巻第二十六(下)
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大智度論初品中十八不共法釋論第四十一之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


一切の身、口、意業は智慧に随って行われる

一切身業一切口業一切意業。隨智慧行者。佛一切身口意業先知。然後隨智慧行。諸佛身口意業一切行。無不利益眾生故。名先知然後隨智慧行。 一切の身業、一切の口業、一切の意業は、智慧に随うて行ずとは、仏の一切の身口意の業は、先に知りて、然る後に智慧に随うて行じ、諸仏の身口意の業と、一切の行とは、衆生を利益せざる無きが故に、先に知りて然る後に智慧に随うて行ずと名づく。
一切の、
『身業、口業、意業』は、
『智慧に随って!』、
『行われる!』とは、――
諸の、
『仏』の、
『身、口、意の業』は、
先に、
『知って!』、
その後、
『智慧に随って!』、
『行われ!』、
諸の、
『仏』の、
『身、口、意の業と!』、
『一切の行と!』には、
『衆生』を、
『利益しない!』者が、
『無い!』が故に、
『仏』の、
『業、行』を、こう称するのである、――
先に、
『衆生』を、
『利益するものである!』と、
『知って!』、
その後、
『智慧』に、
『随って!』、
『行われる!』、と。
如經中說。諸佛乃至出息入息利益眾生。何況身口意業故作而不利益。諸怨惡眾生聞佛出入息氣香。皆得信心清淨愛樂於佛。諸天聞佛氣息香。亦皆捨五欲發心修善。以是故言身口意業隨智慧行。 経中に説くが如きは、『諸仏は乃(すなわ)ち出息、入息に至るまで、衆生を利益す。何に況んや、身口意の業の故(ことさら)に作して、利益せざるをや。諸の怨悪の衆生すら仏の出入息気の香を聞けば、皆信心の清浄を得て、仏を愛楽す。諸天も、仏の気息の香を聞けば、亦た皆五欲を捨てて、発心し善を修す』、と。是を以っての故に言わく、『身口意の業は智慧に随って行ず』、と。
例えば、
『経』中には、こう説かれている、――
諸の、
『仏』は、
『出息、入息に至るまで!』、
『衆生』を、
『利益するのである!』から、
況して、
『身、口、意の業』が、
『故意に作されて!』、
『利益しないはずがない!』。
諸の、
『怨悪な( 怨恨劣悪 complain and coarse )衆生』でも、
『仏の出入する息気』の、
『香を聞けば!』、
皆、
『信心清浄を獲得して!』、
『仏』を、
『愛楽するようになり!』、
諸の、
『天』も、
『仏の気息』の、
『香を聞けば!』、
皆、
『五欲を捨てて!』、
『発心し!』、
『善を修めるようになる!』、と。
是の故に、こう言うのである、――
『身、口、意の業』は、
『智慧に随って!』、
『行われる!』、と。
  参考:『別訳雑阿含経巻2』:『如是我聞。一時佛在王舍城曼直林中。  佛於初夜坐禪經行。初夜以訖。洗足入室。右脅著地。足足相累。繫心在明。作於起想。魔王波旬知佛心已。而作是念。沙門瞿曇在王舍城曼直林中。於其初夜。坐禪經行。至中夜前。洗足入房。右脅著地。足足相累。繫心在明。作於起想。我今當往而作壞亂。爾時魔王化作摩納。在如來前。而說偈言 云何無事務  而作於睡眠  安寢不[寤- 吾+告]寤  如似醉人眠  人無財業者  乃可自恣睡  大有諸財業  歡樂快睡眠  爾時世尊知魔來嬈亂。而說偈言 我非無作睡  亦非醉而眠  我無世財故  是以今睡眠  我多得法財  是以安睡眠  我於睡眠中  乃至出入息  皆能有利益  未嘗有損減  寤則無疑慮  睡眠無所畏  譬如有毒箭  人射中其心  數數受苦痛  猶尚能得睡  我毒箭已拔  何故而不睡  魔聞是偈作是念。沙門瞿曇已知我心。心懷憂惱。於即還宮』
聲聞辟支佛無是事。心故作善然後身口業善。意業或時無記不隨智慧而自生。何況餘人。 声聞、辟支仏には是の事無く、心に故に善を作して、然る後に身口の業は善なるも、意業は或は時に無記なれば、智慧に随うて自ら生ぜず。何に況んや、余人をや。
『声聞、辟支仏』には、
是の、
『事が無い!』ので、
故意に、
『心』に、
『善』を、
『作せば!』、
その後、
『身、口の業』は、
『善となるが!』、
或は時に、
『意の業』は、
『無記のままであり!』、
自ら、
『智慧に随って!』、
『生じることはない!』。
況して、
『余人』は、
『尚更である!』。
如憍梵波提比丘。雖得阿羅漢。自食吐而更食。是業不隨智慧。又如摩頭波斯咤比丘阿羅漢。跳上梁棚或壁上樹上。又如畢陵伽婆蹉。罵恒神言小婢。如是等身口業。先無智慧亦不隨智慧行。佛無是事。 憍梵波提比丘の如きは、阿羅漢を得と雖も、自ら食せるを吐きて、更に食すれば、是の業は智慧に随わず。又摩頭波斯咤比丘なる阿羅漢の如きは、梁、棚、或は壁上、樹上に跳び上れり。又畢陵伽婆蹉の如きは、恒神を罵りて小婢と言えり。是れ等の如き身口の業は、先に智慧無く、亦た智慧に随いて行ぜざるも、仏には是の事無し。
例えば、
『憍梵波提比丘など!』は、
『阿羅漢を得ていた!』が、
自ら、
『吐いた食』を、
更に、
『食っていた!』ので、
是の、
『業』は、
『智慧』に、
『随ったものではない!』。
又、
『摩頭波斯咤比丘という!』、
『阿羅漢』は、
『梁や、棚や、或は壁上、樹上』に、
『跳び上っていた!』し、
又、
『畢陵伽婆蹉など!』は、
『恒神を罵って!』、
『小婢!』と、
『言っていた!』。
是れ等のような、
『身、口の業』は、
先に、
『智慧が無く!』、
亦た、
『智慧に随って!』、
『行われたものでもない!』が、
『仏』には、
是の、
『事』が、
『無い!』。
  憍梵波提(きょうぼんはだい):梵名gavaaMpati。巴梨名gavaMpati、又驕梵拔提、憍梵跋提、憍梵鉢提、橋[火*僉]鉢帝、伽婆跋帝、伽梵波提、伽傍波提、伽惒波提、笈防鉢底、迦為拔坻、或いは橋梵鉢、橋桓鉢、房鉢底に作る。牛主、牛王、牛王眼、牛跡、牛相、牛司、牛呞と訳す。仏弟子の一人にして、舎利弗を師とす。「有部毘奈耶破僧事巻6」に師の出家の因縁を記し、「時に波羅痆斯城に諸の長者等あり、第一長者の子耶舎が鬚髪を剃除し、法服を被り、仏世尊に随って弟子と作りしを聞き、其の第二長者の子を名づけて富楼那と曰い、其の第三長者の子を名づけて無垢と曰い、第四長者の子を名づけて驕梵拔提と曰い、第五長者の子を名づけて妙肩と曰う。耶舎の出家せるを聞き、咸く是の念を作す、今耶舎童子は貴家に生まれ、富にして珍宝あり、身体端厳にして恒に快楽を受くるも、其の好む所を捨てて仏弟子となる。将に知る如来は甚大威徳にして、法も亦た微妙なることを。我等も当に鬚髪を剃除して如来に侍養し、勝法を学受すべしと。是の議を作し已りて、即ち共に同心に波羅痆斯城より世尊の所に至る」云云と云えり。「増一阿含経巻3弟子品」には、「居は天上を楽しみ、人中に処せず。所謂牛跡比丘是れなり」と云い、「大智度論巻2」に、「舎利弗は是れ第二の仏なり、好弟子あり憍梵波提と字す。柔輭和雅にして恒に閑居に処し、住心寂燕にして能く毘尼法蔵を知る」と云えり。又師は過去に於いて罪あり、五百生の間牛身を受く。今生まれて人となると雖も、尚お其の余習を存し、食後恒に虚哺をなし、唼唼として嚼むこと牛の如し。故に牛呞の名ありと云い、又仏其の是の如くなるを見、人の毀謗に逢うて反って衆苦に堕せんことを憐れみ、命じて忉利天宮尸利沙園に住して禅定を修習せしむ。仏入滅の後、法蔵結集の時に当り、摩訶迦葉は人をして之を天宮に迎えしむ。師是に於いて始めて世尊並びに其の師舎利弗の入滅を知り、嗟嘆するすること之を久しうし、遂に寂滅に帰せりと云う。又「仏本行集経巻36」、「雑宝蔵経巻4」、「大方広如来不思議境界経」、「迦葉結経」、「五分律巻15」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶雑事巻39」、「摩訶僧祇律巻32」、「大智度論巻27」、「阿育王伝巻4」、「撰集三蔵及雑蔵伝」、「付法蔵因縁伝巻1」、「法華経義記巻1」、「法華経文句巻2」、「慧琳音義巻8、26、27」、「翻梵語巻2」等に出づ。<(望)
  摩頭波斯咤(まづはした):摩頭婆和咤、摩頭婆肆吒、蜜婆私詫、蜜婆和吒等に作る。身の軽きこと獼猴の如くなるを以って知られたる仏弟子の名。即ち、「阿毘曇毘婆沙論巻49」に、「有る経に説く、仏那提迦夜城矜迦精舎に住せし時、衆多の比丘鉢を置きて露地に在り、世尊の鉢も亦た露地に在り。爾の時有る一獼猴、娑羅樹下より衆多の鉢の所へ往詣す。時に諸比丘鉢を破るを恐るるが故に皆共に之を遮す。爾の時世尊、諸の比丘に告ぐ、汝等此の獼猴を遮す莫かれ、汝等が鉢を破らざるなり。爾の時獼猴、世尊の鉢を取りて徐ろに還って樹に上り、流蜜を盛満して、以って世尊に奉ぐ。世尊受けず、虫を雑うるを以っての故なり。爾の時世尊、世俗心を起して、虫を去らしめんと欲す。是の時獼猴、即ち仏の意を知りて、却って一面に在り、蜜中より虫を除き、復た世尊に上ぐ。世尊受けず、未だ浄を作さざるを以っての故なり。世尊復た世俗心を起す、若し此の獼猴、水を以って浄を作さば、我れ則ち之を受けんと。是の時獼猴即ち仏心を知り、水を以って浄を作す、仏便ち之を受く。其の浄を以っての故なり。爾の時獼猴、世尊の其の蜜を受くるを以っての故に、心に歓喜を生じ、踊躍すること無量、起ちて舞い、却って行き、坑に堕ちて死し、人中に生ずるを得て、仏法に於いて出家し、阿羅漢道を得たるを、摩頭婆肆吒と名づく」と云い、又「大智度論巻84」に、「蜜婆私詫阿羅漢は五百世獼猴中に在れば、今阿羅漢を得と雖も猶お樹木を騰跳す。愚人之を見て即ち軽慢を生ず、是の比丘の似たること獼猴の如しと。是の阿羅漢は煩悩心無きも、猶お本の習あり」と云えるに由り乃ち知るべし。又「中阿含巻8」、「有部毘奈耶破僧事巻12」、「大智度論巻26、27、84」、「翻梵語巻2」等に出づ。
  畢陵伽婆蹉(ひりょうがばしゃ):悪口を以って知られたる仏弟子。『大智度論巻23上注:畢陵伽婆蹉』参照。
  恒神(ごうじん):恒河の女神。
問曰。若爾者佛或時身口業。亦似不隨智慧行。何以故。入外道眾中說法。都無信受者。 問うて曰く、若し爾らば、仏も、或は時に身口の業の、亦た智慧に随いて行ぜざるに似たり。何を以っての故に、外道の衆中に入りて説法したまえど、都(すべ)て信受する者無ければなり。
問い、
若し、
爾うならば、
何故、
『仏』の、
『身、口の業』も、
或は時に、
『智慧に随って行われなかった!』のに、
『似ているのか?』、
何故ならば、
『外道の衆中に入って!』、
『法』を、
『説かれた!』のに、
誰も、
『信受する!』者が、
『無かったではないか?』。
又復一時在大眾中說法。現胸臆示尼揵子。 又復た一時、大衆中に在りて、説法するに、胸臆を現して、尼犍子に示したまえり。
又復た、
『仏』は、
ある時、
『大衆中に法を説きながら!』、
『胸臆( bust )を現し!』、
『尼犍子』に、
『示されたではないか?』。
  胸臆(きょうおく):胸部。
  尼揵子(にけんじ):尼乾陀外道を指す。六師外道の一。『大智度論巻26上注:尼乾陀若提子』参照。
  尼乾陀若提子(にけんだにゃくだいし):尼乾陀若提nigaNTha- naataは巴梨名。(又尼乾陀をniggantha、若提をnaaTa、或いはnaathaとす)梵名nirgrantha- jJaata、子は巴梨語puttaの訳。梵語putra、又尼乾陀闍提弗多羅、眤揭爛陀慎若低子、尼揵陀若提子、尼焉若提子、尼揵親子、或いは単に尼乾子に作り、離繋親子と訳す。即ち若提族の出なる尼乾陀外道の意なり。六師外道の一にして、仏陀時代に勢力ありし尼乾陀即ち耆那jaina教中興の祖なり。釈尊の降誕と前後して中印度毘舎離城外クンダ村kuNDa- graamaに生まれ、本名をヴァルダマーナvardhamaanaと称す。父は刹帝利種若提jJaatR族、迦葉波kaazyapa姓の王家シッダールタsiddhaartha、母の名はトリシャラーtrizalaaにして、即ち毘舎離国王チェータカceTakaの妹、摩揭陀国頻婆娑羅王妃の叔母なり。長じてヤショーダーyazodaaと婚して一女を挙げ、三十歳の初冬に至り、父母が尼乾陀の教に従い、断食して死せるに会い、遂に兄ナンディヴァルダナnandivardhanaの許諾を得て出家し、尼乾陀の法を学し、一年にして裸形となり、二年の後其の門に入りし末伽犁拘賖黎makkhali- gosaalaと共住して六年苦行を積み、後又四年練修を累ね、凡そ十二年を経て遂に大悟し、耆那jina(勝者の意)となり、又マハーヴィーラmahaaviira(大雄)、ケーヴァリンkevalin(完全者)、或いは仏陀等とも称せられ、尼乾陀第二十四祖と崇められたり。爾後国王の庇護を受け、毘舎離、摩揭陀、鴦伽等の中印度諸国を遊化すること三十年、遂に七十二歳を以って波婆paavaa城に没せりと云う。「中阿含巻52周那経」に、「一時、仏は跋耆に遊びて舎弥村に在り。爾の時、沙弥周那は彼の波和中に於いて夏坐を受く。彼の波和中に一の尼揵nigaNThaあり。名づけて親子naata- puttaと曰う、彼に在りて命終す。終りて後久しからずして、尼揵親子の諸弟子等は各各破壊して共に和合せず」と云い、「長阿含巻8衆集経」、「同巻12清浄経」等にも亦た同一記事を載し、又「中阿含巻32優婆離経」には、仏一時那難陀naaLandaa波婆離㮈林paavaarikamba- vanaに在りて、尼揵親子の弟子優婆離居士を説伏せられしに依り、彼の居士は還りて其の師の前に於いて仏を讃嘆せるに、尼揵親子は為に熱血を吐き、波惒国に至りて遂に命終せりと云えり。近時ヤコビは耆那教の聖典及び其の伝説等に関して種種の研究をなし、曽て其の寂年を以って世紀前467年即ち仏滅後十年となせしも、後改めて同480年となすに至れり。其の上足十一人あり、多くは断食して師の生存中に死し、唯インドラブフーティindra- bhuuti、スダルマsudharmaの二人のみ師の寂後に於いて其説を敷揚し、当時其の信者は凡そ四百八十万人に達せしと伝えらる。又「長阿含巻17沙門果経」、「雑阿含経巻32、46、49」、「中阿含巻4尼乾経」、「同巻25苦陰経」、「同巻57箭毛経」、「義足経巻上異学角飛経」、「有部毘奈耶雑事巻38」、「翻梵語巻5」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望)
  尼揵子論師(にけんしろんじ):尼揵nigaNThaは巴梨名。又niggantha、梵名nirgrantha。又尼犍陀、尼乾陀、泥揵連他、昵掲爛陀、尼乾、尼虔、乾陀に作り、離繋、無繋、不繋、無結、或いは無継と訳す。又一に無慚或いは裸形外道と名づけ、宿作因論師とも称す。外道四執の一。外道十六宗の一。二十種外道の一。即ち勒沙婆RSabhaの創唱に係り、尼乾陀若提子nigaNTha naataputtaを中興の祖とする外道の一派にして、耆那jaina教と称せらるるもの是れなり。其の名称に関しては、「百論疏巻上中」に、「尼揵子は此に無結と云う。修行を経るに依りて煩悩の結を離る、故に以って名と為す。亦た那耶修摩と名づく」と云い、又「成唯識論述記巻1末」に無慚を釈し、「即ち是れ尼揵子なりい。今正しく翻じて離繋と云い、亦た無慙と云う。即ち羞なきなり。三界の繋縛を離るるなり。其の露形なるを以って、仏法には之を毀りて無慙と曰う。即ち慙羞なきなり」と云えり。是れ苦行に依りて煩悩の結を離れ、三界の繋縛を離れんことを期するが故に離繋或いは無結と称し、又裸形にして衣を纏わざるが故に、貶して無慙と名づくることを明にせるなり。蓋し此の一派は開祖勒沙婆が中印度憍薩羅国に在りて始めて唱道せし所に係り、後二十三伝してパールシュヴァpaarzvaに至り、更に二百五十年を経て毘舎離国に尼乾陀若提子あり、其の教義を大成して第二十四祖となり、是れより教勢大に盛なるに至れり。尼乾陀若提子は釈尊と同代の出にして、又同じく中印度に於いて弘教せしを以って、其の弟子等の間に屡論難を交えたるが如く、「雑阿含経巻5」、「増一阿含経巻30」、「大薩遮尼乾子所説経」等には、毘舎離国の薩遮尼揵子saccaka- nigaNTha- puttaが仏弟子阿説示assajiと対論し、後遂に仏の為に屈せられしことを記せり。尼乾陀若提子の在世中には多数の教徒を擁したりしが、彼れの成道後第十四年に至り、其の女アノジャーanojjaaの夫なるジャマーリjamaaliは、異説を唱えて師説に背き、為に其の教団は分離せりと伝えられ、又「長阿含巻12清浄経」、「中阿含巻52周那経」等には、彼れの滅後久しからず其の徒は二分して相諍えりと云えり。孔雀王朝チャンドラグプタcandragupta王の頃(即ち西暦前三世紀の初)、ブハドラバーフbhadrabaahuを首長とする一群の尼乾子教徒は大飢饉の為め南印度に移りて厳格なる苦行を修し、尋いで中印度に帰るに及び、サンブフータビジャヤsaMbhuutavijayaを長老とする残留教徒との間に異見を生じ、ブハドラバーフ等は身に白衣を纏うを許さず、茲に二派分裂の端を啓き、西暦第一世紀の終に遂にサンブフータヴィジャヤを祖とする白衣派zvetaambaraと、ブハドラバーフを祖とする空衣派digambaraとの対立を見るに至れり。後仏教の興隆に厭せられて其の教勢漸次衰え、僅かに西南印度の間に行わるるに過ぎざりしも、第十一二世紀の頃に及び、仏教の衰微に乗じて其の勢力を挽回し、又印度教との融合を企て、湿婆、毘紐笯等を崇拜するに至れり。尋いで又第十五世紀に白衣派中よりスターナカヴァーシーsthaanaka- vaasii派分離し、復古説を唱え偶像崇拝を排せり。蓋し此の外道に於いては人生は苦なりと観じ、苦行によりて宿作の業因を滅し、又身業不作によりて諸漏を起さず、以って解脱を証せんとするに在り。「雑阿含経巻21」に此の派の所説を挙げ、宿命の業は苦行を行ずるに依りて悉く之を吐出し、又身業不作に依りて未来世に諸漏を起さず、為に諸業永く尽き、業尽くるが故に苦も亦た尽きて遂に苦辺を究竟すと云えり。「中阿含巻4尼乾経」、「同巻25苦陰経」、「増一阿含経巻35」、「有部毘奈耶出家事巻1」等にも亦た同説を出し、又「瑜伽師地論巻7」、「顕揚聖教論巻10」、「大乗法苑義林章巻1本」等には、此の派に於いて現世の苦は皆過去宿作の悪を以って因となすと説くとし、之を名づけて宿作因論師、又は諸因宿作宗と称せり。又「方便心論明造論品」に此の派の学説を出し、「命、無命、罪、福、漏、無漏、戒具足、縛、解あり、五智は聞智、思智、自覚智、慧智、義智なり。六障は不見障、苦受障、愚癡障、命尽障、性障、名障なり。四濁は瞋、慢、貪、諂なり。是れを皆名づけて尼乾陀の法と為す」と云えり。此の中、初の命jiiva、無命ajiiva、罪paapa、福puNya、漏aasrava、無漏nirjaraa、戒具足saMvara、縛bandha、解mokSaの九を九諦と云い、又罪福の二を除きて七諦とも称し、或いは単に命無命の二諦ともなすなり。就中、命は即ち霊魂にして、宇宙の生命的原理を云い、之に活動性、感覚、並びに思智mati、聞智zruta、自覚智avadhi(他界智)、慧智manaHparyaaya(他心智)、義智kevala(絶対智)の五智を具す。無命は命以外のものの総称にして、之に物質pudgala、及び運動の原理としての法dharma、静止の原理としての非法adharma並び此等万有の存在する場所としての虚空aakaaza、即ち四実在体astikaayaを含み、命と共に宇宙形成の要素となるものを云う。即ち此の二元を以って宇宙の構成を説明し、更に罪以下の七諦、或いは漏以下の五諦を以って此の二元の関係を明にし、有情輪迴の原因を解釈せんとするなり。即ち命は瞋krodha、慢maana、諂maayaa、貪lobhaの四濁kaSaayaの為に染汚せられて、其の表面に業の分子を附着するにより、非命(即ち肉体)の為に縛せられて輪迴を生ず。業には善悪の別あり、善業を福と云い、悪業を罪と云う。共に不見障jJaanaavaraNiiya(又はdarzanaaravaraNiiya)、苦受障vedaniiya、愚癡障mohaniiya、命尽障aayuHkarman、性障gotra、名障naamanの六障を有す。又此の業が命に附着するを漏と云い、更に命を束縛するを縛と云う。是れ即ち輪迴の因なり。若し命が無命より分離して其の本性を顕わさば、即ち輪迴を脱して苦辺を究竟することを得るが故に、先づ五戒(或いは四戒)を守り苦行を修し、以って業が命に漏入するを防がざるべからず、是れを名づけて戒具足と云うなり。又命より宿業を分離せしめて無漏即ち寂静の境に達せしめ、更に進んで一切の業を滅して全く無命と分離するに至るを解脱となすなり。「外道小乗涅槃論」に、「外道尼犍子論師は是の如きの説を作す、初め一男と共に一女を生み、彼の二和合して能く一切の有命無命等の物を生ず。後時に離散して彼の処に還没するを名づけて涅槃と為す」と云えるは、恐らく男を命とし、女を無命とし、此の二離散して命に帰するを涅槃と名づけたるものなるべし。蓋し尼乾陀若提子は耆那教中興の祖の名称にして、即ち若提族の出なる尼乾陀の意なるも、提婆の「外道小乗四宗論」、堅意の「入大乗論巻上」等には外道の四宗を列ね、其の中、第三を尼犍子論師、第四を若提子論師とし、前者は一切法亦一亦異を計し、後者は一切法非一非異を計すと云い、又「百論疏巻上之中」には、尼犍子は経に依りて十六諦ありと説く、即ち聞慧より天文地理、算数、医方、呪術及び四韋陀の八を生じ、修慧より六天の行、星宿天に事うるの行、及び長仙の行の八を生ずとなし、若提子論師は六障六自在ありと説き、又非有非無を立てて宗となし、若し一切法有と言わば一法として取るべきなく、若し無と言わば而も万物歴然たり。故に即ち寂黙を守ると云えり。之に依るに尼犍子、若提子は別派なりと云うべく、又「外道小乗涅槃論」にも尼乾子論師の外に別に倮形外道論師を出せり。是れ若提子論師を以って倮形外道と名づけたるものと見るべく、若し然りとせば尼犍子論師は彼の所謂白衣派に当り、若提子論師は空衣派に当るとなすべきが如く、或いは又勒沙婆の旧派を奉ずる者を尼犍子論師と呼び、尼乾陀若提子の新派に属するものを若提子論師と名づけたるやも知るべからず。但し「成唯識論巻1」には、彼の四宗の中、第三を無慚外道、第四を邪命外道とし、若提子の名を出さず。又「大般涅槃経巻19」には尼乾陀若提子の学説として、「施なく善なく、父なく母なく、今世なく後世なく、阿羅漢なく、修なく道なし。一切の衆生は八万劫を経ば生死の輪に於いて自然に得脱す。有罪無罪も悉く亦た是の如し。四大河、所謂辛頭、恒河、博叉、私陀の悉く大海に入れば差別あることなきが如く、一切衆生も亦復たかくの如く、解脱を得る時悉く差別なし」と云えり。是れ或いは前記若提子論師の非有非無論を指すか、或いは又此の派の学説に非ずして、刪闍夜毘羅胝子の所説を挙げたるものなるか詳ならず。按ずるに尼乾子外道は釈尊と時代を同じくし、共に反婆羅門的思潮にして、且つ同一地方に行われたるを以って、其の教義及び行法等に両者相通ずる者多し。「大唐西域記巻3僧訶補羅国の條」に白衣派の法を評し、本師所説の法は多く仏経の義を竊み、大を苾芻と為し、小を沙弥と称し、威儀律行は頗る僧の法に同じ。唯少髪を留め、露形或いは白衣を服するを異となすのみと云えるは即ち其の一班を伝えたるものと云うべし。又「中阿含巻55持斎経」、「雑阿含経巻32、49」、「百論巻上」、「十八空論」、「随相論」、「注維摩詰経巻3」、「大唐西域記巻10」、「玄応音義巻6、10」、「止観輔行伝弘決巻10之1」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望)
  参考:『雑阿含経巻5』:『時有五百離車與薩遮尼犍子共詣佛所。為論議故。爾時。世尊於大林中。坐一樹下。住於天住。時。有眾多比丘出房外林中經行。遙見薩遮尼犍子來。漸漸詣諸比丘所。問諸比丘言。沙門瞿曇住在何所。比丘答言。在大林中。依一樹下。住於天住。薩遮尼犍子即詣佛所。恭敬問訊。於一面坐。諸離車長者亦詣佛所。有恭敬者。有合掌問訊者。問訊已。於一面住。時。薩遮尼犍子白佛言。我聞瞿曇作如是說法。作如是教授諸弟子。教諸弟子於色觀察無我。受.想.行.識觀察無我。此五受陰勤方便觀察。如病.如癰.如刺.如殺。無常.苦.空.非我。為是瞿曇有如是教。為是傳者毀瞿曇耶。如說說耶。不如說說耶。如法說耶。法次法說耶。無有異忍來相難詰。令墮負處耶。佛告薩遮尼犍子。如汝所聞。彼如說說.如法說.法次法說。非為謗毀。亦無難問令墮負處。所以者何。我實為諸弟子如是說法。我實常教諸弟子。令隨順法教。令觀色無我。受.想.行.識無我。觀此五受陰如病。如癰.如刺.如殺。無常.苦.空.非我。薩遮尼犍子白佛言。瞿曇。我今當說譬。佛告薩遮尼犍子。宜知是時。譬如世間一切所作皆依於地。如是色是我人。善惡從生。受.想.行.識是我人。善惡從生。又復譬如人界.神界.藥草.樹木。皆依於地而得生長。如是色是我人。受.想.行.識是我人。佛告火種居士。汝言色是我人。受.想.行.識是我人耶。答言。如是。瞿曇。色是我人。受.想.行.識是我人。此等諸眾悉作是說。佛告火種居士。且立汝論本用引眾人為。薩遮尼犍子白佛言。色實是我人。佛告火種居士。我今問汝。隨意答我。譬如國王。於自國土有罪過者。若殺.若縛.若擯.若鞭.斷絕手足。若有功者。賜其象馬.車乘.城邑.財寶。悉能爾不。答言。能爾。瞿曇。佛告火種居士。凡是主者。悉得自在不。答言。如是。瞿曇。佛告火種居士。汝言色是我。受.想.行.識即是我。得隨意自在。令彼如是。不令如是耶。時。薩遮尼犍子默然而住。佛告火種居士。速說。速說。何故默然。如是再三。薩遮尼犍子猶故默然。時。有金剛力鬼神持金剛杵。猛火熾然。在虛空中臨薩遮尼犍子頭上。作是言。世尊再三問。汝何故不答。我當以金剛杵碎破汝頭。令作七分。佛神力故。唯令薩遮尼犍子見金剛神。餘眾不見。薩遮尼犍子得大恐怖。白佛言。不爾。瞿曇。佛告薩遮尼犍子。徐徐思惟。然後解說。汝先於眾中說色是我。受.想.行.識是我。而今言不。前後相違。汝先常說言。色是我。受.想.行.識是我。火種居士。我今問汝。色為常耶。為無常耶。答言。無常。瞿曇。復問。無常者。是苦耶。答言。是苦。瞿曇。復問。無常.苦者。是變易法。多聞聖弟子寧於中見我.異我.相在不。答曰。不也。瞿曇。受.想.行.識亦如是說。佛告火種居士。汝好思而後說。復問火種居士。若於色未離貪.未離欲.未離念.未離愛.未離渴。彼色若變.若異。當生憂.悲.惱苦不。答曰。如是。瞿曇。受.想.行.識亦如是說。復問。火種居士。於色離貪.離欲.離念.離愛.離渴。彼色若變.若異。則不生憂.悲.惱苦耶。答曰。如是。瞿曇。如實無異。受.想.行.識亦如是說。火種居士。譬如士夫身嬰眾苦。常與苦俱。彼苦不斷不捨。當得樂不。答言。不也。瞿曇。如是。火種居士。身嬰眾苦。常與苦俱。彼苦不斷.不捨。不得樂也。火種居士。譬如士夫持斧入山。求堅實材。見芭蕉樹洪大傭直。即斷其根葉。剽剝其皮。乃至窮盡。都無堅實。火種居士。汝亦如是。自立論端。我今善求真實之義。都無堅實。如芭蕉樹也。而於此眾中敢有所說。我不見沙門.婆羅門中。所知.所見能與如來.應.等正覺所知.所見共論議。不摧伏者。而便自說。我論議風。偃草折樹。能破金石。調伏龍象。要能令彼額津腋汗。毛孔水流。汝今自論己義而不自立。先所誇說能伏彼相。今盡自取。而不能動如來一毛。爾時。世尊於大眾中。被鬱多羅僧。現胸而示。汝等試看。能動如來一毛以不』
又復為人疑不見二相故。在大眾中現舌相陰藏相。 又復た、人の為に、二相の見えざるを疑わるるが故に、大衆中に在りて、舌相、陰蔵相を現したまえり。
又復た、
『仏』は、
『二相の見えない!』のを、
『人』に、
『疑われた!』が故に、
『大衆』中に於いて、
『舌相と、陰蔵相と!』を、
『現されたではないか?』。
又復罵諸弟子汝狂愚人。罵提婆達。汝是狂人死人嗽唾人。佛結戒八種缽不應畜。聽比丘用二種缽。若瓦若鐵。而自用石缽。有時外道難問。佛默然不答。 又復た、諸の弟子を、『汝は狂愚の人なり』、と罵り、提婆達を、『汝は是れ狂人、死人、唾を嗽(す)う人なり』、と罵り、仏は『八種の鉢は、応に畜うべからず』、と結戒して、比丘には二種の鉢の若しは瓦、若しは鉄を用うるを聴(ゆる)して、自らは石の鉢を用い、有る時には、外道の難問せるに、仏は黙然として答えたまわず。
又復た、
『仏』は、
諸の、
『弟子』を、
『お前は、狂愚の人である!』と、
『罵り!』、
『提婆達』を、
『お前は、狂人だ、死人だ、唾を嗽()う人だ!』と、
『罵られた!』し、
『仏』は、
『八種の鉢』を、
『蓄えてはならない!』と、
『結戒して!』、
『比丘が用いる!』には、
『瓦か、鉄の鉢しか!』、
『聴されなかったのに!』、
自らは、
『石の鉢』を、
『用いられた!』し、
有る時には、
『外道が問難している!』のに、
『仏』は、
『黙然として答えられなかったではないか?』。
  提婆達(だいばだつ):悪比丘の名。『大智度論巻14上、巻24下注:提婆達多』参照。
  (はち):梵語鉢多羅paataraの略。巴梨名patta。食器の名。比丘六物の一。比丘十八物の一。又波多羅、鉢呾羅、鉢和羅、鉢和蘭に作り、一に鉢盂と称し、応器、或いは応量器と訳す。即ち仏及び僧尼の護持せる食器を云う。「玄応音義巻14」に、「鉢多羅は又波多羅と云う、此に薄と云う。謂わく厚物を治して薄ならしめて此の器を作る」と云い、「盂蘭盆経疏巻下」に、「受鉢和羅飯とは鉢中の飯なり。梵に鉢多羅と云い、此に応量器と云う。和の字は訛なり。今時但だ鉢と云うは略なり」とあり。是れ鉢は厚重の物を製して扁薄ならしむるを云うなり。凡そ鉢は其の材質及び色等に就きて分類するに多種の別あり。「四分律巻9」に、「鉢とは六種あり、鉄鉢、蘇摩国鉢、烏伽羅国鉢、憂伽賒国鉢、黒鉢、赤鉢なり。大要は二種あり、鉄鉢と泥鉢なり」と云い、「同巻52」に、「仏言わく、木鉢を畜うべからず、此れは是れ外道の法なり。若し畜えば法の如く治せよ。時に瓶沙王は石鉢を以って諸の比丘に施す。(中略)仏言わく、畜うべからず。此れは是れ如来の法鉢なり」と云い、又「十誦律巻56」に、「鉢の法とは、仏は二種の鉢を畜うるを聴す。瓦鉢と鉄鉢なり。八種の鉢は畜うべからず、金鉢、銀鉢、琉璃鉢、摩尼鉢、銅鉢、白鑞鉢、木鉢、石鉢なり。是れを鉢法と名づく」と云えり。之に依るに諸比丘は鉄鉢ayo- patta、若しくは瓦鉢mattikaa- patta(即ち泥鉢、又土鉢とも称す)を持し、仏は独り石鉢selamaya- pattaを用いられたるものなるを知るべし。後世木鉢又は夾紵鉢を作り、漆を以って之に塗り、或いは染油を抹して着色せるは皆其の本制に非ざるなり。又鉢は鉄、或いは泥のままにては垢膩を生じ、且つ臭気あるを以って熏じて赤、青、黒等に着色するを法とす。前引「四分律巻9」に黒鉢、赤鉢の名を出し、又「善見律毘婆沙巻7」に、「鉢の色は青鬱波羅華の如し」と云い、「摩訶僧祇律巻29」に、「熏じて鉢と作し、成就し已らば三種の色に作すべし、一には孔雀の咽の色の如く、二には毘陵伽鳥の色の如く、三には鴿の色の如し」と云い、又「善見律毘婆沙巻15」に鉄鉢は五熏し、土鉢は二熏して用うべしと云える其の説なり。又鉢は破損するも尚お之を補綴して用うべく、若し五綴以下なるに新鉢を求めば即ち罪を得るなり。綴とは補綴の長量にして、「四分律巻9」には両指相去る間を一綴となすと云えり。今若し其の間を二寸とせば、五綴即ち一尺以下の補綴あるものは尚お之を用うべしとなすなり。又「根本薩婆多部律摂巻7乞学処」に綴鉢の法を明し、「五種の綴鉄鉢の法あり、一に細釘を以って孔を塞ぐ。二に小鉄片を安じ、打入して牢ならしむ。三に魚歯の如く四辺を鉸破し、内外相夾む。四に鉄片を以って孔を掩い、周円は之を釘す。五に屑抹を用う。此れに二種あり、一に砕鉄抹、二に磨石抹なり。(中略)若し瓦鉢に孔隙あらば、沙糖を用て泥に和して之を塞ぎ、火を以って乾炙す。若し璺破すれば刻して鼓腰を作り、鉄鼓を以って之を填め、上に泥を以って塗り、火に熏じて応に用うべし」と云えり。是れ補綴に五種の法あるに依り、之を五綴鉢と名づけたるが如し。又「法苑珠林巻98」に仏鉢破して五片となり、之を補綴したるが故に五綴鉢と称すと云えるは一種の異説なり。又鉢は其の容量に依りて上鉢ukkaTTha- patta、中鉢majjhima- patta、下鉢omaka- pattaの別あり。但し其の容量に関して諸説同じからず。「四分律巻9」に、「大なる者は三斗、小なる者は一斗半なり、此れは是れ鉢量なり。是の如く応に持すべし」と云い、「四分律行事鈔巻下」に之を解し、「此の律は姚秦の時に訳す。彼の国は姫周の斗を用う。唐の斗に準ずるに上鉢は一斗を受け、下とは五舛なり」と云い、又普寂の「六物綱要」には、本邦寛永年中所定の斗升に準せば、此の中の上品は四升五合五勺、下品は二升二合七勺五撮に相当すとなせり。又「十誦律巻43」に依るに、上鉢は三鉢他の飯、一鉢他の羹、余の可食物半羹とを受け、下鉢は一鉢他の飯、半鉢他の羹、余の可食物半羹を受け、中鉢は上下二鉢の中を受くと云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」に之を解し、一鉢他patta十五両飯にして、秦の三十両飯に称い、三鉢他とは秦升の二升に相当す。一鉢他羹及び余の可食物半羹は計一鉢他半にして、即ち秦升の一升なり。故に上鉢は秦升の三升、下鉢は一升(若しくは一升半)を受くとなせり。但し「四分律刪補随機羯磨疏済縁記巻4之1」に、三鉢他とは秦斗二斗、一鉢他羹余可食物半とは一斗なりと註するに依らば、前引「四分律」の容量と同一なるを見るなり。又「摩訶僧祇律巻10」には、「上とは摩竭提国の一阿羅の米を飯と作し、及び羹菜を受く。一阿羅とは此の間の斗六升なるべし。中とは半阿羅の米を飯と作し、及び羹菜を受く。下とは一鉢他米を飯と作し、及び羹菜を受く。三分は飯、一分は羹菜なり」と云えり。是れ一阿羅aLhaka(一斗六升)の飯を受くるを上鉢となせるものにして、「十誦律」の上鉢三鉢他(二斗)より稍少量なるも、而も一鉢他の飯及び余の羹菜を受くるを下鉢となせるは、即ち「十誦律」の下鉢に同じきを見るべく、されば鉢の容量は諸律概ね同一となすべきが如し。又此の上中下三鉢の外に、過鉢、非鉢、随鉢等あり。「摩訶僧祇律巻37」に、比丘尼は一の受持、三の作浄施、四の過鉢、四の減鉢、及び四の随鉢の十六枚の鉢を畜えうべきことを記せり。此の中、過鉢とは上鉢を超えたる大鉢を云い、非鉢とは又減鉢と称し、下鉢より小なるものを云い、随鉢とは鉢中に随って用うるものにして、即ち浅鉄鉢の助食器たる所謂饙子に相当するものなるが如し。饙子には鍵[金*咨](ケンジ)、小鉢、次鉢の三種あり。「四分律巻43」に、「復た何の器にて分つべきかを知らず。仏言わく、若しは鍵[金*咨]を以ってし、若しは小鉢、若しは次鉢、若しは勺にて分つべし」と云い、「十誦律巻8」に、「是の長老多く得る故に一鉢、半鉢、拘鉢多羅、半拘鉢多羅、大揵鎡、小揵鎡、或いは絡嚢に盛る」と云える是れなり。是れ元と仏が四天王より四鉢を受けられし時、之を重累して一鉢となせるに基づくものなりと云う。又鉢の顛倒を防ぐ為に設くる台を鉢支と云い、塵埃等を防ぐ為に覆うものを鉢蓋と云い、之を納むる袋を鉢袋、鉢嚢、鉢絡、又は絡嚢等と称す。「四分律巻43」に、「鉢若し正しからずは応に鉢支を作るべし。若し塵坌あらば応に蓋を作るべし」と云い、「同巻52」に、「手に鉢を捉るに護持し難し。仏言わく、鉢嚢を作りて盛ることを聴す。嚢の口を繋がずして鉢出づ。仏言わく、応に縄もて繋ぐべし。手に鉢嚢を捉るに護持し難し。仏言わく、応に帯を作りて肩に絡うべし」と云い、又「根本薩婆多部律摂巻12蔵他衣鉢学処」に、「鉢絡と言うは、鉢謂わく鉢を盛る帒なり。若しくは布を用いて作り、或いは織網を用う」と云える皆其の説なり。又鉢は三衣と共に比丘等の常に護持すべき必須物にして、之を瓦石の落処、係杖、倚子、懸物の下、及び道中、石上、果樹の下、又は不平地等の危険処に置くを禁ぜられ、使用の後は澡豆、土灰、牛屎、巨摩、根汁、葉汁、華汁、果汁等を以って洗うべきを命ぜられ、其の持鉢の制頗る厳なるものあり。又「雑阿含経巻2」、「賴吒和羅経」、「仏本行集経巻32」、「毘尼母経巻7」、「大比丘三千威儀巻上」、「根本薩婆多部律摂巻10過三鉢受食学処」、「釈門章服儀」、「瑜伽論記巻6」、「勅修百丈清規巻下大衆章」等に出づ。<(望)
又佛處處說有我。處處說無我。處處說諸法有。處處說諸法無。如是等身口業。似不隨智慧行。身口業不離意業。意業亦應有不隨智慧行。云何言常隨智慧行。 又、仏は処処に『我有り』と説き、処処に『我無し』と説き、処処に『諸法有り』と説き、処処に『諸法無し』と説きたまえば、是れ等の如き身、口業は、智慧に随いて行ぜざるに似たり。身口業は、意業を離れざれば、意業も亦た応に智慧に随いて行ぜざる有るべし。云何が、『常に智慧に随いて行ず』、と言う。
又、
『仏』は、
処処に、
『我が有る!』と、
『説き!』、
処処に、
『我は無い!』と、
『説き!』、
処処に、
『諸法が有る!』と、
『説き!』、
処処に、
『諸法は無い!』と、
『説かれている!』が、
是れ等のような、
『身、口の業』は、
『智慧に随って行われていない!』のに、
『似ており!』、
『意の業』は、
『身、口の業』を、
『離れない!』が故に、
当然、
『意の業』も、
『智慧に随って行われないはずである!』。
何故、こう言うのですか?――
常に、
『智慧に随って!』、
『行われている!』、と。
答曰。是事不然。於是諸事皆先有智慧。然後諸業隨智慧行。何以故。佛入外道眾中。雖知今世不信不受。以種後世大因緣故。 答えて曰く、是の事は然らず。是の諸事に於いて、皆先に智慧有りて、然る後に諸業は智慧に随うて行ず。何を以っての故に、仏は外道の衆中に入りて、今世には、不信、不受なるを知ると雖も、以って後世の大因縁を種えたもうが故なり。
答え、
是の、
『事』は、
『そうでない!』、――
是の、
『諸の事』には、
皆、
先に、
『智慧』が、
『有り!』、
その後、
『諸の業』が、
『智慧に随って!』、
『行われたのである!』。
何故ならば、
『仏』が、
『外道衆中に入られた!』のは、
今世には、
『不信、不受である!』と、
『知っていられたが!』、
後世の、
『大因縁を種えることになる!』と、
『思われたからである!』。
又復為止外道謗言佛自高憍。以是故自往入其眾中。又外道言。佛自言有大悲普濟一切。而但自為四眾說法。我等亦是出家求道。而不為說。 又復た、外道の謗りて、『仏は自ら高憍なり』、と言うを止めんが為に、是を以っての故に、自ら往きて、其の衆中に入りたまえり。又外道の言わく、『仏は自ら、大悲有りて、普く一切を済わんと言うも、但だ自ら四衆の為に法を説いて、我等も亦た是れ出家して道を求むれども、而も為に説かず』、と。
又復た、
『外道』が、
『謗って!』、こう言うので、――
『仏』は、
自ら、
『高慢して!』、
我等の、
『衆』中に、
『入ってこない!』、と。
是の故に、
自ら、
『外道の衆』中に、
『入られたのである!』。
又、
『外道』は、こうも言っていた、――
『仏』は、
自ら、
『大悲が有るので!』、
普く、
『一切を済う!』と、
『言いながら!』、
但だ、
自らの、
『四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)』の為に、
『法』を、
『説くだけだ!』。
わたし達も、
『出家して!』、
『道』を、
『求めている!』のに、
わたし達には、
『法』を、
『説こうとしない!』、と。
又如此經。佛往外道眾中說法。不言不信受。佛遙見外道大會高聲論議。欲至餘處迴往趣之。論議師輩遙見佛來自語其眾。汝等皆默佛。是樂寂靜人。見汝等靜默或能來此。眾即默然。佛入其眾說婆羅門三諦。外道眾皆默然。 又、此の経の如きは、仏は外道の衆中に往きて、法を説きたもうに、信受せずとは言わず。仏は遙かに外道の大会の高声に論議せるを見て、余処に至らんと欲したまえど、迴りて之に往趣したまえり。論議師の輩は遙かに仏の来たるを見て、自ら其の衆に語らく、『汝等皆黙すべし、仏は是れ寂静を楽しむ人なれば、汝等が静黙なるを見て、或は能く此に来たらん』、と。衆は即ち黙然たり。仏は、其の衆に入りて、婆羅門の三諦を説きたまえど、外道の衆は、皆黙然たり。
又、
此の経には、――
『仏』は、
『外道の衆中に往き!』、
『法を説かれた!』が、
『信受しなかった!』とは、
『言っていない!』。
『仏』は、
遙かに、
『外道』が、
『大会』で、
『高声に論議している!』のを、
『見られた!』ので、
『余処』に、
『至ろうとする!』のを、
『迂回して!』、
此の、
『大会』に、
『急いで往かれた!』。
『論議師の輩』は、
遙かに、
『仏』の、
『来られる!』のを、
『見て!』、
自ら、
『聴衆』に、こう語った、――
お前たちは、
皆、
『黙っていろ!』。
『仏』は、
『寂静を楽しむ!』、
『人であるから!』、
お前たちが、
『静黙である!』のを、
『見れば!』、
或は、
此の、
『大会』に、
『来られるかもしれない!』、と。
即ち、
『外道の衆』は、
皆、
『黙然とした!』。
『仏』は、
其の、
『衆中に入って!』、
『婆羅門の三諦(不殺、苦因、無我)』を、
『説かれた!』が、
『外道の衆』は、
皆、
『黙然としていた!』。
  婆羅門三諦:仏が婆羅門の為に説いた三つの真実。(1)外道は、婆羅門は梵行を修め、而も生を殺して天を祀る、と言うが、仏は、一切の生命を害さないのが真の婆羅門である、と言う。(空解脱門)(2)外道は、天女の色身を得る為に梵行を修める、と言うが、仏は、天女の色身の為に梵行を修めてはならない、我は彼の所有でなく、彼は我が所有でないからである、と言う。(無作解脱門)(3)外道は諸の邪見に貪著して、諸因の集まりは皆有法(存在する事物)である、と言うが、仏は、一切の法(事物)は即ちこれ生滅の相である、と言う。(無相解脱門)。
  三諦(さんたい):(一)仏の婆羅門の為に説かれたる三種の諦の意。諦は真実不虚の義。即ち一には一切不殺、二には一切苦集是生滅法、三には離我我所真実無我なり。「別訳雑阿含経巻11」に、「一時仏王舎城迦蘭陀竹林中に在り。是の時に当りて、摩竭陀国の諸外道輩相与に須摩竭陀池上に聚集して、斯の論を作して言わく、此れは是れ婆羅門の諦なり。此れは是れ婆羅門の諦なりと。爾の時如来、精舎に在りて禅浄の天耳を以って其の所説を聞き、即ち定より覚して往きて彼の須摩竭陀池上に詣る。諸の婆羅門遙かに仏の来たるを見、悉く座より起ちて、仏の為に座を敷き、仏に白して座に就かしむ。仏は即ち坐に就き、之に告げて曰わく、汝等聚集して何をか談論すると。諸婆羅門各仏に白して言わく、瞿曇当に知るべし、我等今日共に相聚集して、是の説を作して言わく、此れは是れ婆羅門の諦なり。此れは是れ婆羅門の諦なりと。仏之に告げて曰わく、是の如し是の如し。我れ昔道を求めて初めて正覚を成じ、已に証知し竟れり。要を取りて之を言えば、一切の世間は三諦に過ぎず。吾れ当に分別すべし、何等をか三と為す、所謂一切を殺さず、此の語は是れ実にして、虚妄の説に非ず。此の事若し実ならば、応に勤めて精進し、諸の衆生に於いて恒に慈心を生ずべし。此れは是れ婆羅門の初諦なり。我れ是れを知り已りて、広く人の為に説けり。復た次ぎに婆羅門、一切の苦集は、是れ生滅の法なり、斯の如きの言は真実にして虚ならず。此の事若し実ならば、応に懃めて精進し、其の中間に於いて常に宜しく心を修めて、生滅の相を作すべく、応に是の如く住すべし。是れを婆羅門の第二諦と名づく。我れ、此の生滅の相を知るを以っての故に、等正覚を成じ、常に衆生の為に、是の如き法を説く。復た次ぎに婆羅門、第三諦とは、我我所を離るるは真実の無我なり。若し是の如き三法相を離るれば、便ち能く一切の諸悪を遠離す。此の事若し実なれば、応に懃めて精進すべし。求めて衆悪を離れ、応に是の如く住すべしと。仏、是れを説き已り、衆多の外道、仏の所説を聞いて黙然として坐す。爾の時世尊、而も是の念を作さく、斯の愚癡人は常に諸悪の覆蔽する所と為り、是の大衆中に乃至一人も能く斯の語を信じて志学の想を生じ、梵行を修持する無しと。時に于いて如来、斯の念を作し已り、坐より起ちて去る。仏去りて久しからず、爾の時須摩竭陀池神、偈を説いて言わく、譬えば水に画きて跡を求めんと欲し、種を鹵地に下して苗稼を求むるが如く、芳香を以って臭穢を熏じ、水を波に浸注して濡弱ならんことを求め、彼の鉄杵を吹いて妙声を求むるが如く、盛冬に野馬を求むるが如し、彼の諸外道も亦た是の如く、妙法を聞くと雖も信受せずと。爾の時諸婆羅門、此の池神の是の偈を説くを聞き已りて、競いて仏の後に随い出家せんことを求索す。仏即ち聴許し、既に出家し已りて、精懃して道を修め、阿羅漢果を得たり」と云える是れなり。此の中に就き、一に一切不殺とは、即ち五戒等を持するを説き、二に一切苦集是生滅法とは、即ち四諦を以って因果の理を説き、三に離我我所真実無我とは、即ち空無相無作の三解脱門を説くものにして、蓋し是れ即ち戒、慧、定の三学を説けるものなるが如し。又「雑阿含経巻35」、「阿毘達磨大毘婆沙論巻77」、「阿毘曇毘婆沙論巻40」、「瑜伽師地論巻55」、「順正理論巻58」等に出づ。(二)諦に三種の別あるの意。諦は真実不虚の義。即ち三種の真実不虚の理を云う。一に空諦、二に仮諦、三に中道第一義諦なり。又空諦を真諦或いは無諦、仮諦を俗諦或いは有諦、中道第一義諦を中諦とも称す。「菩薩瓔珞本業経巻上賢聖学観品」に、「三観とは仮名より空に入るは二諦観なり、空より仮名に入るは平等観なり。是の二観は方便道なり。是の二空観に因りて中道第一義観に入ることを得。双べて二諦を照らして心心寂滅し、進んで諸事法流水の中に入るを摩訶薩聖種性と名づく」と云い、「仁王般若波羅蜜経巻上二諦品」に、「三諦を以って一切法を摂す、空諦色諦心諦なり。故に我れ説く一切法は三諦を出でずと」と云い、「中論巻4観四諦品の偈」に、「衆因縁生法、我説即是無、亦為是仮名、亦是中道義」と云えるは、皆即ち三諦の理を説けるものなり。又「法華経玄義巻2下」に、「三諦を明さば衆経に備に其の義あり。而も名は瓔珞、仁王に出づ。謂わく有諦無諦中道第一義諦なり。今の経にも亦た其の義あり、寿量に非如非異と云うは即ち中道なり、如は即ち真、異は即ち俗なり」と云えり。是れ「法華経」の中に亦た三諦の義を説くとなせるものなり。蓋し三諦の説は天台一家に於いて盛んに唱道する所にして、其の教観は実に此の三諦の円融を説くを以って其の本旨と為せり。「法華経玄義巻2下」に、「中道を明さざるを以っての故に五種の二諦に就く。中道を論ずることを得ば即ち五種の三諦あり。別入通に約せば、非有漏非無漏を点するに三諦の義成ず。有漏は是れ俗、無漏は是れ真、非有漏非無漏は是れ中なり。当教に中を論ぜば但だ空に異なるのみ。中に功用なく、諸法を備えず。円入通の三諦とは二諦は前に異ならず、非漏非無漏を点するに一切法を具す。前の中と異なれり。別の三諦とは彼の俗を開して両諦と為し、真に対して中と為す。中は理なるのみ云云。円入別の三諦とは二諦は前に異ならず、真の中道を点するに仏法を具足するなり。円の三諦とは但だ中道のみ仏法を具足するに非ず、真俗も亦た然り。三諦円融して一三三一なり」とあり。是れ蓋し別入通、円入通、別教、円入別及び円教の五人の解に約して、以って浅深を論じたるなり。別入通とは又別接通と称す。即ち通教の人にして別教に接入せらるるの機なり。此の人は非有漏非無漏の説を聞き、有漏を俗諦、無漏を真諦、非有漏非無漏を中道と解知す。其の所謂中道は但だ空真諦に異なれる理を称するのみにして、即ち双非あるも双照の功なく、一切法を具するの義なし。円入通とは又円接通と称す。即ち通教の人にして円教に接入せらるるの機なり。此の人は真俗二諦を解すること前に同じきも、非漏非無漏の説を聞き、双非と倶に双照の義ありと知るが故に、所解の中道は前と異あり。別教の人は有を仮諦、空を真諦とし、真諦に対して非有非空を中道と為す。中は所謂但中にして、但だ即ち理を称するに過ぎず。円入別とは又円接別と名づく、即ち別教の人にして円教に接入せらるるの機なり。此の人は二諦を解すること前に異ならざるも、其の所解の中道は所謂不但中にして、一切仏法を具足するなり。円教の人は但だ中道のみ仏法を具足するに非ず、真諦俗諦も亦た皆仏法を具足し、三諦円融して一即三、三即一と解知するを云うなり。但し是の如く五人の解の不同ありと雖も、要するに別円二教を出でず。中に就き別教所説の三諦は、隔歴不融にして前後次第するが故に、是れを隔歴三諦、歴別三諦、次第三諦、又は邐迤三諦と名づく。隔とは三諦横に彼此隔異するを云い、歴とは竪に前後次第して共に融即することなきを云う。横に彼此隔異すとは、空は但空にして空の中に仮中なく、仮は但仮にして仮の中に空中なく、中は但中にして中の中に空仮なく、三諦全く隔異して融ぜざるを云うなり。竪に前後次第すとは、初に空を観じて見思の惑を断じ、次に仮を観じて塵沙の惑を断じ、後に中を観じて無明の惑を観じ、三観三惑次第証入して前後歴別するを云うなり。円教所説の三諦を円融三諦、一境三諦、不次第三諦、不縦不横三諦、又は不思議三諦と名づく。三諦円融して縦ならず横ならず、一は三に即し、三は一に即して融通無礙なるを云うの意なり。凡そ空に破有と立空と破立絶待の三義あり、破有とは空に有を破するの義あるを云い、立空とは空に空を立するの義あるを云い、破立絶待とは破有と言うも単の破有に非ず、立空と言うも単の立空に非ず、破有即立空、立空即破有にして、即ち破立其の待を絶するを云う。此の中、破有は空の義、立空は仮の義、破立絶待は中の義なり。是れ即ち空の一諦に空仮中三諦相即するの謂なり。又仮に破空と立有と破立絶待の三義あり、破空とは仮に空を破するの義あるを云い、立有とは仮に有を立するの義あるを云い、破立絶待とは破空立有互いに其の待を絶するを云う。亦た是れ仮の一諦に宛然として三諦相即するの謂なり。又中に双遮と双照と遮照絶待の三義あり、双遮とは中に双べて空仮二辺を遮するの義あるを云い、双照とは中に双べて空仮二辺を照すの義あるを云い、遮照絶待とは双遮双照互いに融即して絶待無礙なるを云う。之に依りて亦た中の一諦に三諦相即するを見るべし。「摩訶止観巻3之上」に、「止を以って諦を縁ずれば、則ち一諦にして而も三諦なり、諦を以って止に繋くれば、則ち一止にして而も三止なり。譬えば三相の一念心に在るが如し。一念の心なりと雖も而も三相あり、止諦も亦た是の如く、所止の法は一なりと雖も而も三なり、能止の心は三なりと雖も而も一なり」と云い、又「始終心要」に、「夫れ三諦は天然の性徳なり。中諦は一切の法を統べ、真諦は一切の法を泯し、俗諦は一切の法を立す。一を挙ぐれば即ち三にして前後に非ず。含生本具せり。造作の得る所に非ず」と云えるは共に其の義を説けるものなり。又「摩訶止観巻3上」には随自随他に約して三意を分ち、「此の三諦の理は不可思議なり、決定の性なければ実に不可説なり。若し縁の為に説くには三意を出でず、一に随情説は即ち随他意語なり、二に随情智説は即ち随自他意語なり、三に隨智説は随自意語なり」と云える。此の中、随情説とは凡夫の情に順じ、種種に分別して三諦の理を説くを云い、随情智説とは十信以上の菩薩の為に、空仮二諦は情に就き、中道は智に就きて説くを云い、隨智説とは初住以上の菩薩の為に随情の教を亡じ、真智所照の不思議の三諦を説くを云うなり。又「摩訶止観巻7上」、「金光明経文句巻2、4、5」、「同記巻1上、1下、3上、4下」、「観音玄義巻上」、「維摩経略疏巻7」、「仁王般若経疏巻4」、「止観輔行伝弘決巻5之3、5之4」、「天台八教大意」、「天台四教儀集註巻下」等に出づ。<(望)
  参考:『別訳雑阿含巻11経(206)』:『如是我聞。一時佛在王舍城迦蘭陀竹林中。當於是時。摩竭提國諸外道輩。相與聚集須摩竭陀池上。作斯論言。此是婆羅門諦。此是婆羅門諦。爾時如來在於精舍。以禪淨天耳。聞其所說。即從定覺。往詣於彼須摩竭陀池上。諸婆羅門遙見佛來。悉從座起。為佛敷座。白佛就座。佛即就坐。而告之曰。汝等聚集作何談論。諸婆羅門各白佛言。瞿曇當知。我等今日共相聚集。作是說言。此是婆羅門諦。此是婆羅門諦。佛告之曰。如是如是。我昔求道初成正覺。已證知竟。取要言之。一切世間不過三諦。吾當分別。何等為三。所謂一切不殺。此語是實。非虛妄說。此事若實。應勤精進。於諸眾生。恒生慈心。此是婆羅門初諦。我知是已廣為人說。復次婆羅門。一切苦集是生滅法。如斯之言。真實不虛。此事若實。應懃精進。於其中間常宜修心作生滅相。應如是住。是名婆羅門第二諦。我以知此生滅相故。成等正覺。常為眾生。說如是法。復次婆羅門第三諦者。離我我所。真實無我。若離如是三法相者。便能遠離一切諸惡。此事若實。應懃精進。求離眾惡。應如是住。佛說是已。眾多外道。聞佛所說。默然而坐爾時世尊而作是念。斯愚癡人。常為諸魔之所覆蔽。是大眾中乃至無有一人能信斯語。生志學想。修持梵行于時如來作斯念已。從坐起去。佛去不久。爾時須摩竭陀池神。而說偈言 譬如畫水欲求跡  下種鹵地求苗稼  如以芳香熏臭穢  水浸注波求濡弱  吹彼鐵杵求妙聲  如於盛冬求野馬  彼諸外道亦如是  雖聞妙法不信受  爾時諸婆羅門聞此池神說是偈已。競隨佛後求索出家。佛即聽許。既出家已。精懃修道。得阿羅漢果。』
  参考:『百論疏巻1』:『又經云。為治婆羅門三諦故說三門。外道自稱言。是婆羅門修行梵行而殺生祀天。謂是實義。佛言。不害一切生命名真婆羅門。即是空解脫門。二者外道為天女色修行梵行令有所得。佛言。不應為天女色而修梵行。我非彼所有彼非我所有。即是說無作解脫門。三者外道貪著諸見謂。言諸因集皆是有法。佛言。一切法集即是滅相。名無相解脫門』、また他に『雑阿含経巻35』:『佛告婆羅門出家。有三種婆羅門真實。我自覺悟成等正覺而復為人演說。汝婆羅門出家作如是說。不害一切眾生。是婆羅門真諦。非為虛妄。彼於彼言我勝.言相似.言我卑。若於彼真諦不繫著。於一切世間作慈心色像。是名第一婆羅門真諦。我自覺悟成等正覺。為人演說。復次。婆羅門作如是說。所有集法皆是滅法。此是真諦。非為虛妄。乃至於彼真諦不計著。於一切世間觀察生滅。是名第二婆羅門真諦。復次。婆羅門作如是說。無我處所及事都無所有。無我處所及事都無所有。此則真諦。非為虛妄。如前說。乃至於彼無所繫著。一切世間無我像類。是名第三婆羅門真諦。我自覺悟成等正覺而為人說。爾時。眾多婆羅門出家默然住』
佛作是念。狂人輩皆為惡魔所覆。是法微妙乃至無有一人試作弟子者。作是念已從坐而去。是人魔蔽得離便自念。我等得聞妙法。云何不以自利即皆往詣佛所。為佛弟子得道離苦。 仏の是の念を作したまわく、『狂人の輩は皆悪魔に覆わる。是の法は微妙なれば、乃至一人の弟子と作るを試みる者無けん』、と。是の念を作し已りて、坐より去りたまえり。是の人は、魔蔽を離るるを得て、即ち自ら念ずらく、『我等は、妙法を聞くを得たり。云何が以って自ら利せざる』、と。即ち皆、往きて仏所に詣(いた)り、仏弟子と為りて、道を得て苦を離れたり。
『仏』は、こう念じられた、――
『狂人の輩』は、
『悪魔』に、
『智慧』を、
『覆われている!』。
是の、
『法』は、
『微妙であり!』、
乃至、
『一人』も、
『弟子と作ろうとする!』者は、
『無いだろう!』、と。
是のように念じられると、――
『坐より!』、
『起って!』、
『去られた!』。
是の、
『人』は、
『魔』の、
『蔽(おおい)より!』、
『離れられるようになる!』と、
便ち、こう念じた、――
わたし達は、
『妙法』を、
『聞くことができた!』のに、
何故、
自ら、
『妙法を!』、
『利用しないのか?』、と。
即ち、
『皆で、往って!』、
『仏の所に詣(いた)り!』、
『仏の弟子と為って!』、
『道を得て!』、
『苦』を、
『離れたのである!』。
復次外道弟子難其師故。不敢到佛所。是故佛自入其眾中。眾得聞法信受堅固。不復難師得為弟子或得道跡。如是等有種種智慧因緣。是故往入外道眾。 復た次ぎに、外道の弟子は、其の師を難ずるが故に、敢て仏所に到らず。是の故に仏、自ら其の衆中に入りたもうに、衆は法を聞くを得て、信受すること堅固なれば、復た師を難ぜず、弟子と為るを得て、或は道跡を得。是れ等の如き種種の智慧の因縁有れば、是の故に往きて、外道衆に入りたまえり。
復た次ぎに、
『外道の弟子』は、
其の、
『師』を、
『恐れる!』が故に、
敢て、
『仏の所』に、
『到ろうとしない!』ので、
是の故に、
『仏』は、
自ら、
『外道の衆』中に、
『入られたのであり!』、
『衆』は、
『法を聞くことができて!』、
『堅固に!』、
『信受した!』ので、
もう、
『師を恐れなくなって!』、
『弟子』と、
『為ることができ!』、
或は、
『道の跡(仏の足跡)』を、
『得たのである!』。
『仏』には、
是れ等のような、
種種の、
『智慧の因縁』が、
『有り!』、
是の故に、
『往って!』、
『外道の衆』中に、
『入られたのである!』。
  (なん):<形容詞>困難/艱難/容易でない( difficult, hard, troublesome )、不可能/好ましくない( hardly possible, bad )。<動詞>難と為す/難しく思う( feel difficult )、困難を感じさせる( put somebody into a difficult position )、恐懼する( dread, fear )、敬う( respect )、詰問/責難( blame, reproach )、排斥する/拒否する( keep out, ward off, refuse )、論説する/論争する( argue )、<後に付して>有る事が困難であることを示す。<名詞>災難/禍害( disaster, calamity, catastrophe )、兵難/叛乱/暴動( revolt )、怨仇/仇敵( enemy, foe )。
  道跡(どうしゃく):仏道の正しきみちすじ。
復次薩遮祇尼揵子銅鍱絡腹自誓言。無有人得我難而不流汗破壞者。大象乃至樹木瓦石聞我難聲亦皆流汗。作是誓已來至佛所與佛論議。佛質問之皆不能得答。汗流淹地舉體如漬。 復た次ぎに、薩遮尼揵子は、銅鍱を腹に絡めて、自ら誓言すらく、『人の、我が難を得て、汗を流して破壊せざる者有ること無し。大象、乃至樹木、瓦石すら我が難声を聞けば、亦た皆汗を流せり』、と。是の誓を作し已りて、来たりて仏所に至り、仏と論議す。仏の之に質問したもうに、皆答うるを得る能わず。汗流れて地を淹(ひた)し、体を挙げて漬くるが如し。
復た次ぎに、
『薩遮尼揵子』は、
『銅鍱を腹に巻いて!』、
自ら、こう誓った、――
わたしの、
『難を受けて!』、
『汗を流して!』、
『破壊しない!』者は、
『無い!』、
『大象、乃至樹木、瓦石すら!』、
わたしの、
『難声』を、
『聞けば!』、
皆、
『汗』を、
『流すことだろう!』、と。
こう誓うと、――
『仏の所に来て!』、
『仏』と、
『論議したのである!』が、
『仏が質問されても!』、
『皆、答えられず!』、
『汗が流れて!』、
『地』に、
『溢れ!』、
『全身』が、
『汗』に、
『漬かったようになった!』。
  薩遮祇尼揵子(さっしゃぎにけんじ):巴梨名saccaka- nigaNTha- putta。又薩遮祇尼揵子等に作る。尼揵外道の名。毘舎離国の人。「雑阿含経巻5」、「増一阿含経巻30」、「大薩遮尼乾子所説経」等には、仏弟子阿説示assajiと対論し、後遂に仏の為に屈せられしことを記せり。『大智度論巻26上注:尼揵子論師』参照。
  銅鍱(どうちょう):銅の薄板を以って作る所の腹巻き。
佛告尼揵。汝先誓言。無有聞我難者而不流汗。汝今汗流淹地。汝試觀佛見有汗相不。佛時脫鬱多羅僧。示之言。汗在何處。 仏の尼揵に告げたまわく、『汝が先に誓言すらく、我が難を聞く者の、汗を流さざる有ること無しと。汝は今汗流れて地を淹せり。汝、試みに仏を観よ、汗の相有ること見るや、不や』、と。仏の時に鬱多羅僧を脱ぎ、之に示して言わく、『汗は何処にか在る』、と。
『仏』は、
『尼揵』に、こう告げられた、――
お前は、
先に、こう誓っていたが、――
わたしの、
『難を聞いて!』、
『汗を流さない!』者は、
『無い!』、と。
お前は、
今、
『汗を流して!』、
『地』に、
『溢れさせているではないか?』。
お前は、
試みに、
『仏を観察してみよ!』、――
『汗の相の有る!』のが、
『見えるか?』、と。
『仏』は、
その時、
『鬱多羅僧(中衣)を脱ぎ!』、
『尼揵に示して!』、こう言われた、――
『汗』が、
何処に、
『在るのか?』、と。
復次有人言。或有頭汗身不汗者。佛頭雖不汗身必有汗。以是故佛脫鬱多羅僧示其身。因是外道大得信向皆入佛法中。是智慧因緣身業隨行。 復た次ぎに、有る人の言わく、『或は頭に汗かくも、身には汗かかざる者有り。仏は頭に汗かかずと雖も、身には必ず汗有らん』、と。是を以っての故に、仏は鬱多羅僧を脱いで、其の身を示したまえり。是れに因りて、外道は、大いに信向を得て、皆仏法中に入れり。是の智慧の因縁もて、身業は随いて行ず。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
或は、
『頭には汗をかきながら!』、
『身に汗をかかない!』者が、
『有る!』が、
『仏』は、
『頭に汗をかかなくても!』、
必ず、
『身には!』、
『汗が有るはずだ!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『鬱多羅僧を脱いで!』、
其の、
『身』を、
『示されたのである!』。
是れに因って、
『外道』は、
大いに、
『信受して!』、
『帰向することができ!』、
皆、
『仏法』中に、
『入った!』。
是れは、
『智慧の因縁に随って!』、
『身業』が、
『行われたのである!』。
  信向(しんこう):信じてそれに帰向する。信じ従う。
佛現舌相陰藏相者。有人疑佛身二相。而是人應得道疑故不得。以是故現二相。 仏の舌相、陰蔵相を現したもうとは、有る人は、仏身の二相を疑えるに、而も是の人は応に道を得べくも、疑うが故に得ざれば、是を以っての故に二相を現したもう。
『仏』が、
『舌相、陰蔵相』を、
『現された!』のは、――
有る、
『人』が、
『仏の身にある!』、
『二相』を、
『疑っていたからである!』。
是の、
『人』は、
『道を得られるはずだが!』、
『疑っていた!』が故に、
『得られなかった!』ので、
是の故に、
『二相』を、
『現されたのである!』。
出舌覆面舌雖大還入口中而亦無妨。見者疑斷。有人見出舌相。若生輕慢心。出舌如小兒相見還入口說法無妨。便起恭敬歎未曾有。 舌を出して面を覆いたもうに、舌大なりと雖も、還れば口中に入るに、亦た妨げ無く、見者の疑を断ぜり。有る人は出舌の相を見て、若しは軽慢心を生ずらく、『舌を出すは小児の相の如し』、と。還って口に入れば、法を説くに妨げ無く、便ち恭敬を起して、未曽有なりと歎ぜり。
『仏』が、
『舌を出して!』、
『面』を、
『覆われる!』と、
『舌は大きかった!』が、
『還って!』、
『口』中に、
『入る!』と、
亦た、
『妨げる!』ことも、
『無くなり!』、
『見る!』者の、
『疑』を、
『断じたのである!』。
有る、
『人』は、
『仏』の、
『舌を出された!』、
『相』を、
『見る!』と、
『舌を出す!』のは、
『小児のようだ!』と、
『軽慢心』が、
『生じるかもしれない!』が、
『仏』の、
『舌が還って!』、
『口』に、
『入れば!』、
『法を説くのに!』、
『妨げが無い!』のを、
『見る!』と、
便ち、
『恭敬の心を起して!』、
『未曽有だ!』と、
『歎じるのである!』。
有人疑佛陰藏不現。爾時世尊化作寶象寶馬指示之言。陰藏相不現正如是。 有る人は、仏の隠蔵の現れざるを疑えり。爾の時、世尊は宝象、宝馬を化作し、之に指示して言わく、『陰蔵相の現れざるは、正に是の如し』、と。
有る、
『人』は、
『仏の隠蔵』が、
『現れない!』のを、
『疑っていた!』。
爾の時、
『仏』は、
『宝象と!』、
『宝馬!』を、
『化作する!』と、
其の、
『隠蔵を指示して!』、こう言われた、――
『陰蔵相が現れない!』のも、
『正しく!』、
『是の通りである!』、と。
有人言佛出陰藏相。但示一人斷其疑故。 有る人の言わく、『仏は陰蔵相を出して、但だ一人に示したもうは、其の疑を断ぜんが故なり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
『陰蔵相を出して!』、
但だ、
『一人』に、
『示された!』のは、
其の、
『疑』を、
『断じる為である!』、と。
論議師輩言佛大慈悲心。若有人見佛陰藏相能集善根。發阿耨多羅三藐三菩提心。及能大歡喜信敬心生者。皆令得見斷其疑心。除是皆不得見。 論議師の輩の言わく、『仏の大慈悲心は、若し有る人、仏の陰蔵相を見て、能く善根を集めて、阿耨多羅三藐三菩提の心を発し、及び能く大歓喜して、信敬の心生ずれば、皆、其の疑心の断ぜらるるを得しむ。是れを除けば、皆見るを得ず』、と。
『論議師の輩』は、こう言っている、――
『仏』の、
『大慈悲心』は、
有る、
『人』が、
『仏の陰蔵相を見て!』、
『善根を集めて!』、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発すことができ!』、
及び、
『大歓喜して!』、
『信敬の心』を、
『生じることができれば!』、
皆、
其の、
『疑心』を、
『断じさせることができる!』が、
是れを、
『除けば!』、
皆、
『仏の陰蔵相』を、
『見ることはできない!』、と。
  (けん):受け身を示す詞。
  参考:『大智度論巻4』:『十者陰藏相。譬如調善象寶馬寶。問曰。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提。時諸弟子何因緣見陰藏相。答曰。為度眾人決眾疑故示陰藏相。復有人言。佛化作馬寶象寶示諸弟子言。我陰藏相亦如是。』
  参考:『有部毘奈耶雑事巻35』:『爾時世尊作如是念。此樹生摩納婆遍於我身欲觀三十二相。已見三十於二有疑。陰舌二相未能得見。我今方便現陰藏相令彼見已。即舒舌相長至髮際廣覆面門。彼既見已作如是念。沙門喬答摩眾相具足。有二種業。在俗作輪王出家成正覺。乃至名聞無不周遍。時摩納婆。生大歡喜辭佛而去。』
佛以大悲為度眾生故。從三種覆出暫現如電光。是眾生見已。信佛有大悲心。實於戒法不取不著。如是等因緣故現二相。非戲非無羞。 仏は、大悲を以って、衆生を度せんが為の故に、三種の覆より出して、暫く現るること電光の如きに、是の衆生見已りて、仏に大悲心有るを信じ、実に戒法に於いてすら、取らず、著せず。是れ等の如き因縁の故に二相を現したまえば、戯に非ず、無羞なるに非ず。
『仏』が、
『大悲心を用いて!』、
『衆生を度する!』為の故に、
『三種の覆より!』、
『陰蔵相』を、
『出される!』と、
『電光のように!』、
『暫く!』、
『現れただけなのに!』、
是の、
『衆生』は、
其れを見て、
『仏に有る!』、
『大悲心』を、
『信じ!』、
実に、
『戒法すら!』、
『取著することがなくなる!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『二相を現されたのである!』から、
『戲れでもなく!』、
『羞恥が無いのでもない!』。
  三種覆(さんしゅふく):三種のおおい。即ち舌相を覆う所の上下の唇、陰蔵相を覆う所の腹を云う。
佛苦切語。諸比丘汝狂愚人者。苦切語有二種。一者垢心瞋罵。二者憐愍眾生欲教化故。離欲人無有垢心瞋罵何況佛。 仏の苦切して、諸比丘に汝狂癡の人と語りたまえるは、苦切の語には二種有り、一には垢心の瞋罵、二には衆生を憐愍して、教化せんと欲するが故なり。離欲の人すら、垢心の瞋罵有ること無し。何に況んや仏をや。
『仏が苦切して!』、
諸の、
『比丘』に、
お前は、
『狂愚の人である!』と、
『語られた!』のは、――
『苦切の語』には、
『二種有り!』、
一には、
『垢心の人』が、
『瞋罵する!』が故の、
『苦切語であり!』、
二には、
『衆生を憐愍して!』、
『教化しようとする!』が故の、
『苦切語である!』が、
『離欲の人』には、
『垢心を用いて!』、
『瞋罵する!』ことが、
『無い!』ので、
況して、
『仏』は、
『尚更である!』。
  苦切(くせつ):厳しく責める。苦はきびしい、又はねんごろの意。切はせめる、又はそしるの意。
  狂愚(こうぐ):おろか。道理を辨えない。
  垢心(くしん):煩悩に汚れた心。
  瞋罵(しんめ):いかりののしる。
佛憐愍教化故有苦切語。有眾生軟語善教不入道。檢要須苦切麤教乃得入法。如良馬見鞭影便去。鈍驢得痛手乃行。亦如有瘡得軟藥唾咒便差。有瘡刀破出其惡肉塗以惡藥乃愈者。 仏は憐愍教化の故に、苦切語有り。有る衆生には軟語、善教もて道に入らしめず、要を検して苦切、麁教を須いて、乃ち法に入るを得。良馬の鞭影を見れば、便ち去るも、鈍驢は痛手を得て、乃ち行くが如し。亦た有る瘡は、軟薬、唾、咒を得て、便ち差え、有る瘡は、刀もて破りて、其の悪肉を出し、塗るに悪薬を以ってすれば、乃ち愈ゆる者なるが如し。
『仏』は、
『憐愍して!』、
『衆生』を、
『教化される!』が故に、
有るいは、
『苦切して!』、
『語られるのである!』。
有る、
『衆生』は、
『軟語や、善教を用いても!』、
『道』に、
『入らない!』ので、
『必要を検討しながら!』、
『苦切したり!』、
『麁教したりして!』、
ようやく、
『法』に、
『入らせることができる!』。
譬えば、
『良馬』は、
『鞭影を見ただけで!』、
すぐに、
『走り出す!』が、
『鈍驢』は、
『痛手を蒙って!』、
ようやく、
『動き出すようなものである!』。
亦た、
有る、
『瘡(きず)』は、
『軟薬や、唾や、咒を用いるだけ!』で、
すぐに、
『差()える!』が、
有る、
『瘡』は、
『刀で破って!』、
其の、
『悪肉』を、
『剔出し!』、
『悪薬を塗って!』、
ようやく、
『癒えるようなものである!』。
  憐愍(れんみん):あわれむ。ふびんにおもう。
  軟語(なんご):やわらかいことば。優しいことば。
  善教(ぜんきょう):こころよくおしえる。
  道検(どうけん):みちのおこない。道を軌範とする行い。
  (よう):かならず。定めて、又は必要の意。
  (しゅ):必ず用いる。必須。
  麁教(そきょう):あらあらしくおしえる。
  (ない):すなわち。ようやく、やっとの意。
  悪薬(あくやく):不快な薬。
復次苦切語有五種。一者但綺語。二者惡口亦綺語。三者惡口亦綺語妄語。四者惡口亦綺語妄語兩舌。五者無煩惱心苦切語。為教弟子分別善不善法故。拔眾生於苦難地故。具四種惡語者其罪重。三二一轉轉輕微。 復た次ぎに、苦切語には、五種有り、一には但だ綺語す、二には悪口して、亦た綺語す、三には悪口して、亦た綺語、妄語す、四には悪口して、亦た綺語、妄語、両舌す、五には無煩悩の心もて苦切語し、弟子を教えて善、不善の法を分別せしめんが為の故に、衆生を苦難の地より抜かんが故なり。四種の悪語を具うる者は、其の罪重く、三、二、一転転して軽微なり。
復た次ぎに、
『苦切の語』には、
『五種有り!』、
一には、
但だ、
『綺語するだけ!』、
二には、
『悪口して!』、
亦た、
『綺語する!』、
三には、
『悪口して!』、
亦た、
『綺語、妄語する!』、
四には、
『悪口して!』、
亦た、
『綺語、妄語、両舌する!』、
五には、
『無煩悩の心を用いて!』、
『弟子を教えて!』、
『善、不善法を分別させる!』為の故の、
『苦切語であり!』、
『衆生』を、
『苦難の地より抜く!』為の故の、
『苦切語である!』。
『四種の悪語を具足する!』者は、
其の、
『罪』が、
『重く!』、
『三、二、一と!』、
転転して( increasingly )、
『軽微になる!』。
  綺語(きご):梵語saMbhinna- pralaapaの訳。邪心を以って正しからざる言語を弄するを云う。十悪の一。又雑穢語、或いは無義語とも称す。「大乗義章巻7」に、「邪言正しからず、其れ猶お綺色のごとし。喩に従えて称を立つ。故に綺語と名づく」とあり。「成実論巻8」に、「綺語とは若し実語に非ざれば義正しからず、故に名づけて綺語となす。又是れ実語なりと雖も、非時なるを以っての故に亦た綺語と名づく。又実にして而も時なりと雖も、衰悩に随順し利益なきを以っての故に亦た綺語と名づく。亦た言実にして而も時に、亦た利益ありと雖も、言に本末なく、義理不次なるを以って亦た綺語と名づく。亦た癡等の煩悩、心を散ずるを以っての故に、語を名づけて綺語となす。身意正しからざるを亦た綺業と名づく。但だ多く口を以って作し、亦た俗に随うが故に名づけて綺語と曰うのみ。余の三の口業も皆綺語を雑えて相離るるを得ず」と云い、又「瑜伽師地論巻8」には、綺語に種種の別名あることを説き、言の時に応ぜざるが故に非時語と名づけ、言実ならざるが故に非実語と名づけ、言無義を引くが故に非義語と名づけ、言麁獷なるが故に非法語と名づけ、語に瞋恚を挟むるが故に非静語と名づけ、又邪説法の時に於いて、不正に思審して宣説するが故に不思量語と名づけ、聴者に勝れんとして宣説するが故に不静語と名づけ、非時にして説き前後の義趣相属せざるが故に雑乱語と名づけ、理因に中たらずして宣説するが故に非有教語と名づけ、相応せざるものを引いて譬況となすが故に非有喩語と名づけ、穢染を顕すが故に非有法語と名づけ、又歌笑嬉戯等の時、及び観舞楽戯笑俳説等の時に於いて引くことある無義語なりと云えり。又「倶舎論巻16」には之を雑穢語となし、「一切染心所発の諸語を雑穢語と名づく、染心所発の言は皆雑穢語なるが故なり」と云い、「同光記巻16」に、「独起の雑穢語ありと雖も、若し前の三語(虚誑語、離間語、麁悪語)起る時は必ず雑穢を兼ぬ」と云えり。又「旧華厳経巻24」、「成実論巻9」、「瑜伽師地論巻59、60」、「法界次第初門巻上之上」等に出づ。<(望)
  悪口(あっく):麁悪の語を発して他を毀訾するを云う。十悪の一。新訳に麁悪語と云う。「大乗義章巻7」に、「言辞麁野なる、之を目して悪となし、悪、口より生ずるが故に悪口と名づく」と云い、「法界次第初門巻上」に、「悪言を彼れに加え、他をして悩を受けしむるを名づけて悪口と為す」と云い、又「倶舎論巻16」に、「若し染心を以って非愛の語を発し、他を毀訾するを麁悪語と名づく」とあり。<(望)
  妄語(もうご):梵語mRSaa- vaadaの訳。巴梨語musa- vada、又故妄語、虚妄語、虚誑語、或いは欺とも訳す。五八十具戒の一、十重禁の一。即ち不実の言を以って他を欺誑するを云う。「雑阿含経巻37」に、「不実の説を作し、見ざるを見ると言い、見るを見ずと言い、聞かざるを聞くと言い、聞くを聞かずと言い、知るを知らずと言い、知らざるを知ると言い、自に因り他に因り、或いは財利に因り、知りて妄語して而も捨離せず。是れを妄語と名づく」と云い、「大智度論巻13」に、「妄語とは不浄心に他を誑さんと欲し、実を覆隠して異語を出し口業を生ず。是れを妄語と名づく」と云える是れなり。是れ自利等の為に真実を隠蔽し、故に虚言を以って他を欺誑するを妄語となせるものなり。「四分律巻11」に之を単提法の第一となし、「若し比丘、知りて而も妄語せば波逸提なり」と云えり。「五分律巻6」、「十誦律巻9」、「摩訶僧祇律巻12」等亦た之に同じ。又「四分律巻2」に之を妄語して自ら上人法uttara- ma- nuSya- dharmaを得たりと称するを特に波羅夷罪の一となし、「若し比丘、実に知る所なくして自ら称して言わく、我れ上人法を得、我れ已に聖智勝法に入り、我れ是れを知り、我れ是れを見ると。彼れ異時に於いて若しは問い、若しは問わざるも、自ら清浄を欲するが故に是の説を作す、我れ実に知らず見ざるを、知ると言い見ると言えり、虚誑の妄語なりと。増上慢を除き、是の比丘は波羅夷不共住なり」と云えり。是れ妄語して自ら上人法を得たりと言う時、波羅夷罪を犯ずることを説けるものなり。「四分律行事鈔巻中1」に、此の中の単提法の妄語を以って小妄語となし、波羅夷法の妄説上人法を大妄語となせり。妄語の果報に関しては、「旧華厳経巻24」に、「妄語の罪は亦た衆生をして三悪道に堕せしむ」と云い、「大智度論巻13」には、妄語の人は心に慚愧なく、天道、涅槃の門を閉塞すと云い、又之に口気臭等の十過罪報ありとなせり。又「長阿含経巻6、8、14」、「中阿含教巻3」、「善見律毘婆沙巻12」、「梵網経巻下」、「同菩薩戒本疏巻3(法蔵)」、「四分律疏巻3本、5本」等に出づ。<(望)
  両舌(りょうぜつ):梵語paizunyaの訳。巴梨語pisuNaa- vaacaa、又両舌語、離間語と訳す。十悪の一。彼此の間に立ちて互いに其の屏語(カゲゴト)を他に伝え、以って両者を乖離し闘諍せしめて歓喜するを云う。「雑阿含経巻37」に、「両舌を以って乖離し、此れを伝えて彼れに向い、彼れを伝えて此れに向い、逓に相破壊し、和合する者を離れしめ、離れば歓喜す。是れを両舌と名づく」と云い、「中阿含巻19迦絺那経」に、「我れ両舌を離れ、両舌を断じ、不両舌を行じて他を破壊せず。此れに聞き彼れに語りて此れを破壊せんことを欲せず、彼れに聞き此れに語りて彼れを破壊せんことを欲せず、離者合せんと欲して合せば歓喜す。群党をなさず、群党を楽しまず、群党を称説せず。我れ両舌に於いて其の心を浄除す」と云える是れなり。是れ此の人の屏語を彼れに伝え、彼の人の屏語を此れに伝え、以って両者を離間するを両舌と名づけなるなり。又「成実論巻8五戒品」に之を五戒の一に加えざる所以を説き、「問うて曰わく、両舌等を離るるを何故に戒と為さざるや。答えて曰わく、是の事は細微にして守護すべきこと難し。又両舌等は是れ妄語の分なり、若し妄語を説かば已に総じて説くなり」と云えり。「四分律巻11」には両舌語を波逸提の第三となし、又智顗の「菩薩戒義疏巻下」には、梵網四十八軽戒中の第十九を両舌戒に配せり。又当来の果報に関し、「旧華厳経巻24」に、「両舌の罪も亦た衆生をして三悪道に堕せしむ。若し人中に生ぜば二種の果報を得、一には弊悪の眷属を得、二には不和の眷属を得ん」と云えり。又「長阿含経巻13」、「中阿含経巻3、12」、「大方等大集経巻50」、「五分律巻6」、「十誦律巻9」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻6」、「瑜伽師地論巻8」、「倶舎論巻16」等に出づ。<(望)
  転転(てんてん):次第に程度を増すさま。
佛弟子白衣。得初道若二道。使令奴婢故。有惡口非不善道。攝律儀有二種。若綺語若惡口綺語。阿那含阿羅漢無煩惱起惡口。但以淨心須惡言教化故惡口綺語。阿那含阿羅漢。尚無煩惱所起惡口。何況佛。 仏弟子の白衣は、初道若しは二道を得、奴婢を使令するが故に悪口有るも、不善道に非ず。摂律儀には二種有り、若しは綺語、若しは悪口にして綺語なり。阿那含、阿羅漢は、煩悩の起す悪口無く、但だ浄心に、悪言を須(もち)い教化するを以っての故に悪口、綺語す。阿那含、阿羅漢すら、尚お煩悩の起す所の悪口無し。何に況んや仏をや。
『仏弟子の白衣』は、
『初道(加行道)や、二道(無間道)を得た!』者でも、
『奴婢を使令する!』が故に、
有るいは、
『悪口しても!』、
『不善道ではない!』。
『摂律儀( observance of all precepts )の苦切語』には、
『二種有り!』、
一には、『綺語し!』、
二には、『悪口して、綺語する!』。
『阿那含、阿羅漢』には、
『煩悩の起す!』、
『悪口』が、
『無く!』、
但だ、
『浄心で!』、
『悪言を須(もち)いて!』、
『教化する!』が故に、
『悪口/綺語するだけである!』。
『阿那含、阿羅漢すら!』、
尚お、
『煩悩の起す!』、
『悪口』は、
『無いのであり!』、
況して、
『仏』は、
『尚更である!』。
  白衣(びゃくえ):梵語avadaata- vasanaの訳。巴梨名odaata- vasana、白色の衣の意。転じて白衣を着するものを云う。即ち在俗の人の称なり。「長阿含巻8散陀那経」に、「沙門瞿曇の白衣の弟子の中、此れを最上と為す。彼れ必ず此に来たらん。汝は宜しく静黙すべし」と云い、「中本起経巻上還至父国品」に、「仏は比丘に教えて、白衣に親しみ家居を恋うことなからしむ。道俗異なるが故なり」と云い、「仏遺教経」に、「白衣は欲を受く、行道の人に非ず」と云い、「顕揚聖教論巻3」に、「在俗の人とは謂わく家に処する白衣なり、五欲を受用して俗業を営構し、以って自ら活命す」と云える是れなり。是れ印度に於ける在俗の人は白衣を著するが故に之を白衣と名づけたるものにして、即ち出家の人の染衣を用うるに区別せるなり。「大唐西域記巻2」に印度の風俗を敍する中、「衣裳服玩は裁製する所なく、鮮白を貴び、雑綵を軽んず」と云い、「道宣律師感通録」に、「白衣は外道の服なり、斯れ本と出家の者は之を絶つ。三衣は惟れ仏制の名なり、著すれば定んで解脱を得るが故なり。白衣は俗服にして仏厳に制断す」と云えり。以って僧侶の衣制の別なるを知るべし。然るに支那及び本邦に於いては自ら服制の異なるものなり、「仏像幖幟義図説巻上」に、「白衣とは梵士の俗服なり、故に仏之を制す。経論の中に白衣と称するは竝びに居士を指す、惟れ衣相に依るなり。(中略)若し漢土に拠らば賎者の服と為す。陋室銘に往来白丁なしと云い、淵明伝に白衣酒を送ると云うが如き是れなり。但し和朝に於いては、高貴の人に非ざれば之を服すること能わず、常人の如きは或いは祭礼の節、或いは喪儀の時、乃ち白衣を著して以って潔斎に擬す、蓋し国風なるのみ。且つ夫れ沙門の袈裟は染むと雖も、白衣は白を尚ぶ。礼仏式の如き、入衆法の如き、凡そ衣を著するには、則ち必ず白服を以って法衣に襯す。是れ亦た俗に順ずるなり」と云えり。蓋し本邦に於いて僧侶が法衣の下に白衣を着用することは、元と出家の風を模したるものなるが如く、即ち我が国高貴の人は古くより白衣を被著せられ、又「平家物語巻11」、「源平盛衰記巻22俵藤太将門中違の事の條」に平将門が白衣を著せしことを伝え、「源平盛衰記巻13高倉宮信連戦の事の條」に、源頼朝が白衣を着せしことを記し、又「貞丈雑記巻3小袖の部」に、「びゃくえとは白衣と書くなり。公家衆の平服はゑぼしをかぶり、上は直衣といふ装束を着し、下はさしぬきといふはかまを着給ふなり。小袖は白小袖なり。びゃくえといふ時はゑぼしをかぶり、さしぬきを着て、直衣をば着し給はぬなり。直衣を着し給はず、白小袖をあらはす故白衣と云ふなり。武家にても其の心にて、ゑぼしをかぶり、袴をば着して、上にはすあふにても、ひたたれにても着せずしてあるを白衣と云ふなり。肩衣、袴の時は肩衣を着せず、袴ばかりを着したるは白衣なり。今時は袴も着せず、小袖計り着るを白衣といふはあやまりなり。又腰の物ささぬをびゃくえといふは、いよいよあやまりなり」と云えり。之に依るに公家並びに武家の間に式服として白衣の被著行われたるにより、僧家に於いても亦た之に倣うて法衣の下に白衣を用うるに至りしものにして、即ち俗に順ぜるものと云うべし。又「中阿含巻12鞞婆陵耆経」、「般舟三昧経巻上、中」、「四分律巻1」、「五分律巻13、14」、「四分律行事鈔資持記巻下4」、「仏像幖幟義箋註巻下」、「僧服正検巻上本」等に出づ。<(望)
  初道(しょどう):四道中の初道を云う。即ち加行道なり。『大智度論巻17下注:四道』参照。
  二道(にどう):四道中の第二を云う。即ち無間道なり。『大智度論巻17下注:四道』参照。
  使令(しりょう):使う。命令する。
  摂律儀(しょうりちぎ):梵語 samaatata-saMvara の訳、又摂律儀戒と称す、継続/不断の戒( continuous, uninterrupted restrain )の義、具足戒の遵守( observance of all precepts )の義。律儀戒を指す。三聚浄戒の一。『大智度論巻22下注:律儀戒、巻26下注:摂律儀戒、三聚浄戒』参照。
  摂律儀戒(しょうりちぎかい):梵語 saMvara-ziila の訳、三聚浄戒の第一であり( The first of the three categorizations of the pure precepts )、身口意三業に於ける背徳を抑止する性格を有するものである( this being the one that is characterized by the stifling of immoral behavior in the three fields of karmic activity of deed, words, and thought; )、例えば止悪門と呼ばれ( thus called 'the approach of stopping evil' 止惡門, 止持戒, etc.)、蓋し初期仏教以来の種種の戒の全き遵守が存在する( Inferred here is the full observance of all the various sets of precepts from early Buddhism, )、例えば五戒、十戒、二百五十戒/具足戒であり、同様に大乗の梵網経に説く十重戒、四十八軽戒である( such as the five precepts 五戒, ten precepts 十戒, the full (250) precepts 具足戒, as well as Mahāyāna precepts such as the ten grave precepts 十重戒 and forty-eight light precepts 四十八輕戒 taught in the Sutra of Brahmāʼs Net. )。
  三聚浄戒(さんじゅじょうかい):梵語tri- vidhaani ziilaaniの訳。三聚の清浄なる禁戒の意。又菩薩三聚戒、三聚清浄戒とも称す。一に律儀戒saMvara- ziila、二に摂善法戒kuzala- dharma- saMgraahaka- ziila、三に饒益有情戒sattvaartha- kriyaa- ziilaなり。又摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒と云い、或いは自性戒、受善法戒、利益衆生戒と云い、又一切菩薩戒、摂持一切菩薩道戒、利益一切諸衆生戒と云い、又受戒、摂善法戒、作衆生益戒とも称す。「菩薩地持経巻4」に、「一切戒に復た三種あり、一には律儀戒、二には摂善法戒、三には摂衆生戒なり。律儀戒とは謂わく七衆所受の戒なり、比丘、比丘尼、式叉摩尼、沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷、在家出家其の所応に随う。是れを律儀戒と名づく。摂善法戒とは謂わく菩薩所受の律儀戒なり、上に大菩提を修する身口意の善、是れを略説一切摂善法戒と名づく。何者か是れなる、謂わく菩薩は戒に依り戒に住し、聞慧と思慧と奢摩他毘婆舎那の修慧とを修し、空閑に静黙し、師長を恭敬して礼事供養す。疾患の者を見ば悲愍の心を起して瞻視供給し、説法を聞かば歎じて善哉と言い、実の功徳は称揚讃美し、一切衆生所作の功徳は心念口意随喜歓悦し、侵犯する者あるも悉く能く安忍し、身口意業の已作当作一切を無上菩提に廻向し、随時に種種の勝願を修習し、常に勤精進して三宝を供養し、諸の善法に於いて心放逸せず、念慧をもて身口の浄戒を護持し、根門を守摂し、飯食に量を知り、初夜後夜未だ曽て睡眠せず、善人に親近し、善知識に依りて自ら己の過を省み、已に犯ぜざるを知り、其の所犯に随って仏菩薩及び同行の所に於いて如法に悔除し、是の如き等を護持修習して善法戒を長養す。是れを摂善法戒と名づく。摂衆生戒とは略説するに十一種あり、一には衆生の所に諸の饒益の業を作し、悉くために伴と為る。二には衆生の已起未起病等の諸苦及び看病者、悉くために伴と為る。三には諸の衆生の為に世間出世間の法を説き、或いは方便を以って智慧を得しむ。四には恩を知り恩を報ず。五には衆生の種種の恐怖たる獅子虎狼王賊水火悉く能く救護し、若し衆生にして親属財物を喪失する諸難あらば、能く為に開解して憂悩を離れしむ。六には衆生の貧窮困乏あるを見ば、悉く能く給施して其の所須に随う。七には徳行を具足し、正受に依止し、如法に衆を畜う。八には語に先ちて安慰し、随時往返して飲食を給施し、世の善語を説き、進止は己に非ず、去来は物に随う。是の如き等の事の衆生を安んずる者は皆悉く随順し、若し安んずるに非ざる者は皆悉く遠離す。九には実徳ある者は称揚歓悦す。十には過悪ある者は慈心をもて呵責し、折伏罸黜して其れをして改悔せしむ。十一には神通力を以って悪道を示現し、彼の衆生をして衆悪を畏厭し、仏法を奉修し、歓喜信楽して希有の心を生ぜしむ」と云える是れなり。「瑜伽師地論巻40」に出す所亦た略ぼ之に同じ。按ずるに三聚浄戒は独り此の一二の文に限らず、広く諸経論に散説せり。三聚の釈相に関しては、智顗の「菩薩戒義疏巻上」に、「三聚戒体とは、律儀は法式儀則にして、行人を規矩して道に入らしむるなり。又云わく、律は埒なり、世の馬埒の馬を調直ならしむるが如く、律も亦た是の如く行人を調直して悪を作さしめず。大士の誓心は止悪興善に過ぎず。若し身口を動ぜざるは即ち是れ止悪なり、戒を発して動を防ぐ、不動は即ち是れ律儀戒なり。若し身口を動ずべきは即ち是れ興善なり、今此の戒を発して其の動ぜざるを防ぐ。摂善、摂生は即ち是れ動ずべし。事に渉るが故に開して両と為す。衆善を策励し、六度門に依るを取りて善法と称し、心を起し物を兼ねて四弘門に依るを摂衆生と称す。即ち是れ人の為の故に動じ、下に衆生を化し、中に万徳を修し、上に仏果に帰するなり。律儀は多く内徳を主り、摂生は外を化し、摂善は内外を兼ぬ。故に三聚戒を立つるなり」と云い、「釈門帰敬儀巻上」に、「戒は本と三あり、三身の本なり。一に律儀戒は謂わく諸悪を断ず、即ち法身の因なり。法身本浄なれども悪覆うて顕れざるに由る。今修して悪を離れば、功成じて徳現ずるが故なり。二に摂善法戒は謂わく諸善を修す、即ち報身の因なり。報は衆善の所成なるを以って、善を成ずることは止作より高きはなし。今止作二善を修して用って報仏の縁を成ず。三に摂衆生戒は即ち有心を慈済す、功は化仏の因を成ずるなり。化仏は無心なるを以って感に随って便ち応ず。今大慈普く済う、意用は則ち斉し」と云えり。蓋し三聚の中、摂律儀戒は諸悪を断捨し、摂善法戒は諸善を修行し、摂衆生戒は衆生を荷負して遍く饒益の事を施すの謂なり。又「解深密経巻4」、「大乗本生心地観経巻3」、「金剛頂瑜伽略述三十七尊心要」、「金剛頂瑜伽千手千眼観自在菩薩修行儀軌経」、「無畏三蔵禅要」、「瑜伽師地論巻41」、「摂大乗論本巻下」、「梁訳摂大乗論釈巻11」、「三具足経憂波提舎」、「華厳経孔目章巻3」、「四分律行事鈔資持記巻上3之1」、「梵網経菩薩戒本疏巻1(法蔵)」、「華厳経探玄記巻6、11」、「梵網経古迹記巻下本」、「梵網菩薩戒経疏刪補巻上」、「瑜伽論記巻10上」、「華厳経疏巻35」等に出づ。<(望)
  四道(しどう):道とは涅槃に至る道路である。これに乗って涅槃の城に到ることができるが故に道という。この道に四種有り。(1)加行道:煩悩を断とうと願う。謂わゆる煖法、頂法、忍法、世間第一法の四善根位をいう。(2)無間道:絶え間なく煩悩を断つ。(3)解脱道:煩悩を断ちおわる。(4)勝進道:煩悩を断ちおわった身で定慧を更に増進する。
復次佛若有苦切語不應疑不應難。謂佛惡心起苦切語。所以者何。佛惡心久已滅。但以深心念眾生如慈父教子。雖有苦言為成就子故非是惡心。佛為菩薩時三毒未盡。作仙人名羼提。被惡王截其耳鼻手足。而不生惡心不出惡言。爾時未得道尚無惡心。何況得阿耨多羅三藐三菩提。三毒已盡於一切眾生大慈悲具足。云何疑佛有惡心苦切語。 復た次ぎに、仏は、若しは苦切語有らんにも、応に疑うべからず、応に難じて、『仏は悪心もて、苦切語を起す』、と謂うべからず。所以は何んとなれば、仏の悪心は久しく已に滅し、但だ深心を以って、衆生を念ずること、慈父の子を教うるに、苦言有りと雖も、子を成就せんが為の故にして、是れ悪心に非ざるが如し。仏は菩薩為りし時、三毒未だ尽きずして、仙人と作り、羼提と名づく。悪王に其の耳鼻、手足を截らるるも、悪心を生ぜず、悪言を出さず。爾の時、未だ道を得ざるに、尚お悪心無し。何に況んや、阿耨多羅三藐三菩提を得て、三毒已に尽き、一切の衆生に於いて、大慈悲具足せるをや。云何が仏に悪心の苦切語有るを疑わんや。
復た次ぎに、
『仏』に、
『苦切語が有ったとしても!』、
『疑うべきでなく!』、
『難じて!』、こう謂うべきでない、――
『仏』は、
『悪心に!』、
『苦切語』を、
『起した!』、と。
何故ならば、
『仏』の、
『悪心』は、
『久しく!』、
『滅しており!』、
但だ、
『深心』に、
『衆生』を、
『念じられたからであり!』、
譬えば、
『慈父』が、
『子を教える!』時、
『苦言(苦切語)が有ったとしても!』、
『子』を、
『成就する!』為の故であり、
是れは、
『悪心でない!』のと、
『同様である!』。
『仏』が、
『菩薩であった!』時、
未だ、
『三毒は尽きていず!』、
『仙人と作って!』、
『羼提』と、
『呼ばれていた!』が、
『悪王』に、
『耳、鼻、手、足を截()られても!』、
『悪心を生じず!』、
『悪言』を、
『出すこともなかった!』。
『仏』は、
爾の時、
未だ、
『道』を、
『得られていなかった!』のに、
尚お、
『悪心』が、
『無かったのである!』。
況して、
『阿耨多羅三藐三菩提を得て!』、
已に、
『三毒』が、
『尽き!』、
一切の、
『衆生に対して!』、
『大慈悲』が、
『具足しているのである!』。
何故、こう疑うのか?――
『仏』には、
『悪心の苦切語』が、
『有る!』、と。
  羼提仙人(せんだいせんにん):釈尊因位の時の名。『大智度論巻17下、同注:忍辱仙』参照。
  参考:『賢愚経巻2羼提波梨品』:『如是我聞。一時佛在羅閱祇竹園林中止。爾時世尊。初始得道。度阿若憍陳如等。次度鬱卑羅迦葉兄弟千人。度人漸廣。蒙脫者眾。於時羅閱祇人。欣戴無量。莫不讚歎。如來出世。甚為奇特。眾生之類。咸蒙度苦。又復歎美憍陳如等。及鬱毘羅眾。諸大德比丘。宿與如來有何因緣。法鼓初震。特先得聞。甘露法味。獨先服嘗。時諸比丘。聞諸人民之所稱宣。即具以事。往白世尊。佛告之曰。乃往過去。與此眾輩。有大誓願。若我道成。當先度之。諸比丘聞已。復白佛言。久共誓願。其事云何。唯垂哀愍。願為解說。佛告諸比丘。諦聽諦聽。善思念之。乃往久遠無量無邊不可思議阿僧祇劫。此閻浮提。有一大國。名波羅奈。當時國王。名為迦梨。爾時國中。有一大仙士。名羼提波梨。與五百弟子。處於山林。修行忍辱。于時國王與諸群臣夫人婇女。入山遊觀。王時疲懈。因臥休息。諸婇女輩。捨王遊行。觀諸花林。見羼提波梨端坐思惟。敬心內生。即以眾花而散其上。因坐其前。聽所說法。王覺顧望。不見諸女。與四大臣。行共求之。見諸女輩坐仙人前。尋即問曰。汝於四空定。為悉得未。答言未得。又復問曰。四無量心。汝復得未。答言未得。王又問曰。於四禪事。汝為得未。猶答未得。王即怒曰。於爾所功德。皆言未有。汝是凡夫。獨與諸女。在此屏處。云何可信。又復問曰。汝常在此。為是何人。修設何事。仙人答曰。修行忍辱。王即拔劍。而語之言。若當忍辱。我欲試汝。知能忍不。即割其兩手。而問仙人。猶言忍辱。復斷其兩腳。復問之言。故言忍辱。次截其耳鼻。顏色不變。猶稱忍辱。爾時天地。六種震動。時仙人五百弟子。飛於虛空。而問師言。被如是苦。忍辱之心。不忘失耶。其師答言。心未變易。王乃驚愕。復更問言。汝云忍辱。以何為證。仙人答曰。我若實忍。至誠不虛。血當為乳。身當還復。其言已訖。血尋成乳。平完如故。王見忍證。倍懷恐怖。咄我無狀。毀辱大仙。唯見垂哀受我懺悔。仙人告曰。汝以女色。刀截我形。吾忍如地。我後成佛。先以慧刀。斷汝三毒。爾時山中。諸龍鬼神。見迦梨王[打- 丁+王]忍辱仙人。各懷懊惱。興大雲霧。雷電霹靂。欲害彼王。及其眷屬。時仙人仰語。若為我者。莫苦傷害。時迦梨國王。懺悔之後。常請仙人。就宮供養。爾時有異梵志徒眾千人。見王敬待羼提波梨。甚懷妒忌。於其屏處。坐以塵土糞穢。而以坌之。爾時仙人。見其如是。即時立誓。我今修忍。為於群生。積行不休。後會成佛。若佛道成。先以法水。洗汝塵垢。除汝欲穢。永令清淨。佛告比丘。欲知爾時羼提波梨者。則我身是。時王迦梨及四大臣。今憍陳如等五比丘是。時千梵志塵坌我者。今鬱卑羅等千比丘是。我於爾時。緣彼忍辱誓當先度。是故道成。此等之眾。先得度苦。時諸比丘。聞佛所說。歎未曾有。歡喜奉行』
復次佛若言狂愚人。是軟語實語。所以者何。三毒發故名為狂愚。亦以善事利益。而不肯受不解佛心不受佛語。是為狂愚。 復た次ぎに、仏にして若し、『狂愚人』、と言えば、是れ軟語、実語なり。所以は何んとなれば、三毒発るが故に名づけて、狂愚と為す。亦た善事を以って利益するも、肯(あえ)て受けずして、仏心を解せず、仏語を受けざれば、是れを狂愚と為す。
復た次ぎに、
『仏』が、
若し、
『狂愚の人だ!』、
『言われれば!』、
是れは、
『軟語であり!』、
『実語である!』。
何故ならば、
『三毒が発する!』が故に、
『狂愚』と、
『呼ばれるからであり!』、
亦た、
『善事を用いて!』、
『利益している!』のに、
肯て、
是の、
『善事を受けることなく!』、
『仏心を理解せず!』、
『仏語を受容しなければ!』、
是れを、
『狂愚』と、
『呼ぶのである!』。
復次佛內常行無我智慧。外常觀諸法空。如是者云何有惡口。是眾生不解佛心故求佛語短。若眾生解佛以深心憐愍者。假令教入大火。即時歡樂而入。如人熱悶時入清涼池。何況但語而不受。眾生為惡魔覆故。不知佛以深心念之。是故不受佛語。以是故佛言汝是狂愚人。 復た次ぎに、仏は、内に常には無我の智慧を行じ、外には諸法の空を観じたもう。是の如き者にして、云何が悪口有らんや。是の衆生は仏心を解せざるが故に、仏語に短を求む。若し衆生、仏の深心を以って憐愍したもうを解せば、仮令教えて大火に入らしむとも、即時に歓楽して、入らん。人の熱悶する時、清涼の池に入るが如し。何に況んや、但だ語りたもうに、受けざるをや。衆生は悪魔に覆わるるが故に、仏の深心を以って、之を念じたもうを知らず。是の故に仏語を受けず。是を以っての故に仏の言わく、『汝は、是れ狂愚の人なり』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
内には、
常に、
『無我の智慧』を、
『行い!』、
外には、
常に、
『諸法の空』を、
『観ていられる!』。
是のような者に、
何うして、
『悪口』が、
『有るのか?』。
是の、
『衆生』は、
『仏心を理解しない!』が故に、
『仏語』中に、
『短』を、
『求めるのである!』。
若し、
『衆生』が、
『仏』が、
『深心を用いて!』、
『憐愍されている!』のを、
『理解するならば!』、
仮令(たとい)、
『大火』中に、
『入れ!』と、
『教えられても!』、
即時に、
『歓楽しながら!』、
『入るはずである!』。
譬えば、
『熱悶した人』が、
『清涼の池』に、
『入るようなものである!』。
況して、
但だ、
『語られただけなのに!』、
『受けないとは!』。
『衆生』は、
『悪魔に智慧を覆われている!』が故に、
『仏』が、
『深心を用いて!』、
是の、
『衆生を念じられている!』のを、
『知らない!』ので、
是の故に、
『仏語』を、
『受けないのである!』。
是の故に、
『仏』は、こう言われた、――
お前は、
『狂愚』の、
『人である!』、と。
  (たん):あやまち。欠点。
  熱悶(ねつもん):熱さにもだえる。
復次有人得苦切語便歡喜言。親愛我故如是言。以是故佛言狂愚人。 復た次ぎに、有る人は苦切語を得れば、便ち歓喜して言わく、『我れを親愛したもうが故に、是の如く言えり』、と。是を以っての故に、仏は、狂愚人と言えり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『苦切語される!』と、
『歓喜して!』、こう言う、――
わたしを、
『親愛されている!』が故に、
是のように、
『言われたのだ!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『狂愚の人』と、
『言われたのである!』。
佛語提婆達。汝狂人死人嗽唾人。狂人者以提婆達罪重。當入阿鼻地獄故三種苦切語。 仏の提婆達に語りたまわく、『汝は狂人、死人、唾を嗽う人なり』、と。狂人とは、提婆達は罪重くして、当に阿鼻地獄に入るべきを以っての故に、三種に苦切語したまえり。
『仏』は、こう語られた、――
お前は、
『狂人である!』、
『死人である!』、
『唾を嗽う人である!』、と。
『狂人』とは、
『提婆達』は、
『罪が重く!』、
当然、
『阿鼻地獄』に、
『入る!』ので、
是の故に、
『三種に!』、
『苦切語されたのである!』。
  提婆達(だいばだつ):大悪の比丘。『大智度論巻14羼提波羅蜜義、同巻24下注:提婆達多』参照。
  参考:『別訳雑阿含経巻1』:『如是我聞。一時佛住王舍城迦蘭陀竹林。  爾時提婆達多獲得四禪。而作是念。此摩竭提國。誰為最勝。覆自思惟。今日太子阿闍世者。當紹王位。我今若得調伏彼者。則能控御一國人民。時提婆達多作是念已。即往詣阿闍世所。化作象寶。從門而入。非門而出。又化作馬寶。亦復如是。又復化作沙門。從門而入。飛虛而出。又化作小兒。眾寶瓔珞。莊嚴其身。在阿闍世膝上。時阿闍世抱取嗚唼。唾其口中。提婆達多貪利養故。即嚥其唾。提婆達多變小兒形。還伏本身。時阿闍世見是事已。即生邪見。謂提婆達多神通變化。踰於世尊。時阿闍世於提婆達多所。深生敬信。日送五百車食。而以與之。提婆達多與其徒眾五百人。俱共受其供。時有眾多比丘。著衣持缽。入城乞食。飲食已訖。往詣佛所白佛言。世尊。向以時到入城乞食。見提婆達多招集遠近。大獲供養。佛告諸比丘。汝等不應於提婆達所生願羨心。所以者何。此提婆達必為利養之所傷害。譬如芭蕉生實則死。蘆竹駏驉騾懷妊等。亦復如是。提婆達多得於利養。如彼無異。提婆達多愚癡無智。不識義理。長夜受苦。是故汝等。若見於彼提婆達多為於利養之所危害。宜應捨棄貪求之事。審諦觀察。當作是解。莫貪利養。即說偈言 芭蕉生實死  蘆竹葦亦然  貪利者如是  必能自傷損  而此利養者  當為衰損減  嬰愚為利養  能害於淨善  譬如多羅樹  斬則更不生  佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
死人者似人而不能集諸善法故。亦以提婆達剃頭法服似如聖人內無慧命故名死人。如死人種種莊嚴。轉轉爛壞終不可令活。提婆達亦如是。佛日日種種教化。惡心轉劇惡不善法日日轉增。乃至作三逆罪。以是故名為死人。 死人とは、人に似て、而も諸の善法を集むる能わざるが故に、亦た提婆達の剃頭、法服の似たること、聖人の如くなるに、内には慧命無きを以っての故に、死人と名づく。死人の如きは、種種に荘厳するも、転転と爛壊して、終に活けしむるべからず。提婆達も亦た是の如く、仏は日日種種に教化したもうも、悪心は劇悪に転じて、不善法日日転た増し、乃ち三逆罪を作すに至れり。是を以っての故に名づけ、死人と為す。
『死人』とは、
『人に似ている!』が、
諸の、
『善法を集めることができない!』が故に、
『死人』と、
『呼ばれ!』、
亦た、
『提婆達』は、
外の、
『剃頭や、法服』は、
『聖人に!』、
『似ている!』が、
内に、
『智慧という!』、
『命』の、
『無い!』が故に、
是れを、
『死人』と、
『呼ぶのである!』。
『死人』は、
種種に、
『荘厳していても!』、
『転転として!』、
『爛壊する!』が故に、
終に、
『活かせられなくなる!』が、
『提婆達』も、
是のように、
『仏』が、
日日、
種種に、
『教化されても!』、
『悪心』は、
次第に、
『劇悪となり!』、
『不善の法』が、
日日、
次第に、
『増えてきて!』、
やがて、
『三逆罪を作すまで!』に、
『至った!』ので、
是の故に、
『死人』と、
『呼ばれるのである!』。
  慧命(えみょう):(一)梵語aayuSmat、意に謂わく具寿命なり。又具寿に作る。乃ち有徳の比丘に対する尊称なり。「摩訶僧祇律巻13」に、「仏、舎衛城に住したまえり。時に慧命羅睺羅到れり」と云える是れなり。(二)法身の如く、四諦等の智慧を以って命と為すの意。即ち「仏説七仏経」に、「爾の時世尊而も頌を説いて曰わく、是の如き過現劫の毘婆尸等の仏の度す所の衆苾芻は、大智慧を成就し、正道、菩提の分法、五根と五力と四念四神足七覚八聖支及び彼の三摩地、寂静の眼等の根を成就し、法蔵に通達して、諸の群生を開悟し、慧命を増長せしむ」と云い、「雑阿含経巻36」に、「賢聖の智慧の命、是れを寿中の最と為す」と云い、「別訳雑阿含経巻12」に、「爾の時世尊偈を以って答えて曰わく、諸財物中に於いて、信財を第一に勝る、如法に善行を修せば、能く快楽の報を獲ればなり。諸滋味中に於いて、実語を第一と為し、諸寿命中に於いては、慧命を最勝と為す」と云い、「大荘厳論経巻3」に、「願わくは持戒を以って死し、終に犯戒せずして生ぜん。有徳なるも及び無徳なるも倶に共に寿命を捨つ。有徳にして慧命存するは、并せて復た名称有り、無徳にして慧命を喪わば、亦た復た名誉を失わん」と云い、「同巻5」に、「四真諦を説くを聞きて法眼浄無垢なり、此の危脆の命を以って、仏法の堅命に貿えん。仮設人の王たるに於いて、今我れを害する者来たらん、我れは慧命を得るを以って、終に悔恨の心無けん」と云い、「天台四教儀」に、「末代の鈍根、仏法中に於いて断滅の見を起して慧命を夭傷し、法身を忘失す」と云えるが如き、皆是れなり。<(望)、(佛)
  三逆罪(さんぎゃくざい):提婆達多の種種の不善行中、最悪なるを三種挙ぐるを云う。謂わゆる、一には和合僧を破る。二には仏身より血を出す。三には蓮華色比丘尼を殺すなり。即ち「賢愚経巻9」に、「爾の時提婆達多、復た出家すと雖も、利養に心を蔽いて、三逆罪を作せり。山を推して仏を圧し、仏の脚指を傷つけ、復た縦に黒象を放ちて、仏を害せしめんと欲し、僧を両部に分け、漏尽の比丘尼を殺せり」と云える是れなり。『大智度論巻14上、同巻24下注:提婆達多』参照。
  提婆達三逆:提婆達多は三逆罪を造り、無間地獄に堕ちた。(1)和合僧を破って五百の弟子を得る。これは五逆罪の破和合僧である。(2)僧が再び和合すれば、則ち悪心を起して大石を仏に投擲し、仏足より血を出だす。これは五逆罪の出仏身血である。(3)華色比丘尼がこれを見て彼を呵せば、則ち拳を以ってこれを殺す。これは五逆罪の殺阿羅漢である。『大智度論巻14上』参照。
嗽唾人者。提婆達貪利養故。化作天身小兒。在阿闍貰王抱中。王嗚其口與唾令嗽。以是故名嗽唾人。 唾を嗽う人とは、提婆達は利養を貪るが故に、天身の小児に化作して、阿闍貰王の抱く中に在り、王、其の口を鳴らして、唾を与え、嗽わしむ。是を以っての故に唾を嗽う人と名づく。
『唾を嗽う人』とは、――
『提婆達』は、
『利養を貪る!』が故に、
化して、
『天身の小児と作り!』、
『阿闍世王』に、
『抱かれている!』と、
『王』は、
其の、
『口を鳴らして!』、
『唾を与え!』、
『提婆達に嗽わせた!』ので、
是の故に、
『唾を嗽う人』と、
『呼ぶのである!』。
  阿闍貰王(あじゃせおう):中印度摩竭陀国の王。『大智度論巻26下注:阿闍世』参照。
  阿闍世(あじゃせ):梵名ajaatazatru。巴梨名ajaatasattu、又阿闍貰、阿闍多設咄路、阿社多説咄路、阿闍多沙兜楼に作る。未生怨、又は法逆と訳す。中印度摩揭陀国頻婆沙羅王の太子にして、母は韋提希なり。故に又阿闍世韋提希子と称す。後父王を弑して自立し大いに霸権を中印度に張りし大王なり。初め父王頻婆沙羅、年老いて子なし。時に相師占うて曰わく、一の仙人あり、今現に存生するも、死後は必ず王の太子として再生すべしと。王之を聞き、其の期の至るを待つ能わず、窃かに人をして彼の仙人を殺さしむ。既にして夫人韋提希孕めるあり、期至りて阿闍世を生む。亦た相師をして之を占わしむるに、彼れ曰わく、此の子後当に父王を害すべしと。王懼れて之を高楼より地に棄てしむるに、死せずして唯だ其の一指を折る。斯の如く未生以前に已に怨を結ぶを以って未生怨と号し、又婆羅留支balaruciの称あり。婆羅留支は折指の義なり。太子既に指を折れるのみにて死せざりしかば、父王は之を養育せしめて深く寵愛せり。長ずるに及び、適ま提婆達多は仏に背きて新に教団を組織し、仍りて阿闍世に勧めて、父王を弑して新王たらしめ、自らは亦た仏陀を害して新仏たらんことを企てしが、阿闍世は父王を獄中に幽し、剣を以って足底を削り、遂にそれをして餓死せしめ、自立して王となりしも、提婆は仏陀を害せんとして其の意を果たさざりしと云う。「観無量寿経」に、「爾の時王舎大城に一の太子あり、阿闍世と名づく。調達悪友の教に随順して父王頻婆沙羅を収執し、幽閉して七重の室内に置き、諸の群臣を制して一も往くことを得ざらしむ。国の大夫人を韋提希と名づく。大王を恭敬し、澡浴清浄にして、酥蜜を以って麨に和して用って其の身に塗り、諸の瓔珞の中に葡萄の漿を盛りて密かに以って王に上る。爾の時大王は麨を食し漿を飲み、水を求めて口を嗽ぐ。口を嗽ぎ畢りて合掌恭敬し、耆闍崛山に向って遙かに世尊を礼す」云云と云えるは、即ち其の間の消息を伝えたるものというべし。阿闍世即位の年代に関しては、「善見律毘婆沙巻2」に之を仏入滅前八年となせり。されば王舎城の悲劇は仏陀の晩年に起りしものなるを知るべし。南方所伝に依れば、阿闍世の母は波斯匿王の妹にして、頻婆沙羅王に嫁する時、湯沐の料として迦尸国を摩揭陀国に分譲せしが、王の崩後、母后も亦た尋いで世を去りしに、阿闍世は迦尸国を波斯匿王に還附せざりしを以って、両国為に兵を構え、互いに勝敗あり。最後に波斯匿王は阿闍世を擒にし、之を将いて仏陀の前に至り、仏の言によりて之を放還して後、両王の間は再び親交を結ぶに至れりとせり。此の事は「雑阿含経巻46」、並びに「出曜経巻22」等にも之を記せり。斯くて阿闍世は自立して王となりしも悔悟の念に堪えず、遂に諸臣に対して悶悶の情を述べ、自ら慰安するの法を問いしに、異母兄耆婆は仏陀に詣づべきことを勧めたるを以って、茲に阿闍世は仏所に詣でて其の教を受け、遂に熱心なる仏陀の帰依者となるに至れり。「長阿含巻17沙門果経」に当時阿闍世は仏所に詣でたる光景を敍して、「阿闍世王は園門に到りて象を下り、剣を解き蓋を退け、五威儀を去り、歩して園門に入り、寿命に告げて曰わく、今仏世尊は何所に在ますや。寿命報じて曰わく、大王よ、今仏は彼の高堂の上に在り、前に明灯あり。世尊は師子座に処し南面して坐せり。王少しく前進せば自ら世尊を見んと。爾の時阿闍世王は往きて講堂の所に詣り、外に於いて足を洗い、然して後堂に上り、黙然として四顧して歓喜の心を生ず」云云と云えり。以って其の敬虔の情を見るべし。時に摩揭陀国の附近に跋祇vajji族あり、同族結合して其の勢頗る猖獗に、勇健を恃みて阿闍世に従わず、阿闍世之を伐たんと欲し、禹舎vassakaaraに命じて仏陀に其の可否を問わしめたるに、仏陀は跋祇の君臣は常に和し、乃至社稷を敬畏し、尊奉するを以って之を破る能わずと諭されしかば、阿闍世は華子城に城き、禹舎をして之に備えしめたりと云う。又是れより先き波斯匿王の王子毘琉璃なるもの、兄を殺し、父王を追い、自立して王となりて釈種を亡ぼししが、既にして夭折し、其の国は遂に阿闍世王の兼併する所となれり。此等政事上の変動は皆仏陀の晩年に起りし事にして、今や阿闍世は中印の霸権を握りて、敢て其の勢力に抗せんとするものなかりき。仏陀が拘尸那城に入滅し、荼毘終りて其の舎利を八分せし時、王も亦た其の一分を得たり。「有部毘奈耶雑事巻38」には、摩訶迦葉は阿闍世が信根初めて発したるに、今若し仏陀の入滅を聞かば必ず熱血を嘔いて死すべしとし、因りて方便を設け、行雨大臣をして一園中の妙堂殿に於いて仏陀の生天下天乃至涅槃等の一代の化迹を図画せしめ、次いで又八函(一説に壷)を作りて人の量と等しからしめ、前七函の内に生酥を満置し、第八函中に牛頭栴檀香水を盛り、阿闍世をして来たり見せしむ。王は其の図画を見、次いで仏陀の已に入滅したまえるを知り、悶絶して地に倒れしを以って、即ち是れを先づ第一蘇函中に投じ、次第に第八香水函に投ずるに、彼れは漸く蘇生せりと云えり。是れ固より後世の伝説に係るものなるも、亦た阿闍世が仏陀を信ずることの頗る篤かりしを伝うるものというべし。仏陀の滅後摩訶迦葉等が七葉窟に於いて法蔵を結集せる時、阿闍世は大檀越として一切の資具を供せり。爾後の事蹟は仏典中に伝わらず。唯摩訶迦葉及び阿難が入滅せる際に、大いに悲泣して其の後を供養せしを伝うるに過ぎず。王の属せし王統をシャイシュナーガzaizunaagaと云う。此の王統中に於いて、彼れは最も俊傑なりしが如し。「善見律毘婆沙巻2」には、王の即位の八年に仏入滅し、而して王の在位は三十二年間なりと云えり。されば王の崩ぜしは仏滅二十四年なりしを知るなり。又「長阿含経巻2」、「寂志果経」、「雑阿含経巻38、46」、「増一阿含経巻12」、「阿闍世王経」、「未生寃経」、「阿闍世授決経」、「阿闍世王問五逆経」、「太子刷護経」、「阿闍世王女阿術達菩薩経」、「大宝積経巻106阿闍世王子会」、「大阿弥陀経巻上」、「阿羅漢具徳経」、「仏般泥洹経巻上」、「大般涅槃経巻19、20」、「同後分巻下」、「大毘婆沙論巻41」、「有部毘奈耶破僧事巻17、20」、「十誦律巻36」、「摩訶僧祇律巻18」、「五分律巻3」、「善見律毘婆沙巻1」、「付法蔵因縁伝巻1」、「大唐西域記巻9」、「慧琳音義巻25」、「翻梵語巻4」等に出づ。<(望)
問曰。提婆達得禪定已離欲。云何復嗽他唾。 問うて曰く、提婆達は禅定を得て已に離欲せるに、云何が復た他の唾を嗽えるや。
問い、
『提婆達』は、
『禅定を得て!』、
已に、
『欲』を、
『離れたのに!』、
何故、
復た、
『他の唾』を、
『嗽うのですか?』。
答曰。是人惡心亦深其根亦利。離欲故能變化。嗽唾時便失利根故求時便得。以是故名嗽唾人。狂義如先說。 答えて曰く、是の人は悪心も亦た深く、其の根も亦た利なれば、離欲の故に能く変化し、唾を嗽う時便ち失い、利根の故に求むる時には便ち得。是を以っての故に唾を嗽う人と名づく。狂の義は、先に説けるが如し。
答え、
是の、
『人』は、
『悪心も深ければ!』、
其の、
『根』も、
『利である!』ので、
『欲を離れて!』、
『禅定を得れば!』、
『変化することができる!』。
『唾を嗽う!』時に、
『禅定』を、
『失っても!』、
『利根である!』が故に、
『求める!』時には、
すぐに、
『禅定』を、
『得る!』ので、
是の故に、
『唾を嗽う人』と、
『呼ぶのである!』。
『狂の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
  参考:『大智度論巻8』:『問曰。狂者得正云何為狂。答曰。先世作罪。破他坐禪破坐禪舍。以諸咒術咒人。令瞋鬥諍婬欲。今世諸結使厚重。如婆羅門失其福田。其婦復死。即時狂發裸形而走。又如翅舍伽憍曇比丘尼。本白衣時七子皆死。大憂愁故失心發狂。有人大瞋不能自制成大癡狂。有愚癡人惡邪故。以灰塗身拔髮裸形狂癡食糞。有人若風病若熱病病重成狂。有人惡鬼所著。或有人癡飲雨水而狂。如是失心如是種種名為狂。得見佛故狂即得正。問曰。亂者得定狂則是亂。以何事別。答曰。有人不狂而心多散亂。志如獼猴不能專住是名亂心。復有劇務匆匆心著眾事。則失心力不堪受道。』
復次以提婆達白佛佛已老矣。常樂閑靜可入林中以禪自娛。僧可付我。佛言。舍利弗目揵連等。有大智慧善軟清淨人。尚不令僧屬。何況汝狂人死人嗽唾人。如是等因緣故。佛於諸法雖無所著。而為教化故現苦切語。 復た次ぎに、提婆達の仏に、『仏は已に老いたり、常に閑静を楽しみたまえば、林中に入りて、禅を以って自ら娯みたもうべし。僧を我れに付けたもうべし』、と白すを以って、仏の言わく、『舍利弗、目揵連等は、大智慧有る善軟にして清浄の人なるも、尚お僧をして属せしめず。何に況んや、汝が狂人にして、死人、唾を嗽う人をや』、と。是れ等の如き因縁の故に、仏は諸法に於いて、著する所無しと雖も、教化せんが為の故に、苦切語を現したまえり。
復た次ぎに、
『提婆達』は、
『仏』に、こう白したので、――
『仏』は、
已に、
『老いられた!』。
常に、
『閑静を楽しまれている!』ので、
『林中に入って!』、
自ら、
『禅』を、
『娯まれるがよく!』、
『僧』は、
わたしに、
『附属されるのがよいでしょう!』、と。
『仏』は、こう言われたのである、――
『舍利弗や、目揵連』等の、
『大智慧を有した!』、
『善軟、清浄の人すら!』、
尚お、
『僧』を、
『附属されてはいない!』のに、
況して、
お前のような、
『狂人や、死人や、唾を嗽う人』は、
『尚更だ!』、と。
是れ等の、
『因縁』の故に、
『仏』は、
『諸法』中に、
『著する!』所が、
『無くても!』、
『教化する!』為の故に、
『苦切語』を、
『現されたのである!』。
  (い):語の終りに用いる助辞。断定、決定の意。限定の意。疑問、反語の意をあらわす。句中、又は他の助辞に冠して咏歎の意をあらわす辞。
佛不聽比丘用八種缽者。金銀等寶缽。以寶物人貪故。難得故。貪著故。不聽畜此寶物。乃至不得手舉名寶亦不得畜。若作淨施得用價不貴故。木缽受垢膩不淨故不聽畜。三種缽無如是事。 仏は比丘に、八種の鉢を用うるを聴したまわずとは、金、銀等の宝の鉢は、宝物の人に貪らるるを以っての故に、得難きが故に、貪著するが故に、此の宝物を畜うるを聴したまわず、乃至手に宝と名づくるを挙ぐるを得ず、亦た畜うるを得ず。若し浄施を作せば、用うるを得。価の貴からざるが故なり。木の鉢は、垢膩を受くるに不浄なるが故に畜うるを聴したまわず。三種の鉢には是の如き事無し。
『仏』が、
『比丘が用いる!』のを、
『聴されなかった!』、
『八種の鉢』とは、――
『金、銀』等の、
『宝の鉢である!』が、
『宝物』は、
『人に貪られる!』が故に、
『得難い!』が故に、
『貪著される!』が故に、
此の、
『宝物を蓄える!』のを、
『聴されず!』、
乃至、
『宝と呼ばれれば!』、
『手で挙げる!』ことも、
亦た、
『蓄える!』ことも、
『聴されない!』が、
若し、
『浄施を作せば!』、
『用いることができた!』、
何故ならば、
『価』が、
『貴くないからである!』。
『木の鉢』は、
『垢膩を受ける!』と、
『不浄になる!』が故に、
『蓄える!』のを、
『聴されなかった!』。
『三種の鉢(瓦、鉄、石)』には、
是のような、
『事』は、
『無い!』。
  八種鉢(はっしゅのはち):比丘の畜うべからざる八種の鉢の意。謂わゆる金鉢、銀鉢、琉璃鉢、摩尼鉢、銅鉢、白鑞鉢、木鉢、石鉢なり。『大智度論巻26上注:鉢』参照。
  浄施(じょうせ):梵語vikalpanaの訳。巴梨語vikappana、又説浄に作る。甲が乙より施物を受くる時、乙若しくは丙に一旦与えて、還って再度受くることを作し、以って比丘の生活たる少欲知足を守るを云う。若し有る一甲比丘、乙の施与する長物(比丘には三衣一鉢を擁有するを允許し、其れ以外の物品)を受くるに、甲比丘は、直接受納するを得ず、該物を将って逆に乙に施給するを須う。或いは物品を将って丙に施与せりと仮定して、然る後に再び乙、或いは丙の返還を受け、甲比丘の始めに獲べき該物を得るを、即ち浄施と称し、乙或いは丙を則ち浄施者と称す。復た甲比丘の浄施者に対して、施与する旨を解説するを以って、故に此の浄施を、又説浄と称す。浄施は、比丘の財物に対する貪欲を除去せんが為に行うに係る権宜にして、出家人の少欲知足を以って、生活の原則と為すを表現するものなり。「四分律巻16」、「巴梨律蔵」等には浄施を将って種類を分ちて二と為す、即ち真実浄施(巴sammukhaa- vikappanaa)、及び展転浄施(巴parammukhaa- vikappanaa)なり。此の中に就き、真実浄施は面前の相手に直接与えて浄施と作すことを云い、展転浄施は面前の相手を証人として第三者に与えて、施物は自ら保管するを云う。「四分律巻16九十単提法第五十九」に、「爾の時仏舎衛国祇樹給孤獨園に在り。爾の時六群比丘、親厚比丘に衣を真実施し已り、後に主に語らずして還取して著す。諸の比丘聞く。其の中に少欲知足にして頭陀を行じ、学戒を楽しみ、慚愧を知る者有り、六群比丘を嫌責して言わく、云何が汝等先に衣を持して親厚比丘に施し已り、後主に語らずして還取して著すやと。爾の時諸比丘世尊の所に往き、頭面礼足し已りて一面に坐し、此の因縁を以って具に世尊に白す。世尊爾の時此の因縁を以って比丘僧を集め、六群比丘を呵責すらく、汝が為す所は非なり。威儀に非ず、沙門法に非ず、浄行に非ず、随順行に非ず、応に為すべからざる所なり。云何が六群比丘、先に衣を持して親厚比丘に施し已りて、後に主に語らずして還って自ら取りて著すやと。爾の時世尊、無数の方便を以って六群比丘を呵責し已りて、諸比丘に告ぐ、此の癡人多く有漏の処に種え、最初に戒を犯ぜり。今より已去、比丘の与に戒を結び、十句義を集め、乃至正法を久住せしめん。説戒せんと欲する者は、当に是の如く説くべし、若し比丘、比丘比丘尼式叉摩那沙弥沙弥尼に衣を与え、後主に語らずして、還取し著する者は、波逸提なりと。比丘の義は上の如し。衣は十種有りて、上に説けるが如し。衣を与うるとは、衣を浄施するなり。衣を浄施するに二種有り、一には真実浄施、二には展転浄施なり。真実浄施の者は言え、此れは是れ我が長衣にして未だ浄を作さず、今浄の為の故に、長老に与うと。真実浄を作すが故なり。展転浄施の者は言え、此れは是れ我が長衣にして未だ浄を作さず、今浄の為の故に長老に与う。彼れに応に是の如く語るべしと。長老聴す。長老に是の如き長衣の未だ浄を作さざる有り。今我が与の浄を為すが故なり。我れ便ち受く。受け已らば当に問うて言うべし、誰に与えんと欲するやと。応に報えて言うべし、某甲に与えよと。彼れ応に是の如き語を作すべし、長老に是の如き長衣の未だ浄を作さざる有り、今、我が与に浄を為すが故なりと。我れ便ち受く。受け已りて某甲比丘に与う。此の衣は是れ某甲の所有なり。汝、某甲の為の故に守護し持して、随意に用いよ。是の中真実浄施は、応に主に問うて、然る後に取著すべし。展転浄施は、語るに不語を以ってし、随意に取著す。若し比丘、真実浄施の衣を主に語らずして、取著せば、波逸提なり。比丘尼波逸提、式叉摩那沙弥沙弥尼突吉羅、是れを謂いて犯と為す。不犯とは、若し真実浄施なれば主に語りて取著し、展転浄施なれば、語るに不語を以って取著すれば、無犯なり。無犯とは、最初に未だ戒を制せざる、癡狂心乱痛悩の纏う所なり。」と云える、即ち是れなり。又「弥沙塞五分戒本」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻4」、「五分律巻5」、「摩訶僧祇律巻19」、「四分律巻9」、「十誦律巻16」、「四分律刪繁補闕行事鈔巻下1、巻中2」等に出づ。<(佛)
  垢膩(くに):垢とあぶら。あぶらよごれ。
問曰。瓦鐵缽皆亦受垢膩。與木缽無異。何以聽畜。 問うて曰く、瓦、鉄鉢も、皆亦た垢膩を受くること、木の鉢と異無し。何を以ってか、畜うるを聴す。
問い、
『瓦や、鉄の鉢』も、
『垢膩を受けて!』、
『木の鉢』と、
『異ならない!』のに、
何故、
『蓄える!』のを、
『聴されたのですか?』。
答曰。瓦鐵缽不熏亦不聽。以熏不受垢膩故。石有麤細。細者亦不受垢膩故。世尊自畜。所以不聽比丘畜者以其重故。佛乳哺力勝一萬白香象。是故不以為重。慈愍諸比丘故不聽。 答えて曰く、瓦、鉄の鉢も熏さざれば、亦た聴したまわず。熏せば、垢膩を受けざるを以っての故なり。石には、麁細有り。細なれば、亦た垢膩を受けざるが故に世尊は、自ら畜えたまえり。比丘に畜うるを聴さざる所以は、其の重きを以っての故なり。仏は乳餔の力すら、一万の白香の象に勝れば、是の故に以って重しと為したまわず。諸の比丘を慈愍したもうが故に聴したまわず。
答え、
『瓦、鉄の鉢』も、
亦た、
『熏さなければ!』、
『聴されなかった!』。
『熏せば!』、
『垢膩』を、
『受けなくなるからである!』。
『石』には、
『麁、細が有り!』、
『細ならば!』、
亦た、
『垢膩』を、
『受けない!』ので、
是の故に、
『世尊』は、
自ら、
『蓄えられた!』。
『比丘が蓄える!』のを、
『聴されなかった!』、
『理由は!』、――
『石の鉢』は、
『重いからである!』。
『仏』は、
『乳餔の力すら!』、
『一万の白香の象』に、
『勝る!』ので、
是の故に、
『重い!』とは、
『思われなかった!』が、
『比丘を慈愍された!』が故に、
『石の鉢』を、
『聴されなかったのである!』。
  乳哺(にゅうほ):小児に乳をふくませて養う。乳をふくむ。赤子の時のさま。
  白香象(びゃくこうぞう):白い香象の意。『大智度論巻26下注:香象』参照。
  香象(こうぞう):(一)梵語乾陀呵昼gandha- hastinの訳。又gandha- gajaに作る。交尾期の象なり。此の期間に於いて、象は其の顳顬よりmada或いはutkaTaと称する一種の香気ある漿を出すを以って此の名あり、故にmadootkaTa、或いはmada- karinと云う。「注維摩経巻1」に香象菩薩を釈する下に「什曰わく、青香象なり。身より香風を出す。菩薩の身の香風も亦た此の如きなり」と云い、又白香象菩薩を釈する下に「什曰わく、其の香最勝なり。大士の身香も亦た是の如きなり」と云える是れなり。又此の期間には象の力特に強く、性甚だ狂暴にして殆ど制すべからず。「大毘婆沙論巻30」、「倶舎論巻27」等に、十の凡象の力prakRta- hasuti- balaは一の香象の力gandha- hasti- balaに等しと云い、「雑宝蔵経巻2」に、「比提醯王に大香象あり、香象の力を以って迦尸王を摧伏す」と云い、「大般涅槃経巻下」に、「説きに鳩尸那城の諸の力士衆、皆悉く勇健にして猶お香象の如し」と云えるは、皆其の事を説けるものなり。(二)又象炉とも称す。秘密潅頂道場に用うる道具の一種。即ち潅頂の時、受者を壇前に引入する際、跨ぎ越えしむる象形の香炉を云う。「伝法潅頂三戒並初後夜作法」に、「次に壇前に引入して、香象を越過して香気に薫ぜしめよ」と云える是れなり。「注進醍醐寺三宝院並遍智院潅頂道具絵様等三昧耶戒道具事」に、「香象。長一尺四寸、高八寸三分。地盤。長一尺三寸八分、広七寸一分。背に銅にて返花あり、滅金をぬる。花実十あり。自足煙出。地盤に唐草を画く、地は赤色。地盤裏の銘に云、遍智院僧正御筆也。遍智院。天福元年十月十五日」とあり。又象鑪越過の故実作法等に就きては、「乳味鈔巻16」に、「問曰、受者をして香象を越えしむること本説ありや、如何。答、経軌に見所なし。此れ師伝の説なり。問曰、受者をして香象に薫ぜしむる意如何。答、三説あり、一は受者の衣服を薫じて而して清浄ならしむ。一は華厳経の説に依る。経曰、八部衆至会場時、臭気甚。香象至、所薫衆臭気止。一は或説に曰わく、受者は則ち本有普賢の意なる故に、香象に乗じて而して大壇に至るなり。已上三説の中、第三説を可とす。問曰、象頭は何方に向くや。答、壇の一両構成に由りて之を異にす。一壇構成の時は、象首を南に向け、初後共に右の足より越えしむるなり。是れ南向の堂にして、即ち東の庇より入る口なり。若し西の庇より入る構堂なれば、南首にして左の足より越えしむるなり。或いは北首にして右の足より越えしむるか。二壇構成の時は、初夜には象首を西に向け、受者の右足より越えしめ、後夜には象首を東にし、左の足より越えしむるなり。是れ象に逆乗せざる故実なり。問曰、香象は内陣、外陣の間、何処に置くや。答、内外陣は倶に此れ古来の二説なり。但し本流には内陣の説に依るなり」と云えり。現今浄家等の伝法儀式にも亦た此の香象を用い、之を触香と称せり。又「寂照堂谷響集巻2」等に出づ。<(望)
 
問曰。侍者羅陀彌喜迦須那利羅多那伽娑婆羅阿難等。常侍從世尊執持應器。何以不憐愍。 問うて曰く、侍者の羅陀、弥喜迦、須那利、羅多、那伽、娑婆羅、阿難等は、常に世尊に侍従して、応器を執持せり。何を以ってか、憐愍したまわざる。
問い、
『侍者』の、
『羅陀、弥喜迦、須那利、羅多、那伽、娑婆羅、阿難』等は、
常に、
『世尊に侍従して!』、
『応器(応受の器)』を、
『執持していた!』が、
何故、
『憐愍されなかったのですか?』。
  侍者(じしゃ):梵語ante- vaasinの訳。巴梨語同じ。師長に随侍する者の意。即ち仏を始め長老等に随逐し、己を忝うして命に従い、常に給仕を事とする弟子を云う。「長阿含巻1大本経」に、「無憂と忍行と、寂滅、及び善覚と、安和と善友等と、阿難を第七と為し、此れを仏の侍者と為す。諸の義趣を具足し、昼夜放逸なく、自ら利し亦た他を利す。此の七賢弟子は七仏の左右に侍し、歓喜して供養し、寂然として滅度に帰す」と云い、「大般涅槃経巻40」に、「阿難比丘は八法を具足し、能く具足して十二部経を持す。何等をか八となす、一には信根堅固、二には其の心質直、三には身に病苦なく、四には常に勤めて精進し、五には念心を具足し、六には心に憍慢なく、七には定慧を成就し、八には従聞生智を具足す。文殊師利よ、毘婆尸仏の侍者の弟子を阿叔迦と名づく、亦復た是の如きの八法を具足す。尸棄如来の侍者の弟子を差摩迦羅と名づけ、毘舎浮仏の侍者の弟子を優波扇陀迦羅と名づけ、鳩村駄仏の侍者の弟子を名づけて跋提と云い、迦那含牟尼仏の侍者の弟子を名づけて蘇坻と曰い、迦葉仏の侍者の弟子を葉婆蜜多と名づく。皆是の如きの八法を具足す。我れ今阿難も亦復た是の如き八法を具足す」と云えり。是れ毘婆尸等の過去七仏に皆侍者の弟子ありしことを説けるものなり。又「勅修百丈清規巻下両序章西序頭首侍者の條」には侍者に多種の別あることを説き、「侍者(焼香、書状、請客)。侍者の職は最も近密と為す、道徳を前後に観じ、教誨を朝夕に聴き、親炙参扣して法道をして大成に底らしめんことを期し、而して礼節は常に宜しく恭謹にして、慶喜の瞿曇に侍し、香林の雲門に侍するごとくなるべし。仏祖の重寄其れ忽諸にすべけんや。凡そ住持の上堂、小参、普説、開室、念誦、放参、節臘、特為、通覆、相看、掛搭、焼香、行礼の記録法語は焼香侍者之を職る。凡そ住持の往復書問製作文字は先づ草を具して呈し、如(モ)し書記を闕かば、山門一応の文翰は書状侍者之を識す。凡そ住持の賓客に応接し、尊宿を管待し、節臘、特為、具状、行礼は請客侍者之を職る。或いは維那、知客倶に衆に赴かず、或いは仮に在らば其の行事は三侍者皆当に之を摂すべし。若し住持久しく出でば則ち衆に帰りて行立し、暫く出でば班位を離れず。衣鉢侍者(不立班)は先輩多くは叢林老成の士を以って之に為す。蓋し能く忠を納れ過を救い、人才を羅致し、内外の庶事通変円融して、上下雍粛ならんことを庶幾えばなり。密菴に如侍者ありて松源を得て其の家を世世にし、東叟は昇首座を得て家法益厳なるが如し。今諸方往往に後生晩輩に任じて、甚だ徳を敗り事を悞るを致す。慎まざるべけんや。湯薬侍者(立班)は、朝暮に方丈の湯薬を供奉し、左右に応接して衣鉢侍者を佐助し、近事の行僕を撫恤す。或いは暫く侍者を欠くに客至り通覆焼香、或いは人の回向を欠く、皆宜しく摂行すべし。須らく年壮謹愿なるものを択びて之に充つべし。聖僧侍者(立班せず、衆の後に在りて行道し堂外に粥飯す)は道心あるを貴ぶ。斎粥の二時に上供し、下堂の椎を鳴らし、朝夕被位を交点し、中夜に灯を剔る。維那と同じく亡僧の唱衣銭を交収す。住持の遷化には把帳し、頭首の秉払には則ち為に焼香し、或いは代わりて椎を鳴らして念仏す。職満ち本山に在りて当に侍者の名に預るべし。退耕、断橋の二老は衆に在りし時、常に此の職に充つ。能く衆縁を結びて志を道に励ますを以ってなり」と云えり。此の中、焼香侍者を侍香、書状侍者を侍状、請客侍者を侍客、湯薬侍者を侍薬、衣鉢侍者を侍衣と名づけ、之を呼んで五侍者とし、又焼香、書状、請客の三侍者を山門の三大侍者とも名づく。又「禅林象器箋職位門」所引の覚浪の尊正規には、巾瓶、応客、書録、衣鉢、茶飯、幹辨の六侍者の名を出せり。又「中阿含巻8侍者経」、「七仏父母姓字経」、「七仏経」、「釈氏要覧巻下」等に出づ。<(望)
  羅陀(らだ):侍者の名。
  弥喜迦(みきか):侍者の名。
  須那利(しゅなり):侍者の名。
  羅多(らた):侍者の名。
  那伽(なが):侍者の名。
  娑婆羅(しゃばら):侍者の名。
  応器(おうき):梵語鉢多羅paatraの訳。又鉢に作る。比丘の食器なり。又応量器とも称す。謂わゆる応法の食器なり。又応に人の供養を受くべき者の用うる所の食器なり。又腹の分量に応じて食する食器なり。「行事鈔資持記巻下2之3」に、「鉢は是れ梵の言にして、具には鉢多羅と云い、此に応器と翻ず、量に応ずる器なり、法に対して名と為す。準章服儀に云わく、供を受くるに堪うる者之を用うれば、名づけて応器に当つと、此れ即ち人に対して目と為す。或いは処説に云わく、腹を量りて食するが故に応器と云うと。即ち食に対して名と為す」と云い、「名義集巻7」に、「鉢多羅、此に応器と云う。発軫に云わく、応法の器なりと」と云い、「楞厳義疏巻1上に、「鉢多羅、此に応量器と云う。色と体量とは皆法度に応ずるなりと」と云える、皆是れなり。<(丁)『大智度論巻26上注:鉢』参照。
  参考:『雑阿含経巻6』:『如是我聞。一時。佛住摩拘羅山。時。有侍者比丘名曰羅陀。晡時從禪覺。往詣佛所。禮佛足。退坐一面。白佛言。如世尊說有流。云何名有流。云何名有流滅。佛告羅陀。善哉所問。當為汝說。所謂有流者。愚癡無聞凡夫於色集.色滅.色味.色患.色離不如實知。不如實知故。於色愛樂.讚歎.攝受.染著。緣愛樂色故取。緣取故有。緣有故生。緣生故老.病.死.憂.悲.惱苦增。如是純大苦聚斯集起。受.想.行.識亦復如是。是名有流。多聞聖弟子於色集.色滅.色味.色患.色離如實知。如實知故。於彼色不起愛樂.讚歎.攝受.染著。不愛樂.讚歎.攝受.染著故。色愛則滅。愛滅則取滅。取滅則有滅。有滅則生滅。生滅則老.病.死.憂.悲.苦惱。如是純大苦聚滅。受.想.行.識亦復如是。是名如來所說有流.有流滅。佛說此經已。羅陀比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『仏説七仏経』:『爾時世尊說此偈已。告苾芻眾言。汝等諦聽。我今復說七佛如來侍者弟子。毘婆等如來應正等覺侍者。名阿輸迦。尸棄如來應正等覺侍者。名剎摩迦嚕。毘舍浮佛應正等覺侍者。名烏波扇睹。俱留孫佛應正等覺侍者。名沒提踰。俱那含牟尼佛應正等覺侍者。名穌嚕帝里野。迦葉如來應正等覺侍者。名薩里嚩蜜怛囉。我今應正等覺侍者。名阿難陀』
  参考:『毘尼母経巻5』:『爾時六群比丘。捉珠拂自拂傷損眾生。諸檀越嫌之。云何出家人畜此拂。為莊飾故傷損眾生。佛因而制戒。從今已去。不得捉堅[革*卬]拂傷損眾生又比丘捉拂欲拂如來塔。佛即可之。爾時有八人在邊捉拂拂佛。一者迦葉。二者優陀夷。三者莎伽陀。四者彌卑喻。五者那迦婆羅。六者均陀。七者修那剎邏。八者阿難。如此等比丘所捉拂拂佛。名之為拂』
  参考:『善見律毘婆沙巻5』:『問曰。是時大德阿難侍佛不。答曰侍。如來從菩提樹下起。二十年中侍佛者皆不專一。或時大德那伽。或大德那耆多。或大德彌耆耶。或大德優伽婆。或大德沙伽多。或大德須那訶多。如是諸大德隨意樂侍。而來不樂而去或悉去。時大德阿難來侍。』
答曰。侍者雖執持佛缽。以佛威德力故。又恭敬尊重佛故不覺為重。又阿難身力亦大故。 答えて曰く、侍者は仏鉢を執持すと雖も、仏の威徳力を以っての故に、又仏を恭敬、尊重するが故に覚りて、重しと為さず。又阿難の身力も亦た大なるが故なり。
答え、
『侍者』は、
『仏』の、
『鉢』を、
『執持していた!』が、
『仏』の、
『威徳の力』を、
『承けていた!』が故に、
又、
『仏』を、
『恭敬、尊重していた!』が故に、
『重い!』とは、
『覚らなかったのであり!』、
又、
『阿難』の、
『身力』も、
『大きかったからである!』。
復次以細石缽難得故。麤者受垢膩故不聽用。佛缽四天王四山頭自然生故。餘人無此自然缽。若求作甚難多所妨廢。是故不聽。又欲令佛與弟子異故佛用石缽。又如國王人所尊重食器亦異。有人見佛缽異倍加尊重。供養信心清淨。 復た次ぎに、細石の鉢は、得難きを以っての故に、麁なれば、垢膩を受くるが故に、用いるを聴したまわず。仏の鉢は、四天王の四山頭に自然に生ずるが故に、余人には、此の自然の鉢無し。若し作らしめんと求むれば、甚だ難くして、妨廃する所多ければ、是の故に聴したまわず。又、仏と弟子とをして、異ならしめんと欲したもうが故に、仏は石の鉢を用いたまえり。又国王は人の尊重する所にして、食器も亦た異なるが如く、有る人は、仏の鉢の異なるを見て、倍して尊重、供養を加えて、信心清浄なり。
復た次ぎに、
『細石の鉢』は、
『得る!』ことが、
『難しい!』が故に、
『麁石の鉢』は、
『垢膩』を、
『受ける!』が故に、
『仏』は、
『石の鉢を用いる!』のを、
『聴されなかった!』。
何故ならば、
『仏の鉢』は、
『四天王天の四山の頭( peak )』に、
『自然』に、
『生じたものである!』が故に、
『余の人』に、
此の、
『自然の鉢』は、
『無いのであり!』、
若し、
『作らせよう!』と、
『求めたとしても!』、
『甚だ難しく!』、
『妨廃( hamper and stop )する!』所が、
『多い!』ので、
是の故に、
『聴されなかった!』。
又、
『仏』は、
『仏と、弟子と!』、
『異ならせたい!』と、
『思われた!』が故に、
『仏』は、
『石の鉢』を、
『用いられたのである!』。
又、
『国王』は、
『人に尊重される!』が、
亦た、
『食器』も、
『人と異なるように!』、
有る人は、
『仏』の、
『鉢』が、
『異なる!』のを、
『見て!』、
倍して、
『尊重、供養を加える!』ので、
『信心』が、
『清浄になるからである!』。
  四天王四山(してんのうしせん):須弥山の中腹、四面に存する山塊。『大智度論巻9上注:須弥山、巻26下注:四王天、四天王』参照。
  四王天(しおうてん):梵名caatur- mahaa- raajikaa devaaHの訳。又四天王天、四大王衆天、或いは四大天王衆天と名づく。六欲天の一。四天王の住する天の意。即ち多聞、持国、増長、広目の四天王及び其の眷属天衆の住する処を云う。「倶舎論巻11」に、「蘇迷盧山に四の層級あり、始め水際より第一の層を尽くすまで、相去ること十千踰繕那の量なり。是の如く乃至第三の層より第四の層を尽くすまで亦た十千の量なり。此の四の層級は妙高山より傍出し、囲遶して其の下の半を尽くす。最初の層級は出づること十六千なり。第二第三第四の層級は、其の次第の如く八と四と二との千なり。藥叉神あり、名づけて堅手と為し、初の層級に住す。持鬘と名づくるあり、第二の級に住す。恒憍と名づくるあり、第三の級に住す。此の三は皆是れ四大天王の所部の天衆なり。第四の層級は、四大天王と及び諸の眷属と共に居止する所なり。故に経には此れに依りて四大天王衆天と説く。妙高山の四の外の層級に四大王衆及び眷属の居するが如く、是の如く持双、持軸山等の七金山の上にも亦た天の居するあり、是れ四大王の所部の封邑なり。是れを地に依りて住する四大王衆天と名づく。欲界天の中に於いて此の天最も広し」と云い、又「正法念処経巻22」に、此の四天王天に徒属して四天衆あり。初に鬘持天の中に白摩尼、峻崖、果命、白功徳行、常歓喜、行道、愛欲、愛境、意動、遊戯林の十住処あり。二に迦留波陀天の中に行蓮花、勝蜂、妙声、香楽、風行、鬘喜、普観、常歓喜、愛香、均頭の十住処あり。三に常恣意天の中に歓喜岸、優鉢色、分陀利、衆彩、質多羅、山頂、摩偸、欲境、清凉池、常遊戯の十住処あり。四に三箜篌天の中に乾陀羅、応声、喜楽、探水、白身、共娯楽、喜楽行、共行、化生、集行の十住処あり。諸の衆生の所作の善業に随って、各此等諸天の住処に生じ楽報を受くと云えり。以って其の住処の広汎なるを見るべし。又四天王の居城に関しては、「長阿含巻20世記経四天王品」に、須弥山王の東千由旬に提頭賴吒天王(持国)あり。城を賢上と名づく、縦広六千由旬あり。其の城に七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝せる校飾は七宝を以って成り、乃至無数の衆鳥相和して鳴く。又須弥山の南千由旬に毘楼勒天王(増長)あり、城を善見と名づく。須弥山の西千由旬に毘楼婆叉天王(広目)あり、城を周羅善見と名づく。須弥山の北千由旬に毘沙門天王(多聞)あり、王に三城あり、一を可畏と名づけ、二を天敬と名づけ、三を衆帰と名づく。縦広等は具に賢上城の如し。宝階道あり、各城互いに相通ずることを得。又其の天の身長は半由旬、衣は長さ一由旬、広さ半由旬、重さ半両なりと云えり。又「大楼炭経巻3」、「起世経巻6」、「起世因本経巻6」、「大毘婆沙論巻172」、「立世阿毘曇論巻4」、「順正理論巻31」、「彰所知論巻上」等に出づ。<(望)
  四天王(してんのう):梵名catvaasraH mahaa- raajikaaHの訳。巴梨語caatu- mmahaaraajikaa。四の大天王の意。又四大天王、四王、或いは護世四王、護世王とも称す。須弥山の四面の中腹に住し、仏法を護持する大天王なり。一に持国天王、二に増長天王、三に広目天王、四に多聞天王なり。持国は梵語提頭賴吒dhRtaraaSTraの訳(巴dhataraTTha)、増長は梵語毘楼勒叉viruuDhakaの訳(巴viruuLha)、広目は梵語毘楼博叉viruupaakSaの訳(巴viruupakkha)、多聞は梵語毘沙門vaizravaNaの訳(巴vessavaNa)なり。「長阿含巻12大会経」に、「復た東方提頭賴吒天王あり、乾沓惒神を領して大威徳あり。九十一子あり、尽く因陀羅と字す、皆大神力あり。南方毘楼勒天王は諸の龍王を領して大威徳あり。九十一子あり、亦た因陀羅と字す、大神力あり。西方毘楼博叉天王は諸の鳩槃荼鬼を領して大威徳あり。九十一子あり、亦た因陀羅と字す、大神力あり。北方の天王を毘沙門と名づく、諸の悦叉鬼を領して大威徳あり。九十一子あり、亦た因陀羅と字す、大神力あり。此の四天王護持世者は大威徳あり、身より光明を放ちて迦維林中に来詣す」と云い、又「増一阿含経巻9」に、「爾の時世尊は清旦に衣を著け鉢を持し、羅閲城に入りて乞食せんと欲す。是の時、提頭賴吒天王は乾沓恕等を将いて、東方より来たりて世尊に侍従す。是の時、毘留勒王は拘槃荼衆を将いて如来に侍従し、西方毘留波叉は諸の龍衆を将いて如来に侍従し、北方天王拘毘羅(毘沙門の一名なるべし)は羅刹鬼衆を将いて如来に侍従す」と云い、「阿育王経巻6」に、「仏復た四天王に告ぐ、我れ涅槃の後、汝等当に法蔵を護持すべし。乃至未来に三賊国王あり、汝皆応に共に其れ法蔵を護持すべし。(中略)乃至天主帝釈及び四天王は、一切の香花、種種の伎楽をもて舎利を供養し、説いて言わく、世尊は我等に法蔵を付して涅槃に入りたまえり。今我等は依りて仏法を守護せんと。是の時、帝釈は持棃哆阿囉哆(治国と翻ず)に語りて言わく、汝は東方に於いて当に仏法を護るべし。復た毘留多(増長と翻ず)に語りて言わく、汝は南方に於いて当に仏法を護るべし。復た毘留博叉(不好眼と翻ず)に語りて言わく、汝は西方に於いて当に仏法を護るべし。復た鳩鞞羅(不好身と翻ず)に語りて言わく、汝は北方に於いて当に仏法を護るべし。世尊言わく、我が滅後に三賊王あり、当に来たりて汝と同処せん、若し仏法を壊らば汝当に擁護すべし」と云い、又「金光明最勝王経巻6四天王護国品」に、「爾の時四天王は即ち座より起ちて偏袒右肩し、右膝を地に著け、合掌恭敬して仏に白して言わく、世尊、此の金光明最勝経王は、未来世に於いて若し国土城邑聚落山林曠野、至る所の処に随って流布することあらん時、若し彼の国王、此の経典に於いて至心に聴受し称歎供養し、并びに復た是の経を受持する四部の衆に供給し、深心に擁護して衰悩を離れしめんに、是の因縁を以って我れ彼の王及び諸人衆を護り、皆安隠にして憂苦を遠離し、寿命を増益して威徳具足せしめん。世尊、若し彼の国王、四衆の経を受持する者を見て、恭敬守護すること猶お父母の如く、一切の所須皆悉く皆供給せんに、我等四王は常に為に守護し、諸の有情をして尊敬せざること無からしめん。是の故に我等并びに無量の藥叉諸神は与に此の経王の流布せらるる処に随って、身を潜めて擁護して留難無からしめ、亦た当に是の経を聴く人諸国王等を護念し、其の衰患を除きて悉く安隠ならしめ、他方の怨賊は皆退散せしめん」と云える是れなり。此等は四天王が仏に帰依し、又仏の付囑を受けて正法を護持し、国家を守護すべきことを説けるものなり。蓋し四天王は梵天及び帝釈と共に仏法の守護神として広く諸経に散説せられ、去来其の信仰甚だ盛んなり。特に本邦に於いては推古朝以来頻りに其の形像を造立し、以って国家の平安を祈るの風行われ、又四天王寺、金光明四天王護国之寺(即ち東大寺)を始め、四王寺等の建立あり。今四天王像の国宝に指定せられたるものの中、特に有名なるものを挙ぐれば、大和東大寺、同戒壇院、興福寺、大安寺、西大寺、法隆寺、当麻寺、円成寺、山城六波羅蜜寺、壬生寺、教王護国寺、浄瑠璃寺、近江延暦寺、善水寺、金剛輪寺、高野山金剛峯寺、紀伊勝楽寺、道成寺、伊勢市場寺、播磨円教寺、但馬東楽寺、伯耆万福寺、讃岐鷲峯寺、筑前観世音寺、豊後真木大堂、永興寺、肥前広福護国禅寺、美濃横蔵寺、願興寺、三河普門寺、相模宝城坊、岩代薬師堂、東京美術学校所蔵のもの等なり。又胎蔵界曼荼羅、尊勝曼荼羅、不動曼荼羅等の四方、或いは本尊の左右等に之を図し、後世には袈裟又は坐具等の四隅にも之を帖し、又武将等の輔翼中、勇武なる四人を選んで四天王と称するに至れり。以って其の崇祀の盛んなりしを見るべし。又「長阿含巻5闍尼沙経」、「同巻19四天王品」、「大楼炭経巻3四天王品」、「起世経巻6四天王品」、「起世因本経巻6四天王品」、「金光明経巻2四天王品」、「大方等大集経巻52」、「潅頂経巻6」、「四天王経」、「毘沙門天王経」、「正法念処経巻19」、「斎経」、「仏母孔雀明王経巻上」、「雑宝蔵経巻6」、「興起行経巻上」、「大宝積経巻66」、「太子瑞応本起経巻下」、「摩訶僧祇律巻23」、「大毘婆沙論巻79、133」、「立世阿毘曇論巻4」、「倶舎論巻11」、「順正理論巻32」、「大智度論巻54」、「瑜伽師地論巻2」、「四阿鋡暮抄解巻下」、「彰所知論巻上」、「法苑珠林巻2」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
  妨廃(ぼうはい):そこないこわれる。こわれる。
問曰。若缽應異衣何以同。 問うて曰く、若し鉢にして、応に異なるべくんば、衣は何を以ってか同じき。
問い、
若し、
『鉢』が、
『異ならねばならない!』とすれば、
何故、
『衣』は、
『同じなのですか?』。
答曰。佛衣亦異。佛初成道時。知迦葉衣應佛所著。迦葉衣價直十萬兩金。次後耆域上佛深摩根羯簸衣。價亦直十萬兩金。佛敕阿難持此衣去。割截作僧伽梨。作已佛受著是為異。 答えて曰く、仏の衣も亦た異なり。仏は初めて成道したまいし時、迦葉の衣の応に仏の著すべき所なるを知りたまえり。迦葉の衣の価は直(た)だ十万両金なり。次後、耆域は、仏に深摩根羯簸の衣を上(ささ)ぐ。価は、亦た直だ十万両金なり。仏は阿難に勅して、此の衣を持ちて去り、割截して僧伽梨を作らしめたもう。作り已るに仏受けて著けたまえり。是れを異と為す。
答え、
『仏』は、
亦た、
『衣』も、
『異なるのである!』。
『仏』は、
初めて、
『成道された!』時、こう知っていられたが、――
『迦葉の衣』は、
『仏が著ける!』のに、
『相応しい!』、と。
『迦葉の衣』は、
『価』が、
『僅々十万両金であった!』。
その後、
『耆域』が、
『深摩根羯簸の衣』を、
『仏』に、
『上(ささ)げた!』が、
亦た、
『価』は、
『僅々十万両金であった!』。
『仏』は、
『阿難』に、
此の、
『衣を持ち去って!』、
『割截(裁断)し!』、
『僧伽梨(大衣)を作れ!』と、
『命じられ!』、
此の、
『阿難に作らせた!』、
『衣』を、
『著けられた!』。
是れを、
『異なる!』と、
『称するのである!』。
  迦葉(かしょう):具に摩訶迦葉と云う。仏の十大弟子中頭陀第一。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  (じき):<形容詞>[本義]真っ直ぐ/曲がっていない( straight )。[横に対する]竪(たて)/竪立/垂直( vertical )、正直/公正/私に偏らない( honest, fair )、正直/率直な( frank, straightforward )、正真( due )/例:直北( ex. due north )、正当/適当/適切な( appropriate, correct, right )。<副詞>真直ぐ/直ちに( directly )、故意に/意図的に( intentionally )、意外にも/只だ/僅かに( unexpectedly, only )、まったく( absolutely, literally )、単に( only, alone )。<動詞>真直ぐ伸ばす( straighten )、直面する( confront, face, in face of )、会う/値う( meet )、当番/当直する( take turn, in turn )、引受ける/就任する( undertake, assume office )。<名詞>価値/代価( value, worth )、工銭/賃金( pay, salary )。<接続詞>たとえ/だが( even if, even though )。<前置詞>その時( as, at the time )。
  次後(じご):その後/後来( afterwards, later, thereafter )。
  耆域(ぎいき):医術を以って著わる仏弟子。『大智度論巻26下注:耆婆』参照。
  耆婆(ぎば):梵名jiivaka、又耆婆伽、時縛迦、尸縛迦、[口*爾]嚩哥、侍縛迦、或いは祇婆、時婆、耆域、耆旧に作る。活、命、能活、固活、更活、又は寿命とも訳す。具には梵名jiivaka- komaarabhRtya、又はjiivaka- kumaarabhuuta。巴梨名jiivaka- komaarabhacca、或いはjiivaka- komaarabhaNDaと云う。就中komaarabhRtyaは王子に育てられしもの、又は小児を看るものの義なり。仏弟子にして、医術を以って著わる。「㮈女祇域因縁経」に依るに、仏在世の時、維那棃国王苑中に一女児あり、柰女と名づく。顔色端正にして天下無双なり。瓶沙王(即ち頻婆娑羅王)之と通じて男子を挙ぐ。生るる時、手に針薬嚢を持せり。柰女則ち衣を以って児を裹み、之を巷中に棄つ。蓋し印度の俗、婬女若し女を産めば之を養い、男を挙ぐれば之を棄つるを例とするなり。時に瓶沙王の子無畏、遺児を見て其の死活を問う、傍人あり活と答う。因って抱き取って之を乳養し、活の故を以って名づけて、耆域と云う。尋いで梵士此の小児を柰女に還付す、年八歳にして羅閲祇国に至り瓶沙王に見え、太子となる。後二年にして阿闍世生る、因って宮を出で医術を学ぶと云えり。然るに「善見律毘婆沙巻17」等には母を柰女とせずして、王舎城の婬女娑羅跋提saalavatiiとなし、又「四分律巻39」には瓶沙王の子とせずして、王子無畏の出となせり。孰れを取るべきか詳にし難し。斯くて耆婆は医道を習わんが為に徳叉尸羅国に至り、賓迦羅に就いて学すること七年、業成って本国婆迦陀城に帰り、先づ長者の婦の十二年頭痛に悩める者を治し、尋いで拘睒弥国の長者の腸結、迦羅越家の女児及び男児の病疾を癒し、又南方大国の残虐なる王の病を治し、更に世尊に帰依せしめて其の内病ををも除けり。其の他、世尊の風患、阿那律の失明、阿難の瘡等を療し、医王として時人に崇仰せらるるに至れり。又耆婆は独り医を以って有名なるのみならず、亦た自ら深く仏教を信じ、外護者として、其の功少なからず。殊に阿闍世が父を殺し、悔恨の念内に萠せる時に乗じ、之を勧めて帰仏せしめたるは特筆すべき事蹟なり。又「長阿含巻20世記経忉利天品」には、釈提桓因の左右に常に十大天子ありとし、其の中に耆婆の名を挙げたり。又「巴梨文長部経註sumaGgala- vilaasinii」、「巴梨律蔵小品culla- vagga」、「奈女耆婆経」、「出曜経巻19」、「長阿含巻17沙門果経」、「寂志果経」、「増一阿含経巻31、39」、「賢愚経巻3」、「阿闍世王問五逆経」、「撰集百縁経巻10長老比丘在母胎中六十年縁」、「温室洗浴衆僧経」、「阿羅漢具徳経」、「観無量寿仏経」、「大般涅槃経巻19」、「大宝積経巻48」、「五分律巻20」、「四分律巻34」、「有部毘奈耶破僧事巻13、18」、「大毘婆沙論巻93」、「法華経文句巻1下」、「大唐西域記巻9」、「四分律疏飾宗記巻8末」、「倶舎論宝疏巻5」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻21」、「慧琳音義巻13、26」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
  深摩根羯簸衣(じんまこんかつはえ):深摩根羯簸は梵語。上価衣と訳す。又深摩根衣とも称するが如し。「翻梵語巻3」に、「深摩根衣、持律者の云わく、是れ上価衣なりと。声論者の云わく、正しく外国の音にして、応に数欽摩牟羅と言うべし。数欽摩は翻じて細衣と為す、牟羅は翻じて根と為し、細衣と為すと」と云えり。
  割截(かっさい):たちきる。
  僧伽梨(そうぎゃり):三衣の中最も大なるものを云う。『大智度論巻26上注:僧伽梨、三衣』参照。
  参考:『別訳雑阿含経巻6(119)』:『爾時如來將欲涅槃。尊者阿難摩訶迦  葉。在耆闍崛山。時世飢儉。乞食難得。於是尊者阿難。將諸新學比丘。向于南山聚落。新學比丘之中。有諸年少。樂著嬉戲。[身*冘]嗜飲食。不攝諸根。無有威儀。初夜後夜。不勤行道讀誦經典。左脅著地。自恣睡眠。既達彼已。諸比丘中。三十餘人。罷道還俗。以是之故。徒眾減少。遊行己竟。還至於彼王舍大城耆闍崛山。收攝衣缽。洗手足已。往詣尊者大迦葉所。禮尊者足。在一面坐。時大迦葉告阿難曰。汝從何來。徒眾減少。阿難答言。我往至彼南山聚落。弟子之中。三十餘人。昔日盡是童真出家。罷道還俗。以是事故。徒眾減少。摩訶迦葉語阿難言。如來何故制別眾食。而聽三人共一處食。如是之意。為欲擁護於諸人故。使不損減。復為制伏惡欲比丘。斷除於人多眷屬故。稱僧名字。多有所求。減損諸家。破壞眾僧。使作二部故。令如法比丘。不得供養衣服飲食。非法比丘。多獲利養。惡欲比丘。既得供養。與淨行者。而共諍訟。汝以何故。於飢饉世。將彼新學年少比丘。以為徒眾。而此比丘。樂著嬉戲。貪嗜飲食。諸根馳散。無有威儀。貪嗜睡眠。無有厭足。初夜後夜。不勤行道讀誦經典云何而此如是徒眾遊行。至彼南山聚落。既達彼已。三十餘人。昔日盡是童子出家。罷道還俗。汝於今者。徒眾破壞。汝今無智。猶如小兒。阿難答言。我已年邁。云何而言。猶如小兒。迦葉復言。我非無故稱汝名字以為小兒。今世飢饉。乞丐難得。而汝云何多將人眾。遊行至彼南山聚落。汝弟子中。有諸年少。樂著嬉戲。貪嗜飲食。諸根馳散。無有威儀。貪好睡眠。無有厭足。初夜後夜。不勤行道讀誦經典。使三十餘人。休道還俗。如是所作。豈非同彼小兒者乎。爾時帝舍難陀比丘尼。聞大迦葉呵責尊者阿難比丘作小兒行。心中不悅。生大憂惱。即出麤言。此大迦葉。本是外道。而今云何毀呰阿難比提醯牟尼作小兒行。是時迦葉。以淨天耳。聞比丘尼出斯麤言毀罵己已。於是迦葉。告阿難曰。帝舍難陀比丘尼。身心中不悅。生大苦惱。發是惡言。斯大迦葉。本外道師。云何毀呰尊者阿難比提醯牟尼作小兒行。即時阿難。語迦葉曰。此比丘尼。稚小兒智。猶如嬰孩。唯願大德。聽其懺悔。摩訶迦葉語阿難言。我出家時。作是要誓。世間若有阿羅漢者。我當歸依自出家來。未有異趣。唯依如來無上至真等正覺。我先在俗。未出家時。觀諸世間生老病死憂悲愁惱眾苦聚集。如是之事。競來逼切。我於爾時。厭家迫迮。無有可處。樂出家法。能離塵垢。觀於在家。眾事憒鬧。猶如入於鉤棘之林。鉤剴刺牽。傷毀形服。難可得出。在家亦爾。緣務纏縛。沒於欲泥。不得修於清淨梵行。晝夜思惟。不見一法。能勝於彼。剃除鬚髮。被服法衣。棄捨家業。信心出家。欲出家時。選擇家中。最下衣裳。得一弊衣。其價猶直十萬兩金。即便取之。為僧伽梨。先所居業。一切悉捨。眷屬親戚。亦悉捨離。復作是念。世間若有阿羅漢者。我當歸依。隨其出家。時彼王舍大城中間。有羅羅健陀。羅羅健陀中間。有多子塔。我端嚴殊妙。諸根寂定。心意惔怕。得於無上調伏之心。相好光飾如真金樓。我既見已。心中踊躍。即作是念。我昔推求出世之師。今所見者。真是我之婆伽婆阿羅呵三藐三佛陀也。作是念已。心不散亂。專念觀佛。更正衣服。右遶三匝。胡跪合掌。白佛言。佛是我世尊。我是佛弟子。如是三說。佛亦復言。如是迦葉。我是汝世尊。汝是我弟子。亦復三說。佛告迦葉。世間若有聲聞弟子。都無至心。實非世尊。而言世尊。實非羅漢。而言羅漢。非一切智。言一切智。如是之人。頭當破壞作於七分。我於今日。實是知者。實是見者。實是羅漢。而言羅漢。實等正覺。言等正覺。我所敷演。實有因緣。非無因緣。而說法要。實有乘出。非無乘出。實有對治。非無對治。實有精進。非不精進。能斷結漏。非不能斷。迦葉。汝今應作是學。諸有所聽。是善法儀應當至心受持莫忘。尊重憶念。捨於亂心。宜應專意觀五受陰增長損減。常應觀彼六入生滅安心。住於四念處中。修七覺意。轉令增廣。證八解脫。繫念隨身。未曾放捨增長慚愧。爾時如來。為我種種分別法要。示教利喜。我於爾時。尋隨佛後。未曾捨離。每作是念。佛若坐者。我當以此僧伽梨價直十萬兩金者。與如來敷之。佛知我心之所念故。出道而住。我疾牒衣。以敷坐處。白佛言。世尊願就此坐。佛即坐上。既坐上已。語迦葉言。此衣輕軟。迦葉白佛。實爾世尊。唯願世尊。憐愍我故。當受此衣。佛告迦葉。汝能受我[仁- 二+商]那納衣不。迦葉答言。我能受之。爾時如來。即受迦葉所著大衣。我於是時。自從佛手受是[仁- 二+商]那糞掃之衣。佛授我已即便起去。我隨佛後。遶佛三匝。為佛作禮。即還所止。我於八日。學得三果。至第九日。盡諸有漏。得阿羅漢。阿難當知。若有人能正實說者。應當言。我是佛長子。從佛口生。從法化生。持佛法家。禪定解脫諸三昧門中。出入無礙。譬如轉輪聖王。所有長子。未受王位。五欲自恣。我於今者。亦復如是。是佛長子。從佛口生。從法化生。持佛法家。禪定解脫諸三昧門。出入無礙。如轉輪王所有象寶。甚為高大。持一多羅樹葉。覆其身體。欲令不現。可得爾耶。阿難即言。如是樹葉。終不能覆彼大象身。尊者迦葉語阿難言。彼猶易覆。無有人能障覆於我六通之者。若有人於如意通中生疑惑者。我悉能為演說其義。令得明了。天耳通知他心通宿命通生死智通漏盡通。若復有人。於此通中。生疑惑者。我亦能為演說其義。使得明了。阿難答曰。我於長夜。每敬尊者。心生淨信。時二尊者。作是說已。歡喜而去』
  参考:『十誦律巻27』:『耆婆知佛身病未盡。白佛言。須飲少暖水。飲已更一下。如是隨順滿三十下。耆婆還家辦隨病藥飲食軟飯粥羹。嘗伽羅藥奉進所須。起居輕利無復患苦。佛得瞻力。還復本色。耆婆持深摩根衣價直百千欲奉上佛。頭面禮足一面立白佛言。我治王大臣皆與我願。今日治佛。願世尊賜我一願。佛告耆婆。多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀已過諸願。白佛言。可得願與我。佛告耆婆。汝索何等願。耆婆言。大德。是深摩根衣價直百千。願佛受著。憐愍故。佛默然受。知佛默然受。即以深摩根衣價直百千上佛。頭面禮佛足而去。佛以是事集僧。集僧已告諸比丘。今日耆婆與我價直百千深摩根衣。從今日聽若有施比丘如是衣者得隨意取著。從今日若比丘欲著槃藪衣聽著。若欲著居士施衣亦聽著』
  迦葉衣(かしょうのころも):摩訶迦葉、出家せる時、所有せる一切を捨てて、ただ家に存る一番粗末な衣のみを身に着けていたが、それでも価十万両金のものであった。迦葉は仏の着けていられる糞掃衣を見、自らのこの衣こそが仏に相応しいとして、これを仏に与えんことを願い、仏はそれを受けられた。『別訳雑阿含経巻6』:『我於爾時。尋隨佛後。未曾捨離。每作是念。佛若坐者。我當以此僧伽梨價直十萬兩金者。與如來敷之。佛知我心之所念故。出道而住。我疾牒衣。以敷坐處。白佛言。世尊願就此坐。佛即坐上。既坐上已。語迦葉言。此衣輕軟。迦葉白佛。實爾世尊。唯願世尊。憐愍我故。當受此衣。佛告迦葉。汝能受我[仁- 二+商]那納衣不。迦葉答言。我能受之。爾時如來。即受迦葉所著大衣。我於是時。自從佛手受是[仁- 二+商]那糞掃之衣。』。注:[仁- 二+商]那または商那は大麻と訳す。
問曰。佛因是告諸比丘。從今日若有比丘。一心求涅槃背捨世間者若欲著。聽著價直十萬兩金衣。亦聽食百味食。衣異而後聽缽獨不聽。 問うて曰く、仏の是れに因って、諸比丘に告げたまわく、『今日より、若しは比丘、一心に涅槃を求め、世間を背捨する者有り、若し著けんと欲せば、価の直だ十万両金の衣を著くるを聴し、亦た百味の食を食うを聴す』、と。衣は異なるも、後に聴したまえり、鉢のみ独り聴したまわず。
問い、
『仏』は、
是の、
『因縁』で、
諸の、
『比丘』に、こう告げられた、――
今日より、
有る、
『比丘』が、
一心に、
『涅槃を求めて!』、
『世間』を、
『背捨している!』のに、
若し、
『価が直だ十万両金の衣を著けたければ!』、
『著けること!』を、
『聴す!』。
亦た、
『百味の食』を、
『食うこと!』をも、
『聴す!』、と。
『仏と、比丘と!』の、
『衣』は、
『初め、異なっていた!』が、
『後に、聴された!』、
『鉢だけ!』が、
独り、
『聴されないのか?』。
答曰。我先已說石缽因緣今當更說。佛缽不從人受。佛初得道欲食時須器。四天王知佛心念。持四缽上佛。三世諸佛法皆應四天王上缽。爾時未有眾僧。云何言聽。後若聽無人與石缽。又閻浮提不好石缽故無人與。 答えて曰く、我れは先に已に石鉢の因縁を説けるも、今、当に更に説くべし。仏の鉢は人より受けず。仏は初めて得道して、食時に須うる器を欲したまえり。四天王は、仏の心念を知り、四鉢を持ちて仏に上ぐ。三世の諸仏の法は、皆、応に四天王、鉢を上ぐべし。爾の時、未だ衆僧有らざるに、云何が、『聴す』と言うや。後に若しは聴したまわんに、人の石鉢を与うる無けん。又閻浮提は石鉢を好まざるが故に、人の与うる無し。
答え、
わたしは、
先に、
已に、
『石鉢の因縁』を、
『説いた!』が、
今、
更に、
『説くことにしよう!』、――
『仏』の、
『鉢』は、
『人より!』、
『受けたものではない!』。
『仏』は、
初めて、
『道を得られる!』と、
『食時に用いる鉢』を、
『欲せられた!』が、
『四天王』は、
『仏の心念を知り!』、
『四鉢を持(たも)ちて!』、
『仏』に、
『上げた!』。
『三世の諸仏の法』は、
皆、
『四天王』が、
『鉢を上げることになっている!』が、
爾の時、
未だ、
『衆僧』が、
『存在しない!』のに、
何故、
『聴す!』と、
『言われるのか?』。
後に、
若し、
『聴されたとしても!』、
『石鉢を与える人』は、
『無いだろう!』。
又、
『閻浮提の人』は、
『石鉢を好まない!』が故に、
『与える人』が、
『無いのである!』。
  参考:『仏本行集経巻32二商奉食品』:『爾時世尊。從羊子種樹林起已。安庠漸至一樹林下。彼樹林名差梨尼迦(隋言出乳汁林)。到彼林已。結加趺坐。經於七日。為欲受彼解脫樂故。爾時世尊。經七日後。正念正知。從三昧起。如是世尊。經七七日。以三昧力。相續而住。然彼善生村主之女。布施乳糜。一食已後更不別食。至今活命。爾時彼處。從北天竺。有二商主。一名帝(當梨反)梨富娑(隋言胡瓜)。二名跋梨迦(隋言金挺)。彼二商主。有多智慧。心細意正。彼二商主。從中天竺依土所出。種種貨物。滿五百車。大得宜利。從中欲還北天竺國時彼路經差梨尼迦林外不遠。次第而行。彼等商主。別有一具調伏之牛。恒在先行。若前所有恐怖之處。而彼一具調善之牛。如打橛縛驅不肯行。爾時彼處差梨尼迦所護林神。彼神隱身。密捉持是二調牛。住不聽前過。彼二商主。各持優缽羅花之莖。打二調牛。猶不肯行。其餘所駕五百車牛。皆不肯動。其諸車輪。並不復轉。其皮鞦索。悉皆自斷。其餘轅軛軸轄轂輻箱輞欄板鞅鞙勾心。或折或破。或碎或裂如是變怪種種不祥。爾時帝梨跋梨迦等。心生恐怖。皆大憂惱。身諸毛孔。皆悉遍豎。各相謂言。我等今者值何怪禍。遇何災殃。各各去車兩三步地。頭戴十指合掌頂禮一切諸天。一切諸神。至心而住。作如是言。乞願我等今者所有災怪殃咎。恐怖早滅。安隱吉利。爾時彼林所守護神。現自色身。慰勞彼等諸商主言。汝等商人。勿生恐怖。汝等此處。無一災禍。無一諸殃。不須怖畏。諸商主等。此處唯有如來世尊阿羅呵三藐三佛陀。初始成佛無上菩提。今日在此林內而住。但是如來。得道已來。經今足滿四十九日。未曾得食。汝等商主。今若知時。可共往詣向彼世尊多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀所。最宜在前。將糗將酪蜜搏奉彼。汝等當得長夜安隱安樂大利。時二商主。聞彼林神如是言已。即白神言。如神所教。我等不違。而彼二商。即各將糗酪蜜和搏。共諸商人。往詣佛所。既到彼已。時二商主。遙見世尊。可喜端正。世間無比。乃至猶如虛空眾星。莊嚴身體諸相。見已心大敬重。清淨信向至世尊前。到已即便頂禮佛足。卻住一面。時二商主。共白佛言。世尊。願為我等。受此清淨糗酪蜜搏愍我等故。爾時世尊。如是思惟。往昔一切諸佛世尊阿羅呵三藐三佛陀。悉皆受持缽器以不。爾時世尊。內生知見。即知過去一切諸佛多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀一切盡皆受持缽器。是時世尊。復如是念。我今當以何器而受二商主食糗酪蜜搏。世尊欲受。發此心已。時四天王。各從四方。速疾共持四金缽器。往詣佛所。到已各各頂禮佛足。卻住一面。而四天王。卻住立已。將四金缽。奉上世尊。作如是言。唯願世尊。用此缽器。受二商主糗酪蜜搏。愍我等故。我等長夜當得大利大樂大安。世尊不受。以出家人不合畜此。彼四天王。捨四金缽。將四銀缽。奉上世尊。作如是言。世尊。可於此器受食。略說乃至。為我當得大利大安。世尊不受。如是更將四頗梨缽。而亦不受。如是更將四琉璃缽。而亦不受。如是更將四赤珠缽。而亦不受。次復更將四瑪瑙缽。而亦不受。次復更將四車磲缽。奉上世尊。如來亦復不為其受。爾時北方毘沙門王。告於諸餘三天王言。我念往昔。青色諸天。將四石器。來奉我等。白我等言。此石器內。仁等。可用受食而喫。爾時別有一天子。名毘盧遮那。白我等言。仁等天王。慎勿於此石器之內受食而喫。仁但受持相共供養。比之如塔。所以者何。當來有一如來出世。其如來號釋迦牟尼。仁等。宜將此四石缽。奉彼如來。仁等天王。今是時至。可將石缽持奉世尊。爾時四鎮四大天王。各各皆將諸親眷屬圍遶。速至自宮殿中。各執石缽。端正可喜。其色紺青。猶如雲隊。盛以天花著滿其內。將一切香。用塗彼缽。復持一切諸妙音聲。供養彼缽速詣佛所。到已共將四缽奉佛。而白佛言。唯願世尊。受此石缽。於此缽內。受二商主糗酪蜜搏。愍我等故。各令我等長夜獲得大利安樂。爾時世尊。復如是念。此四天王。以信淨心。奉我四缽。我亦不合受持四缽。若我今於一人邊受。則三人心。各各有恨。若二人邊。受於二缽。二人心恨。若三人邊。受於三缽。一人心恨。我今可總受此四缽。出神通力。持作一缽。爾時世尊。從於提頭賴吒天王邊受缽已。而說偈言 施善世尊好缽盂  汝決當成妙法器  既於我邊奉淨缽  必增智慧正念心  』
復次佛說比丘常應覆功德。若受石缽人謂從天龍邊得。若令人作其工既難。又恐人言此比丘欲與佛齊功 復た次ぎに、仏の説きたまわく、『比丘は常に応に功徳を覆うべし』、と。若し石鉢を受くれば、人は、天龍の辺より得と謂わん。若し人をして作らしめんに、其の工既に難ければ、恐らく人は言わん、『此の比丘は、仏と功を斉(ひと)しくせんと欲す』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、こう説かれているが、――
『比丘』は、
常に、
『功徳( merit )』を、
『覆い隠さねばならぬ!』、と。
若し、
『石鉢を受ければ!』、
『人』は、こう謂うだろう、――
『天、龍の辺より!』、
『得たものだ!』、と。
若し、
『人に作らせれば!』、
其の、
『工( skill of craft )』が、
既に(本来)、
『困難なので!』、
又、
恐らく、
『人』は、こう言うだろう、――
此の、
『比丘』は、
『仏と!』、
『功を争っている!』、と。
  (く):梵語 zilpa の訳、工芸に於ける技術( skill in any art or craft or work of art )。
  (き):<動詞>[本義]食い竟る( eat up )。月蝕/日蝕( eclipse )、完了/終了( complete, end )。<副詞>已に( already )、久しからずして/間もなく( soon )。<接続詞>なので( now that, as, since )、且つ/又( both ~and, as well as )。
所以聽。衣者若有人言。佛在僧中受檀越好衣獨著。而不聽比丘。是故佛聽著比丘。亦自無著者。以施者難有著者難得故。若不清淨比丘人所不與。清淨比丘少欲知足故不著。佛斷人疑故聽著衣。缽中無望是故不聽。 衣を聴したもう所以は、若しは有る人言わん、『仏は僧中に在りて、檀越の好衣を受けて、独り著するも、比丘には聴さず』、と。是の故に仏は著くるを聴したまえど、比丘も亦た自ら著くる者無し。施者は有り難く、著者は得難きを以っての故なり。若し清浄ならざる比丘なれば、人に与えられず。清浄なる比丘は、少欲知足の故に著せず。仏は人の疑を断ぜんが故に、衣を著するを聴したまえども、鉢中には、是れを望む無きが故に聴したまわず。
『衣を聴された理由』は、――
若しは、
有る人が、こう言うからである、――
『仏』は、
『僧』中に於いて、
『檀越より!』、
『好衣』を、
『受けながら!』、
独りだけ、
『著けて!』、
『比丘には!』、
『聴されないのだ!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『比丘』に、
『著ける!』のを、
『聴された!』が、
『比丘』には、
自ら、
『著けようとする!』者が、
『無かったのである!』。
何故ならば、
『施者が得難く!』、
『著者は得難いからである!』。
何故ならば、
若し、
『比丘が清浄でなければ!』、
『人』に、
『与えられない!』し、
『比丘が清浄ならば!』、
『少欲知足である!』が故に、
『著けないからである!』。
『仏』は、
『人の疑を断じる!』為の故に、
『衣』を、
『著ける!』のは、
『聴された!』が、
『鉢』中には、
『望む者』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『聴されなかった!』。
  檀越(だんおつ):梵語daana- pati、施主と訳す。僧衆に衣食等を施与する信男、信女を云う。『大智度論巻22上注:檀越』参照。
問曰。如經中說。佛金剛身不恃仰食。何以畜缽。 問うて曰く、経中に説けるが如きは、『仏の金剛身は、食を仰ぐを恃(たの)まず』、と。何を以ってか、鉢を畜う。
問い、
『経』中には、こう説かれているが、――
『仏』の、
『金剛身』は、
『食を仰ぐ(乞食)!』のを、
『恃(たの)まない( do not rely on )!』、と。
何故、
『鉢』を、
『蓄えられたのですか?』。
  仰食(ごうじき):食をあおぐ。乞食に同じ。
  参考:『菩薩瓔珞経巻1』:『或時菩薩入定正受。乃經一劫及百千劫。形體軟美不復仰食。斯由定意。禪悅為食八解為漿。』
  参考:『善見律毘婆沙巻5』:『復有婆羅門。名車多摩那婆。歌詠讚佛。而作頌曰  欲離欲不動  愁憂法不作  不逆流美味  極好分別知  於眾法最上  應當受歸依  布施四向人  若分別有八  於僧中最上  獲得大果報  於此自歸依  名真優婆塞  如是婆羅門言。願佛知我已受三歸。法師曰。若於此解三歸者。即成紛多。若欲知者。可於阿毘曇毘婆沙自當知。願瞿曇沙門。知我已作優婆塞。願佛名我是佛優婆塞。問曰。何謂為優婆塞。誰為優婆塞。誰不為優婆塞。云何有戒為優婆塞。有心為優婆塞。云何名為優婆塞。云何不名為優婆塞。法師曰。此義甚多。此中不可說。於修陀尼毘婆沙。自當知之。從今以去者。從今至命終不受餘師。願佛知之。若有人以刀斫斷我頭。使我言非佛非法非比丘僧。我頭寧當落地。不作是言。婆羅門以身命奉託如來欲自供養。作如是言。願世尊當受我請。於毘蘭若國。前夏三月與比丘僧。婆羅門言。我今已作優婆塞。願如來憐愍我。當受我請。於毘蘭若國。如來默然受請。法師問曰。佛何不答婆羅門請。答曰。已應世間人以身口答。世尊用忍心而答。為憐愍婆羅門。知佛受請者。問曰。何謂為受請。答曰。若不受請者。當以口身而答。世尊默然顏色怡悅。是故知佛受請。婆羅門即從坐起。遶佛三匝四方作禮而去。合十指爪掌叉手放頂上卻行。絕不見如來。更復作禮迴前而去。是時毘蘭若國極大飢儉。是時者。佛受毘蘭若婆羅門前夏三月。飢儉者。飲食難得。若人不清淨至心。正有飲食不與。亦名飢儉。毘蘭若國不爾。以五穀不結實故。二疑者。問曰。何謂為二疑。答曰。二者二種心疑。何謂二種心疑。答曰。心疑。於此夏三月乞食。或疑得或疑不得。或疑可得生活。或疑不可得生活。是為二種心疑。白骨者。貧窮下賤人乞食不得。餓死棄尸骨曠野狼藉。是名白骨。又言。五穀不秀實白如骨。亦名白骨。如籌者。禾始結秀而遭大旱。根株直豎如籌。是名如籌。又言不爾。飢儉時以籌市井。是名如籌。何以故。臨市時。強者得入羸者不得。於外大叫。糶米人見諸羸人。生憐愍發平等心。開門令入次第坐。先受取直然後與米。隨其多少用籌計數。諸比丘自念言。此間飢儉皆悉用籌計挍。時諸比丘入經七八聚落。或得少許或不得者。爾時估客從北方。驅馬五百匹。向南販貨。或得二三倍利。以求利故。遍歷諸國次第至毘蘭若國。住夏四月。問曰。販馬人何故不去而住四月。答曰。雨水多故。不通馬行。即於城外立馬廄。并自立屋舍籬障都圍。於是諸比丘往到估客處乞食。人得馬麥各五升。問曰。為信故為不信故。而以麥與諸比丘。答曰信。販馬人入聚落。日日見諸比丘乞食空缽而歸。見已估客還向諸同侶說如上事。各作是念。諸比丘乞食極大疲苦都無所得。宜共計挍。我等估客若日日供。其朝中恐不周立。我等當減取馬分。各五升與諸比丘。比丘得此馬麥便不疲倦。於我等馬不甚為損。作是籌量已。諸估客往到諸比丘所作禮而白言。諸大德。可受我等麥。日日人各五升及雜食隨意所作飲食。是故律本所說。日施比丘麥。著衣服已朝行乞食。問曰。何謂為朝。答曰。從旦至中是名朝。著衣服者。以袈裟裹身。分衛者。毘蘭若聚落乞食不得。遍歷聚落都無一人出應對者。持麥還寺者。行乞處處得麥而還。取麥擣舂而食者。老比丘無淨人。復無為作者。躬自作糜作飯。或八或十共作竟。當分而食。賢者阿難取如來分手自磨。阿難智慧具足。作食極美味。諸天復內甘露作竟。佛受而食即入三昧。從此以後不復乞食。』
答曰。佛法有二道。一者聲聞道。二者佛道。聲聞法中佛隨人法有所食噉。摩訶衍法中。方便為人故現有所噉。其實不食。 答えて曰く、仏法には二道有り、一には声聞道、二には仏道なり。声聞法中に、仏は人法に随いて、食噉する所有るも、摩訶衍法中には、方便して人の為の故に所噉有るを現すも、其の実食わず。
答え、
『仏法』には、
『二道有り!』、
一には、
『声聞』の、
『道であり!』、
二には、
『仏』の、
『道である!』。
『声聞法』中に、
『仏』は、
『人法に随われる!』ので、
『食噉する!』所が、
『有る!』が、
『摩訶衍法』中には、
『方便して!』、
『人の為に!』、
『食噉する!』所が、
『有るように!』、
『現される!』が、
其の、
『実は!』、
『食われないのである!』。
  食噉(じきたん):くう。くらう。
問曰。云何是方便。 問うて曰く、云何が是れ方便なる。
問い、
何故、
是れが、
『方便なのですか?』。
答曰。佛欲度人示行人法。若不爾者人以佛非人。我等云何能行其法。 答えて曰く、仏は人を度せんと欲して、人法を行ずるを示したまえばなり。若し爾らずんば、人は仏を以って、『人に非ず、我等云何が能く其の法を行ぜんや』、と。
答え、
『仏』は、
『人を度そうとして!』、
『人法』を、
『行っている!』と、
『示されたのである!』。
若し、
爾うしなければ、
『人』は、
『仏』は、
『人ではないのだ!』と、
『思って!』、
こう言うだろう、――
わたし達に、
何故、
其のような、
『法』が、
『行えるのか?』、と。
復次有人因布施得度。為是人故佛受其食。便作是念我食得助益佛身心大歡喜。以歡喜故信受佛語。如大國主臣下請食。王雖不須為攝彼人故多少為食令其歡喜。如是等因緣佛現受食。 復た次ぎに、有る人は、布施に因って度を得れば、是の人の為の故に、仏、其の食を受けたまえば、『我が食は、仏の身を助益せり』と、便ち是の念を作して、心大に歓喜すれば、歓喜を以っての故に仏語を信受す。大国の主は、臣下食に請するに、王は須いずと雖も、彼の人を摂せんが為の故に、多少なりとも、食を為して、、其れをして歓喜せしむるが如し。是れ等の如き因縁に、仏は食を受くるを現したまえり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『布施の因縁で!』、
『度』を、
『得られる!』ので、
是の、
『人』の為に、
『仏』が、
其の、
『食』を、
『受けられる!』と、
便ち、
是の、
『念を作すことになり!』、――
わたしの、
『食』は、
『仏身が益す!』のを、
『助けたのだ!』、と。
『心が大いに歓喜して!』、
『歓喜する!』が故に、
『仏の語』を、
『信受するのである!』。
譬えば、
『大国の主』は、
『臣下』が、
『食』に、
『請じる!』と、
『王には必要なくても!』、
彼の、
『人』を、
『摂する( to hold )!』為の故に、
『多少なりと!』、
『食べて!』、
其の、
『人』を、
『歓喜させる!』のと、
『同じである!』。
是れ等の、
『因縁』の故に、
『仏』は、
『食を受ける!』のを、
『現された!』。
問曰。若佛不食。所受者在何處。 問うて曰く、若し仏食せざれば、受くる所の者は、何処にか在る。
問い、
若し、
『仏』が、
『食われなければ!』、
『受けられた!』所は、
何処に、
『在るのですか?』。
答曰。佛事不可思議。不應致問。 答えて曰く、仏の事は不可思議なれば、応に問を致すべからず。
答え、
『仏』の、
『事』は、
『不可思議である!』が故に、
『問』を、
『致す(incur)!』に、
『相応しくない!』。
  仏事(ぶつじ):梵語 buddha-kRtya, buddha-kaarya の訳、仏の行為( something which is done by Buddha )。
復次有人得佛食而度者。有聞聲見色觸身聞香而得度。須食得度者佛以食與之。如密跡金剛經說。佛以食著口中。有天求佛道者。持至十方施之。 復た次ぎに、有る人は、仏の食を得て度する者なり、有るいは声を聞き、色を見、身に触れ、香を聞きて度を得れば、食を須いて度を得る者には、仏は食を以って之に与えたもう。密跡金剛経に説けるが如きは、『仏は食を以って、口中に著けたもうに、有る天の仏道を求むる者、持して十方に至り、之を施す』、と。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『仏』の、
『食を得て!』、
『度』を、
『得る者であり!』、
有るいは、
『声を聞き、色を見、身に触れ、香を聞いて!』、
『度』を、
『得る者である!』が故に、
『食を須めて!』、
『度を得る!』者には、
『仏』は、
『食』を、
『与えられるのである!』。
例えば、
『密跡金剛経』には、こう説かれている、――
『仏』が、
『食』を、
『口』中に、
『著()かれる!』と、
有る、
『天の仏道を求める!』者が、
其れを、
『持して!』、
『十方』に、
『至り!』、
其の、
『食』を、
『施すのである!』、と。
  参考:『大宝積経巻10密迹金剛力士会』:『密跡力士謂寂意曰。是如來身祕要。若彼眾生皆集一會。或有能見如來身者或不見者。其能見者歡喜觀之。其不見者默然而觀。如來不食。眾生悉見如來服食。又寂意。如有天名精力。初化受道取如來食。而器受之濟諸窮乏。眾人皆見如來而食。見如來舉食著於口中。自然還器。諸天子取往古宿世如來所種。植眾德本而有餘殃。在在所生就與羸劣。使服食之。飢乏困厄不得食者。如來愍此以食授之。是眾生等食斯飯已。身體安隱消除塵勞。眾想休息心性仁和。志存無上。以平等覺發不可思議。以是之故當作是觀。如來不食。如來至真以法為食。所以者何。如來之身成鉤鎖體。猶如金剛鏗然堅強不可破壞。其如來身無有生藏。亦無熟藏。復無堅軟。亦無不淨大小諸便欬唾之穢。』
問曰。若爾者念僧中。說佛食無有眾生能食者。此義云何。 問うて曰く、若し爾らば、『念僧』中に説かく、『仏の食には、衆生の能く食する者有ること無し』、と。此の義云何。
問い、
若し、
爾うならば、
『念僧』中に、こう説かれているが、――
『仏食を食うことのできる!』、
『衆生』は、
『無い!』、と。
此の、
『義』は、
何ういうことですか?
  参考:『大智度論巻22』:『佛一時舍婆提乞食。有一婆羅門姓婆羅埵逝。佛數數到其家乞食。心作是念。是沙門何以來數數如負其債。佛時說偈 時雨數數墮  五穀數數成  數數修福業  數數受果報  數數受生法  故受數數死  聖法數數成  誰數數生死  婆羅門聞是偈已。作是念。佛大聖人具知我心。慚愧取缽入舍盛滿美食以奉上佛。佛不受作是言。我為說偈故得此食我不食也。婆羅門言。是食當與誰。佛言。我不見天及人能消是食者。汝持去置少草地若無虫水中。即如佛教持食著無虫水中。水即大沸煙火俱出。如投大熱鐵。婆羅門見已驚怖言未曾有也。乃至食中神力如是。還到佛所頭面禮佛足。懺悔乞出家受戒。佛言善來。即時鬚髮自墮便成沙門。漸漸斷結得阿羅漢道。』
答曰。佛不與者無有能食。今佛施之是故得食。何以知之。佛食馬麥時以食與阿難。 答えて曰く、仏の与えざる者は、能く食するもの有ること無し。今、仏は之を施したまえば、是の故に食するを得。何を以ってか之を知る、仏の馬麦を食したもう時、食を以って、阿難に与えたまえばなり。
答え、
『仏が与えられなければ!』、
『食える!』者は、
『無い!』が、
今、
『仏』が、
『施された!』、
『食である!』が故に、
之を、
『食うことができるのである!』。
何故、知ることになったのか?――
『仏』が、
『馬麦を食われた!』時、
其の、
『食』を、
『阿難に与えられたからである!』。
  馬麦(めみゃく):馬に食わせる麦。『大智度論巻9上、同注:馬麦』参照。
又沙門二十億耳以好羹上佛。佛以殘羹與頻婆娑羅王。以是故知佛受已與則得食。不與則不能消。 又、沙門二十億耳の好羹を以って、仏に上ぐるに、仏は殘りの羹を以って頻婆娑羅王に与えたまえり。是を以っての故に知る、仏、受け已りて与えたまえば、則ち食するを得、与えたまわざれば、則ち消する能わず。
又、
『沙門二十億耳』が、
『好い羹( thick soup, stew )』を、
『仏』に、
『上げる!』と、
『仏』は、
『殘りの羹』を、
『頻婆娑羅王』に、
『与えられた!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『仏』が、
『受けて!』、
『与えられれば!』、
是の、
『食』を、
『食うことができる!』が、
『仏』が、
『与えられなければ!』、
『消化することができない!』、と。
  二十億耳(にじゅうおくに):阿羅漢比丘の名。『大智度論巻9下注:二十億耳、巻22上』参照。
  頻婆娑羅王(びんばしゃらおう):摩竭陀国の王にして、仏法の外護者。『大智度論巻17上注:頻婆娑羅王』参照。
  参考:『摩訶僧祇律巻31』:『復次佛住王舍城尸陀林。爾時。世尊身少不和。耆舊童子往至佛所。頭面禮足白佛言。世尊。聞世尊不和。可服下藥。世尊雖不須。為眾生故願受此藥。使來世眾生開視法明。病者受藥施者得福。爾時世尊默然而受。耆舊復念。不可令世尊如常人法服藥。當以藥熏青蓮華授與世尊。世尊三嗅藥勢。十八行下。下已光相不悅。爾時阿難語尊者大目連言。世尊服藥何處有隨病食。時目連即觀見瞻波國。恕奴二十億子日煮五百味食。是時目連。即以神力到其前立。時二十億子。見尊者目連威儀神德。心懷踊躍歎未曾有。目連爾時即說偈言   天尊甚奇妙  無量功德聚  身中小不和  宜須隨病食  汝今得善利  當獲大果報  聲聞諸弟子  仰比於世尊  喻如須彌山  得一芥子分  時長者子聞說此偈。心大歡喜。歎言善哉。今得斯利。即辦餚膳請目連住。食時目連作是念。我為世尊索隨病食。不宜先食。即便受食置虛空中。然後自食。二十億童子語尊者目連言。我欲令世尊先食然後我食。云何得知。目連言。此食器須臾當還。自知食訖。爾時目連屈申臂頃。到世尊所奉食世尊。世尊食已器乘空而還。時恕奴二十億童子遙見器還。起迎頂戴而受。時瓶沙王來問訊世尊。聞食香問言。此何香。答言食香。佛語大王。欲食如來殘食不。白言欲食世尊。我大得善利。得如來殘食。食已白佛言。世尊。我生王家已來。未曾得如是食。世尊。此為是天食龍食鬱單越食鬼神食耶。佛言。此非天食乃至非。鬼神食也。此是王土恕奴二十億童子家常所食耳。世尊即為王說恕奴二十億童子腳下金色毛長四寸福德如是。‥‥』
復次為佛設食。佛未食者人不能消。已食殘者佛與能消。以是故雖實不食。為度人故現受食畜缽。 復た次ぎに、仏の為に食を設くるに、仏の未だ食したまわざる者は、人の消する能わざるも、既に食して残れる者を仏与えたまえば、能く消す。是を以っての故に実に食わずと雖も、人を度せんが為の故に、食を受けて鉢を畜うるを現したもう。
復た次ぎに、
『仏』の為に、
『設けられた!』、
『食』は、――
『仏』が、
未だ、
『食われなければ!』、
『人』には、
『消化することはできない!』が、
既に、
『食われた殘り!』を、
『仏が与えられれば!』、
『消化することができる!』ので、
是の故に、
『実に食われなくても!』、
『人を度する!』為の故に、
『食を受けて!』、
『鉢を蓄えられるのである!』。
佛不答十四難者。佛有四種答。一者定答。二者分別義答。三者反問答。四者置答。此十四難法應置答。 仏の答えたまわざる十四難とは、仏には四種の答有り、一には定んで答え、二には義を分別して答え、三には問を反して答え、四には置きて答えたもう。此の十四難の法は、応に置きて答うべし。
『仏』が、
『十四難に答えられない!』のは、――
『仏』には、
『四種の答が有り!』、
一には、
『決定して!』、
『答えられ!』、
二には、
『義を分別して!』、
『答えられ!』、
三には、
『問を反して!』、
『答えられ!』、
四には、
『置いて( to be kept )!』、
『答えられる!』。
此の、
『十四難の法』は、
当然、
『置いて!』、
『答えられねばならない!』。
  十四難(じゅうしなん):仏の答えざる十四の難問の意。『大智度論巻7上注:十四無記』参照。
  四種答(ししゅとう):人の問を発するに、仏には答えて四種の別有るを云う。即ち「大智度論巻2」に、「四種の答あり、一には決了して答う、仏の第一なる、涅槃の安隠なるが如し。二には義を解して答う。三には問を反して答う。四には置きて答うるなり」と云える是れなり。又「倶舎論巻19」等には、之を四記と称す。『大智度論巻35下注:四記』参照。
  十四難:(1)世界及び我は常なり。(2)世界及び我は無常なり。(3)世界及び我は、または有常にして、または無常なり。(4)世界及び我は、また有常に非ず、また無常にも非ず。(5)世界及び我は有辺なり。(6)無辺なり。(7)または有辺にして、または無辺なり。(8)または有辺に非ずして、または無辺に非ず。(9)死後に神有りて後世に去る。(10)神の後世に去るもの無し。(11)または神の去るもの有り、または神の去るもの無し。(12)死後に、また神の去るもの有るに非ず、また神の後世に去るもの無きにも非ず。(13)これ身にして、これ神なり。(14)身、異なり、神、異なる。
又復若有所利益事則答。外道所問不為涅槃。增長疑惑故以置答。知必有所益者分別為答。必無所益置而不答。以是因緣故知。佛是一切智人。 又復た若し利益する所の事有れば、則ち答えたもう。外道の問える所は、涅槃の為にあらずして、疑惑を増長するが故を以って、置きて答うるも、必ず益する所有りと知りたまわば、分別して為に答え、必ず益する所無ければ、置きて答えたまわず。是の因縁を以っての故に知る、仏は是れ一切智の人なり。
又復た、
若し、
『利益する所』が、
『有れば!』、
『答えられる!』が、
『外道の問う!』所は、
『涅槃の為でなく!』、
『疑惑を増長する!』が故に、
『置いて答える!』ことを、
『用いられた!』が、
必ず、
『利益する所が有る!』と、
『知られれば!』、
『分別して!』、
『答えられ!』、
必ず、
『利益する所が無ければ!』、
『置いて!』、
『答えられない!』ので、
是の故に、こう知ることになる、――
『仏』とは、
『一切智の!』、
『人である!』、と。
復次若佛說三種法。有為法無為法不可說法。則為已說一切法竟。 復た次ぎに、若し仏が、三種の法なる有為法、無為法、不可説法を説きたまえば、則ち已に一切の法を説き竟れりと為す。
復た次ぎに、
『仏』が、
『有為法、無為法、不可説法という!』、
『三種の法』を、
『説かれれば!』、
既に、
『一切の法』を、
『説き竟られたことになる!』。
  参考:『大智度論巻2』:『復次一切法略說有三種。一者有為法。二者無為法。三者不可說法。此已攝一切法。問曰。十四難不答。故知非一切智人。何等十四難。世界及我常世界及我無常。世界及我亦有常亦無常。世界及我亦非有常亦非無常。世界及我有邊。無邊。亦有邊亦無邊。亦非有邊亦非無邊。死後有神去後世。無神去後世。亦有神去亦無神去。死後亦非有神去。亦非無神去後世。是身是神。身異神異。若佛一切智人。此十四難何以不答。答曰。此事無實故不答。諸法有常無此理。諸法斷亦無此理。以是故佛不答。譬如人問搆牛角得幾升乳。是為非問。不應答。復次世界無窮如車輪。無初無後。復次答此。無利有失墮惡邪中。佛知十四難常覆四諦諸法實相。如渡處有惡虫水不應將人渡。安隱無患處。可示人令渡。復次有人言。是事非一切智人不能解。以人不能知故佛不答』
復次是諸外道。依止常見依止滅見故。問以常滅。實相無故佛不答。如外道所見。常相無常相無是事。何以故。外道取相著。是常滅故。佛雖說常無常相。但為治用故。 復た次ぎに、是の諸の外道は、常見に依止し、滅見に依止するが故に問うに常、滅を以ってし、実相無きが故に仏は答えたまわず。外道の所見の如き常相、無常相は、是の事無ければなり。何を以っての故に、外道は相を取りて、是の常、滅に著するが故、仏は、常、無常相を説きたもうと雖も、直だ治せんが為に用いたもうが故なり。
復た次ぎに、
是の、
『諸の外道』は、
『常見に依止するか、滅見(断見)に依止するかである!』が故に、
『常か、滅かを問うだけで!』、
『実相が無い!』が故に、
『仏』は、
『答えられなかった!』。
『外道の所見のような!』、
『常相とか、無常相という!』、
『事』は、
『無いのである!』。
何故ならば、
『外道』は、
『相を取って!』、
是の、
『常や、滅に!』、
『著するからであり!』、
『仏』は、
『常や、無常という!』、
『相』を、
『説かれても!』、
但だ、
『修治する!』為に、
『用いられるだけだからである!』。
復次若人說。無者為有有者為無。如是人則是過罪。佛不答則無咎。如日照天下。不能令高者下下者高。但以顯現而已。佛亦如是於諸法無所作。諸法有者說有。無者說無。 復た次ぎに、若しは人にして、無き者を有りと為し、有る者を無しと為して説かば、是の如き人は、則ち是れ過罪なり。仏は答えたまわざれば、則ち咎無し。日の天下を照らすに、高き者をして下し、下き者をして高からしむ能わずして、但だ以って顕現するのみなるが如く、仏も亦た是の如く、諸法に於いて所作無く、諸法にして有れば有りと説き、無ければ無しと説きたもう。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『無い!』者を、
『有る!』と、
『説き!』、
『有る!』者を、
『無い!』と、
『説けば!』、
是のような、
『人』には、
『過罪』が、
『有る!』が、
『仏』は、
『答えられない!』ので、
『咎』は、
『無い!』。
譬えば、
『日』は、
『天下を照らす!』が、
『高い者を、下(ひく)くすることもできず!』、
『下い者を、高くすることもできず!』。
但だ、
『高いか、下いか?』を、
『顕現するだけであるように!』、
『仏』も、
是のように、
『諸の法』に於いて、
『作される!』所は、
『無く!』、
『諸の法』が、
『有れば!』、
『有る!』と、
『説き!』、
『無ければ!』、
『無い!』と、
『説かれるのである!』。
如說生因緣老死。乃至無明因緣諸行。有佛無佛是因緣法相續常在世間。諸佛出世為眾生顯示此法。 『生は老死の因縁たりて、乃至無明は諸行の因縁たり』と説くが如きは、仏有るも、仏無きも、是の因縁の法は、相続して常に世間に在り。諸仏は世に出でて、衆生の為に此の法を顕示したもう。
例えば、こう説かれているが、――
『生は老死の因縁であり、乃至無明は諸行の因縁である!』、と。
是の、
『因縁の法』は、
『仏が有ろうと、無かろうと!』、
常に、
『相続して!』、
『世間に在り!』、
諸の、
『仏は世に出て!』、
『衆生』の為に、
此の、
『法』を、
『顕示されるのである!』。
復次若答常滅則為有咎。如問石女黃門兒修短黑白何類。此問則不應答。十四難亦如是。但以常滅為本故問。無常滅故佛不答。如是等種種因緣故。佛不答十四難無咎。 復た次ぎに、若し常、滅を答うれば、則ち咎有りと為す。石女、黄門の児の脩短、黒白、何類を問うが如し。此れを問わば、則ち応に答うべからず。十四難も亦た是の如く、但だ常、滅を以って本と為すが故に問い、常、滅無きが故に仏は答えたまわず。是れ等の如き種種の因縁の故に、仏は十四難に答えたまわざるも、咎無し。
復た次ぎに、
若し、
『常、滅を答えれば!』、
『咎』が、
『有ることになる!』。
譬えば、
『石女や、黄門の児』は、
『背が高いのか、低いのか?』、
『色は黒いのか、白いのか?』、
『何のような類なのか?』など、
此のような、
『問には!』、
『答えるべきでないように!』、
『十四難』も、
是のように、
『常、滅』を、
『本だとする!』が故に、
『問うのであり!』、
『常、滅は無い!』が故に、
『仏』は、
『答えられないのである!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『仏』が、
『十四難に答えられなくても!』、
『咎』は、
『無い!』。
  石女(しゃくにょ):子を生まない女。淫を為し得ない女の意。
  黄門(おうもん):宦者の称。婦を娶るも終身子の無い男子を云う。
  修短(しゅうたん):長短に同じ。
佛處處說有我。處處說無我者。若人解佛法義。知假名者說言有我。若人不解佛法義。不知假名者說無我。 仏は処処に我有りと説き、処処に我無しと説きたまえるは、若し人、仏法の義を解して、仮名を知る者なれば、説いて我有りと言い、若し人、仏法の義を解せずして、仮名を知らざる者なれば説いて、我無しと説きたまえり。
『仏』は、
処処に、
『我は有る!』と、
『説き!』、
処処に、
『我は無い!』と、
『説かれた!』のは、――
若し、
『人』が、
『仏法の義を理解して!』、
『仮名(空と同義)を知っていれば!』、
『我は有るぞ!』と、
『説かれたのであり!』、
『仏法の義を理解せず!』、
『仮名を知らなければ!』、
『我は無い!』と、
『説かれただけである!』。
復次佛為眾生欲墮斷滅見者。說言有我受後世罪福。若人欲墮常見者。為說言無我無作者受者。離是五眾假名。更無一法自在者。 復た次ぎに、仏は、衆生の断滅見に堕せんと欲する者の為に説いて、『我有りて、後世の罪福を受く』、と言い、若し人、常見に堕せんと欲すれば、為に説いて、『我無し、作者も、受者も無し。是の五衆の仮名を離るれば、更に一法の自在なる者無し』、と言えり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『断滅見に墮ちようとする!』、
『衆生には!』、
『説いて!』、こう言われ、――
『我』は、
『有るし!』、
『後世の罪福』を、
『受ける!』者も、
『有る!』、と。
『常見に堕ちようとする!』、
『人には!』、
『説いて!』、こう言われた、――
『我』は、
『無いし!』、
『業を作る!』者も、
『報を受ける!』者も、
『無い!』。
是の、
『五衆という!』、
『仮名』を、
『離れれば!』、
更に、
『一法として!』、
『自在である!』者は、
『無いのだ!』、と。
問曰。若爾者何等為實。 問うて曰く、若し爾らば、何等をか、実と為す。
問い、
若し、
爾うならば、
何のようなものが、
『実なのですか?』。
答曰。無我是實。如法印中說。一切作法無常。一切法無我。寂滅是安隱。涅槃法印名為諸法實相。若人善根未熟智慧不利。佛不為說是深無我法。若為說眾生即墮斷滅見中。 答えて曰く、無我は是れ実なり。法印中に、『一切の作法は無常にして、一切の法は無我なり。寂滅は是れ安隠の涅槃なりの法印を名づけて諸法の実相と為す』、と説けるが如し。若し人、善根未だ熟せずして、智慧利ならざれば、仏は為に是の深き、無我の法を説きたまわず。若し為に説かば、衆生は即ち断滅見中に堕せん。
答え、
『無我』が、
『実である!』。
例えば、
『法印』中に、こう説いた通りである、――
『一切の作法は、無常であり!』、
『一切の法は、無我であり!』、
『寂滅は、安隠な涅槃である!』という、
『法印』を、
『諸法の実相』と、
『称する!』、と。
若し、
『人』の、
『善根が未熟ならば!』、
『智慧』が、
『利くない!』ので、
『仏』は、
是の、
『深い!』、
『無我という!』、
『法』は、
『説かれないだろう!』、
若し、
『説かれれば!』、
『衆生』が、
『断滅見』中に、
『堕ちてしまうからである!』。
  参考:『大智度論巻22』:『問曰。何等是佛法印。答曰。佛法印有三種。一者一切有為法。念念生滅皆無常。二者一切法無我。三者寂滅涅槃。行者知三界皆是有為生滅。作法先有今無今有後無。念念生滅相續相似生故。可得見知。如流水燈焰長風相似相續。故人以為一眾生於無常法中常顛倒故。謂去者是常住。是名一切作法無常印。一切法無我。諸法內無主無作者。無知無見無生者無造業者。一切法皆屬因緣。屬因緣故不自在。不自在故無我我相不可得故。如破我品中說。是名無我印。問曰。何以故。但作法無常一切法無我。答曰。不作法無因無緣故。不生不滅。不生不滅故。不名為無常。復次不作法中。不生心著顛倒。以是故不說是無常。可說言無我。有人說。神是常遍知相。以是故說一切法中無我。寂滅者是涅槃。三毒三衰火滅故名寂滅印。問曰。寂滅印中何以但一法不多說。答曰。初印中說五眾。二印中說一切法皆無我。第三印中說二印果。是名寂滅印。一切作法無常。則破我所外五欲等。若說無我破內我法。我我所破故。是名寂滅涅槃。行者觀作法無常。便生厭厭世苦。既知厭苦存著觀主。謂能作是觀。以是故有第二法印。知一切無我。於五眾十二入十八界十二因緣中。內外分別推求觀主不可得。不可得故是一切法無我作如是知已不作戲論。無所依止但歸於滅。以是故說寂滅涅槃印。』
問曰。若爾者如迦葉問中佛說。我是一邊無我是一邊。離此二邊名為中道。今云何言無我是實有我為方便說。 問うて曰く、若し爾らば、『迦葉問』中の如きには、仏は、『我は、是れ一辺、無我は是れ一辺なり。此の二辺を離るるを名づけて、中道と為す』、と説きたまえり。今は云何が言わく、『無我は是れ実なり、有我を方便の説と為す』、と。
問い、
若し、
爾うならば、
『迦葉問』中などには、
『仏』は、こう説かれているのに、――
『我と、無我と!』を、
各、
『一辺として!』、
此の、
『二辺を離れる!』のを、
『中道』と、
『称する!』、と。
今は、
何故、こう言うのですか?――
『無我』は、
『実である!』が、
『有我』は、
『方便として!』、
『説くのである!』、と。
  参考:『大宝積経巻112』:『復次迦葉。真實觀者。觀地種非常亦非無常。觀水火風種非常亦非無常。是名中道真實正觀。所以者何。以常是一邊無常是一邊。常無常是中無色無形無明無知。是名中道諸法實觀。我是一邊無我是一邊。我無我是中。無色無形無明無知。是名中道諸法實觀。』
答曰。說無我有二種。一者取無我相著無我。二者破我不取無我亦不著。無我自然捨離。如先說無我則是邊。後說無我是中道。 答えて曰く、無我を説くに二種有り、一には無我の相を取りて、無我に著す、二には我を破るも、無我を取らず、亦た無我にも著せずして、自然に捨離す。先に、『無我は、則ち是れ辺なり』、と説き、後に、『無我は是れ中道なり』、と説けるが如し。
答え、
『無我を説く!』者には、
『二種有り!』、
一には、
『無我という!』、
『相を取って!』、
『無我』に、
『著する者であり!』、
二には、
『我を破れば!』、
『無我を取ることもなく!』、
亦た、
『無我』に、
『著することもなく!』、
自然に、
『我、無我』を、
『捨離する者である!』。
例えば、
先に、
『無我とは!』、
『辺である!』と、
『説きながら!』、
後に、
『無我とは!』、
『中道である!』と、
『説くようなものである!』。
復次佛說有我無我。有二因緣。一者用世俗說故有我。二者用第一實相說故無我。如是等說有我無我無咎。 復た次ぎに、仏の有我、無我を説きたもうには、二因縁有り、一には世俗を用いて説くが故の有我、二には第一実相を用いて説くが故の無我なり。是れ等の如く、有我、無我を説きたまえるも、咎無し。
復た次ぎに、
『仏』が、
『有我や、無我を説かれる!』のには、
『二因縁が有り!』、
一には、
『世俗の法を用いる!』が故に、
『有我』を、
『説き!』、
二には、
『第一実相を用いる!』が故に、
『無我』を、
『説かれた!』ので、
是れ等のように、
『有我や、無我を説かれても!』、
『咎』は、
『無い!』。
佛處處說諸法有。處處說諸法無者。問曰。不應別說有無。有即是有我。無即是無我。何以更說。 仏は処処に諸法有りと説き、処処に諸法無しと説きたもうに、
問うて曰く、応に有無を別にして説くべからず。有は即ち是れ有我、無は即ち是れ無我なるに、何を以ってか、更に説く。
『仏』は、
処処に、
『諸法が有る!』と、
『説かれ!』、
処処に、
『諸法は無い!』と、
『説かれた!』とは、――
問い、
『諸法』の、
『有、無』を、
『別に!』、
『説くべきではない!』。
『有ならば!』、
即ち、
『有我であり!』、
『無ならば!』、
即ち、
『無我だからである!』。
何故、
更に、
『説くのですか?』。
答曰。不然佛法有二種空。一者眾生空。二者法空。說無我示眾生空。說無有法示法空。說有我示知假名相不著我者說有我於五眾中著我相者。為破是著我故說。但有五眾。無常苦空無我寂滅涅槃是名有。 答えて曰く、然らず。仏法には二種の空有り、一には衆生の空、二には法の空なり。我無き説いて、衆生の空なるを示し、法の有ること無きを説いて、法の空なるを示し、『我は有り』と説いて、仮名の相を知り、我に著せざる者に示し、我は五衆中に有りと説いて、我相に著する者には、是の著する我を破らんが為の故に、『但だ五衆のみ有り、無常、苦、空、無我、寂滅、涅槃は是れ名のみ有り』、と説く。
答え、
そうでない!――
『仏の法』には、
『二種の空が有る!』、
一には、
『衆生という!』、
『空であり!』、
二には、
『法という!』、
『空である!』が、
『我は無い!』と、
『説いて!』、
『衆生は空である!』と、
『示し!』、
『法は無い!』と、
『説いて!』、
『法は空である!』と、
『示し!』、
『我は有る!』と、
『説いて!』、
『仮名の相を知って!』、
『我に著さない!』者に、
『示し!』、
『我は五衆中に有る!』と、
『説いて!』、
『我相』に、
『著する!』者には、
是の、
『著している!』、
『我』を、
『破る!』為の故に、
但だ、
『五衆のみが有り!』、
『無常も、苦、空、無我、寂滅、涅槃も!』、
『名が有るだけだ!』と、
『説く!』。
復次有二種斷見。一者無後世受罪福苦樂者。為說有我。從今世至後世受罪福果報。二者一切法皆空無著是邪見。為是眾生故。說有一切法。所謂有為無為法。 復た次ぎに、二種の断見有り、一には後世に罪福の苦楽を受くる者無ければ、為に『我有り、今世より後世に至りて、罪福の果報を受く』と説き、二には一切法は皆空、無なりと、是の邪見に著すれば、是の衆生の為の故に、『一切法有り、謂わゆる有為、無為法なり』、と説く。
復た次ぎに、
『断見』には、
『二種有り!』、
一には、
『後世に!』、
『罪福の苦楽を受ける!』者は、
『無い!』。
是のような、
『邪見に著する!』者の為の故に、こう説く、――
『今世より後世に至る!』、
『我が有って!』、
『罪福の果報』を、
『受ける!』、と。
二には、
『一切の法』は、
皆、
『空か、無である!』。
是のような、
『邪見に著する!』者の為の故に、こう説く、――
『一切の法は有り!』、
謂わゆる、
『有為法と、無為法である!』、と。
復次不大利根眾生。為說無我。利根深智眾生說諸法本末空。何以故。若無我則捨諸法。如說
 若了知無我  有如是人者 
 聞有法不喜  無法亦不憂
復た次ぎに、大利根ならざる衆生の為に、無我を説き、利根にして、深智の衆生には、諸法の本末空なるを説く。何を以っての故に、若し無我なれば、則ち諸法を捨つればなり。説の如し、
若し無我を了知せば、是の如き人有らば、
法有るを聞いて喜ばず、法無きにも亦た憂えず。
復た次ぎに、
『大利根でない!』、
『衆生』の為には、
『我は無い!』と、
『説き!』、
『利根、深智の!』、
『衆生』の為には、
『諸法は本から、末まで空である!』と、
『説く!』、
何故ならば、
若し、
『無我ならば!』、
『諸法』を、
『捨てることになるからである!』。
譬えば、こう説く通りである、――
若し、
『我』は、
『無い!』と、
『了知すれば!』、
是のような、
『人が有れば!』、
『法が有る!』と、
『聞いても!』、
『喜ばず!』、
『法が無い!』と、
『聞いても!』、
『憂えない!』、と。
說我者。一切法所依止處。若說無我者。一切法無所依止。 我を説けば、一切の法は、依止せらるる処なり。若し無我を説けば、一切の法に、依止する所無し。
若し、
『我が有る!』と、
『説けば!』、
『一切の法』は、
『依止される!』、
『処であり!』、
『我は無い!』と、
『説けば!』、
『一切の法』に、
『依止する!』所が、
『無い!』。
復次佛法二種說。若了了說則言一切諸法空。若方便說則言無我。是二種說法皆入般若波羅蜜相中。以是故佛經中說趣涅槃道皆同一向無有異道。 復た次ぎに、仏の法は二種に説かれて、若し了了に説きたまえば、則ち『一切諸法は空なり』と言い、若し方便して説きたまえば、則ち『我無し』と言う。是の二種の説法は、皆般若波羅蜜の相中に入る。是を以っての故に仏経中に説かく、『涅槃に趣く道は、皆同一に向いて、異道有ること無し』、と。
復た次ぎに、
『仏』の、
『説法』には、
『二種有り!』、
若し、
『了了に説かれれば!』、こう言われ、――
一切の、
諸の、
『法は空である!』、と。
若し、
『方便して説かれれば!』、こう言われたが、――
『我は無い!』、と。
是の、
『二種の説法』は、
皆、
『般若波羅蜜の相』中に、
『入る!』。
是の故に、
『仏の経』中には、こう説かれている、――
『涅槃に趣く!』、
『道』は、
皆、
『方向が同一であり!』、
『異道は無い!』、と。
復次有我有法。多為在家者說。有父母罪福大小業報。所以者何。在家人多不求涅槃故。著於後世果報。為出家人多說無我無法。所以者何。出家人多向涅槃故。求涅槃者不受一切法故。自然滅是涅槃。 復た次ぎに、『有我、有法』は、多く在家の者の為に、『父母、罪福、大小の業報有り』と説きたもう。所以は何んとなれば、在家人は、多く涅槃を求めざるが故に、後世の果報に著すればなり。出家人の為には多く、『無我、無法』を説きたもう。所以は何んとなれば、出家人は多く涅槃に向うが故に、涅槃を求むる者は、一切法を受けざるが故なり。自然に滅する、是れ涅槃なればなり。
復た次ぎに、
『有我とか、有法とか!』は、
多く、
『在家の者』の為に、
『父母や、罪福や、大小の業報が有る!』と、
『説かれている!』。
何故ならば、
『在家人』は、
多く、
『涅槃を求めることなく!』、
『後世の果報』に、
『著するからである!』。
『出家人』の為には、
多く、
『無我、無法である!』と、
『説かれている!』。
何故ならば、
『出家人』は、
多く、
『涅槃に向かう!』が故に、
『涅槃を求める!』者は、
『一切の法』を、
『受けないからである!』。
何故ならば、
『自然に滅する!』のが、
『涅槃だからである!』。
復次有人信等諸根未成就故。先求有所得然後能捨。為是人故佛說諸善法捨諸惡法。有人信等諸根成就故。於諸法不求有所得。但求遠離生死道。為是人故佛說諸法空無所有。此二皆實。 復た次ぎに、有る人は信等の諸根の未だ成就せざるが故に、先に所得有るを求め、然る後に能く捨つれば、是の人の為の故に、仏は、諸の善法を説いて、諸の悪法を捨てしめたもう。有る人は、信等の諸根成就せるが故に、諸法に於いて所得有るを求めずして、但だ生死の道を遠離するを求むれば、是の人の為の故に、仏は、『諸法は空にして、無所有なり』、と説きたまえば、此の二は皆実なり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『信等の諸根』が、
未だ、
『成就していない!』が故に、
先に、
『所得』を、
『有すること!』を、
『求めて!』、
その後に、
『所得』を、
『捨てることができる!』ので、
是の、
『人』の為に、
『仏』は、
諸の、
『善法を説いて!』、
諸の、
『悪法』を、
『捨てさせられる!』。
有る、
『人』は、
『信等の諸根が成就している!』が故に、
諸の、
『法』に於いて、
『所得を有する!』ことを、
『求めず!』、
但だ、
『生死の道』を、
『遠離することのみ!』を、
『求める!』ので、
是の、
『人』の為に、
『仏』は、
諸の、
『法は空であり、無所有である!』と、
『説かれたのであり!』、
此の、
『二説』は、
皆、
『実である!』。
如無名指亦長亦短觀中指則短觀小指則長。長短皆實。有說無說亦如是。說有或時是世俗或時是第一義。說無或時是世俗或時是第一義。佛說是有我無我皆是實。 無名指の亦た長、亦た短なるは、中指を観れば則ち短、小指を観れば則ち長なるに、長、短皆実なるが如く、有説、無説も亦た是の如く、有と説くも、或は時に是れ世俗、或は時に是れ第一義なり。無と説くも、或は時に是れ世俗、或は時に是れ第一義なり。仏の説きたまえる、是の有我、無我は、皆是れ実なり。
譬えば、
『無名指』が、
『長いとか、短いとか!』は、
『中指を観れば!』、
則ち、
『短く!』、
『小指を観れば!』、
則ち、
『長く!』、
『長、短』は、
皆、
『実であるように!』、
『有と説かれたり、無と説かれたりする!』のも、
是のように、
『有と説かれても!』、
或は、
『時には!』、
『世俗であり!』、
或は、
『時には!』、
『第一義であり!』、
『無と説かれても!』、
或は、
『時には!』、
『世俗であり!』、
或は、
『時には!』、
『第一義である!』ので、
『仏』が、
是の、
『有我や、無我を説かれれば!』、
皆、
『実なのである!』。
問曰。若是二事皆實。佛何以故多讚嘆空而毀訾有。 問うて曰く、若し是の二事にして、皆実ならば、仏は何を以っての故に、多く空を讃嘆して、有を毀呰したまえる。
問い、
若し、
是の、
『二事』が、
皆、
『実ならば!』、
『仏』は、
何故、
多く、
『空を讃嘆して!』、
『有』を、
『毀呰( to accuse )されたのですか?』。
  毀訾(きし):やぶってそしる。過失を非難する。
答曰。空無所有。是十方諸佛一切賢聖法藏。如般若波羅蜜囑累品中說。般若波羅蜜。是三世十方諸佛法藏。般若波羅蜜。即是無所有空。佛或時說有法。為教化眾生故。久後皆當入無所有法藏中。 答えて曰く、空、無所有は、是れ十方の諸仏、一切の賢聖の法蔵なり。般若波羅蜜の嘱累品中に、『般若波羅蜜は、是れ三世十方諸仏の法蔵なり。般若波羅蜜とは、即ち是れ無所有空なり』、と説けるが如し。仏は或は、『法有り』と説きたまえるも、衆生を教化せんが為の故にして、久しき後には、皆当に、無所有の法蔵中に入りたもうべし。
答え、
『空、無所有』は、
『十方の諸仏や、一切の賢聖たち!』の、
『法蔵だからである!』。
例えば、
『般若波羅蜜の嘱累品』中には、こう説かれている、――
『般若波羅蜜』は、
『三世十方の諸仏』の、
『法蔵である!』が、
『般若波羅蜜』とは、
即ち、
『無所有空である!』、と。
『仏』は、
或は時に、
『有という!』、
『法』を、
『説かれる!』が、
『衆生』を、
『教化する!』為の故に、
『説かれたのであり!』、
久しい後には、
皆、
『無所有という!』、
『法蔵』中に、
『入られるのである!』。
  参考:『大品般若経巻20累教品(嘱累品)』:『何以故。般若波羅蜜中生諸佛阿耨多羅三藐三菩提。阿難。過去未來諸佛阿耨多羅三藐三菩提。皆從般若波羅蜜中生。今現在東方南方西方北方四維上下諸佛阿耨多羅三藐三菩提。亦從般若波羅蜜生。以是故。阿難。諸菩薩摩訶薩欲得阿耨多羅三藐三菩提。應當學六波羅蜜。何以故。阿難。六波羅蜜是菩薩摩訶薩母。生諸菩薩故。阿難。若有菩薩摩訶薩學是六波羅蜜。皆得阿耨多羅三藐三菩提。以是故。我以六波羅蜜倍復囑累汝。阿難。是六波羅蜜是諸佛無盡法藏。阿難。十方諸佛現在說法。皆從六波羅蜜法藏中出。過去諸佛亦從六波羅蜜中。學得阿耨多羅三藐三菩提。未來諸佛亦從六波羅蜜中。學得阿耨多羅三藐三菩提。過去未來現在諸佛弟子。皆從六波羅蜜中學得滅度。已得今得當得滅度。』
  参考:『小品般若経巻9嘱累品』:『是故阿難。我以般若波羅蜜囑累於汝。汝所聞受持。皆應讀誦悉令通利善念在心。當令章句分明。何以故。般若波羅蜜是過去未來現在諸佛法藏故。』
問曰。若爾者云何般若波羅蜜言若觀五眾空無所有非是道。 問うて曰く、若し爾らば、云何が般若波羅蜜に、『若し五衆の空、無所有を観れば、是れ道なるに非ず』、と言う。
問い、
若し、そうならば、――
何故、
『般若波羅蜜』中に、こう言うのですか?――
『五衆』の、
『空、無所有』は、
『道ではない!』、と。
  参考:『大品般若経巻18不証品』:『須菩提白佛言。世尊。如佛所說菩薩摩訶薩不應空法作證。世尊。云何菩薩住空法中而不作證。佛告須菩提。若菩薩摩訶薩具足觀空先作是願。我今不應空法作證。我今學時非是證時。菩薩摩訶薩。不專攝心繫在緣中。以是故。菩薩摩訶薩於阿耨多羅三藐三菩提中不退。亦不取漏盡證。』
答曰。是般若波羅蜜中說有無皆無。如長爪梵志經中說。三種邪見。一者一切有二者一切無三者半有半無。 答えて曰く、是の般若波羅蜜中には、『有、無は皆無し』と説く。長爪梵志経中に説けるが如し、『三種の邪見あり、一には一切有、二には一切無、三には半ば有、半ば無なり』、と。
答え、
是の、
『般若波羅蜜』中には、こう説かれている、――
『有、無』は、
皆、
『無い!』、と。
例えば、
『長爪梵志経』中に、こう説く通りである、――
『邪見』には、
『三種有り!』、
一には、
『一切は有である!』、
二には、
『一切は無である!』、
三には、
『半ばは有であるが、半ばは無である!』、と。
  長爪梵志(ちょうそうぼんし):仏弟子の名。『大智度論巻25上注:長爪梵志』参照。
  参考:『雑阿含経巻34(969)』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。時。有長爪外道出家來詣佛所。與世尊面相問訊慰勞已。退坐一面。白佛言。瞿曇。我一切見不忍。佛告火種。汝言一切見不忍者。此見亦不忍耶。長爪外道言。向言一切見不忍者。此見亦不忍。佛告火種。如是知.如是見。此見則已斷.已捨.已離。餘見更不相續.不起.不生。火種。多人與汝所見同。多人作如是見.如是說。汝亦與彼相似。火種。若諸沙門.婆羅門捨斯等見。餘見不起。是等沙門.婆羅門世間亦少少耳。火種。依三種見。何等為三。有一如是見.如是說。我一切忍。復次。有一如是見.如是說。我一切不忍。復次。有一如是見.如是說。我於一忍.一不忍。火種。若言一切忍者。此見與貪俱生。非不貪。與恚俱生。非不恚。與癡俱生。非不癡。繫。不離繫。煩惱。非清淨。樂取。染著生。若如是見。我一切不忍。此見非貪俱.非恚俱.非癡俱。清淨非煩惱。離繫非繫。不樂不取。不著生。火種。若如是見。我一忍.一不忍。彼若忍者。則有貪。乃至染著生。若如是見不忍者。則離貪。乃至不染著生。彼多聞聖弟子所學言。我若作如是見.如是說。我一切忍。則為二者所責.所詰。何等二種。謂一切不忍。及一忍.一不忍。則為此等所責。責故詰。詰故害。彼見責.見詰.見害故。則捨所見。餘見則不復生。如是斷見.捨見.離見。餘見不復相續。不起不生。彼多聞聖弟子作如是學。我若如是見.如是說。我一切不忍。者則有二種二詰。何等為二。謂我一切忍。及一忍.一不忍。如是二責二詰。乃至不相續。不起不生。彼多聞聖弟子作如是學。我若作如是見.如是說。一忍.一不忍。則有二責二詰。何等二。謂如是見.如是說。我一切忍。及一切不忍。如是二責。乃至不相續。不起不生。復次。火種。如是身色麤四大。聖弟子當觀無常.觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。若聖弟子觀無常.觀滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨住者。於彼身.身欲.身念.身愛.身染.身著。永滅不住。火種。有三種受。謂苦受.樂受.不苦不樂受。此三種受。何因。何集。何生。何轉。謂此三受觸因.觸集.觸生.觸轉。彼彼觸集。則受集。彼彼觸滅。則受滅。寂靜.清涼.永盡。彼於此三受。覺苦.覺樂.覺不苦不樂。彼彼受若集.若滅.若味.若患.若出如實知。如實知已。即於彼受觀察無常.觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。彼於身分齊受覺如實知。於命分齊受覺如實知。若彼身壞命終後。即於爾時一切受永滅.無餘永滅。彼作是念。樂受覺時。其身亦壞。苦受覺時。其身亦壞。不苦不樂受覺時。其身亦壞。悉為苦邊。於彼樂覺。離繫不繫。於彼苦覺。離繫不繫。於不苦不樂覺。離繫不繫。於何離繫。離於貪欲.瞋恚.愚癡。離於生.老.病.死.憂.悲.惱苦。我說斯等。名為離苦。當於爾時。尊者舍利弗受具足始經半月。時。尊者舍利弗住於佛後。執扇扇佛。時。尊者舍利弗作是念。世尊歎說於彼彼法。斷欲.離欲。欲滅盡.欲捨。爾時。尊者舍利弗即於彼彼法觀察無常。觀生滅.觀離欲.觀滅盡.觀捨。不起諸漏。心得解脫。爾時。長爪外道出家遠塵離垢。得法眼淨。長爪外道出家見法.得法.覺法.入法.度諸疑惑。不由他度。入正法.律。得無所畏。即從坐起。整衣服。為佛作禮。合掌白佛。願得於正法.律出家.受具足。於佛法中修諸梵行。佛告長爪外道出家。汝得於正法.律出家.受具足。成比丘分。即得善來比丘出家。彼思惟。所以善男子剃除鬚髮。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。乃至心善解脫。得阿羅漢。佛說是經已。尊者舍利弗.尊者長爪聞佛所說。歡喜奉行』
佛告長爪梵志。是一切有見。為欲染為瞋恚愚癡所縛。一切無見。為不染不瞋不癡故所不縛。半有半無。有者同上有縛。無者同上無縛。 仏の長爪梵志に告げたまわく、『是の一切有見とは、欲染の為に、瞋恚、愚癡の為に縛せられ、一切無見は、不染、不瞋、不癡なるが為の故に縛せざる所にして、半有半無は、有なれば上に同じく縛有り、無なれば上に同じく縛無し』、と。
『仏』は、
『長爪梵志』に、こう告げられた、――
是の、
『一切有という!』、
『見』は、
『欲染、愚癡、瞋恚に!』、
『縛され!』、
『一切無という!』、
『見』は、
『不染、不瞋、不癡である!』が為の故に、
『縛されない!』。
『半有、半無という!』、
『見』は、
『有ならば!』、
『上と同じく!』、
『縛』が、
『有り!』、
『無ならば!』、
『上と同じく!』、
『縛』が、
『無い!』、と。
於三種見中。聖弟子作是念。若我受一切有見。則與二人共諍。所謂一切無者。半有半無者。若我受一切無見。亦與二人共諍。所謂一切有者。半有半無者諍。若我受半有半無者。亦與二人共諍。所謂一切無者。一切有者。鬥諍故相謗。相謗故致惱見。是諍謗惱故。捨是無見餘見亦不受。不受故即入道。 三種の見中に於いて、聖弟子は、是の念を作さく、『若し我れ一切有見を受くれば、則ち二人と共に諍わん、謂わゆる一切無の者と、半有半無の者なり。若し我れ一切無見を受くれば、亦た二人と共に諍わん、謂わゆる一切有の者と、半有半無の者と諍うなり。若し我れ半有半無を受くれば、亦た二人と共に諍わん、謂わゆる一切無の者と、一切有の者となり。闘諍するが故に相謗り、相謗るが故に悩を致し、是の諍、謗、悩を見るが故に、是の無見を捨て、余見も亦た受けず、受けざるが故に即ち道に入らん』、と。
『三種の見』中に於いて、
『聖弟子』は、こう念じることになる、――
若し、
わたしが、
『一切有という!』、
『見』を、
『受ければ!』、
則ち、
『二人と!』、
『諍論することになる!』、
謂わゆる、
『一切無見の者と、半有半無の者である!』。
若し、
わたしが、
『一切無という!』、
『見』を、
『受ければ!』、
亦た、
『二人と!』、
『諍論することになる!』、
謂わゆる、
『一切有見の者と、半有半無の者である!』。
若し、
わたしが、
『半有半無という!』、
『見』を、
『受ければ!』、
亦た、
『二人と!』、
『諍論することになる!』、
謂わゆる、
『一切有見の者と、一切無見の者である!』。
常に、
『二人と闘諍する!』が故に、
『互に!』、
『謗りあい!』、
『互に謗りあう!』が故に、
『悩』を、
『致し(to incur)!』、
是の、
『諍、謗、悩を見る!』が故に、
是の、
『無見を捨てて!』、
『余の見』も、
『受けず!』、
一切の、
『見を受けない!』が故に、
即ち、
『道』に、
『入ることになる!』、と。
若不著一切諸法空心不起諍。但除結使是名為實智。若取諸法空相。起諍不滅諸結使。依止是智慧。是為非實智。如佛所說為度眾生故有所說。無不是實。但眾生於中有著不著故有實不實。如是種種因緣故。佛身口意業無有過失。是故說佛身口意先知然後隨智慧行。 若し、一切の諸法の空に著せず、心に諍を起さず、但だ結使を除かば、是れを名づけて実智と為す。若し諸法の空相を取りて、諍を起し、諸の結使を滅せずして、是の智慧に依止すれば、是れを実智に非ずと為す。仏の所説の如きは、衆生を度せんが為の故に所説有れば、是れ実ならざる無けれども、但だ衆生は、中に於いて著、不著有るが故に実、不実有り。是の如き種種の因縁の故に、仏の身口意業には、過失有ること無し。是の故に説かく、『仏の身口意は、先に知りて、然る後に智慧に随って行ず』、と。
若し、
『一切の諸法』の、
『空に著さずに!』、
『心』に、
『諍を起すこともなく!』、
但だ、
『結使』を、
『除くだけであれば!』、
是れを、
『実の智』と、
『称し!』、
若し、
『諸法』に、
『空相を取って!』、
『諍を起し!』、
『諸の結使』を、
『滅することもなく!』、
是の、
『智慧』に、
『依止すれば!』、
是れは、
『実の智ではない!』。
『仏の所説など!』は、
『衆生を度する!』為の故に、
『所説が有る!』ので、
『実でない!』ものが、
『無い!』。
是のような、
『因縁』の故に、
『仏』の、
『身、口、意の業』には、
『過失』が、
『無く!』、
是の故に、こう説くのである、――
『仏』の、
『身、口、意の業』は、
先に、
『知って!』、
その後、
『智慧に随って!』、
『行われる!』、と。
  参考:『大智度論巻26』:『佛一切身口意業先知。然後隨智慧行。諸佛身口意業一切行。無不利益眾生故。名先知然後隨智慧行。』
問曰。初說身無失口無失念無失。今復說身口意業隨智慧行。義有何差別。 問うて曰く、初に、身の無失、口の無失、念の無失を説き、今復た、身口意業の智慧に随って行ずるを説く。義には何なる差別か有る。
問い、
初めに、説かれた、――
『身、口、意の無失』と、
今復た、説かれた、――
『身、口、意業は智慧に随って行われる!』との、
『義』には、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。先三種無失不說因緣。今說因緣隨智慧行故不失。若先不籌量而起身口意業則有失。佛先以智慧起身口意業故無失。 答えて曰く、先の三種の無失は、因縁を説かざれば、今因縁を説かく、『智慧に随いて行ずるが故に不失なり。若し先に籌量せずして、身、口、意業を起せば、則ち失有り。仏は先に智慧を以って、身、口、意業を起すが故に、失無し』、と。
答え、
先の、
『三種の無失』には、
『因縁』が、
『説かれなかった!』ので、
今、
『因縁』を、こう説くのである、――
『智慧に随って!』、
『行われる!』が故に、
『失がない!』。
若し、
先に、
『籌量しないで!』、
『身、口、意の業』を、
『起せば!』、
則ち、
『失』が、
『有ることになる!』が、
『仏』は、
先に、
『智慧を用いて!』、
『身、口、意の業』を、
『起される!』が故に、
是の、
『失』が、
『無い!』、と。
復次佛成就三種淨業三種寂靜業三不護業。有人疑言。佛何因緣成就如是業。以是故佛言。我一切身口意業先以智慧。然後隨智慧行。 復た次ぎに、仏は三種の浄業、三種の寂静業、三不護業を成就したまえるに、有る人の疑いて言わく、『仏は何なる因縁もて、是の如き業を成就したもうや』、と。是を以っての故に仏の言わく、『我が一切の身、口、意の業は、先に智慧を以って、然る後に智慧に随いて行ず』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
『三種の浄業(清浄な身、口、意業)』と、
『三種の寂静業(諍論無き身、口、意業)』と、
『三種の不護業(無過失の身、口、意業)』とを、
『成就されている!』が、
有る人は、
『疑って!』、こう言う、――
『仏』は、
何のような、
『因縁』で、
是のような、
『業』を、
『成就されたのだろうか?』、と。
是の故に、
『仏』は、こう言われた、――
わたしの、
『一切の身、口、意業』は、
先に、
『智慧』を、
『用いて!』、
その後、
『智慧に随って!』、
『行われるのである!』、と。
  三不護業(さんふごごう):如来の三業は清浄なるが故に護らずの意。『大智度論巻26下注:三不護』参照。
  三不護(さんふご):梵語triiNi tathaagatasyaarakSyaaNiの訳。巴梨語tiiNi tathaagatassaarakkheyyaani、如来の不護に三種あるの意。具に如来の三不護と名づく。即ち如来の身語意三業は清浄にして、諸の過失を離れたるが故に覆護あることなきを云う。一に身不護、又は如来身清浄現行如来身無不清浄現行parizuddha- kaaya- samudaacaaras tathaagato naasti tathaagatasyaaparizuddha- kaaya- samudaacaarataa(巴parisuddha- kaaya- samaacaaro aavusotathaagato n'atthi tatahaagatassa kaaya- duccaritaM yaMtathaagato rakkheyya maa me idaM paro aJJaasiiti.友よ、如来は身の現行清浄なり。如来は他の覚知を恐れて覆護すべき如来の身悪行なし。)二に語不護、又は如来語清浄現行如来語無不清浄現行parizuddha- vaak- samudaacaaras tathaagato naasti tathaagatasyaaparizuddha- vaak- samudaacaarataa(巴parisuddha- vacii- samaacaaro aavuso tathaagato n'atthi tathaagatassa vacii- duccaritaM yaM tathaagato rakkheyya maa me idaM paro aJJaasiiti.友よ如来は語の現行清浄なり。如来は他の覚知を恐れて覆護すべき如来の語悪行なし。)三に意不護、又は如来意清浄現行如来意無不清浄現行parizuddha- manaH- samudaacaaras tathaagato naasti tathaagatasyaaparizuddha- manaH- samudaacaarataa(巴parisuddha- mano- samaacaaro aavuso tathaagato n'atthi tathaagatassa mano- duccaritaM yaM tathaagato rakkheyya maa me idaM paro aJJaasiiti.友よ、如来は意の現行清浄なり。如来は他の覚知を恐れて覆護すべき如来の意悪行なし。)なり。「集異門足論巻4」に、「三不護とは、謂わく諸の如来の三業は、失の隠蔵して他の覚知を恐るるものあるべきなし、故に不護と名づく。何等をか三となす、一には如来の所有の身業は清浄の現行にして不清浄の現行身業の他の覚知を恐れて蔵護あるべきものなし。二には如来の所有の語業は清浄の現行にして不清浄の現行語業の他の覚知を恐れて蔵護あるべきものなし。三には如来の所有の意業は清浄の現行にして、不清浄の現行意業の他の覚知を恐れて蔵護あるべきものなし」と云い、「成実論巻1三不護品」に、「仏の身口意業は不護なり。所以は何ぞ、仏には不浄の身口意業の他人をして見ず知らざらしめんと欲するものなければなり。(中略)又仏の一切の身口意業は、皆人を利せんが為なるが故に不善なし。不善なきを以っての故に護を須いず」と云い、又「瑜伽師地論巻83」に、「此の中、清浄の身語意業現行す、正命は是れ行円満にして、密護根門は是れ遮円満なり。此の二種に由りて如来の三種不護と無忘失法とを顕示す」と云える是れなり。是れ蓋し如来の十号中の明行円満に三明と遮行と行行との三種ある中、三不護は即ち正命にして行行円満なることを示すの意なり。即ち如来は久しく浄戒を修し、常に深定に住して三業恒に智慧に随って行じ、大涅槃に住して永く寂静なるが故に、三業に於いて防護を須いざることを説けるものなり。又「法華経文句巻7上」には、「法華経薬草喩品」の所謂我れは是れ一切知者、一切見者、知道者、開道者、説道者なりの文を釈し、知道とは意不護、開道とは身不護、説道とは口不護なりと云えり。又「大集法門経巻上」には、此の三不護に命不護を加えて如来の四不護catvaari tathaagatasyaarakSyaaNi(巴梨語cattaari tathaagatassaarakkheyyaani)となせり。即ち彼の文に、「復た次ぎに四不護とは是れ仏の所説なり、謂わく如来は身業を護らず、身の諸過を離るればなり。如来は語業を護らず、語の諸過を離るればなり。如来は意業を護らず、意の諸過を離るればなり。如来は寿命を護らず、命の損減なければなり」と云える是れなり。此の中、命不護とは又如来活命清浄如来活命無不清浄parizuddha jiivas tathaagato naasti tathaagatasyaaparizuddha- jiivataa(巴梨語parisuddhaa- jivo bhikkhave tathaagato n'atthi tathaaagatassa micchaa- jiivo yaM tathaagato rakkheyya maa me idaM paro aJJaasiiti.諸比丘よ、如来は命清浄なり。如来は他の覚知を恐れて覆護すべき如来の邪命なし。)と云うなり。又「顕揚聖教論巻4」、「唐訳摂大乗論釈巻9」、「大乗阿毘達磨蔵集論巻14」、「大乗義章巻19」、「法華文句記巻7下」、「法華経玄賛巻2」、「瑜伽論記巻22上」等に出づ。<(望)



過去、未来、現在世を知る通達、無礙の智慧

佛以智慧。知過去未來現在世。通達無礙者。此三種智慧於三世。通達無礙故。三業隨智慧行。 仏は、智慧を以って過去、未来、現在世を知り、通達無礙なりとは、此の三種の智慧の、三世に於いて通達無礙なるが故に、三業は智慧に随いて行ずるなり。
『仏』は、
『智慧で!』、
『過去、未来、現在世を知り!』、
『通達して!』、
『無礙である!』とは、――
此の、
『三種の智慧』が、
『三世』に於いて、
『通達して!』、
『無礙である!』が故に、
『三業』が、
『智慧に随って!』、
『行われるのである!』。
問曰。過去諸法。已滅已盡無所復有。未來世諸法。今不來不生未和合。現在乃至一念中無住時。云何能知三世通達無礙。 問うて曰く、過去の諸法は、已に滅し、已に尽きて復た有る所無く、未来世の諸法は、今不来、不生にして、未だ和合せず、現在は乃至一念中にも住時無し。云何が能く三世を知りて通達、無礙なる。
問い、
『過去』の、
諸の、
『法』は、
已に、
『滅尽している!』が故に、
もう、
『法』には、
『所有』が、
『無く!』、
『未来世』の、
諸の、
『法』は、
今、
『不来であり!』、
『不生である!』が故に、
未だ、
『有( existence )』と、
『和合していない!』し、
『現在』の、
諸の、
『法』は、
乃至、
『一念( a moment )すら!』、
『住まる時』が、
『無い!』。
何故、
『三世』の、
『諸法を知ることができ!』、
『通達して!』、
『無礙なのですか?』。
答曰。佛說過去未來現在通達無礙。此言豈虛。 答えて曰く、仏は、『過去、未来、現在に通達して無礙なり』と説きたまえり。此の言にして、豈虚(むな)しからんや。
答え、
『仏』が、
自ら、
『過去、未来、現在に通達して、無礙である!』と、
『説かれたのである!』、
此の、
『言』の、
何処が、
『虚(むな)しいのか?』。
復次若無過去未來。但有現在一念頃。佛亦不得成就無量功德。如十種智。是十力是時亦不得一心有十智。若爾者佛亦不得具足十力。以是因緣故。知有過去未來。 復た次ぎに、若し過去、未来無く、但だ現在の一念の頃のみ有らば、仏も亦た、無量の功徳を成就するを得ざらん。十種の智の如き、是の十力も、是の時には亦た一心もて、十智有るを得ざらん。若し爾らば、仏も亦た十力を具足するを得ず。是の因縁を以っての故に過去、未来有るを知る。
復た次ぎに、
若し、
『過去や、未来が無く!』、
但だ、
『現在』の、
『一念の頃のみ!』が、
『有れば!』、
『仏』も、
『無量』の、
『功徳』を、
『成就することはできないだろう!』。
例えば、
『十種の智のような!』、
是の、
『十力』も、
是の時には、
『一心』中に、
『十智』を、
『有することはできないだろう!』。
若し、
爾うならば、
『仏』も、
亦た、
『十力』を、
『具足できないことになる!』ので、
是の、
『因縁』の故に、こう知ることになる、――
『過去も、未来も!』、
『有るのだ!』、と。
問曰。若過去未來現在皆有者。何等是無。佛說四諦。苦諦觀無常等相。無常名生滅敗壞不可得。若過去法今實有。不名為無常敗壞不可得。 問うて曰く、若し過去、未来、現在皆有れば、何等か是れ無なる。仏は四諦を説きたもうに、苦諦もて無常等の相を観て、無常を生滅、敗壊、不可得と名づけたまえり。若し過去の法、今実に有らば、名づけて無常、敗壊、不可得と名づけたまわざらん。
問い、
若し、
『過去、未来、現在』の、
『法』が、
『皆、有れば!』、
何のような、
『法』が、
『無いのか?』。
『仏』は、
『四諦を説いて!』、
『苦諦を用いて!』、
『無常等の相』を、
『観察する!』と、
『無常』を、
『生滅だ、敗壊だ、不可得だ!』と、
『呼ばれた!』。
若し、
『過去の法』が、
今、
『実に有れば!』、
『無常だ、敗壊だ、不可得だ!』とは、
『呼ばれなかっただろう!』。
復次若過去未來現在皆有者便墮常。何以故。是法在未來世中定有轉來現在。從現在轉入過去。如人從一房入一房不名失人。 復た次ぎに、若し過去、未来、現在が皆有らば、便ち常に堕せん。何を以っての故に、是の法にして、未来世中に在りて、定んで有り、転じて現在に来、現在より転じて、過去に入れば、人の一房より、一房に入るを、人を失うと名づけざるが如し。
復た次ぎに、
若し、
『過去、未来、現在の法』が、
『皆、有れば!』、
便ち、
『常』に、
『堕ちるだろう!』。
何故ならば、
是の、
『法』が、
『未来世』中に於いて、
『定んで有り( definitely existent )!』、
『現在』に、
『転じて!』、
『来る!』と、
『現在より!』、
『転じて!』、
『過去』に、
『入ればなり!』。
例えば、
『人』が、
『一房より!』、
『一房』に、
『入っても!』、
『人』を、
『失った!』と、
『呼ばないようなものである!』。
  定有(じょうう):梵語 sad-bhuuta の訳、存在すると決定した/真実である人又は物( Determined to be existent. who or what is really good or true. )の義、確実に存在する( definitely existent )の意。
答曰。若不失有何咎。 答えて曰く、若し失わざれば、何の咎か有る。
答え、
若し、
『失わなければ!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
問曰。若無無常無罪無福無生無死無縛無解。罪名殺等十不善道。若無無常無殺等罪。如分別邪見中說。刀在身七分中過無所惱害。福名不殺等十善道。無常名分別生死。若無無常亦無生死。亦無縛亦無解。如是等無量過咎。 問うて曰く、若し無常無くんば、罪無く、福無く、生無く、死無く、縛無く、解無けん。罪を殺等の十不善道なりと名づくるに、若しは無常無くんば、殺等の罪無く、『分別邪見』中に説けるが如く、刀にして、身の七分中に在りて過ぐるも、悩害する所無けん。福を不殺等の十善道と名づけ、無常を生死を分別すと名づくるに、若し無常無くんば、亦た生死無く、亦た縛無く、亦た解無けん。是れ等の如き無量の過咎有らん。
問い、
若し、
『無常が無ければ!』、
『罪、福も!』、
『生、死も!』、
『縛、解も!』、
『無いことになり!』、
『罪』を、
『殺』等の、
『十不善道』と、
『呼ぶならば!』、
若し、
『無常が無ければ!』、
『殺等の罪』も、
『無いことになる!』。
例えば、
『分別邪見』中に、説かれたように、――
『刀』が、
『身の七分中を過ぎても!』、
『悩害する!』所が、
『無いことになるだろう!』。
『福』を、
『不殺』等の、
『十善道』と、
『呼び!』、
『無常』を、
『生死を分別する!』と、
『呼ぶならば!』、
若し、
『無常が無ければ!』、
亦た、
『生死も、縛解も!』、
『無いことになり!』、
是れ等のような、
『無量の過咎』が、
『有る!』。
  身七分(みのしちぶん):身を構成する七要素、即ち地水火風、苦、楽、寿命を云う。
  参考:『成実論巻10』:『邊見品第一百三十一  若說諸法或斷或常。是名邊見。有論師言。若人說我若斷若常。是名邊見。非一切法。所以者何。現見外物有斷滅故。經中說。有見名常無見名斷。又身即是神名為斷見。身異神異是名常見。又死後不作名曰斷見。死後還作名為常見。死後亦作亦不作。是中所有作者名常。所不作者名斷。非作非不作亦如是。問曰。是第四不應名見。答曰。是人於世諦中亦無人法。故名為見。常無常邊無邊等四句亦如是。又經中說。六觸入盡滅。有異餘即為常。無異餘即名斷。又若見我先作後當更作。是名常見。我先不作後不更作。是為斷見。又邪見經說。人身七分地水火風苦樂壽命。若其死時。四大歸本根歸虛空。又說。以刀輪害眾生。積為肉聚無殺生罪。是名斷見。及梵網經中說斷見相。若言有後世作者即是受者。是名常見。問曰。斷常見云何生。答曰。隨以何因緣說死後還作是因緣。故生常邊見。隨以何因緣說死後不作是因緣。故生斷滅見。問曰。此見云何斷。答曰。正修習空則無我見。我見無故則無二邊。如炎摩伽經中說。若一一陰非人。和合陰亦非人。離陰亦非人。現在如是不可得。云何當說阿羅漢死後不作。故知人不可得。人不可得故。我見及斷常見亦無。又見諸法從眾緣生。則無二邊。又如說見世間集則滅無見。見世間滅則滅有見。又行中道故則滅二邊。所以者何。見諸法相續生則滅斷見。見念念滅則滅常見。又說。五陰非即是人。亦不離陰是人。故知非常非斷。能得異身故不得為一。俱是眾生故不得為異。又五陰相續故有眾生生死。是中不得言即。以是相續異故亦不得言異。以相續中可說一故。又從此陰彼陰異故不得言常。從自相續因緣力生。故不得言斷』
答曰。諸法三世各各有相。過去法有過去相。未來法有未來相。現在法有現在相。若過去未來有現在相者。應有是難。而今過去未來現在各自有相。 答えて曰く、諸法は三世に各各の相有り。過去の法には、過去の相有り、未来の法には未来の相有り、現在の法には現在の相有り。若し過去、未来に、現在の相有らば、応に是の難有るべきに、今、過去、未来、現在には、各自ら、相有り。
答え、
諸の、
『法』には、
『三世の各各に!』、
『相』が、
『有って!』、
『過去の法』には、
『過去という!』、
『相』が、
『有り!』、
『未来の法』には、
『未来という!』、
『相』が、
『有り!』、
『現在の法』には、
『現在という!』、
『相』が、
『有るからである!』。
若し、
『過去、未来』に、
『現在という!』、
『相』が、
『有れば!』。
是の、
『難』が、
『有るべきだが!』、
而し、
今、
『過去にも、未来にも、現在にも!』、
各各に、
『自らの相』が、
『有るのである!』。
復次若實無過去未來。亦無出家律儀。所以者何。若現在惡心中住。過去復無戒。是為非比丘。 復た次ぎに、若し実に、過去、未来無くんば、亦た出家の律儀も無けん。所以は何んとなれば、若し現在の悪心中に住せば、過去にも復た戒無けん。是れを比丘に非ずと為せばなり。
復た次ぎに、
実に、
『過去も、未来も!』、
『無ければ!』、
亦た、
『出家の律儀』も、
『無いことになる!』。
何故ならば、
若し、
『現在』、
『悪心』中に、
『住まれば!』、
『過去』にも、
『戒』が、
『無かったはずであり!』、
是れを、
『比丘』とは、
『称さないからである!』。
又賢聖人心在世俗中。是時應當是凡夫。無過去未來現在道故。如是亦無五逆等諸罪。所以者何。是五逆罪業。已過去及死時入地獄。是五逆罪未來無業故無報。現在身不為逆罪。若無過去則無逆罪。若無逆罪何有餘罪。福亦如是。若無罪福是為邪見。與禽獸無異。 又賢聖の人も心、世俗中に在らば、是の時は応当に是れ凡夫なるべし、過去、未来、現在に道無きが故なり。是の如くんば、亦た五逆等の諸罪無けん。所以は何んとなれば、是の五逆罪の業は、已に過去なるに、死する時に及んで地獄に入り、是の五逆罪は、未来に業無きが故に報無く、現在の身も逆罪を為さざれば、若し過去無ければ、則ち逆罪無し。若し逆罪無くんば、何んが余罪有らん。福も亦た是の如く、若し罪福無ければ、是れを邪見と為し、禽獣と異無し。
又、
『賢聖の人』も、
『心』が、
『世俗』中に、
『在れば!』、
是の時は、
『凡夫でなければならぬ!』。
何故ならば、
『過去、未来、現在の道』が、
『無いからである!』。
是のように、
『五逆』等の、
『諸の罪』も、
『無いはずである!』。
何故ならば、
是の、
『五逆罪』が、
『過去ならば!』、
『死ぬ時に及んで!』、
『地獄』に、
『入り!』、
是の、
『五逆罪』が、
『未来ならば!』、
『業が無い!』が故に、
『報も!』、
『無く!』、
『現在の身』は、
『逆罪』を、
『為していない!』として、
若し、
『過去が無ければ!』、
則ち、
『逆罪』は、
『無いことになり!』、
若し、
『逆罪が無ければ!』、
何のような、
『余の罪』が、
『有るのか?』。
『福』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若し、
『罪福が無ければ!』、
是れは、
『邪見であり!』、
『禽獣』と、
『異ならない!』。
復次我不說過去未來如現在相有。我說過去雖滅可生憶想能生心心數法。 復た次ぎに、我れは、『過去、未来にも、現在の如き相有り』、とは説かず。我れは、『過去は滅すと雖も、憶想を生ずべくして、能く心心数法を生ず』、と説く。
復た次ぎに、
わたしは、こうは説いていない、――
『過去や、未来にも!』、
『現在のような!』、
『相』が、
『有る!』、と。
わたしは、こう説いたのだ、――
『過去は滅しても!』、
『憶想を生じる!』が故に、
『心、心数法』を、
『生じさせる!』、と。
如昨日火滅今日可生憶想念。不可以憶想念故火便有。若見積薪知當然火。亦生心想念。明日火如過去火。不可以今心念火火便有。未來世事亦如是。 昨日の火滅するも、今日、憶想の念を生ずべきが如きは、憶想の念を以っての故に、火便ち有るべからず。若し積薪を見て、当に火を然(もや)すべきを知れば、亦た心に、『明日の火も、過去の火の如し』、と想念を生ずるも、今の心念の火を以って、火便ち有るべからず。未来世の事も、亦た是の如し。
例えば、
『昨日』の、
『火』が、
『滅しても!』、
『今日』、
『憶想の念』を、
『生じさせるようなものである!』。
即ち、
『憶想の念』の故に、
『火』が、
直ちに、
『有ることにはならない!』が、
若し、
『積まれた!』、
『薪を見れば!』、
『火を燃やす!』のを、
『知ることになり!』、
亦た、
『心』に、
『明日の火も過去の火と同じだ!』と、
『想念』を、
『生じる!』が、
今の、
『心に火を念じる!』が故に、
直ちに、
『火』が、
『有るわけではない!』。
『未来世の事』も、
亦た、
『是の通りである!』。
現在心雖一念時不住相續生故。能知諸法內以現在意為因。外以諸法為緣。是因緣中生意識用。意識自在知過去未來現在法。但不自知現在心心數法餘者悉知。 現在の心は、一念の時も住まらずと雖も、相続して生ずるが故に、能く諸法を知り、内には現在の意を以って、因と為し、外には諸法を以って、縁と為し、是の因縁中に、意識を生じ、意識を用いて、自在に過去、未来、現在の法を知るも、但だ自ら現在の心心数法を知らずして、余は悉く知る。
『現在』の、
『心』は、
『一念の時も住まらない!』が、
『相続して!』、
『生じる!』が故に、
諸の、
『法』を、
『知ることができ!』、
内には、
『現在の意』を、
『因とし!』、
外には、
『諸の法』を、
『縁とし!』、
是の、
『因、縁』中に、
『意識』を、
『生じる!』と、
『意識を用いて!』、
自在に、
『過去、未来、現在』の、
『法』を、
『知るのである!』が、
但だ、
自らの、
『現在の心、心数法』は、
『住まらない!』が故に、
『知ることはなく!』、
余は、
『悉く!』、
『知るのである!』。
問曰。般若波羅蜜如相品中。三世一相所謂無相。云何言佛智慧知三世通達無礙。 問うて曰く、『般若波羅蜜如相品』中には、『三世は一相にして、謂わゆる無相なり』、と。云何が、『仏の智慧は、三世を知りて、通達無礙なり』、と言う。
問い、
『般若波羅蜜如相品』中には、こう言う、――
『三世』は、
『一相であり!』、
『謂わゆる、無相である!』、と。
何故、こう言うのですか?――
『仏の智慧』は、
『三世を知って!』、
『通達、無礙である!』、と。
  参考:『大品般若経巻16大如品』:『爾時須菩提語諸天子。汝等言。須菩提是佛子隨佛生。云何為隨佛生。諸天子。如相故須菩提隨佛生。何以故。如來如相不來不去。須菩提如相亦不來不去。是故須菩提隨佛生。復次須菩提。從本以來隨佛生。何以故。如來如相即是一切法如相。一切法如相即是如來如相。是如相中亦無如相。是故須菩提為隨佛生。復次如來如常住相。須菩提如亦常住相。如來如相無異無別。須菩提如相亦如是無異無別。是故須菩提為隨佛生。如來如相無有礙處。一切法如相亦無礙處。是如來如相一切法如相。一如無二無別。是如相無作終不不如。是故是如相一如無二無別。是故須菩提為隨佛生。如來如相一切處無念無別。須菩提如相亦如是。一切處無念無別。如來如相不異不別不可得。須菩提如相亦如是。以是故須菩提為隨佛生。如來如相不遠離諸法如相。是如終不不如。是故須菩提。如不異故為隨佛生亦無所隨。復次如來如相不過去不未來不現在。諸法如相亦不過去不未來不現在。是故須菩提為隨佛生。復次如來如不在過去如中。過去如不在如來如中。如來如不在未來如中。未來如不在如來如中。如來如不在現在如中。現在如不在如來如中。過去未來現在如如來如。一如無二無別。色如如來如。受想行識如如來如是色如受想行識如如來如。一如無二無別。我如乃至知者見者如如來如。一如無二無別。檀那波羅蜜如。乃至般若波羅蜜如。內空如乃至無法有法空如。四念處如乃至一切種智如如來如。一如無二無別。須菩提。菩薩摩訶薩得是如故名為如來。』
答曰。諸佛有二種說法。先分別諸法。後說畢竟空。若說三世諸法通達無礙是分別說。若說三世一相無相。是說畢竟空。 答えて曰く、諸仏には、二種の説法有りて、先に諸法を分別し、後に畢竟空を説く。若し『三世の諸法に通達して無礙なり』、と説きたまえば、是れ分別の説なり。若し『三世は一相にして、無相なり』、と説きたまえば、是れ畢竟空を説きたまえり。
答え、
諸の、
『仏の説法』には、
『二種有って!』、
先には、
諸の、
『法』を、
『分別され!』、
後には、
畢竟じて、
『空である!』と、
『説かれる!』。
若し、
こう説かれたならば、――
『三世』の、
『諸法に!』、
『通達して、無礙である!』、と。
是れは、
『諸法』を、
『分別して!』、
『説かれたのであり!』、
若し、
こう説かれたならば、――
『三世』は、
『一相であり!』、
『無相である!』、と。
是れは、
『畢竟じて!』、
『空である!』と、
『説かれたのである!』。
復次非一切智人。於三世中智慧有礙。乃至觀世音文殊師利彌勒舍利弗等諸賢聖。於三世中智慧皆有礙。以是因緣故。說佛智慧於三世中通達無礙。不為空事故說。 復た次ぎに、一切智の人に非ざれば、三世中に於いては、智慧に礙有り。乃至観世音、文殊師利、弥勒、舍利弗等の諸賢聖も、三世中に於いては、智慧に、皆、礙有り。是の因縁を以っての故に、『仏の智慧は、三世中に於いて、通達して、無礙なり』、と説くも、空事の故に説くと為さず。
復た次ぎに、
『一切智の人でなければ!』、
『三世』中に於いては、
『智慧』に、
『礙(さまたげ)』が、
『有る!』。
乃至、
『観世音、文殊師利、弥勒、舍利弗等の諸賢聖すら!』、
『三世』中に於いては、
『智慧』に、
『皆、礙が有る!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
こう説いたとしても、――
『仏の智慧』は、
『三世』中に於いて、
『通達し、無礙である!』、と。
是れは、
『空しい!』、
『事』を、
『説いたことにはならない!』。
復次有人於三世中生邪見。謂過去法及眾生有初無初。若有初則有新眾生。諸法亦無因無緣而生。若無初亦無後。若無初無後中。亦無初名有中有後。無前後名有初有中。無後中名有初有後。若眾生及諸法。無初亦無中無後。若無三世則都無所有。 復た次ぎに、有る人は、三世中に於いて邪見を生じて、謂わく、『過去の法、及び衆生には、初有り、初無し』、と。若し初有らば、則ち新なる衆生有らん。諸法も亦た無因、無縁にして生ぜん。若し初無くんば、亦た後も無けん。若し初無く、後無ければ、中も亦た無けん。初を、中有り、後有りて、前無しと名づけ、後を、初有り、中有り、後無しと名づけ、中を、初有り、後有りと名づくるに、若し衆生、及び諸法に、初無くんば、亦た中無く、後無けん。若し三世無ければ、則ち都てに所有無し。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
『三世』中に於いて、
『邪見』を、
『生じて!』、
こう謂っている、――
『過去の法や、衆生』には、
『初が有るとか!』、
『初が無いとか!』、と。
若し、
『初が有れば!』、
『新たな!』、
『衆生』が、
『有ることになり!』、
『諸法』も、
『因縁が無い!』のに、
『生じることになる!』。
若し、
『初が無ければ!』、
亦た、
『後も!』、
『無いことになり!』、
若し、
『初も、後も無ければ!』、
亦た、
『中も!』、
『無いことになる!』が、
『初』とは、
『中と、後は有る!』が、
『前』は、
『無いということであり!』、
『後』とは、
『初と、中は有る!』が、
『後』は、
『無いということであり!』、
『中』とは、
『初も、後も!』、
『有るということである!』ので、
若し、
『衆生や、諸法に!』、
『初が無ければ!』、
亦た、
『中も、後も!』、
『無いことになり!』、
若し、
『三世が無ければ!』、
都(すべ)てに、
『所有( existence )』が、
『無いことになる!』。
復次若無初。云何有一切智人。破如是等邪見故。說三世諸法一相所謂無相。不為破三世佛智慧。 復た次ぎに、若し初無くんば、云何が一切智の人有らん。是れ等の如き邪見を破せんが故に、『三世の諸法は一相にして、謂わゆる無相なり』、と説くも、三世の仏の智慧を破すと為さず。
復た次ぎに、
若し、
『初が無ければ!』、
何故、
『一切智の人』が、
『有るのか?』。
是れ等の、
『邪見を破る!』為の故に、
『三世の諸法』は、
『一相であり、謂わゆる無相である!』と、
『説かれた!』ので、
『三世』中に於ける、
『仏の智慧』を、
『破ろうとしたものではない!』。
問曰。無相是為有邊。 問うて曰く、無相は、是れを有辺と為すや。
問い、
『無相』には、
『辺』が、
『有るのですか?』。
答曰。若無相即是無邊。不可說不可難法。云何言有邊。若無相中取相。非是無相。是無相名為不可得空。是中無相亦不可得。空亦不可得。是故名不可得空。 答えて曰く、若し無相なれば、即ち是れ無辺にして、不可説、不可難の法なり。云何が有辺と言う。若し無相中に相を取れば、是れ無相なるに非ず。是の無相を名づけて、不可得空と為す。是の中には無相も亦た不可得にして、空も亦た不可得なり。是の故に不可得空と名づく。
答え、
若し、
『無相ならば!』、
即ち、
『無辺である!』が、
是の、
『法』は、
『不可説、不可難である!』。
何故、
『辺が有る!』と、
『言うのか?』。
若し、
『無相』中に、
『相を取れば!』、
是の、
『相』は、
『無相ではない!』。
是の、
『無相』が、
『不可得空』と、
『呼ばれる!』のは、
是の、
『無相』中には、
亦た、
『無相』も、
『不可得であり!』、
亦た、
『空』も、
『不可得であり!』、
是の故に、
『無相』を、
『不可得空』と、
『称するのである!』。
復次佛有二種道。一者福德道。有人聞佛十力四無所畏四無礙智十八不共法等。生恭敬信樂心。二者智慧道。有人聞說諸法因緣和合生故無有自性。便捨離諸法。於空中心不著。 復た次ぎに、仏には二種の道有り、一には福徳の道なり、有る人は、仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法等を聞いて、恭敬、信楽の心を生ず。二には、智慧の道なり、有る人は、『諸法の因縁和合の生なる故に自性有ること無し』、と説くを聞き、便ち諸法を捨離して、空中に於いても心著せず。
復た次ぎに、
『仏の道』には、
『二種有る!』、
一には、
『福徳の道である!』、
有る人は、
『仏』の、
『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法』等を、
『聞いて!』、
『心』に、
『恭敬と、信楽と!』を、
『生じるからである!』。
二には、
『智慧の道である!』、
有る人は、
『諸法』は、
『因縁、和合の生であるが故に、自性が無い!』と、
『説かれる!』のを、
『聞いて!』、
便ち、
『諸法を捨離して!』、
『空』中に於いてすら、
『心』が、
『著さないからである!』。
如月能潤物日能熟物。二事因緣故萬物成就。福德道智慧道亦如是。福德道能生諸功德。智慧道能於福德道中離諸邪見著。以是故佛雖說諸法畢竟空。亦說三世通達無礙而無咎。如是等略說佛十八不共法義。 月の能く物を潤し、日の能く物を熟すに、二事の因縁の故に万物成就するが如く、福徳の道と、智慧の道も亦た是の如く、福徳の道は、能く諸の功徳を生じ、智慧の道は、能く福徳の道中に於いて、諸の邪見の著を離れしむ。是を以っての故に、仏は、諸法は畢竟空なるを説き、亦た三世に通達して無礙なると説きたもうと雖も、而も咎無し。是れ等の如く、仏の十八不共法の義を略説す。
譬えば、
『月』は、
『物』を、
『潤(うるお)すことができ!』、
『日』は、
『物』を、
『熟させることができ!』、
是の、
『二因縁』の故に、
『万物』が、
『成就するのである!』が、
『福徳の道と、智慧の道』も、
是のように、
『福徳の道』は、
諸の、
『功徳』を、
『生じさせ!』、
『智慧の道』は、
『福徳の道』中の、
諸の、
『邪見の著』を、
『離れさせる!』ので、
是の故に、
『仏』が、
『諸法』は、
『畢竟じて空である!』と、
『説き!』、
亦た、
『三世』に、
『通達して、無礙である!』t、
『説かれても!』、
是の中に、
『咎』は、
『無いのである!』。
是れ等のように、
『仏』の、
『十八不共法の義』を、
『略説した!』。
問曰。若爾者迦栴延尼子。何以言十力四無所畏大悲三不共意止名為十八不共法。若前說十八不共法是真義者。迦栴延尼子何以故如是說。 問うて曰く、若し爾らば、迦旃延尼子は、何を以ってか、『十力、四無所畏、大悲、三不共意止を名づけて、十八不共法と為す』、と言える。若し前に説きし、十八不共法にして是れ真の義ならば、迦旃延尼子は、何を以っての故にか、是の如く説ける。
問い、
若し、
爾うならば、
『迦旃延尼子』は、
何故、こう言うのですか?――
『十力、四無所畏、大悲、三不共意止』を、
『十八不共法』と、
『称する!』、と。
若し、
前に説かれた、――
『十八不共法』が、
『真の!』、
『義ならば!』、
何故、
『迦旃延尼子』は、
是のように、
『説いたのですか?』。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):仏の声聞、辟支仏等と共にせられざる十八種の法の意。此れに種種の異説有り。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
  迦栴延尼子(かせんねんにし):梵名 kaatyaayanii- putra の訳。説一切有部の大論師。『大智度論巻22上注:迦多衍尼子』参照。
  三不共意止(さんふぐういし):又三念住とも称す。即ち順境、違境、俱境に対して歓慼の心を生ぜざるを云う。『大智度論巻19上注:三念住』参照。
答曰。以是故名迦旃延尼子。若釋子則不作是說。釋子說者是真不共法。佛法無量。是三十六法。於佛法中如大海一渧。法亦不少何以重數為十八。 答えて曰く、是を以っての故に、迦旃延尼子と名づく。若し釈子なれば、則ち是の説を作さず。釈子の説ける者は、是れ真の不共法なり。仏法は無量なれば、是の三十六法は、仏法中に於いて、大海の一渧の如し。法も亦た少なからざるに、何を以ってか、数を重ねて十八と為す。
答え、
是の故に、
『迦旃延尼の子』と、
『呼ばれるのである!』。
若し、
『釈の子ならば!』、
是のような、
『説』を、
『作すことはなく!』、
『釈の子が説けば!』、
是れが、
『真の!』、
『不共法なのである!』。
『仏法は無量であり!』、
是の、
『三十六法(仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法)』は、
『仏法』中に於いては、
譬えば、
『大海』中の、
『一渧( a drop )である!』、
『法は少なくない!』のに、
何故、
『十八の数』を、
『重ねなければならないのか?』。
  釈子(しゃくし):梵語 zaakya-putra, zaakyaputriya の訳、仏の子( child of Buddha )の義、僧の序列に入って叙任された比丘/比丘尼( A Buddhist monk or nun who has entered the order and was ordained. )、仏教徒の弟子( A Buddhist disciple. )の意。
復次諸阿羅漢辟支佛菩薩。亦能知是處不是處。分別三世業果報及諸禪定乃至漏盡智等。云何言不共法。 復た次ぎに、諸の阿羅漢、辟支仏、菩薩も亦た、能く是処不是処を知りて、三世の業の果報、及び諸禅定、乃至漏尽智等を分別するに、云何が、不共法と言う。
復た次ぎに、
『諸の阿羅漢、辟支仏、菩薩』も、
『是処不是処(十力中第一智力)を知って!』、
『三世の業の果報(十力中第二智力)や』、
『諸の禅定(十力中第三智力)や!』、
『乃至漏尽智(十力中第十智力)』等を、
『分別することができる!』のに、
何故、
是の、
『十力』を、
『不共法である!』と、
『言うのか?』。
問曰。聲聞辟支佛菩薩。不能盡知遍知。但有通明無有力。獨佛能盡遍知故言不共。如十力中說。 問うて曰く、声聞、辟支仏、菩薩は、尽く知り、遍く知る能わず、但だ通、明有りて、力有ること無く、独り仏のみ、能く尽く遍く知りたもうが故に、『不共』と言うこと、『十力』中に説けるが如し。
問い、
『声聞、辟支仏、菩薩』は、
『尽く!』、
『遍く!』、
『知ることができず!』、
但だ、
『通と、明のみ有って!』、
『力』を、
『有していない!』が、
『仏』は、
独り、
『尽く!』、
『遍く!』、
『知っていられる!』が故に、
是れを、
『不共』と、
『言うのだと!』と、
是のように、
『十力』中に、
『説かれたではないか?』。
答曰。佛說十力義。不言盡知遍知。直言知是處不是處。言盡知遍知者。是諸論議師說。 答えて曰く、仏は十力の義を説きたもうに、『尽く知り、遍く知る』とは言わず、直だ『是処不是処を知る!』とのみ言えり。『尽く知り、遍く知る』と言えるは、是れ諸論議師の説なり。
答え、
『仏』は、
『十力の義を説かれた!』が、
『尽く知り、遍く知る!』とは、
『言われず!』、
直だ、
『是処不是処を知る!』と、
『言われたのである!』。
『尽く知り、遍く知る!』と、
『言った!』のは、
是れは、
『諸の論議師』が、
『説いたのである!』。
問曰。汝先自言摩訶衍經中說。佛為菩薩故。自說盡知遍知。 問うて曰く、汝は先に自ら、『摩訶衍経中に説かく、仏は菩薩の為の故に、自ら尽く知り、遍く知ると説きたもう、と。』、と言えり。
問い、
お前は、
先に、
自ら、こう言ったではないか?――
『摩訶衍経』中には、
『仏』は、
『菩薩』の為に、
自ら、
『尽く知り、遍く知ると説かれた!』と、
『説かれている!』、と。
  参考:『大智度論巻25』:『問曰。聲聞法。說十力四無所畏如是。摩訶衍分別十力四無所畏復云何。答曰。是十力四無所畏中盡知遍知。是摩訶衍中說十力四無所畏。問曰。聲聞法中亦說盡知遍知。云何言摩訶衍中說盡知遍知。答曰。諸論議師說。佛盡知遍知非佛自說。今說摩訶衍中十力四無所畏故。佛自說我盡知遍知。』
答曰。摩訶衍經中說。何益於汝。汝不信摩訶衍。不應以為證。汝自當說聲聞法為證。 答えて曰く、摩訶衍経中の説にして、何んが汝を益せんや。汝は摩訶衍を信ぜざれば、応に以って証と為すべからず。汝は自ら当に声聞法を説きて、証と為すべし。
答え、
『摩訶衍経中の説』が、
何のように、
お前を、
『益するのか?』。
お前は、
『摩訶衍を信じていない!』が故に、
『摩訶衍を用いて!』、
『証とすべきではない!』。
お前は、
自ら、
『声聞法を説いて!』、
『証とすべきである!』。
復次十力佛雖盡知遍知。而聲聞辟支佛有少分。十八不共法中。始終都無分。以是故名真不共法。 復た次ぎに、十力を、仏尽く知り、遍く知りたもうと雖も、而も声聞、辟支仏にも少分有り。十八不共法中には、始終都て、分無ければ、是を以っての故に、真の不共法と名づく。
復た次ぎに、
『十力』を、
『仏は尽く知り、遍く知っていられる!』が、
『所聞、辟支仏』にも、
『少しは!』、
『分が有る!』が、
『十八不共法』中には、
『始より、終まで!』、
『声聞』等には、
『都て!』、
『分が無い!』。
是の故に、
真の、
『不共法』と、
『称するのである!』。
問曰。十八不共法。二乘亦應有分。但佛身口念常無失。二乘身口念亦有無失。如是等皆應有分。 問うて曰く、十八不共法は、二乗にも亦た応に分有るべし。但だ仏の身口念には常に失無く、二乗の身口念も亦た失無き有り。是れ等の如く皆、応に分有るべし。
問い、
『十八不共法』は、
『二乗にも!』、
『分』が、
『有るはずである!』。
但だ、
『仏の身、口、念()』は、
『常に!』、
『無失であり!』、
『二乗の身、口、念』も、
『無失である!』ことが、
『有る!』。
是れ等のように、
皆、
『分』が、
『有るはずである!』。
答曰。不然。所以者何。常無失故名為不共。不以不失為不共。聲聞辟支佛。於常無失中無分。 答えて曰く、然らず。所以は何んとなれば、常に無失なるが故に、名づけて不共と為し、失せざるを以って、不共と為すにあらず。声聞、辟支仏は、常に無失なる中に於いて分無し。
答え、
そうではない!
何故ならば、――
『常に無失である!』が故に、
『不共』と、
『呼ばれるのであって!』、
『不失である!』が故に、
『不共』と、
『称するのではない!』。
『声聞、辟支仏』は、
是の、
『常に無失である!』中に於いて、
『分』が、
『無いのである!』。
復次諸阿羅漢說有力無有處。說有不共法。汝不信摩訶衍故。不受真十八不共法。而更重數十力等是事不可。如汝所信八十種好。而三藏中無。何以不更說。 復た次ぎに、諸の阿羅漢は、『力有り』と説くも、『不共法有り』と説ける処有ること無し。汝は、摩訶衍を信ぜざるが故に、真の不共法を受けずして、更に数を十力等に重ぬるも、是の事可(よ)からず。汝が信ずる所の八十種好の如きは、而も三蔵中に無し。何を以ってか、更に説かざる。
復た次ぎに、
諸の、
『阿羅漢』は、
『力が有る!』とは、
『説いても!』、
『不共法が有る!』と、
『説く処』は、
『無い!』。
お前は、
『摩訶衍を信じない!』が故に、
真の、
『十八不共法』を、
『受けずに!』、
更に、
『数』を、
『十力等に重ねている!』が、
是の、
『事』は、
『不可である( it is impossible )!』。
お前の、
『信じている!』、
『八十種好など!』も、
『般若波羅蜜中に有る!』が、
『三蔵(小乗三蔵)』中には、
『無い!』、
何故、
更に、
『説かないのか?』。
  八十種好(はちじっしゅこう):又八十随形好とも称し、三十二相に随う八十種の好相を云う。『大智度論巻10下注:八十随形好』参照。
  参考:『大品般若経巻24』:『云何為八十隨形好。一者無見頂。二者鼻直高好孔不現。三者眉如初生月紺琉璃色。四者耳輪埵成。五者身堅實如那羅延。六者骨際如鉤鎖。七者身一時迴如象王。八者行時足去地四寸而印文現。九者爪如赤銅色薄而潤澤。十者膝骨堅著圓好。十一者身淨潔。十二者身柔軟。十三者身不曲。十四者指長纖圓。十五者指文莊嚴。十六者脈深。十七者踝不現。十八者身潤澤。十九者身自持不逶迤。二十者身滿足。二十一者識滿足。二十二者容儀備足。二十三者住處安無能動者。二十四者威震一切。二十五者一切樂觀。二十六者面不大長。二十七者正容貌不撓色。二十八者面具足滿。二十九者脣赤如頻婆果色。三十者音響深。三十一者臍深圓好。三十二者毛右旋。三十三者手足滿。三十四者手足如意。三十五者手文明直。三十六者手文長。三十七者手文不斷。三十八者一切惡心眾生見者和悅。三十九者面廣姝好。四十者面淨滿如月。四十一者隨眾生意和悅與語。四十二者毛孔出香氣。四十三者口出無上香。四十四者儀容如師子。四十五者進止如象王。四十六者行法如鵝王。四十七者頭如摩陀那果。四十八者一切聲分具足。四十九者牙利。五十者舌色赤。五十一者舌薄。五十二者毛紅色。五十三者毛潔淨。五十四者廣長眼。五十五者孔門相具。五十六者手足赤白如蓮華色。五十七者臍不出。五十八者腹不現。五十九者細腹。六十者身不傾動。六十一者身持重。六十二者其身大。六十三者身長。六十四者手足潔淨軟澤。六十五者邊光各一丈。六十六者光照身而行。六十七者等視眾生。六十八者不輕眾生。六十九者隨眾生音聲不過不減。七十者說法不著。七十一者隨眾語言而為說法。七十二者一發音報眾聲。七十三者次第有因緣說法。七十四者一切眾生不能盡觀相。七十五者觀無厭足。七十六者髮長好。七十七者髮不亂。七十八者髮旋好。七十九者髮色如青珠。八十者手足有德相。須菩提。是為八十隨形好佛身成就。』
問曰。我等分別十八不共法不重數也。何等十八。一者知諸法實相故。名一切智。二者佛諸功德相難解故。功德無量。三者深心愛念眾生故名大悲。四者得無比智故。智慧中自在。五者善解心相故。定中自在。六者得度眾生方便故。變化自在。七者善知諸法因緣故。記別無量。八者說諸法實相故。記別不虛。九者分別籌量說故。言無失。十者得十力成就智慧無減。十一者一切有為法中。但觀法聚無我故。常施捨行。十二者善知時不時。安立於三乘。常觀眾生故。十三者常一心故不失念。十四者無量阿僧祇劫深善心故。無煩惱習。十五者得真淨智故。無有能如法出其失。十六者世世敬重所尊故。無能見頂。十七者修大慈悲心故。安庠下足足下柔軟。眾生遇者即時得樂。十八者得神通波羅蜜故。轉眾生心令歡喜得度故。如入城時現神變力。 問うて曰く、我等が十八不共法を分別するに、数を重ねざるなり。何等か十八なる。一には諸法の実相を知るが故に、一切智と名づく。二には仏の諸功徳の相は、難解なるが故に功徳無量なり。三には深心に衆生を愛念するが故に大悲と名づく。四には無比の智を得るが故に智慧中に自在なり。五には善く心相を解するが故に、定中に自在なり。六には、衆生度する方便を得るが故に、変化自在なり。七には善く諸法の因縁を知るが故に、記別すること無量なり。八には諸法の実相を説くが故に、記別して虚しからず。九には分別、籌量して説くが故に言無失なり。十には十力を得て成就するが故に、智慧無減なり。十一には一切の有為法中に、但だ法聚の無我なるを観ずるが故に、常に施捨を行ず。十二には善く時と時ならざるを知りて、三乗に安立す、常に衆生を観ずるが故なり。十三には常に一心なるが故に失念せず。十四には無量阿僧祇劫に善心を深むるが故に煩悩の習無し。十五には真浄の智を得るが故に能く如法に其の失を出すもの有ること無し。十六には世世に所尊を敬重するが故に、能く頂を見るもの無し。十七には大慈悲心を修するが故に、安庠に下足し、足下柔軟にして、衆生の遇う者は、即時に楽を得。十八には神通波羅蜜を得るが故に、衆生の心を転じて、歓喜して得度せしむるが故に、入城の時の如きには、神変力を現す。
問い、
わたし達が、
『十八不共法を分別すれば!』、
『数』を、
『重ねることはない!』。
何のような、
『十八なのか?』、――
一には、
『諸法の実相を知る!』が故に、
『一切智』と、
『称される!』。
二には、
『仏の諸功徳の相』は、
『理解し難い!』が故に、
『功徳が無量である!』。
三には、
『深心に衆生を愛念する!』が故に、
『大悲』と、
『称される!』。
四には、
『無比の智を得る!』が故に、
『智慧』中に、
『自在である!』。
五には、
『心相』を、
『善く理解する!』が故に、
『定中に自在である!』。
六には、
『衆生を度する!』為の、
『方便を得る!』が故に、
『変化が自在である!』。
七には、
『諸法の因縁』を、
『善く知る!』が故に
『記別が無量である!』。
八には、
『諸法』の、
『実相を説く!』が故に、
『記別が虚しくない!』。
九には、
『分別し、籌量して説く!』が故に、
『言』に、
『過失が無い!』。
十には、
『十力を得て成就する!』が故に、、
『智慧』は、
『減退が無い!』。
十一には、
『一切の有為法』中に、
但だ、
『法聚(諸法)の無我を観るだけである!』が故に、
『施捨を、常に行う!』。
十二には、
『時と不時を善く知って!』、
『常に衆生を観る!』が故に、
『三乗に安立する!』。
十三には、
『常に一心である!』が故に、
『失念することがない!』。
十四には、
『無量阿僧祇劫』に於いて、
『善心を深める!』が故に、
『煩悩の習が無い!』。
十五には、
『真浄の智を得た!』が故に、
『如法に!』、
『其の失を出す者が無い!』。
十六には、
『世世に!』、
『所尊()を敬重(尊敬)する!』が故に、
『頭頂を見る者が無い!』。
十七には、
『大慈悲心を修める!』が故に、
『気楽に足を下ろす!』が、
『足下(足裏)』は、
『柔軟なままであり!』、
『衆生が遇えば!』、
『即時に!』、
『楽を得る!』。
十八には、
『神通波羅蜜を得る!』が故に、
『衆生の心を転じて!』、
『歓喜させ!』、
『度を得させる!』が故に、
『入城の時などに!』、
『神変の力』を、
『現す!』。
  記別(きべつ):記録して区別する( to record and differentiate )、梵語 vyaakaraNa の訳、分離/区別/差別( separation, distinction, discrimination )、説明/詳細な説明( explanation, detailed descriptiona )、表明/曝露( manifestation, revelation )、予測/予言( prediction, prophecy )の義。保証/予測/仏が弟子の将来得る仏果を予言すること( Guarantee; prediction; the Buddha's foretelling of the future of his disciples to Buddhahood. )の意。
  法聚(ほうじゅ):法の部門( section of the Dharma )、梵語 dharma- skandha の訳、法の集まり( aggregate of Dharma )の義、教の部門/教の集合/法蔵の如き( Section of the teachings; collections of teachings, like 法藏)の意。
  敬重(きょうじゅう):尊敬( respect )、◯梵語 gaurava の訳、師/教師に従属する( relating or belonging to a Guru or teacher )の義。◯梵語 abhiprasanna の訳、信頼する( believing in )。梵語 aa√(dR) の訳、注視する/注意して聞く( to regard with attention, attend to )の義。◯梵語 guru の訳、精神的両親/指導者( a spiritual parent or preceptor )の義。
  所尊(しょそん):梵語 aaraadhita の訳、尊崇/尊敬される( to be worshipped, honoured )の義。◯梵語 guru の訳、精神的両親/指導者( a spiritual parent or preceptor )の義。
  安庠(あんじょう):梵語 sukham の訳、又安詳と訳す、喜楽に/快適に/愉快に/楽しく( easily, comfortably, pleasantly, joyfully )の義。
答曰。如是十八不共法。非三藏中說。亦諸餘經所不說。以有人求索是法故。諸聲聞論議師輩。處處撰集讚佛功德。 答えて曰く、是の如き十八不共法は、三蔵中の説に非ずして、亦た諸余の経の説かざる所なり。有る人の是の法を求索せるを以っての故に、諸の声聞の論議師の輩の、処処に仏の功徳を讃ずるを撰集せり。
答え、
是のような、
『十八不共法』は、
『三蔵』中の、
『説でもなく!』、
亦た、
『諸余の経』の、
『所説でもない!』。
有る、
『人』が、
是の、
『十八の不共である!』、
『法』を、
『求索していた!』が故に、
諸の、
『声聞の論議師の輩』が、
『処処に讃じられた!』、
『仏の功徳』を、
『撰集したのである!』。
  求索(ぐさく):梵語 paryeSTavya, paryeSTi の訳、努力して求める/捜し求める/尋ねる/捜索する( to be striven after, to be sought, inquire, searching for )。
如言無失慧無減念不失。皆於摩訶衍十八不共法中。取已作論議。雖有無見頂足下柔軟如是甚多。不應在十八不共法中。不共法皆以智慧為義。佛身力如十萬白香象力。及神通力等皆不說。以是故當知。十八不共法中。但說智慧功德等。不說自然果報法。 言の無失、慧の無減、念の不失の如きは、皆、摩訶衍の十八不共法中より取り已りて、論議を作せり。無見頂、足下柔軟有りと雖も、是の如きは甚だ多く、応に十八不共法中に在るべからず。不共法は、皆、智慧を以って、義と為す。仏の身力の十万の白香象の力の如き、及び神通力等は、皆説かず。是を以っての故に当に知るべし、十八不共法中には、但だ智慧の功徳等を説くも、自然の果報の法を説かず。
例えば、
『言の無失や、慧の無減や、念の不失』は、
皆、
『摩訶衍の十八不共法中より取って!』、
『論議を!』、
『作したものであり!』、
又、
『無見頂や、足下柔軟が有る!』が、
是のようなものは、
『甚だ多く!』、
『十八不共法中に在るべきではない!』、
『不共の法』は、
皆、
『智慧』を、
『義( the central meaning )とする!』ので、
『仏』の、
『身力は、十万の白香象の力のようである!』とか、
『神通力』等は、
皆、
『十八不共法』中には、
『説かれていない!』ので、
是の故に、こう知ることになる、――
『十八不共法』中には、
但だ、
『智慧の功徳等を説いて!』、
『自然の果報の法』は、
『説かれていない!』、と。
復次是十八不共法。阿毘曇分別。五眾攝。身口無失身口隨智慧行是色眾攝。無異想是想眾攝。無不定心是識眾攝。餘者行眾攝。皆在四禪中。佛四禪中得道得涅槃故。 復た次ぎに、是の十八不共法を阿毘曇は分別して、五衆に摂せり、『身口の無失、身口の智慧に随って行ずる、是れ色衆の摂なり。無異想は、是れ想衆の摂なり。無不定心は、是れ識種の摂なり。余は行衆の摂なり。皆、四禅中に在り、仏は四禅中道を得、涅槃を得たもうが故なり』、と。
復た次ぎに、
『阿毘曇』は、
是の、
『十八不共法を分別して!』、
『五衆(色、受、想、行、識衆)』に、
『摂する( to arrange )!』、――
即ち、
『身、口の無失と!』、
『身、口業が智慧に随って行われると!』は、
『色衆』に、
『摂せられ!』、
『無異想』は、
『想衆』に、
『摂せられ!』、
『無不定心』は、
『識衆』に、
『摂せられ!』、
『余の法』は、
『行衆』に、
『摂せられ!』、
皆、
『四禅』中に、
『在る!』、
何故ならば、
『仏』は、
『四禅』中に於いて、
『道を得て!』、
『涅槃を得られたからである!』。
有人言四色不共法。色界欲界中攝。餘九地中攝。皆是善皆是無漏法。四色法二緣生因緣增上緣。餘殘四緣生四無緣十四有緣。四隨心行不與心相應。十三與心相應。亦隨心行一不與心相應。亦不隨心行。如是等種種阿毘曇分別說。 有る人の言わく、『四色不共法は、色界、欲界中に摂し、余の九地中に摂し、皆是れ善にして、皆是れ無漏法なり。四色法は、二縁の生にして、因縁、増上縁なり。余残は四縁の生なり。四は無縁にして、十四は有縁なり。四は随心行にして、心と相応せず。十三は心と相応して、又随心行なり。一は心と相応せず、亦た随心行にあらず』、と。是れ等の如く種種に阿毘曇は分別して説けり。
有る人は、こう言っている、――
『色衆に摂せられる!』、
『四不共法』は、
『色界、欲界中に摂せられる!』が、
『余』は、
『九地中に摂せられ!』、
皆、
『善であり!』、
『無漏法である!』。
『四色法』は、
『因縁、増上縁の二縁に摂せられ!』、
『余』は、
『因縁、次第縁、縁縁、増上縁の四縁に摂せられ!』、
『四は無縁である!』が、
『十四』は、
『有縁である!』。
『四』は、
『随心行である!』が、
『心に!』、
『相応しない!』、
『十三』は、
『随心行であり!』、
『心にも!』、
『相応する!』、
『一』は、
『随心行でもなく!』、
『心に!』、
『相応することもない!』、と。
是れ等のように、
種種に、
『阿毘曇』は、
『分別して!』、
『説いている!』。
  四色不共法(ししきふぐうほう):身無失、口無失、一切身業随智慧行、一切口業随智慧行。
  九地(くじ):四禅天中未至定、中間定、四根本定、及び四無色定中の下三無色定等の九定を、無漏の九地と称す。非想非非想処定を除く。
  縁生(えんしょう):梵語 pratyayotpanna の訳、根本的観念より発生した( arisen by fundamental notion )の義、副次的条件により産生された( produced by casual condition )、相互依存して生起した業により産生された( interdependently arisen, produced by karma )の意、有らゆる条件づけられた現象は、原因と状況との結合の結果として産生される( All conditioned phenomena are produced as the result of the combination of causes and conditions. )。
  四色法(ししきほう):身無失、口無失、一切身業随智慧行、一切口業随智慧行。
  四無縁(しむえん):身無失、口無失、一切身業随智慧行、一切口業随智慧行。
  十四有縁(じゅうしうえん):念無失、無異想、無不定心、無不知已捨、欲無減、精進無減、念無減、慧無減、解脱無減、解脱知見無減、一切意業随智慧行、智慧知過去世無礙、智慧知未来世無礙、智慧知現在世無礙。
  四随心行(しずいしんぎょう):身無失、口無失、一切身業随智慧行、一切口業随智慧行。
  十三与心相応(じゅうさんよしんそうおう):念無失、無異想、無不知已捨、欲無減、精進無減、念無減、慧無減、解脱無減、解脱知見無減、一切意業随智慧行、智慧知過去世無礙、智慧知未来世無礙、智慧知現在世無礙。
  一不与心相応(いちふよしんそうおう):無不定心。
  :身、口無失、身、口隨智慧行は是れ色法にして、唯欲、色界中に有り。又但だ能作所縁、及び表業の随心行なり。別する無不定心の不与心相応、及び不随心行とは、乃ち自性の自性と相応せざるなり。<(福厳仏学院資料)
初如是分別入般若波羅蜜諸法實相中。盡皆一相所謂無相。入佛心皆一寂滅相
大智度論卷第二十六
初には是の如く分別するも、般若波羅蜜の諸法の実相中に入れば、尽く皆、一相の、謂わゆる無相なり。仏心に入れば、皆一寂滅相なればなり。
大智度論巻第二十六
初には、
是のように、
『分別する!』が、
『般若波羅蜜という!』、
『諸法の実相』中に、
『入れば!』、
皆、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相なのである!』。
『仏心に入れば!』、
皆、
『一寂滅相だからである!』。

大智度論巻第二十六


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