巻第三十四(下)
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大智度論釋初品中見一切佛世界義第五十一之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


無量の声聞に、一説法して阿羅漢を得させる

【經】我得阿耨多羅三藐三菩提時。以無量阿僧祇聲聞為僧。我一說法時便於座上盡得阿羅漢者。當學般若波羅蜜 我れ、阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、無量、阿僧祇の声聞を以って、僧と為し、我れ一説法せん時、便ち座上に於いて、尽く阿羅漢を得しめんとせば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
若し、
わたしが、
『阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時、
『無量、阿僧祇の声聞を僧として!
to make the monastic order
  of an infinite number of the disciples of hina-yana
)』、
わたしが、
『一説法する!』時、
是の、
『僧』に、
『座上』に於いて、
尽く、
『阿羅漢を得させよう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  (そう)、僧佉(そうぎゃ):梵語 saMgha の音訳、堆積/群衆( heap, crowd, multitude )の義、親密な関係/共同体( close contact or combination )、或る目的の為に共同生活する多人数の集団/団体/協会/会社/共同体( any number of people living together for a certain purpose, a society, association, company, community )の意。
  参考:『大般若経巻3』:『若菩薩摩訶薩。欲令十方殑伽沙等世界有情。以己威力。未見諦者令得見諦。住預流果。或一來果。或不還果。或令證得阿羅漢果。或令證得獨覺菩提。或令證得乃至無上正等菩提。應學般若波羅蜜多。』
【論】有佛以聲聞為僧有數有限。如釋迦文尼佛千二百五十比丘為僧。彌勒佛初會僧九十九億。第二會九十六億。第三會九十三億。如是等諸佛僧各各有限有數不同。以是故菩薩願言我當以無量阿僧祇聲聞為僧。 有る仏は、声聞を以って、僧と為すも、有数、有限なり。釈迦文尼仏の如きは千二百五十の比丘を僧と為し、弥勒仏の、初会の僧は九十九億、第二会は九十六億、第三会は九十三億なり。是れ等の如く諸仏の僧は、各各有限、有数にして同じからず。是を以っての故に、菩薩の願って言わく、『我れは、当に無量、阿僧祇の声聞を以って、僧と為すべし』、と。
有る、
『仏』は、
『声聞を僧とされた!』が、
是の、
『僧』は、
『有数、有限である!』。
例えば、
『釈迦文尼仏』は、
『千二百五十』の、
『比丘』が、
『僧であった!』し、
『弥勒仏』は、
『初会』の、
『僧』が、
『九十九億であり!』、
『第二会』の、
『僧』は、
『九十六億であり!』、
『第三会』の、
『僧』は、
『九十三億である!』。
是れ等のように、
『諸仏の僧』は、
各各、
『有限、有数であり!』、
『同じでない!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
『願って!』、こう言うのである、――
わたしは、
『無量、阿僧祇の声聞』を、
『僧とせねばならない!』、と。
有佛為眾生說法。一說法得初道。異時更說得二道三道第四道。如釋迦文尼佛為五比丘說法得初道。異日得阿羅漢道。如舍利弗得初道。經半月然後得阿羅漢道。摩訶迦葉見佛得初道。過八日已得阿羅漢。如阿難得須陀洹道。二十五歲供養佛已。佛般涅槃後得阿羅漢。如是等諸阿羅漢不一時得四道。以是故菩薩願言我一說法時便於座上盡得阿羅漢 有る仏は、衆生の為に説法して、一説法にて初道を得しめ、異時に更に説いて二道、三道、第四道を得しむ。釈迦文尼仏の如きはは、五比丘の為に説法して、初道を得しめ、異日に阿羅漢道を得しめたまえば、舎利弗の如きは、初道を得るに、半月を経て然る後に阿羅漢道を得、摩訶迦葉は仏を見て、初道を得、八日を過ぎ已りて、阿羅漢を得、阿難の如きは、須陀洹道を得て、二十五歳仏を供養し已りて、仏の般涅槃の後に阿羅漢を得たり。是れ等の如く、諸の阿羅漢は、一時に四道を得るにあらず。是を以っての故に菩薩の願いて言わく、『我れ、一説法する時、便ち座上に於いて、尽く阿羅漢を得しむべし』、と。
有る、
『仏』は、
『衆生の為に、説法される!』時、
『一説法の時( by the first teaching )』、
『初道』を、
『得させ!』、
『異時に、更に説いて!』、
『第二、三、四道』を、
『得させられる!』。
例えば、
『釈迦文尼仏』は、
『五比丘の為に!』、
『説法して!』、
『初道』を、
『得させられる!』と、
『異日に!』、
『阿羅漢道』を、
『得させられたのである!』が、
『舎利弗など!』は、
『初道を得てから、半月を経た!』後、
『阿羅漢道』を、
『得!』、
『摩訶迦葉など!』は、
『仏を見た!』時、
『初道』を、
『得てから!』、
『八日を過ぎて!』、
『阿羅漢』を、
『得たのであり!』、
『阿難など!』は、
『須陀洹道を得てから!』、
『二十五歳( for 25years )!』、
『仏』を、
『供養し!』、
『仏が般涅槃された!』後に、
『阿羅漢』を、
『得たのである!』。
是れ等のように、
『諸の阿羅漢』は、
『四道』を、
『一時に!』、
『得るのではなく!』、
是の故に、
『菩薩は願って!』、こう言うのである、――
わたしは、
『一説法の時』、
便ち( smoothly )、
『座上』に於いて、
尽く、
『阿羅漢』を、
『得させねばならぬ!』、と。



無量の菩薩に、一説法して阿鞞跋致を得させる

【經】我當以無量阿僧祇菩薩摩訶薩為僧。我一說法時無量阿僧祇菩薩皆得阿鞞跋致 我れは、当に無量、阿僧祇の菩薩摩訶薩を以って僧となし、我が一説法の時、無量、阿僧祇の菩薩を、皆阿鞞跋致を得しむべし。
わたしは、
『無量、阿僧祇の菩薩摩訶薩を僧として!』、
わたしの、
『一説法の時!』、
『無量、阿僧祇の菩薩摩訶薩』に、
皆、
『阿鞞跋致』を、
『得させねばならない!』。
【論】菩薩所以作此願者。諸佛多以聲聞為僧無別菩薩僧。如彌勒菩薩文殊師利菩薩等。以釋迦文佛無別菩薩僧故。入聲聞僧中次第坐。有佛為一乘說法純以菩薩為僧。有佛聲聞菩薩雜以為僧。如阿彌陀佛國菩薩僧多聲聞僧少。以是故願以無量菩薩為僧。有佛初轉法輪時無有人得阿鞞跋致。以是故菩薩願言我一說法無量阿僧祇人得阿鞞跋致 菩薩の、此の願を作す所以は、諸仏の多くは、声聞を以って僧と為し、別の菩薩僧の無ければなり。弥勒菩薩、文殊師利菩薩等の如きは、釈迦文仏には、別の菩薩僧の無きを以っての故に、声聞僧中に入りて、次第に坐す。有る仏は、一乗の為に法を説いて、純ら菩薩を以って、僧と為し、有る仏は、声聞、菩薩を雑えて、以って僧と為す。阿弥陀仏国の如きは、菩薩僧多く、声聞僧少なし。是を以っての故に、無量の菩薩を以って、僧と為さんと願う。有る仏は、初の転法輪の時、人の阿鞞跋致を得るもの有ること無し。是を以っての故に、菩薩の願うて言わく、『我が一説法に、無量阿僧祇の人、阿鞞跋致を得ん』、と。
『菩薩』が、
此の、
『願を作す理由』は、こうである、――
諸の、
『仏』は、
多くが、
『声聞を僧として!』、
別に、
『菩薩僧』が、
『無い!』。
例えば、
『弥勒菩薩や、文殊師利菩薩』等は、
『釈迦文仏』には、
別に、
『菩薩僧が無かった!』が故に、
『声聞僧中に入って!』、
『次第に( in order of seniority )!』、
『坐していた!』。
有る、
『仏』は、
『一乗の為に、説法された!』ので、
純ら、
『菩薩だけ!』を、
『僧とされた!』。
有る、
『仏』は、
『声聞と、菩薩と!』を、
『雑えて!』、
『僧とされた!』。
例えば、
『阿弥陀仏の国など!』は、
『菩薩僧が多く!』、
『声聞僧』は、
『少ない!』。
是の故に、
『無量の菩薩』を、
『僧としたい!』と、
『願うのである!』。
有る、
『仏』は、
『初めて、法輪を転じられた!』時、
『阿鞞跋致を得た!』、
『人』が、
『無かった!』ので、
是の故に、
『菩薩は願って!』、こう言うのである、――
わたしが、
『一説法する!』時、
『無量、阿僧祇の人』が、
『阿鞞跋致を得るだろう!』、と。
  次第坐(しだいにざす):梵語 yathaa- vRddhikaaya upaveSTavyam の訳、位階/入門順に坐ること( to sit in order of rank, seniority, etc. )の意。僧の会堂に於ける適切な坐順の指定、或は遵守であり、法会等に於いて、坐順は重要な事柄であるが故に、律中の項目として取り挙げられている( The designation and observance of proper order in seating in the monkʼs hall, at dharma assemblies and so forth is a matter of some importance, and is therefore an item treated in the Buddhist vinayas )。



無量の寿命を得て、光明を具足する

【經】欲得壽命無量光明具足者。當學般若波羅蜜 寿命の無量と、光明の具足を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『無量の寿命や、光明の具足』を、
『得ようとすれば( to wish to attain )!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】諸佛壽命有長有短。如鞞婆尸佛壽八萬四千歲。如拘樓餐陀佛壽六萬歲。迦那伽牟尼佛壽三萬歲。迦葉佛壽二萬歲。釋迦文佛壽百歲。少有過者。彌勒佛壽八萬四千歲。如釋迦文佛常光一丈。彌勒佛常光十里。 諸仏の寿命には、長有り、短有り。鞞婆尸仏の如きは、寿八万四千歳なり。拘楼餐陀仏の如きは、寿六万歳、迦那伽牟尼仏は寿三万歳、迦葉仏は寿二万歳、釈迦文仏の寿は百歳にして、少し過ぐる者有り。弥勒仏の寿は八万四千歳なり。釈迦文仏の常光の如きは一丈、弥勒仏の常光は十里なり。
『諸仏の寿命』には、
『長、短が有る!』ので、
例えば、
『鞞婆尸仏の寿は、八万四千歳!』、
『拘楼餐陀仏の寿は、六万歳!』、
『迦那伽牟尼仏の寿は、三万歳!』、
『迦葉仏の寿は、二万歳!』、
『釈迦文仏の寿は、百歳である!』が、
『百歳を過ぎる!』者も、
『少しは!』、
『有る!』。
『弥勒仏の寿は、八万四千歳である!』、
又、
『釈迦文仏の常光は、一丈であった!』が、
『弥勒仏の常光は、十里である!』。
  鞞婆尸(びばし):梵名 vipazyin 、仏の名、又毘婆尸に作る。過去七仏の一。『大智度論巻9下注:過去七仏』参照。
  拘楼餐陀(くるさんだ):梵名 krakucchanda 、仏の名、又俱留孫に作る。過去七仏の一。『大智度論巻9下注:過去七仏』参照。
  迦那伽牟尼(かながむに):梵名 kanakamuni 、仏の名。又拘那含牟尼に作る。過去七仏の一。『大智度論巻9下注:過去七仏』参照。
  迦葉(かしょう):梵名 kaazyapa 、仏の名。過去七仏の一。『大智度論巻9下注:過去七仏』参照。
諸佛壽命光明各有二種。一者隱藏。二者顯現。一者真實。二者為眾生故隱藏。真實者無量顯現。為眾生者有限有量。 諸仏の寿命、光明には、各二種有り。一には隠蔵、二には顕現なり。一には真実、二には衆生の為の故に隠蔵す。真実とは、無量に顕現す。衆生の為とは、有限有量なり。
『諸仏の寿命、光明には二種有り!』、
一には、
『隠蔵であり( being covered )!』、
二には、
『顕現である( being appeared )!』。
一には、
『真実であり!』、
二には、
『衆生の為』の故に、
『隠蔵する!』。
『真実の!』、
『寿命、光明』は、
『無量に顕現される!』が、
『衆生の為の!』、
『寿命、光明』は、
『有限、有量である!』。
  隠蔵(おんぞう):梵語 upastha の訳、下になった部分( the part which is under )の義、囲まれた/護られた場所( a well-surrounded of sheltered place )の意。
  顕現(けんげん):梵語 vyakta の訳、眼に見える/明白な( manifested, apparent, visible, evident )の義、明示された/顕示された( specified, distinguished )の意。
實佛壽不應短。所以者何。諸佛長壽業因緣具足故。如婆伽梵宿世救一聚落人命故得無量阿僧祇壽命。梵世中壽法不過半劫。而此梵天壽獨無量。以是故生邪見言唯我常住。 實の仏寿は、応に短かるべからず。所以は何んとなれば、諸仏の長寿の業因緣は具足するが故なり。婆伽梵の如きは、宿世に一聚落の人命を救いたるが故に、無量、阿僧祇の寿命を得、梵世中の寿法は、半劫を過ぎざるに、此の梵天の寿のみ、独り無量なれば、是を以っての故に、邪見を生じて、言わく、『唯だ我れのみ、常住す』、と。
『実の仏は!』、
『短寿であるはずがない!』。
何故ならば、
『諸仏には!』、
『長寿の業の因縁』が、
『具足しているからである!』。
例えば、
『婆伽梵など!』は、
『宿世に!』、
『一聚落の人の命を救った!』が故
『無量、阿僧祇の寿命』を、
『得た!』。
『梵世界』中の、
『寿法( the duration of life )』は、
『半劫』を、
『過ぎないのに!』、
此の、
『梵天だけ!』が、
独り、
『寿命』が、
『無量なので!』、
是の故に、
『邪見を生じて!』、こう言った、――
唯だ、
『わたしだけ!』が、
『常住するのである( to be changeless )!』、と。
  婆伽梵(ばがぼん):梵名 baka-brahman 、梵天の名。また婆伽、婆句に作る。かつて一聚落の人の命を救いたる因縁の故に、無量阿僧祇の寿命を得、遂に邪見を得るに至れり。
  参考:『雑譬喩経(37)』:『昔有大梵天王名曰婆伽。宿命種長壽因  緣故。其壽經七十二梵天人壽。終其壽故不盡。因是壽故便生邪見自謂為常。復作是念我得自在。從今以後人無能得妄見我者。若我聽來則見不聽則止也。佛以神心道眼照察其心。與舍利弗目連等四大弟子。俱陵虛而往坐其頂上。舍利弗在右目連在左。大迦葉在前大迦栴延在後。告梵王曰。汝自以為常得自在者。吾今何得坐汝頂上。又問言。汝見何等事。自以為常得自在耶。梵王答言。我梵天中。次第有七十二人壽盡。我故不盡。復有三大福德天人壽終我故不盡。以是因故自謂為常。佛語梵王我是一切智人。見汝始生時亦見汝死時。及一切諸法無有錯謬。汝莫癡惑自以為常。此梵天王亦識宿命。欲臨成佛為定知不。便語佛言。佛知我本何因緣得口壽命。佛語梵王汝本曾作五通仙。口見有眾人乘船入海。暴風切起波口滔天。以仙通力救接眾人持著岸上。令此諸人得免死厄。一因緣也。又汝曾為大國之臣。有一聚落犯於王法。時王大怒盡欲誅此聚落。汝時愍之竭家財產。為作道地令得全濟。二因緣也。以是二因緣故得此長壽。卻後復經三十六劫汝壽當盡。梵天王聞佛語已。信心即生一心思惟。即得阿那含道。此梵王以是因緣故。尚得壽命如是。況佛於無量阿僧祇劫。積大誓願慈悲眾生。求頭與頭求眼與眼。一切所求盡能周給。身充虛空未足為大。塵數劫壽未足為多』
佛到其所破其邪見說其本緣。救一聚落其壽乃爾。何況佛世世救無量阿僧祇眾生。或以財物救濟。或以身命代死。云何壽限不過百歲。 仏は、其の所に到りて、其の邪見を破り、其の本縁を説きたまわく、『一聚落を救いてすら、其の寿は、乃ち爾り。何に況んや仏は、世世に無量、阿僧祇の衆生を救うをや。或は財物を以って救済し、或は身命を以って、代りて死せるに、云何が寿限の百歳を過ぎざらんや』、と。
『仏』は、
『婆伽梵の所に到って!』、
其の、
『邪見を破り!』、
其の、
『本縁を説いて( explaining his previous life )!』、こう言われた、――
『一聚落を救っただけでも!』、
『婆伽梵』の、
『寿』は、
『此の通りだが!』。
況して、
『仏』は、
世世に、
『無量阿僧祇の衆生』を、
『救っているのである!』。
或は、
『財物を用いて!』、
『衆生』を、
『救済し!』、
或は、
『身命を用いて!』、
『衆生の代わりに!』、
『死んでいる!』のに、
何故、
『寿命の限量』が、
『百歳』を、
『過ぎないのか?』、と。
  乃爾(ないに):此の如し。
又不殺生戒是長壽業因緣。佛以大慈眾生愛徹骨髓。常能為眾生故死。何況殺生。又以諸法實相智慧真實不誑故。亦是長壽因緣。 又不殺生戒は、是れ長寿の業の因縁なり。仏は、衆生を大慈するを以って、愛、骨髄に徹すれば、常に能く衆生の為の故に死したもう。何に況んや、殺生するをや。又諸法の実相の智慧は、真実にして誑らざるを以っての故に、亦た是れ長寿の因縁なり。
又、
『不殺生戒』は、
『長寿の業』の、
『因縁である!』。
『仏』は、
『衆生を大慈される!』が故に、
『愛』が、
『骨髄に徹しており!』、
常に、
『衆生の為に!』、
『死なれることができる!』。
況して、
『殺生されるはずがない!』。
又、
『諸法の実相という!』、
『智慧』は、
『真実であり!』、
『誑ることがない!』が故に、
是れも、
『長寿』の、
『因縁である!』。
菩薩以般若波羅蜜和合持戒諸功德故。得壽命無量。何況佛世世具足此諸無量功德。而壽命有限。 菩薩は、般若波羅蜜を以って、持戒の諸功徳に和合するが故に、寿命の無量なるを得。何に況んや、仏は世世に、此の諸の無量の功徳を具足して、寿命の有限なるをや。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『持戒の諸功徳』に、
『和合させれば!』、
是の故に、
『無量の寿命』を、
『得ることができる!』。
況して、
『仏』は、
世世に、
此の、
『諸の無量の功徳』を、
『具足されていながら!』、
而も、
『寿命』が、
『有限であるはずがない!』。
復次如一切色中佛身第一。一切心中佛心第一。以是故一切壽命中佛壽亦應第一。如世俗人言。人生於世以壽為貴。佛為人中之上壽亦應長。 復た次ぎに、一切の色中に仏身は、第一なるが如く、一切の心中には、仏心第一なり。是を以っての故に、一切の寿命中に、仏寿は亦た応に第一なるべし。世俗の人の言うが如し、『人、世に生ずれば、寿を以って、貴しと為す。仏を人中の上と為せば、寿も亦た応に長かるべし』、と。
復た次ぎに、
例えば、
『一切の色』中には、
『仏身』が、
『第一であり!』、
『一切の心』中には、
『仏心』が、
『第一であるならば!』、
是の故に、
『一切の寿命』中には、
『仏寿』が、
『第一でなければならない!』。
例えば、
『世俗の人』が、こう言う通りである、――
『人』が、
『世に生まれれば!』、
『寿』を、
『貴ぶだろう!』。
『仏』は、
『人中の上である!』が故に、
『寿』も、
『長いはずである!』、と。
問曰。佛雖有長壽業因緣生於惡世故壽命便短。以此短壽能具佛事。何用長為。又佛以神通力故一日之中能具佛事。何況百歲。 問うて曰く、仏には、長寿の業の因縁有りと雖も、悪世に生じたもうが故に、寿命は便ち短し。此の短寿を以ってすら、能く仏事を具したもうに、何んぞ、長を用いて為さんや。又仏は、神通力を以っての故に、一日の中に、能く仏事を具したもう。何に況んや、百歳をや。
問い、
『仏』に、
『長寿の業因緣が有りながら!』、
『悪世に生まれられた!』が故に、
便ち( namely )、
『寿命』が、
『短いのである!』が、
此の、
『短寿を用いれば!』、
『仏事』を、
『具することができる( can accomplish )!』のに、
何の為に、
『長寿』を、
『用いるのか?』。
又、
『仏は、神通力を用いられる!』が故に、
『一日の中にすら!』、
『仏事』を、
『具することができる!』。
況して、
『百歳ならば!』、
『言うまでもない!』。
答曰。此間閻浮提惡故佛壽應短。餘處好故佛壽應長。 答えて曰く、此の間の閻浮提は悪なるが故に、仏寿は応に短かるべし。余処は好なるが故に、仏寿は応に長かるべし。
答え、
此の、
『世間の閻浮提』は、
『悪処である!』が故に、
『仏寿が短い!』のは、
『当然であり!』、
『餘の処』は、
『好処である!』が故に、
『仏寿が長い!』のは、
『当然である!』。
問曰。若然者菩薩於此閻浮提淨飯王宮生。出家成道是實佛。餘處皆是神通力變化作佛以度眾生。 問うて曰く、若し然らば、菩薩の此の閻浮提の浄飯王宮に生じ、出家して道を成したもうは、是れ実の仏にして、余処は皆、是れ神通力の変化を仏と作して、以って衆生を度す。
問い、
若し、然うならば、――
此の、
『閻浮提の浄飯王の宮に生まれ!』、
『出家して!』、
『道を成就された!』、
『菩薩』は、
是れが、
『実の!』、
『仏であって!』、
餘の、
『処』は、
皆、
『神通力で変化して!』、
『仏』と、
『作し!』、
此の、
『仏を用いて!』、
『衆生』を、
『度すのか?』。
答曰。此言非也。所以者何。餘處閻浮提亦各各言我國是實佛。餘處為變化。何以知之。若餘處國土自知是化佛。則不肯信受教戒。 答えて曰く、此の言は非なり。何を以っての故に、余処も、閻浮提も、亦た各各、『我が国は、是れ実の仏にして、余処を変化と為す』、と言えばなり。何を以ってか、之を知る、若し余処の国土、自ら是れ化仏なりと知らば、則ち肯て、教戒を信受せざればなり。
答え、
此の、
『言』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『余処も、閻浮提も!』、
各各が、こう言うからである、――
わたしの国の、
『仏』が、
『実の仏であり!』、
餘の処の、
『仏』は、
『変化である!』。
何故、これが知れるのか?――
若し、
余処の、
『国土』が、
自ら、
『化仏である!』と、
『知れば!』、
則ち、
肯て、
『教、戒』を、
『信受しようとはしないからである!』。
  不肯(ふこう):あえてせず( will not, would not )。
又如餘國土人壽命一劫。若佛壽百歲於彼裁無一日。眾生則起輕慢不肯受教。彼則以一劫為實。佛以此為變化化。 又餘の国土の如きは、人の寿命は一劫なるに、若し仏寿百歳なれば、彼に於いては、裁(わずか)に一日すら無く、衆生は則ち軽慢を起して、肯て教を受けず、彼れは則ち一劫を以って、実と為さん。仏は、此の為を以って、化を変化したもう。
又、
『餘の国土など!』では、
『人の寿命が、一劫であるのに!』、
若し、
『仏の寿』が、
『百歳であれば!』、
彼の、
『国土』に於いては、
僅かに、
『一日すら!』、
『無いことになる( does not being )!』ので、
『衆生は、軽慢を起して!』、
肯て、
『教』を、
『受けようとせず!』、
彼れは、
『一劫の仏』を、
『実だとするだろう!』。
是の故に、
『仏』は、
『化仏』を、
『変化されるのである!』。
如首楞嚴經說。神通遍照佛壽七百千阿僧祇劫。佛告文殊尸利。彼佛則是我身。彼佛亦言釋迦文佛則是我身。以是故知諸佛壽命實皆無量。為度人故現有長短。 首楞厳経に説けるが如く、神通遍照仏の寿は七百千阿僧祇劫なり。仏の文殊師利に告げたまわく、『彼の仏は、則ち是れ我が身なり』、と。彼の仏も亦た言わく、『釈迦文仏は、則ち是れ我が身なり』、と。是を以っての故に、知るらく、『諸仏の寿命は、実に皆無量にして、人を度せんが為の故に、長短有るを現したもう』、と。
『首楞厳経』に、こう説かれている通りである、――
『神通遍照仏』の、
『寿』は、
『七百千阿僧祇劫である!』。
『仏』は、
『文殊師利』に、こう告げられた、――
彼の、
『仏』とは、
則ち( namely )、
『わたしの身である!』、と。
彼の、
『神通遍照仏』も、こう言われた、――
『釈迦文仏』とは、
則ち、
『わたしの身である!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『諸仏の寿命』は、
『実に、皆無量である!』が、
『人を度する!』為の故に、
『長、短が有るように!』、
『現されるのである( to be appeared )!』、と。
  参考:『仏説首楞厳三昧経巻2』:『爾時堅意菩薩白佛言。世尊。實壽幾何。幾時當入畢竟涅槃。佛言。堅意。東方去此世界三萬二千佛土。國名莊嚴。是中有佛。號照明莊嚴自在王如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。今現在說法。堅意。如照明莊嚴自在王佛壽命。我所壽命亦復如是。世尊。是照明莊嚴自在王佛壽命幾所佛告堅意。汝自往問。自當答汝。即持堅意承佛神力。又以首楞嚴三昧力故。及自善根神通力故。如一念頃到彼莊嚴世界。頭面禮彼佛足。右遶三匝卻住一面。白佛言。世尊。壽命幾時當入涅槃。彼佛答言。如彼釋迦牟尼佛壽命。我所壽命亦復如是。堅意。汝欲知者。我壽七百阿僧祇劫。釋迦牟尼佛壽命亦爾。爾時堅意菩薩心大歡喜。即還娑婆世界。白佛言。世尊。彼照明莊嚴自在王佛。壽七百阿僧祇劫。而告我言。如我壽命釋迦牟尼佛壽命。亦復如是。』
汝言釋迦文佛以神通力故。所度眾生與人壽不異者。則不須百歲。一日之中可具足佛事。 汝が言わく、『釈迦文仏は、神通力を以っての故に、度す所の衆生と、人寿と異ならざれば、則ち百歳を須(ま)たずして、一日の中に、仏事を具足すべし』とは、――
お前は、こう言ったが、――
『釈迦文仏』は、
『神通力を用いる!』が故に、
『度すべき衆生』と、
『人寿( Buddha's life as a man )』が、
『異ならないのであり!』、
則ち、
『百歳も必要でなく!』、
『一日の中に!』、
『仏事を具足することができる!』、と。
如阿難一時心生是念。如然燈世尊一切勝佛鞞婆尸佛。出於好世壽命極多能具佛事。我釋迦文佛出生惡世壽命極短。將無世尊不能具足佛事耶。 阿難の一時、心に是の念を生ぜしが如し、『然灯世尊、一切勝仏、鞞婆尸仏の如きは、好世に出でて、寿命極めて多く、能く仏事を具したもうに、我が釈迦文仏は、悪世に出生したまえば、寿命極めて短し。将(は)た世尊の仏事を具足する能わざる無けんや』、と。
例えば、
『阿難』が、
『一時』、こう念じたようなことである、――
例えば、
『然灯世尊や、一切勝仏や、鞞婆尸仏』は、
『好世に出生され!』、
『寿命が極めて長く!』、
『仏事』を、
『具足することができた!』が、
わたしの、
『釈迦文仏』は、
『悪世に出生され!』、
『寿命が極めて短い!』のに、
将たして( How can does it that )、
『世尊でも!』、
『仏事を具足できないということ!』は、
『無いのだろうか?』、と。
  参考:『仏本行集経巻4』:『阿難。我念往昔。於彌勒菩薩邊。齎持種種微妙四事供養之具。供養恭敬。尊重讚歎。自恣奉獻求未來世阿耨多羅三藐三菩提故。阿難。我念往昔。將無量種供養之具。所至到處。即持供養過去無量諸佛菩薩及聲聞眾。種諸善根。求未來世阿耨多羅三藐三菩提故。阿難。往昔過百阿僧祇劫。是時有佛。出現於世。號曰然燈多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。過百億劫時。有一佛出現於世。號一切勝多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。過五百劫時。有一佛出現於世。號最上名稱多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。過一百劫時。有一佛出現於世。號釋迦牟尼多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。九十四劫時。有一佛出現於世。號曰弗沙多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。九十三劫時。有一佛出現於世。號曰見義多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。九十一劫時。有一佛出現於世。號毘婆尸多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。如是次第。三十一劫時。有一佛出現於世。號曰尸棄多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。同是劫中。又有一佛。復出於世。號曰神聞多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。阿難。此賢劫初。第一拘婁孫馱如來。出現於世。第二拘那含牟尼如來。出現於世。第三迦葉如來。出現於世。第四我身釋迦牟尼如來。今現在世。阿難。彼然燈多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。出現於世。生大婆羅門家。一切勝佛。出現於世。生大剎利王家。蓮華上佛。出現於世。生大婆羅門家。最上行佛。出現於世。生大剎利王家。德上名稱佛。出現於世。生大婆羅門家。釋迦牟尼佛。出現於世。生大剎利王家。帝沙如來。出現於世。生大婆羅門家。弗沙如來。出現於世。生大剎利王家。見真義佛。出現於世。生大婆羅門家。毘婆尸佛。出現於世。生大剎利王家。尸棄如來。出現於世。生大剎利王家。神聞如來。出現於世。生大剎利王家。拘婁孫馱佛。出現於世。生大婆羅門家。拘那含牟尼佛。出現於世。生大婆羅門家。迦葉如來。出現於世。生大婆羅門家。阿難。我今在於剎利種姓大王家生。出現世間。阿難。然燈佛多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。壽命八百四千萬億歲。住世利益諸世間故(尼沙塞師如是說迦葉遺師復言然燈如來壽命一劫住世及聲聞眾利益諸世間故)。阿難。一切勝如來。住世八萬億歲。利益一切諸世間故(尼沙塞師如是說迦葉遺師復言一切勝如來住世一劫利益世間故)。蓮華上佛。住世八萬歲。為利益故。最上行佛。住世八萬歲。為利益故。上名稱佛。住世六萬歲。為利益故。釋迦牟尼佛。住世八萬歲。為利益故。帝沙如來。住世六萬歲。為利益故。弗沙如來。住世五萬歲。為利益故。見真義佛。住世四萬歲。為利益故。毘婆尸佛。住世八萬歲。為利益故。神聞如來。住世六萬歲。為利益故。拘婁孫馱佛。住世四萬歲。為利益故。拘那含牟尼佛。住世三萬歲。為利益故。迦葉如來。住世二萬歲。為利益故。阿難。我今多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。住世八十歲。為利益故。而說偈言 有佛以神通  住世受供養  或神通及業  盡已入涅槃 阿難。然燈如來。有於二百五十萬億聲聞弟子大眾集會。如來滅後。法住於世。經七萬歲。末後十年。諸比丘等。不生敬信。無慚愧心。營理世務。樂於諸業。所有持疑。不相諮問。各恃己能。互生憍慢。恒聚非法。諸惡知識不善之人。以為朋友。共相狎習。圍繞遊從。是等癡人。行不純故。使彼如來佛法僧寶。速疾隱沒不現世間。所有經書。悉皆滅盡。一切勝佛。有萬四千聲聞弟子大眾集會。如來滅後。正法住世。經於少時。蓮華上佛。有七萬眾聲聞集會。如來滅後。正法住世。經十萬歲。上行如來。有六萬眾聲聞集會。如來滅後。正法住世。七萬七千歲。德上名稱佛。有二萬眾聲聞集會。如來滅後。正法住世。經五百歲。釋迦牟尼佛。有於一千二百五十聲聞集會。如來滅後。正法住世。經五百歲。像法住世。亦五百歲。帝沙如來。有六萬億聲聞集會。如來滅後。正法住世。經二萬歲。弗沙如來。有無量億聲聞集會。如來滅後。正法像法。乃至法住。乃至法滅。見一切義佛。有三十二億那由他眾聲聞集會。如來滅後。正法暫時。不久住世。毘婆尸佛。三會說法。度聲聞眾。第一大會。一百六十八百千人。第二大會。有十萬人。第三大會。八百千人。如來滅後。正法住世。經二萬歲。神聞如來。唯有二會。度聲聞眾。第一會度有七萬人。第二會度有六萬人。如來滅後。正法住世。經六萬歲。拘婁孫馱佛。有四萬眾聲聞弟子。如來滅後。正法住世。經五百歲。拘那含牟尼佛。有三百萬聲聞集會。如來滅後。正法住世二十九日。迦葉如來。有二萬眾聲聞集會。如來滅後。正法住世。經於七日。阿難。我多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。有一千二百五十聲聞集會。我滅度後。正法住世。有五百歲。像法住世。亦五百歲。今當略說優陀那偈。而說偈言 說施及年數  種姓并壽命  聲聞眾集會  正法與像法  彼等諸世尊  住世般涅槃  釋種大師子  總說悉已訖』
  参考:『大智度論巻9』:『問曰。唯有釋迦牟尼一佛無十方佛。何以故。是釋迦文尼佛無量威力無量神通。能度一切眾生。更無餘佛。如說阿難一心思惟過去諸佛寶華燃燈等。皆生好世壽命極長。能度一切眾生。今釋迦牟尼佛。惡世生壽命短。將無不能度一切弟子耶。如是心疑。佛時即知阿難心之所念。即以日出時入日出三昧。爾時佛身一切毛孔出諸光明。亦如日邊出諸光明。其光遍照閻浮提內。其明滿已照四天下。照四天下滿已照三千大千世界。照三千大千世界。滿已照十方無量世界。爾時世尊從臍邊出諸寶蓮華。如偈說 青光琉璃莖  千葉黃金色  金剛為華臺  琥珀為華飾  莖軟不麤曲  其高十餘丈  真青琉璃色  在佛臍中立  其葉廣而長  白光間妙色  無量寶莊嚴  其華有千葉  妙華色如是  從佛臍中出  是四華臺上  寶座曜天日  座各有坐佛  如金山四首  光曜等如一  從四佛臍中  各出妙寶華  華上有寶座  其座各有佛  從是佛臍中  展轉出寶華  華華皆有座  座座各有佛  如是展轉化  乃至淨居天  若欲知近遠  當以譬喻說  有一大方石  縱廣如太山  從上放令下  直過無所礙  萬八千三百  八十有三歲  如是年歲數  爾乃得到地  於是兩中間  化佛滿其中  其光大盛明  踰於火日月  有佛身出水  亦有身出火  或復現經行  有時靜默坐  有佛行乞食  以此福眾生  或復說經行  有時放光明  或到三惡趣  冰闇火地獄  和氣濟寒冰  光明照闇獄  熱處施涼風  隨事救其害  安之以無患  度之以法樂  如是種種方便。一時頓能度十方無量眾生。度眾生已還入本處住佛臍中。爾時世尊。從日出三昧起問阿難言。汝見此三昧神通力不。阿難白佛。唯然已見。重白佛言。若佛住世一日之中所度弟子可滿虛空。何況在世八十餘年。以是故言一佛功德神力無量現化十方無異佛也。』
爾時世尊入日出三昧。從身變化出無量諸佛。及無量光明普至十方。一一化佛在諸世界各作佛事。或有說法。或現神通。或現三昧。或現飯食。如是之比種種因緣施作佛事而度眾生。從三昧起告阿難曰。汝悉見聞是事不。阿難言。唯然已見。 爾の時、世尊は、日出三昧に入りて、身より、変化して、無量の諸仏、及び無量の光明を出して、普く十方に至らしめ、一一の化仏は、諸の世界に在りて、各仏事を作して、或は法を説く有り、或は神通を現し、或は三昧を現し、或は飯食するを現す。是の如き比(たぐい)の種種の因縁もて、仏事を施作し、衆生を度したまい、三昧より起ちて、阿難に告げて曰わく、『汝は、是の事を悉く、見聞せしや、不や』、と。阿難の言わく、『唯然り、已に見る』、と。
爾の時、
『世尊』は、
『日出三昧に入り!』、
『身より、変化して!』、
『無量の諸仏と、無量の光明を出して!』、
普く、
『十方に!』、
『至らせる!』と、
『一一の化仏』は、
『諸の世界』に於いて、
各、
『仏事を作し!』、
或は、
『法を説く!』者が、
『有り!』、
或は、
『神通を現す!』者が、
『有り!』、
或は、
『三昧を現す!』者が、
『有り!』、
或は、
『飯食を現す( to appear his eating )!』者が、
『有った!』。
是のような、
『比の種種の因縁で( with such kind of various good karmas )!』、
『仏事を施作しながら( carring out Buddha's works )!』、
『衆生』を、
『度される!』と、
『三昧より起って!』、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
是の、
『事』を、
『悉く、見聞したか?』、と。
『阿難』は、こう言った、――
はい!
その通りに、
『見ました!』、と。
佛告阿難。佛以如是神力能具佛事不。阿難言。假令佛壽一日。大地草木悉為可度。眾生則能度盡。何況百歲。以是故知。諸佛壽命皆悉無量。為度人故現有長短。 仏の阿難に告げたまわく、『仏は、是の如き神力を以ってすれば、能く仏事を具すや、不や』、と。阿難の言わく、『仮令(たとい)、仏寿一日なりとも、大地の草木すら、悉く度せらるるべく、衆生は、則ち能く度し尽くすべし。何に況んや、百歳をや』、と。是を以っての故に、『諸仏の寿命は、皆悉く無量にして、人を度せんが為の故に、長短有るを現す』、と知る。
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
『仏』が、
是のような、
『神力を用いれば!』、
『仏事』を、
『具足することができるだろうか?』、と。
『阿難』は、こう言った、――
仮令( if )、
『仏の寿命が一日であっても!』、
『大地の草木すら!』、
悉く、
『度されるでしょう!』。
『衆生( all living beings are )!』は、
則ち、
『度し尽くされます!』。
況して、
『百歳ならば!』、
『尚更です!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『諸仏の寿命』は、
『皆、悉く無量である!』が、
『人を度す!』為の故に、
『長、短が有る!』のを、
『現されるのである!』、と。
譬如日出影現於水隨水大小水大則影久水小則速滅。若照琉璃頗梨珠山影則久住。又如火燒草木然少則速滅然多則久住。不可以滅處無火故謂多然處亦無。光明長短義亦如是 譬えば、日出づれば、影、水に現われ、水の大小に随い、水大なれば、則ち影久しく、水小なれば、則ち速かに滅して、若し琉璃、頗梨珠の山を照せば、影は則ち久住するが如し。又、火、草木を焼くに、然少なければ、則ち速かに滅し、然多ければ、則ち久住するに、滅処に火無きを以っての故に、多然の処にも、亦た無しと謂うべからざるが如し。光明の長短の義も亦た是の如し。
譬えば、
『日が出れば!』、
『影が、水に現われる!』が、
『水の大、小に随って!』、
『水が、大ならば!』、
『影』は、
『久しく住まり!』、
『水が、小ならば!』、
『影』は、
『速かに滅し!』、
若し、
『琉璃や、頗梨珠の山を照せば!』、
『影』は、
『久しく住まるようなものであり!』、
又、
『火が、草木を焼く!』時、
『然( wood/grass )少なければ!』、
『火』は、
『速かに滅し!』、
『然が多ければ!』、
『火』は、
『久しく住まり!』、
『火の滅した処に、火が無い!』が故に、
『多然の処にも!』、
『火が無い!』と、
『謂うべきでないようなものである!』。
『光明の長短の義』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  (ねん):梵語 indhana, agniindhana の訳、燃えるもの( that with which the fire is fed )、薪、たき付けとしての草、木等( wood, grass, &c. used for kindling or lighting )の義。



大智度論釋初品中信持無三毒義第五十二


世界中に婬欲、瞋恚、愚癡無く、三毒の名すら無し

【經】我成阿耨多羅三藐三菩提時。世界中無有婬欲瞋恚愚癡。亦無三毒之名。一切眾生成就如是智慧善施善戒善定善梵行善不嬈眾生者。當學般若波羅蜜 我れ、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜん時、世界中に婬欲、瞋恚、愚癡有ること無く、亦た三毒の名すら無く、一切の衆生は、是の如き智慧を成就して善施、善戒、善定、善梵行し、善く衆生を嬈ませざらんとせば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
わたしが、
『阿耨多羅三藐三菩提を成就した!』時には、
『世界』中に、
『婬欲、瞋恚、愚癡が無く!』、
亦た、
『三毒の名すら!』、
『無く!』、
『一切の衆生』は、
是のような、
『智慧を成就して!』、
『善く!』、
『施、戒、定、梵行』を、
『修め!』、
『善く!』、
『衆生』を、
『嬈ませないだろう!』と、
是のような、
『願を作せば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。若世界無三毒亦無三毒名者。佛為何等故出生其國。 問うて曰く、若し世界に三毒無く、亦た三毒の名すら無くんば、仏は、何等の為の故にか、其の国に出生する。
問い、
若し、
『世界』に、
『三毒が無く!』、
亦た、
『三毒の名すら!』、
『無ければ!』、
『仏』は、
何の為に
其の、
『国』に、
『出生されるのですか?』。
答曰。貪欲瞋恚愚癡名為三不善根。是欲界繫法。佛若說貪欲瞋恚愚癡是欲界繫不善。若說染愛無明是則通三界。 答えて曰く、貪欲、瞋恚、愚癡を名づけて、三不善根と為すは、是れ欲界繋の法なればなり。仏は、若しは、『貪欲、瞋恚、愚癡は、是れ欲界繋、不善なり』、と説きたまい、若しは、『染愛、無明は、是れ則ち三界に通ず』、と説きたまえり。
答え、
『貪欲、瞋恚、愚癡』を、
『三不善根と称する!』のは、
是れが、
『欲界繋』の、
『法だからである!』が、
『仏』は、
若しは( sometimes )、
『貪欲、瞋恚、愚癡』は、
『欲界繋であり、不善である!』と、
『説かれ!』、
若しは、
『染愛、無明』は、
『三界に通じる繋である!』と、
『説かれた!』。
有佛世界純諸欲人。為是眾生故菩薩願言我成佛時國無三毒及三毒之名。復有清淨佛國。純阿鞞跋致法性生身菩薩。無諸煩惱。唯有餘習。是故言無三毒之名。 有る仏世界は、純ら諸欲の人なれば、是の衆生の為の故に、菩薩は願うて言わく、『我れ仏と成らん時、国に三毒、及び三毒の名すら無けん』、と。復た有る清浄の仏国は、純ら阿鞞跋致の法性生身の菩薩なれば、諸煩悩無く、唯だ餘習有るのみ。是の故に言わく、『三毒の名すら無し』、と。
有る、
『仏世界』は、
純ら、
『諸欲の人ばかり!』なので、
是の、
『衆生の為』の故に、
『菩薩は願って!』、こう言うのである、――
わたしが、
『仏と成った!』時には、
『国』中に、
『三毒も、三毒の名』も、
『無いだろう!』、と。
復た、
有る、
『清浄の仏国』は、
純ら、
『阿鞞跋致の法性生身の菩薩ばかり!』なので、
『諸煩悩が無く!』、
唯だ、
『餘習』が、
『有るだけ!』なので、
是の故に、
『三毒の名すら、無いだろう!』と、
『言うのである!』。
若有人言。如菩薩願言。我當度一切眾生。而眾生實不盡度。此亦如是。欲令世界無三毒之名。亦應實有三毒不盡。若無三毒何用佛為。如地無大闇則不須日照。 若しは、有る人の言わく、『菩薩の願うて、我れ当に一切の衆生を度すべし、と言うも、而るに衆生は実に尽くは度せざるが如く、此れも亦た是の如く、世界をして、三毒の名すら無からしめんと欲するも、亦た応に実に三毒有りて、尽きざるべし。若し三毒無くんば、仏を用いて、何を為さんや。地に大闇無ければ、則ち日の照らすを須たざるが如し』、と。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『菩薩が願って!』、
わたしは、
『一切の衆生を度さねばならない!』と、
『言ったとしても!』、
而し、
『実に!』、
『衆生を、度し尽くすことはないように!』、
此れも、
是のように、
『世界』には、
『三毒の名すら無くしたい!』と、
『思っても!』、
亦た、
『三毒は実に有り!』、
『尽きることはないのである!』。
若し、
『三毒が無ければ!』、
『仏』を、
何のように、
『用いるのか?』。
譬えば、
『地に大闇が無ければ!』、
則ち、
『日が照らす!』のを、
『須たないようなものである!』。
如經所說若無三法則佛不出世。若三法不斷則不得離老病死。三法者則是三毒。如三法經此中應廣說。 経の所説の如きは、『若し三法無ければ、則ち仏は出世せず。若し三法断ぜざれば、則ち老病死を離るるを得ず』、と。三法とは、則ち是れ三毒なり。三法経の如く、此の中にも応に広く説くべし。
『経の所説』に、こう説かれている通りである、――
若し、
『三法が無ければ!』、
則ち、
『仏』が、
『世に出ることはない!』。
若し、
『三法が断じられなければ!』、
則ち、
『老病死』を、
『離れることはできない!』、と。
即ち、
『三法』とは、
『三毒である!』。
『三法経に説かれたように!』、
此の中にも、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
  参考:『雑阿含経巻14(346)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告諸比丘。有三法。世間所不愛.不念.不可意。何等為三。謂老.病.死。世間若無此三法不可愛.不可念.不可意者。如來.應.等正覺不出於世間。世間亦不知有如來.應.等正覺知見。說正法.律。以世間有老.病.死三法不可愛.不可念.不可意故。是故如來.應.等正覺出於世間。世間知有如來.應.等正覺所知.所見。說正法.律。以三法不斷故。不堪能離老.病.死。何等為三。謂貪.恚.癡。復有三法不斷故。不堪能離貪.恚.癡。何等為三。謂身見.戒取.疑。復有三法不斷故。不堪能離身見.戒取.疑。何等為三。謂不正思惟.習近邪道。及懈怠心。復有三法不斷故。不堪能離不正思惟.習近邪道及懈怠心。何等為三。謂失念.不正知.亂心。復有三法不斷故。不堪能離失念.不正知.亂心。何等為三。謂掉.不律儀.不學戒。復有三法不斷故。不堪能離掉.不律儀.不學戒。何等為三。謂不信.難教.懈怠。復有三法不斷故。不堪能離不信.難教.嬾墮。何等為三。謂不欲見聖.不欲聞法.常求人短。復有三法不斷故。不堪能離不欲見聖.不欲聞法.常求人短。何等為三。謂不恭敬.戾語.習惡知識。復有三法不斷故。不堪能離不恭敬.戾語.習惡知識。何等為三。謂無慚.無愧.放逸。此三法不斷故。不堪能離不恭敬.戾語.習惡知識。所以者何。以無慚.無愧故放逸。放逸故不恭敬。不恭敬故習惡知識。習惡知識故不欲見聖.不欲聞法.常求人短。求人短故不信.難教.戾語.嬾墮。嬾墮故掉.不律儀.不學戒。不學戒故失念.不正知.亂心。亂心故不正思惟.習近邪道.懈怠心。懈怠心故身見.戒取.疑。疑故不離貪.恚.癡。不離貪.恚.癡故不堪能離老.病.死。斷三法故。堪能離老.病.死。云何三。謂貪.恚.癡。此三法斷已。堪能離老.病.死。復三法斷故。堪能離貪.恚.癡。云何三。謂身見.戒取.疑。此三法斷故。堪能離貪.恚.癡。復三法斷故。堪能離身見.戒取.疑。云何為三。謂不正思惟.習近邪道.起懈怠心。此三法斷故。堪能離身見.戒取.疑。復三法斷故。堪能離不正思惟.習近邪道及懈怠心。云何為三。謂失念心.不正知.亂心。此三法斷故。堪能離不正思惟.習近邪道及心懈怠。復三法斷故。堪能離失念心.不正知.亂心。何等為三。謂掉.不律儀.犯戒。此三法斷故。堪能離失念心.不正知.亂心。復有三法斷故。堪能離掉.不律儀.犯戒。云何三。謂不信.難教.嬾墮。此三法斷故。堪能離掉.不律儀.犯戒。復有三法斷故。堪能離不信.難教.嬾墮。云何為三。謂不欲見聖.不樂聞法.好求人短。此三法斷故。堪能離不信.難教.嬾墮。復三法斷故。堪能離不欲見聖.不欲聞法.好求人短。云何為三。謂不恭敬.戾語.習惡知識。此三法斷故。離不欲見聖.不欲聞法.好求人短。復有三法斷故。堪能離不恭敬.戾語.習惡知識。云何三。謂無慚.無愧.放逸。所以者何。以慚愧故不放逸。不放逸故恭敬順語.為善知識。為善知識故樂見賢聖.樂聞正法.不求人短。不求人短故生信.順語.精進。精進故不掉.住律儀.學戒。學戒故不失念.正知.住不亂心。不亂心故正思惟.習近正道.心不懈怠。心不懈怠故不著身見.不著戒取.度疑惑。不疑故不起貪.恚.癡。離貪.恚.癡故堪能斷老.病.死。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次有世界。眾生分別諸法是善是不善是縛是解等。於一相寂滅法中而生戲論。菩薩以是故願言令我世界中眾生不生三毒。知三毒實相即是涅槃。 復た次ぎに、有る世界の衆生は、諸法を是れ善なり、是れ不善なり、是れ縛なり、是れ解なり等と分別し、一相の寂滅の法中に於いて、戯論を生ずれば、菩薩は、是を以っての故に、願うて言わく、『我が世界中の衆生をして、三毒を生ぜしめず、三毒の実相は、即ち是れ涅槃なりと知らしめん』、と。
復た次ぎに、
有る、
『世界の衆生』は、
『諸法』を、
『是れは、善である!』、
『是れは、不善である!』、
『是れは、縛である!』、
『是れは、解である!』等と、
『分別して!』、
『一相である!』、
『寂滅の法』中に、
『戯論』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
『願って!』、こう言うのである、――
わたしの、
『世界中の衆生には!』、
『三毒を生じさせず!』、
『三毒の実相は、即ち涅槃である!』と、
『知らせよう!』、と。
問曰。一切眾生得如是智慧是何等智慧。 問うて曰く、一切の衆生の得る、是の如き智慧は、是れ何等の智慧なり。
問い、
『一切の衆生の得る!』、
是のような、
『智慧』は、
何のような、
『智慧ですか?』。
答曰。智慧是世間正見。世間正見中。說有布施有罪福有今世後世有阿羅漢。信罪福故能善布施。信有阿羅漢故能善持戒善禪定善梵行。得正見力故能善不嬈眾生。世間正見是無漏智慧根本。以是故說國中無三毒之名。 答えて曰く、智慧は、是れ世間の正見なり。世間の正見中に、『布施有り、罪福有り、今世後世有り、阿羅漢有り』、と説き、罪福を信ずるが故に、能く善く布施し、阿羅漢有るを信ずるが故に、能く善く持戒し、善く禅定し、善く梵行し、正見の力を得るが故に、能く善く衆生を嬈ませざれば、世間の正見は、是れ無漏の智慧の根本なり。是を以っての故に、説かく、『国中に三毒の名すら無けん』、と。
答え、
『智慧』とは、
『世間の正見である!』。
『世間の正見』中に、
『布施、罪福、今世後世、阿羅漢が有る、と説き!』、
『罪福を信じる!』が故に、
『善く( perfectly )!』、
『布施することができ!』、
『阿羅漢が有ると信じる!』が故に、
『善く!』、
『持戒、禅定、梵行をすることができ!』、
『正見の力を得る!』が故に、
『善く!』、
『衆生を嬈ませない!』ので、
『世間の正見』は、
『無漏の智慧』の、
『根本である!』。
是の故に、こう説くのである、――
『国』中には、
『三毒の名すら!』、
『無い!』、と。
貪欲有二種。一者邪貪欲。二者貪欲。瞋恚有二種。一者邪瞋恚。二者瞋恚。愚癡有二種。一者邪見愚癡。二者愚癡。是三種邪毒眾生難可化度。餘三易度。無三毒名者。無邪三毒之名。善布施等五事如上放光品中說 貪欲には、二種有りて、一には邪貪欲、二は貪欲なり。瞋恚に二種有りて、一には邪瞋恚、二には瞋恚なり。愚癡に二種有りて、一には邪見の愚癡、二には愚癡なり。是の三種の邪毒の衆生は、化度すべきこと難く、餘の三は、度し易し。三毒の名すら無しとは、邪三毒の名すら無きなり。善く布施する等の五事は、上の放光品中に説けるが如し。
『貪欲』には、
『二種有って!』、
一には、『邪貪欲であり!』、
二には、『貪欲である!』。
『瞋恚』には、
『二種有って!』、
一には、『邪瞋恚であり!』、
二には、『瞋恚である!』。
『愚癡』には、
『二種有って!』、
一には、『邪見の愚癡であり!』、
二には、『愚癡である!』。
是の、
『三種の邪毒の衆生』は、
『化度される!』のが、
『困難である!』が、
『餘の三種の衆生』は、
『化度される!』のが、
『容易である!』。
『三毒の名すら無い!』とは、
『邪三毒の名すら!』、
『無いことである!』。
『善く布施する!』等の、
『五事』は、
『上の、放光品』中に、
『説いた通りである!』。



般涅槃の後、法の滅尽無く、滅尽の名すら無し

【經】使我般涅槃後法無滅盡。亦無滅盡之名。當學般若波羅蜜 我が般涅槃の後の法をして、滅尽すること無からしめ、亦た滅尽の名すら無からしめん、とせば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
わたしが、
『般涅槃した!』後にも、
『法』の、
『滅尽』を、
『無くし!』、
亦た、
『滅尽の名すら!』、
『無くそう!』と、
是のように、
『願えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。佛為法王尚自滅度。云何言法無滅盡。 問うて曰く、仏を法王と為すも、尚お自ら滅度したもう。云何が、『法の滅尽無し』、と言う。
問い、
『仏』は、
『法の王である!』が、
尚お、
『自ら!』、
『滅度された!』のに、
何故、こう言うのですか?、――
『法』には、
『滅尽すること!』が、
『無い!』、と。
答曰。如上說。是菩薩願事不必實。一切有為法。從因緣和合生。云何常住而不滅。佛如日明法如日沒餘光。云何日沒而餘光不滅。但久住故無能見滅者故名不滅。 答えて曰く、上に説けるが如く、是の菩薩の願事は、必ずしも実ならず。一切の有為法は、因縁の和合より生ずれば、云何が常住して、滅せざる。仏は、日の明るきが如く、法は日没の餘光の如し。云何が日没にして、餘光滅せざる。但だ久住するが故に、能く滅を見る者無ければ、故に不滅と名づく。
答え、
上に説いたように、――
是の、
『菩薩の願事』は、
『必ずしも!』、
『実ではない!』。
一切の、
『有為法』は、
『因縁の和合より!』、
『生じる!』のに、
何故、
『常住して!』、
『不滅なのか?』。
『仏』とは、
『日の明のようなものであり!』、
『法』は、
『日没の餘光のようなものである!』のに、
何故、
『日没になっても!』、
『余光が滅しないのか?』。
『法』は、
但だ、
『久住する!』が故に、
『滅する!』のを、
『見る者が無い!』が故に、
是れを、
『不滅だ!』と、
『言うだけである!』。
復次是菩薩見諸佛法住有多有少。如迦葉佛法住七日。如釋迦牟尼佛法住千歲。是故菩薩發是願言。法雖有為願令相續不滅如火得薪相傳不絕。 復た次ぎに、是の菩薩は、諸仏の法の住すること、有るいは多く、有るいは少なきを見る。迦葉仏の法の如きは、住すること七日なり。釈迦牟尼仏の法の如きは、住すること千歳なり。是の故に、菩薩は、是の願を発して、言わく、『法は、有為なりと雖も、願わくは、相続して滅せざること、火の薪を得て、相伝えて絶えざるが如くならしめん』、と。
復た次ぎに、
是の、
『菩薩』は、
『諸仏の法の住する!』には、
『多、少が有る!』のを、
『見る!』。
例えば、
『迦葉仏の法など!』は、
『七日!』、
『住するだけであり!』、
『釈迦牟尼仏の法など!』、
『千歳!』、
『住する!』ので、
是の故に、
『菩薩は願って!』、こう言うのである、――
『法は有為法である!』が、
願わくは、
『相続して、滅することなく!』、
譬えば、
『火が、薪を得て!』、
『相伝えて!』、
『絶えないようにさせよう!』、と。
復次諸法實相名為佛法。是實法相不生不滅不斷不常不一不異不來不去不受不動不著不依無所有。如涅槃相。法相如是。云何有滅。 復た次ぎに、諸法の実相を名づけて、仏法と為す。是の実法の相は、不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去、不受、不動、不著、不依にして、所有無きこと、涅槃の相の如し。法相にして、是の如くんば、云何が滅有らんや。
復た次ぎに、
『諸法の実相』を、
『仏法』と、
『呼ぶならば!』、
是の、
『実法の相』は、
『不生不滅、不断不常、不一不異、不来不去、不受不動、不著不依であり!』、
『涅槃の相のように!』、
『所有が無い!』。
『法相』が、
是のようであれば、
何故、
『滅すること!』が、
『有るのか?』。
問曰。法相如是者。一切佛法皆應不滅。 問うて曰く、法相にして是の如くんば、一切の仏法は、皆応に滅せざるべし。
問い、
若し、
『法相』が、是の通りならば、――
『一切の仏法』は、
皆、
『滅しないはずである!』。
答曰。如所言諸法實相無有滅者有人憶想分別取諸法相壞實法相。用二法說是故有滅。實相法中無有滅也。 答えて曰く、所言の如き、『諸法の実相には、滅有ること無し』とは、有る人は、憶想、分別して、諸法の相を取り、実の法相を壊りて、二法を用いて説けば、是の故に滅有るも、実相の法中には、滅有ること無きなり。
答え、
『諸法の実相に、滅が無い!』と、
『言ったのは!』、
有る人は、
『憶想、分別して!』、
『諸法の相を取る!』が故に、
『実の法相』を、
『壊り!』、
『有無、生滅等の二法を用いて!』、
『説く!』が故に、
『滅』が、
『有るのだ!』が、
『実相の法』中には、
『滅』が、
『無いのである!』。
復次行般若波羅蜜無礙法集無量功德故。隨其本願法法相續無有見其滅者。譬如仰射虛空箭去極遠人雖不見要必當墮 復た次ぎに、般若波羅蜜の無礙の法を行じて、無量の功徳を集むるが故に、其の本願に随いて、法と法と相続すれば、其の滅を見る者有ること無し。譬えば仰ぎて、虚空を射るに、箭の去ること極めて遠ければ、人、見ずと雖も、要必(かなら)ず、当に墮つべきが如し。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜という!』、
『無礙の法を行いながら!』、
『無量の功徳』を、
『集める!』が故に、
『菩薩』の、
『法』には、
『滅尽が無いという!』、
『本願に随って!』、
『法と、法とが相続する!』ので、
『法の滅する!』のを、
『見る者が無いのである!』。
譬えば、
『虚空を仰いで!』、
『箭を射れば!』、
『箭』が、
『極めて遠くまで、去る!』が故に、
『人には見えなくても!』、
『箭』は、
『必ず、堕ちるようなものである!』。



世界中の衆生、我が名を聞いて、阿耨多羅三藐三菩提を得る

【經】我得阿耨多羅三藐三菩提時。十方如恒河沙等世界中眾生聞我名者。必得阿耨多羅三藐三菩提。欲得如是等功德者。當學般若波羅蜜 我が阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、十方の恒河沙に等しきが如き世界中の衆生、我が名を聞けば、必ず、阿耨多羅三藐三菩提を得ん。是れ等の如き功徳を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
わたしが、
『阿耨多羅三藐三菩提を得た!』時、
『十方の恒河沙に等しいほどの!』、
『世界中の衆生』が、
わたしの、
『名』を、
『聞けば!』、
必ず、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得るだろう!』と、
是れ等のような、
『功徳を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。有人生值佛世在佛法中。或墮地獄者如提婆達俱迦利訶多釋子等。三不善法覆心故墮地獄。此中云何言去佛如恒河沙等世界。但聞佛名便得道耶。 問うて曰く、有る人は、生まれながらに、仏の世に値い、仏法中に在りて、或は地獄に堕す者なり。提婆達、倶迦利、訶多釈子等の如きは、三不善法の心を覆うが故に、地獄に堕せり。此の中に、云何が、仏を去りたる恒河沙に等しきが如き世界に、但だ仏名を聞きて、便ち道を得んや。
問い、
有る、
『人』は、
『仏の世に値って、生まれ( to happen to birth in Buddha's land )!』、
『仏法中に在りながら( in the Buddha's teachings )!』、
或は、
『地獄』に、
『堕ちるのであり!』、
例えば、
『提婆達、倶迦利、訶多釈子』等は、
『三不善法に心を覆われる!』が故に、
『地獄』に、
『堕ちたのである!』。
此の中には、
何故、こう言うのですか?――
『仏を去る( being apart from the Buddha )!』、
『恒河沙に等しいほどの世界』が、
但だ、
『仏の名を聞くだけで!』、
便ち( easily )、
『道』を、
『得られるのですか?』。
  (ち):<動詞>[本義]置く/放置( place )。持つ( hold )、偶然( happen to )、当る/当直( be on duty )、当る/の価値がある( be worth )。<名詞>価値( value )、価格( price )。
  倶迦利(くかり):梵名kokaalika、また俱迦離、俱伽離、俱伽梨、仇伽離、瞿迦梨等に作り、訳して悪時者、牛守と訳す。提婆達多の弟子なり。<(丁)
  訶多釈子(かたしゃくし):妄語比丘の名。『大智度論巻11下注:訶多』参照。
  参考:『雑阿含経巻48(1278)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有瞿迦梨比丘。是提婆達多伴黨。來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。爾時。世尊告瞿迦梨比丘。瞿迦梨。汝何故於舍利弗.目揵連清淨梵行所。起不清淨心。長夜當得不饒益苦。瞿迦梨比丘白佛言。世尊。我今信世尊語。所說無異。但舍利弗.大目揵連心有惡欲。如是第二.第三說。瞿迦梨比丘。提婆達多伴黨於世尊所再三說中。違反不受。從座起去。去已。其身周遍生諸皰瘡。皆如栗。漸漸增長。皆如桃李。時。瞿迦梨比丘患苦痛。口說是言。極燒。極燒。膿血流出。身壞命終。生大缽曇摩地獄。時。有三天子。容色絕妙。於後夜時來詣佛所。稽首佛足。退坐一面。時。一天子白佛言。瞿迦梨比丘。提婆達多伴黨今已命終。時。第二天子作是言。諸尊當知。瞿迦梨比丘命終墮地獄中。第三天子即說偈言 士夫生世間  斧在口中生  還自斬其身  斯由其惡言  應毀便稱譽  應譽而便毀  其罪生於口  死墮惡道中  博弈亡失財  是非為大咎  毀佛及聲聞  是則為大過  彼三天子說是偈已。即沒不現。爾時。世尊夜過晨朝。來入僧中。於大眾前敷座而坐。告諸比丘。昨後夜時。有三天子來詣我所。稽首我足。退坐一面。第一天子語我言。世尊。瞿迦梨比丘。提婆達多伴黨今已命終。第二天子語餘天子言。瞿迦梨比丘命終墮地獄中。第三天子即說偈言 士夫生世間  斧在口中生  還自斬其身  斯由其惡言  應毀便稱譽  應譽而便毀  其罪口中生  死則墮惡道  說是偈已。即沒不現。諸比丘。汝等欲聞生阿浮陀地獄眾生其壽齊限不。諸比丘白佛。今正是時。唯願世尊為諸大眾說阿浮陀地獄眾生壽命齊限。諸比丘聞已。當受奉行。佛告比丘。諦聽。善思。當為汝說。譬如拘薩羅國。四斗為一阿羅。四阿羅為一獨籠那。十六獨籠那為一闍摩那。十六闍摩那為一摩尼。二十摩尼為一佉梨。二十佉梨為一倉。滿中芥子。若使有人百年百年取一芥子。如是乃至滿倉芥子都盡。阿浮陀地獄眾生壽命猶故不盡。如是二十阿浮陀地獄眾生壽等一尼羅浮陀地獄眾生壽。二十尼羅浮陀地獄眾生壽等一阿吒吒地獄眾生壽。二十阿吒吒地獄眾生壽等一阿波波地獄眾生壽。二十阿波波地獄眾生壽等一阿休休地獄眾生壽。二十阿休休地獄眾生壽等一優缽羅地獄眾生壽。二十優缽羅地獄眾生壽等一缽曇摩地獄眾生壽。二十缽曇摩地獄眾生壽等一摩訶缽曇摩地獄眾生壽。比丘。彼瞿迦梨比丘命終墮摩訶缽曇摩地獄中。以彼於尊者舍利弗.大目揵連比丘生惡心.誹謗故。是故。諸比丘。當作是學。於彼燒燋炷所。尚不欲毀壞。況毀壞有識眾生。佛告諸比丘。當如是學。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰。上已說有二種佛。一者法性生身佛。二者隨眾生優劣現化佛。為法性生身佛故。說乃至聞名得度。為隨眾生現身佛故。說雖共佛住隨業因緣有墮地獄者。 答えて曰く、上に已に、『二種の仏有り。一には法性生身の仏、二には衆生の優劣に随いて現わるる化仏なり』、と説けり。法性生身の仏の為の故に、乃至『名を聞いて、度を得』、と説き、衆生に随って身を現す仏の為の故に、『仏と共に住すと雖も、業因緣に随って、地獄に堕つる者有り』、と説く。
答え、
上に、
已に、こう説いた、――
『二種の仏が有り!』、
一には、
『法性生身』の、
『仏であり!』、
二には、
『衆生の優劣に随って、現われる!』、
『化仏である!』、と。
是の、
『法性生身の仏である!』が故に、
乃至、
『名を聞くだけで!』、
『道を得る!』と、
『説き!』、
『衆生に随って、身を現す仏である!』が故に、
『仏と共に住しながら!』、
『業因緣に随って、地獄に堕ちる者が有る!』と、
『説いたのである!』。
法性生身佛者。無事不濟。無願不滿。所以者何。於無量阿僧祇劫積集一切善本功德。一切智慧無礙具足。為眾聖主諸天及大菩薩希能見者。譬如如意寶珠難見難得。若有見者所願必果。如喜見藥。其有見者眾患悉除。如轉輪聖王。人有見者無不富足。如釋提桓因。有人見者隨願悉得。如梵天王眾生依附恐怖悉除。如人念觀世音菩薩名者悉脫厄難。是事尚爾。何況諸佛法性生身。 法性生身の仏には、事の済わざる無く、願の満てざる無し。所以は何んとなれば、無量阿僧祇劫に於いて、一切の善本の功徳を積集せる、一切の智慧と無礙具足して、衆(あまた)の聖主、諸天、及び大菩薩の為に、希に能く見らるる者なればなり。譬えば、如意宝珠の難見、難得なるに、若し見る者有らば、所願は必ず果たすが如く、喜見薬の、其の見る者有らば、衆患悉く除こるが如く、転輪聖王の、人に見る者有らば、富足せざる無きが如く、釈提桓因の、人の見る者有らば、願に随いて、悉く得るが如く、梵天王の衆生の依附すれば、恐怖悉く除こるが如く、人の観世音菩薩の名を念ずれば、悉く、厄難を脱るるが如き、是の事すら、尚お爾り、何に況んや、諸仏の法性生身をや。
『法性生身の仏』には、
『済われない!』、
『事』が、
『無く!』、
『満たされない!』、
『願』が、
『無い!』。
何故ならば、
『無量阿僧祇劫』に於いて、
『一切の善本の功徳を積集し!』、
『一切の智慧と無礙とが!』、
『具足しているからであり!』、
『衆聖主や、諸天や、大菩薩だけが!』、
『希に!』、
『見ることのできる者である!』。
譬えば、
『如意宝珠など!』は、
『難見、難得でありながら!』、
若し、
『見る者が有れば!』、
必ず、
『所願』が、
『果たされ( to be filled )!』、
『喜見薬など!』は、
其れを、
『見る者が有れば!』、
『衆患』が、
『悉く除かれ!』、
『転輪聖王など!』は、
若し、
『見る人が有れば!』、
『富足しない!!』者が、
『無く!』、
『釈提桓因など!』は、
若し、
『見る人が有れば!』、
『願のままに!』、
『悉くを得!』、
『梵天王など!』は、
若し、
『衆生が依附すれば( a living being attachs to him )!』、
『恐怖』が、
『悉く除かれ!』、
『人』が、
『観世音菩薩の名を念じれば!』、
悉く、
『厄難』を、
『脱れるのである!』が、
是れ等の、
『事すら!』、
尚お( yet )、
『爾うである( it is true )!』が、
況して、
『諸仏の法性生身』は、
『尚更である!』。
  喜見薬(きけんやく):不明。一説に、これ阿伽陀( agada、無病薬と訳す)薬なりとす。
問曰。釋迦文佛亦是法性生身分無有異體。何以故。佛在世時有作五逆罪人飢餓賊盜如是等惡。 問うて曰く、釈迦文仏も亦た是の法性生身の分にして、異体有ること無きに、何を以っての故にか、仏在世の時にも、五逆罪を作せる人、飢餓、賊盗、是れ等の如き悪有る。
問い、
『釈迦文仏』も、
亦た、
『法性生身の分であり!』、
『異体』は、
『無いのに!』、
何故、
『仏の在世の時にすら!』、
『五逆罪を作す人や、飢餓や、賊盗や!』、
是れ等のような、
『悪』が、
『有るのですか?』。
答曰。釋迦文佛本誓。我出惡世欲以道法度脫眾生。不為富貴世樂故出。若佛以力與之則無事不能。又亦是眾生福德力薄罪垢深重故。不得隨意度脫。又今佛但說清淨涅槃。而眾生譏論誹謗言。何以多畜弟子化導人民。此亦是繫縛法。但以涅槃法化猶尚譏謗。何況雜以世樂。 答えて曰く、釈迦文仏の本誓いたまわく、『我れ悪世に出でて、道法を以って、衆生を度脱せんと欲す』、と。富貴、世楽の為の故に出でたまわず。若し、仏、力を以って之に与うれば、則ち事の能わざる無けれども、、又亦た是の衆生の福徳の力薄く、罪垢深重なるが故に、随意に度脱するを得ず。又、今の仏、但だ清浄の涅槃を説きたまえば、衆生、譏論し、誹謗して、『何を以ってか、多く弟子を蓄え、人民を化導する。此れも亦た是れ繋縛の法なり』、と言わん。但だ涅槃の法を以って化すことすら、猶尚お譏謗す。何に況んや、雑うるに世楽を以ってするをや。
答え、
『釈迦文仏』は、
本、こう誓われた、――
わたしは、
『悪世に出て!』、
『道法を用いて!』、
『衆生』を、
『度脱しよう!』、と。
『仏』は、
『富貴や、世楽の為に!』、
『世に!』、
『出られたのではないのである!』。
若し、
『仏』が、
『力を用いて( with power )!』、
『衆生』に、
『与えられれば( to help )!』、
則ち、
『できない事』は、
『無いのである!』が、
又亦た、
是の、
『衆生』は、
『福徳の力が薄く!』、
『罪垢が深重である!』が故に、
『意のままに!』、
『度脱することができない!』。
今も、
『仏』は、
但だ、
『清浄』の、
『涅槃』を、
『説かれただけなのに!』、
『衆生』は、
『譏論し誹謗して( to blame and slander )!』、こう言う、――
何故、
『弟子を、多く蓄えて!』、
『人民』を、
『化導するのか?』。
此の、
『涅槃という!』、
『法も!』、
『繋縛の法なのに!』、と。
但だ、
『涅槃の法を用いて!』、
『化導することすら!』、
猶尚お、
『譏謗されるのである!』。
況して、
『世楽を雑えて、化導すれば!』、
『尚更であろう!』。
如提婆達欲令足下有千輻相輪故。以鐵作模燒而爍之。爍已足壞身惱大呼。爾時阿難聞已涕泣白佛。我兄欲死願佛哀救 提婆達の如きは、足下をして、千輻相輪を有らしめんと欲するが故に、鉄を以って、摸を作り、焼いて之を爍(や)き、爍き已りて足壊れ、身悩みて大いに呼べり。爾の時、阿難は聞き已りて、涕泣し、仏に白さく、『我が兄、死せんと欲す。願わくは、仏、哀れんで救いたまえ』、と。
例えば、
『提婆達など!』は、
『足下』に、
『千輻相輪』を、
『有しようとして!』、
『鉄で作った!』、
『模を焼いて( to burn the model )!』、
『足下を爍き( to burn his soles )!』、
『爍いてしまう!』と、
『足が壊れて( his sole is hurted )!』、
『身が悩み( his body is in agony )!』、
『大いに呼んだ( be crying out )!』。
爾の時、
『阿槃』は、
『呼ぶ声を聞いて、涕泣しながら!』、
『仏』に、こう白した、――
わたしの、
『兄が、死のうとしています!』。
願わくは、
仏!
『兄を哀れんで、救ってください!』、と。
佛即伸手就摩其身發至誠言。我看羅睺羅與提婆達等者彼痛當滅。是時提婆達眾痛即除。執手觀之知是佛手便作是言。淨飯王子以此醫術足自生活。 仏は、即ち手を伸ばして、其の身に就けて摩で、至誠を発して言たまわく、『我れ羅睺羅を看るに、提婆達と等しくんば、彼の痛は、当に滅すべし』、と。是の時、提婆達の衆痛即ち除こり、手を執りて、之を観るに、是れ仏の手なるを知り、便ち是の言を作さく、『浄飯王の子は、此の医術を以ってすれば、自ら生活するに足らん』、と。
『仏』は、
即ち( soon )、
『手を伸ばして!』、
『提婆達』の、
『身に就けて!』、
『摩でながら!』、
『至誠心を発して( to show favorable mind )!』、こう言われた、――
わたしが、
『羅睺羅を看る!』のが、
『提婆達を看る!』のと、
『等しければ!』、
彼れの、
『痛み!』は、
『滅するだろう!』、と。
是の時、
『提婆達』は、
『衆痛が、即座に除かれ!』、
其の、
『手を執って、観る!』と、
是れは、
『仏の手である!』と、
『知り!』、
便ち( and then )、こう言った、――
『浄飯王の王子』も、
此の、
『医術を用いれば!』、
自ら、
『生活するに!』、
『足るだろう!』、と。
佛告阿難。汝觀提婆達不。用心如是云何可度。若好世人則無是咎。如是眾生若以世樂不得度也。是事種種因緣上已廣說。以是故說聞佛名有得道者有不得者。 仏の阿難に告げたまわく、『汝は、提婆達を観しや、不や。心を用いて是の如きに、云何が度すべき』、と。若し好世の人なれば、則ち是の咎無し。是の如き衆生、若し世楽を以ってせんにも、度を得ざるなり。是の事の種種の因縁は、上に已に広く説けり。是を以っての故に説かく、『仏の名を聞いて、道を得る者有り、得ざる者有り』、と。
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
『提婆達を観たか?』、――
わたしが、
『心を用いたのに( be with concentrated attention )!』、
『是の通りである!』、
何故、
『提婆達』を、
『度することができるのか?』、と。
若し、
『好世の人ならば!』、
是のような、
『咎( sinfulness )』は、
『無いはずである!』。
是のような、
『衆生』は、
若し、
『世楽を用いて!』、
『度そうとしても!』、
『度すことはできない!』。
是の、
『事の種種の因縁』は、
上に、
『已に、広く説いた通りである!』。
是の故に、こう説かれた、――
『仏の名を聞いて!』、
有る者は、
『道』を、
『得!』、
有る者は、
『道』を、
『得ないのである!』、と。
  用心(ゆうしん):注意しながら( with concentrated attention, attentively )、動機/意図( motive, intention )。
  (く):梵語 doSa の訳、悪の重さ/邪悪さ/罪の重さ( badness, wickedness, sinfulness )の義。
復次佛身無量阿僧祇種種不同。有佛為眾生說法令得道者。有佛放無量光明眾生遇之而得道者。有以神通變化指示其心而得道者。有佛但現色身而得道者。有佛遍身毛孔出眾妙香眾生聞之而得道者。有佛以食與眾生令得道者。有佛眾生但念而得道者。有佛能以一切草木之聲而作佛事令眾生得道者。有佛眾生聞名而得道者。為是佛故說言我作佛時其聞名者皆令得度。 復た次ぎに、仏身は、無量阿僧祇にして、種種不同なり。有る仏は、衆生の為に法を説いて、道を得しむる者なり。有る仏は、無量の光明を放ち、衆生之に遇わば、道を得る者なり。有るいは神通変化を以って、其の心を指示し、道を得しむる者なり。有る仏は、但だ色身を現して、道を得しむる者なり。有る仏は遍身の毛孔より、衆妙香を出して、衆生之を聞かば、道を得る者なり。有る仏は、食を以って衆生に与えて、道を得しむる者なり。有る仏は、衆生但だ念ぜば、道を得る者なり。有る仏は、能く一切の草木の聲を以って、仏事を作し、衆生をして、道を得しむる者なり。有る仏は、衆生名を聞かば、道を得る者なれば、是の仏の為の故に、説いて言わく、『我れ、仏と作らん時、其の名を聞く者をして、皆、度を得しめん』、と。
復た次ぎに、
『仏の身』は、
『無量、阿僧祇であり!』、
『種種、不同である!』。
有る、
『仏は、法を説いて!』、
『衆生に!』、
『道を得させ!』、
有る、
『仏は、無量の光明を放たれる!』ので、
『衆生』は、
是の、
『光明に遇って!』、
『道を得!』、
有る、
『仏は、神通、変化を用いて!』、
『仏の心』を、
『衆生に指示して!』、
『道を得させ!』、
有る、
『仏は但だ、色身を現すだけで!』、
『衆生』に、
『道を得させ!』、
有る、
『仏は遍身の毛孔より、衆妙香を出される!』ので、
『衆生』は、
是の、
『妙香を聞いて!』、
『道を得!』、
有る、
『仏』は、
『衆生』に、
『食を与えて!』、
『道を得させ!』、
有る、
『仏』は、
『衆生』は、
『但だ、念じるだけで!』、
『道を得!』、
有る、
『仏』は、
『一切の草木の聲に、仏事を作させて!』、
『衆生』に、
『道を得させるのである!』が、
有る、
『仏』は、
『衆生が!』、
『名を聞くだけで!』、
『道を得る!』ので、
是の、
『仏を説く!』が故に、こう言うのである、――
わたしが、
『仏に作る!』時には、
わたしの、
『名を聞く!』者に、
皆、
『度』を、
『得させよう!』、と。
  指示(しじ):梵語 apadeza の訳、指摘/指示する( pointing out )の義。
復次聞名不但以名便得道也。聞已修道然後得度。如須達長者。初聞佛名內心驚喜。詣佛聽法而能得道。又如貰夷羅婆羅門。從雞泥耶結髮梵志所。初聞佛名心即驚喜。直詣佛所聞法得道。是但說聞名聞名為得道因緣非得道也 復た次ぎに、名を聞くは、但だ名を以って、便ち道を得るにあらず。聞き已りて、道を修め、然る後に度を得るなり。須達長者の如きは、初めて仏名を聞くに、内心驚喜し、仏に詣(いた)って法を聴き、能く道を得たり。又貰夷羅婆羅門の如きは、鶏泥耶結髪梵志の所より、初めて仏名を聞き、心即ち驚喜して、直ちに仏所に詣って法を聞き、道を得たり。是れ但だ名を聞くと説くも、名を聞くは、道を得る因縁にして、道を得るに非ざるなり。
復た次ぎに、
『名を聞く!』とは、
但だ、
『名を聞くだけで!』、
便ち( easily )、
『道』を、
『得るのではない!』。
『名を聞いて!』、
『道を修めてから!』、
その後に、
『道』を、
『得るのである!』。
例えば、
『須達長者など!』は、
初めて、
『仏名を聞いた!』時、
『内心』に、
『驚喜し!』、
『仏所に詣り( to come to Buddha's abode )!』、
『法を聴いて!』、
『道を得ることができたのである!』。
又、
『貰夷羅婆羅門など!』は、
『鶏泥耶結髪梵志の所で!』、
初めて、
『仏の名を聞いただけ!』で、
即ち、
『心』が、
『驚喜し!』、
直ちに、
『仏所に詣り!』、
『法を聞いて!』、
『道を得たのである!』。
是れは、
但だ、
『”名を聞く”としか説かれていない!』が、
『名を聞く!』のは、
『道を得る因縁であり!』、
『道を得ることではない!』。
  須達長者(しゅだつちょうじゃ):梵名sudatta、また須達多、蘇達多等に作り、善与、善給、善授、善温等に作る。舎衛国給孤獨長者の本名なり。祇洹精舎の施主。『大智度論巻2下注:須達多、巻7下注:祇樹給孤獨園』参照。
  (けい):行く/訪問する( go to, visit )、梵語 aagamiSTha の訳、来詣とも訳す、誰かの所へ、願い/欣びを以って飛んで行く( approaching any one with great willingness or rapidity; coming with pleasure or quickly; go to )の義。
  仏所(ぶっしょ):◯梵語 tathaagata-paada-muula の訳、仏の足裏( Buddha's sole )の義、◯梵語 buddha-vihaara の訳、仏の所住( Buddha's abode )の意。
  貰夷羅(せいら):また施羅に作り、即ち王舎城の梵志なり。『増一阿含経巻46放牛品』参照。
  鶏泥耶(けいないや):また翅甯に作り、即ち王舎城の梵志なり。『増一阿含経巻46放牛品』参照。
  参考:『増一阿含経巻46放牛品』:『聞如是。一時。佛在羅閱城迦蘭陀竹園所。與大比丘眾五百人俱。爾時。羅閱城中有梵志。名曰施羅。備知諸術。外道異學經籍所記。天文.地理靡不貫練。又復教授五百梵志童子。又彼城中有異學之士。名曰翅甯。多有所知。為頻毘娑羅王所見愛敬。隨時供養給與梵志所須之施。爾時。如來名稱遠布。如來.至真.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。度人無量。出現世間。是時。翅甯梵志興此念。如來名號甚為難聞。今我欲往問訊。親近禮敬。是時。翅甯梵志便往佛所。頭面禮足。在一面坐。爾時。梵志白世尊言。沙門瞿曇。為姓何等。佛告梵志。吾姓剎利。梵志問曰。諸婆羅門各有此論。吾姓最豪。無有出者。或言。姓白。或言。姓黑。婆羅門自稱言。梵天所生。今。沙門瞿曇。欲何等論說。佛告之曰。梵志當知。其有婚姻嫁娶。便當求豪貴之姓。然我正法之中。無有高下.是非之名姓也。梵志復白言。云何。瞿曇。生處清淨。然後法得清淨。佛告梵志。汝用法清淨。生處清淨為乎。梵志又曰。諸婆羅門各興此論。吾姓最豪。無有出者。或言。姓白。或言。姓黑。婆羅門自稱言。梵天所生。佛告梵志。若當剎利女適婆羅門家。設生男兒者當從何姓。梵志報曰。彼當言婆羅門種。所以然者。由父形故。得有此兒。佛告梵志。若復婆羅門女出適剎利家。生男兒者彼當從何姓。梵志報曰。彼人當是剎利種。所以然者。由父遺形故。得有此兒。佛告梵志。熟自思惟。然後報吾。汝今所說前與後皆不相應。云何。梵志。設驢從馬後生駒者。當言是馬。為是驢也。梵志報曰。如此之類當言驢馬。所以然者。由驢遺形故。得此駒也。佛告梵志。汝熟思惟。然後報吾。汝今所說前後不相應。汝前所說剎利女出適婆羅門家。若生兒者。便言婆羅門種。今驢逐馬生駒者。便言驢馬。將不違前語乎。設復。梵志。若馬逐驢生駒者。名之云何。梵志報曰。當名為馬驢。佛告之曰。云何。梵志。馬驢.驢馬豈復有異乎。若復有人言寶一斛。復有人言一斛寶。此二義豈有異乎。梵志報曰。此是一義。所以然者。寶一.一寶此義不異也。佛告梵志。云何馬驢.驢馬此非一義乎。梵志報言。今。沙門瞿曇。雖有斯言。然婆羅門自稱言。吾姓最豪。無有出者。佛告梵志。汝先稱譽其母。後復歎說其父。若復父亦是婆羅門種。母亦是婆羅門種。後生二兒。彼時其中一兒。多諸技術。無事不覽。第二子者了無所知。是時。父母為敬待何者。為當敬待有智者。為當敬待無所知者。梵志報曰。其父母應當敬待高德聰明者。不應敬待無有智者。所以然者。今此一子無事不了。無事不閑。正應敬待此子。不應敬待無智之子。佛告梵志。若彼二子。一聰明者。便復興意作殺.盜.淫泆十惡之法。彼一子不聰明者。守護身.口.意行。十善之法一無所犯。彼父母應當敬待何者。梵志報曰。彼父母應當敬待行十善之子。彼行不善之人復敬待為。佛告梵志。汝先歎其多聞。後歎其戒。云何。梵志。若復有二子。一子父專正。母不專正。一子父不專正。母專正。彼子若母正.父不正者。無事不閑。博知經術。第二子父正.母不正者。既不博學。但持十善。然其父母應敬待何者。為當敬待母淨父不淨者。為當敬待父淨母不淨者。梵志報曰。應當敬待母淨之子。所以然者。由知經書。博諸伎術故。所謂第二子父淨母不淨。雖復持戒而無智慧。竟何所至。有聞則有戒。佛告梵志。汝前歎說父淨。不歎說母淨。今復歎說母淨。不歎說父淨。先歎聞德。後歎禁戒。復歎說戒。後方說聞。云何。梵志。若彼二梵志子。其中一子多聞博學。兼持十善。其第二子既有智慧。兼行十惡。彼父母應當敬待何者。梵志報曰。應當敬父淨.母不淨之子。所以然者。由其博覽諸經。曉諸技術。由父淨生得此子。兼行十善。無所觸犯。一切具足諸德本故。佛告之曰。汝本說其姓。後說其聞。不說其姓。後復說戒。不說聞。後復說其聞。不說其戒。汝今歎說父母聞.戒。豈不違前言乎。梵志白佛言。沙門瞿曇雖有斯言。然婆羅門自稱言。我姓最豪貴。無有出者。世尊告曰。諸有嫁娶之處則論姓。然我法中無有此義。汝頗聞邊國遠邦及餘邊地人乎。梵志報曰。唯然。聞之。有此諸人。世尊告曰。彼土人民有二種之姓。云何為二。一者人。二者奴。此二姓亦復不定。又問。云何不定。世尊告曰。或作人。後作奴。或作奴。後作人。然眾生之類。盡同一類而無若干。若復。梵志。天地敗毀。世間皆空。是時。山河石壁草木之徒。皆悉燒盡。人亦命終。若天地還欲成時。未有日月年歲之限。爾時。光音天來至此間。是時。光音天福德稍盡。無復精光。展轉相視。興起欲想。欲意偏多者便成女人。欲意少者成男子。展轉交接。便成胞胎。由此因緣。故最初有人。轉生四姓。流布天下。當以此方便。知人民盡出於剎利種。爾時。梵志白世尊言。止。瞿曇。如僂者得申。盲者得眼目。冥者得見明。沙門瞿曇亦復如是。無數方便與我說法。我今自歸沙門瞿曇。唯願與我說法。聽為優婆塞。爾時。梵志復白世尊。唯願如來當受我請。將諸比丘眾當至我家。爾時。世尊默然受請。是時。梵志見佛默然受請。即從坐起。頭面禮足。便退而去。還至家中。辦具飲食。敷諸坐具。香汁灑地。普自吐言。如來當於此坐。爾時。施羅梵志將五百弟子。至翅甯梵志家。遙見彼家敷好坐具。見已。問翅甯梵志。汝今欲與男女嫁娶。為欲請摩竭國頻毘娑羅王乎。翅甯梵志報曰。我亦不請頻毘娑羅王。亦無嫁娶之事。我今欲施設大福業。施羅梵志問曰。願聞其意。欲施何福業。爾時。梵志偏露右肩。長跪叉手。白世尊自陳姓名施羅。當知有釋種子出家學道。成無上至真.等正覺。我今請佛及比丘僧。是故辦具種種坐具耳。是時。施羅梵志語翅甯梵志。汝今言佛乎。報曰。吾今言佛。又問。甚奇。甚特。今乃聞佛音響。如來竟為所在。吾欲見之。翅甯報曰。今在羅閱城外竹園中住。將五百弟子自相娛樂。欲往見者。宜知是時。此梵志即將五百弟子。往至佛所。到已。共相問訊。在一面坐。爾時。施羅梵志便生此念。沙門瞿曇為端正。身作黃金色。我等經籍亦有斯言。如來出世之時。實不可遇。猶如優曇缽花時時乃現。若成就三十二相.八十種好。當趣二處。若在家者當作轉輪聖王。七寶具足。若出家學道者。必成無上道。為三界世祐。我今欲觀佛三十二相。爾時。梵志唯見三十相。而不睹二相。起狐疑猶豫。不見廣長舌.陰馬藏。爾時。施羅梵志即以偈問曰 吾聞三十二  大人之相好  今不見二相  竟為在何所  貞潔陰馬藏  其相甚難喻  頗有廣長舌  舐耳覆面不  願出廣長舌  使我無狐疑  又使我見之  永無疑結網』
問曰。此經言聞諸佛名即時得道。不言聞名已修道乃得。 問うて曰く、此の経には、『諸仏の名を聞かば、即時に道を得』、と言いて、『名を聞き已りて、道を修め、乃ち得』、と言わず。
問い、
此の、
『経』は、
『諸仏の名を聞けば!』、
『即時に、道を得る!』とは、
『言っている!』が、
『名を聞き、道を修めたならば!』、
『乃ち、得る( and only then to attain )!』とは、
『言っていない!』。
答曰。今言即時不言一心中。但言更無異事聞之故言即時。譬如經中說。修慈心時即修七覺意。難者言。慈三昧有漏是緣眾生法。云何得即時修七覺。答者言。從慈起已即修七覺。更無餘法故言即時。即時有二種。一者同時。二者雖久更無異法。即是心而得修七覺亦名即時。 答えて曰く、今、『即時に』、と言うも、『一心中に』、と言わざるは、但だ、『更に異事の、之を聞くこと無き』、を言うが故に、『即時に』、と言えり。譬えば、経中に、『慈心を修する時、即ち七覚意を修す』、と説くが如きに、難者の言わく、『慈三昧は、有漏にして、是れ衆生を縁ずる法なり。云何が、即時に七覚を修するを得る』、と。答者の言わく、『慈より起ち已りて、即ち七覚を修し、更に世の法無きが故に、即時と言う。即時には二種有りて、一には同時、二には久しと雖も、更に異法無ければ、是の心に即して、七覚を修するを得るを、亦た即時と名づく』、と。
答え、
今は、
『即時に!』とは、
『言った!』が、
『一心中に!』とは、
『言わなかった!』、
但だ、
『更に、所聞の異事が無いこと!』を、
『言おうとする!』が故に、
『即時に!』と、
『言ったのである!』。
譬えば、
『経』中には、こう説かれているが、――
『慈心を修める!』時、
『即ち!』、
『七覚意を修めることになる!』と、
『難者』が、こう言うと、――
『慈三昧』は、
『有漏であり!』、
是れは、
『衆生を縁じる!』、
『法である!』。
何故、
『即時に!』、
『無漏の七覚』を、
『修めることになるのか?』、と。
『答者』が、こう言うようなものである、――
『慈三昧より起って!』、
即ち、
『七覚』を、
『修めるのである!』が、
其の、
『中間には、更に餘の法が無い!』が故に、
『即時に!』と、
『言うのである!』。
『即時には、二種有り!』、
一には、
『同時である!』ことを、
『言い!』、
二には、
『久しい間であろうと!』、
『中間には、更に異法が無い!』ことを、
『言うのである!』。
『慈を修める!』、
是の、
『心のままで!』、
『七覚を修めることができれば!』、
是れも、
亦た、
『即時と、称される!』。
復次有眾生福德淳熟結使心薄應當得道。若聞佛名即時得道。又復以佛威力故聞即得度。譬如熟癰若無治者得小因緣而便自潰。亦如熟果。若人無取微風因緣便自隨落。譬如新淨白氎易為受色。為是人故說若聞佛名。即時得道。譬如鬼神著人聞仙人咒名即時捨去。 復た次ぎに、有る衆生は、福徳淳熟して、結使の心薄ければ、応当に道を得べくして、若し仏名を聞けば、即時に道を得。又復た、仏の威力を以っての故に、聞けば、即ち度を得。譬えば熟癰の若しは治者無くとも、小因縁を得て、便ち自ら潰れるが如く、亦た熟果の若しは人の取る無くとも、微風の因縁もて、便ち自ら随って落つるが如し。譬えば新浄なる白氎の易(たやす)く為に色を受くるが如し。是の人の為の故に説かく、『若し仏名を聞けば、即時に道を得』、と。譬えば、鬼神の人に著するに、仙人の名を咒するを聞きて、即時に捨てて去るが如し。
復た次ぎに、
有る、
『衆生』は、
『福徳が淳熟して!』、
『結使の心が薄れている!』が故に、
当然、
『道』を、
『得られる!』ので、
若し、
『仏の名を聞けば!』、
即時に、
『道』を、
『得るだろう!』。
又復た、
『仏の威力を用いる!』が故に、
『聞けば!』、
即ち、
『度』を、
『得るのである!』。
譬えば、
『熟癰( a ripened abscess )』が、
若し、
『治者が無くても!』、
『小因縁を得れば!』、
便ち( easily )、
『自ら潰れるようなものであり!』、
亦た、
『熟果( a ripened fluit )』が、
若し、
『人が取らなくても!』、
『微風の因縁により!』、
便ち、
『風に随って!』、
『自ら落ちるようなものである!』。
譬えば、
『新浄の白氎( a new white cloth )』が、
『易く( easily )!』、
『色を受ける( to be dyed to a certain color )ようなものであり!』、
是の、
『人の為に!』、こう説かれたのである、――
若し、
『仏の名を聞けば!』、
即時に、
『道』を、
『得るだろう!』、と。
譬えば、
『鬼神』が、
『人に著いても!』、
『仙人』が、
『鬼神の名を咒する!』のを、
『聞いて!』、
即時に、
『捨てて!』、
『去るようなものである!』。
  淳熟(じゅんじゅく):完全に熟した( completely ripened )、梵語 vipaaka, paripakva の訳、完全に料理された/装われた( completely cooked or dressed )の義、完全に成熟/完成/成就/円熟した( Quite ripe, mature, accomplished, perfect. )の意。
  (よう):梵語 kiTibha, vraNa の訳、虫/シラミ/発疹の一種( a bug, a louse, a kind of exanthema )、傷/腫物/潰瘍/膿瘍/腫瘍/癌( a wound, sore, ulser, abscess, tumour, cancer )の義。
  白氎(びゃくじょう): 氎は梵語劫貝 karpaasa の訳、パンヤ/綿( the cotton tree, cotton )の義、白い木綿( bleached cotton cloth )の意。
問曰。過如恒河沙等世界誰傳此名令彼得聞。 問うて曰く、恒河沙に等しきが如き世界を過ぐるに、誰か、此の名を伝えて、彼れをして、聞くを得しむる。
問い、
『恒河沙に等しいほどの世界を過ぎて!』、
此の、
『名を、誰が伝えて!』、
『彼れに!』、
『聞かせるのですか?』。
答曰。佛以神力舉身毛孔放無量光明。一一光上皆有寶華。一一華上皆有坐佛。一一諸佛各說妙法以度眾生。又說諸佛名字。以是故聞。如放光中說。 答えて曰く、仏の神力を以って、身の毛孔を挙げて、無量の光明を放ちたもうに、一一の光上には、皆宝華有り、一一の華上に皆、坐仏有り、一一の諸仏は、各妙法を説いて、以って衆生を度し、又諸仏の名字を説きたまえば、是を以っての故に、放光中に説くが如きを聞く。
答え、
『仏』が、
『神力を用いて!』、
『身の毛孔を挙げて!』、
『無量の光明』を、
『放たれる!』と、
『一一の光上に!』、
皆、
『宝華が有り!』、
『一一の華上に!』、
皆、
『坐仏が有り!』、
『一一の諸仏』は、
各、
『妙法を説いて!』、
『衆生』を、
『度されるのであり!』、
又、
『諸仏』の、
『名字も!』、
『説かれる!』ので、
是の故に、
『放光中に説かれた!』、
『名』を、
『聞くのである!』。
復次諸大菩薩以本願欲至無佛法處稱揚佛名。如此品中說者是故得聞。復有大功德人從虛空中聞佛名號。如薩陀波崙菩薩。又有從諸天聞。或從樹木音聲中聞。或從夢中。 復た次ぎに、諸大菩薩は、本願を以って、仏法無き処に至りて、仏名を称揚せんと欲す。此の品中に説けるが如きは、是の故に聞くを得。復た有る大功徳の人は、虚空中より仏の名号を聞く。薩陀波崙菩薩の如きは、又有るいは諸天より聞き、或は樹木の音声中より聞き、或は夢中による。
復た次ぎに、
『諸大菩薩』は、
『本願』の故に、
『仏法の無い処に至って!』、
『仏名を称揚しよう!』と、
『思うのである!』。
此の、
『品中に説かれたような!』者は、
是の故に、
『名』を、
『聞くことができるのである!』。
復た、
有る、
『大功徳の人』は、
『虚空』中より、
『仏の名号』を、
『聞いている!』。
例えば、
『薩陀波崙菩薩など!』は、
又有るいは、
『諸天より!』、
『聞き!』、
或は、
『樹木の音声中より!』、
『聞き!』、
或は、
『夢中より!』、
『聞いたのである!』。
  薩陀波崙(さだはろん):厭くことなく般若波羅蜜を求める菩薩の名。摩訶般若波羅蜜経巻27常啼品の主人公。『大智度論巻30上、下注:薩陀波崙』参照。
復次諸佛有不可思議力故自往語。或以聲告。又如菩薩作願誓度一切眾生。以是故說我成佛時過如恒河沙等世界眾生聞我名皆得成佛欲得是者當學般若波羅蜜 復た次ぎに、諸仏には、不可思議の力有るが故に自ら往きて語りたまい、或は聲を以って告げたもう。又、菩薩の如きは、願を作して、一切の衆生を度せんと誓えば、是を以っての故に説かく、『我れ仏と成る時には、恒河沙に等しきが如き世界を過ぐるも、衆生、我が名を聞けば、皆、仏と成るを得ん』、と。是れを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
『諸仏』には、
『不可思議の力が有る!』が故に、
『自ら往きて!』、
『語り!』、
或は、
『樹木の聲を用いて!』、
『告げられる!』。
又、
『菩薩など!』は、
『願を作して!』、
『一切の衆生を度そう!』と、
『誓う!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
わたしが、
『仏と成った!』時には、
『恒河沙に等しいほどの世界を過ぎた!』、
『世界中の衆生』が、
わたしの、
『名を聞けば!』、
皆、
『仏』と、
『成ることができるだろう!』。
是れを、
『得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
問曰。上欲得諸功德及諸所願。是諸事皆是眾行和合所成。何以故。但說當學般若波羅蜜。 問うて曰く、上に諸功徳、及び諸所願を得んと欲するに、是の諸事は、皆是れ衆行和合の所成なるに、何を以っての故にか、但だ、『当に、般若波羅蜜を学ぶべし』、と説く。
問い、
上の、
『諸功徳や、諸所願を得ようとする!』のは、
是の、
『諸事』は、
皆、
『衆行の和合』の、
『成じる所である!』のに、
何故、
但だ、こう説くのですか?――
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
答曰。是經名般若波羅蜜。佛欲解說其事。是故品品中皆讚般若波羅蜜。 答えて曰く、是の経を、般若波羅蜜と名づくるは、仏、其の事を解説せんと欲したまえばなり。是の故に、品品中に、皆般若波羅蜜を讃ずるなり。
答え、
是の、
『経』を、
『般若波羅蜜』と、
『名づけた!』のは、
『仏』が、
其の、
『般若波羅蜜の事』を、
『解説しようとされたからであり!』、
是の故に、
『品品』中に、
皆、
『般若波羅蜜』を、
『讃じられているのである!』。
復次般若波羅蜜是諸佛母。父母之中母功最重。是故佛以般若為母。般舟三昧為父。三昧唯能攝持亂心令智慧得成。而不能觀諸法實相。般若波羅蜜。能遍觀諸法分別實相。無事不達。無事不成。功德大故。名之為母以是故行者雖行六波羅蜜及種種功德和合能具眾願。而但說當學般若波羅蜜。 復た次ぎに、般若波羅蜜は、是れ諸仏の母にして、父母中に母の功最も重し。是の故に仏は、般若を以って母と為し、般舟三昧を、父と為したもう。三昧は、唯だ能く乱心を摂持して、智慧をして、成ずるを得しむるも、諸法の実相を観ずる能わず。般若波羅蜜は、能く遍く諸法の観て、実相を分別すれば、事の達せざる無く、事の成ぜざる無く、功徳大なるが故に、之を名づけて母と為す。是を以っての故に、行者は、六波羅蜜、及び種種の功徳の和合を行じて、能く衆願を具すと雖も、但だ、『当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と説けり。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜』は、
『諸仏の母であり!』、
『父母』中には、
『母の功( the merits of mother )』が、
『最も重い!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『般若』を、
『母とされたのである!』。
『般舟三昧』は、
『父である!』が、
『三昧』は、
『乱心を摂持することができる!
being able to concentrate and hold one's scattered mind )』ので、
『智慧』を、
『成じさせることができる!』が、
而し、
『諸法の実相』を、
『観ることはできない!』。
『般若波羅蜜』は、
遍く、
『諸法を観て!』、
『実相を分別することができる!』ので、
『達せられない事や、成じられない事』が、
『無く!』、
『功徳が大である!』が故に、
『母』と、
『称されるのである!』。
是の故に、
『行者』は、
『六波羅蜜や、種種の功徳を行うこと!』を、
『和合して!』、
『衆願』を、
『具する( to achieve )ことができる!』が、
而し、
但だ、
『般若波羅蜜を学ばねばならぬ!』と、
『説くのである!』。
  (く):功績/仕事/利益( meritorious service, work, merit )。梵語 prayatna の訳、忍耐の成果/継続的尽力、或は努力/活発な努力( percevering effor, continued exertion or endeavour, active efforts )の義、利益/価値ある行い/( merits, meritorious deeds )、伎術/能力/効力/効果( skill, ablity, effectiveness, effect )の意。
  般舟三昧(はんじゅうさんまい):梵語 pratyutpanna-samaadhi の訳、仏を現前に観る三昧の名。『大智度論巻9上注:般舟三昧』参照。
復次如般若後品中說。若無般若波羅蜜餘五事不名波羅蜜。雖普修眾行亦不能滿具諸願。如種種畫彩若無膠者亦不中用。眾生從無始世界中來。雖修布施持戒忍辱精進一心智慧。受世間果報已而復還盡。所以者何。離般若波羅蜜故。 復た次ぎに、般若の後の品中に、『若し、般若波羅蜜無くんば、餘の五事を、波羅蜜と名づけず』、と説けるが如く、普く衆行を修すと雖も、亦た諸願を満具する能わざること、種種の画彩に若し膠無くんば、亦た中用ならざるが如し。衆生は、無始の世界中より来(このかた)、布施、持戒、忍辱、精進、一心、智慧を修すと雖も、世間の果報を受け已れば、復た還って尽く。所以は何んとなれば、般若波羅蜜を離るるが故なり。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜の後品』中に、こう説かれているように、――
若し、
『般若波羅蜜が無ければ!』、
『餘の五事』が、
『波羅蜜と呼ばれることはない!』、と。
普く、
『衆行を修めたとしても!』、
『諸願』を、
『満具することができない( cannot be sutisfyed completely )!』。
譬えば、
『種種の画彩( various colors )』に、
若し、
『膠が無ければ!』、
『役に立たないようなものである!』。
『衆生』は、
『無始の世界中より!』、
『布施、持戒、忍辱、精進、一心、智慧を修めて来たとしても!』、
『世間』に於いて、
『果報の身』を、
『受けたならば!』、
復た( also
『還って( again )!』、
『尽きるのである!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜』を、
『離れたからである!』。
  中用(ちゅうゆう):役に立つ/有用である( be of use )。
  参考:『摩訶般若波羅蜜巻21方便品』:『須菩提白佛言。世尊。若諸波羅蜜無差別相。云何般若波羅蜜。於五波羅蜜中第一最上微妙。佛告須菩提。如是如是。諸波羅蜜雖無差別。若無般若波羅蜜。五波羅蜜不得波羅蜜名字。因般若波羅蜜。五波羅蜜得波羅蜜名字。須菩提。譬如種種色身。到須彌山王邊皆同一色。五波羅蜜亦如是。因般若波羅蜜到薩婆若中一種無異。不分別是檀那波羅蜜是尸羅波羅蜜是羼提波羅蜜是毘梨耶波羅蜜是禪那波羅蜜是般若波羅蜜。何以故。是諸波羅蜜無自性故。以是因緣故。諸波羅蜜無差別。』
今以佛恩以般若波羅蜜修行六事故得名波羅蜜。成就佛道使佛佛相續而無窮盡。 今、仏恩を以って、般若波羅蜜を以って、六事を修行するが故に、波羅蜜と名づくるを得、仏道を成就して、仏と仏とをして、相続せしめ、窮尽無からしむ。
今、
『仏恩』の故に、
『般若波羅蜜を用いて!』、
『六事を修行する!』が故に、
『波羅蜜』と、
『称されることができ!』、
『仏道を成就しながら!』、
『仏と、仏を相続させ!』、
『仏法の窮尽を!』、
『無くするのである!』。
復次菩薩行般若波羅蜜時。普觀諸法皆空。空亦復空。滅諸觀得無礙般若波羅蜜。以大悲方便力還起諸功德業。此清淨業因緣故無願不得。餘功德離般若波羅蜜無有無礙智慧。云何言欲得諸願當學檀波羅蜜等。 復た次ぎに、菩薩は、般若波羅蜜を行ずる時、普く諸法は、皆空なりと観るに、空も亦復た空なれば、諸観を滅して、無礙の般若波羅蜜を得、大悲の方便力を以って、還って諸の功徳の業を起し、此の清浄業の因縁の故に、願の得ざる無し。餘の功徳は、般若波羅蜜を離るれば、無礙の智慧有ること無し。云何が、『諸願を得んと欲せば、当に檀波羅蜜等を学ぶべし』、と言う。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』時、
普く、
『諸法』は、
『皆、空である!』と、
『観る!』ので、
『空も、亦復た空であり!』、
『諸観を滅することになり!』、
『無礙の般若波羅蜜』を、
『得て!』、
『大悲の方便力を用いて!』、
還って( again )、
『諸の功徳業』を、
『起す!』と、
此の、
『清浄業の因縁』の故に、
『願の得られないということ!』が、
『無くなる!』。
『餘の功徳』は、
『般若波羅蜜を離れれば!』、
『無礙の智慧』が、
『無い!』のに、
何故、こう言うのか?――
『諸願を得ようとすれば!』、
当然、
『檀波羅蜜等を!』、
『学ばねばならない!』、と。
復次又以五波羅蜜離般若不得波羅蜜名字。五波羅蜜如盲。般若波羅蜜如眼。五波羅蜜如坏瓶盛水。般若波羅蜜如盛熟瓶。五波羅蜜如鳥無兩翼。般若波羅蜜如有翼之鳥。如是等種種因緣故般若波羅蜜能成大事。以是故言欲得諸功德及願當學般若波羅蜜
大智度論卷第三十四
復た次ぎに、又五波羅蜜の般若を離るれば、波羅蜜の名字を得ざるを以って、五波羅蜜は盲の如く、般若波羅蜜は眼の如し。五波羅蜜は坏瓶に水を盛るが如く、般若波羅蜜は熟瓶に盛るが如し。五波羅蜜は鳥に両翼無きが如く、般若波羅蜜は翼有る鳥の如し。是れ等の如き種種の因縁の故に、般若波羅蜜は能く大事を成ず。是を以っての故に言わく、『諸の功徳、及び願を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
大智度論巻第三十四
復た次ぎに、
『五波羅蜜が般若を離れれば!』、
『波羅蜜の名字』を、
『得られないということ!』は、――
譬えば、
『五波羅蜜は、盲のようである!』が、
『般若波羅蜜』は、
『眼のようであるとか!』、
『五波羅蜜は、坏瓶に水を盛るようである!』が、
『般若波羅蜜』は、
『熟瓶に盛るようであるとか!』、
『五波羅蜜は、鳥に両翼が無いようである!』が、
『般若波羅蜜』は、
『翼の有る鳥のようであるということであり!』、
是れ等のような、
『種種の因縁』の故に、
『般若波羅蜜』は、
『大事』を、
『成すことができ!』、
是の故に、こう言うのである、――
『諸の功徳や、願を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。

大智度論巻第三十四
  坏瓶(はいびょう):日干しの瓶。生瓶。
  熟瓶(じゅくびょう):堅く焼かれた瓶。


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