巻第三十二(上)
大智度論釋初品中四緣義第四十九
1.【經】因緣、次第縁、縁縁、増上縁
2.【經】諸法の如、法性、実際
3.【經】世界の地、水、火、風
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大智度論釋初品中四緣義第四十九(卷三十二)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


【經】因緣、次第縁、縁縁、増上縁

【經】菩薩摩訶薩。欲知諸法因緣次第緣緣緣增上緣。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、諸法の因緣、次第縁、縁縁、増上縁を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『諸法』の、
『因緣( Direct internal causes that produce a result )』、
『次第縁( Similar and immediately antecedent conditions )』、
『縁縁( Object as condition )』、
『増上縁( Causes beyond direct motivation )』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  因縁次第縁縁縁増上縁:新訳にては因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁といい、総じて四縁という。『大智度論巻2上注:四縁』參照。
  四縁(しえん):梵語catvaaraH pratyayaaHの訳語にして、即ち有為法の生起するに藉るべき四種の縁をいう。一に因縁(梵hetu-pratyaya)、二に等無間縁(梵samanantara-pratyaya)、また次第縁に作る、三に所縁縁(梵aalambana-pratyaya)、また縁縁に作る、四に増上縁(梵adhipati-pratyaya)なり。「大毘婆沙論巻21」に、「問う、もし一法に於いて四縁を具せば、まさにただ一縁なるべし、云何が四を立つ。答う、作用に依り立て、物体に依りて立てず。一物体中に四用有るが故なり。謂わく一刹那の心心所法は、次後の刹那の同類の心心所を引起するが故に立てて因縁となし、即ちこれ開避して次後の刹那の心心所法をして生ずることを得しむるが故に立てて等無間縁となし、即ちこれよく次後の刹那の心心所法の所取の境となるが故に立てて所縁縁となし、即ちこれ障礙せずして次後の刹那の心心所法をして生ずることを得しむるが故に立てて増上縁となす」と云い、また「倶舎論巻7」に、「四種の縁ありと説く、因縁は五因の性なり。等無間は後に非ず、心心所の已生なり。所縁は一切法なり。増上は即ち能作なり」と云えるこれなり。この中、因縁とは六因の中の能作因を除き、余の俱有相応等の五因の性にして、諸法の生起する時親しき原因となるものを云い、等無間縁とは前念の心心所法が開避して、よく無間に後念の心心所法を生ぜしむる縁となるを云い、所縁縁とは心心所法の為に所取の境となるものを云い、増上縁とは六因の中の能作因にして、即ち障礙をなさずしてよく後念の法を生起せしむるものを云う。蓋し心心所法は必ずこの四縁を藉りて生じ、色法と不相応法はただ因縁及び増上の二縁によりて生じ、不相応中の滅尽定と無想定とは、所縁縁を欠きて余の三縁あり。就中、色法等は能縁に非ざるが故に、所縁及び等無間縁なく、滅尽及び無想の二定は、無心定なるが故に所縁縁なきなり。またこの四縁の与果の時位を分別せば、因縁の五因の中、俱有因と相応因は同時の因果なるが故に、現在法の正滅の時に与果し、同類、遍行、異熟の三因は未来法の正生の位に与果し、等無間縁はこれに反し果法が現在生相に在る位に与果し、所縁縁は正滅の位に与果し、増上縁は無障に住するものなるが故に、その与果は法の正滅の一切時に通ずるなり。また六因と四縁との相摂に関しては、「大毘婆沙論巻16」に両義あり。一義は互いに相摂すとなし、即ち初の五因を因縁、後の能作因を余の三縁とし、一義は縁には因を摂すべきも、因には縁を摂すべからずとなし、五因を因縁、能作因を増上縁とし、等無間縁及び所縁縁を因の中に摂せず。これ前義は能作因を有力無力に通ずとし、後義はこれを無力に限るとなすが故なり。この中、「倶舎論宝疏巻7」には前義を可とすと云えり。また「瑜伽師地論巻5」に、「種子縁依処に依りて因縁を施設し、無間滅縁依処に依りて等無間縁を施設し、境界縁依処に依りて所縁縁を施設し、所余の縁依処に依りて増上縁を施設す」と云い、十五依処に依りて四縁を立つ。即ち十五依処の中、因縁は習気、有潤種子、随順、差別功能、和合及び不障礙の六種の依処に依り、等無間縁は無間滅依処に依り、所縁縁は境界依処に依るとし、而してまた一切法の種子と現行とによりて因縁を説き、所縁縁に親疎を分かち、能縁の見分等の内の所慮託となるを親とし、質となりて内の所慮託を起すを以って疎となし、有部等の説を自ら異なるものあり。また十因との関係に就き、「瑜伽師地論巻38」に、「もし能生因はこれを因縁と名づく、もし方便因はこれ増上縁なり。等無間縁及び所縁縁はただ一切の心心所に望みて説く、彼の一切の心及び心法は、前生の開導に由りて摂受する所なるが故に、所縁の境界の摂受する所なるが故に、まさに生じまさに転ず。この故にまさに知るべし、等無間縁及び所縁縁は摂受因の摂なり」と云えり。また「大智度論巻32」、「甘露味論巻上」、「雑阿毘曇心論巻2」、「大毘婆沙論巻107、巻131」、「瑜伽師地論巻3、巻51、巻52、巻85」、「顕揚聖教論巻18」、「唐訳摂大乗論釈巻2」、「順正理論巻18」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4、巻5」、「成唯識論巻7」等に出づ。<(望)
【論】一切有為法皆從四緣生。所謂因緣次第緣緣緣增上緣。因緣者。相應因共生因自種因遍因報因。是五因名為因緣。復次一切有為法亦名因緣。 一切の有為法は、皆、四縁より生ず。謂わゆる因緣、次第縁、縁縁、増上縁なり。因緣とは、相応因、共生因、自種因、遍因、報因、是の五因を因緣と為す。復た次ぎに、一切の有為法も亦た因緣と名づく。
『一切の有為法』は、
皆、
『四縁より!』、
『生じる!』、
謂わゆる、
『因緣、次第縁、縁縁、増上縁である!』。
『因緣』とは、
『相応因( mutual responsive or associated causes )』、
『共生因( co-operative causes )』、
『自種因( causes of the same kind as the effect )』、
『遍因( universal or omnipresent cause )』、
『報因( differential fruition )であり!』、
是の、
『五因』が、
『因緣である!』。
復た次ぎに、
『一切の有為法』も、
『因緣である!』。
  四縁(しえん):梵語 catvaaraH pratyayaaH の訳、有らゆる現象を引き起こす原因を四種に分類する( a division into four types, of the causal conditions that produce all phenomena )、即ち、
  1. 因緣(梵語 hetu-pratyaya ):結果を生じる直接的、内的原因( direct internal causes that produce a result )。
  2. 次第縁/等無間縁(梵語 samanantara-pratyaya ):同類にして、直接先行する因( Similar and immediately antecedent conditions )、直前の瞬間の心心数法が、直後の瞬間の心を生起せしめ、其の中間に間の無いことをいう( Since the prior instant of mind/mental functioning gives rise directly to the succeeding instant of mind, there is no gap in their leading into one another. )。
  3. 縁縁/所縁縁(梵語 aalambana-pratyaya ):縁としての対象( object as condition )、心の生起する為には、其の対象物が立ち合うはずであり、故に有らゆる対象物は、心の原因と為る( For the mind to arise, its object must be present, so every object becomes a cause for the mind. )。
  4. 増上縁(梵語 adhipati-pratyaya ):支配的縁( predominating conditions )の義。直接的動機を越えて存する因( Causes beyond direct motivation )、即ち原因の如く寄与する要因( i.e., contributory factors as causes. )、此の中には、前の三種の直接的/間接的な原因以外の、有らゆる種類の間接的些末な原因と結果を含む( This group includes all kinds of indirect peripheral causes and contingences that lie outside of the three prior, relatively direct types of causation. )、此の中には、結果を生ずるに寄与する者のみならず、単に障礙に関与しないだけの要因(不障因)をも含む( This includes not only those things which contribute to the production of results, but also factors which aid merely by their not serving to impede or hinder. )。
  六因(ろくいん):梵語 vaibhaaSikas の訳、有らゆる現象は、因/縁の二法に依るが、因には六種有り( every phenomenon depends upon the union of primary cause and conditional or environmental cause; and of the primary causes there are six kinds )、即ち、
  1. 能作因/無障因(梵語 karaNahetu ):与力因/地の植物を育むが如き( empowering cause, as the earth empowers plant growth )と不障因/虚空の障礙するなきが如き( and non-resistant cause, as space does not resist )、即ち能動的因と受動的因である( i. e. active and passive causes )。
  2. 相応因(梵語 saMprayuktahetu ):相互に呼応する因( mutual responsive or associated causes )、例えば心と心の状態/主体と客体;例えば信念と知性である( e.g., mind and mental conditions, subject with object, such as 'faith and intelligence' )。
  3. 共生因/俱有因(梵語 sahabhuuhetu ):協調/協力的な因/例えば自然界の四大の一を欠くべからざるが如き( co-operative causes, as the four elements in nature, not one of which can be omitted )。
  4. 自種因/同類因(梵語 sabhaagahetu ):同類の結果を招く因/例えば善の善を産生するが如き( causes of the same kind as the effect, good producing good, etc. )。
  5. 遍因/遍行因(梵語 sarvatragahetu ):普遍的に遍在する因/即ち幻覚による因、例えば邪見の有らゆる行為に影響するが如き( universal or omnipresent cause, i.e., of illusion, as of false views affecting every act )。
  6. 報因/異熟因(梵語 vipaakahetu ): 果に異なる因/差異ある結実( causes that differ from their fruits, differential fruition )、即ち原因に差異ある結果、例えば地獄の悪行の結果なるが如き、( i. e. the effect different from the cause, as the hells are from evil deeds )。
  因縁(いんねん):梵語hetu-pratyayaの訳語にして、即ち因(梵hetu)と縁(梵pratyaya)との並称なり。因の梵語hetuは、hi(推す、投ぐ、刺戟す、満足せしむ)なる語根に、後接字tuを附して成れる名詞にして、衝動、動機、原因を意味し、縁の梵語pratyayaは、i(往く、来る)なる語根に、前接字prati(対して)を附して成れる名詞にして、確定、信任、概念、知識、原因を意味す。仏教梵語に於いては、果を生ずべき直接の原因を因といい、因と協同して因をして果に至らしむるものを縁というなり。例えば穀麦の種子は因にして、雨露水土等は縁なり。正しく芽を出すものは種子なれども、もし雨露水土等の助力なくんば芽を生ぜざるが如し。「中論巻4四観四諦品」に、「衆縁具足し和合して物生ず。この物は衆因縁に属するが故に自性なし」と云い、「大乗起信論」に、「諸仏の法には因あり、縁あり、因縁具足して乃ち成辦することを得」と云える皆その意なり。「倶舎論巻6、巻7」等には具にこれに就き六因四縁を分別せり。六因とは能作、俱有、相応、同類、遍行、異熟の六種の因をいい、四縁とは、因縁(梵hetu-pratyaya)、所縁縁、等無間縁、増上縁の四種の縁をいう。かく六因四縁を立つるも、倶舎にては六因中、能作因を四縁の中の増上縁とし、余の五因を四縁の中の因縁とす。故に「倶舎論巻7」に、「因縁は五因の性なり」といい、また「大毘婆沙論巻16」に、六因を四縁に配するに二説を挙げたるも、共に能作因を除きて、余の五因を因縁となせり。かくの如く四縁の中の因縁はすでに五因を性となすが故にその義広しといえども、且く一例を挙ぐれば、眼識の起こるには発識取境の作用ある眼根を因とし、所対の色境を縁とせざるべからず。故に眼根と色境とは、眼識の生起する為に因縁となると云うが如きこれなり。大乗にては、六因の中にただ同類因を以って因縁とし、余の五因を総て増上縁とす。委しく云わば同類因は因縁と増上縁とに通じ、余の五因はただ増上縁なり。同類因は等流果(梵niSyandaphala、善因より善果を生じ、悪因より悪果を生じ、無記因より無記果を生ずるが如く、因と同類の果をいう)を引生する原因にして、また自種因と名づく。即ち過去の善法が現在の善法の為に因となり、現在の善法が未来の善法の為に因となる。悪法無記法もまた然り。かくの如く諸法の親因縁たる種子を因縁とし、またこの種子を熏生する現行法を種子の因縁とし、更に後の自類の種子を生ずる前念の種子を、後起の種子の為の因縁なりと説き、諸法の原因たる種子を離れては、畢竟じて因縁性を立つべからずとせり。「成唯識論巻2」に、「能熏が種を生じ、種が現行を起すことは、俱有因を以って士用果(梵puruSakaara-phala、また士夫果、功用果に作る。謂わゆる俱有因、相応因の果にして、因の強い勢力を士夫の作用(造作)に喩う)を得るというが如し。種子が前後にして自類相生することは、同類因を以って等流果を引くというが如し。この二は果に於いてこれ因縁の性なり。これを除いて余の法は皆因縁に非ず。設い因縁と名づくといえども、まさに知るべし仮説なり」と云えり。これ薩婆多部等に、異性の因が異性の果を生ずるにも因縁の義ありというに対し、因縁の性は親しく自体を辨生する法ならざるべからずとなすの意なり。また「阿毘達磨発智論巻1」、「同順正理論巻14乃至巻20」、「倶舎論光記巻6、巻7」、「瑜伽師地論巻3、巻5、巻38」等に出づ。<(望)
  無障因共生因自種因相応因遍因報因:新訳にては能作因、俱有因、同類因、相応因、遍行因、異熟因といい、総じて六因と称す。
  六因(ろくいん):梵語SaD-hetavaHの訳語にして、即ち一切法の因に総じて六種の別あるをいう。一に能作因(梵kaaraNa-hetu)、また所作因、随造因と名づく、二に俱有因(梵sahabhuu-hetu)、また共有因、共生因と名づく、三に同類因(梵sabhaaga-hetu)、また自分因、自種因と名づく、四に相応因(梵saMprayukta-hetu)、五に遍行因(梵sarvatraga-hetu)、また一切遍行因と名づく、六に異熟因(梵vipaaka-hetu)、また報因と名づく。「倶舎論巻6」に、「因に六種あり、一に能作因、二に俱有因、三に同類因、四に相応因、五に遍行因、六に異熟因なり」と云えるこれなり。この中、能作因は自体を除き、余の一切の有為無為の諸法がよく自法を生ずる因となるの義にして、これに二種あり、即ち自法の生ずる時、ただ障礙をなさざるを無力の能作因とし、力を与うる所あるを有力の能作因となす。俱有因は俱有法の為に因となるの義にして、これにまた二種あり、即ち展転して同時に互いに因果となるものを互為果俱有因(梵anyonya-phala-sahabhuu-hetu)と名づけ、多法同時に因と為りて同一果を得るを同一果俱有因(梵eka-phala-sahabhuu-hetu)と名づく。同類因は過去及び現在の一切の有漏法が、同類相似の法の為に因となりて等流果を引くをいい、相応因は同時相応の心心所法が更に互いに展転して因となるをいい、遍行因は已生の遍行睡眠が後起の同地五部の染法の為に通因となるをいい、異熟因は当来の異熟の為に有漏の善悪の法がその因となるをいうなり。また「発智論巻1」、「大毘婆沙論巻16乃至巻21」、「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻下」、「順正理論巻15、巻16」、「大乗阿毘達磨集論巻4」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)
  能作因(のうさいん):梵語kaaraNa-hetuの訳語にして、六因の一、また所作因、無障因、或は随造因と称す。即ち諸法生ぜんとする時、障礙せずして、それをして生ぜしむる因をいう。「大毘婆沙論巻21」に、「何故に能作因と名づくる、能作はこれ何の義ぞや。答う、不障礙の義これ能作の義、所辨あるの義これ能作の義なり」と云い、「倶舎論巻6」に、「一切の有為はただ自体を除き、一切法を以って能作因と為す。彼れ生ずる時、障うることなくして住するに由るが故なり。余の因の性もまた能作因なりといえども、然も能作因には更に別の称なし。色処等の総て即ち別名なるが如し」と云えるこれなり。これ法生ずる時、その自体を除き、余の一切法は障礙せずして住し、それをして生ぜしむるが故に、即ち一切法を以って能作因の体となすことを説き、かつ余の因も果に対して能作の因あるが故に能作因なりといえども、余の因には各別名あり、故に独りこの因に総名を立てて能作因と名づくることを明にせるなり。またこの中、能作因に不障礙及び有所辨の二義ありと云うは、不障礙は無力、有所辨は有力の能作因を説けるものにして、即ちこの因は法の生ずるに対しただ障礙せざるのみに非ず、また力を加えてよく成辦する所あるを云うなり。前引倶舎論の連文に、「これ即ち通じて諸の能作因を説く。勝に就きて言を為さば生力なきに非ず。眼色等が眼識等を生ずるに於いてし、飲食が身に於いてし、種等が芽等に於いてするが如し」と云える即ちその意なり。また「倶舎論巻6」に無力の能作因中に無為法を摂することを明し「すでに諸の無為には増上果なし、如何ぞ能作因と為ると説くや。諸の無為は他の生ずる位に於いて障を為さざるを以っての故に能作因を立つ。然るに果なしとは、離世の法にしてよく取果与果の用なきに由るが故なり」と云えり。これ有為法には必ず増上果あるも、無為は離世の法なるが故に増上果なく、ただ不障礙の義あるを以ってこれを能作因となすというの意なり。またこの因は四縁の中の増上縁なるも義に異あり。「大毘婆沙論巻21」に、「能作因の体は即ち増上縁なり、倶に一切法を自性と為すが故なり。然も義に異あり、謂わく多勝の義はこれ増上縁の義、不障礙の義はこれ能作因の義なり」と云うに依りて知るを得べし。また「大乗阿毘達磨雑集論巻4」には能作因に、生能作、住能作、持能作、照能作、変壊能作、分離能作、転変能作、信解能作、顕了能作、等至能作、随説能作、観待能作、招引能作、生起能作、摂受能作、引発能作、定別能作、同事能作、相違能作、不相違能作の二十種の差別ありとなせり。この中、初の十種は「辯中辺論巻上辯障品」にこれを出し、後の十種は「成唯識論巻8」等に揚ぐる十因に当れり。また「大毘婆沙論巻16、巻20」、「雑阿毘曇心論巻2」、「順正理論巻15」、「倶舎論巻7」等に出づ。<(望)
  共生因(くしょういん):梵語sahabhuu-hetuの訳語にして、俱時に有る因の義、或は俱有法の為に因となるの意、六因の一、また共有因、或は俱有因とも名づく。即ち俱有法にして同時に互いに因と為り、また同時に同じく一果を得する因をいう。「倶舎論巻6」に、「もし法の更互に士用果と為るものは、彼の法更互に俱有因と為る。その相云何。四大種の如き、更互に相望して俱有因と為る。かくの如く諸相と所相の法と、心と心随転ともまた更互に因と為る。これ則ち俱有因は互いに果と為るに由りて遍く有為法を摂す、その所応の如し。法と随相とは互為果に非ず。然るに法は随相のために俱有因と為るも、随相は法に於いてするに非ず」と云えるこれなり。これ謂わゆる互為果俱有因の義にして、譬えば三杖相倚りて以って立つに、一杖は他の二杖の為に因と為りて、彼をして立たしむると同時に、また彼の二杖の果と為りて自ら立つことを得。他の二杖もまたかくの如く、同時の彼の一杖の為に因と為り、同時に果と為るが如きをいうなり。就中、地水火風の四大種は、且く地大は同時の他の三大の為に因果と為り、三大はまた彼の地大の為に因果と為るが故に、即ち互為果俱有因なり。生住異滅の四の本相と所相の本法とを相望するに、本相は本法を生滅せしむるが故に、本法の為に因となるも、また本法に依りて転ずることを得るが故に、同時に本法の果となる。かくの如く所相の本法も、また能相の本相に対して、更互に因果となるが故に互為果俱有因なり。心と心随転とはまた更互に因と為る。心随転の法とは、一切の心所と、定共戒(禅定と共に生ずる自然の戒体)及び道共戒(無漏道と共に生じ、共に滅する無漏の戒体)の無表と、並びに彼の心所と定道二戒と及び心との上の生住異滅の四の本相とをいう。これ等の心随転の法と心王とを相望するに、心王は極少なる時もなお五十八法のために俱有因と為る。即ち十の大地法と、彼の上の四十の本相と、心の上の四の本相と四の随相とこれなり。この五十八法の中、心の上の四の随相を除いて余の五十四法は、心の為に俱有因となる。故にこの五十四法と心王とは互為果の義あり。ただし本法は必ず随相を伴うが故に、随相の為に俱有因と為るも、随相は本法の為に俱有因となることなし。これに由りて俱有因は、必ずしも互為果に非ざることを知るべし。また「大毘婆沙論巻16」に、「同一果の義はこれ俱有因なり」と云い、「阿毘達磨順正理論巻15」に、「有為法一果、俱有因と為すべし」と云えるは、即ち同一果俱有因の説なり。同一果とは譬えば三足与力して、同じく一鼎を持するが如く、俱有の法更互に与力して、同じく士用、或は等流、異熟、離繋等の一果を得することを云うなり。「入阿毘達磨論巻下」に、「諸の有為法の更互に果となり、或は同一果なるを俱有因と名づく」と云えるは、即ち互為果同一果の両説を併せ取りしものなり。この両義の異同に関しては、旭雅の「俱有因私記」に、「同一果は寛し、一切の俱有因に通ずるが故なり。互為果は狭し、法を随相に望むる俱有因を摂せず。而も法を随相に望むるに同一果俱有因なり。法は随相に与力して同じく一の大相の果を得するが故に、同一果俱有因なり。法は随相に与力すれども、随相は法に与力せざるが故に互為果に非ず。互為果の果体は俱有因所得の同時の士用果に局り、同一果の果体は広く余因所得の同異時の果に通ず」と云えり。以ってその別を見るべし。古来「倶舎論」は互為果の説に依り、「婆沙」及び「正理」、「顕宗」の三論は同一果の説をなし、互いに背反せるが如く称せられたるも、近世普寂、光厳、海応、旭雅等の師は、婆沙倶舎等の四論一致を唱導せり。また「識身足論巻4」、「阿毘達磨発智論巻1」、「大毘婆沙論巻17」、「雑阿毘曇心論巻2」、「阿毘達磨顕宗論巻9」、「阿毘達磨順正理論巻20」、「顕揚聖教論巻18」、「大乗義章巻3本」等に出づ。<(望)
  自種因(じしゅいん):梵語sabhaaga-hetuの訳語にして、同類の因の意、六因の一なり。また自分因、或は同類因とも名づく。即ち同類の法の為に生起の因となるをいう。「大毘婆沙論巻18」に、「種類等しきの義はこれ同類の義、界地等しきの義はこれ同類の義、部類等しきの義はこれ同類の義なり。この同類因はただ過去現在の二世に通じ、等流果を有す」と云い、「倶舎論巻6」に、「同類因とは相似の法が相似の法のために同類因と為るなり。謂わく善の五蘊は善の五蘊のために展転相望して同類因と為り、染汚は染汚のために、無記は無記のために、五蘊相望するに、まさに知るべし、また爾り」と云えるこれなり。これ過去及び現在の一切の有為法が、同類相似の法の為に因となりて等流果を引くを同類因と名づけたるなり。これに依るにこの因は界地部類等を異にする法の為には因とならず、また未来法は作用未だ起こらず。果を引くの義なきが故にこの因なきなり。ただし無漏道は界繋に堕せざるを以って、一地に依りて九地を修するに、一一皆九地の為に同類因となり、また見修無学の三道に於いて、鈍根の道は鈍及び利根、利根の道は利根の道の為に各その因となり、即ち等と勝との法の為に同類因となるなり。また「大毘婆沙論巻17」、「雑阿毘曇心論巻3」、「入阿毘達磨論巻下」、「順正理論巻15」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「大乗義章巻3本、巻4」等に出づ。<(望)
  相応因(そうおういん):梵語samprayukta-hetuの訳語にして、相応にして互いに因となるの意、六因の一なり。即ち同時相応の心心所法が更互に展転して因となるをいう。「大毘婆沙論巻16」に、「云何が相応因なる。謂わく一切の心心所法なり」と云い、「入阿毘達磨論巻下」に、「心心所法が展転相応して同じく一境を取るを相応因と名づく」と云い、「倶舎論巻6」に、「ただ心心所のみこれ相応因なり。もし爾らば所縁行相別なるものも、またまさに更互に相応因と為るべし。爾らず。所縁行相同じきものを乃ち説きて相応と為すことを得べきが故なり。もし爾らば異時の所縁行相同じきものも、まさに説きて相応因と為すべし。爾らず。要らず須らく所縁と行相と及び時と同じきものなるべく、乃ち相応なるが故なり。もし爾らば異身の所縁行相及び時同じきものも、まさに相応と説くべし。衆同じく初月を観る等の事の如し。一言を以って総じてかくの如き衆多の妨難を遮せんが為の故に同依と説く。謂わく要らず同依の心心所法にして、まさに更互に相応因と為ることを得るなり。この中、同の言は所依一なることを顕す、謂わくもし眼識この刹那の眼根を用って依となさば、相応の受等もまた即ちこの眼根を用って依と為す。乃至意識及び相応の法の同じく意根に依ることも、まさに知るべし、また爾り」と云えるこれなり。これ所依、所縁、行相、時及び事の五義同じくして、更互に因となるを名づけて相応因となすの意なり。俱有因との別に関し、前引倶舎論の連文に「相応因の体は即ち俱有因なり。かくの如き二因は義、何の差別ぞ。互いに果となるの義に由りて俱有因を立つ、商旅の相依りて共に嶮道に遊ぶが如し。五平等にして共に相応するの義に由りて相応因を立つ、即ち商旅の食等と事業とを同じく受け同じく作すが如し。その中、一を欠くも皆相応せず。この故に、互いに因となるの義を極成す」と云えり。これ即ち相応因は俱有因なるも、俱有因は互いに果となるの義に就いてこれを立て、相応因は互いに因となるの義に就いてこれを立つることを明にせるなり。また「大乗義章巻3本」に心王心所相望して相応因の義を明かし「相応因とはただ心法に在り、心起こる時の如き、即ち一切の諸の心数法ありて心と相応す。この相応法は展転相助けて為作する所あるを相応因と名づく。中に於いて心王を数に望めて因と説く、心心相望すれば則ち因の義なし、一時の中に二心なきが故なり。数を心王に望むるもまた因と説くことを得。ただし数の中に就きて異数相望せば展転して因と為る。同一の数相望して因と説くに非ず」と云えり。これ心王と心所と相望するに更互に因となり、また心所の中に於いても異数相望せば互いに因となるの義あるを説けるものなり。また「発智論巻1」、「雑阿毘曇心論巻2」、「順正理論巻16」、「大智度論巻32」、「顕揚聖教論巻18」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」等に出づ。<(望)
  遍因(へんいん):梵語sarvatraga-hetuの訳語にして、遍行の惑が染法の為に通因となるの意、また一切遍因とも、ただ遍行因とも名づく、六因の一なり。即ち已生の遍行睡眠が後の同地の染法及び余部の染法の為に通因となるをいう。「発智論巻1」に、「云何が遍行因なる。答う、前生の見苦所断の遍行睡眠が後生の自界の見集滅道と修所断の睡眠、及び相応法の与に遍行因と為る。(中略)見苦所断の如く見集所断もまた爾り。これを遍行因という」と云い、「倶舎論巻6」に、「遍行因とは、謂わく前の已生の遍行の諸法が後の同地の染汚の諸法の与に遍行因と為る。(中略)これ染法の与に通因と為るが故に同類因の外に更に別に建立す。また余部の染法の因と為るが故に、この勢力に由りて余部の煩悩及び彼の眷属もまた生長するが故なり」と云えるこれなり。これ遍行の惑たる見苦所断の身辺等の五見、並びに疑及び無明の七法、見集所断の邪見、見取、疑及び無明の四法、即ち七見二疑二無明の十一法は、共に後生の自部並びに余部の煩悩及び相応俱有の為に通因となるが故に、これを遍行因と名づくることを説けるものなり。同類因との別は、同類因はただ自部の法の為に因となすに過ぎざるも、遍行因は独り自部のみを生ずることなく、通じて五部の果を取るが故に寛狭大いに異あり。また自部の法を生ずるにも、同類因はその法をして増広熾盛ならしむる能わざるに反し、遍行因にはよくこれを増盛ならしむる勝力あり。「順正理論巻16」に、「自部の諸煩悩を摂する中に於いて同類遍行の二因に何の別かある。有身見に由りて諸愛生ずることを得、諸愛もまたよく有身見を生ず。二の差別相は如何が知るべき。自部の二因にもまた差別あり、謂わく我を執するが故によく諸愛を生起して堅固増広熾盛ならしむ。我見は遍く諸愛の境を縁ずるが故なり。愛は我見を生起して堅固ならしむるも、而も増広熾盛ならしむること能わず。遍く我見の境を縁ずる能わざるが故なり。諸の遍惑は展転相望して皆よく所縁の境を遍縁するに由るが故に、一一の遍惑は皆互いによく生起して堅固増広熾盛ならしむ。故にこの二因は差別なきに非ず」と云えり。これ非遍行の惑たる愛は有身見を生ずるも、遍く我見の境を縁ずる能わざるが故に、それをして増広熾盛ならしむること能わざるに反し、遍行の惑たる有身見はよく諸愛の境を遍縁するが故に所生の愛をして増盛ならしむることを得るの意を例示せしものなり。また「大毘婆沙論巻18、巻19」、「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻下」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「倶舎論光記巻6」等に出づ。<(望)
  報因(ほういん):梵語vipaaka-hetuの訳語にして、六因の一、異熟を招くべき因の意なり。また異熟因に作る。「倶舎論巻6」に依るに、異熟因はただ諸の不善及び善の有漏を以ってその体となす。無記は力劣なるが故に異熟を招かず、朽敗の種の如し。無漏は愛の潤なきが故に異熟を招かず、貞実の種の水の潤沃なきが如し。余法は二を具す、この故によく招く。貞実の種の水に沃潤せらるるが如しと云えり。蓋し小乗倶舎等にては無記因無記果を許さず、故にただ不善及び有漏善を親因縁として、当来の果を招くとなすといえども、唯識大乗に於いては、異熟果には無記の親因ありとし、即ち善悪の業種子が当来に苦楽の果を生ずるは、同類因にして異熟因に非ざるも、而もその善悪の種子より善悪の現行を開発することが疎縁となりて無記の種子を開発せしむるが故に、無記の現行に望めて異熟因となすと云い、業種子、異熟習気、有分熏種子、有支習気等とこれを同義とせり。また「大毘婆沙論巻19、20、21」、「倶舎論巻2」、「同光記巻2、巻6」、「同宝疏巻2、巻6」、「成唯識論巻2、巻8」等に出づ。<(望)
次第緣者除阿羅漢過去現在末後心心數法。諸餘過去現在心心數法。能與次第是名次第緣。緣緣增上緣者一切法。 次第縁とは、阿羅漢の過去と現在の末後の心心数法を除く、諸余の過去と現在の心心数法にして、能く次第に与る、此れを次第縁と名づく。縁縁、増上縁は、一切の法なり。
『次第縁』とは、
『阿羅漢』の、
『過去と、現在の末後の心心数法とを!』、
『除いた!』、
『諸余』の、
『過去と、現在の心心数法であり!』、
『次第する!』、
『心心数法の生起に!』、
『与る( to contribute )!』ので、
是れを、
『次第縁』と、
『称する!』。
『縁縁、増上縁』は、
『一切の法である!』。
  次第縁(しだいえん):梵語samanantara-pratyayaの訳語にして、また等無間縁と名づけ、四縁の一、即ち、等にして無間に生ずる法の為に縁となるの意なり。即ち已生の心心所法が開避して事後の心心所法を生ぜしむるをいう。「大毘婆沙論巻21」に、「即ちこれ開避して、次後の刹那の心心所法を生ずることを得しむ。故に立てて等無間縁となす」と云い、「倶舎論巻7」に、「阿羅漢の涅槃に臨む時の最後の心心所法を除き、諸余の已生の心心所法はこれ等無間縁の性なり」と云えるこれなり。これ阿羅漢の最後心には心心所法続起せざるを以ってこれを除き、諸余の一切の已生の心心所法は皆開避して、次後の心心所法に生起の処を与うるを等無間縁と名づけたるものなり。等無間縁の名称に関しては、前引倶舎論の連文に、「この縁より生ずる法は等にして而も無間なり。この義に依りて等無間の名を立つ。これに由りて色等は皆等無間縁と立つべからず、等しく生ぜざるが故なり。謂わく欲界の色は或は欲界と色界との二の無表色を生じ、或は無間に欲界と無漏との二の無表色を生ず。諸の色法は雑乱して現前するを以ってなり。等無間縁は生ずるに雑乱なし、故に色には等無間縁を立てず。(中略)豈に心所無間に生ずる時、また少多ありて品類は等しきに非ざるにあらずや、謂わく善と不善と無記との心の中と、有尋有伺三摩地等なり。これ異類に於いては実に少多あり、然るに自類の中には非等の義なし、謂わく少受の無間に多を生じ、或はまた多の無間より少を生ずることなし。想等もまた爾り。非等の過なし。豈にただ自類の前のみよく後の等無間縁と為るや。爾らず、云何ん、前の心品の法は総じて後品の等無間縁と為る。ただ自類のみに非ず。且く受等の自体類の中に於いて少より多を生ずることなし、以って等の義を説く」と云えり。これ等無間縁の名は等にして、而も無間に生ずる法の為に縁となるの義なることを明し、色法並びに不相応行法等の無間には諸色雑乱して生ずるが故に等の義なく、随って色等には等無間縁を立てず、またこの縁は総じて已生の心品が開避して後の心品を生ぜしむるを称するものなりといえども、等の名は且くただ自類の心品に就いて立つるものなることを示す意なり。また「順正理論巻19」には別の一義を出し、「一の相続には必ず同類の二法倶生することなし、故に説いて等と名づく。この縁は果に対して同類の法の中間に隔を為すものなし、故に無間と名づく。(中略)何が故に一身の心心所法には、同類の二体倶生することあることなきや、等無間縁は第二なきが故なり。また何に縁るが故に第二の等無間縁あることなきや、一一の有情は各ただ一心相続して転ずるが故なり。また何に縁るが故に、諸の有情は各ただ一心相続して転ずと知るや、心は余境に於いて正しく馳散する時、余の境の中に於いて審知せざるが故なり。(中略)またもし一身に多心並起せば、境は各別なりとせんや、共に相応すとせんや。もし共に相応せば一境一相にして差別なし、故に倶起は唐捐ならん。もし境各別ならば、則ちまさに染浄善悪倶生して便ち解脱なかるべし。すでにこの失なく、故に一の有情にはただ一心相続して転ずることあり」と云えり。これ有情の身中には必ず同類の二法倶起することなく、各ただ一心相続して転ずるが故にこれを等と名づけ、余の同類法の中間に隔礙するものなきが故に無間と名づくとなすの意にして、前の倶舎論の説と相異あるを見るべし。また説一切有部に於いては、この縁は所縁縁と共にただ心心所法の生起の縁となせるものとし、六因の中にはこれを有力の能作因に摂し、未来を除き過現の心聚をその体となすと説くといえども、譬喩者等は色法にもまた等無間縁ありとせり。「順正理論巻19」に、「譬喩論師は説く、諸の色法にも心心所法の如く等無間縁あり、乳醅種華の酪酢芽果を生ずるを見るに、心心所の如く前滅後生す。故に諸色にもこの縁の義あるを知る」と云い、また同次下の文に上座は色心互いに等無間縁ありとなすと云えるこれなり。また「大毘婆沙論巻11」には三界の心を分類し、欲界に善、不善、有覆無記、無覆無記の四心、色無色界に不善を除ける各三心、無漏に学無学の二心、即ち総じて十二心ありとし、また欲界心の中に就き、善心を分ちて加行生得の二心、無覆無記心を威儀路、工巧処、異熟生、通果の四心とし、これに不善有覆の二を合して凡べて八心となし、またこの中、色界には不善及び工巧処の二なきが故に、これを除きて六心とし、無色界には更に威儀路及び通果の二心なきが故に、これを除きてただ四心とし、これに無漏の二心を加えて総じて二十心ありとし、広くその相生関係を論じ、以って等無間縁の相を詳述せり。また唯識にてはこれを開導依と名づけ、已生の八識心王が開避引導して、各自類の後念の心王を生ぜしむるの義となせり。また「大毘婆沙論巻107」、「雑阿毘曇心論巻2」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「入阿毘達磨論巻下」、「瑜伽師地論巻52」、「成唯識論巻7」等に出づ。<(望)
  縁縁(えんえん):梵語aalambana-pratyayaの訳語にして、また所縁縁と名づけ、所縁の縁の意にして、四縁の一なり。即ち心心所の所縁となりて、それをして生ぜしむる縁をいう。「大毘婆沙論巻21」に、「よく次後の刹那の心心所法の所取の境となるが故に、立てて所縁縁となす」と云い、「倶舎論巻7」に、「所縁縁の性とは、即ち一切法を心心所に望むるに、その所応に随う。謂わく眼識及び相応法の如きは一切の色を以って所縁縁となす。かくの如く耳識及び相応法は一切の声を以って、鼻識と相応は一切の香を以って、舌識と相応は一切の味を以って、身識と相応は一切の触を以って、意識と相応は一切の法を以って所縁縁となす」と云い、また「順正理論巻19」に、「謂わく所縁縁は即ち一切の法なり。心心所の所縁の境を離れて外に決定して更に余の法の得べきものなし。謂わく一切法はこれ心心所の生ずるに攀附せらるるが故に所縁という。即ちこの所縁はこれ心心所の発生の縁なるが故に所縁縁と名づく」と云えるこれなり。これ心心所の所托となりて、よくそれをして縁慮の用を生ぜしむるものを所縁縁と名づけたるものにして、即ち一切法をいうなり。また「成唯識論巻7」にはこの縁に親疎の二類あることを明し、「この体に二あり、一は親、二は疎なり。もし能縁と体と不相離にして、これ見分等の内の所慮託たるものは、まさに知るべし、彼はこれ親所縁縁なり。もし能縁と体と相離すといえども、質と為りてよく内の所慮託を起すは、まさに知るべし、彼はこれ疎所縁縁なり。親所縁縁は能縁に皆有り、内の所慮託を離れては必ず生ぜざるが故なり。疎所縁縁は能縁に或は有り、外の所慮託を離れてもまた生ずることを得るが故なり」と云えり。この中、親所縁縁とは見分自証分等の内の所慮託となる法にして、即ち影像相分をいい、疎所縁縁とは能縁の心を相離せる法にして、即ち本質となりて内の所慮託たる相分を起すものをいうなり。また「観所縁縁論」に、「外境は無なりといえども、而も内色あり外境に似て現じて所縁縁となる。眼等の識は彼の相を帯して起り、及び彼より生ずと託す、二義を具するが故なり。この内境の相、すでに識を離れず、如何が倶起してよく識の縁と作るや。決定して相随うが故に倶時にまた縁と作り、或は前を後の縁と為す、彼の功能を引くが故なり。境相と識とは定んで相随するが故に、倶時に起こるといえども、また識の縁となる。因明者説く、もしこれと彼と有無相随せば、倶時に生ずといえども、而もまた因果の相あることを得るが故なり。或は前識の相を後識の縁と作す、本識の中に生ずる自果に似たる功能を引いて起さしむるも理に違せざるが故なり。もし五識を生じてただ内色を縁ぜば、如何ぞまた眼等を縁と為すと説くや。識の上の色の功能を五根と名づくるも理に応ず、功能と境色と無始より互いに因と為ればなり。よく識を発するを以って根あることを比知す。これただ功能にして外の造色に非ざるが故なり。本識の上の五色の功能を眼等の根と名づくるも、また理に違せず。功能と発識と理別なきが故なり。識に在るとも、余に在るとも説くべからずといえども、而も外の諸法は理非有なるが故に、定んでまさにこれは識に在りて余に非ずと許すべし。この根の功能と前境の色と、無始際より展転して因と為る、謂わくこの功能は成熟の位に至りて現識の上の五の内境の色を生じ、この内境の色はまたよく異熟識の上の五根の功能を引起す。根境二色と識との一異或は非一異は楽うに随ってまさに説くべし。かくの如く諸識はただ内境の相を所縁縁と為すこと理善く成立す」と云えり。これまた諸識はただ内境の相を以って所縁縁となすことを説けるものなり。また「大毘婆沙論巻55、巻197」、「雑阿毘曇心論巻2」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻18」、「大乗阿毘達磨論巻5」等に出づ。<(望)
  増上縁(ぞうじょうえん):梵語adhipati-pratyayaの訳語にして、増上の縁となるの意、四縁の一なり。即ち力を与え、または障礙せずして、他の諸法の勢用を増勝ならしむる縁をいう。「大毘婆沙論巻21」に、「即ちこれ障礙せずして、次後の刹那の心心所法を生ずることを得しむるが故に、立てて増上縁と為す」と云い、同巻127に、「増上縁の義に親あり疎あり、近あり遠あり、合あり不合あり、この生に在るあり余の生に在るあり。諸の親と近と合とこの生に在る者とを説きて名づけて因となし、疎と遠と不合と余の生に在る者とを説きて名づけて縁となす」と云えるこれなり。これ増上縁に不障と与力の二種の別あることを説けるものにして、即ち彼の縁の親と近と合とこの生に在るものとは有力にして、他の法の為に生依等の因となるが故にこれを与力とし、疎と遠と不合と余の生に在るものとは無力にして、ただ他の為に疎縁となるに過ぎざるが故にこれを不障となすの意なり。また増上縁と能作因及び所縁縁との異同に関し、「大毘婆沙論巻21」に、「能作因の体は即ち増上縁なり、倶に一切法を自性となすが故なり。然るに義に異あり、謂わく多勝の義はこれ増上縁の義、不障礙の義はこれ能作因の義なり。問う、もし多勝の義これ増上縁の義ならば、則ち所縁縁もまたまさに増上と名づくべし。彼の体もまた一切法を摂するが故なり。品類足論に辯ずるが如き、この二縁は倶に一切法を以って自性と為すが故なり。答う、もし相続に依らば則ちこの二縁は寛狭相似す。もし刹那に依らば則ち増上縁の体義は多勝なり、謂わく一切法を縁じて非我の行相現在前する時、一切法の中に所縁に非ざる者は謂わくこの自性と相応と俱有なり、増上に非ざる者はただこの自性のみなり。これ相応と俱有の諸法はこれこの増上にして所縁に非ざるに由るが故なり」と云い、また「倶舎論巻7」に、「増上縁の性は即ち能作因なり、即ち能作因を増上縁と為すを以っての故なり。この縁の体は広ければ増上縁と名づく、一切は皆これ増上縁なるが故なり。一切法はまた所縁縁と説く、この増上縁は何ぞ独り体広きや。俱有の諸法は未だかつて所縁と為らざるも、然も増上縁と為るが故にこの体広し。或は所作広ければ増上縁と名づく。一切法は各自性を除きて一切有為のために増上縁と為るを以っての故なり」と云えり。これ能作因の体は一切法なるが故に即ち増上縁と同一なるも、増上縁は多勝の義なるが故に主として与力を意味し、能作因は不障礙の義なるが故にただ不障を意味することを説き、また所縁縁の体も一切法に通ずといえども、彼の縁は相応及び俱有法を摂せざるに反し、増上縁はただ自性を除き、相応及び俱有をも併せ摂するが故にその体独り広きことを明にせるなり。また「成唯識論巻7」には「四に増上縁とは、謂わくもし有法の勝れたる勢力ありて、よく余の法に於いて或は順じ或は違するなり。前の三縁もまたこれ増上なりといえども、而も今第四は彼を除きて余を取る。諸縁差別の相を顕さんが為の故なり。この順違の用は四処に於いて転ず、生じ住し成じ得するの四事別なるが故なり」と云えり。これ余の因縁等の三縁もまた皆増上縁なりといえども、諸縁の差別を顕さんが為の前の三縁の用を除き、余を取りて増上縁となすの意を示せるなり。就中、生住成得の四処に於いて転ずとは、一切有為法の生住及び成立等に於いて縁となり、また涅槃及び賢聖等の有為無為法の証得に於いて縁となるを云うなり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻5」には広く諸法増上の義を例説し「増上縁とは謂わく任持増上の故に、引発増上の故に、俱有増上の故に、境界増上の故に、産生増上の故に、住持増上の故に、受用果増上の故に、世間清浄離欲増上の故に、出世清浄離欲増上の故に、これ増上縁の義なり。任持増上とは謂わく風輪等の水輪等に於ける、器世間の有情世間に於ける、大種の所造に於ける、諸根の諸識に於ける、かくの如き等なり。引発増上とは謂わく一切有情の共業の器世間に於ける、故有漏業の異熟果に於ける、かくの如き等なり。俱有増上とは謂わく心の心法に於ける、作意の心に於ける、触の受に於ける、かくの如き等なり。この後の増上は二十二根に依りて建立す。境界増上とは謂わく眼耳鼻舌身意根なり、この増上力に由りて色等を生ずるが故なり。産生増上とは謂わく男女根なり、この増上力に由りて胎に入ることを得るが故なり。住持増上とは謂わく命根なり、この増上力に由りて衆同分住することを得るが故なり。受用果増上とは謂わく苦楽憂喜捨根なり、これに依りてよく愛非愛の異熟を受くるが故なり。世間清浄離欲増上とは謂わく信勤念定慧根なり、これに因りて諸の煩悩を制伏するが故なり。出世清浄離欲増上とは謂わく所建立の未知欲知根、已知根、具知根なり、これに由りて永く諸の睡眠を害するが故なり」と云えり。以ってその義を見るべし。また善導は一切善悪の凡夫の浄土に生ずることを得るは、阿弥陀仏の大願業力を増上縁となすに由ることを主張し、「観念法門」には具に滅罪乃至証生の五種増上縁を分別せり。また「大毘婆沙論巻17、巻107、巻131」、「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻下」、「大智度論巻32」、「瑜伽師地論巻3、巻38、巻52、巻85」、「順正理論巻18」等に出づ。<(望)
復次菩薩欲知四緣自相共相。當學般若波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は、四縁の自相と、共相とを知らんと欲すれば、当に般若波羅蜜を学すべし。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『四縁』の、
『自相、共相』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
問曰。如般若波羅蜜中四緣皆不可得。所以者何。若因中先有果是事不然。因中先無亦不然。若先有則無因。若先無以何為因。若先無而有者亦可從無因而生。 問うて曰く、般若波羅蜜中の四縁の如きは、皆、不可得なり。所以は何んとなれば、若し因中に、先に果有れば、是の事然らず。因中に先に無きも、亦た然らず。若し先に有れば、則ち無因なり。若し先に無ければ、何を以ってか、因と為す。若し先に無くして、有らば、亦た無因より、生ずべし。
問い、
『般若波羅蜜』中には、
『四縁などは!』、
皆、
『不可得である( be unrecognizable )!』。
何故ならば、
若し、
『因』中に、
『先に、果が有れば!』、
是の、
『事』は、
『然うでない( not true )!』。
『因』中に、
『先に、果が無くても!』、
亦た、
『然うでない!』。
若し、
『因』中に、
『先に、果が有れば!』、
是の、
『果』は、
『無因である!』。
若し、
『先に、果が無ければ!』、
何故、
『因と呼ぶのか?』。
若し、
『先に、果が無いのに!』、
『果』が、
『有れば!』、
是の、
『果』は、
『無因より、生じなければならない!』。
復次見果從因生故名之為因。若先無果云何名因 復た次ぎに、果の因より、生ずるを見るが故に、之を名づけて、因と為す。若し先に果無くんば、云何が因と名づくる。
復た次ぎに、
『因より!』、
『果が、生じるのを!』、
『見る!』が故に、
是れを、
『因』と、
『称するのである!』。
若し、
『因』中に、
『先に!』、
『果が無ければ!』、
何故、
『因』と、
『呼ばれるのか?』。
復次若果從因生果則屬因。因不自在更屬餘因。若因不自在者云何言果。旦從此因生。如是種種則知無因緣。 復た次ぎに、若し果、因より生ずれば、果は則ち因に属す。因は自在ならざれば、更に餘の因に属す。若し因、自在ならずんば、云何が果と言う。但だ此の因より生ずるのみ。是の如き種種は、則ち因縁無きを知る。
復た次ぎに、
若し、
『果』が、
『因より、生じれば!』、
則ち、
『因に!』、
『属することになる!』が、
『因が、自在でなければ!』、
更に、
『餘の因に!』、
『属することになる!』。
若し、
『因が、自在でなければ!』、
何故、
『果である!』と、
『言うのか?』、
但だ、
『此の因より!』、
『生じただけである!』。
是のように、
種種に、
『因緣は無い!』と、
『知ることになる!』。
又過去心心數法都滅無所能作。云何能為次第緣。現在有心則無次第。若與未來欲生心次第者。未來則未有云何與次第。如是等則無次第緣。如是一切法無相無緣。云何言緣緣。若一切法無所屬無所依皆平等。云何言增上緣。 又過去の心心数法は、都(すべ)て滅して、能く作す所無し。云何が能く次第縁と為る。現在、心有れば、則ち次第無し。若し未来に生ぜんと欲する心にの次第に与(あずか)れば、未来は、則ち未だ有らず。云何が次第に与る。是れ等の如きは、則ち次第縁無し。是の如く一切法は、無相、無縁なり。云何が縁縁と言う。若し一切法に所属無く、所依無く、皆平等なれば、云何が、増上縁と言う。
又、
『過去の心心数法』が、
『都て、滅すれば( be extinguished completely )!』、
『所能作( that what is done )』が、
『無いことになる!』が、
何故、
『次第縁』と、
『為る( to be )ことができるのか?』。
又、
『現在』、
『心が有れば!』、
『次第』は、
『無いはずである!』。
若し、
『未来に生じようとする!』、
『心の次第』に、
『与れば( to contribute )!』、
『未来が、未だ無いのに!』、
何故、
『次第に与るのか?』。
是れ等は、
『次第縁』は、
『無いことになる!』。
是のように、
『一切の法』が、
『無相、無縁ならば!』、
何故、
『縁縁』と、
『言うのか?』。
若し、
『一切の法』には、
『所属( that who/what depend on something )も!』、
『所依( that who/what is depended by something )も!』、
『無く!』、
『皆、平等ならば!』、
何故、
『増上縁( predominating conditions )』と、
『言うのか?』。
  所属(しょぞく):梵語 adhyadhiina の訳、[奴隷の如く]完全に従属/依存する( completely subject to or dependent on (as a slave) )の義、従属的な者( that what/who completely depends on something )の意。
  所依(しょえ):梵語 adhikaraNa の訳、容器( a receptacle )の義、何かに依存される者( that on which something depends )の意。
如是四緣不可得。云何說欲知四緣當學般若波羅蜜。 是の如く、四縁は不可得なるに、云何が、『四縁を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と説く。
是のように、
『四縁』は、
『不可得なのに!』、
何故、こう説くのですか?――
『四縁を知ろうとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
答曰。汝不知般若波羅蜜相。以是故說般若波羅蜜中四緣皆不可得。般若波羅蜜於一切法無所捨無所破。畢竟清淨無諸戲論。 答えて曰く、汝は般若波羅蜜の相を知らず。是を以っての故に、『般若波羅蜜中には、四縁は皆不可得なり』、と説く。般若波羅蜜は、一切の法に於いて、捨つる所無く、破る所無く、畢竟清浄にして、諸の戯論無し。
答え、
お前は、
『般若波羅蜜の相』を、
『知らない!』。
何故、こう説くのか?――
『般若波羅蜜』中には、
『四縁』は、
『皆、不可得である!』、と。
『般若波羅蜜』は、
『一切の法』に於いて、
『捨てる所も、破る所も!』、
『無く!』、
『畢竟じて清浄である!』が故に、
『一切の法』中には、
『諸の戯論』が、
『無いのである!』。
如佛說有四緣。但以少智之人著於四緣而生邪論。為破著故說言諸法實空無所破。如心法從內外處因緣和合生。是心如幻如夢虛誑無有定性。心數法亦如是。 仏の説きたまえるが如し、『四縁有り、但だ少智の人は、四縁に著して、邪論を生ずるを以って、著を破せんが為の故に説いて、『諸法は実に空にして、破する所無し。心法は、内外の処の因緣和合より生ずれば、是の心は幻の如く、夢の如く虚誑にして、定性有ること無く、心数法も亦た是の如し』、と言えり』、と。
『仏』は、こう説かれたのである、――
『四縁は有る!』が、
但だ、
『少智の人』が、
『四縁に著して!』、
『邪論』を、
『生じるので!』、
『著を破る!』為の故に、
『説いて!』、こう言ったのである、――
『諸法』は、
『実に空であり!』、
『破る!』所は、
『無い!』、
例えば、
『心法』は、
『内の六処と、外の六処という!』、
『因緣の和合より!』、
『生じるのであり!』、
是の、
『心』は、
『幻や、夢のように虚誑であり!』、
則ち、
『定性』が、
『無いのである!』。
亦た、
『心数法』も、
『是の通りである!』と、と。
是心共生心數法。所謂受想思等是心數法。同相同緣故名為相應。心以心數法相應為因。心數法以心相應為因。是名相應因。相應因者。譬如親友知識和合成事。 是の心は、心数法を共生す。謂わゆる受、想、思等なり。是の心数法は、同相、同縁なるが故に、名づけて相応と為す。心は、心数法に相応するを以って、因と為し、心数法は、心に相応するを以って、因と為せば、是れを相応因と名づく。相応因とは、譬えば親友、知識の和合して事を成ずるが如し。
是の、
『心』は、
『心数法、謂わゆる受、想、思等と!』、
『共に( together with )!』、
『生じる( to arise )のであり!』、
是の、
『心数法』は、
『心』と、
『同相(生、住、滅)であり!』、
『同縁である!』が故に、
是れを、
『相応』と、
『称し!』、
『心』は、
『心数法に相応する!』が故に、
『心数法の起る!』、
『因であり!』、
『心数法』は、
『心に相応する!』が故に、
『心の起る!』、
『因であり!』、
是れを、
『相応因』と、
『称するのである!』。
『相応因』とは、
譬えば、
『親友、知識が和合して!』、
『事』を、
『成す( to accomplish )ようなものである!』。
  共生(くしょう):梵語 saha-bhuu の訳、共に存在する/共に現われる( being together, appearing together with )の義。
  親友(しんぬ):梵語 mitra の訳、友人( a friend )の義。
  知識(ちしき):梵語 mitra の訳、親友( a friend )の義。
共生因者。一切有為法各有共生因。以共生故更相佐助。譬如兄弟同生故互相成濟。自種因者。過去善種現在未來善法因。過去現在善種未來善法因。不善無記亦如是。如是一切法各有自種因。遍因者。苦諦集諦所斷結使。一切垢法因是名遍因。報因者。行業因緣故得善惡果報是為報因。是五因名為因緣。 共生因とは、一切の有為法は、各共生因有り、共生を以っての故に、更に相佐助す。譬えば兄弟の同生するが故に互に相成済するが如し。自種因とは、過去の善種は現在、未来の善法の因にして、過去、現在の善種は未来の善法の因なり。不善、無記も亦た是の如し。是の如く一切の法は、各自種因有り。遍因とは、苦諦、集諦所断の結使にして、一切の垢法の因なれば、是れを遍因と名づく。報因とは、行業の因緣の故に、善悪の果報を得れば、是れを報因と為す。是の五因を名づけて、因緣と為す。
『共生因』とは、
『一切の有為法』は、
各、
『共生因』が、
『有り!』、
『共に生じる!』が故に、
更に、
『相( mutually )!』、
『佐助する( to aid )のである!』。
譬えば、
『兄弟が、同生である!』が故に、
『互に!』、
『相成済する( to help each other )ようなものである!』。
『自種因』とは、
『過去』の、
『善種( good seeds )』は、
『現在、未来の善法』の、
『因であり!』、
『過去、現在』の、
『善種』は、
『未来の善法』の、
『因であり!』、
亦た、
『不善、無記』も、
『是の通りである!』。
是のように、
『一切の法』には、
各、
『自種因』が、
『有る!』。
『遍因』とは、
『苦諦、集諦所断』の、
『結使』は、
『一切の垢法』の、
『因であり!』、、
是れを、
『遍因』と、
『称する!』。
『報因』とは、
『行業の因緣』の故に、
『善、悪』の、
『果報』を、
『得るので!』、
是れを、
『報因』と、
『称する!』。
是の、
『五因』を、
『因緣』と、
『称するのである!』。
  佐助(さじょ):助ける( to aid )。
  成済(じょうさい):助ける( to help )。
心心數法次第相續無間故名為次第緣。心心數法緣塵故生是名緣緣。諸法生時不相障礙是為無障。 心心数法は、次第に相続して、無間なるが故に、名づけて次第縁と為す。心心数法は、塵を縁ずるが故に生じ、是れを縁縁と名づく。諸法の生ずる時、相障礙せざれば、是れを無障と為す。
『心心数法』は、
『次第に相続して!』、
『無間である( having no interval )!』が故に、
『次第縁』と、
『称する!』。
『心心数法』は、
『塵( 色声香味触法 )を縁じる!』が故に、
『生じる!』ので、
是れを、
『縁縁』と、
『称し!』、
『諸法( 受想行識 )が生じる!』時、
『相障礙しない( do not obstruct each other )!』ので、
是れを、
『無障』と、
『称する!』。
  無間(むげん):梵語 anantara の訳、時間的隙間が無い( having no interstice or interval or pause )の義。
  障礙(しょうげ):梵語 antaraaya の訳、妨害/障害/障害物( obstacle )の義。
復次心心數法從四緣生。無想滅盡定從三緣生。除緣緣諸餘心不相應諸行及色從二緣生。除次第緣緣緣有為法。性羸故無有從一緣生。 復た次ぎに、心心数法は、四縁より生じ、無想、滅尽定は三縁より生じ、縁縁を除く。諸余の心不相応諸行、及び色は、二縁より生じ、次第縁、縁縁を除く。有為法は、性羸(よわ)きが故に、一縁より生ずること有ること無し。
復た次ぎに、
『心心数法』は、
『四縁より!』、
『生じ!』、
『無想定、滅尽定』は、
『縁縁を除いた!』、
『三縁より!』、
『生じ!』、
『諸余の心不相応諸行と、色』は、
『次第縁、縁縁を除いた!』、
『二縁より!』、
『生じ!』、
『有為法の性』は、
『羸い( be weak )!』が故に、
『一縁より生じる!』者は、
『無い!』。
報生心心數法從五因生。不隱沒無記非垢法故除遍因。諸煩惱亦從五因生。除報因。何以故。諸煩惱是隱沒。報是不隱沒故除報因。報生色及心不相應諸行從四因生。色非心心數法故除相應因。不隱沒無記法故除遍因。 報生の心心数法は、五因より生じ、不隠没無記は、垢法に非ざるが故に、遍因を除く。諸の煩悩も亦た五因より生じ、報因を除く。何を以っての故に、諸の煩悩は、是れ隠没にして、報は、是れ不隠没なるが故に、報因を除く。報生の色、及び心不相応諸行は、四因より生ず。色は、心心数法に非ざるが故に、相応因を除き、不隠没無記の法なるが故に、遍因を除く。
『報生( a being as the results of prior actions )』の、
『心心数法』は、
『不隠没無記であり!』、
『垢法でない!』が故に、
『遍因を除いた!』、
『五因より!』、
『生じる!』。
『諸煩悩』も、
『報因を除いた!』、
『五因より!』、
『生じる!』。
何故ならば、
『諸煩悩は隠没である!』が、
『報( the result )は不隠没である!』が故に、
『報因』を、
『除くのである!』。
即ち、
『煩悩』は、
『報因より!』、
『生じるのではない!』。
『報生』の、
『色と、心不相応諸行』は、
『四因より!』、
『生じる!』。
『色』は、
『心、心数法でない!』が故に、
『相応因』を、
『除き!』、
『不隠没無記である!』が故に、
『遍因』を、
『除くからである!』。
  報生(ほうしょう):梵語 vipaaka-ja の訳、果報の所得( obtained as a result, produced due to retribution )の義、業果/結果/先の行為の結果/過去の行業の結果としての所得( The fruits of karma; the results, or effects of prior actions; obtained as the result of oneʼs prior activities )の意。
  不穏没無記(ふおんもつむき):新訳に無覆無記という。無記中に聖道を覆うことのない無記を指す。
  隠没無記(おんもつむき):新訳には有覆無記という。無記中に聖道を覆う染汚性の無記を指す。
  有覆無記(うふくむき):梵語nivRta-avyaakRtaの訳語にして、無記の一種なり。また隠没無記、有覆心とも名づく。その性染汚にして聖道を覆障し、或はまたよく心を蔽うて不浄ならしむるも、而も用弱くして果を感ぜざる法をいう。「大毘婆沙論巻161」に、「よく聖道及び聖道の加行を障うるが故に有覆と名づけ、異熟の果を招かざるが故に無記と名づく」と云い、「成唯識論巻3」に、「覆とは謂わく染法なり。聖道を障うるが故に、またよく心を蔽うて不浄ならしむるが故に」と云えるこれなり。ただし不善等もまた聖道を障うるが故に、固より覆障の義あるも、勢用強くして果を招くものなるを以って、有覆無記と名づけざるなり。「倶舎論巻19」に九十八睡眠中、有覆無記に属するものを分別し「色無色界の一切の睡眠はただ無記性なり、染汚法のもしこれ不善なるものは苦の異熟あり、苦の異熟果は上二界には無し。他の逼悩の因は彼に定んで無なるを以っての故なり。身辺二見と、及び相応の癡の欲界繋なるものはまた無記性なり」と云い、また同巻4に有覆無記と倶生する心品を明し「無記の有覆の心品に於いては、ただ十八の心所のみありて倶生す。謂わく十大地法と、六大煩悩地法と、并びに二不定、謂わく尋と伺となり。欲界の無記の有覆心とは、謂わく薩迦耶見と及び辺執見との相応なり」と云えり。大乗にては「大乗法苑義林巻5本」に、「有覆無記の五蘊に五十四の法あり、色蘊にはただ二あり、謂わく身と語との表なり。梵は釈子に於いて手を執りて誑を行ずるが故なり。心法に七あり、第八識を除き余の七は、通じて有覆なるが故なり。心所有法には二十九あり、謂わく遍行と別境と、及び根本煩悩の五(瞋を除く)と、随惑に十一(忿等の七及び無慚無愧の二を除く)あると、不定の中に三(ただ悔を除く)を取るなり。不相応法には十六を取る、謂わく得と非得と四相と及び後の十となり」と云えり。また「大毘婆沙論巻12、巻51」、「倶舎論巻13」、「同光記巻13」、「成唯識論巻5」等に出づ。<(望)
  無覆無記(むふくむき):梵語anivRta-avyaakRtaの訳語にして、有覆無記に対す。また単に無覆といい、或は浄無記、不隠没無記と名づく。即ち聖道を覆障することなき無記性の法をいう。「順正理論巻36」に、「無記にただ二種あり、一には勝義、二には自性なり。有為無記はこれ自性の摂なり、別因を持たずして無記を成ずるが故なり。無為無記はこれ勝義の摂なり、性これ常にして異門なきを以っての故なり」と云い、普光の「法宗原」に、「無覆の中に就いて六あり、一に異熟、二に威儀、三に工巧、四に通果、五に自性、前の四無記に摂せざる所の者を皆自性と名づく、六に勝義なり。六の中、前の五は有為、後の一は無為なり」と云えるこれなり。これ無覆無記を総じて有為無為の二種に分かち、更に有為無記の中に異熟等の五種の別ありとなすの意なり。就中、異熟無記とは過去の善不善の因に由りて生ぜられたる異熟の果体にして、即ち記説して善不善となすべからず、また聖道を覆障するものに非ざるが故に無覆無記と名づく。威儀無記とは威儀は行住坐臥の四威儀にして、即ち色香味触の四処を体とし、その性無記なるをいい、工巧無記とはこれに身工巧語工巧の二あり、身工巧は刻鏤等の工巧にして、また色香味触の四処を以って体とす、語工巧は歌詠等にして色声香味触の五処を体とし、共にその性無記なるをいい、通果無記とは天眼天耳の二通及び変化にして、また色香味触の四処を体とし、その性無記なるをいい、自性無記とは前の四種に摂せざる余の一切の有為法の無記に名づけたるものにして、長養の五根等をいい、勝義無記とは即ち無為無記にして、三無為の中の非択滅及び虚空等をいうなり。「倶舎論光記巻2」には、十八界に就きて具にこれを分別し、先づ無記の眼等の五根及び香味触の八界の中、異熟無記は八に通じ、威儀工巧通果の三は香味触、自性は長養の五根及び内外の香味触に通ず。次ぎに余の三性に通ずる十界の中、色声の二界に就いて分別せば、異熟はただ色、威儀工巧通果自性は色声に通じ、七心界(眼識等の六識に意根を加えしもの)に就いて言わば、異熟威儀工巧は七に通じ、通果は眼耳識と意界及び意識界とに通じ、法界に就いて言わば、異熟は大地法の十、尋伺睡眠得四相命根同分及び無想の二十一法、威儀工巧は大地法の十、尋伺睡眠得及び四相の十八法、通果は大地法の十、尋伺得及び四相の十七法、自性は得非得四相名句文及び同分の十法に通じ、また勝義は三無為の中、虚空非択滅の二法を摂すと云えり。以ってその類別を見るべし。またこの六種の中、勝義無記は無為、自性無記は長養の五根及び得非得等にして、共に七心界に通ぜず。故にもしただ心に就いて分別せば、即ち異熟、威儀、工巧、通果の四心のみあり、これを四無記心と称す。「倶舎論巻7」に、「欲界の無覆を分ちて四心となす、一に異熟生、二に威儀路、三に工巧処、四に通果心なり。色の無覆心は分ちて三種となす、工巧処を除く。上界には都て種種の工巧の事を造作することなきが故なり。(中略)威儀路等の三の無覆心は色香味触を所縁の境となす、工巧処等はまた声を縁ず。かくの如き三心はただこれ意識なり。威儀路と工巧処との加行はまた四識五識に通ず」と云えるその説なり。これ欲界の無覆心には具に異熟生等の四を具し、色界には工巧処を除きて他の三を具し、無色界にはただ異熟生の一のみあることを説けるものなり。同光記巻7に、この文を解し「これ三無記所縁の境を明かす。異熟生の心はよく十二処を縁ず、これ即ち知るべし。故に別に顕さず。威儀路と工巧処と通果の三無記心は、皆色香味触を以って所縁の境と為す。工巧処等とは通果心を等取す、この二無記はまた声をも縁ず、語工巧あるが故に工巧心は声を縁じ、化人発語するが故に通果心も声を縁ず。声は威儀に非ず、故に威儀心は縁ぜず。かくの如き三心はただこれ意識なり。威儀路と工巧処との加行はただ意識なるのみならず、また四識五識にも通ず。夫れ通果心に二あり、一に五識中の通果は即ち天眼天耳通なり。二に意識の通果は即ち変化心及び発業の通果心なり。この中には且らく第二の通果心に拠るが故にただこれ意識と言う。もし二通に拠らばまた五識に在り」と云えり。これ即ち四無記心の中、異熟生心はよく六根六境の十二処を縁じ、威儀路、工巧処及び通果の三無記心は共に色等の四処を縁じ、就中、工巧処中の語工巧処及び通果心はまた声を縁ずるが故に色声等の五境に通じ、またこの三心はただ意識なるも、威儀路及び工巧処の加行並びに眼耳二通は四識五識に通ずることを明にするの意なり。威儀路心とは同光記巻7の連文に、威儀は行住坐臥をいい、即ち色香味触を体とし、心の所依托なるが故に路と名づく。威儀即ち路にして、これを縁ずる心なるが故に威儀路心と名づくと云い、工巧処心もまた同釈となせり。また「倶舎論巻7」の連文に三界の十二心相生を明し、その中、無覆無記心はもし欲界に在らば自界の四と色界の善との五心を等無間縁として起り、またよく自界の四及び色界の善と有覆無記との七心の為に等無間縁となり、色界に在りては自界の三を等無間縁として起り、またその無間に自界の三と欲界の不善と有覆無記と、及び無色界の有覆無記との六心を生じ、無色界に在りては自界の三を等無間縁として起り、またその無間に自界の三と欲界の不善と有覆無記と、及び色界の有覆無記との六心を生ずと云い、更に二十心相生の次第を詳説せり。また「品類足論巻2」、「大毘婆沙論巻87、巻95、巻126、巻144」、「倶舎論巻2、巻3、巻6、巻13」、「順正理論巻11」、「瑜伽師地論巻3、巻54」、「成唯識論巻3」、「同述記巻5」、「大乗義章巻7」等に出づ。<(望)
染污色及心不相應諸行亦從四因生。非心心數法故除相應因。垢故除報因。諸餘心心數法除初無漏心皆從四因生。除報因遍因。所以者何。非無記故除報因。非垢故除遍因。 染汚の色、及び心不相応諸行も亦た四因より生ず。心心数法に非ざるが故に、相応因を除き、垢なるが故に報因を除く。諸余の心心数法は、初の無漏心を除きて、皆四因より生じ、報因、遍因を除く。所以は何んとなれば、無記に非ざるが故に報因を除き、垢に非ざるが故に遍因を除く。
『染汚された( recognizing self )!』、
『色、心不相応諸行』も、
『四因より!』、
『生じる!』。
『色』が、
『心心数法でない!』が故に、
『相応因』を、
『除き!』、
『垢である!』が故に、
『報因』を、
『除くからである!』。
『諸余の心心数法』は、
『初の無漏心を除いて!』、
皆、
『報因、遍因を除いた!』、
『四因より!』、
『生じる!』。
何故ならば、
『無記でない!』が故に、
『報因』を、
『除き!』、
『垢でない!』が故に、
『遍因』を、
『除くからである!』。
  参考:『阿毘曇甘露味論巻上行品』:『阿毘曇甘露味行品第六  一切有為法無勢力起。因他力共生。是諸法有四相起住老無常。問若有四相。是應更復有相。答更有四相。彼相中餘四相俱生。生為生住為住老為老無常為無常。問若爾者不可盡答展轉自相為諸行法二種。有心相應有心不相應。云何心相應。痛想思更樂憶欲解脫信精進念定慧覺觀。邪行不邪行善根不善根無記根。一切使惱結縛纏一切智慧。如是種種心相應法。是謂心相應行。云何心不相應行。得生住老無常無想定滅盡定無想處。種種方得物得入得名眾句眾味眾凡夫性。如是種種法。是謂心不相應行。因緣次第緣緣緣增上緣。一切有為法從是四緣生。云何因緣。五因相應共有自然遍報因。是謂因緣。云何次第緣。諸法中心心數是。是法滅是法起。是為次第緣。云何緣緣。緣塵故心心數法生。是謂緣緣。云何增上緣。一切萬物不相障礙。是謂增上緣。六因。相應因共有自然遍報所作因。云何相應因。心諸數法因。諸心數法心因。是謂相應。云何共有因。諸法各各相伴。心諸心數法因。諸心數法心因。復次共生四大共有因。造色心不相應行。心心數法心不相應行因。云何自然因。謂彼前生善後生善。前生不善後生不善。前無記後無記。云何遍因。謂身見計我我有常。諸陰受有常我樂淨等生諸煩惱。云何報因。謂善生樂報。不善生苦報。云何所作因。一切諸法各各不相障礙不留不住。報心有五因除遍因。如是心數法。一切煩惱有五因除報因。報生色及不相應行有四因。除相應因遍因。染污色及不相應行有四因。除相應因報因。餘殘心心數法有四因。除報因遍因。餘殘心不相應行或二因或三因。除相應因遍因報因。或除自然因。或不無初。無漏心相應法有三因。除自然因報因遍因。是無漏心心中生色及心不相應行有二因。共因所作因。心心數法是從四緣生。無想定滅盡定是從三緣生。除緣緣。心不相應行及諸色法是從二緣生。除次第緣緣緣。無有法一緣生。餘法力故生。一法三事會更樂共生。痛想思憶欲解脫信精進念定慧護共心起合成就。是諸法共心俱三法會更樂身心受痛緣分別識想動思心不忘憶欲作欲心無礙解脫信。種種事勤精進緣勝不忘。念心不動定。分別法慧心不著護事緣起。心法相應得諸法成就。痛想思更樂憶欲解脫念定慧是十大地法。何以故。一切心共生。云何相應共一緣行不增不減。是謂相應。十煩惱大地。一切不善心中共生。不信懈怠忘心亂闇鈍邪憶邪解脫調無明邪行。云何不信。心不入法。云何懈怠心寇在作。云何忘不念。云何心亂不一心。云何闇鈍不曉事。云何邪憶非道念。云何邪解脫不捨顛倒。云何調心走不息。云何無明三界中無智。云何邪行不住善法。十小煩惱地。瞋優波那不語波陀舍摩夜舍恥慳嫉慢大慢。云何瞋心忿動。云何優波那心含毒住。云何不語覆藏罪事。云何波陀舍非法事急持不捨。云何摩夜身口欺人。云何舍恥心忮收。云何慳心惜畏盡。云何嫉見他好事瞋。云何慢於卑賤我勝。於上我等。云何大慢。等中我大於大中我勝大。此十煩惱地意識相應。非五識故言小也。於中七煩惱欲界繫。舍恥欲界及梵天慢大慢三界繫。十善大地不貪不恚信猗不放逸精進護不嬈惱。云何不貪自身他身財物不欲不利。云何不恚。若眾生邊非眾生邊心不起恚。云何信。知實事心清淨。云何猗。心善離重得輕冷。云何不放逸。心繫善法。云何精進。習近善法。云何護。於諸法離住。云何不嬈惱。一切眾生中身口意不犯惡。云何慚。自作惡事羞。云何愧。於人中作不可事愧。是十法一切善心相應。是故說大地。三處愛處不愛處中處愛處者。婬欲慳貪惜等諸煩惱生。不愛處者。瞋恚鬥諍嫉妒等諸煩惱生。中處者。愚癡憍慢等諸煩惱生。一切結使煩惱三毒所攝。所以者何。有三不善根。一切結使煩惱。此三毒。生能斷三善根。能惱亂三界眾生。是故三毒所攝』
諸餘不相應法所謂色心不相應諸行。若有自種因則從三因生。除相應因報因遍因。若無自種因則從二因生。共生因無障因。 諸余の不相応法、謂わゆる色、心不相応諸行は、若し自種因有れば、則ち三因より生じ、相応因、報因、遍因を除く。若し自種因無ければ、則ち二因より生ず、共生因、無障因なり。
『諸余の不相応法』、
謂わゆる、
『色、心不相応諸行』は、
若し、
『自種因が有れば!』、
『相応因、報因、遍因を除いた!』、
『三因より!』、
『生じ!』、
若し、
『自種因が無ければ!』、
『共生因、無障因』の、
『二因より!』、
『生じることになる!』。
初無漏心心數法從三因生。相應因共生因無障因。是初無漏心中色及心不相應諸行從二因生。共生因無障因。無有法從一因生。若六因生是名四緣。 初の無漏の心心数法は、三因より生じ、相応因、共生因、無障因なり。是の初の無漏の心中の色、及び心不相応諸行は、二因より生じ、共生因、無障因なり。法の一因より生ずる有ること無し。若し六因より生ずれば、是れを四縁と名づく。
『初の無漏』の、
『心心数法』は、
『相応因、共生因、無障因の三因より!』、
『生じ!』、
是の、
『初の無漏心』中の、
『色、心不相応諸行』は、
『共生因、無障因の二因より!』、
『生る!』ので、
『一因より生じる!』、
『法』は、
『無い!』。
若し、
『六因より生じれば!』、
是の、
『法』は、
『四縁より!』、
『生じたことになる!』。
菩薩行般若波羅蜜。如是觀四緣心無所著。雖分別是法而知其空皆如幻化。幻化中雖有種種別異。智者觀之知無有實。但誑於眼為分別。知凡夫人法皆是顛倒虛誑而無有實故有四緣。如是云何為實。 菩薩は、般若波羅蜜を行じて、是の如く四縁を観るも、心に著する所無く、是の法を分別すと雖も、其の空にして、皆幻化の如きを知る。幻化中に、種種の別異有りと雖も、智者は之を観て、実有ること無く、但だ眼を誑して分別を為さしむるを知る。凡夫人の法は、皆是れ顛倒、虚誑にして、実有ること無きを知るが故に四縁有るも、是の如くんば、云何が実と為す。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を行いながら!』、
是のように、
『四縁を観る!』が、
『心の著する!』所は、
『無い!』。
是の、
『四縁という!』、
『法』を、
『分別しても!』、
其れは、
『空であり!』、
皆、
『幻化のようだ!』と、
『知る!』。
『幻化』中にも、
『種種の別異が有る!』が、
『智者が観れば!』、
『実が無く!』、
但だ、
『眼を誑して!』と、
『分別させるのだ!』と、
『知る!』。
『智者』は、
『凡夫人の法』は、
『皆、顛倒、虚誑であり!』、
『実が無い!』と、
『知る!』が故に、
『四縁が有った!』としても、
是のような、
『四縁』が、
何故、
『実であるのか?』。
賢聖法因從凡夫法生故亦是不實。如先十八空中說。菩薩於般若波羅蜜中。無有一法定性可取故則不可破。以眾生著因緣空法故名為可破。譬如小兒見水中月心生愛著。欲取而不能得心懷憂惱。智者教言雖可眼見不可手捉。但破可取不破可見。 賢聖の法の因は、凡夫の法より生ずるが故に、亦た是れ実にあらざること、先に十八空中に説けるが如し。菩薩は、般若波羅蜜中に於いて、一法として、定性の取るべき有ること無きが故に、則ち破るべからず。衆生の、因緣の空法に著するを以っての故に、名づけて破すべしと為す。譬えば、小児の水中の月を見て、心に愛著を生じ、取らんと欲して、得る能わざれば、心に憂悩を懐くも、智者は教えて、『眼に見るべしと雖も、手に捉るべからず』、と言いて、但だ取るべきを破りて、見るべきを破らざるが如し。
『賢聖の法』の、
『因』は、
『凡夫の法より!』、
『生じる!』が故に、
是の、
『法』も、
『実でない!』のは、
先に、
『十八空』中に、
『説いた通りである!』。
『菩薩』は、
『般若波羅蜜中に住して!』、
『取るべき定性』は、
『一法すら!』、
『無い!』が故に、
則ち、
『法』が、
『破られることはない!』が、
『衆生』が、
『因緣という!』、
『空法』に、
『著する!』が故に、
是の、
『因緣』は、
『破ることができる!』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『小児』が、
『水中の月を見て!』、
『心に愛著を生じ!』、
『取ろうとしても!』、
『得られない!』ので、
『心』に、
『憂悩』を、
『懐くと!』、
『智者が教えて!』、
『眼に見ることができても!』、
『手に捉ることはできないのだ!』と、
『言ったとしても!』、
但だ、
『月』を、
『捉ること!』を、
『破るだけで!』、
『月』を、
『見ることまで!』、
『破ったのではないようなものである!』。
菩薩觀知諸法從四緣生。而不取四緣中定相。四緣和合生如水中月。雖為虛誑無所有要從水月因緣生不從餘緣。有諸法亦如是。各自從因緣生亦無定實。以是故說菩薩欲如實知因緣次第緣緣緣增上緣相。當學般若波羅蜜。 菩薩は、諸法の四縁より生ずるを観て知るも、四縁中に定相を取らず。四縁和合の生は、水中の月の、虚誑にして、無所有なりと為すと雖も、要(かなら)ず、水月の因緣より生ずれば、餘の縁によらずして有り。諸法も亦た是の如く、各自ら、因縁より生ずれば、亦た定実無し。是を以っての故に説かく、『菩薩は、如実に、因縁、次第縁、縁縁、増上縁の相を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
『菩薩』は、
『諸法』は、
『四縁より生じる!』と、
『観て、知る!』が、
『四縁』中に、
『定相』を、
『取ることはない!』。
『四縁和合の生』は、
譬えば、
『水中の月』が、
『虚誑、無所有でありながら!』、
要ず( essentially )、
『水、月という!』、
『因緣より!』、
『生じて!』、
『餘の!』、
『縁より!』、
『生じないようなものである!』。
『諸法』も、
是のように、
各、
自ら、
『因縁より!』、
『生じながら!』、
亦た、
『定実』は、
『無いのである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩』は、
如実に、
『因緣、次第縁、縁縁、増上縁の相』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
問曰。若欲廣知四緣義應學阿毘曇。云何此中欲知四緣義當學般若波羅蜜。 問うて曰く、若し広く、四縁の義を知らんと欲すれば、応に阿毘曇を学ぶべし。云何が、此の中には、四縁の義を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべき。
問い、
若し、
『四縁の義』を、
『広く、知ろうとすれば!』、
『阿毘曇』を、
『学ぶべきである!』。
何故、
此の中には、
『四縁の義を、知ろうとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばなければならないのですか?』。
答曰。阿毘曇四緣義初學如得其實。求之轉深入於邪見。如汝上破四緣義中說 答えて曰く、阿毘曇の四縁の義は、初学にして、其の実を得るが如きは、之を求めて転(うた)た深く邪見に入ること、汝が上に四縁の義を破る中に説けるが如し。
答え、
『阿毘曇』の、
『四縁の義』は、
『初学の者』が、
其の、
『実』を、
『得たようなものであり!』、
是の、
『義を求めて!』、
転た( increasingly )、
『深く!』、
『邪見に入る!』ので、
お前が、
上の、
『邪見を破る!』中で、
『説いたようになる!』。
復次諸法所因因於四緣四緣復何所因。若有因則無窮若無窮則無始若無始則無因。若然者一切法皆應無因。若有始始則無所因。若無所因而有則不待因緣。若然者一切諸法亦不待因緣而有。 復た次ぎに、諸法の所因は、四縁を因とすれば、四縁は、復た何の所因ぞ。若し因有れば、則ち無窮なり。若し無窮なれば、則ち無始なり。若し無始なれば、則ち無因なり。若し然らば、一切の法は、皆、応に無因なるべし。若し始有らば、始は則ち所因無し。若し所因無くして、有れば、則ち因縁を待たず。若し然らば、一切の諸法も亦た因緣を待たずして、有らん。
復た次ぎに、
『諸法の所因( that which is taken as cause )』として、
『四縁が因ならば!』、
復た、
何が、
『四縁の所因なのか?』。
若し、
『四縁』に、
『因が有れば!』、
是の、
『因』は、
『無窮である!』。
若し、
『無窮ならば!』、
則ち、
『無始となる!』。
若し、
『無始ならば!』、
則ち、
『無因である!』。
若し、然うならば、
『一切の法』は、
皆、
『無因でなければならない!』。
若し、
『一切の法』に、
『始が有れば!』、
是の、
『始』には、
『所因』が、
『無いことになり!』、
若し、
『所因が無ければ!』、
『因緣』を、
『待たないことになる!』。
若し、然うならば、
『一切の諸法』も、
亦た、
『因緣を待たずに!』、
『有ることになる!』。
  所因(しょいん):因として用いられる者( that which is taken as cause )、梵語 hetu の訳、因( cause )の義。
復次諸法從因緣生有二種。若因緣中先有則不待因緣而生則非因緣。若因緣中先無則無各各因緣。以戲論四緣故。有如是等過。 復た次ぎに、諸法は、因緣より生ずるに、二種有り。若し因緣中に先に有れば、則ち因縁を待たず、而も生は、則ち因縁に非ず。若し因緣中に、先に無ければ、則ち各各の因緣無し。四縁を戯論するを以っての故に、是れ等の如き過有り。
復た次ぎに、
『諸法』が、
『因緣より生じる!』には、
『二種有り!』、
若し、
『因縁』中に、
先に、
『生( that which is born )』が、
『有れば!』、
是の、
『生』は、
『因緣を待つこともなく!』、
而も、
『生』は、
『因緣ではないことになる!』。
若し、
『因緣』中に、
先に、
『生』が、
『無ければ!』、
各各には、
『因緣』が、
『無いことになる!』。
『四縁を戯論する!』が故に、
是れ等のような、
『過』が、
『有るのである!』。
  (しょう):◯梵語 jaati の訳、出生/産出( birth, production )、出生に由って定まる[人、動物等の]存在としての形態( the form of existence (as man, animal, &c ) fixed by birth )、出生により与えられる地位/階級/カースト/家族/人種/血統( position assigned by birth, rank, caste, family, race, lineage )の義。◯梵語 utpaada の訳、出現/出生/産出( coming forth, birth, production )、伸びた足を持つこと/両足で立つこと( having the legs stretched out, standing on the legs )の義。生起/産出/生むこと/生まれること( arising, to produce, to bring forth, to beget, to be born )、生命/生活/産出/出現する( life, living; production; coming into existence )の意。◯梵語 abhinirhaara, abhinir√(hR) の訳、又引、引発と訳す、側に置く/個人的に貯蔵すること/獲得する( setting aside or accumulation of a private store, to obtain )の義。
如般若波羅蜜中不可得空無如是等失。如世間人耳目所睹生老病死是則為有。細求其相則不可得。以是故般若波羅蜜中但除邪見而不破四緣。是故言欲知四緣相當學般若波羅蜜 般若波羅蜜中の不可得空の如きは、是れ等の如き失無し。世間の人の耳目の睹(み)る所の生老病死の如きは、是れ則ち有と為すも、其の相を細かに求むれば、則ち不可得なり。是を以っての故に般若波羅蜜中には、但だ邪見を除けば、四縁を破らず。是の故に言わく、『四縁の相を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
『般若波羅蜜』中の、
『不可得空など!』には、
是れ等のような、
『失』が、
『無い!』。
『世間の人の耳目』は、
『生老病死』は、
『有る!』と、
『睹る( to see )!』が、
其の、
『相』を、
『詳細に求める!』と、
是れ等の、
『相』は、
『不可得である( be unrecognizable )!』。
是の故に、
『般若波羅蜜』中には、
但だ、
『邪見』を、
『除くだけであり!』、
而も、
『四縁』を、
『破ることはないので!』、
是の故に、こう言う、――
『四縁の相を知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。



【經】諸法の如、法性、実際

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲知一切諸法如法性實際。當學般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是住般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、一切の諸法の如、法性、実際を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。舎利弗、菩薩摩訶薩は、応に是の如く般若波羅蜜に住すべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『一切の諸法』の、
『如( thusness )や!』、
『法性( dharma nature )や!』、
『実際( apex of reality )を!』、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『般若波羅蜜』に、
『住さねばならないのである!』。
  (にょ):梵語 tathaa の訳、似る/此のように/あたかも/同様/相似/のように見える( like, such as, as if, be equal to, be like, to seem to be )の義、実相、実相:其の在るがままの真実( thusness, thusness: reality as-it-is. )の意。
  法性(ほっしょう):法の性( Dharma nature )、梵語 dharmataa の訳、事物の真実の性/実性( The true nature of things, reality. )、本質/固有の性質( essence, inherent nature )、自己中に於いて完結した実在( Reality as complete in itself )、特に大乗哲学的な概念としては、真如に同等である( distinctively Mahāyāna philosophical concept equivalent to thusness )。
  実際(じっさい):真実の極致( apex of reality )。梵語 koTi, bhuuta-koTi の訳、真実の限界/絶対的真実( the limit of reality, absolute truth, absolute reality )の義、分別/差別を越えて/越えた者( beyond distinction, that which is beyond distinction )の意。
  (にょ):梵語tathaaの訳語にして、原そのように、同様にの義なり。乃ち如とは、如法の各各の相なり、如法の実相なり。地の堅相の如き、水の湿相の如き、謂わゆる各各の相は、これ事相の如なり。然るにこの各各の事相は、実有に非ずして、その実は皆空なれば、以って彼此の諸法は空を以って実と為すなり。空とはこれ諸仏の実相なり、この実相の如を称して如と為す、故に実相とは即ち如なり。またこの如を諸法の性と為す、故に法性と名づく、この法性を真実の極際と為す、故に実際という。故に如と、法性と、実際とは皆諸法の実相の異名なり。また諸法の理は性相同じなれば、これを如という。諸法は各各差別ありといえども、理体は則ち一味平等なるを以っての故なり。故に、如とは理の異名なり。この理の真実なるが故に、真如といい、その理を一と為すが故に、一如という。ただその理体に就きてこれを言わば、般若経の如は立てて空と為し、法華経の如は立てて中と為し、これ教門の不同なり。「智度論巻32」に、「諸法の如に二種有り、一には各各相、二には実相なり」と云い、また同に「如、法性、実際の、この三は皆これ諸法実相の異名なり」と云い、「維摩経菩薩品」に、「如とは不二不異なり」と云い、「大乗義章巻1」に、「如、法性、実際の義は大品経に出づ、この三は乃ちこれ理の別目なるが故に、龍樹は、如、法性等は実相の異名なりと言えり。言う所の如とは、これその同義なり。法相は殊なりといえども、理実は同等なるが故に名づけて如と為す。法性と言うは、自体を法と名づけ、法の体性なるが故に法性という。実際と言うは、理体の不虚なれば、これに目して実と為し、実の畔斉なるが故に生じて際と為すなり」と云えるこれなり。<(望)
  実際(じっさい):如と同じ。『大智度論巻6下注:真如、実際』參照。
  法性(ほっしょう):梵語dharmataaの訳語にして、法の体性の意、即ち諸法の真実如常なる本性をいう。「雑阿含経巻30」に、「如来出世するも、及び出世せざるも法性は常住なり。彼の如来は自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す」と云えり。これ如来は自ら法性を覚知して等正覚を成ぜられたることを説けるものなり。「大智度論巻32」に、「諸法の如に二種あり、一には各各相、二には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。かくの如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如く、地もし実にこれ堅相ならば、何を以っての故に膠蝋等は火と会する時その自性を捨て、神通あるの人は地に入ること水の如くなるや。また木石を分散すれば則ち堅相を失し、また地を破して以って微塵となし、方を以って塵を破せば終に空に帰してまた堅相を失す。かくの如く推求するに地相は則ち不可得なり。もし不可得ならばそれ実に皆空なり、空は則ちこれ地の実相なり。一切の別相も皆またかくの如し、これを名づけて如となす。法性とは前に各各法空と説くが如き、空に差品有るこれを如となし、同じく一空となすこれを法性となす。この法性にまた二種あり、一には無著の心を用って諸法を分別するに各自ら性あるが故なり、二には無量の法に名づく、謂わゆる諸法の実相なり。(中略)また次ぎに、水の性は下流するが故に、海に会帰して合して一味となるが如く、諸法もまたかくの如く、一切の総相別相は皆法性に帰して同じく一相となる。これを法性と名づく」と云えり。これ諸法に各各相と実相との二種あり、堅等の各各の相はこれを推求するに則ち不可得なり、不可得ならばそれ実に皆空なるが故に、空を諸法の実相となすことを説き、就中、空に差品有るを如と名づけ、総相別相同じく皆一空に帰するを法性と名づくることを明にせるなり。また大智度論の連文に「かくの如きを行じおわりて無量法性の中に入る。法性とは法を涅槃と名づく、不可壊不可戯論の法なり。性を名づけて本分種となす。黄石の中に金の性あり、白石の中に銀の性あり。かくの如く一切世間の法の中に皆涅槃の性あり。諸仏賢聖は智慧方便持戒禅定を以って教化引導してこの涅槃の法性を得しむ。利根の者は即ちこの諸法は皆これ法性なりと知る。譬えば神通の人はよく瓦石を変じて皆金となさしむるが如し。鈍根の者は方便分別してこれを求めて乃ち法性を得。譬えば大冶の石を鼓して然る後金を得るが如し」と云い、また同巻37に、「法性とは諸法の実相なり。身中の無明と諸結使とを除き、清浄の実観を以って諸法の本性を得るを名づけて法性と為す。性は真実に名づく」と云えり。これ即ち法性は黄石中に金の性あるが如く、諸法本然の実性に名づけたるものにして、清浄の実観を以ってまさに乃ち得べきものなるを示したるなり。また「大宝積経巻52般若波羅蜜多品」に法性の相を説き「舎利子、何等をかこれ諸法の実性と為す。舎利子、謂わゆる変異あることなく、増益あることなく、作なく不作なく、住せず根本なし。かくの如き相はこれを法性と名づく。またまた一切処に於ける通照平等、諸平等の中の善住平等、不平等中の善住平等、諸の平等不平等の中に於ける妙善平等、かくの如き等はこれを法性と名づく。また法性とは分別あることなく、所縁あることなく、一切法に於いて決定究竟の体相を証得す。かくの如きを名づけて諸法の実性となす」と云い、また「宝雨経巻9」に菩薩は十種の法性を証得することを説き「菩薩は十種の法を成就して勝義善巧を得。何等をか十と為す。一には無生法性を証得し、二には不滅法性を証得し、三には不壊法性を証得し、四には不入不出法性を証得し、五には超過言語所行法性を証得し、六には無言説法性を証得し、七には離戯論法性を証得し、八には不可説法性を証得し、九には寂静法性を証得し、十には聖者法性を証得す。何を以っての故に、善男子、勝義諦は不生不滅無入無出にして言路を超過し、文字の取るに非ざるが故に、戯論の証に非ざるが故に、言説すべからず、湛然寂静にして諸の聖者の自内の所証なるを以ってなり。善男子、諸の如来もしは出現することあるも、もしは出現せざるも、その勝義の理は常住不壊なるを以ってなり」と云い、「仏地経論巻5」にも十地の菩薩は順次に諸相増上喜愛、乃至修殖無量功徳究竟等の十種の平等法性を証得すと云えり。これ法性は平等平等にして変異増減あることなく、また不生不滅湛然寂静にして言説すべからず、ただ聖者自内証の境地なることを明にするの意なり。また「大般若経巻569法性品」には如来の法性を説き「如来の法性は有情類の蘊界処の中に在り。無始よりこのかた展転相続するも煩悩に染まず、本性清浄なり。諸の心意識は縁起する能わず、余の尋伺等も分別する能わず、邪念思惟は縁慮する能わず。邪念を遠離して無明生ぜず、この故に十二縁起に従わず。説いて無相と名づく。所作の法に非ず、無生、無滅、無辺、無尽にして自相常住なり。(中略)この諸の菩薩はこの二縁に由りて方便善巧して法性を観知するに、かくの如く法性は無量無辺なり。諸の煩悩の隠覆する所となり、生死の流に随って六道に沈没し、長夜に輪転し、有情に随うが故に有情性と名づく」と云えり。これ如来の法性は本性清浄なることを説けるものにして、即ち法性と如来蔵とを同義となせるものなるが如し。「大乗義章巻1如法性実際義」に、「法性と言うは論に言わく実相なり、体は清浄なりといえども煩悩と合するを名づけて不浄となす、煩悩を息除せば本の清浄を得るなり。浄はこれ一切諸法の体性なるが故に法性という」と云い、また「大乗起信論義疏巻上之上」に、「法性と言うはこの真有の自体を法と名づく、恒沙の仏法満足する義なるが故なり。非改を性と名づく、理体常なるが故なり」と云い、「大乗止観法門巻1」に自性清浄心をまた真如、仏性、法身、如来蔵、法界、法性と名づくと云えるは、共に法性を以って如来蔵の義に解せるものというべし。されど一般には法性と如来蔵等とを区別し、法性は広く一切法の実性を指すとなすなり。「大乗起信論義記巻上」に、「衆生数の中に在りては名づけて仏性となし、非衆生数の中に在りては名づけて法性となす」と云える即ちその意なり。また「大品般若経巻21、巻24」、「勝天王般若波羅蜜経巻3」、「円覚経」、「中論巻4観涅槃品」、「大智度論巻28、巻31、巻62、巻67、巻82、巻87、巻89」、「菩薩地持経巻1」、「瑜伽師地論巻45、巻72、巻73」、「成唯識論巻2」、「大般涅槃経集解巻9」、「大乗義章巻中」、「摩訶止観巻1上、巻5下」、「大乗玄論巻3」、「成唯識論述記巻2末、巻9末」等に出づ。<(望)
【論】諸法如有二種。一者各各相二者實相。各各相者。如地堅相水濕相火熱相風動相。如是等分別諸法各自有相。 諸法の如には、二種有り、一には各各相、二には実相なり。各各相とは、地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。是れ等の如く、諸法を分別するに、各自ら相有り。
『諸法の如』には、
『二種有り!』、
一には、
『各各相という!』、
『如であり!』、
二には、
『実相という!』、
『如である!』。
『各各相』とは、
例えば、
『地の堅相や!』、
『水の湿相や!』、
『火の熱相や!』、
『風の動相のようなものであり!』、
是れ等のように、
『諸法を分別すれば!』、
各に、
『自の!』、
『相が有る!』。
實相者。於各各相中分別求實不可得不可破。無諸過失如自相空中說。地若實是堅相者。何以故膠蠟等與火會時捨其自性。有神通人入地如水又分散木石則失堅相。又破地以為微塵以方破塵終歸於空亦失堅相。如是推求地相則不可得。若不可得其實皆空空則是地之實相。一切別相皆亦如是。是名為如。 実相とは、各各相中に於いて分別し、実を求むれば、不可得、不可破にして、諸の過失無し。自相空中に説けるが如し、『地、若し実に是れ堅相ならば、何を以っての故にか、膠、蝋等の火と会う時、其の自性を捨つる。有る神通の人は、地に入ること水の如くして、又木石を分散すれば、則ち堅相を失い、又地を破りて、以って微塵と為し、以って方(まさ)に塵を破らんとすれば、終に空に帰すれば、亦た堅相を失う。是の如く推求すれば、地相は則ち得べからず。若し得べからざれば、其の実は、皆空なり。空は、則ち是れ地の実相なり。一切の別相も、皆亦た是の如し。是れを名づけて、如と為す。
『実相』とは、
『各各相中に、分別して!』、
『実を求めても!』、
『不可得であり( be unrecognizable )!』、
『不可破であり( not to be devided )!』、
『諸の過失が無い( be faultless )!』。
『自相空』中に、説いたように、――
『地』が、
若し、
『実に、堅相ならば!』、
何故、
『膠や、蝋等』は、
『火に会う!』時、
其の、
『自性』を、
『捨てるのか?』。
有る、
『神通の人』は、
『地』に、
『水のように!』、
『入る!』し、
又、
『木石』を、
『分散すれば!』、
『堅相』を、
『失う!』し、
又、
『地を破って!』、
『微塵にしながら!』、
方に( simultaneously )、
『微塵』を、
『破れば!』、
終に、
『空に!』、
『帰することになる!』ので、
亦た、
『堅相』を、
『失う!』、と。
是のように、
『地相を推求すれば!』、
『不可得であり!』、
若し、
『不可得ならば!』、
其の、
『実』は、
『皆、空であり!』、
『空』とは、
則ち、
『地の実相なのである!』。
『一切の別相』は、
亦た、
皆、
『是の通りであり!』、
是れを、
『如』と、
『称するのである!』。
  不可破(ふかは):梵語 abhedya, abhedyatva の訳、割れたり、壊れたりしないこと/不可分性( not to be divided or broken, indivisibility )の義。
  無過失(むかしつ):梵語 anavadya, anavadyatva の訳、非難の余地の無い/過失の無い/無過失性( irreproachable, faultless, faultlessness )の義。
  (ほう):[本義]双胴船、並行( parallel boats, parallel )。<動詞>匹敵/相当する( match, be equal to )、比較/比擬する( compare )、辨別/区別する( differentiate )、占有する( occupy )、依拠する( rely on )、摸倣/模擬する( mimic, simulate, copy )、過失を責める/中傷する( vilify, defame, slander )。<名詞>筏( raft )、方形( cube, square )、方向/方位( orientation, direction )、地区/地方( locality, place, region )、方面( aspect, side )、規律/道理( law, rule, reason )、儒家の倫理道徳と学問( moral principle and knowledge, learning )、薬物の配合方( recipe )、品類/類別( sort )、大地( the earth )、方法( method )。<形容詞>方正/正直( upright )。<副詞>丁度/丁度其の時( just, at the time when )、[時間を表示する]まさに・将に相当、[範囲・程度を表示する]只、僅かに( only )。<介詞・前置詞>[時間を表示する]在、当に相当( at )。
法性者如前說各各法空。空有差品是為如。同為一空是為法性。是法性亦有二種。一者用無著心分別諸法各自有性故。二者名無量法。所謂諸法實相。如持心經說。法性無量。聲聞人雖得法性。以智慧有量故不能無量說。如人雖到大海以器小故不能取無量水是為法性。 法性とは、前に各各法の空を説けるが如く、空に差品有りて、是れを如と為し、同じく一空と為すを、是れを法性と為す。是の法性にも、亦た二種有り、一には無著心を用いて諸法を分別するに、各自ら性有るが故なり。二には、無量の法、謂わゆる諸法の実相と名づく。持心経に説けるが如く、法性は無量なれば、声聞人は、法性を得と雖も、智慧の有量なるを以っての故に、無量に説く能わず。人の大海に到ると雖も、器の小なるを以っての故に、無量の水を取る能わざるが如き、是れを法性と為す。
『法性』とは、
前に、
『各各法の空』を、説いたように、――
『空』には、
『差品が有り!』、
是の、
『空の差品( difference )』を、
『如』と、
『称するのである!』が、
是の、
『如』は、
『同じく!』、
『一空である!』ので、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
是の、
『法性』には、
『二種有って!』、
一には、
『無著心を用いて!』、
『諸法』を、
『分別すれば!』、
『諸法』は、
『各、自性を有する!』が故に、
是れを、
『法性』と、
『称し!』、
二には、
『無量の法』、
謂わゆる、
『諸法の実相』を、
『法性』と、
『称するのである!』。
例えば、
『持心経』に、説く通りである、――
『法性は無量であり!』、
『声聞人が法性を得たとしても!』、
『智慧が有量である!』が故に、
『無量の法性』を、
『説くことができない!』、と。
譬えば、
『人』が、
『大海に到っても!』、
『器が小である!』が故に、
『無量の水』を、
『取ることができないようなものである!』。
是れを、
『法性』と、
『称する!』。
  差品(しゃほん):差別、差異、類別( difference )。
  参考:『勝思惟梵天所問経巻3』:『爾時會中。有一菩薩摩訶薩名曰普華。問長老舍利弗言。大德舍利弗。汝為證法性為不證耶。而不能如是以大智慧奮迅說法。佛說大德於智慧人中最為第一。大德。何以不現如是智慧辯才自在力耶。答言。善男子。隨智慧力。佛說我於聲聞弟子智慧人中最為第一能有所說。大德舍利弗。法性境界有多少耶。答言無也。大德舍利弗。若法性境界無多少者。汝云何言隨智慧力。佛說我於聲聞弟子智慧人中最為第一能有所說。答言。善男子。於聲聞中隨所得法而有所說。大德舍利弗。汝證法性境界有量相耶。答言無也。大德舍利弗。若如是者。汝云何言隨所得法而有所說。大德舍利弗。如法性無量相。證亦如是。如證說亦如是。何以故。法性無量相故。舍利弗言。善男子。法性非證相。大德舍利弗。若彼法性非證相者。汝出法性得解脫耶。答言不也。大德舍利弗。何故爾耶。答言。善男子。若出法性得解脫者。則壞法性。普華菩薩言。是故舍利弗。如汝證法。法性亦如是。舍利弗言。善男子。我為聽來非為說也。大德舍利弗。一切諸法皆入法性。此法性中寧有說者有聽者不。答言無也。大德舍利弗。若如是者。汝云何言我為聽來非為說耶。答言。善男子。佛說二人得福無量。一者專精說法。二者一心聽受。以是義故。普華應說我應聽受。大德舍利弗。汝入滅盡定能聽法耶。答言。善男子。入滅盡定。無有二行而聽法也。大德舍利弗。汝信諸法皆是自性滅盡相不。答言。善男子。如是諸法皆是自性滅盡之相。我信是說。普華菩薩言。若如是者。則舍利弗。常一切時不能聽法。何以故。以一切法常是自性滅盡相故。舍利弗言。善男子。仁能不起于定而說法耶。曰頗有一法非是定耶。答言無也。大德舍利弗。以是義故。當知一切愚癡凡夫應常在定。舍利弗言。以何定故。一切凡夫常在定耶。曰以不壞法性三昧故。舍利弗言。善男子。若如是者。凡夫聖人無有差別。大德舍利弗。如是如是。我不欲令凡夫聖人有差別也。何以故。聖人無所得一法。凡夫無所生一法。是二不過法性平等之相。舍利弗言。善男子。仁以何等。是諸法性平等之相。曰如舍利弗所得知見。大德舍利弗。汝生賢聖法耶。答言不也。汝滅凡夫法耶。答言不也。汝得賢聖法耶。答言不也。汝見凡夫法耶。答言不也。大德舍利弗。若如是者。汝何知見說言得法耶。答言。善男子。可不聞如。凡夫無智慧如。即是漏盡解脫如。漏盡解脫如。即是無餘涅槃如。普華菩薩言。大德舍利弗。如不異如不改如不變如不壞如。應以是如知一切法。爾時長老舍利弗白佛言。世尊。譬如大火一切炷焰悉皆能燒。如是此諸善男子。所說法性悉皆能燒一切煩惱。佛言。舍利弗。如汝所言。是諸善男子。所說法性悉皆能燒一切煩惱』
實際者。以法性為實證故為際。如阿羅漢名為住於實際。 実際とは、法性を以って実証を為さんが故に際と為す。阿羅漢を名づけて、実際に住すと為すが如し。
『実際』とは、
『法性を用いて!』、
『実証する!』が故に、
『際( the limit of reality )』と、
『称する!』。
例えば、
『阿羅漢』を、
『実際に住する!』者と、
『称するようなものである!』。
問曰。如法性實際是三事為一為異。若一云何說三。若三今應當分別說。 問うて曰く、如、法性、実際は、是の三事を一と為すや、異と為すや。若し一なれば、云何が三を説く。若し三なれば、今応当に分別して説くべし。
問い、
『如、法性、実際という!』、
『三事』は、
『一ですか?』、
『異ですか?』。
若し、
『一事ならば!』、
何故、
『三事』を、
『説くのですか?』。
若し、
『三事ならば!』、
今、
『分別して!』、
『説かれねばなりません!』。
答曰。是三皆是諸法實相異名。所以者何。凡夫無智於一切法作邪觀。所謂常樂淨實我等。 答えて曰く、是の三は、皆是れ諸法の実相の異名なり。所以は何んとなれば、凡夫は、無智なれば、一切法に於いて邪観を作せばなり、謂わゆる常、楽、浄、実我等なり。
答え、
是の、
『三事』は、
皆、
『諸法の実相』の、
『異名である!』。
何故ならば、
『凡夫』は、
『無智であり!』、
『一切の法』に、
『邪観』を、
『作すからである!』。
謂わゆる、
『常観や、楽観や、浄観や、実、我観等である!』。
佛弟子如法本相觀。是時不見常是名無常。不見樂是名苦。不見淨是名不淨。不見實是名空。不見我是名無我。若不見常而見無常者是則妄見。見苦空無我不淨亦如是。是名為如。 仏弟子の如法なる本相観は、是の時、常を見ざる、是れを無常と名づけ、楽を見ざる、是れを苦と名づけ、浄を見ざる、是れを不浄と名づけ、実を見ざる、是れを空と名づけ、我を見ざる、是れを無我と名づく。若し常を見ずして、無常を見れば、是れ則ち妄見なり。苦、空、無我、不浄を見るも、亦た是の如し。是れを名づけて、如と為す。
『仏弟子』の、
『如法の本相観』は、
是の時、
『常を見ないこと!』を、
『無常』と、
『称し!』、
『楽を見ないこと!』を、
『苦』と、
『称し!』、
『浄を見ないこと!』を、
『不浄』と、
『称し!』、
『実を見ないこと!』を、
『空』と、
『称し!』、
『我を見ないこと!』を、
『無我』と、
『称するのであり!』、
若し、
『常を見ないで!』、
『無常』を、
『見れば!』、
是れは、
則ち( that is )、
『妄見である!』。
亦た、
『苦、空、無我、不浄』を、
『見ること!』も、
『是の通りである!』。
是れを、
『如( thusness )』と、
『称する!』。
  :常観は誤謬の故に見ないことが如(ありのまま)であり、無常は言葉のみ有り、実体は無いが故に、見れば妄見である。
如者如本無能敗壞。以是故佛說三法為法印。所謂一切有為法無常印。一切法無我印。涅槃寂滅印。 如とは、本の如くして、能く敗壊する無し。是を以っての故に、仏の説きたまわく、『三法を法印と為す。謂わゆる一切有為法無常印、一切法無我印、涅槃寂滅印なり』、と。
『如』とは、
『本のまま( as it was )であり!』、
『敗壊させる!』者が、
『無いことであり!』、
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『三法』は、
『法印である!』、
謂わゆる、
『一切の有為法』は、
『無常であるという!』、
『印と!』、
『一切の法』は、
『無我であるという!』、
『印と!』、
『涅槃』とは、
『寂滅であるという!』、
『印である!』、と。
  三法印(さんほういん):『大智度論巻22上』参照。
  参考:『雑阿含経巻10(262)』:『時。闡陀過此夜已。晨朝著衣持缽。入波羅奈城乞食。食已。還攝舉臥具。攝臥具已。持衣缽詣拘睒彌國。漸漸遊行到拘睒彌國。攝舉衣缽。洗足已。詣尊者阿難所。共相問訊已。卻坐一面。時。闡陀語尊者阿難言。一時。諸上座比丘住波羅奈國仙人住處鹿野苑中。時。我晨朝著衣持缽入波羅奈城乞食。食已。還攝衣缽。洗足已。持戶鉤。從林至林。從房至房。從經行處至經行處。處處見諸比丘。而請之言。當教授我。為我說法。令我知法.見法。時。諸比丘為我說法言。色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。我爾時語諸比丘言。我已知色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。然我不喜聞。一切諸行空寂.不可得.愛盡.離欲.涅槃。此中云何有我。而言如是知.如是見是名見法。我爾時作是念。是中誰復有力堪能為我說法。令我知法.見法。我時復作是念。尊者阿難今在拘睒彌國瞿師羅園。曾供養親覲世尊。佛所讚歎。諸梵行者皆悉知識。彼必堪能為我說法。令我知法.見法。善哉。尊者阿難今當為我說法。令我知法.見法。。時。尊者阿難語闡陀言。善哉。闡陀。我意大喜。我慶仁者能於梵行人前。無所覆藏。破虛偽刺。闡陀。愚癡凡夫所不能解色無常。受.想.行.識無常。一切諸行無常。一切法無我。涅槃寂滅。汝今堪受勝妙法。汝今諦聽。當為汝說』
問曰。是三法印般若波羅蜜中悉皆破壞。如佛告須菩提。若菩薩摩訶薩觀色常不行般若波羅蜜。觀色無常不行般若波羅蜜。苦樂我無我寂滅非寂滅亦如是。如是云何名法印。 問うて曰く、是の三法印は、般若波羅蜜中に悉く皆破壊す。仏の須菩提に告げたもうが如し、『若し菩薩摩訶薩、色の常を観れば、般若波羅蜜を行ぜず、色の無常を観れば般若波羅蜜を行ぜず、苦楽我無我寂滅非寂滅も亦た是の如し』、と。是の如きを云何が、法印と名づくる。
問い、
是の、
『三法印』は、
『般若波羅蜜』中に、
悉く皆、
『破壊されている!』。
『仏』が、
『須菩提』に、こう告げられた通りである、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『色は、常であると観れば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行ったことにならない!』し、
『色は、無常であると観ても!』、
『般若波羅蜜』を、
『行ったことにならない!』。
亦た、
『苦、楽、我、無我、寂滅、非寂滅』も、
『是の通りである!』、と。
是のような者を、
何故、
『法印』を、
『称するのですか?』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3相行品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩無方便欲行般若波羅蜜。若行色為行相。若行受想行識為行相。若色是常行為行相。若受想行識是常行為行相。若色是無常行為行相。若受想行識是無常行為行相。若色是樂行為行相。若受想行識是樂行為行相。若色是苦行為行相。若受想行識是苦行為行相。若色是有行為行相。若受想行識是有行為行相。若色是空行為行相。若受想行識是空行為行相。若色是我行為行相。若受想行識是我行為行相。若色是無我行為行相。若受想行識是無我行為行相。若色是離行為行相。若受想行識是離行為行相。若色是寂滅行為行相。若受想行識是寂滅行為行相。世尊。若菩薩摩訶薩無方便行四念處為行相。乃至行十八不共法為行相。世尊。若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時作是念。我行般若波羅蜜。有所得行亦是行相。世尊。若菩薩摩訶薩作是念。能如是行是修行般若波羅蜜。亦是行相。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜無方便。』
答曰。二經皆是佛說。如般若波羅蜜經中了了說諸法實相。 答えて曰く、二経は、皆是れ仏説なるも、般若波羅蜜経中の如きには、了了に諸法の実相を説けり。
答え、
『二経』は、
皆、
『仏説である!』が、
『般若波羅蜜経中などには!』、
『了了に( very clearly )!』、
『諸法の実相』が、
『説かれている!』。
有人著常顛倒故捨常見。不著無常相是名法印。非謂捨常著無常者以為法印。我乃至寂滅亦如是。般若波羅蜜中破著無常等見。非謂破不受不著。得是諸法如已。則入法性中滅諸觀不生異信性自爾故。譬如小兒見水中月入水求之不得便愁。智者語言性自爾莫生憂惱。善入法性是為實際。 有る人は、常顛倒に著するが故に、常見を捨つるも、無常相に著せず、是れを法印と名づけ、常を捨てて、無常に著する者を謂い、以って法印と為すに非ず。我、乃至寂滅も亦た是の如し。般若波羅蜜中には、無常等に著する見を破り、不受、不著を破るを謂うに非ず。是の諸法の如を得已れば、則ち法性中に入り、諸観を滅して、異信を生ぜず、性の自ら爾るが故なり。譬えば小児の水中の月を見て、水に入りて之を求むるに、得ずして便ち愁うるに、智者の語りて、『性は、自ら爾り。憂悩を生ずる莫れ』、と言うが如く、善く法性に入る、是れを実際と為す。
有る、
『人』は、
『常という!』、
『顛倒( inverted view )に!』、
『著する!』が故に、
『常見を捨てながら!』、
而も、
『無常相に著さないこと!』を、
『法印』と、
『称するのであり!』、
『常を捨てて!』、
『無常に著する!』者を、
『法印と!』、
『謂うのではない!』。
亦た、
『我、乃至寂滅』も、
『是の通りである!』。
『般若波羅蜜』中には、
『無常等に著する!』、
『見』を、
『破る!』が、
『無常等に不受、不著であること!』を、
『破ること!』を、
『謂うのではない!』。
是の、
『諸法の如を得たならば!』、
則ち、
『法性中に入って!』、
『諸観』を、
『滅することになり!』、
『異信を生じなくなる!』のは、
『諸法の性』は、
『自ら爾うだからである( naturally it is so )!』。
譬えば、
『小児』が、
『水中の月を見て!』、
『水に入って!』、
『求めても!』、
『得られない!』ので、
便ち( then )、
『愁えている!』と、
『智者が語って!』、こう言うように、――
『月の性、自ら爾うである!』。
『憂悩』を、
『生じてはならない!』、と。
『善く( good )!』、
『法性に入ること!』を、
『実際』と、
『称するのである!』。
問曰。聲聞法中何以不說是如法性實際。而摩訶衍法中處處說。 問うて曰く、声聞法中には、何を以ってか、是の如、法性、実際を説かずして、摩訶衍法中には処処に説く。
問い、
是の、
『如、法性、実際』は、
何故、
『声聞法』中には、
『説かれず!』、
『摩訶衍法』中には、
『処処に!』、
『説かれているのですか?』。
答曰。聲聞法中亦有說處但少耳。 答えて曰く、声聞法中にも、説ける処有るも、但だ少しなるのみ。
答え、
『声聞法』中にも、
但だ、
『少しならば!』、
『説かれた処』が、
『有る!』。
如雜阿含中說。有一比丘問佛十二因緣法。為是佛作為是餘人作。佛告比丘。我不作十二因緣亦非餘人作。有佛無佛諸法如法相法位常有。所謂是事有故是事有。是事生故是事生。如無明因緣故諸行。諸行因緣故識。乃至老死因緣故有憂悲苦惱。是事無故是事無。是事滅故是事滅。如無明滅故諸行滅。諸行滅故識滅。乃至老死滅故憂悲苦惱滅。如是生滅法有佛無佛常爾。是處說如。 雑阿含中に説けるが如し、有る一比丘の仏に問わく、『十二因縁の法は、是れ仏の作と為すや、是れ余人の作と為すや』、と。仏の比丘に告げたまわく、『我れ、十二因縁を作さず、亦た余人の作に非ず。仏有るも、仏無きも、諸法の如、法相、法位は常に有り。謂わゆる是の事有るが故に、是の事有り。是の事生ずるが故に、是の事生ず。無明の因緣の故に、諸行あり、諸行の因縁の故に識あり、乃至老死の因縁の故に、憂悲、苦悩有るが如し。是の事無きが故に是の事無く、是の事滅するが故に是の事滅す。無明滅するが故に諸行滅し、諸行滅するが故に識滅し、乃至老死滅するが故に憂悲、苦悩滅するが如し。是の如き生滅の法は、仏有るも、仏無きも常に爾り』、と。是の処に、如を説きたまえり。
『雑阿含中に説かれた通りである!』、――
有る、
『一比丘』が、
『仏』に、こう問うた、――
『十二因縁の法』は、
『仏が作られたのですか?』、
『余人が作ったのですか?』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
『十二因縁』は、
『わたしが、作ったのでもなく!』、
『余人が、作ったのでもない!』。
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『諸法』の、
『如、法相、法位』は、
『常に、有る!』。
謂わゆる、
是の、
『事が有る!』が故に、
是の、
『事』が、
『有り!』、
是の、
『事が生じる!』が故に、
是の、
『事』が、
『生じる!』とは、
例えば、
『無明の因縁』の故に、
『諸行』が、
『有り!』、
『諸行の因縁』の故に、
『識』が、
『有り!』、
乃至、
『老死の因縁』の故に、
『憂悲、苦悩』が、
『有るようなものである!』。
是の、
『事が無い!』が故に、
是の、
『事』が、
『無く!』、
是の、
『事が滅する!』が故に、
是の、
『事』が、
『滅する!』とは、
例えば、
『無明が滅する!』が故に、
『諸行』が、
『滅し!』、
『諸行が滅する!』が故に、
『識』が、
『滅し!』、
乃至、
『老死が滅する!』が故に、
『憂悲、苦悩』が、
『滅するようなものである!』。
是のような、
『生滅の法』は、
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『常に!』、
『爾うなのである!』、と。
『仏』は、
是の、
『処に!』、
『如を説かれたのである!』。
  法位(ほうい):梵語 dharma-sthititaa の訳、法の揺るぎなき地位( the firm position of dharma )の義。真如の異名。又法住とも称す。
  法位(ほうい):真如の異名。また法住ともいう。真如は諸法安住の位なるが故に法位と名づけ、また真如は菩薩安住の位なるが故に法位と名づく。「大智度論巻68釈魔事品」に、「仏言わく、未だ法位に入らずんば、諸仏は授記を与えずと。所以は何んとなれば、諸仏は悉く衆生の久遠の事を知るといえども、五通仙人及び諸天の為に、この人は、未だ善行業因縁の授記すべき者有らざるを見るに、もし授記を為さば、仏を軽んじて、因縁有ることなきに、云何が授記を与うと信ぜざらん、この故に法位に入る者に授記を与うるなり」と云えるこれなり。<(丁)
  参考:『雑阿含経巻30(852)』:『如是我聞。一時。佛住那梨迦聚落繁耆迦精舍。爾時。那梨迦聚落多人命終。時。有眾多比丘著衣持缽。入那梨迦聚落乞食。聞那梨迦聚落罽迦舍優婆塞命終。尼迦吒.佉楞迦羅.迦多梨沙婆.闍露.優婆闍露.梨色吒.阿梨色吒.跋陀羅.須跋陀羅.耶舍耶輸陀.耶舍鬱多羅悉皆命終。聞已。還精舍。舉衣缽。洗足已。詣佛所。稽首佛足。退坐一面。白佛言。世尊。我等眾多比丘晨朝入那梨迦聚落乞食。聞罽迦舍優婆塞等命終。世尊。彼等命終。當生何處。佛告諸比丘。彼罽迦舍等已斷五下分結。得阿那含。於天上般涅槃。不復還生此世。諸比丘白佛。世尊。復有過二百五十優婆塞命終。復有五百優婆塞於此那梨迦聚落命終。皆五下分結盡。得阿那含。於彼天上般涅槃。不復還生此世。復有過二百五十優婆塞命終。皆三結盡。貪.恚.癡薄。得斯陀含。當受一生。究竟苦邊。此那梨迦聚落復有五百優婆塞於此那梨迦聚落命終。三結盡。得須陀洹。不墮惡趣法。決定正向三菩提。七有天人往生。究竟苦邊。佛告諸比丘。汝等隨彼命終.彼命終而問者。徒勞耳。非是如來所樂答者。夫生者有死。何足為奇。如來出世及不出世。法性常住。彼如來自知成等正覺。顯現演說。分別開示。所謂是事有故是事有。是事起故是事起。緣無明有行。乃至緣生有老.病.死.憂.悲.惱苦。如是苦陰集。無明滅則行滅。乃至生滅則老.病.死.憂.悲.惱苦滅。如是苦陰滅。今當為汝說法鏡經。諦聽。善思。當為汝說。何等為法鏡經。謂聖弟子於佛不壞淨。於法.僧不壞淨。聖戒成就。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『大品般若経巻21』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩應作是念。色非義非非義。乃至識非義非非義。檀那波羅蜜乃至阿耨多羅三藐三菩提非義非非義。何以故。須菩提。佛得阿耨多羅三藐三菩提時。無有法可得若義若非義。須菩提。有佛無佛諸法法相常住。無有義無有非義如是須菩提菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。應離義及非義。須菩提白佛言。世尊。何以故。般若波羅蜜非義非非義。佛告須菩提。一切有為法無作相。以是故般若波羅蜜非義非非義。』
如雜阿含舍利弗師子吼經中說。佛問舍利弗一句義。三問三不能答。佛少開示。舍利弗已入於靜室。舍利弗集諸比丘語諸比丘言。佛未示我事端未即能答。今我於此法七日七夜演說其事而不窮盡。復有一比丘白佛。佛入靜室後。舍利弗作師子吼而自讚歎。佛語比丘。舍利弗語實不虛。所以者何。舍利弗善通達法性故。聲聞法中觀諸法生滅相是為如。滅一切諸觀得諸法實相。是處說法性。 雑阿含舎利弗師子吼経中に説けるが如し、仏の舎利弗に、一句の義を問いたもうに、三たび問うて、三たび答うる能わず。仏の少しく、舎利弗に開示し已りて、静室に入りたまえり。舎利弗の諸比丘を集め、諸比丘に語りて言わく、『仏は、未だ我れに事の端を示したまわざれば、未だ即ち答うる能わず。今、我れ、此の法に於いて、七日七夜演説するも、其の事は、而も窮尽せざらん』、と。復た有る一比丘の仏に白さく、『仏、静室に入りたまえる後、舎利弗は師子吼を作して、自ら讃歎せり』、と。仏の比丘に語りたまわく、『舎利弗は、実を語りて、虚しからず。所以は何んとなれば、舎利弗は、善く法性に通達するが故なり』、と。声聞法中には、諸法の生滅相を観じて、是れを如と為すも、一切の諸観を滅して、諸法の実相を得ること、是の処に、法性を説きたまえり。
『雑阿含舎利弗師子吼経』中には、こう説かれているが、――
『仏』が、
『舎利弗』に、
『一句の義』を、
『問われた!』が、
『舎利弗』は、
『三たび問うて!』、
『三たび!』、
『答えることができなかった!』。
『仏』は、
『舎利弗』に、
『少しだけ、開示される( to teach a little )!』と、
『静室』に、
『入られた!』。
『舎利弗』は、
『諸比丘を集め!』、
『諸比丘に語って!』、こう言った、――
『仏』は、
わたしに、
未だ、
『事の端すら!』、
『示されない!』ので、
わたしは、
『即ち( promptly )!』、
『答えることができなかった!』が、
今、
わたしが、
此の、
『法』を、
『七日、七夜演説したとしても!』、
其の、
『事』が、
『窮尽することはないであろう!』、と。
復た、
『有る比丘』は、
『仏』に、こう白した、――
『仏』が、
『静室に入られた!』後、
『舎利弗が、師子吼して!』、
『自らを!』、
『讃歎していた!』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう語られた、――
『舎利弗が語ったとすれば!』、
『実であり!』、
『虚妄ではない!』。
何故ならば、
『舎利弗』は、
『法性』に、
『善く通達しているからである!』、と。
『声聞法』中には、
『諸法』は、
『生滅の相である!』と、
『観て!』、
是れを、
『如』と、
『称する!』が、
是の、
『処』には、
『一切の諸観を滅して!』、
『諸法の実相』を、
『得ること!』を、
『仏』は、
『法性である!』と、
『説かれている!』。
  開示(かいじ):梵語 nidarzana の訳、指し示す/見せる/導く/告知する/宣言する/教える( pointing to, showing, indicating, announcing, proclaiming, teaching )の義。
  参考:『雑阿含経巻14(345)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告尊者舍利弗。如我所說。波羅延耶阿逸多所問 若得諸法教  若復種種學  具威儀及行  為我分別說  舍利弗。何等為學。何等為法數。時。尊者舍利弗默然不答。第二.第三亦復默然。佛言。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。比丘真實者。厭.離欲滅盡向。食集生。彼比丘以食故。生厭.離欲.滅盡向。彼食滅。是真實滅覺知已。彼比丘厭.離欲.滅盡向。是名為學。復次。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。若比丘真實者。厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。彼從食集生。若真實即是滅盡。覺知此已。比丘於滅生厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。是數法。佛告舍利弗。如是。如是。如汝所說。比丘於真實生厭.離欲.滅盡。是名法數。如是說已。世尊即起。入室坐禪。爾時。尊者舍利弗知世尊去已。不久。語諸比丘。諸尊。我不能辯世尊初問。是故我默念住。世尊須臾復為作發喜問。我即開解如此之義。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。以異句異味而解說之。時。有異比丘往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。尊者舍利弗作奇特未曾有說。於大眾中。一向師子吼言。我於世尊初問。都不能辯。乃至三問默然無答。世尊尋復作發喜問。我即開解。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。佛告比丘。彼舍利弗比丘實能於我一日一夜。乃至異句異味。七夜所問義中悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。所以者何。舍利弗比丘善入法界故。佛說此經已。彼比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。是處但說如法性何處復說實際。 問うて曰く、是の処は、但だ如、法性を説く。何れの処にか、復た実際を説く。
問い、
是の、
『処』は、
但だ、
『如、法性』を、
『説いている!』が、
復た、
『実際』は、
『何処に!』、
『説かれているのですか?』。
答曰。此二事有因緣故說實際。無因緣故不說實際。 答えて曰く、此の二事は、因緣有るが故に説くも、実際は因縁無きが故に、実際を説かず。
答え、
此の、
『二事』は、
『因緣が有る!』が故に、
『説かれた!』が、
『実際』は、
『因緣が無い!』が故に、
『説かれなかった!』。
問曰。實際即是涅槃。為涅槃故佛說十二部經。云何言無因緣。 問うて曰く、実際は、即ち是れ涅槃なり。涅槃の為に故に、仏は十二部経を説きたまえり。云何が因縁無しと言う。
問い、
『実際』とは、
即ち( that is )、
『涅槃であり!』、
『涅槃の為』の故に、
『仏』は、
『十二部の経』を、
『説かれたのである!』。
何故、
『因縁が無い!』と、
『言うのですか?』。
答曰。涅槃種種名字說。或名為離或名為妙或名為出。如是等則為說實際。但不說名字故言無因緣。 答えて曰く、涅槃は、種種の名字を説いて、或いは名づけて、離と為し、或いは名づけて、妙と為し、或いは名づけて、出と為す。是れ等の如きは、即ち実際を説くと為す。但だ名字を説かざるが故に、因縁無しと言う。
答え、
『涅槃』は、
種種の、
『名字』が、
『説かれており!』、
或いは、
『離』と、
『呼ばれ!』、
或いは、
『妙』と、
『呼ばれ!』、
或いは、
『出』と、
『呼ばれている!』が、
是れ等のような者は、
則ち、
『実際』を、
『説いたのである!』が、
但だ、
『実際という!』、
『名字が!』、
『説かれていない!』が故に、
『因縁』が、
『無い!』と、
『言ったのである!』。
復次諸法如者如諸法未生時生時亦如是。生已過去現在亦如是。諸法三世平等是名為如。 復た次ぎに、諸法の如とは、諸法の未だ生ぜざる時の如く、生ずる時も亦た是の如く、生じ已りて過去、現在も亦た是の如く、諸法にして三世に平等なれば、是れを名づけて如と為す。
復た次ぎに、
『諸法の如』とは、
諸の、
『法』が、
『未だ、生じない時のように!』、
『生じる時も!』、
『是の通りであり!』、
亦た、
『生じてしまった!』、
『過去や、現在も!』、
『是の通りならば!』、
諸の、
『法』は、
『三世に!』、
『平等であり!』、
是れを、
『如』と、
『称する!』。
問曰。若未生法名為未有生法。現在則有法可用因。現在法有事用相故追憶過事是名過去。三世各異不應如實為一。云何言三世平等是名為如。 問うて曰く、若し未だ生ぜざる法を、名づけて未だ有らずと為せば、生法は、現在にして、則ち法の用うべき有り。現在の法に、事、用、相有るに因るが故に、追憶する過ぎし事、是れを過去と名づく。三世は各異なれば、応に如実に一と為すべからず。云何が、『三世の平等なる、是れを名づけて、如と為す』、と言う。
問い、
若し、
『未生の法』を、
『未だ無い!』者と、
『呼べば!』、
『生じた法』は、
『現在有って!』、
『用いることができる!』。
『現在の法』に、
『事( an entity )や、用( an action )や、相( a characteristic )』が、
『有るが故に、追憶することのできる!』、
『過ぎた事』を、
『過去』と、
『称する!』。
『三世』は、
『各が異なっており!』、
『如実に!』、
『一だということではない!』。
何故、こう言うのですか?――
『三世に平等である!』者を、
『如』と、
『称する!』、と。
  (じ):梵語arthaの訳語、事件/事物/実体/明白な現象/明瞭な現象( an event, a thing; an entity, manifest phenomenon, distinct phenomenon )の義。
  (ゆう):梵語 kRtya の訳、実行可能な( feasible, practicable )、行為/事業/演技/奉仕( action, business, performance, service )の義。
  (そう):梵語 lakSaNa の訳、目印/標識/記号/象徴/特色/属性/特質( a mark, sign, symbol, token, characteristic, attribute, quality )の義。
  作用(さゆう):動作、起用の意。また略して用ともいう。「大毘婆沙論巻39」に、「法の未来なるは未だ作用あらず、もし現在に至らば便ち作用あり。もし過去に入らば作用すでに息むが故に転変あり」と云い、「倶舎論巻5」に、生の作用は未来に在り、現在にすでに生ずれば更に生ぜざるが故なり。諸法生じおわりて正に現在する時、住等の三相の作用まさに起こる。生の用の時に余の三用あるに非ず」と云い、また「成唯識論巻2」に、「有生滅とは、もし法常に非ざればよく作用ありて習気を生長す、乃ちこれ能熏なり。これ無異は前後不変にして生長の用なきが故に、能熏に非ざるを遮す」と云える即ちその例なり。これ作用は三世有為法の中、ただ現在法にのみ有りて過去と未来法とには無く、また四相の中、生相の用は未来に在り、住、異、滅の三相の用は、法の現在する時まさに起こるものなることを明し、また無為法は生、住、異、滅の四相を離れ、世の為に遷流せらるるものに非ざるが故に、すべて作用なきことを説けるものなり。また「大乗起信論」、「同義記巻下本」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末、巻3本」等に出づ。<(望)
答曰。諸法實相中三世等一無異。如般若波羅蜜如品中說。過去如未來如現在如如來如一如無有異。 答えて曰く、諸法の実相中には、三世は等一にして、異無し。般若波羅蜜の如品中に説けるが如く、過去の如、未来の如、現在の如、如来の如は、一如にして、異有ること無し。
答え、
『諸法の実相』中には、
『三世』は、
『等一であり!』、
『異が無い!』。
『般若波羅蜜の如品』中に、説かれているように、――
『過去の如も、未来の如も、現在の如も、如来の如も!』、
『一如であり!』、
『異が無い!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻16大如品』:『爾時須菩提語諸天子。汝等言。須菩提是佛子隨佛生。云何為隨佛生。諸天子。如相故須菩提隨佛生。何以故。如來如相不來不去。須菩提如相亦不來不去。是故須菩提隨佛生。復次須菩提。從本以來隨佛生。何以故。如來如相即是一切法如相。一切法如相即是如來如相。是如相中亦無如相。是故須菩提為隨佛生。復次如來如常住相。須菩提如亦常住相。如來如相無異無別。須菩提如相亦如是無異無別。是故須菩提為隨佛生。如來如相無有礙處。一切法如相亦無礙處。是如來如相一切法如相。一如無二無別。是如相無作終不不如。是故是如相一如無二無別。是故須菩提為隨佛生。如來如相一切處無念無別。須菩提如相亦如是。一切處無念無別。如來如相不異不別不可得。須菩提如相亦如是。以是故須菩提為隨佛生。如來如相不遠離諸法如相。是如終不不如。是故須菩提。如不異故為隨佛生亦無所隨。復次如來如相不過去不未來不現在。諸法如相亦不過去不未來不現在。是故須菩提為隨佛生。復次如來如不在過去如中。過去如不在如來如中。如來如不在未來如中。未來如不在如來如中。如來如不在現在如中。現在如不在如來如中。過去未來現在如如來如。一如無二無別。色如如來如。受想行識如如來如是色如受想行識如如來如。一如無二無別。我如乃至知者見者如如來如。一如無二無別。檀那波羅蜜如。乃至般若波羅蜜如。內空如乃至無法有法空如。四念處如乃至一切種智如如來如。一如無二無別。須菩提。菩薩摩訶薩得是如故名為如來。』
復次先論議中已破生法。若無生法者未來現在亦無生云何不等。又復過去世無始未來世無後現在世無住。以是故三世平等名為如。行是如已入無量法性中。 復た次ぎに、先の論義中に已に、生法を破せり。若し生法無ければ、未来、現在にも亦た生無し。云何が等しからざる。又復た過去世には始無く、未来世には後無く、現在世には住する無し。是を以っての故に、三世の平等、名づけて如と為し、是の如を行じ已れば、無量の法性中に入る。
復た次ぎに、
先の、
『論議』中に、
已に、
『生法( the dharma of birth )』は、
『破られている!』。
若し、
『生法が無ければ!』、
『未来にも、現在にも!』、
『生』は、
『無いことになる!』のに、
何故、
『等しくないのか?』。
又復た、
『過去世』には、
『始( the beginning )』が、
『無く!』、
『未来世』には、
『後( the final )』が、
『無く!』、
『現在世』には、
『住( the abiding )』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『三世』が、
『平等であること!』を、
『如と称し!』、
是のように、
『行えば!』、
『無量の法性』中に、
『入るのである!』。
  生法(しょうぼう):生という法( the dharma of birth )、梵語 jaati-dharma の訳、物に命を与えるという特質( that quality which gives life to things )の義。
法性者法名涅槃。不可壞不可戲論。法性名為本分種。如黃石中有金性白石中有銀性。如是一切世間法中皆有涅槃性。諸佛賢聖以智慧方便持戒禪定。教化引導令得是涅槃法性。 法性とは、法を涅槃は壊るべからず、戯論すべからずと名づけ、法性を名づけて、本分の種と為す。黄石中に金性有り、白石中に銀性有るが如く、是の如く一切の世間法中には、皆涅槃の性有り。諸仏、賢聖は智慧、方便、持戒、禅定を以って、教化し、引導して是の涅槃の法性を得しむ。
『法性』の、
『法』とは、
『涅槃』は、
『壊ることができず!』、
『戯論すべきでないということであり!』、
『法性』とは、
『本質的な!』、
『部分の!』、
『種ということである!』。
譬えば、
『黄石』中には、
『金性』が、
『有り!』、
『白石』中には、
『銀性』が、
『有るように!』、
是のように、
『一切の世間法』中には、
皆、
『涅槃の性』が、
『有るので!』、
諸の、
『仏や、賢聖』は、
『智慧、方便、持戒、禅定を用いて!』、
『教化し!』、
『引導して!』、
是の、
『涅槃という!』、
『法性』を、
『得させるのである!』。
  (ほう):梵語dharmaの訳語にして、また達摩、駄摩、陀摩、曇摩、曇謨、曇無、或は曇に作る。自性を保持して改変せざるものの意なり。「倶舎論巻1」に、「よく自相を持するが故に(梵sava- lakSaNa- dhaaraNatvena)名づけて法と為す」と云い、「仏地経論巻3」に、「法とはこれ自相を持するの義なり」と云い、また「成唯識論巻1」に、「法とは謂わく軌持なり」と云えり。これ法は自相を持するの義なることを説けるものにして、即ち梵語dharmaが保持の義なる語根dhRより転化せし名詞なるが故にこの釈を作せるものなり。蓋し仏典中に於いては法は種種の意味に用いられ、その語義一定ならず。「過去現在因果経巻3」に、「四諦の法輪、これを法宝と為す」と云い、「大毘婆沙論巻182」に初転法輪を釈し「仏この法門を説く時、五苾芻皆法を見る」と云い、また「増一阿含経巻2広演品」に、「それ正法とは欲より無欲に至り、諸の結縛と諸蓋の病を離る」と云い、「分別功徳論巻2」にこれを解し「法とは謂わく無漏法、無欲法、道法、無為法なり。欲より無欲に至るなり」と云えり。これ等は四聖諦等の仏所説の教示(梵dezanaa)を法と名づけたるものにして、即ち彼の教示は出離解脱に到達すべき不磨の軌範にして、その性永く改まらざることを顕すの意なり。また「中阿含巻1善法経」に、「云何が比丘は法を知る(梵dhammaJJuu)と為す。謂わく比丘は正経、歌詠、記説、偈咃、因縁、撰録、本起、此説、生処、広解、未曽有法及び説是義を知る。これを謂って比丘法を知ると為すなり」と云い、「大智度論巻22」に、「法に二種あり、一には仏の演説せる所の三蔵十二部八万四千の法聚なり、二には仏所説の法義にして、謂わゆる持戒、禅定、智慧、八聖道及び解脱果、涅槃等なり」と云い、また「瑜伽師地論巻81」に、「法とは略して十二種あり、謂わく契経等の十二分教なり」と云えるは、仏の教示の聚集たる聖典(梵paryaapti)を法と名づけたるものにして、また即ち不改の規範たるの意なり。また「五分律巻2」に、「仏は種種に呵責して、汝の所作は非法なりと」と云い、同巻3に「法を説いて非法を説かず、律を説いて非律を説かず」と云い、「大宝積経巻52」に、「一切諸法は或は名づけて法と為し、或は非法と名づく。何を以っての故に、もしよくかくの如き諸法は皆空無相及び無願なりと了知せば、即ち一切法は並びに名づけて法と為す。もし我及び我所の諸見睡眠に計著することあらば、即ち一切法は並びに非法と名づく」と云えるは、善行(梵guNa)即ち煩悩雑染の伴わざる行為を法と名づけたるものにして、道徳的法則たるの意を顕せるものというべし。また法は自相を保持して改変せざるの義なるが故に、広く善、悪、無記、有漏、無漏、色、心等の諸物を各皆呼んで法と称することあり。「雑阿含経巻37」に、法に悪法、真実法の二種、悪法、悪悪法、真実法、真実真実法の四種の別ありとし、「放光般若経巻3了本品」に、「諸法とは謂わく善法、悪法、記法、未記法、俗法、道法、有漏法、無漏法、有為法、無為法なり」と云い、「大乗入楞伽経巻5刹那品」に、「一切法とは、謂わゆる善法、不善法、有為法、無為法、世間法、出世間法、有漏法、無漏法、有受法、無受法なり」と云い、「大智度論巻11」に、「一切法とは、識所縁の法はこれ一切法なり。(中略)また次ぎに智所縁の法はこれ一切法なり。(中略)また次ぎに二法あり、一切法を摂す、色法無色法、可見法不可見法、有対法無対法、有漏無漏、有為無為、心相応心不相応、業相応業不相応、近法遠法等なり。かくの如き種種の二法は一切法を摂す。また次ぎに三種の法あり、一切法を摂す、善不善無記、学無学非学非無学、見諦断思惟断断不断なり。また三種の法あり、五衆十二入十八界なり。かくの如き等の種種の三法を持って尽く一切法を摂す。また四種の法あり、過去未来現在法非過去未来現在法、欲界繋法色界繋法無色界繋法不繋法、因善法因不善法因無記法非因善不善無記法、縁縁法縁不縁法縁縁不縁縁法亦非縁縁非不縁縁法なり。かくの如き等の四種の法は一切法を摂す。五種の法あり、色心心相応心不相応無為法なり。かくの如き等の種種の五法は一切法を摂す。六種の法あり。見苦断法見習尽道断法思惟断法不断法なり。かくの如き等の種種の六法あり。乃至無量の法あり、一切法を摂す。これを一切法と為す」と云い、また倶舎論等に一切の事象を類別して総じて五位七十五法とし、成唯識論等に五位百法となせる如き皆即ちこれなり。その語義に関し、「倶舎論光記巻1」に、「法の名を釈するに二あり、一にはよく自性を持す。謂わく一切法は各自性を守る、色等の性の常に改変せざるが如し。二には軌として勝解を生ぜしむ。無常等は人をして無常等の解を生ぜしむるが如し」と云い、また「成唯識論述記巻1本」に論の軌持の義を釈し「軌とは謂わく軌範なり、物の解を生ずべきなり。持とは謂わく任持なり、自相を捨てざるなり」と云えり。これ色は自己の質礙の性を保持し、心は自己の縁慮の性を保持し、乃至有漏無漏等の諸物も悉く皆自性を保持して常に改変あることなく、随ってこれ等の諸物はよく軌範となりて人をして一定の解悟を生ぜしむるが故に、名づけて法となすことを明にせるなり。また六境の中、前五識の境を色声香味触と名づくるに対し、特に意識所縁の境を法、または法処(梵dharma- aayatana)、或は法界(梵dharma- dhaatu)と称することあり。これに関し、「大毘婆沙論巻73」に、「十二処の体は皆これ法なりといえども、而もただ一に於いて法処の名を立つるもまた失あることなし」と云い、具に十一種の釈を挙げ、また「倶舎論巻1」に、「差別せんが為に一の法処を立つ、一切に非ず。色の如くまさに知るべし。またこの中に於いて受想等の衆多の法を摂するが故にまさに通名を立つべし。また増上法は謂わゆる涅槃なり、この中に摂するが故に独り立てて法と為す」と云えり。これ色等の十二処は皆法なりといえども、他と区別せんが為に意識の所縁を特に法と名づけ、またこの法処の中には受想等の多数の法を摂し、かつ増上法たる涅槃を摂するが故に、独りこの一処に法の名を立つることを説けるものなり。「法蘊足論巻10処品」に法処所摂の法を挙げ「過去未来現在の諸の所有の法を名づけて法処と為し、また所知乃至所等証と名づく。これまた云何ん、謂わく受、想、思、触、作意、欲、勝解、信、精進、念、定、慧、尋、伺、放逸、不放逸、善根、不善根、無記根、一切の結、縛、睡眠、随煩悩、纏、諸の所有の智見、現観、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、住得、事得、処得、生、老、住、無常、名身、句身、文身、虚空、択滅、非択滅、及び余の所有の意根の所知、意識の所了、所有の名号、異語、増語、想等の想施設の言説を謂って法と名づけ、法界と名づけ、法処と名づけ、彼岸と名づく。かくの如き法処はこれ外処の摂なり」と云えり。これ色等の五境及び眼等の六識を除き、他の心所不相応及び無為等の諸法を特に法処と名づけたるものにして、これ等の諸物もまた即ち軌持の義に就き法の名を得たるなり。また因明に於いては種種の釈あるも且らくこれを置き、また法の字は種種の語に冠せられ、仏の説法を法輪(梵dharma- cakra)、その聚集を法蘊(梵dharma- skandha)、法蔵(梵dharma- koza)、法聚、法集、法宝蔵と名づけ、また正法の規準たるものを法印(梵dharmo- mudraa)、これに由りて聖道に通入するを法門(梵dharma-paryaaya)、その中の理趣を法味、これを受用するを法楽、愛楽するを法愛、人の為に説くを法施、他に教えてこれを化するを法化、利益を被らしむるを法益、または法利(梵dharma- artha)、道に於いて験を得るを法力、または法験、聖教の滅尽を法滅、迫害を法難といい、また仏の自体を法身(梵dharma- kaaya)、物の自性を法性(梵dharmataa)、或は法体、その自相を法相、これに執著するを法執(梵dharma- graaha)、または法我見、その執を空ずるを法空(梵dharma- zuunyataa)、理に於いて忍許するを法忍(梵dharma- kSaanti)、明らかにこれを見るを法眼(梵dharma- cakSus)と名づけ、また説法の師を法師(梵dharma- bhaaNaka)、その子弟を法子、集会して種種の行事を修するを法会、法事、僧の衣服を法会、または法服と称し、その他にも法灯、宝幢、法鼓、法螺、法剣、法鏡、法雷、法雨、法水、法潤、法音、法苑、法海等の如き譬辞の類甚だ多し。また「中阿含巻28諸法本経」、「長阿含巻8衆集経」、「大品般若経巻4句義品」、「千仏因縁経」、「大智度論巻48、巻70」、「般若灯論巻2」、「大乗荘厳経論巻5、巻6」、「雑阿毘曇心論巻1」等に出づ。<(望)
  (しょう):梵語prakRtiの訳語にして、本質の意なり。相、または修に対す。即ち本来自爾の体質にして改変せざるものをいう。「大智度論巻31」に、「性は自有に名づく、因縁を待たず。もし因縁を待たば則ちこれ作法にして名づけて性と為さず」と云い、同巻32に「法性とは法は涅槃に名づく、壊すべからず、戯論すべからざる法なり。性は本分の種に名づく、黄石の中に金の性有るが如く、白石の中に銀の性有るが如く、かくの如く一切世間法の中に皆涅槃の性あり」と云い、また「菩薩地持経巻1種性品」に、「菩薩六入殊勝展転相続無始法爾なる、これを性種性と名づく」と云い、「大乗荘厳経論巻1種性品」に、「問う、もし爾らば云何が性と名づくる。答う、功徳を度する義なるが故なり。度とは功徳を出生するの義なり、この道理に由り、この故に性と名づく」と云えるこれなり。これ等は他の因縁を待たず、無始法爾として有する本分の因種を性と名づけたるなり。また「大智度論巻31」に性に総別の異あることを説き「一切法の性に二種あり、一には総性、二には別性なり。総性とは無常、苦、空、無我、無生無滅、無来無去、無入無出等なり。別性とは火は熱の性、水は湿の性なるが如く、心を識の性と為す。人の喜んで悪を作すを名づけて悪性と為し、好んで善事を集むるを善性と為すが如し」と云えり。この中、無常等は一切法共通の理性をいい、熱性等は諸法各別の自性に名づけたるなり。また「摩訶止観巻5上」に十如の中の如是性を釈し「如是性とは性は以って内に拠る。総じて三義あり、一に不改を性と名づく。無行経に不動性と称す、性は即ち不改の義なり。また性は性分に名づく、種類の義は分分不同にして各各改むべからず。また性はこれ実性なり、実性は即ち理性にして、極実にして過ぐるものなし。即ち仏性の異名のみ」と云い、また「華厳経疏巻49」に、「性に二義あり、一に種性の義、二には法性の義なり」と云えり。これ等は性に多義あることを示したるなり。また「成唯識論巻9」に遍、依、円の三性に関し「この性は即ちこれ唯識の実性なり。謂わく唯識の性に略して二種あり、一には虚妄、謂わく遍計所執なり。二には真実、謂わく円成実性なり。虚妄に簡ばんが為に実性の言を説く。また二性あり、一には世俗、謂わく依他起なり、二には勝義、謂わく円成実なり。世俗に簡ばんが為の故に実性と説く」と云えり。これ唯識の性に真妄及び真俗の別あるを説き、その中、円成実を以って唯識の実性となすことを明にせるものなり。その他また種性に約して五種性、仏性或は如来性等と云い、法の本質に約して法性、理性等と云い、またその性の真実なるを実性、その中の功徳を性徳と名づけ、元と自らこれを具するを性具と云い、その体即ち縁起するを性起等と称するなり。また「入楞伽経巻2」、「解深密経巻2一切法相品」、「大智度論巻24」、「大乗義章巻1、巻4」等に出づ。<(望)
利根者即知是諸法皆是法性。譬如神通人能變瓦石皆使為金。鈍根者方便分別求之乃得法性。譬如大冶鼓石然後得金。 利根の者は、即ち是の諸法は、皆是れ法性なりと知る。譬えば神通人は、能く瓦石を変じて、皆金と為らしむが如し。鈍根の者は、方便し、分別して之を求め、乃(すなわ)ち法性を得。譬えば大冶の石を鼓(う)ちて、然る後に金を得るが如し。
『利根の者』は、
是の、
『諸法』は、
『皆、法性である!』と、
『知る!』ので、
譬えば、
『神通の人』が、
『瓦石を変じて!』、
『皆、金にするようなものである!』。
『鈍根の者』は、
是の、
『諸法を方便し、分別して!』、
是の、
『法性を求めて!』、
乃ち( barely )、
『得る!』ので、
譬えば、
『大冶( a metallurgist )』が、
『石を鼓って!』、
その後、
『金』を、
『得るようなものである!』。
  大冶(だいや):冶金師( a metallurgist )。
復次如水性下流故會歸於海合為一味。諸法亦如是。一切總相別相皆歸法性同為一相是名法性。 復た次ぎに、水性の下流するが故に、会して海に帰し、合して一味を為すが如く、諸法も亦た是の如く、一切の総相、別相は、皆法性に帰して、同じく一相を為せば、是れを法性と名づく。
復た次ぎに、
譬えば、
『水性が下流する!』が故に、
『会して( to get together )!』、
『海に帰し!』、
『合して!』、
『一味となるように!』、
『諸法』も、
是のように、
『一切の総相、別相』が、
『皆、法性に帰して!』、
『同じく!』、
『一相となる!』ので、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
如金剛在山頂漸漸穿下至金剛地際到自性乃止。諸法亦如是。智慧分別推求已到如中從如入自性。如本末生滅諸戲論是名為法性。又如犢子周慞嗚呼得母乃止。諸法亦如是。種種別異取捨不同。得到自性乃止。無復過處是名法性。 金剛の山頂に在りて、漸漸に下に穿ちて、金剛地の際に至り、自性に到りて乃ち止むが如し。諸法も亦た是の如く、智慧もて分別し、推求し已りて、如中に到り、如より、自性に入る。如は本より末まで生にして、諸の戯論を滅すれば、是れを名づけて、法性と為す。又犢子の周慞し、嗚呼するに、母を得て乃ち止むが如し。諸法も亦た是の如く、種種に別異なれば、取捨同じからざるも、自性に到るを得て、乃ち止み、復た過ぐる処無ければ、是れを法性と名づく。
譬えば、
『金剛( a weapon what is extremely hard )』が、
『山頂より!』、
『漸漸に( regularly )、下に穿ちながら!』、
『金剛地の際』に、
『至り!』、
『自性に到って!』、
乃ち( at last )、
『止まるように!』、
『諸法』も、
是のように、
『智慧で分別、推求して!』、
『如』中に、
『到り!』、
『如より!』、
『自性に!』、
『入るのである!』。
『如の本、末』は、
『生である!』が故に、
『諸の戯論』を、
『滅するのであり!』、
是れを、
『法性』と、
『称する!』。
又、
『犢子( a calf )』が、
『周慞しながら( to go back and forth being terrified )!』、
『嗚呼し( to cry )!』、
『母を得て!』、
『乃ち、止むように!』、
『諸法』も、
是のように、
『種種に別異する( to be defferent variously )!』ので、
『取、捨すること!』が、
『同じではない!』が、
『自性に到ることができれば!』、
『乃ち、止むことになる!』ので、
復た( moreover )、
『過ぎた処( the place beyond there )』は、
『無い!』ので、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
  金剛(こんごう):梵語 vajra の訳、雷霆のように堅い神話上の武器/金属( a mytical weapon or metal as hard as the thunderbolt )の義。
  金剛地(こんごうじ):梵語 pRthivii-vajra の訳、金剛より為る地( the earth of vajra )の義。
  漸漸(ぜんぜん):梵語 anupuurvazas の訳、規則正しく( regularly )の義。
  犢子(とくし):子牛。
  周慞(しゅうしょう):うろたえさまよう。周章。
  嗚呼(おこ):ああと呼ぶ声。
實際者如先說法性名為實。入處名為際。 実際とは、先に説けるが如く、法性を名づけて、実と為し、入る処を名づけて、際と為す。
『実際』とは、
先に説いたように、――
『法性』を、
『実』と、
『称し!』、
『入る処( the place into where someone go )』を、
『際』と、
『称する!』。
復次一一法有九種。一者有體。二者各各有法。如眼耳雖同四大造而眼獨能見。耳無見功。又如火以熱為法而不能潤。三者諸法各有力。如火以燒為力水以潤為力。四者諸法各自有因。五者諸法各自有緣。六者諸法各自有果。七者諸法各自有性。八者諸法各有限礙。九者諸法各各有開通方便。 復た次ぎに、一一の法には、九種有りて、一には体有り、二には各各の法有ること、眼、耳は、同じく四大造なりと雖も、眼は独り能く見、耳は見る功無きが如し。又火の熱を以って法と為し、潤すこと能わざるが如し。三には、諸法の各に力有りて、火は焼くを以って力と為し、水は潤すを以って力と為すが如し。四には諸法の各に自ら因有り、五には諸法の各に自ら縁有り、六には諸法の各に自ら果有り、七には諸法の各に自ら性有り、八には諸法の各に限礙有り、九には諸法の各各に開通の方便有り。
復た次ぎに、
『一一の法』には、
『九種の事が有り!』、
一には、
『体( the substance )が有り!』
二には、
『各各の法( its own attributes )が有り!』、
譬えば、
『眼も、耳も!』、
『同じく!』、
『四大造である( be made of 4 elements )!』が、
『眼だけ!』が、
独り( only )、
『見ることができ!』、
『耳には!』、
『見る功( the faculty to see )!』が
『無いようなものであり!』、
又、
『火』は、
『熱が法である!』ので、
『潤すことができないようなものである!』。
三には、
『諸法』には、
『各各の力が有り!』、
譬えば、
『火』は、
『焼くこと!』が、
『力であり!』、
『水』は、
『潤すこと!』が、
『力である!』。
四には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの因が有る!』。
五には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの縁が有る!』。
六には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの果が有る!』。
七には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの性が有る!』、
八には、
『諸法』には、
『各の!』、
『限、礙( limit and obstacle )が有る!』。
九には、
『諸法』には、
『各各に!』、
『開通の方便( the way of breaking or piercing )が有る!』。
  (りき):梵語 bala の訳、~の力( power of )、~に練達すること( expertness in )の義。
  (たい):梵語 svabhaava、または bhaava の訳語にして、体質或は体性の意なり。即ち法の主質、またはその存立の根本条件となるべき実体をいう。「仏性論巻1」に、「もし汝云何が未だ成ぜずと説かば、灯中に暗なきが故に、故に自体を照さず、もし自体を照さば体はこれ所照なるべし」と云い、また「摩訶止観巻5上」に、「如是体とは主質の故に体と名づく。この十法界の陰は倶に色心を以って体質と為す」と云えり。これ法その物、もしくはその法の主質を名づけて体となせるものなり。蓋し外道中、数論は一切法体一となし、勝論は一切法体別なりと計し、また小乗一切有部に於いても諸法その体を各別にして、皆実有なりとなせり。大乗唯識家に於いては一切諸法に遍、依、円の三性の別ありとし、就中、円成実性を以ってその真実体性となすなり。これに関し「仏性論巻23性品」に通別二種の体を論じ「体相とは二あり、一に通、二に別なり。通とはこの三性は通じてよく一切諸余の真諦、或は二三四七諦等の法を成就するに由るが故に、諸の真諦は三性を出でず。ここを以って三性を諸の真諦の通体と為す。二に別体とは三性の中に於いて各実義あり。何者か実義なる、一には分別性の体は恒に所有なきも、而もこの義は分別性の中に於いて実と為さざるに非ず。何を以っての故に、名言無倒なるが故なり。二には依他性の体は有にして而も不実なり。乱識と根と境とに由るが故にこれ有なり、真如に非ざるを以っての故に不実なり。何を以っての故に、因縁の義無倒なるが故なり。ここを以って分別性に対するが故に名づけて有と為し、後の真性に対するが故に実有に非ず、これを有不真実と名づく。三には真実性の体は有無皆真なり。如如の体は非有非無なるが故なり」と云えり。これ三性は通じて諸真諦の体となり、またその中、分別性の体は恒に所有なく、依他性の体は有なるも実ならず、真実性の体は有無皆真実なることを明にせるなり。また「十八空論」に、「この如き七種の真如は即ちこれ一切法の体性なり、これ体性なるを以っての故に、故に説きて我と為す」と云い、「究竟一乗宝性論巻4」に、「真如清浄の法を名づけて如来の体となす」と云い、また「大乗起信論」に、「心真如とは即ちこれ一法界大総相法門の体なり」と云えるは、共に真如を以って一切現象諸法の実体となすの説なり。また「成実論巻16通智品」、「維摩経玄疏巻1」、「大乗起信論義記巻上」等に出づ。<(望)
  開通(かいつう):梵語 bhittvaa の訳、破ること/穿つこと( breaking of piercing )の義。
諸法生時體及餘法凡有九事。知此法各各有體法具足是名世間下如。知此九法終歸變異盡滅是名中如。譬如此身生從不淨出。雖復澡浴嚴飾終歸不淨。是法非有非無非生非滅。滅諸觀法究竟清淨。是名上如。 諸法の生ずる時、体、及び餘の法、凡(およ)そ九事有りて、此の法に各各の、有る体、法に具足するを知る、是れを世間の下如と名づけ、此の九法は、終に変異、尽滅するに帰すと知る、是れを中如と名づく、譬えば、此の身生ずるに、不浄より出で、復た澡浴、厳飾すと雖も、終に不浄に帰するが如し。是の法は、非有、非無、非生、非滅なれば、諸の観法を滅して、究竟清浄なり、是れを上如と名づく。
『諸法の生じる!』時、
『体と、餘の法』の、
凡そ( commonly )、
『九事』が、
『有る!』が、
此の、
『九法』は、
各各に、
『体や、法が有って、具足している!』と、
『知れば!』、
是れを、
『世間の下如』と、
『称し!』、
此の、
『九法』は、
終に、
『変異して、尽滅に帰す!』と、
『知れば!』、
是れを、
『中如』と、
『称する!』。
譬えば、
此の、
『身は生じる!』時、
『不浄より出て!』、
復た、
『澡浴したり!』、
『厳飾したりして!』、
終に、
『不浄』に、
『帰するようなものである!』。
是の、
『法』は、
『有でもなく、無でもなく、生でもなく、滅でもない!』と、
諸の、
『観法を滅して!』、
『究竟じて、清浄である!』と、
『知れば!』、
是れを、
『上如』と、
『称する!』。
復次有人言。是九事中有法者是名如。譬如地法堅重水法冷濕火法熱照風法輕動心法識解。如是等法名為如。如經中說。有佛無佛如法相法位常住世間。所謂無明因緣諸行常如本法。法性者是九法中性。實際者九法中得果證。 復た次ぎに、有る人の言わく、『是の九事中に有る法、是れを如と名づく。譬えば地法の堅、重、水法の冷、湿、火法の熱、照、風法の軽、動、心法の識、解の如し。是れ等の如き法を、名づけて如と為す。経中に、『有仏、無仏に如、法相、法位は世間に常住す。』、と説けるが如し。謂わゆる『無明は、諸行を因縁す』、とは常に如にして本の法なり。法性とは、是れ九法中の性なり。実際とは、九法中に果証を得るなり。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『如』とは、
是の、
『九事中に有る!』、
『法』が、
『如である!』。
譬えば、
『地法の堅、重とか!』、
『水法の冷、湿とか!』、
『火法の熱、照とか!』、
『風法の軽、動とか!』、
『心法の識、解とかであり!』、
是れ等のような、
『法』を、
『如』と、
『称するのである!』。
『経』中に、こう説く通りである、――
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『如、法性、法位』は、
『常に!』、
『世間に住する!』。
謂わゆる、
『無明は、諸行の因緣である!』とは、
『常に如であり( be unchangeable )!』、
『本の法である( be the original dharma )!』。
『法性』とは、
是の、
『九法』中に、
『有る!』、
『性であり!』、
『実際』とは、
是の、
『九法』中に、
『得られる!』、
『果証である!』、と。
  参考:『大智度論巻23』:『復次有人言。法智者知欲界五眾無常苦空無我。知諸法因緣和合生。所謂無明因緣諸行乃至生因緣老死。如佛為須尸摩梵志說。先用法智分別諸法。後用涅槃智。』
  参考:『雑阿含経巻12(296)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告諸比丘。我今當說因緣法及緣生法。云何為因緣法。謂此有故彼有。謂緣無明行。緣行識。乃至如是如是純大苦聚集。云何緣生法。謂無明.行。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。彼如來自所覺知。成等正覺。為人演說。開示顯發。謂緣無明有行。乃至緣生有老死。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。彼如來自覺知。成等正覺。為人演說。開示顯發。謂緣生故。有老.病.死.憂.悲.惱苦。此等諸法。法住.法空.法如.法爾。法不離如。法不異如。審諦真實.不顛倒。如是隨順緣起。是名緣生法。謂無明.行.識.名色.六入處.觸.受.愛.取.有.生.老.病.死.憂.悲.惱苦。是名緣生法。多聞聖弟子於此因緣法.緣生法正知善見。不求前際。言。我過去世若有.若無。我過去世何等類。我過去世何如。不求後際。我於當來世為有.為無。云何類。何如。內不猶豫。此是何等。云何有此為前。誰終當云何之。此眾生從何來。於此沒當何之。若沙門.婆羅門起凡俗見所繫。謂說我見所繫.說眾生見所繫.說壽命見所繫.忌諱吉慶見所繫。爾時悉斷.悉知。斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世。成不生法。是名多聞聖弟子於因緣法.緣生法如實正知。善見.善覺.善修.善入。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次諸法實相常住不動。眾生以無明等諸煩惱故。於實相中轉異邪曲。諸佛賢聖種種方便說法。破無明等諸煩惱。令眾生還得實性。如本不異是名為如。 復た次ぎに、諸法の実相は、常住にして不動なり。衆生は、無明等の諸煩悩を以っての故に、実相中に於いて邪曲に転異す。諸仏、賢聖は、種種に方便して、法を説き、無明等の諸煩悩を破って、衆生をして、還って実性を得しむるに、本の如く異ならざれば、是れを名づけて、如と為す。
復た次ぎに、
『諸法の実相』は、
『常住であり( be unchangeable )!』、
『不動である( be immovable )!』が、
『衆生』は、
『無明等の諸煩悩』の故に、
『実相』中に於いて、
『邪曲( an erroneous view )に!』、
『転異する( to change to )!』ので、
『諸仏、賢聖』は、
『種種に方便して、法を説き!』、
『無明等の諸煩悩』を、
『破って!』、
『衆生』に、
『還って!』、
『実性を得させる!』が、
是の、
『実性』は、
『本の如く( as before )!』、
『異ならない( be unchangeable )ので!』、
是れを、
『如』と、
『称するのである!』。
  常住(じょうじゅう):梵語 khuuTa-stha の訳、[霊/心/空間/空気/音等の]不動、不変( immovable, uniform, unchangeable (as the soul, spirit, space, ether, sound, etc.) )の義。
  不動(ふどう):梵語 dhruva の訳、固定/堅固/不動/不変/常/永久( fixed, firm, immovable, unchangeable, constant, lasting, permanent, eternal )の義。
  転異(てんい):梵語 pariNaama の訳、変化/交替/~に変容して/発展/進化( change, alteration, transformation into (instrumental case), development, evolution )の義。
  邪曲(じゃごく):梵語 kauTilya の訳、湾曲/屈曲/髪のカール( crookedness, curvature, curliness of the hair )、欺瞞/不正直( falsehood, dishonesty )の義、邪見( an erroneous view )の意。
實性與無明合故變異則不清淨。若除卻無明等得其真性。是名法性清淨 実性は、無明と合するが故に変異すれば、則ち不清浄なり。若し無明等を除却すれば、其の真性を得て、是れを法性と名づけ清浄なり。
『実性』は、
『無明と合する!』が故に、
『変異して!』、
『不清浄になる!』が、
若し、
『無明等を除却すれば!』、
其の、
『真性』を、
『得ることになる!』、
是れが、
『法性であり!』、
『清浄である!』。
實際名入法性中。知法性無量無邊最為微妙。更無有法勝於法性出法性者。心則滿足更不餘求則便作證。譬如行道日日發引而不止息。到所至處無復去心。 実際を、法性中に入ると名づけ、法性を無量、無辺にして、最も微妙と為すと知れば、更に法の法性に於いて勝り、法性を出づる者の有ること無く、心則ち満足し、更に餘を求めず、則便(すなわ)ち、証を作す。譬えば道を行くこと、日日発引して、止息せざれば、所至の処に到りて、復た去る心無きが如し。
『実際』とは、
『法性』中に、
『入ることであり( to understand deeply )!』、
『法性』は、
『無量、無辺であり!』、
『最も、微妙である!』と、
『知れば!』、
更に、
『法性に勝り!』、
『法性を出る( be beyond the Dharma-nature )ような!』、
『法』が、
『無くなる!』ので、
『心が満足して!』、
更に、
『餘の法』を、
『求めなくなり!』、
則ち( that is )、
『便ち( easily )!』、
『証を作す( to experience final enlightenment )ことになる!』。
譬えば、
『道を行く!』時、
『日日に、発引して( to start continuously )!』、
『止息しなければ( do not stop )!』、
『所至の処( one's destination )に!』、
『到ることになり!』、
復た( never again )、
『去る心( the will to leave )』が、
『無いようなものである!』。
  発引(ほついん):連続して出発する( to start continuously )。
  所至(しょし):行き着く先、目的地。
行者住於實際亦復如是。如羅漢辟支佛住於實際。縱復恒沙諸佛為其說法亦不能更有增進。又不復生三界。 行者の実際に住するも亦復た是の如し。羅漢、辟支仏の如きは実際に住するも、縦(たと)い復た恒沙の諸仏、其の為に法を説けども、亦た更に増進有る能わず。又復た三界に生ぜず。
『行者』が、
『実際に住する!』のも、
『是の通りである!』。
『羅漢や、辟支仏』は、
『実際に住しながら!』、
縦い( even if )、
『恒河沙に等しい諸仏』が、
其の、
『羅漢、辟支仏の為に!』、
『法』を、
『説いたとしても!』、
更に、
『増進させることはできない!』し、
又、
復た( never again )、
『三界』に、
『生じることもないからである!』。
  羅漢(らかん):梵語 Rhat の訳?、小/弱/少力者( small, weak, powerless )の義。阿羅漢(梵 arhat )に、価値ある/尊敬すべき/上品な者( worthy, venerable, respectable )の義有るを嫌うが故に、敢て是の如く呼べるか。
若菩薩入是法性中懸知實際。若未具足六波羅蜜教化眾生。爾時若證妨成佛道。是時菩薩以大悲精進力故還修諸行。 若し、菩薩、是の法性中に入れば、懸(はるか)に実際を知り、若し未だ六波羅蜜を具足せざるも、衆生を教化す。爾の時、若し証すれば、仏道を成ずるを妨ぐ。是の時、菩薩は、大悲と精進力を以っての故に、還って諸行を修む。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『法性中に入れば!』、
懸に( be just guessing )、
『実際』を、
『知り!』、
若し、
『未だ、六波羅蜜を具足していなくても!』、
『衆生』を、
『教化するだろう!』が、
爾の時、
若し、
『証を取れば!』、
『仏道を成ずること!』を、
『妨げることになる!』。
是の時、
『菩薩』は、
『大悲と、精進力を用いる!』が故に、
還って、
『諸行』を、
『修めるのである!』。
  (けん):<動詞>[本義]吊す/掛ける( hang, suspend )。心に掛ける/心配する( feel anxious, worry about )、推測/空想する( imagine without foundation )、顕示/公布する( reveal, publish )、関連させる( correlate )。<形容詞>解決しない( unresolved )、孤立した( alone, sole )、空虚な( empty )、聳え立つ( steep )、危険な( dangerous )、河の流れ下るさま( falling )。
復次知諸法實相中無有常法。無有樂法無有我法無有實法。亦捨是觀法。如是等一切觀法皆滅。是為諸法實如涅槃不生不滅如本末生。譬如水是冷相假火故熱。若火滅熱盡還冷如本。用諸觀法如水得火。若滅諸觀法如火滅水冷。是名為如 復た次ぎに、諸法の実相中には、常法有ること無く、楽法の有ること無く、我法の有ること無く、実法の有ること無きを知り、亦た是の観法を捨て、是れ等の如き一切の観法、皆、滅すれば、是れを諸法の実と為し、涅槃不生、不滅なるが如く、如の本末は生なり。譬えば水は是れ冷相なるも、火を仮るるが故に熱く、若し火滅すれば、熱尽きて、還って冷なること本の如きが如く、諸の観法を用うるは、水の火を得るが如く、若し諸の観法滅すれば、火滅して、水冷なるが如し。是れを名づけて如と為す。
復た次ぎに、
『諸法の実相』中には、
『常法も、楽法も、我法も、実法も無い!』と、
『知りながら!』、
是の、
『観法も!』、
『捨てて!』、
是れ等のような、
『一切の観法』が、
『皆、滅すること!』が、
『諸法の実であり!』、
例えば、
『涅槃』が、
『不生であり!』、
『不滅であるように!』、
『如』は、
『本より、末まで!』、
『生である( be in existence )!』。
譬えば、
『水』は、
『冷相でありながら!』、
『火を仮りる!』が故に、
『熱くなり!』、
若し、
『火が滅すれば!』、
『熱が!』、
『尽き!』、
還って、
『本のように!』、
『冷たくなるように!』、
『諸の観法を用いる!』のは、
譬えば、
『水』が、
『火を得たようなものであり!』、
『諸の観法を滅する!』のは、
譬えば、
『火が滅して!』、
『水が冷たくなるようなものである!』。
是れを、
『如』と、
『称する!』。
如實常住。何以故諸法性自爾。譬如一切色法皆有空分。諸法中皆有涅槃性是名法性。得涅槃種種方便法中皆有涅槃性。若得證時如法性則是實際。 如は実に常住なり。何を以っての故に、諸法の性は、自ら爾り。譬えば一切の色法は、皆空分有るが如く、諸法中には、皆涅槃の性有り、是れを法性と名づく。涅槃を得る種種の方便の法中には、皆涅槃の性有り。若し証を得る時、如、法性は則ち是れ実際なり。
『如』は、
実に、
『常住である!』。
何故ならば、
『諸法の性』が、
『自ら、爾うだからである!』。
譬えば、
『一切の色法』には、
皆、
『空分( the produce space )』が、
『有るように!』、
『諸法』中には、
皆、
『涅槃の性』が、
『有り!』、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
『涅槃を得る為の!』、
『種種の方便の法』中にも、
皆、
『涅槃の性』が、
『有る!』ので、
若し、
『涅槃を得れば!』、
爾の時、
『法性』は、
『実際なのである!』。
復次法性者。無量無邊非心心數法所量是名法性。妙極於此是名真際 復た次ぎに、法性とは、無量、無辺にして、心心数法の量る所に非ず、是れを法性と名づけ、妙の此に極まる、是れを真際と名づく。
復た次ぎに、
『法性』とは、
『無量であり!』、
『無辺であり!』、
『心、心数法』では、
『量れない!』所が、
『法性であり!』、
此の、
『法性』に、
『妙( be led forwards )が!』、
『極まる!』ので、
是れを、
『真際( the limit of reality )』と、
『称するのである!』。
  (みょう):梵語 praNiita の訳、導かれること( led forwards, directed towards )、進歩した/確立された/実践された( advanced, established, performed )の義、純粋な/無垢の/美しい( pure, immaculate, beautiful )の意。
  真際(しんさい):梵語 bhuuta-koTi の訳、有らゆる存在中の最頂天( the highest culminating point for all beings )の義、全くの非実在/実在の限界( absolute non-entity, limit of reality )の意。



【經】世界の地、水、火、風

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲數知三千大千世界中大地諸山微塵。當學般若波羅蜜。菩薩摩訶薩欲析一毛為百分。欲以一分毛盡舉三千大千世界中大海江河池泉諸水而不擾水性者。當學般若波羅蜜。三千大千世界中諸火一時皆然。譬如劫盡燒時。菩薩摩訶薩欲一吹令滅者。當學般若波羅蜜。三千大千世界中諸大風起。欲吹破三千大千世界及諸須彌山如摧腐草。菩薩摩訶薩欲以一指障其風力令不起者。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、三千大千世界中の大地、諸山、微塵を数えて知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。菩薩摩訶薩は、一毛を析(さ)きて百分と為さんと欲し、一分毛を以って、尽く三千大千世界中の大海、江河、池泉、諸水を挙げて、水性を擾(みだ)さざらんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。三千大千世界中の諸火一時に皆然(も)ゆること、譬えば、劫尽きて焼くる時の如くなるに、菩薩摩訶薩、一吹して滅せしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。三千大千世界中に諸の大風起りて、三千大千世界、及び諸須弥山を吹き破ること、腐草を摧(くじ)くが如くならんと欲するに、菩薩摩訶薩、一指を以って、其の風力を障(さ)え、起こらざらしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『三千大千世界』中の、
『大地、諸山』の、
『微塵の数』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
『菩薩摩訶薩』は、
『一毛』を、
『析いて( to tear )!』、
『百分にし!』、
『一分を用いて!』、
『三千大千世界』中の、
『大海、江河、池泉、諸水』を、
『尽く、汲み挙げて!』、
而も、
『水性』を、
『擾したくなければ( would not like to disturb )!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
『三千大千世界』中の、
『諸の火』が、
『一時に( at the same time )!』、
『皆、然え( to burn )!』、
譬えば、
『劫尽の火』に、
『焼かれるような!』時、
『菩薩摩訶薩』が、
『一吹して!』、
是の、
『火』を、
『滅しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
『三千大千世界』中の、
『諸の大風が起って!』、
『三千大千世界や、諸の須弥山』を、
『腐草を摧くように( as breaking dead grass )!』、
『吹き破ろうとする!』時、
『菩薩摩訶薩』が、
『一指を用いて!』、
其の、
『風力を障えぎり( to stop the wind force )!』、
『起させないようにしようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。佛何以不讚歎諸菩薩六度等諸功德。而讚歎此大力。 問うて曰く、仏は、何を以ってか、諸菩薩の六度等の諸功徳を讃歎せず、此の大力を讃歎したもう。
問い、
『仏』は、
何故、
『諸菩薩』の、
『六度等の諸功徳』を、
『讃歎せず!』、
此の、
『大力』を、
『讃歎されるのですか?』。
答曰。眾生有二種。一者樂善法。二者樂善法果報。為樂善法者讚歎諸功德。為樂善法果報者讚歎大神力。 答えて曰く、衆生には、二種有り、一には善法を楽しみ、二には善法の果報を楽しむ。善法を楽しむ者の為には、諸功徳を讃歎し、善法の果報を楽しむ者の為には大神力を讃歎したもう。
答え、
『衆生』には、
『二種有り!』、
一には、
『善法を楽しむ者であり!』、
二には、
『善法の果報を楽しむ者である!』が、
『仏』は、
『善法を楽しむ!』者の為に、
『諸功徳』を、
『讃歎し!』、
『善法の果報を楽しむ!』者の為に、
『大神力』を、
『讃歎されたのである!』。
復次有人言。四大之名其實亦無邊無盡。常在世故無能悉動量其多少人。雖造作城廓臺殿所用甚少。地之廣大載育萬物最為牢固。為是故佛說。三千大千世界中地。及須彌諸山微塵。皆欲盡知其數及一一微塵中眾生業因緣各各有分。欲知其多少當學般若波羅蜜。 復た次ぎに、有る人の言わく、『四大の名は、其の実にして、亦た無辺、無尽なりて、常に世に在るが故に、能く動、量、其の多少を悉(つまびらか)にする無し。人、城郭、台殿を造作すと雖も、用うる所は甚だ少なし。地の広大なるは、万物を載せて育て、最も牢固たり。是の為の故に仏は、『三千大千世界中の地、及び須弥、諸山の微塵を皆、其の数を尽く知らんと欲し、及び一一の微塵中の衆生の業の因縁の各各有する分の、其の多少を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と説きたもう』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『四大と呼ばれる!』のは、
其れが、
『実でもあり、無辺、無尽でもあり!』、
『常に!』、
『世に在る!』が故に、
其の、
『動( movement )や、量の多少』を、
『悉に知る( to know entirely )!』者が、
『無いからである!』。
『人』は、
『城郭、台殿を造作しても!』、
『所用( the usefulness )』は、
『甚だ少ない!』が、
『地』は、
『広大であり!』、
『万物を載せて育て!』、
『最も牢固である( be extremely firm )!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『三千大千世界』中の、
『地や、須弥山や、諸山』の、
『微塵の数』を、
『尽く知ろうとし!』、
及び、
『一一の微塵中に、各各有する!』、
『衆生の業因緣の分』の、
『多少』を、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
  四大(しだい):梵語 catur-mahaabhuuta の訳、四種の大まかな/偉大な要素( the four gross or great elements )の義。
  (みょう):梵語 abhidhaana の訳、名義とも訳す、報告/告白/命名/演説/明記( telling, naming, speaking, speech, manifesting )、名前/題名/名称/表現/単語( a name, title, appellation, expression, word )の義。
  (しつ):<形容詞>[本義]詳細な( detailed )。<副詞>都て/全部/皆( all, entire )。<動詞>詳しく述べる/説明する( elaborate, expound )、つまびらかにする/詳しく知る/知悉/了解する( know, learn )、使い切る( use up )。
問曰。一石土之微塵尚難可數。何況三千大千世界地及諸山微塵之數。是不可信。 問うて曰く、一石の土の微塵すら、尚お数うべきこと難し。何に況んや三千大千世界の地、及び諸山の微塵の数をや。是れ信ずべからず。
問い、
『一石の土』の、
『微塵すら!』、
尚お、
『数えること!』は、
『難しい!』。
況して、
『三千大千世界の地や、諸山』の、
『微塵の数』は、
『尚更である!』ので、
是れを、
『信じることはできない!』。
  一石(いっこく):容量の単位。周制には今の19.4リットルを指す。
答曰。聲聞辟支佛智慧尚不能知。何況凡夫。是事諸佛及大菩薩所知。 答えて曰く、声聞、辟支仏の智慧すら、尚お知る能わず。何に況んや凡夫をや。是の事は、諸仏、及び大菩薩の知る所なり。
答え、
『声聞や、辟支仏の智慧すら!』、
尚お、
『知ることはできない!』。
況して、
『凡夫』は、
『言うまでもない!』。
是の、
『事』は、
『諸仏と、大菩薩だけの!』、
『知る所である!』。
如法華經說。譬喻三千大千世界地及諸山末以為塵。東方過千世界下一塵。如是過千世界復下一塵。如是盡三千世界諸塵。佛告比丘是微塵數世界算數籌量可得知不。諸比丘言。不可得知。佛言。所可著微塵不著微塵諸國。盡皆末以為塵。大通慧佛出世已來劫數如是。如是無量恒河沙等世界微塵。佛大菩薩皆悉能知。何況一恒河沙等世界。 法華経に、『三千大千世界の地、及び諸山の末を以って、塵と為し、東方に千世界を過ぎて、一塵を下し、是の如く千世界を過ぐるごとに、復た一塵を下して、是の如く、三千世界の諸塵を尽くす』、と譬喻を説けるが如きに、仏の比丘に告げたまわく、『是の微塵数の世界を算数、籌量して、知るを得べしや不や』、と。諸比丘の言わく、『知るを得べからず』、と。仏の言わく、『微塵を著くべき所と、微塵を著けざる諸国を、尽く皆末して以って、塵と為すに、大通慧の仏世に出でて已来、劫数は、是の如し』、と。是の如き無量の恒河沙に等しき世界の微塵を、仏、大菩薩は、皆、悉く能く知る。何に況んや、一恒河沙に等しき世界をや。
『法華経など!』には、
『三千大千世界の地や、諸山』を、
『末して( to powderize )!』、
『塵にし!』、
『東方』に、
『千世界を過ぎて!』、
『一塵』を、
『下し!』、
是のように、
『千世界を過ぎるごとに!』、
『一塵』を、
『下しながら!』、
是のようにして、
『三千世界』の、
『諸の塵』を、
『尽くすという!』、
『譬喻が説かれている!』が、――
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
是の、
『微塵の数ほどの!』、
『世界』は、
『算数、籌量して( to calculate and count )!』、
『知ることができるだろうか?』、と。
『諸比丘』は、こう言った、――
『知ることができません!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『微塵を著けた諸国と、微塵を著けなかった諸国とを!』、
尽く、
『皆、末して!』、
『塵にすれば!』、
『大通慧の仏』が、
『世に出て已来』の、
『劫数』は、
『是の通りである!』、と。
是のような、
『無量の恒河沙に等しい!』、
『世界の微塵』を、
『仏や、大菩薩』は、
皆、
『悉くを、知っているのである!』。
況して、
『一恒河沙に等しい!』、
『世界を知ることなど!』、
『言うまでもない!』。
  (じん):梵語 rajas の訳、蒸気/霧の球体( the sphere of vapour or mist )の義、埃/花粉( the dust or pollen of flowers )の意。
  参考:『妙法蓮華経巻3化城喩品』:『佛告諸比丘。乃往過去無量無邊不可思議阿僧祇劫。爾時有佛。名大通智勝如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。其國名好成。劫名大相。諸比丘。彼佛滅度已來甚大久遠。譬如三千大千世界所有地種。假使有人磨以為墨。過於東方千國土乃下一點。大如微塵。又過千國土復下一點。如是展轉盡地種墨。於汝等意云何。是諸國土。若算師若算師弟子。能得邊際知其數不。不也世尊。諸比丘。是人所經國土。若點不點。盡末為塵一塵一劫。彼佛滅度已來復過是數。無量無邊百千萬億阿僧祇劫。我以如來知見力故。觀彼久遠猶若今日。』
復次無量者隨人心說。如大海水名為無量而深八萬由旬。如大身羅睺阿脩羅王量其多少不以為難。 復た次ぎに、無量とは、人の心に随いて説くこと、大海水を名づけて、無量と為すも、深さ八万由旬なるが如く、大身の羅睺阿修羅王の、其の多少を量るを以って、難しと為さざるが如し。
復た次ぎに、
『無量』とは、
『人の心に随って!』、
『無量』と、
『説かれるのであり!』、
譬えば、
『大海水』は、
『無量である!』と、
『称しても!』、
而し、
『深さ!』は、
『八万由旬でしかないので!』、
『大身の羅睺阿修羅王』が、
其の、
『多少を量れば!』、
『難しくないようなものである!』。
  羅睺阿修羅王(らごあしゅらおう):日月を覆い隠す阿修羅の名。『大智度論巻4下注:羅睺阿修羅王、巻31上』参照。
  参考:『大智度論巻31』:『如七尺之身以大海為深。羅睺阿修羅王。立大海中膝出水上。以兩手隱須彌頂。下向觀忉利天喜見城。此則以海水為淺。』
問曰。云何行般若波羅蜜得是智慧。 問うて曰く、云何が、般若波羅蜜を行ずれば、是の智慧を得る。
問い、
何故、
『般若波羅蜜を行えば!』、
是のような、
『智慧』を、
『得られるのですか?』。
答曰。有人行般若波羅蜜。滅諸煩惱及邪見戲論。入菩薩甚深禪定。念智清淨增廣故。則能分別一切諸色微塵知其量數。 答えて曰く、有る人は、般若波羅蜜を行ずるに、諸煩悩、及び邪見、戯論を滅して、菩薩の甚だ深き禅定に入り、念、智清浄にして、増広するが故に、則ち能く、一切の諸色の微塵を分別し、其の量数を知ればなり。
答え、
有る、
『人』は、
『般若波羅蜜を行る!』と、
『諸の煩悩や、邪見や、戯論を滅し!』、
『菩薩』の、
『甚だ深い禅定』に、
『入ることになり!』、
『念( recollection )、智( wisdom )』が、
『清浄になって!』、
『増広する( to increase )!』が故に、
則ち、
『一切の諸色』の、
『微塵を分別して!』、
其の、
『量や、数』を、
『知ることができるからである!』。
  増広(ぞうこう):梵語 vRddhi の訳、発育/増加/増大/上昇/発展/伸張/繁栄/成功/幸運/幸福( growth, increase, augmentation, rise, advancement, extension, welfare, prosperity, success, fortune, happiness )の義。
復次諸佛及大菩薩。得無礙解脫故。過於是事尚不以為難。何況於此。 復た次ぎに、諸仏、及び大菩薩は、無礙解脱を得るが故に、是の事を過ぐれば、尚お以って難しと為さず。何に況んや、此に於いてをや。
復た次ぎに、
『諸仏や、大菩薩』は、
『無礙解脱を得ている!』が故に、
是の、
『事を過ぎても( to exceed this matter )!』、
尚お、
『難しい!』とは、
『思わない!』。
況して、
此の、
『事』は、
『言うまでもない!』。
復次有人為地為堅牢心無形質皆是虛妄。以是故佛說心力為大。行般若波羅蜜故散此大地以為微塵。以地有色香味觸重故自無所作。水少香故動作勝地。火少香味故勢勝於水。風少色香味故動作勝火。心無四事故所為力大。 復た次ぎに、有る人は、地を堅牢たりと為すも、心に形質無ければ、皆是れ虚妄なり。是を以っての故に、仏は、『心力を大と為す』、と説きたまい、般若波羅蜜を行ずるが故に、此の大地を散じて、以って微塵と為す。地に色香味触有りて、重きが故に、自ら所作無し。水は香少なきが故に動作は、地に勝り、火は香味少なきが故に、勢いは水に勝り、風には色香味少なき故に、動作は火に勝り、心は、四事無きが故に為す所の力大なり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『地』は、
『堅牢である!』と、
『思っている!』が、
『心』に、
『形質( an image of any figure )』が、
『無い!』ので、
是れは、
皆、
『虚妄である!』。
是の故に、
『仏』は、
『心の力』は、
『大である!』と、
『説かれた!』が、
『般若波羅蜜を行う!』が故に、
此の、
『大地を散じて( to disperse the earth )!』、
『微塵にするのである!』。
『地』には、
『色、香、味、触が有って!』、
『重い!』が故に、
自らには、
『所作( the activity )』が、
『無い!』し、
『水』には、
『香が少ない!』が故に、
『動作』は、
『地よりも!』、
『勝れている!』し、
『火』は、
『香、味が少ない!』が故に、
『勢い!』、
『水よりも!』、
『勝れている!』し、
『風』は、
『色、香、味が少ない!』が故に、
『動作』は、
『火よりも!』、
『勝れている!』が、
『心』には、
是の、
『四事が無い!』が故に、
『所為( working )の力』が、
『大きいのである!』。
  形質(ぎょうしつ):梵語 aakaara-bimba? の訳、心象( an image of any shape or figure )の義。
又以心多煩惱結使繫縛故令心力微少。有漏善心雖無煩惱。以心取諸法相故其力亦少。二乘無漏心雖不取相。以智慧有量及出無漏道時。六情隨俗分別取諸法相故不盡心力。 又、心に、煩悩、結使の繋縛多きを以っての故に、心力をして微少ならしむ。有漏の善心は、煩悩無しと雖も、心に諸法の相を取るを以っての故に、其の力亦た少なし。二乗の無漏心は、相を取らずと雖も、智慧の有量なると、及び無漏道を出づる時には、六情俗に随いて分別し、諸法の相を取るを以っての故に、心力を尽くさず。
又、
『心』に、
『煩悩や、結使の繋縛が多い!』が故に、
『心力』を、
『微少にしている!』し、
『有漏の善心』は、
『煩悩が無くても!』、
『心』に、
『諸法の相』を、
『取る!』が故に、
其の、
『力』も、
『少なく!』、
『二乗の無漏心』は、
『相を取らない!』が、
『智慧』が、
『有量であるので!』、
『無漏道を出る!』時、
『六情が、俗に随うことになると!』、
『諸法の相』を、
『分別して、取ることになる!』ので、
是の故に、
『心力』を、
『尽くすことがない!』。
諸佛及大菩薩智慧無量無邊常處禪定。於世間涅槃無所分別。諸法實相其實不異。但智有優劣。行般若波羅蜜者畢竟清淨無所罣礙。一念中能數十方一切如恒河沙等。三千大千世界大地諸山微塵。何況十方各一恒河沙世界。 諸仏、及び大菩薩は、智慧無量無辺にして、常に禅定に処し、世間と涅槃に於いて、分別する所無ければ、諸法の実相は、其の実異ならず、但だ智に優劣有るのみ。般若波羅蜜を行ずる者は、畢竟清浄にして、罣礙する所無く、一念中に能く十方の一切の恒河沙に等しきが如き、三千大千世界の大地、諸山の微塵を数う。何に況んや、十方の各一恒河沙の世界をや。
『諸仏や、大菩薩』は、
『智慧が無量、無辺であり!』、
常に、
『禅定に処する( to abide in calm meditation )ので!』、
『世間も、涅槃も!』、
『分別する!』所が、
『無く!』、
『諸法の実相』と、
『世間、涅槃の実』は、
『異ならない!』。
但だ、
『智の優、劣』が、
『有るだけである!』。
『般若波羅蜜を行う!』者は、
『畢竟清浄であり!』、
『心』には、
『罣礙する!』所が、
『無い!』ので、
『一念』中に、
『十方の一切の恒河沙に等しいほど!』の、
『三千大千世界の大地、諸山の微塵』を、
『数えることができる!』。
況して、
『十方の各一恒河沙の世界など!』は、
『言うまでもない!』。
  禅定(ぜんじょう):瞑想的集中( meditative concentration )、梵語 dhyaana の訳、瞑想/思考/黙想( meditation, thought, reflection )、無感覚/沈滞( insensibility, dullness )の義、静かな瞑想、又は内観に於ける精神情態( The mind in silent meditation or introspection. )。( A general term for meditative concentration practices, both Buddhist and non-Buddhist )。瞑想的集中の実践に関する仏教徒と非仏教徒とを含む一般的な語( A general term for meditative concentration practices, both Buddhist and non-Buddhist )。禅定の語は、 dhyaana の音訳である禅と、その意訳である定との複合したものである( This word is a combination of two characters where the first is used for transliteration, and the second is used for its meaning. )。
復次若離般若波羅蜜雖得神通則不能如上所知。以是故說欲得是大神力當學般若波羅蜜。 復た次ぎに、若し般若波羅蜜を離るれば、神通を得と雖も、則ち上の知る所の如くなる能わず。是を以っての故に、説かく、『是の大神力を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
復た次ぎに、
若し、
『般若波羅蜜を離れれば!』、
『神通を得ても!』、
『上のような事を!』、
『知ることができない!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
是の、
『大神通を得ようとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
復有人言。一切諸物中水為最大。所以者何。大地上下四邊無不有水。若護世天主不節量天龍雨。又無消水珠者則天地漂沒。又以水因緣故。世間眾生數非眾生數皆得生長。以是可知水為最大。是故佛說菩薩欲知水渧多少渧渧分散令無力者。當學般若波羅蜜。 復た有る人の言わく、『一切の諸物中に、水を最大と為す。所以は何んとなれば、大地の上下、四辺に水有らざる無ければなり。若し護世の天主、量を節して、天龍雨ふらさず、又消水の珠無くんば、則ち天地漂没せん。又水の因緣を以っての故に、世間の衆生数と、非衆生数は、皆生長するを得。是を以って、水を最大と為すと知るべし。是の故に仏は、『菩薩は、水渧の多少を知りて、渧渧を分散して、無力ならしめんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と説きたまえり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『一切の諸物』中には、
『水』が、
『最大である!』。
何故ならば、
『大地の上下四辺には!』、
『水』が、
『有るからである!』。
若し、
『護世の天主』が、
『天龍降らす!』、
『雨の量』を、
『節約せず!』、
又、
『水を消す!』、
『珠』を、
『所有していなければ!』、
則ち、
『天も、地も!』、
『漂流、沈没するだろう!』。
又、
『水の因縁』の故に、
『世間』の、
『衆生数( any kind of living being )や!』、
『非衆生数( any kind of non-living being )が!』、

『生長することができるからである!』。
是の故に、
『水は、最大である!』と、
『知ることができる!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『菩薩』が、
『水渧の多少を知って!』、
『渧渧を分散し!』、
『水の力』を、
『無くそうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
  護世天主(ごせてんしゅ):護国四王、即ち持国、増長、広目、多聞の四天王なり。
  水渧(すいたい):水滴。
  渧渧(たいたい):滴滴。
  衆生数(しゅじょうしゅ):梵語 sattva-saMkhyaata の訳、衆生の大衆( multitude of living beings )の義、同種の動物群( multitude of a similar animal )の意。
  非衆生数(ひしゅじょうしゅ):梵語 asattva-saMkhyaata の訳、非衆生の集団( multitude of non-living beings )の義、同種の植物群( multitude of a similar plant )の意。
  (しゅ):梵語 saMkhyaata の訳、計算された/列挙された/数えられた/量られた( reckoned up, enumerated, numbered, counted, measured )の義、個数/集団( number, multitude )の意。
復有人言。火為最大。所以者何。除香味故。又以水出處甚多而火能滅之。大火之力能燒萬物能照諸闇。以是故知火為最大。是故佛說菩薩欲吹滅大火者。當學般若波羅蜜。 復た有る人の言わく、『火を最大と為す。所以は何んとなれば、香味を除くが故なり。又水の出づる処は甚だ多けれど、火は、能く之を滅し、大火の力は、能く万物を焼き、能く諸闇を照すを以って、是を以っての故に、火は最大なりと知る。是の故に仏は、『菩薩は、大火を吹いて滅せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と説きたまえり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『火が、最大である!』、
何故ならば、
『香や、味を!』、
『除くからである!』。
又、
『水の出る処は、甚だ多い!』が、
『火』は、
『水を滅することができる!』し、
『大火の力』は、
『万物を焼くことができ!』、
『諸闇を照すことができる!』ので、
是の故に、
『火は、最大である!』と、
『知ることができる!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『菩薩』は、
『大火』を、
『吹いて!』、
『滅しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
問曰。火因於風乃得然熾云何相滅。 問うて曰く、火は、風に因って、乃ち然(も)ゆること熾(さかん)なるを得るに、云何が相滅する。
問い、
『火』は、
『風によって!』、
乃ち( so )、
『燃えること!』が、
『熾になる( to be intense )!』のに、
何故、
『相( it )!』、
『滅する( to extinguish )のですか?』。
  (そう):<副詞>[本義]相互に( mutually, each other )。相共に/共同で( together, jointly )、相続いて/先後して( successively, one after another )、[一方が、他の一方に対して如何に振舞ったかを示す( indicates how one party behaves towards the other )、[自己/相手/他人に対する人称代名詞]自ら/お前を/彼れを]。<動詞>[本義]見る/観察する( look at;examine the appearance and judge )、看相する( physiognomize )、助ける/補助する( assist )、導く/教導する( teach )、治める/統治する( administer )、択ぶ/選択する( choose )、像る( like )。<名詞>人の容貌/相貌( looks, appearance )、宰相( the prime minister )。
答曰。雖復相因過則相滅。 答えて曰く、復た相因となるも、過ぐれば則ち相滅す。
答え、
復た、
『相因となる( to cause for it )!』が、
『過ぎれば!( to excess )!』、
『相( it )!』、
『滅する( to extinguish )ことになる!』。
問曰。若爾者火多無量口風甚少何能滅之。 問うて曰く、若し爾らば、火は多く、無量なるに、口の風は甚だ少なし。何んが能く之を滅する。
問い、
若し、爾うならば、
『火は多く、無量なのに!』、
『口の風』は、
『甚だ少ない!』。
何故、
『火』を、
『滅することができるのですか?』。
答曰。菩薩行般若波羅蜜。因禪定得神通能變身令大。口風亦大故能滅之。又以神力小風能滅。譬如小金剛能摧破大山。以是故諸天世人見此神力皆悉宗伏。 答えて曰く、菩薩は、般若波羅蜜を行ずるに、禅定に因って神通を得れば、能く身を変じて大ならしむれば、口の風も亦た大なるが故に、能く之を滅す。又神力を以ってすれば、小風も能く滅すること、譬えば小金剛にして、能く大山を摧破するが如し。是を以っての故に、諸天、世人は、此の神力を見て、皆悉く、宗伏せり。
答え、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『禅定に因って( thanks to calm meditation )!』、
『神通を得れば!』、
『身を変じて、大きくすることができる!』ので、
『口の風も!』、
『大きくなる!』が故に、
此の、
『火』を、
『滅することができるのであり!』、
又、
『神力を用いれば!』、
『小風でも!』、
『滅することができる!』ので、
譬えば、
『小金剛でも!』、
『大山』を、
『摧破することができるようなものである!』。
是の故に、
『諸天、世人』は、
此の、
『神力』を、
『見る!』と、
皆、
『悉く!』、
『宗伏する( to quell )のである!』。
  宗伏(しゅうふく):尊重して帰服する。
復次菩薩以火為害處廣憐愍眾生故以神力滅之。又以三千世界成立甚難菩薩福德智慧故力能制之 復た次ぎに、菩薩は、火に害せらるる処の広きを以って、衆生を憐愍するが故に、神力を以って、之を滅す。又三千世界の成立すること甚だ難く、菩薩は福徳の智慧の故に、力もて能く之を制す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『火に害される!』、
『処』が、
『広い!』ので、
『衆生を憐愍する!』が故に、
『神力を用いて!』、
『滅するのである!』。
又、
『三千大千世界』は、
『成立する( to be established )!』ことが、
『甚だ!』、
『困難である!』が故に、
『菩薩』には、
『福徳の智慧に由る!』、
『力』が、
『有る!』が故に、
是の、
『火』を、
『制することができるのである!』。
復有人言。於四大中風力最大。無色香味故動相最大。所以者何。如虛空無邊風亦無邊。一切生育成敗皆由於風。大風之勢摧碎三千大千世界諸山。以是故佛說能以一指障其風力。當學般若波羅蜜。所以者何。般若波羅蜜實相無量無邊。能令指力如是 復た有る人の言わく、『四大中に於いて風力の最大なるは、色、香、味無きが故に動相最大なればなり。所以は何んとなれば、虚空の無辺なるが如く、風亦た無辺にして、一切の生育の成敗は、皆、風に由り、大風の勢は、三千大千世界の諸山を摧砕すればなり。是を以っての故に、仏は、『能く一指を以って、其の風力を障えんとせば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と説きたまえり。所以は何んとなれば、般若波羅蜜の実相は無量、無辺にして、能く指力をして、是の如くならしむればなり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『四大』中に於いて、
『風力』が、
『最大である!』のは、
『色、香、味が無い!』が故に、
『動相』が、
『最大だからである!』。
何故ならば、
『虚空』が、
『無辺である!』ように、
亦た、
『風』も、
『無辺であり!』、
『一切の生育』が、
『成功したり、失敗したりする!』のは、
皆、
『風』に、
『由るからである!』。
『大風の勢』は、
『三千大千世界』の、
『諸山』を、
『摧砕するほどなので!』、
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『一指を用いて!』、
其の、
『風力』を、
『障えぎりたいならば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
何故ならば、
『般若波羅蜜』の、
『実相は無量、無辺であり!』、
『指の力』を、
『是のようにするからである!』、と。


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