巻第三十一(下)
大智度論釋初品中十八空義第四十八之餘
1.無始空、散空
2.性空、自相空
3.諸法空、不可得空
4.無法空、有法空、無法有法空
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大智度論釋初品中十八空義第四十八之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


無始空、散空

無始空者世間若眾生若法皆無有始。如今生從前世因緣有。前世復從前世有。如是展轉無有眾生始。法亦如是。何以故。若先生後死則不從死故生。生亦無死。若先死後有生則無因無緣。亦不生而有死。以是故。一切法則無有始 無始空とは、世間の若しは衆生、若しは法は、皆始有ること無きこと、今の生の前世の因緣に従りて有り、前世も復た前世に従りて有るが如く、是の如く展転すれば、衆生の始有ること無く、法も亦た是の如し。何を以っての故に、若し先に生じて、後に死すれば、則ち死に従るが故に生ぜざれば、生にも亦た死無く、若し先に死して後に生有れば、則ち無因、無縁にして、亦た生ぜざるに、死有ればなり。是を以っての故に、一切の法は、則ち始有ること無し。
『無始空』とは、
『世間』の、
『衆生や、法には!』、
皆、
『始』が、
『無いからである!』。
『今の生』が、
『前世の因縁に従って( caused by the previous existence )!』、
『有り!』、
『前世の生』も、
復た、
『前世の因縁に従って!』、
『有るように!』、
是のように、
『展転する( to continue one after another )ので!』、
『衆生には!』、
『始が無く!』、
亦た、
『法』も、
『是の通りなのである!』。
何故ならば、
若し、
『先に、生じて!』、
『後に!』、
『死ねば!』、
則ち、
『死に従らずに( be not caused by death )!』、
『生じる!』が故に、
亦た、
『生にも!』、
『死が無いことになる!』。
若し、
『先に、死んで!』、
『後に!』、
『生が有れば!』、
則ち、
『因も、縁も!』、
『無く!』、
亦た、
『生じないのに!』、
『死が有ることになる!』。
是の故に、
『一切の法』には、
『始』が、
『無いのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5問乗品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩復有摩訶衍。所謂。內空。外空。內外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空。須菩提白佛言。何等為內空。佛言。內法名眼耳鼻舌身意。眼眼空非常非滅故。何以故。性自爾。耳耳空鼻鼻空舌舌空身身空意意空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名內空。何等為外空。外法名色聲香味觸法。色色空非常非滅故。何以故。性自爾。聲聲空香香空味味空觸觸空法法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名外空。何等為內外空。內外法名內六入外六入。內法內法空非常非滅故。何以故。性自爾。外法外法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名內外空。何等為空空。一切法空是空亦空非常非滅故。何以故。性自爾。是名空空。何等為大空。東方東方相空。非常非滅故。何以故。性自爾。南西北方四維上下。南西北方四維上下空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名大空。何等為第一義空。第一義名涅槃。涅槃涅槃空非常非滅故。何以故。性自爾。是名第一義空。何等為有為空。有為法名欲界色界無色界。欲界欲界空。色界色界空。無色界無色界空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名有為空。何等為無為空。無為法名若無生相無住相無滅相。無為法無為法空非常非滅故。何以故。性自爾。是為無為空。何等為畢竟空。畢竟名諸法畢竟不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名畢竟空。何等為無始空。若法初來處不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無始空。何等為散空。散名諸法無滅。非常非滅故。何以故。性自爾。是為散空。何等為性空。一切法性。若有為法性若無為法性。是性非聲聞辟支佛所作。非佛所作亦非餘人所作。是性性空非常非滅故。何以故。性自爾。是名性空。何等為自相空。自相名色壞相。受受相。想取相。行作相。識識相。如是等有為無為法各各自相空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名自相空。何等為諸法空。諸法名色受想行識。眼耳鼻舌身意。色聲香味觸法。眼界色界眼識界。乃至意界法界意識界。是諸法諸法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是為諸法空。何等為不可得空。求諸法不可得是不可得空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名不可得空。何等為無法空。若法無是亦空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法空。何等為有法空。有法名諸法和合中有自性相。是有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名有法空。何等為無法有法空。諸法中無法。諸法和合中有自性相。是無法有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法有法空。復次須菩提。法法相空。無法無法相空。自法自法相空。他法他法相空。何等名法法相空。法名五蔭。五蔭空是名法法相空。何等名無法無法相空。無法名無為法。是名無法無法空。何等名自法自法空。諸法自法空。是空非知作非見作。是名自法自法空。何等名他法他法空。若佛出若佛未出。法住法相法位法性如實際。過此諸法空。是名他法他法空。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。』
  参考:『中論巻2』:『中論觀本際品第十一(八偈)  問曰。無本際經說。眾生往來生死。本際不可得。是中說有眾生有生死。以何因緣故而作是說。答曰 大聖之所說  本際不可得  生死無有始  亦復無有終  聖人有三種。一者外道五神通。二者阿羅漢辟支佛。三者得神通大菩薩佛於三種中最上故言大聖。佛所言說無不是實說。生死無始。何以故。生死初後不可得。是故言無始汝謂若無初後。應有中者。是亦不然。何以故 若無有始終  中當云何有  是故於此中  先後共亦無  因中後故有初。因初中故有後。若無初無後。云何有中。生死中無初中後。是故說先後共不可得。何以故 若使先有生  後有老死者  不老死有生  不生有老死  若先有老死  而後有生者  是則為無因  不生有老死  生死眾生。若先生漸有老。而後有死者。則生無老死。法應生有老死老死有生。又不老死而生。是亦不然。又不因生有老死。若先老死後生。老死則無因。生在後故。又不生何有老死。若謂生老死先後不可。謂一時成者。是亦有過。何以故 生及於老死  不得一時共  生時則有死  是二俱無因  若生老死一時則不然何以故。生時即有死故。法應生時有死時無。若生時有死。是事不然。若一時生則無有相因。如牛角一時出則不相因。是故 若使初後共  是皆不然者  何故而戲論  謂有生老死  思惟生老死三皆有過故。即無生畢竟空。汝今何故貪著。戲論生老死。謂有決定相。復次 諸所有因果  相及可相法  受及受者等  所有一切法  非但於生死  本際不可得  如是一切法  本際皆亦無  一切法者。所謂因果相可相。受及受者等。皆無本際。非但生死無本際。以略開示故。說生死無本際』
如經中說。佛語諸比丘眾生無有始。無明覆愛所繫往來生死始不可得。破是無始法故名為無始空。 経中に説けるが如し、『仏の諸比丘に語りたまわく、衆生には、始有ること無し。無明覆い、所繋を愛し、生死を往来するも、始は不可得なり』、と。是の無始の法を破るが故に名づけて、無始空と為す。
『経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『諸の比丘』に、こう語られた、――
『衆生』には、
『始』が、
『無い!』。
但だ、
『無明に覆われ!』、
『繋縛する所を愛する!』が故に、
『生、始を!』、
『往来するだけであり!』、
『衆生』の、
『始』は、
『不可得である( be unrecognizable )!』、と。
是の、
『無始の法』を、
『破る!』が故に、
『無始空』と、
『称するのである!』。
  参考:『別訳雑阿含経巻16(330):『爾時世尊。在毘舍離獼猴陂岸大講堂中。時有四十波利蛇迦比丘。皆阿練若。著糞掃衣。盡行乞食。悉在學地未離欲法。咸至佛所頂禮佛足在一面坐。爾時世尊作是念。此諸比丘皆阿練若。著糞掃衣。盡行乞食。悉是學人。未斷諸結。吾當為彼如應說法。令諸比丘不起于坐心得解悟盡諸結漏。佛告之曰。比丘當知。生死長遠無有邊際。無有能知其根源者。一切眾生皆為無明之所覆蓋。愛結所使纏繫其頸。生死長途流轉無窮。過去億苦無能知者。譬如恒河流入四海。我今問汝。汝處生死所出血多為恒河多。時諸比丘白佛言。世尊。如我解佛所說義者。我處生死身所出血。多彼恒河四大海水。佛告諸比丘。善哉善哉。汝從往世所受象身。為他截鼻截耳。或時截足鐵鉤[邱-丘+(卯/亞)]頭及以斬項。所出之血無量無邊又受牛馬騾驢駱駝豬雞犬豕種種禽獸。如受雞形。截其羽翼及其項足身所出血。是諸禽獸各被割截。所出之血不可計量。復告諸比丘。色為是常是無常乎。諸比丘白佛言。世尊。色是無常。佛復問言。色若無常。為當是苦。為非苦乎。比丘對曰。無常故苦。佛復告言。若無常苦是敗壞法。於此法中。賢聖弟子計有我及我所不。比丘對曰。不也世尊。佛復告曰。受想行識為是常耶為無常乎。比丘對曰。斯皆無常。佛復問言。若是無常為是苦耶為非苦耶。比丘對曰。無常故苦。佛又問言。若無常苦是敗壞法。賢聖弟子寧計是中我我所不。比丘對曰。不也世尊。佛告比丘。善哉善哉。色是無常。無常故即無我。若無有我則無我所。如是知實正慧觀察。受想行識亦復如是。是故比丘。若有是色乃至少時。過去未來現在。若內若外若近若遠。此盡無我及以我所。如是稱實正見所見。若受想若行若識。若多若少若內若外若近若遠。過去未來現在。都無有我亦無我所。如實知見。賢聖弟子見是事已。即名多聞。於色厭惡。受想行識亦生厭惡。以厭惡故得離欲。得離欲故則解脫。得解脫故則解脫知見。若得解脫知見。即知我生已盡梵行已立。所作已辦更不受有。佛說是時。四十波利蛇迦比丘。不受後有心得解脫。時諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。無始是實不應破。何以故。若眾生及法有始者。即墮邊見亦墮無因見。遠離如是等過故。應說眾生及法無始。今以無始空破是無始則還墮有始見。 問うて曰く、無始は、是れ実にして、応に破るべからず。何を以っての故に、若し衆生、及び法に始有らば、即ち辺見に堕し、亦た無因見に堕する。是れ等の如き過を遠離するが故に、応に衆生、及び法の無始を説くべきに、今、無始空を以って、是の無始を破れば、則ち還って、有始見に堕せばなり。
問い、
『無始』は、
『実であり!』、
『破れないはずである!』。
何故ならば
若し、
『衆生や、法に始が有れば!』、
即ち、
『辺見や、無因見に!』、
『堕ちる!』ので、
是れ等のような、
『過を遠離する!』為の故には、
『衆生、法は無始である!』と、
『説かねばならない!』。
今、
『無始空を用いて!』、
『無始を破れば!』、
還って、
『有始見』に、
『堕ちることになる!』。
答曰。今以無始空為破無始見。又不墮有始見。譬如救人於火不應著深水中。今破是無始亦不應著有始中。是則行於中道。 答えて曰く、今、無始空を以って、無始見を破ると為すも、又有始見に堕せず。譬えば人を火より救うに、応に深水中に著くべからざるが如く、今、是の無始を破るに、亦た応に有始中に著くべからず。是れ則ち、中道を行くなり。
答え、
今、
『無始空を用いて!』、
『無始見』を、
『破ったとしても!』、
又、
『有始見』に、
『堕ちることはない!』。
譬えば、
『人を、火から救うのに!』、
『深水』に、
『著けるはずがないように!』、
今、
是の、
『無始を破っても!』、
『有始』中に、
『著けるはずがない!』。
是れが、
則ち、
『中道を!』、
『行くということである!』。
  (い):[本義]母猴。作す/行う( do, act, make )、製作/創造する( make, compose )、治める( administer )、成る( become )、是れ( be )、学習/研究する( study )、植える( plant )、設置/建立する( establish )、させる[使役]( let )、考える/思う( think, believe, consider )、演奏する( play )、為に[受け身]( by )、於いて/在り( in )、~と( and )、則ち( then )、若し( if )、或は( or )、~の/之/的( of )、助ける/祐助( help )、言う/説く( tell, speak )、因る/由る( because, for, on account of )、為に/~に替わって/~に与える( for, for the benefit of )、~の為に/~の利益の為に( for, for the sake of )、対して/向って( facing to, toward )。
問曰。云何破無始。 問うて曰く、云何が、無始を破る。
問い、
何故、
『無始を!』、
『破るのですか?』。
答曰。以無窮故。若無窮則無後。無窮無後則亦無中。若無始則為破一切智人。所以者何。若世間無窮則不知其始。不知始故則無一切智人。若有一切智人不名無始。 答えて曰く、窮無きを以っての故なり。若し窮無ければ、則ち後無く、窮無くして、後無ければ、則ち亦た中も無し。若し無始なれば、則ち一切智の人を破ると為す。所以は何んとなれば、若し世間に窮無ければ、則ち其の始を知らず、始を知らざるが故に、則ち一切智の人無し。若し一切智の人有れば、無始と名づけず。
答え、
『無始ならば!』、
『窮』が、
『無いからである!』。
若し、
『窮が無ければ!』、
『後』が、
『無いことになり!』、
『窮も、後も無ければ!』、
『中』も、
『無い!』ので、
若し、
『始が無ければ!』、
『一切智の人』を、
『破ることになる!』。
何故ならば、
若し、
『世間に、窮が無ければ!』、
其の、
『始』を、
『知らないことになり!』、
『始を、知らない!』が故に、
『一切智の人』は、
『無いことになる!』。
若し、
『一切智の人が、有れば!』、
『始』が、
『無いはずがないからである!』。
復次若取眾生相又取諸法一相異相。以此一異相從今世推前世從前世復推前世。如是展轉眾生及法。始不可得則生無始見。是見虛妄以一異為本。是故應破。 復た次ぎに、若し衆生相を取り、又諸法の一相、異相を取って、此の一異の相を以って、今世に従って、前世を推し、前世に従って、復た前世を推して、是の如く展転すれば衆生、及び法の始は不可得にして、則ち無始見を生ず。是の見は、虚妄にして、一異を以って、本と為す。是の故に応に破るべし。
復た次ぎに、
若し、
『衆生の相を取り!』、
又、
『諸法の一相や、異相』を、
『取り!』、
此の、
『一相や、異相を用いて!』、
『今世に従って!』、
『前世』を、
『推測し!』、
『前世に従って!』、
『前世』を、
『復た、推測して!』、
是のように、
『展転すれば!』、
『衆生や、法の!』、
『始』は、
『不可得となり!』、
則ち、
『無始見』を、
『生じる事になる!』が、
是の、
『見は、虚妄であり!』、
『一、異の相』を、
『本とする!』ので、
是の故に、
当然、
『破られるのである!』。
  参考:『中論巻1観因縁品』:『不生亦不滅  不常亦不斷  不一亦不異  不來亦不出  能說是因緣  善滅諸戲論  我稽首禮佛  諸說中第一  問曰。何故造此論。答曰。有人言萬物從大自在天生。有言從韋紐天生。有言從和合生。有言從時生。有言從世性生。有言從變生。有言從自然生。有言從微塵生。有如是等謬故墮於無因邪因斷常等邪見。種種說我我所。不知正法。佛欲斷如是等諸邪見令知佛法故。先於聲聞法中說十二因緣。又為已習行有大心堪受深法者。以大乘法說因緣相。所謂一切法不生不滅不一不異等。畢竟空無所有。如般若波羅蜜中說。佛告須菩提。菩薩坐道場時。觀十二因緣。如虛空不可盡。佛滅度後。後五百歲像法中。人根轉鈍。深著諸法。求十二因緣五陰十二入十八界等決定相。不知佛意但著文字。聞大乘法中說畢竟空。不知何因緣故空。即生疑見。若都畢竟空。云何分別有罪福報應等。如是則無世諦第一義諦。取是空相而起貪著。於畢竟空中生種種過。龍樹菩薩為是等故。造此中論 不生亦不滅  不常亦不斷  不一亦不異  不來亦不出  能說是因緣  善滅諸戲論  我稽首禮佛  諸說中第一  以此二偈讚佛。則已略說第一義。問曰。諸法無量。何故但以此八事破。答曰法雖無量。略說八事則為總破一切法。不生者。諸論師種種說生相。或謂因果一。或謂因果異。或謂因中先有果。或謂因中先無果。或謂自體生。或謂從他生。或謂共生。或謂有生。或謂無生。如是等說生相皆不然。此事後當廣說。生相決定不可得故不生。不滅者。若無生何得有滅。以無生無滅故。餘六事亦無問曰。不生不滅已總破一切法。何故復說六事。答曰。為成不生不滅義故。有人不受不生不滅。而信不常不斷。若深求不常不斷。即是不生不滅。何以故。法若實有則不應無。先有今無是即為斷。若先有性是則為常。是故說不常不斷。即入不生不滅義。有人雖聞四種破諸法。猶以四門成諸法。是亦不然。若一則無緣。若異則無相續。後當種種破。是故復說不一不異。‥‥』
如有為空破有為法。是有為空即復為患。復以無為空破無為法。今以無始破有始無始即復為患。復以無始空破是無始。是名無始空。 有為空もて、有為法を破るに、是の有為空を、即ち復た患と為し、復た無為空を以って、無為法を破るが如く、今無始を以って、有始を破るに、無始、即ち復た患と為り、復た無始空を以って、是の無始を破る。是れを無始空と名づく。
『有為空を用いて!』、
『有為法を破る!』と、
是の、
『有為空』が、
復た、
『患と為る!』ので、
復た、
『無為空を用いて!』、
『無為法』を、
『破ったように!』、
今、
『無始を用いて!』、
『有始を破る!』と、
復た、
『無始』が、
『患と為る!』ので、
復た、
『無始空を用いて!』、
是の、
『無始』を、
『破るのであり!』、
是れを、
『無始空』と、
『称するのである!』。
問曰。若爾者。佛何以說眾生往來生死本際不可得。 問うて曰く、若し、爾らば、仏は何を以ってか、『衆生は、生死を往来すれば、本際は不可得なり』、と説きたまえる。
問い、
若し、爾うならば、
『仏』は、
何故、こう説かれたのですか?――
『衆生』は、
『生死を往来する!』ので、
其の、
『本際( the original reality )』は、
『不可得である!』、と。
答曰。欲令眾生知久遠已來往來生死為大苦。生厭患心。 答えて曰く、衆生をして、久遠已来、生死を往来するを大苦と為すを知らしめ、厭患心を生ぜしめんと欲すればなり。
答え、
『衆生』に、
久遠已来、
『生死を往来する!』のは、
『大苦である!』と、
『知らせて!』、
『世間を厭患する!』、
『心』を、
『生じさせようとするからである!』。
如經說。一人在世間計一劫中受身被害時。聚集諸血多於海水。啼泣出淚及飲母乳皆亦如是。積集身骨過於毘浮羅山。譬喻斬天下草木為二寸籌。數其父祖曾祖猶不能盡。又如盡以地為泥丸。數其母及曾祖母猶亦不盡。如是等無量劫中。受生死苦惱。初始不可得故。心生怖畏斷諸結使。 経に、『一人、世間に在りて、一劫中に身を受け、害を被る時、聚集する諸血を計れば、海水より多く、涕泣して出す涕も、及び飲む母乳も、皆、亦た是の如く、身骨を積集すれば、毘浮羅山に過ぐること、譬うれば、天下の草木を斬りて、二寸の籌と為し、其の父祖、曾祖を数うれば、猶お尽くす能わず、又尽くすに地を以って泥丸を為し、其の母、及び曾祖母を数うるも、猶お亦た尽きざるに喻う』、と説くが如く、是れ等の如き無量劫中に、生死の苦悩を受くる初始は、不可得なるが故に、心に怖畏を生じて、諸結使を断ず。
『経』に、こう説くように、――
『一人』が、
『世間』に於いて、
『一劫中に受ける身』が、
『害を被る!』時の、
『諸血を聚集して、計れば!』、
『海水よりも!』、
『多く!』、
『涕泣して出す涕や、飲んだ母乳』も、
皆、
『是の通りであり!』、
『身骨を積集すれば!』、
『毘富羅山に!』、
『過ぎるのである!』。
譬えば、
『天下の草木を、切って!』、
『二寸の籌を造り!』、
其の、
『父、祖父、曾祖父を数えれば!』、
猶お、
『数え尽くせないように!』、
又、
『地を尽くして、泥丸を造り!』、
其の、
『母、乃至曾祖母を数えれば!』、
猶お亦た、
『尽くせないようなものである!』、と。
是れ等のように、
『無量劫中に受ける!』、
『生死の苦悩』の、
『最初の始まり!』は、
『不可得であり!』、
是の故に、
『心に、怖畏を生じさせ!』、
『諸の結使』を、
『断じさせるのである!』。
  毘浮羅山(びふらせん):毘浮羅は梵名vipulaの音訳にして、また毘富羅山、毘布羅山、鞞浮羅山等に作り、意訳して広博脅山、広普山、方山、或は大山と為す。即ち中印度摩揭陀国王舎城五山の一なり。「雑阿含経巻49」には、「王舎城の諸山は毘布羅を以って第一と為す」といい、「大智度論巻28」には、「一劫中に一人の積む骨を計るに鞞浮羅大山に過ぐ」といい、それに註して「この山は天竺の人は常に見るにより、信じやすく、故に説く」といい、「大唐西域記巻9」には、「山上に窣堵波有り、昔は如来の説法の処なるも、今は露形の外道多くここに依りて住し、恭敬を修習し、夙夜に匪懈なり」と云えるこれなり。その西南の涯には温泉多く、温泉の西には仏昔時に常に居止せる卑鉢羅石室有り。<(望)
  (ちゅう):数取り札。梵語 zalaakaa の訳、短い棒( a small sick )の義。
  参考:『別訳雑阿含経巻16(331):『如是我聞。一時佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時佛告諸比丘。汝等當知。生死長遠無有邊際。無有能知其根源者。一切眾生皆為無明之所覆蓋。受結纏縛。流轉生死無有窮已。過去億若無能知者。譬如恒河流注四海復告比丘。生死長遠於昔過去受形已來。憂悲哭泣所出目淚為多。為恒河多。時諸比丘白佛言。世尊。如我解佛所說義者。生死長遠。目所出淚踰彼恒河亦多四海。佛告比丘。善哉善哉。所集目淚實多四海。誠如汝言。過去來世父母棄背。伯叔兄弟姊妹兒子宗親眷屬悉皆死喪。及失錢財象馬牛羊。或受鞭杖或被傷刖侵毀形體。乃至繫閉。如斯眾苦悲惱流淚不可稱計。譬如瀑流漂眾草木聚沫塞路。愛之聚沫遮賢聖道。血渧受身。數受地獄餓鬼畜生及餘惡趣。佛問比丘。色為是常是無常乎。比丘對曰。色是無常。佛復問言。色若無常。為當是苦為非苦耶。比丘對曰。無常故苦。佛告比丘。若無常苦是敗壞法。於斯法中。賢聖弟子寧計有我及我所不。比丘對曰。不也世尊。佛又問言。受想行識。為是常耶是無常乎。比丘對曰。斯皆無常。佛又問言。若是無常。為是苦耶為非苦乎。比丘對曰。無常故苦。又問。若無常苦是敗壞法。賢聖弟子寧計是中我我所不。比丘對曰。不也世尊。佛告比丘。善哉善哉。色是無常。無常故苦。苦即無我。若無有我則無我所。如是知實正慧觀察。受想行識亦復如是。是故比丘。若有是色乃至少許。過去未來現在。若內若外若近若遠。此盡無我及以我所。如是稱實正見所見。若受想行識若多若少。若內若外若遠若近。過去未來現在。都無有我亦無我所。如實知見。賢聖弟子見是事已。即名多聞。於色解脫。受想行識亦得解脫。憂悲苦惱一切解脫。佛說是已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『別訳雑阿含経巻16(332)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時佛告諸比丘言。生死長遠無有邊際。無有能知其根源者。一切眾生皆為無明之所覆蓋。愛結纏縛。流轉生死無有窮已。過去億苦無能知者。復告比丘。譬如恒河流注四海。於昔過去生死曠遠。飲於母乳比恒河水何者為多。比丘白佛。如我解佛所說義者。過去久遠所飲母乳。多彼恒河及四海水。受形已來無量無邊。或受象馬駝驢牛羊鹿等種種畜獸。所飲母乳不可稱計。譬如瀑流漂諸草木。合成聚集妨塞途路。愛之聚沫亦復如是。能遮聖道。餘如上說』
  参考:『別訳雑阿含経巻16(333):『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時佛告諸比丘。生死長遠無有邊際。無有能知其根源者。一切眾生皆為無明之所覆蓋。愛所纏縛。流轉生死無有窮已。過去億苦無能知者。假設有人斬截天下大地草木悉以為籌。盡此諸籌欲數過去無量世來所生之母。亦不能盡其邊際。假設斬於大地草木。悉皆以為四指之籌。欲算過去所生之父。終不能得知其邊際。復告比丘。生死長遠邊不可得。餘如上說。汝諸比丘。當作是學斷於生死。斷於諸有更不受有。時諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『別訳雑阿含経巻16(334):『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時佛告諸比丘。生死長遠無有邊際。無有能知其根源者。一切眾生皆為無明之所覆蓋。愛所纏縛。流轉生死無有窮已。過去億劫恒受眾苦。一切無有能得知者。復告比丘。假設有人丸大地土猶如豆粒。以此豆粒欲數過去所受生母。盡此地土。亦不能得盡其邊際。餘如上說。是故汝等。應作是學學斷後有。懃求方便斷於後有。佛說是已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『別訳雑阿含経巻16(340):『如是我聞。一時佛住王舍城毘富羅山足。佛告諸比丘。若有一人於一劫中流轉受生。收其白骨若不毀壞積以為聚。如毘富羅山。賢聖弟子隨時聞如實知苦聖諦。如實知苦集。知苦滅。知趣苦滅道。如是知見已斷於三結。所謂身見戒取疑。名須陀洹。不墮惡趣。決定菩提趣於涅槃。極至七生七死。得盡苦際。說是事已。復說偈言 一人一劫中  流轉受生死  積骨以為聚  集之在一處  使不毀敗壞  猶如毘富羅  若觀四真諦  正智所鑒察  說苦因從生  苦滅八聖道  安隱趣涅槃  流轉生死輪  任運過七生  得盡於苦際 時諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。頂禮而去』
如無常雖為邊。而佛以是無常而度眾生。無始亦如是。雖為是邊亦以是無始而度眾生。為度眾生令生厭心故說有無始非為實有。所以者何。若有無始不應說無始空。 無常を、辺と為すと雖も、仏は是の無常を以って、衆生を度したもうが如く、無始も亦た是の如く、是れ辺と為すと雖も、亦た是の無始を以って、衆生を度したもう。衆生を度せんが為に、厭心を生ぜしめんが故に、無始有りと説きたもうも、実の有と為すに非ず。所以は何んとなれば、若し無始有らば、応に無始空を説くべからざればなり。
『無常』は、
『辺である( an extreme view )!』が、
是の、
『無常を用いて!』、
『仏』は、
『衆生を度されるように!』、
『無始』も、
『辺である!』が、
是の、
『無始を用いて!』、
『衆生』を、
『度されるのである!』。
『仏』は、
『衆生を度して!』、
『厭心を生じさせる!』為の故に、
『無始が有る!』と、
『説かれた!』が、
『無始』が、
『実に有る!』と、
『為された( to think/believe )のではない!』。
何故ならば、
若し、
『無始が有れば!』、
『無始空など!』、
『説かれるはずがないからである!』。
  (へん):梵語 anta の訳、末端/限界/境界/期限( end, limit, boundary, term )、生地の終端( end of a texture )、結末( conclusion )の義。有辺/無辺( limited or unlimited )等の辺見は極端な見解( extreme view )の意にして、五見の一。
問曰。若無始非實法云何以度人。 問うて曰く、若し無始にして、実法に非ずんば、云何が以って人を度す。
問い、
若し、
『無始が、実法でなければ!』、
何故、
『無始を用いて!』、
『人』を、
『度されるのですか?』。
答曰。實法中無度人諸可說法。語言度人皆是有為虛誑法。佛以方便力故說是無始。以無著心說故受者亦得無著。無著故則生厭離。 答えて曰く、実法中には、人を度すもの無し。諸の可説の法、語言は、人を度すも、皆是れ有為にして、虚誑の法なり。仏は方便力を以っての故に、是れ無始なりと説きたもうも、無著の心を以って説きたもうが故に、受者も亦た、無著を得、無著の故に、則ち厭離を生ず。
答え、
『実法』中には、
『人を度す!』、
『法』は、
『無い!』。
諸の、
『可説( to be preached )の法や、語言( speaking )』は、
『人を度す!』が、
皆、
『有為であり!』、
『虚誑の法である!』。
『仏』は、
『方便力を用いられた!』が故に、
是れが、
『無始である!』と、
『説かれた!』が、
『無著の心で説かれた!』が故に、
『受者』も、
『心』に、
『無著』を、
『得ることになり!』、
『無著である!』が故に、
『厭離』を、
『生じるのである!』。
  語言(ごごん):梵語 abhidhaana の訳、伝達/命名/演説/表明( telling, naming, speaking, speech, manifesting )、名前/題名/名称/表現/語句( a name, title, appellation, expression, word )、語彙/辞書/語彙集( a vocabulary, dictionary, lexicon )の義。
復次以宿命智見眾生。生死相續無窮。是時為實。若以慧眼則見眾生及法畢竟空。以是故說無始空。 復た次ぎに、宿命智を以って、衆生を見るに、生死相続して、窮無し。是の時を、実と為す。若し慧眼を以ってすれば、則ち衆生、及び法の畢竟空を見る。是を以っての故に、無始空を説きたまえり。
復た次ぎに、
若し、
『宿命智を用いて!』、
『衆生を見れば!』、
『生、死の相続』は、
『窮が無い!』ので、
是の時、
『無始』は、
『実である!』が、
若し、
『慧眼を用いれば!』、
『衆生や、法は!』、
『畢竟空である!』と、
『見ることになる!』ので、
是の故に、
『無始空』を、
『説かれたのである!』。
如般若波羅蜜中說。常觀不實。無常觀亦不實。苦觀不實。樂觀亦不實。而佛說常樂為倒無常苦為諦。以眾生多著常樂不著無常苦。是故以無常苦諦破是常樂倒。以是故說無常苦為諦。若眾生著無常苦者說無常苦亦空。 般若波羅蜜中に説くが如きは、『常は不実なりと観、無常も亦た不実なりと観る。苦は不実なりと観、楽も亦た不実なりと観る』、と。而も、仏の説きたまわく、『常、楽を倒と為し、無常、楽を諦と為す』、と。衆生は、多く常、楽に著し、無常、苦に著せざるを以って、是の故に無常、苦諦を以って、是の常、楽の倒を破りたもう。是を以っての故に、『無常、苦を諦と為す』、と説きたもう。若し衆生、無常、苦に著すれば、『無常、苦も亦た空なり』、と説きたもうなり。
『般若波羅蜜』中には、こう説かれているが、――
『常は、実でない!』と、
『観て!』、
『無常も、実でない!』と、
『観る!』とか、
『苦は、実でない!』と、
『観て!』、
『楽も、実でない!』と、
『観る!』、と。
『仏』は、こう説かれているのである、――
『常、楽は顛倒であり!』、
『無常、苦』が、
『諦である( be truth )!』、と。
『衆生の多く!』は、
『常や、楽に著して!』、
『無常や、苦』には、
『著さない!』ので、
是の故に、
『無常や、苦の諦を用いて!』、
『常や、楽の顛倒』を、
『破ろうとして!』、
是の故に、
『無常、苦が諦である!』と、
『説かれたのであり!』、
若し、
『衆生』が、
『無常や、苦に著すれば!』、
亦た、
『無常や、苦も空である!』と、
『説かれるのである!』。
  (たい):梵語 satya の訳、真実な/現実の/実際の/本物の/本当の/正直な/真実/誠実/純粋/貞淑な/成功した/有効な/確実な( true, real, actual, genuine, sincere, honest, truthful, faithful, pure, virtuous, good. successful, effectual, valid )の義。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経三化品第七巻2』:『佛告須菩提。善哉善哉。如是須菩提。菩薩摩訶薩眾生不可得故。般若波羅蜜亦不可得。當作是學。於須菩提意云何。色是菩薩義不。不也世尊。受想行識是菩薩義不。不也世尊。於須菩提意云何。色常是菩薩義不。不也世尊。受想行識常。是菩薩義不。不也世尊。色無常是菩薩義不。不也世尊。受想行識無常。是菩薩義不。不也世尊。色樂是菩薩義不。不也世尊。受想行識樂。是菩薩義不。不也世尊。色苦是菩薩義不。不也世尊。受想行識苦。是菩薩義不。不也世尊。色我是菩薩義不。不也世尊。受想行識我。是菩薩義不。不也世尊。色非我是菩薩義不。不也世尊。受想行識非我。是菩薩義不。不也世尊。於須菩提意云何。色空是菩薩義不。不也世尊。受想行識空。是菩薩義不。不也世尊。色非空是菩薩義不。不也世尊。受想行識非空。是菩薩義不。不也世尊。色相是菩薩義不。不也世尊。受想行識相。是菩薩義不。不也世尊。色無相。是菩薩義不。不也世尊。受想行識無相。是菩薩義不。不也世尊。色作是菩薩義不。不也世尊。受想行識作。是菩薩義不。不也世尊。色無作是菩薩義不。不也世尊。受想行識無作。是菩薩義不。不也世尊。乃至老死亦如是。』
有始無始亦如是。無始能破著始倒。若著無始復以無始為空。是名無始空。 有始、無始も亦た是の如く、無始は、能く始に著する倒を破る。若し無始に著すれば、復た無始を以って、空と為し、是れを無始空と名づく。
『有始、無始』も、
是のように、
『無始』は、
『始に著する!』、
『顛倒』を、
『破ることができる!』し、
若し、
『無始に著すれば!』、
復た、
『無始』を、
『空と為し( to think that is empty )!』、
是れを、
『無始空』と、
『称するのである!』。
問曰。有始法亦是邪見應當破。何以但說破無始。 問うて曰く、有始の法も亦た是れ邪見なれば、応当に破るべし。何を以ってか、但だ無始を破るを説く。
問い、
『有始の法』も、
当然、
『邪見なので!』、
『破らねばならないのに!』、
何故、
但だ、
『無始を破ることだけ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。有始是大惑。所以者何。若有始者。初身則無罪福因緣而生善惡處。若從罪福因緣而生不名為初身。何以故。若有罪福則從前身受後身。故 答えて曰く、有始は、是れ大惑なり。所以は何んとなれば、若し有始なれば、初の身は、則ち罪福の因緣無くして、善悪の処に生ずればなり。若し罪福の因緣より生ずれば、名づけて初の身と為さず。何を以っての故に、若し罪福有れば、則ち前身に従りて、後身を受くるが故なり。
答え、
『有始ならば!』、
『大惑である!』。
何故ならば、
若し、
『有始ならば!』、
『初の身』は、
『罪、福の因緣が無い!』のに、
『善、悪の処』に、
『生じることになるからである!』。
若し、
『罪、福の因緣より、生じれば!』、
『初の身』とは、
『呼ばないだろう!』。
何故ならば、
『罪、福が有るということは!』、
『前身に従って!』、
『後身を受けるということだからである!』。
若世間無始無如是咎。是故菩薩先已捨是麤惡邪見。菩薩常習用無始念眾生故說無始。常行因緣法故言法無始。未得一切智故或於無始中錯謬。是故說無始空。 若し世間、無始なれば、是の如き咎無し。是の故に菩薩は、先に已に是の麁悪の邪見を捨つ。菩薩は常に習いて、無始を用い、衆生を念ずるが故に、無始を説く。常に因緣の法を行ずるが故に、『法に始無し』、と言うも、未だ一切智を得ざるが故に、或いは無始中に錯謬すれば、是の故に無始空を説く。
若し、
『世間』に、
『始が無ければ!』、
是のような、
『咎』は、
『無いので!』、
是の故に、
『菩薩』は、
『先に、已に!』、
是の、
『麁悪の邪見』を、
『捨てたのである!』。
『菩薩』は、
『常習的に!』、
『無始』を、
『用いている!』が、
『衆生を念じる!』が故に、
『無始』を、
『説くのであり!』、
『常に、因緣の法を行う!』が故に、
『法には、始が無い!』と、
『言うのである!』が、
未だ、
『一切智を得ていない!』が故に、
或いは、
『無始』中に、
『錯謬することもある!』ので、
是の故に、
『無始空』が、
『説かれたのである!』。
復次無始已破有始不須空破有始。今欲破無始故說無始空。 復た次ぎに、無始の、已に有始を破るは、空を須(ま)たずして、有始を破れり。今は、無始を破らんと欲するが故に、無始空を説きたまえり。
復た次ぎに、
已に、
『無始を用いて!』、
『有始』を、
『破ったので!』、
『有始を破るのに!』、
『空』を、
『須つことはない( be not necessary )!』が、
今は、
『無始を破ろうとする!』が故に、
『無始空』を、
『説かれたのである!』。
問曰。若無始破有始者有始亦能破無始。汝何以言但以空破無始。 問うて曰く、若し無始にして、有始を破らば、有始も亦た能く無始を破らん。汝は、何を以ってか、『但だ空を以って、無始を破る』、と言う。
問い、
若し、
『無始』が、
『有始』を、
『破るならば!』、
『有始』も、
『無始』を、
『破ることができるはずだ!』。
お前は、
何故、
『但だ、空だけを用いて!』、
『無始を破る!』と、
『言うのか?』。
答曰。是二雖皆邪見而有差別。有始起諸煩惱邪見因緣。無始起慈悲及正見因緣。所以者何。念眾生受無始世苦惱而生悲心。知從身次第生身相續不斷。便知罪福果報而生正見。若人不著無始即是助道善法。若取相生著即是邪見。如常無常見。 答えて曰く、是の二は、皆邪見なりと雖も、差別有り。有始は、諸の煩悩、邪見を起す因縁なり。無始は、慈悲、及び正見を起す因縁なり。所以は何んとなれば、衆生の、無始の世の苦悩を受くるを念じて、悲心を生じ、身に従って、次第に身を生じ、相続して断ぜざるを知れば、便ち罪福の果報を知りて、正見を生ずればなり。若し人、無始に著せざれば、即ち是れ助道の善法なり。若し相を取りて、著を生ぜば、即ち是れ邪見なること、常、無常の見の如し。
答え、
是の、
『二』は、
『皆、邪見である!』が、
『差別』が、
『有る!』。
『有始』は、
『諸の煩悩や、邪見を起す!』、
『因緣である!』が、
『無始』は、
『慈悲と、正見を起す!』、
『因緣だからである!』。
何故ならば、
『衆生』が、
『無始の世に!』、
『苦悩を受ける!』のを、
『念じて!』、
『悲心を生じ!』、
『身より!』、
『次第に!』、
『身を生じること!』が、
『相続して!』、
『断じないこと!』を、
『知る!』ので、
便ち( soon )、
『罪、福の果報を知ることになり!』、
『正見』を、
『生じるからである!』。
若し、
『人』が、
『無始に、著さなければ!』、
是れは、
『道を助ける!』、
『善法である!』が、
若し、
『相を取って!』、
『著』を、
『生じることになれば!』、
是の、
『無始』は、
『邪見であり!』、
例えば、
『常見や、無常見と!』、
『同じである!』。
有始見雖破無始見不能畢竟破無始。無始能畢竟破有始是故無始為勝。 有始見は、無始見を破ると雖も、畢竟じて、無始を破る能わず。無始は、能く畢竟じて、有始を破れば、是の故に、無始を、勝ると為す。
『有始見』は、
『無始見を破る!』が、
『無始』を、
『畢竟じて、破ることはできない!』が、
『無始』は、
『有始』を、
『畢竟じて、破ることができる!』ので、
是の故に、
『無始』が、
『勝るのである!』。
如善破不善不善破善。雖互相破而善能畢竟破惡。如得賢聖道永不作惡。惡法則不然。勢力微薄故。 善は、不善を破り、不善は、善を破りて、互に相破ると雖も、善は、能く畢竟じて、悪を破るが如し。賢聖の道を得れば、永く悪を作さざるも、悪法は、則ち然ららざるが如し、勢力微薄なるが故なり。
例えば、
『善は、不善を破り!』、
『不善は、善を破る!』ので、
『相互に!』、
『破ることになる!』が、
而し、
『善』は、
『悪』を、
『畢竟じて、破ることができるようなものである!』。
又、
『賢聖の道を得れば!』、
『永く、悪を作さない!』が、
『悪法』は、
『然うでないようなものである!』。
何故ならば、
『悪法の勢力』は、
『微薄だからである!』。
如人雖起五逆罪斷善根墮地獄久不過一劫因緣得脫地獄終成道果。無始有始優劣不同亦如是。以無始力大故能破有始。是故不說有始空 人は、五逆罪を起して、善根を断じ、地獄に堕すと雖も、久しくとも、一劫を過ぎざる因緣あれば、地獄を脱するを得て、終に道果を成ずるが如く、無始、有始の優劣不同なるも、亦た是の如し。無始の力大なるを以っての故に、能く有始を破れば、是の故に、有始空を説かず。
例えば、
『人』が、
『五逆罪を起して!』、
『善根を断じ!』、
『地獄に!』、
『堕ちたとしても!』、
『久しくとも、一劫を過ぎない!』、
『因緣』の故に、
『地獄』を、
『脱することができ!』、
終に、
『道果』を、
『成じるように!』、
『無始、有始』の、
『勢力に優、劣があり!』、
『不同でない!』のも、
『是の通りであり!』、
『無始の力は、大である!』が故に、
『有始を、破ることができる!』ので、
是の故に、
『有始空』を、
『説かないのである!』。
  参考:『中阿含経巻27(112)』:『我聞如是。一時。佛遊跋耆瘦。在阿奴波跋耆都邑。爾時。世尊則於晡時從宴坐起。堂上來下。告曰。阿難。共汝往至阿夷羅和帝河浴。尊者阿難白曰。唯然。於是。世尊將尊者阿難往至阿夷羅和帝河。脫衣岸上。便入水浴。浴已還出。拭體著衣。爾時。尊者阿難執扇扇佛。於是。世尊迴顧告曰。阿難。提和達哆以放逸故。墮極苦難。必至惡處。生地獄中。住至一劫不可救濟。阿難。汝不曾從諸比丘聞。謂我一向記提和達哆必至惡處。生地獄中。住至一劫不可救濟耶。尊者阿難白曰。唯然。爾時。有一比丘語尊者阿難。世尊以他心智知提和達哆心故。一向記提和達哆必至惡處。生地獄中。住至一劫不可救濟耶‥‥』
散空者散名別離相。如諸法和合故有。如車以輻輞轅轂眾合為車。若離散各在一處則失車名。五眾和合因緣故名為人。若別離五眾人不可得。 散空とは、散を別離の相と名づく。諸法の和合の故に有るが如く、車の輻(や)、輞(おおわ)、轅(ながえ)、轂(こしき)の衆合を以って、車と為すも、若し離散して、各一処に在れば、則ち車の名を失うが如く、五衆の和合の因縁の故に名づけて、人と為すも、若し五衆を別離すれば、人は不可得なり。
『散空』とは、
『散』とは、
『別離の相であり!』、
譬えば、
『諸法』は、
『因緣の和合』の故に、
『有るように!』、
『車』は、
『輻( spoke )、輞( rim )、轅( thill )、轂( hub )のような!』、
『衆因緣の和合』の故に、
『車』と、
『為る( be made )のであるが!』、
若し、
『離散して!』、
『各各が、一処に在れば!』、
『車の名』を、
『失うことになるように!』、
『五衆が和合するという!』、
『因緣』の故に、
『人』と、
『呼ばれるのであり!』、
若し、
『五衆を、別離させれば!』、
『人』は、
『不可得なのである( be unrecognizable )!』。
問曰。若如是說但破假名而不破色。亦如離散輻輞可破車名不破輻輞。散空亦如是。但離散五眾可破人而不破色等五眾。 問うて曰く、若し、是の如く説かば、但だ仮名を破りて、色を破らず、亦た輻、輞を離散すれば、車の名を破るべきも、輻、輞を破らざるが如く、散空も亦た是の如く、但だ五衆を離散して、人を破るべきも、色等の五衆を破らず。
問い、
若し、
是のように、
『説けば!』、
但だ、
『仮名を、破るだけで!』、
『色』を、
『破らないことになる!』。
亦た、
『輻、輞を離散すれば!』、
『車という!』、
『名ぐらい!』は、
『破ることもできようが!』、
『輻や、輞を!』、
『破らないように!』、
『散空も!』、
是のように、
『五衆を離散して!』、
『人を破ることはできても!』、
『色等の五衆』は、
『破らないことになる!』。
答曰。色等亦是假名破。所以者何。和合微塵假名為色故。 答えて曰く、色等も亦た是れ仮名にして破すなり。所以は何んとなれば、和合せる微塵を仮に名づけて、色と為すが故なり。
答え、
『色等』も、
亦た、
『仮名であり!』、
『破られるだろう!』。
何故ならば、
『和合した!』、
『微塵の仮名』が、
『色だからである!』。
問曰。我不受微塵。今以可見者為色。是實為有云何散而為空。 問うて曰く、我れは微塵を受けず。今は、可見の者を以って、色と為せば、是れを実に、有と為す。云何が散じて、空と為すや。
問い、
わたしは、
『微塵( an unvisible particle )』を、
『受けない( not to accept )!』。
今は、
『可見の者( something that is visible )』を、
『色』と、
『呼ぶのであり!』、
是れは、
『実に!』、
『有なのである( be the real existence )!』。
何故、
『離散して!』、
『空と為るのですか?』。
答曰。若除微塵。四大和合因緣生出可見色亦是假名。如四方風和合扇水則生沫聚。四大和合成色亦如是。若離散四大則無有色。 答えて曰く、若し微塵を除くとも、四大和合の因緣より生出せる可見の色も亦た、仮名なり。四方の風和合して、水を扇げば、則ち沫聚を生ずるが如く、四大和合して成ずる色も亦た是の如し。若し離散すれば、四大には則ち色有ること無し。
答え、
若し、
『微塵を除いたとしても!』、
『四大の和合という!』、
『因緣より出生した!』、
『可見の色』も、
『仮名である!』。
譬えば、
『四方の風が和合して!』、
『水を扇げば!』、
『沫聚( a spray of water )』を、
『生じるように!』、
『四大が和合して、成じた!』、
『色』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
『色』が、
若し、
『四大に!』、
『離散してしまえば!』、
則ち、
『色』は、
『無いのである!』。
復次是色以香味觸及四大和合故有色可見。除諸香味觸等更無別色。以智分別各各離散色不可得。若色實有捨此諸法應別有色。而更無別色。是故經言所有色皆從四大和合有。和合有故皆是假名。假名故可散。 復た次ぎに、是の色は、香味触、及び四大の和合を以っての故に、色の可見なる有り。諸の香味触等を除きて、更に別の色無し。智を以って分別すれば、各各離散して、色は不可得なり。若し色、実に有らば、此の諸法を捨てて、応に別に色有るべきも、更に別の色無し。是の故に経に言わく、『有らゆる色は、皆四大の和合に従りて有り』、と。和合して有るが故に、皆是れ仮名なり。仮名なるが故に散ずべし。
復た次ぎに、
是の、
『色』は、
『香、味、触と、四大の和合』の故に、
『可見の色』が、
『有り!』、
『諸の香、味、触等を除いて!』、
『別の色』は、
『無い!』ので、
『智を用いて、分別すれば!』、
『各各、離散する!』が故に、
『色』は、
『不可得である!』。
若し、
『色が、実に有れば!』、
此の、
『香、味、触等の諸法を除いても!』、
別に、
『色』は、
『有るはずである!』が、
而し、
更に、
『別の色』は、
『無い!』。
是の故に、
『経』に、こう言うのである、――
有らゆる、
『色』は、
皆、
『四大の和合によって!』、
『有る!』、と。
『和合して、有る!』が故に、
『色』は、
『皆、仮名であり!』、
『仮名である!』が故に、
『色』は、
『皆、離散することができる!』。
  参考:『雑阿含経巻2(58)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國東園鹿母講堂。爾時。世尊於晡時從禪覺。於諸比丘前敷座而坐。告諸比丘。有五受陰。云何為五。謂色受陰。受.想.行.識受陰。時。有一比丘從坐起。整衣服。偏袒右肩。右膝著地。合掌白佛言。世尊。此五受陰。色受陰。受.想.行.識受陰耶。佛告比丘。還坐而問。當為汝說。時。彼比丘為佛作禮。還復本坐。白佛言。世尊。此五受陰。以何為根。以何集。以何生。以何觸。佛告比丘。此五受陰。欲為根。欲集.欲生.欲觸。時。彼比丘聞佛所說。歡喜隨喜。而白佛言。世尊。為說五陰即受。善哉所說。今當更問。世尊。陰即受。為五陰異受耶。佛告比丘。非五陰即受。亦非五陰異受。能於彼有欲貪者。是五受陰。比丘白佛。善哉。世尊。歡喜隨喜。今復更問。世尊。有二陰相關耶。佛告比丘。如是。如是。猶若有一人如是思惟。我於未來得如是色.如是受.如是想.如是行.如是識。是名比丘陰陰相關也。比丘白佛。善哉所說。歡喜隨喜。更有所問。世尊。云何名陰。佛告比丘。諸所有色。若過去.若未來.若現在。若內.若外。若麤.若細。若好.若醜。若遠.若近。彼一切總說陰。是名為陰。受.想.行.識亦復如是。如是。比丘。是名為陰。比丘白佛。善哉所說。歡喜隨喜。更有所問。世尊。何因何緣名為色陰。何因何緣名受.想.行.識陰。佛告比丘。四大因.四大緣。是名色陰。所以者何。諸所有色陰。彼一切悉皆四大。緣四大造故。觸因.觸緣。生受.想.行。是故名受.想.行陰。所以者何。若所有受.想.行。彼一切觸緣故。名色因.名色緣。是故名為識陰。所以者何。若所有識。彼一切名色緣故。比丘白佛。善哉所說。歡喜隨喜。更有所問。云何色味。云何色患。云何色離。云何受.想.行.識味。云何識患。云何識離。佛告比丘。緣色生喜樂。是名色味。若色無常.苦.變易法。是名色患。若於色調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名色離。若緣受.想.行.識生喜樂。是名識味。受.想.行.識。無常.苦.變易法。是名識患。於受.想.行.識。調伏欲貪.斷欲貪.越欲貪。是名識離。比丘白佛。善哉所說。歡喜隨喜。更有所問。世尊。云何生我慢。佛告比丘。愚癡無聞凡夫於色見我.異我.相在。於受.想.行.識見我.異我.相在。於此生我慢。比丘白佛。善哉所說。歡喜隨喜。更有所問。世尊。云何得無我慢。佛告比丘。多聞聖弟子不於色見我.異我.相在。不於受.想.行.識。見我.異我.相在。比丘白佛。善哉所說。更有所問。何所知.何所見。盡得漏盡。佛告比丘。諸所有色。若過去.若未來.若現在。若內.若外。若麤.若細。若好.若醜。若遠.若近。彼一切非我.不異我.不相在。受.想.行.識亦復如是。比丘。如是知。如是見。疾得漏盡。爾時。會中復有異比丘。鈍根無知。在無明[穀-禾+卵]起惡邪見。而作是念。若無我者。作無我業。於未來世。誰當受報。爾時。世尊知彼比丘心之所念。告諸比丘。於此眾中。若有愚癡人。無智明。而作是念。若色無我。受.想.行.識無我。作無我業。誰當受報。如是所疑。先以解釋彼。云何比丘。色為常耶。為非常耶。答言。無常。世尊。若無常者。是苦耶。答言。是苦。世尊。若無常.苦。是變易法。多聞聖弟子於中寧見是我.異我.相在不。答言。不也。世尊。受.想.行.識亦復如是。是故。比丘。若所有色。若過去.若未來.若現在。若內.若外。若麤.若細。若好.若醜。若遠.若近。彼一切非我.非我所。如是見者。是為正見。受.想.行.識亦復如是。多聞聖弟子如是觀者便修厭。厭已離欲。離欲已解脫。解脫知見。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。佛說此經時。眾多比丘不起諸漏。心得解脫。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。色假名故可散。四眾無色云何可散。 問うて曰く、色は、仮名なるが故に散ずべし。四衆は、色無きに、云何が散ずべき。
問い、
『色衆』は、
『仮名である!』が故に、
『離散させられる!』が、
『四衆は、色が無い!』のに、
何故、
『離散させられるのですか?』。
答曰。四陰亦是假名。生老住無常觀故散而為空。所以者何。生時異老時異住時異無常時異故。 答えて曰く、四陰も、亦た是れ仮名にして、生、老、住、無常を観ずるが故に散じて、空と為す。所以は何んとなれば、生時異なり、老時異なり、住時異なり、無常時は異なるが故なり。
答え、
『四陰(四衆)』も、
亦た、
『仮名であり!』、
『四衆(受、想、行、識)』の、
『生、老、住、無常を観察する!』が故に、
『離散して!』、
『空なのである!』。
何故ならば、
『四衆』の、
各各は、
『生じる!』、
『時』が、
『異なり!』、
『老いる(変異する)!』、
『時』が、
『異なり!』、
『住する!』、
『時』が、
『異なり!』、
『無常の(壊滅する)!』、
『時』が、
『異なるからである!』。
  生老住無常:有為法の生相、老相、住相、無常相の四相を指す。この中、老、無常については、通常は異、滅に為し、順序を変えて生住異滅の四相ともいう。
  参考:『阿毘達磨品類足論巻6』:『隨心轉法云何。謂若法與心。一生一住一滅。此復云何。謂一切心所法。及道俱有定俱有戒。若心若彼法。生老住無常。是名隨心轉法。非隨心轉法云何。謂若法不與心一生一住一滅。此復云何。謂除隨心轉身語業。諸餘色法。除隨心轉心不相應行。諸餘心不相應行。及心無為。是名非隨心轉法。』
  参考:『十二門論』:『觀有無門第七 復次一切法空。何以故。有無一時不可得。非一時亦不可得。如說  有無一時無  離無有亦無  不離無有有  有則應常無 有無性相違。一法中不應共有。如生時無死。死時無生。是事中論中已說。若謂離無有有無過者。是事不然。何以故。離無云何有有。如先說法生時通自體七法共生。如阿毘曇中說。有與無常共生。無常是滅相故名無。是故離無有則不生。若不離無常有有生者。有則常無。若有常無者。初無有住。常是壞故。而實有住。是故有不常無。若離無常有有生者。是亦不然。何以故。離無常有實不生。問曰。有生時已有無常而未發。滅時乃發壞是有。如是生住滅老。得皆待時而發。有起時生為用令有生。生滅中間住為用持是有。滅時無常為用滅是有。老變生至住變住至滅。無常則壞得常。令四事成就。是故法雖與無常共生有非常無。答曰。汝說無常是滅相與有共生。生時有應壞。壞時有應生。復次生滅俱無。何以故。滅時不應有生。生時不應有滅。生滅相違故。復次汝法無常與住共生。有壞時應無住。若住則無壞。何以故。住壞相違故。老時無住住時無老。是故汝說生住滅老無常得本來共生。是則錯亂。何以故。是有若與無常共生。無常是壞相。凡物生時無壞相。住時亦無壞相。爾時非是無無常相耶。如能識故名識。不能識則無識相。能受故名受。不能受則無受相能念故名念。不能念則無念相。起是生相。不起則非生相。攝持是住相。不攝持則非住相。轉變是老相。不轉變則非老相。壽命滅是死相。壽命不滅則非死相。如是壞是無常相。離壞非無常相。若生住時雖有無常不能壞有。後能壞有者何用共生為。如是應隨有壞時乃有無常。是故無常雖共生。後乃壞有者。是事不然。如是有無共不成。不共亦不成。是故有無空。有無空故一切有為空。一切有為空故無為亦空。有為無為空故眾生亦空』
復次三世中觀是四眾皆亦散滅。 復た次ぎに、三世中に、是の四衆を観れば、皆亦た散滅す。
復た次ぎに、
『三世』中に、
是の、
『四衆を、観察すれば!』、
皆、
『散滅するのである!』。
復次心隨所緣緣滅則滅。緣破則破。 復た次ぎに、心は、所縁に随い縁滅すれば、則ち滅し、縁破るれば、則ち破る。
復た次ぎに、
『心(四衆)』は、
『所縁に随う!』が故に、
『縁』が、
『滅すれば!』、
『滅し!』、
『縁』が、
『破れれば!』、
『破れるのである!』。
復次此四眾不定隨緣生故。譬如火隨所燒處為名。若離燒處火不可得。因眼緣色生眼識。若離所緣識不可得。餘情識亦如是。 復た次ぎに、此の四衆は不定なるは、縁に随いて生ずるが故なり。譬えば火の、焼かるる処に随いて、名づけられ、若し焼く処を離るれば、火は不可得なるが如し。限の色を縁ずるに因って、眼識を生じ、若し所縁を離るれば、識は不可得なり。餘の情、識も亦た是の如し。
復た次ぎに、
此の、
『四衆が不定である!』のは、
『縁に随って!』、
『生じるからである!』。
譬えば、
『火』は、
『焼かれる処に随って!』、
『火』と、
『呼ばれ!』、
若し、
『焼く処を離れれば!』、
『火』は、
『不可得であるように!』、
『識』は、
『眼が、色を縁じて!』、
『眼識』を、
『生じ!』、
若し、
『所縁を離れれば!』、
『識』は、
『不可得なのであり!』、
亦た、
『餘の情、識』も、
『是の通りである!』。
如經中說佛告羅陀。此色眾破壞散滅令無所有。餘眾亦如是。是名散空。 経中に説けるが如し、『仏の羅陀に告げたまわく、此の色衆は、破壊し、散滅すれば、所有無からしめ、餘の衆も亦た是の如し』、と。是れを散空と名づく。
『経』中に、こう説く通りである、――
『仏』は、
『羅陀』に、こう告げられた、――
此の、
『色衆』は、
『破壊して、散滅すれば!』、
『所有( all things )』が、
『無くなるのであり!』、
亦た、
『餘の衆』も、
『是の通りである!』、と。
是れを、
『散空』と、
『称する!』。
  羅陀(らだ):『雑阿含経巻6』の第111より乃ち129経に至る19経のみに出づる侍者比丘の如し。
  参考:『雑阿含経巻6(122)』:『如是我聞。一時。佛住摩拘羅山。時。有侍者比丘名曰羅陀。白佛言。世尊。所謂眾生者。云何名為眾生。佛告羅陀。於色染著纏綿。名曰眾生。於受.想.行.識染著纏綿。名曰眾生。佛告羅陀。我說於色境界當散壞消滅。於受.想.行.識境界當散壞消滅。斷除愛欲。愛盡則苦盡。苦盡者我說作苦邊。譬如聚落中諸小男小女嬉戲。聚土作城郭宅舍。心愛樂著。愛未盡.欲未盡.念未盡.渴未盡。心常愛樂.守護。言。我城郭。我舍宅。若於彼土聚愛盡.欲盡.念盡.渴盡。則以手撥足蹴。令其消散。如是。羅陀。於色散壞消滅愛盡。愛盡故苦盡。苦盡故我說作苦邊。佛說此經已。羅陀比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次譬如小兒聚土為臺殿城郭閭里宮舍。或名為米或名為麵愛著守護。日暮將歸其心捨離蹋壞散滅。凡夫人亦如是。未離欲故於諸法中生愛著心。若得離欲見諸法皆散壞棄捨是名散空。 復た次ぎに、譬えば、小児の土を聚めて、台殿、城郭、閭里、宮舎と為し、或いは名づけて米と為し、或いは名づけて麺と為して、愛著し守護するも、日暮れて将に帰らんとするに、其の心捨離して、踏壊し、散滅するが如し。凡夫人も亦た是の如く、未だ欲を離れざるが故に、諸法中に於いて愛著心を生ずるも、若し欲を離るることを得れば、諸法は、皆散壊せるを見て、棄捨すれば、是れを散空と名づく。
復た次ぎに、
譬えば、
『小児』が、
『土を聚めて( to gather the soil )!』、
『台殿、城郭、閭里、宮舎』を、
『造ったり!』、
或いは、
『米や、麺と!』、
『呼んで!』、
此の、
『土』を、
『愛著し、守護する!』が、
日が暮れて、
『帰ろうとする!』と、
其の、
『心』は、
是の、
『台殿等を捨離し!』、
『踏壊し!』、
『散滅するようなものである!』。
『凡夫人』も、
是のように、
未だ、
『欲を離れない!』が故に、
『諸法』中に、
『愛着心』を、
『生じる!』が、
若し、
『欲を離れることができれば!』、
『諸法』は、
『皆、散壊している!』と、
『見て!』、
是の、
『諸法』を、
『棄捨する!』ので、
是れを、
『散空』と、
『称するのである!』。
  台殿(だんでん):高殿。
  閭里(ろり):田舎。
  宮舎(ぐうしゃ):家屋。
  踏壊(どうえ):踏み壊す。
  参考:『雑阿含巻6第122経』:『如是我聞。一時。佛住摩拘羅山。時。有侍者比丘名曰羅陀。白佛言。世尊。所謂眾生者。云何名為眾生。佛告羅陀。於色染著纏綿。名曰眾生。於受.想.行.識染著纏綿。名曰眾生。佛告羅陀。我說於色境界當散壞消滅。於受.想.行.識境界當散壞消滅。斷除愛欲。愛盡則苦盡。苦盡者我說作苦邊。譬如聚落中諸小男小女嬉戲。聚土作城郭宅舍。心愛樂著。愛未盡.欲未盡.念未盡.渴未盡。心常愛樂.守護。言。我城郭。我舍宅。若於彼土聚愛盡.欲盡.念盡.渴盡。則以手撥足蹴。令其消散。如是。羅陀。於色散壞消滅愛盡。愛盡故苦盡。苦盡故我說作苦邊。佛說此經已。羅陀比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次諸法合集故各有名字。凡夫人隨逐名字生顛倒染著。佛為說法當觀其實莫逐名字。有無皆空。如迦旃延經說。觀集諦則無無見觀滅諦則無有見。如是種種因緣是名散空。 復た次ぎに、諸法の合集の故に、各名字有るも、凡夫人は、名字を随逐して、顛倒を生じて、染著す。仏の、為に法を説きたまわく、『当に其の実を観るべく、名字を逐う莫かれ。有、無は皆空なればなり』、と。迦栴延経に説けるが如し、『集諦を観れば、則ち無見無く、滅諦を観れば、則ち有見無し』、と。是の如き種種の因緣、是れを散空と名づく。
復た次ぎに、
『諸法の合集』の故に、
各に、
『名字』が、
『有るだけなのに!』、
『凡夫人』は、
是の、
『名字を随逐して( to pursue that Name )!』、
『顛倒』を、
『生じ!』、
是の、
『名字』に、
『染著する!』。
『仏』は、
是の、
『凡夫人』の為に、
『法』を、
『説いて!』、
こう言われた、――
其の、
『実を、観察すべきであり!』、
『名字』を、
『随逐してはなならない!』。
『名字の有、無』は、
皆、
『空なのだから!』、と。
『迦栴延経』には、こう説かれている、――
『集諦を観れば( to observe the arising of suffering )!』、
『無見( the view of nothing )』が、
『無くなり!』、
『滅諦を観れば( to observe the cessation of suffering )!』、
『有見( the view of the existence )』が、
『無くなる!』、と。
是のような、
種種の、
『因緣』を、
『散空』と、
『称するのである!』。
  参考:『雑阿含巻10第262経』:『如是我聞。一時。有眾多上座比丘住波羅奈國仙人住處鹿野苑中。佛般泥洹未久。時。長老闡陀晨朝著衣持缽。入波羅奈城乞食。食已。還攝衣缽。洗足已。持戶鉤。從林至林。從房至房。從經行處至經行處。處處請諸比丘言。當教授我。為我說法。令我知法.見法。我當如法知.如法觀。時。諸比丘語闡陀言。色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。闡陀語諸比丘言。我已知色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。闡陀復言。然我不喜聞。一切諸行空寂.不可得.愛盡.離欲.涅槃。此中云何有我。而言如是知.如是見是名見法。第二.第三亦如是說。闡陀復言。是中誰復有力堪能為我說法。令我知法.見法。復作是念。尊者阿難今在拘睒彌國瞿師羅園。曾供養親覲世尊。佛所讚歎。諸梵行者皆悉識知。彼必堪能為我說法。令我知法.見法。時。闡陀過此夜已。晨朝著衣持缽。入波羅奈城乞食。食已。還攝舉臥具。攝臥具已。持衣缽詣拘睒彌國。漸漸遊行到拘睒彌國。攝舉衣缽。洗足已。詣尊者阿難所。共相問訊已。卻坐一面。時。闡陀語尊者阿難言。一時。諸上座比丘住波羅奈國仙人住處鹿野苑中。時。我晨朝著衣持缽入波羅奈城乞食。食已。還攝衣缽。洗足已。持戶鉤。從林至林。從房至房。從經行處至經行處。處處見諸比丘。而請之言。當教授我。為我說法。令我知法.見法。時。諸比丘為我說法言。色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。我爾時語諸比丘言。我已知色無常。受.想.行.識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。然我不喜聞。一切諸行空寂.不可得.愛盡.離欲.涅槃。此中云何有我。而言如是知.如是見是名見法。我爾時作是念。是中誰復有力堪能為我說法。令我知法.見法。我時復作是念。尊者阿難今在拘睒彌國瞿師羅園。曾供養親覲世尊。佛所讚歎。諸梵行者皆悉知識。彼必堪能為我說法。令我知法.見法。善哉。尊者阿難今當為我說法。令我知法.見法。時。尊者阿難語闡陀言。善哉。闡陀。我意大喜。我慶仁者能於梵行人前。無所覆藏。破虛偽刺。闡陀。愚癡凡夫所不能解色無常。受.想.行.識無常。一切諸行無常。一切法無我。涅槃寂滅。汝今堪受勝妙法。汝今諦聽。當為汝說。時。闡陀作是念。我今歡喜得勝妙心.得踊悅心。我今堪能受勝妙法。爾時。阿難語闡陀言。我親從佛聞。教摩訶迦旃延言。世人顛倒依於二邊。若有.若無。世人取諸境界。心便計著。迦旃延。若不受.不取.不住.不計於我。此苦生時生.滅時滅。迦旃延。於此不疑.不惑.不由於他而能自知。是名正見。如來所說。所以者何。迦旃延。如實正觀世間集者。則不生世間無見。如實正觀世間滅。則不生世間有見。迦旃延。如來離於二邊。說於中道。所謂此有故彼有。此生故彼生。謂緣無明有行。乃至生.老.病.死.憂.悲.惱苦集。所謂此無故彼無。此滅故彼滅。謂無明滅則行滅。乃至生.老.病.死.憂.悲.惱苦滅。尊者阿難說是法時。闡陀比丘遠塵離垢。得法眼淨。爾時。闡陀比丘見法.得法.知法.起法。超越狐疑。不由於他。於大師教法。得無所畏。恭敬合掌白尊者阿難言。正應如是。如是智慧梵行。善知識教授教誡說法。我今從尊者阿難所。聞如是法。於一切行皆空.皆悉寂.不可得.愛盡.離欲.滅盡.涅槃。心樂正住解脫。不復轉還。不復見我。唯見正法。時。阿難語闡陀言。汝今得大善利。於甚深佛法中。得聖慧眼。時。二正士展轉隨喜。從坐而起。各還本處』



性空、自相空

性空者諸法性常空假業相續故似若不空。譬如水性自冷假火故熱。止火停久水則還冷。諸法性亦如是。未生時空無所有如水性常冷。諸法眾緣和合故有。如水得火成熱。眾緣若少若無則無有法。如火滅湯冷。 性空とは、諸法の性は、常空にして、業を仮りて、相続するが故に、若しは空ならざるに似たり。譬えば、水性は、自ら冷なるも、火を仮るが故に熱く、火を止めて久しく停まれば、水則ち冷に還るが如し。諸法の性も亦た是の如く、未だ生ぜざる時には、空にして所有無きこと、水性の常に冷なるが如し。諸法は、衆縁和合の故に有ること、水の火を得て、熱に成るが如し。衆縁の若しは少なく、若しは無ければ、則ち法有ること無きこと、火滅すれば、湯の冷なるが如し。
『性空』とは、――
『諸法』の、
『性』は、
『常に!』、
『空である!』が、
『業を仮りて( to depend on the Karma )!』、
『相続する!』が故に、
『空でないように!』、
『見える!』。
譬えば、
『水の性』は、
『自ら、冷である!』が、
『火を、仮りる!』が故に、
『熱いように!』、
『見える!』が、
『火を止めて、久しく停まれば!』、
『水』は、
『還って!』、
『冷たくなるようなものである!』。
『諸法の性』も、
是のように、
未だ、
『生じない!』時には、
『空であり、無所有である( be nothing existing )!』のは、
『水の性』が、
『常に、冷たいようなものでである!』が、
『諸法』が、
『衆縁の和合の故に、有る!』のは、
『水が、火を得て!』、
『熱と、成るようなものであり!』、
『衆縁が少ないか、若しくは無ければ!』、
『法が、無い!』のは、
『火が、滅すれば!』、
『湯が、冷めるようなものである!』。
  (け):<形容詞>[本義]非真( false )。代理の( informal )。<動詞>惜入する( borrow )、賃借りする/雇傭する( hire )、依る( depend on )、口実とする( make a pretext )。<接続詞>仮設/たとい( if, even )。<副詞>暫く/さしあたり( for the moment )。<介詞>おかげで/せいで( by virtue of )、当てれば( as )。
  (ごう):梵語羯磨karmanの訳にして、造作の義、謂わゆる行為、所作、行動、作用、意志等の身心の活動の意なり。或は単に意志に由り引生する所の身心生活、もしくは因果関係と結合して、即ち過去の行為に由り種種の異熟果を来しむる能力を指す。「大毘婆沙論巻124」に、「契経に説くが如し、仏は摩納婆に告ぐ、世間の有情は、皆自業に由る。皆これ業の分なり。皆業より生じ、業を所依と為し、業はよく諸の有情類の彼彼の処所高下勝劣を分判す、と。(中略)尊者世友説いて曰わく、世間の有情は皆自業に由るとは、自らの作業還って自ら異熟を受くるを謂う。皆これ業の分とは、所作の業の如く、かくの如き異熟を受くるを謂う。皆業より生ずとは、業を生因と為して異熟果を取り、彼彼の所応の生処に生ずるを謂う。業を所依となすとは、業を依因と為して彼彼の有、彼彼の有具を受くるを謂う。業よく諸の有情類の彼彼の処所高下勝劣を分判すとは、前に説くが如く、彼彼の生処は業に由りて高下勝劣を分判するを謂う」と云えり。これ有情は、自所作の業の別に由りて、自ら種種の異熟の果報を受くることを説けるものなり。また「大毘婆沙論巻134」に、「有情の類、この処所に於いて共業増長すれば世界便ち成じ、共業もし尽くれば世界便ち壊す」と云えり。これ有情の共業に由りて器世間の成壊差別するを説くなり。凡そ仏教に在りては、一切の万有は皆因果の法に基づかざるものは無しとし、有情の種種苦楽の果報は勿論、その依報たる世界の浄穢等も、また悉く業に由りて感ずる所となせり。蓋し業は、睡眠に由りて生長するが故に睡眠を以って有の本と為し、十二縁起中にも無明をその最初に置き、また惑業苦三道の説をなすといえども、而も正しく有を感ずるは、即ち業の能なり。故に経論中には、処処に業の義を説き、またその種類を分別して悪業を作らず、力めて善行を起すべきことを勧説せり。業の義に関しては、「大毘婆沙論巻113」に両説あり、初説は一に即ち作用を説いて業と名づけ、二によく七業の法式を任持するが故に業と名づけ、三によく愛非愛の果を分別するが故に業と名づくとし、後説は一にまた作用あるを業と名づく、即ちこれ語業なり。二に行動あるを業と名づく、即ちこれ身業なり。三に造作あるを業と名づく、即ちこれこれ意業なりと説くと云えり。この中、初説は作用を以って業の義となせるも、後説は作用を語業、行動を身業、造作を意業の義と為すなり。蓋し業はその種別多しといえども、これを要するに身業(梵kaaya- karman)、語業(梵vaak- karman)、意業(梵manas- karman)の三を出でず。「雑阿含経巻14」に不善の身業口業意業、これを不善法と名づく。善の身業口業意業、これを善法と名づくと云い、また「増一阿含経巻12」に身悪行、口悪行、意悪行、身善行、口善行、意善行と説き、「中阿含巻5水喩経」に身浄行、口意浄行、身不浄行、口意不浄行と説けるが如き、並びに皆その説なり。「大毘婆沙論巻113」に身語意の三を立てて名づけて業と為すことは三縁あるに由るとし、一に自性の故に語業を建立す、謂わゆる業の性即ち語なるが故に語業と名づく。二に所依の故に身業を建立す、色形聚積するを総じて名づけて身と為す、この業は身に依るが故に身業と名づく。三に等起の故に意業を建立す。意は謂わゆる意識、業は謂わゆる思なり。この業は意に依り、また意と倶に等しく身語を発するが故に意業と名づくと云えり。これ語はその体即ち業なるが故に名づけて語業とし、身業は身を所依として起こるものなるが故に身業と名づけ、意業は即ち思にして、この思は意に依り、また意と倶に等しく身語を発起するものなるが故に意業と名づくることを明にせるなり。ただし「説一切有部」に於いては、かくの如く身語二業は色法を以って体とし、意業は思を以って体とすといえども、「経量部」及び「大乗」に於いては、三業皆思を以って体とすと説けり。「大乗浄業論」に、「三種の業はただ思を体と為す」と云い、「成唯識論巻1」に、「よく身を動ずるの思を説いて身業と名づけ、よく語を発するの思を説いて語業と名づけ、審と決との二思が意と相応するが故に、意を作動するが故に説いて意業と名づく」と云えるこれなり。またこの身語業等に各表業(梵vijJapti- karman)、無表業(梵avijJapti- karman)の二種あり。即ち自心の善等を表示して、他をして知らしむるが故に表業と名づけ、自心を表示すること能わざるが故に無表と名づく。「倶舎論巻13」等に依るに、表業無表業は倶に色性を以って体となすが故に、身業二業には各これ有り。意業は色に非ざれば表示すること能わず、故に表と名づけず、表無きが故に無表もまた無しと云えり。これに依るに業には総じてただ五門あり、謂わゆる身表業(梵kaaya- vijJapti- karman)、語表業(梵vaag- vijJapti- karman)、身無表業(梵kaayaavijJapti- karman)、語無表業(梵vaac- avijJapti- karman)、及び意業これなり。もし「成実論巻7」に依らば意業にもまた無表ありと素。彼の論に「問うて曰わく、ただ身口のみ無作あり、意に無作無きや。答えて曰わく、然らず。所以は何ん、この中、因縁のただ身口業のみ無作あり、而も意に無作無きこと有ること無し」と云える即ちその意なり。この他にも業の説は多く、種種ありて都て記すに暇なし。また「中阿含経巻3、27、58」、「長阿含経巻11」、「雑阿含経巻13、37、49」、「本事経巻1」、「正法念処経巻34」、「優婆塞戒経巻6、7」、「大般涅槃経巻36、37」、「集異門足論巻6、7」、「阿毘達磨発智論巻11、12」、「大毘婆沙論巻19、20、51、114、115、116、117、119、144」、「雑阿毘曇心論巻3」、「倶舎論巻3、13、15、16、17、18、22」、「順正理論巻41、42、43」、「大乗阿毘達磨集論巻4」、「同雑集論巻8」、「大智度論巻94」、「中論巻3」、「瑜伽師地論巻9、60、66、90」、「成唯識論巻2、8」等に出づ。<(望)
如經說。眼空無我無我所。何以故性自爾。耳鼻舌身意色乃至法等亦復如是。 経に説けるが如し、『眼は空にして、我無く、我所無し。何を以っての故に、性は自ら爾ればなり。耳鼻舌身意、色、乃至法も亦た、復た是の如とし。
『経』に、こう説かれた通りである、――
『眼は空であり!』、
『我も、我所も!』、
『無い!』。
何故ならば、
『性』が、
『自ら爾うだからである( be naturally so )!』。
『耳、鼻、舌、身、意も、色乃至法』等も、
亦復た、
『是の通りである!』。
  (しょう):梵語prakRtiの訳語にして、意は本質を指し、また修に対し、即ち本来自爾の体質にして改変せざるをいう。「大智度論巻31」に、「性は自有に名づく。因縁を待たず、もし因縁を待たば則ちこれ作法にして名づけて性と為さず」と云い、「同巻32」に、「法性とは法は涅槃に名づく。壊すべからず、戯論すべからざる法なり。性は本分の種に名づく。黄石の中に金の性あるが如く、白石の中に銀の性あるが如く、かくの如く一切世間法の中に皆涅槃の性あり」と云い、「菩薩地持経巻1」に、「菩薩の六入の殊勝は展転相続して無始法爾なる、これを性種性と名づく」と云い、「大乗荘厳経論巻1」に、「問う、もし爾らば云何が性と名づくる。答う、功徳を度する義なるが故なり。度とは功徳を出生するの義なり、この道理に由り、この故に性と名づく」と云えるこれなり。これ等は他の因縁を待たず、無始法爾として有する本分の因種を性と名づけたるなり。また「大智度論巻31」に性に総別の異あることを説き、「一切法の性に二種あり、一には総性、二には別性なり。総性とは無常、苦、空、無我、無生、無滅、無来、無去、無入、無出問うなり。別性とは火は熱の性、水は湿の性なるが如く、心を識の性と為す。人の喜んで悪を作すを名づけて悪性と為し、好んで善事を集むるを名づけて善性と為すが如し」と云えり。この中、無常等は一切法共通の理性をいい、熱性等は諸法各別の自性に名づけたるなり。また同じく、「また次ぎに、有為の性とは、三相の生、住、滅なり。無為の性もまた三相の不生、不住、不滅なり。有為の性すらなお空なり、何に況んや有為法をや。無為の性すらなお空なり、何に況んや無為法をや。この種種の因縁を以って、性は得べからざれば、名づけて性空と為す」と云い、同じく「問うて曰く、先にはすでに性を説き、今は相を説く。性と、相とに何等の異なりか有る。答えて曰く、ある人の言わく、『それ実に異なり無く、名に差別有るのみ。性を説けば則ち相を説くと為し、相を説けば則ち性を説くと為す。譬えば、火の性は、即ちこれ熱相なりと説き、熱相は、即ちこれ火の性なりと説くが如し』、と。ある人の言わく、『性と、相とに小しく差別有り。性とは、その体を言い、相は、可識を言う。釈子の如きは、禁戒を受持するは、これその性にして、剃髪、割截、染衣は、これその相なり。梵志なれば、自らその法を受くるは、その性にして、頂に周羅を有し、三奇杖を執るは、これその相なり。火の如きは、熱はこれその性にして、煙はこれその相なり。近きを性と為し、遠きを相と為す。相は不定にして身より出で、性は則ちその実を言う。黄色を見れば金相と為すも、内はこれ銅なるが如し。火は焼き、石は磨くに、金の性に非ざるを知る。人の如きは、恭敬し、供養する時は、これ善人なるに似る、これを相と為し、罵詈し、毀辱し、忿然として瞋恚するは、便ちこれその性なり』、と。性と、相とは、内外、遠近、初後等、かくの如き差別有り」と云えるが如きは、蓋し性とは即ち相の中の不改変の分の如きに名づくるに似たるも、言葉の上には未だ截然と定まりたる義の無きことを知る。また「入楞伽経巻2」、「解深密経巻21」、「大智度論巻24」、「大乗義章巻1、4」等に出づ。<(望)
  参考:『雑阿含経巻9(232)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。時。有比丘名三彌離提。往詣佛所。稽首佛足。退坐一面。白佛言。世尊。所謂世間空。云何名為世間空。佛告三彌離提。眼空。常.恒.不變易法空。我所空。所以者何。此性自爾。若色.眼識.眼觸.眼觸因緣生受。若苦.若樂.不苦不樂。彼亦空。常.恒.不變易法空。我所空。所以者何。此性自爾。耳.鼻.舌.身.意亦復如是。是名空世間。佛說此經已。三彌離提比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。此經說我我所空是為眾生空。不說法空云何證性空。 問うて曰く、此の経に説く、我我所の空は、是れを衆生空と為すも、法空を説かず。云何が性空を証する。
問い、
此の、
『経に説かれた!』、
『我、我所の空』は、
『衆生の空であり!』、
是の中に、
『法の空』は、
『説かれていない!』。
何のようにして、
『性の空』を、
『証する( to prove )のか?』。
答曰。此中但說性空不說眾生空及法空。性空有二種。一者於十二入中無我無我所。二者十二入相自空無我無我所。是聲聞論中說。摩訶衍法說。十二入我我所無故空。十二入性無故空。 答えて曰く、此の中には、但だ性空を説いて、衆生空、及び法空を説かず。性空には二種有り、一には十二入中に於ける無我、無我所なり。二には十二入の相は、自ら空なり。無我、無我所は、是れ声聞の論中の説にして、摩訶衍法には、『十二入なる我我所は無きが故に空なり。十二入は性として無きが故に空なり』、と説く。
答え、
此の中には、
但だ、
『性空を説くだけで!』、
『衆生空も、法空も!』、
『説かれていない!』。
『性空』には、
『二種有って!』、
一には、
『十二入』中には、
『我も、我所も!』、
『無いことであり!』、
二には、
『十二入の相』は、
『自ら!』、
『空なのである!』。
『無我や、無我所』は、
『声聞』の、
『論』中に、
『説かれたことである!』が、
『摩訶衍の法』では、こう説くのである、――
『十二入という!』、
『我、我所』は、
『無である!』が故に、
『空であり!』、
『十二入』は、
『性として!』、
『無い!』が故に、
『空である!』、と。
復次若無我無我所自然得法空。以人多著我及我所故。佛但說無我無我所。如是應當知一切法空。若我我所法尚不著。何況餘法。以是故。眾生空法空終歸一義是名性空。 復た次ぎに、若し無我、無我所なれば、自然に法空を得。人は多く我、及び我所に著するを以っての故に、仏は但だ、無我、無我所を説きたまえるも、是の如くんば、応当に、一切法の空なるを知るべし。若し我我所の法すら、尚お著せずんば、何に況んや、余法をや。是を以っての故に、衆生空と、法空は、終に一義に帰して、是れを性空と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『無我、無我所ならば!』、
自然に、
『法空』を、
『得ることになる!』が、
『人』は、
多くが、
『我や、我所に!』、
『著する!』が故に、
『仏』は、
但だ、
『我も、我所も無い!』と、
『説かれたのであり!』、
是のように、
『説かれれば!』、
当然、
『一切の法は空である!』と、
『知らねばならない!』。
若し、
『我や、我所という!』、
『法にすら!』、
『著さなければ!』、
況して、
『餘の法』に、
『著すはずがない!』ので、
是の故に、
『衆生空や、法空』は、
終に、
『一義』に、
『帰することになり!』、
是れを、
『性空』と、
『称するのである!』。
復次性名自有不待因緣。若待因緣則是作法不名為性。諸法中皆無性。何以故。一切有為法皆從因緣生。從因緣生則是作法。若不從因緣和合則是無法。如是一切諸法性不可得故名為性空。 復た次ぎに、性を、自ら有りて、因緣を待たずと名づく。若し因縁を待てば、則ち是れ作法にして、名づけて性と為さざれば、諸法中には、皆性無し。何を以っての故に、一切の有為法は、皆因縁より生じて、因縁より生ずれば、則ち是れ作法なり。若し因緣の和合に従らざれば、則ち是れ法無し。是の如く一切の諸法の性は不可得なるが故に名づけて、性空と為す。
復た次ぎに、
『性』とは、
『自ら、有る!』ので、
『因緣』を、
『待たないということであり!』、
若し、
『因緣を待てば!』、
是の、
『法』は、
『作法である!』が故に、
是れを、
『性』と、
『呼ばない!』ので、
『諸法』中には、
皆、
『性が無いのである!』。
何故ならば、
『一切の有為法』は、
皆、
『因緣より!』、
『生じ!』、
『因緣より、生じれば!』、
則ち、
『作法なのである!』。
若し、
『因緣』の、
『和合』に、
『従らなければ!』、
則ち、
『法』が、
『無いということである!』。
是のように、
『一切の諸法』は、
『性が、不可得である!』が故に、
是れを、
『性空』と、
『称するのである!』。
問曰。畢竟空無所有則是性空。今何以重說。 問うて曰く、畢竟空は、無所有なれば、則ち是れ性空なり。今何を以ってか、重ねて説く。
問い、
『畢竟空』は、
『無所有であり!』、
則ち、
『性空である!』が、
今は、
何故、
『重ねて説くのですか?』。
答曰。畢竟空者名為無有遺餘。性空者名為本來常爾。如水性冷假火故熱止火則還冷。畢竟空如虛空常不生不滅不垢不淨。云何言同。 答えて曰く、畢竟空を名づけて、遺余有ること無しと為す。性空を名づけて、本来常に爾りと為す。水性は冷なるも、火を仮るが故に熱く、火を止めれば、則ち還って冷たきが如し。畢竟空は、虚空の如く常に不生、不滅、不垢、不浄なり。云何が同じと言う。
答え、
『畢竟空』とは、
『遺余』が、
『無いということである!』。
『性空』とは、
『本より!』、
『常に爾うだということであり!』、
譬えば、
『水の性が冷たく!』、
『火』を、
『仮りる!』が故に、
『熱い!』が、
『火』を、
『止めれば!』、
『還た冷たくなるようなものである!』。
『畢竟空』は、
譬えば、
『虚空のように!』、
『不生、不滅、不垢、不浄である!』のに、
何故、
『同じだ!』と、
『言うのか?』。
復次諸法畢竟空。何以故。性不可得故。諸法性空。何以故。畢竟空故。 復た次ぎに、諸法は畢竟空なり。何を以っての故に、性の不可得なるが故なり。諸法は性空なり。何を以っての故に、畢竟空なるが故なり。
復た次ぎに、
『諸法』は、
『畢竟空である!』。
何故ならば、
『性』が、
『不可得だからである!』。
『諸法』は、
『性空である!』。
何故ならば、
『諸法』は、
『畢竟空だからである!』。
復次性空多是菩薩所行。畢竟空多是諸佛所行。何以故。性空中但有因緣和合無有實性。畢竟空三世清淨有如是等差別。 復た次ぎに、性空は多く是れ菩薩の所行にして、畢竟空は多く是れ諸仏の所行なり。何を以っての故に、性空中には、但だ因緣和合有りて、実の性有ること無く、畢竟空は、三世清浄なり。是れ等の如き差別有り。
復た次ぎに、
『性空』は、
『多くが!』、
『菩薩の所行である!』が、
『畢竟空』は、
『多くが!』、
『諸仏の所行である!』。
何故ならば、
『性空』中には、
但だ、
『因縁の和合が有るだけで!』、
『実の性』が、
『無く!』、
『畢竟空』中には、
『三世の!』、
『諸法』が、
『清浄だからであり!』、
是れ等のような、
『差別』が、
『有る!』。
復次一切諸法性有二種。一者總性。二者別性。總性者。無常苦空無我無生無滅無來無去無入無出等。別性者。如火熱性水濕性心為識性。如人喜作諸惡故名為惡性。好集善事故名為善性。 復た次ぎに、一切の諸法の性には、二種有り、一には総性、二には別性なり。総性とは、無常、苦、空、無我、無生無滅、無来無去、無入無出等なり。別性とは、火の熱性、水の湿性、心を識性と為すが如く、人は、喜んで、諸悪を作すが故に名づけて、悪性と為し、好んで善事を集むるが故に名づけて、善性と為すが如し。
復た次ぎに、
『一切の諸法』の、
『性』には、
『二種有り!』、
一には、
『総性であり!』、
二には、
『別性である!』。
『総性』とは、
『無常、苦、空、無我、無生無滅、無来無去、無入無出等である!』。
『別性』とは、
譬えば、
『火の熱性や、水の湿性や!』、
『心』が、
『識性であるようなものであり!』、
『人』が、
『喜んで、諸悪を作す!』が故に、
『悪性』と、
『呼ばれ!』、
『好んで、善事を集める!』が故に、
『善性』と、
『呼ばれるようなものである!』。
  参考:『仏説十力経』:『復次如來應正等覺。於諸有情於一切世間非一種種諸界種性剎別皆如實知。若諸如來應正等覺。於諸有情於一切世間非一種種諸界種性剎別如實知故。是名第六種種諸界智力。具此力故得名如來應正等覺。尊勝殊特雄猛自在能轉無上清淨梵輪。於大眾中正師子吼』
如十力經中說。佛知世間種種性。如是諸性皆空是名性空。何以故。若無常性是實應失業果報。所以者何。生滅過去不住故。六情亦不受塵亦不積習因緣。若無積習則無誦經坐禪等。以是故知無常性不可得。無常尚不可得。何況常相。 十力経中に、『仏は、世間の種種の性を知る』、と説けるが如く、是の如く、諸の性は、皆空なれば、是れを性空と名づく。何を以っての故に、若し無常の性、是れ実なれば、応に業の果報を失うべし。所以は何んとなれば、生、滅する過去は住せざるが故に、六情も亦た塵を受けず、亦た因縁を積習せず。若し積集無ければ、則ち誦経、坐禅等無し。是を以っての故に知るらく、無常の性は不可得なり、と。無常すら尚お不可得なり、何に況んや常の相をや。
例えば、
『十力経』中には、
『仏は、世間の種種の性を知る!』と、
『説かれている!』が、
是のように、
『諸の性』は、
皆、
『空である!』が故に、
是れを、
『性空』と、
『称する!』。
何故ならば、
若し、
『無常という!』、
『性』が、
『実ならば!』、
『業』の、
『果報』が、
『失われるはずだからである!』。
何故ならば、
『生、滅して!』、
『過去』が、
『住まらないからであり!』、
亦た、
『六情』が、
『塵』を、
『受けることもなく!』、
亦た、
『因緣』を、
『積習する( to gather )こともない!』。
若し、
『積習が無ければ!』、
『誦経、坐禅等の功徳』が、
『無いことになる!』。
是の故に、こう知る、――
『無常という!』、
『性』は、
『不可得である!』、と。
『無常すら!』、
尚お、
『不可得ならば!』、
況して、
『常相』は、
『言うまでもない!』。
  積習(しゃくじゅう):梵語 upacita の訳、堆積した/増大した( heaped up, increased )、繁栄する/増加する/成功する( thriving, increasing, prospering, succeeding )、大きい/肥った/分厚い( big, fat, thick )、集められた( collected, gathered together )、贈物で覆われる( coverd with offerrings )の義。
復次苦性亦不可得。若實有是苦則不應生染著心。若人厭畏苦痛於諸樂中亦應厭畏。佛亦不應說三受苦受樂受不苦不樂受。亦不應苦中生瞋樂中生愛不苦不樂中生癡。若一相者樂中應生瞋苦中應生愛。但是事不然。如是等苦性尚不可得。何況樂性虛妄而可得。 復た次ぎに、苦の性も亦た不可得なり。若し実に是の苦有らば、則ち応に染著心を生ずべからず。若し人、苦痛を厭畏すれば、諸楽中にも亦た応に厭畏すべく、仏も亦た応に三受の苦受、楽受、不苦不楽受を説きたもうべからず、亦た応に苦中に瞋を生じ、楽中に愛を生じ、不苦不楽中に癡を生ずべからず。若し一相ならば、楽中には応に瞋を生ずべく、苦中には応に愛を生ずべけんに、但だ是の事は然らず。是れ等の如き苦の性は、尚お不可得なり。何に況んや楽の性の虚妄にして、可得なるをや。
復た次ぎに、
『苦という!』、
『性も!』、
『不可得である!』。
若し、
是の、
『苦が、実に有れば!』、
『染著心』を、
『生じるはずがない!』。
若し、
『人』が、
『苦痛を厭うて、畏れれば!』、
『諸の楽』中にも、
『厭い、畏れるはずであり!』、
『仏』も、
『苦受、楽受、不苦不楽受のような!』、
『三受』を、
『説かれるはずがない!』。
亦た、
『苦』中に、
『瞋』を、
『生じたり!』、
『楽』中に、
『愛』を、
『生じたり!』、
『不苦不楽』中に、
『癡』を、
『生じるはずがない!』。
若し、
『苦という!』、
『一相しかなければ!』、
『楽』中には、
『瞋』を、
『生じるはずであり!』、
『苦』中には、
『愛』を、
『生じるはずだが!』、
但だ、
是の、
『事』は、
『然うでない( be not real )!』。
是れ等のような、
『苦の性すら!』、
尚お、
『不可得である!』。
況して、
『楽の性のような!』、
『虚妄』が、
『可得であるはずがない!』、と。
復次空相亦不可得。所以者何若有空相則無罪福。無罪福故亦無今世後世。 復た次ぎに、空相も亦た不可得なり。所以は何んとなれば、若し空相有らば、則ち罪福無けん。罪福無きが故に、亦た今世、後世無し。
復た次ぎに、
『空相』も、
『不可得である!』。
何故ならば、
若し、
『空相が、有れば!』、
『罪、福』が、
『無いことになり!』、
『罪、福が無い!』が故に、
『今世も、後世も!』、
『無いからである!』。
復次諸法相待有。所以者何。若有空應當有實。若有實應當有空。空性尚無。何況有實。 復た次ぎに、諸法は相待して有り。所以は何んとなれば、若し空有らば、応当に実有るべし。若し実有らば、応当に空有るべし。空性すら尚お無し。何に況んや実有るをや。
復た次ぎに、
『諸法』は、
『相待して( being interdependent )!』、
『有る( be existing )!』。
何故ならば、
若し、
『空が有れば!』、
『実』が、
『有るはずであり!』、
若し、
『実が有れば!』、
『空』が、
『有るはずだからである!』。
『空性すら!』、
尚お、
『無いのであり!』、
況して、
『実』が、
『有るはずがないのである!』。
復次若無我者則無縛無解。亦無從今世至後世受罪福。亦無業因緣果報。如是等因緣知無我性尚不可得。何況我性。 復た次ぎに、若し無我なれば、則ち縛無く、解無く、亦た今世より、後世に至りて、罪、福を受くること無く、亦た業の因縁、果報無し。是れ等の如き因縁もて知るらく、無我の性すら尚お不可得なり。何に況んや我の性をや。
復た次ぎに、
若し、
『無我ならば!』、
『縛も、解も!』、
『無いことになり!』、
亦た、
『今世より、後世に至って!』、
『罪、福を受けること!』も、
『無く!』、
亦た、
『業の因縁や、果報も!』、
『無いことになる!』。
是れ等のような、
『因縁』で、こう知るのである、――
『無我の性すら!』、
尚お、
『不可得である!』、
況して、
『我の性など!』、
『言うまでもない!』、と。
復次無生無滅性亦不實。何以故。若實則墮常見。若一切法常則無罪無福。若有者常有。無者常無。若無者不生。有者不失。如不生不滅性不可得。何況生滅性。無來無去無入無出等諸總性亦如是。 復た次ぎに、無生無滅の性も亦た不実なり。何を以っての故に、若し実なれば、則ち常見に堕し、若し一切法にして常なれば、則ち無罪、無福なればなり。若し有れば、常に有り、無ければ、常に無し。若し無ければ生ぜず、有れば失わず。不生不滅の性の如きは不可得なり。何に況んや、生滅の性をや。無来無去、無入無出等の諸の総性も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『無生無滅という!』、
『性も!』、
『不実である!』。
何故ならば、
若し、
『実ならば!』、
『常見』に、
『堕ちることになるからであり!』、
若し、
『一切の法が、常ならば!』、
『罪も、福も!』、
『無いことになるからである!』。
若し、
『有れば!』、
『常に!』、
『有り!』、
『無ければ!』、
『常に!』、
『無く!』、
若し、
『無ければ!』、
『生じず!』、
『有れば!』、
『失われないだろう!』。
例えば、
『不生不滅という!』、
『性』は、
『不可得なのであり!』、
況して、
『生滅の性』は、
『言うまでもない!』。
亦た、
『無来無去、無入無出等の!』、
『諸の総性も!』、
『是の通りである!』。
復次諸法別性是亦不然。何以故。如火能燒造色能炤。二法和合故名為火。若離是二法有火者應別有火用而無別用。以是故知火是假名亦無有實。若實無火法云何言熱是火性。 復た次ぎに、諸法の別性も是れ亦た然らず。何を以っての故に、火は能く焼き、造色は能く炤(てら)し、二法和合の故に名づけて、火と為すに、若し是の二法を離れて火有らば、応に別に火の用有るべきも、而も別の用無し。是を以っての故に知るらく、火は、是れ仮名にして、亦た実有ること無し。若し実に火法無くんば、云何が、『熱は、是れ火の性なり』、と言う。
復た次ぎに、
『諸法の別性』も、
亦た、
『然うでない!』。
何故ならば、
例えば、
『火は、焼くことができ!』、
『造色』は、
『炤すことができる!』ので、
『二法の和合』の故に、
『火』と、
『称するのである!』が、
若し、
是の、
『二法を離れて!』、
『火』が、
『有れば!』、
是の、
『火』には、
『別の用( another use )』が、
『有るはずである!』が、
而し、
『別の用』は、
『無いからである!』。
是の故に、こう知る、――
『火は、仮名であり!』、
『実』は、
『無い!』、と。
若し、
『火という!』、
『法』が、
『実に無ければ!』、
何故、
『熱は、火の性である!』と、
『言うのか?』。
  造色(ぞうしき):梵語 bhuuta- bhautika の訳、要素から構成された、或いは要素により形づくられる何物かから構成された( consisting of the elements or of anything formed from them )の意。所造色の略。四大所造の色の意なり。また所造ともいう。即ち一切の色法を指し、皆、地、水、火、風等の四大種の造作する所なるが故に、所造色と称して、四大種は、則ちこれ能造なり。
  参考:『大智度論巻41』:『復次凡有二法。一者名字。二者名字義。如火能照能燒是其義。照是造色燒是火大。是二法和合名為火。若離是二法有火。更應有第三用。除燒除照更無第三業。以是故知。二法和合假名為火。是火名不在二法內。何以故。是法二火是一。一不為二二不為一。義以名二法不相合。所以者何。若二法合說火時應燒口。若離索火應得水。如是等因緣知不在內。若火在二法外。聞火名不應二法中生火想。若在兩中間則無依止處。一切有為法無有依止處。若在中間則不可知。以是故火不在三處。但有假名。』
復次熱性從眾緣生。內有身根外有色觸。和合生身識覺知有熱。若未和合時則無熱性。以是故知無定熱為火性。 復た次ぎに、熱の性は、衆縁より生ず。内に身根有り、外に色、触有りて、和合して身識を生じ、熱有るを覚知す。若し未だ和合せざる時なれば、則ち熱の性無し。是を以っての故に、定んで熱の火の性と為す無し。
復た次ぎに、
『熱という!』、
『性』は、
『衆縁より!』、
『生じる!』。
『内に有る身根と!』、
『外に有る色、触と!』が、
『和合して!』、
『身識を生じて!』、
『熱が有る!』と、
『覚知する!』ので、
若し、
未だ、
『内、外が和合しなければ!』、
その時、
『熱の性』は、
『無いはずである!』。
是の故に、こう知る、――
『火の性である!』と、
『定まった熱』は、
『無い!』、と。
復次若火實有熱性云何有人入火不燒。及人身中火而不燒身。空中火水不能滅。以火無有定熱性故。神通力故火不能燒身。業因緣五藏不熱。神龍力故水不能滅。 復た次ぎに、若し火、実に熱性有らば、云何が、有る人は、火に入りて焼けず、及び人身中の火あるも、身を焼かず、空中の火は、水滅すること能わざる。火に定まりたる熱性有ること無きを以っての故に、神通力の故に、火は身を焼く能わず。業の因縁もて、五蔵熱からず。神龍の力の故に、水は滅する能わず。
復た次ぎに、
若し、
『火』に、
『熱性』が、
『実に、有れば!』、
何故、
『火に入っても!』、
『焼かれない!』、
『人が有るのか?』。
及び、
『人身中の火』は、
『身』を、
『焼かないのか?』。
『空中の火』を、
『水』は、
『滅することができないのか?』。
何故ならば、
『火』には、
『定まった、熱性が無い!』が故に、
『神通力』の故に、
『火』は
『身を、焼くことができず!』、
『業の因縁』の故に、
『五臓』を、
『熱くせず!』、
『神や、龍の力』の故に、
『水』は、
『滅することができないのである!』。
  (ねつ):熱( heat )。◯梵語 uSNa, tapa の訳、病熱/狂熱/苦悩( fever, mania, affliction )の義、外界の熱( the heat of external world )の意。◯梵語 pitta の訳、胆汁( bile, gall )の義、身中の火/熱( the fire or heat in the body )の意、風 (梵語 vaata = wind )、水/粘液(梵語 kapha = water, phlegm )と併せて、身体の病変原理を構成する三要素(梵語 tri- doSa = disorder of the 3 humour of the body )と為す。
復次若熱性與火異火則非熱。若熱與火一云何言熱是火性。餘性亦如是。是總性別性無故名為性空。 復た次ぎに、若し熱性と、火と異らば、火は則ち熱に非ず。若し熱と火と一ならば、云何が、『熱は、是れ火の性なり』、と言う。餘の性も亦た是の如し。是の総性、別性は無きが故に、名づけて性空と為す。
復た次ぎに、
若し、
『熱性』が、
『火』と、
『異なれば!』、
則ち、
『火』は、
『熱でないことになる!』。
若し、
『熱』が、
『火』と、
『一ならば!』、
何故、こう言うのか?――
『熱』は、
『火の性である!』、と。
『餘の性』も、
亦た、
『是の通りである!』。
是の、
『総性や、別性は無い!』が故に、
『性空』と、
『称するのである!』。
復次性空者從本已來空。如世間人謂虛妄不久者是空。如須彌金剛等物。及聖人所知以為真實不空。欲斷此疑故佛說是雖堅固相續久住皆亦性空。聖人智慧雖度眾生。破諸煩惱性不可得故是亦為空。 復た次ぎに、性空とは、本より已来空なり。世間の人の謂うが如きは、『虚妄にして、久しからざれば、是れ空なるも、須弥、金剛等の物、及び聖人の知る所の如きは、以って真実と為し、空にあらず』、と。此の疑を断ぜんと欲したもうが故に、仏の説きたまわく、『是れ堅固にして、相続して久しく住すと雖も、皆亦た性空なり。聖人の智慧は、衆生を度して、諸煩悩を破ると雖も、性は不可得なるが故に、是れも亦た空と為す』、と。
復た次ぎに、
『性空』とは、
『本より已来!』、
『空だということである!』が、
『世間の人』は、こう謂っているので、――
『虚妄の物や!』、
『久しくない!』者は、
『空である!』が、
『須弥や、金剛等の物や、聖人の知る所』は、
『真実であり!』、
『空ではない!』、と。
『仏』は、
此の、
『疑』を、
『断じようとして!』、
こう説かれた、――
是の、
『物』は、
『堅固であり!』、
『相続、久住する!』が、
皆、
『性空である!』。
『聖人の智慧』は、
『衆生を度して!』、
『諸の煩悩』を、
『破る!』が、
『性が、不可得である!』が故に、
是れも、
『空である!』、と。
又人謂五眾十二入十八界皆空。但如法性實際。是其實性。佛欲斷此疑故。但分別說五眾如法性實際皆亦是空是名性空。 又、人の謂わく、『五衆、十二入、十八界は、皆空なるも、但だ如、法性、実際は、是れ其の実性なり』、と。仏は、此の疑を断ぜんと欲するが故に、但だ分別して説きたまわく、『五衆の如、法性、実際は皆亦た是れ空にして、是れを性空と名づく』、と。
又、
『人』が、こう謂うので、――
『五衆や、十二入や、十八界』は、
皆、
『空である!』が、
但だ、
『如や、法性や、実際』は、
是の、
『五衆等の!』、
『実の性である!』、と。
『仏』は、
此の、
『疑』を、
『断じようとする!』が故に、
但だ、
是の、
『五衆の如等を!』、
『分別して!』、
こう説かれた、――
『五衆の如、法性、実際』も、
皆、
『空であり!』、
是れを、
『性空』と、
『称する!』、と。
復次有為性三相生住滅。無為性亦三相不生不住不滅。有為性尚空。何況有為法。無為性尚空。何況無為法。以是種種因緣性不可得名為性空 復た次ぎに、有為の性は、三相にして生、住、滅なり。無為の性も亦た三相にして不生、不住、不滅なり。有為の性すら、尚お空なるに、何に況んや、有為の法をや。無為の性すら、尚お空なるに、何に況んや無為の法をや。是の種種の因縁を以って、性は不可得なれば、名づけて性空と為す。
復た次ぎに、
『有為』の、
『性』は、
『三相であり!』、
『生、住、滅である!』が、
『無為』の、
『性』も、
『三相であり!』、
『不生、不住、不滅である!』。
『有為の性すら!』、
尚お、
『空であるから!』、
況して、
『有為の法』は、
『言うまでもない!』。
『無為の性すら!』、
尚お、
『空であるから!』、
況して、
『無為の法』は、
『言うまでもない!』。
是の、
『種種の因緣』の故に、
『性』は、
『不可得であり!』、
是れを、
『性空』と、
『称するのである!』。
自相空者一切法有二種相總相別相。是二相空故名為相空。 自相空とは、一切の法には、二種の相の総相、別相有り。是の二相の空なるが故に、名づけて相空と為す。
『自相空』とは、
『一切の法』には、
『総相、別相という!』、
『二相』が、
『有り!』、
是の、
『二相が、空である!』が故に、
『相空』と、
『称するのである!』。
問曰。何等是總相何等是別相。 問うて曰く、何等か、是れ総相、何等か、是れ別相なる。
問い、
何のような、
『相』が、
『総相であり!』、
何のような、
『相』が、
『別相なのですか?』。
答曰。總相者如無常等。別相者諸法雖皆無常而各有別相。如地為堅相火為熱相。 答えて曰く、総相とは、無常等の如し。別相とは、諸法は、皆無常なりと雖も、各別相有ること、地を堅相と為し、火を熱相と為すが如し。
答え、
『総相』とは、
『無常等のような!』、
『相であり!』、
『別相』とは、
『諸法は、皆無常である!』が、
各には、
『地の堅相や、火の熱相のような!』、
『別相』が、
『有るからである!』。
問曰。先已說性今說相。性相有何等異。 問うて曰く、先に已に性を説き、今は相を説く。性、相には、何等の異か有る。
問い、
先に、已に、
『性が、説かれているのに!』、
今、
『相』を、
『説くのは!』、
『性と、相とに!』、
何のような、
『異が、有るからですか?』。
答曰。有人言。其實無異名有差別。說性則為說相說相則為說性。譬如說火性即是熱相。說熱相即是火性。 答えて曰く、有る人の言わく、『其の実には異無く、名に差別有れば、性を説けば、則ち相を説くと為し、相を説けば、則ち性を説くと為す。譬えば火の性を説けば、即ち是れ熱の相にして、熱の相を説けば、即ち是れ火の性なるが如し』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『性、相』は、
『実( the substance )』には、
『異』が、
『無く!』、
『名』に、
『差別』が、
『有る!』ので、
若し、
『性を、説けば!』、
『相』が、
『説かれたことになり!』、
『相を、説けば!』、
『性』が、
『説かれたことになる!』。
譬えば、
『火の性を、説けば!』、
『熱の相』が、
『説かれたことになり!』、
『熱の相を、説けば!』、
『火の性』が、
『説かれたことになるようなものである!』、と。
有人言。性相小有差別。性言其體相言可識。如釋子受持禁戒是其性。剃髮割截染衣是其相。梵志自受其法是其性。頂有周羅執三奇杖是其相。如火熱是其性。煙是其相。近為性遠為相。相不定從身出。性則言其實。如見黃色為金相而內是銅火燒石磨知非金性。如人恭敬供養時似是善人是為相罵詈毀辱忿然瞋恚便是其性。 有る人の言わく、『性、相には、小しく差別有り。性は、其の体を言い、相は、可識を言う。釈子は、禁戒を受持すること、是れ其の性にして、剃髪、割截染衣は、是れ其の相なるも、梵志は、自ら其の法を受くること、是れ其の性にして、頂に周羅有り、三奇杖を執ること、是れ其の相なるが如し。火は、熱是れ其の性にして、煙是れ其の相なるが如く、近きを性と為し、遠きを相と為し、相は不定にして、身より出で、性は、則ち其の実を言う。黄色を見て、金相と為すも、内は是れ銅なれば、火に焼き、石に磨けば、金性に非ざるを知るが如し。人の恭敬、供養する時は、是れ善人なるに似たる、是れを相と為し、罵詈、毀辱、忿然として瞋恚すれば、便ち是れ其の性なるが如し。
有る人は、こう言っている、――
『性、相』には、
『差別』が、
『小し有る!』。
『性』は、
『体( the substance )』を、
『言うのであり!』、
『相』は、
『可識( the appearance )』を、
『言う!』。
例えば、
『釈子ならば!』、
『禁戒を受持すること!』が、
『性であり!』、
『剃髪、割截染衣』は、
『相である!』。
『梵志ならば!』、
『自らの、法を受けること!』が、
『性であり!』、
『頭頂に、周羅( the crest )が有ったり!』、
『三奇杖を、執ること!』が、
『相である!』。
例えば、
『火』は、
『熱が、性であり!』、
『煙は、相である!』。
又、
『近い者は、性であり!』、
『遠い者は、相である!』。
『相』は、
『定まらず!』、
『身より、出る!』が、
『性』は、
其の、
『実である!』。
例えば、
『黄色を見て!』、
『金の相である!』と、
『為しても( to consider )!』、
『内が、銅であり!』、
『火に焼き、石で磨けば!』、
『金の性ではない!』と、
『知るようなものである!』。
例えば、
『人』が、
『恭敬し、供養する!』時、
『善人に、似ている!』のが、
『相であり!』、
『罵詈し、毀辱し、忿然として瞋恚すれば!』、
便ち( this is )、
『其の性である!』。
  割截(かっさい):法衣を造るには、一枚の布を細かに割り裂き、それを綴り合せて造ることを指す。
  染衣(せんえ):法衣には白地を用いず、素地の布を木蘭色等に染めることを指す。
  周羅(しゅうら):梵語cuuDaの音訳にして、雄鳥/孔雀の鶏冠( the crest of a cock or peacock )の義、髻、小髻、頂髻、頂髪と意訳し、また周羅髪に作る。即ち出家剃髪の際に、頭頂に保留する少しばかりの頭髪を指す。<(佛)
  三奇杖(さんきじょう):また三掎杖に作る。蓋し枝をつけたままの未加工の杖なり。
性相內外遠近初後等有如是差別。是諸相皆空名為相空。 性、相には、内外、遠近、初後等の是の如き差別有り。是の諸の相は、皆空なれば、名づけて、相空と為す。
『性、相』には、
『内、外や、遠、近や、初、後等の!』、
是のような、
『差別』が、
『有る!』が、
是の、
『諸の相は、皆空である!』ので、
是れを、
『相空』と、
『称するのである!』。
如說一切有為法皆是無常相。所以者何。生滅不住故。先無今有已有還無故。屬諸因緣故。虛誑不真故。無常因緣生故。眾合因緣起故。如是等因緣故。一切有為法是無常相 一切の有為法を説くが如きは、皆、是れ無常相なり。所以は何んとなれば、生滅して住まらざるが故に、先に無きも、今有り、已に有るも、還た無きが故に、諸の因緣に属するが故に、虚誑にして真ならざるが故に、無常の因緣より生ずるが故に、衆(おお)く因緣を合して起るが故に、是れ等の如き因縁の故に、一切の有為法は、是れ無常相なり。
『一切の有為法を、説けば!』、
皆、
『無常相』を、
『説くことになる!』。
何故ならば、
『一切の有為法』は、
『生滅して、住まらない!』が故に、
『先に無い者が、今有り、已に有る者が、還た無くなる!』が故に、
『諸の因緣に、属する!』が故に、
『虚誑であり、真でない!』が故に、
『無常の因緣より、生じる!』が故に、
『衆多の因緣を合して、起る!』が故に、
是れ等のような、
『因緣』の故に、
『一切の有為法』は、
『無常相である!』。
能生身心惱故名為苦身。四威儀無不苦故。苦聖諦故。聖人捨不受故。無時不惱故。無常故。如是等因緣名為苦相。 能く身心の悩を生ずるが故に名づけて、苦と為し、身の四威儀には苦ならざる無きが故に、苦聖諦の故に、聖人は捨てて受けざるが故に、時として悩まざる無きが故に、無常の故に、是れ等の如き因縁を、名づけて苦相と為す。
『身、心』に、
『悩を、生じさせる!』が故に、
『苦』と、
『称する!』。
『身の四威儀(行住坐臥)』には、
『苦でない!』者が、
『無い!』が故に、
『仏』が、
『苦聖諦として!』、
『説かれた!』が故に、
『聖人』が、
『捨てて!』、
『受けない!』が故に、
『悩まない!』、
『時』は、
『無い!』が故に、
『身、心』は、
『無常である!』が故に、
是れ等のような、
『因緣』を、
『苦の相』と、
『称する!』。
離我所故空。因緣和合生故空。無常苦空無我故名為空。始終不可得故空。誑心故名為空。賢聖一切法不著故名為空。以無相無作解脫門故名為空。諸法實相無量無數故名為空。斷一切語言道故名為空。滅一切心行故名為空。諸佛辟支佛阿羅漢入而不出故名為空。如是等因緣故是名為空。 我所を離るるが故に空なり。因緣和合の生なるが故に空なり。無常、苦、空、無我の故に名づけて、空と為す。始、終の不可得なるが故に空なり。心を誑すが故に名づけて、空と為す。賢聖は一切の法に著せざるが故に、名づけて空と為す。無相、無作、解脱門を以っての故に、名づけて空と為す。諸法の実相は無量、無数なるが故に、名づけて空と為す。一切の語言の道を断ずるが故に、名づけて空と為す。一切の心行を滅するが故に、名づけて空と為す。諸仏、辟支仏阿羅漢の入りて、出でざるが故に、名づけて空と為す。是れ等の如き因縁の故に、是れを名づけて空と為す。
『空』とは、
『我所を、離れる!』が故に、
『空であり!』、
『因緣和合の生である!』が故に、
『空であり!』、
『無常、苦、空、無我である!』が故に、
『空であり!』、
『始、終が不可得である!』が故に、
『空であり!』、
『心を誑す!』が故に、
『空であり!』、
『賢聖が、一切の法に著さない!』が故に、
『空と称し!』、
『無相、無作の解脱門を用いる!』が故に、
『空と称し!』、
『諸法の実相には、量も数も無い!』が故に、
『空と称し!』、
『一切の語言の道を断じる( to cut off all paths of language )!』が故に、
『空と称し!』、
『一切の心行を滅する( to annihilate all mental functions )!』が故に、
『空と称し!』、
『諸の仏、辟支仏、阿羅漢が入って、出ない!』が故に、
『空と称する!』が、
是れ等のような、
『因緣』の故に、
是れを、
『空』と、
『称するのである!』。
無常苦空故無我。不自在故無我。無主故名為無我。諸法無不從因緣生從因緣生故無我。無相無作故無我。假名字故無我。身見顛倒故無我。斷我心得道故無我。以是種種名為無我。如是等名為總相。 無常、苦、空の故に無我、自在ならざるが故に無我、無主の故に名づけて無我と為し、諸法には、因緣より生ぜざる無く、因緣より生ずるが故に無我、無相、無作の故に無我、仮の名字の故に無我、身見は顛倒なるが故に無我、我心を断じて道を得るが故に無我なり。是の種種を以って、名づけて無我と為す。是れ等の如きを名づけて、総相と為す。
『無常、苦、空』の故に、
『無我であり!』、
『自在でない!』が故に、
『無我であり!』、
『主が無い!』が故に、
『無我と称し!』、
『諸法』は、
『因縁より生じない者が無く、因縁より生じる!』が故に、
『無我であり!』、
『無相、無作である!』が故に、
『無我であり!』、
『仮の名字である!』が故に、
『無我であり!』、
『身見』は、
『顛倒である!』が故に、
『無我であり!』、
『我心を断じて!』、
『道を得る!』が故に、
『無我である!』が、
是の、
『種種の因縁』を、
『無我』と、
『称するのである!』。
是れ等のような、
『相』を、
『総相』と、
『称する!』。
別相者地堅相火熱相水濕相風動相。眼識依處名眼相。耳鼻舌身亦如是。識覺相智慧相慧智相。捨為施相。不悔不惱為持戒相。心不變異為忍相。發懃為精進相。攝心為禪相。無所著為智慧相能成事為方便相。識作生滅為世間相。無識為涅槃相。如是等諸法各有別相。當知是諸相皆空是名自相空。餘義如性空中說性相義同故。 別相とは、地の堅相、火の熱相、水の湿相、風の動相、眼識の依処を眼相と名づけ、耳鼻舌身も亦た是の如く、識の覚相、智の慧相、慧の智相、捨を施の相と為し、悔いず悩まざるを持戒の相と為し、心の変異せざるを忍の相と為し、懃を発するを精進の相と為し、心を摂するを禅の相と為し、所著無きを智慧の相と為し、能く事を成すを方便の相と為し、識の生滅を作すを世間の相と作し、識無きを涅槃の相と為す。是れ等の如く、諸法には各別相有り。当に知るべし、是の諸相は、皆空なれば、是れを自相空と名づく。餘の義は、性空中に説けるが如し。性、相の義は同じなるが故なり。
『別相』とは、
『地の堅相、火の熱相、水の湿相、風の動相や!』、
『眼識の依処である眼相や、耳鼻舌身も亦た是の通りであり!』、
『識の覚相、智の慧相、慧の智相であり!』、
『捨は、施の相であり!』、
『不悔不悩は、持戒の相であり!』、
『心が変異しないのは、忍の相であり!』、
『懃を発する( to cling to )のは、精進の相であり!』、
『心を摂する( to grasp one's own mind )のは、禅の相であり!』、
『所著の無いのは、智慧の相であり!』、
『事を成就するのは、方便の相であり!』、
『識( the consciousness )が生滅を作すのは、世間の相であり!』、
『識の無いのは、涅槃の相である!』が、
是れ等のように、
『諸法』には、
各、
『別相』が、
『有るのである!』が、
当然、こう知らねばならない、――
是の、
『諸の相』は、
皆、
『空である!』、と。
是れを、
『自相空』と、
『摂する!』。
『餘の義』は、
『性空』中に、
『説いた通りである!』が、
『性も、相も!』、
『義』は、
『同じだからである!』。
  (ち):梵語 jJaana の訳、知ること/~に精通すること/知識/(特に)[宇宙的精神を瞑想することに由来する]高度な知識( knowing, becoming acquainted with, knowledge, (especially) the higher knowledge (derived from meditation on the one Universal Spirit) )の義。
  (え):梵語 prajJaa の訳、知ること/[特に行動の方法/様式を]理解すること/認識/識別/精通すること( to know, understand (especially a way or mode of action), discern, distinguish, know about, be acquainted with )、智慧/知能/知識/識別/判断( wisdom, intelligence, knowledge, discrimination, judgement )の義。
  発懃(ほつごん):梵語 aa√(rabh) の訳、把む/堅持する/しがみ付く( to take hold of, keep fast, cling to )の義。
  摂心(しょうしん):梵語 saMgrahaNa の訳、心を握りしめる( to grasp one's own mind )の義。
問曰。何以不但說相空而說自相空。 問うて曰く、何を以ってか、但だ相空を説かずして、自相空を説く。
問い、
何故、
但だ、
『相空を説かずに!』、
『自相空』を、
『説くのですか?』。
答曰。若說相空不說法體空。說自相空即法體空。 答えて曰く、若し相空を説けば、法体の空を説かず、自相空を説けば、即ち法体の空なればなり。
答え、
若し、
『相空を説けば!』、
『法体の空』が、
『説かれていない!』が、
『自相空を説けば!』、
『法体の空』を、
『説いたことになる!』。
  法体(ほったい):法の本質( essence of dharma )◯梵語 dharma- zariirataa の訳、( the substance of Dharma )の義。◯梵語 dharma- sthiti の訳、( the abode of Dharma )の義。有為/無為の法の実体( the substance of a conditioned or unconditioned dharma )の意。
復次眾法和合故一法生是一法空。如是等一一法皆空。今和合因緣法展轉皆亦空。一切法各各自相空。以是故名為自相空。 復た次ぎに、衆法和合の故に一法生ずるも、是の一法は空なり。是れ等の如き一一の法は皆空なれば、今和合因緣の法は、展転して皆亦た空にして、一切の法は各各自相空なり。是を以っての故に名づけて、自相空と為す。
復た次ぎに、
『衆法の和合』の故に、
『一法が生じる!』が、
是の、
『一法』は、
『空である!』。
是れ等の、
『一一の法は、皆空なので!』、
今、
『因緣を和合した!』、
『法』は、
展転して( one after another )、
皆、
『空となり!』、
『一切の法』は、
各各、
『自相』が、
『空となるので!』、
是の故に、
『自相空』と、
『称するのである!』。
問曰。若一切法各各自相空。云何復有所說。 問うて曰く、若し一切の法、各各自相空なれば、云何が復た所説有る。
問い、
若し、
『一切の法』が、
各各、
『自相空ならば!』、
何故、
復た、
『説かれた!』、
『法』が、
『有るのですか?』。
答曰。眾生顛倒故。以一相異相總相別相等而著諸法。為斷是故而有所說。如是等因緣名為自相空。 答えて曰く、衆生は、顛倒せるが故に、一相、異相、総相、別相等を以って、諸法に著すれば、是を断ぜんが為の故に、所説有り。是れ等の如き因緣を、名づけて自相空と為す。
答え、
『衆生』は、
『顛倒する!』が故に、
『一相、異相、総相、別相等を用いて!』、
『諸法』に、
『著する!』ので、
是の、
『顛倒を断じる!』為の故に、
『説かれた!』、
『法』が、
『有るのである!』。
是れ等のような、
『因緣』を、
『自相空』と、
『称する!』。



諸法空、不可得空

一切法空者。一切法名五眾十二入十八界等。是諸法皆入種種門。所謂一切法有相。知相識相緣相增上相因相果相總相別相依相。 一切法の空とは、一切法を五衆、十二入、十八界等と名づけ、是の諸法は、皆種種の門に入る。謂わゆる一切法の有相、知相、識相、縁相、増上相、因相、果相、総相、別相、依相なり。
『一切法の空』とは、
『一切法』とは、
『五衆や、十二入や、十八界等である!』が、
是の、
『諸の法』は、
皆、
『種種の門より!』、
『入る( to enter and understand )!』。
謂わゆる、
『一切法』の、
『有相、知相、識相、縁相、増上相、因相、果相、総相、別相、依相である!』。
  (にゅう):梵語 praveza の訳、入る/入口/浸透/侵入( entering, entrance, a place of entrance, penetration or intrusion into )の義、真実に目覚める/理解し始める/真実に心を向けて、知識を発展させる( To awaken to the truth; begin to understand; to relate the mind to reality and thus evolve knowledge )の意。◯梵語 aayatana の訳、休息所/土台/座席/場所/家庭/家/住居( resting-place, support, seat, place, home, house, abode )の義、阿毘達磨及び唯識に於いて、感覚の界域を指す術語であり( In Abhidharma and Yogâcāra, this is a technical term referring to the fields of the senses )、感覚[六根]と、その対境[六境]の接する処( the place of the meeting between the organs and their objects )の意、処に同じ、六根及び六境を総じて十二入と称す。
問曰。云何一切法有相。 問うて曰く、云何が、一切法の有相なる。
問い、
何が、
『一切法』の、
『有相なのですか?』。
答曰。一切法有好有醜有內有外。一切法有心生故名為有。 答えて曰く、一切法には、好有り、醜有り、内有り、外有り。一切法に有心生ずるが故に、名づけて有と為す。
答え、
『一切法』には、
『好や、醜や、内や、外が!』、
『有る!』が、
『一切法』には、
『有るという!』、
『心』が、
『生じる!』が故に、
是れを、
『有』と、
『称するのである!』。
問曰。無法中云何言有相。 問うて曰く、無法中には、云何が有相と言う。
問い、
『法が無い!』中に、
何故、
『有る相』と、
『言うのですか?』。
答曰。若無法不名為法。但以遮有故名為無法。若實有無法則名為有。是故說一切法有相。 答えて曰く、若し無法なれば、名づけて法と為さず。但だ有を遮するを以っての故に、名づけて無法と為す。若し実に無法有らば、則ち名づけて有と為さん。是の故に、『一切法は有相なり』、と説く。
答え、
若し、
『法が無ければ!』、
『法』と、
『呼ばれない!』。
但だ、
『有を遮る!』為の故に、
『無法』と、
『称するだけである!』。
若し、
『無法』が、
『実に!』、
『有れば!』、
則ち、
『有』と、
『呼ばれることになるだろう!』。
是の故に、
『一切の法』は、
『有相である!』と、
『説くのである!』。
知相者苦法智苦比智能知苦諦。集法智集比智能知集諦。滅法智滅比智能知滅諦。道法智道比智能知道諦。及世俗善智能知苦能知集能知滅能知道。亦能知虛空非智緣滅是名一切法知相。知相故攝一切法。 知相とは、苦法智、苦比智は能く苦諦を知り、集法智、集比智は能く集諦を知り、滅法智、滅比智は能く滅諦を知り、道法智、道比智は能く道諦を知り、及び世俗の善智は能く苦を知り、能く集を知り、能く滅を知り、能く道を知り、亦た能く虚空、非智縁滅を知る、是れを一切法の知相と名づけ、知相の故に一切法を摂す。
『知相』とは、
『苦法智、苦比智』は、
『苦諦』を、
『知ることができ!』、
『集法智、集比智』は、
『集諦』を、
『知ることができ!』、
『滅法智、滅比智』は、
『滅諦』を、
『知ることができ!』、
『道法智、道比智』は、
『道諦』を、
『知ることができ!』、
及び、
『世俗の善智』は、
『苦、集、滅、道』を、
『知ることができ!』、
亦た、
『三無為中の虚空、非智縁滅』を、
『知ることができる!』。
是れを、
『一切法』の、
『知相』と、
『称し!』、
『知相』の故に、
『空』中に、
『一切法を摂する( to contain All dharmas )!』。
識相者眼識能知色耳識能知聲鼻識能知香舌識能知味身識能知觸意識能知法。能知眼能知色能知眼識。能知耳能知聲能知耳識。能知鼻能知香能知鼻識。能知舌能知味能知舌識。能知身能知觸能知身識。能知意能知法能知意識是名識相。 識相とは、眼識は能く色を知り、耳識は能く声を知り、鼻識は能く香を知り、舌識は能く味を知り、身識は能く触を知り、意識は能く法を知り、能く眼を知り、能く色を知り、能く眼識を知り、能く耳を知り、能く声を知り、能く耳識を知り、能く鼻を知り、能く香を知り、能く鼻識を知り、能く舌を知り、能く味を知り、能く舌識を知り、能く身を知り、能く触を知り、能く身識を知り、能く意を知り、能く法を知り、能く意識を知る。是れを識相と名づく。
『識相』とは、
『眼識』は、
『色』を、
『知ることができ!』、
『耳識』は、
『声』を、
『知ることができ!』、
『鼻識』は、
『香』を、
『知ることができ!』、
『舌識』は、
『味』を、
『知ることができ!』、
『身識』は、
『触』を、
『知ることができ!』、
『意識』は、
『法』を、
『知ることができ!』、
亦た、
『眼、色、眼識を知ることができ!』、
『耳、声、耳識を知ることができ!』、
『鼻、香、鼻識を知ることができ!』、
『舌、味、舌識を知ることができ!』、
『身、触、身識を知ることができ!』、
『意、法、意識を知ることができる!』。
是れを、
『識相』と、
『称する!』。
緣相者眼識及眼識相應諸法能緣色。耳識及耳識相應諸法能緣聲。鼻識及鼻識相應諸法能緣香。舌識及舌識相應諸法能緣味。身識及身識相應諸法能緣觸。意識及意識相應諸法能緣法。能緣眼能緣色能緣眼識。能緣耳能緣聲能緣耳識。能緣鼻能緣香能緣鼻識。能緣舌能緣味能緣舌識。能緣身能緣觸能緣身識。能緣意能緣法能緣意識是名緣相。 縁相とは、眼識、及び眼識相応の諸法は、能く色を縁じ、耳識、及び耳識相応の諸法は、能く声を縁じ、鼻識、及び鼻識相応の諸法は、能く香を縁じ、舌識、及び舌識相応の諸法は、能く味を縁じ、身識、及び身識相応の諸法は、能く触を縁じ、意識、及び意識相応の諸法は、能く法を縁じ、能く眼を縁じ、能く色を縁じ、能く眼識を縁じ、能く耳を縁じ、能く声を縁じ、能く耳識を縁じ、能く鼻を縁じ、能く香を縁じ、能く鼻識を縁じ、能く舌を縁じ、能く味を縁じ、能く舌識を縁じ、能く身を縁じ、能く触を縁じ、能く身識を縁じ、能く意を縁じ、能く法を縁じ、能く意識を縁ず。是れを縁相と名づく。
『縁相』とは、
『眼識と、眼識相応の諸法』は、
『色』を、
『縁じる( be connected with/ cognize )ことができ!』、
『耳識と、耳識相応の諸法』は、
『声』を、
『縁じることができ!』、
『鼻識と、鼻識相応の諸法』は、
『香』を、
『縁じることができ!』、
『舌識と、舌識相応の諸法』は、
『味』を、
『縁じることができ!』、
『身識と、身識相応の諸法』は、
『触』を、
『縁じることができ!』、
『意識と、意識相応の諸法』は、
『法』を、
『縁じることができ!』、
亦た、
『眼、色、眼識を縁じることができ!』、
『耳、声、耳識を縁じることができ!』、
『鼻、香、鼻識を縁じることができ!』、
『舌、味、舌識を縁じることができ!』、
『身、触、身識を縁じることができ!』、
『意、法、意識を縁じることができる!』。
是れを、
『縁相』と、
『称する!』。
  (えん):条件( condition )、梵語 pratyaya の訳、間接的原因/二次的原因/補助的原因/原因となるべき状況/原因となるべき条件( indirect cause; secondary cause; associated conditions; causal situation, causal condition )。有らゆる事物は、原因/結果の原理の対象であるが、結果を生じさせる原因を助ける為めの条件/状況があり、間接的原因と呼ばれる( All things are subject to the principle of cause and effect, but there are conditions/circumstances that aid the causes that produce an effect, which are called indirect causes )。仏教は一般的に因果関係に強い関心を寄せているが、特に因縁生起の法則に見られるような、原因や要因に関する事柄は、ほとんど有らゆる議論に於いて見られる( Given the strong attention that Buddhism pays in general to matters of causation, especially as seen in the theory of dependent arising, the matter of associated causes and factors is seen in almost any discussion )。因を種に喩えれば、緣は土、雨、日光等に喩えられる( Hetu is like a seed, pratyaya the soil, rain, sunshine, etc )。認識に関する仏教理論、特に唯識に於いては、縁は通常、知覚力のある対象をいい、認識機能 [識] の為めに必要なものである( In Buddhist theories of cognition, especially in Yogācāra, 緣 is used to refer to the perceptual objects that are necessary for the function of the consciousnesses 識 )。此の意味に於いて、境といわれる対象の概念と幾分重なっている( In this sense, there is some overlap with the concept of 'object' expressed in Chinese as 境 ( Skt. aalambana ) )。従って、有る対象として捉えること/把握すること/関係づけること/関係づけられること( Thus, to take as an object. To lay hold of; connect with; be connected with )。心が外界の対象に向うこと/感じること/知覚/認識( The mind facing an object of the external world. To sense, perceive or cognize )。◯梵語 nidaana の訳、原因的状況( causal situation )。四縁の一( A reference to the four kinds of causes 四緣 )。
增上相者一切有為法各各增上。無為法亦於有為法有增上。是名增上相。 増上相とは、一切の有為法は、各各増上し、無為法も亦た有為法に於いて増上有り。是れを増上相と名づく。
『増上相』とは、
『一切の有為法』は、
各各が、
『増上し( to make oneself become stronger )!』、
『無為法』も、
『有為法』を、
『増上することが有る!』ので、
是れを、
『増上相』と、
『称する!』。
  増上(ぞうじょう):上級の( superior )、梵語 aadhipai の訳、至上/主権/力( supremacy, sovereignty, power )、卓越した/優勢な/圧倒的な/支配的な( surpassing, predominating, overwhelming, dominant )の義、梵語 adhipati は、元と国王が臣民に対してふるう支配的な力を指す( The Sanskrit adhipati originally refers to the predominating power wielded by a king over his subjects. )が、此の言葉は一般的には、前進する/増進するる/より強くなるの意味であり、上進に似ている( The general sense of the term is that of advancing, increasing, becoming steadily more intense, like 上進. )、その発展を目的として、何物かに強さと重みを掛けること/何物かをより強く、或は偉大にさせること/加速する/増大する/発展する( To put more strength or weight into something to aid in its development; to make something become stronger or greater. To accelerate, increase, develop. )。
因果相者一切法各各為因各各為果是名因果相。 因果相とは、一切法は各各因と為り、各各果と為る。是れを因果相と名づく。
『因果相』とは、
『一切の法』は、
各各が、
『因と為り!』、
『果と為る!』ので、
是れを、
『因果相』と、
『称する!』。
總相別相者一切法中各各有總相別相。如馬是總相白是別相。如人是總相若失一耳則是別相。如是各各展轉皆有總相別相。是為總相別相。 総相、別相とは、一切法中には各各総相、別相有り。馬は是れ総相にして、白は是れ別相なるが如く、人は是れ総相なるも、若し一耳を失わば、則ち是れ別相なるが如し。是の如く各各展転して、皆総相、別相有り。是れを総相、別相と為す。
『総相、別相』とは、
『一切の法』中には、
各各に、
『総相、別相』が、
『有る!』。
例えば、
『馬は、総相であるが!』、
『白』は、
『別相であり!』、
又、
『人は、総相であるが!』、
若し、
『一耳』を、
『失えば!』、
是れが、
『別相である!』。
是のように、
各各
『展転して( turn and turn about )!』、
皆、
『総相、別相』が、
『有る!』。
是れを、
『総相、別相』と、
『称する!』。
依相者諸法各共相依止。如草木山河依止於地地依止水。如是一切各各相依。是名依止相。依止相攝一切法。如是等一法門相攝一切法。 依相とは、諸法は各共に相い依止す。草木、山河は地に依止し、地は水に依止するが如し。是の如く一切は、各各相い依れば、是れを依止相と名づけ、依止相に、一切法を摂す。是れ等の如き一法門の相に、一切法を摂す。
『依相』とは、
『諸法』は、
各が、
『共に( all together )!』、
『相い依止する( to depend on each other )!』。
例えば、
『草木や、山河』は、
『地』に、
『依止し!』、
『地』は、
『水』に、
『依止するように!』、
是のように、
『一切の法』は、
各各が、
『相い依る!』ので、
是れを、
『依止相』と、
『称し!』、
『依止相』に、
『一切法』を、
『摂する( to be contained )!』。
是れ等のように、
『一法門の相』に、
『一切の法』を、
『摂するのである!』。
復次二法門攝一切法。所謂色無色法。可見不可見法。有對無對法。有漏無漏法。有為無為法。內法外法。觀法緣法。有法無法。如是等種種二法門相。三四五六乃至無量法門相攝一切法。是諸法皆空如上說。名一切法空。 復た次ぎに、二法の門に一切法を摂す、謂わゆる色と無色の法、可見と不可見の法、有対と無対の法、有漏と無漏の法、有為と無為の法、内法と外法、観法と縁法、有法と無法、是れ等の如き種種の二法門の相、三、四、五、六、乃至無量の法門の相に一切法を摂す。是の諸法の皆空なること、上に説けるが如きを、一切法空と名づく。
復た次ぎに、
『二法の門』に、
『一切の法を摂する!』、
謂わゆる、
『色と無色の法、可見と不可見の法、有対と無対の法や!』、
『有漏と無漏の法、有為と無為の法や!』、
『内法と外法、観法と縁法、有法と無法である!』。
是れ等のような、
種種の、
『二法門の相や!』、
『三、四、五、六、乃至無量の法門の相に!』、
『一切法』を、
『摂するのである!』が、
是の、
『諸の法』は、
皆、
『上に説くように!』、
『空であり!』、
是れを、
『一切法空』と、
『称するのである!』。
問曰。若皆空者何以說一切法種種名字。 問うて曰く、若し皆空ならば、何を以ってか、一切法の種種の名字を説く。
問い、
若し、
『皆が、空ならば!』、
何故、
『一切法の種種の名字』を、
『説くのですか?』。
答曰。凡夫人於空法中無明顛倒取相故生愛等諸煩惱。因煩惱故起種種業。起種種業故入種種道。入種種道故受種種身。受種種身故受種種苦樂。如蠶出絲無所因自從己出而自纏裹受燒煮苦。 答えて曰く、凡夫人は、空法中に於いて、無明なれば、顛倒して相を取るが故に、愛等の諸の煩悩を生じ、煩悩に因るが故に種種の業を起し、種種の業を起すが故に、種種の道に入り、種種の道に入るが故に、種種の身を受け、種種の身を受くるが故に種種の苦楽を受くるも、蚕の糸を出すこと、所因無くして、自ら己れ従り出し、自ら纏裹して焼煮の苦を受くるが如し。
答え、
『凡夫人』は、
『空法』中に於いて、
『無明』の故に、
『顛倒して!』、
『相』を、
『取る!』ので、
是の故に、
『愛等の諸煩悩』を、
『生じ!』、
『煩悩に因る!』が故に、
『種種の業』を、
『起し!』、
『種種の業を起す!』が故に、
『種種の道』に、
『入り!』、
『種種の道に入る!』が故に、
『種種の身』を、
『受け!』、
『種種の身を受ける!』が故に、
『種種の苦楽』を、
『受けるのである!』が、
例えば、
『蚕( silkworms )が、糸を出す!』のは、
『所因が無く( without causes )!』、
自ら、
『己れより、出した糸で!』、
『自ら、纏裹して( to swathe oneself )!』、
『焼煮の苦』を、
『受けるようなものである!』。
  纏裹(てんか):まとって包む。
  焼煮(しょうしゃ):焼いて煮る。
聖人清淨智慧力故分別一切法本末皆空。欲度眾生故說其著處。所謂五眾十二入十八界等。汝但以無明故而生五眾等自作自著。若聖人但說空者不能得道。以無所因無所厭故。 聖人は清浄なる智慧の力の故に、一切法の本末皆空なるを分別し、衆生を度せんと欲するが故に、其の著する処を説きたまわく、『謂わゆる五衆、十二入、十八界等は、汝但だ無明を以っての故に、五衆等を生じ、自ら作りて、自ら著すのみ』、と。若し聖人にして、但だ空を説きたまわば、道を得る能わず、所因無く、厭う所の無きを以っての故なり。
『聖人』は、
『清浄な智慧の力』の故に、
『一切法の本末』は、
皆、
『空である!』と、
『分別され!』、
『衆生を度そうとされた!』が故に、
其の、
『著する!』、
『処』を、
こう説かれた、――
謂わゆる、
『五衆や、十二入や、十八界』等は、
お前達が、
但だ、
『無明である!』が故に、
『生じたものであり!』、
是の、
『五衆』等を、
『自ら作って!』、
『自ら著するのである!』、と。
若し、
『聖人』が、
但だ、
『空しか!』、
『説かれなかったならば!』、
誰も、
『道』を、
『得ることはできなかったであろう!』。
何故ならば、
『道の因である!』、
『業』も、
『無く!』、
『厭うべき!』、
『道』も、
『無いからである!』。
問曰。汝言一切法空是事不然。何以故。一切法各各自相攝故。如地堅相水濕相火熱相風動相心為識相慧為知相。如是一切法各自住其相云何言空。 問うて曰く、汝は、一切法は空なりと言えるも、是の事は然らず。何を以っての故に、一切法は、各各自相を摂するが故なり。地の堅相、水の湿相、火の熱相、風の動相、心を識相と為し、慧を知相と為すが如し。是の如く一切の法は、各自ら其の相に住すれば、云何が、空なりと言う。
問い、
お前は、
『一切の法』は、
『空である!』と、
『言う!』が、
是の、
『事』は、
『然うでない( be false )!』。
何故ならば、
『一切の法』は、
各各、
『自相』を、
『摂するからである!』。
例えば、
『地は堅相、水は湿相、火は熱相、風は動相であり!』、
『心は識相であり、慧は知相である!』が、
是のように、
『一切の法』は、
各、
『自相』に、
『住するのに!』、
何故、
『空だ!』と、
『言うのですか?』。
答曰。性空自相空中已破。今當更說。相不定故不應是相。如酥蜜膠蠟等皆是地相。與火合故自捨其相轉成濕相。金銀銅鐵與火合故亦自捨其相變為水相。如水得寒成冰轉為地相。如人醉睡入無心定凍冰中魚皆無心識。捨其心相無所覺知。如慧為知相入諸法實相則無所覺知自捨知相。是故諸法無有定相。 答えて曰く、性空、自相空中に已に破りたるも、今当に更に説くべし。相は不定なるが故に、応に是れ相なるべからず。酥、蜜、膠、蝋等は、皆是れ地相なるも、火と合するが故に、自ら其の相を捨て、転じて湿相を成じ、金銀銅鉄も火と合するが故に、亦た自ら其の相を捨て、変じて水相を為すが如く、水は寒を得れば氷と成り、転じて地相を為すが如く、人酔うて睡れば、無心定に入り、凍氷中の魚の皆心識無きが如きは、其の心相を捨てて、覚知する所無し。慧を知相と為すが如きは、諸法の実相に入れば、則ち覚知する所無く、自ら知相を捨つ。是の故に諸法には、定相有ること無し。
答え、
『性空、自相空』中に、
已に、
『破った!』が、
今、更に説かねばなるまい、――
『相』は、
『定まらない!』が故に、
是れが、
『相であるはずがない!』。
例えば、
『酥、蜜、膠、蝋』等は、
皆、
『地相である!』が、
『火と合する!』が故に、
『自相』を、
『捨て!』、
『転じて!』、
『湿相』と、
『成る!』し、
『金、銀、銅、鉄』も、
亦た、
『火と合する!』が故に、
『自相』を、
『捨てて!』、
『変じて!』、
『水相』と、
『為る!』し、
例えば、
『水』は、
『寒を得れば( to get cold )!』、
『氷と成って!』、
『地相』に、
『転じる!』し、
例えば、
『人』が、
『酔って睡れば!』、
『無心定』に、
『入り!』、
『凍氷中の魚』も、
皆、
『心識』が、
『無い!』ので、
其の、
『心相(識相)を捨てて!』、
『覚知する!』所が、
『無い!』し、
例えば、
『慧』は、
『知相である!』が、
『諸法の実相』に、
『入れば!』、
則ち、
『覚知する!』所が、
『無くなり!』、
自ら、
『知相』を、
『捨てることになる!』。
是の故に、
『諸法』には、
皆、
『定相』が、
『無いのである!』。
復次若謂諸法定相是亦不然。所以者何。如未來法相不應來至現在。若至現在則捨未來相。若不捨未來相入現在者未來則是現在為無未來果報。若現在入過去則捨現在相。若不捨現在相入過去過去則是現在如是等過。則知諸法無有定相。 復た次ぎに、若し、『諸法は定相なり』、と謂えば、是れ亦た然らず。所以は何んとなれば、未来の法相の如きは、応に来たりて、現在に至るべからず。若し現在に至らば、則ち未来の相を捨てん。若し未来の相を捨てずして、現在に入らば、未来は則ち是れ現在にして、未来の果報無しと為さん。若し現在にして、過去に入らば、則ち現在の相を捨てん。若し現在の相を捨てずして、過去に入らば、過去は則ち是れ現在ならん。是れ等の如き過は、則ち諸法に定相有ること無きを知る。
復た次ぎに、
若し、
『諸法』は、
『定相である!』と、
『謂えば!』、
是の、
『事』も、
『然うでない!』。
何故ならば、
若し、
『未来の法相ならば!』、
『現在に!』、
『来至する( to arrive )はずがないからである!』。
若し、
『現在に至れば!』、
『未来の相』を、
『捨てることになる!』が、
若し、
『未来の相を捨てずに、現在に入れば!』、
『未来は、現在となり!』、
『未来の果報』を、
『無くすことになるだろう!』。
若し、
『現在が、過去に入れば!』、
『現在の相』を、
『捨てることになる!』が、
若し、
『現在の相を捨てずに、過去に入れば!』、
『過去』は、
『現在となる!』ので、
是れ等のような
『過が有る!』ので、
『諸法には、定相が無い!』と、
『知ることになる!』。
復次若謂無為法定有者應別自有相。如火自有熱相不因他作相。是故當知無為法無相故實無。 復た次ぎに、若し、『無為法は、定有なり』、と謂わば、応に自ら別して相有るべし。火に自ら熱相有らば、他に因らずに相を作すが如し。是の故に当に知るべし、無為法には相無きが故に、実無しと。
復た次ぎに、
若し、
『無為法』は、
『定んで有る!』と、
『謂えば!』、
『自らとは別に!』、
『相』が、
『有るはずである!』。
譬えば、
『火に!』、
『自ら!』、
『熱相』が、
『有れば!』、
『薪等に因らずに!』、
『相』を、
『作すからである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『無為法』は、
『無相である!』が故に、
『実( the substance )』が、
『無い!』、と。
復次汝以未來世中非智緣滅法是有為法而無有為相。若汝謂以非智緣盡是滅相是亦不然。所以者何。無常滅故是名滅相。非以非智緣滅故名為滅相。如是等種種無有定相。若有定相可使不空而無定相而不空者是事不然。 復た次ぎに、汝は、未来世中の非智縁滅の法を以って、是れ有為法となすも、有為の相無し。若し汝、非智縁尽を以って、是れ滅相なりと謂えば、是れ亦た然らず。所以は何んとなれば、無常滅するが故に、是れを滅相と名づくるも、非智縁滅を以っての故に名づけて、滅相と為すに非ざればなり。是れ等の如き種種は、定相有ること無し。若し定相有れば、不空ならしむべきも、定相無くして、不空なれば、是の事然らず。
復た次ぎに、
お前は、
『未来世』中の、
『非智縁滅の法』は、
『有為法である!』と、
『謂う!』が、
而し、
『有為の相』が、
『無い!』。
若し、
お前が、
『非智縁尽』は、
『滅相である!』と、
『謂えば!』、
是れも、
亦た、
『然うでない!』。
何故ならば、
『無常が、滅する!』が故に、
是れを、
『滅相』と、
『呼んでも!』、
『非智縁滅』の故に、
是れを、
『滅相』と、
『称するのではないからである!』。
是れ等のように、
種種の、
『因緣』で、
『定相』は、
『無いのであり!』、
若し、
『定相』が、
『有れば!』、
『空でなくすることもできる!』が、
『定相』が、
『無いのに!』、
『空でなければ!』、
是の、
『事』は、
『然うでない!』。
  非智縁滅(ひちえんめつ):また非数縁尽といい、また非智縁尽、非択滅無為と称す。無為法の一なり。数縁尽とは、即ち数とは新訳に謂う所の心所法なり。善悪の心所法は、その数許多なるが故に、これを数法といい、今は智慧の数法と為す。智慧の数法に縁じて、煩悩を断じ、得る所の尽滅を、数縁滅という。即ち涅槃なり。智慧の数法に依る縁に非ず、僅かに能生の縁を見るに依り、諸法を滅尽に帰す、これを非数縁尽という。「大智度論巻98」に、「阿毘曇に言うが如きは、一切の有為法、及び虚空、非数縁尽を名づけて、有上法と為す。数縁尽は、これ無上法なり。数縁尽は、即ちこれ涅槃の別名なり」と云えるこれなり。<(望)
問曰。應實有法不空。所以者何。凡夫聖人所知各異。凡夫所知是虛妄。聖人所知是實。依實聖智故捨虛妄法。不可依虛妄捨虛妄。 問うて曰く、応に実有の法は不空なるべし。所以は何んとなれば、凡夫、聖人の知る所は、各異なればなり。凡夫の知る所は、是れ虚妄なるも、聖人の知る所は、是れ実なり。実に依る聖智の故に、虚妄の法を捨つるも、虚妄に依りて、虚妄を捨つるべからず。
問い、
『実に有る!』、
『法』は、
『空であるはずがない!』。
何故ならば、
『凡夫と、聖人は!』、
『知る!』所が、
『異なり!』、
『凡夫』の、
『知る!』所は、
『虚妄である!』が、
『聖人』の、
『知る!』所は、
『実だからである!』。
『実に依る!』、
『聖智である!』が故に、
『虚妄の法』を、
『捨てるのであり!』、
『虚妄に依って!』、
『虚妄』を、
『捨てることはできない!』。
答曰。為破凡夫所知故名為聖智。若無凡夫法則無聖法。如無病則無藥。是故經言。離凡夫法更無聖法。凡夫法實性即是聖法。 答えて曰く、凡夫の知る所を破る為の故に、名づけて聖智と為す。若し凡夫の法無くんば、則ち聖法無し。病無ければ、則ち薬無きが如し。是の故に経に言わく、『凡夫法を離れて、更に聖法無し』、と。凡夫法の実性は、即ち是れ聖法なり。
答え、
『凡夫の知る!』所を、
『破る!』が故に、
『聖智』と、
『呼ばれる!』が、
若し、
『凡夫の法が無ければ!』、
『聖法』も、
『無いことになる!』。
譬えば、
『病が無ければ!』、
『薬』が、
『無いようなものである!』。
是の故に、
『経』に、こう言うのである、――
『凡夫法』を、
『離れて!』、
更に、
『聖法』は、
『無い!』、と。
『凡夫の法』の、
『実性』とは、
『聖法だからである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻26平等品』:『佛告須菩提。若諸法平等與佛有異。應當如是問。須菩提。今諸凡夫人平等。諸須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。諸菩薩摩訶薩諸佛。及聖法皆平等。是一平等無二。所謂是凡夫人是須陀洹乃至佛。是一切法等中皆不可得。須菩提白佛言。世尊若諸法等中皆不可得。是凡夫人乃至是佛。世尊。凡夫人須陀洹乃至佛為無有分別。佛告須菩提。如是如是。諸法平等中無有分別。是凡夫人是須陀洹乃至是佛。世尊。若無分別諸凡夫人須陀洹乃至佛。云何分別有三寶。現於世佛寶法寶僧寶。佛言。於汝意云何。佛寶法寶僧寶與諸法等異不。須菩提白佛言。如我從佛所聞義。佛寶法寶僧寶與諸法等無異。世尊。是佛寶法寶僧寶即是平等。是法皆不合不散。無色無形無對一相。所謂無相。佛有是力能分別無相諸法處所。是凡夫人是須陀洹是斯陀含是阿那含是阿羅漢是辟支佛。是菩薩摩訶薩是諸佛。佛告須菩提。如是如是。若諸佛得阿耨多羅三藐三菩提不分別諸法。‥‥』
復次聖人於諸法不取相亦不著。是故聖法為真實。凡夫於諸法取相亦著。故以凡夫人法為虛妄。聖人雖用而不取相。不取相故則無定相。如是不應為難。於凡夫地著法分別是聖法是凡夫法。若於賢聖地則無所分別。為斷眾生病故言是虛是實。 復た次ぎに、聖人は、諸法に於いて相を取らず、亦た著せざれば、是の故に聖法を真実と為す。凡夫は、諸法に於いて相を取りて亦た著するが故に、凡夫人の法を以って、虚妄と為す。聖人は用うと雖も、相を取らず、相を取らざるが故に則ち定相無し。是の如きは応に難ぜらるべからず。凡夫地に於いては、法に著して、是れ聖法なり、是れ凡夫の法なりと分別するも、若し賢聖の地に於いては、則ち分別する所無く、衆生の病を断ぜんが為の故に、是れ虚なり、是れ実なり、と言う。
復た次ぎに、
『聖人』は、
『諸法』に於いて、
『相を取ることもなく!』、
『相』に、
『著すこともない!』ので、
是の故に、
『聖法』は、
『真実である!』が、
『凡夫』は、
『諸法』に於いて、
『相を取り!』、
『相』に、
『著す!』が故に、
『凡夫人の法』を、
『虚妄だ!』と、
『言うのである!』。
『聖人』は、
『相を用いても!』、
『相』を、
『取らず!』、
『相を取らない!』が故に、
『定相』が、
『無いのである!』から、
是のような、
『聖人の法』を、
『難じてはならない!』。
『凡夫の地』に於いては、
『法に著して!』、
『是れは聖法である、是れは凡夫法である!』と、
『分別する!』が、
『賢聖の地』に於いては、
『分別されるべき!』、
『法』が、
『無く!』、
『衆生の病を断じる!』為の故に、
『是れは虚である、是れは実である!』と、
『言うのである!』。
如說佛語非虛非實非縛非解不一不異。是故無所分別清淨如虛空。 『仏語は、虚に非ず、実に非ず、縛に非ず、解に非ず、一にあらず、異にあらざれば、是の故に分別する所無く、清浄なること虚空の如し』、と説けるが如し。
例えば、こう説かれている通りである、――
『仏の語』は、
『虚でもなく、実でもなく!』、
『縛でもなく、解でもなく!』、
『一でもなく、異でもない!』ので、
是の故に、
『分別する所が無く!』、
『虚空のように!』、
『清浄である!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻10法施品』:『憍尸迦。何等是般若波羅蜜義。憍尸迦。般若波羅蜜義者。不應以二相觀。不應以不二相觀。非有相非無相。不入不出不增不損。不垢不淨不生不滅。不取不捨不住非不住。非實非虛非合非散。非著非不著。非因非不因。非法非不法。非如非不如。非實際非不實際。』
復次若法不悉空不應說不戲論為智人相亦不應說。不受不著無所依止。空無相無作名為真法。 復た次ぎに、若し法にして、悉くは空にあらざれば、応に、『不戯論は智人の相なりと説くべからず、亦た応に不受、不著にして、依止する所無く、空、無相、無作なるを名づけて、真法と為す』、と説くべからず。
復た次ぎに、
若し、
『法』が、
『悉く!』が、
『空でなければ!』、
当然、こう説くはずがなく、――
『戯論しなければ!』、
『智人』の、
『相である!』と。
亦た、こう説くはずもない、――
『不受、不著であり!』、
『依止する所が無く!』、
『空、無相、無作ならば!』、
是れを、
『真法』と、
『称する!』と。
問曰。若一切法空即亦是實。云何言無實。 問うて曰く、若し一切法にして空なれば、即ち亦た是れ実なり。云何が、実無しと言う。
問い、
若し、
『一切法が、空ならば!』、
即ち、
是れが、
『実である!』のに、
何故、
『実が無い!』と、
『言うのですか?』。
答曰。若一切法空假令有法已入一切法中破。若無法不應致難。 答えて曰く、若し一切法は空なるに、仮りに法を有らしむれば、已に一切法中に入りて、破れり。若し法無くんば、応に難を致すべからず。
答え、
若し、
『一切法が、空である!』のに、
仮りに、
『法』が、
『有るとするならば!』、
已に、
『一切法』中に、
『入って!』、
『破ったことになる!』ので、
若し、
『法が無くても!』、
『難』を、
『招致する( to invite )はずがない!』。
問曰。若一切法空是真實者。佛三藏中何以多說無常苦空無我法。如經說。佛告諸比丘。為汝說法名為第一義空。何等是第一義空。眼生無所從來滅亦無所去。但有業有業果報。作者不可得。耳鼻舌身意亦復如是。是中若說生無所從來滅亦無所去是常常法不可得故無常。但有業及業果報而作者不可得。是為聲聞法中第一義空。云何言一切法空。 問うて曰く、若し一切法は空にして、是れ真実なれば、仏の三蔵中には、何を以ってか、多く無常、苦、空、無我の法を説く。経に説けるが如し、仏の諸比丘に告げたまわく、『汝が為に説く法を名づけて、第一義空と為す。何等か、是れ第一義空なる、眼は生ずるも従って来たる所無く、滅するも亦た去る所無し。但だ業有り、業の果報有るも、作者は不可得なり、耳鼻舌身意も亦復た是の如し』、と。是の中に、『生ずるも、従って来たる所無く、滅するも亦た去る所無し』、と説きたもうが若(ごと)きは、是れ常なるも、常法の不可得なるが故に無常なり。『但だ業、及び業の果報有るも、作者は不可得なり』、是れを声聞法中の第一義空と為す。云何が、『一切法は空なり』、と言う。
問い、
若し、
『一切の法は空であり!』、
是れが、
『真実ならば!』、
何故、
『仏の三蔵』中には、
多く、
『無常、苦、空、無我の法』が、
『説かれたのですか?』。
例えば、
『経』中には、こう説かれています、――
『仏』は、
『諸の比丘』に、こう告げられた、――
お前の為に説く、
『法』を、
『第一義空』と、
『呼ぶ!』。
何が、
『第一義空なのか?』、――
『眼』は、
『生じても!』、
『来た所』が、
『無く!』、
『滅しても!』、
『去る所』が、
『無い!』。
但だ、
『業や、業の果報が有るだけで!』、
『作者』は、
『不可得( be unrecognizable )なのである!』。
『耳鼻舌身意』も、
亦復た、
『是の通りである!』、と。
是の中に説かれた、
『生じても!』、
『来る所』が、
『無く!』、
『滅しても!』、
『去る所』が、
『無い!』とは、
是れは、
『常』を、
『説いて!』、
『破られたのである!』が、
『常法』は、
『不可得である!』が故に、
『無常である!』が、
こう説かれたのは、――
『但だ業と、業の果報が有るだけで!』、
『作者』は、
『不可得である!』、と。
是れが、
『声聞法』中の、
『第一義空である!』。
何故、
『一切の法は空である!』と、
『言うのですか?』。
  参考:『雑阿含経巻13(335)』:『如是我聞。一時。佛住拘留搜調牛聚落。爾時。世尊告諸比丘。我今當為汝等說法。初.中.後善。善義善味。純一滿淨。梵行清白。所謂第一義空經。諦聽。善思。當為汝說。云何為第一義空經。諸比丘。眼生時無有來處。滅時無有去處。如是眼不實而生。生已盡滅。有業報而無作者。此陰滅已。異陰相續。除俗數法。耳.鼻.舌.身.意亦如是說。除俗數法。俗數法者。謂此有故彼有。此起故彼起。如無明緣行。行緣識。廣說乃至純大苦聚集起。又復。此無故彼無。此滅故彼滅。無明滅故行滅。行滅故識滅。如是廣說。乃至純大苦聚滅。比丘。是名第一義空法經。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰。我是一切諸煩惱根本。先著五眾為我。然後著外物為我所。我所縛故而生貪恚。貪恚因緣故起諸業。如佛說無作者則破一切法中我。 答えて曰く、我は、是れ一切の諸煩悩の根本であり、先に五衆に著して、我と為し、然る後に外物に著して、我所と為し、我に縛せらるるが故に、貪恚を生じ、貪恚の因緣の故に諸業を起す。仏の説きたもうが如し、『作者無ければ、則ち一切法中の我を破せり』、と。
答え、
『我』は、
一切の、
『諸の煩悩』の、
『根本であり!』、
先に、
『五衆に著して!』、
『我である!』と、
『為し( to consider )!』、
その後、
『外物に著して!』、
『我所である!』と、
『為し!』、
『我に縛される!』が故に、
『貪、恚』を、
『生じ!』、
『貪、恚の因緣』の故に、
『諸の業』を、
『起すからである!』。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『作者が無ければ!』、
『一切法中の我』を、
『破ったことになる!』、と。
若說眼無所從來滅亦無所去則說眼無常。若無常即是苦。苦即是非我我所。我我所無故於一切法中心無所著。心無所著故則不生結使。不生結使何用說空。以是故三藏中多說無常苦空無我。不多說一切法空。 若し、『眼の従って来たる所無く、滅して亦た去る所無し』、と説けば、則ち眼の無常を説くなり。若し無常なれば、即ち是れ苦なり。苦は、即ち是れ我我所に非ず。我我所無きが故に、一切法中に於いて著する所無く、心の著する所無きが故に、則ち結使を生ぜず、結使を生ぜざれば、何をか用って空を説く。是を以っての故に三蔵中には、多く無常、苦、空、無我を説くも、一切法の空を説くこと多からず。
若し、
『眼』は、
『生じて来た所が無く、滅して去る所も無い!』と、
『説けば!』、
則ち、
『眼は、無常である!』と、
『説いたことになる!』。
若し、
『無常ならば!』、
是の、
『眼』は、
『苦であり!』、
『苦ならば!』、
『我、我所』は、
『無いということであり!』、
『我、我所が無い!』が故に、
『一切の法』中に、
『心の著する!』所が、
『無く!』、
『心の著する所が無い!』が故に、
則ち、
『結使』を、
『生じない!』。
若し、
『結使を生じなければ!』、
『空を説いても!』、
何に、
『用いるのか?』。
是の故に、
『三蔵』中には、
『無常、苦、空、無我』を、
『多く!』、
『説き!』、
『一切法の空』を、
『説くこと!』は、
『多くないのである!』。
  (ひ):<動詞>[本義]違背する/相反する/相容れない( violate, run counter to, not conform to )。責める/非難する/咎める( blame, censure, reproach )、厭う/嫌う( detest )、諷刺する/当てこする( satirize )、中傷/誹謗する( slander )、避ける( avoid )、無い[無に相当する]( not have )。<名詞>錯誤/間違い( error, wrong )。<副詞>そうでない/~でない[不/不是に相当する]( no, not )。<形容詞>真実でない( untruthful )。邪/不正な( evil )。
復次眾生雖聞佛說無常苦空無我。而戲論諸法。為是人故說諸法空。若無我亦無我所。若無我無我所是即入空義。 復た次ぎに、衆生は、仏の説きたまえる無常、苦、空、無我を聞くと雖も、諸法を戯論すれば、是の人の為の故に、諸法の空を説きたまえり。若し我無ければ、亦た我所無し。若し我無く、我所無ければ、是れ即ち空義に入るなり。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『仏の説かれた!』、
『無常、苦、空、無我』を、
『聞いた!』が、
而し、
『諸法』を、
『戯論した!』ので、
是の、
『人の為に!』、
『諸法は空である!』と、
『説かれたのである!』。
若し、
『諸法』中に、
『我が無ければ!』、
『我所も!』、
『無いはずであり!』、
若し、
『我も、我所も無ければ!』、
『空の義』に、
『入る( to understand deeply )ことになる!』。
問曰。佛何以說有業有果報。若有業有果報是則不空。 問うて曰く、仏は何を以ってか、『業有り、果報有り』、と説きたもう。若し業有り、果報有れば、是れ則ち空にあらず。
問い、
『仏』は、
何故、
『業が有り、果報が有る!』と、
『説かれたのですか?』。
若し、
『業や、果報が有れば!』、
是の、
『業や、果報』は、
『空でないことになります!』。
答曰。佛說法有二種。一者無我二者無法。為著見神有常者故為說無作者。為著斷滅見者故為說有業有業果報。 答えて曰く、仏の説法には二種有り、一には無我、二には無法なり。著して、神の有常なるを見る者の為の故には、為に作者無きを説き、断滅の見に著する者の為の故には、為に業有り、業の果報有りと説きたまえり。
答え、
『仏が、法を説かれる!』には、
『二種有り!』、
一には、
『我は無い!』と、
『説き!』、
二には、
『法は無い!』と、
『説かれたのである!』が、
『常見に著して!』、
『神は、有常であるとする!』者の為には、
『作者は無い!』と、
『説き!』、
『断滅の見に著する!』者の為には、
『業や、業の果報という!』、
『法が有る!』と、
『説かれたのである!』。
若人聞說無作者轉墮斷滅見中。為說有業有業果報。此五眾能起業而不至後世。此五眾因緣生五眾。受業果報相續故。說受業果報。 若し人、『作者無し』、と説くを聞かば、転じて断滅見中に墜つれば、為に『業有り、業の果報有り』、と説く。此の五衆は、能く業を起すも、後世に至らず、此の五衆の因縁もて、五衆を生じ、業の果報を受くること、相続するが故に、『業の果報を受く』、と説く。
若し、
『人』が、
『作者は無い!』と、
『説かれる!』のを、
『聞けば!』、
『心を転じて!』、
『断滅の見』中に、
『堕ちる!』ので、
此の、
『人』の為に、
『業は有るし、業の果報も有る!』と、
『説かれた!』が、
此の、
『五衆』は、
『後世には至らない!』が、
『業』を、
『起すことができ!』、
此の、
『五衆の因縁』の故に、
『五衆を生じて!』、
『業の果報』を、
『受けるのであるが!』、
是のようにして、
『業の因縁と、果報は相続する!』が故に、
『業の果報を受ける!』と、
『説くのである!』。
如母子。身雖異而因緣相續故。如母服藥兒病得差。如是今世後世五眾雖異而罪福業因緣相續故。從今世五眾因緣受後世五眾果報。 母子は、身異なりと雖も、因縁の相続するが故に、如(も)し母薬を服めば、児の病の差(い)ゆるを得るが如し。是の如く、今世と後世の五衆は、異なりと雖も、罪福の業の因縁相続するが故に、今世の五衆の因縁に従って、後世の五衆の果報を受く。
譬えば、
『母、子』は、
『身が異なりながら!』、
『因縁』が、
『相続する!』が故に、
若し、
『母が、薬を服めば!』、
『児の病』が、
『治癒するように!』、
是のように、
『今世と、後世』の、
『五衆は異なりながら!』、
『罪、福の業という!』、
『因縁』が、
『相続する!』が故に、
『今世』の、
『五衆の因縁に従って!』、
『後世の五衆という!』、
『果報』を、
『受けるのである!』。
復次有人求諸法相著一法。若有若無若常若無常等以著法故自法生愛他法生恚而起惡業。為是人故說諸法空。諸法空則無有法。所以者何。所可愛法能生結使。能生結使則是無明因緣。若生無明云何是實是為法空。 復た次ぎに、有る人は、諸法の相を求めて、一法の若しは有、若しは無、若しは常、若しは無常等に著し、法に著するを以っての故に、自法に愛を生じ、他法に恚を生じて、悪業を起せば、是の人の為の故に、諸法の空を説く。諸法は空なれば、則ち法有ること無し。所以は何んとなれば、愛すべき所の法は、能く結使を生じ、能く結使を生ずれば、則ち是れ無明の因緣なり。若し無明を生ずれば、云何が、是れ実ならん。是れを法空と為す。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『諸法の相を求めて!』、
『有や無、常や無常』等の、
『一法』に、
『著し!』、
『法に著する!』が故に、
『自法』には、
『愛』を、
『生じる!』が、
『他法』には、
『恚』を、
『生じる!』ので、
則ち、
『悪業』を、
『生じることになる!』。
是の、
『人の為に!』、
『諸法』は、
『空である!』と、
『説かれた!』が、
『諸法が空ならば!』、
『法』は、
『無いということである!』。
何故ならば、
『愛される法』は、
『結使』を、
『生じさせることになり!』、
『結使を生じさせるということ!』は、
『無明を生じる!』、
『因緣だからである!』。
若し、
『法』が、
『無明』を、
『生じさせるとすれば!』、
何故、
是れが、
『実であろうか?』。
是れを、
『法空』と、
『称するのである!』。
復次眾生有二種。一者著世間二者求出世間。求出世間有上中下。上者利根大心求佛道。中者中根求辟支佛道。下者鈍根求聲聞道。 復た次ぎに、衆生には二種有り、一には世間に著し、二には出世間を求む。出世間を求むるに上、中、下有り。上の者は利根の大心にして、仏道を求め、中の者は中根にして、辟支仏道を求め、下の者は鈍根にして、声聞道を求む。
復た次ぎに、
『衆生』には、
『二種有り!』、
一には、
『世間に!』、
『著す者であり!』、
二には、
『出世間を!』、
『求める者である!』。
『出世間を求める!』者には、
『上、中、下が有り!』、
『上の者』は、
『利根の大心であって!』、
『仏道を求め!』、
『中の者』は、
『中根であって!』、
『辟支仏道を求め!』、
『下の者』は、
『鈍根であって!』、
『声聞道を求める!』。
為求佛道者說六波羅蜜及法空。為求辟支佛者說十二因緣及獨行法。為求聲聞者說眾生空及四真諦法。 仏道を求むる者の為には、六波羅蜜、及び法空を説き、辟支仏を求むる者の為には、十二因縁、及び独行の法を説き、声聞を求むる者の為には、衆生空、及び四真諦の法を説きたもう。
『仏道を求める!』者の為に、
『六波羅蜜と、法空』を、
『説かれ!』、
『辟支仏道を求める!』者の為には、
『十二因縁と、独行の法』を、
『説かれ!』、
『声聞道を求める!』者の為には、
『衆生空と、四真諦の法』を、
『説かれた!』。
聲聞畏惡生死。聞眾生空及四真諦無常苦空無我不戲論諸法。如圍中有鹿既被毒箭一向求脫更無他念。 声聞は、生死を畏れ悪むも、衆生空、及び四真諦の無常、苦、空、無我を聞けば、諸法を戯論せず。囲中に鹿有り、既に毒箭を被れば、一向に脱るるを求めて、更に他念無きが如し。
『声聞』は、
『生死を畏れて、悪んでいる!』ので、
『衆生空や、四真諦の無常、苦、空、無我を聞けば!』、
『諸の法について!』、
『戯論することはない!』。
譬えば、
『囲中の有る!』、
『鹿』が、
既に( already )、
『毒箭』を、
『被っていた!』のに、
一向に( single-mindedly )、
『囲中より脱れることだけを!』、
『求めて!』、
更に、
『他念』が、
『無いようなものである!』。
  (い):猟場のかこい。
辟支佛雖厭老病死。猶能少觀甚深因緣。亦能少度眾生。譬如犀在圍中雖被毒箭。猶能顧戀其子。 辟支仏は、老病死を厭うと雖も、猶お能く少しは、甚だ深き因緣を観、亦た能く少しは衆生を度す。譬えば犀の囲中に在りて、毒箭を被ると雖も、猶お能く其の子を顧恋するが如し。
『辟支仏』は、
『老病死を厭いながらも!』、
猶お( yet )、
『少しは!』、
『甚だ深い因緣』を、
『観ることができ!』、
亦た、
『少しは!』、
『衆生』を、
『度すこともできる!』ので、
譬えば、
『犀』が、
『囲』中に於いて、
『毒箭を被りながら!』、
猶お、
『子』を、
『顧恋する( to look and love )ことができるようなものである!』。
菩薩雖厭老病死。能觀諸法實相究盡深入十二因緣。通達法空入無量法性。譬如白香象王在獵圍中雖被箭射顧視獵者心無所畏。及將營從安步而去。以是故三藏中不多說法空。 菩薩は、老病死を厭うと雖も、能く諸法の実相を観て究尽し、深く十二因縁に入りて、法空に通達し、無量の法性に入る。譬えば白香象王の、猟囲中に在りて、箭を射らるると雖も、猟者を顧視し、心に畏るる所無く、及び営従を将いて安步して去るが如し。是を以っての故に、三蔵中には、法空を説くこと多からず。
『菩薩』は、
『老病死を厭いながらも!』、
『諸法の実相』を、
『観察して!』、
『究尽し!』、
『十二因縁に深く入って!』、
『法空に通達し!』、
『無量の法性』に、
『入る!』ので、
譬えば、
『白香象の王』が、
『猟囲』中に於いて、
『箭を射られながらも!』、
『猟者』を、
『顧視して( to look after )!』、
『心』に、
『畏れる!』所が、
『無く!』、
及び、
『営従を将いて( to lead a battalion )!』、
『安らかに!』、
『歩いて!』、
『去るようなものである!』。
是の故に、
『三蔵』中には、
『法空を説かれること!』が、
『多くないのである!』。
或有利根梵志求諸法實相不厭老病死。著種種法相為是故說法空。所謂先尼梵志不說五眾即是實。亦不說離五眾是實。復有強論梵志佛答我法中不受有無。汝何所論有無是戲論法結使生處。 或いは有る利根の梵志は、諸法の実相を求めて、老病死を厭わざるも、種種の法相に著せば、是の為の故に、法空を説きたもう。謂わゆる先尼梵志には、五衆は即ち是れ実なりと説きたまわず、亦た五衆を離れて是れ実なりとも説きたまわず。復た有る強論梵志に、仏の答えたまわく、『我が法中には有、無を受けず。汝の論ずる所は何ん。有、無は是れ戯論の法にして、結使の生ずる処なり』、と。
或いは、
有る、
『利根の梵志』は、
『諸法の実相を求めて!』、
『老、病、死を厭わなかった!』が、
『種種の法相』に、
『著していた!』ので、
是の、
『人の為に!』、
『法空』を、
『説かれた!』。
謂わゆる、
『先尼梵志』には、
『五衆』は、
『即ち、実である!』とも、
『説かれず!』、
『五衆を離れた!』者が、
『実である!』とも、
『説かれなかった!』のに、
復た( and )、
有る、
『強論の梵志』に、
『仏』は、こう答えられたのである、――
わたしの、
『法』中には、
『有とか、無とか!』を、
『受けない( not to accept )!』が、
お前の、
『論じる!』所では、
『受けるのか、受けないのか?』、
『何うなのか?』。
『有とか、無とか!』は、
『戯論の法であり!』、
『結使の生じる処なのだが!』、と。
  先尼梵志(せんにぼんし):梵名senika。また西尼、西儞迦、霰尼に作り、意訳して有軍、勝軍と為す。即ち神我を篤く信ずる者にして、「心常相滅」を崇奉する外道なり。また「涅槃経巻39」に、「その時、衆中に梵志有り、先尼と名づく、またこの言を作さく、瞿曇に我有りや、と。如来黙然たり。瞿曇に我無きや。如来黙然たり」と云えるこれなり。また「雑阿含経巻5」、「摩訶般若波羅蜜経巻3」等に出づ。<(望)
  強論梵志(ごうろんぼんし):長爪梵志。『大智度論巻11』、『雑阿含経巻34(969)』参照。
  参考:『雑阿含経巻5(105)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。有外道出家名仙尼。來詣佛所。恭敬問訊。於一面坐。白佛言。世尊。先一日時。若沙門.若婆羅門.若遮羅迦.若出家。集於希有講堂。如是義稱。富蘭那迦葉為大眾主。五百弟子前後圍遶。其中有極聰慧者.有鈍根者。及其命終。悉不記說其所往生處。復有末迦梨瞿舍利子為大眾主。五百弟子前後圍遶。其諸弟子有聰慧者.有鈍根者。及其命終。悉不記說所往生處。如是先闍那毘羅胝子.阿耆多翅舍欽婆羅.迦羅拘陀迦栴延.尼揵陀若提子等。各與五百弟子前後圍遶。亦如前者。沙門瞿曇爾時亦在彼論中言。沙門瞿曇為大眾主。其諸弟子。有命終者。即記說言。某生彼處.某生此處。我先生疑。云何沙門瞿曇。得如此法。佛告仙尼。汝莫生疑。以有惑故。彼則生疑。仙尼當知。有三種師。何等為三。有一師。見現在世真實是我。如所知說。而無能知命終後事。是名第一師出於世間。復次。仙尼。有一師。見現在世真實是我。命終之後亦見是我。如所知說。復次。先尼。有一師。不見現在世真實是我。亦復不見命終之後真實是我。仙尼。其第一師見現在世真實是我。如所知說者。名曰斷見。彼第二師見今世後世真實是我。如所知說者。則是常見。彼第三師不見現在世真實是我。命終之後。亦不見我。是則如來.應.等正覺說。現法愛斷.離欲.滅盡.涅槃。仙尼白佛言。世尊。我聞世尊所說。遂更增疑。佛告仙尼。正應增疑。所以者何。此甚深處。難見.難知。應須甚深照微妙至到。聰慧所了。凡眾生類。未能辯知。所以者何。眾生長夜異見.異忍.異求.異欲故。仙尼白佛言。世尊。我於世尊所。心得淨信。唯願世尊為我說法。令我即於此座。慧眼清淨。佛告仙尼。今當為汝隨所樂說。佛告仙尼。色是常耶。為無常耶。答言。無常。世尊復問。仙尼。若無常者。是苦耶。答言。是苦。世尊復問仙尼。若無常.苦。是變易法。多聞聖弟子寧於中見我.異我.相在不。答言。不也。世尊。受.想.行.識亦復如是。復問。云何。仙尼。色是如來耶。答言。不也。世尊。受.想.行.識是如來耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。異色有如來耶。異受.想.行.識有如來耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。色中有如來耶。受.想.行.識中有如來耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。如來中有色耶。如來中有受.想.行.識耶。答言。不也。世尊。復問。仙尼。非色。非受.想.行.識有如來耶。答言。不也。世尊。佛告仙尼。我諸弟子聞我所說。不悉解義而起慢無間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。捨此陰已。與陰相續生。是故。仙尼。我則記說。是諸弟子身壞命終。生彼彼處。所以者何。以彼有餘慢故。仙尼。我諸弟子於我所說。能解義者。彼於諸慢得無間等。得無間等故。諸慢則斷。諸慢斷故。身壞命終。更不相續。仙尼。如是弟子我不說彼捨此陰已。生彼彼處。所以者何。無因緣可記說故。欲令我記說者。當記說。彼斷諸愛欲。永離有結。正意解脫。究竟苦邊。我從昔來及今現在常說慢過.慢集.慢生.慢起。若於慢無間等觀。眾苦不生。佛說此法時。仙尼出家遠塵離垢。得法眼淨。爾時。仙尼出家見法.得法。斷諸疑惑。不由他知。不由他度。於正法中。心得無畏。從座起。合掌白佛言。世尊。我得於正法中出家修梵行不。佛告仙尼。汝於正法得出家.受具足戒.得比丘分。爾時。仙尼得出家已。獨一靜處修不放逸。住如是思惟。所以族姓子。剃除鬚髮。正信.非家.出家學道。修行梵行。見法自知得證。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。得阿羅漢。聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『大般涅槃経巻39』:『爾時眾中復有梵志名曰先尼。復作是言。瞿曇有我耶。如來默然瞿曇無我耶。如來默然。第二第三亦如是問。佛皆默然。先尼言。瞿曇若一切眾生有我遍一切處是一作者。瞿曇何故默然不答。佛言。先尼。汝說是我遍一切處耶。先尼答言。瞿曇。不但我說一切智人亦如是說。佛言。善男子。若我周遍一切處者。應當五道一時受報。若有五道一時受報。汝等梵志。何因緣故不造眾惡為遮地獄。修諸善法為受天身。先尼言。瞿曇。我法中我則有二種。一作身我。二者常身我。為作身我修離惡法不入地獄。修諸善法生於天上。佛言。善男子。如汝說我遍一切處。如是我者。若作身中當知無常。若作身無云何言遍。瞿曇。我所立我亦在作中亦是常法。瞿曇。如人失火燒舍宅時其主出去。不可說言舍宅被燒主亦被燒。我法亦爾。而此作身雖是無常。當無常時我則出去。是故我我亦遍亦常。佛言。善男子。如汝說我亦遍亦常。是義不然。何以故。遍有二種。一者常。二者無常。復有二種。一色二無色。是故若言一切有者。亦常亦無常。亦色亦無色。若言舍主得出不名無常。是義不然。何以故。舍不名主主不名舍。異燒異出故得如是。我則不爾。何以故。我即是色色即是我。無色即我我即無色。云何而言色無常時我則得出。善男子。汝意若謂一切眾生同一我者。如是即違世出世法。何以故。世間法名父子母女。若我是一。父即是子子即是父。母即是女女即是母。怨即是親親即是怨。此即是彼彼即是此。是故若說一切眾生同一我者。是即違背世出世法。‥‥』
  参考:『雑阿含経巻34(969)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有長爪外道出家來詣佛所。與世尊面相問訊慰勞已。退坐一面。白佛言。瞿曇。我一切見不忍。佛告火種。汝言一切見不忍者。此見亦不忍耶。長爪外道言。向言一切見不忍者。此見亦不忍。佛告火種。如是知.如是見。此見則已斷.已捨.已離。餘見更不相續.不起.不生。火種。多人與汝所見同。多人作如是見.如是說。汝亦與彼相似。火種。若諸沙門.婆羅門捨斯等見。餘見不起。是等沙門.婆羅門世間亦少少耳。火種。依三種見。何等為三。有一如是見.如是說。我一切忍。復次。有一如是見.如是說。我一切不忍。復次。有一如是見.如是說。我於一忍.一不忍。火種。若言一切忍者。此見與貪俱生。非不貪。與恚俱生。非不恚。與癡俱生。非不癡。繫。不離繫。煩惱。非清淨。樂取。染著生。若如是見。我一切不忍。此見非貪俱.非恚俱.非癡俱。清淨非煩惱。離繫非繫。不樂不取。不著生。火種。若如是見。我一忍.一不忍。彼若忍者。則有貪。乃至染著生。若如是見不忍者。則離貪。乃至不染著生。彼多聞聖弟子所學言。我若作如是見.如是說。我一切忍。則為二者所責.所詰。何等二種。謂一切不忍。及一忍.一不忍。則為此等所責。責故詰。詰故害。彼見責.見詰.見害故。則捨所見。餘見則不復生。如是斷見.捨見.離見。餘見不復相續。不起不生。彼多聞聖弟子作如是學。我若如是見.如是說。我一切不忍。者則有二種二詰。何等為二。謂我一切忍。及一忍.一不忍。如是二責二詰。乃至不相續。不起不生。彼多聞聖弟子作如是學。我若作如是見.如是說。一忍.一不忍。則有二責二詰。何等二。謂如是見.如是說。我一切忍。及一切不忍。如是二責。乃至不相續。不起不生。復次。火種。如是身色麤四大。聖弟子當觀無常.觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。若聖弟子觀無常.觀滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨住者。於彼身.身欲.身念.身愛.身染.身著。永滅不住。火種。有三種受。謂苦受.樂受.不苦不樂受。此三種受。何因。何集。何生。何轉。謂此三受觸因.觸集.觸生.觸轉。彼彼觸集。則受集。彼彼觸滅。則受滅。寂靜.清涼.永盡。彼於此三受。覺苦.覺樂.覺不苦不樂。彼彼受若集.若滅.若味.若患.若出如實知。如實知已。即於彼受觀察無常.觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。彼於身分齊受覺如實知。於命分齊受覺如實知。若彼身壞命終後。即於爾時一切受永滅.無餘永滅。彼作是念。樂受覺時。其身亦壞。苦受覺時。其身亦壞。不苦不樂受覺時。其身亦壞。悉為苦邊。於彼樂覺。離繫不繫。於彼苦覺。離繫不繫。於不苦不樂覺。離繫不繫。於何離繫。離於貪欲.瞋恚.愚癡。離於生.老.病.死.憂.悲.惱苦。我說斯等。名為離苦。當於爾時。尊者舍利弗受具足始經半月。時。尊者舍利弗住於佛後。執扇扇佛。時。尊者舍利弗作是念。世尊歎說於彼彼法。斷欲.離欲。欲滅盡.欲捨。爾時。尊者舍利弗即於彼彼法觀察無常。觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。不起諸漏。心得解脫。爾時。長爪外道出家遠塵離垢。得法眼淨。長爪外道出家見法.得法.覺法.入法.度諸疑惑。不由他度。入正法.律。得無所畏。即從坐起。整衣服。為佛作禮。合掌白佛。願得於正法.律出家.受具足。於佛法中修諸梵行。佛告長爪外道出家。汝得於正法.律出家.受具足。成比丘分。即得善來比丘出家。彼思惟。所以善男子剃除鬚髮。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。乃至心善解脫。得阿羅漢。佛說是經已。尊者舍利弗.尊者長爪聞佛所說。歡喜奉行』
及雜阿含中大空經說二種空。眾生空法空。羅陀經中說色眾破裂分散令無所有。筏喻經中說。法尚應捨何況非法。波羅延經利眾經中說。智者於一切法不受不著。若受著法則生戲論。若無所依止則無所論。諸得道聖人於諸法無取無捨。若無取捨能離一切諸見。如是等三藏中處處說法空。如是等名為一切法空 及び雑阿含中の大空経には、『二種の空とは、衆生空、法空なり』、と説き、羅陀経中には、『色衆は破裂分散して、所有無からしむ』、と説き、筏喩経中には、『法すら尚お応に捨つべし。何に況んや、非法をや』、と説き、波羅延経、利衆経中に説かく、『智者は一切法に於いて受けず、著せず。若し法を受けて著すれば、則ち戯論を生ず。若し依止する所無ければ、則ち論ずる所無し。諸の得道の聖人は、諸法に於いて、取無く、捨無し。若し取、捨無ければ、能く一切の諸見を離る』、と。是れ等の如く、三蔵中の処処に法空を説く。是れ等の如きを名づけて、一切法の空と為す。
及び、
『雑阿含中の大空経』には、こう説かれている、――
『二種の空』とは、
『衆生空と!』、
『法空である!』と。
『羅陀経』中には、こう説かれている、――
『色法』は、
『破裂し、分散すれば!』、
『無所有になる!』、と。
『筏喩経』中には、こう説かれている、――
『法すら!』、
『尚お、捨てなくてはならない!』、
況して、
『法でなければ!』、
『尚更である!』、と。
『波羅延経や、利衆経』中には、こう説かれている、――
『智者』は、
『一切法』を、
『受けることもなく!』、
『著することもない!』。
若し、
『法』を、
『受けたり!』、
『著したりすれば!』、
則ち、
『戯論』を、
『生じることになる!』が、
若し
『依止すべき!』、
『法』が、
『無ければ!』、
則ち、
『論じる!』所が、
『無いということである!』。
『諸の得道の聖人』は、
『諸法』を、
『取ることもなく!』、
『捨てることもない!』。
若し、
『取ったり、捨てたりしなければ!』、
『一切の諸見』を、
『離れることができる!』、と。
是れ等のように、
『三蔵』中には、
処処に、
『法空』が、
『説かれている!』。
是れ等を、
『一切法の空』と、
『称するのである!』。
  無所有(むしょう):◯梵語 akiMcana, aakiMcanya の訳、何物も無い/何物も所有しない( without anything, having nothing, nothing whatsoever )の義。◯梵語 abhaava の訳、存在しない/実在しない( nothing existing, nonexisting, the immaterial )の義。
  大空経:『雑阿含経巻34(297)』参照。
  羅陀経:『雑阿含経巻6(122)』参照。
  筏喩経:『中阿含経巻54阿梨咤経』、『大智度論巻1下』参照。
  波羅延経:『中阿含経巻39波羅延経』、『大智度論巻3下』参照。
  利衆経:不明。『大智度論巻27上』参照。
  参考:『雑阿含経巻34(297)』:『如是我聞。一時。佛住拘留搜調牛聚落。爾時。世尊告諸比丘。我當為汝等說法。初.中.後善。善義善味。純一清淨。梵行清白。所謂大空法經。諦聽。善思。當為汝說。云何為大空法經。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。緣行識。乃至純大苦聚集。緣生老死者。若有問言。彼誰老死。老死屬誰。彼則答言。我即老死。今老死屬我。老死是我。所言。命即是身。或言。命異身異。此則一義。而說有種種。若見言。命即是身。彼梵行者所無有。若復見言。命異身異。梵行者所無有。於此二邊。心所不隨。正向中道。賢聖出世。如實不顛倒正見。謂緣生老死。如是生.有.取.愛受.觸.六入處.名色.識.行。緣無明故有行。若復問言。誰是行。行屬誰。彼則答言。行則是我。行是我所。彼如是。命即是身。或言。命異身異。彼見命即是身者。梵行者無有。或言命異身異者。梵行者亦無有。離此二邊。正向中道。賢聖出世。如實不顛倒正見所知。所謂緣無明行。諸比丘。若無明離欲而生明。彼誰老死。老死屬誰者。老死則斷。則知斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世成不生法。若比丘無明離欲而生明。彼誰生。生屬誰。乃至誰是行。行屬誰者。行則斷。則知斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世成不生法。若比丘無明離欲而生明。彼無明滅則行滅。乃至純大苦聚滅。是名大空法經。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『雑阿含経巻6(122)』:『如是我聞。一時。佛住摩拘羅山。時。有侍者比丘名曰羅陀。白佛言。世尊。所謂眾生者。云何名為眾生。佛告羅陀。於色染著纏綿。名曰眾生。於受.想.行.識染著纏綿。名曰眾生。佛告羅陀。我說於色境界當散壞消滅。於受.想.行.識境界當散壞消滅。斷除愛欲。愛盡則苦盡。苦盡者我說作苦邊。譬如聚落中諸小男小女嬉戲。聚土作城郭宅舍。心愛樂著。愛未盡.欲未盡.念未盡.渴未盡。心常愛樂.守護。言。我城郭。我舍宅。若於彼土聚愛盡.欲盡.念盡.渴盡。則以手撥足蹴。令其消散。如是。羅陀。於色散壞消滅愛盡。愛盡故苦盡。苦盡故我說作苦邊。佛說此經已。羅陀比丘聞佛所說。歡喜奉行』
不可得空者。有人言。於眾界入中我法常法不可得故。名為不可得空。有人言。諸因緣中求法不可得。如五指中拳不可得故名為不可得空。有人言。一切法及因緣畢竟不可得故名為不可得空。 不可得空とは、有る人の言わく、『衆、界、入』中に於いて、我法、常法は不可得なるが故に、名づけて不可得空と為す』、と。有る人の言わく、『諸の因緣中に法を求むるも、不可得なり。五指中に拳の不可得なるが如きが故に名づけて、不可得空と為す』、と。有る人の言わく、『一切法、及び因緣は、畢竟じて不可得なるが故に名づけて、不可得空と為す』、と。
『不可得空』とは、
有る人は、こう言っている、――
『五衆、十八界、十二入』中に、
『我法や、常法』は、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
譬えば、
『五指』中に、
『拳を求めても!』、
『不可得であるように!』、
諸の、
『因緣』中に、
『法を求めても!』、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『一切法や、因緣』は、
『畢竟じて不可得である!』が故に、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
問曰。何以故。名不可得空。為智力少故不可得為實無故不可得。 問うて曰く、何を以っての故に、不可得空と名づく。智力少なきが故に不可得と為すや、実に無きが故に不可得と為すや。
問い、
何故、
『不可得空と呼ぶのですか?』、――
『智力が、少ない!』が故に、
『不可得なのですか?』、
『実に、無い』が故に、
『不可得なのですか?』。
答曰。諸法實無故不可得。非智力少也。 答えて曰く、諸法は実に無きが故に不可得なり。智力少なきに非ず。
答え、
『諸法』は、
『実に無い!』が故に、
『不可得であり!』、
『智力』が、
『少ない!』が故に、
『不可得なのではない!』。
問曰。若爾者與畢竟空自相空無異。今何以故。更說不可得空。 問うて曰く、若し爾らば、畢竟空、自相空と異無し。今は、何を以っての故に、更に不可得空を説く。
問い、
若し、爾うならば、
『畢竟空や、自相空』と、
『異』が、
『無いのに!』、
今、
何故、
『不可得空』を、
『更に説くのですか?』。
答曰。若人聞上諸空都無所有心懷怖畏生疑。今說所以空因緣以求索不可得故。為說不可得空斷是疑怖故佛說不可得空。所以者何。佛言。我從初發心乃至成佛及十方佛。於諸法中求實不可得。是名不可得空。 答えて曰く、若し人、上の諸空は都て無所有なりと聞かば、心に怖畏を懐きて、疑を生ぜん。今、空の所以(ゆえ)なる因緣を説いて、求索するも不可得なるを以っての故なり。不可得空を説いて、是の疑怖を断ぜんが為の故に仏は不可得空を説きたまえり。所以は何んとなれば、仏の言わく、『我れ初発心より、乃至仏、及び十方の仏と成るまで、諸法中に於いて、実を求むるも不可得なり。是れを不可得空と名づく』、と。
答え、
若し、
『人』が、
上の、
『諸空』は、
『都て、無所有である( be all non-existent )!』と、
『説かれた!』のを、
『聞けば!』、
『心』に、
『怖畏を懐いて!』、
『疑』を、
『生じるだろう!』。
今、
『空とする!』所の、
『因緣を説かれた!』のは、
『空の因緣』を、
『求索しても!』、
『不可得だからであり!』、
『不可得空を説いて!』、
是の、
『疑怖を断じようとされた!』が故に、
『仏』は、
『不可得空』を、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
『仏』は、こう言われたからである、――
わたしは、
『初発心より!』、
乃至、
『仏、及び十方の仏と成るまで!』、
『諸法』中に、
『実を求めた!』が、
『不可得であった!』、
是れを、
『不可得空』と、
『称するのである!』、と。
  参考:『自在王菩薩経巻1』:『自在王菩薩白佛言。世尊頗有所緣。菩薩見如是諸法。而能見佛耶。佛言有。何以故。色是盡相。性無生故。能見色如是。是名見如來。受想行色是盡相。性無生故。能見識如是。是名見如來。戒是無為無作無起相。能見戒如是。是名見如來。定慧解脫知見等亦如是。是名見如來。自在王。我於過去燃燈佛時。得見佛淨。我於爾時。見緣生法故見法。以見法故見如來。自在王言。於燃燈佛已前。云何見諸佛。佛言。以色身相見故見。不以不二法身見故見。今為汝說。我從初發心未曾見佛何以故。不以色相見故。名為見佛。是故自在王。若菩薩欲得見佛應如我見燃燈佛。以諸法一相故。云何一相。如我身燃燈佛身亦如是。如燃燈佛身。亦如是。一身故以不二不別入一法相。是名見緣生法。以見緣生法名為見法。以見法故名為見佛。若菩薩能於一切念中。證滅而不實滅。生死不可得。而以方便智故示是名菩薩智自在』
問曰。何事不可得。 問うて曰く、何なる事か、不可得なる。
問い、
何のような、
『事』が、
『不可得なのですか?』。
答曰。一切法乃至無餘涅槃不可得故名為不可得空。 答えて曰く、一切法、乃至無余涅槃は不可得なるが故に、名づけて不可得空と為す。
答え、
『一切法、乃至無余涅槃は不可得である!』が故に、
『不可得空』と、
『称する!』。
復次行者得是不可得空。不得三毒四流四縛五蓋六愛七使八邪九結十惡諸弊惡垢結等。都不可得故名為不可得空。 復た次ぎに、行者は、是の不可得空を得れば、三毒、四流、四縛、五蓋、六愛、七使、八邪、九結、十悪、諸の弊悪なる垢結等を得ず、都て不可得なる故に、名づけて不可得空と為す。
復た次ぎに、
『行者』が、
是の、
『不可得空を得れば! 、
『三毒、四流、四縛、五蓋、六愛、七使、八邪、九結、十悪や!』、
『諸の弊悪なる垢結』等を、
『得ることはない!』、
是れ等の、
『法は、都て不可得である!』が故に、
『不可得空』と、
『称するのである!』。
  四流(しる):欲、有、見、無明を指し、また四暴流と称す。『大智度論巻3下注:流』参照。
  四縛(しばく):また四結、四身繋、四身縛と作り、衆生の身心を繋縛し、それをして生死に流転せしむる四種の言悩を指す。「三蔵法数巻18」によれば、四縛とは即ち、(一)欲愛身縛:また貪欲身縛に作り、謂わゆる欲界の衆生が、五欲に順情せる等の境に対して、心に貪愛を生死、諸の惑業を起し、身を縛して解脱を得ざるを指す。(二)瞋恚身縛:また瞋瞋縛に作り、謂わゆる欲界の衆生が、五欲に違情せる等の境に対して、瞋恚の煩悩を起して解脱を得ざるを指す。(三)戒盗身縛:また戒取身縛に作り、謂わゆる非因を計りて因と為し、雞戒、狗戒等の邪戒を持守して、惑業を増長し、身を束縛するを指す。(四)我見身縛:また実執取身繋に作り、我見、即ち我執なり、非我の法に於いて妄りに計して我と為し、この我見に由り、諸の惑業を増長して、身を束縛するを指す。また「長阿含経巻8」、「毘婆沙論巻2」、「大毘婆沙論巻48」、「集異門足論巻8」等に出づ。<(佛)
  五蓋(ごがい):梵語paJca aavaraNaaniの訳語にして、蓋は、覆蓋の意なり。乃ち心性を覆蓋し、善法をして生ぜしめざる五種の煩悩なり。即ち(一)貪欲蓋(梵raaga- aavaraNa):五欲の境に執著し貪愛して厭足の有ること無く、心性を蓋覆す。(二)瞋恚蓋(梵pratigha- aavaraNa):違情の境に於いて忿怒を懐き、またよく心性を蓋覆す。(三)惛眠蓋(梵styaana- middha- aavaraNa):また睡眠蓋に作る。惛沈と睡眠とは、皆心性をして法の励起を無からしむ。(四)掉挙悪作蓋(梵auddhatya- kaukRtya- aavaraNa):また掉戯蓋、調戯蓋、掉悔蓋に作り、心の躁動(掉)、或はすでに作せる事に憂悩(悔)す、皆よく心性を蓋覆す。(五)疑蓋(梵vicikitsaa-aavaraNa):法に於いて猶予して決断無く、因って心性を蓋覆す。また諸の煩悩は、皆蓋の義有り、然るにこの五者は、無漏の五蘊に於いて、よく殊勝の障礙と為る。即ち貪欲と瞋恚は、よく戒蘊を障え、惛沈と睡眠は、よく慧蘊を障え、掉挙と悪作は、よく定蘊を障え、疑は、四諦の理を疑う。故にただこの五者と立てて蓋と為すなり。また「雑阿含経巻26」、「大智度論巻17」、「大毘婆沙論巻38、48」、「倶舎論巻21」、「順正理論巻55」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」等に出づ。<(佛)
  六愛(ろくあい):謂わゆる色愛、声愛、香愛、味愛、触愛、法愛なり。即ち愛とは物を貪る意にして、染著の意なり。「長阿含経巻9」参照。
  七使(しちし):貪欲、瞋恚、有愛、慢、無明、見、疑を指す。『大智度論巻2上注:七使』参照。
  八邪(はちじゃ):邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命、邪方便、邪念、邪定をいい、即ち八聖道に反する者を指す。
  九結(くけつ):愛、恚、慢、癡、疑、見、取、慳、嫉を指す。『大智度論巻3下注:結』参照。
問曰。若爾者行是不可得空得何等法利。 問うて曰く、若し爾らば、是の不可得空を行ずれば、何等の法の利をか得る。
問い、
若し、爾うならば、
是の、
『不可得空を行えば!』、
何のような、
『法の利益』を、
『得ることになるのですか?』。
答曰。得戒定慧。得四沙門果五根五無學眾六捨法七覺分八聖道分九次第定十無學法。得如是等是聲聞法。若得般若波羅蜜。則具足六波羅蜜及十地諸功德。 答えて曰く、戒定慧を得て、四沙門果、五根、五無学衆、六捨法、七覚分、八聖道分、九次第定、十無学法を得るも、是れ等の如きを得るは、是れ声聞法なり。若し般若波羅蜜を得れば、則ち六波羅蜜、及び十地の諸功徳を具足す。
答え、
『不可得空を行えば!』、
『戒、定、慧を得て!』、
『四沙門果や!』、
『五根、五無学衆、六捨法、七覚分、八聖道分、九次第定、十無学法を!』、
『得ることになる!』が、
是れ等の、
『法を得る!』のは、
『声聞法である!』。
若し、
『般若波羅蜜を得れば!』、
『六波羅蜜や、十地の諸功徳』を、
『具足することになる!』。
  五無学衆(ごむがくしゅ):また五無漏蘊、無漏五蘊、五分法身、或は略して単に五衆等に作り、意は阿羅漢の五種の功徳を指す。即ち戒、定、慧、解脱、解脱知見なり。『大智度論巻21、22』参照。
  六捨法(ろくしゃほう):色捨、声捨、香捨、味捨、触捨、法捨を指し、即ち六愛を捨つるの義なり。
  十無学法(じゅうむがくほう):阿羅漢果を得る無学人の成就する所の十種の無漏法にして、また十無学支に作る。即ち(一)無学正見:無漏の作意と相応する慧なり。(二)無学正思惟:正見と倶に起こる思惟なり。(三)無学正語:無漏の作意に依り生ずる所の四種の清浄の語業なり。(四)無学正業:無漏の作意に依り生ずる所の三衆の身業なり。(五)無学正命:諸の邪命を遠離す、即ち如法の活命なり。(六)無学正精進:正勤を楽しまんことを欲し、勇猛に堪任す。(七)無学正念:心中明了にして、諸法に於いて忘失せず。(八)無学正定:即ち心住、安住、近住、等住して、心散乱せざるなり。(九)無学正解脱:煩悩の束縛を離るる有為解脱を指す。(十)無学正智:尽智、及び無生智なり、即ち金剛喩定の後、諸漏の尽滅を知るを尽智と名づけ、諸漏の断尽に依りて後有の無生を縁ずるを無生智と為す。この中に、前の八支は即ち八正道なり、これに無学位に至りて初めて得る所の解脱と正智の二支を加えて以って無学の十支と為すなり。「倶舎論巻25」には、この後の二支を立つる理由を明かし、「有学位の中には、なお余縛ありて未だ解脱せざるが故に解脱支無し、少しく縛を離るるを脱者と名づくべきに非ず。無学はすでに諸の煩悩の縛を脱し、またよく二の解脱を了する智を起す。二顕了なるに由りて二支を立つべし。有学は然らず。故にただ八を成ず」と云えり。また「大乗阿毘達磨雑集論巻10」には、この十支は無学の五蘊に依止することを説き、即ち正語、正業、正命は無学の戒蘊、正念、正定は無学の定蘊、正見、正思惟、正精進は無学の慧蘊、正解脱は無学の解脱蘊、正智は無学の解脱知見蘊なりと云えり。また「中阿含巻47五支物主経、巻49聖道経」、「発智論巻16」、「大毘婆沙論巻94」、「顕揚聖教論巻3」、「順正理論巻72」等に出づ。<(佛)
問曰。上言一切法乃至涅槃不可得。今何以言得戒定慧乃至十無學法。 問うて曰く、上に、『一切法、乃至涅槃は不可得なり』、と言えるに、今は、何を以ってか、『戒定慧、乃至十無学法を得』、と言う。
問い、
上には、
『一切法、乃至涅槃』は、
『得られない!』と、
『言いながら!』、
今は、何故、
『戒、定、慧、乃至十無学法』を、
『得ることになる!』と、
『言うのですか?』。
答曰。是法雖得皆助不可得空故亦名不可得。又復無受無著故是名不可得。為無為法故名不可得。聖諦故名不可得。第一義諦故名不可得。聖人雖得諸功德入無餘涅槃故不以為得。凡夫人以為大得。如師子雖有所作不自以為奇。餘眾生見以為希有。如是等義名為不可得空。 答えて曰く、是の法は、得と雖も、皆、不可得空を助くるが故に、亦た不可得と名づけ、又復た無受、無著の故に是れを不可得と名づけ、無為法の為の故に不可得と名づけ、聖諦の故に不可得と名づけ、第一義諦の故に不可得と名づく。聖人は、諸功徳を得て、無余涅槃に入ると雖も、故(ことさら)に以って得と為さざるも、凡夫人は以って、大得と為すこと、師子は、所作有りと雖も、自ら以って奇と為さざるに、餘の衆生は見て以って、希有と為すが如し。是れ等の如き義を名づけて、不可得空と為す。
答え、
是の、
『法』は、
皆、
『不可得空の行を、助ける!』が故に、
『不可得』と、
『称するのであり!』、
又復た、
『無受、無著である!』が故に、
『不可得』と、
『称し!』、
『無為法である!』が故に、
『不可得』と、
『称し!』、
『聖諦を知る!』が故に、
『不可得』と、
『称し!』、
『第一義諦を知る!』が故に、
『不可得』と、
『称する!』。
『聖人』は、
『諸功徳を得て、無余涅槃に入っても!』、
故に( as before )、
是の、
『功徳を得た!』とは、
『思わない!』が、
『凡夫』は、
是れを、
『大いに得た!』と、
『言うのであり!』、
譬えば、
『師子』は、
『所作が有っても!』、
自ら、
『奇である( be incredible )!』とは、
『思わない!』が、
『餘の衆生』は、
『師子の所作を見て!』、
『希有だと!』、
『思うようなものである!』。
是れ等のような、
『義』を、
『不可得空』と、
『称する!』。



無法空、有法空、無法有法空

無法空有法空無法有法空。無法空者。有人言。無法名法已滅。是滅無故名無法空。有法空者諸法因緣和合生故無有法。有法無故名有法空。無法有法空者。取無法有法相不可得。是為無法有法空。 無法空、有法空、無法有法空の無法空とは、有る人の言わく、『無法を、法已に滅すと名づくるに、是の滅無きが故に、無法空と名づく。有法空とは、諸法は因縁和合して生ずるが故に、法有ること無く、有る法の無きが故に有法空と名づく。無法有法空とは、無法、有法の相を取るも不可得なれば、是れを無法有法空と為す。
『無法空、有法空、無法有法空』とは、
有る人は、こう言っている、――
『無法空』とは、
『無法』は、
『法』が、
『已に、滅しているということである!』が、
是の、
『滅するということ!』が、
『無い!』が故に、
是れを、
『無法空』と、
『称するのである!』。
『有法空』とは、
『諸法』は、
『因緣和合の生である!』が故に、
『法』が、
『無く!』、
『有法( existing things )が無い!』が故に、
『有法空』と、
『称する!』。
『無法有法空』とは、
『無法、有法』中に、
『相』を、
『取ろうとしても!』、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『無法有法空』と、
『称する!』。
  有法(うほう):梵語 svabhaava, bhaava の訳、存在するという現象( existent phenomena )の義、無法[兔の角]とは違い、存在する事物( the thing that exists, unlike 'the horns of a hare' which are inexistent )の意。
  無法(むほう):梵語 abhaava の訳、非存在/無効/不在/欠如/無( non-existence, nullity, absence, non-entity, negation )の義、
復次觀無法有法空故名無法有法空。 復た次ぎに、無法有法の空を観ずるが故に、無法有法空と名づく。
復た次ぎに、
『無法( that which is inexistent )や、有法( that which exists )』は、
『空である!』と、
『観る!』が故に、
是れを、
『無法有法空』と、
『称するのである!』。
復次行者觀諸法生滅。若有門若無門。生門生喜滅門生憂。行者觀生法空則滅喜心。觀滅法空則滅憂心。所以者何。生無所得。滅無所失。除世間貪憂故是名無法有法空。 復た次ぎに、行者は、諸法の生、滅、若しは有門、若しは無門を観ずるに、生門には喜を生じ、滅門には憂を生ず。行者は、生法の空なるを観ずれば、則ち喜心を滅し、滅法の空なるを観ずれば、則ち憂心を滅す。所以は何んとなれば、生の得る所無く、滅の失う所無ければなり。世間の貪憂を除くが故に、是れを無法有法空と名づく。
復た次ぎに、
『行者』が、
『諸法』を、
『生門、滅門や、有門、無門より!』、
『観察してみる!』と、
『生門より観察した!』時には、
『喜』を、
『生じ!』、
『滅門より観察した!』時には、
『憂』を、
『生じる!』ので、
『行者』は、
『生法は、空である!』と、
『観察して!』、
『喜心』を、
『滅し!』、
『滅法は、空である!』と、
『観察して!』、
『憂心』を、
『滅するのである!』。
何故ならば、
『生』には、
『得る!』所が、
『無い!』し、
『滅』には、
『失う!』所が、
『無いからであり!』、
是れは
『世間の貪や、憂を除く!』が故に、
『無法有法空』と、
『称するのである!』。
復次十八空中初三空破一切法。後三空亦破一切法。有法空破一切法生時住時。無法空破一切法滅時。無法有法空生滅一時俱破。 復た次ぎに、十八空中の初の三空は一切法を破り、後の三空も亦た一切法を破る。有法空は、一切法の生時、住時を破り、無法空は一切法の滅時を破り、無法有法空は、生滅を一時に倶に破る。
復た次ぎに、
『十八空』中の、
『初の三空(内空、外空、内外空)』は、
『一切の法』を、
『破り!』、
『後の三空(無法空、有法空、無法有法空)』も、
『一切の法』を、
『破る!』。
『有法空』は、
『一切法』の、
『生時と、住時』を、
『破り!』、
『無法空』は、
『一切法』の、
『滅時』を、
『破り!』、
『無法有法空』は、
『生、滅』を、
『同時』に、
『倶に、破るのである!』。
復次有人言。過去未來法空是名無法空。現在及無為法空是名有法空。何以故。過去法滅失變異歸無。未來法因緣未和合。未生未有未出未起。以是故名無法。觀知現在法及無為法。現有是名有法。是二俱空故名為無法有法空。 復た次ぎに、有る人の言わく、『過去、未来の法空は、是れを無法空と名づけ、現在、及び無為の法空は、是れを有法空と名づく。何を以っての故に、過去の法は滅失、変異して無に帰し、未来の法は因縁未だ和合せず、未だ生ぜず、未だ有らず、未だ出でず、未だ起きざれば、是を以っての故に無法と名づく。現在の法、及び無為の法の現に有るを観知すれば、是れを有法と名づけ、是の二は倶に空なるが故に、名づけて無法有法空と為す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『過去と、未来』の、
『法空』を、
『無法空』と、
『称し!』、
『現在と、無為』の、
『法空』を、
『有法空』と、
『称する!』。
何故ならば、
『過去の法』は、
『滅失、変異して!』、
『無』に、
『帰しており!』、
『未来の法』は、
『因緣』が、
『未だ、和合せず!』、
『未だ、生じず!』、
『未だ、有らず!』、
『未だ、出ず!』、
『未だ、起らない!』ので、
是の故に、
『無法』と、
『称し!』、
『現在と、無為の法は現に有る!』と、
『観察し、察知する!』が故に、
『有法』と、
『称し!』、
是の、
『二法は、倶に空である!』が故に、
『無法有法空』と、
『称するのである!』。
復次有人言。無為法無生住滅。是名無法。有為法生住滅。是名有法。如是等空名為無法有法空。是為菩薩欲住內空乃至無法有法空。當學般若波羅蜜
大智度論卷第三十一
復た次ぎに、有る人の言わく、『無為法には生住滅無ければ、是れを無法と名づけ、有為法は生住滅すれば、是れを有法と名づく。是れ等の如き空を、名づけて無法有法空となづく』、と。是れを、『菩薩は、内空、乃至無法有法空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と為す。
大智度論巻第三十一
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『無為法』には、
『生、住、滅が無い!』ので、
是れを、
『無法』と、
『称し!』、
『有為法』は、
『生、住、滅が有る!』ので、
是れを、
『有法』と、
『称すのであり!』、
是れ等のような、
『法は空である!』が故に、
是れを、
『無法有法空』と、
『称するのである!』、と。
是れが、
『菩薩摩訶薩』が、
『内空、乃至無法有法空に住まろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならないということである!』。

大智度論巻第三十一


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