巻第二十八(下)
大智度論初品中欲住六神通釋論第四十三
1.陀羅尼門と三昧門
大智度論釋布施隨喜心過上第四十四
1.随喜心
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大智度論初品中欲住六神通釋論第四十三
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


陀羅尼門と三昧門

【經】欲得諸陀羅尼門諸三昧門。當學般若波羅蜜 諸の陀羅尼門、諸の三昧門を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学ぶべし。
『諸の陀羅尼門、諸の三昧門』を、
『得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
  陀羅尼(だらに):記憶を保持して忘失せざる法。記憶術の一。『大智度論巻5並びに同巻42(下)注:陀羅尼』参照。
  参考:『大智度論巻5』:『陀羅尼秦言能持。或言能遮。能持者。集種種善法。能持令不散不失。譬如完器盛水水不漏散。能遮者。惡不善根心生。能遮令不生。若欲作惡罪。持令不作。是名陀羅尼』
【論】陀羅尼如讚菩薩品中說。門者得陀羅尼方便諸法是。如三三昧名解脫門。 陀羅尼は、『讃菩薩品』中に説けるが如し。門とは、陀羅尼なる方便の諸法を得る、是れなり。三三昧を、解脱門と名づくるが如し。
『陀羅尼』とは、
『讃菩薩品』中に、
『説いた通りである!』。
『門』とは、
『陀羅尼という!』、
『方便の諸法を得る!』、
『門』が、
『是れである!』。
例えば、
『三三昧』を、
『解脱の門』と、
『称するようなものである!』。
  三三昧(さんさんまい):空、無相、無作に関する三種の定。『大智度論巻7(上)注:三三昧、同巻18(下)注:三解脱門』参照。
  解脱門(げだつもん):解脱に至る門の意。三三昧の異名。『大智度論巻7(上)注:三三昧、同巻18(下)注:三解脱門』参照。
  参考:『大智度論巻5』:『何以故名陀羅尼。云何陀羅尼。答曰。陀羅尼秦言能持。或言能遮。能持者。集種種善法。能持令不散不失。譬如完器盛水水不漏散。能遮者。惡不善根心生。能遮令不生。若欲作惡罪。持令不作。是名陀羅尼。』
何者是方便。若人欲得所聞皆持。應當一心憶念令念增長。先當作意於相似事繫心令知所不見事。如周利槃陀迦。繫心拭革屣物中。令憶禪定除心垢法。如是名初學聞持陀憐尼。三聞能得心根轉利。再聞能得成者。一聞能得得而不忘。是為聞持陀憐尼初方便。 何者か、是れ方便なる。若し人、聞く所を皆、持するを得んと欲せば、応当に一心に憶念して、念を増長せしむべく、先に当に作意して、相似の事に於いて心を繋け、見ざる所の事を知らしむべし。周梨槃陀迦の心を、革屣なる物を拭う中に繋けて禅定を憶せしめ、心の垢を除きし法の如し。是の如きを初学の聞持陀隣尼と名づく。三聞して能く得れば、心根転た利なるに、再聞して能く得、成ずれば一聞して能く得、得れば忘れず。是れを聞持陀隣尼の初方便と為す。
何が、
『方便なのか?』、――
若し、
『人』が、
『聞いた!』所を、
皆、
『持したい(to wish to memorize)!』と、
『思えば!』、
当然、
『一心に憶念して!』、
『念』を、
『増長させねばならない!』が、
先に、
『作意して( having the consciousness of )!』、
『相似の事』に、
『心』を、
『繋け!』、
『見ていない!』所の、
『事』を、
『知るようにせねばならない!』。
例えば、
『周梨槃陀迦』は、
『革屣( sandals )のような!』、
『物を拭う!』中に、
『心』を、
『繋け!』、
『心』に、
其の、
『禅定』を、
『記憶させて!』、
自ら、
『心の垢』を、
『除いたような!』、
是のような、
『法』を、
『初学の聞持陀隣尼』と、
『称し!』、
『三聞して!』、
『理解することのできる!』者の、
『心』が、
『転た( gradually )!』、
『利になれば!』、
『再聞すれば!』、
『理解できるようになり!』、
是の、
『聞持陀隣尼が成就すれば!』、
『一聞しただけで!』、
『理解することができ!』、
而も、
『理解してしまえば!』、
『忘れないのである!』。
是れが、
『聞持陀隣尼』の、
『初方便である!』。
  (しょ):<名詞>[本義]伐木の声。仮借して”処”と為す。処所/地方( place )、道理/方法( reason )、結果( result )。<助詞>動詞の前に置き、被/為と共に用いて受け身を示す。与/為と呼応して被動を表示する。従/由/自の前に置き、関係する地方、原因、対象等を示す。所以に作りて、根拠の意を表す。<副詞>尚お/還た( yet )、概ね( about )。<代名詞>此れ/此の( this )、疑問代名詞( what )。<接続詞>若し( if )。<形容詞>所有/有らゆる( all )。
  作意(さい):梵語 cetanaavat の訳、~を意識する/知る/理解すること( having consciousness, knowing, understanding )の義。
  (ねん):梵語smRtiの訳。巴梨語sati、心所の名。又憶とも訳す。七十五法の一、百法の一。即ち心をして所縁の事を記憶し、忘失せしめざる精神作用を云う。「品類足論巻1」に、「念とは云何、謂わく心の明記する性なり」と云い、「倶舎論巻4」に、「念とは謂わく縁に於いて明記して忘れざるなり」と云える是れなり。説一切有部に於いては之を十大地法の一とし、善等の一切の心と俱起するものとなすも、大乗法相家にては是れを五別境の一とし、遍行に摂せず。「成唯識論巻5」に、「云何が念と為す、曽て習える境に於いて心をして明記不忘ならしむるを性と為し、定の依たるを業と為す。謂わく曽所受の境を憶持して忘失せざらしめ、能く定を引くが故なり。曽未受の体と類との境中に於いては全く念を起さず、設い曽所受なるも明記する能わざれば念亦た生ぜず。故に念は必ず遍行の所摂に非ず」と云える即ち其の説なり。是れ曽所受の境中に於いても明記する能わざるものなるが故に、念は必ずしも一切の心と相応せず、即ち別境に摂すべきものなるの意を明にせるなり。又此の中、念を以って定の依となせるは、念は五根の一にして、能く定を引くことあるを云うなり。又説一切有部に於いて、大煩悩地法中の失念の心所は念の一分を以って体となすと云うも、法相家にては癡の一分を体とすとし、其の解する所同じからず。又念は十八不共法の一にして、仏果自在位には境皆曽受なるが故に之を念無滅と名づくるなり。又「大毘婆沙論巻42」、「雑阿毘曇心論巻2」、「成実論巻6憶品」、「入阿毘達磨論巻上」、「瑜伽師地論巻55」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻6上」等に出づ。<(望)
  (い):梵語末那manasの訳。思量の義。「大毘婆沙論巻72」に、心意識の差別に就いて多説あり。「倶舎論巻4」には略して二説を出せり、謂わゆる「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。復た有るが釈して言わく、浄不浄の界種種差別するが故に、名づけて心となし、即ち此れ他の為に所依止となるが故に、名づけて意となし、能依止となるが故に、名づけて識となす。故に心と意と識との三名、詮する所の義は異ありと雖も、而も体は是れ一なり」と云える是れなり。是の如く小乗倶舎等には心意識其の体一なりと立つるも、通途には意を過去とし、識を現在として、識の為に所依止となるを意と云えり。「倶舎論巻1」に、「六識身の無間滅に由りて意となす」とあり。蓋し六識中、随って何の識の生ずるにも、必ず前滅の識を等無間縁となさざるべからず。然るに前五識には各眼等の別の所依ありと雖も、第六意識には之れなし。故に今第六意識の別の所依を成ぜんが為に、六識身の無間滅を立てて意根となせるものなり。小乗倶舎等に在りては、是の如く唯だ意を等無間縁と解し、意根と云うも即ち前滅の六識身にして、識と別体あるに非ざれども、大乗唯識等に於いては、心意識其の体各別なりと論じて、心を第八識、意を第七識、識を前六識の別名となすが故に、随って意に二種の別を生ぜり。「摂大乗論本巻1」に依るに、意に二種あり、第一には等無間縁所依止の性となる。無間滅の識、能く意識の為に生の依止と作る。第二には染汚意は四煩悩と共に恒に相応す。此れ即ち是れ識雑染の所依なり。等無間の義の故に、思量の義の故に、意に二種を成ずと云えり。此の中、等無間の意とは八識及び心所が、各自類の無間に滅せる位を云い、思量の意とは染汚意にして、即ち四煩悩と相応する第七識を指すなり。「成唯識論巻4」に、第七識を末那(即ち意)と名づくることは、恒審思量すること余識に勝れたるが故なりと云い、又或いは是れ(第七識)が彼の意識(第六識)の為に近所依となることを顕さんと欲するが故に、但だ意と名づくと云えり。此の後義は即ち是れ倶舎の所謂第六意根なり。要するに倶舎等の六識家に在りては、心意識体一と立つるが故に、意は思量の義、又所依止となるの義と言うと雖も、畢竟同一物の名義の異を詮するに過ぎず。唯識等の八識家に在りては然らず。等無間縁を意と名づくることは、大小乗別なしと雖も、而も第七識を別立して、之に恒審思量、或いは意識の近所依となるの義を附せるを以って、倶舎等に於いて明了ならざりし観念が、唯識に至りて初めて其の意義を発揮し来たれりと云わざるを得ず。若し「大乗起信論」に依らば、意に五種を説けり。所謂業識、転識、現識、智識、相続識なり。之を五意と云う。蓋し亦た一説なり。又「梁訳摂大乗論巻1」、「成唯識論巻5」、「同述記巻4末、巻5本」、「倶舎論光記巻1、4」、「大乗起信論義記巻中末」等に出づ。<(望)
  憶念(おくねん):梵語smRtiの訳。記憶して忘れざるの意。憶は憶持、念は明記不忘の義なり。「法蘊足論巻2」に、「諸仏の所に於いて念を起し、随念し、専念し、憶念して忘れず失わず」と云い、又「十住毘婆沙論巻5易行品」に、「是の故に常に憶念すべし」と云い、曇鸞の「往生論註巻上」に、「此の中に念と云うは此の時節を取らず、但だ阿弥陀仏を憶念するを言うのみ」と云い、善導の「観経疏巻4」には、「心常に親近して憶念断えざるを名づけて無間となす」と云えり。此れ等は心に仏を明記して常に忘失せざるを憶念となすの意なり。<(望)
  周梨槃陀迦(しゅりはんだか):阿羅漢の名。性愚鈍なりしも仏教を得て阿羅漢果を得たりと伝う。『大智度論巻24(下)注:周利槃特』参照。
  革屣(かくし):皮革で造りたるはきもの。履。
  聞持陀隣尼(もんじだりんに):陀隣尼は又陀羅尼に作る。所聞の法を憶持して忘れざる記憶術を云う。『大智度論巻5並びに同巻42(下)注:陀羅尼』参照。
  参考:『根本説一切有部毘奈耶巻31』:『世尊見已知其障重教令除滅。告愚路曰。汝能與諸苾芻拂拭鞋履不。白佛言能。汝今宜去為諸苾芻拂拭鞋履。即既奉教而作。諸苾芻不許。佛言汝等勿遮。欲令此人除去業障。其兩句法汝等應教。時諸苾芻令拂鞋履教兩句法。愚路精勤常誦此法。積功不已遂得通利。時愚路苾芻便於後夜時作如是念。世尊令我誦兩句法。我拂塵我除垢者。此之字句。其義云何。塵垢有二。一內二外。此之法言。為表於內為表外耶。為是直詮為是密說。作是思惟忽然啟悟。善根發起業障消除。曾所不學三妙伽他。即於此時從心顯現 此塵是欲非土塵  密說此欲為土塵  智者能除此欲染  非是無慚放逸人  此塵是瞋非土塵  密說此瞋為土塵  智者能除此瞋恚  非是無慚放逸人  此塵是癡非土塵  密說此癡為土塵  智者能除此癡毒  非是無慚放逸人』
  周梨槃陀迦(しゅりはんだか):朱荼半託迦(しゅだはんたか)ともいう。小路と訳す。兄を摩訶槃陀迦(まかはんだか)といい、大路と訳す。共に父母の旅行の時、路上にて生まれたるによってこの名有り。兄は聡明なれども弟は愚鈍なれば愚路と呼ばれる。父母亡き後、兄に従いて共に出家するも兄より授けられたる『身語意業不造惡  不惱世間諸有情  正念觀知欲境空  無益之苦當遠離』の一偈を三月を経てなお誦すること能わず。仏の教に従い、愚路は黙然として諸の比丘の鞋履(あいり、革草履)の塵を払い、その都度諸の比丘は二度この偈を教う。やがてある日忽然として、この偈の意味は心の塵を払うに在りと覚り、ついに阿羅漢果を得た。
或時菩薩入禪定中。得不忘解脫。不忘解脫力故。一切語言說法。乃至一句一字皆能不忘。是為第二方便。或時神咒力故。得聞持陀憐尼。或時先世行業因緣受生。所聞皆持不忘。如是等名聞持陀羅尼門。 或は時に、菩薩は禅定中に入って、不忘解脱を得、不忘解脱の力の故に、一切の語言、説法、乃至一句一字まで、皆能く忘れず。是れを第二の方便と為す。或は時に、神咒の力の故に、聞持陀隣尼を得て、或は時に、先世の行業の因縁の受生の聞きし所を皆持して忘れず。是れ等の如きを聞持陀隣尼の門と名づく。
或は時に、
『菩薩』が、
『禅定に入って!』、
『不忘解脱』を、
『得る!』と、
『不忘解脱の力』の故に、
『一切の語言、説法、乃至一句、一字』を、
皆、
『忘れないようにできる!』。
是れが、
『第二の!』、
『方便である!』。
或は時に、
『神咒( a mantra )の力』の故に、
『聞持陀隣尼を得て!』、
或は時に、
『先世』の、
『行業の因縁で受けた生』中に、
『聞いた!』所を、
皆、
『持して( to memorize )!』、
『忘れない!』。
是れ等を、
『聞持陀羅尼の門』と、
『称する!』。
  神咒(じんじゅ):梵語 mantra の訳、神秘的韻文、或は魔法の呪文[しばしば擬人化される]/呪文( a mystical verse or magical formula (sometimes personified), incantation, charm, spell )の義。
  (もう):又忘念、失念とも云う。唯識に於いては二十随煩悩の一。所縁の境に於いて明記すること能わざる精神作用を云う。『大智度論巻28(下)注:失念、随煩悩』参照。
  失念(しつねん):梵語muSita-smRtitaaの訳。百法の一。二十随煩悩の一。又忘念とも名づく。所縁の境に於いて明記すること能わざる精神作用を云う。「顕揚聖教論巻1」に、「失念とは久しき所作と所説と所思との若しは法若しは義に於いて染汙不記なるを体となし、不忘念を障うるを業となし、乃至失念を増上するを以って業となす。経に説いて失念は能く為す所なしと謂うが如し」と云い、又「成唯識論巻6」に、「云何が失念なる、諸の所縁に於いて明記すること能わざるを以って性となし、能く正念を障え、散乱の所依たるを以って業となす。謂わく失念の者は心散乱なるが故なり」と云える是れなり。是れ所縁の境に於いて記憶すること能わず、随って正念を失し、心をして散乱せしむる精神情態を失念と名づけたるなり。唯識にては之を二十随煩悩中の八大随煩悩の一となせり。其の体に関しては三説あり、一説は「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」に失念は念を体となすと説くに依りて念の一分とし、一説は「瑜伽師地論巻58」に癡の等流と説くに依りて癡の一分なりとし、一説は前の二を併取し、念と癡との一分を以って体となせり。又「大乗五蘊論」、「大乗広五蘊論」、「成唯識論述記巻6末」、「略述法相義巻上」、「百法問答鈔巻1」等に出づ。<(望)
  随煩悩(ずいぼんのう):梵語upaklezaaの訳。随従する煩悩の意。根本煩悩に対す。又随惑、或いは枝末惑とも名づく。即ち根本煩悩に随従して起る諸の染汙の心所を云う。「品類足論巻1」に、「随煩悩とは云何。謂わく諸の随眠を亦た随煩悩と名づく。随煩悩にして随眠と名づけざるあり、謂わく随眠を除ける諸余の染汙の行蘊の心所なり」と云い、「倶舎論巻21」に、「諸の煩悩に異なり。染汙の心所の行蘊の所摂にして、煩悩に随って起るが故に亦た随煩悩と名づく。煩悩と名づけず、根本に非ざるが故なり」と云える是れなり。是れ即ち根本煩悩等流の染汙の心所を随煩悩と名づけたるなり。其の名数に関しては、「倶舎論巻21」等に総じて十九法を挙ぐ。即ち大煩悩地法中の放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙の五、大不善地法の無慚、無愧の二、小煩悩地法の忿、覆、慳、嫉、悩、害、恨、諂、誑、憍の十、並びに不定地法中の睡眠、悪作の二なり。此の中、欲界には具に十九法あるも、色界には諂、誑、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙、憍の八法、無色界には更に諂誑の二を減じ、唯余の六法のみあり。蓋し上二界には総じて不善性の惑なきに由るなり。又大乗唯識家に於いては前の十九法の中、悔、眠の二は善染等に於いて不定なるが故に之を除き、別に失念、散乱、不正知の三を加えて総じて二十法となせり。就中、忿等の十法は行相麁猛にして各別に主となりて起り、展転して俱起することなきが故に、倶舎等に小煩悩地法と名づくるに対し、之を小随煩悩と名づけ、無慚、無愧の二法は一切の不善心にのみ倶なるが故に、倶舎等に大不善地法と称するに対し、之を中随煩悩と名づけ、掉挙等の八法は一切の染心に遍じ、展転して小中随煩悩と倶生することを得るが故に、倶舎等に大煩悩地法と名づくるに対し、之を大随煩悩と称せり。又「成唯識論巻6」に唯此の二十法を以って随煩悩と名づくるに関し、「唯二十の随煩悩を説くは、謂わく煩悩に非ず、唯染にして麁なるが故なり」と云えり。此の中、非煩悩の義は貪等の根本煩悩に簡び、唯染の義は欲等の三性に通ずるを簡び、麁猛の義は随眠の行相微細なるに簡ぶの意なり。又「大毘婆沙論巻47」、「成実論巻10随煩悩品」、「入阿毘達磨論巻上」、「順正理論巻54」、「瑜伽師地論巻55、58」、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」、「成唯識論巻4」、「同述記巻6末」、「倶舎論光記巻21」等に出づ。<(望)
復次菩薩聞一切音聲語言。分別本末觀其實相。知音聲語言。念念生滅。音聲已滅而眾生憶念取相。念是已滅之語作是念言。是人罵我而生瞋恚。稱讚亦如是。是菩薩能如是觀眾生。雖復百千劫罵詈不生瞋心。若百千劫稱讚亦不歡喜。知音聲生滅如響相。 復た次ぎに、菩薩は、一切の音声、語言を聞いて、本末を分別し、其の実相を観じて知るらく、『音声、語言は念念に生滅すれば、音声已に滅したるに、衆生は憶念して相を取り、是の已に滅したる語を念じ、是の念を作し、『是の人は、我れを罵る』、と言いて、瞋恚を生ず。称讃も亦た是の如し』、と。是の菩薩の能く是の如く衆生を観れば、復た百千劫罵詈すと雖も、瞋心を生ぜず、若し百千劫称讃するも、亦た歓喜せざるは、音声の生滅すること、響の相の如きを知ればなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『音声、語言を聞いて!』、
其の、
『本、末』を、
『分別し!』、
其の、
『実相』を、
『観て!』、
こう知ることになる、――
『音声、語言』は、
『念念に!』、
『生、滅する!』が、
『衆生』は、
『已に、滅した!』、
『音声を憶念して!』、
『相』を、
『取る!』ので、
是の、
『已に、滅した!』、
『語』を、
『念じて!』、
是の、
『人』は、
『わたしを、罵った!』と、
『言い!』、
『心』に、
『瞋恚』を、
『生じるのであり!』、
亦た、
『称讃』も、
『是の通りである!』、と。
是の、
『菩薩』が、
是のように、
『衆生を観ることができれば!』、
復た( moreover )、
『衆生』に、
『百千劫』、
『罵詈されても!』、
『心』に、
『瞋』を、
『生じない!』し、
若し、
亦た、
『百千劫』、
『称讃されても!』、
而も、
『歓喜しない!』のは、
『音声』は、
『生、滅して!』、
『響の相のようである!』と、
『知るからである!』。
  念念(ねんねん):梵語 kSaNa の訳、何の瞬間にも( any instantaneous point of time, instant, twinkling of an eye, moment )の義。
又如鼓聲無有作者。若無作者是無住處。畢竟空故但誑愚夫之耳。是名入音聲陀羅尼。 又、鼓声の如きは、作者有ること無し。若し作者無くんば、是れに住処無く、畢竟じて空なるが故なり。但だ愚夫の耳を誑すのみ。是れを入音声陀羅尼と名づく。
又、
例えば、
『鼓声など!』は、
『作者』が、
『無い!』が、
若し、
『作者』が、
『無ければ!』、
是れには、
『住処が無い!』ので、
『畢竟じて!』、
『空だということになり!』、
但だ、
『愚者の耳』を、
『誑すだけである!』。
是れを、
『入音声( begining to understand the sound )陀羅尼』と、
『称するのである!』。
  入音声陀羅尼(にゅうおんじょうだらに):音声の実相に入り、罵詈称讃にも心を動かさないことを云う。『大智度論巻5(上)』参照。
復次有陀羅尼。以是四十二字。攝一切語言名字。何者是四十二字。阿羅波遮那等阿提秦言初阿耨波柰秦言不生行陀羅尼菩薩聞是阿字即時入一切法初不生。如是等字字隨所聞。皆入一切諸法實相中。是名字入門陀羅尼。如摩訶衍品中說諸字門。 復た次ぎに、有る陀羅尼は、是の四十二字を以って、一切の語言、名字を摂す。何者か、是れ四十二字なる。阿、羅、波、遮、那等なり。阿提を秦に初と言い、阿耨波奈を秦に不生と言い、陀羅尼を行ずる菩薩は、是の阿字を聞いて、即時に、一切法の初より不生なるに入る。是れ等の如く、字字の聞く所に随いて、皆、一切の諸法の実相中に入る。是れを字入門陀羅尼と名づく。摩訶衍品中に諸の字門を説けるが如し。
復た次ぎに、
有る、
『陀羅尼』は、
是の、
『四十二字に!』、
『一切の語言、名字』を、
『摂する!』。
何のような、
『四十二字か?』、――
『阿( a )』、
『羅( ra )』、
『波( pa )』、
『遮( ca )』、
『那( na )等であり!』、
『阿提( aadi )』を、
秦に、
『初( beginning )』と、
『言い!』、
『阿耨波奈( anutpanna )』を、
秦に、
『不生』と、
『言う!』ので、
若し、
『陀羅尼を行う!』、
『菩薩』が、
是の、
『阿( a )字を聞けば!』、
即時に、
『一切法の初より不生である!』ことに、
『入る( to begin to understand )ことになる!』。
是れ等のように、
『字、字』を、
『聞くに随い!』、
皆、
『一切の諸法の実相』中に、
『入る!』ので、
是れを、
『字入門陀羅尼( aakSaramukhapravezadhaaraNii )』と、
『称する!』。
例えば、
『摩訶衍品中に説かれた!』、
『諸字門の通りである!』。
  (あ):梵字a。『大智度論巻42(下)注:悉曇四十二字門、字門、阿』参照。
  (ら):梵字ra。『大智度論巻42(下)注:悉曇四十二字門、字門、同巻48(下)注:囉』参照。
  (は):梵字pa。『大智度論巻42(下)注:悉曇四十二字門、字門、同巻48(下)注:跛』参照。
  (しゃ):梵字ca。『大智度論巻42(下)注:悉曇四十二字門、字門、同巻48(下)注:左』参照。
  (な):梵字na。『大智度論巻42(下)注:悉曇四十二字門、字門、同巻48(下)注:曩』参照。
  阿提(あだい):梵語aadi。初め、最初の義。
  阿耨波奈(あのくはな):梵語anutpanna, anutpaada 。不生の義。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5広乗品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂字等語等諸字入門。何等為字等語等諸字入門。阿字門。一切法初不生故。羅字門。一切法離垢故。波字門。一切法第一義故。遮字門。一切法終不可得故。諸法不終不生故。那字門。諸法離名性相不得不失故。邏字門。諸法度世間故。亦愛支因緣滅故。陀字門。諸法善心生故。亦施相故。婆字門。諸法婆字離故。荼字門。諸法荼字淨故。沙字門。諸法六自在王性清淨故。和字門入諸法語言道斷故。多字門。入諸法如相不動故夜字門。入諸法如實不生故。[口*宅]字門。入諸法折伏不可得故。迦字門。入諸法作者不可得故。娑字門。入諸法時不可得故。諸法時來轉故。磨字門。入諸法我所不可得故。伽字門。入諸法去者不可得故。他字門。入諸法處不可得故。闍字門。入諸法生不可得故。[其*皮]字門。入諸法[其*皮]字不可得故。[馬*太]字門。入諸法性不可得故。賒字門。入諸法定不可得故。呿字門。入諸法虛空不可得故。叉字門。入諸法盡不可得故。哆字門。入諸法有不可得故。若字門。入諸法智不可得故。拖字門。入諸法拖字不可得故。婆字門。入諸法破壞不可得故。車字門。入諸法欲不可得故。如影五陰亦不可得故。摩字門。入諸法摩字不可得故。火字門。入諸法喚不可得故。嗟字門。入諸法嗟字不可得故。伽字門。入諸法厚不可得故。他字門。入諸法處不可得故。拏字門。入諸法不來不去不立不坐不臥故。頗字門。入諸法遍不可得故。歌字門。入諸法聚不可得故。醝字門。入諸法醝字不可得故。遮字門。入諸法行不可得故。[口*宅]字門。入諸法傴不可得故。荼字門。入諸法邊竟處故不終不生。過荼無字可說。何以故。更無字故。諸字無礙無名亦滅。不可說不可示。不可見不可書。須菩提。當知一切諸法如虛空。須菩提。是名陀羅尼門。』
復次菩薩得是一切三世無礙明等諸三昧。於一一三昧中。得無量阿僧祇陀羅尼。如是等和合。名為五百陀羅尼門。是為菩薩善法功德藏。如是名為陀羅尼門。 復た次ぎに、菩薩は、是の一切の三世の無礙の明等の諸の三昧を得れば、一一の三昧中に於いて、無量、阿僧祇の陀羅尼を得、是れ等の如き和合を、名づけて五百陀羅尼門と為し、是れを菩薩の善法、功徳の蔵と為し、是の如きを名づけて、陀羅尼門と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の、
『一切三世無礙明』等の、
『諸の三昧を得る!』と、
『一一の三昧』中に於いて、
『無量、阿僧祇の陀羅尼』を、
『得ることになり!』、
是れ等のような、
『無量の陀羅尼の和合』を、
『五百陀羅尼門』と、
『称し!』、
是れは、
『菩薩の善法、功徳』の、
『蔵なのである!』。
是のようなものを、
『陀羅尼の門』と、
『称する!』。
  三昧(さんまい):心を一境止めて不動なるを云う。『大智度論巻20(上)注:三昧、並びに巻47』参照。
  一切三世無礙明(いっさいさんぜむげみょう):蓋し能照一切世三昧の如し。『大智度論巻47』参照。
諸三昧門者。三昧有二種。聲聞法中三昧。摩訶衍法中三昧。聲聞法中三昧者。所謂三三昧。 諸の三昧門とは、三昧には二種有り、声聞法中の三昧と、摩訶衍法中の三昧なり。声聞法中の三昧とは、謂わゆる三三昧なり。
『諸の三昧門』とは、――
『三昧』には、
『二種有り!』、
『声聞法中の三昧と!』、
『摩訶衍法中の三昧とである!』が、
『声聞法中の三昧』が、
謂わゆる、
『三三昧である!』。
  三三昧(さんさんまい):空、無相、無作に関する三種の三昧。『大智度論巻7(上)注:三三昧、同巻18(下)注:三解脱門』参照。
復次三三昧。空空三昧無相無相三昧無作無作三昧。復有三三昧。有覺有觀無覺有觀無覺無觀。復有五支三昧。五智三昧等是名諸三昧。 復た次ぎに、三三昧とは、空空三昧、無相無相三昧、無作無作三昧なり。復た三三昧有り、有覚有観、無覚有観、無覚無観なり。復た五支三昧、五智三昧等有りて、是れを諸三昧と名づく。
復た次ぎに、
『三三昧が有り!』、
『空空三昧と!』、
『無相無相三昧と!』、
『無作無作三昧とである!』。
復た、
『三三昧が有り!』、
『有覚有観三昧と!』、
『無覚有観三昧と!』、
『無覚無観三昧とである!』。
復た、
『五支三昧や、五智三昧等が有り!』、
是れを、
『諸の三昧』と、
『称する!』。
  五支三昧(ごしさんまい):又五支定と名づく。「舍利弗阿毘曇論巻28」に、「云何が五支定なる。(中略)云何が聖五支正定を修するを得る。比丘の欲悪不善を離れ有覚有観離生喜楽にして、初禅の行を成就するに、身離生喜楽にして津液此の身に遍満するが如し。尽く離生喜楽にして、津液遍満して減少有ること無く、善澡浴師の若しは善澡浴師の弟子の、細澡豆を以って器中に盛著し、水を以って之に灑ぎ、調適作摶し、此の津液を摶して遍満せしめ、不乾不湿、内外和調す。是の如し、比丘、身は離生喜楽にして、津液遍満して減少有ること無き、是れを聖五支初支定を修すと名づく。復た次ぎに比丘、覚観内の正信一心を滅して、無覚無観の定生喜楽にして、二禅の行を成就するに、此の身定生喜楽にして津液遍満す。此の身尽く定生喜楽にして津液遍満し減少有ること無く、陂湖水底涌出し、東方南西北方より来たらず、此の水底より涌出し、能く池をして津液遍満し減少有ること無からしむるが如し。是の如し、比丘、此の身定生喜楽にして津液遍満す。此の身定生喜楽にして津液遍満し減少有ること無き、是れを聖五支の第二支定を修すと謂う。復た次ぎに、比丘、離喜捨行にして正智を念じ、身に楽を受く。諸の聖人の如く、捨を解いて楽行を念じ、三禅の行を成就するに、此の身喜楽無き津液遍満す。此の身喜楽無き津液遍満す。此の身喜楽無く津液遍満して減少有ること無し。優波羅華池、鳩頭摩華池、鉢頭摩華池、分陀利華池の泥中より出でて、未だ水より出づる能わざるに、此の華根より頭に至り、頭より根に至って、皆津液遍満して減少有ること無きが如し。是の如し、比丘、此の身無量喜楽にして津液此の身に遍満す。津液遍満して減少有ること無き、是れを聖五支の第三支定と謂う。復た次ぎに、比丘、苦楽を断じて先に憂喜を滅し、不苦不楽捨念浄にして、四禅の行を成就するに、此の身清浄心を以って遍く解行す。此の身清浄心を以って遍く解行するに減少有ること無し。男子女人の白浄衣を著け、頭より足に至り、足より頭に至って覆わざる処無きが如し。是の如し、比丘、清浄心を以って遍く解行す。此の身清浄なるを以って遍く解行して減少有ること無き、是れを聖五支第四支定を修すると謂う。復た次ぎに比丘、善取観相、善思惟善解にして、立人の坐者を観る如く、坐人の臥者を観るが如し。是の如し、比丘、善取観相、善思惟善解する、是れを聖五支第五支定を修すと謂う。」と云える是れなり。此の中に、有覚有観の離生喜楽にして、初禅の行を成就するを第一支となし、無覚無観の定生喜楽にして、二禅の行を成就するを第二支となし、離喜捨行にして正智を念じ楽を受け、三禅の行を成就するを第三支と為し、苦楽、憂喜共に断じ不苦不楽捨念浄にして四禅を成就する清浄心を以って遍く解行するを第四支と為し、善取観相、善思惟善解なるを第五支となすものと知る。
  五智三昧(ごちさんまい):定を修するに当り、無量に明了し已りて、五種の智を縁生するを云う。即ち「舍利弗阿毘曇論巻28」に、「若しは定の現楽、後楽の報有り、此を縁じて智を生ず、若しは定の聖無染有り、此を縁じて智を生ず、若しは定の不怯弱なる者の能く親近する有り、此を縁じて智を生ず、若しは定の寂静、勝妙、独修、除得なる有り、此を縁じて智を生ず、若しは定の正念に入りて起つ有り、此を縁じて智を生ず」と云える是れなり。
  参考:『舍利弗阿毘曇論巻28』:『云何五支定。如佛告諸比丘。諦聽諦聽。善思念之。吾當為汝說聖五支定。諸比丘言。唯然受教。云何得修聖五支正定。如比丘離欲惡不善。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。身離生喜樂津液遍滿此身。盡離生喜樂。津液遍滿無有減少。如善澡浴師。若善澡浴師弟子。以細澡豆盛著器中。以水灑之調適作摶。此摶津液遍滿。不乾不濕內外和調。如是比丘。身離生喜樂。津液遍滿無有減少。是名修聖五支初支定。復次比丘。滅覺觀內正信一心。無覺無觀定生喜樂。成就二禪行。此身定生喜樂津液遍滿。此身盡定生喜樂。津液遍滿無有減少。如陂湖水底涌出。不從東方南西北方來。此水從底涌出。能令池津液遍滿無有減少。如是比丘。此身定生喜樂津液遍滿。此身定生喜樂津液遍滿無有減少。是謂修聖五支第二支定。復次比丘。離喜捨行念正智身受樂。如諸聖人。解捨念樂行。成就三禪行。此身無喜樂津液遍滿。此身無喜樂津液遍滿無有減少。如優波羅華池鳩頭摩華池缽頭摩華池分陀利華池。從泥中出未能出水。此華從根至頭。從頭至根。皆津液遍滿無有減少。如是比丘。此身無量喜樂津液遍滿此身。津液遍滿無有減少。是謂聖五支第三支定。復次比丘。斷苦樂先滅憂喜。不苦不樂捨念淨。成就四禪行。此身以清淨心遍解行。此身以清淨心遍解行無有減少。如男子女人著白淨衣。從頭至足從足至頭無不覆處。如是比丘。以清淨心遍解行。此身以清淨遍解行無有減少。是謂修聖五支第四支定。復次比丘。善取觀相。善思惟善解。如立人觀坐者。如坐人觀臥者。如是比丘。善取觀相善思惟善解。是謂修聖五支第五支定。如是比丘。修聖五支定。親近多修學已。欲證通法。悕望欲證。隨心所欲即能得證。自知無礙。如四衢處有善調馬善駕已。有善御乘者。乘已隨意自在。如是比丘。親近聖五支定多修學已。欲證通法。悕望欲證。隨心所欲即能得證自在無礙。如盛水瓶堅牢不漏。盛以淨水。平滿為欲隨人傾用。如意自在。如是比丘。親近聖五支定多修學已。欲證通法悕望欲證。隨心所欲自在無礙。如比丘如陂泉遍水平滿為飲。如人決用如意自在。隨所決即出。如是比丘。親近聖五支定多修學已。欲證通法。悕望欲證隨心所欲。即能得證自在無礙。如比丘欲受無量若干神足動地。能以一為多以多為一。乃至梵天身得自在隨所能入。如智品說。如比丘欲受天耳清淨過人能聞人非人聲隨所能入。如比丘欲受知他眾生心能知。有欲心如實知有欲心。無欲心如實知無欲心。乃至無勝心如實知無勝心。隨所能入。如智品說。如比丘欲受憶念無量宿命。能憶一生二生三生四生五生。乃至成就此行。隨所能入。如智品說。如賢比丘。欲受天眼清淨過人。能見眾生生死。乃至如所業報隨所能入。如智品說。如賢比丘。欲受盡有漏成無漏。得心解脫慧解脫。現世自智證成就行。我生已盡梵行已立。所作已辦更不受有。隨所能入。如是修聖五支定。親近多修學已。得如是果報。云何比丘。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘一切有為法。若一處有為法。思惟無常。知無常解無常受無常。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如是比丘。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如是乃至見死屍在火聚上觀。如道品一支道廣說。復次比丘。如是思惟。我內有欲染。如實知內有欲染。若內無欲染。如實知內無欲染。如欲染未生。如實知未生。如欲染未生生。如實知生。如欲染生已斷。如實知斷。如欲染斷已。如實知更不復生。內有瞋恚睡眠掉悔疑亦如是。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。比丘如是離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。復次比丘。如是思惟。我內眼識色。有欲染瞋恚。如實知內眼識色有欲染瞋恚。內眼識色無欲染瞋恚。如未生眼識色欲染瞋恚。如實知未生。如未生眼識色欲染瞋恚生。如實知生。如生眼識色欲染瞋恚斷已。如實知斷。如眼識色欲染瞋恚斷已。如實知更不復生。耳識聲鼻識香舌識味身識觸意識法亦如是。不放逸觀離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。比丘如是離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。復次比丘。如是思惟。我內有念正覺。如實知內有念正覺。內無念正覺。如實知內無念正覺。如念正覺未生。如實知未生。如念正覺未生生。如實知生。如念正覺生已具足修。如實知具足。修擇法正覺精進正覺喜正覺除正覺定正覺捨正覺亦如是。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。比丘如是離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。復次比丘如實知苦苦集苦滅苦滅道。如實知漏漏集漏滅漏滅道。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。比丘如是。謂離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。復次比丘心畏怖故。出一切有為。入甘露界。此寂靜妙勝離一切有為。愛盡涅槃。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。比丘如是離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。第二禪第三禪第四禪亦如是說。云何比丘。善取觀相。善思惟善解。如比丘一切有為法。若一處有為法思惟無常。知無常解無常受無常。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘若行若法相。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。若法相善取相善思惟善解。善識順識緣識。分別順分別緣分別。比丘如是善取觀相善思惟善解。復次比丘。若一處有為法。思惟是苦患癰箭味過依緣壞法不定不滿可壞苦空無我。思惟緣知緣受緣。即無明緣行。行緣識。識緣名色。名色緣六入。六入緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死憂悲苦惱眾苦聚集。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘若法相。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。若行若法相。善取相善思惟善解。善識順識緣識。分別順分別緣分別。比丘如是善取觀相善思惟善解。復次比丘一切有為法。若一處有為法。思惟法滅知滅解滅受滅。無明滅則行滅。行滅則識滅。識滅則名色滅。名色滅則六入滅。六入滅則觸滅。觸滅則受滅。受滅則愛滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦惱眾苦聚集滅。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘若行法相。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。若行若法相善取相善思惟善解。善識順識緣識。分別順分別緣分別。比丘如是善取觀相善思惟善解。復次比丘。行知行樂。住知住樂。坐知坐樂。臥知臥樂。如是身住樂如實知住樂。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘若行若法相。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。若行若法相。善取相善思惟善解。善識順識緣識。分別順分別緣分別。比丘如是善取觀相善思惟善解。復次比丘。從去來屈伸。乃至心怖畏故。出一切有為入甘露界。亦如是說。第二禪第三禪第四禪。亦如是說。何謂善取觀相善思惟善解。如比丘一切有為法。若一處有為法。思惟無常知無常解無常受無常。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘若有色受想行識。善取法相善思惟善解。善識順識緣識。分別順分別緣分別。比丘如是善取觀相善思惟善解。復次比丘一切有為法。若一處有為法。從思惟是苦患癰箭。乃至心畏怖故。出一切有為入甘露界。此寂靜此妙勝。離一切有為愛盡涅槃。如是不放逸觀。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。如比丘。若有色受想行識。善取法相善思惟善解。善識順識緣識。分別順分別緣分別。比丘如是善取觀相善思惟善解。第二禪第三禪第四禪。亦如上說。如是五支。是名五支定』
  参考:『舍利弗阿毘曇論巻28』:『云何五智定。如世尊說。諸比丘修定無量明了。諸比丘若修定無量明了已。緣生五種智。何等五。若有定現樂後樂報緣此生智。若有定聖無染緣此生智。若有定不怯弱者能親近緣此生智。若有定寂靜勝妙獨修除得緣此生智。若有定念入正念起緣此生智。云何定現樂後樂報緣此生智。云何現樂定。如比丘。離欲惡不善法。有覺有觀離生喜樂。成就初禪行。若身離生喜樂津液遍滿。此身盡離生喜樂。津液遍滿無有減少。如善澡浴師。若善澡浴師弟子。以細澡豆盛著器中。以水灑已調適作摶。此摶津液遍滿。不燥不濕內外和潤。如是比丘身離生喜樂津液遍滿。身盡離生喜樂。津液遍滿無有減少。如比丘增益受離生喜樂出世樂寂靜樂滅樂正覺樂沙門果樂涅槃樂。此定如是謂現樂。復次比丘。滅覺觀內淨信一心。無覺無觀定生喜樂。成二禪行。若身定生喜樂津液遍滿。此身盡定生喜樂。津液遍滿無有減少。如大陂湖以山圍遶。水從底涌出。不從東方南西北方來。此陂水津液遍滿。此陂盡津液遍滿無有減少。如是比丘身定生喜樂津液遍滿。此身盡津液遍滿無有減少。如比丘增益受無喜樂。出世樂寂靜樂滅樂正覺樂沙門果樂涅槃樂。此定如是謂現樂。復次比丘離喜捨行念正智身受樂。如諸聖人。解捨念樂行。成就三禪行。若身無喜樂。津液遍滿身無喜樂。津液遍滿無有減少。如優缽羅花池波頭摩花池鳩頭摩花池分陀利花池。從泥稍出未能出水。此花若根若頭。水津液遍滿。從根至頭從頭至根。津液遍滿無有減少。如是比丘。若身無喜樂津液遍滿。此身盡津液遍滿無有減少。如比丘增益受無喜樂出世樂寂靜樂滅樂正覺樂沙門果樂涅槃樂。此定如是謂現樂。復次比丘斷苦斷樂先滅憂喜不苦不樂捨念淨。成就四禪行。若身以清淨心遍解行。此身清淨無不遍處。如男子女人身著白淨衣上下具足。從頭至足從足至頭無不覆處。如是比丘。若身以清淨心遍解行。此身清淨無不遍處。如比丘增益受寂靜妙樂出世樂寂靜樂滅樂正覺樂沙門果樂涅槃樂。如是定謂現樂。云何定後樂報。如比丘。思惟無常苦空無我。思惟涅槃寂靜。得定心住正住。如比丘得定已。即得初聖五根。得初聖五根已。上正決定捨凡夫地。若不得須陀洹果而中命終。無有是處。不得須陀洹果。作惡作惡業已。命終墮三塗。無有是處。如比丘親近此定多修學。多修學已。見斷三煩惱。得須陀洹果觸證。觸證已。斷地獄畜生餓鬼苦。受七生人天報。斷餘生天人中苦。如是定謂後樂報。如比丘親近此定。多修學。多修學已。思惟斷欲染瞋恚煩惱分。斷欲染瞋恚煩惱分已。得斯陀含果觸證。觸證已斷地獄畜生餓鬼苦。受天上人中生。斷餘生天上人中苦。如是定謂後樂報。如比丘親近此定多修學。多修學已。思惟斷欲染瞋恚盡無餘。無餘已得阿那含果觸證。觸證已斷地獄畜生餓鬼人中苦。若受一天生若五生。餘天上苦皆斷。如是定謂後樂報。如比丘親近此定多修學。多修學已。思惟斷色界無色界煩惱盡無餘。無餘已得阿羅漢果觸證。觸證已斷地獄畜生餓鬼人中天上苦。一切有一切道一切生一切繫縛一切結使煩惱苦。皆斷無餘。如是定謂後樂報。何謂緣此生智。若內分別若外分別。知見覺證。此謂緣此生智。何謂有定聖無。染緣此生智。何謂非聖定。若定有漏。此謂非聖定。復次非聖定若定非學非無學。此謂非聖定。復次非聖定。除空無相無願定。若餘定謂非聖定。何謂聖定。若定無漏。是名聖定。復次聖定。若定學無學。此謂聖定。復次聖定。空無相無願定。此謂聖定。以何義謂聖。以斷離貪欲瞋恚愚癡諸結煩惱故謂聖定。云何有染定。若定有求。此謂有染定。復次有染定。若定非學非無學。此謂有染定。復次有染定。除空無相無願定若餘定。此謂有染定。以何義有染。染謂愛。愛於此定中得正得緣得。定亦於愛中得正得緣得。是謂有染定。云何無染定。若定無求。此謂無染定。復次無染定。若定學無學。此謂無染定。復次無染定。空無相無願定。此謂無染定。以何義無染。染謂愛。愛定中不得不正得不緣得定愛中不得不正得不緣得。是謂無染定。何謂緣此生智。若內分別若外分別。知見覺證。此謂緣此生智。云何有定不怯弱者親近緣此生智。云何怯弱者。若無信心無慚無愧。不學問懈怠失念無慧。此謂怯弱者。復次怯弱是凡夫。以何義故名怯弱。以未知身見未斷身見。以是義謂怯弱者。云何非怯弱者。不怯弱謂有信慚愧。多聞懃進專念多慧。此謂不怯弱者。復次不怯弱。若佛及佛聲聞弟子。以何義故名不怯弱。以知身見以斷身見。以是義謂不怯弱者。如是不怯弱者。得定親近多修學。以是義故謂非怯弱者親近。何謂緣此生智。若內分別若外分別。知見覺證。是謂緣此生智。何謂有定寂靜勝妙獨修除得。緣此生智。云何寂靜。若定共果報。是名寂靜。云何勝妙定。若定聖有報。能斷煩惱。是名勝妙定。復次寂靜定。若定聖有報能斷煩惱。是名寂靜定。復次勝妙定。若定共果報。是名勝妙定。復次寂靜即勝妙。勝妙即是寂靜。是謂寂靜勝妙。何謂獨修。若心一向定住正止獨處定。是謂獨修。何謂除得。云何不除得定。若定得不定得難得。是名不除得定。云何除得定。若定得決定得不難得。是謂除得定。何謂緣此生智。若內分別若外分別。知見覺證。是謂緣此生智。何謂有定正念入正念起緣此生智。若正智入正智起。正智入正智起已。是故謂正念入正念起。專身念入專身念起。專身念入專身念起已。是謂正念入正念起。何謂緣此生智。若內分別若外分別。知見覺證。是謂緣此生智。如是五智。是五智定』
復次一切禪定亦名定亦名三昧。四禪亦名禪亦名定亦名三昧。除四禪諸餘定亦名定。亦名三昧不名為禪。十地中定名為三昧。 復た次ぎに、一切の禅定は、亦た定と名づけ、亦た三昧と名づけ、四禅は、亦た禅と名づけ、亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を除く、諸余の定は、定と名づけ、亦た三昧と名づくるも、名づけて禅と為さず。十地中の定は、名づけて三昧と為す。
復た次ぎに、
『一切の禅定』は、
『定とも、三昧とも!』、
『呼ばれ!』、
『四禅』は、
『禅とも、定とも、三昧とも!』、
『呼ばれ!』、
『四禅を除く、諸余の定』は、
『定とも、三昧とも呼ばれる!』が、
『禅』と、
『呼ばれることはなく!』、
『十地』中の、
『定』は、
『三昧である!』。
  禅定(ぜんじょう):禅と定の意。『大智度論巻5(上)注:禅定、禅、同巻17(下)注:定』参照。
  (ぜん):色界四禅の定を云う。『大智度論巻5(上)注:禅、同巻17(下)注:定』参照。
  (じょう):心を一境に定めるを云う。此の中に禅、等至(三摩鉢底)、三昧(三摩地)等の別あり。『大智度論巻5(上)注:禅、同巻17(下)注:定、三摩鉢底、同巻20(上)注:三昧』参照。
  三昧(さんまい):心の一境に住して動かざる状態。『大智度論巻17(下)注:定、同巻20(上)注:三昧』参照。
  十地(じゅうじ):三界中欲界を除きし諸余の未到地、初禅、中間地、二禅、三禅、四禅、及び四無色処。
有人言欲界地亦有三昧。何以故。欲界中有二十二道品故。知有三昧。若無三昧不應得是深妙功德。 有る人の言わく、『欲界の地にも、亦た三昧有り。何を以っての故に、欲界中に二十二道品有るが故に、三昧有るを知る。若し三昧無くんば、応に是の深妙の功徳を得るべからず』、と。
有る人は、こう言っている、――
『欲界の地』にも、
亦た、
『三昧』が、
『有る!』。
何故ならば、
『欲界』中に、
『二十二道品(四念処、四正勤、四如意、五根、五力)が有る!』が故に、
『三昧が有る!』と、
『知る!』。
若し、
『三昧が無ければ!』、
是の、
『深妙の功徳』を、
『得られるはずがない!』、と。
  参考:『大智度論巻19』:『有頂中二十二。除七覺分八聖道分。欲界中二十二亦如是。』
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻96』:『已說次第。所依地今當說。問何地有幾菩提分法。答未至定中有三十六。除喜覺支。初靜慮中具三十七。靜慮中間及第三第四靜慮各唯有三十五。除喜覺支及正思惟。第二靜慮有三十六。除正思惟。前三無色有三十二。除喜覺支及正思惟正語業命。欲界有頂各有二十二。除覺支。道支唯無漏故。若覺支前說道支者。欲界有頂亦有道支通有漏故。已說依地。現在前今當說。問何地有幾菩提分法俱時現前。答未至定中有三十六菩提分法。唯三十三俱時現前。除三念住。所以者何。以四念住所緣各別。尚無有二俱時現前。況有三四。初靜慮中具三十七。唯三十四俱時現前。除三念住。靜慮中間及第三第四靜慮各三十五。唯三十二俱時現前除三念住。第二靜慮有三十六。唯三十三俱時現前。除三念住。前三無色有三十二。唯二十九俱時現前。除三念住。欲界有頂有二十二。唯有十九俱時現前。除三念住餘隨義說非要別體』
  参考:『阿毘達磨倶舎論巻25』:『論曰。初靜慮中具三十七。於未至地除喜覺支。近分地中勵力轉故。於下地法猶疑慮故。第二靜慮除正思惟。彼靜慮中已無尋故。由此二地各三十六。第三第四靜慮中間雙除喜尋各三十五。前三無色除戒三支并除喜尋各三十二。欲界有頂除覺道支各二十二。無無漏故。覺分轉時必得證淨。』
復次千問中亦有是問。四聖種幾欲界繫幾色界繫幾無色界繫幾不繫。 復た次ぎに、『千問』中にも亦た是の問有り、『四聖種の幾ばくか、欲界繋、幾ばくか色界繋、幾ばくか無色界繋にして、幾ばくか不繋なる』、と。
復た次ぎに、
『千問』中にも、こう問うている、――
『四聖種』中の、
幾つが、
『欲界繋( tethers of the desire realm )であり!』、
『色界繋( tethers in the realm of form )であり!』、
『無色界繋( tethers in the formless realm )であり!』、
幾つが、
『不繋( unbound )なのか?』、と。
  四聖種(ししょうしゅ):能く衆聖を生ずる種子に衣服喜足、飲食喜足、臥具喜足、楽断楽修の四種あるを云う。『大智度論巻18(下)注:四聖種』参照。
  (け):梵語 pratisaMyukta の訳、何か他のものに縛られる/附属する( bound or attached to something else )の義、人を三界に繋縛する煩悩( Afflictions that bind human to the three realms )の意。『大智度論巻8(下)注:繋』参照。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻8』:『種者。謂四聖種。問云何四。答一謂隨乞得衣知足聖種。二謂隨乞得食知足聖種。三謂隨得眠臥具等知足聖種。四謂樂閑靜樂修聖種。問此四聖種。幾色。幾非色。答聖種所攝身口業是色。餘非色。一切是不可見。一切是無對。問聖種。幾有漏。幾無漏。答一切應分別。聖種。或有漏或無漏。云何有漏。謂聖種所攝有漏五陰。云何無漏。謂聖種所攝無漏五陰。一切是有為。若有漏。彼有報。若無漏。彼無報一切從因緣生世所攝。聖種所攝身口業。是色所攝。餘是名所攝。聖種所攝心意識。是內入所攝。餘是外入所攝。一切是智知。若有漏斷知知及斷。若無漏。非斷知知及不斷。一切是應修。一切不穢污。一切是果及有果一切是不受。聖種所攝身口業。是四大造。餘非四大造。一切是有上。聖種。若有漏。彼是有。若無漏。彼非有。聖種所攝身口業。及心不相應行。因不相應。餘因相應善五處少分攝四聖種。四聖種亦攝善五處少分。不善處所不攝。無記處所不攝。漏處所不攝。或有漏處攝非聖種。作四句。有漏處攝非聖種者。謂聖種所不攝有漏五陰。聖種攝非有漏處者。謂聖種所攝無漏五陰。有漏處攝亦聖種者。謂聖種所攝有漏五陰。非有漏處攝亦非聖種者謂虛空。及數滅非數滅。或無漏處攝非聖種。作四句。無漏處攝非聖種者。謂虛空。及數滅非數滅。聖種攝非無漏處者。謂聖種所攝有漏五陰。無漏處攝亦聖種者。謂聖種所攝無漏五陰。非無漏處攝亦非聖種者。謂聖種所不攝有漏五陰。一切或過去。或未來。或現在。一切是善。聖種或欲界繫。或色界繫。或無色界繫或不繫。云何欲界繫。謂聖種所攝欲界繫五陰。云何色界繫。謂聖種所攝色界繫五陰。云何無色界繫。謂聖種所攝無色界繫四陰。云何不繫。謂無漏四聖種。問聖種。幾學。幾無學。幾非學非無學。答一切應分別。聖種。或學。或無學。或非學非無學。云何學。謂聖種所攝學五陰。云何無學。謂聖種所攝無學五陰。云何非學非無學。謂聖種所攝有漏五陰。聖種。若有漏彼修斷。若無漏。彼不斷。聖種所攝身口業。及心不相應行。非心非心法非心相應。聖種所攝受陰想陰。彼相應行陰。是心法心相應心意識即心也』
答曰。一切當分別四聖種。或欲界繫或色界繫或無色界繫或不繫。四念處四正懃四如意足亦如是。以是義故。當知欲界有三昧。若散亂心云何得此上妙法。以是故是三昧在十一地中。如是等諸三昧。阿毘曇中廣分別。 答えて曰く、一切は、当に四聖種を、或は欲界繋、或は色界繋、或は無色界繋、或は不繋に分別すべし。四念処、四正勤、四如意足も亦た是の如し。是の義を以っての故に、当に知るべし、欲界にも三昧有るを。若し心を散乱せば、云何が此の上妙の法を得ん。是を以っての故に、是の三昧は、十一地中に在り。是れ等の如き諸の三昧を、阿毘曇中には広く分別せり。
答え、
一切の、
『四聖種』は、
『欲界繋と、色界繋と、無色界繋と、不繋とに!』、
『分別すべきであり!』、
『四念処や、四正勤、四如意足』も、
亦た、
『是の通りである!』。
是の、
『義( reason )』の故に、こう知ることになる、――
『欲界にも!』、
『三昧』が、
『有る!』、と。
若し、
『心を散乱させれば!』、
何故、
此の、
『上妙の法』が、
『得られるのか?』。
是の故に、
是の、
『三昧』は、
『十一地(十地+欲界)』中に、
『存在するのである!』。
是れ等のような、
『諸の三昧』を、
『阿毘曇』中には、
『広く分別している!』。
  (ぎ):梵語 artha の訳、原因/目的/理由( cause, motive, reason )、利益/効用( advantage, use, utility )、事物/対象/感覚の対象( thing, object, object of the sense )、資産/財産/富/資金( substance, wealth, property, opulence, money )の義。
摩訶衍三昧者。從首楞嚴三昧乃至虛空際無所著解脫三昧。 摩訶衍の三昧とは、首楞厳三昧より、乃至虚空際無所著解脱三昧なり。
『摩訶衍の三昧』とは、
『首楞厳三昧より!』、
『虚空際無所著解脱三昧までである!』。
  首楞厳三昧(しゅりょうごんさんまい):諸の三昧を分別して、其の行相、多少、深浅を知り、大将の諸の兵力の多少を知るが如き三昧を云う。『大智度論巻30(上)、43(下)注:首楞厳三昧、同巻47』参照。
  虚空際無所著解脱(こくうさいむしょじゃくげだつ):虚空中に著する所の無い解脫。
又如見一切佛三昧乃至一切如來解脫修觀師子頻伸等。無量阿僧祇菩薩三昧。如有三昧名無量淨。菩薩得是三昧者。能示現一切清淨身。有三昧名威相。菩薩得是三昧。能奪日月威德。有三昧名焰山。菩薩得是三昧。奪諸釋梵威德。 又、見一切仏三昧、乃至一切如来解脱修観師子頻伸等の如き無量、阿僧祇の菩薩三昧なり。有る三昧を、無量浄と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く一切の清浄の身を示現し、有る三昧を威相と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く日月の威徳を奪い、有る三昧を焔山と名づけ、菩薩、是の得れば、諸の釈梵の威徳を奪うが如し。
又、
例えば、
『見一切仏三昧、乃至如来解脱修観師子頻申三昧』等の、
『無量、阿僧祇の菩薩の三昧』が、
『有り!』、
例えば、
有る、
『三昧』は、
『無量浄と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の清浄身』を、
『示現することができる!』。
有る、
『三昧』は、
『威相と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『日月の威徳』を、
『奪うことができる!』。
有る、
『三昧』は、
『焔山と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『諸釈、梵の威徳』を、
『奪う!』。
  見一切仏(けんいっさいぶつ):一切の仏を見る。
  一切如来解脱(いっさいにょらいげだつ):一切の如来の得た解脱。
  修観師子頻伸(しゅかんししひんしん):師子の背伸びを観て修める。
  焔山(えんせん):炎をあげる山。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂名首楞嚴三昧。寶印三昧。師子遊戲三昧。‥‥云何名首楞嚴三昧。知諸三昧行處。是名首楞嚴三昧。云何名寶印三昧。住是三昧能印諸三昧。是名寶印三昧。云何名師子遊戲三昧。住是三昧能遊戲諸三昧中如師子。是名師子遊戲三昧。云何名妙月三昧。住是三昧能照諸三昧如淨月。是名妙月三昧。云何名月幢相三昧。住是三昧能持諸三昧相。是名月幢相三昧。云何名出諸法三昧。住是三昧能出生諸三昧。是名出諸法三昧。云何名觀頂三昧。住是三昧能觀諸三昧頂。是名觀頂三昧。云何名畢法性三昧。住是三昧決定知法性。是名畢法性三昧。云何名畢幢相三昧。住是三昧能持諸三昧幢。是名畢幢相三昧。云何名金剛三昧。住是三昧能破諸三昧。是名金剛三昧。云何名入法印三昧。住是三昧入諸法印。是名入法即三昧。云何名三昧王安立三昧。住是三昧一切諸三昧中安立住如王。是名三昧王安立三昧。云何名放光三昧。住是三昧能放光照諸三昧。是名放光三昧。云何名力進三昧。住是三昧。於諸三昧能作勢力。是名力進三昧。云何名高出三昧。住是三昧能增長諸三昧。是名高出三昧。云何名必入辯才三昧。住是三昧能辯說諸三昧。是名必入辯才三昧。云何名釋名字三昧。住是三昧能釋諸三昧名字。是名釋名字三昧。云何名觀方三昧。住是三昧能觀諸三昧方。是名觀方三昧。云何名陀羅尼印三昧。住是三昧持諸三昧印。是名陀羅尼印三昧。云何名無誑三昧。住是三昧於諸三昧不欺誑。是名無誑三昧。云何名攝諸法海三昧。住是三昧能攝諸三昧如大海水。是名攝諸法海三昧。云何名遍覆虛空三昧。住是三昧遍覆諸三昧如虛空。是名遍覆虛空三昧。云何名金剛輪三昧。住是三昧能持諸三昧分。是名金剛輪三昧。云何名斷寶三昧。住是三昧斷諸三昧煩惱垢。是名斷寶三昧。云何名能照三昧。住是三昧能以光明顯照諸三昧。是名能照三昧。云何名不求三昧。住是三昧無法可求。是名不求三昧。云何名無住三昧。住是三昧中不見一切法住。是名無住三昧。云何名無心三昧。住是三昧心心數法不行。是名無心三昧。云何名淨燈三昧。住是三昧於諸三昧中作明如燈。是名淨燈三昧。云何名無邊明三昧。住是三昧與諸三昧作無邊明。是名無邊明三昧。云何名能作明三昧。住是三昧即時能為諸三昧作明。是名能作明三昧。云何名普照明三昧。住是三昧即能照諸三昧門。是名普照明三昧。云何名堅淨諸三昧三昧。住是三昧能堅淨諸三昧相。是名堅淨諸三昧三昧。云何名無垢明三昧。住是三昧能除諸三昧垢。亦能照一切三昧。是名無垢明三昧。云何名歡喜三昧。住是三昧能受諸三昧喜。是名歡喜三昧。云何名電光三昧。住是三昧照諸三昧如電光。是名電光三昧。云何名無盡三昧。住是三昧於諸三昧不見盡。是名無盡三昧。云何名威德三昧。住是三昧於諸三昧威德照然。是名威德三昧。云何名離盡三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名離盡三昧。云何名不動三昧。住是三昧令諸三昧不動不戲。是名不動三昧。云何名不退三昧。住是三昧能不見諸三昧退。是名不退三昧。云何名日燈三昧。住是三昧放光照諸三昧門。是名日燈三昧。云何名月淨三昧。住是三昧能除諸三昧闇。是名月淨三昧。云何名淨明三昧。住是三昧於諸三昧得四無闇智。是名淨明三昧。云何名能作明三昧。住是三昧於諸三昧門能作明。是名能作明三昧。云何名作行三昧。住是三昧能令諸三昧各有所作。是名作行三昧。云何名知相三昧。住是三昧見諸三昧知相。是名知相三昧。云何名如金剛三昧。住是三昧能貫達諸法亦不見達。是名如金剛三昧。云何名心住三昧。住是三昧心不動不轉不惱。亦不念有是心。是名心住三昧。云何名普明三昧。住是三昧普見諸三昧明。是名普明三昧。云何名安立三昧。住是三昧於諸三昧安立不動。是名安立三昧。云何名寶聚三昧。住是三昧普見諸三昧如見寶聚。是名寶聚三昧。云何名妙法印三昧。住是三昧能印諸三昧以無印印故。是名妙法印三昧。云何名法等三昧。住是三昧觀諸法等無法不等。是名法等三昧。云何名斷喜三昧。住是三昧斷一切法中喜。是名斷喜三昧。云何名到法頂三昧。住是三昧滅諸法闇亦在諸三昧上。是名到法頂三昧。云何名能散三昧。住是三昧中能破散諸法。是名能散三昧。云何名分別諸法句三昧。住是三昧分別諸三昧諸法句。是名分別諸法句三昧。云何名字等相三昧。住是三昧得諸三昧字等。是名字等相三昧。云何名離字三昧。住是三昧諸三昧中乃至不見一字。是名離字三昧。云何名斷緣三昧。住是三昧斷諸三昧緣。是名斷緣三昧。云何名不壞三昧。住是三昧不得諸法變異。是名不壞三昧。云何名無種相三昧。住是三昧不見諸法種種。是名無種相三昧。云何名無處行三昧。住是三昧不見諸三昧處。是名無處行三昧。云何名離矇昧三昧。住是三昧離諸三昧微闇。是名離朦昧三昧。云何名無去三昧。住是三昧不見一切三昧去相。是名無去三昧。云何名不變異三昧。住是三昧不見諸三昧變異相。是名不變異三昧。云何名度緣三昧。住是三昧度一切三昧緣境界。是名度緣三昧。云何名集諸功德三昧。住是三昧集諸三昧功德。是名集諸功德三昧。云何名住無心三昧。住是三昧於諸三昧心不入。是名住無心三昧。云何名淨妙花三昧。住是三昧令諸三昧得淨妙如花。是名淨妙花三昧。云何名覺意三昧。住是三昧諸三昧中得七覺分。是名覺意三昧。云何名無量辯三昧。住是三昧於諸法中得無量辯。是名無量辯三昧。云何名無等等三昧。住是三昧諸三昧中得無等等相。是名無等等三昧。云何名度諸法三昧。住是三昧度一切三界。是名度諸法三昧。云何名分別諸法三昧。住是三昧諸三昧及諸法分別見。是名分別諸法三昧。云何名散疑三昧。住是三昧得散諸法疑。是名散疑三昧。云何名無住處三昧。住是三昧不見諸法住處。是名無住處三昧。云何名一莊嚴三昧。住是三昧終不見諸法二相。是名一莊嚴三昧。云何名生行三昧。住是三昧不見諸行生。是名生行三昧。云何名一行三昧。住是三昧不見諸三昧此岸彼岸。是名一行三昧。云何名不一行三昧。住是三昧不見諸三昧一相。是名不一行三昧。云何名妙行三昧。住是三昧不見諸三昧二相。是名妙行三昧。云何名達一切有底散三昧。住是三昧入一切有一切三昧。智慧通達亦無所達。是名達一切有底散三昧。云何名入名語三昧。住是三昧入一切三昧名語。是名入名語三昧。云何名離音聲字語三昧。住是三昧不見諸三昧音聲字語。是名離音聲字語三昧。云何名然炬三昧。住是三昧威德照明如炬。是名然炬三昧。云何名淨相三昧。住是三昧淨諸三昧相。是名淨相三昧。云何名破相三昧。住是三昧不見諸三昧相。是名破相三昧。云何名一切種妙足三昧。住是三昧一切諸三昧種皆具足。是名一切種妙足三昧。云何名不喜苦樂三昧。住是三昧不見諸三昧苦樂。是名不喜苦樂三昧。云何名無盡相三昧。住是三昧不見諸三昧盡。是名無盡相三昧。云何名多陀羅尼三昧。住是三昧能持諸三昧。是名多陀羅尼三昧。云何名攝諸邪正相三昧。住是三昧。於諸三昧不見邪正相。是名攝諸邪正相三昧。云何名滅憎愛三昧。住是三昧不見諸三昧憎愛。是名滅憎愛三昧。云何名逆順三昧。住是三昧不見諸法諸三昧逆順。是名逆順三昧。云何名淨光三昧。住是三昧不得諸三昧明垢。是名淨光三昧。云何名堅固三昧。住是三昧不得諸三昧不堅固。是名堅固三昧。云何名滿月淨光三昧。住是三昧諸三昧滿足如月十五日。是名滿月淨光三昧。云何名大莊嚴三昧。住是三昧大莊嚴成就諸三昧。是名大莊嚴三昧。云何名能照一切世三昧。住是三昧諸三昧及一切法能照。是名能照一切世三昧。云何名三昧等三昧。住是三昧於諸三昧不得定亂相。是名三昧等三昧。云何名攝一切有諍無諍三昧。住是三昧能使諸三昧不分別有諍無諍。是名攝一切有諍無諍三昧。云何名不樂一切住處三昧。住是三昧不見諸三昧依處。是名不樂一切住處三昧。云何名如住定三昧。住是三昧不過諸三昧如相。是名如住定三昧。云何名壞身衰三昧。住是三昧不得身相。是名壞身衰三昧。云何名壞語如虛空三昧。住是三昧不見。諸三昧語業如虛空。是名壞語如虛空三昧。云何名離著虛空不染三昧。住是三昧。見諸法如虛空無閡。亦不染是三昧。是名離著虛空不染三昧。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍』
有三昧名出塵。菩薩得是三昧滅一切大眾三毒。有三昧名無礙光。菩薩得是三昧。能照一切佛國。有三昧名不忘一切法。菩薩得是三昧。一切諸佛所說法皆能憶持。復為他人講說佛語。有三昧名聲如雷音。菩薩得是三昧。能以梵聲滿十方佛國。 有る三昧を、出塵と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く一切の大衆の三毒を滅し、有る三昧を無礙光と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く一切の仏国を照し、有る三昧を不忘一切法と名づけ、菩薩、是の得れば、一切の諸仏の所説の法を皆能く億持し、復た他人の為に、仏語を講説し、有る三昧を声如雷音と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く梵声を以って、十方の仏国を満たす。
有る、
『三昧』は、
『出塵と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の大衆の三毒』を、
『滅することができる!』。
有る、
『三昧』は、
『無礙光と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の仏国』を、
『照すことができる!』。
有る、
『三昧』は、
『不忘一切法と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の諸仏所説の法』を、
皆、
『憶持することができ!』、
復た、
『他人』に、
『仏の語』を、
『講説することができる!』。
有る、
『三昧』は、
『声如雷音と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『梵声で!』、
『十方の仏国』を、
『満たすことができる!』。
  無礙光(むげこう):遮られない光。
  不忘一切法(ふもういっさいほう):一切の法を忘れない。
  声如雷音(しょうにょらいおん):雷のような声。
有三昧名能娛樂一切眾生。菩薩得是三昧能令一切深心歡喜。有三昧名喜見無厭。菩薩得是三昧。一切眾生見聞喜樂無有厭足。有三昧名功德報不可思議一緣中樂。菩薩得是三昧。成就一切神通。 有る三昧を、能娯楽一切衆生と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く一切の深心をして歓喜せしめ、有る三昧を喜見無厭と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、一切の衆生見、聞するに喜、楽して厭足有ること無く、有る三昧を功徳報不可思議一縁中楽と名づけ、菩薩、是の得れば、一切の神通を成就す。
有る、
『三昧』は、
『能娯楽一切衆生と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の衆生の深心』を、
『歓喜させることができる!』。
有る、
『三昧』は、
『喜見無厭と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の衆生が見、聞して!』、
『喜、楽し!』、
『厭足することが無い!』。
有る、
『三昧』は、
『功徳報不可思議一縁中楽と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の神通』を、
『成就することになる!』。
  能娯楽一切衆生(のうごらくいっさいしゅじょう):一切の衆生を楽しませる。
  功徳報不可思議一縁中楽(くどくほうふかしぎいちえんちゅうらく):功徳報たる神通は不可思議であり一縁中に楽しむ。
有三昧名知一切音聲語言。菩薩得是三昧。能說一切音聲語言。於一字中說一切字。於一切字中說一字。有三昧名集一切福富樂果報。若菩薩得是三昧。常默然入禪定。而能令一切眾生聞佛法眾聞聲聞辟支佛六波羅蜜之聲。而是菩薩實無一言。 有る三昧を、知一切音声語言と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、能く一切の音声、語言を説き、一字中に於いて、一切の字を説き、一切の字中に於いて、一字を説き、有る三昧を、集一切福富楽果報と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、常に黙然として禅定に入り、而も能く一切の衆生をして、仏の法衆を聞かしめ、声聞、辟支仏、六波羅蜜の声を聞かしむるに、是の菩薩は実に一言無し。
有る、
『三昧』は、
『知一切音声語言と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の音声、語言を説くことができ!』、
『一字中に、一切の字を説いたり!』、
『一切の字中に、一字を説くことができる!』。
有る、
『三昧』は、
『集一切福富楽果報と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
常に、
『黙然として禅定に入り!』、
『一切の衆生』に、
『仏』の、
『法衆』を、
『聞かせ!』、
『声聞、辟支仏、六波羅蜜』の、
『声』を、
『聞かせることができる!』が、
是の、
『菩薩』には、
実に、
『一言』も、
『無い!』。
  知一切音声語言(ちいっさいおんじょうごごん):一切の音声、語言を知る。
  集一切福富楽果報(じゅういっさいふくふらくかほう):一切の福楽の果報を集める。
有三昧名出高一切陀羅尼王。菩薩得是三昧。得入無量無邊諸陀羅尼。有三昧名一切樂說。菩薩得是三昧。樂說一切字一切音聲語言譬喻因緣。如是等無量力勢三昧。 有る三昧を、出高一切陀羅尼王と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、無量、無辺の諸の陀羅尼に入るを得、有る三昧を、一切楽説と名づけ、菩薩、是の三昧を得れば、一切の字、一切の音声、語言、譬喩、因縁を楽説す。是れ等の如き、無量の力勢三昧なり。
有る、
『三昧』は、
『出高一切陀羅尼王と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『無量、無辺の諸の陀羅尼』に、
『入ることができる!』。
有る、
『三昧』は、
『一切楽説と呼ばれ!』、
『菩薩』が、
是の、
『三昧を得る!』と、
『一切の字や!』、
『一切の音声、語言、譬喩、因縁』を、
『楽説できる!』。
是れ等のような、
『無量の!』、
『力勢三昧である!』。
  出高(しゅつこう):高く抜け出る。
  出高一切陀羅尼王(しゅっこういっさいだらにおう):一切の陀羅尼王より抜きん出る。
問曰。是三昧即是三昧門不。答曰。三昧即是三昧門。問曰。若爾者何以不但說三昧。而復說三昧門。 問うて曰く、是の三昧は、即ち是れ三昧の門なりや、不や。答えて曰く、三昧は、即ち是れ三昧の門なり。問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、但だ三昧を説かずして、復た三昧の門と説く。
問い、
是の、
『三昧』が、
即ち、
『三昧の門なのですか?』。
答え、
『三昧』が、
即ち、
『三昧の門である!』。
問い、
若し、爾うならば、
何故、
但だ、
『三昧だけ!』を、
『説かずに!』、
復た、
『三昧の門まで!』を、
『説くのですか?』。
  参考:『大智度論巻28』:『欲得諸陀羅尼門諸三昧門。當學般若波羅蜜。』
答曰。佛諸三昧無量無數。如虛空無邊。菩薩云何盡得。菩薩聞是心則退沒。以是故佛說三昧門。入一門中攝無量三昧。如牽衣一角舉衣皆得。亦如得蜜蜂王餘蜂盡攝。 答えて曰く、仏の諸の三昧は無量、無数にして、虚空の如く無辺なり。菩薩にして、云何が、尽くを得んや。菩薩は、是れを聞かば、心は則ち退没せん。是を以っての故に、仏は三昧門を説きたまわく、『一門中に入れば、無量の三昧を摂す』、と。衣の一角を牽けば、衣を挙げて皆得るが如し。亦た蜜蜂の王を得れば、余の蜂を尽く摂するが如し。
答え、
『仏』の、
『諸の三昧は無量、無数であり!』、
『虚空のように!』、
『無辺である!』。
何故、
『菩薩など!』が、
『尽く得られるのか?』。
『菩薩』が、
是れを聞けば、――
則ち、
『心』が、
『退没することになる!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『三昧の門』を、こう説かれたのである、――
『一門中に入れば!』、
『無量の三昧』を、
『摂する( to get )ことになる!』、と。
例えば、
『衣の一角を牽けば!』、
『衣を挙げて( all of )!』、
皆、
『得ることになり!』、
亦た、
『蜜蜂の王を捉えれば!』、
『余の蜂』を、
尽く、
『摂するようなものである!』。
復次展轉為門。如持戒清淨。一心精進初夜後夜懃修思惟離五欲樂。繫心一處行是方便得是三昧。是名三昧門。 復た次ぎに、展転を門と為す。持戒清浄にして、一心に精進し、初夜、後夜に思惟を懃修して、五欲の楽を離れ、心を一処に繋けて、是の方便を行じ、是の三昧を得る、是れを三昧門と名づるが如し。
復た次ぎに、
『展転( one after the other )』が、
『門である!』。
例えば、
『持戒して清浄となり!』、
『一心に精進して!』、
『初夜にも、後夜にも!』、
『思惟を懃修して!』、
『五欲の楽』を、
『離れながら!』、
『心を一処に繋けて!』、
是の、
『方便を行い!』、
是の、
『三昧を得ることができれば!』、
是れを、
『三昧の門』と、
『称する!』。
  展転(てんでん):梵語 paraMpara の訳、他人に随従する者/継続する/繰り返される/継続/種族/一族/血統/継続的に/次々に/順繰りに( One following the other, Successive, repeated, succession, race, family, lineage, Successively, one afte the other, in regular succession )の義。
  初夜(しょや):初中後三夜中の第一。夜の初めの三分の一。
  後夜(ごや):初中後三夜中の第三。夜の終りの三分の一。
  懃修(ごんしゅ):ねんごろにおさめる。勤労して修める。
復次欲界繫三昧是未到地三昧門。未到地三昧是初禪門。初禪及二禪邊地三昧是二禪三昧門。乃至非有想非無想處三昧亦如是。煖法定是頂法三昧門。頂法是忍法三昧門。忍法是世間第一法三昧門。世間第一法。是苦法忍三昧門。苦法忍乃至金剛三昧門。略說一切三昧有三相。入住出相是。出相入相名為門。住相是三昧體。如是等法是聲聞法中三昧門。 復た次ぎに、欲界繋の三昧は、是れ未到地の三昧の門なり。未到地の三昧は、是れ初禅の門なり。初禅、及び二禅の辺地の三昧は、是れ二禅の三昧の門なり。乃至非有想非無想処の三昧も亦た是の如し。煖法の定は、是れ頂法の三昧の門なり。頂法は、是れ忍法の三昧の門なり。忍法は、是れ世間第一法の三昧の門なり。世間第一法は、是れ苦法忍の三昧の門なり。苦法忍は、乃至金剛三昧の門なり。略説すれば、一切の三昧には、三相有りて、入、住、出の相なり。是の出相、入相を名づけて、門と為し、住相は是れ三昧の体なり。是れ等の如き法は、是れ声聞法中の三昧門なり。
復た次ぎに、
『欲界繋の三昧』は、
『未到地の三昧』の、
『門であり!』、
『未到地の三昧』は、
『初禅の三昧』の、
『門であり!』、
『初禅と二禅の辺地の三昧』は、
『二禅の三昧』の、
『門であり!』、
乃至、
『非有想非無想処の三昧』も、
『是の通りである!』。
『煖法の定』は、
『頂法の三昧』の、
『門であり!』、
『頂法』は、
『忍法の三昧』の、
『門であり!』、
『忍法』は、
『世間第一法の三昧』の、
『門であり!』、
『世間第一法の三昧』は、
『苦法忍の三昧』の、
『門であり!』、
『苦法忍』は、
『乃至金剛三昧』の、
『門である!』。
略説すれば、――
『一切の三昧』には、
『三相が有り!』、
『入相と!』、
『住相と!』、
『出相である!』が、
是の、
『出相、入相』は、
『門であり!』、
『住相』は、
『三昧』の、
『体である!』。
是れ等のような、
『法』は、
『声聞法』中の、
『三昧門である!』。
  欲界繋(よっかいけ):欲界に繋縛するものの意。『大智度論巻8(下)注:繋』参照。
  未到地(みとうじ):初禅近似の定。『大智度論巻17(下)注:未到地、中間静慮、近分定』参照。
  煖法(なんぽう):四善根位の第一。『大智度論巻18(上)注:四善根位』参照。
  頂法(ちょうぼう):四善根位の第二。『大智度論巻18(上)注:四善根位』参照。
  忍法(にんぽう):四善根位の第三。『大智度論巻18(上)注:四善根位』参照。
  世間第一法(せけんだいいっぽう):四善根位の第四。『大智度論巻18(上)注:四善根位』参照。
  金剛三昧(こんごうさんまい):是の三昧に住して、諸の三昧を破る。『大智度論巻4(上)注:金剛三昧並びに同巻47(上)』参照。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5』:『云何名金剛三昧。住是三昧能破諸三昧。是名金剛三昧』
  参考:『大智度論巻27』:『金剛三昧者。譬如金剛無物不陷。此三昧亦如是。於諸法無不通達。令諸三昧各得其用。如車磲瑪瑙琉璃唯金剛能穿』
摩訶衍法中三昧門。如禪波羅蜜義中諸三昧分別廣說。 摩訶衍法中の三昧門は、禅波羅蜜義中に諸三昧を分別し、広説せるが如し。
『摩訶衍法中の三昧門』は、
『禅波羅蜜の義』中に、
『諸三昧』を、
『分別し!』、
『広説した通りである!』。
  禅波羅蜜義(ぜんはらみつぎ):『大智度論巻17』参照。
  参考:『大智度論巻17』:『問曰。八背捨八勝處十一切入四無量心諸定三昧。如是等種種定。不名波羅蜜。何以但言禪波羅蜜。答曰。此諸定功德。都是思惟修。禪秦言思惟修。言禪波羅蜜一切皆攝。』
復次尸羅波羅蜜是三昧門。何以故。三支是佛道。所謂戒支定支慧支。清淨戒支。是定支門能生是定。定支能生慧支。是三支能斷煩惱能與涅槃。以是故尸羅波羅蜜及智慧名三昧近門。餘三波羅蜜。雖是門義名遠門。 復た次ぎに、尸羅波羅蜜は、是れ三昧の門なり。何を以っての故に、三支は是れ仏道なり、謂わゆる戒支、定支、慧支なり。清浄の戒支は、是れ定支の門にして、能く是の定を生ず。定支は、能く慧支を生じ、是の三支は、能く煩悩を断じて、能く涅槃に与う。是を以っての故に、尸羅波羅蜜、及び智慧を三昧の近門と名づけ、余の三波羅蜜は、是れ門なりと雖も、義は遠門と名づく。
復た次ぎに、
『尸羅波羅蜜』は、
『三昧の門である!』、
何故ならば、
『三支』、
謂わゆる、
『戒支、定支、慧支』は、
『仏道だからである!』。
即ち、
『清浄の戒支』は、
『定支の門として!』、
是の、
『定』を、
『生じさせることができ!』、
『定支』は、
『慧支』を、
『生じさせることができる!』ので、
是の、
『三支』は、
『煩悩を断つことができ!』、
『涅槃』を、
『与えることができる!』。
是の故に、
『尸羅波羅蜜と、智慧と!』は、
『三昧』の、
『近門なのである!』。
『余の三波羅蜜』は、
『門である!』が、
『義( the substance )』は、
『遠門である!』。
如布施因緣得福德。福德故所願皆得。如所願故心柔軟。慈悲心故知畏罪念眾生。觀世間空無常故。攝心行忍辱。忍辱亦是三昧門。精進者於五欲中制心除五蓋攝心不亂。心去則攝不令馳散。亦是三昧門。 布施の因縁の如きは福徳を得、福徳の故に所願を皆得、所願の如きなるが故に心柔軟にして、慈悲心の故に罪を畏るるを知りて、衆生を念じ、世間の空、無常を観るが故に、心を摂して、忍辱を行ずれば、忍辱も亦た是れ三昧門なり。精進は、五欲中に於いて心を制して、五蓋を除き、心を摂して乱れず。心去れば則ち摂して馳散せしめざれば、亦た是れ三昧の門なり。
例えば、
『布施の因縁など!』は、
『福徳を得て!』、
『福徳』の故に、
『所願』を、
『皆得ることになり!』、
『願い通りになる!』が故に、
『心が柔軟になって!』、
『慈悲心(慈悲三昧)』を、
『生じ!』、
『慈悲心』の故に、
『殺生の罪を畏れることを知って!』、
『衆生』を、
『念じ!』、
『世間の空、無常を観る!』が故に、
『心を摂して( to control one's mind )!』、
『忍辱を行う!』ので、
亦た、
『忍辱』も、
『三昧の門である!』。
『精進』は、
『五欲』中に於いて、
『心を制しながら!』、
『五蓋(貪欲、瞋恚、睡眠、掉挙、疑)を除き』
『心』を、
『摂して!』、
『乱れさせず!』、
『心が去れば!』、
『摂して!』、
『馳散させない!』ので、
是れも、
亦た、
『三昧の門である!』。
  摂心(しょうしん):梵語 saMkSiptaani-cittAni, citta-saMgrahaNa の訳、心を制する/心を集中させる( to control the mind, to focus one's mind on )の義。
  五蓋(ごがい):覆い隠して自在ならしめざる五種の煩悩。『大智度論巻19(下)注:五蓋』参照。
復次初地是二地三昧門。如是展轉乃至九地是十地三昧門。十地是無量諸佛三昧門。如是等名為諸三昧門。 復た次ぎに、初地は、是れ二地の三昧門なり。是の如く展転して、乃至九地は、是れ十地の三昧門なり。十地は、是れ無量の諸仏の三昧門なり。是れ等の如きを名づけて、諸三昧の門と為す。
復た次ぎに、
『初地』は、
『二地という!』、
『三昧』の、
『門であり!』、
是のように、
『展転して!』、
乃至、
『九地』は、
『十地という!』、
『三昧』の、
『門であり!』、
『十地』は、
『無量の諸仏』の、
『三昧』の、
『門である!』。
是れ等を、
諸の、
『三昧の門』と、
『称する!』。
問曰。陀羅尼門三昧門為同為異。若同何以重說。若異有何義。 問うて曰く、陀羅尼門と三昧門と同じと為すや、異と為すや。若し同じならば、何を以ってか重ねて説き、若し異ならば、何の義か有る。
問い、
『陀羅尼の門と、三昧の門と!』は、
『同じなのか?』、
『異なるのか?』。
若し、
『同じならば!』、
何故、
『重ねて!』、
『説くのか?』。
若し、
『異なれば!』、
何のような、
『義』が、
『有るのか?』。
答曰。先已說三昧門陀羅尼門異。今當更說。三昧但是心相應法。陀羅尼亦是心相應亦是心不相應。 答えて曰く、先に已に、三昧門と陀羅尼門の異を説けり。今当に更に説くべし。三昧は但だ是れ心相応の法なるも、陀羅尼は、亦た是れ心相応にして、亦た是れ心不相応なり。
答え、
先に已に、
『三昧門と、陀羅尼門と!』は、
『異なる!』と、
『説いた!』が、
今更に、説くことにしよう、――
『三昧』は、
但だ、
『心相応』の、
『法である!』が、
『陀羅尼』は、
亦た、
『心相応でもあり!』、
『心不相応でもある!』。
  心相応法(しんそうおうほう):心王に相応する法。心数法。『大智度論巻11(上)注:五位、同巻14(上)注:心所有法』参照。
  心不相応法(しんふそうおうほう):心王に相応せざる法。『大智度論巻11(上)注:五位、同巻19(上)注:心不相応行』参照。
  五法(ごほう):事理五法、一切法を五種に分類する。(1)色法:心法と心所法の所変。物質的なもの(倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)。(2)心法:心王、心、心の本体、識の自相。五蘊の内の識蘊、主体的な心の働き(倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立てる)。(3)心所法:心数法、心所、心数、数。細々した心の働き。上の八識と相応して起るもの(受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)。(4)心不相応行法:心不相応、上の三法に従属しないもの。例えば事物の概念。心とも色とも相応しない働き。物が生じたり滅したりする力。心と相応した働きを心相応(しんそうおう)という。上の三法のある部分の位を仮りて設けるもの(得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)。(5)無為法:上の四法の実性。因縁によって造られ、生滅の変化がなく働きを起こすことがない(択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立てる)。
問曰。云何知陀羅尼是心不相應。 問うて曰く、云何が、陀羅尼は、是れ心不相応なるを知る。
問い、
何故、
『陀羅尼』が、
『心不相応である!』と、
『知るのか?』。
答曰。如人得聞持陀羅尼。雖心瞋恚亦不失。常隨人行如影隨形。是三昧修行。習久後能成陀羅尼。如眾生久習欲便成其性。是諸三昧共諸法實相智慧。能生陀羅尼。如坏瓶得火燒。熟能持水不失。亦能令人得度河。禪定無智慧亦如坏瓶。若得實相智慧。如坏瓶得火燒成熟。能持菩薩二世無量功德。菩薩亦因之而度得至佛。如是等三昧陀羅尼種種差別。 答えて曰く、人の聞持陀羅尼を得るが如きは、心に瞋恚すと雖も、亦た失わずして、常に人の行に随うこと、影の形に随うが如くなるは、是の三昧を修行して、習うこと久しき後に、能く陀羅尼を成ずればなり。衆生の久しく欲を習えば、便ち其の性を成ずるが如し。是の諸三昧は、諸法の実相の智慧と共に、能く陀羅尼を生ず。坏瓶の火の焼熟するを得れば、能く水を持ちて、失わず、亦た能く人をして、河を度るを得しむるが如し。禅定に智慧無きは、亦た坏瓶の如し。若し実相の智慧を得れば、坏瓶の火焼を得て成熟するが如く、能く菩薩の二世の無量の功徳を持つ。菩薩も亦た之に因りて、度して仏に至るを得。是れ等の如きは、三昧と陀羅尼の種種の差別なり。
答え、
例えば、
『人』が、
『聞持陀羅尼を得る!』と、
『心に瞋恚を生じても!』、
『聞いた!』所を、
『失うことがないので!』、
譬えば、
『影が形に随うように!』、
常に、
『人の行』に、
『随うのである!』が、
是れは、
『三昧を修行して!』、
『習いながら!』、
久しい後に、
『陀羅尼』を、
『成就するからである!』。
譬えば、
『衆生』が、
『欲』を、
『久しく!』、
『習った!』が故に、
便ち、
『性』と、
『成るようなものである!』。
是の、
『諸三昧』は、
『諸法の実相という!』、
『智慧』と、
『共になれば!』、
便ち、
『陀羅尼』を、
『生じることができる!』。
譬えば、
『坏瓶( a sun-dried pot )など!』が、
『火』に、
『焼かれて!』、
『熟する!』と、
『水』を、
『保持して!』、
『失わない!』し、
亦た、
『人』に、
『河』を、
『渡らせることもできる!』が、
『禅定』に、
『智慧が無くても!』、
亦た、
『坏瓶のように!』、
若し、
『実相という!』、
『智慧』を、
『得れば!』、
『坏瓶』が、
『火に焼かれて!』、
『成熟するように!』、
『菩薩』に、
『二世』の、
『無量の功徳』を、
『持たせることができる!』ので、
是の、
『功徳に因って!』、
『菩薩』は、
『三界を度り!』、
『仏』に、
『至ることができるのである!』。
是れ等のように、
『三昧と、陀羅尼と!』を、
種種に、
『差別する!』。
  聞持陀羅尼(もんじだらに):耳に聞く所を忘失せざる陀羅尼。『大智度論巻5、28』参照。
  坏瓶(はいびょう):未だ焼成せざるかめ。
問曰。聲聞法中何以無是陀羅尼名但大乘中有。 問うて曰く、声聞法中に、何を以ってか、是の陀羅尼の名無く、但だ大乗中に有る。
問い、
『声聞法』中には、
何故、
是の、
『陀羅尼の名』が、
『無く!』、
但だ、
『大乗』中に、
『有るのですか?』。
答曰。小法中無大汝不應致問。大法中無小者則可問。如小家無金銀不應問也。 答えて曰く、小法中に大無ければ、汝は応に問を致すべからず。大法中に小無ければ、則ち問うべし。小家に金銀無きも、応に問うべからざるが如し。
答え、
『小法』中に、
『大が無くても!』、
お前は、
『問( a question )』を、
『致す( to ask )べきではない!』。
『大法』中に、
『小が無ければ!』、
則ち、
『問うべきである!』。
譬えば、
『小家』に、
『金銀が無い!』のを、
『問うべきでないようなものである!』。
  致問(ちもん):梵語 paripRcchati の訳、問う( to ask a question )。
復次聲聞不大殷懃集諸功德。但以智慧求脫老病死苦。以是故聲聞人。不用陀羅尼持諸功德。譬如人渴得一掬水則足。不須瓶器持水。若供大眾人民。則須瓶甕持水。菩薩為一切眾生故。須陀羅尼持諸功德。 復た次ぎに、声聞は、諸功徳を集むること大いに慇懃ならざるが故に、但だ智慧を以って老病死の苦を脱るるを求むれば、是を以っての故に、声聞人は、陀羅尼を用いて、諸功徳を持せず。譬えば人は渇きても、一掬の水を得れば、則ち足り、瓶器を須いて水を持せざるも、若し大衆の人民を供にすれば、則ち瓶甕を須いて水を持するが如く、菩薩は、一切の衆生の為の故に、陀羅尼を須いて諸功徳を持す。
復た次ぎに、
『声聞』は、
諸の、
『功徳を集める!』ことに、
『大いに!』、
『慇懃でなく( be not industrious )!』、
但だ、
『智慧を用いて!』、
『老、病、死の苦を脱れよう!』と、
『求めるだけであり!』、
是の故に、
『声聞人』は、
『陀羅尼を須いて!』、
諸の、
『功徳』を、
『保持しない!』。
譬えば、
『人が渇いても!』、
『一掬の水』を、
『得ただけで!』、
『足るので!』、
『瓶器を用いて!』、
『水』を、
『保持することはない!』が、
若し、
『大衆の人民を供にすれば!』、
『瓶甕を用いて!』、
『水』を、
『保持せねばならないように!』、
『菩薩』は、
一切の、
『衆生の為に!』、
『陀羅尼を用いて!』、
諸の、
『功徳』を、
『保持するのである!』。
  慇懃(おんごん):親愛の情/熱心な/勤勉な( deep affection, solicitous, industrious )。
  (じ):梵語 dhaaraNa の訳、保持/負担/記憶/保有/保存/保護/維持/所有すること( holding, bearing, keeping (in remembrance), retention, preserving, protecting, maintaining, possessing )の義。
復次聲聞法中。多說諸法生滅無常相故。諸論議師言。諸法無常若無常相則不須陀羅尼。何以故。諸法無常相則無所持。唯過去行業因緣不失。如未來果報雖無必生。過去行因緣亦如是。 復た次ぎに、声聞法中には、多く諸法の生滅、無常の相を説くが故に、諸の論議師の言わく、『諸法は無常なり。若し無常の相なれば、則ち陀羅尼を須いず。何を以っての故に、諸法は無常の相なれば、則ち持する所無し。唯だ過去の行業の因縁は失われざること、未来の果報無しと雖も、必ず生ずるが如く、過去の行の因縁も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『声聞法』中には、
多く、
『諸法』は、
『生滅、無常の相である!』と、
『説いている!』が故に、
諸の、
『論議師』は、こう言っている、――
諸の、
『法』は、
『無常である!』が、
若し、
『無常ならば!』、
『陀羅尼』を、
『用いることはない!』。
何故ならば、
諸の、
『法』が、
『無常ならば!』、
則ち、
『保持する!』所が、
『無いからである!』。
唯だ、
『過去の行業』の、
『因縁だけ!』は、
『失われない!』。
譬えば、
『未来の果報』が、
『今は無くても!』、
『必ず!』、
『生じることになるように!』、
『過去の行業』の、
『因縁』も、
是のように、
『失われないのである!』、と。
摩訶衍法生滅相不實。不生不滅相亦不實。諸觀諸相皆滅是為實。若持過去法則無咎以持過去善法。善根諸功德故。須陀羅尼。陀羅尼世世常隨。菩薩諸三昧不爾。或時易身則失。如是等種種。分別陀羅尼諸三昧。以是故言欲得諸陀羅尼諸三昧門當學般若波羅蜜 摩訶衍法の生滅の相は不実なり。不生不滅の相も亦た不実なり。諸観、諸相皆滅する、是れを実と為す。若し過去の法を持するも、則ち咎無し。過去の善法、善根、諸功徳を持するを以っての故に陀羅尼を須う。陀羅尼は世世常に菩薩に随うも、諸三昧は爾らずして、或は時に身を易うれば則ち失う。是れ等の如き種種に、陀羅尼と諸三昧を分別すれば、是を以っての故に言わく、『諸陀羅尼、諸三昧の門を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
『摩訶衍の法』は、
『生、滅の相』も、
『不生、不滅の相』も、
『実でなく!』、
諸の、
『観や、相』が、
皆、
『滅する!』のが、
『実である!』が、
若し、
『過去』の、
『法を保持したとしても!』、
『咎』は、
『無く!』、
『過去』の、
『善法や、善根や、諸の功徳を保持する!』為の故に、
『陀羅尼』を、
『用いるのである!』が、
『陀羅尼』は、
『世世、常に!』、
『菩薩』に、
『随う!』が、
『三昧』は、
そうでなく!
或は時に、
『菩薩』が、
『身を易える( to change his appearance )!』と、
是の、
『三昧』を、
『失うことになる!』。
是れ等のように、
種種に、
『陀羅尼と、諸三昧と!』を、
『分別する!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『諸の陀羅尼や、諸の三昧の門を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。



大智度論釋布施隨喜心過上第四十四


随喜心

【經】一切求聲聞辟支佛人布施時。欲以隨喜心過其上者。當學般若波羅蜜。一切求聲聞辟支佛人持戒時。欲以隨喜心過其上者。當學般若波羅蜜。一切求聲聞辟支佛人三昧智慧解脫解脫知見。欲以隨喜心過其上者。當學般若波羅蜜 一切の声聞、辟支仏を求むる人の布施する時、随喜心を以って、其の上を過ぎんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。一切の声聞、辟支仏を求むる人の持戒する時、随喜心を以って、其の上を過ぎんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。一切の声聞、辟支仏を求むる人の三昧、智慧、解脱、解脱知見を、随喜心を以って、其の上を過ぎんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
一切の、
『声聞、辟支仏を求める人』が、
『布施する!』時、
『随喜( sympathetic joy )の心』で、
其の、
『上』を、
『過ぎようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ぶべきである!』。
一切の、
『声聞、辟支仏を求める人』が、
『持戒する!』時、
『随喜の心』で、
其の、
『上』を、
『過ぎようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ぶべきである!』。
一切の、
『声聞、辟支仏を求める人』の、
『三昧、智慧、解脱、解脱知見を見て!』、
『随喜の心』で、
其の、
『上』を、
『過ぎようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ぶべきである!』。
  随喜(ずいき):梵語 anumodana の訳、喜びを引き起こす( causing pleasure )の義、共感的喜び/随順して歓喜する( sympathetic joy, sympathetically joying )の意。巴梨語同じ。即ち他の作せる善根功徳に就き従順して心に歓喜を生ずるを云う。「大品般若経巻11随喜品」に、「是の菩薩摩訶薩は福徳を随喜し、一切衆生と之を共にして阿耨多羅三藐三菩提に回向せば、其の福は最上第一最妙無上にして、与に等しきものなり」と云い、「法華経巻6随喜功徳品」に、「如来の滅後に若し比丘比丘尼優婆塞優婆夷、及び余の智者の若しは長、若しは幼なるあり、是の経を聞きて随喜し已り、法会より出でて余処に至り、若しは僧坊、若しは空閑の地、若しは城邑巷陌聚落田里に在りて、其の所聞の如く父母宗親善友知識の為に方に随って演説せんに、是の諸人等聞き已り、随喜して復た行きて転教し、余人聞き已りて亦た随喜して転教し、是の如く展転し、第五十に至らん。(中略)阿逸多、是の如く第五十の人の展転して法華経を聞き、随喜せる功徳は尚お無量無辺阿僧祇なり、何に況んや最初会中に於いて聞きて随喜せる者をや。其の福復た勝ること無量無辺阿僧祇にして比すことを得べからず」と云える是れなり。「大智度論巻61」に随喜の義を解し、「随喜の福徳とは身口業を労して諸の功徳を作さず、但だ心の方便を以って他の修福を見て、随って歓喜して是の念を作さく、一切衆生の中に能く福を修し道を行ずる者を最も殊勝と為す。若し福徳を離るるの人は畜生と与に同じく三事を行ず、三事とは婬欲と飲食と戦闘となり。能く福徳を修行し道を行ずるの人は、一切の衆生に共に尊重愛敬せらる。譬えば熱時に清浄なる満月は楽仰せざることなきが如く、亦た大会の集まるを告げ、伎楽餚饌畢く備わらざることなく、遠近の諸人咸く共に欣びて赴くが如し。修福の人も亦復た是の如し。(中略)諸の菩薩摩訶薩は十方三世の諸仏及び菩薩声聞辟支仏、及び一切修福の衆生の布施持戒修定慧に於いて、此の福徳の中に於いて随喜福徳を生ず。是の故に随喜と名づく。(中略)問うて曰わく、仏道を求むる者、何を以って自ら功徳を作さず、而も心に随喜を行ずるや。答えて曰わく、諸の菩薩は方便力を以って、他の勤労して作せる功徳に能く中に於いて随喜を起さば、福徳は自作の者に勝る。復た次ぎに随喜の福徳は即ち是れ実の福徳なり。所以は何ん、過去仏を念ずるは即ち是れ念仏三昧なり。亦た是れ六念の中の念仏念法念僧、念戒念捨念天等なり。清浄戒を行ずるに因りて禅定に入り、畢竟智慧を起して和合するが故に能く正随喜を起す。是の故に但だ随喜するのみに非ず、亦た是れ実法を行ず」と云えり。是れ福徳を行ずるの人は諸人の尊重愛敬する所となることを説き、又彼の福徳を随喜すれば其の功徳は自作者に勝り、且つ随喜の福徳は即ち実徳なることを明にしたるものなり。又「法華玄論巻10」には随喜に通別の二種あることを説き、他の所作の福を見聞覚知して皆随って歓喜するを通随喜とし、五十功徳の説に依りて、特に法華経を聞いて随って歓喜するを別随喜となすと云い、又大小二乗の随喜の不同を説き、大乗の随喜は広く三世十方仏及び弟子に通ずるも、小乗は唯三世仏に局り、大乗は法身の功徳を随喜するも小乗は唯迹身の功徳に限り、大乗は薩婆若に迴向して一切智に趣くも小乗には此の事なく、大乗は漏無漏に通ずるも小乗は唯有漏心に局るとなし、又随喜は正しく化他門なりと雖も、自ら嫉妬煩悩を除き、福徳を求めんと欲するが故に亦た自行門にも通ずと云えり。又随喜は五悔の一にして、「修懺要旨」に、「随喜は則ち他の修善を嫉むの愆を滅す」と云い、天台家には又之を五品弟子位の初品となせり。又「大般涅槃経巻1寿命品」、「大乗三聚懺悔経」、「瑜伽師地論巻44」、「摩訶止観巻7下」、「同輔行伝弘決巻7之4」、「法華経文句巻10上」、「法華経玄賛巻10本」、「観経散善義」等に出づ。<(望)
  三昧智慧解脱解脱知見:持戒と併せて仏の五衆、或いは五分法身と称す。『大智度論巻8(下)注:五分法身、同巻21(下)』参照。
【論】隨喜心者。如隨喜品中說。 随喜心とは、『随喜品』中に説くが如し。
『随喜の心』とは、
『随喜品』中に、
『説かれている通りである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻11随喜品』:『爾時彌勒菩薩摩訶薩語慧命須菩提。有菩薩摩訶薩隨喜福德與一切眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。以無所得故。若聲聞辟支佛福德。若一切眾生福德。若布施若持戒若修定若隨喜。是菩薩摩訶薩隨喜福德與一切眾生共之。迴向阿耨多羅三藐三菩提。其福德最上第一。最妙無上無與等。何以故。聲聞辟支佛及一切眾生。布施持戒修定隨喜。為自調為自淨為自度故起。所謂四念處乃至八聖道分空無相無作。菩薩隨喜福德迴向阿耨多羅三藐三菩提。持是功德為調一切眾生。為淨一切眾生。為度一切眾生故起。』
復次隨喜名有人作功德。見者心隨歡喜讚言善哉。在無常世界中。為癡闇所蔽。能弘大心建此福德。譬如種種妙香一人賣一人買。傍人在邊亦得香氣。於香無損二主無失。 復た次ぎに、随喜を、有る人の功徳を作せるに、見る者心に随って歓喜し、讃じて、『善い哉』、と言えば、無常の世界中に在りて、癡闇に蔽わるるも、能く大心を弘めて、此の福徳を建つ。譬えば種種の妙香を一人売り、一人買るに、傍の人辺に在りて、亦た香気を得るも、香に於いて損ずる無く、二主に失無きが如し。
復た次ぎに、
『随喜』とは、
有る、
『人』が、
『功徳』を、
『作す!』と、
『見る者の心』が、
此の、
『功徳に随って( to sympathize )!』、
『歓喜しながら( to be pleased )!』、
『善いぞ!』と、
『言えば!』、
『無常の世界に在って!』、
『癡闇』に、
『蔽われながら!』、
『心』を、
『大きく!』、
『弘げることができ!』、
此の、
『福徳』を、
『建てる( to set up )のである!』。
譬えば、
種種の、
『妙香』を、
『一人が売り!』、
『一人』が、
『買う!』時、
『周辺に居る!』、
『傍人( an outsider )』も、
『香気』を、
『得る!』が、
『香は損なわれず!』、
『二主(売主+買主)』にも、
『損失』が、
『無いようなものである!』。
  (こん):<動詞>[本義]打ち立てる/牽き上げる( work out, draw up )。建立/創設する( build, establish, found )、樹立する( set up, establish, erect )、建設する( build )、提議する( propose )。
如是有人行施有人受者。有人在邊隨喜功德。俱得二主不失。如是相名為隨喜。以是故菩薩但以隨喜心。過於求二乘人上。何況自行。 是の如く、有る人施を行じて、有る人受くれば、有る人、辺に在りて随喜すれば、功徳を倶に得るも、二主は失わず。是の如き相を、名づけて随喜と為す。是を以っての故に、菩薩は但だ随喜心を以って、二乗を求むる人の上を過ぐ。何に況んや、自ら行ずるをや。
是のように、
有る、
『人』が、
『施を行い!』、
有る、
『人』が、
『受ける!』時、
有る、
『人』が、
『辺で随喜すれば!』、
『功徳』を、
『倶に得ることになり!』、
『二主』の、
『功徳』が、
『失われることはない!』。
是のような、
『相』を、
『随喜』と、
『称するのであり!』、
是の故に、
『菩薩』が、
但だ、
『随喜心を用いて!』、
『他の功徳』を、
『喜ぶだけでも!』、
『二乗を求める!』、
『人』を、
『過ぎるのであり!』、
況して、
『自ら!』、
『行えば!』、
『尚更である!』。
問曰。菩薩云何能以隨喜心過聲聞辟支佛人以財布施上。 問うて曰く、菩薩は云何が能く随喜心を以って声聞、辟支仏の人の財を以ってする布施の上を過ぐる。
問い、
『菩薩』は、
何故、
『随喜心を用いるだけで!』、
『声聞、辟支仏の財を用いる!』、
『布施の上』を、
『過ぎるのですか?』。
答曰。聲聞辟支佛行是布施。菩薩於傍見之。一心念隨喜讚言善哉。以此隨喜福德。迴向阿耨多羅三藐三菩提。為度一切眾生故。以此為得無量佛法故。以二種功德。過求聲聞辟支佛人所行布施上。 答えて曰く、声聞、辟支仏の行ずるは、是れ布施なるも、菩薩は、傍に於いて之を見て、一心に念じて随喜し、讃じて、『善い哉』、と言うは、此の随喜の福徳を以って、阿耨多羅三藐三菩提に迴向し、一切の衆生を度せんが為の故なり。此を以って、無量の仏法を得んが為めの故なれば、二種の功徳を以って、声聞、辟支仏の所行の布施の上を過ぐるなり。
答え、
『声聞、辟支仏』の、
『行う!』のは、
『布施である!』が、
『菩薩』が、
之を、
『傍で見て!』、
『一心』に、
『布施の果報』を、
『念じ!』、
『随喜し、讃じて!』、
『善いぞ!』と、
『言えば!』、
此の、
『随喜の福徳』を、
『阿耨多羅三藐三菩提に迴向して!』、
『一切の衆生』を、
『度する為である!』が故に、
此の、
『随喜の福徳』で、
『無量の!』、
『仏法』を、
『得る為である!』が故に、
此の、
『二種の功徳を用いて!』、
『声聞、辟支仏の行う!』、
『布施の上』を、
『過ぎるのである!』。
復次以諸法實相智慧心隨喜故。過求聲聞辟支佛人布施上。 復た次ぎに、諸法の実相の智慧を以って、心に随喜するが故に、声聞、辟支仏を求むる人の布施の上を過ぐ。
復た次ぎに、
『諸法の実相という!』、
『智慧を用いて!』、
『心』に、
『随喜する!』が故に、
『声聞、辟支仏を求める人』の、
『布施の上』を、
『過ぎるのである!』。
復次菩薩以隨喜心。生福德果報迴向。供養三世十方諸佛。過聲聞辟支佛布施上。譬如人以少物獻上國王得報甚多。又如吹貝用氣甚少其音甚大。 復た次ぎに、菩薩は、随喜心を以って、福徳の果報を生じ、三世十方の諸仏を供養するに廻向すれば、声聞、辟支仏の布施の上を過ぐ。譬えば人は、少物を国王に獻上すれば、報を得ること甚だ多きが如く、又貝を吹くに気を用うること甚だ少なけれど、其の音は甚だ大なるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『随喜心を用いて!』、
『福徳という!』、
『果報』を、
『生じ!』、
此の、
『福徳を迴向して!』、
『三世、十方の諸仏』を、
『供養する!』ので、
是の故に、
『声聞、辟支仏の行う!』、
『布施の上』を、
『過ぎるのである!』。
譬えば、
『人』が、
『国王』に、
『少物』を、
『獻上すれば!』、
『得られる!』、
『報』が、
『甚だ多いようなものであり!』、
又、
『貝を吹く!』のに、
『用いる!』、
『気』は、
『甚だ少ない!』のに、
其の、
『音』は、
『甚だ大きいようなものである!』。
復次菩薩以隨喜功德和合無量諸餘功德乃至法滅亦不盡。譬如少水置大海中窮劫乃盡。持戒三昧智慧解脫解脫知見亦如是。 復た次ぎに、菩薩は随喜の功徳を以って、無量の諸余の功徳を和合し、乃至法の滅するまで、亦た尽きず。譬えば少水を大海中に置けば、劫を窮めて、乃ち尽くるが如し。持戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『随喜する!』、
『功徳』を、
『無量の諸余の功徳』に、
『和合する!』ので、
乃至、
『法が滅するまで!』、
是の、
『功徳』が、
『尽きることはないのである!』。
譬えば、
『少しの水』を、
『大海』中に、
『置けば!』、
乃至、
『劫が窮まって!』、
乃ち( at length )、
『尽きるようなものである!』。
『持戒、三昧、智慧、解脱、解脱知見』も、
亦た、
『是の通りである!』。
問曰。若諸佛次第有菩薩。菩薩次第有聲聞辟支佛。今言菩薩欲過求聲聞辟支佛人布施等。有何奇特。 問うて曰く、若し諸仏の次第に、菩薩有りて、菩薩の次第に、声聞、辟支仏有らば、今は、『菩薩は、声聞、辟支仏を求むる人の布施等を過ぎんと欲す』、と言うは、何の奇特か有らん。
問い、
若し、
『諸仏の次第に( next to )!』、
『菩薩』が、
『有り!』、
『菩薩の次第に!』、
『声聞、辟支仏』が、
『有れば!』、
今、
『菩薩』は、
『声聞、辟支仏を求める人』の、
『布施等を過ぎようとする!』と、
『言う!』のは、
何のような、
『奇特( that is peculiar )』が、
『有るからですか?』。
答曰。不以聲聞辟支佛布施持戒等福德比菩薩功德。但以隨喜心能勝。何況菩薩自行功德。求聲聞辟支佛人。懃身作功德疲勞。菩薩默然隨喜智慧力福德過其上。 答えて曰く、声聞、辟支仏の布施、持戒等の福徳を以って、菩薩の功徳に比するにあらず、但だ随喜心を以って、能く勝れば、何に況んや、菩薩の自ら行ずる功徳をや。声聞、辟支仏を求むる人は、勤身に功徳を作して疲労するも、菩薩、黙然として随喜すれば、智慧力と福徳は、其の上を過ぐればなり。
答え、
『声聞、辟支仏』の、
『布施、持戒等の福徳』は、
『菩薩の福徳』に、
『比べられるものではない!』
但だ、
『随喜心を用いるだけで!』、
『勝てるからである!』。
況して、
『菩薩が自ら行う!』、
『功徳』は、
『言うまでもない!』。
『声聞、辟支仏を求める人』は、
『身を懃めて!』、
『功徳を作しながら!』、
『疲労するのである!』が、
『菩薩』は、
但だ、
『黙然として!』、
『随喜する!』だけで、
『智慧力と、福徳と!』が、
其の、
『上』を、
『過ぎるのである!』。
譬如工匠。但以智心指授而去。執斤斧者疲苦。終日計功受賞匠者三倍。又如征伐鬥者冒死主將受功。 譬えば、工匠の、但だ智心を以って、指授して去り、斤斧を執る者は疲れて苦しむこと、終日なるに、功を計りて、賞を受くれば、匠の者は、三倍なるが如し。又征伐して闘う者は死を冒して、主将は功を受くるが如し。
譬えば、
『工匠』は、
但だ、
『智心を用いて!』、
『指授して( to direct )!』、
『去るだけである!』が、
『斤斧を執る!』者は、
終日、
『苦労して!』、
『疲れる!』のに、
『功労を計れば!』、
『工匠の者』が、
『三倍』、
『賞を受けるようなものである!』。
又、
『征伐する!』時、
『闘う!』者は、
『死』を、
『冒すのに( to risk one's life )!』、
『主将』が、
『功( the merits )』を、
『受けるようなものである!』。
問曰。若隨喜心故。勝於布施持戒者。何以但說菩薩隨喜勝。 問うて曰く、若し随喜心の故に、布施、持戒の者に勝れば、何を以ってか、但だ、菩薩随喜のみ勝れるを説く。
問い、
若し、
『随喜の心』が、
『布施、持戒の者』に、
『勝るならば!』、
何故、
但だ、
『菩薩の随喜のみが勝る!』と、
『説くのですか?』。
答曰。凡夫人煩惱覆心。吾我未斷著世間樂。云何能勝求聲聞辟支佛者。聲聞辟支佛利雖勝鈍。同在聲聞地故不說。 答えて曰く、凡夫人は煩悩に心を覆われ、吾我を未だ断ぜずして、世間の楽に著すれば、云何が、能く声聞、辟支仏を求むる者に勝らん。声聞、辟支仏の利は鈍に勝ると雖も、同じく声聞地に在るが故に説かず。
答え、
『凡夫人』は、
『煩悩に心を覆われて!』、
未だ、
『吾我を断じることなく!』、
『世間の楽』に、
『著している!』のに、
何故、
『声聞、辟支仏を求める!』者に、
『勝つことができるのか?』。
『声聞、辟支仏の利』は、
『鈍な凡夫に勝る!』が、
同じく、
『声聞地に在る!』が故に、
『説かないのである!』。
問曰。聲聞辟支佛功德法甚多。何以故。但說六事。 問うて曰く、声聞、辟支仏の功徳の法は甚だ多し。何を以っての故に、但だ六事のみを説く。
問い、
『声聞、辟支仏の功徳』の、
『法』は、
『甚だ多い!』のに、
何故、
但だ、
『六事のみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。此六事法中攝一切聲聞辟支佛法。若說布施已說信聞等功德。何以故。先聞已能信信已布施。是施有二種財施法施。持戒攝三種戒。律儀戒禪戒無漏戒。定攝諸禪定解脫三昧等。慧攝諸聞慧思慧修慧。解脫攝二種解脫。有為解脫無為解脫。解脫知見攝盡智。自知漏已盡於三界得解脫。於是中了了知見。是中助道法聖道法已說。 答えて曰く、此の六事の法中に、一切の声聞、辟支仏の法を摂すればなり。若し、布施を説けば、已に信、聞等の功徳を説けり。何を以っての故に、先に聞き已れば、能く信じ、信じ已れば布施すればなり。是の施には、二種有りて財施、法施なり。持戒には、三種の戒を摂し、律儀戒、禅戒、無漏戒なり。定は、諸の禅定、解脱、三昧等を摂し、慧は、諸の聞慧、思慧、修慧を摂し、解脱は、二種の解脱を摂して、有為解脱と無為解脱なり。解脱知見は、尽智を摂して、自ら漏の已に尽くるを知り、三界に於いて、解脱を得るに、是の中に於いて了了に知見す。是の中の助道の法、聖道の法は已に説けり。
答え、
此の、
『六事の法』中に、
『一切の声聞、辟支仏の法』を、
『摂するからである!』。
若し、
『布施を説けば!』、
已に、
『信、聞等の功徳』を、
『説いたことになる!』が、
何故ならば、
先に、
『聞いたので!』、
『信じることができ!』、
已に、
『信じているので!』、
『布施するからである!』。
是の、
『施』には、
『二種有り!』、
『財施と!』、
『法施である!』。
『持戒』は、
『三種の戒を摂して!』、
『律儀戒と!』、
『禅戒と!』、
『無漏戒である!』。
『定』は、
諸の、
『禅定、解脱、三昧』等を、
『摂し!』、
『慧』は、
諸の、
『聞慧、思慧、修慧』を、
『摂し!』、
『解脱』は、
『二種の解脱』の、
『有為解脱、無為解脱』を、
『摂し!』、
『解脱知見』には、
『尽智を摂して!』、
自ら、
『漏が尽きた!』ことを、
『知り!』、
『三界』に於いて、
『解脱を得る!』と、
是の、
『解脱』中を、
『了了に知見する!』。
是の中の、
『助道の法と、聖道の法』は、
已に、
『説かれている!』。
  三種戒(さんしゅかい):戒に三種の別あるを云う。『大智度論巻22(下)注:三種律儀』参照。
  律儀戒(りちぎかい):戒を立てて一一の悪を制す。『大智度論巻22(下)注:別解脱律儀』参照。
  禅戒(ぜんかい):色界の定と俱生する有漏の戒。『大智度論巻22(下)注:静慮律儀』参照。
  無漏戒(むろかい):無漏道と倶なる律儀。『大智度論巻22(下)注:無漏律儀』参照。
  聞慧(もんえ):教法を聞きて成ずる所の慧。『大智度論巻28(下)注:三慧』参照。
  思慧(しえ):思惟して成ずる所の慧。『大智度論巻28(下)注:三慧』参照。
  修慧(しゅえ):定に依りて成ずる所の慧。『大智度論巻28(下)注:三慧』参照。
  三慧(さんえ):梵語tisraH prajJaaHの訳。慧は簡択の義なり。即ち事理を簡択する精神作用に三種の別あるを云う。一に聞所成慧zrutamayii prajJaa、二に思所成慧cintaamayii prajJaa、三に修所成慧bhaavanaamayii prajJaaなり。又略して聞慧、思慧、修慧と摂し、或いは聞思修三慧とも名づく。「大智毘婆沙論巻42」に、「若し三蔵十二分教に於いて受持し転読し究竟して流布するは是れ生得慧なり。此れに依りて聞所成の慧を発生し、此れに依りて思所成の慧を発生し、此れに依りて修所成の慧を発生し、此れに依りて煩悩を断じ涅槃を証得す。種に依りて芽を生じ、芽に依りて茎を生じ、茎に依りて転じて枝葉花果を生ずるが如し。復た次ぎに聞に依りて生ずれば聞所成の慧と名づけ、思に依りて生ずれば思所成の慧と名づけ、修に依りて生ずれば修所成の慧と名づく」と云える是れなり。又此の三慧の別に関し、其の連文に、「聞所成の慧は一切の時に於いて名に依りて義を了す。彼れ是の念を作す、素怛䌫、毘奈耶、阿毘達磨の所説に何の義ありや、親教軌範同梵行者の所説に何の義ありや、諸余の論等の諸説に何の義ありやと。其の所念に随って皆能く解了す。思所成の慧は有る時は名に依りて義を了し、有る時は名に依らずして義を了す。修所成の慧は一切の時に於いて名に依らずして義を了す。三人あり池に入りて洗浴するが如き、一は未だ浮を学ばず、二は学ぶも未だ善くせず、三は学びて已に善くす。未だ浮を学ばざる者は、一切の時に於いて岸草等を攀ぢて然る後洗浴す。聞所成の慧は応に知るべし亦た爾り。学びて未だ善くせざる者は、或いは攀ぢ、攀ぢざるも而も能く洗浴す。思所成の慧は応に知るべし亦た爾り。学びて已に善くする者は、一切の時に於いて攀附する所なく自在に洗浴す。修所成の慧は応に知るべし亦た爾り」と云い、「雑阿毘曇心論巻5」にも亦た此の説を出せり。是れ聞慧は常に名句文に依りて義を了し、思慧は或いは名に依り、或いは名に依らずして義を了し、修慧は常に全く名に依らずして義を了すとなすの意なり。「倶舎論巻22」に、有師は此の説を破するに対し、論主は必ずしも過なしとし、而して自解を出して「修行者、至教を聞くに依りて生ずる所の勝慧を聞所成と名づけ、正理を思うに依りて生ずる所の勝慧を思所成と名づけ、等持を修するに依りて生ずる所の勝慧を修所成と名づく。所成の言を説くは、三の勝慧は是れ聞思等の三因の所成なることを顕す」と云えり。是れ教法を聞き名句文を縁じて成ぜられたる得を聞所依の慧とし、所聞の法義を無倒に思惟して成ぜられたる慧を思所成の慧とし、定の修習に依りて成ぜられたる慧を修所成の慧と名づくるの意なり。又「大乗法苑義林章巻6末三慧義林」に三慧の名義を釈し、「聞は謂わく能聴なり、即ち是れ耳識能く声を聞くなり。成は是れ生長円満の義なり、慧の体は前の如し。聞を以って因と為し、聞に因りて成ずる所の慧を聞所成の慧と名づく。依士釈なり。思は謂わく思数なり。思の籌度に由りて勝慧方に生ず、相応の思に因りて成ずる所の慧を思所成の慧と名づく。隣近釈なり。或いは思に因りて成ずる所の慧なり、依主釈なり。修は証の義なり、明に境を証するが故なり。体は即ち定数なり。定の相応に因りて成ずる所の慧なり。隣近釈なり。或いは定に因りて成ずる所の慧なり、亦た依士釈なり。若し但だ聞慧、思慧、修慧と言わば、持業釈に濫ず、隣近等なし。彼の所成と言わば便ち是の失なし」と云えり。又「大乗義章巻10三慧義章」には五門を以って三慧を分別し、其の中先づ其の名を釈し、通じて釈せば是れ一なりと雖も、別して分たば義に寛狭ありと云い、即ち単に聞思修と言わば、其の義寛くして一切に通ず。一切に通ずる中、始めて行法を受くるを通じて説いて聞となし、所聞の法に於いて分別簡択するを通じて説いて思と為し、法に依りて正しく行ずるを通じて説いて修と為す。若し聞思修慧と言わば、其の義狭く局りて般若に在り、余行に通ぜず。般若の中に於いて教を受くるを聞と云い、聞に従って解を生ずるを名づけて聞慧と為し、義を簡ぶを思と云い、思に従って解を得るを名づけて思慧と為し、進習を修と云い、修に従って智を得るを名づけて修慧と為すと説き、又之を階位に約せば、通じて位位に一切皆具すと雖も、若し別して言わば毘曇に准ずるに、外凡位の中、初めて師教を受くるを聞慧と為し、五停心観、総相念処及び別相念処の如き、未だ禅定修慧の法を得ざるを思慧と為し、煗等以上の如き、定に依りて修行するを修慧と為す。又五停心観は教に依るの始めなるが故に判じて聞慧と為し、総別念処は教に背くこと已に遠く、観心転た強きが故に判じて思慧と為し、煗等以上は定に依りて修行するが故に判じて修慧と為す。成実に准ずるに、念処以前に初めて師教を受け、聞に従って解を得るを聞慧と為し、念処位中に能く自心に分別簡択するに堪えたるを思慧と為し、煗等以上に現に空理を見るを修慧と為す。大乗に准ずるに始めに據りて言を為さば、十住に聞慧を得、十行に思慧を得、十迴向に修慧を得。勝を以って論ぜば十行に聞慧を得、十迴向に思慧を得、初地已上に修慧を得。極上を以って論ぜば地前に聞慧を得、初地に思慧を得、二地以上に修慧を得と為すべしと云い、又界繋に約せば、毘曇に於いては聞慧は欲色両界に限りて無色に通ぜず、思慧は局りて欲界に在りて上二界に通ぜず、修慧は局りて色無色界に在りて欲界に通ぜず。又聞慧は欲色界、思慧は欲界、修慧は三界に通ずと為し、成論は聞慧は欲色二界に通じ、思慧は不定にして、随教の思は欲色に在りと雖も推義の思は三界に通じ、修慧はすべて三界に通ずと為し、大乗に於いては三慧並びに三界に通ずと為す。人に約せば、之を通論すれば人人皆具すと雖も、別して分たば声聞は聞慧を成就し、縁覚は思慧を成就し、菩薩は修慧を成就すと云い、又七地以前に在りては、三慧各別体あり、之を別体の三慧と名づけ、八地以上を義説の三慧と名づく。義説の三慧とは、八地以上に在りては、無漏相続して都て散心なく、聞思修一体の慧なりと雖も、一刹那の中に能く外教を取りて義を尋ぬるを聞慧とし、能く深く籌度して理を先とし文を後にするを思慧とし、此の二の中に於いて能く証して明顕なるを修慧とす。是れ即ち聖智迅速なれば、但だ一念の慧に於いて義を以って三を分つも、実に別体あるには非ずとせり。又「優婆塞戒経巻1」、「集異門足論巻5」、「大毘婆沙論巻187」、「成実論巻16三慧品」、「瑜伽師地論巻28」、「仏地経論巻1」、「順正理論巻59」、「倶舎論光記巻22」、「百法問答鈔巻4」等に出づ。<(望)
  有為解脱(ういげだつ):無学阿羅漢の正見相応の勝解を云う。『大智度論巻18(下)注:解脱』参照。
  無為解脱(むいげだつ):繋縛を離れて証得する解脱を云う。『大智度論巻18(下)注:解脱』参照。
  助道法(じょどうほう):広説すれば三十七品、略説すれば七覚分を云う。『大智度論巻36(下)』参照。
  聖道法(しょうどうほう):聖者の道なり。三乗所行の道を総称す。「華厳経巻8」に、「具に聖道の妙法輪を転ず」と云い、「成実論巻1」に、「聖道は能く一切の結使を破す」と云える即ち是れなり。又八正道支、八聖道分とも称す。<(丁)
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻25具足品』:『須菩提。云何菩薩摩訶薩行檀那波羅蜜時。教化眾生令修禪那波羅蜜。佛告須菩提言。菩薩見眾生亂心作是言。汝等可修禪定。眾生言。我等因緣不具足故。菩薩言。我當與汝等作因緣。以是因緣故令汝心不隨覺觀心不馳散眾生以是因緣故。斷覺觀入初禪二禪三禪四禪。行慈悲喜捨心。眾生以是禪無量心因緣故。能修四念處乃至八聖道分。修三十七助道法時。漸入三乘而般涅槃終不失道。如是須菩提。菩薩摩訶薩行檀那波羅蜜時。以檀那波羅蜜攝取眾生令行禪那波羅蜜。』
復次若不向涅槃功德。是中不說過上。以其功德薄故。 復た次ぎに、若し涅槃に向かわざる功徳なれば、是の中に、『上を過ぐ』、と説かず。其の功徳の薄きを以っての故なり。
復た次ぎに、
若し、
『功徳』が、、
『涅槃に向かわなければ!』、
是の中に、
『上を過ぎる!』と、
『説くことはない!』、
其の、
『功徳』が、
『薄いからである!』。
問曰。勝名力勢相奪。今菩薩不與聲聞辟支佛競。云何言勝。 問うて曰く、勝るを、力勢もて相奪うと名づく。今、菩薩は、声聞、辟支仏と競わざるに、云何が、『勝る』、と言う。
問い、
『勝つ!』とは、
『力勢を用いて!』、
『互に!』、
『奪いあうことである!』。
今、
『菩薩』は、
『声聞、辟支仏』と、
『競わない!』のに、
何故、
『勝る!』と、
『言うのですか?』。
答曰。勝名但於一事中。以智慧方便心力故得福多。譬如人於一華中但取色香。蜂但取味以成蜜。亦如取水器大者得多器小得少。如是等喻可知。以隨喜心深利智慧相應。勝聲聞辟支佛布施等諸功德。 答えて曰く、勝るを、但だ一事中に於いて、智慧と方便の心力を以っての故に、福を得ること多しと名づく。譬えば、人は、一華中に於いて、但だ色と香を取るも、蜂は但だ味を取りて、以って蜜と成すが如し。亦た水を取るに、器大なれば得ること多く、器小なれば得ること少なきが如し。是れ等の如き喻もて知るべし、『随喜心の深利の智慧と相応するを以って、声聞、辟支仏の布施等の諸功徳に勝る』、と。
答え、
『勝る!』とは、――
但だ、
『一事(阿耨多羅三藐三菩提)』中に於いて、
『智慧や、方便の心力を用いる!』が故に、
『得られる!』、
『福』が、
『多いということである!』。
譬えば、
『人』は、
『一華』中に、
但だ、
『色と、香と!』を、
『取るだけである!』が、
『蜂』は、
但だ、
『味を取るだけで!』、
『蜜(阿耨多羅三藐三菩提)』を、
『成ずるようなものであり!』、
亦た、
『水を取る!』のに、
『器が大きければ!』、
『多く!』を、
『得られ!』、
『器が小さければ1』、
『少ししか!』、
『得られないようなものである!』。
是れ等のような、
『喩』で、こう知ることになる、――
『随喜心』が、
『深利の智慧』と、
『相応する!』が故に、
『声聞、辟支仏の布施』等の、
『諸功徳』に、
『勝るのである!』、と。
是六法初布施。如檀波羅蜜義中分別聲聞辟支佛法說。持戒如尸羅波羅蜜義品中分別聲聞辟支佛法說。三昧智慧解脫解脫知見。如念佛義中分別聲聞辟支佛法說
大智度論卷第二十八
是の六法の初の布施は、檀波羅蜜義中に、声聞、辟支仏の法を分別して、説けるが如し。持戒は、尸羅波羅蜜義品中に、声聞、辟支仏の法を分別して説けるが如し。三昧、智慧、解脱、解脱知見は、念仏義中に声聞、辟支仏の法を分別して説けるが如し。
大智度論巻第二十八
是の、
『六法』の、
『初の布施』は、
『檀波羅蜜義』中に、
『声聞、辟支仏の法』を、
『分別して!』、
『説いた通りである!』。
『持戒』は、
『尸羅波羅蜜義品』中に、
『声聞、辟支仏の法』を、
『分別して!』、
『説いた通りである!』。
『三昧、智慧、解脱、解脱知見』は、
『念仏義』中に、
『声聞、辟支仏の法』を、
『分別して!』、
『説いた通りである!』。

大智度論巻第二十八


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