巻第三十五(上)
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大智度論釋報應品第二(卷三十五)  
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


四天王が歓喜して、四鉢を奉上する

【經】佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜能作是功德。是時四天王皆大歡喜意念言。我等當以四缽奉上菩薩。如前天王奉先佛缽 仏の、舎利弗に告げたまわく、『若し菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行じて、能く是の功德を作せば、是の時、四天王は、皆大歓喜し、意に念じて言わん、『我等は当に、四鉢を以って、菩薩に奉上すること、前の天王の先の仏に鉢を奉げしが如かるべし』、と』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行じて!』、
是の、
『功德』を、
『作すことができれば!』、
是の時、
『四天王』は、
『皆、大歓喜し!』、
『意に念じて!』、こう言うだろう、――
わたし達は、
『前の天王』が、
『先の仏に!』、
『鉢』を、
『奉げたように!』、
『四鉢』を、
『菩薩』に、
『奉上せねばならない、と!』、と。
【論】問曰。前品說已具。今何以重說。 問うて曰く、前の品の説に已に具するに、今、何を以ってか重ねて説く。
問い、
『前の品』に、
已に、
『具さに!』、
『説かれているのに!』、
今、
何故、
『重ねて!』、
『説くのですか?』。
答曰。前雖歎般若波羅蜜事未具足。聞者無厭。是故復說。 答えて曰く、前に、般若波羅蜜を歎ずと雖も、事未だ具足せざれば、聞く者厭くこと無し。是の故に復た説く。
答え、
前に、
『般若波羅蜜を歎じたが!』、
未だ、
『事が具足していない!』ので、
『聞く!』者にも、
『厭きることが無い!』。
是の故に、
『復た!』、
『説いたのである!』。
復次初品但讚般若波羅蜜力。今讚行者能作是功德。四天王等歡喜奉缽。 復た次ぎに、初品には、但だ般若波羅蜜の力を讃じ、今は、行者の能く、是の功德を作すを讃ずれば、四天王等、歓喜して鉢を奉ぐ。
復た次ぎに、
初品には、
『仏』は、
但だ、
『般若波羅蜜の力』を、
『讃じられただけである!』が、
今は、
『行者』が、
是のような、
『功德を作すことができた!』のを、
『讃じられた!』ので、
『四天王』等が、
『歓喜して!』、
『鉢を奉げたのである!』。
復次以菩薩能具諸願行故。佛安慰勸進言。有此果報終不虛也。 復た次ぎに、菩薩の能く諸の願行を具するを以っての故に、仏は安慰し、勧進して、『此果報有れば、終に虚しからず』、と言えり。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『諸の願行』を、
『具足することができた!』が故に、
『仏』は、
『安慰、勧進して!』、こう言われた、――
此の、
『果報が有るので!』、
終に、
『菩薩の願行』は、
『虚しくないのである!』、と。
復次般若波羅蜜有二種果。一者成佛度眾生。二者雖未成佛受世間果報。轉輪聖王釋梵天王主三千世界。世間福樂供養之事悉皆備足。今以世間果報以示眾生故說是事。 復た次ぎに、般若波羅蜜には二種の果有り。一には、仏と成りて、衆生を度し、二には、未だ仏と成らずと雖も、世間の果報の転輪聖王、釈梵天王を受けて、三千世界の主となり、世間の福楽、供養の事を、悉く、皆備足す。今は、世間の果報を以って、衆生に示すを以っての故に、是の事を説きたまえり。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜』には、
『二種の果が有り!』、
一には、
『仏と成って!』、
『衆生』を、
『度することであり!』、
二には、
『仏とは成らない!』が、
『世間の果報である!』、
『転輪聖王や、釈梵天王を受けて!』、
『三千世界』の、
『主となることであり!』、
『世間の福楽や、供養の事』が、
『悉く皆!』、
『具備することである!』。
今、
『仏』は、
『世間の果報を用いて!』、
『衆生に示そうとされた!』が故に、
是の、
『事』を、
『説かれたのである!』。
復次世間欲成大業多有壞亂者。菩薩則不然。內心既定外事亦應。如是等因緣故說此品。 復た次ぎに、世間には、大業を成ぜんと欲して、多く壊乱する者有るも、菩薩は、則ち然らず。内心既に定まれば、外事も亦た応ず。是れ等の如き因縁の故に、此の品を説きたまえり。
復た次ぎに、
『世間』には、
『大業を成そうとして!』、
多く、
『壊乱する!』者が、
『有る!』が、
『菩薩』は、
『然うでなく!』、
『内心が、既に定まっている!』ので、
亦た、
『外事』も、
『内心に相応することになる!』ので、
是れ等の、
『因縁』の故に、
『此の品』を、
『説かれたのである!』。
問曰。菩薩增益六波羅蜜時。諸天世人何因緣故喜。 問うて曰く、菩薩は、六波羅蜜を増益する時、諸天、世人は、何んの因縁の故にか、喜ぶ。
問い、
『菩薩』が、
『六波羅蜜』を、
『増益する!』時、
『諸天、世人』は、
何のような、
『因縁』の故に、
『喜ぶのですか?』。
答曰。諸天皆因十善四禪四無量故生是諸功德。皆由諸佛菩薩故有。若佛出世增益諸天眾減損阿修羅種。若佛不在世阿修羅種多諸天減少。以種雜福不清淨故。 答えて曰く、諸天は、皆、十善、四禅、四無量に因るが故に、生じ、是の諸功徳は、皆、諸仏、菩薩に由るが故に、有り。若し仏出世したまえば、諸天衆を増益し、阿修羅種を減損するも、若し仏出世したまわざれば、阿修羅種多く、諸天減少す、雑福、不清浄を種うるを以っての故なり。
答え、
『諸天』は、
皆、
『十善、四禅、四無量に因る!』が故に、
『生まれ!』、
是の、
『諸の功徳』は、
皆、
『諸仏、菩薩に由る!』が故に、
『有る!』ので、
若し、
『仏が出世されれば!』、
『諸天衆が増益して!』、
『阿修羅種』を、
『減損することになる!』が、
若し、
『仏が出世されなければ!』、
『阿脩羅種が多くなり!』、
『諸天』が、
『減少することになる!』。
何故ならば、
『雑福、不清浄』の、
『因縁』を、
『種えるからである!』。
若諸佛出世能斷諸天疑網能成大事。如釋提桓因命欲終時心懷怖畏。求佛自救遍不知處。雖見出家之人山澤閑處所供養者。皆亦不能斷其疑網。 若し諸仏出世したまえば、能く諸天の疑網を断じて、能く大事を成したもう。釈提桓因の如きは、命の終わらんと欲する時、心に怖畏を懐き、仏を求めて、自ら救わんとするも、遍くして、処を知らず。出家の人、山沢の閑処に供養せらるる者を見ると雖も、皆、亦た其の疑網を断ずる能わず。
若し、
『諸仏が出世されれば!』、
『諸天の疑網を断じることができ!』、
『大事』を、
『成すことができる!』。
例えば、
『釈提桓因など!』は、
『命の終わろうとする!』時、
『心に!』、
『怖畏を懐いた!』ので、
『仏を求めて、自ら救おうとし!』、
『遍く、走り回った( have wanted after )!』が、
『仏の処』を、
『知ることはなかった!』。
『出家の人や、山沢の閑処に供養される!』者を、
『見たとしても!』、
皆、
『釈提桓因の疑網』を、
『断じることはできなかった!』。
  (へん):<動詞>[本義]全国を股にかける/辺一面を旅する( have travelled all over )。<形容詞>至る所( all over, everywhere )。<量詞>一遍/一次/一度( time )。
  参考:『大智度論巻4』:『問曰。檀波羅蜜云何滿。答曰。一切能施無所遮礙。乃至以身施時。心無所惜。譬如尸毘王以身施鴿。釋迦牟尼佛本身作王。名尸毘。是王得歸命救護陀羅尼。大精進有慈悲心。視一切眾生如母愛子。時世無佛。釋提桓因命盡欲墮。自念言。何處有佛一切智人。處處問難不能斷疑。知盡非佛。即還天上愁憂而坐。巧變化師毘首羯磨天。問曰。天主何以愁憂。答曰。我求一切智人不可得。以是故愁憂。毘首羯磨言。有大菩薩。布施持戒禪定智慧具足。不久當作佛。帝釋以偈答曰 菩薩發大心  魚子菴樹華  三事因時多  成果時甚少  毘首羯磨。答曰。是優尸那種尸毘王。持戒精進大慈大悲禪定智慧不久作佛。釋提桓因。語毘首羯磨。當往試之。知有菩薩相不。汝作鴿我作鷹。汝便佯怖入王腋下。我當逐汝。毘首羯磨言。此大菩薩云何以此事惱。釋提桓因說偈言 我亦非惡心  如真金應試  以此試菩薩  知其心定不  說此偈竟。毘首羯磨。即自變身作一赤眼赤足鴿。釋提桓因。自變身作一鷹。急飛逐鴿。鴿直來入王掖底。舉身戰怖動眼促聲 是時眾多人  相與而語曰  是王大慈仁  一切宜保信  如是鴿小鳥  歸之如入舍  菩薩相如是  作佛必不久  是時鷹在近樹上。語尸毘王。還與我鴿此我所受。王時語鷹。我前受此非是汝受。我初發意時。受此一切眾生皆欲度之。鷹言。王欲度一切眾生。我非一切耶。何以獨不見愍。而奪我今日食。王答言。汝須何食。我作誓願其有眾生。來歸我者必救護之。汝須何食亦當相給。鷹言。我須新殺熱肉。王念言。如此難得。自非殺生無由得也。我當云何殺一與一。思惟心定即自說偈 是我此身肉  恒屬老病死  不久當臭爛  彼須我當與  如是思惟已。呼人持刀自割股肉與鷹。鷹語王言。王雖以熱肉與我。當用道理令肉輕重得與鴿等勿見欺也。王言持稱來。以肉對鴿。鴿身轉重王肉轉輕。王令人割二股亦輕不足。次割兩[跳-兆+專]兩臗兩乳項脊。舉身肉盡。鴿身猶重。王肉故輕。是時近臣內戚。安施帳幔。卻諸看人。王今如此無可觀也。尸毘王言。勿遮諸人聽令入看。而說偈言 天人阿修羅  一切來觀我  大心無上志  以求成佛道  若有求佛道  當忍此大苦  不能堅固心  則當息其意  是時菩薩。以血塗手攀稱欲上。定心以身盡以對鴿。鷹言。大王此事難辦。何用如此以鴿還我。王言鴿來歸我終不與汝。我喪身無量於物無益。今欲以身求易佛道。以手攀稱。爾時菩薩。肉盡筋斷不能自制。欲上而墮自責心言。汝當自堅勿得迷悶。一切眾生墮憂苦大海。汝一人立誓欲度一切。何以怠悶。此苦甚少地獄苦多。以此相比於十六分猶不及一。我今有智慧精進持戒禪定。猶患此苦。何況地獄中人無智慧者。是時菩薩。一心欲上復更攀稱。語人扶我。是時菩薩。心定無悔。諸天龍王阿修羅鬼神人民皆大讚言。為一小鳥乃爾。是事希有。即時大地為六種振動。大海波揚枯樹生華。天降香雨及散名華。天女歌讚必得成佛。是時念我四方神仙皆來讚言。是真菩薩必早成佛。鷹語鴿言。終試如此不惜身命。是真菩薩。即說偈言 慈悲地中生  一切智樹牙  我曹當供養  不應施憂惱  毘首羯磨。語釋提桓因言。天主汝有神力。可令此王身得平復。釋提桓因言。不須我也。此王自作誓願大心歡喜。不惜身命感發一切令求佛道。帝釋語人王言。汝割肉辛苦心不惱沒耶。王言。我心歡喜不惱不沒。帝釋言。誰當信汝心不沒者。是時菩薩作實誓願。我割肉血流不瞋不惱。一心不悶以求佛道者。我身當即平復如故。即出語時身復如本。人天見之皆大悲喜歎未曾有。此大菩薩必當作佛。我曹應當盡心供養。願令早成佛道。當念我等。是時釋提桓因毘首羯磨各還天上。如是等種種相。是檀波羅蜜滿。』
  参考:『北本涅槃経巻14』:『爾時眾中有一天子名曰歡喜復說偈言 如是離欲人  清淨勤精進  將不求帝釋  及以諸天耶  若是外道者  修行諸苦行  是人多欲求  帝釋所坐處  爾時復有一仙天子即為帝釋而說偈言 天主憍尸迦  不應生此慮  外道修苦行  何必求帝處  說是偈已復作是言。憍尸迦。世有大士。為眾生故不貪己身。為欲利益諸眾生故。而修種種無量苦行。如是之人見生死中諸過咎故。設見珍寶滿此大地諸山大海。不生貪著如視涕唾。如是大士。棄捨財寶所愛妻子。頭目髓腦手足支節。所居舍宅象馬車乘奴婢僮僕。亦不願求生於天上。唯求欲令一切眾生得受快樂。如我所解。如是大士清淨無染眾結永盡。唯欲求於阿耨多羅三藐三菩提。釋提桓因復作是言。如汝言者。是人則為攝取一切世間所有眾生。大仙。若此世間有佛樹者。能除一切諸天世人及阿修羅煩惱毒蛇。若諸眾生住是佛樹陰涼中者。煩惱諸毒悉得消滅。大仙。是人若當未來世中作善逝者。我等悉當得滅無量熾然煩惱。如是之事實為難信。何以故。無量百千諸眾生等發於阿耨多羅三藐三菩提心。見少微緣於阿耨多羅三藐三菩提即便動轉。如水中月水動則動。猶如畫像難成易壞。菩提之心亦復如是難發易壞。大仙。如有多人以諸鎧仗牢自莊嚴欲前討賊。臨陣恐怖則便退散。無量眾生亦復如是。發菩提心牢自莊嚴見生死過心生恐怖即便退散。大仙。我見如是無量眾生發心之後皆生動轉。是故我今雖見是人修於苦行無惱無熱住於險道。其行清淨未能信也。我今要當自往試之。知其實能堪任荷負阿耨多羅三藐三菩提大重擔不。大仙。猶如車有二輪則能載用。鳥有二翼堪任飛行。是苦行者亦復如是。我雖見其堅持禁戒。未知其人有深智不。若有深智當知則能堪任荷負阿耨多羅三藐三菩提之重擔也。大仙。譬如魚母多有胎子成就者少。如菴羅樹花多果少。眾生發心乃有無量。及其成就少不足言。大仙。我當與汝俱往試之。大仙。譬如真金三種試已乃知其真。謂燒打磨。試彼苦行者亦當如是。爾時釋提桓因。自變其身作羅剎像形甚可畏。下至雪山去其不遠而便立住。是時羅剎。心無所畏勇健難當。辯才次第其聲清雅。宣過去佛所說半偈 諸行無常  是生滅法  說是半偈已便住其前。所現形貌甚可怖畏。顧眄遍視觀於四方。是苦行者。聞是半偈心生歡喜。譬如估客於險難處夜行失伴恐怖推求。還遇同侶心生歡喜踊躍無量。亦如久病未遇良醫瞻病好藥後卒得之。如人沒海卒遇船舫。如渴乏人遇清冷水。如為怨逐忽然得脫。如久繫人卒聞得出。亦如農夫炎旱值雨。亦如行人還得歸家。家人見已生大歡喜。善男子。我於爾時聞是半偈心中歡喜亦復如是。即從座起以手舉髮。四向顧視而說是言。向所聞偈誰之所說。爾時亦更不見餘人唯見羅剎。即說是言。諸開如是解脫之門。誰能雷震諸佛音聲。誰於生死睡眠之中而獨覺寤唱如是言。誰能於此示道生死飢饉眾生無上道味。無量眾生沈生死海。誰能於中作大船師。是諸眾生常為煩惱重病所纏。誰能於中為作良醫。說是半偈啟悟我心。猶如半月漸開蓮花。善男子。我於爾時更無所見唯見羅剎。復作是念將是羅剎說是偈耶。仍復生疑或非其說。何以故。是人形容甚可怖畏。若有得聞是偈句者。一切恐怖醜陋即除。何有此人形貌如是能說此偈。不應火中出於蓮花。非日光中出生冷水。善男子。我於爾時復作是念。我今無智。而此羅剎或能得見過去諸佛。從諸佛所聞是半偈。我今當問。即便前至是羅剎所作如是言。善哉大士。汝於何處得是過去離怖畏者所說半偈。大士。復於何處而得如是半如意珠。大士。是半偈義乃是過去未來現在諸佛世尊之正道也。一切世間無量眾生常為諸見羅網所覆。終身於此外道法中。初不曾聞如是出世十力世雄所說空義。善男子。我問是已。即答我言。大婆羅門。汝今不應問我是義。何以故。我不食來已經多日。處處求索了不能得。飢渴苦惱心亂[言*閻]語。非我本心之所知也。假使我今力能飛行虛空至鬱單越。乃至天上處處求食亦不能得。以是之故我說是語。善男子。我時即復語羅剎言。大士。若能為我說是偈竟。我當終身為汝弟子。大士。汝所說者名字不終義亦不盡。以何因緣不欲說耶。夫財施者則有竭盡。法施因緣不可盡也。雖無有盡多所利益。我今聞此半偈法已心生驚疑。汝今幸可為我除斷說此偈竟。我當終身為汝弟子。羅剎答言。汝智太過但自憂身。都不見念今我定為飢苦所逼。實不能說。我即問言。汝所食者。為是何物。羅剎答言。汝不足問。我若說者令多人怖。我復問言。此中獨處更無有人。我不畏汝何故不說。羅剎答言。我所食者唯人暖肉。其所飲者唯人熱血。自我薄福唯食此食。周遍求索困不能得。世雖多人皆有福德。兼為諸天之所守護。而我無力不能得殺。善男子。我復語言。汝但具足說是半偈。我聞偈已當以此身奉施供養。大士。我設命終。如此之身無所復用。當為虎狼鴟梟鵰鷲之所噉食。然復不得一毫之福。我今為求阿耨多羅三藐三菩提。捨不堅身以易堅身。羅剎答言。誰當信汝如是之言。為八字故棄所愛身。善男子。我即答言。汝真無智。譬如有人施他凡器得七寶器。我亦如是。捨不堅身得金剛身。汝言誰當信者我今有證。大梵天王釋提桓因及四天王能證是事。復有天眼諸菩薩等。為欲利益無量眾生。修行大乘具六度者。亦能證知。復有十方諸佛世尊利眾生者。亦能證我為八字故捨於身命。羅剎復言。汝若如是能捨身者。諦聽諦聽。當為汝說其餘半偈。善男子。我於爾時聞是事已心中歡喜。即解己身所著鹿皮。為此羅剎敷置法座。白言。和上。願坐此座。我即於前叉手長跪而作是言。唯願和上。善為我說其餘半偈令得具足羅剎即說 生滅滅已  寂滅為樂  爾時羅剎說是偈已復作是言。菩薩摩訶薩汝今已聞具足偈義。汝之所願為悉滿足。若必欲利諸眾生者。時施我身。善男子。我於爾時深思此義。然後處處若石若壁若樹若道書寫此偈。即便更繫所著衣裳。恐其死後身體露現。即上高樹。爾時樹神復問我言。善哉仁者。欲作何事。善男子。我時答言。我欲捨身以報偈價。樹神問言。如是偈者何所利益。我時答言。如是偈句乃是過去未來現在諸佛所說開空法道。我為此法棄捨身命。不為利養名聞財寶轉輪聖王四大天王釋提桓因大梵天王人天中樂。為欲利益一切眾生故捨此身。善男子。我捨身時復作是言。願令一切慳惜之人。悉來見我捨離此身。若有少施起貢高者。亦令得見我為一偈捨此身命如棄草木。我於爾時說是語已。尋即放身自投樹下。下未至地時。虛空之中出種種聲。其聲乃至阿迦尼吒。爾時羅剎還復釋身。即於空中接取我身安置平地。爾時釋提桓因及諸天人大梵天王。稽首頂禮於我足下。讚言。善哉善哉。真是菩薩。能大利益無量眾生。欲於無明黑闇之中然大法炬。由我愛惜如來大法故相嬈惱。唯願聽我懺悔罪咎。汝於未來必定成就阿耨多羅三藐三菩提願見濟度。爾時釋提桓因及諸天眾。頂禮我足。於是辭去忽然不現。善男子。如我往昔為半偈故捨棄此身。以是因緣便得超越足十二劫。在彌勒前成阿耨多羅三藐三菩提。善男子。我得如是無量功德。皆由供養如來正法。善男子。汝今亦爾發於阿耨多羅三藐三菩提心。則已超過無量無邊恒河沙等諸菩薩上。善男子。是名菩薩住於大乘大般涅槃修於聖』
爾時毘首羯磨天白釋提桓因言。尸毘王苦行奇特世所希有。諸智人言。是人不久當得作佛。釋提桓因言。是事難辦。何以知之。如魚子菴羅樹華發心菩薩。是三事因時雖多成果甚少。今當試之。 爾の時、毘首羯磨天の釈提桓因に白して言さく、『尸毘王の苦行は奇特にして、世に希有なる所なれば、諸の智人は、是の人は、久しからずして、当に仏と作るを得べしと言えり』、と。釈提桓因の言わく、『是の事は辦じ難し。何を以ってか、之を知る。魚子、菴羅樹の華、発心の菩薩の如し。是の三事は、因時に多しと雖も、果を成すこと甚だ少し。今当に、之を試すべし』、と。
爾の時、
『毘首羯磨天』は、
『釈提桓因に白して!』、こう言った、――
『尸毘王の苦行は奇特であり!』、
『世に!』、
『希有とする所である!』ので、
『諸の智人』は、こう言っている、――
是の、
『人』は、
『久しからずして!』、
『仏と作るはずだ!と』、と。
『釈提桓因』は、こう言った、――
是の、
『仏に作るという!』、
『事』は、
『辦じ難い( be hard to accomplish )!』。
何故、知るかというと、――
譬えば、
『魚子や、菴羅樹の華や、発心の菩薩のような!』、
是の、
『三事は、因時には多いのに!』、
『果と成ること!』が、
『甚だ少いからである!』。
今、
是の、
『事』を、
『試してみよう!』、と。
  (べん):<動詞>[本義]取り扱う/処理する( handle, manage )、作す/従事する( do )、創設/経営/管理する( found, run )、準備する( prepare )、懲罰する( punish )、達成/到達する( accomplish, achieve )。
帝釋自化為鷹。毘首羯磨化作鴿。鴿投於王。王自割身肉。乃至舉身上稱以代鴿命。地為震動。是時釋提桓因等心大歡喜。散眾天華歎未曾有。如是決定大心成佛不久。 帝釈は、自ら化して鷹に為り、毘首羯磨は化して鴿になれり。鴿は王に投じ、王は自ら身肉を割き、乃至身を挙げて、称(はかり)に上り、以って鴿の命に代(か)うれば、地は為めに震動せり。是の時、釈提桓因等、心に大歓喜し、衆天華を散じて歎ずらく、『未曽有なり、是の如く大心を決定すれば、仏と成ること久しからず』、と。
『帝釈』は、
自ら、
『化して!』、
『鷹と為り!』、
『毘首羯磨』は、
『化して!』、
『鴿と作った!』。
『鴿』が、
『王』に、
『身を!』
『投じる!』と、
『王』は、
『自ら、身肉を割き!』、
乃至、
『身を挙げて、称に上り!』、
『鴿の命』に、
『代えた!』ので、
『地』が、
『感動して!』、
『震動した!』。
是の時、
『釈提桓因』等は、
『心に大歓喜して!』、
『衆天華』を、
『散じながら!』、
『歎じて!』、こう言った、――
未曽有である!
是のように、
『決定した大心』は、
『仏と成るのも!』、
『久しくないだろう!』、と。
復次凡夫人肉眼無有智慧。苦身求財以自生活。聞菩薩增益六波羅蜜成佛不久猶尚歡喜。何況諸天。 復た次ぎに、凡夫人の肉眼は、智恵有ること無く、身を苦しめて、財を求め、以って自ら生活するも、菩薩の六波羅蜜を増益して、仏と成ること久しからざるを聞くにすら、猶尚お歓喜す。何に況んや、諸天をや。
復た次ぎに、
『凡夫人の肉眼は、智恵が無い!』ので、
『身を苦しめて、財を求めながら!』、
『自ら!』、
『生活することになる!』が、
『菩薩が六波羅蜜を増益して!』、
『仏と成ることも、久しくない!』と、
『聞けば!』、
『猶尚お、歓喜するのである!』、
況して、
『諸天ならば!』、
『尚更である!』。
問曰。四天王天三十三天有阿修羅難上諸天等無有此患。何以歡喜。 問うて曰く、四天王天、三十三天には、阿修羅の難有るも、上の諸天等には、此の患有ること無きに、何を以ってか、歓喜する。
問い、
『四天王天や、三十三天には!』、
『阿修羅という!』、
『難』が、
『有る!』が、
『上の諸天(釈提桓因、毘首羯磨)等には!』、
此のような、
『患』が、
『無い!』、
何故、
『歓喜するのですか?』。
答曰。上諸天雖無阿修羅患。若佛不出世生其天上者少。設有生者五欲不妙。所以者何。但修不淨福故。色界諸天宮殿光明壽命亦復如是。 答えて曰く、上の諸天は、阿修羅の患無しと雖も、若し仏出世したまわざれば、其の天上に生ずる者少し。設(たと)い生ずる者有るも、五欲妙ならず。所以は何んとなれば、但だ不浄の福を修するが故なり。色界の諸天の宮殿、光明、寿命も、亦復た是の如し。
答え、
『上の諸天』には、
『阿修羅の患は無い!』が、
若し、
『仏が、出世されなければ!』、
其の、
『天上に生じる!』者が、
『少いからであり!』、
設い、
『天上に生じたとしても!』、
『五欲』が、
『美妙でないからである!』。
何故ならば、
但だ、
『不浄の福しか!』、
『修めないからである!』。
亦復た( and also )、
『色界の諸天の宮殿、光明、寿命』も、
『是の通りである!』。
復次諸天中有智慧者。能知禪味五欲悉皆無常。唯佛出世能令得常樂涅槃。以世間樂涅槃樂皆由佛菩薩得。是故歡喜。 復た次ぎに、諸天中の智恵有る者は、能く禅味を知るも、五欲は、悉く皆、無常なり。唯だ仏出世したまえば、能く常楽の涅槃を得しめ、世間の楽と、涅槃の楽とは、皆仏、菩薩由りて得るを以って、是の故に歓喜す。
復た次ぎに、
『諸天中の智恵有る!』者は、
『禅味を知る!』が、
『五欲』は、
『悉く皆が、無常であり!』、
唯だ、
『仏だけが、出世して!』、
『常楽の涅槃』を、
『得させられるのである!』。
『世間の楽も、涅槃の楽も!』、
皆、
『仏、菩薩に由って!』、
『得ることができる!』ので、
是の故に、
『歓喜したのである!』。
譬如甘美果樹茂盛成就人大歡喜。以樹有種種利益。有庇其蔭者。有用其華食其果實。菩薩亦如是。能以離不善法蔭遮三惡苦熱。能與人天富樂之華。令諸賢聖得三乘之果。是故歡喜。 譬えば、甘美なる果樹の茂盛して、人を成就して、大歓喜せしめ、樹に種種の利益有るを以って、有るいは其の蔭なる者を庇い、有るいは其の華を用い、其の果実を食うが如し。菩薩も亦た是の如く、能く不善法を離るる蔭を以って、三悪の苦熱を遮り、能く人に、天の富楽の華を与え、諸の賢聖をして、三乗の果を得しむれば、是の故に歓喜す。
譬えば、
『甘美な果樹が茂盛すれば!』、
 『人』の、
『大歓喜』を、
『成就する( to fulfill )!』のは、
『樹には、種種の利益が有る!』が故に、
有るいは、
『樹を蔭にする!』者を、
『庇い!』、
有るいは、
『樹の華』を、
『用い!』、
有るいは、
『樹の果』を、
『食うように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『不善法を離れさせる!』という、
『蔭を用いて!』、
『三悪の苦熱』を、
『遮り!』、
『人に、天の富楽の華を与えて!』、
『諸の賢聖』に、
『三乗の果』を、
『得させる!』ので、
是の故に、
『歓喜するのである!』。
  成就(じょうじゅ):梵語 abhinirhRta の訳、~を持ち上げる/引き上げる( taking someone upward )の義、満たす( fulfilling )の意。
問曰。諸天供養事多。何以奉缽。 問うて曰く、諸天の供養の事多きに、何を以ってか、鉢を奉ぐる。
問い、
『諸天』の、
『供養の事は、多いのに!』、
何故、
『鉢』を、
『奉げるのですか?』。
答曰。四天王奉缽。餘天供養諸天供養。各有定法。如佛初生時。釋提桓因以天衣奉承佛身。梵天王躬自執蓋。四天王四邊防護。淨居諸天欲令菩薩生厭離心故。化作老病死人及沙門身。 答えて曰く、四天王は、鉢を奉げ、餘天は供養す。諸天の供養は、各に定法有り。仏の初生の時の如きは、釈提桓因は、天衣を以って、仏身に奉承し、梵天王は躬(み)自ら蓋を執り、四天王は、四辺に防護し、浄居の諸天は、菩薩をして厭離の心を生ぜしめんと欲するが故に、老病死の人、及び沙門の身を化作す。
答え、
『四天王は、鉢を奉げる!』が、
『餘の天も!』、
『供養したのである!』。
『諸天の供養には!』、
各、
『定法が有り!』、
例えば、
『仏の初生の時などには!』、
『釈提桓因』が、
『天衣を用いて!』、
『仏身』に、
『奉承する!』と、
『梵天王』は、
『躬自ら( personally )!』、
『蓋』を、
『執り!』、
『四天王』は、
『四辺』を、
『防護し!』、
『浄居の諸天』は、
『菩薩に、厭離心を生じさせようとして!』、
『老、病、死の人や、沙門の身』を、
『化作するのである!』。
  (きゅう):<名詞>[本義]身体( whole body )、肘/腕( arm )、生命( life )。<代名詞>自身/自己/自ら( oneself, self )。<副詞>自ら/親自/躬自( personally )。<動詞>身に具わる( have )、微に身を屈めて、尊敬を表す( bend forward, bow )。
  参考:『大智度論巻26』:『佛不聽比丘用八種缽者。金銀等寶缽。以寶物人貪故。難得故。貪著故。不聽畜此寶物。乃至不得手舉名寶亦不得畜。若作淨施得用價不貴故。木缽受垢膩不淨故不聽畜。三種缽無如是事。問曰。瓦鐵缽皆亦受垢膩。與木缽無異。何以聽畜。答曰。瓦鐵缽不熏亦不聽。以熏不受垢膩故。石有麤細。細者亦不受垢膩故。世尊自畜。所以不聽比丘畜者以其重故。佛乳哺力勝一萬白香象。是故不以為重。慈愍諸比丘故不聽。問曰。侍者羅陀彌喜迦須那利羅多那伽娑婆羅阿難等。常侍從世尊執持應器。何以不憐愍。答曰。侍者雖執持佛缽。以佛威德力故。又恭敬尊重佛故不覺為重。又阿難身力亦大故。復次以細石缽難得故。麤者受垢膩故不聽用。佛缽四天王四山頭自然生故。餘人無此自然缽。若求作甚難多所妨廢。是故不聽。又欲令佛與弟子異故佛用石缽。又如國王人所尊重食器亦異。有人見佛缽異倍加尊重。供養信心清淨。』
又出家時。四天王敕使者捧舉馬足。自四邊侍護菩薩。天帝釋取髮於其天上城東門外立髮塔。又持菩薩寶衣於城南門外立衣塔。佛至樹下時奉上好草。執金剛菩薩常執金剛衛護菩薩。梵天王請佛轉法輪。如是等各有常法。以是故四天王奉缽。四缽義如先說。 又、出家の時には、四天王は使者に勅して、馬足を捧挙せしめ、自ら四辺に侍りて、菩薩を護り、天帝釈は髪を取って、其の天上の城の東門外に於いて、髪搭を立て、又菩薩の宝衣を持して、城の南門外に於いて、衣搭を立てたり。仏の樹下に至りし時には、好草を奉上し、執金剛菩薩は、常に金鋼を執りて、菩薩を衛護し、梵天王は、仏に転法輪を請ぜり。是れ等のごとく、各に常法有り。是を以っての故に、四天王は鉢を奉ぐ。四鉢の義は先に説けるが如し。
又、
『出家の時には!』、
『四天王』は、
『使者に勅して、馬足を捧挙させる!』と、
自らは、
『四辺に侍って!』、
『菩薩』を、
『護り!』、
『天帝釈』は、
『髪を取って!』、
『兜率天上の城の東門外に!』、
『髪搭』を、
『立て!』、
又、
『菩薩の宝衣を持して!』、
『城の南門外に!』、
『衣搭』を、
『立て!』、
『仏が樹下に至った時には!』、
『好草を奉上し!』、
『執金剛菩薩』が、
『常に、金鋼を執って!』、
『菩薩』を、
『衛護し!』、
『梵天王』は、
『仏』に、
『転法輪』を、
『請じたのである!』。
是れ等のように、
『諸天には!』、
各、
『常法が有り!』、
是の故に、
『四天王』は、
『鉢』を、
『奉げたのであるが!』が、
『四鉢の義』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』。
問曰。佛一身何以受四缽。 問うて曰く、仏は一身に、何を以ってか、四鉢を受けたもう。
問い、
『仏』は、
『一身なのに!』、
何故、
『四鉢』を、
『受けられるのですか?』。
答曰。四王力等不可偏受。又令見佛神力合四缽為一。心喜信淨作是念。我等從菩薩初生至今成佛所修供養功德不虛。 答えて曰く、四王の力は等しく、偏りて受くるべからず、又仏の神力もて、四鉢を合して、一と為すを見しむれば、心に喜び、信浄まりて、是の念を作さく、『我等は、菩薩の初生より、今の成仏に至るまでに修する所の供養の功徳は虚しからず』、と。
答え、
『四天王の力は等しい!』ので、
『偏って(one-sidedly )!』、
『受けるわけにはいかない!』、
又、
『仏の神力』が、
『四鉢を合して!』、
『一にする!』のを、
『見せれば!』、
『四天王の心が喜び、信心が浄まって!』、こう念じるからである、――
わたし達が、
『菩薩の初生より、今の成仏に至るまで、修めてきた!』、
『供養の功徳』は、
『虚しくなかった!』、と。
  (へん):<形容詞>[本義]傾斜した/かたよった( leaning, slanting, inclined, tilted )。遠く離れた( remote ),一面的な/部分的な/片面の( one- sided, unilateral )、私に偏った/不公正な/不公平な( selfish, partial, prejudiced )。<名詞>一方( side )。<動詞>傾く( incline, tilt )、片寄せる/偏袒する( be paratial to and side with )、堅持する/強要する( insist on )。<副詞>最も/特別に( specially )。
問曰。四天王壽命五百歲。菩薩過無量阿僧祇劫然後成佛。今之四天非是後天。何以故喜。 問うて曰く、四天王の寿命は五百歳にして、菩薩は無量阿僧祇劫を過ぎて、然る後に成仏するに、今の四天は、是れ後の天に非ず。何を以って故にか、喜ぶ。
問い、
『四天王の寿命は五百歳であるが!』、
『菩薩は無量、阿僧祇劫を過ぎた!』後に、
『仏』と、
『成るので!』、
『今の四天は、後の天ではない!』、
何故、
『喜ぶのですか?』。
答曰。同一姓故。譬如貴姓胤流百世不以遠故為異。或時行者見菩薩增益六波羅蜜時。心作是願。是菩薩成佛時我當奉缽。是故得生。 答えて曰く、同一の姓の故なり。譬えば、貴姓の胤流の百世なるは、遠きを以っての故に異と為さざるが如し。或は時に、行者は菩薩の六波羅蜜を増益するを見る時、心に是の願を作さく、是の菩薩の成仏の時、我れは当に鉢を奉ぐべし!』、と。是の故に生を得。
答え、
『四天王が、同一の姓だからである!』。
譬えば、
『貴姓』の、
『胤流が百世であっても!』、
『遠い!』が故に、
『異ることがないように!』、
或は時に、
『行者』は、
『菩薩』が、
『六波羅蜜を増益する!』のを、
『見て!』、
『心』に、こう願うかもしれない、――
是の、
『菩薩が、成仏する!』時、
わたしは、
『鉢』を、
『奉げねばならない!』、と。
是の故に、
『行者』は、
『菩薩の成仏する!』時に、
『生まれることができるのである!』。
  胤流(いんる):血統、血脈、家系( the line of descent )。
復次四天王壽五百歲。人間五十歲。為四天王處一日一夜。亦三十日為一月。十二月為一歲。以此歲壽五百歲。為人間九百萬歲。菩薩能作是功德者。或近成佛初生四天王足可得值。 復た次ぎに、四天王の寿は五百歳なるも、人間の五十歳を四天王処の一日一夜と為す。亦た三十日を一月と為し、十二月を一歳と為すに、此の歳を以って、寿五百歳は、人間の九百万歳と為す。菩薩は、能く是の功德を作せば、或は成仏に近づいて、初生の四天王は、値(あ)うを得べきに足る。
復た次ぎに、
『四天王の寿は、五百歳である!』が、
『人間の五十歳』は、
『四天王処』の、
『一日一夜であり!』、
亦た、
『四天王処』の、
『三十日は、一月であり!』、
『十二月』が、
『一歳である!』が故に、
『四天王天の歳を用いれば!』、
『寿の五百歳』は、
『人間』の、
『九百万歳である!』ので、
若し、
『菩薩』が、
是のような、
『功德を作すことができれば!』、
或は、
『近く!』、
『成仏することになり!』、
『初生の四天王』が、
『値うに( to meet )!』、
『足るかもしれない!』。
問曰。如摩訶衍經中說。有佛以喜為食不食揣食。如天王佛衣服儀容與白衣無異不須缽食。何以言四天王定應奉缽。 問うて曰く、摩訶衍経中に説かく、『有る仏は、喜を以って食と為し、揣食を食わず』、と。天王、仏の衣服の儀容は、白衣と異無けれども、鉢を須(ま)って食せず。何を以ってか、『四天王は、定んで応に鉢を奉ぐべし』、と言う。
問い、
『摩訶衍経』中には、こう説かれている、――
有る、
『仏』は、
『喜を、食とする!』ので、
『揣食( food )』を、
『食わない!』、と。
例えば、
『天王や、仏』の、
『衣服や、儀容』は、
『白衣』と、
『異が無い!』が、
『鉢を用いて!』、
『食』を、
『食われることはない!』のに、
何故、こう言うのですか?――
『四天王』は、
『鉢を奉げることに!』、
『定まっている!』、と。
  揣食(たんじき):梵語 kavaDii- karahaara の訳、口を澡いて施食を食う( washing the mouse and taking tribute )の義。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻17』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩行六波羅蜜時。見眾生有大小便患。當作是願。我作佛時令我國土中眾生皆以歡喜為食無有便利之患。乃至近一切種智。』
  参考:『出曜経巻7』:『菩薩慈力一毛不動。便成無上等正覺道魔即退還。是時如來熟視道樹目未曾眴。時有三賈客遠涉道來欲還本土。諸天固遮不使時過牛車頓躓。諸天告曰。如來成道已經七日可往奉獻飲食。即以器盛蜜酪酥往至如來所貢上飲食。是時如來不欲納受。所以然者。若我舒手取食者與外道梵志不別。我今當觀過去諸佛世尊為用何食。適作是念。諸天空中曰。過去諸佛皆用缽食發語已訖。四天王奉上四缽。非是巧匠所造自然成就。是時如來復作是念。今四天王奉上四缽。若我取一捨三取三捨一則非其宜。今盡取四缽拍為一缽。時彼賈人以蜜酥酪奉上如來。即為嚫願。今所布施欲使食者得充氣力。當令施家世世受福安快無病終保年壽終受吉祥。』
答曰。定者為用缽者故不說不用。復次用缽諸佛多不用缽者少。是故以多為定 答えて曰く、定むとは、鉢を用うる者の為めの故なれば、用いずと説かず。復た次ぎに、鉢を用うるは、諸仏に多く、鉢を用いざる者は少し。是の故に、多きを以って、定めらる。
答え、
『定めて!』とは、
『鉢を用いる者の為めである!』が故に、
『用いない!』と、
『説くことはない!』し、
復た次ぎに、
『諸仏』には、
『鉢を用いられる者が多く!』、
『用いられない者が少い!』ので、
是の故に、
『多い!』者を、
『定法としたのである!』。



三十三天等が、転法輪を請う

【經】三十三天乃至他化自在天。亦皆歡喜意念言。我等當給侍供養菩薩。減損阿修羅種增益諸天眾。三千大千世界四天王天乃至阿迦尼吒天。皆大歡喜意念言。我等當請是菩薩轉法輪 三十三天、乃至他化自在天も、亦た皆歓喜して、意に念じて言わく、『我等は、当に菩薩を給仕、供養して阿修羅種を減損し、諸天衆を増益すべし』、と。三千大千世界の四天王天、乃至阿迦尼吒天も、皆、大歓喜し、意に念じて言わく、『我等は、当に是の菩薩に転法輪を請ずべし』、と。
『三十三天、乃至他化自在天』も、
皆、
『歓喜し!』、
『意に念じて!』、こう言った、――
わたし達は、
『菩薩を給侍し、供養して!』、
『阿修羅種を減損し!』、
『諸天衆』を、
『増益せねばならない!』、と。
『三千大千世界の四天王天、乃至阿迦尼吒天』も、
皆、
『大歓喜し!』、
『意に念じて!』、こう言った、――
わたし達は、
是の、
『菩薩』に、
『転法輪』を、
『請じねばならない!』、と。
【論】釋曰。是諸天等。以華香瓔珞禮拜恭敬聽法讚歎等供養。亦作是念。人修淨福阿修羅種減增益三十三天。我諸天亦得增益。 釈して曰く、是の諸天等は、華香、瓔珞、礼拜、恭敬、聴法、讃歎等を以って、供養し、亦た是の念を作さく、『人、浄福を修すれば、阿修羅種減じて、三十三天を増益し、我が諸天も、亦た増益を得ん』、と。
釈す、
是の、
『諸天』等は、
『華香、瓔珞、礼拝、恭敬、聴法、讃歎等を用いて!』、
『菩薩』を、
『供養しながら!』、
亦た、こう念じたのである、――
『人が、浄福を修めれば!』、
『阿修羅種が減じて!』、
『三十三天』を、
『増益する!』ので、
わたしの、
『諸天も!』、
『増益することになるだろう!』、と。
  参考:『大智度論巻35』:『【經】佛告舍利弗。若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜能作是功德。是時四天王皆大歡喜意念言。我等當以四缽奉上菩薩。如前天王奉先佛缽』
問曰。上六種天已說。何以故。更說三千大千世界中。乃至阿迦尼吒天歡喜供養。 問うて曰く、上に六種の天を已に説けるに、何を以ってか、更に三千大千世界中の乃至阿迦尼吒天の歓喜、供養を説く。
問い、
上に、
『六種の天を、已に説きながら!』、
何故、更に、
『三千大千世界中の、乃至阿迦尼吒天の歓喜や、供養』を、
『説くのですか?』。
答曰。先說一須彌山上六天。此說三千大千世界諸天。先但說欲界。今此說欲界色界諸天請佛轉法輪。上雖說淨居諸天種種供養勸助。今請轉法輪事大故。 答えて曰く、先には、一須弥山上の六天を説き、此には、三千大千世界の諸天を説く。先には、但だ欲界を説き、今は此に、欲界、色界の諸天の仏に転法輪を請ずるを説く。上には、浄居の諸天の種種の供養、勧助を説くと雖も、今は、転法輪を請ずる事の大なるが故なり。
答え、
先には、
『一須弥山上の六天』を、
『説いた!』が、
此には、
『三千大千世界の諸天』を、
『説いた!』。
先には、
『但だ、欲界』を、
『説いただけである!』が、
今、此には、
『欲界、色界の諸天が、仏に転法輪を請じること!』を、
『説いた!』。
上にも、
『浄居の諸天(色界第四禅所有の五天)』が、
『種種に供養し、勧助すること!』を、
『説いている!』が、
今は、
『転法輪を請じる事は、大である!』が故に、
『三千大千世界の諸天』を、
『説くのである!』。
問曰。三藏中但說梵天請轉法輪。今何以說四天王乃至阿迦尼吒天。 問うて曰く、三蔵中には、但だ梵天の転法輪を請ずるを説く。今は、何を以ってか、四天王、乃至阿迦尼吒天を説く。
問い、
『三蔵』中には、
但だ、
『梵天が、転法輪を請じること!』を、
『説いている!』が、
今は、
何故、
『四天王、乃至阿迦尼吒天』を、
『説くのですか?』。
答曰。欲界天近故前來。色界都名為梵。若說梵王請佛已說餘天。又梵為色界初門。說初故後亦說 答えて曰く、欲界天は近きが故に前に来たれり。色界は、都(すべ)て名づけて、梵と為す。若し、梵王の仏を請ずるを説けば、已に餘天を説けり。又梵を色界の初門と為せば、初を説くが故に、後も亦た説くなり。
答え、
『欲界の天は近い!』が故に、
『前に!』、
『来たからである!』が、
『色界』は、
『都て( everybody )、梵であり!』、
若し、
『梵王』が、
『仏を請した!』と、
『説けば!』、
已に、
『餘天』を、
『説いたことになる!』。
又、
『梵は、色界の初門(色界初禅天)であり!』、
『初門を説いた!』が故に、
『後の浄居天』も、
『説いたのである!』。
復次眾生有佛無佛常識梵天。以梵天為世間祖父。為世人故說梵天。法輪相如先說 復た次ぎに、衆生は、有仏にも、無仏にも常に梵天を識り、梵天を以って、世間の祖父と為せば、世人の為めの故に梵天を説く。法輪の相は、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『仏が有ろうが、無かろうが!』、
常に、
『梵天を識っており!』、
『梵天は、世間の祖父である!』と、
『為している( to consider )!』ので、
『世人の為めに!』、
『梵天』を、
『説くのである!』。
『法輪の相』は、
先に、
『説いた通りである!』。



諸善男子、善女人が歓喜して、菩薩の父母等に作る

【經】舍利弗。是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。增益六波羅蜜時。諸善男子善女人各各歡喜意念言。我等當為是人作父母妻子親族知識 舎利弗、是の菩薩摩訶薩の般若波羅蜜を行じて、六波羅蜜を増益する時、諸の善男子、善女人は、各各歓喜して、意に念じて言わく、『我等は、当に是の人の為めに、父母、妻子、親族、知識と作るべし』、と。
舎利弗!
是の、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行いながら!』、
『六波羅蜜』を、
『増益する!』時、
諸の、
『善男子、善女人』は、
各各、
『歓喜し!』、
『意に念じて!』、こう言うだろう、――
わたし達は、
是の、
『人の為めに!』、
『父母、妻子、親族、知識』と、
『作らねばならぬ!』、と。
【論】問曰。前已說能作是功德今何以復說增益六波羅蜜。 問うて曰く、前に已に能く、是の功德を作すを説けるに、今は、何を以ってか、復た六波羅蜜を増益するを説く。
問い、
前に、已に、
是の、
『功德を、作すこと!』を、
『説いたのに!』、
今は、何故、
復た、
『六波羅蜜を、増益すること!』を、
『説くのですか?』。
答曰。先說總相今說別相。復次前所說功德中(前品中功德也)種種無量聞者厭惓。今但略說六波羅蜜則盡攝諸功德。 答えて曰く、先には総相を説き、今は別相を説く。復た次ぎに、前の所説の功德中に、種種無量にして、聞者厭惓すれば、今は但だ略して、六波羅蜜を説いて、則ち諸功徳を尽く摂するなり。
答え、
先には、
『総相を説いた!』ので、
今、
『別相』を、
『説くのである!』。
復た次ぎに、
前の、
『所説の功德』中には、
『種種、無量の功德が説かれた!』ので、
『聞者』は、
『厭惓したのである!』が、
今は、
但だ、
『六波羅蜜を略説したのである!』が、
則ち( however )、
『諸功徳』を、
『尽く、摂するのである( to contain completely )!』。
復次為天說故能作諸功德。為人說故增益六波羅蜜。何以知之。如後說善男子善女人。以是故知。 復た次ぎに、天の為めに説くが故に、能く諸功徳を作し、人の為めに説くが故に、六波羅蜜を増益す。何を以ってか、之を知る。後に善男子、善女人を説けるが如し。是を以っての故に知る。
復た次ぎに、
『天の為めに説く!』が故に、
『天』は、
『諸の功德』を、
『作すことができ!』、
『人の為めに説く!』が故に、
『人』は、
『六波羅蜜』を、
『増益するのである!』。
何故、之を知るかというと、――
後に、
『善男子、善女人』を、
『説く通りであり!』、
是の故に、
『知ったのである!』。
問曰。四天王天乃至阿迦尼吒天。何以不說善天而但人中說善男子善女人。 問うて曰く、四天王天、乃至阿迦尼吒天は、何を以ってか、『善天』を説かず、但だ『人中の善男子、善女人』を説く。
問い、
『四天王天、乃至阿迦尼吒天』は、
何故、
『善天』と、
『説かれず!』、
但だ、
『人中の善男子、善女人のみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。諸天皆有天眼天耳他心智知供養菩薩故不別說其善。人以肉眼見無知。善者能知供養。以少故別說善者。 答えて曰く、諸天は、皆、天眼、天耳、他心智有りて、菩薩を供養するを知るが故に、別けて、其の善を説かず。人は、肉眼を以って見れば、善を知る者無く、能く供養を知ること、少きを以っての故に、別に善者を説く。
答え、
『諸天』は、
皆、
『天眼、天耳、他心智が有り!』、
『菩薩を供養すること!』を、
『知る!』が故に、
其の、
『善』を、
『別けて!』、
『説くことはない!』が、
『人』は、
『肉眼を用いて、見る!』ので、
『善を知る者が無く!』、
『供養を知ることのできる!』者が、
『少い!』が故に、
『善い!』者を、
『別に!』、
『説くのである!』。
善者從佛聞法。或從弟子菩薩聞。或聞受記當作佛。又聞佛讚歎其名者故知修善。 善者は、仏より法を聞き、或は弟子、菩薩より聞き、或は、『当に仏と作るべし』、と記を受くるを聞き、又仏の其の名を讃歎するを聞く者にして故に善を修するを知る。
『善い!』者とは、
『仏より、法を聞いたり!』、
或は、
『弟子や、菩薩より!』、
『法を!』、
『聞いたり!』、
或は、
『当然、仏と作るだろう!』と、
『記を受けるのを!』、
『聞いたり!』、
又は、
『仏』が、
其の、
『名』を、
『讃歎するのを!』、
『聞く者であり!』、
是の故に、
『善を修めること!』を、
『知るのである!』。
問曰。何以但說男子女人善。不說二根無根者善。 問うて曰く、何を以ってか、但だ男子、女人の善を説き、二根、無根の者の善を説かざる。
問い、
何故、但だ、
『男子や、女人』の、
『善』を、
『説くだけで!』、
『二根や、無根の者』の、
『善』を、
『説かないのですか?』。
答曰。無根所謂無得道相。是故不說。 答えて曰く、無根は、謂わゆる得道の相無ければ、是の故に説かず。
答え、
『無根』とは、
謂わゆる、
『得道の相』の、
『無い者であり!』、
是の故に、
『説かれないのである!』。
如毘尼中不得出家。以其失男女相故其心不定。以小因緣故便瞋。結使多故著於世事。多懷疑網不樂道法。雖能少修福事。智慧淺薄不能深入本性轉易。是故不說。聲聞法如是說。 毘尼中には、出家するを得ざれば、其の男女の相を失うを以っての故に、其の心定まらず、小因縁を以っての故に、便ち瞋り、結使多きが故に、世事に著し、多く疑網を懐いて、道法を楽しまず、能く少しは福事を修すと雖も、智恵浅薄にして、深く入る能わず。本性転易すれば、是の故に説かず。声聞法には、是の如く説けり。
『毘尼(律蔵)』中などには、
『無根の者』は、
『出家することができない!』、
何故ならば、
『無根の者は、男女の相を失っている!』が故に、
其の、
『心が定まらず!』、
『小因縁』の故に、
便ち( easily )、
『瞋り!』、
『結使の多い!』が故に、
『世事に!』、
『著し!』、
『多く、疑網を懐く!』が故に、
『道法』を、
『楽しまず!』、
『少しは、福事を修めることができる!』が、
『智恵が浅薄である!』が故に、
『道法』に、
『深く入ることができず!』、
『本性が転易する( his nature is frequently changed )!』ので、
是の故に、
『無根の善』を、
『説かないのである!』。
『声聞法』には、
是のように、
『説かれている!』。
摩訶衍中譬如大海無所不容。是無根人或時修善。但以少故不說。所謂少者於男女中是人最少。是人修善者少。譬如白人雖復鬚髮黶子黑不名黑人。 摩訶衍中には、譬えば大海の如く、容れざる所無ければ、是の無根の人も、或は時に善を修するも、但だ少きを以っての故に、説かず。謂わゆる少しとは、男女中に於いて、是の人は最も少なく、是の人の善を修する者少し。譬えば、白人の、復た鬚髪、黶子(ほくろ)は黒しと雖も、黒人と名づけざるが如し。
『摩訶衍』中には、
譬えば、
『大海のように!』、
『容れない!』者は、
『無い!』ので、
是の、
『無根の人』も、
或は時に、
『善』を、
『修めることがある!』が、
但だ、
『少い!』が故に、
『説くことはない!』。
謂わゆる、
『少い!』とは、
『男、女』中に、
是の、
『人』は、
『最も少なく!』、
是の、
『無根の人』で、
『善を修める!』者も、
『少いからである!』。
譬えば、
『白人』は、
復た( on the contrary )、
『鬚髪や、黶子が黒くても!』、
『黒人』と、
『呼ばれないようなものである!』。
  黶子(えんし):ほくろ、黒黶子。
二根人結使多。雜亦行男事亦行女事。其心邪曲難可勉濟。譬如稠林曳木曲者難出。又如阿修羅其心不端故常疑於佛謂佛助天。佛為說五眾。謂有六眾不為說一。若說四諦謂有五諦不說一事。二根人亦如是。心多邪曲故不任得道。以是故但說男子女人中善者。 二根の人は、結使多く、雑えて亦た男事を行じ、亦た女事を行ずれば、其の心邪曲にして、勉済すべきこと難し。譬えば、稠林の木を曳くに、曲がれる者は、出し難きが如し。又阿修羅の、其の心端(ただ)しからざるが故に、常に仏を疑いて、仏は天を助くと謂い、仏、為めに五衆を説きたまえば、六衆有るに、為めに一を説かずと謂い、若し四諦を説けば、五諦有るに、一事を説かずと謂うが如し。二根の人も亦た是の如く、心、多く邪曲なるが故に、道を得るに任えず。是を以っての故に、但だ男子、女人中の善なる者を説く。
『二根の人』は、
『結使が多く!』、
『男事と、女事を雑えて!』、
『行う!』が故に、
其の、
『心は邪曲であり!』、
自ら、
『勉済すること!』が、
『難しい!』。
譬えば、
『稠林より、木を曳くのに!』、
『曲がった木』は、
『出し難いようなものであり!』、
又、
『阿修羅』が、
其の、
『心が端しくない( having crooked mind )!』が故に、
常に、
『仏を疑って!』、
『仏は、天を助ける( the buddha is an assistant of deva )!』と、
『謂い!』、
『仏』が、
『阿修羅の為めに!』、
『五衆』を、
『説かれる!』と、
『六衆有るのに!』、
『阿修羅の為めには!』、
『一を説かなかった!』と、
『謂い!』、
若し、
『四諦を説かれれば!』、
『五諦有るのに!』、
『一事を説かれなかった!』と、
『謂うようなものである!』。
『二根の人』も、
是のように、
『心が、多く邪曲である!』が故に、
『道を得るのに!』、
『任えられない( be unequal to )!』ので、
是の故に、
但だ、
『男子、女人中の善者のみ!』を、
『説かれたのである!』。
  邪曲(じゃごく):邪であり曲がっている。
  勉済(べんさい):努力して自ら救う。
  稠林(ちゅうりん):木の密集せる林、密林。
  助天(じょてん):天を補佐する。
善相者有慈悲心能忍惡罵。如法句罵品中說能忍惡罵人是名人中上。譬如好良馬可中為王乘。 善相とは、慈悲心有りて、能く悪罵を忍ぶ。法句の罵品中に、『能く悪罵を忍ぶ人、是れを人中の上と名づく』、と。譬えば好良なる馬の、王に乗らるるに、中(あた)るべきが如し。
『善の相』は、
『慈悲心が有り!』、
『悪罵』を、
『忍ぶことができる!』。
例えば、
『法句経の罵品』中に、こう説くようなものである、――
『悪罵を忍ぶことのできる!』、
『人』は、
『人中の上である!』、と。
譬えば、
『良好な馬』は、
『王の乗るのに!』、
『中たる( be proper for )ようなものである!』。
  可中(かちゅう):過不足の無い、適切な( be suitable, proper )。
  参考:『法句経巻1言語品』:『言語品法句經第八十有二章  言語品者。所以戒口發說談論當用道理 惡言罵詈  憍陵蔑人  興起是行  疾怨滋生  遜言順辭  尊敬於人  棄結忍惡  疾怨自滅  夫士之生  斧在口中  所以斬身  由其惡言  諍為少利  如掩失財  從彼致諍  令意向惡 譽惡惡所譽  是二俱為惡  好以口儈鬥  是後皆無安  無道墮惡道  自增地獄苦  遠愚修忍意  念諦則無犯  從善得解脫  為惡不得解  善解者為賢  是為脫惡惱  解自抱損意  不躁言得中  義說如法說  是言柔軟甘  是以言語者  必使己無患  亦不剋眾人  是為能善言  言使投意可  亦令得歡喜  不使至惡意  出言眾悉可  至誠甘露說  如法而無過  諦如義如法  是為近道立  說如佛言者  是吉得滅度  為能作浩際  是謂言中上』
復次以五種邪語及鞭杖打害縛繫等。不能毀壞其心。是名為善相。 復た次ぎに、五種の邪語、及び鞭杖、打害、縛繋等を以って、其の心を毀壊すること能わざれば、是れを名づけて、善相と為す。
復た次ぎに、
『五種の邪語(妄語、両舌、悪口、綺語、不利益語)や!』、
『鞭杖、打害、縛繋等を用いても!』、
其の、
『心』を、
『毀壊することができなければ!』、
是れを、
『善の相』と、
『称する!』。
  五種邪語(ごしゅのじゃご):人の為にならざる五種の語、即ち一に妄語、二に悪口語、三に不時語、四に悪心語、五に不利益語を云う。即ち「禅法要解」に、「問うて曰わく、行慈の者は何なる功徳を得る。答えて曰わく、行慈なれば、諸悪を加うること能わず、好き守備には外賊の害せざるが如し。もし悩害せんと欲せば、反って自ら患を受けんこと、人の、掌を以って矛を拍てば、掌は自ら傷壊して、矛に害する所無きが如し。五種の邪語も、心を壊すること能わず、五種とは、一には妄語して説く過、二には悪口して説く過、三には不時に説く過、四には悪心もて説く過、五には、不利益を説く過なり。譬えば、大地の破壊すべからざるが如く、種種の瞋悩、讒謗等も毀つ能わず。譬えば、虚空の加害を受けざるが如く、心智柔軟にして、猶お、天衣の若し」と云えるこれなり。蓋し十不善業中の妄語、両舌、悪口、綺語に不時語を加えたるなり。
復次三業無失樂於善人不毀他善。不顯己德。隨順眾人不說他過。不著世樂不求名譽。信樂道德之樂。自業清淨不惱眾生。心貴實法輕賤世事。唯好直信不隨他誑。為一切眾生得樂故自捨己樂。令一切眾生得離苦故以身代之。如是等無量名為善人相。是相多在男女故說善男子善女人。 復た次ぎに、三業に失無く、善人を楽しみ、他の善を毀らず、己れの德を顕さず、衆人に随順するも他の過を説かず、世楽に著せず、名誉を求めず、道徳の楽を信楽して、自業淸淨にして衆生を悩ませず、心に実法を貴び、世事を軽賎し、唯だ好んで直信するも、他の誑すに随わず、一切の衆生に、楽を得しめんが為めの故に、自ら己れの楽を捨て、一切の衆生をして、苦を離るるを得しめんが故に、身を以って、之に代う。是れ等の如き、無量を名づけて、善人の相と為す。是の相は、多く男女に在るが故に、善男子、善女人と説く。
復た次ぎに、
『身、口、意の三業に失無く!』、
『善行の人を、楽しんで!』、
『他人の善行』を、
『毀らず!』、
『己れの德を、顕わすこともなく!』、
『衆人に随順しながらも!』、
『他人の過』を、
『説くことなく!』、
『世楽に著すこともなく、名誉を求めることもなく!』、
『道徳の楽を信楽して!』、
『自業を淸淨にして!』、
『衆生を悩ますこともなく!』、
『心に実法を貴んで、世事を軽賎し!』、
『唯だ好んで、直信しながら( being very credulous )!』、
『他人の欺誑( other's fraudulence )』に、
『随うこともなく!』、
『一切の衆生に、楽を得させる!』為めの故に、
『自ら、己の楽を捨て!』、
『一切の衆生に!』、
『苦』を、
『離れさせる!』為めの故に、
『身を用いて!』、
『他人の苦』に、
『代える!』。
是れ等のような、
『無量の相』を、
『善人の相』と、
『称するのである!』が、
是の、
『相は、多く男女に在る!』が故に、
『善男子、善女人』と、
『説くのである!』。
問曰。善男子善女人何因能作是願。 問うて曰く、善男子、善女人は、何に因ってか、能く是の願を作す。
問い、
『善男子、善女人』は、
何のような、
『因縁』の故に、
是の、
『願』を、
『作すことができたのですか?』。
答曰。善男子善女人自知福薄智慧尠少。習近菩薩欲求過度。譬如沈石雖重依船得度。又善男子善女人。聞菩薩不從一世二世而得成道。無央數世往來生死。便作是念。我當與為因緣。 答えて曰く、善男子、善女人は、自ら福薄く、智恵尠少なるを知り、菩薩に習近して、過度を求めんと欲す。譬えば沈石は重しと雖も、船に依れば、度を得るが如し。又善男子、善女人は、菩薩の一世、二世より道を成ずるを得るにあらず、無央数の世に、生死を往来すと聞いて、便ち、是の念を作さく、『我れは、当に為めに因縁に与(あずか)るべし』、と。
答え、
『善男子、善女人』は、
自ら、
『福が薄く、智恵が尠少であることを知り!』、
『菩薩に習近して( to attend to Bodhisattva )!』、
『過度( to pass through )しよう!』、
『欲求した( to desire to )のである!』。
譬えば、
『沈石は重くても!』、
『船に依れば!』、
『渡ることができるようなものである!』。
又、
『善男子、善女人』は、
『菩薩は、一世や、二世で道を成すのではなく!』、
『無央数世に、生死を往来しながら!』、
『道を成すのである!』と、
『聞き!』、
便ち( instantly )、こう念じるのである、――
わたしは、
『菩薩の為めに!』、
『成仏の因縁に!』、
『与らねばならない( should help to make )!』、と。
  尠少(せんしょう):甚だしく少い/希に( very few, seldom, rarely )。
  習近(じゅうこん):そばに仕える( to attend to )。近習/近侍する。
  欲求(よくぐう):助けを求めて希望する。
  過度(かど):渡る/通り過ぎる( go across, pass, pass through )。
復次菩薩積德厚故在所生處。眾生皆來敬仰菩薩。以蒙利益重故。若見菩薩捨壽則生是願。我當與菩薩作父母妻子眷屬。所以者何。知習近善人增益功德故。譬如積集眾香香氣轉多。 復た次ぎに、菩薩は、德を積むこと厚きが故に、所生の処に在りても、衆生は皆来たりて、菩薩を敬仰す。利益を蒙ることの重きを以っての故なり。若し菩薩の寿を捨つるを見れば、則ち是の願を生ず、『我れは当に菩薩の与(ため)に、父母、妻子、眷属と作るべし』、と。所以は何んとなれば、善人に習近すれば、功德を増益すると知るが故なり。譬えば、衆香を積集すれば、香気転(うた)た多きが如し。
復た次ぎに、
『菩薩の積んだ!』、
『德が厚い!』が故に、
『所生の処に在りながら!』、
『衆生が、皆来て!』、
『菩薩』を、
『敬仰するのは!』、
『衆生の蒙る!』、
『利益』が、
『重いからである!』。
若し、
『菩薩』が、
『命を捨てる!』のを、
『見れば!』、
則ち、こう願うことになる、――
わたしは、
『菩薩の与に( for this bodhisattva )!』、
『父母、妻子、眷属』と、
『作らねばならない!』、と。
何故ならば、
『善人に習近すれば!』、
『功德を増益することになる!』と、
『知るからである!』。
譬えば、
『衆香を積集すれば!』、
『香気』が、
『転た多くなる( to increase more and more )ようなものである!』。
如菩薩先世為國王太子。見閻浮提人貧窮。欲求如意珠入於大海至龍王宮。龍見太子威德殊妙即起迎逆延前供養。而問之言。何能遠來。太子答曰。我憐閻浮提眾生故。欲求如意寶珠以饒益之。 菩薩の先世に国王の太子と為りて、閻浮提の人の貧窮なるを見、如意珠を求めんと欲して、大海に入り、龍王の宮に至れり。龍は、太子の威徳の殊妙なるを見て、即ち起ちて迎逆し、延前して供養し、之に問うて言わく、『何んが能く遠く来たる』、と。太子の答えて曰く、『我れは閻浮提の衆生を憐れむが故に、如意宝珠を求め、以って之を饒益せんと欲す』、と。
例えば、
『菩薩』は、
『先世に、国王の太子であった!』が、
『閻浮提の人』が、
『貧窮である!』のを、
『見て!』、
『如意珠を求めようとし!』、
『大海に入って!』、
『龍王の宮に!』、
『至った!』。
『龍』は、
『太子の威徳が殊妙であるのを、見る!』と、
『即ち、起って!』、
『迎逆、延前し!』、
『供養する!』と、
『太子に問うて!』、こう言った、――
何のようにして、
『遠くより!』、
『来ることができたのか?』、と。
『太子は答えて!』、こう言った、――
わたしは、
『閻浮提の衆生を憐れむ!』が故に、
『如意宝珠』を、
『求め!』、
『宝珠を用いて!』、
『衆生』を、
『饒益しようとするのである!』、と。
  迎逆(ぎょうぎゃく):出迎える。
  延前(えんぜん):案内する。引導。
  参考:『大智度論巻12』、『大方便仏報恩経巻4』:『‥‥王問太子。汝慇懃欲入大海。何所作為。答言。大王。欲取摩尼大寶給足一切眾生所須。爾時大王即遍宣令。誰欲入海。若往還者。七世衣食珍寶無所乏少。吾當供給道路船乘所須。善友太子亦欲入海採取珍妙摩尼寶珠。眾人聞之歡喜聚集具五百人。皆言大王。我等今者隨從太子。爾時波羅奈國。有一海師。前後數返入於大海。善知道路通塞之相。而年八十兩目矇盲。爾時波羅奈大王。往導師所。報言。導師。吾唯一子未更出門。勞屈大師入於大海。願見隨從。爾時導師即舉聲大哭。大王。大海留難辛苦非一。往者千萬。達者一二。大王今者。云何乃能令太子遠涉嶮道。王報導師。為憐愍故隨從聽許。導師言。不敢違逆。爾時善友太子。莊嚴五百人行具。載至大海邊。爾時其弟惡友太子。作是念言。善友太子。父母而常偏心愛念。今入大海採取妙寶。若達還者。父母當遺棄於我。作是念已。往白父母。今我亦欲隨從善友。入海採取妙寶。父母聞已。答言隨意。道路急難之時。兄弟相隨必相救護。至大海已。以七鐵鎖鎖其船舫。停住七日。至日初出時。善友太子擊鼓唱令。汝等諸人誰欲入海。入者默然。若當戀著父母兄弟婦兒閻浮提樂者。從此還歸莫為我故。所以者何。大海之中留難非一。往者千萬。達者一二。如是唱令大眾默然。即斷一鎖舉著船上。日日唱令至第七日。即斷七鎖舉著船上。望風舉帆。以太子慈心福德力故。無諸留難。得至海洲至珍寶山。到寶所已。善友太子即便擊鼓宣令。諸人當知道路懸遠。汝等諸人速載珍寶極停七日。復作是言。此寶甚重。閻浮提中亦無所直。莫大重載船舫沈沒不達所至。莫大輕取道路懸遠不補勞苦。裝束已訖與諸人別。而作是言。汝等於是善安隱歸。吾方欲前進採摩尼寶珠。爾時善友太子。與盲導師即前進路行一七日。水齊到膝。復更前行一七水齊到頸。前進一七浮而得渡。即到海處。其地純以白銀為沙。導師問言。此地何物。太子答言。其地純是白銀沙。導師言。四望應當有白銀山。汝見未耶。太子言。東南方有一白銀山現。導師言。此道在此山下。至彼山已。導師言。次應到金沙。爾時導師。疲乏悶絕[跳-兆+辟]地。語太子言。我身命者。勢不得久必喪於此。太子於是東行一七。當有金山。從山復更前進一七。其地純是青蓮華。復前行一七。其地純是紅赤蓮華。過是華已。應有一七寶城。純以黃金而為卻敵。白銀以為樓櫓。以赤珊瑚為其障板。車磲馬瑙雜廁間錯。真珠羅網而覆其上。七重塹壘純紺琉璃。大海龍王所止住處。其龍王耳中有一摩尼如意寶珠。汝往從乞。若得此珠者。能滿閻浮提。雨眾七寶衣被飲食病瘦醫藥音樂倡伎。總要而言。一切眾生所須之物。隨意能雨。是故名之如意寶珠。太子若得是珠者。必當滿汝本願。爾時導師作是語已。氣絕命終。爾時善友太子。即前抱持導師。舉聲悲哭。一何薄命生失我所天。即以導師金沙覆上。埋著地中。右遶七匝頂禮而去。前至金山。過金山已。見青蓮華遍布其地。其蓮華下有青毒蛇。此蛇有三種毒。所謂嚙毒觸毒氣噓毒。此諸毒蛇。以身遶蓮華莖。張目喘息而視太子。爾時善友太子。即入慈心三昧。以三昧力。即起進路踏蓮華葉而去。時諸毒蛇而不毀傷。以慈心力故。逕至龍王所止住處。其城四邊有七重塹。其城塹中滿中毒龍。以身共相蟠結。舉頭交頸守護城門。爾時太子到城門外。見諸毒龍。即慈心念閻浮提一切眾生。今我此身。若為此毒龍所害者。汝等一切眾生皆當失大利益。爾時太子即舉右手。告諸毒龍。汝等當知。我今為一切眾生欲見龍王。爾時諸毒龍。即開路令太子得過。乃至七重塹守城毒龍。得至城門下。見二玉女紡頗梨縷。太子問曰。汝是何人。答言。我是龍王守外門婢。問已前入到中門下。見四玉女紡白銀縷。太子復問。汝是龍王婦耶。答言。非也。是龍王守中門婢耳。太子問已。前入到內門所。見八玉女紡黃金縷。太子問曰。汝是何人。答言。我是龍王守內門婢耳。太子語言。汝為我通大海龍王。閻浮提波羅奈王善友太子。故來相見。今在門下。時守門者。即白如是。王聞是語。疑怪所以。作是念言。自非福德純善之人。無由遠涉如是嶮路。即請入宮王出奉迎。其龍王宮紺琉璃為地。床座七寶。有種種光明耀動人目。即請令坐。共相問訊。善友太子。因為說法示教利喜。種種教化。讚說施論戒論人天之論。時大海龍王。心大歡喜。遠屈塗涉欲須何物。太子言。大王。閻浮提一切眾生。為衣財飲食故。受無窮之苦。今欲從王乞左耳中如意摩尼寶珠。龍王言。受我微供一七日。當以奉給。爾時善友太子。受龍王請。過七日已。得摩尼寶珠還閻浮提。‥‥』
龍言。能住我宮受供一月當以相與。太子即住一月為龍王讚歎多聞。龍即與珠。是如意珠能雨一由旬。龍言。太子有相不久作佛。我當作多聞第一弟子。 龍の言わく、『能く我が宮に住して、供を受くること一月すれば、当に以って相い与うべし』、と。太子は、即ち一月住して、龍王の為めに多聞を讃歎す。龍は、即ち珠を与う、『是の如意珠は、能く一由旬を雨ふらす』、と。龍の言わく、『太子には、久しからずして、仏と作る相有り。我れは当に、多聞第一の弟子と作るべし』、と。
『龍』は、こう言った、――
わたしの、
『宮に、一月住して!』、
『供養』を、
『受けることができれば!』、
お前に、
『珠』を、
『与えるであろう!』、と。
『太子』は、
即ち、
『一月、宮に住して!』、
『龍王の為めに!』、
『多聞の德』を、
『讃歎した!』。
『龍』が、
即ち、
『太子に、珠を与える!』と、
是の、
『如意珠』は、
『一由旬』に、
『雨を降らすことができ!』。
『龍』は、こう言った、――
『太子』には、
『久しからずして!』、
『仏と作る相』が、
『有る!』。
わたしは、
『多聞第一』の、
『弟子と!』、
『作るだろう!』、と。
時太子復至一龍宮得珠雨二由旬。二月讚歎神通力。龍言。太子作佛不久。我當作神足第一弟子。復至一龍宮得珠雨三由旬。三月讚歎智慧。龍言。太子作佛不久。我當作智慧第一弟子。 時に太子は、復た一龍宮に至りて、珠を得るに、雨ふらすこと二由旬なれば、二月、神通力を讃歎す。龍の言わく、『太子の仏と作ること、久しからず。我れは当に神足第一の弟子と作るべし』、と。復た一龍宮に至りて、珠を得るに、雨ふらすこと三由旬なれば、三月智慧を讃歎す。龍の言わく、『太子の仏と作ること、久しからず。我れは当に智慧第一の弟子と作るべし』、と。
その時、
『太子』は、
復た、
『一龍宮に至って、珠を得る!』と、
『珠』は、
『二由旬に、雨を降らした!』ので、
『二ヶ月』、
『龍の神通力』を、
『讃歎した!』。
『龍』は、こう言った、――
『太子』が、
『仏と作るのも!』、
『久しくないだろう!』。
わたしは、
『神足第一』の、
『弟子と作らねばならない!』、と。
復た、
『一龍宮に至って、珠を得る!』と、
『珠』は、
『三由旬に、雨を降らした!』ので、
『三ヶ月』、
『龍の智慧』を、
『讃歎した!』。
『龍』は、こう言った、――
『太子』が、
『仏と作るのも!』、
『久しくないだろう!』。
わたしは、
『智慧第一』の、
『弟子と作らねばならない!』、と。
諸龍與珠已言。盡汝壽命珠當還我。菩薩許之。太子得珠至閻浮提。一珠能雨飲食。一珠能雨衣服。一珠能雨七寶利益眾生。 諸龍の珠を与え已りて言わく、『汝が寿命尽くれば、珠を、当に我れに還すべし』、と。菩薩は、之を許す。太子は、珠を得て、閻浮提に至るに、一珠は、能く飲食を雨ふらし、一珠は能く衣服を雨ふらし、一珠は能く七宝を雨ふらして、衆生を利益せり。
『諸の龍』は、
『珠を与えながら!』、こう言った、――
お前の、
『寿命が尽きれば!』、
『珠』を、
『わたしに、還さねばならない!』、と。
『菩薩』は、
『珠を還すこと!』を、
『許した( to agree )!』。
『太子』が、
『珠を得て、閻浮提に至る!』と、
『一珠』は、
『飲食』を、
『雨ふらし!』、
『一珠』は、
『衣服』を、
『雨ふらし!』、
『一珠』は、
『七宝』を、
『雨ふらして!』、
即ち、
『衆生』を、
『利益したのである!』。
又如須摩提菩薩。見燃燈佛從須羅婆女買五莖花不肯與之。即以五百金錢得五莖花女猶不與。而要之言。願我世世常為君妻當以相與。菩薩以供養佛故即便許之。 又、須摩提菩薩の如きは、燃灯仏を見て、須羅婆女より、五茎の花を買わんとするも、肯て之を与えざれば、即ち、五百金銭を以って、五茎の花を得んとするも、女、猶お与えずして、之に要(もと)めて言わく、『願わくは、我れ世世に常に、君が妻と為せば、当に以って相い与うべし』、と。菩薩は、仏を供養せんを以っての故に、即便ち之を許す。
又、
『須摩提菩薩など!』は、
『燃灯仏を見て!』、
『須羅婆女より!』、
『五茎の花』を、
『買おうとした!』が、
『女』は、
『花』を、
『与えようとしなかった!』。
即ち( and then )、
『五百金銭を払って!』、
『五茎の花』を、
『得ようとした!』が、
『女は、猶お与えることなく!』、
『菩薩に要めて( asking the bodhisattva to )!』、こう言った、――
願わくは、
わたしは、
世世に、
『常に!』、
『君の妻と為りたい!』、
若し、
『妻と為ることができれば!』、
『君に与えよう!』、と。
『菩薩』は、
『仏を供養する!』為めの故に、
即便ち( easily )、
『妻と為ること!』を、
『許した( to agree )のである!』。
  須摩提(しゅまだい):梵語sumati、菩薩の名。『大智度論巻30上注:須摩提』、『仏説須摩提菩薩経』参照。
  須羅婆(しゅらば):梵名、好得と訳す。女の名。『翻梵語巻5』参照。
  (よう):<名詞>[本義]人の腰( waist )。<動詞>招待する/請す( invite )、探求/追求する( seek, pursue )、阻む/要撃/邀撃する( intercept )、出迎える/迎接する( meet )、制限する/禁止する( keep within bounds, restrain, prohibit )、阻む/制する( prevent )、強いる/強要する( force, coerce )、和する/会合する( join, meet )、検査する/審察する/チェックする( examine, verify, check )。<名詞>要点( important point )、要職( important position )、計画/案( scheme )。<形容詞>重要/重大( important, essential )、簡要な( consise and to the point )、強力で影響力がある( powerful and influential )、険要な/戦略上重要な( strategic )。<動詞>険要を守る( hold a strategic point, guard )、要求する( want, ask for, beg )、希望する( wish to, want to )、応当/必須/必ず~すべし( should, must )、将に~すべし/今にも~しそうだ( be going to ),比較する( compare )。<接続詞>もし~ならば( if, suppose, in case )、若しくは( or, either…or… )。
  参考:『修行本起経巻上』:『是時有梵志儒童。名無垢光。幼懷聰叡。志大苞弘。隱居山林。守玄行禪。圖書祕讖。無所不知。心思供養。奉報師恩。辭行開化道經丘聚。聚中梵志。名不樓陀。盛祀天祠。滿十二月。飯食供養。梵志徒眾。八萬四千人。歲終達嚫。金銀珍寶車馬牛羊。衣被繒綵。履屣。七寶之蓋。錫杖澡罐。最聰明智慧者。應受斯物。七日未竟。時儒童菩薩。入彼眾中。論道說義。七日七夜。爾時其眾。欣踊無量。主人長者。甚大歡喜。以女賢意。施與菩薩。菩薩不受。唯取傘蓋錫杖澡罐履屣金銀錢各一千。還上本師。其師歡喜。便共分布。儒童菩薩。復辭出行。時諸同學。各各贈送人一銀錢。遂行入國。見人欣然。匆匆平治道路。灑掃燒香。即問行人。用何等故。行人答曰。錠光佛。今日當來。施設供養。儒童聞佛歡喜踊躍。衣毛肅然。佛從何來。云何供養。行人對曰。唯持花香繒綵幢幡。於是菩薩。便行入城。勤求供具。須臾周匝。了不可得。國人言。王禁花香。七日獨供。菩薩聞之。心甚不樂。須臾佛到。知童子心。時有一女。持瓶盛花。佛放光明。徹照花瓶。變為琉璃。內外相見。菩薩往趣。而說頌曰 銀錢凡五百  請買五莖花  奉上錠光佛  求我本所願  女時說頌答菩薩言 此花直數錢  乃顧至五百  今求何等願  不惜銀錢寶  菩薩即答言 不求釋梵魔  四王轉輪聖  願我得成佛  度脫諸十方  女言善快哉  所願速得成  願我後世生  常當為君妻  菩薩即答言 女人多情態  壞人正道意  敗亂所求願  斷人布施心  女答菩薩言 女誓後世生  隨君所施與  兒子及我身  今佛知我意  仁者慈愍我  唯賜求所願  此華便可得  不者錢還卿  即時思宿命  觀視其本行  以更五百世  曾為菩薩妻  於是便可之。歡喜受花去。意甚大悅。今我女弱。不能得前。請寄二華。以上於佛。即時佛到。國王臣民。長者居士。眷屬圍遶。數千百重。菩薩欲前散花。不能得前。佛知至意。化地作泥。人眾兩披。爾乃得前。便散五華。皆止空中。變成花蓋。面七十里。二花住佛兩肩上。如根生。菩薩歡喜。布髮著地。願尊蹈之。佛言。豈可蹈乎。菩薩對曰。唯佛能蹈。佛乃蹈之。即住而笑。口中五色光出。離口七尺。分為兩分。一光繞佛三匝。光照三千大千剎土。莫不得所。還從頂入。一光下入十八地獄苦痛一時得安。諸弟子白佛言。佛不妄笑。願說其意。佛言。汝等見此童子不。唯然已見。世尊言。此童子於無數劫。所學清淨。降心棄命。捨欲守空。不起不滅。無倚之慈。積德行願。今得之矣』
  参考:『翻梵語巻5』:『須羅婆女 譯曰須者好也 羅婆者得 第三十五卷』
又妙光菩薩。長者女見其身有二十八相。生愛敬心住在門下。菩薩既到。女即解頸琉璃珠著菩薩缽中。心作是願。我當世世為此人婦。此女二百五十劫中集諸功德。後生喜見婬女園蓮花中。喜見養育為女。至年十四。女工世智皆悉備足。 又、妙光菩薩は、長者女、其の身に二十八相有るを見て、愛敬心を生じ、門下に在りて住せり。菩薩の、既に到るに、女は、即ち頚の琉璃珠を解いて、菩薩の鉢中に著け、心に是の願を作さく、『我れは、当に世世に此の人の婦たるべし』、と。此の女は、二百五十劫中に諸の功德を集め、後に、喜見婬女を園の蓮華中に生じ、喜見を養育して、女と為すこと、年十四に至りて、女工、世智、皆悉く備足す。
又、
『妙光菩薩』は、
『長者女』が、
其の、
『身に有る!』、
『二十八相を見て!』、
『愛敬心』を、
『生じ!』、
『門下に、住し( to stop at his gate and wait him )!』、
『菩薩が、既に到る!』と、
『女は、頚の琉璃珠を解いて!』、
『菩薩の鉢』中に、
『著け( to put )!』、
『心』に、こう願った、――
わたしは、
世世に、
此の、
『人の婦』と、
『為らねばならない!』、と。
此の、
『女』は、
『二百五十劫中に、諸の功德を集めた!』後、
『喜見婬女を、園の蓮花中に生じ!』、
『喜見』は、
『(喜徳を)養育して!』、
『女とした( to make her her daughter )!』。
『女の年が、十四に至る!』と、
『女工( the female manual arts or crafts )や!』、
『世智( the knowing of the way of the world )を!』、
皆、
『備具していた!』。
  参考:『40華厳経巻28』:『爾時大樹妙高吉祥王都之中。有一母人。名為善現。有一童女。名具足豔吉祥。顏容端正。色相嚴潔。洪纖得所。修短合度。眾相圓備。目髮紺青。言同梵音。清徹美妙。智慧聰明。人所尊重。善達技能。精通辯論。恭勤匪懈。質直柔和。少欲寡思。慈愍不害。具足慚愧。無諂無憍。志量弘深。人無與等。及與其母。乘妙寶車。將諸眷屬。無量采女前後圍遶。先於太子。從王都出。歌詠嬉戲。隨路而行。見其太子奏諸妓樂。言辭諷詠。心生愛染。而白母言。善哉慈母。我心願得敬事此人。若不遂情。自當殞滅。時母善現。告其女言。汝今不應生如是念。何以故。今此仁者。是王太子。具足圓滿轉輪王相。不久當紹轉輪王位。時有女寶自然出現。飛行乘空。有大威德。我今與汝。種族卑賤。非其匹偶。此甚難得。勿生是意。是時童女。其心決定。堅固不捨。時香芽雲峰園苑之側。有一道場。名法雲光明。時有如來。名勝日身。於此道場。成等正覺。已經七日。是時童女。遊觀疲極。暫時假寐。時彼如來。即於夢中。為現神變。從夢覺已。時有宿世守護菩薩親友使天。於虛空中。而告之言。童女汝向所夢。是勝日身如來。於香芽雲峰園苑之側。法雲光明菩提場中。成等正覺。始經七日。諸菩薩眾。前後圍遶。及諸天龍。夜叉。乾闥婆。阿脩羅。迦樓羅。緊那羅。摩[目*侯]羅伽。梵世諸王淨居天等。并諸一切主河主海。主地主水。主風主火。主山主城。主園主藥。主林主稼。主方主空。主晝主夜。身眾足行道場神等。男女眷屬。為欲見佛聽聞法故。皆悉來集。汝今亦應親近禮敬。時具足豔。吉祥童女。以於夢中。睹佛神變。得佛功德所加持故。其心無畏。安隱快樂。以其宿心。景慕太子。』
爾時有閻浮提王。名為財主。太子名德主。有大悲心。時出城入園遊觀。諸婬女等導引歌讚德主太子。散諸寶物衣服飲食。譬如龍雨無不周遍。喜德女見太子。自造歌偈而讚太子愛眼視之。目未曾眴而自發言。世間之事我悉知之。以我此身奉給太子。 爾の時、閻浮提の王有り、名づけて財主と為す。太子を徳主と名づけ、大悲心有り。時に城を出でて、園に入りて遊観す。諸の婬女等導引し、歌いて徳主太子の諸の宝物、衣服、飲食を散ずること、譬えば、龍の雨ふらすに、周遍せざる無きが如し、と讃ず。喜徳の女、太子を見るに、自ら歌偈を造りて、太子を散じ、愛眼もて、之を視るに、目未だ曽て眴かず、自ら言を発すらく、『世間の事は、我れ悉く、之を知れば、我が此の身を以って、太子に奉給せん』、と。
爾の時、
『閻浮提に、財主という王が有り!』、
『太子は、徳主と呼ばれており!』、
『大悲心』が、
『有った!』。
或る時、
『太子』は、
『城を出て!』、
『園に入って!』、
『遊観した!』。
『諸の婬女』等が、
『太子を導引し、歌を歌いながら!』、
『太子が諸の宝物や、衣服や、飲食を散じる!』のは、
譬えば、
『龍が雨をふらせば、周遍しない処が無いようだ!』と、
『讃じる!』と、
『喜徳女は、太子を見て!』、
自ら、
『歌偈を造って!』、
『太子』を、
『讃じながら!』、
『愛眼で、太子を視つめ!』、
『目』を、
『眴かせることもなく!』、
自ら、
『言を発した!』、――
わたしは、
『世間の事』を、
『悉く、知っています!』。
わたくしの、
『此の身を!』、
『太子に、奉げましょう!』、と。
太子問言。汝為屬誰。若有所屬此非我宜。爾時喜見婬女答太子言。我女生年日月時節皆與太子同。此女非我腹生。我晨朝入園見蓮花中有此女生。我因養育畜以為女。無以我故而輕此女。此女六十四能無不悉備。女工技術經書醫方皆悉了達。常懷慚愧內心忠直無有嫉妒無邪婬想。我女德儀如是。太子必應納之。 太子の問うて言わく、『汝は、誰が為めにか、属する。若し所属有らば、是れ我が宜しきに非ず』、と。爾の時、喜見婬女、太子に答えて言わく、我が女の生ぜし年、日、月、時節は、皆太子と同じうするも、此の女は、我が腹より生ぜしに非ず。我れ晨朝に、園に入り、蓮花中に、此の女有りて、生ずるを見る。我れ因りて養育し、畜(たくわ)うるに以って女と為す。我れを以ての故に、此の女を軽んずること無かれ。此の女は、六十四能を、悉く備えざる無く、女工、伎術、経書、医方は、皆悉く了達せるも、常に慚愧を懐いて、内心忠直にして、嫉妒有ること無く、邪婬の想無し。我が女の徳儀は、是の如し。太子、必ず応に之を納むべし』、と。
『太子は問うて!』、こう言った、――
お前は、
『誰かに!』、
『属しているのか?』。
若し、
『所属が有れば!』、
『わたしの!』、
『宜しきではない( be not appropriate )!』、と。
爾の時、
『喜見婬女』が、
『太子に答えて!』、こう言った、――
『わたしの女( my daughter )の生まれた!』、
『年、日、月、時節』は、
皆、
『太子』と、
『同じですが!』、
『此の女』は、
わたしの、
『腹より!』、
『生まれたのではありません!』。
わたしが、
『晨朝に、園に入る!』と、
『蓮花中に、此の女が有り!』、
『生まれてくる( being born )!』のが、
『見えました!』。
わたしは、
『因って( because )!』、
『養育し、蓄え( to bring up )!』、
『わたしの!』、
『女とした!』ので、
『わたしを、思う!』が故に、
『此の女』を、
『軽んじてはいけません!』。
此の、
『女』には、
『六十四能が、悉く備わり!』、
『備わらないもの!』が、
『無いくらいです!』。
『女工も、伎術も、経書も、医方も!』、
皆、
『悉く!』を、
『了達していながら!』、
常に、
『慚愧』を、
『懐いているのです!』。
『内心は忠義、実直であり!』、
『嫉妒することが、無く!』、
『邪婬の想も!』、
『有りません!』。
わたしの、
『女』の、
『德儀』は、
『是の通りですので!』、
『太子』は、
『必ず!』、
『之を納めねばなりません!』、と。
  (ちく):<名詞>[本義]家畜( farm animal, livestock )。<動詞>飼養する( raise )、養育する( bring up )、[德等を]培養する( cultivate )、服従する( comply )、積集/蓄積する( accumulate )、収容する( house )、収集する( collect )。
  忠直(ちゅうじき):忠義実直。忠実。
  六十四能(ろくじゅうしのう):世間の六十四の技能。「大智度論巻2」に、「四韋陀経中の治病法、斗戦法、星宿法、祠天法、歌舞論議難問法、これ等六十四種の世間の技芸は、浄飯王の子、広く学び多く聞けば、もしは、この事を知ること、難しと為すに足らず」と云えるこれなり。
  六十四書(ろくじゅうししょ):印度に於いて行ぜられし所の、一切の外典。「仏本行集経巻11」に、「一に梵天所説書braahmii(今の婆羅門書の正十四音これなり)、二に佉盧虱吒書kharoSTii(随に驢唇と言う)、三に富沙迦羅仙人説書puSkarasaarii(随に蓮華と言う)、四に阿迦羅書aGga- lipi(随に節分と言う)、五に懵伽羅書vaGga- lipi(随に吉祥と言う)、六に耶懵尼書yavanii(随に大秦国書と言う)、七に鴦瞿梨書aGguliiya- lipi(随に指書と言う)、八に耶那尼迦書yaananikaa(随に駄乗と言う)、九に娑伽婆書sakaari- lipi(随に牸牛と言う)、十に波羅婆尼書brahmavalili- lipi(随に樹葉と言う)、十一に波流沙書paruzSa- lipi(随に悪言と言う)、十二に毘多荼書vitaDa- lipi(随に起屍と言う)、十三に陀毘荼国書draaviDa- lipi(随に南天竺と言う)、十四に脂羅低書kinaa-ri- lipi(随に裸人形と言う)、十五に度其差那波多書dakSiaa- lipi(随に右旋と言う)、十六に優伽書ugra- lipi(随に厳熾と言う)、十七に僧佉書saMkyaa- lipi(随に等計と言う)、十八に阿婆勿陀書apaavRtta- lipi(随に覆と言う)、十九に阿[少/兔]盧摩書anuloma- lipi(随に順と言う)、二十に毘耶寐奢羅書vyaamizra- lipi(随に雑と言う)、二十一に陀羅多書darada- lipi(烏場辺山)、二十二に西瞿耶尼書aparagodaani- lipi(随言無し)、二十三に珂沙書khaasya- lipi(疏勒)、二十四に脂那国書cina- lipi(大随)、二十五に摩那書huuNa- lipi(斗升)、二十六に末荼叉羅書madhyakSaravistara- lipi(中字)、二十七に毘多悉底書(梵不明、尺)、二十八に富数波書puSya- lipi(花)、二十九に提婆書deva- lipi(天)、三十に那伽書naaga- lipi(龍)、三十一に夜叉書yakSa- lipi(新随語)、三十二に乾闥婆書gandharva- lipi(天音声)、三十三に阿修羅書asura- lipi(不飲酒)、三十四に迦婁羅書garuDa- lipi(金翅鳥)、三十五に緊那羅書kiMnara- lipi(非人)、三十六に摩睺羅伽書mahoraga- lipi(大蛇)、三十七に弥伽遮伽書mRgacakra- lipi(諸獣音)、三十八に迦迦婁多書kaakaruta- lipi(烏音)、三十九に浮摩提婆書bhaumadeva- lipi(地居天)、四十に安多梨叉提婆書antariikSadeva- lipi(虚空天)、四十一に鬱多羅拘盧書uttarakurudviipa- lipi(須弥化)、四十二に逋婁婆毘提訶書puurvavideha- lipi(須弥東)、四十三に烏差波書utksepa- lipi(挙)、四十四に膩差波書nikSEpa- lipi(擲)、四十五に娑伽羅書saagara- lipi(海)、四十六に跋闍羅書vajra- lipi(金剛)、四十七に梨迦波羅低梨伽書lekhapratilekha- lipi(往復)、四十八に毘棄書vikSepa- lipi(音牒)、四十九に多書prakSepa- lipi(食残)、五十に阿[少/兔]浮多書adbhuta- lipi(未曽有)、五十一に奢娑多羅跋多書saastraavarta- lipi(如伏転)、五十二に伽那那跋多書gaNanaavarta- lipi(算転)、五十三に優差波跋多書utksepaararta- lipi(挙転)、五十四に尼差波跋多書nikSepaavarta- lipi(擲転)、五十五に波陀梨佉書paadalikhita- lipi(足)、五十六に毘拘多羅婆陀那地書dviruttarapada- saMdhi- lipi(従二増上句)、五十七に耶婆陀輸多羅書yaavaddazottarapada- saMdhi- lipi(増十句已上)、五十八に末荼婆哂尼書madhyaahaariNi- lipii(中五流)、五十九に梨娑耶娑多波恀比多書RSitapastaptaa(諸仙苦行)、六十に陀羅尼卑叉利書dharaNiiprekSaNi- lipi(観地)、六十一に伽伽那卑麗叉尼書gagaNa- prekSa- Nii- lipi(観虚空)、六十二に薩蒱沙地尼山陀書sarvauSadhiniSyandaa(一切薬果因)、六十三に沙羅僧伽何尼書sarvasarasaMgrahaNii(総覧)、六十四に薩沙婁多書sarva- bhuutaruta- grahaNii(一子数音)(以上梵名は多くlalitavistaraに拠る)」と云えるこれなり。また「大般若経巻332」に、「六十四能十八明処は一切の技術にして善巧ならざる無し、衆人欽仰す」と云い、「大智度論巻2」に、「四韋陀経中に治病法、斗戦法、星宿法、祠天法、歌舞論議難問法、これ等の六十四種の世間の技芸は、浄飯王の子、広く学び多く聞けば、もしはこの事を知るも、難しと為すに足らず」と云えり。<(丁)
德主太子答語女言。姊我發阿耨多羅三藐三菩提心。修菩薩道無所愛惜。國財妻子象馬七珍。有所求索不逆人意。若汝生男女及以汝身。有人求者當以施之莫生憂悔。或時捨汝出家為佛弟子淨居山藪汝亦勿愁。 徳主太子答えて、女に語りて言わく、『姉、我れ阿耨多羅三藐三菩提の心を発してより、菩薩の道を修すれば、愛惜する所の国財、妻子、象馬、七珍無ければ、求索する所有らば、人の意に逆らわず。若し、汝が生ずる男女、及び汝が身を以って、有る人、求むれば、当に以って之に施すべければ、憂悔を生ずる莫けん。或は時に汝を捨てて出家し、仏弟子と為るも、浄く山藪に居ろうとも、汝は亦た愁うること勿れ』、と。
『徳主太子』は、
『女に語り、答えて!』、こう言った、――
姉!
わたしは、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を発してより!』、
『菩薩道を修め!』、
『国財、妻子、象馬、七珍のようなものを!』、
『愛惜すること!』が、
『無い!』ので、
有る、
『人に、求索されれば!』、
其の、
『人の意』に、
『逆らわずに!』、
若し、
『求める人が有れば!』、
『お前の生む男や、女や、お前自身の身を施しても!』、
『憂悔を!』、
『生じないだろう!』。
或は時に、
『お前を捨てて、出家し!』、
『仏弟子と為って!』、
『山藪』に、
『浄居することもあるだろう!』が、
お前も、
亦た、
『愁いてはならない!』、と。
  (まく):<副詞>[否定]~でない/~しない( not )、[不可/不能]できない/するな/不要( don't )、恐らく/多分/有りうる( perhaps, about, can it be that )。<代名詞>誰も~しない( no one, nothing )。
  (もつ):<副詞>[否定]~でない/~しない( not )、[不可/不能]できない/するな/不要( don't )。<動詞>無[有の対義語]/所有しない( not have )。
  憂悔(うけ):憂いて悔やむ。
  山藪(せんそう):山や密林。
  淨居(じょうご):婬事を遠ざけて住む。
喜德女答言。假令地獄火來燒滅我身終亦不悔。我亦不為婬欲戲樂故而以相好。我為勸助阿耨多羅三藐三菩提故奉事正士。女又白太子言。我昨夜夢見妙日身佛坐道樹下可往觀之。 喜徳女の答えて言わく、『仮令(たと)い地獄の火来たりて、我が身を焼滅すとも、終に亦た悔いざらん。我れも亦た婬欲、戯楽の為めの故に、以って相い好むにあらず。我れは、阿耨多羅三藐三菩提を勧助せんが為めの故に、正士に奉事すなり』、と。女は、又太子に白して言さく、『我れは、昨夜夢に妙日身仏の、道樹の下に坐したもうを見れば、往きて之を観るべし』、と。
『喜徳女は答えて!』、こう言った、――
仮令い( even if )、
『地獄の火が来て!』、
わたしの、
『身』を、
『焼滅したとしても!』、
終に、
『悔いることはありません!』。
わたしも、
亦た、
『婬欲、戯楽の為め!』の故に、
『君を!』、
『好むのではありません!』。
わたしは、
『阿耨多羅三藐三菩提を勧助する為め!』の故に、
『正士(you)』に、
『奉事する( to serve )のです!』。
『女』は、又、
『太子に白して!』、こう言った、――
わたしは、
昨夜の夢に、
『妙日身仏』が、
『道樹の下に坐っていられる!』のを、
『見ました!』ので、
『仏』を、
『観に!』、
『往きましょう!』、と。
  戯楽(けらく):技芸、娯楽。
  勧助(かんじょ):すすめ助ける。
  正士(しょうじ):正しい人。菩薩。
  奉事(ぶじ):梵語 upacaara の訳、奉仕する( to serve )の義。
太子見女端正又聞佛出。以此二因緣故共載一車俱詣佛所。佛為說法。太子得無量陀羅尼門。女得調伏心志。太子爾時以五百寶花供養於佛。以求阿耨多羅三藐三菩提。 太子は、女の端政なるを見、又仏の出でたもうを聞いて、此の二因縁を以っての故に、共に一車に載りて、倶に仏所に詣(いた)る。仏は為めに法を説きたもうに、太子は無量の陀羅尼門を得、女は、心志を調伏するを得。太子は爾の時、五百の宝花を以って、仏を供養し、以って阿耨多羅三藐三菩提を求む。
『太子』は、
『女が、端政であるのを見!』、
又、
『仏が出られた!』と、
『聞いた!』ので、
此の、
『二因縁』の故に、
『女と共に、一車に載り!』、
倶に( with together )、
『仏所』に、
『詣った!』。
『仏』が、
『太子の為めに、法を説かれる!』と、
『太子』は、
『無量の陀羅尼門』を、
『得!』、
『女』は、
『心志( her will )』を、
『調伏することができた!』。
『太子』は、
爾の時、
『五百の宝花を用いて、仏を供養しながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めた!』。
  心志(しんし):意志、心意( will )。
太子白父王言。我得見妙日身佛大得善利。父王聞已。捨所愛重之物以與太子。與其官屬國內人民俱詣佛所。佛為說法。王得一切法無闇燈陀羅尼。 太子の、父王に白して言さく、『我れ妙日身仏を見て、大いに善利を得たり』、と。父王は聞き已りて、愛重する所の物を捨て、以って太子に与え、其の官属、国内の人民と倶に仏所に詣れば、仏は為めに法を説きたまい、王は、一切法無闇灯陀羅尼を得。
『太子』が、
『父王に白して!』、こう言うと、――
わたしは、
『妙日身仏を見ることができ!』、
大いに、
『善利』を、
『得ました!』、と。
『父王』は、
『聞いてしまう!』と、
『愛重する物を捨てて!』、
『太子』に、
『与える!』と、
其の、
『官属や、国内の人民と倶に!』、
『仏所に!』、
『詣った!』。
『仏』が、
『王の為めに、法を説かれる!』と、
『王』は、
『一切法無闇灯陀羅尼』を、
『得ることができた!』。
時王思惟。不可以白衣法攝治國土。受於五欲而可得道。作是思惟已。立德主太子為王。出家求道。是時太子於月十五日六寶來應。喜德妻變為寶女。 時に、王の思惟すらく、『白衣の法を以って、国土を摂治するべからず。五欲を受くるも、道を得べし』、と。是の思惟を作し已りて、徳主太子を立てて、王と為し、出家して道を求む。是の時、太子は、月の十五日に於いて、六宝来応す。喜徳は妻を変じて、宝女と為る。
その時、
『王』は、こう思惟した、――
『白衣の法を用いて!』、
『国土』を、
『摂治することはできない( cannot rule )!』。
『五欲を受けていても!』、
『道』を、
『得ることはできるだろう!』、と。
是のように、思惟して、
『徳主太子を立てて、王にする!』と、
『出家して!』、
『道を求めた!』。
是の時、
『太子』は、
『月の十五日』に、
『六宝が来応する!』と、
『喜徳が!』が、
『妻から宝女に変じた!』。
  摂治(しょうじ):政治を把握すること。
  不可思議経(ふかしぎきょう):「華厳経」の異名なり。また「不可思議解脱経」とも云う。
  六宝(ろっぽう):転輪聖王の七宝中、女宝を除きし余を云う。
  宝女(ほうにょ):転輪聖王の七宝中の女宝を云う。
  七宝(しっぽう):転輪聖王の七宝に就きて、謂わゆる一に輪宝、二に象宝、三に馬宝、四に珠宝、五に女宝、六に主蔵臣宝、七に主兵宝なり。「40華厳経巻29」に、「輪王の七宝、自然に至る、一には輪宝、無礙行と名づけ、輻輞には百千の妙宝具足して以って荘厳と為し、閻浮檀金の光明普く照す、二には象宝、金剛山と名づけ威力広大なり、三には馬宝、迅疾風と名づく、四には珠宝、日光の雲を蔵すと名づく、五には女宝、艶吉祥を具足すと名づく、六には主蔵臣宝、名づけて大財と為す、七には主兵宝、離垢眼と名づく、かくの如く七宝、欻然として出現し、具足成就して転輪王と為す」と云えるこれなり。
  来応(らいおう):応じて来る( to come in response )。
如不可思議經中廣說。如是等因緣故知。善男子善女人。世世願為菩薩父母妻子眷屬 不可思議経中に広説するが如く、是れ等の如き因縁の故に知る、『善男子、善女人は、世世に願いて、菩薩の父母、妻子、眷属と為る』、と。
『不可思議経(華厳経)中に広説されたように!』、
是れ等のような、
『因縁』の故に、こう知ることになる、――
『善男子、善女人』は、
『世世に菩薩の父母、妻子、眷属に為ろう!』と、
『願っている!』、と。



四天王等は、菩薩に婬欲を離れさせようとする

【經】爾時四天王乃至阿迦尼吒天。皆大歡喜各自念言。我等當作方便令是菩薩離於婬欲。從初發意常作童真。莫使與色欲共會。若受五欲障生梵天。何況阿耨多羅三藐三菩提。以是故舍利弗。菩薩摩訶薩斷婬欲出家者。應得阿耨多羅三藐三菩提。非不斷欲 爾の時、四天王、乃至阿迦尼吒天は、皆大歓喜し、各自ら念じて言わく、『我等は、当に方便を作して、是の菩薩をして、婬欲を離れしめ、初発意より、常に童真と作らしめ、色欲と共に会わしむこと莫れ。若し五欲を受くれば、梵天に生ずるを障(さ)う。何に況んや、阿耨多羅三藐三菩提をや』、と。是を以っての故に、舎利弗、菩薩摩訶薩は、婬欲を断じて出家すれば、応に阿耨多羅三藐三菩提を得べくして、欲を断ぜざるに非ず。
爾の時、
『四天王天、乃至阿迦尼吒天』が、
『皆、大歓喜して!』、
『各、自らを念じて!』、こう言った、――
わたし達は、
『方便を作して( trying every means )!』、
是の、
『菩薩に、婬欲を離れさせて!』、
『初発意より、常に!』、
『童真と作らせ( to make him a prince of Dharma )!』、
『菩薩』に、
『色欲と!』、
『共に会わせてはならない!』。
若し、
『菩薩が、五欲を受ければ!』、
『梵天に生まれること!』に、
『障るからである!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』など、
『言うまでもない!』、と。
是の故に、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『婬欲を断じて、出家すれば!』、
当然、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られるのであるから!』、
当然、
『欲』を、
『断じないはずがないのである!』。
  童真(どうしん):沙弥の異名。また有髪の童子に通ず。凡そ童子の性は、天真爛漫の故に、真と云い、もし漢語に準ずれば、則ち当に真童と云うべきも、今は梵語に準ずるが故に童真と曰う。「玄応音義巻5」に、「童真とはこれ沙弥の別名なり。梵に、究摩囉浮多kumaara- bhuutaと云い、究摩囉とは、これ彼の土の八歳、未冠者の童子の総名なり。浮多とはこれを真と云い、また実と言うなり」と云い、「楞厳経巻5」に、「今、如来に於いて童真の名を得、菩薩の会に預かる」と云えるこれなり。<(丁)
  童真(どうしん):梵語 kumaara- bhuuta の訳、又童子とも訳す。王子たる存在( a princely being )の義、時に法王子 dharma- raaja- putra ( a prince of Dharma )とも呼ばれ、仏の後を嗣ぐ( that who succeeds Buddha )者の意。
【論】問曰。諸天何以作是願。 問うて曰く、諸天は、何を以ってか、是の願を作す。
問い、
『諸の天』は、
何故、
是の、
『願』を、
『作すのですか?』。
答曰。世間中五欲第一無不愛樂。於五欲中觸為第一能繫人心。如人墮在深泥難可拯濟。以是故諸天方便令菩薩遠離婬欲。 答えて曰く、世間中に五欲は第一にして、愛楽せざる無く、五欲中には触を第一と為して、能く人心を繋ぐこと、人の深泥に堕在すれば、拯済すべきこと難きが如し。是を以っての故に、諸天は、方便して、菩薩をして、婬欲を遠離せしむ。
答え、
『世間』中には、
『五欲が第一であり!』、
『愛楽しない!』者は、
『無い!』が、
『五欲』中には、
『触が第一であって!』、
『人心』を、
『繋ぐことができる!』ので、
譬えば、
『人』が、
『深泥中に墜ちれば!』、
『拯済する( to aid )こと!』が、
『難しいようなものである!』。
是の故に、
『諸天は、方便して!』、
『菩薩』を、
『婬欲から!』、
『遠離させるのである!』。
復次若受餘欲猶不失智慧。婬欲會時身心慌迷。無所省覺深著自沒。以是故諸天令菩薩離之。 復た次ぎに、若し餘の欲を受くれば、猶お智慧を失わざるも、婬欲に会う時は、身心慌迷して、省覚する所無く、深く著して自ら没す。是を以っての故に、諸天は菩薩をして、之を離れしむ。
復た次ぎに、
若し、
『餘の欲を受けるだけならば!』、
猶お( but yet )、
『智慧』を、
『失うことはない!』が、
『婬欲に会う!』時は、
『身心が慌迷して( be confused in mind and body )!』、
『省覚する所が無く!』、
『深く著して!』、
『自らを没することになる!』ので、
是の故に、
『諸天』は、
『菩薩に!』、
『婬欲』を、
『離れさせるのである!』。
問曰。云何令離。 問うて曰く、何んが離れしむ。
問い、
何のように、
『菩薩』を、
『離れさせるのですか?』。
答曰。如釋迦文菩薩。在淨飯王宮欲出城遊觀。淨居諸天化為老病死人令其心厭。又令夜半見諸宮人妓直。惡露不淨涕唾流涎屎尿塗漫。菩薩見已即便穢厭。 答えて曰く、釈迦文菩薩の如きは、浄飯王の宮に在りて、城を出で、遊観せんと欲す。浄居の諸天は化して、老病死の人と為り、其の心をして厭わしむ。又夜半に、諸の宮人、妓直の悪露、不浄の涕唾、流涎、屎尿の塗漫せるを見しむ。菩薩は見已りて、即便ち穢厭す。
答え、
例えば、
『釈迦文菩薩など!』は、
『浄飯王の宮に在って!』、
『城を出て!』、
『遊観しようとする!』と、
『浄居の諸天が化して!』、
『老、病、死人に為り!』、
『菩薩の心』を、
『厭わせ!』、
又、
『夜半に、諸の宮人や、妓直』が、
『悪露や、不浄な涕唾、流涎、屎尿に塗れる!』のを、
『見せた!』ので、
『菩薩』は、
『見已って!』、
『即便に、穢厭したのである!』。
  妓直(ぎじき):妓女の侍人を云う。妓は歌舞等の芸人を指す。
  悪露(あくろ):身上の不浄の津液、謂わゆる汗等を云う。
  涕唾(たいだ):涙と唾。
  流涎(るぜん):涙が流れ、涎が垂れる。
  塗漫(づまん):汚れにまみれる。
  穢厭(ええん):穢らわしいとして、厭う。
或時諸天令女人惡心妒忌不識恩德。惡口欺誑無所省察。菩薩見已即生念言。身雖似人其心可惡即便捨之。欲使菩薩從初發心常作童真行。不與色欲共會。何以故。婬欲為諸結之本。 或は時に、諸天は、女人をして悪心もて妒忌せしめ、恩徳を識らざらしめ、悪口、欺誑せしめて、省察する所無からしむれば、菩薩は見已りて、即ち念を生じて、『身は、人に似たりと雖も、其の心は、悪(にく)むべし』、と言い、即便ち、之を捨つるに、菩薩をして、初発心より、常に童真行を作して、色欲と共に会わせざらんと欲するは、何を以っての故に、婬欲を、諸結の本と為せばなり。
或は時に、
『諸天』が、
『女人』に、
『悪心を生じて、嫉妒させ!』、
『恩徳を識ることもなく、悪口、欺誑させて!』、
『省察する!』所も、
『無くさせる!』と、
『菩薩』は、
『見已って!』、
即ち、
『女人』は、
『人に似た!』、
『身でありながら!』、
其の、
『心は、悪むべきである!』と、
『念じ!』、
即ち、
是の、
『女人』を、
『捨てたのである!』。
『諸天』が、
『菩薩に初発心より!』、
常に、
『童真行を作させて!』、
『色欲と!』、
『会わせようとしない!』のは、
何故ならば、
『婬欲』が、
『諸結』の、
『根本だからである!』。
  妒忌(とき):嫉妬。
佛言寧以利刀割截身體。不與女人共會。刀截雖苦不墮惡趣。婬欲因緣於無量劫數受地獄苦。人受五欲尚不生梵世。何況阿耨多羅三藐三菩提。 仏の言わく、『寧(むし)ろ、利刀を以って、身体を割截するも、女人と共に会わざれ。刀に截(き)らるるは苦なりと雖も、悪趣に墜ちず。婬欲の因縁は、無量劫に於いて、数(しばしば)地獄の苦を受く。人は、五欲を受くれば、尚お梵世に生ぜず。何に況んや阿耨多羅三藐三菩提をや』、と。
『仏』は、こう言われた、――
寧ろ( rather )、
『利刀に、身体を割截されたとしても!』、
『女人と共に!』、
『会ってはならない!』。
『刀で截られれば、苦ではあるが!』、
『悪趣』に、
『墜ちることはない!』。
『婬欲の因縁』は、
『無量劫』に於いて、
『地獄の苦』を、
『数( frequently )、受けるからである!』。
『人が、五欲を受ければ!』、
尚お、
『梵世』に、
『生じることはない!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『尚更である!』、と。
  割截(かっせつ):割は分け裂く、截は細かに切る。
或有人言。菩薩雖受五欲心不著故不妨於道。以是故經言受五欲尚不生梵世。梵世無始眾生皆得生中。受五欲者尚所應得而不得之。何況阿耨多羅三藐三菩提。本所不得而欲得之。以是故菩薩應作童真。修行梵行當得阿耨多羅三藐三菩提。 或は有る人の言わく、『菩薩は、五欲を受くと雖も、心著せざるが故に、道を妨げず。是を以っての故に、経に言わく、『五欲を受くれば、尚お梵世に生ぜず』、と。梵世は、無始の衆生より、皆、中に生ずるを得るも、五欲を受くれば、尚お応に得べき所すら、之を得ず。何に況んや、阿耨多羅三藐三菩提は本より、得ざる所なるに、之を得んと欲するをや。是を以っての故に、菩薩は、応に童真と作りて、梵行を衆行すべくして、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』、と。
或は、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
『五欲を受けたとしても!』、
『心』が、
『五欲に!』、
『著さなければ!』、
是の故に、
『五欲』が、
『道を妨げることはない!』ので、
是の故に、
『経』に、こう言うのである、――
『五欲を受ければ!』、
尚お、
『梵世にすら!』、
『生じることはない!』、と。
『梵世』は、
『無始の衆生より!』、
皆、
『梵世』中に、
『生まれることができたのである!』が、
『五欲を受ければ!』、
尚お、
『生まれられるはずの!』、
『梵世にすら!』、
『生まれられないのである!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『本より( essentially )!』、
『得られない所である!』のに、
是の、
『阿耨多羅三藐三菩提を得ようとすれば!』、
『尚更である!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『童真と作って!』、
『梵行』を、
『修行せねばならず!』、
当然、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られるのである!』、と。
梵行菩薩不著世間故速成菩薩道。若婬欲者譬如膠漆難可得離。所以者何。身受欲樂婬欲根深。是故出家法中婬戒在初。又亦為重 梵行の菩薩は、世間に著せざるが故に、速かに菩薩道を成ずるも、若し婬欲なれば、譬えば膠漆の離るるを得べきこと難きが如し。所以は何んとなれば、身に欲楽を受くれば、婬欲の根深まればなり。是の故に出家法中には、婬戒を初に在(お)いて、又亦た重しと為す。
『梵行の菩薩』は、
『世間に著さない!』が故に、
速かに、
『菩薩道』を、
『成ずるのであり!』、
若し、
『婬欲を受ければ!』、
譬えば、
『膠や、漆のように!』、
『離れようとしても!』、
『難しいのである!』。
何故ならば、
『身に、欲楽を受ければ!』、
『婬欲の根』が、
『深まるからであり!』、
是の故に、
『出家法』中には、
『婬戒が最初に在り!』、
亦た、
『婬戒』を、
『重んじるのである!』。



菩薩には、父母等が有らねばならないのか?

【經】舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩要當有父母妻子親族知識耶。佛告舍利弗。或有菩薩有父母妻子親族知識。或有菩薩從初發意斷婬欲。修童真行。乃至得阿耨多羅三藐三菩提不犯色欲。或有菩薩方便力故受五欲已。出家得阿耨多羅三藐三菩提 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、要(かなら)ず、当に父母、妻子、親族、知識有るべしや』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『或は有る菩薩は、父母、妻子、親族、知識有り。或は有る菩薩は、初発意より婬欲を断じて、童真行を修し、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得るまで、色欲を犯さず。或は有る菩薩は、方便力の故に五欲を受け已りて、出家して阿耨多羅三藐三菩提を得』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』には、
要ず( must )、
『父母、妻子、親族、知識』が、
『有らねばならないのですか?』、と。
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
或は、
『有る菩薩』は、
『父母、妻子、親族、知識』が、
『有り!』、
或は、
『有る菩薩』は、
『初発意より、婬欲を断じて!』、
『童真行』を、
『修めながら!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
『色欲を犯さず!』、
或は、
『有る菩薩』は、
『方便の力』の故に、
『五欲を受けてから、出家して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』、と。
【論】釋曰。是三種菩薩。初者如世間人受五欲。後捨離出家得菩提道。二者大功德牢固。初發心時斷於婬欲乃至成佛道。是菩薩或法身或肉身。或離欲或未離欲。三者清淨法身菩薩得無生法忍住六神通。為教化眾生故與眾生同事而攝取之。或作轉輪聖王。或作閻浮提王長者剎利。隨其所須而利益之 釈して曰く、是の三種の菩薩は、初者は、世間の人の如く、五欲を受け、後に捨離して、出家し、菩提の道を得、二者は、大功徳牢固にして、初発心の時に婬欲を断じて、乃至仏道を成ず。是の菩薩は、或は法身、或は肉身、或は離欲、或は未だ離欲せず。三者は、清浄法身の菩薩にして、無生法忍を得、六神通に住して、衆生を教化せんが為めの故に、衆生と事を同じうして、之を摂取するに、或は転輪聖王と作り、或は閻浮提の王、長者、刹利と作り、其の所修に随うて、之を利益す。
釈す、
是の、
『三種の菩薩』は、
初者は、
『世間の人のように、五欲を受けた!』後、
『五欲を捨離して、出家し!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の道』を、
『得る者であり!』、
二者は、
『大功徳が牢固であり( having a great virtuous quality firmly )!』、
『初発心の時に、婬欲を断じる!』と、
乃至、
『仏道を成じるまで!』、
『婬欲を断じる者である!』が、
是の、
『菩薩』は、
『或は、法身であり!』、
『或は、肉身であり!』、
『或は、離欲であり!』、
『或は、未離欲である!』。
三者は、
『清浄法身の菩薩であり!』、
『無生法忍を得て、六神通に住しながら!』、
『衆生を教化する!』為めの故に、
『衆生と!』、
『事を同じうして!』、
是の、
『衆生』を、
『摂取するのである( to hold together )!』が、
或は、
『転輪聖王や、閻浮提の王や、長者や、刹利と作りながら!』、
『衆生の所須に随って!』、
『衆生を利益する!』。



菩薩は、欲に染まることなく、五欲を毀訾する

【經】譬如幻師若幻弟子。善知幻法幻作五欲。於中共相娛樂於汝意云何。是人於此五欲頗實受不。舍利弗言。不也世尊。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以方便力故化作五欲。於中受樂成就眾生。亦復如是。是菩薩摩訶薩不染於欲。種種因緣毀訾五欲。欲為熾然。欲為穢惡。欲為毀壞。欲為如怨。是故舍利弗。當知菩薩為眾生故受五欲 『譬えば、幻師、若しは幻弟子の、善く幻法を識りて、五欲を幻作し、中に於いて、共に相い娯楽するが如し。汝が意に於いて云何、是の人は、此の五欲に於いて、頗(すこぶ)る実受すや、不や』。舎利弗の言わく、『不なり、世尊』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、方便力を以っての故に、五欲を化作し、中に於いて楽を受け、衆生を成就することも、亦復た是の如し。是の菩薩摩訶薩は、欲に染まらず、種種の因縁もて、五欲を毀訾すらく、『欲は熾燃たり、欲は穢悪たり、欲は毀壊たり、欲は怨の如し』、と。是の故に、舎利弗、当に知るべし、菩薩は、衆生の為めの故に、五欲を受くるなり。
譬えば、
『幻師や、幻師の弟子が幻法を、善く知り!』、
『五欲を幻作して( creating the objects of sense with magical power )!』、
『五欲( e.g. women )と!』
『相共に、娯楽すれば( to delight with together )!』、
お前の、
『意』には、何うなのか?
是の、
『人』は、
此の、
『五欲』を、
『頗る実に( very really )、受けるのだろうか?』。
『舎利弗』は、こう言った、――
そうではない!
世尊!
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩が、方便の力』の故に、
『五欲を化作して!』、
『五欲中に、楽を受け!』、
『衆生』を、
『成就する!』のも、
亦復た、
『是の通りなのである!』。
是の、
『菩薩摩訶薩』は、
『欲に染まることなく、種種の因縁を用いて!』、
『五欲を毀訾するのである( to blame the objects of sense )!』、
謂わく、
『欲は、熾燃である!』、
『欲は、穢悪である!』、
『欲は、善心を毀壊する!』、
『欲は、怨のようなものである!』、と。
是の故に、
舎利弗!
当然、こう知らねばならない、――
『菩薩』は、
『衆生の為め!』の故に、
『五欲』を、
『受けるのである!』。
  毀訾(きし):梵語 apavaadaka, apakarSa の訳、又毀呰に作る。罵る/中傷する( reviling, blaming, defaming )の義、反対する/取り除く( opposing, objecting to, excepting, excluding )の意。
  熾然(しじょう):盛に燃える。
  穢悪(えあく):穢くして悪むべき。
  毀壊(きえ):梵語 vipralopa の訳、破壊/潰滅( destruction, annihilation )の義、善心を破壊する( to destruct the good or virtuous mind )の意。
【論】問曰。三種菩薩中。何以獨為一種菩薩作譬喻。 問うて曰く、三種の菩薩中、何を以ってか、独り、一種の菩薩の為めに、譬喻を作す。
問い、
『三種の菩薩』中、
何故、
独り( only )、
『一種の菩薩の為めだけに!』、
『譬喻』を、
『作すのですか?』。
答曰。一者如人法不斷婬欲。二者常斷婬欲修於淨行。三者亦修淨行現受婬欲。以人不了故為作譬喻。 答えて曰く、一は、人法の如く、婬欲を断ぜず、二は、常に婬欲を断じて、浄行を修行し、三も、亦た浄行を修するも、婬欲を受くるを現ずるに、人の了せざるを以っての故に、為めに譬喻を作す。
答え、
一者は、
『人法のように!』、
『婬欲』を、
『断じない者であり!』、
二者は、
『常に、婬欲を断じて!』、
『浄行』を、
『修める者であり!』、
三者も、亦た、
『浄行を修めながら!』、
『婬欲を受ける!』のを、
『現す者である!』が、
『人が、明了に理解しない!』が故に、
是の、
『人の為め!』に、
『譬喻を作すのである!』。
問曰。何以不以夢化等為喻。 問うて曰く、何を以ってか、夢、化等を以って、喻と為す。
問い、
何故、
『夢や、化を用いて!』、
『喻( an allegory )』と、
『為すのですか?』。
答曰。夢非五情所知。但內心憶想故生。人以五情所見變失無常可以得解。化雖五情所知而見者甚少。佛為度可度眾生。幻是眾人所信。是故為喻。 答えて曰く、夢は、五情の所知に非ずして、但だ内心に憶想するが故に、生ず。人は、五情の所見の変失し、無常なるを以って、以って解を得べし。化は、五情の所知なりと雖も、見る者は甚だ少し。仏は度すべき衆生を度せんが為めに、幻は、是れ衆人の信ずる所なれば、是の故に喻と為したもう。
答え、
『夢』は、
『五情の所知ではない!』が、
但だ、
『内心に憶想する!』が故に、
『生じる!』ので、
『人』は、
『五情の所見が変失し、無常であること!』を、
『夢の喻を用いて!』、
『理解することができる!』。
『化』は、
『五情の所知である!』が、
『見た者』が、
『甚だ少い!』ので、
『仏』は、
『度すべき衆生を、度す為め!』に、
『幻』が、
『衆人』に、
『信じられている!』ので、
是の故に、
『幻を用いて!』、
『化』の、
『喩とされたのである!』。
  可以(かい):可能を示す( can, may )、許可を示す( agree )、間に合うことを示す( not bad, passable, pretty good )、程度の高いことを示す/大変/非常に( awful, very, extremely )。
如幻師以幻術故於眾人中現希有事令人歡喜。菩薩幻師亦如是。以五神通術故。於眾生中化作五欲。共相娛樂化度眾生。眾生有二種。在家出家。為度出家眾生故。現作聲聞辟支佛佛及諸出家外道師。在家眾生或有見出家者得度。或有見在家同受五欲而可化度。 幻師の幻術を以っての故に、衆人中に於いて、希有の事を現し、人をして、歓喜せしむるが如く、菩薩の幻師も亦た是の如く、五神通の術を以っての故に、衆生中に於いて、五欲を化作し、共に相娯楽して、衆生を化度す。衆生には二種有りて、在家と出家なり。出家の衆生を度せんが為めの故に、声聞、辟支仏、仏及び諸の出家の外道師と作るを現し、在家の衆生は、或は有るは出家者の度を得るを見、或は有るは、在家にして、同じく五欲を受くるも、化度すべきを見る。
『幻師が、幻術を用いる!』が故に、
『衆人中に、希有の事を現して!』、
『人』を、
『歓喜させるように!』、
『菩薩の幻師』も、
是のように、
『五神通の術を用いる!』が故に、
『衆生中に、五欲を化作して!』、
『五欲と共に、相娯楽して!』、
『衆生』を、
『化度するのである!』。
『衆生』には、
『二種有って、在家と出家である!』が、
『出家の衆生を度す為め!』の故には、
『声聞、辟支仏、仏、及び諸の出家の外道師と作る!』のを、
『現し( to appeare )!』、
『在家の衆生』は、
或は、有る者は、
『出家者』が、
『度を得る!』のを、
『見たり!』、
或は、有る者は、
『在家が同じように、五欲を受けながら!』、
『化度される!』のを、
『見るのである!』。
菩薩常以種種因緣毀訾五欲。欲為熾然者。若未失時三毒火然。若其失時無常火然。二火然故名為熾然。都無樂時。 菩薩は、常に種種の因縁を以って、五欲を毀訾す。欲は熾然たりとは、若し未だ失せざる時には、三毒の火然え、其の失する時は、無常の火然ゆ。二火の然ゆるが故に名づけて、熾然と為し、都(すべ)て楽の時無し。
『菩薩』は、
常に、
『種種の因縁を用いて!』、
『五欲』を、
『毀訾するのであり!』、――
『欲は、熾然である!』とは、――
若し、
『欲が、失われない!』時には、
『三毒の火』が、
『燃え!』、
若し、
『欲が、失われた!』時には、
『無常の火』が、
『燃える!』。
『三毒と、無常という!』、
『二火が、燃える!』が故に、
『熾然というのであり!』、
『皆、楽時は無いのである!』。
欲為穢惡者。諸佛菩薩阿羅漢等諸離欲者皆所穢賤。譬如人見狗食糞賤而愍之。不得好食而噉不淨。受欲之人亦復如是。不得內心離欲之樂。而於色欲不淨求樂。 欲は穢悪たりとは、諸仏、菩薩、阿羅漢等の諸の離欲者は、皆、穢賎する所なること、譬えば人の、狗の糞を食うを見て、賤しんで、之を、『好食を得ざれば、不浄を噉うなり』、と愍れむが如し。受欲の人も、亦復た是の如く、内心に離欲の楽を得ざれば、色欲の不浄に、楽を求む。
『欲は、穢悪である!』とは、――
『諸の仏、菩薩、阿羅漢』等の、
『諸の離欲者』の、
『皆、穢賎する所だからである!』。
譬えば、
『人』が、
『狗が、糞を食う!』のを、
『見て!』、
『賤しみ!』、
之を、
『好食を得られないので、不浄を噉うのだ!』と、
『愍れむようなものである!』。
『受欲の人』も、
是のように、
『内心に、離欲の楽を得られない!』ので、
『色欲の不浄』に、
『楽を求めるのである!』。
欲為毀壞者。著五欲因緣故。天王人王諸富貴者。亡國危身無不由之。 欲は毀壊たりとは、五欲に著する因縁の故に、天王、人王、諸の富貴者は、国を亡ぼし、身を危ううして、之に由らざる無し。
『欲は、毀壊である!』とは、――
『五欲に著する因縁』の故に、
『天王も、人王も、諸の富貴者も!』、
『国を亡ぼしたり!』、
『身を危うくするのであり!』、
『欲に由らずに!』、
『国を亡ぼす!』等は、
『無いのである!』。
欲如怨者。失人善利亦如刺客外如親善內心懷害。五欲如是。喪失善心奪人慧命。五欲之生正為破壞眾善毀敗德業故出。 欲は怨の如しとは、人に善利を失わせ、亦た刺客の如く、外は親の如く善なるに、内心に害を懐く。五欲も是の如く、善心を喪失して、人の慧命を奪う。五欲の生は、正に衆善を破壊し、徳業を毀敗せんが為めの故に出づるなり。
『欲は、怨のようだ!』とは、――
『人』に、
『善利』を、
『失わせるからであり!』、
亦た、
『刺客のように!』、
『外』には、
『親のように!』、
『善くしながら!』、
『内心』に、
『害』を、
『懐くからである!』。
『五欲』は、
是のように、
『善心を喪失させて!』、
『人の慧命』を、
『奪うのであり!』、
『五欲が生じる!』のは、
正しく、
『衆善を破壊して!』、
『徳業を毀敗する!』為めの故に、
『出るのである!』。
又知五欲。如鉤賊魚。如弶害鹿。如燈焚蛾。是故說欲如怨。怨家之害不過一世。著五欲因緣墮三惡道。無量世受諸苦毒 又、五欲は、鉤(かぎ)の魚を賊するが如く、弶(わな)の鹿を害するが如く、灯の蛾を焚くが如しと知れば、是の故に、『欲は、怨の如し』、と説く。怨家の害は、一世を過ぎざるも、五欲に著する因縁は、三悪道に堕して、無量世に諸の苦毒を受く。
又、
『五欲』を、
『鉤が、魚を賊する( a hook kills fishes )ようだ!』、
『弶が、鹿を害する( a snare hurts deers )ようだ!』、
『灯が、蛾を焚くようだ!』と、
『知る!』ので、
是の故に、
『欲は、怨のようだ!』と、
『説くのである!』が、
『怨家の害』は、
『一世』を、
『過ぎることはない!』が、
若し、
『五欲に著する因縁で、三悪道に墜ちれば!』、
『無量世』に、
『諸の苦毒を受けるのである!』。



菩薩摩訶薩は、何のように般若波羅蜜を行じるのか?

【經】舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩。不見菩薩字。不見般若波羅蜜。亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。空即是色色即是空。空即是受想行識。受想行識即是空。 舎利弗の仏に白して言さく、『菩薩摩訶薩は、云何が、応に般若波羅蜜を行ずべし』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦た我れ般若を行ずと見ず、亦た我れ般若波羅蜜を行ぜずとも見ず。何を以っての故に、菩薩と、菩薩の字の性は空にして、空中に色無く、受想行識無く、色を離れて亦た空無く、受想行識を離れて、亦た空無く、空は、即ち是れ色にして、色は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ受想行識にして、受想行識は、即ち是れ空なればなり』。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
『般若波羅蜜』を、
『行えばよいのですか?』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』時、
『菩薩も!』、
『菩薩の字も!』、
『見ることなく!』、
『般若波羅蜜も!』、
『わたしは、般若波羅蜜を行っているとも!』、
『わたしは、般若波羅蜜を行っていないとも!』、
『見ることはない!』。
何故ならば、
『菩薩も!』、
『菩薩の字も!』、
『性は、空であり!』、
『空』中には、
『色も、受想行識も!』、
『無いのに!』、
『色を離れて!』、
『空』は、
『無く!』、
『受想行識を離れて!』、
『空』は、
『無いので!』、
『空は、即ち色であり!』、
『色』は、
『即ち、空であり!』、
『空は、即ち受想行識であり!』、
『受想行識』は、
『即ち、空だからである!』。
何以故。舍利弗。但有名字故謂為菩提。但有名字故謂為菩薩。但有名字故謂為空。所以者何。諸法實性無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因緣和合作法。但以分別憶想假名說。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著 『何を以っての故に、舎利弗、但だ名字有るが故に、謂いて菩提と為し、但だ名字有るが故に、謂いて菩薩と為し、但だ名字有るが故に、謂いて空と為せばなり。所以は何んとなれば、諸法の実性は、無生、無滅、無垢、無浄なるが故なり。菩薩摩訶薩は、是の如く行ずれば、亦た生を見ず、亦た滅を見ず、亦た垢を見ず、亦た浄を見ざればなり。何を以っての故に、名字は、是れ因縁和合の作法なるに、但だ分別と、憶想を以って、仮に名づけて説けばなり。是の故に、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず、見ざるが故に、著せざるなり』、と。
何故ならば、
舎利弗!
但だ、
『名字が有る!』が故に、
『菩提である!』と、
『謂い!』、
但だ、
『名字が有る!』が故に、
『菩薩である!』と、
『謂い!』、
但だ、
『名字が有る!』が故に、
『空である!』と、
『謂うからである!』。
何故ならば、
『諸法の実性』は、
『生も、滅も、垢も、浄も!』、
『無い!』が故に、
『菩薩摩訶薩が、是のように行えば!』、
『生も、滅も、垢も、浄も!』、
『見ないからである!』。
何故ならば、
『名字』は、
『因縁和合の!』、
『作法であり( that which is made )!』、
但だ、
『分別、憶想( distinguishing and understanding )』を、
『仮名して!』、
『説くだけであり!』、
是の故に、
『菩薩摩訶薩が般若波羅蜜を行う!』時には、
『一切の名字を見ることなく!』、
『名字を見ない!』が故に、
『名字に著さないのである!』。
  分別(ふんべつ):梵語 vikalpa の訳、認識の相違( difference of perception )の義、区別/変異/多様性( distinction, variation, variety )の意。
  憶想(おくそう):梵語 saMjJaa の訳、意識/認識( consciousness )の義、明了な知識/理解( clear knowledge or understanding )の意。
【論】問曰。是事舍利弗上已問。今何以重問。 問うて曰く、是の事は、舎利弗、上に已に問えるに、今は、何を以ってか、重ねて問える。
問い、
是の、
『事』は、
『舎利弗が、上に已に問うている!』のに、
今、
何故、
『重ねて、問うたのですか?』。
答曰。先因佛說欲以一切種知一切法。當學般若波羅蜜故問。非自意問。 答えて曰く、先は、仏の、『一切種を以って、一切法を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と説きたまえるに因るが故に問い、自らの意もて問えるに非ず。
答え、
先には、
『仏』が、こう説かれたので、――
『一切種智を用いて!』、
『一切法を知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
是れに、
『因って、問うたのであり!』、
『舎利弗』が、
自らの、
『意に因って!』、
『問うたのではない!』。
復次今舍利弗聞上種種讚般若功德。心歡喜尊重般若故問云何應行。如病人聞歎良藥便問云何應服。 復た次ぎに、今、舎利弗は、上に、般若波羅蜜の功徳を種種に讃ずるを聞いて、心に歓喜し、般若を尊重するが故に、『云何が、応に行ずべし』、と問えり。病人の、良薬を歎ずるを聞いて、便ち、『云何が、応に服すべし』、と問うが如し。
復た次ぎに、
今、
『舎利弗』は、
上に、
『般若波羅蜜の功徳』を、
『種種に讃じる!』のを、
『聞き!』、
『心に歓喜して、般若を尊重する!』が故に、
『般若波羅蜜は、何のように行えばよいのか?』と、
『問うたのである!』。
譬えば、
『病人』が、
『良薬』を、
『讃歎する!』のを、
『聞いて!』、
便ち( immediately )、
『何故、服まねばならぬのか?』と、
『問うようなものである!』。
問曰。先已問住不住法行檀波羅蜜。施者受者財物不可得故。如是等為行般若。今何以復問行。 問うて曰く、先に已に、『不住の法に住して、檀波羅蜜を行ずるは、施者、受者、財物の不可得なるが故なり。是れ等の如きを、般若を行ずと為すや』、と問えり。今は、何を以ってか、復た行ずるを問う。
問い、
先に、
已に、こう問うている、――
『不住の法に住して!』、
『檀波羅蜜を行じるのは!』、
『施者、受者、財物』が、
『不可得だからである!』と、
是れ等のようなことが、
『般若』を、
『行じるということなのですか?』、と。
今、
何故、復た、
『般若波羅蜜』を、
『行じること!』を、
『問うのですか?』。
答曰。上總問諸波羅蜜。此但問般若。上廣讚歎般若為主。此直問行般若。 答えて曰く、上には総じて、諸波羅蜜を問い、此には但だ般若を問う。上には、般若を広く讃歎するを、主と為し、此には直だ、般若を行ずるを問う。
答え、
上には、
『諸の波羅蜜』を、
『総じて!』、
『問うた!』が、
此には、
但だ、
『般若だけ!』を、
『問うている!』。
上には、
『般若』を、
『広く讃歎すること!』を、
『主としており!』、
此には、
直だ、
『般若を行うことだけ!』を、
『問うている!』。
復次上雖廣歎般若波羅蜜。時會渴仰欲得。是故舍利弗為眾人故問行般若波羅蜜。般若波羅蜜功德無量無盡。佛智慧亦無量無盡。若舍利弗不發問。則佛讚歎無窮已。若舍利弗不問者。則無因緣故則不應止。 復た次ぎに、上には、般若波羅蜜を広く歎ずと雖も、時に、会(かなら)ず渇仰して、得んと欲すべければ、是の故に、舎利弗は、衆人の為めの故に、般若波羅蜜を行ずるを問えり。般若波羅蜜の功徳は、無量、無尽にして、仏の智慧も亦た無量、無尽なればなり。若し舎利弗、問を発せざれば、則ち、仏の讃歎は、窮まりて已(や)むこと無し。若し舎利弗問わざれば、則ち、因縁無きが故に、則ち、応に止むべからず。
復た次ぎに、
上には、
『般若波羅蜜を広く讃歎したのである!』が、
『般若波羅蜜を讃歎する!』時には、
会ず( certainly )、
『渇仰して!』、
『得ようとするはずである!』。
是の故に、
『舎利弗』は、
『衆人の為め』の故に、
何のように、
『般若波羅蜜を行じるのか?』と、
『問うた!』。
『般若波羅蜜の功徳は、無量、無尽であり!』、
亦た、
『仏の智慧』も、
『無量、無尽なので!』、
若し、
『舎利弗が、問を発しなければ!』、
『仏の讃歎が、窮まって已むこと!』が、
『無いだろう!』。
若し、
『舎利弗が、問わなければ!』、
『因縁が無い!』が故に、
『止まるはずがないからである!』。
問曰。般若功德尊重。若佛廣讚有何不可。 問うて曰く、般若の功徳を尊重するに、若し仏、広く讃じたまえば、何んの不可なる有らんや。
問い、
『般若の功徳を尊重して!』、
若し、
『仏が、広く讃じられれば!』、
何のような、
『不可が( something wrong )!』が、
『有るのですか?』。
答曰。讚歎般若聞者歡喜尊重則增其福德。若聞說般若則增其智慧。不但以福德因緣故可成佛道。要須智慧得成。是故不須但讚歎。人聞讚歎心已清淨。渴仰欲得般若。如為渴人廣讚歎美飲不解於渴即便應與之。如是等因緣故舍利弗今問行般若。 答えて曰く、般若を讃歎するに、聞く者歓喜して、尊重すれば、則ち其の福徳を増す。若し般若を説くを聞けば、則ち其の智慧を増す。但だ福徳の因縁を以っての故に、仏道を成ずべからず。要(かなら)ず、智慧を須(も)って成ずるを得べし。是の故に、但だ讃歎するを須いず。人は、讃歎するを聞けば、心已に清浄なれば、渇仰して、般若を得んと欲す。渇人の為めには、広く美飲を讃歎するも、渇を解かざれば、即便ち応に之を与うべきが如し。是れ等の如き因縁の故に、舎利弗は今、般若を行ずるを問う。
問い、
『般若を讃歎するのを、聞く!』者が、
『歓喜、尊重すれば!』、
其の、
『福徳』を、
『増すことになり!』、
若し、
『般若が説かれるのを、聞けば!』、
其の、
『智慧』を、
『増すことになる!』が、
但だ、
『福徳の因縁を用いるだけでは!』、
是の故に、
『仏道』を、
『成じるわけにはいかないのであり!』、
要ず( necessarily )、
『智慧を須いて!』、
『成じなければならないのである!』。
是の故に、
但だ、
『讃歎だけが!』、
『必須なのではない!』。
『人』は、
『般若を讃歎するのを、聞けば!』、
『心が、已に清浄になり!』、
『般若を渇仰して!』、
『得ようとする!』。
譬えば、
『渇いた人の為めに!』、
『美飲を、広く讃歎しても!』、
『渇き!』が、
『解けないのであり!』、
即便ち( immediately )、
『飲』を、
『与えねばならないようなものである!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『舎利弗』は、
今、
『何のように、般若を行うのか?』と、
『問うたのである!』。
問曰。如人有眼見方知所趣處然後能行。菩薩亦如是。先念佛道知般若見已身然後應行。今何以言不見菩薩及般若。若不見云何得行。 問うて曰く、人の、眼有りて、方を見、所趣の処を知り、然る後に、能く行くが如く、菩薩も亦た是の如く、先に仏道を念じて、般若を知り、見已りて、身は、然る後に、応に行くべし。今は何を以ってか、『菩薩、及び般若を見ず』、と言う。若し、見ざれば、云何が行くを得ん。
問い、
『人』は、
『眼が有って!』、
『方を見て( seeing the direction )!』、
『所趣の処を知った( getting the destination )!』後に、
『行くことができるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『先に、仏道を念じて!』、
『般若を知り!』、
『所趣の処を見てから!』、
『身は、その後に行くことができる!』のに、
今、
何故、こう言うのですか?――
『菩薩も、般若も!』、
『見ない!』、と。
若し、
『所趣の処を見なければ!』、
何故、
『行くことができるのですか?』。
答曰。此中不言常不見。但明入般若觀時。不見菩薩及般若波羅蜜。般若波羅蜜為令眾生知實法故出。 答えて曰く、此の中には、『常に見ず』、とは言わず。但だ、般若に入りて、観る時には、菩薩、及び般若波羅蜜を見ざるを明かすのみ。般若波羅蜜は、衆生をして、実法を知らしめんが為めの故に出づ。
答え、
此の中に、
『常に、見ない!』と、
『言うのではない!』。
但だ、
『般若波羅蜜に入って、観る!』時には、
『菩薩や、般若波羅蜜を見ないこと!』を、
『明かしただけであり!』、
『般若波羅蜜』は、
『衆生に、実法を知らせる!』為めの故に、
『出るのである!』。
此菩薩名字眾緣和合假稱。如後品中廣說。般若波羅蜜名字亦如是。眾法和合故假名為般若波羅蜜。般若波羅蜜雖是假名而能破諸戲論。以自性無故說言不可見。如火從眾緣和合假名為火。雖無實事而能燒物。 此の菩薩の名字は、数縁の和合を、仮に称するのみ。後品中に広説するが如く、般若波羅蜜の名字も亦た是の如く、衆法の和合の故に、仮に名づけて、般若波羅蜜と為す。般若波羅蜜は、是れ仮名なりと雖も、能く諸戯論を破り、自性無きを以っての故に、説いて、『不可見なり』、と言う。火の、衆縁の和合より、仮に名づけて火と為し、実事無しと雖も、能く物を焼くが如し。
此の、
『菩薩の名字』は、
『衆縁の和合』を、
仮に、
『菩薩』と、
『称するのであり!』、
後の品中に、広説するように、――
『般若波羅蜜の名字も!』、
是のように、
『衆法の和合』の故に、
仮に、
『般若波羅蜜』と、
『称するのである!』。
『般若波羅蜜』は、
『仮名でありながら!』、
『諸の戯論』を、
『破ることができ!』、
『無自性である!』が故に、
『般若波羅蜜を説いて!』、
『見ることができない!』と、
『言うのであり!』、
譬えば、
『火』が、
『衆縁の和合』を、
『仮に!』、
『火と称して!』、
『実事が、無いながらに!』、
『物』を、
『焼くことができるようなものである!』。
問曰。若入般若中不見。出則便見何者可信。 問うて曰く、若し人、般若中には見ずして、出づれば則便ち見るとすれば、何者か、信ずべき。
問い、
若し、
『人』が、
『般若中には、見ることがないのに!』、
『般若を出れば!』、
『則便ち( immediately )!』、
『見るとすれば!』、
是のような、
『事』を、
『何者が、信じられるのですか?』。
答曰。上言般若為實法故出。是則可信。出般若波羅蜜不實故不可信。 答えて曰く、上に、『般若は、実法の為めの故に出づ』、と言うは、是れ則ち信ずべきも、般若波羅蜜を出づれば、不実なるが故に信ずべからず。
答え、
上に、
『般若が、実法の為めの故に出る!』と、
『言うのは!』、
『信じられる!』が、
『般若波羅蜜を出てしまえば!』、
『不実である!』が故に、
『信じられない!』。
問曰。若入般若中不見出則見者。當知非法常空以般若力故空。 問うて曰く、若し般若中に入れば見ず、出づれば則ち見るとなれば、当に知るべし、法は常空に非ざるも、般若の力を以っての故に、空なりと。
問い、
若し、
『般若』中に、
『入れば、見えず!』、
『出れば、見える!』とすれば、
当然、こう知ることになる、――
『法は、常空ではない!』が、
『般若の力を用いる!』が故に、
『空となる!』、と。
答曰。世俗法故言行者入般若波羅蜜。諸觀戲論滅故無出無入。若諸賢聖不以名字說則不得以教化凡夫。當取說意莫著語言。 答えて曰く、世俗法の故に、『行者は、般若波羅蜜に入る』、と言うも、諸観、戯論の滅するが故に、無出、無入なり。若し諸の賢聖にして、名字を以って説かざれば、則ち以って凡夫を教化するを得ず。当に説の意を取るべく、語言に著す莫(なか)れ。
答え、
『世俗法』の故に、
『行者が、般若波羅蜜に入る!』と、
『言う!』が、
『諸の観や、戯論が滅する!』が故に、
『般若波羅蜜を出ることも、入ることも!』、
『無い!』。
若し、
『諸の賢聖』が、
『名字を用いて、説かなければ!』、
則ち、
『名字を用いて!』、
『凡夫を教化することができない!』ので、
当然、
『説の意を取るべきであって!』、
『語言』に、
『著してはならないのである!』。
問曰。若般若中貴一切法空。此中何以先說眾生空破我。 問うて曰く、若し般若中に、一切法の空を貴べば、此の中には、何を以ってか、先に衆生空を説いて、我を破る。
問い、
若し、
『般若中に、貴ばれる!』のが、
『一切法』の、
『空だとすれば!』、
此の中に、
何故、
先に、
『衆生空を説いて!』、
『我』を、
『破り!』、
後に、
『法空を説いて!』、
『一切法』を、
『破るのですか?』。
答曰。初聞般若不得便說一切法空。我不可以五情求得。但憶想分別生我想無而謂有。又意情中無有定緣。但憶想分別顛倒因緣故。於空五眾中而生我想。若聞無我則易可解。 答えて曰く、初には、般若を聞くも、便ち、一切法の空を説くを得ず。我は、五情を以ってしては、求めて得べからず、但だ憶想、分別して、我想を生じ、無きを有りと謂う。又意情中には、定縁有ること無く、但だ憶想、分別の顛倒の因縁の故に、空の五衆中に於いて、我想を生ず。若し我無きを聞けば、則ち易(たやす)く解すべし。
答え、
『初めて、般若を聞く!』者に、
便ち( easily )、
『一切法が空である!』と、
『説くことはできない!』が、
『我』は、
『五情を用いて、求めても得られず!』、
但だ、
『憶想、分別する!』が故に、
『我想を生じて!』、
『我は、無いのに!』、
『有ると、謂うだけである!』。
又、
『意情中には、定縁が無い!
in mind there is not any definite consciousness )』のに、
但だ、
『憶想、分別するという!』、
『顛倒の因縁』の故に、
『空の五衆』中に、
『我想を生じるだけなので!』、
若し、
『我は無いと、聞けば!』、
則ち、
『容易に!』、
『理解することができるからである!』。
色等諸法現眼所見。若初言空無則難可信。今先破我次破我所法。破我我所法故則一切法盡空。如是離欲名為得道。 色等の諸法は、眼の所見を現すも、若し初に、『空にして、無し』、と言えば、則ち信ずべきこと難し。今、先に我を破りて、次に我所の法を破れば、我と我所の法とを破るが故に、則ち一切法は、尽く空なり。是の如くして欲を離るれば、名づけて道を得と為す。
『色等の諸法』は、
『眼の所見』を、
『現す!』が、
若し、
初に、
『色等の諸法は空であり、無である!』と、
『言えば!』、
則ち、
『信じようとしても!』、
『難しい!』。
今、
先に、
『我を破って!』、
次に、
『我所の法(五衆、十二入、十八界)』を、
『破れば!』、
則ち、
『我も、我所の法も破った!』が故に、
『一切の法』は、
『尽くが、空となり!』、
是のように、
『欲を離れるのを!』、
『道を得る!』と、
『称するのである!』。
復次般若波羅蜜無一定法。故不見我行般若。不見不行者。如凡夫不得般若故名不行。菩薩則不然。但行空般若故說不見不行。 復た次ぎに、般若波羅蜜には、一定法無きが故に、我れ般若を行ずと見ず、行ぜずとも見ずとは、凡夫の如きは、般若を得ざるが故に、行ぜずと名づくるも、菩薩は則ち然らずして、但だ空の般若を行ずるが故に、『行ぜずと見ず』、と説く。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜』には、
『一定法すら無い!』が故に、
わたしは、
『般若を行じるとも、行じないとも!』、
『見ることはない!』とは、――
『凡夫など!』は、
『般若を得ていない!』が故に、
『行じない!』と、
『称するのであり!』、
『菩薩』は、
『行じていないのではなく!』、
但だ、
『空という!』、
『般若』を、
『行じている!』ので、
是の故に、
『行じないとも、見ない!』と、
『説くのである!』。
復次佛為法王。觀餘菩薩其智甚少。雜諸結使不名為行。譬如國王雖得少物不名為得。佛亦如是。教諸菩薩雖有少行不名為行。 復た次ぎに、仏は、法王と為りて、餘の菩薩を観るに、其の智は甚だ少く、諸結使を雑うれば、名づけて行と為さず。譬えば、国王の少しの物を得と雖も、名づけて得と為さざるが如し。仏も亦た是の如く、諸菩薩に教えて、少しの行有らしむと雖も、名づけて行と為さず。
復た次ぎに、
『仏は、法王として!』、
『餘の菩薩を観れば!』、
其の、
『智が、甚だ少く!』、
『諸の結使』を、
『雑えている!』ので、
是れを、
『般若を行じる!』とは、
『称されない!』。
譬えば、
『国王』が、
『少しの物を得たとしても!』、
『得た!』と、
『称さないようなものであり!』、
『仏』も、
是のように、
『諸の菩薩に教えて!』、
『少しの行を有させられた( let them do some practices )!』が、
是れを、
『般若を行じる!』とは、
『称されないのである!』。
復次行般若波羅蜜者生憍慢。言我有般若波羅蜜取是相。若不行者心自懈沒而懷憂悴。是故言不見我行與不行。 復た次ぎに、般若波羅蜜を行ずれば、憍慢を生じて、『我れに、般若波羅蜜有り』、と言いて、是の相を取るも、若し行ぜざれば、心自ら懈没して、憂悴を懐く。是の故に、『我れ行ずとも、行ぜずとも見ず』、と言う。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜』を、
『行じれば!』、
『憍慢を生じて!』、
わたしには、
『般若波羅蜜が有る!』と、
『言い!』、
是の、
『般若波羅蜜の相』を、
『取ることになる!』が、
若し、
『行じなければ!』、
『心』が、
『自ら懈怠、沈没して!』、
『憂愁、憔悴』を、
『懐くことになる!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
わたしは、
『般若波羅蜜』を、
『行うとも、行わない!』とも、
『見ることはない!』、と。
復次不見我行般若波羅蜜者。破著有見。不見我不行般若波羅蜜者。破著無見。 復た次ぎに、『我れ、般若波羅蜜を行ず』、と見ざれば、有見に著するを破り、『我れ、般若波羅蜜を行ぜず』、と見ざれば、無見に著するを破る。
復た次ぎに、
わたしは、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『見ることがなければ( do not take any views )!』、
『有見に著する!』のを、
『破り!』、
わたしは、
『般若波羅蜜を行わない!』と、
『見ることがなければ!』、
『無見に著する!』のを、
『破ることになる!』。
復次不見我行般若波羅蜜者。止諸法戲調。不見我不行者。止懈怠心故。譬如乘馬疾則制之。遲則鞭之。如是等分別行不行。 復た次ぎに、『我れ、般若波羅蜜を行ず』、と見ざれば、諸法の戯調を止め、『我れ、行ぜず』、と見ざれば、懈怠の心を止むるが故なり。譬えば馬に乗りて、疾ければ則ち之を制し、遅ければ則ち之を鞭うつが如し。是れ等の如く、行と不行とを分別す。
復た次ぎに、
わたしは、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『見ることがなければ!』、
『諸法を戯論したり、調弄したりすること!』を、
『止め!』、
わたしは、
『般若波羅蜜を行わない!』と、
『見ることがなければ!』、
『懈怠の心』を、
『止めることになるからである!』。
譬えば、
『馬に乗って!』、
『馬』が、
『疾ければ!』、
『制し!』、
『馬』が、
『遅ければ!』、
『鞭うつようなものである!』。
是れ等のように、
『般若波羅蜜』を、
『行じることと、行じないこと!』を、
『分別する!』。
復次佛自說因緣。所謂菩薩菩薩字性空。是中雖但說菩薩字空而五眾亦空。空中無色離色亦無空者。空名法空。法空中乃無一毫法。何況麤色。 復た次ぎに、仏の自ら因縁を説きたまわく、謂わゆる、『菩薩と、菩薩の字の性は空なり!』、と。是の中には、但だ、『菩薩の字は空なり』、と説くと雖も、五衆も亦た空なり。空中には色無く、色を離るれば、亦た空無しとは、空を法空と名づけ、法空中には、乃ち一毫の法すら無ければなり。何に況んや、麁色をや。
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
謂わゆる、
『菩薩と、菩薩の名字』は、
『性として( the nature is )!』、
『空である!』、と。
是の中には、
但だ、
『菩薩の名字が空である!』と、
『説くだけである!』が、
亦た、
『五衆』も、
『空である!』。
『空中には、色が無く!』、
『色を離れれば!』、
『空も無い!』とは、――
『空とは、法空であり!』、
『法空』中には、
乃ち( only )、
『一毫の法( the minimum dharma )すら!』、
『無いのである!』、
況して、
『麁色( physical material )など!』は、
『言うまでもない!』。
  麁色(そしき):梵語 audaarika-ruupa の訳、総体的な形状/物質的素材( gross form, physical material )の義、未だ細分されざる色/霊魂を包む総体的身体( the form that is not yet subdivided, the gross body which envelopes the soul )の意。
空亦不離色。所以者何。破色故有空。云何言離色。受想行識亦如是。何以故佛自更說因緣。所謂但有名字謂為菩提。但有名字謂為菩薩。但有名字謂為空。 空も、亦た色を離れず。所以は何んとなれば、色を破らんが故に、空有ればなれば、云何が、『色を離る』、と言わん。受想行識も亦た是の如し。何を以っての故に、仏の自ら更に因縁を説きたまえり。謂わゆる、『但だ、名字有るを、謂いて菩提と為し、但だ、名字有るを、謂いて菩薩と為し、但だ、名字有るを、謂いて空と為す』、と。
『空』も、
亦た、
『色を離れない!』。
何故ならば、
『色を破る!』為めの故に、
『空が有るのに!』、
何故、
『色を離れる!』と、
『言うのか?』。
『受想行識』も、
亦た、
『是の通りである!』。
何故ならば、
『仏』は、
自ら、
更に、
『因縁』を、こう説かれている、――
謂わゆる、
但だ、
『名字だけが有る!』者を、
『菩提である、と謂い!』、
但だ、
『名字だけが有る!』者を、
『菩薩である、と謂い!』、
但だ、
『名字だけが有る!』者を、
『空である、と謂うのである!』、と。
問曰。先已說此事。今何以重說。 問うて曰く、先に已に、此の事を説けるに、今、何を以ってか、重ねて説く。
問い、
先に、
已に、
『此の事は説かれている!』のに、
今、
何故、
『重ねて、説くのですか?』。
答曰。先說不見菩薩。不見菩薩字。不見般若波羅蜜。今說不見因緣。所謂但有名謂為菩提。但有名謂為菩薩。但有名謂為空。上菩薩此菩薩義同。菩薩字即如菩薩中說。 答えて曰く、先には、『菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず』、と説き、今は、因縁を見ざるを説いて、謂わゆる、『但だ、名有るを、謂いて菩提と為し、名有るを、謂いて菩薩と為し、名有るを、謂いて空と為す』、となり。上の菩薩と、此の菩薩の義は同じなり。菩薩の字とは、即ち、菩薩中に説けるが如し。
答え、
先には、こう説いたが、――
『菩薩を見ることもなく!』、
『菩薩の字を見ることもなく!』、
『般若波羅蜜を見ることもない!』、と。
今は、
『因縁』を、
『見ることもない!』と、
『説いたのである!』。
謂わゆる、
但だ、
『名字だけが有る!』者を、
『菩提である、と謂い!』、
但だ、
『名字だけが有る!』者を、
『菩薩である、と謂い!』、
但だ、
『名字だけが有る!』者を、
『空である、と謂うのである!』、と。
『上の菩薩と、此の菩薩とは!』、
『義』が、
『同じであり!』、
『菩薩の字』とは、
『菩薩』中に、
『説いた通りである!』。
般若波羅蜜分為二分。成就者名為菩提。未成就者名為空。 般若波羅蜜を分けて、二分と為し、成就せる者を名づけて、菩提と為し、未だ成就せざる者を名づけて、空と為す。
『般若波羅蜜』を、
『分けて!』、
『二分とすれば!』――
『般若波羅蜜』の、
『成就した!』者を、
『菩提』と、
『称し!』、
『未だ、成就しない!』者を、
『空』と、
『称する!』。
生相實不可得故名為無生。所以者何。若先生後法。若先法後生。若生法一時。皆不可得。如先說無生故無滅。若法不生不滅如虛空。云何有垢有淨。 生相は、実に不可得なるが故に、名づけて無生と為す。所以は何んとなれば、若しは、生を先として、法を後とするも、若しは法を先にして、生を後とするも、若しは生と、法と一時なりとするも、皆不可得なり。先に説けるが如く、無生の故に無滅なれば、若し法不生、不滅なること、虚空の如くんば、云何が垢有り、浄有らんや。
『生相』が、
『実に( really )!』、
『不可得である( be unrecognizable )!』が故に、
即ち、
『無生』と、
『称するのである!』。
何故ならば、
若し、
『生が、先であり!』、
『法が、後であったとしても!』、
若し、
『法が、先であり!』、
『生が、後であったとしても!』、
若し、
『生と、法とが!』、
『一時であったとしても!』、
皆、
『不可得である!』、
先に、説いたように、――
『法』には、
『生が無い!』が故に、
『滅も無い!』として、
若し、
『法』が、
『虚空のように!』、
『不生、不滅ならば!』、
何故、
『垢や、浄が!』、
『有るのか?』。
  参考:『中論巻2三相品』:『如燈入於闇室照了諸物。亦能自照。生亦如是。能生於彼。亦能自生。答曰不然。何以故 燈中自無闇  住處亦無闇  破闇乃名照  無闇則無照 燈體自無闇。明所及處亦無闇。明闇相違故。破闇故名照。無闇則無照。何得言燈自照亦照彼。問曰。是燈非未生有照亦非生已有照。但燈生時。能自照亦照彼。答曰 云何燈生時  而能破於闇  此燈初生時  不能及於闇。燈生時名半生半未生。燈體未成就云何能破闇。又燈不能及闇。如人得賊乃名為破。若謂燈雖不到闇而能破闇者。是亦不然。何以故 燈若未及闇  而能破闇者  燈在於此間  則破一切闇 若燈有力。不到闇而能破者。此處燃燈。應破一切處闇。俱不及故。復次燈不應自照照彼。何以故 若燈能自照  亦能照於彼  闇亦應自闇  亦能闇於彼 若燈與闇相違故。能自照亦照於彼。闇與燈相違故。亦應自蔽蔽彼。若闇與燈相違。不能自蔽蔽彼。燈與闇相違。亦不應自照亦照彼。是故燈喻非也。破生因緣未盡故。今當更說 此生若未生  云何能自生  若生已自生  生已何用生 是生自生時。為生已生。為未生生。若未生生則是無法。無法何能自生。若謂生已生。則為已成。不須復生。如已作不應更作。若已生若未生。是二俱不生故無生。汝先說生如燈能自生亦生彼。是事不然。住滅亦如是。復次 生非生已生  亦非未生生  生時亦不生  去來中已答 生名眾緣和合有生。已生中無作故無生。未生中無作故無生。生時亦不然。離生法生時不可得。離生時生法亦不可得。云何生時生。是事去來中已答。已生法不可生。何以故。生已復生。如是展轉則為無窮。如作已復作。復次若生已更生者。以何生法生。是生相未生。而言生已生者。則自違所說。何以故。生相未生而汝謂生。若未生謂生者。法或可生已而生。或可未生而生。汝先說生已生。是則不定。復次如燒已不應復燒。去已不應復去。如是等因緣故。生已不應生。未生法亦不生。何以故。法若未生。則不應與生緣和合。若不與生緣和合。則無法生。若法未與生緣和合而生者。應無作法而作。無去法而去。無染法而染。無恚法而恚。無癡法而癡。如是則皆破世間法。是故未生法不生。復次若未生法生者。世間未生法皆應生一切凡夫。未生菩提今應生菩提不壞法。阿羅漢無有煩惱。今應生煩惱。兔等無角今皆應生。但是事不然。是故未生法亦不生。』
譬如虛空萬歲。雨亦不濕大火燒不熱煙亦不著。所以者何。本自無生故。菩薩能如是觀不見離是不生不滅法。有生有滅有垢有淨。何以故。佛自說因緣。一切法皆憶想分別因緣和合故強以名說。不可說者是實義。可說者皆是名字。 譬えば、虚空の万歳の雨にも、亦た湿せず、大火に焼かるとも熱せず、煙も、亦た著せざるが如し。所以は何んとなれば、本とより、自ら生無きが故なり。菩薩は、能く是の如く観て、是の不生、不滅の法を離れて、生有り、滅有り、垢有り、浄有りと見ず。何を以っての故に、仏の、自ら因縁を説きたまわく、『一切法は、皆、憶想、分別の因縁の和合の故に、強いて名を以って説けり』、と。不可説の者とは、是れ実義なり。可説の者とは、皆是れ名字なり。
譬えば、
『虚空』が、
『万歳の雨にも、湿らず!』、
『大火が焼いても、熱くならず!』、
『煙も、亦た著かないようなものだからである!』。
何故ならば、
『法』は、
『本とより!』、
『自ら、生が無いからである( in where there is not production )!』。
『菩薩』は、
是のように、
『観ることができれば!』、
是の、
『不生、不滅の法を離れて!』、
『生、滅、垢、浄が有る!』と、
『見ることはない!』。
何故ならば、
『仏』は、
自ら、
『因縁』を、こう説かれている、――
『一切法』は、
皆、
『憶想、分別の因縁』の、
『和合である!』が故に、
強いて、
『名字を用いて!』、
『説くのである!』、と。
『不可説の者』とは、
『法』の、
『実義であり!』、
『可説の者』は、
皆、
『名字なのである!』。
菩薩行般若波羅蜜不見一切名字者。先略說名字。所謂菩薩菩薩字般若波羅蜜菩提字。今廣說一切名字皆不可見。不見故不著。不著者不可得故。如諸眼中慧眼第一。菩薩以慧眼遍求不見。乃至不見細微一法。是故不著。 菩薩は、般若波羅蜜を行ずれば、一切の名字を見ずとは、先に名字を略説すらく、謂わゆる、『菩薩、菩薩の字、般若波羅蜜、菩提の字なり』、と。今は広説すらく、『一切の名字は、皆、不可見なり。見ざるが故に、著せず』、と。著せずとは、不可得なるが故なり。諸眼中に、慧眼第一なるが如きに、菩薩は、慧眼を以って、遍く求むるも、見ず。乃至細微の一法すら見ず。是の故に著せざるなり。
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行じれば!』、
『一切の名字』を、
『見ることがない!』とは、――
先に、
『名字』とは、
謂わゆる、
『菩薩や、菩薩の字や、般若波羅蜜や、菩提の字である!』と、
『略説した!』ので、
今、
『一切の名字は、皆不可見であり!』、
『見ないが故に、著することがない!』と、
『広説したのである!』。
『著することがない!』のは、
『法』が、
『不可得だからである!』。
例えば、
『諸眼』中には、
『慧眼』が、
『第一である!』が、
『菩薩』が、
『慧眼を用いて!』、
『遍く、求めても!』、
『法』を、
『見ることはなく!』、
乃至、
『細微の一法すら!』、
『見ることはない!』ので、
是の故に、
『法』に、
『著さないのである!』。
問曰。若菩薩一切法中不著。何得不入涅槃。 問うて曰く、若し、菩薩にして、一切法中に著せずんば、何んが、涅槃に入らざるを得る。
問い、
若し、
『菩薩』は、
『一切の法』中に、
『著さなければ!』、
何故、
『涅槃』に、
『入らずにいられるのですか?』。
答曰。是事處處已說。今此中略說。大悲心故。十方佛念故。本願未滿故。精進波羅蜜力故。般若波羅蜜方便二事和合故。所謂不著於不著故。如是等種種因緣故。說菩薩雖不著諸法而不入涅槃 答えて曰く、是の事は、処処に已に説けるも、今、此の中に略説せん。大悲心の故に、十方の仏の念じたもうが故に、本願の未だ満てざるが故に、精進波羅蜜の力の故に、般若波羅蜜と方便の二事和合するが故に、謂わゆる不著に於いて、著せざるが故なり。是れ等の如き、種種の因縁の故に、『菩薩は、諸法に著せずと雖も、涅槃に入らず』、と説けり。
答え、
是の、
『事』は、
『処処に!』、
『已に説いたのである!』が、
今、
此の中に、
『略説する!』、――
『菩薩』は、
『大悲心を有する!』が故に、
『十方の仏に念じられる!』が故に、
『本願が、未だ満たない!』が故に、
『精進波羅蜜の力』の故に、
『般若波羅蜜と、方便の二事が和合する!』が故に、
謂わゆる、
『不著の法』にも、
『著さない!』が故に、
是れ等のような、
『種種の因縁』の故に、こう説くのである、――
『菩薩は、諸法に著さない!』が、
『涅槃に!』、
『入ることもない!』、と。


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