巻第二十六(上)
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大智度論初品中十八不共法釋論第四十一(卷第二十六)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


十八不共法

十八不共法者。一者諸佛身無失。二者口無失。三者念無失。四者無異想。五者無不定心。六者無不知已捨。七者欲無減。八者精進無減。九者念無減。十者慧無減。十一者解脫無減。十二者解脫知見無減。十三者一切身業隨智慧行。十四者一切口業隨智慧行。十五者一切意業隨智慧行。十六者智慧知過去世無礙。十七者智慧知未來世無礙。十八者智慧知現在世無礙。 十八不共法とは、一には諸仏の身に失無く、二には口に失無く、三には念に失無く、四には異想無く、五には不定の心無く、六には知らざるに捨つる無く、七には欲の減ずる無く、八には精進の減ずる無く、九には念の減ずる無く、十には慧の減ずる無く、十一には解脱の減ずる無く、十二には解脱知見の減ずる無く、十三には一切の身業は智慧に随うて行じ、十四には一切の口業は智慧に随いて行じ、十五には一切の意業は智慧に随いて行じ、十六には智慧の過去世を知るに礙無く、十七には智慧の未来世を知るに礙無く、十八には智慧の現在世を知るに礙無きなり。
『十八不共法』とは、
『諸仏』は、
一に、
『身』に、
『過失』が、
『無く!』、
二には、
『口』に、
『過失』が、
『無く!』、
三には、
『念』に、
『過失』が、
『無く!』、
四には、
『別異する!』、
『想』が、
『無く!』、
五には、
『不定』の、
『心』が、
『無く!』、
六には、
『知らないままにして!』、
『捨てる!』ことが、
『無く!』、
七には、
『欲』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
八には、
『精進』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
九には、
『念』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
十には、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
十一には、
『解脱』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
十二には、
『解脱知見』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
十三には、
『一切の身業』は、
『智慧に随って!』、
『行われ!』、
十四には、
『一切の口業』は、
『智慧に随って!』、
『行われ!』、
十五には、
『一切の意業』は、
『智慧に随って!』、
『行われ!』、
十六には、
『智慧』は、
『過去世を知る!』ことに、
『無礙であり!』、
十七には、
『智慧』は、
『未来世を知る!』ことに、
『無礙であり!』、
十八には、
『智慧』は、
『現在世を知る!』ことに、
『無礙である!』。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):仏特有の十八種の能力( eighteen distinctive abilities of the Buddha )、梵語 aSTaadazaaveNikaa buddha-dharmaH の訳、仏のみ用いる十八種の認知機能( Eighteen distinctive cognitive functions utilized by the Buddha. )、唯仏のみの所有にして、声聞、辟支仏、菩薩と共有されない( They are only possessed by the Buddha, and not by śrāvakas, pratyekabuddhas, or bodhisattvas. )、即ち( these are: )
  1. 身無失 naasti tathaagatasya skhalitam:過失の無い行動 unmistaken action,
  2. 口無失 naasti ravitam:過失の無い言動 unmistaken speech,
  3. 念無失 naasti muSitasmRtitaa:過失の無い意識 unmistaken mindfulness,
  4. 無異想 naasti naanaatvasaMjJaa:有らゆる存在に対する平等な意識 mind of equality toward all beings,
  5. 無不定心 naasty asamaahitaM cittam:瞑想に於ける安定した精神 stable mind in meditation,
  6. 無不知已捨心 naasty apratisaMkhyaayopekSa:未だ認識しない事物を見捨てない心 mind which does not disregard what is not yet reckoned(recognized) up,
  7. 欲無減 naasti chandaparihaaNiH:願望を減退させない力 the power of nonretrogression (or non-diminution) in terms of aspiration,
  8. 精進無減 naasti viiryaparihaaNiH:精進を減退させない力 the power of nonretrogression (or non-diminution) in terms of diligence,
  9. 念無減 naasti smRtiparihaaNiH:意識を減退させない力 the power of nonretrogression (or non-diminution) in terms of mindfulness,
  10. 慧無減 naasti prajJaaparihaaNiH:有らゆる衆生を救済する智慧を減退させない力 the power of nonretrogression (or non-diminution) in terms of wisdom toward the salvation of all beings,
  11. 解脱無減 naasti viimuktiparihaaNiH:解脱より繋縛に減退させない力 the power of not falling back (or non-diminution) from freedom into bondage,
  12. 解脱知見無減 naasti vimuktijJaanadarzanaparihaaNiH:獲得された解脱の知見より減退させない力 the power of not falling back (or non-diminution) from the vision attained in liberation,
  13. 一切身業隨智慧行 sarvaM tathaagatasya kaayakarma jJaanapuurvaMgamM jJaananaanuparivarti:行動に於ける智慧力の表出 the manifestation of wisdom power in deed,
  14. 一切口業隨智慧行 sarvaM vaakkarma jJaanapuurvaMgamM jJaananaanuparivarti:言動に於ける智慧力の表出 the manifestation of wisdom power in word,
  15. 一切意業隨智慧行 sarvaM manaskarma jJaanapuurvaMgamM jJaananaanuparivarti:思惟に於ける智慧力の表出 the manifestation of wisdom power in thought,
  16. 智慧知過去世無礙 atiite 'dhvany asaGgam apratihataM jJaanam darzanam:過去世に対する障礙無き知見 knowledge and vision of all affairs in past without attacks nor obstacles,
  17. 智慧知未来世無礙 anaagate 'dhvany asaGgam apratihataM jJaanam darzanam:未来世に対する障礙無き知見 knowledge and vision of all affairs in future without attacks nor obstacles,
  18. 智慧知現在世無礙 pratyutpanne 'dhvany asaGgam apratihataM jJaanam darzanam:現在世に対する障礙無き知見 knowledge and vision of all affairs in present without attacks nor obstacles.
問曰。是三十六法皆是佛法。何以故。獨以十八為不共。 問うて曰く、是の三十六法は、皆仏の法なり。何を以っての故にか、独り十八を以って不共と為す。
問い、
是の、
『三十六法(十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法)』は、
皆、
『仏の法である!』。
何故、
独り、
是の、
『十八のみ!』を、
『不共(声聞、辟支仏と共有しない!)』と、
『称するのですか?』。
  三十六法(さんじゅうろくほう):即ち十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法を指す。
  不共(ふぐう):仏にのみ有して、阿羅漢、辟支仏と共にしないの意。
答曰。前十八中聲聞辟支佛有分。於後十八中無分。 答えて曰く、前の十八は声聞、辟支仏にも分有るも、後の十八中に於いては分無ければなり。
答え、
前の、
『十八法(十力、四無所畏、四無礙智)』中には
『声聞、辟支仏』の、
『分』が、
『有る!』が、
後の、
『十八法(十八不共法)』中には、
『声聞、辟支仏』の、
『分』が、
『無いからである!』。
如舍利弗能分別諸法暢演一句通達無礙。佛讚言善通法性。阿泥盧豆天眼第一。如是等諸聲聞。皆有分 舍利弗は、能く諸法を分別して、一句を演暢するに通達無礙なれば、仏は讃じて『善く法性に通ず』と言い、阿尼廬豆は天眼第一なるが如し。是れ等の如く諸の声聞にも、皆分有り。
例えば、
『舍利弗』は、
『諸法を分別することができ!』、
『一句を演暢すれば!』、
『通達して!』、
『無礙であった!』ので、
『仏は讃じて!』、
『善く、法性に通じている!』と、
『言われた!』し、
『阿尼廬豆』は、
『天眼第一である!』と、
『仏』が、
『言われたように!』、
是れ等のように、
『諸の声聞』は、
皆、
『分』を、
『有している!』。
  暢演(ちょうえん):譬喩、実例を多く挙げて延べ説くこと。演暢。
  阿泥盧陀(あにるだ):仏の十大弟子中、天眼第一の弟子。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
於四無所畏。有分者如佛說。弟子中能師子吼。第一賓徒羅叵羅埵逝。舍利弗亦自誓言。我七日七夜能演暢一義。令無窮盡 四無所畏に於いて、分有れば、仏の如く説く。弟子中に能く師子吼すること、第一は賓徒羅叵羅埵逝なり。舍利弗も、亦た自ら誓言すらく、『我れは七日七夜、能く一義を演暢して、窮尽すること無からしむ』、と。
『四無所畏』に、
『分が有れば!』、
『仏のように!』、
『説くことになる!』ので、
『弟子中に師子吼することができる!』が、
『第一』は、
『賓徒羅叵羅埵逝であった!』。
亦た、
『舍利弗』も、
自ら、
『誓って!』、こう言っていた、――
わたしは、
七日七夜、
『一義』を、
『演暢することができ!』、
『窮尽させることがない!』、と。
  四無所畏(しむしょい):仏、菩薩は、法を説くに当り、畏るる所の無し。その所以となるべき四種の法を云う。即ち一切智無所畏、漏尽無所畏、説障道無所畏、説尽苦道無所畏なり。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  賓徒羅叵羅埵逝(ひんとらはらたせい):師子吼第一の仏弟子。十六羅漢の一。『大智度論巻26上注:賓頭廬頗羅堕』参照。
  賓頭廬頗羅堕(びんづるはらだ):梵名piNDola-bhaaradvaaja。巴梨名同じ。又賓頭廬頗羅堕誓、賓度羅拔囉堕舎、賓度羅跋囉惰闍、賓頭盧突羅闍、賓頭盧埵闍、賓徒羅叵羅埵逝に作り、略して賓頭廬とも云う。賓頭廬は字にして、乞、洛、又は不動と翻じ、頗羅堕は姓にして、捷疾、利根、或いは重瞳と訳す。十六羅漢の一。「賓頭廬突羅闍為優陀延王説法経」に依るに、師は跋蹉国拘舎弥城優陀延王の輔相の子にして、姿容豊美、聡明博聞、仁慈にして汎く愛し、国民を勧化して尽く十善を修せしめ、自ら三宝を信楽して出家学道して、具足果を得て遊行教化し、尋いで親党を度せんと欲して拘舎弥に還り、樹下に趺坐して思惟す。時に優陀延王之を聞き、心に敬仰を懐きて其の所に詣り、師の説法を聴受して大いに感悟せしことを記せり。是れ師を以って憍賞弥kauzaambii国優陀延王の輔相の子となすの説なり。「賢愚経巻11檀膩羇品」に、舎衛国に婆羅門賓頭廬埵闍あり、其の婦醜悪にして七女子を生み、家亦た貧困にして互いに瞋目す。婆羅門形疲れ心労し、偶ま林中に至りて如来の樹下に端坐するを見、沙門の安楽なることを聴き、遂に出家して阿羅漢を成ぜりと云い、同名の仏弟子を挙ぐるも恐らく今と別人なるべし。師は神通に長じたるを以って遂に仏の呵責を蒙りたるが如く、「十誦律巻37」に、仏一時王舎城に在りし時、樹提居士あり、栴檀の鉢を造りて絡嚢中に著け、之を高象の牙の杙上に懸け、若し沙門婆羅門にして梯杖を用いず、能く之を取るものあらば即ち与うべしと声言せしにより、諸外道等之を得んとするも能わず。時に師之を聞きて目犍連の所に詣り、之を取らんことを勧むるに、目犍連は師の師子吼中第一なるを称し、自ら往きて取るべしと語りしを以って、師は乃ち其の舎に至りて禅定に入り、座を起たずして手を申べて鉢を取る。時に仏之を聞き、師が未受大戒人の前に於いて人に過ぎたる聖法を現じ、赤裸外道の物たる木鉢を取りしことを呵責し、仍りて擯して閻浮提に住すべからずと勅せられたるにより、師は自房に還り、受くる所の臥具牀榻を僧に還し、去りて瞿陀尼洲に至り、優婆塞優婆夷を教化し、僧坊房舎を起し、仏法を広宣せりと云い、「四分律巻51」、「毘奈耶巻6」、「分別功徳論巻4」等にも亦た同一記事を載せり。「増一阿含経巻3弟子品」に、「外道を降伏し、正法を履行するは所謂賓頭廬比丘是れなり」と云えるは、即ち此の事縁を指せるものなり。又「三摩竭経」に依るに、難国(雑阿含には富楼那跋陀那国)王分陂檀は、其の太子の為に給孤獨長者の女三摩竭を娶り、彼の女は其の国に外道多きを見、仍りて仏及び弟子を請ずるに、時に師は山上に坐して衣を縫い、後忽ち難国に至るべきを思い、針を以って地に刺し、神足を以って彼の国に赴くに、其の縷、衣と連なりしを以って、山即ち師の後に随って至り、孕婦之を見て惶怖して堕胎す。爾の時仏已に難国に在り、師の期を失して来たり、又一人を殺したるを責め、爾後我れに随って食し、及び衆会に与ることを得ず、当に留まりて住し、弥勒仏出づるを待って涅槃すべしと命ぜられたることを記し、「雑阿含経巻23」にも亦た略して此の事を出せり。是れ前掲「十誦律」の所伝と其の事縁同じからずと雖も、仏の擯出を受けたりとなすは両者相通ずるものありというべし。又「雑阿含経巻23」、「阿育王伝巻3」、「付法蔵因縁伝巻3」等には、師は阿育王の時耶舎の請に応じ、雁王の空に乗じて来たるが如く、無量の阿羅漢を将いて来現し、上座の席に坐し、王の為に如来の相好を説示せしことを記し、又「大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記」には、師は眷属千阿羅漢と与に多く西瞿陀尼洲に住在すと云い、「入大乗論巻下」には、師及び羅睺羅等は八住の菩薩と同じく善く如意足を修するが故に、意に随って世に住することを得と云い、又「請賓頭廬法」には、師は仏の教勅を受けて末法の人の為に福田と作るが故に、天竺の優婆塞国王長者は一切の会を設くる時、常に之を請じて食等を供養すと云えり。支那にては苻秦道安夢に師を感見し、後又其の影像を造りて食堂に安置し、之を聖僧と称せり。「高僧伝巻5道安の伝」に、「安は常に諸経を注するも理に合せざらんことを恐れ、仍りて誓って曰わく、若し所説甚だ理に遠からずんば願わくは瑞相を見んと、乃ち夢に胡道人の頭白く眉毛長きを見る。安に語りて云わく、君の注する所の経は殊に道理に合す。我れ泥洹に入るを得ずして西域に住在す、当に相助けて弘通すべく、時時に食を設くべしと。後十誦律至り、遠公乃ち和上の夢みる所は賓頭廬なるを知り、是に於いて座を立てて之に飯せしめ、処処に則と成す」と云い、又「法苑珠林巻42」に、「宋泰始の末、正勝寺釈法願、正喜寺釈法鏡等は始めて聖僧を図画し、坐に列して標擬す。唐初に至るに迄びて亟く霊瑞を降ろし、或いは足趾顕露して半ば柱間に現われ、或いは植杖の遺跡平地に印陥す。所以に梁帝聞いて讃悦して敬心に翹仰し、家国の休慼には必ず斎供に於いてす」と云い、後支那本邦等に於いても多く之を食堂に安祀するに至れり。是れ師が仏の呵責によりて涅槃するを得ず、久しく世に住在すと云うの説に基づくものにして、特に之を斎会に請するは恐らく栴檀鉢の事縁に由来するものなるべし。師は又十六羅漢の第一(西蔵伝には第十二)として古来多く彫画せられ、就中、唐禅月大師貫休の画く所は、岩上に箕坐し、左手に杖を持し、右手は伸べて岩に凭り、膝上に経を置き前方を睥睨せり。蘇東坡の賛に「白氎在膝、貝多在巾、目視超然、忘経与人、面顧百皺、不受刀箭、無心掃除、留止残雪」とあり、又本邦諸寺の外陣に師の像を安じ、若し病患ある者、其の痛処に随って像を摩せば即ち平癒すとなすの俗信あり。是れ恐らく「大唐西域記巻12瞿薩旦那国嫓摩城の條」に記せる金薄帖像の伝説より転化せしものにして、師の事蹟と関係なきものなるべし。又「雑阿含経巻43」、「阿羅漢具徳経」、「賢愚経巻6」、「弥勒下生経」、「仏五百弟子自説本起経」、「阿弥陀経」、「大智度論巻26」、「翻梵語巻2」、「阿弥陀経疏(窺基)」、「律相感通伝」、「釈子要覧巻下」、「翻訳名義集巻1」、「仏祖統紀巻33」等に出づ。<(望)
四分別慧。諸阿羅漢舍利弗目揵連富樓那阿難迦栴延等亦知是義。名字語言樂說。以是故前十八不名不共。 四分別慧は、諸の阿羅漢の舍利弗、目揵連、富楼那、阿難、迦旃延等も亦た是の義、名字、語言、楽説を知る。是を以っての故に、前の十八を不共とは名づけざるなり。
『四分別慧(四無礙智)』に於いては、
諸の、
『阿羅漢である!』、
『舍利弗、目揵連、富楼那、阿難、迦旃延』等も、
是の、
『義、名字、語言()、楽説』を、
『知っていた!』。
是の故に、
『前の十八』を、
『不共』とは、
『称しないのである!』。
  舎利弗(しゃりほつ):智慧第一の仏弟子。十大弟子の一。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
  四分別慧(しふんべつえ):四無礙智、或いは四無礙解と称す。即ち義、名字、語言、楽説に無礙の智慧を云う。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  四無礙智(しむげち):仏、菩薩の法を説くに当り、無礙なり。その所以となるべき四種の解智を云う。即ち義無礙智、法(名字)無礙智、辞(語言)無礙智、楽説無礙智なり。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  目揵連(もっけんれん):神通第一の仏弟子。十大弟子の一。『大智度論巻17下注:摩訶目犍連』参照。
  富楼那(ふるな):説法第一の仏弟子。十大弟子の一。『大智度論巻33上注:富楼那弥多羅尼子』参照。
  阿難(あなん):多聞第一の仏弟子。十大弟子の一。『大智度論巻24下注:阿難』参照。
  迦旃延(かせんねん):論議第一の仏弟子。十大弟子の一。『大智度論巻26上注:摩訶迦旃延』参照。
  摩訶迦旃延(まかかせんねん):梵名mahaakaatyaayana。巴梨名mahaakaccaana、又mahaakaccaayana、又摩訶迦多衍那に作り、大迦旃延と称し、略して迦多衍那、迦旃延と云い、大剪剔種男と訳す。仏十大弟子の一。西印度阿般提avanti国の人なり。其の族姓及び出家帰仏の因縁に関しては異説あり。「巴梨文長老偈註paramattha-diipanii」に依れば、師は阿般提国優禅尼ujjenii城の刹利種にして、国王チャンダバッジョタcaNDapajjotaの命を受け、仏を迎えんが為に仏所に到り、法を聴いて出家し、証果の後帰国して王を教化せりと云い、「雑宝蔵経巻9迦旃延為悪生王解八夢縁」には、師を悪生王国の婆羅門種となし、帰仏の後、還りて国王及び人民を化し、又国王の為に八夢の因縁を解説せしことを記せり。是れ並びに王の命を受けて仏所に到り、出家得道せしことを伝うるなり。然るに「仏本行集経巻37那羅陀出家品」には、師は阿槃提国獼猴聚落大迦旃延婆羅門の第二子にして、其の名を那羅陀と云い、初め優禅耶尼城附近の頻陀山中に入り、外舅阿私陀仙に就いて習学し、後其の遺命によりて出家帰仏し、本姓に従って大迦旃延と称せられたりとし、「有部毘奈耶破僧事巻2、3」にも略ぼ同説を出し、又「大智度論巻2」に、「若し心濡伏せば応に那陀の迦旃延経を教うべし」と云えり。是れ皆師を以って阿私陀仙の女婿那羅陀naarada(巴naalada)なりとし、彼の仙の遺命によりて帰仏せしものとなすなり。但し「増一阿含経巻3」及び「阿羅漢具徳経」には、大迦旃延の他に別に那羅陀を出し、此の両者を別人となせり。師は常に遊化を事とせしが如く、「雑阿含経巻20」には阿槃提国、舎衛国、釈氏訶梨聚落、婆羅那聚落等に説法せしことを記し、「五分律巻21」、「十誦律巻25」には、阿湿波国に赴きて億耳比丘を度し、辺地五人受戒の聴許を受けたりと云い、「有部毘奈耶巻46」には亦た勝音roruka城に教化せしことを記せり。又論議に巧にして善く法相を分別せしことは、「中阿含巻28蜜丸喩経」に、師は仏の略説せられたる法義を分別し、常に仏の為に称誉せられしことを挙げ、「雑阿含経巻16」にも、能く諸経を分別し、善く法相を説くと云い、又「増一阿含経巻3弟子品」に、「善く義を分別し、道教を敷演するは所謂大迦旃延比丘是れなり」と云うに依りて知るを得べし。又「南方所伝」には師が仏滅後尚お生存して教化に従事せしことを伝え、「大智度論巻2」には仏語を解して蜫勒petakopadesaを作り、南方に行わると云い、又「倶舎論光記巻1」に、六足の中の施設論は師の所造なりとなせり。又密教にては之を「現図胎蔵界曼荼羅釈迦牟尼仏」の左方上列第六位に安ず。其の形像は右手は掌を竪てて無名指小指の二指を屈し、左手は袈裟の角を執りて身に向け、荷葉座に坐す。又「雑阿含経巻9、19」、「中阿含巻43温泉林経」、「賢愚経巻5」、「生経巻2」、「法華経文句巻1下」、「同玄賛巻1」、「慧琳音義巻8、27」等に出づ。<(望)



身、口、念に失が無い

問曰。何以故佛無身失無口失。 問うて曰く、何を以っての故にか、仏には身の失無く、口の失無き。
問い、
何故、
『仏』には、
『身、口の失(過失)』が、
『無いのですか?』。
答曰。佛於無量阿僧祇劫來。持戒清淨故身口業無失。餘諸阿羅漢。如舍利弗等。極多六十劫。不久習戒故有失。佛無量阿僧祇劫。集諸清淨戒成就故。常行甚深禪定故。得一切微妙智慧故。善修大悲心故無有失。 答えて曰く、仏は無量阿僧祇に於いて来(このかた)、持戒清浄なるが故に身、口の業に失無し。余の諸の阿羅漢は、舍利弗等の如きすら、極めて多くば六十劫にして、久しく戒を習わざるが故に失有り。仏は、無量阿僧祇劫に諸の清浄戒を集めて成就するが故に、常に甚深の禅定を行うが故に、一切の微妙の智慧を得るが故に、善く大悲心を修めたもうが故に失有ること無し。
答え、
『仏』は、
『無量阿僧祇劫以来!』、
『持戒して!』、
『身、口』が、
『清浄である!』が故に、
『身、口の業』に、
『失』が、
『無いのである!』。
『余の諸の阿羅漢』は、
例えば、
『舍利弗』等の、
『極めて多い!』者すら、
『六十劫』、
『戒』を、
『習うだけであり!』、
『久しくは!』、
『戒』を、
『習わない!』が故に、
『身、口』に、
『失』を、
『有する!』が、
『仏』は、
『無量阿僧祇劫以来!』、
諸の、
『清浄戒』を、
『集めて!』、
『成就された!』が故に、
常に、
『甚だ深い!』、
『禅定』を、
『行われた!』が故に、
一切の、
『微妙な!』、
『智慧』を、
『得られた!』が故に、
善く、
『大悲』の、
『心』を、
『修められた!』が故に、
『身、口の業』には、
『失』が、
『無いのである!』。
復次佛拔諸罪根因緣故無有失。罪根本因緣有四種。一者貪欲因緣。二者瞋恚因緣。三者怖畏因緣。四者愚癡因緣。是罪根因緣及習皆已拔。阿羅漢辟支佛。雖拔罪因緣習不盡故。或時有失。 復た次ぎに、仏は、諸の罪根の因縁を抜きたもうが故に失有ること無し。罪の根本の因縁に四種有り、一には貪欲の因縁、二には瞋恚の因縁、三には怖畏の因縁、四には愚癡の因縁なり。是の罪根の因縁、及び習は、皆已に抜きたまえるも、阿羅漢、辟支仏は罪の因縁を抜くと雖も、習を尽くせざるが故に、或は時に失有り。
復た次ぎに、
『仏』は、
諸の、
『罪』の、
『根本的因縁を抜かれた!』が故に、
『失』が、
『無いのである!』。
『罪の根本的因縁』には、
『四種有り!』、
一には、
『貪欲という!』、
『罪』の、
『根本的な因縁!』、
二には、
『瞋恚という!』、
『罪』の、
『根本的な因縁!』、
三には、
『怖畏という!』、
『罪』の、
『根本的な因縁!』、
四には、
『愚癡という!』、
『罪』の、
『根本的な因縁である!』。
『仏』は、
是の、
『罪』の、
『根本的な因縁と!』、
『習と!』を、
皆、
『抜かれている!』が、
『阿羅漢、辟支仏』は、
但だ、
『罪』の、
『因縁』を、
『抜いただけであり!』、
未だ、
『習』が、
『尽きていない!』が故に、
或は、
『時に!』、
『失』が、
『有るのである!』。
  (じゅう):梵名vaasanaa、の訳。芳香を発する/燻蒸する/注ぐ/浸す等の行為( the act of perfuming or fumigating, infusing, steeping )の義、無意識に心中に残る何等かの印象(the impression of anything remaining unconsciously in the mind)、過去の認識に関する現在の意識/記憶に由来する知識( the present consciousness of past perceptions, knowledge derived from memory )等のの意、又習気と訳す、慣習の気分の意。また煩悩習、余習、残気とも云う。
佛於一切法中。遍滿智慧常成就故。若不知故有失。如舍利弗。與五百比丘遊行。至一空寺宿。是時說戒日。不知內界外界事。白佛。佛言。住處乃至一宿棄捨則無界。 仏は、一切の法中に於いて、智慧を遍満して常に成就したもうが故に、若し知りたまわざれば、故に失有らん。舍利弗の如きは、五百の比丘と遊行せしに、一空寺に至りて宿れり。是の時、説戒の日なるも、内界、外界の事を知らざれば、仏に白せり。仏の言わく、『住処を、乃至一宿まで棄捨すれば、則ち界無し』、と。
『仏』は、
『一切の法』中に、
『智慧』が、
『遍く満ちており!』、
『常に成就する!』が故に、
若し、
『知らなければ!』、
『失』が、
『有ることになる!』。
例えば、
『舍利弗』は、
『五百の比丘と遊行しながら!』、
『一空寺に至って!』、
是の、
『寺』に、
『宿ることにした!』が、
是の時が、
『説戒の日である!』のに、
何処から、何処までが、
『内界や、外界であるのか?』を、、
『知らなかった!』ので、
『仏』に、こう白した、――
『外界や!』、
『内界の!』、
『事』が、
『分りません!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
乃至、
『一宿だけの!』、
『住処であろうと!』、
『棄捨してしまえば!』、
則ち、
『界など!』、
『無いことになる!』、と。
  説戒(せっかい):毎半月十五日等に集会し、各罪過を懺悔して清浄に住するの意。『大智度論巻13下注:布薩、巻26上注:僧』参照。
  (そう):梵語saMgha。巴梨語同じ。又具に僧伽に作り、衆と訳す。三宝の一。即ち如来の教法を信受し、其の道を行じて入聖得果する者を云う。「雑阿含経巻33」に、「世尊の弟子は善向正向直向誠向し、行ずること法に随順し、有るは須陀洹に向い、須陀洹を得、斯陀含に向い、斯陀含を得、阿那含に向い、阿那含を得、阿羅漢に向い、阿羅漢を得。此れは是れ四双八輩の賢聖なり。是れを世尊の弟子と名づく。僧は浄戒具足し、三昧具足し、智慧具足し、解脱具足し、解脱知見具足し、応に奉迎して承事供養すべき所なり」と云い、又「中阿含巻6教化病経」に、「若干の姓異名異の族あり、鬚髪を剃除し、袈裟を著け、至心に家を捨てて家なく、仏に従って道を学す。是れを名づけて衆と為す」と云える是れなり。是れ出家剃髪して仏に従って道を学し、戒定慧解脱解脱知見を具足し、四向四果に住する聖弟子を名づけて僧となせるものなり。蓋し僧は如来成道の後始めて鹿野苑に至り、阿若憍陳如等の五比丘を度したまいしを以って其の濫觴となす。「過去現在因果経巻3」に、「是に於いて世間に初めて六の阿羅漢あり。仏阿羅漢は是れを仏宝と為し、四諦の法輪は是れを法宝と為し、五阿羅漢は是れを僧宝と為す。是の如く世間の三宝具足す」と云い、又「四分律巻31」に仏鹿野苑に赴かんとし、途上二商人の施を受けたまいし時、未だ僧伽あらざりしを以って、唯帰依仏帰依法の二帰を授けられたりと云い、又「過去現在因果経巻3」に、「爾の時、世尊呪願し訖りて即便ち食を受け、食既に畢竟して澡漱洗鉢し、即ち商人に三帰を授く、一に帰依仏、二に帰依法、三に帰依将来僧なり」と云えるは皆其の事を説けるものなり。按ずるに聖弟子を僧伽即ち衆と名づくることは、羯磨秉法の時必ず四人以上の衆の集会和合を要するに由来するが如し。「大智度論巻3」に、「云何が僧伽と名づくる。僧伽は秦に衆と言う、多くの比丘の一処に和合する、是れを僧伽と名づく。譬えば大樹の叢聚する是れを名づけて林と為すが如し。一一の樹を名づけて林と為さざるも、一一の樹を除かば亦た林なし。是の如く一一の比丘を名づけて僧と為さざるも、一一の比丘を除かば亦た僧なし。諸の比丘和合するが故に僧の名生ず」と云い、又「大乗義章巻10」に、「出家の衆法は所謂百一羯磨の事なり。出家の比丘四人已上同じく此の法を崇むるを出家の衆法と名づく。(中略)彼の出家の衆法の中に於いて、四人已上同一界内に許崇して乖かざるを羯磨僧と名づく」と云い、又「四分律行事鈔巻上1」に、「僧とは和を以って義となす。若し斉しく集まらざれば相に乖離あり、法を御するも則ち成決の功なし」と云えり。之に依るに四人以上集会し和合するに非ざれば羯磨を秉するを得ず、随って常に多比丘の集会を催したるが故に遂に僧の名を生じたるものなるを見るべし。但し羯磨の種類により集会の比丘の数に不同あり、「四分律巻44瞻波揵度」には之を四種に分別し、「爾の時、仏は諸比丘に告ぐ、四種の僧あり、四人僧、五人僧、十人僧、二十人僧なり。是の中、四人僧は自恣と大戒を受くると出罪とを除き、余の一切の如法の羯磨応に作すべし。是の中、五人僧は中国に在りては、大戒を受くると出罪とを除き、余の一切の如法の羯磨応に作すべし。是の中、十人僧は出罪を除き余の一切の如法の羯磨応に作すべし。是の中、二十人僧は一切の羯磨応に作すべし。況んや復た二十人を過ぐるをや。若し応に四人羯磨を作すべきに四人に一人を少(か)きて羯磨を作さば非法非毘尼羯磨なり。若し比丘尼を以って第四人と作し、若しは式叉摩那、沙弥、沙弥尼を以ってし、若し辺罪を犯し、若しは比丘尼を犯し、若しは賊心をもて戒を受け、若しは壊二道、若しは黄門、若しは父母を殺し、阿羅漢を殺し、悪心をもて仏身より血を出し、若しは非人、若しは畜生、若しは二根、若しは被挙、若しは滅擯、若しは応滅擯を所為作羯磨人と言い、是の如き人を以って足して四人を満ぜば非法非毘尼羯磨なり。応に爾るべからず。五人僧十人僧二十人僧も亦た是の如し」と云えり。「十誦律巻30瞻波法」亦た之に同じ。「五分律巻24」、「巴梨律蔵大品mahaavaggaa ix,4」には、此の中の過二十人を別出して無量比丘僧となし、総じて五種となせり。之に依るに四人僧は自恣等を除き、余の如法の羯磨をなすを得べく、乃至二十僧は凡べて一切の羯磨をなすを得べきことを知るなり。又「大乗法苑義林章巻6本」には僧に理和事和辦事の三種あることを説き、「僧伽は衆と云う、理に於いて事に於いて乖諍なきが故なり。此に三種あり、一に理和僧は三人已上にして方に僧と名づくと雖も、麟角独覚及び余の聖者は、設い独一に出づるも、彼の種類なるが故に亦た僧と名づくるを得るなり。二に事和僧は三人已上皆是れ僧の体なり、多に従って論ずるが故なり。彼の国の法は一を名づけて一と為し、二を名づけて身と為し、三より已上を皆名づけて多と為す。法事を辦ずるが如き、四人にして方に成ずるも、一人は白して大徳僧聴と言う。所和の三人を僧と名づくることを得るが故なり。若し四是れ僧ならば、豈に能白の者而も自ら白せんや。和合は多人に従うを顕さんと欲するが故に三より已上は皆僧と名づくるを得るなり。三に辦事僧とは謂わく四人五人十人二十、能所白中具足和合して法事を辦ずるが故なり。所和の体に非ず」と云えり。是れ理和の義に就かば設い一人なるも尚お僧と名づけ、事和の義に就かば、所和の体に約して三人を僧と名づけ、辦事に就かば四人五人乃至二十人以上を方に僧と名づくべしとなすの意なり。支那以来単に一人にても僧と呼ぶの風行われ、「大宋僧史略巻下対王者称謂の條」に、「若し単に僧と云わば即ち四人以上方に之を称するを得べし。今謂わく分に称して僧と為すも理亦た爽(たが)うことなし。万二千五百人を軍となすも、或いは単に己一人を亦た軍と称するが如きなり。僧も亦た之に同じ」と云い、「四分律行事鈔資持記巻上1下」に、「僧とは通じて七位に目(ナ)づく。一二三人は衆法を秉せずと雖も亦た僧と名づくることを得」と云い、斯くて僧の名は出家沙門と同義に用いらるるに至れり。蓋し僧は元と具足戒を護持し、四向四果に住する賢聖を称したるものにして、三宝の中に之を名づけて僧宝となすなり。経律中には主として比丘に約して説くも亦た比丘尼衆あり。「中阿含巻47瞿曇弥経」に、「信族姓男族姓女は、世尊の般涅槃後久しからずして二部衆ubhato-saGghaに施すべし。比丘衆に施し、比丘尼衆に施す」と云える是れなり。然るに仏在世より破戒又は鈍根等の僧あり、「十誦律巻30瞻波法」に、僧に無慚愧僧、羺羊僧、別衆僧、清浄僧、真実僧の五種ありとし、「無慚愧僧とは破戒の諸比丘なり、是れを無慚愧僧と名づく。羺羊僧とは、若し比丘凡夫鈍根にして智慧なく、諸の羺羊の聚りて一処に在るも知る所なきが如し。是の諸比丘は布薩を知らず、布薩羯磨を知らず、説戒を知らず、法会を知らず、是れを羺羊僧と名づく。別衆僧とは若し諸比丘、一界内の処処に別に諸の羯磨を作すなり。清浄僧とは凡夫の持戒の人及び凡夫より勝る者なり。是れを清浄僧と名づく。真実僧とは学無学の人、是れを真実僧と名づく」と云えり。「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻20」等に出す所亦た之に同じ。「大乗大集地蔵十輪経巻5有依行品」、「大方広十輪経巻5」、「法苑珠林巻19違損部」等には、此の中の別衆僧を除きて唯四種となし、「大智度論巻3」にも亦た別衆僧を除き、実相、有羞僧、唖羊僧、無羞僧の四種となせり。其の他、「雑阿毘曇心論巻10」等には第一義僧、等僧の二種を挙げ、「大乗理趣六波羅蜜多経巻1」には第一義僧、聖僧、福田僧の三種を説き、「大乗義章巻10」には仮名僧、真実僧の二種、仮名僧、清浄僧、真実僧の三種、並びに破戒雑僧、愚癡僧、清浄僧の三種等を出せり。就中、真実僧は即ち僧宝にして、清浄僧は之に准じ、他の無慚愧等は僧宝に摂すべきものに非ざるを知るべし。又「大智度論巻34」に声聞僧の外に別に菩薩僧あることを説き、「諸仏は多く声聞を以って僧となし、別の菩薩僧なし。弥勒菩薩、文殊師利菩薩等の如き、釈迦文仏には別の菩薩僧なきが故に、声聞僧の中に入りて次第に坐す。仏あり一乗の説法をなすには純ら菩薩を以って僧となす。仏あり声聞菩薩を雑えて僧となす」と云い、「大乗本生心地観経巻2」に、「世出世間に三種の僧あり、一に菩薩僧、二に声聞僧、三に凡夫僧なり。文殊師利及び弥勒等は是れ菩薩僧なり。舎利弗、目犍連等の如きは是れ声聞僧なり。若し別解脱戒を成就せる真善の凡夫、乃至一切の正見を具足し、能く広く他の為に衆の聖道の法を演説開示して衆生を利益することあるものを凡夫僧と名づく。未だ無漏の戒定及び慧解脱を得ること能わずと雖も、而も供養する者は無量の福を獲ん。是の如きの三種を真の福田僧と名づく」と云い、又「比丘応供法行経(法蔵菩薩戒本疏巻3所引)」に、「次第僧の中、仏化僧、四道果僧、菩薩僧、七賢僧、凡夫僧あり」と云えり。是れ菩薩も亦た僧と名づくべきことを説けるものなり。又「五分律巻16」には仏も亦た僧数に在りとし、「仏言わく、但だ以って僧に施せ。我れ僧中に在り」と云い、「般泥洹経巻上」にも、「仏阿難に報ず、仏は豈に衆と相違すること遠からんや。吾れ恒に比丘衆の中に在り」と云えり。然るに「摩訶僧祇律巻3」には塔物と僧物とを区分し、「若し塔に物ありて衆僧に物なからんに、便ち是の念を作す、僧を供養せば仏も亦た其の中に在りと。便ち塔物を以って衆僧に供養し摩摩帝に用いば波羅夷を得ん」と云い、又「成実論巻3辯三宝品」に、「論者言わく、摩醯舎婆道人説く、仏は僧数に在りと。答えて曰わく、若し仏は四衆、所謂有衆、衆生衆、人衆、聖人衆に在りと説かば是れ則ち過に非ず。若し仏は声聞衆の中に在りと言わば是れ則ち咎あり、聞法得悟するを以っての故に声聞と曰う。仏の相は異なるが故に此の中に在らずと。(中略)是の故に知る仏は僧中に在らず、又仏は僧の羯磨中に入らず、亦た諸余の僧事に同ぜず。又三宝差別するを以っての故に仏は僧中に在らず」と云えり。以って之に関し古来異説せられたるを見るべし。又僧は元と比丘比丘尼に通じて用いられたる称なりしも、支那及び本邦に於いては主として比丘を僧と呼び、之に対し比丘尼を尼と称せり。「歴代三宝紀巻3承明元年の條」に、「北台に百余寺あり、僧尼二千余人あり」と云い、「日本書記巻22推古天皇三十二年九月の條」に、「是の時に当り寺三十六所、僧八百十六人、尼五百六十九人、併せて一千三百八十五人あり」と云える其の例なり。又後世には独り比丘比丘尼に限らず、広く沙弥沙弥尼等をも僧又は尼と称し、比丘等を大僧、沙弥等を小僧と呼ぶに至れり。又僧侶の称も古くより行われたるが如く、「大乗義章巻10」に、「聖に住する菩薩も、単一にして侶なくば只僧を成ぜず」と云い、「法苑珠林巻11説法部」に、「法輪は則ち柰苑に初めて転じ、僧侶は則ち憍陳始めて度す」とあり。是れ侶は伴侶の義にして、即ち衆と同義なるに由るなり。又「長阿含経巻2」、「雑阿含経巻22」、「増一阿含経巻2広演品」、「同巻14高幢品」、「有部毘奈耶破僧事巻6」、「毘尼母経巻6」、「薩婆多部律摂巻9」、「大毘婆沙論巻34」、「異部宗輪論」、「法華経文句巻1上」、「維摩経文疏巻3」、「諸経要集巻2」、「翻梵語巻2」、「四分律行事鈔巻上1、巻下3」、「四分律含註戒本疏巻1上」、「同刪補随機羯磨疏巻1」、「同開宗記巻2」、「円覚経大疏釈義鈔巻13上」、「翻訳名義集巻4」、「釈氏要覧巻上、中」等に出づ。<(望)
  内界(ないかい):有る布薩堂に参集すべき境界の内。『大智度論巻26上注:現前僧伽』参照。
  外界(げかい):有る布薩堂に参集すべき境界の外。『大智度論巻26上注:現前僧伽』参照。
  現前僧伽(げんぜんそうが):比丘は原則的に遊行して一処不住なるが故に、応に毎半月十五日の布薩日には、現在の地域に存する布薩堂(説戒堂)に集会すべく、是の時、有る布薩堂に集まるべき範囲を界(巴梨語siimaa)、其の内を内界、外を外界と云い、又有る布薩堂の界内の比丘の和合を、総じて現前僧伽(巴梨語sammukhiibhuuta-saGgha)、又は現前僧と称す。之に対して仏教を信奉する全比丘、全僧伽を指して、四方僧伽(巴梨語caatuddisa-saGgha)、又は十方僧伽、或いは十方僧等と称す。『大智度論巻13下注:布薩、巻22上注:僧物、巻26上注:僧』参照。
  参考:『十誦律巻61』:『憍薩羅國舍利弗。欲遊行至舍婆提。中道有空精舍。是說戒日不知何者是內界何處是界外。是事白佛。佛言。若有棄空精舍。是名一切界外。是中隨意說戒』
  参考:『増一阿含経巻41』:『一時。佛在釋翅闇婆梨果園。與大比丘眾五百人俱。是時。尊者舍利弗.尊者目乾連於彼夏坐已。將五百比丘在人間遊化。漸漸來至釋翅村中。爾時。行來比丘及住比丘各各自相謂言。共相問訊。又且聲音高大。爾時。世尊聞諸比丘音響高大。即告阿難曰。今此園中是誰音響。聲大乃爾。如似破木石之聲。阿難白佛言。今舍利弗及目連將五百比丘來在此。行來比丘久住比丘。共相問訊。故有此聲耳。佛告阿難曰。汝速遣舍利弗.目乾連比丘。不須住此。是時。阿難受教已。即往至舍利弗.目乾連比丘所。即語之曰。世尊有教。速離此去。不須住此。舍利弗報曰。唯然受教。爾時。舍利弗.目乾連即出彼園中。將五百比丘涉道而去。』
又異時舍利弗目揵連。將五百比丘還時。高聲大聲故。佛驅遣令出。是為口失。 又異時に舍利弗、目揵連は、五百比丘を将(ひき)いて還る時、高声、大声なるが故に、仏は駆遣して、出でしめたまえり。是れを口の失と為す。
又、
別の時に、
『舍利弗と、目揵連』が、
『五百の比丘を将(ひき)いて!』、
『寺』に、
『還る!』時、
『五百比丘の高声、大声』の故に、
『仏に駆遣されて!』、
『寺』を、
『出させられたのである!』が、
是れを、
『口の失』と、
『称する!』。
  駆遣(くけん):おいやる。おいはらう。
又如舍利弗。不知等食法。佛言。食不淨食。如是等身口有失。佛諸煩惱習盡故無如是失。 又、舍利弗の如きは、等食の法を知らざれば、仏の言わく、『不浄の食を食す』、と。是れ等の如きは身口に失有るも、仏は、諸煩悩の習尽きたるが故に、是の如き失無し。
又、
例えば、
『舍利弗』は、
『等食という!』、
『法』を、
『知らなかった!』ので、
『仏』は、こう言われた、――
『舍利弗』は、
『不浄の食』を、
『食っている!』、と。
是れ等のように、
『阿羅漢』には、
『身、口』の、
『失』が、
『有る!』が、
『仏』は、
諸の、
『煩悩の習』が、
『尽きている!』が故に、
是のような、
『失』が、
『無い!』。
  等食法(とうじきほう):比丘の請を受くるに当り、最上座より最下座に至るまで、等しく食すべきの法。「五分律巻27」に、「有る一住処に舎利弗は最上座、羅睺羅は最下座なり。請を受くるに、主人は酥羹を以って上座に与え、油羹を以って次座に与え、沢枯羹を以って下座に与う。羅睺羅食後往きて仏所に到り、頭面礼足して却って一面に坐す。仏の羅睺羅に問わく、汝が今日の食する所は何ぞやと。羅睺羅の即ち偈を説きて答うらく、油を食する者は力あり、酥を食する者は色あり、若し沢枯羹を食すれば、力なく況んや色あるをやと。仏に白して言わく、今日は沢枯羹を用って食せりと。舎利弗食後往きて仏所に到り、頭面礼足して却って一面に坐す。仏の舎利弗に問わく、汝が今日の食する所は何ぞやと。答えて言わく、酥羹を用って食せりと。仏の呵して言わく、汝が今日の食すること善からず。云何が比丘にして、上座は酥を食し、中座は油を食し、下座は沢枯を食すると。舎利弗は黙然として答えず、便ち屏処に於いて食を吐きて尽くさしむ。仏の言わく、今より若し請を受くる時には、上座は応に主人に語りて言うべし、一切は与に平等に与えよと」と云えるにより、応に知るべし。
  不浄食(ふじょうじき):火浄、刀浄、爪浄、蔫乾浄、鳥啄浄の五種の作浄を得ざる食の意。『大智度論巻26上注:食』参照。
  (じき):梵語aahaaraの訳。巴梨語同じ。牽引、長養、任持等の義。即ち有情の肉身及び聖者の法身を牽引し長養任持するものを云う。食の義に関しては「大毘婆沙論巻129」に、「有を牽くの義是れ食の義、有を続くの義、有を持するの義、有を生ずるの義、有を養うの義、有を増すの義是れ食の義なり」と云い、又「雑阿毘曇心論巻10」に、「持の義は是れ食の義なり、榰の瓶を持して安住して壊せざるが如し。是の如く食を以って身を持すれば身則ち壊せず。有を牽くが故に食と説く。問う、若し然らば一切の有漏の法は是れ食なり、有を牽くが故なり。答う、増上の故に力と説き、能く有を牽くが故に食と説く、二事あるが故に食と名づく。謂わく前には方便して牽き、牽き已りて復た長養す」と云えり。蓋し諸経論に食の種類を挙ぐる甚だ多し。就中、有情の肉身を資持すべき食物に関し、「四分律巻59」に、「五種の食あり、飯と乾飯と麨と肉と魚となり」と云い、又「有部毘奈耶巻36」に、「五種の珂但尼食(嚼𪘂の義)あり、若し食せば足食を成ぜず。云何が五と為す、謂わく一に根、二に茎、三に葉、四に花、五に果なり。此の五を食する時は足食を成ぜず。五種の蒲繕尼食(含噉の義)あり、食せば足食を成ず。云何が五と為す、一に飯、二に麦豆飯、三に麨、四に肉、五に餅なり。此の五を噉う時名づけて足食と為す」と云えり。此の中、五種の珂但尼食paJca-khaadaniiyaとは、又五種嚼食、五嚼食と云い、或いは五不正食とも訳す。五種の蒲繕尼食paJca-bhojaniiyaとは、又五種噉食、五噉食と云い、或いは五正食とも翻ず。「四分律疏飾宗義記」には、之に五種の奢耶尼食を加えて凡べて十五種ありとす。即ち彼の記「巻5末」に、「十五種とは古来相伝する所にして、義に准じて立つ。五種の蒲闍尼(此れを正食と云う)あり、謂わく飯と麨と乾飯と魚と肉なり。五種の佉闍尼(此れを不正食と云う)とは謂わく枝と葉と華と菓と細末磨食なり。五種の奢耶尼とは謂わく蘇油と生と蘇と蜜と石蜜なり」と云える是れなり。又「有部毘奈耶巻36」には作浄の法を説き、「仏言わく、五種の作浄あり。云何が五と為す、謂わく火浄と刀浄と爪浄と蔫乾浄と鳥啄浄なり。是れを謂って五と為す。復た五種の作浄あり。謂わく拔根浄と手折浄と截断浄と劈破浄と無子浄なり。云何が火浄なる、謂わく火を以って触著するなり。云何が刀浄なる、謂わく刀を以って損壊するなり。云何が爪浄なる、謂わく爪甲を以って傷損するなり。云何が蔫乾浄なる、謂わく自ら蔫乾して種と為るに堪えざるなり。云何が鳥啄浄なる、謂わく鳥の觜啄の損ずるなり」と云えり。又「長阿含」等には総じて食に四種の別ありとす。彼の経「巻8衆集経」に、「復た四法あり、謂わく四種食なり、摶食、触食、思食、識食なり」と云い、「倶舎論巻10」に、「何等をか食と為す、食に四種あり。一に段、二に触、三に思、四に識なり」と云える是れなり。是れ所謂四食の説にして、就中、段食は上記飯等の食を指すなり。又「増一阿含経巻41」には、食に世間食出世間食の二種を分ち、総じて九種ありとなせり。即ち彼の文に「夫れ食を観ずるに九事あり、四種の人間食と五種の出人間食となり。云何が四種の是れ人間食なる、一には揣食、二には更楽食、三には念食、四には識食なり。是れを世間に四種の食ありと謂う。彼れ云何が名づけて五種の食の世間の表に出づと為す、一には禅食、二には願食、三には念食、四には八解脱食、五には喜食なり。是れを謂って名づけて五種の食と為す。是の如く比丘、五種の食は世間の表に出づ。当に共に専念して四種の食を捨除し、方便を求めて五種の食を辦ずべし」と云える其の説なり。此の中、世間食は即ち所謂四食にして、人の肉身を長養保持し、出世間食は世間を超出せる食にして、即ち聖者の慧命を長養保持するものを云う。「華厳経疏巻28」に五種の出世間食を釈し、禅悦食とは出世間修行の人が、定力を得るに由りて自ら慧命を長養し、道品円明にして心常に喜楽なるを云い、願食とは修行の人が願を以って身を持し、万行を捨てずして一切の善根を長養するを云い、念食とは常に正念を持して、一切の善根を長養するを云い、解脱食とは解脱は自在の義にして、即ち修行の人が諸の業縛を離れ、法に於いて自在にして、一切の菩提の善根を長養するを云い、法喜食とは大法を愛楽して道種を資長し、心常に懽喜を生ずるを云うとなせり。又「法華経巻4五百弟子授記品」に、「其の国の衆生は常に二を以って食とす。一には法喜食dharma-priity-aahaara、二には禅悦食dhyaana-priity-aahaaraなり」と云い、又「仏地経論巻1」に、「是の如く浄土は眷属円満して中に於いて止住す。何を以って任持するや、広大なる法味の喜楽の持する所なり。謂わく此の中に於いて大乗の法味喜楽所持の食ありて能く住せしむ」と云い、又「無量寿経憂波提舎願生偈」に、「仏法味を愛楽し、禅三昧を食と為す」と云えるは、彼の出世五種食の中の禅食、及び喜食を説けるものなり。又「中阿含巻10食経」に、「有愛とは則ち有の食にして無食に非ず。何をか有愛の食と謂う、答えて曰わく無明の食と為す」と云い、又「増一阿含経巻31」に、「一切の諸法は食に由りて存し、食に非ざれば存せず。眼は眠を以って食と為し、耳は声を以って食と為し、鼻は香を以って食と為し、舌は味を以って食と為し、味は細滑を以って食と為し、意は法を以って食と為す。我れ今亦た涅槃に食ありと説く。阿那律、仏に白して言わく、涅槃は何等を以って食と為すや。仏は阿那律に告ぐ、涅槃は無放逸を以って食と為す、無放逸に乗ずれば無為に至ることを得」と云えり。此等は一種の喩説なりと云うべし。又「中阿含巻5大拘絺羅経」、「雑阿含経巻14」、「大毘婆沙論巻154」、「瑜伽師地論巻2、94」、「梁訳摂大乗論釈巻15」、「維摩経義記巻2」、「法華経文句巻8上」、「同記巻8之2」、「大乗法苑義林章巻4本」、「倶舎論光記巻10」、「四分律行事鈔巻下2」、「同資持記巻中3之2」、「華厳経探玄記巻8」、「南海寄帰内法伝巻1」、「翻訳名義集巻7」、「釈氏要覧巻上」、「翻梵語巻10」等に出づ。<(望)
  参考:『五分律巻27』:『有一住處舍利弗最上座羅睺羅最下座。受請主人以酥羹與上座。油羹與次座。澤枯羹與下座。羅睺羅食後往到佛所。頭面禮足卻坐一面。佛問羅睺羅。汝今日何所食。羅睺羅即說偈答 食油者有力  食酥者有色  若食澤枯羹  無力況有色  白佛言。今日用澤枯羹食。舍利弗食後往到佛所。頭面禮足卻坐一面。佛問舍利弗。汝今日何所食。答言。用酥羹食。佛呵言。汝今日不善食。云何比丘。上座酥食中座油食下座澤枯食。舍利弗默然不答。便於屏處吐食使盡。佛言。從今若受請時。上座應語主人言。一切與平等與。若檀越送食來。上座應語下座比丘令掃除食處敷座取淨水出盛長食器。凡是所須皆應供辦。時至應唱若打揵稚令齊受集食。若主人辦食遲。應催令速勿使失時。是為上座食時初學法。應盡形壽持』
  不淨食:比丘は肉、根菜、木の実、果物、菜っ葉等を次の方法で調理し生気を去って食う。(1)火淨:焼くまたは煮る、(2)刀淨:果物の皮と核(たね)を刀で取り去る、(3)爪淨(そうじょう):爪を刀の代わりにつかう、(4)蔫乾淨(せんかんじょう):果物を乾して生気を取り去る、(5)鳥啄淨(ちょうたくじょう):鳥が啄ばんだ残りを食う。舎利弗については、『大智度論巻2下』参照。
復次佛一切身口業隨智慧行故。身無失口無失。如是等種種因緣故。身無失口無失。 復た次ぎに、仏は、一切の身口の業を智慧に随って行じたもうが故に、身に失無く、口に失無し。是れ等の種種の因縁の故に、身に失無く、口に失無きなり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『一切の身、口の業』を、
『智慧に随順して!』、
『行われる!』が故に、
『身、口』に、
『失』が、
『無いのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、こう説くのである、――
『身と、口には!』、
『失』が、
『無い!』、と。
念無失者。四念處心長夜善修故。善修甚深禪定。心不散亂故。善斷欲愛及法愛。諸法中心無著故。得第一心安隱處故。若心懅匆匆念有忘失。佛心無得失。以是故無失。 念に失無しとは、四念処の心を長夜に善く修するが故に、善く甚深の禅定を修し、心散乱せざるが故に、善く欲愛、及び法愛を断じ、諸法中に心の著する無きが故に、第一の心の安隠処を得るが故なり。若し心懅(おび)えて匆匆たれば、念に忘失有り。仏心には得失無く、是を以っての故に失無し。
『念』に、
『失』が、
『無い!』のは、――
『四念処の心』を、
『長夜に、善く修める!』が故に、
『甚だ深い禅定』を、
『善く修め!』、
『心』が、
『散乱しない!』が故に、
『欲愛、法愛』を、
『善く断じ!』、
『諸法』中に、
『心が著さない!』が故に、
『第一の!』、
『心の安隠処を得るからである!』。
若し、
『心』が、
『懅(おび)えて!』、
『匆匆(おろおろ)としていれば!』、
『念』を、
『忘失する!』ことが、
『有るだろう!』が、
『仏の心』には、
『得、失』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『失うこと!』が、
『無いのである!』。
  (ご):おそれる。おびえる。おどろく。あわてる。
  匆匆(そうそう):あわてるさま。いそがしいさま。
復次佛宿命通明力三種莊嚴念故。念則成就無失。念多在過去用故。 復た次ぎに、仏は宿命の通、明、力もて三種に念を荘厳したもうが故に、念ずれば則ち成就して失無し、念は多く過去に在りて用うるが故なり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『宿命の通、明、力を用いて!』、
『三種』に、
『念』を、
『荘厳されている!』が故に、
『念じれば!』、
『成就して!』、
『失』が、
『無い!』。
『念』は、
『過去に!』於いて、
『多く!』、
『用いられる!』が故に、
『宿命の通、明、力を用いて!』、
『念』を、
『荘厳するのである!』。
復次念根力無邊無盡故念無失。 復た次ぎに、念の根、力の無辺、無尽なるが故に、念に失無し。
復た次ぎに、
『仏』の、
『念』の、
『根、力』は、
『無辺、無尽である!』が故に、
『念』には、
『失』が、
『無いのである!』。
復次佛一切意業隨智慧行故念無失。一一念隨意行故。如是等名為念無失。如天問經中說
 何人無過失  何人不失念 
 何人常一心  應作者能作 
 正知一切法  一切障得脫 
 諸功德成就  唯有佛一人
復た次ぎに、仏の一切の意業は、智慧に随いて行ずるが故に念に失無し。一一の念は意に随いて行ずるが故なり。是れ等の如きを名づけて、念に失無しと為す。天問経中に説けるが如し、
何人か過失無き、何人か失念せざる、
何人か常に一心なる、応に作者は能く作すべし。
一切の法を正知して、一切の障を脱るるを得、
諸功徳の成就せるは、唯だ仏の一人有るのみ。
復た次ぎに、
『仏』の、
『一切の意業』は、
『智慧』に、
『随って!』、
『行われる!』が故に、
『念』には、
『失』が、
『無い!』。
『一一の念』が、
『意』に、
『随って!』、
『行われるからである!』。
是れ等のようなものを、
『念には!』、
『失が無い!』と、
『称するのである!』。
『天問経』中に、こう説く通りである、――
何のような、
『人』に、
『過失が無いのか?』、
何のような、
『人』が、
『失念しないのか?』、
何のような、
『人』が、
『常に一心なのか?』、
当然、
『作者ならば!』、
『作すことができるはずだが!』。
一切の、
『法』を、
正しく知り!』、
一切の、
『障』を、
『脱れることができ!』、
諸の、
『功徳』を、
『成就した!』のは、
唯だ、
『仏』が、
『一人有るだけだ!』、と。



異想も、不定心も無い

無異想者。佛於一切眾生。無分別無遠近異想。是貴可為說。是賤不可為說。如日出普照萬物。佛大悲光明一切憐愍等度。恭敬者不恭敬者。怨親貴賤一切悉等。 異想無しとは、仏は、一切の衆生に於いて分別無く、『是れは貴なれば、為に説くべし』、『是れは賎なれば、為に説くべからず』、と遠、近を異想する無し。日出でて、普く万物を照らすが如く、仏の大悲の光明は、一切を憐愍して等しく度すれば、、恭敬する者、恭敬せざる者、怨親、貴賎の一切を悉く等しうす。
『異想が無い!』とは、――
『仏』は、
一切の、
『衆生』を、
『分別する!』ことが、
『無く!』、
是れは、
『貴いから!』、
『説くべきである!』が、
是れは、
『賎しいから!』、
『説くべきでない!』と、
『衆生』を、
『遠ざけたり!』、
『近づけたりして!』、
『別異する!』ような、
『想』が、
『無い!』。
例えば、
『日が出て!』、
普く、
『万物』を、
『照らすように!』、
『仏』の、
『大悲の光明』は、
『一切を憐愍して!』、
『等しく!』、
『度するのであり!』、
『恭敬する者も、恭敬しない者も!』、
『怨だろうが、親だろうが!』、
『貴だろうが、賎だろうが!』、
『一切を悉く!』、
『等しく!』、
『度するのである!』。
如客除糞人名尼陀。佛化度之得大阿羅漢。亦如德護居士火坑毒飯欲以害佛。即以其日除其三毒滅邪見火。如是等無有異想。 客の除糞人にして、尼陀と名づくるが如きは、仏は之を化度したまえば、大阿羅漢を得たり。亦た徳護居士の如きは、火坑、毒飯を以って、仏を害せんとするに、即ち其の日に、其の三毒を除くを以って、邪見の火を滅したもう。是れ等の如く、異想有ること無きなり。
例えば、
『客の除糞人である!』、
『尼陀など!』は、
『仏に化度されて!』、
『大阿羅漢』を、
『得たのであり!』、
亦た、
『徳護居士など!』は、
『火坑、毒飯を用いて!』、
『仏』を、
『害そうとした!』が、
『仏』は、
其の、
『日のうちに!』、
其の、
『三毒』を、
『除いて!』、
其の、
『邪見の火』を、
『滅されたのである!』。
是れ等のように、
『仏』には、
『異想』が、
『無いのである!』。
  (きゃく):居所の定まらない者。ホームレス。
  尼陀(にだ):或いは尼提に作る。仏弟子。即ち王舎城の除糞人たりし時、仏に随いて出家し、阿羅漢を成じて、三明六通悉く具足せり。「賢愚経巻6尼提度縁品」に、「一時仏舎衛国祇樹給孤獨園に在り。爾の時、舎衛城中に人民衆多、居止溢迮、廁溷尟少なれば、大小便利は多く往きて城を出づ。或る豪尊あり、去る能わざれば、便利器中に在りて、人を雇いて之を除かしむ。時に一人あり、名を尼提と曰う、極貧至賎、趣向する所無く、客を仰ぎて除糞を作し、価を得て自ら済う。爾の時世尊、即ち其の応に度すべきを知り、独り阿難を将いて、城内に入り、之を拔済せんと欲し、一里の頭に到るに、正に尼提に値う。一瓦器を持して、不浄を盛満し、往きて之を棄てんと欲す。遙かに世尊を見るに極めて鄙愧を懐き、退きて異道に従い、屏に隠れて去らんことを欲し、垂んとして当に里を出でんとするに、復たも世尊を見、倍して鄙恥を用ちい、迴して余道に趣かんとし、復た避けて去らんことを欲す。心意匆忙として、瓶を以って壁を打てば、瓶は即ち破壊し、屎尿身に澆ぐに、深く慚愧を生じて、仏を見るに忍びず。是の時世尊、就きて其の所に到り、尼提に語りて言わく、出家せんと欲するや不やと。尼提の答えて言わく、如来は尊重、金輪王の種にして、翼従する弟子は、悉く是れ貴人なり。我れは下賎弊悪の極なり。云何が、彼と同じく、出家することを得んやと。世尊の告げて曰わく、我が法の清妙なること、猶お浄水の如し、悉く能く洗いて、一切の垢穢を除く。亦た大火の能く諸物を焼き、大小、好悪なるも、皆能く之を焚くが如く、我が法も亦た爾り、弘広なること無辺にして、貧富貴賎の男と女と、能く修する者有れば、皆、諸欲を尽くすと。是の時尼提、仏の所説を聞いて信心即ち生じ、出家を得んことを欲す。仏は阿難をして、将いて城外に出さしめ、大河水の辺に、其の身を洗浴せしむ。已に浄潔を得るに、将いて祇洹に詣り、為に経法の苦切の理、生死の畏るべき、涅槃の永安なるを説けば、霍然として意解け、初果の証を獲、合掌して仏に向い、沙門と作ることを求む。仏は即ち告げて曰わく、善く来たれり、比丘と。鬚髪自ら落ちて、法衣身に在り。仏重ねて、四諦の要法を解説するに、諸漏の尽くるを得て、阿羅漢を成じ、三明六通を皆悉く具足せり」と云えるに由り、応に知るべし。又「大荘厳論経巻7」、「出曜経巻1」、「根本説一切有部毘奈耶巻4」等に出づ。
  徳護(とくご):又尸利堀多、尸利掘、尸利鞠多、尸利仇多等とも称す。居士の名。曽て六師外道に随いて仏を殺さんとせしも、仏の教化に値いて正法に帰せりと云う。「十誦律巻61」に、「仏王舎城に在り。王舎城中に居士有り、尸利仇多と名づく。大富にして銭財多く、大徳力有れど、是れ外道婆羅門の弟子なり。此の人沙門瞿曇の一切智有りや不やを疑い、行きて仏所に到りて、仏を問訊し、竟りて一面に坐す。仏、尸利仇多の為に、法を説き教を示して利喜す。是れ応に行ずべし、是れ応に行ずべからずと。種種の因縁もて法を説き已りて黙然す。居士尸利仇多法を聞き已りて、叉手して仏に向い、仏に白して言わく、沙門瞿曇、明日我が舎に食せよと。憐愍の故に、彼れの応に度すべきを以っての故に、仏は黙然として請を受く。時に尸利仇多仏の黙然として受くるを見、座より起ちて仏の為に礼を作し、仏を遶ること三匝して還りて舎に到る。外門の間に於いて、大火坑を作り、火をして無煙、無焔ならしめ、沙を以って上を覆い、是の如き心生じて、口に言わく、若し沙門瞿曇、是れ一切智人なれば、当に是の事を知るべし。若し一切智人に非ざれば、沙門瞿曇并びに諸弟子、当に此の坑中に堕すべしと。即ち舎に入りて、不織の坐床を敷き、上に白氎を敷く。是の如き心生じて口に言わく、若し是れ一切智人なれば、当に是の事を知るべし。一切智人に非ざれば、并びに弟子当に堕すべし。尸利仇多毒を以って飲食に和え、心生じて口に言わく、若し是れ一切智人なれば、当に是の事を知るべし。一切智人に非ざれば、当に毒に中たりて死すべし。早く起きて使を遣り、仏に白さしむ、飲食已に辦ぜり、仏自ら時を知りたまえと。爾の時仏の阿難に語らく、僧をして諸の比丘に、皆、仏より先に前を行くを得しめざれ。一切は応に仏の後に在るべしと。阿難教を受けて、諸比丘をして、皆、仏より先に前を行くを得しめず。一切は応に仏の後に在るべしと、僧に令し竟る。是の時仏衣を著け、鉢を持し、前に在りて行く。諸比丘は仏の後に従う。仏尸利仇多の舎に入り、仏火坑を変じて蓮華池と作し、中に清浄水を満たす。既に甘く冷たし。水中に赤白種種色の蓮華有り、遍く水上を覆う。時に仏は、僧と皆広葉の蓮華の上を行き、尸利仇多に告ぐ、汝居士、当に心中の疑を除くべし。我れは実に一切智人なりと。仏是の語を作し竟りて舎に入り、不織の床に上りて変じて、織と成らしむ。尸利仇多に告ぐ、汝居士、当に心中の疑を除くべし。我れは実に一切智人なりと。是に尸利仇多、二神力を見て、信心即ち生じて清浄なり。仏を恭敬尊重す。是の時尸利仇多歓喜叉手して、仏に白して言わく、食中に毒有り。僧或いは病を得ん。願わくは仏小く待ちたまえ。更に飲食を作らんと。仏言わく、居士、但だ此の食を施せ。僧は病を得ざらんと。仏阿難に告げて、僧中に未だ「等しく供せよ」と唱えざれば、一も食するを得ざらしむ。阿難教を受けて、即ち僧中に令す、大徳僧、仏の約勅なり。未だ「等しく供せよ」と唱えざれば、一も食するを得ざれと。是の時、仏は是の如く呪願すらく、「婬欲瞋恚愚癡は、是れ世界中の毒なり。仏に実法あり、一切の毒を除く。解除捨し已れば、一切の諸仏に毒無し。是れ実語なるを以っての故に、毒は皆除こるを得」と。仏是の語を作すに、食は即ち浄にして毒無し。是の居士尸利仇多、座より起ちて澡水を行じ、手もて自ら多美飲食を斟酌するに、多美飲食を飽満す。飽満し与え竟りて、手を洗いて鉢を摂す。尸利仇多、小座具を取りて、仏の前に於いて法を聞かんと欲す。仏は意に随いて甚深の浄妙の法を説く。尸利仇多、即ち坐処に於いて諸法の法眼浄を得。是の如く尸利仇多は、法を得、法を見、法を知り、善法、浄法もて、心の疑悔を除き、他法を信ぜず、他語に随わざるを得。仏法中に無畏力を得、座より起ちて頭面に仏の足を礼す、大徳、我れ今日より、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依す。五戒を持して優婆塞と為らんと。仏は尸利仇多の為に、更に多く法を説き、教を示して、利喜せり」と云えるにより、応に知るべし。又「増一阿含経巻41」、「大荘厳論経巻13」、「徳護長者経」等に出づ。
  火坑(かきょう):中に炭火を熾盛せる落し穴。
  毒飯(どくぼん):中に毒を仕込みたる飯。
  尼陀:尼提(にだい)、舎衛城は狭小なるが故に便所がなく、大小の便利は皆城外に出て済ませていたが、豪尊の者は便器を用い、人を雇って捨てさせていた。仏がただ阿難一人を将いて城内で乞食していると、除糞人の尼陀にであった。尼陀は不浄の浄満する器を抱えながら自らを恥じて脇道に去るが、大通りに出るとまた仏にであい、驚いて脇道にそれようとしたはずみに器を堕として割り、不浄がかかって身を濡らした。仏はそれを見て近くに寄り、尼陀に出家を促す。尼陀は自ら卑賤と汚れていることを説き、出家を辞退するが、仏の、わが法は浄水の如く、一切の汚れを洗い流すと言うを聞き、遂に出家を得るに及び、阿難に将いられて恒河の水で身を潔め、祇園精舎にて法を聞いて初果を得た。『大荘厳論経巻7』、『賢愚経巻6尼提度縁品第三十』、『出曜経巻1』等参照。
  徳護居士:長者徳護は、外道の教を信奉して仏を怨むが故に、邸の七重の門の下に七つの火坑を作り、無煙の火を焚いて上を銅の梁と草土で覆い、飲食に毒を仕込んで、仏を請じて供養せんとしたが、仏の神力と長者子月光等の諌めにより、火は消え毒も滅して長者は懺悔した。『仏説徳護長者経』参照。
復次佛於舍利弗彌勒菩薩等順佛法行亦不愛。提婆達多富羅那外道六師邪見等亦不憎。是為佛於無量阿僧祇劫修熏心故。是眾生中寶。如真金不可令異。 復た次ぎに、仏は、舍利弗、弥勒菩薩等の仏法に順じて行ずるに於いても、亦た愛したまわず、提婆達多、富羅那の外道六師の邪見等にも、亦た憎みたまわず。是れを仏は、無量阿僧祇に於いて心を修熏したもうが故に、是れ衆生中の宝にして、真金の如きに異ならしむべからずと為す。
復た次ぎに、
『仏』は、
『舍利弗、弥勒菩薩』等の、
『仏法』に、
『順じて!』、
『行う!』者をも、
亦た、
『愛することなく!』、
『提婆達多や、富羅那等の外道の六師』の、
『邪見』等をも、
亦た、
『憎まれなかった!』。
是れを、
『仏』は、
『無量阿僧祇劫』に於いて、
『心』を、
『修めて!』、
『熏じられた!』が故に、
是れは、
『衆生中の宝であり!』、
『真金とは異なる!』と、
『思われるはずがないのである!』。
  提婆達多(だいばだった):仏の悪弟子。『大智度論巻24下注:提婆達多』参照。
  富羅那(ふらな):六師外道の一。『大智度論巻3上注:六師外道、巻26上注:富蘭那迦葉』参照。
  富蘭那迦葉(ふらんなかしょう):梵名puuraNa-kaazyapa。巴梨名puuraNa-kassapa、又はpuraaNa-kassapa、又富蘭迦葉、不蘭迦葉、老迦葉、布刺拏迦葉波、補刺拏迦葉波、晡刺拏迦摂波、或いは単に富蘭那、脯刺拏に作る。富蘭那は字にして、満或いは究竟と訳し、迦葉は姓にして、亀、飲光、或いは護光と訳す。六師外道の一。仏時代に中印度に住し、勢力ありし外道にして、「長阿含巻17沙門果経」に、「不蘭迦葉あり、大衆中に於いて而も導首たり。多く知識せられて名称遠く聞こえ、猶お大海の容受する所多きが如く、衆に供養せらる」とあり。「法句譬喩経巻3地獄品」には、彼れを以って舎衛国の婆羅門師とし、五百の弟子あり。嘗て王に請うて仏と道力を捔して敗れ、慚愧して江水の辺に至り、水に投じて死せりと云い、或いは奴隷の子にして、常に裸形なりしとも云う。其の学説に関しては、「雑阿含経巻3」に、「我れ聞く、富蘭那は諸弟子の為に説法し、因なく縁なくして衆生に垢あり、因なく縁なくして衆生は清浄なりという」と云い、「長阿含巻17沙門果経」に、「彼の不蘭迦葉は我れに報えて言わく、(中略)恒水の南に於いて衆生を臠割するも亦た悪報あることなく、恒水の北岸に於いて大施会を為して一切の衆に施し、人を利する等の利も亦た福報あることなし」と云い、「巴梨文相応部samyutta-nikaaya 46,56」にも、因なく縁なくして無知無見となり、因なく縁なくして知を得、見を得と説くと云い、又「大般涅槃経巻19」に、「大医あり富蘭那と名づく。(中略)諸弟子の為に是の如き法を説く、黒業あることなく黒業の報なく、白業のあることなく白業の報なく、黒白業なく黒白業の報なく、上業と及び下業とあることなし」と云い、「注維摩詰経巻3」に、「其の人は邪見を起して謂わく、一切法は断滅性空にして、君臣父子忠孝の道なきなりと」と云えり。之に依るに師は無因論を主張し、迷悟等には凡て因縁なく、善悪の諸業にも亦た凡て果報なしと執せしことを知るなり。又「巴梨文増支部aGguttara-nikaaya 6,57」に依るに、彼れは人間を六階級に分ち、一は黒生kaGhaabhijaatiにして、屠者、猟師等の賎業民を云い、二は青生niilaabhijaatiにして、仏教の比丘及び業論者所作論者等を云い、三は赤生lohitaabhijaatiにして尼乾子の徒を云い、四は黄生haliidaabhijaatiにして在家の裸形者を云い、五は白生sukkaabhijaatiにして邪命外道を云い、六は最勝白生paramasukkaabhijaatiにして、ナンダ・ヴァッチャnanda-vaccha、キサ・サンキッチャkisa-saGkicca、マッカリ・ゴーサーラmakkhali-gosaala等を称すとなせり。是れ黒生を最下級とし、漸次白を増すを上位となせるものにして、就中、仏教徒を第二位、マッカリ・ゴーサーラ等を最上の第六位に置けるに依り、彼れの崇敬の那辺に在りしかを知るなり。又「中阿含巻47箭毛経」、「増一阿含経巻32、39」、「寂志果経」、「撰集百縁経巻1」、「蓮華面経巻下」、「有部毘奈耶出家事巻1」、「同破僧事巻10」、「衆許摩訶帝経巻2」、「摩訶止観巻10上」、「四分律疏飾宗義記巻7末」、「慧琳音義巻26」等に出づ。<(望)
復次佛以佛眼。一日一夜各三時觀一切眾生。誰可度者無令失時。等觀眾生故無有異想。 復た次ぎに、仏は仏眼を以って、一日一夜の各三時に、一切の衆生を、『誰か度すべき者にして、時を失わしむる無きや』、と観たまい、等しく衆生を観たもうが故に、異想有ること無し。
復た次ぎに、
『仏』は、
『仏眼を用いて!』、
『一日、一夜に各三回(都合六回)づつ!』、
一切の、
『衆生』を、
『観察される!』が故に、
誰も、
『度すべき者』で、
『時を失わせられる!』者が、
『無いのであり!』、
『衆生』を、
『等しく!』、
『観察される!』が故に、
『仏』には、
『異想』が、
『無いのである!』。
復次佛種種因緣讚善法。種種因緣呵不善法。亦於善於惡心無增減。但為度眾生故有是分別。是為無有異想。 復た次ぎに、仏は種種の因縁に善法を讃じ、種種の因縁に不善法を呵したもうに、亦た善に於いても、悪に於いても心の増減する無く、但だ衆生を度せんが為の故に、是の分別有るのみ。是れを異想有ること無しと為す。
復た次ぎに、
『仏』は、
種種の、
『因縁』で、
『善法』を、
『讃じ!』、
種種の、
『因縁』で、
『不善法』を、
『呵される!』が、
『仏の心』は、
『善にも!』、
『悪にも!』、
『増、減する!』ことが、
『無く!』、
但だ、
『衆生を度する!』為の故に、
是の、
『分別』が、
『有るだけである!』。
是れを、
『異想が無い!』と、
『称する!』。
復次如一切不行經中說。佛觀一切眾生如己身。所作已辦。無始無中無終。是名無異想。 復た次ぎに、『一切不行経』中に説けるが如く、仏は、一切の衆生を己の身の如く所作已に辦じて、始無く、中無く、終無しと観じたまえば、是れを異想無しと名づく。
復た次ぎに、
例えば、
『一切不行経』中に説かれたように、――
『仏』は、
一切の、
『衆生』を、
『己の!』、
『身のように!』、
『作すべき!』所が、
已に、
『達成されており!』、
『始も、中も、終も!』、
『無い!』と、
『観察される!』ので、
是れを、
『異想が無い!』と、
『称する!』。
  参考:『諸法無行経巻2』:『文殊師利言。諸天子。一切法如幻無去無來無過無出無至無到。』
復次佛觀一切眾生及諸法。從本已來至不生不滅常清淨如涅槃。是名無異想。 復た次ぎに、仏は、一切の衆生、及び諸法を、本より已来、不生、不滅に至りて、常に清浄なること、涅槃の如しと観たまえば、是れを異想無しと名づく。
復た次ぎに、
『仏』は、
一切の、
『衆生と、諸法と!』は、
本来、
『不生、不滅』を、
『極めており!』、
常に、
『涅槃のように清浄である!』と、
『観察されている!』ので、
是れを、
『異想が無い!』と、
『称する!』。
復次不二入法門。是諸法實相門。異相即是二法。二法即是邪道。佛是無誑法人。不應行誑法。常行不二入法門。誑法即是異相。如是等名無異想。 復た次ぎに、不二入法門は、是れ諸法の実相の門にして、異相は即ち是れ二法なり。二法なれば、即ち是れ邪道なり。仏は是れ誑法無き人にして、応に誑法を行ずべからず、常に不二入の法門を行じたまえば、誑法は即ち是れ異相なり。是れ等の如きを、異想無しと名づく。
復た次ぎに、
『不二入の法門』は、
『諸法の実相の門である!』が、
『異相は二法であり!』、
『二法ならば!』、
『邪道である!』。
『仏』は、
『誑法の無い人であり!』、
『誑法』を、
『行われるはずがなく!』、
常に、
『不二入という!』、
『法門』を、
『行われる!』のは、
『誑法とは!』、
即ち、
『異相だからである!』。
是れ等を、
『異想が無い!』と、
『称する!』。
  不二入法門(ふににゅうのほうもん):二ならざる法に入るの法門の意にして、又入不二法門とも名づく。即ち「維摩詰所問経の入不二法門品」に説けるが如し。『大智度論巻26上注:入不二法門』参照。
  入不二法門(にゅうふにほうもん):生滅、我我所、受不受、垢浄、一相無相等通常異なれる二法と見ゆるも、実に二法には非ずと説く法門を云う。即ち「維摩詰所説経巻2入不二法門品」に、「爾の時維摩詰、衆の菩薩に謂いて言わく、諸仁者、云何が菩薩は不二入の法門に入る。各楽しむ所に随いて之を説けと。会中の有る菩薩、法自在と名づく、説いて言わく、諸仁者、生滅を二と為す、法は本より不生なれば、今則ち無滅なり。此の無生法忍を得る、是れを不二法門に入ると為すと。徳守菩薩曰わく、我我所を二と為す、我有るに因るが故に便ち我所有り、若し我有ること無ければ則ち我所無し。是れを不二法門に入ると為すと。不眴菩薩曰わく、受不受を二と為す、若し法不受なれば則ち不可得なり、不可得を以っての故に無取無捨無作無行なり。是れを不二法門に入ると為すと。徳頂菩薩曰わく、垢浄を二と為す、垢の実性を見れば則ち浄相無く、滅相に順ず。是れを不二法門に入ると為すと。善宿菩薩曰わく、是れ動是れ念を二と為す、不動なれば則ち念無く、念無ければ則ち分別無し。此に通達すれば、是れを不二法門に入ると為すと。善眼菩薩曰わく、一相無相を二と為す、若し一相即ち是れ無相と知りて、亦た無相を取らざれば平等に入る。是れを不二法門に入ると為すと。妙臂菩薩曰わく、菩薩心声聞心を二と為す、心相の空なること幻化の如しと観る者は菩薩心も無く、声聞心も無し。是れを不二法門に入ると為すと。弗沙菩薩曰わく、善不善を二と為す、若し善不善を起さず、無相の際に入りて通達すれば、是れを不二法門に入ると為すと。師子菩薩曰わく、罪福と二と為す、若し罪性は則ち福と異無しと達し、金剛の慧を以って此の相を決了して無縛無礙なれば、是れを不二法門に入ると為すと。師師意菩薩曰わく、有漏無漏を二と為す、若し諸法の等しきことを得れば則ち漏不漏の想を起さず、相に著せず亦た無相に住せず。是れを不二法門に入ると為すと。浄解菩薩曰わく、有為無為を二と為す、若し一切の数を離るれば則ち心虚空の如く、清浄の慧を以って所礙無ければ、是れを不二法門に入ると為す。那羅延菩薩曰わく、世間出世間を二と為す、世間の性は空なれば即ち是れ出世間なり。其の中に於いて入らず出ず溢れず散ぜず、是れを不二法門に入ると為すと。善意菩薩曰わく、生死涅槃を二と為す、若し生死の性を見れば則ち生死無く、無縛無礙にして不生不滅なり。是の如く解すれば、是れを不二法門に入ると為すと。現見菩薩曰わく、尽不尽を二と為す、法若しは究竟して尽くるも、若しは尽きざるも皆是れ尽相無く。尽相無きは即ち是れ空なり。空なれば則ち尽不尽の相有ること無し。是の如く入れば、是れを不二法門に入ると為すと。普守菩薩曰わく、我無我を二と為す、我すら尚お不可得なり、非我何ぞ得べけん、我の実性を見る者は復た二を起さず、是れを不二法門に入ると為すと。電天菩薩曰わく、明無明を二と為す、無明の実性は即ち是れ明なり、明も亦た取るべからず、一切の数を離れ、其の中に於いて平等無二なれば、是れを不二法門に入ると為すと。喜見菩薩曰わく、色色空を二と為す、色は即ち是れ空、色滅して空なるに非ず、色の性自ら空なり。是の如く受想行識と識空とを二と為す。識は即ち是れ空なり、識滅して空なるに非ず、識の性自ら空なり、其の中に於いて通達すれば、是れを不二法門に入ると為す。明相菩薩曰わく、四種の異と空種の異を二と為す、四種の性は即ち是れ空種の性なり、前際後際の空なるが故に中際も亦た空なるが如し。若し能く是の如く諸種の性を知れば、是れを不二法門に入ると為すと。妙意菩薩曰わく、眼色を二と為す、若し眼の性は色に於いて不貪不恚不癡なりと知らば、是れを寂滅と名づく。是の如く耳声鼻香舌味身触意法を二と為す。若し意の性は法に於いて不貪不恚不癡なりと知らば、是れを寂滅と名づく。其の中に安住する、是れを不二法門に入ると為すと。無尽意菩薩曰わく、布施と一切智に迴向するとを二と為す、布施の性は即ち是れ一切智に迴向するの性なり、是の如く持戒忍辱精進禅定智慧と一切智に迴向するとを二と為す、智慧の性は即ち是れ一切智に迴向するの性なり、其の中に於いて一相に入る、是れを不二法門に入ると為すと。深慧菩薩曰わく、是れ空是れ無相是れ無作を二と為す、空は即ち無相、無相は即ち無作なり、若し空無相無作なれば則ち心意識無く、一解脱門に於いて即ち是れ三解脱門なれば、是れを不二法門に入ると為すと。寂根菩薩曰わく、仏と法と衆とを二と為す、仏は即ち是れ法なり、法は即ち是れ衆なり、是の三宝は皆無為相にして虚空と等し。一切の法も亦た爾り、能く此の行に随えば、是れを不二法門に入ると為すと。心無礙菩薩曰わく、身と身滅とを二と為す、身は即ち是れ身滅なり、所以は何んとなれば、身の実相を見る者は、身を見、及び滅身を見るを起さず、身と滅身と無二無分別にして、其の中に於いて驚かず懼れざれば是れを不二法門に入ると為すと。上善菩薩曰わく、身口意の善を二と為す、是の三業は皆作相無し、身に作相無ければ即ち口に作相無し、口に作相無ければ即ち意に作相無し、是の三業に作相無ければ即ち一切の法に作相無し、能く是の如く無作の慧に随えば、是れを不二法門に入ると為すと。福田菩薩曰わく、福行と罪行と不動行とを二と為す。三行の実性は即ち是れ空なり、空なれば則ち福行も無く罪行も無く不動行も無し、此の三行に於いて起さざる、是れを不二法門に入ると為すと。華厳菩薩曰わく、我に従って二を起すを二と為す、我の実相を見れば、二法を起さず、若し二法に住せざれば、則ち識有ること無く、若し所識無ければ、是れを不二法門に入ると為すと。徳蔵菩薩曰わく、所得の相有るを二と為す、若し所得無ければ則ち取捨無し、取捨無ければ、是れを不二法門に入ると為すと。月上菩薩曰わく、闇と明とを二と為す、闇無く明無ければ則ち二有ること無し。所以は何となれば、滅受想定に入れば闇無く明無きが如し、一切の法相も亦た復た是の如し、其の中に於いて平等にして入る、是れを不二法門に入ると為すと。宝印手菩薩曰わく、涅槃を楽うと世間を厭わざるとを二と為す、若し涅槃をも楽わず、世間を厭わざれば則ち二有ること無し。所以は何んとなれば、若し縛有れば則ち解有り、若し本より縛無くんば其れ誰か解を求めん。無縛無解なれば則ち楽も厭も無し、是れを不二法門に入ると為すと。珠頂王菩薩曰わく、正道邪道を二と為す、正道に住すれば則ち是れ邪、是れ正を分別せず、此の二を離るれば、是れを不二法門に入ると為すと。楽実菩薩曰わく、実不実を二と為す、実に見る者は、尚お実をすら見ず、何に況んや非実をや。所以は何んとなれば、肉眼の見る所に非ず、慧眼は乃ち能く見る、而も此の慧眼は見無く不見も無し、是れを不二法門に入ると為すと。是の如く諸の菩薩各各説き已りて、文殊師利に問う、何等か是れ菩薩不二法門に入ると。文殊師利曰わく、我が意の如くんば、一切の法に於いて言無く説無く、示無く識も無く、諸の問答を離る、是れを不二法門に入ると為すと。是に於いて文殊師利、維摩詰に問う、我等各自に説き已りぬ。仁者当に説くべし。何等か是れ菩薩不二法門に入る。時に維摩詰黙然として言無し。文殊師利歎じて曰わく、善い哉善い哉、乃至文字語言有ること無き、是れ真に不二法門に入るなりと」と云える是れなり。
無不定心者。定名一心不亂。亂心中不能得見實事。如水波蕩不得見面。如風中燈不得好照。以是故說佛無不定心。 不定の心無しとは、定を一心不乱と名づけ、乱心中には、実事を見るを得る能わず。水波盪すれば面を見るを得ざるが如く、風中の灯は、好く照らすを得ざるが如し。是を以っての故に説かく、『仏には不定心無し』、と。
『不定の心が無い!』とは、
『定』とは、
『一心不乱ということであり!』、
『乱心』中には、
『実事』を、
『見ることができない!』。
譬えば、
『水』が、
『波盪すれば!』、
『面』を、
『見ることができない!』し、
『風』中の、
『灯』は、
『好く!』、
『照らすことができない!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『仏』には、
『不定の心』が、
『無い!』、と。
  波蕩(はとう):ゆれ動く。動揺。
問曰。定名從未到地乃至滅盡定。入此定中不能起身業口業。佛若常定無不定心者。云何得遊行諸國。具四威儀。為大眾種種因緣譬喻說法。如是事欲界繫心及梵世。不入定可有是事。 問うて曰く、定を未到地より、乃至滅尽定なりと名づけ、此の定中に入れば、身業、口業を起す能わず。仏は、若し常に定にありて、不定心無くば、云何が諸国を遊行するを得て、四威儀を具え、大衆の為に種種の因縁、譬喩もて説法したまわんや。是の如き事は、欲界繋の心にして、梵世に及ぶまで、定に入りて、是の事有るべからず。
問い、
『定』とは、
『未到地、乃至滅尽定をいう!』ので、
此の、
『定中に入れば!』、
『身業も、口業も!』、
『起すことができない!』。
『仏』が、
若し、
『常に定に在り!』、
『不定の心』が、
『無ければ!』、
何故、
『諸国を遊行することができ!』、
『四威儀』を、
『具足して!』、
『大衆』の為に、
種種の、
『因縁、譬喩を用いたり!』、
『説法することができるのか?』。
是れ等の、
『事』は、
『欲界繋』の、
『心であり!』、
『梵世に至るまで!』、
『定に入れば!』、
是の、
『事』は、
『有るはずがない!』。
  未到地(みとうじ):初禅近分の定を云う。『大智度論巻17下:未到地、近分定』参照。
  滅尽定(めつじんじょう):無所有処の染を離れたる者所入の定。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
  四威儀(しいぎ):梵語catur-vidhaa iiryaa-pathaaHの訳。巴梨語cattaaro iriyaa-pathaa、四種の威儀の意。一に行gamana(巴梨語同じ)、二に住sthaana(巴thaana)、三に坐niSadyaa(巴nisajjaa)、四に臥zaya、又はzayana(巴sayana)なり。即ち修道の人は行住坐臥に常に其の心を調摂し、威儀を失わざるべきを云う。「中阿含巻11頻鞞娑羅王迎仏経」に、「四種の威儀を現ず、一に行、二に住、三に坐、四に臥なり」と云い、「摩訶僧祇律巻27」に、「行住坐臥に布薩を作す」と云い、「菩薩善戒経巻8」に、「若しは行、若しは住、若しは坐、若しは臥、一切の行に於いて道心を失わず」と云い、「大智度論巻1」に、「身の四威儀坐臥行住」と云い、「六門教授習定論」に、「四威儀に於いて正念にして住す」と云える如き其の例なり。又「五分律巻27」、「摩訶僧祇律巻34」、「大比丘三千威儀」、「巴梨文mahaa-niddesa」、「四分律行事鈔資持記巻下3之4」、「梵語雑名」、「大明三蔵法数巻18」等に出づ。<(望)
  欲界繋(よっかいけ):欲界に繋縛するものの意。煩悩の異名。『大智度論巻8下注:繋』参照。
  梵世(ぼんせ):色界諸天を云う。『大智度論巻17下注:梵世』参照。
答曰。無不定心者。有種種義。定名常攝心善法中住。佛於諸法實相中。定不退失。是名無不定心。 答えて曰く、不定心無しとは、種種の義有り。定を、常に心を摂して、善法中に住すと名づけ、仏は諸法の実相中に於いて、定んで退失したまわず。是れを不定の心無しと名づく。
答え、
『不定心が無い!』とは、――
種種の、
『義』が、
『有り!』、
『定』とは、
常に、
『心を摂(おさ)めて!』、
『善法』中に、
『住まるということである!』が、
『仏』は、
諸の、
『法の実相』中に、
『定んで住まり!』、
『退失されない!』ので、
是れを、
『不定心が無い!』と、
『称するのである!』。
復次欲界中有定。入是定中可說法。以是故阿毘曇中。說欲界繫四聖種四念處四正懃四如意足五根五力無諍三昧願智四無礙智。有如是等妙功德。佛入欲界中定故。名無不定心。 復た次ぎに、欲界中に定有りて、是の定中に入れば、法を説くべし。是を以っての故に、阿毘曇中に説かく、『欲界繋の四聖種には、四念処、四正懃、四如意足、五根五力、無諍三昧、願智、四無礙智、是れ等の如き妙功徳有り』、と。仏は欲界中の定に入りたもうが故に、不定心無しと名づく。
復た次ぎに、
『欲界』中にも、
『定が有り!』、
是の、
『定中に入れば!』、
『法』を、
『説くこともできる!』。
是の故に、
『阿毘曇』中には、こう説かれているのである、――
『欲界繋』の、
『四聖種(衣服喜足、飲食喜足、臥具喜足、楽断楽修)』には、
『四念処、四正懃、四如意足、五根五力や!』、
『無諍三昧、願智、四無礙智』等の、
是れ等のような、
『妙功徳』が、
『有る!』、と。
『仏』は、
『欲界』中の、
『定に入っていられる!』が故に、
是れを、
『不定心が無い!』と、
『称するのである!』。
  四聖種(ししょうしゅ):能く衆聖を生ずる衣服喜足、飲食喜足、臥具喜足、楽断楽修の四種の種子を云う。『大智度論巻18下注:四聖種』参照。
  四念処(しねんじょ):涅槃に趣向せんが為の身、受、心、法四種の念処を云う。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  四正懃(ししょうごん):悪を断じ善を増長するに四種の別あるを云う。『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  四如意足(しにょいそく):欲等の四法の力に由りて引発せられ、種種の神用を現起する三摩地を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  五根(ごこん):煩悩を伏し聖道を増上する信、精進、念、定、慧五種の根を云う。『大智度論巻15下注:五根』参照。
  五力(ごりき):聖道を発生する信、精進、念、定、慧五種の力を云う。『大智度論巻15下注:五力』参照。
  無諍三昧(むじょうさんまい):空に住するが故に他と無諍なる定を云う。『大智度論巻17下注:無諍三昧』参照。
  願智(がんち):願の如く了ずる智の意。『大智度論巻17下注:願智』参照。
  四無礙智(しむげち):義、法、辞、楽説の四種に於いて無礙自在なる解智を云う。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  参考:『衆事阿毘曇論巻9』:『問四念處。幾界繫。答一切應分別。身念處。或欲界繫。或色界繫。或不繫。云何欲界繫。謂二入及九入少分。云何色界繫。謂九入少分。云何不繫。謂一入少分。受念處。或欲界繫。或色界繫。或無色界繫。或不繫。云何欲界繫。謂欲界繫意思惟相應受念處。云何色界繫。謂色界繫意思惟相應受念處。云何無色界繫。謂無色界繫意思惟相應受念處。云何不繫。謂無漏意思惟相應受念處。如受念處。心念處亦如是。法念處。或欲界繫。或色界繫。或無色界繫。或不繫。云何欲界繫。謂欲界繫想陰行陰。云何色界繫。謂色界繫想陰行陰。云何無色界繫。謂無色界繫想陰行陰。云何不繫。謂無漏想陰行陰。及無為。』
諸聲聞辟支佛從定起。若入無記心若入善。或退入垢心。佛從定起入欲界定。初無散亂心時。以是故名無不定心。 諸の声聞、辟支仏は定より起つに、若しは無記の心に入り、若しは善に入り、或は退きて垢心に入る。仏は定より起ちて、欲界の定に入りたもうに、初より散乱心の時無し。是を以っての故に不定心無しと名づく。
諸の、
『声聞、辟支仏』は、
『定より起つ!』と、
『無記や、善の!』、
『心』に、
『入り!』、
或は、
『退いて!』、
『垢心』に、
『入ることもある!』。
『仏』は、
『定より起つ!』と、
『欲界の定』に、
『入られる!』ので、
初より、
『散乱心の時』が、
『無い!』。
是の故に、
『不定心が無い!』と、
『称するのである!』。
復次如聲聞法。化人說法化主不說。化主說化人不說。佛則不爾。化人化主俱能說法。定心亦應異。聲聞入定則無說。佛在定亦能說法亦能遊行。如密跡經心密中說。諸佛心常在定中。心亦應說法。 復た次ぎに、声聞法には、化人法を説けば、化主は説かず、化主説けば、化人説かざるも、仏は則ち爾らずして、化人、化主倶に能く法を説くが如く、定心も亦た応に異なるべし。声聞定に入れば、則ち説無く、仏は定に在りて、亦た能く法を説き、亦た能く遊行したもう。密跡経の心密中に、『諸仏の心は常に定中に在り』、と説けるが如く、心も亦た応に法を説くべし。
復た次ぎに、
『声聞の法』は、
『化人が法を説けば!』、
『化主』は、
『説かず!』、
『化主が法を説けば!』、
『化人』は、
『説かないのである!』が、
『仏』は、そうではなく、――
『化人も!』、
『化主も!』、
皆倶に、
『法を説くことができる!』ので、
『定心』も、
亦た、
『声聞法と、仏法とでは!』、
『異なるはずであり!』、
『声聞』が、
『定に入れば!』、
則ち、
『説く!』ことが、
『無く!』、
『仏』が、
『定に在れば!』、
『説法するこもでき!』、
『遊行することもできるのである!』。
例えば、
『密跡経の心密品』中に、
『諸仏の心』は、
常に、
『定中に在る!』と、
『説かれているように!』、
『心』も、
亦た、
『法』を、
『説くはずである!』。
  参考:『如来不思議秘密大乗経巻9如来心密不思議品』:『復次金剛手菩薩大祕密主。告寂慧菩薩摩訶薩言。復何名為如來心密心業清淨。寂慧。譬如無色界天眾生。生已同以一識而為所緣。住八萬四千劫。彼識亦非隨餘識轉。盡壽邊際於彼滅已。隨業成熟隨處受生。如來亦復如是。以無住識於晝夜中。菩薩成證阿耨多羅三藐三菩提果。於晝夜中如來入無餘依大涅槃界。於其中間而佛如來。無心可轉無心伺察。無心不伺察。無心知解。無心思念。無心限量。無心積集。無心離散。無心動亂。無心可高。無心可下。無心防衛。無心趣向。無心勇悍。無心觀矚。無心惱害。無心流蕩。無心寂定。無心喜悅。無心逼惱。無心安處。無心遍行。無心分別。無心差別。無心遍計。無心在止。無心在觀。無心隨流於識。無自心建立。無他心觀察。無心依止於眼。無心依止耳鼻舌身意。無心依止色。無心依止聲香味觸法。無心住所緣處。無心住意處。無心住內處。無心住外處。無心依法行。無心依智行。無心觀察過去未來現在等法。寂慧。此是如來心業清淨。如來心者無少法可取。於諸法中。但以無著無礙知見而轉。如來自心既清淨已。於諸眾生不清淨心。亦復不見於彼有見。及彼無見無所分別。雖有所見。而無戲論見無所見。是名為見彼如來智。不與肉眼所見相應。不與天眼所見相應。不與慧眼所見相應。不與法眼所見相應。不與佛眼所見相應。不與天耳所聞相應。不與他心智所知相應。不與宿住隨念智所思相應。不與神通智所作相應。不與有漏智相應。於彼一切法所可相應者。謂一切法無礙之智。然佛如來而無加行。亦無發悟復無作意。善住如來智光明中。觀察一切眾生心行。了知一切法若染若淨。所有如來十力。四無所畏。十八不共佛法。以如來智悉不捨離。然佛如來於是法中而無加行。亦無發悟復無作意。如來離心意識。常在三摩地中。亦不捨離一切佛事。於一切佛法無礙智中。而無所著。寂慧。譬如如來化如來像。彼所化像無心意識。無身行語行意行所轉。以佛加持力故。而能施作一切佛事。如來亦復如是。與所化像等無異故。見一切法皆悉如化故無分別。於身語心無所發起。而能施作一切佛事。然無加行亦無發悟。復無作意。何以故。如來了知一切法相自性如化。是故如來自覺悟已。為悲愍故方便開覺一切眾生。寂慧。當知彼如來智。不住有為不住無為。不住蘊處界。不住於內不住於外。不住善法不住不善法。不住世間不住出世間。不住有罪不住無罪。不住有漏不住無漏。不住過去不住未來不住現在。不住擇滅。不住非擇滅。如是乃至不住於識。如來於一切眾生心行意樂之中。但以無著無礙知見而轉。然無加行。亦無發悟復無作意。寂慧。此即是為如來心密不思議法。是故當知如來常在三摩呬多。亦不捨離一切眾生心意表了』。
復次散亂心法諸結使疑悔等佛皆無。阿羅漢雖無四諦中疑。一切法中處處有疑。佛於一切法中常定無疑。無不定智慧故。 復た次ぎに、散乱心の法なる諸の結使、疑、悔等は、仏には皆無し。阿羅漢は四諦中に疑無しと雖も、一切法中には処処に疑有り。仏は一切法中に於いて、常に定まりて、疑無し。不定の智慧の無きが故なり。
復た次ぎに、
『散乱心の法である!』、
諸の、
『結使、疑、悔』等は、
皆、
『仏には!』、
『無い!』。
『阿羅漢』は、
『四諦』中に於いては、
『疑』が、
『無い!』が、
『一切法中の処処に!』、
『疑』が、
『有る!』。
『仏』が、
『一切法』中に、
『常に!』、
『定まっており!』、
何処にも、
『疑』が、
『無い!』のは、
『定まらない!』、
『智慧』が、
『無いからである!』。
復次聲聞有諸煩惱習氣故。有退法故散亂。佛於一切智處中。智滿故無亂。如瓶中水滿則無聲無動。 復た次ぎに、声聞には諸煩悩の習気有るが故に、退法有るが故に散乱す。仏は、一切の智処中に於いて、智満つるが故に、乱無し。瓶中に水満つれば、則ち声無く、動無きが如し。
復た次ぎに、
『声聞』は、
諸の、
『煩悩の習気や!』、
『退法を!』、
『有する!』が故に、
『散乱する!』が、
『仏』は、
一切の、
『智慧の処(動処)』中に於いて、
『智慧が満ちている!』が故に、
『散乱する!』ことが、
『無い!』。
譬えば、
『瓶』中に、
『水が満ちていれば!』、
『声も、動きも!』、
『無いようなものである!』。
復次唯佛一人名不誑法。三堅固人中最上。苦樂心不異。一相異相生滅相斷常相來去相。如是等諸法相。皆是誑法。虛妄和合作法故。佛安立於諸法實相中故心無不定。無不定故心不異。 復た次ぎに、唯だ仏一人のみ、不誑の法と名づけ、三堅固人中の最上にして、苦、楽の心異ならず。一相、異相、生滅相、断常相、来去相、是れ等の如き諸の法相は、皆是れ誑法なり。虚妄和合の作法なるが故なり。仏は諸法の実相中に於いて安立したもうが故に、心に不定無く、不定無きが故に心異ならず。
復た次ぎに、
唯だ、
『仏の一人のみ!』が、
『不誑の法であり!』、
『三堅固人中の最上であって!』、
『苦、楽の心』が、
『異ならない!』。
『一相も、異相も!』、
『生、滅の相も!』、
『断、常の相も!』、
『来、去の相も!』、
是れ等のような、
諸の、
『法の相』が、
皆、
『誑法である!』のは、
『虚妄の和合により!』、
『作られた!』、
『法だからである!』。
『仏』は、
諸の、
『法の実相中に安立されている!』が故に、
『不定』の、
『心』が、
『無く!』、
『不定が無い!』が故に、
『心』が、
『異ならないのである!』。
  三堅固人(さんけんごにん):持戒清浄にして道心堅固なる三人、即ち阿羅漢、辟支仏、仏を云う。
復次五種不可思議法中。佛最不可思議。是十八不共法。是佛甚深藏。誰能思議者。以是故佛無不定心事必當爾。 復た次ぎに、五種の不可思議法中に、仏は最も不可思議なれば、是の十八不共法は、是れ仏の甚深の蔵なり。誰か能く思議する者ならん。是を以っての故に仏に不定心無き事は、必ず当に爾るべきなり。
復た次ぎに、
『五種の不可思議法』中に、
『仏』は、
『最も不可思議な!』、
『法であり!』、
是の、
『十八不共法』は、
『仏』の、
『甚だ深い!』、
『蔵である!』ので、
誰が、
『思議することができよう?』。
是の故に、
『仏』に、
『不定心が無いという!』事は、
『必然であり!』、
『当然なのである!』。
  五種不可思議法(ごしゅふかしぎほう):一に衆生の多少、二に業の果報、三に坐禅人の力、四に諸龍の力、五に諸仏の力を云う。「大智度論巻30」に、「経に説く五事の不可思議とは、所謂衆生の多少、業の果報、坐禅人の力、諸龍の力、諸仏の力なり。五不可思議中に於いて、仏の力は最も不可思議なり」と云える即ち是れなり。又「成実論巻11四諦品」に依れば、一に世間事、二に衆生事、三に業因縁事、四に坐禅人事、五に諸仏事を挙げ、「大智度論」に説く諸龍力の代わりに世間事を説けり。
  参考:『成実論巻11四諦品』:『答曰。汝雖種種因緣說法皆空。是義不然。所以者何。我先說。若一切無是論亦無。亦不在諸法中。如是等破空汝竟不答。猶故立空是故非無一切諸法。又汝所說無根無緣等。是事非我等所明。所以者何。佛經中自遮此事。謂五事不可思議。世間事.眾生事.業因緣事.坐禪人事.諸佛事。是事非一切智人不能思量決斷。但諸佛有能分別法智。聲聞辟支佛。但有通達泥洹智慧。於分別諸法智中。但得少分。諸佛於一切法一切種本末體性總相別相。皆能通達如人舍宅等物易壞難成。如是空智易得。正分別諸法智慧難生。問曰。如佛坐道場所得諸法相。如佛所說當如是說。答曰。佛雖說一切法。不說一切種。以不為解脫故。如佛說諸法從因緣生。不說一一所從因緣。但說要用能滅苦者。彩畫等諸色。伎樂等諸音。諸香味觸無量差別不可盡說。若說亦無大利。故佛不說如是等事。不得言無。又如人不知分別彩畫等法。便言其無。汝亦如是。所不能成事而便說無是事。於智者則有。不知者為無。如生盲人言無黑白。我不見故不可。以不見故便無。諸色如是。若不能以自緣成。故便言無一切法。又諸佛世尊一切智人我等所信。佛說有五陰。故知色等一切法有。如瓶等以世諦故有』
佛雖常入定無覺觀麤心。有不可思議智慧故亦能說法。譬如天樂隨天所好種種聲。應是亦無心亦無識法。以諸天福德因緣故。有是如天樂無心無識而能應物。何況佛有心而不說法。以是故說佛無不定心。 仏は、常に定に入りて、覚観の麁心無しと雖も、不可思議の智慧有るが故に、亦た能く法を説きたもう。譬えば天楽の天の好む所に随う種種に声して、応に是れも亦た無心、亦た無識の法にして、諸天の福徳の因縁を以っての故に、是れ有るべきが如し。天楽の如きは、無心無識なるに、能く物に応ずれば、何に況んや、仏の有心にして、法を説かざるをや。是を以っての故に説かく、『仏には不定心無し』、と。
『仏』は、
常に、
『定に入られていて!』、
『覚、観の麁心』が、
『無いのである!』が、
『不可思議という!』、
『智慧』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『法』を、
『説くことができる!』。
譬えば、
『天楽などは!』、
『天の好む所に随う!』、
種種の、
『声である!』が、
当然、
『心、識の無い!』、
『法であり!』、
諸の、
『天の福徳の因縁』の故に、
是の、
『声』が、
『有るはずである!』。
『天、楽すら!』、
『心、識が無くて!』、
『物()』に、
『応じられるのに!』、
況して、
『仏には!』、
『心が有り!』、
『法』を、
『説かないはずがない!』。
是の故に、こう説くのである、――
『仏』には、
『不定という!』、
『心』が、
『無い!』、と。
  (がく):楽器。
  (しょう):こえする。響や音がでる。鳴る。
  (もつ):<名詞>[本義]万物( object )。物品/物件( article, thing )、仕事/用事( affair )、外界/社会( the outside world )、雑色の牛( varicolored ox )、雑色の旗( motley flag )、[家畜の]種類、等級( category )、顔色( color )、[哲学用語:心に相対する]物質/中身( substance, content )、物産( products )、他人/衆人( the orhers )、背景/景色( scenery )、財産( property )、神霊( deities )、標識/記号( mark )。<動詞>選択する( choose )、観察する( observe )。



知らずに捨てることが無い

無不知已捨者。眾生有三種受。苦受樂受不苦不樂受。苦受生瞋樂受生愛不苦不樂受生愚癡。是三種受。苦受生苦住苦滅樂。樂受生樂住樂滅苦。不苦不樂受。不知為苦不知為樂。 知り已らざるに捨つる無しとは、衆生には三種の受有り、苦受、楽受、不苦不楽受なり。苦受は瞋を生じ、楽受は愛を生じ、不苦不楽受は愚癡を生ず。是の三種の受は苦受は苦を生じ、苦に住まれば楽を滅し、楽受は楽を生じ、楽に住まれば苦を滅し、不苦不楽受は苦と為るを知らず、楽と為るを知らず。
『知らない!』のに、
『捨てること!』が、
『無い!』とは、――
『衆生』には、
『三種の受が有り!』、
『苦受と!』、
『楽受と!』、
『不苦不楽受とである!』が、
『苦受』は、
『瞋』を、
『生じ!』、
『楽受』は、
『愛』を、
『生じ!』、
『不苦不楽受』は、
『愚癡』を、
『生じる!』し、
是の、
『三種の受』は、
『苦受』は、
『苦を生じて!』、
『苦に住まれば!』、
『楽』を、
『滅し!』、
『楽受』は、
『楽を生じて!』、
『楽に住まれば!』、
『苦』を、
『滅し!』、
『不苦不楽受』は、
『苦や、楽に!』、
『変じる!』ことを、
『知らない!』。
  三種受(さんしゅじゅ):苦受、楽受、不苦不楽受を云う。『大智度論巻19上注:三受』参照。
  (い): <動詞>作す/成す/施行する/行う( do, act )、造る/製作/創作/構成する( make, compose )、治める/統治する( administer )、成る/変成する( become )、是れ( be )、学習/研究する( study )、種植/営作する( plant )、制定/設置/設立/建立する( establish )、~せしむ( let )、~と思う/信じる/看做す( think, believe, consider )、演奏する( play )。<介詞>[動作/行為を引出する主動者を示す]~の為に~される( by )、~に於いて/在りて( in )。<接続詞>~と/与/和( and )、[承接関係を示す]そして/そこで/則ち/~に就き( then )、[仮設関係を示す]若し/如し( if )、[選択関係を示す]或は( or )。<助詞>の/之/的( of )。<語気>[句尾に用いて反問をしめす]、[句尾に用いて感歎を示す]。
餘人鈍根故。多覺苦受樂受。於不苦不樂受中。不覺不知而有捨心。是為癡使所使。佛於不苦不樂受中。知覺生時覺住時覺滅時。以是故言佛無不知已捨心。 余人は鈍根なるが故に、多く苦受、楽受を覚え、不苦不楽受中に於いて、覚えず、知らずして、捨心を有すれば、是れを癡使の使う所と為す。仏は不苦不楽受中に於いて、生ずる時を知覚し、住する時を覚り、滅する時を覚りたまえば、是を以っての故に言わく、『知り已らざるに捨つる心無し』、と。
『余の人』は、
『鈍根である!』が故に、
多くは、
『苦受、楽受を覚える!』が、
『不苦不楽受』中には、
『覚ることもなく!』、
『知ることもなく!』、
則ち、
『捨心』を、
『有するのである!』が、
是れは、
『愚癡という!』、
『使(煩悩)』に、
『使われるということである!』。
『仏』は、
『不苦不楽受』中に、
『生じる時も、住まる時も、滅する時も!』、
『覚って!』、
『知られる!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『仏』には、
『知らないのに捨てるという!』、
『心』が、
『無い!』、と。
問曰。此中何等為捨。不苦不樂即是捨耶。為七覺中捨。四無量心中捨名為捨。 問うて曰く、此の中には何等をか、捨と為す。不苦不楽は、即ち是れ捨なりや、七覚中の捨と為すや、四無量心中の捨を、名づけて捨と為すや。
問い、
此の、
『般若波羅蜜』中には、
何のような、
『捨』を、
『捨と言うのですか?』。
是の、
『不苦不楽』が、
即ち、
『捨なのですか?』、
『七覚』中の、
『捨ですか?』、
『四無量心』中の、
『捨』を、
『捨と言うのですか?』。
  七覚(しちかく):菩提に帰趣する七種の法、即ち念、択法、精進、喜、軽安、定、捨覚支を云う。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  四無量心(しむりょうしん):慈、悲、喜、捨の心無量にして、無量の衆生を縁じ、其れをして楽を得、苦を離れしめんと思惟し、各其の等至に入るを云う。『大智度論巻18下注:四無量』参照。
答曰。不苦不樂即是捨二處捨亦是捨。何以故。餘人於不苦不樂受中。不覺念念中生時住時滅時久遠乃覺。佛念念中盡皆了知。 答えて曰く、不苦不楽は、即ち是れ捨にして、二処の捨も亦た是れ捨なり。何を以っての故に、余人は不苦不楽受中に於いて、念念中の生時、住時、滅時を覚らず、久遠にして乃ち覚るも、仏は念念中にも尽く皆了知したまえばなり。
答え、
『不苦不楽』が、
即ち、
『捨である!』が、
『二処の捨』も、
亦た、
『捨である!』。
何故ならば、
『余人』は、
『念念』中に、
『不苦不楽受』中の、
『生時、住時、滅時』を、
『覚ることがなく!』、
『久遠に!』、
『不苦不楽受が住まって!』、
ようやく、
『覚ることになる!』のに、
『仏』は、
『念念』中にすら、
『生時、住時、滅時』を、
尽く、皆、
『了知されるからである!』。
七覺中捨若心正等。不沒不掉是時應捨。若沒時行精進想。若掉時行攝心想。諸聲聞辟支佛。或時錯攝心掉心。未平等便捨。佛於念念心中麤細深淺無不悉知。知已而捨。 七覚中の捨は、若し心正等なれば、没せず、掉せず、是の時は応に捨にして、若し没すれば、時に精進の想を行じ、若し掉すれば、時に摂心の想を行ずべし。諸の声聞、辟支仏は、或は時に摂心、掉心を錯りて、未だ平等ならざるに、便ち捨つるも、仏は念念の心中に於いて、麁細、深浅を悉く知らざる無く、知り已りて捨てたもう。
『七覚(択法、精進、喜、軽安、念、定、捨)中の捨』とは、
若し、
『心が正等ならば( non-inclined mind )!』、
『没する( become rigid )こともなく!』、
『掉する( self-exaltation )こともない!』ので、
是の時が、
『捨であり!』、
若し、
『没した!』時には、
『精進』の、
『想』を、
『行い!』、
若し、
『掉した!』時には、
『摂心( gathering his agitated mind )』の、
『想』を、
『行うはずである!』。
諸の、
『声聞、辟支仏』は、
或は時に、
『摂心と!』、
『掉心と!』を、
『錯誤して!』、
未だ、
『平等でない!』のに、
あっさりと、
『捨ててしまう!』が、
『仏』は、
『念念』中の、
『麁細、深浅の心』を、
悉く、
『知らないこと!』が、
『無く!』、
已に、
『知ってから!』、
『捨てられるのである!』。
  (もつ):身心をして惛瞢沈重ならしむる煩悩を云う。『大智度論巻26上注:惛沈』参照。
  惛沈(こんちん):梵語styaanaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。身心をして惛瞢沈重ならしむる精神作用を云う。「倶舎論巻4」に、「惛は謂わく惛沈なり。対法の中に説く、云何が惛沈なる、謂わく身の重なる性、心の重なる性、身の無堪任の性、心の無堪任の性、身の惛沈の性、心の惛沈の性なる、是れを惛沈と名づくと。此れは是れ心所なり、如何が身と名づくる、身受の言の如し。故に亦た失なし」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が惛沈なる、心をして境に於いて無堪任ならしむるを性となし、能く軽安と毘鉢舎那とを障うるを業と為す」と云える是れなり。「倶舎論」には之を大煩悩地法に摂して別体ありとし、又十纏の一に数えて無明の等流性となす。「唯識論」には随煩悩の一とし、体の仮実に就きては異説あれども、別体ありとなすを正義とす。即ち是の心所は癡を根本として生起するも、癡は迷闇を性となし、之は瞢重を性となすが故なり。故に「百法問答鈔巻1」に、「此の心所は、心をして瞢重ならしむるなり。本惑に離れて別体あるなり」と云えり。又「大毘婆沙論巻37」には、身重性、心重性、身憒悶、心憒悶等の種種の異名を挙げ、身重性は五識相応の惛沈を顕わし、心重性は意識相応の惛沈を顕わすなりと云えり。又禅家にては惛沈は禅の障礙たるを以って、之を黒暗塵坑、無明山鬼窟、蝦蟇窟裏、黒山鬼窟裏、黒山下鬼窟裏等に比況し、五十禅魔の一となせり。「指月録巻32大慧普覚禅師語要」に、「懐を忘れば則ち黒山下の鬼窟裏に堕在す。教中に之を惛沈と謂う」と云える其の例なり。又「法蘊足論巻6」、「阿毘達磨発智論巻2」、「瑜伽師地論巻55」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「入阿毘達磨論巻上」、「順正理論巻11」、「成唯識論述記巻6末」、「倶舎論光記巻4」等に出づ。<(望)
  (じょう):心をして高挙ならしめ、安静ならしめざる煩悩を云う。『大智度論巻26上注:掉挙』参照。
  掉挙(じょうこ):梵語auddhatyaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。心をして寂静ならざらしむる精神作用を云う。「大毘婆沙論巻37」に、「諸心寂静ならず、止息せず、軽躁なるは掉挙なり。心の躁動性なる、是れを掉挙と云う」と云い、「倶舎論巻4」に、「掉は謂わく掉挙なり、心をして静ならざらしむ」と云い、又「成唯識論巻6」に、「云何が掉挙なる。心をして境に於いて寂静ならざらしむるを性と為し、能く行捨と奢摩他とを障うるを業と為す」と云える是れなり。有部にては之を大煩悩地法に摂して別体ありとし、又十纏の一に数えて貪の等流と為す。「成唯識論」には随煩悩の一とし、体の仮実に就きては、有義は貪の一分にして別体なしとし、有義は一切の煩悩に依りて仮立すと説くも、別体ありとなすを正義とす。即ち彼の論「巻6」に、「掉挙の別相とは謂わく囂動なり、俱生の法をして寂静ならざらしむるが故なり。若し煩悩を離れて別の此の相なくんば、応に別に奢摩他を障うと説くべからず」と云い、又「百法問答鈔巻1」に、「此の心所は本惑に離れて別体あり」と云える其の意なり。又悪作は掉挙に同じく奢摩他を障え、能く心をして寂静ならざらしむるが故に、五蓋の中には立てて掉挙悪作蓋auddhatya-kaukRtyaavaraNa、又は掉悔蓋と名づく。但し「発智論巻2」并びに「大毘婆沙論巻37」等には、掉挙と悪作とに寛狭ありとして四句を分別せり。即ち第一句は心に掉挙あるも悪作と相応せず。所謂色無色の五部の染汚心と、欲界の見所断の四部心と、及び修所断の染汚の前五識と、悪作と相応せざる染汚の意識とは悪作心なくして躁動性あり。第二句は心に悪作あるも掉挙と相応せず。即ち悪作の善にして、不善処及び善処に起るものは染汚心なくして追悔性あり。第三句は心に掉挙あり亦た悪作と相応す。即ち悪作の不善にして、善処及び不善処に起るものは染汚にして且つ追悔性あり。第四句は心に掉挙なく亦た悪作と相応せず。即ち前相を除くと云える是れなり。又「大毘婆沙論巻42」には、掉挙と心乱とは常に展転相応するものなりとし、其の体の同異に関し諸説を出し、就中、心乱は非一境性にして染汚の三摩地を自性となすが故に、掉挙と体別となすを正義とし、其の増用に約して亦た四句を分別せり。即ち第一句は掉挙あるも心乱なし、所謂一境に於いて三摩地の極めて躁動なる時なり。第二句は心乱あるも掉挙なし、所謂多境に於いて三摩地の極めて躁動ならざる時なり。第三句は心乱あり亦た掉挙あり、所謂多境に於いて三摩地の極めて躁動なる時なり。第四句は心乱なく掉挙なし、即ち一境に於いて三摩地の極めて躁動ならざる時なりと云えり。以って其の不同を知るべし。又「品類足論巻3」、「法蘊足論巻6」、「雑阿毘曇心論巻2」、「倶舎論巻21」、「同光記巻4、21」、「順正理論巻11」、「瑜伽師地論巻55」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「成唯識論述記巻6本」等に出づ。<(望)
  平等(びょうどう):等しいこと/同等( equality )、梵語 sama, samataa の訳、平坦/水平/平行( even, smooth, flat, plain, level, parallel )、同じ/等しい/類似/同様/同等( same, equal, similar, like, equivalent )の義、空観に於いては、事物の間に差別を欠くの意( A reference to the lack of discrimination between things when they are seen from the standpoint of emptiness. )、無差別/無分別の領域/観点( Realm or view of nondiscrimination )、有らゆる境界を貫徹する完全なる真実( The absolute reality that penetrates all manifest phenomena. )、絶対的真実( Absolute reality )等の意。
問曰。若爾者佛何以為難陀說告諸比丘。難陀諸受生時覺住時覺滅時覺。諸想諸覺亦如是。 問うて曰く、若し爾らば、仏は何を以ってか、難陀の為に説いて、諸の比丘に告げたまわく、『難陀は諸受の生時を覚り、住時を覚り、滅時を覚る。諸想、諸覚も亦た是の如し』、と。
問い、
若し、爾うならば、
『仏』は、
何故、
『難陀』の為に、
諸の、
『比丘に説いて!』、こう告げられたのですか?――
『難陀』は、
諸の、
『受』の、
『生時、住時、滅時』を、
『覚っている!』し、
諸の、
『想や、覚も!』、
亦た、
『是の通りである!』、と。
  難陀(なんだ):端正にして諸根寂静第一の仏弟子。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
  参考:『別訳雑阿含経巻1』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤  獨園。爾時尊者難陀往至佛所。頂禮佛足在一面坐。爾時世尊告諸比丘。善說法中。難陀比丘最為第一。容儀端正。豪姓之子。難陀比丘最為第一。能捨盛欲。難陀比丘最為第一。收攝諸根。飲食知量。於初後夜精勤修道。修念覺意。常現在前。難陀比丘最為第一。云何名難陀比丘能攝諸根。不著色聲香味觸法。是名難陀能攝諸根。云何名難陀比丘飲食知量。食以止飢。不為色力。為修梵行。裁自取足。如似脂車。又如治癰。不為色力。肥鮮端正。是名難陀飲食知量。云何名難陀比丘於初後夜。精勤修道。晝則經行。夜則坐禪。除陰蓋心。於其初夜。洗足已訖。正身端坐。擊念在前。入于禪定。訖於初夜。又於中夜。右脅著地。足足相累。繫心在明。修念覺意。於後夜初。正身端坐。繫念在前。而此難陀於初後夜。專心行道。等無有異。族姓子。難陀得最上念覺。難陀比丘撿心不散。正觀東方。南西北方。亦復如是。撿心觀察。不令錯亂。苦受樂受。不苦不樂受。悉知緣起。知此諸受起滅久近。亦知諸想起滅因緣。亦知諸覺當住起滅因緣。令諸比丘當作是學。守攝諸根。飲食知量。初中後夜。精勤修習。修最上念覺。當如難陀。佛告諸比丘。我今教汝學難陀比丘所修之行。設有比丘所修之行。猶如難陀。我今亦當教汝等學。爾時世尊即說偈言 若能善攝諸根者  亦能繫念節飲食  是則名為有智人  善知心起之體相  難陀如是我所歎  汝等應當如是學  佛說是已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
答曰。覺有二種。一者覺心中。苦受生知苦受生。苦受住知苦受住。苦受滅知苦受滅。樂受生知樂受生。樂受住知樂受住。樂受滅知樂受滅。不苦不樂受亦如是。但能知是總相。不能別相知。二者念念中苦樂。不苦不樂受中悉覺悉知。念念中心數法。無不知而過。以是故說佛無不知已捨。 答えて曰く、覚には二種有り、一には心中に覚るらく、苦受生ずれば、苦受生ずるを知り、苦受住すれば、苦受住するを知り、苦受滅すれば、苦受滅するを知り、楽受生ずれば、楽受生ずるを知り、楽受住すれば、楽受住するを知り、楽受滅すれば、楽受滅するを知り、不苦不楽受も亦た是の如く、但だ能く是の総相を知りて、別相を知る能わず。二には念念中の苦、楽、不苦不楽受中に悉く覚り、悉く知り、念念中の心数法の知らずして、過ぐる無し。是を以っての故に説かく、『仏には、知り已らずして捨つる無し』、と。
答え、
『覚』には、
『二種有り!』、
一には、
『心』中、――
『苦受が生じれば!』、
『苦受が生じた!』と、
『知り!』、
『苦受が住すれば!』、
『苦受が住した!』と、
『知り!』、
『苦受が滅すれば!』、
『苦受が滅した!』と、
『知り!』、
『楽受が生じれば!』、
『楽受が生じた!』と、
『知り!』、
『楽受が住すれば!』、
『楽受が住した!』と、
『知り!』、
『楽受が滅すれば!』、
『楽受が滅した!』と、
『知り!』、
『不苦不楽受』も、
『是の通りである!』と、
『覚るのであり!』、
但だ、
是の、
『総相(苦、楽、不苦不楽の相)を知るだけで!』、
『別相(余の心数法)』を、
『知ることはできない!』。
二には
『念念』中の、
『苦、楽、不苦不楽』中を、
悉く、
『覚ったり!』、
『知ったりして!』、
『念念』中の、
『心数法』が、
『知られずに!』、
『過ぎること!』は、
『無い!』。
是の故に、こう説くのである、――
『仏』には、
『知らないままに!』、
『捨てること!』が、
『無い!』、と。
復次佛或時捨眾生。入甚深禪定一月二月。有人疑佛為度眾生故出世。何以故常入定。佛言。我種種因緣知故捨。非是無知已捨。 復た次ぎに、仏は或は時に衆生を捨てて、甚深の禅定に、一月、二月入りたまえば、有る人の疑わく、『仏は衆生を度せんが為の故に出世したまえるに、何を以っての故にか、常に定に入りたまえる』、と。仏の言わく、『我れは種種の因縁を知るが故に捨つ』、と。是れ知り已りて捨つる無きに非ず。
復た次ぎに、
『仏』は、
或は時に、
『衆生を捨てて!』、
『一月か、二月ぐらい!』、
『甚だ深い禅定に!』、
『入られる!』ので、
有る人は、こう疑うこともある、――
『仏』は、
『衆生を度する!』為の故に、
『世に!』、
『出られたのに!』、
何故、
『常に!』、
『定』に、
『入られているのだろうか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
種種の、
『因縁』を、
『知っている!』が故に、
『捨てるのである!』、と。
是れは、
『知っていられれば!』、
『捨てることが!』、
『無いわけではないということである!』。
問曰。何等是知已捨因緣。 問うて曰く、何等か、是れ知り已りて捨つる因縁なる。
問い、
何のような、
『因縁で!』、
『知っていて!』、
『捨てられるのですか?』。
答曰。於大眾中疲厭故小息。 答えて曰く、大衆中に於いて疲厭したもうが故に小く息みたまえり。
答え、
『大衆の中では!』、
『疲れられた!』が故に、
『小(すこ)し!』、
『息(やす)まれたことがある!』。
復次佛世世常愛遠離行。若菩薩在母胎。母亦樂遠離行。去城四十里。嵐鞞尼林中生。得道時漚樓頻螺林中獨在樹下成佛。初轉法輪時。亦在仙人住處鹿林中。入涅槃時在娑羅林雙樹下。長夜樂行遠離。以是故佛入禪定。 復た次ぎに、仏は世世に常に遠離の行を愛したもう。菩薩にして母胎に在るが若(ごと)きは、母も亦た遠離の行を楽しみ、城を去ること四十里の嵐鞞尼林中に生じ、道を得る時には、漚楼頻螺林中に独り樹下に在りて仏と成り、初転法輪の時にも、亦た仙人住処の鹿林中に在り、涅槃に入りたもう時には、娑羅林の双樹下に在りて、長夜に楽しんで遠離を行じたもう。是を以っての故に、仏は禅定に入りたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
世世に、
常に、
『遠離(孤独)』の、
『行』を、
『楽しまれていた!』ので、
『菩薩』が、
『母胎に在()られた!』時に、
『母』も、
『遠離』の、
『行』を、
『楽しんでおり!』、
『城を去ること四十里』の、
『嵐毘尼の林』中で、
『生まれられた!』し、
『道を得られた!』時にも、
『漚楼頻螺の林』中に於いて、
独り、
樹下に於いて、
『仏』と、
『成られた!』し、
『初めて法輪を転じられた!』時も、
『仙人の住処である!』、
『鹿林』中に、
『在られた!』し、
『涅槃に入られた!』時にも、
『沙羅林』の、
『双樹の下』に、
『在られたのである!』。
是のように、
『仏』は、
『長夜(俗世間に在って)』に、
『遠離という!』、
『行』を、
『楽しまれた!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『禅定』に、
『入られたのである!』。
  嵐鞞尼(らんびに):中印度に在りし園林の名。釈尊降誕の地。『大智度論巻26上注:藍毘尼園』参照。
  藍毘尼園(らんびにおん):藍毘尼lumbiniiは梵名。巴梨名同じ。又藍軬尼、嵐毘尼、嵐鞞尼、流弥尼、流毘尼、林微尼、林牟尼、龍弭禰、龍弥儞、留弥尼、臘伐尼、流民、論民、龍毘、楼毘、隆頻、隣鞞、臨児、臨倪に作り、花菓等勝妙事具足、楽勝円光、解脱処、可愛、花香、又は断、滅、或いは塩と訳す。中印度に在りし林園の名。釈尊降誕の地なり。「仏所行讃巻1生品」に、「藍毘尼勝園には流泉あり、花果茂り、寂静にして禅思に順ず」と云い、「大唐西域記巻6劫比羅伐窣堵国の條」に、「箭泉より東北に行くこと八九十里にして臘伐尼林に至る。釈種の浴池あり、澄清皎鏡、雑華弥満す。其の北二十四五歩に無憂華樹あり、今已に枯悴す、菩薩誕霊の処なり。(中略)次東に窣堵波あり、無憂王の建つる所、二龍が太子を浴せし処なり。菩薩生まれ已りて扶けずして四方に行くこと各七歩し、而して自ら言って曰わく、天上天下唯我独尊、今茲より而往、生分已に尽くと。足の踏む所に随って大蓮花を出す。二龍踊出し、虚空の中に住して各水を吐く、一は冷、一は煖なり。以って太子を浴す。浴太子窣堵波の東に二清泉あり、傍らに二窣堵波を建つ。是れ二龍地より踊出の処なり。菩薩生まれ已るに、支属宗親は奔馳して水を求めて盥浴せざるはなし。夫人の前に二泉涌出し、一は冷、一は煖なり、遂に以って浴洗す。其の南に窣堵波あり、是れ天帝釈が菩薩を捧接せし処なり。菩薩初めて胎を出づるや、天帝釈は妙天衣を以って跪きて菩薩を接す。次に四窣堵波あり、是れ四天王が菩薩を抱持せし処なり。菩薩右脇より生じ已るに四大天王は金色の氎衣を以って菩薩を捧げ、金机の上に置き、母の前に至りて曰わく、夫人斯の福子を誕す、誠に歓慶すべしと。諸天尚お喜ぶ、況んや世人をや。四天王捧太子窣堵波の側に遠からず大石柱あり、上に馬像を作る。無憂王の建つる所なり。後悪龍の霹靂の為に其の柱中折して地に仆る。傍らに小河あり東南に流る、土俗号して油河と曰う。是れ摩耶夫人産孕し已るに、天此の池を化し光潤澄浄なり。夫人をして取りて以って沐浴して風塵を除去せしめんと欲するなり。今変じて水と為るも其の流尚お膩なり」と云えり。是れ大聖降誕の祥瑞を歎じたるものなり。藍毘尼の名称の由来に関しては、「仏本行集経巻7樹下誕生品」に、仏母摩耶の父善覚は其の婦藍毘尼の言に従い、迦毘羅城と提婆陀訶城との中間に園林を作り、婦の名を取りて藍毘尼と名づけたりと云い、「玄応音義巻1」には上古此の園を守りし婢の名なりとし、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻25」、「華厳経疏巻58」等には、此の地に遊べる天女の名に基づくものとなせり。後此の霊地は荒廃し、其の地域明らかならざりしが、世紀一八九六年ヒューラーは印度政府の命に依りて尼波羅国に入り、同国ブトワルbutwar州タラーイtarai地方、ティラールtilaar河(西域記の油河)の西、バグワーンプールbhagvanpur村の北二哩、パデーリアpaderia村の北方ルムミンデーイrummindeiの地に於いて前記「西域記」の阿育王塔に相当する石柱の下半を発見し、其の顛末を記して之をMonumental Antiquities and Inscriptions in the NorthWestern Provinces and Oudh(Archeological Survey of India,Vol.xii.,1898)に発表し、尋いで同一八九九年ムカルジーは更に之を調査して、Report on the Antiquities in the Tarai,Nepal,(Archeological Survey Report,No.26.,1901)を公表し、又一九三二年以来尼波羅政府は此の地の発掘を試みつつあり。フューラーが発見せし阿育王石柱には、ブラフミー文字を以って王が潅頂後二十年此の地に来たりて供養し、石柱を建て、且つルンミニluMmini村の免税を行えることを刻せり。現今其の園址(東西約三十米、南北二十米)内に方形の浴池、塔趾数個、赤甎の堂宇等あり。堂宇はルムミンデーイ祠堂と称せられ、内部正面の壁には摩耶夫人の石彫あり、崛多時代或いは其の以後の作と称せらる。又「巴梨文本生経仏伝jaataka-nidaana」、「長阿含経巻4」、「雑阿含経巻23」、「仏本行経巻1」、「修行本起経巻上」、「普曜経巻2」、「方広大荘厳経巻3」、「衆許摩訶帝経巻3」、「旧華厳経巻55」、「大般涅槃経巻4」、「八大霊塔名号経」、「阿育王伝巻1」、「大智度論巻1、26」、「高僧法顕伝」、「翻梵語巻9」、「玄応音義巻19」、「華厳経探玄記巻20」等に出づ。<(望)
  漚楼頻螺林(うるびらりん):漚楼頻螺聚落中の林。『大智度論巻26上注:優楼頻螺聚落』参照。
  優楼頻螺聚落(うるびらじゅらく):優楼頻螺uruvilvaaは梵名。巴梨名uruvela、木瓜、過時、大勇、大薄と訳す。聚落はgraama(巴梨名gaama)の訳なり。又鬱鞞羅斯那聚落、或いは優為羅縣とも云う。其の位置は仏陀伽耶buddh gayaaの南、尼連禅neraJjaraa河に沿える一哩許にして、現今urelと称する地点ならんという。仏此の地に於いて苦行をなし、又乞食して其の村の長者斯那の女須闍多の飲食を受け給いしを以って有名なり。「法華経文句巻1下」に、「優楼頻蠡、亦た優楼毘、亦た優為は此に木瓜林と翻ず」といい、又「玄応音義巻25」に、「烏盧頻羅此に木瓜林という」と云えり。蓋し優楼頻螺はurvaaru(瓜の一種にして学名cucumis usitatissimus)より転ぜし語にして、其の樹の繁茂せる処なるより起りし地名なるべし。但し西蔵の学者が、之を以って鐃池の義なりというは恐らく誤ならん。又「雑阿含経巻44」、「中阿含経巻8、33、56」、「五分律巻8、33、56」、「四分律巻31、32」、「方広大荘厳経巻7」、「仏本行集経巻24、25、40」、「中本起経巻上」、「有部毘奈耶巻17」、「有部苾芻毘奈耶巻8」、「大智度論巻3、34」、「慧琳音義巻26」、「翻梵語巻2、5、8」等に出づ。<(望)
  仙人住処鹿林(せんにんじゅうしょろくりん):仏の初転法輪せし処。『大智度論巻26上注:鹿野苑』参照。
  鹿野苑(ろくやおん):梵名mRgadaavaの訳。巴梨名migadaaya、又鹿野園、鹿苑、鹿野、鹿野場、或いは施鹿林と訳す。具に仙人住処鹿野苑RSipatana mRgadaava(巴isipatana migadaaya)と称し、又仙人園鹿野苑、仙人鹿野苑、仙人鹿苑所、仙人之処鹿苑、神仙鹿苑、仙人堕処施鹿林、鹿野苑中仙人所堕処、鹿野苑中仙人住所、鹿野苑内旧仙人林、或いは鹿野苑中仙人所住転法輪処に作り、略して利師RSi(仙人の義)、律師、或いは仙人論処、古仙人住処、仙人処、古仙林、仙山、仙居、僊面処とも云う。中印度婆羅痆斯国に在りし園林の名。仏初転法輪の地なり。即ち今のサーラナートsaaranaath(即ちsaaraGganaatha、鹿主の意)にして、ベナレスbenaresの北方四哩の地に在り。「雑阿含経巻23」に、「此処は仙人園鹿野苑なり。如来は中に於いて五比丘の為に三たび十二行の法輪を転ず」と云い、「仏所行讃巻3阿惟三菩提品」に、「次に五比丘あり、応に初説法を聞くべしと。寂滅の法を説き、日光の冥を除くが如くならんと欲し、行いて波羅捺古仙人住処に詣る」と云い、又「同転法輪品」に、「如来漸く前行して迦尸城に至る、其の地は勝荘厳し天帝釈宮の如く、恒河と波羅㮏の二水双流の間なり。林木花菓茂り、禽獣同じく群遊し、閑寂にして喧俗なく、古仙人の所居なり」と云えるもの是れなり。其の名称の由来に関しては、「出曜経巻14道品」に諸の神仙及び得道五通の学者の遊止する所にして、凡夫の住処に非ざれば仙人住処と名づけ、波羅㮏国王曽て此の地に遊猟し、群鹿を見て千頭を網羅するに、時に鹿王膝を屈して哀を求む。国王為に群鹿を放ち、山に還りて自ら安ぜしめたるに由り、鹿野苑と号すと云えり。「大唐西域記巻7」に載する所亦た之に同じ。是れ「六度集経巻3」、「大智度論巻16」、及び「巴梨文本生jaataka」等所出の「尼拘律鹿本生譚nigrodha-miga-jaataka」を以って当苑に起れる事とし、之を名称の起原となせるものなり。又「大毘婆沙論巻183」には多説を挙げ、一説は仏は最勝の仙人にして、皆初めて此の処に於いて法輪を転ずるが故に仙人論処と名づくとし、一説は諸仏は定んで此に於いて法輪を転ずるに非ず、仏出世の時は仏大仙及び聖弟子仙衆ありて之に住し、仏出世せざる時は独覚仙ありて住し、独覚なき時は世俗の五通仙ありて住す。此の処には常に諸仙あるが故に仙人住処と名づくとし、一説は昔五百の仙人あり、空中を飛行して此の処に至り、退の因縁に遇いて一時に堕落す、故に仙人堕処と名づくと云い、又恒に諸鹿ありて此の林に遊止するが故に鹿林と名づけ、又昔梵達多brahmadattaと名づくる国王あり、此の林を以って群鹿に施与せしが故に施鹿林と名づくると云えり。以って諸説の不同を見るべし。「大唐西域記巻7婆羅痆斯国の條」に、玄奘当時に於ける此の地の状勢を記し、「波羅痆河の東北行くこと十余里にして鹿野伽藍に至る。区界八分し、垣を連ね堵を周らし、層軒重閣、麗にして規矩を窮む。僧徒一千五百人、並びに小乗正量部の法を学す。大垣中に精舎あり、高さ二百余尺なり。(中略)精舎の中に鍮石仏像あり、量は如来の身に等しく、転法輪の勢を作す。精舎の西南に石窣堵波あり、無憂王の建なり。基は傾陥すと雖も尚お百尺に余る。前に石柱を建つ、高さ七百余尺あり。石は玉潤を含みて鍳照映徹し、慇懃に祈請せば影衆像に見る。善悪の相も時に見る者あり。是れ如来正覚を成じ已りて初めて法輪を転ぜし処なり」と云い、又其の側近に五比丘習定の処、五百独覚入涅槃の地等ありしことを敍せり。此の地は玄奘時代に最も隆盛を極めたりしが、西暦十三世紀の頃、回教徒の侵入及び印度教徒の跋扈に依りて蹂躙せられ、爾後全く廃墟に帰し、今僅かにダメークdhamek(即ち法眼dharmeekSa)塔等を存するに過ぎず。塔は高さ百余尺、平面円形にして塔身を上下二層に分ち、上層は磚を以って築造し、下層は石造にして周壁に細麗なる文様を刻鏤せり。又西方に龕あり、弥勒受記の遺跡なるべしと称せらる。附近に博物館あり、当地出土の阿育王石柱頭、迦膩色迦王奉献摩菟羅仏像を始め、多数の遺品を収蔵せり。又「雑阿含経巻39」、「大般涅槃経巻中」、「普曜経巻7」、「賢愚経巻5」、「八大霊塔名号経」、「四分律巻32」、「阿育王伝巻2」、「高僧法顕伝」、「慧超往五天竺国伝䇳釈」、「慧琳音義巻1」等に出づ。<(望)
  娑羅林双樹(さらりんそうじゅ):拘尸那竭羅kuzi-nagara城に近き阿恃多伐底ajitavatii河西岸に舎羅zaala(又はsaala)樹の林あり、此の二本の樹の間に於いて釈尊涅槃したまえりと伝う。『大智度論巻26上注:拘尸那竭羅』参照。
  拘尸那竭羅(くしながら):梵名kuzi-nagara。巴梨名kusi-naara、又拘尸那揭羅、拘尸那伽羅、拘夷那伽羅、俱尸竭伽羅、拘季那羅、拘尸那竭、拘尸那伽、拘夷那竭、鳩夷那竭、俱夷那竭、矩奢揭羅、拘尸那、拘夷那、俱尸那、鳩尸那、瞿師羅、劬師羅、拘夷に作り、又究施城、拘尸城とも云う。吉祥草の都城の義。耎艸城、上茅城、香茅城、茅宮城、少茅城、茅城、草城、角城等と訳す。中印度一国城の名。又往古は拘舎婆提kuzaavati(巴梨名kusaavati、又矩舎嚩帝、鳩夷越等に作る)と称せられたり。拘舎婆提は有小茅、蔵論等と訳す。末羅malla即ち力士族の住せし地にして、十六大国の所謂末羅力士国なり。釈尊此の国に於いて涅槃せられたるを以って名あり。「高僧法顕伝」に迦毘羅城仏生処より、東行五由延にして藍莫国に入り、其れより東行三由延にして遺車匿白馬処に至り、更に東行四由延にして灰炭塔に達し、又更に東行十二由延にして拘夷那竭城に到る。城北双樹の間、希連禅河の辺り、世尊は此に於いて北首にして般泥洹すと云い、又「大唐西域記巻6」に、「拘尸那揭羅国は、城郭頽毀し邑里蕭條たり。故城甎基は周十余里、居人稀曠にして閭巷荒蕪せり。(中略)城の西北三四里にして阿恃多伐底河を渡り、西岸遠からずして娑羅林に至る。其の樹類檞にして皮青白、葉は甚だ光潤なり。四樹特に高きは如来寂滅の所なり。其の大甎精舎の中に如来涅槃の像を作る。北首にして臥す」と云える是れなり。其の位置に関しては、ウィルスン、カンニンガム等はサハンカトsahankatの古趾を以って灰炭塔の趾となし、而して法顕所伝の灰炭塔と涅槃地との距離十二由延(約八十四哩)を五由延(約三十五哩)に改変し、サハンカトより地図上直線に東北二十八哩、普通行程三十五哩なるカシアkasiaを拘尸那揭羅なるべしと推定せり。是れ玄奘が涅槃地より西南七百里(約百十七哩)にして婆羅痆斯に到ると云い、法顕が涅槃地より東南二十五由延(約百七十五哩)にして毘舎離に達せりと云えるにより、親しく両経路を実測して、以って考証せしものに係る。其の後、仏生処臘伐尼園の発見により、従来カンニンガム等の想定せし仏生処、及び灰炭塔等の位置も変更せしを以って、スミス及びムカージー等は、拘尸那揭羅を英領チャムパーランchampaaran州の北境に隣接せる尼波羅タラーイnepalese taraiの深林中に発見せられざる可からずと提議せり。されど現にカシアの西南には涅槃堂と称する堂宇あり、中に西暦第五世紀の銘を有する巨大なる涅槃像を安じ、又其の附近より「大涅槃寺」と名づくる古泥印、及び「涅槃塔中の銅板」と刻せる銅板等を発見せるにより、一般にカシアを以って仏涅槃地、即ち拘尸那揭羅の古趾なりと認むるに至れり。蓋し此の地は古くより人中の四処、又は八大霊処の一として仏徒の参拝せし所たりと称せらるるも、玄奘遊歴の際には、上記の如く既に荒廃に帰せり。附近の聖蹟に関しては、「大唐西域記巻6」に准陀の故宅、救火処、救鹿処、善賢得道処、金剛力士躃地放杵処、諸天停金棺七日供養処、仏母哭仏処、如来焚身処、為迦葉現双足処、八王分舎利処等を挙げたり。又「長阿含巻2遊行経」、「雑阿含経巻23」、「仏所行讃巻5」、「大般涅槃経巻29」、「八大霊塔名号経」、「有部毘奈耶雑事巻37」、「大智度論巻2」、「阿育王伝巻3」、「往五天竺国伝」、「南海寄帰内法伝巻1」、「釈迦方誌巻下」、「翻梵語巻8」、「玄応音義巻21」、「希麟音義巻2」、「翻訳名義集巻7」、「島史第五章」等に出づ。<(望)
復次佛常捨心成就故入禪定。 復た次ぎに、仏は常に捨心成就するが故に禅定に入りたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
常に、
『捨心が成就している!』が故に、
『禅定』に、
『入られているのである!』。
復次佛遠離憒鬧及雜語處。亦自觀諸佛功德藏。亦受第一清淨樂故入禪定。 復た次ぎに、仏は憒鬧、及び雑語の処を遠離し、亦た自ら諸仏の功徳蔵を観じ、亦た第一清浄の楽を受くるが故に禅定に入りたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
『憒鬧(喧噪)と!』、
『雑語の処』を、
『遠離する!』為の故に、
亦た、
自ら、
『諸仏の功徳蔵』を、
『観察する!』為の故に、
亦た、
第一の、
『清浄の楽』を、
『受ける!』為の故に、
是の故に、
『禅定』に、
『入られる!』。
  憒鬧(けにょう):心が乱れ騒ぐこと。
  雑語(ぞうご):言葉が入り乱れて騒がしい。
復次佛說法已常教諸比丘。當坐禪無令後悔。口之所說身亦自行故入禪定。 復た次ぎに、仏は法を説き已りて、常に諸比丘に、『当に坐禅すべし』、と教えて、後悔せしむること無ければ、口の所説を、身にも亦た自ら行じたもうが故に、禅定に入りたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『法を説き已る!』と、
常に、
『諸比丘』に、
『坐禅をせよ!』と、
『教えて!』、
『比丘』に、
『後悔させること!』が、
『無かった!』が、
『口の所説』を、
自らの、
『身でも!』、
『行われた!』ので、
是の故に、
『禅定』に、
『入られるのである!』。
復次厭惡供養故。知眾生應得度者。入禪定作化人往度。 復た次ぎに、供養を厭悪するが故に、衆生の応に度を得べき者を知り、禅定に入りて、化人を作り、往きて度せしめたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
『供養を厭悪する!』が故に、
『衆生』の、
『度を得るべき!』者を、
『知り!』、
『禅定に入って!』、
『化人を作り!』、
『往きて!』、
『度させられるのである!』。
復次有眾生定少慧多者。身示行禪以教化之。 復た次ぎに、有る衆生は定少く、慧多き者なれば、身に行禅を示して、以って之を教化したもう。
復た次ぎに、
有る、
『衆生』は、
『慧が多く!』、
『定』が、
『少ない!』が故に、
『仏』は、
『身を以って!』、
『禅を行うこと!』を、
『示し!』、
是の、
『衆生』を、
『教化されるのである!』。
復次有人常見佛生厭想故。小遠離令其飢虛故。 復た次ぎに、有る人は、常に仏を見て、厭想を生ずるが故に小(しばら)く遠離したもうこと、其れをして飢虚せしめんが故なり。
復た次ぎに、
有る、
『人』は、
常に、
『仏を見て!』、
『厭想』を、
『生じる!』が故に、
『仏』は、
小(しばら)く、
是の、
『衆生』を、
『遠離される!』が、
其の、
『衆生』を、
『飢虚( hungry )にされる為である!』。
  飢虚(きこ):飢饉で食糧のないこと。はらぺこの状態。
復次佛欲為諸天說法故在閑靜處。 復た次ぎに、仏は、諸天の為に法を説きたまわんと欲するが故に、閑静処に在り。
復た次ぎに、
『仏』は、
『諸天』の為に、
『法』を、
『説こうとされる!』が故に、
独り、
『閑静の処』に、
『在()られるのである!』。
復次佛為後世作法故坐禪。又佛自轉法輪已。以事付弟子故入禪定。 復た次ぎに、仏は、後世の作法の為の故に坐禅したまい、又仏は自ら法輪を転じ已りて、事を以って弟子に付すが故に禅定に入りたもう。
復た次ぎに、
『仏』は、
『後世』の、
『作法( the rules of decorum )』の為の故に、
『坐禅されたのであり!』、
又、
『仏』が、
自ら、
『法輪』を、
『転じ已られて!』、
『事(事業)』を、
『弟子に付託される!』為の故に、
『禅定』に、
『入られるのである!』。
  作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting )、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為, 事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta-dharma, kRtaka の訳、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial things. )。◯梵語 karman, kriyaa, dharmaakara の訳、例えば禁酒/浄行等の仏教徒の修行者の行動に伴う日常行為に関する規則/儀礼/行儀作法( Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so forth )。又羯磨と音訳し、受戒等の儀式を遂行すること( To perform ceremonies, such as ordination ceremonies. )。
復次現二種道攝眾生故。一者禪定二者智慧。佛在大眾說法為現智慧。靜處攝心為現禪定。 復た次ぎに、二種の道を現して、衆生を摂せんが故なり。一には禅定、二には智慧なり。仏の大衆に在りて説法したまえるは、智慧を現さんが為にして、静処に心を摂したもうは、禅定を現さんが為なり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『二種の道を現して!』、
『衆生』を、
『摂(おさ)められる!』が、
謂わゆる、
一には、
『禅定という!』、
『道』を、
『示され!』、
二には、
『智慧という!』、
『道』を、
『示された!』。
『仏』が、
『大衆』中に於いて、
『法を説かれた!』のは、
『智慧』を、
『現されたのであり!』、
『静処』に於いて、
『心を摂められた!』のは、
『禅定』を、
『現されたのである!』。
復次眾生於六塵中三種行。見好色生喜樂。見惡色生憂苦。見不苦不樂色生捨心。乃至法亦如是。佛於六塵中自在。於喜樂苦處能生捨心。如聖如意中說。如是等種種因緣故入禪定。非不知已捨。 復た次ぎに、衆生は六塵中に三種に行じて、好色を見れば、喜楽を生じ、悪色を見れば、憂苦を生じ、不苦不楽色を見れば、捨心を生じて、乃至法まで亦た是の如し。仏は六塵中に於いて自在なれば、喜、楽、苦処に於いて能く捨心を生じたもうこと、聖如意中に説けるが如し。是れ等の如き種種の因縁の故に禅定に入りたまえば、知り已らざるに捨てたもうに非ず。
復た次ぎに、
『衆生』は、
『六塵』中に於いて、
『三種に!』、
『行う( to sense )ので!』、
謂わゆる、
『好色を見れば!』、
『喜、楽』を、
『生じ!』、
『悪色を見れば!』、
『憂、苦』を、
『生じ!』、
『不苦不楽の色を見れば!』、
『捨心』を、
『生じて!』、
乃至、
『法』も、
亦た、
『是の通りである!』が、
『仏』は、
『六塵中に自在であり!』、
『喜、楽、憂、苦の処』に於いても、
『捨心』を、
『生じることができ!』、
例えば、
『聖如意』中に、
『説いた通りである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『禅定』に、
『入られるのであり!』、
是の故に、
『知らない!』のに、
『捨てられるのではない!』。
  聖如意(しょうにょい):六塵中の不浄物を観て、浄ならしめ、浄物を観て、不浄ならしむる能力を云う。即ち、「大智度論巻5」に、「聖如意とは、外の六塵中の愛すべからざる不浄物を、能く観て浄ならしめ、愛すべき浄物を、能く観て不浄ならしむ。是の聖如意は、唯仏のみ独り有す」と云える即ち是れなり。『大智度論巻5上:同巻16下注:五通』参照。



欲、精進、念、慧、解脱、解脱知見の減退が無い

欲無減者。佛知善法恩故。常欲集諸善法故。欲無減。修習諸善法。心無厭足故欲無減。 欲の減ずる無しとは、仏は善法の恩を知りたもうが故に、常に諸の善法を集めんと欲したもうが故に、欲に減ずる無く、諸の善法を修習して、心に厭足無きが故に、欲に減ずる無し。
『欲』の、
『減退』が、
『無い!』とは、――
『仏』は、
『善法』の、
『恩恵』を、
『知っていられる!』が故に、
常に、
『諸の善法』を、
『集めようとされる!』ので、
是の故に、
『欲』には、
『減退すること!』が、
『無いのであり!』、
諸の、
『善法』を、
『修習していて!』、
『心』に、
『厭足すること!』が、
『無い!』が故に、
『欲』には、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
譬如一長老比丘。目闇自縫僧伽梨。針紝脫。語諸人言。誰樂欲福德者為我紝針。爾時佛現其前語言。我是樂欲福德無厭足人。持汝針來。是比丘斐亹見佛光明。又識佛音聲。白佛言。佛無量功德海皆盡其邊底。云何無厭足。 譬えば、一長老の比丘の如きは、目闇(くら)くして、自ら僧伽梨を縫わんとするも、針より紝(いと)脱すれば、諸人に語りて言わく、『誰か、福徳を欲するを楽しむ者、我が為に針に紝とおさんや』、と。爾の時仏の其の前に現れ、語りて言わく、『我れは是れ福徳を欲するを楽しみて、厭足無き人なり。汝が針を持ちて来たれ』、と。是の比丘は斐亹に仏の光明を見、又仏の音声を知り、仏に白して言さく、『仏は無量の功徳海を、皆其の辺底を尽くしたまえり。云何が厭足する無き』、と。
譬えば、
『一長老比丘のことである!』が、
『目が闇(くら)く!』、
自ら、
『僧伽梨を縫おうとていた!』が、
『針より!』、
『糸が抜けたので!』、
諸の、
『人に語って!』、こう言った、――
誰が、
『福徳』を、
『楽しんで!』、
『欲する者であり!』、
わたしの為に、
『針に!』、
『糸』を、
『通してくれるのか?』、と。
爾の時、
『仏』が、
其の、
『前に現れ!』、
『語って!』、こう言われた、――
わたしは、
『福徳』を、
『欲すること!』を、
『楽しんで!』、
『厭足すること!』の、
『無い!』、
『人である!』。
お前の、
『針』を、
『持って来い!』、と。
是の、
『比丘』は、
ぼんやりと、
『仏の光明が見え!』、
又、
『仏の声である!』と、
『識ったので!』、
『仏に白して!』、こう言った、――
『仏』は、
『無量の功徳海』を、
皆、
其の、
『辺底まで!』、
『尽くされている!』のに、
何故、
『厭足されること!』が、
『無いのですか?』、と。
  僧伽梨(そうぎゃり):梵語saGghaaTi。巴梨語同じ。又僧伽胝、僧伽致に作る。三衣の一。即ち九條以上の衣を云う。又必ず割截して製するが故に重衣、或いは重複衣と云い、其の條数多きが故に雑砕衣と云い、王宮又は聚落に入る時著用するが故に入王宮聚落衣と云い、又諸衣中最大なるが故に大衣と云い、普通に下品に約して九條衣とも称す。「四分律巻41」に、「時に諸の比丘、割截衣を著せずして聚落に入る。白衣見已りて皆譏嫌して言わく、沙門釈子は止足あることなく、慚愧を知らず。自ら言わく、我れ正法を知ると。是の如きは何ぞ正法あらん。割截衣を著せずして聚落に入る、猶お外道の如しと。諸の比丘仏に白す、仏言わく、応に割截衣を著せずして聚落に入るべからず。五事の因縁あらば僧伽梨を留む。若しは恐怖あらんかを疑い、若しは雨、若しは雨あらんかを疑い、若しは僧伽梨を作るも未だ成らず、若しは浣い若しは染め若しは壊色し若しは堅挙す。是の如き五事の因縁あらば僧伽梨を留む」と云えり。是れ比丘聚落に入る時、五事の因縁あるに非ざれば、必ず僧伽梨を著すべきことを説けるものなり。其の種別及び製法に関し、「四分律巻40」に、「応に九條にすべし、応に十條にすべからず。乃至十九條にすべし、応に二十條にすべからず。若し是の條数を過ぎば応に畜うべからず」と云い、又「薩婆多毘尼毘婆沙巻4」に、「又僧伽梨は下なるものは九條、中なるものは十一條、上なるものは十三條なり。中僧伽梨は下なるものは十五條、中なるものは十七條、上なるものは十九條なり。上僧伽梨は下なるものは二十一條、中なるものは二十三條、上なるものは二十五條なり。下僧伽梨は二長一短、中僧伽梨は三長一短、上僧伽梨は四長一短なり。若し下僧伽梨の三長一短なるは受持することを得るも、著して行来せば突吉羅を得ん。中僧伽梨の四長一短、二長一短なるは受持することを得るも、著して行来せば突吉羅を得ん。上僧伽梨の二長一短、三長一短なるは受持することを得るも、著して行来せば突吉羅を得ん」と云えり。此の中「四分律」は唯下中の六品を挙げ、「薩婆多毘尼毘婆沙」は具に下中上三位九品の別を説けるものなり。之を九品の大衣と称す。又其の衣量に関し、「薩婆多毘尼毘婆沙」の連文に、「正衣の量は三五肘なり、若し極長は六肘、広さ三肘半なり。若し極下は長さ四肘、広さ二肘半なり。若し如法の応量は三五肘なり」と云うも、「有部毘奈耶巻17」には、「僧伽胝に三種あり、謂わく上中下なり。上は竪三肘、横五肘、下は竪二肘半、横四肘半なり。二の内を中と名づく」と云えり。後世支那日本等に於いては、三十三條又は六十條等の僧伽梨を製するに至りしが如く、「四分律刪繁補闕行事鈔巻下1」に、「今時三十三條等あり、正教の制開なし」と云い、又默室の「法服格正」には「永祖言わく、この三衣必ず護持すべし。また僧伽胝衣に六十條の袈裟あり、必ず受持すべし。伝衣巻に更に二百五十條衣、乃至八万四千條衣を列ねて曰わく、いま略して挙するなり。このほか諸般の袈裟あるなり、共にこれ僧伽棃衣なるべし。有が問う、瑜伽論に云わく、大衣或いは六十條、或いは九條等、或いは両重に刺すを僧伽胝と名づく。若し今裁し成すも、また受持を得んか。云わく経論に異説、その例一ならず。もし通途に約せば二十五條に過ぐることを得ずと。経豪和尚、祖説を鈔して云わく、九條衣より二十五條までは今現在せるか。二百五十條衣、乃至八万四千條衣、その体色量いかなるべしとも口伝せず、尤も不審なりと。私かに考うるに祖意恐らくは表示する所あらん。いわゆる六十條衣とは六度波羅蜜ならんか。一波羅蜜に十の波羅蜜を具足す、故に六波羅蜜に六十の波羅蜜あり。すなわちこれ六十の体に即して六度の勝功徳を現成せしめ、もちて福智の二厳とするか。また二百五十條とは二百五十の具足戒、一一無相の福田にして、皆これ仏家の恵命を生長するものなり。また八万四千條とは、八万四千の煩悩業相、相即無相にして八万四千の相好荘厳具足現前すらん」と云えり。是れ固より後人の所案にして、仏制に非ざること言を俟たざるなり。又「四分律巻48」、「五分律巻20、21、29」、「摩訶僧祇律巻9、38」、「十誦律巻27、28」、「有部苾芻尼毘奈耶巻7」、「根本薩婆多部律摂巻5、6」、「有部百一羯磨巻1、10」、「大智度論巻1」、「四分律疏飾宗義記巻5末」、「南海寄帰内法伝巻2」、「玄応音義巻14」、「翻訳名義集巻18」、「四分律行事鈔資持記巻下1」等に出づ。<(望)
  鬱多羅僧(うったらそう):梵名uttaraasaGga。巴梨名uttaraasanga、或いはuTThaanasaJJa、又優多羅僧、優哆邏僧、憂多羅僧、嗢怛羅僧、嗢怛羅僧伽、郁多羅僧伽、或いは漚多羅に作る。上衣、又は上著衣と訳す。三衣の一。即ち七條衣にして、常服中、最も上に在るが故に此の名あり。又唯だ左肩を覆うが故に覆左肩衣と云い、斎講礼誦等の諸の羯磨事を行う時、必ず著するが故に入衆衣と云い、その価値他の二衣の間に在るが故に中価衣の称あり。其の製法は両長一短二十一隔に割截するを法とし、若し財少くして辨じ難ければ揲葉を聴す。並びに皆却刺(カエシバリ)に縫うなり。肘量は長五肘広三肘を法とすれども、又身量の短長に応じて一定せずとなすの説あり。「長阿含経巻4」、「中阿含巻8侍者経」、「同巻14大善見王経」、「同巻22求法経」、「雑阿含経巻43」、「善見律毘婆沙巻2、15」、「五分律巻4、17、29」、「瑜伽師地論巻25」、「南海寄帰内法伝」、「四分律行事鈔資持記巻下之1」、「玄応音義巻14、25」、「慧琳音義巻12、15、59、60、67、71」、「翻梵語巻10」、「翻訳名義集巻19」等に出づ。<(望)
  安陀会(あんだえ):梵名antarvaasa。又安怛婆沙、安呾婆娑、安多婆娑、安多跋薩、安陀跋薩、安羅跋薩、安怛婆参、安多会、安陀衛、或いは安多衛に作る。内に住するの義。中宿衣、内衣、裏衣、中着衣と訳し、條数に約して別に又五條衣と称す。三衣の一。体に襯して着するものにして、即ち屏処に在る時、又は衆務を営作する時之を被着す。三衣の中には極略の衣なり。其の製一長一短にして、壊色の麻布等を財体として之を裁す。「十誦律巻5」に、「若し比丘、初日に衣を得て用って安陀衛五條を作らば、分別を成して若干は長、若干は短にせよ。総じて五條を説く。衣を作り竟るの日、即ち応に受持して是の言を作すべし、我れは是れ安陀衛五條を作持すと」と云える是れなり。其の衣量に関しては、「有部百一羯磨巻10」に、「大徳、安呾婆娑衣の條数に幾ばくかある。仏言わく、但だ五條あり。一長一短なり。大徳、此れに幾種かある。仏言わく、三あり。謂わく上中下なり。上は三五肘、中下は前に同じ」とあり。此の中、前に同じとは此の前の文に、「下は各半肘を減ず。二の内を中と名づく」と云うを指すなり。又「同巻10」に、「仏言わく、安呾婆娑に復た二種あり。何をか謂って二と為す。一には竪二中、横五肘なり。二には竪二横四なり。此れを守持衣と謂う。最後の量は此れ最下衣の量にして、限りて三輪を蓋う」と云えり。此の中、三輪を蓋うとは、註に「上は但だ臍を蓋い、下は双膝を掩う。若し肘長き者は則ち此れと相当す。臂短き者の如きは膝に及ばず。宜しく肘長に依りて准と為すべし」とあり。之に依るに竪二横四を最下衣の量と為すが如きも、「有部毘奈耶巻17」には、「復た二種の安呾婆娑あり。竪二横五と竪二横四となり。若し極下の安呾婆娑は、但だ三輪を蓋う。是れ持衣中の最少なり」と云えり。之に依るに竪二横四の外に、別に極下の蓋三輪衣あるが如し。鳳潭の「仏門衣服正儀編」には、此の極下の安呾婆娑を以って、今の絡子の量に合すと為し、絡子の制を非法に非ずと論ずれども、光国の「僧服正𢮦巻上本」には、竪二横四の外に更に蓋三輪衣あるに非ずと云い、以って鳳潭の説を破せり。蓋し中古以後、僧服の制漸く本法を失い、衣体衣量及び其の制式等、種種異様のものあるに至れり。又「四分律巻40」、「同行事鈔巻下之1」、「同資持記巻下1之1」、「同名義標釈巻26」、「大乗義章巻15」、「玄応音義巻14」、「慧琳音義巻59」、「翻梵語巻10」、「翻訳名義集巻7」、「大毘盧遮那供養次第法疏巻上」等に出づ。<(望)
  三衣(さんえ):梵語triiNi ciivaraaNiの訳。巴梨語tiiNi ciivaraaNi、三種の衣の意。一に安陀会antravaasa、二に鬱多羅僧uttaraasaGgha、三に僧伽梨saGgahaaTiなり。「摩訶僧祇律巻23」に、「此れは是れ僧伽梨、此れは是れ鬱多羅僧、此れは是れ安陀会、此れは是れ我が三衣なり」と云い、「四分律巻6」に、「仏は比丘に三衣を畜うることを聴す。長を得ず」と云い、「有部毘奈耶雑事巻5」に、「苾芻は応に割截三衣を著くべし」と云える是れなり。蓋し此の三衣は、三世諸仏賢聖の幖幟にして、仏弟子の居常必ず披著守持すべきものなり。「摩訶僧祇律巻38」に、「沙門の衣は賢聖の幖幟なり」と云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻4」に、「僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会、此の三名差別を作す所以は、未曽有法を現ぜんと欲するが故なり。一切の九十六種には尽く此の三名なし、外道に異なるを以っての故に此の差別を作す」と云い、「大智度論巻68」には、「行者少欲知足にして、衣は趣に形を蓋う。多からず少なからず、故に但だ三衣を受く。白衣は楽を求むるが故に多く種種の衣を畜う。或いは外道あり、苦行の故に裸形にして恥づることなし。是の故に仏弟子は二辺を捨てて処中に道を行ず」と云い、「分別功徳論巻4」に、「或いは曰わく、三衣を造ることは三転法輪を以っての故なりと。或いは云わく、三世の為と。或いは云わく、三時の為の故に三衣を設く。冬は則ち重きものを著け、夏は則ち軽きものを著け、春秋には中者を著く。是の三時の為の故に便ち三衣を具す。重き者は五條、中なる者は七條、薄き者は十五條なり。若し大寒の時は三衣を重著して之を障うべしと。或いは曰わく、亦た蚊虻蟆子の為の故に三衣を設くと。是の縁を以っての故に常に持して忘れず」とあり。又窺基の「金剛般若経賛述巻上」に、三衣に事の三衣と法の三衣との別あることを説けり。彼の文に、「事衣に三あり、僧伽梨、鬱多羅僧、安陀会なり。此の中、初の衣を著して王城聚落に入り、次の衣は衆に処して説法し、次の衣は知るべし。今城に入らんと欲す、即ち初衣を著することを顕すなり。法の中に亦た三衣あり、一には精進、亦た甲鎧と名づく。謂わく能く利楽等の事を策励宣説して寒熱等の事を避けず、猶お著衣の如きなり。二に柔和忍辱衣とは、謂わく忍辱に由るが故に外の怨害を拒ぎて侵す能わざらしむ。猶お衣を著するに寒熱触れざるが如きなり。三に慚愧の上服とは、賢善を崇重し、暴悪を軽拒し、羞恥を相と為すに由るが故に著衣と言うなり」と云える是れなり。又真言家に置いては、三衣を具する能わざる場合に無所不至の一印一明を作して、三衣各自を観念せしむることあり、之を三衣法と称す。或いは又潅頂の時、三衣なき者は、紙に帰命阿、帰命鑁、帰命吽の種子を書し、之を紙に裹み、三衣の次第を乱さずして之を袋に入れて持せしめ、以って三衣を護持するに換うと云えり。又「大比丘三千威儀巻上」、「玄応音義巻15」、「南海寄帰内法伝巻1」、「四分律行事鈔資持記巻中2之2、巻下1之1」、「釈氏要覧巻上」等に出づ。<(望)
  (にん):いと。
  斐亹(ひみ):あやあるさま。文彩あるさま。
佛告比丘。功德果報甚深。無有如我知恩分者。我雖復盡其邊底。我本以欲心無厭足故得佛。是故今猶不息。雖更無功德可得。我欲心亦不休。諸天世人驚悟。佛於功德尚無厭足。何況餘人。佛為比丘說法。是時肉眼即明慧眼成就。 仏の比丘に告げたまわく、『功徳の果報は甚深なるも、我れが如く恩分を知る者有ること無し。我れは復た其の辺底を尽くすと雖も、我れは本より、欲心の厭足する無きが故に、仏を得たり。是の故に今猶お息まず。更に功徳の得べき無しと雖も、我が欲心も亦た休まず』、と。諸天、世人の驚悟すらく、『仏すら、功徳に於いては、猶お厭足無し。何に況んや、余人をや』、と。仏は比丘の為に法を説きたまえば、是の時、肉眼即ち明るく、慧眼成就せり。
『仏』は、
『比丘』に、こう告げられた、――
『功徳の果報は甚だ深い!』が、
わたしほど、
其の、
『恩分を知る!』者は、
『無い!』。
わたしは、
とっくに、
其の、
『辺底』を、
『尽くしているのだが!』、
わたしは、
本より、
『欲心』に、
『厭足する!』ことが、
『無かった!』ので、
是の故に、
『仏』を、
『得たのである!』。
是の故に、
今猶お、
『功徳を欲して!』、
『息まず!』、
更に得られる、
『功徳』は、
『無いのだが!』、
わたしの、
『欲心』が、
『休まないのだ!』、と。
『諸の天、世人』は、
『驚悟して!』、こう言った、――
『仏すら!』、
『功徳』に於いては、
尚お、
『厭足されること!』が、
『無いのである!』から、
況して、
『余人』は、
『尚更であろう!』、と。
『仏』が、
『比丘』の為に、
『法を説かれる!』と、
是の時、
『肉眼が明るくなり!』、
『慧眼すら!』、
『成就したのである!』。
問曰。如佛嘗斷一切善法中欲。今云何言欲無減。 問うて曰く、如(も)し仏にして、嘗て一切の善法中の欲すら断じたまわば、今は云何が、欲に減ずる無しと言う。
問い、
若し、
『仏』が、
嘗て、
『一切の善法』中の、
『欲』を、
『断じられたとすれば!』、
今は、
何故、こう言うのですか?――
『欲』の、
『減退すること!』が、
『無い!』、と。
答曰。言斷一切善法中欲者。是未得欲得。得已欲增。佛無如是欲。佛一切功德具足。無不得者亦無增益。今言欲者。如先說。佛雖具得一切功德。欲心猶不息。 答えて曰く、一切の善法中の欲を断ずと言うは、是れ未だ得ざるを得んと欲し、得已れば増さんと欲するなり。仏に是の如き欲の無きは、仏は、一切の功徳具足したまえば、得ざる者無く、亦た増益する無ければなり。今欲と言うは、先に説けるが如く、仏は、一切の功徳を具に得たもうと雖も、欲心の猶お息まざればなり。
答え、
『一切の善法』中の、
『欲を断じる!』と、
『言う!』のは、
是の、
『欲』は、
未だ、
『得ていない!』者を、
『得よう!』と、
『欲し!』、
已に、
『得た!』者を、
『増そう!』と、
『欲することである!』が、
『仏』に、
是のような、
『欲』が、
『無い!』のは、
『仏』には、
『一切の功徳が具足している!』ので、
『得られていない!』、
『功徳』が、
『無く!』、
『功徳』の、
『増益すること!』も、
『無いからである!』。
今言う、――
『欲』とは、
先に説いたように、――
『仏』は、
『一切の功徳』を、
『具足して!』、
『得ていられながら!』、
猶お、
『欲心』が、
『息まないからである!』。
譬如馬寶雖到至處去心不息至死不已。佛寶亦如是。又如劫盡大火。燒三千大千世界悉盡。火勢故不息。佛智慧火亦如是。燒一切煩惱。照諸法已智慧相應欲亦不盡。 譬えば馬宝の至処に到るも、去心息まずして、死に至るまで、已(や)まざるが如く、仏宝も亦た是の如し。又劫尽の大火の、三千大千世界を焼きて、悉く尽くすも、火勢は故のまま息まざるが如く、仏の智慧の火も亦た是の如く、一切の煩悩を焼いて、諸法を照らし已りても、智慧相応の欲は亦た尽きざるなり。
譬えば、
『転輪聖王の馬宝』が、
『至処( goal )に到っても!』、
猶お、
『去心が息まず( the desire to run does not cease )!』、
『死の至るまで!』、
『已()まないように!』、
『仏という!』、
『宝』も、
亦た、
是のように、
『已むことがないのである!』。
又、
『劫尽の大火』は、
悉く、
『三千大千世界』を、
『焼き!』、
『尽くしても!』、
猶お、
『火勢』は、
『故(もと)まま!』、
『息まないように!』、
『仏の智慧という!』、
『火』も、
亦た、
是のように、
『一切の煩悩を焼いて!』、
諸の、
『法』を、
『照らし已っても!』、
『智慧相応の欲』は、
亦た、
猶お、
『尽きることがないのである!』。
復次佛雖一切善法功德滿足。眾生未盡故欲度不息。 復た次ぎに、仏は、一切の善法の功徳を満足すと雖も、衆生の未だ尽きざるが故に、度せんと欲して息みたまわず。
復た次ぎに、
『仏』は、
一切の、
『善法』の、
『功徳』を、
『満足していられる!』が、
未だ、
『衆生』が、
『尽きていない!』が故に、
是の、
『衆生』を、
『度そうとして!』、
『息まれないのである!』。
問曰。若佛欲度眾生未息。何以入涅槃。 問うて曰く、若し仏、衆生を度せんと欲して、未だ息みたまわずんば、何を以ってか、涅槃に入りたまえり。
問い、
若し、
『仏』が、
『衆生を度したい!』と、
『思われながら!』、
『息まれないのであれば!』、
何故、
『涅槃』に、
『入られたのですか?』。
答曰。度眾生有二種。或有現前得度。或有滅後得度。如法華經中說。藥師為諸子合藥與之而捨。是故入涅槃。 答えて曰く、度せらるる衆生には、二種有り、或は現前に度を得る有り、或は滅後に度を得る有り。法華経中に説けるが如きは、『薬師は、諸子の為に薬を合して之に与えて、捨つ』、となり。是の故に、涅槃に入りたもう。
答え、
『度される!』、
『衆生』には、
『二種有り!』、
或は、
有る者は、
『仏の現前( being in front of )で!』、
『度』を、
『得るのであり!』、
或は、
有る者は、
『仏の滅度の後に!』、
『得るのである!』。
例えば、
『法華経』中には、こう説かれているが、――
『薬師』は、
『諸子』の為に、
『薬』を、
『調合して!』、
『与えてから!』、
是の、
『諸子』を、
『捨てた!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『涅槃』に、
『入られたのである!』。
  現前(げんぜん):梵語 aabhimukhya の訳、対面/現存( being in front of or face to face, presence )の義。
  参考:『妙法蓮華経巻5如来寿量品』:『又善男子。諸佛如來法皆如是。為度眾生皆實不虛。譬如良醫智慧聰達。明練方藥善治眾病。其人多諸子息。若十二十乃至百數。以有事緣遠至餘國。諸子於後飲他毒藥。藥發悶亂宛轉于地。是時其父還來歸家。諸子飲毒。或失本心或不失者。遙見其父皆大歡喜。拜跪問訊善安隱歸。我等愚癡誤服毒藥。願見救療更賜壽命。父見子等苦惱如是。依諸經方。求好藥草色香美味皆悉具足。擣篩和合與子令服。而作是言。此大良藥。色香美味皆悉具足。汝等可服。速除苦惱無復眾患。其諸子中不失心者。見此良藥色香俱好。即便服之病盡除愈。餘失心者。見其父來。雖亦歡喜問訊求索治病。然與其藥而不肯服。所以者何。毒氣深入失本心故。於此好色香藥而謂不美。父作是念。此子可愍。為毒所中心皆顛倒。雖見我喜求索救療。如是好藥而不肯服。我今當設方便令服此藥。即作是言。汝等當知。我今衰老死時已至。是好良藥今留在此。汝可取服勿憂不差。作是教已復至他國。遣使還告。汝父已死。是時諸子聞父背喪。心大憂惱而作是念。若父在者。慈愍我等能見救護。今者捨我遠喪他國。自惟孤露無復恃怙。常懷悲感心遂醒悟。乃知此藥色味香美。即取服之毒病皆愈。其父聞子悉已得差。尋便來歸咸使見之‥‥』
復次有眾生鈍根德薄故。不能成大事。但可種福德因緣。是故入涅槃。 復た次ぎに、有る衆生は、鈍根にして徳薄きが故に、大事を成す能わざれば、但だ福徳の因縁を種うべし。是の故に涅槃に入りたまえり。
復た次ぎに、
有る、
『衆生』は、
『鈍根、薄徳である!』が故に、
『大事』を、
『達成することができない!』が故に、
但だ、
『福徳の因縁』を、
『種えられるだけである!』。
是の故に、
『仏』は、
『涅槃』に、
『入られたのである!』。
問曰。佛滅度後。亦有得阿羅漢者。何以言但可種福德因緣。 問うて曰く、仏の滅度の後にも、亦た阿羅漢を得る者有るに、何を以ってか、『但だ福徳の因縁を種うべし』、と言う。
問い、
『仏の滅度の後』にも、
『阿羅漢』を、
『得る!』者が、
『有るのに!』、
何故、こう言うのですか?――
但だ、
『福徳の因縁』を、
『種えられるだけである!』、と。
答曰。雖有得阿羅漢者少不足言。如佛一說法時。十方無量阿僧祇眾生得道。佛滅度後不爾。譬如大國。征伐雖少有所得不名為得。以是故雖眾生未盡而入涅槃。 答えて曰く、阿羅漢を得る者有りと雖も、少なければ言うに足らず。仏の一説法の時の如きは、十方の無量阿僧祇の衆生道を得たるも、仏の滅度の後は爾らず。譬えば、大国の征伐は、少しく所得有りと雖も、名づけて得とは成さざるが如し。是を以っての故に衆生未だ尽きざると雖も、涅槃に入りたまえり。
答え、
『阿羅漢を得た者が有った!』としても、
『少なければ!』、
『言う!』に、
『足らない!』。
例えば、
『仏』は、
『一たび!』、
『法』を、
『説かれただけで!』、
その時、
『十方の無量、阿僧祇の衆生』が、
『道』を、
『得たのである!』が、
『仏』が、
『滅度された後』には、
『爾うでなかったようなものである!』。
譬えば、
『大国が征伐すれば!』、
『少しばかり!』、
『所得』が、
『有ったとしても!』、
即ち、
『得た!』とは、
『呼ばれないようなものである!』。
是の故に、
『衆生』が、
未だ、
『尽きていなくても!』、
『仏』は、
『涅槃』に、
『入られるのである!』。
復次摩訶衍首楞嚴經中說。佛於莊嚴世界。壽七百阿僧祇劫度脫眾生。以是故說佛欲無減。 復た次ぎに、摩訶衍の首楞厳経中に説かく、『仏は荘厳世界に於いて、寿七百阿僧祇劫に衆生を度脱す』、と。是を以っての故に説かく、『仏は欲の減ずる無し』、と。
復た次ぎに、
『摩訶衍の首楞厳経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『荘厳世界』に於いて、
『寿にして!』、
『七百阿僧祇劫のあいだ!』、
『衆生』を、
『度脱された!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『欲』の、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
精進無減者。如欲中說欲義即是精進。 精進の減ずる無しとは、欲中に、欲の義を説けるが如き、即ち是れ精進なり。
『精進』の、
『減退すること!』が、
『無い!』とは、――
譬えば、
『欲無減中に説いた!』、――
『欲の義』が、
即ち、
『精進なのである!』。
問曰。若爾者無有十八不共法。復次欲精進。心數法中各別。云何言欲即是精進。 問うて曰く、若し爾らば、十八不共法有ること無けん。復た次ぎに、欲と精進とは、心数法中には各別なり。云何が言わく、『欲は即ち是れ精進なり』、と。
問い、
若し、
爾うならば、
『不共法』が、
『十八』、
『有るはずがない!』。
復た次ぎに、
『欲、精進』は、
『心数法』中には、
『各、別である!』。
何故、こう言うのですか?――
『欲』とは、
即ち、
『精進である!』、と。
  (よく):心所有法中大地法の一。所楽の事に於いて、見聞等の一切の作用を引摂せんと欲するを云う。『大智度論巻14上注:心所有法、巻18下注:大地法、巻26上注:欲』参照。
  (よく):梵語chandaの訳。巴梨語同じ。心所の名。七十五法の一。百法の一。即ち所作の事業を希求する精神作用を云う。「品類足論巻2」に、「欲性増上し、欲性現前し、欣喜し希望して作を楽う、是れを名づけて欲と為す」と云い、「倶舎論巻4」に、「欲は謂わく所作の事業を希求するなり」と云い、又「大乗阿毘達磨蔵集論巻1」に、「欲とは所楽の事に於いて彼彼に所作の希望を引発するを体と為し、正しく勤の所依たるを業と為す。彼彼に所作の希望を引発すとは、謂わく見聞等の一切の作用を引摂せんと欲するが故なり」と云い、「成唯識論巻5」に、「云何が欲と為す、所楽の境に於いて希望するを性と為し、勤の依たるを業と為す」と云える是れなり。是れ所作の事業を希求し、勤の所依となる心所を欲と名づけたるなり。説一切有部に於いては欲は一切の心品に相応すとなし、之を大地法の摂となすも、唯識家にては唯所楽の境を縁ずる時にのみ欲は起るとし、五別境の一となすなり。之に関し前引「成唯識論」の連文に、「有は説く、要ず境を希望する力に由りて、諸の心心所は方に所縁を取る。故に経に欲を諸法の本と為すと説くと。彼の説然らず、心等の境を取るは作意に由るが故に、諸の聖教に作意現前して能く識を生ずと説くが故に、曽て処として欲に由りて能く心心所を生ずと説くことなきが故なり。諸法は愛を根本と為すと説くが如き、豈に心心所は皆愛に由りて生ぜんや。故に欲を諸法の本と為すと説くは、欲に起さるる一切の事業のみを説くなり」と云えり。是れ説一切有部に於いて諸の心心所の所縁を取るは皆境を希望する力に由るとし、欲を大地の摂となせるを批し、心等の境を取るは作意に由るものにして、欲に非ず、経に欲を諸法の本と為すと云うは、唯欲に起さるる事業を説くに過ぎず、故に欲は遍行に摂すべからずとなすの意なり。又欲は勤の為に依となると云うに関し、「成唯識論述記巻6本」に二解を出し、一解は勤は精進の義にして、即ち唯善欲に約して之を説くものなりとし、一解は勤は勤劬の義にして、総じて善悪無記の三性の欲に通ずとなし、就中、前解を正となすと云えり。又「倶舎論巻16」には此の中、他の財物を躭求する悪欲を特に貪と名づけ、根本煩悩の一となせり。即ち彼の文に、「他の財に於いて非理に欲を起し、如何にせば彼れをして我れに属して他の非ざらしめんと、力と竊との心を起して他物を躭求す。是の如き悪欲を貪業道と名づく」と云える是れなり。又「長阿含巻12清浄経」等には所楽の事に就いて欲を色欲、声欲、香欲、味欲、触欲の五種に分別し、「大般涅槃経巻12」には形貌欲、姿態欲、細触欲の三欲を出し、「正法念処経巻5生死品」には此の界に食欲、婬欲等あるが故に欲界と名づくと云い、又「倶舎論巻20」等には欲界見修所断の貪等の四根本煩悩及び十纏を立てて欲取又は欲暴流と名づけ、又欲界繋の三十六随眠の中、五部の無明を除いて余の三十一随眠及び十纏を欲漏と名づけ、其の他、貪欲、愛欲、睡眠欲、財欲等の諸目あり。又「大毘婆沙論巻16」、「入阿毘達磨論巻上」、「雑阿毘曇心論巻2」、「顕揚聖教論巻1」、「成唯識論巻3」等に出づ。<(望)
  精進(しょうじん):勇悍にして諸の善法を進修するを云う。心所有法中大善地法の一。『大智度論巻15下注:精進、巻14上注:心所有法、巻18下注:大善地法』参照。
答曰。欲為初行。欲增長名精進。如佛說。一切法欲為根本。欲如人渴欲得飲。精進如因緣方便求飲。欲為心欲得。精進為成其事。欲屬意業精進屬三業。欲為內精進為外。如是等差別。 答えて曰く、欲を初行と為し、欲の増長を精進と名づく。仏の、『一切法は欲を根本と為す』、と説きたもうが如し。欲は、人の渇いて、飲を得んと欲するが如し。精進は、方便を因縁として、飲を求むるが如し。欲は、心に得んと欲すと為す。精進は、是の事を成ずと為す。欲は意業に属し、精進は三業に属す。欲は内と為し、精進は外と為す。是れ等の如く差別す。
答え、
『欲』は、
『初行であり!』、
『欲の増長』を、
『精進』と、
『称する!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『一切の法』は、
『欲』が、
『根本である!』、と。
『欲』は、
譬えば、
『人が渇いて!』、
『飲物』を、
『得たい!』と、
『思うことであり!』、
『精進』は、
譬えば、
『方便』を、
『因縁として!』、
『飲物』を、
『求めることである!』。
『欲』は、
『心』に、
『得たい!』と、
『思うことであり!』、
『精進』は、
其の、
『事』を、
『達成することである!』。
『欲』は、
『意業に属する!』が、
『精進』は、
『三業に属する!』。
『欲』は、
『内である!』が、
『精進』は、
『外である!』。
是れ等のように、
『差別する!』。
  方便(ほうべん):梵語 upaaya の訳、近づく/接近する/到着する( coming near, approach, arrival )の義、目的を達成するもの/手段/[有らゆる種類の]便法/方法/策略/技能/術策( that by which one reaches one's aim, a means or expedient (of any kind), way, stratagem, craft, artifice )、[特に]敵に勝つ手段(通常以下の四種が挙げられる、即ち不和の種をまく、交渉、贈賄、先制攻撃である( (especially) a means of success against an enemy (four are usually enumerated, sowing dissension, negotiation, bribery, and open assault) )の意。
  参考:『北本大般涅槃経巻38』:『迦葉菩薩白佛言。世尊。云何名為知根乃至知畢竟耶。佛言。善男子。善哉善哉。菩薩發問為於二事。一者為自知故。二者為他知故。汝今已知但為無量眾生未解啟請是事。是故我今重讚歎汝。善哉善哉。善男子。三十七品根本是欲。因名明觸。攝取名受。增名善思。主名為念。導名為定。勝名智慧。實名解脫。畢竟名為大般涅槃。善男子。善欲即是初發道心。乃至阿耨多羅三藐三菩提之根本也。是故我說欲為根本。善男子。如世間說。一切苦惱愛為根本。一切疹病宿食為本。一切斷事鬥諍為本。一切惡事虛妄為本。迦葉菩薩白佛言。世尊。如來先於此經中說。一切善法不放逸為本。今乃說欲。是義云何。佛言。善男子。若言生因善欲是也。若言了因不放逸是。如世間說。一切果者子為其因。或復有說。子為生因地為了因。是義亦爾。』
復次是精進諸佛所樂。如釋迦牟尼佛。精進力故超越九劫。疾得阿耨多羅三藐三菩提。 復た次ぎに、是の精進は、諸仏の楽しむ所なり。釈迦牟尼仏の、精進力の故に、九劫を超越して、疾かに阿耨多羅三藐三菩提を得たまえるが如し。
復た次ぎに、
是の、
『精進』は、
『諸仏』の、
『楽しむ所であり!』、
例えば、
『釈迦牟尼仏』は、
『精進の力』の故に、
『九劫』を、
『超越して!』、
疾かに、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得られたのである!』。
  参考:『生経巻1』:『佛告比丘。實如所言。誠無有異。吾從無數劫以來。精進求道。初無懈怠。愍傷眾生。欲度脫之。用精進故。自致得佛。超越九劫。出彌勒前。』
復次如說一時佛告阿難。汝為諸比丘說法。我背痛小息。爾時世尊。四襞鬱多羅僧敷下。以僧伽梨枕頭而臥。是時阿難說七覺義。至精進覺佛驚起坐。告阿難。汝讚精進義。阿難言讚。如是至三。 復た次ぎに、説の如し。一時、仏の阿難に告げたまわく、『汝、諸比丘の為に法を説け。我が背痛むに、小しく息まん』、と。爾の時、世尊は、鬱多羅僧を四襞して、下に敷き、僧伽梨を以って頭に枕(か)いて臥せたまえり。是の時、阿難は七覚の義を説いて、精進覚に至り、仏驚きて起ちて坐し、阿難に告げたまわく、『汝は、精進の義を讃ぜしや』、と。阿難の言わく、『讃じたり』、と。是の如く三たびに至れり。
復た次ぎに、こう説かれている、――
一時、
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
諸の、
『比丘』の為に、
『法』を、
『説け!』。
わたしは、
『背が痛むので!』、
『小(しばら)く!』、
『息もう!』、と。
爾の時、
『世尊』は、
『鬱多羅僧(上衣)を四畳みにして!』、
『下に!』、
『敷き!』、
『僧伽梨(中衣)を枕にして!』、
『頭を載せ!』、
『臥せられた!』。
是の時、
『阿難』は、
『七覚の義』を、
『説きながら!』、
『精進覚』に、
『至る!』と、
『仏』は、
『驚いて!』、
『起きて!』、
『坐り!』、
『阿難』に、こう告げられた、――
お前は、
『精進の義』を、
『讃じたか?』、と。
『阿難』は、こう言った、――
『讃じました!』、と。
是のようにして、
『問答』が、
『三たび!』に、
『至った!』。
  (ひゃく):たたむ。畳まれたさま。
  四襞(しひゃく):四つにたたむ。
  七覚(しちかく):菩提に帰趣する七種の法、即ち念、択法、精進、喜、軽安、定、捨覚支を云う。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
佛言。善哉善哉。善修精進。乃至得阿耨多羅三藐三菩提。何況餘道。以是義故佛精進無減。病時猶尚不息。何況不病。 仏の言わく、『善い哉、善い哉、善く精進を修すれば、乃至阿耨多羅三藐三菩提に至らん。何に況んや、余の道をや』、と。是の義を以っての故に、仏の精進は減ずる無し。病の時すら、猶尚お息みたまわず、何に況んや病まざるをや。
『仏』は、こう言われた、――
善いぞ!
善いぞ!
『善く!』、
『精進』を、
『修めれば!』、
乃至、
『阿耨多羅三藐三菩提すら!』、
『得ることができる!』。
況して、
『余の道』は、
『尚更である!』、と。
是の、
『義』の故に、
『仏の精進』は、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
『病の時すら!』、
猶尚お、
『息まれないのであるから!』、
況して、
『病まない時』は、
『言うまでもない!』。
復次佛為度眾生故。捨甚深禪定樂。種種身種種語言種種方便力度脫眾生。或時遇惡險道。或時食惡食或時受寒熱。或時值諸邪難聞惡口罵詈忍受不厭。 復た次ぎに、仏は、衆生を度せんが為の故に、甚深の禅定の楽を捨て、種種の身、種種の語言、種種の方便の力もて、衆生を度脱したもうに、或は時には悪険道に遇い、或は時に悪食を食い、或は時に寒熱を受け、或は諸の邪難に値い、悪口、罵詈を聞くも、忍んで受くることを厭いたまわず。
復た次ぎに、
『仏』は、
『衆生を度する!』為の故に、
甚だ深い、
『禅定の楽』を、
『捨てて!』、
種種の、
『身や!』、
種種の、
『語言や!』、
種種の、
『方便の力を用いて!』、
『衆生』を、
『度脱されるので!』、
或は時に、
『悪い!』、
『険道』に、
『遇い!』、
或は時に、
『悪い!』、
『食物』を、
『食い!』、
或は時に、
『寒、熱』を、
『受け!』、
或は時に、
諸の、
『邪難に値()って!』、
『悪口、罵詈』を、
『聞かれた!』が、
皆、
『忍んで!』、
『受けること!』を、
『厭われなかった!』。
佛世尊雖於諸法中自在而行是事。不生懈怠。如佛度眾生已。於薩羅林中雙樹下臥。梵志須跋陀語阿難。我聞一切智人今夜當滅度。我欲見佛。阿難止之言。佛為眾人廣說法疲極。 仏、世尊は、諸法中に自在なりと雖も、是の事を行じて、懈怠を生じたまわず。仏の衆生を度し已りて、薩羅林中の双樹の下に於いて臥せたまえるが如し。梵志の須跋陀の阿難に語らく、『我れは一切智の人の今夜、当に滅度すべきを聞けり。我れは仏に見えんと欲す』、と。阿難の之を止めて言わく、『仏は、衆人の為に広く法を説き、疲極したまえり』、と。
『仏、世尊』は、
諸の、
『法中に自在であった!』が、
是の、
『事を行われ!』、
『懈怠』を、
『生じられなかった!』。
例えば、
『仏』が、
『衆生を度し已って!』、
『薩羅林』中の、
『双樹の下』に、
『臥せられる!』と、
『梵志の須跋陀』が、
『阿難』に、こう語っていた、――
わたしは、
今夜、
『一切智の人』が、
『滅度されるはずだ!』と、
『聞いてきた!』が、
わたしは、
『仏』に、
『会いたい!』と、
『思う!』、と。
『阿難』は、
是の、
『梵志を制止して!』、こう言った、――
『仏』は、
『衆人』の為に、
『広く、法を説かれた!』ので、
『極めて!』、
『疲れていられる!』、と。
  薩羅(さら):樹木の名。娑羅に同じ。『大智度論巻26上注:娑羅林双樹、拘尸那竭羅』参照。
  須跋陀(しゅばっだ):仏の最後の教誡を受けて得道せし弟子の名。『大智度論巻26上注:須跋陀羅』参照。
  須跋陀羅(しゅばっだら):梵名subbhadra。巴梨名subhada、又蘇跋陀羅、数婆頭楼、須跋陀、須拔陀、須拔、須跋に作り、善賢、好賢、又は善好賢と訳す。仏の最後の教誡を受けて得道せし弟子の名。「長阿含巻4遊行経」に、「是の時、拘尸城内に一の梵志あり、名づけて須跋と曰う。年百二十にして耆旧多智なり。沙門瞿曇が今夜双樹の間に於いて当に滅度を取るべきを聞き、自ら念言すらく、吾れ法に於いて疑あり、唯瞿曇のみありて能く我が意を解せん。今当に時に及べり、自ら力めて行かんと。即ち其の夜に於いて拘尸城を出で、双樹の間に詣でて阿難の所に至り、問訊し已りて一面に立ち、阿難に白して曰わく、我れ聞く、瞿曇沙門は今夜当に滅度を取るべしと。故に此に来至して一たび相見えんことを求む。我れ法に於いて疑あり、願わくは瞿曇に見えて我が意を一決せん。寧ろ閑暇ありて相見ゆることを得るや不やと。阿難報じて言わく、止めよ止めよ、須跋。仏の身に疾あり、労擾することなかれと。須跋固く請うて乃ち再三に至る。(中略)時に仏は阿難に告ぐ、汝遮止すること勿かれ。此に来入せしめて疑を決せんと欲するを聴せ。嬈乱せしむることなかれ。設し我が法を聞かば必ず開解を得んと。阿難乃ち須跋に告ぐ、汝仏に覲えんと欲せば、宜しく知るべし是の時なりと。須跋即ち入りて問訊し、已りて一面に坐す。(中略)仏之に告げて曰わく、若し諸法の中に八聖道なくば、則ち第一沙門果第二第三第四沙門果なし。須跋よ、諸法の中に八聖道あるを以っての故に、便ち第一沙門果第二第三第四の沙門果あり。須跋よ、今我が法の中に八聖道あり、第一沙門果第二第三第四の沙門果あり。外道異衆には沙門果なしと。(中略)是に於いて須跋は即ち其の夜に於いて出家受戒し、梵行を浄修し、現法の中に於いて自身に証を作し、生死已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辦じ、如実智を得て更に有を受けじと。時に夜未だ久しからずして即ち羅漢と成る。是れを如来最後の弟子と為す。便ち先に滅度し、仏は後る」と云える是れなり。又「増一阿含経巻3弟子品」には、「最後に証を取り、漏尽通を得たるは、所謂須拔比丘是れなり」とあり。又「増一阿含経巻1、37」、「雑阿含経巻35」、「別訳雑阿含経巻6」、「仏般泥洹経巻下」、「大般涅槃経巻下」、「般泥洹経巻下」、「撰集百縁経巻4」、「仏遺教経」、「大般涅槃経巻40」、「大般涅槃経後分巻上」、「有部毘奈耶雑事巻38」、「大毘婆沙論巻1、93」、「大智度論巻3」、「大唐西域記巻6」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻22」、「慧琳音義巻18、26」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
佛遙聞之告阿難。聽須跋陀入。是我末後弟子。須跋陀得入問佛所疑。佛隨意說法斷疑得道。先佛入無餘涅槃。 仏は、遙かに之を聞いて、阿難に告げたまわく、『須跋陀の入るを聴せ。是れは我が末後の弟子なり』、と。須跋陀は入るを得て、仏に疑う所を問えるに、仏は随意に法を説いて、疑を断じ、道を得しめたまえば、仏より先に、無余涅槃に入れり。
『仏』は、之を聞いて、
『阿難』に、こう告げられた、――
『須跋陀』が、
『入る!』のを、
『聴(ゆる)せ!』。
是の、
『須跋陀』は、
わたしの、
『末後の( at the end )!』、
『弟子である!』、と。
『須跋陀』は、
『入って!』、
『仏』に、
『疑う!』所を、
『問うことができた!』。
『仏』が、
『意のままに!』、
『法』を、
『説いて!』、
『須跋陀』の、
『疑を断じ!』、
『道』を、
『得させられる!』と、
『須跋陀』は、
『仏に先んじて!』、
『無余涅槃』に、
『入った!』。
  末後(まつご):梵語 pazcima, antataH の訳、最後に/最終的な/最終点( at the end, lastly, finally, the finishing point. )、死/最後の身( Death. The final body )の意。
諸比丘白佛言。世尊。甚為希有。乃至末後憐愍外道梵志而共語言。 諸の比丘の仏に白して言さく、『世尊、甚だ希有と為す。乃至末後に、外道の梵志を憐愍して、語言を共にしたもうとは』、と。
諸の、
『比丘』は、
『仏に白して!』、こう言った、――
世尊!
『甚だ!』、
『希有のようです!』。
乃至、
『最後まで!』、
『外道』の、
『梵志』を、
『憐愍して!』、
『外道』と、
『語言』を、
『共にされるとは!』、と。
佛言。我非但今世末後度。先世未得道時亦末後度。乃往過去無量阿僧祇劫。有大林樹多諸禽獸。野火來燒三邊俱起。唯有一邊而隔一水。眾獸窮逼逃命無地。我爾時為大身多力鹿。以前腳跨一岸。以後腳。距一岸。令眾獸蹈背上而渡。皮肉盡壞以慈愍力忍之至死。最後一兔來。氣力已竭自強努力忍令得過。過已背折墮水而死。如是久有非但今也。 仏の言わく、『我れは但だ今世のみ、末後に度すに非ず。先世の未だ道を得ざる時にも、亦た末後に度せり。乃往過去の無量阿僧祇劫に、大林樹有りて、諸の禽獣多し。野火来たりて、三辺を焼き、倶に起れり。唯だ有る一辺のみ、一水を隔てらるれば、衆獣窮逼して、命を逃るるに、地無し。我れ爾の時、大身、多力の鹿と為りて、前脚を以って一岸を跨ぎ、後脚を以って、一岸を距て、衆獣をして、背上を蹈んで渡らしむ。皮肉尽く壊るるも、慈愍の力を以って、之を死に至るまで忍べり。最後に一兔来たるも、気力已に竭(つ)き、自ら強いて努力し、忍んで過ぐるを得しむ。過ぎ已るに背折れて水に墮ちて死せり。是の如きは久しく有るに、但だ今のみに非ず。
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
但だ、
『今世にのみ!』、
『末後に!』、
『度すのではない!』。
未だ、
『道を得ていない!』時の、
『先世の末後にも!』、
『度したのである!』。
乃往過去の無量阿僧祇劫に、
有る、
『大樹林』に、
諸の、
『禽獣』が、
『多くいた!』が、
『野火が来て!』、
是の、
『樹林』を、
『焼いた!』。
『火』は、
是の、
『樹林の三辺より!』、
『同時に!』、
『起り!』、
但だ、
『有る一辺のみ!』、
『河水に!』、
『隔(へだ)てられていた!』ので、
『衆獣』が、
『野火に逼られて!』、
『命を逃れようとしても!』、
『地』が、
『無かったのである!』。
わたしは、
爾の時、
『大身、多力の鹿と為り!』、
『前脚』を、
『一岸』に、
『跨がり!』、
『後脚』を、
『一岸』に、
『距(へだ)てて!』、
『衆獣』に、
『背上を蹈んで!』、
『河水を渡らせた!』。
『皮肉は尽く壊れていた!』が、
『慈愍の力で!』、
『死に至るまで!』、
『忍んでいる!』と、
『最後に!』、
『一兔』が、
『来た!』。
『気力は已に竭()きていた!』が、
自ら、
『強いて!』、
『努力し!』、
忍んで、
『兔』を、
『通過させた!』。
『兔が通過してしまう!』と、
『背が折れて!』、
『水に墮ちて!』、
『死んだのである!』。
是のように、
是の、
『事』は、
『久しく!』、
『有るのであり!』、
但だ、
『今だけ!』、
『有るのではない!』。
  乃往(ないおう):むかし、いにしえ。往昔。
  林樹(りんじゅ):林中の樹木。
  窮逼(ぐうひつ):きわまりせまる。こまりきる。困窮の極に達する。窮迫。
  (こ):またぐ。こえる。越。かく。懸。
  (ご):へだつ。へだてる。とまる。止。いたる。至。
  参考:『有部毘奈耶雑事巻38』:『乃往昔時於大山澤。有一鹿王千鹿圍繞依林而住。有大智慧預識機宜。於所居處獵者來見。而往告王。時王以兵周遍圍繞。鹿王作念我若不能救濟眾鹿。必被獵人之所屠害。爾時鹿王。四顧瞻望。而作是念我今作何方便。能令群鹿免斯苦厄。遂見深山下有澗水駛流出谷。諸鹿羸弱不能浮趒。鹿王入澗橫流而住。作大音聲普告群鹿。汝等速來可從此岸。擲上我背趒於彼岸。必得存活。若不爾者當遭屠害。於是群鹿次第悉踏大鹿王脊。皆越駛河得離危難。由諸群鹿蹄甲踐蹋。鹿王皮穿血肉皆盡唯餘脊骨。雖極苦痛心無退轉。悉令群鹿安隱得渡。仍懷顧戀誰未渡者。於群鹿中有一鹿兒不能趒渡。爾時鹿王雖受極苦。尚懷哀念不顧自身。從水而出遂取鹿兒。置於脊上渡至彼岸。鹿王遍觀知渡盡已。氣力將竭臨命終時而發誓願。我救群鹿及此鹿兒。救濟死厄不惜身命。願我當來得成無上正等覺時。令彼得渡生死羅網。置最後邊妙涅槃處。佛告諸苾芻。汝意云何勿生異念。往時鹿王者即我身是。其群鹿者拘尸那城諸壯士是。其鹿兒者即善賢是』
前得度者今諸弟子。最後一兔須跋陀是。佛世世樂行精進今猶不息。是故言精進無減。 前に度を得たる者とは、今の諸の弟子にして、最後の一兔は、須跋陀是れなり』、と。仏は世世に精進を行うを楽しみて、今猶お息みたまわず。是の故に言わく、『精進に減ずる無し』、と。
『前に!』、
『度を得た!』者とは、
『今の!』、
『諸の弟子であり!』、
『最後の!』、
『一兔』とは、
是の、
『須跋陀である!』、と。
『仏』は、
『世世に楽しんで!』、
『精進』を、
『行ってこられた!』のに、
今猶お、
『息まれない!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『精進』には、
『減退する!』ことが、
『無い!』、と。
念無減者。於三世諸法。一切智慧相應故念滿足無減。 念の減ずる無しとは、三世の諸法に於いて、一切の智慧に相応するが故に、念ずれば満足して、減ずる無し。
『念』は、
『減退する!』ことが、
『無い!』とは、――
『仏』は、
『三世の諸法』に於いて、
一切の、
『智慧』が、
『相応する!』が故に、
『念じれば!』、
『満足して!』、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
問曰。先已說念無失。今復說念無減。念無失念無減為一為異。若一今何以重說。若異有何差別。 問うて曰く、先に已に念の無失を説き、今復た念の無減を説く。念の無失と、念の無減とは、一と為すや、異と為すや。若し一なれば、今何を以ってか、重ねて説き、若し異なれば、何なる差別か有る。
問い、
先に已に、
『念』が、
『無失である!』と、
『説き!』、
今復た、
『念』は、
『無減である!』と、
『説く!』が、
『念の無失と、無減と!』は、
『一なのですか?』、
『異なのですか?』。
若し、
『一ならば!』、
今、何故、
『重ねて!』、
『説くのですか?』。
若し、
『異ならば!』、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。失念名誤錯。減名不及。失念名威儀俯仰去來法中失念。無減名住禪定神通念。過去現在世通達無礙。 答えて曰く、失念を、誤錯と名づけ、減ずるを、及ばずと名づく。失念を、威儀、俯仰、去来の法中に失念すと名づけ、無減を、禅定に住すれば、神通は、過去現在世を念じて、通達無礙なり、と名づく。
答え、
『念を失う!』とは、
『錯誤するという!』、
『意味であり!』、
『減ずる!』とは、
『前に及ばないという!』、
『意味である!』。
『念を失う!』とは、
『威儀、俯仰、去来の法』中に、
『念』を、
『失うことであり!』、
『減ずることが無い!』とは、
『禅定』に、
『住すれば!』、
『過去、現在世を念じる!』、
『神通』が、
『通達、無礙だからである!』。
問曰。何以故。念無減獨是佛法。 問うて曰く、何を以っての故にか、念の無減は、独り、是れ仏のみの法なる。
問い、
何故、
『念の無減』は、
独り、
『仏だけの!』、
『法なのですか?』。
答曰。聲聞辟支佛善修四念處故念牢固。念雖牢固猶亦減少礙不通達。如宿命智力中說。聲聞辟支佛念宿命。極多八萬劫。於廣有減。亦於見諦道中。不能念念分別。佛於念念中皆分別三相。佛心無有一法而不念者。以是故獨佛有念無減。 答えて曰く、声聞、辟支仏は善く四念処を修するが故に、念牢固なり。念、牢固なりと雖も、復た減少し、礙りて、通達せず。宿命智力中に、『声聞、辟支仏は宿命を念じて、極めて多くんば八万劫にして、広きに於いては、減ずる有り。亦た見諦道中に於いては、念念に分別する能わず。仏は、念念中に於いても、皆三相を分別す』、と説けるが如し。仏心には、一法の念ぜざる者有ること無く、是を以っての故に独り仏のみ、念の減ずる無き有り。
答え、
『声聞、辟支仏』は、
『善く、四念処を修めている!』が故に、
『念』が、
『牢固である!』が、
『念が牢固であっても!』、
猶お、
『減少し!』、
『礙(とどこお)って!』、
『通達しないからである!』。
例えば、
『宿命智力』中に、こう説いた通りである、――
『声聞、辟支仏』が、
『宿命を念じる!』と、
『極めて!』、
『多い!』者でも、
『八万劫であり!』、
『広く念じれば!』、
『減退すること!』が、
『有る!』し、
亦た、
『見諦道』中には、
『念念の!』、
『心』を、
『分別することができない!』が、
『仏』は、
『念念中の心も!』、
皆、
『三相』を、
『分別される!』、と。
『仏の心』には、
『一法すら!』、
『念じない法』が、
『無い!』ので、
是の故に、
独り、
『仏にのみ!』、
『念の無減』が、
『有るのである!』。
  参考:『大智度論巻2』:『答曰。諸阿羅漢辟支佛宿命智。知自身及他人亦不能遍。有阿羅漢知一世或二世三世十百千萬劫乃至八萬劫。過是以往不能復知。是故不滿天眼明。未來世亦如是。佛一念中生住滅時。諸結使分生時。如是住時。如是滅時。如是苦法忍苦法智中所斷結使悉覺了。知如是結使解脫。得爾所有為法解脫。得爾所無為法解脫。乃至道比忍。見諦道十五心中。諸聲聞辟支佛所不覺知。時少疾故。如是知過去眾生因緣漏盡。未來現在亦如是。是故名佛明行具足。行名身口業。唯佛身口業具足。餘皆有失。是名明行具足。』
復次宿命智力隨念知。佛於是中有力。聲聞辟支佛尚無是念力何況餘人。 復た次ぎに、宿命智力は、念に随うて知るに、仏は是の中にも力有り。声聞、辟支仏すら、尚お、是の念力無し。何に況んや、余人をや。
復た次ぎに、
『宿命智力』は、
『念に随って!』、
『宿命』を、
『知るものであり!』、
『仏』は、
是の中に、
『力』が、
『有るのである!』が、
『声聞、辟支仏すら!』、
尚お、
是の、
『念の力』が、
『無い!』。
況して、
『余の人』は、
『尚更である!』。
復次佛以一切智無礙解脫守護念。是故無減。如是等因緣故。佛念無減。 復た次ぎに、仏は、一切智の無礙解脱を以って、念を守護したまえば、是の故に減ずる無し。是れ等の因縁の故に、仏の念は減ずる無きなり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『一切智』の、
『無礙解脱を用いて!』、
『念』を、
『守護されている!』ので、
是の故に、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
是れ等のような、
『因縁』の故に、
『仏の念』には、
『減退する!』ことが、
『無い!』。
慧無減者。佛得一切智慧故慧無減。三世智慧無礙故慧無減。 慧の減ずる無しとは、仏は一切の智慧を得たまえるが故に慧の減ずる無く、三世の智慧の無礙なるが故に慧の減ずる無し。
『慧』の、
『減退すること!』が、
『無い!』とは、――
『仏』は、――
『一切の智慧を得られた!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無く!』、
『三世の智慧が無礙である!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無い!』。
復次十力四無所畏四無礙智成就故。慧無減。 復た次ぎに、十力、四無所畏、四無礙智の成就するが故に慧の減ずる無し。
復た次ぎに、
『十力、四無所畏、四無礙智の成就する!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無い!』。
復次譬如酥油豐饒燈炷清淨光明亦盛。佛亦如是。三昧王等諸三昧。禪定油念無減清淨炷。是因緣故慧光明無量無減。 復た次ぎに、譬えば酥油豊饒にして、灯炷清浄なれば、光明も亦た盛んなるが如し。仏も亦た是の如く、三昧王等の諸の三昧、禅定の油と、念の減ずる無き清浄の炷あれば、是の因縁の故に慧の光明は無量にして、減ずる無し。
復た次ぎに、
譬えば、
『酥油( clarified butter )が豊饒で!』、
『灯炷が清浄ならば!』、
亦た、
『光明』も、
『盛んであるように!』、
『仏』も、
是のように、
『三昧王三昧』等の、
『諸の三昧や、禅定という!』、
『油』が、
『豊饒であり!』、
『念という!』、
『灯芯』が、
『減じること無く!』、
『清浄である!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『慧の光明が無量であり!』、
『減じる!』ことが、
『無いのである!』。
  酥油(そゆ):梵語 ghRta, sarpis の訳、ギー、即ち澄ましバター、又はとろ火で煮て徐冷したバター (それは料理、或は宗教的な用途で用いられ、ヒンズー教徒には極めて重んじられている)( ghee id est clarified butter or butter which has been boiled gently and allowed to cool (it is used for culinary and religious purposes and is highly esteemed by the Hindus) )。
  豊饒(ぶにょう):産物食物等がゆたかに多いこと。
  灯炷(とうしゅ):とうしん。灯心。炷のみも同じ。灯油にひたしてあかりをつけるもの。
復次從初發心。無量阿僧祇劫。集一切智慧故。深心為法故。頭目髓腦悉捨。內外所有而布施。入火投山剝皮釘身。如是等無苦不受一心為集智慧故慧無減。 復た次ぎに、初発心より、無量阿僧祇劫に、一切の智慧を集むるが故に、深心を法と為すが故に、頭目、髄脳、内外の所有を悉く捨てて、而も布施し、火に入り、山に投じ、皮を剥ぎ、身に釘うちて、是れ等の如き苦の受けざる無く、一心に智慧を集めたまえば、故に慧の減ずる無きなり。
復た次ぎに、
『仏』は、
『初発心より!』、
『無量阿僧祇の劫』に、
一切の、
『智慧』を、
『集められた!』が故に、
深い、
『心』を、
『法( principle )とされた!』が故に、
『頭目、髄脳』等の
『内、外の所有』を、
悉く、
『捨てて!』、
『布施とし!』、
『身』を、
『火に入れ!』、
『山に投じ!』、
『皮を剥いで!』、
『身』に、
『釘うつような!』、
是れ等のように、
『受けない!』、
『苦』は、
『無く!』、
『一心』に、
『智慧』を、
『集められた!』が為の故に、
『仏の慧』は、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
復次佛智慧。以一切功德持戒禪定等助成故慧無減。 復た次ぎに、仏の智慧は、一切の功徳、持戒、禅定等を以って、助成するが故に慧の減ずる無し。
復た次ぎに、
『仏の智慧』は、
一切の、
『功徳、持戒、禅定』等が、
『助けて!』、
『成就する!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
復次世世求一切經書。世俗法佛法麤細善不善。悉皆學知故慧無減。 復た次ぎに、世世に一切の経書を求めて、世俗法、仏法の麁細、善不善を悉く皆学知するが故に、慧の減ずる無し。
復た次ぎに、
『仏』は、
世世に、
『一切の経書を求めて!』、
『世俗法や、仏法の麁細や、善不善』を、
悉く、皆、
『学んで!』、
『知られた!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
復次從十方無量諸佛所聞法讀誦思惟修習問難故慧無減。 復た次ぎに、十方の無量の諸仏に従って、聞く所の法を読誦し、思惟、修習、問難したまえるが故に、慧の減ずる無し。
復た次ぎに、
『十方の無量の諸仏に従って!』、
『聞いた!』所の、
『法』を、
『読誦、思惟、修習、問難された!』が故に、
『慧』の、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
復次為一切眾生故。為增益一切善法故。破一切處無明故慧無減。 復た次ぎに、一切の衆生の為の故に、一切の善法を増益せんが為の故に、一切処の無明を破るが故に、慧の減ずる無し。
復た次ぎに、
一切の、
『衆生』の為の故に、
一切の、
『善』の、
『法』を、
『増益する!』為の故に、
一切の、
『処』の、
『無明』を、
『破る!』為の故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
復次是智慧實知諸法相不生不滅不淨不垢無作無行。不分別是智非智知諸法一等清淨如虛空無染無著。不以二法故得不二入法相。不二入法相無量無邊。以是故慧無減。如是等種種因緣慧無減。 復た次ぎに、是の智慧は、実に諸の法相の不生、不滅、不浄、不垢、無作、無行なるを知り、是れ智なるや、智に非ざるやを分別せず、諸法の一等、清浄なること、虚空の如く、無染、無著なるを知り、二法を以ってせざるが故に、不二入の法相を得。不二入の法相は無量、無辺なれば、是を以っての故に慧の減ずる無し。是れ等の如き種種の因縁に、慧の減ずる無きなり。
復た次ぎに、
是の、
『仏の智慧』は、
諸の、
『法の相』が、
『不生、不滅、不浄、不垢、無作、無行である!』ことを、
『実に!』、
『知り!』、
是れが、
『智であるのか?』、
『智でないのか?』を、
『分別せず!』、
諸の、
『法』が、
『一様、平等である!』が故に、
『虚空のように!』、
『清浄であり!』、
『染する!』ことも、
『著する!』ことも、
『無い!』と、
『知り!』、
『二法を用いて!』、
『分別しない!』が故に、
『不二入の法相』を、
『得るのである!』が、
是の、
『不二入の法相』は、
『無量であり!』、
『無辺である!』ので、
是の故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『慧』の、
『減退する!』ことは、
『無いのである!』。
解脫無減者。解脫有二種。有為解脫無為解脫。有為解脫名無漏智慧相應解脫。無為解脫名一切煩惱習都盡無餘。佛於二解脫無減。何以故。聲聞辟支佛智慧不大利故。煩惱不悉盡故智慧有減。佛智慧第一利故煩惱習永盡無餘故解脫無減。 解脱に減ずる無しとは、解脱には二種有り、有為解脱と無為解脱なり。有為解脱を、無漏の智慧相応の解脱と名づけ、無為解脱を、一切の煩悩の習の都て尽き、無余なりと名づく。仏は二解脱に於いて減ずる無し。何を以っての故に、声聞、辟支仏の智慧は大利ならざるが故に、煩悩も悉くは尽きざるが故に智慧の減ずる有るも、仏の智慧は第一に利なるが故に、煩悩の習も永く尽きて無余なるが故に解脱の減ずる無し。
『解脱』の、
『減退する!』ことが、
『無い!』とは、――
『解脱』には、
『二種有り!』、
『有為解脱と!』、
『無為解脱とである!』が、
『有為解脱』は、
『無漏』の、
『智慧に相応する!』、
『解脱であり!』、
『無為解脱』は、
『一切の煩悩の習』が、
『都て尽きて!』、
『余の無いことである!』。
『仏』は、
『二解脱』に於いて、
『減退する!』ことが、
『無い!』。
何故ならば、
『声聞、辟支仏の智慧』は、
『大利でない!』が故に、
『煩悩』が、
『悉く尽きることがない!』が故に、
『智慧』の、
『減退すること!』が、
『有る!』が、
『仏の智慧』は、
『第一大利である!』が故に、
『煩悩の習』が、
『永く尽きて!』、
『余が無く!』、
是の故に、
『解脱』の、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
  有為解脱(ういげだつ):梵語毘木叉vimokSaの訳。無為解脱に対す。又無学支と名づく。即ち無学の勝解なり。勝解を大地法の心所と為すが故に有為と為し、有為法の勝解は、無学の果体に起るが故に、有為解脱と云う。「毘婆沙論巻28」、「倶舎論巻25」を見よ。<(丁)『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  無為解脱(むいげだつ):梵語木叉muktiの訳。即ち択滅涅槃にして、諸の有漏の法が繋縛を遠離し、解脱を証得するを云う。『大智度論巻18下注:解脱、巻19上注:三無為』参照。
復次如漏盡力中說。佛與聲聞解脫有差別。佛得漏盡力故解脫無減。二乘無力故有減。 復た次ぎに、漏尽力中に説けるが如く、仏と声聞との解脱には、差別有り。仏は漏尽の力を得るが故に解脱の減ずること無く、二乗は力無きが故に減ずる有り。
復た次ぎに、
『漏尽力』中に、説いたように、――
『仏と、声聞と!』の、
『解脱』には、
『差別』が、
『有る!』。
『仏』は、
『漏尽力を得ていられる!』が故に、
『解脱の減退』が、
『無い!』が、
『二乗』は、
『漏尽力の無い!』が故に、
『減退すること!』が、
『有る!』。
  参考:『大智度論巻24』:『漏盡智力者。問曰。九力智慧分別有差別。漏盡則同。一切聲聞辟支佛有何等異。答曰。雖漏盡是同。智慧分別大差別。聲聞極大力思惟所斷結生分住分滅分三時斷。佛則不爾。一生分時盡斷。聲聞人見諦所斷結使生時斷。思惟所斷三時滅。佛則見諦所斷思惟所斷無異。聲聞人初入聖道時。入時與達時異。佛則一心中亦入亦達。一心中得一切智。一心中壞一切障。一心中得一切佛法。復次諸聲聞人。有二種解脫。煩惱解脫法障解脫。佛有一切煩惱解脫。亦有一切法障解脫。佛自然得智慧。諸聲聞人隨教道行得。復有人言。若佛以智慧斷一切眾生煩惱。其智亦不鈍不減。譬如熱鐵丸著少綿上。雖燒此綿而火熱勢不減。佛智慧亦如是。燒一切煩惱智力亦不減。復次聲聞但知自盡漏。諸佛自知盡漏亦知盡他人漏。』
解脫知見無減者。佛於諸解脫中。智慧無量無邊清淨故。名解脫知見無減。 解脱知見の減ずる無しとは、仏は諸の解脱中に於いて、智慧の無量、無辺にして清浄なるが故に、解脱知見の減ずる無しと名づく。
『解脱知見』の、
『減退する!』ことが、
『無い!』とは、――
『仏』は、
『諸の解脱』中に於いて、
『智慧』が、
『無量、無辺であり!』、
『清浄である!』が故に、
『解脱知見』の、
『減退する!』ことが、
『無いというのである!』。
問曰。佛一切法中無減。何以故。但六事中無減。 問うて曰く、仏は一切法中に減ずる無し。何を以っての故にか、但だ六事中に減ずる無き。
問い、
『仏』は、
『一切の法』中に、
『減退する!』ことが、
『無いのに!』、
何故、
但だ、
『六事』中にのみ、
『減退する!』ことが、
『無いのですか?』。
答曰。一切自利他利中四事能具足。欲求一切善法之根本。精進能行念能守護。如守門人善者聽入惡者遮。慧照一切法門。斷一切煩惱。用是四法事得成辦。是四法果報有二種。一者解脫二者解脫知見。解脫義如先說。 答えて曰く、一切の自利、他利中に、四事を善く具足し、欲もて、一切の善法の根本を求め、精進もて、能く行い、念もて、能く守護すること、守門人の善なれば入るを聴し、悪なれば遮るが如く、慧もて一切の法門を照らして、一切の煩悩を断つ。是の四法を用うれば、事の成辦するを得。是の四法の果報には二種有りて、一には解脱、二には解脱知見なり。解脱の義は先に説けるが如し。
答え、
『四事』は、
一切の、
『自利、他利』中に、
『事』を、
『具足させられるからである!』。
謂わゆる、
『欲』は、
一切の、
『善法』の、
『根本であり!』、
『精進』は、
一切の、
『善法』を、
『行わせることができ!』、
『念』は、
『守門人』が、
『善ならば!』、
『入る!』のを、
『聴し!』、
『悪ならば!』、
『入る!』のを、
『遮るように!』、
『善法』を、
『行わせるように!』、
『守護し!』、
『慧』は、
一切の、
『法門』を、
『照らして!』、
一切の、
『煩悩』を、
『断じる!』ので、
是の、
『四法を用いれば!』、
『事』が、
『成辦するからである!』。
是の、
『四法の果報』には、
『二種有り!』、
一には、
『解脱であり!』、
二には、
『解脱知見である!』が、
『解脱の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。
  成辦(じょうべん):成就し具足するの意。
  (べん):具なり。事の順序に随いて挙げざる無きを謂うなり。
解脫知見者。固是解脫知見。知是二種解脫相。有為無為解脫知諸解脫相。所謂時解脫不時解脫慧解脫俱解脫壞解脫不壞解脫八解脫不可思議解脫無礙解脫等。分別諸解脫相牢固不牢固。是名解脫知見無減。如念佛中佛成就五無學眾。解脫知見眾此中應廣說。 解脱知見とは、固(もと)より是の解脱知見は、是の二種の解脱相の有為と、無為との解脱を知り、諸の解脱相の、謂わゆる時解脱、不時解脱、慧解脱、九解脱、壊解脱、不壊解脱、八解脱、不可思議解脱、無礙解脱等を知り、諸の解脱相の牢固なりや、不牢固なりやを分別す。是れを解脱知見の減ずる無しと名づく。『念仏』中の仏の成就したもう五無学衆の解脱知見衆の如く、此の中に応に広く説くべし。
『解脱知見』とは、
原来、
是の、
『解脱知見』は、
『有為解脱、無為解脱という!』、
是の、
『二種の解脱』の、
『相』を、
『知るのであり!』、
謂わゆる、
『時解脱と、不時解脱と!』、
『慧解脱と、倶解脱と!』、
『壊解脱と、不壊解脱と!』、
『八解脱、不可思議解脱、無礙解脱等である!』、
諸の、
『解脱相』が、
『牢固なのか、不牢固なのか?』を、
『分別する!』ので、
是れを、
『解脱知見』の、
『減退すること!』が、
『無いというのである!』。
『念仏』中に、こう説いたが、――
『仏』は、
『五無学衆(無漏の戒、定、慧、解脱、解脱知見衆)』を、
『成就された!』、と。
此の中にも、
『仏の解脱知見衆』を、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
  (こ):<形容詞>[本義]堅い/堅固な( solid, firm )。地勢的に険要/堅固であり近づき難い( strategically located and difficult of access )、もとより/久しい( of long time )、[病の]慢性的な( chronic )、安定した( stable )、もっぱら/固執した/専一な( single-minded )。<動詞>固める/丈夫にする( solidify, strengthen )、守る( abide by )、安定させる( stabilize )、閉ざす/塞ぐ( close up, stop up )。<副詞>毅然として/決然として( firmly, resolutely )、必ず/定んで/一に( surely )、もとより/原来/本来( originally )、もとより/当然( of course )、確実に( certainly )、もとより/すでに/已に( already )。
  時解脱(じげだつ):鈍根の者が時を待って解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  不時解脱(ふじげだつ):利根の者が時を待たずに解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  慧解脱(えげだつ):無癡無貪の善根に由り、唯煩悩障のみを離るるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  倶解脱(くげだつ):煩悩、及び解脱の二障を併せ断ずるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  壊解脱(えげだつ):又時解脱とも称す。鈍根の者が時を待って解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  不壊解脱(ふえげだつ):又不時解脱とも称す。利根の者が時を待つことなく解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  八解脱(はちげだつ):又八背捨とも名づく。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  不可思議解脱(ふかしぎげだつ):解脱とは、三昧の異名なり。三昧の神用は、巨細相容れ、随って法を変化し、自在にして無礙なれば、一切の繋縛を離るるが故に、解脱と云う。「維摩経不思議品」に明す所の一端なり。又華厳の一部に明す所の、多くは無礙の法相は総じて是れなり。「維摩経不思議品」に、「維摩詰の言わく、唯舎利弗、諸仏菩薩に解脱有り、不可思議と名づく。若し菩薩、此の解脱に住すれば、須弥の高広なるを以って芥子中に内るるも、増減する所無し。須弥山は本より相如なるが故なり。而も四天王忉利の諸天は、己の入る所を覚らず知らず。唯だ応に度すべき者のみ、乃ち須弥の芥子中に入れるを見る。是れを不可思議解脱の法門と名づく。又四大海水を以って、一毛孔に入るるも、魚鱉、黿鼉、水性の属を嬈まさず、而も彼の大海は本より性如なるが故なり」と云い、「註巻1」に、「什曰わく、解脱も亦た三昧に名づけ、亦た神足に名づく。或いは修をして短ならしめて度を改め、或いは巨細相容れ、変化随意にして、法に於いて自在、解脱、無礙なるが故に、解脱と名づく。能くする者の能くすること然れども、物として所以を知らざるが故に、不思議と曰う」と云えり。応に知るべし。<(丁)
  無礙解脱(むげげだつ):唯仏のみ煩悩障礙、定障礙、一切法障礙の三種の礙を解脱せりの意。『大智度論巻18下注:解脱、巻21下注:無礙解脱』参照。
  五無学衆(ごむがくしゅ):無漏の五陰の意。即ち無漏の戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆を云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  参考:『大智度論巻21』:『復次念佛解脫知見眾具足。解脫知見眾有二種。一者佛於解脫諸煩惱中。用盡智自證知。知苦已斷集已盡證已修道已。是為盡智解脫知見眾。知苦已不復更知。乃至修道已不復更修。是為無生智解脫知見眾。二者佛知是人入空門得解脫。是人無相門得解脫。是人無作門得解脫。是人無方便可令解脫。是人久久可得解脫。是人不久可得解脫。是人即時得解脫。是人軟語得解脫。是人苦教得解脫。是人雜語得解脫。是人見神通力得解脫。是人說法得解脫。是人婬欲多。為增婬欲得解脫。是人瞋恚多。為增瞋恚得解脫。如難陀漚樓頻螺龍是。如是等種種因緣得解脫。如法眼中說。於是諸解脫中了了知見。是名解脫知見眾具足。』
問曰。解脫知見者但言知。何以復言見。 問うて曰く、解脱知見にして、但だ知のみを言わんや、何を以ってか、復た見ると言う。
問い、
『解脱知見』が、
但だ、
『知』を、
『言うだけならば!』、
何故、復た、
『見』と、
『言うのですか?』。
答曰。言知言見事得牢固。譬如繩二合為一則牢固。 答えて曰く、知と言い、見と言えば、事の牢固なるを得ればなり。譬えば縄の二を合して一と為せば、則ち牢固なるが如し。
答え、
『知と、見と!』を、
『言う!』が故に、
『事』が、
『牢固となるのである!』。
譬えば、
『縄』が、
『二条』を、
『合して!』、
『一条にする!』が故に、
則ち、
『牢固になるようなものである!』。
復次若但說知則不攝一切慧。如阿毘曇所說。慧有三種。有知非見有見非知有亦知亦見。有知非見者。盡智無生智五識相應智。有見非知者。八忍世間正見五邪見。有亦知亦見者。餘殘諸慧。若說知則不攝見。若說見則不攝知。是故說知見則具足。 復た次ぎに、若し但だ知のみを説けば、則ち一切の慧を摂せず。阿毘曇の所説の如く、慧には三種有り、有るいは知にして、見に非ず、有るいは見にして、知に非ず、有るいは亦た知にして、亦た見なり。有るいは知にして、見に非ずとは、尽智と、無生智と、五識相応の智なり。有るいは見にして、知に非ずとは、八忍と、世間の正見と、五邪見なり。有るいは亦た知にして、亦た見なりとは、余残の諸慧なり。若し知を説けば、則ち見を摂せず、若し見を説けば、則ち知を摂せず。是の故に知、見を説けば、則ち具足す。
復た次ぎに、
若し、
但だ、
『知を説けば!』、
則ち、
『一切の慧』を、
『包含しないからである!』、
例えば、
『阿毘曇』には、こう説かれている、――
『慧』には、
『三種有り!』、
有るいは、
『知である!』が、
『見ではなく!』、
有るいは、
『見である!』が、
『知ではなく!』、
有るいは、
『知でもあり!』、
『見でもある!』、と。
『知であって、見でない!』とは、――
『尽智、無生智と!』、
『五識相応の智である!』。
『見であって、知でない!』とは、――
『八忍と!』、
『世間の正見と!』、
『五邪見である!』。
『知でもあり、見でもある!』とは、
『余残の諸の慧である!』。
若し、
『知を説けば!』、
則ち、
『見』を、
『含まないことになり!』、
若し、
『見を説けば!』、
則ち、
『知』を、
『含まないことになる!』ので、
是の故に、
『知と!』、
『見と!』を、
『説けば!』、
則ち、
『慧』が、
『具足することになる!』。
  (しょう):含む/包含する( contain )、梵語 saMgraha, samavasaraNa, anugraha, parigraha の訳、保持する/持つ/含める/[或るグループ/組に]属する/集める/寄せ集める/結びつける( To hold, have, include; to be included (within a certain group or set, etc.); collect, gather together, combine )、受け取る/受け容れる( taking, accepting, receiving )の義。取締る/指図する/専心する/包含する( To control, direct, attend to, emblace )、所属する/属する/一部となる/傘下に入る( To relate to, belong to, be part of, fall under, be affiliated with )の意。
  尽智(じんち):十智の一。無学位に於いて我れ已に苦を知り、我れ已に集を断じ、我れ已に滅を証し、我れ已に道を修せりと遍知し、漏尽の得と俱生する無漏智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  無生智(むしょうち):無学位に於いて我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと遍知し、非択滅の得と俱生する無漏智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  五識(ごしき):眼耳鼻舌身の五根に依りて生じ、色声香味触の五境を縁ずる五種の心識にして、一に眼識、二に耳識、三に鼻識、四に舌識、五に身識なり。此れ六識中の前五識と為すが故に常に称して、前五識と為す。三界中の欲界の有情には六識あり、色界の初禅天には、鼻舌二識無く、二禅天以上には五識無くして、唯だ意識の一あるのみ。<(丁)
  八忍(はちにん):苦集滅道の法智忍、苦集滅道の類智忍(比智忍)を云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  五邪見(ごじゃけん):五種の邪見の意。『大智度論巻26上注:五見、巻41下注:十結』参照。
  五見(ごけん):梵語paJca dRSTayaHの訳。五種の見の意。又五染汙見、五僻見、或いは五利使とも名づく。即ち親しく理に迷うて起る五種の惑を云う。一に有身見、二に辺執見、三に邪見、四に見取見、五に過戒禁取見なり。「大智婆沙論巻49」に、「五見あり、謂わく有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取なり」と云い、「倶舎論巻19」に、「我我所と、断常と、撥無と、劣を勝と謂うと、因と道とに非ざるを妄に謂うとは、是れ五見の自体なり」と云える是れなり。此の中、有身見は即ち我及び我所を執するを云い、辺執見は所執の我我所の事に於いて断滅若しくは常住と執するを云い、邪見は四諦因果の理を撥無するを云い、見取は劣に於いて勝と謂うを云い、戒禁取は因に非ず道に非ざるを妄に因又は道と計するを云う。共に見所断の惑にして三界四部に総じて三十六事あり。即ち有身見と辺執見の二は各三界見苦所断なるが故に六事あり、邪見と見取の二は各三界四部の所断なるが故に二十四事あり、戒禁取は三界各見苦道所断なるが故に六事あり。又之を五染汙見と名づくるは、此の五見は唯染汙なるが故なり。五僻見と名づくるは、共に理に迷うて起る見なるが故なり。五利使と名づくるは、直に理を推求して其の性猛利なるが故なり。又「大毘婆沙論巻46」、「成実論巻10」、「雑阿毘曇心論巻4」、「順正理論巻46、47」、「成唯識論巻6」、「雑集論述記巻3」、「大乗義章巻6」、「倶舎論光記巻19」、「同宝疏巻19」等に出づ。<(望)
復次如從人誦讀分別籌量是名知。自身得證是名見。譬如耳聞其事猶尚有疑是名知。親自目睹了了無疑是名見。解脫中知見亦如是差別。 復た次ぎに、人に従いて、読誦し、分別し、籌量するが如き、是れを知と名づけ、自ら身に証を得る、是れを見と名づく。譬えば耳に其の事を聞きても、猶尚お疑有る、是れを知と名づけ、親しく自ら目に睹(み)るに了了として疑無き、是れを見と名づくるが如し。解脱中の知と見とも亦た是の如く差別す。
復た次ぎに、
譬えば、
『人に従って!』、
『読誦し、分別し、寿量すれば!』、
是れを、
『知』と、
『称し!』、
『自らの身に!』、
『確証を得れば!』、
是れを、
『見』と、
『称する!』。
譬えば、
『耳』に、
其の、
『事』を、
『聞いても!』、
猶尚お、
『疑』が、
『有るので!』、
是れを、
『知』と、
『称し!』、
『自ら親しく!』、
『目に見れば!』、
了了として、
『疑』が、
『無い!』ので、
是れを、
『見』と、
『称するようなものである!』。
  知見(ちけん):知識に基づく見解( informed view )、梵語 jJaana-darzana, pra-√(jJaa), jJaana- nidarzana, jJaana- saMdarzana, darzana, dRSta, adhigama 等の訳、知識と見解/知ることと見ること( Knowledge and vision, knowing and seeing )の義、知識に基づく理解/見て知ること(An understanding based on knowledge, to know by seeing )の意。又知ること及び指し示すこと或は見せる/導く/告げる/宣言する/教える/証明すること( Knowing and pointing to or showing, indicating, announcing, proclaiming, teaching, proof, proving )の義。
復次有人言。阿羅漢自於解脫中疑不能自了。是阿羅漢非阿羅漢。以是故佛為破如是邪見故。說諸聖人於解脫中亦知亦見。 復た次ぎに、有る人の言わく、『阿羅漢にして、自ら解脱中に疑いて、自ら了する能わざれば、是の阿羅漢は、阿羅漢に非ず』、と。是を以っての故に、仏は是の如き邪見を破らんが為の故に、説きたまわく、『諸聖人は、解脱中に於いて亦た知り、亦た見る』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『阿羅漢』が、
自ら、
『解脱』中に、
『疑って!』、
自ら、
『疑』を、
『晴らすことができなければ!』、
是の、
『阿羅漢』は、
『阿羅漢でない!』、と。
是の故に、
『仏』は、
是のような、
『邪見』を、
『破る!』為の故に、
こう説かれたのである、――
『諸の聖人』は、
『解脱』中に於いて、
『知っており!』、
『見ている(疑わない)のである!』、と。
諸阿羅漢雖得解脫知見。解脫知見有減。不得一切智故。上上智慧根不成就故。諸法念念生滅時。不知別相分別故。佛上上智慧根成就。知諸法念念別相生滅故。解脫知見無減。 諸の阿羅漢は、解脱知見を得と雖も、解脱知見の減ずること有るは、一切智を得ざるが故に、上上の智慧根の成就せざるが故に、諸法の念念に生滅する時、別相の分別を知らざるが故なり。仏は上上の智慧根成就して、諸法の念念の別相の生滅を知るが故に、解脱知見の減ずる無し。
諸の、
『阿羅漢』は、
『解脱知見を得ていても!』、
『解脱知見』に、
『減退する!』ことが、
『有る!』のは、
是の、
『阿羅漢』は、
『一切智』を、
『得ていないからであり!』、
『上上の!』、
『智慧根』が、
『成就していないからであり!』、
『諸法が念念に生、滅する!』時、
『別相の分別』を、
『知らないからである!』が、
『仏』は、
『上上の!』、
『智慧根』が、
『成就しており!』、
『諸法の念念の!』、
『別相の生、滅』を、
『知っていられる!』が故に、
『解脱知見』には、
『減退すること!』が、
『無いのである!』。
復次法眼清淨具足成就故。如法眼義中說。知是眾生空解脫門入涅槃。是眾生無相解脫門入涅槃。是眾生無作解脫門入涅槃。知是眾生觀五眾門十二入十八界。如是種種法門得解脫。佛於解脫知見盡知遍知。是故說佛解脫知見無減。 復た次ぎに、法眼の清浄が具足して成就するが故なり。法眼の義中に、『是の衆生は空解脱門より涅槃に入り、是の衆生は無相解脱門より涅槃に入り、是の衆生は無作解脱門より涅槃に入ると知り、是の衆生は五衆の門、十二入、十八界、是の如き種種の法門を観て、解脱を得と知る』、と説けるが如く、仏は解脱知見に於いて、尽く知り、遍く知りたまえば、是の故に説かく、『仏の解脱知見に減ずる無し』、と。
復た次ぎに、
『法眼の清浄』が、
『具足して!』、
『成就している!』が故に、
『仏の解脱知見』は、
『減退する!』ことが、
『無いのである!』。
例えば、
『法眼の義』中に、こう説いたように、――
是の、
『衆生』は、
『空解脱門より!』、
『涅槃に入る!』、
是の、
『衆生』は、
『無相解脱門より!』、
『涅槃に入る!』、
是の、
『衆生』は、
『無作解脱門より!』、
『涅槃に入る!』と、
『知り!』、
是の、
『衆生』は、
『五衆の門や!』、
『十二入、十八界の門や!』、
是のような、
『種種の法門を観察して!』、
『解脱を得る!』と、
『知る!』、と。
『仏』は、
『解脱知見』に於いて、
『尽く、知り!』、
『遍く、知る!』が故に、
是の故に、こう説くのである、――
『仏の解脱知見』には、
『減退すること!』が、
『無い!』、と。
  参考:『大智度論巻7』:『問曰。佛有佛眼慧眼法眼勝於天眼。何以用天眼觀視世界。答曰。肉眼所見不遍故。慧眼知諸法實相。法眼見是人以何方便行何法得道。佛眼名一切法現前了了知。今天眼緣世界及眾生無障無礙。餘眼不爾。慧眼法眼佛眼雖勝。非見眾生法。欲見眾生唯以二眼。肉眼天眼。以肉眼不遍有所障故。用天眼觀。』
  参考:『大智度論巻40』:『【經】舍利弗白言。世尊。云何菩薩摩訶薩法眼淨。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以法眼知是人隨信行。是人隨法行。是人無相行。是人行空解脫門。是人行無相解脫門。是人行無作解脫門得五根。得五根故得無間三昧。得無間三昧故得解脫智。得解脫智故斷三結。有眾見疑齋戒取。是人名為須陀洹。是人得思惟道。薄婬恚癡當得斯陀含增進思惟道。斷婬恚得阿那含增進思惟道。斷色染無色染無明慢掉得阿羅漢。是人行空無相無作解脫門得五根。得五根故得無間三昧。得無間三昧故得解脫智。得解脫智故知所有集法皆是滅法。作辟支佛。是為菩薩法眼淨。復次舍利弗。菩薩摩訶薩知是菩薩初發意行檀波羅蜜。乃至行般若波羅蜜。成就信根精進根。善根純厚用方便力故。為眾生受身。若生剎利大姓。若生婆羅門大姓。若生居士大家。若生四天王天處乃至他化自在天處。是菩薩於其中住成就眾生。隨其所樂皆給施之。亦淨佛世界。值遇諸佛供養恭敬尊重讚歎。乃至阿耨多羅三藐三菩提。亦不墮聲聞辟支佛地。是為菩薩摩訶薩法眼淨。復次舍利弗。菩薩摩訶薩如是知是菩薩於阿耨多羅三藐三菩提退。知是菩薩於阿耨多羅三藐三菩提不退。知是菩薩受阿耨多羅三藐三菩提記。知是菩薩未受阿耨多羅三藐三菩提記。知是菩薩到阿鞞跋致地。知是菩薩未到阿鞞跋致地。知是菩薩具足神通。知是菩薩未具足神通。知是菩薩已具足神通飛到十方如恒河沙等世界。見諸佛供養恭敬尊重讚歎。知是菩薩未得神通當得神通。知是菩薩當淨佛世界未淨佛世界。是菩薩成就眾生未成就眾生。是菩薩為諸佛所稱譽所不稱譽。是菩薩親近諸佛不親近佛。是菩薩壽命有量壽命無量。是菩薩得佛時比丘眾有量比丘眾無量。是菩薩得阿耨多羅三藐三菩提時。以菩薩為僧不以菩薩為僧。是菩薩當修苦行難行不修苦行難行。是菩薩一生補處未一生補處。是菩薩受最後身未受最後身。是菩薩能坐道場不能坐道場。是菩薩有魔無魔。如是舍利弗。是為菩薩摩訶薩法眼淨』


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