巻第三十五(下)
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大智度論釋習相應品第三之一
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


菩薩、仏、般若波羅蜜、色等には名字が有るだけだ

【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是思惟。菩薩但有字。佛亦但有字。般若波羅蜜亦但有字。色但有字。受想行識亦但有字。舍利弗。如我但有字。一切我常不可得。眾生壽者命者生者養育眾數人作者使作者起者使起者受者使受者知者見者。是一切皆不可得。不可得空故。但以名字說。菩薩摩訶薩亦如是行般若波羅蜜。不見我不見眾生。乃至不見知者見者。所說名字亦不可見 仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く思惟すべし、菩薩は但だ字有るのみ、仏も亦た但だ字有るのみ、般若波羅蜜も亦た但だ字有るのみ、色は但だ字有るのみ、受想行識も亦た但だ字有るのみ、と。舎利弗、我れに、但だ字のみ有るが如く、一切の我は、常に不可得なり。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、是の一切は皆、不可得なり。不可得なれば空なるが故に、但だ名字を以って説く。菩薩摩訶薩も亦た是の如く般若波羅蜜を行ずるも、我を見ず、衆生を見ず、乃至知者、見者を見ず。所説の名字も亦た見るべからず。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時には、こう思惟せねばならない、――
『菩薩』には、
但だ、
『名字が!』、
『有るだけだ!』、
『仏』にも、
但だ、
『名字が!』、
『有るだけだ!』、
『般若波羅蜜』にも、
但だ、
『名字が!』、
『有るだけだ!』。
『色』には、
但だ、
『名字が!』、
『有るだけだ!』、
『受想行識』にも、
但だ、
『名字が!』、
『有るだけだ!』、と。
舎利弗!
『我( I, myself  )には!』、
但だ、
『名字』が、
『有るだけなように!』、
一切の( every )、
『我( self )』は、
『常に、不可得なのである!』。
『衆生や、寿者、命者、生者、養育、衆数、人とか!』、
『作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者のような!』、
是の、
『一切は!』、
皆、
『不可得なのであり( be unrecognizable )!』、
『不可得という!』、
『空である!』が故に、
但だ、
『名字を用いて!』、
『説くのであり!』、
『菩薩摩訶薩』も、
是のように、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『我や、衆生を!』、
『見ることがなく!』、
乃至、
『知者や、見者を!』、
『見ることがなく!』、
『説かれた!』、
『名字』も、
『見られることがないのである!』。
  (が):五衆中に於いて、我、我所心起こるが故に名づけて「我」と為す。
  衆生(しゅじょう):五衆の和合中に生ずるが故に名づけて「衆生」と為す。
  寿者(じゅしゃ)、命者(みょうしゃ):命根成就するが故に名づけて、「寿者、命者」と為す。
  生者(しょうしゃ):能く衆事を起すこと、父の子を生ずるが如きに名づけて、「生者」と為す。
  養育(よういく):乳哺、衣食の因縁に長ずるを得、これを「養育」と名づく。
  衆数(しゅすう):五衆、十二入、十八界等諸法の因縁、これ衆法に数有るが故に「衆数」と名づく。
  (にん):人法を行ずるが故に名づけて、「人」と為す。
  作者(さしゃ):手足に能く作す所有り、名づけて「作者」と為す。
  使作者(しさしゃ):力もて能く他を役するが故に、「使作者」と名づく。
  起者(きしゃ):能く後世の罪福の業を造るが故に、「能起者」と名づく。
  使起者(しきしゃ):他をして後世の罪福の業を起さしむるが故に、「使起者」と名づく。
  受者(じゅしゃ):後身に罪福の果報を受くるが故に、「受者」と名づく。
  使受者(しじゅしゃ):他をして苦楽を受けしむ、これを「使受者」と名づく。
  見者(けんしゃ):目に色を睹るを名づけて、「見者」と為す。
  知者(ちしゃ):五識に知るを名づけて、「知者」と為す。
  (しゃ):動詞等を名詞化する辞。
  参考:『大般若経巻4学観品第二』:『復次舍利子。諸菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。應如是觀。菩薩但有名。佛但有名。般若波羅蜜多但有名。色但有名。受想行識但有名。眼處但有名。耳鼻舌身意處但有名。色處但有名。聲香味觸法處但有名。眼界但有名。耳鼻舌身意界但有名。色界但有名。聲香味觸法界但有名。眼識界但有名。耳鼻舌身意識界但有名。眼觸但有名。耳鼻舌身意觸但有名。眼觸為緣所生諸受但有名。耳鼻舌身意觸為緣所生諸受但有名。地界但有名。水火風空識界但有名。因緣但有名。等無間緣所緣緣增上緣但有名。從緣所生諸法但有名。無明但有名。行識名色六處觸受愛取有生老死愁歎苦憂惱但有名。布施波羅蜜多但有名。淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多但有名。內空但有名。外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空但有名。四念住但有名。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支但有名。空解脫門但有名。無相無願解脫門但有名。苦聖諦但有名。集滅道聖諦但有名。四靜慮但有名。四無量四無色定但有名。八解脫但有名。八勝處九次第定十遍處但有名。陀羅尼門但有名。三摩地門但有名。極喜地但有名。離垢地。發光地。焰慧地。極難勝地。現前地。遠行地。不動地。善慧地。法雲地但有名。正觀地但有名。種性地。第八地。見地。薄地。離欲地。已辦地。獨覺地。菩薩地。如來地但有名。五眼但有名。六神通但有名。如來十力但有名。四無所畏。四無礙解。大慈大悲大喜大捨。十八佛不共法但有名。三十二大士相但有名。八十隨好但有名。無忘失法但有名。恒住捨性但有名。一切智但有名。道相智一切相智但有名。一切智智但有名。永拔煩惱習氣相續但有名。預流果但有名。一來不還阿羅漢果但有名。獨覺菩提但有名。一切菩薩摩訶薩行但有名。諸佛無上正等菩提但有名。世間法但有名。出世間法但有名。有漏法但有名。無漏法但有名。有為法但有名。無為法但有名。舍利子。如我但有名。謂之為我實不可得。如是有情。命者。生者。養者。士夫。補特伽羅。意生。儒童。作者。使作者。起者。使起者。受者。使受者。知者。見者。亦但有名。謂為有情乃至見者。以不可得空故。但隨世俗假立客名。諸法亦爾。不應執著。是故菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。不見有我乃至見者。亦不見有一切法性』
【論】問曰。第二品末已說空。今何以重說。 問うて曰く、第二品の末に、已に空を説くに、今、何を以ってか、重ねて説く。
問い、
『第二品の末』に、
已に、
『空』が、
『説かれている!』のに、
今、何故、
『重ねて!』、
『説くのですか?』。
答曰。上多說法空。今雜說法空眾生空。行者觀外法盡空無所有。而謂能知空者不空。是故復說。觀者亦空。是眾生空。聲聞法中多說。 答えて曰く、上には多く、法空を説き、今は法空と、衆生空を雑えて説く。行者は、外法の尽く、空にして無所有なるを観て、謂わく、『能く空を知る者は、空にあらず』、と。是の故に復た、『観る者も、亦た空なり』、と説けば、是れ衆生空にして、声聞法中に多く説けり。
答え、
上に、
『法空』が、
『多く!』、
『説かれたので!』、
今、
『法空、衆生空』を、
『雑えて!』、
『説くのである!』。
『行者』が、
『外法は、尽く空であり!』、
『無所有である( there is nothing exsisting )!』と、
『観ていながら!』、
『空を知る!』者は、
『空でない!』と、
『謂うので!』、
是の故に、
復た、
『観る者も、空である!』と、
『説くのであり!』、
是れが、
『衆生空である!』が、
『多く!』が、
『声聞法中に説かれている!』。
一切佛弟子皆知諸法中無我。佛滅後五百歲分為二分。有信法空。有但信眾生空。言五眾是定有法但受五眾者空。以是故佛說眾生空以況法空。 一切の仏弟子は、皆、諸法中に我無きを知るも、仏の滅後の五百歳には、分けて二分と為し、有るいは法空を信じ、有るいは但だ衆生空を信じて、『五衆は、是れ定んで法有るも、但だ五衆を受くる者は、空なり』、と言えば、是を以っての故に、仏は、『衆生空なれば、以って、況んや法空をや』、と説きたまえり。
『一切の仏弟子』は、
皆、
『諸法中に、我は無い!』と、
『知りながら!』、
『仏の滅後の五百歳』には、
『二分に分れて!』、
有るいは、
『法空』を、
『信じ!』、
有るいは、
但だ、
『衆生空だけ!』を、
『信じて!』、
こう言う、――
『五衆には!』、
『定んで( definitely )!』、
『法が有る!』が、
但だ、
『五衆を受ける!』者は、
『空である!』、と。
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『衆生が空ならば!』、
況して、
『法が空である!』のは、
『言うまでもない!』、と。
復次我空易知法空難見。所以者何。我以五情求之不可得。但以身見力故憶想分別為我。法空者色可眼見聲可耳聞。是故難知其空。是二事般若波羅蜜中皆空。如十八空義中說。 復た次ぎに、我の空は、知り易く、法の空は見難し。所以は何んとなれば、我は、五情を以って、之を求むるに、不可得にして、但だ身の見力を以っての故に、憶想、分別して、我と為すも、法空は、色は眼に見るべく、声は耳に聞くべければ、是の故に其の空なるを知り難し。是の二事の般若波羅蜜中に、皆空なること、十八空義中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『我は、空である!』と、
『容易に!』、、
『知ることができる!』が、
『法が、空である!』と、
『見ること!』は、
『難しい!』。
何故ならば、
『我』は、
『五情を用いて!』、
『求めても!』、
『不可得であり!』、
但だ、
『身触、眼見の力を用いる!』が故に、
『憶想、分別して!』、
『我と為す( to reguard it as self )のである!』が、
『法空』は、
『色』は、
『眼に!』、
『見ることができ!』、
『声』は、
『耳に!』、
『聞くことができる!』ので、
是の故に、
『色、眼、声、耳等は空である!』とは、
『知り難いからである!』。
是の、
『法と、衆生との二事』は、
『般若波羅蜜』中には、
皆、
『空である!』が、
例えば、
『十八空の義』中に、
『説いた通りである!』。
問曰。如我乃至知者見者為是一事為各各異。 問うて曰く、我、乃至知者、見者の如きは、是れを一事と為すや、各各異なりと為すや。
問い、
『我、乃至知者、見者など!』は、
『一事ですか?』、
『各各は、異なるものですか?』。
答曰。皆是一我。但以隨事為異。於五眾中我我所心起故名為我。五眾和合中生故名為眾生。命根成就故名為壽者命者。能起眾事如父生子名為生者。乳哺衣食因緣得長是名養育。五眾十二入十八界等諸法因緣是眾法有數故名眾數。行人法故名為人。手足能有所作名為作者。力能役他故名使作者。能造後世罪福業故名能起者。令他起後世罪福業故名使起者。後身受罪福果報故名受者。令他受苦樂是名使受者。目睹色名為見者。五識知名為知者。 答えて曰く、皆、是れ一我なるも、但だ事に随うを以って、異と為す。五衆中に於いて、我我所の心起るが故に、我と為し、五衆の和合中に生ずるが故に、名づけて衆生と為し、命根の成就するが故に、名づけて寿者、命者と為し、能く衆事を起すこと、父の子を生ずるが如きを、名づけて生者と為し、乳哺、衣食の因縁の長ずるを得れば、是れを養育と名づけ、五衆、十二入、十八界等の諸法の因縁、是の衆法には数有るが故に、衆数と名づけ、人法を行ずるが故に、名づけて人と為し、手足の能く所作有るを、名づけて作者と為し、力の能く他を役するが故に、使作者と名づけ、能く後世の罪福の業を造るが故に、能起者と名づけ、他をして後世の罪福の業を起さしむるが故に、使起者と名づけ、後身に罪福の果報を受くるが故に、受者と名づけ、他をして、苦楽を受けしむれば、是れを使受者と名づけ、目に色を睹(み)るを名づけて、見者と為し、五識もて知るを名づけて、知者と為す。
答え、
皆、
是れは、
『一我である!』が、
但だ、
『事に随って( in order to function )!』、
『異と為すだけである( to make the difference )!』。
謂わゆる、
『五衆』中に、
『我、我所の心が起きる!』ので、
是れを、
『我である!』と、
『称し!』、
『五衆の和合中に生じる!』が故に、
是れを、
『衆生である!』と、
『称し!』、
『命根の成就する!』が故に、
是れを、
『寿者とか、命者である!』と、
『称し!』、
『父が、子を生じるように!』、
『衆事を、起すことができる!』ので、
是れを、
『生者である!』と、
『称し!』、
『乳哺( feeding )や、衣食の因縁が長じさせる!』ので、
是れを、
『養育である!』と、
『称し!』、
『五衆、十二入、十八界等の諸法の因縁』が、
『衆法であり!』、
是れには、
『数が有る( be numerable )!』が故に、
『衆数である!』と、
『称し!』、
『人法を行じる( to practice the regulation of mankind )!』が故に、
是れを、
『人』と、
『称し!』、
『手、足に所作を有らしめる( to make the limbs to work )!』ので、
是れを、
『作者である!』と、
『称し!』、
『力で、他人を使役する( to set someone to work with power )!』が故に、
是れを、
『使作者である!』と、
『称し!』、
『後世の罪福の業を造ることができる!』が故に、
是れを、
『能起者である!』と、
『称し!』、
『他人に、後世の罪福の業を起させる!』が故に、
是れを、
『使起者である!』と、
『称し!』、
『後身に、罪福の果報を受ける!』が故に、
是れを、
『受者である!』と、
『称し!』、
『他人に、苦楽を受けさせる!』ので、
是れを、
『使受者である!』と、
『称し!』、
『目に、色を見る!』ので、
是れを、
『見者である!』と、
『称し!』、
『五識で、知る!』ので、
是れを、
『知者である!』と、
『称する!』。
復次用眼見色以五邪見觀五眾。用世間出世間正見觀諸法是名見者。所謂眼根五邪見世間正見無漏見是名見者。餘四根所知及意識所知通名為知者。如是諸法皆說是神。 復た次ぎに、眼を用いて色を見、五邪見を以って五衆を観、世間、出世間の正見を用いて諸法を観れば、是れを見者と名づく。謂わゆる眼根、五邪見、世間の正見、無漏見、是れを見者と名づけ、餘の四根の所知、及び意識の所知は通じて名づけて、知者と為す。是の如き諸法を、皆、是れ神なり、と説く。
復た次ぎに、
『眼を用いて、色を見たり!』、
『五邪見を用いて、五衆を観たり!』、
『世間や、出世間の正見を用いて、諸法を観れば!』、
是れを、
『見者』と、
『称する!』。
謂わゆる、
『眼根や!』、
『五邪見や!』、
『世間の正見や!』、
『無漏の見は!』、
是れを、
『見者と!』、
『称するのであり!』、
『餘の四根と、意識の所知とを!』、
『通じて!』、
『知者と!』、
『称するのである!』が、
是れ等の、
『諸法』は、
皆、是れが、
『神である!』と、
『説かれている!』。
  五邪見(ごじゃけん):五種の悪見を云う、即ち五見なり。
  五見(ごけん):梵語paJca dRSTayaHの訳。五種の見の意。また五染汚見、五僻見、或は五利使とも名づく。則ち親しく理に迷うて起こる五種の惑をを云う。一に有身見、二に辺執見、三に邪見、四に見取見、五に戒禁取見なり。「大毘婆沙論巻49」に、「五見あり、謂わく有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取なり」と云い、「倶舎論巻19」に、「我我所と、断常と、撥無と、劣を勝と謂うと、因と道とに非ざるを妄に謂うとは、これ五見の自体なり」と云えるこれなり。この中、有身見は即ち我及び我所を執するを云い、辺執見は所執の我我所の事に於いて断滅若しくは常住と執するを云い、邪見は四諦因果の理を撥無するを云い、見取は劣に於いて勝と謂うを云い、戒禁取は因に非ず道に非ざるを妄に因又は道と計するを云う。共に見所断の惑にして、三界四部に総じて三十六事あり。即ち有身見と辺執見の二は、各三界見苦所断なるが故に六事あり、邪見と見取の二は各三界四部の所断なるが故に二十四事あり、戒禁取は三界各各見苦道所断なるが故に六事あり。又これを五染汚見と名づくるは、この五見は唯染汚なるが故なり。五僻見と名づくるは、共に理に迷うて起こる見なるが故なり。五利使と名づくるは、直ちに理を推求してその性猛利なるが故なり。また「大毘婆沙論巻46」、「成実論巻10」、「雑阿毘曇心論巻4」、「順正理論巻46、巻47」、「成唯識論巻6」、「雑集論述記巻3」、「大乗義章巻6」、「倶舎論光記巻19」等に出づ。<(望) 即ち根本煩悩中の五種の悪見を指し、一に有身見とは、梵に薩迦耶見satkaaya- dRSTiに作り、また偽身見、壊身見、身見と訳す。これ乃ち有部の説にして、経部にては則ち釈して虚偽と為す。即ち自ら我の存在有りと執すれば、称して我見と為し、この我に属するを以って、則ち我所見と称す。二に辺執見とは、梵にanta- graaha- dRSTiに作り、また辺見と訳す。極端なる一遍に辺執する見解にして、謂わゆる我は死後にも仍ち常住不滅なり、これを称して常見(有見)と為し、謂わゆる我は死後に則ち断絶す、これを称して断見(無見)と為す。三に邪見とは、梵にmmithyaa- dRSTiに作り、即ち因果の道理を否定する見解と為す。四に見取見とは、梵にdRSTi- paraamarzaに作り、即ち錯誤の見解に執著し、以って真実と為す者なり。五に戒禁取見とは、梵にziila- vrata- paraamarzaに作り、又戒取見、戒盗見と訳す。即ち不正確なる戒律、禁制等を見て、涅槃に可達の戒行と為す等、この取の執著を即ち称して、戒禁取見と為す。<(佛)
此神十方三世諸佛及諸賢聖求之不可得。但憶想分別強為其名。諸法亦如是。皆空無實但假為其名。 此の神は、十方、三世の諸仏、及び諸賢聖、之を求むるも、不可得にして、但だ憶想、分別し、強いて、其の名を為す。諸法も亦た是の如く、皆空にして、無実なるに、但だ仮に、其の名を為すのみ。
此の、
『神( the subject of transmigration )』は、
『十方、三世の諸仏や、諸賢聖たち!』が、
『求めても( had been searching for )!』、
『得られず( can not obtain )!』、
但だ、
『憶想、分別して!』、
『強いて!』、
『神である!』と、
『呼ぶだけである!』。
『諸法も!』、
是のように、皆、
『空であり!』、
『無実である!』が、
但だ、仮に、
『法である!』と、
『呼ぶだけである!』。
問曰。是神但有十六名字。更有餘名。 問うて曰く、是の神には、但だ十六の名字有りや、更に餘の名有りや。
問い、
是の、
『神』には、
但だ、
『十六の名字(我、衆生、乃至見者、知者)』が、
『有るだけですか?』、
更に、
『餘の名も!』、
『有るのですか?』。
答曰。略說則十六。廣說則無量。隨事起名如官號差別工能智功。出家得道種種諸名。皆是因緣和合生故無自性。無自性故畢竟空。生空故法空。法空故生亦空 答えて曰く、略説すれば、則ち十六なるも、広説すれば、則ち無量なり。事に随うて、名を起すこと、官号の、工能、智功を差別するが如し。出家、得道の種種の諸名は、皆、是れ因縁、和合の生なるが故に、自性無く、自性無きが故に畢竟空、生空なるが故に法空、法空なるが故に生も亦た空なり。
答え、
『神を略説すれば、十六である!』が、
『広説すれば!』、
『無量である!』。
『神』は、
『事に随って( in order to function
『名』を、
『起す!』ので、
譬えば、
『官号』が、
『工能や、智功』を、
『差別するようなものである!』。
『出家や、得道の種種の諸名』は、
皆、
『因縁、和合の生である!』が故に、
『自性』が、
『無く!』、
『自性が無い!』が故に、
『畢竟じて( finally )!』、
『空であり!』、
『生が空である( the beings are empty )!』が故に、
『法( the things )も!』、
『空であり!』、
『法が空である!』が故に、
『生も!』、
『空である!』。
  官号(かんごう):官府の名称。
  工能(くのう):工芸能力。
  智功(ちく):智慧の勲功。



声聞、辟支仏の智慧の上を過ぎる

【經】菩薩摩訶薩作如是行般若波羅蜜。除佛智慧過一切聲聞辟支佛上。用不可得空故。所以者何。是菩薩摩訶薩諸名字法名字所著處亦不可得故。舍利弗。菩薩摩訶薩能如是行。為行般若波羅蜜。譬如滿閻浮提竹麻稻茅。諸比丘其數如是。智慧如舍利弗目連等。欲比菩薩行般若波羅蜜智慧。百分不及一。千分百千分乃至算數譬喻所不能及。何以故。菩薩摩訶薩用智慧度脫一切眾生故 菩薩摩訶薩の、是の如く、般若波羅蜜を行ずるを作せば、仏の智慧を除きて、一切の声聞、辟支仏の上を過ぐるは、不可得空を用うるが故なり。所以は何んとなれば、是の菩薩摩訶薩には、諸の名字の法と、名字の所著の処も、亦た不可得なるが故なり。舎利弗、菩薩摩訶薩の、能く是の如く行ずるを、般若波羅蜜を行ずと為す。譬えば、閻浮提に満つる竹、麻、稲、茅の如し。諸比丘の其の数の是の如き智慧の舎利弗、目連等の如きを、菩薩の般若波羅蜜を行ずる智慧に比せんと欲すれば、百分の一に及ばず、千分、百千分、乃至算数、譬喻の及ぶ能わざる所なり。何を以っての故に、菩薩摩訶薩は、智慧を用いて、一切の衆生を度脱するが故なり。
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『行じること!』を、
『作せば( to start up to )!』、
『仏の智慧を除いて!』、
『一切の声聞、辟支仏の智慧の上』を、
『過ぎることになる!』のは、
『不可得空という!』、
『智慧』を、
『用いるからである!』。
何故ならば、
是の、
『菩薩摩訶薩』には、
『諸の名字という法も( =Name )!』、
『名字の著する処も( =Substance joined by Name )も!』、
倶に、
『不可得だからである!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
是のように、
『行うことができれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行ったことになる!』。
譬えば、
『閻浮提を満たす!』、
『竹、麻、稲、茅のように!』、
『諸の比丘の数』が、
『是の通りであり!』、
『諸比丘』の、
『智慧』が、
『舎利弗や、目連等のようであった!』としても、
『菩薩』の、
『般若波羅蜜を行う!』、
『智慧に比べれば!』、
『百分の一にも、千分、百千分にも!』、
『及ばず!』、
乃至、
『算数、譬喻の!』、
『及ぶことのできる所ではない!』。
何故ならば、
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『智慧を用いて!』、
『一切の衆生』を、
『度脱するからである!』。
  参考:『大般若経巻4』:『舍利子。諸菩薩摩訶薩如是修行甚深般若波羅蜜多。除諸佛慧。一切聲聞獨覺等慧所不能及。以不可得空故。所以者何。是菩薩摩訶薩於名所名俱無所得。以不觀見無執著故。舍利子。諸菩薩摩訶薩若能如是修行般若波羅蜜多。名善修行甚深般若波羅蜜多。舍利子。假使汝及大目乾連滿贍部洲。如稻麻竹葦甘蔗林等所有智慧。比行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩智慧。百分不及一。千分不及一。百千分不及一。俱胝分不及一。百俱胝分不及一。千俱胝分不及一。百千俱胝分不及一。數分算分計分喻分。乃至鄔波尼殺曇分亦不及一。何以故。舍利子。是菩薩摩訶薩智慧。能使一切有情趣般涅槃。一切聲聞獨覺智慧不如是故。又舍利子。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。一切聲聞獨覺智慧不能及故。舍利子。置贍部洲。假使汝及大目乾連滿四大洲。如稻麻竹葦甘蔗林等所有智慧。比行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩智慧。百分不及一。千分不及一。百千分不及一。俱胝分不及一。百俱胝分不及一。千俱胝分不及一。百千俱胝分不及一。數分算分計分喻分乃至鄔波尼殺曇分亦不及一。何以故。舍利子。是菩薩摩訶薩智慧。能使一切有情趣般涅槃。一切聲聞獨覺智慧不如是故。又舍利子。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。一切聲聞獨覺智慧不能及故。舍利子。置四大洲。假使汝及大目乾連滿一三千大千世界。如稻麻竹葦甘蔗林等所有智慧。比行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩智慧。百分不及一。千分不及一。百千分不及一。俱胝分不及一。百俱胝分不及一。千俱胝分不及一。百千俱胝分不及一。數分算分計分喻分乃至鄔波尼殺曇分亦不及一。何以故。舍利子。是菩薩摩訶薩智慧。能使一切有情趣般涅槃。一切聲聞獨覺智慧不如是故。又舍利子。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。一切聲聞獨覺智慧不能及故。舍利子。置一三千大千世界。假使汝及大目乾連充滿十方殑伽沙等諸佛世界。如稻麻竹葦甘蔗林等所有智慧。比行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩智慧。百分不及一。千分不及一。百千分不及一。俱胝分不及一。百俱胝分不及一。千俱胝分不及一。百千俱胝分不及一。數分算分計分喻分乃至鄔波尼殺曇分亦不及一。何以故。舍利子。是菩薩摩訶薩智慧。能使一切有情趣般涅槃。一切聲聞獨覺智慧不如是故。』
【論】釋曰。有二因緣故。菩薩智慧勝聲聞辟支佛。一者以空知一切法空亦不見是空。空以不空等一不異。二者以此智慧為欲度脫一切眾生令得涅槃。聲聞辟支佛智慧但觀諸法空。不能觀世間涅槃為一。 釈して曰く、二因縁有るが故に、菩薩の智慧は、声聞、辟支仏に勝る。一には、空を以って、一切法の空なるを知り、亦た是の空も見ざれば、空と不空と等一にして、異ならず。二には、此の智慧を以って、一切の衆生を度脱せんが為めに、涅槃を得しめんと欲す。声聞、辟支仏の智慧は、但だ諸法の空を観て、世間と涅槃と一と為すを観る能わず。
釈す、
『二因縁が有る!』が故に、
『菩薩の智慧』は、
『声聞、辟支仏の智慧』に、
『勝る!』。
一には、
『空の智慧を用いる!』が故に、
『一切の法』は、
『空である!』と、
『知る!』ので、
是の、
『空』を、
『見ることもなく!』、
『空と、不空とは!』、
『等一であり!』
『異らない!』。
二には、
此の、
『空の智慧を用いて!』、
『一切の衆生を度脱させる!』為めに、
『涅槃』を、
『得させようとする!』。
『声聞、辟支仏の智慧』は、
但だ、
『諸法』が、
『空である!』と、
『観るだけで!』、
『世間と、涅槃とが!』、
『一である!』と、
『観ることはできない!』。
  (い):与に同じ。
譬如人出獄。有但穿牆而出自脫身者。有破獄壞鎖既自脫身兼濟眾人者。 譬えば、人の、獄を出づるに、但だ牆(かき)を穿ちて出で、自ら身を脱るる者有り、獄を破りて鎖を壊り、既に自ら身を脱るるに、兼ねて衆人を済う者有るが如し。
譬えば、――
『人が、獄を出る!』のに、
有る者は、
但だ、
『牆を穿って、出て!』
『自らの身』を、
『脱れさせるだけである!』が、
有る者は、
『獄を破り、鎖を壊して!』、
既に、
『自らの身』を、
『脱れさせてしまえば!』、
兼ねて、
『衆人』を、
『済うようなものである!』。
復次菩薩智慧入二法中故勝。一者大悲。二者般若波羅蜜。復有二法。一者般舟三昧。二者方便。復有二法。一者常住禪定。二者能通達法性。復有二法。一者能代一切眾生受苦。二者自捨一切樂。復有二法。一者慈心無怨無恚。二者乃至諸佛功德心亦不著。如是等種種功德莊嚴智慧故勝聲聞辟支佛。 復た次ぎに、菩薩の智慧は、二法中に入るが故に勝る。一には、大悲、二には、般若波羅蜜なり。復た二法有り、一には般舟三昧、二には方便なり。復た二法有り、一には禅定に常住し、二には能く法性に通達す。復た二法有り、一には能く一切の衆生に代りて、苦を受け、二には自ら一切の楽を捨つ。復た二法有り、一には慈心にして無怨、無恚なり、二には乃至諸仏の功徳すら、心は亦た著せず。是れ等の如き種種の功徳の智慧を荘厳するが故に、声聞、辟支仏に勝る。
復た次ぎに、
『菩薩の智慧』は、
『二法中に入る( entering into two things profoundly )!』が故に、
『勝るのである!』。
即ち、
一には、
『大悲であり!』、
二には、
『般若波羅蜜である!』。
復た、
『二法が有り!』、
一には、
『般舟三昧(諸仏現前三昧)であり!』、
二には、
『方便である!』。
復た、
『二法が有り!』、
一には、
『禅定に!』、
『常住することであり!』、
二には、
『法性に!』、
『通達することである!』。
復た、
『二法が有り!』、
一には、
『一切の衆生に代って!』、
『苦を受けることであり!』、
二には、
『自ら!』、
『一切の楽を捨てることである!』。
復た、
『二法が有り!』、
一には、
『慈心に!』、
『怨も、恚も無いことであり!』、
二には、
『乃至諸仏の功徳すら!』、
『心が著さないことである!』。
是れ等のような、
『種種の功徳』が、
『智慧』を、
『荘厳する!』が故に、
『菩薩の智慧』は、
『声聞、辟支仏の智慧』に、
『勝るのである!』。
問曰。諸鈍根者可以為喻。舍利弗智慧利根何以為喻。 問うて曰く、諸の鈍根の者は、以って喻と為すべきも、舎利弗の智慧は利根なるに、何を以ってか、喻と為す。
問い、
『諸の鈍根の者』は、
『喻とすることもできる!』が、
『舎利弗の智慧のような!』、
『利根』を、
『何故、喻とするのですか?』。
答曰。不必以鈍根為譬喻。譬喻為莊嚴論議。令人信著故。以五情所見以喻意識。令其得悟。譬如登樓得梯則易上。 答えて曰く、必ずしも、鈍根を以って、譬喻と為さず。譬喻は、論議を荘厳して、人をして信じ著せしめんが為めの故に、五情の所見を以って、以って意識に喻え、其れをして、得悟せしむ。譬えば、楼に登るに、梯を得れば、則ち上り易きが如し。
答え、
必ずしも、
『鈍根を用いて!』、
『譬喻と為すのではない!』。
『譬喻』とは、
『論議を荘厳して!』、
『人に!』、
『信じさせて!』、
『著させる為めであり!』、
『五情の所見を用いて!』、
『意識に!』、
『喻え!』、
其の、
『人に!』、
『悟を得させるのである!』。
譬えば、
『楼に登るのに!』、
『梯を得れば!』、
『上り易いようなものである!』。
復次一切眾生著世間樂。聞道得涅槃則不信不樂。以是故以眼見事喻所不見。譬如苦藥服之甚難。假之以蜜服之則易。 復た次ぎに、一切の衆生は、世間の楽に著すれば、道を聞いて涅槃を得るを、則ち信ぜず、楽しまず。是を以っての故に、眼見の事を以って、見ざる所を喻う。譬えば苦薬は、之を服するに甚だ難ければ、之を仮るるに、蜜を以って、之を服すれば、則ち易きが如し。
復た次ぎに、
『一切の衆生』は、
『世間の楽に著する!』ので、
『涅槃を得る!』、
『道』を、
『聞いても!』、
則ち、
『信じることもなく!』、
『楽しむこともない( do not take delight in )!』ので、
是の故に、
『眼に見える事を用いて!』、
『見えない!』所に、
『喻えるのである!』。
譬えば、
『苦い薬』を、
『服むのは!』、
『甚だ難しい!』が、
『蜜の力を仮りて( by virtue of honey )!』、
『服めば!』、
『易しくなるようなものである!』。
  (らく):<動詞>楽しい/愉快である( happy, cheerful, joyful )、安楽である( easy )、するのが楽しい/を喜とする/喜んでする( be glad to, take delight in, be happy to )、快楽を感じる/楽しい( enjoy )、笑う( laugh )。<名詞>歌舞と女色( woman and song )、娯楽( delight, joy, pleasure )。<名詞>音楽( music )、楽器( instrument )、楽人( musician )。<動詞>唱う( sing )、奏楽する( play )。
  (け):<形容詞>[本義]真実でない/偽の( false, bogus, counterfeit )。非公式の( informal )、仮りの/代理の/未定の( provisional, indecisive )。<動詞>借りる/借入する( hire, borrow )、依る/頼る( depend on )、与える/給与する( give )、見逃す/寛容にする( tolerate )、言付ける/託する( make a protext of )、賛美/称賛する( laud, praise )。<接続詞>設い/仮設( if, even )。<副詞>且く/暫く/さし当り( for the moment )。<介詞>の力で/のおかげで( by virtue of )。<名詞>休暇( holiday, vacation )。
復次舍利弗於聲聞中智慧第一。比諸佛菩薩未有現焉。 復た次ぎに、舎利弗は声聞中に於いて、智慧第一なるも、諸仏、菩薩に比すれば、未だ現わるること有らざるなり。
復た次ぎに、
『舎利弗』は、
『声聞』中に於いて、
『智慧』が、
『第一である!』が、
『諸の仏、菩薩に比べれば!』、
『現れること( to appear )!』が、
『無い!』。
  (げん):<動詞>[本義]出現する/現れる( become visible, appear, show )。見える/会見する( meet )。<形容詞>現在/現前の( current, now, present )、手元に( on hand )。
如閻浮提者。閻浮樹名其林茂盛。此樹於林中最大。提名為洲此洲上有此樹林。林中有河底有金沙。名為閻浮檀金。以閻浮樹故名為閻浮洲。此洲有五百小洲圍繞通名閻浮提。 閻浮提の如しとは、閻浮樹を、其の林茂盛して、此の樹は、林中に於いて最大なりと名づけ、提を名づくるに、洲と為し、此の洲上に此の樹林有り。林中に河有りて、底に金沙有るを名づけて、閻浮檀金と為す。閻浮樹を以っての故に名づけて、閻浮洲と為し、此の洲には、五百の小洲の囲繞せる有り、通じて閻浮提と名づく。
『閻浮提のようだ!』とは、
『閻浮樹』とは、
『閻浮提』には、
『林』が、
『茂盛しており!』、
『閻浮樹』が、
『林』中の、
『最大である!』。
『提とは、洲( a continent )であり!』、
『洲』上には、
『閻浮樹の林』が、
『有る!』が、
『林』中に、
『河』が、
『有り!』、
『河底』には、
『閻浮檀金という!』、
『金沙が有る!』ので、
此の、
『閻浮樹に因んで!』、
『閻浮洲』と、
『呼ばれるようになった!』。
此の、
『閻浮洲を囲繞して!』、
『五百の小洲』が、
『有る!』が、
通じて、
『閻浮提』と、
『称するのである!』。
  閻浮提(えんぶだい):梵名jambu-dviipa、巴梨jambu-diipa、また閻浮利、瞻部提、閻浮提鞞波等に作る。梵語閻浮jambuは乃ち樹の名、梵語提dviipaは洲の意、梵漢兼訳して則ち剡浮洲、閻浮洲、瞻部洲、譫浮洲等に作り、略して閻浮と称す。旧訳には穢洲、穢樹城、乃ち盛に閻浮樹を産する国土と称す。また閻浮檀金を出産するが故に、また勝金洲、好金土の訳名有り。此の洲は須弥山四大洲の南洲と為し、故にまた南閻浮提dakSiNa-jambu-dviipa、南閻浮洲、南瞻部州と称す。「長阿含経巻18閻浮提洲品」には、その土は南に狭く北に広く、縦広七千由旬、人面もまたこの地形に像る。また阿耨達池の東に恒伽(殑伽)河有り、牛の口より出で、五百河に従って東海に入る。南に新頭(信度)河有り、獅子の口より出で、五百河に従って南海に入る。西に婆叉(縛芻)河有り、馬の口より出で、五百河に従って西海に入る。北に斯陀(徙多)河有り、象の口より出で、五百河に従って北海に入る、と云い、また「大楼炭経巻1」、「起世経巻1」、「起世因本経巻1」等の所説も、また同じ。「倶舎論巻11」には、四大洲の中、唯此の洲中のみに金剛座有り、一切の菩薩の将に正覚に登らんとするや、皆此の座に坐すと云えり。また「雑阿毘曇心論巻3」、「立世阿毘曇論巻1」、「大毘婆沙論巻172」、「大唐西域記巻1」、「玄応音義巻18」等に出づ。<(佛)
問曰。諸弟子甚多。何以故說舍利弗目揵連等。滿閻浮提中如竹麻稻茅。 問うて曰く、諸の弟子は、甚だ多し。何を以っての故にか、『舎利弗、目揵連等の、閻浮提中に満てること、竹、麻、稲、茅の如し』、と説く。
問い、
『諸弟子は、甚だ多い!』のに、
何故、
『舎利弗、目揵連』等が、
『閻浮提中に竹、麻、稲、茅のように満ちていた!』と、
『説くのですか?』。
答曰。一切佛弟子中。智慧第一者舍利弗。神足第一者目揵連。此二人於佛法中大。於外法中亦大。富樓那.迦郗那.阿那律等。於佛法中雖大。於外法中不如。又此二人常在大眾助佛揚化破諸外道。富樓那等比丘無是功德。是故不說。 答えて曰く、一切の仏弟子中に智慧第一なるは、舎利弗、神足第一なるは、目揵連なり。此の二人は、仏法中に於いて大なるに、外法中に於いても、亦た大なり。富楼那、迦絺那、阿那律等は、仏法中に於いては、大なりと雖も、外法中に於いては如(し)かず。又此の二人は、常に大衆に在りて、仏を助けて揚化し、諸の外道を破るも、富楼那等の比丘には、是の功徳無ければ、是の故に説かず。
答え、
『一切の仏弟子』中に、
『智慧第一は、舎利弗であり!』、
『神足第一は、目揵連である!』。
此の、
『二人』は、
『仏法中にも、外法中にも!』、
『大である!』が、
『富楼那、迦絺那、阿那律』等は、
『仏法中には、大である!』が、
『外法』中には、
『及ばない!』。
又、
此の、
『二人』は、
常に、
『大衆中に在って!』、
『仏の揚化( Buddha's teaching )』を、
『助けながら!』、
諸の、
『外道』を、
『破ったのである!』が、
『富楼那等の比丘』には、
是の、
『功徳が無い!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『説かれなかったのである!』。
  富楼那(ふるな):また富楼那弥多羅尼子に作る。『大智度論巻33上注:富楼那弥多羅尼子』参照
  迦郗那(かちな):梵語kaThina、また迦絺那に作る、委細不詳。
  阿那律(あなりつ):また阿尼廬豆、阿[少/兔]楼駄に作る。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
  揚化(ようけ):引き揚げて化す。化導。
復次若說舍利弗則攝一切智慧人。若說目揵連則攝一切禪定人。 復た次ぎに、若し、舎利弗を説けば、則ち一切の智慧の人を摂し、若し、目揵連を説けば、則ち一切の禅定の人を摂す。
復た次ぎに、
若し、
『舎利弗を説けば!』、
『一切の智慧の人』を、
『摂することになり( to include  )!』、
若し、
『目揵連を説けば!』、
『一切の禅定の人』を、
『摂することになる!』。
譬喻有二種。一者假以為喻。二者實事為喻。今此名為假喻。所以不以餘物為喻者。以此四物叢生稠緻種類又多故。舍利弗目連等比丘滿閻浮提。如是諸阿羅漢智慧和合不及菩薩智慧百分之一。乃至算數譬喻所不能及。 譬喻には、二種有り、一には仮を以って、喻と為し、二には実事を喻と為す。今、此れは名づけて、仮の喻と為す。餘の物を以って、喻と為さざる所以(ゆえ)は、此の四物の叢生し、稠緻にして、種類も又多きを以っての故なり。舎利弗、目連等の比丘の閻浮提に満てるに、是の如き諸阿羅漢の智慧和合するも、菩薩の智慧の百分の一に及ばず、乃至算数、譬喻の及ぶ能わざる所なり。
『譬喻』には、
『二種有り!』、
一には、
『仮を用いて( using false things )!』、
『喻と為し( as a metaphor )!』、
二には、
『実事を用いて( using true things )!』、
『喩と為すのである!』が、
今の、
此れは、
『仮』の、
『喻である!』。
『餘の物を、喻と為さなかった!』のは、
此の、
『竹、麻、稲、茅の四物』は、
『叢生し( growing thickly )!』、
『稠緻であり( being dense )!』、
『種類が多いからである!』。
『舎利弗、目連等の比丘』が、
『閻浮提を満たし!』、
是のような、
『諸の智慧の和合すら!』、
『菩薩の智慧には!』、
『百分の一にも!』、
『及ばず!』、
乃至、
『算数や、譬喻にすら!』、
『及ぶことのできない所なのである!』。
問曰。何以不但說算數譬喻所不能及。而說百分千分不及一。 問うて曰く、何を以ってか、但だ、『算数、譬喻の及ぶ能わざる所なり』、と説かず、而も、『百分、千分の一にも及ばず』、と説く。
問い、
何故、
但だ、
『算数、譬喻の及ぶことのできない所である!』と、
『説かず!』、
而も、
『百分、千分の一にも及ばない!』と、
『説くのですか?』。
答曰。算數譬喻所不能及者是其極語。譬如人有重罪先以打縛楚毒然後乃殺。如聲聞法中常以十六不及一為喻。大乘法中則以乃至算數譬喻所不能及 答えて曰く、算数、譬喻の及ぶ能わざる所とは、是れ其の極語なればなり。譬えば人に重罪有れば、先に打、縛、楚毒を以ってし、然る後に乃ち殺すが如し。声聞法中の如きは、常に十六の一に及ばざるを以って、喻と為すも、大乗法中には、則ち乃至算数譬喻の及ぶ能わざる所を以ってすなり。
答え、
『算数、譬喻も、及ぶことのできない所である!』とは、
其の、
『事』の、
『極語だからである( be the utmost word )!』。
譬えば、
『人』に、
『重罪が有れば!』、
先に、
『打、縛、楚毒( wipping, binding, poison )』を、
『用いて!』、
その後に、
乃ち( at last )、
『殺すようなものである!』。
『声聞法』中などには、
常に、
『十六分の一に、及ばない!』ことを、
『喻と為す!』が、
『大乗法』中ならば、
乃至、
『算数、譬喻の及ぶことのできない所である!』ことを、
『喻と為すのである!』。



菩薩の智慧を、三千世界を満たす舎利弗等と比較する

【經】舍利弗。置閻浮提滿中如舍利弗目連等。若滿三千大千世界。如舍利弗目連等。復置是事。若滿十方如恒河沙等世界。如舍利弗目連等智慧。欲比菩薩行般若波羅蜜智慧。百分不及一。千分百千分乃至算數譬喻所不能及 舎利弗、閻浮提に満つる中の舎利弗、目連等の如きを置いて、若しは三千大千世界に舎利弗、目連等の如きを満てんに、復た是の事を置いて、若しは十方の恒河沙に等しきが如き世界に満てる、舎利弗、目連等の智慧の如き、菩薩の般若波羅蜜を行ずる智慧に比せんと欲すれば、百分の一に及ばず、千分、百千分、乃至算数、譬喻の及ぶ能わざる所なり。
舎利弗!
『閻浮提中に満ちる!』、
『舎利弗や、目連等など!』を、
『置いて!』、
若し、
『三千大千世界に!』、
『舎利弗や、目連等など!』が、
『満ちていたとしても!』、
復た、
是の、
『事』を、
『置いて!』、
若し、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』に、
『舎利弗や、目連等など!』を、
『満たしたとして!』、
是の、
『智慧』を、
『菩薩が、般若波羅蜜を行う智慧』に、
『比べようとすれば!』、
『菩薩の智慧』の、
『百分の一にも!』、
『及ばない!』。
是の、
『菩薩の智慧』は、
『千分、百千分、乃至算数、譬喻』の、
『及ぶことのできない所だからである!』。
【論】釋曰。此義同上閻浮提。但以多為異。 釈して曰く、此の義は、上の閻浮提に同じうして、但だ多きを以って、異と為す。
釈す、
此の、
『義』は、
『上の閻浮提』と、
『同じであり!』、
但だ、
『多さ!』が、
『異なるだけである!』。
問曰。舍利弗目連等雖多智慧無異。何以以多為喻。 問うて曰く、舎利弗、目連等は、多しと雖も、智慧には異無し。何を以ってか、多きを以って、喻と為す。
問い、
『舎利弗や、目連等が多くいた!』としても、
『智慧』には、
『異』が、
『無いのに!』、
何故、
『多さを用いて!』、
『喻と為したのですか?』。
答曰。有人謂少無力多則有力。譬如水少其力亦少。又如絕健之人少眾力寡不能制之。大軍攻之則伏。 答えて曰く、有る人の謂わく、『少ければ力無く、多ければ則ち力有り。譬えば、水少ければ、其の力も亦た少きが如し。又絶健の人は、少衆にして力寡(すくな)ければ、之を制す能わざるも、大軍之を攻むれば、則ち伏するが如し』、と。
答え、
有る人は、こう謂っている、――
『少ければ、力が無い!』が、
『多ければ!』、
『力』が、
『有るからである!』。
譬えば、
『水が、少ければ!』、
其の、
『力』も、
『少いようなものであり!』、
又、
『絶健の人』は、
『少衆で、力が寡ければ!』、
是の、
『人』を、
『制することができないが!』、
『大軍』が、
『攻めれば!』、
『伏する( to subdue )ことになるようなものである!』。
  絶健(ぜつごん):強健。
  少衆(しょうしゅ):少人数。
有人謂一舍利弗智慧少則不及菩薩多或能及。 有る人の謂わく、『一舎利弗の智慧も少ければ、則ち菩薩に及ばざるも、多ければ、或は能く及ばん』、と。
有る人は、こう謂っている、――
『一舎利弗の智慧でも!』、
『人数が、少ければ!』、
『菩薩』に、
『及ばない!』が、
『多ければ!』、
或は、
『及ぶことができるのだろう!』、と。
  参考:『思益梵天所問経巻4』:『迦葉。又如劫盡燒時諸小陂池江河泉源在前枯竭。然後大海乃當消盡。正法滅時亦復如是。諸行小道正法先盡。然後菩薩大海之心正法乃滅。迦葉。此諸菩薩寧失身命不捨正法。汝謂菩薩失正法耶。勿造斯觀。迦葉。如彼大海有金剛珠名集諸寶。乃至七日出時火至梵世。而此寶珠不燒不失。轉至他方大海之中。若是寶珠在此世界。世界燒者無有是處。此諸菩薩亦復如是。正法滅時七邪法出爾。乃至於他方世界。何等七。一者外道論。二者惡知識。三者邪用道法。四者互相惱亂。五者入邪見棘林。六者不修福德。七者無有得道。此七惡出時。是諸菩薩知諸眾生不可得度爾。乃至於他方佛國。不離見佛聞法。教化眾生增長善根。』
佛言雖多不及故以多為喻。如一切草木力不如火一切諸明勢不及日。亦如十方世界諸山不如一金剛珠。 仏の言わく、『多しと雖も、及ばざるが故に、多きを以って喻と為す』、と。一切の草木の力は、火に如かざるも、一切の諸明の勢も、日に及ばざるが如く、亦た十方の世界の諸山の、一金鋼珠に如かざるが如し。
『仏』は、こう言われたのである、――
『多くても、及ばない!』が故に、
『多さを用いて!』、
『喻と為したのである!』、と。
譬えば、
『一切の草木の力』は、
『火』に、
『及ばない!』が、
『一切の諸明の勢』も、
『日』には、
『及ばないようなものであり!』、
亦た、
『十方の世界の諸山』は、
『一金鋼珠』に、
『及ばないようなものである!』。
所以者何。菩薩智慧是一切諸佛法本。能令一切眾生離苦得樂。如迦陵毘伽鳥子雖未出㲉其音勝於眾鳥。何況出㲉。菩薩智慧亦如是。雖未出無明㲉勝一切聲聞辟支佛。何況成佛。 所以は何んとなれば、菩薩の智慧は、是れ一切の諸の仏法の本にして、能く一切の衆生をして、苦を離れ、楽を得しむればなり。迦陵毘伽鳥の子の如きは、未だ㲉を出でずと雖も、其の音は、衆鳥に勝る、何に況んや㲉を出づるをや。菩薩の智慧も亦た是の如く、未だ無明の㲉を出でずと雖も、一切の声聞、辟支仏に勝る、何に況んや仏と成るをや。
何故ならば、
『菩薩の智慧』は、
『一切の諸の仏法の本であり!』、
『一切の衆生』に、
『苦を離れさせ!』、
『楽を得させることができるからである!』。
譬えば、
『迦陵毘伽鳥の子』は、
『未だ、㲉を出ていなくても!』、
其の、
『音』は、
『衆鳥』に、
『勝るようなものであり!』、
況して、
『㲉を出れば!』、
『尚更である!』。
『菩薩の智慧』も、
是のように、
『未だ、無明の㲉を出ていなくても!』、
一切の、
『声聞、辟支仏』に、
『勝り!』、
況して、
『仏に成れば!』、
『言うまでもない!』。
又如轉輪聖王太子。雖未成就福祚威德勝於一切諸王。何況作轉輪聖王。菩薩亦如是。雖未成佛無量阿僧祇劫集無量智慧福德故。勝於聲聞辟支佛。何況成佛 又、転輪聖王の太子の如きは、未だ福祚を成就せざるも、威徳は一切の諸王に勝る。何に況んや転輪聖王に作るをや。菩薩も亦た是の如く、未だ仏と成らずと雖も、無量阿僧祇劫に集めし、無量の智慧と福徳の故に、声聞、辟支仏に勝る。何に況んや、仏と成るをや。
又、
『転輪聖王の太子など!』は、
『未だ、福祚を成就していなくても!』、
『威徳』は、
『一切の諸王』に、
『勝るのであり!』、
況して、
『転輪聖王に作れば!』、
『尚更である!』。
『菩薩』も、
是のように、
『未だ、仏と成っていなくても!』、
『無量阿僧祇劫に集めた!』、
『無量の智慧と福徳』の故に、
『声聞、辟支仏』に、
『勝るのであり!』、
況して、
『仏と成れば!』、
『言うまでもない!』。
  福祚(ふくそ):福禄の王座( the blessed throne )。



一日般若を修する智慧は、一切の二乗の上を過ぎる

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜一日修智慧。出過一切聲聞辟支佛上 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行じて、一日修する智慧は、一切の声聞、辟支仏の上に出でて、過ぐるなり。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『一日だけ!』、
『六波羅蜜を修めて、集めた!』、
『智慧であっても!』、
『一切の!』、
『声聞、辟支仏の上に出て!』、
『過ぎるのである!』。
  参考:『大般若経巻4』:『又舍利子。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。一切聲聞獨覺智慧不能及故』
【論】問曰。先已說除佛智慧過一切聲聞辟支佛上。今何以復重說。 問うて曰く、先に已に、『仏の智慧を除いて、一切の声聞、辟支仏の上を過ぐ』、と説けるに、今は、何を以ってか、復た重ねて説く。
問い、
先に已に、
『仏の智慧を除いて!』、
『一切の声聞、辟支仏の上を過ぎる!』と、
『説きながら!』、
今は、
何故、
『復た、重ねて!』、
『説くのですか?』。
答曰。非重說也。上總相說。今別相說。先言一切聲聞辟支佛不及菩薩智慧。今但明不及一日智慧。何況千萬歲 答えて曰く、重ねて説くに非ず。上には総相を説き、今は別相を説く。先には、『一切の声聞、辟支仏は、菩薩の智慧に及ばず』、と言い、今は、但だ、『一日の智慧にすら、及ばず。何に況んや千万歳をや』、と明せり。
答え、
『重ねて、説いたのではない!』。
上には、
『総相』を、
『説き!』、
今は、
『別相』を、
『説いたのえある!』。
先には、
『一切の声聞、辟支仏』は、
『菩薩の智慧に及ばない!』と、
『言っただけである!』が、
今は、但だ、
『一日の智慧にすら、及ばない!』のに、
『況して、千万歳は言うまでもない!』と、
『明かしたのである!』。



仏菩薩の智慧と二乗の智慧は、実に差別が無いのか?

【經】舍利弗白佛言。世尊。聲聞所有智慧。若須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛智慧佛智慧。是諸眾智無有差別。不相違背無生性空。若法不相違背無生性空。是法無有別異。云何世尊言。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜一日修智慧。出過聲聞辟支佛上 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、声聞所有の智慧、若しは須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏の智慧と、仏の智慧とは、是の諸の衆智に、差別有ること無く、無生の性空と相違背せず。若し法、無生の性空と相違背せざれば、是の法には、別異有ること無けん。云何が世尊は、『菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行じて、一日修する智慧は、声聞、辟支仏の上を出でて過ぐ』、と言える。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『声聞の有らゆる智慧や!』、
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏の智慧や!』、
『仏の智慧』は、
是の、
『諸の衆智には、差別が無く!』、
『無生の性空』と、
『相違背しません( be not contrary to each other )!』。
若し、
『法』が、
『無生の性空と!』、
『相違背しなければ!』、
是の、
『法』には、
『別異が無いのです!』。
何故、
『世尊』は、こう言われたのですか?――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『一日』、
『修めただけでも!』、
『智慧』は、
『声聞、辟支仏の上に出て!』、
『過ぎるのである!』、と。
  参考:『大般若経巻4』:『爾時舍利子白佛言。世尊。若聲聞乘預流一來不還阿羅漢智慧。若獨覺乘智慧。若菩薩摩訶薩智慧。若諸如來應正等覺智慧。是諸智慧。皆無差別。不相違背。無生無滅。自性皆空。若法無差別。不相違。無生滅。自性空。是法差別既不可得。云何世尊。說行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。一切聲聞獨覺智慧所不能及。』
【論】問曰。上佛已說菩薩摩訶薩修智慧出過聲聞辟支佛上。今舍利弗何以故問。 問うて曰く、上に、仏は已に説けり、『菩薩摩訶薩の修する智慧は、声聞、辟支仏の上を出でて過ぐ』、と。今、舎利弗は、何を以っての故にか、問える。
問い、
上に、
『仏』は、已に説かれた、――
『菩薩摩訶薩の修める智慧』は、
『声聞、辟支仏の上に出て!』、
『過ぎる!』、と。
今、
『舎利弗』は、
何故、
『菩薩の智慧』を、
『問うたのですか?』。
答曰。不問智慧勢力能度眾生。今但問佛及弟子智慧。體性法中無有差別者。以諸賢聖智慧皆是諸法實相慧。皆是四諦及三十七品慧。皆是出三界入三脫門成三乘果慧。以是故說無有差別。 答えて曰く、智慧の勢力の能く衆生を度するを問わず。今は、但だ、『仏、及び弟子の智慧は、体性の法中に、差別有ること無き者なりや』、と問う。諸賢聖の智慧は、皆是れ諸法の実相の慧なるを以って、皆是れ四諦、及び三十七品の慧にして、皆是れ三界を出でて、三脱門に入り、三乗の果を成ずる慧なれば、是を以っての故に、『差別有ること無し』、と説けり。
答え、
『智慧の勢力』が、
『衆生を度することができるのか?』と、
『問うたのではなく!』、
今は、但だ、こう問うたのである、――
『仏の智慧と、弟子の智慧』とは、
『体性という法』中には、
『差別』が、
『無いのか?』、と。
『諸賢聖の智慧』は、
皆、
『諸法の実相という!』、
『慧である!』が故に、
皆、
『四諦や、三十七品という!』、
『慧であり!』、
皆、
『三界を出て、三解脱門に入り、三乗の果を成ずる!』、
『慧なのである!』。
是の故に、
『差別が無い!』と、
『説かれたのである!』、と。
  体性(たいしょう):梵語 svabhaava の訳、固有の財産( own property )の義、本性( nature )の意。
復次如須陀洹以無漏智滅結得果。乃至佛亦如是。如須陀洹用二種解脫果。有為解脫無為解脫。乃至佛亦如是。如佛入涅槃。須陀洹極遲不過七世。皆同事同緣同行同果報。以是故言無相違背。所以者何。不生性空故。 復た次ぎに、須陀洹の無漏の智を以って、結を滅し、果を得るが如く、乃至仏も亦た是の如し。須陀洹の二種の解脱の果の有為解脱と、無為解脱を用うるが如く、乃至仏も亦た是の如し。仏の涅槃に入りたもうが如く、須陀洹の極遅きも、七世を過ぎずして、皆同事、同縁、同行、同果報なれば、是を以っての故に、『相違背すること無し。所以は何んとなれば、不生にして性空なるが故なり』、と言う。
復た次ぎに、
『須陀洹』が、
『無漏の智を用い!』、
『諸結を滅して!』、
『果を得るように!』、
乃至、
『仏』も、
『是の通りであり!』、
『須陀洹』が、
『二種の解脱の果である!』、
『有為解脱と、無為解脱』を、
『用いるように!』、
乃至、
『仏』も、
『是の通りである!』。
『仏』が、
『涅槃に入られるように!』、
『須陀洹も極めて遅い者でも、七世を過ぎずして!』、
『涅槃』に、
『入るのであり!』、
皆、
『事、縁、行、結果( purpose, cause, practice, result )』が、
『同じである!』。
是の故に、こう言うのである、――
『違背することは無い!』。
何故ならば、
『不生であり!』、
『性空だからである!』、と。
問曰。破無明集諸善法故生智慧。是智慧心相應心共生隨心行。是中云何說智慧無生性空無有別異。 問うて曰く、無明を破りて、諸の善法を集むるが故に、智慧を生ず。是の智慧は、心相応、心共生、随心行なるに、是の中には、云何が、『智慧は無生の性空なれば、別異有ること無し』、と説く。
問い、
『無明を破って!』、
『諸の善法を集める!』が故に、
『智慧』を、
『生じるのであり!』、
是の、
『智慧』は、
『心相応、心共生であり!』、
『随心の行である( thinking that is according to mind )!』。
是の中には、
何故、こう説くのですか?――
『智慧は、無生の性空であり!』
『別異が!』が、
『無い!』、と。
  随心(ずいしん):梵語 citta-anuvartin, -anuvRtti の訳、心法に随う( following mind )の義。
答曰。智慧緣滅諦是不生。因緣和合故無有自性。是名性空。無所分別智慧隨緣得名。如眼緣色生眼識。或名眼識或名色識。智慧雖因緣和合作法。以緣無生性空故名為無生性空。 答えて曰く、智慧もて滅諦を縁ずれば、是れ不生の因縁和合するが故に、自性有ること無し。是れを性空と名づけ、分別する所無し。智慧の縁に随うて名を得ること、眼の色を縁じて、眼識を生ずるに、或は眼識と名づけ、或は色識と名づくるが如し。智慧は因縁和合の作法なりと雖も、無生の性空を縁ずるを以っての故に、名づけて無生の性空と為す。
答え、
『智慧』が、
『滅諦を縁じれば!』、
是れは、
『不生の為めの!』、
『因縁が!』が、
『和合したことになる!』ので、
是の故に、
『自性』が、
『無くなる!』ので、
是の、
『智慧』を、
『性空』と、
『称して!』、
是の中には、
『分別する!』所が、
『無い!』。
『智慧』は、
『縁に随って( according to the objects )!』、
『名』を、
『得ることになり!』、
例えば、
『眼』が、
『色を縁じて!』、
『眼識』を、
『生じる!』と、
是の、
『識( =智慧)』を、
『眼識とか、色識と!』、
『呼ぶようなものである!』が、
『智慧』は、
『因縁和合の作法であり!
a created thing according to the union of causes and conditions )』、
『無生の性空を縁じる!』が故に、
『無生の性空』と、
『呼ばれるのである!』。
  因縁和合(いんねんわごう):梵語 hetupratyaya-saamagrii, -saMgRhiita, -saamagrya の訳、諸因と諸縁の結合体( union of causes and conditions )の義。
問曰。諸賢聖智慧皆緣四諦生。何以但說滅諦。 問うて曰く、諸賢聖の智慧は、皆四諦を縁じて生ずるに、何を以ってか、但だ滅諦を説く。
問い、
『諸賢聖の智慧』は、
皆、
『四諦を縁じて!』、
『生じる!』のに、
何故、
『但だ、滅諦だけ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。四諦中滅諦為上。所以者何。是三諦皆屬滅諦故。譬如人請天子併及群臣亦名供養天子。 答えて曰く、四諦中に滅諦を上と為せばなり。所以は何んとなれば、是の三諦は、皆滅諦に属するが故なり。譬えば、人、天子を請じ、併(なら)びに群臣に及ぶも、亦た天子を供養すと名づくるが如し。
答え、
『四諦』中には、
『滅諦』を、
『上とするからである!』。
何故ならば、
是の、
『三諦は、皆!』、
『滅諦』に、
『属するからである!』。
譬えば、
『人』が、
『天子( the emperor )を請じ!』、
併びに( and )、
『群臣を請じる!』に、
『及んでも!』、
亦た( also )、
『天子を供養する!』と、
『称するようなものである!』。
  天子(てんし):◯皇帝/神の子( emperor,the son of God )。◯梵語 devataa の訳、神格/神性/神性を有する 即ち神と共にある 又は神々の中に雑る( godhead, divinity, with divinity id est with a god (gods) or among the gods )の義、仏教の経典に於いては、下級の神( In Buddhist sūtras, the lowest level of gods )の意。
復次滅諦故說無生。三諦故說性空。 復た次ぎに、滅諦の故に、無生を説き、三諦の故に性空を説く。
復た次ぎに、
『滅諦』の故に、
『無生である!』と、
『説き!』、
『三諦』の故に、
『性空である!』と、
『説いたのである!』。
復次有人言是諸智慧性自然不生性自空。所以者何。一切法皆因緣和合故無自性。無自性故不生。 復た次ぎに、有る人の言わく、『是の諸の智慧の性は、自然、不生にして、性は自ら空なり。所以は何んとなれば、一切の法は、皆因縁和合の故に、自性無く、自性無きが故に不生なればなり』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
是の、
『諸の智慧(四諦を知る智慧)の性』は、
『自然・不生であり( be natural and non-created )!』、
『性( the nature )』は、
『自ら空である( is naturally empty )!』。
何故ならば、
『一切の法』は、
『皆、因縁の和合である!』が故に、
『自性』が、
『無く!』、
『自性が無い!』が故に、
『法』が、
『不生なのである!』、と。
問曰。若爾者智慧愚癡無有別異。 問うて曰く、若し爾らば、智慧と愚癡とは別異有ること無けん。
問い、
若し、爾うならば、
『智慧と、愚癡とには!』、
『別異』が、
『無いのですか?』。
答曰。諸法如入法性中無有別異。如火各各不同而滅相無異。 答えて曰く、諸法の如は、法性中に入れば、別異有ること無し。火は、各各不同なるも、滅相に異無きが如し。
答え、
『諸法の如』は、
『法性中に入れば!』、
『別異』が、
『無いからである!』。
譬えば、
『火』は、
『各各の相が!』、
『同じでなくても!』、
『火』の、
『滅相』には、
『異が無いようなものである!』。
譬如眾川萬流各各異色異味。入於大海同為一味一名。如是愚癡智慧入於般若波羅蜜中。皆同一味無有差別。如五色近須彌山自失其色皆同金色。如是內外諸法入般若波羅蜜中皆為一味。何以故。般若波羅蜜相畢竟清淨故。 譬えば、衆川、万流は各各色を異にし、味を異にするも、大海に入れば、同じく一味、一名と為るが如し。是の如く、愚癡と智慧とは、般若波羅蜜中に入れば、皆同一の味にして、差別有ること無し。五色の、須弥山に近づけば、自ら其の色を失いて、皆金色に同ずるが如く、是の如く内外の諸法も、般若波羅蜜中に入れば、皆一味と為る。何を以っての故に、般若波羅蜜の相は、畢竟じて清浄なるが故なり。
譬えば、
『衆川、万流』は、
各各、
『色や、味が!』、
『異なっていても!』、
『大海に入れば!』、
『同じく!』、
『一味、一名と為るように!』、
是のように、
『愚癡、智慧』も、
『般若波羅蜜中に入れば!』、
皆、
『同一の味となって!』、
『差別が無くなるのである!』。
譬えば、
『五色』が、
『須弥山に近づけば!』、
『自ら!』、
『色を失って!』、
皆、
『同じく!』、
『金色となるように!』、
是のように、
『内、外の諸法』も、
『般若波羅蜜中に入れば!』、
皆、
『一味と為る!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜の相』は、
『畢竟じて!』、
『清浄だからである!』。
復次愚癡實相即是智慧。若分別著此智慧即是愚癡。如是愚癡智慧有何別異。初入佛法是癡是慧。轉後深入癡慧無異。以是故是諸眾智無有別異。不相違背。不生性空故無咎 復た次ぎに、愚癡の実相は、即ち是れ智慧なり。若し分別して、此の智慧に著すれば、即ち、是れ愚癡なり。是の如き愚癡と智慧とに、何なる別異か有らんや。初めて仏法に入れば、是れ癡、是れ慧なるも、転た後に深く入れば、癡と慧とに異無し。是を以っての故に、是の諸の衆智には、別異有ること無く、相違背せず、不生、性空なるが故に咎無し。
復た次ぎに、
『愚癡の実相』とは、
即ち、
『智慧であり!』、
若し、
『分別して!』
此の、
『智慧に!』、
『著すれば!』、
即ち、
是れが、
『愚癡なのである!』。
是のような、
『愚癡と、智慧とに!』、
何のような、
『別異』が、
『有るのか?』。
初めて、
『仏法に入れば!』、
『是れは癡である!』とか、
『是れは慧である!』と、
『知ることになる!』が、
転た( gradually )、
『知った後に!』、
『深く入れば( to understand the truth profoundly )!』、
『癡と、慧とには!』、
『異が無くなる!』ので、
是の故に、
是の、
『諸の衆智には、別異が無く!』、
『相違背せず!』、
『不生の性空である!』が故に、
『愚癡と智慧とに別異が無くても!』、
『咎は無い!』。



般若を行じて得る智慧は、一切の衆生を度する為

【經】佛告舍利弗。於汝意云何。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜一日修智慧。心念我行道慧益一切眾生。當以一切種智知一切法度一切眾生。諸聲聞辟支佛智慧為有是事不。舍利弗言。不也世尊 仏の舎利弗に告げたまわく、『汝が、意に於いて云何。菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずれば、一日智慧を修するに、心には、『我が行道の慧は、一切の衆生を益すれば、当に、一切種智を以って、一切法を知り、一切の衆生を度すべし』、と念ぜん。諸の声聞、辟支仏の智慧に、是の事有りと為すや、不や』、と。舎利弗の言わく、『不なり、世尊』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
お前の、
『意』には、何うなのか?――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
一日だけ、
『智慧』を、
『修めたとしても!』、
『心』には、こう念じるだろう、――
わたしが、
『道を行えば!』、
『集めた智慧』は、
『一切の衆生』を、
『益することになり!』、
『一切種智を用いて!』、
『一切の法を知り!』、
『一切の衆生』を、
『度することになろう!』、と。
『諸の声聞、辟支仏』にも、
是の、
『事』は、
『有るだろうか?』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
是の、
『事は有りません!』、
世尊!、と。
  参考:『大般若経巻4』:『佛告具壽舍利子言。舍利子。於意云何。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。所成勝事。一切聲聞獨覺智慧有此事不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。又舍利子。於意云何。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。作是念言。我當修行一切相微妙智。一切智。道相智。一切相智。利益安樂一切有情。彼於一切法覺一切相已。方便安立一切有情於無餘依般涅槃界。一切聲聞獨覺智慧有此事不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。又舍利子。於意云何。一切聲聞獨覺頗能作是念。我當證得無上正等菩提。方便安立一切有情於無餘依涅槃界不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。又舍利子。於意云何。一切聲聞獨覺頗能作是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。我當修行殊勝四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。我當修行殊勝四靜慮。四無量。四無色定。我當修行殊勝八解脫。八勝處。九次第定。十遍處。我當修行殊勝空無相無願解脫門。我當安住內空。外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空。我當安住真如。法界。法性。不虛妄性。不變異性。平等性。離生性。法定。法住。實際。虛空界。不思議界。我當安住殊勝苦集滅道聖諦。我當修行一切陀羅尼門三摩地門。我當修行極喜地。離垢地。發光地。焰慧地。極難勝地。現前地。遠行地。不動地。善慧地。法雲地。我當圓滿菩薩神通成熟有情嚴淨佛土。我當圓滿五眼六神通。我當圓滿佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲大喜大捨。十八佛不共法。我當圓滿三十二大士相八十隨好。我當圓滿無忘失法恒住捨性。我當圓滿一切智道相智一切相智。永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依涅槃界不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。佛言。舍利子。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩皆作是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。乃至我當永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依般涅槃界。舍利子。譬如螢火無如是念。我光能照遍贍部洲普令大明。如是一切聲聞獨覺無如是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。乃至我當永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依般涅槃界。舍利子。譬如日輪光明熾盛。照贍部洲無不周遍。如是修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩常作是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。乃至我當永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依般涅槃界。以是故。舍利子。當知一切聲聞獨覺所有智慧。比行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩於一日中所修智慧。百分不及一。千分不及一。百千分不及一。俱胝分不及一。百俱胝分不及一。千俱胝分不及一。百千俱胝分不及一。數分算分計分喻分乃至鄔波尼殺曇分亦不及一』
【論】釋曰。有四種論。一者必定論。二者分別論。三者反問論。四者置論。 釈して曰く、四種の論有り、一には必定論、二には分別論、三には反問論、四には置論なり。
釈す、
『論』には、
『四種有る!』、――
一には、
『必定して、論じる!』、
二には、
『分別して、論じる!』、
三には、
『問を反して、論じる!』、
四には、
『論を、置く!』。
  四種答(ししゅとう):論議に於ける四種の答( four kinds of responses )。梵語 caturdhaa vyaakaraNam の訳、また四記、四答等とも称す。疑問を取り扱う仏の四種の方法( The Buddhaʼs four methods of dealing with questions  )、即ち、
  1. 一向記/随門答(梵語 ekaaMza- vyaakaraNa ):率直に答える( direct answer )、問いに随って答える( answer according to the question )、
  2. 分別記/分別答(梵語 vibhajya- vyaakaraNa ):分別して答える( discriminating answer )、分析的に答える( analytic answer )、
  3. 反詰記/反問答(梵語 paripRcchaa- vyaakaraNa ):反って問う( questioning in return )、
  4. 捨置記/置答(梵語 sthaapaniiya- vyaakaraNa ):沈黙( silence )。
  四記(しき):梵語catvaari prazna-vyaakaraNaaniの訳。四種の記の意。また四記論、四答、四種答、四種記答とも訳す。質問に対する返答に四種の別あるを云う。一に一向記ekaaMza-vyaakaraNa、二に分別記vibhajya-v.、三に反詰記paripRcchaa-v.、四に捨置記sthaapaniiya-v.なり。一向記をまた定答、直答、一定答、決定答、決了答、必定論、一向論、一向記論、決定記論、応一向記とも称し、分別記をまた解答、分別答、解義答、分別論、分別義答、分別記論、応分別記とも称し、反詰記をまた詰答、詰論、反問記、反問答、反問論、反質答、返問記、随問答、詰問論、詰問記論、応反詰記とも称し、捨置記をまた置答、置論、止論、黙置記、黙然記、止記論、止住記論、応捨置記とも称す。「長阿含巻8衆集経」に、「復た四法あり、謂わく四記論なり。決定記論、分別記論、詰問記論、止住記論なり」と云い、「大智度論巻26」に、「仏に四種答あり、一は定答、二は分別義答、三は反問答、四は置答なり」と云い、「倶舎論巻19」に、「且らく問の四とは、一は応に一向に記すべし、二は応に分別して記すべし、三は応に反詰して記すべし、四は応に捨置して記すべし」と云えるこれなり。此の中、一向記とは問に対して直に之を肯定するを云い、分別記とは問を分析解剖して一一之に答うるを云い、反詰記とは反問して問意の那点に在るかを質し、而して後之に答うるを云い、捨置記とは問其の意を成さざるが故に記すべきに非ずと答うるを云うなり。また此の四記に対し、問者の問を応一向記問、応分別記問、応反詰記問、応捨置記問と云い、総じて之を四記と称するなり。「倶舎論巻19」に其の例を出し「記に四ありとは、謂わく四問を答う。若し是の問を作す、一切有情は皆当に死すべきや不やと。応に一向に記すべし、一切有情は皆定んで当に死すべしと。若し是の問を作す、一切の死する者は皆当に生ずべきや不やと。応に分別して記すべし、煩悩ある者は当に生ずべし、余には非ずと。若し是の問を作す、人は勝とせんや劣とせんやと。応に反詰して記すべし、何れに方ぶる所と為すか、若し天に方ぶと言わば、応に人は劣なりと記すべし。若し下に方ぶと言わば、応に人は勝なりと記すべし。若し是の問を作す、蘊と有情とは一とせんや異とせんやと。応に捨置して記すべし、有情は実なきが故に一異の性成ぜず。石女の児の白黒等の性の如し。如何が捨置するに而も記の名を立つる、彼の問を記して此れ記すべからずと言うを以っての故なり。(中略)今契経に依りて問記の相を辯ぜば、大衆部の契経の中に言うが如し、苾芻当に知るべし、問記に四あり。何等をか四と為す、謂わく或は問うことあり応に一向に記すべし、乃至問うことあり但だ応に捨置すべし。如何が問うことあらんに応に一向に記すべき、謂わく諸行は皆無常なりやと問う。此の問を名づけて応に一向に記すべしと為す。如何が問うことあらんに応に分別して記すべき、謂わく若し問うことあり、諸の故思することありて業を造作し已りて何の果を受くとせんやと、此の問を名づけて応分別記と為す。云何が問うことあらんに、応に反詰して記すべき、謂わく若し問うことあり、士夫の想と我と一とやせん異とやせんと。応に反詰して言うべし、汝何の我に依りて是の如きの問を作すやと。若し麁我に依ると言わば応に想と異なりと記すべし。この問を名づけて応反詰記と為す。云何が問うことあらんに、但だ捨置すべき、謂わく、若し問うことあり、世は常とやせん、無常とやせん、亦常亦無常とやせん、非常非無常とやせん。世は有辺とやせん、無辺とやせん、亦有辺亦無辺とやせん、非有辺非無辺とやせん、如来は死後有とやせん、非有とやせん、亦有亦非有とやせん、非有非非有とやせん。命者は身に即すとやせん、命者は身に異なるとやせんと。此の問を名づけて但だ捨置すべしと為す」と云えり。以って其の趣旨を見るべし。但し「大毘婆沙論巻15」に出す所の説は之と稍異あり。また「中阿含巻29説処経、巻6箭喩経」、「大集法門経巻上」、「入楞伽経巻4」、「解深密経巻5」、「集異門足論巻8」、「雑阿毘曇心論巻1」、「大智度論巻22、巻35」、「十住毘婆沙論巻11」、「成実論巻2」、「瑜伽師地論巻14、巻81」、「顕揚聖教論巻12」、「順正理論巻49」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻26」、「仏地経論巻6」、「倶舎論光記巻19」、「瑜伽論記巻5上」、「大乗法苑義林巻7本」等に出づ。<(望)
必定論者。如眾生中世尊為第一。一切法中無我世間不可樂。涅槃為安隱寂滅業因緣不失。如是等名為必定論。 必定論とは、衆生中に世尊を、第一と為し、一切法中に我無く、世間は楽しむべからず、涅槃を安隠寂滅と為し、業因緣は失われざるが如し。是れ等の如きを、名づけて必定論と為す。
『必定論』とは、
例えば、
『衆生』中には、
『世尊』が、
『第一である!』。
『一切法』中に、
『我』は、
『無い!』。
『世間』を、
『楽しむことはできない!』。
『涅槃』は、
『安隠であり!』、
『寂滅である!』。
『業』の、
『因縁』が、
『失われることはない!』。
是れ等を、
『必定論』と、
『称するのである!』。
分別論者。如無畏太子問佛。佛能說是語令他人瞋不。佛言。是事當分別答。太子言。諸尼健子輩了矣。佛或時憐愍心故出眾生於罪中。而眾生瞋。然眾生後當得利。 分別論とは、無畏太子の仏に問えるが如し、『仏は、能く是の語を説いて、他人をして、瞋らしむや、不や』、と。仏の言わく、『是の事は、当に分別して答うべし』、と。太子の言わく、『諸の尼健子の輩は了せんや。仏は、或は時に憐愍心の故に衆生を、罪中より出したまえば、、而も衆生瞋るも、然るに衆生は後に当に利を得べし』、と。
『分別論』とは、
例えば、
『無畏太子』が、
『仏』に、こう問うたようなものである、――
『仏』は、
『他人を、瞋らせても!』、
是の、
『語( thus words )』を、
『説くことができますか( can talk )?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『事』は、
『分別して!』、
『答えねばならない!』、と。
『太子』は、こう言った、――
『諸の尼健子の輩には、了りますかな?』、――
『仏』は、
或は時に、
『憐愍心』の故に、
『衆生を、罪中より出して!』、
『衆生』を、
『瞋らせられる!』が、
然し( but )、
『衆生』は、
『後になれば!』、
『利』を、
『得ることになるのを!』、と。
  無畏太子(むいたいし):王舎城頻婆娑羅王の子、阿闍世王の弟。元と尼乾子外道の施主たりしが、後には仏の施主と為れるが如し。
  尼健子(にけんし):具さに梵語尼乾陀若提子nirgranthajJaati-putraに作り、また尼乾子、尼揵子等に作る。六師外道の一。苦行を修むるを以って世間の衣食の束縛を離れ、煩悩の結と三界の繋縛を遠離することを期するが故に、倮形を旨とすれば、倮形梵志の異名あり。『大智度論巻3上注:六師外道』参照。
  (ご):<動詞>[本義]談論/議論/辯論( discuss, talk about, argue, debate )。話す/説く/言う( speak, say, talk )、鳥獣の叫び/鳴き声( cry, chirp, roar )、告知/通知する( inform, tell )。<名詞>話す言葉( spoken language, word )、慣用語/成句/ことわざ/格言( idiom, set phrase, proverb, saying )、言葉( word )、言語( language )。
  (い):かな!/や?。<助辞>文末に置いて、種種の語気を表示する、[事の完了せるを表示する]かな/もう( already )。[肯定的語気を表示する]かな/まったく( indeed )。[必然の語気を表示する]かな/ほんとうに( really )。[感嘆を表示する]かな/なんと( how )。[疑問の語気を表示する]や/なのか( why, how )。[命令の語気を表示する]べし/せよ。[語句の結束せるを表示する]かな/のみ/であった。
  参考:『長阿含巻18沙門果経』:『如是我聞。一時。佛在羅閱祇耆舊童子菴婆園中。與大比丘眾千二百五十人俱。爾時。王阿闍世韋提希子以十五日月滿時。命一夫人而告之曰。今夜清明。與晝無異。當何所為作。夫人白王言。今十五日夜月滿時。與晝無異。宜沐髮澡浴。與諸婇女五欲自娛。時。王又命第一太子優耶婆陀而告之曰。今夜月十五日月滿時。與晝無異。當何所施作。太子白王言。今夜十五日月滿時。與晝無異。宜集四兵。與共謀議伐於邊逆。然後還此共相娛樂。時。王又命勇健大將而告之曰。今十五日月滿時。其夜清明。與晝無異。當何所為作。大將白言。今夜清明。與晝無異。宜集四兵。案所天下。知有逆順。時。王又命雨舍婆羅門而告之曰。今十五日月滿時。其夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。時。雨舍白言。今夜清明。與晝無異。有不蘭迦葉於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海多所容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命雨舍弟須尼陀而告之曰。今夜清明。與晝無異。宜詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。須尼陀白言。今夜清明。與晝無異。有末伽梨瞿舍利於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命典作大臣而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。典作大臣白言。有阿耆多翅舍欽婆羅於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命伽羅守門將而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。伽羅守門將白言。有婆浮陀伽旃那於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命優陀夷漫提子而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。優陀夷白言。有散若夷毘羅梨沸於大眾中而為導首。多所知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命弟無畏而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。弟無畏白言。有尼乾子於大眾中而為導首。多所知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命壽命童子而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所開悟我心。壽命童子白言。有佛.世尊今在我菴婆園中。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心必開悟。王飭壽命言。嚴我所乘寶象及餘五百白象。耆舊受教。即嚴王象及五百象訖。白王言。嚴駕已備。唯願知時。阿闍世王自乘寶象。使五百夫人乘五百牝象。手各執炬。現王威嚴。出羅閱祇。欲詣佛所。小行進路。‥‥』
爾時無畏之子坐其膝上。佛問無畏。汝子或時吞諸瓦石草木汝聽咽不。答言。不聽。先教令吐。若不肯吐左手捉耳右手擿口。縱令血出亦不置之。 爾の時、無畏の子、其の膝上に坐するに、仏の無畏に問いたまわく、『汝が子は、或は時に、諸の瓦石、草木を呑まん。汝は咽(の)むを聴(ゆる)すや不や』、と。答えて言わく、『聴さず。先に教えて吐かしむ。若し肯て吐かざれば、左手に耳を捉えて、右手に口を摘まみ、縦令(たとい)血出づるとも、亦た之を置かず』、と。
爾の時、
『無畏の子』が、
『無畏の膝上』に、
『坐る!』と、
『仏』は、
『無畏』に、こう問うた、――
お前の、
『子』が、
或は時に、
諸の、
『瓦石や、草木を!』、
『呑むかもしれない!』が、
お前は、
『咽みこむ( to swallow )のを!』、
『聴す( to admit )のか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
聴さない!
先に、
『教えて!』、
『吐かせる!』が、
若し、
『吐こうとしなければ!』、
『左手に、耳を捉り!』、
『右手に、口を摘まんで!』、
縦令( even if )、
『血が出ようと!』、
『置くことはない!』、と。
佛言。汝不愍之耶。答言。愍之深故為出瓦石。雖當時痛後得安隱。佛言。我亦如是。若眾生欲作重罪。善教不從以苦言諫之。雖起瞋恚後得安隱。 仏の言わく、『汝は、之を愍れまずや』、と。答えて言わく、『之を愍れむこと深きが故に、瓦石を出さしむれば、時に当りて、痛むと雖も、後に安隠を得ればなり』、と。仏の言わく、『我れも亦た是の如し。若し衆生、重罪を作さんと欲せば、能く教えて、従わざれば、苦言を以って、之を諌むれば、瞋恚を起すと雖も、後に安隠を得ればなり』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前は、
『子』を、
『愍れまないのか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
『子を愍れむのが、深い!』が故に、
『瓦石』を、
『出させれば!』、
『瓦石を出す時、痛んでも!』、
『後には!』、
『安隠を得るからである!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
わたしも、
『是の通りである!』、
若し、
『衆生が、重罪を作ろうとすれば!』、
『善く!』、
『教え!』、
『衆生が、従わなければ!』、
『苦言を用いて!』、
『衆生を諫めるのである!』。
『瞋恚を起したとしても!』、
『後には!』、
『安隠を得るからである!』、と。
又如五比丘問佛受樂得道耶。佛言。不必定。有受苦得罪受苦得樂。有受樂得罪受樂得福。如是等名為分別論。 又、五比丘の仏に問えるが如し、『楽を受けて、道を得んや』、と。仏の言わく、『必ずしも定まらず。有るいは苦を受けて罪を得、苦を受けて楽を得。有るいは楽を受けて罪を得、楽を受けて福を得』、と。是れ等の如きを名づけて、分別論と為す。
又、
『五比丘』が、
『仏』に、こう問うたようなものである、――
『楽を受けて!』、
『道』を、
『得るのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『必ずしも、定まるものではない!』、――
有るいは、
『苦を受けて!』、
『罪』を、
『得たり!』、
『苦を受けて!』、
『楽』を、
『得るのであり!』、
有るいは、
『楽を受けて!』、
『罪』を、
『得たり!』、
『楽を受けて!』、
『福』を、
『得るのである!』、と。
是れ等を、
『分別論』と、
『称するのである!』。
反問論者。還以所問答之。如佛告比丘。於汝意云何。是色常耶無常耶。比丘言。無常。若無常是苦不。答言苦。若法是無常苦聞法聖弟子著是法。言是法是我是我所不。答曰。不也世尊。 反問論とは、還って、所問を以って、之に答う。仏の比丘に告げたもうが如し、『汝が、意に於いて云何。是の色は常なりや、無常なりや』、と。比丘の言わく、『無常なり』、と。『若し無常なれば、是れ苦なりや不や』。答えて言わく、『苦なり』、と。『若し法にして、是れ無常、苦なれば、聞法の聖弟子は、是の法に著して、『是れ法なり』、『是れ我なり』、『是れ我所なり』、と言うや不や』。答えて曰わく、『不なり、世尊』、と。
『反問論』とは、
『所問を還して( returning his question )!』、
『之に答える( to answer to him )ことである!』。
例えば、
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
お前の、
『意』には、何うなのか?――
是の、
『色』は、
『常なのか、無常なのか?』、と。
『比丘』は、こう言った、――
是れは、
『無常です!』、と。
――
若し、
『無常ならば!』、
是れは、
『苦なのか?』。
答えて、こう言った、――
是れは、
『苦です!』、と。
――
若し、
『法』が、
『無常であり!』、
『苦ならば!』、
『法を聞く聖弟子』は、
是の、
『法』に、
『著して!』、
こう言うだろうか?――
『是れは、法である!』とか、
『是れは、我である!』とか、
『是れは、我所である!』、と。
答えて、こう言った、――
『言いません!』、
世尊!と。
  (げん):<副詞>[行為/動作/状況の変らざるを表示する]また/まだ( still, yet )、更に/加えて( even more )、同様に( as well )、もまた( also )、かなり/相当に( fairly )、尚且つ( even )、[予想を超えるを讃歎する語気を表示する]還って/予想外に/にもかかわらず( notwithstanding )、[反問に用いる]なぜ( why )。<動詞>帰還する( come back, go back, return )、振り向く( turn around, turn round )、回復/復元する( recover, restore )、来る/到る( come, arrive )、返還する( give back, return )、返済する/報酬する( repey, pay back )、報いる/反撃する( repay, fight back )、引き戻す/退却する( draw back, fall back )。
佛告比丘。從今已後所有色。若過去若未來若現在。若內若外。若好若醜。是色非我所。我非此色所。如是應以正實智慧知。受想行識亦如是。如是等名反問論。 仏の比丘に告げたまわく、『今より已後、有らゆる色の若しは過去、若しは未来、若しは現在、若しは内、若しは外、若しは好、若しは醜なるも、是の色は我所に非ず。我は此の色の所に非ず。是の如く、応に正実の智慧を以って知るべし。受想行識も亦た是の如し』、と。是れ等の如きを、反問論と名づく。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
今より已後、
有らゆる、
『色』は、
『過去であろうが、未来であろうが、現在であろうが!』、
『内であろうが、外であろうが!』、
『好であろうが、醜であろうが!』
是の、
『色』は、
『我所でなく( does not belong to self )!』、
是の、
『我』は、
『色所でない( does not belong to what is  having form )!』と、
是のように、
『正実の( with right conversation )!』、
『智慧を用いて!』、
『知らねばならない!』。
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』、と。
是れ等を、
『反問論』と、
『称する!』。
  正実(しょうじつ):梵語 samyag-aalaapana の訳、正しい言論( right conversation )の義。
置論者。如十四難。世間有常世間無常。世間有邊世間無邊。如是等是名為置論。 置論とは、十四難の如き、世間の有常、世間の無常、世間の有辺、世間の無辺は、是れ等の如き、是れを名づけて置論と為す。
『置論』とは、
例えば、
『十四難のような!』、
『世間は有常か、無常か?』、
『世間は有辺か、無辺か?』であり、
是れ等を、
『置論』と、
『称する!』。
今佛以反問論答舍利弗。以舍利弗智於事未悟。佛反問事端令其得解。 今、仏の反問論を以って、舎利弗に答えたもうは、舎利弗の智は、事に於いて、未だ悟らざるを以って、仏は事端を反問し、其れをして解を得せしめたまえり。
今、
『仏』が、
『反問論を用いて!』、
『舎利弗』に、
『答えられた!』のは、
『舎利弗の智慧を用いては!』、
『事』を、
『未だ、悟ることができないからであり!』、
『仏』は、
『事端を反問して!
returning the question of the beggining of the matter )』、
『舎利弗に!』、
『理解させられたのである!』。
菩薩度眾生智慧名為道慧。如後品中說。薩婆若慧是聲聞辟支佛事。一切種智慧是諸佛事。道種慧是菩薩事。 菩薩の衆生を度する智慧を、名づけて道慧と為す。後品中に説くが如く、薩婆若の慧は、是れ声聞、辟支仏の事なり。一切種智の慧は、是れ諸仏の事なり。道種の慧は、是れ菩薩の事なり。
『菩薩が、衆生を度する!』、
『智慧』を、
『道の慧』と、
『称する!』。
後の、
『品』中に、説くように、――
『薩婆若という!』、
『慧』は、
『声聞、辟支仏の事であり!』、
『一切種智という!』、
『慧』は、
『諸仏の事であり!』、
『道種という!』、
『慧』は、
『菩薩の事である!』。
  薩婆若(さばにゃ):梵語sarvajJa、一切智と訳す。『大智度論巻11上注:薩婆若』参照。
復次八聖道分為實道。令眾生種種因緣入道。是名道慧。令眾生住於道中。是為利益。聲聞種辟支佛種佛種。 復た次ぎに、八聖道分を、実の道と為し、衆生をして、種種の因縁もて、道に入らしむるは、是れを道の慧と名づけ、衆生をして、道中に住せしむるは、是れを利益と為し、声聞の種、辟支仏の種、仏の種なり。
復た次ぎに、
『八聖道分』は、
『実の!』、
『道であり!』、
『衆生を、種種の因縁で道に入らせる!』のを、
『道の慧と称し!』、
『衆生を、道に住らせる!』のが、
『利益であり!』、
『道』は、
『声聞、辟支仏、仏の種』を、
『種えさせるものである!』。
又復一切智慧無所不得。是名一切種。若有為若無為用一切種智知。 又復た、一切の智慧の得ざる所無き、是れを一切種と名づけ、若しは有為、若しは無為を、一切種の智を用いて知る。
又復た、
『一切の智慧』で、
『得ていない!』、
『智慧』が、
『無ければ!』、
是れを、
『一切種』と、
『称し!』、
『有為や、無為の法』を、
『一切種という!』、
『智を用いて!』、
『知るのである!』。
得佛道已應度一切眾生利益一切眾生。或大乘或聲聞乘或辟支佛乘。若不入三乘道教修福德受天上人中富樂。若不能修福以今世利益之事衣食臥具等。若復不得當以慈悲心利益。是名度一切眾生。 仏道を得已れば、応に一切の衆生を度し、一切の衆生を利益すべし。或は大乗、或は声聞乗、或は辟支仏乗なり。若し三乗の道に入らざれば、福徳を修するを教えて、天上、人中の富楽を受けしむ。若し福を修すること能わざれば、今世の利益の事の衣食、臥具答を以ってし、若し復た得ざれば、当に慈悲心を以って利益すべし。是れを一切の衆生を度すと名づく。
『仏道を得たならば!』、
『一切の衆生を度して!』、
『一切の衆生』を、
『利益せねばならない!』。
『大乗や、声聞乗や、辟支仏乗という!』、
『三乗に、若し入らなければ!』、
『福徳を修することを、教えて!』、
『天上、人中の福楽』を、
『受けさせる!』が、
若し、
『福を修めることができなければ!』、
『今世の利益の事である!』、
『衣食、臥具等を用いて!』、
『利益することになる!』が、
若し、
『復た、利益を得られなければ!』、
『慈悲心を用いて!』、
『利益せねばならない!』。
是れを、
『一切の衆生を度する!』と、
『称する!』。
問曰。若佛知一切聲聞辟支佛不能為眾生。何以故問。 問うて曰く、若し、仏、一切の声聞、辟支仏の衆生の為めにする能わざるを知りたまわば、何を以っての故にか、問いたもうや。
問い、
若し、
『仏』が、
『一切の声聞、辟支仏』は、
『衆生の為めにすることができない( can not help any living beings )!』と、
『知っていられるならば!』、
何故、
『問われたのですか?』。
答曰。佛意如是。欲令舍利弗口自說諸聲聞辟支佛不如菩薩。是故佛問。舍利弗言。不也世尊。所以者何。聲聞辟支佛雖有慈心。本不發心願度一切眾生。亦不迴善根向阿耨多羅三藐三菩提。以是故菩薩一日修智慧。過聲聞辟支佛上 答えて曰く、仏の意は、是の如し、『舎利弗の口をして、自ら諸の声聞、辟支仏の菩薩に如かざるを説かしめんと欲す』、と。是の故に仏、問いたもう。舎利弗の言わく、『不なり、世尊。所以は何んとなれば、声聞、辟支仏には、慈心有りと雖も、本、心願を、『一切の衆生を度せん』、と発さず、亦た善根を迴らして、阿耨多羅三藐三菩提に向けざれば、是を以っての故に、菩薩は、一日、智慧を修すれば、声聞、辟支仏の上を過ぐるなり。
答え、
『仏の意』は、こうである、――
『舎利弗の口』に、
自ら、
『諸の声聞、辟支仏は、仏に及ばない!』と、
『説かせよう!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『問われたのである!』。
『舎利弗』は、こう言った、――
いいえ!
世尊!、と。
何故ならば、
『声聞、辟支仏』は、
『慈心が有ったとしても!』、
本、
『一切の衆生を度そうという!』、
『心願』を、
『発すこともなく!』、
亦た、
『善根を迴らして!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『向けることもないからである!』。
是の故に、
『菩薩』が、
『一日、智慧を修めただけであっても!!』、
『声聞、辟支仏の上』を、
『過ぎるのである!』。



阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切の衆生を度す

【經】舍利弗。於汝意云何。諸聲聞辟支佛頗有是念我等當得阿耨多羅三藐三菩提度一切眾生令得無餘涅槃不。舍利弗言。不也世尊。佛告舍利弗。以是因緣故。當知諸聲聞辟支佛智慧。欲比菩薩摩訶薩智慧。百分不及一。乃至算數譬喻所不能及 『舎利弗、汝が意に於いて云何。諸の声聞、辟支仏には、頗(すこぶ)る、『我等は、当に阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切衆生を度し、無餘涅槃を得しむべし』と、是の念有りや、不や』。舎利弗の言わく、『不なり、世尊』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『是の因縁を以っての故に、当に知るべし、諸の声聞、辟支仏の智慧を、菩薩摩訶薩の智慧に比せんと欲せば、百分の一に及ばず。乃至算数、譬喻の及ぶこと能わざる所なり』、と。
舎利弗!
お前の、
『意』には、何うなのか?――
『諸の声聞、辟支仏』が、
わたし達は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得て!』、
『一切の衆生を度し!』、
『無餘涅槃』を、
『得させねばならない!』と、
是のように、
頗る( often )、
『念じること!』が、
『有るのだろうか?』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
『有りません!』。
世尊!と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
是の、
『因縁』の故に、こう知らねばならぬ、――
『諸の声聞、辟支仏の智慧』を、
『菩薩摩訶薩の智慧に比べれば!』、
『百分の一』にも、
『及ばず!』、
乃至、
『算数、譬喻』の、
『及ぶ所ではない!』と、と。
【論】問曰。上已反問舍利弗事已定。今何以復問。 問うて曰く、上に已に舎利弗に反問して、事は已に定まれり。今は、何を以ってか、復た問いたまえる。
問い、
上に、
已に、
『舎利弗』に、
『反問したので!』、
已に、
『事』は、
『定まっている!』のに、
今、
何故、
『復た( again )!』、
『問われたのですか?』。
答曰。以舍利弗欲以須陀洹同得解脫故與諸佛菩薩等。而佛不聽。譬如有人欲以毛孔之空與虛空等。以是故佛重質其事。 答えて曰く、舎利弗の、須陀洹の同じく解脱を得るを以っての故に、諸仏、菩薩と等しからんと欲するを以って、仏は聴したまわず。譬えば、有る人、毛孔の空なるを以って、虚空と等しからんと欲するが如し。是を以っての故に、仏は重ねて、其の事を質(ただ)したまえり。
答え、
『舎利弗が欲したのは( what Sariputra wished is )!』、
『須陀洹は同じく、解脱を得た!』が故に、
『諸仏、菩薩と!』、
『等しいということであった!』ので、
『仏』は、
之を、
『聴されなかった( did not agree )のである!』。
譬えば、
有る人が、こう欲するようなものである、――
『毛孔が空である!』のは、
『虚空と!』、
『等しい!』と。
是の故に、
『仏』は、
其の、
『事』を、
『重ねて、質された( to test again and verify )のである!』。
復次雖同一事義門各異。先言智慧。為一切眾生故。今言頗有是念。我等當得阿耨多羅三藐三菩提。令一切眾生得無餘涅槃。無餘涅槃者義如先說。 復た次ぎに、同一事なりと雖も、義門は各異なり。先にも、智慧を言えるも、一切の衆生の為めの故に、今言わく、『頗る、是の念ありや、我等は、当に阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切の衆生をして、無餘涅槃を得しむべし、と』、と。無餘涅槃とは、義を、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『事は、同一である!』が、
『義門』は、
『各、異なるからである!』。
先に、
『智慧について、言っただけなので!』、
『一切の衆生の為に( to help all living beings )!』、
今、こう言うのである、――
頗る、
是の、
『念を作す!』者が、
『有るのだ!』、
――
わたし達は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得て!』、
『一切の衆生』に、
『無餘涅槃を得させねばならない!』、と。
『無餘涅槃』とは、
『義を!』、
『先に説いた通りである!』。
復次一聲聞辟支佛尚不作是念。何況一切聲聞辟支佛 復た次ぎに、一声聞、辟支仏すら、尚お是の念を作さず。何に況んや、一切の声聞、辟支仏をや。
復た次ぎに、
『一声聞、辟支仏すら!』、
尚お、
『是の念を!』、
『作すことはない!』。
況して、
『一切の声聞、辟支仏は!』、
『尚更である!』。



二乗は、一切の衆生を度することを念じない

【經】舍利弗。於汝意云何。諸聲聞辟支佛頗有是念。我行六波羅蜜成就眾生莊嚴世界具佛十力四無所畏四無礙智十八不共法度脫無量阿僧祇眾生令得涅槃不。舍利弗言。不也世尊 『舎利弗、汝が意に於いて云何、諸の声聞、辟支仏には、頗る、『我れは、六波羅蜜を行じて、衆生を成就し、世界を荘厳して、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法を具し、無量、阿僧祇の衆生を度脱して、涅槃を得しめん』と、是の念有りや、不や』。舎利弗の言わく、『不なり、世尊』、と。
――
舎利弗!
お前の、
『意』には、何うなのか?――
『諸の声聞、辟支仏』には、
頗る、
わたしは、
『六波羅蜜を行じながら!』、
『衆生を成就して!』、
『世界』を、
『荘厳し!』、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法を具え!』、
『無量阿僧祇の衆生を度脱して!』、
『涅槃』を、
『得させよう!』と、
是のように、
『念じること!』が、
『有るだろうか?』。
『舎利弗』は、こう言った、――
『有りません!』、
世尊!と。
【論】釋曰。先略說我當得阿耨多羅三藐三菩提。今廣說得阿耨多羅三藐三菩提因緣。所謂六波羅蜜乃至十八不共法。六波羅蜜義如先說。教化眾生淨佛世界後當說。餘十力等如先說 釈して曰く、先には、『我れ、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』、と略説し、今は、阿耨多羅三藐三菩提を得る因縁、謂わゆる六波羅蜜、乃至十八不共法を広説す。六波羅蜜の義は、先に説けるが如し。衆生を教化して、仏世界を浄むるは、後に当に説くべし。餘の十力等は、先に説けるが如し。
釈す、
先に、
『わたしは、阿耨多羅三藐三菩提を得ねばならない!』と、
『略説した!』ので、
今、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る因縁である!』、
謂わゆる、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』を、
『広説したのである!』。
『六波羅蜜』の、
『義』は、
『先に、説いた通りである!』。
『衆生を教化して、仏世界を浄める!』の、
『義』は、
『後に、説くことになる!』。
『餘の十力』等の、
『義』は、
『先に、説いた通りである!』。



声聞、辟支仏の智慧を、蛍火虫の力に譬える

【經】佛告舍利弗。菩薩摩訶薩能作是念。我當行六波羅蜜乃至十八不共法。成阿耨多羅三藐三菩提。度脫無量阿僧祇眾生令得涅槃。譬如螢火虫。不作是念。我力能照一閻浮提普令大明。諸阿羅漢辟支佛亦如是。不作是念。我等行六波羅蜜乃至十八不共法。得阿耨多羅三藐三菩提。度脫無量阿僧祇眾生令得涅槃 仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、能く是の念を作さく、我れは、当に六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を成じ、無量阿僧祇の衆生を度脱して、涅槃を得しむべし、と。譬えば、蛍火虫の、我が力は、能く一閻浮提を照して、普く大明ならしめんと、是の念を作さざるが如く、諸の阿羅漢、辟支仏も亦た是の如く、我等は、六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、無量阿僧祇の衆生を度脱し、涅槃を得しめん、と是の念を作さず』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、こう念じることができるが、――
わたしは、
『六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成じ、!』、
『無量、阿僧祇の衆生を度脱して!』、
『涅槃』を、
『得させねばならない!』、と。
譬えば、
『蛍火虫』が、こう念じないように、――
わたしの、
『力』は、
『一閻浮提を照して!』、
『大いに!』、
『明るくすることができる!』、と。
『諸の阿羅漢、辟支仏』も、こう念じないのである、――
わたし達は、
『六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得!』、
『無量、阿僧祇の衆生を度脱して!』、
『涅槃』を、
『得させよう!』、と。
【論】釋曰。所以十方恒河沙舍利弗目連不如一菩薩者。譬如螢火虫雖眾多各有所照不及於日。螢火虫亦不作是念。我光明能照一閻浮提。諸聲聞辟支佛不作是念。我智慧能照無量無邊眾生。 釈して曰く、十方、恒河沙の舎利弗、目連の一菩薩に如かざる所以(ゆえ)は、譬えば、蛍火虫の、衆多にして、各、照す所有りと雖も、日に及ばざれば、蛍火虫も亦た、『我が光明は、能く一閻浮提を照す』と、是の念を作さざるが如く、諸の声聞、辟支仏も、『我が智慧は、能く無量、無辺の衆生を照す』と、是の念を作さず。
釈す、
『十方の恒河沙の舎利弗、目連』が、
『一菩薩に及ばない!』、
『所以( the reason why )』は、――
譬えば、
『蛍火虫』が、
『衆多であり( being numerous )!』、
各に、
『照す所が有っても!』、
『日には!』、
『及ばない!』ので、
『蛍火虫』も、こう念じることはないように、――
わたしの、
『光明』は、
『一閻浮提』を、
『照すことができる!』、と。
『諸の声聞、辟支仏』も、こう念じることはない、――
わたしの、
『智慧』は、
『無量、無辺の衆生』を、
『照すことができる!』、と。
如螢火虫夜能有所照日出則不能。諸聲聞辟支佛亦如是。未有大菩薩時。能師子吼說法教化。有菩薩出不能有所作 蛍火虫の、夜には能く照す所有るも、日出づれば、則ち能わざるが如く、諸の声聞、辟支仏も、亦た是の如く、未だ大菩薩有らざる時には、能く師子吼し、説法、教化するも、有る菩薩出づれば、所作有ること能わず。
譬えば、
『蛍火虫』が、
『夜には!』、
『照す!』所を、
『有らせた( to let be existed )としても!』、
『日が出れば!』、
『有らせることができない( cannot let be existed )ように!』、
『諸の声聞、辟支仏』も、
是のように、
『大菩薩の無い!』時には、
『師子吼して!』、
『説法、教化したとしても!』、
『大菩薩が有って、出れば!』、
『所作( the works )』を、
『有することができない( cannnot possess )のである!』。



菩薩の智慧を、日の光明に譬える

【經】舍利弗。譬如日出時光明遍照閻浮提無不蒙明者。菩薩摩訶薩亦如是。行六波羅蜜乃至十八不共法。得阿耨多羅三藐三菩提。度脫無量阿僧祇眾生令得涅槃 『舎利弗、譬えば、日の出づる時、光明は遍く閻浮提を照して、明を蒙らざる者無きが如く、菩薩摩訶薩も亦た是の如く、六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得、無量、阿僧祇の衆生を度脱して、涅槃を得しむるなり』。
舎利弗!
譬えば、
『日が出る!』時、
遍く、
『光明』が、
『閻浮提を!』、
『照せば!』、
『光明』を、
『蒙らない!』者が、
『無いように!』、
『菩薩摩訶薩』も、
是のように、
『六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得れば!』、
『無量、阿僧祇の衆生を度脱して!』、
『涅槃』を、
『得させるのである!』。
【論】釋曰。如日天子憐愍眾生故與七寶宮殿俱繞四天下。從初至終常不懈息。為眾生除諸冷濕照諸闇冥。令各得所。菩薩亦如是。從初發心常行六波羅蜜乃至十八不共法。為度眾生無有懈息。除不善冷乾竭五欲泥。破愚癡無明教導修善業令各得所。 釈して曰く、日天子の衆生を憐愍するが故に、七宝の宮殿と倶に、四天下を繞(めぐ)り、初より終に至るまで、常に懈息せず、衆生の為めに、諸の冷湿を除き、諸の闇冥を照して、各をして、所を得しむるが如く、菩薩も亦た是の如く、初発心より常に六波羅蜜、乃至十八不共法を行じて、衆生を度せんが為めに、懈息有ること無く、不善の冷を除き、五欲の泥を乾竭し、愚癡の無明を破って、善業を修するを教導し、各をして、所を得しむ。
釈す、
譬えば、
『日天子( the sun )』が、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『七宝の宮殿と倶に!』、
『四天下』を、
『遶り!』、
『初より、終まで!』、
『常に!』、
『懈息せず!』、
『衆生の為めに!』、
『諸の冷湿を除いて!』、
『諸の闇冥』を、
『照らし!』、
各に、
『所( the proper place )』を、
『得させるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『初発心より、常に!』、
『六波羅蜜、乃至十八不共法』を、
『行じながら!』、
『衆生を度す為に、懈息することなく!』、
『不善という!』、
『冷』を、
『除いて!』、
『五欲という!』、
『泥』を、
『乾竭し( to dry up )!』、
『愚癡という!』、
『無明』を、
『破り!』、
『善業を修することを、教導して!』、
各に、
『所』を、
『得させるのである!』。
  日天子(にちてんし):梵語suuryaの訳、また蘇利耶、修利、修野等に作り、即ち太陽の意。異名を宝光天子、宝意天子と為す。また観世音菩薩の変化身とも為す。太陽の中に住して、太陽を、彼れの宮殿と為す。「立世阿毘曇日雲論月行品」に、「日宮とは、(中略)これ宮殿にして、説いて修野と名づく。これ日天子、その中に於いて住すれば、亦た修野と名づく」と云えるこれなり。<(丁)
  懈息(けそく):懈怠と休息。
  得所(とくしょ):安居の地に到る( settle down the proper land )。適切な地位に就く( get the proper position )。所を得る。
又日明普照無憎無愛。隨其高下深淺悉照。菩薩亦如是。出於世間住五神通。處於虛空放智慧火。照明諸罪福業及諸果報。菩薩以智慧光明滅眾生邪見戲論。譬如朝露見日則消
大智度論卷第三十五
又、日の明の普く照して、憎無く、愛無く、其の高下に随いて、深、浅悉く照すが如く、菩薩も亦た是の如く、世間を出でて、五神通に住し、虚空に処して、智慧の火を放ち、諸の罪福の業、及び諸の果報を照明す。菩薩の智慧の光明を以って、衆生の邪見、戯論を滅すること、譬えば、朝露の日を見て、則ち消ゆるが如し。
大智度論巻第三十五
又、
『日の光明』が、
『普く照して!』、
『憎、愛すること!』が、
『無く!』、
『日の高、下に随って!』、
『深も、浅も!』、
『悉く、照すように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『世間を出て!』、
『五神通に住し!』、
『虚空に処しながら!』、
『智慧の火を放って!』、
『諸の罪福の業や、諸の果報』を、
『照明するのであり!』、
『菩薩』が、
『智慧の光明を用いて!』、
『衆生の邪見や、戯論』を、
『滅する!』のは、
譬えば、
『朝露』が、
『日を見て!』、
『消えるようなものである!』。

大智度論巻第三十五


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