欲無減者。佛知善法恩故。常欲集諸善法故。欲無減。修習諸善法。心無厭足故欲無減。 |
欲の減ずる無しとは、仏は善法の恩を知りたもうが故に、常に諸の善法を集めんと欲したもうが故に、欲に減ずる無く、諸の善法を修習して、心に厭足無きが故に、欲に減ずる無し。 |
『欲』の、
『減退』が、
『無い!』とは、――
『仏』は、
『善法』の、
常に、
『諸の善法』を、
『集めようとされる!』ので、
是の故に、
『欲』には、
『減退すること!』が、
『無いのであり!』、
諸の、
『善法』を、
『修習していて!』、
『心』に、
『厭足すること!』が、
『無い!』が故に、
『欲』には、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
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譬如一長老比丘。目闇自縫僧伽梨。針紝脫。語諸人言。誰樂欲福德者為我紝針。爾時佛現其前語言。我是樂欲福德無厭足人。持汝針來。是比丘斐亹見佛光明。又識佛音聲。白佛言。佛無量功德海皆盡其邊底。云何無厭足。 |
譬えば、一長老の比丘の如きは、目闇(くら)くして、自ら僧伽梨を縫わんとするも、針より紝(いと)脱すれば、諸人に語りて言わく、『誰か、福徳を欲するを楽しむ者、我が為に針に紝とおさんや』、と。爾の時仏の其の前に現れ、語りて言わく、『我れは是れ福徳を欲するを楽しみて、厭足無き人なり。汝が針を持ちて来たれ』、と。是の比丘は斐亹に仏の光明を見、又仏の音声を知り、仏に白して言さく、『仏は無量の功徳海を、皆其の辺底を尽くしたまえり。云何が厭足する無き』、と。 |
譬えば、
『一長老比丘のことである!』が、
『目が闇( くら)く!』、
自ら、
『僧伽梨を縫おうとていた!』が、
『針より!』、
『糸が抜けたので!』、
諸の、
『人に語って!』、こう言った、――
誰が、
『福徳』を、
『楽しんで!』、
『欲する者であり!』、
わたしの為に、
『針に!』、
『糸』を、
『通してくれるのか?』、と。
爾の時、
『仏』が、
其の、
『前に現れ!』、
『語って!』、こう言われた、――
わたしは、
『福徳』を、
『欲すること!』を、
『楽しんで!』、
『厭足すること!』の、
『無い!』、
『人である!』。
お前の、
『針』を、
『持って来い!』、と。
是の、
『比丘』は、
ぼんやりと、
『仏の光明が見え!』、
又、
『仏の声である!』と、
『識ったので!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
『仏』は、
『無量の功徳海』を、
皆、
其の、
『辺底まで!』、
『尽くされている!』のに、
何故、
『厭足されること!』が、
『無いのですか?』、と。
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僧伽梨(そうぎゃり):梵語saGghaaTi。巴梨語同じ。又僧伽胝、僧伽致に作る。三衣の一。即ち九條以上の衣を云う。又必ず割截して製するが故に重衣、或いは重複衣と云い、其の條数多きが故に雑砕衣と云い、王宮又は聚落に入る時著用するが故に入王宮聚落衣と云い、又諸衣中最大なるが故に大衣と云い、普通に下品に約して九條衣とも称す。「四分律巻41」に、「時に諸の比丘、割截衣を著せずして聚落に入る。白衣見已りて皆譏嫌して言わく、沙門釈子は止足あることなく、慚愧を知らず。自ら言わく、我れ正法を知ると。是の如きは何ぞ正法あらん。割截衣を著せずして聚落に入る、猶お外道の如しと。諸の比丘仏に白す、仏言わく、応に割截衣を著せずして聚落に入るべからず。五事の因縁あらば僧伽梨を留む。若しは恐怖あらんかを疑い、若しは雨、若しは雨あらんかを疑い、若しは僧伽梨を作るも未だ成らず、若しは浣い若しは染め若しは壊色し若しは堅挙す。是の如き五事の因縁あらば僧伽梨を留む」と云えり。是れ比丘聚落に入る時、五事の因縁あるに非ざれば、必ず僧伽梨を著すべきことを説けるものなり。其の種別及び製法に関し、「四分律巻40」に、「応に九條にすべし、応に十條にすべからず。乃至十九條にすべし、応に二十條にすべからず。若し是の條数を過ぎば応に畜うべからず」と云い、又「薩婆多毘尼毘婆沙巻4」に、「又僧伽梨は下なるものは九條、中なるものは十一條、上なるものは十三條なり。中僧伽梨は下なるものは十五條、中なるものは十七條、上なるものは十九條なり。上僧伽梨は下なるものは二十一條、中なるものは二十三條、上なるものは二十五條なり。下僧伽梨は二長一短、中僧伽梨は三長一短、上僧伽梨は四長一短なり。若し下僧伽梨の三長一短なるは受持することを得るも、著して行来せば突吉羅を得ん。中僧伽梨の四長一短、二長一短なるは受持することを得るも、著して行来せば突吉羅を得ん。上僧伽梨の二長一短、三長一短なるは受持することを得るも、著して行来せば突吉羅を得ん」と云えり。此の中「四分律」は唯下中の六品を挙げ、「薩婆多毘尼毘婆沙」は具に下中上三位九品の別を説けるものなり。之を九品の大衣と称す。又其の衣量に関し、「薩婆多毘尼毘婆沙」の連文に、「正衣の量は三五肘なり、若し極長は六肘、広さ三肘半なり。若し極下は長さ四肘、広さ二肘半なり。若し如法の応量は三五肘なり」と云うも、「有部毘奈耶巻17」には、「僧伽胝に三種あり、謂わく上中下なり。上は竪三肘、横五肘、下は竪二肘半、横四肘半なり。二の内を中と名づく」と云えり。後世支那日本等に於いては、三十三條又は六十條等の僧伽梨を製するに至りしが如く、「四分律刪繁補闕行事鈔巻下1」に、「今時三十三條等あり、正教の制開なし」と云い、又默室の「法服格正」には「永祖言わく、この三衣必ず護持すべし。また僧伽胝衣に六十條の袈裟あり、必ず受持すべし。伝衣巻に更に二百五十條衣、乃至八万四千條衣を列ねて曰わく、いま略して挙するなり。このほか諸般の袈裟あるなり、共にこれ僧伽棃衣なるべし。有が問う、瑜伽論に云わく、大衣或いは六十條、或いは九條等、或いは両重に刺すを僧伽胝と名づく。若し今裁し成すも、また受持を得んか。云わく経論に異説、その例一ならず。もし通途に約せば二十五條に過ぐることを得ずと。経豪和尚、祖説を鈔して云わく、九條衣より二十五條までは今現在せるか。二百五十條衣、乃至八万四千條衣、その体色量いかなるべしとも口伝せず、尤も不審なりと。私かに考うるに祖意恐らくは表示する所あらん。いわゆる六十條衣とは六度波羅蜜ならんか。一波羅蜜に十の波羅蜜を具足す、故に六波羅蜜に六十の波羅蜜あり。すなわちこれ六十の体に即して六度の勝功徳を現成せしめ、もちて福智の二厳とするか。また二百五十條とは二百五十の具足戒、一一無相の福田にして、皆これ仏家の恵命を生長するものなり。また八万四千條とは、八万四千の煩悩業相、相即無相にして八万四千の相好荘厳具足現前すらん」と云えり。是れ固より後人の所案にして、仏制に非ざること言を俟たざるなり。又「四分律巻48」、「五分律巻20、21、29」、「摩訶僧祇律巻9、38」、「十誦律巻27、28」、「有部苾芻尼毘奈耶巻7」、「根本薩婆多部律摂巻5、6」、「有部百一羯磨巻1、10」、「大智度論巻1」、「四分律疏飾宗義記巻5末」、「南海寄帰内法伝巻2」、「玄応音義巻14」、「翻訳名義集巻18」、「四分律行事鈔資持記巻下1」等に出づ。<(望)
鬱多羅僧(うったらそう):梵名uttaraasaGga。巴梨名uttaraasanga、或いはuTThaanasaJJa、又優多羅僧、優哆邏僧、憂多羅僧、嗢怛羅僧、嗢怛羅僧伽、郁多羅僧伽、或いは漚多羅に作る。上衣、又は上著衣と訳す。三衣の一。即ち七條衣にして、常服中、最も上に在るが故に此の名あり。又唯だ左肩を覆うが故に覆左肩衣と云い、斎講礼誦等の諸の羯磨事を行う時、必ず著するが故に入衆衣と云い、その価値他の二衣の間に在るが故に中価衣の称あり。其の製法は両長一短二十一隔に割截するを法とし、若し財少くして辨じ難ければ揲葉を聴す。並びに皆却刺(カエシバリ)に縫うなり。肘量は長五肘広三肘を法とすれども、又身量の短長に応じて一定せずとなすの説あり。「長阿含経巻4」、「中阿含巻8侍者経」、「同巻14大善見王経」、「同巻22求法経」、「雑阿含経巻43」、「善見律毘婆沙巻2、15」、「五分律巻4、17、29」、「瑜伽師地論巻25」、「南海寄帰内法伝」、「四分律行事鈔資持記巻下之1」、「玄応音義巻14、25」、「慧琳音義巻12、15、59、60、67、71」、「翻梵語巻10」、「翻訳名義集巻19」等に出づ。<(望)
安陀会(あんだえ):梵名antarvaasa。又安怛婆沙、安呾婆娑、安多婆娑、安多跋薩、安陀跋薩、安羅跋薩、安怛婆参、安多会、安陀衛、或いは安多衛に作る。内に住するの義。中宿衣、内衣、裏衣、中着衣と訳し、條数に約して別に又五條衣と称す。三衣の一。体に襯して着するものにして、即ち屏処に在る時、又は衆務を営作する時之を被着す。三衣の中には極略の衣なり。其の製一長一短にして、壊色の麻布等を財体として之を裁す。「十誦律巻5」に、「若し比丘、初日に衣を得て用って安陀衛五條を作らば、分別を成して若干は長、若干は短にせよ。総じて五條を説く。衣を作り竟るの日、即ち応に受持して是の言を作すべし、我れは是れ安陀衛五條を作持すと」と云える是れなり。其の衣量に関しては、「有部百一羯磨巻10」に、「大徳、安呾婆娑衣の條数に幾ばくかある。仏言わく、但だ五條あり。一長一短なり。大徳、此れに幾種かある。仏言わく、三あり。謂わく上中下なり。上は三五肘、中下は前に同じ」とあり。此の中、前に同じとは此の前の文に、「下は各半肘を減ず。二の内を中と名づく」と云うを指すなり。又「同巻10」に、「仏言わく、安呾婆娑に復た二種あり。何をか謂って二と為す。一には竪二中、横五肘なり。二には竪二横四なり。此れを守持衣と謂う。最後の量は此れ最下衣の量にして、限りて三輪を蓋う」と云えり。此の中、三輪を蓋うとは、註に「上は但だ臍を蓋い、下は双膝を掩う。若し肘長き者は則ち此れと相当す。臂短き者の如きは膝に及ばず。宜しく肘長に依りて准と為すべし」とあり。之に依るに竪二横四を最下衣の量と為すが如きも、「有部毘奈耶巻17」には、「復た二種の安呾婆娑あり。竪二横五と竪二横四となり。若し極下の安呾婆娑は、但だ三輪を蓋う。是れ持衣中の最少なり」と云えり。之に依るに竪二横四の外に、別に極下の蓋三輪衣あるが如し。鳳潭の「仏門衣服正儀編」には、此の極下の安呾婆娑を以って、今の絡子の量に合すと為し、絡子の制を非法に非ずと論ずれども、光国の「僧服正𢮦巻上本」には、竪二横四の外に更に蓋三輪衣あるに非ずと云い、以って鳳潭の説を破せり。蓋し中古以後、僧服の制漸く本法を失い、衣体衣量及び其の制式等、種種異様のものあるに至れり。又「四分律巻40」、「同行事鈔巻下之1」、「同資持記巻下1之1」、「同名義標釈巻26」、「大乗義章巻15」、「玄応音義巻14」、「慧琳音義巻59」、「翻梵語巻10」、「翻訳名義集巻7」、「大毘盧遮那供養次第法疏巻上」等に出づ。<(望)
三衣(さんえ):梵語triiNi ciivaraaNiの訳。巴梨語tiiNi ciivaraaNi、三種の衣の意。一に安陀会antravaasa、二に鬱多羅僧uttaraasaGgha、三に僧伽梨saGgahaaTiなり。「摩訶僧祇律巻23」に、「此れは是れ僧伽梨、此れは是れ鬱多羅僧、此れは是れ安陀会、此れは是れ我が三衣なり」と云い、「四分律巻6」に、「仏は比丘に三衣を畜うることを聴す。長を得ず」と云い、「有部毘奈耶雑事巻5」に、「苾芻は応に割截三衣を著くべし」と云える是れなり。蓋し此の三衣は、三世諸仏賢聖の幖幟にして、仏弟子の居常必ず披著守持すべきものなり。「摩訶僧祇律巻38」に、「沙門の衣は賢聖の幖幟なり」と云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻4」に、「僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会、此の三名差別を作す所以は、未曽有法を現ぜんと欲するが故なり。一切の九十六種には尽く此の三名なし、外道に異なるを以っての故に此の差別を作す」と云い、「大智度論巻68」には、「行者少欲知足にして、衣は趣に形を蓋う。多からず少なからず、故に但だ三衣を受く。白衣は楽を求むるが故に多く種種の衣を畜う。或いは外道あり、苦行の故に裸形にして恥づることなし。是の故に仏弟子は二辺を捨てて処中に道を行ず」と云い、「分別功徳論巻4」に、「或いは曰わく、三衣を造ることは三転法輪を以っての故なりと。或いは云わく、三世の為と。或いは云わく、三時の為の故に三衣を設く。冬は則ち重きものを著け、夏は則ち軽きものを著け、春秋には中者を著く。是の三時の為の故に便ち三衣を具す。重き者は五條、中なる者は七條、薄き者は十五條なり。若し大寒の時は三衣を重著して之を障うべしと。或いは曰わく、亦た蚊虻蟆子の為の故に三衣を設くと。是の縁を以っての故に常に持して忘れず」とあり。又窺基の「金剛般若経賛述巻上」に、三衣に事の三衣と法の三衣との別あることを説けり。彼の文に、「事衣に三あり、僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会なり。此の中、初の衣を著して王城聚落に入り、次の衣は衆に処して説法し、次の衣は知るべし。今城に入らんと欲す、即ち初衣を著することを顕すなり。法の中に亦た三衣あり、一には精進、亦た甲鎧と名づく。謂わく能く利楽等の事を策励宣説して寒熱等の事を避けず、猶お著衣の如きなり。二に柔和忍辱衣とは、謂わく忍辱に由るが故に外の怨害を拒ぎて侵す能わざらしむ。猶お衣を著するに寒熱触れざるが如きなり。三に慚愧の上服とは、賢善を崇重し、暴悪を軽拒し、羞恥を相と為すに由るが故に著衣と言うなり」と云える是れなり。又真言家に置いては、三衣を具する能わざる場合に無所不至の一印一明を作して、三衣各自を観念せしむることあり、之を三衣法と称す。或いは又潅頂の時、三衣なき者は、紙に帰命阿、帰命鑁、帰命吽の種子を書し、之を紙に裹み、三衣の次第を乱さずして之を袋に入れて持せしめ、以って三衣を護持するに換うと云えり。又「大比丘三千威儀巻上」、「玄応音義巻15」、「南海寄帰内法伝巻1」、「四分律行事鈔資持記巻中2之2、巻下1之1」、「釈氏要覧巻上」等に出づ。<(望)
紝(にん):いと。
斐亹(ひみ):あやあるさま。文彩あるさま。 |
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佛告比丘。功德果報甚深。無有如我知恩分者。我雖復盡其邊底。我本以欲心無厭足故得佛。是故今猶不息。雖更無功德可得。我欲心亦不休。諸天世人驚悟。佛於功德尚無厭足。何況餘人。佛為比丘說法。是時肉眼即明慧眼成就。 |
仏の比丘に告げたまわく、『功徳の果報は甚深なるも、我れが如く恩分を知る者有ること無し。我れは復た其の辺底を尽くすと雖も、我れは本より、欲心の厭足する無きが故に、仏を得たり。是の故に今猶お息まず。更に功徳の得べき無しと雖も、我が欲心も亦た休まず』、と。諸天、世人の驚悟すらく、『仏すら、功徳に於いては、猶お厭足無し。何に況んや、余人をや』、と。仏は比丘の為に法を説きたまえば、是の時、肉眼即ち明るく、慧眼成就せり。 |
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
『功徳の果報は甚だ深い!』が、
わたしほど、
わたしは、
とっくに、
其の、
『辺底』を、
『尽くしているのだが!』、
わたしは、
本より、
『欲心』に、
『厭足する!』ことが、
『無かった!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『得たのである!』。
是の故に、
今猶お、
『功徳を欲して!』、
『息まず!』、
更に得られる、
『功徳』は、
『無いのだが!』、
わたしの、
『欲心』が、
『休まないのだ!』、と。
『諸の天、世人』は、
『驚悟して!』、こう言った、――
『仏すら!』、
『功徳』に於いては、
尚お、
『厭足されること!』が、
『無いのである!』から、
況して、
『余人』は、
『尚更であろう!』、と。
『仏』が、
『比丘』の為に、
『法を説かれる!』と、
是の時、
『肉眼が明るくなり!』、
『慧眼すら!』、
『成就したのである!』。
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問曰。如佛嘗斷一切善法中欲。今云何言欲無減。 |
問うて曰く、如(も)し仏にして、嘗て一切の善法中の欲すら断じたまわば、今は云何が、欲に減ずる無しと言う。 |
問い、
若し、
『仏』が、
嘗て、
『一切の善法』中の、
『欲』を、
『断じられたとすれば!』、
今は、
何故、こう言うのですか?――
『欲』の、
『減退すること!』が、
『無い!』、と。
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答曰。言斷一切善法中欲者。是未得欲得。得已欲增。佛無如是欲。佛一切功德具足。無不得者亦無增益。今言欲者。如先說。佛雖具得一切功德。欲心猶不息。 |
答えて曰く、一切の善法中の欲を断ずと言うは、是れ未だ得ざるを得んと欲し、得已れば増さんと欲するなり。仏に是の如き欲の無きは、仏は、一切の功徳具足したまえば、得ざる者無く、亦た増益する無ければなり。今欲と言うは、先に説けるが如く、仏は、一切の功徳を具に得たもうと雖も、欲心の猶お息まざればなり。 |
答え、
『一切の善法』中の、
『欲を断じる!』と、
『言う!』のは、
是の、
『欲』は、
未だ、
『得ていない!』者を、
『得よう!』と、
『欲し!』、
已に、
『得た!』者を、
『増そう!』と、
『欲することである!』が、
『仏』に、
『仏』には、
『一切の功徳が具足している!』ので、
『得られていない!』、
『功徳』が、
『無く!』、
『功徳』の、
『増益すること!』も、
『無いからである!』。
今言う、――
『欲』とは、
先に説いたように、――
『仏』は、
『一切の功徳』を、
『具足して!』、
『得ていられながら!』、
猶お、
『欲心』が、
『息まないからである!』。
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譬如馬寶雖到至處去心不息至死不已。佛寶亦如是。又如劫盡大火。燒三千大千世界悉盡。火勢故不息。佛智慧火亦如是。燒一切煩惱。照諸法已智慧相應欲亦不盡。 |
譬えば馬宝の至処に到るも、去心息まずして、死に至るまで、已(や)まざるが如く、仏宝も亦た是の如し。又劫尽の大火の、三千大千世界を焼きて、悉く尽くすも、火勢は故のまま息まざるが如く、仏の智慧の火も亦た是の如く、一切の煩悩を焼いて、諸法を照らし已りても、智慧相応の欲は亦た尽きざるなり。 |
譬えば、
『転輪聖王の馬宝』が、
『至処( goal )に到っても!』、
猶お、
『去心が息まず( the desire to run does not cease )!』、
『死の至るまで!』、
『已(や)まないように!』、
『仏という!』、
『宝』も、
亦た、
是のように、
『已むことがないのである!』。
又、
『劫尽の大火』は、
悉く、
『三千大千世界』を、
『焼き!』、
『尽くしても!』、
猶お、
『火勢』は、
『故(もと)まま!』、
『息まないように!』、
『仏の智慧という!』、
『火』も、
亦た、
是のように、
『一切の煩悩を焼いて!』、
諸の、
『法』を、
『照らし已っても!』、
『智慧相応の欲』は、
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復次佛雖一切善法功德滿足。眾生未盡故欲度不息。 |
復た次ぎに、仏は、一切の善法の功徳を満足すと雖も、衆生の未だ尽きざるが故に、度せんと欲して息みたまわず。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
一切の、
『善法』の、
『功徳』を、
『満足していられる!』が、
未だ、
『衆生』が、
『尽きていない!』が故に、
是の、
『衆生』を、
『度そうとして!』、
『息まれないのである!』。
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問曰。若佛欲度眾生未息。何以入涅槃。 |
問うて曰く、若し仏、衆生を度せんと欲して、未だ息みたまわずんば、何を以ってか、涅槃に入りたまえり。 |
問い、
若し、
『仏』が、
『衆生を度したい!』と、
『思われながら!』、
『息まれないのであれば!』、
何故、
『涅槃』に、
『入られたのですか?』。
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答曰。度眾生有二種。或有現前得度。或有滅後得度。如法華經中說。藥師為諸子合藥與之而捨。是故入涅槃。 |
答えて曰く、度せらるる衆生には、二種有り、或は現前に度を得る有り、或は滅後に度を得る有り。法華経中に説けるが如きは、『薬師は、諸子の為に薬を合して之に与えて、捨つ』、となり。是の故に、涅槃に入りたもう。 |
答え、
『度される!』、
『衆生』には、
『二種有り!』、
或は、
有る者は、
『仏の現前( being in front of )で!』、
『度』を、
『得るのであり!』、
或は、
例えば、
『法華経』中には、こう説かれているが、――
『薬師』は、
『諸子』の為に、
『薬』を、
『調合して!』、
『与えてから!』、
是の、
『諸子』を、
『捨てた!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『涅槃』に、
『入られたのである!』。
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現前(げんぜん):梵語 aabhimukhya の訳、対面/現存( being in front of or face to face, presence
)の義。 |
参考:『妙法蓮華経巻5如来寿量品』:『又善男子。諸佛如來法皆如是。為度眾生皆實不虛。譬如良醫智慧聰達。明練方藥善治眾病。其人多諸子息。若十二十乃至百數。以有事緣遠至餘國。諸子於後飲他毒藥。藥發悶亂宛轉于地。是時其父還來歸家。諸子飲毒。或失本心或不失者。遙見其父皆大歡喜。拜跪問訊善安隱歸。我等愚癡誤服毒藥。願見救療更賜壽命。父見子等苦惱如是。依諸經方。求好藥草色香美味皆悉具足。擣篩和合與子令服。而作是言。此大良藥。色香美味皆悉具足。汝等可服。速除苦惱無復眾患。其諸子中不失心者。見此良藥色香俱好。即便服之病盡除愈。餘失心者。見其父來。雖亦歡喜問訊求索治病。然與其藥而不肯服。所以者何。毒氣深入失本心故。於此好色香藥而謂不美。父作是念。此子可愍。為毒所中心皆顛倒。雖見我喜求索救療。如是好藥而不肯服。我今當設方便令服此藥。即作是言。汝等當知。我今衰老死時已至。是好良藥今留在此。汝可取服勿憂不差。作是教已復至他國。遣使還告。汝父已死。是時諸子聞父背喪。心大憂惱而作是念。若父在者。慈愍我等能見救護。今者捨我遠喪他國。自惟孤露無復恃怙。常懷悲感心遂醒悟。乃知此藥色味香美。即取服之毒病皆愈。其父聞子悉已得差。尋便來歸咸使見之‥‥』 |
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復次有眾生鈍根德薄故。不能成大事。但可種福德因緣。是故入涅槃。 |
復た次ぎに、有る衆生は、鈍根にして徳薄きが故に、大事を成す能わざれば、但だ福徳の因縁を種うべし。是の故に涅槃に入りたまえり。 |
復た次ぎに、
有る、
『衆生』は、
『鈍根、薄徳である!』が故に、
『大事』を、
『達成することができない!』が故に、
但だ、
『福徳の因縁』を、
『種えられるだけである!』。
是の故に、
『仏』は、
『涅槃』に、
『入られたのである!』。
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問曰。佛滅度後。亦有得阿羅漢者。何以言但可種福德因緣。 |
問うて曰く、仏の滅度の後にも、亦た阿羅漢を得る者有るに、何を以ってか、『但だ福徳の因縁を種うべし』、と言う。 |
問い、
『仏の滅度の後』にも、
『阿羅漢』を、
『得る!』者が、
『有るのに!』、
何故、こう言うのですか?――
但だ、
『福徳の因縁』を、
『種えられるだけである!』、と。
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答曰。雖有得阿羅漢者少不足言。如佛一說法時。十方無量阿僧祇眾生得道。佛滅度後不爾。譬如大國。征伐雖少有所得不名為得。以是故雖眾生未盡而入涅槃。 |
答えて曰く、阿羅漢を得る者有りと雖も、少なければ言うに足らず。仏の一説法の時の如きは、十方の無量阿僧祇の衆生道を得たるも、仏の滅度の後は爾らず。譬えば、大国の征伐は、少しく所得有りと雖も、名づけて得とは成さざるが如し。是を以っての故に衆生未だ尽きざると雖も、涅槃に入りたまえり。 |
答え、
『阿羅漢を得た者が有った!』としても、
『少なければ!』、
『言う!』に、
『足らない!』。
例えば、
『仏』は、
『一たび!』、
『法』を、
『説かれただけで!』、
その時、
『十方の無量、阿僧祇の衆生』が、
『道』を、
『得たのである!』が、
『仏』が、
『滅度された後』には、
『爾うでなかったようなものである!』。
譬えば、
『大国が征伐すれば!』、
『少しばかり!』、
『所得』が、
『有ったとしても!』、
即ち、
『得た!』とは、
『呼ばれないようなものである!』。
是の故に、
『衆生』が、
未だ、
『尽きていなくても!』、
『仏』は、
『涅槃』に、
『入られるのである!』。
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復次摩訶衍首楞嚴經中說。佛於莊嚴世界。壽七百阿僧祇劫度脫眾生。以是故說佛欲無減。 |
復た次ぎに、摩訶衍の首楞厳経中に説かく、『仏は荘厳世界に於いて、寿七百阿僧祇劫に衆生を度脱す』、と。是を以っての故に説かく、『仏は欲の減ずる無し』、と。 |
復た次ぎに、
『摩訶衍の首楞厳経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『荘厳世界』に於いて、
『寿にして!』、
『七百阿僧祇劫のあいだ!』、
『衆生』を、
『度脱された!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『欲』の、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
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精進無減者。如欲中說欲義即是精進。 |
精進の減ずる無しとは、欲中に、欲の義を説けるが如き、即ち是れ精進なり。 |
『精進』の、
『減退すること!』が、
『無い!』とは、――
譬えば、
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問曰。若爾者無有十八不共法。復次欲精進。心數法中各別。云何言欲即是精進。 |
問うて曰く、若し爾らば、十八不共法有ること無けん。復た次ぎに、欲と精進とは、心数法中には各別なり。云何が言わく、『欲は即ち是れ精進なり』、と。 |
問い、
若し、
爾うならば、
『不共法』が、
『十八』、
『有るはずがない!』。
復た次ぎに、
『欲、精進』は、
『心数法』中には、
『各、別である!』。
何故、こう言うのですか?――
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欲(よく):心所有法中大地法の一。所楽の事に於いて、見聞等の一切の作用を引摂せんと欲するを云う。『大智度論巻14上注:心所有法、巻18下注:大地法、巻26上注:欲』参照。
欲(よく):梵語chandaの訳。巴梨語同じ。心所の名。七十五法の一。百法の一。即ち所作の事業を希求する精神作用を云う。「品類足論巻2」に、「欲性増上し、欲性現前し、欣喜し希望して作を楽う、是れを名づけて欲と為す」と云い、「倶舎論巻4」に、「欲は謂わく所作の事業を希求するなり」と云い、又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」に、「欲とは所楽の事に於いて彼彼に所作の希望を引発するを体と為し、正しく勤の所依たるを業と為す。彼彼に所作の希望を引発すとは、謂わく見聞等の一切の作用を引摂せんと欲するが故なり」と云い、「成唯識論巻5」に、「云何が欲と為す、所楽の境に於いて希望するを性と為し、勤の依たるを業と為す」と云える是れなり。是れ所作の事業を希求し、勤の所依となる心所を欲と名づけたるなり。説一切有部に於いては欲は一切の心品に相応すとなし、之を大地法の摂となすも、唯識家にては唯所楽の境を縁ずる時にのみ欲は起るとし、五別境の一となすなり。之に関し前引「成唯識論」の連文に、「有は説く、要ず境を希望する力に由りて、諸の心心所は方に所縁を取る。故に経に欲を諸法の本と為すと説くと。彼の説然らず、心等の境を取るは作意に由るが故に、諸の聖教に作意現前して能く識を生ずと説くが故に、曽て処として欲に由りて能く心心所を生ずと説くことなきが故なり。諸法は愛を根本と為すと説くが如き、豈に心心所は皆愛に由りて生ぜんや。故に欲を諸法の本と為すと説くは、欲に起さるる一切の事業のみを説くなり」と云えり。是れ説一切有部に於いて諸の心心所の所縁を取るは皆境を希望する力に由るとし、欲を大地の摂となせるを批し、心等の境を取るは作意に由るものにして、欲に非ず、経に欲を諸法の本と為すと云うは、唯欲に起さるる事業を説くに過ぎず、故に欲は遍行に摂すべからずとなすの意なり。又欲は勤の為に依となると云うに関し、「成唯識論述記巻6本」に二解を出し、一解は勤は精進の義にして、即ち唯善欲に約して之を説くものなりとし、一解は勤は勤劬の義にして、総じて善悪無記の三性の欲に通ずとなし、就中、前解を正となすと云えり。又「倶舎論巻16」には此の中、他の財物を躭求する悪欲を特に貪と名づけ、根本煩悩の一となせり。即ち彼の文に、「他の財に於いて非理に欲を起し、如何にせば彼れをして我れに属して他の非ざらしめんと、力と竊との心を起して他物を躭求す。是の如き悪欲を貪業道と名づく」と云える是れなり。又「長阿含巻12清浄経」等には所楽の事に就いて欲を色欲、声欲、香欲、味欲、触欲の五種に分別し、「大般涅槃経巻12」には形貌欲、姿態欲、細触欲の三欲を出し、「正法念処経巻5生死品」には此の界に食欲、婬欲等あるが故に欲界と名づくと云い、又「倶舎論巻20」等には欲界見修所断の貪等の四根本煩悩及び十纏を立てて欲取又は欲暴流と名づけ、又欲界繋の三十六随眠の中、五部の無明を除いて余の三十一随眠及び十纏を欲漏と名づけ、其の他、貪欲、愛欲、睡眠欲、財欲等の諸目あり。又「大毘婆沙論巻16」、「入阿毘達磨論巻上」、「雑阿毘曇心論巻2」、「顕揚聖教論巻1」、「成唯識論巻3」等に出づ。<(望)
精進(しょうじん):勇悍にして諸の善法を進修するを云う。心所有法中大善地法の一。『大智度論巻15下注:精進、巻14上注:心所有法、巻18下注:大善地法』参照。 |
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答曰。欲為初行。欲增長名精進。如佛說。一切法欲為根本。欲如人渴欲得飲。精進如因緣方便求飲。欲為心欲得。精進為成其事。欲屬意業精進屬三業。欲為內精進為外。如是等差別。 |
答えて曰く、欲を初行と為し、欲の増長を精進と名づく。仏の、『一切法は欲を根本と為す』、と説きたもうが如し。欲は、人の渇いて、飲を得んと欲するが如し。精進は、方便を因縁として、飲を求むるが如し。欲は、心に得んと欲すと為す。精進は、是の事を成ずと為す。欲は意業に属し、精進は三業に属す。欲は内と為し、精進は外と為す。是れ等の如く差別す。 |
答え、
『欲』は、
『初行であり!』、
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『一切の法』は、
『欲』が、
『根本である!』、と。
『欲』は、
譬えば、
『人が渇いて!』、
『飲物』を、
『得たい!』と、
『思うことであり!』、
『精進』は、
譬えば、
『方便』を、
『因縁として!』、
『飲物』を、
『求めることである!』。
『欲』は、
『心』に、
『得たい!』と、
『思うことであり!』、
『精進』は、
『欲』は、
『意業に属する!』が、
『精進』は、
『三業に属する!』。
『欲』は、
『内である!』が、
『精進』は、
『外である!』。
是れ等のように、
『差別する!』。
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方便(ほうべん):梵語 upaaya の訳、近づく/接近する/到着する( coming near, approach, arrival )の義、目的を達成するもの/手段/[有らゆる種類の]便法/方法/策略/技能/術策( that by which one reaches one's aim, a means or expedient (of any kind), way, stratagem, craft, artifice )、[特に]敵に勝つ手段(通常以下の四種が挙げられる、即ち不和の種をまく、交渉、贈賄、先制攻撃である( (especially) a means of success against an enemy (four are usually enumerated, sowing dissension, negotiation, bribery, and open assault) )の意。 |
参考:『北本大般涅槃経巻38』:『迦葉菩薩白佛言。世尊。云何名為知根乃至知畢竟耶。佛言。善男子。善哉善哉。菩薩發問為於二事。一者為自知故。二者為他知故。汝今已知但為無量眾生未解啟請是事。是故我今重讚歎汝。善哉善哉。善男子。三十七品根本是欲。因名明觸。攝取名受。增名善思。主名為念。導名為定。勝名智慧。實名解脫。畢竟名為大般涅槃。善男子。善欲即是初發道心。乃至阿耨多羅三藐三菩提之根本也。是故我說欲為根本。善男子。如世間說。一切苦惱愛為根本。一切疹病宿食為本。一切斷事鬥諍為本。一切惡事虛妄為本。迦葉菩薩白佛言。世尊。如來先於此經中說。一切善法不放逸為本。今乃說欲。是義云何。佛言。善男子。若言生因善欲是也。若言了因不放逸是。如世間說。一切果者子為其因。或復有說。子為生因地為了因。是義亦爾。』 |
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復次是精進諸佛所樂。如釋迦牟尼佛。精進力故超越九劫。疾得阿耨多羅三藐三菩提。 |
復た次ぎに、是の精進は、諸仏の楽しむ所なり。釈迦牟尼仏の、精進力の故に、九劫を超越して、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得たまえるが如し。 |
復た次ぎに、
是の、
『精進』は、
『諸仏』の、
『楽しむ所であり!』、
例えば、
『釈迦牟尼仏』は、
『精進の力』の故に、
『九劫』を、
『超越して!』、
疾かに、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られたのである!』。
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参考:『生経巻1』:『佛告比丘。實如所言。誠無有異。吾從無數劫以來。精進求道。初無懈怠。愍傷眾生。欲度脫之。用精進故。自致得佛。超越九劫。出彌勒前。』 |
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復次如說一時佛告阿難。汝為諸比丘說法。我背痛小息。爾時世尊。四襞鬱多羅僧敷下。以僧伽梨枕頭而臥。是時阿難說七覺義。至精進覺佛驚起坐。告阿難。汝讚精進義。阿難言讚。如是至三。 |
復た次ぎに、説の如し。一時、仏の阿難に告げたまわく、『汝、諸比丘の為に法を説け。我が背痛むに、小しく息まん』、と。爾の時、世尊は、鬱多羅僧を四襞して、下に敷き、僧伽梨を以って頭に枕(か)いて臥せたまえり。是の時、阿難は七覚の義を説いて、精進覚に至り、仏驚きて起ちて坐し、阿難に告げたまわく、『汝は、精進の義を讃ぜしや』、と。阿難の言わく、『讃じたり』、と。是の如く三たびに至れり。 |
復た次ぎに、こう説かれている、――
一時、
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
諸の、
わたしは、
『背が痛むので!』、
『小(しばら)く!』、
『息もう!』、と。
爾の時、
『世尊』は、
『鬱多羅僧( 上衣)を四畳みにして!』、
『下に!』、
『敷き!』、
『僧伽梨( 中衣)を枕にして!』、
『頭を載せ!』、
『臥せられた!』。
是の時、
『阿難』は、
『七覚の義』を、
『説きながら!』、
『精進覚』に、
『至る!』と、
『仏』は、
『驚いて!』、
『起きて!』、
『坐り!』、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
『精進の義』を、
『讃じたか?』、と。
『阿難』は、こう言った、――
『讃じました!』、と。
是のようにして、
|
襞(ひゃく):たたむ。畳まれたさま。
四襞(しひゃく):四つにたたむ。
七覚(しちかく):菩提に帰趣する七種の法、即ち念、択法、精進、喜、軽安、定、捨覚支を云う。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。 |
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佛言。善哉善哉。善修精進。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。何況餘道。以是義故佛精進無減。病時猶尚不息。何況不病。 |
仏の言わく、『善い哉、善い哉、善く精進を修すれば、乃至阿耨多羅三藐三菩提に至らん。何に況んや、余の道をや』、と。是の義を以っての故に、仏の精進は減ずる無し。病の時すら、猶尚お息みたまわず、何に況んや病まざるをや。 |
『仏』は、こう言われた、――
善いぞ!
善いぞ!
『善く!』、
『精進』を、
『修めれば!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提すら!』、
『得ることができる!』。
況して、
『余の道』は、
『尚更である!』、と。
是の、
『義』の故に、
『仏の精進』は、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
『病の時すら!』、
猶尚お、
『息まれないのであるから!』、
況して、
『病まない時』は、
『言うまでもない!』。
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復次佛為度眾生故。捨甚深禪定樂。種種身種種語言種種方便力度脫眾生。或時遇惡險道。或時食惡食或時受寒熱。或時值諸邪難聞惡口罵詈忍受不厭。 |
復た次ぎに、仏は、衆生を度せんが為の故に、甚深の禅定の楽を捨て、種種の身、種種の語言、種種の方便の力もて、衆生を度脱したもうに、或は時には悪険道に遇い、或は時に悪食を食い、或は時に寒熱を受け、或は諸の邪難に値い、悪口、罵詈を聞くも、忍んで受くることを厭いたまわず。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『衆生を度する!』為の故に、
甚だ深い、
『禅定の楽』を、
『捨てて!』、
種種の、
『身や!』、
種種の、
『語言や!』、
種種の、
『方便の力を用いて!』、
『衆生』を、
『度脱されるので!』、
或は時に、
或は時に、
或は時に、
或は時に、
諸の、
『邪難に値( あ)って!』、
『悪口、罵詈』を、
『聞かれた!』が、
皆、
『忍んで!』、
『受けること!』を、
『厭われなかった!』。
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佛世尊雖於諸法中自在而行是事。不生懈怠。如佛度眾生已。於薩羅林中雙樹下臥。梵志須跋陀語阿難。我聞一切智人今夜當滅度。我欲見佛。阿難止之言。佛為眾人廣說法疲極。 |
仏、世尊は、諸法中に自在なりと雖も、是の事を行じて、懈怠を生じたまわず。仏の衆生を度し已りて、薩羅林中の双樹の下に於いて臥せたまえるが如し。梵志の須跋陀の阿難に語らく、『我れは一切智の人の今夜、当に滅度すべきを聞けり。我れは仏に見えんと欲す』、と。阿難の之を止めて言わく、『仏は、衆人の為に広く法を説き、疲極したまえり』、と。 |
『仏、世尊』は、
諸の、
『法中に自在であった!』が、
是の、
『事を行われ!』、
『懈怠』を、
『生じられなかった!』。
例えば、
『仏』が、
『衆生を度し已って!』、
『薩羅林』中の、
『双樹の下』に、
『臥せられる!』と、
『梵志の須跋陀』が、
『阿難』に、こう語っていた、――
わたしは、
今夜、
『一切智の人』が、
『滅度されるはずだ!』と、
『聞いてきた!』が、
わたしは、
『阿難』は、
是の、
『梵志を制止して!』、こう言った、――
『仏』は、
『衆人』の為に、
『広く、法を説かれた!』ので、
『極めて!』、
『疲れていられる!』、と。
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薩羅(さら):樹木の名。娑羅に同じ。『大智度論巻26上注:娑羅林双樹、拘尸那竭羅』参照。
須跋陀(しゅばっだ):仏の最後の教誡を受けて得道せし弟子の名。『大智度論巻26上注:須跋陀羅』参照。
須跋陀羅(しゅばっだら):梵名subbhadra。巴梨名subhada、又蘇跋陀羅、数婆頭楼、須跋陀、須拔陀、須拔、須跋に作り、善賢、好賢、又は善好賢と訳す。仏の最後の教誡を受けて得道せし弟子の名。「長阿含巻4遊行経」に、「是の時、拘尸城内に一の梵志あり、名づけて須跋と曰う。年百二十にして耆旧多智なり。沙門瞿曇が今夜双樹の間に於いて当に滅度を取るべきを聞き、自ら念言すらく、吾れ法に於いて疑あり、唯瞿曇のみありて能く我が意を解せん。今当に時に及べり、自ら力めて行かんと。即ち其の夜に於いて拘尸城を出で、双樹の間に詣でて阿難の所に至り、問訊し已りて一面に立ち、阿難に白して曰わく、我れ聞く、瞿曇沙門は今夜当に滅度を取るべしと。故に此に来至して一たび相見えんことを求む。我れ法に於いて疑あり、願わくは瞿曇に見えて我が意を一決せん。寧ろ閑暇ありて相見ゆることを得るや不やと。阿難報じて言わく、止めよ止めよ、須跋。仏の身に疾あり、労擾することなかれと。須跋固く請うて乃ち再三に至る。(中略)時に仏は阿難に告ぐ、汝遮止すること勿かれ。此に来入せしめて疑を決せんと欲するを聴せ。嬈乱せしむることなかれ。設し我が法を聞かば必ず開解を得んと。阿難乃ち須跋に告ぐ、汝仏に覲えんと欲せば、宜しく知るべし是の時なりと。須跋即ち入りて問訊し、已りて一面に坐す。(中略)仏之に告げて曰わく、若し諸法の中に八聖道なくば、則ち第一沙門果第二第三第四沙門果なし。須跋よ、諸法の中に八聖道あるを以っての故に、便ち第一沙門果第二第三第四の沙門果あり。須跋よ、今我が法の中に八聖道あり、第一沙門果第二第三第四の沙門果あり。外道異衆には沙門果なしと。(中略)是に於いて須跋は即ち其の夜に於いて出家受戒し、梵行を浄修し、現法の中に於いて自身に証を作し、生死已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辦じ、如実智を得て更に有を受けじと。時に夜未だ久しからずして即ち羅漢と成る。是れを如来最後の弟子と為す。便ち先に滅度し、仏は後る」と云える是れなり。又「増一阿含経巻3弟子品」には、「最後に証を取り、漏尽通を得たるは、所謂須拔比丘是れなり」とあり。又「増一阿含経巻1、37」、「雑阿含経巻35」、「別訳雑阿含経巻6」、「仏般泥洹経巻下」、「大般涅槃経巻下」、「般泥洹経巻下」、「撰集百縁経巻4」、「仏遺教経」、「大般涅槃経巻40」、「大般涅槃経後分巻上」、「有部毘奈耶雑事巻38」、「大毘婆沙論巻1、93」、「大智度論巻3」、「大唐西域記巻6」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻22」、「慧琳音義巻18、26」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望) |
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佛遙聞之告阿難。聽須跋陀入。是我末後弟子。須跋陀得入問佛所疑。佛隨意說法斷疑得道。先佛入無餘涅槃。 |
仏は、遙かに之を聞いて、阿難に告げたまわく、『須跋陀の入るを聴せ。是れは我が末後の弟子なり』、と。須跋陀は入るを得て、仏に疑う所を問えるに、仏は随意に法を説いて、疑を断じ、道を得しめたまえば、仏より先に、無余涅槃に入れり。 |
『仏』は、之を聞いて、
『阿難』に、こう告げられた、――
『須跋陀』が、
『入る!』のを、
『聴(ゆる)せ!』。
是の、
『須跋陀』は、
わたしの、
『末後の( at the end )!』、
『弟子である!』、と。
『須跋陀』は、
『入って!』、
『仏』に、
『疑う!』所を、
『問うことができた!』。
『仏』が、
『意のままに!』、
『法』を、
『説いて!』、
『須跋陀』の、
『疑を断じ!』、
『道』を、
『得させられる!』と、
『須跋陀』は、
『仏に先んじて!』、
『無余涅槃』に、
『入った!』。
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末後(まつご):梵語 pazcima, antataH の訳、最後に/最終的な/最終点( at the end, lastly, finally, the finishing point. )、死/最後の身( Death. The final body )の意。 |
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諸比丘白佛言。世尊。甚為希有。乃至末後憐愍外道梵志而共語言。 |
諸の比丘の仏に白して言さく、『世尊、甚だ希有と為す。乃至末後に、外道の梵志を憐愍して、語言を共にしたもうとは』、と。 |
諸の、
『比丘』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『甚だ!』、
『希有のようです!』。
乃至、
『最後まで!』、
『外道』の、
『梵志』を、
『憐愍して!』、
『外道』と、
『語言』を、
『共にされるとは!』、と。
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佛言。我非但今世末後度。先世未得道時亦末後度。乃往過去無量阿僧祇劫。有大林樹多諸禽獸。野火來燒三邊俱起。唯有一邊而隔一水。眾獸窮逼逃命無地。我爾時為大身多力鹿。以前腳跨一岸。以後腳。距一岸。令眾獸蹈背上而渡。皮肉盡壞以慈愍力忍之至死。最後一兔來。氣力已竭自強努力忍令得過。過已背折墮水而死。如是久有非但今也。 |
仏の言わく、『我れは但だ今世のみ、末後に度すに非ず。先世の未だ道を得ざる時にも、亦た末後に度せり。乃往過去の無量阿僧祇劫に、大林樹有りて、諸の禽獣多し。野火来たりて、三辺を焼き、倶に起れり。唯だ有る一辺のみ、一水を隔てらるれば、衆獣窮逼して、命を逃るるに、地無し。我れ爾の時、大身、多力の鹿と為りて、前脚を以って一岸を跨ぎ、後脚を以って、一岸を距て、衆獣をして、背上を蹈んで渡らしむ。皮肉尽く壊るるも、慈愍の力を以って、之を死に至るまで忍べり。最後に一兔来たるも、気力已に竭(つ)き、自ら強いて努力し、忍んで過ぐるを得しむ。過ぎ已るに背折れて水に墮ちて死せり。是の如きは久しく有るに、但だ今のみに非ず。 |
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
但だ、
『今世にのみ!』、
『末後に!』、
『度すのではない!』。
未だ、
『道を得ていない!』時の、
『先世の末後にも!』、
『度したのである!』。
乃往過去の無量阿僧祇劫に、
有る、
『大樹林』に、
『野火が来て!』、
『火』は、
是の、
『樹林の三辺より!』、
『同時に!』、
『起り!』、
但だ、
『有る一辺のみ!』、
『河水に!』、
『隔(へだ)てられていた!』ので、
『衆獣』が、
『野火に逼られて!』、
『命を逃れようとしても!』、
『地』が、
『無かったのである!』。
わたしは、
爾の時、
『大身、多力の鹿と為り!』、
『前脚』を、
『一岸』に、
『跨がり!』、
『後脚』を、
『一岸』に、
『距(へだ)てて!』、
『衆獣』に、
『背上を蹈んで!』、
『河水を渡らせた!』。
『皮肉は尽く壊れていた!』が、
『慈愍の力で!』、
『死に至るまで!』、
『忍んでいる!』と、
『最後に!』、
『一兔』が、
『来た!』。
『気力は已に竭( つ)きていた!』が、
自ら、
『強いて!』、
『努力し!』、
忍んで、
『兔』を、
『通過させた!』。
『兔が通過してしまう!』と、
『背が折れて!』、
『水に墮ちて!』、
『死んだのである!』。
是のように、
是の、
『事』は、
『久しく!』、
『有るのであり!』、
但だ、
『今だけ!』、
『有るのではない!』。
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乃往(ないおう):むかし、いにしえ。往昔。
林樹(りんじゅ):林中の樹木。
窮逼(ぐうひつ):きわまりせまる。こまりきる。困窮の極に達する。窮迫。
跨(こ):またぐ。こえる。越。かく。懸。
距(ご):へだつ。へだてる。とまる。止。いたる。至。 |
参考:『有部毘奈耶雑事巻38』:『乃往昔時於大山澤。有一鹿王千鹿圍繞依林而住。有大智慧預識機宜。於所居處獵者來見。而往告王。時王以兵周遍圍繞。鹿王作念我若不能救濟眾鹿。必被獵人之所屠害。爾時鹿王。四顧瞻望。而作是念我今作何方便。能令群鹿免斯苦厄。遂見深山下有澗水駛流出谷。諸鹿羸弱不能浮趒。鹿王入澗橫流而住。作大音聲普告群鹿。汝等速來可從此岸。擲上我背趒於彼岸。必得存活。若不爾者當遭屠害。於是群鹿次第悉踏大鹿王脊。皆越駛河得離危難。由諸群鹿蹄甲踐蹋。鹿王皮穿血肉皆盡唯餘脊骨。雖極苦痛心無退轉。悉令群鹿安隱得渡。仍懷顧戀誰未渡者。於群鹿中有一鹿兒不能趒渡。爾時鹿王雖受極苦。尚懷哀念不顧自身。從水而出遂取鹿兒。置於脊上渡至彼岸。鹿王遍觀知渡盡已。氣力將竭臨命終時而發誓願。我救群鹿及此鹿兒。救濟死厄不惜身命。願我當來得成無上正等覺時。令彼得渡生死羅網。置最後邊妙涅槃處。佛告諸苾芻。汝意云何勿生異念。往時鹿王者即我身是。其群鹿者拘尸那城諸壯士是。其鹿兒者即善賢是』 |
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前得度者今諸弟子。最後一兔須跋陀是。佛世世樂行精進今猶不息。是故言精進無減。 |
前に度を得たる者とは、今の諸の弟子にして、最後の一兔は、須跋陀是れなり』、と。仏は世世に精進を行うを楽しみて、今猶お息みたまわず。是の故に言わく、『精進に減ずる無し』、と。 |
『前に!』、
『度を得た!』者とは、
『今の!』、
『諸の弟子であり!』、
『最後の!』、
『仏』は、
『世世に楽しんで!』、
『精進』を、
『行ってこられた!』のに、
今猶お、
『息まれない!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『精進』には、
『減退する!』ことが、
『無い!』、と。
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念無減者。於三世諸法。一切智慧相應故念滿足無減。 |
念の減ずる無しとは、三世の諸法に於いて、一切の智慧に相応するが故に、念ずれば満足して、減ずる無し。 |
『念』は、
『減退する!』ことが、
『無い!』とは、――
『仏』は、
『三世の諸法』に於いて、
『念じれば!』、
『満足して!』、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
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問曰。先已說念無失。今復說念無減。念無失念無減為一為異。若一今何以重說。若異有何差別。 |
問うて曰く、先に已に念の無失を説き、今復た念の無減を説く。念の無失と、念の無減とは、一と為すや、異と為すや。若し一なれば、今何を以ってか、重ねて説き、若し異なれば、何なる差別か有る。 |
問い、
先に已に、
今復た、
『念』は、
『無減である!』と、
『説く!』が、
『念の無失と、無減と!』は、
『一なのですか?』、
『異なのですか?』。
若し、
若し、
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答曰。失念名誤錯。減名不及。失念名威儀俯仰去來法中失念。無減名住禪定神通念。過去現在世通達無礙。 |
答えて曰く、失念を、誤錯と名づけ、減ずるを、及ばずと名づく。失念を、威儀、俯仰、去来の法中に失念すと名づけ、無減を、禅定に住すれば、神通は、過去現在世を念じて、通達無礙なり、と名づく。 |
答え、
『念を失う!』とは、
『錯誤するという!』、
『意味であり!』、
『減ずる!』とは、
『前に及ばないという!』、
『意味である!』。
『念を失う!』とは、
『威儀、俯仰、去来の法』中に、
『念』を、
『失うことであり!』、
『減ずることが無い!』とは、
『禅定』に、
『住すれば!』、 『過去、現在世を念じる!』、
『神通』が、
『通達、無礙だからである!』。
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問曰。何以故。念無減獨是佛法。 |
問うて曰く、何を以っての故にか、念の無減は、独り、是れ仏のみの法なる。 |
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答曰。聲聞辟支佛善修四念處故念牢固。念雖牢固猶亦減少礙不通達。如宿命智力中說。聲聞辟支佛念宿命。極多八萬劫。於廣有減。亦於見諦道中。不能念念分別。佛於念念中皆分別三相。佛心無有一法而不念者。以是故獨佛有念無減。 |
答えて曰く、声聞、辟支仏は善く四念処を修するが故に、念牢固なり。念、牢固なりと雖も、復た減少し、礙りて、通達せず。宿命智力中に、『声聞、辟支仏は宿命を念じて、極めて多くんば八万劫にして、広きに於いては、減ずる有り。亦た見諦道中に於いては、念念に分別する能わず。仏は、念念中に於いても、皆三相を分別す』、と説けるが如し。仏心には、一法の念ぜざる者有ること無く、是を以っての故に独り仏のみ、念の減ずる無き有り。 |
答え、
『声聞、辟支仏』は、
『善く、四念処を修めている!』が故に、
『念』が、
『牢固である!』が、
『念が牢固であっても!』、
猶お、
『減少し!』、
『礙(とどこお)って!』、
『通達しないからである!』。
例えば、
『宿命智力』中に、こう説いた通りである、――
『声聞、辟支仏』が、
『宿命を念じる!』と、
『極めて!』、
『多い!』者でも、
『八万劫であり!』、
『広く念じれば!』、
『減退すること!』が、
『有る!』し、
亦た、
『見諦道』中には、
『念念の!』、
『心』を、
『分別することができない!』が、
『仏』は、
『念念中の心も!』、
皆、
『三相』を、
『分別される!』、と。
『仏の心』には、
『一法すら!』、
『念じない法』が、
『無い!』ので、
是の故に、
独り、
『仏にのみ!』、
『念の無減』が、
『有るのである!』。
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参考:『大智度論巻2』:『答曰。諸阿羅漢辟支佛宿命智。知自身及他人亦不能遍。有阿羅漢知一世或二世三世十百千萬劫乃至八萬劫。過是以往不能復知。是故不滿天眼明。未來世亦如是。佛一念中生住滅時。諸結使分生時。如是住時。如是滅時。如是苦法忍苦法智中所斷結使悉覺了。知如是結使解脫。得爾所有為法解脫。得爾所無為法解脫。乃至道比忍。見諦道十五心中。諸聲聞辟支佛所不覺知。時少疾故。如是知過去眾生因緣漏盡。未來現在亦如是。是故名佛明行具足。行名身口業。唯佛身口業具足。餘皆有失。是名明行具足。』 |
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復次宿命智力隨念知。佛於是中有力。聲聞辟支佛尚無是念力何況餘人。 |
復た次ぎに、宿命智力は、念に随うて知るに、仏は是の中にも力有り。声聞、辟支仏すら、尚お、是の念力無し。何に況んや、余人をや。 |
復た次ぎに、
『宿命智力』は、
『念に随って!』、
『宿命』を、
『知るものであり!』、
『仏』は、
『声聞、辟支仏すら!』、
尚お、
是の、
『念の力』が、
『無い!』。
況して、
『余の人』は、
『尚更である!』。
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復次佛以一切智無礙解脫守護念。是故無減。如是等因緣故。佛念無減。 |
復た次ぎに、仏は、一切智の無礙解脱を以って、念を守護したまえば、是の故に減ずる無し。是れ等の因縁の故に、仏の念は減ずる無きなり。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『一切智』の、
『無礙解脱を用いて!』、
『念』を、
『守護されている!』ので、
是の故に、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『仏の念』には、
『減退する!』ことが、
『無い!』。
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慧無減者。佛得一切智慧故慧無減。三世智慧無礙故慧無減。 |
慧の減ずる無しとは、仏は一切の智慧を得たまえるが故に慧の減ずる無く、三世の智慧の無礙なるが故に慧の減ずる無し。 |
『慧』の、
『減退すること!』が、
『無い!』とは、――
『仏』は、――
『一切の智慧を得られた!』が故に、
『三世の智慧が無礙である!』が故に、
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復次十力四無所畏四無礙智成就故。慧無減。 |
復た次ぎに、十力、四無所畏、四無礙智の成就するが故に慧の減ずる無し。 |
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復次譬如酥油豐饒燈炷清淨光明亦盛。佛亦如是。三昧王等諸三昧。禪定油念無減清淨炷。是因緣故慧光明無量無減。 |
復た次ぎに、譬えば酥油豊饒にして、灯炷清浄なれば、光明も亦た盛んなるが如し。仏も亦た是の如く、三昧王等の諸の三昧、禅定の油と、念の減ずる無き清浄の炷あれば、是の因縁の故に慧の光明は無量にして、減ずる無し。 |
復た次ぎに、
譬えば、
『酥油( clarified butter )が豊饒で!』、
『灯炷が清浄ならば!』、
亦た、
『光明』も、
『盛んであるように!』、
『仏』も、
是のように、
『三昧王三昧』等の、
『諸の三昧や、禅定という!』、
『油』が、
『豊饒であり!』、
『念という!』、
『灯芯』が、
『減じること無く!』、
『清浄である!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『慧の光明が無量であり!』、
『減じる!』ことが、
『無いのである!』。
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酥油(そゆ):梵語 ghRta, sarpis の訳、ギー、即ち澄ましバター、又はとろ火で煮て徐冷したバター (それは料理、或は宗教的な用途で用いられ、ヒンズー教徒には極めて重んじられている)(
ghee id est clarified butter or butter which has been boiled gently and
allowed to cool (it is used for culinary and religious purposes and is
highly esteemed by the Hindus) )。
豊饒(ぶにょう):産物食物等がゆたかに多いこと。
灯炷(とうしゅ):とうしん。灯心。炷のみも同じ。灯油にひたしてあかりをつけるもの。 |
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復次從初發心。無量阿僧祇劫。集一切智慧故。深心為法故。頭目髓腦悉捨。內外所有而布施。入火投山剝皮釘身。如是等無苦不受一心為集智慧故慧無減。 |
復た次ぎに、初発心より、無量阿僧祇劫に、一切の智慧を集むるが故に、深心を法と為すが故に、頭目、髄脳、内外の所有を悉く捨てて、而も布施し、火に入り、山に投じ、皮を剥ぎ、身に釘うちて、是れ等の如き苦の受けざる無く、一心に智慧を集めたまえば、故に慧の減ずる無きなり。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『初発心より!』、
『無量阿僧祇の劫』に、
一切の、
『智慧』を、
『集められた!』が故に、
深い、
『心』を、
『法( principle )とされた!』が故に、
『頭目、髄脳』等の
『内、外の所有』を、
『身』を、
『火に入れ!』、
『山に投じ!』、
『皮を剥いで!』、
『身』に、
『釘うつような!』、
是れ等のように、
『受けない!』、
『苦』は、
『無く!』、
『一心』に、
『智慧』を、
『集められた!』が為の故に、
『仏の慧』は、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
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復次佛智慧。以一切功德持戒禪定等助成故慧無減。 |
復た次ぎに、仏の智慧は、一切の功徳、持戒、禅定等を以って、助成するが故に慧の減ずる無し。 |
復た次ぎに、
『仏の智慧』は、
一切の、
『功徳、持戒、禅定』等が、
『助けて!』、
『成就する!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
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復次世世求一切經書。世俗法佛法麤細善不善。悉皆學知故慧無減。 |
復た次ぎに、世世に一切の経書を求めて、世俗法、仏法の麁細、善不善を悉く皆学知するが故に、慧の減ずる無し。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
世世に、
『一切の経書を求めて!』、
『世俗法や、仏法の麁細や、善不善』を、
悉く、皆、
『学んで!』、
『知られた!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
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復次從十方無量諸佛所聞法讀誦思惟修習問難故慧無減。 |
復た次ぎに、十方の無量の諸仏に従って、聞く所の法を読誦し、思惟、修習、問難したまえるが故に、慧の減ずる無し。 |
復た次ぎに、
『十方の無量の諸仏に従って!』、
『聞いた!』所の、
『法』を、
『読誦、思惟、修習、問難された!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
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復次為一切眾生故。為增益一切善法故。破一切處無明故慧無減。 |
復た次ぎに、一切の衆生の為の故に、一切の善法を増益せんが為の故に、一切処の無明を破るが故に、慧の減ずる無し。 |
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』の為の故に、
一切の、
一切の、
『処』の、
『無明』を、
『破る!』為の故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
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復次是智慧實知諸法相不生不滅不淨不垢無作無行。不分別是智非智知諸法一等清淨如虛空無染無著。不以二法故得不二入法相。不二入法相無量無邊。以是故慧無減。如是等種種因緣慧無減。 |
復た次ぎに、是の智慧は、実に諸の法相の不生、不滅、不浄、不垢、無作、無行なるを知り、是れ智なるや、智に非ざるやを分別せず、諸法の一等、清浄なること、虚空の如く、無染、無著なるを知り、二法を以ってせざるが故に、不二入の法相を得。不二入の法相は無量、無辺なれば、是を以っての故に慧の減ずる無し。是れ等の如き種種の因縁に、慧の減ずる無きなり。 |
復た次ぎに、
是の、
『仏の智慧』は、
諸の、
『法の相』が、
『不生、不滅、不浄、不垢、無作、無行である!』ことを、
『実に!』、
『知り!』、
是れが、
『智であるのか?』、
『智でないのか?』を、
『分別せず!』、
諸の、
『法』が、
『一様、平等である!』が故に、
『虚空のように!』、
『清浄であり!』、
『染する!』ことも、
『著する!』ことも、
『無い!』と、
『知り!』、
『二法を用いて!』、
『分別しない!』が故に、
『不二入の法相』を、
『得るのである!』が、
是の、
『不二入の法相』は、
『無量であり!』、
『無辺である!』ので、
是の故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
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解脫無減者。解脫有二種。有為解脫無為解脫。有為解脫名無漏智慧相應解脫。無為解脫名一切煩惱習都盡無餘。佛於二解脫無減。何以故。聲聞辟支佛智慧不大利故。煩惱不悉盡故智慧有減。佛智慧第一利故煩惱習永盡無餘故解脫無減。 |
解脱に減ずる無しとは、解脱には二種有り、有為解脱と無為解脱なり。有為解脱を、無漏の智慧相応の解脱と名づけ、無為解脱を、一切の煩悩の習の都て尽き、無余なりと名づく。仏は二解脱に於いて減ずる無し。何を以っての故に、声聞、辟支仏の智慧は大利ならざるが故に、煩悩も悉くは尽きざるが故に智慧の減ずる有るも、仏の智慧は第一に利なるが故に、煩悩の習も永く尽きて無余なるが故に解脱の減ずる無し。 |
『解脱』の、
『減退する!』ことが、
『無い!』とは、――
『解脱』には、
『二種有り!』、
『有為解脱と!』、
『無為解脱とである!』が、
『有為解脱』は、
『無漏』の、
『智慧に相応する!』、
『解脱であり!』、
『無為解脱』は、
『一切の煩悩の習』が、
『都て尽きて!』、
『余の無いことである!』。
『仏』は、
『二解脱』に於いて、
『減退する!』ことが、
『無い!』。
何故ならば、
『声聞、辟支仏の智慧』は、
『大利でない!』が故に、
『煩悩』が、
『悉く尽きることがない!』が故に、
『智慧』の、
『減退すること!』が、
『有る!』が、
『仏の智慧』は、
『第一大利である!』が故に、
『煩悩の習』が、
『永く尽きて!』、
『余が無く!』、
是の故に、
『解脱』の、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
|
有為解脱(ういげだつ):梵語毘木叉vimokSaの訳。無為解脱に対す。又無学支と名づく。即ち無学の勝解なり。勝解を大地法の心所と為すが故に有為と為し、有為法の勝解は、無学の果体に起るが故に、有為解脱と云う。「毘婆沙論巻28」、「倶舎論巻25」を見よ。<(丁)『大智度論巻18下注:解脱』参照。
無為解脱(むいげだつ):梵語木叉muktiの訳。即ち択滅涅槃にして、諸の有漏の法が繋縛を遠離し、解脱を証得するを云う。『大智度論巻18下注:解脱、巻19上注:三無為』参照。 |
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復次如漏盡力中說。佛與聲聞解脫有差別。佛得漏盡力故解脫無減。二乘無力故有減。 |
復た次ぎに、漏尽力中に説けるが如く、仏と声聞との解脱には、差別有り。仏は漏尽の力を得るが故に解脱の減ずること無く、二乗は力無きが故に減ずる有り。 |
復た次ぎに、
『漏尽力』中に、説いたように、――
『仏と、声聞と!』の、
『仏』は、
『漏尽力を得ていられる!』が故に、
『解脱の減退』が、
『無い!』が、
『二乗』は、
『漏尽力の無い!』が故に、
『減退すること!』が、
『有る!』。
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参考:『大智度論巻24』:『漏盡智力者。問曰。九力智慧分別有差別。漏盡則同。一切聲聞辟支佛有何等異。答曰。雖漏盡是同。智慧分別大差別。聲聞極大力思惟所斷結生分住分滅分三時斷。佛則不爾。一生分時盡斷。聲聞人見諦所斷結使生時斷。思惟所斷三時滅。佛則見諦所斷思惟所斷無異。聲聞人初入聖道時。入時與達時異。佛則一心中亦入亦達。一心中得一切智。一心中壞一切障。一心中得一切佛法。復次諸聲聞人。有二種解脫。煩惱解脫法障解脫。佛有一切煩惱解脫。亦有一切法障解脫。佛自然得智慧。諸聲聞人隨教道行得。復有人言。若佛以智慧斷一切眾生煩惱。其智亦不鈍不減。譬如熱鐵丸著少綿上。雖燒此綿而火熱勢不減。佛智慧亦如是。燒一切煩惱智力亦不減。復次聲聞但知自盡漏。諸佛自知盡漏亦知盡他人漏。』 |
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解脫知見無減者。佛於諸解脫中。智慧無量無邊清淨故。名解脫知見無減。 |
解脱知見の減ずる無しとは、仏は諸の解脱中に於いて、智慧の無量、無辺にして清浄なるが故に、解脱知見の減ずる無しと名づく。 |
『解脱知見』の、
『減退する!』ことが、
『無い!』とは、――
『仏』は、
『諸の解脱』中に於いて、
『智慧』が、
『無量、無辺であり!』、
『清浄である!』が故に、
『解脱知見』の、
『減退する!』ことが、
『無いというのである!』。
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問曰。佛一切法中無減。何以故。但六事中無減。 |
問うて曰く、仏は一切法中に減ずる無し。何を以っての故にか、但だ六事中に減ずる無き。 |
問い、
『仏』は、
『一切の法』中に、
『減退する!』ことが、
『無いのに!』、
何故、
但だ、
『六事』中にのみ、
『減退する!』ことが、
『無いのですか?』。
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答曰。一切自利他利中四事能具足。欲求一切善法之根本。精進能行念能守護。如守門人善者聽入惡者遮。慧照一切法門。斷一切煩惱。用是四法事得成辦。是四法果報有二種。一者解脫二者解脫知見。解脫義如先說。 |
答えて曰く、一切の自利、他利中に、四事を善く具足し、欲もて、一切の善法の根本を求め、精進もて、能く行い、念もて、能く守護すること、守門人の善なれば入るを聴し、悪なれば遮るが如く、慧もて一切の法門を照らして、一切の煩悩を断つ。是の四法を用うれば、事の成辦するを得。是の四法の果報には二種有りて、一には解脱、二には解脱知見なり。解脱の義は先に説けるが如し。 |
答え、
『四事』は、
一切の、
『自利、他利』中に、
『事』を、
『具足させられるからである!』。
謂わゆる、
『欲』は、
『精進』は、
一切の、
『善法』を、
『行わせることができ!』、
『念』は、
『守門人』が、
『善ならば!』、
『入る!』のを、
『聴し!』、
『悪ならば!』、
『入る!』のを、
『遮るように!』、
『善法』を、
『行わせるように!』、
『守護し!』、
『慧』は、
一切の、
『法門』を、
『照らして!』、
一切の、
『煩悩』を、
『断じる!』ので、
是の、
『四法を用いれば!』、
『事』が、
『成辦するからである!』。
是の、
『四法の果報』には、
『二種有り!』、
一には、
『解脱であり!』、
二には、
『解脱知見である!』が、
『解脱の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
|
成辦(じょうべん):成就し具足するの意。
辦(べん):具なり。事の順序に随いて挙げざる無きを謂うなり。 |
|
|
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解脫知見者。固是解脫知見。知是二種解脫相。有為無為解脫知諸解脫相。所謂時解脫不時解脫慧解脫俱解脫壞解脫不壞解脫八解脫不可思議解脫無礙解脫等。分別諸解脫相牢固不牢固。是名解脫知見無減。如念佛中佛成就五無學眾。解脫知見眾此中應廣說。 |
解脱知見とは、固(もと)より是の解脱知見は、是の二種の解脱相の有為と、無為との解脱を知り、諸の解脱相の、謂わゆる時解脱、不時解脱、慧解脱、九解脱、壊解脱、不壊解脱、八解脱、不可思議解脱、無礙解脱等を知り、諸の解脱相の牢固なりや、不牢固なりやを分別す。是れを解脱知見の減ずる無しと名づく。『念仏』中の仏の成就したもう五無学衆の解脱知見衆の如く、此の中に応に広く説くべし。 |
『解脱知見』とは、
原来、
是の、
『解脱知見』は、
『有為解脱、無為解脱という!』、
是の、
『二種の解脱』の、
『相』を、
『知るのであり!』、
謂わゆる、
『時解脱と、不時解脱と!』、
『慧解脱と、倶解脱と!』、
『壊解脱と、不壊解脱と!』、
『八解脱、不可思議解脱、無礙解脱等である!』、
諸の、
『解脱相』が、
『牢固なのか、不牢固なのか?』を、
『分別する!』ので、
是れを、
『解脱知見』の、
『減退すること!』が、
『無いというのである!』。
『念仏』中に、こう説いたが、――
『仏』は、
『五無学衆(無漏の戒、定、慧、解脱、解脱知見衆)』を、
『成就された!』、と。
此の中にも、
『仏の解脱知見衆』を、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
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固(こ):<形容詞>[本義]堅い/堅固な( solid, firm )。地勢的に険要/堅固であり近づき難い( strategically located and difficult of access )、もとより/久しい( of long time )、[病の]慢性的な( chronic )、安定した( stable )、もっぱら/固執した/専一な( single-minded )。<動詞>固める/丈夫にする( solidify, strengthen )、守る( abide by )、安定させる( stabilize )、閉ざす/塞ぐ( close up, stop up )。<副詞>毅然として/決然として( firmly, resolutely )、必ず/定んで/一に( surely )、もとより/原来/本来( originally )、もとより/当然( of course )、確実に( certainly )、もとより/すでに/已に( already )。
時解脱(じげだつ):鈍根の者が時を待って解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
不時解脱(ふじげだつ):利根の者が時を待たずに解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
慧解脱(えげだつ):無癡無貪の善根に由り、唯煩悩障のみを離るるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
倶解脱(くげだつ):煩悩、及び解脱の二障を併せ断ずるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
壊解脱(えげだつ):又時解脱とも称す。鈍根の者が時を待って解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
不壊解脱(ふえげだつ):又不時解脱とも称す。利根の者が時を待つことなく解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
八解脱(はちげだつ):又八背捨とも名づく。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
不可思議解脱(ふかしぎげだつ):解脱とは、三昧の異名なり。三昧の神用は、巨細相容れ、随って法を変化し、自在にして無礙なれば、一切の繋縛を離るるが故に、解脱と云う。「維摩経不思議品」に明す所の一端なり。又華厳の一部に明す所の、多くは無礙の法相は総じて是れなり。「維摩経不思議品」に、「維摩詰の言わく、唯舎利弗、諸仏菩薩に解脱有り、不可思議と名づく。若し菩薩、此の解脱に住すれば、須弥の高広なるを以って芥子中に内るるも、増減する所無し。須弥山は本より相如なるが故なり。而も四天王忉利の諸天は、己の入る所を覚らず知らず。唯だ応に度すべき者のみ、乃ち須弥の芥子中に入れるを見る。是れを不可思議解脱の法門と名づく。又四大海水を以って、一毛孔に入るるも、魚鱉、黿鼉、水性の属を嬈まさず、而も彼の大海は本より性如なるが故なり」と云い、「註巻1」に、「什曰わく、解脱も亦た三昧に名づけ、亦た神足に名づく。或いは修をして短ならしめて度を改め、或いは巨細相容れ、変化随意にして、法に於いて自在、解脱、無礙なるが故に、解脱と名づく。能くする者の能くすること然れども、物として所以を知らざるが故に、不思議と曰う」と云えり。応に知るべし。<(丁)
無礙解脱(むげげだつ):唯仏のみ煩悩障礙、定障礙、一切法障礙の三種の礙を解脱せりの意。『大智度論巻18下注:解脱、巻21下注:無礙解脱』参照。
五無学衆(ごむがくしゅ):無漏の五陰の意。即ち無漏の戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆を云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。 |
参考:『大智度論巻21』:『復次念佛解脫知見眾具足。解脫知見眾有二種。一者佛於解脫諸煩惱中。用盡智自證知。知苦已斷集已盡證已修道已。是為盡智解脫知見眾。知苦已不復更知。乃至修道已不復更修。是為無生智解脫知見眾。二者佛知是人入空門得解脫。是人無相門得解脫。是人無作門得解脫。是人無方便可令解脫。是人久久可得解脫。是人不久可得解脫。是人即時得解脫。是人軟語得解脫。是人苦教得解脫。是人雜語得解脫。是人見神通力得解脫。是人說法得解脫。是人婬欲多。為增婬欲得解脫。是人瞋恚多。為增瞋恚得解脫。如難陀漚樓頻螺龍是。如是等種種因緣得解脫。如法眼中說。於是諸解脫中了了知見。是名解脫知見眾具足。』 |
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問曰。解脫知見者但言知。何以復言見。 |
問うて曰く、解脱知見にして、但だ知のみを言わんや、何を以ってか、復た見ると言う。 |
問い、
『解脱知見』が、
但だ、
『知』を、
『言うだけならば!』、
何故、復た、
『見』と、
『言うのですか?』。
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答曰。言知言見事得牢固。譬如繩二合為一則牢固。 |
答えて曰く、知と言い、見と言えば、事の牢固なるを得ればなり。譬えば縄の二を合して一と為せば、則ち牢固なるが如し。 |
答え、
『知と、見と!』を、
『言う!』が故に、
『事』が、
『牢固となるのである!』。
譬えば、
『縄』が、
『二条』を、
『合して!』、
『一条にする!』が故に、
則ち、
『牢固になるようなものである!』。
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復次若但說知則不攝一切慧。如阿毘曇所說。慧有三種。有知非見有見非知有亦知亦見。有知非見者。盡智無生智五識相應智。有見非知者。八忍世間正見五邪見。有亦知亦見者。餘殘諸慧。若說知則不攝見。若說見則不攝知。是故說知見則具足。 |
復た次ぎに、若し但だ知のみを説けば、則ち一切の慧を摂せず。阿毘曇の所説の如く、慧には三種有り、有るいは知にして、見に非ず、有るいは見にして、知に非ず、有るいは亦た知にして、亦た見なり。有るいは知にして、見に非ずとは、尽智と、無生智と、五識相応の智なり。有るいは見にして、知に非ずとは、八忍と、世間の正見と、五邪見なり。有るいは亦た知にして、亦た見なりとは、余残の諸慧なり。若し知を説けば、則ち見を摂せず、若し見を説けば、則ち知を摂せず。是の故に知、見を説けば、則ち具足す。 |
復た次ぎに、
若し、
但だ、
『知を説けば!』、
則ち、
『一切の慧』を、
『包含しないからである!』、
例えば、
『阿毘曇』には、こう説かれている、――
『慧』には、
『三種有り!』、
有るいは、
『知である!』が、
『見ではなく!』、
有るいは、
『見である!』が、
『知ではなく!』、
有るいは、
『知でもあり!』、
『見でもある!』、と。
『知であって、見でない!』とは、――
『尽智、無生智と!』、
『五識相応の智である!』。
『見であって、知でない!』とは、――
『八忍と!』、
『世間の正見と!』、
『五邪見である!』。
『知でもあり、見でもある!』とは、
『余残の諸の慧である!』。
若し、
若し、
『見を説けば!』、
則ち、
『知』を、
『含まないことになる!』ので、
是の故に、
『知と!』、
『見と!』を、
『説けば!』、
則ち、
『慧』が、
『具足することになる!』。
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摂(しょう):含む/包含する( contain )、梵語 saMgraha, samavasaraNa, anugraha, parigraha
の訳、保持する/持つ/含める/[或るグループ/組に]属する/集める/寄せ集める/結びつける( To hold, have, include;
to be included (within a certain group or set, etc.); collect, gather together,
combine )、受け取る/受け容れる( taking, accepting, receiving )の義。取締る/指図する/専心する/包含する(
To control, direct, attend to, emblace )、所属する/属する/一部となる/傘下に入る( To relate
to, belong to, be part of, fall under, be affiliated with )の意。
尽智(じんち):十智の一。無学位に於いて我れ已に苦を知り、我れ已に集を断じ、我れ已に滅を証し、我れ已に道を修せりと遍知し、漏尽の得と俱生する無漏智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
無生智(むしょうち):無学位に於いて我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと遍知し、非択滅の得と俱生する無漏智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
五識(ごしき):眼耳鼻舌身の五根に依りて生じ、色声香味触の五境を縁ずる五種の心識にして、一に眼識、二に耳識、三に鼻識、四に舌識、五に身識なり。此れ六識中の前五識と為すが故に常に称して、前五識と為す。三界中の欲界の有情には六識あり、色界の初禅天には、鼻舌二識無く、二禅天以上には五識無くして、唯だ意識の一あるのみ。<(丁)
八忍(はちにん):苦集滅道の法智忍、苦集滅道の類智忍(比智忍)を云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
五邪見(ごじゃけん):五種の邪見の意。『大智度論巻26上注:五見、巻41下注:十結』参照。
五見(ごけん):梵語paJca dRSTayaHの訳。五種の見の意。又五染汙見、五僻見、或いは五利使とも名づく。即ち親しく理に迷うて起る五種の惑を云う。一に有身見、二に辺執見、三に邪見、四に見取見、五に過戒禁取見なり。「大智婆沙論巻49」に、「五見あり、謂わく有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取なり」と云い、「倶舎論巻19」に、「我我所と、断常と、撥無と、劣を勝と謂うと、因と道とに非ざるを妄に謂うとは、是れ五見の自体なり」と云える是れなり。此の中、有身見は即ち我及び我所を執するを云い、辺執見は所執の我我所の事に於いて断滅若しくは常住と執するを云い、邪見は四諦因果の理を撥無するを云い、見取は劣に於いて勝と謂うを云い、戒禁取は因に非ず道に非ざるを妄に因又は道と計するを云う。共に見所断の惑にして三界四部に総じて三十六事あり。即ち有身見と辺執見の二は各三界見苦所断なるが故に六事あり、邪見と見取の二は各三界四部の所断なるが故に二十四事あり、戒禁取は三界各見苦道所断なるが故に六事あり。又之を五染汙見と名づくるは、此の五見は唯染汙なるが故なり。五僻見と名づくるは、共に理に迷うて起る見なるが故なり。五利使と名づくるは、直に理を推求して其の性猛利なるが故なり。又「大毘婆沙論巻46」、「成実論巻10」、「雑阿毘曇心論巻4」、「順正理論巻46、47」、「成唯識論巻6」、「雑集論述記巻3」、「大乗義章巻6」、「倶舎論光記巻19」、「同宝疏巻19」等に出づ。<(望) |
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復次如從人誦讀分別籌量是名知。自身得證是名見。譬如耳聞其事猶尚有疑是名知。親自目睹了了無疑是名見。解脫中知見亦如是差別。 |
復た次ぎに、人に従いて、読誦し、分別し、籌量するが如き、是れを知と名づけ、自ら身に証を得る、是れを見と名づく。譬えば耳に其の事を聞きても、猶尚お疑有る、是れを知と名づけ、親しく自ら目に睹(み)るに了了として疑無き、是れを見と名づくるが如し。解脱中の知と見とも亦た是の如く差別す。 |
復た次ぎに、
譬えば、
『人に従って!』、
『読誦し、分別し、寿量すれば!』、
是れを、
『知』と、
『称し!』、
『自らの身に!』、
『確証を得れば!』、
是れを、
『見』と、
『称する!』。
譬えば、
『耳』に、
其の、
『事』を、
『聞いても!』、
猶尚お、
『疑』が、
『有るので!』、
是れを、
『知』と、
『称し!』、
『自ら親しく!』、
『目に見れば!』、
了了として、
『疑』が、
『無い!』ので、
是れを、
『見』と、
『称するようなものである!』。
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知見(ちけん):知識に基づく見解( informed view )、梵語 jJaana-darzana, pra-√(jJaa), jJaana-
nidarzana, jJaana- saMdarzana, darzana, dRSta, adhigama 等の訳、知識と見解/知ることと見ること(
Knowledge and vision, knowing and seeing )の義、知識に基づく理解/見て知ること(An understanding
based on knowledge, to know by seeing )の意。又知ること及び指し示すこと或は見せる/導く/告げる/宣言する/教える/証明すること(
Knowing and pointing to or showing, indicating, announcing, proclaiming,
teaching, proof, proving )の義。 |
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復次有人言。阿羅漢自於解脫中疑不能自了。是阿羅漢非阿羅漢。以是故佛為破如是邪見故。說諸聖人於解脫中亦知亦見。 |
復た次ぎに、有る人の言わく、『阿羅漢にして、自ら解脱中に疑いて、自ら了する能わざれば、是の阿羅漢は、阿羅漢に非ず』、と。是を以っての故に、仏は是の如き邪見を破らんが為の故に、説きたまわく、『諸聖人は、解脱中に於いて亦た知り、亦た見る』、と。 |
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『阿羅漢』が、
自ら、
『解脱』中に、
『疑って!』、
自ら、
『疑』を、
『晴らすことができなければ!』、
是の、
『阿羅漢』は、
『阿羅漢でない!』、と。
是の故に、
『仏』は、
是のような、
『邪見』を、
『破る!』為の故に、
こう説かれたのである、――
『諸の聖人』は、
『解脱』中に於いて、
『知っており!』、
『見ている(疑わない)のである!』、と。
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諸阿羅漢雖得解脫知見。解脫知見有減。不得一切智故。上上智慧根不成就故。諸法念念生滅時。不知別相分別故。佛上上智慧根成就。知諸法念念別相生滅故。解脫知見無減。 |
諸の阿羅漢は、解脱知見を得と雖も、解脱知見の減ずること有るは、一切智を得ざるが故に、上上の智慧根の成就せざるが故に、諸法の念念に生滅する時、別相の分別を知らざるが故なり。仏は上上の智慧根成就して、諸法の念念の別相の生滅を知るが故に、解脱知見の減ずる無し。 |
諸の、
『阿羅漢』は、
『解脱知見を得ていても!』、
『解脱知見』に、
『減退する!』ことが、
『有る!』のは、
是の、
『阿羅漢』は、
『一切智』を、
『得ていないからであり!』、
『上上の!』、
『智慧根』が、
『成就していないからであり!』、
『諸法が念念に生、滅する!』時、
『別相の分別』を、
『知らないからである!』が、
『仏』は、
『上上の!』、
『智慧根』が、
『成就しており!』、
『諸法の念念の!』、
『別相の生、滅』を、
『知っていられる!』が故に、
『解脱知見』には、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
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復次法眼清淨具足成就故。如法眼義中說。知是眾生空解脫門入涅槃。是眾生無相解脫門入涅槃。是眾生無作解脫門入涅槃。知是眾生觀五眾門十二入十八界。如是種種法門得解脫。佛於解脫知見盡知遍知。是故說佛解脫知見無減。 |
復た次ぎに、法眼の清浄が具足して成就するが故なり。法眼の義中に、『是の衆生は空解脱門より涅槃に入り、是の衆生は無相解脱門より涅槃に入り、是の衆生は無作解脱門より涅槃に入ると知り、是の衆生は五衆の門、十二入、十八界、是の如き種種の法門を観て、解脱を得と知る』、と説けるが如く、仏は解脱知見に於いて、尽く知り、遍く知りたまえば、是の故に説かく、『仏の解脱知見に減ずる無し』、と。 |
復た次ぎに、
『法眼の清浄』が、
『具足して!』、
『成就している!』が故に、
『仏の解脱知見』は、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
例えば、
『法眼の義』中に、こう説いたように、――
是の、
『衆生』は、
『空解脱門より!』、
『涅槃に入る!』、
是の、
『衆生』は、
『無相解脱門より!』、
『涅槃に入る!』、
是の、
『衆生』は、
『無作解脱門より!』、
『涅槃に入る!』と、
『知り!』、
是の、
『衆生』は、
『五衆の門や!』、
『十二入、十八界の門や!』、
是のような、
『種種の法門を観察して!』、
『解脱を得る!』と、
『知る!』、と。
『仏』は、
『解脱知見』に於いて、
『尽く、知り!』、
『遍く、知る!』が故に、
是の故に、こう説くのである、――
『仏の解脱知見』には、
『減退すること!』が、
『無い!』、と。
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参考:『大智度論巻7』:『問曰。佛有佛眼慧眼法眼勝於天眼。何以用天眼觀視世界。答曰。肉眼所見不遍故。慧眼知諸法實相。法眼見是人以何方便行何法得道。佛眼名一切法現前了了知。今天眼緣世界及眾生無障無礙。餘眼不爾。慧眼法眼佛眼雖勝。非見眾生法。欲見眾生唯以二眼。肉眼天眼。以肉眼不遍有所障故。用天眼觀。』
参考:『大智度論巻40』:『【經】舍利弗白言。世尊。云何菩薩摩訶薩法眼淨。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以法眼知是人隨信行。是人隨法行。是人無相行。是人行空解脫門。是人行無相解脫門。是人行無作解脫門得五根。得五根故得無間三昧。得無間三昧故得解脫智。得解脫智故斷三結。有眾見疑齋戒取。是人名為須陀洹。是人得思惟道。薄婬恚癡當得斯陀含增進思惟道。斷婬恚得阿那含增進思惟道。斷色染無色染無明慢掉得阿羅漢。是人行空無相無作解脫門得五根。得五根故得無間三昧。得無間三昧故得解脫智。得解脫智故知所有集法皆是滅法。作辟支佛。是為菩薩法眼淨。復次舍利弗。菩薩摩訶薩知是菩薩初發意行檀波羅蜜。乃至行般若波羅蜜。成就信根精進根。善根純厚用方便力故。為眾生受身。若生剎利大姓。若生婆羅門大姓。若生居士大家。若生四天王天處乃至他化自在天處。是菩薩於其中住成就眾生。隨其所樂皆給施之。亦淨佛世界。值遇諸佛供養恭敬尊重讚歎。乃至阿耨多羅三藐三菩提。亦不墮聲聞辟支佛地。是為菩薩摩訶薩法眼淨。復次舍利弗。菩薩摩訶薩如是知是菩薩於阿耨多羅三藐三菩提退。知是菩薩於阿耨多羅三藐三菩提不退。知是菩薩受阿耨多羅三藐三菩提記。知是菩薩未受阿耨多羅三藐三菩提記。知是菩薩到阿鞞跋致地。知是菩薩未到阿鞞跋致地。知是菩薩具足神通。知是菩薩未具足神通。知是菩薩已具足神通飛到十方如恒河沙等世界。見諸佛供養恭敬尊重讚歎。知是菩薩未得神通當得神通。知是菩薩當淨佛世界未淨佛世界。是菩薩成就眾生未成就眾生。是菩薩為諸佛所稱譽所不稱譽。是菩薩親近諸佛不親近佛。是菩薩壽命有量壽命無量。是菩薩得佛時比丘眾有量比丘眾無量。是菩薩得阿耨多羅三藐三菩提時。以菩薩為僧不以菩薩為僧。是菩薩當修苦行難行不修苦行難行。是菩薩一生補處未一生補處。是菩薩受最後身未受最後身。是菩薩能坐道場不能坐道場。是菩薩有魔無魔。如是舍利弗。是為菩薩摩訶薩法眼淨』 |
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