【經】欲以一切種智斷煩惱習。當習行般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜。 |
一切種智を以って、煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。舍利弗、菩薩摩訶薩は、応に是の如く般若波羅蜜を学ぶべし。 |
『一切種智を用いて!』、
『煩悩の習を断じようとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『習行しなくてはならない!』。
舍利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならぬのである!』。
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一切種智(いっさいしゅち):一切法の寂滅相、及び行類差別に了達する仏所有の智慧。『大智度論巻37上注:一切種智』参照。
煩悩(ぼんのう):梵語klezaの訳。随眠に同じ。即ち身心を悩乱して寂静ならざらしむる諸種の心所法を云う。「入阿毘達磨論巻上」に、「身心を煩乱逼悩して相続するが故に煩悩と名づく。此れ即ち随眠なり」と云い、「大乗阿毘達磨蔵集論巻7」に、「若し法生ずる時、相不寂静にして、此れ生ずるに由るが故に身心相続し不寂静にして転ず。是れ煩悩の相なり」と云える是れなり。是れ身心を煩乱逼悩し、寂静に転ぜざらしむる心所法を煩悩と名づくることを明かせるなり。「大毘婆沙論巻60」、及び「倶舎論巻20」等に、一切の煩悩は因力境界力加行力の三力に由りて起ることを説き、随眠の未断未遍知を因力とし、欲等に順ずる境界の現前するを境界力とし、彼れを縁ずる非理作意を加行力となすと云い、又「入阿毘達磨論巻上」には、唯境界力にのみ依りて起るものありとなせり。蓋し煩悩は其の類甚だ多きも、之を大別せば迷理迷事の二種となすを得べし。迷理とは即ち見惑にして、四諦の理に迷う見道所断の煩悩を云い、迷事とは即ち修惑にして、物の事相に迷い、境界の為に逼悩せらるる修道所断の煩悩を云う。之に総じて貪瞋癡慢疑見の六種あり、諸惑の根本となるが故に根本煩悩と名づけ、或いは六随眠と称す。又此の中、見を開して有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見の五種とし、之を五利使と名づけ、之に対し貪乃至疑の五を五鈍使と称し、此の十使を十根本煩悩、或いは十随眠と名づく。就中、五利使は唯迷理の惑にして、五鈍使は迷理迷事の二種に通ずるなり。又倶舎等に依るに、見道に於いて此の十随眠を断ずるに欲界四諦下に三十二、上二界四諦下に各二十八の別を生ずるが故に、合して見惑に八十八使ありとし、之に修道所断の十随眠を加えて九十八随眠と名づけ、更に又十纏を加えて百八煩悩と称するなり。唯識家にては見道所断の欲界四諦下に四十、上二界四諦下に各三十六、合して見惑に百十二使あり、修惑に身辺二見を加えて三界合して十六、即ち見修所断総じて百二十八の根本煩悩ありとなすなり。是れ唯識家にては煩悩に分別起倶生起の二種を分ち、見惑は分別起にして見道に於いて之を断じ、修惑は倶生起にして修道に於いて之を断ずとなすに由るなり。又此等の根本煩悩より等流せる染汙の心所を随煩悩、或いは枝末惑、或いは随惑と称す。就中、倶舎等にては随煩悩に放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙、無慚、無愧、忿、覆、慳、嫉、悩、害、恨、諂、誑、憍、睡眠、悪作の十九種ありとし、唯識家にては此の中の悔(悪作)、眠(睡眠)の二を除き、別に失念、散乱、不正知の三を加えて二十法ありとなすなり。又此の中、欲界の見修二惑は其の性不善と有覆無記とに通じ、不善の煩悩は能く非愛の異熟果を引くが故に之を有異熟の煩悩と名づけ、不還果を得する時之を断じ、上二界の見修二惑は唯有覆無記にして、非愛の異熟果を招かざるが故に之を総じて無異熟の煩悩と名づけ、阿羅漢果を得する時之を断尽するなり。又煩悩には義の差別に依りて結、縛、瀑流、軛、取、繋、蓋、株杌、垢、焼害、箭、漏、稠林等の種種の異名あり。総じて有情の身心を悩乱し、其の増上力に由りて悪業を造り、現当に憂苦の果を感受せしむる因となるなり。又「大毘婆沙論巻43、46」、「倶舎論巻21」、「仏性論巻3」、「順正理論巻48、49」、「成唯識論巻6」、「般若灯論巻11、14」等に出づ。<(望)
習(じゅう):数数煩悩を現起せるにより熏成せられたる余習。『大智度論巻11上注:習気』参照。
習行(じゅうぎょう):ならいおこなう。習慣的に行う。 |
参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1序品第一』:『菩薩摩訶薩欲具足道慧。當習行般若波羅蜜。菩薩摩訶薩。欲以道慧具足道種慧。當習行般若波羅蜜。欲以道種慧具足一切智。當習行般若波羅蜜。欲以一切智具足一切種智。當習行般若波羅蜜。欲以一切種智斷煩惱習。當習行般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜』 |
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【論】問曰。一心中得一切智一切種智。斷一切煩惱習。今云何言以一切智具足得一切種智。以一切種智斷煩惱習。 |
問うて曰く、一心中に一切智、一切種智を得て、一切の煩悩の習を断ずるに、今は云何が言わく、『一切智を以って、一切種智を具足して得、一切種智を以って、煩悩の習を断ず』、と。 |
問い、
『一心』中に、
『一切智、一切種智を得て!』、
一切の、
『煩悩の習』を、
『断じる!』のに、
今は、
何故、こう言うのですか?――
『一切智を用いて!』、
『一切種智』を、
『具足して!』、
『得てから!』、
『一切種智を用いて!』、
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一切智(いっさいち):内外一切の法相を了知する智。『大智度論巻37上注:一切智』参考。 |
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答曰。實一切一時得。此中為令人信般若波羅蜜故。次第差品說。欲令眾生得清淨心。是故如是說。 |
答えて曰く、実に一切を一時に得れども、此の中には、人をして般若波羅蜜を信ぜしめんが為の故に、次第に品を差(たが)えて説き、衆生をして清浄心を得しめんと欲すれば、是の故に是の如く説けり。 |
答え、
実には、
『一切を!』、
『一時に!』、
『得るのである!』が、
此の中には、
『人』に、
『般若波羅蜜』を、
『信じさせる!』為の故に、
次第に、
『品を差別して!』、
『説かれたのであり!』、
『衆生』に、
『清浄心を得させよう!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
是のように、
『説かれたのである!』。
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復次雖一心中得。亦有初中後次第。如一心有三相。生因緣住住因緣滅。又如心心數法不相應諸行及身業口業。以道智具足一切智。以一切智具足一切種智。以一切種智斷煩惱習亦如是。 |
復た次ぎに、一心中に得と雖も、亦た初中後の次第有り。一心中に三相有りて、生は住に因縁たり、住は滅に因縁為るが如く、又心、心数法、不相応諸行の身業、口業に及ぶが如く、道智を以って一切智を具足し、一切智を以って一切種智を具足し、一切種智を以って、煩悩の習を断ずることも、亦た是の如し。 |
復た次ぎに、
『一心中に得たとしても!』、
例えば、
『一心』に、
『三相が有り!』、
『生』は、
『住』の、
『因縁となり!』、
『住』は、
『滅』の、
『因縁となったり!』、
又、
『心や、心数法、不相応諸行』が、
『身、口の業』に、
『及ぶように!』、
『道智を用いて!』、
『一切智』を、
『具足し!』、
『一切智を用いて!』、
『一切種智』を、
『具足し!』、
『一切種智を用いて!』、
『煩悩の習』を、
『断じる!』のも、
亦た、
『是の通りなのである!』。
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心(しん):心所法を所有する法の意。又心王と称す。『大智度論巻19下注:心』参照。
心数法(しんじゅほう):心所有の法。又心所有法と称す。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
不相応諸行(ふそうおうしょぎょう):心と相応せざる行。『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
業(ごう):造作の義。身口意三業の分別中、経量部及び大乗に於いては三業皆思を以って体と為すも、説一切有部に於いては身口二業は色法を以って体と為し、意業のみ思を以って体と為すと説けり。『大智度論巻23上注:業』参照。 |
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色法、心法、心数法、心不相応行法、無為法:五法、事理五法。一切法を五種に分類する。(1)色法:心法と心所法の所変。物質的なもの。(倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)(2)心法:心王、心。心の本体、識の自相。五蘊の内の識蘊、主体的な心の働き。(倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立てる)(3)心所法:心数法、心所、心数、数。細々した心の働き。上の八識と相応して起るもの。(受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)(4)心不相応行法:心不相応。上の三法に従属しないもの。例えば事物の概念。心とも色とも相応しない働き。物が生じたり滅したりする力。心と相応した働きを心相応という。上の三法のある部分の位を仮りて設けるもの。(得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)(5)無為法:上の四法の実性。因縁によって造られ、生滅の変化がなく働きを起こすことがない。(択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立てる)
道智、一切智、一切種智:三智(さんち):智慧(ちえ)には三種の別がある。(1)一切智:薩婆若(さはにゃ)、声聞縁覚すなわち小乗の智慧。一切法(万物)の共通の相(総相、空)を知る。(2)道種智:菩薩の智慧、種々の衆生の差別に応じた方法で導くための智慧。(3)一切種智:仏の智慧、一切智と道種智を兼ね合わせ更に精緻にした智慧。『大智度論巻11上、同巻27上』参照。 |
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先說一切種智。即是一切智。道智名金剛三昧。佛初心即是一切智一切種智。是時煩惱習斷。一切智一切種智相先已說。 |
先に、『一切種智は、即ち是れ一切智なり』、と説きたまえるは、道智を金剛三昧と名づけて、仏の初心は、即ち是れ一切智、一切種智にして、是の時煩悩の習断ず。一切智、一切種智の相は、先に已に説けり。 |
先に、こう説かれているので、――
『一切種智』とは、
即ち、
『一切智である!』、と。
『道智』は、
『金剛三昧であり!』、
『仏の初心』が、
『一切智であり!』、
『一切種智であり!』、
是の時、
『煩悩の習』が、
『断たれるのである!』。
『一切智、一切種智の相』は、
先に、
『説いた通りである!』。
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金剛三昧(こんごうさんまい):一切の煩悩を断ちて、究竟の果を得る三昧。『大智度論巻4上注:金剛三昧、並びに同巻47上』参照。 |
参考:『大智度論巻47』:『實一切一時得。此中為令人信般若波羅蜜故。次第差品說。欲令眾生得清淨心。是故如是說。』
参考:『大智度論巻27』:『問曰。一切智一切種智。有何差別。答曰。有人言無差別。或時言一切智。或時言一切種智。有人言總相是一切智。別相是一切種智。因是一切智。果是一切種智。略說一切智。廣說一切種智。一切智者。總破一切法中無明闇。一切種智者。觀種種法門破諸無明。一切智譬如說四諦。一切種智譬如說四諦義。一切智者。如說苦諦。一切種智者。如說八苦相。一切智者。如說生苦。一切種智者。如說種種眾生處處受生。復次一切法名眼色乃至意法。是諸阿羅漢辟支佛。亦能總相知無常苦空無我等。知是十二入故。名為一切智。聲聞辟支佛尚不能盡別相知一眾生生處好醜事業多少。未來現在世亦如是。何況一切眾生。如一閻浮提中金名字。尚不能知。何況三千大千世界。於一物中種種名字若天語若龍語。如是等種種語言名金尚不能知。何況能知金因緣生處好惡貴賤因而得福因而得罪因而得道。如是現事尚不能知。何況心心數法。所謂禪定智慧等諸法。佛盡知諸法總相別相故。名為一切種智。復次後品中佛自說一切智是聲聞辟支佛事。道智是諸菩薩事。一切種智是佛事。聲聞辟支佛。但有總一切智。無有一切種智。復次聲聞辟支佛。雖於別相有分。而不能盡知故。總相。受名佛一切智一切種智皆是真實。聲聞辟支佛但有名字。一切智譬如晝燈。但有燈名無有燈用。如聲聞辟支佛。若有人問難。或時不能悉答不能斷疑。如佛三問舍利弗而不能答。若有一切智云何不能答。以是故但有一切智名勝於凡夫。無有實也。是故佛是實一切智一切種智。有如是無量名字。或時名佛為一切智人。或時名為一切種智人。如是等略說一切智一切種智種種差別。』 |
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斷一切煩惱習者。煩惱名略說則三毒。廣說則三界九十八使是名煩惱。煩惱習名煩惱殘氣。若身業口業不隨智慧。似從煩惱起。不知他心者。見其所起生不淨心。是非實煩惱久習煩惱故。起如是業。譬如久鎖腳人卒得解脫。行時雖無有鎖猶有習在。 |
一切の煩悩の習を断ずとは、煩悩を、略説すれば則ち三毒なりと名づけ、広説すれば則ち三界の九十八使、是れを煩悩と名づく。煩悩の習を、煩悩の残気と名づけ、若し身業、口業、智慧に随わざれば、煩悩より起るに似て、他心を知らざる者は、其の起る所を見て、不浄心を生ず。是れ実の煩悩に非ず、煩悩を久習せるが故に、是の如き業を起せり。譬えば久しく脚を鎖せられたる人は、卒(にわ)かに解脱を得るも、行く時、鎖有ること無しと雖も、猶お習有りて在るが如し。 |
『一切の煩悩の習を断つ!』とは、――
『煩悩』を、
『略説すれば!』、
則ち、
『三毒ということになる!』が、
『広説すれば!』、
則ち、
『三界の九十八使であり!』、
是れを、
『煩悩』と、
『称するのである!』。
『煩悩の習』とは、
『煩悩の残気であり!』、
若し、
『身、口の業』が、
『智慧』に、
『随従しなければ!』、
『煩悩より!』、
『起ったかのように!』、
『見えるので!』、
『他心を知らない!』者が、
其の、
『起された業を見れば!』、
『不浄心(疑心)』を、
『生じることになる!』。
是れは、
『実の煩悩ではない!』が、
久しく、
『煩悩』を、
『習った!』が故に、
是のような、
『業』を、
『起すのである!』。
譬えば、
久しく、
『脚』を、
『鎖に繋がれた人』が、
『歩く!』時、
『鎖が無くても!』、
猶お、
『有る習性』が、
『残るようなものである!』。
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九十八使(くじゅうはっし):貪瞋癡慢疑見等の九十六種の煩悩。『大智度論巻7上注:九十八随眠、巻27下注:煩悩』参照。 |
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如乳母衣久故垢著。雖以淳灰淨浣。雖無有垢垢氣猶在衣。如聖人心垢。如諸煩惱。雖以智慧水浣。煩惱垢氣猶在。如是諸餘賢聖。雖能斷煩惱不能斷習。 |
乳母の衣、久しきが故に垢著けば、淳(あつ)き灰を以って浄浣すと雖も、垢有ること無しと雖も、垢の気は猶お衣に在るが如し。聖人の心の垢の如き、諸の煩悩の如きも、智慧の水を以って浣(すす)ぐと雖も、煩悩の垢気猶お在り。是の如く諸余の賢聖も、能く煩悩を断ずと雖も、習を断ずる能わず。 |
譬えば、
『乳母の衣』は、
『久しく授乳した!』が故に、
『垢』が、
『著くものである!』が、
『淳良な( pure )!』、
『灰を用いて!』、
『浄くなるまで!』、
『洗ったとしも!』、
『衣』に、
『垢』が、
『無くなったとしても!』、
『垢の気』は、
猶お、
『衣』に、
『在るように!』、
『聖人の心の垢や!』、
『諸の煩悩なども!』、
『智慧という!』、
『水を用いて!』、
『洗っても!』。
『煩悩の垢の気』は、
猶お、
『存在するのであり!』、
是のように、
『諸余( 仏以外)の賢聖』は、
『煩悩を断つことはできる!』が、
『煩悩の習まで!』、
『断つことはできない!』。
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如難陀婬欲習故。雖得阿羅漢道。於男女大眾中坐。眼先視女眾而與言語說法。 |
難陀の如きは、婬欲の習の故に、阿羅漢道を得と雖も、男女の大衆中に於いて坐せるに、眼は先に女衆を視て、言語を与(とも)にして法を説けり。 |
例えば、
『難陀など!』は、
『婬欲の習』の故に、
『阿羅漢道を得ても!』、
『男女の大衆中に坐れば!』、
『眼』が、
『先に女衆を視る!』ので、
『女衆』と、
『言語してから!』、
その後、
『法』を、
『説いたのである!』。
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難陀(なんだ):阿羅漢の名。釈尊の異母弟。『大智度論巻24下注:難陀』参照。 |
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如舍利弗瞋習故。聞佛言舍利弗食不淨食。即便吐食終不復受請。又舍利弗自說偈言
覆罪妄念人 無智而懈怠
終不欲令此 妄來近我住 |
舍利弗の如きは、瞋の習の故に、仏の、『舍利弗は不浄食を食えり』、と言えるのを聞いて、即便(すなわ)ち食を吐いて、終に復た受請せず、又舎利弗は、自ら偈を説いて言わく、
覆罪する妄念の人は、無智にして懈怠なれば、
終に此れをして、妄に我が近くに来たらしめ住めんと欲せず
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例えば、
『舍利弗など!』は、
『瞋の習』の故に、
『仏』が、
『舍利弗は、不浄食を食う!』と、
『言われる!』のを、
『聞いて!』、
即座に、
『食を吐いて!』、
終に、
『復た( never again )!』、
『請を受けなかった( not receive a request )!』。
又、
『舍利弗』は、
自ら、
『偈を説いて!』、こう言っている、――
『覆罪する( concealing his vices )!』
『妄念の人』は、
『無智であり!』、
『懈怠である( idle )!』ので、
『終に( during my lifetime )!』、
『妄に( at random )来させて!』、
『わたしにの近くに!』、
『住まらせたくない!』、と。
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請(しょう):客を招くの義。施主が僧侶を招きて、食を供するを亦た請と云う。『大智度論巻22上注:請、請食、僧物』参照。
覆罪(ふくざい):罪をおおいかくすこと。
妄念(もうねん):妄想をいだくこと。
懈怠(けたい):なまけおこたること。
住(じゅう):すまい。住居。 |
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如摩訶迦葉瞋習故。佛滅度後集法時。敕令阿難六突吉羅懺悔。而復自牽阿難手出。不共汝漏未盡不淨人集法。 |
摩訶迦葉の如きは、瞋の習の故に、仏の滅度の後に法を集めし時、阿難に勅令して、六突吉羅を懺悔せしめ、而も復た自ら阿難の手を牽いて、『汝が漏の未だ尽きざる不浄の人と共に、法を集めず』、と出でしむ。 |
例えば、
『摩訶迦葉など!』は、
『瞋の習』の故に、
『仏の滅度後の法を集める!』時に、
『阿難に勅令して!』、
『六突吉羅』を、
『懺悔させ!』、
而も、
自ら、
『阿難の手を牽いて!』、
『衆』中より、
『退出させながら!』、
こう言ったのである、――
お前のような、
未だ、
『漏』の、
『尽きていない!』、
『不浄の人』とは、
『共に( never along together with )!』、
『法を集めない!』、と。
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摩訶迦葉(まかかしょう):阿羅漢の名。仏十大弟子の一。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
突吉羅(とっきら):梵語duSkRta。巴梨語独柯多dukkaTa、又突膝吉栗多、突瑟几理多に作り、悪作と訳し、又小過、軽垢、失意、越毘尼、過毘尼、或いは応当学とも名づく。五篇の一。六聚の一。七聚の一。即ち悪作悪語等の諸の軽罪を云う。「摩訶僧祇律巻25」に、「突吉羅とは、世尊が優婆夷、六群比丘、及び余の比丘等に是の事を作すは好からずと語るが如し。是れを突吉羅と名づく」と云い、「善見律毘婆沙巻9」に、「突吉羅とは仏語を用いず、突とは悪、吉羅とは悪作を作すの義なり。比丘の行中に於ける不善も亦た突吉羅と名づく。律本の中の偈に、突吉羅罪とは、其の義汝善く聴け、亦た是れを過失と名づけ、亦た名づけて蹉跎と為す。世人の悪を作すに、或いは隠れ或いは現前するが如し。是れを突吉羅と説く」と云える是れなり。是れ比丘の犯ぜる悪不善の軽罪を総じて突吉羅となすの意なり。蓋し突吉羅は軽罪の総称なるも諸律論に之を五篇乃至七聚の一とし、諸戒を配するに其の説不同あり。即ち「四分律巻59」には諸戒を総じて五篇に類従し、其の中、突吉羅を第五篇とし、之に百衆学及び七滅諍法を摂すとなせり。法礪の「四分律疏巻2本」に、「僧の百衆学及び七滅を第五篇と為す」と云える是れなり。又「四分律巻17」には諸戒を七聚に分類し、其の中、第六を突吉羅、第七を悪説と名づけ、是の二聚に前記第五篇の百衆学及び七滅諍、並びに前四篇の未遂罪、及び揵度品所説の一切の軽罪を摂すとし、就中、第六突吉羅は唯其の中の身業に就き、第七悪説は専ら口業に約すとなせり。「四分律行事鈔巻中1」に、「七聚の中には此の一部を分ちて以って二聚と為し、身を悪作と名づけ、口を悪説と名づく。或いは突吉羅悪説と云うも必ず解判あり」と云える即ち其の意なり。又「毘尼母経巻3」並びに「律二十二明了論」には、唯突吉羅を第七の一聚となし、之に悪作、悪説の二を包摂すとなせり。前引「行事鈔」の連文に、「此れは是れ正量部の名なり。身口の業を別つことなきを以っての故なり。意是れ悪作なれば之を翻ず。薩婆多には突瑟几理多と云う、身口の二業を以って悪作と翻ずるなり。同じく一名を翻ずるも而も義は両別なり」と云えり。之に依るに「四分律」等に於いては突吉羅を狭義に解し、別に悪説の一聚を立て、之を第六第七に配するに対し、「明了論」等には広義に解し、悪作悪説の別を立てず、総じて之を第七聚となせるものなるを知るなり。又大乗戒に於いては殺生等の重禁の外、余の諸罪を凡べて軽垢罪又は突吉羅罪となし、種種の罪過を説けり。即ち「菩薩地持経巻5」に四十二種の突吉羅罪、「優婆塞五戒威儀経」に三十八種の突吉羅罪、「一巻菩薩善戒経」に五十種の失意罪、「瑜伽師地論巻41」に四十四種の悪作罪、「梵網経巻下」に四十八種の軽垢罪を列挙せる如き是れなり。又突吉羅を式叉迦羅尼zikSaa-karaNiiya即ち応当学と名づくるに関し、法礪の「四分律疏巻6本」に突吉羅は所防に就いて名づけ、式叉迦羅尼は能治の行に就いて名づけたるものにして、両者は唯一事の別名に過ぎずとなせるも、「四分律行事鈔巻中1」、「四分律飾宗記巻3末」等には真諦の説を用い、衆学の中に於いて重を独柯多、経を応当学即ち学対となすべしと云えり。又突吉羅罪の懺悔法に関し、「四分律巻十九」、「摩訶僧祇律巻2」、「四分律刪補随機羯磨巻下懺六聚法篇」等に、皆故作は比丘一人の前に於いて懺悔し、不故作は唯責心すべしと云い、「毘尼討要巻4」には、故作不故作の別あるも両懺の法を分たずとなせり。又其の業報に関し、「目連問戒律中五百軽重事五篇事品」に、「衆学戒を犯ぜば、四天王の寿の如く、五百歳泥犁の中に堕す。人間の数に於いては九百千歳なり」と云えり。又「優婆塞戒経巻3」、「菩薩善戒経」、「犯戒罪報軽重経」、「弥沙塞羯磨本」、「根本薩婆多部律摂巻14」、「毘尼母経巻7、8」、「四分律含注戒本疏巻4下」、「同開宗記巻4末」、「毘尼討要巻1」、「梵網菩薩戒本疏巻中」、「四分律行事鈔資持記巻中1」、「翻訳名義集巻19」、「四分律名義標釈巻4」等に出づ。<(望) |
参考:『大智度論巻2』:『頻婆娑羅王得道。八萬四千官屬亦各得道。是時王教敕宮中。常設飯食供養千人。阿闍貰王不斷是法。爾時大迦葉思惟言。若我等常乞食者。當有外道強來難問廢闕法事。今王舍城。常設飯食供給千人。是中可住結集經藏。以是故選取千人。不得多取。是時大迦葉與千人俱到王舍城耆闍崛山中。告語阿闍世王。給我等食日日送來。今我曹等結集經藏不得他行。是中夏安居三月初十五日說戒時。集和合僧。大迦葉入禪定。以天眼觀今是眾中誰有煩惱未盡。應逐出者。唯有阿難一人不盡。餘九百九十九人。諸漏已盡清淨無垢。大迦葉從禪定起。眾中手牽阿難出言。今清淨眾中結集經藏。汝結未盡不應住此。是時阿難慚恥悲泣而自念言。我二十五年。隨侍世尊供給左右。未曾得如是苦惱。佛實大德慈悲含忍。念已白大迦葉言。我能有力久可得道。但諸佛法阿羅漢者。不得供給左右使令。以是故我留殘結不盡斷耳。大迦葉言。汝更有罪。佛意不欲聽女人出家。汝慇懃勸請佛聽為道。以是故佛之正法五百歲而衰微。是汝突吉羅罪。阿難言。我憐愍瞿曇彌。又三世諸佛法皆有四部眾。我釋迦文佛云何獨無。大迦葉復言。佛欲涅槃時。近俱夷那竭城脊痛。四疊漚多羅僧敷臥。語汝言。我須水。汝不供給。是汝突吉羅罪。阿難答言。是時五百乘車截流而渡令水渾濁。以是故不取。大迦葉復言。正使水濁佛有大神力能令大海濁水清淨。汝何以不與。是汝之罪。汝去作突吉羅懺悔。大迦葉復言。佛問汝。若有人四神足好修。可住壽一劫若減一劫。佛四神足好修。欲住壽一劫若減一劫。汝默然不答。問汝至三。汝故默然。汝若答佛佛四神足好修。應住一劫若減一劫。由汝故。令佛世尊早入涅槃。是汝突吉羅罪。阿難言。魔蔽我心。是故無言。我非惡心而不答佛。大迦葉復言。汝與佛疊僧伽梨衣以足蹈上。是汝突吉羅罪。阿難言。爾時有大風起無人助。我捉衣時風吹來墮我腳下。非不恭敬故蹈佛衣。大迦葉復言。佛陰藏相般涅槃後以示女人。是何可恥。是汝突吉羅罪。阿難言。爾時我思惟。若諸女人見佛陰藏相者。便自羞恥女人形。欲得男子身修行佛相種福德根。以是故我示女人。不為無恥而故破戒。大迦葉言。汝有六種突吉羅罪。盡應僧中悔過。阿難言諾。隨長老大迦葉及僧所教。是時阿難長跪合手。偏袒右肩脫革屣。六種突吉羅罪懺悔。大迦葉於僧中手牽阿難出。語阿難言。斷汝漏盡然後來入。殘結未盡汝勿來也。如是語竟便自閉門。』 |
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如畢陵迦婆蹉。常罵恒神為小婢。如摩頭婆和吒跳戲習故。或時從衣枷踔上梁。從梁至枰從枰至閣。如憍梵缽提牛業習故。常吐食而齝。 |
畢陵迦婆蹉の如きは、常に恒神を罵りて、小婢と為せり。摩頭婆和吒の如きは、跳戯の習の故に或は時に衣枷より梁に踔上し、梁より枰に至り、枰より閣に至れり。憍梵鉢提の如きは、牛業の習の故に常に食を吐いて齝せり。 |
例えば、
『畢陵迦婆蹉など!』は、
常に、
『恒神を罵って!』、
『小婢( a servant girl )!』と、
『呼んでいた!』し、
『摩頭婆和吒など!』は、
『跳戯の習』の故に、
或は時に、
『衣枷より!』、
『梁』に、
『跳び上り!』、
『梁より!』、
『枰( plank-bed )に!』、
『至り!』、
『枰より!』、
『閣( cabinet )に!』、
『至っていた!』し、
『憍梵鉢提など!』は、
『牛業の習』の故に、
常に、
『食を吐いては!』、
『反芻( chewing )していたのである!』。
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畢陵迦婆蹉(ひりょうがばしゃ):仏弟子の名。『大智度論巻23上注:畢陵伽婆蹉』参照。
摩頭婆和咤(まづばわた):仏弟子の名。『大智度論巻26上注:摩頭波斯咤』参照。
跳戯(じょうけ):飛越える遊戯。
衣枷(えか):ころもかけ、衣架。
踔上(じょうじょう):飛び上がる。踔はこえる、とぶ、はしる、越、跳、走等の義。
枰(びょう):寝台。寝牀( plank-bed )。
閣(かく):飾り棚( cabinet )。
憍梵鉢提(きょうぼんはだい):仏弟子の名。『大智度論巻26上注:憍梵波提』参照。
齝(ち):牛が反芻する( chewing the cud )。 |
参考:『摩訶僧祇律巻30』:『復次佛住王舍城爾時尊者畢陵伽婆蹉。在聚落中住。日日渡恒水乞食。到恒水上作是言。首陀羅住。我欲過。水即住。過已作如是言。首陀羅汝去。如是水流如故。水神不樂。往到佛所。頭面禮足卻住一面白佛言。世尊。尊者畢陵伽婆蹉語太苦住首陀羅去首陀羅。佛言。呼畢陵伽婆蹉來。來已。佛言。汝實爾不。答言。實爾。佛言。恒神如是嫌汝。汝向懺悔。畢陵伽婆蹉言。我悔過首陀羅。恒神言向首陀羅今首陀羅為有何異而言悔過。畢陵迦婆蹉唯除佛八大聲聞。餘一切盡言首陀羅和上阿闍梨諸上座皆言首陀羅。諸比丘言。尊者畢陵伽婆蹉。乃至和上阿闍梨皆是首陀羅。正有是一人婆羅門出家耶。尊者大迦葉舍利弗目連等如是比皆是婆羅門出家。都不作是語。應作舉羯磨。即集比丘僧。時畢陵伽婆蹉坐禪不來。遣使往喚。使便打戶言。眾僧集喚長老。時畢陵伽婆蹉即觀見比丘僧集欲與我作舉羯磨。即以神力制使比丘。著戶令不得去。眾僧怪使久不還。更遣比丘往喚。後比丘至。捉前使比丘手去來。長老即復相著不得去。如是使使相著皆不得去。諸比丘嫌言。眾中正有此一人大神足耶。尊者大目連豈無此力耶。齊水際作福罰羯磨。佛以神足乘空而來。知而故問。汝作何等。答言。世尊。畢陵伽婆蹉唯除如來八大聲聞。餘乃至和上阿闍梨盡言首陀羅。欲作舉羯磨。僧集不來。遣使往喚。神足復制。便使使相著不來。故欲作齊水際福罰羯磨。佛言。汝來。畢陵伽婆蹉發心頃在佛前立。佛語畢陵伽婆蹉。汝首陀羅語過。諸梵行人嫌汝。答言。世尊。我當如何。我不憍慢。亦不自大。輕蔑於人。然我喚和上阿闍梨諸長老比丘時。發聲便成首陀羅。佛語比丘。是畢陵伽婆蹉非憍慢。亦非自大輕蔑餘人。從五百世來常生婆羅門家首陀羅語習氣不盡。佛語畢陵伽婆蹉。汝本從無始生死已來貪欲瞋恚愚癡尚能永拔。五百世習氣而不能除。從今日後。莫作首陀羅語。聞世尊教恭敬故永不復作。如是毘尼竟。』
参考:『十誦律巻38』:『佛在舍衛國。諸比丘作淨地羯磨。佛言。從今不聽作淨地。若作者突吉羅。佛在舍衛國。有比丘名牛齝。食已更齝。諸比丘見非時嚼食。各相謂言。是比丘過中食。聞已心愁不樂。是事白佛。佛以是因緣集比丘僧。語諸比丘。莫謂是比丘過中食。何以故。是比丘先五百世時。常生牛中。是比丘雖得人身。餘習故在。佛言。若更有如是齝食者。應在屏覆處。不應眾人前齝』 |
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如是等諸聖人。雖漏盡而有煩惱習。如火焚薪已灰炭猶在火力薄故不能令盡。 |
是れ等の如き諸聖人は、漏尽きたりと雖も、煩悩の習有ること、火の薪を焚き已りて、灰炭猶お在るは、火力薄きが故に、尽くせしむる能わざるが如し。 |
是れ等の、
『諸の聖人』は、
譬えば、
『火』が、
『薪を焚いてしまっても!』、
猶お、
『灰や、炭』が、
『残る!』のは、
『火力』が、
『薄い!』が故に、
『尽くせないからである!』。
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参考:『阿毘曇毘婆沙論巻24』:『毀者。如婆羅婆闍惡口婆羅門。以五百偈現前罵佛。稱者。還以五百偈讚佛。如婆祇奢優婆離。以種種偈。讚舍利弗。讚歎佛無上法。』
参考:『大毘婆沙論巻76』:『佛為跋羅墮闍梵志以五百頌現前譏罵諸如是等名佛遇譏。即此梵志須臾迴此五百頌言現前讚佛。』 |
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若劫盡時火燒三千大千世界無復遺餘火力大故。佛一切智火亦如是。燒諸煩惱無復殘習。如一婆羅門。以五百種惡口眾中罵佛。佛無異色亦無異心。此婆羅門心伏。還以五百種語讚佛。佛無喜色亦無悅心。於此毀譽心色無變。 |
若し劫尽の時の火、三千大千世界を焼けば、復た遺余無きは、火力大なるが故なり。仏の一切智の火も亦た是の如く、諸の煩悩を焼きて、復た残習無し。一婆羅門の如きは、五百種の悪口を以って、衆中に仏を罵れるも、仏には異色無く、亦た異心無し。此の婆羅門心伏して、還って五百種の語を以って、仏を讃ずるも、仏には喜色無く、亦た悦心無く、此の毀誉に於いて、心と色と変ずる無し。 |
若し、
『劫尽の時の火』が、
『三千大千世界を焼けば!』、
復た( no more )、
『遺余が無い!』のは、
『火力』が、
『大きいからである!』が、
『仏という!』、
『一切智の火』も、
是のように、
諸の、
『煩悩』を、
『焼き尽くして!』、
復た、
『残習』が、
『無いのである!』。
例えば、
『一婆羅門』が、
『五百種の悪口』で、
『衆』中に、
『仏』を、
『罵った!』が、
『仏』には、
『色、心の異なる!』ことが、
『無かった!』し、
『此の婆羅門が心伏して!』、
還って、
『仏』を、
『五百種の語』で、
『讃えた!』時にも、
『仏』には、
『喜色も、悦心も!』、
『無く!』、
此の、
『毀、誉に!』、
『色、心を変じる!』ことは、
『無かったのである!』。
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劫尽(こうじん):世界の住劫尽くるを云う。「維摩経巻中仏道品」に、「或いは現ずらく、劫尽きて焼け、天地皆洞然たり」と云い、「大智度論巻9」に、「劫尽きて焼くる時、一切の衆生自然に皆禅定を得」と云える是れなり。<(丁) |
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又復旃遮婆羅門女。帶杅謗佛。佛無慚色事情既露佛無悅色。 |
又復た旃遮婆羅門の女(むすめ)は、杅(たらい)を帯びて仏を謗れども、仏には慚色無く、事情既に露るるも、仏には悦色無し。 |
又復た、
『旃遮婆羅門の女( むすめ)』が、
『杅( たらい)を帯びて!』、
『仏』を、
『謗った!』が、
『仏』には、
『慚じる色』が、
『無かった!』し、
『事情が露顕しても!』、
『仏』には、
『悦びの色』が、
『無かったのである!』。
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旃遮婆羅門女(せんじゃばらもんにょ):旃遮婆羅門の女。『大智度論巻9上注:旃遮婆羅門』参照。
杅(う):たらい。水を盛る器。
慚色(ざんしき):恥ずかしがるさま。
悦色(えつしき):悦ぶさま。 |
参考:『大宝積経巻11大乗方便会』:『以何緣故。旃遮婆羅門女。以木杆繫腹誹謗如來。而作是言。由沙門瞿曇令我妊身。應當與我衣被飲食。善男子。如來於此事中都無業障。若有業障。我能擲此旃遮婆羅門女。置恒河沙世界之外。如來以方便故現此業障。為化不知解眾生故。何以故。當來之世有諸比丘。於我法中出家學道。爾時或為他人所謗。以是緣故心生慚愧。或不樂佛法捨戒還俗。彼諸比丘。若被謗已當念如來。如來成就一切善法具大威德。尚被誹謗。而況我等不被誹謗。思念是已則除慚愧。除慚愧已。當得修習淨妙梵行。善男子。旃遮婆羅門女。常為惡業所覆故性多不信。今此女身於佛法中不得調伏。常為惡業之所覆蔽。乃至夢中亦生誹謗。覺已心喜。此女人中命終當墮地獄。善男子。我能以餘方便。除此女人諸不善業。令度生死能為作救。善男子。或時如來不救餘人。何以故。如來於一切眾生無有偏心。是名如來方便』 |
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轉法輪時讚美之聲。滿於十方心亦不高。孫陀利死惡聲流布心亦不下。 |
法輪を転ずる時、讃美の声、十方に満つれども、心は亦た高ぶらず、孫陀利死して、悪声流布すれど、心は亦た下らず。 |
『仏』は、
『法輪を転じる!』時には、
『讃美の声』が、
『十方』に、
『満ちた!』が、
亦た、
『心』が、
『高ぶることもなく!』、
『孫陀利が死んだ!』時には、
『悪声』が、
『十方』に、
『流布した!』が、
亦た、
『心』が、
『下る( be dejected )こともなかった!』。
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孫陀利(そんだり):婬女の名。『大智度論巻9上注:孫陀利』参照。
悪声(あくしょう):悪しき名声。 |
参考:『大宝積経巻11大乗方便会』:『以何緣故。諸婆羅門。殺婆羅門女孫陀利。埋祇洹園塹中。善男子。如來是時知有是事捨而不說。如來成就一切智心無有障礙。能以神力。可令此刀不入女身。我於爾時知孫陀利女命根將盡必為他殺。以此方便令諸外道。不善彰露墮不如處。如此諸事唯佛知之安住是事。令多眾生生清淨心增益善根。爾時如來七日不入舍衛大城。不入城已。爾時調伏六十億天。過七日已諸天世人。集會共來至於我所。爾時如來為四眾說法。聞說法已。有八萬四千人。於諸法中得法眼淨。是名如來方便』 |
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阿羅毘國土風寒又多蒺蔾。佛於中坐臥不以為苦。又在天上歡喜園中。夏安居時坐劍婆石。柔軟清潔如天綩綖。亦不以為樂 |
阿羅毘国土の風寒く、又蒺蔾多し。仏は、中に於いて坐臥したまえるも、以って苦と為したまわず。又天上の歓喜園中に在りて、夏安居したまえる時、剣婆石の柔軟、清潔にして天の綩綖の如きに坐したまえるも、亦た以って樂と為したまわず。 |
『阿毘羅国土』は、
『風が寒く!』、
又、
『浜菱』が、
『多い!』が、
『仏』は、
是の、
『国土』中に、
『坐、臥されながら!』、
『苦である!』とは、
『思われなかったし!』、
又、
『天上の歓喜園』中に、
『夏安居された!』時、
『坐られた!』、
『剣婆石』は、
『天の綩綖( calico )のように!』、
『柔軟であり!』、
『清潔であった!』が、
亦た、
『楽である!』とも、
『思われなかった!』。
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阿羅毘国(あらびこく)」:印度古国名。曠野にして禽獣の住処。
蒺蔾(しつり):蒺藜。学名Tribulus terrestris 、和名浜菱( puncture vine )。ハマビシ科の一年草。我国関東以西の海岸に自生。茎は蔓性で地上をはい、長さ約1メートル。葉は羽状複葉。夏、葉の付け根に黄色い5弁花が1個ずつ咲く。実は堅く、棘がある。種子は薬用。ハマビシ科の双子葉植物は亜熱帯から熱帯にかけて分布し、主に木本で乾燥地に生える。
歓喜園(かんぎおん):忉利天帝釈の四園中の一。『大智度論巻8上注:歓楽園、巻9上注:忉利天』参照。
夏安居(げあんご):雨期の三乃至四ヶ月、遊行せずに一処に住まること。『大智度論巻33下注:安居』参照。
剣婆石(けんばしゃく):帝釈天の宝座。
綩綖(えんえん):梵語 duuSya の訳、衣服或は布地の類/綿布/キャラコ( clothes or a kind of cloth, cotton,
calico )の義。 |
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受。大天王跽奉天食不以為美。毘蘭若國食馬麥不以為惡。諸大國王供奉上饌不以為得。入薩羅聚落空缽而出不以為失。 |
大天王の跽奉せる天食を受けたまえども、以って美と為したまわず。毘蘭若国に馬麦を食したまえども、以って悪と為したまわず。諸の大国王の供奉せる上饌を以って得と為したまわず。薩羅聚落に入り、空鉢にして出でたまえるも、以って失と為したまわず。 |
『仏』は、
『大天王が跽いて奉げた!』、
『天食を受けられても!』、
『美味である( delicious )!』と、
『思われなかった!』し、
『毘蘭若国』の、
『馬麦を食われても!』、
『不味である( nasty )!』と、
『思われなかった!』。
又、
『諸大国の王』が、
『上饌を供奉しても!』、
『得( acquisition )である!』と、
『思われなかった!』し、
『薩羅聚落に入って!』、
『空鉢のまま出られても!』、
『失( loss )である!』とは、
『思われなかった!』。
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大天王(だいてんのう):四天王天の主。
跽(き):ひざまづく。長跪。
毘蘭若国(びらんにゃこく):不明。『大智度論巻9上注:馬麦』参照。
馬麦(めみゃく):馬の飼料。『大智度論巻9上注:馬麦』参照。
供奉(ぐぶ):供えたてまつる。
上饌(じょうせん):上等の御馳走。盛饌。
薩羅聚落(さらじゅらく):又娑羅婆羅門聚落に作る。蓋し其の名の婆羅門の領する聚落なり。 |
参考:『雑阿含経巻39』:『如是我聞。一時。佛住娑羅婆羅門聚落。爾時。世尊晨朝著衣持缽。入婆羅聚落乞食。時。魔波旬作是念。今沙門瞿曇晨朝著衣持缽。入婆羅聚落乞食。我今當往。先入其舍。語諸信心婆羅門長者。令沙門瞿曇空缽而出。時。魔波旬隨逐佛後。作是唱言。沙門。沙門。都不得食耶。爾時。世尊作是念。惡魔波旬欲作嬈亂。即說偈言 汝新於如來 獲得無量罪 汝謂呼如來 受諸苦惱耶 時。魔波旬作是言。瞿曇。更入聚落。當令得食。爾時。世尊而說偈言 正使無所有 安樂而自活 如彼光音天 常以欣悅食 正使無所有 安樂而自活 常以欣悅食 不依於有身 時。魔波旬作是念。沙門瞿曇已知我心。內懷憂慼。即沒不現』 |
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提婆達多於耆闍崛山。推石壓佛佛亦不憎。是時羅睺羅。敬心讚佛佛亦不愛。阿闍貰縱諸醉象。欲令害佛佛亦不畏降伏狂象。王舍城人益加恭敬。持香華纓絡出供養佛佛亦不喜。 |
提婆達多は、耆闍崛山に於いて、石を推して仏を圧せんとしたれども、仏は亦た憎みたまわず。是の時、羅睺羅は敬心もて仏を讃じたれども、仏は亦た愛したまわず。阿闍貰は、諸の酔象を縦(ほしいまま)にして、仏を害せしめんと欲したれども、仏は亦た狂象を降伏するを畏れたまわず。王舎城の人は、益々恭敬を加えて、香華、瓔珞を持して出で、仏を供養したれども、仏は亦た喜びたまわず。 |
『提婆達多』は、
『耆闍崛山』に於いて、
『石を推して!』、
『仏』を、
『圧殺しようとした!』のに、
亦た( but )、
『仏』は、
『憎まれなかった!』し、
是の時、
『羅睺羅』が、
『敬心』で、
『仏』を、
『讃じた!』が、
亦た、
『仏』は、
『愛されなかった!』。
『阿闍世』が、
諸の、
『狂象を放って!』、
『仏』を、
『害しようとした!』が、
亦た、
『仏』は、
『狂象を降伏する!』のを、
『畏れられなかった!』ので、
『王舎城の人』が、
益々、
『恭敬を加え!』、
『香華、瓔珞を持って出て!』、
『仏』を、
『供養した!』が、
亦た、
『仏』は、
『喜ばれなかった!』。
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亦(やく):<名詞>[本義]人の腋窩/両腋( armpit )。<副詞>もまた( also )、又もや( again )、~も~も( both
...and ... )、しかし/過ぎず/僅かに( but, only )。
提婆達多(だいばだった):悪弟子。『大智度論巻24下注:提婆達多』参照。
耆闍崛山(ぎじゃくっせん):耆闍崛gijjha-kauuTaは巴梨名。梵名姞栗陀羅矩吒gRdhra-kuuTa、又祇闍崛、伊沙崛、耆闍多、姞栗陀羅屈吒、姞利駄羅矩、結里駄羅矩吒、揭梨駄羅矩胝等に作る。霊鷲、霊頭、鷲頭、鵰鷲、羌鷲等と訳し、又鷲峯、鷲台、鷂山、鷲嶺、霊山等とも云う。中印度摩揭陀国王舎城の東北に位し、仏陀説法の地として有名なり。蓋し耆闍は鷲の一種にして羽翼稍黒く、頭部は灰白色にして毛少く、好みて人の死屍を食し、印度到る所の林野に棲めり。此の山を耆闍崛と名づくるに関し、「大智度論巻3」に、「耆闍を鷲と名づけ、崛を頭と名づく。是の山頂は鷲に似たり、王舎城の人其の鷲に似たるを見て、共に伝えて鷲頭山と云う。復た次ぎに王舎城の南、屍陀林中に諸の死人多し。諸鷲常に来たって之を噉い、還って山頭に在り。時人遂に鷲頭山と名づく」と云い、「巴梨文増上部経註marorathapuuraNii」にも亦た之と同一の解釈を挙げたり。又霊鷲と翻ずるに就きては、「玄応音義巻6」に、「霊と云うは仙霊なり。梵本を按ずるに霊の義なし。別記に依りて云うなり。此の鳥霊ありて人の死活を知る。人死せんと欲する時、則ち群がりて彼の家に翔り、其の林に送るを待って則ち飛び下りて食す。能く懸に知るを以っての故に霊鷲と号す」と云い、又「法華経文句巻1」に更に一説を出し、「前仏後仏皆此の山に居る。若し仏滅後は羅漢住し、法滅すれば支仏住し、支仏無ければ鬼神住す。既に是れ聖霊の居る所にして総べて三事あり、因って呼んで霊鷲山と為す」と云うも、共に義推の説に過ぎず。「大唐西域記巻9」に、「宮城より東北に行く十四五里にして、姞栗陀羅矩吒山に至る。北山の陽に接して孤標独起す、既に鷲鳥を棲ましめ(鷲峯)、又高台に類す(鷲台)。空翠相映じ、濃淡色を分つ。如来世を御する五十年に垂んとし、多く此の山に居り、広く妙法を説く。頻毘娑羅王聞法の為の故に人徒を興発し、山麓より峯岑に至り、谷に跨がり巌を凌ぎ、石を編して階となす。広さ十余歩、長さ五六里、中路に二の小窣堵波あり、一を下乗と謂う。即ち王此に至りて徒行して以って進む。一を退凡と謂う。即ち凡夫を簡んで同往せしめず。其の山頂は則ち東西長く南北狭し。崖の西埵に臨んで甎精舎あり、高広にして奇製、東に其の戸を闢く。如来在昔多く居て説法し給えり。今説法の像を作る、量如来の身に等し」と云えり。以って玄奘当時の山状を見るべし。但し玄奘は旧王舎城より至りしものなれども、法顕は新王舎城よりし、之を一五里と誌せり。カンニンガムA.Cunninghamは、此の三巡礼者の記述によりて、其の山の位置を現今のbehar州rajgirの東南なるsaila-giriなりと推定せるも、近時の調査に依ればchata-giri中に在りとす。即ち旧王舎城の南部を劃する連山と、新旧両都城の中間を遮れる連山(大唐西域記の所謂北山)とは共に東に延び、殆ど接せんとして一の峡を作れり。chata-giriは此の山峡の北に峙立せる海抜約一千尺の秀峯にして、其の南面の中腹約七百尺に当りて一の巌台あり、玄奘の記述と粗ぼ合致するを以って、此の地を即ち仏陀説法の旧址となすに在り。玄奘は更に此の山に於ける古蹟として、提婆達多が仏陀を害せんが為に投下せし大石、仏陀並びに舎利弗等諸声聞の入定せし大小数多の石室、阿難が魔王の為に嬈乱せられし処、法華経説処の記念卒塔婆等を挙げたり。法顕も亦た概ね同一のことを敍せるも、「法華経」の代わりに「首楞厳経」を出せり。蓋し諸大乗経典中、其の説処を此の山に帰するもの甚だ多きを以って、法顕等は其の一を挙げて他を略せしものなるべく、「大品般若経」、「金光明最勝王経」、「無量寿経」等も皆此の山を以って説法の会処となせり。但し四阿含並びに南方所伝等に於いて、此の山を説処とする経は、他の給孤獨園、迦蘭陀竹園等に比して少きが如し。又「善見律毘婆沙巻8」、「法華経論巻上」、「仁王般若経疏巻1(智顗)」、「同疏巻上1(吉蔵)」、「同疏巻上本(円測)」、「仁王護国般若波羅蜜多経巻上1」、「法華経文句巻1上」、「同玄賛巻1末」、「無量寿経義疏巻上(慧遠)」、「高僧法顕伝」、「釈迦方誌巻下」、「翻梵語巻9」、「玄応音義巻6」、「慧琳音義巻1、91」、「希麟音義巻4」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
羅睺羅(らごら):十大弟子の一なる釈尊の実子の名。『大智度論巻24下注:羅睺羅』参照。
阿闍貰(あじゃせ):摩揭陀国の王の名。『大智度論巻26下注:阿闍世』参照。
縦(じゅう):ときはなつ。釈。放。 |
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九十六種外道。一時和合議言。我等亦皆是一切智人。從舍婆提來欲共佛論議。爾時佛以神足從臍放光。光中皆有化佛。國王波斯匿。亦命之令來於其坐上尚不能得動。何況能得與佛論議。佛見一切外道賊來。心亦無退破是外道。諸天世人倍益恭敬供養心亦不進。 |
九十六種の外道、一時、和合し議して、『我等も亦た皆是れ一切智の人なり』、と言い、舎婆提より来たりて、仏と共に論議せんと欲す。爾の時、仏は、神足を以って臍より光を放ちたまえるに、光中に皆化仏有り。国王波斯匿も亦た之に命じて、来たらしめんとするも、其の坐上より、尚お動かし得る能わず。何に況んや、能く仏と論議し得るをや。仏は、一切の外道の賊の来たるを見たまえども、心は亦た退くこと無く、是の外道を破りたまえば、諸天、世人は倍して益々恭敬、供養すれども、心は亦た進みたまわず。 |
『九十六種の外道』が、
一時( once )、
『合議して!』、こう言い、――
『舎婆提より来て!』、
『仏』と、
『共に!』、
『論議しようとした!』。
爾の時、
『仏』は、
『神足を用いて!』、
『臍より!』、
『光を放たれた!』が、
『光』中には、
『国王の波斯匿』は、
是れ等の、
『外道』に、
此の、
『化仏』を、
『来させよ!』と、
『命じた!』が、
尚お、
『化仏』を、
『坐』上より、
『動かすことすらできなかった!』。
況( ま)して、
『仏』と、
『共に!』、
『論議できるはずがない!』。
『仏』は、
一切の、
『外道の賊』が、
『来る!』のを、
『見ても!』、
『心』が、、
『退くことも!』、
『無く!』、
是の、
『外道を破られた!』ので、
諸の、
『天、世人』が、
『倍して益々!』、
『恭敬、供養した!』が、
『心』が、
『進むことも!』、
『無かった!』。
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一時(いちじ):梵語 ekadaa の訳、同時に( at the same time, at once )、時には/かつて/ある時/先頃( sometimes, once, one time, some time ago )の意。
九十六種外道(くじゅうろくしゅげどう):印度の外道に九十六種の別あるを云う。又九十六術、九十六径、九十六道、九十六種異道とも名づく。「旧華厳経巻17」に、「一切衆生をして如来幢を得しめ、一切の九十六種の諸の邪見の幢を摧滅す」と云い、「大方便仏報恩経巻6」に、「是の中、四向四得の無上福田は、一切九十六種の衆中に於いて最尊最上にして能く及ぶものなし」と云い、其の他、「増一阿含経巻20」、「別訳雑阿含経巻3」、「超日月三昧経巻下」、「観仏三昧海経巻5」、「月灯三昧経」、「月光童子経」、「阿闍貰王女阿術達菩薩経」、「大毘婆沙論巻41、66」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」、「大智度論巻22、27」、「成実論巻10」、「分別功徳論巻2」、「高僧法顕伝」等に九十六種外道と称するもの是れなり。然るに「大般涅槃経巻10」には、「当に外道九十五種の軽慢する所となり、無常の想を生ぜん」と云い、又「分別功徳論巻1」に、「九十五種の中に於いて最も第一と為す」と云い、又「千仏因縁経」、「占察善悪業報経巻上」、「大乗起信論」等には、共に九十五種となせり。蓋し此等の数は唯だ大数を挙げたるものなるべく、其の派名及び所説等の委細は、固より之を知るべからず。「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」に依るに、根本に六師あり、一師に十五種の教あり、以って弟子に授く。教を為すこと各異に、弟子行を受けて各異見を成す。師にも別に法ありて弟子と同じからず。師と弟子と通じて十六種となり、是の如く六師に九十六あり。師の用うる所の法は、其の将に終らんとするに及び、必ず一の弟子に授く。是の如く師師相伝えて常に六師ありと云えり。是れ富蘭那迦葉等の六師外道の門下に各十五種の異計あるを以って、師弟合して九十六種を成ずとするの説にして、即ち九十六種を悉く皆外道邪見となせるものなり。然るに一説には、九十五種を邪道とし、一種を正道となせり。「止観輔行伝弘決巻3之4」に、「九十五種とは通じて諸道を挙ぐ、意且く邪を出す。九十六道経に準ずるに、彼の経両巻に一一に所計の相貌を釈出せり。諸道の中に於いて一道は是れ正にして、即ち仏道なり。故に大論二十五に云わく、九十六道の中、実なるは是れ仏と。今の文に但だ九十五と云うは、邪道を論ずるが故なり。九十五の中、二の名は正に似たり、謂わく修多羅、及び阿毘曇なり。余の九十三は名体倶に邪なり。経を尋ねて之を識れ。甚だ正智を補うべし。問う、華厳に云わく、九十六道悉く皆是れ邪と。此れ云何が通ぜん。答う、華厳は小を斥くるが故に皆邪と云う。故に百論に云わく、声聞道に順ずる者は皆悉く是れ邪なりと。故に論二十五に又云わく、九十六道は並びに諸法実相を得ること能わずと。又四十一に云わく、九十六道は意生信を説かずと。是れ小乗灰断の説なるが故なり。五十三、五十六、七十三並びに同じ。華厳には斥けて是れ邪と云う」と云い、又「華厳経疏巻28」に、「諸処に多く九十五種と説く所以は、別に九十五種外道邪論経あればなり。今九十六と言うは自ら二義あり、一には薩婆多律の説に依るに、外道の六師に各十六種の所学法あり、一法は自ら学し、余の十五種は各十五の弟子に教う。師徒合論して九十六あり。二には外道に二あり、一に外外道とは即ち仏法の外なり。二に内外道とは此れに復た三種あり、一に附仏法の外道は犢子、方広より起る。自ら聡明を以って仏の経書を読みて一見を生ず。仏法に附して起るが故に此の名を得。犢子は舎利弗毘曇を読み、自ら別に義を制して言わく、我れは四句の外に在り、第五不可説なりと。蔵中に仏説く、此の人は外道に異ならずと。諸論皆推せども受けず、外道と名づくるなり。又方広道人は自ら聡明を以って仏の十喩を読み、自ら義を作して言わく、不生不滅、如幻如化、空幻を宗と爲すと。龍樹斥けて言わく、此れ仏法に非ずして方広の所作なりと。亦た邪人の法なり。二に仏法を学して外道と成るとは、謂わく仏の教門を執して煩悩を生じ、入理を得ざるが故なり。智論に云わく、若し般若の意を得ずして阿毘曇に入らば、即ち有の中に堕つ等と。三に大を以って小を斥くるが故なり。七巻楞伽第一に云わく、大慧云わく、何をか外道悪見と為すや。謂わく境界は自心の分別現なることを知らず、第一義に於いて有を見、無を見て而も言説を起すと。又第二に云わく、復た有が説いて言わく、一切法は作者に因りて有りと見る、此れは是れ涅槃と。大慧、彼れには解脱なし、未だ法無我を見る能わざるを以っての故なり。此れは是れ声聞及び外道の種性は、未出の中に於いて出離の想を生ず。応に勤めて修習して此の悪見を捨つべしと。故に諸の大乗に彼の二乗を訶して外道に同ぜしむ。方便を奪うの意に非ず。今後の三を合して総じて一類と為し、九十六と成す」と云い、又智雲の「妙経文句私志記巻4」にも、「論には九十六種と云う、疏本は不定にして或いは五、或いは六なり。然るに経中に就くも亦た自ら不定なり、華厳には六と言い、涅槃には五と言う。或いは九十六道経に依るに、小乗は是れ其の数の内なり。華厳は大を以って小を斥くるが故に、六並びに外と名づけ、涅槃は外に対して小を存するが故に但だ五と言う。近代の説に准ずるに、西方の外道の自ら九十六種あり、未だ小乗を聞かず。九十六道経は皆疑偽と云いて並びに信用せず。若し旧解に依らば五六並びに是なり、若し近釈に依らば六は是にして五は非なり。亦た未だ其の定説を見ず、孰れか是なるを知らず」と云える皆即ち其の説なり。此の中、「九十六道経」は、現今存せざるも、「出三蔵記集巻5新集疑経偽撰雑録」中に「九十六種道」一巻を挙げ、「法経録巻4衆経偽妄」中に、「九十五種道経」一巻、「同巻2衆経別生」中に「九十五種道雑類神呪経」二巻を列ぬるを以って見るに、梁代以前支那に於いて妄作せられたるものなるを知るなり。されば九十六種外道の分類は、「薩婆多毘尼毘婆沙」の説に従うを可とすというべし。又「摩訶止観巻3下」、「華厳孔目章巻2」、「開元釈教録巻18」、「華厳経隨疏演義鈔巻49」、「維摩経略疏垂裕記巻2」、「翻訳名義集巻5」、「法華疏私記巻5(証真)」、「釈摩訶衍論開解鈔巻3」等に出づ。<(望)
舎婆提(しゃばだい):中印度古王国の名。『大智度論巻22上注:舎衛国』参照。
波斯匿(はしのく):中印度舎衛城の主の名。『大智度論巻25上注:波斯匿王』参照。 |
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如是等種種因緣來。欲毀佛佛不可動。譬如真閻浮檀金。火燒不異搥打磨斫不敗不異。佛亦如是經諸毀辱誹謗論議不動不異。以是故知佛諸煩惱習都盡無餘。 |
是れ等のごとく種種の因縁来たりて、仏を毀ろうと欲するも、仏を動かすべからず。譬えば真の閻浮檀金は、火もて焼くも異ならず、槌もて打つも磨斫せず、敗れず、異ならざるが如し。仏も亦た是の如く、諸の毀辱、誹謗、論議を経るも、動かず、異ならず。是を以っての故に知る、仏の諸煩悩の習は、都て尽く無余なり。 |
是れ等のような、
種種の、
『因縁が来て!』、
『仏』を、
『毀(やぶ)ろうとしても!』、
『動かすことができない!』。
譬えば、
『真の閻浮檀金』が、
『火で焼いても!』、
『異ならず!』、
『槌で打っても!』、
『磨滅、破損せず!』、
『異ならないように!』、
『仏』も、
是のように、
諸の、
『毀辱、誹謗、論議を経ても!』、
『動くこともなく!』、
『異なることもない!』ので、
是の故に、こう知ることになる、――
『仏』の、
『諸の煩悩の習』は、
『皆尽きており!』、
『余が無いのだ!』、と。
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閻浮檀金(えんぶだんこん):閻浮樹下を流るる河底より産する金の名。『大智度論巻9上注:閻浮檀金』参照。
毀辱(きにく):そしりはずかしめる。毀謗と恥辱。 |
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問曰。諸阿羅漢辟支佛。同用無漏智斷諸煩惱習。何以有盡不盡。 |
問うて曰く、諸の阿羅漢、辟支仏も、同じく無漏智を用うれば、諸の煩悩の習を断ぜん。何を以ってか、尽くると、尽きざると有る。 |
問い、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏』も、
同じように、
『無漏の智』を、
『用いれば!』、
諸の、
『煩悩の習』を、
『断じられる!』のに、
何故、
『尽くす者と、尽くさない者と!』が、
『有るのですか?』。
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答曰。先已說智慧力薄如世間火。諸佛力大如劫盡火。今當更答。聲聞辟支佛集諸功德智慧不久。或一世二世三世。佛智慧功德。於無量阿僧祇劫。廣修廣習善法久熏故。於煩惱習無復餘氣。 |
答えて曰く、先に已に説けり、『智慧の力の薄きこと、世間の火の如し。諸仏の力の大なること、劫尽の火の如し』、と。今当に更に答うべし、『声聞、辟支仏は、諸の功徳、智慧を集むること久しからずして、或は一世、二世、三世なり。仏の智慧、功徳は無量阿僧祇劫に於いて広く修し、広く習して善法久しく熏ずるが故に、煩悩の習に於いて、復た余気無し』、と。 |
答え、
先に、
已に、こう説いたが、――
諸の、
『声聞、辟支仏の智慧の力』は、
『薄くて!』、
『世間の火のようである!』が、
諸の、
『仏の力』は、
『大きくて!』、
『劫尽の火のようである!』、と。
今、
更に、こう答えることにしよう、――
諸の、
『声聞、辟支仏』が、
諸の、
『功徳、智慧を集める!』のは、
『久しくなく!』、
或は、
『一世か、二世か、三世でしかない!』が、
諸の、
『仏の功徳、智慧』は、
『無量阿僧祇劫』に、
『広く修め!』、
『広く習ったものであり!』、
『久しく!』、
『善法の気』に、
『熏じられている!』ので、
是の故に、
『煩悩の習』には、
『余残の気』が、
『無いのである!』、と。
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註:諸仏と声聞、辟支仏との差別は、量の差であり、性の差ではない。 |
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復次佛於一切諸功德。皆已攝盡故。乃至諸煩惱習氣永盡無餘。何以故。諸善法功德。消諸煩惱故。諸阿羅漢於此功德不盡得故。但斷世間愛直入涅槃。 |
復た次ぎに、仏は、一切の諸功徳に於いて、皆已に摂し尽くしたもうが故に、乃至諸の煩悩の習気も、永く尽きて余無し。何を以っての故に、諸の善法の功徳は、諸の煩悩を消すが故なり。諸の阿羅漢は、此の功徳に於いて尽くは得ざるが故に、但だ世間の愛を断ちて、直ちに涅槃に入る。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
一切の、
諸の、
『功徳』を、
皆、
已に、
『摂め尽くされている!』が故に、
諸の、
『煩悩の習気』は、
永く、
『尽きており!』、
『余残が無いからである!』。
何故ならば、
諸の、
『善法の功徳』が、
『諸の煩悩』を、
『消すからである!』。
諸の、
『阿羅漢』は、
此の、
『功徳』を、
『尽く!』は、
『得ていない!』が故に、
但だ、
『世間』の、
『愛』を、
『断っただけで!』、
直ちに、
『涅槃』に、
『入るのである!』。
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復次佛斷結使智慧力甚利。用十力為大刀。以無礙智直過故斷諸結使盡。無復遺餘。譬如人有重罪國王大瞋誅其七世根本令無遺餘。佛亦如是於煩惱重賊誅拔根本令無遺餘。以是故說欲以一切種智斷一切煩惱習。當習行般若波羅蜜。 |
復た次ぎに、仏は結使を断じて、智慧の力甚だ利なれば、用うる十力を大刀と為し、無礙智を以って直ちに過ぐるが故に、諸の結使を断じ尽くして、復た遺余無からしむ。譬えば、人の重罪有るに、国王大いに瞋りて、其の七世の根本を誅し、遺余無からしむるが如し。仏も亦た是の如く、煩悩の重賊を誅して、根本を抜き、遺余無からしめたまえり。是を以っての故に説かく、『一切種智を以って、一切の煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし』、と。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『結使を断じられた!』のは、
『智慧の力が甚だ利く!』、
『十力や、無礙智という!』、
『大刀』を、
『用いて!』、
直ちに、
『世間』を、
『過ぎられたからであり!』、
是の故に、
諸の、
『結使を断じ尽くして!』、
『更なる遺余』を、
『無くされたのである!』。
譬えば、
『人に重罪が有れば!』、
『国王が大いに瞋って!』、
是の、
『人』の、
『七世の親族まで誅して!』、
其の、
『根本』を、
『抜き!』、
更なる、
『遺余』を、
『無くさせるようなものである!』。
『仏』も、
是のように、
『煩悩という!』、
『重賊を誅して!』、
『根本を抜き!』、
『遺余』を、
『無くされた!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『一切種智を用いて!』、
一切の、
『煩悩の習』を、
『断じようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行しなければならない!』、と。
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十力(じゅうりき):仏のみ成就する十種の智力。『大智度論巻16上注:十力』参照。
無礙智(むげち):説法に当っての無礙自在の智力。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
誅(ちゅう):罪を責めて之を殺し、殺す所の一人に止まらざるを云う。皆殺し。 |
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十力:諸法を如実に知る智力。
- 処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。
- 業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないことをいう。
- 静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。
- 根上下智力:衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。
- 種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。
- 種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。
- 遍趣行智力:五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。
- 宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。
- 死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。
- 漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。をいう。『大智度論巻24』参照。
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問曰。但斷習亦除煩惱。 |
問うて曰く、但だ習のみを断ずや、亦た煩悩を除くや。 |
問い、
但だ、
『習を断ずるだけですか?』、
亦た、
『煩悩』も、
『除くのですか?』。
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答曰。有人言。斷煩惱及習俱盡。如先說習盡無餘。阿羅漢辟支佛。但斷煩惱不能斷習。菩薩斷一切煩惱及習。令盡無餘。 |
答えて曰く、有る人の言わく、『煩悩及び習を断じて、倶に尽くす。先に説けるが如き、習尽きて余無しとは、阿羅漢、辟支仏は、但だ煩悩を断じて、習を断ずる能わざるも、菩薩は、一切の煩悩、及び習を断じて、尽くして余無からしむ』、と。 |
答え、
有る人は、こう言っている、――
『煩悩と、習とを断じて!』、
『倶に!』、
『尽くすのである!』。
先に説くように、――
『習が尽きて!』、
『遺余』が、
『無い!』とは、――
『阿羅漢、辟支仏』は、
但だ、
『煩悩を断じるだけで!』、
『習』を、
『断じることはできない!』が、
『菩薩』は、
一切の、
『煩悩、習を断じ尽くして!』、
『遺余』を、
『無くさせるからである!』、と。
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有人言。佛久已遠欲。如佛說我見定光佛已來已離欲。以方便力故。現有生死妻子眷屬。 |
有る人の言わく、『仏は久しく已に欲を遠ざけたもうこと、仏の、『我れ定光仏を見しより已来、已に欲を離れ、方便力を以っての故に、生死、妻子、眷属有るを現ず』、と説きたまえるが如し』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『仏』が、
『仏』が、こう説かれているからである、――
わたしは、
『定光仏を見て以来!』、
已に、
『欲』を、
『離れている!』が、
『方便力を用いる!』が故に、
『生死や、妻子、眷属が有る!』と、
『現すのである!』、と。
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定光仏(じょうこうぶつ):釈尊に授記せし仏の名。『大智度論巻25下注:定光如来』参照。 |
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有人言。從得無生法忍來。得諸法實相故。一切煩惱及習盡。 |
有る人の言わく、『無生法忍を得てより来、諸法の実相を得るが故に、一切の煩悩、及び習尽く』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『無生法忍を得てからは!』、
諸の、
『法の実相』を、
『認める!』が故に、
一切の、
『煩悩と、習』が、
『尽きるのである!』、と。
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無生法忍(むしょうほうにん):無生の理に対する諦忍。『大智度論巻19下注:無生法忍』 |
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有人言。佛從初發意來有煩惱。至坐道場於後夜時。斷一切煩惱及習。 |
有る人の言わく、『仏は初発意より来、煩悩有るも、道場に坐すに至って、後夜の時に於いて、一切の煩悩、及び習断じたまえり』、と。 |
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
『初発意以来!』、
『煩悩』が、
『有る!』が、
『道場に坐すに至り!』、
後夜の時に、
一切の、
『煩悩と、習』を、
『断たれたのである!』、と。
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問曰。如是種種說何者為實。 |
問うて曰く、是の如き種種の説は、何者をか、実と為す。 |
問い、
是のような、
種種の
『説』は、
何れが、
『実だと!』、
『思いますか?』、と。
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答曰。皆是佛口所說故無有不實。聲聞法中。佛以方便力故現受人法。有生老病寒熱飢渴等。無人生而無煩惱者。是故佛亦應隨人法有煩惱。於樹王下外先破魔軍。內滅結使賊。破外內賊故。成阿耨多羅三藐三菩提。人皆信受是人能為是事。我等亦當學習是事。 |
答えて曰く、皆是れ仏の口の所説なるが故に、不実なる有ること無し。声聞法中に、仏は方便力を以っての故に、人法を受けて、生老病、寒熱、飢渴等有るを現したまえるも、人の生には、煩悩無き者無く、是の故に仏にも亦た応に人法に随いて、煩悩有るべし。樹王の下に於いて、外には、先に魔軍を破り、内には、結使の賊を滅し、外、内の賊を破るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を成じたまえば、人は、皆信受すらく、『是の人にして、能く是の事を為せり、我等も亦た当に是の事を学習すべし』、と。 |
答え、
皆、
『仏の口の所説であり!』、
故に、
『実でないもの!』は、
『無い!』。
『声聞法』中に、
『仏』は、
『方便力を用いられた!』が故に、
『人法を受けて!』、
『生老病、寒熱、飢渴等が有る!』のを、
『現されたのである!』が、
『人の生』には、
『煩悩の無い!』者は、
『無い!』ので、
是の故に、
『仏』も、
『人法に随って!』、
『煩悩』が、
『有るべきであり!』、
『樹王/菩提樹の下』で、
『内、外』に於いて、
『賊を破った』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成就される!』と、
『人』は、
皆、こう信受したのである、――
是の、
『人』が、
是の、
『事』を、
『為すことができたのだから!』、
わたし達も、
是の、
『事』を、
『学習せねばならない!』、と。
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人法(にんぽう):◯梵語 puruSa-dharma の訳、人に属する規則( personal rule )の義。◯梵語 dharma-pudgala
の訳、人と法( person and dharma/things )の義。 |
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若言久來無煩惱若從然燈佛得無生法忍來斷煩惱盡。是亦方便說。令諸菩薩歡喜故。若菩薩久已斷一切煩惱。成佛時復何所為。 |
若し『久しきより来、煩悩無し。若しは然灯仏より無生法忍を得てより来、煩悩を断じ尽くせり』、と言わば、是れも亦た方便の説にして、諸菩薩をして歓喜せしめんが故なり。若し菩薩にして、久しく已に一切の煩悩を断じたれば、仏を成ぜし時、復た何の為す所ぞ。 |
若し、こう言えば、――
『仏』は、
『久しき昔より!』、
『煩悩』が、
『無かった!』とか、
若しは、
『然灯仏より!』、
『無生法忍を得た時より!』、
『煩悩』を、
『断じ尽くしたのである!』、と。
是れも、
亦た、
『方便の説であり!』、
諸の、
『菩薩を歓喜させる!』為の故に、
『説かれたものである!』。
若し、
『菩薩』が、
『久しき昔より!』、
已に、
『一切の煩悩』を、
『断っていたとすれば!』、
『仏と成った!』時に、
更に、
何が、
『為されたのか?』。
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問曰。佛有種種事。斷結使是一事。餘有淨佛國土成就眾生等未具。以具足眾事故名為佛。 |
問うて曰く、仏には種種の事有れば、結使を断ずるは、是れ一事なり。余にも仏国土を浄めて、衆生を成就する等は、未だ具わらず。衆事を具足するを以っての故に、名づけて仏と為せばなり。 |
問い、
『仏』には、
種種の、
『事( works )が有り!』、
『結使』を、
『断じる!』ことは、
其の中の、
『一事であり!』、
余にも、
『仏国土を浄める!』とか、
『衆生を成就する!』等の、
『事』が、
『有り!』、
此等は、
未だ、
『具足していない!』。
『衆事を具足する!』が故に、
『仏』と、
『称されるのである!』。
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答曰。若爾者佛言斷結使是末後身。人若都無結使云何得生。 |
答えて曰く、若し爾らば、仏は、『結使を断ずれば、是れ末後の身なり』、と言えるに、人若し都て結使無くんば、云何が生を得る。 |
答え、
若し、そうならば、――
『仏』は、――
『結使を断じた!』ので、
是れは、
『末後の身( the last body )である!』と、
『言われた!』が、
若し、
『人』に、
都て( anymore )、
『結使』が、
『無ければ!』、
何故、
『生』を、
『得られたのか?』、と。
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問曰。從得無生法忍已來。常得法性生身變化不。 |
問うて曰く、無生法忍を得てより已来、常に法性生身を得て、変化したもうや、不や。 |
問い、
『無生法忍を得られた時より!』、
常に、
『法性生身を得て!』、
『変化されるのではないですか?』。
|
法性生身(ほっしょうしょうじん):法性を証したる者の受くる身。『大智度論巻16下注:法性生身』参照。
変化(へんげ):改変して他の物となるの意。又化とも称す。『大智度論7下注:化』参照。 |
|
法性生身:法性より生じたる身の意。法性とは実相真如。法界、涅槃等の異名同体。性とは体ともいい、改変しないことである。真如は万法の体であり、染に在りても浄に在りても、有情の数に在りても非情の数に在りても、その性は不改不変なるが故に法性という。『大智度論巻28』:『菩薩入法位。住阿鞞跋致地。末後肉身盡得法性生身。雖斷諸煩惱。有煩惱習因緣故。受法性生身非三界生也。』 |
|
答曰。化法要有化主然後能化。若得無生法忍斷一切結使。死時捨是肉身無有實身誰為變化。以是故知得無生已來。不應盡結使。 |
答えて曰く、化法には、要(かなら)ず化主有りて、然る後能く化す。若し無生法忍を得れば、一切の結使断じて、死する時、是の肉身を捨てて、実の身有ること無し。誰か変化を為さん。是を以っての故に知る、無生を得てより已来、応に結使を尽くすべからず。 |
答え、
『化法( creation-dharma )』には、
要( かなら)ず、
『化主が有り!』、
その後、
『化すことができる!』。
若し、
『無生法忍を得れば!』、
一切の、
『結使』を、
『断じて!』、
死ぬ時には、
是の、
『肉身を捨てる!』ので、
『実の身』は、
『無いことになる!』。
誰の、
『身』が、
『変化されるのか?』。
是の故に、こう知る、――
『無生法忍を得てからは!』、
『結使』を、
『尽くすはずがない!』、と。
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化(け):梵語 nirmaaNa の訳、形成/造化/製造/建設/組立( forming, making, creating, creation,
building, composition )の義。
化法(けほう):◯梵語 nirmiti の訳、形成/造化/製造( formation, creation, making )の義。◯梵語 nirmitaka の訳、化人/所化人( one who is constructed )の義。
化主(けしゅ):梵語 nirmaatR の訳、創造する人( one who had created somebody, creator )の義。 |
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復次聲聞人言。菩薩不斷結使乃至坐道場然後斷。是為大錯。何以故汝法中說。菩薩已滿三阿僧祇劫。後更有百劫中。常得宿命智自憶迦葉佛時。作比丘名鬱多羅修行佛法。云何今六年苦行修邪道法。日食一麻一米。後身菩薩一日尚不應謬。何況六年。瞋亦如是從久遠世時作毒蛇。獵者生剝其皮猶尚不瞋。云何最後身而瞋五人。以是故知聲聞人受佛義為錯。 |
復た次ぎに、声聞人の言わく、『菩薩は、結使を断ぜずして、乃至道場に坐して、然る後に断ず』、とは、是れを大錯と為す。何を以っての故に、汝が法中に説かく、『菩薩は、已に三阿僧祇劫を満てて後、更に百劫有る中に、常に宿命智を得て、自ら迦葉仏の時、比丘と作りて、鬱多羅と名づけ、仏法を修行せるを憶せり』、と。云何が、今、六年苦行して、邪道の法を修し、日に一麻、一米を食したまえる。後身の菩薩なれば、一日すら尚お応に謬すべからず。何に況んや六年をや。瞋も亦た是の如し、久遠世より、時に毒蛇と作り、猟者、生きながら其の皮を剥ぎても、猶尚お瞋りたまわず。云何が、最後の身にして、瞋五の人なる。是を以っての故に知る、声聞人の受くる仏の義は、錯と為す、と。 |
復た次ぎに、
『声聞人』は、こう言っているが、――
『菩薩』は、
乃至、
『道場に坐す!』までは、
『結使』を、
『断じず!』に、
その後、
『断じる!』、と。
是れは、
『大きな!』、
『錯( mistake )である!』。
何故ならば、
お前の、
『法』中には、こう説かれているが、――
『菩薩』は、
已に、
『三阿僧祇劫』の、
『修行』を、
『満たした!』後、
更に、
『百劫有って!』、
常に、
『宿命智』を、
『得た!』が故に、
自ら、こう記憶していた、と――
『迦葉仏の時』、
『鬱多羅と呼ばれる!』、
『比丘と作って!』、
『仏法』を、
『修行していた!』、と。
何故、
今更、
『六年の苦行をして!』、
『邪道の法』を、
『修めながら!』、 『日ごとに!』、
『一麻、一米』を、
『食われていたのか?』。
『最後身の菩薩ならば!』、
『一日すら!』、
『道』を、
『謬たれるはずがない!』。
況して、
『六年』も、
『謬たれることがあろうか?』。
『瞋』も、
亦た、是の通りである、――
『久遠世より!』、
時に、
『毒蛇と作って!』、
『猟者』が、
其の、
『生皮』を、
『剥いでも!』、
猶尚お、
『瞋られなかったのに!』、
何故、
『最後の身でありながら!』、
『瞋五(忿、恨、悩、嫉、害)』の、
『人なのか?』。
是の故に、こう知ることになる、――
『声聞人が受けた!』、
『仏の義』は、
『錯誤である!』、と。
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鬱多羅(うったら):梵語uttara、最上の義。究竟と訳す。又此の否定語阿耨多羅anuttaraは無上の義にして、無上士とも訳し、仏の十号の一と為す。 瞋五(しんご):瞋の五分の意。「成唯識論巻6」に於ける忿、恨、悩、嫉、害等の随煩悩は皆瞋の一分を体となすと説く、即ち是れなり。 |
参考:『賢愚経巻1』:『又復世尊。過去無量阿僧祇劫。爾時波羅奈國。有五百仙士。時仙人師。名鬱多羅。恒思正法。欲得修學四方推求。宣告一切。誰有正法。為我說者。隨其所欲。悉當供給。有婆羅門。來應之言。吾有正法。誰欲聞者。我當為說。時仙人師。合掌白言。唯願矜愍垂哀為說。婆羅門言。學法事難。久苦乃獲。汝今云何直爾欲聞。於理不可。汝若至誠欲得法者。當隨我教。仙人白言。大師所敕不敢違逆。尋即語曰。汝今若能剝皮作紙。析骨為筆。血用和墨。寫吾法者。乃與汝說。是時鬱多羅。聞此語已。歡喜踊躍。敬如來教。即剝身皮。析取身骨。以血和墨。仰白之曰。今正是時。唯願速說。時婆羅門。便說此偈 常當攝身行 而不殺盜淫 不兩舌惡口 妄言及綺語 心不貪諸欲 無瞋恚毒想 捨離諸邪見 是為菩薩行說是偈已。即自書取。遣人宣寫。閻浮提內一切人民。咸使誦讀如說修行。世尊。爾時如是求法。為於眾生心無悔恨。今者云何欲捨一切。入於涅槃而不說法。』
参考:『成唯識論巻6』:『論曰。唯是煩惱分位差別。等流性故名隨煩惱。此二十種類別有三。謂忿等十各別起故名小隨煩惱。無慚等二遍不善故名中隨煩惱。掉舉等八遍染心故名大隨煩惱。云何為忿。依對現前不饒益境憤發為性。能障不忿執仗為業。謂懷忿者多發暴惡身表業故。此即瞋恚一分為體。離瞋無別忿相用故。云何為恨。由忿為先懷惡不捨結怨為性。能障不恨熱惱為業。謂結恨者不能含忍恒熱惱故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別恨相用故。云何為覆。於自作罪恐失利譽隱藏為性。能障不覆悔惱為業。謂覆罪者後必悔惱不安隱故。有義此覆癡一分攝。論唯說此癡一分故。不懼當苦覆自罪故。有義此覆貪癡一分攝。亦恐失利譽覆自罪故。論據麤顯唯說癡分。如說掉舉是貪分故。然說掉舉遍諸染心。不可執為唯是貪分。云何為惱。忿恨為先追觸暴熱佷戾為性。能障不惱蛆螫為業。謂追往惡觸現違緣心便佷戾。多發囂暴凶鄙麤言蛆螫他故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別惱相用故。云何為嫉。徇自名利不耐他榮妒忌為性。能障不嫉憂慼為業。謂嫉妒者聞見他榮深懷憂慼不安隱故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別嫉相用故。云何為慳。耽著財法不能慧捨祕吝為性。能障不慳鄙畜為業。謂慳吝者心多鄙澀畜積財法不能捨故。此即貪愛一分為體。離貪無別慳相用故。云何為誑。為獲利譽矯現有德詭詐為性。能障不誑邪命為業。謂矯誑者心懷異謀多現不實邪命事故。此即貪癡一分為體。離二無別誑相用故。云何為諂。為網他故矯設異儀險曲為性。能障不諂教誨為業。謂諂曲者為網帽他曲順時宜矯設方便為取他意或藏己失。不任師友正教誨故。此亦貪癡一分為體。離二無別諂相用故。云何為害。於諸有情心無悲愍損惱為性。能障不害逼惱為業。謂有害者逼惱他故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別害相用故。瞋害別相准善應說。』 |
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佛以方便力。欲破外道故。現六年苦行。汝言瞋五人者是為方便。亦是瞋習非煩惱也。 |
仏は、方便力を以って、外道を破らんと欲するが故に、六年の苦行を現したまえり。汝が言う、『瞋五の人』とは、是れを方便と為し、亦た是れ瞋の習なるも、煩悩に非ず。 |
『仏』は、
『方便力を用いて!』、
『外道を破る!』為の故に、
『六年の苦行』を、
『現されたのである!』。
お前は、――
『瞋五』の、
『人である!』と、
『言っている!』が、
是れも、
『方便なのであり!』、
亦た、
『瞋の習である!』が、
『煩悩ではない!』。
|
|
参考:『大智度論巻14』:『問曰。已知尸羅相。云何為尸羅波羅蜜。答曰。有人言。菩薩持戒寧自失身不毀小戒。是為尸羅波羅蜜。如上蘇陀蘇摩王經中說。不惜身命以全禁戒。如菩薩本身曾作大力毒龍。若眾生在前。身力弱者眼視便死。身力強者氣往而死。是龍受一日戒。出家求靜入林樹間。思惟坐久疲懈而睡。龍法睡時形狀如蛇。身有文章七寶雜色。獵者見之驚喜言曰。以此希有難得之皮。獻上國王以為服飾不亦宜乎。便以杖按其頭以刀剝其皮。龍自念言。我力如意。傾覆此國其如反掌。此人小物豈能困我。我今以持戒故不計此身當從佛語。於是自忍眠目不視。閉氣不息憐愍此人。為持戒故一心受剝不生悔意。既以失皮赤肉在地。時日大熱宛轉土中欲趣大水。見諸小蟲來食其身。為持戒故不復敢動。自思惟言。今我此身以施諸蟲。為佛道故今以肉施以充其身。後成佛時當以法施以益其心。如是誓已身乾命絕。即生第二忉利天上。爾時毒龍釋迦文佛是。是時獵者提婆達等六師是也。諸小蟲輩。釋迦文佛初轉法輪八萬諸天得道者是。菩薩護戒不惜身命。決定不悔。其事如是。是名尸羅波羅蜜。』 |
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今當如實說。菩薩得無生法忍。煩惱已盡習氣未除故因習氣受。及法性生身能自在化生。有大慈悲為眾生故。亦為滿本願故。還來世間。具足成就餘殘佛法故。十地滿坐道場。以無礙解脫力故。得一切智一切種智斷煩惱習。 |
今当に如実に説くべし、菩薩は無生法忍を得て、煩悩已に尽くるも、習気の未だ除こらざるが故に、習気に因って受くるに、法性生身に及んで、能く自在に化生したまい、大慈悲有りて、衆生の為の故に、亦た本願を満てんが為の故に、還って世間に来たり、余残の仏法を具足して成就するが故に、十地満ちて道場に坐し、無礙解脱力を以っての故に、一切智、一切種智を得て、煩悩の習を断じたまえり。 |
今、
『如実に説かねばなるまい!』、――
『菩薩』は、
『無生法忍を得る!』と、
『煩悩は、已に尽きた!』が、
未だ、
『習』が、
『除かれない!』が故に、
『習気に因って!』、
『身を受けられた!』が、
『法性生身を受ける!』に、
『及んで!』、
『自在に化生することができるようになり!』、
『衆生』の為に、
『大慈悲』が、
『有る!』が故に、
亦た、
『本願を満たす!』為の故に、
『世間』に、
『還って来られ!』、
余残の、
『仏法を具足して成就する!』為の故に、
『十地が満ちるまで!』、
『道場』に、
『坐り!』、
『無礙解脱の力を用いた!』が故に、
『一切智、一切種智を得て!』、
『煩悩の習』を、
『断じられたのである!』。
|
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摩訶衍人言。得無生法忍菩薩一切煩惱及習都盡。亦是錯若都盡與佛無異。亦不應受法性生身。以是故菩薩得無生法忍。捨生身得法性生身。 |
摩訶衍人の言わく、『無生法忍を得たる菩薩は、一切の煩悩、及び習都て尽く』、とは、亦た是れも錯なり。若し都て尽くれば、仏と異無く、亦た応に法性生身を受くべからざればなり。是を以っての故に菩薩は、無生法忍を得て、生身を捨て、法性生身を得。 |
『摩訶衍人』は、――
『無生法忍を得た!』、
『菩薩』は、
『一切の煩悩と習』が、
都て、
『尽きる!』と、
『言っている!』が、
是れも、
亦た、
『錯である!』。
若し、
『煩悩と習』が、
『都て尽きてしまえば!』、
『仏』と、
『異ならないからであり!』、
亦た、
『法性生身』を、
『受けるはずがないからである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『無生法忍を得る!』と、
『生身を捨てて!』、
『法性生身』を、
『得るのである!』。
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若言至坐道場一切煩惱及習俱斷。是語亦非。所以者何。若菩薩具有三毒者。云何能集無量佛法。譬如毒瓶雖著甘露皆不中食。菩薩集諸純淨功德乃得作佛。若雜三毒。云何能具足清淨佛法。 |
若し、『道場に坐すに至って、一切の煩悩、及び習倶に断ず』、と言わば、是の語も亦た非なり。所以は何んとなれば、若し菩薩にして、三毒を具有せば、云何が能く、無量の仏法を集めん。譬えば毒瓶に、甘露を著くと雖も、皆食するに中らざるが如し。菩薩は、諸の純浄の功徳を集めて、乃ち仏と作るを得るも、若し三毒を雑えば、云何が能く清浄の仏法を具足せんや。 |
若し、こう言えば、――
『菩薩』は、
『道場』に、
『坐る!』に、
『至って!』、
一切の、
『煩悩と習』を、
『倶に断じる!』、と。
是の、
『語』も、
『非(不正)である!』。
何故ならば、
若し、
『菩薩』が、
『三毒を具有していれば!』、
何故、
『無量の仏法』を、
『集めることができるのか?』。
譬えば、
『毒瓶』には、
『甘露』を、
『納れても!』、
皆、
『食う!』には、
『中らない( not proper )からである!』。
『菩薩』は、
諸の、
『純浄』の、
『功徳』を、
『集めて!』、
ようやく、
『仏』と、
『作ることができるのであり!』、
若し、
『三毒を雑えて!』、
『諸の功徳』を、
『集めたとすれば!』、
何故、
『清浄の仏法』を、
『具足することができるのか?』。
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問曰。觀諸法實相。及修悲心故。能令三毒薄故。能集清淨功德。 |
問うて曰く、諸法の実相を観て、及び悲心を修するが故に、能く三毒をして薄しむるが故に、能く清浄の功徳を集むるなり。 |
問い、
『諸法の実相』を、
『観察して!』、
『悲心を修める!』に、
『及ぶ!』が故に、
『三毒』を、
『薄れさせられる!』が故に、
『清浄の功徳』を、
『集めることができるのである!』。
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答曰。薄三毒。可得轉輪聖王諸天王身。欲得佛功德身無有是事。三毒斷習未盡。可得集諸功德。 |
答えて曰く、三毒を薄うすれば、転輪聖王、諸天王の身を得べきも、仏の功徳身を得んと欲せば、是の事有ること無し。三毒断ずれば、習未だ尽きざるも、諸の功徳を集むるを得べし。 |
答え、
『三毒が薄れれば!』、
『転輪聖王や、諸天王』の、
『身ぐらい!』は、
『得られるだろう!』が、
『仏』の、
『功徳身』を、
『得ようとしても!』、
是のような、
『事』は、
『無い!』。
『三毒が断じていれば!』、
『習が尽きていなくても!』、
『諸の功徳』を、
『集められるだろう!』。
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復次薄名如離欲人。斷下地結猶有上地煩惱。又如須陀洹。見諦所斷結盡。思惟所斷未盡。是名為薄。 |
復た次ぎに、薄を離欲の人の下地の結を断ずるも、猶お上地の煩悩有りと如しと名づく。又須陀洹の見諦所断の結を尽くるも、思惟所断は未だ尽きざるが如し。是れを名づけて薄と為す。 |
復た次ぎに、
『薄』とは、
『離欲の人』が、
『下地の結を断じても!』、
猶お、
『上地の煩悩が有る!』のに、
『似ており!』、
又、
『須陀洹』が、
『見諦所断の結が尽きても!』、
猶お、
『思惟所断の結』が、
『尽きていないようなものであり!』、
是れを、
『薄い!』と、
『呼ぶのである!』。
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下地結(げじのけつ):下の欲界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる五種の煩悩。即ち一に欲貪、二に瞋恚、三に有身見、、四に戒禁取見、五に疑なり。『大智度論巻15上注:五下分結』参照。
上地煩悩(じょうじのぼんのう):上の色無色界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる五種の煩悩。即ち一に色貪、二に無色貪、三に掉挙、四に慢、五に無明なり。『大智度論巻15上注:五上分結』参照。 |
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如佛說斷三結薄婬怒癡。名為斯陀含。汝若言薄應當是斷。以是故得無生法忍時斷煩惱。得佛時斷煩惱習。是則實說 |
仏の説きたまえるが如きは、『三結を断じて、婬怒癡薄るるを名づけて、斯陀含と為す』、となり。汝が若し、『薄し』、と言わば、応当に是れ断なるべし。是を以っての故に、無生法忍を得る時に煩悩を断じ、仏を得る時に、煩悩の習を断ず。是れ則ち実説なり。 |
例えば、
『仏』は、こう説かれているが、――
『三結を断じて!』、
『淫怒癡』が、
『薄れれば!』、
是れを、
『斯陀含』と、
『称する!』、と。
お前が、
若し、
『薄い!』と、
『言えば!』、
是れは、
『断じた!』と、
『言わねばならない!』。
是の故に、
『無生法忍を得た!』時に、
『煩悩を断じ!』、
『仏を得た!』時に、
『煩悩の習』を、
『断じる!』、
是れが、
『仏』の、
『実説である!』。
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