巻第二十九(上)
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大智度論初品中布施隨喜心過上釋論第四十四之餘(卷二十九)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


声聞、辟支仏を求める人の禅定、解脱、三昧の上を過ぎる

【經】一切求聲聞辟支佛人諸禪定解脫三昧。欲以隨喜心過其上者。當學般若波羅蜜 一切の声聞、辟支仏を求むる人の諸の禅、定、解脱、三昧を、随喜心を以って、其の上を過ぎんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
一切の、
『声聞、辟支仏を求める人』の、
諸の、
『禅、定、解脱、三昧を随喜し!』、
此の、
『随喜する( sympathetically joying )心』で、
其の、
『禅定等の上』を、
『過ぎようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】禪定者。四禪九次第定。解脫三昧者。八背捨三解脫門。慧解脫共解脫。時解脫不時解脫。有為解脫無為解脫等。有覺有觀三昧。無覺有觀三昧。無覺無觀三昧。空三昧無相三昧無作三昧。如是等諸三昧。 禅定とは、四禅、九次第定なり。解脱、三昧とは、八背捨、三解脱門、慧解脱、共解脱、時解脱、不時解脱、有為解脱、無為解脱等と、有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧、空三昧、無相三昧、無作三昧、是れ等の如き諸三昧なり。
『禅、定』とは、
『四禅と!』、
『九次第定( 無間に次第に修する四禅四無色定及び滅尽定の総称)である!』。
『解脱三昧』とは、
『八背捨、三解脱門、慧解脱、共解脱、時解脱、不時解脱、有為解脱、無為解脱等の!』、
『諸の解脱と!』、
『有覚有観、無覚有観、無覚無観の三三昧と、空、無相、無作の三三昧と!』、
是れ等のような、
『諸の三昧である!』。
  四禅:『大智度論巻20(上)』参照。
  九次第定:『大智度論巻21(上)、17(下)注:九次第定』参照。
  八背捨:『大智度論巻21(上)』参照。
  三解脱門:『大智度論巻20(上)』参照。
  慧解脱共解脱:未だ滅尽定を得ず、慧のみを以って煩悩障を解脱することを慧解脱といい、滅尽定を得て慧と定とを以って煩悩障と解脱障(定障)との二障を解脱することを共解脱(倶解脱)という。『大智度論巻2(上)注』参照。
  時解脱不時解脱:『大智度論巻3(下)注』参照。
  有為解脱無為解脱:『大智度論巻26(上)』参照。
  有覚有観三昧無覚有観三昧無覚無観三昧:『大智度論巻23(下)』参照。
  空三昧無相三昧無作三昧:『大智度論巻20(上)』参照。
問曰。上六事中三昧即是禪定解脫三昧。今何以復說。 問うて曰く、上の六事中の三昧は、即ち是れ禅定、解脱、三昧なり。今は何を以ってか、復た説く。
問い、
上の、
『六事(布施、持戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見)中の三昧』が、
即ち、
『禅定、解脱、三昧なのに!』、
今、
何故、
復た、
『説くのですか?』。
  六事(ろくじ):大智度論巻28所説の布施、持戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見を指す。『大智度論巻28(下)』参照。
答曰。有二種三昧。一種慧解脫分。二種共解脫分。前者慧解脫分。不能入禪定。但說未到地中三昧。此中說共解脫分。具有禪定解脫三昧。彼是略說此則廣說。彼但說名此中分別義。 答えて曰く、二種の三昧有り、一種は慧解脱分、二種は共解脱分なり。前者は慧解脱分にして、禅定に入る能わざれば、但だ未到地中の三昧を説けり。此の中には共解脱分を説き、禅定、解脱、三昧を具有す。彼れは是れ略説にして、此れは則ち広説なり。彼れは但だ名を説き、此の中に義を分別す。
答え、
『三昧』には、
『二種有り!』、
一は、
『慧解脱の分であり!』、
二は、
『共解脱の分である!』。
前に説くのは、
『慧解脱の分であり!』、
『禅定』に、
『入ることができない!』ので、
但だ、
『未到地中の三昧』を、
『説くだけである!』が、
此の中に説くのは、
『共解脱の分であり!』、
『禅定、解脱、三昧』を、
『具有する( to contain/know thoroughly )!』。
彼れは、
『略説である!』が、
此れは、
『広説である!』。
彼れは、
但だ、
『名』を、
『説いただけなので!』、
此の中に、
『義』を、
『分別するのである!』。
復次前勝三昧者。有人謂一二三昧非深三昧。今此中具說禪定解脫甚深三昧。 復た次ぎに、前の勝三昧を、有る人の謂わく、『一二の三昧は深き三昧に非ず』、と。今此の中には禅定、解脱を具に、『甚だ深き三昧なり』、と説く。
復た次ぎに、
前の、
『勝れた三昧』を、――
有る人は、
『一、二の三昧』は、
『深い三昧ではない!』と、
『謂っている!』が、
今、
此の中には、
『禅定や、解脱を具に!』、
『甚だ深い三昧である!』と、
『説く!』。
復次禪定解脫三昧有二種。一者離欲時得。二者求而得。離欲得者前已說。求而得者此中說。 復た次ぎに、禅定、解脱、三昧には、二種有り、一には離欲の時に得、二には求めて得。離欲して得る者は、前に已に説き、求めて得る者は、此の中に説く。
復た次ぎに、
『禅定、解脱、三昧』には、
『二種有り!』、
一には、
『欲を離れた!』時に、
『得ることができ!』、
二には、
『求めれば!』、
『得ることができる!』。
『欲を離れて!』、
『得る!』者は、
前に已に、
『説かれている!』ので、
『求めて!』、
『得る!』者を、
此の中に、
『説くのである!』。
復次禪定解脫三昧得之甚難。精懃求之乃得。菩薩但持隨喜心便得過其上。是為未嘗有法。是故重說。 復た次ぎに、禅定、解脱、三昧は、之を得ること甚だ難く、精懃し、之を求めて乃ち得るも、菩薩は但だ随喜心を持すれば、便ち其の上を過ぐるを得。是れを未だ嘗て有らざる法と為し、是の故に重ねて説けり。
復た次ぎに、
『禅定、解脱、三昧』は、
『得ること!』が、
『甚だ!』、
『難しく!』、
『精懃して!』、
『求めて!』、
乃ち( barely )、
『得られるのである!』が、
『菩薩』は、
但だ、
『随喜する!』、
『心』を、
『保持するだけで!』、
便ち( easily )、
其の、
『禅定等の上』を、
『過ぎるのである!』から、
是の、
『法』は、
未だ、
嘗て、
『無かったので!』、
是の故に、
『重ねて!』、
『説くのである!』。
問曰。彼中三昧智慧解脫解脫知見亦難得。何以言此為難得。 問うて曰く、彼の中の三昧、智慧、解脱、解脱知見も亦た得難し。何を以ってか、此れを言って、得難しと為す。
問い、
彼の中の、
『三昧、智慧、解脱、解脱知見も!』、
亦た、
『得難いのに!』、
何故、
此れを、
『得難い!』と、
『言うのですか?』。
答曰。先以說。是慧解脫分。不盡甚深義。共解脫阿羅漢三明阿羅漢難得故更說。 答えて曰く、先に、是の慧の解脱分を説くも、甚だ深き義を尽くさずして、共解脱の阿羅漢、三明の阿羅漢の得がたきを以っての故に、更に説く。
答え、
先には、
是の、
『慧解脱の分を説いただけで!』、
『三昧』の、
『甚だ深い義』を、
『尽くさなかった!』し、
亦た、
『共解脱(滅尽定中の解脱)の阿羅漢や!』、
『三明(宿命明、天眼明、漏尽明)の阿羅漢にも!』、
是の、
『義』は、
『得難いので!』、
是の故に、
更に、
『説くのである!』。
復次是三昧智慧解脫解脫知見。雖難得而不廣周悉。直為涅槃。此間明阿羅漢欲得現世禪定樂。所謂滅盡定頂際禪願智無諍三昧等。如是事非直為涅槃。以是故更廣說。何以故。如前者直為涅槃。彼中說解脫解脫知見相次故。當知一向直為涅槃。 復た次ぎに、是の三昧、智慧、解脱、解脱知見は得難くして、広く周く悉(よくし)らず、直だ涅槃の為なりと雖も、此の間には、阿羅漢の得んと欲する現世の禅定の楽、謂わゆる滅尽定、頂際禅、願智、無諍三昧等、是の如き事の直だ涅槃の為なるに非ざるを明し、是を以っての故に、更に広説す。何を以っての故に、前の者の直だ涅槃の為なるが如く、彼の中に説ける解脱、解脱知見の相次ぐが故に、当に知るべし、一向に直だ涅槃の為なり。
復た次ぎに、
是の、
『三昧、智慧、解脱、解脱知見』は、
『得難くて!』、
『広く周く!』、
『知悉せず!』、
直だ、
『涅槃』の、
『為になるだけである!』が、
此の間には、
『阿羅漢の得ようとする!』、
『現世の禅定の楽』、
謂わゆる、
『滅尽定や、頂際禅、願智、無諍三昧』等の、
是のような、
『事』が、
直だ、
『涅槃の為になるだけではない!』と、
『明かして!』、
是の故に、
『重ねて!』、
『広説するのである!』。
何故ならば、
『前の者(三昧、智慧)』が、
直だ、
『涅槃の為だったように!』、
彼の中に、
『解脱や、解脱知見』を、
『相次いで!』、
『説かれている!』が故に、
当然、こう知らねばならない、――
是の、
『解脱や、解脱知見』も、
『一向に直だ( consistently )!』、
『涅槃の為なのである!』。
  (しつ):<形容詞>[本義]詳細な( detailed )。<副詞>都て/全てに/完全に( all, entire )。<動詞>詳しく述べる/説明する( elaborate, expound )、詳しく知る/知悉/認識/了解する( know, realize, be aware of, learn )、使い尽くす/最前を尽くす( use up, try one's best )。
  頂際禅:阿羅漢の修める禅。頂禅。
  願智:願って生じ来す智慧。
  無諍三昧:他と諍わない禅定。
  :頂際禅、願智、無諍三昧等は第四禅中の禅定。『大智度論巻17(下)』参照。
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻27』:『以願為先引妙智起如願而了故名願智。此智自性地種性身與無諍同。但所緣別。以一切法為所緣故。』
問曰。若以禪定解脫三昧難得故重說者。智慧於一切法中最難微妙。何以不重說。 問うて曰く、若し禅定、解脱、三昧の得難きを以っての故に重ねて説けば、智慧は、一切の法中に於いて、最も難く微妙なるに、何を以ってか、重ねて説かざる。
問い、
若し、
『禅定や、解脱、三昧』を、
『得難い!』が故に、
『重ねて!』、
『説くのであれば!』、
『智慧』は、
『一切の法』中に、
『最も難しく!』、
『微妙なのに!』、
何故、
『重ねて!』、
『説かないのですか?』。
答曰。上言欲過聲聞辟支佛慧。當學般若波羅蜜中已說。此禪定未說故重說禪定智慧二法最妙。有此二行所願皆得。如鳥有兩翼能有所至。解脫從此二法得。解脫知見即是智慧。布施持戒是身口業。麤行易得故不重說。 答えて曰く、上に、『声聞、辟支仏の慧を過ぎんと欲すれば、当に般若波羅蜜を学すべし』と言う中に、已に説けり。此の禅定は、未だ説かざるが故に重ねて説く。禅定、智慧の二法は最も妙にして、此の二行有れば、所願を皆得ること、鳥に両翼有りて、能く至る所有るが如し。解脱は、此の二法より得、解脱知見は即ち是れ智慧にして、布施、持戒は、是れ身口の業の麁行なれば得易きが故に重ねて説かず。
答え、
上に、
『声聞、辟支仏の慧』を、
『過ぎよう!』と、
『思えば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』と、
『言った!』中に、
已に、
『智慧の事』は、
『説かれている!』が、
此の、
『禅定』は、
未だ、
『説かれていない!』が故に、
『重ねて!』、
『説くのである!』。
此の、
『禅定、智慧の二法』は、
『最妙であり!』、
此の、
『禅定、智慧の二行が有れば!』、
『願う!』所を、
『皆、得られる!』のは、
譬えば、
『鳥に両翼が有る!』が故に、
『至ることのできる!』所が、
『有るようなものであり!』、
『解脱』は、
此の、
『二法』を、
『行うことにより!』、
『得られ!』、
『解脱知見』は、
即ち、
『智慧である!』が故に、
『重ねて!』、
『説くことがなく!』、
『布施、持戒という!』、
『身、口の業は麁行であり!』、
『得易い!』が故に、
『重ねて!』、
『説くことはない!』。
問曰。菩薩以隨喜心勝於聲聞辟支佛布施持戒智慧可爾。所以者何。布施持戒眼見耳聞。智慧亦是聞法。可得生隨喜心。如禪定解脫三昧。是不可見聞法。云何隨喜。 問うて曰く、菩薩は、随喜心を以って、声聞、辟支仏の布施、持戒、智慧に勝ること、爾るべし。所以は何んとなれば、布施、持戒は眼に見、耳に聞き、智慧も亦た是れ法を聞いて、随喜心を生ずるを得べければなり。禅定、解脱、三昧の如きは、是れ見聞すべからざる法なれば、云何が随喜せん。
問い、
『菩薩』が、
『随喜心を用いて!』、
『声聞、辟支仏の布施、持戒、智慧』に、
『勝ること!』は、
『その通りだろう!』。
何故ならば、
『布施、持戒』は、
『眼に見ることができ!』、
『耳』に、
『聞くことができる!』し、
『智慧』も、
亦た、
『法』を、
『聞けば!』、
『随喜する!』、
『心』を、
『生じさせることができるからである!』。
『禅定や、解脱、智慧』は、
『見、聞すべき!』、
『法でない!』のに、
何のようにして、
『随喜するのですか?』。
答曰。菩薩以知他心智而隨喜。 答えて曰く、菩薩は、知他心智を以って、随喜すればなり。
答え、
『菩薩』は、
『知他心智を用いて!』、
『随喜するのである!』。
問曰。知他心智法。有漏知他心智知他有漏心。無漏知他心智知他無漏心。菩薩未成佛。云何知聲聞辟支佛無漏心。 問うて曰く、知他心智の法は、有漏の知他心智は、他の有漏心を知り、無漏の知他心智は、他の無漏心を知る。菩薩は、未だ仏に成らざるに、云何が声聞、辟支仏の無漏心を知る。
問い、
『知他心智という!』、
『法』は、
『有漏の知他心智』は、
他の、
『有漏の心』を、
『知り!』、
『無漏の知他心智』は、
他の、
『無漏の心』を、
『知るものである!』。
『菩薩』は、
未だ、
『仏と成っていない!』のに、
何故、
『声聞、辟支仏の無漏の心』を、
『知るのですか?』。
  参考:『大智度論巻23(下)』:『他心智緣有漏心是有漏。緣無漏心是無漏。』
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻100』:『他心智能知同類心心所法非不同類。謂有漏者知有漏。無漏者知無漏。曾得者知曾得。未曾得者知未曾得。法智品者知法智品。類智品者知類智品。聲聞他心智於見道唯能知二剎那心。獨覺他心智於見道唯能知三剎那心。佛他心智於見道次第能知十五剎那心。所以者何。佛他心智。不由加行而現在前。獨覺他心智。由下加行而得現前。聲聞他心智。由中加行或上加行方現前故。』
答曰。汝聲聞法中爾。摩訶衍法中。菩薩得無生忍法斷諸結使。世世常不失六神通。以有漏他心智。能知無漏心。何況以無漏知他心智。 答えて曰く、汝が声聞法中には爾り。摩訶衍法中の菩薩は、無生忍の法を得て、諸結使を断じ、世世に常に六神通を失わざれば、有漏の他心智を以って、能く無漏の心を知る。何に況んや、無漏の知他心智を以ってをや。
答え、
お前の、
『声聞法』中には、
『その通りだが!』、
『摩訶衍法』中には、
『菩薩』は、
『無生忍の法を得て!』、
諸の、
『結使を断じ!』、
世世に常に、
『六神通』を、
『失わない!』ので、
是の故に、
『有漏の他心智を用いても!』、
『無漏の心』を、
『知ることができる!』、
況して、
『無漏の知他心智を用いれば!』、
『尚更である!』。
復有人言。初發意菩薩。未得法性生身。若見若聞聲聞辟支佛布施持戒。皆知當得阿羅漢隨喜心。言此人得諸法實相離三界。我所欲度一切眾生生老病死。彼已得脫則是我事。如是等種種因緣隨喜。以是故隨喜無咎 復た有る人の言わく、『初発意の菩薩は、未だ法性生身を得ざるも、声聞、辟支仏の布施、持戒を若しは見、若しは聞くに、皆、当に阿羅漢を得べきを知り、随喜して心に言わく、『此の人は、諸法の実相を得て、三界を離る。我が一切の衆生をして、度せんと欲する所の生老病死を、彼れは已に脱るるを得たり、則ち是れ我が事なり』、と。是れ等の如き種種の因縁に随喜すれば、是を以っての故に随喜するも咎無し。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『初発意の菩薩』は、
未だ、
『法性生身を得ていない!』が、
若し、
『声聞、辟支仏』が、
『布施、持戒する!』のを、
『見、聞すれば!』、
皆、
『阿羅漢を得るはずだ!』と、
『知り!』、
『随喜して!』、
『心』に、こう言う、――
此の、
『人』は、
『諸法の実相を得て!』、
『三界』を、
『離れており!』、
わたしが、
『一切の衆生』を、
『度らせたい!』と、
『思う!』所の、
『生老病死』を、
『彼れは!』、
『已に脱れているのであり!』、
則ち、
是れが、
『わたしの!』、
『仕事なのだ!』と、と。
是れ等のような、
種種の、
『因縁で随喜するので!』、
是の故に、
『随喜しても!』、
『咎』は、
『無いのである!』。



大智度論初品中迴向釋論第四十五 


菩薩摩訶薩の少施、少忍、少進、少禅、少智

【經】菩薩摩訶薩行少施少戒少忍少進少禪少智。欲以方便力迴向故而得無量無邊功德者。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩は、少施、少戒、少忍、少進、少禅、少智を行じて、方便力を以って迴向するが故に、無量無辺の功徳を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『少施、少戒、少忍、少進、少禅、少智を行って!』、
『方便力を用いて!』、
是の、
『功徳を迴向する!』が故に、
『無量無辺の功徳』を、
『得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。前已說六波羅蜜。今何以復說。 問うて曰く、前に已に六波羅蜜を説けるに、今は何を以ってか、復た説く。
問い、
前に、
已に、
『六波羅蜜』を、
『説いたのに!』、
今、
何故、
復た、
『説くのですか?』。
答曰。上總相說。此欲別相說。彼說因緣此說果報。 答えて曰く、上には総相を説き、此には別相を説かんと欲す。彼には因縁を説き、此には果報を説く。
答え、
上に、
『六波羅蜜』の、
『総相』を、
『説いた!』ので、
此に、
『別相』を、
『説こうとするのである!』。
彼には、
『六波羅蜜という!』、
『因縁』を、
『説いた!』ので、
此に、
『果報』を、
『説くのである!』。
問曰。不爾。彼中說六波羅蜜廣普具足。此言少施乃至少智。似不同上六波羅蜜義。 問うて曰く、爾らず。彼の中に説ける六波羅蜜は、広く普く具足せるに、此に言う少施、乃至少智は、上の六波羅蜜の義に同じからざるに似たり。
問い、
そうではありません!
彼の中に説かれた、
『六波羅蜜』は、
『広く普く!』、
『具足している!』が、
此に言う、
『少施、乃至少智』は、
上の、
『六波羅蜜の義』と、
『同じでないように見えます!』。
  (じ):<助詞>[譬喩的に]のように/如く( like as )。<動詞>[本義]のように見える/相似の( look like, seem, look as if, similar )。<介詞>[比較して程度が更に甚だしきに用いる]よりも更に( than )。
  参考:『現在賢劫千仏名経』:『爾時喜王菩薩白佛言。世尊。今此眾中頗有菩薩摩訶薩得是三昧。亦得八萬四千波羅蜜門。諸三昧門陀羅尼門者不。佛告喜王。今此會中有菩薩大士。得是三昧。亦能入八萬四千諸波羅蜜。及諸三昧陀羅尼門。此諸菩薩於是賢劫中。皆當得阿耨多羅三藐三菩提。除四如來於此劫中得成佛已。喜王菩薩復白佛言。惟願加哀。當宣此諸菩薩名字多所饒益。安隱世間利諸天人。為護佛法令得久住。為護將來菩薩顯示法明。求無上道心不疲懈。佛告喜王。汝今諦聽善思念之當為汝說。唯然世尊。願樂欲聞。爾時世尊即以偈說諸佛名字。拘那提佛為千佛上首』
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻7』:『舍利弗問須菩提。菩薩摩訶薩云何行六波羅蜜時淨菩薩道。須菩提言。有世間檀那波羅蜜。有出世間檀那波羅蜜。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜般若波羅蜜。有世間有出世間。』
答曰。不然。即是六波羅蜜。何以故。六波羅蜜義在心不在事多少。菩薩行若多若少。皆是波羅蜜。如賢劫經說。八萬四千諸波羅蜜。此經中亦說。有世間檀波羅蜜。有出世間檀波羅蜜。乃至般若波羅蜜。亦有世間出世間。 答えて曰く、然らず、即ち是れ六波羅蜜なり。何を以っての故に、六波羅蜜の義は、心に在りて、事の多少に在らず。菩薩は若しは多く、若しは少なく行ずるも、皆、是れ波羅蜜なり。『賢劫経』に、八万四千の諸の波羅蜜を説けるが如し。此の経中にも亦た、『世間の檀波羅蜜有り、出世間の檀波羅蜜有り、乃至般若波羅蜜も亦た世間と出世間と有り』、と説く。
答え、
そうでない!
是れが、
即ち、
『六波羅蜜なのである!』。
何故ならば、
『六波羅蜜の義』は、
『心に在って!』、
『事の多、少』に、
『在るのではなく!』、
『菩薩の行う!』のが、
『多くても、少なくても!』、
皆、
『波羅蜜だからである!』。
例えば、
『賢劫経』には、
『八万四千の諸の波羅蜜』が、
『説かれている!』が、
此の、
『経』中にも、
亦た、
『世間や、出世間の!』、
『檀波羅蜜が有り!』、
乃至、
『般若波羅蜜にも!』、
『世間や、出世間が有る!』と、
『説くのである!』。
問曰。菩薩何以故少施。 問うて曰く、菩薩にして、何を以っての故にか、少施なる。
問い、
『菩薩』が、
何故、
『少施なのですか?』。
答曰。有種種因緣故少施。或有菩薩。初發意福德未集貧故少施。或有菩薩聞施無多少功德在心。以是故不求多物布施。但求好心。或有菩薩作是念。若我求多集財物。破戒失善心心散亂多惱眾生。若惱眾生以供養佛。佛所不許破法求財故。若施凡人奪彼與此非平等法。如菩薩法等心一切皆如兒子。以是故少施。 答えて曰く、種種の因縁有るが故に少施なり。或は有る菩薩は、初発意にして、福徳の未だ集まらず、貧なるが故に少施なり。或は有る菩薩は、施には多少無く、功徳は心に在りと聞き、是を以っての故に多物を求めて、布施せず、但だ好心を求む。或は有る菩薩は、是の念を作さく、『若し我れ多くに求めて財物を集めば、破戒して善心を失い、心散乱して、多く衆生を悩ません。若し衆生を悩ますを以って仏を供養せば、仏の許さざる所ならん。法を破りて財を求むるが故なり。若し凡人に施すに、彼れより奪いて此れに与えば、平等法に非ず。菩薩法の如きは、等心もて一切は、皆児子の如し。是を以っての故に少施なり』、と。
答え、
種種の、
『因縁が有る!』が故に、
『少し!』、
『施すのである!』。
或は有る、
『菩薩』は、
『初発意であって!』、
未だ、
『福徳が集まらず!』、
『貧しい!』が故に、
『少し施し!』、
或は有る、
『菩薩』は、
『施には多、少が無く!』、
『施の功徳』は、
『心に在る!』と、
『聞いて!』、
是の故に、
『布施する!』為に、
『多物』を、
『求めず!』、
但だ、
『好心のみ!』を、
『求めるのである!』。
或は有る、
『菩薩』は、こう念じる、――
若し、
わたしが、
『多くに求めて!』、
『財物』を、
『集めれば!』、
『破戒して!』、
『善心』を、
『失う!』が故に、
『心が散乱して!』、
『多くの衆生』を、
『悩ますだろう!』。
若し、
『衆生を悩まして!』、
『仏』を、
『供養すれば!』、
『法を破って!』、
『財』を、
『求めることになる!』が故に、
『仏』には、
『許されないだろう!』。
若し、
『凡人( ordinary people )に施して!』、
彼の、
『人より!』、
『奪って!』、
此の、
『人に!』、
『与えれば!』、
是れは、
『平等の法ではない!』。
『菩薩の法』は、
『等心である!』が故に、
一切は、
『皆、児子のようであり!』、
是の故に、
『少ししか!』、
『施さないのである!』、と。
復次菩薩有二種。一者敗壞菩薩。二者成就菩薩。 復た次ぎに、菩薩には二種有り、一には敗壊の菩薩、二には成就の菩薩なり。
復た次ぎに、
『菩薩』には、
『二種有り!』、
一には、
『敗壊の菩薩であり!』、
二には、
『成就の菩薩である!』。
敗壞菩薩者。本發阿耨多羅三藐三菩提心。不遇善緣五蓋覆心。行雜行轉身受大富貴。或作國王或大鬼神王龍王等。以本造身口意惡業不清淨故。不得生諸佛前及天上人中無罪處。是名為敗壞菩薩。如是人雖失菩薩心。先世因緣故猶好布施。多惱眾生劫奪非法取財以用作福。 敗壊の菩薩とは、本阿耨多羅三藐三菩提の心を発すも、善縁に遇わずして五蓋に心を覆われ、雑行を行じて、身を転じて大富貴を受け、或は国王、或は大鬼神王、龍王等と作り、本、身、口、意の悪業を造りて、清浄ならざるを以っての故に、諸仏の前、及び天上、人中の罪無き処に生ずるを得ず。是れを名づけて、敗壊の菩薩と為す。是の如き人は、菩薩の心を失うと雖も、先世の因縁の故に、猶お布施を好んで、多く衆生を悩して劫奪し、非法に財を取りて、以って用いて福を作す。
『敗壊の菩薩』とは、
本、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を発した!』が、
『善縁に遇わず!』、
『五蓋に!』、
『心が覆われる!』ので、
『雑行を行い!』、
『身を転じて!』、
『大富貴』を、
『受け!』、
或は、
『国王や、大鬼神王、龍王等に作っても!』、
本、
『身、口、意の悪業を造って!』、
『清浄でない!』が故に、
『諸仏の前や、天上、人中』の、
『無罪の処』に、
『生まれることができない!』。
是れを、
『敗壊の菩薩』と、
『呼ぶのである!』。
是のような、
『人』は、
『菩薩の心を失っても!』、
『前世の因縁』の故に、
猶お、
『布施』を、
『好むのである!』が、
多くは、
『衆生』を、
『悩ませて!』、
『劫奪し!』、
『非法に取った財を用いて!』、
『福業』を、
『作すのである!』。
成就菩薩者。不失阿耨多羅三藐三菩提心慈愍眾生。或有在家受五戒者。有出家受戒者。 成就の菩薩は、阿耨多羅三藐三菩提の心を失わずして、衆生を慈愍し、或は在家にして五戒を受くる者有り、出家して戒を受くる者有り。
『成就の菩薩』とは、
『阿耨多羅三藐三菩提の心を失わず!』、
『衆生』を、
『慈愍する!』ので、
或は、
『在家であって!』、
『五戒を受ける!』者が、
『有り!』、
『出家して!』、
『戒を受ける!』者も、
『有る!』。
在家菩薩。雖行業成就。有先世因緣貧窮。聞佛法有二種施。法施財施。出家人多應法施。在家者多應財施。我今以先世因緣故不生富家。見敗菩薩輩作罪布施心不喜樂。聞佛不讚多財布施。但美心清淨施。以是故隨所有物而施。 在家の菩薩は、行業成就すと雖も、先世の因縁有りて貧窮なるも、仏法には、二種の施の法施、財施有りて、出家人は多く応に法施すべく、在家の者は多く応に財施すべきを聞き、我れは今、先世の因縁を以っての故に富家に生ぜず、敗菩薩の輩の罪を作りて布施するも、心に喜楽せざるを見、仏の多く財の布施を讃じたまわず、但だ心清浄なる施を美(ほ)めたもうを聞き、是を以っての故に所有する物に随いて施さん。
『在家の菩薩』は、
『行業が成就しても!』、
『先世の因縁が有って!』、
『貧窮であっても!』、
『仏法中の施』には、
『法施、財施の二種が有り!』、
『出家人は、多く法施すべきであり!』、
『在家の者は、多く財施すべきだ!』と、
是のように、
『聞いて!』、こう念じる、――
わたしは、
今、
『先世の因縁』の故に、
『富家に生まれなかった!』が、
『敗壊の菩薩の輩が罪を作りながら!』、
『布施しても!』、
『心が喜楽しない!』のを、
『見た!』し、
『仏』は、
『多くの財』を、
『布施しても!』、
『讃じられず!』、
但だ、
『心の清浄な布施だけ!』を、
『称美される!』と、
『聞いた!』ので、
是の故に、
『所有する物』に、
『随って!』、
『布施するのである!』、と。
又出家菩薩守護戒故不畜財物。又自思惟戒之功德勝於布施。以是因緣故。隨所有而施。 又出家の菩薩は戒を守護するが故に財物を蓄えず、又自ら思惟すらく、『戒の功徳は、布施に勝れば、是の因縁を以っての故に、所有に随いて施さん』、と。
又、
『出家の菩薩』は、
『戒を守護する!』が故に、
『財物』を、
『蓄えない!』ので、
又、
自ら、こう思惟する、――
『持戒の功徳』は、
『布施』に、
『勝る!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『所有に随って!』、
『布施しよう!』、と。
復次菩薩聞佛法中本生因緣。少施得果報多。如薄拘羅阿羅漢。以一訶梨勒果藥布施。九十一劫不墮惡道。受天人福樂身常不病。末後身得阿羅漢道。 復た次ぎに、菩薩は、仏法中の本生の因縁に、少施にして、果報を得ること多きを聞く。薄拘羅阿羅漢の如きは、一訶梨勒果の薬の布施を以って、九十一劫、悪道に堕せず、天人の福楽を受け、身は常に病まず、末後の身に阿羅漢道を得たり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『仏法中の本生( the origin of Buddha's birth )の因縁』に、
『少施であっても、得られる果報は多い!』と、
『聞くからである!』。
例えば、
『薄拘羅阿羅漢など!』は、
『一訶梨勒果の薬を布施して!』、
『九十一劫』、
『悪道に堕ちず!』、
『天、人の福楽を受け!』、
『身は、常に病まず!』、
『末後の身』に於いて、
『阿羅漢道』を、
『得たのである!』。
  本生(ほんしょう):◯梵語 jaataka の訳、仏の生活に関する記録( accounts of the Buddhaʼs lives )の意。◯梵語 maula の訳、本源に由来する( derived from roots )の義。◯梵語 muulotpaada の訳、誕生の起源( origin of birth )の義。
  薄拘羅:『大智度論巻22(上)』参照。
  訶梨勒:梵語 hariitakii の音訳、英語 myrobalan, 学名 Terminaria chebula 、熱帯アジア産シクンシ科モモタマナ属の落葉高木、又はその乾燥した果実。
又如沙門二十億耳。於鞞婆尸佛法中作一房舍給比丘僧。布一羊皮令僧蹈上。以是因緣故。九十一劫中足不蹈地。受人天中無量福樂。末後身生大長者家。受身端政足下生毛長二寸色如青琉璃右旋。初生時父與二十億兩金。後厭世五欲出家得道。佛說精進比丘第一。 又沙門二十億耳の如きは、鞞婆尸仏の法中に於いて、一房舎を作りて、比丘僧に給し、一羊皮を布(し)いて僧をして上を踏ましむれば、是の因縁を以っての故に、九十一劫中に足の地を踏むことなく、人天中の無量の福楽を受け、末後の身に大長者の家に生じ、身の端政なるを受け、足下に毛を生じて、長きこと二寸、色は青琉璃の如くして、右に旋(めぐ)れり。初生の時、父は二十億両の金を与うるに、後に世の五欲を厭うて、出家し、道を得れば、仏は精進の比丘の第一なりと説きたまえり。
又、
『沙門二十億耳など!』は、
『鞞婆尸仏の法』中に、
『一房舎を作り!』、
『比丘僧』に、
『給与したり!』、
『一羊皮を敷いて!』、
『僧』に、
『羊皮上を踏ませた!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『九十一劫』中、
『足が地を踏まず!』、
『人、天中の無量の福楽』を、
『受け!』、
『大長者の家』に、
『末後の身』を、
『生じ!』、
『受けた身』は、
『端正であって!』、
『足下に毛を生じ!』、
『足下の毛』は、
『長さ二寸!』、
『色は青琉璃であり!』、
『右に旋回していた!』。
『初生の時( at the time of birth )に!』、
『父』は、
『二十億両の金』を、
『与えた!』が、
後に、
『世の五欲を厭い!』、
『出家して!』、
『得道した!』ので、
『仏』が、
『二十億耳の精進』は、
『比丘中の第一である!』と、
『説かれたのである!』。
  二十億耳:足下より血を出して地を染むるも、なお精進して経行せし因縁により、仏は比丘に革靴を履くことを許された。『大智度論巻22(上)』参照。
  参考:『十誦律巻25』:『佛在王舍城瞻蔔國。中有長者子。字沙門二十億。是人棄二十億金。捨瞻蔔城五百聚落阿尼目佉出家。徒跣空地經行。足下血出遍流經行地。經行此頭彼頭烏啄血。佛與阿難到是處見是事。佛知故問阿難。誰是處經行地血流漫。阿難答言。世尊。是瞻蔔國中長者子。字沙門二十億。棄二十億金。捨闡蔔城五百聚落阿尼目佉出家。徒跣經行。足下血流遍經行地。經行此頭彼頭烏啄血。佛以是事集僧。集僧已。佛知故問。汝實爾不。答言。實爾世尊。佛言。沙門汝能著一重經行革屣不。答言不能。佛言何以不能。答言世尊。我儻有同守戒。諸比丘當言。瞻蔔國中長者子。字沙門二十億。棄二十億金。捨瞻蔔城五百聚落阿尼目佉出家。而染著一重革屣。若佛聽一切比丘著。我當著。佛種種因緣讚戒讚持戒。讚戒讚持戒已。語諸比丘。從今聽著一重經行革屣。』
又如須蔓耳比丘。先世見鞞婆尸佛塔。以耳上須蔓華布施。以是因緣故。九十一劫中常不墮惡道。受天上人中樂。末後身生時。須蔓在耳香滿一室故。字為須蔓耳。後厭世出家得阿羅漢道。菩薩如是等本生因緣少施得大報。便隨所有多少而布施。 又、須蔓耳比丘の如きは、先世に鞞婆尸仏の塔を見て、耳の上の須蔓華を以って布施すれば、是の因縁を以っての故に、九十一劫中常に悪道に堕ちず、天上、人中の楽を受け、末後の身の生ずる時、須蔓、耳に在りて、香、一室を満たせば、字(な)づけて須蔓耳と為し、後に世を厭い、出家して阿羅漢道を得たり。菩薩は、是れ等の本生の因縁の如く、少施にして、大報を得れば、便ち所有の多少に随いて、布施す。
又、
『須蔓耳比丘など!』は、
『先世に!』、
『鞞婆尸仏の塔を見て!』、
『耳の上の須蔓華』を、
『布施した!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『九十一劫中常に!』、
『悪道に堕ちず!』、
『天上、人中の楽』を、
『受けて!』、
『末後の身が生じた!』時には、
『須蔓華が耳に在って!』、
『香』が、
『一室に満ちた!』ので、
是の故に、
『須蔓耳』と、
『呼ばれたのである!』が、
後に、
『世を厭うて!』、
『出家し!』、
『阿羅漢道を得たのである!』。
『菩薩』は、
是れ等の、
『本生の因縁のように!』、
『少施でも!』、
『大報』を、
『得るのであり!』、
便ち( conveniently )、
『所有物』の、
『多、少に随って!』、
『布施するのである!』。
  須蔓(しゅまん):黄白の甚だ香りの好い花を咲かす高木。
  須蔓耳(しゅまんに):過去七仏の第一惟衛仏の時、耳に付けた須蔓の花を仏に捧げた因縁で、九十一劫に人間天上の楽を得、末後の身には阿羅漢を得る。
  参考:『仏五百弟子自説本起経』:『須鬘品第五(善念十四偈) 昔者出遊觀 時與親友俱 頭上戴傅飾 耳著須鬘花 惟衛神通佛 於彼立大寺 遙見眾庶人 共住而奉事 親友俱發家 各共齎好華 悉以清淨心 供散彼佛寺 我時見廣施 亦復初發意 便取林中華 以用上佛寺 所生不墮餘 昇天下為人 因是德本故 所作善照見 後值等正覺 無上之導師 果證阿羅漢 清涼得滅度 唯施一華耳 更得百千歲 天上自娛樂 餘福得泥洹 假令我素知 佛功德無量 便即起塔寺 其福無有極 未必心歡喜 其福猶為少 如來等正覺‥‥』
  参考:『雑譬喩経巻1』:『時坐中有一比丘。耳中有須曼花。眾坐皆疑。比丘之法離於花飾。而此比丘著花何謂。天帝即白佛言。不審比丘何以著花。佛告比丘。遣耳中花。比丘受教即手挽去其花。續復如故。如是取去其處故有。佛語比丘。以神足去之。即以三昧力作數千萬手。虛空中取耳中花。花故不盡。眾坐乃知是道德因緣非暫著花也。天帝白佛。願說本末。使眾會疑解。佛告天帝。昔惟衛佛時從來九十一劫。時佛大會說法。有一醉客在會中聽聞經。歡喜耳上著花取散佛上作禮而去。命終之後九十一劫天上人中受福。不復更三惡道。欲知彼時人者今此比丘是也。散一花福至今得道故未盡也。』
復次菩薩亦不一定。常少物布施。隨所有多則多施少則少施。 復た次ぎに、菩薩は、亦た一定に、常に少物の布施するにあらず。所有に随いて、多ければ則ち多く施し、少なければ則ち少し施す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
亦た、
『一定に!』、
『常に!』、
『少物のみ!』を、
『布施するのではなく!』、
『所有に随って!』、
『多ければ!』、
『多く!』を、
『施し!』、
『少なければ!』、
『少し!』を、
『施すのである!』。
復次佛欲讚般若波羅蜜功德大故。言少施得大果功德無量。 復た次ぎに、仏は、般若波羅蜜の功徳の大なるを讃ぜんと欲したもうが故に、『少施にして、大果を得る功徳は無量なり』、と言えり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『般若波羅蜜の功徳』は、
『大である!』と、
『讃じようとされた!』が故に、
こう言われたのである、――
『少施であっても!』、
『大果』を、
『得る!』ので、
『般若波羅蜜』の、
『功徳』は、
『無量である!』、と。
問曰。如薄拘羅阿羅漢等。亦少施而得大報。何用般若波羅蜜。 問うて曰く、薄拘羅阿羅漢等の如きは、亦た少施にして、大報を得たり。何んが般若波羅蜜を用いん。
問い、
『薄拘羅阿羅漢など!』も、
亦た、
『少施であって!』、
『大報』を、
『得ている!』のに、
何故、
『般若波羅蜜』を、
『用いるのですか?』。
答曰。薄拘羅等。雖得果報有劫數限量。得小道入涅槃。菩薩以般若波羅蜜方便迴向故。少施福德無量無邊阿僧祇。 答えて曰く、薄拘羅等は、果報を得と雖も、劫数に限量有れば、小道を得て涅槃に入れり。菩薩は、般若波羅蜜と方便を以って迴向するが故に、少施の福徳は無量、無辺、阿僧祇なり。
答え、
『薄拘羅』等は、
『果報を得た!』が、
『福徳の劫数』には、
『限量』が、
『有る!』ので、
『小道を得ただけで!』、
『涅槃』に、
『入った!』が、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜と、方便を用いて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向する!』が故に、
『少施の福徳』が、
『無量であり( unlimited quantity )!』、
『無辺であり( boundless place )!』、
『阿僧祇劫( unlimited time )なのである!』。
問曰。何等是方便迴向。以少布施而得無量無邊功德。 問うて曰く、何等か是れ方便して迴向すれば、少布施を以って、無量、無辺の功徳を得る。
問い、
『方便して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向すれば!』、
『少布施を用いて!』、
『無量、無辺の功徳』を、
『得ることができる!』とは、
何のような、
『事』を、
『言うのですか?』。
答曰。雖少布施。皆迴向阿耨多羅三藐三菩提。菩薩作是念。我以是福德因緣不求人天中王及世間之樂。但求阿耨多羅三藐三菩提。如阿耨多羅三藐三菩提無量無邊。是福德亦無量無邊。又以是福德。為度一切眾生。如眾生無量無邊故。是福德亦無量無邊。 答えて曰く、少布施と雖も、皆阿耨多羅三藐三菩提に迴向すれば、菩薩の、是の念を作さく、『我れは、是の福徳の因縁を以って、人天中の王、及び世間の楽を求めず、但だ阿耨多羅三藐三菩提を求む。阿耨多羅三藐三菩提の無量、無辺なるが如く、是の福徳も亦た無量、無辺なり。又是の福徳の、一切の衆生を度せんが為なるを以って、衆生の無量、無辺なるが如く、故に是の福徳も亦た無量、無辺なり』、と。
答え、
『少布施であっても!』、
皆、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『迴向するものである!』が故に、
『菩薩』は、こう念じるのである、――
わたしは、
是の、
『福徳の因縁を用いる!』のは、
『人、天中の王や、世間の!』、
『楽』を、
『求めるのではなく!』、
但だ、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるのである!』。
『阿耨多羅三藐三菩提』が、
『無量、無辺であるように!』、
是の、
『福徳』も、
『無量、無辺である!』。
又、
是の、
『福徳』は、
『一切の衆生』を、
『度す為の!』、
『福徳である!』が故に、
『衆生』が、
『無量、無辺であるように!』、
是の、
『福徳』も、
『無量、無辺である!』、と。
  (い):<動詞>[本義]用いる( use )。使令する( take )、恃む( depend on )、看做す( consider as )、従事する( do )、<名詞>原因( reason )、<介詞>[手段]~で( using, taking, by means of )、依って/従って( in accordance with, by )、[時、場所]於いて/在りて( in )、[起点]~より( from )、<接続詞>為に( in order to, so as to, for )、[原因]因って/由って( because of )、[並列]~と( and, as well as )。
復次是福德用大慈悲。大慈悲無量無邊故。是福德亦無量無邊。 復た次ぎに、是の福徳は、大慈悲を用うれば、大慈悲の無量、無辺なるが故に、是の福徳も亦た無量、無辺なり。
復た次ぎに、
是の、
『福徳は大慈悲を用いる!』が、
『大慈悲』が、
『無量、無辺である!』が故に、
是の、
『福徳』も、
『無量、無辺である!』
  (ゆう):<動詞>[本義]使用/採用する( use, employ )。任用する( appoint )、適用/運用する( apply )、管理/運営/統治する( administer )、力を出す( put forth one's strength )、必要とする/要求する( need )、飲む/食う( drink, eat )、政権を握る/執政する( be in power )、行動する( act )。<名詞>功用/功能( function )、材料/物質( material )、費用/資財( cost, expenses )。<前置詞>因って/由って( with, on )、頼る/依拠する( rely on )、[原因を示す]の為に( because of, for )。<接続詞>是に於いて/因って( hence, therefor, thus )、[目的を示す]~の為に( for )。
復次菩薩福德諸法實相和合故三分清淨。受者與者財物不可得故。如般若波羅蜜。初為舍利弗說菩薩布施時。與者受者財物不可得故。具足般若波羅蜜。用是實相智慧布施故。得無量無邊福德。 復た次ぎに、菩薩の福徳は、諸法の実相と和合するが故に、三分清浄なり。受者、与者、財物の不可得なるが故なり。般若波羅蜜の初に舎利弗の為に、『菩薩は、布施する時、与者、受者、財物の不可得なるが故に、般若波羅蜜を具足す』、と説きたもうが如く、是の実相の智慧を用いて布施するが故に、無量、無辺の福徳を得。
復た次ぎに、
『菩薩の福徳』は、
『諸法の実相と和合する!』が故に、
『布施』は、
『三分』が、
『清浄である!』、
即ち、
『受者、与者、財物』が、
『不可得( be unrecognaizable )だからである!』。
例えば、
『般若波羅蜜の初品』中に、
『舎利弗の為に!』、
『菩薩は布施する!』時、
『与者、受者、財物が不可得である!』が故に、
『般若波羅蜜を具足する!』と、
『説かれているように!』、
是の、
『実相の智慧を用いて!』、
『布施する!』が故に、
『無量、無辺の福徳』を、
『得るのである!』。
復次菩薩皆念所有福德。如相法性相實際相故。以如法性實際無量無邊故。是福德亦無量無邊。 復た次ぎに、菩薩は、皆、有らゆる福徳を如相、法性相、実際相の如く念ずるが故に、如、法性、実際の無量、無辺なるを以っての故に、是の福徳も亦た無量、無辺なり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
皆、
有らゆる、
『福徳』を、
『如や、法性や、実際のような!』、
『相である!』と、
『念じる!』が故に、
『如や、法性や、実際』が、
『無量、無辺である!』が故に、
是の、
『福徳』も、
『無量、無辺なのである!』。
  法性実際:皆諸法の実相の異名。如とは、また如如、真如、如実に作り、即ち一切万物の真実不遍の本性を指す。蓋し一切法はその各各不同の属性有りといえども、地の如きには堅性有り、水には湿性有り等、然るにこの各々別の属性は実有と為すに非ずして、一一は皆空を以って実体と為すが故に実性を称して如と為す。また如を諸法の本性と為すが故に法性と称し、而も法性を真実究竟の至極の辺際と為すが故にまた実際と称す。これに由り知るべし、如、法性、実際の三者は皆、諸法の実相の異名なりと。諸法には各各差別有りといえども、然るに理体は則ち平等無異なれば、この諸法の理体の平等の相の同じきをも、また称して如と為す。これに由り知るべし、如もまた理の異名なり、またこの理は真実なるが故に真如と称し、この理は一為るが故に一如と称す、と。
問曰。若菩薩摩訶薩。觀諸法實相。知如法性實際。是無為滅相。云何更生心而作福德。 問うて曰く、若し菩薩摩訶薩、諸法の実相を観て、如、法性、実際の、是れ無為にして、滅相なるを知らば、云何が、更に心を生じて、福徳を作す。
問い、
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『諸法の実相を観て!』、
『如や、法性や、実際』が、
『無為、滅相である!』と、
『知ったならば!』、
何故、
更に、
『阿耨多羅三藐三菩提』の、
『心を生じて!』、
『福徳』を、
『作すのですか?』。
答曰。菩薩久習大悲心故。大悲心爾時發起。眾生不知是諸法實相。當令得是實相。以精進波羅蜜力故。還行福德業因緣。以精進波羅蜜助大悲心。譬如火欲滅遇得風薪火則然熾。 答えて曰く、菩薩は、久しく大悲心を習うが故に、大悲心、爾の時、『衆生は、是の諸法の実相を知らざれば、当に是の実相を得しむべし』、と発起し、精進波羅蜜の力を以っての故に、還って福徳業の因縁を行じ、以って精進波羅蜜の大悲心を助く。譬えば火の滅せんと欲するに、遇(たまた)ま風と、薪を得て、火、則ち然熾するが如し。
答え、
『菩薩』は、
久しく、
『大悲心』を、
『習う!』が故に、
爾の時、
『衆生』は、
是の、
『諸法の実相』を、
『知らない!』ので、
是の、
『実相』を、
『得させなければならない!』と、
是のように、
『大悲心が発起し!』、
『精進波羅蜜の力を用いる!』が故に、
還って、
『福徳の業の因縁』を、
『行うことになり!』、
是の故に、
『精進波羅蜜』が、
『大悲心』を、
『助けるのである!』。
譬えば、
『火が滅しようとする!』時、
遇(たまた)ま、
『風と、薪』を、
『得たならば!』、
則ち、
『火』が、
『然熾( to flame up and burn )するようなものである!』。
復次念本願故。亦十方佛來語言。汝念初發心時。又汝始得是一法門。如是有無量法門。汝未皆得當還集諸功德。如慚備經七地中說。 復た次ぎに、本願を念ずるが故に、亦た十方の仏来たりて語りて言わく、『汝、初発心の時を念ぜよ。又汝は始めて、是の一法門を得たるも、是の如き無量の法門有り。汝は未だ皆得ざれば、当に還って、諸の功徳を集むべし』、と。『漸備経の七地』中の説けるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『本願を念じる!』が故に、
亦た、
『十方の仏が来て!』、
『語って!』、こう言うからである、――
お前は、
『初めて!』、
『発心した!』時を、
『念じよ!』。
又、
お前は、
『始めて!』、
是の、
『一法門』を、
『得たのである!』が、
是のような、
『無量の法門』が、
『有るのに!』、
お前は、
未だ、
皆は、
『得ていない!』。
還た( again and again )、
諸の、
『功徳』を、
『集めねばならぬ!』、と。
例えば、
『漸備経の七地』中に、
『説かれている通りである!』。
  参考:『漸備一切智徳経巻4』:『名曰玄妙。是菩薩大士。當勤修學善權方便智度無極。因便得入第七道地住第七地。勸化無數眾生之類。以用諸佛無限之法。教授無量眾生之惱。入不可計諸佛世界。嚴淨無數諸佛國土。入不可議若干品藏經典之教。入不可計諸佛正覺聖慧道業。下入無量不可計劫。入不可計諸佛所行去來今世。勸不可計眾生之類。令入篤信殊特之行。入不可計諸佛色身現若干形。解不可計眾生根性。‥‥』
  参考:『十住経巻3』:『菩薩摩訶薩。具足六地行已。修此妙行。得入七地。諸佛子。如是方便慧現前。故名為入七地。是菩薩。住七地中。入無量眾生性。入無量諸佛教化眾生法。入無量世間性。入諸佛無量清淨國土。入無量諸法差別。入無量諸佛智得無上道。入無量諸劫算數。入無量諸佛通達三世。入無量眾生信樂差別。入無量諸佛色身別異。入無量諸佛眾生志行根差別。入無量諸佛音聲語言令眾生歡喜。入諸佛無量眾生心心所行差別。入無量諸佛隨智慧行。‥‥』
問曰。施多少可爾。戒中有五戒一日戒十戒少多亦可知。色法可得分別故。餘四波羅蜜云何知其多少。 問うて曰く、施の多少は爾るべし。戒中には五戒、一日戒、十戒の少多有るも、亦た知るべし。色法は可得にして分別するが故なり。余の四波羅蜜は云何が、其の多少を知る。
問い、
『施の多少』は、
『爾の通りだろう!』。
『戒』中には、
『五戒や、一日戒、十戒の多少が有るので!』、
亦た、
『知ることもできるだろう!』。
何故ならば、
『施、戒』等の、
『色法』は、
『可得であり( recognizable )!』、
『分別できるからである!』。
『余の四波羅蜜』は、
何のように、
其の、
『多少』を、
『知るのですか?』。
  五戒一日戒:『大智度論巻13(下)』参照。
  十戒:沙彌の護持すべき出家の十戒。(1)不殺生、(2)不偸盗、(3)不婬欲、(4)不妄語、(5)不飲酒、(6)不香花厳身、(7)不歌舞観聴、(8)不坐臥高広大床、(9)不非時食、(10)不蓄金銀財宝。
  参考:『十誦律巻21』:『戒師應言汝某甲聽。是佛婆伽婆知見。釋迦牟尼多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。為沙彌說出家十戒。凡是沙彌。當盡壽護持。何等十。盡壽離殺生。是沙彌戒。是中盡壽離殺生。若能當言爾。盡壽離不與取。是沙彌戒。是中盡壽離不與取。若能當言爾。盡壽離非梵行。是沙彌戒。是中盡壽離非梵行。若能當言爾。盡壽離妄語。是沙彌戒。是中盡壽離妄語。若能當言爾。盡壽離飲酒。是沙彌戒。是中盡壽離飲酒。穀酒蒲萄酒甘蔗酒能放逸酒。若能當言爾。盡壽離處高床大床。是沙彌戒。是中盡壽離處高床大床。若能當言爾。盡壽離著華瓔珞香塗身香熏衣。是沙彌戒。是中盡壽離著華瓔珞香塗身香熏衣。若能當言爾。盡壽離作伎歌舞不往觀聽種種樂器。是沙彌戒。是中盡壽離作伎歌舞不往觀聽種種莊嚴。若能當言爾。盡壽離受畜金銀錢寶。是沙彌戒。是中盡壽離受畜金銀錢寶。若能當言爾。盡壽離非時食。是沙彌戒。是中盡壽離非時食。若能當言爾。如是五法成就。滿十歲應畜沙彌。若不成就五法。滿十歲畜沙彌。得罪』
答曰。是皆可知。如忍有二種。一者身忍。二者心忍。身忍者雖身口不動。而心不能令不起。少忍故不能制心。心忍者身心俱忍猶如枯木。 答えて曰く、是れは皆知るべし。忍の如きは、二種有りて、一には身の忍、二には心の忍なり。身の忍とは、身口動かずと雖も、心は起さざらしむる能わず。忍少なきが故に、心を制する能わず。心の忍とは、身心の倶に忍ぶこと、猶お枯木の如し。
答え、
是れは、
皆、
『知ることができる!』。
例えば、
『忍』には、
『二種有って!』、
一には、
『身の忍であり!』、
二には、
『心の忍である!』。
『身の忍』は、
『身、口』は、
『動かない!』が、
而し、
『心』を、
『起さずにはいられない!』。
『忍が少ししかない!』が故に、
『心』を、
『制することができないのである!』。
『心の忍』は、
『身、心』が、
倶に、
『忍ぶので!』、
例えば、
『枯木のようである!』。
復次少忍者。若人撾罵不還報。大忍者不分別罵者忍者忍法。 復た次ぎに、少忍とは、若し人、撾(う)ちて罵るも、還って報いず。大忍とは、罵る者と、忍ぶ者と、忍ぶ法とを分別せず。
復た次ぎに、
『少忍』とは、
若し、
『人』が、
『撾ったり( to beat )、罵ったりしても!』、
『還って!』、
『報いない( not to give back )ことである!』が、
『大忍』は、
『罵る者も!』、
『忍ぶ者も!』、
『忍ぶべき法( what to endure )も!』、
『分別しないことである!』。
復次眾生中忍是為少忍。法忍是為大忍。如是等分別少忍。 復た次ぎに、衆生中の忍は、是れを少忍と為し、法忍は、是れを大忍と為す。是れ等の如く少忍を分別す。
復た次ぎに、
『衆生』中の、
『忍』は、
『少忍であり!』、
『法』の、
『忍』は、
『大忍である!』。
是れ等のように、
『少忍』を、
『分別する!』。
少進者有二。身進心進。身進為少心進為大。外進為少內進為大。身口進為少意進為大。如佛說意業大力故。如大仙人瞋時。能令大國磨滅。 少進には、二有り、身の進と心の進なり。身の進を少と為し、心の進を大と為す。外の進を少と為し、内の進を大と為す。身口の進を少と為し、意の進を大と為す。仏の、『意業は、大力なるが故に、大仙人の瞋る時には、能く大国をして磨滅せしむるが如し』、と説きたまえるが如し。
『少進』には、
『二種有り!』、
一には、
『身の進であり!』、
二には、
『心の進である!』。
『身』の、
『進』は、
『少である!』が、
『心』の、
『進』は、
『大である!』。
『外』の、
『進』は、
『少である!』が、
『内』の、
『進』は、
『大である!』。
『身、口』の、
『進』は、
『少である!』が、
『意』の、
『進』は、
『大である!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『意業』は、
『大力である!』が故に、
『大仙人の瞋る時など!』は、
『大国すら!』、
『磨滅させるほどである!』、と。
復次身口作五逆罪大果報。一劫在阿鼻泥犁中。意業力大。得生非有想非無想。壽八萬大劫。亦在十方佛國壽命無量。以是故知。身口精進為少。意精進為大。 復た次ぎに、身口の五逆罪の大果報を作し、阿鼻泥犁中に在ること一劫なるも、意業の力は大なれば、非有想非無想に生ずるを得れば、寿は八万大劫にして、亦た十方の仏国に在れば、寿命は無量なり。是を以っての故に、『身口の精進を少と為し、意の精進を大と為す』と知る。
復た次ぎに、
『身、口』が、
『五逆罪の大果報を作っても!』、
『阿鼻泥犁』中に、
『一劫』、
『在るだけである!』が、
『意業の力は大である!』が故に、
『非有想非無想に生まれれば!』、
『寿命』は、
『八万大劫であり!』、
『十方の仏国ならば!』、
『寿命』は、
『無量である!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『身、口』の、
『精進』は、
『少である!』が、
『意』の、
『精進』は、
『大である!』、と。
  参考:『別訳雑阿含経(44経)巻3』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。往昔之時。遠於聚落阿練若處。多有諸仙。在中而住。離仙處不遠。有天阿脩羅。而共戰鬥。爾時毘摩質多羅阿脩羅王。著五種容飾。首戴天冠。捉摩尼拂。上戴華蓋。帶於寶劍。眾寶革屣。到仙人住處。行不由門。從壁而入。亦復不與諸仙言語共相問訊。還從壁出。爾時有一仙人。而作是語。毘摩質多羅等。無恭敬心。不與諸仙問訊共語。從壁而出。復有一仙。而作是言。阿脩羅等。若當恭敬問訊諸仙。應勝諸天今必不如。有一仙問言。此為是誰。有一仙言。此是毘摩質多阿脩羅王。仙人復言。阿脩羅法。知見微淺。無有法教。無尊敬心。猶如農夫。諸天必勝。阿脩羅負。爾時帝釋。後到仙邊。即捨天王五種容飾。從門而入。慰勞諸仙。遍往觀察。語諸仙言。盡各安隱無諸惱耶。問訊已訖。從門而出。復有一仙問言。此為是誰。安慰問訊。周遍察行。然後乃出。甚有法教。容儀端正。一仙答言。此是帝釋有一仙言。諸天極能敬順。為行調適諸天必勝。阿脩羅負。毘摩質多羅。聞諸仙讚嘆諸天。毀呰阿脩羅。甚大瞋恚。諸仙聞已。往詣阿脩羅所語言。我等聞爾甚大瞋忿。即說偈言 我等故自來 欲乞索所願 施我等無畏 莫復生瞋忿 我等若有過 願教責數我 毘摩質多以偈答言 不施汝無畏 汝等侵毀我 卑遜求帝釋 於我生毀呰 汝等求無畏 我當與汝畏 爾時諸仙以偈答言 如人自造作 自獲於果報 行善自獲善 行惡惡自報 譬如下種子 隨種得果報 汝今種苦子 後必還自受 我今乞無畏 逆與我怖畏 從今日已往 使汝畏無盡 諸仙面與阿脩羅語已。即乘虛去。毘摩質多羅。即於其夜。夢與帝釋交兵共戰。生大驚怕。第二亦爾。第三夢時。帝釋軍眾。果來求戰。時毘摩質多。即共交兵。阿脩羅敗。帝釋逐進。至阿脩羅宮。爾時帝釋。種種戰諍。既得勝已。詣諸仙所。諸仙在東。帝釋在西相對而坐。時有東風仙人向帝釋即說偈言 我身久出家 腋下有臭氣 風吹向汝去 移避就南坐 如此諸臭氣 諸天所不喜 爾時帝釋以偈答言 集聚種種華 以為首上鬘 香氣若干種 能不生厭離 諸仙人出家 氣如諸華鬘 我今頂戴受 不以為厭患 佛告諸比丘。帝釋居天王位。長夜恭敬諸出家者。汝諸比丘。以信出家。亦應當作如是欽敬。佛說是已。諸比丘。聞佛所說。歡喜奉行』
復次如經說。若身口意業寂滅不動是為大精進。動者為少精進。如是等名為少精進。 復た次ぎに、経に、『若し、身、口、意の業寂滅して、動かざれば、是れを大精進と為し、動かば少精進と為す』、と説けるが如し。是れ等の如きを名づけて、少精進と為す。
復た次ぎに、
『経』に、こう説く通りである、――
若し、
『身、口、意の業が寂滅して!』、
『動かなければ!』、
『大精進であり!』、
若し、
『動けば!』、
『少精進である!』、と。
是れ等を、
『少精進』と、
『呼ぶのである!』。
  参考:『宝雲経巻1』:『云何名菩薩不自輕賤精進。菩薩作是思惟。三世諸佛。皆從微少精進修無量德。乃能久積苦行成等正覺。是故我今因少精進漸殖德本。不久亦應得佛不疑。是名菩薩不自輕賤精進。』
少禪者欲界定未到地。不離欲故名為少。亦觀二禪初禪則少。乃至滅盡定。有漏為少無漏為大。未得阿鞞跋致未得無生忍法禪是為少。得阿鞞跋致得無生法忍禪是為大。乃至坐道場十六解脫相應定為少十七金剛三昧為大。 少禅とは、欲界の定と未到地は欲を離れざるが故に名づけて、少と為す。亦た二禅を観れば、初禅は則ち少なきこと、乃至滅尽定なり。有漏を少と為し、無漏を大と為す。未だ阿鞞跋致を得ず、未だ無生忍法を得ざる禅は、是れを少と為し、阿鞞跋致を得て、無生法忍を得たる禅は是れを大と為し、乃至道場に坐すまで、十六解脱に相応する定を少と為し、十七金剛三昧を大と為す。
『少禅』とは、
『欲界の定や、未到地』は、
『欲を離れない!』が故に、
『少』と、
『呼ばれ!』、
亦た、
『二禅を観れば!』、
『初禅』は、
『少であり!』、
乃至、
『滅尽定を観れば!』、
『非有想非無想処の定』は、
『少である!』。
亦た、
『有漏は少であり!』、
『無漏』は、
『大である!』。
未だ、
『阿鞞跋致も、無生忍法も得ていない!』、
『禅』は、
『少であり!』、
『阿鞞跋致や、無生法忍を得た!』、
『禅』は、
『大である!』。
乃至、
『道場に坐すまでの!』、
『十六解脱(八無間及び八解脱)に相応する定』は、
『少であり!』、
『十七(第九無間道)』の、
『金剛三昧』は、
『大である!』。
  十七金剛三昧:九無間九解脱十八心中第九無間道中に得る三昧。『大智度論巻4上注:金剛三昧、巻12上注:十八心、九無間、九解脱、九品惑』参照。
復次若菩薩觀一切法常定。無散亂者無依止無分別是為大。餘者皆為少。 復た次ぎに、若し菩薩、一切の法の常に定なるを観て、散乱すること無くんば、無依止、無分別にして、是れを大と為し。余は皆少と為す。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
『一切の法』は、
『常に定である!』と、
『観て!』、
『心』に、
『散乱すること!』が、
『無ければ!』、
則ち、
『心が依止することも、分別することも!』、
『無くなる!』ので、
『大である!』が、
『余の心』は、
皆、
『少である!』。
慧有二種。一者世間。二者出世間。世間慧為少。出世間慧為大。淨慧雜慧相慧無相慧分別慧不分別慧隨法慧破法慧為生死慧為涅槃慧為自益慧為益一切眾生慧等亦如是。 慧には二種有り、一には世間、二には出世間なり。世間の慧を少と為し、出世間の慧を大と為す。浄慧、雑慧、相の慧、無相の慧、分別の慧、不分別の慧、随法の慧、破法の慧、生死の為の慧、涅槃の為の慧、自ら益する為の慧、一切の衆生を益する為の慧等も亦た是の如し。
『慧』には、
『二種有り!』、
一には、
『世間の慧であり!』、
二には、
『出世間の慧である!』。
『世間』の、
『慧』は、
『少である!』が、
『出世間』の、
『慧』は、
『大である!』。
亦た、
『浄慧や、雑慧』、
『相の慧や、無相の慧』、
『分別の慧や、不分別の慧』、
『随法の慧や、破法の慧』、
『生死の為の慧や、涅槃の為の慧』、
『自ら益する為の慧や、一切の衆生を益する為の慧』等、
是れ等の、
『慧』にも、
亦た、
『世間の慧と、出世間の慧』が、
『有る!』。
復次聞慧為少思慧為大。思慧為少修慧為大。有漏慧為少無漏慧為大。發阿耨多羅三藐三菩提心慧為少。修行六度慧為大。修慧為少方便慧為大。諸地中方便展轉有大少乃至十地。如是等分別多少。 復た次ぎに、聞慧を少と為し、思慧を大と為す。思慧を少と為し、修慧を大と為す。有漏の慧を少と為し、無漏の慧を大と為す。阿耨多羅三藐三菩提心を発す慧を少と為し、六度を修行する慧を大と為す。修慧を少と為し、方便の慧を大と為す。諸地中の方便は、展転して、大、少有り、乃至十地まで、是れ等の如く多少を分別す。
復た次ぎに、
『聞慧は少である!』が、
『思慧』は、
『大である!』。
『思慧は少である!』が、
『修慧』は、
『大である!』。
『有漏の慧は少である!』が、
『無漏の慧』は、
『大である!』。
『阿耨多羅三藐三菩提心を発す慧は少である!』が、
『六度を修行する慧』は、
『大である!』。
『修慧は少である!』が、
『方便の慧』は、
『大である!』。
『諸地中の方便』は、
『互に展転して!』、
『大、少』が、
『有り!』、
乃至、
『十地まで!』、
是れ等のように、
『大、少』を、
『分別する!』。
佛歎菩薩奇特。於少事中得無量無邊功德。豈況大事。餘人多捨財。身口意懃苦得福少。持戒忍辱精進禪定智慧等亦如是。不及菩薩少而報大。 仏は、菩薩の奇特なるを歎じたまわく、『少事中に於いて無量、無辺の功徳を得れば、豈に況んや、大事をや。余人は多く財を捨てて、身、口、意に懃苦するも、福を得ること少なく、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧等も亦た是の如く、菩薩の少にして、報の大なるに及ばず』、と。
『仏』は、
『菩薩の奇特』を、こう歎じられた、――
『菩薩』は、
『少事中にすら!』、
『無量、無辺の功徳』を、
『得るのである!』から、
況して、
『大事は!』、
『尚更であろう!』。
『余人』は、
『多く財を捨てて!』、
『身、口、意』の、
『苦』を、
『懃めながら!』、
『得られる!』、
『福』は、
『少ない!』。
『持戒、忍辱、精進、禅定、智慧』等も、
是のように、
『菩薩の少事の報』が、
『大である!』には、
『及ばない!』、と。
如先說。譬如口氣出聲聲則不遠。聲入角中聲則能遠。如是布施等同少。餘人行是所得福報則少。 先に説けるが如きは、譬えば口気声を出せば、声則ち遠からざるに、声、角中に入れば、声則ち遠くまで能くするが如し。是の如く布施等も、同じく少なけれど、余人の行は、是れ所得の福報則ち少なきが如し。
先に、
『説いた!』のは、
譬えば、
『口気』で、
『声を出せば!』、
『声』は、
『遠くまでとどかない!』が、
『声』を、
『角中に入れれば!』、
『声』は、
『遠くまでとどくことができるように!』、
是のように、
『布施』等も、
『同じように!』、
『少なくても!』、
『余人が行えば!』、
『得られる福報』は、
『少ないのである!』。
菩薩摩訶薩以般若波羅蜜方便力迴向故。得無量無邊福。以是故說欲行少施少戒少忍少進少禪少智 菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜の方便力を以って迴向するが故に、無量、無辺の福を得。是を以っての故に説かく、『少施、少戒、少忍、少進、少禅、少智を行ぜんと欲す』、と。
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜』の、
『方便力を用いて!』、
『迴向する!』が故に、
『無量、無辺の福』を、
『得る!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『少施、少戒、少忍、少進、少禅、少智』を、
『行おうとすれば!』、と。



菩薩摩訶薩の檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅波羅蜜

【經】菩薩摩訶薩欲行檀波羅蜜尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪波羅蜜。當學般若波羅蜜 菩薩摩訶薩、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜』を、
『行おうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】諸波羅蜜義如先說。問曰。五波羅蜜相。即是般若波羅蜜相不。若是般若波羅蜜相。不應五名差別。若異何以故言欲行檀波羅蜜當學般若波羅蜜。 諸波羅蜜の義は、先に説けるが如し。問うて曰く、五波羅蜜の相は、即ち是れ般若波羅蜜の相なりや、不や。若し是れ般若波羅蜜の相ならば、応に五を名づけて差別すべからず。若し異ならば、何を以っての故にか、『檀波羅蜜を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と言う。
諸の、
『波羅蜜の義』は、
『先に説いた通りである!』。
問い、
『五波羅蜜の相』は、
即ち( namely )、
『般若波羅蜜の相ですか?』。
若し、
『般若波羅蜜の相ならば!』、
当然、
『五種』に、
『名づけて!』、
『差別すべきでなく!』、
若し、
『異なれば!』、
何故、こう言うのですか?――
『檀波羅蜜を行おうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
答曰。亦同亦異。異者般若波羅蜜名。觀諸法實相故。不受不著一切法。檀名捨內外一切所有。以般若波羅蜜心行施。是時檀得名波羅蜜。 答えて曰く、亦た同じく、亦た異なり。異なりとは、般若波羅蜜を諸法の実相を観るが故に、一切法を受けず、著せずと名づく。檀は、内外の一切の所有を捨つと名づけ、般若波羅蜜の心を以って、施を行ずれば、是の時檀は、波羅蜜と名づくるを得。
答え、
『同じでもあり、異なってもいる!』――
『異なる!』とは、――
『般若波羅蜜』とは、
『諸法の実相を観る!』が故に、
『一切の法』を、
『受けることもなく!』、
『著することもないということであり!』、
『檀』とは、
『内、外』の、
『一切の所有』を、
『捨てることである!』が、
『般若波羅蜜の心で!』、
『施()』を、
『行えば!』、
是の時、
『檀』は、
『檀波羅蜜』と、
『称されるからである!』。
復次五波羅蜜。殖諸功德。般若波羅蜜。除其著心邪見。如一人種穀一人芸除眾穢令得增長果實。成就餘四波羅蜜亦如是。 復た次ぎに、五波羅蜜は、諸功徳を殖え、般若波羅蜜は、其の著心、邪見を除く。一人は穀を種え、一人は衆穢を耘除して増長するを得しむれば、果実の成就するが如し。余の四波羅蜜も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『五波羅蜜』が、
諸の、
『功徳』を、
『殖える!』と、
『般若波羅蜜』が、
其の、
『著心や、邪見』を、
『除くからである!』。
譬えば、
『一人』が、
『穀』を、
『種える!』と、
『一人が耘(たが)やして!』、
『衆穢(雑草)』を、
『除き!』、
『穀を増長させる!』が故に、
『果実』が、
『成就するようなものであり!』、
『余の四波羅蜜』も、
亦た、
『是の通りである!』。
問曰。今云何欲行檀波羅蜜。當學般若波羅蜜。 問い、今は、云何が檀波羅蜜を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべき。
問い、
今は、
何故、
『檀波羅蜜を行おうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならないのですか?』。
答曰。檀有二種。一者淨二者不淨。 答えて曰く、檀に二種有り、一には浄、二には不浄なればなり。
答え、
『檀』には、
『二種あって!』、
一には、
『浄であり!』、
二には、
『不浄だからである!』。
不淨者憍慢故施。作是念。劣者尚與我豈不能。嫉妒故施。作是念。我之怨憎施故得名。如是勝我。今當廣施要必勝彼。貪報故施。作是念。我施少物千萬倍報。是故布施。為名故施。作是念。我今好施為人所信。好人數中為攝人故施。作是念。我今施之人必歸我。如是等種種雜結行施。是名不淨。 不浄とは、憍慢の故に施して、是の念を作さく、『劣る者すら尚お与う、我れ豈に能わざらんや』、と。嫉妒の故に施して、是の念を作さく、『我が怨憎は施すが故に名を得、是の如く我れに勝れり。今当に広く施して、要必(かなら)ず彼れに勝るべし』、と。報を貪るが故に施して、是の念を作さく、『我れ少物を施すに、千万倍報ゆれば、是の故に布施す』、と。名の為の故に施して、是の念を作さく、『我れ今好んで施せば、人に信ぜらるる好人の数中と為らん』、と。人を摂せんが為の故に施して、是の念を作さく、『我れ今、之に施せば、人必ず我れに帰せん』、と。是れ等の如く種種に雑結して、施を行ずれば、是れを不浄と名づく。
『不浄』とは、――
『憍慢』の故に、
『施して!』、こう念じる、――
わたしより、
『劣った者すら!』、
尚お、
『与えている!』。
わたしのような、
『勝れた者』が、
何うして、
『与えられないのか?』、と。
『嫉妒』の故に、
『施して!』、こう念じる、――
わたしの、
『怨憎( enemy )すら!』、
『施す!』が故に、
『名声』を、
『得て!』、
是のように、
わたしに、
『勝っている!』。
今は、
どうしても、
『広く施して!』、
絶対、
『彼れに!』、
『勝たねばならない!』、と。
『報を貪る!』が故に、
『施して!』、こう念じる、――
わたしが、
『少物を施せば!』、
『報』は、
『千万倍であり!』、
是の故、
『布施するのである!』、と。
『名声の為』の故に、
『施して!』、こう念じる、――
わたしが、
今、
『好んで!』、
『施せば!』、
『人に信じられて!』、
『好人の数』中に、
『入るだろう!』、と。
『人を摂する( to grasp )為』の故に、
『施して!』、こう念じる、――
わたしが、
今、
『施せば!』、
必ず、
『人』が、
『帰する( to submit oneself to )だろう!』、と。
是れ等のような、
種種の、
『結を雑えて!』、
『施を行えば!』、
是れを、
『不浄』と、
『称するのである!』。
  (けつ):梵語 saMyojana の訳、結合する/一体となる為の行為( the act of joining or uniting with )の義、世界に結びつける/再生の原因となる有らゆる事物( all that binds to the world, cause of re-birth )の意。
淨施者無是雜事。但以淨心信因緣果報。敬愍受者不求今利。但為後世功德。復有淨施。不求後世利益。但以修心助求涅槃。復有淨施。生大悲心為眾生故。不求自利早得涅槃。但為阿耨多羅三藐三菩提是名淨施。 浄施の者には、是の雑事無く、但だ浄心を以って、因縁と果報を信じて、受者を敬い愍れみ、今利を求めず、但だ後世の功徳の為なり。復た浄施有り、後世の利益を求めず、但だ心を修むるを以って、涅槃を求むるを助く。復た浄施有り、大悲心を生じて、衆生の為の故に、自利を求めて、早く涅槃を得ず、但だ阿耨多羅三藐三菩提の為なり。是れを浄施と名づく。
『浄施の者』には、
是の、
『雑事が無く!』、
但だ、
『浄心』で、
『因縁、果報』を、
『信じ!』、
『受者を敬って、愍れむだけで!』、
『今世の利』を、
『求めず!』、
但だ、
『後世の功徳の為』に、
『施すだけである!』。
復た、
有る、
『浄施』は、
『後世の利益』を、
『求めるのではなく!』、
但だ、
『心を修める!』ので、
『涅槃を求めること!』の、
『助力になるだけである!』。
復た、
有る、
『浄施』は、
『衆生の為』の故に、
『大悲心』を、
『生じる!』が、
『自利を求めて!』、
『早かに!』、
『涅槃を得ることはなく!』、
但だ、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得る為である!』。
是れを、
『浄施』と、
『称する!』。
以般若波羅蜜心故。能如是淨施。以是故說欲行檀波羅蜜當學般若波羅蜜。 般若波羅蜜の心を以っての故に、能くかくの如く浄施すれば、是を以っての故に説かく、『檀波羅蜜を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
『般若波羅蜜の心』の故に、
是のように、
『浄施することができる!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『檀波羅蜜を行おうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
復次般若波羅蜜力故。捨諸法著心。何況我心而不捨。捨吾我心故。身及妻子視如草土。無所戀惜盡以布施。以是故說欲行檀波羅蜜當學般若波羅蜜。餘波羅蜜亦皆如是。以般若波羅蜜心助成故。 復た次ぎに、般若波羅蜜の力の故に、諸法の著心を捨つれば、何に況んや我心にして捨てざるをや。吾我の心を捨つるが故に、身、及び妻子を視ること草、土の如く、恋惜する所無く、尽く以って布施す。是を以っての故に説かく、『檀波羅蜜を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。余の波羅蜜も亦た皆是の如し、般若波羅蜜の心を以って、助成するが故なり。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜の力』の故に、
『諸法に著する!』、
『心』を、
『捨てるのである!』から、
況して、
『我心』を、
『捨てないはずがない!』。
『吾我の心を捨てる!』が故に、
『身や、妻子』を、
『草、土のように!』、
『視て!』、
『恋惜する所が無い!』が故に、
『尽く!』を、
『布施するのである!』。
是の故に、こう説く、――
『檀波羅蜜を行おうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
『余の波羅蜜』も、
亦た、是のように、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、
何故ならば、
『般若波羅蜜の心が助けて!』、
『成就するからである!』。
復次諸餘波羅蜜。不得般若波羅蜜。不得波羅蜜名字亦不牢固。如後品中說。五波羅蜜。不得般若波羅蜜。無波羅蜜名字。 復た次ぎに、諸余の波羅蜜は、般若波羅蜜を得ざれば、波羅蜜の名字を得ずして、亦た牢固ならず。後品中に、『五波羅蜜は、般若波羅蜜を得ざれば、波羅蜜の名字無し』、と説くが如し。
復た次ぎに、
『諸余の波羅蜜』は、
『般若波羅蜜』の、
『助力を得なければ!』、
『波羅蜜と呼ばれることもなく!』、
『牢固でもない( be not firm )!』。
『後の品』中に、こう説く通りである、――
『五波羅蜜』は、
『般若波羅蜜の助力を得なければ!』、
『波羅蜜と呼ばれること!』は、
『無い!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻21方便品第六十九』:『譬如轉輪聖王四種兵。輪寶在前導。王意欲住輪則為住。令四種兵滿其所願。輪亦不離其處。般若波羅蜜亦如是。導五波羅蜜到薩婆若。常是中住不過其處。譬如轉輪聖王常四種兵。輪寶在前導。般若波羅蜜亦如是。導五波羅蜜到薩婆若。住般若波羅蜜。亦不分別檀那波羅蜜隨從我。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜不隨我。檀那波羅蜜亦不分別我隨從般若波羅蜜。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜不隨從。尸羅波羅蜜羼提波羅蜜毘梨耶波羅蜜禪那波羅蜜。亦如是。‥‥佛告須菩提。如是如是。諸波羅蜜雖無差別。若無般若波羅蜜。五波羅蜜不得波羅蜜名字。因般若波羅蜜。五波羅蜜得波羅蜜名字。‥‥』
又如轉輪聖王。無輪寶者不名轉輪聖王。不以餘寶為名。亦如群盲無導不能有所至。般若波羅蜜亦如是。導五波羅蜜。令至薩婆若。 又、転輪聖王に輪宝無ければ、転輪聖王と名づけず、余の宝を以って名づけられざるが如し。亦た群盲に導無ければ、至る所有る能わざるが如く、般若波羅蜜も亦た是の如く、五波羅蜜を導いて、薩婆若に至らしむ。
又、
『転輪聖王』に、
『(前導する)輪宝が無ければ!』、
『転輪聖王』と、
『呼ばれず!』、
『余の宝が有っても!』、
『転輪聖王』と、
『呼ばれることがないように!』、
亦た、
『群盲』に、
『導く者が無ければ!』、
何処にも、
『至る!』所が、
『無いように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『五波羅蜜を導いて!』、
『薩婆若』に、
『至らせるのである!』。
譬如大軍無健將不能成辦其事。又如人身餘根雖具。若無眼者不能有所至。又如人無命根則餘根皆滅。有命根故餘根有用。般若波羅蜜亦如是。五波羅蜜。不得般若波羅蜜。則不得增長。得般若波羅蜜故。餘波羅蜜得增益具足。以是故佛言欲行檀波羅蜜當學般若波羅蜜 譬えば大軍に健将無ければ、其の事を成辦する能わざるが如く、又人身に余根具すと雖も、若し眼無ければ、至る所有ること能わざるが如く、又人に命根無ければ、則ち余根皆滅し、命根有るが故に余根の用有るが如し。般若波羅蜜も亦た是の如く、五波羅蜜は、般若波羅蜜を得ざれば、則ち増長するを得ず、般若波羅蜜を得るが故に、余の波羅蜜は増益し、具足するを得。是を以っての故に、仏の言わく、『檀波羅蜜を行ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし』、と。
譬えば、
『大軍』に、
『健将が無ければ!』、
其の、
『事( works )』を、
『成辦できない( be unable to accomplish )ように!』、
又、
『人身』に、
『余根が具わっていても!』、
若し、
『眼が無ければ!』、
何処にも、
『至ることのできる!』所が、
『無いように!』、
又、
『人』に、
『命根が無ければ!』、
『余根』は、
皆、
『滅して!』、
『命根が有る!』が故に、
『余根』を、
『用いること』が、
『有るように!』、
『般若波羅蜜』も、
是のように、
『五根』は、
『般若波羅蜜』の、
『助力を得なければ!』、
『増長することができず!』、
『般若波羅蜜』の、
『助力を得る!』が故に、
『余の波羅蜜は増益して!』、
『具足することができるのである!』。
是の故に、
『仏』は、こう言われた、――
『檀波羅蜜を行おうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。


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