一切法空者。一切法名五眾十二入十八界等。是諸法皆入種種門。所謂一切法有相。知相識相緣相增上相因相果相總相別相依相。 |
一切法の空とは、一切法を五衆、十二入、十八界等と名づけ、是の諸法は、皆種種の門に入る。謂わゆる一切法の有相、知相、識相、縁相、増上相、因相、果相、総相、別相、依相なり。 |
『一切法の空』とは、
『一切法』とは、
『五衆や、十二入や、十八界等である!』が、
是の、
『諸の法』は、
皆、
『種種の門より!』、
『入る( to enter and understand )!』。
謂わゆる、
『一切法』の、
『有相、知相、識相、縁相、増上相、因相、果相、総相、別相、依相である!』。
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入(にゅう):梵語 praveza の訳、入る/入口/浸透/侵入( entering, entrance, a place of entrance,
penetration or intrusion into )の義、真実に目覚める/理解し始める/真実に心を向けて、知識を発展させる( To
awaken to the truth; begin to understand; to relate the mind to reality
and thus evolve knowledge )の意。◯梵語 aayatana の訳、休息所/土台/座席/場所/家庭/家/住居( resting-place,
support, seat, place, home, house, abode )の義、阿毘達磨及び唯識に於いて、感覚の界域を指す術語であり(
In Abhidharma and Yogâcāra, this is a technical term referring to the fields
of the senses )、感覚[六根]と、その対境[六境]の接する処( the place of the meeting between
the organs and their objects )の意、処に同じ、六根及び六境を総じて十二入と称す。 |
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問曰。云何一切法有相。 |
問うて曰く、云何が、一切法の有相なる。 |
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答曰。一切法有好有醜有內有外。一切法有心生故名為有。 |
答えて曰く、一切法には、好有り、醜有り、内有り、外有り。一切法に有心生ずるが故に、名づけて有と為す。 |
答え、
『一切法』には、
『好や、醜や、内や、外が!』、
『有る!』が、
『一切法』には、
『有るという!』、
『心』が、
『生じる!』が故に、
是れを、
『有』と、
『称するのである!』。
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問曰。無法中云何言有相。 |
問うて曰く、無法中には、云何が有相と言う。 |
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答曰。若無法不名為法。但以遮有故名為無法。若實有無法則名為有。是故說一切法有相。 |
答えて曰く、若し無法なれば、名づけて法と為さず。但だ有を遮するを以っての故に、名づけて無法と為す。若し実に無法有らば、則ち名づけて有と為さん。是の故に、『一切法は有相なり』、と説く。 |
答え、
若し、
『法が無ければ!』、
『法』と、
『呼ばれない!』。
但だ、
『有を遮る!』為の故に、
『無法』と、
『称するだけである!』。
若し、
『無法』が、
『実に!』、
『有れば!』、
則ち、
『有』と、
『呼ばれることになるだろう!』。
是の故に、
『一切の法』は、
『有相である!』と、
『説くのである!』。
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知相者苦法智苦比智能知苦諦。集法智集比智能知集諦。滅法智滅比智能知滅諦。道法智道比智能知道諦。及世俗善智能知苦能知集能知滅能知道。亦能知虛空非智緣滅是名一切法知相。知相故攝一切法。 |
知相とは、苦法智、苦比智は能く苦諦を知り、集法智、集比智は能く集諦を知り、滅法智、滅比智は能く滅諦を知り、道法智、道比智は能く道諦を知り、及び世俗の善智は能く苦を知り、能く集を知り、能く滅を知り、能く道を知り、亦た能く虚空、非智縁滅を知る、是れを一切法の知相と名づけ、知相の故に一切法を摂す。 |
『知相』とは、
『苦法智、苦比智』は、
『苦諦』を、
『知ることができ!』、
『集法智、集比智』は、
『集諦』を、
『知ることができ!』、
『滅法智、滅比智』は、
『滅諦』を、
『知ることができ!』、
『道法智、道比智』は、
『道諦』を、
『知ることができ!』、
及び、
『世俗の善智』は、
『苦、集、滅、道』を、
『知ることができ!』、
亦た、
『三無為中の虚空、非智縁滅』を、
『知ることができる!』。
是れを、
『一切法』の、
『知相』と、
『称し!』、
『知相』の故に、
『空』中に、
『一切法を摂する( to contain All dharmas )!』。
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識相者眼識能知色耳識能知聲鼻識能知香舌識能知味身識能知觸意識能知法。能知眼能知色能知眼識。能知耳能知聲能知耳識。能知鼻能知香能知鼻識。能知舌能知味能知舌識。能知身能知觸能知身識。能知意能知法能知意識是名識相。 |
識相とは、眼識は能く色を知り、耳識は能く声を知り、鼻識は能く香を知り、舌識は能く味を知り、身識は能く触を知り、意識は能く法を知り、能く眼を知り、能く色を知り、能く眼識を知り、能く耳を知り、能く声を知り、能く耳識を知り、能く鼻を知り、能く香を知り、能く鼻識を知り、能く舌を知り、能く味を知り、能く舌識を知り、能く身を知り、能く触を知り、能く身識を知り、能く意を知り、能く法を知り、能く意識を知る。是れを識相と名づく。 |
『識相』とは、
『眼識』は、
『色』を、
『知ることができ!』、
『耳識』は、
『声』を、
『知ることができ!』、
『鼻識』は、
『香』を、
『知ることができ!』、
『舌識』は、
『味』を、
『知ることができ!』、
『身識』は、
『触』を、
『知ることができ!』、
『意識』は、
『法』を、
『知ることができ!』、
亦た、
『眼、色、眼識を知ることができ!』、
『耳、声、耳識を知ることができ!』、
『鼻、香、鼻識を知ることができ!』、
『舌、味、舌識を知ることができ!』、
『身、触、身識を知ることができ!』、
『意、法、意識を知ることができる!』。
是れを、
『識相』と、
『称する!』。
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緣相者眼識及眼識相應諸法能緣色。耳識及耳識相應諸法能緣聲。鼻識及鼻識相應諸法能緣香。舌識及舌識相應諸法能緣味。身識及身識相應諸法能緣觸。意識及意識相應諸法能緣法。能緣眼能緣色能緣眼識。能緣耳能緣聲能緣耳識。能緣鼻能緣香能緣鼻識。能緣舌能緣味能緣舌識。能緣身能緣觸能緣身識。能緣意能緣法能緣意識是名緣相。 |
縁相とは、眼識、及び眼識相応の諸法は、能く色を縁じ、耳識、及び耳識相応の諸法は、能く声を縁じ、鼻識、及び鼻識相応の諸法は、能く香を縁じ、舌識、及び舌識相応の諸法は、能く味を縁じ、身識、及び身識相応の諸法は、能く触を縁じ、意識、及び意識相応の諸法は、能く法を縁じ、能く眼を縁じ、能く色を縁じ、能く眼識を縁じ、能く耳を縁じ、能く声を縁じ、能く耳識を縁じ、能く鼻を縁じ、能く香を縁じ、能く鼻識を縁じ、能く舌を縁じ、能く味を縁じ、能く舌識を縁じ、能く身を縁じ、能く触を縁じ、能く身識を縁じ、能く意を縁じ、能く法を縁じ、能く意識を縁ず。是れを縁相と名づく。 |
『縁相』とは、
『眼識と、眼識相応の諸法』は、
『色』を、
『縁じる( be connected with/ cognize )ことができ!』、
『耳識と、耳識相応の諸法』は、
『声』を、
『縁じることができ!』、
『鼻識と、鼻識相応の諸法』は、
『香』を、
『縁じることができ!』、
『舌識と、舌識相応の諸法』は、
『味』を、
『縁じることができ!』、
『身識と、身識相応の諸法』は、
『触』を、
『縁じることができ!』、
『意識と、意識相応の諸法』は、
『法』を、
『縁じることができ!』、
亦た、
『眼、色、眼識を縁じることができ!』、
『耳、声、耳識を縁じることができ!』、
『鼻、香、鼻識を縁じることができ!』、
『舌、味、舌識を縁じることができ!』、
『身、触、身識を縁じることができ!』、
『意、法、意識を縁じることができる!』。
是れを、
『縁相』と、
『称する!』。
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縁(えん):条件( condition )、梵語 pratyaya の訳、間接的原因/二次的原因/補助的原因/原因となるべき状況/原因となるべき条件(
indirect cause; secondary cause; associated conditions; causal situation,
causal condition )。有らゆる事物は、原因/結果の原理の対象であるが、結果を生じさせる原因を助ける為めの条件/状況があり、間接的原因と呼ばれる(
All things are subject to the principle of cause and effect, but there
are conditions/circumstances that aid the causes that produce an effect,
which are called indirect causes )。仏教は一般的に因果関係に強い関心を寄せているが、特に因縁生起の法則に見られるような、原因や要因に関する事柄は、ほとんど有らゆる議論に於いて見られる(
Given the strong attention that Buddhism pays in general to matters of
causation, especially as seen in the theory of dependent arising, the matter
of associated causes and factors is seen in almost any discussion )。因を種に喩えれば、緣は土、雨、日光等に喩えられる(
Hetu is like a seed, pratyaya the soil, rain, sunshine, etc )。認識に関する仏教理論、特に唯識に於いては、縁は通常、知覚力のある対象をいい、認識機能
[識] の為めに必要なものである( In Buddhist theories of cognition, especially in Yogācāra,
緣 is used to refer to the perceptual objects that are necessary for the
function of the consciousnesses 識 )。此の意味に於いて、境といわれる対象の概念と幾分重なっている( In this
sense, there is some overlap with the concept of 'object' expressed in
Chinese as 境 ( Skt. aalambana ) )。従って、有る対象として捉えること/把握すること/関係づけること/関係づけられること(
Thus, to take as an object. To lay hold of; connect with; be connected
with )。心が外界の対象に向うこと/感じること/知覚/認識( The mind facing an object of the external
world. To sense, perceive or cognize )。◯梵語 nidaana の訳、原因的状況( causal situation
)。四縁の一( A reference to the four kinds of causes 四緣 )。 |
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增上相者一切有為法各各增上。無為法亦於有為法有增上。是名增上相。 |
増上相とは、一切の有為法は、各各増上し、無為法も亦た有為法に於いて増上有り。是れを増上相と名づく。 |
『増上相』とは、
『一切の有為法』は、
各各が、
『増上し( to make oneself become stronger )!』、
『無為法』も、
『有為法』を、
『増上することが有る!』ので、
是れを、
『増上相』と、
『称する!』。
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増上(ぞうじょう):上級の( superior )、梵語 aadhipai の訳、至上/主権/力( supremacy, sovereignty,
power )、卓越した/優勢な/圧倒的な/支配的な( surpassing, predominating, overwhelming, dominant
)の義、梵語 adhipati は、元と国王が臣民に対してふるう支配的な力を指す( The Sanskrit adhipati originally
refers to the predominating power wielded by a king over his subjects.
)が、此の言葉は一般的には、前進する/増進するる/より強くなるの意味であり、上進に似ている( The general sense of the
term is that of advancing, increasing, becoming steadily more intense,
like 上進. )、その発展を目的として、何物かに強さと重みを掛けること/何物かをより強く、或は偉大にさせること/加速する/増大する/発展する(
To put more strength or weight into something to aid in its development;
to make something become stronger or greater. To accelerate, increase,
develop. )。 |
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因果相者一切法各各為因各各為果是名因果相。 |
因果相とは、一切法は各各因と為り、各各果と為る。是れを因果相と名づく。 |
『因果相』とは、
『一切の法』は、
各各が、
『因と為り!』、
『果と為る!』ので、
是れを、
『因果相』と、
『称する!』。
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總相別相者一切法中各各有總相別相。如馬是總相白是別相。如人是總相若失一耳則是別相。如是各各展轉皆有總相別相。是為總相別相。 |
総相、別相とは、一切法中には各各総相、別相有り。馬は是れ総相にして、白は是れ別相なるが如く、人は是れ総相なるも、若し一耳を失わば、則ち是れ別相なるが如し。是の如く各各展転して、皆総相、別相有り。是れを総相、別相と為す。 |
『総相、別相』とは、
『一切の法』中には、
例えば、
『馬は、総相であるが!』、
『白』は、
『別相であり!』、
又、
『人は、総相であるが!』、
若し、
『一耳』を、
『失えば!』、
是れが、
『別相である!』。
是のように、
各各
『展転して( turn and turn about )!』、
皆、
『総相、別相』が、
『有る!』。
是れを、
『総相、別相』と、
『称する!』。
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依相者諸法各共相依止。如草木山河依止於地地依止水。如是一切各各相依。是名依止相。依止相攝一切法。如是等一法門相攝一切法。 |
依相とは、諸法は各共に相い依止す。草木、山河は地に依止し、地は水に依止するが如し。是の如く一切は、各各相い依れば、是れを依止相と名づけ、依止相に、一切法を摂す。是れ等の如き一法門の相に、一切法を摂す。 |
『依相』とは、
『諸法』は、
各が、
『共に( all together )!』、
『相い依止する( to depend on each other )!』。
例えば、
『草木や、山河』は、
『地』に、
『依止し!』、
『地』は、
『水』に、
『依止するように!』、
是のように、
『一切の法』は、
各各が、
『相い依る!』ので、
是れを、
『依止相』と、
『称し!』、
『依止相』に、
『一切法』を、
『摂する( to be contained )!』。
是れ等のように、
『一法門の相』に、
『一切の法』を、
『摂するのである!』。
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復次二法門攝一切法。所謂色無色法。可見不可見法。有對無對法。有漏無漏法。有為無為法。內法外法。觀法緣法。有法無法。如是等種種二法門相。三四五六乃至無量法門相攝一切法。是諸法皆空如上說。名一切法空。 |
復た次ぎに、二法の門に一切法を摂す、謂わゆる色と無色の法、可見と不可見の法、有対と無対の法、有漏と無漏の法、有為と無為の法、内法と外法、観法と縁法、有法と無法、是れ等の如き種種の二法門の相、三、四、五、六、乃至無量の法門の相に一切法を摂す。是の諸法の皆空なること、上に説けるが如きを、一切法空と名づく。 |
復た次ぎに、
『二法の門』に、
『一切の法を摂する!』、
謂わゆる、
『色と無色の法、可見と不可見の法、有対と無対の法や!』、
『有漏と無漏の法、有為と無為の法や!』、
『内法と外法、観法と縁法、有法と無法である!』。
是れ等のような、
種種の、
『二法門の相や!』、
『三、四、五、六、乃至無量の法門の相に!』、
『一切法』を、
『摂するのである!』が、
是の、
『諸の法』は、
皆、
『上に説くように!』、
『空であり!』、
是れを、
『一切法空』と、
『称するのである!』。
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問曰。若皆空者何以說一切法種種名字。 |
問うて曰く、若し皆空ならば、何を以ってか、一切法の種種の名字を説く。 |
問い、
若し、
『皆が、空ならば!』、
何故、
『一切法の種種の名字』を、
『説くのですか?』。
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答曰。凡夫人於空法中無明顛倒取相故生愛等諸煩惱。因煩惱故起種種業。起種種業故入種種道。入種種道故受種種身。受種種身故受種種苦樂。如蠶出絲無所因自從己出而自纏裹受燒煮苦。 |
答えて曰く、凡夫人は、空法中に於いて、無明なれば、顛倒して相を取るが故に、愛等の諸の煩悩を生じ、煩悩に因るが故に種種の業を起し、種種の業を起すが故に、種種の道に入り、種種の道に入るが故に、種種の身を受け、種種の身を受くるが故に種種の苦楽を受くるも、蚕の糸を出すこと、所因無くして、自ら己れ従り出し、自ら纏裹して焼煮の苦を受くるが如し。 |
答え、
『凡夫人』は、
『空法』中に於いて、
『無明』の故に、
『顛倒して!』、
『相』を、
『取る!』ので、
是の故に、
『愛等の諸煩悩』を、
『生じ!』、
『煩悩に因る!』が故に、
『種種の業』を、
『起し!』、
『種種の業を起す!』が故に、
『種種の道』に、
『入り!』、
『種種の道に入る!』が故に、
『種種の身』を、
『受け!』、
『種種の身を受ける!』が故に、
『種種の苦楽』を、
『受けるのである!』が、
例えば、
『蚕( silkworms )が、糸を出す!』のは、
『所因が無く( without causes )!』、
自ら、
『己れより、出した糸で!』、
『自ら、纏裹して( to swathe oneself )!』、
『焼煮の苦』を、
『受けるようなものである!』。
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纏裹(てんか):まとって包む。
焼煮(しょうしゃ):焼いて煮る。 |
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聖人清淨智慧力故分別一切法本末皆空。欲度眾生故說其著處。所謂五眾十二入十八界等。汝但以無明故而生五眾等自作自著。若聖人但說空者不能得道。以無所因無所厭故。 |
聖人は清浄なる智慧の力の故に、一切法の本末皆空なるを分別し、衆生を度せんと欲するが故に、其の著する処を説きたまわく、『謂わゆる五衆、十二入、十八界等は、汝但だ無明を以っての故に、五衆等を生じ、自ら作りて、自ら著すのみ』、と。若し聖人にして、但だ空を説きたまわば、道を得る能わず、所因無く、厭う所の無きを以っての故なり。 |
『聖人』は、
『清浄な智慧の力』の故に、
『一切法の本末』は、
『衆生を度そうとされた!』が故に、
其の、
『著する!』、
『処』を、
こう説かれた、――
謂わゆる、
『五衆や、十二入や、十八界』等は、
お前達が、
但だ、
『無明である!』が故に、
『生じたものであり!』、
是の、
『五衆』等を、
『自ら作って!』、
『自ら著するのである!』、と。
若し、
『聖人』が、
但だ、
『空しか!』、
『説かれなかったならば!』、
誰も、
『道』を、
『得ることはできなかったであろう!』。
何故ならば、
『道の因である!』、
『業』も、
『無く!』、
『厭うべき!』、
『道』も、
『無いからである!』。
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問曰。汝言一切法空是事不然。何以故。一切法各各自相攝故。如地堅相水濕相火熱相風動相心為識相慧為知相。如是一切法各自住其相云何言空。 |
問うて曰く、汝は、一切法は空なりと言えるも、是の事は然らず。何を以っての故に、一切法は、各各自相を摂するが故なり。地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相、心を識相と為し、慧を知相と為すが如し。是の如く一切の法は、各自ら其の相に住すれば、云何が、空なりと言う。 |
問い、
お前は、
『一切の法』は、
『空である!』と、
『言う!』が、
是の、
『事』は、
『然うでない( be false )!』。
何故ならば、
『一切の法』は、
各各、
『自相』を、
『摂するからである!』。
例えば、
『地は堅相、水は湿相、火は熱相、風は動相であり!』、
『心は識相であり、慧は知相である!』が、
是のように、
『一切の法』は、
各、
『自相』に、
『住するのに!』、
何故、
『空だ!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。性空自相空中已破。今當更說。相不定故不應是相。如酥蜜膠蠟等皆是地相。與火合故自捨其相轉成濕相。金銀銅鐵與火合故亦自捨其相變為水相。如水得寒成冰轉為地相。如人醉睡入無心定凍冰中魚皆無心識。捨其心相無所覺知。如慧為知相入諸法實相則無所覺知自捨知相。是故諸法無有定相。 |
答えて曰く、性空、自相空中に已に破りたるも、今当に更に説くべし。相は不定なるが故に、応に是れ相なるべからず。酥、蜜、膠、蝋等は、皆是れ地相なるも、火と合するが故に、自ら其の相を捨て、転じて湿相を成じ、金銀銅鉄も火と合するが故に、亦た自ら其の相を捨て、変じて水相を為すが如く、水は寒を得れば氷と成り、転じて地相を為すが如く、人酔うて睡れば、無心定に入り、凍氷中の魚の皆心識無きが如きは、其の心相を捨てて、覚知する所無し。慧を知相と為すが如きは、諸法の実相に入れば、則ち覚知する所無く、自ら知相を捨つ。是の故に諸法には、定相有ること無し。 |
答え、
『性空、自相空』中に、
已に、
『破った!』が、
今、更に説かねばなるまい、――
『相』は、
『定まらない!』が故に、
是れが、
『相であるはずがない!』。
例えば、
『酥、蜜、膠、蝋』等は、
皆、
『地相である!』が、
『火と合する!』が故に、
『自相』を、
『捨て!』、
『転じて!』、
『湿相』と、
『成る!』し、
『金、銀、銅、鉄』も、
亦た、
『火と合する!』が故に、
『自相』を、
『捨てて!』、
『変じて!』、
『水相』と、
『為る!』し、
例えば、
『水』は、
『寒を得れば( to get cold )!』、
『氷と成って!』、
『地相』に、
『転じる!』し、
例えば、
『人』が、
『酔って睡れば!』、
『無心定』に、
『入り!』、
『凍氷中の魚』も、
其の、
『心相( 識相)を捨てて!』、
『覚知する!』所が、
『無い!』し、
例えば、
『慧』は、
『知相である!』が、
『諸法の実相』に、
『入れば!』、
則ち、
『覚知する!』所が、
『無くなり!』、
自ら、
『知相』を、
『捨てることになる!』。
是の故に、
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復次若謂諸法定相是亦不然。所以者何。如未來法相不應來至現在。若至現在則捨未來相。若不捨未來相入現在者未來則是現在為無未來果報。若現在入過去則捨現在相。若不捨現在相入過去過去則是現在如是等過。則知諸法無有定相。 |
復た次ぎに、若し、『諸法は定相なり』、と謂えば、是れ亦た然らず。所以は何んとなれば、未来の法相の如きは、応に来たりて、現在に至るべからず。若し現在に至らば、則ち未来の相を捨てん。若し未来の相を捨てずして、現在に入らば、未来は則ち是れ現在にして、未来の果報無しと為さん。若し現在にして、過去に入らば、則ち現在の相を捨てん。若し現在の相を捨てずして、過去に入らば、過去は則ち是れ現在ならん。是れ等の如き過は、則ち諸法に定相有ること無きを知る。 |
復た次ぎに、
若し、
『諸法』は、
『定相である!』と、
『謂えば!』、
是の、
『事』も、
『然うでない!』。
何故ならば、
若し、
『未来の法相ならば!』、
『現在に!』、
『来至する( to arrive )はずがないからである!』。
若し、
『現在に至れば!』、
『未来の相』を、
『捨てることになる!』が、
若し、
『未来の相を捨てずに、現在に入れば!』、
『未来は、現在となり!』、
『未来の果報』を、
『無くすことになるだろう!』。
若し、
『現在が、過去に入れば!』、
『現在の相』を、
『捨てることになる!』が、
若し、
『現在の相を捨てずに、過去に入れば!』、
『過去』は、
『現在となる!』ので、
是れ等のような
『過が有る!』ので、
『諸法には、定相が無い!』と、
『知ることになる!』。
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復次若謂無為法定有者應別自有相。如火自有熱相不因他作相。是故當知無為法無相故實無。 |
復た次ぎに、若し、『無為法は、定有なり』、と謂わば、応に自ら別して相有るべし。火に自ら熱相有らば、他に因らずに相を作すが如し。是の故に当に知るべし、無為法には相無きが故に、実無しと。 |
復た次ぎに、
若し、
『無為法』は、
『定んで有る!』と、
『謂えば!』、
『自らとは別に!』、
『相』が、
『有るはずである!』。
譬えば、
『火に!』、
『自ら!』、
『熱相』が、
『有れば!』、
『薪等に因らずに!』、
『相』を、
『作すからである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『無為法』は、
『無相である!』が故に、
『実( the substance )』が、
『無い!』、と。
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復次汝以未來世中非智緣滅法是有為法而無有為相。若汝謂以非智緣盡是滅相是亦不然。所以者何。無常滅故是名滅相。非以非智緣滅故名為滅相。如是等種種無有定相。若有定相可使不空而無定相而不空者是事不然。 |
復た次ぎに、汝は、未来世中の非智縁滅の法を以って、是れ有為法となすも、有為の相無し。若し汝、非智縁尽を以って、是れ滅相なりと謂えば、是れ亦た然らず。所以は何んとなれば、無常滅するが故に、是れを滅相と名づくるも、非智縁滅を以っての故に名づけて、滅相と為すに非ざればなり。是れ等の如き種種は、定相有ること無し。若し定相有れば、不空ならしむべきも、定相無くして、不空なれば、是の事然らず。 |
復た次ぎに、
お前は、
『未来世』中の、
『非智縁滅の法』は、
『有為法である!』と、
『謂う!』が、
而し、
『有為の相』が、
『無い!』。
若し、
お前が、
『非智縁尽』は、
『滅相である!』と、
『謂えば!』、
是れも、
亦た、
『然うでない!』。
何故ならば、
『無常が、滅する!』が故に、
『非智縁滅』の故に、
是れを、
『滅相』と、
『称するのではないからである!』。
是れ等のように、
種種の、
若し、
『定相』が、
『有れば!』、
『空でなくすることもできる!』が、
『定相』が、
『無いのに!』、
『空でなければ!』、
是の、
『事』は、
『然うでない!』。
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非智縁滅(ひちえんめつ):また非数縁尽といい、また非智縁尽、非択滅無為と称す。無為法の一なり。数縁尽とは、即ち数とは新訳に謂う所の心所法なり。善悪の心所法は、その数許多なるが故に、これを数法といい、今は智慧の数法と為す。智慧の数法に縁じて、煩悩を断じ、得る所の尽滅を、数縁滅という。即ち涅槃なり。智慧の数法に依る縁に非ず、僅かに能生の縁を見るに依り、諸法を滅尽に帰す、これを非数縁尽という。「大智度論巻98」に、「阿毘曇に言うが如きは、一切の有為法、及び虚空、非数縁尽を名づけて、有上法と為す。数縁尽は、これ無上法なり。数縁尽は、即ちこれ涅槃の別名なり」と云えるこれなり。<(望) |
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問曰。應實有法不空。所以者何。凡夫聖人所知各異。凡夫所知是虛妄。聖人所知是實。依實聖智故捨虛妄法。不可依虛妄捨虛妄。 |
問うて曰く、応に実有の法は不空なるべし。所以は何んとなれば、凡夫、聖人の知る所は、各異なればなり。凡夫の知る所は、是れ虚妄なるも、聖人の知る所は、是れ実なり。実に依る聖智の故に、虚妄の法を捨つるも、虚妄に依りて、虚妄を捨つるべからず。 |
問い、
『実に有る!』、
『法』は、
『空であるはずがない!』。
何故ならば、
『凡夫と、聖人は!』、
『知る!』所が、
『異なり!』、
『凡夫』の、
『知る!』所は、
『虚妄である!』が、
『聖人』の、
『知る!』所は、
『実だからである!』。
『実に依る!』、
『聖智である!』が故に、
『虚妄の法』を、
『捨てるのであり!』、
『虚妄に依って!』、
『虚妄』を、
『捨てることはできない!』。
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答曰。為破凡夫所知故名為聖智。若無凡夫法則無聖法。如無病則無藥。是故經言。離凡夫法更無聖法。凡夫法實性即是聖法。 |
答えて曰く、凡夫の知る所を破る為の故に、名づけて聖智と為す。若し凡夫の法無くんば、則ち聖法無し。病無ければ、則ち薬無きが如し。是の故に経に言わく、『凡夫法を離れて、更に聖法無し』、と。凡夫法の実性は、即ち是れ聖法なり。 |
答え、
『凡夫の知る!』所を、
『破る!』が故に、
『聖智』と、
『呼ばれる!』が、
若し、
『凡夫の法が無ければ!』、
『聖法』も、
『無いことになる!』。
譬えば、
『病が無ければ!』、
『薬』が、
『無いようなものである!』。
是の故に、
『経』に、こう言うのである、――
『凡夫法』を、
『離れて!』、
更に、
『聖法』は、
『無い!』、と。
『凡夫の法』の、
『実性』とは、
『聖法だからである!』。
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参考:『摩訶般若波羅蜜経巻26平等品』:『佛告須菩提。若諸法平等與佛有異。應當如是問。須菩提。今諸凡夫人平等。諸須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。諸菩薩摩訶薩諸佛。及聖法皆平等。是一平等無二。所謂是凡夫人是須陀洹乃至佛。是一切法等中皆不可得。須菩提白佛言。世尊若諸法等中皆不可得。是凡夫人乃至是佛。世尊。凡夫人須陀洹乃至佛為無有分別。佛告須菩提。如是如是。諸法平等中無有分別。是凡夫人是須陀洹乃至是佛。世尊。若無分別諸凡夫人須陀洹乃至佛。云何分別有三寶。現於世佛寶法寶僧寶。佛言。於汝意云何。佛寶法寶僧寶與諸法等異不。須菩提白佛言。如我從佛所聞義。佛寶法寶僧寶與諸法等無異。世尊。是佛寶法寶僧寶即是平等。是法皆不合不散。無色無形無對一相。所謂無相。佛有是力能分別無相諸法處所。是凡夫人是須陀洹是斯陀含是阿那含是阿羅漢是辟支佛。是菩薩摩訶薩是諸佛。佛告須菩提。如是如是。若諸佛得阿耨多羅三藐三菩提不分別諸法。‥‥』 |
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復次聖人於諸法不取相亦不著。是故聖法為真實。凡夫於諸法取相亦著。故以凡夫人法為虛妄。聖人雖用而不取相。不取相故則無定相。如是不應為難。於凡夫地著法分別是聖法是凡夫法。若於賢聖地則無所分別。為斷眾生病故言是虛是實。 |
復た次ぎに、聖人は、諸法に於いて相を取らず、亦た著せざれば、是の故に聖法を真実と為す。凡夫は、諸法に於いて相を取りて亦た著するが故に、凡夫人の法を以って、虚妄と為す。聖人は用うと雖も、相を取らず、相を取らざるが故に則ち定相無し。是の如きは応に難ぜらるべからず。凡夫地に於いては、法に著して、是れ聖法なり、是れ凡夫の法なりと分別するも、若し賢聖の地に於いては、則ち分別する所無く、衆生の病を断ぜんが為の故に、是れ虚なり、是れ実なり、と言う。 |
復た次ぎに、
『聖人』は、
『諸法』に於いて、
『相を取ることもなく!』、
『相』に、
『著すこともない!』ので、
是の故に、
『聖法』は、
『真実である!』が、
『凡夫』は、
『諸法』に於いて、
『相を取り!』、
『相』に、
『著す!』が故に、
『凡夫人の法』を、
『虚妄だ!』と、
『言うのである!』。
『聖人』は、
『相を用いても!』、
『相』を、
『取らず!』、
『相を取らない!』が故に、
『定相』が、
『無いのである!』から、
是のような、
『聖人の法』を、
『難じてはならない!』。
『凡夫の地』に於いては、
『法に著して!』、
『是れは聖法である、是れは凡夫法である!』と、
『分別する!』が、
『賢聖の地』に於いては、
『分別されるべき!』、
『法』が、
『無く!』、
『衆生の病を断じる!』為の故に、
『是れは虚である、是れは実である!』と、
『言うのである!』。
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如說佛語非虛非實非縛非解不一不異。是故無所分別清淨如虛空。 |
『仏語は、虚に非ず、実に非ず、縛に非ず、解に非ず、一にあらず、異にあらざれば、是の故に分別する所無く、清浄なること虚空の如し』、と説けるが如し。 |
例えば、こう説かれている通りである、――
『仏の語』は、
『虚でもなく、実でもなく!』、
『縛でもなく、解でもなく!』、
『一でもなく、異でもない!』ので、
是の故に、
『分別する所が無く!』、
『虚空のように!』、
『清浄である!』、と。
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参考:『摩訶般若波羅蜜経巻10法施品』:『憍尸迦。何等是般若波羅蜜義。憍尸迦。般若波羅蜜義者。不應以二相觀。不應以不二相觀。非有相非無相。不入不出不增不損。不垢不淨不生不滅。不取不捨不住非不住。非實非虛非合非散。非著非不著。非因非不因。非法非不法。非如非不如。非實際非不實際。』 |
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復次若法不悉空不應說不戲論為智人相亦不應說。不受不著無所依止。空無相無作名為真法。 |
復た次ぎに、若し法にして、悉くは空にあらざれば、応に、『不戯論は智人の相なりと説くべからず、亦た応に不受、不著にして、依止する所無く、空、無相、無作なるを名づけて、真法と為す』、と説くべからず。 |
復た次ぎに、
若し、
『法』が、
『悉く!』が、
『空でなければ!』、
当然、こう説くはずがなく、――
『戯論しなければ!』、
『智人』の、
『相である!』と。
亦た、こう説くはずもない、――
『不受、不著であり!』、
『依止する所が無く!』、
『空、無相、無作ならば!』、
是れを、
『真法』と、
『称する!』と。
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問曰。若一切法空即亦是實。云何言無實。 |
問うて曰く、若し一切法にして空なれば、即ち亦た是れ実なり。云何が、実無しと言う。 |
問い、
若し、
『一切法が、空ならば!』、
即ち、
是れが、
『実である!』のに、
何故、
『実が無い!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。若一切法空假令有法已入一切法中破。若無法不應致難。 |
答えて曰く、若し一切法は空なるに、仮りに法を有らしむれば、已に一切法中に入りて、破れり。若し法無くんば、応に難を致すべからず。 |
答え、
若し、
『一切法が、空である!』のに、
仮りに、
『法』が、
『有るとするならば!』、
已に、
『一切法』中に、
『入って!』、
『破ったことになる!』ので、
若し、
『法が無くても!』、
『難』を、
『招致する( to invite )はずがない!』。
|
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問曰。若一切法空是真實者。佛三藏中何以多說無常苦空無我法。如經說。佛告諸比丘。為汝說法名為第一義空。何等是第一義空。眼生無所從來滅亦無所去。但有業有業果報。作者不可得。耳鼻舌身意亦復如是。是中若說生無所從來滅亦無所去是常常法不可得故無常。但有業及業果報而作者不可得。是為聲聞法中第一義空。云何言一切法空。 |
問うて曰く、若し一切法は空にして、是れ真実なれば、仏の三蔵中には、何を以ってか、多く無常、苦、空、無我の法を説く。経に説けるが如し、仏の諸比丘に告げたまわく、『汝が為に説く法を名づけて、第一義空と為す。何等か、是れ第一義空なる、眼は生ずるも従って来たる所無く、滅するも亦た去る所無し。但だ業有り、業の果報有るも、作者は不可得なり、耳鼻舌身意も亦復た是の如し』、と。是の中に、『生ずるも、従って来たる所無く、滅するも亦た去る所無し』、と説きたもうが若(ごと)きは、是れ常なるも、常法の不可得なるが故に無常なり。『但だ業、及び業の果報有るも、作者は不可得なり』、是れを声聞法中の第一義空と為す。云何が、『一切法は空なり』、と言う。 |
問い、
若し、
『一切の法は空であり!』、
是れが、
『真実ならば!』、
何故、
『仏の三蔵』中には、
多く、
『無常、苦、空、無我の法』が、
『説かれたのですか?』。
例えば、
『経』中には、こう説かれています、――
『仏』は、
『諸の比丘』に、こう告げられた、――
お前の為に説く、
何が、
『第一義空なのか?』、――
『眼』は、
『生じても!』、
『来た所』が、
『無く!』、
『滅しても!』、
『去る所』が、
『無い!』。
但だ、
『業や、業の果報が有るだけで!』、
『作者』は、
『不可得( be unrecognizable )なのである!』。
『耳鼻舌身意』も、
亦復た、
『是の通りである!』、と。
是の中に説かれた、
『生じても!』、
『来る所』が、
『無く!』、
『滅しても!』、
『去る所』が、
『無い!』とは、
是れは、
『常』を、
『説いて!』、
『破られたのである!』が、
『常法』は、
『不可得である!』が故に、
『無常である!』が、
こう説かれたのは、――
『但だ業と、業の果報が有るだけで!』、
『作者』は、
『不可得である!』、と。
是れが、
『声聞法』中の、
『第一義空である!』。
何故、
『一切の法は空である!』と、
『言うのですか?』。
|
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参考:『雑阿含経巻13(335)』:『如是我聞。一時。佛住拘留搜調牛聚落。爾時。世尊告諸比丘。我今當為汝等說法。初.中.後善。善義善味。純一滿淨。梵行清白。所謂第一義空經。諦聽。善思。當為汝說。云何為第一義空經。諸比丘。眼生時無有來處。滅時無有去處。如是眼不實而生。生已盡滅。有業報而無作者。此陰滅已。異陰相續。除俗數法。耳.鼻.舌.身.意亦如是說。除俗數法。俗數法者。謂此有故彼有。此起故彼起。如無明緣行。行緣識。廣說乃至純大苦聚集起。又復。此無故彼無。此滅故彼滅。無明滅故行滅。行滅故識滅。如是廣說。乃至純大苦聚滅。比丘。是名第一義空法經。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
|
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答曰。我是一切諸煩惱根本。先著五眾為我。然後著外物為我所。我所縛故而生貪恚。貪恚因緣故起諸業。如佛說無作者則破一切法中我。 |
答えて曰く、我は、是れ一切の諸煩悩の根本であり、先に五衆に著して、我と為し、然る後に外物に著して、我所と為し、我に縛せらるるが故に、貪恚を生じ、貪恚の因緣の故に諸業を起す。仏の説きたもうが如し、『作者無ければ、則ち一切法中の我を破せり』、と。 |
答え、
『我』は、
一切の、
『諸の煩悩』の、
『根本であり!』、
先に、
『五衆に著して!』、
『我である!』と、
『為し( to consider )!』、
その後、
『外物に著して!』、
『我所である!』と、
『為し!』、
『我に縛される!』が故に、
『貪、恚』を、
『生じ!』、
『貪、恚の因緣』の故に、
『諸の業』を、
『起すからである!』。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『作者が無ければ!』、
『一切法中の我』を、
『破ったことになる!』、と。
|
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|
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若說眼無所從來滅亦無所去則說眼無常。若無常即是苦。苦即是非我我所。我我所無故於一切法中心無所著。心無所著故則不生結使。不生結使何用說空。以是故三藏中多說無常苦空無我。不多說一切法空。 |
若し、『眼の従って来たる所無く、滅して亦た去る所無し』、と説けば、則ち眼の無常を説くなり。若し無常なれば、即ち是れ苦なり。苦は、即ち是れ我我所に非ず。我我所無きが故に、一切法中に於いて著する所無く、心の著する所無きが故に、則ち結使を生ぜず、結使を生ぜざれば、何をか用って空を説く。是を以っての故に三蔵中には、多く無常、苦、空、無我を説くも、一切法の空を説くこと多からず。 |
若し、
『眼』は、
『生じて来た所が無く、滅して去る所も無い!』と、
『説けば!』、
則ち、
『眼は、無常である!』と、
『説いたことになる!』。
若し、
『無常ならば!』、
是の、
『眼』は、
『苦であり!』、
『苦ならば!』、
『我、我所』は、
『無いということであり!』、
『我、我所が無い!』が故に、
『一切の法』中に、
『心の著する!』所が、
『無く!』、
『心の著する所が無い!』が故に、
若し、
是の故に、
『三蔵』中には、
『無常、苦、空、無我』を、
『多く!』、
『説き!』、
『一切法の空』を、
『説くこと!』は、
『多くないのである!』。
|
非(ひ):<動詞>[本義]違背する/相反する/相容れない( violate, run counter to, not conform to )。責める/非難する/咎める(
blame, censure, reproach )、厭う/嫌う( detest )、諷刺する/当てこする( satirize )、中傷/誹謗する(
slander )、避ける( avoid )、無い[無に相当する]( not have )。<名詞>錯誤/間違い( error, wrong
)。<副詞>そうでない/~でない[不/不是に相当する]( no, not )。<形容詞>真実でない( untruthful )。邪/不正な(
evil )。 |
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復次眾生雖聞佛說無常苦空無我。而戲論諸法。為是人故說諸法空。若無我亦無我所。若無我無我所是即入空義。 |
復た次ぎに、衆生は、仏の説きたまえる無常、苦、空、無我を聞くと雖も、諸法を戯論すれば、是の人の為の故に、諸法の空を説きたまえり。若し我無ければ、亦た我所無し。若し我無く、我所無ければ、是れ即ち空義に入るなり。 |
復た次ぎに、
『衆生』は、
『仏の説かれた!』、
『無常、苦、空、無我』を、
『聞いた!』が、
而し、
『諸法』を、
『戯論した!』ので、
是の、
『人の為に!』、
『諸法は空である!』と、
『説かれたのである!』。
若し、
『諸法』中に、
『我が無ければ!』、
『我所も!』、
『無いはずであり!』、
若し、
『我も、我所も無ければ!』、
『空の義』に、
『入る( to understand deeply )ことになる!』。
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問曰。佛何以說有業有果報。若有業有果報是則不空。 |
問うて曰く、仏は何を以ってか、『業有り、果報有り』、と説きたもう。若し業有り、果報有れば、是れ則ち空にあらず。 |
問い、
『仏』は、
何故、
『業が有り、果報が有る!』と、
『説かれたのですか?』。
若し、
『業や、果報が有れば!』、
是の、
『業や、果報』は、
『空でないことになります!』。
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答曰。佛說法有二種。一者無我二者無法。為著見神有常者故為說無作者。為著斷滅見者故為說有業有業果報。 |
答えて曰く、仏の説法には二種有り、一には無我、二には無法なり。著して、神の有常なるを見る者の為の故には、為に作者無きを説き、断滅の見に著する者の為の故には、為に業有り、業の果報有りと説きたまえり。 |
答え、
『仏が、法を説かれる!』には、
『二種有り!』、
一には、
『我は無い!』と、
『説き!』、
二には、
『法は無い!』と、
『説かれたのである!』が、
『常見に著して!』、
『神は、有常であるとする!』者の為には、
『作者は無い!』と、
『説き!』、
『断滅の見に著する!』者の為には、
『業や、業の果報という!』、
『法が有る!』と、
『説かれたのである!』。
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若人聞說無作者轉墮斷滅見中。為說有業有業果報。此五眾能起業而不至後世。此五眾因緣生五眾。受業果報相續故。說受業果報。 |
若し人、『作者無し』、と説くを聞かば、転じて断滅見中に墜つれば、為に『業有り、業の果報有り』、と説く。此の五衆は、能く業を起すも、後世に至らず、此の五衆の因縁もて、五衆を生じ、業の果報を受くること、相続するが故に、『業の果報を受く』、と説く。 |
若し、
『人』が、
『作者は無い!』と、
『説かれる!』のを、
『聞けば!』、
『心を転じて!』、
『断滅の見』中に、
『堕ちる!』ので、
此の、
『人』の為に、
『業は有るし、業の果報も有る!』と、
『説かれた!』が、
此の、
『五衆』は、
『後世には至らない!』が、
『業』を、
『起すことができ!』、
此の、
『五衆の因縁』の故に、
『五衆を生じて!』、
『業の果報』を、
『受けるのであるが!』、
是のようにして、
『業の因縁と、果報は相続する!』が故に、
『業の果報を受ける!』と、
『説くのである!』。
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如母子。身雖異而因緣相續故。如母服藥兒病得差。如是今世後世五眾雖異而罪福業因緣相續故。從今世五眾因緣受後世五眾果報。 |
母子は、身異なりと雖も、因縁の相続するが故に、如(も)し母薬を服めば、児の病の差(い)ゆるを得るが如し。是の如く、今世と後世の五衆は、異なりと雖も、罪福の業の因縁相続するが故に、今世の五衆の因縁に従って、後世の五衆の果報を受く。 |
譬えば、
『母、子』は、
『身が異なりながら!』、
『因縁』が、
『相続する!』が故に、
若し、
『母が、薬を服めば!』、
『児の病』が、
『治癒するように!』、
是のように、
『今世と、後世』の、
『五衆は異なりながら!』、
『罪、福の業という!』、
『因縁』が、
『相続する!』が故に、
『今世』の、
『五衆の因縁に従って!』、
『後世の五衆という!』、
『果報』を、
『受けるのである!』。
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復次有人求諸法相著一法。若有若無若常若無常等以著法故自法生愛他法生恚而起惡業。為是人故說諸法空。諸法空則無有法。所以者何。所可愛法能生結使。能生結使則是無明因緣。若生無明云何是實是為法空。 |
復た次ぎに、有る人は、諸法の相を求めて、一法の若しは有、若しは無、若しは常、若しは無常等に著し、法に著するを以っての故に、自法に愛を生じ、他法に恚を生じて、悪業を起せば、是の人の為の故に、諸法の空を説く。諸法は空なれば、則ち法有ること無し。所以は何んとなれば、愛すべき所の法は、能く結使を生じ、能く結使を生ずれば、則ち是れ無明の因緣なり。若し無明を生ずれば、云何が、是れ実ならん。是れを法空と為す。 |
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『諸法の相を求めて!』、
『有や無、常や無常』等の、
『一法』に、
『著し!』、
『法に著する!』が故に、
『自法』には、
『愛』を、
『生じる!』が、
『他法』には、
『恚』を、
『生じる!』ので、
則ち、
『悪業』を、
『生じることになる!』。
是の、
『人の為に!』、
『諸法』は、
『空である!』と、
『説かれた!』が、
『諸法が空ならば!』、
『法』は、
『無いということである!』。
何故ならば、
『愛される法』は、
『結使』を、
『生じさせることになり!』、
『結使を生じさせるということ!』は、
『無明を生じる!』、
『因緣だからである!』。
若し、
『法』が、
『無明』を、
『生じさせるとすれば!』、
何故、
是れが、
『実であろうか?』。
是れを、
『法空』と、
『称するのである!』。
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復次眾生有二種。一者著世間二者求出世間。求出世間有上中下。上者利根大心求佛道。中者中根求辟支佛道。下者鈍根求聲聞道。 |
復た次ぎに、衆生には二種有り、一には世間に著し、二には出世間を求む。出世間を求むるに上、中、下有り。上の者は利根の大心にして、仏道を求め、中の者は中根にして、辟支仏道を求め、下の者は鈍根にして、声聞道を求む。 |
復た次ぎに、
『衆生』には、
『二種有り!』、
一には、
『世間に!』、
『著す者であり!』、
二には、
『出世間を!』、
『求める者である!』。
『出世間を求める!』者には、
『上、中、下が有り!』、
『上の者』は、
『利根の大心であって!』、
『仏道を求め!』、
『中の者』は、
『中根であって!』、
『辟支仏道を求め!』、
『下の者』は、
『鈍根であって!』、
『声聞道を求める!』。
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為求佛道者說六波羅蜜及法空。為求辟支佛者說十二因緣及獨行法。為求聲聞者說眾生空及四真諦法。 |
仏道を求むる者の為には、六波羅蜜、及び法空を説き、辟支仏を求むる者の為には、十二因縁、及び独行の法を説き、声聞を求むる者の為には、衆生空、及び四真諦の法を説きたもう。 |
『仏道を求める!』者の為に、
『六波羅蜜と、法空』を、
『説かれ!』、
『辟支仏道を求める!』者の為には、
『十二因縁と、独行の法』を、
『説かれ!』、
『声聞道を求める!』者の為には、
『衆生空と、四真諦の法』を、
『説かれた!』。
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聲聞畏惡生死。聞眾生空及四真諦無常苦空無我不戲論諸法。如圍中有鹿既被毒箭一向求脫更無他念。 |
声聞は、生死を畏れ悪むも、衆生空、及び四真諦の無常、苦、空、無我を聞けば、諸法を戯論せず。囲中に鹿有り、既に毒箭を被れば、一向に脱るるを求めて、更に他念無きが如し。 |
『声聞』は、
『生死を畏れて、悪んでいる!』ので、
『衆生空や、四真諦の無常、苦、空、無我を聞けば!』、
『諸の法について!』、
『戯論することはない!』。
譬えば、
『囲中の有る!』、
『鹿』が、
既に( already )、
『毒箭』を、
『被っていた!』のに、
一向に( single-mindedly )、
『囲中より脱れることだけを!』、
『求めて!』、
更に、
『他念』が、
『無いようなものである!』。
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囲(い):猟場のかこい。 |
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辟支佛雖厭老病死。猶能少觀甚深因緣。亦能少度眾生。譬如犀在圍中雖被毒箭。猶能顧戀其子。 |
辟支仏は、老病死を厭うと雖も、猶お能く少しは、甚だ深き因緣を観、亦た能く少しは衆生を度す。譬えば犀の囲中に在りて、毒箭を被ると雖も、猶お能く其の子を顧恋するが如し。 |
『辟支仏』は、
『老病死を厭いながらも!』、
猶お( yet )、
『少しは!』、
『甚だ深い因緣』を、
『観ることができ!』、
亦た、
『少しは!』、
『衆生』を、
『度すこともできる!』ので、
譬えば、
『犀』が、
『囲』中に於いて、
『毒箭を被りながら!』、
猶お、
『子』を、
『顧恋する( to look and love )ことができるようなものである!』。
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菩薩雖厭老病死。能觀諸法實相究盡深入十二因緣。通達法空入無量法性。譬如白香象王在獵圍中雖被箭射顧視獵者心無所畏。及將營從安步而去。以是故三藏中不多說法空。 |
菩薩は、老病死を厭うと雖も、能く諸法の実相を観て究尽し、深く十二因縁に入りて、法空に通達し、無量の法性に入る。譬えば白香象王の、猟囲中に在りて、箭を射らるると雖も、猟者を顧視し、心に畏るる所無く、及び営従を将いて安步して去るが如し。是を以っての故に、三蔵中には、法空を説くこと多からず。 |
『菩薩』は、
『老病死を厭いながらも!』、
『諸法の実相』を、
『観察して!』、
『究尽し!』、
『十二因縁に深く入って!』、
『法空に通達し!』、
『無量の法性』に、
『入る!』ので、
譬えば、
『白香象の王』が、
『猟囲』中に於いて、
『箭を射られながらも!』、
『猟者』を、
『顧視して( to look after )!』、
『心』に、
『畏れる!』所が、
『無く!』、
及び、
『営従を将いて( to lead a battalion )!』、
『安らかに!』、
『歩いて!』、
『去るようなものである!』。
是の故に、
『三蔵』中には、
『法空を説かれること!』が、
『多くないのである!』。
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或有利根梵志求諸法實相不厭老病死。著種種法相為是故說法空。所謂先尼梵志不說五眾即是實。亦不說離五眾是實。復有強論梵志佛答我法中不受有無。汝何所論有無是戲論法結使生處。 |
或いは有る利根の梵志は、諸法の実相を求めて、老病死を厭わざるも、種種の法相に著せば、是の為の故に、法空を説きたもう。謂わゆる先尼梵志には、五衆は即ち是れ実なりと説きたまわず、亦た五衆を離れて是れ実なりとも説きたまわず。復た有る強論梵志に、仏の答えたまわく、『我が法中には有、無を受けず。汝の論ずる所は何ん。有、無は是れ戯論の法にして、結使の生ずる処なり』、と。 |
或いは、
有る、
『利根の梵志』は、
『諸法の実相を求めて!』、
『老、病、死を厭わなかった!』が、
『種種の法相』に、
『著していた!』ので、
是の、
謂わゆる、
『先尼梵志』には、
『五衆』は、
『即ち、実である!』とも、
『説かれず!』、
『五衆を離れた!』者が、
『実である!』とも、
『説かれなかった!』のに、
復た( and )、
有る、
『強論の梵志』に、
『仏』は、こう答えられたのである、――
わたしの、
『法』中には、
『有とか、無とか!』を、
『受けない( not to accept )!』が、
お前の、
『論じる!』所では、
『受けるのか、受けないのか?』、
『何うなのか?』。
『有とか、無とか!』は、
『戯論の法であり!』、
『結使の生じる処なのだが!』、と。
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先尼梵志(せんにぼんし):梵名senika。また西尼、西儞迦、霰尼に作り、意訳して有軍、勝軍と為す。即ち神我を篤く信ずる者にして、「心常相滅」を崇奉する外道なり。また「涅槃経巻39」に、「その時、衆中に梵志有り、先尼と名づく、またこの言を作さく、瞿曇に我有りや、と。如来黙然たり。瞿曇に我無きや。如来黙然たり」と云えるこれなり。また「雑阿含経巻5」、「摩訶般若波羅蜜経巻3」等に出づ。<(望)
強論梵志(ごうろんぼんし):長爪梵志。『大智度論巻11』、『雑阿含経巻34(969)』参照。 |
参考:『雑阿含経巻5(105)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。有外道出家名仙尼。來詣佛所。恭敬問訊。於一面坐。白佛言。世尊。先一日時。若沙門.若婆羅門.若遮羅迦.若出家。集於希有講堂。如是義稱。富蘭那迦葉為大眾主。五百弟子前後圍遶。其中有極聰慧者.有鈍根者。及其命終。悉不記說其所往生處。復有末迦梨瞿舍利子為大眾主。五百弟子前後圍遶。其諸弟子有聰慧者.有鈍根者。及其命終。悉不記說所往生處。如是先闍那毘羅胝子.阿耆多翅舍欽婆羅.迦羅拘陀迦栴延.尼揵陀若提子等。各與五百弟子前後圍遶。亦如前者。沙門瞿曇爾時亦在彼論中言。沙門瞿曇為大眾主。其諸弟子。有命終者。即記說言。某生彼處.某生此處。我先生疑。云何沙門瞿曇。得如此法。佛告仙尼。汝莫生疑。以有惑故。彼則生疑。仙尼當知。有三種師。何等為三。有一師。見現在世真實是我。如所知說。而無能知命終後事。是名第一師出於世間。復次。仙尼。有一師。見現在世真實是我。命終之後亦見是我。如所知說。復次。先尼。有一師。不見現在世真實是我。亦復不見命終之後真實是我。仙尼。其第一師見現在世真實是我。如所知說者。名曰斷見。彼第二師見今世後世真實是我。如所知說者。則是常見。彼第三師不見現在世真實是我。命終之後。亦不見我。是則如來.應.等正覺說。現法愛斷.離欲.滅盡.涅槃。仙尼白佛言。世尊。我聞世尊所說。遂更增疑。佛告仙尼。正應增疑。所以者何。此甚深處。難見.難知。應須甚深照微妙至到。聰慧所了。凡眾生類。未能辯知。所以者何。眾生長夜異見.異忍.異求.異欲故。仙尼白佛言。世尊。我於世尊所。心得淨信。唯願世尊為我說法。令我即於此座。慧眼清淨。佛告仙尼。今當為汝隨所樂說。佛告仙尼。色是常耶。為無常耶。答言。無常。世尊復問。仙尼。若無常者。是苦耶。答言。是苦。世尊復問仙尼。若無常.苦。是變易法。多聞聖弟子寧於中見我.異我.相在不。答言。不也。世尊。受.想.行.識亦復如是。復問。云何。仙尼。色是如來耶。答言。不也。世尊。受.想.行.識是如來耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。異色有如來耶。異受.想.行.識有如來耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。色中有如來耶。受.想.行.識中有如來耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。如來中有色耶。如來中有受.想.行.識耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。非色。非受.想.行.識有如來耶。答言。不也。世尊。佛告仙尼。我諸弟子聞我所說。不悉解義而起慢無間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。捨此陰已。與陰相續生。是故。仙尼。我則記說。是諸弟子身壞命終。生彼彼處。所以者何。以彼有餘慢故。仙尼。我諸弟子於我所說。能解義者。彼於諸慢得無間等。得無間等故。諸慢則斷。諸慢斷故。身壞命終。更不相續。仙尼。如是弟子我不說彼捨此陰已。生彼彼處。所以者何。無因緣可記說故。欲令我記說者。當記說。彼斷諸愛欲。永離有結。正意解脫。究竟苦邊。我從昔來及今現在常說慢過.慢集.慢生.慢起。若於慢無間等觀。眾苦不生。佛說此法時。仙尼出家遠塵離垢。得法眼淨。爾時。仙尼出家見法.得法。斷諸疑惑。不由他知。不由他度。於正法中。心得無畏。從座起。合掌白佛言。世尊。我得於正法中出家修梵行不。佛告仙尼。汝於正法得出家.受具足戒.得比丘分。爾時。仙尼得出家已。獨一靜處修不放逸。住如是思惟。所以族姓子。剃除鬚髮。正信.非家.出家學道。修行梵行。見法自知得證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。得阿羅漢。聞佛所說。歡喜奉行』
参考:『大般涅槃経巻39』:『爾時眾中復有梵志名曰先尼。復作是言。瞿曇有我耶。如來默然瞿曇無我耶。如來默然。第二第三亦如是問。佛皆默然。先尼言。瞿曇若一切眾生有我遍一切處是一作者。瞿曇何故默然不答。佛言。先尼。汝說是我遍一切處耶。先尼答言。瞿曇。不但我說一切智人亦如是說。佛言。善男子。若我周遍一切處者。應當五道一時受報。若有五道一時受報。汝等梵志。何因緣故不造眾惡為遮地獄。修諸善法為受天身。先尼言。瞿曇。我法中我則有二種。一作身我。二者常身我。為作身我修離惡法不入地獄。修諸善法生於天上。佛言。善男子。如汝說我遍一切處。如是我者。若作身中當知無常。若作身無云何言遍。瞿曇。我所立我亦在作中亦是常法。瞿曇。如人失火燒舍宅時其主出去。不可說言舍宅被燒主亦被燒。我法亦爾。而此作身雖是無常。當無常時我則出去。是故我我亦遍亦常。佛言。善男子。如汝說我亦遍亦常。是義不然。何以故。遍有二種。一者常。二者無常。復有二種。一色二無色。是故若言一切有者。亦常亦無常。亦色亦無色。若言舍主得出不名無常。是義不然。何以故。舍不名主主不名舍。異燒異出故得如是。我則不爾。何以故。我即是色色即是我。無色即我我即無色。云何而言色無常時我則得出。善男子。汝意若謂一切眾生同一我者。如是即違世出世法。何以故。世間法名父子母女。若我是一。父即是子子即是父。母即是女女即是母。怨即是親親即是怨。此即是彼彼即是此。是故若說一切眾生同一我者。是即違背世出世法。‥‥』
参考:『雑阿含経巻34(969)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有長爪外道出家來詣佛所。與世尊面相問訊慰勞已。退坐一面。白佛言。瞿曇。我一切見不忍。佛告火種。汝言一切見不忍者。此見亦不忍耶。長爪外道言。向言一切見不忍者。此見亦不忍。佛告火種。如是知.如是見。此見則已斷.已捨.已離。餘見更不相續.不起.不生。火種。多人與汝所見同。多人作如是見.如是說。汝亦與彼相似。火種。若諸沙門.婆羅門捨斯等見。餘見不起。是等沙門.婆羅門世間亦少少耳。火種。依三種見。何等為三。有一如是見.如是說。我一切忍。復次。有一如是見.如是說。我一切不忍。復次。有一如是見.如是說。我於一忍.一不忍。火種。若言一切忍者。此見與貪俱生。非不貪。與恚俱生。非不恚。與癡俱生。非不癡。繫。不離繫。煩惱。非清淨。樂取。染著生。若如是見。我一切不忍。此見非貪俱.非恚俱.非癡俱。清淨非煩惱。離繫非繫。不樂不取。不著生。火種。若如是見。我一忍.一不忍。彼若忍者。則有貪。乃至染著生。若如是見不忍者。則離貪。乃至不染著生。彼多聞聖弟子所學言。我若作如是見.如是說。我一切忍。則為二者所責.所詰。何等二種。謂一切不忍。及一忍.一不忍。則為此等所責。責故詰。詰故害。彼見責.見詰.見害故。則捨所見。餘見則不復生。如是斷見.捨見.離見。餘見不復相續。不起不生。彼多聞聖弟子作如是學。我若如是見.如是說。我一切不忍。者則有二種二詰。何等為二。謂我一切忍。及一忍.一不忍。如是二責二詰。乃至不相續。不起不生。彼多聞聖弟子作如是學。我若作如是見.如是說。一忍.一不忍。則有二責二詰。何等二。謂如是見.如是說。我一切忍。及一切不忍。如是二責。乃至不相續。不起不生。復次。火種。如是身色麤四大。聖弟子當觀無常.觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。若聖弟子觀無常.觀滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨住者。於彼身.身欲.身念.身愛.身染.身著。永滅不住。火種。有三種受。謂苦受.樂受.不苦不樂受。此三種受。何因。何集。何生。何轉。謂此三受觸因.觸集.觸生.觸轉。彼彼觸集。則受集。彼彼觸滅。則受滅。寂靜.清涼.永盡。彼於此三受。覺苦.覺樂.覺不苦不樂。彼彼受若集.若滅.若味.若患.若出如實知。如實知已。即於彼受觀察無常.觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。彼於身分齊受覺如實知。於命分齊受覺如實知。若彼身壞命終後。即於爾時一切受永滅.無餘永滅。彼作是念。樂受覺時。其身亦壞。苦受覺時。其身亦壞。不苦不樂受覺時。其身亦壞。悉為苦邊。於彼樂覺。離繫不繫。於彼苦覺。離繫不繫。於不苦不樂覺。離繫不繫。於何離繫。離於貪欲.瞋恚.愚癡。離於生.老.病.死.憂.悲.惱苦。我說斯等。名為離苦。當於爾時。尊者舍利弗受具足始經半月。時。尊者舍利弗住於佛後。執扇扇佛。時。尊者舍利弗作是念。世尊歎說於彼彼法。斷欲.離欲。欲滅盡.欲捨。爾時。尊者舍利弗即於彼彼法觀察無常。觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。不起諸漏。心得解脫。爾時。長爪外道出家遠塵離垢。得法眼淨。長爪外道出家見法.得法.覺法.入法.度諸疑惑。不由他度。入正法.律。得無所畏。即從坐起。整衣服。為佛作禮。合掌白佛。願得於正法.律出家.受具足。於佛法中修諸梵行。佛告長爪外道出家。汝得於正法.律出家.受具足。成比丘分。即得善來比丘出家。彼思惟。所以善男子剃除鬚髮。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。乃至心善解脫。得阿羅漢。佛說是經已。尊者舍利弗.尊者長爪聞佛所說。歡喜奉行』 |
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及雜阿含中大空經說二種空。眾生空法空。羅陀經中說色眾破裂分散令無所有。筏喻經中說。法尚應捨何況非法。波羅延經利眾經中說。智者於一切法不受不著。若受著法則生戲論。若無所依止則無所論。諸得道聖人於諸法無取無捨。若無取捨能離一切諸見。如是等三藏中處處說法空。如是等名為一切法空 |
及び雑阿含中の大空経には、『二種の空とは、衆生空、法空なり』、と説き、羅陀経中には、『色衆は破裂分散して、所有無からしむ』、と説き、筏喩経中には、『法すら尚お応に捨つべし。何に況んや、非法をや』、と説き、波羅延経、利衆経中に説かく、『智者は一切法に於いて受けず、著せず。若し法を受けて著すれば、則ち戯論を生ず。若し依止する所無ければ、則ち論ずる所無し。諸の得道の聖人は、諸法に於いて、取無く、捨無し。若し取、捨無ければ、能く一切の諸見を離る』、と。是れ等の如く、三蔵中の処処に法空を説く。是れ等の如きを名づけて、一切法の空と為す。 |
及び、
『雑阿含中の大空経』には、こう説かれている、――
『二種の空』とは、
『衆生空と!』、
『法空である!』と。
『羅陀経』中には、こう説かれている、――
『色法』は、
『破裂し、分散すれば!』、
『無所有になる!』、と。
『筏喩経』中には、こう説かれている、――
『法すら!』、
『尚お、捨てなくてはならない!』、
況して、
『法でなければ!』、
『尚更である!』、と。
『波羅延経や、利衆経』中には、こう説かれている、――
『智者』は、
『一切法』を、
『受けることもなく!』、
『著することもない!』。
若し、
『法』を、
『受けたり!』、
『著したりすれば!』、
則ち、
『戯論』を、
『生じることになる!』が、
若し
『依止すべき!』、
『法』が、
『無ければ!』、
則ち、
『論じる!』所が、
『無いということである!』。
『諸の得道の聖人』は、
『諸法』を、
『取ることもなく!』、
『捨てることもない!』。
若し、
『取ったり、捨てたりしなければ!』、
『一切の諸見』を、
『離れることができる!』、と。
是れ等のように、
『三蔵』中には、
処処に、
『法空』が、
『説かれている!』。
是れ等を、
『一切法の空』と、
『称するのである!』。
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無所有(むしょう):◯梵語 akiMcana, aakiMcanya の訳、何物も無い/何物も所有しない( without anything, having
nothing, nothing whatsoever )の義。◯梵語 abhaava の訳、存在しない/実在しない( nothing existing,
nonexisting, the immaterial )の義。
大空経:『雑阿含経巻34(297)』参照。
羅陀経:『雑阿含経巻6(122)』参照。
筏喩経:『中阿含経巻54阿梨咤経』、『大智度論巻1下』参照。
波羅延経:『中阿含経巻39波羅延経』、『大智度論巻3下』参照。
利衆経:不明。『大智度論巻27上』参照。 |
参考:『雑阿含経巻34(297)』:『如是我聞。一時。佛住拘留搜調牛聚落。爾時。世尊告諸比丘。我當為汝等說法。初.中.後善。善義善味。純一清淨。梵行清白。所謂大空法經。諦聽。善思。當為汝說。云何為大空法經。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。緣行識。乃至純大苦聚集。緣生老死者。若有問言。彼誰老死。老死屬誰。彼則答言。我即老死。今老死屬我。老死是我。所言。命即是身。或言。命異身異。此則一義。而說有種種。若見言。命即是身。彼梵行者所無有。若復見言。命異身異。梵行者所無有。於此二邊。心所不隨。正向中道。賢聖出世。如實不顛倒正見。謂緣生老死。如是生.有.取.愛受.觸.六入處.名色.識.行。緣無明故有行。若復問言。誰是行。行屬誰。彼則答言。行則是我。行是我所。彼如是。命即是身。或言。命異身異。彼見命即是身者。梵行者無有。或言命異身異者。梵行者亦無有。離此二邊。正向中道。賢聖出世。如實不顛倒正見所知。所謂緣無明行。諸比丘。若無明離欲而生明。彼誰老死。老死屬誰者。老死則斷。則知斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世成不生法。若比丘無明離欲而生明。彼誰生。生屬誰。乃至誰是行。行屬誰者。行則斷。則知斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世成不生法。若比丘無明離欲而生明。彼無明滅則行滅。乃至純大苦聚滅。是名大空法經。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
参考:『雑阿含経巻6(122)』:『如是我聞。一時。佛住摩拘羅山。時。有侍者比丘名曰羅陀。白佛言。世尊。所謂眾生者。云何名為眾生。佛告羅陀。於色染著纏綿。名曰眾生。於受.想.行.識染著纏綿。名曰眾生。佛告羅陀。我說於色境界當散壞消滅。於受.想.行.識境界當散壞消滅。斷除愛欲。愛盡則苦盡。苦盡者我說作苦邊。譬如聚落中諸小男小女嬉戲。聚土作城郭宅舍。心愛樂著。愛未盡.欲未盡.念未盡.渴未盡。心常愛樂.守護。言。我城郭。我舍宅。若於彼土聚愛盡.欲盡.念盡.渴盡。則以手撥足蹴。令其消散。如是。羅陀。於色散壞消滅愛盡。愛盡故苦盡。苦盡故我說作苦邊。佛說此經已。羅陀比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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不可得空者。有人言。於眾界入中我法常法不可得故。名為不可得空。有人言。諸因緣中求法不可得。如五指中拳不可得故名為不可得空。有人言。一切法及因緣畢竟不可得故名為不可得空。 |
不可得空とは、有る人の言わく、『衆、界、入』中に於いて、我法、常法は不可得なるが故に、名づけて不可得空と為す』、と。有る人の言わく、『諸の因緣中に法を求むるも、不可得なり。五指中に拳の不可得なるが如きが故に名づけて、不可得空と為す』、と。有る人の言わく、『一切法、及び因緣は、畢竟じて不可得なるが故に名づけて、不可得空と為す』、と。 |
『不可得空』とは、
有る人は、こう言っている、――
『五衆、十八界、十二入』中に、
『我法や、常法』は、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
譬えば、
『五指』中に、
『拳を求めても!』、
『不可得であるように!』、
諸の、
『因緣』中に、
『法を求めても!』、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『一切法や、因緣』は、
『畢竟じて不可得である!』が故に、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
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問曰。何以故。名不可得空。為智力少故不可得為實無故不可得。 |
問うて曰く、何を以っての故に、不可得空と名づく。智力少なきが故に不可得と為すや、実に無きが故に不可得と為すや。 |
問い、
何故、
『不可得空と呼ぶのですか?』、――
『智力が、少ない!』が故に、
『不可得なのですか?』、
『実に、無い』が故に、
『不可得なのですか?』。
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答曰。諸法實無故不可得。非智力少也。 |
答えて曰く、諸法は実に無きが故に不可得なり。智力少なきに非ず。 |
答え、
『諸法』は、
『実に無い!』が故に、
『不可得であり!』、
『智力』が、
『少ない!』が故に、
『不可得なのではない!』。
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問曰。若爾者與畢竟空自相空無異。今何以故。更說不可得空。 |
問うて曰く、若し爾らば、畢竟空、自相空と異無し。今は、何を以っての故に、更に不可得空を説く。 |
問い、
若し、爾うならば、
『畢竟空や、自相空』と、
『異』が、
『無いのに!』、
今、
何故、
『不可得空』を、
『更に説くのですか?』。
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答曰。若人聞上諸空都無所有心懷怖畏生疑。今說所以空因緣以求索不可得故。為說不可得空斷是疑怖故佛說不可得空。所以者何。佛言。我從初發心乃至成佛及十方佛。於諸法中求實不可得。是名不可得空。 |
答えて曰く、若し人、上の諸空は都て無所有なりと聞かば、心に怖畏を懐きて、疑を生ぜん。今、空の所以(ゆえ)なる因緣を説いて、求索するも不可得なるを以っての故なり。不可得空を説いて、是の疑怖を断ぜんが為の故に仏は不可得空を説きたまえり。所以は何んとなれば、仏の言わく、『我れ初発心より、乃至仏、及び十方の仏と成るまで、諸法中に於いて、実を求むるも不可得なり。是れを不可得空と名づく』、と。 |
答え、
若し、
『人』が、
上の、
『諸空』は、
『都て、無所有である( be all non-existent )!』と、
『説かれた!』のを、
『聞けば!』、
『心』に、
『怖畏を懐いて!』、
『疑』を、
『生じるだろう!』。
今、
『空とする!』所の、
『因緣を説かれた!』のは、
『空の因緣』を、
『求索しても!』、
『不可得だからであり!』、
『不可得空を説いて!』、
是の、
『疑怖を断じようとされた!』が故に、
『仏』は、
『不可得空』を、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
『仏』は、こう言われたからである、――
わたしは、
『初発心より!』、
乃至、
『仏、及び十方の仏と成るまで!』、
『諸法』中に、
『実を求めた!』が、
『不可得であった!』、
是れを、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
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参考:『自在王菩薩経巻1』:『自在王菩薩白佛言。世尊頗有所緣。菩薩見如是諸法。而能見佛耶。佛言有。何以故。色是盡相。性無生故。能見色如是。是名見如來。受想行色是盡相。性無生故。能見識如是。是名見如來。戒是無為無作無起相。能見戒如是。是名見如來。定慧解脫知見等亦如是。是名見如來。自在王。我於過去燃燈佛時。得見佛淨。我於爾時。見緣生法故見法。以見法故見如來。自在王言。於燃燈佛已前。云何見諸佛。佛言。以色身相見故見。不以不二法身見故見。今為汝說。我從初發心未曾見佛何以故。不以色相見故。名為見佛。是故自在王。若菩薩欲得見佛應如我見燃燈佛。以諸法一相故。云何一相。如我身燃燈佛身亦如是。如燃燈佛身。亦如是。一身故以不二不別入一法相。是名見緣生法。以見緣生法名為見法。以見法故名為見佛。若菩薩能於一切念中。證滅而不實滅。生死不可得。而以方便智故示是名菩薩智自在』 |
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問曰。何事不可得。 |
問うて曰く、何なる事か、不可得なる。 |
問い、
何のような、
『事』が、
『不可得なのですか?』。
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答曰。一切法乃至無餘涅槃不可得故名為不可得空。 |
答えて曰く、一切法、乃至無余涅槃は不可得なるが故に、名づけて不可得空と為す。 |
答え、
『一切法、乃至無余涅槃は不可得である!』が故に、
『不可得空』と、
『称する!』。
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復次行者得是不可得空。不得三毒四流四縛五蓋六愛七使八邪九結十惡諸弊惡垢結等。都不可得故名為不可得空。 |
復た次ぎに、行者は、是の不可得空を得れば、三毒、四流、四縛、五蓋、六愛、七使、八邪、九結、十悪、諸の弊悪なる垢結等を得ず、都て不可得なる故に、名づけて不可得空と為す。 |
復た次ぎに、
『行者』が、
是の、
『不可得空を得れば! 、
『三毒、四流、四縛、五蓋、六愛、七使、八邪、九結、十悪や!』、
『諸の弊悪なる垢結』等を、
『得ることはない!』、
是れ等の、
『法は、都て不可得である!』が故に、
『不可得空』と、
『称するのである!』。
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四流(しる):欲、有、見、無明を指し、また四暴流と称す。『大智度論巻3下注:流』参照。
四縛(しばく):また四結、四身繋、四身縛と作り、衆生の身心を繋縛し、それをして生死に流転せしむる四種の言悩を指す。「三蔵法数巻18」によれば、四縛とは即ち、(一)欲愛身縛:また貪欲身縛に作り、謂わゆる欲界の衆生が、五欲に順情せる等の境に対して、心に貪愛を生死、諸の惑業を起し、身を縛して解脱を得ざるを指す。(二)瞋恚身縛:また瞋瞋縛に作り、謂わゆる欲界の衆生が、五欲に違情せる等の境に対して、瞋恚の煩悩を起して解脱を得ざるを指す。(三)戒盗身縛:また戒取身縛に作り、謂わゆる非因を計りて因と為し、雞戒、狗戒等の邪戒を持守して、惑業を増長し、身を束縛するを指す。(四)我見身縛:また実執取身繋に作り、我見、即ち我執なり、非我の法に於いて妄りに計して我と為し、この我見に由り、諸の惑業を増長して、身を束縛するを指す。また「長阿含経巻8」、「毘婆沙論巻2」、「大毘婆沙論巻48」、「集異門足論巻8」等に出づ。<(佛)
五蓋(ごがい):梵語paJca aavaraNaaniの訳語にして、蓋は、覆蓋の意なり。乃ち心性を覆蓋し、善法をして生ぜしめざる五種の煩悩なり。即ち(一)貪欲蓋(梵raaga-
aavaraNa):五欲の境に執著し貪愛して厭足の有ること無く、心性を蓋覆す。(二)瞋恚蓋(梵pratigha- aavaraNa):違情の境に於いて忿怒を懐き、またよく心性を蓋覆す。(三)惛眠蓋(梵styaana-
middha- aavaraNa):また睡眠蓋に作る。惛沈と睡眠とは、皆心性をして法の励起を無からしむ。(四)掉挙悪作蓋(梵auddhatya-
kaukRtya- aavaraNa):また掉戯蓋、調戯蓋、掉悔蓋に作り、心の躁動(掉)、或はすでに作せる事に憂悩(悔)す、皆よく心性を蓋覆す。(五)疑蓋(梵vicikitsaa-aavaraNa):法に於いて猶予して決断無く、因って心性を蓋覆す。また諸の煩悩は、皆蓋の義有り、然るにこの五者は、無漏の五蘊に於いて、よく殊勝の障礙と為る。即ち貪欲と瞋恚は、よく戒蘊を障え、惛沈と睡眠は、よく慧蘊を障え、掉挙と悪作は、よく定蘊を障え、疑は、四諦の理を疑う。故にただこの五者と立てて蓋と為すなり。また「雑阿含経巻26」、「大智度論巻17」、「大毘婆沙論巻38、48」、「倶舎論巻21」、「順正理論巻55」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」等に出づ。<(佛)
六愛(ろくあい):謂わゆる色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛なり。即ち愛とは物を貪る意にして、染著の意なり。「長阿含経巻9」参照。
七使(しちし):貪欲、瞋恚、有愛、慢、無明、見、疑を指す。『大智度論巻2上注:七使』参照。
八邪(はちじゃ):邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定をいい、即ち八聖道に反する者を指す。
九結(くけつ):愛、恚、慢、癡、疑、見、取、慳、嫉を指す。『大智度論巻3下注:結』参照。 |
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問曰。若爾者行是不可得空得何等法利。 |
問うて曰く、若し爾らば、是の不可得空を行ずれば、何等の法の利をか得る。 |
問い、
若し、爾うならば、
是の、
『不可得空を行えば!』、
何のような、
『法の利益』を、
『得ることになるのですか?』。
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答曰。得戒定慧。得四沙門果五根五無學眾六捨法七覺分八聖道分九次第定十無學法。得如是等是聲聞法。若得般若波羅蜜。則具足六波羅蜜及十地諸功德。 |
答えて曰く、戒定慧を得て、四沙門果、五根、五無学衆、六捨法、七覚分、八聖道分、九次第定、十無学法を得るも、是れ等の如きを得るは、是れ声聞法なり。若し般若波羅蜜を得れば、則ち六波羅蜜、及び十地の諸功徳を具足す。 |
答え、
『不可得空を行えば!』、
『戒、定、慧を得て!』、
『四沙門果や!』、
『五根、五無学衆、六捨法、七覚分、八聖道分、九次第定、十無学法を!』、
『得ることになる!』が、
是れ等の、
『法を得る!』のは、
『声聞法である!』。
若し、
『般若波羅蜜を得れば!』、
『六波羅蜜や、十地の諸功徳』を、
『具足することになる!』。
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五無学衆(ごむがくしゅ):また五無漏蘊、無漏五蘊、五分法身、或は略して単に五衆等に作り、意は阿羅漢の五種の功徳を指す。即ち戒、定、慧、解脱、解脱知見なり。『大智度論巻21、22』参照。
六捨法(ろくしゃほう):色捨、声捨、香捨、味捨、触捨、法捨を指し、即ち六愛を捨つるの義なり。
十無学法(じゅうむがくほう):阿羅漢果を得る無学人の成就する所の十種の無漏法にして、また十無学支に作る。即ち(一)無学正見:無漏の作意と相応する慧なり。(二)無学正思惟:正見と倶に起こる思惟なり。(三)無学正語:無漏の作意に依り生ずる所の四種の清浄の語業なり。(四)無学正業:無漏の作意に依り生ずる所の三衆の身業なり。(五)無学正命:諸の邪命を遠離す、即ち如法の活命なり。(六)無学正精進:正勤を楽しまんことを欲し、勇猛に堪任す。(七)無学正念:心中明了にして、諸法に於いて忘失せず。(八)無学正定:即ち心住、安住、近住、等住して、心散乱せざるなり。(九)無学正解脱:煩悩の束縛を離るる有為解脱を指す。(十)無学正智:尽智、及び無生智なり、即ち金剛喩定の後、諸漏の尽滅を知るを尽智と名づけ、諸漏の断尽に依りて後有の無生を縁ずるを無生智と為す。この中に、前の八支は即ち八正道なり、これに無学位に至りて初めて得る所の解脱と正智の二支を加えて以って無学の十支と為すなり。「倶舎論巻25」には、この後の二支を立つる理由を明かし、「有学位の中には、なお余縛ありて未だ解脱せざるが故に解脱支無し、少しく縛を離るるを脱者と名づくべきに非ず。無学はすでに諸の煩悩の縛を脱し、またよく二の解脱を了する智を起す。二顕了なるに由りて二支を立つべし。有学は然らず。故にただ八を成ず」と云えり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻10」には、この十支は無学の五蘊に依止することを説き、即ち正語、正業、正命は無学の戒蘊、正念、正定は無学の定蘊、正見、正思惟、正精進は無学の慧蘊、正解脱は無学の解脱蘊、正智は無学の解脱知見蘊なりと云えり。また「中阿含巻47五支物主経、巻49聖道経」、「発智論巻16」、「大毘婆沙論巻94」、「顕揚聖教論巻3」、「順正理論巻72」等に出づ。<(佛) |
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問曰。上言一切法乃至涅槃不可得。今何以言得戒定慧乃至十無學法。 |
問うて曰く、上に、『一切法、乃至涅槃は不可得なり』、と言えるに、今は、何を以ってか、『戒定慧、乃至十無学法を得』、と言う。 |
問い、
上には、
『一切法、乃至涅槃』は、
『得られない!』と、
『言いながら!』、
今は、何故、
『戒、定、慧、乃至十無学法』を、
『得ることになる!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。是法雖得皆助不可得空故亦名不可得。又復無受無著故是名不可得。為無為法故名不可得。聖諦故名不可得。第一義諦故名不可得。聖人雖得諸功德入無餘涅槃故不以為得。凡夫人以為大得。如師子雖有所作不自以為奇。餘眾生見以為希有。如是等義名為不可得空。 |
答えて曰く、是の法は、得と雖も、皆、不可得空を助くるが故に、亦た不可得と名づけ、又復た無受、無著の故に是れを不可得と名づけ、無為法の為の故に不可得と名づけ、聖諦の故に不可得と名づけ、第一義諦の故に不可得と名づく。聖人は、諸功徳を得て、無余涅槃に入ると雖も、故(ことさら)に以って得と為さざるも、凡夫人は以って、大得と為すこと、師子は、所作有りと雖も、自ら以って奇と為さざるに、餘の衆生は見て以って、希有と為すが如し。是れ等の如き義を名づけて、不可得空と為す。 |
答え、
是の、
『法』は、
皆、
『不可得空の行を、助ける!』が故に、
『不可得』と、
『称するのであり!』、
又復た、
『無受、無著である!』が故に、
『不可得』と、
『称し!』、
『無為法である!』が故に、
『不可得』と、
『称し!』、
『聖諦を知る!』が故に、
『不可得』と、
『称し!』、
『第一義諦を知る!』が故に、
『不可得』と、
『称する!』。
『聖人』は、
『諸功徳を得て、無余涅槃に入っても!』、
故に( as before )、
是の、
『功徳を得た!』とは、
『思わない!』が、
『凡夫』は、
是れを、
『大いに得た!』と、
『言うのであり!』、
譬えば、
『師子』は、
『所作が有っても!』、
自ら、
『奇である( be incredible )!』とは、
『思わない!』が、
『餘の衆生』は、
『師子の所作を見て!』、
『希有だと!』、
『思うようなものである!』。
是れ等のような、
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