巻第三十四(上)
大智度論釋初品中見一切佛世界義第五十一之餘
1.十方現在の諸仏の所説の法を聞き、信持、自行して、他人に説く
2.十方過去未来の諸仏の所説の法を聞き、自利し、利他する
3.十方の諸世界の闇処を、光明を持して、普く照らす
4.仏法僧の名無き世界の衆生に正見を得させ、三宝の音を聞かせる
5.十方の盲、聾、狂、裸、飢渴の衆生に視、聴、念、衣、食を得させる
6.十方の三悪趣に在る者に、人身を得させる
7.十方の衆生を戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見に立たせる
8.諸仏の威儀を学ぶ
9.象王のように視観し、諸天衆に恭敬、囲繞されて菩提樹下に至る
10.菩提樹下に坐す時、諸天は座に天衣を敷く
11.阿耨多羅三藐三菩提を得た時、行住坐臥の処が金剛と為る
12.出家した日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成ずる
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大智度論釋初品中見一切佛世界義第五十一之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


十方現在の諸仏の所説の法を聞き、信持、自行して、他人に説く

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩十方如恒河沙等世界中諸佛所說法。已說今說當說。聞已欲一切信持自行亦為人說者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、十方の恒河沙に等しきが如き世界中の諸仏の所説の法の、已に説き、今説き、当に説くべきを聞き已りて、一切を信持して、自ら行じ、亦た人の為に説かんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『諸仏の所説の法』を、
『過去に説かれたものも!』、
『今現在説かれたものも!』、
『未来に説かれるものも!』、
『聞いて!』、
『一切を信受し、受持し!』、
『自ら行いながら!』、
『人の為に!』、
『説こうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  信持(しんじ):梵語 zraddhaa-dhaaraNaa? の訳、信受と受持( to believe and hold )の義。
  信受(しんじゅ):梵語 zraddhaa, abhizraddhaa の訳、信用/信頼すること( have belief of confidence in, to believe in )の義。
  受持(じゅじ):梵語 dhaaraNaa の訳、保持する/身に帯びる/身に着ける/支持する/維持する等の行為( the act of holding, bearing, wearing, supporting, maintaining )、保持する/確保すること( retaining, keeping back )、心の収集/集中( collection or concentration of the mind )、知力( understanding, intellect )、堅固/不動/公正( firmness, steadfastness, righteousness )等の義。
【論】問曰。上已說十方諸佛所說欲憶持不忘當學般若。今何以復說信持三世佛法。 問うて曰く、上に已に、『十方の諸仏の所説を、憶持して、忘れざらんと欲せば、当に般若を学ぶべし』、と説けるに、今は何を以ってか、復た、『三世の仏の法を信持すべし』、と説く。
問い、
上には、
已に、こう説かれているのに、――
『十方の諸仏の所説』を、
『憶持して!』、
『忘れないようにしようとすれば!』、
当然、
『般若』を、
『学ばねばならない!』、と。
今、復た
何故、こう説くのですか?――
『三世の仏』の、
『法』を、
『信持しようとすれば!』、と。
答曰。上說欲憶持十方諸佛法未知是何法故。說十二部經是佛法。及聲聞所不聞者。上但言恒河沙等世界諸佛。今言恒河沙三世諸佛法。又上但說受持不忘不說受持利益。今言自為亦為他人說是故復說 答えて曰く、上に、『十方の諸仏の法を億持せんと欲すれば』、と説くも、未だ是れ何なる法なりやを知らざるが故に、『十二部経は、是れ仏の法なり』、と説いて、声聞の聞かざる所の者に及べり。上には、但だ、『恒河沙に等しき世界の諸仏』、と言い、今は、『恒河沙の三世の諸仏の法』、と言う。又上には、但だ、『受持し、忘れず』、と説くも、受持の利益を説かざれば、今は、『自ら為し、亦た他人の為に説く』、と言う。是の故に復た説けり。
答え、
上には、
『十方の諸仏』の、
『法を、憶持しようとすれば!』と、
『説いた!』が、
未だ、
是れが、
『何のような法なのか?』を、
『知らない!』ので、
是の故に、
『十二部経』が、
『仏の法である!』と、
『説き!』、
『声聞の聞かない所の法である!』と、
『説く!』に、
『及んだ!』。
上には、
但だ、
『恒河沙に等しい世界の諸仏』と、
『言っただけである!』が、
今は、
『恒河沙、三世の諸仏の法である!』と、
『言った!』。
又、上には、
但だ、
『受持すれば!』、
『忘れない!』と、
『説くだけで!』、
『受持して、得られる!』、
『利益』を、
『説かなかった!』が、
今は、
『自ら、行いながら!』、
『他人の為にも、説く!』と、
『言い!』、
是の故に、
復た( repeatedly )、
『説いたのである!』。



十方過去未来の諸仏の所説の法を聞き、自利し、利他する

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩過去諸佛說已。未來諸佛當說。欲聞聞已自利亦利他人。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、過去の諸仏の説き已り、未来の諸仏の当に説くべきを聞いて、聞き已りて、自ら利し、亦た他人を利せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『過去の諸仏が、已に説き!』、
『未来の諸仏が、説こうとしている!』、
『法』を、
『聞こうとし!』、
『聞いたならば!』、
『自らを、利しながら!』、
『他人をも、利そうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。十方現在佛所說法可受可持。過去已滅未來未有云何可聞。 問うて曰く、十方の現在の仏の所説の法は、受くべく、持すべきも、過去は已に滅し、未来は未だ有らざれば、云何が聞くべき。
問い、
『十方の現在の仏』の、
『所説の法』は、
『受けることもでき!』、
『持することもできるだろう!』が、
『過去の諸仏は、已に滅し!』、
『未来の諸仏は、未だ無い!』のに、
何故、
『所説の法』を、
『聞くことができるのですか?』。
答曰。此義先已答。今當更說。菩薩有三昧名觀三世諸佛三昧。菩薩入是三昧中。悉見三世諸佛聞其說法。譬如外道神仙。於未來世事未有形兆未有言說。以智慧力故亦見亦聞。 答えて曰く、此の義は、先に已に答うるも、今当に更に説くべし。菩薩には、三昧有り、観三世諸仏三昧と名づく。菩薩は、是の三昧中に入りて、悉く三世の諸仏を見、其の説法を聞く。譬えば、外道の神仙は、未来世の事の、未だ形、兆(きざし)有らず、未だ言説有らざるに於いて、智慧の力を以っての故に、亦た見、亦た聞くが如し。
答え、
此の、
『義』は、
『先に、已に答えた!』が、
今、
更に、説くことにしよう、――
『菩薩』には、
『観三世諸仏三昧という!』、
『三昧』が、
『有り!』、
『菩薩』は、
是の、
『三昧中に入って!』、
悉く、
『三世の諸仏を見て!』、
其の、
『説法』を、
『聞くのである!』。
譬えば、
『外道の神仙』が、
『未来世の事』を、
未だ、
『形も、兆も、言説も!』、
『無いのに!』、
『智慧という!』、
『力を用いる!』が故に、
『見たり!』、
『聞いたりするようなものである!』。
復次諸菩薩力不可思議。未來世雖未有形未有言說而能見能聞。或以陀羅尼力。或以今事比知過去未來諸事。以是故言欲得是者當學般若波羅蜜 復た次ぎに、諸の菩薩の力は不可思議なれば、未来世は未だ形有らず、未だ言説有らずと雖も、能く見、能く聞く。或いは陀羅尼の力を以って、或いは今の事を以って比し、過去、未来の諸事を知る。是を以っての故に、言わく、『是れを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
復た次ぎに、
『諸菩薩の力は、不可思議であり!』、
『未来世の!』、
未だ、
『形も、言説も無い事』を、
『見ることができ!』、
『聞くことができる!』。
或いは、
『陀羅尼の力を用いて!』、
『見たり!』、
『聞いたりし!』、
或いは、
『今の事に比して!』、
『過去や、未来の諸事を!』、
『知る!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
是の、
『事を得ようとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。



十方の諸世界の闇処を、光明を持して、普く照らす

【經】十方如恒河沙等諸世界中間闇處日月所不照。欲持光明普照者。當學般若波羅蜜 十方の恒河沙に等しきが如き諸の世界の中間の闇処の日月の照さざる所を、光明を持って、普く照らさんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『十方の恒河沙に等しいほど!』の、
『諸の世界の中間』の、
『日、月に照されない闇処』を、
『光明を持って!』、
『普く( universally )!』、
『照そうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  (ふ):広く/一般的に( generally )、遍く/例外なく/遺余なく( guniversally )。
【論】菩薩從兜率天上欲降神母胎。爾時身放光明遍照一切世界及世間幽冥之處。次後生時光明遍照亦復如是。初成道時轉法輪時般涅槃時放大光明皆亦如是。及於餘時現大神通放大光明。如欲說般若波羅蜜時。現大神通以大光明遍照世間幽冥之處。如是比處處經中說神通光明。 菩薩は、兜率天上より、神を母胎に降さんと欲す。爾の時、身より光明を放って、遍く、一切の世界、及び世間の幽冥の処を照し、次後の生ずる時に、光明の遍く照すことも、亦復た是の如し。初めて成道する時、法輪を転ずる時、般涅槃する時に大光明を放ちたもうことも、皆亦た是の如し。及び餘時にも大神通を現わして、大光明を放ちたまえり。般若波羅蜜を説かんと欲する時、大神通を現わして、大光明を以って、遍く世間の幽冥の処を照したもうが如く、是の如き比(たぐい)の処処の経中に、神通の光明を説く。
『菩薩』が、
『兜率天上より!』、
『母胎に!』、
『降神される( to descend his deity into )!』と、
爾の時、
『身より!』、
『光明が放たれ!』、
『一切の世界、及び世間の幽冥の処』を、
『遍く照し!』、
次後( afterwards )、
『生まれる!』時にも、
『光明』が、
『亦た同じように!』、
『遍く照し!』、
初めて、
『成道された時や、法輪を転じられた時や、般涅槃された時にも!』、
皆、
是のように、
『大光明』が、
『放たれ!』、
及び、
『餘時にも!』、
『大神通を現わして!』、
『大光明を!』、
『放たれたのである!』。
『般若波羅蜜を説こうとされた!』時、
『大神通を現わして!』、
『大光明で!』、
『世間の幽冥の処』を、
『遍く照されたように!』、
是のような比の、
『処処の経』中には、
『神通や、光明』が、
『説かれている!』。
  次後(じご):後に/その後( later, afterwards )。
  降神(ごうじん):梵語 avataara の訳、[特に天より神位を]降下すること/地上に何等かの神位を現わすこと( descent (especially of a deity from heaven), appearance of any deity upon earth )の義、~の化身/権化( the incarnation of )の意。
問曰。此是佛力何以故說菩薩。 問うて曰く、此れは是れ仏力なるに、何を以っての故にか、菩薩を説く。
問い、
此の、
『神通力』は、
『仏の力なのに!』、
何故、
『菩薩の力である!』と、
『説かれたのですか?』。
答曰。今言菩薩欲得是者當學般若波羅蜜。諸大菩薩能有是力。如遍吉菩薩觀世音得大勢明網無量光菩薩等能有是力。身出無量光明能照十方如恒河沙等世界。又如阿彌陀佛世界中諸菩薩。身出常光照十萬由旬。 答えて曰く、今、『菩薩は、是れを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と言うに、諸の大菩薩には、能く是の力有り。遍吉菩薩、観世音、得大勢、明網、無量光菩薩等に、能く是の力有りて、身より、無量の光明を出して、能く十方の恒河沙に等しきが如き世界を照すが如し。又阿弥陀仏の世界中の諸菩薩の如きも、身より常光を出して、十万由旬を照すなり。
答え、
今、こう言うのは、――
『菩薩』が、
是の、
『力を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
『諸の大菩薩』は、
是の、
『力』を、
『有することができるからである!』。
例えば、
『遍吉菩薩や、観世音、得大勢、明網、無量光菩薩』等には、
是の、
『力が有り!』、
『身より!』、
『無量の光明』を、
『出して!』、
遍く、
『十方の恒河沙に等しい世界』を、
『照すことができる!』し、
又、
『阿弥陀仏の世界』中の、
『諸の菩薩なども!』、
『身より!』、
『常光を出して!』、
『十万由旬』を、
『照すのである!』。
問曰。菩薩身光如是本以何業因緣得。 問うて曰く、菩薩の身光にして是の如きは、本、何なる業因縁を以って、得るや。
問い、
『菩薩』の、
『身光が!』、
『是のようである!』のは、
本、
何のような、
『業の因縁を作した!』が故に、
『得たのですか?』。
答曰。身業清淨故身得莊嚴。如經說。有一鬼頭似豬臭虫從口出身有金色光明。是鬼宿世作比丘惡口罵詈客比丘。身持淨戒故身有光明。口有惡言故臭虫從口出。 答えて曰く、身業清浄なるが故に、身に荘厳を得ること、経中に説けるが如し、『有る一鬼の頭は豬に似たるは、臭き虫、口より出づるも、身には、金色の光明有り。是の鬼は、宿世に比丘と作り、悪口して、客比丘を罵詈せるも、身に浄戒を持せるが故に、身に光明有り、口に悪言有るが故に、臭き虫、口より出づ』、と。
答え、
『身業が清浄であった!』が故に、
『身』に、
『荘厳を得るのである!』。
『経』には、こう説かれている、――
有る、
『一鬼』は、
『頭』は、
『豬( a pig/hog )』に、
『似ており!』、
『口より!』、
『臭い虫』を、
『出す!』が、
『身』には、
『金色の光明』が、
『有った!』。
是の、
『鬼』は、
『宿世に( his previous existence )!』、
『比丘と作って!』、
『客比丘』を、
『悪口し、罵詈していた!』が、
『身には!』、
『浄戒』を、
『持っていた!』。
『身に、浄戒を持っていた!』が故に、
『身には!』、
『光明』が、
『有り!』、
『口に、悪言が有った!』が故に、
『口より!』、
『臭い虫』が、
『出るのである!』、と。
  参考:『出曜経巻10』:『尊者滿足阿羅漢說曰。恒訓化餓鬼。往詣餓鬼界。見一餓鬼形狀醜陋。見者毛豎莫不畏懼。身出熾焰如大火聚。口出蛆蟲膿血流溢。臭氣遠徹不可親近。或口吐焰火長數十丈。或耳鼻眼身體支節放諸火焰長數十丈。脣口垂倒像如野豬。身體縱廣一由旬。手自抓摑舉聲號哭馳走東西。時尊滿足問餓鬼曰。汝宿作何罪咎今受此苦。餓鬼報曰。吾曩昔在世時。出家作沙門。戀著房舍慳貪不捨。身持威儀出言臭惡。若見持戒精進比丘輒復罵辱。或戾口弄。或偏眼視。或戾是作非。或戾非作是。自恃豪族謂為不死。造諸無量不善之本。寧以利刀自割其舌。如是從劫離劫甘心受苦。不以一日之中誹謗精進比丘。尊若還閻浮利地者。以我形狀可戒敕諸比丘。善護口過勿妄出言。設見梵行持戒比丘者。念宣其德。自受餓鬼形以來。經數百歲數千歲數萬歲數千百萬歲受如此苦惱。』
如經說。心清淨優劣故光有上中下。少光大光光音欲界諸天心清淨布施持戒故身有光明。 経に説けるが如く、『心の清浄の優劣の故に、光には上中下有り。少光、大光、光音、欲界の諸天は、心清浄にして、布施、持戒するが故に、身に光明有り』、と。
『経』には、こう説かれている、――
『心の清浄』には、
『優、劣が有る!』が故に、
『光の上、中、下』が、
『有る!』。
『色界』の、
『少光天、大光天、光音天や!』、
『欲界の諸天でも!』、
『心が清浄であり、持戒、布施すれば!』、
『身に!』、
『光明が有る!』、と。
  少光大光光音:色界の第二禅天の第一、第二、第三天を指す。
復次有人憐愍眾生故於闇處然燈。亦為供養尊像塔寺故。亦以明珠戶嚮明鏡等明淨物布施故身有光明。 復た次ぎに、有る人は、衆生を憐愍するが故に、闇処に於いて、灯を燃やし、又尊像、塔寺を供養せんが故に、亦た明珠、戸嚮、明鏡等の明浄の物を以って、布施するが故に、身に光明有り。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『闇処』に、
『灯を燃やしたり!』、
亦た、
『尊像や、塔寺を供養する!』為の故に、
『灯』を、
『燃やしたり!』、
亦た、
『明珠や、戸嚮や、明鏡』等の、
『明浄の物』を、
『布施した!』が故に、
『身』に、
『光明』を、
『有するのである!』。
  戸嚮(こしょう):戸口と窓( a door and window )。
復次常修慈心遍念眾生心清淨故。又常修念佛三昧念諸佛光明神德故得身光明。 復た次ぎに、常に慈心を修めて、遍く衆生を念じ、心清浄なるが故に、又常に念仏三昧を修め、諸仏の光明、神徳を念ずるが故に、身に光明を得。
復た次ぎに、
常に、
『慈心を修め!』、
遍く、
『衆生を念じて!』、
『心』が、
『清浄である!』が故に、
又、常に、
『念仏三昧を修め!』、
『諸仏の光明や、神徳念じる!』が故に、
『身』に、
『光明を得るのである!』。
復次行者常修火一切入。又以智慧光明教化愚闇邪見眾生以是業因緣故。得心中智慧明身亦有光。如是等業因緣得身光清淨 復た次ぎに、行者は、常に火一切入を修め、又智慧の光明を以って、愚闇、邪見の衆生を教化すれば、是の業の因縁を以っての故に、心中に智慧の明を得、身にも亦た光有り。是れ等の如き業因縁は、身光の清浄を得しむ。
復た次ぎに、
『行者』は、
常に、
『火一切入を修め!』、
又、
『智慧の光明を用いて!』、
『愚闇、邪見の衆生』を、
『教化する!』ので、
是の、
『業の因縁』の故に、
『心』中に、
『智慧の光明』を、
『得!』、
『身』にも、
『光明』を、
『有する!』。
是れ等のような、
『業の因縁』は、
『身光という!』、
『清浄の相』を、
『得させるのである!』。
  火一切入(かいっさいにゅう):梵語 tejas-kRtsnaayatana の訳、火一切処とも訳す、十一切入/十一切処の一、火に従って、一切の物が究極的に破戒されるという瞑想の一( One of the ten universals, and one of the meditations on the final destruction of all things by fire )の意。



仏法僧の名無き世界の衆生に正見を得させ、三宝の音を聞かせる

【經】十方如恒河沙等世界中無有佛名法名僧名。欲使一切眾生皆得正見聞三寶音者。當學般若波羅蜜 十方の恒河沙に等しきが如き世界中に、仏名、法名、僧名有ること無きに、一切の衆生をして、皆正見を得しめ、三宝の音を聞かしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『十方の恒河沙に等しいほど!』の、
『世界』中に、
『仏、法、僧の名すら!』、
『無いのに!』、
『一切の衆生』に、
皆、
『正見を得させて!』、
『三宝の音』を、
『聞かせようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】菩薩於先無佛法塔寺處。於中起塔。以是業因緣後身得力成就。於無佛法眾處讚歎三寶。令眾生入於正見。如經說。有人於先無佛塔國土中修立塔廟得梵福德梵名無量福德。以是因緣疾得禪定。得禪定故得無量神通。神通力故能到十方讚歎三寶 菩薩は、先に仏法、塔寺無き処に於いて、中に塔を起(た)て、是の業因縁を以って、後身に力を得て成就し、仏、法、衆無き処に於いて、三宝を讃歎し、衆生をして、正見に入らしむ。経に説けるが如し、『有る人、先に仏塔無き国土中に於いて、塔廟を立つるを修め、梵の福徳を得う』、と。梵を無量の福徳と名づくれば、是の因縁を以って、疾かに禅定を得、禅定を得るが故に、無量の神通を得、神通の力の故に、能く十方に到りて、三宝を讃歎すればなり。
『菩薩』は、
先に、
『仏法の、塔寺も無い!』、
『処』中に、
『塔』を、
『立て!』、
是の、
『業の因縁』の故に、
『後身に得た!』、
『力』が、
『成就し!』、
『仏、法、僧衆の無い!』、
『処』に於いて、
『三宝』を、
『讃歎して!』、
『衆生』を、
『正見』に、
『入らせるのである!』が、
『経』には、こう説かれている、――
有る、
『人』は、
先に、
『仏塔の無い国土』中に、
『塔廟』を、
『立てた!』が故に、
『梵世界』に於いて、
『福徳』を、
『得ることになった!』、と。
『梵世界』とは、
『無量の福徳』を、
『得るということであり!』、
是の、
『因縁』の故に、
疾かに、
『禅定』を、
『得ることができ!』、
『禅定を得た!』が故に、
『無量の神通』を、
『得て!』、
『神通の力』の故に、
『十方に到ることができ!』、
『三宝を讃歎するのである!』。
正見者。若先不識三寶功德。因菩薩故得信三寶。信三寶故信業因緣罪福。信業因緣故信世間是縛涅槃是解。讚歎三寶義如八念中說 正見とは、若し先に三宝の功徳を識らずとも、菩薩に因るが故に、三宝を信ずるを得、三宝を信ずるが故に、業因緣の罪福を信じ、業因縁を信ずるが故に、『世間は是れ縛なり』、『涅槃は、是れ解なり』、と信ず。三宝を讃歎する義は、八念中に説けるが如し。
『正見』とは、
若し、
先に、
『三宝の功徳を識らなくても!』、
『菩薩に因る!』が故に、
『三宝』を、
『信じることができ!』、
『三宝を信じる!』が故に、
『業の因縁や、罪福の果』を、
『信じることになり!』、
『業因緣を信じる!』が故に、
『世間は縛であり、涅槃は解である!』と、
『信じるからである!』。
『三宝を讃歎すること!』の、
『義』は、
『八念』中に、
『説いた通りである!』。
  参考:『増一阿含経巻21』:『世尊告曰。當集種種香華於四衢道頭。起四寺偷婆。所以然者。若有起寺。此人有四種應起偷婆。云何為四。轉輪聖王應起偷婆。漏盡阿羅漢應起偷婆。辟支佛應起偷婆。如來應起偷婆。是時。阿難白世尊曰。有何因緣如來應起偷婆。復有何因緣辟支佛.漏盡阿羅漢.轉輪聖王應起偷婆。世尊告曰。汝今當知。轉輪聖王加行十善。修十功德。亦復教人行十善功德。云何為十。己身不殺生。復教他人使不殺生。己身不盜。復教他人使不盜。己身不婬。復教他人使不婬。己身不妄語。復教他人使不妄語。己身不綺語。復教他人使不綺語。己身不嫉妒。復教他人使不嫉妒。己身不鬥訟。復教他人使不鬥訟。己身意正。復教他人使不亂意。身自正見。復教他人使行正見。比丘當知。轉輪聖王有此十功德。是故應與起偷婆。是時。阿難白世尊曰。復以何因緣如來弟子應與起偷婆。世尊告曰。阿難當知。漏盡阿羅漢以更不復受有。淨如天金。三毒五使永不復現。以此因緣如來弟子應與起偷婆。阿難白佛。以何因緣辟支佛應與起偷婆。世尊告曰。有辟支佛。無師自悟。去諸結使。更不受胎。是故應與起偷婆。是時。阿難白世尊曰。復以何因緣如來應與起偷婆。世尊告曰。於是。阿難。如來有十力.四無所畏。不降者降。不度者度。不得道者令得道。不般涅槃者令般涅槃。眾人見已。極懷歡喜。是謂。阿難。如來應與起偷婆。是謂如來應與起偷婆。爾時。阿難聞世尊所說。歡喜奉行』



十方の盲、聾、狂、裸、飢渴の衆生に視、聴、念、衣、食を得させる

【經】菩薩摩訶薩欲令十方如恒河沙等世界中眾生。以我力故盲者得視聾者得聽狂者得念裸者得衣飢渴者得飽滿者。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、十方の恒河沙に等しきが如き世界中の衆生をして、我が力を以っての故に、盲者には視るを得しめ、聾者には聴くを得しめ、狂者には念ずるを得しめ、裸者には衣を得しめ、飢渴者には飽満を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『衆生』に、
わたしの、
『力』の故に、
『盲者は、視ることができ!』、
『聾者は、聴くことができ!』、
『狂者は、念じることができ!』、
『裸者は、衣を得ることができ!』、
『飢渴者は、飽満することができるようにさせたければ!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】菩薩行無礙般若波羅蜜。若得無礙解脫成佛。若作法性生身菩薩。如文殊師利等。在十住地有種種功德具足。眾生見者皆得如願。譬如如意珠所欲皆得。法性生身佛及法性生身菩薩。人有見者皆得所願亦復如是。 菩薩は、無礙の般若波羅蜜を行ずれば、若しは無礙解脱を得て、仏と成り、若しは法性生身の菩薩と成り、文殊師利等の如く、十住の地に在りて、有るいは種種の功徳具足して、衆生の見る者は、皆願の如きを得ん。譬えば如意珠の欲する所を、皆得るが如く、法性生身の仏、及び法性生身の菩薩は、人の見る者有らば、皆所願を得ること、亦復た是の如し。
『菩薩』が、
『無礙の般若波羅蜜を行えば!』、
『無礙解脱を得て!』、
『仏に!』、
『成ったり!』、
『法性生身』の、
『菩薩に!』、
『作ったりする!』ので、
『文殊師利等のように!』、
『十住の地に在りながら!』、
有る、
『菩薩』は、
『種種の功徳』を、
『具足して!』、
是の、
『菩薩を見た!』、
『衆生は、皆!』、
『願い通りに!』、
『得ることになる!』。
譬えば、
『如意珠』が、
『欲する!』所を、
『皆、得させるように!』、
『法性生身の仏や、法性生身の菩薩を見た!』、
『人が有れば!』、
皆、
是のように、
『願う所を得るのである!』。
  法性生身(ほっしょうしょうじん):法性より生じたる身の意にして、即ち菩薩の末後の肉身尽くるに、諸の煩悩をすでに断じ尽くせども、未だ煩悩の習を断ぜず、故に身を受くるも三界の生に非ざるを云う。即ち「大智度論巻28」に、「菩薩は法位に入りて阿毘跋致地に住せば、末後の肉身尽くるに、法性生身を得、諸の煩悩を断ずといえども、煩悩習の因縁有るが故に、法性生身を受くるも、三界の生に非ず」と云えるこれなり。また「大智度論巻27、巻29、巻33、巻34」等に出づ。
復次菩薩從初發意已來。於無量劫中治一切眾生九十六種眼病。又於無量世中自以眼布施眾生。又智慧光明破邪見黑闇。又以大悲欲令眾生所願皆得。如是業因緣云何令眾生見菩薩身而不得眼。餘事亦如是。此諸義如放光中說 復た次ぎに、菩薩は、初発意より已来、無量劫中に於いて、一切の衆生の九十六種の眼病を治し、又無量世中に於いて、自ら眼を以って衆生に布施し、又智慧の光明もて、邪見の黒闇を破り、又大悲を以って、衆生をして、所願を皆得しめんと欲す。是の如き業因緣にして、云何が衆生をして、菩薩身を見しめて、而も眼を得ざらんや。餘事も亦た是の如し。此の諸の義は、放光中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『初発意より!』、
『無量劫』中に於いて、
『一切の衆生』の、
『九十六種の眼病』を、
『治してきた!』し、
『無量世』中に於いて、
『自らの眼』を、
『衆生』に、
『布施した!』し、
又、
『智慧の光明を用いて!』、
『邪見の黒闇』を、
『破り!』、
又、
『大悲を用いて!』、
『衆生の願う!』所を、
『皆、得させようとした!』のに、
是のような、
『業の因縁が有るのに!』、
何故、
『衆生』に、
『菩薩身を見せながら!』、
『眼を得させないこと!』が、
『有ろうか?』。
餘の、
『聾、狂等の事』も、
『亦た、是の通りである!』。
此の、
『諸の義』は、
『放光』中に、
『説いた通りである!』。



十方の三悪趣に在る者に、人身を得させる

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩若欲令十方如恒沙等世界中眾生諸在三惡趣者。以我力故皆得人身者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、若し十方の恒河沙に等しきが如き世界中の衆生の、諸の三悪趣に在る者をして、我が力を以っての故に、皆、人身を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『衆生』で、
諸の、
『三悪趣に在る!』者に、
若し、
わたしの、
『力』の故に、
皆に、
『人身を得させたい!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。自以善業因緣故得人身。云何菩薩言以我力因緣故。令三惡道中眾生皆得人身。 問うて曰く、自ら、善業の因縁を以っての故に、人身を得るに、云何が、菩薩は、『我が力の因縁を以っての故に、三悪道中の衆生をして、皆、人身を得しめん』、と言う。
問い、
自らの、
『善業の因縁』の故に、
『人身』を、
『得られるのに!』、
何故、
『菩薩』は、こう言うのですか?――
わたしの、
『力の因縁』の故に、
『三悪道中の衆生』に、
皆、
『人身』を、
『得させよう!』、と。
答曰。不言以菩薩業因緣令眾生得人身。但言菩薩恩力因緣故得。菩薩以神通變化說法力故。令眾生修善得人身。 答えて曰く、『菩薩の業の因縁を以って、衆生をして人身を得しむ』、と言わず。但だ、『菩薩の恩力の因縁の故に得』、と言えり。菩薩は、神通変化して、説法する力を以っての故に、衆生をして、善を修めて、人身を得しむるなり。
答え、
『菩薩の業である!』、
『因縁』の故に、
『衆生に、人身を得させる!』と、
『言うのではなく!』、
但だ、
『菩薩の恩力という!』、
『因縁の故に、得させよう!』と、
『言ったのである!』。
『菩薩』は、
『神通変化や、説法の力を用いる!』が故に、
『衆生』に、
『善を修めさせ!』、
『人身を得させるのである!』。
如經中說。二因緣發起正見。一者外聞正法。二者內有正念。又如草木內有種子外有雨澤然後得生。若無菩薩眾生雖有業因緣無由發起。以是故知諸佛菩薩所益甚多。 経中に説けるが如し、『二因縁は、正見を発起す。一には外に、正法を聞き、二には内に、正念有り』、と。又、草木は、内に種子有りて、外に雨澤有りて、然る後に生ずるを得るが如く、若し、菩薩無ければ、衆生に業因緣有りと雖も、由りて発起する無し。是を以っての故に、諸仏、菩薩には、益する所甚だ多きを知る。
『経』中に、こう説かれているが、――
『正見を発起させる!』には、
『二因縁が有り!』、
一には、
外に、
『正法を!』、
『聞くことであり!』、
二には、
内に、
『正念すること!』が、
『有るということである!』。
又、
『草木』が、
内には、
『種子』が、
『有り!』、
外には、
『潤沢な雨』が、
『有って!』、
その後、
『生( being )』を、
『得るように!』、
若し、
『菩薩が無ければ!』、
『衆生に、業因緣が有っても!』、
『正見を発起する!』、
『理由が無い!』。
是の故に、こう知るのである、――
『諸仏や、菩薩には!』、
『利益する!』所が、
『甚だ多い!』、と。
  参考:『増一阿含経巻7有無品』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有二因二緣起於正見。云何為二。受法教化。內思止觀。是謂。比丘。有此二因二緣起於正見。如是。諸比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行 二見及二施  愚者有二相  禮法如來廟  正見最在後』
問曰。云何能令三惡道中眾生皆得解脫。佛尚不能何況菩薩。 問うて曰く、云何が、能く三悪道中の衆生をして、皆解脱を得しむる。仏すら、尚お能わざるに、何に況んや菩薩をや。
問い、
何故、
『三悪道中の衆生』に、
皆、
『解脱』を、
『得させられるのですか?』。
『仏すら!』、
尚お、
『解脱』を、
『得させられないのに!』、
況して、
『菩薩ならば!』、
『尚更です!』。
答曰。菩薩心願欲爾則無過咎。又多得解脫故言一切。如諸佛及大菩薩身遍出無量光明。從是光明出無量化身。遍入十方三惡道中。令地獄火滅湯冷。其中眾生心清淨故生天上人中。令餓鬼道飢渴飽滿。開發善心得生天人中。令畜生道隨意得食。離諸恐怖開發善心亦得生天人中。如是名為一切三惡道得解脫。 答えて曰く、菩薩の心願は、爾らんことを欲するも、則ち過咎無し。又多く解脱を得るが故に、一切と言う。諸仏、及び大菩薩の身の如きは、遍く無量の光明を出して、是の光明より、無量の化身を出し、遍く十方の三悪道中に入りて、地獄の火をして、滅せしめ、湯をして、冷やさしめ、其の中の衆生の心をして清浄ならしむるが故に、天上、人中に生ぜしめ、餓鬼道の飢渴をして、飽満ならしめ、善心を開発して、天、人中に生ずるを得しめ、畜生道をして、随意に食を得しめ、諸の恐怖を離れしめ、善心を開発せしめ、亦た天、人中に生ずるを得しむ。是の如きを名づけて、一切の三悪道は、解脱を得と為す。
答え、
『菩薩の心願』が、
『爾のように、欲したとしても!』、
『過咎』は、
『無い!』。
又、
『多くが、解脱を得る!』が故に、
『一切と!』、
『言うのである!』。
『諸仏や、大菩薩など!』の、
『身』が、
遍く、
『無量の光明を出し!』、
是の、
『光明より!』、
『無量の化身』を、
『出して!』、
遍く、
『十方の三悪道中に入り!』、
『地獄の火を滅して、湯を冷まし!』、
其の中の、
『衆生の心を清浄にする!』が故に、
『天上、人中』に、
『生じさせ!』、
『餓鬼道の飢渴を、飽満させて!』、
『善心を開発させ!』、
『天、人中の生』を、
『得させ!』、
『畜生道には、随意に食を得させて!』、
『諸の恐怖を離れさせ、善心を開発させて!』、
亦た、
『天、人中の生』を、
『得させる!』。
是のような、
『事』が、
『一切の三悪道に!』、
『解脱』を、
『得させるということである!』。
問曰。如餘經說生天人中。此何以但說皆得人身。 問うて曰く、餘経に、『天、人中に生ず』、と説くが如きを、此には何を以ってか、但だ、『皆、人身を得』、と説く。
問い、
『餘の経』には、
『天、人中に生まれる!』と、
『説かれているのに!』、
『此の経』には、
何故、
『皆、人身を得る!』と、
『説くのですか?』。
答曰。於人中得修大功德亦受福樂。天上多著樂故不能修道。以是故願令皆得人身。 答えて曰く、人中に於いては、大功徳を修して、亦た福楽を受くるを得るも、天上には、多く楽に著するが故に、道を修する能わず。是を以っての故に、『皆をして、人身を得しめん』、と願うなり。
答え、
『人中』に於いては、
『大功徳を修めながら!』、
『福楽』を、
『受けることもできる!』が、
『天上』に於いては、
『多くが、楽に著する!』が故に、
『道』を、
『修めることができない!』。
是の故に、
皆に、
『人身を、得させよう!』と、
『願うのである!』。
復次菩薩不願眾生但受福樂。欲令得解脫常樂涅槃。以是故不說生天上 復た次ぎに、菩薩は、衆生に、但だ福楽を受くるを願わず、解脱と、常楽の涅槃を得しめんと欲すれば、是を以っての故に、『天上に生ず』、と説かず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『衆生』が、
但だ、
『福楽』を、
『受けさせたい!』と、
『願うのではなく!』、
『解脱させて!』、
『常楽の涅槃』を、
『得させたいのである!』。
是の故に、
『天上に、生じること!』を、
『説かないのである!』。



十方の衆生を戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見に立たせる

【經】欲令十方如恒河沙等世界中眾生。以我力故立於戒三昧智慧解脫解脫知見。令得須陀洹果乃至阿耨多羅三藐三菩提者。當學般若波羅蜜 十方の恒河沙に等しきが如き世界中の衆生をして、我が力を以っての故に、戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見に立たしめ、須陀洹果、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『衆生』を、
わたしの、
『力を用いる!』が故に、
『持戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見に立たせて!』、
『須陀洹果、乃至阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得させようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。先已說此五眾道果。今何以更說。 問うて曰く、先に已に、此の五衆の道果を説けるに、今は、何を以ってか、更に説く。
問い、
先に、
已に、
此の、
『五衆の道果』は、
『説かれている!』のに、
今、
何故、
更に、
『説かれたのですか?』。
答曰。上說但是聲聞法從須陀洹乃至無餘涅槃。今雜說三乘聲聞辟支佛。乃至阿耨多羅三藐三菩提 答えて曰く、上には、但だ是れ声聞法の、須陀洹、乃至無余涅槃を説き、今は雑えて、三乗の声聞、辟支仏、乃至阿耨多羅三藐三菩提を説く。
答え、
上には、
『但だ、声聞法の!』、
『須陀洹、乃至無余涅槃』が、
『説かれ!』、
今は、
『三乗を雑えて!』、
『声聞、辟支仏、乃至阿耨多羅三藐三菩提』が、
『説かれている!』。



諸仏の威儀を学ぶ

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲學諸佛威儀者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、諸仏の威儀を学ばんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『諸仏の威儀を学ぼうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。何等是諸佛威儀。 問うて曰く、何等か、是れ諸仏の威儀なる。
問い、
何のようなものが、
『諸仏の威儀ですか?』。
答曰。威儀名身四動止。譬如象王迴身而觀行時足離地。四指雖不蹈地而輪跡現。不遲不疾身不傾動。常舉右手安慰眾生。結加趺坐其身正直。常偃右脅累膝而臥。所敷草蓐齊整不亂。食不著味美惡等。一若受人請默然無言。言辭柔輭方便利益不失時節。 答えて曰く、威儀を、身の四動止と名づく。譬えば、象王の如く、身を迴(めぐ)らして観、行く時には足、地を離るること四指にして、地を踏まずと雖も、輪跡現われ、遅からず、疾からず、身は傾動せずして、常に右手を挙げて、衆生を安慰し、結跏趺坐すれば、其の身正直にして、常に右脅を偃(ふ)せ、膝を累(かさ)ねて臥せ、敷く所の草の褥は、斉(ひと)しく整いて乱れず、食は、味に著せずして、美悪等一なり。若し人の請を受けたまえば、黙然として、無言たり、言辞は柔輭にして、方便と利益は、時節を失わず。
答え、
『威儀』とは、
『身の四動止(行、住、坐、臥)である!』。
『諸仏』は、
譬えば、
『象王のように!』、
『身』を、
『迴らして!』、
『観察し!』、
『行く!』時には、
『足』は、
『四指だけ( 4 finger's breadth )!』
『地を、離れて!』、
『地を、踏まない!』のに、
而し、
『輪跡( circular shapes )だけ』が、
『現われ!』、
『遅くもなく、疾くもなく!』、
『身』が、
『傾動することもなく!』、
常に、
『右手を挙げて!』、
『衆生』を、
『安慰し!』、
『結跏趺坐すれば!』、
『身』は、
『正直であり( be upright )!』、
常に、
『右脅を偃せ( with his right side below )!』、
『膝を累ねて( his left knee on the another )!』、
『臥せ( to lay himself down )!』、
『敷かれた草蓐』は、
『斉整して( in good order )!』、
『乱れず!』、
『食』は、
『味に著することなく!』、
『美でも、悪でも( the taste is good or bad )!』、
『等一であり( his attitude is the same as always )!』、
若し、
『人の請を受ければ( to accept one's invitation )!』、
『黙然として!』、
『無言であり!』、
『言辞は、柔輭でありながら!』、
『方便や、利益』は、
『時節を、失わない!』。
  四指(しし):◯梵語 catur-aGgula, carur-aGgulamaana の訳、 手の[親指を除く]4本の指( The four fingers of the hand (without the thumb) )、4本の足指( four toes )の義、又指(梵 aGgula, aGgulamaana )は、指幅/大麦8粒に等しい長さの単位( a finger's breath, a measure equal to eight barley-corns )の義。
復次法身佛威儀者。過東方如恒河沙等世界以為一步。梵音說法亦復如是。法身佛相義如先說 復た次ぎに、法身仏の威儀は、東方の恒河沙に等しきが如き世界を過ぐるを以って、一歩と為し、梵音の説法も亦復た是の如し。法身仏の相の義は、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『法身の仏』の、
『威儀』は、
『東方の恒河沙に等しいほどの!』、
『世界を過ぎる!』のは、
『一歩であり!』、
亦た、
『梵音の説法』も、
『是の通りである!』。
『法身の仏』の、
『相の義』は、
『先に説いた通りである!』。



象王のように視観し、諸天衆に恭敬、囲繞されて菩提樹下に至る

【經】復次菩薩摩訶薩欲得如象王視觀者。當學般若波羅蜜。菩薩作是願。使我行時離地四指足不蹈地。我當共四天王天乃至阿迦尼吒天無量千萬億諸天眾圍繞恭敬至菩提樹下者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、菩薩摩訶薩は、象王の如く視観するを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。菩薩は、『我れをして、行く時には、地を離るること四指にして、足は地を踏ましめず。我れ当に四天王天、乃至阿迦尼吒天の無量千万億の諸天衆の囲繞、恭敬せると共に、菩提樹下に至るべし』、と是の願を作さば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
『菩薩摩訶薩』が、
『象王のような!』、
『視観( the observation )』を、
『得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
『菩薩』が、こう願うならば、――
わたしが、
『行く!』時には、
『地』を、
『四指だけ!』、
『離れて!』、
『足』に、
『地』を、
『踏ませないように!』。
わたしは、
『四天王天、乃至阿迦尼吒天』の、
『無量千万億の諸天衆に、囲繞、恭敬されて!』、
共に、
『菩提樹の下』に、
『至らねばならぬ!』、と。
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならぬ!』。
  阿迦尼吒(あかにだ):梵名akaniSTha、また阿迦膩陀、阿迦貳吒、阿迦尼師吒、阿迦尼沙託、阿迦尼瑟吒、阿迦尼瑟搋、阿迦尼瑟揥等に作り、訳して色究竟という。即ち天名なり。この天は色界十八天の最上天にして、有形体の天処の究竟なり、故に色究竟天、質礙究竟天と称し、また有頂天と名づく。ここを過ぐれば則ち無色界の天にして、僅かに心識有るのみにして形体無し。また「長阿含経巻20」、「順正理論巻21」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻20」等に出づ。
【論】如象王視者。若欲迴身觀時舉身俱轉。大人相者。身心專一。是故若有所觀身心俱迴。 象王の如く視るとは、若し身を迴らして、観んと欲する時、身を挙げて倶に転ずればなり。大人の相は、身心専一なれば、是の故に、若し観る所有れば、身心は倶に迴る。
『象王のように視る!』とは、
若し、
『身を迴らして、観ようとすれば!』、
『身を挙げて( the whole body )!』、
『倶に( all together )!』、
『転じる( to turn )からである!』。
『大人の相』は、
『身、心が専一であり( his body and mind are single-minded )!』、
是の故に、
若し、
『観る所が有れば( there is any view )!』、
『身、心』は、
『倶に、迴るのである!』。
  専一(せんいつ):一意専心( single-minded, concentrated )。
譬如師子有所搏撮。不以小物故而改其壯勢。佛亦如是。若有所觀若有所說。身與心俱常不分散。所以者何。從無數劫來集一心法。以是業因緣故頂骨與身為一無有分解。 譬えば、師子に、搏撮する所有れば、小物なるを以っての故に、其の壯勢を改めざるが如し。仏も亦た是の如く、若しは観る所有り、若しは説く所有らば、身と心と、倶に常に分散せず。所以は何んとなれば、無数劫より来、一心の法を集め、是の業の因縁を以っての故に、頂骨は身と一と為りて、分解する有ること無ければなり。
譬えば、
『師子』が、
『搏撮する所が有れば( there is something to catch and carry )!』、
『小物であっても!』、
其の、
『壯勢( strong force )』を、
『改めないように!』、
『仏』も、
是のように、
『観る所や、説く所がが有れば( there is something to view or teach )!』、
『身と、心と!』は、
『倶にあり!』、
『分散することがない!』。
何故ならば、
『無数劫已来!』、
『一心という!』、
『法』を、
『集められた!』ので、
是の、
『業の因縁』の故に、
『頂骨と、身骨と!』が、
『一であり、分解しないからである!』。
  搏撮(はくさつ):捕捉して運ぶ( catch and carry )。
  壯勢(しょうせい):強い力( strong force )。
又以世世破憍慢故不輕眾生觀則俱轉。如尼陀阿波陀那中說。舍婆提國除糞人。而佛以手摩頭教令出家猶不輕之。 又、世世に憍慢を破るを以っての故に、衆生を軽んぜず、観れば則ち倶に転ず。『尼陀阿波陀那』中に説けるが如し、『舎婆提国の除糞人を、仏は手を以って、頭を摩で、教えて出家せしむ』、と。猶お之を軽んじたまわず。
又、
世世に、
『憍慢を破る!』が故に、
『衆生』を、
『軽んじない!』ので、
『衆生を観れば!』、
『倶に!』、
『転じられるのである!』。
例えば、
『尼陀阿波陀那』中には、こう説かれている、――
『舎婆提国の除糞人』を、
『仏』は、
『手で、頭を摩でられる!』と、
『教えて!』、
『出家させられた!』、と。
『仏』は、
猶お( yet )、
是のような、
『人』でも、
『軽んじられないからである( do not make light of )!』。
  尼陀阿波陀那(にだあぱだな):尼陀那(梵 nidaana :因縁)と、阿波陀那(梵 avadaana :譬喻)。又経の名。
  尼陀(にだ):また尼提に作る。除糞人の名。仏これを度すに大阿羅漢と為れり。「賢愚経巻6尼提度縁品」参照、また「大荘厳論経巻7」、「出曜経巻1」、「大智度論巻26、巻34」等に出づ。
  阿波陀那(あぱだな):梵語avadaana、また略して婆陀と云い、譬喩、出曜、解語と訳す。即ち十二部経の一なり。凡そ経典中に、譬喩或は寓言を以って深遠甚妙の教義を説き明す部分は、即ち阿波陀那と称す。<(佛)
  参考:『賢愚経巻6』:『尼提度緣品第三十  如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時舍衛城中。人民眾多。居止隘迮。廁溷尟少。大小便利。多往出城。或有豪尊。不能去者。便利在器中。雇人除之。時有一人。名曰尼提。極貧至賤。無所趣向。仰客作除糞。得價自濟。爾時世尊。即知其應度。獨將阿難。入於城內。欲拔濟之。到一里頭。正值尼提。持一瓦器。盛滿不淨。欲往棄之。遙見世尊。極懷鄙愧。退從異道。隱屏欲去。垂當出里。復見世尊。倍用鄙恥。迴趣餘道。復欲避去。心意匆忙。以瓶打壁。瓶即破壞。屎尿澆身。深生慚愧。不忍見佛。是時世尊。就到其所。語尼提言。欲出家不。尼提答言。如來尊重。金輪王種。翼從弟子。悉是貴人。我下賤弊惡之極。云何同彼。而得出家。世尊告曰。我法清妙。猶如淨水。悉能洗除一切垢穢。亦如大火能燒諸物。大小好惡。皆能焚之。我法亦爾。弘廣無邊。貧富貴賤。男之與女。有能修者。皆盡諸欲。是時尼提。聞佛所說。信心即生。欲得出家。佛使阿難將出城外。大河水邊。洗浴其身。已得淨潔。將詣祇洹。為說經法。苦切之理。生死可畏。涅槃永安。霍然意解。獲初果證。合掌向佛。求作沙門。佛即告曰善來比丘。鬚髮自落。法衣在身。佛重解說四諦要法。諸漏得盡。成阿羅漢。三明六通。皆悉具足。爾時國人。聞尼提出家。咸懷怨心。而作是言。云何世尊。聽此賤人出家學道。我等如何。為其禮拜。設作供養。請佛及僧。斯人若來。污我床席。展轉相語。乃聞於王。王聞亦怨恨。情用反側。即乘羽葆之車。與諸侍從。往詣祇洹。欲問如來所疑之事。既到門前。且小停息祇洹門外。有一大石。尼提比丘。坐於石岩。縫補故衣。有七百天人。各持華香。而供養之。右遶敬禮。時王睹見。深用歡喜。到比丘所。而語之言。我欲見佛。願為通白。比丘即時。身沒石中。踊出於內。白世尊曰。波斯匿王。今者在外。欲得來入覲省諮問。佛告尼提。從汝本道。往語令前。尼提尋時。還從石出。如似出水。無有罣礙。即語王言。白佛已竟。王可進前。王作此念。向所疑事。且當置之。先當請問。此比丘者。有何福行。神力乃爾。王入見佛。稽首佛足。右遶三匝。卻坐一面。白世尊言。向者比丘。神力難及。入石如水。出石無孔。姓字何等。願見告示。世尊告曰。是王國中。極賤之人。我已化度。得阿羅漢。大王故來。欲問斯義。王聞佛語。慢心即除。欣悅無量。因告王曰。凡人處世。尊卑貴賤。貧富苦樂。皆由宿行。而致斯果仁慈謙順。敬長愛小。則為貴人。凶惡強梁。憍恣自大。則為賤人波斯匿王。白世尊言。大聖出世。多所潤濟。如此凡陋下賤之人。拔其苦毒。使常安樂。此尼提者。有何因緣。生於賤處。復種何德。得遇聖尊。稟受仙化。尋成應真。唯願世尊。敷演分別。佛告王曰諦聽善持。吾當解說令汝開悟。乃往過去。迦葉如來。出現世間。滅度之後。有比丘僧凡十萬人。中有一沙門。作僧自在。身有疾患服藥自下。憍驁恃勢。不出便利。以金銀澡槃。就中盛尿令一弟子擔往棄之。然其弟子。是須陀洹。由在彼世。不能謙順。自恃多財。秉捉僧事。暫有微患。懶不自起。驅役聖人。令除糞穢。以是因緣。流浪生死。恒為下賤五百世中。為人除糞。乃至於今。由其出家。持戒功德。今值我世。聞法得道。佛告大王。欲知爾時僧自在者。今尼提比丘是。波斯匿王。白世尊言。如來出世。實為奇特。利益無量苦惱眾生。佛告大王。善哉善哉。如汝所言。佛又告曰。三界輪轉。無有定品。積善仁和。生於豪尊。習惡放恣。便生卑賤。王大歡喜。無有慢心。即起長跪。執尼提足。而為作禮。懺悔自謝。願除罪咎。世尊爾時。因為廣說法微妙之義。所謂論者。施論戒論。生天之論。欲不淨想。出要為樂。爾時大會。聞佛所說。各獲道證。信受奉行』
足離地四指者。佛若常飛。眾生疑怪謂佛非是人類則不歸附。若足到地則眾生以為與常人不異不生敬心。是故雖為行地四指不到而輪跡現。 足の地を離るること、四指にしてとは、仏、若し常に飛びたまわば、衆生は疑怪して、『仏は、是れ人類に非ず』、と謂いて、則ち帰附せず。若し足、地に到らば、則ち衆生は以って、常人と異ならずと為し、敬心を生ぜず。是の故に、地を行くを為すに、四指到らずと雖も、輪跡現わる。
『足が、地を四指だけ離れる!』とは、
『仏』が、
若し、
『常に、飛ばれたならば!』、
『衆生』は、
『疑怪して!』、
『仏は、人でない!』と、
『謂い!』、
則ち、
『仏』に、
『帰附しないだろう( do not submit to Buddha )!』。
若し、
『足が、地に到れば!』、
『衆生』は、
『仏』を、
『常人と、異ならない!』と、
『思って!』、
則ち、
『敬心』を、
『生じることはないだろう!』。
是の故に、
『地を行く!』為に、
『足は!』、
『四指だけ!』、
『到らない!』のに、
『地には!』、
『輪跡』が、
『現われるのである!』。
  帰附(きふ):他の権威に服従する/帰順( submit to the authority of another )。
問曰。如佛常放丈光足不到地。眾生何以故不盡敬附。 問うて曰く、仏の如きは常に、丈光を放ちて、足は地に到らざるに、衆生は、何を以っての故にか、尽くは敬附せず。
問い、
『仏など!』は、
『常に、丈光を放って!』、
『足』は、
『地に到らない!』のに、
『衆生』は、
何故、
『尽くは( do not allways to )!』、
『敬順、帰附しないのですか?』。
答曰。眾生無量劫中積罪甚重。無明垢深於佛生疑。謂是幻師以術誑人。或言足不蹈地生性自爾。如鳥能飛有何奇特。 答えて曰く、衆生は、無量劫中に罪を積むこと甚だ重く、無明の垢深ければ、仏に於いて、疑を生じ、『是れ幻師なり、術を以って人を誑す』、と謂い、或いは、『足、地を踏まざること、生まれながらに性は、自ら爾り。鳥の能く飛ぶが如きに、何なる奇特有らんや』、と。
答え、
『衆生』は、
『無量劫中に積んだ!』、
『罪が、甚だ重く!』、
『無明という、垢も深いので!』、
『仏』に於いても、
『疑』を、
『生じて!』、
或いは、こう謂い、――
是れは、
『幻師』が、
『術を用いて!』、
『人』を、
『誑すのである!』、と。
或いは、こう言う、――
『足が、地を踏まない!』のは、
『生まれながら!』の、
『性』が、
『自ら、爾うだからである( be like so naturally )!』。
譬えば、
『鳥が、飛ぶことができたとしても!』、
何のような、
『奇特』が、
『有るのか?』、と。
或有眾生。罪重因緣故不見佛相。直謂大威德沙門而已。譬如人重病欲死名藥美食皆謂臭穢。是故不盡敬附。 或いは、有る衆生は、罪重き因縁の故に、仏相を見ずして、直(た)だ、『大威徳の沙門なるのみ』、と謂う。譬えば人病重くして、死なんと欲すれば、名薬、美食を、皆、『臭穢なり』、と謂うが如し。是の故に尽くは、敬附せず。
或いは、
有る、
『衆生』は、
『罪が重いという、因縁』の故に、
『仏を見ても!』、
『仏の相』を、
『見ずに!』、
直だ、
『大威徳の沙門にすぎない!』と、
『謂うだけである!』。
譬えば、
『人』が、
『重病で、死にそうになれば!』、
『名薬や、美食も!』、
皆、
『臭く、穢い!』と、
『謂うようなものであり!』、
是の故に、
『尽くは!』、
『敬順、帰附しないのである!』。
共四天王乃至阿迦尼吒無量千萬億諸天眾恭敬圍繞至菩提樹下者。是諸佛常法。佛為世尊。至菩提樹下欲破二種魔。一者結使魔。二者自在天子魔。欲成一切智。是諸天眾云何不恭敬侍送。 四天王、乃至阿迦尼吒の無量千万億の諸天衆の恭敬、囲繞せると共に、菩提樹下に至るとは、是れ諸仏の常法なり。仏は、世尊と為りて、菩提樹下に至るに、二種の魔を破らんと欲したもう。一には結使の魔、二には自在天子の魔なり。一切智を成ぜんと欲するに、是の諸天衆、云何が、恭敬し、侍送せざらんや。
『四天王や、阿迦尼吒の無量、千万億の諸天衆に恭敬、囲繞され!』、
共に、
『菩提樹下』に、
『至る!』とは、――
是れは、
『諸仏』の、
『常法である( the constant norm )!』。
『仏』は、
『世尊と為って!』、
『菩提樹下に至る!』と、
『二種の魔』を、
『破ろうとされる!』。
謂わゆる、
一には、
『結使という!』、
『魔であり!』、
二には、
『自在天子という!』、
『魔である!』。
『仏』が、
『一切智を成じようとされている!』のに、
是の、
『諸天衆』が、
何故、
『仏』を、
『恭敬し、侍送しないのか?』。
  常法(じょうほう):梵語 dharmataa, nitya-zabda, nityo dharmaH の義、変らざる軌範( the constant norm, eternal principle, norm )の義。
又諸天世世佐助擁護菩薩。乃至出家時令諸宮人婇女淳惛而臥。捧馬足踰城出。今日事辦。我等當共侍送至菩提樹下。 又、諸天は、世世に菩薩を佐助し、擁護して、乃至出家の時には、諸の宮人、婇女をして、淳く惛(くら)まして、臥せしめ、馬の足を捧げて、城を踰(こ)えて出し、今日事辦ずるに、『我等は、当に共に侍送して、菩提樹下に至るべし』、となり。
又、
『諸天』は、
世世に、
『菩薩』を、
『佐助し!』、
『擁護してきたのであり!』、
乃至、
『出家された!』時には、
『諸の宮人や、婇女』を、
『淳く、惛沈させて( let be muddled deeply )!』、
『臥せさせ!』、
『馬の足を捧げて!』、
『城壁を踰えて!』、
『出させ!』、
今日、
『事が辦じた( the works have been accomplished )!』ので、
こう言ったのである、――
わたし達も、
『共に、侍送して!』、
『菩提樹下に、至らねばならぬ!』、と。
問曰。何以不說剎利婆羅門等無量人侍送。而但說諸天。 問うて曰く、何を以ってか、刹利、婆羅門等の無量の人の侍送するを説かずして、但だ諸天のみを説く。
問い、
何故、
『刹利や、婆羅門』等の、
『無量の人が侍送する!』と、
『説かずに!』、
但だ、
『諸天のみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。佛獨於深林中求菩提樹。非是人行處。是故不說。又以人無天眼他心智故。不知佛當成道。是故不說。 答えて曰く、仏は独り、深林中に於いて、菩提樹を求めたもうは、是れ人の行処に非ざればなり。是の故に説かず。又、人に天眼、他心智無きを以っての故に、仏の当に成道したもうべきを知らず。是の故に説かず。
答え、
『仏』が、
独り、
『深林』中に、
『菩提樹』を、
『求められた!』のは、
是れは、
『人』の、
『行処ではないからであり!』、
是の故に、
『人』は、
『説かれなかったのである!』。
又、
『人』には、
『天眼も、他心智も無い!』が故に、
『仏が、成道されようとしている!』のを、
『知らない!』ので、
是の故に、
『説かれなかったのである!』。
復次諸天貴於人故但說天。 復た次ぎに、諸天は、人よりも、貴きが故に、但だ天を説く。
復た次ぎに、
『諸天』は、
『人より!』、
『貴い!』が故に、
但だ、
『天のみ!』を、
『説くのである!』。
復次諸佛常樂閑靜處。諸天能隱身不現不妨閑靜。是故但說諸天從。 復た次ぎに、諸仏は、常に閑静処を楽しみたまえば、諸天は、能く身を隠して、現わさざれば、閑静を妨げず。是の故に但だ、諸天のみ従うと説く。
復た次ぎに、
『諸仏』は、
『常に、閑静処を楽しまれる!』が、
『諸天』は、
『身を隠して、現わさないことができ!』、
『閑静処』を、
『妨げない!』ので、
是の故に、
但だ、
『諸天だけが、従う!』と、
『説かれたのである!』。
復次菩薩見五比丘捨菩薩而去。而菩薩獨至樹下。是故作是願 復た次ぎに、菩薩は、五比丘の菩薩を捨てて、去るを見たまえば、而して菩薩は、独り樹下に至りたもうに、是の故に、是の願を作したまえり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『五比丘』に、
『捨てられ!』、
『去られる!』と、
『菩薩』は、
独りで、
『樹下』に、
『至られた!』。
是の故に、
是の、
『願』を、
『作されたのである!』。
  (けん):[受け身]~られる。



菩提樹下に坐す時、諸天は座に天衣を敷く

【經】我當於菩提樹下坐。四天王天乃至阿迦尼吒天以天衣為座者。當學般若波羅蜜 我れ、当に菩提樹下に坐せんとするに、四天王天、乃至阿迦尼吒天の天衣を以って、座を為すは、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
わたしが、
『菩提樹下に坐ろうとする!』時、
『四天王天や、乃至阿迦尼吒天』が、
『天衣を用いて!』、
『座と為そうとすれば( to be my seat )!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。如經說佛敷草樹下坐而成佛道。今云何願言以天衣為座。 問うて曰く、経に、『仏は草を樹下に敷いて坐し、仏道を成ず』、と説けるが如きに、今、云何が願うて、『天衣を以って、座を為す』、と言う。
問い、
『経』には、こう説かれているのに、――
『仏』は、
『樹下に、草を敷いて坐り!』、
『仏道』を、
『成じられた!』、と。
今は、
何故願って、こう言うのですか?――
『天衣を用いて!』、
『座』を、
『為す!』、と。
答曰。聲聞經中說敷草。摩訶衍經中隨眾生所見。或有見敷草樹下。或見敷天綩綖。隨其福德多少所見不同。 答えて曰く、声聞経中には、『草を敷く』、と説くも、摩訶衍経中には、衆生の所見に随いて、或いは、『草を樹下に敷く』、と見る有り、或いは『天の綩綖を敷く』、と見て、其の福徳の多少に随いて、所見同じからず。
答え、
『声聞経』中には、
『草を敷く!』と、
『説かれている!』が、
『摩訶衍経』中には、
『衆生の所見』に、
『随って!』、
『説かれる!』ので、
或いは、
『草を、樹下に敷く!』と、
『見る!』者が、
『有り!』、
或いは、
『天の、綩綖を敷く!』と、
『見る!』者が、
『有って!』、
『衆生の福徳』の、
『多、少に随うので!』、
『見る!』所は、
『同じでない!』。
  綩綖(えんえん):梵語 duuSya の訳、上等の綿布の如き布( clothes or a kind of cloth, apparently of cotton of but of fine quality, calico )の義。
復次生身佛把草樹下。法性生身佛以天衣為座。或勝天衣。 復た次ぎに、生身の仏は、草を樹下に把(と)り、法性生身の仏は、天衣を以って、座と為し、或いは天衣に勝る。
復た次ぎに、
『生身の仏』は、
『草を把って( to hold the grass )!』、
『樹下』に、
『敷かれ!』、
『法性生身の仏』は、
『天衣を用いて!』、
『座』を、
『為され!』、
或いは、
『天衣に勝るもの!』を、
『座』と、
『為される!』。
復次佛於深林樹下成佛。林中人見則奉佛草。若貴人見者當以所貴衣服為座。但林中無貴人故。時諸龍神天各以妙衣為座。 復た次ぎに、仏は、深林の樹下に於いて、仏と成りたまえば、林中の人見れば、則ち仏に草を奉り、若し貴人見れば、当に貴ぶ所の衣服を以って、座を為すべきも、但だ林中には、貴人無きが故に、時の諸の龍神、天、各妙衣を以って、座を為す。
復た次ぎに、
『仏』は、
『深林の樹下』に於いて、
『仏』と、
『成られる!』ので、
若し、
『林中の人』が、
『仏を見れば!』、
『草』を、
『奉ることになり!』、
若し、
『貴人が見れば!』、
『貴ぶ!』所の、
『衣服を用いて!』、
『座を為すことになる!』が、
但だ、
『林中に、貴人が無かった!』が故に、
『時の諸の龍、神、天』が、
各、
『妙衣を用いて!』、
『座を為したのである!』。
四天王衣重二兩。忉利天衣重一兩。夜摩天衣重十八銖。兜率天衣重十二銖。化樂天衣重六銖。他化自在天衣重三銖。色界天衣無重相。欲界天衣從樹邊生無縷無織。譬如薄冰光曜明淨有種種色。色界天衣純金色光明不可稱知。如是等寶衣敷座。菩薩坐上成阿耨多羅三藐三菩提。 四天王の衣の重きこと二両、忉利天の衣の重きこと一両、夜魔天の衣の重きこと十八銖、兜率天の衣の重きこと十二銖、化楽天の衣の重きこと六銖、他化自在天の衣の重きこと三銖、色界天の衣には重相無く、欲界天の衣は樹辺より生じて縷無く、織無く、譬えば薄き氷の光曜明浄なるが如く種種の色有り、色界天の衣は純金色にして、光明は称(はか)り知るべからず。是れ等の如き宝衣を座に敷き、菩薩は上に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成じたもう。
『四天王の衣』は、
『重さ!』が、
『二両であり!』、
『忉利天の衣』は、
『重さ!』が、
『一両であり!』、
『夜魔天の衣』は、
『重さ!』が、
『十八銖であり!』、
『兜率天の衣』は、
『重さ!』が、
『十二銖であり!』、
『化楽天の衣』は、
『重さ!』が、
『六銖であり!』、
『他化自在天の衣』は、
『重さ!』が、
『三銖であり!』、
『色界天の衣』は、
『重の相』が、
『無い!』。
『欲界天の衣』は、
『樹辺に生じて!』、
『縷も、織も!』、
『無く!』、
譬えば、
『薄い氷のように!』、
『光曜』が、
『明浄であり!』、
種種の、
『色』が、
『有る!』。
『色界天の衣』は、
『純金色であり!』、
『光明』は、
『称り知ることができない!』。
是れ等のような、
『宝衣が、座に敷かれる!』と、
『菩薩は、上に坐って!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成じられたのである!』。
  (きん)、(りょう)、(しゅ):重さの単位。周制に依れば、一斤を十六両となし、一両を二十四銖となす。この時の一斤は、凡そ今の256g、一両は16g、一銖は0.67g。
問曰。何以但說諸天敷衣。不說十方諸大菩薩為佛敷座。諸菩薩等佛將成道時皆為佛敷座。或廣長一由旬十百千萬億乃至無量由旬高亦如是。此諸寶座是菩薩無漏福德生故。是諸天目所不見何況手觸。十方三世諸佛降魔得道莊嚴佛事皆悉照見譬如明鏡。如是妙座何以不說。 問うて曰く、何を以ってか、但だ、『諸天は、衣を敷く』、と説いて、『十方の諸大菩薩、仏の為に座を敷く』、と説かざる。諸菩薩等は、仏の将に道を成ぜんとする時、皆、仏の為に座を敷くこと、或いは広長一由旬、十、百、千、万、億、乃至無量由旬にして、高きことも、亦た是の如し。此の諸の宝座は、是れ菩薩の無漏の福徳の生なるが故に、是れは諸天の目の見ざる所なり。何に況んや、手に触るるをや。十方の三世の諸仏は、魔を降して、道を得たもうに、仏事を荘厳すれば、皆悉くを照見すること、譬えば明鏡の如し。是の如き妙座を何を以ってか、説かざる。
問い、
何故、
但だ、
『諸天』が、
『衣を敷くこと!』を、
『説くだけで!』、
『十方の諸大菩薩』が、
『仏の為に、座を敷くこと!』と、
『説かないのですか?』。
諸の、
『菩薩』等は、
『仏が、道を成じられようとする!』時、
皆、
『仏の為に!』、
『座』を、
『敷いて!』、
或いは、
『広さも、長さも!』、
『一由旬、十、百、千、万、億、乃至無量由旬であり!』、
亦た、
『高さも!』、
『是の通りである!』。
此の、
『諸の宝座』は、
『菩薩』の、
『無漏の福徳より、生じる!』が故に、
『諸天』の、
『目』に、
『見える所でもなく!』、
況して、
『手』に、
『触れる所でもない!』。
『十方の三世の諸仏』が、
『魔を降して、道を得る!』時、
此の、
『宝座』が、
『仏事』を、
『荘厳し!』、
皆、
『悉くを!』、
『照見させるのである!』。
譬えば、
『明鏡と!』、
『同じことである!』。
是のような、
『妙座』を、
何故、
『説かないのですか?』。
答曰。般若波羅蜜有二種。一者與聲聞菩薩諸天共說。二者但與十住具足菩薩說。是般若波羅蜜中應說菩薩為佛敷座。所以者何。諸天知佛恩不及一生二生諸大菩薩。如是菩薩云何不以神通力而供養佛。是中合聲聞說。是故不說 答えて曰く、般若波羅蜜には二種有り、一には声聞、菩薩、諸天の与(ため)に共に説き、二には十住具足の菩薩の与に説き、是の般若波羅蜜中には、応に『菩薩は、仏の為に座を敷く』、と説くべし。所以は何んとなれば、諸天は、仏恩を知るも、一生、二生の諸大菩薩には及ばず。是の如き菩薩にして、云何が神通力を以って、仏を供養せざる。是の中には声聞を合して説けば、是の故に説かず。
答え、
『般若波羅蜜』には、
『二種有り!』、
一には、
『声聞や、菩薩や、諸天の与に( for the disciple of Buddha, etc. )!』、
『共に( commonly )!』、
『説かれ!』、
二には、
但だ、
『十住具足の菩薩の与に!』、
『説かれる!』が、
是の、
『般若波羅蜜』中ならば、
当然、
『菩薩は、仏の為に座を敷いた!』と、
『説くはずである!』。
何故ならば、
『諸天は、仏恩を知る!』が、
『一生や、二生の諸大菩薩には!』、
『及ばないからである!』。
是のような、
『菩薩』が、
何故、
『神通力を用いて!』、
『仏を供養しないのか?』。
是の、
『摩訶般若波羅蜜経』中は、
『菩薩』に、
『声聞を合して、説かれた!』が故に、
『説かないのである!』。
  一生(いっしょう)、二生(にしょう):一生、二生の後に仏と成る菩薩。



阿耨多羅三藐三菩提を得た時、行住坐臥の処が金剛と為る

【經】我得阿耨多羅三藐三菩提時。行住坐臥處欲使悉為金剛者。當學般若波羅蜜 我れ、阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、行住坐臥の処をして、悉く金剛と為らしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
わたしが、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』時、
『行、住、坐、臥の処』を、
悉く、
『金剛と為そうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。何以故佛四威儀中地悉為金剛。 問うて曰く、何を以っての故に、仏の四威儀中の地は、悉く金剛と為る。
問い、
何故、
『仏の四威儀中の地』が、
悉く、
『金剛と!』、
『為るのですか?』。
答曰。有人言。菩薩至菩提樹下時。於此處坐得阿耨多羅三藐三菩提。爾時菩薩入諸法實相中。無有地能舉是菩薩。所以者何。地皆是眾生虛誑業因緣報故有。是故不能舉菩薩欲成佛時實相智慧身。是時坐處變為金剛。 答えて曰く、有る人の言わく、『菩薩は、菩提樹下に至る時、此の処に於いて、坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たもう。爾の時、菩薩は、諸法の実相中に入りて、地の能く是の菩薩を挙ぐる有ること無し。所以は何んとなれば、地は、皆是れ衆生の虚誑の業の因縁の報の故に有れば、是の故に菩薩を挙ぐる能わず。仏と成らんと欲する時、実相は、智慧の身なり。是の時、坐処変じて、金剛と為る』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『菩薩』は、
『菩提樹下に至る!』時、
此の、
『樹下の処に坐して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られるのである!』が、
爾の時、
『菩薩は、諸法の実相中に入られる!』ので、
是の、
『菩薩を挙げている!』、
『地』が、
『無くなる!』。
何故ならば、
『地』は、
皆、
『衆生の虚誑の業という!』、
『因縁が報ゆる!』が故に、
『有る!』ので、
是の故に、
『菩薩』を、
『挙げることができないからである!』。
『菩薩』が、
『仏に成ろうとする!』時は、
『実相という!』、
『智慧』が、
『身である!』が故に、
是の時、
『坐処が変じて!』、
『金剛に!』、
『為るのである!』、と。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻133』:『二十空劫此時已度。二十成劫從此為初。所起微風漸廣漸厚。時經久遠盤結成輪。厚十六億踰繕那量。廣則無數。其體堅密。假設有一大諾健那。以金剛輪奮威懸擊。金剛有碎風輪無損。次有雲起雨風輪上。滴如車軸積水成輪。如是水輪於未凝結位。深十一億二萬踰繕那。有說。廣量與風輪等有言。狹小分百俱胝。百俱胝輪。其量皆等。謂徑十二億三千四百半圍量三倍。謂三十六億一萬三百五十踰繕那。此不傍流。由有情業力。有餘師說。由風力所摶。次於水輪。有別風起。摶擊此水上結成金。此即金輪厚三億二萬。水輪遂減唯深八洛叉。有說。金輪廣如水量。有師復說。少廣水輪。次有雲起雨金輪上。滴如車軸經於久時。積水浩然深過八萬。猛風攢擊寶等變生。復有異風析令區別謂分寶土成諸山洲。分水甘鹹為內外海。初四妙寶成蘇迷盧。挺出海中處金輪上。』
  参考:『新華厳経巻74』:『又善男子。摩耶夫人。將欲誕生菩薩之時。忽於其前。從金剛際。出大蓮華。名為一切寶莊嚴藏。金剛為莖。眾寶為鬚。如意寶王以為其臺。有十佛剎微塵數葉。一切皆以摩尼所成寶網寶蓋。以覆其上。一切天王。所共執持。一切龍王降注香雨。一切夜叉王恭敬圍遶。散諸天華。一切乾闥婆王出微妙音。歌讚菩薩往昔供養諸佛功德。一切阿脩羅王捨憍慢心。稽首敬禮。一切迦樓羅王垂寶繒幡。遍滿虛空。一切緊那羅王歡喜瞻仰。歌詠讚歎菩薩功德。一切摩[目*侯]羅伽王皆生歡喜。歌詠讚歎。普雨一切寶莊嚴雲。是為菩薩將誕生時第十神變。』
有人言。土在金輪上。金輪在金剛上從金剛際出如蓮花臺直上持菩薩坐處令不陷沒。以是故此道場坐處名為金剛。 有る人の言わく、『土は、金輪の上に在り、金輪は、金剛の上に在り、金剛の際より、蓮花台の如きを出し、直ぐ上りて、菩薩の坐処を持し、陥没せしめず。是を以っての故に、此の道場の坐処を名づけて、金剛と為す。
有る人は、こう言っている、――
『土』は、
『金輪上に有り!』、
『金輪』は、
『金剛上に在る!』が、
『金剛の際より!』、
『蓮花の台のようなものが出て!』、
『真直ぐ上る!』と、
『菩薩の坐処』を、
『保持して!』、
『陥没させない!』ので、
是の故に、
此の、
『菩薩の道場』を、
『金剛』と、
『称するのである!』、と。
  参考:『仏説除蓋障菩薩所問経巻7』:『復次善男子。如世間風悉能成立一切世界。種種莊嚴殊妙可愛。所謂金剛輪圍。小鐵圍山大鐵圍山及四大洲。金輪所持大海諸寶。須彌山大須彌山及餘寶山。乃至雪山香醉山等。諸宮殿樓閣。閻浮提四大洲。小千世界中千世界。三千大千世界。菩薩智風亦復如是。悉能發起成辦一切有情廣大福蘊。次第安布如成雪山。應作是見即是所成世間福蘊。如成四大洲須彌山。應知即是所成聲聞。如成小千世界。應知即是所成緣覺。如成中千世界。應知即是所成菩薩廣大之相。如成三千大千世界。應知即是所成如來百福身相。高出一切世間。普盡虛空一切世界。極妙清淨最上稱讚。布設一切最勝供養所緣事相。如是一切現前成已。常住三摩呬多如成大海應知即是所成三摩地海。如成大洲中洲及餘山石四大洲等。應知即是諸陀羅尼。化度有情諸學眾等。如成宮殿樓閣及諸叢林。應知即是清淨佛剎功德莊嚴。如成劫樹種種變化。應知即是十地十波羅蜜多十三摩地諸陀羅尼。六通三明諸智光明十自在等。菩薩及佛力無畏不共法大悲等。最上自在廣大之法。善男子。此中何等是諸佛世尊百福之相。善男子。譬如滿一劫中積集十方。而一一方各有阿僧祇殑伽沙數等世界。』
有人言成佛道已四種威儀處悉變成金剛。 有る人の言わく、『仏道を成じ已れば、四種の威儀の処は、悉く変じて、金剛と成る』、と。
有る人は、こう言っている、――
『仏道が成じられる!』と、
『仏の四威儀の処』は、
『悉くが、変じて!』、
『金剛』と、
『為るのである!』、と。
問曰。金剛亦是眾生虛誑業因緣有。云何能舉佛。 問うて曰く、金剛も亦た是れ衆生の虚誑の業因縁有り。云何が、能く仏を挙ぐるや。
問い、
『金剛も!』、
『衆生の虚誑の業という!』、
『因縁』が、
『有る!』のに、
何故、
『仏』を、
『挙げることができるのですか?』。
答曰。金剛雖是虛誑所成。於地最為牢固更無勝者。金剛下水諸大龍王以此堅固物奉獻於佛。亦是佛宿世業因緣故得此安立處。又復佛變金剛及四大令為虛空。虛空不誑。佛智慧亦不誑。二事既同。是故能舉 答えて曰く、金剛は、是れ虚誑の所成なりと雖も、地に於いては、最も牢固と為し、更に勝る者無し。金剛は水を下して、諸大龍王は、此の堅固の物を以って、仏に奉献す。亦た是れ仏の宿世の業の因縁の故に、此の安立処を得。又復た仏は金剛、及び四大を変じて、虚空と為らしむれば、虚空は誑さず、仏の智慧も亦た誑さず、二事の既に同じなれば、是の故に、能く挙ぐ。
答え、
『金剛』は、
『虚誑の成す所である!』が、
『地大』中に、
『最も、牢固であり!』、
更に、
『勝る!』者が、
『無い!』し、
『金剛が、水を下す!』と、
『諸大龍王』が、
此の、
『堅固な物』を、
『仏』に、
『奉献する!』。
亦た、
是の、
『金剛』は、
『仏が、宿世の因縁』の故に、
此の、
『金剛という!』、
『安立すべき処』を、
『得られるのであり!』、
又復た、
『仏』は、
『金剛や、四大を変じて!』、
『虚空』と、
『為らせられる!』が、
『虚空は、誑さず!』、
『仏の智慧』も、
『誑さない!』ので、
『金剛と、仏の智慧という!』、
『二事は、既に同じである!』が故に、
『仏』を、
『挙げることができるのである!』。



出家した日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成ずる

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲出家日即成阿耨多羅三藐三菩提。即是日轉法輪。轉法輪時無量阿僧祇眾生遠塵離垢。諸法中得法眼淨。無量阿僧祇眾生一切法不受故。諸漏心得解脫。無量阿僧祇眾生於阿耨多羅三藐三菩提得不退轉者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、出家する日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に法輪を転じ、法輪を転ずる時、無量、阿僧祇の衆生は塵を遠ざけ、垢を離れて諸法中に法眼浄を得、無量、阿僧祇の衆生は一切法を受けざるが故に、諸の漏心に解脱を得、無量、阿僧祇の衆生は阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『出家した日』に、
即ち、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成じ!』、
即ち、
是の、
『日』に、
『法輪を転じ!』、
『法輪を転じる!』時、
『無量、阿僧祇の衆生』に、
『塵(色声香味触法)を遠ざけて!』、
『垢』を、
『離れさせ!』、
『諸法』中に、
『法眼浄』を、
『得させ!』、
『無量、阿僧祇の衆生』に、
『一切法を受けない!』が故に、
『諸の漏心』に、
『解脱を得させ!』、
『無量、阿僧祇の衆生』に、
『阿耨多羅三藐三菩提』に於いて、
『不退転』を、
『得させようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】或有菩薩於惡世邪見眾生中。為除眾生邪見故。自行勤苦甚難之行。如釋迦文佛。於漚樓頻螺樹林中。食一麻一米。諸外道言。我等先師雖修苦行。不能如是六年勤苦。 或いは有る菩薩は、悪世の邪見の衆生中に於いて、衆生の邪見を除かんが為の故に、自ら勤苦と、甚難の行を行じ、釈迦文仏の如きは、漚楼頻螺樹林中に於いて、一麻と一米を食したもうに、諸外道の言わく、『我等が先師は、苦行を修すと雖も、是の如くのごとく六年勤苦する能わず』、と。
或いは、
有る、
『菩薩』は、
『悪世の邪見の衆生』中に於いて、
『衆生の邪見』を、
『除く!』為の故に、
自ら、
『勤苦しながら!』、
『甚難の行』を、
『行われる!』。
例えば、
『釈迦文仏など!』は、
『漚楼頻螺樹林』中に於いて、
『一麻、一米』を、
『食っていられた!』が、
『諸の外道』は、こう言ったのである、――
わたし達の、
『先師』も、
『苦行を修めていられた!』が、
是のように、
『六年も!』、
『勤苦することはできなかったであろう!』、と。
又復有人謂佛先世惡業今受苦報。有菩薩謂佛為實受是苦。是故發心我當即以出家日成佛。 又復た、有る人の謂わく、『仏は、先世の悪業もて、今、苦報を受けたもう』、と。有る菩薩は、『仏は、為に実に是の苦を受けたもう』、と謂い、是の故に、発心すらく、『我れは、当に即ち出家の日を以って、仏と成るべし』、と。
又復た、
有る、
『人』は、こう謂っている、――
『仏』は、
『先世の悪業』の故に、
今、
『苦報』を、
『受けられるのである!』、と。
有る、
『菩薩』は、こう謂って、――
『仏』は、
『先世の業に由って!』、
是の、
『苦』を、
『実に、受けられたのである!』、と。
是の故に、こう発心したのである、――
わたしは、
『出家の日』に、
『仏』と、
『成らねばならぬ!』、と。
  (い):由って/因って( on account of )。『大智度論巻24下注:為』参照。
又有菩薩於好世出家。如大通惠求佛道結加趺坐。經十小劫乃得成佛。菩薩聞是已發心言。願我以出家日即得成佛。 又、有る菩薩は、好世に於いて出家するも、大通恵の如く、仏道を求めて、結跏趺坐し、十小劫を経て、乃ち仏と成るを得たり。菩薩は、是れを聞き已りて、発心して言わく、『願わくは、我れ出家の日を以って、即ち仏と成るを得ん』、と。
又、
有る、
『菩薩は、好世に出家した!』が、
『大通恵のように!』、
『仏道を求めて、結跏趺坐しながら!』、
『十小劫』を、
『経て!』、
乃ち( narrowly )、
『仏』と、
『成ることができた!』。
『菩薩』は、
是の、
『事を聞いて、発心し!』、こう言った、――
願わくは、
『出家の日』に、
即ち、
『仏』と、
『成ることができるように!』、と。
  大通恵(だいつうえ):大通慧の異訳、梵に mahaa- abhijJaa に作り、或いは mahaa- abhijJaa- jJaana- abhibhuu と名づけて、大通智勝仏、大通衆慧とも訳す。過去三千塵点劫以前に出現し、法華経を演説せし仏の名。
有菩薩成佛已不即轉法輪。如然燈佛。成佛已十二年但放光明。人無識者而不說法。又如須扇多佛成佛已無受化者。作化佛留住一劫說法度人自身滅度。又如釋迦文佛。成佛已五十七日不說法。菩薩聞是已。願我成佛已即轉法輪。 有る菩薩は、仏と成り已りて、即ち法輪を転ぜず。然灯仏の如きは、仏と成り已りて、十二年、但だ光明を放ちたまえば、人の識る者無く、而して法を説きたまわず。又須扇多仏の如きは、仏と成り已りて、化を受くる者無く、化仏と作りて、留住すること一劫、法を説いて人を度し、自ら身を滅度したまえり。又釈迦文仏の如きは、仏と成り已りて、五十七日、法を説きたまわず。菩薩は、是れを聞き已りて、願うらく、『我れ仏と成り已りて、即ち法輪を転ぜん』、と。
有る、
『菩薩』は、
『仏と成っても!』、
即座に、
『法輪』を、
『転じられたのではない!』。
『然灯仏など!』は、
『仏と成ってから!』、
『十二年間』、
但だ、
『光明』を、
『放たれただけである!』が、
『然灯仏を識る!』、
『人が無い!』ので、
『法』を、
『説くこともなかった!』。
又、
『須扇多仏など!』は、
『仏と成られても!』、
『化を受ける者が、無い( nobody had been educated )!』ので、
『化仏を作って、一劫留住させ!』、
『法を説かせて!』、
『人』を、
『度される!』と、
自らの、
『身』を、
『滅度された( to be extinguished )!』。
又、
『釈迦文仏など!』は、
『仏と成ってから、五十七日間』、
『法』を、
『説かれなかった!』。
『菩薩』は、
是の、
『事を聞いて!』、こう願った――
わたしが、
『仏と成ったならば!』、
即ち、
『法輪』を、
『転じることにしよう!』、と。
  須扇多(しゅせんた):梵名suzaanta、甚浄と訳す。仏名。『大智度論巻7上注:須扇多仏』参照。
  受化(じゅけ):梵語 vineya の訳、訓練/教授される( to be trained, educated, instructed )の義。
  滅度(めつど):◯梵語 nirvaaNa の訳、吹き消す/消火/中断( blowing out, extinction, cessation )の義、有らゆる身苦/心苦の完全な消滅/中断/解脱( The complete extinction of all physical and emotional suffering; cessation; liberation )の意。◯梵語 parinirvaaNa の訳、完全に消滅/中断させること( completely extinguished or finished )の義、個人的人格の完全な消滅/再生の完全な中断( complete extinction of individuality, entire cessation of re-births )の意。◯梵語 atyaya の訳、死ぬこと( passing away, perishing, death )の義、他人の煩悩/苦悩を消す/他人を解放する/解脱させる( to extinguish the afflictions of others; to liberate others )の意。
有佛度眾生有限數。如釋迦文佛轉法輪時。憍陳如一人得初道。八萬諸天諸法中得法眼淨。菩薩聞是已作是願。我轉法輪時令無量阿僧祇人遠塵離垢。諸法中得法眼淨。 有る仏は、衆生を度するに、限数有り。釈迦文仏の如きは、法輪を転じたもう時、憍陳如一人のみ、初道を得、八万の諸天、諸法中に法眼浄を得たり。菩薩は、是れを聞き已りて、是の願を作さく、『我れは、法輪を転ずる時、無量、阿僧祇の人をして、塵を遠ざけ、垢を離れしめ、諸法中に法眼浄を得しめん』、と。
有る、
『仏』は、
『衆生を度する!』のに、
『限数』が、
『有る!』。
『釈迦文仏など!』は、
『初めて、法輪を転じられた!』時、
『憍陳如( 梵名 kaauNDinya )』、
『一人』が、
『初道を得!』、
『八万の諸天』は、
『諸法』中に、
『法眼浄を得ただけである!』。
『菩薩』は、
是の、
『事を聞いて!』、こう願った、――
わたしが、
『法輪を転じる!』時には、
『無量、阿僧祇の人』に、
『塵を遠ざけて!』、
『垢』を、
『離れさせ!』、
『諸法』中に、
『法眼浄』を、
『得させよう!』、と。
 
以釋迦文佛初轉法輪時。一比丘及諸天皆得初道。而無一人得阿羅漢及菩薩道者。是故菩薩願言我作佛時當使無量阿僧祇眾生。一切法不受故諸漏心得解脫。及無量阿僧祇眾生。於阿耨多羅三藐三菩提得不退轉。 釈迦文仏の初めて法輪を転ぜらるる時を以って、一比丘、及び諸天は皆初道を得るも、一人として、阿羅漢、及び菩薩道を得る者無し。是の故に、菩薩の願って言わく、『我れ、仏に作る時、当に無量、阿僧祇の衆生をして、一切の法を受けざるが故に、諸の漏心に解脱を得しめ、及び無量、阿僧祇の衆生をして、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、不退転を得しむべし』、と。
『釈迦文仏』が、
『初めて、法輪を転じられた!』時、
『一比丘と、諸天』は、
皆、
『初道を得た!』が、
『阿羅漢や、菩薩道を得た!』者は、
『一人も!』、
『無かった!』。
是の故に、
『菩薩は願って!』、こう言うのである、――
わたしが、
『仏と作った!』時には、
『無量、阿僧祇の衆生』が、
『一切の法を受けない!』が故に、
『諸の漏心』に、
『解脱を得なければならず!』、
及び、
『無量、阿僧祇の衆生』が、
『阿耨多羅三藐三菩提』に於いて、
『心に!』、
『不退転を得なければならない!』、と。
問曰。若一切佛神力功德度眾生皆等。此菩薩何以作此願。 問うて曰く、若し一切の仏の神力、功徳の衆生を度すること、皆等しければ、此の菩薩は、何を以ってか、此の願を作す。
問い、
若し、
『一切の仏の神力、功徳』が、
『皆、等しく!』、
『衆生』を、
『度すものであれば!』、
此の、
『菩薩』は、
何故、
此の、
『願』を、
『作すのですか?』。
答曰。一佛能變作無量阿僧祇身而度眾生。而世界有嚴淨者有不嚴淨者。菩薩若見若聞。是諸佛有苦行難得佛者。有不即轉法輪者。有如釋迦牟尼佛六年苦行成道。又聞初轉法輪時。未有得阿羅漢道者。何況得菩薩道。是故菩薩未聞諸佛力等故作是願。然諸佛神力功德平等無異 答えて曰く、一仏にして、能く変じて、無量、阿僧祇の身と作り、衆生を度するも、世界には、厳浄なる者有り、厳浄ならざる者有り。菩薩は、是の諸仏の、有るいは苦行して、仏を得ること難き者なる、有るいは即ち、法輪を転ぜざる者なる、有るいは釈迦牟尼仏の如く、六年苦行して、道を成ずるを、若しは見、若しは聞き、又、初めて法輪を転ずる時、未だ阿羅漢道を得る者有らず、何に況んや菩薩道を得るをや、を聞き、是の故に菩薩は、未だ諸仏の力の等しきことを聞かざるが故に、是の願を作す。然るに諸仏の神力、功徳は平等にして異無し。
答え、
『一仏が変じて!』、
『無量、阿僧祇の身と作り!』、
『衆生』を、
『度するのである!』が、
『世界』には、
『厳浄な者も、厳浄でない者も( that what is glorious pure or not )!』、
『有る!』ので、
『菩薩』は、
是の、
『諸仏』が、
有るいは、
『苦行しても!』、
『仏を!』、
『得難かった者であり!』、
有るいは、
即ち( immediately )、
『法輪』を、
『転じなかった者であり!』、
有るいは、
『釈迦牟尼仏のように!』、
『六年、苦行して!』、
『道を成じた者である!』と、
是のように、
『見たり!』、
『聞いたりし!』、
又、
『初めて、法輪を転じた!』時には、
未だ、
『阿羅漢道を得た!』者が、
『無かった!』、
況して、
『菩薩道を得た!』者は、
『言うまでもない!』と、
是のように、
『聞いた!』が、
是の故に、
『菩薩』は、
未だ、
『諸仏の力は、等しい!』と、
『聞かなかった!』が故に、
是の、
『願』を、
『作したのである!』。
然しながら、
『諸仏の神力、功徳』は、
『平等であり!』、
『異が無いのである!』。
  厳浄(ごんじょう):梵語 zuddhi, parizuddhi, parizuddha, parizodhana の訳、浄化すること/完全な浄化/ 浄化された( purification, complete purification )の義、素晴らしく清浄な( gloriously pure )の意。


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