巻第三十六(上)
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大智度論釋習相應品第三之餘(卷三十六)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


阿鞞跋致地に住して、仏道を浄める

【經】舍利弗白佛言。云何菩薩摩訶薩過聲聞辟支佛地。住阿鞞跋致地淨佛道 舎利弗の仏に白して言さく、『云何が菩薩摩訶薩は、声聞、辟支仏の地を過ぎて、阿鞞跋致の地に住し、仏道を浄むる』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
何のように、
『菩薩摩訶薩』は、
『声聞、辟支仏の地を過ぎ!』、
『阿鞞跋致の地に住して!』、
『仏道』を、
『浄めるのですか?』。
  阿鞞跋致(あびばっち):梵語avinivartaniiya、またavaivartika、avivartika、阿毘跋致、阿鞞拔致、阿惟越致に作る。不退、無退、又は不退転と訳す。菩薩の地位より退転せざるの義なり。「大智度論巻4」に、「若し菩薩、一法に於いて好修好念を得ば、これを阿鞞跋致の菩薩と名づく。何等か一法なる。常に一心に諸の善法を集む。諸仏は一心に諸の善法を集むるが故に阿耨多羅三藐三菩提を得と説くが如し。復た次ぎに菩薩一法を得ることあらば、これ阿鞞跋致の相なり。何等か一法なる。正直精進なり。常に行じ常に修し常に念じて精進なれば、乃至人をして阿耨多羅三藐三菩提を得せしむ。経に広く説くが如し。復た次ぎに若し二法を得ば、この時これ阿鞞跋致の相なり。何等か二法なる。一切法は実に空と知り、亦た念じて一切の衆生を捨てず。かくの如き人を名づけて阿鞞跋致の菩薩となす。復た次ぎに三法を得。一には若し一心に作願して仏道を成ぜんと欲し、金剛の如く動ずべからず、破すべからず。二には一切の衆生に於いて悲心骨に徹し髄に入る。三には般舟三昧を得て能く現在の諸仏を見る。この時阿鞞跋致と名づく」と云い、又「十住毘婆沙論巻4」に、諸菩薩に二種あり、一に惟越致、二に阿惟越致なり。阿惟越致の菩薩は、心を衆生に等しくし、他の利養を嫉まず。法師の過を説かず。深妙の法を信楽して、毀誉に異あることなし。此れ等の五法を具せば、阿耨多羅三藐三菩提に於いて退転せず、懈廃せず。此れと相違するを惟越致と名づくと云えるこれなり。之に依るに阿鞞跋致は阿耨多羅三藐三菩提を得んと期待し、深くその信に住して諸の善法を集め、それより退転して二乗地等に堕落せざるの意なることを知るべし。又「道行般若経巻6」、「放光般若経巻12阿惟越致品」、「大品般若経巻16不退品」、「玄応音義巻2、巻3」等に出づ。<(望)
【論】問曰。舍利弗何因作是問。 問うて曰く、舎利弗は、何に因りてか、是の問を作す。
問い、
『舎利弗』は、
何に、
『因って!』、
是の、
『問』を、
『作したのですか?』。
答曰。舍利弗上問眾智無異。佛既種種譬喻明菩薩智勝。意既已解。今問。云何能過二乘住阿毘跋致地淨佛道。 答えて曰く、舎利弗は、上に、『衆智には、異無しや』、と問うに、仏は既に種種の譬喻もて、菩薩の智の勝るを明したまえば、意は既に解け已りて、今、『云何が、二乗を過ぎて、阿鞞跋致の地に住し、仏道を浄むる』、と問えり。
答え、
『舎利弗』が、
上に、
『衆智には、異が無いのか?』と、
『問う!』と、
『仏』は、
既に、
種種の、
『譬喻を用いて!』、
『菩薩の智が勝る!』と、
『明された!』ので、
『舎利弗』は、
既に、
『意』が、
『解けている!』ので、
今、こう問うたのである、――
何のようにすれば、
『二乗を過ぎて、阿鞞跋致の地に住し!』、
『仏道』を、
『浄めることができるのか?』、と。
問曰。小乘不任成佛。何以故問淨佛道事。 問うて曰く、小乗は、成仏するに任えず。何を以っての故にか、仏道を浄める事を問う。
問い、
『小乗』は、
『仏と成る!』のに、
『任えられない!』のに、
何故、
『仏道を浄める事』を、
『問うのですか?』。
答曰。舍利弗者是隨佛轉法輪。將雖自無益為利益求佛道眾生故問。又以菩薩大悲多所利益。是故問菩薩事以益眾生。 答えて曰く、舎利弗は、是れ仏に随い、法輪を転ずる将なれば、自ら益無しと雖も、仏道を求むる衆生を利益せんが為の故に問えり。又菩薩の大悲は、利益する所多きを以って、是の故に菩薩の事を問い、以って衆生を益す。
答え、
『舎利弗』は、
『仏に随いながら!』、
『法輪を転じる!』、
『将である( being a general )!』が故に、
自ら、
『益が無くても!』、
『仏道を求める衆生の為めに!』、
『問うたのであり!』、
又、
『菩薩の大悲』には、
『利益する!』所が、
『多い!』ので、
是の故に、
『菩薩の事を問うて!』、
『衆生』を、
『利益しようとしたのである!』。
復次舍利弗蒙佛恩故破諸邪見得成道果。欲報恩故問菩薩事。又舍利弗於聲聞地中究盡邊際。所未了者唯菩薩事。是故復問。又以菩薩法甚深微妙雖不能得愛樂故問。譬如見人妙寶已雖自無愛樂故問 復た次ぎに、舎利弗は、仏の恩を蒙るが故に、諸の邪見を破りて、道の果を成ずるを得、恩に報いんと欲するが故に、菩薩の事を問えり。又舎利弗は、声聞地中に於いて、辺際を求尽し、未だ了せざる所は、唯だ菩薩の事のみなれば、是の故に復た問えり。又菩薩法は甚深微妙なるを以って、得る能わずと雖も、愛楽するが故に問えり。譬えば人の妙宝を見已りて、自ら無しと雖も、愛楽するが故に問うが如し。
復た次ぎに、
『舎利弗』は、
『仏恩を蒙る!』が故に、
『諸の邪見を破って!』、
『道の果』を、
『成じることができた!』ので、
『仏恩に報いようとする!』が故に、
『菩薩の事』を、
『問うたのである!』。
又、
『舎利弗』は、
『声聞地』中に於いて、
『辺際』を、
『究尽しており!』、
『未だ、明了でない!』所は、
唯だ、
『菩薩の事だけである!』ので、
是の故に、
復た、
『問うたのである!』。
又、
『菩薩の法』は、
『甚だ深く!』、
『微妙であり!』、
『舎利弗には得ることができない!』が、
『愛楽する!』が故に、
『問うたのである!』。
譬えば、
『他人の妙宝を見て!』、
『自らには、無い!』が、
『愛楽する!』が故に、
『問うようなものである!』。
【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩從初發意行六波羅蜜。住空無相無作法。能過一切聲聞辟支佛地。住阿毘跋致地淨佛道 仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、初発意より、六波羅蜜を行じて、空、無相、無作の法に住すれば、能く一切の声聞、辟支仏の地を過ぎ、阿鞞跋致の地に住して、仏道を浄むるなり』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『初発意より!』、
『六波羅蜜を行じて!』、
『空、無相、無作の法』に、
『住する!』ので、
『一切の声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『阿鞞跋致の地に住し!』、
『仏道』を、
『浄めることができるのである!』、と。
【論】問曰。是三事後品中各有因緣。佛今何以併說。 問うて曰く、是の三事は、後の品中に各因縁有り。仏は今、何を以ってか、併せて説きたもうや。
問い、
是の、
『三事(声聞の地を過ぎ、阿鞞跋致の地に住して、仏道を浄めること)』は、
後の品中には、
『各に!』、
『因縁が有る!』が、
『仏』は、
今、何故、
『併せて!』、
『説かれたのですか?』。
答曰。是中略說。後當廣說三事因緣。又今但說空無相無作因緣。後當說種種功德故合說三事。 答えて曰く、是の中に、略説すれば、後には、当に三事の因縁を広説すべし。又今は、但だ空、無相、無作の因縁を説けば、後には、当に種種の功徳を説くべし。故に三事を合して説けり。
答え、
是の中に、
『略説したならば!』、
後には、当然、
『三事の因縁』を、
『広説すべきである!』し、
又、
今は、但だ、
『空、無相、無作の因縁しか!』、
『説かなかった!』ので、
後に、当然、
『種種の功徳』を、
『説くべきであり!』、
是の故に、
『三事を合して!』、
『説いたのである!』。
問曰。入三解脫門則到涅槃。今云何以空無相無作。能過聲聞辟支佛地。 問うて曰く、三解脱門に入れば、則ち涅槃に到る。今は、云何が、空、無相、無作を以って、能く声聞、辟支仏の地を過ぐる。
問い、
『三解脱門に入る!』とは、
『涅槃』に、
『到るということである!』。
今は、
何故、こう言うのですか?――
『空、無相、無作を用いて!』、
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎることができる』、と。
答曰。無方便力故入三解脫門直取涅槃。若有方便力住三解脫門見涅槃。以慈悲心故能轉心還起。如後品中說。 答えて曰く、方便力無きが故に、三解脱門に入れば、直ちに涅槃を取るも、若し方便力有れば、三解脱門に住して、涅槃を見るも、慈悲心を以っての故に、、能く心を転じて、還って起す。後の品中に説くが如し。
答え、
『方便力が無い!』が故に、
『三解脱門に入れば!』、
直ちに( immediately )、
『涅槃』を、
『取ることになる( to appropriate )!』が、
若し、
『方便力が有れば!』、
『三解脱門に住して、涅槃を見ても!』、
『慈悲心を用いる!』が故に、
『心』を、
『転じることができ!』、
還た( again )、
『心』を、
『起すのである!』。
例えば、
『後品』中に、
『説くとおりである!』。
  参考:『大智度論巻76、大品経巻18』:『須菩提。菩薩摩訶薩亦如是。於一切眾生中。慈悲喜捨心遍滿足。爾時菩薩摩訶薩住四無量心。具足六波羅蜜。不取漏盡證。學一切種智。入空無相無作解脫門。是時菩薩不隨一切諸相。亦不證無相三昧。以不證無相三昧故。不墮聲聞辟支佛地。須菩提。譬如有翼之鳥飛騰虛空而不墮墜。雖在空中亦不住空。須菩提。菩薩摩訶薩亦如是。學空解脫門。學無相無作解脫門亦不作證。以不作證故不墮聲聞辟支佛地。未具足佛十力大慈大悲無量諸佛法一切種智。亦不證空無相無作解脫門。須菩提。譬如健人學諸射法善於射術。仰射空中復以後箭射於前箭。箭箭相拄不令箭墮隨意自在。若欲令墮便止後箭爾乃墮地。須菩提。菩薩摩訶薩亦如是。行般若波羅蜜以方便力故。為阿耨多羅三藐三菩提。諸善根未具足不於實際作證。若善根成就是時便於實際作證。以是故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是觀諸法法相』
譬如仰射虛空箭箭相拄不令墮地。菩薩如是。以智慧箭仰射三解脫虛空。以方便後箭射前箭不令墮涅槃之地。是菩薩雖見涅槃直過不住更期大事。所謂阿耨多羅三藐三菩提。今是觀時非是證時。 譬えば虚空を仰射するに、箭と箭と相拄(ささ)えて地に堕せしめざるが如し。菩薩は、是の如く、智慧の箭を以って、三解脱の虚空を仰射するに、方便の後の箭を以って、前の箭を射て、涅槃の地に堕せしめず。是の菩薩は、涅槃を見ると雖も、直ちに過ぎて住せず、更に大事を期す、謂わゆる阿耨多羅三藐三菩提なり。今は、是れ観る時にして、是れ証する時に非ず。
譬えば、
『虚空中を仰射する!』時、
『箭と箭とが、拄えあって!』、
『地』に、
『堕ちさせないようなものである!』。
『菩薩』も、
是のように、
『智慧の箭を用いて!』、
『三解脱の虚空を仰射する!』と、
『方便という、後の箭を用いて!』、
『前の箭を射て!』、
『涅槃の地』に、
『堕ちさせないのであり!』、
是の、
『菩薩』は、
『涅槃を見ながら!』、
『直ちに、通過して!』、
『住ることがない!』。
更に、
『大事、謂わゆる阿耨多羅三藐三菩提』を、
『期す( to hope )からである!』、――
即ち、
『今は、観る時であり!』、
『涅槃』を、
『証する時ではない!』、と。
  (ちゅ):支える。( to prop up )。
如是等應廣說。若過是二地知諸法不生不滅。即是阿毘跋致地。住阿毘跋致地中教化眾生淨佛世界。是為能淨佛道。 是れ等の如きは、応に広説すべし。若し、是の二地を過ぎて、諸法の不生不滅を知れば、即ち、是れ阿鞞跋致の地なり。阿鞞跋致の地中に住して、衆生を教化し、仏世界を浄むれば、是れを能く仏道を浄むと為す。
是れ等のようなものは、
『当然、広説すべきである!』が、
若し、
是の、
『二地を過ぎて!』、
『諸法が不生、不滅である!』と、
『知れば!』、
是れが、
『阿鞞跋致という!』、
『地であり!』、
是の、
『阿鞞跋致の地中に住して!』、
『衆生を教化し!』、
『仏世界を浄めれば!』、
是れが、
『仏道』を、
『浄めることができるということである!』。
復次菩薩住三解脫門觀四諦。知是聲聞辟支佛法直過四諦入一諦。所謂一切法不生不滅不垢不淨不來不去等。入是一諦中是名阿毘跋致地。住是阿毘跋致地淨佛道地。滅除身口意麤惡之業。及滅諸法中從初已來所失之事。是名淨佛道地 復た次ぎに、菩薩は、三解脱門に住して四諦を観ずるも、是れ声聞、辟支仏の法なりと知りて、直ちに四諦を過ぎ、一諦に入る。謂わゆる一切法の不生不滅、不垢不浄、不来不去等なり。是の一諦中に入れば、是れを阿鞞跋致の地と名づけ、是の阿鞞跋致の地なる、仏道を浄むる地に住す。身、口、意の麁悪の業を滅除し、及び諸法中の初より已来、失する所の事を滅すれば、是れを仏道を浄むる地と名づく。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『三解脱門に住して!』、
『四諦』を、
『観る!』が、
是れは、
『声聞、辟支仏の法である、と知り!』、
直ちに、
『四諦を過ぎて!』、
『一諦』に、
『入る!』。
謂わゆる、
『一切法』は、
『不生不滅、不垢不浄、不来不去等である!』と、
『知るのであり!』、
是の、
『一諦中に入れば!』、
是れを、
『阿鞞跋致の地』と、
『称するのであり!』、
是の、
『阿鞞跋致の地という!』、
『仏道を浄める地』に、
『住するのである!』が、
『仏道を浄める地』とは、
『身、口、意の麁悪の業を滅除したり!』、
『初生已来の!』、
『失った所の事( any faults )』を、
『滅することである!』。



声聞、辟支仏の為めに、福田と作る

【經】舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩住何等地能為諸聲聞辟支佛作福田 舎利弗の仏に白して言さく、『菩薩摩訶薩は、何等の地にか住して、能く諸の声聞、辟支仏の為に福田と作る』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
『菩薩摩訶薩』は、
何のような、
『地に住して!』、
『諸の声聞、辟支仏の為に!』、
『福田と作ることができるのですか?』、と。
【論】釋曰。舍利弗深心恭敬菩薩。故今問。菩薩漏結未盡。住何功德能為諸聲聞辟支佛作福田 釈して曰く、舎利弗は、深心より菩薩を恭敬するが故に、今問わく、『菩薩の漏結は、未だ尽さざるに、何なる功徳に住してか、能く諸の声聞、辟支仏の為に、福田と作る』、と。
釈す、
『舎利弗』は、
『深心より!』、
『菩薩』を、
『恭敬する!』が故に、
今、こう問うたのである、――
『菩薩』は、
未だ、
『漏結』が、
『尽きていない!』のに、
何のような、
『功徳に住して!』、
『諸の声聞、辟支仏の為に!』、
『福田と作ることができるのか?』、と。
【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩從初發意行六波羅蜜。乃至坐道場。於其中間常為諸聲聞辟支佛作福田 仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、初発意より、六波羅蜜を行じて、乃至道場に坐するまでの、其の中間に於いて、常に諸の声聞、辟支仏の為に、福田と作る』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『初発意より!』、
『六波羅蜜を行じながら!』、
乃至、
『道場』に、
『坐すまで!』、
其の中間に於いて、
常に、
『諸の声聞、辟支仏の為に!』、
『福田と作るのである!』。
【論】釋曰。佛以是義示舍利弗。雖三解脫門涅槃事同。而菩薩有大慈悲聲聞辟支佛無。菩薩從初發心行六波羅蜜乃至十八不共法。欲度一切眾生具一切佛法故勝 釈して曰く、仏は、是の義を以って、舎利弗に示したまわく、『三解脱門と、涅槃の事とは同じなりと雖も、菩薩には大慈悲有り、声聞、辟支仏には無し。菩薩は、初発心より、六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて、一切の衆生を度して、一切の仏法を具せんと欲するが故に勝れり』、と。
釈す、
『仏』は、
是の、
『福田の義を用いて!』、
『舎利弗』に、こう示されたのである、――
『声聞、辟支仏と菩薩とは!』、
『三解脱門や、涅槃の事は同じである!』が、
『菩薩には、大慈悲が有るのに!』、
『声聞、辟支仏』には、
『無い!』。
『菩薩』は、
『初発心より!』、
『六波羅蜜、乃至十八不共法を行じながら!』、
『一切の衆生を度して!』、
『一切の仏法』を、
『具足しようとする!』ので、
是の故に、
『声聞、辟支仏』に、
『勝るのである!』、と。
【經】何以故。以有菩薩摩訶薩因緣故。世間諸善法生 『何を以っての故に、菩薩摩訶薩の因縁有るを以っての故に、世間の諸善法生ずればなり』。
――
何故ならば、
『菩薩摩訶薩という!』、
『因縁が有る!』が故に、
『世間の諸の善法』が、
『生じるからである!』。
【論】釋曰。佛先已以一因緣益行眾行故。為諸聲聞辟支佛作福田。今說菩薩外益因緣故。世間有一切諸善法。所以者何。菩薩發心雖未成佛。令可度眾生住三乘道。不得三乘者令住十善道。何況成佛。 釈して曰く、仏は先に已に、一因縁の益を以って、衆行を行じたもうが故に、諸の声聞、辟支仏の為に、福田と作りたまえば、今、説きたまわく、『菩薩の外益の因縁の故に、世間には一切の諸善法有り。所以は何んとなれば、菩薩は発心すれば、未だ成仏せずと雖も、度すべき衆生をして、三乗の道に住せしめ、三乗を三乗を得ざる者をして、十善道に住せしむ。何に況んや、成仏せるをや』、と。
釈す、
『仏』は、
先に、已に、
『一因縁の益( the profit of a cause about mercifulness )を用いて!』、
『衆行を行じられた!』が故に、
『諸の声聞、辟支仏の為に!』、
『福田』と、
『作られた!』ので、
今、こう説かれたのである、――
『菩薩という!』、
『外益の因縁』の故に( being caused by the outside profit )、
『世間の一切の諸善法』が、
『有るのである!』。
何故ならば、
『菩薩が発心すれば!』、
未だ、
『仏と成らなくても!』、
『度すべき衆生』を、
『三乗』に、
『住させ!』、
『三乗を得られない!』者を、
『十善道』に、
『住させるからである!』。
況して、
『仏と成れば!』、
『尚更である!』、と。
問曰。聲聞辟支佛因緣故亦使世間得善法。何以但說菩薩能令世間有善法。 問うて曰く、声聞、辟支仏の因縁の故に、亦た世間をして、善法を得しむるに、何を以ってか、但だ、『菩薩は、能く世間をして、善法を有らしむ』、と説く。
問い、
『声聞、辟支仏の因縁』の故に、
亦た( also )、
『世間』に、
『善法を得させる!』のに、
何故、
但だ、
『菩薩が、世間に善法を有らせる!』と、
『説くのですか?』。
答曰。因聲聞辟支佛世間有善法者。亦皆由菩薩故有。若菩薩不發心者世間尚無佛道。何況聲聞辟支佛。佛道是聲聞辟支佛根本故。 答えて曰く、声聞、辟支仏に因り、世間に善法有らば、亦た皆、菩薩に由るが故に有るなり。若し菩薩にして、発心せざれば、世間には、尚お仏道無し。何に況んや、声聞、辟支仏をや。仏道は、是れ声聞、辟支仏の根本なるが故なり。
答え、
『声聞、辟支仏に因って!』、
『世間』に、
『善法』が、
『有るとすれば!』、
亦た、
皆、
『菩薩に由る( through the Bodhisattva )!』が故に、
『有るのである!』。
若し、
『菩薩が、発心しなければ!』、
『世間』には、
尚お( yet )、
『仏道』は、
『無いのであり!』、
況して、
『声聞、辟支仏』が、
『有るはずがない!』。
『仏道』は、
『声聞、辟支仏』の、
『根本だからである!』。
復次雖因聲聞辟支佛有善法少。以少故不說。尚不說聲聞辟支佛。何況外道諸師 復た次ぎに、声聞、辟支仏に因りて、善法有りと雖も、少しなり。少しなるを以っての故に説かず。尚お声聞、辟支仏すら説かざるに、何に況んや、外道の諸師をや。
復た次ぎに、
『声聞、辟支仏に因って!』、
『善法が有ったとしても、少しであり!』、
『少しである!』が故に、
『説かない!』。
尚お、
『声聞、辟支仏すら!』、
『説かないのであるから!』、
況して、
『外道の諸師』は、
『尚更である!』。



諸の善法は、菩薩の因縁の故に世に現れる

【經】何等是善法。所謂十善道五戒八分成就齋。四禪四無量心四無色定。四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分。盡現於世。以菩薩因緣故。六波羅蜜十八空佛十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲一切種智。盡現於世。以菩薩因緣故。有刹利大姓婆羅門大姓居士大家四天王天乃至非有想非無想天。皆現於世。以菩薩因緣故。有須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛佛。皆現於世 『何等か、是れ善法なる。謂わゆる十善道、五戒、八分成就斎、四禅、四無量心、四無色定、四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分、尽く世に現れ、菩薩の因縁を以っての故に、六波羅蜜、十八空、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲、一切種智、尽く世に現れ、菩薩の因縁を以っての故に、刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家、四天王天、乃至非有想非無想天有りて、皆世に現れ、菩薩の因縁を以っての故に、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、仏有りて、皆世に現わる』。
何のような、
『善法なのか?』、
謂わゆる、
『菩薩の因縁』の故に、
『十善道、五戒、八分成就斎(八戒斎)や!』、
『四禅、四無量心、四無色定や!』、
『四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分』が、
尽く、
『世に現れ!』、
『菩薩の因縁』の故に、
『六波羅蜜、十八空や!』、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲、一切種智』が、
尽く、
『世に現れ!』、
『菩薩の因縁』の故に、
『刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家や!』、
『四天王天、乃至非有想非無想天が有り!』、
皆、
『世に現れ!』、
『菩薩の因縁』の故に、
『須陀洹、斯陀含、阿那含や!』、
『阿羅漢、辟支仏、仏が有り!』、
皆、
『世に現れるのである!』。
【論】問曰。以菩薩因緣故有善法於世可爾。刹利大姓婆羅門大姓居士大家。若世無菩薩亦有此貴姓。云何言皆從菩薩生。 問うて曰く、菩薩の因縁を以っての故に、善法の世に有ること、爾るべし。刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家は、若し世に菩薩無くも、亦た此の貴姓有り。云何が、『皆、菩薩より生ず』、と言う。
問い、
『菩薩の因縁』の故に、
『善法が、世に有る!』のは、
『爾うかもしれない!』が、
『刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家』は、
若し、
『世に、菩薩が無くても!』、
此の、
『貴姓』は、
『有るはずである!』。
何故、こう言うのか?――
皆、
『菩薩より、生じる!』、と。
答曰。以菩薩因緣故。世間有五戒十善八齋等。是法有上中下。上者得道。中者生天。下者為人。故有刹利大姓婆羅門大姓居士大家。 答えて曰く、菩薩の因縁を以っての故に、世間に五戒、十善、八斎等有り。是の法には、上中下有りて、上の者は道を得、中の者は天に生じ、下の者は人と為るが故に、刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家有り。
答え、
『菩薩の因縁』の故に、
『世間』には、
『五戒、十善、八戒斎等』が、
『有る!』が、
是の、
『法には、上中下が有り!』、
『上の者は、道を得!』、
『中の者は、天に生じ!』、
『下の者は、人と為る!』ので、
是の故に、
『刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家』が、
『有るのである!』。
問曰。若世無菩薩。世間亦有五戒十善八齋刹利等大姓。 問うて曰く、若し世に菩薩無きも、世間には亦た五戒、十善、八斎、刹利等の大姓有り。
問い、
若し、
『世』に、
『菩薩』が、
『無くても!』、
亦た、
『世間』には、
『五戒、十善、八戒斎や、刹利等の大姓』が、
『有るはずである!』。
答曰。菩薩受身種種。或時受業因緣身。或受變化身。於世間教化。說諸善法及世界法王法世俗法出家法在家法種類法居家法。憐愍眾生護持世界。雖無菩薩法常行世法。以是因緣故皆從菩薩有。 答えて曰く、菩薩の受身は種種にして、或は時に業因縁の身を受け、或は変化身を受けて、世間に於いて教化し、諸の善法、及び世界法、王法、世俗法、出家法、在家法、種類法、、居家法を説き、衆生を憐愍して、世界を護持し、菩薩法無しと雖も、常に世法を行ずれば、是の因縁を以っての故に、皆菩薩より有り。
答え、
『菩薩』は、
『身を、種種に受け!』、
或は、時に、
『業因縁より!』、
『果報の身』を、
『受け!』、
或は
『変化により!』、
『変化の身』を、
『受けながら!』、
『世間を教化し!』、
『諸の善法や、世界法や、王法や、世俗法や、出家法や、在家法や!』、
『種類法や、居家法』を、
『説き!』、
『衆生を憐愍して!』、
『世界』を、
『護持する!』ので、
若し、
『菩薩の法( that who is called 'Bodhisattva' )が無くても!』、
常に、
『世法』を、
『行じている!』。
是の、
『因縁』の故に、
皆、
『菩薩に従って( following Bodhisattva )!』、
『有るのである!』。
  種類法(しゅるいほう):種類毎の法。刹利法、婆羅門法等。
  菩薩法(ぼさつほう):所謂菩薩の義。
問曰。菩薩清淨行大慈悲。云何說世俗諸雜法。 問うて曰く、菩薩は清浄にして、大慈悲を行ずるに、云何が、世俗の諸の雑法を説く。
問い、
『菩薩が清浄であり!』、
『大慈悲』を、
『行じるならば!』、
何故、
『世俗の諸の雑法』を、
『説くのか?』。
答曰。有二種菩薩。一者行慈悲直入菩薩道。二者敗壞菩薩。亦有悲心治以國法無所貪利。雖有所惱所安者多。治一惡人以成一家。如是立法。人雖不名為清淨菩薩。得名敗壞菩薩。以是因緣故皆由菩薩有。 答えて曰く、二種の菩薩有り、一には慈悲を行じて、直ちに菩薩道に入り、二には敗壊の菩薩にして、亦た悲心有り、治するに国法を以ってし、貪利する所無く、惱す所有りと雖も、安んずる所の者多く、一悪人を治して、以って一家を成し、是の如き立法の人は、名づけて清浄の菩薩と為さずと雖も、敗壊の菩薩と名づくるを得。是の因縁を以っての故に、皆菩薩に由りて有り。
答え、
『菩薩には、二種有り!』、
一には、
『慈悲を行じて!』、
『直ちに!』、
『菩薩道に入り!』、
二には、
『敗壊の菩薩であり!』、
亦た、
『悲心が有り!』、
『国法を用いて、国を治めながら!』、
『利を貪ること!』が、
『無く!』、
『惱される者も、有りながら!』、
『安んじられる者も!』、
『多く!』、
『一悪人を治するだけで( to punish only a wicked person )!』、
『一家』を、
『成す( to establish his family )!』ので、
是のような
『立法の人( as a king )』は、
『清浄の菩薩とは呼ばれない!』が、
『敗壊の菩薩とならば!』、
『呼ばれることができる!』。
是の、
『因縁』の故に、
皆、
『菩薩に由って!』、
『有るのである!』。
世間諸富貴皆從二乘道有。二乘道從佛有。佛因菩薩有。若無菩薩說善法者。世間無有天道人道阿修羅道。無有樂受不苦不樂受。但有苦受常有地獄啼哭之聲。菩薩如是大利益故。云何不名為世間作福田。 世間の諸の富貴は、皆、二乗の道に従って有り。二乗の道は、仏に従って有り。仏は菩薩に因りて有り。若し菩薩の善法を説く者無ければ、世間には、天道、人道、阿修羅道有ること無く、楽受、不苦不楽受有ること無く、但だ苦受有りて、常に地獄の啼哭の声有り。菩薩の是の如き大利益の故に、云何が、名づけて世間の福田と作すと為さざる。
『世間の諸の富貴の者』は、
皆、
『二乗の道に従って有り( should be following the two kinds of way )!』、
『二乗の道』は、
『仏に従って有り!』、
『仏』は、
『菩薩に因って!』、
『有る!』ので、
若し、
『菩薩という!』、
『善法を説く!』者が、
『無ければ!』、
『世間には!』、
『天道、人道、阿修羅道が無く!』、
『楽受も、不苦不楽受も!』、
『無く!』、
但だ、
『苦受だけが!』、
『有って!』、
常に、
『地獄の啼哭の声』が、
『有る!』。
『菩薩』の、
是のような、
『大利益』の故に、
何故、
『世間の為に!』、
『福田と作る!』と、
『称されることがないのか?』。
舍利弗聞是菩薩有大功德應當供養。心念煩惱未盡。雖有大福不能消其供養。如人雖噉好食以內有病故不能消化。以是故 舎利弗は、是の菩薩には、大功徳有りて、応当に供養すべし、と聞いて、心に念ずらく、『煩悩、未だ尽きざれば、大福有りと雖も、其の供養を消す能わず』、と。人は、好食を噉うと雖も、内に病有るを以っての故に、消化する能わず。是を以っての故に、――
『舎利弗』は、
是の、
『菩薩には、大功徳が有る!』ので、
『当然、供養すべきである!』と、
『聞いて!』、
『心』に、こう念じた、――
『煩悩が未だ尽きていなければ!』、
『大福が有ったとしても!』、
其の、
『供養』を、
『消化しきれないだろう!』、と。
譬えば、
『人』は、
『好食を噉ったとしても!』、
『内に!』、
『病が有れば!』、
其の、
『好食』を、
『消化できないようなものである!』。
是の故に、――
【經】舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩淨畢施福不。佛言。不也。何以故。本以淨畢故 舎利弗の仏に白して言さく、『菩薩摩訶薩は、浄め畢(おわ)りて、福を施すや不や』、と。仏の言わく、『不なり。何を以っての故に、本より、浄め畢れるを以っての故なり』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
『菩薩摩訶薩』は、
『浄め畢ってから( after when it has been already purifyed )!』、
『福』を、
『施すのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
そうではない!
何故ならば、
本より、
『世界』は、
『浄め畢っているからである!』、と。
【論】釋曰以菩薩從初發心時便為一切眾生供養之上首。所以者何。以決定為無量無邊阿僧祇眾生代受勤苦。又利益無量阿僧祇眾生令得度脫。欲取一切諸佛法大智慧力故。能令世間即是涅槃。如是種種因緣故言本已淨畢。 釈して曰く、菩薩を以って、初発心の時より、便ち、一切の衆生の供養の上首と為す。所以は何んとなれば、決定して、無量、無辺、阿僧祇の衆生の為めに代りて、勤苦を受け、又無量、阿僧祇の衆生を利益して、度脱を得しめ、一切の諸仏の法なる大智慧力を取らんと欲するを以っての故に、能く世間をして、即ち是れ涅槃ならしむればなり。是の如き種種の因縁の故に、『本より已に浄め畢る』、と言えり。
釈す、
『菩薩』は、
『初発心の時より!』、
便ち( immediately )、
『一切の衆生』中に於いて、
『供養』の、
『上首( the first place )だからである!』。
何故ならば、
『決定して!』、
『無量、無辺、阿僧祇の衆生に代って!』、
『勤苦』を、
『受けたり!』、
又、
『無量、阿僧祇の衆生を利益して!』、
『度脱』を、
『得させたり!』、
『一切の諸仏の法である!』、
『大智慧力』を、
『取ろうとする!』が故に、
『世間』を、
即ち( at once )、
『涅槃とすることができるからである!』。
是のような、
『種種の因縁』の故に、こう言うのである、――
『本とより!』、
『已に浄め畢っている!』、と。
復次佛重說消施因緣故 復た次ぎに、仏は重ねて、施を消する因縁を説きたまえるが故に
復た次ぎに、
『仏』は、
『布施を消化する!』、
『因縁』を、
『重ねてとかれた!』が故に、――
【經】舍利弗。菩薩摩訶薩為大施主施何等施諸善法。何等善法。十善道五戒乃至十八不共法一切種智。以是施與 『舎利弗、菩薩摩訶薩は、大施主と為りて、何等を施す。諸善法を施す。何等か、善法なる、十善道、五戒、乃至十八不共法、一切種智、是れを以って、施与す』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『大施主と為って!』、
何のようなものを、施すのか?――
『諸の善法』を、
『施すのである!』。
何のような、善法だろうか?――
『十善道、五戒、乃至十八不共法、一切種智を用いて!』、
『施与するのである!』。
【論】釋曰。先說由菩薩因緣世間有善法今說菩薩施善法之主。是為差別 釈して曰く、先には、『菩薩の因縁に由って、世間には善法有り』、と説き、今は、『菩薩は、善法を施す主なり』、と説いて、是れを差別と為す。
釈す、
先には、こう説き、――
『菩薩の因縁に由り!』、
『世間には!』、
『善法』が、
『有るのである!』、と。
今は、こう説いて、――
『菩薩』とは、
『善法を施す!』、
『主である( a chief leader )!』、と。
是れが、
『声聞、辟支仏の善法』との、
『差別である!』。



般若波羅蜜と習応し、般若波羅蜜と相応する

【經】舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩云何習應般若波羅蜜。與般若波羅蜜相應 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、云何が、般若波羅蜜を習応し、般若波羅蜜と相応すべき』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『般若波羅蜜を習応(習行/修習・順応)しながら!』、
『般若波羅蜜』と、
『相応するのですか?』、と。
  参考:『大般若経巻4』:『爾時舍利子白佛言。世尊。修行般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。與何法相應故。當言與般若波羅蜜多相應。佛告具壽舍利子言。舍利子。修行般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。與色空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。與受想行識空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。舍利子。修行般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。與眼處空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。與耳鼻舌身意處空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。舍利子。修行般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。與色處空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。與聲香味觸法處空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。舍利子。修行般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。與眼界空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。與耳鼻舌身意界空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。舍利子。修行般若波羅蜜多菩薩摩訶薩。與色界空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。與聲香味觸法界空相應故。當言與般若波羅蜜多相應。』
【論】釋曰。上說一日修般若波羅蜜勝聲聞辟支佛。從是因緣來佛種種讚歎菩薩。如是大功德皆從般若波羅蜜生。是故今問。云何菩薩習行是般若波羅蜜。與般若波羅蜜相應。 釈して曰く、上に説かく、『一日、般若波羅蜜を修すれば、声聞、辟支仏に勝る』、と。是の因縁より来(このかた)、仏は、種種に菩薩をしたもうも、是の如き大功徳は、皆、般若波羅蜜より生ずれば、是の故に、今問わく、『云何が、菩薩は是の般若波羅蜜を習行して、般若波羅蜜と相応するや』、と。
釈す、
上には、こう説いた、――
『一日、般若波羅蜜を修めれば!』、
『声聞、辟支仏』に、
『勝る!』、と。
是の因縁により、
『仏』は、
『菩薩』を、
『種種に讃歎されたのである!』が、
是のような、
『大功徳』は、
皆、
『般若波羅蜜より!』、
『生じる!』ので、
是の故に、
今、こう問うたのである、――
何のように、
『菩薩』が、
是の、
『般若波羅蜜を習行すれば!』、
『般若波羅蜜』と、
『相応するのですか?』、と。
復次舍利弗知般若波羅蜜難行難得。如幻如化難可受持。恐行者違錯。故問習應 復た次ぎに、舎利弗は、般若波羅蜜の行じ難く、得難く、幻の如く、化の如く、受持すべきことの難きを知り、行者の違錯せんことを恐るるが故に、習応を問えり。
復た次ぎに、
『舎利弗』は、
『般若波羅蜜が行じ難く、得難く!』、
『幻や、化のように!』、
『受持することが困難である!』と、
『知り!』、
『行者』が、
『違錯する( to transgress )こと!』を、
『恐れた!』ので、
是の故に、
『習応すること( to accord with )!』を、
『問うたのである!』。
【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩習應色空。是名與般若波羅蜜相應。習應受想行識空。是名與般若波羅蜜相應。 仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、色の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、受想行識の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく』。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『色』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称し!』、
『受想行識』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称する!』。
復次舍利弗。菩薩摩訶薩習應眼空。是名與般若波羅蜜相應。習應耳鼻舌身心空。是名與般若波羅蜜相應。習應色空。是名與般若波羅蜜相應。習應聲香味觸法空。是名與般若波羅蜜相應。習應眼界空色界空眼識界空。是名與般若波羅蜜相應。習應耳聲識界鼻香識界舌味識界身觸識界意法識界空。是名與般若波羅蜜相應。習應苦空。是名與般若波羅蜜相應。習應集滅道空。是名與般若波羅蜜相應。習應無明空。是名與般若波羅蜜相應。習應行識名色六處觸受愛取有生老死空。是名與般若波羅蜜相應。習應一切諸法空若有為若無為空。是名與般若波羅蜜相應 『復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、眼の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、耳鼻舌身心の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、色の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、声香味触法の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、眼界の空、色界の空、眼識界の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、耳、声、識界、鼻、香、識界、舌、味、識界、身、触、識界、意、法、識界の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、苦の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、集滅道の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、無明の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づけ、一切の諸法の若しは有為、若しは無為の空を習応し、是れを般若波羅蜜と相応すと名づく』。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『眼、耳鼻舌身心』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称し!』、
『色、声香味触法』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称し!』、
『眼界、色界、眼識界、乃至意界、法界、意識界』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称し!』、
『苦、集、滅、道』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称し!』、
『無明、行、色、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称し!』、
『有為や、無為の一切の諸法』は、
『空である!』と、
『習応すれば!』、
是れを、
『般若波羅蜜と相応する!』と、
『称する!』。
【論】釋曰。五眾者色受想行識。色眾者是可見法。是色因緣故亦有不可見。有對。有對雖不可見亦名為色。如得道者名為道人。餘出家未得道者亦名為道人。何等是可見。一處是可見有對色。小分一入攝餘九處及無作業名不可見色。有對者十處。無對者唯無作色。有漏無漏等分別亦如是。 釈して曰く、五衆とは、色受想行識なり。色衆とは、是れ可見の法なり。是の色の因縁の故に、亦た不可見の有対有り。有対は不可見なりと雖も、亦た名づけて色と為す、道を得る人を、名づけて道人と為し、餘の出家の未だ道を得ざる者も亦た名づけて、道人と為すが如し。何等か、是れ可見なる。一処は、是れ可見と有対の色の小分にして、一入に摂す。餘の九処、及び無作業を不可見の色と名づく。有対は十処にして、無対は唯だ無作の色なり。有漏、無漏等の分別も亦た是の如し。
釈す、
『五衆』とは、
『色衆と!』、
『受想行識衆である!』。
『色衆』とは、
『可見の法であり!』、
是の、
『色の因縁』の故に、
『不可見の有対』が、
『有り!』、
『有対は、不可見でありながら!』、
『色』と、
『呼ばれる!』。
譬えば、
『道を得た!』者を、
『道人』と、
『称する!』が、
『餘の出家で!』、
『未だ、道を得ていない!』者も、
『道人』と、
『称するようなものである!』。
『可見』とは、何のようなものか?――
『一処(色処)』は、
『可見、有対の色』の、
『小分( 夢、幻、化の如きを除く)であり!』、
是れを、
『一入(色入≒色処)』に、
『摂する( to be contained )!』。
『餘の九処(声、香、味、触、眼、耳、鼻、舌、身)と無作業』は、
『不可見の色』と、
『称される!』。
『有対は、十処であり!』、
『無対』は、
唯だ、
『無作の色である( the forms not doing any phisical or mental actions!』。
『有漏や、無漏等の分別』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  無作業(むさごう):表に現れない行為。
  無作色(むさしき):表示する能わざる色の意。七十五法の一。即ち身中に相続恒転して妨非止悪、若しくはこれに反する功能を有する無見無対の色法を云う。『大智度論巻13上注:無表色』参照。
如經說。色有三種。有色可見有對。有色不可見有對。有色不可見無對。是故當知非但眼見故。是色內外十處能起五識者皆名色。因是色分故生無作色。復有四種色。內有受不受。外有受不受。復有五種色所謂五塵。 経に説けるが如きは、『色には三種有り、有る色は可見、有対、有る色は不可見、有対、有る色は不可見、無対なり。是の故に当に知るべし、但だ眼に見るが故に、是れ色なるに非ず。内外の十処の能く五識を起す者を、皆、色と名づけ、是の色分に因るが故に無作の色を生ず。復た四種の色有り、内に有る受と不受、外に有る受と不受なり。復た五種の色有り、謂わゆる五塵なり』、と。
『経』には、こう説かれている、――
『色には、三種有り!』、
有る、
『色』は、
『可見、有対であり!』、
有る、
『色』は、
『不可見、有対であり!』、
有る、
『色』は、
『不可見、無対である!』、と。
是の故に、こう知らねばならない、――
但だ、
『眼に、見る!』が故に、
是れを、
『色』と、
『称するのではない!』。
『内、外の十処』の、
『五識(眼識、乃至身識)を起すことのできる!』者を、
皆、
『色』と、
『称するのであり!』、
是の、
『色の分に因る!』が故に、
『無作の色』を、
『生じる!』、と。
復た、
『四種の色が有り!』、
『内』には、
『受と、不受』が、
『有り!』、
『外』にも、
『受と、不受』が、
『有る!』。
復た、
『五種の色が有り!』、
謂わゆる、
『五塵である!』。
復有一種色如經說惱壞相。眾生身色名為惱壞相。非眾生色亦名惱壞相。惱相因緣故亦名惱。譬如有身則有飢渴寒熱老病刀杖等苦。 復た一種の色有り。経に説ける悩壊の相の如し。衆生の身色を名づけて、悩壊の相と名づけ、衆生に非ざる色も亦た悩壊の相と名づく。悩相の因縁の故に、亦た悩と名づく。譬えば身有れば、則ち飢渇、寒熱、老病、刀杖等の苦有るが如し。
復た、
『一種の色が有り!』、
例えば、
『経』に、説かれたような、――
『悩壊』の、
『相である!』が、
『衆生』の、
『身色』を、
『悩壊の相』と、
『称する!』が、
『衆生でない!』、
『色』も、
『悩壊の相』と、
『称し!』、
『悩の相』の、
『因縁』の故に、
亦た、
『悩( that which disturbs somebody )』と、
『称するのである!』が、
譬えば、
『身が有れば!』、
則ち、
『飢渇、寒熱、老病、刀杖等の苦』が、
『有るようなものである!』。
復有二種色。所謂四大四大造色。內色外色。受色不受色。繫色不繫色。有色能生罪有色能生福。業色非業色。業色果色。業色報色。果色報色。隱沒無記色。不隱沒無記色。可見色不可見色。有對色無對色。有漏色無漏色。如是等二種分別色。 復た、二種の色有り、謂わゆる四大と四大造の色、内色と外色、受色と不受色、繋色と不繋色、有る色は能く罪を生じ、有る色は能く福を生じ、業色と非業色、業色と果色、業色と報色、果色と報色、隠没無記の色と不隠没無記の色、可見の色と不可見の色、有対の色と無対の色、有漏の色と無漏の色、是れ等の如く色を二種に分別す。
復た、
『二種の色が有り!』、
謂わゆる、
『四大と四大造の色や、内色と外色や、受色と不受色や!』、
『繋色と不繋色や、有る色は能く罪を生じ、有る色は能く福を生じ!』、
『業色と非業色や、業色と果色や、業色と報色や、果色と報色や!』、
『隠没無記の色と不隠没無記の色や、可見の色と不可見の色や!』、
『有対の色と無対の色や、有漏の色と無漏の色であり!』、
是れ等のように、
『二種』に、
『色』を、
『分別する!』。
  受色(じゅしき):衆生の手足等。有受の色。
  不受色(ふじゅしき):木石等。無受の色。
  参考:『十誦律巻16』:『又比丘有三種。奪畜生命得波逸提。一者用受色。二者用不受色。三者用受不受色。受色者。若比丘以手打畜生。若足若頭若餘身分。念欲令死。死者波逸提。若不即死。後因死者波逸提。若不即死後不因死突吉羅。不受色者。若比丘以木瓦石刀槊弓箭若木段白鑞段鉛錫段遙擲畜生。念欲令死。死者波逸提。若不即死。後因是死亦波逸提。若不即死後不因死突吉羅。受不受色者。若以手捉木瓦石刀槊弓箭木段白鑞段鉛錫段就打。念欲令死。死者波逸提。若不即死。後因是死波逸提。若不即死後不因死突吉羅。若比丘不以受色不受色受不受色。為殺故。以毒藥著畜生眼中耳中鼻中口中身上瘡中。著飲食中臥處行處。念欲令死。死者波逸提。若不即死後因是死亦波逸提。若不即死後不因死突吉羅。若比丘不以受色不受色受不受色。不以毒藥。為殺故。作憂多殺頭多殺。作弶網撥毘陀羅殺。似毘陀羅殺。斷命殺墮胎殺按腹殺。推著水火中殺。推著坑中殺。遣令道中死。乃至母胎中初受二根。身根命根。於中起方便。念欲令死。死者波逸提。若不即死後因是死波逸提。若不即死後不因死。突吉羅』
復有三種色如上可見有對中說。復有三種色。善色不善色無記色。學色無學色非學非無學色。從見諦所斷生色從思惟所斷生色從無斷生色。 復た三種の色有り、上の可見、有対中に説けるが如し。復た三種の色有り、善の色と不善の色と無記の色、学の色と無学の色と非学非無学の色、見諦の所断より生ずる色と思惟の所断より生ずる色と無断より生ずる色なり。
復た、
『三種の色が有り!』、
『上の可見、有対』中に、
『説く通りである!』。
復た、
『三種の色が有り!』、
『善の色と不善の色と無記の色や!』、
『学の色と無学の色と非学非無学の色や!』、
『見諦の所断より生ずる色と思惟の所断より生ずる色と無断より生ずる色である!』。
復有三種色。欲界繫色色界繫色不繫色。有色能生貪欲有色能生瞋恚有色能生愚癡。三結三漏等亦如是。有色能生不貪善根不瞋善根不愚癡善根。如是等諸三善根應廣說。 復た三種の色有り、欲界繋の色と色界繋の色と不繋の色、有る色は能く貪欲を生じ、有る色は能く瞋恚を生じ、有る色は能く愚癡を生じ、三結、三漏等も亦た是の如し。有る色は能く不貪の善根、不瞋の善根、不愚癡の善根を生じ、是れ等の如き諸の三善根は、応に広説すべし。
復た、
『三種の色が有り!』、
『欲界繋と色界繋と不繋の色や!』、
『有る色』は、
『貪欲や、瞋恚や、愚癡』を、
『生じさせ!』、
亦た、
『三結(身見、戒取見、疑)や、三漏(欲漏、有漏、無明漏)等も!』、
『是の通りである!』。
『有る色』は、
『不貪や、不瞋や、不愚癡の善根』を、
『生じさせる!』が、
是れ等のような、
『諸の三善根』は、
『当然、広説せねばならない!』。
有色能生隱沒無記法能生不隱沒無記法。不隱沒無記有二種。有報生有非報生者。如是等二種無記。 有る色は能く隠没無記法を生じ、能く不隠没無記法を生ず。不隠没無記に二種有り、有るいは報生、有るいは報生に非ざる者にして、是れ等の如き二種の無記なり。
『有る色』は、
『隠没や、不隠没の無記法』を、
『生じさせる!』。
『不隠没無記の法には二種有り!』、
有るいは、
『果報』の、
『生であり!』、
有るいは、
『果報』の、
『生でない!』が、
是れ等のような、
『二種』の、
『無記である!』。
  隠没無記(おんもつむき):梵語 nivRta-avyaakRta の訳、又有覆無記に作る、覆われ未発達の( surrounded and undeveloped )の義、心を覆って不浄なるも、果を生ずるに至らざるもの( impedimentary moral indeterminacy )の意。
  不隠没無記(ふおんもつむき):梵語 anivRta-avyaakRta の訳、又無覆無記に作る、覆われず未発達の( unsurrounded and developed )の義、心を覆わず清浄なるも、果を生ずるに至らざるもの( non-impedimentary moral indeterminacy )の意。
復有四種色如上受不受中說。四大及造色三種善不善無記。身業作無作色口業作無作色。受色(受戒時得律儀色)止色(惡不善業止也)用色(如眾僧受用檀越所施之物)不用色。(餘無用之色)如是等四種色。 復た四種の色有り、上の受不受中に説ける、『四大、及び造色の三種の善、不善、無記』、の如く、身業の作、無作の色、口業の作、無作の色、受の色(受戒の時に得る律儀の色なり)、止の色(悪不善業を止むるなり)、用の色(衆僧の受用する檀越の所施の物の如し)、不用の色(餘の無用の色なり)、是れ等の如き四種の色なり。
復た、
『四種の色が有り!』、
上の、
『受、不受中に説くような!』、
『外の受、不受と!』、
『中の受、不受や!』、
『四大と、四大造の色の善、不善、無記の三種や!』、
『身業、口業の作、無作の色や!』、
『可見、可聞の法』の、
『受色( the dharma to be received )と!』、
『止色( the dharma to be relied )と!』、
『用色( the useful dharma )と!』、
『不用色( the useless dharma)であり!』、
是れ等のような、
『四種の色である!』。
復有五種色。身作無作色口作無作色及非業色五情五塵。麤色動色影色像色誑色。麤色者可見可聞可嗅可味可觸如土石等。 復た五種の色有り、身の作、無作の色、口の作、無作の色、及び非業の色と、五情、五塵と、麁色、動色、影色、像色、誑色なり。麁色とは可見、可聞、可嗅、可味、可触の土石等の如きなり。
復た、
『五種の色が有り!』、
『身の作、無作の色、口の作、無作の色と非業の色であり!』、
『五情や、五塵であり!』、
『麁色、動色、影色、像色、誑色である!』。
『麁色』とは、
『見、可聞、可嗅、可味、可触であり!』、
例えば、
『土、石等である!』。
動色者有二種。一者眾生動作二者非眾生動作。如水火風動作。地依他故動。下有大風動水水動地。風之動樹。如酒自沸動。如磁石吸鐵。如真珠玉車渠馬瑙夜能自行。皆是眾生先世福德業因緣不可思議。 動色には二種有り、一には衆生の動作、二には非衆生の動作にして、水、火、風の動作の如し。地は、他に依るが故に動き、下に大風の有りて、水を動かし、水は地を動かす。風の樹を動かすは、酒の自ら沸きて動くが如く、磁石の鉄を吸うが如く、真珠、玉、車渠、馬瑙の夜に能く自ら行くが如きは、皆是れ衆生の先世の福徳の業の因縁にして不可思議なり。
『動色には二種有り!』、
一には、
『衆生の動作であり( movement of a living being )!』、
二には、
『非衆生の動作である!』。
譬えば、
『水、火、風の動作であり!』、
『地』は、
『他に依る!』が故に、
『動くのであり!』、
『地の下に有る!』、
『大風』が、
『水』を、
『動かす!』と、
『水』は、
『地』を、
『動かし!』、
『風』は、
『樹』を、
『動かすようなものである!』。
譬えば、
『酒が醞され!』、
『自ら、沸いて!』、
『動いたり!』、
『磁石』が、
『鉄』を、
『吸い寄せたり!』、
『真珠、玉、車渠、馬瑙』が、
『夜になる!』と、
『自ら、行くことができる!』のは、
皆、
『衆生の先世の福徳の業因縁であり!』、
『不可思議なのである!』。
問曰。影色像色不應別說。何以故。眼光明對清淨鏡故反自照見。影亦如是遮光故影現無更有法。 問うて曰く、影色と像色とは、応に別に説くべからず。何を以っての故に、眼と光明と、清浄なる鏡に対するが故に、反って自ら照見し、影も亦た是の如く光を遮るが故に影現わるれば、更に法の有ること無ければなり。
問い、
『影色と像色』とは、
『別けて!』、
『説くべきではない!』。
何故ならば、
『眼と、光明とが!』、
『清浄な鏡に対する!』が故に、
反って( reflectively )、
『自らを!』、
『照見するのであり!』、
『影』も、
是のように、
『光を遮る!』が故に、
『影』が、
『現れるので!』、
更に、
『法』が、
『有るわけではないからである!』。
答曰。是事不然。如油中見像黑則非本色。如五尺刀中橫觀則面像廣縱觀則面像長則非本面。如大秦水精中玷。玷中皆有面像則非一面像。以是因緣故非還見本像。 答えて曰く、是の事は然らず。油の中に見る像は黒ければ、則ち本の色に非ざるが如く、五尺の刀中に横に観れば、則ち面像は広く、縦に観れば、則ち面像は長ければ、則ち本の面に非ざるが如し。大秦の水精中の玷(きず)は、玷中に皆、面像有れば、則ち一面像に非ず。是の因縁を以っての故に、還って本の像を見るに非ず。
答え、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
譬えば、
『油中に見る!』、
『像は黒い!』ので、
『本の色ではないように!』、
『五尺の刀』中に、
『横に観る!』、
『面像』は、
『広く!』、
『縦に観る!』、
『面像』は、
『長い!』ので、
是れは、
『本の面ではないように!』、
『大秦の水精中の玷』は、
『玷』中に、
皆、
『面像が有る!』ので、
則ち、
『一面像ではないように!』、
是の、
『因縁』の故に、
『還って見るのは( what to be saw reflectively is )!』、
『本』の、
『像ではないのである!』。
  大秦(だいしん):姚萇の後秦。或は苻健の前秦。
  (てん):白玉の上面の斑点( flaw in gem )、亦た人の缺點に喻う。
復次有鏡有人有持者有光明。眾緣和合故有像生。若眾緣不具則像不生。是像亦非無因緣。亦不在因緣中。如是別自有法非是面也。此微色生法如是不同麤色。如因火有煙火滅煙在。 復た次ぎに、鏡有り、人有り、持つ者有り、光明有り、衆縁和合の故に像の生ずる有り。若し衆縁具せざれば、則ち像生ぜざれば、是の像も亦た無因縁に非ず。亦た因縁中にも在らず。是の如く別に自ら法有れば、是れ面に非ざるなり。此の微色生の法は、是の如く麁色に同じからず。火に因りて煙有り、火滅して煙在るが如し。
復た次ぎに、
『鏡や、人や、持つ者や、光明が有り!』、
『衆縁の和合』の故に、
有る、
『像』が、
『生じる!』が、
若し、
『衆縁が具足しなければ!』、
則ち、
『像』の、
『生じることはない!』ので、
是の、
『像も!』、
『無因縁ではなく!』、
亦た、
『因縁』中に、
『在るのでもない!』。
是のように、
『別に、自ら法が有っても!』、
『像』は、
『面ではないのであり!』、
此の、
『微色生(四大造)の法』も、
是のように、
『麁色(衆生の身)』と、
『同じではない!』。
譬えば、
『火に因って!』、
『煙』が、
『有りながら!』、
『火が滅しても!』、
『煙』が、
『在るようなものである!』。
  微色(みしき):また極微、極微の色とも云う。最細の色にして、方分あることなく、また不可見にして触対すべからざるを云う。『大智度論巻12上注:極微』参照。
問曰。若爾者不應別說影。同是細色故。 問うて曰く、若し爾らば、応に別して、影を説くべからず。是れは細色に同じきが故なり。
問い、
若し、爾うならば、
『別に!』、
『影を説くべきでない!』。
是れは、
『細色(四大)』と、
『同じだからである!』。
  細色(さいしき):上述微色の如し。『大智度論巻12上注:極微』参照。
答曰。鏡中像有種種色影則一色是故不同。是二雖待形俱動形質各異。影從遮明而現。像則從種種因緣生。雖同細色各各差別。誑色者如炎如幻如化如乾闥婆城等。遠誑人眼近無所有。如是等種種無量色總名色眾。 答えて曰く、鏡中の像には、種種の色有るも、影は則ち一色なれば、是の故に同じからず。是の二は、形を待って倶に動くと雖も、形質は各異にして、影は明を遮するに従って現れ、像は則ち種種の因縁に従って生ず。同じく細色なりと雖も、各各差別す。誑色とは、炎の如く、幻の如く、犍闥婆城等の如く、遠ければ人の眼を誑し、近づけば所有無し。是れ等の如き種種、無量の色を総じて、色衆と名づく。
答え、
『鏡中の像』には、
『種種の色が有る!』が、
『影』は、
『一色であり!』、
是の故に、
『像と、影』は、
『同じでない!』。
是の、
『二』は、
『形を待って、倶に動く!』が、
『形質』は、
『各異なるのである!』。
『影』は、
『明を遮ることにより!』、
『現れる!』が、
『像』は、
『種種の因縁より!』、
『生じる!』ので、
『同じく、細色でありながら!』、
『各各は!』、
『差別される( to be distinct from each other )!』。
『誑色』とは、
『炎や、幻や、化や、犍闥婆城等のように!』、
遠ければ、
『人の眼』を、
『誑す!』が、
近づけば、
『所有( that what is exsisting )』が、
『無い!』。
是れ等のような、
『種種、無量の色』を、
総じて、
『色衆と称するのである!』。
受眾者如經說。因眼緣色生眼識。三事和合故生觸。是觸即時三眾共生。所謂受想行。 受衆とは、経に、『眼の色を縁ずるに因りて、眼識を生じ、三事和合の故に触を生じ、是の触は即時に三衆を共に生ず、謂わゆる受、想、行なり』、と説くが如し。
『受衆』とは、
『経』に、こう説くようなものである、――
『眼が、色を縁じる!』と、
是れに、
『因って!』、
『眼識』を、
『生じ!』、
『眼、色、眼識の三事』が、
『和合する!』が故に、
『触』を、
『生じ!』、
是の、
『触』が、
即時に、
『三衆』を、
『共に、生じるのである!』。
謂わゆる、
『受衆、想衆、行衆である!』。
  参考:『雑阿含経巻11(273)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。有異比丘獨靜思惟。云何為我。我何所為。何等是我。我何所住。從禪覺已。往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。我獨一靜處。作是思惟。云何為我。我何所為。何法是我。我於何住。佛告比丘。今當為汝說於二法。諦聽。善思。云何為二。眼色為二。耳聲.鼻香.舌味.身觸.意法為二。是名二法。比丘。若有說言。沙門瞿曇所說二法。此非為二。我今捨此。更立二法。彼但有言。數問已不知。增其疑惑。以非境界故。所以者何。緣眼.色。生眼識。比丘。彼眼者。是肉形.是內.是因緣.是堅.是受。是名眼肉形內地界。比丘。若眼肉形。若內.若因緣.津澤.是受。是名眼肉形內水界。比丘。若彼眼肉形。若內.若因緣.明暖.是受。是名眼肉形內火界。比丘。若彼眼肉形。若內.若因緣.輕飄動搖.是受。是名眼肉形內風界。比丘。譬如兩手和合相對作聲。如是緣眼.色。生眼識。三事和合觸。觸俱生受.想.思。此等諸法非我.非常。是無常之我。非恒。非安隱.變易之我。所以者何。比丘。謂生.老.死.沒.受生之法。比丘。諸行如幻.如炎。刹那時頃盡朽。不實來實去。是故。比丘。於空諸行當知.當喜.當念。空諸行常.恒.住.不變易法。空無我.我所。譬如明目士夫。手執明燈。入於空室。彼空室觀察。如是。比丘。於一切空行.空心觀察歡喜。於空法行常.恒.住.不變易法。空我.我所。如眼.耳.鼻.舌.身.意法因緣生意識。三事和合觸。觸俱生受.想.思。此諸法無我.無常。乃至空我.我所。比丘。於意云何。眼是常.為非常耶。答言。非常。世尊。復問。若無常者。是苦耶。答言。是苦。世尊。復問。若無常.苦。是變易法。多聞聖弟子寧於中見我.異我.相在不。答言。不也。世尊。耳.鼻.舌.身.意亦復如是。如是多聞聖弟子於眼生厭。厭故不樂。不樂故解脫。解脫知見。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。耳.鼻.舌.身.意亦復如是。時。彼比丘聞世尊說合手聲譬經教已。獨一靜處。專精思惟。不放逸住。乃至自知不受後有。成阿羅漢』
問曰。眼識亦與三眾作因。何以但說觸。 問うて曰く、眼識も亦た三衆の与(ため)に因と作る。何を以ってか、但だ触を説く。
問い、
『眼識』も、
『三衆の与に( for the three aggregates )!』、
『因』と、
『作るのに!』、
何故、
但だ、
『触のみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。眼識少時住見色便滅。次生意識能分別色好醜。是故不說眼識。因眼色識三事和合故生觸。觸生心數法。眼識因緣遠故不說。 答えて曰く、眼識は少時住りて、色を見るも、便ち滅すれば、次いで意識を生じて、能く色の好醜を分別す。是の故に眼識を説かず。眼、色、識の三事の和合に因るが故に、触を生じ、触は心数法を生ずるも、眼識の因縁は遠きが故に説かず。
答え、
『眼識( likely this is belong to the form-aggregate )』は、
『少時住って!』、
『色を見る!』が、
『便ち滅して( soon to be extinguished )!』、
次いで、
『意識を生じて!』、
『色の好醜』を、
『分別することができる!』ので、
是の故に、
『眼識』を、
『説くことはない1』。
『眼情、色塵、眼識の三事和合する!』が故に、
『触を生じる!』と、
『触』は、
『心数法』を、
『生じることになる!』が、
『眼識という!』、
『因縁は遠い!』が故に、
『説かないのである!』。
問曰。一切識皆有觸。何以但觸因緣生心數法。 問うて曰く、一切の識は、皆触有り。何を以ってか、但だ触の因縁のみ、心数法を生ずる。
問い、
『一切の識』には、
皆、
『触』が、
『有るとして!』、
何故、
但だ、
『触の因縁のみ!』が、
『心数法を生じるのですか?』。
答曰。心有二種一者念念生滅心。二者次第相續心。觸亦如是。次第相續觸麤故說因觸生心數法。念念觸微細亦共生心數法不了故不說。若情塵識三事和合能受苦樂。爾時觸法了了。以是故說因觸生心數法。 答えて曰く、心には二種有り、一には念念に生滅する心、二には次第に相続する心なり。触も亦た是の如く、次第に相続する触は麁なるが故に、『触に因りて、心数法を生ず』、と説き、念念の触は、微細なれば、亦た共に心数法を生ずるも、了ならざるが故に、説かず。若し情、塵、識の三事和合して、能く苦楽を受くれば、爾の時触法了了たり。是を以っての故に、『触に因りて、心数法を生ず』、と説く。
答え、
『心には、二種有り!』、
一には、
『念念に生滅する( arising and ceasing from moment to moment )!』、
『心であり!』、
二には、
『次第に相続する( continuously successive )!』、
『心である!』。
『触』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
『次第に相続する!』、
『触は、麁である( being cognizable )!』が故に、こう説くのである、――
『触に因って!』、
『心数法』を、
『生じる!』、と。
『念念に相続する!』、
『触は、微細である( being incognizable )!』が故に、
『情、塵と共に!』、
『心数法』を
『生じる!』が、
是れは、
『了了でない!』が故に、
『説かない!』。
若し、
『情、塵、識の三事が和合して!』、
『苦、楽』を、
『受けさせる!』と、
爾の時、
『触法が、了了となる!』、
是の故に、こう説くのである、――
『触に因って!』、
『心数法』を、
『生じる!』、と。
如色法從因緣和合生。心數法亦如是。從觸法和合生。如色法從和合生。無和合則不生。心數法亦如是。有觸則生無觸則不生。此受眾一種所謂受相。 色法の、因縁和合より生ずるが如く、心数法も亦た是の如く、触法の和合より生ず。色法の、和合より生じて、和合無ければ、則ち生ぜざるが如く、心数法も亦た是の如く、触有れば、則ち生じ、触なければ、則ち生ぜず。此の受衆は、一種にして、謂わゆる受相なり。
『色法』が、
『因縁の和合より!』、
『生じるように!』、
『心数法』も、
是のように、
『触法の和合(情、塵、識の和合)より!』、
『生じる!』、
『色法』が、
『和合より、生じて!』、
『和合が無ければ!』、
『生じないように!』、
『心数法』も、
是のように、
『触が有れば、生じる!』が、
『触が無ければ!』、
『生じない!』。
此の、
『受衆』は、
『一種であり!』、
『謂わゆる、受相である!』。
復有二種受。身受心受內受外受。麤細遠近淨不淨等。 復た二種の受有り、身受と心受、内受と外受、麁細、遠近、浄不浄等なり。
復た、
『二種の受が有り!』、
『身受と心受、内受と外受や!』、
『麁細、遠近、浄不浄等である!』。
復有三種受。苦樂不苦不樂。善不善無記。學無學非學非無學。見諦所斷思惟所斷不斷。因見諦所斷生受。因思惟所斷生受。因不斷生受。或因身見生。不還與身見作因。或因身見生。還與身見作因。或不因身見生。不還與身見作因。 復た三種の受有り、苦と楽と不苦不楽、善と不善と無記、学と無学と非学非無学、見諦所断と思惟所断と不断、見諦所断に因りて生ずる受、思惟所断に因りて生ずる受、不断に因りて生ずる受、或は身見に因りて生ずるも、還って身見の与(ため)に因と作らず、或は身見に因りて生じ、還って身見の与に因と作り、或は身見に因らずして生じ、還って身見の与に因と作らず。
復た、
『三種の受が有り!』、
『苦と楽と不苦不楽や、善と不善と無記や、学と無学と非学非無学や!』、
『見諦所断と思惟所断と不断や!』、
『見諦所断に因りて生じる受と思惟所断に因りて生じる受と不断に因りて生じる受や!』、
或は、
『身見に因って生じながら!』、
還って、
『身見の与に( for the view of self )!』、
『因』と、
『作らず!』、
或は、
『身見に因って生じながら!』、
還って、
『身見の与に!』、
『因』と、
『作り!』、
或は、
『身見に因らずに生じ!』、
還って、
『身見の与に!』、
『因』と、
『作らない!』。
  身見(しんけん):梵語 aatma-dRSTi の訳、( the view of self )の義、個体の実在を信じる見解( the view of the existence of independent entities )の意。
復有三種受。欲界繫色界繫無色界繫。如是等三種受。 復た三種の受有り、欲界繋、色界繋、無色界繋、是れ等の如き、三種の受なり。
復た、
『三種の受が有り!』、
『欲界繋、色界繋、無色界繋』、
是れ等のような、
『三種の受である!』。
復有四種受。內身受外身受內心受外心受。四正勤四如意足等相應受。及四流四縛等相應受。是名四種受。 復た四種の受有り、内身の受、外身の受、内心の受、外心の受、四正勤、四如意足等に相応する受、及び四流、四縛等に相応する受、是れを四種の受と名づく。
復た、
『四種の受が有り!』、
『内身の受、外身の受、内心の受、外心の受や!』、
『四正勤、四如意足等に相応する受や!』、
『及び四流、四縛等に相応する受であり!』、
是れを、
『四種の受』と、
『称する!』。
  四流(しる):欲流、有流、見流、無明流。『大智度論巻3下注:流』参照。
復有五種受。樂根苦根憂根喜根捨根。見苦所斷相應受。乃至思惟所斷相應受。五蓋五結諸煩惱相應受亦如是。 復た五種の受有り、楽根、苦根、憂根、喜根、捨根、見苦所断に相応する受、乃至思惟所断相応の受、五蓋、五結の諸煩悩相応の受も亦た是の如し。
亦た、
『五種の受が有り!』、
『楽、苦、憂、喜、捨根の五受根や!』、
『見苦、見集、見滅、見道諦所断と思惟所断相応の受であり!』、
『五蓋、五結の諸煩悩相応の受も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
  五受根(ごじゅこん):梵語 paJca vedanendriyaani の訳、又五受と称す、五種の受根( five roots of sensation )の義、五受とは( the five sensations of )、
  1. 苦受 duHkha- vedanaa ( pain )、
  2. 楽受 sukha- v. ( pleasuer )、
  3. 憂受 daurmanasya- v. ( sorrow )、
  4. 喜受 saumanasya- v. ( joy )、
  5. 捨受 upekSaa- v. (indiffernce )である。
  此の中に就き、苦受と楽受は身に属し、憂受と喜受は心に属す( pain and pleasure belong to physical experience, sorrow and joy belong to mental experience )。
  見苦所断(けんくしょだん):見苦諦道所断の煩悩、『大智度論巻2上注:見所断、巻32下注:見惑』参照。
  思惟所断(しゆいしょだん):思惟道所断の煩悩、『大智度論巻2上注:見所断』参照。
復有六受眾。六識相應受。復有意識分別為十八受。所謂眼見色思惟分別心生喜。眼見色思惟分別心生憂。眼見色思惟分別心生捨。乃至意識亦如是。是十八受中有淨有垢為三十六。三世各有三十六為百八。如是等種種因緣分別受義無量名為受眾。 復た六受衆有り、六識相応の受なり。復た意識の分別有りて、十八受と為す、謂わゆる眼に色を見て思惟し、分別して心に喜を生じ、眼に色を見て思惟し、分別して心に憂を生じ、眼に色を見て思惟し、分別して心に捨を生じ、乃至意識も亦た是の如し。是の十八受中に浄有り、垢有りて、三十六と為し、三世に各三十六有れば百八と為す。是れ等の如き種種の因縁もて、受の義を分別すること無量なるを名づけて、受衆と為す。
復た、
『六受衆が有り!』、
『六識に相応する!』、
『受であり!』、
復た、
『意識』には、
『分別が有り!』、
『十八受と為す!』。
謂わゆる、
『眼に色を見て、思惟し、分別して!』、
『心』に、
『喜を生じ!』、
『眼に色を見て、思惟し、分別して!』、
『心』に、
『憂を生じ!』、
『眼に色を見て、思惟し、分別して!』、
『心』に、
『捨を生じ!』、
乃至、
『意識まで!』、
『是の通りである!』。
是の、
『十八受』中に、
『浄、垢が有る!』ので、
『三十六と為し!』、
『三世』は、
『各に、三十六が有る!』ので、
『百八と為す!』。
是れ等のように、
『種種の因縁を用いて!』、
『受の義を分別すれば、無量であり!』、
是れを、
『受衆』と、
『称する!』。
想眾相應行眾識眾亦如是分別。何以故。與受眾相應故。 想衆相応、行衆、識衆も亦た是の如く分別す。何を以っての故に、受衆と相応するが故なり。
『想衆相応の受や、行衆、識衆相応の受』も、
是のように、
『受衆』に、
『分別する!』。
何故ならば、
『受衆』と、
『相応するからである!』。
復次佛說有四種想。有小想大想無量想無所有想。小想者覺知小法。如說小法者。小欲小信小色小緣相名為小想。 復た次ぎに、仏の説きたまわく、『四種の想有り、小想、大想、無量想、無所有想有り』、と。小想は、小法を覚知す。『小法とは、小欲、小信、小色、小縁の相にして、名づけて小想と為す』、と説くが如し
復た次ぎに、
『仏』は、こう説かれている、――
『四種の想が有り、
『小想、大想、無量想、無所有想』が、
『有る!』、と。
『小想』は、
『小法』を、
『覚知するからである!』が、
例えば、こう説かれた通りである、――
『小法』とは、
『小欲、小信、小色、小縁』の、
『相であり!』、
是れを、
『小想』と、
『称するのである!』。
  参考:『中阿含巻59』:『復次。有四想。有比丘想小.想大.想無量.想無所有。眾生如是樂想意解者。變易有異。多聞聖弟子如是觀則厭彼。厭彼已。尚不欲第一。況復下賤。』
復次欲界繫想名為小。色界繫想名為大。三無色天繫想名為無量。無所有處繫想是名無所有想 復た次ぎに、欲界繋の想を名づけて小と為し、色界繋の想を名づけて大と為し、三無色天繋の想を名づけて、無量と為す。無所有処繋の想を、是れ無所有想と名づく。
復た次ぎに、
『欲界繋』の、
『想』は、
『小であり!』、
『色界繋』の、
『想』は、
『大であり!』、
『三無色天繋』の、
『想』は、
『無量であり!』、
『無所有処繋』の、
『想』は、
『無所有想である!』。
復次煩惱相應想名為小想。煩惱覆故。有漏無垢想名為大想。諸法實相想名為無所有想。無漏想名為無量想。為涅槃無量法故。 復た次ぎに、煩悩相応の想を名づけて、小想と為す。煩悩の覆うが故なり。有漏無垢の想を名づけて、大想と為し、諸法実相の想を名づけて、無所有想と為し、無漏の想を名づけて、無量想と為す、涅槃を無量の法と為すが故なり。
復た次ぎに、
『煩悩相応の想』を、
『小想と称する!』のは、
『煩悩』に、
『覆われるからである!』。
『有漏無垢の想』を、
『大想』と、
『称し!』、
『諸法実相の想』を、
『無所有想』と、
『称する!』が、
『無漏の想』を、
『無量想と称する!』のは、
『涅槃』が、
『無量の法だからである!』。
復次佛說有六想。眼觸相應生想。乃至意觸相應生想。如是等名為想眾。 復た次ぎに、仏の説きたまわく、『六想有り、眼触相応して生ずる想、乃至意触相応して生ずる想なり』、と。是れ等の如きを名づけて、想衆と為す。
復た次ぎに、
『仏』は、こう説かれた、――
『六想が有り!』、
『眼触、乃至意触相応』の、
『想である!』、と。
是れ等を、
『想衆』と、
『称する!』。
  参考:『雑阿含経巻13(328)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有六想身。云何為六。謂眼觸生想。耳.鼻.舌.身.意觸生想。是名六想身。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
行眾者。佛或時說一切有為法名為行。或說三行。身行口行意行。身行者出入息。所以者何。息屬身故。口行者覺觀。所以者何。先覺觀然後語言。意行者受想。所以者何。受苦樂取相心發。是名意行。 行衆とは、仏は、或は時に説きたまわく、『一切の有為法を名づけて、行と為す』、と。或は説きたまわく、『三行の身行、口行、意行なり。身行とは、出入息なり。所以は何んとなれば、息は身に属するが故なり。口行とは覚観なり。所以は何んとなれば、先に覚観し、然る後に語言すればなり。意行とは、受想なり。所以は何んとなれば、苦楽を受け、相を取りて、心を発せば、是れを意行と名づく』、と。
『行衆』とは、
『仏』は、
或は時に、こう説かれ、――
『一切の有為法』を、
『行』と、
『称する!』、と。
或は、こう説かれた、――
『身、口、意の三行であり!』、
『身行とは、出入息である!』、
何故ならば、
『息』は、
『身に属するからである!』。
『口行とは、覚観である!』、
何故ならば、
『先に、覚観し!』、
『後に、語言するからである!』。
『意行とは受、想である!』、
何故ならば、
『苦楽を受ければ!』、
『相を取って!』、
『心が発る!』ので、
是れを、
『意行』と、
『称する!』、と。

  参考:『勝思惟梵天所問経巻4』:『爾時勝思惟梵天問平等行梵天婆羅門大婆羅子言。善男子。仁者今以何行為行。答言。梵天。以何等行一切有為法諸眾生行。我如是行。梵天問言。一切有為法諸眾生以何為行。答言。梵天。諸佛所行。是一切有為法諸眾生行。梵天問言。諸佛以何為行。答言。梵天。諸佛以第一義空為行。梵天問言。善男子。若一切凡夫所行諸佛亦以是行。佛與眾生有何差別。平等行梵天婆羅門大婆羅子言。梵天。仁者欲令空中有差別耶。答言不也。文殊師利問。勝思惟大梵天言。梵天。如來可不說一切法空耶。答言如是。文殊師利言。是故梵天。一切諸法無有差別。是諸行相亦復如是無差別相。是故如來不說諸法有種種相。平等行梵天婆羅門大婆羅子問文殊師利法王子言。文殊師利。如諸言語所說行者。何等名行。答言。善男子。以何等處有四正行。是人名為行處。梵天。善男子。以何等人行四梵行。彼人所行非是梵行。以何等行行四梵行。彼人名為成就梵行。善男子。雖於空閑曠野中行。離於梵行。彼人不名成就梵行。非是善巧知於梵行。善男子。復有雖於樓殿堂閣金銀床榻妙好被褥。於此中行成就梵行。彼人真實成就梵行。真是善巧知於梵行。』
  参考:『雑阿含経巻21(568)』:『如是我聞。一時。佛住菴羅聚落菴羅林中。與諸上座比丘俱。時。有質多羅長者詣諸上座比丘所。禮諸上座已。詣尊者伽摩比丘所。稽首禮足。退坐一面。白尊者伽摩比丘。所謂行者。云何名行。伽摩比丘言。行者。謂三行。身行.口行.意行。復問。云何身行。云何口行。云何意行。答言。長者。出息.入息名為身行。有覺.有觀名為口行。想.思名為意行。復問。何故出息.入息名為身行。有覺.有觀名為口行。想.思名為意行。答。長者。出息.入息是身法。依於身.屬於身.依身轉。是故出息.入息名為身行。有覺.有觀故則口語。是故有覺.有觀是口行。想.思是意行。依於心.屬於心.依心轉。是故想.思是意行。復問。尊者。覺.觀已。發口語。是覺.觀名為口行。想.思是心數法。依於心.屬於心想轉。是故想.思名為意行。復問。尊者。有幾法 若人捨身時  彼身屍臥地  棄於丘塚間  無心如木石  答言。長者 壽暖及與識  捨身時俱捨  彼身棄塚間  無心如木石  復問。尊者。若死.若入滅盡正受。有差別不。答。捨於壽暖。諸根悉壞。身命分離。是名為死。滅盡定者。身.口.意行滅。不捨壽命。不離於暖。諸根不壞。身命相屬。此則命終.入滅正受差別之相。復問。尊者。云何入滅正受。答言。長者。入滅正受。不言。我入滅正受。我當入滅正受。然先作如是漸息方便。如先方便。向入正受。復問。尊者。入滅正受時。先滅何法。為身行.為口行.為意行耶。答言。長者。入滅正受者。先滅口行。次身行.次意行。復問。尊者。云何為出滅正受。答言。長者。出滅正受者亦不念言。我今出正受。我當出正受。然先已作方便心。如其先心而起。復問。尊者。起滅正受者。何法先起。為身行.為口行.為意行耶。答言。長者。從滅正受起者。意行先起。次身行。後口行。復問。尊者。入滅正受者。云何順趣.流注.浚輸。答言。長者。入滅正受者。順趣於離.流注於離.浚輸於離。順趣於出.流注於出.浚輸於出。順趣涅槃.流注涅槃.浚輸涅槃。復問。尊者。住滅正受時。為觸幾觸。答言。長者。觸不動.觸無相.觸無所有。復問。尊者。入滅正受時。為作幾法。答言。長者。此應先問。何故今問。然當為汝說。比丘入滅正受者。作於二法。止以觀。時。質多羅長者聞尊者迦摩所說。歡喜隨喜。作禮而去』
心數法有二種。一者屬見。二者屬愛。屬愛主名為受。屬見主名為想。以是故說是二法為意行。 心数法に二種有り、一には見に属し、二には愛に属す。愛に属するを主に名づけて受と為し、見に属するを主に名づけて想と為す。是を以っての故に説かく、『是の二法を、意行と為す』、と。
『心数法には、二種有り!』、
一には、
『見に属し!』、
二には、
『愛に属する!』が、
『愛に属する!』、
『心数法』を、
主に( mainly )、
『受と称し!』、
『見に属する!』、
『心数法』を、
主に、
『想と称する!』。
是の故に、こう説く、――
是の、
『受、想の二法』を、
『意行( the mental-actions )』と、
『称する!』。
  意行(いぎょう):◯梵語 manaH-saMskaara の訳、心の構成物/所造( mental-formations )の義。◯梵語 mana-maya の訳、心の所造( mind-made/ formed )の義。即ち心数法( caittasika : mental functions )の如し。
佛或說十二因緣中三行。福行罪行無動行。福行者欲界繫善業。罪行者不善業。無動行者色無色界繫業。 仏は、或は説きたまわく、『十二因縁中の三行とは福行、罪行、無動行なり。福行とは欲界繋の善業なり。罪行とは不善業なり。無動行とは色、無色界繋の業なり』、と。
『仏』は、
或る時、
『十二因縁』中には、
『福行、罪行、無動行の三行が有り!』、
『福行』とは、
『欲界繋』の、
『善業であり!』、
『罪行』とは、
『欲界繋』の、
『不善業であり!』、
『無動行』とは、
『色、無色界繋』の、
『業である!』、と。
  参考:『十住経巻3』:『若菩薩摩訶薩。能如是觀一切法性。能忍隨順得第六地。無生法忍。雖未現前。心已明利。成就順忍。是菩薩。觀一切法如是相。大悲為首。增長具足。更以勝觀觀世間生滅相。故作是念。世間所有。受身生處。皆以貪著我故。若離著我。則無世間生處。諸凡夫人。愚癡所盲。貪著於我。常樂求有。恒隨邪念。行邪妄道。習起三行罪行。福行。不動行。以是行故。起熱心種子。有漏有取心故。起生死身。所謂。業為地。識為種子。無明覆蔽愛水為潤。我心溉灌。種種諸見。令得增長。生名色牙。因名色故。生諸根。諸根合故。有觸生。從觸生受。樂受故。生渴愛。渴愛增長故。有四取。四取因緣故。起業。於有起五陰身。名為生。五陰衰變。名為老。衰變滅。名為死。老死因緣。有憂悲熱惱眾苦聚集。是十二因緣。無有集者。自然而集。無有散者。自然而散。因緣合則有。因緣散則無。菩薩摩訶薩。如是於六地中。隨順觀十二因緣。又作是念。不如實知諸諦第一義故。有無明覆心。無明業果。是名諸行。依諸行。有初識。與識共生。有四取陰。依止取陰。有名色。名色成就。有六入。諸根行塵故。有識。從是和合。生有漏觸。觸共生。有受。貪樂於受。名為愛。愛增長。名為取。從取起有漏業。有業有果報五陰。名為生。五陰熟名為老熟。五陰壞名為死。死別離時。愚人貪著心熱。名為憂悲。發聲啼哭五識。名為苦。意識名憂。憂苦轉多名為惱。如是但生大苦樹大苦聚。如是十二因緣苦聚。無我無我所。無作者無使作者。菩薩作是念。若有作者。則有作事。若無作者。則無作事。第一義中。無作者無作事。又作是念。三界虛妄。但是心作。如來說。所有十二因緣分。是皆依心。所以者何。隨事生貪欲心。是心即是識。事是行。行誑心故。名無明。識所依處名名色。以入生貪心。名六入。三事和合有觸。觸共生名受。貪著所受。名為渴愛。渴愛不捨。名為取。是和合故。名為有。此有更有有相續。名為生。生變熟名為老。老壞名為死。』
  参考:『阿毘達磨法蘊足論巻10蘊品』:『蘊品第十九  一時薄伽梵。在室羅筏住逝多林。給孤獨園。爾時世尊。告苾芻眾。有五種蘊。何等為五。謂色蘊。受蘊。想蘊。行蘊。識蘊。是名五蘊。云何色蘊。謂諸所有色。一切皆是四大種。及四大種所造。是名色蘊。云何受蘊。謂諸受等受。別受受性。受所攝。是名受蘊。復有二受。說名受蘊。謂身受心受。云何身受。謂五識身相應諸受。乃至受所攝。是名身受。云何心受。謂意識相應諸受。乃至受。所攝。是名心受。復有二受。說名受蘊。謂有味受。無味受。云何有味受。謂有漏作意相應諸受。乃至受所攝。是名有味受。云何無味受。謂無漏作意相應諸受。乃至受所攝。是名無味受。有作是說。欲界作意相應受。名有味受。色無色界作意相應受。名無味受。今此義中。有漏作意相應受。名有味受。無漏作意相應受。名無味受。如有味受無味受。如是墮受。不墮受。耽嗜依受出離依受。順結受。不順結受。順取受。不順取受。順纏受。不順纏受。世間受。出世間受。亦爾。復有三受。說名受蘊。謂樂受。苦受。不苦不樂受。云何樂受。謂順樂觸所生身樂心樂平等受。受所攝。是名樂受。復次脩初第二第三靜慮。順樂受觸所起心樂平等受。受所攝。是名樂受。云何苦受。謂順苦觸所生身苦心苦不平等受。受所攝。是名苦受。云何不苦不樂受。謂順不苦不樂觸所生身捨心捨非平等非不平等受。受所攝。是名不苦不樂受。復次脩未至定。靜慮中間。第四靜慮。及無色定。順不苦不樂觸所生心捨非平等非不平等受。受所攝。是名不苦不樂受。復有四受。說名受蘊。謂欲界受。色界受。無色界受。不繫受。云何欲界受。謂欲界作意相應諸受。乃至受所攝。是名欲界受。云何色界受。謂色界作意相應諸受。乃至受所攝。是名色界受。云何無色界受。謂無色界作意相應諸受。乃至受所攝。是名無色界受。云何不繫受。謂無漏作意相應諸受。乃至受所攝。是名不繫受。復有五受。說為受蘊。謂樂受。苦受。喜受。憂受。捨受。如是五受。廣說如根品。復有六受。說為受蘊。謂眼觸所生受。耳鼻舌身意觸所生受。云何眼觸所生受。謂眼及色為緣生眼識。三和合故生觸。觸為緣故生受。此中眼為增上。色為所緣。眼觸為因。眼觸為等起。是眼觸種類。是眼觸所生。與眼觸所生作意相應。於眼識所了別色諸受。乃至受所攝。是名眼觸所生受。如是耳鼻舌身意觸所生受。廣說亦爾。是名受蘊。如受蘊。如是想蘊識蘊。如其所應。廣說亦爾。云何行蘊。謂行蘊有二種。一心相應行蘊。二心不相應行蘊。云何心相應行蘊。謂思觸作意。廣說乃至。諸所有智見現觀。復有所餘如是類法。與心相應。是名心相應行蘊。云何心不相應行蘊。謂得無想定。廣說乃至文身。復有所餘如是類法。不與心相應。是名心不相應行蘊。如是心相應行蘊及心不相應行蘊總名行蘊』
阿毘曇除受想餘心數法。及無想定滅盡定等心不相應法。是名為行眾。 阿毘曇は、受、想を除ける餘の心数法、及び無想定、滅尽定等の心不相応法、是れを名づけて、行衆と為す。
『阿毘曇』は、こう説く、――
『行衆』とは、
『受、想衆を除いた餘の心数法』と、
『無想定や、滅尽定等の心不相応法』とを、
『行衆』と、
『称する!』。
識眾者內外六入和合故生六覺名為識。以內緣力大故名為眼識。乃至名為意識。 識衆とは内外の六入の和合の故に生ずる六覚を名づけて、識と為す。内に縁ずる力は大なるを以っての故に名づけて、眼識と為し、乃至名づけて、意識と為す。
『識衆』とは、
『内、外の六入の和合故に生じる!』、
『六覚』が、
『識であり!』、
『内の六入の縁じる力は、大である!』が故に、
『色識と称せずに!』、
『眼識』と、
『称し!』、
乃至、
『意識』と、
『称する!』。
問曰。意即是識。云何意緣力故生意識。 問うて曰く、意は、即ち是れ識なり。云何が、意の縁ずる力の故に、意識を生ずる。
問い、
『意( the mind )』とは、
即ち、
『識である( the perception )!』。
何故、
『意の縁じる!』、
『力』の故に、
『意識( the faculty of discernment )を生じるのですか?』。
  (い):梵語 manas の訳、思考/知性( thought, intellect )、或は心( mind 梵 citta )の義。熟考する心の行動/熟考/知性/思考/着想( the action of the pondering mind, consideration, mind, thought, idea )の意。
  (しき):◯梵語 vijJapti の訳、知識/情報( informantion )の義。◯梵語 adhiita の訳、獲得/習得/熟読/学習された( attained, studied, well read, learned )の義。◯梵語 anubodha の訳、記憶/回想/追憶( recollecting, reminding )の義。意識/認識/思考/自覚( consciousness, perception, thought, awareness )、識別/認識/理解/区別力/知性/研究/学習/知恵の行為( The act of distinguishing, or perceiving, or recognizing, discerning, understanding, comprehending, distinction, intelligence, science, learning. wisdom. )の意。
  意識(いしき):梵語 mano-vijJaana の訳、精神的覚醒( mental consciousness )の義、智慧に因る洞察力( the faculty of discernment of wisdom )の意。
答曰。意生滅相故。多因前意故。緣法生意識。 答えて曰く、意は生滅の相なるが故に、多く前の意に因るが故に、法を縁じて意識を生ずればなり。
答え、
『意は、生滅の相である!』が故に、
『多くは、前の意に因って生じる!』が故に、
『法を縁じて!』、
『意識( the mental consciousness )』を、
『生じるからである!』。
問曰。前意已滅云何能生後識。 問うて曰く、前の意は、已に滅するに、云何が、能く後の識を生ずる。
問い、
『前意( previous mind )が已に滅している!』のに、
何故、
『後の識( the after consciousness )』を、
『生じさせるのですか?』。
答曰。意有二種。一者念念滅。二者心次第相續名為一。為是相續心故。諸心名為一意。是故依意而生識無咎。意識難解故。九十六種外道不說依意故生識。但以依神為本。 答えて曰く、意には二種有り、一には念念に滅し、二には心の次第に相続するを名づけて、一と為し、是の相続する心の為の故に諸心を名づけて、一意と為す。是の故に意に依って識を生ずるも、咎無く、意識は難解なるが故に、九十六種の外道は、『意に依るが故に、識を生ず』、と説かず。但だ神に依るを以って、本と為す。
答え、
『意には、二種有り!』、
一には、
『念念に滅する!』、
『意であり!』、
二には、
『次第に相続する!』、
『心』を、
『一として!』、
是の、
『相続する心』の故に、
『諸の心』を、
『一意( a thought )と称する!』。
是の故に、
『意に依って!』、
『識』を、
『生じたとしても!』、
是れに、
『咎』は、
『無い!』。
然し、
『意識は難解である!』が故に、
『九十六種の外道』は、
『意に依って、識を生じる!』とは、
『説かず!』、
但だ、
『神を本とすること!』に、
『依って!』、
『理解するだけである!』。
  (しん):梵語 citta の訳、監視/観察( attending, observing )の義、精神( mind )、霊魂( Spirit )、知能/知性/見解の場所としての心( The mind as the seat of intelligence, mentality, idea )の意。
  (じん):梵語 aatman の訳、霊魂( soul )の義、[婆羅門教の]衆生の基礎となる自我/神我( the self that grounds living beings in brahmanistic thought. )の意。
此五眾四念處中廣說。所以者何。身念處說色眾。受念處說受眾。心念處說識眾。法念處說想眾行眾。 此の五衆は、四念処中に広説す。所以は何んとなれば、身念処には色衆を説き、受念処には受衆を説き、心念処には識衆を説き、法念処には想衆行衆を説けばなり。
此の、
『五衆』は、
『四念処』中に、
『広説されている!』。
何故ならば、
『身念処』には、
『色衆』を、
『説き!』、
『受念処』には、
『受衆』を、
『説き!』、
『心念処』には、
『識衆』を、
『説き!』、
『法念処』には、
『想衆、行衆』を、
『説いたからである!』。
  四念処(しねんじょ):『大智度論巻19上』参照。
問曰。不應有五眾。但應有色眾識眾。識眾隨時分別故有異名。名為受想行。如不淨識名為煩惱。淨識名為善法。 問うて曰く、応に五衆有るべからず、但だ応に色衆と識衆のみ有り、識衆を時に随い分別するが故に異名有りて、名づけて受、想、行と為すべし。不浄の識を名づけて、煩悩と為し、浄の識を名づけて、善法と為すが如し。
問い、
『五衆は有るはずがなく!』、
但だ、
『色衆と、識衆とが有り!』、
『識衆を時に随って、分別する!』が故に、
『異名が有り!』、
『受、想、行』と、
『称するだけである!』。
譬えば、
『不浄の識』を、
『煩悩』と、
『称し!』、
『浄の識』を、
『善法』と、
『称するようなものである!』。
答曰。不然。所以者何。若名異故實亦異。若無異法名不應異。若唯有心而無心法者。心不應有垢有淨。譬如清淨池水。狂象入中令其混濁。若清水珠入水即清淨。不得言水外無象無珠。心亦如是。煩惱入故能令心濁。諸慈悲等善法入心令心清淨。以是故不得言煩惱慈悲等法即是心。 答えて曰く、然らず。所以は何んとなれば、若し名異なれば、故に実も亦た異なればなり。若し異法無ければ、名も応に異なるべからず。若し唯だ心のみ有りて、而も心法無ければ、心には、応に垢有り、浄有るべからず。譬えば清浄の池水は、狂象中に入れば、其れをして混濁せしめ、若し清水珠を水に入るれば、即ち清浄ならしむるに、水の外にも象無し、珠無しと言うを得ざるが如し。心も亦た是の如く、煩悩入れば、故に能く心をして濁ならしめ、諸の慈悲等の善法、心に入れば、心をして清浄ならしむ。是を以っての故に、煩悩、慈悲等の心は、即ち是れ心なりと言うを得ず。
答え、
そうではない!
何故ならば、
若し、
『名が異なれば!』、
故に、
『実』も、
『異なり!』、
若し、
『異法が無ければ!』、
『名』も、
『異なるはずがないからである!』。
若し、
『唯だ、心が有るだけで( there is only a container of mind )!』、
『心法が無ければ( the mind does not exist )!』、
『心』には、
『垢や、浄が!』、
『有るはずがない!』。
譬えば、
『清浄の池水が有り!』、
『狂象が中に入れば!』、
其の、
『水』は、
『混濁させられ!』、
『清水珠を入れれば!』、
即ち、
『水』が、
『清浄になった!』が、
『池水の外』には、
『象も、珠も無い!』と、
『言うことはできないように!』、
『心』も、
是のように、
『煩悩が入った!』が故に、
『心』は、
『濁らされ!』、
『諸の慈悲等の善法が、心に入った!』が故に、
『心』が、
『清浄になったとしても!』、
是の故に、こう言うことはできない、――
『煩悩や、慈悲』等の、
『法』が、
『即ち、心である!』、と。
  (しん):梵語質多cittaの訳。また心法、或は心事とも名づく。即ち縁慮の用を有する法を云う。(一)心王及び心所法の総称。色又は身に対す。「旧華厳経巻10」に、「心は工画師の如く、種種の五蘊を画く。一切世界の中、法として造らざるなし」と云い、「大乗起信論」に、「言う所の法とは謂わく衆生の心なり。この心は則ち一切の世間出世間の法を摂す、此の心に依りて摩訶衍の義を顕示す」と云い、また「大乗荘厳経論巻2」に、「心の外に物あることなく、物無ければ心も亦た無なり。二の無を解するを以っての故に善く真法界に住す」と云い、「十八空論」に、「相とは又二種あり、一に色相とは謂わく四大五塵なり。二に無色相とは謂わく一切の四蘊の心法なり」と云えるこれなり。これ心王心所を分たず、広く能縁慮知の法を心と名づけたるものにして、五蘊の中には総じて受想行識の四蘊を指すなり。(二)心王の名。心所法に対す。即ち心所法の能有たる六識又は八識を云う。「倶舎論巻4」に、「一切の法に略して五品あり、一に色、二に心、三に心所、四に心不相応行、五に無為なり」と云い、「瑜伽師地論巻100」に、「一切の事は要を以って之を言わば、一に心事、二に心所有法事、三に色事、四に心不相応行事、五に無為事なり」と云えるこれなり。これ慮知ある法の中、特に六識又は八識を心と名づけたるなり。若し五蘊に就き之を分別せば、心は即ち識蘊にして、心所法は受、想、行の三蘊に摂す。「大乗阿毘達磨雑集論巻3」に、「心とは謂わく識蘊にして、七識界及び意処なり。心所有法とは受蘊と想蘊と相応の行蘊、及び法界と法処の一分なり」と云える即ち其の意なり。また「大毘婆沙論巻16」には、心王の力は心所法に勝るることを論じ「彼れこの説を作す、若し法あり彼の法力の任持に由りて生ぜば、此の法と彼の法と相応す。この故に心と心とは相応す、心力は心を持して生ずることを得しむるが故なり。心所法と心とは相応す、心力は彼を持して生ずることを得しむるが故なり。(中略)平等相似はこれ相応の義なるも、心は勝ること王の如し」と云い、また「辯中辺論巻上」には、心王と心所とは境を了別するに総別の異あることを説き、「異門の相とは唯能く境の総相を了するを心と名づけ、亦た差別を了するを名づけて受等の諸の心所法と名づく」と云えり。以ってその異同を知るべし。(三)第八阿頼耶識の別名。前六識を識、第七識を意と名づくるに対す。「瑜伽師地論巻62」に、「諸識を皆心意識と名づくるも、若し最勝に就かば阿頼耶識を心と名づく」と云い、また「同巻1」に、「心とは謂わく一切の衆事の所隨依止の性なり。所隨依附依止の性とは、体能く執受する異熟所摂の阿頼耶識なり」と云い、「摂大乗論本巻上」に、「若し阿頼耶識を離るれば別の得べきものなし。この故に阿頼耶識を成就して以って心体となす、此れを種子となすに由りて意及び識転ず。何の因縁の故に亦た説きて心と名づくるや、種種の法の熏習の種子積集する所なるに由るが故なり」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻2」に、「心とは謂わく蘊界処の習気所熏の一切種子の阿頼耶識なり。亦た異熟識と名づけ、亦た阿陀那識と名づく。能く諸の習気を積集するを以っての故なり」と云えるこれなり。これ心を積集の義とし、阿頼耶識に種子を積集するの義あるを以って特に之を其の別名となしたるなり。但し倶舎等にては心意識を名異体一となすが故に、通じて心を六識の称となすなり。又慧沼の「金光明最勝王経疏巻2末」に依るに心に総じて四種の別ありとす。即ち彼の文に、「凡そ心と言うに四義あり、一に真実を心と名づく、般若多心の如し。即ち真如の理を亦た名づけて心となすが故なり。勝鬘経に自性清浄心と云う、彼を乾栗心と名づく。二は縁慮心なり、即ち八識に通ず。彼を質多と名づく。三に積集の義を心と名づく、亦た八識に通ず。能所の積集に通ずるが故なり。四に積集最勝の義を心と名づく、即ち唯第八なり」と云えるこれなり。此の中、初の真実心は即ち汗栗駄hRd心にして、普通に之を非縁慮心となすなり。第二第三は即ち八識を以って心と名づけたるものにして、即ち心王を心となすの義に当り、第四は唯第八阿頼耶識を名づけて心となせるものにして、法相家独特の説なり。また「入楞伽経巻9」、「解深密経巻1」、「顕揚聖教論巻17」、「成唯識論巻2」、「大乗起信論義疏巻上之上」、「大乗義章巻3末」、「倶舎論光記巻4」、「大乗法苑義林章巻1末」等に出づ。<(望)
  心法(しんぽう):梵語citta-dharmaの訳、また心、心王とも云う。一切法を分かって五位(心王、心所法、色法、不相応行法、無為法)と為すに、心法はその一にして、即ち心王なり。倶舎には一切法に五位、七十五法を立つるに、心法は唯だ一種のみにして、六識心王と為し、唯識には即ち心法には八種あり、即ち八識之なりと為す。<(佛)、『大智度論巻11上注:五位』参照。
問曰。汝不聞我先說。垢心即是煩惱。淨心即是善法。 問うて曰く、汝は、我が先に、『垢心は、即ち是れ煩悩なり。浄心は即ち是れ善法なり』、と説くを聞かずや。
問い、
お前は、
わたしが、先に、
『垢心とは、煩悩であり、浄心とは、善法である!』と、
『説いたのを!』、
『聞かなかったのか?』。
答曰。若垢心次第云何能生淨心。淨心次第云何當生垢心。以是故是事不然。汝但知麤現之事。不知心數法。不可以不知故便謂為無。當知必有五眾。 答えて曰く、若し垢心次第すれば、云何が能く浄心を生ずる。浄心次第すれば、云何が当に垢心を生ずべき。是を以っての故に、是の事は然らず。汝は、但だ麁現の事を知るも、心数法を知らず。知らざるを以っての故に、便ち謂いて、無と為すべからず。当に知るべし、必ず五衆有るを。
答え、
若し、
『垢心が次第すれば!』、
何故、
『浄心』を、
『生じさせるのか?』。
若し、
『浄心が次第すれば!』、
何故、
『垢心』を、
『生じさせられるのか?』。
是の故に、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
お前は、
但だ、
『麁現の事を知るだけで( knowing only some apparent phenomena )!』、
『心数法』を、
『知らない!』、
『知らないということ!』を、
是の故に、
『便ち( easily )!』、
『無い、と謂うべきではなく( don't refer to as not existing )!』、
当然、こう知るべきである、――
『必ず!』、
『五衆は有る!』、と。
問曰。若有者何以不多不少但說五。 問うて曰く、若し有れば、何を以ってか、多からず、少なからず、但だ五を説く。
問い、
若し、
『五衆有れば!』、
何故、
『多くも、少くもなく! 」、
但だ、
『五衆』を、
『説くのですか?』。
答曰。諸法各有定限。如手法五指不得求其多少。 答えて曰く、諸法には、各定限有り。手法の五指の其の多少を求むるを得ざるが如し。
答え、
『諸法』には、
『各に!』、
『定限が有るからである!』。
譬えば、
『手法は五指であり!』、
其の、
『多、少を求めても!』、
『得られないようなものである!』。
復次有為法雖復無量。佛分判為五分則盡。 復た次ぎに、有為法も、復た無量なりと雖も、仏は分けて、五分を為せば、則ち尽くと判じたまえり。
復た次ぎに、
『有為法』も、
復た、
『無量である!』が、
『仏は、分別して!』、
『五分にすれば、尽くせるだろう!』と、
『判断されたのでる!』。
問曰。若爾者何以故復說十二入十八界。 問うて曰く、若し爾らば、何を以っての故にか、十二入、十八界を説きたまえる。
問い、
若し、爾うならば、
何故、復た、
『十二入や、十八界を!』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。眾義應爾。入界義異。佛為法王。為眾生故或時略說或時廣說。有眾生於色識中不大邪惑。於心數法中多有錯謬故說五眾。有眾生心心數法中不生邪惑。但惑於色。為是眾生故說色為十處。心心數法總說二處。或有眾生於心數法中少生邪惑。而多不了色心。為是眾生故說心數法為一界。色心為十七界。 答えて曰く、衆の義は、応に爾るべく、入、界の義は異なり。仏は法王と為りて、衆生の為めの故に、或は時に略説し、或は時に広説したまえり。有る衆生は、色、識中に於いて、大いに邪惑せざるも、心数法中に於いて、多く錯謬有れば、故に五衆を説きたまい、有る衆生は心心数法中に邪惑を生ぜず、但だ色に於いて惑えば、是の衆生の為めの故に、色を説いて、十処と為し、心心数法を総じて、二処を説きたもう。或は有る衆生は、心数法中に於いて、少しく邪惑を生じて、多く色心を了せざれば、是の衆生の為めの故に、心数法を説いて、一界と為し、色心を十七界と為したもう。
答え、
『衆の義は、爾の通りである!』が、
『入、界の義』は、
『異なる!』。
『仏』は、
『法王として、衆生の為めに!』、
『或る時には、略説し!』、
『或る時には、広説されたのである!』。
有る、
『衆生』は、
『色、識』中に於いて、
『大きくは!』、
『邪見に惑わない!』が、
『心数法』中には、
『多く!』、
『錯謬が有る!』ので、
是の故に、
『五衆』を、
『説かれたのであり!』、
有る、
『衆生』は、
『心、心数法』中に於いては、
『邪見の惑』を、
『生じない!』が、
但だ、
『色』に於いて、
『惑う!』ので、
是の、
『衆生の為め!』の故に、
『色』は、
『十処である!』と、
『説かれ!』、
『心、心数法を総じて!』、
『二処である!』と、
『説かれた!』し、
或は有る、
『衆生』は、
『心数法』中に於いて、
『少し!』、
『邪惑を生じた!』が、
『色心』に於いては、
『多く!』、
『明了でなかった!』ので、
是の、
『衆生の為め!』の故に、
『心数法は一界であり、色心は十七界である!』と、
『説かれたのである!』。
或有眾生不知世間苦法生滅。不知離苦道。為是眾生故說四諦。世間及身皆為是苦。愛等煩惱是苦因。煩惱滅是苦滅。滅煩惱方便法是名道。 或は有る衆生は、世間の苦法の生、滅を知らず、苦を離るる道を知らざれば、是の衆生の為めの故に、四諦を説きたまわく、『世間、及び身は、皆、是れを苦と為し、愛等の煩悩は、是れ苦の因、煩悩の滅は、是れ苦の滅なり、煩悩滅する方便の法、是れを道と名づく』、と。
或るいは、
有る、
『衆生』は、
『世間の苦法』の、
『生、滅』を、
『知らず!』、
『苦を離れる!』、
『道』を、
『知らない!』ので、
是の、
『衆生の為め!』の故に、
『四諦を説かれた!』、――
『世間と、身』は、
皆、
『苦であり!』、
『愛等の煩悩』が、
『苦』の、
『因である!』が、
『煩悩が滅すれば!』、
『苦』も、
『滅することになり!』、
『煩悩を滅する!』、
『方便の法』が、
『道である!』、と。
或有眾生著吾我故。於諸法中邪見生一異相。或言世間無因無緣。或墮邪因緣。為是眾生故說十二因緣有人說常法。或說神常。或說一切法常。但滅時隱藏微細非是無也。若得因緣會還出更無異法。為是人故說一切有為法皆是作法無有常定。譬如木人。種種機關。木楔和合故能動作。無有實事。是名有為法。 或は有る衆生は、吾我に著するが故に、諸法中に於いて、邪見して、一異の相を生じ、或は、『世間には因無く、縁無し』、と言いて、或は、邪因縁に堕せば、是の衆生の為めの故に、十二因縁を説きたまい、有る人は、常なる法を説けば、或は神の常なるを説き、或は、『一切の法は常にして、但だ滅時に陰蔵するも、微細にして是れ無に非ざるなり。若し因縁の会するを得れば、還って出で、更に異法無し』、と説けば、是の人の為めの故に説きたまわく、『一切の有為法は、皆、是れ作法なれば、常定なる有ること無し。譬えば木人は、種種の機関と木楔と和合するが故に、能く動作するも、実事有ること無きが如し。是れを有為法と名づく』、と。
或は、
有る、
『衆生は、吾我に著する!』が故に、
『諸法中に邪見して!』、
『一異の相』を、
『生じる!』ので、
或は、
『世間』には、
『因も、縁も無い!』と、
『言ったり!』、
或は、
『邪因縁』に、
『堕ちる!』ので、
是の、
『衆生の為め!』の故に、
『十二因縁』を、
『説かれた!』。
有る、
『人は、常法を説いて!』、
或は、
『神は常である!』と、
『説き!』、
或は、
『一切の法は常である!』が
但だ、
『滅時に!』、
『陰蔵して( to haide )!』、
『微細となるだけで!』、
是れは、
『無であるのではなく!』、
若し、
『因縁が会えば!』、
『還って!』、
『出てくる!』が、
更に、
『異法は無い!』と、
『説くので!』、
是の、
『人の為め!』の故に、こう説かれた、――
『一切の有為法』は、
皆、
『作法であり!』、
『常も、定も無い!』。
譬えば、
『木人』が、
種種の、
『機関と、木楔が和合する!』が故に、
『動作することができる!』が、
是れに、
『実事』が、
『無く!』、
是れを、
『有為法』と、
『称する!』、と。
  木楔(もくせつ):木のくさび。
問曰。是中說五眾有何次第。 問うて曰く、是の中に五衆を説くに、何なる次第か有る。
問い、
是の中に説かれた、――
『五衆』には、
何のような、
『次第( order )』が、
『有るのですか?』。
答曰。行者初習觀法先觀麤法。知身不淨無常苦空無我等身患。如是眾生所以著此身者。以能生樂故。諦觀此樂有無量苦常隨逐之。此樂亦無常空無我等。六塵中有無量苦。眾生何因緣生著。以眾生取相故著。如人身一種偏有所著。能沒命隨死取相。受苦樂發動生思等諸行。心行發動時識知離苦得樂方便是為識。 答えて曰く、行者は、初に観法を習って、先に麁法を観て知るらく、『身は不浄、無常、苦、空、無我等にして、身は患なり。是の如き衆生の此の身に著する所以(ゆえ)は、能く楽を生ずるを以っての故なり。此の楽を諦観すれば、無量の苦有りて、常に之に随逐すれば、此の楽も亦た無常、苦、空、無我等なり。六塵中にも無量の苦有るに、衆生は何なる因縁もて、著を生ずる。衆生は相を取るを以っての故に著するなり。人身の如きは一種にして、偏に著する所有り、能く命を没して、死に随いて、相を取り、苦楽の発動するを受けて、思等の諸行を生じ、心行の発動する時、苦を離れて、楽を得る方便を識知すれば、是れを識と為す』、と。
答え、
『行者』は、
初に、
『観法』を、
『習って!』、
先に、
『麁法( cognizable things )』を、
『観察し!』、
後に、こう知ることになる、――
『身は、不浄、無常、苦、空、無我等であり!』、
『身は、患である!』が、
是のような、
『衆生』が、
此の、
『身に著する所以( the reason to attach to thus body )!』は、
『楽』を、
『生じさせるからであり!』、
此の、
『楽を諦観すれば!』、
『無量の苦が有り!』、
是の、
『楽』に、
『常に随逐している!』ので、
此の、
『楽』も、
『無常、空、無我等である!』。
『六塵中には、無量の苦が有る!』のに、
『衆生』は、
何のような、
『因縁で!』、
『著を生じるのか?』。
『衆生』は、
『六塵』中に、
『相を取る!』が故に、
『著するのである!』。
例えば、
『人身は一種であり!』、
『偏に( only )、著する所である!』が、
『命』を、
『没させることになり( to let them miss their lives )!』、
『死に随いながらも( following the death )!』、
『相』を、
『取る!』ので、
(後の世に( in the following world )!)、
『苦楽の発動を受けて!』、
『思等の諸行』を、
『生じ!』、
『心行の発動する!』時には、
『苦を離れて、楽を得る方便』を、
『識知する!』。
是れを、
『識』と、
『称するのである!』。
  (みょう):梵語 jiivita の訳、生存すること/[或る期間]生き延びた( living, lived through (a period of time) )の義。
  (し):梵語 maraNa の訳、死ぬという行為/死( the act of dying, death )、消滅すること/[照明や雨等が]停止すること( passing away, cessation (as of lightning or rain) )の義。
復次眾生五欲因緣故受苦樂。取相因緣故深著是樂。以深著樂故。或起三毒若三善根。是名為行。識為其主受用上事。五欲即是色。色是根本故初說色眾。餘次第有名。餘入界諸法等皆由五眾次第。有唯法入法界中增無為法。四諦中增智緣滅 復た次ぎに、衆生は、五欲の因縁の故に、苦楽を受け、取相の因縁の故に、是の楽に深く著し、楽に深く著するを以っての故に、或は三毒、若しは三善根を起す、是れを行と為す。識は、其の主と為りて、上の事を受用す。五欲は、即ち是れ色にして、色は是れ根本なるが故に初に色衆を説き、餘は次第に名有りて、餘の入、界の諸法等は、皆、五衆の次第に由る。有るいは、唯だ法入、法界中に無為法を増し、四諦中に、智縁滅を増す。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『五欲の因縁』の故に、
『苦楽』を、
『受け!』、
『取相の因縁』の故に、
是の、
『楽』に、
『深く著し!』、
『楽に深く著する!』が故に、
或は、
『三毒や、三善根(不貪、不瞋、不癡)』を、
『起して!』、
是れを、
『行』と、
『称する!』が、
『識』は、
其の、
『行』の、
『主と為って!』、
上の、
『事』を、
『受用するのである( to enjoy imporoperly )!』。
『五欲』とは、
即ち、
『色であり!』、
『色は、根本である!』が故に、
初に、
『色衆』を、
『説き!』、
餘は、
其の、
『次第に応じて!』、
『名』が、
『有り!』が、
餘の、
『入、界の諸法』等も、
皆、
『五衆の次第に!』、
『由る( conforming to )!』。
有る者は、
唯だ、
『法入、法界』中に、
『無為法』を、
『増し!』、
『四諦』中に、
『智縁滅』を、
『増す!』。
  受用(じゅゆう):梵語 paribhoga の訳、[他人の]周囲で享楽すること/[与えられた物を]楽しむこと( to enjoy around another person, enjoyment (of given things) )の義、横領/享楽/無断で、或は不適切に他人の財産を使用したり、着服したりすること( possession, enjoyment, Using or living upon another person's property without leave or improperly. )の意。
  智縁滅(ちえんめつ):智に依る滅尽。また数縁尽とも云う。『大智度論巻31下:非智縁滅』参照。
入界乃至有為無為法如上說。今五眾等諸法皆是空。何以故。聖主說故。聖有三種下中上。佛為其主如星宿月中日為其最。光明大故。佛得一切智慧故名為聖主。聖主所說故應當是實。 入、界、乃至有為、無為法は、上に説けるが如きも、今、五衆等の諸法は、皆是れ空なり。何を以っての故にか、聖主の説きたもうが故なり。聖には、三種下、中、上有り、仏を其の主と為す。星宿、月中の日を、其の最と為すは、光明の大なるが故の如し。仏は一切の智慧を得たもうが故に名づけて、聖主と為す。聖主の所説なるが故に、応当に是れ実なるべし。
『入、界、乃至有為法、無為法』は、
上に、
『説く通りである!』が、
今、
『五衆等の諸法』は、
皆、
『空なのである!』。
何故ならば、
『聖主』が、
『説かれたからである!』。
『聖』には、
『下、中、上の三種』が、
『有り!』、
『仏』、
其の、
『三種の聖』中の、
『主である!』。
譬えば、
『星宿、月』中に、
『日が、最である( the sun is the best )!』のは、
『光明』が、
『大だからであるように!』、
『仏』は、
『一切の智慧を得られた!』が故に、
『聖主』と、
『称されるのであり!』、
『聖主の所説である!』が故に、
当然、
『実なのである!』。
復次以有十八空故一切法空。若但以性空能空一切法。何況十八。若以內空外空能空一切法。何況十八。 復た次ぎに、十八の空有るを以っての故に、一切法は空なり。若し但だ、性空を以ってすれば、能く一切法を空ならしむ。何に況んや十八をや。若し内空、外空を以ってすれば、能く一切法を空ならしむ。何に況んや十八をや。
復た次ぎに、
『十八の空が有る!』が故に、
『一切法』は、
『空である!』。
若し、
『但だ、性空を用いただけでも!』、
『一切の法』を、
『空にすることができる!』のに、
況して、
『十八空を用いれば!』、
『尚更である!』。
若し、
『内空、外空を用いれば!』、
『一切の法』を、
『空にすることができる!』のに、
況して、
『十八空を用いれば!』、
『尚更である!』。
復次若有法不空應當有二種。色法非色法。是色法分別破裂乃至微塵。分別微塵亦不可得。終卒皆空無色法。乃至念念生滅故皆空。如四念處中說。 復た次ぎに、若し法の不空なる有らば、応当に二種有るべし。色法と、非色法なり。是の色法は、分別すれば、破裂して、乃至微塵なり。微塵を分別すれば、亦た不可得にして、終卒(つい)に皆、空なり。無色法は、乃至念念に生滅するが故に、皆空なること、四念処中に説けるが如し。
復た次ぎに、
若し、
『空でない!』、
『法が有れば!』、
『二種』、
『有るはずであり!』、
是の、
『法』は、
『色法であるか!』、
『非色法でなくてはならない!』が、
是の、
『色法を分別すれば!』、
乃至、
『微塵まで!』、
『破裂することになる!』が、
『微塵を分別すれば!』、
『不可得であり( being unrecognizable )!』、
終卒に( at last )、
皆、
『空となる!』。
『無色法』は、
『乃至念念に、生滅する!』が故に、
皆、
『空である!』が、
例えば、
『四念処』中に、
『説いた通りである!』。
  色法(しきほう):梵語 ruupya- dharma, ruupa- dharma の訳、形作られた法( a formed dharma )の義、有為法(梵 saMskRta- dharma : a created dharma )に略々同義の語。
  非色法(ひしきほう)・無色法(むしきほう):梵語 aruupya- dharma, aruupa- dharma の訳、形のない法( a formless dharma )の義、無為法(梵 asamskRta- dharma : an uncreated dharma )に略々同義の語。
復次諸法性空但名字。因緣和合故有。如山河草木土地人民州郡城邑名之為國。巷里市陌廬館宮殿名之為都。梁柱椽棟瓦竹壁石名之為殿。上中下分和合名之為柱。片片和合故有分名。眾札和合故有片名。眾微和合故有札名。 復た次ぎに、諸法の性は、空にして、但だ名字と因縁と和合するが故に有り。山河、草木、土地、人民、州郡、城邑、之を名づけて国と為し、巷里、市陌、廬館、宮殿、之を名づけて都と為し、梁柱、椽棟、瓦竹、壁石、之を名づけて殿と為し、上、中、下分の和合、之を名づけて柱と為し、片片の和合の故に、分の名有り。衆札の和合の故に片の名有り、衆微の和合の故に札の名有り。
復た次ぎに、
『諸法の性は、空である!』が、
但だ、
『名字、因縁の和合』の故に、
『諸法』が、
『有る!』。
譬えば、
『山河、草木、土地、人民、州郡、城邑の和合』を、
『国』と、
『称し!』、
『巷里、市陌、廬館、宮殿の和合』を、
『都』と、
『称し!』、
『梁柱、椽棟、瓦竹、壁石の和合』を、
『殿』と、
『称し!』、
『上、中、下分の和合』を、
『柱』と、
『称し!』、
『片片( wooden blocks )の和合』の故に、
『柱分の名』が、
『有り!』、
『衆札( thin strips )の和合』の故に、
『片の名』が、
『有り!』、
『衆微( tiny particles )の和合』の故に、
『札の名』が、
『有るようなものである!』。
  市陌(しはく):市場と街路。
  廬館(ろかん):粗末な舎と、立派な館。
  (へん):木片。
  (さつ):薄板。
  (み):微塵。色の極めて細なるもの。『大智度論巻5上注:微塵、巻12上注:極微』参照。
是微塵有大有中有小。大者遊塵可見。中者諸天所見。小者上聖人天眼所見。慧眼觀之則無所見。所以者何。性實無故。若微塵實有即是常。不可分裂不可毀壞。火不能燒水不能沒。 是の微塵には、大有り、中有り、小有り。大は遊塵の可見、中は諸天の所見、小は上聖人の天眼の所見なり。慧眼もて、之を観れば則ち所見無し。所以は何んとなれば、性の実に無なるが故なり。若し微塵にして、実に有らば、即ち、是れ常にして、分裂すべからず、毀壊すべからず。火の焼く能わず、水の没する能わず。
是の、
『微塵』には、
『大、中、小』が、
『有り!』、
『大』は、
『遊塵( air borne dust )として!』、
『可見であり!』、
『中』は、
『諸天』の、
『所見であり!』、
『小』は、
『上、聖人』の、
『天眼』の、
『所見である!』が、
『慧眼で観れば!』、
『所見』は、
『無い!』。
何故ならば、
『微塵の性』は、
『実に!』、
『無いからである!』。
若し、
『微塵が、実に有れば!』、
即ち、
『常であり!』、
『分裂されることもなく!』、
『毀壊されることもなく!』、
『火にも焼かれず!』、
『水にも没されないだろう!』。
  遊塵(ゆじん):空中に浮遊する塵。
復次若微塵有形無形二俱有過。若無形云何是色。若微塵有形則與虛空作分。亦有十方分。若有十方分則不名為微。佛法中色無有遠近麤細是常者。 復た次ぎに、若し微塵に形有るも、形無きも、二は倶に過有り。若し形無ければ、云何が是れ色なる。若し微塵に形有れば、則ち虚空の与(ため)に分と作り、亦た十方に分有り。若し十方の分有れば、則ち名づけて、微と為さず。仏法中の色には、遠近、麁細有ること無く、是れ常者なり。
復た次ぎに、
若し、
『微塵』に、
『形』が、
『有ったり、無かったりすれば!』、
『二』には、
倶に、
『過が有る!』。
若し、
『形が無ければ!』、
何故、
是の、
『微塵』が、
『色なのか?』。
若し、
『微塵に、形が有れば!』、
則ち、
『虚空』の、
『分と作るはずであり!』、
亦た、
『十方』にも、
『分が有るはずである!』。
若し、
『十方に、分が有れば!』、
則ち、
『微塵』と、
『呼ばれることはない!』。
『仏法』中は、
『色』には、
『遠近も、麁細も無い!』ので、
是の、
『色』は、
『常である!』。
復次離是因緣名字則無有法。今除山河土地因緣名字更無國名。除廬里道陌因緣名字則無都名。除梁椽竹瓦因緣名字更無殿名。除三分因緣名字更無柱名。除片因緣名字則無分名。除札因緣名字則無片名。除眾微因緣名字則無札名。除中微塵名字則無大微塵名。除小微塵名字則無中微塵名。除天眼妄見則無小微塵名。如是等種種因緣義故知諸法畢竟空。 復た次ぎに、是の因縁、名字を離るれば、則ち法有ること無し。今、山河、土地の因縁、名字を除けば、更に国の名無く、盧、里、道、陌の因縁、名字を除けば、則ち都の名無し。梁、椽、竹、瓦の因縁、名字を除けば、更に殿の名無し。三分の因縁、名字を除けば、更に柱の名無し。片の因縁、名字を除けば、則ち分の名無し。札の因縁、名字を除けば、則ち片の名無し。衆微の因縁、名字を除けば、則ち札の名無し。中微塵の名字を除けば、則ち大微塵の名無し。小微塵の名字を除けば、則ち中微塵の名無し。天眼の妄見を除けば、小微塵の名無し。是れ等の如き種種の因縁の義の故に、諸法の畢竟空を知る。
復た次ぎに、
是の、
『因縁、名字を離れれば!』、
則ち、
『法』は、
『無いことになる!』。
今、
『山河、土地の因縁、名字を除けば!』、
更に、
『国の名』は、
『無く!』、
『盧、里、道、陌( cottage, lane, street, foot path )の因縁、名字を除けば!』、
則ち、
『都の名』が、
『無くなり!』、
『梁、椽、竹、瓦の因縁、名字を除けば!』、
更に、
『殿の名』は、
『無く!』、
『三分の因縁、名字を除けば!』、
更に、
『柱の名』は、
『無く!』、
『片の因縁、名字を除けば!』、
則ち、
『分の名』が、
『無くなり!』、
『札の因縁、名字を除けば!』、
則ち、
『片の名』が、
『無くなり!』、
『衆微の因縁、名字を除けば!』、
則ち、
『札の名』が、
『無くなり!』、
『中微塵の名字を除けば!』、
則ち、
『大微塵の名』が、
『無くなり!』、
『小微塵の名字を除けば!』、
則ち、
『中微塵の名』が、
『無くなり!』、
『天眼の妄見を除けば!』、
則ち、
『小微塵の名』が、
『無くなる!』。
是れ等のような、
『種種の因縁の義』の故に、こう知ることになる、――
『諸法』は、
『畢竟じて空である!』、と。
問曰。若法畢竟空何以有名字。 問うて曰く、若し法にして、畢竟空なれば、何を以ってか、名字有る。
問い、
若し、
『法が、畢竟じて空ならば!』、
何故、
『名字』が、
『有るのですか?』。
答曰。名字若是有與法俱破。若無則不應難。名字與法俱無有異。以是故知一切法空。 答えて曰く、名字にして、若し是れ有らば、法と倶に破せん。若し無ければ、則ち応に、『名字と法とは、倶に異有ること無けん』、と難ずべからず。是を以っての故に、一切法の空なるを知る。
答え、
若し、
『名字が有れば!』、
『法も、名字も!』、
『倶に、破られ!』、
若し、
『名字が無ければ!』、
『名字と法は、倶に異が無いはずだ
there is not difference between the name and the dharma )!』と、
『難じるべきでない!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『名字だろうが、法だろうが!』、
『一切の法』は、
『空である!』、と。
復次一切法實空。所以者何。無有一法定故。皆從多法和合生。若無有一亦無有多。譬如樹根莖枝葉和合故有假名樹。若無樹法根莖枝葉為誰和合。若無和合則無一法。若無一法則亦無多。初一後多故。 復た次ぎに、一切法は、実に空なり。所以は何んとなれば、一法として定なる有ること無きが故なり。皆、多法の和合より生ずれば、若し一有ること無ければ、亦た多も有ること無し。譬えば樹の根茎、枝葉和合の故に有るを、仮に樹と名づけ、若し樹法無ければ、根茎、枝葉は誰が為めに和合する。若し和合無ければ、則ち一法無し。若し一法無ければ、則ち亦た多無し。初に一、後に多なるが故なり。
復た次ぎに、
『一切の法は、実に空である!』。
何故ならば、
『定法』は、
『一法すら無いからである!』。
『一切の法』は、
皆、
『多法の和合より!』、
『生じる!』ので、
若し、
『一が無ければ!』、
『多』も、
『無いことになる!』。
譬えば、
『樹』は、
『根茎、枝葉の和合』の故に、
『有る!』が、
仮に、
『樹』と、
『称するようなものである!』。
若し、
『樹の法が無ければ!』、
誰の為めに、
『根茎、枝葉』は、
『和合するのか?』。
若し、
『和合が無ければ( there is nothing held together )!』、
『一法』が、
『無いことになる!』。
若し、
『一法が無ければ!』、
『多法』も、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『初が一であり!』、
『多』が、
『後だからである!』。
  和合(わごう):梵語 saMgRhiita の訳、握られた( grasped, seized )の義、一纏めにされた( seized or held together )の意。
復次一切諸觀語言戲論皆無實者。若世間常亦不然。世間無常亦不然。有眾生無眾生。有邊無邊有我無我諸法實諸法空皆不然。如先種種論議門中說。若是諸觀戲論皆無者云何不空。 復た次ぎに、一切の諸観、語言、戯論には、皆実無き者なり。若し世間にして常ならば、亦た然らず。世間にして無常ならば、亦た然らず。衆生有るも、衆生無きも、辺有るも、辺無きも、我有るも、我無きも、諸法は実なるも、諸法は空なるも、皆然らず。先の種種の論議門中に説けるが如し。若し是の諸観、戯論は、皆無ければ、云何が空にあらざる。
復た次ぎに、
『一切の諸観、語言、戯論』は、
皆、
『実が無い!』。
若し、
『世間』が、
『常であっても、無常であっても!』、
『間違っている!』し、
『衆生』が、
『有っても、無くても!』、
『間違っている!』し、
『辺際』が、
『有っても、無くても!』、
『間違っている!』し、
『我』が、
『有っても、無くても!』、
『間違っている!』し、
『諸法が実でも、空でも!』、
皆、
『間違っているのである!』。
先の、
『種種の論議門』中に、
『説いた通りである!』。
若し、
是の、
『諸観、戯論』が、
皆、
『無ければ!』、
是れ等は、
何故、
『空でないのか?』。
問曰。汝言諸法實諸法空皆不然者。今云何復言諸法空。 問うて曰く、汝は、『諸法の実も、諸法の空も、皆然らざる者なり』、と言えるに、今は、云何が復た、『諸法は空なり』、と言う。
問い、
お前は、こう言ったが、――
『諸法は、実であろうが、空であろうが!』、
皆、
『間違っている!』、と。
今は、何故、
復た、こう言うのか?――
『諸法』は、
『空である!』、と。
答曰。有二種空。一者說名字空但破著有而不破空。二者以空破有亦無有空。如小劫盡時刀兵疾疫飢餓猶有人物鳥獸山河。大劫燒時山河樹木。乃至金剛地下大水亦盡。劫火既滅持水之風亦滅。一切廓然無有遺餘。空亦如是。破諸法皆空。唯有空在。而取相著之。大空者破一切法空亦復空。 答えて曰く、二種の空有り。一には名字の空を説くも、但だ有に著するを破りて、空を破らず。二には空を以って有を破れば、亦た空有ること無し。小劫の尽くる時、刀兵、疾疫、飢餓なるも、猶お人、物、鳥獣、山河有り、大劫焼く時、山河、樹木、乃至金鋼、地下の大水も亦た尽き、刧火既に滅すれば、持水の風も亦た滅し、一切は廓然として、遺餘有ること無し。空も亦た是の如く、諸法を破りて皆空ならしむれば、唯だ空の在る有れば、相を取りて、之に著す。大空なる者、一切法を破れば、空も亦復た空なり。
答え、
『二種の空が有り!』、
一には、
『名字の空を説き( only teaching the nominal emptyness )!』、
但だ、
『有に著することを、破るだけで!』、
『空』を、
『破ることはない!』が、
二には、
『空を用いて、有を破る!』と、
亦た、
『空』も、
『無くなる!』。
譬えば、
『小劫の尽きる!』時、
『刀兵、疾疫、飢餓が起る!』が、
猶お、
『人、物、鳥獣、山河』が、
『有り!』、
『大劫の焼ける!』時、
『山河、樹木、乃至金鋼、地下の大水まで尽き!』、
『刧火が、既に滅すれば!』、
『持水の風( the wind holding water )も!』、
『滅して!』、
『一切が廓然として( all is entirely open and quiet )!』、
『遺餘』が、
『無いようなものである!』が、
『空』も、
是のように、
『諸法を破って、皆空にする!』と、
但だ、
『空のみ!』が、
『存在して有り( being existing )!』、
是の、
『空相を取って!』、
『著することになる!』が、
『大空』が、
『一切の法を破る!』ので、
亦復た、
『空も!』、
『空となるのである!』。
  小劫(しょうこう)、大劫(だいこう):近似的無限の時間を指す単位。『大智度論巻2上注:劫』参照。
  金剛(こんごう):金剛山、また金剛囲山、金剛輪山とも称し、世界を周繞する鉄囲山を云う。『大智度論巻4上注:金剛山、巻9上注:須弥山』参照。
  廓然(かくねん):ガランとして何物も無いようす。
以是故汝不應作是難。若滅諸戲論云何不空。如是等種種因緣處處說空。當知一切法空。 是を以っての故に、汝は、応に是の難を作すべからず。若し諸の戯論を滅すれば、云何が空にあらざる。是れ等の如き種種の因縁もて、処処に空を説けば、当に知るべし、一切法は空なり。
是の故に、
お前は、
是の、
『難』を、
『作すべきではない!』。
若し、
諸の、
『戯論』を、
『滅すれば!』、
何故、
『諸法』が、
『空でないのか!』。
是れ等のような、
『種種の因縁で!』、
『処処に!』、
『空を説かれた!』ので、
当然、こう知らねばならない、――
『一切の法』は、
『空である!』、と。
習者隨般若波羅蜜修習行觀不息不休。是名為習。譬如弟子隨順師教不違師意是名相應。如般若波羅蜜相。菩薩亦隨是相。以智慧觀能得能成就不增不減。是名相應。 習とは、般若波羅蜜に随い、行、観を修習して息まず、休まず。是れを名づけて、習と為す。譬えば弟子の師の教に随順して、師の意に違わざれば、是れを相応と名づくるが如し。般若波羅蜜の相の如きは、菩薩も亦た、是の相に随い、智慧を以って観れば、能く得、能く成就して、不増不減なり。是れを相応と名づく。
『習』とは、
『般若波羅蜜に随って!』、
『行、観を修習して!』、
『息むこともなく!』、
『休むこともなければ!』、
是れを、
『習』と、
『称する!』。
譬えば、
『弟子』が、
『師の教に随順して!』、
『師の意』に、
『違わなければ!』、
是れを、
『相応する!』と、
『称するように!』、
例えば、
『般若波羅蜜の相など!』も、
『菩薩』は、
是の、
『相に随い!』、
『智慧を用いて!』、
『観察すれば!』、
『般若波羅蜜の相』を、
『得ることもでき!』、
『成就することもできる!』が、
『智慧』が、
『増すこともなく!』、
『減ることもない!』ので、
是れを、
『相応する!』と、
『称する!』。
譬如函蓋大小相稱。雖般若波羅蜜滅諸觀法。而智慧力故。名為無所不能無所不觀。能如是知不墮二邊。是為與般若相應 譬えば函と蓋と大小相称(かな)うが如く、般若波羅蜜もて、諸の観法を滅すと雖も、智慧の力の故に名づけて、能わざる所無く、観ざる所無しと名づけ、能く是の如く知りて、二辺に堕ちざれば、是れを般若と相応すと為す。
譬えば、
『函と蓋と( a box and a lid )!』の、
『大、小』が、
『相称う( to fit each other )ように!』、
『般若波羅蜜』が、
諸の、
『観法』を、
『滅しながら!』、
『般若波羅蜜という!』、
『智慧の力』の故に、
『不可能な所も、観ない所も無い!』と、
『称されるのであり!』
是のように、
『諸法を、知ることができれば!』、
『二辺』に、
『堕ちることもない!』。
是れが、
『般若』と、
『相応するということである!』。


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