苦。不著受想行識樂。不著受想行識苦。不著色我。不著色無我。不著受想行識我。不著受想行識無我。不著色寂靜。不著色不寂靜。不著受想行識寂靜。不著受想行識不寂靜。不著色空。不著色不空。不著受想行識空。不著受想行識不空。不著色無相。不著色有相。不著受想行識無相。不著受想行識有相。不著色無願。不著色有願。不著受想行識無願。不著受想行識有願。舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多。與如是法相應故。當言與般若波羅蜜多相應』
是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不作是念。我行般若波羅蜜。不行般若波羅蜜。非行非不行般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩如是習應。是名與般若波羅蜜相應 『是の菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、是の念を作さず、『我れは般若波羅蜜を行ず、般若波羅蜜を行ぜず、般若波羅蜜を行ずるに非ず、行ぜざるに非ず』、と。舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く習応すれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく』。
是の、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時には、こう念じることはない、――
わたしは、
『般若波羅蜜を行じる!』とか、
『般若波羅蜜を行じない!』とか、
『般若波羅蜜を行じるでもなく、行じないでもない!』、と。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称する!』。
【論】釋曰。若菩薩觀五眾非有非無。於是亦不著。爾時與般若波羅蜜相應。所以者何。一切世間著二見。若有若無。順生死流者多著有。逆生死流者多著無。我見多者著有。邪見多者著無。 釈して曰く、若し菩薩、五衆の非有非無を観じて、是に於いても、亦た著せざれば、爾の時、般若波羅蜜と相応す。所以は何んとなれば、一切の世間は、二見の若しは有、若しは無に著す。生死の流に随う者は、多く有に著し、生死の流に逆らう者は、多く無に著し、我見多き者は有に著し、邪見多き者は無に著す。
釈す、
若し、
『菩薩』が、
『五衆』は、
『非有非無( neither existent nor unexistent )である!』と、
『観て!』、
是の、
『観にも!』、
『著さなければ!』、
爾の時、
『般若波羅蜜』と、
『相応するのである!』。
何故ならば、
『一切の世間』は、
『有とか、無とか!』の、
『二見』に、
『著しており!』、
『生死の流に随う!』者は、
『多く!』が、
『有に著し!』、
『生死の流に逆らう!』者は、
『多く!』が、
『無に著し!』、
『我見が多ければ!』、
『有』に、
『著し!』、
『邪見が多ければ!』、
『無』に、
『著するからである!』。
復次四見多者著有。邪見多者著無。二毒多者著有。無明多者著無。不知五眾因緣集生著有。不知集者著無。近惡知識及邪見外書故墮斷滅無罪福。中無見者著無。餘者著有。 復た次ぎに、四見の多き者は有に著し、邪見多き者は無に著す。二毒多き者は有に著し、無明多き者は無に著す。五衆の因縁の生を集むるを知らざれば、有に著し、集むる者を知らざれば、無に著す。悪知識、及び邪見の外書に近づくが故に断滅、無罪福中に堕つるの見無き者は、無に著し、餘の者は有に著す。
復た次ぎに、
『四見(身見、辺見、見取見、戒禁取見)』が、、
『多ければ!』
『有に著し!』、
『邪見』が、
『多ければ!』、
『無に著す!』。
『二毒(貪毒、瞋毒)』が、、
『多ければ!』、
『有に著し!』、
『無明( the poison of ignorance )』が、
『多ければ!』、
『無に著す!』。
『五衆の因縁が生を集める!』と、
『知らなければ!』
『有に著し!』、
『集める!』者を、
『知らなければ!』、
『無に著す!』。
『悪知識や、邪見の外書に近づく!』が故に、
『断滅や、無罪福中に墜ちるという!』、
『見が無ければ!』、
『無に著し!』、
『餘の者』は、
『有に著す!』。
  (じゅう):梵語samudaya(即ち結合、招聚の義)の訳、また習とも訳す。吾人を苦海に結び付け、未来の生死を招聚するの意にして、即ち愛煩悩を指す。『大智度論巻37上注:集諦』参照。
  集諦(じったい):梵語samudaya-satyaの訳、具さに集聖諦samudaya-aarya-satyaと云う。巴梨語samudaya-sacca、又習諦、苦習聖諦、或は苦集諦とも名づく。四諦の一。即ち愛等が苦果の因となることの審実にして謬らざるを云う。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が愛習苦習聖諦なる。謂わく衆生には実に愛の内の六処あり。耳鼻舌身意処なり。中に於いて若し愛あり膩あり染あり著あらば是れを名づけて集となす。諸賢、多聞の聖弟子は、我れかくの如く此の法を知り、かくの如く見、かくの如く了し、かくの如く観じ、かくの如く覚するを知る、是れを愛集苦集聖諦と謂う」と云い、「増一阿含経巻17」に、「彼れ云何が名づけて苦習諦と為すや、謂わく習諦とは愛欲と相応して心恒に染著する、是れを謂って名づけて苦習諦と為す」と云い、「雑阿含経巻13」の偈に、「諸業と愛と無明は、因となりて他世の陰を積む」と云い、又「集異門足論巻6」に、「云何が苦集聖諦なる、答う諸の有漏の因、是れを苦集聖諦と名づく」と云える是れなり。是れ三界の苦果が愛等の因によりて招かるることの審実不虚なるを集諦と名づけたるなり。何物を集諦の自性となすやに関しては諸部の間に異説あり。「大毘婆沙論巻77」に依るに、阿毘達磨の諸論師は広く諸の有漏法の因となるものを名づけて集諦となし、譬喩者は業煩悩を以って集諦となし、分別論者は集と集諦とを区別し、後有を招くの愛は集にして集諦なり、余の愛及び余の有漏の因は集なるも集諦に非ずと説くと云えり。又「成実論巻2四諦品」に、「諸の業煩悩は、是れ後身の因縁なるが故に集諦と名づく」と云えるは、即ち譬喩者の説に同じきを見るべし。此の中、分別論者が唯後有を招くの愛を以って集諦となせるは、前掲「中阿含分別聖諦経」の説に依りしものなり。之に関し「大毘婆沙論巻78」には此の説を以って偏に増勝に約せるものとし、実には諸の有漏法の能く因となるものを皆集諦となすべしとなせり。即ち彼の文に「何が故に世尊は但だ集諦は是れ愛なりと説きて余に非ざる。答う、愛は集聖諦を施設する中に於いて勢用増強なり、余の有漏に非ざるが故に、偏に愛は是れ集なりと説きて余に非ず。然るに有漏法は皆是れ集諦なり、行蘊を施設する中に、思は最勝なるが故に思を説いて余に非ざるも、而も実には相応不相応の行皆是れ行蘊なるが如し。是の故に偏に愛を説いて集諦となす」と云い、又「倶舎論巻22」に、「経の所説は是れ密意の言なり、阿毘達磨は法相に依りて説く。然るに経の中に愛を説いて集と為すは偏に起因を説くなり。伽他の中に業と愛と無明とを皆因と為すと説くは、具さに生と起と及び彼の因因とを説くなり。云何が爾ることを知るや、業を生因と為し、愛を起因と為すことは経の所説なるが故なり」と云える其の意なり。之に依るに説一切有部に於いては唯愛のみを以って集諦の自性となさず、有漏法の果性となるの辺を論じて苦諦となすに対し、有漏法の因性となるの辺を皆集諦の摂となすの意なるを知るべし。又「成唯識論巻9」には集諦に習気集、等起集、未離繋集の三種の別ありとし、「一に習気集は謂わく遍計所執自性の執習気なり、彼を執する習気なれば仮に彼の名を立つ。二に等起集は謂わく煩悩業なり。三に未離繋集は謂わく未だ障を離れざる真如なり」と云えり。是れ偏、依、円の三性に約して集諦を説明せるものにして、此の中の等起集は正しく今の集諦の義に当れりというべし。又「雑阿含経巻16」、「長阿含経巻9」、「舎利弗阿毘曇論巻4」、「法蘊足論巻6」、「中論巻4観四諦品」、「雑阿毘曇心論巻8」、「成実論巻7至巻9」、「瑜伽師地論巻67」、「顕揚聖教論巻15」、「四諦論巻2」、「順正理論巻57」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻29」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」、「大乗義章巻3本」、「摩訶止観巻1之3」等に出づ。<(望)
或有眾生。謂一切皆空心著是空。著是空故名為無見。或有眾生。謂一切六根所知法皆有。是為有見。 或は、有る衆生は、『一切は、皆空なり』、と謂うも、心は是の空に著すれば、是の空に著するが故に名づけて、無見と為す。或は、有る衆生は、『一切の六根所知の法は、皆有なり』、と謂えば、是れを有見と為す。
或は、
有る、
『衆生』は、
一切は、
『皆、空である!』と、
『謂いながら!』、
『心』は、
是の、
『空』に、
『著する!』が、
是の、
『空に著する!』が故に、
是れを、
『無見( the view of the unexistence of all-things )』と、
『称する!』。
或は、
有る、
『衆生』は、
一切の、
『六根所知の法は、皆有である!』と、
『謂う!』ので、
是れを、
『有見( the view of the existence of some-things )』と、
『称する!』。
愛多者著有見見多者著無見。如是等眾生著有見無見。是二種見虛妄非實破中道。 愛多き者は、有見に著し、見多き者は無見に著す。是れ等の如く、衆生は有見、無見に著するも、是の二種の見は虚妄、非実にして、中道を破る。
『愛の多い!』者は、
『有見』に、
『著し!』、
『見の多い!』者は、
『無見』に、
『著す!』が、
是れ等のように、
『衆生』は、
『有見や、無見に!』、
『著し!』、
是の、
『二種の見は虚妄、非実であり!』、
『中道』を、
『破るものである!』。
譬如人行狹道一邊深水一邊大火二邊俱死。著有著無二事俱失。所以者何。若諸法定實有則無因緣。若從因緣和合生。是法無自性。若無自性即是空。若無法是實則無罪福。無縛無解亦無諸法種種之異。 譬えば、人の狭道を行くに、一辺は深水、一辺は大火にして、二辺は倶に死なるが如く、有に著するも、無に著するも、二事は倶に失なり。所以は何んとなれば、若し諸法にして定実の有なれば、則ち因縁無く、若し因縁和合より生ずれば、是の法には自性無し。若し自性無ければ、即ち是れ空なり。若し無法にして、是れ実なれば、則ち罪福無く、縛無く、解無く、亦た諸法の種種の異無し。
譬えば、
『人が、狭道を行く!』時、
『一辺が深水、一辺が大火だとすれば!』、
『二辺』は、
『倶に、死である( both are to die )ように!』、
『有に著そうが、無に著そうが!』、
『二事』は、
『倶に、失である( both are false )!』。
何故ならば、
若し、
『諸法が定実の有ならば!』、
則ち、
『因縁』が、
『無いことになり!』、
若し、
『諸法が因縁の和合より、生じれば!』、
是の、
『法』には、
『自性』が、
『無く!』、
若し、
『自性が無ければ!』、
是の、
『法』は、
『空である!』が、
若し、
『無法(≒空法)が実ならば!』、
『罪、福も、縛、解も! 」、
『無いことになり!』、
亦た、
『諸法の種種の異( the differences between Dharmas )』も、
『無いことになる!』。
  (し):<動詞>[本義:生命の終止]死ぬ/死亡/あの世( die, decease, expire, pass away, beyond )。[某事、某人の為めに]生命を犠牲にする( lay down one's life for )、死を賭す( risk one's life, to the death )、しがみつく/死守する( cling to )。<形容詞>動かない/死んだような/停滞した( fixed, dead, stagnant )、通過できない/閉ざされた( impassable, closed )、無用の( useless )、[動きが]固い。<副詞>極めて/甚だ( extremely, to death )。<名詞>死刑/死体( capital punishment, corpse )。
復次有見者與無見者相違。相違故有是非。是非故共諍。有諍故起諸結使。結使故生業。生業故開惡道門。實相中無有相違是非鬥諍。 復た次ぎに、有見の者は、無見の者と相違し、相違するが故に是、非有り、是非の故に共に諍い、諍有るが故に諸結使を起し、結使の故に業を生じ、業を生ずるが故に悪道の門を開く。実相中には相違、是非、闘諍有ること無し。
復た次ぎに、
『有見の者』は、
『無見の者』と、
『相違し!』、
『相違する!』が故に、
『是、非』が、
『有り!』、
『是、非』の故に、
『共に( with together )!』、
『諍い( to wrangle )!』、
『諍の有る!』が故に、
『諸の結使( bindings and instigations )』を、
『起し( to raise )!』、
『結使』の故に、
『業』を、
『生じ!』、
『業を生じる!』が故に、
『悪道の門』を、
『開くのである!』が、
『実相』中には、
『相違も、是非も、闘諍も!』、
『無い!』。
復次著有者事若無常則生憂惱。若著無者作諸罪業死墮地獄受苦。不著有無者無有如是等種種過失。應捨是則得實。 復た次ぎに、有に著する者は、事若し無常なれば、則ち憂悩を生じ、若し無に著すれば、諸の罪業を作し、死して地獄に墮ちて苦を受くるも、有無に著せざる者は、是れ等の如き種種の過失有ること無ければ、応に是れを捨て、則ち実を有べし。
復た次ぎに、
『有に著する!』者は、
『事が、無常ならば( his affairs are not everlasting )!』、
則ち、
『憂悩』を、
『生じることになり!』、
『無に著する!』者は、
『諸の罪業を作す!』が故に、
『死ねば、地獄に墮ちて!』、
『苦を受けることになる!』が、
『有、無に著さない!』者は、
是れ等のような、
『種種の過失』が、
『無い!』ので、
当然、
是の、
『見』を、
『捨てて!』、
則ち( namely )、
『実』を、
『得なければならないのである!』。
復次是五眾若常若無常是事不然。所以者何。若五眾常則無生無滅。無生無滅故則無罪福。無罪福故則無善惡果報。世間如涅槃不壞相。如是妄語誰當信者。 復た次ぎに、五衆は、若しは常、若しは無常なれば、是の事は然らず。所以は何んとなれば、若し五衆常なれば、則ち無生、無滅にして、無生、無滅なるが故に則ち罪福無く、罪福無きが故に則ち善悪の果報無く、世間は涅槃の如く不壊相なれば、是の如き妄語を、誰か当に信ずべき者なる。
復た次ぎに、
是の、
『五衆』は、
『常であっても、無常であっても!』、
是の、
『事』は、
『正しくない!』。
何故ならば、
若し、
『五衆が常ならば!』、
則ち、
『生も、滅も!』、
『無く!』、
『生、滅の無い!』が故に、
則ち、
『罪も、福も!』、
『無く!』、
『罪、福の無い!』が故に、
則ち、
『善、悪の果報』が、
『無く!』、
『世間』は、
『涅槃のように!』、
『不壊相となるからである!』。
是のような、
『妄語』を、
誰が、
『信じるのか?』。
現見死亡啼哭。是則眾生無常。如草木彫落華果磨滅。是則外物無常。大劫盡時一切都滅。是為大無常。如是等種種因緣。如是五眾常不可得。 現見せる死亡、啼哭は、是れ則ち衆生の無常なり。草木の彫落、華果の磨滅の如きは、是れ則ち外物の無常なり。大劫尽くる時、一切の都て滅するは、是れを大の無常と為す。是れ等の如き種種の因縁もて、是の如き五衆の常は不可得なり。
『現見した死亡、啼哭( regarded deth or wailing )』は、
『衆生』の、
『無常であり!』、
『草木の彫落や、華果の磨滅』は、
『外物』の、
『無常であり!』、
『大劫の尽きる時、一切が都て滅する!』のは、
『大( of being )』の、
『無常である!』。
是れ等のような、
『種種の因縁』で、
是のような、
『五衆の常』は、
『不可得である!』。
  現見(げんけん):梵語 pratyavekSya の訳、見守られた/注意を払われた( to be regarded or paid attention to )の義。
  死亡(しぼう):梵語 maraNa の訳、死/死ぬこと/中止( death, the act of dying, cessation )の義。
  啼哭(たいこく):梵語 vilapana の訳、号泣/悲嘆( wailing, lamenting )の義。
  彫落(ちょうらく):雕落。衰え落ちる。世を去る。
  大無常(だいむじょう):梵語 bhuuta-anitya? の訳、存在の無常( the transience of being )の義。
復次無常破常。不應以無常為是。所以者何。若諸法無常相念念皆滅。則六情不能取六塵。所以者何。內心外塵。俱無住故。不應得緣不應得知。亦無修習因緣果報。因緣多故果報亦多。此事不應得。又以有常見與無常見共諍。如是等種種因緣。五眾無常則不可得 復た次ぎに、無常は、常を破るも、応に無常を以って、是と為すべからず。所以は何んとなれば、若し諸法は無常相にして、念念に皆滅すれば、則ち六情は、六塵を取る能わず。所以は何んとなれば、内心と外塵と倶に住無きが故に、応に縁を得べからず、応に知を得べからずして、亦た修習の因縁、果報も無ければ、因縁多きが故に果報も亦た多くとも、此の事を応に得べからず。又、有常見の、無常見と共に諍うを以って、是れ等の如き種種の因縁もて、五衆の無常は則ち不可得なり。
復た次ぎに、
『無常は、常を破る!』が、
『無常』を、
『是と為すべきではない( must not consider that is right )!』。
何故ならば、
若し、
『諸法が無常相であり!』、
『念念に( at every moment )!』、
『皆、滅すれば!』、
則ち、
『六情』が、
『六塵を取ることができなくなる!』。
何故ならば、
『内心も、外塵も!』、
『倶に( both )!』、
『住することが無い( be not staying )!』が故に、
当然、
『縁を得るはずがなく( must not get causing )!』、
『知を得るはずがない( must not get knowing )!』し、
亦た、
『修習の因縁や、果報も!』、
『無い!』ので、
『因縁が多ければ!』、
『果報も!』、
『多いというような!』、
此の、
『事』を、
『得る( to understand )こともない!』。
又、
『有常見』が、
『無常見』と、
『共に諍う!』が故に、
是れ等のような、
『種種の因縁』で、
『五衆の無常』は、
『不可得なのである( be unrecognizable )!』。
苦樂。我非我若空若實。有相無相。有作無作。此義如先處處說。五眾寂滅者。因緣生故無性。無性故寂滅。寂滅故如涅槃。 苦楽、我非我、若しは空、若しは実、有相無相、有作無作、此の義は、先に処処に説けるが如し。五衆の寂滅とは、因縁生の故に性無く、無性の故に寂滅、寂滅の故に涅槃の如し。
『苦楽、我非我、空実、有相無相、有作無作の義』は、
『先に!』、
『処処に説いた通りである!』。
『五衆の寂滅』とは、
『五衆』は、
『因縁生である!』が故に、
『性』が、
『無く!』、
『無性である!』が故に、
『寂滅であり!』、
『寂滅である!』が故に、
『涅槃のようだからである!』。
三毒熾然故不寂滅。無常火然故不寂滅。著三毒。實相故不寂滅。三毒各各分別相故不寂滅。此義先未說故今是中說。 三毒の熾然なるが故に寂滅せず。無常の火の然(も)ゆるが故に寂滅せず。三毒の実相に著するが故に寂滅せず。三毒の各各の相を分別するが故に寂滅せず。此の義は、先に未だ説かざるが故に、今是の中に説きたまえり。
『三毒』が、
『熾然である( to be made red-hot )!』が故に、
『寂滅せず!』、
『無常の火』が、
『然える( to burn red )!』が故に、
『寂滅せず!』、
『三毒の実相(≒空)』に、
『著する!』が故に、
『寂滅せず!』、
『三毒の各各の相』を、
『分別する!』が故に、
『寂滅しないのである!』が、
此の、
『義』は、
『先に、未だ説かれていない!』が故に、
今、
是の中に、
『説かれたのである!』。
  熾然(しねん):梵語 tapta の訳、熱くなった/赤くなった( made hot, inflamed )の義、精錬された/溶けた/灼熱した/瞋りで赤くなる( refined, melted, molten, fused, made red-hot, inflamed with anger )の意。
若菩薩摩訶薩。能如是離二邊行中道。行般若波羅蜜亦不著。所以者何。菩薩不可得。般若波羅蜜亦不可得。故不行般若波羅蜜亦不著。所以者何。餘諸凡夫不能如菩薩觀諸法實相。云何當言我不行般若波羅蜜。行不行亦不著。二俱過故。是名與般若波羅蜜相應 若し、菩薩摩訶薩は、能く是の如き二辺を離れて、中道を行ずれば、般若波羅蜜を行ずるも、亦た著せず。所以は何んとなれば、菩薩は不可得、般若波羅蜜も亦た不可得なるが故なり。般若波羅蜜を行ぜざるも、亦た著せず。所以は何んとなれば、餘の諸凡夫は、菩薩の如く、諸法の実相を観る能わざれば、云何が当に、『我れ般若波羅蜜を行ぜず』、と言うべき。行不行にも亦た著せず、二は倶に過なるが故なり。是れを般若波羅蜜に相応すと名づく。
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『二辺を離れて!』、
『中道を行くことができれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行じることにも!』、
『著さない!』、
何故ならば、
『菩薩も、般若波羅蜜も!』、
『不可得だからである!』。
亦た、
『般若波羅蜜』を、
『行じないことにも!』、
『著さない!』、
何故ならば、
『餘の諸凡夫』が、
『菩薩のように!』、
『諸法の実相を観ることができない!』のに、
何故、
『わたしは、般若波羅蜜を行じない!』などと、
『言えるのか?』。
亦た、
『般若波羅蜜』を、
『行じたり、行じなかったりすること!』にも、
『著さない!』、
何故ならば、
『行じても、行じなくても!』、
『二には、倶に過があるからである!』。
是れが、
『般若波羅蜜』と、
『相応するということである!』。



六波羅蜜、乃至十八空の為めに般若波羅蜜を行じない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩不為般若波羅蜜故行般若波羅蜜。不為檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜故行般若波羅蜜。不為阿鞞跋致地故行般若波羅蜜。不為成就眾生故行般若波羅蜜。不為淨佛世界故行般若波羅蜜。不為佛十力四無所畏四無礙智十八不共法故行般若波羅蜜。不為內空故行般若波羅蜜不為外空內外空空空大空第一義空有為空無為空畢竟空無始空散空性空諸法空自相空不可得空無法空有法空無法有法空故行般若波羅蜜。不為如法性實際故行般若波羅蜜。 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜の為めの故に、般若波羅蜜を行ぜず。檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。阿鞞跋致の地の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。衆生を成就せんが為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。仏世界を浄めんが為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。内空の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。外空、內外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、諸法空、自相空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。如、法性、実際の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅波羅蜜の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『阿鞞跋致の地の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『衆生を成就する為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『仏世界を浄める為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『内苦の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『外空、乃至無法有法空の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じず!』、
『如、法性、実際の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じない!』。
  参考:『大般若経巻7』:『復次舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不為布施波羅蜜多故修行般若波羅蜜多。不為淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多故修行般若波羅蜜多。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不為內空故修行般若波羅蜜多。不為外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空故修行般若波羅蜜多。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不為真如故修行般若波羅蜜多。不為法界法性。不虛妄性。不變異性。平等性。離生性。法定法住實際。虛空界不思議界故修行般若波羅蜜多。』
何以故。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不壞諸法相故。如是習應。是名與般若波羅蜜相應 何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずる時、諸法の相を壊らざるが故なり。是の如く習応すれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩が、般若波羅蜜を行じる!』時、
『諸法の相』を、
『壊らないからである!』。
是のように、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称する!』。
【論】問曰。六波羅蜜乃至如法性實際此是佛法。菩薩若不為是佛法故行般若波羅蜜。更有何法可為行般若波羅蜜。 問うて曰く、六波羅蜜、乃至如、法性、実際は、此れは是れ仏法なり。菩薩、若し是の仏法の為めの故に般若波羅蜜を行ぜずんば、更に何なる法有りてか、為めに般若波羅蜜を行ずべき。
問い、
『六波羅蜜、乃至如、法性、実際』は、
此れが、
『仏法なのである!』。
『菩薩』が、
若し、
是の、
『仏法の為めに( to obtain these Buddha's dharmas )!』、
『般若波羅蜜』を、
『行うのでなければ!』、
更に、
何のような、
『法が有り、其の法の為めに!』、
『般若波羅蜜』を、
『行じるのですか?』。
答曰。如佛此中自說諸法無有破壞者。不壞諸法相故。亦不分別是檀是慳乃至是三界是實際。 答えて曰く、仏の此の中に、自ら説きたまえるが如く、諸法には、破壊する者の有ること無く、諸法の相を壊らざるが故に、亦た、『是れ檀なり』、『是れ慳なり』、乃至『是れ三界なり』、『是れ実際なり』、と分別せず。
答え、
『仏』が、
此の中に、
自ら、こう説かれた通りである、――
『諸法』には、
『破壊する!』者が、
『無く!』、
『諸法の相は壊られない!』が故に、
亦た、
『是れは檀、是れは慳である、乃至是れが三界、是れが実際である!』と、
『分別しない!』、と。
復次有菩薩。於此善法深心繫著。以繫著故能生罪。為是人故說是六波羅蜜。乃至實際皆空無有自性。如夢如幻汝莫生著。真菩薩不為是故行。 復た次ぎに、有る菩薩は、此の善法に於いて、深心に繋著し、繋著を以っての故に、能く罪を生ずれば、是の人の為めの故に説きたまわく、『是の六波羅蜜、乃至実際は、皆空にして、自性有る無し。夢の如き幻の如きに、汝は著を生ずる莫れ。真の菩薩は、是れが為めの故に行ぜず』、と。
復た次ぎに、
有る、
『菩薩』は、
此の、
『善法』に、
『深心より!』、
『繋著し!』、
『繋著する!』が故に、
『罪』を、
『生じることになる!』ので、
是の、
『人の為め!』の故に、こう説かれたのである、――
是の、
『六波羅蜜、乃至実際』は、
皆、
『空であり!』、
『自性が無い!』。
譬えば、
『夢や、幻のような!』ものに、
お前は、
『著』を、
『生じてはならない!』。
『真の菩薩』は、
是の、
『夢や、幻の為めに!』、
『行じることはないのである!』、と。
有菩薩心無所著。行六波羅蜜乃至實際。為是人故說為是事故行般若波羅蜜。如後品中說。為具足六波羅蜜。乃至為教化眾生。淨佛世界故行般若波羅蜜 有る菩薩は、心に所著無く、六波羅蜜、乃至実際を行ずれば、是の人の為めの故に説きたまわく、『是の事の為めの故に、般若波羅蜜を行ぜよ』、と。後の品中に、『六波羅蜜を具足せんが為め、乃至衆生を教化して、仏世界を浄めんが為めの故に、般若波羅蜜を行ぜよ』、と。
有る、
『菩薩』は、
『心に、所著が無いままに!』、
『六波羅蜜、乃至実際』を、
『行じている!』ので、
是の、
『人の為めに!』、こう説かれた、――
是の、
『事の為め!』の故に、
『般若波羅蜜を行じよ!』、と。
例えば、
『後の品』中に、こう説く通りである、――
『六波羅蜜を具足する為めに!』、
『乃至衆生を教化して、仏世界を浄める為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じよ!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻16不退:『復次須菩提。菩薩摩訶薩為益一切眾生故行檀那波羅蜜。乃至為益一切眾生故行般若波羅蜜。須菩提。以是行類相貌。當知是名阿惟越致菩薩摩訶薩。』



六神通の為めに般若波羅蜜を行じない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不為如意神通故行般若波羅蜜。不為天耳故。不為他心智故。不為宿命智故。不為天眼故。不為漏盡神通故。行般若波羅蜜。何以故。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。尚不見般若波羅蜜。何況見菩薩神通。舍利弗。菩薩摩訶薩如是行。是名與般若波羅蜜相應 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずるも、如意神通の為めの故に般若波羅蜜を行ぜず。天耳の為めの故に、他心智の為めの故に、宿命智の為めの故に、天眼の為めの故に、漏尽神通の為めの故に、般若波羅蜜を行ぜず。何を以っての故に、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずれば、尚お般若波羅蜜すら見ず、何に況んや菩薩の神通を見るをや。舎利弗、菩薩摩訶薩是の如く行ずれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じる!』のは、
『如意神通の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じるのではなく!』、
『天耳、他心智、宿命智、天眼、漏尽の神通の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じるのでもない!』。
何故ならば、
『菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じながら!』、
尚お、
『般若波羅蜜すら!』、
『見ないからである!』。
況して、
『菩薩の神通』を、
『見るはずがない!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を行じれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称する!』。
【論】問曰。先說禪波羅蜜中已具說五神通。今何以復重說。 問うて曰く、先に禅波羅蜜中に已に、具して五神通を説きたまえり。今は何を以ってか、復た重ねて説きたもう。
問い、
先に、
『禅波羅蜜』中に、
已に、
『五神通を説いて!』、
『具足している!』のに、
今、
何故、
『復た、重ねて!』、
『説かれたのですか?』。
  参考:『大智度論巻16』:『復次專精一心修諸禪定。能住能守得五神通及四等心勝處背捨十一切處。具諸功德得四念處及諸菩薩見佛三昧。』
答曰。彼中總相說不列名字。此中別相說。 答えて曰く、彼の中は総相の説にして、名字を列ねざるも、此の中には別相を説きたまえり。
答え、
彼の中は、
『総相を説いて!』、
『名字』を、
『列ねず!』、
此の中に、
『別相』を、
『説かれたのである!』。
復次功德果報。所謂五神通菩薩得是五神通。廣能利益眾生。 復た次ぎに、功徳の果報とは、謂わゆる五神通にして、菩薩は、是の五神通を得て、広く能く衆生を利益す。
復た次ぎに、
『功徳の果報とは、謂わゆる五神通であり!』、
『菩薩』が、
是の、
『五神通を得れば!』、
『広く!』、
『衆生を利益することができる!』。
復次雖有慈悲般若波羅蜜。無五神通者如鳥無兩翼不能高翔。如健人無諸器杖而入敵陣。如樹無華果無所饒益。如枯渠無水無所潤及。以是故重說五神通。及餘無量佛法中別說無咎。 復た次ぎに、慈悲有りと雖も、般若波羅蜜に五神通無ければ、鳥に両翼無ければ、高く翔ぶ能わざるが如く、健人の諸の器仗無くして、敵陣に入るが如く、樹に華果無ければ、饒益する所無きが如く、枯渠に水無ければ、潤及する所無きが如し。是を以っての故に重ねて、五神通を説きたまい、及び餘の無量の仏法中に別に説きたもうも、咎無し。
復た次ぎに、
『慈悲が有ったとしても!』、
『般若波羅蜜に、五神通が無ければ!』、
譬えば、
『鳥に両翼が無ければ!』、
『高く!』、
『翔ぶことができないようなものであり!』、
『健人に器仗が無いままに( a soldier without arms )!』、
『敵陣』に、
『入るようなものであり!』、
『樹に華果が無ければ!』、
『饒益する!』所が、
『無いようなものであり!』、
『枯渠に水が無ければ( a canal without water )!』、
『潤及する( that where is moistened )!』所が、
『無いようなものである!』。
是の故に、
『五神通』を、
『重ねて!』、
『説かれたのであり!』、
及び、
『餘の仏法中に別に説かれたとしても!』、
『咎は無いのである!』。
  枯渠(こきょ):涸れた水道( dry canal )。
  潤及(にんぎゅう):万物に潤の及ぶこと( to moisten all things on earth )。
問曰。若爾者。佛何以言莫為五神通故行般若波羅蜜。 問うて曰く、若し爾らば、仏は何を以ってか、『五神通の為めの故に般若波羅蜜を行ずる莫れ』、と言えり。
問い、
若し、爾うならば、
『仏』は、
何故、こう言われたのですか?――
『五神通の為め!』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『行じてはならない!』、と。
答曰。多有無方便菩薩。得五神通輕餘菩薩心生憍高。為是故說。所以者何。菩薩於般若波羅蜜諸佛之母尚不著。何況五神通 答えて曰く、多く、無方便の菩薩の五神通を得たる有りて、餘の菩薩を軽んじ、心に憍慢を生ずれば、是の為めの故に説きたまえり。所以は何んとなれば、菩薩は、般若波羅蜜なる諸仏の母に於いてすら、尚お著せざればなり。何に況んや五神通をや。
答え、
『五神通を得た!』が故に、
『餘の菩薩を軽んじる!』、
『無方便の菩薩』が、
『多く有る!』ので、
是の、
『人の為め!』の故に、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜という!』、
『諸仏の母にすら!』、
尚お、
『著すことなく!』、
況して、
『五神通に!』、
『著するはずがないからである!』。



我れは六神通を用いる、と念じない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不作是念。我以如意神通飛到東方。供養恭敬如恒河沙等諸佛。南西北方四維上下亦如是。 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、是の念を作さず、『我れは、如意神通を以って、東方に飛到し、恒河沙に等しきが如き諸仏を供養、恭敬せん。南西北方四維上下も亦た是の如し』、と。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じれば!』、こう念じることはない、――
わたしは、
『如意神通を用いて!』、
『東方に飛到し!』、
『恒河沙に等しいほどの諸仏』を、
『供養、恭敬しよう!』。
『南、西、北方、四維、上下』も、
亦た、
『是の通りである!』、と。
  参考:『大般若経巻7』:『舍利子。是菩薩摩訶薩不作是念。我與般若波羅蜜多相應。不作是念。我得受記定當作佛。若近受記。不作是念。我能嚴淨佛土。不作是念。我能成熟有情。亦不作是念。我當證得所求無上正等菩提。轉妙法輪度無量眾。何以故。舍利子。是菩薩摩訶薩。不見有法離於法界。不見法界離於諸法。不見諸法即是法界。不見法界即是諸法。不見有法修行般若波羅蜜多。不見有法得佛授記。不見有法當得無上正等菩提。不見有法嚴淨佛土。不見有法成熟有情。何以故。舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不起我想。有情想。命者想。生者想。養者想。士夫想。補特伽羅想。意生想。儒童想。作者想。使作者想。起者想。使起者想。受者想。使受者想。知者想。見者想故。所以者何。我有情等畢竟不生亦復不滅。彼既畢竟不生不滅。云何當能修行般若波羅蜜多。及得種種功德勝利。』
復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。不作是念。我以天耳聞十方諸佛所說法。不作是念。我以他心智當知十方眾生心所念。不作是念。我以宿命通知十方眾生宿命所作。不作是念。我以天眼見十方眾生死此生彼。舍利弗。菩薩摩訶薩如是行。是名與般若波羅蜜相應。亦能度無量阿僧祇眾生 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行ずれば、是の念を作さず、『我れは天耳を以って、十方の諸仏の所説の法を聞かん』、と。是の念を作さず、『我れは他心智を以って、当に十方の衆生の心の所念を知るべし』、と。是の念を作さず、『我れは宿命通を以って、十方の衆生の宿命の所作を知らん』、と。是の念を作さず、『我れは、天眼を以って、十方の衆生の此に死して、彼に生ずるを見ん』、と。舎利弗、菩薩摩訶薩、是の如く行ずれば、是れを般若波羅蜜と相応し、亦た能く無量、阿僧祇の衆生を度す、と名づく。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行じれば!』、
こう念じることはなく、――
わたしは、
『天耳を用いて!』、
『十方の諸仏の所説の法』を、
『聞こう!』、と。
こう念じることもなく、――
わたしは、
『他心智を用いて!』、
『十方の衆生の心の所念』を、
『知らねばならぬ!』、と。
こう念じることもなく、――
わたしは、
『宿命通を用いて!』、
『十方の衆生の宿命の所作』を、
『知ろう!』、と。
こう念じることもない、――
わたしは、
『天眼を用いて!』、
『十方の衆生が此に死に、彼に生まれる!』のを、
『見よう!』、と。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を行じれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応しながら!』、
『無量、阿僧祇の衆生を度させることができる!』と、
『称する!』。
【論】釋曰。先雖說五神通名。今此中說其功用。 釈して曰く、先に五神通の名を説くと雖も、今此の中に其の功用を説く。
釈す、
先に、
『五神通の名』を、
『説いただけなので!』、
今、此の中に、
『五神通の功用』を、
『説くのである!』。
  (すい):<接続詞>縦使/即使/たとい/であるが( even if, although )、僅かに/只だ( only )、本( originally )。
問曰。菩薩何以故不作是念。我以如意神通飛到十方。供養恭敬如恒河沙等諸佛。 問うて曰く、菩薩は、何を以っての故にか、是の念を作さざる、『我れは、如意神通を以って、十方に飛到し、恒河沙に等しきが如き諸仏を供養、恭敬せん』、と。
問い、
『菩薩』は、
何故、こう念じないのですか?――
わたしは、
『如意神通を用いて、十方に飛到し!』、
『恒河沙に等しいほどの諸仏』を、
『供養し、恭敬しよう!』、と。
答曰。已拔我見根本故。已摧破憍慢山故。善修三解脫門三三昧故。佛身雖妙亦入三解脫門。如熱金丸雖見色妙不可手觸。 答えて曰く、已に我見の根本を抜けるが故に、已に憍慢の山を摧破せるが故に、善く三解脱門、三三昧を修するが故に、仏身妙なりと雖も、亦た三解脱門に入れば、熱せる金丸の如く、色の妙を見ると雖も、手に触るるべからず。
答え、
已に、
『我見』の、
『根本』を、
『抜いた!』が故に、
已に、
『憍慢』の、
『山』を、
『摧破した!』が故に、
『三解脱門、三三昧』を、
『善く!』、
『修めている!』が故に、
『仏身が妙であったとしても!』、
『三解脱門に入っている!』が故に、
『熱した!』、
『金丸』を、
『見るように!』、
『色の妙を見ても!』、
『手で!』、
『触れることはできないのである!』。
又諸法如幻如化無來無去無近無遠無有定相。如幻化人誰去誰來。不取神通國土此彼近遠相故無咎。若能在佛前住於禪定。變為無量身至十方供養諸佛無所分別。已斷法愛故。餘通亦如是。 又、諸法は幻の如く、化の如く、無来、無去、無近、無遠にして、定相の有ること無し。幻化の如き人の誰か去り、誰か来たらん。神通と、国土の此彼、近遠の相を取らざるが故に咎無し。若し能く仏前に在りて、禅定に住すれば、変じて無量の身と為り、十方に至りて諸仏を供養するも、分別する所無し。已に法愛を断じたるが故なり。餘の通も亦た是の如し。
又、
『諸法は、幻や化のように!』、
『来、去も、近、遠も無く!』、
『定相』が、
『無い!』。
『化や、幻のような!』、
『人』の、
『誰が、去り!』、
『誰が、来るのか?』。
『神通や、国土の此、彼や、近、遠のような!』、
『相を取らない(≒相を念じない)!』が故に、
『諸仏を供養しても!』
『咎は無い!』。
若し、
『仏前に在って、禅定に住することができれば!』、
『無量の身に変じて、十方に至り!』、
『諸仏』を、
『供養しながら!』、
『諸仏である!』と、
『分別すること!』は、
『無い!』のは、
已に、
『法愛』を、
『断じたからである!』。
『餘の通』も、
亦た、
『是の通りである!』。
菩薩得是五神通。為供養諸佛故。變無量身顯大神力。於十方世界三惡趣中度無量眾生。如往生品中說 菩薩は、是の五神通を得て、諸仏を供養せんが為めの故に、無量の身に変じて、大神力を顕し、十方の世界の三悪趣中に於いて、無量の衆生を度すこと、往生品中に説けるが如し。
『菩薩』は、
是の、
『五神通を得て!』、
『諸仏を供養する為め!』の故に、
『無量の身に変じて!』、
『大神力』を、
『顕し!』、
『十方の世界』の、
『三悪趣』中に於いて、
『無量の衆生』を、
『度すのである!』が、
例えば、
『往生品』中に、
『説かれた通りである!』。
  参考:『大品般若経巻2往生品』:『復次舍利弗。有菩薩摩訶薩得六神通。不生欲界色界無色界。從一佛國至一佛國。供養恭敬尊重讚歎諸佛。‥‥』



悪魔は便を得ず、諸天に擁護され、重罪を現世に軽受する

【經】舍利弗。菩薩摩訶薩能如是行般若波羅蜜。惡魔不能得其便。世間眾事所欲隨意。十方各如恒河沙等諸佛。皆悉擁護是菩薩。令不墮聲聞辟支佛地。四天王天乃至阿迦尼吒天。皆亦擁護是菩薩不令有礙。是菩薩所有重罪現世輕受。何以故。是菩薩摩訶薩用普慈加眾生故。舍利弗。是菩薩摩訶薩如是行。是名與般若波羅蜜相應 舎利弗、菩薩摩訶薩は、是の如く般若波羅蜜を行ずれば、悪魔は、其の便を得る能わずして、世間の衆事は欲する所を意のままにし、十方の各に恒河沙に等しきが如き諸仏、皆悉く、是の菩薩を擁護して、声聞、辟支仏の地に堕せざらしめ、四天王天、乃至阿迦尼吒天、皆是の菩薩を擁護して、礙有らしめず、是の菩薩の有らゆる重罪は現世に受くること軽し。何を以っての故に、是の菩薩摩訶薩は、普き慈を用いて、衆生に加うるが故なり。舎利弗、是の菩薩摩訶薩、是の如く行ずれば、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜を行じれば!』、
『悪魔』も、
其の、
『便( the opportunity of doing evil )』を、
『得ることができず!』、
『世間の衆事( the worldly affairs )』も、
『欲する!』所が、
『意のままであり!』、
『十方の各に恒河沙に等しいほどの諸仏』が、
皆、悉く
是の、
『菩薩を擁護して!』、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちないようにさせ!』、
『四天王天、乃至阿迦尼吒天』も、
皆、
是の、
『菩薩を擁護して!』、
『礙( any obstacle )も!』、
『無くさせる!』。
是の、
『菩薩』は、
有らゆる、
『重罪』を、
『現世』に於いて、
『軽く受ける!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『普き慈を用いて( with universal benevolence )!』、
『衆生に加えた( to treat every living beings )からである!』。
舎利弗!
是の、
『菩薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『行じれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称する!』。
【論】釋曰。今讚是菩薩。如上行般若波羅蜜得大功德是名菩薩。智慧功力果報得此五利。 釈して曰く、今、是の菩薩の、上の如く般若波羅蜜を行じて、大功徳を得るを讃じ、是れを菩薩の智慧の功力の果報にして、此の五利を得と名づく。
釈す、
今、
是の、
『菩薩』が、
上のように、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『大功徳を得る!』のを、
『讃じた!』が、
是れは、
 『菩薩』の、
『智慧の功力の果報』が、
此の、
『五利』を、
『得させたのである!』。
問曰。魔是欲界主。菩薩是人肉眼不得自在。云何不能得其便。 問うて曰く、魔は、欲界の主なるに、菩薩は是れ人にして、肉眼は自在を得ず。云何が、其の便を得る能わざる。
問い、
『魔は、欲界の主である!』が、
『菩薩は人であり!』、
『肉眼』に、
『自在を得ることはない!』。
『魔』は、
何故、
其の、
『便』を、
『得ることができないのですか?』。
答曰。如此中佛自說。諸佛諸大天擁護故。 答えて曰く、此の中に仏の自ら説きたまえるが如く、諸仏、諸大天の擁護するが故なり。
答え、
此の中に、
『仏』が、自ら説かれたように、――
『諸仏や、諸大天』が、
『擁護するからである!』。
復次是菩薩行畢竟不可得自相空故。於一切法中皆不著。不著故無違錯。無違錯故魔不能得其便。譬如人身不瘡雖臥毒屑中毒亦不入。若有小瘡則死無疑。 復た次ぎに、是の菩薩は、畢竟、不可得、自相空を行ずるが故に、一切法中に於いて、皆著せず。著せざるが故に違錯すること無く、違錯無きが故に、魔は其の便を得る能わず。譬えば人身に瘡(きず)つかざれば、毒屑中に臥すと雖も、亦た入らず、若し小瘡有れば、則ち死すること疑無きが如し。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『畢竟空、不可得空、自相空を行じる!』が故に、
『一切法』中に、
『皆、著することなく!』、
『著さない!』が故に、
『違錯( any violation)』が、
『無く!』、
『違錯が無い!』が故に、
『魔』も、
其の、
『便』を、
『得ることができない!』。
譬えば、
『人身に瘡つかなければ( be not wounded )!』、
『毒屑中に臥しても( lying asleep in the poisonous powder )!』、
『毒』が、
『入ることはない!』が、
若し、
『小瘡でも有れば!』、
『疑無く!』、
『死ぬようなものである!』。
又是菩薩於諸佛中心不著。於諸魔中心不瞋。是故魔不得便。 又、是の菩薩は、諸仏中に於いても、心著せず、諸魔中に於いても、心瞋らざれば、是の故に魔は、便を得ざるなり。
又、
是の、
『菩薩』は、
『諸仏』中にも、
『心』の、
『著することがなく!』、
『諸魔』中に、
『心』の、
『瞋ることがない!』ので、
是の故に、
『魔』は、
『便』を、
『得られないのである!』。
復次菩薩深入忍波羅蜜慈三昧故。一切外惡不能中傷。所謂水火刀兵等。世間眾事者資生所須。所謂治生諧偶。種蒔果樹曠路作井安立客舍如法理事皆得如意。若欲造立塔寺作大福德。若作大施。若欲說法教度眾生皆得如意。如是等世間眾事若大若小皆得如法隨意。所以者何。是菩薩世世集無量福德智慧因緣故。 復た次ぎに、菩薩は忍波羅蜜、慈三昧に深く入るが故に、一切の外悪も、中傷する能わず、謂わゆる水火、刀兵等なり。世間の衆事とは、資生の所須にして、謂わゆる治生の偕偶、華樹の種蒔、曠路の作井、客舎の安立、如法の理事は皆、意の如し。若しは塔寺を造立せんと欲して、大福徳を作し、若しは大施を作すにも、若しは説法して、衆生を教度せんと欲するにも、皆意の如くなるを得。是れ等の如き世間の衆事の若しは大、若しは小なるに、皆如法にして意のままなるを得。所以は何んとなれば、是の菩薩は世世に無量の福徳、智慧の因縁を集むるが故なり。
復た次ぎに、
『菩薩は忍波羅蜜、慈三昧に深く入る!』が故に、
『一切の外悪』、
謂わゆる、
『水火も、刀兵等も!』、
『中傷することができない( cannot slander )!』。
『世間の衆事』とは、
『資生の所須であり( that which is necessary to live )!』、
『治生の偕偶( partner of livelihood )や!』、
『果樹を種蒔すること( seeding and planting )や!』、
『曠路の作井( well-sinking in waste-area )や!』、
『客舎を安立すること( building a guest house )や!』、
『如法に理事すること( right governance )は!』、
皆、
『意のままになり!』、
若し、
『塔寺を造立しようして!』、
『大福徳を作したり!』、
『大施を作したとしても!』、
若し、
『説法して!』、
『衆生』を、
『教度しようとしても!』、
皆、
『意のままに!』、
『得ることになり!』、
是れ等のような、
『世間の衆事を、大であれ、小であれ!』、
皆、
『如法に、随意に!』、
『得るのである!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩は、無量の福徳を得る為めの!』、
『智慧の因縁』を、
『世世に、集めてきたからである!』。
  資生(ししょう):生活に役立つ。
  治生(じしょう):生計を謀る。暮らしを立てる。
  諧偶(げぐう):和合。偕偶、即ち配偶。
  種蒔(しゅじ):種をまく。
  曠路(こうろ):広い道路。曠野の道路。
  作井(させい):井戸を掘る。
  安立(あんりゅう):建立。家族を安んじ生計を立つ。
  客舎(きゃくしゃ):旅客舎。旅館。
  理事(りじ):事物を処理する。
復次是菩薩行般若波羅蜜。於一切法中心不著。心不著故結使薄。結使薄故能生深厚善根。深厚善根生故所願如意。 復た次ぎに、是の菩薩は、般若波羅蜜を行じて、一切法中に於いて、心著せず、心著せざるが故に結使薄く、結使薄きが故に、能く深厚の善根を生じ、深厚の善根生ずるが故に、所願意の如し。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩は、般若波羅蜜を行じて!』、
『一切法』中に、
『心』が、
『著することなく!』、
『心が著さない!』が故に、
『結使』が、
『薄れ!』、
『結使が薄い!』が故に、
『深厚の善根』を、
『生じることができ!』、
『深厚の善根が生じる!』が故に、
『所願』が、
『意のままである!』。
復次是菩薩行般若波羅蜜故。諸大天皆敬念是菩薩讚歎稱揚其名。諸龍鬼等聞諸天稱說。亦來助成其事。是故世間眾事皆得如意。 復た次ぎに、是の菩薩の般若波羅蜜を行ずるが故に、諸大天は、皆是の菩薩を敬念し、讃歎して其の名を称揚し、諸龍、鬼等は諸天の称説するを聞きて、亦た来たりて其の事を助成すれば、是の故に世間の衆事は、皆意の如きを得。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩が、般若波羅蜜を行じる!』と、
『諸の大天』は、
皆、
是の、
『菩薩を敬念して!』、
其の、
『名』を、
『讃歎、称揚し!』、
『諸の龍や、鬼等』は、
『諸天が称説するのを、聞いて!』、
亦た、
『菩薩の所に来て!』、
其の、
『事( works )』を、
『助成する!』ので、
是の故に、
『世間の衆事』を、
皆、
『意のままに!』、
『得るのである!』。
復次是菩薩為諸佛所念。威德所加皆得如意。 復た次ぎに、是の菩薩は、諸仏に念ぜられ、威徳を加えらるれば、皆意の如きを得。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『諸仏に念じられ!』、
『威徳』を、
『加えられる!』ので、
皆(世間の衆事を)、
『意のままに!』、
『得るのである!』。
問曰。十方諸佛心等。何以偏念是菩薩。 問うて曰く、十方の諸仏の心は等しきに、何を以ってか、偏に是の菩薩を念ずる。
問い、
十方の、
『諸仏』は、
『心が等しい( their benevolence is impartial )!』のに、
何故、
『偏に( only )!』、
是の、
『菩薩だけ』を、
『念じるのですか?』。
答曰。是菩薩智慧功德大故。諸佛心雖平等。法應念是菩薩以勸進餘人。又是菩薩得佛智慧氣分故。別知善惡賞念好人無過於佛。是故佛念。 答えて曰く、是の菩薩は智慧、功徳大なるが故に、諸仏の心は、平等なりと雖も、法は、応に是の菩薩を念じ、以って餘の人に勧進すべし。又、是の菩薩は、仏の智慧の気分を得るが故に、善悪を別知し、好人を賞念するも仏に於いては過無し。是の故に仏は念じたまえり。
答え、
是の、
『菩薩の智慧、功徳は大である!』が故に、
『諸仏』の、
『心』は、
『平等であっても( being in equality )!』、
『法( in reason )』は、
是の、
『菩薩を念じて!』、
『餘人に勧進すべきである( must recommend him to others )!』。
又、
是の、
『菩薩』は、
『仏の智慧』の、
『気分( the impression )』を、
『得ている!』が故に、
『仏が、善悪を別知して!』、
『好人を賞念されたとしても!』、
『過』は、
『無いのであり!』、
是の故に、
『仏』は、
『念じられたのである!』。
  勧進(かんじん):すすめる。奨励。
  気分(きぶん):梵語 vaasanaa の訳、室を香で満たす行為( the act of perfuming or fumigating )の義、心に無意識に残る何物かの印象( the impression of anything remaining unconsciously in the mind )、微少分( a particle )の意。
  賞念(しょうねん):賞歎。
復次佛念不欲令墮聲聞辟支佛故。所以者何。入空無相無作。以佛念故而不墮落。譬如魚子母念故得生不念則壞。 復た次ぎに、仏は念じたもうは、声聞、辟支仏に堕せしめんと欲したまわざるが故なり。所以は何んとなれば、空、無相、無作に入れば、仏の念じたもうを以っての故に、堕落せず。譬えば魚子の母念ずるが故に、生を得、念ぜざれば、則ち壊するが如し。
復た次ぎに、
『仏が念じられる!』のは、
『声聞、辟支仏』に、
『堕させようとは!』、
『思われないからである!』。
何故ならば、
『菩薩が空、無相、無作に入れば!』、
『仏が念じられる!』が故に、
『堕落しないのである!』。
譬えば、
『魚子』は、
『母に念じられる!』が故に、
『生』を、
『得て!』、
『念じられなければ!』、
則ち、
『壊れるようなものである!』。
諸大天擁護者。不欲令失其所行。諸天效佛念故。又諸天以菩薩行般若波羅蜜。都無所著不樂世樂。但欲教化眾生故住於世間。知其尊貴故念。 諸大天の擁護するは、其の所行を失わしめんと欲せず、諸天は仏に效(なら)いて念ずるが故なり。又、諸天は菩薩の般若波羅蜜を行じて、都(みな)所著無く、世楽を楽しまず、但だ衆生を教化せんと欲するが故に、世間に住するを以って、其の尊貴を知るが故に念ず。
『諸大天が擁護する!』のは、
『菩薩の所行』を、
『失わせよう!』とは、
『思わないからであり!』、
『諸天』は、
『仏に效って( imitating the Buddha )!』、
『念じるからである!』。
又、
『諸天』は、
『菩薩が般若波羅蜜を行じながら!』、
『都、所著が無く( has not any attachment to )!』、
『世楽』を、
『楽しむこともなく!』、
『但だ、衆生を教化しようとする!』が故に、
『世間』に、
『住する!』ので、
其の、
『尊貴であること!』を、
『知る!』が故に、
『念じるのである!』。
所有重罪者。先世重罪應入地獄。以行般若波羅蜜故現世輕受。譬如重囚應死有勢力者護則受鞭杖而已。又如王子雖作重罪以輕罰除之。以是王種中生故。菩薩亦如是。能行是般若波羅蜜得實智慧故。即入佛種中生。佛種中生故雖有重罪云何重受。 有らゆる重罪とは、先世の重罪にして、応に地獄に入るべくも、般若波羅蜜を行ずるを以っての故に、現世に軽く受くるなり。譬えば重囚の応に死すべきに、勢力者の護ること有れば、則ち鞭杖を受くるのみなるが如し。又、王子は重罪を作すと雖も、軽罰を以って、之を除くは、是れが王種中に生ずるを以っての故なるが如し。菩薩も亦た是の如く、能く是の般若波羅蜜を行ずれば、実の智慧を得るが故に、即ち仏種中に入りて生じ、仏種中に生ずるが故に、重罪有りと雖も、云何が重く受けんや。
『有らゆる重罪』とは、
『先世の重罪であり!』、
『当然、地獄に入らねばならない!』のに
『般若波羅蜜を行じる!』が故に、
『現世に!』、
『軽く受けるのである!』。
譬えば、
『重罪の囚人』は、
『当然、死なねばならない!』が、
有る、
『勢力者』に、
『護られれば!』、
則ち、
『鞭杖』を、
『受けるだけであるようなものである!』。
又、
『王子』が、
『重罪を作しながら!』、
『軽罰を受けるだけで!』、
是の、
『重罪』を、
『除く!』のは、
是れが、
『王種』中に、
『生まれたからであるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
是の、
『般若波羅蜜を行じて!』、
『実の智慧を得ることができた!』が故に、
『仏種中に入って!』、
『生じる!』ので、
『仏種中に生じる!』が故に、
『重罪が有った!』としても、
何故( Cannot )、
『重く!』、
『受けるのか?』。
復次譬如鐵器中空故在水能浮中實則沒。菩薩亦如是。行般若波羅蜜智慧心虛故不沒重罪。凡人無智慧故沈沒重罪。 復た次ぎに、譬えば鉄器は中の空なるが故に、水に在りて、能く浮くも、中実なれば、則ち没するが如し。菩薩も亦た是の如く、般若波羅蜜の智慧を行じて、心虚しきが故に重罪に没せず。凡人は智慧無きが故に重罪に沈没す。
復た次ぎに、
譬えば、
『鉄器』は、
『中が空である!』が故に、
『水に!』、
『浮くことができる!』が、
『中が実ならば!』、
則ち、
『没することになるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『般若波羅蜜の智慧を行じて!』、
『心が虚である!』が故に、
『重罪』に、
『没しない!』が、
『凡人』は、
『智慧が無い!』が故に、
『重罪』に、
『沈没するのである!』。
復次佛此中自說因緣所以得五功德者。用普慈加眾生故。 復た次ぎに、仏は、此の中に自ら、因縁を説きたまわく、『五功徳を得る所以(ゆえ)は、普く慈を用って衆生に加うるが故なり』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
此の中に、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
『五功徳を得る所以( the reason of obtaining the five virtues )』は、
『普き慈( the univarsal benevolence )』を、
『衆生』に、
『加えるからである!』、と。
問曰。先言行般若波羅蜜故具五功德。今何以言用普慈加眾生故。 問うて曰く、先に、『般若波羅蜜を行ずるが故に、五功徳を具う』、と言い、今は何を以ってか、『普き慈を用って衆生に加うるが故に』、と言う。
問い、
先には、こう言いながら、――
『般若波羅蜜を行じる!』が故に、
『五功徳』を、
『具える!』、と。
今は、何故、こう言うのか?――
『普き慈を用いて!』、
『衆生』に、
『加えるからである!』、と。
答曰。能生無量福無過於慈。是慈因般若波羅蜜生。得無量利益。 答えて曰く、能く無量の福を生ずれば、慈に於いて過無し。是の慈は、般若波羅蜜に因りて生ずれば、無量の利益を得るなり。
答え、
是の、
『慈』は、
『無量の福を生じさせる!』が故に、
『過』が、
『無いのであり!』、
是の、
『慈』は、
『般若波羅蜜に因って、生じて!』、
『無量の利益』を、
『得させるものである!』。
復次惡魔不得便。諸佛所念重罪今世輕受。是般若波羅蜜力。世間眾事所欲隨意諸天擁護是大慈力。 復た次ぎに、悪魔の便を得ず、諸仏に念ぜられ、重罪を今世に軽く受くるは、是れ般若波羅蜜の力なり。世間の衆事の欲する所の意のままなる、諸天の擁護するは、是れ大慈の力なり。
復た次ぎに、
『悪魔が、便を得ないこと!』、
『諸仏に、念じられること!』、
『重罪を、今世に軽く受けること!』、
是れは、
『般若波羅蜜』の、
『力であり!』、
『世間の衆事の欲する所が随意であること!』、
『諸天が擁護すること!』、
是れは、
『大慈』の、
『力である!』。
復次有二種緣。一者眾生。二者法。是菩薩若緣眾生則是慈心。若緣法則是行般若波羅蜜。是慈從般若波羅蜜生。隨順般若波羅蜜教。是故說慈無咎 復た次ぎに、二種の縁有り、一には衆生、二には法なり。是の菩薩は、若し衆生を縁ずれば、則ち是れ慈心にして、若し法を縁ずれば、則ち是れ般若波羅蜜を行ずるなり。是の慈は、般若波羅蜜より生じて、般若波羅蜜の教に隨順すれば、是の故に慈を説くも、咎無し。
復た次ぎに、
『二種の縁が有り!』、
一には、
『衆生を縁じ( to contact all living beings )!』、
二には、
『法を縁じる( to contact a dharma )!』。
是の、
『菩薩』が、
若し、
『衆生を縁じれば!』、
是れは、
『慈心であり!』、
若し、
『法を縁じれば!』、
是れは、
『般若波羅蜜を行じるのである!』。
是の、
『慈』は、
『般若波羅蜜より、生じて!』、
『般若波羅蜜の教』に、
『隨順する!』ので、
是の故に、
『慈を説かれても!』、
『咎』は、
『無いのである!』。


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