【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲知一切諸法如法性實際。當學般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是住般若波羅蜜 |
復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、一切の諸法の如、法性、実際を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。舎利弗、菩薩摩訶薩は、応に是の如く般若波羅蜜に住すべし。 |
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『一切の諸法』の、
『如( thusness )や!』、
『法性( dharma nature )や!』、
『実際( apex of reality )を!』、
『知ろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『般若波羅蜜』に、
『住さねばならないのである!』。
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如(にょ):梵語 tathaa の訳、似る/此のように/あたかも/同様/相似/のように見える( like, such as, as if, be
equal to, be like, to seem to be )の義、実相、実相:其の在るがままの真実( thusness, thusness:
reality as-it-is. )の意。
法性(ほっしょう):法の性( Dharma nature )、梵語 dharmataa の訳、事物の真実の性/実性( The true nature
of things, reality. )、本質/固有の性質( essence, inherent nature )、自己中に於いて完結した実在(
Reality as complete in itself )、特に大乗哲学的な概念としては、真如に同等である( distinctively
Mahāyāna philosophical concept equivalent to thusness )。
実際(じっさい):真実の極致( apex of reality )。梵語 koTi, bhuuta-koTi の訳、真実の限界/絶対的真実( the limit of reality, absolute truth, absolute reality )の義、分別/差別を越えて/越えた者( beyond distinction, that which is beyond distinction )の意。 如(にょ):梵語tathaaの訳語にして、原そのように、同様にの義なり。乃ち如とは、如法の各各の相なり、如法の実相なり。地の堅相の如き、水の湿相の如き、謂わゆる各各の相は、これ事相の如なり。然るにこの各各の事相は、実有に非ずして、その実は皆空なれば、以って彼此の諸法は空を以って実と為すなり。空とはこれ諸仏の実相なり、この実相の如を称して如と為す、故に実相とは即ち如なり。またこの如を諸法の性と為す、故に法性と名づく、この法性を真実の極際と為す、故に実際という。故に如と、法性と、実際とは皆諸法の実相の異名なり。また諸法の理は性相同じなれば、これを如という。諸法は各各差別ありといえども、理体は則ち一味平等なるを以っての故なり。故に、如とは理の異名なり。この理の真実なるが故に、真如といい、その理を一と為すが故に、一如という。ただその理体に就きてこれを言わば、般若経の如は立てて空と為し、法華経の如は立てて中と為し、これ教門の不同なり。「智度論巻32」に、「諸法の如に二種有り、一には各各相、二には実相なり」と云い、また同に「如、法性、実際の、この三は皆これ諸法実相の異名なり」と云い、「維摩経菩薩品」に、「如とは不二不異なり」と云い、「大乗義章巻1」に、「如、法性、実際の義は大品経に出づ、この三は乃ちこれ理の別目なるが故に、龍樹は、如、法性等は実相の異名なりと言えり。言う所の如とは、これその同義なり。法相は殊なりといえども、理実は同等なるが故に名づけて如と為す。法性と言うは、自体を法と名づけ、法の体性なるが故に法性という。実際と言うは、理体の不虚なれば、これに目して実と為し、実の畔斉なるが故に生じて際と為すなり」と云えるこれなり。<(望)
実際(じっさい):如と同じ。『大智度論巻6下注:真如、実際』參照。
法性(ほっしょう):梵語dharmataaの訳語にして、法の体性の意、即ち諸法の真実如常なる本性をいう。「雑阿含経巻30」に、「如来出世するも、及び出世せざるも法性は常住なり。彼の如来は自ら知りて等正覚を成じ、顕現し演説し分別し開示す」と云えり。これ如来は自ら法性を覚知して等正覚を成ぜられたることを説けるものなり。「大智度論巻32」に、「諸法の如に二種あり、一には各各相、二には実相なり。各各相とは地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。かくの如き等、諸法を分別するに各自ら相あり。実相とは各各相の中に於いて分別して実を求むるに、不可得不可破にして諸の過失なし。自相空の中に説くが如く、地もし実にこれ堅相ならば、何を以っての故に膠蝋等は火と会する時その自性を捨て、神通あるの人は地に入ること水の如くなるや。また木石を分散すれば則ち堅相を失し、また地を破して以って微塵となし、方を以って塵を破せば終に空に帰してまた堅相を失す。かくの如く推求するに地相は則ち不可得なり。もし不可得ならばそれ実に皆空なり、空は則ちこれ地の実相なり。一切の別相も皆またかくの如し、これを名づけて如となす。法性とは前に各各法空と説くが如き、空に差品有るこれを如となし、同じく一空となすこれを法性となす。この法性にまた二種あり、一には無著の心を用って諸法を分別するに各自ら性あるが故なり、二には無量の法に名づく、謂わゆる諸法の実相なり。(中略)また次ぎに、水の性は下流するが故に、海に会帰して合して一味となるが如く、諸法もまたかくの如く、一切の総相別相は皆法性に帰して同じく一相となる。これを法性と名づく」と云えり。これ諸法に各各相と実相との二種あり、堅等の各各の相はこれを推求するに則ち不可得なり、不可得ならばそれ実に皆空なるが故に、空を諸法の実相となすことを説き、就中、空に差品有るを如と名づけ、総相別相同じく皆一空に帰するを法性と名づくることを明にせるなり。また大智度論の連文に「かくの如きを行じおわりて無量法性の中に入る。法性とは法を涅槃と名づく、不可壊不可戯論の法なり。性を名づけて本分種となす。黄石の中に金の性あり、白石の中に銀の性あり。かくの如く一切世間の法の中に皆涅槃の性あり。諸仏賢聖は智慧方便持戒禅定を以って教化引導してこの涅槃の法性を得しむ。利根の者は即ちこの諸法は皆これ法性なりと知る。譬えば神通の人はよく瓦石を変じて皆金となさしむるが如し。鈍根の者は方便分別してこれを求めて乃ち法性を得。譬えば大冶の石を鼓して然る後金を得るが如し」と云い、また同巻37に、「法性とは諸法の実相なり。身中の無明と諸結使とを除き、清浄の実観を以って諸法の本性を得るを名づけて法性と為す。性は真実に名づく」と云えり。これ即ち法性は黄石中に金の性あるが如く、諸法本然の実性に名づけたるものにして、清浄の実観を以ってまさに乃ち得べきものなるを示したるなり。また「大宝積経巻52般若波羅蜜多品」に法性の相を説き「舎利子、何等をかこれ諸法の実性と為す。舎利子、謂わゆる変異あることなく、増益あることなく、作なく不作なく、住せず根本なし。かくの如き相はこれを法性と名づく。またまた一切処に於ける通照平等、諸平等の中の善住平等、不平等中の善住平等、諸の平等不平等の中に於ける妙善平等、かくの如き等はこれを法性と名づく。また法性とは分別あることなく、所縁あることなく、一切法に於いて決定究竟の体相を証得す。かくの如きを名づけて諸法の実性となす」と云い、また「宝雨経巻9」に菩薩は十種の法性を証得することを説き「菩薩は十種の法を成就して勝義善巧を得。何等をか十と為す。一には無生法性を証得し、二には不滅法性を証得し、三には不壊法性を証得し、四には不入不出法性を証得し、五には超過言語所行法性を証得し、六には無言説法性を証得し、七には離戯論法性を証得し、八には不可説法性を証得し、九には寂静法性を証得し、十には聖者法性を証得す。何を以っての故に、善男子、勝義諦は不生不滅無入無出にして言路を超過し、文字の取るに非ざるが故に、戯論の証に非ざるが故に、言説すべからず、湛然寂静にして諸の聖者の自内の所証なるを以ってなり。善男子、諸の如来もしは出現することあるも、もしは出現せざるも、その勝義の理は常住不壊なるを以ってなり」と云い、「仏地経論巻5」にも十地の菩薩は順次に諸相増上喜愛、乃至修殖無量功徳究竟等の十種の平等法性を証得すと云えり。これ法性は平等平等にして変異増減あることなく、また不生不滅湛然寂静にして言説すべからず、ただ聖者自内証の境地なることを明にするの意なり。また「大般若経巻569法性品」には如来の法性を説き「如来の法性は有情類の蘊界処の中に在り。無始よりこのかた展転相続するも煩悩に染まず、本性清浄なり。諸の心意識は縁起する能わず、余の尋伺等も分別する能わず、邪念思惟は縁慮する能わず。邪念を遠離して無明生ぜず、この故に十二縁起に従わず。説いて無相と名づく。所作の法に非ず、無生、無滅、無辺、無尽にして自相常住なり。(中略)この諸の菩薩はこの二縁に由りて方便善巧して法性を観知するに、かくの如く法性は無量無辺なり。諸の煩悩の隠覆する所となり、生死の流に随って六道に沈没し、長夜に輪転し、有情に随うが故に有情性と名づく」と云えり。これ如来の法性は本性清浄なることを説けるものにして、即ち法性と如来蔵とを同義となせるものなるが如し。「大乗義章巻1如法性実際義」に、「法性と言うは論に言わく実相なり、体は清浄なりといえども煩悩と合するを名づけて不浄となす、煩悩を息除せば本の清浄を得るなり。浄はこれ一切諸法の体性なるが故に法性という」と云い、また「大乗起信論義疏巻上之上」に、「法性と言うはこの真有の自体を法と名づく、恒沙の仏法満足する義なるが故なり。非改を性と名づく、理体常なるが故なり」と云い、「大乗止観法門巻1」に自性清浄心をまた真如、仏性、法身、如来蔵、法界、法性と名づくと云えるは、共に法性を以って如来蔵の義に解せるものというべし。されど一般には法性と如来蔵等とを区別し、法性は広く一切法の実性を指すとなすなり。「大乗起信論義記巻上」に、「衆生数の中に在りては名づけて仏性となし、非衆生数の中に在りては名づけて法性となす」と云える即ちその意なり。また「大品般若経巻21、巻24」、「勝天王般若波羅蜜経巻3」、「円覚経」、「中論巻4観涅槃品」、「大智度論巻28、巻31、巻62、巻67、巻82、巻87、巻89」、「菩薩地持経巻1」、「瑜伽師地論巻45、巻72、巻73」、「成唯識論巻2」、「大般涅槃経集解巻9」、「大乗義章巻中」、「摩訶止観巻1上、巻5下」、「大乗玄論巻3」、「成唯識論述記巻2末、巻9末」等に出づ。<(望) |
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【論】諸法如有二種。一者各各相二者實相。各各相者。如地堅相水濕相火熱相風動相。如是等分別諸法各自有相。 |
諸法の如には、二種有り、一には各各相、二には実相なり。各各相とは、地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相の如し。是れ等の如く、諸法を分別するに、各自ら相有り。 |
『諸法の如』には、
『二種有り!』、
一には、
『各各相という!』、
『如であり!』、
二には、
『実相という!』、
『如である!』。
『各各相』とは、
例えば、
『地の堅相や!』、
『水の湿相や!』、
『火の熱相や!』、
『風の動相のようなものであり!』、
是れ等のように、
『諸法を分別すれば!』、
各に、
『自の!』、
『相が有る!』。
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實相者。於各各相中分別求實不可得不可破。無諸過失如自相空中說。地若實是堅相者。何以故膠蠟等與火會時捨其自性。有神通人入地如水又分散木石則失堅相。又破地以為微塵以方破塵終歸於空亦失堅相。如是推求地相則不可得。若不可得其實皆空空則是地之實相。一切別相皆亦如是。是名為如。 |
実相とは、各各相中に於いて分別し、実を求むれば、不可得、不可破にして、諸の過失無し。自相空中に説けるが如し、『地、若し実に是れ堅相ならば、何を以っての故にか、膠、蝋等の火と会う時、其の自性を捨つる。有る神通の人は、地に入ること水の如くして、又木石を分散すれば、則ち堅相を失い、又地を破りて、以って微塵と為し、以って方(まさ)に塵を破らんとすれば、終に空に帰すれば、亦た堅相を失う。是の如く推求すれば、地相は則ち得べからず。若し得べからざれば、其の実は、皆空なり。空は、則ち是れ地の実相なり。一切の別相も、皆亦た是の如し。是れを名づけて、如と為す。 |
『実相』とは、
『各各相中に、分別して!』、
『実を求めても!』、
『不可得であり( be unrecognizable )!』、
『不可破であり( not to be devided )!』、
『諸の過失が無い( be faultless )!』。
『自相空』中に、説いたように、――
『地』が、
若し、
『実に、堅相ならば!』、
何故、
『膠や、蝋等』は、
『火に会う!』時、
其の、
『自性』を、
『捨てるのか?』。
有る、
又、
又、
『地を破って!』、
『微塵にしながら!』、
方に( simultaneously )、
『微塵』を、
『破れば!』、
終に、
『空に!』、
『帰することになる!』ので、
亦た、
『堅相』を、
『失う!』、と。
是のように、
『地相を推求すれば!』、
『不可得であり!』、
若し、
『不可得ならば!』、
其の、
『実』は、
『皆、空であり!』、
『空』とは、
則ち、
『地の実相なのである!』。
『一切の別相』は、
亦た、
皆、
『是の通りであり!』、
是れを、
『如』と、
『称するのである!』。
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不可破(ふかは):梵語 abhedya, abhedyatva の訳、割れたり、壊れたりしないこと/不可分性( not to be divided
or broken, indivisibility )の義。
無過失(むかしつ):梵語 anavadya, anavadyatva の訳、非難の余地の無い/過失の無い/無過失性( irreproachable, faultless, faultlessness )の義。
方(ほう):[本義]双胴船、並行( parallel boats, parallel )。<動詞>匹敵/相当する( match, be equal
to )、比較/比擬する( compare )、辨別/区別する( differentiate )、占有する( occupy )、依拠する( rely
on )、摸倣/模擬する( mimic, simulate, copy )、過失を責める/中傷する( vilify, defame, slander
)。<名詞>筏( raft )、方形( cube, square )、方向/方位( orientation, direction )、地区/地方(
locality, place, region )、方面( aspect, side )、規律/道理( law, rule, reason )、儒家の倫理道徳と学問(
moral principle and knowledge, learning )、薬物の配合方( recipe )、品類/類別( sort
)、大地( the earth )、方法( method )。<形容詞>方正/正直( upright )。<副詞>丁度/丁度其の時( just,
at the time when )、[時間を表示する]まさに・将に相当、[範囲・程度を表示する]只、僅かに( only )。<介詞・前置詞>[時間を表示する]在、当に相当(
at )。 |
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法性者如前說各各法空。空有差品是為如。同為一空是為法性。是法性亦有二種。一者用無著心分別諸法各自有性故。二者名無量法。所謂諸法實相。如持心經說。法性無量。聲聞人雖得法性。以智慧有量故不能無量說。如人雖到大海以器小故不能取無量水是為法性。 |
法性とは、前に各各法の空を説けるが如く、空に差品有りて、是れを如と為し、同じく一空と為すを、是れを法性と為す。是の法性にも、亦た二種有り、一には無著心を用いて諸法を分別するに、各自ら性有るが故なり。二には、無量の法、謂わゆる諸法の実相と名づく。持心経に説けるが如く、法性は無量なれば、声聞人は、法性を得と雖も、智慧の有量なるを以っての故に、無量に説く能わず。人の大海に到ると雖も、器の小なるを以っての故に、無量の水を取る能わざるが如き、是れを法性と為す。 |
『法性』とは、
前に、
『各各法の空』を、説いたように、――
『空』には、
『差品が有り!』、
是の、
『空の差品( difference )』を、
『如』と、
『称するのである!』が、
是の、
『如』は、
『同じく!』、
『一空である!』ので、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
是の、
『法性』には、
『二種有って!』、
一には、
『無著心を用いて!』、
『諸法』を、
『分別すれば!』、
『諸法』は、
『各、自性を有する!』が故に、
是れを、
『法性』と、
『称し!』、
二には、
『無量の法』、
謂わゆる、
『諸法の実相』を、
『法性』と、
『称するのである!』。
例えば、
『持心経』に、説く通りである、――
『法性は無量であり!』、
『声聞人が法性を得たとしても!』、
『智慧が有量である!』が故に、
『無量の法性』を、
『説くことができない!』、と。
譬えば、
『人』が、
『大海に到っても!』、
『器が小である!』が故に、
『無量の水』を、
『取ることができないようなものである!』。
是れを、
『法性』と、
『称する!』。
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差品(しゃほん):差別、差異、類別( difference )。 |
参考:『勝思惟梵天所問経巻3』:『爾時會中。有一菩薩摩訶薩名曰普華。問長老舍利弗言。大德舍利弗。汝為證法性為不證耶。而不能如是以大智慧奮迅說法。佛說大德於智慧人中最為第一。大德。何以不現如是智慧辯才自在力耶。答言。善男子。隨智慧力。佛說我於聲聞弟子智慧人中最為第一能有所說。大德舍利弗。法性境界有多少耶。答言無也。大德舍利弗。若法性境界無多少者。汝云何言隨智慧力。佛說我於聲聞弟子智慧人中最為第一能有所說。答言。善男子。於聲聞中隨所得法而有所說。大德舍利弗。汝證法性境界有量相耶。答言無也。大德舍利弗。若如是者。汝云何言隨所得法而有所說。大德舍利弗。如法性無量相。證亦如是。如證說亦如是。何以故。法性無量相故。舍利弗言。善男子。法性非證相。大德舍利弗。若彼法性非證相者。汝出法性得解脫耶。答言不也。大德舍利弗。何故爾耶。答言。善男子。若出法性得解脫者。則壞法性。普華菩薩言。是故舍利弗。如汝證法。法性亦如是。舍利弗言。善男子。我為聽來非為說也。大德舍利弗。一切諸法皆入法性。此法性中寧有說者有聽者不。答言無也。大德舍利弗。若如是者。汝云何言我為聽來非為說耶。答言。善男子。佛說二人得福無量。一者專精說法。二者一心聽受。以是義故。普華應說我應聽受。大德舍利弗。汝入滅盡定能聽法耶。答言。善男子。入滅盡定。無有二行而聽法也。大德舍利弗。汝信諸法皆是自性滅盡相不。答言。善男子。如是諸法皆是自性滅盡之相。我信是說。普華菩薩言。若如是者。則舍利弗。常一切時不能聽法。何以故。以一切法常是自性滅盡相故。舍利弗言。善男子。仁能不起于定而說法耶。曰頗有一法非是定耶。答言無也。大德舍利弗。以是義故。當知一切愚癡凡夫應常在定。舍利弗言。以何定故。一切凡夫常在定耶。曰以不壞法性三昧故。舍利弗言。善男子。若如是者。凡夫聖人無有差別。大德舍利弗。如是如是。我不欲令凡夫聖人有差別也。何以故。聖人無所得一法。凡夫無所生一法。是二不過法性平等之相。舍利弗言。善男子。仁以何等。是諸法性平等之相。曰如舍利弗所得知見。大德舍利弗。汝生賢聖法耶。答言不也。汝滅凡夫法耶。答言不也。汝得賢聖法耶。答言不也。汝見凡夫法耶。答言不也。大德舍利弗。若如是者。汝何知見說言得法耶。答言。善男子。可不聞如。凡夫無智慧如。即是漏盡解脫如。漏盡解脫如。即是無餘涅槃如。普華菩薩言。大德舍利弗。如不異如不改如不變如不壞如。應以是如知一切法。爾時長老舍利弗白佛言。世尊。譬如大火一切炷焰悉皆能燒。如是此諸善男子。所說法性悉皆能燒一切煩惱。佛言。舍利弗。如汝所言。是諸善男子。所說法性悉皆能燒一切煩惱』 |
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實際者。以法性為實證故為際。如阿羅漢名為住於實際。 |
実際とは、法性を以って実証を為さんが故に際と為す。阿羅漢を名づけて、実際に住すと為すが如し。 |
『実際』とは、
『法性を用いて!』、
『実証する!』が故に、
『際( the limit of reality )』と、
『称する!』。
例えば、
『阿羅漢』を、
『実際に住する!』者と、
『称するようなものである!』。
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問曰。如法性實際是三事為一為異。若一云何說三。若三今應當分別說。 |
問うて曰く、如、法性、実際は、是の三事を一と為すや、異と為すや。若し一なれば、云何が三を説く。若し三なれば、今応当に分別して説くべし。 |
問い、
『如、法性、実際という!』、
若し、
『一事ならば!』、
何故、
『三事』を、
『説くのですか?』。
若し、
『三事ならば!』、
今、
『分別して!』、
『説かれねばなりません!』。
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答曰。是三皆是諸法實相異名。所以者何。凡夫無智於一切法作邪觀。所謂常樂淨實我等。 |
答えて曰く、是の三は、皆是れ諸法の実相の異名なり。所以は何んとなれば、凡夫は、無智なれば、一切法に於いて邪観を作せばなり、謂わゆる常、楽、浄、実我等なり。 |
答え、
是の、
何故ならば、
『凡夫』は、
『無智であり!』、
『一切の法』に、
『邪観』を、
『作すからである!』。
謂わゆる、
『常観や、楽観や、浄観や、実、我観等である!』。
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佛弟子如法本相觀。是時不見常是名無常。不見樂是名苦。不見淨是名不淨。不見實是名空。不見我是名無我。若不見常而見無常者是則妄見。見苦空無我不淨亦如是。是名為如。 |
仏弟子の如法なる本相観は、是の時、常を見ざる、是れを無常と名づけ、楽を見ざる、是れを苦と名づけ、浄を見ざる、是れを不浄と名づけ、実を見ざる、是れを空と名づけ、我を見ざる、是れを無我と名づく。若し常を見ずして、無常を見れば、是れ則ち妄見なり。苦、空、無我、不浄を見るも、亦た是の如し。是れを名づけて、如と為す。 |
『仏弟子』の、
『如法の本相観』は、
是の時、
『常を見ないこと!』を、
『無常』と、
『称し!』、
『楽を見ないこと!』を、
『苦』と、
『称し!』、
『浄を見ないこと!』を、
『不浄』と、
『称し!』、
『実を見ないこと!』を、
『空』と、
『称し!』、
『我を見ないこと!』を、
『無我』と、
『称するのであり!』、
若し、
『常を見ないで!』、
『無常』を、
『見れば!』、
是れは、
則ち( that is )、
『妄見である!』。
亦た、
『苦、空、無我、不浄』を、
『見ること!』も、
『是の通りである!』。
是れを、
『如( thusness )』と、
『称する!』。
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註:常観は誤謬の故に見ないことが如(ありのまま)であり、無常は言葉のみ有り、実体は無いが故に、見れば妄見である。 |
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如者如本無能敗壞。以是故佛說三法為法印。所謂一切有為法無常印。一切法無我印。涅槃寂滅印。 |
如とは、本の如くして、能く敗壊する無し。是を以っての故に、仏の説きたまわく、『三法を法印と為す。謂わゆる一切有為法無常印、一切法無我印、涅槃寂滅印なり』、と。 |
『如』とは、
『本のまま( as it was )であり!』、
『敗壊させる!』者が、
『無いことであり!』、
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『三法』は、
『法印である!』、
謂わゆる、
『一切の有為法』は、
『無常であるという!』、
『印と!』、
『一切の法』は、
『無我であるという!』、
『印と!』、
『涅槃』とは、
『寂滅であるという!』、
『印である!』、と。
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三法印(さんほういん):『大智度論巻22上』参照。 |
参考:『雑阿含経巻10(262)』:『時。闡陀過此夜已。晨朝著衣持缽。入波羅奈城乞食。食已。還攝舉臥具。攝臥具已。持衣缽詣拘睒彌國。漸漸遊行到拘睒彌國。攝舉衣缽。洗足已。詣尊者阿難所。共相問訊已。卻坐一面。時。闡陀語尊者阿難言。一時。諸上座比丘住波羅奈國仙人住處鹿野苑中。時。我晨朝著衣持缽入波羅奈城乞食。食已。還攝衣缽。洗足已。持戶鉤。從林至林。從房至房。從經行處至經行處。處處見諸比丘。而請之言。當教授我。為我說法。令我知法.見法。時。諸比丘為我說法言。色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。我爾時語諸比丘言。我已知色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。然我不喜聞。一切諸行空寂.不可得.愛盡.離欲.涅槃。此中云何有我。而言如是知.如是見是名見法。我爾時作是念。是中誰復有力堪能為我說法。令我知法.見法。我時復作是念。尊者阿難今在拘睒彌國瞿師羅園。曾供養親覲世尊。佛所讚歎。諸梵行者皆悉知識。彼必堪能為我說法。令我知法.見法。善哉。尊者阿難今當為我說法。令我知法.見法。。時。尊者阿難語闡陀言。善哉。闡陀。我意大喜。我慶仁者能於梵行人前。無所覆藏。破虛偽刺。闡陀。愚癡凡夫所不能解色無常。受.想.行.識無常。一切諸行無常。一切法無我。涅槃寂滅。汝今堪受勝妙法。汝今諦聽。當為汝說』 |
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問曰。是三法印般若波羅蜜中悉皆破壞。如佛告須菩提。若菩薩摩訶薩觀色常不行般若波羅蜜。觀色無常不行般若波羅蜜。苦樂我無我寂滅非寂滅亦如是。如是云何名法印。 |
問うて曰く、是の三法印は、般若波羅蜜中に悉く皆破壊す。仏の須菩提に告げたもうが如し、『若し菩薩摩訶薩、色の常を観れば、般若波羅蜜を行ぜず、色の無常を観れば般若波羅蜜を行ぜず、苦楽我無我寂滅非寂滅も亦た是の如し』、と。是の如きを云何が、法印と名づくる。 |
問い、
是の、
『三法印』は、
『般若波羅蜜』中に、
悉く皆、
『破壊されている!』。
『仏』が、
『須菩提』に、こう告げられた通りである、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『色は、常であると観れば!』、
『般若波羅蜜』を、
『行ったことにならない!』し、
『色は、無常であると観ても!』、
『般若波羅蜜』を、
『行ったことにならない!』。
亦た、
『苦、楽、我、無我、寂滅、非寂滅』も、
『是の通りである!』、と。
是のような者を、
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参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3相行品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩無方便欲行般若波羅蜜。若行色為行相。若行受想行識為行相。若色是常行為行相。若受想行識是常行為行相。若色是無常行為行相。若受想行識是無常行為行相。若色是樂行為行相。若受想行識是樂行為行相。若色是苦行為行相。若受想行識是苦行為行相。若色是有行為行相。若受想行識是有行為行相。若色是空行為行相。若受想行識是空行為行相。若色是我行為行相。若受想行識是我行為行相。若色是無我行為行相。若受想行識是無我行為行相。若色是離行為行相。若受想行識是離行為行相。若色是寂滅行為行相。若受想行識是寂滅行為行相。世尊。若菩薩摩訶薩無方便行四念處為行相。乃至行十八不共法為行相。世尊。若菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時作是念。我行般若波羅蜜。有所得行亦是行相。世尊。若菩薩摩訶薩作是念。能如是行是修行般若波羅蜜。亦是行相。當知是菩薩摩訶薩行般若波羅蜜無方便。』 |
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答曰。二經皆是佛說。如般若波羅蜜經中了了說諸法實相。 |
答えて曰く、二経は、皆是れ仏説なるも、般若波羅蜜経中の如きには、了了に諸法の実相を説けり。 |
答え、
『二経』は、
皆、
『仏説である!』が、
『般若波羅蜜経中などには!』、
『了了に( very clearly )!』、
『諸法の実相』が、
『説かれている!』。
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有人著常顛倒故捨常見。不著無常相是名法印。非謂捨常著無常者以為法印。我乃至寂滅亦如是。般若波羅蜜中破著無常等見。非謂破不受不著。得是諸法如已。則入法性中滅諸觀不生異信性自爾故。譬如小兒見水中月入水求之不得便愁。智者語言性自爾莫生憂惱。善入法性是為實際。 |
有る人は、常顛倒に著するが故に、常見を捨つるも、無常相に著せず、是れを法印と名づけ、常を捨てて、無常に著する者を謂い、以って法印と為すに非ず。我、乃至寂滅も亦た是の如し。般若波羅蜜中には、無常等に著する見を破り、不受、不著を破るを謂うに非ず。是の諸法の如を得已れば、則ち法性中に入り、諸観を滅して、異信を生ぜず、性の自ら爾るが故なり。譬えば小児の水中の月を見て、水に入りて之を求むるに、得ずして便ち愁うるに、智者の語りて、『性は、自ら爾り。憂悩を生ずる莫れ』、と言うが如く、善く法性に入る、是れを実際と為す。 |
有る、
『人』は、
『常という!』、
『顛倒( inverted view )に!』、
『著する!』が故に、
『常見を捨てながら!』、
而も、
『無常相に著さないこと!』を、
『法印』と、
『称するのであり!』、
『常を捨てて!』、
『無常に著する!』者を、
『法印と!』、
『謂うのではない!』。
亦た、
『我、乃至寂滅』も、
『是の通りである!』。
『般若波羅蜜』中には、
『無常等に著する!』、
『見』を、
『破る!』が、
『無常等に不受、不著であること!』を、
『破ること!』を、
『謂うのではない!』。
是の、
『諸法の如を得たならば!』、
則ち、
『法性中に入って!』、
『諸観』を、
『滅することになり!』、
『異信を生じなくなる!』のは、
『諸法の性』は、
『自ら爾うだからである( naturally it is so )!』。
譬えば、
『小児』が、
『水中の月を見て!』、
『水に入って!』、
『求めても!』、
『得られない!』ので、
便ち( then )、
『愁えている!』と、
『智者が語って!』、こう言うように、――
『月の性、自ら爾うである!』。
『憂悩』を、
『生じてはならない!』、と。
『善く( good )!』、
『法性に入ること!』を、
『実際』と、
『称するのである!』。
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問曰。聲聞法中何以不說是如法性實際。而摩訶衍法中處處說。 |
問うて曰く、声聞法中には、何を以ってか、是の如、法性、実際を説かずして、摩訶衍法中には処処に説く。 |
問い、
是の、
『如、法性、実際』は、
何故、
『声聞法』中には、
『説かれず!』、
『摩訶衍法』中には、
『処処に!』、
『説かれているのですか?』。
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答曰。聲聞法中亦有說處但少耳。 |
答えて曰く、声聞法中にも、説ける処有るも、但だ少しなるのみ。 |
答え、
『声聞法』中にも、
但だ、
『少しならば!』、
『説かれた処』が、
『有る!』。
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如雜阿含中說。有一比丘問佛十二因緣法。為是佛作為是餘人作。佛告比丘。我不作十二因緣亦非餘人作。有佛無佛諸法如法相法位常有。所謂是事有故是事有。是事生故是事生。如無明因緣故諸行。諸行因緣故識。乃至老死因緣故有憂悲苦惱。是事無故是事無。是事滅故是事滅。如無明滅故諸行滅。諸行滅故識滅。乃至老死滅故憂悲苦惱滅。如是生滅法有佛無佛常爾。是處說如。 |
雑阿含中に説けるが如し、有る一比丘の仏に問わく、『十二因縁の法は、是れ仏の作と為すや、是れ余人の作と為すや』、と。仏の比丘に告げたまわく、『我れ、十二因縁を作さず、亦た余人の作に非ず。仏有るも、仏無きも、諸法の如、法相、法位は常に有り。謂わゆる是の事有るが故に、是の事有り。是の事生ずるが故に、是の事生ず。無明の因緣の故に、諸行あり、諸行の因縁の故に識あり、乃至老死の因縁の故に、憂悲、苦悩有るが如し。是の事無きが故に是の事無く、是の事滅するが故に是の事滅す。無明滅するが故に諸行滅し、諸行滅するが故に識滅し、乃至老死滅するが故に憂悲、苦悩滅するが如し。是の如き生滅の法は、仏有るも、仏無きも常に爾り』、と。是の処に、如を説きたまえり。 |
『雑阿含中に説かれた通りである!』、――
有る、
『一比丘』が、
『仏』に、こう問うた、――
『十二因縁の法』は、
『仏が作られたのですか?』、
『余人が作ったのですか?』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
『十二因縁』は、
『わたしが、作ったのでもなく!』、
『余人が、作ったのでもない!』。
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『諸法』の、
『如、法相、法位』は、
『常に、有る!』。
謂わゆる、
是の、
『事が有る!』が故に、
是の、
『事』が、
『有り!』、
是の、
『事が生じる!』が故に、
是の、
『事』が、
『生じる!』とは、
例えば、
『無明の因縁』の故に、
『諸行』が、
『有り!』、
『諸行の因縁』の故に、
『識』が、
『有り!』、
乃至、
『老死の因縁』の故に、
『憂悲、苦悩』が、
『有るようなものである!』。
是の、
『事が無い!』が故に、
是の、
『事』が、
『無く!』、
是の、
『事が滅する!』が故に、
是の、
『事』が、
『滅する!』とは、
例えば、
『無明が滅する!』が故に、
『諸行』が、
『滅し!』、
『諸行が滅する!』が故に、
『識』が、
『滅し!』、
乃至、
『老死が滅する!』が故に、
『憂悲、苦悩』が、
『滅するようなものである!』。
是のような、
『生滅の法』は、
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『常に!』、
『爾うなのである!』、と。
『仏』は、
是の、
『処に!』、
『如を説かれたのである!』。
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法位(ほうい):梵語 dharma-sthititaa の訳、法の揺るぎなき地位( the firm position of dharma )の義。真如の異名。又法住とも称す。
法位(ほうい):真如の異名。また法住ともいう。真如は諸法安住の位なるが故に法位と名づけ、また真如は菩薩安住の位なるが故に法位と名づく。「大智度論巻68釈魔事品」に、「仏言わく、未だ法位に入らずんば、諸仏は授記を与えずと。所以は何んとなれば、諸仏は悉く衆生の久遠の事を知るといえども、五通仙人及び諸天の為に、この人は、未だ善行業因縁の授記すべき者有らざるを見るに、もし授記を為さば、仏を軽んじて、因縁有ることなきに、云何が授記を与うと信ぜざらん、この故に法位に入る者に授記を与うるなり」と云えるこれなり。<(丁) |
参考:『雑阿含経巻30(852)』:『如是我聞。一時。佛住那梨迦聚落繁耆迦精舍。爾時。那梨迦聚落多人命終。時。有眾多比丘著衣持缽。入那梨迦聚落乞食。聞那梨迦聚落罽迦舍優婆塞命終。尼迦吒.佉楞迦羅.迦多梨沙婆.闍露.優婆闍露.梨色吒.阿梨色吒.跋陀羅.須跋陀羅.耶舍耶輸陀.耶舍鬱多羅悉皆命終。聞已。還精舍。舉衣缽。洗足已。詣佛所。稽首佛足。退坐一面。白佛言。世尊。我等眾多比丘晨朝入那梨迦聚落乞食。聞罽迦舍優婆塞等命終。世尊。彼等命終。當生何處。佛告諸比丘。彼罽迦舍等已斷五下分結。得阿那含。於天上般涅槃。不復還生此世。諸比丘白佛。世尊。復有過二百五十優婆塞命終。復有五百優婆塞於此那梨迦聚落命終。皆五下分結盡。得阿那含。於彼天上般涅槃。不復還生此世。復有過二百五十優婆塞命終。皆三結盡。貪.恚.癡薄。得斯陀含。當受一生。究竟苦邊。此那梨迦聚落復有五百優婆塞於此那梨迦聚落命終。三結盡。得須陀洹。不墮惡趣法。決定正向三菩提。七有天人往生。究竟苦邊。佛告諸比丘。汝等隨彼命終.彼命終而問者。徒勞耳。非是如來所樂答者。夫生者有死。何足為奇。如來出世及不出世。法性常住。彼如來自知成等正覺。顯現演說。分別開示。所謂是事有故是事有。是事起故是事起。緣無明有行。乃至緣生有老.病.死.憂.悲.惱苦。如是苦陰集。無明滅則行滅。乃至生滅則老.病.死.憂.悲.惱苦滅。如是苦陰滅。今當為汝說法鏡經。諦聽。善思。當為汝說。何等為法鏡經。謂聖弟子於佛不壞淨。於法.僧不壞淨。聖戒成就。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
参考:『大品般若経巻21』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩應作是念。色非義非非義。乃至識非義非非義。檀那波羅蜜乃至阿耨多羅三藐三菩提非義非非義。何以故。須菩提。佛得阿耨多羅三藐三菩提時。無有法可得若義若非義。須菩提。有佛無佛諸法法相常住。無有義無有非義如是須菩提菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。應離義及非義。須菩提白佛言。世尊。何以故。般若波羅蜜非義非非義。佛告須菩提。一切有為法無作相。以是故般若波羅蜜非義非非義。』 |
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如雜阿含舍利弗師子吼經中說。佛問舍利弗一句義。三問三不能答。佛少開示。舍利弗已入於靜室。舍利弗集諸比丘語諸比丘言。佛未示我事端未即能答。今我於此法七日七夜演說其事而不窮盡。復有一比丘白佛。佛入靜室後。舍利弗作師子吼而自讚歎。佛語比丘。舍利弗語實不虛。所以者何。舍利弗善通達法性故。聲聞法中觀諸法生滅相是為如。滅一切諸觀得諸法實相。是處說法性。 |
雑阿含舎利弗師子吼経中に説けるが如し、仏の舎利弗に、一句の義を問いたもうに、三たび問うて、三たび答うる能わず。仏の少しく、舎利弗に開示し已りて、静室に入りたまえり。舎利弗の諸比丘を集め、諸比丘に語りて言わく、『仏は、未だ我れに事の端を示したまわざれば、未だ即ち答うる能わず。今、我れ、此の法に於いて、七日七夜演説するも、其の事は、而も窮尽せざらん』、と。復た有る一比丘の仏に白さく、『仏、静室に入りたまえる後、舎利弗は師子吼を作して、自ら讃歎せり』、と。仏の比丘に語りたまわく、『舎利弗は、実を語りて、虚しからず。所以は何んとなれば、舎利弗は、善く法性に通達するが故なり』、と。声聞法中には、諸法の生滅相を観じて、是れを如と為すも、一切の諸観を滅して、諸法の実相を得ること、是の処に、法性を説きたまえり。 |
『雑阿含舎利弗師子吼経』中には、こう説かれているが、――
『仏』が、
『舎利弗』に、
『一句の義』を、
『問われた!』が、
『舎利弗』は、
『三たび問うて!』、
『三たび!』、
『答えることができなかった!』。
『仏』は、
『舎利弗』に、
『少しだけ、開示される( to teach a little )!』と、
『静室』に、
『入られた!』。
『舎利弗』は、
『諸比丘を集め!』、
『諸比丘に語って!』、こう言った、――
『仏』は、
わたしに、
未だ、
『事の端すら!』、
『示されない!』ので、
わたしは、
『即ち( promptly )!』、
『答えることができなかった!』が、
今、
わたしが、
此の、
『法』を、
『七日、七夜演説したとしても!』、
其の、
『事』が、
『窮尽することはないであろう!』、と。
復た、
『有る比丘』は、
『仏』に、こう白した、――
『仏』が、
『静室に入られた!』後、
『舎利弗が、師子吼して!』、
『自らを!』、
『讃歎していた!』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう語られた、――
『舎利弗が語ったとすれば!』、
『実であり!』、
『虚妄ではない!』。
何故ならば、
『舎利弗』は、
『法性』に、
『善く通達しているからである!』、と。
『声聞法』中には、
『諸法』は、
『生滅の相である!』と、
『観て!』、
是れを、
『如』と、
『称する!』が、
是の、
『処』には、
『一切の諸観を滅して!』、
『諸法の実相』を、
『得ること!』を、
『仏』は、
『法性である!』と、
『説かれている!』。
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開示(かいじ):梵語 nidarzana の訳、指し示す/見せる/導く/告知する/宣言する/教える( pointing to, showing,
indicating, announcing, proclaiming, teaching )の義。 |
参考:『雑阿含経巻14(345)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告尊者舍利弗。如我所說。波羅延耶阿逸多所問 若得諸法教 若復種種學 具威儀及行 為我分別說 舍利弗。何等為學。何等為法數。時。尊者舍利弗默然不答。第二.第三亦復默然。佛言。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。比丘真實者。厭.離欲滅盡向。食集生。彼比丘以食故。生厭.離欲.滅盡向。彼食滅。是真實滅覺知已。彼比丘厭.離欲.滅盡向。是名為學。復次。真實。舍利弗。舍利弗白佛言。真實。世尊。世尊。若比丘真實者。厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。彼從食集生。若真實即是滅盡。覺知此已。比丘於滅生厭.離欲.滅盡。不起諸漏。心善解脫。是數法。佛告舍利弗。如是。如是。如汝所說。比丘於真實生厭.離欲.滅盡。是名法數。如是說已。世尊即起。入室坐禪。爾時。尊者舍利弗知世尊去已。不久。語諸比丘。諸尊。我不能辯世尊初問。是故我默念住。世尊須臾復為作發喜問。我即開解如此之義。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。以異句異味而解說之。時。有異比丘往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。尊者舍利弗作奇特未曾有說。於大眾中。一向師子吼言。我於世尊初問。都不能辯。乃至三問默然無答。世尊尋復作發喜問。我即開解。正使世尊一日一夜。乃至七夜。異句異味問斯義者。我亦悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。佛告比丘。彼舍利弗比丘實能於我一日一夜。乃至異句異味。七夜所問義中悉能。乃至七夜。異句異味而解說之。所以者何。舍利弗比丘善入法界故。佛說此經已。彼比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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問曰。是處但說如法性何處復說實際。 |
問うて曰く、是の処は、但だ如、法性を説く。何れの処にか、復た実際を説く。 |
問い、
是の、
『処』は、
但だ、
『如、法性』を、
『説いている!』が、
復た、
『実際』は、
『何処に!』、
『説かれているのですか?』。
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答曰。此二事有因緣故說實際。無因緣故不說實際。 |
答えて曰く、此の二事は、因緣有るが故に説くも、実際は因縁無きが故に、実際を説かず。 |
答え、
此の、
『二事』は、
『因緣が有る!』が故に、
『説かれた!』が、
『実際』は、
『因緣が無い!』が故に、
『説かれなかった!』。
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問曰。實際即是涅槃。為涅槃故佛說十二部經。云何言無因緣。 |
問うて曰く、実際は、即ち是れ涅槃なり。涅槃の為に故に、仏は十二部経を説きたまえり。云何が因縁無しと言う。 |
問い、
『実際』とは、
即ち( that is )、
『涅槃であり!』、 『涅槃の為』の故に、
『仏』は、
『十二部の経』を、
『説かれたのである!』。
何故、
『因縁が無い!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。涅槃種種名字說。或名為離或名為妙或名為出。如是等則為說實際。但不說名字故言無因緣。 |
答えて曰く、涅槃は、種種の名字を説いて、或いは名づけて、離と為し、或いは名づけて、妙と為し、或いは名づけて、出と為す。是れ等の如きは、即ち実際を説くと為す。但だ名字を説かざるが故に、因縁無しと言う。 |
答え、
『涅槃』は、
種種の、
『名字』が、
『説かれており!』、
或いは、
『離』と、
『呼ばれ!』、
或いは、
『妙』と、
『呼ばれ!』、
或いは、
『出』と、
『呼ばれている!』が、
是れ等のような者は、
則ち、
『実際』を、
『説いたのである!』が、
但だ、
『実際という!』、
『名字が!』、
『説かれていない!』が故に、
『因縁』が、
『無い!』と、
『言ったのである!』。
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復次諸法如者如諸法未生時生時亦如是。生已過去現在亦如是。諸法三世平等是名為如。 |
復た次ぎに、諸法の如とは、諸法の未だ生ぜざる時の如く、生ずる時も亦た是の如く、生じ已りて過去、現在も亦た是の如く、諸法にして三世に平等なれば、是れを名づけて如と為す。 |
復た次ぎに、
『諸法の如』とは、
諸の、
『法』が、
『未だ、生じない時のように!』、
『生じる時も!』、
『是の通りであり!』、
亦た、
『生じてしまった!』、
『過去や、現在も!』、
『是の通りならば!』、
諸の、
『法』は、
『三世に!』、
『平等であり!』、
是れを、
『如』と、
『称する!』。
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問曰。若未生法名為未有生法。現在則有法可用因。現在法有事用相故追憶過事是名過去。三世各異不應如實為一。云何言三世平等是名為如。 |
問うて曰く、若し未だ生ぜざる法を、名づけて未だ有らずと為せば、生法は、現在にして、則ち法の用うべき有り。現在の法に、事、用、相有るに因るが故に、追憶する過ぎし事、是れを過去と名づく。三世は各異なれば、応に如実に一と為すべからず。云何が、『三世の平等なる、是れを名づけて、如と為す』、と言う。 |
問い、
若し、
『未生の法』を、
『未だ無い!』者と、
『呼べば!』、
『生じた法』は、
『現在有って!』、
『用いることができる!』。
『現在の法』に、
『事( an entity )や、用( an action )や、相( a characteristic )』が、
『三世』は、
『各が異なっており!』、
『如実に!』、
『一だということではない!』。
何故、こう言うのですか?――
『三世に平等である!』者を、
『如』と、
『称する!』、と。
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事(じ):梵語arthaの訳語、事件/事物/実体/明白な現象/明瞭な現象( an event, a thing; an entity, manifest
phenomenon, distinct phenomenon )の義。
用(ゆう):梵語 kRtya の訳、実行可能な( feasible, practicable )、行為/事業/演技/奉仕( action, business,
performance, service )の義。
相(そう):梵語 lakSaNa の訳、目印/標識/記号/象徴/特色/属性/特質( a mark, sign, symbol, token, characteristic,
attribute, quality )の義。
作用(さゆう):動作、起用の意。また略して用ともいう。「大毘婆沙論巻39」に、「法の未来なるは未だ作用あらず、もし現在に至らば便ち作用あり。もし過去に入らば作用すでに息むが故に転変あり」と云い、「倶舎論巻5」に、生の作用は未来に在り、現在にすでに生ずれば更に生ぜざるが故なり。諸法生じおわりて正に現在する時、住等の三相の作用まさに起こる。生の用の時に余の三用あるに非ず」と云い、また「成唯識論巻2」に、「有生滅とは、もし法常に非ざればよく作用ありて習気を生長す、乃ちこれ能熏なり。これ無異は前後不変にして生長の用なきが故に、能熏に非ざるを遮す」と云える即ちその例なり。これ作用は三世有為法の中、ただ現在法にのみ有りて過去と未来法とには無く、また四相の中、生相の用は未来に在り、住、異、滅の三相の用は、法の現在する時まさに起こるものなることを明し、また無為法は生、住、異、滅の四相を離れ、世の為に遷流せらるるものに非ざるが故に、すべて作用なきことを説けるものなり。また「大乗起信論」、「同義記巻下本」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末、巻3本」等に出づ。<(望) |
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答曰。諸法實相中三世等一無異。如般若波羅蜜如品中說。過去如未來如現在如如來如一如無有異。 |
答えて曰く、諸法の実相中には、三世は等一にして、異無し。般若波羅蜜の如品中に説けるが如く、過去の如、未来の如、現在の如、如来の如は、一如にして、異有ること無し。 |
答え、
『諸法の実相』中には、
『三世』は、
『等一であり!』、
『異が無い!』。
『般若波羅蜜の如品』中に、説かれているように、――
『過去の如も、未来の如も、現在の如も、如来の如も!』、
『一如であり!』、
『異が無い!』。
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参考:『摩訶般若波羅蜜経巻16大如品』:『爾時須菩提語諸天子。汝等言。須菩提是佛子隨佛生。云何為隨佛生。諸天子。如相故須菩提隨佛生。何以故。如來如相不來不去。須菩提如相亦不來不去。是故須菩提隨佛生。復次須菩提。從本以來隨佛生。何以故。如來如相即是一切法如相。一切法如相即是如來如相。是如相中亦無如相。是故須菩提為隨佛生。復次如來如常住相。須菩提如亦常住相。如來如相無異無別。須菩提如相亦如是無異無別。是故須菩提為隨佛生。如來如相無有礙處。一切法如相亦無礙處。是如來如相一切法如相。一如無二無別。是如相無作終不不如。是故是如相一如無二無別。是故須菩提為隨佛生。如來如相一切處無念無別。須菩提如相亦如是。一切處無念無別。如來如相不異不別不可得。須菩提如相亦如是。以是故須菩提為隨佛生。如來如相不遠離諸法如相。是如終不不如。是故須菩提。如不異故為隨佛生亦無所隨。復次如來如相不過去不未來不現在。諸法如相亦不過去不未來不現在。是故須菩提為隨佛生。復次如來如不在過去如中。過去如不在如來如中。如來如不在未來如中。未來如不在如來如中。如來如不在現在如中。現在如不在如來如中。過去未來現在如如來如。一如無二無別。色如如來如。受想行識如如來如是色如受想行識如如來如。一如無二無別。我如乃至知者見者如如來如。一如無二無別。檀那波羅蜜如。乃至般若波羅蜜如。內空如乃至無法有法空如。四念處如乃至一切種智如如來如。一如無二無別。須菩提。菩薩摩訶薩得是如故名為如來。』 |
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復次先論議中已破生法。若無生法者未來現在亦無生云何不等。又復過去世無始未來世無後現在世無住。以是故三世平等名為如。行是如已入無量法性中。 |
復た次ぎに、先の論義中に已に、生法を破せり。若し生法無ければ、未来、現在にも亦た生無し。云何が等しからざる。又復た過去世には始無く、未来世には後無く、現在世には住する無し。是を以っての故に、三世の平等、名づけて如と為し、是の如を行じ已れば、無量の法性中に入る。 |
復た次ぎに、
先の、
『論議』中に、
已に、
『生法( the dharma of birth )』は、
『破られている!』。
若し、
『生法が無ければ!』、
『未来にも、現在にも!』、
『生』は、
『無いことになる!』のに、
何故、
『等しくないのか?』。
又復た、
『過去世』には、
『始( the beginning )』が、
『無く!』、
『未来世』には、
『後( the final )』が、
『無く!』、
『現在世』には、
『住( the abiding )』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『三世』が、
『平等であること!』を、
『如と称し!』、
是のように、
『行えば!』、
『無量の法性』中に、
『入るのである!』。
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生法(しょうぼう):生という法( the dharma of birth )、梵語 jaati-dharma の訳、物に命を与えるという特質( that quality which gives life to things )の義。 |
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法性者法名涅槃。不可壞不可戲論。法性名為本分種。如黃石中有金性白石中有銀性。如是一切世間法中皆有涅槃性。諸佛賢聖以智慧方便持戒禪定。教化引導令得是涅槃法性。 |
法性とは、法を涅槃は壊るべからず、戯論すべからずと名づけ、法性を名づけて、本分の種と為す。黄石中に金性有り、白石中に銀性有るが如く、是の如く一切の世間法中には、皆涅槃の性有り。諸仏、賢聖は智慧、方便、持戒、禅定を以って、教化し、引導して是の涅槃の法性を得しむ。 |
『法性』の、
『法』とは、
『涅槃』は、
『壊ることができず!』、
『戯論すべきでないということであり!』、
『法性』とは、
『本質的な!』、
『部分の!』、
『種ということである!』。
譬えば、
『黄石』中には、
『金性』が、
『有り!』、
『白石』中には、
『銀性』が、
『有るように!』、
是のように、
『一切の世間法』中には、
皆、
『涅槃の性』が、
『有るので!』、
諸の、
『仏や、賢聖』は、
『智慧、方便、持戒、禅定を用いて!』、
『教化し!』、
『引導して!』、
是の、
『涅槃という!』、
『法性』を、
『得させるのである!』。
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法(ほう):梵語dharmaの訳語にして、また達摩、駄摩、陀摩、曇摩、曇謨、曇無、或は曇に作る。自性を保持して改変せざるものの意なり。「倶舎論巻1」に、「よく自相を持するが故に(梵sava-
lakSaNa- dhaaraNatvena)名づけて法と為す」と云い、「仏地経論巻3」に、「法とはこれ自相を持するの義なり」と云い、また「成唯識論巻1」に、「法とは謂わく軌持なり」と云えり。これ法は自相を持するの義なることを説けるものにして、即ち梵語dharmaが保持の義なる語根dhRより転化せし名詞なるが故にこの釈を作せるものなり。蓋し仏典中に於いては法は種種の意味に用いられ、その語義一定ならず。「過去現在因果経巻3」に、「四諦の法輪、これを法宝と為す」と云い、「大毘婆沙論巻182」に初転法輪を釈し「仏この法門を説く時、五苾芻皆法を見る」と云い、また「増一阿含経巻2広演品」に、「それ正法とは欲より無欲に至り、諸の結縛と諸蓋の病を離る」と云い、「分別功徳論巻2」にこれを解し「法とは謂わく無漏法、無欲法、道法、無為法なり。欲より無欲に至るなり」と云えり。これ等は四聖諦等の仏所説の教示(梵dezanaa)を法と名づけたるものにして、即ち彼の教示は出離解脱に到達すべき不磨の軌範にして、その性永く改まらざることを顕すの意なり。また「中阿含巻1善法経」に、「云何が比丘は法を知る(梵dhammaJJuu)と為す。謂わく比丘は正経、歌詠、記説、偈咃、因縁、撰録、本起、此説、生処、広解、未曽有法及び説是義を知る。これを謂って比丘法を知ると為すなり」と云い、「大智度論巻22」に、「法に二種あり、一には仏の演説せる所の三蔵十二部八万四千の法聚なり、二には仏所説の法義にして、謂わゆる持戒、禅定、智慧、八聖道及び解脱果、涅槃等なり」と云い、また「瑜伽師地論巻81」に、「法とは略して十二種あり、謂わく契経等の十二分教なり」と云えるは、仏の教示の聚集たる聖典(梵paryaapti)を法と名づけたるものにして、また即ち不改の規範たるの意なり。また「五分律巻2」に、「仏は種種に呵責して、汝の所作は非法なりと」と云い、同巻3に「法を説いて非法を説かず、律を説いて非律を説かず」と云い、「大宝積経巻52」に、「一切諸法は或は名づけて法と為し、或は非法と名づく。何を以っての故に、もしよくかくの如き諸法は皆空無相及び無願なりと了知せば、即ち一切法は並びに名づけて法と為す。もし我及び我所の諸見睡眠に計著することあらば、即ち一切法は並びに非法と名づく」と云えるは、善行(梵guNa)即ち煩悩雑染の伴わざる行為を法と名づけたるものにして、道徳的法則たるの意を顕せるものというべし。また法は自相を保持して改変せざるの義なるが故に、広く善、悪、無記、有漏、無漏、色、心等の諸物を各皆呼んで法と称することあり。「雑阿含経巻37」に、法に悪法、真実法の二種、悪法、悪悪法、真実法、真実真実法の四種の別ありとし、「放光般若経巻3了本品」に、「諸法とは謂わく善法、悪法、記法、未記法、俗法、道法、有漏法、無漏法、有為法、無為法なり」と云い、「大乗入楞伽経巻5刹那品」に、「一切法とは、謂わゆる善法、不善法、有為法、無為法、世間法、出世間法、有漏法、無漏法、有受法、無受法なり」と云い、「大智度論巻11」に、「一切法とは、識所縁の法はこれ一切法なり。(中略)また次ぎに智所縁の法はこれ一切法なり。(中略)また次ぎに二法あり、一切法を摂す、色法無色法、可見法不可見法、有対法無対法、有漏無漏、有為無為、心相応心不相応、業相応業不相応、近法遠法等なり。かくの如き種種の二法は一切法を摂す。また次ぎに三種の法あり、一切法を摂す、善不善無記、学無学非学非無学、見諦断思惟断断不断なり。また三種の法あり、五衆十二入十八界なり。かくの如き等の種種の三法を持って尽く一切法を摂す。また四種の法あり、過去未来現在法非過去未来現在法、欲界繋法色界繋法無色界繋法不繋法、因善法因不善法因無記法非因善不善無記法、縁縁法縁不縁法縁縁不縁縁法亦非縁縁非不縁縁法なり。かくの如き等の四種の法は一切法を摂す。五種の法あり、色心心相応心不相応無為法なり。かくの如き等の種種の五法は一切法を摂す。六種の法あり。見苦断法見習尽道断法思惟断法不断法なり。かくの如き等の種種の六法あり。乃至無量の法あり、一切法を摂す。これを一切法と為す」と云い、また倶舎論等に一切の事象を類別して総じて五位七十五法とし、成唯識論等に五位百法となせる如き皆即ちこれなり。その語義に関し、「倶舎論光記巻1」に、「法の名を釈するに二あり、一にはよく自性を持す。謂わく一切法は各自性を守る、色等の性の常に改変せざるが如し。二には軌として勝解を生ぜしむ。無常等は人をして無常等の解を生ぜしむるが如し」と云い、また「成唯識論述記巻1本」に論の軌持の義を釈し「軌とは謂わく軌範なり、物の解を生ずべきなり。持とは謂わく任持なり、自相を捨てざるなり」と云えり。これ色は自己の質礙の性を保持し、心は自己の縁慮の性を保持し、乃至有漏無漏等の諸物も悉く皆自性を保持して常に改変あることなく、随ってこれ等の諸物はよく軌範となりて人をして一定の解悟を生ぜしむるが故に、名づけて法となすことを明にせるなり。また六境の中、前五識の境を色声香味触と名づくるに対し、特に意識所縁の境を法、または法処(梵dharma-
aayatana)、或は法界(梵dharma- dhaatu)と称することあり。これに関し、「大毘婆沙論巻73」に、「十二処の体は皆これ法なりといえども、而もただ一に於いて法処の名を立つるもまた失あることなし」と云い、具に十一種の釈を挙げ、また「倶舎論巻1」に、「差別せんが為に一の法処を立つ、一切に非ず。色の如くまさに知るべし。またこの中に於いて受想等の衆多の法を摂するが故にまさに通名を立つべし。また増上法は謂わゆる涅槃なり、この中に摂するが故に独り立てて法と為す」と云えり。これ色等の十二処は皆法なりといえども、他と区別せんが為に意識の所縁を特に法と名づけ、またこの法処の中には受想等の多数の法を摂し、かつ増上法たる涅槃を摂するが故に、独りこの一処に法の名を立つることを説けるものなり。「法蘊足論巻10処品」に法処所摂の法を挙げ「過去未来現在の諸の所有の法を名づけて法処と為し、また所知乃至所等証と名づく。これまた云何ん、謂わく受、想、思、触、作意、欲、勝解、信、精進、念、定、慧、尋、伺、放逸、不放逸、善根、不善根、無記根、一切の結、縛、睡眠、随煩悩、纏、諸の所有の智見、現観、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、住得、事得、処得、生、老、住、無常、名身、句身、文身、虚空、択滅、非択滅、及び余の所有の意根の所知、意識の所了、所有の名号、異語、増語、想等の想施設の言説を謂って法と名づけ、法界と名づけ、法処と名づけ、彼岸と名づく。かくの如き法処はこれ外処の摂なり」と云えり。これ色等の五境及び眼等の六識を除き、他の心所不相応及び無為等の諸法を特に法処と名づけたるものにして、これ等の諸物もまた即ち軌持の義に就き法の名を得たるなり。また因明に於いては種種の釈あるも且らくこれを置き、また法の字は種種の語に冠せられ、仏の説法を法輪(梵dharma-
cakra)、その聚集を法蘊(梵dharma- skandha)、法蔵(梵dharma- koza)、法聚、法集、法宝蔵と名づけ、また正法の規準たるものを法印(梵dharmo-
mudraa)、これに由りて聖道に通入するを法門(梵dharma-paryaaya)、その中の理趣を法味、これを受用するを法楽、愛楽するを法愛、人の為に説くを法施、他に教えてこれを化するを法化、利益を被らしむるを法益、または法利(梵dharma-
artha)、道に於いて験を得るを法力、または法験、聖教の滅尽を法滅、迫害を法難といい、また仏の自体を法身(梵dharma- kaaya)、物の自性を法性(梵dharmataa)、或は法体、その自相を法相、これに執著するを法執(梵dharma-
graaha)、または法我見、その執を空ずるを法空(梵dharma- zuunyataa)、理に於いて忍許するを法忍(梵dharma- kSaanti)、明らかにこれを見るを法眼(梵dharma-
cakSus)と名づけ、また説法の師を法師(梵dharma- bhaaNaka)、その子弟を法子、集会して種種の行事を修するを法会、法事、僧の衣服を法会、または法服と称し、その他にも法灯、宝幢、法鼓、法螺、法剣、法鏡、法雷、法雨、法水、法潤、法音、法苑、法海等の如き譬辞の類甚だ多し。また「中阿含巻28諸法本経」、「長阿含巻8衆集経」、「大品般若経巻4句義品」、「千仏因縁経」、「大智度論巻48、巻70」、「般若灯論巻2」、「大乗荘厳経論巻5、巻6」、「雑阿毘曇心論巻1」等に出づ。<(望)
性(しょう):梵語prakRtiの訳語にして、本質の意なり。相、または修に対す。即ち本来自爾の体質にして改変せざるものをいう。「大智度論巻31」に、「性は自有に名づく、因縁を待たず。もし因縁を待たば則ちこれ作法にして名づけて性と為さず」と云い、同巻32に「法性とは法は涅槃に名づく、壊すべからず、戯論すべからざる法なり。性は本分の種に名づく、黄石の中に金の性有るが如く、白石の中に銀の性有るが如く、かくの如く一切世間法の中に皆涅槃の性あり」と云い、また「菩薩地持経巻1種性品」に、「菩薩六入殊勝展転相続無始法爾なる、これを性種性と名づく」と云い、「大乗荘厳経論巻1種性品」に、「問う、もし爾らば云何が性と名づくる。答う、功徳を度する義なるが故なり。度とは功徳を出生するの義なり、この道理に由り、この故に性と名づく」と云えるこれなり。これ等は他の因縁を待たず、無始法爾として有する本分の因種を性と名づけたるなり。また「大智度論巻31」に性に総別の異あることを説き「一切法の性に二種あり、一には総性、二には別性なり。総性とは無常、苦、空、無我、無生無滅、無来無去、無入無出等なり。別性とは火は熱の性、水は湿の性なるが如く、心を識の性と為す。人の喜んで悪を作すを名づけて悪性と為し、好んで善事を集むるを善性と為すが如し」と云えり。この中、無常等は一切法共通の理性をいい、熱性等は諸法各別の自性に名づけたるなり。また「摩訶止観巻5上」に十如の中の如是性を釈し「如是性とは性は以って内に拠る。総じて三義あり、一に不改を性と名づく。無行経に不動性と称す、性は即ち不改の義なり。また性は性分に名づく、種類の義は分分不同にして各各改むべからず。また性はこれ実性なり、実性は即ち理性にして、極実にして過ぐるものなし。即ち仏性の異名のみ」と云い、また「華厳経疏巻49」に、「性に二義あり、一に種性の義、二には法性の義なり」と云えり。これ等は性に多義あることを示したるなり。また「成唯識論巻9」に遍、依、円の三性に関し「この性は即ちこれ唯識の実性なり。謂わく唯識の性に略して二種あり、一には虚妄、謂わく遍計所執なり。二には真実、謂わく円成実性なり。虚妄に簡ばんが為に実性の言を説く。また二性あり、一には世俗、謂わく依他起なり、二には勝義、謂わく円成実なり。世俗に簡ばんが為の故に実性と説く」と云えり。これ唯識の性に真妄及び真俗の別あるを説き、その中、円成実を以って唯識の実性となすことを明にせるものなり。その他また種性に約して五種性、仏性或は如来性等と云い、法の本質に約して法性、理性等と云い、またその性の真実なるを実性、その中の功徳を性徳と名づけ、元と自らこれを具するを性具と云い、その体即ち縁起するを性起等と称するなり。また「入楞伽経巻2」、「解深密経巻2一切法相品」、「大智度論巻24」、「大乗義章巻1、巻4」等に出づ。<(望) |
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利根者即知是諸法皆是法性。譬如神通人能變瓦石皆使為金。鈍根者方便分別求之乃得法性。譬如大冶鼓石然後得金。 |
利根の者は、即ち是の諸法は、皆是れ法性なりと知る。譬えば神通人は、能く瓦石を変じて、皆金と為らしむが如し。鈍根の者は、方便し、分別して之を求め、乃(すなわ)ち法性を得。譬えば大冶の石を鼓(う)ちて、然る後に金を得るが如し。 |
『利根の者』は、
是の、
『諸法』は、
『皆、法性である!』と、
『知る!』ので、
譬えば、
『神通の人』が、
『瓦石を変じて!』、
『皆、金にするようなものである!』。
『鈍根の者』は、
是の、
『諸法を方便し、分別して!』、
是の、
『法性を求めて!』、
乃ち( barely )、
『得る!』ので、
譬えば、
『大冶( a metallurgist )』が、
『石を鼓って!』、
その後、
『金』を、
『得るようなものである!』。
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大冶(だいや):冶金師( a metallurgist )。 |
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復次如水性下流故會歸於海合為一味。諸法亦如是。一切總相別相皆歸法性同為一相是名法性。 |
復た次ぎに、水性の下流するが故に、会して海に帰し、合して一味を為すが如く、諸法も亦た是の如く、一切の総相、別相は、皆法性に帰して、同じく一相を為せば、是れを法性と名づく。 |
復た次ぎに、
譬えば、
『水性が下流する!』が故に、
『会して( to get together )!』、
『海に帰し!』、
『合して!』、
『一味となるように!』、
『諸法』も、
是のように、
『一切の総相、別相』が、
『皆、法性に帰して!』、
『同じく!』、
『一相となる!』ので、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
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如金剛在山頂漸漸穿下至金剛地際到自性乃止。諸法亦如是。智慧分別推求已到如中從如入自性。如本末生滅諸戲論是名為法性。又如犢子周慞嗚呼得母乃止。諸法亦如是。種種別異取捨不同。得到自性乃止。無復過處是名法性。 |
金剛の山頂に在りて、漸漸に下に穿ちて、金剛地の際に至り、自性に到りて乃ち止むが如し。諸法も亦た是の如く、智慧もて分別し、推求し已りて、如中に到り、如より、自性に入る。如は本より末まで生にして、諸の戯論を滅すれば、是れを名づけて、法性と為す。又犢子の周慞し、嗚呼するに、母を得て乃ち止むが如し。諸法も亦た是の如く、種種に別異なれば、取捨同じからざるも、自性に到るを得て、乃ち止み、復た過ぐる処無ければ、是れを法性と名づく。 |
譬えば、
『金剛( a weapon what is extremely hard )』が、
『山頂より!』、
『漸漸に( regularly )、下に穿ちながら!』、
『金剛地の際』に、
『至り!』、
『自性に到って!』、
乃ち( at last )、
『止まるように!』、
『諸法』も、
是のように、
『智慧で分別、推求して!』、
『如』中に、
『到り!』、
『如より!』、
『自性に!』、
『入るのである!』。
『如の本、末』は、
『生である!』が故に、
『諸の戯論』を、
『滅するのであり!』、
是れを、
『法性』と、
『称する!』。
又、
『犢子( a calf )』が、
『周慞しながら( to go back and forth being terrified )!』、
『嗚呼し( to cry )!』、
『母を得て!』、
『乃ち、止むように!』、
『諸法』も、
是のように、
『種種に別異する( to be defferent variously )!』ので、
『取、捨すること!』が、
『同じではない!』が、
『自性に到ることができれば!』、
『乃ち、止むことになる!』ので、
復た( moreover )、
『過ぎた処( the place beyond there )』は、
『無い!』ので、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
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金剛(こんごう):梵語 vajra の訳、雷霆のように堅い神話上の武器/金属( a mytical weapon or metal as hard
as the thunderbolt )の義。
金剛地(こんごうじ):梵語 pRthivii-vajra の訳、金剛より為る地( the earth of vajra )の義。
漸漸(ぜんぜん):梵語 anupuurvazas の訳、規則正しく( regularly )の義。
犢子(とくし):子牛。
周慞(しゅうしょう):うろたえさまよう。周章。
嗚呼(おこ):ああと呼ぶ声。 |
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實際者如先說法性名為實。入處名為際。 |
実際とは、先に説けるが如く、法性を名づけて、実と為し、入る処を名づけて、際と為す。 |
『実際』とは、
先に説いたように、――
『法性』を、
『実』と、
『称し!』、
『入る処( the place into where someone go )』を、
『際』と、
『称する!』。
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復次一一法有九種。一者有體。二者各各有法。如眼耳雖同四大造而眼獨能見。耳無見功。又如火以熱為法而不能潤。三者諸法各有力。如火以燒為力水以潤為力。四者諸法各自有因。五者諸法各自有緣。六者諸法各自有果。七者諸法各自有性。八者諸法各有限礙。九者諸法各各有開通方便。 |
復た次ぎに、一一の法には、九種有りて、一には体有り、二には各各の法有ること、眼、耳は、同じく四大造なりと雖も、眼は独り能く見、耳は見る功無きが如し。又火の熱を以って法と為し、潤すこと能わざるが如し。三には、諸法の各に力有りて、火は焼くを以って力と為し、水は潤すを以って力と為すが如し。四には諸法の各に自ら因有り、五には諸法の各に自ら縁有り、六には諸法の各に自ら果有り、七には諸法の各に自ら性有り、八には諸法の各に限礙有り、九には諸法の各各に開通の方便有り。 |
復た次ぎに、
『一一の法』には、
『九種の事が有り!』、
一には、
『体( the substance )が有り!』
二には、
『各各の法( its own attributes )が有り!』、
譬えば、
『眼も、耳も!』、
『同じく!』、
『四大造である( be made of 4 elements )!』が、
『眼だけ!』が、
独り( only )、
『見ることができ!』、
『耳には!』、
『見る功( the faculty to see )!』が
『無いようなものであり!』、
又、
『火』は、
『熱が法である!』ので、
『潤すことができないようなものである!』。
三には、
『諸法』には、
『各各の力が有り!』、
譬えば、
『火』は、
『焼くこと!』が、
『力であり!』、
『水』は、
『潤すこと!』が、
『力である!』。
四には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの因が有る!』。
五には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの縁が有る!』。
六には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの果が有る!』。
七には、
『諸法』には、
『各に!』、
『自らの性が有る!』、
八には、
『諸法』には、
『各の!』、
『限、礙( limit and obstacle )が有る!』。
九には、
『諸法』には、
『各各に!』、
『開通の方便( the way of breaking or piercing )が有る!』。
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力(りき):梵語 bala の訳、~の力( power of )、~に練達すること( expertness in )の義。
体(たい):梵語 svabhaava、または bhaava の訳語にして、体質或は体性の意なり。即ち法の主質、またはその存立の根本条件となるべき実体をいう。「仏性論巻1」に、「もし汝云何が未だ成ぜずと説かば、灯中に暗なきが故に、故に自体を照さず、もし自体を照さば体はこれ所照なるべし」と云い、また「摩訶止観巻5上」に、「如是体とは主質の故に体と名づく。この十法界の陰は倶に色心を以って体質と為す」と云えり。これ法その物、もしくはその法の主質を名づけて体となせるものなり。蓋し外道中、数論は一切法体一となし、勝論は一切法体別なりと計し、また小乗一切有部に於いても諸法その体を各別にして、皆実有なりとなせり。大乗唯識家に於いては一切諸法に遍、依、円の三性の別ありとし、就中、円成実性を以ってその真実体性となすなり。これに関し「仏性論巻23性品」に通別二種の体を論じ「体相とは二あり、一に通、二に別なり。通とはこの三性は通じてよく一切諸余の真諦、或は二三四七諦等の法を成就するに由るが故に、諸の真諦は三性を出でず。ここを以って三性を諸の真諦の通体と為す。二に別体とは三性の中に於いて各実義あり。何者か実義なる、一には分別性の体は恒に所有なきも、而もこの義は分別性の中に於いて実と為さざるに非ず。何を以っての故に、名言無倒なるが故なり。二には依他性の体は有にして而も不実なり。乱識と根と境とに由るが故にこれ有なり、真如に非ざるを以っての故に不実なり。何を以っての故に、因縁の義無倒なるが故なり。ここを以って分別性に対するが故に名づけて有と為し、後の真性に対するが故に実有に非ず、これを有不真実と名づく。三には真実性の体は有無皆真なり。如如の体は非有非無なるが故なり」と云えり。これ三性は通じて諸真諦の体となり、またその中、分別性の体は恒に所有なく、依他性の体は有なるも実ならず、真実性の体は有無皆真実なることを明にせるなり。また「十八空論」に、「この如き七種の真如は即ちこれ一切法の体性なり、これ体性なるを以っての故に、故に説きて我と為す」と云い、「究竟一乗宝性論巻4」に、「真如清浄の法を名づけて如来の体となす」と云い、また「大乗起信論」に、「心真如とは即ちこれ一法界大総相法門の体なり」と云えるは、共に真如を以って一切現象諸法の実体となすの説なり。また「成実論巻16通智品」、「維摩経玄疏巻1」、「大乗起信論義記巻上」等に出づ。<(望)
開通(かいつう):梵語 bhittvaa の訳、破ること/穿つこと( breaking of piercing )の義。 |
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諸法生時體及餘法凡有九事。知此法各各有體法具足是名世間下如。知此九法終歸變異盡滅是名中如。譬如此身生從不淨出。雖復澡浴嚴飾終歸不淨。是法非有非無非生非滅。滅諸觀法究竟清淨。是名上如。 |
諸法の生ずる時、体、及び餘の法、凡(およ)そ九事有りて、此の法に各各の、有る体、法に具足するを知る、是れを世間の下如と名づけ、此の九法は、終に変異、尽滅するに帰すと知る、是れを中如と名づく、譬えば、此の身生ずるに、不浄より出で、復た澡浴、厳飾すと雖も、終に不浄に帰するが如し。是の法は、非有、非無、非生、非滅なれば、諸の観法を滅して、究竟清浄なり、是れを上如と名づく。 |
『諸法の生じる!』時、
『体と、餘の法』の、
凡そ( commonly )、
『九事』が、
『有る!』が、
此の、
『九法』は、
各各に、
『体や、法が有って、具足している!』と、
『知れば!』、
是れを、
『世間の下如』と、
『称し!』、
此の、
『九法』は、
終に、
『変異して、尽滅に帰す!』と、
『知れば!』、
是れを、
『中如』と、
『称する!』。
譬えば、
此の、
『身は生じる!』時、
『不浄より出て!』、
復た、
『澡浴したり!』、
『厳飾したりして!』、
終に、
『不浄』に、
『帰するようなものである!』。
是の、
『法』は、
『有でもなく、無でもなく、生でもなく、滅でもない!』と、
諸の、
『観法を滅して!』、
『究竟じて、清浄である!』と、
『知れば!』、
是れを、
『上如』と、
『称する!』。
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復次有人言。是九事中有法者是名如。譬如地法堅重水法冷濕火法熱照風法輕動心法識解。如是等法名為如。如經中說。有佛無佛如法相法位常住世間。所謂無明因緣諸行常如本法。法性者是九法中性。實際者九法中得果證。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『是の九事中に有る法、是れを如と名づく。譬えば地法の堅、重、水法の冷、湿、火法の熱、照、風法の軽、動、心法の識、解の如し。是れ等の如き法を、名づけて如と為す。経中に、『有仏、無仏に如、法相、法位は世間に常住す。』、と説けるが如し。謂わゆる『無明は、諸行を因縁す』、とは常に如にして本の法なり。法性とは、是れ九法中の性なり。実際とは、九法中に果証を得るなり。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『如』とは、
是の、
『九事中に有る!』、
『法』が、
『如である!』。
譬えば、
『地法の堅、重とか!』、
『水法の冷、湿とか!』、
『火法の熱、照とか!』、
『風法の軽、動とか!』、
『心法の識、解とかであり!』、
是れ等のような、
『経』中に、こう説く通りである、――
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
『如、法性、法位』は、
『常に!』、
『世間に住する!』。
謂わゆる、
『無明は、諸行の因緣である!』とは、
『常に如であり( be unchangeable )!』、
『本の法である( be the original dharma )!』。
『法性』とは、
『実際』とは、
是の、
『九法』中に、
『得られる!』、
『果証である!』、と。
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参考:『大智度論巻23』:『復次有人言。法智者知欲界五眾無常苦空無我。知諸法因緣和合生。所謂無明因緣諸行乃至生因緣老死。如佛為須尸摩梵志說。先用法智分別諸法。後用涅槃智。』
参考:『雑阿含経巻12(296)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告諸比丘。我今當說因緣法及緣生法。云何為因緣法。謂此有故彼有。謂緣無明行。緣行識。乃至如是如是純大苦聚集。云何緣生法。謂無明.行。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。彼如來自所覺知。成等正覺。為人演說。開示顯發。謂緣無明有行。乃至緣生有老死。若佛出世。若未出世。此法常住。法住法界。彼如來自覺知。成等正覺。為人演說。開示顯發。謂緣生故。有老.病.死.憂.悲.惱苦。此等諸法。法住.法空.法如.法爾。法不離如。法不異如。審諦真實.不顛倒。如是隨順緣起。是名緣生法。謂無明.行.識.名色.六入處.觸.受.愛.取.有.生.老.病.死.憂.悲.惱苦。是名緣生法。多聞聖弟子於此因緣法.緣生法正知善見。不求前際。言。我過去世若有.若無。我過去世何等類。我過去世何如。不求後際。我於當來世為有.為無。云何類。何如。內不猶豫。此是何等。云何有此為前。誰終當云何之。此眾生從何來。於此沒當何之。若沙門.婆羅門起凡俗見所繫。謂說我見所繫.說眾生見所繫.說壽命見所繫.忌諱吉慶見所繫。爾時悉斷.悉知。斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世。成不生法。是名多聞聖弟子於因緣法.緣生法如實正知。善見.善覺.善修.善入。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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復次諸法實相常住不動。眾生以無明等諸煩惱故。於實相中轉異邪曲。諸佛賢聖種種方便說法。破無明等諸煩惱。令眾生還得實性。如本不異是名為如。 |
復た次ぎに、諸法の実相は、常住にして不動なり。衆生は、無明等の諸煩悩を以っての故に、実相中に於いて邪曲に転異す。諸仏、賢聖は、種種に方便して、法を説き、無明等の諸煩悩を破って、衆生をして、還って実性を得しむるに、本の如く異ならざれば、是れを名づけて、如と為す。 |
復た次ぎに、
『諸法の実相』は、
『常住であり( be unchangeable )!』、
『不動である( be immovable )!』が、
『衆生』は、
『無明等の諸煩悩』の故に、
『実相』中に於いて、
『邪曲( an erroneous view )に!』、
『転異する( to change to )!』ので、
『諸仏、賢聖』は、
『種種に方便して、法を説き!』、
『無明等の諸煩悩』を、
『破って!』、
『衆生』に、
『還って!』、
『実性を得させる!』が、
是の、
『実性』は、
『本の如く( as before )!』、
『異ならない( be unchangeable )ので!』、
是れを、
『如』と、
『称するのである!』。
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常住(じょうじゅう):梵語 khuuTa-stha の訳、[霊/心/空間/空気/音等の]不動、不変( immovable, uniform, unchangeable
(as the soul, spirit, space, ether, sound, etc.) )の義。
不動(ふどう):梵語 dhruva の訳、固定/堅固/不動/不変/常/永久( fixed, firm, immovable, unchangeable,
constant, lasting, permanent, eternal )の義。
転異(てんい):梵語 pariNaama の訳、変化/交替/~に変容して/発展/進化( change, alteration, transformation
into (instrumental case), development, evolution )の義。
邪曲(じゃごく):梵語 kauTilya の訳、湾曲/屈曲/髪のカール( crookedness, curvature, curliness of
the hair )、欺瞞/不正直( falsehood, dishonesty )の義、邪見( an erroneous view )の意。 |
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實性與無明合故變異則不清淨。若除卻無明等得其真性。是名法性清淨 |
実性は、無明と合するが故に変異すれば、則ち不清浄なり。若し無明等を除却すれば、其の真性を得て、是れを法性と名づけ清浄なり。 |
『実性』は、
『無明と合する!』が故に、
『変異して!』、
『不清浄になる!』が、
若し、
『無明等を除却すれば!』、
其の、
『真性』を、
『得ることになる!』、
是れが、
『法性であり!』、
『清浄である!』。
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實際名入法性中。知法性無量無邊最為微妙。更無有法勝於法性出法性者。心則滿足更不餘求則便作證。譬如行道日日發引而不止息。到所至處無復去心。 |
実際を、法性中に入ると名づけ、法性を無量、無辺にして、最も微妙と為すと知れば、更に法の法性に於いて勝り、法性を出づる者の有ること無く、心則ち満足し、更に餘を求めず、則便(すなわ)ち、証を作す。譬えば道を行くこと、日日発引して、止息せざれば、所至の処に到りて、復た去る心無きが如し。 |
『実際』とは、
『法性』中に、
『入ることであり( to understand deeply )!』、
『法性』は、
『無量、無辺であり!』、
『最も、微妙である!』と、
『知れば!』、
更に、
『法性に勝り!』、
『法性を出る( be beyond the Dharma-nature )ような!』、
『法』が、
『無くなる!』ので、
『心が満足して!』、
更に、
『餘の法』を、
『求めなくなり!』、
則ち( that is )、
『便ち( easily )!』、
『証を作す( to experience final enlightenment )ことになる!』。
譬えば、
『道を行く!』時、
『日日に、発引して( to start continuously )!』、
『止息しなければ( do not stop )!』、
『所至の処( one's destination )に!』、
『到ることになり!』、
復た( never again )、
『去る心( the will to leave )』が、
『無いようなものである!』。
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発引(ほついん):連続して出発する( to start continuously )。
所至(しょし):行き着く先、目的地。 |
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行者住於實際亦復如是。如羅漢辟支佛住於實際。縱復恒沙諸佛為其說法亦不能更有增進。又不復生三界。 |
行者の実際に住するも亦復た是の如し。羅漢、辟支仏の如きは実際に住するも、縦(たと)い復た恒沙の諸仏、其の為に法を説けども、亦た更に増進有る能わず。又復た三界に生ぜず。 |
『行者』が、
『実際に住する!』のも、
『是の通りである!』。
『羅漢や、辟支仏』は、
『実際に住しながら!』、
縦い( even if )、
『恒河沙に等しい諸仏』が、
其の、
『羅漢、辟支仏の為に!』、
『法』を、
『説いたとしても!』、
更に、
『増進させることはできない!』し、
又、
復た( never again )、
『三界』に、
『生じることもないからである!』。
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羅漢(らかん):梵語 Rhat の訳?、小/弱/少力者( small, weak, powerless )の義。阿羅漢(梵 arhat )に、価値ある/尊敬すべき/上品な者( worthy, venerable, respectable )の義有るを嫌うが故に、敢て是の如く呼べるか。 |
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若菩薩入是法性中懸知實際。若未具足六波羅蜜教化眾生。爾時若證妨成佛道。是時菩薩以大悲精進力故還修諸行。 |
若し、菩薩、是の法性中に入れば、懸(はるか)に実際を知り、若し未だ六波羅蜜を具足せざるも、衆生を教化す。爾の時、若し証すれば、仏道を成ずるを妨ぐ。是の時、菩薩は、大悲と精進力を以っての故に、還って諸行を修む。 |
若し、
『菩薩』が、
是の、
『法性中に入れば!』、
懸に( be just guessing )、
『実際』を、
『知り!』、
若し、
『未だ、六波羅蜜を具足していなくても!』、
『衆生』を、
『教化するだろう!』が、
爾の時、
若し、
『証を取れば!』、
『仏道を成ずること!』を、
『妨げることになる!』。
是の時、
『菩薩』は、
『大悲と、精進力を用いる!』が故に、
還って、
『諸行』を、
『修めるのである!』。
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懸(けん):<動詞>[本義]吊す/掛ける( hang, suspend )。心に掛ける/心配する( feel anxious, worry about
)、推測/空想する( imagine without foundation )、顕示/公布する( reveal, publish )、関連させる(
correlate )。<形容詞>解決しない( unresolved )、孤立した( alone, sole )、空虚な( empty )、聳え立つ(
steep )、危険な( dangerous )、河の流れ下るさま( falling )。 |
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復次知諸法實相中無有常法。無有樂法無有我法無有實法。亦捨是觀法。如是等一切觀法皆滅。是為諸法實如涅槃不生不滅如本末生。譬如水是冷相假火故熱。若火滅熱盡還冷如本。用諸觀法如水得火。若滅諸觀法如火滅水冷。是名為如 |
復た次ぎに、諸法の実相中には、常法有ること無く、楽法の有ること無く、我法の有ること無く、実法の有ること無きを知り、亦た是の観法を捨て、是れ等の如き一切の観法、皆、滅すれば、是れを諸法の実と為し、涅槃不生、不滅なるが如く、如の本末は生なり。譬えば水は是れ冷相なるも、火を仮るるが故に熱く、若し火滅すれば、熱尽きて、還って冷なること本の如きが如く、諸の観法を用うるは、水の火を得るが如く、若し諸の観法滅すれば、火滅して、水冷なるが如し。是れを名づけて如と為す。 |
復た次ぎに、
『諸法の実相』中には、
『常法も、楽法も、我法も、実法も無い!』と、
『知りながら!』、
是の、
『観法も!』、
『捨てて!』、
是れ等のような、
『一切の観法』が、
『皆、滅すること!』が、
『諸法の実であり!』、
例えば、
『涅槃』が、
『不生であり!』、
『不滅であるように!』、
『如』は、
『本より、末まで!』、
『生である( be in existence )!』。
譬えば、
『水』は、
『冷相でありながら!』、
『火を仮りる!』が故に、
『熱くなり!』、
若し、
『火が滅すれば!』、
『熱が!』、
『尽き!』、
還って、
『本のように!』、
『冷たくなるように!』、
『諸の観法を用いる!』のは、
譬えば、
『水』が、
『火を得たようなものであり!』、
『諸の観法を滅する!』のは、
譬えば、
『火が滅して!』、
『水が冷たくなるようなものである!』。
是れを、
『如』と、
『称する!』。
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如實常住。何以故諸法性自爾。譬如一切色法皆有空分。諸法中皆有涅槃性是名法性。得涅槃種種方便法中皆有涅槃性。若得證時如法性則是實際。 |
如は実に常住なり。何を以っての故に、諸法の性は、自ら爾り。譬えば一切の色法は、皆空分有るが如く、諸法中には、皆涅槃の性有り、是れを法性と名づく。涅槃を得る種種の方便の法中には、皆涅槃の性有り。若し証を得る時、如、法性は則ち是れ実際なり。 |
『如』は、
実に、
『常住である!』。
何故ならば、
『諸法の性』が、
『自ら、爾うだからである!』。
譬えば、
『一切の色法』には、
皆、
『空分( the produce space )』が、
『有るように!』、
『諸法』中には、
皆、
『涅槃の性』が、
『有り!』、
是れを、
『法性』と、
『称するのである!』。
『涅槃を得る為の!』、
『種種の方便の法』中にも、
皆、
『涅槃の性』が、
『有る!』ので、
若し、
『涅槃を得れば!』、
爾の時、
『法性』は、
『実際なのである!』。
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復次法性者。無量無邊非心心數法所量是名法性。妙極於此是名真際 |
復た次ぎに、法性とは、無量、無辺にして、心心数法の量る所に非ず、是れを法性と名づけ、妙の此に極まる、是れを真際と名づく。 |
復た次ぎに、
『法性』とは、
『無量であり!』、
『無辺であり!』、
『心、心数法』では、
『量れない!』所が、
『法性であり!』、
此の、
『法性』に、
『妙( be led forwards )が!』、
『極まる!』ので、
是れを、
『真際( the limit of reality )』と、
『称するのである!』。
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妙(みょう):梵語 praNiita の訳、導かれること( led forwards, directed towards )、進歩した/確立された/実践された(
advanced, established, performed )の義、純粋な/無垢の/美しい( pure, immaculate, beautiful
)の意。
真際(しんさい):梵語 bhuuta-koTi の訳、有らゆる存在中の最頂天( the highest culminating point for
all beings )の義、全くの非実在/実在の限界( absolute non-entity, limit of reality )の意。 |
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