巻第二十九(下)
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大智度論初品中迴向釋論第四十五之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


三十二相、八十随形好を具足する

【經】菩薩摩訶薩欲使世世身體與佛相似。欲具足三十二相八十隨形好。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩、世世の身体をして、仏と相似せしめんと欲し、三十二相、八十随形好を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『世世の身体』を、
『仏と!』、
『相似させようとし!』、
『仏』の、
『三十二相、八十随形好』を、
『具足しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  三十二相:『大智度論巻4(下)』参照。
  八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう):仏の身に具わる八十種の好もしい特徴。
  参考:『大智度論巻4』:『王言。何等三十二相。相師答言。一者足下安平立相。足下一切著地間無所受。不容一針。二者足下二輪相千輻輞轂三事具足。自然成就不待人工。諸天工師毘首羯磨不能化作如是妙相。問曰。何以故不能。答曰。是毘首羯磨。諸天工師不隱沒智慧。是輪相善業報。是天工師生報得智慧。是輪相行善根智慧得。是毘首羯磨一世得。是智慧。是輪相從無量劫智慧生。以是故毘首羯磨不能化作。何況餘工師。三者長指相。指纖長端直。次第傭好指節參差。四者足跟廣平相。五者手足指縵網相。如鴈王張指則現不張則不現。六者手足柔軟相。如細劫波毳勝餘身分。七者足趺高滿相。以足蹈地不廣不狹。足下色如赤蓮華。足指間網及足邊色如真珊瑚。指爪如淨赤銅。足趺上真金色。足趺上毛青毘琉璃色。其足嚴好。譬如雜寶屐種種莊飾。八者伊泥延膊相。如伊泥延鹿膊隨次傭纖。九者正立手摩膝相。不俯不仰以掌摩膝。十者陰藏相。譬如調善象寶馬寶。問曰。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提。時諸弟子何因緣見陰藏相。答曰。為度眾人決眾疑故示陰藏相。復有人言。佛化作馬寶象寶示諸弟子言。我陰藏相亦如是。十一者身廣長等相。如尼拘盧陀樹。菩薩身齊為中四邊量等。十二者毛上向相。身有諸毛生。皆上向而穉。十三者一一孔一毛生相。毛不亂青琉璃色。毛右靡上向。十四者金色相。問曰何等金色。答曰。若鐵在金邊則不現。今現在金比佛在時金則不現。佛在時金比閻浮那金則不現。閻浮那金比大海中轉輪聖王道中金沙則不現。金沙比金山則不現。金山比須彌山則不現。須彌山金比三十三諸天瓔珞金則不現。三十三諸天瓔珞金比焰摩天金則不現。焰摩天金比兜率陀天金則不現。兜率陀天金比化自在天金則不現。化自在天金比他化自在天金則不現。他化自在天金比菩薩身色則不現。如是色是名金色相。十五者丈光相。四邊皆有一丈光。佛在是光中端嚴第一。如諸天諸王寶光明淨。十六者細薄皮相。塵土不著身。如蓮華葉不受塵水。若菩薩在乾土山中經行。土不著足。隨藍風來吹破土山。令散為塵乃至一塵不著佛身。十七者七處隆滿相。兩手兩足兩肩項中七處。皆隆滿端正色淨勝餘身體。十八者兩腋下隆滿相。不高不深。十九者上身如師子相。二十者大直身相。於一切人中身最大而直。二十一者肩圓好相。一切治肩無如是者。二十二者四十齒相。不多不少餘人三十二齒。身三百餘骨。頭骨有九。菩薩四十齒。頭有一骨。菩薩齒骨多頭骨少。餘人齒骨少頭骨多。以是故異於餘人身。二十三者齒齊相。諸齒等無麤無細不出不入。齒密相人不知者謂為一齒。齒間不容一毫。二十四者牙白相。乃至勝雪山王光。二十五者師子頰相。如師子獸中王平廣頰。二十六者味中得上味相。有人言。佛以食著口中。是一切食皆作最上味。何以故。是一切食中有最上味因故。無是相人不能發其因故。不得最上味。復有人言。若菩薩舉食著口中。是時咽喉邊兩處。流注甘露和合諸味。是味清淨故。名味中得上味。二十七者大舌相。是菩薩大舌從口中出覆一切面分。乃至髮際。若還入口口亦不滿。二十八者梵聲相。如梵天王五種聲從口出。其一深如雷。二清徹遠聞聞者悅樂。三入心敬愛。四諦了易解。五聽者無厭。菩薩音聲亦如是。五種聲從口中出。迦陵毘伽聲相。如迦陵毘伽鳥聲可愛。鼓聲相。如大鼓音深遠。二十九者真青眼相。如好青蓮華。三十者牛眼睫相。如牛王眼睫長好不亂。三十一者頂髻相。菩薩有骨髻如拳等在頂上。三十二者白毛相。白毛眉間生不高不下。白淨右旋舒長五尺。』
【論】問曰。聲聞經中說。菩薩過三阿僧祇劫。後百劫中種三十二相因緣。今云何說世世與佛身體相似有三十二相八十隨形好。 問うて曰く、声聞経中に説かく、『菩薩は三阿僧祇劫を過ぎて、後の百劫中に三十二相の因縁を種う』、と。今は云何が説かく、『世世に仏の身体と相似して、三十二相、八十随形好有り』、と。
問い、
『声聞経』中には、こう説かれているのに、――
『菩薩』は、
『三阿僧祇劫の修行を過ぎて!』、
『最後の百劫の修行』中に、
『三十二相の因縁』を、
『種えることになる!』、と。
今は、
何故、こう説くのですか?――
『世世』に、
『仏の身体と相似して!』、
『三十二相、八十随形好』を、
『有する!』、と。
  参考:『修行本起経巻1菩薩降身品第二』:『菩薩勤苦。經歷三阿僧祇劫。劫垂欲盡。愍傷一切。輪轉無際。為眾生故。投身餧餓虎。勇猛精進。超踰九劫。能仁菩薩。於九十一劫。修道德。學佛意。行六度無極。布施持戒。忍辱精進。一心智慧。善權方便。慈悲喜護。育養眾生。如視赤子。承事諸佛。積德無限。累劫勤苦。通十地行。在一生補處。功成志就。神智無量。期運之至。當下作佛。於兜術天上。興四種觀。觀視土地。觀視父母。生何國中教化之宜先當度誰。白淨王者。是吾累世所生之父。拘利剎帝有二女。時在後園池中沐浴。菩薩舉手指言。是吾世世所生母也。當往就生。時有五百梵志。皆有五神通。飛過宮城。不能得度。驚而相謂。吾等神足。石壁皆過。因何等故。今不得度。梵志師言。汝見此二女不。一女當生三十二相大人。一女當生三十相人。是其威神。令吾等失神足。是時音聲。普聞天下。是時白淨王。歡喜踊躍。貪得飛行皇帝來生其家。即便求索娉迎為妻。迦夷衛者。三千日月萬二千天地之中央也。過去來今諸佛。皆生此地』
答曰。迦栴延子阿毘曇鞞婆沙中有如是說。非三藏中所說。何以故。三十二相餘人亦有何足為貴。 答えて曰く、迦旃延子の阿毘曇鞞婆沙中には、是の如き説有るも、三蔵中の所説に非ず。何を以っての故に、三十二相は、余人にも亦た有れば、何ぞ貴しと為すに足らん。
答え、
『迦旃延子の阿毘曇鞞婆沙』中には、
是のような、
『説が有る!』が、
『三蔵』中の、
『所説ではない!』。
何故ならば、
『三十二相』は、
『余の人にも!』、
『有るからであり!』、
何うして、
『貴ぶに!』、
『足ろうか?』。
  迦旃延子阿毘曇毘婆沙:『阿毘達磨発智論?』。『大智度論巻2(上)』参照。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻177』:『評曰。如是所說皆是淳淨意樂。方便讚美菩薩福量。然皆未得其實。如實義者。菩薩所起一一福量無量無邊。以菩薩三無數劫積集圓滿諸波羅蜜多已。所引思願極廣大故。唯佛能知。非餘所測。如是所說廣大。量福。具足滿百莊嚴一相。展轉乃至三十二相皆具百福。佛以如是三十二百福莊嚴相。及八十隨好莊嚴其身故於天上人中最尊最勝』
如難陀先世時一浴眾僧。因作願言。使我世世端政淨潔。又於異世值辟支佛塔。飾以彩畫莊嚴辟支佛像。作願言。使我世世色相嚴身。以是因緣故世世得身相莊嚴。乃至後身出家作沙門。眾僧遙見謂其是佛悉皆起迎。難陀小乘種少功德尚得此報。豈況菩薩於無量阿僧祇劫中修立功德。世世形體而不似佛。 難陀の如きは、先世の時、衆僧を一浴せしむるに因りて、願を作して言わく、『我れをして世世に端政、浄潔ならしめよ!』、と。又、異世に於いて、辟支仏の塔に値い、飾るに彩画を以ってして、辟支仏の像を荘厳するに、願を作して言わく、『我が世世の色相をして、厳身せしめよ』、と。是の因縁を以っての故に、世世に身相をして荘厳せしむるを得、乃ち後身に至りて、出家して、沙門と作るに、衆僧、遙かに見て、其れを是れ仏なりと謂い、悉く皆起ちて迎う。難陀は、小乗にして少功徳を種うるに、尚お、此の報を得、豈に況んや、菩薩は、無量阿僧祇劫中に於いて、功徳を修立するに、世世の形体の、仏に似ざるをや。
『難陀』は、
先世の時、
『衆僧に一浴させて!』、こう願った、――
わたしの、
『身』が、
世世に、
『端政であり( be handsome )!』、
『浄潔である( be pure )ように!』、と。
又、
異世に於いて、
『辟支仏の塔に値い( to happen to see )!』、
『塔』を、
『彩画』で、
『装飾し!』、
『辟支仏』の、
『像』を、
『荘厳して!』
こう願った、――
わたしの、
『世世の色相( beautiful appearances )』が、
『身』を、
『荘厳するように!』、と。
是の、
『因縁』の故に、
世世に、
『色相が荘厳する!』、
『身』を、
『得て!』、
乃ち( whereupon )、
『最後の身に至る!』と、
『出家して!』、
『沙門』と、
『作ったのである!』が、
『衆僧』が、
遙かに、
『難陀』を、
『見て!』、
其れを、
『仏だ!』と、
『思い!』、
悉く、
皆、
『起って!』、
『迎えた!』。
『難陀』は、
『小乗であり!』、
『少功徳を種えただけである!』が、
尚お、
此の、
『果報』を、
『得たのである!』、
況して、
『菩薩』は、
『無量阿僧祇劫中に修行して!』、
『功徳』を、
『立てるのである!』から、
『世世の形体』が、
『仏』に、
『相似しないはずがない!』。
  端政(たんじょう):端正。梵語 abhiruupa の訳、人好きのする/顔立ちの整った/美しい( pleasing, handsome, beautiful )、賢い/博学な( wise, learned )の義。
  浄潔(じょうけつ):梵語 zuci の訳、光り輝く/照り輝く( shining, glowing )、明るい/清潔な/純粋な( clear, clean, pure )の義。
  色相(しきそう):色身の相貌の外に現れて可見なる者をいう。
  厳身(ごんしん):身を装う。身を飾る。
  難陀(なんだ、nanda):また難努、難屠、難提等に作り、意訳して歓喜、嘉楽に作る。釈尊の異母弟。妻孫陀利(そんだり、sundarii)を娶りしに、牧牛の難陀と別たんが為にこれを称して孫陀羅難陀(そんだらなんだ、sundara-nanda)と為す。身長一丈五尺四寸、容貌端正にして三十相(ただ仏相中の白毫相を欠き、また耳の垂るること仏に較べてやや短し)を具う。仏、尼拘律園に於いてそれを度して出家せしむ。然るに出家の後にもなおその妻を忘れ難く、屡々妻の処に帰りしに、後に仏の方便、教誡を以って始めて愛欲を断除して阿羅漢果を証し、仏弟子中に於いて諸根調和第一の者と誉めらる。<(望)
  参考:『根本説一切有部毘奈耶薬事巻17』:『于時難陀即說頌曰 毘缽尸佛教 時我設香湯  洗浴苾芻僧 便發如是語 願我當來世 及諸如是眾 清淨無瑕垢 煩惱漏皆除 容儀得端正 顏色過蓮花 其時命既過 得生於天上 天上甚超絕 人趣亦殊妙 隨所生流處 恒安常富貴 後持獨覺身 起塔鮮白淨 嚴飾塗香已 黃色而覆上 胡跪合掌言 當願諸根具 身相如金色 善持而不變 由此善根故 生波羅痆斯 與迦陀國王 而為第二子 又見迦攝塔 虔恭生淨意 於其此塔中 而懸一傘蓋 由先浴眾僧 塗塔黃色因 施塔傘蓋故 多獲諸安樂 由斯餘福業 於其最後身 生釋迦王族 與如來為弟 我今於此身 具備大丈夫 三十殊妙相 而無欠闕者 釋迦師子教 而我得出家 證極阿羅漢 除熱獲清涼 蒙佛記於我 端嚴甚可樂 我生皆已盡 至於無上處 此善者難陀  對佛苾芻眾 於無熱惱池 說斯先業報』
  参考:『十誦律巻18』:『佛在迦維羅衛國。爾時長老難陀。是佛弟姨母所生。與佛身相似。有三十相。短佛四指。時難陀作衣與佛同量。諸比丘若食時會中後會。遙見難陀來。謂是佛。皆起迎。我等大師來世尊來。近乃知非。諸上座皆羞。作是思惟。此是我等下座。云何起迎。難陀亦羞言。乃令諸上座起迎我。諸比丘以是事向佛廣說。佛以是事集比丘僧。知而故問難陀。汝實作是事不。答言。實作世尊。佛以種種因緣呵責。云何名比丘。同佛衣量作衣。從今汝衣應減作。是袈裟應以敷曬。諸比丘。汝等以敷曬難陀衣。更有如是人。僧亦當同心以敷曬。語諸比丘。以十利故與比丘結戒。從今是戒應如是說。若比丘與佛衣等量作衣及過作得波逸提。佛衣量者。長佛九搩手廣六搩手。是佛衣量。波逸提者。煮燒覆障。若不悔過能障礙道。是中犯者。若比丘與佛衣同量作衣波逸提。若過佛衣量作波逸提。隨作隨得爾所波逸提。若比丘與佛衣同量作衣是衣應截斷。入僧中白言。我如佛衣量作衣得波逸提罪。今發露悔過不覆藏。僧應問。汝截斷未。若言已截。應問。汝見罪不。若言見罪。僧應言。汝今如法悔過後莫復作。若言未截。僧應約敕令截。若僧不約敕。僧得突吉羅。若僧約敕不受。是比丘得突吉羅罪(九十事竟)』
又如彌勒菩薩。白衣時師名跋婆犁。有三相。一眉間白毛相。二舌覆面相。三陰藏相。如是等非是菩薩亦皆有相。菩薩豈當三阿僧祇劫後乃種相好。 又弥勒菩薩の如きは、白衣の時、師を跋婆犁と名づけ、三相有り、一には眉間白毛相、二には舌覆面相、三には陰蔵相なり。是れ等の如きは、是れ菩薩に非ざるも、亦た皆相有り。菩薩にして、豈に当に三阿僧祇劫の後、乃ち相好を種うるべきをや。
又、
『弥勒菩薩など』は、
『白衣の時』、
『師』は、
『跋婆犁』と、
『呼ばれていた!』が、
『三相が有り!』、
一には、
『眉間白毛相であり!』、
二には、
『舌覆面相であり!』、
三には、
『陰蔵相であった!』。
是れ等などは、
『菩薩( as a Buddha in future ages )ではない!』が、
亦た、
皆、
『相が有ったのである!』。
『菩薩』が、
何うして、
『三阿僧祇劫の修行の後』、
乃ち( thereupon )、
『相好の因縁』を、
『種えねばならぬのか?』。
  弥勒(みろく、maitreya):菩薩名。また梅呾麗耶、末怛唎耶、迷底履、弥帝礼等に作り、意訳して慈氏と作す。『弥勒上生経』、『弥勒下生経』によれば、弥勒は婆羅門の家に出生し、後に仏弟子と為りしが、仏に先んじて入滅し、菩薩身を以って天人の為に法を説き、兜率天に住す、と。伝によれば、菩薩は諸の衆生を成熟せんと欲し、初めて心を発して由り、即ち肉を食わず、この因縁を以って名づけて慈氏と為す、と。釈尊かつて預言して記を授くるに、まさにその寿四千歳(約人間の五十七億六千万年)尽くる時、まさにこの世に下生して、龍華樹の下に仏と成り、三会に分って法を説く、と。その釈迦に代りて説教するの意を以って一生補処の菩薩、補処の菩薩、補処の薩埵と称し、彼の時に至りてすでに仏格を得たるが故にまた弥勒仏、弥勒如来とも称す。<(佛)
  白衣(びゃくえ):俗人。
  跋婆犁(ばっばり):不明。
  眉間白毛相(みけんびゃくもうそう):眉間に渦巻く白く長い毛。眉間白毫相。
  舌覆面相(ぜつふくめんそう):舌が広長であり顔面を覆う。広長舌相。
  陰蔵相(おんぞうそう):男根が腹中に蔵され外から見えない。馬陰蔵相。
復次是摩訶衍中。有菩薩從初發心乃至阿耨多羅三藐三菩提。初不生惡心。世世報得五通身體似佛。 復た次ぎに、是の摩訶衍中の、有る菩薩は、初発心より、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで、初より、悪心を生ぜざれば、世世に報いて、五通を得、身体は仏に似たり。
復た次ぎに、
是の、
『摩訶衍』中の、
有る、
『菩薩』は、
『初発心から、阿耨多羅三藐三菩提まで!』、
初より、
『悪心』を、
『生じない!』ので、
世世の、
『果報として!』、
『五通』を、
『得ており!』、
『身体』は、
『仏』に、
『似ていたのである!』。
問曰。菩薩未得佛道。何得身相如佛。 問うて曰く、菩薩は、未だ仏道を得ざるに、何んが身相の仏の如きを得る。
問い、
『菩薩』は、
未だ、
『仏としての!』、
『道( the way )』を、
『得ていない( don't achieve )のに!』、
何故、
『仏のような!』、
『身相』を、
『得るのですか?』。
答曰。菩薩為度眾生故。或作轉輪聖王身。或作帝釋身。或作梵王身。或作聲聞身辟支佛身。菩薩身佛身。如首楞嚴經中。文殊師利自說。七十二億反作一緣覺而般涅槃。又現作佛號龍種尊。時世未應有佛而眾生見佛身歡喜心伏受化。 答えて曰く、菩薩は衆生を度せんが為の故に、或は転輪聖王の身と作り、或は帝釈の身と作り、或は梵王の身と作り、或は声聞の身、辟支仏の身、菩薩の身、仏の身と作ればなり。首楞厳経中に、文殊師利の自ら説けるが如し、『七十二億反、一縁覚と作りて、般涅槃し、又作仏を現じて、龍種尊と号するに、時の世は未だ応に仏有るべからざれば、衆生は仏身を見て歓喜し、心伏して化を受けたり』、と。
答え、
『菩薩』は、
『衆生を度する為』の故に、
或は、
『転輪聖王の身』と、
『作り!』、
或は、
『帝釈の身』と、
『作り!』、
或は、
『梵王の身』と、
『作り!』、
或は、
『声聞の身、辟支仏の身、菩薩の身、仏の身』と、
『作るからである!』。
『首楞厳経』中には、
『文殊師利』が、
自ら、こう説いている、――
わたしは、
『七十二億反( times ) !』、
『一縁覚( a pratyeka-buddha )と作って!』、
『般涅槃した( be completely extinguished )!』が、
又、
『仏と作った!』、
『身を現して( to appear )!』、
『龍種尊』と、
『名のると!』、
『時の世』は、
未だ、
『仏』が、
『有るはずがなかった!』ので、
『衆生』は、
『仏身』を、
『見て!』、
『歓喜し!』、
『心が伏して!』、
『化』を、
『受けたのである!』、と。
  文殊師利(もんじゅしり、maJjuzrii):また文殊尸利、満殊尸利、満殊室利等に作り、意訳して妙徳、妙首、妙吉祥と作す。所謂不可思議種種微妙の功徳を具うるが故に妙徳と称し、所謂不可思議微妙の功徳を具えて諸の菩薩の上に在るが故に妙首と称し、所謂不可思議微妙の功徳、最勝の吉祥を具うるが故に妙吉祥と称す。<(望)
  参考:『仏説首楞厳三昧経巻2』:『說是法時二百菩薩生懈怠心。諸佛世尊其法甚深。阿耨多羅三藐三菩提如是難得。我等不能具足是事。不如但以辟支佛乘入於涅槃。所以者何。佛說菩薩若有退轉。或作辟支佛或作聲聞。爾時文殊師利法王子。知此二百菩薩有懈退心。欲還發起令得阿耨多羅三藐三菩提。亦欲教化會中天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽等故。白佛言。世尊。我念過去劫名照明。我於其中三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。爾時一切眾會心皆生疑。若入涅槃不應復還生死相續。今文殊師利。何故作如是言。世尊。我念過世劫名照明。我於其中三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。是事云何。爾時舍利弗承佛神旨。白佛言。世尊。若人已得入於涅槃不應復有生死相續。云何文殊師利。入涅槃已還復出生。佛言。汝可問之文殊師利。自當答汝。時舍利弗。問文殊師利言。若人已得入於涅槃。於諸有中不復相續。汝今云何而作是說。世尊。我念過去照明劫中。三百六十億世。以辟支佛乘入於涅槃。此義云何。文殊師利言。如來現在。是一切知者。一切見者。真實語者。不欺誑者。世間天人無能誑者。我所說者佛自證知。我若異說則為誑佛。舍利弗。彼時照明劫中。有佛出世號曰弗沙。利益世間諸天人已入於涅槃。是佛滅後法住十萬歲。法滅之後其中眾生。於辟支佛有度因緣。假使百千億佛。為之說法不信不受。唯皆可以辟支佛身威儀法則而得度脫。是諸眾生皆共志求辟支佛道。是時無有辟支佛出。是諸眾生無處得種善根因緣。我於爾時為教化故自稱我身是辟支佛。隨諸國土城邑聚落。皆知我身是辟支佛。我時皆為現辟支佛形色威儀。是諸眾生深心恭敬。皆以飲食供養於我。我受食已。觀其本緣所應聞法。為解說已。身飛虛空猶如鴈王。是時眾生皆大歡喜。以恭敬心頭面禮我。而作是言。願使我等於未來世皆得法利如今是人。‥‥』
問曰。菩薩若能作佛身說法度眾生者。與佛有何差別。 問うて曰く、菩薩にして、若し能く仏身を作し、説法して、衆生を度せば、仏と何んの差別か有らん。
問い、
『菩薩』が、
若し、
『仏と作ることができ!』、
『説法して!』、
『衆生』を、
『度すならば!』、
『仏』と、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。菩薩有大神力住十住地。具足佛法而住世間。廣度眾生故不取涅槃。亦如幻師自變化身。為人說法非真佛身。雖爾度脫眾生有量有限。佛所度者無量無限。 答えて曰く、菩薩は大神力有りて、十住の地に住し、仏法を具足するも、而も世間に住し、広く衆生を度するが故に、涅槃を取らず。亦た幻師の如く、自ら身を変化し、人の為に法を説けば、真の仏身に非ず。爾く衆生を度すと雖も、有量、有限なるも、仏の度す所は、無量、無限なり。
答え、
『菩薩』には、
『大神力が有り!』、
『十住の地に住して!』、
『仏法』を、
『具足する!』が、
『世間に住して!』、
『広く、衆生を度する!』が故に、
『涅槃』を、
『取らない!』。
亦た、
『幻師のように!』、
自ら、
『身を変化して!』、
『人の為』に、
『説法する!』が、
是れは、
『真の!』、
『仏身ではなく!』、
爾のように、
『衆生を度脱していても!』、
『度する!』所は、
『有量、有限であり!』、
『仏』の、
『度する!』所は、
『無量、無限である!』。
  十住地:乾慧地等の十地の中の仏地。
  十地(じゅうじ):菩薩が菩提心を得て仏に至る十階位。『大智度論巻75』によれば次の如し。  (1)乾慧地:二種有り、一は声聞、二は菩薩。声聞人は独り涅槃の為の故に勤めて精進し持戒して心清淨に道を受くるに堪忍す。或いは観仏三昧を習い、或いは不浄観、或いは慈悲を行じ、無常等観し、分別して諸の善法を集め不善法を捨つ、智慧有りといえども禅定の水を得ざれば則ち道を得ることの能わざるが故に乾慧地と名づく。蓋し真理を観る智慧有るも、未だ禅定の水に潤されず。菩薩に於いては則ち初発心より則ち未だ順忍を得ざるに至る。淨観地。  (2)性地:声聞人は煖法より乃ち世間第一法に至る。菩薩に於いては順忍を得るも諸法の実相に愛著するもまた邪見を生ぜずして禅定の水を得。種性地。  (3)八人地:苦法忍より乃ち道比智忍に至るまで、この十五心なり。菩薩に於いては則ちこれ無生法忍にして菩薩位に入るなり。蓋し人とは忍、認可の意。欲界の四聖諦、色界無色界の四聖諦に通達し不生の確信を得る。八地。  (4)見地:初めて聖果を得、所謂須陀洹(しゅだおん、srota-aapauna、入流、預流)果なり。菩薩に於いては則ちこれ阿鞞跋致(あびばっち、avaivart、不退)地なり。具見地。  (5)薄地:或いは須陀洹、或いは斯陀含(しだごん、sakRd-aagaamin、一来)なり。欲界の苦種の煩悩分を断ずるが故に。菩薩に於いては阿鞞跋致地を過ぎて乃ち未だ仏と成らざるに至るまで、諸の煩悩を断じて余気もまた薄し。柔軟地、微欲地。  (6)離欲地:欲界等の貪欲、諸煩悩を離る、これを阿那含(あなごん、anaagaamin、不来、不還)と名づく。菩薩に於いては欲を離るる因縁の故に五神通を得。  (7)已作地:声聞人は尽智、無生智を得て阿羅漢を得、菩薩に於いては仏地を成就す。已辨地。  (8)辟支佛地:先世に辟支仏道の因縁を種え、今世に少しの因縁を得て出家し、また深き因縁の法を観じて道を成すを辟支仏(びゃくしぶつ、pratyekabuddha、縁覚、独覚)と名づく。辟支伽(びゃくしか、pratyeka)とは秦に因縁と言い、また覚と名づく。因縁の法を観じて釈迦仏等の他の仏に依らず独自に悟る。縁覚地。  (9)菩薩地:乾慧地より乃ち離欲地に至るまでにして上に説くが如し。また継ぎに菩薩地は歓喜地より乃ち法雲地に至るまで皆菩薩地と名づく。ある人の言わく、一たび心を発してよりこのかた、乃ち金剛三昧に至るまでを菩薩地と名づく、と。  (10)仏地:一切種智等の諸仏の法なり。菩薩は自地の中に於いて具足して行い、他地の中に於いては具足して観ず。二事を具うるが故に具足と名づく。『大智度論巻28(下)』参照。  別に『十住経』等に説く歓喜地より乃ち法雲地に至る十地あり、これを『合部金光明経巻3陀羅尼最浄地品』によれば次の如し、  (1)歓喜地:出世の心を得るは昔未だ得ざる所なり、而も今始めて大事大用を得、意に願う所の如きは悉く皆成就し、大いに歓喜慶楽するが故に、この故に初地を名づけて歓喜地と為す。  (2)無垢地:一切の微細に罪、破戒、過失は皆清浄なるが故に、この故に二地を説いて無垢地と名づく。  (3)明地:無量の智慧光明三昧は傾動すべからずしてよく摧伏する無し。聞持陀羅尼を本と作すが為の故に、この故に三地を説いて明地と名づく。  (4)焔地:よく煩悩を焼き、智慧の火を以って光明を増長す。これ道品を修行する所依の処なるが故に、この故に四地を説いて焔地と名づく。  (5)難勝地:この修行、方便、勝智に自在なるは得難きが故に、見思の煩悩は伏すべからざるが故に、この故に五地を説いて難勝地と名づく。  (6)現前地:行法相続して了了に顕現し、無相の多思惟現前するが故に、この故に六事を説いて現前地と名づく。  (7)遠行地:無漏、無間、無相の思惟、解脱三昧にて遠く修行するが故に、この地は清淨にして無障無礙なり、この故に七地を説いて遠行地と名づく。  (8)不動地:無相の正思惟は自在を修得して、諸の煩悩の行も動かすこと能わず、この故に八地を説いて不動地と名づく。  (9)善慧地:一切種種の法を説いて而も自在を得、患累無きが故に、智慧を増長して自在無礙なるが故に、この故に九地を説いて善慧地と名づく。  (10)法雲地:法身は虚空の如く、智慧は大雲の如く、よく遍満して一切を覆わしむるが故に、この故に第十を法雲地と名づく。<(佛)
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6発趣品』:『何等菩薩摩訶薩治地業。菩薩摩訶薩住初地時行十事。一者深心堅固。用無所得故。二者於一切眾生中等心。眾生不可得故。三者布施施者受者不可得故。四者親近善知識亦不自高。五者求法一切法不可得故。六者常出家。家不可得故。七者愛樂佛身。相好不可得故。八者演出法教。諸法分別不可得故。九者破憍慢法生慧不可得故。十者實語。諸語不可得故。菩薩摩訶薩如是初地中住。修治十事治地業。復次須菩提。菩薩摩訶薩住二地中。常念八法。何等八。一者戒清淨。二者知恩報恩。三者住忍辱力。四者受歡喜。五者不捨一切眾生。六者入大悲心。七者信師恭敬諮受。八者勤求諸波羅蜜。須菩提。是名菩薩摩訶薩住二地中滿足八法。復次須菩提。菩薩摩訶薩住三地中行五法。何等五。一者多學問無厭足。二者淨法施亦不自高。三者淨佛國土亦不自高。四者受世間無量懃苦不以為厭。五者住慚愧處。須菩提。是名菩薩摩訶薩住三地中。應滿足五法。復次須菩提。菩薩摩訶薩住四地中。應受行不捨十法。何等十。一者不捨阿蘭若住處。二者少欲。三者知足。四者不捨頭陀功德。五者不捨戒。六者穢惡諸欲。七者厭世間心順涅槃心。八者捨一切所有。九者心不沒。十者不惜一切物。須菩提。是名菩薩摩訶薩住四地中不捨十法。復次須菩提。菩薩摩訶薩住五地中。遠離十二法。何等十二。一者遠離親白衣。二者遠離比丘尼。三者遠離慳惜他家。四者遠離無益談說。五者遠離瞋恚。六者遠離自大。七者遠離蔑人。八者遠離十不善道。九者遠離大慢。十者遠離自用。十一者遠離顛倒。十二者遶離婬怒癡。須菩提。是為菩薩摩訶薩住五地中遠離十二事。復次須菩提。菩薩摩訶薩住六地中當具足六法。何等六。所謂六波羅蜜。復有六法所不應為。何等六。一者不作聲聞辟支佛意。二者布施不應生憂心。三者見有所索心不沒。四者所有物布施。五者布施之後心不悔。六者不疑深法。須菩提。是名菩薩摩訶薩住六地中。應滿具六法遠離六法。復次須菩提。菩薩摩訶薩住七地中應遠離二十法所不應著。何等二十。一者不著我。二者不著眾生。三者不著壽命。四者不著眾數乃至知者見者。五者不著斷見。六者不著常見。七者不應作相。八者不應作因見。九者不著名色。十者不著五陰。十一者不著十八界。十二者不著十二入。十三者不著三界。十四者不作著處。十五者不作所期處。十六者不作依處。十七者不著依佛見。十八者不著依法見。十九者不著依僧見。二十者不著依戒見。是二十法所不應著。復有二十法應具足滿。何等二十。一者具足空。二者無相證。三者知無作。四者三分清淨。五者一切眾生中慈悲智具足。六者不念一切眾生。七者一切法等觀。是中亦不著。八者知諸法實相。是事亦不念。九者無生法忍。十者無生智。十一者說諸法一相。十二者破分別相。十三者轉憶想。十四者轉見。十五者轉煩惱。十六者等定慧地。十七者調意。十八者心寂滅。十九者無閡智。二十者不染愛。須菩提。是名菩薩摩訶薩住七地中應具足二十法。復次須菩提。菩薩摩訶薩住八地中應具足五法。何等五。順入眾生心。遊戲諸神通見諸佛國。如所見佛國自莊嚴其國。如實觀佛身自莊嚴佛身。是五法具足滿。復次須菩提。菩薩摩訶薩住八地中。復具足五法。何等五。知上下諸根。淨佛國土。入如幻三昧。常入三昧隨眾生所應善根受身。須菩提。是為菩薩摩訶薩住八地中具足五法。復次須菩提。菩薩摩訶薩住九地中應具足十二法。何等十二。受無邊世界所度之分。菩薩得如所願。知諸天龍夜叉揵闥婆語而為說法。處胎成就家。成就所生。成就姓。成就眷屬。成就出生。成就出家。成就莊嚴佛樹。成就一切諸善功德成滿具足。須菩提。是名菩薩摩訶薩住九地中應具足十二法。須菩提。十地菩薩當知如佛。』
  参考:『成唯識論巻9』:『云何證得二種轉依。謂十地中修十勝行斷十重障證十真如二種轉依由斯證得。言十地者。一極喜地。初獲聖性具證二空能益自他生大喜故。二離垢地。具淨尸羅遠離能起微細毀犯煩惱垢故。三發光地。成就勝定大法總持能發無邊妙慧光故。四焰慧地。安住最勝菩提分法燒煩惱薪慧焰增故。五極難勝地。真俗兩智行相互違合令相應極難勝故。六現前地。住緣起智引無分別最勝般若令現前故。七遠行地。至無相住功用後邊出過世間二乘道故。八不動地。無分別智任運相續相用煩惱不能動故。九善慧地。成就微妙四無閡解能遍十方善說法故。十法雲地。大法智雲含眾德水蔽一切如空麤重充滿法身故。如是十地總攝有為無為功德以為自性。與所修行為勝依持令得生長故名為地。十勝行者即是十種波羅蜜多。施有三種。謂財施無畏施法施。戒有三種。謂律儀戒。攝善法戒饒益有情戒。忍有三種。謂耐怨害忍安受苦忍。諦察法忍。精進有三種。謂被甲精進攝善精進利樂精進。靜慮有三種。謂安住靜慮。引發靜慮辦事靜慮。般若有三種。謂生空無分別慧法空無分別慧俱空無分別慧。方便善巧有二種。謂迴向方便善巧拔濟方便善巧。願有二種。謂求菩提願利樂他願。力有二種。謂思擇力修習力。智有二種。謂受用法樂智成熟有情智。此十性者。施以無貪及彼所起三業為性。戒以受學菩薩戒時三業為性。忍以無瞋精進審慧及彼所起三業為性。精進以勤及彼所起三業為性。靜慮但以等持為性。後五皆以擇法為性。說是根本後得智故。有義第八以欲勝解及信為性。願以此三為自性故。此說自性若并眷屬一一皆以一切俱行功德為性。‥‥』
菩薩雖作佛身。不能遍滿十方世界。佛身者普能遍滿無量世界。所可度者皆現佛身。亦如十四日月。雖有光明猶不如十五日。有如是差別。 菩薩は仏身を作すと雖も、十方の世界に遍満する能わず。仏身は、普く能く無量の世界に遍満し、度すべき所の者には、皆、仏身を現ずるも、亦た十四日の月の、光明有りと雖も、猶お十五日には如かざるが如し。是の如き差別有り。
『菩薩』は、
『仏身を作しても!』、
『十方の世界』に、
『遍満することができない!』。
『真の仏身』は、
『普く( in general )』、
『無量の世界』を、
『遍満することができ!』、
『度すべき者( one who is worth to be brought maturity )』には、
皆、
『仏身』を、
『現すのである!』が、
『菩薩の仏身』は、
亦た( but )、
『十四日の月』が、
『光明』が、
『有るといっても!』、
猶お、
『十五日の月には!』、
『及ばないようなものである!』。
是のような、
『差別』が、
『有る!』。
  遍満(へんまん):梵語 vyaapana の訳、行きわたること/充満すること/浸透/覆うこと/満たすこと/満ちること( spreading though, pervading, penetration, covering, filling )の義。
  (か):<動詞>認可/許可/同意する( approve, permit, allow )、可能である/能くする( can, may )、価値/甲斐がある( be worth doing )、すべきである( need doing )、適合/調和する/適う( accord with )、[人心をして~にさせる]( make )、せねばならない( should )。<形容詞>善い/好い/善くする/好くする( good )、意に称う/正しいと認める( correct, right )、適切な/正当な/適当な( appropriate, due, fit )。
  (ど)、化度(けど):梵語 paripaacana の訳、成熟を齎す行為( the act of bringing maturity )の義。
  (やく):<名詞>[本義]人の腋窩/両腋( armpit )。<副詞>もまた( also )、又もや( again )、~も~も( both ...and ... )、しかし/過ぎず/僅かに( but, only )。
或有菩薩得無生法忍法性生身。在七住地住五神通。變身如佛教化眾生。或初發意菩薩。行六波羅蜜。行業因緣得身相似佛教化眾生。 或は有る菩薩は、無生法忍を得て、法性生身、七住地に在りて、五神通に住し、身を仏の如きに変じて、衆生を教化し、或は初発意の菩薩なるも、六波羅蜜を行じて、行業の因縁もて仏に似たる身相を得て、衆生を教化す。
或は、
有る、
『菩薩』は、
『無生法忍を得て!』、
『法性生身』が、
『七住の地(阿羅漢の地)に在って!』、
『五神通』に、
『住し!』、
『仏に似せて!』、
『身を変じ!』、
『衆生』を、
『教化する!』し、
或は、
『初発意の菩薩』が、
『六波羅蜜を行い!』、
『行業の因縁』で、
『仏に似た身相を得て!』、
『衆生』を、
『教化する!』。
  無生法忍:生滅を遠離した真如実相に安住すること。
  法性生身:法性より生じたる身の意。『大智度論巻27(下)』参照。
  七住地:十地の中の第七已作地。前注参照。
問曰。三十二相布施等果報。般若波羅蜜無所有如虛空。云何說欲得相好當學般若波羅蜜。 問うて曰く、三十二相は、布施等の果報なるに、般若波羅蜜は無所有なること虚空の如し。云何が、『相好を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と説く。
問い、
『三十二相』は、
『布施』等の、
『果報である!』が、
『般若波羅蜜』は、
『虚空のように!』、
『無所有である!』。
何故、こう説くのですか?――
『相好を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
答曰。三十二相有二種。一者具足如佛。二者不具足如轉輪聖王難陀等。般若波羅蜜。與布施和合故。能具足相好如佛。餘人但行布施等。相不具足。 答えて曰く、三十二相には二種有り、一には具足して仏の如し。二には具足せざること、転輪聖王、難陀等の如し。般若波羅蜜は、布施と和合するが故に、能く相好の仏の如きを具足するも、余人は、但だ布施等を行じて、相は具足せず。
答え、
『三十二相』には、
『二種有り!』、
一には、
『仏のように!』、
『具足しており!』、
二には、
『転輪聖王や、難陀等のように!』、
『具足していない!』。
『般若波羅蜜』が、
『布施等と和合する!』が故に、
『仏のように!』、
『相好』を、
『具足することができる!』が、
『余人』が、
但だ、
『布施等を行うだけ!』では、
『相』を、
『具足しないのである!』。
問曰。云何布施等得三十二相。 問うて曰く、云何が布施等もて、三十二相を得る。
問い、
何のように、
『布施等をして!』、
『三十二相』を、
『得るのですか?』。
答曰。如檀越布施時。受者得色力等五事益身故。施者具手足輪相。如檀波羅蜜中廣說。戒忍等亦如是。各各具三十二相。何等是三十二相。一者足下安立相。餘如讚菩薩品中說。 答えて曰く、檀越の布施する時の如きは、受者は色、力等の五事を得て身を益するが故に、施者は手足輪相を具う。檀波羅蜜中に広説するが如し。戒、忍等も亦た是の如く、各各三十二相を具う。何等か、是れ三十二相なる。一には足下安立相、余は讃菩薩品中に説けるが如し。
答え、
例えば、
『檀越が布施する!』時などは、
『受者』が、
『色、力、命、楽、膳の五事を得て!』、
『身』を、
『益する!』が故に、
『施者』は、
『手足輪相』を、
『具足するようなものであり!』、
例えば、
『檀波羅蜜』中に、
『広説した通りである!』。
亦た、
『戒、忍』等も、
是のように、
各各が、
『三十二相』を、
『具足するのである!』。
何のような者が、
『三十二相なのか?』、――
一には、
『足下安立相である!』。
余は、
『讃菩薩品』中に、
『説いた通りである!』。
  色力等五事:命、色、力、楽、膳。『大智度論巻3(下)』参照。
  手足輪相(しゅそくりんそう):手と足にある千の輻(や)をもつ車輪の文様。千輻輪相。
  足下安立相(そくげあんりゅうそう):足裏が地に密着して安定して立つ。足下安平立相。
  檀波羅蜜:『大智度論巻4(上)、11(下)』参照。
  讃菩薩品:『大智度論巻4(下)』参照。
問曰。以何因緣得足下安立相。 問うて曰く、何なる因縁を以ってか、足下安立相を得る。
問い、
何のような、
『因縁』の故に、
『足下安立相』を、
『得るのですか?』。
答曰。佛世世一心堅固持戒。亦不令他敗戒以是業因緣故得是初相。初相者自於法中無能動者。若作轉輪聖王。自於國土無能侵者。以如法養護人民及出家沙門等。以是業因緣故。得千輻輪相。是轉法輪初相。若作轉輪聖王。得轉輪寶。離殺生業因緣故得長指相。離不與取業因緣故。得足跟滿相。 答えて曰く、仏は世世に一心に堅固に持戒して、亦た他をして戒を敗らしめず。是の業の因縁を以っての故に、是の初相を得たまえり。初相の者は、自ら法中に於いて能く動かす者無し。若し転輪聖王と作れば、自ら国土に於いて、能く侵す者無し。如法に人民、及び出家、沙門等を養護すれば、是の業の因縁を以っての故に、千輻輪相を得。是れ転法輪の初相なり。若し転輪聖王と作れば、転輪宝を得て、殺生業の因縁を離るるが故に、長指相を得。不与取業を離るる因縁の故に、足跟満相を得。
答え、
『仏』は、
世世に、
『一心、堅固に!』、
『持戒して!』、
亦た、
『他人にも!』、
『破戒させなかった!』ので、
是の、
『業の因縁』の故に、
是の、
『初相』を、
『得られた!』。
『初相を得た!』者は、
自らの、
『法』中に於いて、
『動かせる!』者が、
『無く!』、
若し、
『転輪聖王となれば!』、
自らの、
『国土』を、
『侵略できる!』者が、
『無い!』。
『仏』は、
『如法』に、
『人民や、出家、沙門等を養護された!』ので、
是の、
『業の因縁』の故に、
『千輻輪相』を、
『得たのである!』が、
是れは、
『法輪を転じる!』、
『初相であり!』、
若し、
『転輪聖王と作れば!』、
『転輪宝』を、
『得ることになる!』。
『仏』は、
『殺生の業を離れた!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『長指相』を、
『得られ!』、
『不与取業を離れた!』、
『因緣』の故に、
『足跟満相』を、
『得られた!』。
  長指相(ちょうしそう):手の指が細長い。手指繊長相。
  足跟満相(そくこんまんそう):足跟(かかと)が丸く満ちる。足跟満足相。
  不与取(ふよしゅ):与えられない物を取る。偸盗。劫奪。
以四攝法攝眾生業因緣故。得手足縵網相。以上妙衣服飲食臥具。供養尊長業因緣故。得手足柔軟相。修福轉增業因緣故。得足趺高相一一孔一毛生相毛上向相。如法遣使為福和合因緣。及速疾誨人故。得妙踹相如伊泥延鹿王。 四摂法を以って、衆生を摂する業因緣の故に、手足縵網相を得、上妙の衣服、飲食、臥具を以って、尊長を供養せる業因縁の故に、手足柔軟相を得、修福の転た増す業因緣の故に、足趺高相を得、一一孔一毛生相、毛上向相を得、如法に使を遣して、福と和合せしむる因緣、及び速疾に人を誨うるが故に、妙腨相の伊尼延鹿王の如きを得。
『四摂法(布施、愛語、利行、同事)を用いて!』、
『衆生を摂する( to hold )!』、
『業因緣』の故に、
『手足縵網相』を、
『得られ!』、
『上妙の衣服、飲食、臥具を用いて!』、
『尊長を供養する!』、
『業因緣』の故に、
『手足柔軟相』を、
『得られ!』、
『福業を修すること!』が、
『転た( increasingly )増す!』、
『業因緣』の故に、
『足趺高相、一一孔一毛生相、毛上向相』を、
『得られ!』、
『如法に!』、
『使者を遣して!』、
『福と和合させる!』、
『因緣』と、
『速疾に!』、
『人を教える!』、
『因縁』の故に、
『伊尼延鹿王のような!』、
『妙腨相』を、
『得られた!』。
  手足縵網相(しゅそくまんもうそう):手足の指の間に膜が張る。水かきが有る。
  手足柔軟相(しゅそくにゅうなんそう):手足が柔らかい。
  足趺髙相(そくふこうそう):足の背が高い。
  一一孔一毛生相(いちいちくいちもうしょうそう):一一の毛孔からただ一毛が生じる。毛孔生青色相。
  毛上向相(もうじょうこうそう):身毛が右巻に上に向って靡く。身毛上靡相。
  妙踹相(みょうせんそう):股の骨が鹿のように繊円である。踹如鹿王相。踹はクルブシ。
  平立手過膝相(ひょうりゅうしゅかしつそう):真直ぐ立って手が膝に届くほど長い。手過膝相。
  方身相(ほうしんそう):身長と両手を広げた長さが等しい。身縦広相。
  四摂法(ししょうほう):菩薩が衆生を摂受して、それに親愛の心を生起せしめ、仏道に引入れ、以って開悟に至らしむる四種の方法。その原語(梵cattni saJgaha-vatthuuni)を直訳するに、則ち称して「四種把握法」と為す。即ち(1)布施摂:施す所無きの心を以って真理を施授(法施)し、財物を施捨(財施)す。所謂、もし衆生に財を楽うこと有らば、則ち財を布施し、もし法を楽わば則ち法を布施して、親愛の心を起さしめ、菩薩に依附して道を受けしむ。(2)愛語摂:衆生の根性に依り、善言慰喩して親愛の心を起さしめ菩薩に依附して道を受けしむ。(3)利行摂:身口意の善行を行って衆生を利益し、親愛の心を生ぜしめて道を受けしむ。(4)同事摂:衆生に真言してその苦楽を同じうし、並びに法眼を以って衆生の根性を見、その楽う所に随うて形を分って示現し、それをして同じく利益に霑さしめて因って道に入る。<(佛)
  伊泥延(いにえん、aiNeya):また伊尼延、因泥延、翳泥耶、瑿泥延、伊梨延陀等に作り、羚羊の一種。古きより鹿王と訳し、毛は黒く、足の脛は繊円にして、長短所を得るが故に常にこれを以って仏の三十二相中の踹相に比喩す。<(佛)
  参考:『大智度論巻66』:『如菩薩本生經說。若得般若波羅蜜已斷諸煩惱。亦以世間樂出世間樂利益眾生。若得無上道時但以出世間樂利益眾生。安樂饒益者但以憐愍心故安樂饒益。饒者多利益天人。餘道中饒益少故不說。利益事者。所謂四攝法。以財施法施二種攝取眾生。愛語有二種。一者隨意愛語。二者隨其所愛法為說。是菩薩未得道。憐愍眾生自破憍慢。隨意說法。若得道隨所應度法為說。高心富人為讚布施。是人能得他物利名聲福德故。若為讚持戒毀呰破戒則心不喜樂。如是等隨其所應而為說法。利益亦有二種。一者今世利後世利為說法。以法治生勤修利事。二者未信教令信。破戒令持戒。寡識令多聞。不施者令布施。癡者教智慧。如是等以善法利益眾生。同事者菩薩教化眾生令行善法同其所行。菩薩善心眾生惡心。能化其惡令同己善。是菩薩以四種攝眾生令住十善道。是廣說四攝義。於二施中法施隨其所樂而為說法。是愛語中第一。眾生愛惜壽命令行十善道則得久壽。利益於一切寶物利中法利最勝。是為利益。同事中同行善法為勝。是菩薩自行十善。亦以教人。有人言。後自行十善等是第四同義。是故說自行十善亦教人行。自行初禪亦教他行。初禪等同離欲同持戒。是故名相攝。相攝故漸漸能以三乘法度。乃至非有想非無想處亦如是。自行六波羅蜜亦以教他。因般若故令眾生得般若分。所謂得須陀洹等方便力故自不證。是人福德智慧力增益故。教無量阿僧祇菩薩令住六波羅蜜。自住阿鞞跋致地等亦以教他。乃至自轉法輪亦教他轉法輪。是故我以慈悲心故善付是菩薩事。不以愛著故』
如法淨物布施。不惱受者故。得平立手過膝相方身相如尼拘盧陀樹。多修慚愧及斷邪婬。以房舍衣服覆蓋之物。用布施故。得陰藏相如馬王。修慈三昧信淨心多。及以好色飲食衣服臥具布施故。得金色相大光相。常好問義供給所尊及善人故。得肌皮細軟相。如法斷事不自專執。委以執政故。得上身。如師子相腋下滿相肩圓相。 如法に浄物を布施して、受者を悩ませざるが故に、平立手過膝相、方身相の尼拘盧陀樹の如きを得、多く慚愧を修め、及び邪婬を断ち、房舎、衣服、覆蓋の物を以って、布施に用うるが故に、陰蔵相の馬王の如きを得、慈三昧を修し、信浄心多く、及び好色の飲食、衣服、臥具を以って布施せるが故に、金色相、大光相を得、常に好んで義を問い、尊ぶ所、及び善人に供給するが故に、肌皮細軟相を得、如法に事を断じて、自ら専執せず、委ぬるに執政を以ってするが故に、上身如師子相、腋下満相、肩円相を得。
『如法』に、
『浄物を布施して!』、
『受者を悩ませない!』が故に、
『平立手過膝相、尼拘盧陀樹のような方身相』を、
『得られ!』、
『慚愧を多く修めて!』、
『邪婬を断じ!』、
『房舎や、衣服や、覆蓋する物を布施した!』が故に、
『馬王のような陰蔵相』を、
『得られ!』、
『慈三昧を修めて!』、
『信浄の心が多く!』、
『好色の飲食、衣服、臥具を布施した!』が故に、
『金色相、大光相』を、
『得られ!』、
『常に!』、
『好んで義を問い!』、
『尊ばれる者や、善人に供給した!』が故に、
『肌皮細軟相』を、
『得られ!』、
『如法に事を決断して!』、
『自ら、執政を専らにせず!』、
『人に委ねた!』が故に、
『上身如師子相、腋下満相、肩円相』を、
『得られた!』。
  尼拘盧陀(にくろだ、nyagrodha):巨樹名。また尼拘陀、尼拘律、尼拘屢陀、尼拘律陀、尼拘類、尼倶盧陀等に作り、意訳して無節、縦広、多根等と為す。学名ficus indica。桑科に属す。形状は榕樹に類似し、印度、錫蘭等の地に産し、髙十尺乃至十五尺、樹葉は長楕円形を呈し、葉端を尖状と為す。枝由り下垂する気根を生出し、地に達すればまた根を生ず。枝葉繁茂して而も四方に向かいて蔓を生ず。然るにその種子の甚だ小なるが故に仏典には常に小因由り大果報を得る比喩と為し、或いは物を覆う比喩と為す。<(望)
  金色相(こんじきそう):身体より金色を呈す。
  大光相(だいこうそう):身の光明は一丈四方を照す。常光一丈相。
  肌皮細軟相(きひさいなんそう):皮膚が繊細で柔らかく滑らか。皮膚細滑相。
  上身如師子相(じょうしんにょししそう):身体が師子に似、平らかにして厳正。身如師子相。
  腋下満相(えきげまんそう):腋下が充満している。両腋満相。
  肩円相(けんえんそう):両肩が円満である。肩円満相。
恭敬尊長迎逆侍送故。得身體直廣相。布施具足充滿故。得七處滿相。一切捨施無所遺惜故。得方頰車相。離兩舌故。得四十齒相齒齊相齒密相。常修行慈好思惟故。得白牙無喻相。離妄語故。得舌廣薄相。美食布施不惱受者故。得味中最上味相。 尊長を恭敬し、迎逆、侍送するが故に、身体直広相を得、布施具足して充満せしむるが故に、七処満相を得、一切を捨施して遺惜する所無きが故に、方頰車相を得、両舌を離るるが故に、四十歯相、歯斉相、歯密相を得、常に慈を修行して、思惟を好むが故に白牙無喻相を得、妄語を離るるが故に、舌広薄相を得、美食を布施して、受者を悩ませざるが故に、味中最上味相を得。
『尊長を恭敬して!』、
『迎逆、侍送した!』が故に、
『身体直広相』を、
『得られ!』、
『布施が具足して!』、
『充満させた!』が故に、
『七処満相』を、
『得られ!』、
『一切を捨施して!』、
『遺惜する所が無かった!』が故に、
『方頰車相』を、
『得られ!』、
『両舌を離れた!』が故に、
『四十歯相、歯斉相、歯密相』を、
『得られ!』、
『常に慈を修行して!』、
『好んで思惟する!』が故に、
『白牙無喻相』を、
『得られ!』、
『妄語を離れた!』が故に、
『舌広薄相』を、
『得られ!』、
『美食を布施して!』、
『受者を悩ませなかった!』が故に、
『味中最上味相』を、
『得られた!』。
  身体直広相(しんたいじきこうそう):身体が端正で曲がっていない。身端直相。
  七処満相(しちじょまんそう):両足の裏、両手の掌、両肩、頭頂が平らに満ちている。七処平満相。
  方頰車相(ほうきょうしゃそう):両頬が師子の如く隆満する。頰車如師子相。
  四十歯相(しじゅうしそう):四十枚の歯が有る。
  歯斉相(しさいそう):歯が斉っている。歯白斉密相。
  歯密相(しみつそう):歯に隙間がない。歯白斉密相。
  白牙無喩相(びゃくげむゆそう):四本の牙が喩えようもなく白い。四牙白浄相。
  舌広薄相(ぜつこうはくそう):舌が広く薄く、顔面を覆って髪の生え際に至る。広長舌相。
  味中最上味相(みちゅうさいじょうみそう):咽の唾で何を食っても上味を感じる。咽中津液得上味相。
離惡口故。得梵聲相。善心好眼視眾生故。得眼睫紺青相眼睫如牛王相。禮敬所尊及自持戒。以戒教人故。得肉髻相。所應讚歎者而讚歎故。得眉間白毛相。是為用聲聞法三十二相業因緣。 悪口を離るるが故に、梵声相を得、善心、好眼もて衆生を視るが故に、眼睫紺青相、眼睫如牛王相を得、尊ぶ所を礼敬し、及び自ら持戒して、戒を以って人に教うるが故に、肉髻相を得、応に讃歎すべき所の者を、讃歎せるが故に、眉間白毛相を得。是れを、声聞法を用うる三十二相の業因緣と為す。
『悪口を離れた!』が故に、
『梵声相』を、
『得られ!』、
『善心、好眼で衆生を視る!』が故に、
『眼睫紺青相、眼睫如牛王相』を、
『得られ!』、
『尊ぶ所を礼敬して!』、
『自ら持戒し!』、
『戒を人に教えた!』が故に、
『肉髻相』を、
『得られ!』、
『讃歎すべき!』所を、
『讃歎した!』が故に、
『眉間白毛相』を、
『得られた!』。
是れは、
『声聞法を用いた!』、
『三十二相』の、
『業因緣である!』。
  梵声相(ぼんしょうそう):音声は清淨で遠くまでよく聞こえる。梵音深遠相。
  眼睫紺青相(げんしょうこんじょうそう):瞳の色が紺青。眼色如紺青相。
  眼睫如牛王相(げんしょうにょごおうそう):睫が牛王の如くパッチリしている。
  肉髻相(にっけいそう):烏瑟膩(うしつに、uSNiSa、頂上の肉)が隆起している。頂上肉髻相。
摩訶衍中三十二相業因緣者。問曰。十方諸佛。及三世諸法皆無相相。今何以故說三十二相。一相尚不實。何況三十二。 摩訶衍中の三十二相の業因緣とは、問うて曰く、十方の諸仏、及び三世の諸法は、皆、無相の相なり。今は、何を以っての故にか、三十二相を説く。一相すら尚お不実なり。何に況んや、三十二をや。
『摩訶衍』中の、
『三十二相の業因緣』とは、――
問い、
『十方の諸仏も、三世の諸法も!』、
皆、
『無相の相である!』のに、
何故、
今、
『三十二相を説くのですか?』、
『一相すら!』、
『不実だとすれば!』、
況して、
『三十二相』は、
『尚更です!』。
答曰。佛法有二種。一者世諦二者第一義諦。世諦故說三十二相。第一義諦故說無相。 答えて曰く、仏法には二種有り、一には世諦、二には第一義諦なり。世諦の故に三十二相を説き、第一義諦の故に無相を説く。
答え、
『仏法』には、
『二種有り!』、
一には、
『世諦の法であり!』、
二には、
『第一義諦の法である!』が、
『世諦を説く!』が故に、
『三十二相である!』と、
『説き!』、
『第一義諦を説く!』が故に、
『無相である!』と、
『説くのである!』。
有二種道。一者令眾生修福道。二者慧道。福道故說三十二相。慧道故說無相。為生身故說三十二相。為法身故說無相。 二種の道有り、一には衆生をして福を修せしむる道、二には慧の道なり。福の道の故に三十二相を説き、慧の道の故に無相を説く。生身の為の故に三十二相を説き、法身の為の故に無相を説くなり。
『仏道』には、
『二種有り!』、
一には、
『衆生に福を修めさせる!』、
『道であり!』、
二には、
『慧』の、
『道である!』が、
『福の道を説く!』が故に、
『三十二相である!』と、
『説き!』、
『慧の道を説く!』が故に、
『無相である!』と、
『説く!』。
『生身を説く!』が故に、
『三十二相である!』と、
『説き!』、
『法身を説く!』が故に、
『無相である!』と、
『説くのである!』。
佛身以三十二相八十隨形好。而自莊嚴法身。以十力四無所畏四無礙智十八不共法諸功德莊嚴 仏身は、三十二相、八十随形好を以って、自ら荘厳し、法身は、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、諸の功徳を以って、荘厳す。
『仏の生身』は、
『三十二相、八十随形好を用いて!』、
自らを、
『荘厳し!』、
『仏の法身』は、
『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、諸功徳を用いて!』、
自らを、
『荘厳する!』。
  生身(しょうじん):梵語 janma-kaaya の訳、生じさせられた身体( the body which is born )の義、活きている身体( the living body )の意。
  法身(ほっしん):梵語 dharma-kaaya の訳、法の身体( the Dharma-body )の義、不朽の根本原理( the eternal principle )の意。
眾生。有二種因緣。一者福德因緣。二者智慧因緣。欲引導福德因緣眾生故用三十二相身。欲以智慧因緣引導眾生故用法身。 衆生には、二種の因緣有り、一には福徳の因緣、二には智慧の因緣なり。福徳の因緣を衆生に引導せんと欲するが故に、三十二相の身を用い、智慧の因緣を以って衆生を引導せんと欲するが故に、法身を用う。
『衆生を引導する!』には、
『二種の因縁が有り!』、
一には、
『福徳の因縁であり!』、
二には、
『智慧の因縁である!』が、
『福徳の因縁』を、
『衆生に引導しようとする!』が故に、
『三十二相の身』を、
『用い!』、
『智慧の因縁を用いて!』、
『衆生を引導しようとする!』が故に、
『法身』を、
『用いるのである!』。
有二種眾生。一者知諸法假名。二者著名字。為著名眾生故說無相。為知諸法假名眾生故。說三十二相。 二種の衆生有り、一には諸法の仮名なるを知り、二には名字に著す。名に著する衆生の為の故に、無相を説き、諸法の仮名なるを知る衆生の為の故に、三十二相を説く。
『衆生』には、
『二種有り!』、
一には、
『諸法は仮名である!』と、
『知る!』、
『衆生であり!』、
二には、
『諸法の名字』に、
『著する!』、
『衆生である!』。
『名字に著する!』、
『衆生の為』の故に、
『無相である!』と、
『説き!』、
『諸法の仮名を知る!』、
『衆生の為』の故に、
『三十二相』を、
『説く!』。
問曰。是十力四無所畏功德。亦各有別相。云何說法身無相。 問うて曰く、是の十力、四無所畏の功徳にも、亦た各別相有り。云何が法身の無相なるを説く。
問い、
是の、
『十力、四無所畏の功徳』にも、
各に、
『別相』が、
『有る!』のに、
何故、
『法身は無相である!』と、
『説くのですか?』。
答曰。一切無漏法十六行三三昧相應故皆名無相。佛欲令眾生解故。種種分別說。說一切諸佛法以空無相無作印故皆入如法性實際。而為見色歡喜發道心者現三十二相莊嚴身 答えて曰く、一切の無漏法と十六行は、三三昧に相応するが故に、皆無相と名づく。仏は衆生をして解せしめんと欲するが故に、種種に分別して説きたまえり。一切の諸仏の法を説くに、空、無相、無作の印を以っての故に、皆、如、法性、実際に入り、而も色を見て、歓喜し道心を発す者の為に、三十二相の荘厳せる身を現したもう。
答え、
『一切の無漏法や、十六行』は、
『三三昧が相応する!』が故に、
皆、
『無相である!』が、
『仏』は、
『衆生に理解させようとする!』が故に、
『一切の諸法』を、
種種に、
『分別して!』、
『説かれたのであり!』、
『一切の諸仏の法』を、
『空、無相、無作という!』、
『印( the three seals )』を、
『説かれた!』が故に、
『衆生』は、
皆、
『如、法性、実際』に、
『入った( to understand deeply )!』が、
『色を見て歓喜し!』、
『道心を発す!』者の為には、
『三十二相で荘厳した身』を、
『現されたのである!』。
  十六行:四聖諦についての十六の観察。苦諦については無常、苦、空、無我を観察し、集諦については集、因、縁、生、滅諦については尽、滅、妙、出、道諦については道、正、行、跡を観察する。『大智度論巻11(上)』参照。
  空無相無作印:空印、無相印、無作印の三法印を以って諸法を認証する。
  如法性実際:如も法性も実際も皆空の異名。
  参考:『大智度論巻32』:『諸法如有二種。一者各各相二者實相。各各相者。如地堅相水濕相火熱相風動相。如是等分別諸法各自有相。實相者。於各各相中分別求實不可得不可破。無諸過失如自相空中說。地若實是堅相者。何以故膠蠟等與火會時捨其自性。有神通人入地如水又分散木石則失堅相。又破地以為微塵以方破塵終歸於空亦失堅相。如是推求地相則不可得。若不可得其實皆空空則是地之實相。一切別相皆亦如是。是名為如。法性者如前說各各法空。空有差品是為如。同為一空是為法性。是法性亦有二種。一者用無著心分別諸法各自有性故。二者名無量法。所謂諸法實相。如持心經說。法性無量。聲聞人雖得法性。以智慧有量故不能無量說。如人雖到大海以器小故不能取無量水是為法性。實際者。以法性為實證故為際。如阿羅漢名為住於實際。』
復次為一切眾生中顯最勝故。現三十二相。而不破無相法。如菩薩初生七日之中。裹以白氎示諸相師。相師以古聖相書占之。以答王曰。我讖記法。若人有三十二相者。在家當為轉輪聖王。出家當得作佛。唯此二處無有三處。諸相師出已菩薩寢息。 復た次ぎに、一切の衆生中に最勝なるを顕さんが為の故に、三十二相を現し、而も無相の法を破らず。菩薩の如きは、初生にして七日の中に、白氎を以って裹(つつ)んで、諸の相師に示すに、相師は、古き聖相の書を以って、之を占い、以って王に答えて曰く、『我が讖記の法は、若し人に三十二相有らば、在家なれば、当に転輪聖王と為るべく、出家なれば、当に仏と作るを得べし。唯だ此の二処にして、三処有ること無し』、と。諸の相師出で已りて、菩薩は寝息す。
復た次ぎに、
『一切の衆生』中に、
『最勝の身を顕す!』為の故に、
『三十二相を現された!』が、
『無相の法』を、
『破られたのではない!』。
『菩薩など!』は、
『初生の七日中に( on the 7th day after the birth )!』、
『白氎( a white cotton cloth )に包んで!』、
『諸の相師』に、
『示す!』と、
『相師』は、
『古い聖相の書を用いて!』、
『菩薩』を、
『占い!』、
『王に答えて!』、こう言った、――
わたしの、
『讖記の法( the law in my book of prophecy )』では、
若し、
『人に三十二相が有れば!』、
『在家』は、
『転輪聖王』と、
『為ることになり!』、
『出家』は、
『仏』に、
『作るはずである!』が、
此の、
『二処以外』に、
『第三の処』は、
『有りません!』、と。
『諸の相師が退出する!』と、
『菩薩』は、
『寝息した( to take a rest in the bedroom )!』。
  白氎(びゃくじょう):白い木綿の布。
  讖記(しんき):預言の書( a book of prophecy )。
復有仙人名阿私陀。白淨飯王言。我以天耳聞諸天鬼神說。淨飯王生子。有佛身相故來請見。王大歡喜。此人仙聖。故從遠來欲見我子。敕諸侍人將太子出。侍人答王。太子小睡。是時阿私陀言。聖王常請一切。施以甘露不應睡也。即從坐起詣太子所。抱著臂上上下相之。相已涕零不能自勝。王大不悅問相師曰。有何不祥涕泣如是。 復た有る仙人の阿私陀と名づくるは、浄飯王に白して言さく、『我れ、天耳を以って諸天、鬼神の説を聞くに、浄飯王の生ぜし子には、仏身の相有るが故に来たりて、見んことを請うなり』、と。王の大歓喜すらく、『此の人は仙聖なるに、故(ことさら)に遠より来たりて、我が子を見んと欲す』、と。諸の侍人に勅して、太子を将いて出せしむ。侍人の王に答うらく、『太子は小睡したもう』、と。是の時、阿私陀の言わく、『聖王は、常に一切を請じて施すに甘露を以ってすれば、応に睡るべからず』、と。即ち坐より起ちて太子の所に詣(いた)り、抱きて臂上に著(お)き、上下に之を相す。相し已りて涕(なみだ)零れ、自ら勝(た)うる能わず。王は大に悦ばす、相師に問うて曰く、『何なる不祥か有りて、是の如く涕泣する』、と。
復た、
『阿私陀と称する!』、
『仙人が有り!』、
『浄飯王に白して!』、こう言った、――
わたしは、
『天耳を用いて!』、
『諸天、鬼神』が、
『浄飯王の生んだ子には、仏身の相が有る!』と、
『説いている!』のを、
『聞いた!』が故に、
『来たので!』、
『見ること!』を、
『請う!』、と。
『王』は、
『大いに歓喜して!』、こう言いながら、――
此の、
『人は仙聖である!』のに、
故に( on purpose )、
『遠くより来て!』、
『わたしの子』を、
『見ようとしている!』、と。
『諸の侍人( the valets )に命じて!』、こう言った、――
『太子』を、
『将()いてまいれ!』、と。
『侍人』は、
『王』に、こう答えた、――
『太子』は、
『小(しばら)く睡っていられます!』、と。
是の時、
『阿私陀』は、こう言った、――
『聖王』は、
常に、
『一切の人を請うて( to invite )!』、
『甘露』を、
『施されるのであるから!』、
当然、
『睡っていられるはずがない!』、と。
即ち( then )、
『坐より起って!』、
『太子の所に詣(いた)り!』、
『臂上に抱きあげ!』、
『上から下まで!』、
『相を見ていた!』が、
『相を見おわる!』と、
『涙を零(こぼ)して!』、
自ら、
『涙を止める!』に、
『堪えられなくなった!』。
『王は大いに悦ばず!』、
『相師に問うて!』、こう言った、――
何のような、
『不祥が有って!』、
是のように、
『涕泣するのか?』、と。
  阿私陀(あしだ、asita):また阿私多、阿私吒、阿斯陀、或いは阿夷等に作り、中印度迦毘羅衛国(kapilavastu)の仙人と為す。釈尊降誕の時、この仙これが為に占相し、並びにそのまさに仏と成るべきを預言す。<(望)
仙人答言。假使天雨金剛大山。不能動其一毛。豈有不祥。太子必當作佛。我今年已晚暮。當生無色天上。不得見佛不聞其法故自悲傷耳。王言。諸相師說不定一事。若在家者當作轉輪聖王。若出家者當得作佛。 仙人の答えて言わく、『仮使い、天、金剛大山を雨ふらさんにも、其れをして一毛だに動かす能わず。豈に不祥有らんや。太子は、必ず当に仏と作るべし。我れは今年已に晩暮なれば、当に無色天上に生ずべく、仏を見るを得ず、其の法を聞かざるが故に、自ら悲傷するのみ』、と。王の言わく、『諸の相師の説は、一事に定まらず。若し在家なれば、当に転輪聖王と作るべく、若し出家なれば、当に仏と作るを得べし』、と。
『仙人は答えて!』、こう言った、――
仮使い( suppose! )、
『天』が、
『金剛大山』を、
『雨ふらしたとしても!』、
其の、
『相の一毛すら!』、
『動かすことはできません!』。
況して、
『不祥の相など!』、
『有るはずがありません!』。
『太子』は、
必ず、
『仏』に、
『作られるのに!』、
わたしは、
『今年』、
已に、
『晩暮です( in the sunset of life )!』。
『無色天上に生まれれば!』、
『仏を見ることもできず!』、
其の、
『法』を、
『聞くこともない!』ので、
是の故に、
自ら、
『悲傷している( to grieve )のです!』、と。
『王』は、こう言った、――
『諸の相師の説』は、
『一事に定まらず!』、こう言っている、――
若し、
『在家ならば!』、
『転輪聖王』に、
『作るはずであり!』、
若し、
『出家ならば!』、
『仏』に、
『作ることができるはずだ!』、と。
阿私陀言。諸相師者。以世俗比知。非天眼知諸聖相書又不具足遍知。於相總觀不能明審。是故或言在家當為轉輪聖王。出家當為佛。今太子三十二相。正滿明徹甚深淨潔具足必當作佛。非轉輪王也。以是故知。三十二相。於一切眾生中最為殊勝。 阿私陀の言わく、『諸の相師なる者は、世俗の比知を以ってして、天眼もて知るに非ず。諸の聖相の書も又相に於いて遍知するを具足せず、総観して明審する能わず。是の故に、或は言わく、『在家なれば、当に転輪聖王と為るべし。出家なれば、当に仏と為るべし』、と。今、太子の三十二相は正しく満ち、明徹、甚深、浄潔具足すれば、必ず当に仏と作るべく、転輪聖王には非ざるなり』、と。是を以っての故に知るらく、『三十二相は、一切の衆生中に於いて、最も殊勝と為す』、と。
『阿私陀』は、こう言った、――
『諸の相師という者』は、
『世俗』の、
『比知( the inference )』を、
『用いるのであり!』、
『天眼』を、
『用いて!』、
『知るのではない!』。
『諸の聖相の書』も、
『相』を、
『具足して!』、
『遍知するものではない!』し、
『総観して!』、
『明了に!』、
『審察するのでもない!』ので、
是の故に、
或は、
『在家ならば、転輪聖王と作るだろう!』と、
『言い!』、
或は、
『出家ならば、仏と作るだろう!』と、
『言うのである!』。
今、
『太子の三十二相』は、
正しく、
『三十二相を満たし!』、
『明かに透徹することや、甚だ深いことや、浄潔なこと!』が、
『具足している( be complete )!』ので、
必ず、
『仏に作るのであり!』、
『転輪聖王ではない!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『三十二相を具足する!』者は、
『一切の衆生』中に於いて、
『最も!』、
『殊勝である!』、と。
  比知(ひち):梵語 anumaana の訳、許可/同意( permission, consent )、推論/熟慮/反射( inference, consideration, reflection )、推測/推量( guess, conjecture )の義、与えられた前提から、結論を推論し、引き出す行為( the act of inferring or drawing a concluseion from given premises )、本当の知識を得る手段の一( one of the means of obtaining true knowledgea )の意。
  明徹(みょうてつ):はっきり見通せる。
  浄潔(じょうけつ):純一で雑じり気がない。
  最為殊勝(さいいしゅしょう):梵語 mahat-tama の訳、偉大なる霊魂の( of the great souls )、衆生中の最も偉大なる者( the greatest amongst the living beings )、偉大なる中の最も偉大な者( the greatest of all greats )の意。
言無相法者。為破常淨樂相我相男女生死等相故如是說。以是故佛法雖無相相。而現三十二相。引導眾生。令知佛第一生淨信故。說三十二相無咎。 無相の法と言うは、常、浄、楽相、我相、男女、生死等の相を破せんが為の故に是の如く説く。是を以っての故に、仏法は無相の相なりと雖も、三十二相を現じて、衆生を引導し、仏の第一なるを知らしめて、浄信を生じせしむるが故に、三十二相を説くも咎無し。
『無相の法と言う!』のは、
『常、浄、楽、我、男、女、生、死』等の、
『相を破る!』為の故に、
是のように、
『説くのであり!』、
是の故に、
『仏法』は、
『無相の相でありながら!』、
『仏身』の、
『三十二相』を、
『現して!』、
『衆生を引導し!』、
『仏は第一であると知らせて!』、
『浄信』を、
『生じさせる!』が故に、
『三十二相を説いても!』、
『咎』は、
『無いのである!』。
問曰。何以故說三十二相不多不少。 問うて曰く、何を以っての故にか、三十二相を説けば、多からず、少なからざる。
問い、
何故、
『三十二相を説けば!』、
『多くもなく!』、
『少なくもないのですか?』。
答曰。若說多若說少俱當有難。 答えて曰く、若しは多く説かん、若しは少なく説かんに、倶に当に難有るべし。
答え、
『多く説こうが、少なく説こうが!』、
倶に、
『難』が、
『有るはずである!』。
復次佛身丈六。若說少相。則不周遍不具莊嚴。若過三十二相則復雜亂。譬如嚴身之具。雖復富有珠璣。不可重著瓔珞。是故三十二相不多不少正得其中。 復た次ぎに、仏身は丈六なれば、若し少なき相を説かば、則ち周辺せずして、具に荘厳せざらん。若し三十二相を過ぐれば、則ち復た雑乱ならん。譬えば厳身の具の、復た富んで珠璣有りと雖も、重ねて瓔珞を著くるべからざるが如し。是の故に三十二相は多からず、少なからずして、正しく其の中を得たり。
復た次ぎに、
『仏の身』は、
『一丈六尺( approximately 4m80cm )であり!』、
若し、
『相を少なく説けば!』、
『身を周辺しない!』ので、
『具足して!』、
『荘厳しない!』し、
若し、
『三十二相を過ぎれば!』、
復た( be overlapped )、
『荘厳』が、
『乱雑になる!』。
譬えば、
『厳身の具( the personal adornments )』は、
復た、
『豊富に!』、
『珠璣』が、
『有ったとしても!』、
『重ねて!』、
『瓔珞』を、
『著けるべきでないようなものである!』。
是の故に、
『三十二相』は、
『多くもなく、少なくもなく!』、
正しく( just )、
其の、
『中』を、
『得ているのである!』。
  周遍(しゅうへん):遍く行き渡る。
  珠璣(じゅき):丸い珠と角張った珠。
復次若少不端嚴。則留八十隨形好處過則雜亂。 復た次ぎに、若し少なくして端厳ならず、則ち八十随形好の処を過ぎて留むれば、則ち雑乱なり。
復た次ぎに、
若し、
『三十二相が!』、
『少なくて!』、
『端厳でない!』ので、
『八十随形好の処』を、
『過ぎて!』、
『相を留めれば!』、
則ち、
『乱雑になるからである!』。
  端厳(たんごん):端正厳粛。
問曰。若須八十隨形好。何不皆名為相而別為好。 問うて曰く、若し八十随形好を須(ま)てば、何んが皆名づけて、相と為さず、而も別に好と為す。
問い、
若し、
『八十随形好が必要ならば!』、
何故、
皆、
『相』と、
『呼ばずに!』、
別に、
『好』と、
『称するのですか?』。
答曰。相大嚴身。若說大者則已攝小。 答えて曰く、相は大いに身を厳(かざ)れば、若し大を説けば、則ち已に小を摂するなり。
答え、
『相』は、
『身』を、
『大いに!』、
『荘厳する!』ので、
若し、
『大を説けば!』、
已に、
『小』を、
『摂する( to be contained )からである!』。
復次相麤而好細。眾生見佛則見其相。好則難見故。又相者餘人共得。好者或共或不共。以是故相好別說。 復た次ぎに、相は麁にして、好は細なり。衆生の仏を見るに、則ち其の相を見れば、好は則ち見難きが故なり。又相は、余人と共に得るも、好は或は共にし、或は共にせず。是を以っての故に相、好を別に説けり。
復た次ぎに、
『相は麁である( be rough )!』が、
『好』は、
『細である( be delicate )!』。
『衆生』が、
『仏を見る!』のは、
其の、
『相』を、
『見るのであって!』、
『好』は、
『見る!』のが、
『困難だからである!』。
又、
『相』は、
『余人』と、
『共通して!』、
『得るものである!』が、
『好』は、
或は、
『共通であったり!』、
『共通でなかったりする!』。
是の故に、
『相と、好と!』を、
『別けて!』、
『説くのである!』。
問曰。佛畢竟斷眾生相吾我相。具足空法相。何以故以相莊嚴。如取相者法。 問うて曰く、仏は畢竟じて、衆生相、吾我相を断じて、空法の相を具足したもう。何を以っての故に、相を以って荘厳し、取相の者の法の如くなる。
問い、
『仏』は、
畢竟じて、
『衆生相や、吾我相を断じて!』、
『空法の相』を、
『具足されている!』のに、
何故、
『相で荘厳して!』、
『取相者の法( the way )』に、
『似せられるのですか?』。
  畢竟(ひっきょう):つまり、結局。要するに。
  法相(ほうそう):諸法は一性なれど相を殊にし、殊別の相は外より可見なるが故にこれを法相という。或いは諸法の具うる所の本質の相状(体相)、或いはその意義内容(義相)を指す。また真如、実相を指すときは法性と同義である。<(佛)
  取相(しゅそう):相に著する。取は所対の境に取著すること、愛の異名。
答曰。若佛但以妙法莊嚴其心身。無相好者。或有可度眾生心生輕慢。謂佛身相不具。不能一心樂受佛法。譬如以不淨器盛諸美食人所不喜。如臭皮囊盛諸寶物取者不樂。以是故。佛以三十二相莊嚴其身。 答えて曰く、若し仏、但だ妙法を以って、其の心を荘厳し、身に相好無ければ、或は度すべき衆生有るも、心に憍慢を生じて、『仏の身相は具わらず』、と謂いて、一心に楽しんで、仏法を受くる能わず。譬えば不浄の器に諸の美食を盛れば、人の喜ばざるが如く、臭皮の嚢に、諸の宝物を盛れば、取る者の楽しからざるが如し。是を以っての故に、仏は三十二相を以って、其の身を荘厳したもう。
答え、
若し、
『仏』が、
但だ、
『妙法を用いて!』、
其の、
『心』を、
『荘厳して!』、
『身』に、
『相、好』が、
『無ければ!』、
或は、
『度すべき!』、
『衆生が有っても!』、
『心に憍慢を生じ!』、
『仏には、身相が具わっていない!』と、
『謂い!』、
『一心に楽しんで!』、
『仏法』を、
『受けることができない!』。
譬えば、
『不浄の器』に、
『諸の美食を盛っても!』、
『食う人に!』、
『喜ばれないようなものであり!』、
『臭皮の嚢』に、
『諸の宝物を盛っても!』、
『取る者は!』、
『楽しくないようなものである!』。
是の故に、
『仏』は、
『三十二相を用いて!』、
其の、
『身』を、
『荘厳するのである!』。
復次佛常於大眾中作師子吼言。我於眾生中。一切功德最為第一。若佛生身不以相好莊嚴。或有人言。身形醜陋。何所能知。佛以三十二相八十隨形好。莊嚴其身。眾生猶有不信。何況不以相好莊嚴。 復た次ぎに、仏は常に大衆中に於いて、師子吼を作して、『我れは、衆生中に於いて、一切の功徳、最も第一と為す』、と言うも、若し仏の生身、相好を以って荘厳せざれば、或は有る人は言わん、『身形、醜陋なるに、何ぞ能く知る所ならん』、と。仏は三十二相、八十随形好を以って、其の身を荘厳したもうとも、衆生は猶お不信なる有り、何ん況んや、相好を以って荘厳せざるをや。
復た次ぎに、
『仏』は、
常に、
『大衆中に師子吼を作して!』、こう言われていたが、――
わたしは、
『衆生』中に於いて、
『一切の功徳』が、
『最も第一である!』、と。
若し、
『仏の生身』が、
『相好で!』、
『荘厳されていなければ!』、
或は、
有る人は、こう言うだろう、――
『身形が醜陋なのに!』、
何を、
『知ることができるのか?』、と。
『仏』は、
『三十二相や、八十随形好を用いて!』、
其の、
『身を荘厳されていた!』のに、
猶お、
『衆生』には、
『信じない!』者が、
『有った!』、
況して、
『相や、好を用いて!』、
『荘厳しなければ!』、
『尚更であろう!』。
復次佛法甚深。常寂滅相故。狂愚眾生不信不受。謂身滅盡無所一取。以是故。佛以廣長舌梵音聲身放大光。為種種因緣譬喻說上妙法。眾生見佛身相威德。又聞音聲皆歡喜信樂。 復た次ぎに、仏法は甚だ深く、常に寂滅の相なるが故に、狂愚の衆生は信ぜず、受けずして、『身、滅尽すれば、一の取る所も無し』、と謂う。是を以っての故に、仏は、広長の舌、梵音の声と、身より大光を放つを以って、種種の因縁、譬喩と為し、上妙の法を説きたまえば、衆生は仏の身相の威徳を見、又音声を聞きて、皆歓喜して信楽す。
復た次ぎに、
『仏』は、
『甚だ深く!』、
『常に!』、
『寂滅の相である!』が故に、
『狂愚の衆生』は、
『信受せずに!』、こう謂う、――
『身が滅尽してしまえば!』、
『一事すら!』、
『取る!』所は、
『無い!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『広長の舌や、梵音の声や、身より放つ大光を用いて!』、
種種に、
『因縁や、譬喩と為し!』、
『上妙の法』を、
『説かれるのであり!』、
『衆生』は、
『仏』の、
『身相の威徳を見!』、
『音声を聞いて!』、
皆、
『歓喜し!』、
『信楽する( to believe in )のである!』。
  信楽(しんぎょう):梵語 abhiprasanna の訳、信じる/信奉する( believing in )の義。
復次莊嚴物有內外。禪定智慧諸功德等是內莊嚴。身相威德持戒具足是外莊嚴。佛內外具足。 復た次ぎに、荘厳の物は内外に有り。禅定、智慧、諸功徳等は是れ内の荘厳なり。身相、威徳、持戒の具足せる、是れ外の荘厳なり。仏は内外に具足したもう。
復た次ぎに、
『仏を荘厳する!』、
『物』は、
『内、外』に、
『有り!』、
『禅定や、智慧、諸功徳』等は、
『内より!』、
『荘厳し!』、
『身相や、威徳、持戒の具足』は、
『外を!』、
『荘厳している!』。
『仏の荘厳』は、
『内、外に!』、
『具足しているのである!』。
復次佛愍念一切眾生。出興於世。以智慧等諸功德饒益利根眾生。身相莊嚴饒益鈍根眾生。心莊嚴開涅槃門。身莊嚴開天人樂門。身莊嚴故置眾生於三福處。心莊嚴故置眾生入三解脫門。身莊嚴故拔眾生於三惡道。心莊嚴故拔眾生於三界獄。如是等無量利益因緣故。以相好莊嚴生身 復た次ぎに、仏は一切の衆生を愍念して、世に出興し、智慧等の諸功徳を以って、利根の衆生を饒益し、身相の荘厳もて鈍根の衆生を饒益す。心の荘厳は、涅槃の門を開き、身の荘厳は、天人の楽門を開く。身の荘厳の故に衆生を三福の処に置き、心の荘厳の故に、衆生を入三解脱門に置く。身の荘厳の故に、衆生を三悪道より抜き、心の荘厳の故に、衆生を三界の獄より抜く。是れ等の如き無量の利益する因縁の故に、相、好を以って生身を荘厳したもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
『一切の衆生を愍念する!』が故に、
『世に出興される!』と、
『智慧等の諸功徳を用いて!』、
『利根の衆生』を、
『饒益し( to benefit )!』、
『身相の荘厳を用いて!』、
『鈍根の衆生』を、
『饒益される!』。
『心の荘厳を用いて!』、
『涅槃に入る門』を、
『開き!』、
『身の荘厳を用いて!』、
『天、人の楽を得る門』を、
『開き!』、
『身の荘厳』の故に、
『衆生』を、
『三福(布施、持戒、善心)の地』に、
『置き!』、
『心の荘厳』の故に、
『衆生』を、
『三解脱に入る門』に、
『置き!』、
『身の荘厳』の故に、
『衆生』を、
『三悪道より!』、
『抜き!』、
『心の荘厳』の故に、
『衆生』を、
『三界の獄より!』、
『抜く!』。
是れ等のような、
『無量の利益の因縁』の故に、
『相、好を用いて!』、
『生身』を、
『荘厳されるのである!』。
  饒益(にょうやく):豊に利益する。
  三福(さんぷく):布施、持戒、善心の三福業。『大智度論巻16(下)』参照。



鳩摩羅伽の地を得て、諸仏を離れない

【經】欲生菩薩家。欲得鳩摩羅伽地。欲得不離諸佛。當學般若波羅蜜 菩薩の家に生ぜんと欲し、鳩摩羅伽地を得んと欲し、諸仏を離れざるを得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
『菩薩』の、
『家』に、
『生まれようとし!』、
『鳩摩羅伽( the prince of Dharma )』の、
『地( the position )』を、
『得ようとし!』、
『諸仏』を、
『離れたくない!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  鳩摩羅伽(くまらが):梵語 kumaaraka の訳、男の子/少年/若者( a little boy, boy, youth )の義、童子、童真、法王子と訳し、また一処補処の菩薩を指す。これに四種有り、(1)初発心より婬欲を断ちて阿耨多羅三藐三菩提に至るまで常に菩薩道を行う。(2)世世に童貞のまま出家して道を行い世間の愛欲を受けない。(3)文殊尸利の如く十力四無所畏等の仏事を悉く具えながら、故にこの地に住まって衆生を度す。(4)菩薩は菩薩の家に生まれたならば、嬰児にして無生法忍を得て乃ち十地に至るまで諸の悪事を離れる。
  (じ):梵語 bhuumi の訳、領域/国土/地域( a territory, country, district )、地位/立場/身分/態度( a place, situation, position, posture, attitude )の義。
  参考:『大智度論巻29』:『欲得鳩摩羅伽地者。或有菩薩從初發心斷婬欲。乃至阿耨多羅三藐三菩提。常行菩薩道。是名鳩摩羅伽地。復次或有菩薩作願。世世童男出家行道。不受世間愛欲。是名為鳩摩羅伽地。復次又如王子名鳩摩羅伽。佛為法王。菩薩入法正位乃至十地故。悉名王子。皆任為佛。如文殊師利。十力四無所畏等悉具佛事故。住鳩摩羅伽地廣度眾生。復次又如童子過四歲以上未滿二十。名為鳩摩羅伽。若菩薩初生菩薩家者如嬰兒。得無生法忍乃至十住地離諸惡事。名為鳩摩羅伽地。』
【論】菩薩家者。若於眾生中。發甚深大悲心。是為生菩薩家。如生王家無敢輕者。亦不畏飢渴寒熱等。入菩薩道中生菩薩家亦如是。以佛子故。諸天龍鬼神諸聖人等。無敢輕者益加恭敬。不畏惡道人天賤處。不畏聲聞辟支佛人外道論師來沮其心。 菩薩の家とは、若し衆生中に於いて、甚だ深き大悲心を発せば、是れを菩薩の家に生ずと為す。王家に生ずれば、敢て軽んずる者無く、亦た飢渴、寒熱等を畏れざるが如く、菩薩道中に入りて、菩薩の家に生ずるも、亦た是の如く、仏子なるを以って故に、諸の天、龍、鬼神、諸の聖人等の敢て軽んずる者無く、益々恭敬を加うれば、悪道、人天の賎しき処を畏れず、声聞、辟支仏人、外道の論師の来たりて、其の心を沮(はば)むを畏れず。
『菩薩の家』とは、
若し、
『衆生』中に於いて、
『甚だ深い!』、
『大悲心』を、
『発すならば!』、
是れが、
『菩薩の家』に、
『生まれるということである!』。
譬えば、
『王家に生まれれば!』、
敢て、
『軽んじる!』者も、
『無く!』、
亦た、
『飢渴、寒熱』等も、
『畏れないように!』、
『菩薩道中に入って!』、
『菩薩の家に生まれる!』のも、
是のように、
『仏子( the child of Buddha )である!』が故に、
『諸の天、龍、鬼神や、諸の聖人』等の、
敢て、
『軽んじる!』者も、
『無く!』、
益々、
『恭敬( the respect )』を、
『加える!』ので、
是の故に、
『悪道も、人、天の賎処も畏れず!』、
『声聞、辟支仏の人や、外道の論師が来て!』、
其の、
『心を沮むこと!』をも、
『畏れない!』。
  恭敬(くぎょう):梵語 gaurava の訳、厳粛/尊貴/高貴( gravity, respectability, venerableness )の義、尊敬/尊重/尊敬の表現( respect, estimation, respect shown to a person )の意。
復次菩薩初發意一心作願。從今日不復隨諸惡心。但欲度脫一切眾生。當得阿耨多羅三藐三菩提。 復た次ぎに、菩薩は初発意に、一心に願を作さく、『今日より、復た諸の悪心に随わず、但だ一切の衆生を度脱せんと欲して、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『初発意の時』に、
『一心』に、こう願う、――
わたしは、
『今日より!』、
復た( never again )、
諸の、
『悪心』に、
『随うことなく!』、
但だ、
一切の、
『衆生を度脱したい!』と、
『思うだけであり!』、
当然、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ねばならない!』、と。
復次菩薩。若能知諸法實相不生不滅。得無生法忍。從是以往常住菩薩道。如前所說持心經中。我見錠光佛時得諸法無生忍。初具足六波羅蜜。自爾之前都無布施持戒等。 復た次ぎに、菩薩、若し能く諸法の実相の不生、不滅を知り、無生法忍を得れば、是より以往、常に菩薩道に住す。前に、『持心経』中に説く所の如し、『我れ、錠光仏を見し時、諸法の無生忍を得て、初めて六波羅蜜を具足するも、爾れより前は、都(すべ)て布施、持戒等無し』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
若し、
『諸法の実相である!』、
『不生、不滅を知ることができ!』、
『無生法忍』を、
『得れば!』、
是れ以後、
常に、
『菩薩道』に、
『住することになる!』。
前に説明した、
『持心経』中には、こうある、――
わたしは、
『錠光仏を見た!』時、
『諸法の無生忍を得て!』、
初めて、
『六波羅蜜』を、
『具足したのであり!』、
爾れ以前は、
都て( not at all )、
『布施、持戒』等は、
『無かったのである!』、と。
  錠光仏(じょうこうぶつ):梵にdipaJkaraといい、提洹竭、提和竭羅等に音訳し、錠光仏、然灯仏、燃灯仏等に訳す。釈迦如来、因行中第二阿僧祇劫の満つる時、この仏の出世に逢い、五華の蓮を買い以って仏に供養し、髪を泥に布いて、仏にこれを蹈ましめ、以って未来の成仏の記別を受く。
  参考:『思益梵天所問経巻2』:『梵天。我於是後見燃燈佛。即得無生法忍。佛時授我記言。汝於來世當得作佛。號釋迦牟尼如來應供正遍知。我爾時出過一切諸行。具足六波羅蜜。』
復次若菩薩作是念。如恒河沙等劫。為一日一夜。用是日夜三十日為月。十二月為歲。如是歲數過百千萬億劫乃有一佛。於是佛所供養持戒集諸功德。如是恒河沙等諸佛。然後受記作佛。菩薩心不懈怠。不沒不厭悉皆樂行。 復た次ぎに、若し菩薩、是の念を作さく、『恒河沙に等しきが如き劫を一日一夜と為し、是の日夜を用いて、三十日を月と為し、十二月を歳と為し、是の如き歳数もて、百千万億劫を過ぎて、乃ち一仏有り。是の仏所に於いて、供養し持戒して、諸功徳を集め、是の如き恒河沙に等しき諸仏の、然る後に、記を受けて、仏と作らん』、と。菩薩心は懈怠せず、没せず、厭わずして、悉く皆行を楽しまん。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、是のように念じれば、――
わたしは、
『恒河沙に等しいほど!』の、
『劫』を、
『一日一夜とし!』、
是の、
『日夜を用いて!』、
『三十日』を、
『一月とし!』、
是の、
『十二月』を、
『一歳として!』、
是のような、
『歳数を用いて!』、
『百千万億劫を過ぎ!』、
乃ち( at last )、
『一仏』が、
『有り( to appear )!』、
是の、
『仏の所』に於いて、
『供養し、持戒して!』、
『諸の功徳』を、
『集め』、
是のような、
『恒河沙に等しいほど!』の、
『諸仏の所』に於いて、
『諸の功徳』を、
『集め!』、
その後、
『記を受けて!』、
『仏』に、
『作るのだ!』、と。
是の、
『菩薩の心』は、
『懈怠せず!』、
『没することもなく!』、
『厭うこともなく!』、
悉く皆、
『楽しんで!』、
『行うのである!』。
復次菩薩於諸邪定五逆眾生及斷善根人中。而生慈悲令入正道不求恩報。 復た次ぎに、菩薩は、諸の邪定、五逆の衆生、及び善根を断ぜる人中に於いて、慈悲を生じて、正道に入らしめ、恩報を求めず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『諸の邪定や、五逆の衆生、善根を断じた人』中に於いて、
『慈悲を生じ!』、
『正道』に、
『入らせる!』が、
而し、
『恩報』を、
『求めることはない!』。
復次菩薩初發心以來。不為諸煩惱所覆所壞。 復た次ぎに、菩薩は、初発心以来、諸の煩悩の覆う所、壊る所と為らず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『初発心以来!』、
常に、
『諸の煩悩』に、
『覆われることもなく!』、
『壊られることもない!』。
復次菩薩雖觀諸法實相。於諸觀心亦不生著。 復た次ぎに、菩薩は、諸法の実相を観ずと雖も、諸観に於いても、心は亦た著を生ぜず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『諸法』の、
『実相』を、
『観察する!』が、
『諸観』に於いて、
『心』に、
『著を生じることはない!』。
復次菩薩自然口常實言。乃至夢中亦不妄語。 復た次ぎに、菩薩は自然にして、口に常に実言し、乃至夢中にも亦た妄語せず。
復た次ぎに、
『菩薩は自然に!』、
『口』が、
『常に!』、
『実言する!』ので、
乃至、
『夢中にも!』、
『妄語することはない!』。
復次菩薩有所見色皆是佛色。念佛三昧力故於色亦不著。 復た次ぎに、菩薩は、見る所の色有れば、皆是れ仏の色にして、念仏三昧の力の故に、色に於いても、亦た著せず。
復た次ぎに、
『菩薩に見られる!』、
有る、
『色( a fascinating human body )』は、
皆、
『仏という!』、
『色であり!』、
『念仏三昧という!』、
『力を用いる!』が故に、
『仏の色』にも、
『著することはない!』。
復次菩薩見一切眾生流轉生死苦中一切樂中心亦不著。但作願言。我及眾生何時當度。 復た次ぎに、菩薩は一切の衆生の生死の苦中に流転するを見れば、一切の楽中にも心は亦た著せずして、但だ願を作して言うのみ、『我れ、及び衆生は、何れの時にか、当に度すべき』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『一切の衆生』が、
『生死の苦中に流転する!』のを、
『見る!』が故に、
『一切の楽』中にも、
『心』が、
『著することはない!』ので、
但だ、こう願うだけである、――
『わたしと、衆生と!』は、
何時の日にか、
『必ず!』、
『度さねばならぬ!』、と。
復次菩薩於一切珍寶心不生著。唯樂三寶。 復た次ぎに、菩薩は一切の珍宝に於いて、心に著を生ぜず、唯だ三宝を楽しむのみ。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『一切の珍宝』に於いて、
『心』に、
『著を生じず!』、
唯だ、
『三宝』を、
『楽しむだけである!』。
復次菩薩常斷婬欲。乃至不生念想。況有實事。 復た次ぎに、菩薩は、常に婬欲を断じて、乃至念想をも生ぜず、況んや実事有るをや。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
常に、
『婬欲を断じて!』、
乃至、
『念想すら!』、
『生じない!』ので、
況して、
『実事』の、
『有るはずがない!』。
復次眾生眼見菩薩者。即得慈三昧。 復た次ぎに、衆生の、眼に菩薩を見る者は、即ち慈三昧を得。
復た次ぎに、
『衆生』が、
『眼に!』、
『菩薩を見れば!』、
即ち、
『慈三昧』を、
『得ることになる!』。
復次菩薩能令一切法悉為佛法。無有聲聞辟支佛法凡夫之法種種差別。 復た次ぎに、菩薩は、能く一切法をして、悉く仏法と為らしめ、声聞、辟支仏の法も、凡夫の法も、種種に差別有ること無し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『一切の法』を、
悉く、
『仏法』と、
『為すことができる!』ので、
『声聞、辟支仏の法も、凡夫の法も!』、
種種に、
『差別すること!』が、
『無い!』。
復次菩薩分別一切法。於一切法中亦不生法相。亦不生非法相。如是等無量因緣。是名生菩薩家。 復た次ぎに、菩薩は一切法を分別するも、一切法中い於いて、亦た法の相を生ぜず、亦た非法の相を生ぜず。是れ等の如き無量の因縁、是れを、菩薩の家に生ずと名づく。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『一切の法』を、
『分別しながら!』、
『一切の法』中に、
『法の相や、非法の相』を、
『生じることがない!』。
是れ等のような、
『無量の因緣』を、
『菩薩の家に生まれる!』と、
『称するのである!』。
問曰。從發心已來。已生菩薩家。今云何欲生菩薩家當學般若波羅蜜。 問うて曰く、発心より已来、已に菩薩の家に生ずれば、今、云何が、菩薩の家に生ぜんと欲して、当に般若波羅蜜を学ぶべき。
問い、
『初発心以来!』、
已に、
『菩薩の家』に、
『生じている!』のに、
今、
何故、
『菩薩の家に生じようとして!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならぬのですか?』。
答曰。有二種菩薩家。有退轉家不退轉家名字家實家淨家雜家有信堅固家不堅固家。為不退轉家乃至信堅固家。欲得如是等家故。言欲生菩薩家當學般若波羅蜜。 答えて曰く、二種の菩薩の家有り、有退転の家と不退転の家、名字の家と実の家、浄の家と雑の家、有信堅固の家と不堅固の家なり。不退転の家、乃至信堅固の家の為に、是れ等の如き家を得んと欲するが故に言わく、『菩薩の家に生ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
答え、
『菩薩の家』には、
『二種の家が有る!』が、
謂わゆる、
『有退転の家と、不退転の家』、
『名字の家と、実の家』、
『浄( pure )の家と、雑( mixed )の家』、
『有信堅固の家と、不堅固の家である!』。
是の中の、
『不退転の家、乃至信堅固の家の為に!』、
是のような、
『家』を、
『得ようとする!』が故に、
こう言うのである、――
『菩薩の家に生じようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
欲得鳩摩羅伽地者。或有菩薩從初發心斷婬欲。乃至阿耨多羅三藐三菩提。常行菩薩道。是名鳩摩羅伽地。 鳩摩羅伽の地を得んと欲すとは、或は有る菩薩は、初発心より婬欲を断じて、乃至阿耨多羅三藐三菩提まで常に菩薩道を行ず、是れを鳩摩羅伽の地と名づく。
『鳩摩羅伽の地を得ようとする!』とは、
或は、
有る、
『菩薩』は、
『初発心より!』、
『婬欲』を、
『断じて!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提を得るまで!』、
常に、
『菩薩道』を、
『行うので!』、
是れを、
『鳩摩羅伽の地』と、
『称する!』。
復次或有菩薩作願。世世童男出家行道。不受世間愛欲。是名為鳩摩羅伽地。 復た次ぎに、或は有る菩薩の願を作さく、『世世に童男にして、出家して、道を行じ、世間の愛欲を受けざらん』、と。是れを名づけて、鳩摩羅伽の地と為す。
復た次ぎに、
或は、
有る、
『菩薩』は、こう願う、――
世世に、
『童男( a prince of the kingdom )となり!』、
『出家して!』、
『道』を、
『行いながら!』、
『世間』の、
『愛欲』を、
『受けないように!』、と。
是れを、
『鳩摩羅伽の地』と、
『称するのである!』。
  童男(どうなん):梵語 kumaara の訳、男の子/少年/若者( a child boy, boy, youth )、息子( son )、王子/現在の支配者の君臨する王国に関する正当な後継者( a prince, heir-apparent associated in the kingdom with the reigning monarch )の義。
復次又如王子名鳩摩羅伽。佛為法王。菩薩入法正位乃至十地故。悉名王子。皆任為佛。如文殊師利。十力四無所畏等悉具佛事故。住鳩摩羅伽地廣度眾生。 復た次ぎに、又王子を、鳩摩羅伽と名づくけ、仏を法王と為すが如し。菩薩は法の正位に入れば、乃ち十地に至るが故に、悉く王子と名づけ、皆仏と為るに任(た)う。文殊師利の十力、四無所畏等もて、悉く仏事を具うるが故に、鳩摩羅伽地に住して、広く衆生を度するが如し。
復た次ぎに、
又、
『王子』を、
『鳩摩羅伽』と、
『称し!』、
『仏』を、
『法王』と、
『称するように!』、
『菩薩』が、
『法の正位に入れば!』、
乃ち( whereupon )、
『十地(仏地)』に、
『至る!』が故に、
悉く、
『王子』と、
『呼ばれ!』、
皆、
『仏と為る!』に、
『任えられるのである!』。
例えば、
『文殊師利など!』は、
『十力、四無所畏等を用いて!』、
悉く、
『仏事』を、
『具足する!』が故に、
『鳩摩羅伽地に住して!』、
広く、
『衆生』を、
『度すのである!』。
  参考:『仏説阿弥陀経』:『并諸菩薩摩訶薩。文殊師利法王子。阿逸多菩薩。乾陀訶提菩薩。常精進菩薩。與如是等諸大菩薩。』
復次又如童子過四歲以上未滿二十。名為鳩摩羅伽。若菩薩初生菩薩家者如嬰兒。得無生法忍乃至十住地離諸惡事。名為鳩摩羅伽地。欲得如是地。當學般若波羅蜜。 復た次ぎに、又童子は、四歳以上を過ぎて、二十未満を名づけて、鳩摩羅伽と為すが如し。若し菩薩、初めて菩薩の家に生ずれば、嬰児の如し、無生法忍を得て、乃ち十住の地に至るまで諸の悪事を離るるを名づけて、鳩摩羅伽地と為し、是の如き地を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
復た次ぎに、
又、
『童子』が、
『四歳以上を過ぎて!』、
『二十』に、
『満たなければ!』、
是れを、
『鳩摩羅伽』と、
『呼ぶように!』、
若し、
『菩薩』が、
初めて、
『菩薩の家』に、
『生じる!』のは、
『嬰児のようであり!』、
『無生法忍を得れば!』、
乃ち、
『十地に至るまで!』、
『諸の悪事』を、
『離れることになる!』ので、
是れを、
『鳩摩羅伽の地』と、
『称し!』、
是のような、
『地を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならないのである!』。
常欲不離諸佛者。菩薩世世所生常值諸佛。 常に諸仏を離れざらんと欲すとは、菩薩の世世の所生は、常に諸仏に値えばなり。
常に、
『諸仏を離れたくない!』とは、――
『菩薩』の、
『世世の所生( the existence )』は、
常に、
『諸仏』に、
『値う( to meet with )からである!』。
  所生(しょしょう):◯梵語 jaata の訳、 生じたもの( that which is born )の義。◯梵語 janya の訳、生を与えるもの/父( that which gives birth, a father )の義。◯梵語 abhinirvRtti の訳、結果/成り行き/成果( resulting, proceeding, accomplishment )の義。
問曰。菩薩當化眾生。何故常欲值佛。 問うて曰く、菩薩は当に衆生を化すべし。何の故にか、常に仏に値わんと欲する。
問い、
『菩薩』は、
当然、
『衆生』を、
『化度すべきなのに!』、
何故、
常に、
『仏』に、
『値おうとすのですか?』。
答曰。有菩薩未入菩薩位。未得阿鞞跋致受記別故。若遠離諸佛。便壞諸善根沒在煩惱。自不能度安能度人。如人乘船中流壞敗。欲度他人反自沒水。又如少湯投大冰池。雖消少處反更成冰。菩薩未入法位。若遠離諸佛以少功德無方便力欲化眾生。雖少利益反更墜落。以是故新學菩薩。不應遠離諸佛。 答えて曰く、有る菩薩は、未だ菩薩位に入らず、未だ阿鞞跋致のを得て、記別を受けざるが故に、若し諸仏を遠離すれば、便ち諸善根を壊りて、煩悩に没在し、自ら度する能わざるに、安(いづく)んぞ能く人を度せんや。人の船に乗り、中流に壊敗するに、他人を度せんと欲して、反って自ら水に没するが如し。又少しの湯を、大氷池に投じて、少しの処を消すと雖も、反って更に氷を成ずるが如し。菩薩は未だ法位に入らざるに、若し諸仏を遠離し、少功徳を以って、方便力無く、衆生を化せんと欲せば、少しく利益すと雖も、反って更に墜落せん。是を以っての故に新学の菩薩は、応に諸仏を遠離すべからず。
答え、
有る、
『菩薩』は、
未だ、
『菩薩位に入らず!』、
未だ、
『阿鞞跋致を得て!』、
『記別』を、
『受けない!』が故に、
若し、
『諸仏を遠離すれば!』、
便ち( immediately )、
『諸善根を壊って!』、
『煩悩』に、
『没することになる!』ので、
自ら、
『度することができない!』、
何うして、
『人』を、
『度することができるのか?』。
譬えば、
『人の乗った!』、
『船』が、
『中流に破壊した!』ので、
『他人』を、
『度そうとしたのである!』が、
反って、
『自ら!』が、
『水没したようなものであり!』、
又、
『大きな氷った池』に、
『少しの湯を投じて!』、
『少しの処だけ!』、
『氷が消えたとしても!』、
反って、
更に、
『氷と成るようなものである!』。
『菩薩』が、
未だ、
『法位に入らないのに!』、
若し、
『諸仏を遠離して!』、
『少しの功徳を用い!』、
『方便力が無いままに!』、
『衆生』を、
『化度しようとすれば!』、
『少しは利益するだろう!』が、
反って、
更に、
『墜落することになる!』。
是の故に、
『新学の菩薩』は、
当然、
『諸仏』を、
『遠離すべきではないのである!』。
問曰。若爾者何以不說不離聲聞辟支佛。聲聞辟支佛亦能利益菩薩。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、声聞、辟支仏を離れざれと説かざる。声聞、辟支仏も亦た、能く菩薩を利益せん。
問い、
若し、爾うならば、
何故、こう説かないのですか?――
『声聞、辟支仏』を、
『離れるな!』、と。
『声聞、辟支仏』も、
亦た、
『菩薩』を、
『利益ことができます!』。
答曰。菩薩大心。聲聞辟支佛雖有涅槃利益。無一切智故。不能教導菩薩。諸佛一切種智故。能教導菩薩。如象沒泥非象不能出。菩薩亦如是。若入非道中唯佛能救同大道故。以是故說菩薩常欲不離諸佛。 答えて曰く、菩薩は大心なればなり。声聞、辟支仏に涅槃の利益有りと雖も、一切智無きが故に、菩薩を教導する能わず。諸仏は、一切種智の故に、能く菩薩を教導す。象の泥に没すれば、象に非ざれば、出す能わざるが如し。菩薩も亦た是の如く、若し非道中に入れば、唯だ仏のみ、能く救う。大道を同じうするが故なり。是を以っての故に説かく、『菩薩は常に諸仏を離れざらんと欲す』、と。
答え、
『菩薩』は、
『大心だからである!』。
『声聞、辟支仏』には、
『涅槃に向かわせる!』、
『利益』が、
『有る!』が、
『一切智が無い!』が故に、
『菩薩』を、
『教導することができない!』。
『諸仏』は、
『一切種智』の故に、
『菩薩』を、
『教導することができる!』。
譬えば、
『象が泥に没すれば!』、
『象でなければ!』、
『救出することができないように!』、
『菩薩』も、
是のように、
若し、
『非道中に入れば!』、
唯だ、
『仏のみ!』が、
『救出できるのである!』。
何故ならば、
『大道』を、
『同じくするからである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩』は、
常に、
『諸仏を離れたくない!』と、
『思う!』、と。
復次菩薩作是念。我未得佛眼故如盲無異。若不為佛所引導。則無所趣錯入餘道。設聞佛法異處行者未知教化時節行法多少。 復た次ぎに、菩薩は、是の念を作さく、『我れは未だ仏眼を得ざるが故に、盲の如きと異無し。若し、仏に引導せられずんば、則ち趣く所無く、錯って余道に入り、設(たと)い仏法を聞くも、処を異にして行ずれば、未だ教化の時節、行法の多少を知らざらん。
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう念じる、――
わたしは、
未だ、
『仏眼を得ていない!』が故に、
『盲など!』と、
『異ならない!』。
若し、
『仏に引導されなければ!』、
『趣く( be accomplished )!』所が、
『無く!』、
錯って、
『余道』に、
『入ることになるだろう!』。
若し、
『仏法を聞いたとしても!』、
『仏』と、
『処を異にして!』、
『行ずれば!』、
未だ、
『教化の時節や、行法の多少』を、
『知らなかったであろう!』、と。
復次菩薩。見佛得種種利益。或眼見心清淨。若聞所說心則樂法得大智慧。隨法修行而得解脫。如是等值佛無量利益。豈不一心求欲見佛。譬如嬰兒不應離母。又如行道不離糧食。如大熱時不離涼風冷水。如大寒時不欲離火。如度深水不應離船。 復た次ぎに、菩薩は、仏を見て、種種の利益を得、或は眼に見て、心清浄となり、若しは所説を聞いて、心則ち法を楽しんで、大智慧を得、法に随いて修行すれば、解脱を得ん。是れ等の如く、仏に値うは、無量の利益あり。豈に一心に求めて、仏を見んと欲せざる。譬えば、嬰児の応に母を離るべからざるが如く、又道を行きて、糧食を離れざるが如く、大熱の時に涼風、冷水を離れざるが如く、大寒の時に火を離れんと欲せざるが如く、深水を度するに、応に船を離るべからざるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『仏を見れば!』、
種種の、
『利益を得る!』ので、
或は、
『眼に見て!』、
『心』が、
『清浄になり!』、
若しは、
『所説を聞いて!』、
『心に、法を楽しめば!』、
『大智慧』を、
『得ることになり!』、
『法に随って!』、
『修行すれば!』、
『解脱』を、
『得ることになる!』。
是れ等のように、
『仏に値えば!』、
『利益』が、
『無量である!』のに、
『一心に求めて!』、
『仏を見ようとしない!』者が、
『有るだろうか?』。
譬えば、
『嬰児』が、
『母』を、
『離れるべきでなく!』、
又、
『道を行く!』時、
『糧食』を、
『離れず!』、
『大熱』の時、
『涼風、冷水』を、
『離れず!』、
『大寒』の時、
『火』を、
『離れようとせず!』、
『深水を渡るには!』、
『船』を、
『離れるべきでないようなものである!』。
譬如病人不離良醫。菩薩不離諸佛過於上事。何以故。父母親屬知識人天王等。皆不能如佛利益。佛利益諸菩薩離諸苦處。住世尊之地。以是因緣故。菩薩常不離佛。 譬えば、病人は良医を離れざるが如く、菩薩は諸仏を離れざれば、上の事を過ぐ。何を以っての故に、父母、親属、知識、人、天の王等は、皆、仏の如く利益する能わず。仏は、諸菩薩を利益して、諸の苦処を離れしめ、世尊の地に住めしむれば、是の因緣を以っての故に、菩薩は常に仏を離れざるなり。
譬えば、
『病人』が、
『良医』を、
『離れないように!』、
『菩薩』が、
『諸仏を離れなければ!』、
『上の事(余道に錯入すること)』を、
『過すことになる!』。
何故ならば、
『父母、親属、知識、人王、天王』等は、
皆、
『仏のように!』、
『利益することができない!』が、
『仏』は、
『諸菩薩を利益して!』、
『諸の苦処を離れさせ!』、
『世尊の地』に、
『住まらせるからであり!』、
是の、
『因緣』の故に、
『菩薩』は、
常に、
『仏』を、
『離れないのである!』。
問曰。有為之法欺誑不真皆不可信。云何得如願不離諸佛。 問うて曰く、有為の法は、欺誑にして、真ならざれば、皆信ずべからず。云何が、願の如く、諸仏を離れざるを得る。
問い、
『有為の法』は、
『欺誑であり、真でない!』が故に、
皆、
『信じるべきでない!』。
何故、
『願のように!』、
『諸仏』を、
『離れないようにできるのか?』。
答曰。福德智慧具足故乃應得佛。何況不離諸佛。以眾生有無量劫罪因緣故。不得如願。雖行福德而智慧薄少。雖行智慧而福德薄少。故所願不成。菩薩求佛道故。要行二忍。生忍法忍。行生忍故。一切眾生中發慈悲心。滅無量劫罪。得無量福德。行法忍故。破諸法無明。得無量智慧。二行和合故何願不得。以是故。菩薩世世常不離諸佛。 答えて曰く、福徳の智慧、具足するが故に、乃ち応に仏を得べし。何に況んや、諸仏を離れざるをや。衆生には無量劫の罪の因縁有るを以っての故に、願の如きを得ず。福徳を行ずと雖も、智慧薄少にして、智慧を行ずと雖も、福徳薄少なるが故に、所願成ぜず。菩薩は仏道を求むるが故に、要(かなら)ず二忍の生忍と、法忍を行ず。生忍を行ずるが故に、一切の衆生中に慈悲心を発し、無量劫の罪を滅して、無量の福徳を得、法忍を行ずるが故に、諸法の無明を破り、無量の智慧を得て、二行和合するが故に何なる願をか、得ざらん。是を以っての故に、菩薩は世世に常に諸仏を離れざるなり。
答え、
『福徳の智慧が具足する!』が故に、
乃ち( whereupon )、
『仏』を、
『得ることができる!』。
況して、
『諸仏を離れなければ!』、
『尚更である!』。
『衆生』は、
『無量劫の罪業の因縁』の故に、
『願のようにならず!』、
『福徳の業を行っても!』、
『智慧』が、
『薄少であったり!』、
『智慧の業を行っても!』、
『福徳』が、
『薄少である!』ので、
是の故に、
『所願』が、
『成就しない!』が、
『菩薩』は、
『仏道を求める!』為の故に、
『生忍、法忍という!』、
『二忍を行う!』、
『必要がある!』ので、
『生忍を行う!』が故に、
『一切の衆生』中に、
『慈悲心を発して!』、
『無量劫の罪を滅し!』、
『無量の福徳』を、
『得るのであり!』、
『法忍を行う!』が故に、
『諸法という!』、
『無明を破る!』ので、
『無量の智慧』を、
『得ることになり!』、
『菩薩』には、
『二行が和合する!』が故に、
何のような、
『願であろうと!』、
『得られないものはない!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
世世に常に、
『諸仏』を、
『離れないのである!』。
復次菩薩常愛樂念佛故。捨身受身恒得值佛。譬如眾生習欲心重受婬鳥身。所謂孔雀鴛鴦等。習瞋恚偏多生毒虫中。所謂惡龍羅刹蜈蚣毒蛇等。是菩薩心不貴轉輪聖王人天福樂但念諸佛。是故隨心所重而受身形。 復た次ぎに、菩薩は常に愛楽して、仏を念ずるが故に、身を捨つるにも、身を受くるにも、恒に仏に値うを得。譬えば、衆生の欲を習うて、心重く、婬鳥の身の謂わゆる孔雀、鴛鴦等を受け、瞋恚を習うて、偏に多く毒虫中の謂わゆる悪龍、羅刹、蜈蚣、毒蛇等に生ずるが如し。是の菩薩は、心に転輪聖王の人、天の福楽を貴ばず、但だ諸仏を念ずれば、是の故に心の重んずる所に随いて、身形を受くるなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
常に、
『仏』を、
『念じること!』を、
『愛楽する!』が故に、
『身を捨てても、身を受けても!』、
恒に、
『仏』に、
『値うことができる!』が、
譬えば、
『衆生』が、
『欲を習う( following the dictates of passion )!』が故に、
『心が重く!』、
『婬鳥、謂わゆる孔雀、鴛鴦等の身』を、
『受け!』、
『瞋恚を習う!』が故に、
『偏に多く!』、
『毒虫、謂わゆる悪龍、羅刹、蜈蚣、毒蛇等』中に、
『生まれるように!』、
是の、
『菩薩』は、
『心』に、
『転輪聖王や、人、天の福楽』を、
『貴ばず!』、
但だ、
『諸仏』を、
『念じる!』ので、
是の故に、
『心に重んじるがままに!』、
『身形』を、
『受けるのである!』。
  蜈蚣(ごく):多足虫。百足( centipede )。
  習欲(じゅうよく):梵語 kaama-kaamin の訳、願いを願う( wishing wishes )の義、種種の欲望、或は願望を持つ/情熱の命ずるがままに( having various desires or wishes, following the dictates of passion )の意。
復次菩薩常善修念佛三昧因緣故。所生常值諸佛。如般舟三昧中說。菩薩入是三昧。即見阿彌陀佛。便問其佛何業因緣故得生彼國。佛即答言。善男子。以常修念佛三昧憶念不廢故得生我國。 復た次ぎに、菩薩は常に善く念仏三昧を修する因緣の故に、生ずる所は、常に諸仏に値う。般舟三昧中に説けるが如し、菩薩は、是の三昧に入れば、即ち阿弥陀仏に見(まみ)え、便ち其の仏に問わく、『何なる業因縁の故に、彼の国に生ずるを得る』、と。仏の即ち答えて言わく、『善男子、常に念仏三昧を修し、憶念して廃せざるを以っての故に我が国に生ずるを得』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
常に、
『念仏三昧』を、
『善く修める!』、
『因縁』の故に、
『所生( that which is born )』は、
『常に!』、
『仏に値うことができる!』。
『般舟三昧』中に、こう説く通りである、――
『菩薩』が、
是の、
『三昧に入れば!』、
即ち( immediately )、
『阿弥陀仏』に、
『見える( to meet with )ことになり!』、
便ち( and then )、
其の、
『仏』に、こう問うことになる、――
何のような、
『業の因縁』の故に、
彼の、
『国』に、
『生まれることができるのですか?』、と。
『仏』は、即ちこう答えられる、――
善男子!
常に、
『念仏三昧を修めて!』、
『仏を憶念し!』、
『行』を、
『廃さなければ!』、
是の故に、
わたしの、
『国』に、
『生まれられるのである!』、と。
  参考:『般舟三昧経巻1』:『菩薩於是間國土聞阿彌陀佛。數數念。用是念故。見阿彌陀佛。見佛已從問。當持何等法生阿彌陀佛國。爾時阿彌陀佛。語是菩薩言。欲來生我國者。常念我數數。常當守念。莫有休息。如是得來生我國。佛言。是菩薩用是念佛故。當得生阿彌陀佛國。常當念如是佛身。有三十二相悉具足光明徹照。端正無比在比丘僧中說經。』
問曰。何者是念佛三昧得生彼國。 問うて曰く、何者か、是れ念仏三昧にして、彼の国に生ずるを得る。
問い、
『念仏三昧』とは、
何者であり、
『彼の国』に、
『生まれることができるのですか?』。
答曰。念佛者。念佛三十二相八十隨形好金色身。身出光明遍滿十方。如融閻浮檀金其色明淨。又如須彌山王在大海中。日光照時其色發明。 答えて曰く、念仏とは、仏の三十二相、八十随形好、金色の身、身より出づる光明の十方に遍満すること、閻浮檀金を融かして、其の色の明浄なるが如き、又須弥山王の大海中に在りて、日光照す時、其の色の明を発するが如きを念ずるなり。
答え、
『念仏』とは、
『仏』の、
『三十二相、八十随形好を有する!』、
『金色の身』を、
『念じたり!』、
『身より出た!』、
『光明』が、
『十方に遍満する!』のを、
『念じて!』、
譬えば、
『閻浮檀金を融かした!』時の、
『色』が、
『明浄であるようだ!』と、
『念じたり!』、
譬えば、
『大海中の須弥山王が日光に照らされた!』時の、
『色』が、
『光明を発するようだ!』と、
『念じることである!』。
行者是時都無餘色想。所謂山地樹木等。但見虛空中諸佛身相。如真琉璃中赤金外現。亦如比丘入不淨觀。但見身體膖脹爛壞。乃至但見骨人。是骨人無有作者亦無來去。以憶想故見。 行者は、是の時、都て余の色想、謂わゆる山、地、樹木等無く、但だ虚空中に諸仏の身相を見ること、真の琉璃中に赤金の外に現わるるが如し。亦た比丘の不浄観に入るに、但だ身体の膖脹、爛壊を見、乃至但だ骨人を見るに、是の骨人には作者有ること無く、亦た去来すること無けれども、憶想を以っての故に見るが如し。
『行者』は、
是の時、
『余の色想』が、
『都て( at all )!』、
『無く!』、
謂わゆる、
『山、地、樹木等の想』が、
『何も無く!』、
但だ、
『虚空』中に、
『諸仏の身相だけ!』を、
『見る!』、
譬えば、
『真の琉璃』中に、
『赤金の色』が、
『外に現れるようなものである!』。
亦た、
譬えば、
『比丘』が、
『不浄観に入る!』と、
但だ、
『膖脹したり、爛壊した身だけ!』を、
『見るのであり!』、
乃至、
但だ、
『骨人だけ!』を、
『見るのである!』が、
是の、
『骨人』には、
『作者が無く!』、
亦た、
『去、来すること!』も、
『無く!』、
但だ、
『憶想する!』が故に、
『見るようなものである!』。
菩薩摩訶薩入念佛三昧。悉見諸佛亦復如是。以攝心故。心清淨故。譬如人莊嚴其身。照淨水鏡無不悉見。此水鏡中亦無形相。以明淨故見其身像。 菩薩摩訶薩は念仏三昧に入りて、悉く諸仏を見るも、亦復た是の如く、心を摂するを以っての故に、心清浄なるが故なり。譬えば、人の其の身を荘厳するに、浄水の鏡に照せば、悉く見ざる無けれども、此の水鏡中には亦た形相無く、明、浄なるを以っての故に、其の身像を見るが如し。
『菩薩摩訶薩』が、
『念仏三昧に入る!』と、
悉く、
『諸仏』を、
『見るというのも!』、
復た、
是のように、
『心を摂する( to hold )する!』が故に、
『心』が、
『清浄だからである!』。
譬えば、
『人』が、
其の、
『身を荘厳して!』、
『浄水の鏡』に、
『照せば!』、
悉くを、
『見ないということ!』が、
『無い!』のに、
此の、
『水の鏡』中にも、
『形相』が、
『無く!』、
但だ、
『光明が照し、水が浄い!』が故に、
其の、
『身像』を、
『見るようなものである!』。
諸法從本以來常自清淨。菩薩以善修淨心。隨意悉見諸佛問其所疑。佛答所問。聞佛所說心大歡喜。從三昧起作是念言。佛從何所來。我身亦不去。即時便知諸佛無所從來。我亦無所去。 諸法は、本より以来、常に自ら清浄にして、菩薩は、善く浄心を修するを以って、随意に、悉く諸仏に見え、其の疑う所を問い、仏は問う所を答えたまえば、仏の所説を聞いて、心に大歓喜し、三昧より起ちて、此の念を作して言わく、『仏は何所より来たりたまえるも、我が身は、亦た去らず』、と。即時に便ち、諸仏の従来する所無く、我れも亦た去る所無きを知る。
『諸法』は、
本来、
『常に!』、
『自ら!』、
『清浄である!』が故に、
『菩薩』は、
善く、
『心』を、
『修めて!』、
『浄めれば!』、
『意のままに!』、
『諸仏』を、
『悉く、見ることになり!』、
其の、
『疑う所』を、
『仏』に、
『問えば!』、
『仏』は、
『問う所』を、
『答えられる!』ので、
『仏の所説を聞いて!』、
『心に大歓喜し!』、
『三昧より!』、
『起って!』、
こう念じる、――
『仏』が、
『何所から!』、
『来られようと!』、
亦た、
『わたしの身』が、
『去ることはないのだ!』、と。
即時に( immediately )、
便ち( easily )、こう知ることになる、――
『諸仏』には、
『来られた所』が、
『無く!』、
わたしにも、
『去る所』が、
『無い!』、と。
復作是念。三界所有皆心所作。何以故。隨心所念悉皆得見。以心見佛以心作佛。心即是佛心即我身。心不自知亦不自見。若取心相悉皆無智。心亦虛誑皆從無明出。 復た是の念を作さく、『三界の所有は、皆、心の所作なり。何を以っての故に、心の所念に随いて、悉く皆、見るを得ればなり。心を以って仏を見、心を以って仏と作れば、心は即ち是れ仏、心は即ち我が身なるも、心は自ら知らず、亦た自ら見ず。若し心相を取れば、悉く皆、智無く、心も、亦た虚誑にして、皆無明より出づ。
復た、こう念じる、――
『三界の所有』は、
皆、
『心』の、
『所作である!』。
何故ならば、
『心に念じるがままに!』、
皆、
『見ることができるからである!』。
『心を用いて!』、
『仏を見て!』、
『心を用いて!』、
『仏』と、
『作るのであるから!』、
『心』が、
即ち、
『仏である!』が、
『心』は、
即ち、
『わたしの身である!』。
即ち、
『心』は、
『自らを知らず!』、
『自ら!』を、
『見ることもない!』。
若し、
『心相を取れば!』、
悉く、
皆、
『智が無い!』が故に、
亦た、
『心も虚誑であり!』、
皆、
『無明より!』、
『出るのである!』。
因是心相即入諸法實相。所謂常空。得如是三昧智慧已。二行力故隨意所願不離諸佛。如金翅鳥王。二翅具足故於虛空中自在所至。 是の心相に因って、即ち諸法の実相、謂わゆる常空に入る。是の如き三昧と、智慧とを得已りて、二行の力の故に意の願う所に随いて、諸仏を離れず。金翅鳥王の二翅具足するが故に、虚空中に於いて、至る所自在なるが如し。
是の、
『心相』に、
『因れば!』、
即ち、
『諸法の実相』、
謂わゆる、
『常空』に、
『入ることになり!』、
是のような、
『三昧と、智慧とを得て!』、
『二行の力』の故に、
『意に願うがままに!』、
『諸仏』を、
『離れることがない!』。
譬えば、
『金翅鳥の王』が、
『二翅を具足する!』が故に、
『虚空』中に於いて、
『至る!』所が、
『自在であるようなものである!』。
菩薩得是三昧智慧力故。或今身隨意供養諸佛。命終亦復值遇諸佛。以是故說菩薩常不離諸佛者當學般若波羅蜜
大智度論卷第二十九
菩薩は、是の三昧と智慧との力を得るが故に、或は今の身に随意に諸仏を供養し、命終われば亦復た諸仏に値遇す。是を以っての故に説かく、『菩薩の常に諸仏を離れざるは、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
大智度論巻第二十九
『菩薩』は、
是の、
『三昧と、智慧との力を得る!』が故に、
或は、
『今の身』が、
『意のままに!』、
『諸仏』を、
『供養して!』、
『命が終わっても!』、
復た、
『諸仏』に、
『値遇するのである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩』が、
常に、
『諸仏』を、
『離れない!』のは、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学んだからである!』、と。

大智度論巻第二十九


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