巻第三十三(下)
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大智度論釋初品中到彼岸義第五十
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


五眼とは

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲得五眼者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、五眼を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『五眼を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】何等五。肉眼天眼慧眼法眼佛眼。肉眼見近不見遠見前不見後見外不見內見晝不見夜見上不見下。以此礙故求天眼。 何等かの五なる。肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼なり。肉眼は、近きを見て、遠きを見ず、前を見て、後を見ず、外を見て、内を見ず、昼を見て、夜を見ず、上を見て、下を見ず、此の礙(さわり)を以っての故に、天眼を求む。
何のような、
『五か?』、――
『肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼である!』。
『肉眼』は、
『近くを見て!』、
『遠く!』を、
『見ず!』、
『前を見て!』、
『後』を、
『見ず!』、
『外を見て!』、
『内』を、
『見ず!』、
『昼を見て!』、
『夜』を、
『見ず!』、
『上を見て!』、
『下』を、
『見ないので!』、
此の、
『礙( some obstacles )』の故に、
『天眼』を、
『求める( to search after )のである!』。
得是天眼遠近皆見。前後內外晝夜上下悉皆無礙。是天眼見和合因緣生假名之物不見實相。所謂空無相無作無生無滅。如前中後亦爾。為實相故求慧眼。 是の天眼を得れば、遠近を皆見、前後、内外、昼夜、上下も悉く皆礙無し。是の天眼は、和合因縁生、仮名の物を見て、実相を見ず。謂わゆる空、無相、無作、無生、無滅なり。前中の後の如きも亦た爾れば、実相の為の故に、慧眼を求む。
是の、
『天眼』は、
『遠くも、近くも!』、
皆、
『見て!』、
『前後、内外、昼夜、上下』も、
悉く皆、
『礙が無い!』が、
是の、
『天眼』は、
『和合因縁の生である!』、
『仮名の物』は、
『見る!』が、
『実相を見ない!』、
謂わゆる、
『空、無相、無作、無生、無滅』を、
『見ず!』、
亦た、
『前中の後』も、
『是の通りなので!』、
『実相を見る!』為の故に、
『慧眼』を、
『求めるのである!』。
得慧眼不見眾生。盡滅一異相捨離諸著不受一切法。智慧自內滅是名慧眼。但慧眼不能度眾生。所以者何。無所分別故。以是故求法眼。 慧眼を得れば、衆生を見ずして、尽く一異の相を滅し、諸著を捨離して、一切法を受けざれば、智慧は自ら内を滅すれば、是れを慧眼と名づくるも、但だ慧眼は、衆生を度する能わず。所以は何んとなれば、分別する所無きが故なり。是を以っての故に法眼を求む。
『慧眼を得れば!』、
『衆生を見ることなく!』、
尽く、
『一、異の相を滅して!』、
『諸著を捨離して!』、
『一切の法』を、
『受けない!』ので、
『智慧』が、
自ら、
『内法』を、
『滅する!』ので、
是れを、
『慧眼』と、
『称する!』が、
但だ、
『慧眼』は、
『衆生』を、
『度することができない!』ので、
何故ならば、
『分別する!』所が、
『無いからである!』。
是の故に、
『法眼』を、
『求めるのである!』。
法眼令是人行是法得是道。知一切眾生各各方便門令得道證。法眼不能遍知度眾生方便道。以是故求佛眼。 法眼は、是の人をして、是の法を行ぜしめ、是の道を得しめ、一切の衆生の各各の方便門を知らしめて、道証を得しむるも、法眼は、遍く衆生を度する方便道を知る能わざれば、是を以っての故に、仏眼を求む。
『法眼』は、
是の、
『人』に、
是の、
『仏の法』を、
『行わせ!』、
是の、
『仏の道を得させ!』、
『一切の衆生』に、
各各の、
『方便門を知らせて!』、
『道証』を、
『得させる!』が、
『法眼』は、
『衆生を度す!』為の、
『方便門』を、
『遍く、知ることはない!』ので、
是の故に、
『仏眼』を、
『求めるのである!』。
佛眼無事不知。覆障雖密無不見知。於餘人極遠於佛至近。於餘幽闇於佛顯明。於餘為疑於佛決定。於餘微細於佛為麤。於餘甚深於佛甚淺。是佛眼無事不聞無事不見。無事不知無事為難。無所思惟一切法中佛眼常照。後品五眼義中當廣說 仏眼は事の知らざる無く、覆障密なりと雖も、見知せざる無きこと、余人に於いては極遠なれど、仏に於いては至近なり。餘に於いて幽闇なるも、仏に於いては顕明なり。餘に於いて疑を為すも、仏に於いては決定し、餘に於いて微細なるも、仏に於いては麁なり。餘に於いて甚だ深きも、仏に於いては甚だ浅し。是の仏眼は、事の聞かざる無く、事の見ざる無く、事の知らざる無く、事の難と為す無く、思惟する所無くして、一切の法中に仏眼常に照すこと、後品の五眼の義中に当に広説すべし。
『仏眼』は、
『知らない事が無く!』、
『覆蓋や、障礙が密であっても!』、
『見知しないこと!』が、
『無い!』が故に、
『余人には!』、
『極遠の事であっても!』、
『仏には!』、
『至近の事であり!』、
『余人には!』、
『幽闇の事であっても!』、
『仏には!』、
『顕明の事であり!』、
『余人』には、
『疑わしい事であっても!』、
『仏には!』、
『決定した事であり!』、
『余人』には、
『微細な事であっても!』、
『仏には!』、
『粗大な事であり!』、
『余人』には、
『甚だ深い事であっても!』、
『仏には!』、
『甚だ浅い事である!』。
是の、
『仏眼』は、
『聞かない事も、見ない事も、知らない事も無く!』、
『難しいと思う事も無く!』、
『思惟する!』所も、
『無い!』が、
是の、
『仏眼』は、
『一切の法』中を、
『常に!』、
『照すのである!』。
是の、
『仏眼』は、
『後の品』の、
『五眼の義』中に、
『広説することになるだろう!』。



諸仏を見、諸仏の法を聞き、諸仏の心を知る

【經】菩薩摩訶薩。欲以天眼見十方如恒河沙等世界中諸佛。欲以天耳聞十方諸佛所說法。欲知諸佛心。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、天眼を以って、十方の恒河沙に等しきが如き世界中の諸仏を見んと欲し、天耳を以って、十方の諸仏の所説の法を聞かんと欲し、諸仏の心を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『天眼を用いて!』、
『十方の恒河沙に等しいほどの世界』中の、
『諸仏』を、
『見ようとし!』、
『天耳を用いて!』、
『十方の諸仏の説かれた!』所の、
『法』を、
『聞こうとし!』、
『諸仏』の、
『心』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】天眼法所見不過三千大千世界。今以般若波羅蜜力故見十方恒河沙等國中諸佛。所以者何。般若波羅蜜中。無近無遠無所罣礙故。 天眼の法の所見は、三千大千世界を過ぎず。今、般若波羅蜜の力を以っての故に、十方の恒河沙に等しき国中の諸仏を見る。所以は何んとなれば、般若波羅蜜中には、近無く、遠無く、罣礙する所無きが故なり。
『天眼という!』、
『法の見る!』所は、
『三千大千世界』を、
『過ぎることはない!』が、
今は、
『般若波羅蜜の力を用いる!』が故に、
『十方の恒河沙に等しい国中の諸仏』を、
『見る!』。
何故ならば、
『般若波羅蜜中には遠も、近も無く!』、
『罣礙する所( that which is obstructed )』が、
『無いからである!』。
問曰。如般舟經說。以般舟三昧力故雖未得天眼而能見十方現在諸佛。此菩薩以天眼故見十方諸佛有何等異。 問うて曰く、般舟経の説く、『般舟三昧の力を以っての故に、未だ天眼を得ずと雖も、能く十方の現在の諸仏を見る』、が如きと、此の菩薩の天眼を以っての故に、十方の諸仏を見ると、何等の異か有る。
問い、
『般舟経』には、こう説かれている、――
『般舟三昧の力を用いる!』が故に、
未だ、
『天眼を得ていなくても!』、
『十方の現在の諸仏』を、
『見ることができる!』のと、
此の、
『菩薩』が、
『天眼を用いる!』が故に、
『十方の諸仏』を、
『見る!』のと、
何のような、
『異( difference )』が、
『有るのですか?』。
  参考:『般舟三昧経巻上』:『是菩薩摩訶薩。不持天眼徹視。不持天耳徹聽。不持神足到其佛剎。不於是間終。生彼間佛剎乃見。便於是間坐。見阿彌陀佛。聞所說經悉受得。從三昧中悉能具足。為人說之。譬若有人。聞墮舍利國中。有婬女人名須門。若復有人。聞婬女人阿凡和梨。若復有人。聞優陂洹作婬女人。是時各各思念之。其人未曾見此三女人。聞之婬意即為動。便於夢中各往到其所。是時三人皆在羅閱祇國。同時念。各於夢中到是婬女人所與共棲宿。其覺已各自念之。』
答曰。此天眼不隱沒無記。般舟三昧離欲人未離欲人俱得。天眼但是離欲人得。般舟三昧憶想分別常修常習故見。天眼修神通得。色界四大造色眼四邊得遍明相是為差別。天眼功易譬如日出見色不難。三昧功難如夜然燈見色不易。天耳亦如是。 答えて曰く、此の天眼は、不隠没無記にして、般舟三昧は、離欲の人と、未離欲の人と倶に得。天眼は、但だ是れ離欲の人のみ得。般舟三昧は、憶想、分別にして常修、常習するが故に見る。天眼は神通を修めて、色界の四大造の色眼得、四辺に遍く明相を得。是れを差別と為す。天眼の功の易きこと、譬えば日出づれば、色を見ること難ならざるが如し。三昧の功は難く、夜の然灯の色を見ること易からざるが如し。天耳も亦た是の如し。
答え、
此の、
『天眼は不隠没無記であり!』、
『般舟三昧』は、
『離欲の人も、未離欲の人も!』、
『倶に得られ!』、
『天眼』は、
『但だ、離欲の人だけ!』が、
『得られる!』。
『般舟三昧』は、
『仏を憶想し、仏世界を分別しながら!』、
『常修し、常習する!』が故に、
『見ることができる!』が、
『天眼』は、
『神通を修めて!』、
『色界の四大造の色眼を得て!』、
『四辺の明相』を、
『遍く得る!』。
是れが、
『般舟三昧、天眼』の、
『差別である!』。
『天眼』は、
『功が易しく( to be achieved easily )!』、
譬えば、
『日が出れば!』、
『色を見ること!』も、
『難しくないようなものである!』が、
『三昧』は、
『功が難しく( be difficult to achieve )!』、
譬えば、
『夜の然灯』で、
『色を見ること!』が、
『易しくないようなものである!』。
亦た、
『天耳』も、
『是の通りである!』。
  不隠没無記(ふおんもつむき):梵語 akiSTa-avyaakRta の訳、無悩未発( undisturbed undeveloped )の義、悟りを妨げざる不確定性の精神作用/浄性/無痕跡性( Mental functions of indeterminate nature that do not hinder enlightenment. Pure nature, traceless nature )の意。『大智度論巻32上注:無覆無記』参照。
知諸佛心者。問曰。如上地鈍根不能知下地利根心。菩薩一佛心尚不應知。何況恒河沙等十方諸佛心。 諸仏の心を知るとは、問うて曰く、上地の鈍根は、下地の利根の心を知る能わざるが如く、菩薩は、一仏の心すら、尚お応に知るべからず。何に況んや、恒河沙に等しき十方の諸仏の心をや。
『諸仏』の、
『心』を、
『知る!』とは、――
問い、
例えば、
『上地であっても!』、
『鈍根ならば!』、
『下地の利根の心』を、
『知ることができない!』ように、
『菩薩』は、
『一仏の心すら!』、
尚お( yet )、
『知るはずがない!』。
況して、
『恒河沙に等しい十方の諸仏の心』は、
『尚更である!』。
答曰。以佛神力故令菩薩知。如經說。一切眾生無知佛心者。若佛以神力令知。乃至昆虫亦能知。以是故知佛以神力故令菩薩知佛心。 答えて曰く、仏の神力を以っての故に、菩薩をして知らしむ。経に、『一切の衆生に、仏心を知る者無けれども、若し仏、神力を以って知らしむれば、乃至昆虫すら亦た能く知る』、と説けるが如し。是を以っての故に知る、仏は神力を以っての故に、菩薩をして、仏心を知らしめたもうなり。
答え、
『仏の神力を用いる!』が故に、
『菩薩』に、
『知らせるのである!』。
『経』には、こう説かれている、――
『一切の衆生』には、
『仏心を知る!』者が、
『無い!』が、
若し、
『仏』が、
『神力を用いて!』、
『知らしめれば!』、
乃至、
『昆虫すら!』、
『知ることができる!』、と。
是の故に、こう知るのである、――
『仏』が、
『神力を用いて!』、
『菩薩』に、
『仏心を知らされたのである!』、と。
復次般若波羅蜜無礙相麤細深淺愚聖都無差別。諸佛心如菩薩心如一如無異。菩薩隨是如故能知諸佛心。 復た次ぎに、般若波羅蜜は無礙の相にして、麁細、深浅、愚聖は、都て差別無し。諸仏の心の如と、菩薩の心の如とは、一如にして、異無し。菩薩は、是の如に随うが故に、能く諸仏の心を知る。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜という!』、
『無礙の相には!』、
『麁細、深浅、愚聖という!』、
『差別( differences )』は、
『都て無く( there are not any )!』、
『如( the reality as-it-is )』は、
『諸仏の心も、菩薩の心』も、
『一如であり!』、
『異が無い!』。
『菩薩』は、
是の、
『如に随う!』が故に、
『諸仏の心』を、
『知ることができるのである!』。
復次希有難事不應知而知。以是故言欲得是者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、希有の難事は、応に知るべからざるに知る。是を以っての故に言わく、『是れを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
復た次ぎに、
『知るはずのない!』、
『希有の難事』を、
『知ることになる!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
是れを、
『得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。



諸仏の法を聞いて、忘れない

【經】欲聞十方諸佛所說法。聞已乃至阿耨多羅三藐三菩提不忘者。當學般若波羅蜜 十方の諸仏の所説の法を聞き、聞き已りて、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで忘れざらんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『十方の諸仏の説かれた!』所の、
『法を聞き!』、
『聞いたならば!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
『忘れないようにしようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。一佛所說猶尚難持。何況無量諸佛所說欲憶而不忘。 問うて曰く、一仏の所説すら、猶尚お持し難し。何に況んや、無量の諸仏の所説を憶して、忘れざらんと欲するをや。
問い、
『一仏の説かれた!』所すら、
猶尚お( yet )、
『持つ( to hold )!』のは、
『難しい( it is difficult )!』。
況して、
『無量の諸仏の説かれた! 』所を、
『憶えて、忘れない!』のは、
『言うまでもない!』。
答曰。菩薩以聞持陀羅尼力故。能受堅憶念。陀羅尼力故不忘。 答えて曰く、菩薩は、聞持陀羅尼の力を以っての故に、能く受けて、堅憶念陀羅尼の力の故に、忘れず。
答え、
『菩薩』は、
『聞持陀羅尼という!』、
『力を用いる!』が故に、
『受けることができ( can perceive )!』、
『堅憶念陀羅尼という!』、
『力を用いる!』が故に、
『忘れないのである!』。
  聞持陀羅尼(もんじだらに):所聞の法を憶念して忘れざる法。『大智度論巻5上』参照。
復次此中說以般若波羅蜜力畢竟清淨無所著。譬如大海含受眾流。菩薩從十方諸佛所聞法。以般若波羅蜜器大故。能受無量法持而不忘。 復た次ぎに、此の中に説かく、『般若波羅蜜の力の畢竟清浄にして、無所著なるを以って、譬えば大海の衆流を含受するが如く、菩薩は、十方の諸仏より聞きたる所の法を、般若波羅蜜の器の大なるを以っての故に、能く無量の法を受け、持ちて忘れず』、と。
復た次ぎに、
此の中には、こう説かれているのである、――
『般若波羅蜜という!』、
『力』は、
『畢竟清浄であり!』、
『著する所が無い!』が故に、
譬えば、
『大海』が、
『衆流』を、
『含受するように!』、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜という!』、
『器』が、
『大である!』が故に、
『十方の諸仏より聞いた!』所の、
『無量の法』を、
『受けることができ、忘れないのである!』、と。
復次是般若波羅蜜不可譬喻如虛空。如劫燒盡已大雨彌滿。是雨除虛空更無處能受。十方諸佛說法雨從佛口出。除行般若波羅蜜菩薩更無能受者。以是故言欲聞十方諸佛說法。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、是の般若波羅蜜の譬喻すべからざること虚空の如く、劫焼け尽くし已りて、大雨弥満し、是の雨は、虚空を除けば、更に能く受くる処無きが如く、十方の諸仏の説法の雨、仏の口より出づれば、般若波羅蜜を行ずる菩薩を除いて、更に能く受くる者無し。是を以っての故に、言わく、『十方の諸仏の説法を聞かんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜』は、
『虚空のように!』、
『譬喻することができない!』。
譬えば、
『劫が焼け尽くす!』と、
『大雨』が、
『弥満する( be full of )!』が、
是の、
『雨』は、
『虚空を除いて!』、
更に、
『受けられる処』が、
『無いように!』、
『十方の諸仏の説かれた!』、
『法の雨』が、
『仏の口より!』、
『出る!』と、
『般若波羅蜜を行う!』、
『菩薩を除けば!』、
更に、
『受けることのできる!』者が、
『無い!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『十方の諸仏の説かれた!』、
『法を聞こうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
  弥満(みまん):充満。



大智度論釋初品中見一切佛世界義第五十一之一


過去、未来、現在の諸仏の世界を見る

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲見過去未來諸佛世界。及見現在十方諸佛世界。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、過去、未来の諸仏の世界を見、及び現在の十方の諸仏の世界を見んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『過去、未来』の、
『諸仏の世界』を、
『見ようとし!』、
『現在』の、
『十方の諸仏の世界』を、
『見ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。若見十方佛則已見世界。今何以復說欲見世界。 問うて曰く、若し十方の仏を見れば、則ち已に世界を見る。今、何を以ってか、復た世界を見んと欲するを説く。
問い、
若し、
『十方の仏を見れば!』、
已に、
『世界』を、
『見たことになる!』のに、
今は、
何故、
復た、こう説くのですか?、――
『世界』を、
『見ようとする!』、と。
答曰。菩薩未深入禪定。若見十方世界山河草木。心則散亂故但觀諸佛。如念佛義中說。行者但觀諸佛不觀土地山河樹木。得禪定力已隨意廣觀。 答えて曰く、菩薩は、未だ、深く禅定に入らざるに、若し十方の世界の山河、草木を見れば、心は則ち散乱するが故に、但だ諸仏のみを観る。念仏義中に説けるが如く、行者は、但だ諸仏を観て、土地、山河、樹木を観ざるも、禅定力を得已れば、随意に広く観る。
答え、
『菩薩』が、
未だ、
『深くは!』、
『禅定』に、
『入ることができない!』のに、
若し、
『十方の世界』の、
『山河や、草木』を、
『見れば!』、
則ち、
『心が、散乱することになる!』が故に、
但だ、
『諸の仏のみ!』を、
『観るのである!』。
『念仏義中に説かれたように!』、――
『行者』は、
但だ、
『諸の仏を観て!』、
『土地、山河、樹木』を、
『観なくても!』、
『禅定の力を得れば!』、
『意のままに!』、
『広く観るのである!』。
  念仏義:『大智度論巻21下』参照。
復次諸清淨佛國難見故。言欲見諸佛國。當學般若波羅蜜。 復た次ぎに、諸の清浄の仏国は、見難きが故に、『諸仏の国を見んと欲すれば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と言えり。
復た次ぎに、
『諸の清浄の仏国』は、
『見難い!』が故に、こう言うのである、――
『諸仏の国を見ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
又一佛有無量百千種世界如先說。有嚴淨有不嚴淨。有雜有畢竟清淨世界。難見故以般若波羅蜜力乃能得見。譬如天子聽正殿則外人可見。內殿深宮無能見者。 又一仏に、無量百千種の世界有り。先に、『厳浄なる有り、厳浄ならざる有り、雑有り、畢竟清浄の世界有り』、と説けるが如きは、見難きが故に、般若波羅蜜の力を以って、乃ち能く見るを得。譬えば天子の正殿に聴すれば、則ち外の人の見る可きも、内殿の深宮なれば、能く見る者無きが如し。
又、
『一仏』には、
『無量、百千種の世界』が、
『有る!』ので、
先に、説いたように、――
有る、
『世界』は、
『厳浄である!』が、
有る、
『世界』は、
『厳浄でなく!』、
有る、
『世界』は、
『浄、不浄を雑える!』が、
有る、
『世界』は、
『畢竟じて、清浄である!』が、
是れ等の、
『世界は、見難い!』が故に、
『般若波羅蜜の力を用いて!』、
乃ち( only )、
『見ることができる!』。
譬えば、
『天子』が、
『正殿で聴すれば( to administer in the main palace )!』、
『外の人に!』、
『見られる!』が、
『内殿に於いては( in the inner palace )!』、
『見ることのできる!』者が、
『無いようなものである!』。
  (ちょう):聴く/許す( to hear, allow )。聴いて断ずる( to hear and decide )。統治する/政務を執る( to administer )。
問曰。十方現在世界可見。過去未來諸佛世界云何得見。 問うて曰く、十方の現在の世界は見るべきも、過去、未来の諸仏の世界を、云何が見るを得る。
問い、
『十方の現在』の、
『世界』を、
『見ることはできるだろうが!』、
何故、
『過去、未来の諸仏の世界』を、
『見ることができるのですか?』。
答曰。菩薩有見過去未來三昧。入是三昧已見過去未來事如夢中所見。 答えて曰く、菩薩には、見過去未来三昧有り。是の三昧に入り已れば、過去、未来の事を見ること、夢中の所見の如し。
答え、
『菩薩』には、
『過去、未来を見るという!』、
『三昧』が、
『有り!』、
是の、
『三昧に入れば!』、
『過去、未来の事を見る!』のは、
『夢』中に、
『見るようなものである!』。
復次菩薩有不滅際三昧。入是三昧已不見諸佛有滅者。 復た次ぎに、菩薩には、不滅際三昧有り。是の三昧に入り已れば、諸仏の滅有る者を見ず。
復た次ぎに、
『菩薩』には、
『不滅の際という!』、
『三昧』が、
『有り!』、
是の、
『三昧に入れば!』、
『滅の有るような!』、
『諸仏』を、
『見ることはない!』。
問曰。此二法非眼云何能見。 問うて曰く、此の二法は、眼に非ざるに、云何が能く見る。
問い、
此の、
『二法は眼でない!』のに、
何故、
『見ることができるのですか?』。
答曰。此是智慧假名為眼。如轉法輪中於四諦中得眼智明覺。 答えて曰く、此れは是れ智慧なるも、仮りに名づけて、眼と為す。転法輪中の四諦中に於いて、眼智の明覚なるを得るが如し。
答え、
此れは、
『智慧である!』が、
仮りに、
『眼』と、
『称されるのである!』。
例えば、
『転法輪』中には、こう説かれている、――
『四諦』中に於いて、
『智慧の眼』が、
『明るくなり!』、
『覚るのである!』、と。
  眼智明覚(げんちみょうがく):眼は明るくして善く見通し、智慧は覚りて曇り無しの意。『大智度論巻2上注:眼智明覚』参照。
  参考:『雑阿含379経巻15』:『如是我聞。一時。佛住波羅奈鹿野苑中仙人住處。爾時。世尊告五比丘。此苦聖諦。本所未曾聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。此苦集.此苦滅.此苦滅道跡聖諦。本所未曾聞法。當正思惟。時。生.眼.智.明.覺。復次。苦聖諦智當復知。本所未聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。苦集聖諦已知當斷。本所未曾聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。復次。苦集滅。此苦滅聖諦已知當知作證。本所未聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。復以此苦滅道跡聖諦已知當修。本所未曾聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。復次。比丘。此苦聖諦已知。知已出。所未聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。復次。此苦集聖諦已知。已斷出。所未聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。復次。苦滅聖諦已知.已作證出。所未聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。復次。苦滅道跡聖諦已知.已修出。所未曾聞法。當正思惟。時。生眼.智.明.覺。諸比丘。我於此四聖諦三轉十二行不生眼.智.明.覺者。我終不得於諸天.魔.梵.沙門.婆羅門聞法眾中。為解脫.為出.為離。亦不自證得阿耨多羅三藐三菩提。我已於四聖諦三轉十二行生眼.智.明.覺。故於諸天.魔.梵.沙門.婆羅門聞法眾中。得出.得脫。自證得成阿耨多羅三藐三菩提。爾時。世尊說是法時。尊者憍陳如及八萬諸天遠塵離垢。得法眼淨。爾時。世尊告尊者憍陳如。知法未。憍陳如白佛。已知。世尊。復告尊者憍陳如。知法未。拘鄰白佛。已知。善逝。尊者拘鄰已知法故。是故名阿若拘鄰。尊者阿若拘鄰知法已。地神舉聲唱言。諸仁者。世尊於波羅奈國仙人住處鹿野苑中三轉十二行法輪。諸沙門.婆羅門.諸天.魔.梵所未曾轉。多所饒益。多所安樂。哀愍世間。以義饒益。利安天人。增益諸天眾。減損阿修羅眾。地神唱已。聞虛空神天.四天王天.三十三天.炎魔天.兜率陀天.化樂天.他化自在天展轉傳唱。須臾之間。聞于梵天身。梵天乘聲唱言。諸仁者。世尊於波羅奈國仙人住處鹿野苑中三轉十二行法輪。諸沙門.婆羅門.諸天.魔.梵。及世間聞法未所曾轉。多所饒益。多所安樂。以義饒益諸天世人。增益諸天眾。減損阿修羅眾。世尊於波羅奈國仙人住處鹿野苑中轉法輪。是故此經名轉法輪經。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次菩薩見十方現在佛世界。定知過去未來諸佛世界亦爾。所以者何。一切諸佛功德同故。是事如先說。 復た次ぎに、菩薩は、十方の現在の仏世界を見るに、定んで、過去、未来の諸仏の世界も亦た爾り、と知る。所以は何んとなれば、一切の諸仏の功徳は同じなるが故なり。是の事は、先に説けるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『十方の現在の仏世界を見る!』と、
『過去、未来の諸仏の世界も、亦た是の通りだろう!』と、
『定んで( clearly )!』、
『知るからである!』。
何故ならば、
『一切の諸仏』は、
『功徳』が、
『同じだからであり!』、
是の、
『事』は、
『先に説いた通りである!』。
復次是般若波羅蜜中。如現在過去未來等無異。一如一法性故。以是故不應難 復た次ぎに、是の般若波羅蜜中に、現在、過去、未来の如きは、等しく、異無し。一如、一法性なるが故なり。是を以っての故に、応に難ずべからず。
復た次ぎに、
是の、
『般若波羅蜜』中には、
『現在、過去、未来など!』は、
『等しく!』、
『異ならない!』。
何故ならば、
『一如であり!』、
『一法性だからである!』。
是の故に、
『過去や、未来の世界が、何故見ることができるのか?』と、
『難ずべきではない!』。



諸仏の法を、尽く誦して、受持する

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲聞十方諸佛所說十二部經修多羅.祇夜.受記經.伽陀.優陀那.因緣經.阿波陀那.如是語經.本生經.廣經.未曾有經.論議經。諸聲聞等聞與不聞盡欲誦受持者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、十方の諸仏の所説の十二部経の修多羅、祇夜、受記経、伽陀、優陀那、因縁経、阿波陀那、如是語経、本生経、広経、未曽有経、論議経の諸の声聞等の聞くと、聞かざるとを、尽く、誦して、受持せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『十方の諸仏の所説』の、
『十二部経である!』、
『修多羅、祇夜、受記経、伽陀、優陀那、因縁経、阿波陀那や!』、
『如是語経、本生経、広経、未曽有経、論議経』を、
『諸の声聞』等が、
『聞いた経も、聞かなかった経も!』、
尽く、
『誦して!』、
『受持しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  十二部経(じゅうにぶきょう):十二分類の仏の所説。『大智度論巻4上注:十二部経』参照。
  1. 修多羅(しゅたら):梵語 suutra の訳、契経とも訳す、糸( a line )、短文/格言の規則、及びそれ等の一連の規則が糸のように連なりあった著作物、手引き( a short sentence or aphoristic rule, and any work or manual consisting of strings of such rules hanging together like threads )の義、万事を貫いて持つ縫い糸のようなもの/規則/指図書( that which like a thread runs through or holds together everything, rule, direction )、仏の講話( the Buddhaʼs discourses )の意。
  2. 祇夜(ぎや):梵語 geya の訳、重頌とも訳す、歌/歌うこと( a song, singing )の義、詩歌( verses )の意。
  3. 受記(じゅき):梵語 vyaakaraNa の訳、和伽羅とも訳す、説明/詳細の記述/表明/啓示( explanation, detailed description, manifestation, revelation )、区別/差別/識別( separation, distinction, discrimination )、予言( prediction, prophecy )の義、未来の所得に関する保証( guarantees of future attainment )の意。
  4. 伽陀(かだ):梵語 gaathaa の訳、諷誦とも訳す、韻文/連句( verse, stanza )の義、経中の韻文( the metrical part of Sutra, verse part of a discourse )の意。
  5. 優陀那(うだな):梵語 udaana の訳、自説とも訳す、仰いで息を出す/喜び/心の喜び( breathing upwards, joy, heart's joy )、心中の歓喜を表明する( to disclose (the joy of one's heart) )の義、仏が促がされずに説かれた教( teachings offered by the Buddha without prompting )の意。
  6. 尼陀那(にだな):梵語 nidaana の訳、因縁とも訳す、綱( a band, rope, halter )、何等かの原因/動機( any cause or motive )の義、歴史的説話( historical narrative )の意。
  7. 阿波陀那(あぱだな):梵語 avadaana の訳、譬喻とも訳す、偉大にして栄光ある行為/達成( a great or glorious act, achievement )の義、伝説( legends )の意。
  8. 如是語(にょぜご):梵語 itivRttaka の訳、本事・伊帝曰多伽とも訳す、出来事( occurrence, event )の義、仏の活動、或いは仏の過去の修行( activities of Buddha or his disciples in past lives )の意。
  9. 本生(ほんしょう):梵語 jaataka の訳、闍多伽とも訳す、誕生/出生( nativity )の義、仏の過去世の物語( Buddhaʼs past life stories )の意。
  10. 広経(こうきょう):梵語 vaipulya の訳、方広経・毘仏略とも訳す、広大( laragenessl, spaciousness )の義、拡大された教( expanded teaching )の意。
  11. 未曽有(みぞう):梵語 adbhuta-dharma の訳、阿浮達摩とも訳す、非凡( extraordinary )の義、仏の奇跡的行為( Buddha's miraculous acts )の意。
  12. 論議(ろんぎ):梵語 upadeza の訳、優婆提舎とも訳す、詳述/指導/教授( specification, instruction, teaching )の義、啓発的指導( didactic lessons )の意。
【論】先說盡欲聞十方諸佛所說法者。當學般若波羅蜜。所說法者即此十二部經。 先に説かく、『尽く、十方の諸仏の所説の法を聞かんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。所説の法は、即ち此の十二部の経なり』、と。
先に、こう説かている、――
『十方の諸仏』の、
『所説の法を、尽く聞こうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』が、
『所説の法』とは、
此の、
『十二部の経である!』、と。
諸經中直說者名修多羅。所謂四阿含諸摩訶衍經。及二百五十戒經。出三藏外亦有諸經。皆名修多羅。 『諸経』中に、直説の者を、修多羅と名づけ、謂わゆる四阿含、諸の摩訶衍経、及び二百五十戒の経は三蔵より出で、外にも亦た諸経有り、皆修多羅と名づく。
『諸の経』中に、
『仏の直説』を、
『修多羅と称し!』、
謂わゆる、
『四阿含、諸の摩訶衍の経と、二百五十戒の経』は、
『三蔵』中より、
『出たものである!』が、
『三蔵の外』にも、
亦た、
『諸の経が有り!』、
皆、
『修多羅』と、
『称される!』。
諸經中偈名祇夜。 諸経中の偈を、祇夜と名づく。
『諸の経』中の、
『偈』を、
『祇夜と称する!』。
眾生九道中受記。所謂三乘道六趣道。此人經爾所阿僧祇劫當作佛。若記爾所歲當作佛。記聲聞人今世後世得道。記辟支佛但後世得道。記餘六道亦皆後世受報。 衆生は、九道中に記を受く。謂わゆる三乗の道と、六趣の道なり。此の人は、爾所(そこばく)の阿僧祇劫を経て、当に仏と作るべし、若しは爾所の歳に、当に仏に作るべしと記し、声聞人には、今世、後世に道を得ることを記し、辟支仏には、但だ後世に道を得ると記し、餘の六道にも、亦た皆後世に報を受くるを記す。
『衆生』は、
『九道』、
謂わゆる、
『三乗の道と、六趣の道』中に、
『記』を、
『受ける!』、――
此の、
『人』は、
『爾所( some )の阿僧祇劫を経れば!』、
『仏と作るであろう!』と、
『記し!』、
若しは、
『爾所の歳に!』、
『仏と作るであろう!』と、
『記し!』、
『声聞人には!』、
『今世か、後世には!』、
『道を得るであろう!』と、
『記し!』、
『辟支仏には!』、
『但だ、後世に!』、
『道を得るであろう!』と、
『記し!』、
餘の、
『六道』も、
皆、
『後世に!』、
『報を受けるだろう!』と、
『記す!』。
諸佛法欲與眾生受記。先皆微笑無量種光從四牙中出。所謂青黃赤白縹紫等。從上二牙出者光照三惡道。從其光明演無量法。說一切作法無常一切法無我安隱涅槃。眾生得遇斯光聞說法者。身心安樂得生人中天上。從是因緣皆得畢苦。 諸仏の法は、衆生に受記を与えんと欲すれば、先に皆、微笑して、無量種の光を四牙中より出したもう。謂わゆる青、黄、赤、白、縹(はなだ)、紫等なり。上の二牙より出づれば、光は三悪道を照らし、其の光明より、無量の法を演じて、説かく、『一切の作法は、無常なり。一切の法は、無我にして、安隠なるは涅槃なり』、と。衆生は、斯の光に遇うを得て、説法を聞かば、身心安楽にして、人中、天上に生ずるを得れば、是の因縁により、皆、苦を畢うるを得。
『諸仏の法』は、
『衆生』に、
『受記』を、
『与えようとする!』時、
先に、
皆、
『微笑される!』が、
是の時、
『無量種の光』が、
『四牙中より!』、
『出ることになる!』。
謂わゆる、
『青、黄、赤、白、縹( light indigo )、紫等である!』。
『上の二牙より、出た!』、
『光』が、
『三悪道を照す!』と、
其の、
『光明より!』、
『無量の法』が、
『演じられて( to be talked )!』、
こう説く、――
『一切の作法( all that are made )は無常である!』、
『一切の法( all Dharmas )は無我である!』、
『安隠( quiescence )は涅槃である!』、と。
『衆生』が、
斯の( this )、
『光に遇って!』、
『法が説かれるのを聞くと!』、
『身心が安楽となって!』、
『人中、天上に!』、
『生じることができ!』、
是の、
『因縁によって!』、
皆、
『苦』を、
『畢らせることができる( be able to finish )!』。
從下二牙出者上照人天乃至有頂禪。若聾盲瘖啞狂病皆得除愈。六欲天人及阿修羅受五欲樂。遇佛光明聞說法聲。皆厭患欲樂身心安隱。色界諸天受禪定樂時。遇佛光明聞說法聲。亦生厭患來詣佛所。此諸光明復至十方遍照六道。作佛事已還繞身七匝。 下の二牙より出づれば、上は人天、乃至有頂禅を照し、若し聾盲、瘖唖、狂の病なれば、皆除き愈ゆるを得、六欲天、人、及び阿修羅なれば、五欲の楽を受け、仏の光明に遇い、説法の声を聞かば、皆欲楽を厭患して、身心安隠となり、色界の諸天は、禅定の楽を受くる時、仏の光明に遇いて、説法の声を聞かば、亦た厭患を生じて、仏所に来詣す。此の諸の光明は、復た十方に至って、遍く六道を照し、仏事を作し已りて、還って身を繞(めぐ)ること七匝なり。
『下の二牙より!』、
『光が出れば!』、
上の、
『人、天、乃至有頂禅を照し!』、
若し、
『聾盲、瘖唖、狂の病ならば!』、
皆、
『病が除かれて!』、
『愈えることができる!』。
若し、
『六欲天、人、阿修羅』が、
『五欲の楽を受けながら!』、
『仏の光明に遇って!』、
『法を説く声』を、
『聞けば!』、
皆、
『欲楽を厭患して!』、
『身心』が、
『安隠になる!』。
若し、
『色界の諸天』が、
『禅定の楽を受ける!』時に、
『仏の光明に遇って!』、
『法を説く声』を、
『聞けば!』、
亦た、
『厭患を生じて!』、
『仏所』に、
『来詣する!』。
此の、
『諸の光明』は、
復た( again )、
『十方に至って!』、
遍く( all over )、
『六道を照し!』、
『仏事( the work of Buddha )』を、
『作してしまう!』と、
還って、
『仏』の、
『身』を、
『七匝繞る( to encircle seven times )!』。
若記地獄光從足下入。若記畜生光從踹入。若記餓鬼光從髀入。若記人道光從齊入。若記天道光從胸入。若記聲聞光從口入。若記辟支佛光從眉間相入。若記得佛光從頂入。若欲受記先現此相。然後阿難等諸弟子發問。 若し、地獄を記すれば、光は足下より入り、若し畜生を記すれば、光は、踹(かかと)より入り、若し餓鬼を記すれば、光は髀より入り、若し人道を記すれば、光は齊より入り、若し天道を記すれば、光は胸より入り、若し声聞を記すれば、光は口より入り、若し辟支仏を記すれば、光は眉間相より入り、若し仏を得るを記すれば、光は頂より入る。若し受記せんと欲せば、先に此の相を現し、然る後に阿難等の諸弟子、問を発す。
若し、
『地獄を記せられれば!』、
『光』は、
『足下より入り!』、
若し、
『畜生を記せられれば!』、
『光』は、
『踹より入り!』、
若し、
『餓鬼を記せられれば!』、
『光』は、
『髀下より入り!』、
若し、
『人道を記せられれば!』、
『光』は、
『臍より入り!』、
若し、
『天道を記せられれば!』、
『光』は、
『胸より入り!』、
若し、
『声聞を記せられれば!』、
『光』は、
『口より入り!』、
若し、
『辟支仏を記せられれば!』、
『光』は、
『眉間相より入り!』、
若し、
『仏を得ると記せられれば!』、
『光』は、
『頂より入る!』。
若し、
『受記しようとされる!』と、
先に、
此の、
『相』を、
『現される!』ので、
その後、
『阿難等の諸の弟子』が、
『問を発するのである!』。
  (せん):跟/かかと (康煕字典)。
  (ひ):太股。
  (さい):臍。
一切偈名祇夜。六句三句五句。句多少不定亦名祇夜亦名伽陀。 一切の偈を祇夜と名づけ、六句、三句、五句なり。句の多少の定まらざるは、亦た祇夜と名づけ、亦た伽陀と名づく。
『一切の偈』を、
『祇夜と称し!』、
『六句、三句、五句である!』が、
『句の多少の定まらない!』ものは、
『祇夜とも称し!』、
『伽陀とも称する!』。
優陀那者名有法。佛必應說而無有問者。佛略開問端如佛在舍婆提毘舍佉堂上陰地經行。自說優陀那。所謂無我無我所是事善哉。 優陀那とは、有る法は、仏、必ず応に説きたもうべきに、問者有ること無ければ、仏は略して、問端を開きたもうと名づく。仏は舎婆提の毘舎佉堂上に在して、陰地に経行したまえるとき、自ら優陀那を説きたまえるが如し。謂わゆる、『無我、無我所は、是の事善き哉』、と。
『優陀那』とは、こういうことである、――
『仏によって、必ず説かれねばならぬ!』、
『法が有る!』のに、
『問者』が、
『無ければ!』、
『仏は、問者を略して!』、
『問い!』の、
『端緒』を、
『開かれる!』、と。
例えば、
『仏』が、
『舎婆提の毘舎佉堂上に在られる!』時、
『陰地で( in the shaded area )、
『経行されながら( to walk around )!』、
自ら、
『優陀那』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、
『無我とか、無我所という!』、
是の、
『事』は、
『善いなあ!』、と。
  経行(きょうぎょう):梵語 can'kramayate の訳、付近を歩くこと( to walk around )の義、有る特定の場所に於いて、静かに徐ろに歩くこと、殊に食事や、劇務、或いは坐禅の後に休息を取るためや、睡気を覚すために。通常、長時間の瞑想の間に於いて作される( To quietly and slowly walk around a certain area, especially to take a break after eating, hard work or sitting meditation, to clear up drowsiness. Customarily done in between long periods of meditation. )の意。
  毘舎佉堂(びしゃきゃどう):また鹿子母講堂と称す。毘舎佉弥伽羅母の仏に献じたる講堂なり。『大智度論巻8下注:鹿子母』参照。
  参考:『雑阿含経巻3(64)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國東園鹿子母講堂。爾時。世尊晡時從禪起。出講堂。於堂陰中大眾前。敷座而坐。爾時。世尊歎優陀那偈。 法無有吾我  亦復無我所  我既非當有  我所何由生  比丘解脫此  則斷下分結  時。有一比丘從座起。偏袒右肩。右膝著地。合掌白佛言。世尊。云何無吾我。亦無有我所。我既非當有。我所何由生。比丘解脫此。則斷下分結。佛告比丘。愚癡無聞凡夫計色是我.異我.相在。受.想.行.識。是我.異我.相在。多聞聖弟子不見色是我.異我.相在。不見受.想.行.識。是我.異我.相在。亦非知者。亦非見者。此色是無常。受.想.行.識是無常。色是苦。受.想.行.識是苦。色是無我。受.想.行.識是無我。此色非當有。受.想.行.識非當有。此色壞有。受.想.行.識壞有。故非我.非我所。我.我所非當有。如是解脫者。則斷五下分結。時。彼比丘白佛言。世尊。斷五下分結已。云何漏盡。無漏心解脫.慧解脫。現法自知作證具足住。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。佛告比丘。愚癡凡夫.無聞眾生於無畏處而生恐畏。愚癡凡夫.無聞眾生怖畏 無我無我所  二俱非當生  攀緣四識住。何等為四。謂色識住.色攀緣.色愛樂.增進廣大生長。於受.想.行.識住。攀緣.愛樂.增進廣大生長。比丘。識於此處。若來.若去.若住.若起.若滅。增進廣大生長。若作是說。更有異法。識若來.若去.若住.若起.若滅.若增進廣大生長者。但有言說。問已不知。增益生癡。以非境界故。所以者何。比丘。離色界貪已。於色意生縛亦斷。於色意生縛斷已。識攀緣亦斷。識不復住。無復增進廣大生長。受.想.行界離貪已。於受.想.行意生縛亦斷。受.想.行意生縛斷已。攀緣亦斷。識無所住。無復增進廣大生長。識無所住故不增長。不增長故無所為作。無所為作故則住。住故知足。知足故解脫。解脫故於諸世間都無所取。無所取故無所著。無所著故自覺涅槃。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。比丘。我說識不住東方.南.西.北方.四維.上.下。除欲見法。涅槃滅盡。寂靜清涼。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行 生滅以不樂  及三種分別  貪著等觀察  是名優陀那』
爾時一比丘合掌白佛言。世尊。云何無我無我所是事善哉。佛告比丘。凡夫人未得無漏道。顛倒覆心故於無我無我所心大驚怖。若佛及佛弟子聞好法者歡喜奉行。無顛倒故不復更作。如是等雜阿含中廣說。 爾の時、一比丘の合掌して、仏に白して言さく、『世尊、云何が無我、無我所は、是の事善き哉と』、と。仏の比丘に告げたまわく、『凡夫人は、未だ無漏道を得ずして、顛倒に心を覆わるるが故に、無我、無我所に於いて、心大に驚怖するも、仏、及び仏弟子の若(ごと)く、好法を聞く者は、歓喜し、奉行し、顛倒無きが故に復た更に作さざらん』、と。是れ等の如きは、雑阿含中に広説す。
爾の時、
『一比丘が合掌して!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
何故、こう言われたのですか?――
『無我とか、無我所という!』、
是の、
『事』は、
『善いなあ!』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
『凡夫人』は、
未だ、
『無漏道を得ず!』、
『顛倒』に、
『心が覆われている!』ので、
『無我とか、無我所であると聞けば!』、
『心』が、
『大いに驚怖する!』が、
『仏や、仏弟子のような!』者が、
『好い法を聞けば!』、
『歓喜し、奉行して( to rejoice and perform )!』、
『顛倒が無くなる!』が故に、
復た更に( never again )、
『顛倒の想』を、
『作すことはない!』、と。
是れ等は、
『雑阿含』中に、
『広説されている通りである!』。
又如般若波羅蜜品中。諸天子讚須菩提所說。善哉善哉希有世尊。難有世尊。是名優陀那。又如佛涅槃後諸弟子抄集要偈諸無常偈等作無常品。乃至婆羅門偈等作婆羅門品。亦名優陀那。諸有集眾妙事。皆名優陀那。如是等名優陀那經相。 又般若波羅蜜品中の、『諸天子の須菩提の所説を讃ずらく、善い哉、善い哉、希有なり、世尊、有り難し、世尊』、の如き、是れを優陀那と名づく。又仏の涅槃の後、諸弟子、要偈なる諸の無常偈等を抄集して、『無常品』と作し、乃至婆羅門の偈等を『婆羅門品』と作すが如きを、亦た優陀那と名づけ、諸の有らゆる衆妙事を集むるを、皆優陀那と名づく。是れ等の如きを、優陀那経の相と名づく。
又、
『般若波羅蜜品』中に、――
『諸天子』が、
『須菩提の所説を讃じた!』、――
『善いぞ、善いぞ、希有です、世尊!』とか、
『有り難い、世尊!』とか、
是れを、
『優陀那』と、
『称する!』。
又、
『仏が涅槃された!』後、
『諸の弟子』が、
『要偈や、諸の無常偈等』を、
『抄集して( to compile a compendium )!』、
『無常品を作った( called "The Uncertainties" )!』し、
乃至、
『婆羅門の偈等』で、
『婆羅門品を作った!』が、
是れ等も、
『優陀那』と、
『呼ばれるように!』、
『諸の有らゆる衆妙事を集めた!』者は、
皆、
『優陀那』と、
『呼ばれるのである!』。
是れ等が、
『優陀那経』の、
『相である!』。
  無常品:『法句譬喩経巻1無常品』等参照。
  婆羅門品:『法句譬喩経巻4梵志品』等参照。
  参考:『大品般若経巻8三歎品』:『爾時諸天王及諸天。諸梵王及諸梵天。伊賒那天及諸神仙并諸天女。同時三反稱歎快哉快哉慧命須菩提所說法。皆是佛出世間因緣恩力演布是教。若有菩薩摩訶薩行是般若波羅蜜不遠離者。我輩視是人如佛。何以故。是般若波羅蜜中雖無法可得。所謂色受想行識乃至一切種智。而有三乘之教。所謂聲聞乘辟支佛乘佛乘。爾時佛告諸天子。如是如是。諸天子如汝所言。是般若波羅蜜中雖無法可得。所謂色受想行識乃至一切種智。而有三乘之教。所謂聲聞乘辟支佛乘佛乘。諸天子。若有菩薩摩訶薩行是般若波羅蜜不遠離者。視是人當如佛。以無所得故。』
尼陀那者說諸佛法本起因緣。佛何因緣說此事。修多羅中有人問故為說是事。毘尼中有人犯是事故結是戒。一切佛語緣起事皆名尼陀那。 尼陀那は、諸仏の法の本起の因縁を説く。仏は、何なる因縁もて、此の事を説きたまえるや。修多羅中には、有る人の問えるが故に、為に是の事を説きたまい、毘尼中には、有る人の、是の事を犯せるが故に、是の戒を結びたもう。一切の仏語の縁起の事は、皆尼陀那と名づく。
『尼陀那』とは、
『諸仏の法の起る!』、
『本の!』、
『因縁である!』。
『仏』は、
何のような、
『因縁』の故に、
此の、
『事』を、
『説かれたのか?』、――
『修多羅』中には、
有る、
『人が問うた!』が故に、
是の、
『事』が、
『説かれ!』、
『毘尼』中には、
有る、
『人』が、
是の、
『事』を、
『犯した!』が故に、
是の、
『戒』が、
『結ばれたのである!』。
一切の、
『仏語の起った!』、
『因縁の事』を、
皆、
『尼陀那』と、
『称するのである!』。
阿波陀那者與世間相似柔軟淺語。如中阿含中長阿波陀那經。長阿含中大阿波陀那。毘尼中億耳阿波陀那。二十億阿波陀那解。二百五十戒經中欲阿波陀那一部。菩薩阿波陀那出一部。如是等無量阿波陀那。 阿波陀那とは、世間と相似せる柔軟の浅語なり。中阿含中の長阿波陀那経、長阿含中の大阿波陀那、毘尼中の億耳阿波陀那、二十億阿波陀那、解二百五十戒経中の欲阿波陀那一部、菩薩阿波陀那より出づる一部の如く、是れ等の如き無量の阿波陀那なり。
『阿波陀那』とは、
『世間に相似する!』、
『柔軟な!』、
『浅語である!』が、
例えば、
『中阿含中の長阿波陀那経や!』、
『長阿含中の大阿波陀那や!』、
『毘尼中の億耳阿波陀那や、二十億阿波陀那や!』、
『解二百五十戒経中の欲阿波陀那の一部や、菩薩阿波陀那より出る一部のような!』、
是れ等のような、
『無量の阿波陀那である!』。
  長阿波陀那経(ちょうあぱだなきょう):『中阿含巻16長寿王本起経』参照。
  大阿波陀那(だいあぱだな):『長阿含巻1大本経』参照。
  億耳阿波陀那(おくにあぱだな):『根本説一切有部毘奈耶皮革事』等参照。
  二十億阿波陀那(にじゅうおくあぱだな):同上。また『大智度論巻9下注:二十億耳』参照。
  欲阿波陀那(よくあぱだな):不明
  菩薩阿波陀那(ぼさつあぱだな):不明。
如是語經者有二種。一者結句言我先許說者今已說竟。二者三藏摩訶衍外更有經名一目多迦。有人言目多迦。目多迦名出三藏及摩訶衍。何等是。 如是語経には、二種有り、一には結句に言わく、『我れ先に説くを許すに、今已に説き竟れり』、と。二には三蔵と摩訶衍の外に更に有る経を、一目多迦と名づく。有る人の言わく、『目多迦なり』、と。目多迦を、『三蔵、及び摩訶衍を出づ』、と名づく。何等か是れなる。
『如是語』には、
『二種有り!』、
一には、
『結句』に、こう言うものであり、――
わたしは、
先に、
『説くこと!』を、
『許した( to agree )!』が、
今は、
已に、
『説き竟った!』、と。
二には、
『三蔵、摩訶衍以外に、更に有る!』、
『経であり!』、
『一目多迦( itivRttaka )』と、
『称する!』が、
有る人は、
『目多迦( vRttaka )』と、
『言っている!』。
『目多迦』とは、
『三蔵や、摩訶衍』を、
『出るということである!』。
何のようなものが、
是の、
『目多迦なのか?』。
  (きょ):<動詞>[本義]許可/認可する( allow, permit )。同意/賛同/了承する( agree, approve of )、約束する( promise )、信ずる( believe )、給与する( give )。<名詞>処/地方( place )、[大約せる数量]~ばかり/ぐらい( approximately, numerous, about )。<副詞>恐らく( perhaps )、[大約せる数量]およそ( about )。<代名詞>そのような( such as, so, like this )、何のような( what )。
  一目多迦(いちもくたか):梵語 itivRttaka の訳、伊帝目多伽、伊帝曰多伽、如是語とも訳す、梵語 iti は、如是( thus )の義、梵語 vRtta は、起った( occurred, happened )の義、梵語 itivRtta は事件/出来事( event, incident, occurrence )の義、梵語 itivRttaka は、即ち出来事の記録( a log of some occurrences )の意。
  目多迦(もくたか):梵語 vRttaka の訳、単純な韻律を有する散文体の一種( a kind of simple but rhythmical prose composition )の義。
如佛說。淨飯王強令出家作佛弟子者佛選擇五百人堪任得道者。將至舍婆提。所以者何。以其未離欲。若近親里恐其破戒故將至舍婆提。令舍利弗目乾連等教化之。初夜後夜專精不睡。勤修精進故得道。得道已佛還將至本生國。一切諸佛法還本國時與大會諸天眾俱住迦毘羅婆仙人林中。此林去迦毘羅婆城五十里。是諸釋遊戲園。此諸釋子比丘處舍婆提。時初夜後夜專精不睡故。以夜為長從林中來。入城乞食。覺道里長遠。 仏の説きたもうが如し、『浄飯王の、強いて出家せしめ、仏弟子と作らしむるに、仏は、五百人の道を得るに堪任する者を選択し、将いて舎婆提に至りたもう。所以は何んとなれば、其の未だ離欲せざるを以って、若し親里に近づけば、其の破戒せんことを恐るるが故に、将いて舎婆提に至り、舎利弗、目揵連等をして、之を教化せしめ、初夜、後夜すら専精して睡らしめざれば、精進を勤修するが故に道を得。道を得已りて、仏は還(ま)た将いて、本の生国に至りたまえり。一切の諸仏の法は、本国に還る時、大会と、諸天衆と倶に、迦毘羅婆の仙人林中に住す。此の林は、迦毘羅婆城を去ること五十里にして、是れ諸釈の遊戯の園なり。此の諸釈子の比丘は、舎婆提に処する時、初夜、後夜にも専精して、睡らざるが故に、夜を以って長しと為し、林中より来たりて、城に入り、乞食するに、道里の長遠なるを覚ゆ。
例えば、
『仏』は、こう説かれた、――
『浄飯王』が、
『諸釈子に強いて!』、
『出家させ!』、
『仏の弟子』と、
『作らせる!』と、
『仏』は、
『五百人』の、
『道を得るに堪えられる!』者を、
『選択し!』、
『将いて( to lead )!』、
『舎婆提』に、
『至った!』。
何故ならば、
是の、
『五百人は、未だ離欲していない!』が故に、
若し、
『親里( their homeland )に近づけば!』、
『破戒するのではないか?』と、
『恐れる!』が故に、
『将いて、舎婆提に至り!』、
『舎利弗、目揵連等に教化させ!』、
『初夜にも、後夜にも睡らせず!』、
『精進』を、
『専らにさせたからである!』。
『五百の弟子』は、
『精進を勤修した!』が故に、
『道』を、
『得ることができた!』。
『五百の弟子が道を得る!』と、
『仏』は、
『還た( again )、将いて!』、
『本の生国』に、
『至った!』。
『一切の諸仏の法』は、
『本国に還る!』時、
『大会(大弟子衆)や、諸天衆と倶に!』、
『迦毘羅婆の仙人林』中に、
『住まることになっていた!』。
此の、
『林』は、
『迦毘羅婆の城』を、
『去ること( be apart from )!』、
『五十里であり( about 25km )!』、
『諸釈子』の、
『遊戯する!』、
『園であった!』。
此の、
『諸釈子の比丘』は、
『舎婆提に処する!』時には、
『初夜にも、後夜にも睡らずに!』、
『精進』を、
『専らにしていた!』が故に、
『迦毘羅婆では!』、
『夜が長く思えた!』ので、
『林中より来て!』、
『城に入って!』、
『乞食した!』が、
『道里』が、
『長遠であるように!』、
『覚えた( to feel )!』。
爾時佛知其心有一師子來禮佛足在一面住。佛以是三因緣故說偈
 不寐夜長  疲惓道長 
 愚生死長  莫知正法
爾の時、仏は、其の心を知りたもうに、有る一師子来たり、仏足を礼して、一面に在りて住せり。仏は、是の三因縁を以っての故に、偈を説きたまわく、
寐らずば夜は長く、疲倦すれば道は長し、
愚かなれば生死長く、正法を知るもの莫し
爾の時、
『仏』は、
『五百弟子の心を知られた!』が、
有る、
『一師子が来て!』、
『仏の足を礼する!』と、
『一面』に、
『住した!』。
『仏』は、
是の、
『三因縁』の故に、
『偈』を、こう説かれた、――
『寐らなければ( be sleepless )!』、
『夜は長く!』、
『疲倦すれば( be very tired )!』、
『道は長い!』。
『愚かならば!』、
『生死は長く!』、
『正法』を、
『知ることもない!』、と。
  疲倦(ひけん):疲れて倦む。
佛告比丘。汝未出家時其心放逸多睡眠故不覺夜長。今初夜後夜專精求道減省睡眠故覺夜大長。此迦毘羅婆林。汝本駕乘遊戲不覺為遠。今著衣持缽步行疲極故覺道長。 仏の比丘に告げたまわく、『汝は、未だ出家せざる時、其の心放逸にして、多く睡眠するが故に、夜の長きを覚えざるも、今、初夜、後夜に専精して、道を求むれば、睡眠を減省するが故に、夜の大長なるを覚ゆ。此の迦毘羅婆の林は、汝が本駕乗して、遊戯せるに、覚えて遠しと為さざるも、今衣を著けて、鉢を持ち、歩行して疲極せるが故に、道の長きを覚ゆ。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
お前は、
未だ、
『出家しない!』時には、
其の、
『心が放逸であり!』、
『睡眠を多くしていた!』が故に、
『夜が長い!』と、
『覚えなかった!』が、
今は、
『初夜、後夜に!』、
『精進を専らにして!』、
『道を求め!』、
『睡眠を減省している( to decrease )!』が故に、
『夜が長い!』と、
『覚えるのである!』。
此の、
『迦毘羅婆の林』は、
お前が、
本、
『駕乗して( to ride in a coach )!』
『遊戯していた!』時には、
『城が遠い!』と、
『覚えなかった!』が、
今は、
『衣を著け、鉢を持して!』、
『歩行し、疲極する!』が故に、
『道が長い!』と、
『覚えるのである!』。
  減省(げんしょう):減少に同じ。
  駕乗(がじょう):車や馬に乗る。
  疲極(ひごく):疲れが極まる。
是師子鞞婆尸佛時作婆羅門師。見佛說法來至佛所。爾時大眾以聽法故無共語者。即生惡念發惡罵言。此諸禿輩與畜生何異。不別好人不知言語。以是惡口業故。從鞞婆尸佛乃至今日。九十一劫常墮畜生中。此人爾時即應得道。以愚癡故自作生死長久。今於佛所心清淨故當得解脫。 是の師子は、鞞婆尸仏の時、婆羅門師と作り、仏の法を説きたもうに見えんと来たりて、仏所に至れり。爾の時、大衆は、聴法を以っての故に、共に語る者無ければ、即ち悪念を生じて、悪罵の言を発すらく、『此の諸の禿輩は、畜生と何ぞ異なる。好人を別たずして、言語を知らず』、と。是の悪口の業を以っての故に、鞞婆尸仏より、乃至今日まで九十一劫常に、畜生中に堕せり。此の人は、爾の時、即ち応に道を得べきに、愚癡を以っての故に、自ら生死をして、長久に作せり。今、仏所に於いて、心清浄なるが故に、当に解脱を得べし。
是の、
『師子』は、
『鞞婆尸仏の時』、
『婆羅門師と作り!』、
『仏の説法を見る!』為に、
『仏所』に、
『来て至った!』が、
爾の時、
『大衆』は、
『法を聴いていた!』が故に、
是の、
『婆羅門と、共に語る!』者が、
『無かった!』ので、
『婆羅門』は、
即ち、
『悪念を生じて!』、
『悪罵の言』を、こう発した、――
此の、
『諸の禿輩』は、
『畜生』と、
『何が、異なるのか?』。
『好人を別たず( do not distinguish a wise man )!』、
『言語』を、
『知らない!』、と。
是の、
『悪口の業』の故に、
『鞞婆尸仏より、今日に至るまで!』、
『九十一劫、常に!』、
『畜生』中に、
『堕したのである!』。
此の、
『人』は、
爾の時、
即ち、
『道を得るはずであった!』が、
『愚癡であった!』が故に、
自ら、
『生死』を、
『長久に作したのである!』。
今、
『仏所』に於いて、
『心が清浄である!』が故に、
『解脱』を、
『得ることになるだろう!』。
  鞞婆尸仏(びばしぶつ):梵名vipazyin、また毘婆尸等に作る。過去七仏の第一。『大智度論巻4上注:毘婆尸』参照。
  悪罵(あくめ):悪口と罵倒。
  禿輩(とくはい):剃髪の輩。仏弟子を罵って言う。
  好人(こうにん):梵語 sat-puruSa? の訳、善良/賢明な人( a good or wise man )の義。
如是等經名為出因緣。於何處出。於三藏摩訶衍中出故名為出。云何名因緣。是三事之本名為因緣經。 是れ等の如き経を名づけて、出の因縁と為す。何処より出づるや。三蔵、摩訶衍中より出づるが故に、名づけて出と為す。云何が、因縁と名づくる。是の三事の本を、名づけて因縁経と為す。
是れ等のような、
『経』を、
『出の因縁』と、
『称する!』。
何の、
『処より、出るのか?』、――
『三蔵、摩訶衍中より出る!』が故に、
『出』と、
『称する!』。
何故、
『因縁と称するのか?』、――
是の、
『三事(夜、道、生死が長い)の本』を、
『因縁経』と、
『称するのである!』。
本生經者。昔者菩薩曾為師子在林中住。與一獼猴共為親友。獼猴以二子寄於師子。時有鷲鳥飢行求食。值師子睡故取猴子而去住於樹上。師子覺已求猴子不得。見鷲持在樹上而告鷲言。我受獼猴寄託二子護之不謹。令汝得去。孤負言信請從汝索。我為獸中之王。汝為鳥中之主。貴勢同等宜以相還。鷲言汝不知時吾今飢乏何論同異。師子知其叵得自以利爪摑其脅肉以貿猴子。 本生経とは、昔、菩薩は、曽て師子と為り、林中に在りて住するに、一獼猴と共に親友為(た)り。獼猴は、二子を以って、師子に寄す。時に有る鷲鳥、飢えて行き、食を求む。師子に値(あ)うも睡れるが故に、猴(さる)の子を取りて去り、樹上に住す。師子覚め已りて、猴の子を求むるも、得ず。鷲の持して樹上に在るを見、鷲に告げて言わく、『我れは、獼猴より、二子を寄託せるを受けながら、之を護るに謹まざれば、汝をして去るを得しめ、言信に孤負す。請う、汝より索めん。我れは獣中の王為り、汝は鳥中の主為り、貴勢同等なれば、宜しく以って相還せ』、と。鷲の言わく、『汝は時を知らず。吾れ今飢乏せり。何ぞ同異を論ぜんや』、と。師子は、其の得べからざるを知り、自ら利爪を以って、其の脅肉を掴み、以って猴の子に貿(か)う。
『本生経』とは、――
昔、
『菩薩』は、
曽て、
『師子と為り!』、
『林』中に、
『住している!』と、
『一獼猴( a monkey )』と、
『共に!』、
『親友であった!』。
或る時、
『獼猴』が、
『師子に!』、
『二子を寄託する( to entrust his two babies )!』と、
その時、
『鷲鳥』が、
『飢えて、行きながら( to go starvingly )!』、
『食』を、
『求めており( to seek )!』、
『師子に値った( to meet that Lion )が!』、
『睡っていた!』が故に、
『猴の子を取って( to take a monkey baby )!』
『樹上に!』、
『住まった!』。
『師子が覚めて!』、
『猴の子を求めたが、得ることができず!』、
『樹上に!』、
『猴の子を持った!』、
『鷲』を、
『見て!』、
『鷲』に、こう告げた、――
わたしは、
『獼猴より!』、
『二子の寄託を受けながら!』、
之を、
『謹んで!』、
『護ることができず!』、
お前に、
『猴の子』を、
『持ち去られてしまった!』。
わたしは、
『受託の言や、信頼を!』、
『孤負したことになる( to betray )!』。
請う( I beg you )、
お前に、
『猴の子』を、
『索めよう( to demand )!』。
わたしは、
『獣中の王である!』が、
『お前は、鳥中の主である!』ので、
『尊貴、勢力』が、
『同等である!』。
宜しく( You should )、
『二子』を、
『還してくれ!』、と。
『鷲』は、こう言った、――
お前は、
『時を知らない!』。
今、
わたしは、
『飢乏しているのだ!』。
何うして、
『同じだとか、異なるとか!』、
『論じていられるのか?』、と。
『師子』は、
是の、
『二子を得られないのを、知り!』、
自ら、
『利爪を用いて!』、
『脅の肉を掴み!』、
『猴の子』と、
『貿えた( to exchange )!』。
  孤負(こふ):他人の好意に違背すること。
  言信(ごんしん):言葉と信頼。
  参考:『大方等大集経巻11海慧菩薩品』:『善男子。菩薩若欲如說而住。無惜身心以護眾生。善男子。過去世有一師子王住深山窟常作是念。我是一切獸中之王。力能視護一切諸獸。時彼山中有二獼猴共生二子。時獼猴向師子王作如是言。王若能護一切獸者。我今二子以相委付。我欲餘行求覓飲食。時師子王即便許可。時彼獼猴留其二子。付彼獸王即捨而行。是時山中有一鷲王名利見。師子王眠。即便搏取獼猴二子處嶮而住。時王寤已即向鷲王而說偈言 我今啟請大鷲王  唯願至心受我語  幸見為故放捨之  莫令失信生慚恥  鷲王說偈報師子王 我能飛行遊虛空  已過汝界心無畏  若必護是二子者  為我故應捨是身  師子王言 我今為護是二子  捨身不惜如枯草  若我護身而妄語  云何得稱如說行  說是偈已即至高處欲捨其身。爾時鷲王復說偈言 若為他故捨身命  是人即受無上樂  我今施汝獼猴子  願大法王莫自害  善男子。時師子王即我身是。雄獼猴者即迦葉是。雌獼猴者善護比丘尼是。二獼猴子即今阿難羅[目*侯]羅是。時鷲王者即舍利弗是。善男子。菩薩為護是依止者不惜身命。』
又過去世時人民多病黃白痿熱。菩薩爾時身為赤魚。自以其肉施諸病人以救其疾。 又過去世の時、人民に、黄白痿熱を病むもの多し。菩薩は、爾の時、身を赤き魚と為し、自ら、其の肉を以って、諸の病人に施し、以って、其の疾を救えり。
又、
『過去世の時』、
『人民』には、
『黄白痿熱を病む!』者が、
『多かった!』。
『菩薩』は、
爾の時、
『赤魚の身と為り!』、
『諸の病人』に、
自ら、
『身の肉』を、
『施して!』、
其の、
『疾』を、
『救った!』。
  黄白痿熱(おうびゃくいねつ):身に黄白色を呈し手足が痺れる熱病。
  参考:『撰集百縁経巻4』:『蓮華王捨身作赤魚緣  佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊。秋果熟時。將諸比丘。遊行聚落。噉食果蓏。皆不消化。多有瘧疾。種種病生。不能坐禪讀誦行道。爾時阿難。前白佛言。如來世尊。宿造何福。凡所食噉。能使消化。不為身內作諸患苦。今者威顏益更鮮澤。佛告阿難。我自憶念過去世時。修行慈悲。和合湯藥。用施眾生。以是之故。得無病報。凡所食噉。皆悉消化。無有患苦。爾時阿難。復白佛言。不審世尊。過去世時。其事云何。願為解說。佛告阿難。汝今諦聽。吾當為汝分別解說。乃往過去。波羅奈國有王。名曰蓮華。治正天下。人民熾盛。豐樂無極。無諸兵甲。不相征罰。饒諸象馬牛羊六畜。甘蔗蒲桃。及諸果蓏。甘甜而美。時彼人民。貪食多故。不能消化。種種病生。各相扶侍。來詣王所。求索醫藥。時蓮華王見是病人生大悲心。集喚眾醫。敕令合藥施於民眾。病者遂多。不能救療。時蓮華王。詰責眾醫。汝等今者有何事故。不治民眾。使來向我。諸醫白王。湯藥不具。是以不治。我等今者。尚有病苦。不能自治。況餘病者。時蓮華王。聞是語已。深用惆悵。問諸醫言。有何不具。諸醫答曰。須得赤魚肉血食者。病乃可差。我今諸醫。各各募索。了不能得。以是之故。病者遂多。死亡者眾。時蓮華王。作是念言。今者赤魚。鉤不可得。我當求願。作赤魚形。為治眾生身中諸病。作是念已。召喚太子及諸大臣。我以國土。囑累卿等。好共治化。莫枉民眾。時王太子。及諸大臣。聞是語已。悲感哽噎。涕泣墮淚。悲不能言。前白大王。我等諸臣。及以太子。有何非法。乃使大王有是恨語。時蓮華王。答其太子及以諸臣。我於今者。不見卿等有過狀耶。但此國內。一切民眾。多諸病苦。死亡者眾。須得赤魚血肉服者。病乃可差。是以我今欲捨此身。作赤魚形。治諸民病。是故今者。喚卿等來。委付國土。爾時太子。及諸大臣。聞王是語。[口*睪]天而哭。悲感哽噎。前抱王足。我等今者。賴王慈覆。國土豐樂。人民熾盛。得蒙存活。云何一旦便欲孤棄捨我等去。時蓮花王。答太子曰。我今所作。亦為民眾。云何卿等而見固遮。爾時大子及諸大臣。種種諫王不能使住。時蓮華王。捉持香花。尋上高樓。四方作禮。發大誓願。我捨此身。使我生彼波羅奈國大河之中。作大赤魚。有其食者眾病皆愈。發是願已。自投樓下。即便命終。生彼河中。作大赤魚。時諸民眾。聞彼河中有大赤魚。各齎斤斧競來破取。食其血肉。病皆除愈。其所割處。尋復還生。如是展轉。經十二年。給施眾生。無有毛髮悔恨之心。於是命終。生忉利天。佛告阿難。欲知爾時蓮華王者。則我身是。由於彼時捨此身命活眾生故。無量世中。未曾病苦。乃至今者。自致成佛。度脫眾生。爾時諸比丘。聞佛所說。歡喜奉行』
又昔菩薩作一鳥身在林中住。見有一人入於深水非人行處。為水神所罥水神罥法著不可解。鳥知解法至香山中取一藥草著其罥上。繩即爛壞人得脫去。如是等無量本生多有所濟。是名本生經。 又昔、菩薩は、一鳥の身と作り、林中に在りて住するに、有る一人の深水の非人の行処に入り、水神に罥(あみ)うたるるを見る。水神の罥法は、著して解くべからず。鳥は、解法を知り、香山中に至って、一薬草を取り、其の罥上に著くれば、縄は即ち爛壊して、人は脱れ去るを得。是れ等の如き、無量の本生に多く済う所有り、是れを本生経と名づく。
又、
昔、
『菩薩』は、
『一鳥と作って!』、
『林中に住している!』と、
有る、
『一人』が、
『非人の行處である( a demon's dwelling place )!』、
『深い水』に、
『入り!』、
『水神』に、
『罥うたれる( to be cached in a net )!』のが、
『見えた!』。
『水神』の、
『罥法( the nature of the net )』は、
『著く( to be catched )!』と、
『解けないということである!』が、
『鳥』は、
『解法を知っており( to know how to release )!』、
『香山中に至る!』と、
『一薬草』を、
『取り!』、
『罥の上に著ける( to put it on the net )!』と、
『縄は、即ち爛壊して!』、
『人』は、
『脱れ去ることができた!』。
是れ等のような、
『無量の本生( Buddha's previous lives )には!』、
『済う!』所が、
『多く有る!』が、
是れを、
『本生経』と、
『称するのである!』。
  (けん):網( net )。梵語 paaza の訳、投げ縄/仕掛けわな/輪縄/紐/縄/鎖/足枷( a snare, trap, noose, tie, bond, cord, chain, fetter )の義。
  行処(ぎょうしょ):◯梵語 abhisaMskaara- sthaana の訳、精神作用の場( locus of mental functioning )の義。◯梵語 aacaara の訳、劇の役割( defining activity, role, part to play )の義、行為/振舞い/善行( conduct, manner of action, behaviour, good behaviour, good conduct )の意。◯梵語 gocara の訳、牧場( pasture ground for cattle )、放牧地/活躍の場/住処/住居( range, field for action, abode, dwelling place )の義。
  非人(ひにん):梵語 amanuSya の訳、人以外の何物か( a non-man, one who is not a man, anyother being but a man )の義、鬼神/悪鬼( a demon )の意。
廣經者名摩訶衍。所謂般若波羅蜜經六波羅蜜經華手經法華經佛本起因緣經雲經法雲經大雲經。如是等無量阿僧祇諸經。為得阿耨多羅三藐三菩提故說 広経を、摩訶衍と名づけ、謂わゆる般若波羅蜜経、六波羅蜜経、華手経、法華経、仏本起因縁経、雲経、法雲経、大雲経にして、是れ等の如き無量、阿僧祇の諸経は、阿耨多羅三藐三菩提を得んが為めの故に説かる。
『広経』とは、
『摩訶衍であり!』、
謂わゆる、
『般若波羅蜜経、六波羅蜜経、華手経、法華経や!』、
『仏本起因縁経、雲経、法雲経、大雲経である!』が、
是れ等のような、
『無量阿僧祇の諸経』は、
『阿耨多羅三藐三菩提を得る!』為の故に、
『説かれた!』。
  六波羅蜜経(ろくはらみつきょう):『六度集経8巻』等参照。
  華手経(けしゅきょう):『仏説華手経10巻』等参照。
  法華経(ほけきょう):『妙法蓮華経7巻』等参照。
  仏本起因縁経(ぶつほんぎいんねんきょう):『仏本行集経60巻』等参照。
  雲経(うんきょう)、法雲経(ほううんきょう)、大雲経(だいうんきょう):『宝雲経7巻』等参照。
未曾有經。如佛現種種神力眾生怪未曾有。所謂佛生時身放大光明。照三千大千世界及幽闇之處。復照十方無量諸佛三千大千世界。是時於佛母前有清淨好池以浴菩薩。梵王執蓋帝釋洗身二龍吐水。又生時不須扶持而行七步。足跡之處皆有蓮華。而發是言。我是度一切眾生老病死者。地大震動天雨眾花樹出音聲作天伎樂。如是等無量希有事是名未曾有經。 未曽有経は、仏の種種の神力を現したもうに、衆生、未曽有なりと怪しむが如し。謂わゆる、仏の生じたもう時、身より大光明を放って、三千大千世界、及び幽闇の処を照し、復た十方の無量の諸仏の三千大千世界を照せば、是の時、仏母の前に於いて、清浄の好池有り、以って菩薩を浴するに、梵王は蓋を執り、帝釈は身を洗うに、二龍、水を吐けり。又生じたもう時、扶持を須(ま)たずして、七歩行き、足跡の処に、皆蓮華有り、而も是の言を発すらく、『我れは是れ一切の衆生の老病死を度する者なり』、と。地は大いに震動し、天は衆花を雨ふらし、樹は音声を出して、天の伎楽を作せり。是れ等の如き無量の希有の事、是れを未曽有経と名づく。
『未曽有経』は、
例えば、
『仏が、種種の神力を現される!』と、
『衆生』が、
『未曽有である!』と、
『怪しむようなことである!』。
謂わゆる、
『仏』は、
『生まれる!』時、
『身より、大光明を放って!』、
『三千大千世界と、三千大千世界の幽闇の処』を、
『照し!』、
復た、
『十方の無量の諸仏の三千大千世界』を、
『照された!』が、
是の時、
『仏母の前に!』、
『清浄の好池が有って( a pure pond had appeared )!』、
『菩薩を沐浴させる!』と、
『梵王が蓋を執り !』、
『帝釈が身を洗い!』、
『二龍が水を吐いた1』。
又、
『生まれる!』時、
『扶持を須たずに( do not wait to be supported )!』、
『七歩行く!』と、
『足跡には、皆( on each footprint )』、
『蓮華が有り( a lotus flower had appeared )!』、
而も、こう言われると、――
わたしは、
『一切の衆生の老病死』を、
『度する者である!』、と。
『地は大いに振動し!』、
『天は衆華を雨ふらし!』、
『樹』は、
『音声を出して!』、
『天の伎楽を作した( play the heavenly musics )!』。
是れ等のような、
『無量の希有の事』を、
『未曽有経』と、
『称する!』。
  (う):<動詞>[本義][無に対して]有る/所有する( have, possess )。存在する( there be )、取得/獲得する( get, seize )、発る/発生する/現われる/現わす( happen, appear, show )。<形容詞>[人、時候、地方の前に在って一部分を表示する]ある~( some )、[不定の人、時、地方を指すことを表示する]ある~( one )。<副詞>或いは( perhaps )。
  扶持(ふじ):手を以って保持する( support sb. with one's hand )、助ける/扶助する( support, help )。
論議經者。答諸問者釋其所以。又復廣說諸義。如佛說四諦。何等是四。所謂四聖諦。何等是四。所謂苦集滅道聖諦是名論議。何等為苦聖諦。所謂生苦等八種苦。何等是生苦。所謂諸眾生各各生處是中受苦。如是等問答廣解其義。是名優波提舍。 論議経とは、諸の問者に答うる、其の所以を釈し、又復た諸の義を広説す。仏の、四諦を、『何等か、是れ四なる。謂わゆる四聖諦なり。何等か、是れ四なる。謂わゆる苦集滅道聖諦なり』、と説きたもうが如き、是れを論議と名づく。『何等か苦聖諦と為す。謂わゆる生苦等の八種の苦なり。何等か、是れ生苦なる。謂わゆる諸の衆生の各各の生処にして、是の中に苦を受く』、是れ等の問答もて、其の義を広く解すれば、是れを優波提舎と名づく。
『論議経』とは、
諸の、
『問者』に、
『答えながら!』、
其の、
『所以( reason )』を、
『釈すものである!』。
又復た、
諸の、
『義』を、
『広く説くものである!』。
例えば、
『仏』は、
『四諦』を、こう説かれた、――
是の、
『四諦』とは、
何のような、
『四ですか?』。
謂わゆる、
『四聖諦である!』。
是の、
『四聖諦』とは、
何のような、
『四ですか?』。
謂わゆる、
『苦、集、滅、道という!』、
『聖諦である!』、と。
是れが、
『論議である( is the discussions )!』。
例えば、
『苦聖諦とは、何のようなものか?』、――
謂わゆる、
『生苦』等の、
『八種の苦である!』。
『生苦とは、何のようなものか?』、――
謂わゆる、
『諸の衆生』の、
『各各の!』、
『生処であり!』、
是の中に、
『苦』を、
『受ける!』。
是れ等のような、
『問答を用いて!』、
其の、
『義』を、
『広く解説すれば!』、
是れを、
『優波提舎( the discussions )』と、
『称する!』。
  優波提舎(うぱだいしゃ):梵語 upadeza の訳、優婆提舎、論議とも訳す、詳述/教授( specification, instruction, teaching )の義、議論/討論( to argue, discuss, debate )の意。十二部経の一( As one of the twelve traditional genre divisions of the Buddhist canon )、問答形式の教義の論議を言う( it refers to discussions of doctrine, carried out in the form of question and answer. )、是の類の文献中に於いて、仏は教義を詳細に論じて、その意味を明らかにしている( In literature of this category, the Buddha discusses his doctrine in minute detail, clarifying its meaning. )。
如摩訶衍中佛說六波羅蜜。何等六。所謂檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。何等是檀波羅蜜。檀波羅蜜有二種。一者具足。二者不具足。何等是具足。與般若波羅蜜和合。乃至十住菩薩所得是名具足。不具足者。初發菩薩心未得無生忍。法未與般若波羅蜜和合是名不具足。乃至禪波羅蜜亦如是。般若波羅蜜具足者有方便力。未具足者無方便力。 摩訶衍中に、仏の六波羅蜜を、『何等か、六なる。謂わゆる檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜なり。何等か、是れ檀波羅蜜なる。檀波羅蜜には、二種有り、一には具足、二には不具足なり。何等か、是れ具足なる。般若波羅蜜と和合し、乃至十住の菩薩の所得なる、是れを具足と名づく。不具足とは、初めて菩薩の心を発すに、未だ無生忍の法を得ず、未だ般若波羅蜜と和合せず、是れを不具足と名づく。乃至禅波羅蜜も、亦た是の如し。般若波羅蜜を具足すれば、方便力有るも、未だ具足せざれば、方便力無し』、と説きたまえるが如し。
例えば、
『摩訶衍を説く!』中に、
『仏』は、
『六波羅蜜』を、こう説かれている、――
何のような、
『六か?』、
謂わゆる、
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜である!』。
何のようなものが、
是の、
『檀波羅蜜なのか?』。
『檀波羅蜜』には、
『二種有り!』、
一には、
『具足した!』、
『檀波羅蜜であり!』、
二には、
『具足しない!』、
『檀波羅蜜である!』。
何のようなものが、
『具足しているのか?』、
『檀波羅蜜』が、
『般若波羅蜜と!』、
『和合している!』か、
乃至、
『十住の菩薩』の、
『所得であり!』、
是れが、
『具足した!』、
『檀波羅蜜である!』。
何のようなものが、
『具足していないのか?』、
『初発心の菩薩』は、
未だ、
『無生忍法』を、
『得ていない!』ので、
未だ、
『般若波羅蜜』と、
『和合していない!』、
是れを、
『具足しない!』と、
『称するのである!』。
乃至、
『禅波羅蜜』も、
『是の通りである!』。
『般若波羅蜜』が、
『具足すれば!』、
『方便の力』が、
『有り!』、
『未だ、具足しなければ!』、
『方便の力』が、
『無い!』、と。
  参考:『大品般若経巻5問乗品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。何等是菩薩摩訶薩摩訶衍。云何當知菩薩摩訶薩發趣大乘。是乘發何處。是乘至何處。當住何處。誰當乘是乘出者。佛告須菩提。汝問何等是菩薩摩訶衍。須菩提。六波羅蜜是菩薩摩訶薩摩訶衍。何等六。檀那波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。云何名檀那波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。內外所有布施共一切眾生迴向阿耨多羅三藐三菩提用無所得故。須菩提。是名菩薩摩訶薩檀那波羅蜜。云何名尸羅波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自行十善道亦教他行十善道。以無所得故。是名菩薩摩訶薩尸羅波羅蜜。云何名羼提波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自具足忍辱亦教他行忍辱。以無所得故。是名菩薩摩訶薩羼提波羅蜜。云何名毘梨耶波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。行五波羅蜜懃修不息。亦安立一切眾生於五波羅蜜。以無所得故。是名菩薩摩訶薩毘梨耶波羅蜜。云何名禪那波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。自以方便入諸禪不隨禪生。亦教他令入諸禪。以無所得故。是名菩薩摩訶薩禪那波羅蜜。云何名般若波羅蜜。須菩提。菩薩摩訶薩以應薩婆若心。不著一切法亦觀一切法性。以無所得故。亦教他不著一切法。亦觀一切法性。以無所得故。是名菩薩摩訶薩般若波羅蜜。須菩提。是為菩薩摩訶薩摩訶衍。』
復次佛所說論議經。及摩訶迦栴延所解修多羅。乃至像法凡夫人如法說者亦名優波提舍。 復た次ぎに、仏の所説の論議経、及び摩訶迦旃延の修多羅を解する所、乃至像法の凡夫人の如法の説も、亦た優波提舎と名づく。
復た次ぎに、
『仏の所説の論議経や!』、
『摩訶迦旃延の修多羅の解説したものや!』、
乃至
『像法の凡夫人が如法の所説も!』、
亦た、
『優波提舎』と、
『称される!』。
  像法(ぞうほう):正像末三時の一。像とは似なり、仏滅後五百年の後の一千年間に行われたる所の正法相似の仏法を謂う。<(丁)
  正像末(しょうぞうまつ):凡そ一仏の出世は則ちその仏を以って本と為し、正法、像法、末法の三時を立つ。然るに諸経は皆正像の二時を説くのみにして、「大悲経」のみ独り正像末の三時を説き、また雑阿含、倶舎論の如きは、ただ正法の一時を説けるのみ。一に正法とは、正とは証なり、仏世を去りたもうといえども、法儀は未だ改まらず、教有り行有りて証果を得る者有れば、これを正法の時と為す。二に像法とは、像とは似なり、訛替なり、道化して漸く訛替し、而も真正の法儀、行儀は行われず、随って証果の者無く、但だ教有り行有り、而も像似の仏法行わる、この時、これを像法の時と謂う。三に末法とは、末とは微なり、転た微末と為り、但だ教有りて行無く、証果無き時、これを末法の時と為す。「嘉祥法華義疏巻5」に曰く、「仏世を去りたもうといえども、法儀未だ改まらず、謂わく正法の時なり。仏世を去りたもうこと久しく、道化して訛替す、謂わく像法の時なり。転たまた微末となる、謂わく末法の時なり」と。「法華玄賛巻5」に曰く、「もし仏の正法なれば、教行証の三、皆具足して有り。もし仏の像法なれば、唯教行のみ有りて証果の者無し。もし仏の末法なれば、ただ教の在るもの有るのみにして、行証並べて無し」と。「青龍仁王経疏巻3下」に曰く、「教有り行有りて果証を得る有り、名づけて正法と為す。教有り行有りて果証無し、名づけて像法と為す。ただその教のみ有りて、行無く証無し、名づけて末法と為す」と。また「倶舎論巻29」には教証を以って正法の体と為し、正法の世に住するを、一千歳と為すことを明せり。教法とは経律論の三蔵なり、証法とは三乗の菩提分法なり(前に言う証果と異なり)。もしある人、その教法において誦持し、及び正説せば、教法の世に住すと為し、もしある人、その菩提分法を行ぜば、証法の世に住すと為す、故にこの三人の世に住する時量に随い、正法の世に住する時量を知る。聖教中には総じて唯千歳住すと為すと言えり(証法は唯千年住すのみ、教法の住時は、また此を過ぎて則ち像法なり)。頌に曰く、「仏正法に二有り、謂わく教と証とを体と為す、持説行の者有らば、此便ち世間に住す」と。<(丁)
聲聞所不聞者。佛獨與菩薩說法。無諸聲聞聽者。又佛以神通力變身無數。遍至十方一乘世界說法。又復佛為欲天色天說法。無諸弟子故不得聞。 声聞の聞かざる所とは、仏は、独り菩薩の与(ため)に、法を説きたまえば、諸声聞の聴く者無し。又仏は神通力を以って身を無数に変じ、遍く十方の一乗の世界に至りて、法を説きたまい、又復た仏は欲天、色天の与に法を説きたもうも、諸弟子無きが故に、聞くを得ず。
『声聞の聞かない!』所とは、
『仏』は、
独り( only )、
『菩薩の与に( for the Bodhisattva )!』、
『法』を、
『説かれた!』ので、
『諸の声聞には!』、
『聴いた!』者が、
『無いからである!』。
又、
『仏』は、
『神通力を用いて!』、
『身を、無数に変じられる!』と、
『遍く、十方の一乗世界に至って!』、
『法』を、
『説かれた!』し、
又復た、
『仏』は、
『欲天や、色天の為に!』、
『法を!』、
『説かれた!』が、
諸の、
『弟子ではない( they are not Buddha's disciples )!』が故に、
『聞くことができなかったのである!』。
  一乗世界(いちじょうせかい):声聞、辟支仏が無く、菩薩のみ有る大乗世界。
  (む):<名詞>[本義]楽舞( sing and dance )。[虚無等の如く、形が無いことを指す]、或いは[物質の隠微なる状態を指す]無い( nihility, non-existence, nothingness )。<動詞>[有るに対す]所有でない/存在しない( not have, there is not )。<副詞>[動詞や形容詞に対する否定を表示する]不/未/不曽/でない( not, no )、不要/必ずしも~せず/~するに値せず( need not, not have to, be not worth )。<代名詞>[人、事物、時間、処所等を決定して指しえないことを表示する]誰も~しない、何も~しない、何時も~しない、何処でも~しない( nothing )。◯梵語 abhava の訳、不存在/存在しないこと( non-existence )の義。
問曰。諸六通阿羅漢。若佛說時雖不在坐以天耳天眼可得見聞。若以宿命通并知過去事何以不聞。 問うて曰く、諸の六通の阿羅漢は、若し仏の説きたもう時、坐に在らずと雖も、天耳、天眼を以って、見聞するを得べし。若しは宿命通を以って、並びに過去の事をも知るに、何を以ってか聞かざる。
問い、
諸の、
『六通の阿羅漢』は、
『仏が説かれる!』時、
若し、
『坐にいなくても!』、
『天耳や、天眼を用いて!』、
『見ることができ!』、
『聞くことができるだろう!』し、
若しは、
『宿命通を用いて!』、
並びに、
『過去の事』を、
『知ることができる!』のに、
何故、
『聞かないのですか?』。
答曰。諸聲聞神通力所不及處。是故不聞。 答えて曰く、諸の声聞の神通力の及ばざる所に処すれば、是の故に聞かず。
答え、
諸の、
『声聞の神通力』の、
『及ばない!』、
『処にいたので!』、
是の故に、
『聞かなかったのである!』。
復次佛為諸大菩薩說不可思議解脫經。舍利弗目連在佛左右而不得聞。以不種是聞大乘行法因緣故。譬如坐禪人入一切處定中。能使一切皆水皆火而餘人不見。如不可思議解脫經中廣說。 復た次ぎに、仏は、諸大菩薩の為に『不可思議解脱経』を説きたもうに、舎利弗、目連は、仏の左右に在るも、聞くを得ず。是の大乗の行法を聞く因縁を種えざるを以っての故なり。譬えば坐禅人の、一切処定中に入れば、能く一切をして、皆水にならしめ、皆火にならしむるも、余人は見ざるが如く、『不可思議解脱経』中に広説せるが如し。
復た次ぎに、
『仏』が、
『諸の大菩薩の為に!』、
『不可思議解脱経』を、
『説かれる!』と、
『舎利弗や、目連』は、
『仏の左右におりながら!』、
『聞くことができなかった!』。
『舎利弗や、目連』は、
是の、
『大乗の行法を聞く!』、
『因縁』を、
『種えなかったからである!』。
譬えば、
『坐禅人』が、
『一切処定中に入って!』、
『一切を、皆水にしても!』、
『一切を、皆火にしても!』、
『余人』には、
是の、
『火や、水が!』、
『見えないように!』と、
『不可思議解脱経』中に、
『広く!』、
『説かれた通りである!』。
  参考:『60大方広仏華厳経巻44』:『如是等事。一切聲聞諸大弟子。皆悉不見。何以故。修習別異善根行故。本不修習能見如來自在善根。亦不修習淨佛土行。又不讚歎見佛自在所得功德。不於生死中教化眾生發阿耨多羅三藐三菩提心。亦不安立眾生於佛菩提。亦不守護如來種姓令不斷絕。亦不攝取一切眾生。亦不成就諸波羅蜜。不為眾生稱歎勝妙智慧眼地。亦不修習一切智行。不求諸佛離世善根。亦不出生自在淨剎。不求菩薩諸通明眼。不修菩薩境界不壞善根。亦不出生佛力住持菩薩大願。又亦不知諸法如幻菩薩集會悉皆如夢。亦不修習菩薩離生聖行之心。不得普賢清淨智眼。是諸功德。不與聲聞辟支佛共。以是因緣。諸大弟子。不見不聞。不入不知。不覺不念。不能遍觀。亦不生意。何以故。此是菩薩智慧境界非諸聲聞智慧境界。是故諸大弟子在祇洹林。不見如來自在神力。亦無三昧清淨智眼於微細處見諸境界。亦無法門神力境界。亦無諸力勝妙功德。亦無是處智。亦無智眼能見聞覺知及生意念。亦不樂說。不能讚歎。不能顯現。不能施與。不能勸化安立眾生於彼妙法。』
  参考:『60大方広華厳経巻44』:『譬如比丘在大會中入一切處定。所謂地水火風天眾生境界。其餘大眾。悉不能見地水火風乃至境界諸一切處。如來所現不可思議。菩薩悉見。諸大聲聞不知不見。』
盡欲受持者聞而奉行為受。久久不失為持
大智度論卷第三十三
『尽く、受持せんと欲する者は、聞いて奉行するを受と為し、久久に失わざるを持と為す』、と
大智度論巻第三十三
『尽く、受持しようとすれば!』とは、――
『聞いたならば!』、
『奉行する( to pursue )!』のが、
『受けるということであり!』、
『久久に( for a long time )!』、
『失わない!』のが、
『持するということである!』。

大智度論巻第三十三
  久久(くく):梵語 duura の訳、[場所や時間が]遠く離れていること( remoteness (in space and time) )の義。


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