巻第二十七(下)
大智度論釋初品大慈大悲義第四十二之餘
1.煩悩の習
2.菩薩の位
3.阿鞞跋致の地
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大智度論釋初品大慈大悲義第四十二之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


煩悩の習

【經】欲以一切種智斷煩惱習。當習行般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜。 一切種智を以って、煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。舍利弗、菩薩摩訶薩は、応に是の如く般若波羅蜜を学ぶべし。
『一切種智を用いて!』、
『煩悩の習を断じようとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『習行しなくてはならない!』。
舍利弗!
『菩薩摩訶薩』は、
是のように、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならぬのである!』。
  一切種智(いっさいしゅち):一切法の寂滅相、及び行類差別に了達する仏所有の智慧。『大智度論巻37上注:一切種智』参照。
  煩悩(ぼんのう):梵語klezaの訳。随眠に同じ。即ち身心を悩乱して寂静ならざらしむる諸種の心所法を云う。「入阿毘達磨論巻上」に、「身心を煩乱逼悩して相続するが故に煩悩と名づく。此れ即ち随眠なり」と云い、「大乗阿毘達磨蔵集論巻7」に、「若し法生ずる時、相不寂静にして、此れ生ずるに由るが故に身心相続し不寂静にして転ず。是れ煩悩の相なり」と云える是れなり。是れ身心を煩乱逼悩し、寂静に転ぜざらしむる心所法を煩悩と名づくることを明かせるなり。「大毘婆沙論巻60」、及び「倶舎論巻20」等に、一切の煩悩は因力境界力加行力の三力に由りて起ることを説き、随眠の未断未遍知を因力とし、欲等に順ずる境界の現前するを境界力とし、彼れを縁ずる非理作意を加行力となすと云い、又「入阿毘達磨論巻上」には、唯境界力にのみ依りて起るものありとなせり。蓋し煩悩は其の類甚だ多きも、之を大別せば迷理迷事の二種となすを得べし。迷理とは即ち見惑にして、四諦の理に迷う見道所断の煩悩を云い、迷事とは即ち修惑にして、物の事相に迷い、境界の為に逼悩せらるる修道所断の煩悩を云う。之に総じて貪瞋癡慢疑見の六種あり、諸惑の根本となるが故に根本煩悩と名づけ、或いは六随眠と称す。又此の中、見を開して有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見の五種とし、之を五利使と名づけ、之に対し貪乃至疑の五を五鈍使と称し、此の十使を十根本煩悩、或いは十随眠と名づく。就中、五利使は唯迷理の惑にして、五鈍使は迷理迷事の二種に通ずるなり。又倶舎等に依るに、見道に於いて此の十随眠を断ずるに欲界四諦下に三十二、上二界四諦下に各二十八の別を生ずるが故に、合して見惑に八十八使ありとし、之に修道所断の十随眠を加えて九十八随眠と名づけ、更に又十纏を加えて百八煩悩と称するなり。唯識家にては見道所断の欲界四諦下に四十、上二界四諦下に各三十六、合して見惑に百十二使あり、修惑に身辺二見を加えて三界合して十六、即ち見修所断総じて百二十八の根本煩悩ありとなすなり。是れ唯識家にては煩悩に分別起倶生起の二種を分ち、見惑は分別起にして見道に於いて之を断じ、修惑は倶生起にして修道に於いて之を断ずとなすに由るなり。又此等の根本煩悩より等流せる染汙の心所を随煩悩、或いは枝末惑、或いは随惑と称す。就中、倶舎等にては随煩悩に放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙、無慚、無愧、忿、覆、慳、嫉、悩、害、恨、諂、誑、憍、睡眠、悪作の十九種ありとし、唯識家にては此の中の悔(悪作)、眠(睡眠)の二を除き、別に失念、散乱、不正知の三を加えて二十法ありとなすなり。又此の中、欲界の見修二惑は其の性不善と有覆無記とに通じ、不善の煩悩は能く非愛の異熟果を引くが故に之を有異熟の煩悩と名づけ、不還果を得する時之を断じ、上二界の見修二惑は唯有覆無記にして、非愛の異熟果を招かざるが故に之を総じて無異熟の煩悩と名づけ、阿羅漢果を得する時之を断尽するなり。又煩悩には義の差別に依りて結、縛、瀑流、軛、取、繋、蓋、株杌、垢、焼害、箭、漏、稠林等の種種の異名あり。総じて有情の身心を悩乱し、其の増上力に由りて悪業を造り、現当に憂苦の果を感受せしむる因となるなり。又「大毘婆沙論巻43、46」、「倶舎論巻21」、「仏性論巻3」、「順正理論巻48、49」、「成唯識論巻6」、「般若灯論巻11、14」等に出づ。<(望)
  (じゅう):数数煩悩を現起せるにより熏成せられたる余習。『大智度論巻11上注:習気』参照。
  習行(じゅうぎょう):ならいおこなう。習慣的に行う。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1序品第一』:『菩薩摩訶薩欲具足道慧。當習行般若波羅蜜。菩薩摩訶薩。欲以道慧具足道種慧。當習行般若波羅蜜。欲以道種慧具足一切智。當習行般若波羅蜜。欲以一切智具足一切種智。當習行般若波羅蜜。欲以一切種智斷煩惱習。當習行般若波羅蜜。舍利弗。菩薩摩訶薩應如是學般若波羅蜜』
【論】問曰。一心中得一切智一切種智。斷一切煩惱習。今云何言以一切智具足得一切種智。以一切種智斷煩惱習。 問うて曰く、一心中に一切智、一切種智を得て、一切の煩悩の習を断ずるに、今は云何が言わく、『一切智を以って、一切種智を具足して得、一切種智を以って、煩悩の習を断ず』、と。
問い、
『一心』中に、
『一切智、一切種智を得て!』、
一切の、
『煩悩の習』を、
『断じる!』のに、
今は、
何故、こう言うのですか?――
『一切智を用いて!』、
『一切種智』を、
『具足して!』、
『得てから!』、
『一切種智を用いて!』、
一切の、
『煩悩の習』を、
『断じる!』、と。
  一切智(いっさいち):内外一切の法相を了知する智。『大智度論巻37上注:一切智』参考。
答曰。實一切一時得。此中為令人信般若波羅蜜故。次第差品說。欲令眾生得清淨心。是故如是說。 答えて曰く、実に一切を一時に得れども、此の中には、人をして般若波羅蜜を信ぜしめんが為の故に、次第に品を差(たが)えて説き、衆生をして清浄心を得しめんと欲すれば、是の故に是の如く説けり。
答え、
実には、
『一切を!』、
『一時に!』、
『得るのである!』が、
此の中には、
『人』に、
『般若波羅蜜』を、
『信じさせる!』為の故に、
次第に、
『品を差別して!』、
『説かれたのであり!』、
『衆生』に、
『清浄心を得させよう!』と、
『思われた!』ので、
是の故に、
是のように、
『説かれたのである!』。
復次雖一心中得。亦有初中後次第。如一心有三相。生因緣住住因緣滅。又如心心數法不相應諸行及身業口業。以道智具足一切智。以一切智具足一切種智。以一切種智斷煩惱習亦如是。 復た次ぎに、一心中に得と雖も、亦た初中後の次第有り。一心中に三相有りて、生は住に因縁たり、住は滅に因縁為るが如く、又心、心数法、不相応諸行の身業、口業に及ぶが如く、道智を以って一切智を具足し、一切智を以って一切種智を具足し、一切種智を以って、煩悩の習を断ずることも、亦た是の如し。
復た次ぎに、
『一心中に得たとしても!』、
亦た、
『初、中、後の次第』が、
『有る!』。
例えば、
『一心』に、
『三相が有り!』、
『生』は、
『住』の、
『因縁となり!』、
『住』は、
『滅』の、
『因縁となったり!』、
又、
『心や、心数法、不相応諸行』が、
『身、口の業』に、
『及ぶように!』、
『道智を用いて!』、
『一切智』を、
『具足し!』、
『一切智を用いて!』、
『一切種智』を、
『具足し!』、
『一切種智を用いて!』、
『煩悩の習』を、
『断じる!』のも、
亦た、
『是の通りなのである!』。
  (しん):心所法を所有する法の意。又心王と称す。『大智度論巻19下注:心』参照。
  心数法(しんじゅほう):心所有の法。又心所有法と称す。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  不相応諸行(ふそうおうしょぎょう):心と相応せざる行。『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
  (ごう):造作の義。身口意三業の分別中、経量部及び大乗に於いては三業皆思を以って体と為すも、説一切有部に於いては身口二業は色法を以って体と為し、意業のみ思を以って体と為すと説けり。『大智度論巻23上注:業』参照。
  色法心法心数法心不相応行法無為法:五法、事理五法。一切法を五種に分類する。(1)色法:心法と心所法の所変。物質的なもの。(倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)(2)心法:心王、心。心の本体、識の自相。五蘊の内の識蘊、主体的な心の働き。(倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立てる)(3)心所法:心数法、心所、心数、数。細々した心の働き。上の八識と相応して起るもの。(受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)(4)心不相応行法:心不相応。上の三法に従属しないもの。例えば事物の概念。心とも色とも相応しない働き。物が生じたり滅したりする力。心と相応した働きを心相応という。上の三法のある部分の位を仮りて設けるもの。(得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)(5)無為法:上の四法の実性。因縁によって造られ、生滅の変化がなく働きを起こすことがない。(択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立てる)
  道智一切智一切種智:三智(さんち):智慧(ちえ)には三種の別がある。(1)一切智:薩婆若(さはにゃ)、声聞縁覚すなわち小乗の智慧。一切法(万物)の共通の相(総相、空)を知る。(2)道種智:菩薩の智慧、種々の衆生の差別に応じた方法で導くための智慧。(3)一切種智:仏の智慧、一切智と道種智を兼ね合わせ更に精緻にした智慧。『大智度論巻11上、同巻27上』参照。
先說一切種智。即是一切智。道智名金剛三昧。佛初心即是一切智一切種智。是時煩惱習斷。一切智一切種智相先已說。 先に、『一切種智は、即ち是れ一切智なり』、と説きたまえるは、道智を金剛三昧と名づけて、仏の初心は、即ち是れ一切智、一切種智にして、是の時煩悩の習断ず。一切智、一切種智の相は、先に已に説けり。
先に、こう説かれているので、――
『一切種智』とは、
即ち、
『一切智である!』、と。
『道智』は、
『金剛三昧であり!』、
『仏の初心』が、
『一切智であり!』、
『一切種智であり!』、
是の時、
『煩悩の習』が、
『断たれるのである!』。
『一切智、一切種智の相』は、
先に、
『説いた通りである!』。
  金剛三昧(こんごうさんまい):一切の煩悩を断ちて、究竟の果を得る三昧。『大智度論巻4上注:金剛三昧、並びに同巻47上』参照。
  参考:『大智度論巻47』:『實一切一時得。此中為令人信般若波羅蜜故。次第差品說。欲令眾生得清淨心。是故如是說。』
  参考:『大智度論巻27』:『問曰。一切智一切種智。有何差別。答曰。有人言無差別。或時言一切智。或時言一切種智。有人言總相是一切智。別相是一切種智。因是一切智。果是一切種智。略說一切智。廣說一切種智。一切智者。總破一切法中無明闇。一切種智者。觀種種法門破諸無明。一切智譬如說四諦。一切種智譬如說四諦義。一切智者。如說苦諦。一切種智者。如說八苦相。一切智者。如說生苦。一切種智者。如說種種眾生處處受生。復次一切法名眼色乃至意法。是諸阿羅漢辟支佛。亦能總相知無常苦空無我等。知是十二入故。名為一切智。聲聞辟支佛尚不能盡別相知一眾生生處好醜事業多少。未來現在世亦如是。何況一切眾生。如一閻浮提中金名字。尚不能知。何況三千大千世界。於一物中種種名字若天語若龍語。如是等種種語言名金尚不能知。何況能知金因緣生處好惡貴賤因而得福因而得罪因而得道。如是現事尚不能知。何況心心數法。所謂禪定智慧等諸法。佛盡知諸法總相別相故。名為一切種智。復次後品中佛自說一切智是聲聞辟支佛事。道智是諸菩薩事。一切種智是佛事。聲聞辟支佛。但有總一切智。無有一切種智。復次聲聞辟支佛。雖於別相有分。而不能盡知故。總相。受名佛一切智一切種智皆是真實。聲聞辟支佛但有名字。一切智譬如晝燈。但有燈名無有燈用。如聲聞辟支佛。若有人問難。或時不能悉答不能斷疑。如佛三問舍利弗而不能答。若有一切智云何不能答。以是故但有一切智名勝於凡夫。無有實也。是故佛是實一切智一切種智。有如是無量名字。或時名佛為一切智人。或時名為一切種智人。如是等略說一切智一切種智種種差別。』
斷一切煩惱習者。煩惱名略說則三毒。廣說則三界九十八使是名煩惱。煩惱習名煩惱殘氣。若身業口業不隨智慧。似從煩惱起。不知他心者。見其所起生不淨心。是非實煩惱久習煩惱故。起如是業。譬如久鎖腳人卒得解脫。行時雖無有鎖猶有習在。 一切の煩悩の習を断ずとは、煩悩を、略説すれば則ち三毒なりと名づけ、広説すれば則ち三界の九十八使、是れを煩悩と名づく。煩悩の習を、煩悩の残気と名づけ、若し身業、口業、智慧に随わざれば、煩悩より起るに似て、他心を知らざる者は、其の起る所を見て、不浄心を生ず。是れ実の煩悩に非ず、煩悩を久習せるが故に、是の如き業を起せり。譬えば久しく脚を鎖せられたる人は、卒(にわ)かに解脱を得るも、行く時、鎖有ること無しと雖も、猶お習有りて在るが如し。
『一切の煩悩の習を断つ!』とは、――
『煩悩』を、
『略説すれば!』、
則ち、
『三毒ということになる!』が、
『広説すれば!』、
則ち、
『三界の九十八使であり!』、
是れを、
『煩悩』と、
『称するのである!』。
『煩悩の習』とは、
『煩悩の残気であり!』、
若し、
『身、口の業』が、
『智慧』に、
『随従しなければ!』、
『煩悩より!』、
『起ったかのように!』、
『見えるので!』、
『他心を知らない!』者が、
其の、
『起された業を見れば!』、
『不浄心(疑心)』を、
『生じることになる!』。
是れは、
『実の煩悩ではない!』が、
久しく、
『煩悩』を、
『習った!』が故に、
是のような、
『業』を、
『起すのである!』。
譬えば、
久しく、
『脚』を、
『鎖に繋がれた人』が、
卒(にわ)かに、
『鎖』を、
『解かれれば!』、
『歩く!』時、
『鎖が無くても!』、
猶お、
『有る習性』が、
『残るようなものである!』。
  九十八使(くじゅうはっし):貪瞋癡慢疑見等の九十六種の煩悩。『大智度論巻7上注:九十八随眠、巻27下注:煩悩』参照。
如乳母衣久故垢著。雖以淳灰淨浣。雖無有垢垢氣猶在衣。如聖人心垢。如諸煩惱。雖以智慧水浣。煩惱垢氣猶在。如是諸餘賢聖。雖能斷煩惱不能斷習。 乳母の衣、久しきが故に垢著けば、淳(あつ)き灰を以って浄浣すと雖も、垢有ること無しと雖も、垢の気は猶お衣に在るが如し。聖人の心の垢の如き、諸の煩悩の如きも、智慧の水を以って浣(すす)ぐと雖も、煩悩の垢気猶お在り。是の如く諸余の賢聖も、能く煩悩を断ずと雖も、習を断ずる能わず。
譬えば、
『乳母の衣』は、
『久しく授乳した!』が故に、
『垢』が、
『著くものである!』が、
『淳良な( pure )!』、
『灰を用いて!』、
『浄くなるまで!』、
『洗ったとしも!』、
『衣』に、
『垢』が、
『無くなったとしても!』、
『垢の気』は、
猶お、
『衣』に、
『在るように!』、
『聖人の心の垢や!』、
『諸の煩悩なども!』、
『智慧という!』、
『水を用いて!』、
『洗っても!』。
『煩悩の垢の気』は、
猶お、
『存在するのであり!』、
是のように、
『諸余(仏以外)の賢聖』は、
『煩悩を断つことはできる!』が、
『煩悩の習まで!』、
『断つことはできない!』。
如難陀婬欲習故。雖得阿羅漢道。於男女大眾中坐。眼先視女眾而與言語說法。 難陀の如きは、婬欲の習の故に、阿羅漢道を得と雖も、男女の大衆中に於いて坐せるに、眼は先に女衆を視て、言語を与(とも)にして法を説けり。
例えば、
『難陀など!』は、
『婬欲の習』の故に、
『阿羅漢道を得ても!』、
『男女の大衆中に坐れば!』、
『眼』が、
『先に女衆を視る!』ので、
『女衆』と、
『言語してから!』、
その後、
『法』を、
『説いたのである!』。
  難陀(なんだ):阿羅漢の名。釈尊の異母弟。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
如舍利弗瞋習故。聞佛言舍利弗食不淨食。即便吐食終不復受請。又舍利弗自說偈言
 覆罪妄念人  無智而懈怠 
 終不欲令此  妄來近我住
舍利弗の如きは、瞋の習の故に、仏の、『舍利弗は不浄食を食えり』、と言えるのを聞いて、即便(すなわ)ち食を吐いて、終に復た受請せず、又舎利弗は、自ら偈を説いて言わく、
覆罪する妄念の人は、無智にして懈怠なれば、
終に此れをして、妄に我が近くに来たらしめ住めんと欲せず
例えば、
『舍利弗など!』は、
『瞋の習』の故に、
『仏』が、
『舍利弗は、不浄食を食う!』と、
『言われる!』のを、
『聞いて!』、
即座に、
『食を吐いて!』、
終に、
『復た( never again )!』、
『請を受けなかった( not receive a request )!』。
又、
『舍利弗』は、
自ら、
『偈を説いて!』、こう言っている、――
『覆罪する( concealing his vices )!』
『妄念の人』は、
『無智であり!』、
『懈怠である( idle )!』ので、
『終に( during my lifetime )!』、
『妄に( at random )来させて!』、
『わたしにの近くに!』、
『住まらせたくない!』、と。
  (しょう):客を招くの義。施主が僧侶を招きて、食を供するを亦た請と云う。『大智度論巻22上注:請、請食、僧物』参照。
  覆罪(ふくざい):罪をおおいかくすこと。
  妄念(もうねん):妄想をいだくこと。
  懈怠(けたい):なまけおこたること。
  (じゅう):すまい。住居。
如摩訶迦葉瞋習故。佛滅度後集法時。敕令阿難六突吉羅懺悔。而復自牽阿難手出。不共汝漏未盡不淨人集法。 摩訶迦葉の如きは、瞋の習の故に、仏の滅度の後に法を集めし時、阿難に勅令して、六突吉羅を懺悔せしめ、而も復た自ら阿難の手を牽いて、『汝が漏の未だ尽きざる不浄の人と共に、法を集めず』、と出でしむ。
例えば、
『摩訶迦葉など!』は、
『瞋の習』の故に、
『仏の滅度後の法を集める!』時に、
『阿難に勅令して!』、
『六突吉羅』を、
『懺悔させ!』、
而も、
自ら、
『阿難の手を牽いて!』、
『衆』中より、
『退出させながら!』、
こう言ったのである、――
お前のような、
未だ、
『漏』の、
『尽きていない!』、
『不浄の人』とは、
『共に( never along together with )!』、
『法を集めない!』、と。
  摩訶迦葉(まかかしょう):阿羅漢の名。仏十大弟子の一。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  突吉羅(とっきら):梵語duSkRta。巴梨語独柯多dukkaTa、又突膝吉栗多、突瑟几理多に作り、悪作と訳し、又小過、軽垢、失意、越毘尼、過毘尼、或いは応当学とも名づく。五篇の一。六聚の一。七聚の一。即ち悪作悪語等の諸の軽罪を云う。「摩訶僧祇律巻25」に、「突吉羅とは、世尊が優婆夷、六群比丘、及び余の比丘等に是の事を作すは好からずと語るが如し。是れを突吉羅と名づく」と云い、「善見律毘婆沙巻9」に、「突吉羅とは仏語を用いず、突とは悪、吉羅とは悪作を作すの義なり。比丘の行中に於ける不善も亦た突吉羅と名づく。律本の中の偈に、突吉羅罪とは、其の義汝善く聴け、亦た是れを過失と名づけ、亦た名づけて蹉跎と為す。世人の悪を作すに、或いは隠れ或いは現前するが如し。是れを突吉羅と説く」と云える是れなり。是れ比丘の犯ぜる悪不善の軽罪を総じて突吉羅となすの意なり。蓋し突吉羅は軽罪の総称なるも諸律論に之を五篇乃至七聚の一とし、諸戒を配するに其の説不同あり。即ち「四分律巻59」には諸戒を総じて五篇に類従し、其の中、突吉羅を第五篇とし、之に百衆学及び七滅諍法を摂すとなせり。法礪の「四分律疏巻2本」に、「僧の百衆学及び七滅を第五篇と為す」と云える是れなり。又「四分律巻17」には諸戒を七聚に分類し、其の中、第六を突吉羅、第七を悪説と名づけ、是の二聚に前記第五篇の百衆学及び七滅諍、並びに前四篇の未遂罪、及び揵度品所説の一切の軽罪を摂すとし、就中、第六突吉羅は唯其の中の身業に就き、第七悪説は専ら口業に約すとなせり。「四分律行事鈔巻中1」に、「七聚の中には此の一部を分ちて以って二聚と為し、身を悪作と名づけ、口を悪説と名づく。或いは突吉羅悪説と云うも必ず解判あり」と云える即ち其の意なり。又「毘尼母経巻3」並びに「律二十二明了論」には、唯突吉羅を第七の一聚となし、之に悪作、悪説の二を包摂すとなせり。前引「行事鈔」の連文に、「此れは是れ正量部の名なり。身口の業を別つことなきを以っての故なり。意是れ悪作なれば之を翻ず。薩婆多には突瑟几理多と云う、身口の二業を以って悪作と翻ずるなり。同じく一名を翻ずるも而も義は両別なり」と云えり。之に依るに「四分律」等に於いては突吉羅を狭義に解し、別に悪説の一聚を立て、之を第六第七に配するに対し、「明了論」等には広義に解し、悪作悪説の別を立てず、総じて之を第七聚となせるものなるを知るなり。又大乗戒に於いては殺生等の重禁の外、余の諸罪を凡べて軽垢罪又は突吉羅罪となし、種種の罪過を説けり。即ち「菩薩地持経巻5」に四十二種の突吉羅罪、「優婆塞五戒威儀経」に三十八種の突吉羅罪、「一巻菩薩善戒経」に五十種の失意罪、「瑜伽師地論巻41」に四十四種の悪作罪、「梵網経巻下」に四十八種の軽垢罪を列挙せる如き是れなり。又突吉羅を式叉迦羅尼zikSaa-karaNiiya即ち応当学と名づくるに関し、法礪の「四分律疏巻6本」に突吉羅は所防に就いて名づけ、式叉迦羅尼は能治の行に就いて名づけたるものにして、両者は唯一事の別名に過ぎずとなせるも、「四分律行事鈔巻中1」、「四分律飾宗記巻3末」等には真諦の説を用い、衆学の中に於いて重を独柯多、経を応当学即ち学対となすべしと云えり。又突吉羅罪の懺悔法に関し、「四分律巻十九」、「摩訶僧祇律巻2」、「四分律刪補随機羯磨巻下懺六聚法篇」等に、皆故作は比丘一人の前に於いて懺悔し、不故作は唯責心すべしと云い、「毘尼討要巻4」には、故作不故作の別あるも両懺の法を分たずとなせり。又其の業報に関し、「目連問戒律中五百軽重事五篇事品」に、「衆学戒を犯ぜば、四天王の寿の如く、五百歳泥犁の中に堕す。人間の数に於いては九百千歳なり」と云えり。又「優婆塞戒経巻3」、「菩薩善戒経」、「犯戒罪報軽重経」、「弥沙塞羯磨本」、「根本薩婆多部律摂巻14」、「毘尼母経巻7、8」、「四分律含注戒本疏巻4下」、「同開宗記巻4末」、「毘尼討要巻1」、「梵網菩薩戒本疏巻中」、「四分律行事鈔資持記巻中1」、「翻訳名義集巻19」、「四分律名義標釈巻4」等に出づ。<(望)
  参考:『大智度論巻2』:『頻婆娑羅王得道。八萬四千官屬亦各得道。是時王教敕宮中。常設飯食供養千人。阿闍貰王不斷是法。爾時大迦葉思惟言。若我等常乞食者。當有外道強來難問廢闕法事。今王舍城。常設飯食供給千人。是中可住結集經藏。以是故選取千人。不得多取。是時大迦葉與千人俱到王舍城耆闍崛山中。告語阿闍世王。給我等食日日送來。今我曹等結集經藏不得他行。是中夏安居三月初十五日說戒時。集和合僧。大迦葉入禪定。以天眼觀今是眾中誰有煩惱未盡。應逐出者。唯有阿難一人不盡。餘九百九十九人。諸漏已盡清淨無垢。大迦葉從禪定起。眾中手牽阿難出言。今清淨眾中結集經藏。汝結未盡不應住此。是時阿難慚恥悲泣而自念言。我二十五年。隨侍世尊供給左右。未曾得如是苦惱。佛實大德慈悲含忍。念已白大迦葉言。我能有力久可得道。但諸佛法阿羅漢者。不得供給左右使令。以是故我留殘結不盡斷耳。大迦葉言。汝更有罪。佛意不欲聽女人出家。汝慇懃勸請佛聽為道。以是故佛之正法五百歲而衰微。是汝突吉羅罪。阿難言。我憐愍瞿曇彌。又三世諸佛法皆有四部眾。我釋迦文佛云何獨無。大迦葉復言。佛欲涅槃時。近俱夷那竭城脊痛。四疊漚多羅僧敷臥。語汝言。我須水。汝不供給。是汝突吉羅罪。阿難答言。是時五百乘車截流而渡令水渾濁。以是故不取。大迦葉復言。正使水濁佛有大神力能令大海濁水清淨。汝何以不與。是汝之罪。汝去作突吉羅懺悔。大迦葉復言。佛問汝。若有人四神足好修。可住壽一劫若減一劫。佛四神足好修。欲住壽一劫若減一劫。汝默然不答。問汝至三。汝故默然。汝若答佛佛四神足好修。應住一劫若減一劫。由汝故。令佛世尊早入涅槃。是汝突吉羅罪。阿難言。魔蔽我心。是故無言。我非惡心而不答佛。大迦葉復言。汝與佛疊僧伽梨衣以足蹈上。是汝突吉羅罪。阿難言。爾時有大風起無人助。我捉衣時風吹來墮我腳下。非不恭敬故蹈佛衣。大迦葉復言。佛陰藏相般涅槃後以示女人。是何可恥。是汝突吉羅罪。阿難言。爾時我思惟。若諸女人見佛陰藏相者。便自羞恥女人形。欲得男子身修行佛相種福德根。以是故我示女人。不為無恥而故破戒。大迦葉言。汝有六種突吉羅罪。盡應僧中悔過。阿難言諾。隨長老大迦葉及僧所教。是時阿難長跪合手。偏袒右肩脫革屣。六種突吉羅罪懺悔。大迦葉於僧中手牽阿難出。語阿難言。斷汝漏盡然後來入。殘結未盡汝勿來也。如是語竟便自閉門。』
如畢陵迦婆蹉。常罵恒神為小婢。如摩頭婆和吒跳戲習故。或時從衣枷踔上梁。從梁至枰從枰至閣。如憍梵缽提牛業習故。常吐食而齝。 畢陵迦婆蹉の如きは、常に恒神を罵りて、小婢と為せり。摩頭婆和吒の如きは、跳戯の習の故に或は時に衣枷より梁に踔上し、梁より枰に至り、枰より閣に至れり。憍梵鉢提の如きは、牛業の習の故に常に食を吐いて齝せり。
例えば、
『畢陵迦婆蹉など!』は、
常に、
『恒神を罵って!』、
『小婢( a servant girl )!』と、
『呼んでいた!』し、
『摩頭婆和吒など!』は、
『跳戯の習』の故に、
或は時に、
『衣枷より!』、
『梁』に、
『跳び上り!』、
『梁より!』、
『枰( plank-bed )に!』、
『至り!』、
『枰より!』、
『閣( cabinet )に!』、
『至っていた!』し、
『憍梵鉢提など!』は、
『牛業の習』の故に、
常に、
『食を吐いては!』、
『反芻( chewing )していたのである!』。
  畢陵迦婆蹉(ひりょうがばしゃ):仏弟子の名。『大智度論巻23上注:畢陵伽婆蹉』参照。
  摩頭婆和咤(まづばわた):仏弟子の名。『大智度論巻26上注:摩頭波斯咤』参照。
  跳戯(じょうけ):飛越える遊戯。
  衣枷(えか):ころもかけ、衣架。
  踔上(じょうじょう):飛び上がる。踔はこえる、とぶ、はしる、越、跳、走等の義。
  (びょう):寝台。寝牀( plank-bed )。
  (かく):飾り棚( cabinet )。
  憍梵鉢提(きょうぼんはだい):仏弟子の名。『大智度論巻26上注:憍梵波提』参照。
  (ち):牛が反芻する( chewing the cud )。
  参考:『摩訶僧祇律巻30』:『復次佛住王舍城爾時尊者畢陵伽婆蹉。在聚落中住。日日渡恒水乞食。到恒水上作是言。首陀羅住。我欲過。水即住。過已作如是言。首陀羅汝去。如是水流如故。水神不樂。往到佛所。頭面禮足卻住一面白佛言。世尊。尊者畢陵伽婆蹉語太苦住首陀羅去首陀羅。佛言。呼畢陵伽婆蹉來。來已。佛言。汝實爾不。答言。實爾。佛言。恒神如是嫌汝。汝向懺悔。畢陵伽婆蹉言。我悔過首陀羅。恒神言向首陀羅今首陀羅為有何異而言悔過。畢陵迦婆蹉唯除佛八大聲聞。餘一切盡言首陀羅和上阿闍梨諸上座皆言首陀羅。諸比丘言。尊者畢陵伽婆蹉。乃至和上阿闍梨皆是首陀羅。正有是一人婆羅門出家耶。尊者大迦葉舍利弗目連等如是比皆是婆羅門出家。都不作是語。應作舉羯磨。即集比丘僧。時畢陵伽婆蹉坐禪不來。遣使往喚。使便打戶言。眾僧集喚長老。時畢陵伽婆蹉即觀見比丘僧集欲與我作舉羯磨。即以神力制使比丘。著戶令不得去。眾僧怪使久不還。更遣比丘往喚。後比丘至。捉前使比丘手去來。長老即復相著不得去。如是使使相著皆不得去。諸比丘嫌言。眾中正有此一人大神足耶。尊者大目連豈無此力耶。齊水際作福罰羯磨。佛以神足乘空而來。知而故問。汝作何等。答言。世尊。畢陵伽婆蹉唯除如來八大聲聞。餘乃至和上阿闍梨盡言首陀羅。欲作舉羯磨。僧集不來。遣使往喚。神足復制。便使使相著不來。故欲作齊水際福罰羯磨。佛言。汝來。畢陵伽婆蹉發心頃在佛前立。佛語畢陵伽婆蹉。汝首陀羅語過。諸梵行人嫌汝。答言。世尊。我當如何。我不憍慢。亦不自大。輕蔑於人。然我喚和上阿闍梨諸長老比丘時。發聲便成首陀羅。佛語比丘。是畢陵伽婆蹉非憍慢。亦非自大輕蔑餘人。從五百世來常生婆羅門家首陀羅語習氣不盡。佛語畢陵伽婆蹉。汝本從無始生死已來貪欲瞋恚愚癡尚能永拔。五百世習氣而不能除。從今日後。莫作首陀羅語。聞世尊教恭敬故永不復作。如是毘尼竟。』
  参考:『十誦律巻38』:『佛在舍衛國。諸比丘作淨地羯磨。佛言。從今不聽作淨地。若作者突吉羅。佛在舍衛國。有比丘名牛齝。食已更齝。諸比丘見非時嚼食。各相謂言。是比丘過中食。聞已心愁不樂。是事白佛。佛以是因緣集比丘僧。語諸比丘。莫謂是比丘過中食。何以故。是比丘先五百世時。常生牛中。是比丘雖得人身。餘習故在。佛言。若更有如是齝食者。應在屏覆處。不應眾人前齝』
如是等諸聖人。雖漏盡而有煩惱習。如火焚薪已灰炭猶在火力薄故不能令盡。 是れ等の如き諸聖人は、漏尽きたりと雖も、煩悩の習有ること、火の薪を焚き已りて、灰炭猶お在るは、火力薄きが故に、尽くせしむる能わざるが如し。
是れ等の、
『諸の聖人』は、
『漏が尽きていても!』、
猶お、
『煩悩の習』が、
『存在する!』。
譬えば、
『火』が、
『薪を焚いてしまっても!』、
猶お、
『灰や、炭』が、
『残る!』のは、
『火力』が、
『薄い!』が故に、
『尽くせないからである!』。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻24』:『毀者。如婆羅婆闍惡口婆羅門。以五百偈現前罵佛。稱者。還以五百偈讚佛。如婆祇奢優婆離。以種種偈。讚舍利弗。讚歎佛無上法。』
  参考:『大毘婆沙論巻76』:『佛為跋羅墮闍梵志以五百頌現前譏罵諸如是等名佛遇譏。即此梵志須臾迴此五百頌言現前讚佛。』
若劫盡時火燒三千大千世界無復遺餘火力大故。佛一切智火亦如是。燒諸煩惱無復殘習。如一婆羅門。以五百種惡口眾中罵佛。佛無異色亦無異心。此婆羅門心伏。還以五百種語讚佛。佛無喜色亦無悅心。於此毀譽心色無變。 若し劫尽の時の火、三千大千世界を焼けば、復た遺余無きは、火力大なるが故なり。仏の一切智の火も亦た是の如く、諸の煩悩を焼きて、復た残習無し。一婆羅門の如きは、五百種の悪口を以って、衆中に仏を罵れるも、仏には異色無く、亦た異心無し。此の婆羅門心伏して、還って五百種の語を以って、仏を讃ずるも、仏には喜色無く、亦た悦心無く、此の毀誉に於いて、心と色と変ずる無し。
若し、
『劫尽の時の火』が、
『三千大千世界を焼けば!』、
復た( no more )、
『遺余が無い!』のは、
『火力』が、
『大きいからである!』が、
『仏という!』、
『一切智の火』も、
是のように、
諸の、
『煩悩』を、
『焼き尽くして!』、
復た、
『残習』が、
『無いのである!』。
例えば、
『一婆羅門』が、
『五百種の悪口』で、
『衆』中に、
『仏』を、
『罵った!』が、
『仏』には、
『色、心の異なる!』ことが、
『無かった!』し、
『此の婆羅門が心伏して!』、
還って、
『仏』を、
『五百種の語』で、
『讃えた!』時にも、
『仏』には、
『喜色も、悦心も!』、
『無く!』、
此の、
『毀、誉に!』、
『色、心を変じる!』ことは、
『無かったのである!』。
  劫尽(こうじん):世界の住劫尽くるを云う。「維摩経巻中仏道品」に、「或いは現ずらく、劫尽きて焼け、天地皆洞然たり」と云い、「大智度論巻9」に、「劫尽きて焼くる時、一切の衆生自然に皆禅定を得」と云える是れなり。<(丁)
又復旃遮婆羅門女。帶杅謗佛。佛無慚色事情既露佛無悅色。 又復た旃遮婆羅門の女(むすめ)は、杅(たらい)を帯びて仏を謗れども、仏には慚色無く、事情既に露るるも、仏には悦色無し。
又復た、
『旃遮婆羅門の女(むすめ)』が、
『杅(たらい)を帯びて!』、
『仏』を、
『謗った!』が、
『仏』には、
『慚じる色』が、
『無かった!』し、
『事情が露顕しても!』、
『仏』には、
『悦びの色』が、
『無かったのである!』。
  旃遮婆羅門女(せんじゃばらもんにょ):旃遮婆羅門の女。『大智度論巻9上注:旃遮婆羅門』参照。
  (う):たらい。水を盛る器。
  慚色(ざんしき):恥ずかしがるさま。
  悦色(えつしき):悦ぶさま。
  参考:『大宝積経巻11大乗方便会』:『以何緣故。旃遮婆羅門女。以木杆繫腹誹謗如來。而作是言。由沙門瞿曇令我妊身。應當與我衣被飲食。善男子。如來於此事中都無業障。若有業障。我能擲此旃遮婆羅門女。置恒河沙世界之外。如來以方便故現此業障。為化不知解眾生故。何以故。當來之世有諸比丘。於我法中出家學道。爾時或為他人所謗。以是緣故心生慚愧。或不樂佛法捨戒還俗。彼諸比丘。若被謗已當念如來。如來成就一切善法具大威德。尚被誹謗。而況我等不被誹謗。思念是已則除慚愧。除慚愧已。當得修習淨妙梵行。善男子。旃遮婆羅門女。常為惡業所覆故性多不信。今此女身於佛法中不得調伏。常為惡業之所覆蔽。乃至夢中亦生誹謗。覺已心喜。此女人中命終當墮地獄。善男子。我能以餘方便。除此女人諸不善業。令度生死能為作救。善男子。或時如來不救餘人。何以故。如來於一切眾生無有偏心。是名如來方便』
轉法輪時讚美之聲。滿於十方心亦不高。孫陀利死惡聲流布心亦不下。 法輪を転ずる時、讃美の声、十方に満つれども、心は亦た高ぶらず、孫陀利死して、悪声流布すれど、心は亦た下らず。
『仏』は、
『法輪を転じる!』時には、
『讃美の声』が、
『十方』に、
『満ちた!』が、
亦た、
『心』が、
『高ぶることもなく!』、
『孫陀利が死んだ!』時には、
『悪声』が、
『十方』に、
『流布した!』が、
亦た、
『心』が、
『下る( be dejected )こともなかった!』。
  孫陀利(そんだり):婬女の名。『大智度論巻9上注:孫陀利』参照。
  悪声(あくしょう):悪しき名声。
  参考:『大宝積経巻11大乗方便会』:『以何緣故。諸婆羅門。殺婆羅門女孫陀利。埋祇洹園塹中。善男子。如來是時知有是事捨而不說。如來成就一切智心無有障礙。能以神力。可令此刀不入女身。我於爾時知孫陀利女命根將盡必為他殺。以此方便令諸外道。不善彰露墮不如處。如此諸事唯佛知之安住是事。令多眾生生清淨心增益善根。爾時如來七日不入舍衛大城。不入城已。爾時調伏六十億天。過七日已諸天世人。集會共來至於我所。爾時如來為四眾說法。聞說法已。有八萬四千人。於諸法中得法眼淨。是名如來方便』
阿羅毘國土風寒又多蒺蔾。佛於中坐臥不以為苦。又在天上歡喜園中。夏安居時坐劍婆石。柔軟清潔如天綩綖。亦不以為樂 阿羅毘国土の風寒く、又蒺蔾多し。仏は、中に於いて坐臥したまえるも、以って苦と為したまわず。又天上の歓喜園中に在りて、夏安居したまえる時、剣婆石の柔軟、清潔にして天の綩綖の如きに坐したまえるも、亦た以って樂と為したまわず。
『阿毘羅国土』は、
『風が寒く!』、
又、
『浜菱』が、
『多い!』が、
『仏』は、
是の、
『国土』中に、
『坐、臥されながら!』、
『苦である!』とは、
『思われなかったし!』、
又、
『天上の歓喜園』中に、
『夏安居された!』時、
『坐られた!』、
『剣婆石』は、
『天の綩綖( calico )のように!』、
『柔軟であり!』、
『清潔であった!』が、
亦た、
『楽である!』とも、
『思われなかった!』。
  阿羅毘国(あらびこく)」:印度古国名。曠野にして禽獣の住処。
  蒺蔾(しつり):蒺藜。学名Tribulus terrestris 、和名浜菱( puncture vine )。ハマビシ科の一年草。我国関東以西の海岸に自生。茎は蔓性で地上をはい、長さ約1メートル。葉は羽状複葉。夏、葉の付け根に黄色い5弁花が1個ずつ咲く。実は堅く、棘がある。種子は薬用。ハマビシ科の双子葉植物は亜熱帯から熱帯にかけて分布し、主に木本で乾燥地に生える。
  歓喜園(かんぎおん):忉利天帝釈の四園中の一。『大智度論巻8上注:歓楽園、巻9上注:忉利天』参照。
  夏安居(げあんご):雨期の三乃至四ヶ月、遊行せずに一処に住まること。『大智度論巻33下注:安居』参照。
  剣婆石(けんばしゃく):帝釈天の宝座。
  綩綖(えんえん):梵語 duuSya の訳、衣服或は布地の類/綿布/キャラコ( clothes or a kind of cloth, cotton, calico )の義。
受。大天王跽奉天食不以為美。毘蘭若國食馬麥不以為惡。諸大國王供奉上饌不以為得。入薩羅聚落空缽而出不以為失。 大天王の跽奉せる天食を受けたまえども、以って美と為したまわず。毘蘭若国に馬麦を食したまえども、以って悪と為したまわず。諸の大国王の供奉せる上饌を以って得と為したまわず。薩羅聚落に入り、空鉢にして出でたまえるも、以って失と為したまわず。
『仏』は、
『大天王が跽いて奉げた!』、
『天食を受けられても!』、
『美味である( delicious )!』と、
『思われなかった!』し、
『毘蘭若国』の、
『馬麦を食われても!』、
『不味である( nasty )!』と、
『思われなかった!』。
又、
『諸大国の王』が、
『上饌を供奉しても!』、
『得( acquisition )である!』と、
『思われなかった!』し、
『薩羅聚落に入って!』、
『空鉢のまま出られても!』、
『失( loss )である!』とは、
『思われなかった!』。
  大天王(だいてんのう):四天王天の主。
  (き):ひざまづく。長跪。
  毘蘭若国(びらんにゃこく):不明。『大智度論巻9上注:馬麦』参照。
  馬麦(めみゃく):馬の飼料。『大智度論巻9上注:馬麦』参照。
  供奉(ぐぶ):供えたてまつる。
  上饌(じょうせん):上等の御馳走。盛饌。
  薩羅聚落(さらじゅらく):又娑羅婆羅門聚落に作る。蓋し其の名の婆羅門の領する聚落なり。
  参考:『雑阿含経巻39』:『如是我聞。一時。佛住娑羅婆羅門聚落。爾時。世尊晨朝著衣持缽。入婆羅聚落乞食。時。魔波旬作是念。今沙門瞿曇晨朝著衣持缽。入婆羅聚落乞食。我今當往。先入其舍。語諸信心婆羅門長者。令沙門瞿曇空缽而出。時。魔波旬隨逐佛後。作是唱言。沙門。沙門。都不得食耶。爾時。世尊作是念。惡魔波旬欲作嬈亂。即說偈言 汝新於如來  獲得無量罪  汝謂呼如來  受諸苦惱耶  時。魔波旬作是言。瞿曇。更入聚落。當令得食。爾時。世尊而說偈言 正使無所有  安樂而自活  如彼光音天  常以欣悅食  正使無所有  安樂而自活  常以欣悅食  不依於有身  時。魔波旬作是念。沙門瞿曇已知我心。內懷憂慼。即沒不現』
提婆達多於耆闍崛山。推石壓佛佛亦不憎。是時羅睺羅。敬心讚佛佛亦不愛。阿闍貰縱諸醉象。欲令害佛佛亦不畏降伏狂象。王舍城人益加恭敬。持香華纓絡出供養佛佛亦不喜。 提婆達多は、耆闍崛山に於いて、石を推して仏を圧せんとしたれども、仏は亦た憎みたまわず。是の時、羅睺羅は敬心もて仏を讃じたれども、仏は亦た愛したまわず。阿闍貰は、諸の酔象を縦(ほしいまま)にして、仏を害せしめんと欲したれども、仏は亦た狂象を降伏するを畏れたまわず。王舎城の人は、益々恭敬を加えて、香華、瓔珞を持して出で、仏を供養したれども、仏は亦た喜びたまわず。
『提婆達多』は、
『耆闍崛山』に於いて、
『石を推して!』、
『仏』を、
『圧殺しようとした!』のに、
亦た( but )、
『仏』は、
『憎まれなかった!』し、
是の時、
『羅睺羅』が、
『敬心』で、
『仏』を、
『讃じた!』が、
亦た、
『仏』は、
『愛されなかった!』。
『阿闍世』が、
諸の、
『狂象を放って!』、
『仏』を、
『害しようとした!』が、
亦た、
『仏』は、
『狂象を降伏する!』のを、
『畏れられなかった!』ので、
『王舎城の人』が、
益々、
『恭敬を加え!』、
『香華、瓔珞を持って出て!』、
『仏』を、
『供養した!』が、
亦た、
『仏』は、
『喜ばれなかった!』。
  (やく):<名詞>[本義]人の腋窩/両腋( armpit )。<副詞>もまた( also )、又もや( again )、~も~も( both ...and ... )、しかし/過ぎず/僅かに( but, only )。
  提婆達多(だいばだった):悪弟子。『大智度論巻24下注:提婆達多』参照。
  耆闍崛山(ぎじゃくっせん):耆闍崛gijjha-kauuTaは巴梨名。梵名姞栗陀羅矩吒gRdhra-kuuTa、又祇闍崛、伊沙崛、耆闍多、姞栗陀羅屈吒、姞利駄羅矩、結里駄羅矩吒、揭梨駄羅矩胝等に作る。霊鷲、霊頭、鷲頭、鵰鷲、羌鷲等と訳し、又鷲峯、鷲台、鷂山、鷲嶺、霊山等とも云う。中印度摩揭陀国王舎城の東北に位し、仏陀説法の地として有名なり。蓋し耆闍は鷲の一種にして羽翼稍黒く、頭部は灰白色にして毛少く、好みて人の死屍を食し、印度到る所の林野に棲めり。此の山を耆闍崛と名づくるに関し、「大智度論巻3」に、「耆闍を鷲と名づけ、崛を頭と名づく。是の山頂は鷲に似たり、王舎城の人其の鷲に似たるを見て、共に伝えて鷲頭山と云う。復た次ぎに王舎城の南、屍陀林中に諸の死人多し。諸鷲常に来たって之を噉い、還って山頭に在り。時人遂に鷲頭山と名づく」と云い、「巴梨文増上部経註marorathapuuraNii」にも亦た之と同一の解釈を挙げたり。又霊鷲と翻ずるに就きては、「玄応音義巻6」に、「霊と云うは仙霊なり。梵本を按ずるに霊の義なし。別記に依りて云うなり。此の鳥霊ありて人の死活を知る。人死せんと欲する時、則ち群がりて彼の家に翔り、其の林に送るを待って則ち飛び下りて食す。能く懸に知るを以っての故に霊鷲と号す」と云い、又「法華経文句巻1」に更に一説を出し、「前仏後仏皆此の山に居る。若し仏滅後は羅漢住し、法滅すれば支仏住し、支仏無ければ鬼神住す。既に是れ聖霊の居る所にして総べて三事あり、因って呼んで霊鷲山と為す」と云うも、共に義推の説に過ぎず。「大唐西域記巻9」に、「宮城より東北に行く十四五里にして、姞栗陀羅矩吒山に至る。北山の陽に接して孤標独起す、既に鷲鳥を棲ましめ(鷲峯)、又高台に類す(鷲台)。空翠相映じ、濃淡色を分つ。如来世を御する五十年に垂んとし、多く此の山に居り、広く妙法を説く。頻毘娑羅王聞法の為の故に人徒を興発し、山麓より峯岑に至り、谷に跨がり巌を凌ぎ、石を編して階となす。広さ十余歩、長さ五六里、中路に二の小窣堵波あり、一を下乗と謂う。即ち王此に至りて徒行して以って進む。一を退凡と謂う。即ち凡夫を簡んで同往せしめず。其の山頂は則ち東西長く南北狭し。崖の西埵に臨んで甎精舎あり、高広にして奇製、東に其の戸を闢く。如来在昔多く居て説法し給えり。今説法の像を作る、量如来の身に等し」と云えり。以って玄奘当時の山状を見るべし。但し玄奘は旧王舎城より至りしものなれども、法顕は新王舎城よりし、之を一五里と誌せり。カンニンガムA.Cunninghamは、此の三巡礼者の記述によりて、其の山の位置を現今のbehar州rajgirの東南なるsaila-giriなりと推定せるも、近時の調査に依ればchata-giri中に在りとす。即ち旧王舎城の南部を劃する連山と、新旧両都城の中間を遮れる連山(大唐西域記の所謂北山)とは共に東に延び、殆ど接せんとして一の峡を作れり。chata-giriは此の山峡の北に峙立せる海抜約一千尺の秀峯にして、其の南面の中腹約七百尺に当りて一の巌台あり、玄奘の記述と粗ぼ合致するを以って、此の地を即ち仏陀説法の旧址となすに在り。玄奘は更に此の山に於ける古蹟として、提婆達多が仏陀を害せんが為に投下せし大石、仏陀並びに舎利弗等諸声聞の入定せし大小数多の石室、阿難が魔王の為に嬈乱せられし処、法華経説処の記念卒塔婆等を挙げたり。法顕も亦た概ね同一のことを敍せるも、「法華経」の代わりに「首楞厳経」を出せり。蓋し諸大乗経典中、其の説処を此の山に帰するもの甚だ多きを以って、法顕等は其の一を挙げて他を略せしものなるべく、「大品般若経」、「金光明最勝王経」、「無量寿経」等も皆此の山を以って説法の会処となせり。但し四阿含並びに南方所伝等に於いて、此の山を説処とする経は、他の給孤獨園、迦蘭陀竹園等に比して少きが如し。又「善見律毘婆沙巻8」、「法華経論巻上」、「仁王般若経疏巻1(智顗)」、「同疏巻上1(吉蔵)」、「同疏巻上本(円測)」、「仁王護国般若波羅蜜多経巻上1」、「法華経文句巻1上」、「同玄賛巻1末」、「無量寿経義疏巻上(慧遠)」、「高僧法顕伝」、「釈迦方誌巻下」、「翻梵語巻9」、「玄応音義巻6」、「慧琳音義巻1、91」、「希麟音義巻4」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  羅睺羅(らごら):十大弟子の一なる釈尊の実子の名。『大智度論巻24下注:羅睺羅』参照。
  阿闍貰(あじゃせ):摩揭陀国の王の名。『大智度論巻26下注:阿闍世』参照。
  (じゅう):ときはなつ。釈。放。
九十六種外道。一時和合議言。我等亦皆是一切智人。從舍婆提來欲共佛論議。爾時佛以神足從臍放光。光中皆有化佛。國王波斯匿。亦命之令來於其坐上尚不能得動。何況能得與佛論議。佛見一切外道賊來。心亦無退破是外道。諸天世人倍益恭敬供養心亦不進。 九十六種の外道、一時、和合し議して、『我等も亦た皆是れ一切智の人なり』、と言い、舎婆提より来たりて、仏と共に論議せんと欲す。爾の時、仏は、神足を以って臍より光を放ちたまえるに、光中に皆化仏有り。国王波斯匿も亦た之に命じて、来たらしめんとするも、其の坐上より、尚お動かし得る能わず。何に況んや、能く仏と論議し得るをや。仏は、一切の外道の賊の来たるを見たまえども、心は亦た退くこと無く、是の外道を破りたまえば、諸天、世人は倍して益々恭敬、供養すれども、心は亦た進みたまわず。
『九十六種の外道』が、
一時( once )、
『合議して!』、こう言い、――
わたし達も、
皆、
『一切智の人である!』、と。
『舎婆提より来て!』、
『仏』と、
『共に!』、
『論議しようとした!』。
爾の時、
『仏』は、
『神足を用いて!』、
『臍より!』、
『光を放たれた!』が、
『光』中には、
皆、
『化仏』が、
『有った!』。
『国王の波斯匿』は、
是れ等の、
『外道』に、
此の、
『化仏』を、
『来させよ!』と、
『命じた!』が、
尚お、
『化仏』を、
『坐』上より、
『動かすことすらできなかった!』。
況()して、
『仏』と、
『共に!』、
『論議できるはずがない!』。
『仏』は、
一切の、
『外道の賊』が、
『来る!』のを、
『見ても!』、
『心』が、、
『退くことも!』、
『無く!』、
是の、
『外道を破られた!』ので、
諸の、
『天、世人』が、
『倍して益々!』、
『恭敬、供養した!』が、
『心』が、
『進むことも!』、
『無かった!』。
  一時(いちじ):梵語 ekadaa の訳、同時に( at the same time, at once )、時には/かつて/ある時/先頃( sometimes, once, one time, some time ago )の意。
  九十六種外道(くじゅうろくしゅげどう):印度の外道に九十六種の別あるを云う。又九十六術、九十六径、九十六道、九十六種異道とも名づく。「旧華厳経巻17」に、「一切衆生をして如来幢を得しめ、一切の九十六種の諸の邪見の幢を摧滅す」と云い、「大方便仏報恩経巻6」に、「是の中、四向四得の無上福田は、一切九十六種の衆中に於いて最尊最上にして能く及ぶものなし」と云い、其の他、「増一阿含経巻20」、「別訳雑阿含経巻3」、「超日月三昧経巻下」、「観仏三昧海経巻5」、「月灯三昧経」、「月光童子経」、「阿闍貰王女阿術達菩薩経」、「大毘婆沙論巻41、66」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」、「大智度論巻22、27」、「成実論巻10」、「分別功徳論巻2」、「高僧法顕伝」等に九十六種外道と称するもの是れなり。然るに「大般涅槃経巻10」には、「当に外道九十五種の軽慢する所となり、無常の想を生ぜん」と云い、又「分別功徳論巻1」に、「九十五種の中に於いて最も第一と為す」と云い、又「千仏因縁経」、「占察善悪業報経巻上」、「大乗起信論」等には、共に九十五種となせり。蓋し此等の数は唯だ大数を挙げたるものなるべく、其の派名及び所説等の委細は、固より之を知るべからず。「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」に依るに、根本に六師あり、一師に十五種の教あり、以って弟子に授く。教を為すこと各異に、弟子行を受けて各異見を成す。師にも別に法ありて弟子と同じからず。師と弟子と通じて十六種となり、是の如く六師に九十六あり。師の用うる所の法は、其の将に終らんとするに及び、必ず一の弟子に授く。是の如く師師相伝えて常に六師ありと云えり。是れ富蘭那迦葉等の六師外道の門下に各十五種の異計あるを以って、師弟合して九十六種を成ずとするの説にして、即ち九十六種を悉く皆外道邪見となせるものなり。然るに一説には、九十五種を邪道とし、一種を正道となせり。「止観輔行伝弘決巻3之4」に、「九十五種とは通じて諸道を挙ぐ、意且く邪を出す。九十六道経に準ずるに、彼の経両巻に一一に所計の相貌を釈出せり。諸道の中に於いて一道は是れ正にして、即ち仏道なり。故に大論二十五に云わく、九十六道の中、実なるは是れ仏と。今の文に但だ九十五と云うは、邪道を論ずるが故なり。九十五の中、二の名は正に似たり、謂わく修多羅、及び阿毘曇なり。余の九十三は名体倶に邪なり。経を尋ねて之を識れ。甚だ正智を補うべし。問う、華厳に云わく、九十六道悉く皆是れ邪と。此れ云何が通ぜん。答う、華厳は小を斥くるが故に皆邪と云う。故に百論に云わく、声聞道に順ずる者は皆悉く是れ邪なりと。故に論二十五に又云わく、九十六道は並びに諸法実相を得ること能わずと。又四十一に云わく、九十六道は意生信を説かずと。是れ小乗灰断の説なるが故なり。五十三、五十六、七十三並びに同じ。華厳には斥けて是れ邪と云う」と云い、又「華厳経疏巻28」に、「諸処に多く九十五種と説く所以は、別に九十五種外道邪論経あればなり。今九十六と言うは自ら二義あり、一には薩婆多律の説に依るに、外道の六師に各十六種の所学法あり、一法は自ら学し、余の十五種は各十五の弟子に教う。師徒合論して九十六あり。二には外道に二あり、一に外外道とは即ち仏法の外なり。二に内外道とは此れに復た三種あり、一に附仏法の外道は犢子、方広より起る。自ら聡明を以って仏の経書を読みて一見を生ず。仏法に附して起るが故に此の名を得。犢子は舎利弗毘曇を読み、自ら別に義を制して言わく、我れは四句の外に在り、第五不可説なりと。蔵中に仏説く、此の人は外道に異ならずと。諸論皆推せども受けず、外道と名づくるなり。又方広道人は自ら聡明を以って仏の十喩を読み、自ら義を作して言わく、不生不滅、如幻如化、空幻を宗と爲すと。龍樹斥けて言わく、此れ仏法に非ずして方広の所作なりと。亦た邪人の法なり。二に仏法を学して外道と成るとは、謂わく仏の教門を執して煩悩を生じ、入理を得ざるが故なり。智論に云わく、若し般若の意を得ずして阿毘曇に入らば、即ち有の中に堕つ等と。三に大を以って小を斥くるが故なり。七巻楞伽第一に云わく、大慧云わく、何をか外道悪見と為すや。謂わく境界は自心の分別現なることを知らず、第一義に於いて有を見、無を見て而も言説を起すと。又第二に云わく、復た有が説いて言わく、一切法は作者に因りて有りと見る、此れは是れ涅槃と。大慧、彼れには解脱なし、未だ法無我を見る能わざるを以っての故なり。此れは是れ声聞及び外道の種性は、未出の中に於いて出離の想を生ず。応に勤めて修習して此の悪見を捨つべしと。故に諸の大乗に彼の二乗を訶して外道に同ぜしむ。方便を奪うの意に非ず。今後の三を合して総じて一類と為し、九十六と成す」と云い、又智雲の「妙経文句私志記巻4」にも、「論には九十六種と云う、疏本は不定にして或いは五、或いは六なり。然るに経中に就くも亦た自ら不定なり、華厳には六と言い、涅槃には五と言う。或いは九十六道経に依るに、小乗は是れ其の数の内なり。華厳は大を以って小を斥くるが故に、六並びに外と名づけ、涅槃は外に対して小を存するが故に但だ五と言う。近代の説に准ずるに、西方の外道の自ら九十六種あり、未だ小乗を聞かず。九十六道経は皆疑偽と云いて並びに信用せず。若し旧解に依らば五六並びに是なり、若し近釈に依らば六は是にして五は非なり。亦た未だ其の定説を見ず、孰れか是なるを知らず」と云える皆即ち其の説なり。此の中、「九十六道経」は、現今存せざるも、「出三蔵記集巻5新集疑経偽撰雑録」中に「九十六種道」一巻を挙げ、「法経録巻4衆経偽妄」中に、「九十五種道経」一巻、「同巻2衆経別生」中に「九十五種道雑類神呪経」二巻を列ぬるを以って見るに、梁代以前支那に於いて妄作せられたるものなるを知るなり。されば九十六種外道の分類は、「薩婆多毘尼毘婆沙」の説に従うを可とすというべし。又「摩訶止観巻3下」、「華厳孔目章巻2」、「開元釈教録巻18」、「華厳経隨疏演義鈔巻49」、「維摩経略疏垂裕記巻2」、「翻訳名義集巻5」、「法華疏私記巻5(証真)」、「釈摩訶衍論開解鈔巻3」等に出づ。<(望)
  舎婆提(しゃばだい):中印度古王国の名。『大智度論巻22上注:舎衛国』参照。
  波斯匿(はしのく):中印度舎衛城の主の名。『大智度論巻25上注:波斯匿王』参照。
如是等種種因緣來。欲毀佛佛不可動。譬如真閻浮檀金。火燒不異搥打磨斫不敗不異。佛亦如是經諸毀辱誹謗論議不動不異。以是故知佛諸煩惱習都盡無餘。 是れ等のごとく種種の因縁来たりて、仏を毀ろうと欲するも、仏を動かすべからず。譬えば真の閻浮檀金は、火もて焼くも異ならず、槌もて打つも磨斫せず、敗れず、異ならざるが如し。仏も亦た是の如く、諸の毀辱、誹謗、論議を経るも、動かず、異ならず。是を以っての故に知る、仏の諸煩悩の習は、都て尽く無余なり。
是れ等のような、
種種の、
『因縁が来て!』、
『仏』を、
『毀(やぶ)ろうとしても!』、
『動かすことができない!』。
譬えば、
『真の閻浮檀金』が、
『火で焼いても!』、
『異ならず!』、
『槌で打っても!』、
『磨滅、破損せず!』、
『異ならないように!』、
『仏』も、
是のように、
諸の、
『毀辱、誹謗、論議を経ても!』、
『動くこともなく!』、
『異なることもない!』ので、
是の故に、こう知ることになる、――
『仏』の、
『諸の煩悩の習』は、
『皆尽きており!』、
『余が無いのだ!』、と。
  閻浮檀金(えんぶだんこん):閻浮樹下を流るる河底より産する金の名。『大智度論巻9上注:閻浮檀金』参照。
  毀辱(きにく):そしりはずかしめる。毀謗と恥辱。
問曰。諸阿羅漢辟支佛。同用無漏智斷諸煩惱習。何以有盡不盡。 問うて曰く、諸の阿羅漢、辟支仏も、同じく無漏智を用うれば、諸の煩悩の習を断ぜん。何を以ってか、尽くると、尽きざると有る。
問い、
諸の、
『阿羅漢、辟支仏』も、
同じように、
『無漏の智』を、
『用いれば!』、
諸の、
『煩悩の習』を、
『断じられる!』のに、
何故、
『尽くす者と、尽くさない者と!』が、
『有るのですか?』。
答曰。先已說智慧力薄如世間火。諸佛力大如劫盡火。今當更答。聲聞辟支佛集諸功德智慧不久。或一世二世三世。佛智慧功德。於無量阿僧祇劫。廣修廣習善法久熏故。於煩惱習無復餘氣。 答えて曰く、先に已に説けり、『智慧の力の薄きこと、世間の火の如し。諸仏の力の大なること、劫尽の火の如し』、と。今当に更に答うべし、『声聞、辟支仏は、諸の功徳、智慧を集むること久しからずして、或は一世、二世、三世なり。仏の智慧、功徳は無量阿僧祇劫に於いて広く修し、広く習して善法久しく熏ずるが故に、煩悩の習に於いて、復た余気無し』、と。
答え、
先に、
已に、こう説いたが、――
諸の、
『声聞、辟支仏の智慧の力』は、
『薄くて!』、
『世間の火のようである!』が、
諸の、
『仏の力』は、
『大きくて!』、
『劫尽の火のようである!』、と。
今、
更に、こう答えることにしよう、――
諸の、
『声聞、辟支仏』が、
諸の、
『功徳、智慧を集める!』のは、
『久しくなく!』、
或は、
『一世か、二世か、三世でしかない!』が、
諸の、
『仏の功徳、智慧』は、
『無量阿僧祇劫』に、
『広く修め!』、
『広く習ったものであり!』、
『久しく!』、
『善法の気』に、
『熏じられている!』ので、
是の故に、
『煩悩の習』には、
『余残の気』が、
『無いのである!』、と。
  :諸仏と声聞、辟支仏との差別は、量の差であり、性の差ではない。
復次佛於一切諸功德。皆已攝盡故。乃至諸煩惱習氣永盡無餘。何以故。諸善法功德。消諸煩惱故。諸阿羅漢於此功德不盡得故。但斷世間愛直入涅槃。 復た次ぎに、仏は、一切の諸功徳に於いて、皆已に摂し尽くしたもうが故に、乃至諸の煩悩の習気も、永く尽きて余無し。何を以っての故に、諸の善法の功徳は、諸の煩悩を消すが故なり。諸の阿羅漢は、此の功徳に於いて尽くは得ざるが故に、但だ世間の愛を断ちて、直ちに涅槃に入る。
復た次ぎに、
『仏』は、
一切の、
諸の、
『功徳』を、
皆、
已に、
『摂め尽くされている!』が故に、
諸の、
『煩悩の習気』は、
永く、
『尽きており!』、
『余残が無いからである!』。
何故ならば、
諸の、
『善法の功徳』が、
『諸の煩悩』を、
『消すからである!』。
諸の、
『阿羅漢』は、
此の、
『功徳』を、
『尽く!』は、
『得ていない!』が故に、
但だ、
『世間』の、
『愛』を、
『断っただけで!』、
直ちに、
『涅槃』に、
『入るのである!』。
復次佛斷結使智慧力甚利。用十力為大刀。以無礙智直過故斷諸結使盡。無復遺餘。譬如人有重罪國王大瞋誅其七世根本令無遺餘。佛亦如是於煩惱重賊誅拔根本令無遺餘。以是故說欲以一切種智斷一切煩惱習。當習行般若波羅蜜。 復た次ぎに、仏は結使を断じて、智慧の力甚だ利なれば、用うる十力を大刀と為し、無礙智を以って直ちに過ぐるが故に、諸の結使を断じ尽くして、復た遺余無からしむ。譬えば、人の重罪有るに、国王大いに瞋りて、其の七世の根本を誅し、遺余無からしむるが如し。仏も亦た是の如く、煩悩の重賊を誅して、根本を抜き、遺余無からしめたまえり。是を以っての故に説かく、『一切種智を以って、一切の煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
『結使を断じられた!』のは、
『智慧の力が甚だ利く!』、
『十力や、無礙智という!』、
『大刀』を、
『用いて!』、
直ちに、
『世間』を、
『過ぎられたからであり!』、
是の故に、
諸の、
『結使を断じ尽くして!』、
『更なる遺余』を、
『無くされたのである!』。
譬えば、
『人に重罪が有れば!』、
『国王が大いに瞋って!』、
是の、
『人』の、
『七世の親族まで誅して!』、
其の、
『根本』を、
『抜き!』、
更なる、
『遺余』を、
『無くさせるようなものである!』。
『仏』も、
是のように、
『煩悩という!』、
『重賊を誅して!』、
『根本を抜き!』、
『遺余』を、
『無くされた!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『一切種智を用いて!』、
一切の、
『煩悩の習』を、
『断じようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行しなければならない!』、と。
  十力(じゅうりき):仏のみ成就する十種の智力。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  無礙智(むげち):説法に当っての無礙自在の智力。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  (ちゅう):罪を責めて之を殺し、殺す所の一人に止まらざるを云う。皆殺し。
  十力:諸法を如実に知る智力。
  1. 処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。
  2. 業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないことをいう。
  3. 静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。
  4. 根上下智力:衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。
  5. 種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。
  6. 種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。
  7. 遍趣行智力:五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。
  8. 宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。
  9. 死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。
  10. 漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。をいう。『大智度論巻24』参照。
問曰。但斷習亦除煩惱。 問うて曰く、但だ習のみを断ずや、亦た煩悩を除くや。
問い、
但だ、
『習を断ずるだけですか?』、
亦た、
『煩悩』も、
『除くのですか?』。
答曰。有人言。斷煩惱及習俱盡。如先說習盡無餘。阿羅漢辟支佛。但斷煩惱不能斷習。菩薩斷一切煩惱及習。令盡無餘。 答えて曰く、有る人の言わく、『煩悩及び習を断じて、倶に尽くす。先に説けるが如き、習尽きて余無しとは、阿羅漢、辟支仏は、但だ煩悩を断じて、習を断ずる能わざるも、菩薩は、一切の煩悩、及び習を断じて、尽くして余無からしむ』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『煩悩と、習とを断じて!』、
『倶に!』、
『尽くすのである!』。
先に説くように、――
『習が尽きて!』、
『遺余』が、
『無い!』とは、――
『阿羅漢、辟支仏』は、
但だ、
『煩悩を断じるだけで!』、
『習』を、
『断じることはできない!』が、
『菩薩』は、
一切の、
『煩悩、習を断じ尽くして!』、
『遺余』を、
『無くさせるからである!』、と。
有人言。佛久已遠欲。如佛說我見定光佛已來已離欲。以方便力故。現有生死妻子眷屬。 有る人の言わく、『仏は久しく已に欲を遠ざけたもうこと、仏の、『我れ定光仏を見しより已来、已に欲を離れ、方便力を以っての故に、生死、妻子、眷属有るを現ず』、と説きたまえるが如し』、と。
有る人は、こう言っている、――
『仏』が、
已に、
『欲を離れて!』、
『久しい!』のは、
『仏』が、こう説かれているからである、――
わたしは、
『定光仏を見て以来!』、
已に、
『欲』を、
『離れている!』が、
『方便力を用いる!』が故に、
『生死や、妻子、眷属が有る!』と、
『現すのである!』、と。
  定光仏(じょうこうぶつ):釈尊に授記せし仏の名。『大智度論巻25下注:定光如来』参照。
有人言。從得無生法忍來。得諸法實相故。一切煩惱及習盡。 有る人の言わく、『無生法忍を得てより来、諸法の実相を得るが故に、一切の煩悩、及び習尽く』、と。
有る人は、こう言っている、――
『無生法忍を得てからは!』、
諸の、
『法の実相』を、
『認める!』が故に、
一切の、
『煩悩と、習』が、
『尽きるのである!』、と。
  無生法忍(むしょうほうにん):無生の理に対する諦忍。『大智度論巻19下注:無生法忍』
有人言。佛從初發意來有煩惱。至坐道場於後夜時。斷一切煩惱及習。 有る人の言わく、『仏は初発意より来、煩悩有るも、道場に坐すに至って、後夜の時に於いて、一切の煩悩、及び習断じたまえり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
『初発意以来!』、
『煩悩』が、
『有る!』が、
『道場に坐すに至り!』、
後夜の時に、
一切の、
『煩悩と、習』を、
『断たれたのである!』、と。
問曰。如是種種說何者為實。 問うて曰く、是の如き種種の説は、何者をか、実と為す。
問い、
是のような、
種種の
『説』は、
何れが、
『実だと!』、
『思いますか?』、と。
答曰。皆是佛口所說故無有不實。聲聞法中。佛以方便力故現受人法。有生老病寒熱飢渴等。無人生而無煩惱者。是故佛亦應隨人法有煩惱。於樹王下外先破魔軍。內滅結使賊。破外內賊故。成阿耨多羅三藐三菩提。人皆信受是人能為是事。我等亦當學習是事。 答えて曰く、皆是れ仏の口の所説なるが故に、不実なる有ること無し。声聞法中に、仏は方便力を以っての故に、人法を受けて、生老病、寒熱、飢渴等有るを現したまえるも、人の生には、煩悩無き者無く、是の故に仏にも亦た応に人法に随いて、煩悩有るべし。樹王の下に於いて、外には、先に魔軍を破り、内には、結使の賊を滅し、外、内の賊を破るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を成じたまえば、人は、皆信受すらく、『是の人にして、能く是の事を為せり、我等も亦た当に是の事を学習すべし』、と。
答え、
皆、
『仏の口の所説であり!』、
故に、
『実でないもの!』は、
『無い!』。
『声聞法』中に、
『仏』は、
『方便力を用いられた!』が故に、
『人法を受けて!』、
『生老病、寒熱、飢渴等が有る!』のを、
『現されたのである!』が、
『人の生』には、
『煩悩の無い!』者は、
『無い!』ので、
是の故に、
『仏』も、
『人法に随って!』、
『煩悩』が、
『有るべきであり!』、
『樹王/菩提樹の下』で、
外に、
『魔の軍』を、
『先に!』、
『破ってから!』、
内の、
『結使の賊』を、
『滅し!』、
『内、外』に於いて、
『賊を破った』が故に、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『成就される!』と、
『人』は、
皆、こう信受したのである、――
是の、
『人』が、
是の、
『事』を、
『為すことができたのだから!』、
わたし達も、
是の、
『事』を、
『学習せねばならない!』、と。
  人法(にんぽう):◯梵語 puruSa-dharma の訳、人に属する規則( personal rule )の義。◯梵語 dharma-pudgala の訳、人と法( person and dharma/things )の義。
若言久來無煩惱若從然燈佛得無生法忍來斷煩惱盡。是亦方便說。令諸菩薩歡喜故。若菩薩久已斷一切煩惱。成佛時復何所為。 若し『久しきより来、煩悩無し。若しは然灯仏より無生法忍を得てより来、煩悩を断じ尽くせり』、と言わば、是れも亦た方便の説にして、諸菩薩をして歓喜せしめんが故なり。若し菩薩にして、久しく已に一切の煩悩を断じたれば、仏を成ぜし時、復た何の為す所ぞ。
若し、こう言えば、――
『仏』は、
『久しき昔より!』、
『煩悩』が、
『無かった!』とか、
若しは、
『然灯仏より!』、
『無生法忍を得た時より!』、
『煩悩』を、
『断じ尽くしたのである!』、と。
是れも、
亦た、
『方便の説であり!』、
諸の、
『菩薩を歓喜させる!』為の故に、
『説かれたものである!』。
若し、
『菩薩』が、
『久しき昔より!』、
已に、
『一切の煩悩』を、
『断っていたとすれば!』、
『仏と成った!』時に、
更に、
何が、
『為されたのか?』。
問曰。佛有種種事。斷結使是一事。餘有淨佛國土成就眾生等未具。以具足眾事故名為佛。 問うて曰く、仏には種種の事有れば、結使を断ずるは、是れ一事なり。余にも仏国土を浄めて、衆生を成就する等は、未だ具わらず。衆事を具足するを以っての故に、名づけて仏と為せばなり。
問い、
『仏』には、
種種の、
『事( works )が有り!』、
『結使』を、
『断じる!』ことは、
其の中の、
『一事であり!』、
余にも、
『仏国土を浄める!』とか、
『衆生を成就する!』等の、
『事』が、
『有り!』、
此等は、
未だ、
『具足していない!』。
『衆事を具足する!』が故に、
『仏』と、
『称されるのである!』。
答曰。若爾者佛言斷結使是末後身。人若都無結使云何得生。 答えて曰く、若し爾らば、仏は、『結使を断ずれば、是れ末後の身なり』、と言えるに、人若し都て結使無くんば、云何が生を得る。
答え、
若し、そうならば、――
『仏』は、――
『結使を断じた!』ので、
是れは、
『末後の身( the last body )である!』と、
『言われた!』が、
若し、
『人』に、
都て( anymore )、
『結使』が、
『無ければ!』、
何故、
『生』を、
『得られたのか?』、と。
問曰。從得無生法忍已來。常得法性生身變化不。 問うて曰く、無生法忍を得てより已来、常に法性生身を得て、変化したもうや、不や。
問い、
『無生法忍を得られた時より!』、
常に、
『法性生身を得て!』、
『変化されるのではないですか?』。
  法性生身(ほっしょうしょうじん):法性を証したる者の受くる身。『大智度論巻16下注:法性生身』参照。
  変化(へんげ):改変して他の物となるの意。又化とも称す。『大智度論7下注:化』参照。
  法性生身:法性より生じたる身の意。法性とは実相真如。法界、涅槃等の異名同体。性とは体ともいい、改変しないことである。真如は万法の体であり、染に在りても浄に在りても、有情の数に在りても非情の数に在りても、その性は不改不変なるが故に法性という。『大智度論巻28』:『菩薩入法位。住阿鞞跋致地。末後肉身盡得法性生身。雖斷諸煩惱。有煩惱習因緣故。受法性生身非三界生也。』
答曰。化法要有化主然後能化。若得無生法忍斷一切結使。死時捨是肉身無有實身誰為變化。以是故知得無生已來。不應盡結使。 答えて曰く、化法には、要(かなら)ず化主有りて、然る後能く化す。若し無生法忍を得れば、一切の結使断じて、死する時、是の肉身を捨てて、実の身有ること無し。誰か変化を為さん。是を以っての故に知る、無生を得てより已来、応に結使を尽くすべからず。
答え、
『化法( creation-dharma )』には、
要(かなら)ず、
『化主が有り!』、
その後、
『化すことができる!』。
若し、
『無生法忍を得れば!』、
一切の、
『結使』を、
『断じて!』、
死ぬ時には、
是の、
『肉身を捨てる!』ので、
『実の身』は、
『無いことになる!』。
誰の、
『身』が、
『変化されるのか?』。
是の故に、こう知る、――
『無生法忍を得てからは!』、
『結使』を、
『尽くすはずがない!』、と。
  (け):梵語 nirmaaNa の訳、形成/造化/製造/建設/組立( forming, making, creating, creation, building, composition )の義。
  化法(けほう):◯梵語 nirmiti の訳、形成/造化/製造( formation, creation, making )の義。◯梵語 nirmitaka の訳、化人/所化人( one who is constructed )の義。
  化主(けしゅ):梵語 nirmaatR の訳、創造する人( one who had created somebody, creator )の義。
復次聲聞人言。菩薩不斷結使乃至坐道場然後斷。是為大錯。何以故汝法中說。菩薩已滿三阿僧祇劫。後更有百劫中。常得宿命智自憶迦葉佛時。作比丘名鬱多羅修行佛法。云何今六年苦行修邪道法。日食一麻一米。後身菩薩一日尚不應謬。何況六年。瞋亦如是從久遠世時作毒蛇。獵者生剝其皮猶尚不瞋。云何最後身而瞋五人。以是故知聲聞人受佛義為錯。 復た次ぎに、声聞人の言わく、『菩薩は、結使を断ぜずして、乃至道場に坐して、然る後に断ず』、とは、是れを大錯と為す。何を以っての故に、汝が法中に説かく、『菩薩は、已に三阿僧祇劫を満てて後、更に百劫有る中に、常に宿命智を得て、自ら迦葉仏の時、比丘と作りて、鬱多羅と名づけ、仏法を修行せるを憶せり』、と。云何が、今、六年苦行して、邪道の法を修し、日に一麻、一米を食したまえる。後身の菩薩なれば、一日すら尚お応に謬すべからず。何に況んや六年をや。瞋も亦た是の如し、久遠世より、時に毒蛇と作り、猟者、生きながら其の皮を剥ぎても、猶尚お瞋りたまわず。云何が、最後の身にして、瞋五の人なる。是を以っての故に知る、声聞人の受くる仏の義は、錯と為す、と。
復た次ぎに、
『声聞人』は、こう言っているが、――
『菩薩』は、
乃至、
『道場に坐す!』までは、
『結使』を、
『断じず!』に、
その後、
『断じる!』、と。
是れは、
『大きな!』、
『錯( mistake )である!』。
何故ならば、
お前の、
『法』中には、こう説かれているが、――
『菩薩』は、
已に、
『三阿僧祇劫』の、
『修行』を、
『満たした!』後、
更に、
『百劫有って!』、
常に、
『宿命智』を、
『得た!』が故に、
自ら、こう記憶していた、と――
『迦葉仏の時』、
『鬱多羅と呼ばれる!』、
『比丘と作って!』、
『仏法』を、
『修行していた!』、と。
何故、
今更、
『六年の苦行をして!』、
『邪道の法』を、
『修めながら!』、
『日ごとに!』、
『一麻、一米』を、
『食われていたのか?』。
『最後身の菩薩ならば!』、
『一日すら!』、
『道』を、
『謬たれるはずがない!』。
況して、
『六年』も、
『謬たれることがあろうか?』。
『瞋』も、
亦た、是の通りである、――
『久遠世より!』、
時に、
『毒蛇と作って!』、
『猟者』が、
其の、
『生皮』を、
『剥いでも!』、
猶尚お、
『瞋られなかったのに!』、
何故、
『最後の身でありながら!』、
『瞋五(忿、恨、悩、嫉、害)』の、
『人なのか?』。
是の故に、こう知ることになる、――
『声聞人が受けた!』、
『仏の義』は、
『錯誤である!』、と。
  鬱多羅(うったら):梵語uttara、最上の義。究竟と訳す。又此の否定語阿耨多羅anuttaraは無上の義にして、無上士とも訳し、仏の十号の一と為す。
  瞋五(しんご):瞋の五分の意。「成唯識論巻6」に於ける忿、恨、悩、嫉、害等の随煩悩は皆瞋の一分を体となすと説く、即ち是れなり。
  参考:『賢愚経巻1』:『又復世尊。過去無量阿僧祇劫。爾時波羅奈國。有五百仙士。時仙人師。名鬱多羅。恒思正法。欲得修學四方推求。宣告一切。誰有正法。為我說者。隨其所欲。悉當供給。有婆羅門。來應之言。吾有正法。誰欲聞者。我當為說。時仙人師。合掌白言。唯願矜愍垂哀為說。婆羅門言。學法事難。久苦乃獲。汝今云何直爾欲聞。於理不可。汝若至誠欲得法者。當隨我教。仙人白言。大師所敕不敢違逆。尋即語曰。汝今若能剝皮作紙。析骨為筆。血用和墨。寫吾法者。乃與汝說。是時鬱多羅。聞此語已。歡喜踊躍。敬如來教。即剝身皮。析取身骨。以血和墨。仰白之曰。今正是時。唯願速說。時婆羅門。便說此偈  常當攝身行  而不殺盜淫  不兩舌惡口  妄言及綺語  心不貪諸欲  無瞋恚毒想  捨離諸邪見  是為菩薩行說是偈已。即自書取。遣人宣寫。閻浮提內一切人民。咸使誦讀如說修行。世尊。爾時如是求法。為於眾生心無悔恨。今者云何欲捨一切。入於涅槃而不說法。』
  参考:『成唯識論巻6』:『論曰。唯是煩惱分位差別。等流性故名隨煩惱。此二十種類別有三。謂忿等十各別起故名小隨煩惱。無慚等二遍不善故名中隨煩惱。掉舉等八遍染心故名大隨煩惱。云何為忿。依對現前不饒益境憤發為性。能障不忿執仗為業。謂懷忿者多發暴惡身表業故。此即瞋恚一分為體。離瞋無別忿相用故。云何為恨。由忿為先懷惡不捨結怨為性。能障不恨熱惱為業。謂結恨者不能含忍恒熱惱故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別恨相用故。云何為覆。於自作罪恐失利譽隱藏為性。能障不覆悔惱為業。謂覆罪者後必悔惱不安隱故。有義此覆癡一分攝。論唯說此癡一分故。不懼當苦覆自罪故。有義此覆貪癡一分攝。亦恐失利譽覆自罪故。論據麤顯唯說癡分。如說掉舉是貪分故。然說掉舉遍諸染心。不可執為唯是貪分。云何為惱。忿恨為先追觸暴熱佷戾為性。能障不惱蛆螫為業。謂追往惡觸現違緣心便佷戾。多發囂暴凶鄙麤言蛆螫他故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別惱相用故。云何為嫉。徇自名利不耐他榮妒忌為性。能障不嫉憂慼為業。謂嫉妒者聞見他榮深懷憂慼不安隱故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別嫉相用故。云何為慳。耽著財法不能慧捨祕吝為性。能障不慳鄙畜為業。謂慳吝者心多鄙澀畜積財法不能捨故。此即貪愛一分為體。離貪無別慳相用故。云何為誑。為獲利譽矯現有德詭詐為性。能障不誑邪命為業。謂矯誑者心懷異謀多現不實邪命事故。此即貪癡一分為體。離二無別誑相用故。云何為諂。為網他故矯設異儀險曲為性。能障不諂教誨為業。謂諂曲者為網帽他曲順時宜矯設方便為取他意或藏己失。不任師友正教誨故。此亦貪癡一分為體。離二無別諂相用故。云何為害。於諸有情心無悲愍損惱為性。能障不害逼惱為業。謂有害者逼惱他故。此亦瞋恚一分為體。離瞋無別害相用故。瞋害別相准善應說。』
佛以方便力。欲破外道故。現六年苦行。汝言瞋五人者是為方便。亦是瞋習非煩惱也。 仏は、方便力を以って、外道を破らんと欲するが故に、六年の苦行を現したまえり。汝が言う、『瞋五の人』とは、是れを方便と為し、亦た是れ瞋の習なるも、煩悩に非ず。
『仏』は、
『方便力を用いて!』、
『外道を破る!』為の故に、
『六年の苦行』を、
『現されたのである!』。
お前は、――
『瞋五』の、
『人である!』と、
『言っている!』が、
是れも、
『方便なのであり!』、
亦た、
『瞋の習である!』が、
『煩悩ではない!』。
  参考:『大智度論巻14』:『問曰。已知尸羅相。云何為尸羅波羅蜜。答曰。有人言。菩薩持戒寧自失身不毀小戒。是為尸羅波羅蜜。如上蘇陀蘇摩王經中說。不惜身命以全禁戒。如菩薩本身曾作大力毒龍。若眾生在前。身力弱者眼視便死。身力強者氣往而死。是龍受一日戒。出家求靜入林樹間。思惟坐久疲懈而睡。龍法睡時形狀如蛇。身有文章七寶雜色。獵者見之驚喜言曰。以此希有難得之皮。獻上國王以為服飾不亦宜乎。便以杖按其頭以刀剝其皮。龍自念言。我力如意。傾覆此國其如反掌。此人小物豈能困我。我今以持戒故不計此身當從佛語。於是自忍眠目不視。閉氣不息憐愍此人。為持戒故一心受剝不生悔意。既以失皮赤肉在地。時日大熱宛轉土中欲趣大水。見諸小蟲來食其身。為持戒故不復敢動。自思惟言。今我此身以施諸蟲。為佛道故今以肉施以充其身。後成佛時當以法施以益其心。如是誓已身乾命絕。即生第二忉利天上。爾時毒龍釋迦文佛是。是時獵者提婆達等六師是也。諸小蟲輩。釋迦文佛初轉法輪八萬諸天得道者是。菩薩護戒不惜身命。決定不悔。其事如是。是名尸羅波羅蜜。』
今當如實說。菩薩得無生法忍。煩惱已盡習氣未除故因習氣受。及法性生身能自在化生。有大慈悲為眾生故。亦為滿本願故。還來世間。具足成就餘殘佛法故。十地滿坐道場。以無礙解脫力故。得一切智一切種智斷煩惱習。 今当に如実に説くべし、菩薩は無生法忍を得て、煩悩已に尽くるも、習気の未だ除こらざるが故に、習気に因って受くるに、法性生身に及んで、能く自在に化生したまい、大慈悲有りて、衆生の為の故に、亦た本願を満てんが為の故に、還って世間に来たり、余残の仏法を具足して成就するが故に、十地満ちて道場に坐し、無礙解脱力を以っての故に、一切智、一切種智を得て、煩悩の習を断じたまえり。
今、
『如実に説かねばなるまい!』、――
『菩薩』は、
『無生法忍を得る!』と、
『煩悩は、已に尽きた!』が、
未だ、
『習』が、
『除かれない!』が故に、
『習気に因って!』、
『身を受けられた!』が、
『法性生身を受ける!』に、
『及んで!』、
『自在に化生することができるようになり!』、
『衆生』の為に、
『大慈悲』が、
『有る!』が故に、
亦た、
『本願を満たす!』為の故に、
『世間』に、
『還って来られ!』、
余残の、
『仏法を具足して成就する!』為の故に、
『十地が満ちるまで!』、
『道場』に、
『坐り!』、
『無礙解脱の力を用いた!』が故に、
『一切智、一切種智を得て!』、
『煩悩の習』を、
『断じられたのである!』。
摩訶衍人言。得無生法忍菩薩一切煩惱及習都盡。亦是錯若都盡與佛無異。亦不應受法性生身。以是故菩薩得無生法忍。捨生身得法性生身。 摩訶衍人の言わく、『無生法忍を得たる菩薩は、一切の煩悩、及び習都て尽く』、とは、亦た是れも錯なり。若し都て尽くれば、仏と異無く、亦た応に法性生身を受くべからざればなり。是を以っての故に菩薩は、無生法忍を得て、生身を捨て、法性生身を得。
『摩訶衍人』は、――
『無生法忍を得た!』、
『菩薩』は、
『一切の煩悩と習』が、
都て、
『尽きる!』と、
『言っている!』が、
是れも、
亦た、
『錯である!』。
若し、
『煩悩と習』が、
『都て尽きてしまえば!』、
『仏』と、
『異ならないからであり!』、
亦た、
『法性生身』を、
『受けるはずがないからである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『無生法忍を得る!』と、
『生身を捨てて!』、
『法性生身』を、
『得るのである!』。
若言至坐道場一切煩惱及習俱斷。是語亦非。所以者何。若菩薩具有三毒者。云何能集無量佛法。譬如毒瓶雖著甘露皆不中食。菩薩集諸純淨功德乃得作佛。若雜三毒。云何能具足清淨佛法。 若し、『道場に坐すに至って、一切の煩悩、及び習倶に断ず』、と言わば、是の語も亦た非なり。所以は何んとなれば、若し菩薩にして、三毒を具有せば、云何が能く、無量の仏法を集めん。譬えば毒瓶に、甘露を著くと雖も、皆食するに中らざるが如し。菩薩は、諸の純浄の功徳を集めて、乃ち仏と作るを得るも、若し三毒を雑えば、云何が能く清浄の仏法を具足せんや。
若し、こう言えば、――
『菩薩』は、
『道場』に、
『坐る!』に、
『至って!』、
一切の、
『煩悩と習』を、
『倶に断じる!』、と。
是の、
『語』も、
『非(不正)である!』。
何故ならば、
若し、
『菩薩』が、
『三毒を具有していれば!』、
何故、
『無量の仏法』を、
『集めることができるのか?』。
譬えば、
『毒瓶』には、
『甘露』を、
『納れても!』、
皆、
『食う!』には、
『中らない( not proper )からである!』。
『菩薩』は、
諸の、
『純浄』の、
『功徳』を、
『集めて!』、
ようやく、
『仏』と、
『作ることができるのであり!』、
若し、
『三毒を雑えて!』、
『諸の功徳』を、
『集めたとすれば!』、
何故、
『清浄の仏法』を、
『具足することができるのか?』。
問曰。觀諸法實相。及修悲心故。能令三毒薄故。能集清淨功德。 問うて曰く、諸法の実相を観て、及び悲心を修するが故に、能く三毒をして薄しむるが故に、能く清浄の功徳を集むるなり。
問い、
『諸法の実相』を、
『観察して!』、
『悲心を修める!』に、
『及ぶ!』が故に、
『三毒』を、
『薄れさせられる!』が故に、
『清浄の功徳』を、
『集めることができるのである!』。
答曰。薄三毒。可得轉輪聖王諸天王身。欲得佛功德身無有是事。三毒斷習未盡。可得集諸功德。 答えて曰く、三毒を薄うすれば、転輪聖王、諸天王の身を得べきも、仏の功徳身を得んと欲せば、是の事有ること無し。三毒断ずれば、習未だ尽きざるも、諸の功徳を集むるを得べし。
答え、
『三毒が薄れれば!』、
『転輪聖王や、諸天王』の、
『身ぐらい!』は、
『得られるだろう!』が、
『仏』の、
『功徳身』を、
『得ようとしても!』、
是のような、
『事』は、
『無い!』。
『三毒が断じていれば!』、
『習が尽きていなくても!』、
『諸の功徳』を、
『集められるだろう!』。
復次薄名如離欲人。斷下地結猶有上地煩惱。又如須陀洹。見諦所斷結盡。思惟所斷未盡。是名為薄。 復た次ぎに、薄を離欲の人の下地の結を断ずるも、猶お上地の煩悩有りと如しと名づく。又須陀洹の見諦所断の結を尽くるも、思惟所断は未だ尽きざるが如し。是れを名づけて薄と為す。
復た次ぎに、
『薄』とは、
『離欲の人』が、
『下地の結を断じても!』、
猶お、
『上地の煩悩が有る!』のに、
『似ており!』、
又、
『須陀洹』が、
『見諦所断の結が尽きても!』、
猶お、
『思惟所断の結』が、
『尽きていないようなものであり!』、
是れを、
『薄い!』と、
『呼ぶのである!』。
  下地結(げじのけつ):下の欲界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる五種の煩悩。即ち一に欲貪、二に瞋恚、三に有身見、、四に戒禁取見、五に疑なり。『大智度論巻15上注:五下分結』参照。
  上地煩悩(じょうじのぼんのう):上の色無色界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる五種の煩悩。即ち一に色貪、二に無色貪、三に掉挙、四に慢、五に無明なり。『大智度論巻15上注:五上分結』参照。
如佛說斷三結薄婬怒癡。名為斯陀含。汝若言薄應當是斷。以是故得無生法忍時斷煩惱。得佛時斷煩惱習。是則實說 仏の説きたまえるが如きは、『三結を断じて、婬怒癡薄るるを名づけて、斯陀含と為す』、となり。汝が若し、『薄し』、と言わば、応当に是れ断なるべし。是を以っての故に、無生法忍を得る時に煩悩を断じ、仏を得る時に、煩悩の習を断ず。是れ則ち実説なり。
例えば、
『仏』は、こう説かれているが、――
『三結を断じて!』、
『淫怒癡』が、
『薄れれば!』、
是れを、
『斯陀含』と、
『称する!』、と。
お前が、
若し、
『薄い!』と、
『言えば!』、
是れは、
『断じた!』と、
『言わねばならない!』。
是の故に、
『無生法忍を得た!』時に、
『煩悩を断じ!』、
『仏を得た!』時に、
『煩悩の習』を、
『断じる!』、
是れが、
『仏』の、
『実説である!』。



菩薩の位

【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩欲上菩薩位。當學般若波羅蜜 復た次ぎに、舍利弗、菩薩摩訶薩は、菩薩位に上らんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
復た次ぎに、
舍利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
『菩薩位に上ろうとすれば!』、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】菩薩位者。無生法忍是。得此法忍觀一切世間空心無所著。住諸法實相中。不復染世間。 菩薩位とは、無生法忍是れなり。此の法忍を得れば、一切の世間の空なるを観て、心に著する所無く、諸法の実相中に住して、復た世間に染まず。
『菩薩位』とは、
『無生法忍であり!』、
此の、
『法忍を得れば!』、
一切の、
『世間』は、
『空である!』と、
『観察する!』ので、
『心』には、
『著する!』所が、
『無くなり!』、
諸の、
『法』の、
『実相』中に、
『住まって!』、
復た( nomore )、
『世間』に、
『染まることがない!』。
復次般舟般三昧是菩薩位。得是般舟般三昧。悉見現在十方諸佛。從諸佛聞法斷諸疑網。是時菩薩心不動搖。是名菩薩位。 復た次ぎに、般舟般三昧は、是れ菩薩位なり。是の般舟般三昧を得れば、悉く現在の十方の諸仏を見、諸仏より法を聞いて、諸の疑網を断ず。是の時、菩薩の心は動揺せざれば、是れを菩薩位と名づく。
復た次ぎに、
『般舟般三昧』とは、
『菩薩位であり!』、
是の、
『般舟般三昧を得れば!』、
悉く、
『現在の十方の諸仏を見て!』、
『諸仏より法を聞いて!』、
諸の、
『疑網』を、
『断じることになる!』が、
是の時、
『菩薩の心』が、
『動揺しなければ!』、
是れを、
『菩薩』と、
『称するのである!』。
  般舟般三昧(はんじゅうはんさんまい):梵語 pratyutpanna-smaadhi の訳、又般舟三昧と称す。般舟般( pratyutpanna )は、眼前に存在する( existing at the present moment )の義、即ち仏を眼前に観る三昧( a concentration of the thoughts in front of which Buddha appears )の意。『大智度論巻9上注:般舟三昧』参照。
復次菩薩位者。具足六波羅蜜生方便智。於諸法實相亦不住。自知自證不隨他語。若魔作佛形來心亦不惑。 復た次ぎに、菩薩位の者は、六波羅蜜を具足して方便智を生ずれば、諸法の実相に於いても亦た住せず、自ら知り、自ら証して、他の語に随わず、若し魔、仏の形を作して来たるも、心は亦た惑わず。
復た次ぎに、
『菩薩位の者』は、
『六波羅蜜を具足して!』、
『方便智を生じるので!』、
諸の、
『法の実相』にも、
『住まることなく!』、
自ら、
『実相』を、
『知り!』、
自ら、
『実相』を、
『知った!』と、
『証して( confirm )!』、
『他人』の、
『語』には、
『随わず!』、
若し、
『魔』が、
『仏の形を作して!』、
『来ても!』、
亦た、
『心』は、
『惑わない!』。
復次入菩薩法位力故。得名阿鞞跋致菩薩。 復た次ぎに、菩薩法位の力に入る故に、阿鞞跋致の菩薩と名づくるを得。
復た次ぎに、
『菩薩の法位という!』、
『力に入る( to awaken to the power )!』が故に、
『阿鞞跋致の菩薩』と、
『称することができる!』。
  法位(ほうい):梵語 dharma-shititaa, dharma-niyaama の訳、法の支配者( a ruler of Dharma )の義。
復次菩薩摩訶薩。入是法位中。不復墮凡夫數。名為得道人。一切世間事。欲壞其心不能令動。閉三惡趣門。墮諸菩薩數中。初生菩薩家。智慧清淨成熟。 復た次ぎに、菩薩摩訶薩は、是の法位中に入るに、復た凡夫の数に堕せざれば、名づけて得道の人と為し、一切の世間の事、其の心を壊せんと欲すれども、動かしむる能わず、三悪趣の門を閉じて、諸の菩薩の数中に堕し、初めて菩薩の家に生ずるに、智慧清浄にして成熟せり。
復た次ぎに、
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『法位に入れば!』、
復た( never again )、
『凡夫の数に入らない!』ので、
『得道の人』と、
『呼ばれ!』、
一切の、
『世間の事』が、
其の、
『心』を、
『破ろうとしても!』、
『動かすことができない!』ので、
『三悪趣の門が閉ざされて!』、
諸の、
『菩薩の数』中に、
『堕ちることになり!』、
初めて( at the moment )、
『菩薩の家に生まれた!』時には、
已に、
『智慧』が、
『清浄であり!』、
『成熟している!』。
復次住頂不墮。是名菩薩法位。如學品中說。上位菩薩不墮惡趣。不生下賤家。不墮聲聞辟支佛地。亦不從頂墮。 復た次ぎに、頂に住して堕せざれば、是れを菩薩の法位と名づく。学品中に説けるが如し、『位に上れる菩薩は、悪趣に堕せず、下賎の家に生ぜず、声聞、辟支仏の地に堕せず、亦た頂より堕せず』、と。
復た次ぎに、
『頂に住まりながら!』、
『堕ちなければ!』、
是れを、
『菩薩の法位』と、
『称する!』。
例えば、
『学品』中に、こう説かれた通りである、――
『位に上った!』、
『菩薩』は、
『悪趣に堕ちることもなく!』、
『下賎の家に生まれることもなく!』、
『声聞、辟支仏の地に堕ちることもなく!』、
亦た、
『頂より堕ちることもない!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3勧学品第八』:『復次世尊。菩薩摩訶薩欲滿一切眾生願。當學般若波羅蜜。欲得具足如是善根常不墮惡趣。欲得不生卑賤之家。欲得不住聲聞辟支佛地中。欲得不墮菩薩頂者。當學般若波羅蜜。』
問曰云何為頂墮。 問うて曰く、云何が頂より堕すと為す。
問い、
何の為に、
『頂より!』、
『堕ちるのですか?』。
答曰如須菩提語舍利弗。若菩薩摩訶薩。無方便心行六波羅蜜。入空無相無作中。不能上菩薩位。亦不墮聲聞辟支佛地。愛著諸功德法。於五眾無常苦空無我取相心著。言是道是非道是應行是不應行。如是等取相分別。是菩薩頂墮。 答えて曰く、須菩提の舍利弗に語れるが如し、『若し菩薩摩訶薩、方便心無ければ、六波羅蜜を行じて、空、無相、無作中に入るも、菩薩位に上る能わず、亦た声聞、辟支仏地に堕せず、諸の功徳法を愛著し、五衆の無常、空、空、無我に於いて、相を取りて心著し、是れ道なり、是れ非道なり、是れ応に行ずべし、是れ応に行ずべからずと言う』、と。是れ等の如く相を取りて分別せば、是の菩薩は、頂より堕せん。
答え、
例えば、
『須菩提』が、
『舍利弗』に、こう語った通りである、――
若し、
『菩薩摩訶薩』に、
『方便心が無ければ!』、
『六波羅蜜を行って!』、
『空、無相、無作中に入っても!』、
『菩薩位』に、
『上ることはできない!』し、
亦た、
『声聞、辟支仏の地』に、
『堕ちることもない!』が、
諸の、
『功徳法を愛著して!』、
『五衆の無常、苦、空、無我』に於いて、
『相を取って!』、
『心が著する!』ので、
こう言うことになる、――
『是れは、道である!』とか、
『是れは、道でない!』とか、
『是れは、行わねばならない!』とか、
『是れは、行ってはならない!』と。
是れ等のように、
『相を取って!』、
『分別すれば!』、
是の、
『菩薩』は、
『頂より!』、
『堕ちることになるだろう!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3勧学品』:『爾時慧命舍利弗問須菩提。云何為菩薩摩訶薩墮頂。須菩提言舍利弗。若菩薩摩訶薩不以方便行六波羅蜜。入空無相無作三昧。不墮聲聞辟支佛地。亦不入菩薩位。是名菩薩摩訶薩法生故墮頂。』
何等是住頂如上所說。諸法愛斷於愛斷法亦復不取。如住頂義中說。若菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜時。內空中不見外空。外空中不見內空。外空中不見內外空內外空中不見外空。乃至無法有法空亦如是。 何等か、是れ頂に住する。上の所説の如し、『諸法の愛を断ずるとは、愛を断ずる法に於いても亦た取らず』、と。『住頂義』中に説けるが如し、『若し菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、内空中に外空を見ず、外空中に内空を見ず、外空中に内外空を見ず、内外空中に外空を見ず、乃至無法有法空まで、亦た是の如し』、と。
何のように、
『頂』に、
『住まるのか?』、――
例えば、
上に、こう説いた通りである、――
諸の、
『法愛を断じる!』とは、
亦た、
『法愛』を、
『断じる!』、
『法をも!』、
復た( no more )、
『取らないことである!』。
例えば、
『住頂義』中には、こう説かれている、――
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』時には、
『内空』中に、
『外空』を、
『見ることなく!』、
『外空』中に、
『内空』を、
『見ることなく!』、
『外空』中に、
『内外空』を、
『見ることなく!』、
『内外空』中に、
『外空』を、
『見ることなく!』、
乃至、
『無法有法空まで!』、
『是の通りである!』、と。
  参考:『大智度論巻31』:『【經】復次舍利弗。菩薩摩訶薩。欲住內空外空內外空空空大空第一義空有為空無為空畢竟空無始空散空性空自相空諸法空不可得空無法空有法空無法有法空。當學般若波羅蜜【論】內空者內法。內法空。內法者。所謂內六入眼耳鼻舌身意。眼空無我無我所無眼法。耳鼻舌身意亦如是。外空者外法。外法空。外法者。所謂外六入色聲香味觸法。色空者無我無我所無色法。聲香味觸法亦如是。內外空者內外法。內外法空。內外法者。所謂內外十二入。十二入中無我無我所。無內外法。』
  参考:『大智度論巻41』:『【經】欲得具足如是善根常不墮惡趣。欲得不生卑賤之家。欲得不住聲聞辟支佛地中。欲得不墮菩薩頂者。當學般若波羅蜜。‥‥【經】舍利弗問須菩提。云何名菩薩摩訶薩無生。須菩提言菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。內空中不見外空。外空中不見內空。外空中不見內外空。內外空中不見外空。內外空中不見空空。空空中不見內外空。空空中不見大空。大空中不見空空。大空中不見第一義空。第一義空中不見大空。第一義空中不見有為空。有為空中不見第一義空。有為空中不見無為空。無為空中不見有為空。無為空中不見畢竟空。畢竟空中不見無為空。畢竟空中不見無始空。無始空中不見畢竟空。無始空中不見散空。散空中不見無始空。散空中不見性空。性空中不見散空。性空中不見諸法空。諸法空中不見性空。諸法空中不見自相空。自相空中不見諸法空。自相空中不見不可得空。不可得空中不見自相空。不可得空中不見無法空。無法空中不見不可得空。無法空中不見有法空。有法空中不見無法空。有法空中不見無法有法空。無法有法空中不見有法空。』、『摩訶般若波羅蜜経巻3勧学品第八』参照。
復次上位菩薩。得無等等心亦不自高。知心相真空。諸有無等戲論滅。 復た次ぎに、位に上れる菩薩は、無等等の心を得れば、亦た自ら高ぶらず、心相の真空なるを知れば、諸の有無等の戯論滅す。
復た次ぎに、
『位に上った!』、
『菩薩』は、
『無等等の心を得る!』が故に、
亦た、
『自ら!』、
『高ぶることがなく!』、
『心相の真空を知る!』が故に、
諸の、
『有無等の戯論』が、
『滅している!』。
  無等等(むとうとう):梵語 asamasama, asamasamataa の訳、無類の/無類に等しい( unequalled, equal with the unequalled )の義、無類、或は無類に等しい位の( of rank unequalled or equal with the unequalled )の意。
  戯論(けろん):善法を増進せざる論議。『大智度論巻5上注:戯論』参照。
問曰。何以故聲聞法中名為正位。此菩薩法中位但名位。 問うて曰く、何を以っての故にか、声聞法中には名づけて、正位と為し、此の菩薩法中の位は、但だ位と名づくる。
問い、
何故、
『声聞法』中には、
『正位』と、
『称する!』のに、
此の、
『菩薩法中の位』は、
但だ、
『位』と、
『呼ばれるのですか?』。
答曰。若言正位亦無咎。所以者何。若言菩薩法位是則為正。聲聞法中但言位。不言聲聞位。以是故言正位。 答えて曰く、若し正位と言うも、亦た咎無し。所以は何んとなれば、若し菩薩法の位と言わば、是れ則ち正と為せばなり。声聞法中には、但だ位と言い、声聞位と言わざれば、是を以っての故に正位と言う。
答え、
若し、
『正位』と、
『言った!』としても、
亦た、
『咎』は、
『無いだろう!』。
何故ならば、
若し、
『菩薩法の位』と、
『言えば!』、
是れは、
則ち、
『正だからである!』。
『声聞法』中には、
但だ、
『位と言うだけで!』、
『声聞の位』とは、
『言わない!』ので、
是の故に、
『正位』と、
『言うのである!』。
復次學聲聞人。無大慈悲心。智慧不利故未生厭心。多求諸法生種種邪見疑悔。 復た次ぎに、声聞を学ぶ人は、大慈悲の心無く、智慧利ならざるが故に、未だ厭心を生ぜず、多く諸法を求めて、種種の邪見と、疑悔を生ず。
復た次ぎに、
『声聞を学ぶ!』、
『人』には、
『大慈悲の心が無く!』、
『智慧』が、
『利くない!』が故に、
未だ、
『厭心』を、
『生じることなく!』、
多くが、
『諸法を求めて!』、
種種の、
『邪見や、疑、悔』を、
『生じている!』。
菩薩摩訶薩。大慈愍一切故。多求度脫眾生老病死苦。不求分別種種戲論。譬如長者有一子愛之甚重。其子得病但求良藥能差病者。不求分別諸藥名字。取之時節合和分數。 菩薩摩訶薩は、一切を大慈愍するが故に、多く衆生の老病死の苦を度脱せんことを求め、種種の戯論を分別するを求めず。譬えば長者に一子有り、之を愛すること甚だ重く、其の子病を得たれば、但だ良薬の能く病を差す者を求め、諸薬の名字、之を取る時節、合和の分数を分別するを求めざるが如し。
『菩薩摩訶薩』は、
一切を、
『大慈愍する!』が故に、
多くは、
『衆生の老病死の苦』を、
『度脱させよう!』と、
『求める!』が、
種種に、
『分別して!』、
『戯論すること!』を、
『求めない!』、
譬えば、
『長者』に、
『一子が有り!』、
之を、
『甚だ重く!』、
『愛していた!』ので、
其の、
『子が病を得た!』時には、
但だ、
『病を愈せる!』、
『良薬』を、
『求めただけであり!』、
諸の、
『薬の名字や、取る時節や、合和の分数』を、
『分別すること!』は、
『求めないようなものである!』。
以是故諸菩薩。從果觀十二因緣。不從因觀。見多者從因觀。愛多者從果觀。諸聲聞人因即位故有正位。菩薩邪位薄故。但名菩薩位。 是を以っての故に諸の菩薩は、果に従って十二因縁を観るも、因に従って観ず。見多き者は、因に従って観、愛多き者は、果に従って観る。諸の声聞人は、邪位に因るが故に正位有るも、菩薩の邪位は薄きが故に、但だ菩薩位と名づく。
是の故に、
諸の、
『菩薩』は、
『果によって!』、
『十二因縁』を、
『観察するのであり!』、
『因によって!』は、
『観察することがない!』。
『見が多い!』者は、
『因によって!』、
『観る!』が、
『愛が多い!』者は、
『果によって!』、
『観るからである!』。
諸の、
『声聞人』は、
『邪位という!』、
『因を待つ!』が故に、
『正位』が、
『有る!』が、
『菩薩』は、
『邪位という!』、
『因は薄い!』が故に、
但だ、
『菩薩位』と、
『称するのである!』。
  即位(そくい):他本に従って邪位に改む。或は位に就くの意か。
  (そく):<動詞>[本義]食卓に就く( come near to eat )。接近する[遠離の対]( approach, be near )、登る/上る/即位する( ascend )。<接続詞>然し( though, although )、若し( if )、設使( even if )、則ち/だから( then )。<介詞>ので/乗じて( while )、当って( as )。<副詞>するやいなや( as soon as )、そして( then )、即時に( at once )、即ち/つまり( that is, namely )。<名詞>目前/現在( at present )、今日( today )。
  :声聞人は証を得るに於いて、其の正邪を重視するが故に、邪位に因って故に正位有りと云う。
問曰。聲聞法中。從苦法忍乃至道比忍。名為正位。如經中說。三惡道中不可得三事。所謂正位聖果漏盡。破戒邪見五逆罪等亦如是。從得何法名為菩薩位。 問うて曰く、声聞法中には、苦法忍より、乃至道比忍を名づけて、正位と為す。経中に説けるが如し、『三悪道中に、三事を得べからず。謂わゆる正位、聖果、漏尽なり。破戒、邪見、五逆罪等も亦た是の如し』、と。何等の法を得るによりて、名づけて菩薩位と為す。
問い、
『声聞法』中には、
『苦法忍、乃至道比忍』を、
『正位』と、
『称するのであり!』、
例えば、
『経』中には、こう説かれている、――
『三悪道』中には、
『三事』を、
『得ることはできない!』。
謂わゆる、
『正位と、聖果と、漏尽である!』。
亦た、
『破戒や、邪見や、五逆罪』等も、
『是の通りである!』、と。
何のような、
『法を得て!』、
『菩薩位』と、
『称するのですか?』。
  苦法忍(くほうにん):四諦に関し、欲界の苦を認むる位。『大智度論巻12上注:四向四果』参照。
  道比忍(どうひにん):四諦に関し、上二界の道を認むる位。『大智度論巻12上注:四向四果』参照。
  苦法忍道比智:十六心、見道(聖者の流れに乗った預流向、預流果)の無漏の智慧でもって四諦を現観するとき、欲界の四諦を現観する智慧を法智、色無色界の四諦を現観するする智慧を比智というが、それに各忍と智とが有る。 欲界の苦諦を現観するに、苦法智忍と苦法智が有り、色無色界に、苦比智忍と苦比智とが有り、合計十六心有る。 即ち、苦法忍、苦法智、苦比忍、苦比智、集法忍、集法智、集比忍、集比智、滅法忍、滅法智、滅比忍、滅比智、道法忍、道法智、道比忍、道比智である。
  1. 苦法智:欲界は苦であると知る智慧。
  2. 苦比智:色無色界は苦であると知る智慧。
  3. 集法智:欲界の苦の原因は渇愛にあると知る智慧。集諦を知る。
  4. 集比智:色界無色界の苦の原因は渇愛にあると知る智慧。
  5. 滅法智:欲界の渇愛を無くせば苦も無くなると知る智慧。
  6. 滅比智:色界無色界の渇愛を無くせば苦も無くなると知る智慧。
  7. 道法智:欲界の渇愛を無くすには正しい道によると知る智慧。
  8. 道比智:色界無色界の渇愛を無くすには正しい道によると知る智慧。『大智度論巻15上』参照。
答曰。發意修行大悲。方便具足行是四法。得入菩薩位。如聲聞法中先具說四種善根。煖法頂法忍法世間第一法。然後入苦法忍正位。 答えて曰く、発意、修行、大悲、方便なり。是の四法を具足して行ずれば、菩薩位に入るを得。声聞法中には、先に具に、四種善根の煖法、頂法、忍法、世間第一法を説き、然る後に苦法忍なる正位に入るが如し。
答え、
『発意と、修行と、大悲と、方便である!』。
是の、
『四法を行って!』、
『具足すれば!』、
『菩薩位』に、
『入ることができる!』。
譬えば、
『声聞法』中に、
先に、
『具足して!』、
『煖法、頂法、忍法、世間第一法の四種善根』を、
『説き!』、
その後、
『苦法忍という!』、
『正位』に、
『入るようなものである!』。
  四種善根(ししゅのぜんごん):見道以前、聖位に達する善根に煖法、頂法、忍法、世間第一法の四階位あるを云う。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  四善根位:見道に至る前の四階位、
  1. 煖法:煩悩を焼き尽くす無漏の慧火に近づいて暖かみを感じて、有漏の善根を生ずる位。
  2. 頂法:山の山頂の如く、進退を分ける位。
  3. 忍法:四諦の理を明了に認め善根が定まって動かない位。
  4. 世間第一法:有漏(世間)の中に最上の善根を生じる位。『大智度論巻23下』参照。
問曰。修行皆攝四法。何以故差別為四。 問うて曰く、修行は、皆四法を摂す。何を以っての故にか、差別して四を為す。
問い、
『修行』中に、
皆、
『四法』を、
『摂している( contain )!』。
何故、
『四種』に、
『差別するのですか?』。
答曰。初發意雖有修行。不久修故不名修行如在家。雖終日不住不名為行。 答えて曰く、初発意に、修行有りと雖も、修すること久しからざるが故に、修行と名づけざるは、在家の、終日住せずと雖も、名づけて行と為さざるが如し。
答え、
『初発意』にも、
『修行は有る!』が、
『修行する!』ことが、
『久しくない!』が故に、
是れを、
『修行』と、
『呼ばない!』のは、
『在家』が、
『家』に、
『住まる!』のが、
『終日でなくても!』、
是れを、
『行く( go )!』と、
『呼ばないようなものである!』。
復次發意時但有意願。行時造作以財與人受持禁戒。如是等行六波羅蜜。是名修行。修行已以般若波羅蜜。知諸法實相。以大悲心愍念眾生。不知是諸法實相。染著世間虛誑法。受種種身苦心苦。是更受大悲名故。不名修行 復た次ぎに、発意の時は、但だ意願有り、行時の造作は、財を以って人に与え、禁戒を受持して、是れ等のごとく六波羅蜜を行ずれば、是れを修行と名づく。修行し已るに般若波羅蜜を以って、諸法の実相を知り、大悲心を以って衆生を愍念す。是の諸法の実相を知らずして世間の虚誑の法に染著し、種種の身苦、心苦を受くれば、是れ更に大悲の名を受くるも、故に修行と名づけず。
復た次ぎに、
『発意の時』には、
但だ、
『意願』が、
『有るだけだが!』、
『行時の造作として!』、
『財を人に与える!』とか、
『禁戒を受持する!』とか、
是れ等のように、
『六波羅蜜』を、
『行えば!』、
是れを、
『修行』と、
『呼び!』、
『修行し已れば!』、
『般若波羅蜜を用いて!』、
諸の、
『法の実相』を、
『知り!』、
『大悲心を用いて!』、
諸の、
『衆生』を、
『愍念する!』が、
是れが、
『諸法の実相である!』と、
『知ることはない!』。
是の、
『諸法の実相を知らずに!』、
『世間』の、
『虚誑の法』に、
『染著して!』、
種種の、
『身、心の苦』を、
『受ければ!』、
是れは、
更に( unexpectedly )、
『大悲の名』を、
『受けるかも知れない!』が、
是の、
『実相を知らない!』が故に、
『修行』と、
『呼ばれることはない!』。
  造作(ぞうさ):梵語 abhisaMs√(kR), abhisaMskaara, abhisaMskRta, kriyaa, kRta, √(kR) 等の訳、創造/製造する/行う/為す(こと)( To create, produce, do, act )、創造/製造された( created, made )の義。
  (きょう):<動詞>[本義]改める/改変する( change )。改正する( make correction )、置き換える/代替する( replace )、経る/経過/経歴/経験する( experience )、連続/接続する( continue )、替わる/交替する/輪番する( take turns, do something in turn )、返済/補填する( repay, compensate for )、報いる( repay, requite )。<副詞>復た/又た( again )、尚お/更に加えて/益々( further, further more, all the more, more )、別に/外に/他に( beside, also, anew )、思いの外にも/意外にも( on the contrary, unexpectedly )。<接続詞>と/与( and )。
方便者。具足般若波羅蜜故知諸法空。大悲心故憐愍眾生。於是二法以方便力不生染著。雖知諸法空方便力故亦不捨眾生。雖不捨眾生。亦知諸法實空。 方便とは、般若波羅蜜を具足するが故に諸法の空を知り、大悲心の故に衆生を憐愍し、是の二法に於いて、方便力を以っての故に染著を生ぜず、諸法の空を知ると雖も、方便力の故に亦た衆生を捨てず、衆生を捨てずと雖も、亦た諸法の実空なるを知る。
『方便』とは、――
『般若波羅蜜』を、
『具足する!』が故に、
『諸法は空である!』と、
『知りながら!』、
『大悲心』を、
『有する!』が故に、
『衆生』を、
『憐愍するからであり!』、
是の、
『二法』に於いても、
『方便力を用いる!』が故に、
『染著』を、
『生じない!』。
『諸法は空である!』と、
『知りながら!』、
『方便力』の故に、
『衆生』を、
『捨てず!』、
『衆生を捨てない!』のに、
『方便力』の故に、
『諸法』は、
『実に空である!』と、
『知るのである!』。
若於是二事等即得入菩薩位。如聲聞人。於定慧二法等故。是時即得入正位。 若し是の二事に於いて等しければ、即ち菩薩位に入るを得。声聞人の定、慧の二法に於いて等しきが故に、是の時即ち正位に入るを得るが如し。
若し、
是の、
『二事(不捨衆生、知実相)』に於いて、
『心』が、
『等しければ!』、
即ち、
『菩薩位』に、
『入ることになる!』。
譬えば、
『声聞人』が、
『定、慧の二法』が、
『等しい!』が故に、
是の時、
『正位』に、
『入るようなものである!』。
是法雖有行更有餘名字不名修行。從初發意乃至坐道場。於其中間所行皆名修行。小小差別有異。名字為易解故。 是の法は、行有りと雖も、更に余の名字有れば、修行と名づけず。初発意より、乃至道場に坐するまで、其の中間に於ける所行は、皆修行と名づく。小小の差別に、異なれる名字有るは、解し易きが為の故なり。
是の、
『二法(般若波羅蜜、大悲心)』中には、
『行も有る!』が、
更に、
『余の名字』が、
『有る!』ので、
是れを、
『修行』と、
『称することはない!』。
『初発意より、乃至道場に坐る!』までの、
『中間の所行』は、
皆、
『修行』と、
『呼ばれる!』。
『小小の差別』に、
『異なる名字が有る!』のは、
『理解』を、
『容易にするためである!』。
譬如有人初發阿耨多羅三藐三菩提意。欲度脫一切眾生老病死等身心諸苦。作大誓莊嚴功德慧明二事因緣故所願皆滿。是二事有六分修行。名為六波羅蜜。布施持戒忍辱是功德分。精進禪定智慧是慧明分。 譬えば有る人は、初めて阿耨多羅三藐三菩提の意を発して、一切の衆生の老病死等の身心の諸苦を度脱せんと欲し、大誓を作して、功徳、慧明の二事を荘厳せる因縁の故に、所願皆満つれば、是の二事に六分の修行有りて、名づけて六波羅蜜と為す。布施、持戒、忍辱は、是れ功徳分にして、精進、禅定、智慧は是れ慧明分なり。
譬えば、
有る人が、
初めて、
『阿耨多羅三藐三菩提の意』を、
『発して!』、
一切の、
『衆生の老病死』等の、
『身、心の諸苦を度脱しよう!』と、
『思い!』、
大きな、
『誓願を作して!』、
『功徳、慧明の二事』を、
『荘厳する!』と、
是の、
『因縁』の故に、
『所願』が、
『皆、満ちることになる!』が、
是の、
『二事』には、
『六分の修行』が、
『有り!』、
是れを、
『六波羅蜜』と、
『称する!』。
謂わゆる、
『布施、持戒、忍辱』は、
『功徳分』の、
『修行であり!』、
『精進、禅定、智慧』は、
『慧明分である!』。
修行六波羅蜜。知是諸法相。甚深微妙難解難知。作是念眾生。著三界諸法。以何因緣令眾生得是諸法相。當以具足諸功德清淨智慧成就。佛身三十二相八十隨形好。光明具足神通無量。以十力四無所畏十八不共法四無礙智。觀應可度者說法開化。 六波羅蜜を修行して、是の諸法の相の甚深微妙にして、難解難知なるを知り、是の念を作さく、『衆生は、三界の諸法に著せり。何なる因縁を以って、衆生をして是の諸法の相を得しめん。当に諸の功徳と、清浄の智慧を具足するを以って、仏身の三十二相、八十随形好、光明具足し、神通無量なるを成就し、十力、四無所畏、十八不共法、四無礙智を以って、応に度すべき者を観て、法を説き開化すべし』、と。
『六波羅蜜を修行して!』、
是の、
『諸法の相』は、
『甚深微妙であり、難解難知である!』と、
『知る!』と、
是の、
『念を作すことになる!』、――
『衆生』は、
『三界の諸法』に、
『著している!』が、
何のような、
『因縁を用いて!』、
是の、
『諸法の相』を、
『衆生』に、
『認めさせるのがよいのか?』。
当然、こうでなくてはならない、――
『諸の功徳と、清浄の智慧とを具足して!』、
『仏身の三十二相、八十随形好、光明具足、神通無量』を、
『成就し!』、
『十力、四無所畏、十八不共法、四無礙智を用いて!』、
『度脱すべき者を観察し!』、
『説法して!』、
『開化( enlightenment )しよう!』、と。
譬如金翅鳥王普觀諸龍命應盡者。以翅摶海令水兩闢取而食之。佛亦如是。以佛眼觀十方世界五道眾生。誰應得度。初現神足次為示其心趣。 譬えば金翅鳥王は、普く諸龍の命の応に尽くべき者を観て、翅(つばさ)を以って海を搏(う)ち、水をして両(ふたつ)に闢(ひら)かしめ、取りて之を食うが如し。仏も亦た是の如く、仏眼を以って十方の世界の五道の衆生の、誰か応に度を得べしやを観て、初めて神足を現し、次いで為に其の心の趣を示したもう。
譬えば、
『金翅鳥の王』が、
『諸龍』中に、
『命の尽きようとする!』者を、
『観察して!』、
『翅(つばさ)』で、
『海を搏()ち!』、
『水』を、
『闢(ひら)いて!』、
是の、
『龍を取って!』、
『食うように!』、
『仏』も、
是のように、
『仏眼を用いて!』、
『十方の世界の五道の衆生』中の、
誰が、
『度脱できそうか?』を、
『観察してから!』、
初めて、
『神足を現して!』、
次に、
『衆生』の為に、
其の、
『心の趣く所(五道の別異)』を、
『教示されるのである!』。
  金翅鳥(こんじちょう):龍を食う巨鳥。『大智度論巻25下注:迦楼羅』参照。
以此二事除三障礙而為說法拔三界眾生。得佛力無量神通。假令虛妄猶尚可信。何況實說是名方便。 此の二事を以って、三障礙を除き、為に説法して、三界より衆生を抜きたまえば、仏力と、無量の神通を得たもうこと、仮令(たとい)虚妄なりとも、尚お信ずべし。何に況んや、実説をや。是れを方便と名づく。
此の、
『二事を用いて!』、
『三障礙(煩悩障、業障、報障)を除き!』、
『衆生の為に法を説いて!』、
『三界より!』、
『衆生』を、
『抜かれるのであり!』、
『得られた!』、
『仏力や、無量の神通』が、
仮令(たとえ)、
『虚妄だったとしても!』、
尚お、
『仏』を、
『信じなくてはならない!』。
況して、
『仏』の、
『実説』は、
『尚更である!』。
是れを、
『方便』と、
『称する!』。
  三障礙(さんしょうげ):聖道を障うる煩悩障、業障、異熟障を云う。『大智度論巻8上注:三障』三障。
  三障:正道を遮り、善心を害するもの。
  1. 煩悩障:貪欲、瞋恚、愚癡等の迷い。
  2. 業障:十悪業等の他を苦しめる行為。
  3. 報障:地獄餓鬼畜生道等にて受ける苦報。
復次菩薩以般若波羅蜜。知諸法相念其本願。欲度眾生作是思惟。諸法實相中眾生不可得當云何度。復作是念。諸法實相中眾生雖不可得。而眾生不知是諸法相故。欲令知是實相。 復た次ぎに、菩薩は般若波羅蜜を以って、諸法の相を知り、其の本願を念じ、衆生を度せんと欲して、是の思惟を作す、『諸法の実相中には、衆生は不可得なり、当に云何が度すべき』、と。復た是の念を作さく、『諸法の実相中に衆生は不可得と雖も、衆生は是の諸法の相を知らず』、と。故に、是の実相を知らしめんと欲す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『般若波羅蜜を用いて!』、
『諸法の相』を、
『知る!』と、
其の、
『本願を念じて!』、
『衆生を度脱しよう!』と、
『思う!』が故に、
是の、
『思惟を作すことになる!』、――
『諸法の実相』中に、
『衆生』は、
『認められない!』が、
何のように、
『度すべきなのか?』、と。
復た( more again )、
是の、
『念を作すことになる!』、――
『諸法の実相』中に、
『衆生』が、
『認められなくても!』、
而し、
『衆生』は、
是の、
『諸法の相』を、
『知らない!』、と。
故に、
『衆生』に、
是の、
『実相を知らせよう!』と、
『思うのである!』。
復次是實法相。亦不礙眾生。實法相者名為無所除壞。亦無所作是名方便。具足是四法得入菩薩位 復た次ぎに、是の実の法相は、亦た衆生を礙(さまたげ)ず。実の法相とは、名づけて除慧する所無く、亦た作す所無しと為す。是れを方便と名づけ、是の四法を具足すれば、菩薩位に入るを得。
復た次ぎに、
是の、
『実の法相』は、
亦た、
『衆生の想』を、
『礙(さまたげ)るものではない!』。
『実の法相』とは、
『除壊する所(衆生想等)が無い!』と、
『称し!』、
亦た、
『作す所(実相等)が無い!』と、
『称するからである!』。
是れを、
『方便と称し!』、
是の、
『四法(発意、修行、大悲、方便)を具足すれば!』、
『菩薩位』に、
『入ることになる!』。



阿鞞跋致の地

【經】欲過聲聞辟支佛地住阿鞞跋致地。當學般若波羅蜜 声聞、辟支仏の地を過ぎて、阿鞞跋致の地に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『阿鞞跋致という!』、
『地』に、
『住まろうとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』。
【論】問曰。菩薩入法位時。即已過聲聞辟支佛地。住阿鞞跋致地。何以故復說。 問うて曰く、菩薩は法位に入る時、即ち已に声聞、辟支仏の地を過ぎて、阿鞞跋致の地に住したるに、何を以っての故にか、復た説く。
問い、
『菩薩』は、
『法位に入った!』時には、
已に、
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『阿鞞跋致の地』に、
『住まっている!』のに、
何故、
復た、
『説かれたのですか?』。
答曰。雖三事一時。諸法各各相應當次第讚。如一心中一時得無漏五根而各各分別說其相。菩薩入法位時。斷若干結使。得若干功德。過是地住是地唯佛能知。 答えて曰く、二事は一時なりと雖も、諸法の各各の相は、応当に次第に讃ずべし。一心中に一時に無漏の五根を得るも、各各分別して、其の相を説くが如し。菩薩は、法位に入る時、若干の結使を断じて、若干の功徳を得るも、是の地を過ぎて、是の地に住するは、唯だ仏のみ、能く知りたもう。
答え、
『二事(法位、阿鞞跋致地)は一時である!』が、
『諸法の各各相』は、
当然、
『次第に!』、
『讃じなければならない!』。
譬えば、
『一心中に一時に!』、
『無漏の五根』を、
『得るとしても!』、
其の、
『相』は、
『各各、分別して!』、
『説かれるようなものである!』。
『菩薩』は、
『法位に入る!』時、
若干の、
『結使』を、
『断じて!』、
若干の、
『功徳』を、
『得るのである!』が、
是の、
『地を過ぎて!』、
是の、
『地』に、
『住まるということ!』は、
唯だ、
『仏のみ!』が、
『知ることである!』。
  法位(ほうい):◯梵語 dharma-sthititaa の訳、法の常住の性質/法性/法住( the constant nature of dharma )の義。◯梵語 dharma-niyaamaka の訳、法の主/法王( the ruler of dharma )の義。法の場所/有る事物、或は各各の事物が、その真如という意味に於いて、その適した場処に存在すること( Dharma-position. A thing, or each thing being in its appropriate place in terms of its suchness. )の意。
  :三事:又一本には二事に作る。即ち入法位、過阿羅漢等地、住阿鞞跋致地なり。
亦欲引導諸菩薩故。佛種種讚說。如此經始佛在耆闍崛山。與五千比丘俱。皆是阿羅漢。諸漏已盡所作已辦等。阿羅漢即是漏盡。漏盡者即是所作已辦等。亦為引導餘人。令心清淨故。種種讚說無咎。此亦如是入法位即是過阿羅漢辟支佛地。住阿鞞跋致地。 亦た諸の菩薩を引導せんと欲するが故に、仏は種種に讃じて説きたまえり。此の経の始の如く、『仏は耆闍崛山に在りて、五千の比丘と倶なり。皆是れ阿羅漢にして、諸漏已に尽き、所作已に辦ず』、等なり。阿羅漢なれば、即ち是れ漏尽なり。漏尽なれば、即ち是れ所作已に辦ず等も、亦た余人を引導し、心をして清浄ならしめんが為の故に、種種に讃じて説きたまえるも、咎無し。此れも亦た是の如く法位に入れば、即ち此れ阿羅漢、辟支仏の地を過ぎ、阿鞞跋致の地に住するなり。
亦た、
『諸菩薩を引導しよう!』と、
『思われた!』が故に、
『仏』は、
『種種に讃じて!』、
『説かれている!』。
此の、
『経の始』に、こう説かれているが、――
『仏』は、
『耆闍崛山』に於いて、
『五千の比丘』と、
『倶にされていた!』が、
是れは、
『皆、阿羅漢であり!』、
『諸漏は、已に尽き!』、
『所作は、已に成されていた!』等、と。
是れも、
亦た、
『余人を引導して!』、
其の、
『心を清浄にする!』為の故に、
種種に、
『讃じて説かれたのであり!』、
『咎』は、
『無い!』。
此れも、
亦た、
是のように、
『法位に入れば!』、
即ち、
『阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて!』、
『阿鞞跋致の地』に、
『住まるのである!』。
復次因入法位故。得過阿羅漢辟支佛地。住阿鞞跋致地。 復た次ぎに、法位に入るに因るが故に、阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて、阿鞞跋致の地に住するを得。
復た次ぎに、
『法位に入る!』、
『因縁』の故に、
『阿羅漢、辟支仏の地を過ぎて!』、
『阿鞞跋致の地』に、
『住まることになるのである!』。
問曰。入法位中過老病死。及斷諸結使。破三惡道等如先說。何以但說過聲聞辟支佛地。亦住種種功德。何以故。但說住阿鞞跋致地。 問うて曰く、法位中に入りて、老病死を過ぎて、及び諸結使を断じ、三悪道を破す等、先に説けるが如し。何を以ってか、但だ、声聞、辟支仏の地を過ぐるを説き、亦た種種の功徳に住するを、何を以っての故にか、但だ、阿鞞跋致の地に住するを説く。
問い、
『法位中に入って!』、
『老病死を過ることや!』、
『諸結使を断じることや!』、
『三悪道を破ること!』等は、
先に、
『説かれた通りなのに!』、
何故、
但だ、こう説くのですか?――
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎる!』、と。
亦た、
種種の、
『功徳』に、
『住するはずなのに!』、
何故、
但だ、こう説くのですか?――
『阿鞞跋致の地』に、
『住する!』、と。
答曰。捨諸惡事得諸功德。後當次第說及所住功德。諸法當須次第。不可一時頓說。 答えて曰く、諸悪事を捨てて、諸功徳を得れば、後には当に次第に説きて、所住の功徳に及ぶべし。諸の法は当に須(すべか)らく次第にすべくして、一時に頓に説くべからず。
答え、
諸の、
『悪事』を、
『捨てて!』、
諸の、
『功徳』を、
『得たならば!』、
後は、
『次第に説きながら!』、
『所住の功徳』に、
『及ばねばならない!』。
諸の、
『法』は、
『次第に!』、
『説くこと!』が、
『必須であり!』、
『一時に!』、
『頓に( immediately )!』、
『説くべきでないからである!』。
復次菩薩初發意時所可怖畏無過聲聞辟支佛地。正使墮地獄無如是怖畏。不永破大乘道故。阿羅漢辟支佛。於此大乘以為永滅。 復た次ぎに、菩薩は初発意の時、怖畏すべき所は、声聞、辟支仏地に過ぐるは無く、正しく地獄に堕せしむるとも、是の如き怖畏無きは、永く大乗の道を破せざるが故なり。阿羅漢、辟支仏は、此の大乗に於いて、以って永く滅すと為す。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『初発意の時』に、
『怖畏すべき!』所は、
『声聞、辟支仏の地に過ぎる!』ものは、
『無い!』。
『正しく!』、
『地獄に堕とされた!』としても、
是のような、
『怖畏』が、
『無い!』のは、
永く、
『大乗の道』が、
『破られるからである!』。
『阿羅漢、辟支仏』は、
此の、
『大乗』を、
『永く滅してしまった!』と、
『推定される!』。
  以為(もって~となす):~と推定する/思う/信じる/認める( presume, think, believe, consider )。
譬如空地有樹名舍摩梨。觚枝廣大眾鳥集宿。一鴿後至住一枝上。其枝及觚即時壓折。澤神問樹神。大鳥鵰鷲皆能任持。何至小鳥便不自勝。樹神答言。此鳥從我怨家尼俱盧樹上來。食彼樹果來栖我上。必當放糞子墮地者惡樹復生為害必大。以是故於此一鴿大懷憂畏。寧捨一枝所全者大。 譬えば空地に樹有り、舎摩梨と名づけ、觚、枝広大にして衆鳥集まりて宿れるが如し。一鴿後に至りて、一枝上に住するに、其の枝、及び觚即時に圧折す。沢神の樹神に問わく、『大鳥の鵰鷲すら、皆能く任持す。何んが小鳥に至って、便ち自ら勝(た)えざる』、と。樹神の答えて言わく、『此の鳥、我が怨家の尼拘盧樹上より来たればなり。彼の樹果を食い、我が上に来たりて栖めば、必ず当に糞を放って、子(たね)地に堕つれば、悪樹復た生じて、害を為すこと、必ず大なるべし。是を以っての故に、此の一鴿に於いて、大いに憂畏を懐けば、寧ろ一枝を捨つるとも、全うする所は大なり』、と。
譬えば、こうである、――
『空地』に、
『舎摩梨と称する!』、
『樹が有り!』、
『觚枝( pointed ends of twig )』が、
『広大であった!』ので、
『衆鳥』が、
『集まり!』、
『宿にしていた!』。
『一鴿( a dove )が来て!』、
『一枝上』に、
『住まろうとする!』と、
其の、
『枝( branch )と觚( twigs )』が、
『即時に!』、
『へし折れた!』。
『沢神』が、
『樹神(舎摩梨)』に、こう問うた、――
『鵰鷲( an eagle )のような!』、
『大鳥すら!』、
皆、
『任持することができる( can bear to hold )!』のに、
何故、
『小鳥が来たぐらいで!』、
自ら、
『勝えられなかった( cannot bear )のですか?』、と。
『樹神は答えて!』、こう言った、――
此の、
『鳥』が、
わたしの、
『怨家( enemy )』の、
『尼倶盧樹上から!』、
『来たからです!』。
彼の、
『樹の果を食い!』、
わたしの、
『樹上に来て!』、
『栖む( stay )ことになれば!』、
必ず、
『糞』を、
『放つでしょう!』。
『種子』が、
『地に堕ちれば!』、
復た、
『悪樹が生じて!』、
必ず、
『被害』が、
『大きくなる!』ので、
是の故に、
此の、
『一鴿』に於いても、
『大いに!』、
『憂畏』を、
『懐くのであり!』、
寧ろ、
『一枝を捨てた方が!』、
『全うする( preserve )!』所が、
『大きいのです!』、と。
  舎摩梨(しゃまり):又舎摩利に作る。樹木の名。『大智度論巻27下注:舎摩利』参照。
  舎摩利(しゃまり):梵名zaalmali、又舎摩、舎摩梨、舎婆利、奢摩羅zaalmala、或いはzalmal、zalmalii、zaalmalii、zaalmmalinに作る。木綿と訳し、俗に班枝花とも云う。綿の樹の一種。学名Bombox hepta-phyllum、又はSalmalia malabarica。「起世経巻3」に、「別に無量の奢摩羅樹を生ず。其の樹は刺多く、並びに皆繊長なり。其の鋒は磨きたるがごとし」と云い、「大智度論巻12」に、「自ら死を取らんと欲して金翅鳥王に就く。鳥即ち此の龍子を取り、舎摩利樹の上に於いて之を呑む」と云える是れなり。喬木にして高さ四五丈に達し、樹皮の色は我が国の青桐の如く、葉は掌状を作し、冬季に落葉す。枝に鋭き刺を有し、花は赤色にして其の形椿の如く、果殻内に絮(ワタ)あり、熟すれば自ら出づ。絮は滑にして光沢あるも、粘著力なきが故に以って布となし、又絲となすに適せず。仍て彼の国人は皆之を枕又は褥に使用し、欧人等も亦た之を用う。又「和漢三才図会巻84灌木類木綿の條」に、「按ずるに班枝花(パンヤ)は、暹羅、交趾、東捕寨等より之を将来す。もし絲に紡(ツムグ)には古終の佳なるに如かざるなり。惟だ枕及び褥中の絮と為さば甚だ佳なり。人毎に坐臥に之を挼圧すと雖も、随って復た脹れ起る」とあり。又「起世因本経巻3」、「翻梵語巻9」等に出づ。<(望)
  (く):古代の飲酒器( goblet, jug )、蓋し花器の薄端の如し。又柧(く)に同じ、かど/角( edge and corners )、尖り/先端( pointedness, a pointed end )の義。
  (し):幹から出た枝( branch )、或は小枝( twig )。
  鴿(こう):はと。鳩。
  圧折(あつしゃく):圧しつぶされて折れる。
  沢神(たくじん):沼沢の神。
  樹神(じゅじん):樹木の神。
  鵰鷲(ちょうじゅ):鳥の名。わし。
  任持(にんじ):保持に堪える。
  怨家(おんけ):敵対する家。仇家。かたき。敵。
  尼俱盧樹(にくろじゅ):桑科の巨樹。『大智度論巻8上注:尼拘律樹』参照。
菩薩摩訶薩亦如是。於諸外道魔眾及諸結使惡業無如是畏。如阿羅漢辟支佛。何以故。聲聞辟支佛。於菩薩邊亦如彼鴿。壞敗大乘心永滅佛業。以是故但說過聲聞辟支佛地。 菩薩摩訶薩も亦た是の如く、諸の外道、魔衆及び諸結使、悪業に於いては、是の如き畏の、阿羅漢、辟支仏に如くは無し。何を以っての故に、声聞、辟支仏は、菩薩の辺に於いて、亦た彼の鴿の如く、大乗の心を壊敗し、永く仏業を滅すれば、是を以っての故に但だ、声聞、辟支仏の地を過ぐと説けり。
『菩薩摩訶薩』も、
是のように、
『諸の外道、魔衆や!』、
『諸の結使、悪業など!』を、
『畏れる!』が、
是のような、
『畏』は、
『阿羅漢、辟支仏の畏』には、
『及ばない!』。
何故ならば、
『声聞、辟支仏』が、
『菩薩の辺』に於いては、
彼の、
『鴿のように!』、
『大乗の心』を、
『壊敗させ( corruput )!』、
永く( permanently )、
『仏という!』、
『業果( consequence )』を、
『滅するからであり!』、
是の故に、
但だ、こう説くのである、――
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎる!』、と。
住阿鞞跋致地者。從初發意已來。常喜樂住阿鞞跋致地。聞諸菩薩多退轉故。發意時作願。何時當得過聲聞辟支佛地住阿鞞跋致地。以是故說住阿鞞跋致地。 阿鞞跋致地に住すとは、初発意より已来、常に阿鞞跋致地に住するを喜楽し、諸の菩薩の多く退転するを聞くが故に、発意の時に、作願すらく、『何の時にか、当に声聞、辟支仏の地を過ぎて、阿鞞跋致の地に住するを得べし』、と。是を以っての故に、阿鞞跋致の地に住するを説けり。
『阿鞞跋致の地に住まる!』とは、――
『初発意已来!』、
常に、
『阿鞞跋致の地』に、
『住まること!』を、
『喜楽してきた( look forward to )!』が、
諸の、
『菩薩』が、
『多く退転すること!』を、
『聞く!』が故に、
『発意の時』に、こう願うのである、――
何時か、
『声聞、辟支仏の地を過ぎて!』、
『阿鞞跋致の地』に、
『住まることができるだろう!』、と。
是の故に、こう説く、――
『阿鞞跋致の地』に、
『住まる!』、と。
問曰。何等是阿鞞跋致地。 問うて曰く、何等か、是れ阿鞞跋致の地なる。
問い、
何のようなものが、
『阿鞞跋致』の、
『地( country )ですか?』。
  阿鞞跋致(あびばっちじ):梵語 avaivartika-bhuumi の訳。不退の地( the country from where one is never returning )の意。
答曰。若菩薩能觀一切法不生不滅不不生不不滅不共非不共。如是觀諸法。於三界得脫。不以空不以非空。一心信忍十方諸佛所用實相智慧。無能壞無能動者。是名無生忍法。無生忍法即是阿鞞跋致地。 答えて曰く、若し菩薩、能く一切法の不生、不滅、不不生、不不滅、不共、非不共を観ぜば、是の如く諸法を観じて、三界より脱るるを得るも、空を以ってせず、非空を以ってせず、一心に十方の諸仏の所用の実相の智慧を信忍して、能く壊る無く、能く動かす者無し。是れを無生忍の法と名づく。無生忍の法は、即ち是れ阿鞞跋致の地なり。
答え、
若し、
『菩薩』が、
一切の、
『法』は、
『不生、不滅、不不生、不不滅、不共、非不共である!』と、
『観ることができれば!』、
是のように、
『諸法を観察して!』、
『三界』を、
『脱れられるのである!』が、
『空も、非空も用いることなく!』、
『一心』に、
『十方の諸仏の用いる!』所の、
『実相の智慧』を、
『信忍すれば!』、
是の、
『心』を、
『壊ったり、動かしたりする!』者が、
『無くなる!』ので、
是れを、
『無生忍の法』と、
『呼び!』、
是の、
『無生忍の法』が、
即ち、
『阿鞞跋致の地なのである!』。
  無生忍法(むしょうにんぽう):無生忍の法の意。無生忍は又無生法忍とも称す。即ち諸法無生の理を諦忍するを云う。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
  参考:『大智度論巻50』:『無生法忍者。於無生滅諸法實相中。信受通達無礙不退。是名無生忍。』
復次入菩薩位是阿鞞跋致地。過聲聞辟支佛地。亦名阿鞞跋致地。 復た次ぎに、菩薩位に入れば、是れ阿鞞跋致の地なり。声聞、辟支仏の地を過ぐるも亦た、阿鞞跋致の地と名づく。
復た次ぎに、
『菩薩位に入れば!』、
是れが、
『阿鞞跋致の地であり!』、
『声聞、辟支仏の地を過ぎても!』、
亦た、
『阿鞞跋致の地である!』。
復次住阿鞞跋致地。世世常得果報神通不失不退。若菩薩得此二法。雖得諸法實相。而以大悲不捨一切眾生。 復た次ぎに、阿鞞跋致の地に住すれば、世世常に果報を得て、神通不失不退なり。若し菩薩、此の二法を得れば、諸法の実相を得と雖も、大悲を以って一切の衆生を捨てず。
復た次ぎに、
『阿鞞跋致の地に住まれば!』、
『世世に常に!』、
『果報を得て!』、
『神通を退、失することがない!』。
若し、
『菩薩』が、
此の
『二法を得れば!』、
『諸法の実相』を、
『得たとしても!』、
『大悲を用いて!』、
『一切の衆生』を、
『捨てることがない!』。
復有二法。一者清淨智慧。二者方便慧。復有二法。一者深心念涅槃。二者所作不離世間。譬如大龍。尾在大海頭在虛空。震電雷霆而降大雨。 復た二法有り、一には清浄の智慧、二には方便の慧なり。復た二法有り、一には深心に涅槃を念ず、二には所作は世間を離れず。譬えば大龍の尾は大海に在り、頭は虚空に在りて、震電雷霆もって、大雨を降らすが如し。
復た、
『二法が有り!』、
一には、
『清浄な!』、
『智慧であり!』、
二には、
『方便』の、
『慧である!』。
復た、
『二法が有り!』、
一には、
『深心に!』、
『涅槃を念じることであり!』、
二には、
『所作』が、
『世間を離れないことである!』が、
譬えば、
『大龍』の、
『尾』が、
『大海』に、
『在り!』、
『頭』が、
『虚空』に、
『在って!』、
『震電や、雷霆を起して!』、
『大雨』を、
『降らせるようなものである!』。
  震電(しんでん):いかづちといなづま。
  雷霆(らいてい):かみなりといなづま。
復次阿鞞跋致菩薩。得是諸法實相智慧。世世不失終不暫離。於諸佛深經。終不疑亦不作礙。何以故。我未得一切智慧故。不知何方便何因緣故。如是說。 復た次ぎに、阿鞞跋致の菩薩は、是の諸法の実相の智慧を得て、世世に失わず、終に暫くも離れず。諸仏の深経に於いて、終に疑わず、復た礙を作さず。何を以っての故に、我れは未だ一切の智慧を得ざるが故に、何なる方便、何なる因縁なるやを知らざるが故に、是の如く説く。
復た次ぎに、
『阿鞞跋致の菩薩』は、
是の、
『諸法の実相という!』、
『智慧』を、
『得て!』、
世世に、
是の、
『智慧を失わず!』、
終に、
『暫くも!』、
『離れない!』ので、
諸の、
『仏の深経』に於いても、
終に、
『疑うことなく!』、
亦た、
『障礙』を、
『作すこともない!』。
何故ならば、
わたしは、
未だ、
一切の、
『智慧』を、
『得ていない!』が故に、
何のような、
『方便も、因縁も!』、
『知らない!』が故に、
是のように、
『疑わない!』等と、
『説くのである!』。
阿鞞跋致菩薩。常以深心終不生惡。阿鞞跋致以深心集諸善。淺心作諸不善。 阿鞞跋致の菩薩は、常に深心を以って、終に悪を生ぜず。阿鞞跋致は深心を以って、諸善を集め、浅心もて諸不善を作す。
『阿鞞跋致の菩薩』は、
常に、
『深心を用いて!』、
終に、
『悪』を、
『生じない!』が、
『阿鞞跋致』は、
『深心を用いる!』時は、
諸の、
『善』を、
『集める!』が、
『浅心を用いた!』時には、
諸の、
『不善』を、
『作すこともある!』。
  :阿鞞跋致( 梵語 avaivartika )は、不退( never returning )の意有るも、善悪の業を作すを意味せず。
問曰。若阿鞞跋致相。得無生法忍。云何以淺心作諸不善。 問うて曰く、若し阿鞞跋致の相にして、無生法忍を得れば、云何が浅心を以って、諸の不善を作す。
問い、
若し、
『阿鞞跋致の相』が、
『無生法忍』を、
『得ることならば!』、
何故、
『浅心を生じて!』、
『諸の不善』を、
『作すのですか?』。
答曰。有二種阿鞞跋致。一者得無生忍法。二者雖未得無生忍法。佛知其過去未來所作因緣。必得作佛。為利益傍人故為其授記。 答えて曰く、二種の阿鞞跋致有り、一には無生忍の法を得て、二には、未だ無生忍の法を得ざると雖も、仏は其の過去、未来に作せる所の因縁の、必ず仏と作るを得るを知り、為に傍、人を利益せんが為の故に、其の為に授記したもう。
答え、
『阿鞞跋致』には、
『二種有り!』、
一には、
『無生忍という!』、
『法』を、
『得ること!』、
二には、
未だ、
『無生忍という!』、
『法』は、
『得ていないが!』、
『仏』が、
其の、
『過去、未来に作す!』所の、
『因縁』で、
必ず、
『仏と作ることができる!』と、
『知って!』、
『畜生や、人間を利益する!』為の故に、
其の、
『人』の為に、
『授記されるのである!』。
  (ぼう):又傍生、畜生に作る。梵語 tiryag-yoni, tiryag-yonika の訳、即ち畜生に生まれる( born of or as an animal )、傍を歩く為に生まれる( born to walk on one side )の意。
是菩薩生死肉身結使未斷。於諸凡夫中為最第一。是亦名阿鞞跋致相。若得無生忍法斷諸結使此則清淨。末後肉身盡得法性生身。結使所不礙不須教誡。如大恒河中船不須將御自至大海。 是の菩薩は、生死、肉身、結使を未だ断ぜざるも、諸の凡夫中に於いては最も第一と為し、是れを亦た阿鞞跋致の相と名づく。若し無生忍の法を得て、諸の結使を断ずれば、此れ則ち清浄にして、末後の肉身尽くれば、法性生身を得、結使の礙(さまたげ)ざる所なれば、教誡を須(もち)いず。大恒河中の船は、将御を須(ま)たずして、自ら大海に至るが如し。
是の、
『菩薩』は、
未だ、
『生死、肉身、結使』を、
『断じていない!』が、
諸の、
『凡夫』中の、
『最も第一であり!』、
是れも、
『阿鞞跋致の相』と、
『呼ばれるのである!』。
若し、
『無生忍の法を得て!』、
諸の、
『結使』を、
『断じれば!』、
此の、
『人』は、
『清浄である!』が故に、
『末後の身が尽きれば!』、
『法性生身を得て!』、
『結使』に、
『礙(さまたげ)られない!』が故に、
『人』の、
『教誡』を、
『必要としない!』。
譬えば、
『大恒河』中の、
『船』が、
『将御( a guide/pilot )』を、
『待つことなく!』、
自ら、
『大海』に、
『至るようなものである!』。
  法性生身(ほっしょうしょうじん):法性を証して受くる身。『大智度論巻16下注:法性生身』参照。
復次有初發意生大心。斷諸煩惱知諸法實相。便得阿鞞跋致。有但行檀波羅蜜。便具足六波羅蜜。乃至般若波羅蜜亦如是。有行六波羅蜜。未得阿鞞跋致。於眾生中生大悲心。是時便得阿鞞跋致。 復た次ぎに、有るいは初発意にして大心を生じ、諸の煩悩を断じて、諸法の実相を知れば、便ち阿鞞跋致を得、有るいは但だ檀波羅蜜を行じて、便ち六波羅蜜を具足す、乃至般若波羅蜜も亦た是の如し。有るいは六波羅蜜を行じて、未だ阿鞞跋致を得ざるに、衆生中に於いて大悲心を生ずれば、是の時便ち阿鞞跋致を得。
復た次ぎに、
有る者は、
『初発意』に於いて、
『大心を生じて!』、
諸の、
『煩悩』を、
『断じ!』、
諸の、
『法の実相』を、
『知って!』、
便ち( immediately )、
『阿鞞跋致』を、
『得る!』。
有る者は、
但だ、
『檀波羅蜜を行うだけで!』、
便ち、
『六波羅蜜』を、
『具足することになる!』。
乃至、
『般若波羅蜜』も、
亦た、
『是の通りである!』。
有る者は、
『六波羅蜜を行いながら!』、
未だ、
『阿鞞跋致を得ていない!』時、
『衆生』中に、
『大悲心』を、
『生じた!』が故に、
是の時、
便ち、
『阿鞞跋致』を、
『得ることになる!』。
有得悲心而作是念。若諸法皆空則無眾生誰可度者。是時悲心便弱。或時以眾生可愍。於諸法空觀弱。 有るいは悲心を得て、是の念を作さく、『若し諸法にして、皆空なれば、則ち衆生無し、誰か度すべき者なる』、と。是の時、悲心便ち弱し。或は時に、衆生の愍むべきを以って、諸法に於いて空観弱し。
有る者は、
『悲心を得ていながら!』、こう念じた、――
若し、
『諸法が、皆空ならば!』、
則ち、
『衆生』は、
『無いことになる!』。
誰が、
『度されねばならぬのか?』、と。
是の時には、
便ち( easily )、
『悲心』が、
『弱ったのである!』。
或は時に、
『衆生は愍れまれるべきだ!』と、
『思った!』が故に、
『諸の法』に於いて、
『空観』が、
『弱まることになる!』。
若得方便力於此二法等無偏黨。大悲心不妨諸法實相。得諸法實相不妨大悲。生如是方便。是時便得入菩薩法位。住阿鞞跋致地。如往生品中說。 若し方便力を得れば、此の二法に於いて、等しく偏党する無し。大悲心は、諸法の実相を妨げず、諸法の実相を得るは、大悲を妨げず。是の如き方便を生ずれば、是の時便ち菩薩の法位に入るを得て、阿鞞跋致の地に住すること、往生品中に説けるが如し。
若し
『方便力を得れば!』、
此の、
『二法が等しくなり!』、
『偏党すること!』が、
『無くなる!』が故に、
『大悲心』は、
『諸法の実相』を、
『妨げず!』、
『諸法の実相を得る!』ことは、
『大悲』を、
『妨げない!』。
是のような、
『方便を生じれば!』、
是の時、
便ち、
『菩薩の法位に入って!』、
『阿鞞跋致の地』に、
『住することになる!』。
例えば、
『往生品』中に、
『説かれた通りである!』。
  偏党(へんとう):一方に偏る( be partial to one side )。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻2往生品』:『舍利弗。有菩薩摩訶薩初發意時行六波羅蜜。上菩薩位得阿惟越致地。‥‥佛告舍利弗。一切阿羅漢辟支佛果及智。是菩薩摩訶薩無生法忍。舍利弗是菩薩摩訶薩。如是行般若波羅蜜。當知是阿惟越致地中住。‥‥舍利弗。有菩薩摩訶薩從初發心。住檀那波羅蜜尸羅波羅蜜乃至阿惟越致地。終不墮三惡道。舍利弗。有菩薩摩訶薩。從初發心乃至阿惟越致地。常不捨十善行。‥‥』
復次阿鞞跋致相。如後阿鞞跋致二品中說
大智度論卷第二十七
復た次ぎに阿鞞跋致の相は、後の阿鞞跋致の二品中に説けるが如し。
大智度論巻第二十七
復た次ぎに、
『阿鞞跋致の相』は、
例えば、
後の、
『阿鞞跋致の二品(不退品、堅固品)』中に、
『説かれた通りである!』。


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