巻第二十七(上)
大智度論釋初品大慈大悲義第四十二
1.大慈、大悲
2.道慧、道種慧
3.一切智、一切種智
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大智度論釋初品大慈大悲義第四十二(卷二十七)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


大慈、大悲

【經】大慈大悲。當習行般若波羅密 大慈、大悲なれば、当に般若波羅蜜を習行すべし。
『大慈、大悲ならば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行するはずである!』。
  大慈(だいじ):梵語 mahaa-maitrii の訳、巨大な友情/巨大な愛情/巨大な同情( great friendship, great attachment, great compassion )の義。
  大悲(だいひ):梵語 mahaa-karuNaa の訳、巨大な哀れみ/巨大な同情( great pity, great compassion )の義。
  習行(じゅうぎょう):何かを追加する行為/反復/繰返し( the act of adding anything, reduplication, repetition )の義、繰返し、或は永久的な練習/鍛練/習慣/習慣的行為( repeated or permanent exercise, discipline, use, habit, custom )の意。
  習行(じゅうぎょう):ならいおこなう。繰り返し行い習熟する。習は学なり。既に学びて之を熟復するを習という。「講習」「学習:の如し。其の事に熟するを習という。「習見」「習聞」「明習法令」と言うが如し。習慣なり。凡そ習慣の為に転移せられて自ら脱する能わざる者を亦た習という。「積習」「習染」の如し。
【論】大慈大悲者。四無量心中已分別。今當更略說。大慈與一切眾生樂。大悲拔一切眾生苦。大慈以喜樂因緣與眾生。大悲以離苦因緣與眾生。譬如有人諸子繫在牢獄當受大罪。其父慈惻以若干方便。令得免苦。是大悲得離苦已。以五所欲給與諸子是大慈。如是等種種差別。 大慈、大悲とは、四無量心中に已に分別したるも、今、当に更に略説すべし。大慈は、一切の衆生に楽を与え、大悲は、一切の衆生の苦を抜き、大慈は、喜楽の因縁を以って、衆生に与え、大悲は、離苦の因縁を以って衆生に与う。譬えば、有る人は、諸子牢獄に繋がれて在れば、当に大罪を受くべし。其の父慈惻して、若干の方便を以って、苦を免るるを得しむれば、是れ大悲なり。苦を離るるを得已りて、五所欲を以って、諸子に給与すれば、是れ大慈なり。是れ等の如く種種に差別す。
『大慈、大悲』とは、
已に、
『四無量心(慈、悲、喜、捨無量)』中に、
『分別した!』が、
今、
更に、
『略説すべきであろう!』。
即ち、
『大慈』は、
一切の、
『衆生』に、
『楽を与える!』が、
『大悲』は、
一切の、
『衆生』の、
『苦を抜く!』。
『大慈』は、
『喜、楽の因縁』を、
『衆生』に、
『与える!』が、
『大悲』は、
『苦を離れる因縁』を、
『衆生』に、
『与える!』。
譬えば、
有る、
『人』の、
『諸子』が、
『牢獄に繋がれて!』、
『大罪』を、
『受けることになった!』ので、
其の、
『父』は、
『慈惻して( with love and dolour )!』、
若干の、
『方便を用いて!』、
『苦』を、
『免れさせてやった!』、
是れが、
『大悲である!』。
『苦を離れさせてから!』、
『五欲の欲する!』所を、
『諸子』に、
『給与した!』、
是れが、
『大慈である!』。
『大慈、大悲』には、
是れ等のような、
『差別』が、
『有る!』。
  四無量心(しむりょうしん):心に関する無量/果てしない状態( four immeasurable states of mind )、梵語 catvaari- apramaanaaNi の訳、衆生に至福を与え、苦痛を除く四種の瞑想/三昧( Four kinds of meditation to give bliss to, and to take away the suffering of sentient beings; )、他者に対し無量の関心を示す四種の心( four minds of immeasurable concern for others: )、即ち、
  1. 慈無量心 maitrii- apramaaNa- cittaani :思いやりに関する無量の心 (immeasurable mind of kindness),
  2. 悲無量心 karuNaa- a.- c. :哀れみに関する無量の心(immeasurable mind of pity),
  3. 喜無量心 muditaa- a. -c. :喜びに関する無量の心(immeasurable mind of joy),
  4. 捨無量心 upekSa- a.- c. :公平無私に関する無量の心(immeasurable mind of impartiality).
問曰。大慈大悲如是。何等是小慈小悲。因此小而名為大。 問うて曰く、大慈、大悲にして是の如くんば、何等か、是れ小慈、小悲にして、此の小に因って、名づけて大と為す。
問い、
『大慈、大悲』が、
是の通りならば、
何のような、
『小慈、小悲に因って!』、
是れが、
『大』と、
『呼ばれるのですか?』。
答曰。四無量心中慈悲名為小。此中十八不共法。次第說大慈悲名為大。 答えて曰く、四無量心中の慈悲を名づけて小と為し、此の中の十八不共法の次第に説く大慈悲を名づけて、大と為す。
答え、
『四無量心』中の、
『慈、悲』を、
『小』と、
『称し!』、
此の中の、
『十八不共法の次第に説く!』、
『大慈悲』を、
『大』と、
『称する!』。
復次諸佛心中慈悲名為大。餘人心中名為小。 復た次ぎに、諸仏の心中の慈悲を名づけて、大と為し、余人の心中を名づけて、小と為す。
復た次ぎに、
『諸仏の心』中の、
『慈悲』を、
『大』と、
『称し!』、
『余人の心』中の、
『慈悲』を、
『小』と、
『称する!』。
問曰。若爾者何以言菩薩行大慈大悲。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、『菩薩は大慈、大悲を行ず』、と言う。
問い、
若し、爾うならば、
何故、こう言うのですか?――
『菩薩』が、
『大慈、大悲』を、
『行う!』、と。
答曰。菩薩大慈者於佛為小。於二乘為大。此是假名為大。佛大慈大悲真實最大。 答えて曰く、菩薩の大慈とは、仏に於いては小と為すも、二乗に於いては大と為す。此れは是れ仮に名づけて、大と為すも、仏の大慈、大悲は真実最大なり。
答え、
『菩薩』の、
『大慈』は、
『仏』に、
『比べれば!』、
『小である!』が、
『二乗』に、
『比べれば!』、
『大である!』ので、
此の、
『大慈』は、
仮に、
『大』と、
『呼ばれるだけであり!』、
『仏』の、
『大慈、大悲こそ!』が、
真実にして、
『最大』の、
『大慈、大悲である!』。
復次小慈但心念與眾生樂實無樂事。小悲名觀眾生種種身苦心苦。憐愍而已不能令脫。大慈者念令眾生得樂亦與樂事。大悲憐愍眾生苦亦能令脫苦。 復た次ぎに、小慈は、但だ心に衆生に楽を与えんと念ずるも、実に楽事無く、小悲は、衆生の種種の身苦、心苦を観て、憐愍するのみにして、脱れせしむる能わずと名づく。大慈は、衆生をして、楽を得しめんと念ずれば、亦た楽事を与え、大悲は衆生の苦を憐愍すれば、亦た能く苦を脱れしむ。
復た次ぎに、
『小慈』は、
但だ、
『衆生』に、
『楽を与えたい!』と、
『心』に、
『念じるだけで!』、
実に、
『楽事』は、
『無く!』、
『小悲』は、
種種に、
『衆生』の、
『身苦、心苦』を、
『観ても!』、
『憐愍するだけで!』、
『苦』を、
『脱れさせることはできない!』が、
『大慈』は、
『衆生』に、
『楽を得させたい!』と、
『心』に、
『念じれば!』、
亦た、
『楽事』を、
『与えるのであり!』、
『大悲』は、
『衆生』の、
『苦を憐愍すれば!』、
亦た、
『苦』を、
『脱れさせられるのである!』。
復次凡夫人聲聞辟支佛菩薩慈悲名為小。諸佛慈悲乃名為大。 復た次ぎに、凡夫人、声聞、辟支仏、菩薩の慈悲を名づけて、小と為し、諸仏の慈悲を乃(すなわ)ち名づけて、大と為す。
復た次ぎに、
『凡夫人、声聞、辟支仏、菩薩』の、
『慈悲』は、
『小』と、
『呼ばれ!』、
『諸仏』の、
『慈悲だけが!』、
『大』と、
『呼ばれる!』。
復次大慈從大人心中生。十力四無所畏四無礙智。十八不共法大法中出。能破三惡道大苦。能與三種大樂。天樂人樂涅槃樂。 復た次ぎに、大慈は、大人の心中より生じて、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法の大法中に出で、能く三悪道の大苦を破り、能く三種の大楽なる天楽、人楽、涅槃楽を与う。
復た次ぎに、
『大慈』は、
『大人の心中より生じて!』、
『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法の大法中に出る!』ので、
『三悪道』の、
『大苦』を、
『破ることができ!』、
『三種の大楽である!』、
『天楽、人楽、涅槃楽』を、
『与えることができる!』。
復次是大慈。遍滿十方三世眾生乃至昆虫。慈徹骨髓心不捨離。若三千大千世界眾生墮三惡道。若人一一皆代受其苦得脫苦已。以五所欲樂禪定樂世間最上樂。自恣與之皆令滿足。比佛慈悲千萬分中不及一分。何以故。世間樂欺誑不實不離生死故。 復た次ぎに、是の大慈は、十方、三世の衆生に遍満して、乃至昆虫まで、慈は骨髄に徹して、心に捨離せず。若し三千大千世界の衆生、三悪道に墮つるに、若し人、一一を皆代りて、其の苦を受け、苦を脱るるを得しめ已りて、五所欲の楽、禅定の楽、世間最上の楽を以って、自ら恣(ほしいまま)に之を与えて、皆を満足せしむとも、仏の慈悲に比すれば、千万分中の一分にも及ばず。何を以っての故に、世間の楽は、虚誑、不実にして、生死を離れざるが故なり。
復た次ぎに、
是の、
『大慈』は、
『十方、三世』の、
『衆生』に、
『遍満する!』ので、
乃至、
『昆虫にすら!』、
『慈』は、
『骨髄』に、
『徹しており!』、
『心』が、
『捨離することはない!』ので、
若し、
『三千大千世界』の、
『衆生』が、
『三悪道』に、
『堕ちたとして!』、
若し、
『人』が、
『一一の衆生に代って!』、
皆、
其の、
『苦を受けて!』、
『苦』を、
『脱れさせてから!』、
自ら、
『五欲の楽、禅定の楽、世間最上の楽』を、
『恣(ほしいまま)に与えて!』、
『満足させたとしても!』、
『仏の慈悲に比較すれば!』、
『千万分中の一分にすら!』、
『及ばない!』。
何故ならば、
『世間の楽は虚誑、不実であり!』、
『生死』を、
『離れないからである!』。
問曰。法在佛心中一切皆大。何以故。但說慈悲為大。 問うて曰く、法は、仏心中に在れば、一切は皆、大なり。何を以っての故にか、但だ慈悲のみ、大と為すと説く。
問い、
『法』が、
『仏心中に在れば!』、
一切は、
皆、
『大である!』。
何故、
但だ、
『慈、悲のみ!』を、
『大である!』と、
『説くのですか?』。
答曰。佛所有功德法應皆大故。 答えて曰く、仏の有らゆる功徳法は、応に皆大なるが故なり。
答え、
『仏の有する!』、
『功徳法』は、
皆、
『大でなければならないからである!』。
問曰。若爾者何以但說慈悲為大。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、但だ慈悲を説いて、大と為す。
問い、
若し、
爾うならば、
何故、
但だ、
『慈、悲のみ!』を、
『大』と、
『説くのですか?』。
答曰。慈悲是佛道之根本。所以者何。菩薩見眾生老病死苦身苦心苦今世後世苦等諸苦所惱。生大慈悲救如是苦。然後發心求阿耨多羅三藐三菩提。亦以大慈悲力故。於無量阿僧祇世生死中心不厭沒。以大慈悲力故。久應得涅槃而不取證。以是故。一切諸佛法中慈悲為大。若無大慈大悲。便早入涅槃。 答えて曰く、慈悲は是れ仏道の根本なればなり。所以は何んとなれば、菩薩は、衆生の老病死の苦、身苦、心苦、今世、後世の苦等の諸の苦に悩さるるを見て、大慈悲を生じ、是の如き苦を救いて、然る後に発心して、阿耨多羅三藐三菩提を求むればなり。亦た大慈悲の力を以っての故に、無量阿僧祇世の生死中に於いて、心厭没せず、大慈悲の力を以っての故に、久しくすれば、応に涅槃を得べきも、証を取らず。是を以っての故に、一切の諸仏の法中に、慈悲を大と為すなり。若し大慈、大悲無くんば、便ち早く涅槃に入らん。
答え、
『慈、悲』は、
『仏道の根本だからである!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
『衆生』が、
『老病死の苦、身苦、心苦、今世、後世の苦』等の、
『諸苦に悩まされている!』のを、
『見る!』時、
『大慈悲を生じて!』、
是のような、
『衆生の苦』を、
『救い!』、
その後、
『発心して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『求めるからである!』。
亦た、
『大慈悲の力』の故に、
『無量阿僧祇の世』の、
『生死』中に於いて、
『心』に、
『厭没せず!』、
『大慈悲の力』の故に、
久しくすれば、
『涅槃を得られるのに!』、
『証』を、
『取ろうとしない!』。
是の故に、
一切の、
『諸仏の法』中に於いて、
『慈、悲』を、
『大とするのである!』。
若し、
『大慈、大悲が無ければ!』、
便ち( immediately )、
『早く!』、
『涅槃に入るだろう!』。
復次得佛道時。成就無量甚深禪定解脫諸三昧。生清淨樂棄捨不受。入聚落城邑中。種種譬喻因緣說法。變現其身無量音聲將迎一切。忍諸眾生罵詈誹謗。乃至自作伎樂。皆是大慈大悲力。 復た次ぎに、仏道を得る時、無量、甚深の禅定、解脱、諸三昧を成就して、清浄の楽を生ずるも、棄捨して受けず、聚落、城邑中に入りて、種種の譬喩、因縁もて説法し、其の身を変現し、無量の音声もて、一切を将迎し、諸の衆生の罵詈、誹謗を忍び、乃至自ら伎楽を作したもうまで、皆是れ大慈大悲の力なり。
復た次ぎに、
『仏道を得た!』時には、
『無量の甚だ深い!』、
『禅定、解脱、諸三昧を成就して!』、
『清浄の楽を生じた!』が、
『棄捨して!』、
『受けられなかった!』し、
『聚落、城邑中に入った!』時には、
種種の、
『譬喩、因縁を用いて!』、
『法』を、
『説きながら!』、
其の、
『身を(師子等に)変化して!』、
無量の、
『音声(師子吼)』を、
『現して!』、
一切の、
『衆生』を、
『将迎(守護)し!』、
諸の、
『衆生の罵詈、誹謗』を、
『忍んで!』、
乃至、
自ら、
『伎楽すら!』、
『作されたのである!』が、
皆、
是れは、
『大慈、大悲』の、
『力なのである!』。
  将迎(しょうぎょう):送迎( To send off and go to greet on return. )、将は送に同じ。世話をする( to take care of )の意。梵語 parirakSaNa の訳?将護に作る、護衛・守護する( guarding, protecting )、気配り・用心( care, caution )の義。
  伎楽(ぎがく):梵語vaadyaの訳。音楽の意。又妓楽に作る。「長阿含巻11善生経」に伎楽の六失を挙ぐ。六失とは一に歌を求む、二に舞を求む、三には琴瑟を求む、四には波内早、五には多羅槃、六には首呵那なり。然るに「法華経巻1序品」に、「香華伎楽常に以って供養す」と云い、又「無量寿経巻下」に、「心の所念に随いて華香伎楽繒蓋幢幡、無数無量の供養の具自然化生し、念に応じて即ち至る」と云えり。是れ娯楽の為の伎楽は之を禁ぜるも、供養を目的とせる伎楽は之を許せるが故に是の如き経説ありしものなるべし。又「大唐西域記巻1」等に出づ。<(望)
復次大慈大悲大名。非佛所作眾生名之。 復た次ぎに、大慈、大悲を大と名づくるは、仏の所作に非ず、衆生之を名づくるなり。
復た次ぎに、
『大慈、大悲』を、
『大と称する!』のは、
『仏』が、
『作されたのではなく!』、
『衆生』が、
『大』と、
『称したのである!』。
譬如師子大力。不自言力大。皆是眾獸名之。眾生聞佛種種妙法。知佛為祐利眾生故。於無量阿僧祇劫難行能行。眾生聞見是事。而名此法為大慈大悲。 譬えば、師子の大力は、自ら『力大なり』と言えるにあらず、皆是れ衆獣、之を名づけたるが如し。衆生は、仏の種種の妙法を聞きて、仏の衆生を祐利せんが為の故に、無量阿僧祇劫に於いて、難行を能く行じたまえるを知れば、衆生、是の事を聞見して、此の法を名づくるに、大慈大悲と為せり。
譬えば、
『師子』の、
『大力』は、
自ら、
『力が大である!』と、
『言ったのではなく!』、
皆、
『衆獣』が、
『大だ!』と、
『称したものであるように!』、
『衆生』は、
『仏より!』、
種種の、
『妙法』を、
『聞いて!』、
『衆生を祐利(祐助・利益)する!』為の故に、
『仏が行った!』のは、
『無量阿僧祇劫の難行である!』と、
『知ったのである!』が、
『衆生』は、
是の、
『事を聞見した!』が故に、
此の、
『法』を、
『大慈、大悲』と、
『呼んだのである!』。
譬如一人有二親友。以罪事因緣故繫之囹圄。一人供給所須一人代死。眾人言能代死者。是為大慈悲。佛亦如是。世世為一切眾生。頭目髓腦盡以布施。眾生聞見是事。即共名之為大慈大悲。 譬えば、一人に、二親友有り、罪事の因縁を以っての故に、之を囹圄に繋ぐに、一人は、須(もと)むる所を供給し、一人は代りて死せり。衆人の『能く代りて死する者は、是れを大慈悲と為す』と言えるが如し。仏も亦た是の如く、世世に、一切の衆生の為に、頭目、髄脳の尽くを以って布施したまえば、衆生是の事を聞見して、即ち共に之を名づくるに、大慈、大悲と為せり。
譬えば、
『一人』に、
『二親友が有った!』が、
是の、
『人』が、
『罪事の因縁』の故に、
『囹圄(牢獄)』に、
『繋がれる!』と、
『親友』の、
『一人』は、
『必要とする!』所を、
『供給し!』、
『一人』は、
『代って!』、
『死ぬ!』と、
『衆人』が、こう言うようなものである、――
『代って死ぬことができれば!』、
是れが、
『大慈悲である!』、と。
『仏』も、
是のように、
『世世』に、
一切の、
『衆生』の為に、
『頭目、髄脳の尽く!』を、
『布施された!』ので、
『衆生』が、
是の、
『事』を、
『聞見して!』、
共に、
『大慈、大悲である!』と、
『呼んだのである!』。
如尸毘王。為救鴿故盡以身肉代之。猶不與鴿等。復以手攀稱欲以身代之。是時地為六種震動海水波蕩。諸天香華供養於王。眾生稱言為一小鳥所感乃爾。真是大慈大悲。 尸毘王の如きは、鴿(はと)を救わんが為の故に、尽く身肉を以って、之に代えんとするも、猶お鴿と等しうならざれば、復た手を以って、称り(はかり)に攀(よ)ぢ、身を以って、之に代えんと欲す。是の時、地は為に六種に振動し、海水は波蕩し、諸天は香華もて、王を供養し、衆生は称えて言わく、『一小鳥の為に感ずる所、乃ち爾り、真に是れ大慈、大悲なり』、と。
例えば、
『尸毘王など!』は、こうであった、――
『鴿(はと)を救う!』為に、
尽くの、
『身肉』を、
是の、
『鴿』に、
『代えようとした!』が、
猶お、
『鴿』に、
『等しくならない!』ので、
復た更に、
『手を用いて!』、
『称(はかり)に攀(よぢのぼ)り!』、
『全身』を、
『代えようとしたのである!』が、
是の時、
『地は六種に振動し!』、
『海水は波蕩して!』、
『諸天』は、
『香華を用いて!』、
『王を供養し!』、
『衆生』は、
『王を称(たた)えて!』、こう言ったのである、――
『一小鳥の為にすら!』、
『爾れほどであるとは!』、
是れこそ、
『真に!』、
『大慈、大悲である!』、と。
  尸毘王(しびおう):仏因位に菩薩行を修せし時の名。『大智度論巻4、巻33上注:尸毘王』参照。
  鴿(こう):はと。鳥の名。鳩と同類。「野鴿」「家鴿」の二種あり。野鴿は全体暗黒、ただ背の中央のみ灰白色、頸と胸に紫緑色の光沢あり。深林中に群棲し、出でて田禾を食う。害鳥の一種たり。家鴿は野鴿の変種。飛翔頗る捷くして記憶力甚だ強く、放って遠処に至るも皆な能く自ら帰る。故に軍中伝書の用に充つ。俗に「鵓鴿」と称す。
  (しょう):はかり。斤両を正す所以の者。俗に「秤」に作る。
  波蕩(はとう):波がゆれ動くように騒然として静まらない。ゆれうごく。動揺。波は水の動揺して其の面に凸凹起伏するもの。水の動き。水のあや。水紋。蕩は往復運動、揺動の意。ゆれる。ゆれうごく。
  (ない):意味を強める辞。それ。これ。あのような。
  本生(ほんしょう):梵語闍陀伽jaatakaの訳。巴梨語同じ。又闍多迦、闍陀に作り、或いは本縁、本起と訳し、略して生とも云う。九部経の一、十二部経の一。仏が過去永劫に種種の生を受け、菩薩道を行ぜられし故事を云う。「大毘婆沙論巻126」に、「本生とは云何。謂わく諸経中に過去の所経生の事を宣説す。熊鹿等の諸の本生経の如し。仏は提婆達多に因みて五百の本生の事等を説くが如し」と云い、「大般涅槃経巻15」に、「何等をか名づけて闍陀伽経と為す。仏世尊の如き本と菩薩たりし時、諸の苦行を修す。所謂比丘当に知るべし、我れ過去に於いて鹿と作り羆と作り、麞と作り兔と作り、粟散王、転輪聖王、龍、金翅鳥と作る。諸の是の如き等の菩薩道を行ずる時に受くべき所の身なり、是れを闍陀伽と名づく」と云える是れなり。是れ釈尊が過去因位に於いて鹿身を受け、熊身を受け、乃至粟散王、転輪聖王等の身を受け、衆生の為に種種の苦行を敢てせられたるを本生と称し、之を記述せるものを本生経と名づくることを説けるものなり。蓋し本生は「巴梨文長部経註sumaGgalavilaasinii序」に「無戯論本生apaNNaka-jaatakaを始めとせる五百五十の本生が本生と知らるべし」と云い、現に「巴梨文本生jaataka」には無戯論本生以下五百四十六種の本生を集録し、其の他諸部の阿含を始め、大乗諸経中にも多く之を散説し、亦た一経として編纂せられたるものも少なからず。即ち「中阿含巻14大善見王経」、「長阿含巻3遊行経」等には大善見王本生を出し、「中阿含巻17長寿王本起経」には長寿diighiiti王本生、「増一阿含経巻13地主品」には地主王diizaM-pati本生、「同巻38馬血天子問八政品」には牟尼本生を説き、又「巴梨文那先比丘経milinda-paaJha」、「若用蔵cariyaa-piTaka」等にも数種の本生を記述せり。又「太子瑞応本起経巻上」、「過去現在因果経巻1」等には儒童本生、「菩薩本縁経」には毘摩羅、月光王、龍王等の八種、「撰集百縁経」には商主、梵摩王、尸毘王等の二十首、「生経」には那羅仙人、野鶏、商主、獼猴王、天帝釈、儒童梵志等の三十一種、「菩薩本行経」には迦那迦跋弥王、尸毘王、薩埵王子、須陀素弥王、須大拏太子等の二十二種、「六度集経」には菩薩、普施、須大拏太子、墓魄太子、普明王、睒仙人、獼猴王、常悲菩薩、儒童梵志等の九十種、「賢愚経」には修楼婆王、尸毘王、薩埵王子、大光明王、月光王、快目王、須陀素弥王等の三十三種、「雑宝蔵経」には王子、睒仙人、六牙白象、鵝、商主、長者等の三十九種、「大方便仏報恩経」には須闍提太子、婆羅門、忍辱太子等の八種、「菩薩本生鬘論」には薩埵王子、尸毘王、慈力王等の七種、「梵文本生鬘論jaatakamaalaa」にはヴャーグフリーvyaaghrii本生以下三十四種、「同大事mahaavastu」には三鳥本生tri-zakumi以下四十種、其の他、「義足経」、「法華経巻3化城喩品」、「大宝積経巻80」、「同巻81護国菩薩会」、「護国尊者所問大乗経巻2」、「金光明経巻4」、「大般涅槃経巻14」、「悲華経」、「仁王般若波羅蜜経巻下」、「大乗本生心地観経巻1」、「大智度論巻12」等にも各皆一種乃至数種の本生を挙げ、又別に一経として本生を宣説せるものに、「太子慕魄経」、「太子須大拏経」、「睒子経」、「九色鹿経」、「菩薩投身飼餓虎起塔因縁経」、「長寿王経」、「鹿母経」、「大意経」、「金色王経」、「銀色女経」、「妙色王因縁経」、「月明菩薩経」等あり。又此等は主として釈尊の本生を説示せしものなるも、此の他に弥勒等の諸弟子、並びに阿弥陀等の諸仏に関する本生を記述せるもの少なからず。彼の「善見律毘婆沙巻2」に、摩訶曇無徳が摩訶勒咜国に至りて「摩訶那羅陀迦葉本生経を説きしことを伝え、「賢愚経巻12波婆利品」、並びに「一切智光明仙人慈心因縁不食肉経」等に弥勒の本生を説き、「師子月仏本生経」に婆須蜜の本生を記し、「無量寿経巻上」、「悲華経巻2」等には阿弥陀仏の本生、「阿閦仏国経巻上」、「賢劫経巻3」等に阿閦仏の本生、「悲華経巻2」、「如幻三摩地無量印法門経」等に観音勢至の本生を説ける如き皆即ち是れなり。就中、釈尊に関する本生は、古来最も深く尊信せられ、印度を始め、南海諸国、西域地方等に於いて之を彫画するの風盛んに行われ、現存の遺品も亦た甚だ多し。即ち印度ブハルフートbharhuut塔の欄楯には、現に九色鹿、六牙白象、墓魄太子、睒仙人、大天王、商主、獼猴王、野鶏王等の二十数種の象を浮彫し、又サンチsanchi塔門には睒仙人、須大拏太子等、アマラーヴァチーamaraavatii塔の欄楯には尸毘王、須大拏等の諸像、アジャンタajanta第十七窟には六牙白象、熊、鹿、普明王、尸毘王、須提羅王及び雁、其の他の諸窟に月光王、普施道士等の壁画を遺存せり。又錫蘭に於いて夙に五百本生の彫造せられたることは、「高僧法顕伝師子国無畏山寺の條」に、「王は便ち両辺を挟み、菩薩五百身已来の種種の変現を作る。或いは須大拏を作り、或いは睒変を作り、或いは象王を作り、或いは鹿馬を作る。是の如きの形像は皆彩画荘校し、状生人の如し」と記するに依りて知るを得べし。又瓜哇ボロブドルborobudurの回廊壁面には、現に尸毘王、普明王、須大拏太子等の夥多の浮彫像を安じ、北方健馱邏地方ジャマールガルヒjamaalgaRhi出土の遺品中にも睒仙人、須大拏太子像、中央亜細亜ミーランmiran出土中に須大拏太子図、キヂルkizil出土中に尸毘王、月光王、薩埵王子、忍辱仙、獼猴王等の図、ショルチュックchorchuk発掘品中に薩埵王子図等あり。支那及び本邦等に於いては本生に関する彫画の造顕せられたるもの比較的少なく、今龍門賓陽洞に薩埵王子彫像、呉越王銭弘俶塔中に尸毘王等の四変相、本邦法隆寺玉虫厨子の台座に雪山童子、薩埵王子図等を存するに過ぎず。蓋し本生説話は菩薩が因位に於いて身命を捨てて人畜の危難を救い、若しくは求法の為に精進せし故事等を記述せしものにして、其の中には犠牲的精神の横溢するものあるを見るなり。大乗仏教の利他大悲の教旨は恐らく此に胚胎せしものなるべく、又彼の六波羅蜜の行法は恐らく此の多種の本生説話を分類し、之を菩薩行として組織せしものなるべし。又本生説話は当時印度の文学等にも影響を与えたるが如く、彼のパンチャタントラpaJca-tantra等の印度寓話文学は本生経を基調となせるものと称せられ、又夙に波斯、亜刺比亜等を始め、西欧諸国にも訓話として流伝し、且つイソップaesop物語等の寓話の淵源をなすに至れりと云う。又「大智度論巻33」、「瑜伽師地論巻25」、「大乗法苑義林章巻2」、「大唐西域記巻3」、「翻訳名義集巻9」等に出づ。<(望)
佛因眾生所名故。言大慈大悲如是等無量本生是中悉應廣說。 仏を、衆生の名づくる所に因るが故に、大慈大悲と言えば、是れ等の如き無量の本生を、是の中にも悉く応に広説すべし。
『仏』を、
『衆生が呼んだ!』が故に、
『大慈、大悲』と、
『言うのである!』が、
是れ等のような、
『無量の本生』を、
是の中にも、
悉く、
『広説すべきであろう!』。
問曰。禪定等諸餘功德。人不知故不名為大。智慧說法等能令人得道。何以不稱言大。 問うて曰く、禅定等の諸余の功徳を、人は知らざるが故に、名づけて大と為すにあらざれば、智慧、説法等の、能く人をして、道を得しむるをば、何を以ってか、称えて大と言わざる。
問い、
若し、
『禅定等の諸余の功徳』は、
『人が知らない!』が故に、
『大』と、
『呼ばないとすれば!』、
『智慧や、説法等』は、
『人』に、
『道』を、
『得させることができるのに!』、
何故、
『称(たた)えて!』、
『大』と、
『言わないのですか?』。
答曰。佛智慧所能無有遍知者。大慈大悲故。世世不惜身命。捨禪定樂救護眾生人皆知之。於佛智慧可比類知。不能了了知。慈悲心眼見耳聞。處處變化大師子吼。是故可知。 答えて曰く、仏の智慧の能くする所は、遍く知る者の有ること無けれども、大慈、大悲の故に、世世に身命を惜まず、禅定の楽を捨てて、衆生を救護するは、人、皆之を知ればなり。仏の智慧に於いては、比類して知るべくも、了了として知ること能わず。慈悲心は、眼に見、耳に聞きて、処処に大師子に変化して吼えたまえば、是の故に知るべし。
答え、
『仏』の、
『智慧の能力』を、
『遍く知る!』者は、
『無い!』が、
『大慈、大悲』の故に、
『世世』に、
『身命』を、
『惜まなかったり!』、
『禅定の楽を捨てて!』、
『衆生』を、
『救護する!』ことは、
『人』が、
皆、
『知っているからである!』。
『仏』の、
『智慧』は、
『比類して、ようやく知るだけであり!』、
『了了として!』、
『知ることはできない!』が、
『慈悲心』は、
処処に、
『師子・象・鹿・猿等に変化する!』のを、
『眼』に、
『見たり!』、
『師子吼される!』のを、
『耳』に、
『聞いたりする!』ので、
是の故に、
『知ることができる!』。
復次佛智慧細妙。諸菩薩舍利弗等。尚不能知何況餘人。慈悲相可眼見耳聞故人能信受。智慧深妙不可測知。 復た次ぎに、仏の智慧は細妙なれば、諸の菩薩、舍利弗等すら、尚お知る能わず、何に況んや余人をや。慈悲の相は、眼に見て、耳に聞くべきが故に、人は能く信受するも、智慧の深妙なるは、測知するべからず。
復た次ぎに、
『仏の智慧』は、
『細緻・微妙である!』が故に、
諸の、
『菩薩や、舍利弗等すら!』、
尚お、
『知ることができない!』、
況して、
『余の人』は、
『言うまでもない!』。
『慈悲の相』は、
『眼で見、耳に聞くことができる!』が故に、
『人』は、
『信じて!』、
『受けることができる!』が、
『智慧』の、
『深妙さ!』は、
『人』が、
『計測して!』、
『知ることができない!』。
復次是大慈大悲。一切眾生所愛樂。譬如美藥人所樂服。智慧如服苦藥人多不樂。人多樂故稱慈悲為大。 復た次ぎに、是の大慈、大悲は、一切の衆生の愛楽する所なり。譬えば美薬は、人の楽しんで服する所なるが如し。智慧は苦薬を服するが如く、人は多く楽しまず、人の多く楽しむが故に慈悲を称えて、大と為すなり。
復た次ぎに、
是の、
『大慈、大悲』は、
一切の、
『衆生』に、
『愛楽されるからである!』。
譬えば、
『美薬』を、
『人』が、
『楽しんで!』、
『服するようなものである!』。
『智慧』は、
『苦薬のように!』、
『人の多く!』は、
『楽しまない!』が、
『人の多くが楽しむ!』が故に、
『慈悲』を、
『大である!』と、
『称えるのである!』。
復次智慧者。得道人乃能信受。大慈悲相一切雜類皆能生信。如見像若聞說。皆能信受。多所饒益故。名為大慈大悲。 復た次ぎに、智慧は、得道の人にして、乃ち能く信受するも、大慈悲の相は、一切の雑類の皆、能く信を生ず。像を見て、若しは説を聞くが如きは、皆能く信受し、饒益する所多きが故に、名づけて、大慈大悲と為す。
復た次ぎに、
『智慧』は、
『人』が、
『道を得て!』、
ようやく、
『信受できるものである!』が、
『大慈悲の相』は、
一切の、
『雑類(人と人以外と!)の者』に、
皆、
『信』を、
『生じさせることができる!』。
譬えば、
『像を見たり!』、
『説を聞いたりすれば!』、
皆、
『信受させることができ!』、
『饒益する!』所が、
『多いので!』、
是の故に、
『大慈、大悲』と、
『称するのである!』。
復次大智慧。名捨相遠離相。大慈大悲為憐愍利益相。是憐愍利益法。一切眾生所愛樂。以是故名為大。 復た次ぎに、大智慧を、捨相、遠離相と名づくるに、大慈、大悲は、憐愍、利益の相と為す。是の憐愍、利益の法は、一切の衆生の愛楽する所なれば、是を以っての故に名づけて、大と為す。
復た次ぎに、
『大智慧』とは、
『捨とか、遠離とか!』の、
『相である!』が、
『大慈、大悲』は、
『憐愍や、利益』の、
『相であり!』、
是の、
『憐愍、利益の法』は、
一切の、
『衆生』に、
『愛楽される!』ので、
是の故に、
『大』と、
『称するのである!』。
是大慈大悲。如持心經中說。大慈大悲有三十二種。於眾生中行。是大慈大悲攝相緣。如四無量心說。 是の大慈、大悲は、持心経中に説けるが如く、大慈大悲には、三十二種有りて、衆生中に於いて行ずれば、是の大慈、大悲は相を摂(と)りて縁ずること、四無量心に説けるが如し。
是の、
『大慈、大悲』は、
例えば、
『持心経中に説かれているように!』、
『大慈、大悲』には、
『三十二種』、
『有る!』が、
皆、
『衆生』中に於いて、
『行われ!』、
是の、
『大慈、大悲』は、
『相を摂って!』、
『縁じる(心を起す)からであり!』、
例えば、
『四無量心』中に、
『説いた通りである!』。
  参考:『持心梵天所問経巻1』:『佛告梵天。如來至真以何方便遍修大哀。而為眾生講說法乎。如來則以三十二事有所發遣。而加大哀濟于眾生。何為三十二。無有吾我。於一切法令眾生類解信無身。如來於彼而興大哀(一)。於一切法眾生無受而反有人。如來於彼興發大哀(二)。一切諸法則無有命。而眾生反計有命。如來於彼興顯大哀(三)。一切諸法而無有壽。而眾生反計有壽。如來於彼興顯大哀(四)。一切諸法為無所有。而眾生反計有處所。如來於彼興顯大哀(五)。一切諸法都無所依。而眾生反有所倚著(六)。一切諸法悉為虛無。而眾生反志有所樂(七)。一切諸法悉無吾我。而眾生反計有吾我(八)。一切諸法悉無有主。而眾生反專志貪受(九)。一切諸法悉無可受。而眾生反依倚形貌(十)。一切諸法悉無所生。而眾生反著於所生(十一)。一切諸法悉無有沒。而眾生反貪於生死(十二)。一切諸法悉無欲塵。而眾生反沒溺塵垢(十三)。一切諸法悉無貪欲。而眾生反為所染污(十四)。一切諸法悉無恚怒。而眾生反懷愶結恨(十五)。一切諸法悉無愚癡。而眾生反為之迷惑(十六)。一切諸法悉無所從來。而眾生反樂倚所趣(十七)。一切諸法悉無所趣。而眾生反依于終始(十八)。一切諸法悉無造行。而眾生反務建所修(十九)。一切諸法悉無放逸而眾生反馳騁縱恣(二十)。一切諸法悉為空靜。而眾生反處於所見(二十一)。一切諸法悉為無想。而眾生反想行為上(二十二)。一切諸法悉無有願而眾生反志于所僥(二十三)。已為遠離若干種事有所受者。世俗所怙瞋怒結恨。所獲患厭不與怨敵而集會也及諸不忍處於仁和(二十四)。遵修顛倒為世所習遊於邪徑。則能棄除所生之處(二十五)。彼則無有審道所趣。則為煩憒得于財利世俗所依。則而志慕一切資業。當以抑制諸無厭欲。即使具足賢聖之貨。信戒慚愧聞施智慧。建立於此具足七財(二十六)。吾謂眾生為恩愛僕。以無堅要為堅要想。財業家居妻子之娛便無有安。所以謂之為恩愛僕。眾生之類無有堅要為堅固想。當為講說計有常者為現無常(二十七)。吾謂眾生求財利業。則為仇怨。而反謂之為是親友。吾為建立顯親友行。而為蠲除勤苦之患究竟滅度(二十八)。吾謂眾生以反邪業。各各處於若干言教。當為講說清淨微妙無業之命分別說法(二十九)。吾謂眾生為諸塵垢而現污染。於家居事多有患害擾攘之務。而為說法當令出去等度三界(三十)。處於所作一切諸法。因貪起住眾緣所處諸立之相。眾生於彼而修懈廢。當為說法至聖解脫。勸令精進為度堅要。而說經法悉使獲安。又加於是而復反捨無閡之慧(三十一)。最尊滅度志于下賤聲聞緣覺。當為顯示微妙之行。如來因此則於眾生興闡大哀。』
  参考:『大智度論巻20』:『問曰。若樂有二分。慈心喜心。悲心觀苦何以不作二分。答曰。樂是一切眾生所愛重故作二分。是苦不愛不念故不作二分。又受樂時心軟。受苦時心堅。如阿育王弟違陀輸。七日作閻浮提王。得上妙自恣五欲。過七日已。阿育王問言。閻浮提主受樂歡暢不。答言。我不見不聞不覺。何以故。旃陀羅日日振鈴高聲唱。七日中已爾許日過。過七日已汝當死。我聞是聲雖作閻浮提王上妙五欲。憂苦深故不聞不見。以是故知苦力多樂力弱。若人遍身受樂。得一處針刺眾樂皆失但覺刺苦。樂力弱故。二分乃強苦力多故一處足明。問曰。行是四無量心。得何等果報。答曰。佛說入是慈三昧。現在得五功德。入火不燒。中毒不死。兵刃不傷。終不橫死。善神擁護。以利益無量眾生故。得是無量福德。以是有漏無量心。緣眾生故生清淨處。所謂色界。問曰。何以故。佛說慈報生梵天上。答曰。以梵天眾生所尊貴。皆聞皆識故。佛在天竺國。天竺國常多婆羅門。婆羅門法所有福德盡願生梵天。若眾生聞行慈生梵天。皆多信向行慈法。以是故說行慈生梵天。復次斷婬欲天皆名為梵。說梵皆攝色界。以是故斷婬欲法名為梵行。離欲亦名梵。若說梵則攝四禪四無色定。復次覺觀難滅故。不說上地名。譬如五戒中口律儀。但說一種不妄語則攝三事。問曰。慈有五功德。悲喜捨何以不說有功德。答曰。如上譬喻。說一則攝三事此亦如是。若說慈則已說悲喜捨。復次慈是真無量。慈為如王餘三隨從如人民。所以者何。先以慈心欲令眾生得樂。見有不得樂者故生悲心。欲令眾生離苦心得法樂故生喜心。於三事中。無憎無愛無貪無憂故生捨心。復次慈以樂與眾生故。增一阿含中說有五功德悲心。於摩訶衍經處處說其功德。如明網菩薩經中說。菩薩處眾生中。行三十二種悲。漸漸增廣轉成大悲。大悲是一切諸佛菩薩功德之根本。是般若波羅蜜之母。諸佛之祖母。菩薩以大悲心故。得般若波羅蜜。得般若波羅蜜故得作佛。如是等種種讚大悲。喜捨心餘處亦有讚。慈悲二事遍大故。佛讚其功德。慈以功德難有故。悲以能成大業故。問曰。佛說四無量功德。慈心好修善修福極遍淨天。悲心好修善修福極虛空處。喜心好修善修福極識處。捨心好修善修福極無所有處。云何言慈果報應生梵天上。答曰。諸佛法不可思議。隨眾生應度者如是說。復次從慈定起。迴向第三禪易。從悲定起向虛空處。從喜定起入識處。從捨定起。入無所有處易故。復次慈心願令眾生得樂。此果報自應受樂。三界中遍淨最為樂故。言福極遍淨。悲心觀眾生老病殘害苦行者憐愍心生。云何令得離苦。若為除內苦外苦復來。若為除外苦內苦復來。行者思惟有身必有苦。唯有無身乃得無苦。虛空能破色。是故福極虛空處。喜心欲與眾生心識樂。心識樂者。心得離身如鳥出籠。虛空處心雖得出身。猶繫心虛空識處無量。於一切法中皆有心識。識得自在無邊。以是故喜福極在識處。捨心者。捨眾生中苦樂。苦樂捨故得真捨法。所謂無所有處。以是故捨心福。極無所有處。如是四無量。但聖人所得非凡夫。復次佛知未來世諸弟子鈍根故。分別著諸法。錯說四無量相。是四無量心。眾生緣故但是有漏。但緣欲界故。無色界中無。何以故。無色界不緣欲界故。為斷如是人妄見故。說四無量心無色界中。佛以四無量心。普緣十方眾生故。亦應緣無色界中。如無盡意菩薩問中說。慈有三種。眾生緣法緣無緣。論者言。眾生緣是有漏無緣是無漏。法緣或有漏或無漏。如是種種略說四無量心。』
復次佛大慈大悲等功德不應一切。如迦旃延法中。分別求其相。上諸論議師。雖用迦旃延法。分別顯示不應盡信受。所以者何。迦旃延說大慈大悲一切智慧。是有漏法繫法世間法。是事不爾。何以故。大慈大悲名為一切佛法之根本。云何言是有漏法繫法世間法。 復た次ぎに、仏の大慈、大悲等の功徳は、応に一切、迦栴延法中の如きに、其の相を分別して、求むべからず。上の諸論議の師は、迦栴延法を用いて、分別し、顕示すと雖も、応に尽くは信受すべからず。所以は何んとなれば、迦栴延の説かく、『大慈、大悲、一切の智慧は、是れ有漏法、繋法、世間法なり』、と。是の事は爾らず。何を以っての故に、大慈、大悲を名づけて、一切の仏法の根本と為せばなり。云何が、是れを、有漏法、繋法、世間法と言う。
復た次ぎに、
『仏』の、
『大慈、大悲等の功徳』の、
一切は、
例えば、
『迦栴延法(≒論蔵)中など!』に、
其の、
『相』を、
『分別して!』、
『求めてはならない!』。
上の、
『諸論議の師』は、
『迦栴延の法を用いて!』、
『分別し!』、
『顕示している!』が、
尽くを、
『信受してはならない!』。
何故ならば、
『迦栴延』は、こう説いているが、――
『大慈、大悲や、一切の智慧』は、
『有漏法であり!』、
『繋法であり!』、
『世間法である!』、と。
是のような、
『事』は、
『間違いだからである!』。
何故ならば、
『大慈、大悲』は、
『一切の仏法』の、
『根本である!』のに、
何故、
是れを、
『有漏法や、繋法や、世間法である!』と、
『言うのか?』。
  迦旃延(かせんねん):説一切有部の大論議師の名。『大智度論巻22上注:迦多衍尼子』参照。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻43』:『問曰。何故說大悲。不說大慈大喜大捨耶。答曰。應說一切佛身中所有功德。皆應言大。所以者何。佛有無量憐愍。饒益眾生心故。但不應作此問。所以者何。若悲即是大悲。可作是問。但悲異大悲異故。不應作是問。問曰。若悲異大悲異者悲與大悲。有何差別。答曰。名即差別。是名悲。是名大悲。復次悲是無恚善根。大悲是無癡善根。復次悲在四禪。大悲在第四禪。復次悲聲聞辟支佛佛盡有。大悲唯佛有。復次悲是無量所攝。大悲非無量所攝。復次悲對治恚不善根。大悲對治癡不善根。復次悲緣欲界。大悲緣三界。復次悲緣為欲界苦所苦眾生。大悲緣為三界苦所苦眾生。復次悲緣為苦苦所苦眾生。大悲緣為三苦所苦眾生。復次悲緣身苦眾生。大悲緣身心苦眾生。復次悲悲眾生不能救。大悲悲眾生能救。譬如二人臨河而坐。有人為水所漂。一人舉手而言。此人喪失。而不能救。第二人褰衣入水。救濟其人。令得出水。悲與大悲。亦復如是。尊者和須密說曰。悲與大悲有何差別。答曰。一名為悲。二名大悲。復次體有差別。一是無恚善根體。二是無癡善根體。復次地有差別。悲在四禪。大悲在第四禪。餘廣說如上。尊者佛陀提婆說曰。大悲是佛。在第四禪。是不共法。深遠微細。遍一切處。一切眾生。無有怨親。聲聞辟支佛悲。不能緣色無色界悲大悲。是謂差別。問曰。何故名大悲耶。答曰。拔濟大苦眾生故名大悲。大苦者。謂地獄餓鬼畜生苦。復次拔濟貪欲瞋恚愚癡大污泥眾生。安置平坦道果中故名大悲。復次令諸眾生生大利益事故。諸眾生以身口意善業故。種豪族因緣。有大威勢。饒財多寶。形色端正。或種轉輪聖王帝釋自在天王因緣。或種聲聞辟支佛佛道因緣者。皆是大悲力故。復次以大法得故名大悲。非如聲聞辟支佛道。或以一齋。或以一說。或以一食等施人故。而得行大布施。於一切處。施一切人。一切可愛物而得故名大悲。復次以大方便得故名大悲。非如聲聞道六十劫行方便道而得。辟支佛百劫行方便。佛於三阿僧祇劫。行百千難行苦行而得。故名大悲。復次依大身而住故名大悲。非如聲聞辟支佛道依諸根不具身而得。若身有三十二大人相。莊嚴八十隨形好。身光一尋。觀無厭足。住如是身中故名大悲。復次與大樂相違故名大悲。佛有甚深淨明不共法。捨如是等法樂。經過百千萬鐵圍諸山。為他人說法。皆以大悲力故名大悲。復次令大人作難作事故名大悲。世尊或現作師子像。或現作女人像。或現作力士像。或現作執樂人像。或現作乞人牽難陀臂。遍至五趣。於央掘魔羅前。或近或遠。成就增上慚愧眾生。為化女人故。示其陰藏。示輕躁相。出舌覆面。乃至髮際。示現如是難作之事。皆以大悲力故言大悲。復次能動大捨山故。佛有二種不共住法。一是大悲。二是大捨。若如來住不共大捨時。無有是處。以分別故說。假令一切眾生熾然。猶如火燒薪[卄/積]者。如來猶不視之。若如來住不共大悲時。見諸眾生受苦惱時。如那羅延堅固之身。戰動如芭蕉葉故名大悲』
問曰。大慈悲雖是佛法根本故是有漏。如淤泥中生蓮華。不得言泥亦應妙。大慈大悲亦如是。雖是佛法根本不應是無漏。 問うて曰く、大慈悲は、是れ仏法の根本なりと雖も、故に是れ有漏法なり。淤泥中に蓮華生ずるに、『泥も亦た応に妙なるべし』、と言うを得ざるが如し。大慈、大悲も亦た是の如く、是れ仏法の根本なりと雖も、応に是れ無漏なるべからず。
問い、
『大慈悲』は、
『仏法の根本ではある!』が、
『根本である!』が故に、
『有漏である!』。
譬えば、
『淤泥( mud )』中に、
『蓮華が生じても!』、
『泥も、亦た妙であるはずだ!』とは、
『言えないように!』、
亦た、
『大慈、大悲』も、
是のように、
『仏法の根本であっても!』、
『無漏であるはずがない!』。
  淤泥(おない):梵語 kardama の訳、 泥、粘着物、ぬかるみ、粘土、ほこり、汚物( mud, slime, mire, clay, dirt, filth )等の義。
答曰。菩薩未得佛時大慈悲。若言有漏其失猶可。今佛得無礙解脫智故。一切諸法皆清淨。一切煩惱及習盡。聲聞辟支佛。不得無礙解脫智故煩惱習不盡。處處中疑不斷故心應有漏。諸佛無是事。何以故。說佛大慈悲應是有漏。 答えて曰く、菩薩の未だ得仏せざる時の大慈悲を、若し有漏なりと言わば、其の失は、猶お可なり。今、仏は無礙解脱智を得たまえるが故に、一切の諸法は、皆清浄にして、一切の煩悩、及ぶ習尽きたり。声聞、辟支仏は無礙解脱智を得ざるが故に、煩悩の習尽きずして、処処中に疑いて断ぜざるが故に、心は応に有漏なるべきも、諸仏には是の事無し。何を以っての故に、『仏の大慈悲は、応に是れ有漏なるべし』、と説く。
答え、
『菩薩』が、
未だ、
『仏を得ていない!』時の、
『大慈悲』を、
若し、
『有漏である!』と、
『言ったとしても!』、
其の、
『失』は、
『まだ許される!』が、
今、
『仏』は、
『無礙解脱智を得られた!』が故に、
一切の、
諸の、
『法』は、
『清浄であり!』、
一切の、
『煩悩と、習と!』は、
『皆、尽きている!』。
『声聞、辟支仏』は、
『無礙解脱智を得ていない!』が故に、
『煩悩』の、
『習』が、
『尽きず!』、
『処処』に、
『疑い!』を、
『断じられない!』が故に、
『心』は、
『有漏でなければならない!』。
諸の、
『仏』には、
是の、
『事』が、
『無い!』のに、
何故、こう説くのか?――
『仏』の、
『大慈悲』は、
『有漏であるはずだ!』、と。
問曰。我不敢不敬。佛以慈悲心。為眾生故生應是有漏。 問うて曰く、我れは敢て、敬わざるにあらず。仏は慈悲心を以って、衆生の為の故に生じたまえば、応に是れ有漏なるべし。
問い、
わたしは、
『仏』を、
敢て、
『敬わないのではない!』が、
『仏』は、
『慈悲心を用いて!』、
『衆生の為!』の故に、
『生まれられたのであるから!』、
是の、
『心』は、
『有漏のはずである!』。
答曰。諸佛力勢不可思議。諸聲聞辟支佛。不能離眾生想而生慈悲。諸佛能離眾生想而生慈悲。所以者何。如諸阿羅漢辟支佛。十方眾生相不可得。而取眾生相生慈悲。今諸佛十方求眾生不可得。亦不取眾生相。而能生慈悲。如無盡意經中說。有三種慈悲。眾生緣法緣無緣。 答えて曰く、諸仏の力勢は不可思議なり。諸の声聞、辟支仏は、衆生想を離れて、慈悲を生ずること能わざるも、諸仏は能く衆生を離れて、慈悲を生じたもう。所以は何んとなれば、諸の阿羅漢、辟支仏は、十方に衆生相の不可得なるに、而も衆生相を取りて、慈悲を生ずるも、今諸仏は、十方に衆生を求めて不可得なれば、亦た衆生相を取らずして、而も能く慈悲を生じたもう。無尽意経中に、『三種の慈悲有り、衆生縁、法縁、無縁なり』、と説けるが如し。
答え、
諸の、
『仏』の、
『力勢』は、
『不可思議だからである!』。
諸の、
『声聞、辟支仏』は、
『衆生想を離れて!』、
『慈悲』を、
『生じることができない!』が、
諸の、
『仏』は、
『衆生想を離れて!』、
『慈悲』を、
『生じることができる!』。
何故ならば、
諸の、
『阿羅漢や、辟支仏など!』は、
十方に、
『衆生相』を、
『求めても!』、
『得られない!』のに、
『衆生相を取って!』、
『慈悲』を、
『生じる!』が、
今、
諸の、
『仏』は、
十方に、
『衆生』を、
『求めて!』、
『得られない!』ので、
亦た、
『衆生相』を、
『取ることなく!』、
而も、
『慈悲』を、
『生じさせられるからである!』。
例えば、
『無尽意経』中に、こう説く通りである、――
『慈悲』には、
『三種有り!』、
『衆生を縁じて!』、
『生じる!』、
『慈悲と!』、
『法を縁じて!』、
『生じる!』、
『慈悲と!』、
『無縁にして!』、
『生じる!』、
『慈悲である!』、と。
  参考:『大方等大集経巻23』:『爾時世尊。告無勝意童子。善男子。慈有三種。一眾生緣。二者法緣。三者無緣。』、『大宝積経巻41』:『童子當知。眾生緣慈。初發大心菩薩所得。法緣之慈。趣向聖行菩薩所得。無緣之慈。證無生忍菩薩所得。童子。是名菩薩摩訶薩大慈無量波羅蜜。若菩薩摩訶薩。安住大慈波羅蜜故。則於一切眾生慈心遍滿』 『大智度論巻20上』参照。
復次一切眾生中。唯佛盡行不誑法。若佛於眾生中。取相而行慈悲心。不名行不誑法。何以故。眾生畢竟不可得故。聲聞辟支佛。不名為盡行不誑法。故聲聞辟支佛。於眾生於法。若取相若不取相。不應難不悉行不誑法故。一切智能斷一切諸漏。能從一切有漏法中出。能作無漏因緣。是法云何自是有漏。 復た次ぎに、一切の衆生中には、唯だ仏のみ、尽く不誑法を行じたまえばなり。若し仏、衆生中に於いて、相を取って慈悲心を行ぜば、不誑法を行ずと名づけず。何を以っての故に、衆生は畢竟じて不可得なるが故なり。声聞、辟支仏を名づけて、尽く不誑法を行ずと為さざるが故は、声聞、辟支仏は、衆生に於いて、法に於いて、若しは相を取り、若しは相を取らざれば、応に悉く不誑法を行ぜざるを難ずべからず。一切智は、能く一切の諸漏を断じて、能く一切の有漏法中より出で、能く無漏の因縁を作せば、是の法にして、云何が自ら是れ有漏なる。
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』中に、
唯だ、
『仏のみ!』が、
尽く、
『不誑の法』を、
『行われている!』。
若し、
『仏』が、
『衆生』中に、
『相を取って!』、
『慈悲心』を、
『行われれば!』、
『不誑の法』を、
『行う!』とは、
『称されないだろう!』。
何故ならば、
『衆生』は、
畢竟じて、
其の、
『相』を、
『得られないからである!』。
『声聞や、辟支仏』が、
尽く、
『不誑の法を行う!』と、
『称されない!』、
『理由』は、
『声聞や、辟支仏』は、
『衆生や、法に!』於いて、
『相』を、
『取ったり!』、
『取らなかったりする!』ので、
『悉く!』は、
『不誑法を行わない!』と、
『難ずべきでないからである!』。
『一切智()』は、
一切の、
『諸の漏』を、
『断じることができ!』、
一切の、
『有漏』の、
『法』中より、
『出ることができ!』、
『無漏』の、
『因縁(慈悲を行ずる因縁)』を、
『作すことができるのであるから!』、
是の、
『法(一切智≒仏)』が、
何故、
自ら、
『有漏となるのか?』。
問曰。無漏智各各有所緣。無有能悉緣一切法者。唯有世俗智。能緣一切法。以是故說一切智是有漏相。 問うて曰く、無漏智は各各所縁有れば、能く悉く一切法を縁ずる者有ること無し。唯だ世俗智のみ有りて、能く一切法を縁ず。是を以っての故に説かく、『一切智は、是れ有漏の相なり』、と。
問い、
『無漏の智』は、
各各に、
『縁じる!』所が、
『有り!』、
悉く、
『一切の法を縁じる!』者は、
『無い!』。
唯だ、
『世俗の智のみ!』が、
『一切の法』を、
『縁じることができるのである!』。
是の故に、こう説くのである、――
『一切智』は、
『有漏の相である!』、と。
答曰。汝法中有是說。非佛法中所說。如人自持斗入市。不與官斗相應。無人用者。汝亦如是。自用汝法。不與佛法相應無人用者。無漏智慧。何以故。不能緣一切法。有漏智是假名虛誑勢力少故。不應真實緣一切法。汝法中自說能緣一切法。 答えて曰く、汝が法中に、是の説有るも、仏法中の所説に非ず。人の自ら斗を持って、市に入るも、官の斗と相応せざれば、人の用うる者無きが如し。汝も亦た是の如く、自ら汝が法を用うるも、仏法と相応せざれば、人の用うる者無し。無漏の智慧にして、何を以っての故にか、一切の法を縁ずる能わざる。有漏智は、是れ仮名、虚誑にして勢力少なきが故に、応に真実に、一切法を縁ずべからざるも、汝が法中に自ら、『能く一切法を縁ず』と説くのみ。
答え、
お前の、
『法』中に、
是の、
『説が有っても!』、
『仏法』中の、
『所説ではない!』。
譬えば、
『人』が、
自らの、
『斗を持参して!』、
『市』に、
『入った!』が、
『官斗と相応しない!』ので、
誰も、
『用いないように!』、
お前も、
是のように、
自ら、
お前の、
『法を用いても!』、
『仏法』と、
『相応しない!』ので、
誰も、
『用いようとしないのである!』。
『無漏の智慧』が、
何故、
一切の、
『法』を、
『縁じることができないのか?』。
『有漏の智慧』は、
『仮名、虚誑であり!』、
『勢力』が、
『少ない!』が故に、
一切の、
『法』を、
『真実に縁じられるはずがない!』が、
お前の、
『法』中に於いて、
自ら、こう説くだけである、――
一切の、
『法』を、
『縁じられる!』、と。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻45』:『問曰。若佛經是此論根本因緣者。佛經中多種說智。或說二智。如二法中。或說四智。如四法中。或說八智。如八法中。或說十智。如十法中。何故彼尊者於多種智中。此使揵度依八智而作論。答曰。八智是中說攝一切智。二智雖攝一切智。而是略說。十智雖攝一切智。而是廣說。復次若智數數修數數現在前者。依此智而作論。復次此八智。亦是智性。亦是見性。盡智無生智。雖是智性。而非見性。復次若智是有欲無欲人身中可得者。依此智而作論。盡智無生智。是無欲人身中可得。復次若智是學無學人身中可得者。依此智而作論。盡智無生智。是無學人身中可得。如學無學。所作已所作。未棄重擔已棄重擔。未逮己利已逮己利。有求無求。當知亦爾。彼尊者或依剎那頃一智而作論。如雜揵度說。頗有一智知一切法耶。答曰。不知。若依十智而作論者。此論不成。若依九八七六五四三二智而作論者。此論不成。乃至一智二剎那頃而作論者。此論亦不成。所以者何。初智剎那頃。不知自體相應共有法。第二剎那頃。知前智相應共有法。彼中依剎那頃一智而作論故。答曰。不知。或說一智攝一切智。謂法智非如法智。以體是法故。或說二智攝一切智。如有漏智無漏智縛智解智繫智不繫智。或說三智攝一切智。如法智比智等智。或說四智攝一切智。前三智更增他心智。或說五智攝一切智。如等智苦集滅道智。或說六智攝一切智。前五智更增他心智。或說七智攝一切智。除他心智。或說八智攝一切智。增他心智。問曰。若八智攝一切智者。復有八智。謂法住智。涅槃智。生死智。漏盡智。念前世智。願智。盡智。無生智。云何攝耶。答曰。雖更有八智。亦是八智所攝。所以者何。此八智盡在前八智中故。問曰。此八智云何在前八智中。答曰。住名諸法因三界上中下果在因中住。若知此智。名為因智。因智是四智性。等智法智比智集智涅槃智。是滅智。亦是四智性。等智法智比智滅智生死智者。舊阿毘曇者。罽賓沙門。作如是說。是一智。謂等智。尊者婆摩勒。已作如是說。生死智是四智性。謂法智比智等智苦智。』
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻46』:『界者。有漏者。三界繫。無漏者不繫。地者。有漏者在十一地。無漏者在九地。所依身者。依三界身行者。空有二行。無願有十行。無相有四行。緣者空三昧。有漏者緣一切。無漏者緣苦諦。無願緣三諦。無相緣滅諦。念處者空無願三昧是四念處。無相三昧是法念處。智者空三昧與四智俱。謂法智比智等智苦智。無願三昧與七智俱。除滅智。無相三昧與四智俱。謂法智比智等智滅智。三昧者即三昧根者總而言之。與三根相應。過去未來現在者。是三世。緣三世法者。空三昧緣三世及非世法。無願緣三世。無相緣非世。善不善無記者。是善緣善。不善無記者。空無願緣三種。無相緣善。是三界繫不繫者。或三界繫或不繫。緣三界繫及不繫者。空三昧。有漏者緣三界繫及不繫。無漏者緣三界繫。無願緣三界繫及不繫。無相緣不繫。是學無學非學非無學者。是三種。緣學無學非學非無學者。空三昧。有漏者。緣三種。無漏者緣非學非無學。無願緣三種。無相緣非學非無學。是見道斷修道斷不斷者。有漏者是修道斷。無漏者不斷。緣見道斷修道斷不斷者。空三昧。有漏者緣三種。無漏者緣見道斷修道斷。無願緣三種。無相緣不斷。緣名緣義者。空無願緣義緣名。無相緣義。緣自身他身非身者。空三昧。有漏者緣三種。無漏者及無願緣自身他身。無相緣非身。』
復次是聲聞法中十智。摩訶衍法中有十一智。名為如實相智。是十智入是如實智中。都為一智。所謂無漏智。如十方水入大海水中都為一味。 復た次ぎに、是の声聞法中の十智は、摩訶衍法中には十一智有りて、名づけて如実相の智と為す。是の十智は、是の如実智中に入れば、都て一智と為り、謂わゆる無漏智なり。十方の水、大海水中に入れば、都て一味と為すが如し。
復た次ぎに、
是の、
『声聞法』中には、
『十智である!』が、
『摩訶衍法』中には、
『十一智有り!』、
『如実相智』と、
『呼ばれている!』。
是の、
『十智』は、
是の、
『如実智中に入れば!』、
都(すべ)て、
『一味となり!』、
謂わゆる、
『無漏智である!』。
譬えば、
『十方の河水』が、
『大海水中に入れば!』、
都て、
『一味となるようなものである!』。
  十智(じっち):智を十種に分類せるもの。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  十一智(じゅういっち):十智に如実智を加えたるもの。如実智とは、又如説智とも称し、即ち「大智度論巻23下」に、「一切の法の総相、別相を如実に正知して、罣礙有ること無し」と云い、「大品般若経巻5広乗品」に、「云何が如実智と名づくる、諸仏の一切種智は是れを如実智と名づく」と云い、「大般若経巻489」に、「若し智あり、無所得を以って方便と為し、一切法如説の相を知る、即ち是れ如来の一切相智なり。是れを如説智となす」と云える是れなり。蓋し是の如実智は、一切法の総相、別相あるを知る智を云えるが如し。
是大慈大悲。佛三昧王三昧師子遊戲三昧所攝。如是略說大慈大悲義 是の大慈、大悲は、仏の三昧王三昧、師子遊戯三昧の所摂なり。是の如く大慈、大悲の義を略説せり。
是の、
『大慈、大悲』は、
『仏』の、
『三昧王三昧と、師子遊戯三昧と!』に、
『摂(おさ)められる!』。
是のように、
『大慈、大悲の義』を、
『略説した!』。



道慧、道種慧

【經】菩薩摩訶薩欲得道慧。當習行般若波羅蜜。菩薩摩訶薩欲以道慧具足道種慧。當習行般若波羅蜜 菩薩摩訶薩、道慧を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。菩薩摩訶薩、道慧を以って、道種慧を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。
『菩薩摩訶薩』が、
『道慧を得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行せねばならない!』。
『菩薩摩訶薩』が、
『道慧を用いて!』、
『道種慧』を、
『具足しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行せねばならない!』。
  道慧(どうえ):慧(梵語prajJaaの訳)は、善不善の法に於いて能く善法を簡択する精神作用の意。即ち「大品般若経巻5」に、「菩薩摩訶薩は道慧を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。菩薩摩訶薩は道慧を以って道種慧を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし、道種慧を以って一切智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし、一切智を以って一切種智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし、一切種智を以って、煩悩の習を断ぜんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし」と云い、「大智度論巻27」に、「道を一道の一向に涅槃に趣くに名づく。善法中に於いて一心不放逸ならば、道は身念に随う」と云えるに依れば、蓋し是の道慧は、無量の善不善の道門中より、大乗菩薩が常に善道のみを簡択して、一向に涅槃に趣くの意なり。『大智度論巻23下注:慧』参照。
  道種慧(どうしゅえ):慧(梵語prajJaaの訳)は、法に於いて能く簡択する精神作用の意。即ち「大智度論巻27」に、「道に復た二道あり、悪道善道、世間道出世間道、定道慧道、有漏道無漏道、見道修道、学道無学道、信行道、法行道、向道果道、無礙道解脱道、信解道見得道、慧解脱道俱解脱道、是の如き無量の二道の門あり。(中略)復た十道あり、所謂十無学道、十想道、十智道、十一切処道、十不善道、十善道、乃至一百六十二道なり。是の如き等の無量の道門あり」と云えるに依り、蓋し道種慧は、種種無量の道門の善不善を了別し簡択する精神作用なるを知るべし。或いは又三智の一なる道種智に同じきものならん。『大智度論巻23下注:慧、巻37上注:道種智』参照。
【論】道名一道。一向趣涅槃。於善法中一心不放逸。道隨身念。 道を一道と名づけ、一向に涅槃に趣く。善法中に於いて、一心にして放逸せざる道は、身念に随う。
『道』とは、
『一道であり!』、
『一向に!』、
『涅槃に趣く!』、
『道であり!』、
『善法』中に於いて、
『一心に!』、
『放逸しない!』、
『道であり!』、
是れは、
『身念( thinking upon the body )』に、
『随順する!』。
  身念(しんねん):梵語 kaaya-smRti の訳、身に関する思考( thinking upon the body )の義。
道復有二道。惡道善道。世間道出世間道。定道慧道。有漏道無漏道。見道修道。學道無學道。信行道法行道。向道果道。無礙道解脫道。信解道見得道。慧解脫道俱解脫道。如是無量二道門。 道には、復た二道有り、悪道と善道、世間道と出世間道、定道と慧道、有漏道と無漏道、見道と修道、学道と無学道、信行道と法行道、向道と果道、無礙道と解脱道、信解道と見得道、慧解脱道と倶解脱道、是の如きは無量の二道の門なり。
『道』には、
復た、
『二道が有り!』、
『悪道と善道』、
『世間道と出世間道』、
『定道と慧道』、
『有漏道と無漏道』、
『見道と修道』、
『学道と無学道』、
『信行道と法行道』、
『向道と果道』、
『無礙道と解脱道』、
『信解道と見得道』、
『慧解脱道と倶解脱道』、
是のような、
『無量の二道』の、
『門である!』。
  信行(しんぎょう):七聖の一。見道中の鈍根の者を云う。『大智度論巻18下注:三道、七聖』参照。
  法行(ほうぎょう):七聖の一。見道中の利根の者を云う。『大智度論巻18下注:三道、七聖』参照。
  無礙道(むげどう):正しく煩悩を断ずる位。是れに九種の差別あり、九無礙道、或いは九無間道と称す。『大智度論巻2上注:無礙道、解脱道、巻12上注:九無間、九解脱、解脱道』参照。
  解脱道(げだつどう):正しく煩悩を断じ已りて解脱を証する位。是れに九種の差別あり、九解脱道と称す。『大智度論巻2上注:無礙道、解脱道、巻12上注:九無間、九解脱、解脱道』参照。
  信解(しんげ):信行の人の修道位に入れるに名づく。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  見得(けんとく):法行の人の修道位に入れるに名づく。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  慧解脱(えげだつ):無癡無貪の善根に由り、唯煩悩障のみを離るるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  倶解脱(くげだつ):煩悩及び解脱の二障を併せ断ずるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  信行:見道十五心中に於ける鈍根の人。『大智度論巻22上』参照。
  法行:見道十五心中に於ける利根の人。『大智度論巻22上』参照。
  信解:信行の人の修道(しゅどう、思惟道)位に入れるもの。『大智度論巻22上』参照。
  見得:法行の人の修道位に入れるもの。『大智度論巻22上』参照。
  無礙道解脱道:九無間九解脱、三界を分って九地と為し、また一地の修惑(しゅわく、修道で断つべき煩悩)を九品に分って、これを断つに、各、無間(むげん、無礙)と解脱の二道が有る。 正しく惑を断つ智を無間道といい、解脱してすでに断ち終った智を解脱道という。 一地の惑に九品あるので、九無間九解脱という。『大智度論巻17下』参照。
復有三道。地獄道畜生道餓鬼道。三種地獄熱地獄寒地獄黑闇地獄。三種畜生道。地行水行空行。三種鬼道餓鬼食不淨鬼神鬼。三種善道。人道天道涅槃道。 復た三道有り、地獄道と畜生道と餓鬼道、三種の地獄は熱地獄、寒地獄、黒闇地獄なり、三種の畜生道は地行、水行、空行なり。三種の鬼道は餓鬼、食不浄鬼、神鬼なり。三種の善道は、人道、天道、涅槃道なり。
復た、
『三道が有り!』、
『地獄道と畜生道と餓鬼道である!』。
『地獄』には、
『三種有り!』、
『熱地獄、寒地獄、黒闇地獄である!』。
『畜生道』には、
『三種有り!』、
『地行、水行、空行である!』。
『鬼道』には、
『三種有り!』、
『餓鬼、食不浄鬼、神鬼である!』。
『善道』には、
『三種有り!』、
『人道、天道、涅槃道である!』。
  地獄(じごく):地下の牢獄の義。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  畜生(ちくしょう):梵語底栗車tiryaJc、或いはtirygyoniの訳。巴梨語tiracchaana、又傍生と訳し、或いは旁生に作る。五道の一、六道の一、三悪道の一。又畜生道、或いは傍生趣とも名づく。即ち鳥獣等の一切の動物を云う。「雑阿毘曇心論巻8」に、「身横行するが故に畜生と説く」と云い、「大毘婆沙論巻172」に、「問う何故に彼の趣を傍生と名づくるや。答う、其の形傍なるが故に行くことも亦た傍なり。行くこと傍なるを以っての故に形も亦た傍なり。是の故に傍生と名づく」と云い、「瑜伽師地論巻4」に、「又旁生趣は更に相残害す、羸弱者の如き諸の強力の殺害する所となり、此の因縁に由りて種種の苦を受く。自在ならざるを以って他に駆馳せられ、多く鞭撻を被り、彼の人天の為に資生の具と為る。此の因縁に由りて具に種種の極重の苦悩を受く」と云える是れなり。其の名称に関しては、「大乗義章巻8本」に、「畜生と言うは、雑心の釈の如きは傍行を以っての故に名づけて畜生と為すと。此れ乃ち相を辨ず、名義を解するに非ず。若し正しく解釈せば畜生と言うは、主の畜養するに従いて以って名と為すなり。一切の世人、或いは噉食せんが為に、或いは駈使せんが為に此の生を畜積す、是の義に従うが故に畜生と名づく」と云えり。之に依るに畜生の語は人によりて畜積せらるる生の意にして、主として家畜家禽等に名づけたるものなるを知るべし。新訳に於いては専ら傍生の訳を用う。是れ其の形人の如く直ならず、傍横にして且つ傍行するの義に取るなり。前引「大毘婆沙論」の連文に傍生に関する諸説を挙げ、「有説は彼の趣は闇鈍なるが故に傍生と名づく、闇鈍なる者は即ち是れ無智なり。一切の趣の中に無智なること彼の趣の如き者あることなし。有説は諸処に流遍するが故に傍生と名づく、謂わく此れは五趣に遍じて皆有り。那落迦の中には無足の者あり、嬢矩吒虫等の如し。二足の者あり、鉄嘴鳥等の如し。四足の者あり、黒駁狗等の如し。多足の者あり、百足等の如し。鬼趣中に於いて無足の者あり、毒蛇等の如し。二足の者あり、烏鴟等の如し。四足の者あり、狐狸象馬等の如し。多足の者あり、六足百足等の如し。人趣の三洲の中に於いて無足の者あり、一切の腹行虫の如し。二足の者あり、鴻鴟等の如し。四足の者あり、象馬等の如し。多足の者あり、百足等の如し。北拘盧洲の中に於いて二足の者あり、鴻鴈等の如し。四足の者あり、象馬等の如し。無足及び多足の者あることなし、彼れは是れ無悩害の業果を受くる処なるが故なり。四大王衆天及び三十三天の中には二足の者あり、妙色鳥等の如し。四足の者あり、象馬等の如し。余の無きことは前に釈するが如し。上の四天の中には唯二足の者のみあり、妙色鳥等の如し。余は皆無しとは空居天処なり、転た勝妙なるが故なり。(中略)問う傍生の本住は何の処なりや。答う、本所住の処は大海の中に在り、後時に流転して遍く諸趣に在り」と云えり。是れ傍生は無智闇鈍なることを明かし、且つ本住処は大海中に在るも、転じて人天及び地獄等に遍在することを説けるものなり。「正法念処経まき18」には、畜生に総じて三十四億種ありとし、広く其の相貌、色類、行食の不同、群飛の相異、憎愛の違順、伴行の双隻、同生共遊等の別を説き、「大智度論巻30」には、其の住処に依りて之を空行、陸行、水行の三種に分ち、又昼夜によりて更に之を昼行、夜行及び昼夜行の三類となせり。又「大毘婆沙論巻120」、「倶舎論巻8」等には、畜生は人趣と共に胎卵湿化の四生を具することを明かし、其の寿命に関しては、「立世阿毘曇論巻7」、「倶舎論巻11」等に或いは一日一夜なるものあり、或いは龍王等の如く一中劫なるものあり、多く定限なしと云えり。又「集異門足論巻11」、「阿毘曇毘婆沙論巻7」、「倶舎論巻17」、「順正理論巻31」、「三法度論巻下」、「彰所知論巻上情世界品」、「四阿鋡暮抄解巻下」、「倶舎論光記巻8、11」等に出づ。<(望)
  鬼道(きどう):祭祀せられざる幽魂の義。又餓鬼、餓鬼道とも称す。『大智度論巻16上注:餓鬼』参照。
人有三種。作罪者作福者求涅槃者。復有三種人。受欲行惡者。受欲不行惡者。不受欲不行惡者。 人には三種有り、罪を作す者、福を作す者、涅槃を求むる者なり。復た三種の人有り、受欲して悪を行ずる者、受欲して悪を行ぜざる者、受欲せずして悪を行ぜざる者なり。
『人』には、
『三種有り!』、
『罪を作る者と!』、
『福を作る者と!』、
『涅槃を求める者である!』。
復た、
『三種の人が有り!』、
『欲を受けて!』、
『悪』を、
『行う者と!』、
『欲を受けて!』、
『悪』を、
『行わない者と!』、
『欲を受けず!』、
『悪』を、
『行わない者である!』。
天有三種。欲天色天無色天。 天には三種有り、欲天と、色天と、無色天なり。
『天』には、
『三種有り!』、
『欲天と、色天と、無色天である!』。
涅槃道有三種。聲聞道辟支佛道佛道。聲聞道有三種。學道無學道非學非無學道。辟支佛道亦如是。佛道有三種。波羅蜜道方便道淨世界道。佛復有三道。初發意道。行諸善道。成就眾生道。復有三道。戒道定道慧道。如是等無量三道門。 涅槃道には三種有り、声聞道と辟支仏道と仏道なり。声聞道には三種有り、学道、無学道、非学非無学道なり。辟支仏道も亦た是の如し。仏道には三種有り、波羅蜜道、方便道、浄世界道なり。仏には、復た三道有り、初めて発意せし道、諸善を行ずる道、衆生を成就する道なり。復た三道有り、戒道、定道、慧道なり。是れ等の如きは無量の三道の門なり。
『涅槃道』には、
『三種有り!』、
『声聞道と!』、
『辟支仏道と!』、
『仏道である!』。
『声聞道』には、
『三種有り!』、
『学道と!』、
『無学道と!』、
『非学非無学道である!』。
『辟支仏道』も、
亦た、
是の通りである。
『仏道』には、
『三種有り!』、
『波羅蜜道と!』、
『方便道と!』、
『世界を浄める道である!』。
復た、
『三種の仏道が有り!』、
『初めて発意する道と!』、
『諸善を行う道と!』、
『衆生を成就する道である!』。
復た、
『三種有り!』、
『戒の道と!』、
『定の道と!』、
『慧の道である!』。
是れ等は、
『無量の三道』の、
『門である!』。
復有四種道。凡夫道聲聞道辟支佛道佛道。 復た四種の道有り、凡夫道、声聞道、辟支仏道、仏道なり。
復た、
『道』には、
『四種有り!』、
『凡夫の道と!』、
『声聞の道と!』、
『辟支仏の道と!』、
『仏の道である!』。
復有四種道。聲聞道辟支佛道菩薩道佛道。聲聞道有四種。苦道集道滅道道道。復有四沙門果道。 復た四種の道有り、声聞道、辟支仏道、菩薩道、仏道なり。声聞道には四種有り、苦道、集道、滅道、道道なり。復た四沙門果道有り。
復た、
『道』には、
『四種有り!』、
『声聞の道と!』、
『辟支仏の道と!』、
『菩薩の道と!』、
『仏の道である!』。
『声聞道』には、
『四種有り!』、
『苦の道と!』、
『集の道と!』、
『滅の道と!』、
『道の道である!』。
復た、
『四沙門果という!』、
『道が有る!』。
復有四種道。觀身實相道。觀受心法實相道。 復た四種の道有り、身の実相を観る道、受、心、法の実相を観る道なり。
復た、                  ――四念処――
『四種の道が有り!』、
『身』の、
『実相(不浄)を観察する!』、
『道と!』、
『受、心、法』の、
『実相(苦、無常、無我)を観察する!』、
『道である!』。
復有四種道。為斷未生惡不善令不生道。為斷已生惡令疾滅道。為未生善法令生道。為已生善法令增長道 復た四種の道有り、未生の悪を断じて、不善をして生ぜざらしめんが為の道と、已生の悪を断じて、疾かに滅せしめんが為の道と、未生の善法をして生ぜしめんが為の道と、已生の善法をして増長せしめんが為の道なり。
復た、                  ――四正勤――
『四種の道が有り!』、
『未生の悪を断じて!』、
『不善を生じさせない!』為の、
『道と!』、
『已生の悪を断じて!』、
『疾かに滅しさせる!』為の、
『道と!』、
『未生の善法』を、
『生じさせる!』為の、
『道と!』、
『已生の善法』を、
『増長させる!』為の、
『道である!』。
。復有四種道。欲增上道精進增上道心增上道慧增上道。 復た四種の道有り、欲もて増上せしむる道と、精進もて増上せしむる道と、心もて増上せしむる道と、慧もて増上せしむる道なり。
復た、                  ――四如意足――
『四種の道が有り!』、
『欲により!』、
『(定等を)増上させる!』、
『道と!』、
『精進により!』、
『増上させる!』、
『道と!』、
『心により!』、
『増上させる!』、
『道と!』、
『慧により!』、
『増上させる!』、
『道である!』。
復有四聖種道。不擇衣食臥具醫藥樂斷苦修定。 復た四聖種の道有り、衣、食、臥具、医薬を択ばず、苦を断じて、定を修するを楽しむ。
復た、                  ――四聖種――
『四聖種の道が有り!』、
『衣、食、臥具、医薬を択ばず!』、
『楽しんで!』、
『苦を断じ!』、
『定を修める!』。
  四聖種(ししょうしゅ):衣服、飲食、臥具の三種に於いて足ることを知り、且つ自ら応に作すべき所の道に精進するを説く。『大智度論巻18下注:四聖種』参照。
復有四行道。苦難道苦易道樂難道樂易道。 復た四行道有り、苦の難道、苦の易道、楽の難道、楽の易道なり。
復た、
『四種の行道が有り!』、
『苦、難(至り難い)の行道と!』、
『苦、易(至り易い)の行道と!』、
『楽、難の行道と!』、
『楽、易の行道である!』。
  四行道(しぎょうどう):涅槃を求めて道を行ずるに、行道を苦、楽並びに難、易に約して、四種の別を立つ。即ち「成実論巻2」に、「四道あり、苦難行道、苦易行道、楽難行道、楽易行道なり。(中略)苦難行道とは鈍根にして定を得、道を行ずる者是れなり。苦易行道とは利根にして定を得、道を行ずる者是れなり。楽難行道とは鈍根にして慧を得、道を行ずる者是れなり。楽易行道とは利根にして慧を得、道を行ずる者是れなり」と云えるに依り、推して知るべし。
  参考:『成実論巻2』:『又有四道。苦難行道.苦易行道.樂難行道.樂易行道。‥‥苦難行道者鈍根得定行道者是也。苦易行道者利根得定行道者是也。樂難行道者鈍根得慧行道者是也。樂易行道者利根得慧行道者是也。』
復有四修道。一為今世樂修道。二生死智修道。三為漏盡故修道。四分別慧修道。 復た四修の道有り、一には今世の楽の為の修道、二には生死智の修道、三には漏尽の為の故の修道、四には分別慧の修道なり。
復た、
『四種の修道が有り!』、
一には、
『今世の楽』の為に、
『修める!』、
『道』、
二には、
『生死の智』を以って、
『修める!』、
『道』、
三には、
『漏を尽くす!』為の故に、
『修める!』、
『道』、
四には、
『分別慧』を以って、
『修める!』、
『道である!』。
  参考:『阿毘曇甘露味論巻下』:『有四事修定。修定於現法中得樂居。修定得智見。修定分別慧。修定得漏盡諸善。初禪能得現在樂居。生死智通是謂智見。方便求功德。是欲界無教戒聞思修功德。一切色無色界法。一切無漏有為法。是謂分別慧。金剛喻四禪。是最後學心共相應漏盡。是謂修定。』
復有四天道所謂四禪。 復た四天道有り、謂わゆる四禅なり。
復た、
『四種の天道が有り!』、
謂わゆる、
『四禅である!』。
復有四種道。天道梵道聖道佛道。如是等無量四道門。 復た四種の道有り、天道、梵道、聖道、仏道なり。是れ等の如きは無量の四道の門なり。
復た、
『四種の道が有り!』、
『天の道と!』、
『梵の道と!』、
『聖人の道と!』、
『仏の道である!』。
是れ等は、
『無量の四道』の、
『門である!』。
復有五種道。地獄道畜生餓鬼人天道。 復た五種の道有り、地獄道、畜生、餓鬼、人、天道なり。
復た、
『五種の道が有り!』、
『地獄の道と!』、
『畜生、餓鬼、人、天の道である!』。
復有五無學眾道無學戒眾道乃至無學解脫知見眾道。 復た五無学の衆道有り、無学の戒衆の道、乃至無学の解脱知見衆の道なり。
復た、
『五無学衆の道が有り!』、
『無学』の、
『戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆という!』、
『道である!』。
  五無学衆:(1)戒衆:身口の業が清浄。(2)定衆:空、無相、無作の三三昧等、一切の三昧成就。(3)慧衆:一切の法に於いて無礙なる清浄の智慧成就。(4)解脱衆:諸の煩悩および習を解脱し、根本を抜いた不壊の解脱成就。(5)解脱知見衆:二種有り。一は、諸の煩悩を解脱する中に、苦を知り已り、集を断じ已り、尽を証し已り、道を修し已り、そのとき生ずる尽智を用って自らそれを証知し、苦を知り已って復更に知らず、乃至道を修し已って復更に修せざる、これを無生智の解脱知見衆という。二は、仏の、この人は空門に入りて解脱を得、この人は無相門にて解脱を得等を知るをいう。『大智度論巻21下』参照。
復有五種淨居天道。復有五治道。復有五如法語道。復有五非法語道。 復た五種の浄居天の道有り、復た五治の道有り、復た五如法語の道有り、復た五非法語の道有り。
復た、
『五種の浄居天の道と!』、
『五種の対治の道と!』、
『五種の如法語の道と!』、
『五種の非法語の道が有る!』。
  五種淨居天(ごしゅじょうごてん):淨居天、即ち色界の第四禅には五種の別あるを云う。『大智度論巻9上注:五淨居天』参照。
  五治道(ごじどう):五種の対治法の意。阿毘達磨大毘婆沙論巻52に依れば、苦忍、苦智所断対治、道忍、道智所断対治、苦集滅道及び世俗智の所断対治を云う。
  五如法語(ごにょほうご):如法の語を実、時、善、慈、益に約して、五種に分類せしもの。即ち「十誦律巻49」に、「五如法語あり、実にして不実に非ず、時にして不時に非ず、善にして不善に非ず、慈にして不慈に非ず、益にして不益に非ず」と云える是れなり。
  五非法語(ごひほうご):非法の語を非実、非時、非善、非慈悲益に約して、五種に分類せしもの。即ち「十誦律巻49」に、「五非法語あり、非実にして実を以ってせず、非時にして時を以ってせず、非善にして善を以ってせず、非益にして益を以ってせず」と云える是れなり。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻52』:『今欲顯示五部煩惱及五對治。五部煩惱者。謂見苦所斷乃至修所斷。五部對治者。謂苦忍苦智是見苦所斷對治。乃至道忍道智是見道所斷對治。苦集滅道及世俗智是修所斷對治。』
復有五道凡夫道聲聞道辟支佛道菩薩道佛道。 復た、五道有り、凡夫道、声聞道、辟支仏道、菩薩道、仏道なり。
復た、
『五道が有り!』、
『凡夫の道と!』、
『声聞の道と!』、
『辟支仏の道と!』、
『菩薩の道と!』、
『仏の道である!』。
復有五道。分別色法道分別心法道分別心數道分別心不相應行道分別無為法道。 復た五道有り、色法を分別する道、心法を分別する道、心数を分別する道、心不相応行を分別する道、無為法を分別する道なり。
復た、
『五道が有り!』、
『色法を分別する道と!』、
『心法を分別する道と!』、
『心数法を分別する道と!』、
『心不相応行を分別する道と!』、
『無為法を分別する道である!』。
  色法心法心数法心不相応行法無為法:五法、事理五法。一切法を五種に分類する。
  1. 色法:心法と心所法の所変。物質的なもの。(倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)
  2. 心法:心王、心。心の本体、識の自相。五蘊の内の識蘊、主体的な心の働き。(倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立てる)
  3. 心所法:心数法、心所、心数、数。細々した心の働き。上の八識と相応して起るもの。(受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)
  4. 心不相応行法:心不相応。上の三法に従属しないもの。例えば事物の概念。心とも色とも相応しない働き。物が生じたり滅したりする力。心と相応した働きを心相応という。上の三法のある部分の位を仮りて設けるもの。(得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)
  5. 無為法:上の四法の実性。因縁によって造られ、生滅の変化がなく働きを起こすことがない。(択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立てる)
復有五種道。苦諦所斷道集諦所斷道滅諦所斷道道諦所斷道思惟所斷道。如是等無量五法道門。 復た五種の道有り、苦諦所断の道と、集諦所断の道と、滅諦所断の道と、道諦所断の道と、思惟所断の道なり。是れ等の如きは無量の五法の道の門なり。
復た、
『五種の道が有り!』、
『苦諦所断』の、
『煩悩を断じる!』、
『道と!』、
『集諦所断』の、
『煩悩を断じる!』、
『道と!』、
『滅諦所断』の、
『煩悩を断じる!』、
『道と!』、
『道諦所断』の、
『煩悩を断じる!』、
『道と!』、
『思惟()所断』の、
『煩悩を断じる!』、
『道である!』。
是れ等は、
『無量の五法の道』の、
『門である!』。
復有六種道。地獄道畜生餓鬼人天阿修羅道。 復た六種の道有り、地獄道、畜生、餓鬼、人、天、阿修羅道なり。
復た、
『六種の道が有り!』、
『地獄道と!』、
『畜生、餓鬼、人、天、阿修羅道である!』。
復有捨六塵道。復有六和合(舊云六種)道六神通道六種阿羅漢道六地修道六定道六波羅蜜道。一一波羅蜜各各有六道。如是等無量六道門。 復た六塵を捨つる道有り、復た六和合道、六神通道、六種阿羅漢道、六地の修道、六定の道、六波羅蜜の道、一一の波羅蜜の各各に六道有り、是れ等の如きは無量の六道の門なり。
復た、
『六塵を捨てる!』為の、
『道が有り!』、
復た、
『六和合の道』、
『六神通の道』、
『六種阿羅漢の道』、
『六地の修道』、
『六定の道』、
『六波羅蜜の道』、
『一一の波羅蜜に各各有する六道』、
是れ等は、
『無量の六道』の、
『門である!』。
  六和合(ろくわごう):僧をして和合せしむる六種の法の意。『大智度論巻18下注:六和敬』参照。
  六種阿羅漢(ろくしゅあらかん):阿羅漢を六種に分類せるもの。『大智度論巻3下注:六種阿羅漢、巻18下注:四向四果、巻32下注:九無学』参照。
  六地修道(ろくじしゅどう):四向四果中の修道に摂する須陀洹果、乃至阿羅漢向の六位を云う。『大智度論巻18下注:四向四果、三道、巻27上注:修道』参照。
  修道(しゅどう):梵語bhaavanaa-maargaの訳。数数修習する道の意。三道の一。又有学道とも称す。即ち見道に於いて四諦の理を見照したる後、更に修習して修惑を断ずる位を云う。「大毘婆沙論巻51」に、「修道は是れ不猛利の道なり、数数修習して久時に方に九品の煩悩を断ず」と云い、「倶舎論巻23」に、「所断の障が一一の地の中に各九品あるが如く、諸の能治の道の無間と解脱とに九品あることも亦た然り。失と徳と如何が各九品を分つや、謂わく根本の品に下中上あり、此の三に各下中上の別を分つ。此れに由りて失と徳とに各九品を分つ、謂わく下の下、下の中、下の上、中の下、中の中、中の上、上の下、上の中、上の上の品なり。応に知るべし、此の中、下下品の道の勢力は能く上上品の障を断じ、是の如く乃至上上品の道は能く下下品の障を断ず。(中略)衣を浣う位に麁垢先づ除き、後後の時に於いて漸に細垢を除くが如く、又麁闇は小明能く滅するも、要ず大明を以って方に細闇を滅するが如し。失と徳と相対するの理も亦た然るべし」と云える是れなり。是れ三界九地の修惑に各下下乃至上上の九品の別あるを以って、能治の無間道及び菩薩道にも亦た各九品あり、即ち総じて九九八十一品の対治道あることを明にするの意なり。蓋し説一切有部に於いては四諦十六行相の中、前十五心は未曽見の理を見るが故に之を見道と名づけ、第十六心たる道類智は、既に第十五心に一たび見たる所の理を更に見るものにして、即ち曽見を習うが如くなるが故に修道に摂すべしとなし、之に対し経部及び成実論に於いては十六心を総べて見道となし、又犢子部に於いては十二心見道の説を唱え、共に道類智を以って見道の摂となせり。又次第証の者に就かば見道十五心は初果向にして、第十六心に至りて初果を証し、尋いで欲界六品の惑を断じて第二果を証し、次に欲界九品の惑を断じて第三果を証し、後更に上二界七十二品の惑を断じて第四阿羅漢果を証せんとするに至るまでを修道となすが故に、即ち修道中には初果以上乃至阿羅漢向の別あり。又超越証の者の中、第十六心に至りて二果を証する者に就かば、第二果乃至第四果向を修道とし、第三果を証する者に就かば、第三果及び第四果向を修道とするなり。又七聖の中、随信行の人の修道位に入れる者を信解と名づけ、随法行の人の修道位に入れる者を見至と名づく。又唯識大乗に於いては之を修習位と名づけ、既に初地見道に於いて見所断の惑を断じ、無分別智を得たるも、尚お余障あるが故に之を断じて転依を証得せんが為に、十地の中に於いて数数無分別智を修習するを称すとし、此の位の中に於いては漸に十重障を断じ、第十金剛無間道に至りて煩悩所知の二障の種を断尽すとなせり。見道と修道との別に関しては、「梁訳摂大乗論巻7」に、「昔未だ真如を見ず、今始めて見ることを得るを見道と名づけ、先に已に真如を見、後更に数観ずるを修道と名づく。又能く三乗の通障を除くを見道と名づけ、但だ菩薩の障を除くを修道と名づく。又未円満を観じて退出の義なきを見道と名づけ、未円満を観じて退出の義あるを修道と名づく。又但だ通境を観ずるを見道と名づけ、備に通別の境を観ずるを修道と名づく。又事成ぜざるを見道と名づけ、事成ずるを修道と名づく」と云い、「大乗義章巻6」には、大小乗の修道の別を論じ、「次に見修を分たば、毘曇の中の如きは苦忍已去、十五心来を名づけて見道と為し、須陀已上、終り無学に至るを名づけて修道と為す。若し成実に依らば総相に諦を観ず、説いて苦忍已去と言うを得ず。但だ説いて無想位中を名づけて見道と為すと言うことを得。修道は前の如し。大乗法の中には初地は見道、二地已上を名づけて修道と為す」と云えり。以って其の異同を知るべし。又「雑阿毘曇心論巻5」、「倶舎論巻21、22、25」、「同光記巻21至23、25、26」、「同宝疏巻23、26」、「順正理論巻64、74」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻31」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻9、14」、「四教義巻3」、「成唯識論述記巻10本」等に出づ。<(望)
  六定(ろくじょう):菩薩の定を六種に分類せしもの。『大智度論巻18下注:六定』参照。
復有七道。七覺意道七地無漏道七想定道七淨道七善人道七財福道七法福道七助定道。如是等無量七道門。 復た七道有り、七覚意の道、七地の無漏道、七想定の道、七浄道、七善人の道、七財福の道、七法の福道、七助定の道、是れ等の如きは無量の七道の門なり。
復た、
『七道が有り!』、
『七覚意の道』、
『七地の無漏道』、
『七想定の道』、
『七浄道』、
『七善人の道』、
『七財福の道』、
『七法の福道』、
『七の助定の道である!』、
是れ等は、
『無量の七道』の、
『門である!』。
  七地無漏(しちじむろ):愛と相応せず、又味著せられざる出世の定にして四禅四種、無色の下三種の相を云う。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:七無漏、三等至』参照。
  七想定(しちそうじょう)四禅、及び色界下三処の意。外道は真智無きが故に、漏尽を得るに想に依止すれば、之に初禅乃至無所有処の七種の別あるを云う。即ち「成実論巻12七三昧品」に、「論者の言わく、七依あり、初禅に依りて漏尽を得、乃至無所有処に依りて漏尽を得。依を因と名づく。此の七処に聖智慧を得。摂心にして能く実智を生ずと説くが如し。有る人は但だ禅定を得れば之を謂いて足ると為し、是の故に仏の言わく、此れは足るに非ず。応に此の定に依りて、更に勝法を求むべし」と。謂わゆる諸漏を尽くすが故に説いて依と為す。問うて曰わく、云何が此の禅定に依りて諸漏を尽くす。答えて曰わく、仏の説かく、行者の何相何縁を以って初禅に入るに随い、是の行者は復た是の相是の縁を憶念せず。但だ初禅中に所有の諸色、若しは受想行識の病の如き、癰の如き、箭の如きを観て、無常、苦、空、無我を痛悩す。是の如く観る時、心に厭離を生じ、諸漏を解脱す。乃至無所有処も亦た是の如し。但だ三空処の無色のみ観る可し。行者は欲界の憒乱を見て、初禅の寂滅は然る後に乃ち得と。是の故に仏の言わく、初禅の寂滅の楽相を念ずる勿かれ。但だ初禅の五陰の八種の過患を観よ。余の依も亦た爾りと。問うて曰わく、欲界は何の故にか、依を説かざるや。答えて曰わく、須尸摩経中に説かく、七依を除きて、更に聖道を得る処有りと。故に知る、欲界にも亦た有りと。問うて曰わく、有る人の言わく、初禅の辺の未到地に依りて、阿羅漢果を得と。是の事云何。答えて曰わく、然らず、若し未到地に依有らば、是れ則ち過あり。若し能く未到地を得ば、何の故に初禅に入らざる。是の故に然らず。問うて曰わく、非想非非想処は何の故に、依を説かざるや。答えて曰わく、彼の中に了せざる定多く、慧は少し。故に依有るを説かず。七想定は、即ち七依なり。問うて曰わく、仏は何の故に七依を説いて、七想定と名づくるや。答えて曰わく、外道は真智無きが故に但だ想に依止す。一切の依止は皆想の為に汚され、解脱と為さず。故に想定と名づく。聖人は、能く想を破壊するも、但だ此の定に依り直ちに漏尽を取るが故に、名づけて依と為すのみ。説の如くんば、行者は此の諸法の病の如く、癰の如き等を観るも、非想非非想処は、亦た想を以ってしては了せざるが故に、想定と説かず」と云えるに依り、推して知るべし。
  七浄(しちじょう):七種の浄の意。謂わゆる戒、心、見、度疑、道非道知見、行善知見、断悪知見の七種の浄なり。『大智度論巻18下注:七浄』参照。
  七善人(しちぜんにん):阿那含果を得たる聖者に七種の別あるを云う。『大智度論巻18下注:七善士処、阿那含、七聖』参照。
  七財福(しちざいふく):出世間の人の貯うべき七種の財宝の意。『大智度論巻18下注:七財』参照。
  七法福(しちほうふく):「増一阿含経巻33」に、是の法を成就せば現法の中に楽を受くること窮まり無しと云える七種の法を指す。『大智度論巻18下注:七妙法』参照。
  七助定(しちじょじょう):不明。
  参考:『成実論巻12七三昧品』:『論者言。有七依依初禪得漏盡。乃至依無所有處得漏盡。依名因。此七處得聖智慧。如說攝心能生實智。有人但得禪定謂之為足。是故佛言此非足也。應依此定更求勝法。謂盡諸漏故說為依。問曰。云何依此禪定得盡諸漏。答曰。佛說行者隨以何相何緣入初禪。是行者不復憶念是相是緣。但觀初禪中所有諸色若受想行識。如病如癰如箭。痛惱無常苦空無我。如是觀時心生厭離解脫諸漏。乃至無所有處亦如是。但三空處無色可觀。行者見欲界憒亂初禪寂滅然後乃得。是故佛言。勿念初禪寂滅樂相。但觀初禪五陰八種過患。餘依亦爾。問曰。欲界何故不說依耶。答曰。須尸摩經中說。除七依更有得聖道處。故知欲界亦有。問曰。有人言。依初禪邊未到地得阿羅漢果。是事云何。答曰。不然。若未到地有衣。是則有過。若能得未到地。何故不入初禪。是故不然。問曰。非想非非想處何故不說依耶。答曰。彼中不了定多慧少。故不說有依。七想定即七依也。問曰。佛何故說七依。名七想定。答曰。外道無真智故但依止想。一切依止皆為想所污不為解脫。故名想定。聖人能破壞想。但依此定直取漏盡。故名為依。如說行者觀此諸法如病如癰等。非想非非想處亦以想不了。故不說想定』
復有八道。八正道八解脫道八背捨道。如是等無量八道門。 復た八道有り、八正道、八解脱道、八背捨道なり。是れ等の如きは、無量の八道の門なり。
復た、
『八道が有り!』、
『八の正道』、
『八解脱の道』、
『八背捨の道である!』。
是れ等は、
『無量の八道』の、
『門である!』。
復有九道。九次第道九地無漏道九見斷道九阿羅漢道九菩薩道。所謂六波羅蜜。方便成就眾生淨佛世界。如是等無量九道門。 復た九道有り、九次第道、九地の無漏道、九見断の道、九阿羅漢の道、九菩薩の道は謂わゆる六波羅蜜、方便、衆生を成就する、仏世界を浄むるなり。是れ等の如きは、無量の九道の門なり。
復た、
『九道が有り!』、
『九次第定』、
『九地の無漏道』、
『九種の見断道』、
『九種の阿羅漢道』、
『九種の菩薩道』、
謂わゆる、
『六波羅蜜と!』、
『方便と!』、
『衆生を成就すると!』、
『仏世界を浄めるである!』。
是れ等は、
『無量の九道』の、
『門である!』。
  九地無漏道(くじむろどう):滅諦涅槃に趣向する聖道の所依となす九種の地を云う。『大智度論巻18下注:九無漏地、無漏道』参照。
  九見断道(くけんだんどう):不明。
  九阿羅漢道(くあらかんどう):阿羅漢道に九種の別あるを云う。『大智度論巻32下注:九無学』参照。
復有十道。所謂十無學道十想道十智道十一切處道十不善道十善道乃至一百六十二道。如是等無量道門。如是諸道盡知遍知。是為道種慧。 復た十道有り、謂わゆる十無学道、十想の道、十智の道、十一切処、十不善道、十善道、乃至一百六十二道、是れ等は無量の道の門なり。是の諸道を尽く知り、遍く知る、是れを道種慧と為す。
復た、
『十道が有り!』、
謂わゆる、
『十種の無学道』、
『十想の道』、
『十智の道』、
『十一切処の道』、
『十種の不善道』、
『十種の善道である!』、
乃至、
『一百六十二道まで!』、
是れ等は、
『無量の道』の、
『門である!』。
是のような、
諸の、
『道』を、
『尽く知り!』、
『遍く知れば!』、
是れが、
『道種慧である!』。
  十無学道(じゅうむがくどう):阿羅漢果を得たる無学の人の成就する無漏法に十種の別あるを云う。謂わゆる無学の正見、正思、正語、正業、正命、正念、正方便、正定、正智、正解脱なり。『大智度論巻18下注:十無学支』参照。
問曰。般若波羅蜜。是菩薩第一道。一相所謂無相。何以說是種種道。 問うて曰く、般若波羅蜜は、是れ菩薩の第一道にして一相、謂わゆる無相なり。何を以ってか、是れ種種の道なりと説く。
問い、
『般若波羅蜜』は、
『菩薩の第一道であり!』、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相である!』。
何故、こう説くのですか?――
是れは、
『種種の!』、
『道である!』、と。
答曰。是道皆入一道中。所謂諸法實相。初學有種種別。後皆同一無有差別。譬如劫盡燒時。一切所有皆同虛空。 答えて曰く、是の道は、皆一道中に入ればなり、謂わゆる諸法の実相なり。初学は、種種の別有るも、後には皆、同一にして、差別有ること無し。譬えば、劫尽きて焼くる時、一切の所有は皆、虚空に同じきが如し。
答え、
是の、
『道』は、
皆、
『一道』中に、
『入るからである!』、
謂わゆる、
諸の、
『法』の、
『実相である!』。
『初学』には、
種種の、
『別が有る!』が、
後には、
皆、
『同一となって!』、
『差別』が、
『無くなるのである!』。
譬えば、
『劫が尽きて焼ける!』時に、
一切の、
『所有』が、
皆、
『虚空』と、
『同じになるようなものである!』。
復次為引導眾生故。菩薩分別說是種種道。所謂世間道出世間道等。 復た次ぎに、衆生を引導せんが為の故に、菩薩は分別して、是の種種の道を説けばなり。謂わゆる世間の道、出世間の道等なり。
復た次ぎに、
『衆生を引導する!』為の故に、
『菩薩』は、
『分別して!』、
是の、
『種種の道』を、
『説くからである!』。
謂わゆる、
『世間の道や、出世間の道等である!』。
問曰。云何菩薩住一相無相中。而分別是世間道是出世間道。 問うて曰く、云何が、菩薩は、一相、無相中に住して、而も是れ世間の道、是れ出世間の道なりと分別する。
問い、
何のように、
『菩薩』は、
『一相や、無相中に住まりながら!』、
『是れは、世間の道である!』とか、
『是れは、出世間の道である!』と、
『分別するのですか?』。
答曰。世間名。但從顛倒憶想虛誑二法生。如幻如夢如轉火輪。凡夫人強以為世間。是世間皆從虛妄中來。今亦虛妄本亦虛妄。其實無生無作。但從內外六情六塵和合因緣生。隨凡夫所著故為說世間。是世間種種邪見。羅網如亂絲相著。常往來生死中。如是知世間。 答えて曰く、世間を、但だ顛倒せる憶想、虚誑より、二法生じて、幻の如く、夢の如く、転火輪の如きを、凡夫人は強いて以って世間と為すと名づく。是の世間は、皆虚妄中より来たれば、今亦た虚妄にして、本も亦た虚妄なり。其の実は無生、無作にして、但だ内、外の六情、六塵の和合の因縁より生ずるも、凡夫の著する所なるに随うが故に、為に世間と説くのみ。是の世間は、種種の邪見の羅網にして、乱糸の如く相著して、常に生死中を往来すと、是の如く世間を知るなり。
答え、
『世間』とは、
但だ、
『顛倒した憶想、虚妄より!』、
『有、無』等の、
『二法』が、
『生じたのであり!』、
譬えば、
『幻や、夢や、転火輪のような!』、
『生であるのに!』、
『凡夫人』は、
強いて、
是れを、
『世間である!』と、
『言うのである!』。
是の、
『世間』は、
皆、
『虚妄中より来たものであり!』、
今、
亦た、
『虚妄ならば!』、
本も、
亦た、
『虚妄なのである!』。
其の、
『実相』は、
『無生、無作であり!』、
但だ、
『内、外の六情、六塵』の、
『和合の因縁より!』、
『生じたものである!』が、
『凡夫の著する!』所に、
『随う!』が故に、
是れを、
『世間だ!』と、
『説くのである!』。
是の、
『世間』は、
種種の、
『邪見の羅網であり!』、
譬えば、
『乱糸のように!』、
『互に絡まりあいながら!』、
常に、
『生、死』中を、
『往来する!』と、
是のように、
『世間』を、
『知るのである!』。
何等是出世間道。如實知世間。即是出世間道。所以者何。智者求世間出世間。二事不可得。若不可得。當知假名為世間出世間。但為破世間故。說出世間。 何等か、是れ出世間の道なる。如実に世間を知れば、即ち是れ出世間の道なり。所以は何んとなれば、智者にして世間、出世間を求むれば、二事不可得なればなり。若し不可得なれば、当に知るべし、仮に名づけて、世間、出世間と為すも、但だ世間を破せんが為の故に、出世間を説く。
何のようなものが、
『出世間の道なのか?』、――
『如実』に、
『世間』を、
『知れば!』、
即ち、
是れが、
『出世間の道である!』。
何故ならば、
『智者』が、
『世間、出世間を求めれば!』、
是の、
『二事』は、
『不可得だからである!』。
若し、
『不可得ならば!』、こう知るはずである、――
仮に、
『世間や、出世間』と、
『呼んでいる!』が、
但だ、
『世間を破る!』為の故に、
『出世間』を、
『説くのである!』、と。
世間相即是出世間。更無所復有。所以者何。世間相不可得。是出世間是世間相常空。世間法定相不可得故。如是行者不得世間。亦不著出世間。 世間の相は、即ち是れ出世間にして、更に復た有する所無し。所以は何んとなれば、世間の相は不可得なる、是れ出世間なればなり。是の世間の相は、常に空にして、世間の法の定相は、不可得なるが故なり。是の如く行者は、世間を得ざれば、亦た出世間にも著せず。
『世間の相』は、
即ち、
『出世間であり!』、
『更に( more )!』、
『復た所有は無い( no more anything is existing )!』。
何故ならば、
『世間の相』は、
『不可得である!』が故に、
是れは、
『出世間だからであり!』、
是の、
『世間の相は常に空であり!』、
『世間の法』は、
『定相』が、
『不可得だからである!』。
是のように、
『行者』は、
『世間を認めない!』し、
亦た、
『出世間』に、
『著することもない!』。
若不得世間。亦不著出世間。愛慢破故不共世間諍。何以故。行者久知世間空無所有虛誑故。不作憶想分別。 若し、世間を得ずして、亦た出世間にも著せざれば、愛、慢破するが故に世間の諍を共にせず。何を以っての故に、行者は久しく世間の空、無所有にして虚誑なるを知るが故に、憶想、分別を作さざればなり。
若し、
『世間を認めず!』、
亦た、
『出世間』にも、
『著さなければ!』、
『愛と、慢とが破れる!』が故に、
『世間の諍( a quarrel of worldly affairs )』を、
『共にしない!』。
何故ならば、
『行者』は、
久しく、
『世間』が、
『空、無所有であり!』、
『虚誑である!』と、
『知る!』が故に、
『世間』の、
『憶想、分別』を、
『作さないからである!』。
世間名五眾。五眾相假令十方諸佛求之。亦不可得。無來處無住處。亦無去處。若不得五眾來住去相。即是出世間。 世間を五衆と名づくれば、五衆の相を、仮に十方の諸仏をして、之を求めしむるも、亦た不可得にして、来処無く、住処無く、亦た去処無し。若し五衆の来、住、去相を得ざれば、即ち是れ出世間なり。
『世間』を、
『五衆とすれば!』、
『五衆の相』は、
仮に、
『十方の諸仏』に、
『求めさせたとしても!』、
『不可得であり!』、
是の、
『法』には、
『来処も、住処も、去処も!』、
『無い!』。
若し、
『五衆』に、
『来、住、去の相』が、
『認められなければ!』、
是れは、
即ち、
『出世間である!』。
行者爾時觀是世間出世間實不可見。不見世間與出世間合。亦不見出世間與世間合。離世間亦不見出世間。離出世間亦不見世間。如是則不生二識。所謂世間出世間。 行者は、爾の時、是の世間、出世間を観るも、実に不可見なり。世間の出世間と合するを見ず、亦た出世間の世間と合するを見ず。世間を離れて、亦た出世間を見ず、出世間を離れて、亦た世間を見ず。是の如きは、則ち二識を生ぜず、謂わゆる世間と、出世間なり。
『行者』は、
爾の時、
是の、
『世間、出世間を観察する!』が、
実に、
『世間も、出世間も!』、
『見ることができず!』、
亦た、
『出世間と合した!』、
『世間』を、
『見ることもなく!』、
『世間と合した!』、
『出世間』を、
『見ることもなく!』、
亦た、
『世間を離れて!』、
『出世間』を、
『見ることもなく!』、
『出世間を離れて!』、
『世間』を、
『見ることもない!』。
是のようであれば、
謂わゆる、
『世間とか、出世間とか!』の、
『二識( two consciousness )』を、
『生じないのである!』。
若捨世間不受出世間。是名出世間。 若し世間を捨てて、出世間を受けざれば、是れを出世間と名づく。
若し、
『世間を捨てて!』、
『出世間』をも、
『受けなければ( not accept )!』、
是れを、
『出世間』と、
『称するのである!』。
若菩薩能如是知。則能為眾生。分別世間出世間道。有漏無漏一切諸道。亦如是入一相。是名道種慧 若し菩薩にして、能く是の如く知れば、則ち能く衆生の為に、世間、出世間の道を分別して、有漏、無漏、一切の諸道も亦た是の如く一相に入る、是れを道種慧と名づく。
若し、
『菩薩』が、
是のように、
『知るならば!』、
則ち、
『衆生』の為に、
『世間、出世間の道』を、
『分別することができ!』、
『有漏や、無漏』の、
一切の、
『諸の道』も、
亦た、
是のように、
『一相』に、
『入れば!』、
是れを、
『道種慧』と、
『称する!』。



一切智、一切種智

【經】欲以道種慧具足一切智。當習行般若波羅蜜。欲以一切智具足一切種智。當習行般若波羅蜜 道種慧を以って、一切智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。一切智を以って、一切種智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。
『道種慧(道種智)を用いて!』、
『一切智を具足しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行せねばならない!』。
『一切智を用いて!』、
『一切種智を具足しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行せねばならない!』。
  一切智(いっさいち):三智の一。内外一切の法相を了知する智を云う。『大智度論巻37上注:一切智』参照。
  一切種智(いっさいしゅち):三智の一。一切法の寂滅相及び行類差別に了達する仏所得の智を云う。『大智度論巻37上注:一切種智』参照。
【論】問曰。一切智一切種智。有何差別。 問うて曰く、一切智と、一切種智と、何なる差別か有る。
問い、
『一切智と、一切種智と!』には、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。有人言無差別。或時言一切智。或時言一切種智。 答えて曰く、有る人の言わく、『差別無し。或は時に一切智と言い、或は時に一切種智と言うのみ』、と。
答え、
有る人は、こう言っている、――
『差別は無い!』、
或る時には、
『一切智』と、
『言い!』、
或る時には、
『一切種智』と、
『言うだけだ!』、と。
有人言總相是一切智。別相是一切種智。因是一切智。果是一切種智。略說一切智。廣說一切種智。一切智者。總破一切法中無明闇。一切種智者。觀種種法門破諸無明。一切智譬如說四諦。一切種智譬如說四諦義。一切智者。如說苦諦。一切種智者。如說八苦相。一切智者。如說生苦。一切種智者。如說種種眾生處處受生。 有る人の言わく、『総相は、是れ一切智にして、別相は是れ一切種智なり。因は是れ一切智にして、果は是れ一切種智なり。略説すれば一切智にして、広説すれば一切種智なり。一切智は、総じて一切法中の無明の闇を破し、一切種智は、種種の法門を観て、諸の無明を破す。一切智は譬えば、四諦を説くが如く、一切種智は譬えば、四諦の義を説くが如し。一切智は、苦諦を説くが如く、一切種智は、八苦の相を説くが如し。一切智は、生苦を説くが如く、一切種智は、種種の衆生の処処の受生を説くが如し』、と。
有る人は、こう言っている、――
『総相』は、
『一切智であり!』、
『別相』は、
『一切種智である!』。
『因』は、
『一切智であり!』、
『果』は、
『一切種智である!』。
『略説すれば!』、
『一切智であり!』、
『広説すれば!』、
『一切種智である!』。
『一切智』は、
総じて、
『一切法』中の、
『無明の闇』を、
『破り!』、
『一切種智』は、
種種の、
『法門を観察して!』、
『諸の無明(愚癡)』を、
『破る!』。
『一切智』は、
譬えば、
『四諦』を、
『説くようなものであり!』、
『一切種智』は、
譬えば、
『四諦の義( meaning )』を、
『説くようなものである!』。
『一切智』は、
例えば、
『苦諦』を、
『説くようなものであり!』、
『一切種智』は、
例えば、
『八苦の相』を、
『説くようなものである!』。
『一切智』は、
例えば、
『生苦』を、
『説くようなものであり!』、
『一切種智』は、
例えば、
『種種の衆生の処処の受生』を、
『説くようなものである!』、と。
復次一切法名眼色乃至意法。是諸阿羅漢辟支佛。亦能總相知無常苦空無我等。知是十二入故。名為一切智。 復た次ぎに、一切法を、眼色、乃至意法と名づくれば、是れ諸の阿羅漢、辟支仏も亦た能く総相もて、無常、苦、空、無我等を知り、是れ十二入なりと知るが故に、名づけて、一切智と為す。
復た次ぎに、
『一切の法』を、
『眼、色、乃至意、法の十二入だとすれば!』、
是の、
『諸の阿羅漢、辟支仏』も、
亦た、
『無常、苦、空、無我』等の、
『総相』を、
『知ることができ!』、
是れが、
『十二入である!』と、
『知る!』が故に、
是れを、
『一切智』と、
『称する!』。
聲聞辟支佛尚不能盡別相知一眾生生處好醜事業多少。未來現在世亦如是。何況一切眾生。如一閻浮提中金名字。尚不能知。何況三千大千世界。於一物中種種名字若天語若龍語。如是等種種語言名金尚不能知。何況能知金因緣生處好惡貴賤因而得福因而得罪因而得道。如是現事尚不能知。何況心心數法。所謂禪定智慧等諸法。 声聞、辟支仏すら、尚お尽く別相をもて、一衆生の生処、好醜、事業の多少を知る能わず、未来、現在世も亦た是の如し。何に況んや、一切の衆生をや。一閻浮提中の金の名字の如きすら尚お知る能わず、何に況んや三千大千世界の一物中に於ける種種の名字をや。若しは天語、若しは龍語、是れ等の如き種種の語言もて、金に名づくるすら、尚お知る能わず、何に況んや、能く金の因縁、生処、好悪、貴賎を知るをや。因にして福を得る、因にして罪を得る、因にして道を得る、是れ等の現事すら、尚お知る能わず、何に況んや、心心数法の謂わゆる禅定、智慧等の諸法をや。
『声聞、辟支仏』は、
尚お、
『一衆生』の、
『生処、好醜、事業の多少』等の、
『別相』を、
『尽く知ることはできない!』、
『未来、現在世』も、
亦た、
『是の通りである!』。
況して、
『一切の衆生』の、
『別相』を、
『尽く知るはずがない!』。
尚お、
例えば、
『一閻浮提』中の、
『金の名字( gold, or, oro, χρυσός 等)すら!』、
『知ることができない!』、
況して、
『三千大千世界』中の、
『一物中の種種の名字』を、
『知るはずがない!』。
尚お、
例えば、
『天の語、龍の語など!』、
是れ等のような、
『種種の語言』の、
『金の呼称すら!』、
『知ることができない!』、
況して、
『金』の、
『因縁や、生処、好悪、貴賎』を、
『知るはずがない!』。
尚お、
例えば、
是の、
『因』は、
『福を得るのか?』、
『罪を得るのか?』、
『道を得るのか?』、
是れ等のような、
『現象的な!』、
『事すら!』、
『知ることができない!』。
況して、
『心、心数法のような!』、
謂わゆる、
『禅定、智慧等の諸法』を、
『知るはずがない!』。
佛盡知諸法總相別相故。名為一切種智。 仏は、尽く諸法の総相、別相を知りたもうが故に、名づけて一切種智と為す。
『仏』は、
尽く、
『諸の法』の、
『総相、別相』を、
『知っていられる!』が故に、
是れを、
『一切種智』と、
『称するのである!』。
復次後品中佛自說一切智是聲聞辟支佛事。道智是諸菩薩事。一切種智是佛事。聲聞辟支佛。但有總一切智。無有一切種智。 復た次ぎに、後の品中に仏の自ら説きたまわく、『一切智は、是れ声聞、辟支仏の事にして、道智は、是れ諸の菩薩の事、一切種智は、是れ仏の事なり。声聞、辟支仏は、但だ総なる一切智有るも、一切種智有ること無し』、と。
復た次ぎに、
『後の品』中に、
『仏』は、
自ら、こう説かれている、――
『一切智』は、
『声聞、辟支仏』の、
『事であり!』、
『道種智』は、
『諸の菩薩』の、
『事であり!』、
『一切種智』は、
『仏』の、
『事である!』。
『声聞、辟支仏』には、
但だ、
『総体的な!』、
『一切智』は、
『有る!』が、
『個別的な!』、
『一切種智』は、
『無い!』。
  参考:『大品般若経巻21三慧品』:『爾時須菩提白佛言。世尊。世尊說一切種智。佛告須菩提。我說一切種智。須菩提言。佛說一切智說道種智說一切種智。是三種智有何差別。佛告須菩提。薩婆若是一切聲聞辟支佛智。道種智是菩薩摩訶薩智。一切種智是諸佛智。須菩提白佛言。世尊。何因緣故。薩婆若是聲聞辟支佛智。佛告須菩提。一切名所謂內外法。是聲聞辟支佛能知。不能用一切道一切種智。須菩提言。世尊。何因緣故道種智是諸菩薩摩訶薩智。佛告須菩提。一切道菩薩摩訶薩應知。若聲聞道辟支佛道。菩薩道應具足知。亦應用是道度眾生。亦不作實際證。須菩提白佛言。世尊。如佛說菩薩摩訶薩應具足佛道。不應以是道實際作證耶。佛告須菩提。是菩薩未淨佛土未成就眾生。是時不應實際作證。須菩提白佛言。世尊。菩薩住道中應實際作證。佛言不也。世尊。住非道中實際作證。佛言不也。世尊。住道非道實際作證。佛言不也。世尊。住非道亦非非道實際作證。佛言不也。世尊。菩薩摩訶薩住何處應實際作證。佛告須菩提。於汝意云何。汝住道中不受諸法故。漏盡得解脫不。須菩提言。不也世尊。汝住非道漏盡得解脫不。不也世尊。汝住道非道漏盡得解脫不。不也世尊。汝住非道亦非非道漏盡得解脫不。不也世尊。我無所住不受諸法漏盡心得解脫。佛告須菩提菩薩摩訶薩亦如是。無所住應實際作證。須菩提言。世尊。云何為一切種智相。佛言。一相故名一切種智。所謂一切法寂滅相。復次諸法行類相貌。名字顯示說佛如實知。以是故名一切種智。須菩提白佛言。世尊。一切智道種智一切種智。是三智結斷有差別有盡有餘不。佛言。煩惱斷無差別。諸佛煩惱習一切悉斷。聲聞辟支佛煩惱習不悉斷。』
復次聲聞辟支佛。雖於別相有分。而不能盡知故。總相。受名佛一切智一切種智皆是真實。聲聞辟支佛但有名字。一切智譬如晝燈。但有燈名無有燈用。 復た次ぎに、声聞、辟支仏は、別相に於いて分有りと雖も、尽くを知る能わざるが故に、総相の名を受く。仏の一切智、一切種智は、皆是れ真実なるも、声聞、辟支仏は、但だ名字の一切智有るのみにして、譬えば昼の灯の、但だ灯の名有るも、灯の用有ること無きが如し。
復た次ぎに、
『声聞、辟支仏』にも、
『別相』に於いて、
『分』を、
『有する!』が、
『別相』の、
『尽く!』を、
『知ることはできない!』ので、
是の故に、
『総相の名』を、
『受けるのである!』が、
『仏』の、
『一切智や、一切種智』が、
皆、
『真実である!』のに、
『声聞、辟支仏』は、
但だ、
『名字』の、
『一切智』を、
『有するだけである!』。
譬えば、
『昼の灯』には、
但だ、
『灯の名が有るだけで!』、
『灯の用』が、
『無いようなものである!』。
如聲聞辟支佛。若有人問難。或時不能悉答不能斷疑。如佛三問舍利弗而不能答。若有一切智云何不能答。以是故但有一切智名勝於凡夫。無有實也。 声聞、辟支仏の如きは、若し有る人問難すれば、或は説きに悉くを答うる能わざれば、疑を断ずる能わず。仏の、三たび舍利弗に問いたまえるも、答う能わざるが如し。若し一切智有らば、云何が答う能わざる。是を以っての故に、但だ一切智の名有りて、凡夫に於いて勝るも、実有ること無きなり。
例えば、
『声聞、辟支仏など!』は、
若し、
有る、
『人』が、
『問難しても!』、
或は、時に、
『悉くを答えらえずに!』、
『疑』を、
『断じられない!』ので、
例えば、
『仏』が、
『舍利弗』に、
『三たび!』、
『問われたのに!』、
『舍利弗には!』、
『答えられなかったようなものである!』。
若し、
『一切智が有れば!』、
何故、
『答えられないのか?』。
是の故に、
『声聞、辟支仏』には、
『一切智という!』、
『名』が、
『有るだけに!』、
『凡夫よりは勝っている!』が、
『実』は、
『無いのである!』。
是故佛是實一切智一切種智。有如是無量名字。或時名佛為一切智人。或時名為一切種智人。如是等略說一切智一切種智種種差別。 是の故に仏は、是れ実の一切智、一切種智にして、是の如き無量の名字有り、或は時に、仏を名づけて、一切智の人と為し、或は時に名づけて、一切種智の人と為す。是れ等の如く、一切智、一切種智の種種に差別を略説せり。
是の故に、
『仏』は、
『実』に、
『一切智、一切種智であり!』、
是のような、
『無量の名字』が、
『有る!』ので、
或は時に、
『仏』を、
『一切智の人』と、
『呼び!』、
或は時に、
『一切種智の人』と、
『呼ぶのである!』。
是れ等のように、
『一切智、一切種智』の、
種種の、
『差別』を、
『略説した!』。
  参考:『大智度論巻3』:『問曰。若諸阿羅漢。所作已辦逮得己利不須聽法。何以故說般若波羅蜜時。共五千阿羅漢。答曰。諸阿羅漢雖所作已辦。佛欲以甚深智慧法試。如佛問舍利弗。如波羅延經阿耆陀難中偈說 種種諸學人  及諸數法人  是人所行法  願為如實說  中云何學人。云何數法人。爾時舍利弗默然。如是三問三默。佛示義端告舍利弗。有生不。舍利弗答。世尊有生。有生者欲為滅。有為生法故名學人。以智慧得無生法故。名數法人。是經此中應廣說。』
問曰。如經中說。行六波羅蜜三十七品十力四無所畏等諸法得一切智。何以故。此中說但用道種智得一切智。 問うて曰く、経中に、『六波羅蜜、三十七品、十力、四無所畏等の諸法を行じて、一切智を得』、と説けるが如くんば、何を以っての故に、此の中には、『但だ道種智を用いて、一切智を得』、と説く。
問い、
『経』中に、こう説く通りならば、――
『六波羅蜜、三十七品、十力、四無所畏』等の、
『諸の法を行って!』、
『一切智』を、
『得る!』、と。
何故、
此の中には、こう説くのですか?――
但だ、
『道種智を用いて!』、
『一切智』を、
『得る!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻21方便品』:『是菩薩摩訶薩如般若波羅蜜所說當學。如禪波羅蜜所說當學乃至如檀波羅蜜所說當學。是菩薩摩訶薩當得一切智。』
答曰。汝所說六波羅蜜等即是道。知是道行是道。得一切智何所疑。 答えて曰く、汝が所説の六波羅蜜等は、即ち是れ道なり。是の道を知り、是の道を行きて、一切智を得るに、何んが疑う所ぞ。
答え、
お前の説いた、
『六波羅蜜』が、
即ち、
『道である!』。
是の、
『道を知り!』、
是の、
『道を行って!』、
『一切智』を、
『得る!』のに、
何故、
『疑わしいのか?』。
復次初發心。乃至坐道場。於其中間一切善法。盡名為道。此道中分別思惟而行。是名道智。如此經後說道智是菩薩事。 復た次ぎに、初発心、乃至道場に坐するまでの、其の中間に於いて、一切の善法を、尽く名づけて、道と為す。此の道中に、分別し思惟して、行う、是れを道智と名づく。此の経の後に、『道智は、是れ菩薩事なり』、と説くが如し。
復た次ぎに、
『初発心、乃至道場に坐るまで!』の、
其の、
『中間』に於ける、
一切の、
『善法』を、
尽く、
『道』と、
『称し!』、
此の、
『道』中に、
『分別、思惟して!』、
『行くこと!』、
是れを、
『道智』と、
『称する!』。
例えば、
此の、
『経の後』に、こう説く通りである、――
『道智』は、
『菩薩の事である!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5広乗品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂苦智集智滅智道智盡智無生智法智比智世智他心智如實智。云何名苦智。知苦不生是名苦智。云何名集智。知集應斷是名集智。云何名滅智。知苦滅是名滅智。云何名道智。知八聖道分是名道智。云何名盡智。知諸婬恚癡盡是名盡智。云何名無生智。知諸有中無生是名無生智。云何名法智。知五蔭本事是名法智。云何名比智。知眼無常乃至意觸因緣生受無常是名比智。云何名世智。知因緣名字是名世智。云何名他心智。知他眾生心是名他心智。云何名如實智。諸佛一切種智是名如實智。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。』
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻21三慧品』:『佛告須菩提。薩婆若是一切聲聞辟支佛智。道種智是菩薩摩訶薩智。一切種智是諸佛智。』
問曰。佛道事已備故不名道智。阿羅漢辟支佛諸功德未備。何以不名道智。 問うて曰く、仏は、道事已に備わりたるが故に、道智と名づけず。阿羅漢、辟支仏は、諸の功徳未だ備わらざるに、何を以ってか、道智と名づけざる。
問い、
『仏』には、
已に、
『道の事』が、
『備わっている!』ので、
是の故に、
『道智』と、
『呼ばないならば!』、
『阿羅漢、辟支仏』には、
未だ、
『諸の功徳』が、
『備わっていない!』のに、
何故、
『道智』と、
『呼ばないのですか?』。
答曰。阿羅漢辟支佛道。自於所行亦辦。是故不名道智道是行相故。 答えて曰く、阿羅漢、辟支仏道は、自ら所行に於いては、亦た辦ぜり。是の故に道智と名づけず。道とは、是れ行相なるが故なり。
答え、
『阿羅漢、辟支仏道』も、
自らの、
『行うべき!』所は、
已に、
『辦じている( be accomplished )!』。
是の故に、
『道智』と、
『呼ばれないのである!』が、
何故ならば、
『道』とは、
『行相だからである!』。
  (べん):<動詞>[本義]処理/統御/遂行する( handle, manage, do )。為す/行う( do )、創設/経営/管理/運営する( found, run )、準備する( prepare )、懲罰する( punish )、完成する/成し遂げる( accomplish, achieve )。
復次此經中說聲聞辟支佛。聲聞中不攝三道故。此中不說佛道大故名為道智。聲聞辟支佛道小故不名道智。 復た次ぎに、此の経中に声聞、辟支仏を説くも、声聞中には三道を摂せざるが故に、此の中に説かず。仏道は大なるが故に名づけて、道智と為すも、声聞、辟支仏道は小なるが故に、道智と名づけず。
復た次ぎに、
此の、
『経』中には、
『仏、菩薩』以外に、
『声聞、辟支仏』を、
『説く!』が、
『声聞』中には、
『辟支仏、菩薩、仏の三道』を、
『摂しない( not contain )!』が故に、
此の中に、
『説かないのである!』。
又、
『仏の道』は、
『大である!』が故に
『道智』と、
『呼ばれる!』が、
『声聞、辟支仏の道』は、
『小である!』が故に、
『道智』と、
『呼ばれない!』。
復次菩薩摩訶薩。自行道亦示眾生各各所行道。以是故說名菩薩行道智得一切智。 復た次ぎに、菩薩摩訶薩は、自ら道を行い、亦た衆生に各各所行の道を示す。是を以っての故に説かく、『菩薩と名づくるは、道智を行じて、一切智を得』、と。
復た次ぎに、
『菩薩摩訶薩』は、
自ら、
『道を行いながら!』、
亦た、
『衆生』にも、
各各の、
『行うべき道』を、
『示す!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『菩薩とは!』、
『道智を行って!』、
『一切智』を、
『獲得する者である!』、と。
問曰。何等是一切智所知一切法。 問うて曰く、何等か、是れ一切智の所知の一切法なる。
問い、
『一切智の知る!』所の、
『一切法』とは、
何のような、
『法ですか?』。
答曰。如佛告諸比丘。為汝說一切法。何等是一切法。所謂眼色耳聲鼻香舌味身觸意法。是十二入名一切法。 答えて曰く、仏の諸の比丘に告げたまえるが如し、『汝が為に一切法を説かん。何等か、是れ一切法なる。謂わゆる眼色、耳声、鼻香、舌味、身触、意法にして、是の十二入を一切法と名づく』、と。
答え、
例えば、
『仏』は、
『諸の比丘』に、こう告げられている、――
お前の為に、
『一切法』を、
『説こう!』。
『一切法』とは、何のようなものか?――
謂わゆる、
『眼、色、耳、声、鼻、香、舌、味、身、触、意、法であり!』、
是の、
『十二入』を、
『一切法というのである!』、と。
復有一切法。所謂名色如佛說利眾經中偈
 若欲求真觀  但有名與色 
 若欲審實知  亦當知名色 
 雖癡心多想  分別於諸法 
 更無有異事  出於名色者
復た一切法有り。謂わゆる名色なり。仏の、利衆経中の偈に説きたまえるが如し、
若し真を求めて観んと欲せば、但だ名と色と有るのみ
若し実を審かに知らんと欲せば、亦た当に名色を知るべし
疑心多想なりと雖も、諸法を分別すれば
更に異事の、名色を出づる者の有ること無し、と。
復た、
『一切法が有り!』、
謂わゆる、
『名色( mental and material existence )である!』。
例えば、
『仏』は、
『利衆経中の偈』に、こう説かれている、――
若し、
『真を求めて!』、
『観ようとしても!』、
但だ、
『名と、色と!』が、
『有るだけだ!』。
若し、
『実を審らかにして!』、
『知ろうとしても!』、
亦た、
『名と、色と!』を、
『知ることになる!』。
『癡心』には、
『想が多い!』が、
諸の、
『法』を、
『分別すれば!』、
『名と色を出るような!』、
更に、
『異事』は、
『無い!』、と。
  名色(みょうしき):名前と形状( name and form )、梵語 naama- ruupa, kaaya の訳、名色の名義は、初期ウパニシャッドに於いては、有らゆる万有の物理的現象の意味に用いられてきたが、仏教に於いては、心と身、或いは精神と肉体との存在を示唆している( the term 'name and form' was used in the early Upaniṣads to denote all of the physical phenomena in the universe, but in Buddhism, refers to mind and body, or psycho-physical existence )。それは五つの集合 [五蘊]と訳され 、即ち人は、受、想、行、識を名 naama と為し、及び色 ruupa、形状である( It is interpreted as the five aggregates 五蘊 , i. e., a 'body,' sensation 受, perception 想, volition 行, and consciousness 識 being the 'name' and rūpa 色 the 'form' )。最初の四は心であり、後の一は身である( the first-named four are mental and the last material )。色は、物質としての最小の微粒子として看做され、可触である( Rūpa is described as the minutest particle of matter, that which has resistance );胎児の胚体が名色であり、名付けられるべき何物かである( the embryonic body or fetus is a nāmarūpa, something that can be named )。
  参考:『増一阿含第8経巻42』:『聞如是。一時。佛在羅閱城迦蘭陀竹園所。與大比丘眾五百人俱。是時。眾多比丘時到。著衣持缽。入羅閱城乞食。是時。眾多比丘便作是念。我等入城乞食。日猶故早。我等可至外道異學。與共論議。是時。眾多比丘便至外道異學所。時。諸外道遙見諸沙門來。各各自謂言。各各寂寞。勿有高聲語言。沙門瞿曇弟子今來此間。然沙門之法。稱譽寂寞之人。令知我等正法。不亂有亂。爾時。眾多比丘便至外道異學所。共相問訊。在一面坐。爾時。外道問諸比丘。汝等。沙門瞿曇與諸弟子說此妙法。是諸比丘盡解一切諸法而自遊戲不干。我等亦復與諸弟子說此妙法而自遊戲。我之所說。與汝有何等異。有何差別。說法戒.教一類無異。是時。眾多比丘聞外道異學所說。亦不稱善。復非言惡。即從坐起。各退而去。是時。眾多比丘自相謂言。我等當持此義。往白世尊。若如來有所說者。我當念奉行。爾時。眾多比丘入羅閱城乞食已。還至房中。收攝衣缽。往至世尊所。頭面禮足。住在一面。爾時。眾多比丘以此緣本。盡向如來說之。爾時。世尊告諸比丘。彼外道異學問此義已。汝等應持此語報之。一論.一義.一演。乃至十論.十議.十演。說此語時有何等義。設汝持此語往問者。彼人則不能報之。彼外道異學遂增愚惑。所以然者。非彼所有境界。是故。比丘。我不見天及人民.魔.若魔天.釋.梵天王能報此語者。除如來及如來弟子從吾聞者。此則不論。一論.一義.一演。我雖說此義。由何故而說乎。一切眾生由食而存。無食則死。彼比丘平等厭患。平等解脫。平等觀察。平等分別其義。平等盡苦際。同一義而不二。我所說者。正謂此耳。一義.一論.一演。乃至十論.十義.十演。我雖說此義。由何說乎。名與色。彼何等謂名。所謂痛.想.念.更.思惟。是謂名也。彼云何名為色耶。四大及四大所造色。是謂名為色。以此緣本。故名為色也。二論.二義.二演者。由此因緣故。我今說之。若比丘平等厭患。平等解脫。平等觀察。平等分別其義。平等盡其苦際。三論.三義.三演。由何等故而說此義乎。所謂三痛。云何為三。所謂苦痛.樂痛.不苦不樂痛。彼云何名為樂痛。所謂心中樂想。亦不分散。是謂名為樂痛。彼云何名為苦痛。所謂心中憒亂而不定一。思惟若干想。是謂名苦痛。彼云何名為不苦不樂痛。所謂心中無苦無樂想。復非一定。復非亂想。亦不思惟法與非法。恒自寂默。心無有記。是故名為不苦不樂痛。是謂三痛。若比丘平等厭患。平等解脫。平等觀察。平等分別其義。平等盡其苦際。我所說三論.三義.三演者。正謂此耳。四義.四論.四演。由何等故復說此義乎。所謂四諦。云何為四。所謂苦.習.盡.道聖諦。彼云何為苦諦。所謂生苦.老苦.病苦.死苦.憂悲惱苦.怨憎會苦.恩愛別苦.所欲不得苦。彼云何名為習諦。所謂愛本與欲相應者。是謂名為習諦。彼云何名為苦盡諦。所謂彼愛永盡無餘。更不復生。是謂名苦盡諦。彼云何名為苦要諦。所謂賢聖八品道。正見.正治.正語.正命.正業.正方便.正念.正三昧。是名為八品之道也。若比丘平等厭患。平等解脫。平等分別其義。平等觀察。平等盡其苦際。是謂四論.四義.四演。我所說者。正謂此耳。五論.五義.五演。我今所說由何等故說。所謂五根。云何為五。信根.精進根.念根.定根.慧根。云何名為信根。所謂賢聖弟子。信如來道法。彼如來.至真.等正覺.明行成為.善逝.世間解.無上士.道法御.天人師。號佛.眾祐。出現於世。是謂名為信根。彼云何名為精進根。所謂身心意并勤勞不倦。滅不善法。使善增益。順心執持。是謂名為精進根。彼云何名為念根。所謂念根者。所誦不忘。恒在心懷。總持不失。有為.無漏之法。終不忘失。是謂名為念根。彼云何名為定根。所謂定根者。心中無錯亂。無若干想。恒專精一意。是謂名為三昧根。彼云何名智慧根。所謂知苦.知習.知盡.知道。是謂名智慧之根。此名五根也。比丘於中平等解脫。平等分別其義。平等盡其苦際。五論.五義.五演。我所說者。正謂此耳。六論.六義.六演。我所說者由何等故乎。所謂六重之法也。云何為六。於是。比丘恒身行慈心。若在閑淨室中。常若一心。可尊可貴。恒與和合。是謂比丘第一重法。復次。口行慈心。終無虛妄。可敬可貴。是謂第二重法。復次。意行慈。不起憎嫉。可敬可貴。是謂第三重法。復次。若得法利之養。缽中遺餘。與諸梵行之人等心施與。是謂第四重法可敬可貴。復次。奉持禁戒。無所脫失。賢人之所貴。是謂第五重法可敬可貴。復次。正見賢聖得出要。得盡苦際。意不錯亂。與諸梵行之人等修其行。是謂第六之法可敬可貴。爾時。比丘平等厭患。平等解脫。平等分別其義。平等盡於苦際。六論.六義.六演。我所說者。正謂此耳。身。所謂天及人也。或有眾生。若干種身一想。所謂梵迦夷天最初出時。或有眾生。一想一身。所謂光音天是也。或有眾生。一身若干想。所謂遍淨天是也。或有眾生。空處無量。所謂空處天是也。或有眾生。識處無量。所謂識處天是也。或有眾生。無所有處無量。所謂不用處天是也。或有眾生。有想無想處無量。所謂有想無想天是也。是謂。比丘。七神止處。於是。比丘平等解脫。乃至平等盡於苦際。七論.七義.七演。我所說者。正謂此耳。八論.八義.八演。我所說者由何等故而說此乎。所謂世間八法是隨世迴轉。云何為八。利.衰.毀.譽.稱.譏.苦.樂。是謂世間八法隨世迴轉。若比丘於中平等解脫。乃至盡於苦際。八論.八義.八演。我所說者。正謂此耳。九論.九義.九演。我所說者由何故而說此乎。所謂九眾生居處。云何為九。若有眾生。若干種身。所謂天及人。或有眾生。若干種身一想。謂梵迦夷天最初出時是也。或有眾生。一想一身。所謂光音天是也。或有眾生。一身若干想。所謂遍淨天也。或有眾生。空處無量。所謂空處天是也。或有眾生。識處無量。所謂識天也。或有眾生。無有處無量。所謂不用處天是也。或有眾生。有想無想處無量。所謂有想無想天是也。無想眾生及諸所生之類。為九神止處。於是。比丘平等解脫。乃至盡於苦際。九論.九義.九演。我所說者。正謂此耳。十論.十義.十演。由何等說乎。所謂十念。念佛.念法.念比丘僧.念戒.念施.念天.念休息.念安般.念身.念死。是謂十念。若比丘平等解脫。乃至盡於苦際。十論.十義.十演。如是。比丘。從一至十。比丘當知。若外道異學聞此語者。猶不能熟視顏色。況欲報之。其有比丘解此義者。於現法中最尊第一之人。若復比丘.比丘尼思惟此義。乃至十歲。必成二果。若阿羅漢.若阿那含。比丘且捨十歲。若一年之中思惟此義者。必成二果。終無中退。比丘且捨一年。其四部之眾十月。若至一月思惟此義者。必成二果。亦不中退。且捨一月。若四部之眾七日之中思惟此義。必成二果。終不有疑。爾時。阿難在世尊後。執扇扇佛。爾時。阿難白佛言。世尊。此法極為甚深。若所在方面有此法者。當知便遇如來。唯然。世尊。此法名何等。當云何奉行。佛告阿難。此經名為十法之義。當念奉行。爾時。阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次一切法。所謂色無色法。可見不可見。有對無對。有漏無漏。有為無為。心非心。心相應非心相應。共心生不共心生。隨心行不隨心行。從心因不從心因。如是等無量二法門攝一切法。如阿毘曇攝法品中說。 復た次ぎに、一切法とは、謂わゆる色、無色法にして、可見、不可見、有対、無対、有漏、無漏、有為、無為、心、非心、心相応、非心相応、共心生、不共心生、随心行、不随心行、従心因、不従心因、是れ等の如き無量の二法門に一切法を摂すること、阿毘曇摂法品中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『色、無色の法であり!』、
『可見法と、不可見法』、
『有対法と、無対法』、
『有漏法と、無漏法』、
『有為法と、無為法』、
『心法と、非心法』、
『心相応法と、非心相応法』、
『共心生法と、不共心生法』、
『随心行法と、不随心行法』、
『従心因法と、不従心因法』、
是れ等のような、
『無量の二法の門』に、
『一切法』を、
『摂するのであり!』、
例えば、
『阿毘曇』の、
『摂法品』中に、
『説かれた通りである!』。
  参考:『品類足論巻5辯摂等品』:『有所知法。所識法。所通達法。所緣法。增上法。有色法無色法。有見法。無見法。有對法。無對法。有漏法。無漏法。有為法。無為法。有諍法。無諍法。世間法。出世間法。墮界法。不墮界法。有味著法。無味著法。耽嗜依法。出離依法。心法。非心法。心所法。非心所法。心相應法。心不相應法。心俱有法。非心俱有法。隨心轉法。非隨心轉法。心為因法。非心為因法。心為等無間法。非心為等無間法。心為所緣法。非心為所緣法。心為增上法。非心為增上法。心果法。非心果法。心異熟法。非心異熟法。業法。非業法。業相應法。業不相應法。業俱有法。非業俱有法。隨業轉法。非隨業轉法。業為因法。非業為因法。業為等無間法。非業為等無間法。業為所緣法。非業為所緣法。業為增上法。非業為增上法。業果法。非業果法。業異熟法。非業異熟法。有法。非有法。有相應法。有不相應法。有俱有法。非有俱有法。隨有轉法。非隨有轉法。有為因法。非有為因法。有為等無間法。非有為等無間法。有為所緣法。非有為所緣法。有為增上法。非有為增上法。有果法。非有果法。有異熟法。非有異熟法。所遍知法。非所遍知法。所應斷法。非所應斷法。所應修法。非所應修法。所應證法。非所應證法。所應習法。非所應習法。有罪法。無罪法。黑法。白法。有覆法。無覆法。順退法。非順退法。有記法。無記法。已生法。非已生法。正生法。非正生法。已滅法。非已滅法。正滅法。非正滅法。緣起法。非緣起法。緣已生法。非緣已生法。因法。非因法。有因法。非有因法。因已生法。非因已生法。因相應法。因不相應法。結法。非結法。順結法。非順結法。取法。非取法。有執受法。無執受法。順取法。非順取法。煩惱法。非煩惱法。染污法。不染污法。雜染法。非雜染法。纏法。非纏法。所纏法。非所纏法。順纏法。非順纏法。有所緣法。無所緣法。有尋法。無尋法。有伺法。無伺法。有喜法。無喜法。有警覺法。無警覺法。有事法。無事法。有緣法。無緣法。有上法。無上法。遠法。近法。有量法。無量法。見法。非見法。見處法。非見處法。見相應法。見不相應法。異生法法。非異生法法。共異生法。不共異生法。定法。非定法。順熱惱法。非順熱惱法。根法。非根法。聖諦所攝法。非聖諦所攝法。俱有法。非俱有法。相應法。不相應法。果法。非果法。有果法。無果法。異熟法。非異熟法。有異熟法。無異熟法。因緣法。非因緣法。有因緣法。無因緣法。離法。非離法。有離法。無離法。相續法。非相續法。有相續法。無相續法。』
復次一切法。所謂善法不善法無記法。見諦所斷思惟所斷不斷法。有報法無報法。非有報非無報法。如是等無量三法門攝一切法。 復た次ぎに、一切法とは謂わゆる善法と不善法と無記法、見諦所断と思惟所断と不断法、有報法と無報法と非有報非無報法、是れ等の如き無量の三法の門に一切法を摂す。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『善法と、不善法と、無記法』、
『見諦所断の法と、思惟所断の法と、不断の法』、
『有報の法と、無報の法と、非有報非無報の法』、
是れ等のような、
『無量の三法の門』に、
『一切法』を、
『摂する!』。
  参考:『品類足論巻5辯摂等品』:『有三法。謂善法。不善法。無記法。學法。無學法。非學非無學法。見所斷法。修所斷法。非所斷法。見所斷為因法。修所斷為因法。非所斷為因法。有見有對法。無見有對法。無見無對法。異熟法。異熟法法。非異熟非異熟法法。劣法中法妙法。小法大法無量法。可意法。不可意法。非可意非不可意法。樂俱行法。苦俱行法。不苦不樂俱行法。俱生法。俱住法。俱滅法。非俱生法。非俱住法。非俱滅法。心俱生法。心俱住法。心俱滅法。非心俱生法。非心俱住法。非心俱滅法。有三界。謂欲界恚界害界。復有三界。謂出離界無恚界無害界。復有三界。謂欲界色界無色界。復有三界。謂色界無色界滅界。有三有。謂欲有色有無色有。有三漏。謂欲漏有漏無明漏。有三世。謂過去世未來世現在世。有三言依事。謂過去言依事。未來言依事。現在言依事。有三苦性。謂苦苦性壞苦性行苦性。有三法。謂有尋有伺法。無尋唯伺法。無尋無伺法。有三地。謂有尋有伺地。無尋唯伺地。無尋無伺地。有三業。謂身業語業意業。復有三業。謂善業不善業。無記業。復有三業。謂學業無學業非學非無學業。復有三業。謂見所斷業。修所斷業。非所斷業。復有三業。謂順現法受業。順次生受業。順後次受業。復有三業。謂順樂受業。順苦受業。順不苦不樂受業』
復次一切法。所謂過去法未來法現在法。非過去未來現在法。欲界繫法色界繫法無色界繫法不繫法。從善因法。從不善因法從無記因法。從非善非不善非無記因法。有緣緣法無緣緣法。有緣緣亦無緣緣法。非有緣緣非無緣緣法。如是等無量四法門攝一切法。 復た次ぎに、一切法とは謂わゆる過去法と未来法と現在法と非過去未来現在法、欲界繋法と色界繋法と無色界繋法と不繋法、従善因法と従不善因法と従無記因法と従非善非不善非無記因法、有縁縁法と無縁縁法と有縁縁亦無縁縁法と非有縁縁非無縁縁法、是れ等の如き無量の四法の門に一切法を摂す。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『過去法と、未来法と、現在法と、非過去未来現在法』、
『欲界繋法と、色界繋法と、無色界繋法と、不繋法』、
『従善因法と、従不善因法と、従無記因法と、従非善非不善非無記因法』、
『有縁縁法と、無縁縁法と、有縁縁亦無縁縁法と、非有縁縁非無縁縁法』、
是れ等のような、
『無量の四法の門』に、
『一切法』を、
『摂する!』。
  参考:『品類足論巻5辯摂等品』:『有四念住。謂身念住。受念住。心念住。法念住。有四正斷。謂為令已生惡不善法得永斷故。勤修正斷。為令未生惡不善法永不生故。勤修正斷。為令未生善法生故。勤修正斷。為令已生善法堅住不忘修滿倍復增廣智作證故。勤修正斷。有四神足。謂欲三摩地斷行成就神足。勤三摩地斷行成就神足。心三摩地斷行成就神足。觀三摩地斷行成就神足。有四靜慮。謂初靜慮。第二靜慮。第三靜慮。第四靜慮。有四聖諦。謂苦聖諦。集聖諦。滅聖諦。道聖諦。有四無量。謂慈無量。悲無量。喜無量。捨無量。有四無色。謂空無邊處。識無邊處。無所有處。非想非非想處。有四聖種。謂隨所得衣喜足聖種。隨所得食喜足聖種。隨所得臥具喜足聖種。樂斷樂修聖種。有四沙門果。謂預流果一來果不還果阿羅漢果。有四智。謂法智類智他心智世俗智。復有四智。謂苦智集智滅智道智。有四無礙解。謂法無礙解。義無礙解。詞無礙解。辯無礙解。有四緣。謂因緣。等無間緣。所緣緣。增上緣。有四食。謂段食若麤若細。觸食意思食識食。有四瀑流。謂欲瀑流。有瀑流。見瀑流。無明瀑流。有四軛。謂欲軛有軛見軛無明軛。有四取。謂欲取見取戒禁取我語取。有四法。謂過去法未來法現在法。非過去非未來非現在法。復有四法。謂欲界繫法。色界繫法。無色界繫法。不繫法。復有四法。謂善為因法。不善為因法。無記為因法。非善為因非不善為因非無記為因法。復有四法。謂緣有所緣法。緣無所緣法。緣有所緣緣無所緣法。非緣有所緣非緣無所緣法』
復次一切法。所謂色法心法心數法。心不相應諸行法。無為法四諦及無記無為。如是等無量五法門攝一切法。 復た次ぎに、一切法とは謂わゆる色法と心法と心数法と心不相応諸行法と無為法、四諦及び無記無為、是れ等の如き無量の五法の門に一切法を摂す。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『色法と、心法と、心数法と、心不相応諸行法と、無為法』、
『四諦の法と、無記の無為法』、
是れ等のような、
『無量の五法の門』に、
『一切法』を、
『摂する!』。
  参考:『品類足論巻5辯摂等品』:『有五蘊。謂色蘊受蘊想蘊行蘊識蘊。有五取蘊。謂色取蘊受取蘊想取蘊行取蘊識取蘊。有五趣。謂捺落迦趣傍生趣鬼趣人趣天趣。有五煩惱部。謂見苦所斷煩惱部。見集所斷煩惱部。見滅所斷煩惱部。見道所斷煩惱部。修所斷煩惱部。有五法。謂色法心法心所法。心不相應行法。無為法。』
復次一切法。所謂五眾及無為苦諦所斷法。集諦滅諦道諦思惟所斷法不斷法。如是等無量六法門攝一切法。七八九十等諸法門。是阿毘曇分別義。 復た次ぎに、一切法とは謂わゆる五衆及び無為、苦諦所断の法と集諦と滅諦と道諦と思惟所断の法と不断の法、是れ等の如き無量の六法の門に一切法を摂す。七、八、九、十等の諸法の門、是れ阿毘曇分別の義なり。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『五衆の諸法と、無為法』、
『苦諦所断の法と、集諦、滅諦、道諦、思惟所断の法と、不断の法』、
是れ等のような、
『無量の六法の門』に、
『一切法』を、
『摂する!』、
亦た、
『七、八、九、十等の諸法の門』にも、
是のように、
『一切法』を、
『摂する!』が、
是れは、
『阿毘曇の分別する!』、
『義である!』。
  参考:『品類足論巻5辯摂等品』:『有六界。謂地界水界火界風界空界識界。有六法。謂見苦所斷法。見集所斷法。見滅所斷法。見道所斷法。修所斷法。非所斷法。有七隨眠。謂欲貪隨眠。瞋隨眠。有貪隨眠。慢隨眠。無明隨眠。見隨眠。疑隨眠。有七識住。謂有色有情身異想異。如人一分天。是初識住。有色有情身異想一。如梵眾天劫初時。是第二識住。有色有情身一想異。如極光淨天。是第三識住。有色有情身一想一。如遍淨天。是第四識住。無色有情超一切色想。滅有對想不思惟種種想入無邊空。空無邊處具足住。如空無邊處天。是第五識住。無色有情超一切空無邊處入無邊識。識無邊處具足住。如識無邊處天。是第六識住。無色有情超一切識無邊處入無所有。無所有處具足住。如無所有處天。是第七識住。有七覺支。謂念等覺支。擇法等覺支。精進等覺支。喜等覺支。輕安等覺支。定等覺支。捨等覺支。有八解脫。謂有色觀諸色。是初解脫。內無色想觀外色。是第二解脫。淨解脫身作證具足住。是第三解脫。超一切色想滅有對想不思惟種種想。入無邊空。空無邊處具足住。是第四解脫。超一切空無邊處入無邊識。識無邊處具足住。是第五解脫。超一切識無邊處入無所有。無所有處具足住。是第六解脫。超一切無所有處入非想非非想處具足住。是第七解脫。超一切非想非非想處。入想受滅身作證具足住。是第八解脫。有八勝處。謂內有色想觀外色少。若好顯色。若惡顯色。於彼諸色勝知勝見。具如是想是初勝處。內有色想觀外色多。若好顯色。若惡顯色。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第二勝處。內無色想觀外色少。若好顯色若惡顯色。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第三勝處。內無色想觀外色多。若好顯色。若惡顯色。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第四勝處。內無色想觀外諸色。若青青顯青現青光。猶如烏莫迦華。或如婆羅[病-丙+尼]斯深染青衣。若青青顯青現青光。內無色想觀外諸色。若青青顯青現青光。亦復如是。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第五勝處。內無色想觀外諸色。若黃黃顯黃現黃光。猶如羯尼迦花。或如婆羅[病-丙+尼]斯深染黃衣。若黃黃顯黃現黃光。內無色想觀外諸色。若黃黃顯黃現黃光。亦復如是。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第六勝處。內無色想觀外諸色。若赤赤顯赤現赤光。猶如槃豆時縛迦花。或如婆羅[病-丙+尼]斯深染赤衣。若赤赤顯赤現赤光。內無色想觀外諸色。若赤赤顯赤現赤光。亦復如是。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第七勝處。內無色想觀外諸色。若白白顯白現白光。猶如烏殺斯星。或如婆羅[病-丙+尼]斯極鮮白衣。若白白顯白現白光。內無色想觀外諸色。若白白顯白現白光。亦復如是。於彼諸色勝知勝見。具如是想是第八勝處。有八聖道支。謂正見正思惟正語正業正命正精進正念正定』
  参考:『品類足論巻6辯摂等品』:『有九結。謂愛結恚結慢結無明結見結取結疑結嫉結慳結。有九有情居。謂有色有情身異想異。如人及一分天。是初有情居。有色有情身異想一。如梵眾天劫初時。是第二有情居。有色有情身一想異。如極光淨天。是第三有情居。有色有情身一想一。如遍淨天。是第四有情居。有色有情無想無異想。如無想有情天。是第五有情居。無色有情超一切色想。滅有對想。不思惟種種想入無邊空。空無邊處具足住。如空無邊處天。是第六有情居。無色有情超一切空無邊處。入無邊識。識無邊處具足住。如識無邊處天。是第七有情居。無色有情超一切識無邊處入無所有。無所有處具足住。如無所有處天。是第八有情居。無色有情超一切無所有處入非想非非想處具足住。如非想非非想處天。是第九有情居。有十遍處。謂地遍滿一類想。上下傍布無二無量。是初遍處。水遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第二遍處。火遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第三遍處。風遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第四遍處。青遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第五遍處。黃遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第六遍處。赤遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第七遍處。白遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第八遍處。空遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第九遍處。識遍滿一類想。上下傍布無二無量。是第十遍處。有十無學法。謂無學正見正思惟正語正業正命正精進正念正定正勝解正智。有十一法。謂有漏色。無漏色。有漏受。無漏受。有漏想。無漏想。有漏行。無漏行。有漏識。無漏識。及無為法。有十二處。謂眼處色處耳處聲處鼻處香處舌處味處身處觸處意處法處。有十八界。謂眼界色界眼識界。耳界聲界耳識界。鼻界香界鼻識界。舌界味界舌識界。身界觸界身識界。意界法界意識界。有二十二根。謂眼根耳根鼻根舌根身根。女根男根命根意根。樂根苦根喜根憂根捨根。信根精進根念根定根慧根。未知當知根已知根具知根。有九十八隨眠。謂欲界繫三十六。色界繫三十一。無色界繫三十一如前說。』
復次一切法。所謂有法無法。空法實法。所緣法能緣法。聚法散法等。 復た次ぎに、一切法とは、謂わゆる有法と無法、空法と実法、所縁法と能縁法、聚法と散法等なり。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『有法と、無法』、
『空法と、実法』、
『所縁の法と、能縁の法』、
『聚法と、散法等である!』。
復次一切法。所謂有法無法。亦有亦無法。空法實法。非空非實法。所緣法能緣法。非所緣非能緣法。 復た次ぎに、一切法とは、謂わゆる有法と無法と亦有亦無の法、空法と実法と非空非実の法、所縁の法と能縁の法と非所縁非能縁の法なり。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『有法と、無法と、亦有亦無の法』、
『空法と、実法と、非空非実の法』、
『所縁の法と、能縁の法と、非所縁非能縁の法である!』。
復次一切法。所謂有法無法。亦有亦無法。非有非無法。空法不空法。空不空法非空非不空法。生法滅法生滅法。非生非滅法。不生不滅法。非不生非不滅法。不生不滅亦非不生非不滅法。非不生非不滅亦非不不生亦非不不滅法。 復た次ぎに、一切法とは、謂わゆる有法と無法と亦有亦無の法と非有非無の法、空法と不空の法と空不空の法と非空非不空の法、生法と滅法と生滅の法と非生非滅の法、不生不滅の法と非不生非不滅の法と、不生不滅亦非不生非不滅の法と、非不生非不滅亦非不不生亦非不不滅の法なり。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
謂わゆる、
『有法と、無法と、亦有亦無の法と、非有非無の法』、
『空法と、不空法と、空不空の法と、非空非不空の法』、
『生法と、滅法と、生滅の法と、非生非滅の法』、
『不生不滅の法と、非不生非不滅の法と、不生不滅亦非不生非不滅の法と、非不生非不滅亦非不不生亦非不不滅の法である!』。
復次一切法。所謂有法無法有無法非有非無法捨是四句。法空不空生滅不生不滅五句皆亦如是。如是等種種無量阿僧祇法門所攝諸法。以是無礙智慧。盡遍知上諸法。名為一切智一切種智。 復た次ぎに、一切法とは、謂わゆる有法と無法と有無の法と非有非無の法と是の四句を捨つる法、空と不空と生と滅と不生不滅の五句も皆亦た是の如く、是れ等の如き種種、無量、阿僧祇の法門の所摂の諸法なり。是の無礙の智慧を以って、尽く遍く、上の諸法を知るを名づけて、一切智、一切種智と為す。
復た次ぎに、
『一切法』とは、
『有法と、無法と、有無の法と、非有非無の法と、是の四句を捨てた法』や、
『空と、不空と、生と、滅と、不生不滅の五句の法』も、
皆、
亦た、
是の通りであり、
是れ等のような、
『種種、無量、阿僧祇の法門に摂する!』、
『諸の法である!』。
是の、
『無礙の智慧を用いて!』、
上の、
『諸法』を、
『尽く、遍く!』、
『知れば!』、
是れを、
『一切智、一切種智』と、
『称する!』。
問曰。一切眾生皆求智慧。云何獨佛一人得一切智。 問うて曰く、一切の衆生は、皆智慧を求むるに、云何が独り仏一人のみ、一切智を得るや。
問い、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『智慧』を、
『求めている!』のに、
何故、
『仏、一人のみ!』が、
独り、
『一切智』を、
『得るのですか?』。
答曰。佛於一切眾生中第一故。獨得一切智。如佛所說。無足二足四足多足。有色無色有想無想非有想非無想等。一切眾生中佛最第一。譬如須彌山於眾山中自然最第一。如四大中火最有力能照能燒。佛亦如是。於一切眾生中。最第一故得一切智。 答えて曰く、仏は一切の衆生中に於いて第一なるが故に、独り一切智を得。仏の所説の如きには、『無足、二足、四足、多足、有色、無色、有想、無想、非有想非無想等の一切の衆生中に仏は最も第一なり』、となり。譬えば須弥山の衆山中於いて自然に最も第一なるが如く、四大中に火最も力有りて、能く照らし、能く焼くが如く、仏も亦た是の如く、一切の衆生中に於いて最も第一なるが故に、一切智を得たもう。
答え、
『仏』は、
一切の、
『衆生』中の、
『第一である!』が故に、
独り、
『一切智』を、
『得られたのである!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれているが、――
『無足、二足、四足、多足、有色、無色、有想、無想、非有想非無想』等の、
一切の、
『衆生』中に、
『仏』は、
『最も第一である!』、と。
譬えば、
『須弥山』が、
『衆山』中に、
『自然に!』、
『最も第一であるように!』、
『四大』中には、
『火』が、
『最も有力であり!』、
『照らしたり、焼いたりできるように!』、
亦た、
『仏』も、
是のように、
一切の、
『衆生中に最も第一である!』が故に、
『一切智』を、
『得られたのである!』。
  参考:『雑阿含第882経巻31』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。譬如百草藥木。皆依於地而得生長。如是種種善法。皆依不放逸為本。如上說。乃至涅槃。譬如黑沈水香是眾香之上。如是種種善法。不放逸最為其上。譬如堅固之香。赤栴檀為第一。如是一切善法。一切皆不放逸為根本。如是。乃至涅槃。譬如水陸諸華。優缽羅華為第一。如是一切善法。皆不放逸為根本。乃至涅槃。譬如陸地生華。摩利沙華為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。乃至涅槃。譬如。比丘。一切畜生跡中。象跡為上。如是一切諸善法。不放逸最為根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切畜生。師子為第一。所謂畜生主。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切屋舍堂閣。以棟為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。譬如一切閻浮果。唯得閻浮名者。果最為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如是一切俱毘陀羅樹。薩婆耶旨羅俱毘陀羅樹為第一。如是一切善法。不放逸為根本。如上說。乃至涅槃。譬如諸山。以須彌山王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切金。以閻浮提金為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切衣中。伽尸細氎為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切色中。以白色為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如眾鳥。以金翅鳥為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如諸王。轉輪聖王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切天王。四大天王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切三十三天。以帝釋為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如焰摩天中。以宿焰摩天王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如兜率陀天。以兜率陀天王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如化樂天。以善化樂天王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如他化自在天。以善他化自在天子為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如梵天。大梵王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如閻浮提一切眾流皆順趣大海。其大海者最為第一。以容受故。如是一切善法皆順不放逸。如上說。乃至涅槃。譬如一切雨渧皆歸大海。如是一切善法皆順趣不放逸海。如上說。乃至涅槃。譬如一切薩羅。阿耨大薩羅為第一。如是一切善法。不放逸為第一。如上說。乃至涅槃。譬如閻浮提一切河。四大河為第一。謂恒河.新頭.搏叉.司陀。如是一切善法。不放逸為第一。如上說。乃至涅槃。譬如眾星光明。月為第一。如是一切善法。不放逸為第一。如上說。乃至涅槃。譬如諸大身眾生。羅睺羅阿修羅最為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如諸受五欲者。頂生王為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如欲界諸神力。天魔波旬為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切眾生。無足.兩足.四足.多足。色.無色。想.無想。非想.非無想。如來為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如所有諸法。有為.無為。離貪欲為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切諸法眾。如來眾為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。譬如一切所有諸界苦行。梵行聖界為第一。如是一切善法。不放逸為其根本。如上說。乃至涅槃。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。佛何以故於一切眾生中獨最第一。 問うて曰く、仏は何を以っての故にか、一切の衆生中に於いて、独り最も第一なる。
問い、
『仏』は、
何故、
一切の、
『衆生』中に於いて、
『独りだけ!』、
『最も、第一なのですか?』。
答曰。如先答得一切智故。今當更說。佛自利益亦利益他故。於眾生中最第一。如一切照中日為第一。一切人中轉輪聖王最第一。一切蓮華中青蓮華為第一。一切陸生華須曼色第一。一切木香中牛頭栴檀為第一。一切珠中如意珠為第一。一切諸戒中聖戒為第一。一切解脫中不壞解脫為最第一。一切清淨中解脫為第一。一切諸諦中空觀為第一。一切諸法中涅槃為第一。如是等無量各各第一。佛亦如是。於一切眾生中最為第一故。獨得一切智。 答えて曰く、先に、『一切智を得たまえるが故に』、と答うるが如きも、今、当に更に説くべし、仏は、自ら利益して、亦た他を利益するが故に、衆生中に於いて最も第一なること、一切の照中には、日を第一と為し、一切の人中には、転輪聖王を最も第一、一切の蓮華中には青蓮華を第一と為し、一切の陸生の華には、須曼の色を第一、一切の木香中には、牛頭栴檀を第一と為し、一切の珠中には、如意珠を第一と為し、一切の諸戒中には、聖戒を第一と為し、一切の解脱中には、不壊解脱を最も第一と為し、一切の清浄中には、解脱を第一と為し、一切の諸諦中には、空観を第一と為し、一切の諸法中には涅槃を第一と為す、是れ等の如き無量は各各第一なるが如く、仏も亦た是の如く、一切の衆生中に於いて最も第一と為すが故に、独り、一切智を得たまえり。
答え、
先に、
『一切智を得られたからである!』と、
『答えた通りである!』が、
今、
更に、説かねばならないだろう、――
『仏』は、
『自ら利益して!』、
亦た、
『他をも!』、
『利益する!』が故に、
『衆生』中に於いて、
『最も!』、
『第一である!』が、
例えば、
一切の、
『照明』中には、
『日』が、
『第一であり!』、
一切の、
『人』中には、
『転輪聖王』が、
『最も第一であり!』、
一切の、
『蓮華』中には、
『青蓮華』が、
『第一であり!』、
一切の、
『陸生の華』中には、
『須曼の色』が、
『第一であり!』、
一切の、
『木香』中には、
『牛頭栴檀』が、
『第一であり!』、
一切の、
『珠』中には、
『如意珠』が、
『第一であり!』、
一切の、
『諸戒』中には、
『聖戒』が、
『第一であり!』、
一切の、
『解脱』中には、
『不壊解脱』が、
『最も第一であり!』、
一切の、
『清浄』中には、
『解脱』が、
『第一であり!』、
一切の、
『諸諦』中には、
『空観』が、
『第一であり!』、
一切の、
『諸法』中には、
『涅槃』が、
『第一であり!』、
是れ等のように、
無量の、
『各各が!』、
『第一であるように!』、
亦た、
『仏』も、
是のように、
一切の、
『衆生』中に於いて、
『最も第一である!』が故に、
独り、
『一切智』を、
『得られたのである!』。
  須曼(しゅまん):花の名。『大智度論巻27上注:蘇摩那華、俱蘇摩』参照。
  蘇摩那華(そまなけ):蘇摩那sumanasは梵名。又はsumanaa、巴梨名sumanaa、又蘇磨那、蘇曼那、蘇末那、修摩那、須摩那、須曼那、須末那に作り、好喜、悦意、善称意、好意、善摂意、或いは称意と訳す。肉荳蔲(ニクズク)の一種。学名Rosa glandulifera、又はChrisanthemum indicum等に配せらる。灌木にして黄白の花を開き、甚だ香気あり。「長阿含経巻18」に、「又叢林あり、修摩那と名づく、縦広五十由旬なり」と云い、「新華厳経巻78」に、「譬えば波利質多羅華を一日衣に熏ずるに、薝蔔迦華、婆利師華、蘇摩那華を千歳熏ずと雖も亦た及ぶ能わざるが如し」と云える是れなり。其の語義に関し、「慧苑音義巻下」に、「蘇摩那花は此に悦意花と云う。其の形色倶に媚び、見る者をして心を悦ばしむ、故に之に名づくるなり」と云い、又「翻訳名義集巻8」に、「須曼那は或いは須末那と云い、又蘇摩那と云う。此に善摂意と云い、又称意華と云う。其の色黄白にして極めて香し。樹は大に高きも三四尺に至らず。下に垂るること蓋の如し」と云えり。又「中阿含巻14大善見王経」、「法華経巻6法師功徳品」、「大荘厳論経巻2」、「法華経義疏巻11」、「玄応音義巻3、21」、「慧琳音義巻12、26」、「翻梵語巻10」等に出づ。<(望)
  俱蘇摩(くそま):梵名kusuma、巴梨語同じ。又拘蘇摩、拘藪摩に作る。華と訳す。即ち華の通称なり。「慧苑音義巻上」に、「此の一名に通あり、別あり。謂わく但だ果木の諸花を通じて拘蘇摩と名づく。又一華あり、独り拘蘇摩と名づく。其の花の大小は銭の如く、色甚だ鮮白に、衆多の細葉を円集して共に成ず。状は此の方の白菊花の如し」と云えり。就中、別とは梵名sumanaにして美と訳し、素馨属の植物にして、学名Rosa glandulifera、或いはChrysanthemum indicumと称するものに当れり。又「同巻上」に、「俱蘇摩とは花の名なり、具に俱蘇摩那と云う。俱蘇は此に悦という、摩那は意なり。其の華は色美に気香し、形状端正にして、之を見聞するもの悦意せざるはなし」と云い、又「同巻下」に、「蘇摩那花は此に悦意と云う」と云い、「翻訳名義集巻8」に、「須曼那は或いは須末那と云い、又蘇摩那と云う。此に善摂意と云い、又称意華と云う。其の色は黄白にして極めて香し。樹は大に高きも三四尺に至らず。下に垂るること蓋の如し」と云えり。是れ梵名sumanasにして悦意と訳し、学名Azadirachta indica、或いはGuilandina bonducの植物を指すなり。之に依るに蘇摩那華を呼んで、時に俱蘇摩と称したるを知るべし。又「翻梵語巻10」、「異部宗輪論述記」等に出づ。<(望)
  牛頭栴檀(ごづせんだん):香木の名。『大智度論巻2上注:牛頭栴檀』参照。
  聖戒(しょうかい):無漏の戒の意。八聖道支中の正語、正命、正業を指す。「中阿含巻58法楽比丘尼経」に、「復た問うて曰わく、賢聖、八支聖道は三聚を摂し、三聚は八支聖道を摂すと為すや。法楽比丘尼答えて曰わく、八支聖道は三聚を摂し、三聚は八支聖道を摂するに非ず。正語、正業、正命、此の三道支は、聖戒聚の摂する所なり。正念、正定、此の二道支は、聖定聚の摂する所、正見、正志、正方便、此の三道支は、聖慧聚の摂する所なり。是れを八支聖道は三聚を摂し、三聚は八支聖道を摂するに非ずと謂う」と云える、即ち是れなり。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  不壊解脱(ふえげだつ):又不時解脱とも称す。即ち利根の者が時を待つことなく解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
復次佛從初發意。以大誓莊嚴一切衰沒眾生。欲拯濟故盡遍行諸善道。無善不集無苦不行。皆集一切諸佛功德。如是等種種無量因緣故。佛於一切眾生中。獨第一。 復た次ぎに、仏は初発意より、大誓を以って荘厳し、一切の衰没の衆生を、拯済せんと欲するが故に、尽く遍く、諸の善道を行じ、善の集めざる無く、苦の行ぜざる無く、皆一切の諸仏の功徳を集めためえば、是れ等の如き種種の無量の因縁の故に、仏は一切の衆生中に於いて独り第一なり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『初発意より!』、
『大誓を用いて!』、
『身』を、
『荘厳し!』、
一切の、
『衰没した!』、
『衆生』を、
『拯済(救済)しようとされた!』が故に、
諸の、
『善道』を、
『尽く、遍く行って!』、
『善』の、
『集めない!』者は、
『無く!』、
『苦行』の、
『行わない!』者は、
『無く!』、
一切の、
『諸仏の功徳』を、
皆、
『集められた!』ので、
是れ等のような、
『種種、無量の因縁』の故に、
『仏』は、
一切の、
『衆生』中に於いて、
『独り!』、
『第一なのである!』。
問曰。三世十方諸佛亦有是功德。何以故。言佛獨第一。 問うて曰く、三世、十方の諸仏にも、亦た是の功徳有り。何を以っての故にか、『仏は、独り第一なり』、と言う。
問い、
『三世、十方の諸仏』にも、
亦た、
是の、
『功徳』が、
『有るのに!』、
何故、こう言うのですか?――
独り、
『仏のみ!』が、
『第一である!』、と。
答曰。除諸佛為餘眾生故。言佛獨第一。諸佛等一切功德。 答えて曰く、諸仏を除ける余の衆生の為の故に、『仏は、独り第一なり』、と言えるも、諸仏は、一切の功徳を等しうす。
答え、
諸の、
『仏を除いて!』、
余の、
『衆生』の為の故に、こう言ったのであるが、――
独り、
『仏のみ!』が、
『第一である!』、と。
諸の、
『仏』は、
一切の、
『功徳』が、
『等しいのである!』。
復次薩婆若多者。薩婆秦言一切若秦言智多秦言相一切如先說。名色等諸法。 復た次ぎに、薩婆若多とは、薩婆を秦に一切と言い、若を秦に智と言い、多を秦に相と言う。一切は先に説けるが如く、色等の諸法を名づく。
復た次ぎに、
『薩婆若多』とは、
『薩婆( sarva- )』を、
秦に、
『一切』と、
『言い!』、
『若( jJa )』を、
秦に、
『智』と、
『言い!』、
『多( -taa )』を、
秦に、
『相』と、
『言う!』が、
『一切』とは、
先に説いたように、――
『色』等の、
『諸の法をいう!』。
  薩婆若多(さばにゃた):梵語 sarvajJataa の訳、全知( omniscience )の義。
  薩婆(さば):梵語 sarva の訳、有らゆる( of all sorts )、全く/完全に/有らゆる部分が/何処でも( altogether, wholly, completely, in all parts, everywhere )の義。
  (にゃ):梵語 jJa の訳、知識/知性/魂を持つこと/賢明( knowing, intelligent, having a soul, wise )の義。
  (た):梵語 taa の訳、[接尾語( in fine compositi or 'at the end of a compound' )として]相/目印/象徴(梵語 lakSmii ≒ a mark, sign, token )の義。
  参考:『大智度論巻27』:『復有一切法。所謂名色如佛說利眾經中偈 若欲求真觀  但有名與色 若欲審實知  亦當知名色 雖癡心多想  分別於諸法 更無有異事  出於名色者』
佛知是一切法一相異相漏相非漏相作相非作相等一切法。各各相各各力各各因緣各各果報各各性各各得各各失。一切智慧力故。一切世一切種盡遍解知。以是故說欲以道種智具足得一切智。當習行般若波羅蜜。欲以一切智具足一切種智。當習行般若波羅蜜。 仏は、是の一切法の一相と異相、漏相と非漏相、作相と非作相等の一切法の各各の相、各各の力、各各の因縁、各各の果報、各各の性、各各の得、各各の失を知る、一切の智慧力の故に、一切世、一切種を尽く、遍く解き知りたまえば、是を以っての故に、『道種智を以って、一切智を具足して得んと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし、一切智を以って、一切種智を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし』、と説きたまえり。
『仏』は、
是の、
『一切法』の、
『一相と、異相』、
『漏相と、非漏相』、
『作相と、非作相』等の、
『一切法』の、
『各各の相、力、因縁、果報、性、得、失』を、
『知る!』、
一切の、
『智慧の力』の故に、
『一切世、一切種』を、
尽く遍く、
『理解して!』、
『知っていられる!』ので、
是の故に、こう説かれたのである、――
『道種智を用いて!』、
『一切智』を、
『具足して!』、
『得ようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行すべきである!』。
『一切智を用いて!』、
『一切種智』を、
『具足しようとすれば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習行すべきである!』、と。
問曰。如佛得佛道時。以道智得具足一切智一切種智。今何以言以一切智得具足一切種智。 問うて曰く、仏の仏道を得たまえる時の如きは、道智を以って、具足せる一切智、一切種智を得たまえり。今は何を以ってか、『一切智を以って、具足せる一切種智を得』、と言う。
問い、
『仏』が、
『仏道を得られた!』時などは、
『道智を用いて!』、
『具足した!』、
『一切智、一切種智』を、
『得られたのである!』。
今は、
何故、こう言うのか?――
『一切智を用いて!』、
『具足した!』、
『一切種智』を、
『得る!』、と。
答曰。佛得道時。以道智雖具足得一切智得具足一切種智。而未用一切種智。如大國王得位時境土寶藏皆已得。但未開用 答えて曰く、仏の道を得たまえる時、道智を以って、具足して一切智を得、具足せる一切種智を得と雖も、未だ一切種智を用いたまわず。大国の王の、位を得る時には、境土、宝蔵を皆已に得たるも、但だ未だ開きて用いざるが如し。
答え、
『仏』が、
『道を得られた!』時には、
『道智を用いて!』、
『具足した!』、
『一切智や、一切種智』を、
『得られたのである!』が、
未だ、
『一切種智』は、
『用いられないからである!』。
譬えば、
『大国の王』が、
『位を得た!』時には、
已に、
『境土や、宝蔵』を、
『得ている!』が、
但だ、
未だ、
『開くこともなく!』、
『用いることもないようなものである!』。


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