【經】佛告舍利弗。於汝意云何。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜一日修智慧。心念我行道慧益一切眾生。當以一切種智知一切法度一切眾生。諸聲聞辟支佛智慧為有是事不。舍利弗言。不也世尊 |
仏の舎利弗に告げたまわく、『汝が、意に於いて云何。菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずれば、一日智慧を修するに、心には、『我が行道の慧は、一切の衆生を益すれば、当に、一切種智を以って、一切法を知り、一切の衆生を度すべし』、と念ぜん。諸の声聞、辟支仏の智慧に、是の事有りと為すや、不や』、と。舎利弗の言わく、『不なり、世尊』、と。 |
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
お前の、
『意』には、何うなのか?――
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『心』には、こう念じるだろう、――
わたしが、
『道を行えば!』、
『集めた智慧』は、
『一切の衆生』を、
『益することになり!』、
『一切種智を用いて!』、
『一切の法を知り!』、
『一切の衆生』を、
『度することになろう!』、と。
『諸の声聞、辟支仏』にも、
『舎利弗』は、こう言った、――
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参考:『大般若経巻4』:『佛告具壽舍利子言。舍利子。於意云何。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。所成勝事。一切聲聞獨覺智慧有此事不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。又舍利子。於意云何。修行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩。於一日中所修智慧。作是念言。我當修行一切相微妙智。一切智。道相智。一切相智。利益安樂一切有情。彼於一切法覺一切相已。方便安立一切有情於無餘依般涅槃界。一切聲聞獨覺智慧有此事不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。又舍利子。於意云何。一切聲聞獨覺頗能作是念。我當證得無上正等菩提。方便安立一切有情於無餘依涅槃界不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。又舍利子。於意云何。一切聲聞獨覺頗能作是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。我當修行殊勝四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。我當修行殊勝四靜慮。四無量。四無色定。我當修行殊勝八解脫。八勝處。九次第定。十遍處。我當修行殊勝空無相無願解脫門。我當安住內空。外空。內外空。空空。大空。勝義空。有為空。無為空。畢竟空。無際空。散空。無變異空。本性空。自相空。共相空。一切法空。不可得空。無性空。自性空。無性自性空。我當安住真如。法界。法性。不虛妄性。不變異性。平等性。離生性。法定。法住。實際。虛空界。不思議界。我當安住殊勝苦集滅道聖諦。我當修行一切陀羅尼門三摩地門。我當修行極喜地。離垢地。發光地。焰慧地。極難勝地。現前地。遠行地。不動地。善慧地。法雲地。我當圓滿菩薩神通成熟有情嚴淨佛土。我當圓滿五眼六神通。我當圓滿佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲大喜大捨。十八佛不共法。我當圓滿三十二大士相八十隨好。我當圓滿無忘失法恒住捨性。我當圓滿一切智道相智一切相智。永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依涅槃界不。舍利子言。不也世尊。不也善逝。佛言。舍利子。修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩皆作是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。乃至我當永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依般涅槃界。舍利子。譬如螢火無如是念。我光能照遍贍部洲普令大明。如是一切聲聞獨覺無如是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。乃至我當永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依般涅槃界。舍利子。譬如日輪光明熾盛。照贍部洲無不周遍。如是修行般若波羅蜜多諸菩薩摩訶薩常作是念。我當修行布施淨戒安忍精進靜慮般若波羅蜜多。乃至我當永拔一切煩惱習氣。證得無上正等菩提。方便安立無量無數無邊有情於無餘依般涅槃界。以是故。舍利子。當知一切聲聞獨覺所有智慧。比行般若波羅蜜多一菩薩摩訶薩於一日中所修智慧。百分不及一。千分不及一。百千分不及一。俱胝分不及一。百俱胝分不及一。千俱胝分不及一。百千俱胝分不及一。數分算分計分喻分乃至鄔波尼殺曇分亦不及一』 |
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【論】釋曰。有四種論。一者必定論。二者分別論。三者反問論。四者置論。 |
釈して曰く、四種の論有り、一には必定論、二には分別論、三には反問論、四には置論なり。 |
釈す、
『論』には、
『四種有る!』、――
一には、
『必定して、論じる!』、
二には、
『分別して、論じる!』、
三には、
『問を反して、論じる!』、
四には、
『論を、置く!』。
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四種答(ししゅとう):論議に於ける四種の答( four kinds of responses )。梵語 caturdhaa vyaakaraNam の訳、また四記、四答等とも称す。疑問を取り扱う仏の四種の方法( The Buddhaʼs four methods of dealing with questions )、即ち、
- 一向記/随門答(梵語 ekaaMza- vyaakaraNa ):率直に答える( direct answer )、問いに随って答える( answer
according to the question )、
- 分別記/分別答(梵語 vibhajya- vyaakaraNa ):分別して答える( discriminating answer )、分析的に答える(
analytic answer )、
- 反詰記/反問答(梵語 paripRcchaa- vyaakaraNa ):反って問う( questioning in return )、
- 捨置記/置答(梵語 sthaapaniiya- vyaakaraNa ):沈黙( silence )。
四記(しき):梵語catvaari prazna-vyaakaraNaaniの訳。四種の記の意。また四記論、四答、四種答、四種記答とも訳す。質問に対する返答に四種の別あるを云う。一に一向記ekaaMza-vyaakaraNa、二に分別記vibhajya-v.、三に反詰記paripRcchaa-v.、四に捨置記sthaapaniiya-v.なり。一向記をまた定答、直答、一定答、決定答、決了答、必定論、一向論、一向記論、決定記論、応一向記とも称し、分別記をまた解答、分別答、解義答、分別論、分別義答、分別記論、応分別記とも称し、反詰記をまた詰答、詰論、反問記、反問答、反問論、反質答、返問記、随問答、詰問論、詰問記論、応反詰記とも称し、捨置記をまた置答、置論、止論、黙置記、黙然記、止記論、止住記論、応捨置記とも称す。「長阿含巻8衆集経」に、「復た四法あり、謂わく四記論なり。決定記論、分別記論、詰問記論、止住記論なり」と云い、「大智度論巻26」に、「仏に四種答あり、一は定答、二は分別義答、三は反問答、四は置答なり」と云い、「倶舎論巻19」に、「且らく問の四とは、一は応に一向に記すべし、二は応に分別して記すべし、三は応に反詰して記すべし、四は応に捨置して記すべし」と云えるこれなり。此の中、一向記とは問に対して直に之を肯定するを云い、分別記とは問を分析解剖して一一之に答うるを云い、反詰記とは反問して問意の那点に在るかを質し、而して後之に答うるを云い、捨置記とは問其の意を成さざるが故に記すべきに非ずと答うるを云うなり。また此の四記に対し、問者の問を応一向記問、応分別記問、応反詰記問、応捨置記問と云い、総じて之を四記と称するなり。「倶舎論巻19」に其の例を出し「記に四ありとは、謂わく四問を答う。若し是の問を作す、一切有情は皆当に死すべきや不やと。応に一向に記すべし、一切有情は皆定んで当に死すべしと。若し是の問を作す、一切の死する者は皆当に生ずべきや不やと。応に分別して記すべし、煩悩ある者は当に生ずべし、余には非ずと。若し是の問を作す、人は勝とせんや劣とせんやと。応に反詰して記すべし、何れに方ぶる所と為すか、若し天に方ぶと言わば、応に人は劣なりと記すべし。若し下に方ぶと言わば、応に人は勝なりと記すべし。若し是の問を作す、蘊と有情とは一とせんや異とせんやと。応に捨置して記すべし、有情は実なきが故に一異の性成ぜず。石女の児の白黒等の性の如し。如何が捨置するに而も記の名を立つる、彼の問を記して此れ記すべからずと言うを以っての故なり。(中略)今契経に依りて問記の相を辯ぜば、大衆部の契経の中に言うが如し、苾芻当に知るべし、問記に四あり。何等をか四と為す、謂わく或は問うことあり応に一向に記すべし、乃至問うことあり但だ応に捨置すべし。如何が問うことあらんに応に一向に記すべき、謂わく諸行は皆無常なりやと問う。此の問を名づけて応に一向に記すべしと為す。如何が問うことあらんに応に分別して記すべき、謂わく若し問うことあり、諸の故思することありて業を造作し已りて何の果を受くとせんやと、此の問を名づけて応分別記と為す。云何が問うことあらんに、応に反詰して記すべき、謂わく若し問うことあり、士夫の想と我と一とやせん異とやせんと。応に反詰して言うべし、汝何の我に依りて是の如きの問を作すやと。若し麁我に依ると言わば応に想と異なりと記すべし。この問を名づけて応反詰記と為す。云何が問うことあらんに、但だ捨置すべき、謂わく、若し問うことあり、世は常とやせん、無常とやせん、亦常亦無常とやせん、非常非無常とやせん。世は有辺とやせん、無辺とやせん、亦有辺亦無辺とやせん、非有辺非無辺とやせん、如来は死後有とやせん、非有とやせん、亦有亦非有とやせん、非有非非有とやせん。命者は身に即すとやせん、命者は身に異なるとやせんと。此の問を名づけて但だ捨置すべしと為す」と云えり。以って其の趣旨を見るべし。但し「大毘婆沙論巻15」に出す所の説は之と稍異あり。また「中阿含巻29説処経、巻6箭喩経」、「大集法門経巻上」、「入楞伽経巻4」、「解深密経巻5」、「集異門足論巻8」、「雑阿毘曇心論巻1」、「大智度論巻22、巻35」、「十住毘婆沙論巻11」、「成実論巻2」、「瑜伽師地論巻14、巻81」、「顕揚聖教論巻12」、「順正理論巻49」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻26」、「仏地経論巻6」、「倶舎論光記巻19」、「瑜伽論記巻5上」、「大乗法苑義林巻7本」等に出づ。<(望) |
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必定論者。如眾生中世尊為第一。一切法中無我世間不可樂。涅槃為安隱寂滅業因緣不失。如是等名為必定論。 |
必定論とは、衆生中に世尊を、第一と為し、一切法中に我無く、世間は楽しむべからず、涅槃を安隠寂滅と為し、業因緣は失われざるが如し。是れ等の如きを、名づけて必定論と為す。 |
『必定論』とは、
例えば、
『衆生』中には、
『世尊』が、
『第一である!』。
『一切法』中に、
『我』は、
『無い!』。
『世間』を、
『楽しむことはできない!』。
『涅槃』は、
『安隠であり!』、
『寂滅である!』。
『業』の、
『因縁』が、
『失われることはない!』。
是れ等を、
『必定論』と、
『称するのである!』。
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分別論者。如無畏太子問佛。佛能說是語令他人瞋不。佛言。是事當分別答。太子言。諸尼健子輩了矣。佛或時憐愍心故出眾生於罪中。而眾生瞋。然眾生後當得利。 |
分別論とは、無畏太子の仏に問えるが如し、『仏は、能く是の語を説いて、他人をして、瞋らしむや、不や』、と。仏の言わく、『是の事は、当に分別して答うべし』、と。太子の言わく、『諸の尼健子の輩は了せんや。仏は、或は時に憐愍心の故に衆生を、罪中より出したまえば、、而も衆生瞋るも、然るに衆生は後に当に利を得べし』、と。 |
『分別論』とは、
例えば、
『無畏太子』が、
『仏』に、こう問うたようなものである、――
『仏』は、
『他人を、瞋らせても!』、
是の、
『語( thus words )』を、
『説くことができますか( can talk )?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『事』は、
『分別して!』、
『答えねばならない!』、と。
『太子』は、こう言った、――
『諸の尼健子の輩には、了りますかな?』、――
『仏』は、
或は時に、
『憐愍心』の故に、
『衆生を、罪中より出して!』、
『衆生』を、
『瞋らせられる!』が、
然し( but )、
『衆生』は、
『後になれば!』、
『利』を、
『得ることになるのを!』、と。
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無畏太子(むいたいし):王舎城頻婆娑羅王の子、阿闍世王の弟。元と尼乾子外道の施主たりしが、後には仏の施主と為れるが如し。
尼健子(にけんし):具さに梵語尼乾陀若提子nirgranthajJaati-putraに作り、また尼乾子、尼揵子等に作る。六師外道の一。苦行を修むるを以って世間の衣食の束縛を離れ、煩悩の結と三界の繋縛を遠離することを期するが故に、倮形を旨とすれば、倮形梵志の異名あり。『大智度論巻3上注:六師外道』参照。
語(ご):<動詞>[本義]談論/議論/辯論( discuss, talk about, argue, debate )。話す/説く/言う( speak,
say, talk )、鳥獣の叫び/鳴き声( cry, chirp, roar )、告知/通知する( inform, tell )。<名詞>話す言葉(
spoken language, word )、慣用語/成句/ことわざ/格言( idiom, set phrase, proverb, saying
)、言葉( word )、言語( language )。
矣(い):かな!/や?。<助辞>文末に置いて、種種の語気を表示する、[事の完了せるを表示する]かな/もう( already )。[肯定的語気を表示する]かな/まったく(
indeed )。[必然の語気を表示する]かな/ほんとうに( really )。[感嘆を表示する]かな/なんと( how )。[疑問の語気を表示する]や/なのか(
why, how )。[命令の語気を表示する]べし/せよ。[語句の結束せるを表示する]かな/のみ/であった。 |
参考:『長阿含巻18沙門果経』:『如是我聞。一時。佛在羅閱祇耆舊童子菴婆園中。與大比丘眾千二百五十人俱。爾時。王阿闍世韋提希子以十五日月滿時。命一夫人而告之曰。今夜清明。與晝無異。當何所為作。夫人白王言。今十五日夜月滿時。與晝無異。宜沐髮澡浴。與諸婇女五欲自娛。時。王又命第一太子優耶婆陀而告之曰。今夜月十五日月滿時。與晝無異。當何所施作。太子白王言。今夜十五日月滿時。與晝無異。宜集四兵。與共謀議伐於邊逆。然後還此共相娛樂。時。王又命勇健大將而告之曰。今十五日月滿時。其夜清明。與晝無異。當何所為作。大將白言。今夜清明。與晝無異。宜集四兵。案所天下。知有逆順。時。王又命雨舍婆羅門而告之曰。今十五日月滿時。其夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。時。雨舍白言。今夜清明。與晝無異。有不蘭迦葉於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海多所容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命雨舍弟須尼陀而告之曰。今夜清明。與晝無異。宜詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。須尼陀白言。今夜清明。與晝無異。有末伽梨瞿舍利於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命典作大臣而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。典作大臣白言。有阿耆多翅舍欽婆羅於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命伽羅守門將而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。伽羅守門將白言。有婆浮陀伽旃那於大眾中而為導首。多有知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命優陀夷漫提子而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。優陀夷白言。有散若夷毘羅梨沸於大眾中而為導首。多所知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命弟無畏而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所能開悟我心。弟無畏白言。有尼乾子於大眾中而為導首。多所知識。名稱遠聞。猶如大海無不容受。眾所供養。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心或開悟。王又命壽命童子而告之曰。今夜清明。與晝無異。當詣何等沙門.婆羅門所開悟我心。壽命童子白言。有佛.世尊今在我菴婆園中。大王。宜往詣彼問訊。王若見者。心必開悟。王飭壽命言。嚴我所乘寶象及餘五百白象。耆舊受教。即嚴王象及五百象訖。白王言。嚴駕已備。唯願知時。阿闍世王自乘寶象。使五百夫人乘五百牝象。手各執炬。現王威嚴。出羅閱祇。欲詣佛所。小行進路。‥‥』 |
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爾時無畏之子坐其膝上。佛問無畏。汝子或時吞諸瓦石草木汝聽咽不。答言。不聽。先教令吐。若不肯吐左手捉耳右手擿口。縱令血出亦不置之。 |
爾の時、無畏の子、其の膝上に坐するに、仏の無畏に問いたまわく、『汝が子は、或は時に、諸の瓦石、草木を呑まん。汝は咽(の)むを聴(ゆる)すや不や』、と。答えて言わく、『聴さず。先に教えて吐かしむ。若し肯て吐かざれば、左手に耳を捉えて、右手に口を摘まみ、縦令(たとい)血出づるとも、亦た之を置かず』、と。 |
爾の時、
『無畏の子』が、
『無畏の膝上』に、
『坐る!』と、
『仏』は、
『無畏』に、こう問うた、――
お前の、
『子』が、
或は時に、
諸の、
『瓦石や、草木を!』、
『呑むかもしれない!』が、
お前は、
『咽みこむ( to swallow )のを!』、
『聴す( to admit )のか?』、と。
『答えて!』、こう言った、――
聴さない!
先に、
『教えて!』、
『吐かせる!』が、
若し、
『吐こうとしなければ!』、
『左手に、耳を捉り!』、
『右手に、口を摘まんで!』、
縦令( even if )、
『血が出ようと!』、
『置くことはない!』、と。
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佛言。汝不愍之耶。答言。愍之深故為出瓦石。雖當時痛後得安隱。佛言。我亦如是。若眾生欲作重罪。善教不從以苦言諫之。雖起瞋恚後得安隱。 |
仏の言わく、『汝は、之を愍れまずや』、と。答えて言わく、『之を愍れむこと深きが故に、瓦石を出さしむれば、時に当りて、痛むと雖も、後に安隠を得ればなり』、と。仏の言わく、『我れも亦た是の如し。若し衆生、重罪を作さんと欲せば、能く教えて、従わざれば、苦言を以って、之を諌むれば、瞋恚を起すと雖も、後に安隠を得ればなり』、と。 |
『仏』は、こう言われた、――
『答えて!』、こう言った、――
『子を愍れむのが、深い!』が故に、
『瓦石』を、
『出させれば!』、
『瓦石を出す時、痛んでも!』、
『後には!』、
『安隠を得るからである!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
わたしも、
『是の通りである!』、
若し、
『衆生が、重罪を作ろうとすれば!』、
『善く!』、
『教え!』、
『衆生が、従わなければ!』、
『苦言を用いて!』、
『衆生を諫めるのである!』。
『瞋恚を起したとしても!』、
『後には!』、
『安隠を得るからである!』、と。
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又如五比丘問佛受樂得道耶。佛言。不必定。有受苦得罪受苦得樂。有受樂得罪受樂得福。如是等名為分別論。 |
又、五比丘の仏に問えるが如し、『楽を受けて、道を得んや』、と。仏の言わく、『必ずしも定まらず。有るいは苦を受けて罪を得、苦を受けて楽を得。有るいは楽を受けて罪を得、楽を受けて福を得』、と。是れ等の如きを名づけて、分別論と為す。 |
又、
『五比丘』が、
『仏』に、こう問うたようなものである、――
『楽を受けて!』、
『道』を、
『得るのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『必ずしも、定まるものではない!』、――
有るいは、
『苦を受けて!』、
『罪』を、
『得たり!』、
『苦を受けて!』、
『楽』を、
『得るのであり!』、
有るいは、
『楽を受けて!』、
『罪』を、
『得たり!』、
『楽を受けて!』、
『福』を、
『得るのである!』、と。
是れ等を、
『分別論』と、
『称するのである!』。
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反問論者。還以所問答之。如佛告比丘。於汝意云何。是色常耶無常耶。比丘言。無常。若無常是苦不。答言苦。若法是無常苦聞法聖弟子著是法。言是法是我是我所不。答曰。不也世尊。 |
反問論とは、還って、所問を以って、之に答う。仏の比丘に告げたもうが如し、『汝が、意に於いて云何。是の色は常なりや、無常なりや』、と。比丘の言わく、『無常なり』、と。『若し無常なれば、是れ苦なりや不や』。答えて言わく、『苦なり』、と。『若し法にして、是れ無常、苦なれば、聞法の聖弟子は、是の法に著して、『是れ法なり』、『是れ我なり』、『是れ我所なり』、と言うや不や』。答えて曰わく、『不なり、世尊』、と。 |
『反問論』とは、
『所問を還して( returning his question )!』、
『之に答える( to answer to him )ことである!』。
例えば、
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
お前の、
『意』には、何うなのか?――
是の、
『色』は、
『常なのか、無常なのか?』、と。
『比丘』は、こう言った、――
――
――
若し、
『法』が、
『無常であり!』、
『苦ならば!』、
『法を聞く聖弟子』は、
是の、
『法』に、
『著して!』、
こう言うだろうか?――
『是れは、法である!』とか、
『是れは、我である!』とか、
『是れは、我所である!』、と。
答えて、こう言った、――
『言いません!』、
世尊!と。
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還(げん):<副詞>[行為/動作/状況の変らざるを表示する]また/まだ( still, yet )、更に/加えて( even more )、同様に(
as well )、もまた( also )、かなり/相当に( fairly )、尚且つ( even )、[予想を超えるを讃歎する語気を表示する]還って/予想外に/にもかかわらず(
notwithstanding )、[反問に用いる]なぜ( why )。<動詞>帰還する( come back, go back, return
)、振り向く( turn around, turn round )、回復/復元する( recover, restore )、来る/到る( come,
arrive )、返還する( give back, return )、返済する/報酬する( repey, pay back )、報いる/反撃する(
repay, fight back )、引き戻す/退却する( draw back, fall back )。 |
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佛告比丘。從今已後所有色。若過去若未來若現在。若內若外。若好若醜。是色非我所。我非此色所。如是應以正實智慧知。受想行識亦如是。如是等名反問論。 |
仏の比丘に告げたまわく、『今より已後、有らゆる色の若しは過去、若しは未来、若しは現在、若しは内、若しは外、若しは好、若しは醜なるも、是の色は我所に非ず。我は此の色の所に非ず。是の如く、応に正実の智慧を以って知るべし。受想行識も亦た是の如し』、と。是れ等の如きを、反問論と名づく。 |
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
今より已後、
有らゆる、
『色』は、
『過去であろうが、未来であろうが、現在であろうが!』、
『内であろうが、外であろうが!』、
『好であろうが、醜であろうが!』
是の、
『色』は、
『我所でなく( does not belong to self )!』、
是の、
『我』は、
『色所でない( does not belong to what is having form )!』と、
是のように、
『正実の( with right conversation )!』、
『智慧を用いて!』、
『知らねばならない!』。
亦た、
『受想行識』も、
『是の通りである!』、と。
是れ等を、
『反問論』と、
『称する!』。
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正実(しょうじつ):梵語 samyag-aalaapana の訳、正しい言論( right conversation )の義。 |
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置論者。如十四難。世間有常世間無常。世間有邊世間無邊。如是等是名為置論。 |
置論とは、十四難の如き、世間の有常、世間の無常、世間の有辺、世間の無辺は、是れ等の如き、是れを名づけて置論と為す。 |
『置論』とは、
例えば、
『十四難のような!』、
『世間は有常か、無常か?』、
『世間は有辺か、無辺か?』であり、
是れ等を、
『置論』と、
『称する!』。
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今佛以反問論答舍利弗。以舍利弗智於事未悟。佛反問事端令其得解。 |
今、仏の反問論を以って、舎利弗に答えたもうは、舎利弗の智は、事に於いて、未だ悟らざるを以って、仏は事端を反問し、其れをして解を得せしめたまえり。 |
今、
『仏』が、
『反問論を用いて!』、
『舎利弗』に、
『答えられた!』のは、
『舎利弗の智慧を用いては!』、
『事』を、
『未だ、悟ることができないからであり!』、
『仏』は、
『事端を反問して!
( returning the question of the beggining of the matter )』、
『舎利弗に!』、
『理解させられたのである!』。
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菩薩度眾生智慧名為道慧。如後品中說。薩婆若慧是聲聞辟支佛事。一切種智慧是諸佛事。道種慧是菩薩事。 |
菩薩の衆生を度する智慧を、名づけて道慧と為す。後品中に説くが如く、薩婆若の慧は、是れ声聞、辟支仏の事なり。一切種智の慧は、是れ諸仏の事なり。道種の慧は、是れ菩薩の事なり。 |
『菩薩が、衆生を度する!』、
後の、
『品』中に、説くように、――
『薩婆若という!』、
『慧』は、
『声聞、辟支仏の事であり!』、
『一切種智という!』、
『慧』は、
『諸仏の事であり!』、
『道種という!』、
『慧』は、
『菩薩の事である!』。
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薩婆若(さばにゃ):梵語sarvajJa、一切智と訳す。『大智度論巻11上注:薩婆若』参照。 |
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復次八聖道分為實道。令眾生種種因緣入道。是名道慧。令眾生住於道中。是為利益。聲聞種辟支佛種佛種。 |
復た次ぎに、八聖道分を、実の道と為し、衆生をして、種種の因縁もて、道に入らしむるは、是れを道の慧と名づけ、衆生をして、道中に住せしむるは、是れを利益と為し、声聞の種、辟支仏の種、仏の種なり。 |
復た次ぎに、
『八聖道分』は、
『実の!』、
『道であり!』、
『衆生を、種種の因縁で道に入らせる!』のを、
『道の慧と称し!』、
『衆生を、道に住らせる!』のが、
『利益であり!』、
『道』は、
『声聞、辟支仏、仏の種』を、
『種えさせるものである!』。
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又復一切智慧無所不得。是名一切種。若有為若無為用一切種智知。 |
又復た、一切の智慧の得ざる所無き、是れを一切種と名づけ、若しは有為、若しは無為を、一切種の智を用いて知る。 |
又復た、
『一切の智慧』で、
『得ていない!』、
『智慧』が、
『無ければ!』、
是れを、
『一切種』と、
『称し!』、
『有為や、無為の法』を、
『一切種という!』、
『智を用いて!』、
『知るのである!』。
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得佛道已應度一切眾生利益一切眾生。或大乘或聲聞乘或辟支佛乘。若不入三乘道教修福德受天上人中富樂。若不能修福以今世利益之事衣食臥具等。若復不得當以慈悲心利益。是名度一切眾生。 |
仏道を得已れば、応に一切の衆生を度し、一切の衆生を利益すべし。或は大乗、或は声聞乗、或は辟支仏乗なり。若し三乗の道に入らざれば、福徳を修するを教えて、天上、人中の富楽を受けしむ。若し福を修すること能わざれば、今世の利益の事の衣食、臥具答を以ってし、若し復た得ざれば、当に慈悲心を以って利益すべし。是れを一切の衆生を度すと名づく。 |
『仏道を得たならば!』、
『一切の衆生を度して!』、
『一切の衆生』を、
『利益せねばならない!』。
『大乗や、声聞乗や、辟支仏乗という!』、
『三乗に、若し入らなければ!』、
『福徳を修することを、教えて!』、
『天上、人中の福楽』を、
『受けさせる!』が、
若し、
『福を修めることができなければ!』、
『今世の利益の事である!』、
『衣食、臥具等を用いて!』、
『利益することになる!』が、
若し、
『復た、利益を得られなければ!』、
『慈悲心を用いて!』、
『利益せねばならない!』。
是れを、
『一切の衆生を度する!』と、
『称する!』。
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問曰。若佛知一切聲聞辟支佛不能為眾生。何以故問。 |
問うて曰く、若し、仏、一切の声聞、辟支仏の衆生の為めにする能わざるを知りたまわば、何を以っての故にか、問いたもうや。 |
問い、
若し、
『仏』が、
『一切の声聞、辟支仏』は、
『衆生の為めにすることができない( can not help any living beings )!』と、
『知っていられるならば!』、
何故、
『問われたのですか?』。
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答曰。佛意如是。欲令舍利弗口自說諸聲聞辟支佛不如菩薩。是故佛問。舍利弗言。不也世尊。所以者何。聲聞辟支佛雖有慈心。本不發心願度一切眾生。亦不迴善根向阿耨多羅三藐三菩提。以是故菩薩一日修智慧。過聲聞辟支佛上 |
答えて曰く、仏の意は、是の如し、『舎利弗の口をして、自ら諸の声聞、辟支仏の菩薩に如かざるを説かしめんと欲す』、と。是の故に仏、問いたもう。舎利弗の言わく、『不なり、世尊。所以は何んとなれば、声聞、辟支仏には、慈心有りと雖も、本、心願を、『一切の衆生を度せん』、と発さず、亦た善根を迴らして、阿耨多羅三藐三菩提に向けざれば、是を以っての故に、菩薩は、一日、智慧を修すれば、声聞、辟支仏の上を過ぐるなり。 |
答え、
『仏の意』は、こうである、――
『舎利弗の口』に、
自ら、
『諸の声聞、辟支仏は、仏に及ばない!』と、
『説かせよう!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『問われたのである!』。
『舎利弗』は、こう言った、――
いいえ!
世尊!、と。
何故ならば、
『声聞、辟支仏』は、
『慈心が有ったとしても!』、
本、
『一切の衆生を度そうという!』、
『心願』を、
『発すこともなく!』、
亦た、
『善根を迴らして!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『向けることもないからである!』。
是の故に、
『菩薩』が、
『一日、智慧を修めただけであっても!!』、
『声聞、辟支仏の上』を、
『過ぎるのである!』。
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