巻第三十一(上)
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大智度論釋初品中十八空義第四十八(卷三十一)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


十八空

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩。欲住內空外空內外空空空大空第一義空有為空無為空畢竟空無始空散空性空自相空諸法空不可得空無法空有法空無法有法空。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舎利弗、菩薩摩訶薩は、内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、自相空、諸法空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
復た次ぎに、
舎利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
『内空、外空、内外空や!』、
『空空、大空、第一義空や!』、
『有為空、無為空、畢竟空や!』、
『無始空、散空、性空や!』、
『自相空、諸法空、不可得空や!』、
『無法空、有法空、有法無法空に!』、
『住しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  十八空(じゅうはちくう):梵語aSTaadazazuunyataaHの訳語にして、十八種の空の意なり。乃ち種種の邪見を破せんが為に十八種の空を設くるをいう。即ち
  1. 内空(梵adhyaatma- zuunyataa)internal emptiness:眼等の六内処中に我、我所無く及び眼等の法無きを指す。
  2. 外空(梵bahirdhaa- zuunyataa)external emptiness:色等の六外処中に我、我所無く、及び色等の法無きを指す。
  3. 内外空(梵adhyaatma- bahirdhaa- zuunyataa)internal/external emptiness:即ち総じて六根、六境の内外十二処中に、我、我所無く、及び彼の法無きを指す。
  4. 空空(梵zuunyataa- zuunyataa)empty emptiness:即ち前の三空に著せざるを指す。
  5. 大空(梵mahaa- zuunyataa)great emptiness:即ち十方の世界に於いて、本来の定方、彼此の法無きを指す。
  6. 第一義空(梵paramaartha- zuunyataa)ultimate emptiness:また勝義空、真実空に作り、即ち諸法を離れての外に別に第一義実相の自性の得べきもの無く、実相に於いても著する所の無きを指す。
  7. 有為空(梵saMskRta- zuunyataa)conditioned emptiness:即ち因縁集起の法と因縁の法相とは皆得べからざるを指す。
  8. 無為空(梵asaMskRta- zuunyataa)unconditioned emptiness:即ち涅槃の法に於いて定取を離るるを指す。
  9. 畢竟空(梵atyanta- zuunyataa)final emptiness:また至竟空に作り、即ち有為空と無為空とを以って一切の法を破るに、畢竟じて遺余有ることの無きを指す。
  10. 無始空(梵anavaraagra- zuunyataa)beginningless emptiness:また無限空、無際空、無前後空に作り、即ち一切の法は生起すること無始に於いてなりといえども、而もまたこの法中に於いて取相を捨離するを指す。
  11. 散空(梵anavakaara- zuunyataa)dispersed emptiness:また散無散空、不捨空、不捨離空に作り、即ち諸法はただ和合の仮有なるが故に、畢竟、別離散滅の相にして所有無きを指す。
  12. 性空(梵prakRti- zuunyataa)emptiness of nature:また本性空、仏性空に作り、即ち諸法の自性は空なるを指す。
  13. 自相空(梵svalakSaNa- zuunyataa)emptiness of self- marks:また自共相空、相空に作り、即ち諸法の総別、同異の相の得べからざるを指す。
  14. 諸法空(梵sarva- dharma- zuunyataa)emptiness of all dharmas:また一切法空に作り、即ち蘊、処、界等の一切法に於いて、自相不定にして取相を離るるを指す。
  15. 不可得空(梵anupalambha- zuunyataa)emptiness of nonattainability:また無所有空に作り、即ち諸の因縁法の中に我法を求むるに得べからざるを指す。
  16. 無法空(梵abhaava- zuunyataa)emptiness of nonexistence:また無性空、非有空に作り、即ち諸法もしすでに壊滅せば、則ち自性の得べきもの無く、未来の法もまたかくの如きなるを指す。
  17. 有法空(梵svabhaava- zuunyataa)emptiness of existence:また自性空、非有性空に作り、即ち諸法はただ因縁に由り而も有るが故に、現在の有も即ち実有に非ざるを指す。
  18. 無法有法空(梵abhaava- svabhaava- zuunyataa)emptiness of existence and nonexistence:また無性自性空に作り、即ち総じて三世の一切の法の生滅、及び無為法の一切は皆得べからざるを指す。<(佛)
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5問乗品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩復有摩訶衍。所謂。內空。外空。內外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空。須菩提白佛言。何等為內空。佛言。內法名眼耳鼻舌身意。眼眼空非常非滅故。何以故。性自爾。耳耳空鼻鼻空舌舌空身身空意意空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名內空。何等為外空。外法名色聲香味觸法。色色空非常非滅故。何以故。性自爾。聲聲空香香空味味空觸觸空法法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名外空。何等為內外空。內外法名內六入外六入。內法內法空非常非滅故。何以故。性自爾。外法外法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名內外空。何等為空空。一切法空是空亦空非常非滅故。何以故。性自爾。是名空空。何等為大空。東方東方相空。非常非滅故。何以故。性自爾。南西北方四維上下。南西北方四維上下空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名大空。何等為第一義空。第一義名涅槃。涅槃涅槃空非常非滅故。何以故。性自爾。是名第一義空。何等為有為空。有為法名欲界色界無色界。欲界欲界空。色界色界空。無色界無色界空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名有為空。何等為無為空。無為法名若無生相無住相無滅相。無為法無為法空非常非滅故。何以故。性自爾。是為無為空。何等為畢竟空。畢竟名諸法畢竟不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名畢竟空。何等為無始空。若法初來處不可得。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無始空。何等為散空。散名諸法無滅。非常非滅故。何以故。性自爾。是為散空。何等為性空。一切法性。若有為法性若無為法性。是性非聲聞辟支佛所作。非佛所作亦非餘人所作。是性性空非常非滅故。何以故。性自爾。是名性空。何等為自相空。自相名色壞相。受受相。想取相。行作相。識識相。如是等有為無為法各各自相空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名自相空。何等為諸法空。諸法名色受想行識。眼耳鼻舌身意。色聲香味觸法。眼界色界眼識界。乃至意界法界意識界。是諸法諸法空。非常非滅故。何以故。性自爾。是為諸法空。何等為不可得空。求諸法不可得是不可得空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名不可得空。何等為無法空。若法無是亦空。非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法空。何等為有法空。有法名諸法和合中有自性相。是有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名有法空。何等為無法有法空。諸法中無法。諸法和合中有自性相。是無法有法空非常非滅故。何以故。性自爾。是名無法有法空。復次須菩提。法法相空。無法無法相空。自法自法相空。他法他法相空。何等名法法相空。法名五蔭。五蔭空是名法法相空。何等名無法無法相空。無法名無為法。是名無法無法空。何等名自法自法空。諸法自法空。是空非知作非見作。是名自法自法空。何等名他法他法空。若佛出若佛未出。法住法相法位法性如實際。過此諸法空。是名他法他法空。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。』
【論】內空者內法。內法空。內法者。所謂內六入眼耳鼻舌身意。眼空無我無我所無眼法。耳鼻舌身意亦如是。外空者外法。外法空。外法者。所謂外六入色聲香味觸法。色空者無我無我所無色法。聲香味觸法亦如是。內外空者內外法。內外法空。內外法者。所謂內外十二入。十二入中無我無我所。無內外法。 内空とは、内法にして、内法なる空なり。内法とは、謂わゆる内の六入なる眼耳鼻舌身意にして、眼なる空は無我、無我所にして、眼法無く、耳鼻舌身意も亦た是の如し。外空とは、外法にして、外法なる空なり。外法とは、謂わゆる外の六入なる色声香味触法なり。色なる空は、無我、無我所にして、色法無く、声香味触法も亦た是の如し。内外空とは、内外の法にして、内外の法なる空なり。内外の法とは、謂わゆる内外の十二入なるも、十二入中には無我、無我所にして、内外の法無し。
『内空』とは、
『内法であり!』、
『内法という!』、
『空である!』。
『内法』とは、
謂わゆる、
『内の六入』の、
『眼耳鼻舌身意である!』が、
『眼という!』、
『空には!』、
『我も、我所も!』、
『無い!』が故に、
『眼という!』、
『法』は、
『無い!』。
亦た、
『耳鼻舌身意』も、
『是の通りである!』。
『外空』とは、
『外法であり!』、
『外法という!』、
『空である!』。
『外法』とは、
謂わゆる、
『外の六入』の、
『色声香味触法である!』が、
『色という!』、
『空には!』、
『我も、我所も!』、
『無い!』が故に、
『色という!』、
『法』は、
『無い!』。
亦た、
『声香味触法』も、
『是の通りである!』。
『内外空』とは、
『内外法であり!』、
『内外法という!』、
『空である!』。
『内外法』とは、
謂わゆる、
『内、外の!』、
『十二入である!』が、
『十二入』中には、
『我も、我所も無い!』が故に、
『内外法』は、
『無い!』。
問曰。諸法無量空隨法故則亦無量。何以但說十八。若略說應一空。所謂一切法空。若廣說隨一一法空。所謂眼空色空等甚多。何以但說十八空。 問うて曰く、諸法は無量にして、空は法に随うが故に、則ち亦た無量なり。何を以ってか、但だ十八を説く。若し略説すれば、応に一空、謂わゆる一切法の空なるべし。若し広説すれば、一一の法に随う空は、謂わゆる眼空、色空等は甚だ多し。何を以ってか、但だ十八空を説く。
問い、
諸の、
『法は、無量であり!』、
亦た、
『空』も、
『法に随う!』が故に、
『無量である!』。
何故、
但だ、
『十八の空のみ!』を、
『説くのですか?』。
若し、
『空を略説すれば!』、
当然、
『一空』を、
『説くだけでよく!』、
謂わゆる、
『一切法の空』を、
『説けばよいはずです!』。
若し、
『広説すれば!』、
『一一の!』、
『法に随う!』、
『空は!』、
謂わゆる、
『眼空や、色空等は!』、
『甚だ多いのに!』、
何故、
但だ、
『十八の空のみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。若略說則事不周。若廣說則事繁。譬如服藥。少則病不除。多則增其患。應病投藥令不增減則能愈病。空亦如是。若佛但說一空。則不能破種種邪見及諸煩惱。若隨種種邪見說空空則過多。人愛著空相墮在斷滅。說十八空正得其中。 答えて曰く、若し略説すれば、則ち事は周からず。若し広説すれば、則ち事繁し。譬えば薬を服するに、少なければ則ち病除こらず、多ければ則ち其の患を増せば、病に応じて薬を投じ、増減せざらしむれば、則ち能く病を愈すが如し。空も亦た是の如く、若し仏、但だ一空を説かば、則ち種種の邪見、及び諸の煩悩を破る能わざらん。若し種種の邪見に随いて、空を説かば、空は則ち過多なれば、人は、空相に愛著して、堕して断滅に在らん。十八空を説けば、正しく其の中を得るなり。
答え、
若し、
『略説すれば!』、
『事( the work )』が、
『周くなく( be not complete )!』、
若し、
『広説すれば!』、
『事』が、
『繁くなる( be complicated )だろう!』。
譬えば、
『薬を服む!』のが、
『少しならば!』、
『病』が、
『除かれず!』、
『多ければ!』、
『患( the trouble )』が、
『増える!』が、
『病に応じて!』、
『薬を投じれば!』、
『病を!』を、
『増、減させることなく!』、
則ち、
『病』を、
『愈すことになるように!』、
亦た、
『空』も、
是のように、
若し、
『仏』が、
但だ、
『一空だけしか!』、
『説かれなければ!』、
則ち、
『種種の邪見や、諸の煩悩を!』、
『破ることができず!』、
若し、
種種の、
『邪見に随って!』、
『空を説かれれば!』、
則ち、
『空』が、
『過多となる!』ので、
『人は、空相に愛著して!』、
『断、滅』に、
『堕ちることになる!』が、
『仏』が、
『十八空を説かれた!』ので、
正しく、
其の、
『中( the right )』を、
『得たのである!』。
復次若說十若說十五俱亦有疑此非問也。 復た次ぎに、若しは十を説くも、若しは十五を説くも、倶に亦た疑有れば、此れ問に非ざるなり。
復た次ぎに、
若し、
『十を説こうが!』、
『十五を説こうが!』、
倶に、
『疑う!』者が、
『有る!』ので、
此れは、
『問にならない!』。
復次善惡之法皆有定數。若四念處四正勤三十七品十力四無所畏四無礙智十八不共法五眾十二入十八界十二因緣三毒三結四流五蓋等。諸法如是各有定數。以十八種法中破著故說有十八空。 復た次ぎに、善悪の法には、皆定数有り。四念処、四正勤、三十七品、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、五衆、十二入、十八界、十二因縁、三毒、三結、四流、五蓋等の若く、諸法は、是の如く各定数あり。十八種の法中に、著を破するを以っての故に、十八空有りと説く。
復た次ぎに、
『善、悪の法』は、
皆、
『定数』が、
『有り!』、
例えば、
『四念処、四正勤、三十七品とか!』、
『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法とか!』、
『五衆、十二入、十八界とか!』、
『十二因縁や、三毒、三結、四流、五蓋等のように!』、
諸の、
『法』には、
是のように、
各、
『定数が有る!』が、
『十八種の法を説く!』中に、
諸の、
『著』を、
『破る!』ので、
是の故に、
『十八空が有る!』と、
『説かれたのである!』。
  三結(さんけつ):一切の結をこの三結に包含す。即ち身見、戒禁取見、疑なり。『大智度論巻3下注:結』参照。
  四流(しる):また四暴流に作り、流は人の善心を流失するものの意。即ち欲、有、見、無明なり。『大智度論巻3下注:流』参照。
  五蓋(ごがい):蓋とは善心を覆障するものの意。即ち貪欲、瞋恚、睡眠、調戯、疑をいう。『大智度論巻3下注:蓋』参照。
問曰。般若波羅蜜空十八空為異為一。若異者離十八空以何為般若空。又如佛說。何等是般若波羅蜜。所謂色空受想行識空。乃至一切種智空。若不異者。云何言欲住十八空當學般若波羅蜜。 問うて曰く、般若波羅蜜の空と、十八空とを、異と為すや、一と為すや。若し異ならば、十八空を離れて、何を以ってか、般若の空と為す。又仏の説きたもうが如し、『何等か、是れ般若波羅蜜なる。謂わゆる色の空、受想行識の空、乃至一切種智の空なり』、と。若し異ならずんば、云何が、『十八空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と言う。
問い、
『般若波羅蜜の空と、十八空とは!』、
『異なるのか?』、
『一なのか?』。
若し、
『異なれば!』、
『十八空を離れて!』、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『空とするのか?』。
又、
『仏』は、こう説かれている、――
『般若波羅蜜』とは、
何のような者か?――
謂わゆる、
『色とか、受想行識とか、乃至一切種智という!』、
『空である!』、と。
若し、
『異ならなければ!』、
何故、こう言うのか?――
『十八空に住しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経無生品巻7』:『爾時慧命舍利弗語須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜觀諸法。何等是菩薩。何等是般若波羅蜜。何等是觀。須菩提語舍利弗。汝所問何等是菩薩。為阿耨多羅三藐三菩提是人發大心。以是故名為菩薩。亦知一切法一切種相。是中亦不著。知色相亦不著。乃至知十八不共法相亦不著。舍利弗問須菩提。何等為一切法相。須菩提言。若以名字因緣和合等知諸法。是色是聲香味觸法是內是外。是有為法是無為法。以是名字相語言知諸法。是名知諸法相。如舍利弗所問何等是般若波羅蜜。遠離故是名般若波羅蜜。何等法遠離。遠離陰界入。遠離檀那波羅蜜乃至禪那波羅蜜。遠離內空乃至無法有法空。以是故遠離名般若波羅蜜。復次遠離四念處。乃至遠離十八不共法。遠離一切智。以是因緣故。遠離名般若波羅蜜。如舍利弗所問何等是觀。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。觀色非常非無常。非樂非苦。非我非無我。非空非不空。非相非無相。非作非無作。非寂滅非不寂滅。非離非不離。受想行識亦如是。檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切三昧門一切陀羅尼門。乃至一切種智。觀非常非無常非樂非苦。非我非無我非空非不空。非相非無相非作非無作。非寂滅非不寂滅非離非不離。舍利弗。是名菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時觀諸法。』
  参考:『摩訶般若波羅蜜経夢誓品巻18』:『爾時須菩提白佛言。世尊。何等是般若波羅蜜相。佛告須菩提。如虛空相是般若波羅蜜相。須菩提。般若波羅蜜無所有相。須菩提白佛言。世尊。頗有因緣如般若波羅蜜相。諸法相亦如是耶。佛告須菩提。如是如是。如般若波羅蜜相諸法相亦如是。何以故。須菩提。一切法離相自性空相。以是因緣故。須菩提。如般若波羅蜜相諸法相亦如是。所謂離相空相故。須菩提白佛言。世尊。若一切法一切法離。一切法一切法空。云何知眾生若垢若淨世尊。離相法無垢無淨。空相法無垢無淨。離相空相法不能得阿耨多羅三藐三菩提。離相空相無法可得。世尊。離相中空相中。無有菩薩得阿耨多羅三藐三菩提者。世尊。我云何當知佛所說義。佛告須菩提。於汝意云何。是眾生長夜行我我所心不。如是世尊。眾生長夜行我我所心。於汝意云何。是我我所心。離相不空相不。須菩提言。世尊。我我所心離相空相。於汝意云何。以此我我所心。眾生往來生死中不。如是世尊。以此我我所心。眾生往來生死中。如是須菩提。眾生往來生死中故知有垢惱。須菩提。若眾生無我我所心無著心。是眾生不復往來生死中。若不往來生死中則無垢惱。如是須菩提。眾生有淨。須菩提白佛言。世尊。若菩薩摩訶薩如是行為不行色不行受想行識。為不行四念處乃至八聖道分。為不行內空乃至無法有法空。為不行佛十力乃至一切種智。何以故。是法不可得。亦無行者亦無行處亦無行法。世尊。菩薩摩訶薩如是行。一切世間諸天人阿修羅。不能降伏是菩薩摩訶薩。一切聲聞辟支佛所不能及。何以故。所住處無能及故。所謂菩薩位。世尊。是菩薩摩訶薩行應薩婆若心無能及者。須菩提。菩薩摩訶薩如是行疾近薩婆若。』
答曰。有因緣故言異。有因緣故言一。異者般若波羅蜜名諸法實相。滅一切觀法。十八空則十八種觀令諸法空。菩薩學是諸法實相。能生十八種空。是名異。 答えて曰く、有る因縁の故に、異なりと言い、有る因縁の故に、一なりと言う。異とは、般若波羅蜜を、諸法の実相と名づけ、一切の観法を滅すればなり。十八空は、則ち十八種の観にして、諸法を空ならしむ。菩薩は、是の諸法の実相を学びて、能く十八種の空を生ずれば、是れを異と名づく。
答え、
『因縁の有る!』が故に、
『異とも、一とも!』、
『言うのである!』。
『異』とは、――
『般若波羅蜜』は、
『諸法の実相であり!』、
『一切の観法』を、
『滅するのである!』が、
『十八空』とは、
『十八種の観であり!』、
『諸法』を、
『空にするものである!』。
『菩薩』は、
是の、
『般若波羅蜜という!』、
『諸法の実相』を、
『学べば!』、
則ち、
『十八種の空』を、
『生じさせることができる!』ので、
是れを、
『異』と、
『称するのである!』。
一者十八空是空無所有相。般若波羅蜜亦空無所有相。十八空是捨離相。般若波羅蜜一切法中亦捨離相。是十八空不著相。般若波羅蜜亦不著相。以是故學般若波羅蜜則是學十八空。不異故 一とは、十八空は、是れ空、無所有の相にして、般若波羅蜜も亦た空、無所有の相なり。十八空は、是れ相を捨離し、般若波羅蜜も、一切の法中に亦た相を捨離す。是の十八空は、相に著せず、般若波羅蜜も亦た相に著せず。是を以っての故に、般若波羅蜜を学べば、則ち是れ十八空を学ぶなり、異ならざるが故に。
『一』とは、――
『十八空』は、
『空であり!』、
『無所有の相である!』が、
『般若波羅蜜』も、
『空であり!』、
『無所有の相である!』。
又、
『十八空』は、
『相』を、
『捨離するものである!』が、
『般若波羅蜜』も、
『一切法中の相』を、
『捨離する!』し、
是の、
『十八空』は、
『相』に、
『著さない!』し、
『般若波羅蜜』も、
『相』に、
『著さない!』。
是の故に、
『般若波羅蜜を学べば!』、
則ち、
『十八空』を、
『学んだことになる!』。
何故ならば、
『十八空と、般若波羅蜜とは!』、
『異ならないからである!』。
般若波羅蜜有二分。有小有大。欲得大者先當學小方便門。欲得大智慧當學十八空。住是小智慧方便門能得十八空。何者是方便門。所謂般若波羅蜜經讀誦正憶念思惟如說修行。譬如人欲得種種好寶當入大海。若人欲得內空等三昧智慧寶。當入般若波羅蜜大海。 般若波羅蜜には、二分有りて、有るいは小、有るいは大なり。大を得んと欲する者は、先に当に小の方便門を学ぶべく、大智慧を得んと欲せば、当に十八空を学ぶべし。是の小智慧の方便門に住すれば、能く十八空を得。何者か、是れ方便品なる。謂わゆる般若波羅蜜の経を読誦し、正しく憶念して、思惟し、如説に修行するなり。譬えば人、種種の好宝を得んと欲せば、当に大海に入るべきが如く、若し人、内空等の三昧の智慧の宝を得んと欲せば、当に般若波羅蜜の大海に入るべし。
『般若波羅蜜』には、
『二分が有り!』、
有るいは、
『小』の、
『般若波羅蜜であり!』、
有るいは、
『大』の、
『般若波羅蜜である!』。
『大の般若波羅蜜を得ようとすれば!』、
先に、
『小の方便門』を、
『学ばなければならず!』、
『大の智慧を得ようとすれば!』、
当然、
『十八空』を、
『学ばなければならない!』。
是の、
『小智慧の方便門に住すれば!』、
『十八空』を、
『得ることができる!』。
是の、
『方便門』とは、何者か?――
謂わゆる、
『般若波羅蜜の経』を、
『読誦して!』、
『正しく!』、
『憶念したり!』、
『般若波羅蜜の法』を、
『思惟して!』、
『説のように!』、
『修行することである!』。
譬えば、
『人』が、
『種種の好宝を、得ようとすれば!』、
『大海』に、
『入らなねばならないように!』、
若し、
『人』が、
『内空等の三昧や、智慧の宝を得ようとすれば!』、
『般若波羅蜜の大海』に、
『入らなければならないのである!』。



内空、外空、内外空

問曰。行者云何學般若波羅蜜時住內空外空內外空。 問うて曰く、行者は、云何が、般若波羅蜜を学ぶ時、内空、外空、内外空に住する。
問い、
『行者』は、
何故、
『般若波羅蜜を学ぶ!』時、
『内空、外空、内外空に!』、
『住するのですか?』。
答曰。世間有四顛倒。不淨中有淨顛倒。苦中有樂顛倒。無常中有常顛倒。無我中有我顛倒。行者為破四顛倒故。修四念處十二種觀。 答えて曰く、世間には、四顛倒有り。不浄中には浄の顛倒有り、苦中には楽の顛倒有り、無常中には常の顛倒有り、無我中には我の顛倒有り。行者は、四顛倒を破せんが為の故に、四念処の十二種の観を修す。
答え、
『世間』には、
『四顛倒が有り!』、
『不浄』中には、
『浄の顛倒』が、
『有り!』、
『苦』中には、
『楽の顛倒』が、
『有り!』、
『無常』中には、
『常の顛倒』が、
『有り!』、
『無我』中には、
『我の顛倒』が、
『有る!』ので、
『行者』は、
『四顛倒を破る!』為の故に、
『身、受、心、法の四念処について!』、
『十二種の観』を、
『修めるのである!』。
  十二種観:四念処の身、受、心、法各々に内観、外観、内外観有り。
所謂初觀內身三十六種不淨充滿九孔常流甚可厭患。淨相不可得。淨相不可得故名內空。行者既知內身不淨。觀外所著亦復如是。俱實不淨。愚夫狂惑為婬欲覆心故謂之為淨。觀所著色亦如我身淨相不可得。是為外空。行者若觀己身不淨或謂外色為淨。若觀外不淨或謂己身為淨。今俱觀內外我身不淨外亦如是。外身不淨我亦如是。一等無異淨不可得。是名內外空。 謂わゆる、初には、内身を観るに、三十六種の不浄充満し、九孔より常に流れて、甚だ厭患すべくして、浄相は得べからず。浄相の得べからざるが故に、内空と名づく。行者は、既に内身の不浄なるを知れば、外の所著を観れば、亦復た是の如く、倶に実に不浄なるも、愚夫は狂惑して、婬欲の為に心を覆わるるが故に、之を謂いて浄と為す。所著の色も亦た我身の如く、浄相を得べからざるを観て、是れを外空と為す。行者は、若し己身の不浄なるを観るも、或いは外色を謂いて、浄と為し、若しは外の不浄なるを観て、或いは己身を謂いて、浄と為さん。今、倶に内、外を観るに、我身は不浄にして、外も亦た是の如く、外身不浄なれば、我も亦た是の如く、一等にして異無く、浄を得べからず。是れを内外空と名づく。
謂わゆる、   ――身念処――
初に、
『内身を観れば!』、
『三十六種の、不浄が充満して!』、
『九孔より、常に流れて!』、
『甚だ!』、
『厭患すべきであり!』、
『内身』中に、
『浄相』は、
『得られない( cannot recognize )!』。
『浄相を得られない!』が故に、
『内空』と、
『称するのである!』。
『行者』は、
既に、
『内身』は、
『不浄である!』と、
『知った!』ので、
『外の所著』を、
『観れば!』、
亦復た( also )、
倶に( both )、
『実に不浄である!』のに、
『愚夫』が、
『外の所著に狂惑して!』、
『婬欲に!』、
『心を覆われる!』が故に、
『外の所著を観て!』、
『浄である!』と、
『謂うだけである!』。
『所著の色』を、
『観れば!』、
『我身のように!』、
『浄相』は、
『得られない!』ので、
是れを、
『外空』と、
『呼ぶのである!』。
『行者』が、
若し、
『己身が不浄である!』と、
『観たとしても!』、
或いは、
『外色は浄である!』と、
『謂うだろう!』、
若し、
『外色が不浄である!』と、
『観たとしても!』、
或いは、
『己身は浄である!』と、
『謂うだろう!』、
今、
『内、外』を、
『倶に、観れば!』、
『我身が不浄であるように!』、
『外身』も、
『不浄であり!』、
『外身が不浄であるように!』、
『己身』も、
『不浄である!』ので、
『内、外』は、
『一等であり( be equal )!』、
『異が無く!』、
『浄』は、
『得られない!』。
是れを、
『内外空』と、
『称する!』。
  三十六種不浄:『大智度論巻4下注:三十六種不浄』参照。
  九孔(くく):また九入、九漏、九瘡と名づけ、即ち両眼、両耳、両鼻及び口、大小便の九処なり。
行者思惟知內外身俱實不淨。而惑者愛著。愛著深故由以受身。身為大苦。而愚以為樂。 行者の思惟して知るらく、『内、外身は、倶に実に不浄なるに、惑者は愛著し、愛著すること深きが故に、由りて以って身を受くれば、身を大苦と為すも、愚は以って楽と為す』、と。
『行者』は、    ――受念処――
『思惟して!』、こう知ることになる、――
『内、外の身』は、
倶に、
『実に不浄である!』が、
而し、
『惑者は、愛著しており!』、
『愛著』が、
『深い!』が故に、
『愛著に由って!』、
『身』を、
『受けることになる!』。
是のような、
『身』は、
『大苦である!』のに、
『愚者』は、
是の、
『身』を、
『楽とするのである!』。
問曰。三受皆外入所攝。云何言觀內受。 問うて曰く、三受は、皆外入の所摂なり。云何が、内受を観ると言う。
問い、
『苦、楽、不苦不楽の三受』は、
皆、
『外入(色、声、香、味、触、法入)』に、
『摂せられる( to be contained )!』のに、
何故、
『内受を観る!』と、
『言うのですか?』。
  三受(さんじゅ):梵語tisro- vedanaaHの訳語して、また三通に作る。受(梵vedanaa)とは、領納の義にして、即ち内の六根が、外の六境に触対し、領納する所の三種の感覚を指す。即ち(一)苦受(梵duHkha- vedanaa):また苦痛に作り、即ち情に違える境を領納せる相にして、身心をして逼迫を受けしむ。(二)楽受(梵sukha- vedanaa):また楽痛に作り、即ち情に順ずる境を領納せる相にして、身心をして適悦せしむ。(三)捨受(梵upekSaa- vedanaa):また不苦不楽受、不苦不楽痛に作り、中容の境を領納せる相にして、身心に逼迫有ること無く、また適悦有ること無し。この三受は、眼等の六根に通じ、また有漏、無漏に通じ、或は各自分ちて二種と成し、五識に相応する者を身受と称し、意識と相応する者を身受と称す。<(佛)
  外入(げにゅう):外の六入。即ち色、声、香、味、触、法なり。
  内受(ないじゅ):また身受ともいい、内身の前五識、即ち眼、耳、鼻、舌、身等の感ずる所の肉体、或は感覚の苦、楽、捨の三受を指す。受(梵vedanaa)とは、乃ち根(感官)、境(対象)、識(感覚)三者の結合にして、即ち一般の感受に相当する。
答曰。六塵初與六情和合生樂。是名外樂。後貪著深入生樂。是名內樂。 答えて曰く、六塵は初め、六情と和合して、楽を生ずれば、是れを外楽と名づけ、後に貪著して、深く入るに、楽を生ずれば、是れを内楽と名づく。
答え、
『六塵(色声香味触法)』が、
初めて、
『六情(眼耳鼻舌身意)と和合する!』時、
『楽』を、
『生じれば!』、
是れを、
『外楽』と、
『呼び!』、
後に、
『貪著して、深く入った!』時、
『楽』を、
『生じれば!』、
是れを、
『内楽』と、
『呼ぶのである!』。
復次內法緣樂是名內樂。外法緣樂。是名外樂。 復た次ぎに、内法の縁ずる楽、是れを内楽と名づけ、外法の縁ずる楽、是れを外楽と名づく。
復た次ぎに、
『内法が縁じる( to cause )!』、
『楽』を、
『内楽』と、
『称し!』、
『外法が縁じる!』、
『楽』を、
『外楽』と、
『称する!』。
復次五識相應樂。是名外樂。意識相應樂。是名內樂。麤樂名為外樂。細樂名為內樂。如是等分別內外樂。苦受不苦不樂受亦如是。 復た次ぎに、五識相応の楽、是れを外楽と名づけ、意識相応の楽、是れを内楽と名づく。麁の楽を名づけて、外楽と為し、細楽を名づけて、内楽と為す。是れ等の如く、内外の楽を分別し、苦受、不苦不楽受も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『五識(眼耳鼻舌身識)に相応する!』、
『楽』を、
『外楽』と、
『称し!』、
『意識に相応する!』、
『楽』を、
『内楽』と、
『称する!』。
『麁の楽』を、
『外楽』と、
『称し!』、
『細の楽』を、
『内楽』と、
『称する!』。
是れ等のように、
『内、外』の、
『楽』を、
『分別した!』が、
亦た、
『苦受、不苦不楽受』も、
『是の通りである!』。
復次行者思惟觀是內樂實可得。不即分別知實不可得。但為是苦強名為樂。何以故。是樂從苦因緣生。亦生苦果報。樂無厭足故苦。 復た次ぎに、行者の思惟すらく、『是の内楽の実に可得なりや、不やを観るに、即ち分別して、実に不可得なるを知る。但だ是の苦の為に、強いて名づけて、楽と為すのみ。何を以っての故に、是の楽は、苦の因緣より生じ、亦た苦の果報を生ずれば、楽には厭足無きが故に苦なればなり』、と。
復た次ぎに、
『行者』は、こう思惟する、――
是の、
『内楽』が、
『実に可得なのか、どうか?』を、
『観てみれば!』、
即ち、
『分別して!』、
『実に、不可得である!』と、
『知ることになる!』が、
但だ、
是れは、
『苦であるのに!』、、
強いて、
『楽』と、
『呼ぶだけである!』。
何故ならば、
是の、
『楽』は、
『苦の因緣より!』、
『生じ!』、
亦た、
『苦の果報』を、
『生じるからである!』。
『楽には!』、
『厭足することが!』、
『無い!』が故に、
是の、
『楽』は、
『苦なのである!』、と。
復次如人患疥。搔之向火疥雖小樂後轉傷身則為大苦。愚人謂之為樂。智者但見其苦。如是世間樂顛倒病故著五欲樂。煩惱轉多。以是故行者不見樂但見苦。如病如癰如瘡如刺。 復た次ぎに、人の疥を患いて、之を掻かんとして火に向えば、疥は小(しばら)く楽なりと雖も、後に転(うた)た身を傷つけ、則ち大苦と為すが如し。愚人は、之を謂いて楽と為すも、智者は、但だ其の苦を見る。是の如く、世間は楽顛倒の病の故に、五欲の楽に著して、煩悩転た多し。是を以っての故に、行者は楽を見ずして、但だ苦を病の如く、癰の如く、瘡の如く、棘の如しと見るのみ。
復た次ぎに、
『人』が、
『疥癬を患い!』、
『掻きながら!』、
『火』に、
『向ける!』と、
『疥癬』は、
『小く( for some time )!』、
『楽になる!』が、
後に、
『転た( increasingly )!』、
『身』を、
『傷めることになれば!』、
則ち、
『大苦となるようなものである!』が、
『愚人』は、
之を、
『楽である!』と、
『謂い!』、
『智者』は、
但だ、
『苦』を、
『見るだけである!』。
是のように、
『世間』は、
『楽という!』、
『顛倒』を、
『病む!』が故に、
『五欲という!』、
『楽』に、
『著する!』ので、
『煩悩』が、
『転た!』、
『多くなるのである!』。
是の故に、
『行者』は、
『楽』を、
『見ることなく!』、
但だ、
『苦であり、病や、疥癰や、瘡や、棘のようである!』と、
『見るのである!』。
復次樂少苦多少樂不現故名為苦。如大河水投一合鹽則失鹽相不名為鹹 復た次ぎに、楽少なく、苦多くして、小しの楽は現れざるが故に名づけて、苦と為す。大河の水に、一合の塩を投ずれば、則ち塩相を失いて、名づけて鹹(から)しと為さざるが如し。
復た次ぎに、
『楽が少なく、苦が多ければ!』、
『少しの楽』は、
『現れない!』ので、
是の故に、
『苦』と、
『称する!』。
譬えば、
『大河の水』に、
『一合の塩』を、
『投ずれば!』、
則ち、
『塩の相』を、
『失って!』、
是れを、
『鹹い( be salty )!』と、
『呼ばないようなものである!』。
復次樂不定故或此以為樂彼以為苦。彼以為樂此以為苦。著者為樂失者為苦。愚以為樂智以為苦。見樂患為苦不見樂過者為樂。不見樂無常相為樂。見樂無常相為苦。未離欲人以為樂。離欲人以為苦。如是等觀樂為苦。觀苦如箭入身。 復た次ぎに、楽は不定なるが故に、或いは此れを以って楽と為し、彼れを以って苦と為し、彼れを以って楽と為し、此れを以って苦と為す。著者は、楽と為すも、失えば苦と為す。愚は、以って楽と為すも、智は、以って苦と為す。楽の患を見れば、苦と為すも、楽の過を見ざれば、楽と為す。楽の無常相を見ざれば、楽と為すも、楽の無常相を見れば、苦と為す。未だ離欲ならざる人は、以って楽と為し、離欲の人は、以って苦と為す。是れ等のごとく、楽を観れば、苦と為り、苦を観ずれば、箭の身に入るが如し。
復た次ぎに、
『楽は、不定である!』が故に、
或いは、
此の、
『人』は、
『楽である!』と、
『思うのに!』、
彼の、
『人』は、
『苦である!』と、
『思い!』、
彼の、
『人』は、
『楽である!』と、
『思うのに!』、
此の、
『人』は、
『苦である!』と、
『思うのである!』。
又、
『楽に著すれば!』、
『楽だと、思う!』が、
『楽』を、
『失えば!』、
『苦となる!』し、
『愚者』は、
『楽だと、思っても!』、
『智者』は、
『苦である!』と、
『思う!』し、
『楽』に、
『患を見れば!』、
『苦だ!』と、
『思う!』が、
『過を見なければ!』、
『楽だ!』と、
『思い!』、
『楽』に、
『無常相を見なければ!』、
『楽だ!』と、
『思う!』が、
『無常相を見れば!』、
『苦だ!』と、
『思うことになる!』。
未だ、
『欲を離れない!』、
『人』は、
『楽だ!』と、
『思う!』が、
『欲を離れた!』、
『人』は、
『苦だ!』と、
『思う!』。
是れ等のように、
『楽を観察すれば!』、
『苦だ!』と、
『思い!』、
『苦を観察すれば!』、
『箭が、身に入るようだ!』と、
『思うのである!』。
觀不苦不樂無常變異相。如是等觀三種受心則捨離。是名觀內受空。觀外受內外受亦如是。 不苦不楽を観れば、無常変異の相なり。是れ等の如く、三種の受を観ずれば、心は則ち捨離す。是れを内受の空を観ると名づく。外受、内外受を観るも、亦た是の如し。
『不苦不楽を観察すれば!』、
是の、
『不苦不楽の受』も、
『無常であり!』、
『変異の相である!』。
是れ等のように、
『三種の受を観察すれば!』、
『心』は、
『受』を、
『捨離することになる!』ので、
是れを、
『内受の空を観る!』と、
『称し!』、
亦た、
『外受や、内外受を観ること!』も、
『是の通りである!』、と。
行者作是念。若樂即是苦。誰受是苦。念已則知心受。然後觀心為實為虛。觀心無常生住滅相。苦受心樂受心不苦不樂受心各各異念。覺樂心滅而苦心生。苦心爾所時住。住已還滅次生不苦不樂心。知爾所時不苦不樂心住。住已還滅。滅已還生樂心。三受無常故心亦無常。 行者の是の念を作さく、『若し楽にして、即ち是れ苦なれば、誰か是の苦を受くる』、と。念じ已りて、則ち心の受くるを知る。然る後に心を観ずらく、実と為すや、虚と為すや、と。心の無常を観るに、生、住、滅の相あり。苦受の心と、楽受の心と、不苦不楽受の心は、各各念を異にす。楽を覚る心滅すれば、苦心生じ、苦心は爾所の時住するも、住し已れば還って滅して、次いで不苦不楽の心を生ず。爾所の時、不苦不楽の心の住するも、住し已れば還って滅し、滅し已れば還って楽心を生じ、三受無常なるが故に、心も亦た無常なるを知る。
『行者』は、  ――心念処――
是の、
『念を作す!』、――
若し、
『楽が、苦ならば!』、
是の、
『苦』は、
『誰が、受けるのか?』、と。
『念じ已る!』と、こう知ることになる、――
『苦』は、
『心』が、
『受けるのだ!』、と。
その後、
『心』は、
『実だろうか、虚だろうか?』と、
『観察し!』、
『心』を、こう観察する、――
『心』は、
『無常であり!』、
『生、住、滅の相である!』。
『苦受の心と、楽受の心と、不苦不楽受の心は!』、
各各、
『異なる!』、
『念である( a thought )!』。
『楽を覚える!』、
『心が滅する!』と、
『苦の心』が、
『生じ!』、
『苦』が、
『爾所の時( few moments )』、
『心に!』、
『住する!』と、
『住していた!』、
『苦』は、
還た( again )、
『心より!』、
『滅し!』、
次いで、
『不苦不楽』の、
『心』が、
『生じる!』、と。
こう知ることになる、――
『爾所の時』、
『不苦不楽』が、
『心』に、
『住し!』、
『住していた!』、
『不苦不楽』が、
還た、
『心より!』、
『滅し!』、
『滅してしまう!』と、
還た、
『楽の心』が、
『生じる!』ので、
『苦、楽、不苦不楽の三受』は、
『無常である!』が故に、
亦た、
『心』も、
『無常である!』、と。
  (ねん):◯梵語 smRti, smaraNa の訳、記憶/回想/思うこと/思い出すこと( remembrance, reminiscence, thinking of or upon, calling to mind, memory )の義。◯梵語 kSaNa の訳、時間の単位としての一瞬の間( a moment regarded as a measure of time )の義、思考/思考の瞬間( a thought, a thought- moment, an instant of thought )の意。
復次知染心無染心瞋心無瞋心癡心不癡心散心攝心縛心解脫心。如是等心各各異相。故知心無常無一定心常住。受苦受樂等心從和合因緣生。因緣離散心亦隨滅。如是等觀內心外心內外心無常相。 復た次ぎに、染心、無染心、瞋心、無瞋心、癡心、不癡心、散心、摂心、縛心、解脱心を知れば、是れ等の如き心は、各各相を異にするが故に知るらく、『心は無常にして、一定心として、常に住する無く、苦を受け、楽を受くる等の心は、和合の因縁より生じ、因縁離散すれば、心も亦た随って滅す』、と。是れ等の如く、内心、外心、内外心に無常相を観る。
復た次ぎに、
『染心と無染心、瞋心と無瞋心、癡心と不癡心、散心と摂心、縛心と解脱心を!』、
『知れば!』、
是れ等のような、
『心』は、
各各、
『相を異にする!』が故に、
こう知ることになる、――
『心』は、
『無常であり!』、
『一定心すら!』、
『常住する!』者は、
『無く!』、
『苦や、楽等を受ける!』、
『心』は、
『和合の因縁より!』、
『生じるのであり!』、
『因緣が離散すれば!』、
『心』も、
『因緣に随って!』、
『滅するのである!』、と。
是れ等のように、
『内心、外心、内外心』は、
『無常の相である!』と、
『観るのである!』。
問曰。心是內入攝。云何為外心。 問うて曰く、心は、是れ内入の摂なるに、云何が外心と為す。
問い、
『心』は、
『内入に!』、
『摂せられる( to be contained )!』のに、
何故、
『外心なのですか?』。
答曰。觀內身名為內心。觀外身名為外心。 答えて曰く、内身を観ずるを、名づけて内心と為し、外身を観るを、名づけて外心と為す。
答え、
『内身を観るから!』、
『内心』と、
『呼び!』、
『外身を観るから!』、
『外心』と、
『呼ぶのである!』。
復次緣內法為內心。緣外法為外心。 復た次ぎに、内法を縁ずるを、内心と為し、外法を縁ずるを外心と為す。
復た次ぎに、
『内法を縁じれば( be connected with )!』、
『内心』と、
『呼ばれ!』、
『外法を縁じれば!』、
『外心』と、
『呼ばれる!』。
復次五識常緣外法不能分別故名為外心。意識能緣內法亦分別好醜故名為內心。 復た次ぎに、五識は常に外法を縁じて、分別する能わざるが故に、名づけて外心と為し、意識は、能く内法を縁じて、亦た好醜を分別するが故に、名づけて内心と為す。
復た次ぎに、
『五識』は、
常に、
『外法を縁じながら!』、
『分別することができない!』が故に、
『外心』と、
『呼ばれ!』、
『意識』は、
『内法を縁じて!』、
『好、醜を分別することができる!』が故に、
『内心』と、
『呼ばれる!』。
復次意識初生未能分別決定。是為外心。意識轉深能分別取相。是名內心。如是等分別內外心。 復た次ぎに、意識は初めて生ずるに、未だ分別、決定する能わざれば、是れを外心と為し、意識は転た深まるに、能く分別して相を取れば、是れを内心と名づく。是れ等の如く、内外心を分別す。
復た次ぎに、
『意識』が、
初めて( initially )、
『生じた!』時には、
未だ、
『分別、決定することができない!』ので、
『外心』と、
『呼ばれる!』が、
『意識』が、
転た( increasingly )、
『深まる!』と、
『分別して、相を取ることができる!』ので、
『内心』と、
『呼ばれる!』。
是れ等のように、
『内、外』の、
『心』を、
『分別する!』。
行者心意轉異知身為不淨相。知受為苦相。知心不住為無常相。結使未斷故或生吾我。如是思惟若心無常。誰知是心心為屬誰。誰為心主而受苦樂。一切諸物誰之所有。即分別知無有別主。但於五眾取相故計有人相而生我心。以我心故生我所。我所心生故有利益我者生貪欲。違逆我者而生瞋恚。此結使不從智生從狂惑生故。是名為癡。三毒為一切煩惱之根本亦由吾我。故作福德為我後當得亦修助道法我當得解脫。 行者の心意は転た異なるに、身を不浄相と為すを知り、受を苦相と為すを知り、心は住せずして、無常相と為すを知るも、結使未だ断ぜざるが故に、或いは吾我を生じて、是の如く思惟すらく、『若し心無常ならば、誰か、是の心を知らん。心は誰に属すと為す。誰をか、心の主と為して、苦楽を受くる。一切の諸物は、誰の所有なりや』、と。即ち分別して知るらく、『別の主有ること無し。但だ五衆に於いて、相を取るが故に、人の相有るを計して、我心を生ず。我心を以っての故に、我所を生じ、我所の心生ずるが故に、我れを利益する者有れば、貪欲を生じ、我れに違逆する者には、瞋恚を生ず。此の結使は、智に従わずして生じ、狂惑に従いて生ずるが故に、是れを名づけて、癡と為し、三毒を一切の煩悩の根本と為す。亦た吾我に由るが故に、福徳を作せば、我が為に、後に当に得べくして、助道法を修すれば、我れ当に解脱を得べし。
『行者の心意』は、
『転た、異なって!』、
『身』とは、
『不浄の相である!』と、
『知り!』、
『受』は、
『苦の相である!』と、
『知り!』、
『心』は、
『住まらないので、無常相である!』と、
『知る!』が、
『結使』は、
『未だ、断じていない!』が故に、
或いは、
『吾我』を、
『生じて!』、
こう思惟することになる、――
若し、
『心が、無常ならば!』、
誰が、
『是れが、心である!』と、
『知るのか?』、
誰に、
『心』は、
『属するのか?』、
誰が、
『心の主として!』、
『苦、楽を受けるのか?』、
誰が、
『一切の諸物(五衆、十二入)』を、
『所有するのか?』、と。
即ち、
『分別して!』、こう知ることになる、――
『心とは、別に!』、
『主が、有るのではなく!』、
但だ、
『五衆』に於いて、
『相』を、
『取る!』が故に、
『人相が有る!』と、
『計し( to consider )て!』、
『我心』を、
『生じ!』、
『我心』の故に、
『我所』を、
『生じ!』、
『我所の心が生じる!』が故に、
『我れを利益する者が有れば!』、
『貪欲』を、
『生じ!』、
『我れに違逆する者が有れば!』、
『瞋恚』を、
『生じるのであり!』、
此の、
『結使』は、
『智に従って生じるものでなく!』、
『狂惑に従って生じる!』が故に、
『癡』と、
『称するのである!』が、
『三毒』は、
『一切の煩悩』の、
『根本なのである!』。
亦た、
『吾我に由る( because of the self )!』が故に、
『福徳の因縁を作せば!』、
わたしに、
『後になって!』、
『得られることになる!』し、
亦た、
『助道の法を修めれば!』、
わたしは、
『解脱』を、
『得ることになる!』、と。
  心意(しんい):梵語 citta- manas の訳、( a thought or thinking in mind )の意。
初取相故名為想眾。因吾我起結使及諸善行。是名行眾。是二眾則是法念處。 初に相を取るが故に、名づけて想衆と為し、吾我に因りて、結使、及び諸の善行を起せば、是れを行衆と名づく。是の二衆は、即ち是れ法念処なり。
『初めに!』、     ――法念処――
『相を取る!』が故に、
『想衆』と、
『呼ばれ!』、
『吾我に因って!』、
『結使や、諸善行を起す!』ので、
『行衆』と、
『呼ぶのである!』が、
是の、
『二衆』が、
『法念処である!』。
於想行眾法中求我不可得。何以故。是諸法皆從因緣生。悉是作法而不牢固無實我法行。如芭蕉葉葉求之中無有堅相。如遠見野馬無水有水想。但誑惑於眼。如是等觀內法外法內外法。 想、行衆の法中に於いて、我を求むるも不可得なり。何を以っての故に、是の諸法は、皆因緣より生じ、悉く是れ作法なれば、牢固にあらず、実無き我法の行ずるのみ。芭蕉の葉葉の之に中を求むるも、堅相有ること無きが如く、遠く野馬を見るも、水無くして、水想有るが如く、但だ眼を誑惑するのみ。是れ等の如く、内法、外法、内外法を観ず。
『想衆や、行衆という!』、
『法』中に、
『我を求めても!』、
『得られない( not to be recognized )!』。
何故ならば、
是の、
『諸の法』は、
『皆、因緣より生じる!』が故に、
悉く、
『作法であり( things that are made )!』、
『牢固でなく!』、
『無実の我法』が、
『行うだけである!』。
譬えば、
『芭蕉の葉葉』に、
『中身を求めても!』、
『堅相』が、
『無いようなものであり!』、
『野馬( a mirage )を遠くに見れば!』、
『水が無いのに!』、
『水想』が、
『有るように!』、
但だ、
『眼』を、
『誑惑するだけである!』。
是れ等のように、
『内法、外法、内外法』を、
『観るのである!』。
問曰。法是外入攝。云何為內法。 問うて曰く、法は、是れ外入の摂なるに、云何が内法と為す。
問い、
『法』は、
『外入』に、
『摂するのに!』、
何故、
『内法だ!』と、
『言うのですか?』。
答曰。內法名為內心相應想眾行眾。外法名為外心相應想眾行眾及心不相應諸行及無為法。一時等觀名為內外法。 答えて曰く、内法を名づけて、内心相応の想衆、行衆と為し、外法を名づけて、外心相応の想衆、行衆、及び心不相応の諸行、及び無為法と為し、一時に等しく観ずるを名づけて、内外法と為す。
答え、
『内法』とは、
『内心に相応する!』、
『想衆と、行衆であり!』、
『外法』とは、
『外心に相応する!』、
『想衆と、行衆と!』、
及び、
『心不相応の諸行と!』、
『無為法であり!』、
『内法と、外法とを!』、
『一時に、等観すれば( to behold all things as equal )!』、
是れを、
『内外法』と、
『称する!』。
  等観(とうかん):梵語 samdarzin の訳、総体的に見る( seeing altogether )の義、一切の事物を等しいと見ること( the beholding all things as equal )の意。
復次內法名為六情。外法名為六塵。 復た次ぎに、内法を名づけて、六情と為し、外法を名づけて、六塵と為す。
復た次ぎに、
『内法』を、
『眼耳鼻舌身意の六情』と、
『呼び!』、
『外法』を、
『色声香味触法の六塵』と、
『呼ぶ!』。
復次身受心及想眾行眾總觀為法念處。何以故。行者既於想眾行眾及無為法中求我不可得。還於身受心中求亦不可得。 復た次ぎに、身、受、心、及び想衆、行衆を総観して、法念処と為す。何を以っての故に、行者は、既に想衆、行衆、及び無為法中に於いて、我を求むるも、不可得なれば、還って身、受、心中に於いて求むるも、亦た不可得なればなり。
復た次ぎに、
『身、受、心と、想衆、行衆とを!』、
総じて、
『法念処である!』と、
『観る!』。
何故ならば、
『行者』は、
既に、
『想衆、行衆と、無為法』中に、
『我を求めても!』、
『得られなかった!』ので、
還って、
『身、受、心』中にも、
『求めたが!』、
『得られないからである!』。
如是一切法中若色若非色。若可見若不可見。若有對若無對。若有漏若無漏。若有為若無為。若遠若近。若麤若細。其中求我皆不可得。但五眾和合故強名為眾生。 是の如く、一切法中の若しは色、若しは非色、若しは可見、若しは不可見、若しは有対、若しは無対、若しは有漏、若しは無漏、若しは有為、若しは無為、若しは遠、若しは近、若しは麁、若しは細、其の中に、我を求むるも、皆、不可得にして、但だ五衆の和合の故に、強いて名づけて、衆生と為すのみ。
是のように、
『色や非色、可見や不可見、有対や無対、有漏や無漏』、
『有為や無為、遠や近、麁や細のような!』、
『一切の法』中に、
『我を求めた!』が、
皆、
『得られず!』、
但だ、
『五衆の和合』を、
強いて、
『衆生』と、
『呼ぶだけである!』。
眾生即是我。我不可得故亦無我所。我所不可得故一切諸煩惱皆為衰薄。 衆生は、即ち是れ我なり。我は不可得なるが故に、亦た我所無く、我所は不可得なるが故に、一切の諸煩悩は、皆衰薄せらる。
『衆生』とは、
即ち、
『我である!』が、
『我が、得られない!』が故に、
『我所』も、
『無く!』、
『我所が、得られない!』が故に、
『一切の諸煩悩』が、
皆、
『衰えて!』、
『薄れるのである!』。
復次身念處名一切色法。行者觀內色無常苦空無我。觀外色觀內外色亦如是。受心法亦爾。四念處內觀相應空三昧名內空。四念處外觀相應空三昧名外空。四念處內外觀相應空三昧名內外空。 復た次ぎに、身念処を、一切の色法と名づくるに、行者は、内色の無常、苦、空、無我を観ず。外色を観るも、内外色を観るも、亦た是の如し。受、心、法も亦た爾り。四念処の内観相応の空三昧を、内空と名づけ、四念処の外観相応の空三昧を、外空と名づけ、四念処の内外観相応の空三昧を内外空と名づく。
復た次ぎに、
『身念処』とは、
一切の、
『色法であり!』、
『行者』は、
『内色』は、
『無常、苦、空、無我である!』と、
『観察する!』が、
亦た、
『外色や、内外色』も、
『是の通りであり!』、
亦た、
『受、心、法念処』も、
『是の通りである!』。
『四念処』の、
『内観に相応する!』、
『空三昧』を、
『内空』と、
『呼び!』、
『四念処』の、
『外観に相応する!』、
『空三昧』を、
『外空』と、
『呼び!』、
『四念処』の、
『内外観に相応する!』、
『空三昧』を、
『内外空』と、
『呼ぶ!』。
問曰。是空為是三昧力故空為是法自空。 問うて曰く、是の空は、是れ三昧力の故の空と為すや、是れ法自ら空なりと為すや。
問い、
是の、
『空』は、
『三昧の力』の故に、
『空なのですか?』、
是の、
『法』が、
自ら、
『空なのですか?』。
答曰。名為三昧力故空。如經說。三三昧三解脫門。空無相無作。是空三昧緣身受心法不得我我所故名為空。 答えて曰く、名づけて、三昧力の故の空なりと為す。経に説くが如し、『三三昧、三解脱門の空無相無作は、是れ空三昧にして、身受心法を縁ずるも、我我所を得ざるが故に、名づけて空と為す』、と。
答え、
『三昧力』の故に、
『空』と、
『呼ばれるのである!』。
『経』に、こう説く通りである、――
『三三昧や、三解脱門』の、
『空、無相、無作』とは、
『空三昧であり!』、
是の、
『空三昧中に入って!』、
『身、受、心、法を縁じる!』と、
『我も、我所も!』、
『得られない!』が故に、
是れを、
『空』と、
『称するのである!』。
  参考:『増一阿含経高幢品(10経)巻16』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。此三三昧。云何為三。空三昧.無願三昧.無想三昧。彼云何名為空三昧。所謂空者。觀一切諸法。皆悉空虛。是謂名為空三昧。彼云何名為無想三昧。所謂無想者。於一切諸法。都無想念。亦不可見。是謂名為無想三昧。云何名為無願三昧。所謂無願者。於一切諸法。亦不願求。是謂。名為無願三昧。如是。比丘。有不得此三三昧。久在生死。不能自覺寤。如是。諸比丘。當求方便。得此三三昧。如是。諸比丘。當作是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。四念處空法皆應觀無常苦空無我。何以故。身觀不淨受觀苦心觀無常法觀無我。 問うて曰く、四念処の空法は、皆応に無常、苦、空、無我を観ずべし。何を以っての故にか、身には、不浄を観じ、受には、苦を観じ、心には、無常を観じ、法には、無我を観ずるや。
問い、
『四念処』が、
『空法ならば!』、
皆、
『無常、苦、空、無我である!』と、
『観なければならない!』のに、
何故、
『身』には、
『不浄である!』と、
『観!』、
『受』には、
『苦である!』と、
『観!』、
『心』には、
『無常である!』と、
『観!』、
『法』には、
『無我である!』と、
『観るのですか?』。
答曰。雖四法皆觀無常苦空無我。而眾生身中多著淨顛倒。受中多著樂顛倒。心中多著常顛倒。法中多著我顛倒。以是故行者觀身不淨觀受苦觀心無常觀法無我。 答えて曰く、四法に、皆無常、苦、空、無我を観ずと雖も、衆生は、身中には、多く浄顛倒に著し、受中には、多く楽顛倒に著し、心中には、多く常顛倒に著し、法中には、多く我顛倒に著すれば、是を以っての故に、行者は、身に不浄を観じ、受に苦を観じ、心に無常を観じ、法に無我を観ず。
答え、
『四法』に、
皆、
『無常、苦、空、無我である!』と、
『観る!』が、
『衆生』は、
『身』中には、
多くが、
『浄の顛倒』に、
『著し!』、
『受』中には、
多くが、
『楽の顛倒』に、
『著し!』、
『心』中には、
多くが、
『常の顛倒』に、
『著し!』、
『法』中には、
多くが、
『我の顛倒』に、
『著する!』ので、
『行者』は、
是の故に、
『身』は、
『不浄である!』と、
『観!』、
『受』は、
『苦である!』と、
『観!』、
『心』は、
『無常である!』と、
『観!』、
『法』は、
『無我である!』と、
『観るのである!』。
復次內外空者。無有內外定法互相因待故。謂為內外。彼以為外我以為內。我以為外彼以為內。隨人所繫內法為內。隨人所著外法為外。如人自舍為內他舍為外。行者觀是內外法無定相故空 復た次ぎに、内外空とは、内外に定法有ること無く、互に相因待するが故に謂いて内外と為す。彼れを以って外と為せば、我れを以って内と為し、我れを以って外と為せば、彼れを以って内と為す。人の繋かる所に随いて、内法を内と為し、人の著する所に随いて、外法を外と為す。人の自らの舎を内と為し、他の舎を外と為すが如し。行者は、是の内外の法に、定相無きを観るが故に、空なり。
復た次ぎに、
『内外空』とは、
『内とか、外には!』、
『定法』が、
『無く!』、
『相互に、因待する!』が故に、
『内とか、外と!』、
『謂うだけである!』。
譬えば、
『彼れが、外ならば!』、
『我れは!』、
『内であり!』、
『我れが、外ならば!』、
『彼れは!』、
『内なのである!』。
又、
『人に繋かる( being connected with oneself )!』、
『法に随って!』、
『内法』が、
『内であり!』、
『人の著する!』、
『法に随って!』、
『外法』が、
『外である!』。
譬えば、
『人』が、
『自らの舎』を、
『内』と、
『呼び!』、
『他の舎』を、
『外』と、
『呼ぶように!』、
『行者』が、
是の、
『内外の法には、定相が無い!』と、
『観る!』が故に、
『空なのである!』。
復次是內外法無有自性。何以故。和合生故。是內外法亦不在和合因緣中。若因緣中無者。餘處亦無。內外法因緣亦無。因果無故內外法空。 復た次ぎに、是の内外の法には、自性有ること無し。何を以っての故に、和合の生なるが故なり。是の内外の法は、亦た和合の因緣中に在らず。若し因緣中に無くんば、余処にも亦た無し。内外の法の因緣も亦た無く、因、果無きが故に、内外の法は空なり。
復た次ぎに、
是の、
『内外の法』には、
『自性』が、
『無い!』、
何故ならば、
『和合より!』、
『生じるからである!』。
是の、
『内外の法』は、
『和合した因緣』中にも、
『無く!』、
若し、
『因緣中に無ければ!』、
『余処にも!』、
『無い!』ので、
『内外の法』の、
『因緣』も、
『無いことになる!』。
『因も、果も無い!』が故に、
『内外の法』は、
『空である!』。
問曰。內外法定有。云何言無。如手足等和合故有身法生。是名內法。如梁椽壁等和合故有屋法生。是名為外。是身法雖有別名亦不異足等。所以者何。若離足等身不可得故。屋亦如是。 問うて曰く、内外の法は、定んで有るに、云何が無しと言う。手足等の和合の故に、身法の生ずること有るが如き、是れを内法と名づく。梁、椽、壁等の和合の故に、屋法の生ずること有るが如き、是れを名づけて、外と為す。是の身法は、別名有りと雖も、亦た足等に異ならず。所以は何んとなれば、若し足等を離るれば、身を得べからざるが故なり。屋も亦た是の如し。
問い、
『内、外の法』は、
『定んで、有る!』のに、
何故、
『無い!』と、
『言うのですか?』。
譬えば、
『手、足等の和合』の故に、
有る、
『身法』が、
『生じる!』が、
是れを、
『内法』と、
『称し!』、
亦た、
『梁(はり)、椽(たるき)、壁等の和合』の故に、
有る、
『屋法』が、
『生じる!』が、
是れを、
『外法』と、
『称するのです!』。
是の、
『身法には!』、
『別名が有っても!』、
『足等と!』、
『異ならない!』。
何故ならば、
若し、
『足等を離れれば!』、
『身』を、
『得られないからです!』。
亦た、
『屋法』も、
『是の通りです!』。
答曰。若足不異身者。頭應是足。足與身不異故。若頭是足者。甚為可笑。 答えて曰く、若し足、身と異ならずんば、頭は応に是れ足なるべし。足と、身とは異ならざるが故なり。若し頭は、是れ足ならば、甚だ笑わるるべし。
答え、
若し、
『足』が、
『身と異ならなければ!』、
『頭』は、
『足でなければならない!』。
『足』は、
『身』と、
『異ならないからである!』。
若し、
『頭が、足ならば!』、
『甚だ!』、
『笑われるであろう!』。
問曰。若足與身不異者。有如是過。今應足等和合故更有法生名為身。身雖異於足等應當依於足住。如眾縷和合而能生氎。是氎依縷而住。 問うて曰く、若し足と身と異ならざれば、是の如き過有らん。今、応に足等の和合の故に、更に法の生ずる有りて、名づけて身と為すべし。身は、足等に異なりと雖も、応当に足に依りて住すべし。衆縷和合して、能く氎を生ずるも、是の氎は、縷に依りて、住するが如し。
問い、
若し、
『足』が、
『身と異ならなければ!』、
是のような、
『過』も、
『有るだろう!』。
今、
『足等の和合』の故に、
更に、
有る、
『法が生じて!』、
是れを、
『身』と、
『称するのである!』。
『身』は、
『足等と異なる!』が、
『足に依って!』、
『住するのである!』。
譬えば、
『衆縷( many threads )の和合』が、
『氎( fine cotton cloth )』を、
『生じさせる!』が、
是の、
『氎』は、
『縷に依って!』、
『住するようなものである!』。
答曰。是身法為足等分中具有為分有。若具有頭中應有足。何以故。身法具有故。若分有與足分無異。又身是一法所因者多。一不為多多不為一。 答えて曰く、是の身法は、足等の分中に、具に有りと為すや、分有りと為すや。若し具に有らば、頭中にも応に足有るべし。何を以っての故に、身法の具に有るが故なり。若し分有らば、足分と異無し。又身は、是れ一法なるも、所因の者は多し。一は多と為らず、多は一と為らず。
答え、
是の、
『身法』は、
『足等の分』中に、
『具( the whole )に有るのか?』、
『分( a part )が有るのか?』。
若し、
『具に有れば!』、
『頭』中にも、
『足』が、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『身法』が、
『具に!』、
『有るからである!』。
若し、
『分が有れば!』、
『身分』は、
『足分と!』、
『異ならないことになる!』し、
又、
『身』は、
『一法である!』が、
『身の所因』は、
『多いことになり!』、
而も、
『一は、多でなく!』、
『多は、一でないのである!』。
復次若除足等分別有身者。與一切世間皆相違背。以是故身不得言即是諸分。亦不得言異於諸分。以是故則無身。身無故足等亦無。如是等名為內空。房舍等外法亦如是空。名為外空。 復た次ぎに、若し足等の分を除いて、別に身有らば、一切の世間と、皆相違背す。是を以っての故に、『身は、即ち是れ諸分なり』、と言うを得ず、亦た『諸分と異なり』、と言うを得ず。是を以っての故に、則ち身無く、身無きが故に足等も無し。是れ等の如きを名づけて、内空と為す。房舎等の外法も亦た是の如く空なれば、名づけて外空と為す。
復た次ぎに、
若し、
『足等の分を除いて!』、
別に、
『身』が、
『有れば!』、
一切の、
『世間』と、
『違背することになる!』ので、
是の故に、
『身』は、
即ち、
『諸の分である!』と、
『言うこともできず!』、
亦た、
『諸の分と異なる!』と、
『言うこともできない!』。
是の故に、
『身』は、
則ち、
『無いことになり!』、
『身が無い!』が故に、
『足等も!』、
『無いことになる!』。
是れ等のようなものを、
『内空』と、
『称し!』、
『房舎等の外法も!』、
是のように、
『空であり!』、
是れを、
『外空』と、
『称する!』。
問曰。破身舍等是為破一破異。破一破異是破外道經。佛經中實有內外法。所謂內六情外六塵。此云何無。 問うて曰く、身、舎等を破るは、是れ一を破り、異を破ると為す。一を破り、異を破れば、外道の経を破る。仏経中には、実に内、外の法有り。謂わゆる内の六情と、外の六塵となり。此れ云何が無き。
問い、
『身、舎等を破れば!』、
『一や、異を!』、
『破ることになり!』、
『一も、異も破れば!』、
『外道の経』を、
『破ることになる!』が、
『仏の経』中には、
実に、
『内、外の法』が、
『有り!』、
謂わゆる、
『内の六情と!』、
『外の六塵とである!』。
此れが、
何故、
『無いのですか?』。
答曰。是內外法和合假有名字。亦如身如舍。 答えて曰く、是の内外の法なる和合には、仮に名字有ること、亦た身の如く、舎の如し。
答え、
是の、
『内法、外法という!』、
『和合の法は!』、
仮に、
『名字』が、
『有るだけで!』、
亦た、
『身や、舎と!』、
『同じである!』。
復次略說有二種空。眾生空法空。小乘弟子鈍根故為說眾生空。我我所無故則不著餘法。大乘弟子利根故為說法空。即時知世間常空如涅槃。 復た次ぎに、略説すれば、二種の空有り、衆生空と法空となり。小乗の弟子は、鈍根なるが故に、為に衆生空を説けば、我我所無きが故に、則ち余法に著せず。大乗の弟子は、利根なるが故に、為に法空を説けば、即時に、世間の常空なること、涅槃の如きを知る。
復た次ぎに、
略説すれば、
『空』には、
『衆生空、法空という!』、
『二種の空』が、
『有る!』。
『小乗の弟子』には、
『鈍根である!』が故に、
『衆生空』を、
『説かれる!』と、
『我、我所が無くなる!』が故に、
『餘の法』に、
『著することもない!』。
『大乗の弟子』には、
『利根である!』が故に、
『法空』を、
『説かれる!』と、
即時に、
『世間は常空であり、涅槃のようだ!』と、
『知ることになる!』。
聲聞論議師說內空。於內法中無我無我所。無常無作者無知者無受者。是名內空。外空亦如是。不說內法相外法相即是空。 声聞の論議師は、内空を、『内法中に於いては、無我、無我所、無常、無作者、無知者、無受者にして、是れを内空と名づく。外空も亦た是の如し』、と説くも、『内法の相、外法の相は、即ち是れ空なり』、とは説かず。
『声聞の論議師』は、
『内空』を、
『内法』中には、
『我、我所、常、作者、知者、受者が無い!』ので、
是れを、
『内空』と、
『称し!』、
亦た、
『外空も、是の通りである!』と、
『説く!』が、
『内法の相も、外法の相も!』、
『即ち、空である!』と、
『説くことはない!』。
大乘說內法中無內法相。外法中無外法相。如般若波羅蜜中說。色色相空。受想行識識相空。眼眼相空。耳鼻舌身意意相空。色色相空。聲香味觸法法相空。如是等一切諸法自法空。 大乗の説かく、『内法中には、内法の相無く、外法中に外法の相無し』、と。般若波羅蜜中に説けるが如し、『色と色相は空なり。受想行識と識相は空なり。眼と眼相は空なり。耳鼻舌身意と意相は空なり。色と色相は空なり。声香味触法と法相は空なり』、と。是れ等の如き一切の諸法は、自法空なり。
『大乗』は、こう説くが、――
『内法』中には、
『内法の相』が、
『無く!』、
『外法』中には、
『外法の相』が、
『無い!』、と。
『般若波羅蜜』中に、こう説く通りである、――
『色も!』、
『色の相も!』、
『空であり!』、
『受想行識も!』、
『識の相も!』、
『空である!』。
『眼も!』、
『眼の相も!』、
『空であり!』、
『耳鼻舌身意も!』、
『意の相も!』、
『空である!』。
『色も!』、
『色の相も!』、
『空であり!』、
『声香味触法も!』、
『法の相も!』、
『空である!』、と。
是れ等のような、
『一切の諸法』は、
『自法』が、
『空なのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経荘厳品巻5』:『爾時須菩提白佛言。世尊。如我從佛所聞義。菩薩摩訶薩無大莊嚴為大莊嚴。諸法自相空故。所謂色色相空。受想行識識相空。眼眼相空。乃至意意相空。色色相空。乃至法法相空。眼識眼識相空。乃至意識意識相空。眼觸眼觸相空。乃至意觸意觸相空。眼觸因緣生受受相空。乃至意觸因緣生受受相空。世尊。檀那波羅蜜檀那波羅蜜相空。乃至般若波羅蜜般若波羅蜜相空。內空內空相空。乃至無法有法空。無法有法空相空。四念處四念處相空。乃至十八不共法十八不共法相空。菩薩菩薩相空。世尊。以是因緣故。當知菩薩摩訶薩無大莊嚴為大莊嚴。佛告須菩提。如是如是如汝所言。須菩提。薩婆若非作法。眾生亦非作法。菩薩為是眾生大莊嚴。』
問曰。此二種說內外空。何者是實。 問うて曰く、此の二種に説く、内外空は、何者か実なる。
問い、
此の、
『二種に説かれた!』、
『内、外の空』は、
何ちらが、
『実ですか?』。
答曰。二皆是實。但為小智鈍根故先說眾生空。為大智利根者說法空。如人閉獄破壞桎梏傷殺獄卒隨意得去。又有怖畏盜穿牆壁亦得免出。 答えて曰く、二は皆、是れ実なり。但だ小智、鈍根の為の故に、先に衆生空を説き、大智、利根の者の為の故に、法空を説く。人の獄に閉ざさるるに、桎梏を破壊し、獄卒を傷殺すれば、随意に去るを得、又盗を怖畏する有るに、牆壁を穿てば、亦た免れて出づるを得るが如し。
答え、
『二種』は、
『皆、実である!』が、
但だ、
『小智、鈍根の者』の為の故には、
先に、
『衆生空』を、
『説かれ!』、
『大智、利根の者』の為の故に、
『法空』を、
『説かれたのである!』。
例えば、
『人』が、
『獄に、閉ざされても!』、
『桎梏を破壊して!』、
『獄卒を傷殺すれば!』、
『意のままに!』、
『去ることができ!』、
又、
『怖畏すべき!』、
『盗賊が有っても!』、
『牆壁を穿てば!』、
『免れて!』、
『出られるようなものである!』。
聲聞者但破吾我因緣生諸煩惱離諸法愛。畏怖老病死惡道之苦。不復欲本末推求了了壞破諸法。但以得脫為事。大乘者破三界獄降伏魔眾斷諸結使及滅習氣。了知一切諸法本末通達無礙破散諸法。令世間如涅槃同寂滅相。得阿耨多羅三藐三菩提。將一切眾生令出三界。 声聞の者は、但だ吾我の因縁生なる、諸煩悩を破り、諸の法愛を離れて、老病死、悪道の苦を怖畏するも、復た本末を推求して了了となり、諸法を破壊するを欲せず、但だ以って、脱るるを得るを、事と為す。大乗の者は、三界の獄を破りて、魔衆を降伏し、諸結使を断じて、及び習気を滅し、了(あき)らかに一切の諸法の本末を知りて、通達、無礙となりて、諸法を破散し、世間をして、涅槃の如き寂滅相に同ぜしめ、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切の衆生を将(ひき)いて、三界を出でしむ。
『声聞の者』は、
但だ、
『吾、我の因緣生である!』、
『諸の煩悩を、破壊し!』、
『諸の法愛を、離れて!』、
『老病死の苦や、悪道の苦を!』、
『畏怖する!』が、
復た、
『諸法の本末を!』、
『推求し、了了として!』、
『諸法』を、
『破壊しよう!』とは、
『思わない!』。
但だ、
『苦』を、
『免れることだけ!』が、
『事( the aim )である!』。
『大乗の者』は、
『三界という!』、
『獄を破って!』、
『魔衆を降伏し!』、
『諸の結使と、習気を!』、
『断滅してしまう!』と、
『一切の諸法』の、
『本末を了知し!』、
『通達、無礙となって!』、
『諸法』を、
『破散し!』、
『世間』を、
『涅槃のような!』、
『寂滅相と、同じである!』と、
『見て!』、
『阿耨多羅三藐三菩提を得!』、
『一切の衆生を将いて!』、
『三界』を、
『出させるのである!』。
問曰。大乘有何方便能破壞諸法。 問うて曰く、大乗に、何なる方便か有りて、能く諸法を破壊する。
問い、
『大乗』には、
『諸法を破壊する!』のに、
何のような、
『方便』が、
『有るのですか?』。
答曰。佛說色從種種因緣生無有堅實。如水波浪而成泡沫暫見即滅。色亦如是。今世四大先世行業因緣和合故而得成色。因緣滅故色亦俱滅。行無常道轉入空門。所以者何。諸法生滅無有住時。若無住時則無可取。 答えて曰く、仏の説きたまわく、『色は、種種の因縁より生じ、堅実有ること無し。水の波浪に、泡沫を成すも、暫く見れば、即ち滅するが如し。色も亦た是の如く、今世の四大と、先世の行業の因縁の和合の故に、色を成ずるを得るも、因縁滅するが故に、色も亦た倶に滅するも、無常の道を行ずれば、転た空門に入る。所以は何んとなれば、諸法は生滅して、住時有ること無ければなり。若し住時無ければ、則ち取るべき無し』、と。
答え、
『仏』は、こう説かれた、――
『色』は、
種種の、
『因緣より、生じる!』が故に、
『堅い実』が、
『無い!』。
譬えば、
『水の波浪』が、
『泡沫』を、
『成しても!』、
暫く、
『見ていれば!』、
即ち( then )、
『滅するようなものである!』。
『色』も、
是のように、
『今世の四大と、先世の行業という!』、
『因緣が、和合する!』が故に、
『色』を、
『成すのであり!』、
『因緣が、滅すれば!』、
『色と倶に!』、
『滅することになる!』が、
『無常という!』、
『道を行けば!』、
転た( gradually )、
『空門』に、
『入るのである!』。
何故ならば、
『諸法』は、
『生、滅するだけで!』、
『住する!』時が、
『無いからであり!』、
若し、
『住する時が無ければ!』、
『取るべき法』が、
『無くなるからである!』。
復次有為相故生時有滅滅時有生。若已生生無所用。若未生生無所生。法與生亦不應有異。何以故。生若生法應有生生。如是復應有生是則無窮。若生生更無生者生不應有生。若生無有生者法亦不應有生。如是生不可得。滅亦如是。以是故諸法空不生不滅。是為實。 復た次ぎに、有為の相なるが故に、生時に滅有り、滅時に生有り。若し已に生ずれば、生に所用無く、若し未だ生ぜずんば、生には、所生無し。法と生も亦た応に異有るべからず。何を以っての故に、生に若し法を生ずれば、応に生を生ずる有るべし。是の如くんば、復た応に生有るべし。是れ則ち無窮なり。若し生生ずるに、更に生ずる者無ければ、生には応に生有るべからず。若し生に、生有ること無くんば、法も亦た応に生有るべからず。是の如く生は得べからずして、滅も亦た是の如し。是を以っての故に、諸法は空にして、不生、不滅なり。是れを実と為す。
復た次ぎに、
『生、住、滅の三相』は、
『有為である!』が故に、
『法』の、
『生じる!』時にも、
『滅』が、
『有り!』、
『滅する!』時にも、
『生』が、
『有ることになる!』が、
若し、
『法』が、
已に、
『生じていれば!』、
『生( the production )』には、
『所用( the utility of production )』が、
『無く!』、
未だ、
『生じていなければ!』、
『生』には、
『所生( things that are prodeced )』が、
『無い!』が、
『法』が、
『生』と、
『異なるはずがない!』。
何故ならば、
若し、
『生』が、
『法』を、
『生じれば!』、
是の、
『生を生じる!』、
『生』が、
『有るはずであり!』、
是のように、
復た、
『生』が、
『有るとすれば!』、
則ち、
『窮まり!』が、
『無いことになる!』。
若し、
『生が、生じたのに!』、
更に、
『生』を、
『生じた者が!』、
『無ければ!』、
是の、
『生』には、
『生じたということ!』が、
『有るはずがない!』。
若し、
『生』を、
『生じる!』者が、
『無ければ!』、
『法』が、
『生じるということ!』も、
『有るはずがない!』。
是のように、
『生』は、
『不可得であり( be unrecognizable )!』、
亦た、
『滅』も、
『是の通りである!』。
是の故に、
『諸法』は、
『空であり!』、
『不生であり!』、
『不滅である!』。
是れを、
『実』と、
『称するのである!』。
  参考:『中論観三相品巻2』:『問曰。經說有為法有三相生住滅。萬物以生法生。以住法住。以滅法滅。是故有諸法。答曰不爾。何以故。三相無決定故。是三相為是有為能作有為相。為是無為能作有為相。二俱不然。何以故  若生是有為  則應有三相  若生是無為  何名有為相  若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。問曰。若生非有為。若是無為有何咎。答曰。若生是無為。云何能為有為法作相。何以故。無為法無性故。因滅有為名無為。是故說不生不滅名無為相。更無自相。是故無法。不能為法作相。如兔角龜毛等不能為法作相。是故生非無為。住滅亦如是。‥‥』
復次諸法若有者終歸於無。若後無者初亦應無。如人著屐。初已有故微細不覺。若初無故則應常新。若後有故相初亦有故。法亦如是。後有無故初亦有無。以是故一切法應空。 復た次ぎに、諸法にして、若し有らば、終には無に帰せん。若し後に無とならば、初も亦た応に無なるべし。人の屐を著くるに、初め已に、故有るも、微細なれば覚えざも、若し初に故無くんば、則ち応に常に新なるべく、若し後に故相有らば、初にも亦た故有るが如し。法も亦た是の如く、後に無有れば、故に初にも亦た無有らん。是を以っての故に、一切の法は、応に空なるべし。
復た次ぎに、
『諸法』が、
若し、
『已に、有ったとしても!』、
終には、
『無に!』、
『帰すだろう!』。
若し、
『後に、無くなるとすれば!』、
初から、
『無が!』、
『有るはずである!』。
譬えば、こういうことである、――
『人の著ける!』、
『屐( a wooden shoe )』には、
初から、
『已に、故( the staleness )が有るのに!』、
『微細である!』が故に、
『覚らないのであり!』、
若し、
初に、
『故の相が、無ければ!』、
則ち、
『常に!』、
『新しいはずであり!』、
若し、
後に、
『故の相が、有れば!』、
亦た、
『初から!』、
『故が、有るはずである!』。
『法』も、
是のように、
後に、
『無が、有る!』が故に、
初にも、
『無が!』、
『有るのである!』。
是の故に、
『一切の法』は、
『空でなければならない!』。
  (げき):木履( wooden shoe )。
以眾生顛倒著內六情故。行者破是顛倒。名為內空。外空內外空亦如是。 衆生の顛倒して、内の六情に著するを以っての故に、行者の、是の顛倒を破するを名づけて、内空と為し、外空、内外空も亦た是の如し。
『衆生』が、
『顛倒して!』、
『内の六情』に、
『著する!』が故に、
『行者』は、
是の、
『顛倒』を、
『破るのであり!』、
是れを、
『内空』と、
『称する!』。
亦た、
『外空、内外空』も、
『是の通りである!』。
  参考:『大智度論巻19下』:『譬如人著新衣。初著日若不故第二日亦不應故。如是乃至十歲應常新不應故。而實已故。當知與新俱有。微故不覺。故事已成方乃覺知。以是故知諸法無有住時。云何心住時得受樂。若無住而受樂是事不然。以是故知無有實受樂者。但世俗法。以諸心相續故。謂為一相受樂。』



空空、大空、第一義空

空空者。以空破內空外空內外空。破是三空故。名為空空。 空空とは、空を以って、内空、外空、内外空を破れば、是の三空を破るが故に、名づけて空空と為す。
『空空』とは、
『空を用いて!』、
『内空、外空、内外空』を、
『破ることである!』が、
是の、
『三空を破る!』が故に、
『空空』と、
『称するのである!』。
復次先以法空破內外法。復以此空破是三空。是名空空。 復た次ぎに、先に法空を以って、内、外の法を破れば、復た此の空を以って、是の三空を破る、是れを空空と名づく。
復た次ぎに、
先には、
『法空を用いて!』、
『内、外の法』を、
『破った!』が
復た、
此の、
『空を用いて!』、
是の、
『三空』を、
『破る!』ので、
是れを、
『空空』と、
『称するのである!』。
復次空三昧觀五眾空。得八聖道。斷諸煩惱得有餘涅槃。先世業因緣身命盡時欲放捨八道故生空空三昧。是名空空。 復た次ぎに、空三昧もて、五衆の空を観じ、八正道を得て、諸煩悩を断じ、有余涅槃を得て、先世の業の因縁の身命尽くる時、八道を放捨せんと欲するが故に、空空三昧を生じ、是れを空空と名づく。
復た次ぎに、
『空三昧に入って!』、
『五衆の空を観て!』、
『八正道』を、
『得!』、
『諸の煩悩を断じて!』、
『有余涅槃』を、
『得!』、
『先世の業因緣』の、
『身命が尽きる!』時、
『八正道』を、
『放捨しようとする!』ので、
是の故に、
『空空三昧』を、
『生じることになる!』が、
是れを、
『空空』と、
『称するのである!』。
問曰。空與空空有何等異。 問うて曰く、空と空空と、何等の異か有る。
問い、
『空と、空空とには!』、
何のような、
『異が有るのですか?』。
答曰。空破五受眾。空空破空。 答えて曰く、空は、五受衆を破り、空空は空を破る。
答え、
『空』は、
『五受衆』を、
『破り!』、
『空空』は、
『空』を、
『破るのである!』。
問曰。空若是法空為已破。空若非法空何所破。 問うて曰く、空、若し是れ法なれば、空は、已に破せらる。空、若し法に非ざれば、空は、何んが破る所ぞ。
問い、
『空』が、
若し、
『法ならば!』、
是の、
『法』は、
『已に、破られている!』が、
『空』が、
若し、
『法でなければ!』、
是の、
『空』は、
『何に、破られるのですか?』。
答曰。空破一切法唯有空在。空破一切法已空亦應捨。以是故須是空空。 答えて曰く、空、一切法を破れば、唯だ空のみ在る有り。空、一切法を破り已れば、空も亦た応に捨つべし。是を以っての故に、是の空空を須(もち)う。
答え、
『空』が、
『一切の法を破れば!』、
唯だ、
『空のみ!』が、
『存在することになる!』が、
『空』が、
『一切の法を破ってしまえば!』、
亦た、
『空』も、
『捨てなくてはならない!』ので、
是の故に、
是の、
『空空』が、
『必要なのである!』。
復次空緣一切法。空空但緣空。如一健兒破一切賊復更有人能破此健人。空空亦如是。又如服藥。藥能破病。病已得破藥亦應出。若藥不出則復是病。以空滅諸煩惱病。恐空復為患。是故以空捨空。是名空空。 復た次ぎに、空は、一切法を縁じ、空空は、但だ空を縁ず。一健児の、一切の賊を破るに、復た更に有る人の、能く此の健人を破るが如く、空空も亦た是の如し。又薬を服むに、薬能く病を破れば、病已に破らるるを得れば、薬は亦た応に出づべし。若し薬出でざれば、則ち復た是れ病なるが如く、空を以って諸煩悩の病を滅すれば、空復た患と為るを恐るれば、是の故に、空を以って、空を捨つ。是れを空空と名づく。
復た次ぎに、
『空』は、
一切の、
『法』を、
『縁じる( to connect with )!』が、
『空空』は、
但だ、
『空のみ』を、
『縁じる!』。
譬えば、
『一健児』が、
一切の、
『賊』を、
『破ったとしても!』、
更に復た、
『有る人』が、
此の、
『健人』を、
『破ることができるように!』、
亦た、
『空空』も、
『是れと同じなのである!』。
又、
『薬を、服んで!』、
『薬』が、
『病を破り!』
『病が、破られてしまえば!』、
『薬』も、
『出なくてはならない!』が、
若し、
『薬が出なければ!』、
是の、
『薬』を、
『病むことになるように!』、
『空を用いて!』、
『諸煩悩の病を滅してしまえば!』、
復た、
『空が、患と為るのではないか?』と、
『恐れるので!』、
是の故に、
『空を用いて!』、
『空』を、
『捨てるのであり!』、
是れを、
『空空』と、
『称するのである!』。
復次以空破十七空故名為空空。 復た次ぎに、空を以って、十七空を破る故に、名づけて空空と為す。
復た次ぎに、
『空を用いて!』、
『十七の空を破る!』が故に、
『空空』と、
『称するのである!』。
大空者聲聞法中法空為大空。如雜阿含大空經說生因緣老死。若有人言是老死是人老死二俱邪見。是人老死則眾生空。是老死是法空。 大空とは、声聞法中には、法空を大空と為す。『雑阿含大空経』に説くが如き、『生は、老死に因緣するに、若し有る人、『是れ老死なり』。『是れ人の老死なり』、と言えば、二は倶に邪見なり』、と。是れ人の老死なりとは、則ち衆生空なり。是れ老死なりとは、是れ法空なり。
『大空』とは、
『声聞法』中には、
『法空』を、
『大空である!』と、
『説く!』。
『雑阿含大空』中に、こう説く通りである、――
『生』は、
『老死』の、
『因緣である!』。
若し、
有る人が、こう言えば、――
『是れが、老死である!』、とか、
『是れは、人の老死である!』、と。
是の、
『二』は、
『倶に、邪見である!』、と。
即ち、
是の、
『人の老死』が、
『衆生空であり!』、
是の、
『老死』が、
『法空である!』。
  参考:『雑阿含経(二九七)巻12』:『如是我聞。一時。佛住拘留搜調牛聚落。爾時。世尊告諸比丘。我當為汝等說法。初.中.後善。善義善味。純一清淨。梵行清白。所謂大空法經。諦聽。善思。當為汝說。云何為大空法經。所謂此有故彼有。此起故彼起。謂緣無明行。緣行識。乃至純大苦聚集。緣生老死者。若有問言。彼誰老死。老死屬誰。彼則答言。我即老死。今老死屬我。老死是我。所言。命即是身。或言。命異身異。此則一義。而說有種種。若見言。命即是身。彼梵行者所無有。若復見言。命異身異。梵行者所無有。於此二邊。心所不隨。正向中道。賢聖出世。如實不顛倒正見。謂緣生老死。如是生.有.取.愛受.觸.六入處.名色.識.行。緣無明故有行。若復問言。誰是行。行屬誰。彼則答言。行則是我。行是我所。彼如是。命即是身。或言。命異身異。彼見命即是身者。梵行者無有。或言命異身異者。梵行者亦無有。離此二邊。正向中道。賢聖出世。如實不顛倒正見所知。所謂緣無明行。諸比丘。若無明離欲而生明。彼誰老死。老死屬誰者。老死則斷。則知斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世成不生法。若比丘無明離欲而生明。彼誰生。生屬誰。乃至誰是行。行屬誰者。行則斷。則知斷其根本。如截多羅樹頭。於未來世成不生法。若比丘無明離欲而生明。彼無明滅則行滅。乃至純大苦聚滅。是名大空法經。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
摩訶衍經說十方。十方相空。是為大空。問曰。十方空何以名為大空。 『摩訶衍経』に説かく、『十方と、十方の相は空なり、是れを大空と為す』、と。問うて曰く、十方の空は、何を以ってか、名づけて大空と為す。
『摩訶衍経』には、こう説かれている、――
『十方も、十方の相も!』、
『空であり!』、
是れを、
『大空』と、
『称する!』、と。
問い、
『十方の空』が、
何故、
『大空』と、
『称されるのですか?』。
答曰。東方無邊故名為大。亦一切處有故名為大。遍一切色故名為大。常有故名為大。益世間故名為大。令眾生不迷悶故名為大。如是大方能破故名為大空。餘空破因緣生法。作法麤法易破故不名為大。是方非因緣生法。非作法微細法難破故名為大空。 答えて曰く、東方の無辺なるが故に、名づけて大と為し、亦た一切の処に有るが故に、名づけて大と為し、一切の色に遍きが故に、名づけて大と為し、常に有るが故に、名づけて大と為し、世間を益するが故に、名づけて大と為し、衆生をして迷悶せざらしむが故に、名づけて大と為す。是の如き大方を能く破るが故に、名づけて大空と為し、餘の空は、因縁生の法を破り、作法の麁法は破り易きが故に、名づけて大と為さず。是の方は、因縁生の法に非ず、作法に非ず、微細の法にして破り難きが故に、名づけて大空と為す。
答え、
『東方』は、
『無辺である!』が故に、
『大』と、
『呼ばれ!』、
『一切の処に有る!』が故に、
『大』と、
『呼ばれ!』、
『一切の色に普遍する!』が故に、
『大』と、
『呼ばれ!』、
『常に有る!』が故に、
『大』と、
『呼ばれ!』、
『世間を利益する!』が故に、
『大』と、
『呼ばれ!』、
『衆生を迷悶させない!』が故に、
『大』と、
『呼ばれるのである!』が、
是のような、
『大方を、破ることができる!』が故に、
『大空』と、
『称し!』、
『餘の空』は、
『因縁生』の、
『法』を、
『破る!』が、
『作法』は、
『麁法であり!』、
『破り易い!』が故に、
是れを、
『大と!』、
『称することはない!』。
是の、
『方』は、
『因縁生の法でも、作法でもなく!』、
『微細の法であって!』、
『破り難い!』が故に、
是れを、
『大空』と、
『称するのである!』。
問曰。若佛法中無方。三無為虛空智緣盡非智緣盡亦所不攝。何以言有方。亦是常是無為法非因緣生法。非作法微細法。 問うて曰く、若し仏法中に、方無く、三無為なる虚空、智縁尽、非智縁尽も亦た摂せざる所なれば、何を以ってか、『方有り、亦た是れ常、是れ無為法にして、因縁生の法に非ず、作法に非ざる、微細の法なり』、と言う。
問い、
若し、
『方』が、
『仏法中に無く!』、
『三無為の虚空、智縁尽、非智縁尽』中にも、
『摂せられなければ!』、
何故、こう言うのですか?――
『方が有り!』、
『常であり、無為法であり!』、
『因縁生の法でも、作法でもなく!』、
『微細( invisible )の法である! 』、と。
  (ほう):梵語dizの訳語なり。唯識二十四不相応行法の一。即ち空間の分位関係にして色法に於いて彼此相待する分斉をいう。『顕揚聖教論巻1』に「方とは謂わゆる諸の色行に遍ずる分斉の性なり」、といい、『大乗阿毘達磨雑集論巻2』に「方とは謂わゆる即ち東西南北四維上下に於いて因果差別するを仮に立てて方と作す。何を以っての故にか、即ち十方に於いて因果遍満するを仮に方と説くが故なり。まさに知るべし、この中にはただ色法所摂の因果を説くのみ。無色の法の遍布する所の処には功能無きが故なり」と云えるこれなり。<(望)
  三無為(さんむい):梵語tri- asaMskRtaの訳語にして、即ち虚空、択滅、非択滅等の三種の無為法を指し、乃ち小乗説一切有部の無為法に対する分類なり。無為法とは謂わゆる真空寂滅の理にして、本は造作無きことを指せり。即ち(一)虚空無為(梵aakaazaasaMskRta):虚空とは即ち無礙を以って性と為し、一体不可分にして、また所得の法に非ず。蓋し真理、真如は虚空の如くして、一切の諸法を容受し、一切の処に遍満するを指す。(二)択滅無為(梵pratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta):また数滅無為、数縁尽、智縁尽に作る。即ち択とは事物の道理を簡択する智慧の力にして、数とは智慧の法数(有為の法にして、諸数多きが故に、総じて名づけて数と為す)にして、択と同じ意なり。蓋し智慧の簡択力に依って煩悩を断つ一種の滅諦なり。これを択滅と謂うは、その滅は択に依って得ればなり。この滅の体は即ち涅槃と為す。(三)非択滅無為(梵apratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta):また非数滅無為、非数縁尽、非智縁尽、声聞人の証果の後に、諸惑また続いて起こらず、自然に寂滅の空理を契悟して簡択を仮りざるを指す。<(佛)
  微細(みさい):梵語 aNu の訳、細かな/微小な/極小の( fine, minute, atomic )、物質の一原子( an atom of matter )の義、眼に見えない( invisible )の意。又梵語 aatman に同じ、即ち霊魂( the soul )の義。又梵語 aNu- rajas を微塵と訳す、梵語 rajas は霧/埃( mist, dust )の義。
  参考:『大乗阿毘達磨雑集論巻2』:『方者。謂即於東西南北四維上下因果差別假立為方。何以故。即於十方因果遍滿假說方故。當知此中唯說色法所攝因果。無色之法遍布處所無功能故』
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻1』:『論曰。說一切法略有二種。謂有漏無漏。有漏法云何。謂除道諦餘有為法。所以者何。諸漏於中等隨增故。緣滅道諦諸漏雖生。而不隨增故非有漏。不隨增義隨眠品中自當顯說。已辯有漏。無漏云何。謂道聖諦及三無為。何等為三。虛空二滅。二滅者何。擇非擇滅。此虛空等三種無為及道聖諦。名無漏法。所以者何。諸漏於中不隨增故。於略所說三無為中。虛空但以無礙為性。由無障故色於中行。擇滅即以離繫為性。諸有漏法遠離繫縛證得解脫。名為擇滅。擇謂簡擇即慧差別。各別簡擇四聖諦故。擇力所得滅名為擇滅。如牛所駕車名曰牛車。略去中言故作是說。一切有漏法同一擇滅耶。不爾。云何隨繫事別。謂隨繫事量。離繫事亦爾。若不爾者於證見苦所斷煩惱滅時。應證一切所斷諸煩惱滅。若如是者。修餘對治則為無用。依何義說滅無同類。依滅自無同類因義亦不與他。故作是說。非無同類。已說擇滅。永礙當生得非擇滅。謂能永礙未來法生。得滅異前名非擇滅。得不因擇但由闕緣。如眼與意專一色時餘色聲香味觸等謝。緣彼境界五識身等。住未來世畢竟不生。由彼不能緣過去境。緣不具故得非擇滅。於法得滅應作四句。或於諸法唯得擇滅。謂諸有漏過現生法。或於諸法唯非擇滅。謂不生法無漏有為。或於諸法俱得二滅。謂彼不生諸有漏法。或於諸法不得二滅。謂諸無漏過現生法。如是已說三種無為。前說除道餘有為法。是名有漏。』
答曰。是方法聲聞論議中無。摩訶衍法中以世俗諦故有。第一義中一切法不可得。何況方。如五眾和合假名眾生。方亦如是。四大造色和合中。分別此間彼間等。假名為方。日出處是則東方。日沒處是則西方。如是等是方相。是方自然常有故非因緣生。亦不先無今有今有後無故。非作法非現前知故。是微細法。 答えて曰く、是の方法は、声聞の論議中には無く、摩訶衍法中には世俗諦を以っての故に有るも、第一義中には、一切法は不可得なれば、何に況んや方をや。五衆の和合を仮に衆生と名づくるが如く、方も亦た是の如く、四大造の色の和合中に、此の間と、彼の間等を分別し、仮に名づけて方と為す。日の出づる処は、是れ則ち東方にして、日の没する処は、是れ則ち西方なり。是れ等の如き、是れを方相なり。是の方は、自然にして、常に有るが故に、因縁生に非ず、亦た先に無くして、今有り、今有りて、後に無きにあらざるが故に、作法に非ず。現前に知るに非ざるが故に、是れ微細の法なり。
答え、
是の、
『方の法』は、
『声聞の論議』中には、
『無い!』、
『法である!』が、
『摩訶衍の法』中には、
『世俗諦』の故に、
『法』が、
『有り!』、
『第一義』中には、
『一切の法』が、
『得られない!』ので、
況して、
『方』が、
『得られるはずがない!』。
譬えば、
『五衆の和合』を、
仮に、
『衆生』と、
『呼ぶように!』、
『方』も、
是のように、
『四大造の色の和合』中に、
『此の間と!』、
『彼の間とを!』、
『分別して!』、
仮に、
『方』と、
『呼ぶのである!』。
例えば、
『日の出る!』、
『処』は、
『東方であり!』、
『日の没する!』、
『処』は、
『西方である!』が、
是れ等が、
『方』の、
『相なのである!』。
是の、
『方』は、
『自然であり!』、
『常に有る!』が故に、
『因縁生でなく!』、
亦た、
『先に無くて、今有るのでもなく!』、
『今有って、後に無いのでもない!』が故に、
『作法でもなく!』、
『現前に知ることがない!』が故に、
『微細の法なのである!』。
問曰。方若如是云何可破。 問うて曰く、方にして、若し是の如くんば、云何が破すべき。
問い、
『方』が、
若し、是の通りならば、――
何故、
『破ることができるのですか?』。
答曰。汝不聞。我先說。以世俗諦故有。第一義故破。以俗諦有故不墮斷滅中。第一義破故不墮常中。是名略說大空義。 答えて曰く、汝は、我が先に、『世俗諦を以っての故に有り、第一義の故に破す』、と説けるを聞かずや。俗諦に有るを以っての故に、断滅中に墜ちず、第一義もて破するが故に、常中に墜ちず。是れを『大空の義を略説す』、と名づく。
答え、
お前は、
『聞いていなかったのか?』。
わたしは、
先に、こう説いたのだ――
『世俗諦を用いる!』が故に、
『方』が、
『有り!』、
『第一義を用いる!』が故に、
『方』を、
『破るのだ!』、と。
即ち、
『世俗諦では!』、
『方は有る!』が故に、
『断滅』中に、
『堕ちることがなく!』、
『第一義』中に、
『方を破る!』が故に、
『常』中に、
『堕ちることもない!』。
是れが、
『略説された!』、
『大空の義である!』。
問曰。第一義空亦能破無作法無因緣法細微法。何以不言大空。 問うて曰く、第一義空も、亦た能く無作の法、無因緣の法、細微の法を破るに、何を以ってか、大空と言わざる。
問い、
『第一義空』も、
亦た、
『無作、無因緣、細微の法』を、
『破ることができる!』のに、
何故、
『大空』と、
『言わないのですか?』。
答曰。前已得大名故不名為大。今第一義名雖異義實為大。出世間以涅槃為大。世間以方為大。以是故第一義空亦是大空。 答えて曰く、前に已に大の名を得たるが故に、名づけて大と為さず。今、第一義は名を異にすと雖も、義は実に大と為す。出世間は、涅槃を以って大と為し、世間は、方を以って大と為す。是を以っての故に、第一義の空も亦た是れ大空なり。
答え、
前に、
『方』が、
已に、
『大の名』を、
『得た!』が故に、
『第一義空』を、
『大』と、
『称しないだけである!』。
今、
『第一義という!』、
『名』は、
『大と!』、
『異なる!』が、
『義』は、
『実に!』、
『大なのである!』。
又、
『出世間』は、
『涅槃が、大である!』と、
『言い!』、
『世間』は、
『方が、大である!』と、
『言うので!』、
是の故に、
亦た、
『第一義空』も、
『大空なのである!』。
復次破大邪見故。名為大空。 復た次ぎに、大の邪見を破るが故に、名づけて大空と為す。
復た次ぎに、
『大という!』、
『邪見を、破る!』が故に、
『大空』と、
『称するのである!』。
如行者以慈心緣東方一國土眾生。復緣一國土眾生。如是展轉緣時。若謂盡緣東方國土則墮邊見。若謂未盡則墮無邊見。生是二見故即失慈心。若以方空破是東方則滅有邊無邊見。若不以方空破東方者則隨東方心。隨心不已慈心則滅邪心則生。 行者は、慈心を以って、東方の一国土の衆生を縁じ、復た一国土の衆生を縁じて、是の如く展転して縁ずる時、若し、『東方の国土を縁じ尽くせり』、と謂わば、則ち辺見に堕す。若し、『未だ尽くせず』、と謂わば無辺見に堕す。是の二見を生ずるが故に、即ち慈心を失うが如く、若し、方空を以って、是の東方を破れば、則ち有辺、無辺の見を滅す。若し方空を以って、東方を破らざれば、則ち東方の心に随い、心に随いて、已(や)まざれば、慈心則ち滅し、邪心則ち生ず。
例えば、
『行者』が、
『慈心を用いて!』、
『東方』の、
『一国土の衆生』を、
『縁じる( to connect with )!』と、
復た、
『一国土の衆生』を、
『縁じ!』、
是のように、
『展転して( pass through many countrys )!』、
『縁じる!』時、
若し、
『東方』の、
『国土を、縁じ尽くした!』と、
『謂えば!』、
則ち、
『有辺見』に、
『堕ちることになり!』、
若し、
未だ、
『尽くしていない!』と、
『謂えば!』、
則ち、
『無辺見』に、
『堕ちることになり!』、
是の、
『二見を生じる!』が故に、
『慈心』を、
『失うことになるのであるが!』、
若し、
『方空を用いて!』、
是の、
『東方』を、
『破れば!』、
則ち、
『有辺、無辺の見を!』、
『滅することになる!』が、
若し、
『方空を用いて!』、
『東方』を、
『破らなければ!』、
『東方を趣向する!』、
『心に!』、
『随うことになり!』、
『心に随って、已まなければ( does not stop )!』、
『慈心が、滅して!』、
『邪心』が、
『生じることになる!』。
譬如大海潮時至其常限水則旋還。魚若不還則漂在露地有諸苦患。若魚有智則隨水還永得安隱。行者如是。若隨心不還則漂在邪見。若隨心還不失慈心。如是破大邪見故。名為大空。 譬えば、大海の潮は、時、其の常限に至れば、水は則ち旋り還るに、魚若し還らざれば、則ち漂いて露地に在れば、諸の苦患有るも、若し魚に智有れば、則ち水に随いて還り、永く安隠を得るが如し。行者も亦た是の如く、若し心に随いて、還らなければ、則ち漂うて邪見に在り。若し心に随うて、還れば、慈心を失わず。是の如く大の邪見を破するが故に、名づけて大空と為す。
譬えば、
『大海の潮』は、
『時』が、
其の、
『常限(満潮時)』に、
『至れば!』、
『水』は、
『旋って!』、
『還ることになる!』が、
『魚』が、
若し、
『還らなければ!』、
『露地に!』、
『漂うことになり!』、
諸の、
『苦患』が、
『有る!』が、
『魚』に、
若し、
『智が有れば!』、
『水に随って!』、
『還る!』ので、
永く、
『安隠』を、
『得るように!』、
『行者』も、
是のように、
若し、
『心に随って!』、
『還らなければ!』、
『邪見』に、
『漂うことになり!』、
若し、
『心に随って!』、
『還れば!』、
『慈心』を、
『失うこともないのである!』。
是のように、
『大という!』、
『邪見を破る!』が故に、
『大空』と、
『呼ぶのである!』。
第一義空者。第一義名諸法實相。不破不壞故。是諸法實相亦空。何以故。無受無著故。若諸法實相有者應受應著。以無實故不受不著。若受著者即是虛誑。 第一義空とは、第一義を、諸法の実相と名づくるに、破れず、壊れざるが故に、是の諸法の実相も亦た空なり。何を以っての故に、無受、無著の故なり。若し諸法の実相有らば、応に受くべく、応に著すべきも、実無きを以っての故に受けず、著せず。若し受けて著すれば、即ち是れ虚誑なり。
『第一義空』とは、
『第一義』とは、
『諸法』の、
『実相であり!』、
『破壊しない!』が故に、
是の、
『諸法の実相』も、
『空である!』。
何故ならば、
『諸法の実相』には、
『受( receiving )も、著( attachment )も!』、
『無いからである!』。
若し、
『諸法』に、
『実相が有れば!』、
『受けるはずであり!』、
『著するはずである!』が、
『諸法』には、
『実が無い!』が故に、
『受けることもなく!』、
『著することもない!』し、
若し、
『受けたり、著したりすれば!』、
是の、
『相』は、
『虚誑である!』。
復次諸法中第一法名為涅槃。如阿毘曇中說。云何有上法一切有為法及虛空非智緣盡。云何無上法智緣盡。智緣盡是即涅槃。涅槃中亦無涅槃相。涅槃空是第一義空。 復た次ぎに、諸法中の第一法を、名づけて涅槃と為す。阿毘曇中に説けるが如し、『云何が、有上の法なる。一切の有為法、及び虚空、非智縁尽なり。云何が、無上の法なる。智縁尽なり』、と。智縁尽は、是れ即ち涅槃なるも、涅槃中にも、亦た涅槃の相無ければ、涅槃の空は、是れ第一義空なり。
復た次ぎに、
『諸法』中の、
『第一法』を、
『涅槃』と、
『称する!』。
『阿毘曇』中に、こう説く通りである、――
何が、
『有上の法ですか?』、――
『一切の有為法と!』、
『虚空と!』、
『非智縁尽である!』。
何が、
『無上の法ですか?』、――
『智縁尽である!』、と。
『智縁尽』とは、
『涅槃のことである!』が、
『涅槃』中にも、
『涅槃の相』が、
『無いので!』、
『涅槃という!』、
『空』は、
『第一義空なのである!』。
  参考:『阿毘達磨品類足論巻6』:『有事有緣法云何。謂有為法。無事無緣法云何。謂無為法。有上法云何。謂一切有為法及虛空非擇滅。無上法云何。謂擇滅。遠法云何。謂過去未來法。近法云何。謂現在及無為法。』
問曰。若涅槃空無相。云何聖人乘三種乘入涅槃。又一切佛法皆為涅槃故說。譬如眾流皆入于海。 問うて曰く、若し涅槃は空にして、無相ならば、云何が、聖人は、三種の乗に乗りて、涅槃に入る。又、一切の仏法は、皆、涅槃の為の故に説きたまえり。譬えば、衆流の皆、海に入るが如し。
問い、
若し、
『涅槃』が、
『空であり!』、
『無相ならば!』、
何故、
『聖人』は、
『三種の乗に、乗って!』、
『涅槃に!』、
『入るのですか?』。
又、
『一切の仏法』は、
皆、
『涅槃に入る!』為の故に、
『説かれたのです!』。
譬えば、
『衆流』が、
皆、
『海』に、
『入るようなものです!』。
答曰。有涅槃是第一寶無上法。是有二種。一者有餘涅槃。二無餘涅槃。愛等諸煩惱斷。是名有餘涅槃。聖人今世所受五眾盡更不復受。是名無餘涅槃。不得言涅槃無。 答えて曰く、有る涅槃は、是れ第一宝、無上の法なり。是れに二種有り、一には有余涅槃、二には無余涅槃なり。愛等の諸の煩悩断ずれば、是れを有余涅槃と名づけ、聖人の今世に受くる所の五衆尽き、更に復た受けざるに、是れを無余涅槃と名づくれば、涅槃無しと言うを得ず。
答え、
有る、
『涅槃』は、
『第一の宝であり!』、
『無上の法である!』が、
是の、
『涅槃』には、
『二種有って!』、
一には、
『有余涅槃であり!』、
二には、
『無余涅槃である!』が、
『愛等の諸煩悩』が、
『断絶すれば!』、
『有余涅槃』と、
『呼ばれ!』、
『聖人』が、
『今世に受ける!』所の、
『五衆』が、
『尽きて!』、
更に復た、
『五衆』を、
『受けることがなければ!』、
是れを、
『無余涅槃』と、
『称するので!』、
是の故に、
『涅槃は無い!』と、
『言うことはできない!』。
以眾生聞涅槃名生邪見著涅槃音聲而作戲論。若有若無。以破著故說涅槃空。若人著有是著世間。若著無則著涅槃。破是凡人所著涅槃。不破聖人所得。何以故。聖人於一切法中不取相故。 衆生は、涅槃の名を聞くを以って、邪見を生じ、涅槃の音声に著して、戯論を作さく、『若しは有、若しは無なり』、と。著を破するを以っての故に、涅槃は空なりと説く。若し、人、有に著すれば、是れ世間に著するなり。若し無に著すれば、則ち涅槃に著するなり。是の凡人の著する所の涅槃を破るも、聖人の所得を破らず。何を以っての故に、聖人は、一切の法中に於いて、相を取らざるが故なり。
『衆生』は、
『涅槃という!』、
『名を聞けば!』、
『邪見』を、
『生じ!』、
『涅槃という!』、
『音声に著して!』、
『涅槃が有るとか、無いとか!』、
『戯論を作すので!』、
『著を破ろうとする!』が故に、
『涅槃は、空である!』と、
『説かれたのであり!』、
若し、
『人』が、
『有に著せば!』、
『世間』に、
『著することになり!』、
『無に著せば!』、
『涅槃』に、
『著することになる!』ので、
是の、
『凡人に著された!』、
『涅槃』を、
『破ることにはなっても!』、
『聖人の所得である!』、
『涅槃』を、
『破ったことにはならない!』。
何故ならば、
『聖人』は、
『一切の法』中に於いて、
『相』を、
『取らないからである!』。
復次愛等諸煩惱假名為縛。若修道解是縛得解脫。即名涅槃。更無有法名為涅槃。如人被械得脫而作戲論。是械是腳何者是解脫。是人可怪於腳械外更求解脫。眾生亦如是。離五眾械更求解脫法。 復た次ぎに、愛等の諸煩悩を仮に名づけて、縛と為すに、若し道を修めて、是の縛を解いて、解脱を得れば、即ち涅槃と名づけ、更に法の、名づけて涅槃と為す有ること無し。人の械(かせ)を被るに、脱るるを得るも、戯論を作すが如し、『是れは械なり、是れは脚なり。何者か、是れ解脱なる』、と。是の人は怪しむべし、脚、械の外に、更に解脱を求む。衆生も亦た是の如く、五衆の械を離れて、更に解脱の法を求む。
復た次ぎに、
『愛等の諸煩悩』を、
仮に、
『縛』と、
『呼ぶが!』、
若し、
『道を修めて!』、
是の、
『縛を解いて!』、
『解脱』を、
『得ること!』を、
即ち、
『涅槃』と、
『称するのであり!』、
更に、
『涅槃と呼ばれるような!』、
『法』は、
『無い!』。
譬えば、
『人』が、
『械を被りながら!』、
『解脱を得たのに!』、
『戯論』を、
『作して!』、
こう言うようなものである、――
是れは、
『械であり!』、
是れは、
『脚である!』が、
是の、
『解脱』とは、
『何者なのか?』、と。
是の、
『人』は、
『怪しむべきである( be curious )!』――
『脚や、械以外に!』、
更に、
『解脱』を、
『求めている!』、と。
『衆生』も、
是のように、
『五衆という!』、
『械を離れて!』、
更に、
『解脱の法』を、
『求めているのである!』。
  (かい):かせ、刑具。足枷/手枷( fetters, shackeles )の類。
復次一切法不離第一義。第一義不離諸法實相。能使諸法實相空。是名為第一義空。如是等種種名為第一義空 復た次ぎに、一切の法は、第一義を離れず。第一義は、諸法の実相を離れず。能く諸法の実相をして、空ならしむれば、是れを名づけて、第一義空と為す。是れ等の如き種種の名を、第一義空と為す。
復た次ぎに、
『一切の法』は、
『第一義』を、
『離れることなく!』、
『第一義』は、
『諸法の実相』を、
『離れない!』。
『諸法』の、
『実相を空にする!』者、
是れを、
『第一義空』と、
『呼ぶのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『名( the concepts )』が、
『第一義空である!』。
  (みょう):◯梵語 naaman の訳、特徴的目印/形態/性質/種類/挙動( a characteristic mark or sign, form, nature, kind, manner )、名前/名称( name, appellation )、実体/本質( substance, essence )の義、語/概念/非物質的現象( words, concepts, non-physical phenomena )の意。◯梵語 aakhyaa, aa√(khyaa) の訳、又名為と訳す、~と名づける/名前/名称( to name, a name, appellation )、告知/連絡/通知/言明/発表する( to tell, communicate, inform, declare, announce )、知らせる( to make known )、と呼ばれる( be called )の義。



有為空、無為空、畢竟空

有為空無為空者。有為法名因緣和合生。所謂五眾十二入十八界等。無為法名無因緣。常不生不滅如虛空。今有為法二因緣故空。一者無我無我所及常相不變異不可得故空。二者有為法有為法相空不生不滅無所有故。 有為空、無為空とは、有為法を、因緣和合の生と名づけ、謂わゆる五衆、十二入、十八界等なり。無為法を、無因緣と名づけ、常、不生、不滅なること虚空の如し。今、有為法は、二因縁の故に、空なり。一には、我無く、我所、及び常相の不変異なる無く、不可得なるが故に、空なり。二には、有為法と有為法の相は空にして、不生、不滅、無所有なるが故なり。
『有為空、無為空』とは、
『有為法』とは、
『因緣和合の生ということであり!』、
謂わゆる、
『五衆、十二入、十八界等である!』。
『無為法』とは、
『因緣が無いということであり!』、
『虚空のように!』、
『常、不生、不滅である!』。
今、
『有為法』は、
『二因縁』の故に、
『空である!』。
一には、
『我も、我所も、変異しない常相も無く!』、
『不可得である( be unrecognizable )!』が故に、
『空であり!』、
二には、
『有為法や、有為法の相』は、
『空であり!』、
『不生、不滅、無所有だからである!』。
問曰。我我所及常相不可得故應空。云何言有為法有為法相空。 問うて曰く、我、我所、及び常相は、不可得なるが故に、応に空なるべし。云何が、『有為法と、有為法の相は空なり』、と言う。
問い、
『我や、我所や、常相』は、
『不可得である!』が故に、
『空であるはずだとしても!』、
何故、こう言うのですか?――
『有為法も、有為法の相も!』、
『空である!』、と。
答曰。若無眾生法無所依。又無常故無住時。無住時故不可得。知是故法亦空。 答えて曰く、若し衆生無ければ、法に所依無く、又無常なるが故に、住時無く、住時無きが故に知るを得べからず。是の故に法も亦た空なり。
答え、
若し、
『衆生が無ければ!』、
『法』には、
『所依( the place to stay in )』が、
『無いことになり!』、
又、
『法( something what is held in the mind )』は、
『無常である!』が故に、
『住時』が、
『無く!』、
『住時が無い!』が故に、
『知ることができない!』。
是の故に、
『法』も、
『空なのである!』。
  所依(しょえ):梵語aazrayaの訳語にして、依託せらるるものの意なり。即ち法の生起する為に親しくその所託となるものをいう。『成唯識論巻4』に、「諸の心、心所は皆有所依なり。然れば彼の所依に総じて三種あり、一に因縁依、謂わゆる自らの種子なり。諸の有為法は皆この依に託す、自らの因縁を離れては必ず生ぜざるが故なり。二に増上縁依、謂わゆる内の六処なり。諸の心、心所は皆この依に託す。俱有根を離れては必ず転ぜざるが故なり。三に等無間縁依、謂わゆる前滅の意なり。諸の心、心所は皆この依に託す。開導根を離れては必ず起こらざるが故なり。ただ心、心所のみ三の所依を具し、有所依と名づく、所余の法には非ず」、と云えるこれなり。これ法の所依に総じて三種あることを明し、就中、心、心所法のみただこの三種を具するが故に、即ち有所依と名づくることを説けるものなり。この中、因縁依とは、また種子依と名づく。諸の有為法の生ずる因となるものにして、即ち諸法各自の種子をいい、増上縁依とは、また俱有依と名づく。心、心所の転ずる所依となるものにして、即ち内の六処をいい、等無間縁依とは、また開導依と名づく。心、心所法の現起する所依となるものにして、即ち前滅の意をいうなり。ただし四縁の中、ただ因縁等の三縁を以って所依の体とし、所縁縁を挙げざる理由は所縁縁は疎なるが故に立てざるのみ。また同じく『成唯識論巻4』には、諸識の俱有依を明せる中、前説は皆理に応ぜず、未だ所依と依との別を了せざるが故なり、依とは謂わく、一切の有生滅の法は、因に杖り縁に託して而も生じ住することを得。諸の所杖託を皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。もし法の決定し、境を有し、主と為り、心、心所をして自らの所縁を取らしむるは乃ちこれ所依にして、即ち内の六処なり。余は境有り、定まり、主と為るに非ざるが故なり。これはただ王の如くして臣等の如きには非ず。故に諸の聖教にはただ心、心所のみを有所依と名づく。色等の法には非ず、所縁無きが故なり。ただ心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心の所依と為すとは説かず、彼は主に非ざるが故なり。然るに有る処に依を所依と為し、或は所依を依と為すと説くは、皆宜しきに随うの仮説なりと云えり。<(望)『大智度論巻2上:六因、四縁』参照。
  参考:『成唯識論巻4』:『諸心心所皆有所依。然彼所依總有三種。一因緣依。謂自種子。諸有為法皆託此依。離自因緣必不生故。二增上緣依。謂內六處。諸心心所皆託此依。離俱有根必不轉故。三等無間緣依。謂前滅意。諸心心所皆託此依。離開導根必不起故。唯心心所具三所依名有所依非所餘法。‥‥有義前說皆不應理。未了所依與依別故。依謂一切有生滅法。仗因託緣而得生住。諸所仗託皆說為依。如王與臣互相依等。若法決定有境為主令心心所取自所緣。乃是所依。即內六處。餘非有境定為主故。此但如王非如臣等。故諸聖教唯心心所名有所依。非色等法無所緣故。但說心所心為所依。不說心所為心所依。彼非主故。然有處說依為所依或所依為依。皆隨宜假說。由此五識俱有所依定有四種。謂五色根六七八識。隨闕一種必不轉故。同境分別染淨根本所依別故。聖教唯說依五根者。以不共故又必同境。近相順故。第六意識俱有所依唯有二種。謂七八識。隨闕一種必不轉故。‥‥』
問曰。有為法中常相不可得。不可得者。為是眾生空為是法空。 問うて曰く、有為法中に常相は不可得なり。不可得なるは、是れ衆生の空と為すや、是れ法の空と為すや。
問い、
『有為法』中に、
『常相』が、
『不可得ならば!』、
『不可得である!』者とは、
『衆生空ですか?』、
『法空ですか?』。
答曰。有人言。我心顛倒故計我為常。是常空則入眾生空。有人言。以心為常如梵天王說是四大。四大造色悉皆無常。心意識是常。是常空則入法空。或有人言。五眾即是常。如色眾雖有變化而亦不滅。餘眾如心。說五眾空即是法空。是故常空亦入法空中。 答えて曰く、有る人の言わく、『我心の顛倒の故に、我を計して常と為すも、是の常にして空なれば、則ち衆生空に入る』、と。有る人の言わく、『心を以って、常と為す。梵天王の説けるが如し、『是の四大と、四大造の色とは、悉く皆、無常なるも、心、意、識は、是れ常なり』、と。是の常にして空なれば、則ち法空に入る』、と。或いは有る人の言わく、『五衆は、即ち是れ常なりとは、色衆の変化有りと雖も、亦た不滅なるが如く、餘衆は心の如し。五衆の空を説けば、即ち是れ法空なり。是の故に常にして空なるも、亦た法空中に入る』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『我の心が、顛倒する!』が故に、
『我』は、
『常である!』と、
『計すのであり( be convinced )!』、
是の、
『常が空ならば!』、
『衆生空』に、
『入ることになる!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『心を常とする!』のは、
『梵天王』が、こう説いたからであるが、――
『四大と、四大造の色』は、
悉く皆、
『無常である!』が、
『心意識( mind, consciousness and knowing )』は、
『常である!』、と。
是の、
『常が空ならば!』、
『法空』に、
『入ることになる!』、と。
或いは、有る人は、こう言っている、――
『五衆が常である!』とは、
例えば、
『色衆』が、
『変化が有りながら!』、
『不滅であるように!』、
『餘衆』は、
『心のように!』、
『不滅だからである(説一切有部所説)!』が、
『五衆は空である!』と、
『説けば!』、
即ち、
是れは、
『法空である!』。
是の故に、
『常が空ならば!』、
亦た、
『法空』中に、
『入ることになる!』、と。
  心意識(しんいしき):心(梵 citta )、意(梵 mana )、識(梵 vijaana )の併称、即ち心及び自覚/意識と了知/理解( mind, consciousness and understanding or knowing )の意。
復次有為法無為法空者。行者觀有為法無為法實相無有作者。因緣和合故有。皆是虛妄。從憶想分別生。不在內不在外不在兩中間。凡夫顛倒見故有。智者於有為法不得其相知但假名。以此假名導引凡夫。知其虛誑無實無生無作心無所著。 復た次ぎに、有為法と無為法の空とは、行者の観ずらく、『有為法、無為法の実相は、作者有ること無く、因緣和合の故に有れば、皆是れ虚妄にして、憶想、分別より生じ、内に在らず、外の在らず、両の中間に在らざるに、凡夫は顛倒して見るが故に有り、智者は有為法に於いて、其の相を得ず、但だ仮名なるを知り、此の仮名を以って、凡夫を導引するも、其の虚誑、無実、無生、無作なるを知りて、心に著する所無し』、と。
復た次ぎに、
『有為法と、無為法とが空である!』とは、
『行者』は、こう観るからである、――
『有為法、無為法の実相』は、
『作者が無く!』、
『因緣の和合する!』が故に、
『有るだけであり!』、
皆、
『虚妄であって!』、
『憶想し、分別するにより!』、
『生じるのである!』。
『法』は、
『内にも、外にも、内外の中間にも!』、
『存在しない!』のに、
『凡夫』は、
『顛倒する!』が故に、
『有る!』と、
『見る!』が、
『智者』は、
『有為法』に於いて、
『相』を、
『得ないで( not to recognize )!』、
但だの、
『仮名である!』と、
『知るので!』、
此の、
『仮名を用いて!』、
『凡夫』を、
『導引しても!』、
其れが、
『虚誑、無実、無生、無作である!』と、
『知るので!』、
『心』には、
『著する所』が、
『無いのである!』、と。
復次諸賢聖人不緣有為法而得道果。以觀有為法空故。於有為法心不繫著故。 復た次ぎに、諸の賢聖の人の有為法を縁ぜずして、道果を得るは、有為法の空を観ずるを以っての故に、有為法に於いて、心繋著せざるが故なり。
復た次ぎに、
『諸の賢聖の人』が、
『有為法を縁じなくても!』、
『道果』を、
『得ることができる!』のは、
『有為法』を、
『空である!』と、
『観る!』が故に、
『有為法』には、
『心』が、
『繋著しないからである!』。
復次離有為則無無為。所以者何。有為法實相即是無為。無為相者則非有為但為眾生顛倒故分別說。有為相者生滅住異。無為相者不生不滅不住不異。是為入佛法之初門。 復た次ぎに、有為を離るれば、則ち無為無し。所以は何んとなれば、有為法の実相、即ち是れ無為なればなり。無為の相ならば、則ち有為に非ざるも、但だ衆生の顛倒の為の故に、分別して説く、『有為の相は、生滅住異なり。無為の相は、不生不滅不住不異なり。是れを仏法に入る初門と為す』、と。
復た次ぎに、
『有為を離れれば!』、
『無為も!』、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『有為法』の、
『実相』が、
『無為だからである!』。
『有為法』が、
『無為の相ならば!』、
『有為ではないことになる!』が、
但だ、
『衆生の顛倒』の故に、
『有為法と、無為法を分別して!』、こう説くのである、――
『有為の相は生、滅、住、異である!』が、
『無為の相』は、
『不生、不滅、不住、不異であり!』、
是れが、
『仏法に入る!』、
『初門である!』、と。
若無為法有相者則是有為。有為法生相者則是集諦。滅相者則是盡諦。若不集則不作。若不作則不滅。是名無為法如實相。 若し無為法にして、相有らば、則ち是れ有為なり。有為法の生相は、則ち是れ集諦、滅相は則ち是れ尽諦、若し集めざれば、則ち作さず、若し作さざれば、則ち滅せず、是れを無為法の如実の相と名づく。
若し、
『無為法』に、
『相が有れば!』、
則ち、
『有為である!』が、
『有為法』の、
『生相』とは、
則ち、
『集諦であり!』、
『滅相』とは、
則ち、
『尽諦である!』。
若し、
『因縁を集めなければ!』、
『果と!』、
『作ることもなく!』、
『果と作らなければ!』、
『果が!』、
『滅することもない!』。
是れを、
『無為法』の、
『如実の相』と、
『言うのである!』。
若得是諸法實相。則不復墮生滅住異相中。是時不見有為法與無為法。合不見無為法與有為法。合於有為法無為法不取相。是為無為法。所以者何。若分別有為法無為法。則於有為無為而有礙。若斷諸憶想分別滅諸緣。以無緣實智不墮生數中。則得安隱常樂涅槃。 若し、是の諸法の実相を得れば、則ち復た生滅住異の相中に堕せず。是の時、有為法の無為法と合するを見ず、無為法の有為法と合するを見ざれば、有為法、無為法に於いて相を取らず、是れを無為法と為す。所以は何んとなれば、若し有為法、無為法を分別すれば、則ち有為、無為に於いて、礙有り。若し諸の憶想、分別を断じて、諸縁を滅すれば、無縁の実智を以って、生の数中に堕せざれば、則ち安隠、常楽の涅槃を得。
若し、
是の、
『諸法の実相を得れば!』、
復た( never again )、
『生、滅、住、異の相』中に、
『堕ちることがなくなり!』、
是の時、
『有為法』が、
『無為法と合する!』と、
『見ることもなく!』、
『無為法』が、
『有為法と合する!』と、
『見ることもなく!』、
『有為法、無為法という!』、
『相』を、
『取ることもない!』、
是れが、
『無為法である!』。
何故ならば、
若し、
『有為法と、無為法とを分別すれば!』、
『有為や、無為という!』、
『礙( obstacles )』が、
『有る!』が、
若し、
『諸の憶想、分別を断じて!』、
『諸縁を滅すれば!』、
『無縁の実智を用いて!』、
『生の数中』に、
『堕ちることなく!』、
『安隠、常楽という!』、
『涅槃』を、
『得るからである!』。
問曰。前五空皆別說。今有為無為空何以合說。 問うて曰く、前の五空は、皆別に説けるも、今の有為、無為空は、何を以ってか、合して説く。
問い、
前の、
『五空』は、
皆、
『別けて説いた!』のに、
今の、
『有為、無為空』は、
何故、
『合して説くのですか?』。
答曰。有為無為法相待而有。若除有為則無無為。若除無為則無有為。是二法攝一切法。行者觀有為法無常苦空等過。知無為法所益處廣。是故二事合說。 答えて曰く、有為、無為の法は、相待して有れば、若し有為を除けば、則ち無為無く、若し無為を除けば、則ち有為無ければなり。是の二法に、一切の法を摂するに、行者は、有為法の無常、苦、空等の過を観て、無為法の益する所の処の広きを知る、是の故に二事を合して説けり。
答え、
『有為法、無為法』は、
『相待して!』、
『有り!』、
若し、
『有為を除けば!』、
『無為』は、
『無く!』、
若し、
『無為を除けば!』、
『有為』は、
『無いからである!』。
是の、
『二法』に、
『一切法』を、
『摂する( to be contained )のであり!』、
『行者』が、
『有為法』の、
『無常、苦、空等の過』を、
『観れば!』、
『無為法に益される!』、
『処は広い!』のを、
『知ることになり!』、
是の故に、
『二事』を、
『合して説くのである!』。
問曰。有為法因緣和合生。無自性故空。此則可爾。無為法非因緣生法。無破無壞常若虛空。云何空。 問うて曰く、有為法は因緣和合の生にして、自性無きが故に空なれば、此れ則ち爾るべし。無為法は、因縁生の法に非ざれば、無破、無壊にして、常なること虚空の若(ごと)きの、云何が空なる。
問い、
『有為法』は、
『因緣和合の生であり!』、
『自性が無い!』が故に、
『空である!』とは、
是の、
『事』は、
『爾うかもしれない!』が、
『無為法』は、
『因緣生の法でなく!』、
『虚空のように!』、
『無破、無壊の常である!』のに、
何故、
『空なのですか?』。
答曰。如先說若除有為則無無為。有為實相即是無為。如有為空無為亦空。以二事不異故。 答えて曰く、先に説けるが如く、若し有為を除けば、則ち無為無く、有為の実相は、即ち是れ無為なれば、有為の空なるが如く、無為も亦た空なれば、二事の異ならざるを以っての故なり。
答え、
先に、説いたように、――
若し、
『有為を除けば!』、
『無為も!』、
『無く!』、
『有為の実相』は、
則ち、
『無為ならば!』、
是の、
『有為が空であるように!』、
『無為』も、
『空であり!』、
此の、
『二事』が、
『異ならないからである!』。
復次有人聞有為法過罪而著無為法。以著故生諸結使。 復た次ぎに、有る人は、有為法の過罪を聞いて、無為法に著し、著するを以っての故に、諸結使を生ずればなり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『有為法の、過罪を聞いて!』、
『無為法』に、
『著し!』、
『著する!』が故に、
『諸の結使』を、
『生じるからである!』。
如阿毘曇中說。八十九有為法緣六無為法緣三當分別。欲界繫盡諦所斷無明使。或有為緣或無為緣。何者有為緣。盡諦所斷有為法緣使相應無明使。何者無為緣。盡諦所斷有為法緣使不相應無明使。色無色界無明亦如是。以此結使故能起不善業。不善業故墮三惡道。是故言無為法空。 阿毘曇中に説けるが如く、『八十九は、有為法を縁じ、六は、無為法を縁じ、三は、当に分別すべし。欲界繋の尽諦所断の無明使は、或いは有為を縁じ、或いは無為を縁ず。何者か、有為を縁ずる。尽諦所断の有為法を縁ずる使に相応する、無明使なり。何者か、無為を縁ずる。尽諦所断の有為法を縁ずる使に相応せざる、無明使なり。色、無色界の無明も亦た是の如し。此の結使を以っての故に、能く不善業を起し、不善業の故に、三悪道に堕す。是の故に、無為法空と言う。
『阿毘曇』中には、こう説かれている、――
『九十八使』中の、
『八十九』は、
『有為法』を、
『縁じ!』、
『六』は、
『無為法』を、
『縁じ!』、
『三』は、こう分別することになる、――
『欲界繋』の、
『尽諦所断の無明使』は、
或いは、
『有為法』を、
『縁じ!』、
或いは、
『無為法』を、
『縁じる!』。
『有為法を縁じる!』者とは、何か?――
『尽諦所断の有為法を縁じる!』、
『使に相応する!』、
『無明使である!』。
『無為法を縁じる!』者とは、何か?――
『尽諦所断の有為法を縁じる!』、
『使に相応しない!』、
『無明使である!』。
亦た、
『色界繋、無色界繋の無明』も、
『是の通りである!』、と。
此の、
『結使』の故に、
『不善業を起すことになり!』、
『不善業』の故に、
『三悪道』に、
『堕ちる!』ので、
是の故に、
『無為法空』と、
『言うのである!』。
  八十九有為法縁:即ち九十八睡眠中、三界の滅諦見惑中より疑、邪見、無明を除去せしものなり。『大智度論巻3下注:結、使、巻14下注:九十八使』参照
  六無為法縁:即ち三界の滅諦見惑中よの疑、邪見なり。
  三当分別:即ち三界の滅諦見惑中の無明なり。
  相応(そうおう):梵語 saMprayukta の訳、軛を掛ける/繋ぎ合わされる( yoked or jointed together )、一緒に使用される( used together with )の義。関連した( be associated )の意。
  不相応(ふそうおう):梵語 viprayukta の訳、~から離れた/~を欠いた( separated or removed or absent from, destitute of, free from, without )の義。関連しない( be non-associated )の意。
  参考:『阿毘達磨品類足論巻3』:『九十八隨眠。幾有為緣。幾無為緣。答八十九有為緣。六無為緣。三應分別。謂見滅所斷無明隨眠。或有為緣或無為緣。云何有為緣。謂見滅所斷有為緣隨眠相應無明。云何無為緣。謂見滅所斷有為緣隨眠不相應無明。欲界繫三十六隨眠。幾有為緣。幾無為緣。答三十三有為緣。二無為緣。一應分別。謂欲界繫見滅所斷無明隨眠。或有為緣或無為緣。云何有為緣。謂欲界繫見滅所斷有為緣隨眠相應無明。云何無為緣。謂欲界繫見滅所斷有為緣隨眠不相應無明。色界繫三十一隨眠。幾有為緣。幾無為緣。答二十八有為緣。二無為緣。一應分別。謂色界繫見滅所斷無明隨眠。或有為緣或無為緣。云何有為緣。謂色界繫見滅所斷有為緣隨眠相應無明。云何無為緣。謂色界繫見滅所斷有為緣隨眠不相應無明。無色界繫三十一隨眠亦爾』
無為法緣使。疑邪見無明。疑者於涅槃法中有耶無耶。邪見者若生心言定無涅槃。是邪疑相應無明。及獨無明合為無明使。 無為法を縁ずる使は、疑、邪見、無明なり。疑とは、涅槃の法中に於いて、『有りや、無しや』、なり。邪見とは、心を生じて、『定んで涅槃無し』、と言うが若し。是の邪、疑相応の無明と、及び独り無明を合して無明使と為す。
『無為法を縁じる!』、
『使』とは、
『疑、邪見、無明である!』。
『疑』とは、
『涅槃の法』中に、
『有るのか、無いのか?』を、
『疑うことであり!』、
『邪見』とは、
『心に生じて!』、こう言うようなことである、――
『決定して!』、
『涅槃は無い!』、と。
是の、
『邪見と、疑に相応する無明』と、
『単独の、無明』とを、
『合して!』、
『無明使というのである!』。
問曰。若云無為法空與邪見何異。 問うて曰く、若し、『無為法は空なり』、と云わば、邪見と何んが異る。
問い、
若し、こう言えば、――
『無為法』は、
『空である!』、と。
何が、
『邪見』と、
『異なるのですか?』。
答曰邪見人不信涅槃。然後生心言定無涅槃法。無為空者破取涅槃相是為異。 答えて曰く、邪見の人は、涅槃を信ぜず、然る後に心を生じて、『定んで涅槃無し』、と言う。無為空とは、涅槃の相を取るを破り、是れを異と為す。
答え、
『邪見の人』は、
先に、
『涅槃』を、
『信じていない!』ので、
その後、
『邪見』が、
『心』に、
『生じて!』、
こう言うのである、――
『涅槃という!』、
『法は無い!』に、
『定まっている!』、と。
『無為空』は、
是のような、
『涅槃の相』を、
『取るのを!』、
『破るので!』、
是れが、
『異なっている!』。
復次若人捨有為著無為。以著故無為即成有為。以是故雖破無為而非邪見。是名有為無為空。 復た次ぎに、若し人、有為を捨てて、無為に著すれば、著を以っての故に、即ち有為を成ず。是を以っての故に、無為を破ると雖も、邪見に非ず。是れを有為、無為空と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『有為を捨てても!』、
『無為』に、
『著せば!』、
『著する!』が故に、
『無為』は、
即ち( immediately )、
『有為と成る!』ので、
是の故に、
『無為』を、
『破っても!』、
『邪見ではない!』。
是れは、
『有為も、無為も!』
『空だということである!』。
畢竟空者。以有為空無為空破諸法令無有遺餘。是名畢竟空如漏盡阿羅漢名畢竟清淨。阿那含乃至離無所有處欲不名畢竟清淨。此亦如是。內空外空內外空十方空第一義空有為空無為空。更無有餘不空法。是名畢竟空。 畢竟空とは、有為空、無為空を以って、諸法を破り、遺余有ること無からしむ、是れを畢竟空と名づく。漏尽の阿羅漢を畢竟清浄と名づけ、阿那含は、乃至無所有処の欲を離るるまで、畢竟清浄と名づけざるが如く、此れも亦た是の如く、内空、外空、内外空、十方空、第一義空、有為空、無為空の、更に餘の不空の法有ること無し、是れを畢竟空と名づく。
『畢竟空』とは、
『有為空と、無為空を用いて!』、
『諸法を破って!』、
『遺余』を、
『無くさせること!』、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『漏尽の!』
『阿羅漢』は、
『畢竟清浄である!』が、
『阿那含』は、
乃至、
『無所有処の欲』を、
『離れるまで!』、
是れを、
『畢竟清浄』と、
『称することがないように!』、
此の、
『畢竟空』も、
是のように、
『内、外、内外、十方、第一義、有為法、無為法』が、
皆、
『空ならば!』、
更に、
『空でない!』、
『余法』が、
『無い!』ので、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
復次若人七世百千萬億無量世貴族是名畢竟貴。不以一世二三世貴族為真貴也。畢竟空亦如是。從本已來無有定實不空者。 復た次ぎに、若し、人、七世、百、千、万、億、無量世の貴族なれば、是れを畢竟貴と名づくるも、一世、二、三世の貴族を以って、真の貴と為さず。畢竟空も亦た是の如く、本より已来、定実の空ならざる者有ること無し。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『七世、百、千、万、億、無量世の!』、
『貴族ならば!』、
是れは、
『畢竟の貴族』と、
『呼ばれる!』が、
若し、
『一世や、二、三世の!』、
『貴族ならば!』、
是れを、
『真の貴族』と、
『呼ぶことはない!』。
『畢竟空』も、
是のように、
『本来!』、
『実に空でない!』と、
『定まった!』者が、
『無い!』ので、
是れを、
『畢竟空』と、
『称する!』。
有人言。今雖空最初不空。如天造物始及冥初微塵。是等皆空。何以故。果無常因亦無常。如虛空不作果亦不作因。天及微塵等亦應如是。若是常不應生無常。若過去無定相未來現在世亦如是。於三世中無有一法定實不空者。是名畢竟空。 有る人の言わく、『今、空なりと雖も、最初は空にあらず』、と。天の造る物の始めと、及び冥初の微塵の如き、是れ等は、皆空なり。何を以っての故に、果無常なれば、因も亦た無常なればなり。虚空は、果を作さず、亦た因を作さざるが如く、天、及び微塵等も亦た、応に是の如くなるべし。若し是れ常ならば、応に無常を生ずべからず。若し過去に定相無ければ、未来、現在世も亦た是の如し。三世中には、一法の、定実に空ならざる者有ること無し。是れを畢竟空と名づく。
有る人は、こう言っているが、――
今は、
『空であっても!』、
『最初は!』、
『空でなかった!』、と。
例えば、
『天の造る物の始め!』と、
『冥初の!』、
『微塵など!』は、
是れ等は、
皆、
『空である!』。
何故ならば、
若し、
『果が無常ならば!』、
『因も!』、
『無常だからであり!』、
『虚空のように!』、
『果』を、
『作さなければ!』、
亦た、
『因』を、
『作すこともないからである!』。
『天や、微塵等も!』、
亦た、
『是の通りである!』。
若し、
是の、
『天や、微塵等が、常ならば!』、
『無常』を、
『生じるはずがない!』。
若し、
『過去に、定相が無ければ!』、
『未来や、現在も!』、
『是の通りである!』。
『三世』中には、
『実に、空でない!』と、
『定まった!』者は、
唯だ、
『一法すら!』、
『無いのであり!』、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
  (し):<名詞>[本義]開始「終に対す」( begin, start )。むかし/過去/従前( past )、根本/本源( foundation )。<副詞>最初に( at first )、曽て/嘗て( before long )、ちょうどその時( just, only then )、その後、然る後( then )、僅かに/只( only )。
  冥初(みょうしょ):天地の始まり( the beginning of the world )。
問曰。若三世都空。乃至微塵及一念無所有者。則是大可畏處。諸智慧人以禪定樂故捨世間樂。以涅槃樂故捨禪定樂。今畢竟空中乃至無有涅槃。依止何法得捨涅槃。 問うて曰く、若し三世、都て空にして、乃至、微塵及び一念すら、無所有ならば、則ち是れ大いに畏るべき処なり。諸の智慧の人は、禅定の楽を以っての故に、世間の楽を捨て、涅槃の楽を以っての故に、禅定の楽を捨つ。今、畢竟空中には、乃至涅槃すら有ること無し。何なる法に、依止して、涅槃を捨つるを得んや。
問い、
若し、
『三世』が、
『都て、空であり!』、
乃至、
『微塵や、一念すら!』、
『無所有ならば!』、
是れは、
『大いに畏れなくてはならない!』、
『処である!』。
諸の、
『智慧の人』は、
『禅定の楽を思う!』が故に、
『世間の楽』を、
『捨て!』、
『涅槃の楽を思う!』が故に、
『禅定の楽』を、
『捨てるのである!』が、
今、
『畢竟空』中には、
乃至、
『涅槃すら!』、
『無いのであるから!』、
何のような、
『法に依止すれば!』、
『涅槃』を、
『捨てることができるのか?』。
答曰。有著吾我人以一異相分別諸法。如是之人則以為畏。如佛說凡夫人大驚怖處。所謂無我無我所。 答えて曰く、有る吾我に著する人は、一異の相を以って、諸法を分別す。是の如き人は、則ち以って、畏ると為す。仏の説きたまえるが如し、『凡夫人の大いに驚怖する処は、謂わゆる無我、無我所なり』、と。
答え、
有る、
『吾我に著する!』、
『人』は、
『一異( equal or different )の相を用いて!』、
『諸法』を、
『分別している!』が、
是のような、
『人ならば!』、
『都てが( all around )!』、
『空であること!』を、
『畏れるはずである!』。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『凡夫人』の、
大いに、
『驚怖する!』、
『処』とは、
謂わゆる、
『我や、我所が!』、
『無いことである!』、と。
復次有為法有三世。以有漏法故生著處。涅槃名一切愛著斷。云何於涅槃而求捨離。 復た次ぎに、有為法には、三世有りて、有漏法なるを以っての故に、著の処を生ず。涅槃を、一切の愛著断ずと名づく。云何が涅槃に於いて、捨離を求むる。
復た次ぎに、
『有為法』には、
『三世が有り!』、
是の、
『三世が、有漏法である!』が故に、
『著する処』を、
『生じるのである!』。
『涅槃』とは、
一切の、
『愛著』を、
『断じることである!』が、
何故、
『涅槃を、捨離しよう!』と、
『求めるのか?』。
復次如比丘破四重禁。是名畢竟破戒。不任得道。又如作五逆罪。畢竟閉三善道。若取聲聞證者畢竟不得作佛。畢竟空亦如是。於一切法畢竟空無復有餘。 復た次ぎに、比丘の四重禁を破れば、是れを畢竟の破戒と名づけて、道を得るに任えざるが如く、又五逆罪を作せば、畢竟じて三善道を閉ざし、若しは、声聞の証を取れば、畢竟じて、仏と作るを得ざるが如く、畢竟空も亦た是の如く、一切法に於いて、畢竟じて空なれば、復た餘有ること無し。
復た次ぎに、
譬えば、
『比丘』が、
『四重禁を!』、
『破れば!』、
是れを、
『畢竟の破戒と呼んで!』、
『道を得る!』に、
『任えられないように!』、
又、
『五逆罪を作せば!』、
畢竟じて、
『三善道』を、
『閉ざすとか!』、
若しくは、
『声聞の証を取れば!』、
畢竟じて、
『仏と!』、
『作ることができなくなるように!』、
『畢竟空』も、
是のように、
『一切の法』が、
『畢竟じて!』、
『空となり!』、
復た、
『餘の法』が、
『無くなるのである!』。
問曰。一切法畢竟空是事不然。何以故。三世十方諸法乃至法相法住必應有實。以有一法實故餘法為虛妄。若無一法實者亦不應有諸虛妄法是畢竟空。 問うて曰く、一切の法にして、畢竟空なれば、是の事は然らず。何を以っての故に、三世十方の諸法、乃至法相、法住には、必ず応に実有るべく、有る一法の実なるを以っての故に、餘法を虚妄と為せばなり。若し一法すら実無くんば、亦た応に諸の虚妄の法有るべからず、是れ畢竟空なり。
問い、
『一切の法が、畢竟空だとすれば!』、
是の、
『事』は、
『然うでない( be not so )!』。
何故ならば、
『三世、十方の諸法、乃至法相、法住』には、
必ず、
『実』が、
『有るはずであり!』、
有る、
『一法が、実である!』が故に、
『余法は、虚妄である!』と、
『為す( to assume/consider )からである!』。
若し、
『一法すら!』、
『実』が、
『無ければ!』、
諸の、
『虚妄の法』は、
『有るはずがない!』。
是れが、
『畢竟空である!』。
  法住(ほうじゅう):梵語 dharma- sthiti の訳、法の住居( dharma abode )の義、一切法に住する真如( Thusness abiding in all things )の意。
  法相(ほうそう):梵語 dharma- lakSaNa の訳、法の特性/相( the characteristics of the dharma )の義。
  参考:『大般若波羅蜜多経巻360』:『善現。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜多時。應於真如學不增不減。亦應於法界法性不虛妄性不變異性平等性離生性法定法住實際虛空界不思議界學不增不減。』
  参考:『大般若波羅蜜多経巻46』:『具壽善現白佛言。世尊。云何有漏法。佛告善現。世間。五蘊。十二處。十八界。四靜慮。四無量。四無色定。所有一切墮三界法。善現。是名有漏法。具壽善現白佛言。世尊。云何無漏法。佛告善現。謂出世間四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。善現。此等名無漏法。具壽善現白佛言。世尊。云何有為法。佛告善現。謂欲界繫法。色界繫法。無色界繫法。五蘊。四靜慮。四無量。四無色定。四念住。四正斷。四神足。五根。五力。七等覺支。八聖道支。三解脫門。六到彼岸。五眼。六神通。佛十力。四無所畏。四無礙解。大慈大悲。大喜大捨。十八佛不共法。一切智。道相智。一切相智。所有一切有生。有住。有異。有滅法。善現。是名有為法。具壽善現白佛言。世尊。云何無為法。佛告善現。若法無生無住無異無滅可得。所謂貪盡。瞋盡。癡盡。真如。法界。法性。法住。法定。不虛妄性。不變異性。離生性。平等性。實際。善現。此等名無為法。』
答曰。無有乃至一法實者。何以故。若有乃至一法實者。是法應有若有為若無為。若是有為有為空中已破。若是無為無為空中亦破。如是世間出世間。若世間內空外空內外空大空已破。若出世間第一義空已破。色法無色法有漏無漏法等亦如是。 答えて曰く、乃至一法すら、実なる者有ること無し。何を以っての故に、若し乃至一法の実なる者有らば、是の法は、応に有りて、若しは有為、若しは無為なるべし。若し是れ有為ならば、有為空中に已に破せり。若し是れ無為ならば、無為空中に、亦た破せり。是の如き世間、出世間は、若し世間ならば、内空、外空、内外空、大空もて、已に破せり。若し出世間ならば、第一義空もて、已に破せり。色法、無色法、有漏、無漏の法等も亦た是の如し。
答え、
乃至、
『一法すら!』、
『実である!』者は、
『無い!』。
何故ならば、
若し、
乃至、
『一法すら!』、
『実である!』者が、
『有れば!』、
是の、
『法』は、
『有為か!』、
『無為である!』。
若し、
『有為ならば!』、
已に、
『有為空』中に、
『破れている!』し、
若し、
『無為ならば!』、
亦た、
『無為空』中に、
『破られている!』。
是のように、
『世間、出世間の法』は、
若し、
『世間ならば!』、
已に、
『内空、外宮、内外空、大空』中に、
『破られている!』し、
若し、
『出世間ならば!』、
已に、
『第一義空』中に、
『破られている!』。
亦た、
『色法、無色法、有漏法、無漏法等も!』、
『是の通りである!』。
復次一切法皆畢竟空。是畢竟空亦空。空無有法故亦無虛實相待。 復た次ぎに、一切法は、皆畢竟空にして、是の畢竟空も亦た空なり。空には、法有ること無きが故に、虚実の相待も無し。
復た次ぎに、
『一切の法』は、
皆、
『畢竟空であり!』、
是の、
『畢竟空』も、
亦た、
『空である!』。
『空には、法が無い!』が故に、
『虚と、実とが!』、
『相待することも!』、
『無い!』。
  相待(そうたい):梵語 apekSaa の訳、見廻す/考える/参照する/注目すること( looking round or about, consideration of, reference, regard to )、依存すること( dependence on )の義、相互依存( interdependence )の意。
復次畢竟空者破一切法令無遺餘故名畢竟空。若小有遺餘不名畢竟。若言相待故應有是事不然。 復た次ぎに、畢竟空なれば、一切の法を破って、遺余無からしむるが故に、畢竟空と名づく。若し小しく、遺余有らば、畢竟と名づけず。若し、『相待の故に、応に有るべし』、と言わば、是の事は然らず。
復た次ぎに、
『畢竟空』ならば、
『一切の法を、破って!』、
『遺余を、無くする!』が故に、
『畢竟空』と、
『称するのであり!』、
若し、
『小しでも!』、
『遺余が、有れば!』、
『畢竟』と、
『称することはない!』ので、
若し、
『相待するが故に、有るはずだ!』と、
『言えば!』、
是の、
『事』は、
『然うでない!』。
問曰。諸法不盡空。何以故。因緣所生法空。而因緣不空。譬如樑椽因緣和合故名舍。舍空而樑椽不應空。 問うて曰く、諸法は、尽く空なるにあらず。何を以っての故に、因緣所生の法は、空なるも、因緣は、空にあらず。譬えば梁、椽の因緣和合の故に、舎と名づくれば、舎は空なるも、梁、椽は応に空なるべからざるが如し。
問い、
『諸法』の、
『尽くが!』、
『空であるのではない!』。
何故ならば、
『因緣より生じた!』、
『法は空であっても!』、
『因緣』は、
『空でないからである!』。
譬えば、
『梁、椽という!』、
『因緣が和合する!』が故に、
『舎』と、
『呼ばれるとすれば!』、
『舎は空だとしても!』、
『梁、椽』は、
『空でないからである!』。
答曰。因緣亦空因緣不定故。譬如父子。父生故名為子。生子故名為父。 答えて曰く、因緣も亦た空なり、因緣の定まらざるが故に。譬えば、父と子は、父より生ずるが故に、名づけて子と為し、子を生ずるが故に、名づけて父と為すが如し。
答え、
『因緣も、亦た空である!』のは、
『因緣』が、
『定まらないからである!』。
譬えば、
『父と、子ならば!』、
『父より生じる!』が故に、
『子』と、
『呼ばれ!』、
『子を生じる!』が故に、
『父』と、
『呼ばれるようなものである!』。
復次最後因緣無所依止故。如山河樹木眾生之類皆依止地。地依止水。水依止風。風依止虛空。虛空無所依止。若本無所依止末亦無所依止。以是故當知一切法畢竟空。 復た次ぎに、最後の因緣には、依止する所無きが故なり。山河、樹木、衆生の類の、皆地に依止し、地は水に依止し、水は風に依止し、風は虚空に依止するも、虚空には依止する所無きが如し。若し、本に依止する所無ければ、末も亦た依止する所無し。是を以っての故に当に知るべし、一切の法は畢竟空なり。
復た次ぎに、
『最後の( the most back of )因緣』には、
『依止する!』所が、
『無いからである!』。
譬えば、
『山河、樹木、衆生の類』は、
皆、
『地』に、
『依止し!』、
『地』は、
『水』に、
『依止し!』、
『水』は、
『風』に、
『依止し!』、
『風』は、
『虚空』に、
『依止する!』が、
『虚空』には、
『依止する!』所が、
『無いようなものである!』。
若し、
『本に!』、
『依止する!』所が、
『無ければ!』、
『末にも!』、
『依止する!』所が、
『無い!』ので、
是の故に、
当然、こう知らねばならない、――
『一切の法』は、
『畢竟じて空である!』、と。
  参考:『根本殺一切有部毘奈耶雑事巻36』:『時具壽阿難陀於日晡時從宴坐起。便詣佛所頂禮佛足。在一面立白言。世尊。何因緣故大地振動。佛告阿難陀。有八因緣大地振動。云何為八。今此大地依水而住。水依風住。風依空住。阿難陀。有時空中現大猛風水即波動。水若搖動地即振動。阿難陀。此是初因緣大地振動』
問曰。不然。諸法應有根本。如神通有所變化所化雖虛而化主不空。 問うて曰く、然らず。諸法には、応に根本有るべし。神通にも、変化する所有り、化する所は、虚なりと雖も、化主は空ならざるが如し。
問い、
然うでない!――
『諸法』には、
『根本』が、
『有るはずである!』。
譬えば、
『神通』には、
『変化する!』所が、
『有り!』、
『変化する!』所は、
『虚だとしても!』、
『化主』は、
『空でないようなものである!』。
答曰。凡夫人見所化物不久故謂之為空。化主久故謂之為實。聖人見化主復從前世業因緣和合生。今世復集諸善法。得神通力故能作化。如般若波羅蜜後品中說。有三種變化。煩惱變化業變化法變化(法法身也)是故知化主亦空。 答えて曰く、凡夫人は、化する所の物の久しからざるを見るが故に、之を謂いて、空と為し。化主の久しきが故に、之を謂いて実と為すも、聖人は、化主も復た前世の業の業の因縁和合より生じ、今世にも復た諸の善法を集めて、神通力を得るが故に、能く化を作すと見る。般若波羅蜜経の後の品中に説けるが如し、『三種の変化有り、煩悩の変化、業の変化、法の変化なり』、と。是の故に知るらく、『化主も亦た空なり』、と。
答え、
『凡夫人』は、こう見るが、――
『変化する!』所の、
『物は、久しくない!』が故に、
『空である!』と、
『謂われ!』、
『化主は、久しい!』が故に、
『実である!』と、
『謂うのである!』、と。
『聖人』は、こう見るのである、――
『化主』も、
復た、
『前世の業という!』、
『因縁の和合より!』、
『生じるのであり!』、
復た、
『今世にも、諸善法を集めて!』、
『神通力を得る!』が故に、
『化を作すことができるのである!』、と。
『般若波羅蜜経の後の品』中に、こう説く通りである、――
『変化』には、
『三種有り!』、
『煩悩という!』、
『法』の、
『変化であり!』、
『業の因縁という!』、
『法』の、
『変化であり!』、
『諸仏、菩薩という!』、
『法』の、
『変化である!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『化主』も、
亦た、
『空である!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経如化品巻26』:『須菩提言。世尊。用何等空故一切法空。佛言。菩薩遠離一切法相。用是空故一切法空。須菩提。於汝意云何。若有化人作化人。是化頗有實事不空者不。須菩提言。不也世尊。是化人無有實事而不空。是空及化人二事不合不散。以空故空不應分別是空是化。何以故。是二事等空中不可得。所謂是空是化。何以故。須菩提。色即是化受想行識即是化。乃至一切種智即是化。須菩提白佛言。世尊。世間法是化出世間法亦復是化不。所謂四念處四正勤四如意足五根五力七覺分八聖道分三解脫門佛十力四無所畏四無礙智十八不共法。并諸法果及賢聖人。所謂須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢辟支佛。菩薩摩訶薩諸佛。世尊。是法亦是化不。佛告須菩提。一切法皆是化。於是法中有聲聞法變化。有辟支佛法變化。有菩薩摩訶薩法變化。有諸佛法變化。有煩惱法變化。有業因緣法變化。以是因緣故。須菩提。一切法皆是變化。須菩提白佛言。世尊。是諸煩惱斷。所謂須陀洹果斯陀含果阿那含果阿羅漢果辟支佛道。斷諸煩惱習斷皆是變化不。佛告須菩提。若有法生滅相者。皆是變化。須菩提言。世尊。何等法非變化。佛言。若法無生無滅是非變化。須菩提言。何等是不生不滅非變化。佛言。不誑相涅槃是法非變化。世尊。如佛自說諸法平等。非聲聞作非辟支佛作。非諸菩薩摩訶薩作非諸佛作。有佛無佛諸法性常空。性空即是涅槃。云何言涅槃一法非如化。佛告須菩提。如是如是。諸法平等非聲聞所作。乃至性空即是涅槃。若新發意菩薩聞是一切法畢竟性空。乃至涅槃亦皆如化心則驚怖。為是新發意菩薩故。分別生滅者如化不生不滅者不如化。』
問曰。諸不牢固者不實故應空。諸牢固物及實法不應空。如大地須彌山大海水日月金剛等色實法牢固故不應空。所以者何。地及須彌常住竟劫故。眾川有竭海則常滿。日月周天無有窮極。又如凡人所見虛妄不真故應空。聖人所得如及法性真際涅槃相應是實法。云何言畢竟皆空。 問うて曰く、諸の牢固ならざる者は、実ならざるが故に、応に空なるべし。諸の牢固の物、及び実の法は、応に空なるべからず。大地、須弥山、大海水、日月、金剛等の色は、実法にして、牢固なるが故に応に空なるべからず。所以は何んとなれば、地、及び須弥は、常住にして、劫を竟うるが故なり。衆川には、竭くこと有るも、海は則ち常に満ち、日月は天を周りて、窮極有ること無し。又凡人の所見の虚妄は、真ならざるが故に、応に空なるべく、聖人の所得の如、及び法性、真際、涅槃の相は、応に是れ実法なるべし。云何が、畢竟じて皆、空なりと言う。
問い、
諸の、
『牢固でない!』者は、
『実でない!』が故に、
『空でなければならない!』が、
諸の、
『牢固な物や、実の法』が、
『空であるはずがない!』。
例えば、
『大地、須弥山、大海水、日月、金剛等の色は!』、
『実法であり!』、
『牢固である!』が故に、
『空であるはずがないようなものである!』。
何故ならば、
『地や、須弥は常住であり!』、
『劫』を、
『竟える( to finish )からである!』。
『衆川には!』、
『竭くこと!』が、
『有っても!』、
『海ならば!』、
『常に!』、
『満ちている!』し、
『日、月は天を周りながら!』、
『窮極すること!』が、
『無いからである!』。
又、
『凡人の所見』は、
『虚妄であり!』、
『真でない!』が故に、
『空のはずである!』が、
『聖人の所得』は、
『如や、法性や、真際や、涅槃の相であり!』、
『実の!』、
『法であるはずである!』。
何故、
『畢竟じて、皆空である!』と、
『言うのですか?』。
復次有為法因緣生故不實。無為法不從因緣生故應實。復云何言畢竟空。 復た次ぎに、有為法は因縁生の故に実にあらざるも、無為法は因緣より生ぜざるが故に、応に実なるべし。復た云何が、畢竟空と言う。
復た次ぎに、
『有為法』は、
『因縁生である!』が故に、
『実でない!』が、
『無為法』は、
『因縁生でない!』が故に、
『実でなくてはならない!』。
復た、何故、
『畢竟空だ!』と、
『言うのですか?』。
答曰。堅固不堅固不定故皆空所以者何。有人以此為堅固。有人以此為不堅固。如人以金剛為牢固。帝釋手執如人捉杖不以為牢固。 答えて曰く、堅固、不堅固は定まらざるが故に、皆空なり。所以は何んとなれば、有る人は、此れを以って、堅固と為し、有る人は、此れを以って、不堅固と為せばなり。人の金剛を以って、牢固と為すも、帝釈の手に執ること、人の杖を捉るが如く、以って、牢固と為さざるが如し。
答え、
『堅固であるか?』、
『堅固でないか?』は、
『定まらない!』が故に、
皆、
『空である!』。
何故ならば、
有る人は、
此れは、
『堅固である!』と、
『言う!』が、
有る人は、
此れは、
『堅固でない!』と、
『言うからである!』。
例えば、
『人』は、
『金剛』を、
『牢固である!』と、
『言う!』が、
『帝釈』は、
『人』が、
『杖を、捉るように!』、
『金剛を、手に執って!』、
『金剛』は、
『牢固でない!』と、
『言うようなものである!』。
又不知破金剛因緣故以為牢固。若知著龜甲上以山羊角打破則知不牢固。如七尺之身以大海為深。羅睺阿修羅王。立大海中膝出水上。以兩手隱須彌頂。下向觀忉利天喜見城。此則以海水為淺。若短壽人以地為常久牢固。長壽者見地無常不牢固。 又、金剛を破る因緣を知らざるが故に、以って牢固と為すも、若しは、亀甲の上に著くるに、山羊の角を以って、打破するを知れば、則ち牢固ならざるを知る。七尺の身を以って、大海を深しと為すも、羅睺阿修羅王、大海中に立てば、膝、水上に出でて、両手を以って、須弥の頂を隠し、下を向けば、忉利天の喜見城を観るに、此れ則ち海水を以って、浅しと為すが如し。若し短寿の人ならば、地を以って常に久しく、堅固なりと為すも、長寿の者、地を見れば、無常にして、牢固ならず。
又、
『金剛を破る!』、
『因緣を知らない!』が故に、
『牢固である!』と、
『思うのである!』。
若し、
『亀甲の上』に、
『山羊の角を著け!』、
『打破すること!』を、
『知れば!』、
『亀甲』は、
『牢固でない!』と、
『知るようなものである!』。
譬えば、
『七尺の身には!』、
『大海』は、
『深い!』と、
『思う!』が、
『羅睺阿修羅王』が、
『大海中に立てば!』、
『膝』が、
『水上』に、
『出て!』、
『両手』で、
『須弥山の頂』を、
『隠し!』、
『下を向けば!』、
『忉利天の喜見城』を、
『観ることになる!』ので、
此の、
『阿修羅王』には、
『海水』は、
『浅いことになるのである!』。
若し、
『短寿の人ならば!』、
『地』を、
『常久であり、牢固である!』と、
『言う!』が、
『長寿の者』は、
『地』は、
『無常であり、牢固でない!』と、
『見るのである!』。
  羅睺阿修羅王(らごあしゅらおう):『大智度論巻4下注:羅睺阿修羅王』参照。
如佛說七日喻經。佛告諸比丘。一切有為法無常變異皆歸磨滅。劫欲盡時大旱積久。藥草樹木皆悉焦枯。有第二日出諸小流水皆悉乾竭。第三日出大河流水亦都涸盡。第四日出閻浮提中四大河。及阿那婆達多池皆亦空竭。第五日出大海乾涸。第六日出大地須彌山等皆悉煙出如窯燒器。第七日出悉皆熾然無復煙氣。地及須彌乃至梵天火皆然滿。 仏の七日喩経を説きたまえるが如し、仏の諸比丘に告げたまわく、『一切の有為法は、無常、変異にして、皆磨滅に帰す。劫の尽きんと欲する時、大旱積もること久しく、薬草、樹木、皆悉く、焦げ枯る。有るいは第二の日出づるに、諸の小流水、皆悉く乾竭す。第三の日出づるに、大河の流水も亦た都、涸れ尽くす。第四の日出づるに、閻浮提中の四大河、及び阿那跋達多池も、皆亦た空しく竭く。第五の日出づるに、大海乾き涸る。第六の日出づるに、大地、須弥山等、皆悉く煙の出づること、窯の器を焼くが如し。第七の日出づるに、悉く皆、熾然たりて、復た煙の気も無し。地、及び須弥、乃至梵天まで、火皆然えて満たす。
『仏』は、
『七日喩経』に、こう説かれている、――
『仏』は、
『諸の比丘』に、こう告げられた、――
一切の、
『有為法』は、
『無常であり、変異する!』が故に、
皆、
『磨滅( be worn out )』に、
『帰する( to fall into )のである!』。
『劫が尽きようとする!』時、
『大干魃、久しく積もって!』、
『薬草、樹木』が、
皆悉く、
『焦げて枯れる!』。
有るいは( perhapes )、
『第二の日が出て!』、
『小流水』が、
皆悉く、
『乾いて、竭れてしまい!』、
『第三の日が出る!』と、
『大河の流水まで!』が、
亦た都べて、
『涸れて、尽き!』、
『第四の日が出る!』と、
『閻浮提中の四大河も、阿那跋達多池』も、
皆亦た、
『空しく、竭き!』、
『第五の日が出る!』と、
『大海』が、
『乾いて!』、
『涸れ!』、
『第六の日が出る!』と、
『大地や、須弥山等』が、
皆、
『悉く!』、
『煙を出して!』、
譬えば、
『器を焼く!』、
『窯のようになり!』、
『第七の日が出る!』と、
悉く、
皆、
『熾然( burning intensely )となって!』、
復た( already )、
『煙の気も無く!』、
『地や、須弥山、乃至梵天まで!』、
皆、
『火が燃えて!』、
『満ちるのである!』。
  阿那婆達多池(あなばだったち):『大智度論巻4下注:阿那婆達多龍王』参照。
  四大河(しだいが):『大智度論巻7下』参照。
  熾然(しねん):明るく、烈しく燃える( burning brightly and intensely )。
  参考:『中阿含七日経巻2』:『我聞如是。一時。佛遊鞞舍離。在奈氏樹園。爾時。世尊告諸比丘。一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。所以者何。有時不雨。當不雨時。一切諸樹.百穀.藥木皆悉枯槁。摧碎滅盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時二日出世。二日出時。諸溝渠川流皆悉竭盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時三日出世。三日出時。諸大江河皆悉竭盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法。不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時四日出世。四日出時。諸大泉源從閻浮洲五河所出。一曰恒伽。二曰搖尤那。三曰舍牢浮。四曰阿夷羅婆提。五曰摩企。彼大泉源皆悉竭盡。不得常住。是故一切行無常。不久住法.速變易法。不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時五日出世。五日出時。大海水減一百由延。轉減乃至七百由延。五日出時。海水餘有七百由延。轉減乃至一百由延。五日出時。大海水減一多羅樹。轉減乃至七多羅樹。五日出時。海水餘有七多羅樹。轉減乃至一多羅樹。五日出時。海水減一人。轉減乃至七人。五日出時。海水餘有七人。轉減乃至一人。五日出時。海水減至頸.至肩.至腰.至[月*奇].至膝.至踝。有時海水消盡。不足沒指。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時六日出世。六日出時。一切大地須彌山王皆悉煙起。合為一煙。譬如陶師始爨窖時。皆悉煙起。合為一煙。如是六日出時。一切大地須彌山王皆悉煙起。合為一煙。是故一切行無常。不久住法.速變易法。不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。復次。有時七日出世。七日出時。一切大地須彌山王洞燃俱熾。合為一[火*僉]。如是七日出時。一切大地須彌山王洞燃俱熾。合為一[火*僉]。風吹火[火*僉]。乃至梵天。是時。晃昱諸天始生天者。不諳世間成敗。不見世間成敗。不知世間成敗。見大火已。皆恐怖毛豎而作是念。火不來至此耶。火不來至此耶。前生諸天諳世間成敗。見世間成敗。知世間成敗。見大火已。慰勞諸天曰。莫得恐怖。火法齊彼。終不至此。七日出時。須彌山王百由延崩散壞滅盡。二百由延.三百由延。乃至七百由延崩散壞滅盡。七日出時。須彌山王及此大地燒壞消滅。無餘栽燼。如燃酥油。煎熬消盡。無餘煙墨。如是七日出時。須彌山王及此大地無餘災燼。是故一切行無常。不久住法.速變易法.不可猗法。如是諸行不當樂著。當患厭之。當求捨離。當求解脫。我今為汝說須彌山王當崩壞盡。誰有能信。唯見諦者耳。我今為汝說大海水當竭消盡。誰有能信。唯見諦者耳。我今為汝說一切大地當燒燃盡。誰有能信。唯見諦者耳。所以者何。比丘。昔有大師名曰善眼。為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足。善眼大師有無量百千弟子。善眼大師為諸弟子說梵世法。若善眼大師為說梵世法時。諸弟子等有不具足奉行法者。彼命終已。或生四王天。或生三十三天。或生[火*僉]摩天。或生兜率哆天。或生化樂天。或生他化樂天。若善眼大師為說梵世法時。諸弟子等設有具足奉行法者。彼修四梵室。捨離於欲。彼命終已。得生梵天。彼時善眼大師而作是念。我不應與弟子等同俱至後世共生一處。我今寧可更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。彼時善眼大師則於後時更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。善眼大師及諸弟子學道不虛。得大果報。諸比丘。於意云何。昔善眼大師為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足者。汝謂異人耶。莫作斯念。當知即是我也。我於爾時名善眼大師。為外道仙人之所師宗。捨離欲愛。得如意足。我於爾時有無量百千弟子。我於爾時為諸弟子說梵世法。我說梵世法時。諸弟子等有不具足奉行法者。彼命終已。或生四王天。或生三十三天。或生[火*僉]摩天。或生兜率哆天。或生化樂天。或生他化樂天。我說梵世法時。諸弟子等設有具足奉行法者。修四梵室。捨離於欲。彼命終已。得生梵天。我於爾時而作是念。我不應與弟子等同俱至後世共生一處。我今寧可更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。我於後時更修增上慈。修增上慈已。命終得生晃昱天中。我於爾時及諸弟子學道不虛。得大果報。我於爾時親行斯道。為自饒益。亦饒益他。饒益多人。愍傷世間。為天.為人求義及饒益。求安隱快樂。爾時說法不至究竟。不究竟白淨。不究竟梵行。不究竟梵行訖。爾時不離生.老.病.死.啼哭.憂慼。亦未能得脫一切苦。比丘。我今出世。如來.無所著.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。我今自饒益。亦饒益他。饒益多人。愍傷世間。為天.為人求義及饒益。求安隱快樂。我今說法得至究竟。究竟白淨。究竟梵行。究竟梵行訖。我今已離生.老.病.死.啼哭.憂慼。我今已得脫一切苦。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
爾時新生光音天者見火怖畏言。既燒梵宮將無至此。先生諸天慰喻後生天言。曾已有此正燒梵宮。於彼而滅不來至此。燒三千大千世界已無復灰炭。 爾の時、新たに光音天に生まるる者の火を見て、怖畏して言わく、『既に梵宮を焼く、将(なん)ぞ、此(ここ)に至ること無からん』、と。先に生まるる諸天の後生の天を慰喩して言わく、『曽て已に此れ有りて、正に梵宮を焼くも、彼(かしこ)に於いて滅し、此には来至せず』、と。三千大千世界を焼き已りて、復た灰炭も無し。
――
爾の時、
新たに( newly )、
『光音天(二禅第三天)に生まれた!』者は、
『火を見て、怖畏し!』、こう言った、――
既に、
『梵宮(初禅第三天の宮殿)』が、
『焼けた!』、
将ぞ( how can )、
『此に至る(come hear )!』ことが、
『無いものか!』、と。
『先に、生まれた諸天』は、
『後に、生まれた天』を、
『慰喩して!』、こう言った、――
曽て已に( even before )、
此の、
『火が有り!』、
正しく( just only )、
『梵宮だけを焼く!』と、
彼の、
『天に於いて!』、
『滅してしまい!』、
此の、
『天までは!』、
『来なかった!』、と。
是の、
『火』が、
『三千大千世界を焼いてしまう!』と、
復た( nomore )、
『灰や、炭すら!』、
『無かったのである!』。
  光音天(こうおんてん):梵にaabhaasvaraに作り、音訳して阿波会提婆と為し、また阿波会天、阿会互修天、阿波互羞天、阿波羅天、阿波嘬羅遮天等に作り、意訳して光陰天、水無量天、無量水天、極光浄天、極光天、光浄天、遍勝光天、晃昱天、光曜天に作り、即ち第二禅の第三天にして、無量光天の上、少浄天の下に位す。この皆の衆生には音声の有ること無く、定心より発する所の光明を以って語言に替代え、彼此の意を伝達すれば、故に光音天と称す。上品二禅天相応の業の衆生投じてこの界に生まれ、最勝の色を得るに、身長は八由旬、寿は八大劫なり、喜悦を以って食と為し、安楽に住して自然の光明あり、神通を具有して空に乗りて行くべし。『倶舎論巻12』等参照。<(佛)
  (しょう):<動詞>扶助する/支持する( support )、奉行する( follow )、送行する( send )、携帯する( bring )、領導する( lead, guide )、服従する/随従する( be obedient to , submit to )、供養する( provide for )、保養する/休養する( recuperate, rest maintain )、伝達する( express )、進む/行く( advance, go )。<副詞>必ず/必定/当に~すべし( certainly )、要ず/まさに~せんとす( will, be going to )、正に( just )、ほとんど( nearly )、豈/何ぞ/どうして( how can )。<前置詞>~によって/~を以って/~を用いて( by, by means of )、於いて/在って( at, in )。<接続詞>又/且つ( also )、若し( if )、或は( or )。<助詞>動詞の後に在って、動作/行為の趣向、或は親交を表示する。
  (ふく):<動詞>[本義]返って来る( return to )。恢復する( restore )、回帰する( return )、返答/回答する( reply )、報復する( retaliate )、履行/実践する( carry out )。<副詞>又/再び( resume )。<形容詞>重複した/重なった/重畳した( compound, complex, double, overlapping )。
佛語比丘如此大事誰信之者。唯有眼見乃能信耳。又比丘過去時。須涅多羅外道師離欲行四梵行。無量弟子亦得離欲。須涅多羅作是念我不應與弟子同生一處。今當深修慈心。此人以深思慈故生光音天。 仏の比丘に語りたまわく、『此の如き大事は、誰か之を信ずる者なる。唯だ眼に見て、乃ち能く信ずる有るのみ。又比丘、過去の時に、須涅多羅なる外道の師は、欲を離れて四梵行を行じ、無量の弟子も亦た欲を離るるを得たり。須涅多羅の是の念を作さく、『我れは、応に弟子と同じくして、一処に生すべからず。今当に深く、慈心を修すべし』、と。此の人は、深く慈を思うを以っての故に、光音天に生ず』、と。
『仏』は、
『比丘』に、こう語られた、――
此のような、
『大事』を、
『誰が、信じるのか?』。
唯だ、
『眼に見て!』、
乃ち( only then )、
『信じることのできる!』者が、
『有るだけだ!』。
又、比丘!
過去の時に、
『須涅多羅という!』、
『外道の師』は、
『欲を離れて!』、
『四梵行』を、
『行っており!』、
亦た、
『無量の弟子』も、
『欲を離れていた!』。
『須涅多羅』は、こう念じた、――
わたしは、
『弟子と同じくして!』、
『一処』に、
『生まれるわけにはいかない!』。
今は、
『深く!』、
『慈心』を、
『修めることにしよう!』、と。
此の、
『人』は、
『深く、慈を思った!』が故に、
『光音天』に、
『生じたのである!』、と。
  須涅多羅(しゅねたら):梵語sunetraの音訳にして、また須泥多羅、蘇泥怛羅等に作り、好眼、善眼と意訳す。<(丁)
  四梵行(しぼんぎょう):梵堂/梵住(梵語 braahma- vihaara : a temple of Brahma )に住すべき四種の行、即ち慈悲喜捨の四無量を云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
佛言須涅多羅者我身是也。我是時眼見此事以是故當知牢固實物皆悉歸滅。 仏の言わく、『須涅多羅とは、我が身是れなり。我れ是の時、眼に此の事を見たり』、と。是を以っての故に、当に知るべし、牢固にして実なる物も、皆悉く、滅に帰するを。
『仏』は、こう言われた、――
『須涅多羅』とは、
是れは、
『わたしの身である!』。
わたしは、
是の時、
此の、
『事』を、
『眼で見たのである!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『牢固であり、堅実な物すら!』、
皆、悉く、
『滅に帰するのである!』、と。
問曰。汝說畢竟空何以說無常事。畢竟空今即是空。無常今有後空。 問うて曰く、汝は、畢竟空を説くに、何を以ってか、無常の事を説く。畢竟空は、今、即ち是れ空なり。無常は、今有りて、後に空なり。
問い、
お前は、
『畢竟空』を、
『説いていた!』のに、
何故、
『無常の事』を、
『説くのか?』。
『畢竟空』は、
『今が』、
即ち、
『空である!』が、
『無常』は、
『今、有る!』者が、
『後に!』、
『空になるのである!』。
答曰。無常則是空之初門。若諦了無常諸法則空。以是故。聖人初以四行觀世間無常。若見所著物無常。無常則能生苦。以苦故心生厭離。若無常空相則不可取。如幻如化是名為空。外物既空內主亦空是名無我。 答えて曰く、無常は、則ち是れ空の初門にして、若し無常を諦了すれば、諸法は則ち空なり。是を以っての故に、聖人は、初め、四行を以って、世間の無常を観じ、若し所著の物の無常なるを見れば、無常は、則ち能く苦を生じ、苦を以っての故に、心に厭離を生ず。若し、無常、空相なれば、則ち取るべからざること、幻の如く、化の如し。是れを名づけて空と為す。外物にして、既に空なれば、内の主も、亦た空なり。是れを無我と名づく。
答え、
『無常』とは、
則ち、
『空の初門だからである!』。
若し、
『無常を諦了( to know clearly )にすれば!』、
『諸法』は、
『空となるのである!』。
是の故に、
『聖人』は、
初めに、
『四行(苦諦中の苦、空、無常、無我の観察)を用いて!』、
『世間の無常』を、
『観察されたのであり!』、
若し、
『著する!』所の、
『物』に於いて、
『無常』を、
『見れば!』、
『無常』は、
『苦』を、
『生じることになり!』、
『苦を思う!』が故に、
『心』に、
『厭離』を、
『生じるのである!』。
若し、
『物』が、
『無常であり、空相ならば!』、
『幻や、化のように!』、
『取ることはできない!』。
是れを、
『空』と、
『称するのである!』。
若し、
『外物』が、
既に、
『空ならば!』、
亦た、
『内の主も!』、
『空となるので!』、
是れを、
『無我』と、
『称するのである!』。
  四行(しぎょう):また四行相、四種行相に作る。即ち苦諦の苦、空、無常、無我の四種の行相を観察するを指し、乃ち四諦十六行相中、苦諦の四種行相なり。
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻26』:『論曰。有餘師說。十六行相名雖十六實事唯七。謂緣苦諦名實俱四。緣餘三諦名四實一。如是說者實亦十六。謂苦聖諦有四相。一非常二苦三空四非我。待緣故非常。逼迫性故苦。違我所見故空。違我見故非我。集聖諦有四相。一因二集三生四緣。如種理故因。等現理故集。相續理故生。成辦理故緣。譬如泥團輪繩水等眾緣和合成辦瓶等。滅聖諦有四相。一滅二靜三妙四離。諸蘊盡故滅。三火息故靜。無眾患故妙。脫眾災故離。道聖諦有四相。一道二如三行四出。通行義故道。契正理故如。正趣向故行。能永超故出。又非究竟故非常。如荷重擔故苦。內離士夫故空。不自在故非我。牽引義故因。出現義故集。滋產義故生。為依義故緣。不續相續斷故滅。離三有為相故靜。勝義善故妙。極安隱故離。治邪道故道。治不如故如。趣入涅槃宮故行。棄捨一切有故出。如是古釋既非一門故隨所樂更為別釋。生滅故非常。違聖心故苦。於此無我故空。自非我故非我。因集生緣如經所釋。謂五取蘊以欲為根。以欲為集。以欲為類。以欲為生。‥‥』
復次畢竟空是為真空有二種眾生。一多習愛二多習見。愛多者喜生著。以所著無常故生憂苦。為是人說。汝所著物無常壞故。汝則為之生苦。若此所著物生苦者不應生著。是名說無作解脫門。見多者為分別諸法以不知實故而著邪見。為是人故直說諸法畢竟空。 復た次ぎに、畢竟空は、是れを真の空と為すに、二種の衆生有り、一には多く、愛を習い、二には多く、見を習う。愛多き者は、喜んで著を生ずるに、所著の無常なるを以っての故に、憂苦を生ずれば、是の人の為に説かく、『汝が所著の物は、無常にして壊るるが故に、汝は則ち之が為に苦を生ず。此の所著の物の若く、苦を生ずる者は、応に著を生ずべからず』、と。是れを無作解脱門を説くと名づく。見多き者は、諸法を分別せんが為、実を知らざるを以っての故に、邪見に著すれば、是の人の為の故には、直だ、『諸法は畢竟空なり』、と説く。
復た次ぎに、
『畢竟空』とは、
『真の空である!』。
『衆生』には、
『二種有り!』、
一には、
『愛を習うこと( to have the habit of craving )!』が、
『多くあり!』、
二には、
『見を習うこと( to have the habit of view )!』が、
『多い!』。
『愛の多い!』者は、
『喜んで、著を生じ!』、
『所著が無常である!』が故に、
『憂苦』を、
『生じる!』ので、
是の、
『人の為に!』、こう説くのである、――
お前の、
『所著の物』は、
『無常であり!』、
『壊れるものである!』が故に、
お前に、
『苦』を、
『生じさせる!』。
此の、
『所著の物のような!』、
『苦を生じさせる!』者に、
『著』を、
『生じてはならない!』、と。
是れを、
『無作解脱門を説く!』と、
『称する!』。
『見の多い!』者は、
『諸法を分別しようとする!』が、
『実を知らない!』が故に、
『邪見』に、
『著することになる!』ので、
是の、
『人の為に!』は、
直だ、こう説くのである、――
『諸法』は、
『畢竟じて!』、
『空である!』、と。
復次若有所說皆是可破可破故空。所見既空見主亦空。是名畢竟空。汝言聖人所得法應實者。以聖人法能滅三毒。非顛倒虛誑能令眾生離老病死苦得至涅槃。是雖名實皆從因緣和合生故。先無今有今有後無故。不可受不可著故亦空非實。如佛說筏喻經。善法尚應捨何況不善。 復た次ぎに、若し所説有らば、皆是れ破すべし。破すべきが故に空なり。所見、既に空なれば、見主も亦た空なり。是れを畢竟空と名づく。汝が言わく、『聖人の所得の法は、応に実なるべし』、とは、聖人の法は、能く三毒を滅し、顛倒、虚誑に非ず、能く衆生をして、老病死の苦を離れ、涅槃に至るを得しむるを以って、是れを実と名づくと雖も、皆因緣和合より、生ずるが故に、先に無く、今有り、今有りて、後に無きが故に、受くべからず、著すべからざるが故に、空にして、実に非ず。仏の説きたまえる筏喩経の如く、善法すら尚お応に捨つべし、何に況んや、不善をや。
復た次ぎに、
若し、
『所説が有れば!』、
『皆、破ることができ!』、
『破られる!』が故に、
『空であり!』、
『所見』が、
『既に、空ならば!』、
『見主も!』、
『空である!』ので、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
お前は、こう言ったが、――
『聖人の所得』の、
『法』は、
『実であるはずだ!』、と。
『聖人の法』は、
『三毒を滅することができ!』、
『顛倒でも、虚誑でもなく!』、
『衆生』を、
『老病死の苦より、離れさせ!』、
『涅槃に!』、
『至らせることができる!』ので、
是れを、
『実と称するのである!』が、
『皆、因縁の和合より、生じる!』が故に、
『先に無くて、今有り!』、
『今有って、後に無い!』が故に、
是れは、
『受けるべきでなく!』、
『著すべきでない!』が故に、
亦た、
『空であり!』、
『実ではない!』。
例えば、
『仏』は、
『筏喩経』に、こう説かれている、――
『善法であっても!』、
尚お、
『捨てなくてはならない!』、
況して、
『不善の法』は、
『言うまでもない!』、と。
  筏喩経(ばつゆきょう):『大智度論巻1下注:筏喩』参照。
復次聖人有為無漏法從有漏法緣生。有漏法虛妄不實緣所生法。云何為實離有為法無無為法如先說。有為法實相即是無為法。以是故。一切法畢竟不可得故名為畢竟空。 復た次ぎに、聖人の有為の無漏法は、有漏法の縁より生ず。有漏法なる虚妄、不実の縁より生ずる所の法を、云何が実と為す。有為法を離るれば、無為法無きこと先に説けるが如し。有為法の実相は、即ち是れ無為法なり。是を以っての故に、一切の法は、畢竟じて不可得なるが故に、名づけて畢竟空と為す。
復た次ぎに、
『聖人』の、
『有為の無漏法』は、
『有漏法の縁より!』、
『生じる!』が、
『有漏法のような!』、
『虚妄、不実の縁より!』、
『生じた!』所の、
『法』を、
何故、
『実だ!』と、
『言うのか?』。
『有為法』を、
『離れれば!』、
『無為法』は、
『無く!』、
先に、説いたように、――
『有為法』の、
『実相』が、
『無為法である!』。
是の故に、
『一切の法』は、
『畢竟じて!』、
『不可得である!』が故に、
是れを、
『畢竟空』と、
『称するのである!』。
  有為無漏法(ういむろほう):また無漏有為に作り、即ち有為的無漏の法を指し、倶舎宗には四諦中の苦、集二諦を有為有漏法、滅諦を有為無漏法、道諦を則ち無漏法と為すといえども、然るに具に生滅の性質を有し、而も凡そ生滅有る者は即ち有為法に属するを以っての故に、道諦をまた有為無漏法と称す。この外に、七十五法中には、色法中の無表色、心法中の第六識心王、心所有法中の十種の大地法、十種の大善地法、尋(覚)、伺(観)、及び心不相応行法中の生、住、異、滅の四相等の共に得る計二十九法は皆有為無漏法なり。<(佛)


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