巻第三十二(下)
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大智度論釋初品中四緣義第四十九之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


一結跏趺坐して、三千世界中の虚空に遍満する

【經】菩薩摩訶薩欲一結加趺坐遍滿三千大千世界中虛空者。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、一結跏趺坐して、三千大千世界中の虚空に遍く満ちんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
『菩薩摩訶薩』は、
『一結跏趺坐して!』、
遍く、
『三千大千世界中の虚空』に、
『満ちようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。菩薩以何因緣故如是結加趺坐。 問うて曰く、菩薩は、何なる因縁を以っての故に、是の如き結跏趺坐する。
問い、
『菩薩』は、
何のような、
『因縁』の故に、
是のような、
『結跏趺坐をするのですか?』。
答曰。以梵天王主三千世界。生邪見心自以為大。見菩薩結加趺坐遍滿虛空則憍慢心息。又於神通力中巧方便故。一能為多多能為一。小能作大大能作小。亦為欲現希有難事故坐遍虛空。亦為遮諸鬼神龍王惱亂眾生故坐滿虛空。令眾生安隱。 答えて曰く、梵天王は、三千世界に主たれば、邪見心を生じて、自ら以って大と為すに、菩薩の結跏趺坐の虚空に遍満するを見て、則ち軽慢心息むを以ってなり。又神通力中に於いて、巧方便の故に、一を能く多と為し、多を能く一と為し、小を能く大と作し、大を能く小と作すに、亦た希有の難事を現さんと欲するが為の故に、坐して虚空に遍くし、亦た諸の鬼神、龍王の衆生を悩乱するを遮えんと欲する為の故に坐して虚空を満て、衆生をして安隠ならしめばなり。
答え、
『梵天王は、三千世界の主であり!』、
『邪見心を生じて!』、
自ら、
『大である!』と、
『思っていても!』、
『菩薩が、結跏趺坐する!』と、
遍く、
『虚空に満ちる!』のを、
『見て!』、
則ち、
『軽慢心』が、
『息むからである!』。
『菩薩』は、
亦た、
『神通力』中に於いて、
『巧方便する!』が故に、
『一を、多と為し!』、
『多を、一と為し!』、
『小を、大と作し!』、
『大を、小と作すことができる!』ので、
亦た、
『希有の難事を現わそうとする!』が故に、
『坐して!』、
『虚空に!』、
『遍く満ちるのであり!』、
亦た、
『諸の鬼神、龍王』が、
『衆生』を、
『悩乱する!』のを、
『遮止しようとする!』が故に、
『坐って、虚空を満たし!』、
『衆生』を、
『安隠にするのである!』。
如難陀婆難陀龍王兄弟。欲破舍婆提城。雨諸兵杖毒蛇之屬。是時目連端坐遍滿虛空。變諸害物皆成華香瓔珞。以是故說菩薩摩訶薩欲一結加趺坐。遍滿三千大千世界虛空。當學般若波羅蜜 難陀、婆難陀龍王兄弟の如きは、舎婆提城を破らんと欲して、諸の兵仗、毒蛇の属を雨ふらすに、是の時、目連端坐して、遍く虚空に満ち、諸の害物変ずれば、皆華香、瓔珞と成れり。是を以っての故に説かく、『菩薩摩訶薩は、一結跏趺坐して、遍く三千大千世界の虚空に満ちんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
例えば、
『難陀、婆難陀龍王兄弟』は、
『舎婆提城を破ろうとして!』、
『諸の兵仗、毒蛇の属』を、
『雨ふらした!』が、
是の時、
『目連』は、
『端坐して!』、
『虚空に遍く満ち!』、
諸の、
『害物』を、
『変じる!』と、
皆、
『華香、瓔珞に!』、
『成ったのである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩摩訶薩』は、
『一結跏趺坐して!』、
『三千大千世界の虚空に!』、
『遍く!』、
『満ちようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
  兵仗(ひょうじょう):武器。
  難陀婆難陀龍王兄弟(なんだばなんだりゅうおうきょうだい):難陀(梵nanda)は、また難途、難頭に作り、意訳して歓喜、喜と為す、婆難陀(梵upananda)は、また跋難陀、優波難陀等に作り、意訳して重喜、延喜、大喜、賢喜と為す。並びに兄弟の龍王なり。この龍王に七龍頭あり、性は頗る凶悪なるも、後に仏弟子大目連の為に化されて仏に帰順す。「増一阿含経巻28」には昔、仏、三十三天に至りて母の為に説法せし時、難陀、優波難陀龍王は彼の諸の沙門の天上を飛行せるを見て、遂に瞋恚心を起し、大風を放って阻止せんと欲するも、後に目揵連の為に降伏し、乃ち衆に随いて仏所に至りて法を聴けることを云い、また「過去現在因果経巻1」に、「難陀龍王、優波難陀龍王は虚空の中に於いて清浄水を吐き、一は温、一は涼にして太子の身に潅ぐ」と云えり。また「法華経巻1」、「北本涅槃経巻1」等に出づ。<(望)
  参考:『増一阿含経巻28』:『爾時。釋提桓因如屈申臂頃。來至世尊所。頭面禮足。在一面坐。爾時。釋提桓因白世尊言。如來亦說。夫如來出世必當為五事。云何為五。當轉法輪。當度父母。無信之人立於信地。未發菩薩心令發菩薩意。於其中間當受佛決。此五因緣如來出現必當為之。今如來母在三十三天。欲得聞法。今如來在閻浮里內。四部圍遶。國王人民皆來運集。善哉。世尊。可至三十三天與母說法。是時。世尊默然受之。爾時。難陀.優槃難陀龍王便作是念。此諸禿沙門在我上飛。當作方便。使不陵易。是時。龍王便興瞋恚。放大火風。使閻浮里內。洞然火燃。是時。阿難白佛言。此閻浮里內。何故有此煙火。世尊告曰。此二龍王便生此念。禿頭沙門恒在我上飛。我等當共制之。令不陵虛。便興瞋恚。放此煙火。由此因緣。故致此變。是時。大迦葉即從坐起。白世尊言。我今欲往。與彼共戰。世尊告曰。此二龍王極為兇惡。難可受化。卿還就坐‥‥爾時。尊者大目揵連即從坐起。偏露右肩。長跪叉手。白佛言。欲往詣彼。降伏惡龍。世尊告曰。此二龍王極為兇惡。難可降化。卿今云何化彼龍王。目連白佛言。我先至彼化形極大恐怯彼龍。後復化形極為微小。然後以常法則而降伏之。世尊告曰。善哉。目連。汝能堪任降伏惡龍。然今。目連。堅持心意。勿興亂想。所以然者。彼龍兇惡備觸嬈汝。是時。目連即禮佛足。屈申臂頃。於彼沒不現。往至須彌山上。爾時。難陀.優槃難陀龍王遶須彌山七匝。極興瞋恚。放大煙火。‥‥是時。二龍王極懷瞋恚。雷電霹靂放大火炎。是時。尊者大目連便作是念。凡龍戰鬥以火霹靂。設我以火霹靂共戰鬥者。閻浮里內人民之類。及三十三天皆當被害。我今化形極小。當與戰鬥。是時。目連即化形使小。便入龍口中。從鼻中出。或從鼻入。從耳中出。或入耳中。從眼中出。以出眼中。在眉上行。爾時。二龍王極懷恐懼。即作是念。此大龍王極有威力。乃能從口中入。鼻中出。從鼻入。眼中出。我等今日實為不如。我等龍種今有四生。卵生.胎生.濕生.化生。然無有出我等者。今此龍王威力乃爾。不堪共鬥。我等性命死在斯須。皆懷恐懼。衣毛皆豎。是時。目連以見龍王心懷恐懼。還隱其形。作常形容。在眼睫上行。是時。二龍王見大目連。自相謂言。此是目連沙門。亦非龍王。甚奇。甚特。有大威力。乃能與我等共鬥。是時。二龍王白目連言。尊者何為觸嬈我乃爾。欲何所誡敕。目連報曰。汝等昨日而作是念。云何禿頭沙門恒在我上飛。今當制御之。龍王報曰。如是。目連。目連告曰。龍王當知。此須彌山者是諸天道路。非汝所居之處。龍王報曰。唯願恕之。不見重責。自今以後更不敢觸嬈。興惡亂想。唯願聽為弟子。目連報曰。汝等莫自歸我身。我所自歸者。汝等便自歸之。龍王白目連。我等今日自歸如來。目連告曰。汝等不可依此須彌山。自歸世尊。今可共我至舍衛城。乃得自歸。是時。目連將二龍王。如屈申臂頃。從須彌山上至舍衛城。爾時。世尊與無央數之眾而為說法。是時。目連告二龍王曰。汝等當知。今日世尊與無央數之眾而為說法。不可作汝形至世尊所。龍王報曰。如是。目連。是時。龍王還隱龍形。化作人形。不長不短。容貌端正。如桃華色。是時。目連至世尊所。頭面禮足。在一面坐。是時。目連語龍王曰。今正是時。宜可前進。是時。龍王聞目連語。即從坐起。長跪叉手。白世尊言。我等二族姓子。一名難陀。二名優槃難陀。自歸如來。受持五戒。唯願世尊聽為優婆塞。盡形壽不復殺生。爾時。世尊彈指可之。時。二龍王還復故坐。欲得聞法‥‥』



一毛を以って、三千世界中の諸須弥山王を擲つ

【經】復次菩薩摩訶薩。欲以一毛舉三千大千世界中諸須彌山王。擲過他方無量阿僧祇諸佛世界不擾眾生者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、菩薩摩訶薩は、一毛を以って、三千大千世界中の諸須弥山王を挙げて擲(なげう)ち、他方の無量、阿僧祇の諸の仏世界を過ぎ、衆生を擾(みだ)さざらんと欲すれば、当に般若波羅蜜を学すべし。
復た次ぎに、
『菩薩摩訶薩』が、
『一毛を用いて!』、
『三千大千世界中の諸須弥山王を挙げ!』、
『他方の無量阿僧祇の諸の仏世界』を、
『擲って( to cast )!』、
『過ぎさせ!』、
而も、
『衆生』を、
『擾したくなければ( don't want to disturb )!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。菩薩何以故。舉須彌山及諸山。過著他方無量世界。 問うて曰く、菩薩は、何を以っての故にか、須弥山、及び諸山を挙げて、他方の無量世界を過ぎて著くる。
問い、
『菩薩』は、
何故、
『須弥山や、諸山を挙げて!』、
『他方の無量の世界』を、
『過ぎて!』、
『著ける( to drop onto )のですか?』。
答曰。不必有舉者此明菩薩力能舉之耳。 答えて曰く、必ずしも挙ぐる者有るにあらず。此れは、菩薩力の能く之を挙ぐるを明すのみ。
答え、
必ずしも、
『挙げる!』者が、
『有るのではない!』、
此れは、
『菩薩の力』が、
是の、
『須弥山等を挙げることができる!』と、
『明かすだけである!』。
復次諸菩薩為佛當說法故。先莊嚴三千大千世界。除諸山令地平整。 復た次ぎに、諸菩薩は、仏の、当に法を説きたまわんが為の故に、先に三千大千世界を荘厳し、諸山を除きて、地をして平整ならしめばなり。
復た次ぎに、
『諸の菩薩』は、
『仏』が、
『法』を、
『説かれることになった!』ので、
先に、
『三千大千世界を荘厳して!』、
『諸山を除き!』、
『地』を、
『平整させた( let be flat )のである!』。
  平整(ひょうしょう):平に均す/斉す( let be flat )。
如法華經中說。佛欲集諸化佛故先平治地。 『法華経』中に説けるが如し、『仏は、諸化仏を集めんと欲するが故に、先に地を平治したまえり』、と。
例えば、
『法華経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
諸の、
『化仏』を、
『集めようとして!』、
先に、
『地』を、
『平治された( to level )!』、と。
  平治(ひょうじ):平にする( to level )。
  参考:『妙法蓮華経巻4見塔品』:『時釋迦牟尼佛。欲容受所分身諸佛故。八方各更變二百萬億那由他國。皆令清淨。無有地獄餓鬼畜生及阿修羅。又移諸天人置於他土所化之國。亦以琉璃為地。寶樹莊嚴。樹高五百由旬。枝葉華果次第嚴飾。樹下皆有寶師子座。高五由旬。種種諸寶以為莊校。亦無大海江河及目真鄰陀山摩訶目真鄰陀山鐵圍山大鐵圍山須彌山等諸山王。通為一佛國土。寶地平正。』
亦欲現希有事令眾生見故。所以者何。一須彌山高八萬四千由旬。若舉此一山已為希有。何況三千大千世界百億須彌山。若以一毛舉三千大千世界百億須彌山尚難。何況以一毛頭擲百億須彌山過無量阿僧祇世界。眾生見菩薩希有事。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。作是念言。是菩薩未成佛道神力乃爾。何況成佛。以是故如是說 亦た、希有の事を現して、衆生に見せしめんと欲するが故なり。所以は何んとなれば、一須弥山の高きこと、八万四千由旬なるに、若し此の一山を挙ぐれば、已に希有と為す。何に況んや、三千大千世界の百億の須弥山をや。若し、一毛を以って、三千大千世界の百億の須弥山を挙ぐれば、尚お難し。何に況んや、一毛頭を以って、百億の須弥山を擲ち、無量、阿僧祇の世界を過ぐるをや。衆生は、菩薩の希有の事を見て、皆阿耨多羅三藐三菩提の心を発して、是の念を作して言わく、『是の菩薩は、未だ仏道を成ぜざるに、神力は乃(すなわ)ち爾り。何に況んや、仏と成るをや』、と。是を以っての故に、是の如く説けり。
亦た、
『希有の事を現わして!』、
『衆生に見せよう!』と、
『思ったからである!』。
何故ならば、
『一須弥山』は、
『高さ!』が、
『八万四千由旬であり!』、
若し、
此の、
『一須弥山を挙げれば!』、
『希有の事だからである!』。
況して、
『三千大千世界』の、
『百億の須弥山を挙げれば!』、
『言うまでもない!』。
若し、
『一毛を用いて!』、
『三千大千世界』の、
『百億の須弥山を挙げれば!』、
『尚お、困難である!』。
況して、
『一毛頭を用いて!』、
『百億の須弥山を擲ち!』、
『無量、阿僧祇の世界を過ぎれば!』、
『尚更である!』。
『衆生』が、
『菩薩』の、
『希有の事』を、
『見れば!』、
皆、
『阿耨多羅三藐三菩提に向かう!』、
『心』を、
『発すことになり!』、
こう念じるだろう、――
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『仏道』を、
『成就していないのに!』、
『神力』は、
乃ち( actually )、
『是の通りである!』。
況して、
『仏道』を、
『成就すれば!』、
『尚更であろう!』、と。
是の故に、
是のように、
『説かれたのである!』。



一食を以って、十方の諸仏及び僧を供養する

【經】欲以一食供養十方各如恒河沙等諸佛及僧。當學般若波羅蜜。欲以一衣華香瓔珞末香塗香燒香燈燭幢幡華蓋等。供養諸佛及僧。當學般若波羅蜜 一食を以って、十方の各恒河沙に等しきが如き、諸仏及び僧を供養せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。一衣、華香、瓔珞、末香、塗香、焼香、灯燭、幢幡、華蓋等を以って、諸仏及び僧を供養せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『一食を用いて!』、
『十方の各恒河沙に等しいほどの!』、
『諸仏や、僧を供養しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
『一衣、華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、灯燭、幢幡、華蓋等を用いて!』、
『十方の!』、
『諸仏や、僧を供養しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。菩薩若以一食供養一佛及僧尚是難事。何況十方如恒河沙等諸佛及僧。 問うて曰く、菩薩は、若し一食を以って、一仏、及び僧を供養せば、尚お是れ難事なり。何に況んや、十方の恒河沙に等しきが如き諸仏、及び僧をや。
問い、
『菩薩』が、
若し、
『一食を用いて!』、
『一仏や、僧を供養すれば!』、
尚お、
是れは、
『難事である!』。
況して、
『十方の恒河沙に等しいほどの、諸仏や僧は!』、
『言うまでもない!』。
答曰。供養功德在心不在事也。若菩薩以一食大心悉供養十方諸佛及僧。亦不以遠近為礙。是故諸佛皆見皆受。 答えて曰く、供養の功徳は、心に在りて、事に在らず。若し菩薩、一食の大心を以って、悉く十方の諸仏、及び僧を供養すれば、亦た遠近を以って、礙(さわり)と為さず。是の故に諸仏は、皆見、皆受くるなり。
答え、
『供養の功徳( the merit of donation )』は、
『心に在って!』、
『事』に、
『在るのではない!』。
若し、
『菩薩』が、
『一食という!』、
『大心』を、
悉く、
『十方の諸仏や、僧に!』、
『供養したとしても!』、
亦た( but )、
『遠、近』が、
『礙となることはない( should not be an obstacle )!』。
是の故に、
『諸仏』は、
皆が、
『食』を、
『見られ!』、
皆が、
『食』を、
『受けられるのである!』。
問曰。諸佛有一切智故皆見皆受。僧無一切智云何得見云何得受。 問うて曰く、諸仏には、一切智有るが故に、皆見、皆受けたまわん。僧には、一切智無ければ、云何が見るを得、云何が受くるを得ん。
問い、
『諸仏』には、
『一切智が有る!』が故に、
『皆が、見ることができ!』、
『皆が、受けることができるだろう!』が、
『僧』は、
『一切智が無い!』のに、
何故、
『見ることができ!』、
『受けることができるのですか?』。
答曰。僧雖不見不知而其供養施者得福。譬如有人遣使供養彼人。彼人雖不得而此人已獲施福。如慈三昧於眾生雖無所施。而行者功德無量。 答えて曰く、僧は、見ず、知らずと言えども、其の供養を施す者は、福を得。譬えば有る人は、使を遣して、彼の人を供養するに、彼の人得ずと雖も、此の人は、已に施福を獲るが如し。慈三昧の、衆生に於いて、施す所無しと雖も、行者の功徳は無量なるが如し。
答え、
『僧』は、
『見ることもなく、知ることもない!』が、
其の、
『供養を施す!』者は、
『福を得るのである!』。
譬えば、
『有る人』が、
『使を遣して!』、
『彼の人』を、
『供養すれば!』、
『彼の人』が、
『供養を得なくても!』、
已に、
『此の人』は、
『施福を獲ているようなものであり!』、
『慈三昧』は、
『施される!』、
『衆生』が、
『無くても!』、
『行者』の、
『功徳( the merit )』は、
『無量であるようなものである!』。
復次諸菩薩無量無盡功德成就。以一食供養十方諸佛及僧。皆悉充足而亦不盡。譬如涌泉出而不竭。如文殊尸利以一缽歡喜丸供養八萬四千僧。皆悉充足而亦不盡。 復た次ぎに、諸菩薩は、無量、無尽の功徳成就すれば、一食を以って、十方の諸仏、及び僧を供養するに、皆悉く充足して、而も亦た尽きず。譬えば涌泉出づれば、竭(かわ)かざるが如し。文殊師利の一鉢の歓喜丸を以って、八万四千の僧を供養するに、皆悉く充足して、亦た尽きざるが如し。
復た次ぎに、
『諸菩薩』は、
『無量、無尽の功徳が成就している!』ので、
『一食を用いて!』、
『十方の諸仏や、僧を供養すれば!』、
皆、悉く、
『充足しながら!』、
亦た( but )、
『食』が、
『尽きることもない!』。
譬えば、
『泉』が、
『涌き出しながら!』、
『竭れない( not be exhausted )ようなものであり!』、
『文殊師利』が、
『一鉢の歓喜丸を用いて!』、
『八万四千の僧』を、
『供養する!』と、
『皆悉く、充足しながら!』、
『鉢』が、
『尽きなかったようなものである!』。
復次菩薩於此以一缽食供養十方諸佛。而十方佛前飲食之具具足而出。譬如鬼神得人一口之食而千萬倍出。 復た次ぎに、菩薩は、此に於いて、一鉢の食を以って、十方の諸仏を供養すれば、十方の仏前に、飲食の具は具足して出づ。譬えば鬼神の人より、一口の食を得て、千万倍出すが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『此の世界』に於いて、
『一鉢の食』を、
『十方の諸仏』に、
『供養する!』と、
『十方の世界』に於いて、
『仏の前に!』、
『飲食の具( foods and drinks )』が、
『具足して出るのである!』。
譬えば、
『鬼神』が、
『人より!』、
『一口の食』を、
『得る!』と、
『千万倍』の、
『食』を、
『出すようなものである!』。
復次菩薩行般若波羅蜜。得無量禪定門及得無量智慧方便門。以是故無所不能。以般若波羅蜜無礙故。是菩薩心所作亦無礙。是菩薩能供養十方千萬恒河沙等諸佛及僧。何況各如一恒河沙。衣服華香瓔珞末香塗香燒香燈燭幢幡華蓋等亦如是 復た次ぎに、菩薩は、般若波羅蜜を行じて、無量の禅定の門を得、及び無量の智慧、方便の門を得れば、是を以っての故に、能わざる所無く、般若波羅蜜の無礙なるを以っての故に、是の菩薩の心の所作も亦た無礙なり。是の菩薩は、能く十方の千万恒河沙に等しき諸仏、及び僧を供養す。何に況んや、各一恒河沙の如きをや。衣服、華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、灯燭、幢幡、華蓋等も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『無量の禅定や、無量の智慧、方便の門』を、
『得ることになり!』、
是の故に、
『不可能な!』所が、
『無くなる!』。
『般若波羅蜜が無礙である!』が故に、
是の、
『菩薩の所作』も、
『無礙だからである!』。
是の、
『菩薩』は、
『十方の千万恒河沙に等しい!』、
『諸仏や、僧』を、
『供養することがでる!』ので、
況して、
『各、一恒河沙』は、
『言うまでもない!』。
亦た、
『衣服、華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、灯燭、幢幡、華蓋等』も、
『是の通りである!』。



十方の衆生に悉く戒、三昧、智慧等を具足させる

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲使十方各如恒河沙等世界中眾生。悉具於戒三昧智慧解脫解脫知見。令得須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果。乃至令得無餘涅槃。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、十方の各恒河沙に等しきが如き世界中の衆生をして、悉く、戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見を具せしめ、須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得しめ、乃至無余涅槃を得しめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『十方の各恒河沙に等しいほどの!』、
『世界中の衆生』に、
悉く、
『戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見を具足させ!』、
『須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果を得させ!』、
乃至、
『無余涅槃』を、
『得させようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】五眾義如先說。須陀洹果有二種。一者佛說三結斷得無為果。又如阿毘曇說。八十八結斷得無為須陀洹果。二者信行法行人。住道比智中。得須陀洹果證者是。 五衆の義は、先に説けるが如し。須陀洹果には、二種有り、一には仏の説きたもうには、三結断じて、無為の果を得るなり、又阿毘曇に説くが如きは、八十八結断じて、無為の須陀洹果を得るなり。二には信行、法行の人の道比智中に住して、須陀洹果の証を得る者是れなり。
『五衆(戒、定、慧、解脱、解脱知見衆)の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
『須陀洹果』には、
『二種有り!』、
一には、
『仏』は、こう説かれている、――
『三結(身見、戒禁取見、疑)が断じて!』、
『得られた!』、
『無為の果である!』、と。
『阿毘曇』には、又、こう説かれている、――
『八十八結が断じて!』、
『得られた!』、
『無為の須陀洹果である!』、と。
二には、
『信行、法行の人であり!』、
『道比智中に住しながら!』、
『須陀洹果の証』を、
『得た者である!』、と。
  五衆(ごしゅ):戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆。『大智度論巻21下、巻22上』参照。
  須陀洹(しゅだおん):梵語srota-aapannaの音訳にして、また須陀般那、須氀多阿半那、窣路陀阿鉢嚢、窣路多阿半那等に作り、旧訳に入流、至流、逆流に作り、新訳に預流に作る。入流の意は初めて聖者の流に入ることを指し、逆流とは謂わく三界の見惑を断ちおわりて、まさに生死の流に違逆せんとすることを指す。また初めて聖果を証する者にして、聖道の法流に預入するが故に預流と称す。<(佛)『大智度論巻2上注:四向、四果』参照。
  三結(さんけつ):一切の結を、即ち身見、戒禁取見、疑の三結に摂す。『大智度論巻3下注:結』参照。
  八十八結(はちじゅうはちけつ):八十八使見惑ともいう。
  八十八使見惑(はちじゅうはちしけんわく):八十八種の見惑。『大智度論巻32下注:見惑』参照。
  見惑(けんわく):梵語darzana-maarga-prahaatavya-anuzayaの訳。見道所断の惑の意。また見煩悩、見障、或は見一処住地とも名づく。修惑に対す。即ち見道に於いて四聖諦の理を見る時、断ぜらるる煩悩を云う。これに十種あり、有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見、貪、瞋、癡、慢、疑なり。この中、前の五は見の性なるが故に五利使と称し、後の五は見の性に非ざるが故に五鈍使と名づく。「倶舎論巻19」に、「十の中に於いて五はこれ見の性なり。一に有身見、二に辺執見、三に邪見、四に見取、五に戒禁取なり。五は見の性に非ず。一に貪、二に瞋、三に慢、四に無明、五に疑なり」と云えるこれなり。然るに見道に於いては三界の各四諦を観じ、その所断に各不同あるが故に、総じて八十八使を成ず。これを八十八使の見惑と名づく。即ち欲界の苦諦所断に具さに五利五鈍の十使あり。欲界の集諦及び滅諦所断に七使あり、即ち五利使の中の身見、辺見及び戒禁取見を除く。欲界の道諦所断に八使あり、即ち五利使の中の身見、辺見を除く。かくの如く苦に十、集に七、滅に七、道に八あるが故に、欲界の四諦所断に合して三十二あり。また色界及び無色界には共に瞋無きが故に、各一を減じて苦に九、集に六、滅に六、道に七あり。故に一界に二十八使、上二界合して五十六使あり。これに由りて三界総じて八十八使を成ずるなり。「倶舎論巻19」に、「この辯ずる所の九十八の中に於いて、八十八は見所断なり、忍の所害なるが故なり。十随眠は修所断なり、智の所害なるが故なり」と云えるその意なり。ただしこの十使の中、五見及び疑の六はただ見道所断なるも、余の貪、瞋、癡、慢の四は見修二道の所断に通ず。故に「倶舎論光記巻19」に、「身と辺との二見は、麁果処に起こればただ一部(苦諦)に在り。戒禁取は果処に起こるは見苦所断なり。果処に起こるに非ずして、ただ総相に縁じて因果を推せざるは見道所断なり。故に二部に通ず。邪見と見取と疑とは、前の一と後の一は四諦を縁ずるが故に、中の一の見取はもし果因処に起こるは見苦集所断なり。もし総相に縁じて因果を推せざるはこれ見滅道断なり。この三は並びに事に迷うて起こるに非ざれば、修道断に非ず。貪と瞋と慢との三は、もし四諦の所断を縁じて起こるは四諦に通じて断ず。もし事に迷うて起こるは修道所断なり。この貪等は行麁にして細に非ず、理を推せざるを以っての故に、親しく理に迷うに非ず。無明はもし五見、疑と相応し、及び彼の四諦所断を縁ずる貪等と相応し、並びに独頭は四諦所断なり。もし迷事の貪等と相応するは修道断なり。故に貪等の四は各五部に通ず」と云えり。これ蓋し五見及び疑は謂わゆる親縁の惑にして、親しく理に迷うて起こるが故に、ただこれを見道所断とし、貪、瞋、慢は謂わゆる重縁の惑にして、親しく理に迷う煩悩に非ずといえども、見道所断の五見、疑等を縁じて起こるが故に、またこれを見道所断とし、無明は親重両縁の惑と相応して起り、或は親しく理に迷うて起こるが故に、またこれを見道所断と名づくと云うの意なり。然るに唯識大乗に於いては、惑を分って分別、俱生の二種とす。謂わゆる邪師邪教等の外縁の力に由りて、分別して起こるものを分別起と名づけ、恒に身と倶にして分別を待たず、任運に転ずるを俱生起と名づく。「成唯識論巻6」に、「十煩悩の中、六は俱生及び分別起に通ず。任運にも思察にも、倶に生ずることを得るが故なり。疑と後の三見とはただ分別起なり。要らず悪友或は邪教の力に由りて、自ら審らかに思察してまさに生ずることを得るが故なり」と云い、また「この十煩悩は何の所断なるや。非所断には非ず、彼れ染に非ざるが故なり。分別起のものはただ見所断なり、麁にして断じやすきが故なり。もし俱生のものはただ修所断なり、細にして断じ難きが故なり」と云えるこれなり。これ即ち十煩悩の中、邪見、見取見、戒禁取見及び疑の四を除きて、余の身見、辺見等の六は俱生及び分別に通じ、並びに見修二道の所断に通ずと為すの説にして、倶舎等に同じからざる所なり。また同論の連文に「見所断の十は実には倶に頓に断ず。真見道は総じて諦を縁ずるを以っての故なり。然るに諦相に迷うに総あり、総とは謂わく十種皆四諦に迷う。苦と集とはこれ彼れが因と依処となるが故なり、滅と道とはこれ彼れが怖畏処なるが故なり。別とは謂わく別に四諦の総に迷うて起こる。二はただ苦に迷い、八は通じて四に迷う」と云えり。「成唯識論了義灯巻5末」にはこの総別の説に就きて、四句を分別しこれを委釈せり。即ち第一句は諦に各十あり、各自諦に迷う。即ち数総行別なり。第二句は一諦に依りて縁じて多諦に迷う。即ち行総数別なり。第三句は諦に各十あるを数総と名づけ、二三諦等に迷うを行総と名づく。即ち数総行総なり。総じて一百六十八の煩悩の別あり。第四句は各自諦に迷う。即ち数別行別なり。蓋し唯識家に於いては、見道を論ずること倶舎等に同じからざるが故に、断惑を説くにもまた自ら差別あるなり。また「摩訶止観巻5下」に依るに、見惑に単の四見、複の四見、具色四見、無言説の四類を分別し、有無に約して具さにその相を辯じ、「翻訳名義集巻15」には、また俱生見、推理見、発得見の三種を挙げ、その別を論ぜり。また「雑阿毘曇心論巻4」、「瑜伽師地論巻86」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「阿毘達磨順正理論巻65」、「成唯識論述記巻6下」等に出づ。<(望)
  信行(しんぎょう)、法行(ほうぎょう):また随信行、随法行ともいい、各十八有学中の一。即ち見道中の鈍根の者を指して随信行と称し、同じく利根の者を指して随法行と称す。『大智度論巻2上注:四向、四果、巻22上注:十八有学』参照。
  道比智(どうひち):色無色界の道諦を知る智慧。八忍八智、十六心中の一。『大智度論巻15上、巻22上注:八忍八智』参照。
復次須陀洹名流。即是八聖道分。般那名入。入是八聖道分。流入涅槃是名初觀諸法實相。得入無量法性分墮聖人數中。息忌名一伽彌名來。是人從此死生天上天上一來得盡眾苦。阿那名不伽彌名來。是名不來相。是人欲界中死生色界無色界中。於彼漏盡不復來生。 復た次ぎに、須陀洹を流と名づけ、即ち是れ八聖道分なり。般那を入と名づけ、是の八聖道分の流に入れば、涅槃に入る、是れを初めて諸法の実相を観て、無量の法性の分に入るを得て、聖人の数中に堕すと名づく。息忌を一と名づけ、伽弥を来と名づく。是の人は、此より死して、天上に生じ、天上より一来して、衆苦を尽くすを得。阿那を不と名づけ、不と名づけ、伽弥を来と名づけ、是れを不来の相と名づく。是の人は、欲界中に死して、色界、無色界中に生じ、彼に於いて漏尽きて、復た来生せず。
復た次ぎに、
『須陀洹』とは、
『流であり( a stream )!』、
即ち
『八聖道分である!』。
『般那』とは、
『入であり( to enter )!』、
是の、
『八聖道分という!』、
『流』に、
『入れば!』、
即ち、
『涅槃』に、
『入ることになる!』ので、
是れを、
『初めて、諸法の実相を観て!』、
『無量の法性の分に入ることができ!』、
『聖人の数中に堕ちる!』と、
『称するのである!』。
『息忌』とは、
『一であり( once again )!』、
『伽弥』とは、
『来ること( coming )である!』。
是の、
『人』は、
此の、
『人間界で死ぬ!』と、
『天上』に、
『生じることになり!』、
『天上より、一来して( to return only once again )』、
『衆苦』を、
『尽くすことになる!』。
『阿那』とは、
『不であり( not )!』、
『伽弥』は、
『来ることであり!』、
是れを、
『不来の相( the mark of not-coming )である!』と、
『称する!』、
是の、
『人』は、
『欲界中に死ぬ!』と、
『色、無色界中に生じ!』、
彼の、
『色、無色界』中に於いて、
『漏』が、
『尽きる!』ので、
此の、
『世界』に、
復た、
『来生することはない( never return )!』。
  須陀洹(しゅだおん):須陀洹を指す梵語sroota-aapannaの部分(sroota)の音訳。
  般那(はんな):須陀洹を指す梵語sroota-aapannaの部分(aapanna)の音訳。
  息忌(そくき):斯陀含を指す梵語sakRd-aagaaminの部分(sakRd)の音訳。
  伽弥(がみ):斯陀含を指す梵語sakRd-aagaaminの部分(aagaamin)の音訳。
  斯陀含(しだごん):梵語sakRd-aagaaminの訳語にして、また沙羯利陀伽弥に作り、意訳して一来、一往来と為す。沙門四果の第二なり。即ち預流果(初果)の聖者が進みて更に欲界の一品より五品に至る修惑を断除せるを称して斯陀含向、或は一来果向と為し、もし更に欲界の第六品の修惑を断除せば、なお天上由り人間に至る一度の受生を須ちて、まさに般涅槃すべくして、これ以後に至りては、再び受生せざるを称して斯陀含果、或は一来果と為す。その僅余の下品の貪瞋癡を以っての故にまた薄貪瞋癡、薄地と称す。<(佛)
  阿那(あな):阿那含を指す梵語anaagaaminの部分(an)の音訳。
  阿那含(あなごん):梵語anaagaaminの音訳にして、また旧訳には阿那伽弥、阿那伽迷に作り、略して那含に作り、意訳して不還、不来、不来相と為す。即ち声聞四果中第三果の聖者なり。すでに欲界の九品の惑を断じ尽くして、再び欲界に還来して受生せざるの意なり。<(佛)
  来生(らいしょう):梵語 aa√(gam) の訳、来る/帰還する/到着する/近づく/到達する( to come, return, arrive at, come near, reach )の義。復た、此の人間界に還って生まれること( to return to this desire realm and be born as human being )。
問曰。今世滅阿那伽彌中陰滅阿那伽彌。此亦不生色無色界。何以名為阿那伽彌。 問うて曰く、今世に滅する阿那伽弥、中陰に滅する阿那伽弥は、此れも亦た色、無色界に生ぜざるに、何を以ってか、名づけて、阿那伽弥と為す。
問い、
『阿那伽弥』は、
『今世に滅して!』、
『中陰に!』、
『滅すれば!』、
此れは、
亦た、
『色、無色界にも!』、
『生じないはずである!』。
何故、
『阿那伽弥( not-coming to the desire realm )』と、
『称するのですか?』。
  阿那伽弥(あながみ):梵語 anaagamin の訳、又阿那含と訳す、帰還せず( not coming )の義。
  中陰(ちゅうおん):梵語 antaraa-bhavadeha, antaraa-bhavasattva の訳、又中有と訳す、死と再生との間の中間的存在に於ける心/霊魂( the soul in its middle existence between death and regeneration )の意。
  中陰(ちゅうおん):此に死し、彼に生ずる中間の陰形、即ち五蘊なり。『大智度論巻4下注:中陰』参照。
答曰。阿那伽彌。多生色無色界中現在滅者少以少從多故。中間滅者亦欲生色界見後身可患即取涅槃。以是故因多得名。 答えて曰く、阿那伽弥は、多く色、無色界中に生じて、現在滅する者少なく、少は、多に従うを以っての故なり。中間に滅する者も亦た色界に生ぜんと欲するに、後身の患うべきを見て、即ち涅槃を取れば、是を以っての故に、多に因りて、名を得。
答え、
『阿那伽弥』は、
『色、無色界』中に、
『多く!』が、
『生じており!』、
『現在』、
『滅する!』者は、
『少ない!』ので、
『少は、多に従う!』が故に、
『阿那伽弥』と、
『称するのである!』。
『中間に滅する!』者も、
亦た、
『色界に!』、
『生じようとする!』と、
『後身である!』、
『色界の身も、患うべきである!』と、
『見る!』ので、
即ち、
『涅槃』を、
『取ることになる!』。
是の故に、
『欲界に来ない!』者が、
『多いに因る!』が故に、
『阿那伽弥』と、
『称されるのである!』。
阿羅漢盡一切煩惱故。應受一切天龍鬼神供養。是阿羅漢有九種。退法不退法死法護法住法勝進法不壞法慧解脫共解脫。九種義如先說。 阿羅漢は、一切の煩悩を尽くすが故に、応に一切の天、龍、鬼神の供養を受くべし。是の阿羅漢には、九種有り、退法、不退法、死法、護法、住法、勝進法、不壊法、慧解脱、共解脱なり。九種の義は、先に説けるが如し。
『阿羅漢』は、
『一切の煩悩を尽くした!』が故に、
当然、
『一切の天、龍、鬼神の供養』を、
『受けなくてはならない!』が、
是の、
『阿羅漢』には、
『退法、不退法、死法、護法、住法、勝進法、不壊法、慧解脱、共解脱という!』、
『九種の阿羅漢』が、
『有る!』。
『九種の阿羅漢の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
  九種阿羅漢(くしゅあらかん):また九無学ともいう。
  九無学(くむがく):梵語nava-azaikSaaHの訳語にして、九種の無学の意。即ち無学位の人に九種の優劣差別あるを云う。また九種阿羅漢とも称す。(一)一に思法、二に昇進法、三に不動法、四に退法、五に不退法、六に護法、七に実住法、八に慧解脱、九に倶解脱なり。「中阿含巻30福田経」に、「云何が九無学の人なる。思法、昇進法、不動法、退法、不退法、護法、護れば即ち退せず、護らざれば則ち退す。実住法、慧解脱、倶解脱なり。これを九無学の人という」と云い、「成実論巻1分別賢聖品」に、「阿羅漢に九種あり、退相、守相、死相、住相、可進相、不壊相、慧解脱相、倶解脱相、不退相なり。この諸の阿羅漢は、信等の根を得るを以っての故に差別あり。(中略)かくの如き九種を無学の人と名づく。先の十八学人及び九無学、この二十七人を名づけて一切世間の福田と為す」と云えるこれなり。「大乗義章巻17本」に中阿含の文を釈して「九の中、前の七は根に就きて以って別ち、後の二は法に約す。前の七種はなお毘曇の中の六種羅漢の如し。六羅漢とは退、思、護、住、昇進、不動なり。彼の阿含経には、不動の人を分ちて以って二種となすが故に七あるなり。(中略)後の二の慧解脱及び倶解脱は法に約して以って別つ。前の七人の中、滅定を得ざるを慧解脱と名づけ、滅定を得る者を倶解脱と名づく」と云えり。今成実論の順位に依りて略述せば、退相とは最も鈍根にして三昧を退失するを云う。即ち中阿含の退法なり。守相とは即ち護法にして、退相の人は自ら防護するも而も必ず退失あるに対し、守相は防護すれば則ち三昧を退失せざるを云い、死相とは即ち思法にして、深く諸有を厭うも、定を得る能わざるが故に無漏の智を得難く、設い得るも退失を恐れて自害せんと欲するを云い、住相とは実住法にして、また安住法と名づく、三昧に住して不進不退なるを云い、可進相とは即ち昇進法にして、また堪達法と名づく、所得の三昧を転じて増益するを云い、不壊相とは即ち不動法にして、所得の三昧の種種の因縁を敗壊せざるを云い、不退相とは即ち不退法にして、所得の功徳を退失せざる最利根の人を云う。阿羅漢の種類は実にはただこの七人に過ぎざれども、就中、よく慧の力に依りて煩悩障を離脱せる者を慧解脱と云い、慧と定との力に依りてよく煩悩解脱の二障を断じ、滅尽定を得する者を倶解脱と名づく。故に合して九無学となし、これに有学の十八人を加え、凡べて二十七賢聖と称するなり。また「阿毘曇甘露味論巻上」、「阿毘達磨順正理論巻65」等に出づ。(二)一に退法、二に思法、三に護法、四に安住法、五に堪達法、六に不動法、七に不退法、八に独覚、九に仏なり。「倶舎論巻25」に、「無学位に居する聖者に九あり、謂わく七の声聞と及び二の覚者となり。退法等の五と不動に二を分つ。後と先と別なるが故に七の声聞と名づく。独覚と大覚とを二の覚者と名づく。下下等の九品の根異なるに由りて、無学の聖をして九の差別を成ぜしむ」と云えるこれなり。これ根の異に由りて無学の聖者を九等に分類し、下下根を退法、下中根を思法、乃至上中根を独覚、上上根を大覚となしたるなり。またこの中、声聞を分って七種となせることは、六種阿羅漢中の第六不動法の中に於いて、練根によりて得するものと、練根に依らずして先来本と得するものとの別あるが故に、これを分別して前者を不動法、後者を不退法となしたるに由るなり。また「大毘婆沙論巻62」、「雑阿毘曇心論巻5」、「倶舎論光記巻25」等に出づ。<(望)『大智度論巻3下注:六種阿羅漢』参照。
及八背捨八勝處十一切處。滅盡定無諍三昧願智等。阿羅漢諸妙功德。及得無餘涅槃無餘涅槃名阿羅漢。捨此五眾更不復相續受後。五眾身心苦皆悉永滅。後三道果如初道說 及び八背捨、八勝処、十一切処、滅尽定、無諍三昧、願智等は、阿羅漢の諸の妙功徳にして、及び無余涅槃を得。無余涅槃を、阿羅漢の此の五衆を捨てて、更に復た相続して、後の五衆を受けざれば、身心の苦は、皆悉く永滅すと名づく。後の三道の果は、初道に説けるが如し。
及び、
『八背捨、八勝処、十一切処、滅尽定、無諍三昧、願智』等は、
『阿羅漢』の、
『諸の妙功徳であり!』、
及び、
『阿羅漢』は、
『無余涅槃』を、
『得るのである!』。
『無余涅槃』とは、
『阿羅漢』が、
此の、
『五衆(色受想行識)を捨てる!』と、
『更に、復た相続して( successively )!』、
『後の五衆』を、
『受けない!』ので、
『身、心の苦』は、
皆、悉く、
『永く滅するということである!』。
『後の三道の果(斯陀含、阿那含、阿羅漢果)』も、
『初道の果に説いたように!』、
『果、証の二種』が、
『有る!』。
  願智(がんち):願いて三世の事を知らんと欲し、所願に随いて則ち知る。『大智度論巻17下』参照。
  無諍三昧(むじょうさんまい):他心をして諍いを起さしめず。『大智度論巻17下』参照。



般若波羅蜜を行じて、布施の功徳を分別する

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜布施時應作如是分別。如是布施得大果報。如是布施得生剎利大姓婆羅門大姓居士大家。如是布施得生四天王天處三十三天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天。因是布施得入初禪二禪三禪四禪無邊空處無邊識處無所有處非有想非無想處。因是布施能生八聖道分。因是布施能得須陀洹道乃至佛道。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、布施する時、応に是の如き分別を作すべし、『是の如き布施は、大果報を得ん』、『是の如き布施は、刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家を得ん』、『是の如き布施は、四天王天処、三十三天、夜魔天、兜率陀天、化楽天、他化自在天に生ずるを得ん』、『是の布施に因りて、初禅、二禅、三禅、四禅、無辺空処、無辺識処、無所有処、非有想非無想処に入るを得ん』、『是の布施に因りて、能く八聖道分を生ぜん』、『是の布施に因りて、能く須陀洹道、乃至仏道を得れば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行いながら!』、
『布施する!』時には、こう分別せねばならない、――
是のような、
『布施』は、
『大果報』を、
『得られるだろう!』。
是のような、
『布施』は、
『刹利の大姓、婆羅門の大姓、居士の大家』に、
『生まれることになる!』。
是のような、
『布施』は、
『四天王天処や、三十三天、夜魔天や!』、
『兜率陀天、化楽天や、他化自在天に!』、
『生まれることになる!』。
是のような、
『布施』は、
『初禅、二禅、三禅、四禅や!』、
『無辺空処、無辺識処、無所有処、非有想非無想処に!』、
『入ることになる!』。
是の、
『布施に因って!』、
『八聖道分』を、
『生じさせることになる!』。
是の、
『布施に因って!』、
『須陀洹道、乃至仏道』を、
『得られるだろう!』。
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
  刹利(せつり):梵語Satriyaの音訳にして、また刹帝利に作り、王種と訳す。即ち印度四姓の一にして即ち王族、武士階級なり。
  居士(こじ):梵語吠奢vaiSyaの訳語にして、また田家、商賈と為し、即ち印度四姓の一にして即ち商人の階級なり。
  四姓(ししょう):梵語catvaaro varNaaHの訳語。四種の族姓の意。また四種姓、四姓種、或は四品人とも称す。印度に於ける四種の社会階級を云う。一に婆羅門(braahamaNa)、二に刹帝利(kSatriya)、三に吠奢(vaiSya)、四に首陀羅(zuudra)なり。「長阿含経巻13」に、「世に四姓あり、刹利と婆羅門と居士と首陀羅となり」と云い、「大般涅槃経巻23」に、「四種姓あり、謂わゆる刹利と婆羅門と毘舎と首陀となり」と云えるこれなり。この中、婆羅門とは浄行或は承習と訳し、また梵志、梵種、梵志種、婆羅門種とも云う。僧侶及び学者の階級にして、四姓の最上位に位す。吠陀を学習し教授し、祈祷を司りて神人交通の媒介をなすをその本務とす。これを婆羅門と称するは、祈祷即ちbrahmanを司る者の意より来たりしものなるべし。蓋し古代印度に於いては社会生活全般に亘り、咒術宗教的色彩濃厚なりしを以って神人の媒介者としての婆羅門族の勢力強大にして王族もこれに及ばず、時に活ける神とさえ見做さるるに至れり。刹帝利とはまた刹利麗、或は刹利に作り、田主と訳す。また刹利種と云い、別に王種raajanyaとも称す。国王及び武士の階級にして四姓の第二位に位す。ただし仏典中には多くこれを第一位となせり。政治及び軍事を掌るをその本務とす。これを刹帝利と称するは支配するの義なるkSiより来たりしものなるべし。吠奢とはまた毘舎、毘奢、吠舎、鞞舎に作り、居士、田家、商賈、或は随類と訳し、また工師種、居士種とも名づく。謂わゆる平民の階級にして四姓の第三位に位す。農牧工商等の生産事業に従事する者を云うなり。これを吠奢と称するは、人民の義なるvizより来たりしものなるべし。首陀羅とはまた輸陀羅、戌陀羅、戌達羅、旃陀羅、或は首陀に作り、農、農人と訳し、また悪種、殺生種、田農種、田家種とも云う。最下位に位せる奴隷階級にして、専ら上の三姓に奉仕するを以ってその本務とす。摩奴法典maanava dharma-zaastra,I.88-91に「諸の婆羅門には吠陀を学び、これを教え、自他の為に供犠をなし、施をなし、またこれを受くることを定む。刹帝利には民を護り、施と供犠をなし、吠陀を学び、諸の欲境に著せざることを命ず。吠奢には諸の家畜を護り、施と供犠をなし、吠陀を学び、商業と金貸と農耕に従事することを命ず。首陀羅には不平なく専ら彼の諸姓に仕うることを常に業とすることを命ず」と云えり。以って四姓の分限を見るべし。按ずるに利倶吠陀巻10原人の歌Rg-veda puruSa-suukta X,90,12に「彼の口は婆羅門たり、その双臂は王族と成れり、その腿部は今毘舎とせらるるものなり、その両足より首陀羅生まれ出でたり」と云うに依れば、四姓の起源は遠く利倶吠陀時代に求め得べく、即ちアーリヤ人種の印度侵入後、幾ばくもなくしてその発生を見しが如し。四姓は元と征服者たるアーリヤ人種と被征服者たる印度先住民とを区別し、前者をaarya-varNaと称し、後者をdaasa-varNaと呼びしに初まる。aaryaは敬虔なる人、高貴なる人の義にして、daasaは蛮族、または奴隷の意なり。またvarNaは色の義にして、これアーリヤ人は白色人種、先住民は黒色人種なりしに由る。四姓の原語もまたvarNaなれば、四姓の別は元と皮膚の色より起これるものなるを知るべし。後先住民たるdaasa varNaは、首陀羅(恐らく先住民の中の一種族の名)の名に依りて呼ばれ、またアーリヤ人種中にも職業の分化を生じ、かつそれが世襲となりし結果、更に婆羅門、刹帝利、吠奢の三姓を生じ、遂に印度住民の間に四姓の別を見るに至りしものの如し。四姓制度の確立は恐らく婆羅門至上主義の成立せし梵書時代に在るべく、その中、アーリヤ人種たる婆羅門、刹帝利、吠奢の三種は再生族dvi-jaと称せられ、特に宗教的生命を賦与されしも、首陀羅は一生族eka-jaatiと呼ばれ、何等の宗教的特権もなき賎民として遇せられたり。かくして婆羅門教は四姓制度の基礎の上に築かれ、久しく威力を振いたりしが、釈尊はこれ等の四姓の別を重視せず、仏法に帰すれば悉く同一種族にして、全くそれ等の別なしとなせり。これ仏教が印度宗教史上に印する重要なる意義の一なり。「長阿含経巻6小縁経」に、「夫れ不善の行には不善の報あり。黒冥の行をなさば則ち黒冥の報あり。もしこの報をして独り刹利と居士と首陀羅種とのみに在らしめ、婆羅門種に在らざらしめば、則ち婆羅門種はまさに自ら言うを得べし、我が婆羅門種を最も第一となす、余は卑劣なり。我が種は清白にして、余は黒冥なり。我が婆羅門種は梵天より出で、梵の口より生じ、現に清浄を得、後もまた清浄なりと。もし不善の行を行ぜば不善の報あり、黒冥の行をなさば黒冥の報あり、この報は必ず婆羅門種、刹利、居士、首陀羅種に在らしめば、則ち婆羅門は、独り我が種は清浄にして最も第一たりと称するを得ず。(中略)今は現に婆羅門種を見るに、嫁娶産生世と異なることなし。而も自ら詐りて我れはこれ梵種にして梵の口より生じ、現に清浄を得、後もまた清浄なりと称す。婆悉吒、汝今まさに知るべし、今我が弟子は種姓同じからず所出各異あるも、我が法中に於いて出家修道せんに、もし人ありて汝は誰の種姓なるかと問わば、まさに彼れに答えて言うべし、我れはこれ沙門釈種の子なりと」と云い、また「増一阿含経巻21」に、「今四大河水あり、阿耨達泉より出づ。云何が四となす、謂わゆる恒伽、新頭と婆叉と私陀となり。彼の恒伽の水牛の頭口より出でて東に向かって流れ、新頭は南流して師子の口より出で、私陀は西流して象の口中より出で、婆叉は北流して馬の口中より出づ。この時、四大河水は阿耨達泉を繞りおわりて、恒伽は東海に入り、新頭は南海に入り、婆叉は西海に入り、私陀は北海に入る。その時、四大河は海に入りおわりてまた本の名字なく、ただ名づけて海となす。これまたかくの如し、四姓あり。云何が四と為す、刹利と婆羅門と長者と居士種となり。如来の所に於いて鬚髪を剃除し、三法衣を著け、出家学道せばまた本姓なく、ただ沙門釈迦の子なりと言う。然る所以は、如来の衆は、それなお大海のごとく、四諦はこれ四大河の如く、結使を除去して無畏涅槃城に入る。この故に諸比丘、諸有の四姓の鬚髪を剃除し、信堅固を以って出家学道する者は、彼れまさに本の名字を滅して自ら釈迦の弟子と称すべし」と云い、また「雑阿含経巻20」に、「また問う大王、かくの如き四姓は悉く皆平等なり、何の差別かあらん。まさに知るべし大王、四種姓は皆悉く平等にして、勝如差別の異あることなし。(中略)この故に大王まさに知るべし、四姓は世間に言説して差別を為すのみ。乃至業に依る。真実には差別なし」と云えり。以って四姓制度に対する仏の態度を見るを得べし。また「中阿含巻39婆羅婆堂経」には、刹利、梵志、鞞舎の三種姓の者出家して沙門となり、梵行を行ずるが故に、この三姓の他に第四沙門種あることを説き、「白衣金幢二婆羅門縁起経巻下」には、刹帝利境界、婆羅門境界、毘舎境界、首陀境界、及び沙門境界の五類の境界ありとし、この五の中に於いて沙門は最尊最上なりとなせり。これ四姓以外に沙門種を認めたるものというべし。また「長阿含経巻22世本縁品」、「大楼炭経巻6」、「起世経巻10」、「起世因本経巻10」、「中阿含巻30憂婆離経、巻37鬱痩歌邏経、阿摂惒経、巻59一切智経」、「梵志頞波羅延問種尊経」、「増一阿含経巻34」、「出曜経巻13沙門品」、「摩登伽経巻上」、「大般涅槃経巻23」、「雑阿毘曇心論巻3」、「成実論巻7」等に出づ。<(望)
【論】菩薩摩訶薩知諸法實相。無取無捨無所破壞。行不可得般若波羅蜜。以大悲心還修福行。福行初門先行布施。 菩薩摩訶薩は、諸法の実相には、取無く、捨無く、破壊する所無きを知り、不可得の般若波羅蜜を行じ、大悲心を以って、還って福行を修す。福行の初門は、先に布施を行ず。
『菩薩摩訶薩』は、
『諸法の実相には取も、捨も、破壊する所も無い!』と、
『知って!』、
『不可得の( unrecognizable )!』、
『般若波羅蜜』を、
『行いながら!』、
『大悲心を用いて!』、
『還って!』、
『福徳の行』を、
『修めるのである!』が、
『福行の初門』は、
『布施を!』、
『先に( primarily )!』、
『行うことである!』。
菩薩行般若波羅蜜。智慧明利能分別施福。施物雖同福德多少隨心優劣。 菩薩は、般若波羅蜜を行ずるに、智慧明利にして、能く施福を分別すらく、『施物は同じと雖も、福徳の多少は、心の優劣に随う』、と。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行って!』、
『智慧が明利であり!』、
『施福』を、
『分別することができる!』、――
謂わゆる、
『施物が同じでも!』、
『福徳の多、少』が、
『有り!』、
則ち、
『心の優、劣』に、
『随う!』、と。
如舍利弗以一缽飯上佛。佛即迴施狗而問舍利弗。汝以飯施我我以飯施狗誰得福多。舍利弗言。如我解佛法義。佛施狗得福多。舍利弗者於一切人中智慧最上。而佛福田最為第一。不如佛施狗惡田得福極多。以是故知大福從心生不在田也。如舍利弗千萬億倍不及佛心。 舎利弗の、一鉢の飯を以って、仏に上(ささ)ぐるが如し。仏は、即ち迴して狗に施し、舎利弗に問いたまわく、『汝は、飯を以って我れに施し、我れは、飯を以って狗に施す。誰か福を得ること多き』、と。舎利弗の言わく、『我が仏法の義を解するが如くんば、仏の狗に施して、福を得ること多し。舎利弗は、一切の人中に於いて、智慧最上にして、仏の福田を最も第一と為すに、仏、狗の悪田に施したもうも、福を得たもうこと、極めて多きに如かず』、と。是を以っての故に知る、大福は、心より生じて、田に在らず。舎利弗の、千万億倍、仏心に及ばざるが如し。
例えば、
『舎利弗』が、
『一鉢の飯』を、
『仏に上げたようなものである!』。
『仏』は、
即ち、
『飯を迴らして( to turn the food round )!』、
『狗( a dog )に!』、
『施し!』、
而も、
『舎利弗』に、こう問われた、――
お前は、
『飯』を、
『わたしに!』、
『施し!』、
わたしは、
『飯』を、
『狗に!』、
『施した!』が、
誰が、
『福』を、
『多く!』、
『得るのか?』、と。
『舎利弗』は、こう言った、――
わたしは、
『仏法』を、こう理解している、――
『仏』が、
『狗に施して、得られた!』、
『福の方が、多い!』、と。
『舎利弗の智慧』は、
『一切の人』中の、
『最上である!』が、
『仏という!』、
『福田』は、
『最も第一である( the most primary )!』
是の故に、
『仏』が、
『狗という!』、
『悪田』に、
『施されても!』、
『得られる!』、
『福が、極めて多い!』のには、
『及びません!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『大福』は、
『心より、生じるのであり!』、
『田』中に、
『在るのではない!』。
例えば、
『舎利弗』が、
『千万億倍』も、
『仏の心』に、
『及ばないようなものである!』。
  参考:『優婆塞戒経巻7』:『善男子。世間福田凡有二種。一功德田。二報恩田。壞此二田名五逆罪。是五逆罪有三因緣。一者有極惡心。二者不識福德。三者不見正果。若人異想殺阿羅漢不得逆罪。父母亦爾。若無慚愧不觀報恩心無恭敬。但作方便不作根本。雖非逆罪亦得大報。善教授故。生憐愛故。能堪忍故。難作作故。受大苦故。是故父母名報恩田。若復有人殺父母已。雖復修善是善無報。是故我說。人所蔭處乃至少時。慎勿毀折枝條花葉。善男子。我涅槃後有諸弟子當作是說。若以異想異名殺父母不得逆罪。即曇無德。或復說言。雖以異想殺於父母故得逆罪。即彌沙塞。或復有說。異想異名殺於父母俱得逆罪。即薩婆多。何以故。世間真實是可信故。父母真實想亦不轉。惡心殺之即得逆罪。實是父母無父母想不發惡心。父母雖死不得逆罪。何以故。具足四事乃得逆罪。一者實是父母作父母想。二者惡心。三者捨心。四者作眾生想。具是四事逆罪成就。若不具者則不成就。若為憐愍故。若為恭敬故。若為受法故。若為怖畏故。若為名稱故。授與死具雖不手殺亦得逆罪。若為他使令殺父母。啼哭憂愁而為之者。如是罪相初中後輕。欲殺父母誤中他人不得逆罪。欲殺他人誤中父母亦復如是。欲殺母時誤殺相似。殺已藏刀。復中母身不得逆罪。母有異見兒有異殺。但得殺罪不得逆罪。是五逆罪殺父則輕殺母則重。殺羅漢重於殺母。出佛身血重殺羅漢。破僧復重出佛身血。有物重意輕。有物輕意重。有物重意重。有物輕意輕。物重意輕。如無惡心殺於父母。物輕意重者。如以惡心殺於畜生。物重意重者。以極惡心殺所生母。物輕意輕者。如以輕心殺於畜生。如是惡業。有方便重根本成已輕。有方便根本輕成已重。有方便根本重成已輕。有根本輕方便成已重。物是一種。以心力故得輕重果。善男子。有人以食欲施於我。未與我間轉施餓狗。我亦稱讚如是人者。是大施主。若是福田若非福田。心不選擇而施與者。是人獲得無量福德。何以故心善淨故。』
問曰。如汝說福田妙故得福多。而舍利弗施佛不得大福。 問うて曰く、汝が説けるが如くんば、『福田の妙なるが故に、福を得ること多し』、と。而るに、舎利弗は、仏に施して、大福を得ずや。
問い、
お前は、こう説いているが、――
『福田が妙である!』が故に、
『得る福』が、
『多い!』、と。
而し、
『舎利弗』は、
『仏に施しても!』、
『大福を得られないのですか?』。
答曰。良田雖復得福多而不如心。所以者何。心為內主田是外事故。或時布施之福在於福田。 答えて曰く、良田も、復た福を得ること多しと雖も、心には如かず。所以は何んとなれば、心を、内の主と為すも、田は、是れ外の事なるが故なり。或いは時に、布施の福は、福田に在り。
答え、
『良田』にも、
復た、
『福を得ること!』が、
『多い!』が、
而し、
『心』には、
『及ばない!』。
何故ならば、
『心は、内の主である!』が、
『田』は、
『外の事だからである!』。
或いは、時に、
『布施の福』が、
『福田』に、
『在ることもある!』。
如億耳阿羅漢。昔以一華施於佛塔。九十一劫人天中受樂。餘福德力得阿羅漢。又如阿輸迦王。小兒時以土施佛王閻浮提。起八萬塔最後得道。施物至賤小兒心簿。但以福田妙故得大果報。當知大福從良田生。 億耳阿羅漢の如きは、昔一華を以って、仏塔に施すに、九十一劫、人天中に楽を受け、餘の福徳の力もて、阿羅漢を得たり。又阿輸迦王の如きは、小児の時、土を以って、仏に施して、閻浮提に王となり、八万の塔を起てて、最後に道を得たり。施物、至賎にして、小児の心薄きも、但だ福田の妙なるを以っての故に、大果報を得れば、当に知るべし、大福は、良田より生ず。
例えば、
『億耳阿羅漢』は、
昔、
『一華』を、
『仏塔に!』、
『施しただけで!』、
『九十一劫』に、
『人、天中の楽を!』、
『受けたが!』、
『餘の福徳力』で、
『阿羅漢』を、
『得たのである!』。
又、
『阿輸迦王』は、
『小児の時』に、
『土』を、
『仏に!』、
『施しただけで!』、
『閻浮提の王となり!』、
『八万の塔を起てて!』、
『最後には!』、
『道を得たのである!』が、
『施物は至って賎しく!』、
『小児の心力は薄い!』が、
但だ、
『福田が妙である!』が故に、
『大果報を得たのである!』。
当然、こう知らねばならない、――
『大福』は、
『良田より、生じる!』、と。
  億耳(おくに):また二十億耳とも称す。
  二十億耳(にじゅうおくに):阿羅漢名。『大智度論巻29上』参照。
  阿輸迦王(あしゅかおう):王名。『大智度論巻2上注:阿輸迦』参照。
若大中之上三事都具。心物福田三事皆妙。如般若波羅蜜初品中說。佛以好華散十方佛。 若し大中の上なれば、三事を都て具えて、心、物、福田の三事の、皆妙なること、般若波羅蜜の初品中に、『仏は、好華を以って、十方の仏に散ず』、と説けるが如し。
若し、
『大中の上ならば!』、
『三事』を、
『皆、具足することになり!』、
『心、物、福田』の、
『三事』が、
『皆、妙である!』。
例えば、
『般若波羅蜜の初品』中に、こう説かれる通りである、――
『仏は、好華を用いて!』、
『十方の仏上に!』、
『散らされた!』、と。
復次又如以般若波羅蜜心布施。無所著故得大果報。 復た次ぎに、又般若波羅蜜の心を以ってするが如き布施は、著する所無きが故に、大果報を得。
復た次ぎに、
又、
『般若波羅蜜の心を用いるような!』、
『布施』には、
『著する所が無い!』が故に、
『大果報を得るのである!』。
復次為涅槃故施亦得大報。以大悲心為度一切眾生故布施亦得大報。 復た次ぎに、涅槃の為の故に施せば、亦た大報を得、大悲心を以って、一切の衆生を度せんが為の故に布施すれば、亦た大報を得。
復た次ぎに、
『涅槃を求める!』為の故に、
『施しても!』、
『大報』を、
『得ることになり!』、
『大悲心を用いて!』、
『一切の衆生を度そうとする!』が故に、
『布施しても!』、
『大報を得る!』。
復次大果報者。如是中說生剎利家乃至得佛者是。 復た次ぎに、大果報とは、是の中に説けるが如く、刹利の家に生じ、乃至仏を得る者是れなり。
復た次ぎに、
『大果報』とは、
是の中に説かれているように、――
『刹利の家に生まれたり、仏を得るということ!』が、
『是れである!』。
問曰。云何布施得生剎利家。乃至得佛。 問うて曰く、云何が布施して、刹利の家に生ずるを得、乃至仏を得る。
問い、
何故、
『布施して!』、
『刹利の家』に、
『生まれることができ!』、
乃至、
『仏』を、
『得ることができるのですか?』。
答曰。若有人布施及持戒故。得人天中富貴。如有人至心布施持戒故生剎利家。剎利者王及大臣。若著於智慧經書而不惱眾生。布施持戒故生婆羅門家。若布施持戒減少而樂著世樂生居士大家。居士者小人而巨富。 答えて曰く、若しは有る人は、布施、及び持戒するが故に人、天中の富貴なるを得、有る人の如き、至心に布施、持戒するが故に、刹利の家に生ず。刹利とは、王、及び大臣なり。若しは智慧、経書に著するも、衆生を悩さず、布施、持戒するが故に、婆羅門の家に生ず。若しは布施、持戒すること減少して、楽しんで世楽に著すれば、居士の大家に生ず。居士とは、小人にして、巨富なり。
答え、
例えば、
有る人は、
『布施も、持戒もする!』が故に、
『人、天中の富貴に!』、
『生まれることができ!』、
有る人は、
『至心に( sencerely )!』、
『布施、持戒する!』が故に、
『刹利の家』に、
『生まれる!』。
『刹利』とは、
『王や!』、
『大臣である!』。
若し、
『智慧や、経書に著していても!』、
『衆生を悩すことなく、布施、持戒する!』が故に、
『婆羅門の家』に、
『生まれ!』、
若し、
『布施や、持戒が減少し!』、
『世楽に著することを、楽しめば!』、
『居士の大家』に、
『生じることになる!』。
『居士』とは、
『小人でありながら( a mean person )!』、
『巨富である!』。
若布施持戒清淨小勝厭患家業。好樂聽法供養善人生四天王處。所以者何。在彼有所須欲心生皆得常見。此間賢聖善人心生供養以近修福處故。 若しは布施して、持戒清浄なること小しく勝り、家業を厭患して、聴法を好んで楽しみ、善人に供養すれば、四天王処に生ず。所以は何んとなれば、彼に在りて、須(もち)うる所の欲有れば、心の生ずるがままに、皆得、常に此の間の賢聖、善人を見て、心生ずるがままに供養し、修福の処に近づくを以っての故なり。
若し、
『布施、持戒清浄』が、
『小人に、勝り!』、
『家業を厭患して!』、
『聴法を楽しむことを、好み!』、
『善人』に、
『供養すれば!』、
即ち、
『四天王処』に、
『生じることになる!』。
何故ならば、
彼の、
『四天王処』に於いては、
『所須の欲( anything that is necessary )』が、
『心に生じるままに!』、
『皆、得られる!』ので、
常に、
此の、
『閻浮提の賢聖、善人を見て!』、
『心に生じるままに!』、
『供養することができ!』、
『福徳を修める!』為の、
『処(福田)に!』、
『近づくことができるからである!』。
  四天王処(してんのうじょ):四天王天ともいう。六欲天の初天。『大智度論巻9上』参照。
若布施持戒清淨。供養父母及其所尊心欲求勝。生三十三天。若布施持戒清淨。而好學問其心柔和。生夜摩天。若布施持戒清淨令二事轉勝。好樂多聞分別好醜。愛樂涅槃心著功德生兜率天。 若しは布施、持戒清浄にして、父母及び其の尊ぶ所を供養し、心の欲するがままに、勝つことを求むれば、三十三天に生ず。若しは布施、持戒清浄にして、而も学問を好んで、其の心柔和なれば、夜魔天に生ず。若しは布施、持戒清浄にして、二事をして、転た勝らしめ、多聞を楽しむを好み、好醜を分別し、涅槃を楽しむを愛し、心は功徳に著すれば、兜率天に生ず。
もし、
『布施し、持戒清浄であり!』、
『父母や、尊ぶ所を供養しながら!』、
『心に欲するがままに!』、
『勝つこと!』を、
『求めれば!』、
即ち、
『三十三天』に、
『生じる!』。
若し、
『布施し、持戒清浄であり!』、
『学問を好んで!』、
『心が柔和ならば!』、
『夜魔天』に、
『生じる!』。
若し、
『布施し、持戒清浄であり!』、
『布施、持戒の二事』を、
『転た( increasingly )!』、
『勝れさせながら!』、
『多聞を楽しむことを、好み!』、
『好、醜を分別して!』、
『涅槃を楽しむこと!』を、
『愛して!』、
『心』が、
『功徳』に、
『著すれば!』、
即ち、
『兜率天』に、
『生じることになる!』。
  三十三天(さんじゅうさんてん):六欲天中の第二天。『大智度論巻9上』参照。
  夜摩天(やまてん):六欲天中の第三天。『大智度論巻9上』参照。
  兜率天(とそつてん):六欲天中の第四天。『大智度論巻9上』参照。
若布施深心持戒多聞好樂學問自力生活生化樂天。若布施時清淨持戒轉深好樂多聞。自貴情多不能自苦從他求樂生他化自在天。他所思惟懃心方便。化作女色五欲奪而自在。譬如庶民苦身自業強力奪之。 若し布施し、深心に持戒し、多く聞きて学問を楽しむを好み、自ら生活に力(つと)むれば、化楽天に生ず。若しは布施し、時には清浄の持戒転た深く、好んで、楽しみ、多く聞くとも、自ら貴ぶ情多くして、自ら苦しむ能わざるに、他より楽を求むれば、他化自在天に生じ、他の思惟し、勤心し、方便し、化作する所の女色、五欲を奪いて自在なり。譬えば庶民は、身を苦しんで、自ら業するに、強力して、之を奪うが如し。
若し、
『布施して、深心に持戒しながら!』、
『多聞して、学問を楽しむことを好み!』、
『自ら、生活に力めれば( to do one's job with effort )!』、
『化楽天』に、
『生じる!』。
若し、
『布施して、時には清浄の持戒が転た深まり!』、
『多聞を楽しむことを好むが!』、
『自らを貴ぶ情が多く、自らを苦しむことができない!』ので、
『他人より、楽を求めれば!』、
『他化自在天』に、
『生じ!』、
『他人の思惟、勤心、方便して化作した!』、
『女色や、五欲(色声香味触)を!』、
『奪って!』、
『自在にする!』。
譬えば、
『庶民が、身を苦しめて!』、
『自ら作った!』、
『業( an achievement )』を、
強いて、
『力で!』、
『奪うようなものである!』。
  化楽天(けらくてん):六欲天中の第五天。『大智度論巻9上』参照。
  他化自在天(たけじざいてん):六欲天中の第六天。『大智度論巻9上』参照。
  他所思惟(たしょしゆい):他人の思考内容。
  懃心方便(ごんしんほうべん):ねんごろに手立てをつくす。
  女色(にょしき):女子の色相。女子の肉体。
復次布施時以願因緣故生天上。如經說。有人少行布施持戒不知禪定。是人聞有四天王天心常志願。佛言。是人命終生四天上必有是處。乃至他化自在天亦如是。 復た次ぎに、布施する時、願の因縁を以っての故に、天上に生ず。経に説けるが如し、『有る人、少しく布施、持戒を行ずるも、禅定を知らず。是の人は、四天王天有るを聞き、心に常に志願す。仏の言わく、是の人の命終わりて、四天上に生ずること、必ず、是の処有り。乃至他化自在天も亦た是の如しと』、と。
復た次ぎに、
『布施する!』時、
『願の因縁』の故に、
『天上』に、
『生じる!』。
例えば、
『経』に、こう説く通りである、――
有る、
『人』は、
『布施や、持戒を少し行うだけで!』、
『禅定』を、
『知らなかった!』が、
是の、
『人』は、
『四天王天』が、
『有るということ!』を、
『聞いて!』、
『心』に、
『常に!』、
『志願していた( to desire vehemently )!』。
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『人』は、
『命が終われば!』、
『四天王天』上に、
『生じることになる!』が、
必ず、
是の、
『処が有る( be in condition )からだ!』。
乃至、
『他化自在天であっても!』、
『是の通りである!』、と。
  志願(しがん):梵語 praNidhaana の訳、熱烈な欲望( vehement desire )の義。
  是処(ぜしょ):梵語 sthaana の訳、貯蔵処/保管所/立ち場所/居場所/適切な場所( storing-place or storage, place of standing or staying, proper or right space )の義、状況/事情/~の原因/対象( state, condition, cause or object of )の意。
復次有人布施持戒修布施時其心得樂。若施多樂亦多。如是思惟捨五欲除五蓋入初禪乃至非有想非無想天如是。四禪四無色定義如上說。 復た次ぎに、有る人は、布施、持戒するに、布施を修する時、其の心に、楽を得、若し施多ければ、楽も亦た多し。是の如く思惟して、五欲を捨て、五蓋を除いて、初禅に入る。乃至非有想非無想天も是の如し。四禅、四無色定の義は、上に説けるが如し。
復た次ぎに、
有る、
『人は布施、持戒していた!』が、
『布施を修める!』時、
其の、
『心』に、
『楽』を、
『得るので!』、
若し、
『多く施せば!』、
『楽』も、
『多かったのである!』。
是のように、
『思惟して!』、
『五欲を捨てて、五蓋を除けば!』、
『初禅』に、
『入ることになる!』が、
乃至、
『非有想非無想天まで!』、
『是の通りである!』。
『四禅、四無色定の義』は、
上に、
『説いた通りである!』。
復次有人布施佛及佛弟子從其聞說道法。是人因此布施故心得柔軟。智慧明利即生八聖道分。斷三結得須陀洹果。乃至佛道亦如是。因是布施聞其說法。便發阿耨多羅三藐三菩提心。 復た次ぎに、有る人は、仏、及び仏弟子に布施して、其れより、道法を説くを聞く。是の人は、此の布施に因るが故に、心に柔軟を得て、智慧明利となりて、即ち八聖道分を生じ、三結を断じて、須陀洹果を得。乃至仏道も亦た是の如く、是の布施に因って、其の法を説くを聞き、便ち阿耨多羅三藐三菩提の心を発す。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『仏や、仏弟子に布施して!』、
『道法』が、
『説かれる!』のを、
『聞いた!』。
是の、
『人』は、
此の、
『布施に因る!』が故に、
『心が柔軟になった!』ので、
『智慧』が、
『明利になり!』、
即ち、
『八聖道分を生じて!』、
『三結を断じ!』、
『須陀洹果』を、
『得たのである!』が、
乃至、
『仏道も、是のように!』、
是の、
『布施に因って!』、
『法が説かれる!』のを、
『聞くことになり!』、
便ち( easily )、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発すのである!』。
復次未離欲布施生人中富貴及六欲天中。若離欲心布施生梵世天上乃至廣果天。若離色心布施生無色天中。離三界布施為涅槃故得聲聞道。布施時惡厭憒鬧好樂閑靜喜深智慧得辟支佛。布施時起大悲心欲度一切。為第一甚深畢竟清淨智慧得成佛道 復た次ぎに、未離欲にして布施すれば、人中の富貴、及び六欲天中に生じ、若し離欲の心もて布施すれば、梵世天上、乃至広果天に生じ、若し離色の心もて布施すれば、無色天中に生ず。三界を離るる布施は、涅槃の為なるが故に、声聞道を得、布施する時、憒鬧を悪厭し、閑静を好楽し、深き智慧を喜べば、辟支仏を得、布施する時、大悲心を起して、一切を度せんと欲し、第一に甚だ深き畢竟清浄なる智慧の為なれば、仏道を成ずるを得。
復た次ぎに、
若し、
『未離欲の心で!』、
『布施すれば!』、
『人中の富貴や、六欲天』中に、
『生じる!』。
若し、
『離欲の心で!』、
『布施すれば!』、
『梵世天上、乃至広果天』に、
『生じる!』。
若し、
『離色の心で!』、
『布施すれば!』、
『無色天』中に、
『生じる!』。
若し、
『三界を離れて!』、
『布施し、涅槃を求めれば!』、
『声聞道』を、
『得る!』。
若し、
『布施する!』時、
『憒鬧を悪厭し( to dislike the crowd of people )!』、
『閑静を好楽し( to like to retire into a lonely place )!』、
『深い智慧を喜べば!』、
『辟支仏』を、
『得る!』。
若し、
『布施する!』時、
『大悲心を起して!』、
『一切を度そうと、思い!』、
『第一に甚だ深い畢竟清浄の智慧を求めれば!』、
『仏道』を、
『成ずることができる!』。
  梵世天(ぼんせてん):色界の諸天を指す。
  広果天(こうかてん):色界第四禅八天中の第三天の名。
  悪厭(あくえん):梵語 jugupsita の訳、嫌われる( disliked )の義、ぞっとするほど嫌だ( abhorring anything )の意。
  憒鬧(けにょう):梵語 saMkiirNa の訳、一緒に吐き出される( poured together )、群れる/満ちる/混ざった/混乱した( crowed with, full of, mingled, confused )の義。
  閑静(げんじょう):梵語 pratisaMlayana の訳、隠居する( retirement into a lonely place )の意。
  好楽(こうらく):梵語 abhi√(laS) の訳、渇望する/願う( to desire or wish for )。



布施する時、檀乃至般若波羅蜜を具足する

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜布施時。以慧方便力故能具足檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜般若波羅蜜。 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を行じて、布施する時、慧の方便力を以っての故に、能く檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜、般若波羅蜜を具足す。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜を行いながら!』、
『布施する!』時、
『慧方便( the means with wisdom )という!』、
『力を用いる!』が故に、
即ち、
『檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅、般若波羅蜜』を、
『具足することができるのである!』。
  (え):梵語 prajJaa の訳、賢明さ/理解力/知識/識別力/判断力( wisdom, intelligence, knowledge, discrimination, judgement )の義。
  方便(ほうべん):梵語 upaaya の訳、敵に勝つ手段( a mean of success against an enemy )の義、目的を達成する手段( that by which one reaches one's aim )の意。
  方便力(ほうべんりき):梵語 upaaya-bala の訳、目的を達成する手段としての力( the force as a mean by which one reaches one's aim )の意。
  慧方便(えほうべん):梵語 prjJOpaaya の訳、智慧に導かれた巧みな手段( skillful means guided by wisdom )の意。
舍利弗白佛言。世尊。菩薩摩訶薩云何布施時以慧方便力故。具足檀波羅蜜乃至般若波羅蜜。佛告舍利弗。施人受人財物不可得故。能具足檀波羅蜜。罪不罪不可得故。具足尸羅波羅蜜。心不動故具足羼提波羅蜜。身心精進不懈息故。具足毘梨耶波羅蜜。不亂不味故。具足禪波羅蜜。知一切法不可得故。具足般若波羅蜜 舎利弗の仏に白して言さく、『世尊、菩薩摩訶薩は、云何が布施する時、慧の方便力を以っての故に、檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜を具足する』、と。仏の舎利弗に告げたまわく、『施人、受人、財物は不可得なるが故に、能く檀波羅蜜を具足し、罪、不罪は不可得なるが故に、尸羅波羅蜜を具足し、心は動かざるが故に、羼提波羅蜜を具足し、身心は精進して、懈息せざるが故に、毘梨耶波羅蜜を具足し、不乱、不味なるが故に、禅波羅蜜を具足し、一切法の不可得を知るが故に、般若波羅蜜を具足す』、と。
『舎利弗』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『菩薩摩訶薩』は、
何故、
『布施する!』時、
『慧方便という!』、
『力を用いる!』が故に、
即ち、
『檀波羅蜜、乃至般若波羅蜜』を、
『具足するのですか?』、と。
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられた、――
『施人、受人、財物』は、
『不可得である( be unrecognizable )と、知る!』が故に、
『檀波羅蜜』を、
『具足することができ!』、
『罪なのか、罪でないのか?』は、
『不可得であると、知る!』が故に、
『尸羅波羅蜜』を、
『具足し!』、
『心』は、
『動かないと、知る!』が故に、
『羼提波羅蜜』を、
『具足し!』、
『身、心』は、
『精進して、懈息しないと、知る!』が故に、
『毘梨耶波羅蜜』を、
『具足し!』、
『禅』は、
『乱れることなく、味わうこともないと、知る!』が故に、
『禅波羅蜜』を、
『具足し!』、
『一切の法』は、
『不可得であると、知る!』が故に、
『般若波羅蜜』を、
『具足するのである!』、と。
  参考:『大般若経巻3』:『佛告具壽舍利子言,舍利子,諸菩薩摩訶薩應以無住而為方便,安住般若波羅蜜多,所住、能住不可得故。諸菩薩摩訶薩應以無捨而為方便,圓滿布施波羅蜜多,施者、受者及所施物不可得故。諸菩薩摩訶薩應以無護而為方便,圓滿淨戒波羅蜜多,犯、無犯相不可得故。諸菩薩摩訶薩應以無取而為方便,圓滿安忍波羅蜜多,動、不動相不可得故。諸菩薩摩訶薩應以無勤而為方便,圓滿精進波羅蜜多,身心勤、怠不可得故。諸菩薩摩訶薩應以無思而為方便,圓滿靜慮波羅蜜多,有味、無味不可得故。諸菩薩摩訶薩應以無著而為方便,圓滿般若波羅蜜多,諸法性、相不可得故。』
  参考:『大般若経巻384』:『爾時具壽善現白佛言。世尊。若一切法但有名相。所有名相皆是假立分別所起。非實有性。云何菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。於諸善法能自增進。亦能令他增進善法。由自善法得增進故。能令諸地漸次圓滿。亦能安立諸有情類。隨其所應得三乘果。佛告善現。若諸法中少有實事。非但假立有名相者。則菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。應於善法不自增進。亦不令他增進善法。善現。以諸法中無少實事。但有假立諸名及相。是故菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。以無相為方便。能圓滿般若波羅蜜多。以無相為方便。能圓滿靜慮波羅蜜多。以無相為方便。能圓滿精進波羅蜜多。以無相為方便。能圓滿安忍波羅蜜多。以無相為方便。能圓滿淨戒波羅蜜多。以無相為方便。能圓滿布施波羅蜜多。以無相為方便。能圓滿四靜慮四無量四無色定。以無相為方便。能圓滿四念住四正斷四神足五根五力七等覺支八聖道支。以無相為方便。能圓滿空無相無願解脫門。以無相為方便。能圓滿內空外空內外空空空大空勝義空有為空無為空畢竟空無際空散空無變異空本性空自相空共相空一切法空不可得空無性空自性空無性自性空。以無相為方便。能圓滿真如法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界。以無相為方便。能圓滿苦集滅道聖諦。以無相為方便。能圓滿八解脫八勝處九次第定十遍處。以無相為方便。能圓滿一切陀羅尼門一切三摩地門。以無相為方便。能圓滿極喜地離垢地發光地焰慧地極難勝地現前地遠行地不動地善慧地法雲地。以無相為方便。能圓滿五眼六神通。以無相為方便。能圓滿佛十力四無所畏四無礙解大慈大悲大喜大捨十八佛不共法。以無相為方便。能圓滿無忘失法恒住捨性。以無相為方便。能圓滿一切智道相智一切相智。以無相為方便。於諸善法自圓滿已。亦能令他圓滿善法。如是善現。以一切法無少實事。但有假立諸名及相。諸菩薩摩訶薩。於中不起顛倒執著。於諸善法能自增進。亦能令他增進善法。復次善現。若諸法中有毛端量實法相者。則菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。於一切法不應覺知無相無念。亦無作意無漏性。已證得無上正等菩提。安立有情於無漏法。何以故。善現。諸無漏法皆無相無念無作意故。如是善現。菩薩摩訶薩行深般若波羅蜜多時。安立有情於無漏法。乃名真實饒益他事』
【論】具足義先已廣說。慧方便今此中說。所謂三事不可得者是。 具足の義は、先に已に広説せり。慧の方便は、今、是の中に説けり、謂わゆる三事の不可得なる、是れなり。
『具足の義』は、
先に、
已に、
『広説した通りである!』。
『慧方便の義』は、
今、
此の中に、説かれている、――
謂わゆる、
『三事(施者、受者、財物)は、不可得である!』が、
『是れである!』。
  参考:『大智度論巻12』:『復次檀波羅蜜中。言財施受者三事不可得。問曰。三事和合故名為檀。今言三事不可得。云何名檀波羅蜜具足滿。今有財有施有受者。云何三事不可得。如所施疊實有。何以故。疊有名則有疊法。若無疊法亦無疊名。以有名故應實有疊。復次疊有長有短麤細白黑黃赤。有因有緣有作有破有果報隨法生心。十尺為長五尺為短。縷大為麤縷小為細。隨染有色有縷為因。織具為緣。是因緣和合故為疊。人功為作人毀為破。御寒暑弊身體名果報。人得之大喜失之大憂。以之施故得福助道。若盜若劫戮之都市。死入地獄。如是等種種因緣。故知有此疊是名疊法。云何言施物不可得。答曰。汝言有名故有是事。不然。何以知之。名有二種有實有不實。不實名。如有一草名朱利。(朱利秦言賊也)草亦不盜不劫實非賊而名為賊。又如兔角龜毛。亦但有名而無實疊雖不如兔角龜毛無。然因緣會故有。因緣散故無。如林如軍是皆有名而無實。譬如木人雖有人名不應求其人法。疊中雖有名亦不應求疊真實。疊能生人心念因緣。得之便喜失之便憂。是為念因緣。心生有二因緣。有從實而生。有從不實而生。如夢中所見如水中月。如夜見杌樹謂為人。如是名從不實中能令心生。是緣不定。不應言心生有故便是有。若心生因緣故有。更不應求實有。如眼見水中月。心生謂是月。若從心生便是月者則無復真月。』
問曰。慧方便者。能成就其事無所破壞更無所作。今破此三事應墮斷滅云何言慧方便。 問うて曰く、慧方便は、能く其の事を成就して、破壊する所無く、更に作す所無くして、今、此の三事を破れば、応に断滅に堕すべし。云何が、『慧方便なり』、と言う。
問い、
『慧方便』が、
其の、
『事( the works )』を、
『成就することができ!』、
其れを、
『破壊する!』者が、
『無く!』、
更に、
『作った!』者すら、
『無い!』のに、
今、
此の、
『三事』を、
『破ってしまえば!』、
当然、
『断滅』に、
『堕ちることになる!』。
何故、
『慧方便である!』と、
『言うのですか?』。
答曰。有二種不可得。一者得不可得。二者不得不可得。得不可得者。墮於斷滅。若不得不可得者。是為慧方便不墮斷滅。若無慧方便布施者取三事相。若以三事空則取無相。有慧方便者從本以來不見三事相。以是故慧方便者不墮有無中。 答えて曰く、二種の不可得有り、一には不可得なるを得、二には不可得なるを得ず。不可得を得れば、断滅に堕するも、若し不可得を得ざれば、是れを慧方便と為して、断滅に堕せず。若し慧方便無くして、布施すれば、三事の相を取り、若しは三事の空なるを以って、則ち無相を取る。慧方便有れば、本より以来、三事の相を見ず。是を以っての故に、慧方便は、有無中に堕せず。
答え、
『不可得』には、
『二種有り!』、
一には、
『不可得である!』と、
『得る( to recognize )もの!』、
二には、
『可得( be recognizable )か、不可得( be unrecognizable )か!』を、
『得ない( do not recognize )ものである!』。
若し、
『不可得である!』と、
『得れば!』、
『断滅』に、
『堕ちることになり!』、
若し、
『不可得である!』と、
『得なければ!』、
是れが、
『慧方便であり!』、
『断滅』に、
『堕ちることはない!』。
若し、
『慧方便が無い!』のに、
『布施すれば!』、
『三事の相』を、
『取ることになり!』、
若しは、
『三事は空である、と思って!』、
『無相』を、
『取ることになる!』。
若し、
『慧方便が有れば!』、
本より、
『三事の相』を、
『見ることもない!』ので、
是の故に、
『慧方便の者』は、
『有、無』中に、
『堕ちることがない!』。
復次布施時壞諸煩惱是名慧方便。 復た次ぎに、布施する時、諸の煩悩を壊れば、是れを慧方便と名づく。
復た次ぎに、
『布施する!』時、
諸の、
『煩悩』が、
『壊られていれば!』、
是れを、
『慧方便』と、
『称する!』。
復次於一切眾生起大悲心布施。是名慧方便。 復た次ぎに、一切の衆生に於いて、大悲心を起して布施すれば、是れを慧方便と名づく。
復た次ぎに、
『一切の衆生』に於いて、
『大悲心』を、
『起して!』、
『布施すれば!』、
是れを、
『慧方便』と、
『称する!』。
復次過去未來無量世所修福德布施。迴向阿耨多羅三藐三菩提。亦名慧方便。 復た次ぎに、過去、未来、無量世に修する所の福徳の布施を、阿耨多羅三藐三菩提に迴向すれば、亦た慧方便と名づく。
復た次ぎに、
『過去、未来の無量の世に修めた!』、
『福徳を布施して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向すれば!』、
亦た、
『慧方便』と、
『称する!』。
復次於一切十方三世諸佛及弟子所有功德。憶念隨喜布施。迴向阿耨多羅三藐三菩提。是名慧方便。如是等種種力是為慧方便義。乃至般若波羅蜜慧方便亦如是 復た次ぎに、一切の十方の三世の諸仏、及び弟子の有らゆる功徳を、憶念し、随喜して布施し、阿耨多羅三藐三菩提に迴向すれば、是れを慧方便と名づく。是れ等の如き種種の力は、是れを慧方便の義と為し、乃至般若波羅蜜の慧方便も、亦た是の如し。
復た次ぎに、
『一切の十方、三世の諸仏や、弟子』の、
有らゆる、
『功徳を憶念して!』、
『随喜して、布施しながら!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向すれば!』、
是れを、
『慧方便』と、
『称する!』。
是れ等のような、
『種種の力』が、
『慧方便の義であり!』、
乃至、
『般若波羅蜜の慧方便』も、
『是の通りである!』。



過去、未来、現在の諸仏の功徳を得る

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲得過去未來現在諸佛功德者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は過去、未来、現在の諸仏の功徳を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『過去、未来、現在の諸仏』の、
『功徳を得よう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。過去佛功德已滅。未來佛功德未有。現在佛功德不可得。又三世中佛功德皆不可得。云何言欲得三世佛功德當學般若波羅蜜。 問うて曰く、過去の仏の功徳は、已に滅し、未来の仏の功徳は、未だ有らず、現在の仏の功徳は、不可得にして、又三世中の仏の功徳は、皆不可得なり。云何が、『三世の仏の功徳を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と言う。
問い、
『過去の仏』の、
『功徳』は、
『已に、滅しており!』、
『未来の仏』の、
『功徳』は、
『未だ、無く!』、
『現在の仏』の、
『功徳』は、
『不可得である!』。
又、
『三世中の仏』の、
『功徳』は、
『皆、不可得である!』のに、
何故、こう言うのですか?――
『三世の仏』の、
『功徳を得よう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
答曰。不言欲得三世佛功德自欲得。如三世佛功德無所減少耳。所以者何。一切佛功德皆等無多無少。 答えて曰く、『三世の仏の功徳を得んと欲す』、とは言わず。自ら、三世の仏の如き功徳の、減少する所の無きを得んと欲するのみ。所以は何んとなれば、一切の仏の功徳は、皆等しく、多無く、少無ければなり。
答え、
『三世の仏の功徳』を、
『得たい!』と、
『言ったのではない!』。
自ら、
『三世の仏のように!』、
『減少する所の無い!』、
『功徳』を、
『得たいだけなのだ!』。
何故ならば、
『一切の仏の功徳』は、
『皆、等しく!』、
『多くも、少なくも!』、
『無いからである!』。
問曰。若爾者何以言阿彌陀佛壽命無量光明千萬億由旬。無量劫度眾生。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、『阿弥陀仏は寿命無量にして、光明は千万億由旬、無量劫に衆生を度す』、と言える。
問い、
若し、爾うならば、
何故、こう言うのですか?――
『阿弥陀仏』は、
『寿命が、無量であり!』、
『光明が、千万億由旬であり!』、
『無量劫に、衆生を度す!』、と。
答曰。諸佛世界種種有淨不淨有雜。如三十三天品經說。佛在三十三天安居自恣時。至四眾久不見佛愁思不樂。遣目連白佛言。世尊。云何捨此眾生住彼天上。時佛告目連。汝觀三千世界。目連以佛力故觀。或見諸佛為大眾說法。或見坐禪或見乞食。如是種種施作佛事。目連即時五體投地。是時須彌山王岠峨大動。諸天皆大驚怖。目連涕泣稽首白佛。佛有大悲不捨一切作如是種種化度眾生。 答えて曰く、諸仏の世界は、種種に浄、不浄有り、雑有り。三十三天品経に説けるが如し。仏は三十三天に在りて、安居したまい、自恣の時至るに、四衆は、久しく仏を見ざれば、愁思して楽しまず、目連を遣わして、仏に白して言さく、『世尊、云何が此の衆生を捨てて、彼の天上に住したもうや』、と。時に仏の目連に告げたまわく、『汝は、三千世界を観しや』、と。目連は、仏の力を以っての故に観るに、或いは諸仏の、大衆の為に説法するを見、或いは坐禅するを見、或いは乞食し、是の如き種種の仏事を施作したもうを見る。目連は、即時に五体を地に投ず。是の時、須弥山王は、岠峨を大動し、諸天は皆、大いに驚怖す。目連は、涕泣して稽首し、仏に白さく、『仏には、大悲有りて、一切を捨てたまわざること、是の如きを作して、種種に衆生を化度したもう』、と。
答え、
『諸仏の世界』は、
種種に、
『浄や、不浄が有り!』、
『雑えたものも有る!』。
『三十三天品経』に、こう説かれた通りである、――
『仏』は、
『三十三天』に、
『在られて( dwelling )!』、
『安居された( to spend the rainy season )!』。
『自恣の時が至る( at the end of the summer meditation retreat )!』と、
『四衆』は、
『久しく、仏を見ない!』ので、
『愁思して( to have anxiety and distress )!』、
『楽しまなかった!』ので、
『目連を遣わして!』、
『仏に白して!』、こう言わせた、――
世尊!
何故、
此の、
『衆生』を、
『捨てて!』、
彼の、
『天上』に、
『住まられるのですか?』、と。
爾の時、
『仏』は、
『目連』に、こう告げられた、――
お前は、
『三千世界』を、
『観たことがあるのか?』、と。
『目連』は、
『仏の力を用いて!』、
『三千世界を観察する!』と、――
或いは、
『諸仏』が、
『大衆の為に!』、
『法を説かれている!』のが、
『見え!』、
或いは、
『坐禅していられる!』のが、
『見え!』、
或いは、
『乞食されている!』のが、
『見え!』、
是のような、
種種に、
『仏地を、施作されている!』のが、
『見えた!』。
『目連』が、
即時に、
『五体』を、
『地』に、
『投じる!』と、
是の時、
『須弥山王』が、
『岠峨』を、
『大動させた!』ので、
『諸の天』が、
皆、
『大いに驚怖した!』。
『目連は涕泣しながら!』、
『稽首して!』、
『仏』に、こう白した、――
『仏』には、
『大悲が有り!』、
一切の、
『衆生』を、
『捨てることなく!』、
是のような、
『事』を、
『作しながら!』、
種種に、
『衆生』を、
『化度されていました!』、と。
  岠峨(こが):巨大なる高山( gigantic high mountain )。
  施作(せさ):梵語 kartum,√(kR) の訳、行う/作る/実行/達成する/原因となる/効果を及ぼす/準備する/請け負う( to do, make, perform, accomplish, cause, effect, prepare, undertake )の義。
  三十三天品経:『仏昇忉利天為母説法経』参照。
  安居(あんご):梵語 varSOSita の訳、雨期を過す( spending the rainy season )の義、又夏安居と訳す、雨期を避ける( retreating during the rainy season )の意。
  安居(あんご):梵語 vaaSika の訳。雨期の義。即ち仏弟子が時期を定めて一所に居止し、静かに道心を修養するを云う。「四分律巻37安居揵度」に依るに、六群比丘は、春夏秋冬一切時に於いて遊行し、時遇ま夏月に際し、暴雨に逢うて、衣鉢坐具針筒を漂失し、生ける草木を蹈殺せしに、居士等これを見て皆共に譏嫌せしを以って、他の比丘は六群比丘を率いて仏所に詣る。時に仏は種種の方便を以って六群比丘を訶責し、諸の比丘を制して、夏時三月の間、安居すべきことを命じたまいしことを記せり。これ仏教安居の濫觴なり。蓋し安居の制が元と印度古来の旧習なりしことは、同律の文に「諸外道の法すらなお三月安居あり」と説けるに依りて知るを得べし。凡そ印度の気候として夏期は降雨甚だしく、遊行分衛する能わざるを以って、ここに一定の場処に集合して、飲食臥具の供養を受け、遊行中の罪を懺悔し、かつ仏の教誡を請うて互いに研鑽修道を事とし、三月期尽き、自恣の日訖らば皆また分散して遊行教化に赴くを法とするに至れり。安居の時期に関しては、「行事鈔巻上4」に四月十六日に始め、七月十五日に終り、その翌十六日をもって自恣の日となせり。これに就き、玄奘は「大唐西域記巻8」に異を唱えて五月十六日乃至八月十五日と為せり。これに関し、諸の弟子中には、或は四月十五日、若しくは五月十五日までに集合し得ずして、この時期に後るるもののなきに非ず。ここに於いて仏は安居に前後の二種を立てたり。「四分律巻37」に、「もし前安居に在りてはまさに前三月に住すべく、もし後安居はまさに後三月に住すべし」と云えるこれなり。また同律巻58には、前安居、中安居、後安居の三種の別を出し、「四分律行事鈔巻上4」には「初め四月十六日はこれ前安居、十七日より已去五月十五日に至るまでを中安居、五月十六日を後安居と名づく」と云えり。これに依るに四月十六日を以って結するを前安居、五月十六日を以って結するを後安居、その中間に於いて結するを中安居と称することを知るべし。<(望)
  自恣(じし):梵語 pravaaraNa の訳、満足させること/願望の達成( satisfying, fulfilment of a wish )の義、夏安居最後の日に行われる懺悔の儀式( A ceremony of repentance performed at the end of the summer meditation retreat )の意。
  自恣(じし):梵語 pravaaraNa の訳語にして、また鉢和蘭、鉢和羅に作る。満足または喜悦の義。或は随意事とも訳す。安居竟るの日、僧をして自己の罪過を説かしめ、懺悔清浄にして自ら喜悦を生ずるを云う。自恣の意義に関しては「四分律行事鈔巻上4自恣宗要篇」に、「然るに九旬道を修して身心を精練するも、人おおく己れに迷うて自ら過を見ず。理宜しく仰いで清衆の慈を垂れて誨示することを憑むべし。縦い己が罪を宣ぶるも、僧の挙過を恣ならしめ、内に私隠なきを彰わし、外に瑕疵あるを顕わし、身口を他人に託す、故に自恣と曰う。故に摩得伽に云わく、何が故に自恣せしむる、諸の比丘をして孤独ならしむるが故に、各各罪を憶うて発露し悔過するが故に、苦言を以って調伏して清浄を得しむるが故に、自意に罪なきを喜悦するが故なり」と云えり。蓋し仏の所制は毎年一夏九十日の間、僧衆一所に集会して安居し、堅く戒律を持してその行を皎潔ならしめ、安居竟るの日自恣の人を選び、その人をして自己の罪過を説かしめ、以って発露懺悔して清浄を得しむるに在り。その規儀に関しては、「摩訶僧祇律巻27」に、「自恣の法とは仏諸比丘に告ぐ、今日より諸の弟子の為に自恣の法を制せん。三月、三語、安居竟り、この処に安居し、この処に自恣し、上座よりし、和合すと。三月とは四月十六日より七月十五日に至る。三語とは見と聞と疑となり。安居竟るとは、前安居は四月十六日より七月十五日に至り、後安居は五月十六日より八月十五日に至る。もし安居の衆中に一人前安居の者あらば、七月十五日に至りて挙衆はまさにこの一人に同じく自恣を受くべし。自恣し訖りて坐して八月十五日に至る。もし一切後安居ならば、一切はまさに八月十五日に自恣すべし。これを安居竟ると名づく。この処に安居し、この処の自恣すとは、もし比丘聚落の中に安居し、城中自恣の日に種種供養竟り夜説法あるを聞き、衆往かんと欲せば、まさに十四日に自恣し、已りて去るを得べし。もしこの処に安居し、余処に自恣せば越毘尼罪なり。上座よりすとは、小より逆に次第を作すことを得ざれ、まさに上座より次第に下るべし。行行に人を置きて、益食の法の如くすることを得ざれ、超越を得ざれ、総じて唱えて一切大徳僧見聞疑罪自恣説と言うことを得ざれ。これを上座よりすと名づく。まさに五法成就の者を拝して自恣の人と作すべし。もしは一、もしは二にして過ぐることを得ざれ。羯磨の人はまさにこの説を作すべし、大徳僧聴け、某甲某甲比丘五法成就す、もし僧時到らば、僧は某甲某甲比丘を拝して自恣の人と作せ。諸大徳聴け、某甲某甲比丘を自恣の人と作すと。僧忍して黙然たるが故に、この事かくの如く持す。羯磨を受くるの人はまさにこの説を作すべし、大徳僧聴け、自恣の時至る。もし僧時到らば一切の僧自恣を受けよ。白すことかくの如しと。この自恣の人はまさに上座より始めと為すべし、上座まさに偏袒右肩し、胡跪合掌してこの説を作すべし、長老憶念せよ、今僧十五日自恣を受く、我れ比丘某甲、長老及び僧自恣に説け、もし見聞疑の罪はまさに我れに語るべし、憐愍の故に、我れ若しは知り若しは見ば、まさに法の如く除くべしと。かくの如く三説し、次ぎに第二人に至る。第二人もしこれ下座ならば、まさに接足して言うべし。大徳と異と為す。もし二人を自恣の人と作さば、一人は上座の自恣を受け、一人はまさに下座の前に立つべし。上座説きおわりて下座また説く、かくの如く展転して次第に下りて自坐の処に到り、まさに自恣を受くべし。僧の自恣を受け竟りて然る後に自恣することを得ざれ。和合とは、和合せずして自恣を受くることを得ざれ、欲して自恣を受くることを得ざれ。もし病者あらばまさに将い来たるべし。もし将い来たるに危命の憂あらば僧はまさに往きて就くべし。もし病人多ければまさに床を舁ぎ来るべし。もしは牀角相接し、もしは牀を舁ぎ来たるに危命の憂あらば、病まざる比丘はまさに座を連ねて相接せよ。もし周からざれば、病まざる比丘はまさに界外に出でて自恣を作し、病比丘は則ち界内にて自恣せよ。大衆多ければもしは一万二万も、まさに一切のもの一処に集在し、もしは講堂、もしは食堂、もしは浴室にて自恣を受け、余人は並びに歯木を嚼み、並びに大小行し、並びに食し、かくの如くして竟日通夜まだ坐を離れず、遠ざかるを得ざれ。乃至明相未だ出でざるに、中に於いて自恣せよ。もし大衆多く六万八万にして、竟らざるを畏れば、まさに減じて界外に出でて自恣を作すべし。もしは一人自恣を受け、もしは二人説き、もしは三人、もしは四人ならば説いて自恣し、五人は広く自恣せよ。一人受くとは、もし一比丘聚落の中に安居せば、自恣の日に至りてまさに塔及び僧院を掃い、もし有らばまさに香汁を地に灑ぎ、散華燃灯すべし。もし罪あらばまさにこの念を作すべし、もし清浄比丘来ることを得ば、この罪まさに法の如く除くべしと。この念を作しおわりて胡跪合掌して心に念じ口に言え、今僧十五日自恣なり、我れ某甲比丘、清浄にして自恣を受くと。かくの如く三説せよ。二人説くとは、罪あらば展転して如法に作しおわりて、偏袒右肩胡跪合掌して言え、長老憶念せよ、今僧十五日自恣なり、長老自恣に説け、もし見聞疑の罪あらば我れに語れ、憐愍の故に。我れもしは知り、もしは見ばまさに法の如く除くべしと。かくの如く三説せよ。三人四人もまたかくの如くす。五人ならばまさに広く自恣すべし。これを自恣の法と名づく」と云えり。以ってその法の厳なるを見るべし。また「薩婆多毘尼摩得勒伽巻3」に依るに「もし旧住の僧は十五日に自恣す。客僧来ること多ければ、十四日に自恣す」と云えり。また仏制には安居竟る時を歳暮とし、自恣を受けおわれば即ち新に法歳を受くとす。「如来独証自誓三昧経」に、「その時に賢儒、夏三月すでに過ぎ、歳暮すでに至る。鉢和蘭十四日の夜、明星出づる時に当りて、ただ阿難に勅して揵槌を鳴らし、草蓐を布かしめ、ただ阿難と共に歳を受く」と云えるは、自恣おわりて後、新歳を受くることを説けるものなり。またこの七月十五日僧自恣の日に飯食等を以って十方の衆僧に供養せば、その功徳広大にして七世の父母等皆解脱を得べしとし、「盂蘭盆経」に依りて古来支那及び本邦等に於いて盂蘭盆供を修するの風盛に行われつつあり。また「自誓三昧経」、「受歳経」、「新歳経」、「四分律巻37、巻38」、「曇無徳律部雑羯磨、羯磨」、「五分律巻19」、「十誦律巻23」、「善見律毘婆沙巻16」、「根本有部説一切有部百一羯磨巻4」等に出づ。<(望)
佛告目連。汝所見甚少。過汝所見東方有國純以黃金為地。彼佛弟子皆是阿羅漢六通無礙。復過是東方有國純以白銀為地。彼佛弟子皆學辟支佛道。復過是東方有國純以七寶為地。其地常有無量光明。彼佛所化弟子純諸菩薩。皆得陀羅尼諸三昧門。住阿毘跋致地。目連當知。彼諸佛者皆是我身。如是等東方恒河沙等無量世界。有莊嚴者不莊嚴者。皆是我身而作佛事。如東方南西北方四維上下亦復如是。 仏の目連に告げたまわく、『汝が見し所は甚だ少なし。汝が見し所を過ぎて、東方に国有り、純ら黄金を以って地と為す。彼の仏弟子は、皆是れ阿羅漢にして六通無礙なり。復た是れを過ぎて東方に国有り、純ら白銀を以って地と為す。彼の仏弟子は、皆辟支仏道を学ぶ。復た是を過ぎて東方に国有り、純ら七宝を以って地と為し、其の地には、常に無量の光明有り。彼の仏の化する所の弟子は、純ら諸の菩薩にして、皆陀羅尼、諸の三昧門を得て、阿鞞跋致の地に住す。目連、当に知るべし、彼の諸仏は、皆、是れ我が身なり。是れ等の如き東方の恒河沙に等しき無量の世界には、荘厳せる者と、荘厳せざる者と有るも、皆是れ我が身にして、仏事を作すなり。東方の如く、南西北方四維上下も亦復た是の如し』、と。
『仏』は、
『目連』に、こう告げられた、――
お前の、
『見た!』所は、
『甚だ少ない!』。
お前の、
『見た所を過ぎて!』、
『東方に有る!』、
『国』は、
純ら( purely )、
『黄金だけ!』が、
『地を為し!』、
彼の、
『国の仏弟子』は、
皆、
『阿羅漢であり!』、
『六通無礙である!』。
復た、
『是の国を過ぎて!』、
『東方に有る!』、
『国』は、
純ら、
『白銀だけ!』が、
『地を為し!』、
彼の、
『国の仏弟子』は、
皆、
『辟支仏道』を、
『学んでいる!』。
復た、
『是の国を過ぎて!』、
『東方に有る!』、
『国』は、
純ら、
『七宝だけ!』が、
『地を為し!』、
其の、
『地』には、
『常に、無量の光明が有り!』、
彼の、
『国の仏に化された!』、
『弟子』は、
『純ら!』、
『諸の菩薩だけであり!』、
皆、
『陀羅尼や、諸三昧の門を得て!』、
『阿鞞跋致の地に、住している!』。
目連!
当然、こう知らねばならぬ、――
彼の、
『国の諸仏』は、
皆、
『わたしの身であり!』、
是れ等のような、
『東方の恒河沙に等しい!』、
『無量の世界』には、
『金、銀、七宝』で、
『荘厳された者も、荘厳されない者も!』、
『有る!』が、
皆、
『わたしの身』が、
『仏事』を、
『作したのである!』。
『東方のように!』、
『南、西、北方、四維、上、下も!』、
亦復た、
『是の通りである!』。
以是故當知。釋迦文佛更有清淨世界如阿彌陀國。阿彌陀佛亦有嚴淨不嚴淨世界如釋迦文佛國。諸佛大悲徹於骨髓不以世界好醜。隨應度者而教化之。如慈母愛子子雖沒在廁溷。懃求拯拔不以為惡
大智度論卷第三十二
是を以っての故に、当に知るべし、釈迦文仏は、更に清浄世界の阿弥陀仏国の如き有り。阿弥陀仏にも亦た厳浄と、厳浄ならざる世界有ること、釈迦文仏の国の如し。諸仏の大悲は、骨髄に徹して、世界の好醜を以ってせず、応に度すべき者に随いて、之を教化すること、慈母の子を愛するに、子は、没して廁溷に在りと雖も、拯跋せんことを懃求して、以って悪と為さざるが如し。
大智度論巻第三十二
是の故に、こう知らねばならない、――
『釈迦文仏』にも、
更に、
『阿弥陀仏の国のような!』、
『清浄の世界』が、
『有り!』、
『阿弥陀仏』にも、
亦た、
『釈迦文仏の国のような!』、
『厳浄であったり、厳浄でないような!』、
『世界が有る!』、と。
『諸仏』は、
『大悲が、骨髄に徹している!』が故に、
『世界の好、醜』で、
『衆生』を、
『教化されるのではなく!』、
『度すに相応しい!』、
『衆生に随って!』、
『教化される!』ので、
譬えば、
『慈母』が、
『子を愛する!』のは、
『子が、廁溷に没していても!』、
『拯跋しよう!』と、
『懃求する( to effort and seek the way )!』のであり、
『廁溷に没する!』が故に、
『子』を、
『悪まない( do not hate )ようなものである!』。

大智度論巻第三十二
  廁溷(しきごん):かわや、便所。
  懃求(ごんぐ):懃めて探し求める。
  拯跋(じょうばつ):救い抜き取る。


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