有為空無為空者。有為法名因緣和合生。所謂五眾十二入十八界等。無為法名無因緣。常不生不滅如虛空。今有為法二因緣故空。一者無我無我所及常相不變異不可得故空。二者有為法有為法相空不生不滅無所有故。 |
有為空、無為空とは、有為法を、因緣和合の生と名づけ、謂わゆる五衆、十二入、十八界等なり。無為法を、無因緣と名づけ、常、不生、不滅なること虚空の如し。今、有為法は、二因縁の故に、空なり。一には、我無く、我所、及び常相の不変異なる無く、不可得なるが故に、空なり。二には、有為法と有為法の相は空にして、不生、不滅、無所有なるが故なり。 |
『有為空、無為空』とは、
『有為法』とは、
『因緣和合の生ということであり!』、
謂わゆる、
『五衆、十二入、十八界等である!』。
『無為法』とは、
『因緣が無いということであり!』、
『虚空のように!』、
『常、不生、不滅である!』。
今、
『有為法』は、
『二因縁』の故に、
『空である!』。
一には、
『我も、我所も、変異しない常相も無く!』、
『不可得である( be unrecognizable )!』が故に、
『空であり!』、
二には、
『有為法や、有為法の相』は、
『空であり!』、
『不生、不滅、無所有だからである!』。
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問曰。我我所及常相不可得故應空。云何言有為法有為法相空。 |
問うて曰く、我、我所、及び常相は、不可得なるが故に、応に空なるべし。云何が、『有為法と、有為法の相は空なり』、と言う。 |
問い、
『我や、我所や、常相』は、
『不可得である!』が故に、
『空であるはずだとしても!』、
何故、こう言うのですか?――
『有為法も、有為法の相も!』、
『空である!』、と。
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答曰。若無眾生法無所依。又無常故無住時。無住時故不可得。知是故法亦空。 |
答えて曰く、若し衆生無ければ、法に所依無く、又無常なるが故に、住時無く、住時無きが故に知るを得べからず。是の故に法も亦た空なり。 |
答え、
若し、
『衆生が無ければ!』、
『法』には、
『所依( the place to stay in )』が、
『無いことになり!』、
又、
『法( something what is held in the mind )』は、
『無常である!』が故に、
『住時』が、
『無く!』、
『住時が無い!』が故に、
『知ることができない!』。
是の故に、
『法』も、
『空なのである!』。
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所依(しょえ):梵語aazrayaの訳語にして、依託せらるるものの意なり。即ち法の生起する為に親しくその所託となるものをいう。『成唯識論巻4』に、「諸の心、心所は皆有所依なり。然れば彼の所依に総じて三種あり、一に因縁依、謂わゆる自らの種子なり。諸の有為法は皆この依に託す、自らの因縁を離れては必ず生ぜざるが故なり。二に増上縁依、謂わゆる内の六処なり。諸の心、心所は皆この依に託す。俱有根を離れては必ず転ぜざるが故なり。三に等無間縁依、謂わゆる前滅の意なり。諸の心、心所は皆この依に託す。開導根を離れては必ず起こらざるが故なり。ただ心、心所のみ三の所依を具し、有所依と名づく、所余の法には非ず」、と云えるこれなり。これ法の所依に総じて三種あることを明し、就中、心、心所法のみただこの三種を具するが故に、即ち有所依と名づくることを説けるものなり。この中、因縁依とは、また種子依と名づく。諸の有為法の生ずる因となるものにして、即ち諸法各自の種子をいい、増上縁依とは、また俱有依と名づく。心、心所の転ずる所依となるものにして、即ち内の六処をいい、等無間縁依とは、また開導依と名づく。心、心所法の現起する所依となるものにして、即ち前滅の意をいうなり。ただし四縁の中、ただ因縁等の三縁を以って所依の体とし、所縁縁を挙げざる理由は所縁縁は疎なるが故に立てざるのみ。また同じく『成唯識論巻4』には、諸識の俱有依を明せる中、前説は皆理に応ぜず、未だ所依と依との別を了せざるが故なり、依とは謂わく、一切の有生滅の法は、因に杖り縁に託して而も生じ住することを得。諸の所杖託を皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。もし法の決定し、境を有し、主と為り、心、心所をして自らの所縁を取らしむるは乃ちこれ所依にして、即ち内の六処なり。余は境有り、定まり、主と為るに非ざるが故なり。これはただ王の如くして臣等の如きには非ず。故に諸の聖教にはただ心、心所のみを有所依と名づく。色等の法には非ず、所縁無きが故なり。ただ心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心の所依と為すとは説かず、彼は主に非ざるが故なり。然るに有る処に依を所依と為し、或は所依を依と為すと説くは、皆宜しきに随うの仮説なりと云えり。<(望)『大智度論巻2上:六因、四縁』参照。 |
参考:『成唯識論巻4』:『諸心心所皆有所依。然彼所依總有三種。一因緣依。謂自種子。諸有為法皆託此依。離自因緣必不生故。二增上緣依。謂內六處。諸心心所皆託此依。離俱有根必不轉故。三等無間緣依。謂前滅意。諸心心所皆託此依。離開導根必不起故。唯心心所具三所依名有所依非所餘法。‥‥有義前說皆不應理。未了所依與依別故。依謂一切有生滅法。仗因託緣而得生住。諸所仗託皆說為依。如王與臣互相依等。若法決定有境為主令心心所取自所緣。乃是所依。即內六處。餘非有境定為主故。此但如王非如臣等。故諸聖教唯心心所名有所依。非色等法無所緣故。但說心所心為所依。不說心所為心所依。彼非主故。然有處說依為所依或所依為依。皆隨宜假說。由此五識俱有所依定有四種。謂五色根六七八識。隨闕一種必不轉故。同境分別染淨根本所依別故。聖教唯說依五根者。以不共故又必同境。近相順故。第六意識俱有所依唯有二種。謂七八識。隨闕一種必不轉故。‥‥』 |
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問曰。有為法中常相不可得。不可得者。為是眾生空為是法空。 |
問うて曰く、有為法中に常相は不可得なり。不可得なるは、是れ衆生の空と為すや、是れ法の空と為すや。 |
問い、
『有為法』中に、
『常相』が、
『不可得ならば!』、
『不可得である!』者とは、
『衆生空ですか?』、
『法空ですか?』。
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答曰。有人言。我心顛倒故計我為常。是常空則入眾生空。有人言。以心為常如梵天王說是四大。四大造色悉皆無常。心意識是常。是常空則入法空。或有人言。五眾即是常。如色眾雖有變化而亦不滅。餘眾如心。說五眾空即是法空。是故常空亦入法空中。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『我心の顛倒の故に、我を計して常と為すも、是の常にして空なれば、則ち衆生空に入る』、と。有る人の言わく、『心を以って、常と為す。梵天王の説けるが如し、『是の四大と、四大造の色とは、悉く皆、無常なるも、心、意、識は、是れ常なり』、と。是の常にして空なれば、則ち法空に入る』、と。或いは有る人の言わく、『五衆は、即ち是れ常なりとは、色衆の変化有りと雖も、亦た不滅なるが如く、餘衆は心の如し。五衆の空を説けば、即ち是れ法空なり。是の故に常にして空なるも、亦た法空中に入る』、と。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
『我の心が、顛倒する!』が故に、
『我』は、
『常である!』と、
『計すのであり( be convinced )!』、
是の、
『常が空ならば!』、
『衆生空』に、
『入ることになる!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『心を常とする!』のは、
『梵天王』が、こう説いたからであるが、――
『四大と、四大造の色』は、
悉く皆、
『無常である!』が、
『心意識( mind, consciousness and knowing )』は、
『常である!』、と。
是の、
『常が空ならば!』、
『法空』に、
『入ることになる!』、と。
或いは、有る人は、こう言っている、――
『五衆が常である!』とは、
例えば、
『色衆』が、
『変化が有りながら!』、
『不滅であるように!』、
『餘衆』は、
『心のように!』、
『不滅だからである(説一切有部所説)!』が、
『五衆は空である!』と、
『説けば!』、
即ち、
是れは、
『法空である!』。
是の故に、
『常が空ならば!』、
亦た、
『法空』中に、
『入ることになる!』、と。
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心意識(しんいしき):心(梵 citta )、意(梵 mana )、識(梵 vijaana )の併称、即ち心及び自覚/意識と了知/理解( mind, consciousness and understanding or knowing )の意。 |
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復次有為法無為法空者。行者觀有為法無為法實相無有作者。因緣和合故有。皆是虛妄。從憶想分別生。不在內不在外不在兩中間。凡夫顛倒見故有。智者於有為法不得其相知但假名。以此假名導引凡夫。知其虛誑無實無生無作心無所著。 |
復た次ぎに、有為法と無為法の空とは、行者の観ずらく、『有為法、無為法の実相は、作者有ること無く、因緣和合の故に有れば、皆是れ虚妄にして、憶想、分別より生じ、内に在らず、外の在らず、両の中間に在らざるに、凡夫は顛倒して見るが故に有り、智者は有為法に於いて、其の相を得ず、但だ仮名なるを知り、此の仮名を以って、凡夫を導引するも、其の虚誑、無実、無生、無作なるを知りて、心に著する所無し』、と。 |
復た次ぎに、
『有為法と、無為法とが空である!』とは、
『行者』は、こう観るからである、――
『有為法、無為法の実相』は、
『作者が無く!』、
『因緣の和合する!』が故に、
『有るだけであり!』、
皆、
『虚妄であって!』、
『憶想し、分別するにより!』、
『生じるのである!』。
『法』は、
『内にも、外にも、内外の中間にも!』、
『存在しない!』のに、
『凡夫』は、
『顛倒する!』が故に、
『有る!』と、
『見る!』が、
『智者』は、
『有為法』に於いて、
『相』を、
『得ないで( not to recognize )!』、
但だの、
『仮名である!』と、
『知るので!』、
此の、
『仮名を用いて!』、
『凡夫』を、
『導引しても!』、
其れが、
『虚誑、無実、無生、無作である!』と、
『知るので!』、
『心』には、
『著する所』が、
『無いのである!』、と。
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復次諸賢聖人不緣有為法而得道果。以觀有為法空故。於有為法心不繫著故。 |
復た次ぎに、諸の賢聖の人の有為法を縁ぜずして、道果を得るは、有為法の空を観ずるを以っての故に、有為法に於いて、心繋著せざるが故なり。 |
復た次ぎに、
『諸の賢聖の人』が、
『有為法を縁じなくても!』、
『道果』を、
『得ることができる!』のは、
『有為法』を、
『空である!』と、
『観る!』が故に、
『有為法』には、
『心』が、
『繋著しないからである!』。
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復次離有為則無無為。所以者何。有為法實相即是無為。無為相者則非有為但為眾生顛倒故分別說。有為相者生滅住異。無為相者不生不滅不住不異。是為入佛法之初門。 |
復た次ぎに、有為を離るれば、則ち無為無し。所以は何んとなれば、有為法の実相、即ち是れ無為なればなり。無為の相ならば、則ち有為に非ざるも、但だ衆生の顛倒の為の故に、分別して説く、『有為の相は、生滅住異なり。無為の相は、不生不滅不住不異なり。是れを仏法に入る初門と為す』、と。 |
復た次ぎに、
『有為を離れれば!』、
『無為も!』、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『有為法』の、
『実相』が、
『無為だからである!』。
『有為法』が、
『無為の相ならば!』、
『有為ではないことになる!』が、
但だ、
『衆生の顛倒』の故に、
『有為法と、無為法を分別して!』、こう説くのである、――
『有為の相は生、滅、住、異である!』が、
『無為の相』は、
『不生、不滅、不住、不異であり!』、
是れが、
『仏法に入る!』、
『初門である!』、と。
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若無為法有相者則是有為。有為法生相者則是集諦。滅相者則是盡諦。若不集則不作。若不作則不滅。是名無為法如實相。 |
若し無為法にして、相有らば、則ち是れ有為なり。有為法の生相は、則ち是れ集諦、滅相は則ち是れ尽諦、若し集めざれば、則ち作さず、若し作さざれば、則ち滅せず、是れを無為法の如実の相と名づく。 |
若し、
『無為法』に、
『有為法』の、
『生相』とは、
則ち、
『集諦であり!』、
『滅相』とは、
則ち、
『尽諦である!』。
若し、
『因縁を集めなければ!』、
『果と!』、
『作ることもなく!』、
『果と作らなければ!』、
『果が!』、
『滅することもない!』。
是れを、
『無為法』の、
『如実の相』と、
『言うのである!』。
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若得是諸法實相。則不復墮生滅住異相中。是時不見有為法與無為法。合不見無為法與有為法。合於有為法無為法不取相。是為無為法。所以者何。若分別有為法無為法。則於有為無為而有礙。若斷諸憶想分別滅諸緣。以無緣實智不墮生數中。則得安隱常樂涅槃。 |
若し、是の諸法の実相を得れば、則ち復た生滅住異の相中に堕せず。是の時、有為法の無為法と合するを見ず、無為法の有為法と合するを見ざれば、有為法、無為法に於いて相を取らず、是れを無為法と為す。所以は何んとなれば、若し有為法、無為法を分別すれば、則ち有為、無為に於いて、礙有り。若し諸の憶想、分別を断じて、諸縁を滅すれば、無縁の実智を以って、生の数中に堕せざれば、則ち安隠、常楽の涅槃を得。 |
若し、
是の、
『諸法の実相を得れば!』、
復た( never again )、
『生、滅、住、異の相』中に、
『堕ちることがなくなり!』、
是の時、
『有為法』が、
『無為法と合する!』と、
『見ることもなく!』、
『無為法』が、
『有為法と合する!』と、
『見ることもなく!』、
『有為法、無為法という!』、
『相』を、
『取ることもない!』、
是れが、
『無為法である!』。
何故ならば、
若し、
『有為法と、無為法とを分別すれば!』、
『有為や、無為という!』、
『礙( obstacles )』が、
『有る!』が、
若し、
『諸の憶想、分別を断じて!』、
『諸縁を滅すれば!』、
『無縁の実智を用いて!』、
『生の数中』に、
『堕ちることなく!』、
『安隠、常楽という!』、
『涅槃』を、
『得るからである!』。
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問曰。前五空皆別說。今有為無為空何以合說。 |
問うて曰く、前の五空は、皆別に説けるも、今の有為、無為空は、何を以ってか、合して説く。 |
問い、
前の、
今の、
『有為、無為空』は、
何故、
『合して説くのですか?』。
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答曰。有為無為法相待而有。若除有為則無無為。若除無為則無有為。是二法攝一切法。行者觀有為法無常苦空等過。知無為法所益處廣。是故二事合說。 |
答えて曰く、有為、無為の法は、相待して有れば、若し有為を除けば、則ち無為無く、若し無為を除けば、則ち有為無ければなり。是の二法に、一切の法を摂するに、行者は、有為法の無常、苦、空等の過を観て、無為法の益する所の処の広きを知る、是の故に二事を合して説けり。 |
答え、
『有為法、無為法』は、
『相待して!』、
『有り!』、
若し、
若し、
『無為を除けば!』、
『有為』は、
『無いからである!』。
是の、
『二法』に、
『一切法』を、
『摂する( to be contained )のであり!』、
『行者』が、
『有為法』の、
『無常、苦、空等の過』を、
『観れば!』、
『無為法に益される!』、
『処は広い!』のを、
『知ることになり!』、
是の故に、
『二事』を、
『合して説くのである!』。
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問曰。有為法因緣和合生。無自性故空。此則可爾。無為法非因緣生法。無破無壞常若虛空。云何空。 |
問うて曰く、有為法は因緣和合の生にして、自性無きが故に空なれば、此れ則ち爾るべし。無為法は、因縁生の法に非ざれば、無破、無壊にして、常なること虚空の若(ごと)きの、云何が空なる。 |
問い、
『有為法』は、
『因緣和合の生であり!』、
『自性が無い!』が故に、
『空である!』とは、
是の、
『事』は、
『爾うかもしれない!』が、
『無為法』は、
『因緣生の法でなく!』、
『虚空のように!』、
『無破、無壊の常である!』のに、
何故、
『空なのですか?』。
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答曰。如先說若除有為則無無為。有為實相即是無為。如有為空無為亦空。以二事不異故。 |
答えて曰く、先に説けるが如く、若し有為を除けば、則ち無為無く、有為の実相は、即ち是れ無為なれば、有為の空なるが如く、無為も亦た空なれば、二事の異ならざるを以っての故なり。 |
答え、
先に、説いたように、――
若し、
『有為を除けば!』、
『無為も!』、
『無く!』、
『有為の実相』は、
則ち、
『無為ならば!』、
是の、
『有為が空であるように!』、
『無為』も、
『空であり!』、
此の、
『二事』が、
『異ならないからである!』。
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復次有人聞有為法過罪而著無為法。以著故生諸結使。 |
復た次ぎに、有る人は、有為法の過罪を聞いて、無為法に著し、著するを以っての故に、諸結使を生ずればなり。 |
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『有為法の、過罪を聞いて!』、
『無為法』に、
『著し!』、
『著する!』が故に、
『諸の結使』を、
『生じるからである!』。
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如阿毘曇中說。八十九有為法緣六無為法緣三當分別。欲界繫盡諦所斷無明使。或有為緣或無為緣。何者有為緣。盡諦所斷有為法緣使相應無明使。何者無為緣。盡諦所斷有為法緣使不相應無明使。色無色界無明亦如是。以此結使故能起不善業。不善業故墮三惡道。是故言無為法空。 |
阿毘曇中に説けるが如く、『八十九は、有為法を縁じ、六は、無為法を縁じ、三は、当に分別すべし。欲界繋の尽諦所断の無明使は、或いは有為を縁じ、或いは無為を縁ず。何者か、有為を縁ずる。尽諦所断の有為法を縁ずる使に相応する、無明使なり。何者か、無為を縁ずる。尽諦所断の有為法を縁ずる使に相応せざる、無明使なり。色、無色界の無明も亦た是の如し。此の結使を以っての故に、能く不善業を起し、不善業の故に、三悪道に堕す。是の故に、無為法空と言う。 |
『阿毘曇』中には、こう説かれている、――
『九十八使』中の、
『八十九』は、
『有為法』を、
『縁じ!』、
『六』は、
『無為法』を、
『縁じ!』、
『三』は、こう分別することになる、――
『欲界繋』の、
『尽諦所断の無明使』は、
或いは、
『有為法』を、
『縁じ!』、
或いは、
『無為法』を、
『縁じる!』。
『有為法を縁じる!』者とは、何か?――
『尽諦所断の有為法を縁じる!』、
『使に相応する!』、
『無明使である!』。
『無為法を縁じる!』者とは、何か?――
『尽諦所断の有為法を縁じる!』、
『使に相応しない!』、
『無明使である!』。
亦た、
『色界繋、無色界繋の無明』も、
『是の通りである!』、と。
此の、
『結使』の故に、
『不善業を起すことになり!』、
『不善業』の故に、
『三悪道』に、
『堕ちる!』ので、
是の故に、
『無為法空』と、
『言うのである!』。
|
八十九有為法縁:即ち九十八睡眠中、三界の滅諦見惑中より疑、邪見、無明を除去せしものなり。『大智度論巻3下注:結、使、巻14下注:九十八使』参照
六無為法縁:即ち三界の滅諦見惑中よの疑、邪見なり。
三当分別:即ち三界の滅諦見惑中の無明なり。
相応(そうおう):梵語 saMprayukta の訳、軛を掛ける/繋ぎ合わされる( yoked or jointed together )、一緒に使用される(
used together with )の義。関連した( be associated )の意。
不相応(ふそうおう):梵語 viprayukta の訳、~から離れた/~を欠いた( separated or removed or absent from,
destitute of, free from, without )の義。関連しない( be non-associated )の意。 |
参考:『阿毘達磨品類足論巻3』:『九十八隨眠。幾有為緣。幾無為緣。答八十九有為緣。六無為緣。三應分別。謂見滅所斷無明隨眠。或有為緣或無為緣。云何有為緣。謂見滅所斷有為緣隨眠相應無明。云何無為緣。謂見滅所斷有為緣隨眠不相應無明。欲界繫三十六隨眠。幾有為緣。幾無為緣。答三十三有為緣。二無為緣。一應分別。謂欲界繫見滅所斷無明隨眠。或有為緣或無為緣。云何有為緣。謂欲界繫見滅所斷有為緣隨眠相應無明。云何無為緣。謂欲界繫見滅所斷有為緣隨眠不相應無明。色界繫三十一隨眠。幾有為緣。幾無為緣。答二十八有為緣。二無為緣。一應分別。謂色界繫見滅所斷無明隨眠。或有為緣或無為緣。云何有為緣。謂色界繫見滅所斷有為緣隨眠相應無明。云何無為緣。謂色界繫見滅所斷有為緣隨眠不相應無明。無色界繫三十一隨眠亦爾』 |
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無為法緣使。疑邪見無明。疑者於涅槃法中有耶無耶。邪見者若生心言定無涅槃。是邪疑相應無明。及獨無明合為無明使。 |
無為法を縁ずる使は、疑、邪見、無明なり。疑とは、涅槃の法中に於いて、『有りや、無しや』、なり。邪見とは、心を生じて、『定んで涅槃無し』、と言うが若し。是の邪、疑相応の無明と、及び独り無明を合して無明使と為す。 |
『無為法を縁じる!』、
『使』とは、
『疑、邪見、無明である!』。
『疑』とは、
『涅槃の法』中に、
『有るのか、無いのか?』を、
『疑うことであり!』、
『邪見』とは、
『心に生じて!』、こう言うようなことである、――
『決定して!』、
『涅槃は無い!』、と。
是の、
『邪見と、疑に相応する無明』と、
『単独の、無明』とを、
『合して!』、
『無明使というのである!』。
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問曰。若云無為法空與邪見何異。 |
問うて曰く、若し、『無為法は空なり』、と云わば、邪見と何んが異る。 |
問い、
若し、こう言えば、――
『無為法』は、
『空である!』、と。
何が、
『邪見』と、
『異なるのですか?』。
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答曰邪見人不信涅槃。然後生心言定無涅槃法。無為空者破取涅槃相是為異。 |
答えて曰く、邪見の人は、涅槃を信ぜず、然る後に心を生じて、『定んで涅槃無し』、と言う。無為空とは、涅槃の相を取るを破り、是れを異と為す。 |
答え、
『邪見の人』は、
先に、
『涅槃』を、
『信じていない!』ので、
その後、
『邪見』が、
『心』に、
『生じて!』、
こう言うのである、――
『涅槃という!』、
『法は無い!』に、
『定まっている!』、と。
『無為空』は、
是のような、
『涅槃の相』を、
『取るのを!』、
『破るので!』、
是れが、
『異なっている!』。
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復次若人捨有為著無為。以著故無為即成有為。以是故雖破無為而非邪見。是名有為無為空。 |
復た次ぎに、若し人、有為を捨てて、無為に著すれば、著を以っての故に、即ち有為を成ず。是を以っての故に、無為を破ると雖も、邪見に非ず。是れを有為、無為空と名づく。 |
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『有為を捨てても!』、
『無為』に、
『著せば!』、
『著する!』が故に、
『無為』は、
即ち( immediately )、
『有為と成る!』ので、
是の故に、
『無為』を、
『破っても!』、
『邪見ではない!』。
是れは、
『有為も、無為も!』
『空だということである!』。
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畢竟空者。以有為空無為空破諸法令無有遺餘。是名畢竟空如漏盡阿羅漢名畢竟清淨。阿那含乃至離無所有處欲不名畢竟清淨。此亦如是。內空外空內外空十方空第一義空有為空無為空。更無有餘不空法。是名畢竟空。 |
畢竟空とは、有為空、無為空を以って、諸法を破り、遺余有ること無からしむ、是れを畢竟空と名づく。漏尽の阿羅漢を畢竟清浄と名づけ、阿那含は、乃至無所有処の欲を離るるまで、畢竟清浄と名づけざるが如く、此れも亦た是の如く、内空、外空、内外空、十方空、第一義空、有為空、無為空の、更に餘の不空の法有ること無し、是れを畢竟空と名づく。 |
『畢竟空』とは、
『有為空と、無為空を用いて!』、
『諸法を破って!』、
『遺余』を、
『無くさせること!』、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『漏尽の!』
『阿羅漢』は、
『畢竟清浄である!』が、
『阿那含』は、
乃至、
『無所有処の欲』を、
『離れるまで!』、
是れを、
『畢竟清浄』と、
『称することがないように!』、
此の、
『畢竟空』も、
是のように、
『内、外、内外、十方、第一義、有為法、無為法』が、
皆、
『空ならば!』、
更に、
『空でない!』、
『余法』が、
『無い!』ので、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
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復次若人七世百千萬億無量世貴族是名畢竟貴。不以一世二三世貴族為真貴也。畢竟空亦如是。從本已來無有定實不空者。 |
復た次ぎに、若し、人、七世、百、千、万、億、無量世の貴族なれば、是れを畢竟貴と名づくるも、一世、二、三世の貴族を以って、真の貴と為さず。畢竟空も亦た是の如く、本より已来、定実の空ならざる者有ること無し。 |
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『七世、百、千、万、億、無量世の!』、
『貴族ならば!』、
是れは、
『畢竟の貴族』と、
『呼ばれる!』が、
若し、
『一世や、二、三世の!』、
『貴族ならば!』、
是れを、
『真の貴族』と、
『呼ぶことはない!』。
『畢竟空』も、
是のように、
『本来!』、
『実に空でない!』と、
『定まった!』者が、
『無い!』ので、
是れを、
『畢竟空』と、
『称する!』。
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有人言。今雖空最初不空。如天造物始及冥初微塵。是等皆空。何以故。果無常因亦無常。如虛空不作果亦不作因。天及微塵等亦應如是。若是常不應生無常。若過去無定相未來現在世亦如是。於三世中無有一法定實不空者。是名畢竟空。 |
有る人の言わく、『今、空なりと雖も、最初は空にあらず』、と。天の造る物の始めと、及び冥初の微塵の如き、是れ等は、皆空なり。何を以っての故に、果無常なれば、因も亦た無常なればなり。虚空は、果を作さず、亦た因を作さざるが如く、天、及び微塵等も亦た、応に是の如くなるべし。若し是れ常ならば、応に無常を生ずべからず。若し過去に定相無ければ、未来、現在世も亦た是の如し。三世中には、一法の、定実に空ならざる者有ること無し。是れを畢竟空と名づく。 |
有る人は、こう言っているが、――
今は、
『空であっても!』、
『最初は!』、
『空でなかった!』、と。
例えば、
『天の造る物の始め!』と、
『冥初の!』、
『微塵など!』は、
是れ等は、
皆、
『空である!』。
何故ならば、
若し、
『果が無常ならば!』、
『因も!』、
『無常だからであり!』、
『虚空のように!』、
『果』を、
『作さなければ!』、
亦た、
『因』を、
『作すこともないからである!』。
『天や、微塵等も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
若し、
是の、
『天や、微塵等が、常ならば!』、
『無常』を、
『生じるはずがない!』。
若し、
『過去に、定相が無ければ!』、
『未来や、現在も!』、
『是の通りである!』。
『三世』中には、
『実に、空でない!』と、
『定まった!』者は、
唯だ、
『一法すら!』、
『無いのであり!』、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
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始(し):<名詞>[本義]開始「終に対す」( begin, start )。むかし/過去/従前( past )、根本/本源( foundation
)。<副詞>最初に( at first )、曽て/嘗て( before long )、ちょうどその時( just, only then )、その後、然る後(
then )、僅かに/只( only )。
冥初(みょうしょ):天地の始まり( the beginning of the world )。 |
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問曰。若三世都空。乃至微塵及一念無所有者。則是大可畏處。諸智慧人以禪定樂故捨世間樂。以涅槃樂故捨禪定樂。今畢竟空中乃至無有涅槃。依止何法得捨涅槃。 |
問うて曰く、若し三世、都て空にして、乃至、微塵及び一念すら、無所有ならば、則ち是れ大いに畏るべき処なり。諸の智慧の人は、禅定の楽を以っての故に、世間の楽を捨て、涅槃の楽を以っての故に、禅定の楽を捨つ。今、畢竟空中には、乃至涅槃すら有ること無し。何なる法に、依止して、涅槃を捨つるを得んや。 |
問い、
若し、
『三世』が、
『都て、空であり!』、
乃至、
『微塵や、一念すら!』、
『無所有ならば!』、
是れは、
『大いに畏れなくてはならない!』、
『処である!』。
諸の、
『智慧の人』は、
『禅定の楽を思う!』が故に、
『世間の楽』を、
『捨て!』、
『涅槃の楽を思う!』が故に、
『禅定の楽』を、
『捨てるのである!』が、
今、
『畢竟空』中には、
乃至、
『涅槃すら!』、
『無いのであるから!』、
何のような、
『法に依止すれば!』、
『涅槃』を、
『捨てることができるのか?』。
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答曰。有著吾我人以一異相分別諸法。如是之人則以為畏。如佛說凡夫人大驚怖處。所謂無我無我所。 |
答えて曰く、有る吾我に著する人は、一異の相を以って、諸法を分別す。是の如き人は、則ち以って、畏ると為す。仏の説きたまえるが如し、『凡夫人の大いに驚怖する処は、謂わゆる無我、無我所なり』、と。 |
答え、
有る、
『吾我に著する!』、
『人』は、
『一異( equal or different )の相を用いて!』、
『諸法』を、
『分別している!』が、
是のような、
『人ならば!』、
『都てが( all around )!』、
『空であること!』を、
『畏れるはずである!』。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『凡夫人』の、
大いに、
『驚怖する!』、
『処』とは、
謂わゆる、
『我や、我所が!』、
『無いことである!』、と。
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復次有為法有三世。以有漏法故生著處。涅槃名一切愛著斷。云何於涅槃而求捨離。 |
復た次ぎに、有為法には、三世有りて、有漏法なるを以っての故に、著の処を生ず。涅槃を、一切の愛著断ずと名づく。云何が涅槃に於いて、捨離を求むる。 |
復た次ぎに、
『有為法』には、
『三世が有り!』、
是の、
『三世が、有漏法である!』が故に、
『著する処』を、
『生じるのである!』。
『涅槃』とは、
一切の、
『愛著』を、
『断じることである!』が、
何故、
『涅槃を、捨離しよう!』と、
『求めるのか?』。
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復次如比丘破四重禁。是名畢竟破戒。不任得道。又如作五逆罪。畢竟閉三善道。若取聲聞證者畢竟不得作佛。畢竟空亦如是。於一切法畢竟空無復有餘。 |
復た次ぎに、比丘の四重禁を破れば、是れを畢竟の破戒と名づけて、道を得るに任えざるが如く、又五逆罪を作せば、畢竟じて三善道を閉ざし、若しは、声聞の証を取れば、畢竟じて、仏と作るを得ざるが如く、畢竟空も亦た是の如く、一切法に於いて、畢竟じて空なれば、復た餘有ること無し。 |
復た次ぎに、
譬えば、
『比丘』が、
『四重禁を!』、
『破れば!』、
是れを、
『畢竟の破戒と呼んで!』、
『道を得る!』に、
『任えられないように!』、
又、
若しくは、
『声聞の証を取れば!』、
畢竟じて、
『仏と!』、
『作ることができなくなるように!』、
『畢竟空』も、
是のように、
『一切の法』が、
『畢竟じて!』、
『空となり!』、
復た、
『餘の法』が、
『無くなるのである!』。
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問曰。一切法畢竟空是事不然。何以故。三世十方諸法乃至法相法住必應有實。以有一法實故餘法為虛妄。若無一法實者亦不應有諸虛妄法是畢竟空。 |
問うて曰く、一切の法にして、畢竟空なれば、是の事は然らず。何を以っての故に、三世十方の諸法、乃至法相、法住には、必ず応に実有るべく、有る一法の実なるを以っての故に、餘法を虚妄と為せばなり。若し一法すら実無くんば、亦た応に諸の虚妄の法有るべからず、是れ畢竟空なり。 |
問い、
『一切の法が、畢竟空だとすれば!』、
是の、
『事』は、
『然うでない( be not so )!』。
何故ならば、
『三世、十方の諸法、乃至法相、法住』には、
必ず、
『実』が、
『有るはずであり!』、
有る、
『一法が、実である!』が故に、
『余法は、虚妄である!』と、
『為す( to assume/consider )からである!』。
若し、
『一法すら!』、
『実』が、
『無ければ!』、
諸の、
『虚妄の法』は、
『有るはずがない!』。
是れが、
『畢竟空である!』。
|
法住(ほうじゅう):梵語 dharma- sthiti の訳、法の住居( dharma abode )の義、一切法に住する真如( Thusness
abiding in all things )の意。
法相(ほうそう):梵語 dharma- lakSaNa の訳、法の特性/相( the characteristics of the dharma
)の義。 |
参考:『大般若波羅蜜多経巻360』:『善現。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜多時。應於真如學不增不減。亦應於法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界學不增不減。』
参考:『大般若波羅蜜多経巻46』:『具壽善現白佛言。世尊。云何有漏法。佛告善現。世間。五蘊。十二處。十八界。四靜慮。四無量。四無色定。所有一切墮三界法。善現。是名有漏法。具壽善現白佛言。世尊。云何無漏法。佛告善現。謂出世間四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。善現。此等名無漏法。具壽善現白佛言。世尊。云何有為法。佛告善現。謂欲界繫法。色界繫法。無色界繫法。五蘊。四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。所有一切有生。有住。有異。有滅法。善現。是名有為法。具壽善現白佛言。世尊。云何無為法。佛告善現。若法無生無住無異無滅可得。所謂貪盡。瞋盡。癡盡。真如。法界。法性。法住。法定。不虛妄性。不變異性。離生性。平等性。實際。善現。此等名無為法。』 |
|
|
答曰。無有乃至一法實者。何以故。若有乃至一法實者。是法應有若有為若無為。若是有為有為空中已破。若是無為無為空中亦破。如是世間出世間。若世間內空外空內外空大空已破。若出世間第一義空已破。色法無色法有漏無漏法等亦如是。 |
答えて曰く、乃至一法すら、実なる者有ること無し。何を以っての故に、若し乃至一法の実なる者有らば、是の法は、応に有りて、若しは有為、若しは無為なるべし。若し是れ有為ならば、有為空中に已に破せり。若し是れ無為ならば、無為空中に、亦た破せり。是の如き世間、出世間は、若し世間ならば、内空、外空、内外空、大空もて、已に破せり。若し出世間ならば、第一義空もて、已に破せり。色法、無色法、有漏、無漏の法等も亦た是の如し。 |
答え、
乃至、
『一法すら!』、
『実である!』者は、
『無い!』。
何故ならば、
若し、
乃至、
『一法すら!』、
『実である!』者が、
『有れば!』、
是の、
『法』は、
『有為か!』、
『無為である!』。
若し、
『有為ならば!』、
已に、
『有為空』中に、
『破れている!』し、
若し、
『無為ならば!』、
亦た、
『無為空』中に、
『破られている!』。
是のように、
『世間、出世間の法』は、
若し、
『世間ならば!』、
已に、
『内空、外宮、内外空、大空』中に、
『破られている!』し、
若し、
『出世間ならば!』、
亦た、
『色法、無色法、有漏法、無漏法等も!』、
『是の通りである!』。
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復次一切法皆畢竟空。是畢竟空亦空。空無有法故亦無虛實相待。 |
復た次ぎに、一切法は、皆畢竟空にして、是の畢竟空も亦た空なり。空には、法有ること無きが故に、虚実の相待も無し。 |
復た次ぎに、
『一切の法』は、
皆、
『畢竟空であり!』、
是の、
『空には、法が無い!』が故に、
『虚と、実とが!』、
『相待することも!』、
『無い!』。
|
相待(そうたい):梵語 apekSaa の訳、見廻す/考える/参照する/注目すること( looking round or about, consideration
of, reference, regard to )、依存すること( dependence on )の義、相互依存( interdependence
)の意。 |
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復次畢竟空者破一切法令無遺餘故名畢竟空。若小有遺餘不名畢竟。若言相待故應有是事不然。 |
復た次ぎに、畢竟空なれば、一切の法を破って、遺余無からしむるが故に、畢竟空と名づく。若し小しく、遺余有らば、畢竟と名づけず。若し、『相待の故に、応に有るべし』、と言わば、是の事は然らず。 |
復た次ぎに、
『畢竟空』ならば、
『一切の法を、破って!』、
『遺余を、無くする!』が故に、
『畢竟空』と、
『称するのであり!』、
若し、
『小しでも!』、
『遺余が、有れば!』、
『畢竟』と、
『称することはない!』ので、
若し、
『相待するが故に、有るはずだ!』と、
『言えば!』、
是の、
『事』は、
『然うでない!』。
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問曰。諸法不盡空。何以故。因緣所生法空。而因緣不空。譬如樑椽因緣和合故名舍。舍空而樑椽不應空。 |
問うて曰く、諸法は、尽く空なるにあらず。何を以っての故に、因緣所生の法は、空なるも、因緣は、空にあらず。譬えば梁、椽の因緣和合の故に、舎と名づくれば、舎は空なるも、梁、椽は応に空なるべからざるが如し。 |
問い、
『諸法』の、
『尽くが!』、
『空であるのではない!』。
何故ならば、
『因緣より生じた!』、
『法は空であっても!』、
『因緣』は、
『空でないからである!』。
譬えば、
『梁、椽という!』、
『因緣が和合する!』が故に、
『舎』と、
『呼ばれるとすれば!』、
『舎は空だとしても!』、
『梁、椽』は、
『空でないからである!』。
|
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答曰。因緣亦空因緣不定故。譬如父子。父生故名為子。生子故名為父。 |
答えて曰く、因緣も亦た空なり、因緣の定まらざるが故に。譬えば、父と子は、父より生ずるが故に、名づけて子と為し、子を生ずるが故に、名づけて父と為すが如し。 |
答え、
『因緣も、亦た空である!』のは、
『因緣』が、
『定まらないからである!』。
譬えば、
『父と、子ならば!』、
『父より生じる!』が故に、
『子』と、
『呼ばれ!』、
『子を生じる!』が故に、
『父』と、
『呼ばれるようなものである!』。
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復次最後因緣無所依止故。如山河樹木眾生之類皆依止地。地依止水。水依止風。風依止虛空。虛空無所依止。若本無所依止末亦無所依止。以是故當知一切法畢竟空。 |
復た次ぎに、最後の因緣には、依止する所無きが故なり。山河、樹木、衆生の類の、皆地に依止し、地は水に依止し、水は風に依止し、風は虚空に依止するも、虚空には依止する所無きが如し。若し、本に依止する所無ければ、末も亦た依止する所無し。是を以っての故に当に知るべし、一切の法は畢竟空なり。 |
復た次ぎに、
『最後の( the most back of )因緣』には、
『依止する!』所が、
『無いからである!』。
譬えば、
『山河、樹木、衆生の類』は、
皆、
『地』に、
『依止し!』、
『地』は、
『水』に、
『依止し!』、
『水』は、
『風』に、
『依止し!』、
『風』は、
『虚空』に、
『依止する!』が、
『虚空』には、
『依止する!』所が、
『無いようなものである!』。
若し、
『本に!』、
『依止する!』所が、
『無ければ!』、
『末にも!』、
『依止する!』所が、
『無い!』ので、
是の故に、
当然、こう知らねばならない、――
『一切の法』は、
『畢竟じて空である!』、と。
|
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参考:『根本殺一切有部毘奈耶雑事巻36』:『時具壽阿難陀於日晡時從宴坐起。便詣佛所頂禮佛足。在一面立白言。世尊。何因緣故大地振動。佛告阿難陀。有八因緣大地振動。云何為八。今此大地依水而住。水依風住。風依空住。阿難陀。有時空中現大猛風水即波動。水若搖動地即振動。阿難陀。此是初因緣大地振動』 |
|
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問曰。不然。諸法應有根本。如神通有所變化所化雖虛而化主不空。 |
問うて曰く、然らず。諸法には、応に根本有るべし。神通にも、変化する所有り、化する所は、虚なりと雖も、化主は空ならざるが如し。 |
問い、
然うでない!――
『諸法』には、
『根本』が、
『有るはずである!』。
譬えば、
『神通』には、
『変化する!』所が、
『有り!』、
『変化する!』所は、
『虚だとしても!』、
『化主』は、
『空でないようなものである!』。
|
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答曰。凡夫人見所化物不久故謂之為空。化主久故謂之為實。聖人見化主復從前世業因緣和合生。今世復集諸善法。得神通力故能作化。如般若波羅蜜後品中說。有三種變化。煩惱變化業變化法變化(法法身也)是故知化主亦空。 |
答えて曰く、凡夫人は、化する所の物の久しからざるを見るが故に、之を謂いて、空と為し。化主の久しきが故に、之を謂いて実と為すも、聖人は、化主も復た前世の業の業の因縁和合より生じ、今世にも復た諸の善法を集めて、神通力を得るが故に、能く化を作すと見る。般若波羅蜜経の後の品中に説けるが如し、『三種の変化有り、煩悩の変化、業の変化、法の変化なり』、と。是の故に知るらく、『化主も亦た空なり』、と。 |
答え、
『凡夫人』は、こう見るが、――
『変化する!』所の、
『物は、久しくない!』が故に、
『空である!』と、
『謂われ!』、
『化主は、久しい!』が故に、
『実である!』と、
『謂うのである!』、と。
『聖人』は、こう見るのである、――
『化主』も、
復た、
『前世の業という!』、
『因縁の和合より!』、
『生じるのであり!』、
復た、
『今世にも、諸善法を集めて!』、
『神通力を得る!』が故に、
『化を作すことができるのである!』、と。
『般若波羅蜜経の後の品』中に、こう説く通りである、――
『変化』には、
『三種有り!』、
『煩悩という!』、
『法』の、
『変化であり!』、
『業の因縁という!』、
『法』の、
『変化であり!』、
『諸仏、菩薩という!』、
『法』の、
『変化である!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
|
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参考:『摩訶般若波羅蜜経如化品巻26』:『須菩提言。世尊。用何等空故一切法空。佛言。菩薩遠離一切法相。用是空故一切法空。須菩提。於汝意云何。若有化人作化人。是化頗有實事不空者不。須菩提言。不也世尊。是化人無有實事而不空。是空及化人二事不合不散。以空故空不應分別是空是化。何以故。是二事等空中不可得。所謂是空是化。何以故。須菩提。色即是化受想行識即是化。乃至一切種智即是化。須菩提白佛言。世尊。世間法是化出世間法亦復是化不。所謂四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分三解脫門佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。并諸法果及賢聖人。所謂須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。菩薩摩訶薩諸佛。世尊。是法亦是化不。佛告須菩提。一切法皆是化。於是法中有聲聞法變化。有辟支佛法變化。有菩薩摩訶薩法變化。有諸佛法變化。有煩惱法變化。有業因緣法變化。以是因緣故。須菩提。一切法皆是變化。須菩提白佛言。世尊。是諸煩惱斷。所謂須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道。斷諸煩惱習斷皆是變化不。佛告須菩提。若有法生滅相者。皆是變化。須菩提言。世尊。何等法非變化。佛言。若法無生無滅是非變化。須菩提言。何等是不生不滅非變化。佛言。不誑相涅槃是法非變化。世尊。如佛自說諸法平等。非聲聞作非辟支佛作。非諸菩薩摩訶薩作非諸佛作。有佛無佛諸法性常空。性空即是涅槃。云何言涅槃一法非如化。佛告須菩提。如是如是。諸法平等非聲聞所作。乃至性空即是涅槃。若新發意菩薩聞是一切法畢竟性空。乃至涅槃亦皆如化心則驚怖。為是新發意菩薩故。分別生滅者如化不生不滅者不如化。』 |
|
|
問曰。諸不牢固者不實故應空。諸牢固物及實法不應空。如大地須彌山大海水日月金剛等色實法牢固故不應空。所以者何。地及須彌常住竟劫故。眾川有竭海則常滿。日月周天無有窮極。又如凡人所見虛妄不真故應空。聖人所得如及法性真際涅槃相應是實法。云何言畢竟皆空。 |
問うて曰く、諸の牢固ならざる者は、実ならざるが故に、応に空なるべし。諸の牢固の物、及び実の法は、応に空なるべからず。大地、須弥山、大海水、日月、金剛等の色は、実法にして、牢固なるが故に応に空なるべからず。所以は何んとなれば、地、及び須弥は、常住にして、劫を竟うるが故なり。衆川には、竭くこと有るも、海は則ち常に満ち、日月は天を周りて、窮極有ること無し。又凡人の所見の虚妄は、真ならざるが故に、応に空なるべく、聖人の所得の如、及び法性、真際、涅槃の相は、応に是れ実法なるべし。云何が、畢竟じて皆、空なりと言う。 |
問い、
諸の、
『牢固でない!』者は、
『実でない!』が故に、
『空でなければならない!』が、
諸の、
『牢固な物や、実の法』が、
『空であるはずがない!』。
例えば、
『大地、須弥山、大海水、日月、金剛等の色は!』、
『実法であり!』、
『牢固である!』が故に、
『空であるはずがないようなものである!』。
何故ならば、
『地や、須弥は常住であり!』、
『劫』を、
『竟える( to finish )からである!』。
『衆川には!』、
『竭くこと!』が、
『有っても!』、
『海ならば!』、
『常に!』、
『満ちている!』し、
『日、月は天を周りながら!』、
『窮極すること!』が、
『無いからである!』。
又、
『凡人の所見』は、
『虚妄であり!』、
『真でない!』が故に、
『空のはずである!』が、
『聖人の所得』は、
『如や、法性や、真際や、涅槃の相であり!』、
『実の!』、
『法であるはずである!』。
何故、
『畢竟じて、皆空である!』と、
『言うのですか?』。
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復次有為法因緣生故不實。無為法不從因緣生故應實。復云何言畢竟空。 |
復た次ぎに、有為法は因縁生の故に実にあらざるも、無為法は因緣より生ぜざるが故に、応に実なるべし。復た云何が、畢竟空と言う。 |
復た次ぎに、
『有為法』は、
『因縁生である!』が故に、
『実でない!』が、
『無為法』は、
『因縁生でない!』が故に、
『実でなくてはならない!』。
復た、何故、
『畢竟空だ!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。堅固不堅固不定故皆空所以者何。有人以此為堅固。有人以此為不堅固。如人以金剛為牢固。帝釋手執如人捉杖不以為牢固。 |
答えて曰く、堅固、不堅固は定まらざるが故に、皆空なり。所以は何んとなれば、有る人は、此れを以って、堅固と為し、有る人は、此れを以って、不堅固と為せばなり。人の金剛を以って、牢固と為すも、帝釈の手に執ること、人の杖を捉るが如く、以って、牢固と為さざるが如し。 |
答え、
『堅固であるか?』、
『堅固でないか?』は、
何故ならば、
有る人は、
有る人は、
此れは、
『堅固でない!』と、
『言うからである!』。
例えば、
『人』は、
『金剛』を、
『牢固である!』と、
『言う!』が、
『帝釈』は、
『人』が、
『杖を、捉るように!』、
『金剛を、手に執って!』、
『金剛』は、
『牢固でない!』と、
『言うようなものである!』。
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又不知破金剛因緣故以為牢固。若知著龜甲上以山羊角打破則知不牢固。如七尺之身以大海為深。羅睺阿修羅王。立大海中膝出水上。以兩手隱須彌頂。下向觀忉利天喜見城。此則以海水為淺。若短壽人以地為常久牢固。長壽者見地無常不牢固。 |
又、金剛を破る因緣を知らざるが故に、以って牢固と為すも、若しは、亀甲の上に著くるに、山羊の角を以って、打破するを知れば、則ち牢固ならざるを知る。七尺の身を以って、大海を深しと為すも、羅睺阿修羅王、大海中に立てば、膝、水上に出でて、両手を以って、須弥の頂を隠し、下を向けば、忉利天の喜見城を観るに、此れ則ち海水を以って、浅しと為すが如し。若し短寿の人ならば、地を以って常に久しく、堅固なりと為すも、長寿の者、地を見れば、無常にして、牢固ならず。 |
又、
『金剛を破る!』、
『因緣を知らない!』が故に、
『牢固である!』と、
『思うのである!』。
若し、
『亀甲の上』に、
『山羊の角を著け!』、
『打破すること!』を、
『知れば!』、
『亀甲』は、
『牢固でない!』と、
『知るようなものである!』。
譬えば、
『七尺の身には!』、
『羅睺阿修羅王』が、
『大海中に立てば!』、
『膝』が、
『水上』に、
『出て!』、
『両手』で、
『須弥山の頂』を、
『隠し!』、
『下を向けば!』、
『忉利天の喜見城』を、
『観ることになる!』ので、
此の、
『阿修羅王』には、
『海水』は、
『浅いことになるのである!』。
若し、
『短寿の人ならば!』、
『地』を、
『常久であり、牢固である!』と、
『言う!』が、
『長寿の者』は、
『地』は、
『無常であり、牢固でない!』と、
『見るのである!』。
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羅睺阿修羅王(らごあしゅらおう):『大智度論巻4下注:羅睺阿修羅王』参照。 |
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如佛說七日喻經。佛告諸比丘。一切有為法無常變異皆歸磨滅。劫欲盡時大旱積久。藥草樹木皆悉焦枯。有第二日出諸小流水皆悉乾竭。第三日出大河流水亦都涸盡。第四日出閻浮提中四大河。及阿那婆達多池皆亦空竭。第五日出大海乾涸。第六日出大地須彌山等皆悉煙出如窯燒器。第七日出悉皆熾然無復煙氣。地及須彌乃至梵天火皆然滿。 |
仏の七日喩経を説きたまえるが如し、仏の諸比丘に告げたまわく、『一切の有為法は、無常、変異にして、皆磨滅に帰す。劫の尽きんと欲する時、大旱積もること久しく、薬草、樹木、皆悉く、焦げ枯る。有るいは第二の日出づるに、諸の小流水、皆悉く乾竭す。第三の日出づるに、大河の流水も亦た都、涸れ尽くす。第四の日出づるに、閻浮提中の四大河、及び阿那跋達多池も、皆亦た空しく竭く。第五の日出づるに、大海乾き涸る。第六の日出づるに、大地、須弥山等、皆悉く煙の出づること、窯の器を焼くが如し。第七の日出づるに、悉く皆、熾然たりて、復た煙の気も無し。地、及び須弥、乃至梵天まで、火皆然えて満たす。 |
『仏』は、
『七日喩経』に、こう説かれている、――
『仏』は、
『諸の比丘』に、こう告げられた、――
一切の、
『有為法』は、
『無常であり、変異する!』が故に、
皆、
『磨滅( be worn out )』に、
『帰する( to fall into )のである!』。
『劫が尽きようとする!』時、
『大干魃、久しく積もって!』、
『薬草、樹木』が、
皆悉く、
『焦げて枯れる!』。
有るいは( perhapes )、
『第二の日が出て!』、
『小流水』が、
皆悉く、
『乾いて、竭れてしまい!』、
『第三の日が出る!』と、
『大河の流水まで!』が、
亦た都べて、
『涸れて、尽き!』、
『第四の日が出る!』と、
『閻浮提中の四大河も、阿那跋達多池』も、
皆亦た、
『空しく、竭き!』、
『第五の日が出る!』と、
『第六の日が出る!』と、
『大地や、須弥山等』が、
皆、
『悉く!』、
『煙を出して!』、
譬えば、
『器を焼く!』、
『窯のようになり!』、
『第七の日が出る!』と、
悉く、
皆、
『熾然( burning intensely )となって!』、
復た( already )、
『煙の気も無く!』、
『地や、須弥山、乃至梵天まで!』、
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阿那婆達多池(あなばだったち):『大智度論巻4下注:阿那婆達多龍王』参照。
四大河(しだいが):『大智度論巻7下』参照。
熾然(しねん):明るく、烈しく燃える( burning brightly and intensely )。 |
参考:『中阿含七日経巻2』:『我聞如是。一時。佛遊鞞舍離。在奈氏樹園。爾時。世尊告諸比丘。一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。所以者何。有時不雨。當不雨時。一切諸樹.百穀.藥木皆悉枯槁。摧碎滅盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時二日出世。二日出時。諸溝渠川流皆悉竭盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時三日出世。三日出時。諸大江河皆悉竭盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法。不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時四日出世。四日出時。諸大泉源從閻浮洲五河所出。一曰恒伽。二曰搖尤那。三曰舍牢浮。四曰阿夷羅婆提。五曰摩企。彼大泉源皆悉竭盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法。不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時五日出世。五日出時。大海水減一百由延。轉減乃至七百由延。五日出時。海水餘有七百由延。轉減乃至一百由延。五日出時。大海水減一多羅樹。轉減乃至七多羅樹。五日出時。海水餘有七多羅樹。轉減乃至一多羅樹。五日出時。海水減一人。轉減乃至七人。五日出時。海水餘有七人。轉減乃至一人。五日出時。海水減至頸.至肩.至腰.至[月*奇].至膝.至踝。有時海水消盡。不足沒指。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時六日出世。六日出時。一切大地須彌山王皆悉煙起。合為一煙。譬如陶師始爨窖時。皆悉煙起。合為一煙。如是六日出時。一切大地須彌山王皆悉煙起。合為一煙。是故一切行無常。不久住法.速變易法。不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時七日出世。七日出時。一切大地須彌山王洞燃俱熾。合為一[火*僉]。如是七日出時。一切大地須彌山王洞燃俱熾。合為一[火*僉]。風吹火[火*僉]。乃至梵天。是時。晃昱諸天始生天者。不諳世間成敗。不見世間成敗。不知世間成敗。見大火已。皆恐怖毛豎而作是念。火不來至此耶。火不來至此耶。前生諸天諳世間成敗。見世間成敗。知世間成敗。見大火已。慰勞諸天曰。莫得恐怖。火法齊彼。終不至此。七日出時。須彌山王百由延崩散壞滅盡。二百由延.三百由延。乃至七百由延崩散壞滅盡。七日出時。須彌山王及此大地燒壞消滅。無餘栽燼。如燃酥油。煎熬消盡。無餘煙墨。如是七日出時。須彌山王及此大地無餘災燼。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。我今為汝說須彌山王當崩壞盡。誰有能信。唯見諦者耳。我今為汝說大海水當竭消盡。誰有能信。唯見諦者耳。我今為汝說一切大地當燒燃盡。誰有能信。唯見諦者耳。所以者何。比丘。昔有大師名曰善眼。為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足。善眼大師有無量百千弟子。善眼大師為諸弟子說梵世法。若善眼大師為說梵世法時。諸弟子等有不具足奉行法者。彼命終已。或生四王天。或生三十三天。或生[火*僉]摩天。或生兜率哆天。或生化樂天。或生他化樂天。若善眼大師為說梵世法時。諸弟子等設有具足奉行法者。彼修四梵室。捨離於欲。彼命終已。得生梵天。彼時善眼大師而作是念。我不應與弟子等同俱至後世共生一處。我今寧可更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。彼時善眼大師則於後時更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。善眼大師及諸弟子學道不虛。得大果報。諸比丘。於意云何。昔善眼大師為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足者。汝謂異人耶。莫作斯念。當知即是我也。我於爾時名善眼大師。為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足。我於爾時有無量百千弟子。我於爾時為諸弟子說梵世法。我說梵世法時。諸弟子等有不具足奉行法者。彼命終已。或生四王天。或生三十三天。或生[火*僉]摩天。或生兜率哆天。或生化樂天。或生他化樂天。我說梵世法時。諸弟子等設有具足奉行法者。修四梵室。捨離於欲。彼命終已。得生梵天。我於爾時而作是念。我不應與弟子等同俱至後世共生一處。我今寧可更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。我於後時更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。我於爾時及諸弟子學道不虛。得大果報。我於爾時親行斯道。為自饒益。亦饒益他。饒益多人。愍傷世間。為天.為人求義及饒益。求安隱快樂。爾時說法不至究竟。不究竟白淨。不究竟梵行。不究竟梵行訖。爾時不離生.老.病.死.啼哭.憂慼。亦未能得脫一切苦。比丘。我今出世。如來.無所著.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。我今自饒益。亦饒益他。饒益多人。愍傷世間。為天.為人求義及饒益。求安隱快樂。我今說法得至究竟。究竟白淨。究竟梵行。究竟梵行訖。我今已離生.老.病.死.啼哭.憂慼。我今已得脫一切苦。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
|
|
爾時新生光音天者見火怖畏言。既燒梵宮將無至此。先生諸天慰喻後生天言。曾已有此正燒梵宮。於彼而滅不來至此。燒三千大千世界已無復灰炭。 |
爾の時、新たに光音天に生まるる者の火を見て、怖畏して言わく、『既に梵宮を焼く、将(なん)ぞ、此(ここ)に至ること無からん』、と。先に生まるる諸天の後生の天を慰喩して言わく、『曽て已に此れ有りて、正に梵宮を焼くも、彼(かしこ)に於いて滅し、此には来至せず』、と。三千大千世界を焼き已りて、復た灰炭も無し。 |
――
爾の時、
新たに( newly )、
『光音天( 二禅第三天)に生まれた!』者は、
『火を見て、怖畏し!』、こう言った、――
既に、
『梵宮(初禅第三天の宮殿)』が、
『焼けた!』、
将ぞ( how can )、
『此に至る(come hear )!』ことが、
『無いものか!』、と。
『先に、生まれた諸天』は、
『後に、生まれた天』を、
『慰喩して!』、こう言った、――
曽て已に( even before )、
此の、
『火が有り!』、
正しく( just only )、
『梵宮だけを焼く!』と、
彼の、
『天に於いて!』、
『滅してしまい!』、
此の、
『天までは!』、
『来なかった!』、と。
是の、
『火』が、
『三千大千世界を焼いてしまう!』と、
復た( nomore )、
『灰や、炭すら!』、
『無かったのである!』。
|
光音天(こうおんてん):梵にaabhaasvaraに作り、音訳して阿波会提婆と為し、また阿波会天、阿会互修天、阿波互羞天、阿波羅天、阿波嘬羅遮天等に作り、意訳して光陰天、水無量天、無量水天、極光浄天、極光天、光浄天、遍勝光天、晃昱天、光曜天に作り、即ち第二禅の第三天にして、無量光天の上、少浄天の下に位す。この皆の衆生には音声の有ること無く、定心より発する所の光明を以って語言に替代え、彼此の意を伝達すれば、故に光音天と称す。上品二禅天相応の業の衆生投じてこの界に生まれ、最勝の色を得るに、身長は八由旬、寿は八大劫なり、喜悦を以って食と為し、安楽に住して自然の光明あり、神通を具有して空に乗りて行くべし。『倶舎論巻12』等参照。<(佛)
将(しょう):<動詞>扶助する/支持する( support )、奉行する( follow )、送行する( send )、携帯する( bring
)、領導する( lead, guide )、服従する/随従する( be obedient to , submit to )、供養する( provide
for )、保養する/休養する( recuperate, rest maintain )、伝達する( express )、進む/行く( advance,
go )。<副詞>必ず/必定/当に~すべし( certainly )、要ず/まさに~せんとす( will, be going to )、正に(
just )、ほとんど( nearly )、豈/何ぞ/どうして( how can )。<前置詞>~によって/~を以って/~を用いて( by,
by means of )、於いて/在って( at, in )。<接続詞>又/且つ( also )、若し( if )、或は( or )。<助詞>動詞の後に在って、動作/行為の趣向、或は親交を表示する。
復(ふく):<動詞>[本義]返って来る( return to )。恢復する( restore )、回帰する( return )、返答/回答する(
reply )、報復する( retaliate )、履行/実践する( carry out )。<副詞>又/再び( resume )。<形容詞>重複した/重なった/重畳した(
compound, complex, double, overlapping )。 |
|
|
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佛語比丘如此大事誰信之者。唯有眼見乃能信耳。又比丘過去時。須涅多羅外道師離欲行四梵行。無量弟子亦得離欲。須涅多羅作是念我不應與弟子同生一處。今當深修慈心。此人以深思慈故生光音天。 |
仏の比丘に語りたまわく、『此の如き大事は、誰か之を信ずる者なる。唯だ眼に見て、乃ち能く信ずる有るのみ。又比丘、過去の時に、須涅多羅なる外道の師は、欲を離れて四梵行を行じ、無量の弟子も亦た欲を離るるを得たり。須涅多羅の是の念を作さく、『我れは、応に弟子と同じくして、一処に生すべからず。今当に深く、慈心を修すべし』、と。此の人は、深く慈を思うを以っての故に、光音天に生ず』、と。 |
『仏』は、
『比丘』に、こう語られた、――
此のような、
『大事』を、
『誰が、信じるのか?』。
唯だ、
『眼に見て!』、
乃ち( only then )、
『信じることのできる!』者が、
『有るだけだ!』。
又、比丘!
過去の時に、
『須涅多羅という!』、
『外道の師』は、
『欲を離れて!』、
『四梵行』を、
『行っており!』、
亦た、
『無量の弟子』も、
『欲を離れていた!』。
『須涅多羅』は、こう念じた、――
わたしは、
『弟子と同じくして!』、
『一処』に、
『生まれるわけにはいかない!』。
今は、
『深く!』、
『慈心』を、
『修めることにしよう!』、と。
此の、
『人』は、
『深く、慈を思った!』が故に、
『光音天』に、
『生じたのである!』、と。
|
須涅多羅(しゅねたら):梵語sunetraの音訳にして、また須泥多羅、蘇泥怛羅等に作り、好眼、善眼と意訳す。<(丁)
四梵行(しぼんぎょう):梵堂/梵住(梵語 braahma- vihaara : a temple of Brahma )に住すべき四種の行、即ち慈悲喜捨の四無量を云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。 |
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佛言須涅多羅者我身是也。我是時眼見此事以是故當知牢固實物皆悉歸滅。 |
仏の言わく、『須涅多羅とは、我が身是れなり。我れ是の時、眼に此の事を見たり』、と。是を以っての故に、当に知るべし、牢固にして実なる物も、皆悉く、滅に帰するを。 |
『仏』は、こう言われた、――
『須涅多羅』とは、
是れは、
『わたしの身である!』。
わたしは、
是の故に、こう知ることになる、――
『牢固であり、堅実な物すら!』、
皆、悉く、
『滅に帰するのである!』、と。
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問曰。汝說畢竟空何以說無常事。畢竟空今即是空。無常今有後空。 |
問うて曰く、汝は、畢竟空を説くに、何を以ってか、無常の事を説く。畢竟空は、今、即ち是れ空なり。無常は、今有りて、後に空なり。 |
問い、
お前は、
『畢竟空』を、
『説いていた!』のに、
何故、
『無常の事』を、
『説くのか?』。
『畢竟空』は、
『無常』は、
『今、有る!』者が、
『後に!』、
『空になるのである!』。
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答曰。無常則是空之初門。若諦了無常諸法則空。以是故。聖人初以四行觀世間無常。若見所著物無常。無常則能生苦。以苦故心生厭離。若無常空相則不可取。如幻如化是名為空。外物既空內主亦空是名無我。 |
答えて曰く、無常は、則ち是れ空の初門にして、若し無常を諦了すれば、諸法は則ち空なり。是を以っての故に、聖人は、初め、四行を以って、世間の無常を観じ、若し所著の物の無常なるを見れば、無常は、則ち能く苦を生じ、苦を以っての故に、心に厭離を生ず。若し、無常、空相なれば、則ち取るべからざること、幻の如く、化の如し。是れを名づけて空と為す。外物にして、既に空なれば、内の主も、亦た空なり。是れを無我と名づく。 |
答え、
『無常』とは、
則ち、
『空の初門だからである!』。
若し、
『無常を諦了( to know clearly )にすれば!』、
『諸法』は、
『空となるのである!』。
是の故に、
『聖人』は、
初めに、
『四行( 苦諦中の苦、空、無常、無我の観察)を用いて!』、
『世間の無常』を、
『観察されたのであり!』、
若し、
『著する!』所の、
『物』に於いて、
『無常』を、
『見れば!』、
『無常』は、
『苦』を、
『生じることになり!』、
『苦を思う!』が故に、
若し、
『物』が、
『無常であり、空相ならば!』、
『幻や、化のように!』、
『取ることはできない!』。
是れを、
『空』と、
『称するのである!』。
若し、
『外物』が、
既に、
『空ならば!』、
亦た、
『内の主も!』、
『空となるので!』、
是れを、
『無我』と、
『称するのである!』。
|
四行(しぎょう):また四行相、四種行相に作る。即ち苦諦の苦、空、無常、無我の四種の行相を観察するを指し、乃ち四諦十六行相中、苦諦の四種行相なり。 |
参考:『阿毘達磨倶舎論巻26』:『論曰。有餘師說。十六行相名雖十六實事唯七。謂緣苦諦名實俱四。緣餘三諦名四實一。如是說者實亦十六。謂苦聖諦有四相。一非常二苦三空四非我。待緣故非常。逼迫性故苦。違我所見故空。違我見故非我。集聖諦有四相。一因二集三生四緣。如種理故因。等現理故集。相續理故生。成辦理故緣。譬如泥團輪繩水等眾緣和合成辦瓶等。滅聖諦有四相。一滅二靜三妙四離。諸蘊盡故滅。三火息故靜。無眾患故妙。脫眾災故離。道聖諦有四相。一道二如三行四出。通行義故道。契正理故如。正趣向故行。能永超故出。又非究竟故非常。如荷重擔故苦。內離士夫故空。不自在故非我。牽引義故因。出現義故集。滋產義故生。為依義故緣。不續相續斷故滅。離三有為相故靜。勝義善故妙。極安隱故離。治邪道故道。治不如故如。趣入涅槃宮故行。棄捨一切有故出。如是古釋既非一門故隨所樂更為別釋。生滅故非常。違聖心故苦。於此無我故空。自非我故非我。因集生緣如經所釋。謂五取蘊以欲為根。以欲為集。以欲為類。以欲為生。‥‥』 |
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|
復次畢竟空是為真空有二種眾生。一多習愛二多習見。愛多者喜生著。以所著無常故生憂苦。為是人說。汝所著物無常壞故。汝則為之生苦。若此所著物生苦者不應生著。是名說無作解脫門。見多者為分別諸法以不知實故而著邪見。為是人故直說諸法畢竟空。 |
復た次ぎに、畢竟空は、是れを真の空と為すに、二種の衆生有り、一には多く、愛を習い、二には多く、見を習う。愛多き者は、喜んで著を生ずるに、所著の無常なるを以っての故に、憂苦を生ずれば、是の人の為に説かく、『汝が所著の物は、無常にして壊るるが故に、汝は則ち之が為に苦を生ず。此の所著の物の若く、苦を生ずる者は、応に著を生ずべからず』、と。是れを無作解脱門を説くと名づく。見多き者は、諸法を分別せんが為、実を知らざるを以っての故に、邪見に著すれば、是の人の為の故には、直だ、『諸法は畢竟空なり』、と説く。 |
復た次ぎに、
『畢竟空』とは、
『真の空である!』。
『衆生』には、
『二種有り!』、
一には、
『愛を習うこと( to have the habit of craving )!』が、
『多くあり!』、
二には、
『見を習うこと( to have the habit of view )!』が、
『多い!』。
『愛の多い!』者は、
『喜んで、著を生じ!』、
『所著が無常である!』が故に、
『憂苦』を、
『生じる!』ので、
是の、
『人の為に!』、こう説くのである、――
お前の、
『所著の物』は、
『無常であり!』、
『壊れるものである!』が故に、
お前に、
『苦』を、
『生じさせる!』。
此の、
『所著の物のような!』、
『苦を生じさせる!』者に、
『著』を、
『生じてはならない!』、と。
是れを、
『無作解脱門を説く!』と、
『称する!』。
『見の多い!』者は、
『諸法を分別しようとする!』が、
『実を知らない!』が故に、
『邪見』に、
『著することになる!』ので、
是の、
『人の為に!』は、
直だ、こう説くのである、――
『諸法』は、
『畢竟じて!』、
『空である!』、と。
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復次若有所說皆是可破可破故空。所見既空見主亦空。是名畢竟空。汝言聖人所得法應實者。以聖人法能滅三毒。非顛倒虛誑能令眾生離老病死苦得至涅槃。是雖名實皆從因緣和合生故。先無今有今有後無故。不可受不可著故亦空非實。如佛說筏喻經。善法尚應捨何況不善。 |
復た次ぎに、若し所説有らば、皆是れ破すべし。破すべきが故に空なり。所見、既に空なれば、見主も亦た空なり。是れを畢竟空と名づく。汝が言わく、『聖人の所得の法は、応に実なるべし』、とは、聖人の法は、能く三毒を滅し、顛倒、虚誑に非ず、能く衆生をして、老病死の苦を離れ、涅槃に至るを得しむるを以って、是れを実と名づくと雖も、皆因緣和合より、生ずるが故に、先に無く、今有り、今有りて、後に無きが故に、受くべからず、著すべからざるが故に、空にして、実に非ず。仏の説きたまえる筏喩経の如く、善法すら尚お応に捨つべし、何に況んや、不善をや。 |
復た次ぎに、
若し、
『所説が有れば!』、
『皆、破ることができ!』、
『破られる!』が故に、
『空であり!』、
『所見』が、
『既に、空ならば!』、
『見主も!』、
『空である!』ので、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
お前は、こう言ったが、――
『聖人の所得』の、
『法』は、
『実であるはずだ!』、と。
『聖人の法』は、
『三毒を滅することができ!』、
『顛倒でも、虚誑でもなく!』、
『衆生』を、
『老病死の苦より、離れさせ!』、
『涅槃に!』、
『至らせることができる!』ので、
是れを、
『実と称するのである!』が、
『皆、因縁の和合より、生じる!』が故に、
『先に無くて、今有り!』、
『今有って、後に無い!』が故に、
是れは、
『受けるべきでなく!』、
『著すべきでない!』が故に、
亦た、
『空であり!』、
『実ではない!』。
例えば、
『仏』は、
『筏喩経』に、こう説かれている、――
『善法であっても!』、
尚お、
『捨てなくてはならない!』、
況して、
『不善の法』は、
『言うまでもない!』、と。
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筏喩経(ばつゆきょう):『大智度論巻1下注:筏喩』参照。 |
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復次聖人有為無漏法從有漏法緣生。有漏法虛妄不實緣所生法。云何為實離有為法無無為法如先說。有為法實相即是無為法。以是故。一切法畢竟不可得故名為畢竟空。 |
復た次ぎに、聖人の有為の無漏法は、有漏法の縁より生ず。有漏法なる虚妄、不実の縁より生ずる所の法を、云何が実と為す。有為法を離るれば、無為法無きこと先に説けるが如し。有為法の実相は、即ち是れ無為法なり。是を以っての故に、一切の法は、畢竟じて不可得なるが故に、名づけて畢竟空と為す。 |
復た次ぎに、
『聖人』の、
『有為の無漏法』は、
『有漏法の縁より!』、
『生じる!』が、
『有漏法のような!』、
『虚妄、不実の縁より!』、
『生じた!』所の、
『法』を、
何故、
『実だ!』と、
『言うのか?』。
『有為法』を、
先に、説いたように、――
『有為法』の、
『実相』が、
『無為法である!』。
是の故に、
『一切の法』は、
『畢竟じて!』、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
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有為無漏法(ういむろほう):また無漏有為に作り、即ち有為的無漏の法を指し、倶舎宗には四諦中の苦、集二諦を有為有漏法、滅諦を有為無漏法、道諦を則ち無漏法と為すといえども、然るに具に生滅の性質を有し、而も凡そ生滅有る者は即ち有為法に属するを以っての故に、道諦をまた有為無漏法と称す。この外に、七十五法中には、色法中の無表色、心法中の第六識心王、心所有法中の十種の大地法、十種の大善地法、尋(覚)、伺(観)、及び心不相応行法中の生、住、異、滅の四相等の共に得る計二十九法は皆有為無漏法なり。<(佛) |
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