巻第三十三(上)
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大智度論釋初品中到彼岸義第五十(卷三十三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


有為、無為の彼岸に到る

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲到有為無為法彼岸者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、有為法、無為法の彼岸に到らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『有為法や、無為法の彼岸に!』、
『到ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】彼岸者。於有為無為法盡到其邊。云何是彼岸以大智慧悉知悉盡。有為法總相別相種種悉解。無為法中從須陀洹至佛悉皆了知。有為無為法相義如先說 彼岸とは、有為、無為法に於いて、尽く其の辺に到ればなり。云何が、是れ彼岸なる。大智慧を以って、悉く知り、悉く尽くせばなり。有為法は、総相、別相を種種に悉く解し、無為法中は、須陀洹より、仏に至るまで、悉く皆了知す。有為、無為の法相の義は、先に説けるが如し。
『彼岸』とは、
『有為法、無為法』を、
尽く、
其の、
『辺に到るまで!』、
『知ることである!』。
何故、
『彼岸なのか?』、――
『大智慧を用いて!』、
悉く、
『有為法、無為法』を、
其の、
『辺に到るまで!』、
『知り尽くすからである!』。
『有為法』は、
其の、
『総相、別相』を、
種種に、
『悉く!』、
『理解し!』、
『無為法』中は、
『須陀洹より、仏まで!』、
悉く皆、
其の、
『相』を、
『了知している!』。
『有為法、無為法の相の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
  参照:『大智度論巻32』:『【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲知一切諸法如法性實際。當學般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是住般若波羅蜜【論】諸法如有二種。一者各各相二者實相。各各相者。如地堅相水濕相火熱相風動相。如是等分別諸法各自有相。實相者。於各各相中分別求實不可得不可破。無諸過失如自相空中說。地若實是堅相者。何以故膠蠟等與火會時捨其自性。有神通人入地如水又分散木石則失堅相。又破地以為微塵以方破塵終歸於空亦失堅相。如是推求地相則不可得。若不可得其實皆空空則是地之實相。一切別相皆亦如是。是名為如。法性者如前說各各法空。空有差品是為如。同為一空是為法性。』



諸法の如、法相、無生の際を知る

【經】菩薩摩訶薩欲知過去未來現在諸法如諸法法相無生際者。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、過去、未来、現在の諸法の如、諸法の法相、無生の際を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『過去、未来、現在』の、
『諸法の如や!』、
『諸法の法相や!』、
『無生の際』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。上已說如。今何以更說。 問うて曰く、上に已に如を説けり。今は、何を以ってか、更に説く。
問い、
上に、
『如』は、
『已に、説かれている!』。
今、
何故、
『更に、説かれるのですか?』。
答曰。上直言諸法如今言三世皆如。上略說此廣說。上說一此說三。法相即是法性。無生際即是實際。過去法如即是過去法相。未來現在亦如是。 答えて曰く、上には直(た)だ諸法の如を言うも、今は三世の皆如なるを言う。上には略説し、此には広説す。上には一を説き、此には三を説く。法相とは、即ち是れ法性なり。無生の際とは、即ち是れ実際なり。過去法の如とは、即ち是れ過去の法相なり。未来、現在も亦た是の如し。
答え、
上には、
直だ( only )、
『諸法は如である!』と、
『言ったのであり!』、
今は、
『三世の諸法』は、
『皆、如である!』と、
『言うのである!』。
即ち、
上には、
『略説した!』ので、
此には、
『広説するのである!』。
上には、
『一』を、
『説いた!』ので、
此には、
『三』を、
『説くのである!』。
『法相』とは、
即ち、
『法性である!』。
『無生の際』とは、
即ち、
『実際である!』。
『過去の法』の、
『如』とは、
『過去の法相であり!』、
亦た、
『未来、現在』も、
『是の通りである!』。
  (にょ):梵語 tathaa, yathaa の訳、その様に/その様な( in that manner, so, thus )、その通り( yes, so be it, so it shall be )の義、絶対の意味を以って、空の異名として用いられる( Used in the sense of the absolute, another way of describing emptiness śūnya )の意。
  法性(ほっしょう):法の性( Dharma nature )、梵語 dharmataa の訳、事物の真実の性/実性( The true nature of things, reality. )、本質/固有の性質( essence, inherent nature )、自己中に於いて完結した実在( Reality as complete in itself )、特に大乗哲学的な概念としては、真如に同等である( distinctively Mahāyāna philosophical concept equivalent to thusness )。
  実際(じっさい):真実の極致( apex of reality )。梵語 koTi, bhuuta-koTi の訳、真実の限界/絶対的真実( the limit of reality, absolute truth, absolute reality )の義、分別/差別を越えて/越えた者( beyond distinction, that which is beyond distinction )の意。
  法相(ほうそう):梵語 dharma- lakSaNa の訳、現象的特質( characteristics of phenomena )の義。法乃至教義の特質( The characteristics of the Dharma —the teachings )の意。
復次過去法如即是未來現在法如。現在法如即是過去未來法如。未來法如即是過去現在法如。所以者何。如相非一非異故。 復た次ぎに、過去の法の如は、即ち是れ未来、現在の法の如にして、現在の法の如は、即ち是れ過去、未来の法の如、未来の法の如は、即ち是れ過去、現在の法の如なり。所以は何んとなれば、如の相は、一に非ず、異に非ざればなり。
復た次ぎに、
『過去の法』の、
『如』とは、
即ち、
『未来、現在の法』の、
『如であり!』、
『現在の法』の、
『如』は、
即ち、
『過去、未来の法』の、
『如であり!』、
『未来の法』の、
『如』は、
即ち、
『過去、現在の法』の、
『如である!』。
何故ならば、
『如の相』は、
『一でもなく( be not identical )!』、
『異でもない( be not different )からである!』。
  非一非異(ひいちひい):梵語 anyaananyatva の訳、同一でもなく、別異でもない( neither identical nor different )の義。
  一異(いちい):梵語 ekatvaanyatva, anyaananyatva の訳、同一と別異( sameness and difference )の義。
復次如先說二種如。一者世間如。二者出世間如。用是世間如三世各各異。用是出世間如三世為一 復た次ぎに、先に二種の如を説けるが如く、一には世間の如、二には出世間の如なり。是の世間の如を用うれば、三世は各各異なるも、是の出世間の如を用うれば、三世を一と為す。
復た次ぎに、
先に、
『二種の如』を、こう説いたが、――
一には、
『世間』の、
『如であり!』、
二には、
『出世間』の、
『如である!』、と。
是の、
『世間の如を用いれば!』、
『三世』は、
『各各の相』が、
『異なる!』が、
是の、
『出世間の如を用いれば!』、
『三世』の、
『各各の相』は、
『一である!』。
復次法相名諸法業諸法所作力因緣果報。如火為熱相水為濕相。如是諸法中分別因緣果報各各別相。如是處非處力中說。是名世間法相。若是諸法相推求尋究。入無生法中更無過是者是名無生際。 復た次ぎに、法相を、諸法の業、諸法の所作、力、因縁、果報は、火を熱相と為し、水を湿相と為すが如しと名づく。是の如く、諸法中に、因縁と、果報を分別すれば、各各別相なり。是処非処力中に説けるが如き、是れを世間の法相と名づく。若し是の諸法の相を推求し、尋究して、無生法中に入れば、更に是を過ぐる者無し、是れを無生の際と名づく。
復た次ぎに、
『法相』とは、
『諸法』の、
『業であり!』、
『諸法』の、
『作る!』所の、
『力や、因縁や、果報である!』が、
譬えば、
『火の熱相や!』、
『水の湿相のようなものである!』。
是のように、
『諸法』中に、
『因縁や、果報を分別すれば!』、
各各は、
『別相である!』。
例えば、
『十力中に説いた!』、
『是処非処力のようなもの!』が、
『世間の法相であり!』、
若し、
是の、
『諸法の相を推求、尋究して!』、
『無生という!』、
『法』中に、
『入れば!』、
更に、
是の、
『法を過ぎて!』、
『法』は、
『無いので!』、
是れを、
『無生の際』と、
『称するのである!』。
問曰。如法相可分別有三世。無生際是未來法云何有過去現在。如阿毘曇說。生法者過去現在。是無生法者未來及無為法。是云何欲令過去現在有無生。 問うて曰く、如と法相とは、分別して三世に有るべきも、無生の際は、是れ未来法なれば、云何が、過去、現在有らん。阿毘曇に説けるが如きは、『生法は、過去、現在是れなり。無生法は、未来、及び無為の法是れなり』、と。云何が、過去、現在をして、無生有らしめんと欲する。
問い、
『如や、法相を分別すれば!』、
『三世に有るだろう!』が、
『無生の際』は、
『未来』に、
『有る!』、
何故、
『過去や、現在に!』、
『有るのか?』。
『阿毘曇』は、こう説いているが、――
『生という!』、
『法』は、
『過去や、現在』の、
『法である!』が、
『無生という!』、
『法』は、
『未来と、無為』の、
『法である!』、と。
何故、
『過去や、現在に!』、
『無生』を、
『有らせようとするのか?』。
  参考:『阿毘達磨品類足論巻6』:『已生法云何。謂過去現在法。非已生法云何。謂未來法及無為。正生法云何。謂若法未來現前正起。非正生法云何。謂除未來現前正起法。諸餘未來及過去現在。并無為法。已滅法云何。謂過去法。非已滅法云何。謂未來現在。及無為法。正滅法云何。謂若法現在現前正滅。非正滅法云何。謂除現在現前正滅法。諸餘現在及過去未來。并無為法。緣起法云何。謂有為法。非緣起法云何。謂無為法。緣已生非緣已生法。因法非因法。有因法非有因法因已生法非因已生法亦爾。因相應法云何。謂一切心心所法。因不相應法云何。謂色無為心不相應行』
答曰。如先種種說破生法。一切法皆無生。何但未來無生。如一時義中已破三世。三世一相所謂無相。如是則無生相。 答えて曰く、先に種種に説いて、生法を破りしが如く、一切法は、皆無生なり。何んが但だ未来のみ、無生ならんや。『一時の義』中に、已に三世を破りしが如く、三世は、一相にして、謂わゆる無相なり。是の如ごときは、則ち無生の相なり。
答え、
先に、
種種に、
『生法』を、
『説いて!』、
『破ったように!』、
一切の、
『法』は、
皆、
『無生である!』。
何故、
但だ、
『未来の法のみ!』が、
『無生なのか?』。
例えば、
『一時の義』中に、
已に、
『三世』を、
『破ったように!』、
『三世』は、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相である!』が、
是のような、
『三世』は、
則ち、
『無生の相である!』。
復次無生名為涅槃。以涅槃不生不滅故。涅槃者末後究竟不復更生。而一切法即是涅槃。以是故佛說一切法皆是無生際 復た次ぎに、無生を名づけて、涅槃と為す。涅槃の不生、不滅なるを以っての故に、涅槃の者の末後は究竟して、復た更に生ぜざるなり。而も一切の法は、即ち是れ涅槃なり。是を以っての故に、仏の説きたまわく、『一切法は、皆、是れ無生の際なり』、と。
復た次ぎに、
『無生』とは、
『涅槃である!』。
『涅槃』は、
『不生、不滅である!』が故に、
『涅槃』は、
『無生なのであり!』、
『涅槃した者の末後』は、
『究竟して( entirely )!』、
『復た更に( agein oncemore )!』、
『生じることはない!』。
而し、
『一切の法』は、
即ち、
『涅槃である!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『一切の法』は、
皆、
『無生の際である!』、と。
  究竟(くきょう):梵語 aatyantika の訳、継続的に/不断に/無限の/際限なき( continual, uninterrupted, infinite, endless )、完全な/普遍的な( entire, universal )の義。



諸仏に給侍して、内眷属と為り、大眷属、菩薩眷属を得る

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲在一切聲聞辟支佛前。欲給侍諸佛。欲為諸佛內眷屬。欲得大眷屬。欲得菩薩眷屬。欲得淨報大施。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、一切の声聞、辟支仏の前に在らんと欲し、諸仏を給侍せんと欲し、諸仏の内眷属と為らんと欲し、大眷属を得んと欲し、菩薩の眷属を得んと欲し、浄報の大施を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『一切の声聞、辟支仏』の、
『前に、在りたい!』と、
『思い!』、
『諸仏』に、
『給侍したい( to be a servant )!』と、
『思い!』、
『諸仏』の、
『内眷属に為りたい!』と、
『思い!』、
『大眷属』を、
『得たい!』と、
『思い!』、
『菩薩の眷属』を、
『得たい!』と、
『思い!』、
『浄報の大施』を、
『得たい!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  給侍(きゅうじ)、給使(きゅうし):梵語 upasthaana の訳、近くに立つ( standing near )の義、付添い/召使い( attendance, servant )の意。
【論】問曰。若菩薩未得漏盡云何在漏盡聖人前。 問うて曰く、若し菩薩、未だ漏尽を得ざれば、云何が漏尽の聖人の前に在る。
問い、
若し、
『菩薩』が、
未だ、
『漏尽』を、
『得ていなければ!』、
何故、
『漏尽の聖人の前』に、
『在るのですか?』。
答曰。菩薩初發意時已在一切眾生前。何況積劫修行。是菩薩功德智慧大故。世世常大能利益聲聞辟支佛。 答えて曰く、菩薩は、初発意の時已に、一切の衆生の前に在り。何に況んや、積劫に修行せるをや。是の菩薩の功徳、智慧は大なるが故に、世世に常に大いに、能く声聞、辟支仏を利益すればなり。
答え、
『菩薩』は、
『初発意の時』、
已に、
『一切の衆生の前に!』、
『在る!』、
況して、
『劫を積んで修行すれば!』、
『尚更である!』。
是の、
『菩薩』は、
『功徳、智慧が大である!』が故に、
世世、常に、
『声聞、辟支仏』を、
『大いに、利益することができるからである!』。
眾生知菩薩恩故。推崇敬重乃至畜生中亦為尊重。如菩薩昔作鹿其色如金其角七寶。五百鹿隨逐宗事。若在人中好世作轉輪聖王。惡世恒作大王護持佛法利益眾生。若出家值有佛法則為世作大度師興顯佛法。若無佛法則為外道大師行四無量。 衆生は、菩薩の恩を知るが故に、推崇、敬重すれば、乃至畜生中にも亦た尊重せらるること、菩薩、昔鹿と作りしに、其の色金の如く、其の角七宝にして、五百の鹿、随逐して、宗事し、若しは人中に在りて、好世に転輪聖王と作り、悪世には恒に大王と作りて、仏法を護持し、衆生を利益し、若しは出家して、値(たまた)ま仏法有らば、則ち世の為に、大度師と作りて、仏法を興顕するも、若し仏法無ければ、則ち外道の大師と為りて、四無量を行ず。
『衆生』は、
『菩薩の恩を知る!』が故に、
『王として!』、
『推戴したり!』、
『崇拜したり!』、
『敬重するので!』、
『菩薩』は、
乃至、
『畜生中に在っても!』、
『衆生』に、
『尊重される!』。
例えば、
『菩薩』が、
昔、
『鹿と作った!』時には、
其の、
『色』は、
『金のようであり!』、
其の、
『角』は、
『七宝のようであった!』が、
『五百の鹿』が、
『随逐して!』、
『宗事していた( to honour and serve )!』し、
若しくは、
『人中に在れば!』、
『好世』には、
『転輪聖王』と、
『作り!』、
『悪世』には、
恒に、
『大王』と、
『作りながら!』、
『仏法を護持して!』、
『衆生』を、
『利益し!』、
若しくは、
『出家して!』、
値ま( happen to )、
『仏法が有れば!』、
『大度師と作って!』、
『世の為に!』、
『仏法を興隆、顕現する!』。
若し、
『仏法が無ければ!』、
『外道の大師と為って!』、
『四無量』を、
『行うのである!』。
  推崇(すいすう):推戴と崇拝。
  宗事(しゅうじ):中心として尊び事える。
  興顕(こうけん):興隆と顕彰。
阿羅漢辟支佛雖有無漏利益事少。譬如一升酥雖精不如大海水酪。菩薩雖有漏智慧及其成熟利益無量。 阿羅漢、辟支仏は、無漏有りと雖も、利益の事少なし。譬えば一升の酥は、精なりと雖も、大海水の酪に如かざるが如く、菩薩は、有漏なりと雖も、智慧は、其の成熟せるに及んで、利益すること無量なり。
『阿羅漢、辟支仏』は、
『無漏の智慧が有る!』が、
『利益する!』、
『事』が、
『少ない!』。
譬えば、
『一升の酥( butter )』は、
『精である( be pure )!』が、
『大海水ほどの!』、
『酪( cheese )』には、
『及ばないように!』、
『菩薩』は、
『有漏である!』が、
其の、
『智慧が成熟すれば!』、
『利益』が、
『無量である!』。
復次羅漢辟支佛四事供養助道之具。多由菩薩得。如首楞嚴經說。文殊師利七十二億作辟支佛。化辟支佛人令其成道。以是故在聲聞辟支佛前。 復た次ぎに、羅漢、辟支仏は、四事の供養、助道の具を多く菩薩に由りて得ればなり。『首楞厳経』に、『文殊師利は、七十二億たび、辟支仏と作り、辟支仏の人を化して、其の道を成ぜしむ』、と説けるが如し。是を以っての故に、声聞、辟支仏の前に在り。
復た次ぎに、
『阿羅漢、辟支仏』は、
『四事の供養や、助道の具』を、
多く、
『菩薩に由って( relying upon Bodhi-sattva )!』、
『得ている!』。
譬えば、
『首楞厳経』に、こう説く通りである、――
『文殊師利』は、
『七十二億世に、辟支仏と作り!』、
『辟支仏に志向する!』、
『人』を、
『化導して!』、
其の、
『道』を、
『成就させた!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『声聞、辟支仏の前』に、
『在るのである!』。
  羅漢(らかん):梵語 Rhat の訳?、小/弱/少力者( small, weak, powerless )の義。阿羅漢(梵 arhat )に、価値ある/尊敬すべき/上品な者( worthy, venerable, respectable )の義有るを嫌うが故に、敢て是の如く呼べるか。
  四事供養(しじくよう):仏、僧等に供給し資養する日常生活所需の四事を謂う。四事とは、即ち衣服、飲食、臥具、医薬を指し、或は衣服、飲食、湯薬、房舎等を指す。<(望)
  供養(くよう):梵語puujanaaの訳。供給資養の義。また給施、供給、或は略して供とも称す。即ち飲食衣服等の物を以って、仏法僧の三宝及び父母師長亡者等に供給しこれを資養するを云う。所施の物に就いてこれを謂わば、多種の分類あり。「増一阿含経巻13」に、「国土人民、四事供養す。衣被、飲食、牀臥具、病痩医薬」と云い、「善見律毘婆沙巻13」に、「恒に知識の家に住至して四供養を為すが故に、飲食、衣服、湯薬、房舎」と云えり。これ謂わゆる四事供養にして、施物の最も顕著なるものなり。「法華経巻4法師品」に、「この経巻に於いて敬い見ること仏の如くし、種種に華、香、瓔珞、末香、塗香、焼香、繒蓋、幢幡、衣服、伎楽を供養し、乃至合掌恭敬せよ」と云えるは、謂わゆる十種供養にして、後世、如法経書写供養の時、若しくは大法会に必ずこの儀を用う。また「無量寿経巻下」に、「懸繒、燃灯、散華、焼香」と云い、「蘇悉地羯羅経巻下供養品」に、「先づ塗香を献じ、次ぎに花等を施し、また焼香を献じ、次ぎに飲食を献じ、次ぎに乃ち燃灯す。その次第の如く忿怒王の真言を用いて、これ等の供物を悉く清浄ならしめ、善く人心を悦ばしむ」と云えり。これ皆供養の物を挙げたるなり。また「理趣釈巻下」に依るに「供養門とは多種あり、蘇悉地教に依れば五種の供養あり、また二十種の供養あり。瑜伽教の中に於いて四種の供養あり。謂わゆる菩提心供養、資糧供養、法供養、羯磨供養なり。前の四種の理趣門の如きこれなり。また五種の秘密供養なり、また八種供養あり、また十六種の大供養あり、また十七種の雑供養あり」と云えり。以って供養の多種を見るべし。蓋し供養は元と身業を主となすといえども、心に供養の事を念ずるが故に、自ら意業に通ずるの義あり。「遺教経論」に依るに、供養に身分供養、心分供養の二種を分かち、飲食、衣服、臥具、湯薬を身分供養とし、不共心供養、無厭足心供養、二事相違心供養、等分心供養を心分供養となせり。また「大方広如来不思議境界経」に、「仏に供養する者は、大福徳を得て速かに阿耨多羅三藐三菩提を成じ、諸の衆生をして皆安楽を獲しむ。法に供養する者は智慧を増長し、証法自在にして能く正しく諸法の実性を了知す。僧に供養する者は無量の福智資糧を増長し、仏道を成ずるを致す」と云えるは、三宝供養の功徳を説けるものなり。その中、また法供養に就いては、「華厳経普賢行願品巻40」に、「謂わゆる華雲、鬘雲、天音楽雲、天傘蓋雲、天衣服雲、天種種香、塗香、焼香、末香、かくの如き等の雲は、一一の量、須弥山王の如く、然も種種の灯、酥灯、油灯、諸香油灯は、一一の灯炷、須弥山の如く、一一の灯油、大海水の如く、かくの如き等の諸の供養の具を以って常に供養を為す。善男子、諸の供養の中、法供養最たり。謂わゆる如説修行供養、利益衆生供養、摂受衆生供養、代衆生苦供養、勤修善根供養、不捨菩薩業供養、不離菩提心供養なり。善男子、前の供養の如き功徳無量なるも、法供養の一念の功徳に比するに百分の一に及ばず」と云い、また「十地経論巻3」に、「三種の供養あり、一に利養供養とは謂わく衣服、臥具等なり、二に恭敬供養とは謂わく香花幡蓋等なり、三に行供養とは謂わく修行信戒行等なり」と云い、「十住毘婆沙論巻1」に、「供養に二種あり、一には善く大乗正法の若しは広、若しは略を聴き、二には四事供養し、恭敬礼侍する等なり。この二法を具して諸仏を供養するを、名づけて善く諸仏を供養すと為す」と云い、「金剛般若波羅蜜経破取著不壊仮名論巻上」にも「供養に三種あり、一に左右に給侍し、二に所須を厳辨し、三に法要を諮詢す」と云えり。また彼の「法事讃巻上」には「願我身浄如香炉、願我心如智慧火、念念焚焼戒定香、供養十方三世仏」と云える如きは、身を香炉に、智慧を火に、戒定を香に比したるものにして、謂わゆる理供養なり。その他、仏前に供するものを仏供、神前に供するものを神供と云い、亡者の為にするものを追善供養、餓鬼の為にするものを餓鬼供養、虫の為にするものを虫供養と称し、また仏を慶するを開眼供養、経を供養するを解題供養、経供養、一切経供養、書写供養と云い、鐘を慶し、堂を慶し、橋を慶するを鐘供養、堂供養、橋供養と称せり。またまた「仏蔵経巻下」、「仏本行集経巻1供養品」、「大方等大集経巻45」、「大日経巻5」、「菩薩地持経巻7」、「大智度論巻93」等に出づ。<(望)
  文殊師利(もんじゅしり):菩薩名。梵名maJjuzrii。また文殊尸利、曼殊室利、満祖室哩に作り、略して文殊、或は濡首、溥首と好い、妙吉祥、または妙徳と訳す。一に妙音maJjughozaの称あり。別にまた文殊師利法王子maJjuzriiikumaarabhuutaと名づけ、或は曼殊室利童子、文殊師利童真、文殊師利童子菩薩、孺童文殊菩薩とも云う。仏滅後印度に出世し、般若大乗の教義を宣揚せし菩薩なるが如く、「道行般若経巻1道行品」に弥勒菩薩と共にこれを掲ぐるを始めとし、「内蔵百宝経」、「阿闍世王経」、「文殊師利問菩薩署経」、「首楞厳三昧経、維摩詰経、宝積三昧文殊師利菩薩問法身経」、「慧印三昧経」、「正法華経」、「魔逆経」、「須真天子経」、「無極宝三昧経」、「放鉢経」等の古大乗経中に皆菩薩の上首としてその活躍を敍し、また「文殊師利所説摩訶般若波羅蜜経」を始め、般若部の諸経の対告衆等として、仏または舎利弗等の諸弟子と問答往復せしことを記するに依るに、この菩薩は大乗の諸経、特に般若の経説と頗る緊密の関係あるを察するを得べし。また「大智度論巻1」に慈氏、妙徳菩薩等は出家の菩薩 観世音菩薩等は他方国土より来たると云い、弥勒に同じくこの土の出家の菩薩となせるのみならず、「文殊師利般涅槃経」には、この菩薩は舎衛国多羅聚落梵徳婆羅門の子にして、誕生の時その屋宅変じて蓮華の如く、右脇より生じ、身紫金色にして能く語ること天童子の如く、尋いで諸仙人の所に詣り、出家の法を求むるも酬対する者なく、仍りて仏所に於いて出家学道し、首楞厳三昧zuuraMgamasamaadhiに住して希有の難事を行じ、仏涅槃の後四百五十歳にして雪山に至り、五百の仙人の為に十二部経を宣暢敷演し、後本生地に還り、尼拘楼陀樹下に於いて涅槃に入れりと云い、「大般涅槃経巻3寿命品」にも「衆中に一菩薩摩訶薩あり、本とこれ多羅聚落の人なり。姓は大迦葉、婆羅門種なり、年幼稚に在り」と云い、「文殊師利宝蔵経巻下」には、文殊師利は五百の異道の人を化作して自らその師となり、五百の眷属と与に維耶離国薩遮尼揵弗の所に詣り、遂に彼の五百学志等の輩を帰仏せしめたりと云い、また「大智度論巻100」に仏滅度の後、弥勒等の諸大菩薩と共に阿難を将いて摩訶衍を結集すと云えり。これ等は皆この菩薩を以って実在の人となせるものなり。また「阿闍世王経巻上」に、「文殊師利はこれ菩薩の父母なり。これ即ち迦羅蜜たり」と云い、「伅真陀羅所問宝如来三昧経巻下」に、「善いかな、仁者は而も二の迦羅蜜を得たり。一にはこれ仏、二にはこれ文殊師利なり」と云い、「放鉢経」に「今我れ仏を得て三十二相八十種好あり、威神尊貴にして十方一切の衆生を度脱するは皆文殊師利の恩なり。本とこれ我が師なり。前の過去無央数の諸仏は皆これ文殊師利の弟子なり。当来の者もまたこれその威神恩力の致す所なり。譬えば世間の小児に父母あるが如く、文殊は仏道の中の父母なり」と云い、この菩薩を以って諸仏菩薩の父母となせるは、彼の「大品般若経巻14仏母品」等に般若を仏母となすと同趣旨にして、即ちこの菩薩を般若波羅蜜と同格となすの意なりというべし。後世大般若会の時、本尊として安ずる般若菩薩も恐らくまたこの菩薩を表象せしものなるべし。般若が初め南方に行われたることは、「道行般若経巻4」等にこの般若波羅蜜はまさに南方に在るべし等と記するに依りて察するを得べく、これを「旧華厳経巻45入法界品」に文殊自ら南方に漸遊して覚城の東に至り、更に善財童子に南方遊行を勧奨せりと云えるこれなり。また「文殊悔過経」、「文殊師利浄律経」、「文殊師利問菩提経」、「文殊師利問経」、「文殊師利巡行経」、「文殊師利所説不思議仏境界経」、「大聖文殊師利菩薩仏刹功徳荘厳経」、「華厳経普賢菩薩行願品巻38」等に出づ。<(望)
  参考:『大智度論巻10』:『問曰。更有餘大菩薩。如毘摩羅詰觀世音遍吉菩薩等。何以不言此諸菩薩在彼住。而但言文殊尸利善住意菩薩。答曰。是遍吉菩薩一一毛孔常出諸佛世界及諸佛菩薩。遍滿十方。以化眾生無適住處。文殊尸利分身變化入五道中。或作聲聞或作緣覺或作佛身。如首楞嚴三昧經中說。文殊師利菩薩。過去世作龍種尊佛。七十二億世作辟支迦佛。是可言可說。遍吉菩薩。不可量不可說住處不可知。若住應在一切世界中住。是故不說。復次及諸大威神菩薩者。亦應總說遍吉等諸大菩薩』
欲為諸佛給使者。如釋迦文佛未出家時。車匿給使優陀耶戲笑。瞿毘耶耶輸陀等諸婇女為內眷屬。出家六年苦行時五人給侍。得道時彌喜羅陀須那刹多羅阿難密跡力士等是名內眷屬。 諸仏の給使と為らんと欲すとは、釈迦文仏の如きは、未だ出家せざる時、車匿は給使し、優陀耶は戯笑し、瞿毘耶、耶輸陀等の諸の婇女を、内眷属と為し、出家して六年苦行したもう時、五人給侍せり、道を得たもう時には、弥喜、羅陀、須那刹多羅、阿難、密跡力士等、是れを内眷属と名づく。
『諸仏の給使と為ろうとする!』とは、
例えば、
『釈迦文仏ならば!』、
未だ、
『出家しない!』時、
『車匿が給使し!』、
『優陀耶が戯笑し!』、
『瞿毘耶、耶輸陀等は諸の婇女であった!』が、
是れ等が、
『内眷属である!』。
『出家して、六年苦行された!』時には、
『五人』が、
『給侍していた!』し、
『道を得られた!』時には、
『弥喜、羅陀、須那刹多羅、阿難、密跡力士』等が、
『内眷属であった!』。
  車匿(しゃのく):梵名chandakaの音訳。また闡鐸迦、闡陀迦、闡陀、闡那、闡特、闡怒、闡弩、羼陀、孱那、車那、闍那、栴檀、或は略して梃に作る。欲作、楽作、応作、または覆蔵、覆と訳す。悉達太子出家踰城の時、馭者として扈従し、後出家して阿羅漢果を証せし比丘なり。六群比丘の一。「雑阿含経巻23」に、「この処は菩薩、百千の天神を将いて城を出でて去りしところ、この処は菩薩、瓔珞を脱いで車匿に与え、馬を遣して国に還らしめしところなり」と云い、「五分律巻15」に、「ここに於いて菩薩は奴闡陀に勅す、汝起ちて馬に被らしめよ、人をして聞かしむることなかれと。闡陀白して言さく、夜は行時に非ず、まさに遊観すべからず。また怨敵の上宮に逼るものなし。不審、何んが故に夜勅して馬に被らしむるやと。太子答えて言わく、大怨敵あり、汝知らずや、老病死の怨は怨の大なる者なり。汝速かに馬に被らしめよ、稽留を得ることなかれと。即ち白馬に被らしめ、牽きて中庭に至りて白して言さく、馬すでにここに来たると。菩薩便ち馬の所に到り、まさにこれに跨がらんと欲するに、馬大いに悲鳴す、天神は留難あらんことを恐れて、即ち馬声を散じて人をして聞かざらしむ。菩薩馬に跨がりて閤に向うに、閤即ち自ら開き、また城門に向うに門もまた自ら開く。既にして門を出でおわりて阿奴耶林に向う。城を去ること遠からずして便ち馬を下り、宝衣を脱いで闡陀に語りて言わく、汝馬を牽き、並びに宝衣を持して宮に還りて道え、吾れ拝して父母に白す、今辞して道を学び、久しからずしてまさに還るべし。願わくは憂を垂れざれと。闡陀涕泣して長跪して白して言さく、(中略)ここに於いて闡陀悲泣し、前んで礼して右遶三匝し、馬を牽き宝衣を持して宮に還る」と云い、また「過去現在因果経巻2」に、太子城を出でんとするや、諸天は馬の四足を捧げて車匿に幷接し、釈提桓因は蓋を執りて随従す。行くこと三踰闍耶にして跋伽仙人の苦行林中に至り、馬を下りてその背を撫し、また車匿に語りて言わく、馬行駿疾にして金翅鳥王の如くなるに、汝恒に随従して我が側を離れず。今既に閑静の処に来る、汝揵陟と共に宮に還るべしと。その時、車匿悲号啼泣して自ら勝ゆる能わず、揵陟もまた膝を屈して足を舐め、涙落つること雨の如し。尋いで宝冠明珠瓔珞を脱いで車匿に与え、自ら利剣を取りて鬚髪を剃る。車匿これを見て太子の意の廻らすべからざるを知り、地に悶絶し懊悩して、遂に揵陟を牽き、宝冠明珠瓔珞を執持して宮に還ると云えるこれなり。これ仏伝中に於ける有名なる説話なり。後出家して比丘となりしも諸の比丘と和合せず、六群比丘に伍して悪見を習いたりしが、仏滅後に至り梵壇(brahma-daNDa、黙擯と訳す、即ち黙殺なり)の法によりて治せられ、遂に阿難に就いて道を学び、阿羅漢果を証せりと云う。即ち「十誦律巻31」に、「仏倶舎弥に在り。その時、車匿比丘悔過すべき罪を犯ず。諸比丘憐愍して利益し安楽ならしめんと欲するが故にその罪を語り、教えて法の如く罪を見て悔過し、覆蔵なからしむ。車匿言わく、我れ罪を見ず、云何が悔過せんと。諸比丘、この事を以って仏に向かって広く説く。仏諸比丘に語る、汝等車匿のために不見擯を作せ」と云い、「長阿含巻4遊行経」に、「その時、阿難長跪叉手して、前んで仏に申して言さく、闡怒比丘は虜扈自ら用う、仏滅度の後まさにこれを如何にすべきやと。仏阿難に告ぐ、我が滅度の後、もし彼の闡怒は威儀に順ぜず、教誡を受けずば、汝等まさに共に梵壇の罰を行うべし。諸比丘に勅して与に語ることを得ざれ。また往返教授して事に従うことなかれ」と云い、また巴梨文paramattha-diipaaniに収むる長老偈第69偈註に、車匿は世尊のなお浄飯王の許に在りし時、王の僕婢の家に生まれ、仏帰城の時、仏に帰依して出家せしが、初め傲慢にして諸比丘と和合せず、仏涅槃の後、命に依りてこれに重罪を科せしを以って、遂に悔悟して阿羅漢果を得たりと云うによりて知るを得べし。また「増一阿含経巻37」、「般泥洹経巻下」、「仏般泥洹経巻下」、「大般涅槃経巻下」、「修行本起経巻下」、「六度集経巻7」、「太子瑞応本起経巻上」、「普曜経巻4出家品、告車匿被馬品」、「仏所行讃巻1出城品、巻2車匿還品」、「仏本行経巻2車匿品」、「出曜経巻9」、「仏本行集経巻17」、「方広大荘厳経巻6」、「衆許摩訶帝経巻5」、「五分律巻3、巻30」、「有部毘奈耶雑事巻37、破僧事巻7、薬事巻7、鼻奈耶巻9」、「大智度論巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論巻16」等に出づ。<(望)
  優陀耶(うだや):仏弟子。梵名udaayinの音訳。また優陀夷に作り、或は迦留陀夷に作る。
  迦留陀夷(かるだい):梵名kaalo-odaayinの音訳。また迦楼陀夷、迦盧陀夷、迦路娜、迦盧に作る。大麁黒、麁黒、黒曜、黒光、時起、黒上等と訳し、或は黒烏陀夷、黒優陀とも云う。蓋し優陀夷はその本名にして、迦羅kaalaはその身黒色なりしより付加せられたる綽号なるべし。優陀夷udaayinは、また優陀耶、憂陀耶、烏那曳曩、鄔陀夷、烏陀夷、優陀に作り、出現、出、起等と訳す。仏弟子にして悪行多かりし比丘なり。「増一阿含経巻47」並びに「四分律巻14」に、迦留陀夷はその身極めて黒く、夜行乞して懐妊せる婦の家に至りし時、遇ま閃電あり、彼の婦人電光中にこの黒比丘を見て黒鬼なりとし、怖れて堕胎し、後仏弟子となりしことを聞きて、大いにこれを罵詈せしを以って、仏は為に中を過ぎて行乞することを制し給いたりと云い、「中阿含巻5成就戒経」には、舎利弗の説法を否定して仏に面呵せられたりと云い、また「立世阿毘曇論巻1」には、阿難が仏の威徳大神通を讃ぜるを聞きて、その所得なきを説き、反って仏に難ぜられたりと云えり。また「四分律巻2、巻3、巻5、巻6、巻11、巻13、巻15、巻16、巻19」等には、十三僧残の第一より第四、及び二不定、三十捨堕の第五、並びに九十単提の第九、第二十五、第二十六、第四十三、第四十四、第四十五、第六十一、第八十四は皆迦留陀夷の因縁によりて制せられたる戒となせり。また迦留陀夷には同名異人ありしが如く、「中阿含巻29龍象経」に、仏帰郷の時、出家して龍相応の偈を以って仏を讃ぜりする優陀夷は、迦維羅城の婆羅門にして、恐らく今の迦留陀夷と別人なるべく、また「有部毘奈耶破僧事巻2」に仏と端正の日を同じくせりと云い、同巻3に或る時毒蛇が菩薩を害せんとするを見、利刀を以って彼の蛇を斬りしにその吐ける毒気が彼れの身に著き、黒色と為りしが故に黒烏陀夷と名づけらると云い、「仏本行集経巻16、巻51」、「修行本起経巻上」等に、悉達太子に妃を容れんことを勧め、また仏成道後、仏に帰郷を請えり等と伝うる烏陀夷は、迦維羅城の刹帝利種にして、また今の迦留陀夷と別人なるべし。また巴梨文長老偈註paramatthadiipaniiには、kaaludaayii(またはlaludaayii)、mahodaayii、udaayiiの三人を挙げ、「法華経巻4五百弟子受記品」には、迦留陀夷と優陀夷とを別出せり。これ彼れに同名異人あるを証するものというべし。また「中阿含巻50迦楼烏陀夷経」、「雑阿含経巻9、巻24」、「賢愚経巻12」、「過去現在因果経巻2」、「衆許摩訶帝経巻12」、「大宝積経巻61」、「五分律巻2、巻7、巻8」、「十誦律巻3、巻9、巻11、巻12、巻16、巻17、巻58」、「有部毘奈耶巻8、巻11、巻26、巻29、巻33、巻40」、「摩訶僧祇律巻5、巻13、巻14、巻19、鼻奈耶巻3、巻7、巻8、巻9」、「大智度論巻33」等に出づ。<(望)
  戯笑(けしょう):梵語 parihaasa の訳、からかう/嘲る/嘲弄する/笑い者にする( jesting, joking, laughing at, ridiculing, deriding )の義。
  瞿毘耶(くびや):悉達太子の妃。梵名gopiiにして、また瞿夷に作る。
  瞿夷(くい):梵名gopii、またgopaaにして、また瞿卑、瞿毘、裘夷、俱夷、瞿域、嶠比、瞿波、瞿婆、溝伽、瞿比迦、瞿波迦、瞿毘耶、喬比迦、具毘耶、娯閉迦等に作る。牛護、牛女、密行、密語、明女、覆障、或は守護地等と訳す。悉達太子の妃にして、善覚王の女なり。「修行本起経巻上」に、「太子すでに大なり、宜しくまさに妻を娶りて以ってその志を廻らすべし。王は太子が為に名女を採択せしに意に可う者なし。小国王あり、須波仏(漢に善覚と言う)と名づく。女あり裘夷と名づく、端正皎潔にして天下に双び少し。八国の諸王皆子の為に求むるも、悉くこれを与えず。白浄王聞いて即ち善覚を召し、これに告げて曰わく、吾れ太子の為に郷の女を娉取せん」と云い、また「十二遊経」には「菩薩の婦の家は姓は瞿曇氏、舎夷の長者にして水光と名づけ、その婦の母を月女と名づく。一城あり、居その辺に近し。女を生むの時、日まさに没せんと欲し、余明その家を照し、室内皆明なり。因りてこれに字して瞿夷と為す。晋に明女と言う。瞿夷はこれ太子の第一夫人なり」と云えり。また「大智度論巻17」には羅睺羅母本生経を引き「釈迦文菩薩に二夫人あり、一を劬毘耶と名づけ、二を耶輸陀羅と名づく。耶輸陀羅は羅睺羅の母なり。劬毘耶はこれ宝女なるが故に子を孕まず」と云い、また「有部毘奈耶破僧事巻3」には「菩薩に三夫人あり、一を鹿王と名づけ、二を喬比迦と名づけ、三を耶輸陀羅と名づく。その耶輸陀羅を最も上首と為す」と云えり。また「長阿含巻10釈提桓因問経」、「中阿含巻33釈問経」、「太子瑞応本起経巻上」、「仏本行集経巻13」、「衆許摩訶帝経巻4」、「六度集経巻5、巻7」、「普曜経巻3」、「出曜経巻25」、「給孤長者女得度因縁経巻下」、「有部毘奈耶巻18、雑事巻20、破僧事巻4、巻12」、「大智度論巻33、巻35」等に出づ。<(望)
  耶輸陀(やしゅだ):悉達太子の妃。また耶輸陀羅という。
  耶輸陀羅(やしゅだら):梵名yazodharaaにして、また耶輸多羅、耶戌達羅、或は耶惟檀に作り、持誉、持称、具称、持名称者、或は華色と訳す。また羅睺羅母raahula-maatR、或はbhaddakaccaanaaの称あり。中印度迦毘羅城釈種執杖daNDapaaNiの子、悉達太子の正妃、羅睺羅の生母なり。一に婆私咤vaziSThaa族釈種大臣摩訶那摩mahaanaamaの女とし、或は天臂devadaha城善覚suppabuddha王の子にして、提婆の妹なりとせり。生まれて相好端厳、姝妙第一にして諸の徳貌を具す。時に浄飯王は太子の妃を求めんと欲し、迦毘羅城外の試藝場に五百の釈子を集め、諸藝を捔試せしむるに、太子は技能最勝にして諸人能く及ぶ者なし。仍りて執杖は耶輸陀羅を納れてその妃となす。然るに太子は欲楽を望まず、常に世俗を厭いて出家の志あり。後太子踰城の時、苦悩逼切して地に躃れ、使者を遣して後を逐わしむるも果たさず。その夜娠あり、太子成道の日に至りて一子を産す、即ち羅睺羅なり。後仏の姨母摩訶波闍波提出家入道するに及び、妃もまた剃染して具足戒を受け、比丘尼となれり。「阿羅漢具徳経」に、「良因を宿植して大福徳を具するは、羅睺羅母耶輸陀羅苾芻尼これなり」と云い、「有部毘奈耶破僧事巻12」には仏は嘗て諸苾芻に対し、「我が一切の苾芻尼衆中、耶輸陀羅苾芻尼は最も慚愧を具す」と語られしことを記せり。蓋し太子の妃に関し、「大智度論巻17」には劬毘耶gopikaa、耶輸陀羅の二人を出し、「仏本行集経巻14常飾納妃品」には、耶輸陀羅、摩奴陀羅manodharaa(意持)、瞿多弥gotamiiの三妃を挙げ、「十二遊経」、「衆許摩訶帝経巻4」、「有部毘奈耶巻18」等には、耶輸陀羅、瞿比迦gopikaa(密語)、密伽闍mRgajaa(鹿子、鹿王或は鹿養)の三人を出せり。但しこの中の瞿比迦に関し、「修行本起経巻上」にこれを善覚王の子、羅睺羅の母となし、また「太子瑞応本起経巻上」、「普曜経巻3」等に執杖梵志の女となせるを以って見るに、彼の瞿比迦は或は耶輸陀羅の異名ならざるかを疑うべし。また「方広大荘厳経巻4」、「過去現在因果経巻2、巻3」、「仏本行集経巻12乃至巻16」、「有部毘奈耶雑事巻20、破僧事巻3」等に出づ。<(望)
  弥喜(みき)、羅陀(らだ):不明。『大智度論巻26下』参照。
  須那刹多羅(しゅなせつたら):比丘名。梵名sunakzatraの音訳。好星と訳す。「一切経音義巻26」に見ゆ。
  密跡力士(みっしゃくりきし):梵名guhyapaada vajra saNDaにして、即ち仏法を守護する夜叉神なり。また執金剛神、密跡金剛、金剛力士等に作る。
  参考:『大智度論巻26』:『問曰。侍者羅陀彌喜迦須那利羅多那伽娑婆羅阿難等。常侍從世尊執持應器。何以不憐愍。』
大眷屬者。舍利弗目揵連摩訶迦葉須菩提迦旃延富樓那阿泥盧豆等諸聖人。及彌勒文殊師利颰陀婆羅諸阿毘跋致一生補處菩薩等。是名大眷屬。 大眷属とは、舎利弗、目揵連、摩訶迦葉、須菩提、迦栴延、富楼那、阿尼廬豆等の諸聖人、及び弥勒、文殊師利、颰陀婆羅、諸の阿鞞跋致と、一生補処の菩薩等、是れを大眷属と名づく。
『大眷属』とは、
『舎利弗、目揵連、摩訶迦葉、須菩提、迦栴延、富楼那、阿尼廬豆等の諸聖人』と、
『弥勒、文殊師利、颰陀婆羅、諸の阿鞞跋致と、一生補処の菩薩』等を、
『大眷属』と、
『称するのである!』。
  舎利弗(しゃりほつ):仏十大弟子中の一。『大智度論巻2下注:舎利弗』参照。
  目揵連(もっけんれん):仏十大弟子中の一。『大智度論巻2上注:摩訶目伽連』参照。
  摩訶迦葉(まかかしょう):梵名mahaakaazyapa。また摩訶迦葉波、摩訶罽葉、大迦葉、大迦葉波、大迦摂に作り、略して迦葉、迦葉波、迦摂波と云い、大飲光、或は大亀と訳す。仏十大弟子の一。王舎城摩訶娑陀羅村の人にして、大富婆羅門尼拘盧陀羯波の子なり。畢鉢羅樹下に誕生せしを以って畢鉢羅耶那と名づけられ、大迦葉種の出なるが故に摩訶迦葉の称あり。長ずるに及び、毘耶離城迦羅毘迦村迦毘羅婆羅門の女跋陀羅迦卑梨耶bhaddaa-kapilaaniiを娶りしも共に五欲の楽を好まず。十二年にして父母の喪に遭い、仍りて婦と共に出家剃髪し、尋いで多子神処bahuputtaka-nigrodha(王舎城より那荼陀naalandaa村に至る間に在り)に於いて仏に謁して教化を受け、八日の後、正智を発し、自己の僧伽梨を脱して仏に奉じ、仏の授くる糞掃衣を受けてこれを著し、即ち阿羅漢果を証せりと云う。これ「仏本行集経巻45大迦葉因縁品」、「雑阿含経巻41」、「増一阿含経巻20」、「大迦葉本経」、「有部苾芻尼毘奈耶巻1」、「毘尼母経巻1」等に記する所なり。但し「仏本行集経」には師の証果を竹園精舎建立の後、舎利弗目連帰仏の前となせるも、「過去現在因果経巻4」、「仏所行讃巻4大弟子出家品」等には舎利弗等帰仏の後となせり。師は小欲知足にして常に頭陀を行じ、教団の上首として尊敬せられ、また仏の深く重んずる所となれり。「増一阿含経巻3弟子品」に、「十二頭陀難得の行は謂わゆる大迦葉比丘これなり」と云い、また「雑阿含経巻41」に、師は嘗て久しく舎衛国阿練若牀坐処に住し、鬚髪長く生じ、弊納衣を著して祇園に来詣するに、大衆は師の衣服麁陋にして儀容なきを見、軽慢の心を生ず。その時、仏は諸比丘の心を知り、師に告げて言わく、善来迦葉、この半座に於いて坐せよと。時に諸比丘は心に恐怖を生じて身毛皆竪ち、悉く師の大徳大力あることを知る。仏は更にまた諸比丘を警悟せんと欲し、師の所得は仏所得の殊勝広大の功徳に同じきことを称歎せられたりと云える皆即ちこの事なり。また「大般涅槃経巻2」に、仏は有らゆる無上の正法を以って悉く師に付属し、仏の滅後に諸比丘等の大依止となるべしと告げられたりと伝え、また「四分律巻54」、「五分律巻30」等には、師は波婆城よりの帰途、仏の入涅槃を聞き、拘尸那城天観寺に到りて仏足を拝し、荼毘の儀に列し、尋いで五百の阿羅漢を集め、自らその上首となり、阿難及び優波離をして経律を結集せしめたることを記し、また緬甸仏伝には、師は時に阿闍世王に勧めて仏滅紀元を建立せしめたりと云えり。後師は法を阿難に付し、仏の授くる所の糞掃衣を著し、己れの鉢を持して摩揭陀国鷄足山に登り、三岳の間に草を敷きて坐し、弥勒の出世に至るまで朽壊せしめざらんと念じ、既に捨命するや、三岳為に合してその身を覆えりと伝え、「大唐西域記巻9」にはこれを仏滅第二十年の事となせり。古来師を以って付法蔵の第一祖とし、特に禅家にては拈花微笑の故事を伝えて篤く尊崇する所なり。又密教にては之を現図胎蔵界曼荼羅釈迦院中央釈迦牟尼仏の右方上列第六位に安ず。其の形像は通身肉色にして、左手は袈裟の角を執り、右手は掌を外に向けて施無畏と作し、赤蓮華上に坐す。又「雑阿含経巻16、巻32」、「増一阿含経巻35、巻44」、「中本起経巻下」、「五百弟子自説本起経」、「摩訶迦葉度貧母経」、「迦葉赴仏般涅槃経」、「大迦葉問大宝積正法経」、「法華経巻3」、「摩訶衍宝厳経」、「大宝積経巻88、巻89」、「有部毘奈耶雑事巻39、巻40」、「舎利弗問経」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻3」、「大毘婆沙論巻135」、「大智度論巻2、巻3」、「分別功徳論巻2」、「阿育王伝巻4」、「達磨多羅禅経巻上」、「付法蔵因縁伝巻1」、「出三蔵記集巻3、122」、「法華経文句巻1下」、「同義疏巻1」、「三論玄義」、「翻梵語巻2」、「華厳経隨疏演義鈔巻84」、「慧琳音義巻23、25、27」、「仏祖統紀巻5」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  須菩提(しゅぼだい):仏十大弟子の一。『大智度論巻5下注:須菩提』参照。
  迦旃延(かせんねん):仏十大弟子の一。『大智度論巻2上注:摩訶迦旃延』参照。
  富楼那(ふるな):仏十大弟子の一。また富楼那弥多羅尼子に作る。
  富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし):富楼那弥多羅尼puurNa-maitraayaNiiは梵語。子は梵語弗多羅putraの訳。また富楼那弥帝隷尼子、富楼那弥窒那尼子、富留那弥多羅尼子、布刺拏梅但利曳尼子、富囉拏梅低梨夜富多羅、富羅拏迷低黎夜尼弗多羅、富那曼陀弗多羅、布刺拏梅呾麗衍尼弗多羅、補刺拏梅怛利曳尼弗怛羅、邠耨文陀仏、邠提文陀弗等に作り、或は略して富楼那、富婁那、弥多羅尼子、弥窒耶尼子、弥室とも云う。満願子、満慈子、満祝子、満見子、満厳飾女子、満足慈者、満足、円満、或は満祝と訳す。仏十大弟子の一。その得名に関し、「中阿含巻2七車経」に師の言を挙げ「我が号は満なり、我が母を慈と名づく。故に諸の梵行の人は我れを称して満慈子と為す」とあり。即ち弥多羅maitraayaNa族女の子の富楼那puurNaの義なり。「仏本行集経巻37富楼那出家品」に依るに、師は迦毘羅婆蘇都城の近村なる国師大富豪婆羅門の子にして、仏降誕の日を以って生まれ、容姿端正にして聡明、能く三韋陀等の諸論を解し、俗を厭いて解脱を求め、乃ち悉達太子出城の夜、その朋友三十人と共に出家し、雪山に入りて苦行精進し、終に四禅五通を得たり。時に仏既に成道し、鹿野苑に於いて法輪を転じ給うを知り、乃ち仏所に到りて出家具戒を求め、遂に阿羅漢果を得たりと云えり。巴梨文長老偈thera-gaathaaの註、及び梵文大事mahaavastu I、等にもまた粗ぼ同一記事を掲げ、その村をドローナヴァスツdroNavastuなりとし、且つ長老偈註には師を以って憍陳如koNDaJJaの妹の子とし、また「摩訶僧祇律巻23」には、師の帰仏を五比丘の後、三迦葉の前に在りとなせり。但し「未曽有因縁経巻下」には、師は初め嫉妬心の為に恩愛を断じて父母妻子を捨て、入山習学すること二十年、普く九十六種の経書記論を諷誦し、自ら一切智を得たりと称せしが、後王舎城に到りて仏の為に度せられ、遂に帰仏して阿羅漢道を証得すとなせり。師は証果の後専ら教化を事としたるが如く、「雑阿含巻10」に年少の者初めて出家せば、師は常に深法を説きて五蘊の無常苦なるを諭し、また常にこの法を以って四衆を化導せりと云い、「中阿含巻2七車経」には、師は郷里の諸比丘の為に讃揚せられ、また舎衛国安陀林の経行処に於いて舎利弗の為に七車の譬喩を説きしことを記し、「増一阿含経巻3弟子品」には「能く法を広説し、義理を分別するは謂わゆる満願子比丘これなり」と云い、また「分別功徳論巻4」に師は説法の時、先づ辯才を以って衆座を歓喜せしめ、次ぎに苦楚の言を以ってその心を責切し、終りに明慧を以って空無を教え、以って聞者を解脱せしめ、証果より涅槃に至るまでに九万九千人を度す。故に名づけて説法第一と称すと云えり。以ってその辯才に長じ、常に演法を事としたるを知るべし。また「雑阿含経巻13」、「摩訶僧祇律巻23」、「有部毘奈耶薬事巻3」等に、師は西方輸盧那suna-aparanta(梵zroNa-aparanta、一に輸那鉢羅得伽、輸那、首那和蘭に作る)国人が凶悪弊暴にして嘲罵を好むを聞き、仏の聴許を得て彼の国に到り、五百の優婆塞の為に説法し、五百の僧伽藍を建立し、一夏安居して三明を具足し、遂に彼の地に於いて無余涅槃に入れりと云い、「法華経巻4五百弟子受記品」には、師は当来成仏して法明dharma-prabhaasa如来と号すべきことを説けり。また「雑阿含経巻16」、「増一阿含経巻33、巻46」、「満願子経」、「阿羅漢具徳経」、「生経巻2比丘各言志経」、「賢愚経巻6富那奇縁品」、「道行般若経巻1道行品」、「放光般若経巻3問僧那品、巻5」、「維摩経巻上弟子品」、「大宝積経巻77乃至79」、「有部毘奈耶薬事巻2」、「大智度論巻3」等に出づ。<(望)
  阿尼廬豆(あにるだ):仏十大弟子の一。また阿[少/兔]楼駄と称す。
  阿[少/兔]楼駄(あぬるだ):梵名aniruddha、巴梨anuruddha。また阿尼楼陀、阿泥律陀、阿儞楼陀、阿泥嚕多、阿尼盧陀、阿儞嚕駄、阿尼楼駄、阿泥楼駄、阿尼律陀、阿奴律陀、阿那律提、阿泥楼豆、阿尼楼豆、阿泥 [少/兔]豆、阿那律、阿難律、阿[少/兔]駄、阿楼陀、或は摩尼婁陀、婁逗に作る。無滅、如意、無貪、無猟、無障、善意、離障、または随順義人、不争有無と訳す。仏十大弟子の一。迦毘羅城の釈氏にして仏陀の従弟なり。その父に関しては異説あり。「衆許摩訶帝経巻2」、「起世経巻10」、「起世因本経巻10」、「十二遊経」、「五分律巻15」、「有部毘奈耶破僧事巻2」等には斛飯王の子となし、「仏本行集経巻11」、「大智度論巻3」等には甘露飯王の子となせり。仏陀が帰郷せられたる後、阿難、難陀等の諸釈子と共に出家して仏門に帰せり。「中阿含巻17長寿王本起経」には、阿[少/兔]楼駄、難提、金毘羅の三釈子が般那蔓闍寺林に於いて修道せる状況を詳細に記述せり。これに依るに、彼等は真摯にして、互いに推重せしことを見るを得べし。時に教団中に諍事あり、党を結びて仏陀の訓戒を奉ぜざりしを以って、仏陀はこれを捨てて般那蔓闍寺林中に来たり、彼等の行状を見て大いにこれを嘉し、修道者の模範なりと称讃せられたり。阿[少/兔]楼駄は曽て夏坐おわりて著衣持鉢し、舎衛国を過ぐるに適ま一邑にて寡婦の家に宿す。寡婦は彼れを見て婬意を起したるを以って、彼れはその非法を誡め、為に婦人同宿戒制底の縁をなせり。また「仏本行集経巻59摩尼婁陀品」に依れば、彼れは曽て仏前に於いて坐睡し、仏陀の呵責を蒙りしを以って、後遂に誓を立てて些かも睡眠せざりしかば、遂に眼病を得たり。仏陀はこれに対して過不及の共に不可なるを諭し給いたりしも、難く志を執りて動かず。因って仏陀は耆婆をしてこれを療せしめしも、睡眠せざるを以って如何ともする能わず。その眼遂に敗壊せり。肉眼の敗壊は彼れをして遂に天眼を得しむる縁となり、諸弟子中天眼第一と称せらるるに至れり。要するに深遠なる洞察を為すはその最も長ぜし所なるべし。彼の八大人念の如き、彼れの思惟組織せし所にして、仏陀はこれを印可せり。仏滅度の年の結集には、阿難及び優波離の如く著しき事蹟を残さざりしも、その席に列せるものの中に於いて有数の長老なれば、これに対する功績も多かりしならん。忉利天に昇りて仏陀の入滅を摩耶夫人に報じ、夫人為に来下して仏陀に対面せりと云える伝説は、惟うに彼れの天眼に聊結せしめたる構想ならん。また「仏本行集経巻58」、「長阿含巻4遊行経」、「中阿含巻13説本経、巻18八念経、巻19梵天請仏経、有勝天経、巻48牛角娑羅林経」、「雑阿含経巻2、巻19、巻20、巻24、巻37」、「阿羅漢具徳経」、「仏般泥洹経巻下」、「賢愚経巻6富那奇縁品」、「仏五百弟子自説本起経阿那律品」、「四分律巻4」、「五分律巻3、巻8、鼻奈耶巻9」、「大智度論巻11」等に出づ。<(望)
  弥勒(みろく):菩薩名。『大智度論巻3上注:弥勒』参照。
  颰陀婆羅(ばっだばら):梵名bhadra-paalaの音訳。また賢護菩薩ともいう。『大智度論巻7上注:颰陀婆羅菩薩』参照。
  賢護菩薩(けんごぼさつ):賢護は梵語跋陀羅波囉bhadra-paalaの訳。また拔陂、颰陀和、跋陀和、跋陀羅、跋陀婆羅、颰陀婆羅、跋陀羅波棃、髪㮈羅播邏に作る。或は善守、仁賢と訳し、また賢護勝上童真とも称せらる。八大菩薩の一、十六大菩薩の一。「般舟三昧経巻上」に、「その時菩薩あり、颰陀和と名づく、五百の菩薩と倶なり。皆五戒を持し、晡時に仏所に至る」と云い、「大智度論巻7」に、善守等の十六菩薩は居家の菩薩なりとし、且つ「善守菩薩はこれ王舎城の旧人にして、白衣の菩薩中の最大なり。仏は王舎城に在りて般若波羅蜜を説かんと欲す、これを以っての故に最も前に在りて説く。また次ぎに、この善守菩薩には無量種種の功徳あり、般舟三昧の中の如き、仏自ら現前にその功徳を讃す」と云えり。また「大宝積経巻109、巻110」、「賢劫経巻1」、「幻士仁賢経」、「大乗菩薩蔵正法経巻1」、「思益梵天所問経巻1」等に出づ。<(望)
復次佛有二種身。一者法性生身。二者隨世間身。世間身眷屬如先說。法性生身者。有無量無數阿僧祇一生補處菩薩侍從。所以者何。如不可思議解脫經說。佛欲生時八萬四千一生補處菩薩在前導。菩薩從後而出。譬如陰雲籠月。又如法華經說。從地踊出菩薩等皆是內眷屬大眷屬。 復た次ぎに、仏には、二種の身有り、一には法性生の身、二には随世間の身なり。世間の身の眷属は、先に説けるが如し。法性生の身には、無量、無数、阿僧祇の一生補処の菩薩侍従有り。所以は何んとなれば、『不可思議解脱経』に、『仏の生じたまわんと欲する時、八万四千の一生補処の菩薩、前に在りて導き、菩薩は、後に従いて、出でたもうこと、譬えば陰雲の月を籠(つつ)めるが如し』、と説けるが如し。又『法華経』に説けるが如き、地より踊出する菩薩等は、皆是れ内眷属にして、大眷属なり。
復た次ぎに、
『仏の身』には、
『二種有り!』、
一には、
『法性生の( born from dharma )!』、
『身( the body )であり!』、
二には、
『世間に随う( belonging to ordinary life )!』、
『身である!』。
『世間の身』の、
『眷属』は、
先に、
『説いた通りである!』が、
『法性生の身』には、
『無量、無数、阿僧祇の一生補処の菩薩』が、
『有って!』、
『侍従している!』。
何故ならば、
『不可思議解脱経』に、こう説かれているからである、――
『仏が、生まれようとする!』時、
『八万四千の一生補処の菩薩』が、
『前に在って!』、
『導く!』と、
『菩薩』は、
『一生補処の菩薩の後』に
『従って!』、
『出られた!』。
譬えば、
『陰雲( the cloud )』が、
『月』を、
『籠む( to shroud )ようなものである!』、と。
又、
『法華経に説かれた!』、
『地より踊出した菩薩』等は、
皆、
『内眷属であり!』、
『大眷属である!』。
  法性生(ほっしょうしょう):梵語 dharmadhaatu-ja の訳、法界より生じた/法界に従る( born from the realm of dharma, caused by the realm of dharma )の義。
  法性生身(ほっしょうしょうじん):梵語 dharmadhaatu-ja-kaaya の訳、法界より生じた身( the body born from the realm of dharma )の義。
  隨世間(ずいせけん):梵語 laukika? の訳、世俗的な/現世的な/日常生活に属する/基づく/一般的な/通常の/習慣的な/一時的な( worldly, terrestrial, belonging to or occurring in ordinary life, common, usual, customary, temporal )の義。
  参考:『40華厳経巻30入不思議解脱境界普賢行願品』:『爾時菩薩。從兜率天。將降神時。有十佛剎極微塵數諸菩薩眾。皆與菩薩。同願。同行。同善根。同莊嚴。同解脫。同智慧。同住地。同神通。同出現。同威力。同法身清淨。同色身威德。乃至普賢功德行願。悉皆同等。如是菩薩。前後圍遶。』
  参考:『妙法蓮華経巻5従地踊出品』:『是時。娑婆世界三千大千國土地皆震裂。而於其中有無量千萬億菩薩摩訶薩同時踊出。是諸菩薩身皆金色。三十二相無量光明。先盡在此娑婆世界之下。此界虛空中住。是諸菩薩聞釋迦牟尼佛所說音聲從下發來。一一菩薩。皆是大眾唱導之首。各將六萬恒河沙眷屬。』
菩薩眷屬者。有佛純以菩薩為眷屬。有佛純以聲聞為眷屬。有佛菩薩聲聞雜為眷屬。是故言但欲得菩薩為眷屬者。當學般若波羅蜜。眷屬有三上中下。下者純聲聞。中者雜。上者但菩薩。 菩薩の眷属とは、有る仏は、純ら菩薩を以って、眷属と為し、有る仏は、純ら声聞を以って眷属と為し、有る仏は菩薩と、声聞を雑えて、眷属と為す。是の故に言わく、『但だ菩薩を得て、眷属と為さんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。眷属には、三有りて、上中下なり。下とは、純ら声聞なり。中とは、雑うるなり。上は、但だ菩薩なり。
『菩薩の眷属』とは、
有る、
『仏』は、
純ら、
『菩薩のみ!』を、
『眷属とし!』、
有る、
『仏』は、
純ら
『声聞のみ!』を、
『眷属とし!』、
有る、
『仏』は、
『菩薩と、声聞と!』を、
『雑えて!』、
『眷属とする!』ので、
是の故に、こう言われたのである、――
但だ、
『菩薩のみ』を、
『得て!』、
『眷属としたければ!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
『眷属』には、
『上、中、下の三種が有り!』、
『下の眷属』とは、
純ら、
『声聞のみであり!』、
『中の眷属』は、
『声聞、菩薩』を、
『雑え!』、
『上の眷属』は、
但だ、
『菩薩のみである!』。
淨報大施者。有人言。菩薩多集福德未除煩惱。受人信施未能淨報。佛言菩薩行般若波羅蜜。諸法皆空不可得。何況諸結使。菩薩入法性中故不證真際。是故能淨報施福。 浄報の大施とは、有る人は、『菩薩は、多く福徳を集むるも、未だ煩悩を除かざれば、人の信施を受くるも、未だ報を浄むる能わず』、と言えるも、仏の言わく、『菩薩は、般若波羅蜜を行ずれば、諸法は皆空、不可得なり。何に況んや、諸結使をや。菩薩は、法性中に入るが故に、真際を証せず、是の故に能く報を浄めて、福を施す』、と。
『報を浄めて、大施する!』とは、――
有る人は、こう言っているので、――
『菩薩』は、
多く、
『福徳』を、
『集めるだけで!』、
未だ、
『煩悩』を、
『除いていない!』ので、
若し、
『人より!』、
『信施( a faithful gift )』を、
『受けたとしても!』、
『報を浄めて( to purify the recompense )!』、
『善果』を、
『受けさせることはできない!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『諸法』は、
『皆、空であり!』、
『不可得である( be unrecognizable )!』。
況して、
『諸の結使』は、
『尚更であろう!』。
『菩薩』は、
『法性中に入る( understand deeply dharma-nature )!』が故に、
『真際( the limit of reality, absolute non-entity )』を、
『証しない( do not realize )!』ので、
是の故に、
『報を浄めて!』、
『福』を、
『施すことができるのである!』、と。
  信施(しんせ):梵語 zraddaa-deya の訳、誠実な/信頼の施し( a faithful or trusting gift )の義。
  真際(しんさい)、実際(じっさい):梵語 bhuutakoTi の訳、真実の限界( limit of reality )の義。[究極的]真実/如/事実( [ultimate] truth; suchness, thusness, reality )、絶対的非実在( absolute non- entity )の意。
復次菩薩功德廣大。從發心已來欲代一一眾生受一切苦。欲以一切功德與一切眾生。然後當自求佛道。但是事不可得故。而自成佛度一切眾生。 復た次ぎに、菩薩の功徳は広大にして、発心より已来、一一の衆生に代りて、一切の苦を受けんと欲し、一切の功徳を以って、一切の衆生に与えんと欲すれば、然る後には、当に自ら仏道を求むべきに、但だ是の事の不可得なるが故に、自ら仏と成りて、一切の衆生を度す。
復た次ぎに、
『菩薩の功徳は、広大であり!』、
『発心して以来!』、
『一一の衆生に代って!』、
『一切の苦』を、
『受けようとし!』、
『一切の功徳』を、
『一切の衆生』に、
『与えようとする!』ので、
その後は、
自ら、
『仏道』を、
『求めるべきである!』が、
但だ、
是の、
『事(仏道)は不可得である!』が故に、
自ら、
『仏と成ることで!』、
『一切の衆生』を、
『度するのである!』。
又菩薩志願不以阿僧祇為拘。如世間及如法性實際虛空等久住菩薩心住世間利益眾生故。亦如是久住無有窮已。是人不能淨報施福者誰能淨畢。如父母雖有結使諸惡。以一世利益子故。受其供養令子得大福。何況菩薩無諸結使。而住無邊世中利益眾生而不淨畢。 又、菩薩の志願は、阿僧祇を以って、拘(くく)られざること、世間、及び如、法性、実際、虚空等の久住するが如く、菩薩の心は、世間に住して、衆生を利益するが故に、亦た是の如く久住にして、窮り已ること有ること無し。是の人にして、報を浄めて、福を施す能わざれば、誰か能く浄め畢(おわ)らん。父母の結使、諸悪有りと雖も、一世に子を利益するを以っての故に、其の供養を受け、子をして、大福を得しむるが如し。何に況んや、菩薩にして、諸の結使無く、無辺世中に住して、衆生を利益するに、浄め畢らざらんや。
又、
『菩薩の志願』は、
『阿僧祇に拘られず( do not be restrained )!』、
『世間と、如、法性、実際、虚空等が久住するように!』、
『菩薩の心も、世間に住して!』、
『衆生』を、
『利益する!』が故に、
亦た、
是のように、
『世間に久住するので!』、
『志願』が、
『窮ってしまうことはない( do not be exhausted )!』。
是の、
『人』が、
『報を浄めて!』、
『福』を、
『施すことができなければ!』、
誰が、
『浄められるのか?』。
譬えば、
『父母』は、
『結使や、諸悪が有っても!』、
『一世に!』、
『子』を、
『利益する!』が故に、
其の、
『子より、供養を受けて!』、
『大福』を、
『得させることができる!』のに、
況して、
『菩薩』は、
『諸結使が無く!』、
『無辺世中に住して!』、
『衆生』を、
『利益するのに!』、
何故、
『浄められないのか?』。
又復菩薩但有悲心而無般若尚能利益。何況行般若波羅蜜。 又復た、菩薩は但だ悲心有りて、般若無くとも、尚お能く利益す。何に況んや、般若波羅蜜を行ずるをや。
又復た、
『菩薩』は、
但だ、
『悲心が有るだけで!』、
『般若波羅蜜』が、
『無くても!』、
尚お、
『利益することができる!』。
況して、
『般若波羅蜜を行えば!』、
『言うまでもない!』。
問曰。若菩薩無結使云何世間受生。 問うて曰く、若し菩薩に、結使無くんば、云何が世間に生を受くる。
問い、
若し、
『菩薩』に、
『結使が無ければ!』、
何故、
『世間』に、
『生を受けるのか?』。
答曰。先已答。菩薩得無生法忍得法性生身處處變化以度眾生莊嚴世界。是功德因緣故雖未得佛能淨報施福 答えて曰く、先に已に、『菩薩は、無生法忍を得て、法性生の身を得れば、処処に変化して、衆生を度するを以って、世界を荘厳す』、と答えたり。是の功徳の因縁の故に、未だ仏を得ずと雖も、能く報を浄めて、福を施すなり。
答え、
先に、
已に、こう答えた、――
『菩薩は、無生法忍を得る!』と、
『法性生の身を得て!』、
『処処に、変化し!』、
『衆生を度しながら!』、
『世界』を、
『荘厳する!』、と。
是の、
『功徳の因縁』の故に、
未だ、
『仏を得ていなくても!』、
『報を浄めて!』、
『福』を、
『施すことができるのである!』。



慳貪、破戒、瞋恚、懈怠、散乱、愚癡の心を起さない

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲不起慳心破戒心瞋恚心懈怠心亂心癡心者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、慳心、破戒心、瞋恚心、懈怠心、乱心、癡心を起さざらんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『慳心、破戒心、瞋恚心、懈怠心、乱心、癡心を起したくなければ!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】是六種心惡故。能障蔽六波羅蜜門。 是の六種の心は、悪なるが故に、能く六波羅蜜の門を障蔽す。
是の、
『六種の心は、悪である!』が故に、
『六波羅蜜の門』を、
『障蔽することができる( to be able to obstruct )!』。
  障蔽(しょうへい):梵語 A√(vR)?, AvaraNa? の訳、覆う/隠す/囲む/閉ざす( to cover, hide, conceal, surround, enclose, shut )の義、妨害する/中断させる/遮る( to obstruct, interrupt )の意。
如菩薩行布施時。若有慳心起令布施不清淨。所謂不能以好物施。若與好物不能多與。若與外物則不能內施。若能內施不能盡與。皆由慳心故。菩薩行般若波羅蜜。知一切法無我無我所。諸法皆空如夢如幻。以身頭目骨髓布施如施草木。是菩薩雖未得道。欲常不起是慳心。當學般若波羅蜜。 菩薩の布施を行ずる時の如きに、若し慳心の起ること有れば、布施をして清浄ならざらしむ。謂わゆる、好物を以って施す能わず。若し好物を与うれば、多く与う能わず。若し外物を与うれば、則ち内施する能わず。若し能く内施するも、尽くは与う能わず。皆、慳心に由るが故なり。菩薩は、般若波羅蜜を行じて、一切法に我無く、我所無く、諸法は皆、空にして夢の如く、幻の如きを知りて、身の頭目、骨髄を以って布施すること、草木を施すが如くんば、是の菩薩は、未だ道を得ずと雖も、常に是の慳心を起さざらんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
例えば、
『菩薩が布施を行う!』時に、
若し、
『慳心の起ること!』が、
『有れば!』、
『布施』を、
『清浄でなくするだろう!』。
謂わゆる、
『好物』を、
『施すことができない!』とか、
若しは、
『好物を与えても!』、
『多く!』、
『与えることができない!』とか、
若しは、
『外物を与えても!』、
則ち( but )、
『内物』を、
『施すことができない!』とか、
若しは、
『内物を与えることができても!』、
『尽くは( allover )!』、
『与えることができない!』とかは、
皆、
『慳心』に、
『由る( be caused by )!』。
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行って!』、
『一切法』には、
『我も、我所も無い!』と、
『知り!』、
『諸法』は、
『皆、夢か幻のように、空である!』と、
『知って!』、
『身の頭目、骨髄を布施しても!』、
『草木』を、
『施すようであれば!』、
是の、
『菩薩』が、
未だ、
『道』を、
『得ていなくても!』、
是の、
『慳心を、常に起さないようにしよう!』と、
『思う!』のは、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学んだからである!』。
諸餘人離欲得道故不生破戒心。菩薩行般若波羅蜜故不見破戒事。所以者何。戒為一切諸善功德住處。譬如地為一切萬物所依止處。破戒尚不得餘道。何況阿耨多羅三藐三菩提。以是故不生破戒心。復作是念。菩薩法者安樂眾生。若破戒者惱亂一切。以是故菩薩不生破戒心。何況破戒。 諸余の人は、欲を離れて、道を得るが故に、破戒心を生ぜざるも、菩薩は、般若波羅蜜を行ずるが故に、破戒事を見(あらわ)さず。所以は何んとなれば、戒を、一切の諸の善功徳の住処と為すこと、譬えば地を、一切の万物の所依止の処と為すが如し。破戒すれば、尚お余道を得ず。何に況んや阿耨多羅三藐三菩提をや。是を以っての故に、破戒心を生ぜずして、復た是の念を作さく、『菩薩の法は、衆生を安楽す。若し破戒すれば、一切を悩乱す』、と。是を以っての故に菩薩は、破戒心を生ぜず。何に況んや破戒するをや。
『諸余の人』は、
『欲を離れて!』、
『道を得る!』為の故に、
『破戒心』を、
『生じない!』が、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』が故に、
『破戒する!』、
『事( the matter )』を、
『見さない( be not seen )!』。
何故ならば、
『戒』とは、
『一切の諸の善功徳』の、
『住処だからであり!』、
譬えば、
『地』が、
『一切の万物の依止する!』、
『処であるようなものである!』。
若し、
『破戒すれば!』、
尚お、
『余道すら!』、
『得られない!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られるはずがない!』。
是の故に、
『破戒心を生じることなく!』、
復た、こう念じるのである、――
『菩薩の法』は、
『衆生』を、
『安楽にするものである!』。
若し、
『破戒すれば!』、
『一切の衆生』を、
『悩乱するだろう!』、と。
是の故に、
 『菩薩』は、
『破戒するという!』、
『心すら!』、
『生じない!』。
況して、
『破戒することなど!』、
『言うまでもない!』。
  (けん):◯梵語 darzana, darzitaa, dRSTa の訳、見る/観る/視る/見せる/示す/教える/( seeing, observing, looking, showing, exibiting, teaching, knowing の義。◯梵語 dRSTa の訳、視られる/認められる/注目される/現われる/表される/見ることができる/明白な/考えられる/看做される( seen, looked at, perceived, noticed, appeared, manifested, visible, apparent, considered, regarded )の義。◯梵語 dRSTi の訳、見る/眺める/注視する/眺め/見る機能( seeing, viewing, beholding, sight, the faculty of seeing )の義、( a wrong view )の意。
小乘及諸凡夫尚不應生瞋恚心。何況菩薩發阿耨多羅三藐三菩提意。身為苦器法自受惱。譬如犯罪之人自致刑戮自作自受不應怨人。但當自護其心不令起惡。譬如人遭惡風雨寒熱亦無所瞋。復作是念。菩薩求佛以大悲為本。若懷瞋恚則喪志願。瞋恚之人尚不得世間樂何況道樂。瞋恚之人自不得樂。何能以樂與人。 小乗、及び諸凡夫すら、尚お応に瞋恚心を生ずべからず。何に況んや、菩薩の阿耨多羅三藐三菩提の意を発し、身を、苦器と為せば、法は、自ら悩を受くること、譬えば犯罪の人の、自ら刑戮を致すが如く、自ら作し、自ら受くるをや。応に人を怨むべからず、但だ当に自ら其の心を護りて、悪を起さしめざるべし。譬えば、人の悪風雨、寒熱に遭うて、亦た瞋る所無きが如し。復た是の念を作さく、『菩薩は、仏を求むるに、大悲を以って本と為す。若し瞋恚を懐けば、則ち志願を喪う。瞋恚の人は、尚お世間の楽すら得ず。何に況んや道の楽をや。瞋恚の人は、自ら楽を得ざるに、何んが能く楽を以って、人に与うる』、と。
『小乗や、諸の凡夫すら!』、
尚お、
『瞋恚心』を、
『生じてはならない!』。
況して、
『菩薩』は、
『阿耨多羅三藐三菩提の意を発して!』、
『身』を、
『苦器( a recipient of pain )とすれば!』、
『菩薩の法』は、
自ら、
『悩( troubles )』を、
『受けることである!』。
譬えば、
『犯罪人』が、
自ら、
『刑戮( punishment )』を、
『致す( to incur )ように!』、
自ら、
『因』を、
『作って!』、
自ら、
『報』を、
『受けるのである!』。
当然、
『人を怨むべきでなく!』、
但だ、
自ら、
『心を護って!』、
『悪』を、
『起させてはならない!』。
譬えば、
『人』が、
『風雨、寒熱に遇ったとしても!』、
『瞋る!』所が、
『無いようなものである!』。
『菩薩』は、
復た、こう念じるだろう、――
『菩薩』が、
『仏を求める!』のは、
『大悲』が、
『本である!』。
若し、
『瞋恚を懐けば!』、
則ち、
『志願( one's dehiment desire )』を、
『喪うことになる!』。
『瞋恚の人』は、
尚お、
『世間の楽すら!』、
『得られない!』。
況して、
『道の楽を!』、
『得られるはずがない!』。
『瞋恚の人』は、
自ら、
『楽』を、
『得られないのに!』、
何うして、
『人』に、
『楽を与えられるのか?』、と。
  苦器(くき):梵語 duHkha-bhaajana の訳、苦痛の容器/苦痛を受ける者( a pot/vessel/recipient of pain )の義。
  (のう):梵語 duHkha の訳、不安/苦痛/悲哀/苦患/困難( uneasiness, pain, sorrow, trouble, difficulty )の義。
  刑戮(ぎょうりく):梵語 daNDa の訳、棒( a stick, rod )の義、刑罰( punishment )の意。
  志願(しがん):梵語 praNidhaana の訳、情熱的欲望( dehiment desire )の義。
懈怠之人世間勝事尚不能成。何況阿耨多羅三藐三菩提。譬如鑽火數息無得火期。 懈怠の人は、世間の勝事すら、尚お成ず能わず。何に況んや、阿耨多羅三藐三菩提をや。譬えば火を鑽(き)るに、数(しばし)ば息(やす)めば、火を得る期(とき)無きが如し。
『懈怠の人』は、
『世間』の、
『勝事( pleasing things )すら!』、
尚お、
『成すことはできない( do not able to achieve )!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提』は、
『言うまでもない!』。
譬えば、
『火を鑽る( to start a fire )!』のに、
『数ば息めば( to rest frequently )!』、
『火を得られる!』、
『期( the chance )』が、
『無いようなものである!』。
  勝事(しょうじ):◯梵語 raamaNiiyaka の訳、美しい/楽しい/愛らしい/美しさ/魅力/愛らしさ( beautiful, pleasig, lovely, beauty, charm, loveliness )の義。◯梵語 sukhita の訳、喜ばしい/快い/気楽/幸福( delighted, pleased, comforted, comfort, ease, happiness )の義。
  鑚火(さんか):きりもみして火を得る。
散亂之心譬如風中然燈。雖有光明不能照物。亂心中智慧亦復如是。智慧是一切善法根本。若欲成就是智先當攝心然後可成。譬如狂醉之人自利他利好醜之事都不覺知。散亂之心亦如是。世間好事尚不能善知。何況出世間法。 散乱の心は、譬えば風中に灯を然(もや)せば、光明有りと雖も、物を照す能わざるが如く、乱心中の智慧も亦復た是の如し。智慧は、是れ一切の善法の根本なれば、若し是の智を成就せんと欲せば、先に当に心を摂して、然る後に成ずべし。譬えば、狂酔の人の、自利、他利、好、醜の事を、都(すべ)て覚知せざるが如く、散乱の心も亦た是の如く、世間の好事すら尚お善く知る能わず。何に況んや、出世間の法をや。
『散乱の心』は、
譬えば、
『風中の然灯( a lighted lantern in wind )』は、
『光明が有っても!』、
『物』を、
『照すことができないように!』、
『乱心中の智慧』も、
是のように、
『物を照して!』、
『明了にすることができない!』。
『智慧』は、
一切の、
『善法』の、
『根本である!』が故に、
若し、
是の、
『智慧を成就しようとすれば!』、
先に、
『心』を、
『摂すべきであり( must control )!』、
その後、
『智慧』を、
『成就することができるのである!』。
譬えば、
『狂酔の人』が、
『自利( own benefit )も、他利( other's benefit )も!』、
『好、醜の事も!』、
都て( all )、
『覚知することができないように!』、
『散乱の心』も、
是のように、
『世間の好事すら!』、
『善く知ることはできない( cannot apprehend )!』、
況して、
『出世間の法』は、
『尚更である!』。
  善知(ぜんち):梵語 sugRhiita の訳、確実に捉らえられた( held fast or firmly, seized, grasped )の義、善く把握/理解された( well apprehended or learnt )の意。
愚癡人心一切成敗事皆不能及。何況微妙深義。譬如無目之人或墜溝坑或入非道。無智之人亦復如是。無智慧眼故受著邪法不受正見。如是之人世間近事尚不能成。何況阿耨多羅三藐三菩提。 愚癡人の心は、一切の成敗の事を、皆及ぶ能わず。何に況んや、微妙の深義をや。譬えば無目の人は、或いは溝坑に堕ち、或いは非道に入るが如く、無智の人も亦復た是の如く、智慧の眼の無きが故に、邪法を受けて著し、正見を受けず。是の如き人は、世間の近事すら、尚お成ずる能わず。何に況んや阿耨多羅三藐三菩提をや。
『愚癡の人』は、
『一切の成敗事( all success and failure )』には、
皆、
『心が及ばない( be beyond his mind )!』。
況して、
『微妙の深義』は、
『尚更である!』。
譬えば、
『無目の人』が、
或いは、
『溝や、坑』に、
『堕ちたり!』、
或いは、
『非道』に、
『入ったりするように!』、
『無智の人』も、
是のように、
『智慧の眼が無い!』が故に、
『邪法を受けて、著しながら!』、
『正見』を、
『受けることがない!』ので、
是のような、
『人』は、
『世間の近事( a familiar matter )すら!』、
尚お、
『成じることはできない( cannot achieve )!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成じるはずがない!』。
  近事(こんじ):梵語 upaasana の訳、身近な行為/奉仕/付添い( the act of being near at hand, service, attendance )の義、卑近な事( a familiar matter )の意。
菩薩行般若波羅蜜力故。能障是六蔽淨六波羅蜜。以是故說若欲不起六蔽。當學般若波羅蜜 菩薩は、般若波羅蜜を行ずる力の故に、能く是の六弊を障(さ)えて、六波羅蜜を浄む。是を以っての故に説かく、『若し六弊を起さざらんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行う!』、
『力』の故に、
是の、
『六弊(慳貪、破戒、瞋恚、懈怠、散乱、愚癡)』を、
『障えて( to shut out )!』、
『六波羅蜜』を、
『浄める( to purify )ことができる!』。
是の故に、こう説くのである、――
若し、
『六弊』を、
『起さないようにしよう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。



衆生を布施、持戒、修定、勧導の福処に立たせる

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲使一切眾生立於布施福處持戒福處修定福處勸導福處。欲令眾生立於財福法福處。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩、一切の衆生をして、布施の福処、持戒の福処、修定の福処、勧導の福処に立たしめんと欲し、衆生をして、財福、法福の処に立たしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『一切の衆生』を、
『布施、持戒、修定、勧導』の、
『福処( a meritorious standpoint )』に、
『立たせようとし!』、
『衆生』を、
『財、法』の、
『福処』に、
『立たせようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  福処(ふくじょ):梵語 puNya-sthaana? の訳、吉兆の場所( a auspicious place )の義、称讃すべき立場( a meritorious standpoint )の意。
【論】問曰。云何名為福處。 問うて曰く、云何が、名づけて福処と為す。
問い、
何故、
『福処』と、
『呼ばれるのですか?』。
答曰。阿毘曇言。福者善有漏身口意業。復有人言。不隱沒無記是。所以者何。善有漏業因緣果報故。得是不隱沒無記。福是果報亦名為福。如世間人說能成大事多所成辦是名福德人。 答えて曰く、阿毘曇の言わく、『福とは、善有漏の身、口、意業なり』、と。復た有る人の言わく、『不隠没無記是れなり。所以は何んとなれば、善有漏業の因縁の果報なるが故に、是の不隠没無記を得ればなり。福とは、是れ果報なれば、亦た名づけて福と為す。世間の人の、『能く大事を成じて、成辦する所多き、是れを福徳の人と名づく』、と説くが如し。
答え、
『阿毘曇』は、こう言っている、――
『福』とは、
『善である!』、
『有漏』の、
『身、口、意の業である!』、と。
復た、有る人は、こう言っている、――
『不隠没無記』が、
『福である!』。
何故ならば、
是の、
『不隠没無記』は、
『善の有漏業という!』、
『因縁』の、
『果報であり!』、
是の故に、
是の、
『不隠没無記』を、
『得るのである!』が、
『福とは、果報であり!』、
是の、
『不隠没無記という!』、
『果報を得る!』が故に、
是れを、
『福』と、
『称するのである!』、と。
『世間の人』の場合は、こう説いている、――
『大事を成すことができ!』、
『成辦する所が多ければ( many things were achieved )!』、
『福徳の人』と、
『呼ばれる!』、と。
  不隠没無記(ふおんもつむき):聖道を障え、心性を蔽うて不浄ならしむることのなき無記法をいう。また無覆無記ともいう。『大智度論巻32上注:無覆無記』参照。
是福略說三種。布施持戒修定。何等是布施。有人以衣服臥具飲食花香瓔珞等與人。是名布施。 是の福を略説すれば、三種にして、布施、持戒、修定なり。何等か、是れ布施なる。有る人は、衣服、臥具、飲食、花香、瓔珞等を以って、人に与う、是れを布施と名づく。
是の、
『福を略説すれば!』、
『三種であり!』、
『布施、持戒、修定である!』。
何のようなものが、
『布施なのか?』、――
有る、
『人』が、
『衣服、臥具、飲食、花香、瓔珞』等を、
『人』に、
『与えれば!』、
是れを、
『布施』と、
『称する!』。
問曰。飲食等物便是布施。為更有布施。 問うて曰く、飲食等の物は、便ち是れ布施なるも、更に布施有りと為すや。
問い、
『飲食等の物』が、
便ち( even if )、
『布施だとすれば!』、
更に、
『布施』が、
『有るのですか?』。
答曰。飲食等物非布施。以飲食等物與時。心中生法名捨。與慳心相違。是名布施。福德是或有漏或無漏。常是善心數法心相應隨心行共心生。無色無形能作緣業相應隨業行業共生。非先業果報得。修行修慧證身證凡夫人得亦聖人得。 答えて曰く、飲食等の物は、布施に非ず。飲食等の物を以って与うる時、心中に生ずる法を、捨と名づけ、慳心と相違すれば、是れを布施と名づく。福徳は、是れ或いは有漏、或いは無漏なるも、常に是れ善の心数法、心相応、随心行にして、心と共に生じ、無色、無形なるも、能く縁と作りて、業に相応し、随業の行にして、業と共に生ずるも、先業の果報に非ず、得修、行修、慧証、身証にして、凡夫人の得、亦た聖人の得なり。
答え、
『飲食等の物は、布施でなく!』、
『飲食等の物を、与える!』時、
『心中に生じる!』、
『法』が、
『捨であり!』、
是の、
『捨』は、
『慳心』と、
『相違する!』ので、
是れを、
『布施』と、
『称するのである!』。
『布施の福徳』は、
『有漏か、無漏である!』が、
常に、
『善の心数法であり!』、
『心相応の法であり!』、
『随心の行であり!』、
『心と共に生じ!』、
『無色、無形である!』が、
『縁と作ることができ!』、
『業に相応し!』、
『随業の行であり!』、
『業と共に生じ!』、
『先業の果報ではなく!』、
『得修でもあり、行修でもあり!』、
『慧証でもあり、身証でもあり!』、
『凡夫人が得ることもあり、聖人が得ることもある!』。
  能作縁(のうさえん):能作因。『大智度論巻32上注:能作因』参照。
  得修(とくしゅ):未だかつて得ざる所を今得るを云う。『大智度論巻11下注:得修』参照。
  行修(ぎょうしゅ):かつて得たる所を現前に修すの意。『大智度論巻11下注:行修』参照。
  身証(しんしょう):身の受、想滅するを以って解脱と為すの意。『大智度論巻11下注:身証』参照。
  慧証(えしょう):仏の意の已に解脱せるを云う。『大智度論巻11下注:慧証』参照。
  参考:『大智度論巻11』:『問曰。云何名檀。答曰。檀名布施心相應善思。是名為檀。有人言。從善思起身口業。亦名為檀。有人言。有信有福田有財物三事和合時。心生捨法能破慳貪。是名為檀。譬如慈法觀眾生樂而心生慈。布施心數法亦復如是。三事和合心生捨法能破慳貪。檀有三種。或欲界繫或色界繫或不繫。(丹本注云聖人行施故名不繫)心相應法隨心行共心生。非色法能作緣。非業業相應隨業行共業生。非先世業報生。二種修行修得修。二種證身證慧證。若思惟斷。若不斷。二見斷欲界色界盡見斷。有覺有觀法凡夫聖人共行。如是等阿毘曇中廣分別說。』
有人言。是捨法相應思是名布施福德。所以者何。業能生果報故。思即是業。身口不名為業。從思生故得名業。 有る人の言わく、『是の捨法相応の思を、是れ布施の福徳と名づく。所以は何んとなれば、業は、能く果報を生ずるが故に、思は即ち是れ業にして、身口を名づけて業と為さず。思に従いて生ずるが故に業と名づくるを得』、と。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『福徳』は、
『捨法に相応する!』、
『思であり!』、
是の、
『思』を、
『布施の福徳』と、
『称するのである!』。
何故ならば、
『業』は、
『果報を、生じさせる!』が故に、
『思』は、
是の、
『福徳の因縁』の、
『業である!』が、
『身、口』は、
『福徳の因縁』の、
『業ではない!』。
『捨』が、
『業と呼ばれる!』のは、
『思より!』、
『生じるからである!』。
  (し):梵語 cintaa の訳、熟慮/考察/思考/想像/思案すること( to contemplate, consider, think, imagine, ponder )の義。
此布施有二種。一者淨二者不淨。 此の布施には、二種有り、一には浄、二には不浄なり。
此の、
『布施には、二種有る!』が、
一には、
『浄であり!』、
二には、
『不浄である!』。
不淨者直施而已。或畏失財故與。或惡訶罵故與。或無用故與。或親愛故與。或為求勢故與。以施故多致勢援。或死急故與。或求善名譽故與。或求與貴勝齊名故與。或妒嫉故與。或憍慢故與。小人愚賤尚施我為貴重大人云何不與。或為咒願福德故與。或求吉除凶故與。或求入伴儻故與。或不一心不恭敬輕賤受者而與。如是種種因緣。為今世事故施。與淨相違名為不淨。 不浄とは、直だ施すのみ。或いは財を失うを畏るるが故に与え、或いは呵罵を悪(にく)むが故に与え、或いは無用なるが故に与え、或いは親愛するが故に与え、或いは勢を求めんが為の故に与え、施を以っての故に多く勢援を致す。或いは死の急なるが故に与え、或いは善の名誉を求むるが故に与え、或いは貴勝と斉(ひと)しき名を求むるが故に与え、或いは嫉妒の故に与え、或いは憍慢の故に与う、『小人、愚賎すら尚お施すに、我れは貴重の大人為(た)るに、云何が与えざらんや』、と。或いは福徳を咒願するが故に与え、或いは吉を求めて、凶を除かんが故に与え、或いは伴党に入らんことを求むるが故に与え、或いは不一心、不恭敬にして、受者を軽賎して与う。是の如き種種の因縁は、今世の事の故に施すと為して、浄と相違すれば、名づけて不浄と為す。
『不浄』とは、
直だ( only )、
『施すだけであり!』、
或いは、
『財を失うこと!』を、
『畏れる!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『呵罵されること!』を、
『悪む( to hate )!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『無用である( be useless )!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『親愛する!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『権勢』を、
『求める!』が故に、
『与える!』。
『布施を用いて!』、
多く、
『権勢の援助』を、
『致す( to cause )のである!』。
或いは、
『死』が、
『急である( be pressing )!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『善であるという!』、
『名誉を求める!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『貴勝に斉しい( be equal to noble character )!』、
『名を求める!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『嫉妒する!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『憍慢である!』が故に、
『与えて!』、こう言う、――
『小人や、愚賎すら!』、
尚お、
『施す!』のに、
わたしのような、
『貴重の大人』が、
何うして、
『与えないのか?』、と。
或いは、
『福徳』を、
『咒願する!』為の故に、
『与え!』、
或いは、
『吉を求めて!』、
『凶を除く!』為の故に、
『与え!!』、
或いは、
『伴党に入ること!』を、
『求める!』が故に、
『与え!』、
或いは、
『一心』に、
『与えるのでもなく!』、
『恭敬して!』、
『与えるのでもなく!』、
『受者』を、
『軽賎する!』が故に、
『与える!』。
是れ等の、
種種の、
『因縁』は、
『今世の事』を、
『思う!』が故に、
『与えるのであり!』、
『浄と相違する!』が故に、
『不浄』と、
『呼ばれるのである!』。
  訶罵(かめ):叱りつけて罵る。
  伴儻(ばんとう):伴攩、伴党。 
  貴勝(きしょう):梵語 udaara-sattva の訳、尊貴の人格( noble character )の義。
淨施者如經中說。治心故施。莊嚴意故施為得第一利故施。生清淨心能分別為助涅槃故施。譬如新花未萎色好且香。淨心布施亦復如是。如說諸天不淨心布施者宮殿光明薄少。若淨心布施者宮殿光明增廣。此布施業雖過去乃至千萬世中不失。譬如券要。 浄施とは、経中に説けるが如く、心を治するが故に施し、意を荘厳するが故に施し、第一の利を得んが為めの故に施し、清浄心を生じて、能く分別し、涅槃を助けんが為の故に施す。譬えば新たなる花の未だ萎(しぼ)まざれば、色好く、且つ香しきが如く、浄心の布施も亦復た是の如し。『諸天、不浄心もて布施すれば、宮殿の光明薄少し、若し浄心もて布施すれば、宮殿の光明増広す』、と説けるが如し。此の布施の業は、過去なりと雖も、乃至千万世中に失わざること、譬えば巻要の如し。
『浄施』とは、
『経』中に、こう説く通りである、――
『心』を、
『治める!』為の故に、
『施し!』、
『意』を、
『荘厳する!』為の故に、
『施し!』、
『第一の利』を、
『得る!』為の故に、
『施し!』、
『清浄の心を生じて!』、
『好、醜を分別することができ!』、
『涅槃を助ける!』為の故に、
『施す!』、と。
譬えば、
『花』を、
『新しくして!』、
『萎ませなければ!』、
『花』の、
『色も、香も!』、
『好もしいように!』、
『浄心』の、
『布施』も、
『是の通りである!』。
例えば、こう説く通りである、――
『諸天』が、
『不浄心で布施すれば!』、
『宮殿』の、
『光明』が、
『薄れて少なくなり!』、
『浄心で布施すれば!』、
『宮殿』の、
『光明』が、
『増広する!』、と。
此の、
『布施という!』、
『業』は、
『過去でありながら!』、
乃至、
『千万世』中にも、
『失われることなく!』、
譬えば、
『券要( the influence of a bill )』が、
『失われないようなものである!』。
  巻要(けんよう):手形の効用( the influence of a bill )。
問曰。此布施福云何增長。 問うて曰く、此の布施の福は、云何が増長する。
問い、
此の、
『布施の福』は、
何故、
『増長する( to increase )のですか?』。
答曰。應時施故得福增長。如經說。飢餓時施得福增多。或遠行來時若曠路險道中施。若常施不斷。或時常念施故施福增廣。如六念中念捨說。 答えて曰く、時に応じて施すが故に、福の増長を得。経に説けるが如し、『飢餓の時に施せば、福の増多を得。或いは遠行来の時、若しは曠路、険道中に施し、若しは常に施して断ぜず、或いは時に常に施を念ずるが故に、施福は増広す。六念中の念捨に説けるが如し。
答え、
『時に応じて( on the appropriate occasion )!』、
『施す!』が故に、
『福』を、
『増長させることができる!』。
『経』に、こう説く通りである、――
『飢餓の時に施せば!』、
『福』を、
『増多させることができ!』、
『遠行、遠来の時や、曠路、険道中に施せば!』、
『福』を、
『増広させ!』、
若しは、
『常に施して!』、
『断じなければ!』、
『増広させ!』、
或いは、時に、
『常に念じて!』、
『施せば!』、
『増広させることができる!』、と。
例えば、
『六念』中の、
『念捨』に、
『説いた通りである!』。
  遠行来(おんぎょうらい):遠行と遠来。
  曠路(こうろ):荒れ野の路。
  参考:『大智度論巻11』:『復次施得時故。報亦增多。如佛說。施遠行人遠來人。病人看病人。風寒眾難時施。是為時施。復次布施時隨土地所須施故。得報增多。復次曠路中施故。得福增多。常施不廢故。得報增多。如求者所欲施故。得福增多。施物重故。得福增多。如以精舍園林浴池等若施善人故。得報增多。若施僧故。得報增多。若施者受者俱有德故。(丹注云如菩薩及佛慈心布施是為施者若施佛及菩薩阿羅漢辟支佛是為受者故)得報增多。種種將迎恭敬受者故。得福增多。難得物施故。得福增多。隨所有物盡能布施故。得福增多。』
  参考:『増一阿含巻35』:『聞如是。一時。佛在阿踰闍江水邊。與大比丘眾五百人俱。時。大均頭在閑靜之處。而作是念。頗有此義恒益功德。為無此理。是時。均頭即從座起。往至世尊所。頭面禮足。在一面坐。爾時。均頭白佛言。世尊。向者在閑靜之處。而作是念。頗有此理。所行眾事。得益功德耶。我今問世尊。唯願說之。世尊告曰。可得增益功德。均頭白佛言。云何得增益功德。世尊告曰。增益有七事。其福不可稱量。亦復無人能算計此者。云何為七。於是。族姓子.若族姓女未曾起僧伽藍處。於中興立者。此福不可計。復次。均頭。若善男子.善女人能持床座施彼僧伽藍者及與比丘僧。是謂。均頭。第二之福不可稱計。復次。均頭。若善男子.善女人以食施彼比丘僧。是謂。均頭。第三之福不可稱計。復次。均頭。若善男子.善女人以遮雨衣給施比丘僧者。是謂。均頭。第四功德其福不可量。復次。均頭。若族姓子.女若以藥施比丘僧者。是謂第五之福不可稱計。復次。均頭。若善男子.善女人曠野作好井者。是謂。均頭。第六之功德也。不可稱計。復次。均頭。善男子.善女人近道作舍。使當來過去得止宿者。是謂。均頭。第七功德不可稱計。是謂。均頭。七功德之法其福不可量。若行。若坐。正使命終。其福隨後。如影隨形。其德不可稱計。言當有爾許之福。亦如大海水不可升斗量之。言當有爾許之水。此七功德亦復如是。其福不可稱限。是故。均頭。善男子.善女人當求方便。成辦七功德。如是。均頭。當作是學。爾時。均頭聞佛所說。歡喜奉行』
若大施故得福多。若施好人若施佛若施者受者清淨故。若決定心施。若自以力致財施。若隨所有多少能盡施。若交以物施。若以園田使人等施。如是布施唯有菩薩能以深心行之。 若しは、大施の故に、福を得ること多く、若しは好人に施し、若しは仏に施し、若しは施者、受者清浄なるが故に、若しは心を決定して、施し、若しは自ら力を以って、財を致して施し、若しは有る所の多少に随いて、能く尽く施し、若しは交(こもご)も物を以って施し、若しは田園、使人等を以って施す。是の如き布施は、唯だ有る菩薩のみ、能く深心を以って、之を行ず。
若しは、
『大施』の故に、
『福を、多く得ることになり!』、
若しは、
『好人や、仏に!』、
『施したり!』、
若しは、
『施者も、受者も清浄である!』が故に、
『施したり!』、
若しくは、
『心を、決定して!』、
『施したり!』、
若しは、
『自ら力めて( to make an effort )!』、
『財を致して( to incur a lot of property )!』、
『施し!』、
若しは、
『有する!』所の、
『多、少に随って!』、
『尽くを、施すことができ!』、
若しは、
『交も( one by one )!』、
『物』を、
『施し!』、
若しは、
『園、田や、使人』等を、
『施せば!』、
是のような、
『布施』は、
唯だ、
『有る菩薩のみ!』が、
『深心で!』、
『行うことができる!』。
如韋羅摩菩薩。十二年布施已莊飾乳牛七寶缽及婇女各有八萬四千。及諸餘物飲食之屬不可勝數。 韋羅摩菩薩の如きは、十二年布施し已るに、荘飾せる乳牛、七宝の鉢、及び婇女は、各八万四千有り、及び諸余の物、飲食の属は、数うるに勝(た)うべからず。
例えば、
『韋羅摩菩薩』などは、
『十二年、布施した!』中に、
『装飾された乳牛や、七宝の鉢や、婇女』が、
各、
『八万四千』、
『有り!』、
『諸余の物や、飲食の属』は、
『数』で、
『数えようにも!』、
『勝えられない( be unable to )ほどであった!』。
  韋羅摩菩薩(いらまぼさつ):婆羅門の菩薩、「大智度論巻11」に依るに、閻浮提中の王婆薩婆の時、婆羅門の菩薩あり、韋羅摩と名づく、国王の師にして王に転輪聖王と作る法を教う、韋羅摩は財富無量、珍宝具足して、この思惟を作さく、人は我れを謂いて貴人にして財富無量、衆生を饒益すとなせり。今正にこの時なり、まさに大施すべし。富貴なるは楽なりといえども、一切は無常にして、五家の共にする所なり、人の心をして散ぜしめ、軽泆せしめて定まらせずと。即ち、普く閻浮提の諸の婆羅門、及び一切の出家人に、願わくは徳を屈して我が舎に来集せよ、大施を設けんと欲すと告げ、満十二歳、種種山のごとき飲食、衣服、臥具、湯薬を以って布施すと云えり。<(望)
  荘飾(しょうじき):梵語 bhuuSaNa の訳、装飾された( decorating, adorning )の義。
又如須帝隷拏菩薩。下善勝白象施與怨家。入在深山以所愛二子施十二醜婆羅門。復以妻及眼施化婆羅門。爾時地為大動天為雷震。空中雨花。 又須帝隷拏菩薩の如きは、善勝白象を下りて、怨家に施与し、入りて深山に在り、所愛の二子を以って、十二醜婆羅門に施し、復た妻、及び眼を以って、化婆羅門に施すに、爾の時、地は、為に大動し、天は、為に雷震し、空中に花を雨ふらせり。
又、
『須帝隷拏菩薩』などは、
『善勝という!』、
『白象を下りて!』、
『怨家に、施与して( to present )!』、
『深山』に、
『入る!』と、
『愛する!』所の、
『二子』を、
『十二人の醜婆羅門』に、
『施し!』、
復た、
『妻と、眼』を、
『化婆羅門』に、
『施したのである!』が、
爾の時、
『地』は、
『菩薩の為に!』、
『大動し!』、
『天』は、
『菩薩の為に!』、
『雷鳴』を、
『震わし!』、
『空』中に、
『花の雨』を、
『降らしたのである!』。
  須帝隷拏(しゅだいりな):須大拏に同じ。
  須大拏(しゅだいな):須大拏sudaanaは梵名。また須太拏、須達拏、須提拏、蘇達拏、蘇達那、須帝隷拏、或は須帝[(匕/示)*(入/米)]拏に作り、善施、善与、好愛、善牙、或は一切施と訳す。釈尊因位に太子となりて菩薩行を修せられし時の名。「菩薩本行経巻下」に、「須大拏太子の時、二児及び婦を持って用って布施す」と云い、「大智度論巻12」に、「須提拏太子の如きは、その二子を以って婆羅門に布施し、次ぎに妻を以って施してその心転ぜず」と云えるこれなり。これ謂わゆる須大拏本生にして、諸経論に散説する所なるも、今「六度集経巻2須大拏経」に依りて略してその大概を述ぶべし。昔し葉波国に王あり、薩闍と名づけ、号して湿随と曰う。王に太子あり須大拏と名づく。慈孝聡明にして常に布施を願じ、衣服飲食、声に応じてこれを恵み、金銀衆珍、車馬田宅、求むるものあれば与えざることなし。王に一白象あり、威猛武勢にして六十象を躃き、敵国来たり攻むるもこの象によりて常に勝つことを得。時に敵国の諸王、太子の布施を好むを聞き、梵志八人を遣してその象を乞わしむ。太子即ちこれを以って梵志に施捨す。ここに於いて上下大いに驚駭して太子の心事を疑い、王また太子の余りに仏道を好みて困乏を救済し、衆生を慈育して度なく、遂に国庫を傾け国宝を失わんことを憂え、仍りて自ら省悟せしめんが為に、十年を期し国を出でて山野に住せしむ。太子即ちその妃曼坻、男耶利及び女罽拏延と共に配所檀特山に赴く。途上また象馬車乗珍宝瓔珞衣服等、乞う者あれば従って皆これを恵施して毫も心に悔ゆる所あらず、和心歓喜し二十一日にして檀特山中に達す。時に山中に阿周陀と名づくる一道士あり、久しくここに処して玄妙の徳あり。太子即ち妻子とその許に詣して慈誨を請い、就いて道を学す。紫草を以って屋となし、結髪葌服、果を食い、泉を飲み、男児は小草服を被り父に従って出入し、女児は鹿皮衣を著け母に従って出入せり。時に鳩留県に老いたる貧梵志あり、その妻の姧計を用い、太子の所に来たりて二児を乞う。太子即ちこれを与う。帝釈また化して梵志となり、試に妃を求む。太子またこれを施して辞せず。彼の鳩留の梵志乃ち二児を伴い、太子の本国に至りてこれを売る。王時に二児を贖いて宮に召し、尋いで太子を許して国に還り王位に即かしむ。その時の太子は釈尊、父王は阿難、妻は俱夷、子男は羅云、女は羅漢朱遅母、天帝釈は弥勒、阿周陀は大迦葉、売児梵志は調達、その妻は今の調達の妻旃遮なりと云えるこれなり。また「太子須大拏経」、「菩薩本縁経巻上一切施品、巻中一切持王子品」、「有部毘奈耶薬事巻14」、「有部毘奈耶破僧事巻16」、「大智度論巻33」等に出づ。<(望)
又如薩婆達多王。自縛其身施婆羅門。如尸毘王。為一鴿故自持其身以代鴿肉。又如菩薩曾為兔身自炙其肉施與仙人。如是等菩薩本生經中所說。 又薩婆達多王の如きは、自ら其の身を縛って、婆羅門に施し、尸毘王の如きは、一鴿の為の故に、自ら其の身を持して、以って鴿の肉に代え、又菩薩の如きは、曽て兔の身と為り、自ら其の肉を炙りて、仙人に施与せり。是れ等の如き菩薩は、『本生経』中に説ける所なり。
又、
『薩婆達多王』などは、
自ら、
『身を縛って!』、
『婆羅門』に、
『施した!』し、
『尸毘王』などは、
『一鴿の為に!』、
自ら、
『身を持って!』、
『鴿の肉』に、
『代えた!』し、
又、
『菩薩』は、
曽て、
『兔』の、
『身であった!』時、
自ら、
『肉を炙って!』、
『仙人』に、
『施与したのである!』が、
是れ等のような、
『菩薩』は、
『本生経』中に、
『説かれている!』。
  薩婆達多(さるばだった):梵名sarva-datta、また薩縛達多、薩婆達、薩和達等に作り、一切施と訳す。「生経巻5」に、「仏言わく、昔、一国あり、大海の近くに居す。時の王を薩和達と名づく、慈を以って国を治め、民を視ること子の如し。国に大災あり、三年雨ふらずして人民飢餓す。王、梵志道士を召して問わく、まさに雨ふるや不やと。占者答えて曰わく、満十年乃ち雨あらざるのみと。王この語を聞いて、人民の死に尽くすを恐れ、愁憂して楽しまず。まさに何計を作すを以って国人を済わんやと。また念じて曰わく、唯まさに身を施し以って衆生を救わんのみと。便ち斎戒清浄して、また手を十方に向けて曰わく、和が前後に作す所の善行を以って、もし福報有らば、願わくは海中に生じて大身の魚を作り、肉を以って衆に供養せんと。便ち口を閉ざして食わず、七日にて命終し、生じて魚と為るを得、身長四千里、具さに宿命を識る。便ち海岸上に堕し、正に黒山を像る。人民、山を見て怪しみ、那んぞこの山を有ることを得ると。皆、往きてこれを視、乃ち大魚なるを知る。国を挙げて皆往き、乃ち解き、取りて食い、飢困を免るるを得、国は終に還復し、豊熟すること故の如し、諸の比丘に告ぐ、その時の魚は我が身これなり、その時我が肉を食いし者は、今の維耶離国の人これなりと」と云えるこれなり。また「大荘厳経論巻15」、「雑譬喩経(第34経)」、「大智度論巻12、33」等に出づ。<(望)
  尸毘王(しびおう):尸毘ziviは梵名。またはzibi、また湿鞞、或は尸毘迦zibikaに作る。安穏と訳す。釈尊因位に菩薩行を修せられし時の名。「菩薩本行経巻下」に、「我れ尸毘王たりし時、一鴿の為の故にその身肉を割き、誓願を興立して一切衆生の危険を除去す」と云い、「大宝積経巻80」に、「我れ昔し曽て尸毘王たりしとき、鴿はり恐怖して来たりて我れに投ず。我れ身肉を以って彼の命に代り、彼をして恐怖を離るることを得しめたり」と云い、「護国尊者所問大乗経巻2」に、「昔し飛鴿あり来たりて我れに投ず、即ち身肉を割きて彼の命を済う。かくの如く刀を持し肉を割く時、驚なく怖なく心安穏なり」と云い、「師子素駄娑王断肉経」に、「また念うに過去阿僧祇劫に釈提桓因は忉利宮に処し、過去食肉の余習を以って身を変じて鷹となりて鴿を逐う。我れ時に王と作り名を尸毘と曰う。その鴿を愍念し、身を秤り肉を割き、鴿に代りて命を償う。尸毘王とは我が身これなり」と云えるこれなり。これ謂わゆる割肉貿鴿の因縁にして、仏本生譚中最も有名なるものなり。「菩薩本生鬘論巻1」に因縁を委説し「往昔無量阿僧祇劫に閻浮提中に大国あり、王の名を尸毘と曰う。都する所の城を提婆底と号す。地唯沃壌にして人多く豊楽に、八万四千の小国を統領す。(中略)王は慈行を蘊み、仁恕和平にして庶民を愛念すること赤子の如し。この時、三十三天帝釈天王は五衰の相貌あり、将に退堕せんとするを慮る。彼の近臣に毘首天子あり、この事を見已りて帝釈天主に白して言わく、何んが故に尊儀忽ち愁色ありやと。帝釈謂って言わく、吾れ将に逝かんとす、世間を思念するに仏法すでに滅し、諸大菩薩また出現せず、我が心の何の所に帰趣すべきかを知らずと。時に毘首天また天主に白さく、今閻浮提に尸毘王あり、志固く精進にして仏道を求楽す、まさに往きて帰投せば必ずこの難を脱せんと。天帝聞き已りて審らかに実とせんや不や、もしこれ菩薩ならば今まさにこれを試むべし。乃ち毘首を遣して変じて一の鴿と為らしめ、我れは化して鷹と為り、遂に王の所に至りて彼の救護を求め、その誠を験すべしと。(中略)毘首天子化して一の鴿となり、帝釈は鷹と作りて急に後を逐い、将に為に搏取せんとす。鴿甚だ惶怖して王の腋下に飛び、蔵避の処を求む。鷹は王の前に立ちて乃ち人語を作す、今この鴿はこれ我れの食なりと。我れ甚だ饑うること急なり、願わくは王還されよと。王曰わく、吾れ本とまさに一切を度すべしと誓願せり。鴿来たりて依投す、終に汝に与えず。鷹言わく、大王今は一切を愛念す、もし我が食を断たば命また済わずと。王曰わく、もし余の肉を与えば汝能く食するや不や。鷹言わく、唯新血肉ならば我れ乃ちこれを食せんと。王自ら念じて言わく、一を害して一を救うは理に於いて然らず。唯我が身を以って能く彼に代るべきのみ。その余の命あるもの皆自ら保存すと。即ち利刀を取りて自ら股肉を割き、肉を持して鷹に与え、この鴿の命を貿う。鷹言わく、王は施主となり今身肉を以って鴿に代えんとせば、称りて足らしむべしと。王勅して称を取り、両頭に盤を施し、鉤を中央に挂け、それをして均等ならしめ、鴿と肉とを各一処に置く。股の肉を割き尽くすも鴿の身なお低く、以って臂脇の身肉を都て無きに至るも、その鴿に比するに形軽くしてなお未だ等しからず。王自ら身を挙げて称槃に上らんと欲するに力相接せず、足を失して地に堕ち悶絶して覚なし。良久しうして蘇し、勇猛力を以って自らその心を責む、曠大劫来、我れ身の為に累せられ、六趣に循環して備に万苦に縈り、未だ嘗て福利を為して有情に及ぼさず。今正にこの時なり、何ぞ懈怠せんやと。その時大王この念を作し已りて、自ら強いて起立して身を盤上に置き、心に喜足を生じて未曽有なることを得たり。この時、大地六種に震動し、諸天宮殿皆悉く頃揺し、色界の諸天は空に住して称讃し、この菩薩の難行苦行を見て、各各悲しみて感涙の下ること雨の如し。また天華を雨ふらして供養を伸ぶ。時に天帝等本形に復還し、王の前に住立して、かくの如き説をなす、王の修する苦行の功徳量り難し。輪王釈梵の位を希うが為に三界中に於いて何の所作を欲するや。王即ち答えて曰わく、我が願う所は世間尊栄の報を須いず、この善根を以って誓って仏道を求むと。天帝また言わく、王今この身は痛骨髄に徹すべし、寧ろ悔ありや不や。王曰わく、弗なり。天帝曰わく、我れ汝の身を観るに甚だ大いに艱苦なり。自ら悔無しと云うも何を以って表明するや。王乃ち誓って曰わく、我れ挙心よりここに至るまで少悔の毛髪ばかりの如きものあることなし。もし我が求むる所決定して成仏し、真実にして虚しからず、願の如くなるを得ば、吾が股体をして即ちまさに平復せしむべしと。この誓を為し已るに、頃にして故の如くなるを得たり。諸天世人讃じて希有と言い、歓喜踊躍して自ら勝ゆる能わず。仏大衆に告ぐ、往昔の時の尸毘王とは豈異人ならんや、我が身これなり」と云えり、以ってその事縁の起尽を見るべし。「六度集経巻1」にまた同一説話を載するも、その王名を薩和達sarvadattaとなすを異とす。また「撰集百縁経巻4」、「福蓋正行所集経巻7」、「賢愚経巻1」、「大智度論巻1、巻4、巻35」、「大荘厳経論巻12」等に出づ。<(望)
  参考:『生経巻4仏説兔王経』:『聞如是。一時佛遊於舍衛祇樹給孤獨園。與大比丘眾千二百五十人俱。佛告諸比丘。昔有兔王。遊在山中。與群輩俱。飢食果蓏。渴飲泉水。行四等心。慈悲喜護。教諸眷屬。悉令仁和。勿為眾惡。畢脫此身。得為人形。可受道教。時諸眷屬。歡喜從教。不敢違命。有一仙人。處在林樹。食噉果蓏。而飲山水。獨處修道。未曾遊逸。建四梵行慈悲喜護誦經念道。音聲通利。其音和雅。聞莫不欣。於時兔王。往附近之。聽其所誦經。意中欣踊。不以為厭。與諸眷屬。共齎果蓏。供養道人。如是積日經月歷年。時冬寒至。仙人欲還到於人間。兔王見之。著衣取缽。及鹿皮囊。并諸衣服。愁憂不樂。心懷戀恨。不欲令捨來。對之淚出。問何所趣。在此日日相見。以為娛樂。飢渴忘食。如依父母。願一留意。假止莫發。仙人報曰。吾有四大。當慎將護。今冬寒至。果蓏已盡。山水冰凍。又無巖窟可以居止。適欲捨去依處人間。分衛求食。頓止精舍。過冬寒已。當復相就。勿以悒悒。兔王答曰。吾等眷屬。當行求果。遠近募索。當相給足。願一屈意。愍傷見濟。假使捨去。憂慼之戀。或不自全。設使今日。無有供具。便以我身。供上道人。道人見之。感惟哀念。恕之至心。當奈之何。仙人事火。前有生炭。兔王心念。道人可我。是以默然。便自舉身。投於火中。火大熾盛。適墮火中。道人欲救。尋已命過。命過之後。生兜術天。於菩薩身。功德特尊。威神巍巍。仙人見之。為道德故。不惜身命。愍傷憐之。亦自剋責。絕穀不食。尋時遷神。處兜率天。佛告比丘。欲知爾時兔王者則我身是。諸眷屬者今諸比丘是。其仙人者定光佛是。吾為菩薩。勤苦如是。精進不懈。以經道故。不惜軀命。積功累德無央數劫。乃得佛道。汝等精勤無得放逸。無得懈怠。斷除六情如救頭燃。心無所著當如飛鳥遊於虛空。佛說如是。莫不歡喜。』
復有聲聞人布施。如須彌陀比丘尼。與二同學為迦那伽牟尼佛作精舍。於無數千萬世受轉輪聖王及天王福。如施婆羅門。持一瓶酪施僧世世受樂。今得阿羅漢諸受樂中受樂第一。 復た有るいは、声聞人も布施す。須弥陀比丘尼の如きは、二同学と与(とも)に、迦那伽牟尼仏の為に、精舎を作り、無数千万世に於いて、転輪聖王、及び天王の福を受け、施婆羅門の如きは、一瓶の酪を持して、僧に施せば、世世に楽を受け、今は阿羅漢を得れば、諸の受楽中の受楽第一なり。
復た、
有るいは、
『声聞人も、布施する!』。
例えば、
『須弥陀比丘尼』などは、
『二同学と与に( with two fellow students )!』、
『迦那伽牟尼仏の為に!』、
『精舎』を、
『作った!』が故に、
『千万世』に於いて、
『転輪聖王や、天王の福』を、
『受けた!』し、
『施婆羅門』などは、
『一瓶の酪を持って!』、
『僧』に、
『施した!』が故に、
『世世に楽を受け!』、
今、
『阿羅漢』を、
『得て!』、
諸の、
『受楽の者』中に、
『受楽第一となったのである!』。
  須弥陀比丘尼(しゅみだびくに):不明。
  同学(どうがく):梵語 samaanOpaadhyaaya, sArdha- vihaarin, zikSaa- saamaanya- gata の訳、同学の友( fellow students, those who learn or study together )の意。
  迦那伽牟尼仏(かながむにぶつ):迦那伽牟尼kanakamuniは梵名。また羯諾迦牟尼、拘那含牟尼に作り、訳して金寂、金仙人と曰う。賢劫中の第二仏、過去七仏中の第五仏なり。人寿三万歳の時、清浄城に於いて生まる。「大智度論巻9」に、「迦那伽牟尼、秦に金仙人と言う」と云い、「玄応音義巻21」に、「羯諾迦牟尼、旧に拘那含牟尼と言う」と云い、「慧琳音義巻18」に、「羯諾迦牟尼、唐に金寂静と言う、これ賢劫中の第二仏なり」と云い、「梵網経述記巻下」に、「拘那含牟尼は、或は迦那伽牟尼と言う。拘那含は、これを無節樹と云い、牟尼は、これを忍と云い、また満と云い、また寂と云う」と云えり。<(望)
  施婆羅門(せばらもん):不明。
如末利夫人。供養須菩提故得今世果報。為波斯尼示王后。如尸婆供養迦栴延故得今世果報。為栴陀波周陀王后。 末利夫人の如きは、須菩提を供養せるが故に、今世の果報を得て、波斯尼示王の后と為り、尸婆の如きは、迦栴延を供養せるが故に、今世の果報を得て、栴陀波周陀王の后と為れり。
例えば、
『末利夫人』などは、
『須菩提を供養した!』が故に、
『今世の果報を得て!』、
『波斯尼示王の后』と、
『為った!』し、
『尸婆』などは、
『迦栴延を供養した!』が故に、
『今世の果報を得て!』、
『栴陀波周陀王の后』と、
『為ったのである!』。
  末利夫人(まりぶにん):末利mallikaaは梵名。また摩利、或は摩利迦に作る。勝鬘と訳す。中印度劫比羅衛城の人。幼名を明月と云い、父は摩納婆、母は婆羅門種なり。長ずるに従い聡明にして儀容超絶せしが、父の歿後釈摩訶男mahaanaamaの婢となり、嘗て命ぜられて園林に花を採り、鬘を結びて摩訶男に呈す。男見て大いに喜び、園中に住して日日鬘を作らしめ、因りて勝鬘と名づく。後仏帰国し、園林に来たりて乞食せらるるに会い、末利は飯食を供養し、その功徳に由りて婢身を捨て、永く貧苦を離れて大富貴を得んことを希い、乃ち異相を生ず。時に波斯匿prasenajit王(即ち勝光王)は四兵に駕して遊猟し、遇まこの園内に入る。末利は王の求に応じて洗足には煖水、洗面には温煖水、渇には冷水を献じ、また王の睡眠中には悪人怨恨者等の来たり侵害せんことを懼れて門戸を閉づ。王その機智に感じ、遂に娶りて第一夫人となす。王の母これを見て快とせず、後必ず常に憍薩羅城を喪うべしとなせり。尋いで夫人は懐妊して太子を生み、群臣為に議して毘琉璃viDuuDabha(即ち悪生)と名づく。太子長じて後、異母弟苦母と共に遊猟して劫比羅城釈迦園所に至り、釈子等の侮辱を被り、仍りて深く忿恨を懐き、後遂に釈種を殲滅せりと云う。これ「有部毘奈耶雑事巻7」に伝うる所なり。但し「増一阿含経巻26」には、波斯匿王が婚を釈種に求めたる時、欺きて摩訶男の婢の女を嫁せしめたりと云い、「四分律巻18」には、夫人は舎衛城の婆羅門耶若達の婢女にして黄頭と名づけ、常に末利園を守りしが故に末利夫人と称せられ、且つ顔貌醜陋にして見る者喜ばざりしを以って、その縁由を仏に問い、教を受けたりとし、「勝鬘経」にはその女を名づけて勝鬘と為すと云えり。また「増一阿含経巻3清信女品」には、夫人は優婆斯中供養如来第一なりと讃じ、「未曽有因縁経巻下」には、五戒を持せるも方便の為に飲酒妄語の二戒を犯ぜりと云い、「鼻奈耶巻7」には、迦留陀夷が独り王宮に入りて夫人の為に説法し、為に与女人説法過限戒を制せられたることを記し、巴梨文dhammapada-atthakathaa IIには、夫人は波斯匿王が悪心を懐いて衆を殺さんと欲するを知り、勧めて仏の教を受けしめ、仏は時に夫人の本生を明し、過去ウッガセーナuggasena王の后妃にしてディンナdinnaと名づけ、同じく衆の生命を救いしことを説かれたりとし、「勝鬘経」にはその女勝鬘を勧めて仏に帰せしめたりと云い、その他、諸経律中に夫王と共にその名を出せるもの頗る多し。また「中阿含巻47五支物主経、巻60愛生経」、「法句譬喩経巻2」、「賢愚経巻2」、「四分律巻16」、「十誦律巻16」、「摩訶僧祇律巻19」、「成唯識論述記巻9下」、「玄応音義巻5」等に出づ。<(望)
  須菩提(しゅぼだい):仏十大弟子中の一。『大智度論巻5下注:須菩提』参照。
  波斯尼示王(はしにじおう):また波斯匿王という。『大智度論巻2下注:波斯匿王』参照。
  迦旃延(かせんねん):仏十大弟子中の一。『大智度論巻2上注:摩訶迦旃延』、『雑法蔵経巻9迦旃延為悪生王解八夢縁』参照。
  尸婆(しば):不明。『雑法蔵経巻9迦旃延為悪生王解八夢縁』参照。
  栴陀波周陀王(せんだぱしゅうだおう):不明。『雑法蔵経巻9迦旃延為悪生王解八夢縁』参照。
  参考:『雑法蔵経巻9迦旃延為悪生王解八夢縁』:『昔惡生王。為行殘暴。無悲愍心。邪見熾盛。如來大悲。遣諸弟子。遍化諸國。迦栴延者。即是惡生王國婆羅門種。佛尋遣迦栴延。還化其國王。并及人民。時尊者迦栴延。受佛教已。尋還本國。時惡生王。不睹正真。奉事邪道。常於晨朝。不欲見人。先拜天祠。時迦栴延。將欲開化惡生王故。於清朝早起。化作異人。狀如遠使形貌端政。到王門中。當王見時。還服本形。作沙門像。王於道士剃髮之人。特復憎惡。王大恚言。汝今定死。尋便遣人。將迦栴延。垂欲加害。迦栴延白王言。我有何過。乃欲見害。王復語言。汝剃髮人。見者不吉。是以今者欲殺於汝。尊者迦栴延即答之言。今不吉者。乃在於我。不在於王。所以者何。王雖見我。都無損減。我見於王。王欲見殺。以此推之。言不吉者。正在於我。王素聰明。聞其語已。即領其意。放迦栴延。不興惡心。密遣二人。尋逐其後。觀其住止。食何飲食。見迦栴延。坐於樹下。乞食而食。若得食時。分與二人。有小餘殘。瀉著河中。二人既還。王即問尊者住處及以飲食。二人如上所見。具白於王。王於後日。而請尊者迦栴延。與麤澀飲食。遣人問言。而今此食。稱適意不。尊者答言。食之勢力。便以充足。後與上味細食。復遣人問言。可適以不。答言食之勢力。便為充足。後王問尊者言。我所施食。不問麤細。皆言充足。此事何謂也。尊者迦栴延即答王言。夫身口者。譬如於窖。栴檀亦燒。糞穢亦燒。身口亦爾。食無麤細。飽足為限。即說偈言 此身猶如車  好惡無所擇  香油及臭脂  等同於調利 王聞其語。深知大德。便以麤細之食。與婆羅門。諸婆羅門。初得麤食。咸皆忿恚。作色罵詈。後與細食。歡喜讚嘆。王見婆羅門等於飲食中心生喜怒。於迦栴延。倍生信敬。爾時尊者。有外生女。先在城外。住婆羅門聚落。甚有好髮。以安居時至。心懷供養。剪己髮賣。得五百金錢。請迦栴延。夏坐供養。尊者迦栴延。夏安居訖。還至城中。時惡生王宮門之中。卒有死雉。如轉輪王所食之雉。而惡生王。即欲食之。時一智臣。白於王言。然此雉者。不宜便食。應先試之。王用其言。時即遣人。割小臠以用與狗。狗得肉已貪著肉味。合舌俱食。遂至于死。又復割少肉。用試一人。人食肉已。亦著滋味。遂至自噉其手而死。王見是已。深生怖畏聞有人言。而此肉者。唯轉輪聖王。有無漏智得道之人。乃可食之。即便遣人。調和美食。送與尊者迦栴延。時迦栴延。食是食已。身體便安。王於後日。遣人伺看。見迦栴延。顏色和悅。倍勝於常。時王聞已。深生奇特。益加尊重。輕賤外道諸婆羅門等。王問迦栴延言。尊者此夏。何處安居。今方來耶。尊者具說以外生女賣髮貿錢供養眾僧。王聞是語。而作是言。我宮中人。極美髮者然直銅錢不過數枚。今言彼女之髮。直五百金錢者。彼之女人。美髮非常。容儀必妙。即問其女父母姓名。尋遣使人。往至於彼親見女身。姿貌超絕。果如所量。王即遣使。將娉為婦。而彼女家。大索寶物城邑聚落王復思惟。若與彼者。女來之時還當屬我。即便與之。納為夫人。初迎之日。舉國欣慶。咸稱大吉。於其後日復放大赦。即號為尸婆具沙夫人。王甚悅敬。後生太子。字喬婆羅。時王於寢。夢見八事。一頭上火然。二兩蛇絞腰。三細鐵網纏身。四見二赤魚吞其雙足。五有四白鵠飛來向王。六血泥中行泥沒其腋。七登大白山。八鸛雀[尸@(溧-木+土)]頭。於夢寤已。以為不祥愁憂慘悴。尋即往問諸婆羅門。婆羅門聞王此夢素嫌於王。兼嫉尊者。因王此夢言。大王不吉。若不禳厭。禍及王身。王聞其語信以為然。益增憂惱即問之言。若禳厭時。當須何物。諸婆羅門言。所須用者。王所珍愛。我若說者。王必不能。時王答言此夢甚惡但恐大禍殃及我身。除我以外。餘無所惜。請為我說所須之物。諸婆羅門等。見其慇懃。知其心至。即語王言。所可用者。此夢有八。要須八種可得禳災。一殺王所敬夫人尸婆具沙。二殺王所愛太子喬婆羅。三殺輔相大臣。四殺王所有烏臣。五殺王一日能行三千里象。六殺王一日能行三千里駝。七殺王良馬。八殺禿頭迦栴延。卻後七日。若殺此八。聚集其血。入中而行。可得消災。王聞其言。以己命重。即便許可。還至宮中。愁憂懊惱。夫人問王。何故如是。王答夫人。具陳說上不祥之夢并道婆羅門禳夢所須。夫人聞已。而作是言。但使王身平安無患。妾之賤身豈足道耶。即白王言。卻後七日。我歸當死。聽我往彼尊者迦栴延所。六日之中。受齋聽法。王言不得。汝若至彼。或語其實。彼若知者。捨我飛去。夫人慇懃。王不能免。即便聽往。夫人到彼尊者所已。禮拜問訊。遂經三日。尊者怪問。王之夫人。未曾至此經停信宿。何故今者不同於常。夫人具說王之惡夢。卻後七日。當殺我等用禳災患。餘命未幾。故來聽法。因向尊者。說王所夢。尊者迦栴延言。此夢甚吉。當有歡慶。不足為憂。頭上火然者。寶主之國。當有天冠。直十萬兩金。來貢於王。正為斯夢。夫人心急。七日向滿。為王所害。懼其來晚問尊者言。何時來到。尊者答言。今日晡時必當來至。兩蛇絞腰者。月支國王。當獻雙劍價直十萬兩金。日入當至。細鐵網纏身者。大秦國王。當獻珠瓔珞價直十萬兩金。後明晨當至。赤魚吞足者。師子王國當獻毘琉璃寶屐價直十萬兩金。後日食時當至。四白鵠來者。跋耆國王。當獻金寶車。後日日中當至。血泥中者。安息國王。當獻鹿毛欽婆價直十萬兩金。後日日昳當至。登太白山者。曠野國王。當獻大象後日晡時當至。鸛雀[尸@(溧-木+土)]頭者。王與夫人。當有私密之事。事至後日自當知之。果如尊者所言。期限既至。諸國所獻一切皆到。王大歡喜。尸婆具沙夫人。先有天冠。重著寶主國所獻天冠。王因交戲脫尸婆具沙夫人所著一重天冠。著金鬘夫人頭上。時尸婆具沙夫人。瞋恚而言。若有惡事。我先當之。今得天冠。與彼而著。尋以酪器。擲王頭上。王頭盡污。王大瞋忿。拔劍欲斫夫人。夫人畏王。走入房中。即閉房戶。王不得前。王尋自悟尊者占夢云有私密。正此是耳。王與夫人。尋至尊者迦栴延所。具論上來。信於非法惡邪之言。幾於尊者妻子大臣所愛之物。行大惡事。今蒙尊者演說真實。開示盲冥。得睹正道。離於惡事。即請尊者。敬奉供養。驅諸婆羅門等。遠其國界。即問尊者有何因緣。如此諸國。各以所珍。奉獻於我。尊者答言。乃往過去。九十一劫。爾時有佛。名毘婆尸。彼佛出時。有一國名曰槃頭。王之太子。信樂精進。至彼佛所。供養禮拜。即以所著天冠。寶劍。瓔珞。大象。寶車。欽婆羅衣。用上彼佛。緣是福慶。生生尊貴。所欲珍寶。不求自至。王聞是已。於三寶所。深生敬信。作禮還宮』
如鬱伽陀居士。供養舍利弗等五百阿羅漢故。即日得果報。五百賈客得其餘食。人人以珠瓔珞與之卒得大富。遂號卒伽陀。如是等布施得今世果報。當知布施論議說不可盡。 鬱伽陀居士の如きは、舎利弗等の五百阿羅漢を供養せるが故に、即日に果報を得て、五百の賈客は、其の餘の食を得、人人は、珠の瓔珞を以って、之に与うれば、卒(にわ)かに大富を得て、遂に卒伽陀と号せり。是れ等の如き布施は、今世の果報を得れば、当に知るべし、布施の論議は説いて尽くすべからず。
例えば、
『鬱伽陀居士』などは、
『舎利弗』等の、
『五百の阿羅漢』を、
『供養した!』が故に、
即日、
『果報』を、
『得たのである!』。
即ち、
『五百の賈客( 500 wealthy merchants )』が、
『阿羅漢の余食』を、
『得る!』と、
『人人』は、
『珠の瓔珞』を、
『与えた!』ので、
『鬱伽陀』は、
卒かに( suddenly )、
『大富』を、
『得ることになり!』、
遂には( finally )、
『卒伽陀』と、
『号したのである( to call oneself )!』。
是れ等のような、
『布施』は、
『今世』の、
『果報』を、
『得るものである!』が、
当然、こう知らねばならない、――
『布施の論議』は、
『説いて!』、
『尽くせるものではない!』、と。
  鬱伽陀居士(うっかだこじ):不明。
  賈客(こきゃく):◯梵語 vaaNija の訳、商人/貿易商( a marchant or trader )の義。◯梵語 saartha の訳、資産家の/重要な/裕福な( having property, important, wealthy )の義。
  卒伽陀(そつがだ):蓋し、にわかに大富となった鬱伽陀の意なり。
持戒福處者。佛說五戒福者是。 持戒の福処とは、仏の説きたまえる五戒の福なる者是れなり。
『持戒の福処』とは、
『仏の説かれた!』、
『五戒の福』が、
『是れである!』。
問曰。云何殺罪相。 問うて曰く、云何が、殺罪の相なる。
問い、
何が、
『殺罪』の、
『相ですか?』。
答曰。知是眾生故奪命得殺罪。非不故安隱快心得殺罪。非散亂狂心奪命得殺罪。非作瘡死已得殺罪。非未死身業是殺罪。非口殺身作是殺罪。非但心生如是等罪止不作。是初戒善相。 答えて曰く、是れ衆生なりと知りて、故(ことさら)に命を奪えば、殺罪を得るも、故ならざるに非ず。安隠にして、心を快くすれば、殺罪を得るも、散乱の狂心に非ず。命を奪えば、殺罪を得るも、瘡を作すに非ず。死し已れば殺罪を得るも、未だ死せざるに非ず。身業は、是れ殺罪なるも、口に殺すに非ず。身に作せば、是れ殺罪なるも、但だ心に生ずるに非ず。是れ等の如き罪を止めて、作さざる、是れ初戒の善相なり。
答え、
是れが、
『衆生であると、知りながら!』、
『故に( intentionally )!』、
『命』を、
『奪えば!』、
則ち、
『殺罪』を、
『得ることになる!』。
『故でなければ!』、
『殺罪』を、
『得ることはない!』。
『安隠で、快い( at ease and comfortably )!』、
『心で、殺せば!』、
『殺罪』を、
『得ることになる!』が、
『散乱心や、狂心で殺しても!』、
『殺罪』を、
『得ることはない!』。
若し、
『命を奪えば!』、
『殺罪』を、
『得ることになる!』が、
『瘡を作っても!』、
『殺罪』を、
『得ることはない!』。
若し、
『死ねば!』、
『殺罪』を、
『得ることになる!』が、
『死ななければ!』、
『殺罪』を、
『得ることはない!』。
『身業は殺罪である!』が、
『口で殺しても!』、
『殺罪ではない!』。
『身が作せば、殺罪である!』が、
『心に生じただけでは!』、
『殺罪ではない!』。
是れ等のような、
『罪を止めて、作さなければ!』、
是れが、
『初戒(不殺戒)』の、
『善相である!』。
  参考:『大智度論巻13』:『問曰。已知如是種種功德果報。云何名為戒相。答曰。惡止不更作。若心生若口言若從他受。息身口惡是為戒相。云何名為惡。若實是眾生。知是眾生發心欲殺而奪其命。生身業有作色。是名殺生罪。其餘繫閉鞭打等。是助殺法。復次殺他得殺罪。非自殺身心知眾生而殺。是名殺罪。不如夜中見人謂為杌樹而殺者。故殺生得殺罪。非不故也。快心殺生得殺罪非狂癡。命根斷是殺罪。非作瘡身業是殺罪。非但口教敕口教是殺罪。非但心生如是等名殺罪。不作是罪名為戒。』
或有人言。謂是不隱沒無記。或欲界繫或不繫。是非心非心數法非心相應非隨心行。或共心生或不共心生。非業相應非隨業行。或共業生或不共業生。非先業果報得。修行修身證慧證或思惟斷或不斷。離欲界欲時得斷。知凡夫聖人共有是名說不殺生戒相。餘戒亦如是。隨義分別諸戒讚歎論議。如尸羅波羅蜜中說。 或いは、有る人は、『是の不隠没無記と謂うは、或いは欲界繋、或いは不繋にして、是れ心に非ず、心数法に非ず、心相応に非ず、随心行に非ず。或いは心と共に生じ、或いは心と共に生ぜずして、業相応に非ず、随業行に非ず。或いは業と共に生じ、或いは業と共に生ぜず。先業の果報に非ずして得修、行修、身証、慧証なり。或いは思惟断、或いは不断にして、欲界の欲を離るる時、知を断ずるを得。凡夫、聖人共に有り』、と言いて、是れを、不殺生戒の相を説くと名づけ、餘の戒も亦た是の如く、義に随いて諸戒を分別し、讃歎し、論議すること、尸羅波羅蜜中に説けるが如し。
或いは、
有る、
『人』は、こう言って、――
是の、
『不隠没無記と謂うもの!』は、
或いは、
『欲界繋か、不繋であり!』、
是れは、
『心でも、心数法でも、心相応でもなく!』、
『心に随う行でもなく!』、
或いは、
『心と共に生じるか、心と共に生じないかであり!』、
『業相応でもなく!』、
『業に随う行でもなく!』、
或いは、
『業と共に生じるか、業と共に生じないかであり!』、
『先業の果報ではなく!』、
『得修か、行修であり!』、
『身証か、慧証である!』。
或いは、
『思惟断か、不断であり!』、
『欲界の欲を離れた!』時、
『断じられる!』、
『知であり!』、
『凡夫も、聖人も!』、
『共に!』、
『有する!』、と。
是れを、
『不殺生戒の相』を、
『説いた!』と、
『称し!』、
『餘の戒』も、
是のように、
『義に随って!』、
『諸戒』を、
『分別し、讃歎し、論議するのである!』が、
例えば、
『尸羅波羅蜜』中に、
『説いた通りである!』。
  参考:『大智度論巻13』:『問曰。已知如是種種功德果報。云何名為戒相。答曰。惡止不更作。若心生若口言若從他受。息身口惡是為戒相。云何名為惡。若實是眾生。知是眾生發心欲殺而奪其命。生身業有作色。是名殺生罪。其餘繫閉鞭打等。是助殺法。復次殺他得殺罪。非自殺身心知眾生而殺。是名殺罪。不如夜中見人謂為杌樹而殺者。故殺生得殺罪。非不故也。快心殺生得殺罪非狂癡。命根斷是殺罪。非作瘡身業是殺罪。非但口教敕口教是殺罪。非但心生如是等名殺罪。不作是罪名為戒。若人受戒心生口言。我從今日不復殺生。若身不動口不言。而獨心生自誓。我從今日不復殺生。是名不殺生戒。有人言。是不殺生戒或善或無記。問曰。如阿毘曇中說。一切戒律儀皆善。今何以言無記。答曰。如迦栴延子阿毘曇中言一切善。如餘阿毘曇中言。不殺戒或善或無記。何以故。若不殺戒常善者。持此戒人應如得道人常不墮惡道。以是故或時應無記。無記無果報故。不生天上人中。問曰。不以戒無記故墮地獄。更有惡心生故墮地獄。答曰。不殺生得無量善法。作無作福常日夜生故。若作少罪有限有量。何以故。隨有量而不隨無量。以是故知。不殺戒中或有無記。復次有人不從師受戒。而但心生自誓。我從今日不復殺生。如是不殺或時無記。問曰。是不殺戒何界繫。答曰。如迦栴延子阿毘曇中言一切受戒律儀。皆欲界繫。餘阿毘曇中言。或欲界繫或不繫。以實言之應有三種。或欲界繫或色界繫或無漏。殺生法雖欲界。不殺戒應隨殺在欲界。但色界不殺。無漏不殺遠遮故。是真不殺戒。復次有人不受戒。而從生已來不好殺生。或善或無記是名無記。是不殺生法非心非心數法亦非心相應。或共心生或不共心生。迦栴延子阿毘曇中言。不殺生是身口業。或作色或無作色。或時隨心行或不隨心行。(丹注云隨心行定共戒不隨心意五戒)非先世業報。二種修應修。二種證應證。(丹注云身證慧證)思惟斷一切欲界最後得見斷時斷。凡夫聖人所得是色法。或可見或不可見法。或有對法或無對法。有報法有果法。有漏法有為法有上法。(丹注云非極故有上)非相應因。如是等分別是名不殺戒。』
修定福處者。雖經中說修慈是修定福。亦說有漏禪定能生果報者總名修定福。以欲界多瞋多亂故先說慈心為修定福得。慈方便願與眾生樂。後實見受樂是心相應法名為慈法。 修定の福処とは、経中に、『修慈は、是れ修定の福なり』、と説くと雖も、亦た、『有漏の禅定は、能く果報を生ず』、とも説けば、総じて、修定の福と名づけ、欲界には、瞋多く、乱多きを以っての故に、先に慈心を説いて、修定の福と為し、慈方便を得て、願って衆生に楽を与え、後に実に楽を受くるを見て、是の心に相応する法を、名づけて慈法と為す。
『修定の福処』とは、
『経』中には、
『修慈』が、
『修定の福である!』と、
『説きながら!』、
亦た、
『有漏の禅定』は、
『果報を生じさせる!』とも、
『説いており!』、
総じて、
『修定の福』と、
『称する!』。
『欲界』は、
『瞋、乱が多い!』が故に、
先に、
『慈心』は、
『修定の福である!』と、
『説き!』、
『慈という!』、
『方便を得たならば!』、
『衆生』に、
『楽を、与えよう!』と、
『願った!』後、
『衆生』が、
『楽を、受ける!』のを、
『実に見る!』時まで、
是の、
『心に相応する!』、
『法』を、
『慈法』と、
『称する!』。
是法或色界繫或不繫是為真慈。是方便慈欲界繫。常隨心行隨心生無形無對能緣法非業。業相應而隨業行共業生。非先業果報得。修行修身證慧證。或思惟斷或不斷。離色界欲時得斷。知有覺有觀亦無覺有觀亦無覺無觀。或有喜或無喜或有息或無息亦凡夫人亦聖人。或樂受相應或不苦不樂受相應。先緣得解相後緣實義。根本四禪中亦過四禪依止四禪。得者牢固有力。 是の法は、或いは色界繋、或いは不繋にして、是れを真の慈と為すも、是れ方便の慈なれば、欲界繋なり。常に心に随いて行じ、心に随いて生じ、無形、無対の能縁の法にして、業、業相応に非ず、業に随いて行じ、業と共に生ずるも、先業の果報に非ず、得修、行修、身証、慧証にして、或いは思惟断、或いは不断にして、色界の欲を離るる時、知を断ずるを得、有覚有観、亦た無覚有観、亦た無覚無観にして、或いは有喜、或いは無喜、或いは有息、或いは無息にして、亦た凡夫人、亦た聖人なり。或いは楽受相応、或いは不苦不楽受相応にして、先に得解の相を縁じて、後に実義を縁ず。根本四禅中、亦た四禅を過ぐ。四禅に依止して、得れば牢固にして、力有り。
是の、
『慈法』は、
或いは、
『色界繋か、不繋であり!』、
『真の慈である!』が、
是れが、
『方便の慈ならば!』、
『欲界繋である!』。
常に、
『心に随って行じ、心に随って生じ!』、
『無形、無対、能縁の法であり!』、
『業でも、業相応でもない!』が、
『業に随って行じ、業と共に生じ!』、
『先業の果報ではなく!』、
『得修か、行修であり!』、
『身証か、慧証であり!』、
或いは、
『思惟断か、不断であり!』、
『色界の欲を離れる!』時、
『知』を、
『断じることができ!』、
或いは、
『有覚有観か、無覚有観か、無覚無観であり!』、
『有喜か、無喜であり!』、
『有息か、無息であり!』、
『凡夫人か、聖人である!』。
或いは、
『楽受相応であるか、不苦不楽受相応であり!』、
先に、
『得解の相』を、
『縁じて!』、
後に、
『実義』を、
『縁じる!』。
或いは、
『根本四禅中に在るか、四禅を過ぎるかであり!』、
『四禅に依止して、得た!』者は、
『牢固であり!』、
『力が有る!』。
慈應言親愛無怨無諍故名為親愛。能緣無量眾生故名為無量能利益眾生。能離欲故名為梵行。慈心餘論議如四無量中說。 慈は、応に、『親愛、無怨、無諍なり』、と言うべきが故に、名づけて親愛と為し、能く無量の衆生を縁ずるが故に、名づけて無量と為し、能く衆生を利益し、能く欲を離るるが故に、名づけて梵行と為す。慈心の餘の論議は、『四無量』中に説けるが如し。
『慈』は、
『親愛であり、無怨、無諍である!』と、
『言うべきである!』が故に、
『親愛』と、
『称し!』、
『無量の衆生』を、
『縁じることができる!』が故に、
『無量』と、
『称し!』、
『衆生を利益することができ!』、
『欲を離れることができる!』が故に、
『梵行』と、
『称する!』。
『慈心』の、
『餘の論議』は、
『四無量』中に、
『説いた通りである!』。
  四無量:『大智度論巻20上釈初品中四無量義』参照。
問曰。修定福中。佛何以但說慈心不說餘。 問うて曰く、修定の福中に、仏は、何を以ってか、但だ慈心を説いて、餘を説きたまわざる。
問い、
『修定の福』中に、
『仏』は、
但だ、
『慈心のみ!』を、
『説かれた!』が、
何故、
『餘の心』を、
『説かれなかったのですか?』。
答曰。四無量中慈心能生大福德。悲心憂愁故捨福德。喜心自念功德故福德不深。捨心放捨故福亦少。 答えて曰く、四無量中の慈心は、能く大福徳を生ずるも、悲心は憂愁するが故に、福徳を捨て、喜心は、自ら功徳を念ずるが故に、福徳は深からず、捨心は放捨するが故に、福も亦た少なければなり。
答え、
『四無量』中に、
『慈心』は、
『大福徳』を、
『生じさせる!』が、
『悲心は、憂愁を生じる!』が故に、
『福徳』を、
『捨てることになり!』、
『喜心は、自らの功徳を念じる!』が故に、
『福徳』は、
『深くなく!』、
『捨心は、一切を放捨する!』が故に、
『福』も、
『少ないからである!』。
復次佛說慈心有五利不說餘。何等五。一者刀不傷。二者毒不害。三者火不燒。四者水不沒。五者於一切瞋怒惡害眾生中見皆歡喜。悲心等三事不爾。以是故說修定福為慈。餘者隨從及諸能生果報有漏定。 復た次ぎに、仏は、『慈心には、五利有り』、と説いて、餘を説きたまわず。何等か、五なる、一には刀は傷つけず、二には毒は害せず、三には火は焼かず、四には水は没せず、五には一切の瞋怒、悪害の衆生中に於いて皆歓喜するを見る。悲心等の三事は、爾らず。是を以っての故に、『修定の福を、慈と為す』、と説けば、餘の者は、随従及び、諸の能生の果報の有漏定なり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『慈心』には、
『五利が有る!』と、
『説かれた!』が、
『餘の心』は、
『説かれなかった!』。
『慈心の五利』とは、何か?――
一には、
『刀』に、
『傷つけられない!』、
二には、
『毒』に、
『害されない!』、
三には、
『火』に、
『焼かれない!』、
四には、
『水』に、
『没せられない!』、
五には、
『一切の瞋怒、害悪の衆生』中に於いて、
『皆が、歓喜する!』のを、
『見ることである!』。
『悲心等の三事』は、
『爾うでない!』ので、
是の故に、
『修定の福』とは、
『慈である!』と、
『説くのである!』が、
『餘の心』は、
『慈に随従するものであり!』、
及び、
『諸の果報を生じさせる!』、
『有漏定である!』。
  参考:『大方広仏華厳経巻78』:『善男子。菩提心者。成就如是無量功德。舉要言之。應知悉與一切佛法諸功德等。何以故。因菩提心。出生一切諸菩薩行。三世如來。從菩提心而出生故。是故善男子。若有發阿耨多羅三藐三菩提心者。則已出生無量功德。普能攝取一切智道。善男子。譬如有人得無畏藥離五恐怖。何等為五。所謂火不能燒。毒不能中。刀不能傷。水不能漂。煙不能熏。菩薩摩訶薩亦復如是。得一切智菩提心藥。貪火不燒。瞋毒不中。惑刀不傷。有流不漂。諸覺觀煙不能熏害。善男子。譬如有人得解脫藥終無橫難。菩薩摩訶薩亦復如是。得菩提心解脫智藥。永離一切生死橫難。善男子。譬如有人。持摩訶應伽藥。毒蛇聞氣即皆遠去。菩薩摩訶薩亦復如是。持菩提心大應伽藥。一切煩惱諸惡毒蛇。聞其氣者悉皆散滅。』
勸導福處者。若比丘不能坐禪不能誦經。教化勸導修立福德。或有比丘能坐禪誦經。見諸比丘衣食乏少。力能引致亦行勸導。及諸菩薩憐愍眾生故以福德因緣勸化之。又出家人若自求財於戒有失。是故勸導以為因緣。 勧導の福処とは、若し比丘、坐禅すること能わず、誦経すること能わざれば、教化、勧導して、福徳を修して、立たしむ。或いは有る比丘は、能く坐禅し、誦経するも、諸比丘の衣食の乏少するを見て、力めて能く引致すれば、亦た勧導を行ずるなり。及び諸菩薩は、衆生を憐愍するが故に、福徳の因縁を以って、之を勧化す。又出家人にして、若し自ら財を求めて、戒に於いて失有れば、是の故に勧導して、以って因縁と為す。
『勧導の福処』とは、
若し、
『比丘』が、
『坐禅することもできず!』、
『誦経することもできなければ!』、
『教化し、勧導して!』、
『福徳の処に立つよう!』、
『修めさせる!』。
或いは、
『有る比丘』が、
『坐禅、誦経することができ!』、
『諸の比丘の衣食』が、
『乏少している!』のを、
『見て!』、
『衣食の乏少しない処』に、
『諸の比丘』を、
『引致することができれば!』、
亦た、
『勧導』を、
『行じたのである!』。
又、
『諸の菩薩』は、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『福徳』という、
『因縁』を、
『用いて!』、
是の、
『衆生』を、
『勧化する!』し、
又、
『出家人』が、
自ら、
『財を求めて!』、
『戒を失っていれば!』、
是の故に、
『勧導して!』、
『福徳の因縁とする!』。
  勧導(かんどう):勧め導く。
  引致(いんち):引き連れる。呼び寄せる。
  勧化(かんけ):勧め導いて、悪から善に化す。勧導善化。
財福者。衣服飲食臥具醫藥金銀車馬田宅等。 財福とは、衣服、飲食、臥具、医薬、金銀、車馬、田宅等なり。
『財福』とは、
『衣服、飲食、臥具、医薬や!』、
『金銀、車馬、田宅等である!』。
問曰。上言布施福處此言財福有何等異。 問うて曰く、上には、『布施の福処』と言い、此には、『財福』と言う。何等の異か有る。
問い、
上には、
『布施の福処』と、
『言い!』、
此には、
『財福』と、
『言う!』が、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。布施者。總攝一切施財施法施俗施道施。今欲分別法施財施。 答えて曰く、布施とは、総じて、一切の施なる財施、法施、俗施、道施を摂するも、今は、法施、財施を分別せんと欲するなり。
答え、
『布施』とは、
総じて、
『一切の施である!』、
『財施、法施、俗施、道施』を、
『摂する( to include )!』が、
今は、
『法施と、財施とに!』、
『分別しようとするのである!』。
法施者如佛以大慈故初轉法輪無量眾生得道。後舍利弗逐佛轉法輪。餘諸聖人雖非轉法輪亦為眾生說法得道。亦名法施。 法施とは、仏の、大慈を以っての故に、初めて法輪を転ずるに、無量の衆生、道を得、後に舎利弗、仏を逐うて、法輪を転ずるが如し。餘の諸聖人は、法輪を転ずるに非ずと雖も、亦た衆生の為に法を説いて、道を得しむれば、亦た法施と名づく。
『法施』とは、
例えば、
『仏』が、
『大慈』の故に、
初めて、
『法輪』を、
『転じて!』、
無量の、
『衆生』に、
『道を得させられる!』と、
後に、
『舎利弗』が、
『仏を逐うて( following Buddha )!』、
『法輪』を、
『転じたようなことである!』が、
『餘の諸聖人』も、
『法輪を転じなくても!』、
『衆生の為に!』、
『法を説いて!』、
『道を得させた!』ので、
亦た、
『法施』と、
『称するのである!』。
復有遍吉菩薩觀世音得大勢文殊師利彌勒菩薩等。以二種神通力。果報神通修得神通住是中以福德方便力光明神足等種種因緣開度眾生亦名法施。 復た、遍吉菩薩、観世音、得大勢、文殊師利、弥勒菩薩等が有り、二種の神通力の果報の神通、修得の神通を以って、是の中に住し、福徳の方便力と、光明、神足等の種種の因縁を以って、衆生を開度するも、亦た法施と名づく。
復た、
『遍吉、観世音、得大勢、文殊師利、弥勒菩薩等が有り!』、
『果報と、修得との!』、
『二種の神通力中に住して!』、
『福徳の方便力や、光明や、神足等の種種の因縁で!』、
『衆生』を、
『開化、度脱する!』ので、
是れも、
『法施』と、
『称する!』。
  遍吉菩薩(へんきちぼさつ):また普賢菩薩とも称す。
  普賢菩薩(ふげんぼさつ):梵名を邲輸跋陀vizvabhadra、または三曼多跋陀羅samantabhadraと云い、訳して普賢、或は遍吉に作る。一切の諸仏の理徳、定徳、行徳を主り、文殊と智徳、証徳を相対す。即ち理智一双、行証一双、三昧般若一双なり。故に以って釈迦如来の二脇士を為す。文殊は師子に駕して仏の左方に侍し、普賢は白象に乗じて仏の右方に侍す。この理智相即し、行証相応し、三昧と般若と全き者とは、即ち毘盧遮那法身仏これなり。華厳一経の明す所は、この一仏二菩薩の法門に帰す、故に称して華厳三聖と為し、一切の行徳の本体と為し、故に華厳の席に於いて十大願を説き、また諸法の実相の理体と為す、故に法華の席に於いて、法華三昧の道場に於いて自らその身を現すことを誓えり。この中、普賢の十願とは、「四十華厳経普賢行願品」に、「応に十種の広大なる行願を修すべし、何等をか十と為す、一に諸仏を敬礼す、二に如来を称讃す、三に広く供養を修す、四に業障を懺悔す、五に功能を随喜す、六に転法輪を請ず、七に仏の世に住せんことを請す、八に常に仏に随いて学す、九に恒に衆生に順ず、十に普く皆回向す」と云えるこれなり。また諸経論に普賢菩薩の名を挙ぐること頗る多く、新旧華厳経中には特に多く見ゆ。<(望)
  開度(かいど):開蒙度脱。
諸辟支佛飛騰虛空而說一偈。引導眾生令殖善根亦名法施。又佛弟子未得聖道者坐禪誦經。不壞諸法相教化弟子皆名法施。如是等種種名為法施相。以是故說菩薩欲立眾生於六種施福者。當學般若波羅蜜 諸の辟支仏は、虚空に飛騰して、一偈を説き、衆生を引導して、善根を殖えしむれば、亦た法施と名づく。又仏弟子の未だ聖道を得ざる者は、坐禅、誦経して、諸の法相を壊らず、弟子を教化すれば、皆法施と名づく。是れ等の如き種種を名づけて、法施の相と為す。是を以っての故に、説かく、『菩薩は、衆生を、六種の施福に立たしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
諸の、
『辟支仏』が、
『虚空に飛騰し、一偈を説いて!』、
『衆生を引導し!』、
『善根』を、
『殖えさせること!』も、、
亦た、
『法施』と、
『称し!』、
又、
『聖道を得ていない!』、
『仏弟子が坐禅、誦経して!』、
『諸の法相を壊ることなく!』、
『弟子』を、
『教化すれば!』、
皆、
『法施』と、
『称される!』。
是れ等のような、
種種の、
『相』が、
『法施の相であり!』、
是の故に、こう説くのである、――
『菩薩』が、
『衆生』を、
『六種の施福』に、
『立たせようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。


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