巻第二十五(下)
大智度論釋初品中四無畏義第四十之餘
1.正遍知
2.師子吼
3.梵輪を転じる
4.無畏の性
5.菩薩の十力、四無所畏
6.四無礙智
7.菩薩の四無礙智
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大智度論釋初品中四無畏義第四十之餘
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


正遍知

正遍知者。知一切法不顛倒正不邪。如餘過去諸佛。是名三藐三佛陀。如佛告阿難。一切世間天及人所不能知。佛能遍知故。名三藐三佛陀。 正遍知とは、一切の法を知りて顛倒せず、正しく邪ならざること、余の過去の諸仏の如し、是れを三藐三仏陀と名づく。仏の阿難に告げたもうが如し、『一切の世間の天、人の知る能わざる所を、仏は能く遍く知るが故に、三藐三仏陀と名づく』、と。
『正遍知』とは、
一切の、
『法』を、
『知りながら!』、
『顛倒せず!』、
正しく、
余の、
『過去の諸仏のように!』、
『邪でない!』ので、
是れを、
『三藐三仏陀』と、
『称する!』。
例えば、
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられている、――
一切の、
『世間』の、
『天、人』の、
『知ることのできない!』所を、
『仏』は、
『遍く!』、
『知ることができる!』ので、
是れを、
『三藐三仏陀』と、
『称する!』、と。
若有人言是法不知。問曰。是何人。答曰。是中佛說。若沙門婆羅門若天若魔若梵。乃至欲與佛論者。 若しは、有る人の言わく、『是の法を知らず』、と。問うて曰く、『是れ何なる人なり』、と。答えて曰く、『是の中に仏の説きたまわく、若しは沙門、婆羅門、若しは天、若しは魔、若しは梵、乃至仏と論ぜんと欲する者なり』、と。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
是の、
『法』は、
『知っていられないだろう!』、と。
問い、
是れは、
何のような、
『人ですか?』。
答え、
是の中に、
『仏』は、こう説かれている、――
『沙門や、婆羅門であるとか!』、
『天や、魔や、梵であるとか!』、
『乃至仏と論じようとする者である!』、と。
論何等法。有人言。佛所不說外諸經書弊迦蘭那僧佉韋陀等。十八種大經書。有人言。須彌山斤兩大地深淺一切草木頭數。有人言。是常無常有邊無邊十四難佛不能答。有人言。是法色法無色法可見不可見有對無對有漏無漏有為無為等。佛但知一種道事因緣。是異法種種因緣。佛或不悉知。 何等の法をか論ずる。有る人の言わく、『仏の説きたまわざる所の外の諸の経書、弊迦蘭那、僧佉、韋陀等の十八種の大経書なり』、と。有る人の言わく、『須弥山の斤両、大地の深浅、一切の草木の頭数なり』、と。有る人の言わく、『是れ常なり、無常なり、有辺なり、無辺なりの十四難には、仏は答うる能わず』、と。有る人の言わく、『是の法は色法なり、無色法なり、可見なり、不可見なり、有対なり、無対なり、有漏なり、無漏なり、有為なり、無為なり。仏は但だ一種の道事の因縁を知りたまえども、是の異法の種種の因縁は、仏は或は悉くは知りたまわざらん』、と。
何のような、
『法』を、
『論じるのか?』。
有る人は、こう言っている、――
『仏が、お説きにならない!』所の、
『外道』の、
『諸の経書である!』、
『弊迦蘭那、僧佉、韋陀等の十八種の大経の書である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『須弥山の斤両(重量)や!』、
『大地の深浅や!』、
『一切の草木の頭数(本数)である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
是れは、
『常である!』とか、
『無常である!』とか、
『有辺である!』とか、
『無辺である!』とかの、
『十四の難問』には、
『仏』は、
『答えることができないからである!』、と。
有る人は、こう言っている、――
是の、
『法』は、
『色法である!』とか、
『無色法である!』とか、
『可見である!』とか、
『不可見である!』とか、
『有対である!』とか、
『無対である!』とか、
『有漏である!』とか、
『無漏である!』とか、
『有為である!』とか、
『無為である!』等である。
何故ならば、
『仏』は、
但だ、
一種の、
『道事の因縁』を、
『知るだけであり!』、
是の、
『異法(余事)の種種の因縁』を、
『仏でも!』、
或は、
『悉くは!』、
『知らないからである!』、と。
  弊迦蘭那(へいからんな):梵語 vyaakaraNa、又毘伽羅論と称す。十八大経の一。音声論なり。『大智度論巻25上注:十八大経』参照。
  僧佉(そうぎゃ):梵語 saaMkhyaa の音写、数論と訳す。外道の一派。『大智度論巻22上注:数論、巻25上注:数論』参照。
  韋陀(いだ):外道の解脱法等を明す四種の経典。『大智度論巻25上注:吠陀、十八大経』参照。
  吠陀(べいだ):梵名 veda。巴梨名同じ。又吠駄、薜陀、毘陀、鞞陀、比陀、皮陀、韋陀、違陀、囲陀、闈陀、或いは違駄に作る。智、明、明智、明解、或いは分と訳し、一に囲陀論、毘陀論経、薜陀呪、又は智論、明論とも称す。即ち印度婆羅門教の根本聖典なり。之に元と三種あり、一に梨倶吠陀 Rg- veda(巴 iru- veda、又は iru- bbeda)、二に三摩吠陀 saama- veda(巴同じ)、三に夜柔吠陀 yajur- veda(巴同じ)なり。之を三明 trayii vidyaa、三韋陀論、或いは三部旧典と呼び、後更に阿闥婆吠陀 atharva- veda(又は atharvaNa- veda、巴 athabbana- veda)を加えて四種となし、四吠陀、四薜陀論、四囲陀書、四吠陀論、四典経、四明論、或いは四論とも称するなり。「長阿含巻13阿摩昼経」に、「此の婆羅門は七世已来父母真正にして、他人の軽毀する所とならず、三部の旧典を諷誦通利し、種種の経書を皆能く分別す」と云い、「中有阿含巻37阿摂惒経」に、「七世の父母種族を絶たず、生生悪なく、博聞総持して四典経(巴梨文には三吠陀とす)を誦過し、深く因縁、正文、戯と五に句説とに達す」と云える是れなり。其の内容に関しては、「有部苾芻尼毘奈耶巻1」に、「翁声蓬声及び四薜陀悉く皆明了なり。所謂一に頡力薜陀、二に耶樹薜陀、三に娑摩薜陀、四に阿健薜陀なり。薜陀は訳して明智と為す。若し此の四を解せば則ち智として周からざるなく、用として備わらざるはなし。応に四明論と云うべし。総じて十万余頌あり、口に相伝授して紙葉に書すべからず。其の中の義は初は広く作業を明かし、二は盛に讃頌を陳べ、三は祭楽法式を説き、四は治国養身なり。諸の婆羅門は咸く多く誦習す。斯の四号は正翻すべきものなし、此れが為に倶に梵字を存す」と云い、又「百論疏巻上之下」に、「四皮陀とは、一に荷力皮陀は解脱の法を明かし、二に冶受皮陀は善道の法を明かし、三に三摩皮陀は欲塵の法を明す、謂わく一切の婚嫁欲楽の事なり。四に阿闥皮陀は呪術算数等の法を明す」と云えり。此の中、梨倶吠陀は一に荷力吠陀、頡力薜陀、一力毘陀、信力毘陀、億力毘陀に作り、讃誦明論、又は作明実説と翻ず。即ち讃歌(Rc)に関する吠陀の義なり。太古アーリヤ人が印度五河地方に移住して自然神を崇拜し、之に捧げし讃歌を集成せるものにして、四吠陀の根本をなし、後勧請僧hotRの祭典書となれり。世界最古の聖典にして、西暦前一千四百年乃至一千年の間に成りしものと推定せらる。讃歌凡そ一千十七篇(補遺歌十一篇を合せて一千二十八篇となすことあり)、一万五百八十頌にして全十巻あり。三摩吠陀は又娑摩薜陀、沙磨吠陀に作り、平、等、歌詠明論、作明美言、礼儀美言智論と翻ず。即ち歌詠又は旋律(saaman)に関する吠陀の義にして、ソーマ祭等に於いて歌詠僧 udgaatR の唱うる讃歌及び其の歌曲を集成せしものに係り、祭式用の聖典なり。一千八百十頌(重複を除けば一千五百四十九頌)より成り、全二巻あり。但し此の中の頌は多くは梨倶吠陀ソーマ書中より抄出せしものにして、本書に於いて新に見るものは唯七十八頌に過ぎず。夜柔吠陀は又冶受吠陀、耶樹薜陀、耶受毘陀、耶訓毘陀、夜殊鞞陀に作り、祠、祭祠、作明供施、或いは祭祀智論と翻ず。即ち祭祠(yajus)に関する吠陀の義にして、供犠行祭を司る役僧 adhvaryu の唱うる呪文及び其の註釈を集成せしものに係り、梨倶吠陀の次期に於いて編纂せられたるものと称せらる。之に二種の所伝あり、一を黒夜柔吠陀 kRSNa- yajur- veda、他を白夜柔吠陀 zukla- yajur- veda と称す。黒夜柔吠陀は吠陀の本文(讃歌、祭祠、呪祠等)に其の註書たる梵書 braahmaNa を合糅したるものにして、四巻(或いは五巻、七巻、八巻)あり。白夜柔吠陀は本文と梵書とを截然分離したるものにして、黒夜柔を整理せしものなるべしと称せらる。阿闥婆吠陀は又阿健薜陀、阿他鞞陀、阿陀婆毘陀、阿闥吠陀、阿達婆、阿為闥婆、阿闥婆拏に作り、呪、術、呪術、禳災、作明護有、攘災明論、或いは異能護方智論とも翻ず。元とアタルヴァ・アンギラサ atharvaaGgirasa と称し、アタルヴァン atharvan 僧の司りし招福の呪詞、及びアンギラス aGgiras 僧の司りし呪咀攘災の呪詞を集成せるものなり。凡そ七百三十一篇、六千頌、全二十巻あり。但し此の中の一千二百頌は梨倶吠陀より抄出せしものに係る。又チャラナ・ヴューハ caraNa- vyuuha 等に依るに、四吠陀には各皆副吠陀upa- vedaあり。即ち梨倶吠陀に属する副吠陀を阿輸論 aayuru- veda(又は阿由)と云い、寿又は寿命論と訳す。即ち医書なり。夜柔吠陀の副吠陀を陀莬論 dhanu- veda(弓の吠陀の義)と称し、即ち射法論なり。三摩吠陀の副吠陀を揵闥婆論 gaandharva- vedaと云い、即ち音楽論なり。阿闥婆吠陀の副吠陀をシャストラ・シャーストラ zastra- zaastra(武器論の義)と云い、即ち軍学なり。彼の「大唐西域記巻2」に、「婆羅門は四吠陀論を学す、一を寿と曰う、謂わく養生繕性なり。二を祠と曰う、謂わく享祭祈祷なり。三を平と曰う、謂わく礼儀占卜兵法軍陣なり。四を術と曰う、謂わく異能伎数禁呪医方なり」と云い、「四分律疏飾宗義記巻10本」に、「西方に四鞞陀論あり。(中略)一を阿由鞞陀と名づく、謂わく医方の諸事なり。二を夜殊と名づく、謂わく祭祠なり。三を娑磨と名づく、此に等と云う。謂わく国儀卜相音楽戦法の諸事なり。四は呪術鞞陀なり」と云い、又「玄応音義巻18」、「慧琳音義巻26」、「翻訳名義集巻14」等に亦た皆同説を掲ぐるが如きは、共に四吠陀と四副吠陀とを混淆せしものというべし。又吠陀の本文を説明し、且つ祭式に於ける其の適用を解説せる註書を梵書 braahmaNa(広義)と称す。之に梵書(狭義)、森林書 aaraNyaka、奥義書 upaniSadの三部あり。就中、梵書(狭義)は儀軌 vidhi と釈義 artha- vaada との二部に分たれ、儀軌は祭祀の順序方法、讃歌の用途等を規定し、釈義は讃歌の意義及び語源、並びに祭祠の起原及び其の意義等を解説せるものなり。森林書及び奥義書は共に祭祀及び人生の意義を考察せるものにして、此の中、奥義書を特に吠檀多 vedaanta と名づくることあり。又狭義に四吠陀の本集 saMhitaa のみを吠陀と称すると共に、亦た広義に本集及び梵書(広義)を合せて総じて吠陀と呼ぶことあり。蓋し吠陀は太古の諸大仙が神の啓示によりて誦出せしものに係り、之を整理編成せしは毘耶娑 vyaasa(広博)仙人なりと伝えらる。「毘耶娑問経巻上」、「大宝積経巻120広博仙人会」、「涅槃経義記巻6下」等に、広博仙人は囲陀典を作ると云える即ち其の説なり。但し「大乗理趣六波羅蜜多経巻10」、「四分律疏飾宗義記巻10本」等には之を梵天の所説となし、「摩登伽経巻上明往縁品」には、初め大梵天は一囲陀を作り、尋いで白浄之を四囲陀となすと云い、又「大乗密厳経巻上」には之を諸如来の定力持説となせり。又「般若灯論釈巻13」には吠陀の製作に関する伝説を挙げ、「汝の韋陀中に言わく、一力山中に一力毘陀を造り、三摩山中に三摩毘陀を造り、迦逋処(唐に白鴿地と言う)に阿闥毘陀を造る」と云えり。按ずるに吠陀は知識の義にして、即ち天啓の神智を意味す。故に梵書と共に天啓zrutiと称し、之をスートラ suutra 等の人智の所作に係る伝承smRtiと区別するなり。後世弥曼蹉 miimaaMsaa 派の吠檀多 vedaanta 派等に於いて吠陀の先天常住、絶対真実を唱道し、声常住論を主張せるは、即ち天啓の説に由来するなり。「金剛針論」に、「四囲陀論は是れ万法の本なり、亦た真如と号す」と云い、「方便心論」に、「声は常なり。韋陀経典は声より出づるが故に亦た名づけて常と為す」と云い、「大乗広百論釈論巻1」に、「有余は偏に執す、明論の声は常なり。初め縁を待たず、後に壊滅なし。性として自ら能く顕れ、諸根の義を越え、決定の量と為りて曽て差違せず」と云い、又「有部苾芻尼毘奈耶巻1の注」に、「其の薜陀の声韻は外道執して以って常となす。自然より起り、無始より来たる。此の声は常住にして恒に虚空に在り。人により発出するは即ち是れ無常なり」と云えるは即ち皆其の説なり。近時印度研究の盛んなると共に吠陀の研究も亦た頓に進捗し、其の神格及び神話等に関する研究は宗教学、比較神話学等を発生し、又其の言語研究の結果は比較言語学に寄与する所甚だ多きものあるを見るに至れり。Max Muller、T.Aufrecht、Satyavrata Saamazrami、T.Benfey、W.Caland、L.von Schroeder、A.Weber、R.Roth and W.D.Whitney、Shankar Paandurang Pandit、M.Bloomfield and R.Garbe、L.C.Barret等の原典出版及びA.Ludwig、H.Grassmann、R.T.H.Griffith、K.F.Geldner、T.Benfey、A.B.Keith、W.D.Whitney and C.R.Lanman等の英独語の翻訳あり。又本邦に於いては高楠順次郎氏梨倶吠陀の中より五十二篇を抄出翻訳して是れを印度古聖歌中に収載せり。又「中阿含巻40梵志頭那経」、「仏本行集経巻3受決定品」、「同巻37」、「十誦律巻38」、「有部毘奈耶巻9」、「同出家事巻1」、「善見律毘婆沙巻1」、「大毘婆沙論巻14」、「四諦論巻1」、「雑阿毘曇心論巻7」、「大智度論巻2、3」、「十住毘婆沙論巻10」、「金七十論巻上」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末」、「翻梵語巻1」、「法華経文句巻9上」、「南海寄帰内法伝巻4」、「金光明最勝王経疏巻5本」、「慧琳音義巻31」、「希麟音義巻8、9」等に出づ。<(望)
  十八大経(じゅうはちだいきょう):印度外道の経書に十八種あるを云う。又十八種大経、十八種経書、十八大論、或いは十八明処とも称す。即ち四吠陀、六論、及び八論の総称なり。四吠陀とは一に荷力吠陀 Rg- veda、二に冶受吠陀 yajur- veda、三に三摩吠陀 saama- veda、四に阿闥吠陀 atharva- vedaなり。六論とは一に式叉論 zikSa、二に毘伽羅論 vyaakaraNa、三に柯刺波論 kalpa、四に竪底沙論 jyotiSa、五に闡陀論 chandas、六に尼鹿多論 niruktaなり。八論とは一に肩亡婆論、二に那邪毘薩多論 naya- vistara?、三に伊底呵婆論 itihaasa、四に僧佉論 saaMkhya、五に課伽論 garga?(或いは gargya?)、六に陀莵論 dhanur、七に揵闥婆論 gaandharva、八に阿輸論 aayurなり。「大智度論巻2」に、「諸の外道の家の十八種大経尽く亦た読知す」と云い、「婆藪槃豆法師伝」に、「馬鳴菩薩は是れ舎衛国の娑枳多土の人なり。八分毘伽羅論及び四皮陀六論に通じ、十八部を解す」と云い、又「百論疏巻上之下」に、「四韋陀とは外道の十八大経なり、亦た十八明処と云う。四皮陀を四と為す、復た六論あり、四皮陀に合して十と為し、復た八論あり、足して十八と為す」と云える是れなり。「百論疏巻上之下」に之を解するに依るに、荷力皮陀は解脱法を明かし、冶受皮陀は善道の法を明かし、三摩皮陀は欲塵の法即ち一切の婚嫁欲楽の事を明かし、阿闥皮陀は呪術算数等の法を明かし、又式叉論は六十四能の法を釈し、毘伽羅論は諸の音声の法を釈し、柯刺波論は諸の天仙の上古以来の因縁名字を釈し、竪底沙論は天文地理算数等の法を釈し、闡陀論は首盧迦zlokaを作るの法を釈し、尼鹿多論は一切物の名を立つる因縁を釈し、又肩亡婆論は諸法の是非を簡択し、那邪毘薩多論は諸法の道理を明かし、伊底呵婆論は伝記宿世の事を明かし、僧佉論は二十五諦を解し、課伽論は摂心の法を明かし、(此の両論は同じく解脱の法を釈す)、陀莵論は兵仗を用うるの法を釈し、揵闥婆論は音楽の法を釈し、阿輸論は医方を釈したるものなりと云えり。就中、荷力吠陀、冶受吠陀及び三摩吠陀は元と三明 trayiividyaaと称せられ、之に対し阿闥吠陀は阿闥婆鴦耆羅 atharva- aGgirasaと呼び、三明の外に置かれたりしも、後ウパニシャッドupaNiSad時代に至りて吠陀の一とし、四吠陀と称せらるるに至れり。六論は吠陀の支分にして、又之を吠陀の六支とも名づく。「金七十論巻上」に、「何者か名づけて智と為す。智に二種あり、一に外智、二に内智なり。外智とは六の皮陀分なり、一に式叉論、二に毘伽羅論、三に劫波、四に樹底論、五に闡陀論、六に尼禄多論なり。此の六処の智を外と為す。内智とは謂わく三徳及び我なり」と云い、「シーター・ウパニシャッド siitoopaNiSad」にも亦た同じく之を出せり。八論に関しては「同ウパニシャッド」に弭曼差 miimaaMsa、尼夜耶 ayaaya、法典 dharma- zaastra、史話古伝 itihaasapuraaNa(今の伊底呵娑論)、建築の吠陀 vastu- veda、軍事の吠陀 dhanur- veda(今の陀莵論)、音楽の吠陀 gaandharva- veda(今の揵闥婆論)、医方の吠陀 aayur- veda(今の阿輸論)の八論を挙げ、別に刑法 daNda、倫理niiti、農工商事 vaarttaaの三論を加えて十一種となし、又初の八論の中、前の四種を副支 upaaGga、後の四種を副吠陀と称せり。是れ今の八論と稍同じからざる所なり。又「仏本行集経巻3受決定記品」には、毘陀の支分として闡陀論、字論、声論、可笑論、呪術論、受記論、世間相論、世間祭祀呪願論の八論を出し、「大宝積経巻54」には、尼揵荼書、計羅婆論、分別字論、伊底呵婆論、分別論、随順世論、祠祀呪論、丈夫相論の八論を出せるも、今の八論と異同審らかならず。又「翻訳名義大集」には四吠陀等を除き、別種の十八明処 aSTaadaza vidyaa- sthaanaani を出せり。一に音楽 gandharva、二に春方 vaizika、三に生藝 vaarttaa、四に数目 saaMkhyaa、五に音 zabda、六に医方 cikitsita、七に礼方 niiti、八に造作 zilpa、九に射方 dhanur- veda、十に正語 hetu、十一に修習 yoga、十二に聞 zurti、十三に念 smRti、十四に観星 iyotiSa、十五に算法 gaNita、十六に幻法 maayaa、十七に先世 puraaNa、十八に古事 itihaasakaなり。是れ多く前記「シーター・ウパニシャッド」の十一論中より開出せしものなるが如し。此の他、外道の経書に関しては諸経論に衆多の記事あり。即ち「中阿含巻26優曇婆邏経」には、種種鳥論、語論、王論、賊論、闘諍論、飲食論、衣被論、婦女論、童女論、婬女論、世俗論、非道論、海論、国論の名を挙げ、「同巻49大空経」には種種鳥等の三論を除く外同種の諸論を記し、別に施論、戒論、定論、慧論、解脱論、解脱知見論、漸損論、不貪論、少欲論、知足論、無欲論、断論、滅論、燕坐論、縁起論等の典経を出し、「大毘婆沙論巻176」には、記論、因論、王論、医方論、工巧論、及び勝論、数論、明論、順世論、離繋論の名を出し、「瑜伽師地論巻38」には因論 hetu- zaastra、声論 zabda- zaastra、医方論 cikitsaa- zaastraの三論を挙げ、「四諦論巻1」には吠陀及び吠陀分の宿伝世本量判、僧佉愉伽実広論、欲薩論、鞞世師論、医方論、相論、算数論、時智論、獣論、鴉域論、明論、歌舞荘厳論、人舞論、天舞論、天仙王伝等の論は皆外道の論なりと云えり。又「尼拘陀梵志経」、「大智度論巻1」、「金剛針論」、「大般涅槃経義記巻6」、「法経録巻4」、「貞元新定釈教目録巻28」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望)
  十四難(じゅうしなん):仏の捨置して答えない十四種の難問。即ち世間常、世間無常、世間亦常亦無常、世間非常非無常、世間有辺、世間無辺、世間亦有辺亦無変、世間非有辺非無辺、如来死後有、如来死後無、如来死後亦有亦非有、如来死後非有非非有、命身一、命身異を云う。『大智度論巻7上注:十四無記』参照。
沙門者說出家人。婆羅門者。說在家有智人。天者說地天虛空天。魔者說六欲天。梵者說梵天王為首。及一切色界。餘者除此更有餘人。 沙門とは、『出家人なり』と説き、婆羅門とは、『在家の有智の人なり』と説き、天とは、『地天、虚空天なり』と説き、魔とは、『六欲天なり』と説き、梵とは、『梵天王を首と為し、一切の色界に及ぶ』と説き、余は、此れを除ける、更に有る余の人なり。
『沙門』とは、
『出家人である!』と、
『説き!』、
『婆羅門』とは、
『在家の有智の人である!』と、
『説き!』、
『天』とは、
『地天と虚空天である!』と、
『説き!』、
『魔』とは、
『六欲天である!』と、
『説き!』、
『梵』とは、
『梵天王を首とする、一切の色界である!』と、
『説けば!』、
『余の者』は、
『此等をのぞいて!』、
『更に有る!』、
『余の人である!』。
如實者。若以現事若以因緣難。乃至不見是微畏相者。相名因緣。我不見小小因緣。如法能來破我者。以不見故至誠言安立阿梨沙(秦言聖主)住處。 如実とは、若しは現事を以って、若しは因縁を以って難ずるなり。乃至是に微なる畏相すら見せずとは、相を因縁と名づく。我れは小小の因縁もて、如法に能く来たりて我れを破る者を見ず、見ざるを以っての故に至誠に言わく、『阿梨沙の住処に安立す』、と。
『如実』とは、
『現事や、因縁を用いて!』、
『難じることである!』。
『乃至是れに微かな畏相すら見せない!』とは、
『相』とは、
『因縁をいうのであり!』、――
わたしは、
『小小』の、
『因縁により!』、
『如法に来て!』、
わたしを、
『破ることのできる!』者を、
『見ることがない!』。
『見ない!』が故に、
『至誠より!』、こう言うのである、――
『阿梨沙(聖主)の住処』に、
『安立する!』、と。
  阿梨沙(ありしゃ):不明。一説に梵語aarSa、聖主と訳すと名づく。「摩訶般若波羅蜜経巻5」に、「若し復た余の衆如実に、是の法を受くるも道を障えずと言わんに、乃至是に微なる畏相すら見ず。是を以っての故に、我れは安隠を得、無所畏を得て、聖主の処に安住す」と云い、「大智度論巻25註」には、「秦に聖主と言う」と云い、又「同本文」には、「阿梨沙の住処に安立す」と云い、又「翻梵語巻1」には、「阿梨沙亦た何梨師とも云い、訳して聖主と曰い、訳して聖人と曰う」と云えり。蓋し是れ具に阿梨耶沙aarya- Saと曰うものとせば、聖六処の義、即ち聖者の身体の意にして、或いは即ち文意通ずべし。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四無所畏。何等四。佛作誠言。我是一切正智人。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。是法不知乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。一無畏也。佛作誠言。我一切漏盡。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。是漏不盡乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。二無畏也。佛作誠言。我說障法。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。受是法不障道。乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。三無畏也。佛作誠言。我所說聖道。能出世間隨是行能盡苦。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。行是道不能出世間不能盡苦。乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。四無畏也。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故』。
佛至誠言。我一切漏盡。若有人言。是漏不盡者無有畏也。何等是漏。漏名三漏。欲漏有漏無明漏。 仏の至誠に言わく、『我が一切の漏は尽きたり。若しは有る人、是の漏は尽きずと言わんに、畏有ること無し』、と。何等か是れ漏なる。漏を三漏と名づけ、欲漏、有漏、無明漏なり。
『仏』は、
『至誠に!』、こう言われた、――
若し、
有る人が、
是の、
『漏が尽きていない!』と、
『言ったとしても!』、
わたしには、
『畏れる!』ことが、
『無い!』、と。
何のようなものが、
『漏なのか?』、――
『漏』とは、
『欲漏、有漏、無明漏』の、
『三漏である!』。
  三漏(さんろ):漏を三種に分類せるもの。即ち一に欲漏、即ち無明を除きし欲界の一切の煩悩、二に有漏、即ち無明を除きし色無色界の一切の煩悩、三に無明漏なり。『大智度論巻19上注:三漏』参照。
復次漏名六情中出垢心相應心數法。 復た次ぎに、漏を六情中より出づる垢心相応の心数法なりと名づく。
復た次ぎに、
『漏』とは、
『六情中より出る!』、
『垢心に相応する!』、
『心数法である!』。
復次如一切漏障經中分別說七漏 復た次ぎに、『一切漏障経』中に分別して、七漏を説けるが如し。
復た次ぎに、
例えば、
『一切漏障経』中に分別して、
『説かれた!』、
『七漏である!』。
  七漏(しちろ):七種の漏の意。即ち「中阿含巻2漏尽経」に依れば、見に従いて断ずる漏、護に従いて断ずる漏、離に従いて断ずる漏、用に従いて断ずる漏、忍に従いて断ずる漏、除に従いて断ずる漏、思惟に従いて断ずる漏なり。
  参考:『中阿含経巻2(漏尽経)』:『有七斷漏.煩惱.憂慼法。云何為七。有漏從見斷。有漏從護斷。有漏從離斷。有漏從用斷。有漏從忍斷。有漏從除斷。有漏從思惟斷』
障道法。名諸有漏業及一切煩惱惡道報障。為世間故。布施持戒修十善道受諸味禪。略說若能障涅槃。若善若不善若無記。是名障道法。 障道の法とは、諸の有漏業、及び一切の煩悩と、悪道の報障と名づけ、世間の為の故に、布施、持戒し、十善道を修して、諸の味禅を受くるも、略説すれば若しは能く涅槃を障うれば、若しは善、若しは不善、若しは無起なりとも、是れを障道の法と名づく。
『障道の法』とは、
『諸の有漏の業と!』、
『一切の煩悩と!』、
『悪道の報障とである!』が、
亦た、
『世間』の為の故に、
『布施、持戒したり!』、
『十善道を修めたり!』、
『諸の味禅を受ける!』ことも、
『略説すれば!』、
『涅槃』を、
『障えることになる!』ので、
是れが、
『善であっても!』、
『不善であっても!』、
『無起であっても!』、
是れを、
『障道の法』と、
『呼ぶのである!』。
  報障(ほうしょう):聖道、及び聖道の加行善根を障うる法の中、特に三悪趣、人趣中の北洲、天趣中の無想天の生を云う。三障の一。又異熟障とも称す。『大智度論巻8上注:三障』参照。
  味禅(みぜん):禅の功徳に味著することを云う。『大智度論巻17上注:禅巻17下注:九次第定、観練熏修』参照。
有人言。道名二法。聖定聖慧是二事等達到涅槃。有人言。三聚道無漏戒定慧。有人言。四法所謂四聖諦。有人言。出世間五根。有言六出性。有言七覺意。有言八聖道達到涅槃。論議師等言。一切無漏道達到涅槃。 有る人の言わく、『道を二法と名づけ、聖定と聖慧となり。是の二事は等しく涅槃に達到す』、と。有る人の言わく、『三聚は道にして、無漏の戒、定、慧なり』、と。有る人の言わく、『四法にして、謂わゆる四聖諦なり』、と。有る人の言わく、『出世間の五根なり』、と。有るいは言わく、『六出性なり』、と。有るいは言わく、『七覚意なり』、と。有るいは言わく、『八聖道は涅槃に達到す』、と。論議師等の言わく、『一切の無漏の道は、涅槃に達到す』、と。
『道』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『道』には、
『二法あり!』、
『聖定と!』、
『聖慧とである!』が、
是の、
『二事は等しく!』、
『涅槃』に、
『到達する!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『無漏の三聚である!』、
『戒、定、慧』が、
『道である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『四法』、
謂わゆる、
『四聖諦』が、
『道である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『出世間』の、
『五根(信、精進、念、定、慧根)』が、
『道である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『六出性(慈、悲、喜、捨、無我、無想解脱)』が、
『道である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『七覚意』が、
『道である!』、と。
有る人は、こう言っている、――
『八聖道』は、
『涅槃』に、
『到達する!』、と。
『論議師』等は、こう言っている、――
一切の、
『無漏道』は、
『涅槃』に、
『到達する!』、と。
  出世間五根(しゅっせけんごこん):即ち五根五力の五根の意。信根、精進根、念根、定根、慧根なり。
  六出性(ろくしゅつしょう):出要の性を有する法に六種の別あるを云う。又六出要界と称す。即ち、一に瞋恚心を除きて慈解脱を得、二に憎嫉心を除きて悲解脱を得、三に憂悩心を除きて喜解脱を得、四に憎愛心を除きて捨解脱を得、五に狐疑心を除きて無我解脱を得、六に乱想心を除きて無想解脱を得、是の六種の心を除けば、是れ則ち以って涅槃を得る為の道なり。「長阿含巻8衆集経」に、「復た六法有り、謂わゆる六出要界なり。若し比丘是の言を作さく、我れ慈心を修するに、更に瞋恚を生ずと。余の比丘の語りて言わく、汝、此の言を作す勿かれ、如来を謗ずる勿かれ。如来は、是の説を作したまわず、慈解脱を修して、更に瞋恚想を生ぜしめんと欲すと。是の処有ること無し。仏の言わく、瞋恚を除き已りて然る後に慈を得と。若し比丘、我れは悲解脱を行じて、憎嫉心を生ず。喜解脱を行じて、憂悩心を生ず。捨解脱を行じて、憎愛心を生ず。無我行を行じて、狐疑心を生ず。無相行を行じて、衆乱想を生ずと言わば、亦復た是の如し」と云える是れなり。
  七覚意(しちかくい):菩提に帰趣する七種の法の意。又七覚支、七菩提分と云う。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  八聖道(はっしょうどう):涅槃を求趣する道に八種の支分あるを云う。『大智度論18上注:八正道』参照。
  参考:『長阿含巻8衆集経』:『復有六法。謂六出要界。若比丘作是言。我修慈心。更生瞋恚。餘比丘語言。汝勿作此言。勿謗如來。如來不作是說。欲使修慈解脫。更生瞋恚想。無有是處。佛言。除瞋恚已。然後得慈。若比丘言。我行悲解脫。生憎嫉心。行喜解脫。生憂惱心。行捨解脫。生憎愛心。行無我行。生狐疑心。行無想行。生眾亂想。亦復如是。』
是中若有沙門婆羅門等來。如實言是事不爾。乃至不見微畏相。以不見故至誠言安立阿梨沙住處。 是の中に若し沙門、婆羅門等の来たる有りて、如実に、『是の事爾らず』と言わんに、乃至微なる畏相すら見せず。見せざるを以っての故に、至誠に『阿梨沙の住処に安立す』と言う。
是の中に、
若し、
有る、
『沙門、婆羅門等が来て!』、
如実に、
是の、
『事は爾うでない!』と、
『言ったとしても!』、
『仏』は、
乃至、
微かな、
『畏相すら!』、
『見せられない!』。
見せないが故に、
至誠に、こう言うのである、――
『阿梨沙の住処』に、
『安立する!』、と。
問曰。何以故佛至誠言安立阿梨沙住處。 問うて曰く、何を以っての故に、仏は至誠に、『阿梨沙の住処に安立す』、と言う。
問い、
何故、
『仏』は、
至誠に、
『阿梨沙の住処に安立する!』と、
『言われたのですか?』。
答曰。自功德具足。亦令眾生得安樂利益。若佛自得安樂住處。不能利益眾生。不名阿梨沙住處。若但利益眾生。不自具足功德。亦不名阿梨沙住處。若自有功德亦利益眾生。以是故至誠言我安立阿梨沙住處。 答えて曰く、自ら功徳具足して、亦た衆生をして、安楽を得しめ、利益すればなり。若し仏、自ら安楽の住処を得て、衆生を利益する能わずんば、阿梨沙の住処と名づけず。若し但だ衆生を利益して、自ら功徳を具足せずんば、亦た阿梨沙の住処と名づけず。若し自ら功徳有りて、亦た衆生を利益すれば、是を以っての故に、至誠に言わく、『阿梨沙の住処に安立す』、となり。
答え、
自ら、
『功徳』を、
『具足して!』、
亦た、
『衆生にも!』、
『安楽を得させて!』、
『利益するからである!』。
若し、
『仏』が、
自ら、
『安楽の住処を得て!』、
『衆生』を、
『利益することができなければ!』、
是れを、
『阿梨沙の住処』とは、
『呼ばないし!』、
若し、
但だ、
『衆生を利益するだけで!』、
自らの、
『功徳』が、
『具足しなければ!』、
亦た、
『阿梨沙の住処』と、
『呼ばれることはない!』。
若し、
『仏』が、
自ら、
『功徳を有するばかりでなく!』、
亦た、
『衆生をも!』、
『利益すれば!』、
是の故に、
『至誠に!』、こう言われたのである、――
『阿梨沙の住処』に、
『安立する!』、と。
復次佛自滅惡。亦滅眾生惡。滅二惡故第一清淨。妙說法故安立阿梨沙住處。 復た次ぎに、仏は自ら悪を滅し、亦た衆生の悪をも滅したまえば、二悪を滅するが故に第一清浄にして、説法して妙なるが故に、阿梨沙の住処に安立す。
復た次ぎに、
『仏』は、
自ら、
『悪を滅して!』、
亦た、
『衆生の悪』をも、
『滅して!』、
『二悪を滅した!』が故に、
『第一に!』、
『清浄であり!』、
『説法して妙である!』が故に、
『阿梨沙の住処』に、
『安立されているのである!』。
復次四聖諦三轉十二行。能轉能分別顯示敷演故。至誠言我安立阿梨沙住處。 復た次ぎに、四聖諦の三転十二行は、能く転じ、能く分別、顕示、敷演するが故に、至誠に言わく、『我れは阿梨沙の住処に安立す』、と。
復た次ぎに、
『四聖諦』を、
『三転(示、勧、証)して!』、
『十二行すれば!』、
即ち、
『法輪を転じて!』、
『分別し!』、
『顕示し!』、
『敷演することができる!』ので、
是の故に、
『至誠に!』、こう言われたのである、――
わたしは、
『阿梨沙の住処』に、
『安立している!』、と。
  三転十二行(さんてんじゅうにぎょう):三たび法輪を転ずるに十二種の行相あるの意。『大智度論巻25上注:三転十二行相』参照。
  三転十二行相(さんてんじゅうにぎょうそう):梵語 tri- parivarta- dvaadazaakaara- dharma- cakra- pravartana の訳。三たび法輪を転ずるに十二種の行相あるの意。又当三転四輪十二行法輪、四諦法輪三会十二転説、三転十二行法輪転、三転十二行法輪、三転十二行と名づけ、或いは分ちて三転法輪、及び十二行法輪とも云う。三転とは一に示相転、二に勧相転、三に証相転なり。又示転、勧転、証転とも称し、或いは勧転を勧学転、証転を引証転とも名づく。十二行相とは、此の三転に各眼 cakSus と智 jJaana と明 vidyaa と覚 buddhi との四行相あるを云い、或いは三周に四聖諦を循歴するが故に十二行相と云うなり。「雑阿含経巻15」に、「我れ已に四聖諦三転十二行に於いて眼智明覚を生ずるが故に、諸天魔梵沙門婆羅門聞法衆の中に於いて出を得、脱を得、自ら証得して阿耨多羅三藐三菩提を成ず」と云い、「四分律巻32」に、「我れ四聖諦三転十二行相に於いて如実にして知り、我れ今無上正真道を成じて而も疑滞なし」と云える是れなり。三転十二行相の解釈に関しては、「倶舎論巻24」に、「云何が三転十二行相なる。此れ苦聖諦なり、此れ応に遍知すべし、此れ已に遍知す。此れを三転と名づく。即ち是の如く一一に転ずる時に於いて、別別に眼智明覚を発生す。此れ説いて名づけて十二行相と曰う。是の如く三転十二行相は諦諦に皆有り。然るに数等しきが故に但だ三転十二行相と説く。二法七処善等と説くが如し。此れに由りて三転は次の如く見道修道無学道を顕示す」と云えり。是れ毘婆沙師の義を敍せるものにして、即ち一諦に三転十二行相あり、四諦合して四十八行相ありとなすの説なり。苦諦に就いて之を言わば、此れは是れ苦聖諦なり idaM duHkham と説くは示相転なり、此れ遍知すべし duHkham aarya- satyaM parijJaatavyaM と説くは勧相転なり、此れ已に遍知す duHkhaM parJJaataM と説くは証相転なり。此の中、初転は見道を顕示し aarya- satyaanaaM prathama- parivarto darzana- maargaH、第二転は修道を顕示し aarya- satyaanaaM dvitiiya- parivarto bhaavanaa- maargaH、第三転は無学道を顕示す aarya- satyaanaaM tRtiiyaH parivarto 'zaikSa- maargaH。是の如く一一転ずる時に於いて、別別に眼と智と明と覚とを発生す、故に苦諦に三転十二行相あり、又集諦に就きて、此れは集なり ayaM samudayaH、苦の集は断ずべし duHkha- samudayaH prahaatavyaH、已に集を断ず samdayaH prahiiNaHと説き、滅諦に就きて、此れは滅なり ayaM nirodhaH、苦の滅は証すべし duHkha- nirodhaH saakSaat- kartavyaH、已に滅を証す nirodhaH saakSaat- kRtaHと説き、道諦に就きて、此れは苦の滅に順ずる道なり iyaM duHkha- nirodha- gaaminii- pratipad、苦の滅に順ずる道は修すべし duHkha- nirodha- gaaminii- pratipad bhaavayitavyaa、已に苦の滅に順ずる道を修す duHkha- nirodha- gaaminii- pratipad bhaavitaa と説き、一一転ずる時各眼智明覚を発生するが故に、四諦合して十二転四十八行相あり、而も今但だ三転十二行相と説くは、其の数各等しきを以ってなり。七処善の如き、五蘊に各七あるが故に合して三十五を成ずるも、而も数等しきを以って但だ七処善と名づくるが如しと云うなり。眼智明覚とは「大毘婆沙論巻79」に両解あり、一解は眼は法智忍、智は諸の法智、明は諸の類智忍、覚は諸の類智なりとし、一解は眼は観見の義、智は決断の義、明は照了の義、覚は警察の義なりとす。「倶舎論光記巻24」に、此の中の前解は見道に約し、後解は三道に約すと云えり。蓋し毘婆沙師は、是の如く法輪の名は唯見道に於いて之を立つとし、而も三転は順次に見修無学の三道を顕示すとなせるも、「倶舎論」に出せる一師(或いは論主の説、或いは経部の説、或いは余師の説とす)は、毘婆沙師の義を矛盾なりとし、自ら十二行相所有の教法を法輪の体となすべしと云い、教法の三周に転じて、他身に至りて義を解しむるを三転と名づく、即ち三周に四聖諦を循歴するが故に十二行相と名づくとせり。三周に四聖諦を循歴すとは、此れは是れ苦、此れは是れ集、此れは是れ滅、此れは是れ道なりと言うは第一示相転の四行相なり。憍陳如等は此の説に依りて能く見道に入る。此れ遍知すべし、此れ永断すべし、此れ作証すべし、此れ修習すべしと言うは第二勧学転の四行相なり、憍陳如等は此の説に依りて修道に進入す。此れ已に遍知す、此れ已に永断す、此れ已に作証す、此れ已に修習すと言うは、第三引証転の四行相なり。憍陳如等は此の説に依りて無学道に入る。是の如く三周に説法し、四聖諦を循歴するが故に名づけて三転十二行相となすと云うなり。是れ教法を法輪の体とし、法輪は即ち三道に通ずとなすの説なり。又「瑜伽師地論巻95」に依るに、五種の相に由りて法輪を転ずるを名づけて善転法輪と為すと云い、其の第二相に所得を得んが為の方便を明かせる中、「方便を得とは、謂わく即ち此の四聖諦の中に於いて三周に正しく十二相の智を転ず。最初の転とは、謂わく若し菩薩が現観に入る時、如実に是れ苦聖諦なり、広説乃至是れ道聖諦なりと了知す。中に於いて所有の現量聖智は能く見道所断の煩悩を断ず、爾の時、説いて聖慧眼を生ずと名づく。即ち此れ古来今の世に於いて差別あるに由るが故に、其の次第の如く智明覚と名づく。第二転とは、謂わく是れ有学が其の妙慧を以って如実に通達し、我れ当に後に於いて猶お所作あるべし、当に未知の苦諦を遍知すべし、当に未断の集諦を永断すべし、当に未証の滅諦を作証すべし、当に未修の道諦を修習すべしと。是の如く亦た四種の行相あり、前の如く応に知るべし。第三転とは、謂わく是れ無学は已に尽智無生智を得るが故に、所応作我れ皆已に作せりと言う。是の如く亦た四種の行相あり、前の如く応に知るべし。此の差別とは、謂わく前の二転の四種の行相は、是れ其の有学の真の聖慧眼なり。最後の一転は是れ其の無学の真聖慧眼なり」と云い、「法華経玄賛巻4」に之を解し、此の中、一智を説いて総じて法眼と名づけ、三行相あるを智明覚と名づく。真見道は唯一刹那なるが故に、一諦に於いて別に四智を起すに非ず。小乗の上下別観に同じからずと云えり。又倶舎論等には仏自転の説を出さざるも、瑜伽師地論五種の相の中、第三には自所応得を証得すと云い、即ち仏自転の説を挙げたり。「法華経玄賛巻4」に、「是の如く菩薩自ら三転を為す。初転は見道に在り、印相転と名づく。次転は修道に在り、応修転と名づく。後転は無学道に在り、已作転と名づく。一一転ずる時、一一の諦に於いて四行相を生ず。三転は竪に論ぜば十二相を成ず、是の如く四諦合して四十八あるも十二に過ぎず。数等しきが故に総じて三転十二行相と名づく」と云えり。是れ即ち仏自転の相を釈したるものにして、上に挙げたる毘婆沙師の説と其の意大いに同じ。又「法華経玄賛」には他の為に法輪を転ずるの相を釈し、前所引の倶舎論一師の説を出し、之を示勧証の三転と名づくと云えり。是れ上の倶舎の両説を以って自転他転の二種の転相に配当したるものなるが如し。又「増一阿含経巻14」、「雑阿含経巻23」、「転法輪経」、「三転法輪経」、「維摩経巻上」、「五分律巻15」、「有部毘奈耶雑事巻19」、「大毘婆沙論巻46、182」、「大智度論巻88」、「順正理論巻67」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻32」、「維摩経文疏巻6」、「法華経文句巻7下」、「同記巻8之1」、「倶舎論宝疏巻24」、「瑜伽論記巻47」、「翻訳名義集巻14」等に出づ。<(望)
  三転十二行相:世尊が法を転ぜられるとき、示、勧、証の三たび転ぜられるので、それを三転法輪という。四聖諦の一一には、示、勧、証の三転法輪があり、その一一に眼、智、明、覚があるので、これを十二行相という。この中の示転法輪は、『これが苦諦(集諦、滅諦、道諦)である。』と示し、勧転法輪は、『この苦諦(集諦、滅諦、道諦)は、まさに知る(断ず、証す、修む)べし。』と勧め、証転法輪は、『この苦諦(集諦、滅諦、道諦)は、すでに知り(断じ、証し、修め)おわれり。』と証すものである。眼智明覚は、皆四聖諦の智慧であり、それぞれ法智忍、法智、類智忍、類智に相当する。また別の説によれば、四聖諦の一一に、示、勧、証の三転法輪あるを以って十二行相と説き、眼智明覚を説かない。
復次一切疑悔邪見能除卻故。一切甚深問難悉能解釋。故名安立阿梨沙住處。(阿梨沙第一最上極高。不退不卻不沒。具足功德無所減小。是名阿梨沙住處)如是等因緣功德力故。至誠言我安立阿梨沙住處。 復た次ぎに、一切の疑悔、邪見を、能く除却するが故に、一切の甚深の問難を、悉く能く解釈するが故に、阿梨沙の住処に安立すと名づく。是れ等の如き因縁の功徳力の故に至誠に言わく、『我れは阿梨沙の住処に安立す』、と。
復た次ぎに、
一切の、
『疑惑や!』、
『邪見を!』、
『除却した!』が故に、
一切の、
『甚深の問難』を、
悉く、
『解釈(解説)することができる!』が故に、
『阿梨沙の住処』に、
『安立する!』と、
『称し!』、
是れ等のような、
『因縁』の、
『功徳』の、
『力』の故に、
『至誠に!』、こう言われたのである、――
わたしは、
『阿梨沙の住処』に、
『安立している!』、と。



師子吼

眾中師子吼者。眾名八眾。沙門眾婆羅門眾刹利眾。天眾四天王眾。三十三天眾。魔眾梵眾。眾生於此八眾悕望智慧。是故經中但說是八眾。 衆中に師子吼すとは、衆を八衆と名づけ、沙門衆、婆羅門衆、刹利衆、天衆、四天王衆、三十三天衆、魔衆、梵衆なり。衆生は、此の八衆に於いて、智慧を悕望す。是の故に経中には、但だ是の八衆を説けり。
『衆』中に、
『師子吼する!』とは、――
『衆とは八衆であり!』、
『沙門衆、婆羅門衆、刹利衆、天衆と!』、
『四天王衆、三十三天衆、魔衆、梵衆である!』。
『衆生』は、
此の、
『八衆』に於いて、
『智慧』を、
『悕望( desire )する!』ので、
是の故に、
『経』中には、
但だ、
是の、
『八衆だけ!』を、
『説くのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四無所畏。何等四。佛作誠言。我是一切正智人。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。是法不知乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。一無畏也。佛作誠言。我一切漏盡。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。是漏不盡乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。二無畏也。佛作誠言。我說障法。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。受是法不障道。乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。三無畏也。佛作誠言。我所說聖道。能出世間隨是行能盡苦。若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言。行是道不能出世間不能盡苦。乃至不見是微畏相。以是故。我得安隱得無所畏安住聖主處。在大眾中師子吼能轉梵輪。諸沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾實不能轉。四無畏也。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故』。
此中佛師子吼亦在一切眾中。以是故此經中言。若復餘眾。何以故。聞佛音聲者。盡皆是眾。 此の中に仏は師子吼し、亦た一切の衆中に在(ましま)せり。是を以っての故に、此の経中に言わく、『若しは復た余の衆』、と。何を以っての故に、仏の音声を聞く者は、尽く皆是れ衆なればなり。
此の、
『衆』中に於いて、
『仏』は、
『師子吼されたのである!』が、
亦た、
『一切の衆』中に於いても、
『仏』は、
『在(ましま)したのである!』。
何故ならば、
此の、
『経』中に、こう言うからである、――
若しは、
亦た、
『余の衆も!』、と。
何故ならば、
『仏の音声を聞く!』者は、
尽く、
皆、
『衆だからである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5』:『若有沙門婆羅門若天若魔若梵。若復餘眾如實難言』。
復次有人言。佛獨屏處說法。以是故說在眾中作是至誠言。我有十力四無所畏。是名眾中師子吼。 復た次ぎに、有る人の言わく、『仏は独り屏処に法を説きたまえば、是を以っての故に説けり、衆中に在りて、是の至誠の言を作さく、我れに十力、四無所畏有り、と。是れを衆中に師子吼すと名づく』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『仏』は、
独り、
『屏処( hidden place )』に於いて、
『法』を、
『説かれる!』ので、
是の故に、こう説いて、――
『衆』中に於いて、
『至誠に!』、こう言われた、――
わたしには、
『十力、四無所畏』が、
『有る!』、と。
是れを、
『衆』中に、
『師子吼する!』と、
『称するのである!』、と。
  屏処(びょうしょ):梵語 gupta-pradeza, rahas-praticchanna 等の訳、守られた/隠された/覆われた場所( protected place or hidden place or coverd place )の義。
  参考:『四分律比丘戒本』:『諸大德是二不定法。半月半月說戒經中來。若比丘共女人。獨在屏處覆處障處可作婬處坐。說非法語。有住信優婆夷。於三法中一一法說。若波羅夷若僧伽婆尸沙若波逸提。是坐比丘自言。我犯是罪。於三法中應一一治。若波羅夷。若僧伽婆尸沙。若波逸提。如住信優婆夷所說。應如法治是比丘。是名不定法。若比丘共女人。在露現處不可作婬處坐。作麤惡語。有住信優婆夷。於二法中一一法說。若僧伽婆尸沙若波逸提。是坐比丘自言。我犯是事。於二法中應一一法治。若僧伽婆尸沙若波逸提。如住信優婆夷所說。應如法治是比丘。是名不定法。諸大德。我已說二不定法。今問諸大德。是中清淨不(如是三說)諸大德。是中清淨。默然故。是事如是持』
復次佛示我是至誠言。我為一切世間師一切智人。諸有疑不信者悉來我當解釋。以是故言眾中師子吼。 復た次ぎに、仏の我れに是の至誠の言を示したまわく、『我れを、一切の世間の師、一切智の人なりと為す。諸の有疑、不信の者、悉く来たれ。我れは当に解釈すべし』、と。是を以っての故に言わく、『衆中に師子吼す』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
わたしに、
是の、
『至誠の言』を、示された、――
わたしは、
『一切の世間の師であり!』、
『一切智の人である!』。
諸の、
『法を疑う!』者や、
『法を信じない!』者は、
悉く、
『来るがよい!』。
わたしは、
『解釈するだろう!』、と。
是の故に、こう言うのである、――
『衆』中に、
『師子吼する!』、と。
師子吼者。如師子王。清淨種中生。深山大谷中住。方頰大骨身肉肥滿。頭大眼長光澤明淨。眉高而廣牙利白淨。口鼻方大厚實堅滿。齒密齊利吐赤白舌。雙耳高上髦髮光潤。上身廣大膚肉堅著。修脊細腰其腹不現。長尾利爪其足安立。巨身大力從住處出偃脊頻伸。以口扣地現大威勢。食不過時顯晨朝相。表師子王力。以威獐鹿熊羆虎豹野豬之屬。覺諸久睡降伏高強。有力勢者自開行路而大哮吼。 師子吼とは、師子王の清浄種中に生じて、深山大谷中に住し、方頰、大骨、身肉肥満し、頭大、眼長、光沢明浄にして、眉高く広くして、牙は利くして白浄、口鼻方大、厚実にして、堅滿し、歯は密に斉(そろ)いて利く、赤白の舌を吐き、双耳は高く上り、髦髪は光に潤(うるお)い、上身は広大にして膚肉堅く著き、修(なが)き脊、細き腰に其の腹は現れず、長き尾、利き爪、其の足は安立し、巨身は大力にして、住処より出づれば、脊を偃(ふ)して頻伸し、口を以って地を扣(う)ちて大威勢を現し、食するに時を過さず、晨朝の相を顕し、師子王の力を表すに、獐鹿、熊羆、虎豹、野猪の属を威すを以って、諸の久しき睡を覚し、高ぶり強きを降伏すれば、力勢有る者も、自ら行路を開くに、而して大いに哮吼するが如し。
『師子吼』とは、――
譬えば、
『師子王』が、
『清浄な種族中に生まれて!』、
『深山、大谷中に住まり!』、
『角ばった頬、大きな骨、肥満した身肉に!』、
『頭は大きく、眼は長く、光沢は明浄であり!』、
『眉は高くて広く、牙は利くて白浄であり!』、
『口と鼻とは角ばって大きく、厚く実って堅く満ち!』、
『歯は密に斉(そろ)って、利く!』、
『赤白の舌を吐き!』、
『双耳は高く上がり!』、
『髦髪(たてがみ)は光に潤(うるお)い!』、
『上身は広く大きく、膚肉は堅く張り付き!』、
『長い背と細い腰に、其の腹は現れず!』、
『長い尾に、利い爪と、其の足で安立し!』、
『巨身は大力であり!』、
『住処より出れば、背を低くして頻伸(せのび)し!』、
『口で地を打って、大威勢を現し!』、
『食は時(正午)を過ぎずして、晨朝に食相を顕し!』、
『師子王の力を表して、獐鹿、熊羆、虎豹、野猪の属を威し!』、
『諸獣の久しい睡を覚して、高慢、剛強の衆を降伏し!』、
『力勢の有る者すら、自ら行路を開く!』ので、
是の故に、
『大哮吼するようなものである!』。
  方頰(ほうきょう):角張った顎。
  方大(ほうだい):角張って大きい。
  厚実(こうじつ):厚くみのる。
  密斉(みつさい):密にしてそろう。
  髦髪(ぼうはつ):たてがみ。
  光潤(こうにん):光にうるおう。つやがある。
  膚肉(ふにく):皮膚のにく。
  修脊(しゅうせき):長い脊。
  巨身(こしん):おおきな身体。
  偃脊(えんせき):脊をふせる。脊を低くする。
  頻申(ひんしん):ちぢめるとのばす。
  (く):うつ。たたく。
  顕晨朝相(じんちょうのそうをあらわす):晨朝、比丘の一団が精舎を出て乞食の相を顕現するの意。又或いは晨朝に相を顕す。
  獐鹿(しょうろく):のろとしか。のろは小型の鹿。
  熊羆(ゆうひ):くまとひぐま。
  久睡(くすい):ながきねむり。
  行路(こうろ):とおりみち。
  哮吼(こうく):たけりほえる。
如是吼時。其有聞者或喜或怖。穴處者隱縮。水居者深入。山藏者潛伏。廄象振鎖狂逸而去。鳥飛空中高翔遠逝。 是の如く吼ゆる時、其の聞く者有らば、或は喜び、或は怖れ、穴処する者は、隠縮し、水居する者は深入し、山蔵する者は潜伏し、厩の象は鎖を振りて、狂逸して去り、鳥は空中を飛びて、高翔して遠く逝く。
是のように、
『吼える!』時、
其れを、
『聞いた者が有れば!』、
『喜んだり、怖れたりして!』、
『穴処する!』者は、
『隠れて!』、
『縮み!』、
『水居する!』者は、
『深く!』、
『入り!』、
『山蔵する!』者は、
『潜(ひそ)んで!』、
『伏せ!』、
『厩舎の象』は、
『鎖を振り切って!』、
『狂逸して去り!』、
『空中を飛ぶ鳥』は、
『高翔して!』、
『遠くへ行く!』。
佛師子亦如是。從六波羅蜜古四聖種大姓中生。寂滅大山深濬禪定谷中住。得一切種智頭。集諸善根頰。無漏正見修目光澤。定慧等行高廣眉。四無所畏牙白利。無礙解脫具足口。四正懃堅滿頤。三十七品齒密齊利。修不淨觀吐赤白舌。念慧耳高上。十八不共法髦髮光潤鮮白。三解脫門上身肉堅著。三示現修脊。明行具足腹不現。忍辱腰纖細。遠離行尾長。四如意足安立。無學五根爪利。十種力勢無量。無漏法眾具足身。諸佛三昧王等住處出。四無礙智頻申。諸法地中著無礙解脫口。 仏の師子も亦た是の如く、六波羅蜜なる古き四聖種の大姓中より生じ、寂滅の大山を深く濬(さら)いし禅定の谷中に住し、一切種智の頭を得、諸善根の頬を集め、無漏、正見の修き目の光沢、定、慧等しく行ずる高く広き眉、四無所畏の牙は白く利く、無礙解脱の具足せる口、四正懃の堅く満つる頤(あご)、三十七品の歯は密に斉いて利く、不浄観を修するに赤白の舌を吐き、念、慧の耳を高く上げ、十八不共法の髦髪は光に潤うこと鮮白にして、三解脱門の上身に肉堅く著き、三示現の修き脊に、明行具足の腹は現れず、忍辱の腰は繊細にして、遠離を行ずる尾は長く、四如意足もて安立し、無学五根の爪は利く、十種の力勢無量にして、無漏の法衆を身に具足し、諸仏三昧王等の住処より出で、四無礙智もて頻申し、諸法の地中に無礙解脱の口を著く。
『仏の師子』も、
是のように、
『六波羅蜜という!』、
『古い四聖種の大姓』中に、
『生まれ!』、
『寂滅という!』、
『大山に!』、
『深く濬(さら)われた!』、
『禅定という!』、
『谷』中に、
『住まり!』、
『一切種智という!』、
『頭』を、
『得て!』、
『諸の善根という!』、
『頬』を、
『集め!』、
『無漏、正見という!』、
『長い目』は、
『光に潤い!』、
『定、慧を等しく行う!』、
『眉』は、
『高く広く!』、
『四無所畏という!』、
『牙』は、
『白く利く!』、
『無礙解脱』は、
『口』に、
『具足し!』、
『四正懃という!』、
『頤』は、
『堅く満ち!』、
『三十七品という!』、
『歯』は、
『密に斉って利く!』、
『不浄観を修めて!』、
『赤白の舌』を、
『吐き!』、
『念、慧という!』、
『耳』を、
『高く上げ!』、
『十八不共法という!』、
『髦髪』は、
『光に潤って鮮白であり!』、
『三解脱門という!』、
『上身の肉』は、
『堅く著き!』、
『三示現という!』、
『脊』は、
『長く!』、
『明行具足という!』、
『腹』は、
『現われず!』、
『忍辱という!』、
『腰』は、
『繊細であり!』、
『遠離行という!』、
『尾』は、
『長く!』、
『四如意という!』、
『足で!』、
『安立し!』、
『無学の五根という!』、
『爪』は、
『利く!』、
『十力という!』、
『十種の力勢』は、
『無量であり!』、
『無漏の法衆(戒、定、慧、解脱、解脱知見衆)』が、
『身』に、
『具足し!』、
『諸仏三昧王等』の、
『住処より!』、
『出て!』、
『四無礙智という!』、
『脊』を、
『頻伸し!』、
『諸法という!』、
『地』中に、
『無礙解脱という!』、
『口』を、
『著ける!』。
  四聖種(ししょうしゅ):四種の能く衆聖を生ずる種子の意。一に衣服喜足聖種、二に飲食喜足聖種、三に臥具喜足聖種、四に楽断楽修聖種なり。『大智度論巻18下注:四聖種』参照。
  深濬(じんしゅん):川を深くさらう。浚渫。
  修目(しゅもく):長い目。
  無礙解脱(むげげだつ):唯仏のみ煩悩、定、一切法の三種の障礙を解脱するを云う。『大智度論巻18下注:解脱、巻21下注:無礙解脱』参照。
  四正懃(ししょうごん):悪を遮断し善を増長せしむるに四種の方便精勤あるを云う。『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  (い):おとがい。あご。下あごと上あごとを総べていう。
  三十七品(さんじゅうしちほん):四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分の総称にして、即ち菩提に順趣する法の品類に総じて三十七種あるを云う。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):唯仏又は菩薩のみ有する十八種の功徳法を云う。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
  三解脱門(さんげだつもん):空、無相、無作の三種の解脱門の総称にして、即ち無余涅槃に到るべき三種の法門を云う。『大智度論巻18下注:三解脱門』
  三示現(さんじげん):梵語triiNi praatihaaryaaNiの訳。巴梨語tiiNi paaTihaariyaani。三種の示現の意。又三教化、三神足、三変現、三変化、三神変、三示導、或いは三輪、三業輪とも名づく。即ち身口意三業の徳用を示現するを云う。一に如意足示現Rddhi- praatihaarya(巴梨語iddhi- paaThaariya)、二に占念示現aadezanaa- p.(巴aadesanaa- p.)、三に教訓示現anuzaasana- p.(巴anuzaasana- p.)なり。「中阿含巻35傷歌邏経」に、「三示現あり、如意足示現、占念示現、教訓示現なり」と云い、「長阿含経巻1」に、「世尊は三事を以って教化す、一に曰わく神足、二に曰わく観他心、三に曰わく教誡なり」と云える是れなり。此の中、如意足示現とは又神足変化示現、神足変化、神通示現、神足教化、無量神足、神通変現、神力神変、神境神変、神変示導、或いは神通輪、神変輪、身輪とも名づく。沙門梵志の大威徳大福祐大威神ありて、一身を以って変じて無数と為し、無数の身を以って還って合して一と為し、石壁に礙えられざること空を行くが如く、地に没すること水の如く、水を履むこと地の如く、結跏趺坐するも虚空に上昇すること猶お鳥の翔けるが如く、無礙自在なるを云う。六通の中の神境通を以って其の自性と為す。占念示現とは又他心示現、言教教化、観察他心神足、観他心、知他心随意説法、記説変現、記説神変、記心示導、或いは記心輪、他心輪、意輪とも名づく。沙門梵志の他相を以って他意を占い、天声非人声を聞きて他意を占い、他念他思他説を以って他意を占い、過去未来現在を占い、或いは心心所有の法等を占うを云う。六通の中の他心通を以って其の自性と為す。教訓示現とは又教誡示現、漏尽示現、訓誨教化、教誡神足、教誡変現、教導神変、教誡神変、教誡示導、或いは教誡輪、説法輪、口輪とも名づく。沙門梵志の道迹を行じ已りて諸漏既に尽き、無漏を得て心解脱、慧解脱、自知、自覚、自作証成就し、生已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辦じ、更に有を受けじと知り、之を以って他に説き、他更に他の為に説き、是の如く展転して無量百千に至るを云う。六通の中の漏尽通を以って其の自性と為す。蓋し六通の中、唯此の三種を立てて示現と為すことは、特に勝用あるが為なり。「倶舎論巻27」に、「此の三種は所化の生を引いて、初めて発心せしむるに最も勝れたるが故なり。或いは此れ能く正法に憎背すると、及び処中との者を引いて発心せしむるが故なり。能示能導に示導の名を得。又唯此の三は、仏法に於いて次の如く帰伏し、信受し、修行せしむれば示導の名を得。余の三は爾らず。三示導に於いては教誡最も尊し。唯此れ定んで通に由りて成ずる所なるが故に、定んで能く他の利楽の果を引くが故なり」と云える即ち其の意なり。「大乗法苑義林章巻6末」には、之を神変輪、記心輪、教誡輪と名づけ、広く七門を開いて詳に其の相を辨ぜり。彼の説に依るに、初に神変の相に略して二種あり、一に能変、二に能化なり。能く自性ある物を転じて余物と成らしむるを能変と云い、欲に随って諸の未有の事を為作するを能化と云う。能変に十八種あり、一に振動、二に熾然、三に流布、四に示現、五に転変、六に往来、七に巻、八に舒、九に衆像、身に入り、十に同類往趣、十一に顕、十二に隠、十三に所作自在、十四に他の神通を制し、十五に能く辯才を施し、十六に能く憶念を施し、十七に能く安楽を施し、十八に大光明を放つ是れなり。能化に三種あり、一に化して身と為り、二に化して境と為り、三に化して語と為るを云う。次に記心の相に六種あり、一に有纏、有随眠、離纏、離随眠の心を記し、二に有染、邪願、無染、正願の心を記し、三に劣と中と勝との三界五趣の心を記し、四に三受相応の記し、五に一を以って一を記し、一を以って多心を記し、六に諸仏菩薩は諸の有情の諸根の勝劣、種種の勝解、種種の界行を記する是れなり。次に教誡の相に五種あり、一に遮止、二に開許、三に諫誨、四に訶擯、五に慶慰なり。蓋し此等の三示現は如来の身口意三業の徳用を説けるものにして、之に由りて能く衆生をして煩悩悪業を離脱し、以って正道に向わしむるものなり。故に「法華玄論巻1」に、「三事示現は即ち是れ如来の三業に物を利するなり。他心輪は謂わく意業に物を利し、神通輪は身業に物を利し、説法輪は口業に物を利するなり」と云えり。又「増一阿含経巻15」、「長阿含経巻8、16」、「雑阿含経巻8」、「無上依経巻下」、「大乗大集地蔵十輪経巻2」、「大般若波羅蜜多経巻469」、「集異門足論巻6」、「大毘婆沙論巻103」、「瑜伽師地論巻25、27、37」、「同記巻9下」、「法華経玄義巻6上」、「金光明経文句巻2」、「浄名玄論巻7」、「法華玄論巻2」等に出づ。<(望)
  明行具足(みょうぎょうぐそく):明と行と具足せるの義。宿命、生死、漏尽の三明を明と云い、身口意三業を総じて行と云う。仏の十号の一。『大智度論巻2下注:鞞侈遮羅那三般那、巻16下注:三明』参照。
  無漏法衆(むろのほうしゅ):即ち仏の法身を為す、無漏の五衆を云う。謂わゆる戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆にして、又無漏の五衆、五分法身と称す。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  三昧王(さんまいおう):三昧王三昧の意。『大智度論巻7下注:三昧王三昧』参照。
  四無礙智(しむげち):仏の説法は、法、義、詞、辯の四種に無礙なるを云う。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  四聖種:(1)衣、(2)食、(3)住処は得るに随って喜悦し満足して、(4)欲望を断ずることを欲し、断ずることを楽しみ、この故に自らを貴ばずして他を賎しめざる者。『中阿含経巻21』:『阿難。我本為汝說四聖種。比丘.比丘尼者。得麤素衣而知止足。非為衣故求滿其意。若未得衣。不憂悒。不啼泣。不搥胸。不癡惑。若得衣者。不染不著。不欲不貪。不觸不計。見災患知出要而用衣。如此事利不懈怠而正知者。是謂比丘.比丘尼正住舊聖種。如是食.住處。欲斷樂斷。欲修樂修。彼因欲斷樂斷.欲修樂修故。不自貴.不賤他。如此事利不懈怠而正知者。是謂比丘.比丘尼正住舊聖種。阿難。此四聖種。汝當為諸年少比丘說以教彼。若為諸年少比丘說教此四聖種者。彼便得安隱。得力得樂。身心不煩熱。終身行梵行』
  三示現:仏は身口意の三事を以って衆生を教化する。(1)如意足示現:神足示現、種種の神変を現す。(2)占念示現:観察示現、他の相を以って他の意を占う。(3)教訓示現:教授示現、自らの行跡を他に教える。『中阿含経巻35』参照。
  四正勤四如意足五根:『大智度論巻19下』参照。
  十力:『大智度論巻24上』参照。
  四無礙智:説法に対する智辦。(1)義無礙智:義(言説すべからざる諸法の実相)に対する無礙の智慧。(2)法無礙智:法(一切義の名字、事物の名前)に対する無礙の智慧。(3)辞無礙智:辞(言語、論法)に対する無礙の智慧。(4)楽説無礙智:巧みに説法する智慧。『大智度論巻25下、巻24上注』参照。
依是十力廣度眾生。時不過。示一切世間天及人晨朝相。顯諸法王德。威諸外道論議師黨邪見之屬。覺諸眾生四諦中睡。降伏吾我著五眾者憍慢力。開異學論議諸邪見道。行邪者怖畏。信正者歡喜。鈍者令利安慰弟子破壞外道。長壽諸天久受天樂則知無常。 是の十力に依りて広く衆生を度し、時を過さずして、一切の世間の天、及び人に晨朝の相を示し、諸の法王の徳を顕して、諸の外道の論議師の党、邪見の属を威し、諸の衆生を四諦中の睡より覚して、吾我と五衆に著する者の憍慢を降伏し、力めて異学の論議と諸の邪見に道を開き、邪を行ずる者をして怖畏せしめ、正を信ずる者をして歓喜せしめ、鈍なる者を利ならしめて、弟子を安慰し、外道を破壊し、長寿の諸天は久しく天楽を受くれば、則ち無常を知らしむ。
是の、
『十力に依って!』、
広く、
『衆生』を、
『度し!』、
『時を過すことなく!』、
『一切の世間の天、人に!』、
『晨朝の相』を、
『示し!』、
諸の、
『法王の徳を顕して!』、
『諸外道の論議師の党、邪見の属』を、
『威し!』、
諸の、
『衆生を!』、
『四諦中の睡より覚して!』、
『吾我や!』、
『五衆に著する者の憍慢』を、
『降伏し!』、
力(つと)めて、
『異学の論議師や!』
『諸の邪見の者に!』、
『道を開いて!』、
『邪道』を、
『行く者』には、
『怖畏させ!』、
『正道』を、
『信じる者』には、
『歓喜させ!』、
『鈍根の者』には、
『利根』を、
『得させ!』、
『弟子を安慰して!』、
『外道』を、
『破壊し!』、
『長寿の諸天』は、
久しく、
『天の楽』を、
『受けている!』ので、
則ち、
『無常』を、
『知らせる!』。
  力開(りきかい):つとめてひらく。力を尽くして通達する。開は通達の意。
如是眾生聞四諦師子吼皆生厭心。厭心故得離。得離故入涅槃。是名眾中如師子吼。 是の如く衆生は、四諦の師子吼を聞いて、皆厭心を生じ、厭心の故に離を得、離を得るが故に涅槃に入る。是れを衆中に師子吼するが如しと名づく。
是のように、
『衆生』は、
『四諦という!』、
『師子吼』を、
『聞いて!』、
皆、
『厭心』を、
『生じる!』が、
『厭心を生じる!』が故に、
『離』を、
『得ることができ!』、
『離を得る!』が故に、
『涅槃』に、
『入る!』ので、
是れを、
『衆』中に、
『師子が吼えるようだ!』と、
『称するのである!』。
復次佛師子吼及師子吼有差別。師子吼者眾獸驚怖。若死若近死苦。佛師子吼得免死畏。師子吼怖世世死苦。佛師子吼但今世死更無後苦。師子吼者其聲麤惡物不喜聞。生死怖畏。佛師子吼其聲柔軟。聞者無厭心皆深樂。普遍遠聞能與二種樂。生天樂涅槃樂。是為差別。 復た次ぎに、仏の師子吼、及び師子吼には差別有り。師子吼ゆれば、衆獣驚怖して、若しは死し、若しは死苦に近づく。仏の師子吼ゆれば、死の畏を免るるを得。師子吼ゆれば、世世の死苦を怖れ、仏の師子吼ゆれば、但だ今世に死して、更に後の苦無し。師子吼ゆれば、其の声麁悪にして、物は聞くを喜ばず、死の怖畏を生ず。仏の師子吼ゆれば、其の声柔軟にして、聞く者に厭心無く、皆深く楽しみ、普遍して遠く聞こゆれば、能く二種の楽を与え、天の楽と涅槃の楽とを生ず。是れを差別と為す。
復た次ぎに、
『仏の師子が吼える!』のと、
『獅子が吼える!』のとには、
『差別』が、
『有る!』。
『獅子が吼えれば!』、
『衆獣は驚怖して!』、
『死んだり!』、
『死苦に近づいたりする!』が、
『仏の師子が吼えれば!』、
『死苦』の、
『畏』を、
『免れることができる!』。
『獅子が吼えれば!』、
世世に、
『死苦』を、
『怖れることになる!』が、
『仏の師子が吼えれば!』、
但だ、
『今世に!』、
『死ぬだけで!』、
更に、
『後の苦』は、
『無い!』。
『獅子が吼えれば!』、
其の、
『声は麁悪で!』、
『物( the outside world )』は、
『聞くこと!』を、
『喜ばない!』が、
『仏の師子が吼えれば!』、
其の、
『声は柔軟で!』、
『聞く!』者は、
『厭心を無くして!』、
皆、
『深く!』、
『楽しみ!』、
遍く、
『遠く聞えて!』、
『二種の楽を与え!』、
『天の楽と!』、
『涅槃の楽と!』を、
『生じさせる!』。
是れが、
『差別である!』。
問曰。佛師子吼亦令聞者生怖。與師子吼有何等異。 問うて曰く、仏の師子吼も亦た聞く者をして、怖を生ぜしむ。師子吼と何等の異か有る。
問い、
『仏の師子吼』も、
亦た、
『聞く!』者に、
『怖』を、
『生じさせる!』が、
『獅子が吼える!』のと、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。聞佛師子吼。當時小怖後大利益。著吾我心者渴愛世間樂。人常顛倒所縛邪見心者生怖畏。如經中言。佛說四諦乃至上諸天悉皆怖畏作是念。我等無常相苦相無我相空相。何以故。為顛倒心故著常樂相。是為差別。 答えて曰く、仏の師子吼を聞けば、時に当りて、小しく怖れ、後に大いに利益す。吾我に著する心は、世間の楽を渇愛するに、人は常に顛倒に縛せられ、邪見心の者は、怖畏を生ず。経中に言えるが如く、仏の四諦を説きたもうに、乃ち至上の諸天まで、悉く皆怖畏して、是の念を作さく、『我等は、無常相、苦相、無我相、空相なり』、と。何を以っての故に、顛倒せる心の為の故に、常楽の相に著すればなり。是れを差別と為す。
答え、
『仏の師子が吼える!』のを、
聞いた時には、
『小しだけ!』、
『怖れさせる!』が、
後には、
『大きく!』、
『利益する!』。
何故ならば、
『吾我に著する!』、
『心』は、
『世間』の、
『楽』を、
『渇愛し!』、
『人』は、
『顛倒』に、
『常に縛られて!』、
『邪見する!』が故に、
『心』には、
『怖畏』が、
『生じるからである!』。
例えば、
『経』中に言うように、――
『仏』が、
『四諦』を、
『説かれる!』と、
乃至、
『上の諸天まで!』が、
悉く、
皆、
『怖畏して!』、
是の、
『念を作す!』、――
わたし達は、
『無常相であり!』、
『苦相であり!』、
『無我相であり!』、
『空相なのだ!』、と。
何故ならば、
『顛倒の心である!』が故に、
『常という!』、
『楽相』に、
『著するからである!』。
是れが、
『差別である!』。
  参考:『仏説華手経巻2現変品』:『爾時世尊以神通力。令大風起吹諸世界。互相觸搏壞裂破碎。皆悉散滅。佛現神力。諸大梵王及諸梵天。於見聞法計常不壞。所謂梵王諸梵宮殿。今皆自見宮殿散壞。甚大驚怖生厭離心。各作是念。此諸宮殿先自成立。而今皆悉相搏毀壞如水波蕩鼓浪成沫。若水竭盡日曝風[颱- 台+票]皆悉磨滅。則是我等無常相也。俱懷戰悚合掌禮佛。爾時世尊告舍利弗。我從昔來常為汝說。世間虛妄無有真實。譬如有人與空共諍。世間如是。但從憶想分別故有。無牢無固猶如聚沫。世間如幻能誑眾生。世間如炎無實體相。不除渴愛。世間如影不可得取。世間如響虛誑起業。世間如實性無顛倒。舍利弗。我坐道場如實通達。知世間相空無所有無所依止。以無障閡得世間相。舍利弗。我本未知世間味世間患世間出。不自唱言我得佛道。我既如實知世間相及世間集。知世間滅世間滅道。便自唱言我得佛道。舍利弗何謂世間其世間者。所謂五陰。何謂為五。色陰受陰想行識陰。舍利弗。何謂色陰。或有眾生作如是念。若過去者不名為色。未來現在不名為色。是故佛說諸所有色。若於過去未來現在。若內若外若麤若細。若好若醜若近若遠。皆名色陰。而是色陰實無有相。譬如空陰風陰火陰水陰地陰。但有是名。色陰受陰想行識陰亦復如是。以此因緣說有諸陰。舍利弗。凡夫癡冥貪著於身不知色相。謂色是我是我所有。取相分別而生著心。受想行識亦復如是。舍利弗。我坐道場。於此事中。不謂是有不謂是無而生法眼。凡夫於此無所有法。生渴愛心。是法散壞便生憂惱。是人深著失所著故。轉增癡惑重起黑業。若以瓦石杖楚刀槊種種兵器。共相加害。以癡惑故起是罪業如來通達諸法平等。諸見平等故說正見。謂正見者。平等正直無有高下。正行道者。正修習者。正解脫者。得是見故名為正見。舍利弗。佛說正見。不可以言為汝等說。但可隨順如說修行。舍利弗。汝等皆當如法修習。當得無量無邊智慧。是則名為八萬四千諸法藏中一法藏門。謂諸起作非起作相。』
復次聞師子吼者。除離欲人餘者皆怖畏。佛師子吼求涅槃。離欲人皆怖。師子吼者善人不善人皆怖。佛師子吼者但善人怖。 師子吼を聞く者は、離欲の人を除きて、余は皆怖畏するも、仏の師子吼は、涅槃を求むる離欲の人、皆怖る。師子吼は、善人も、不善人も皆怖れ、仏の師子吼は、但だ善人のみ怖る。
復た次ぎに、
『師子吼を聞けば!』、
『離欲の人を除いて!』、
『余の者』は、
皆、
『怖れる!』が、
『仏の師子吼』は、
『涅槃を求める!』、
『離欲の人』が、
皆、
『怖れる!』。
『師子吼』は、
『善人も!』、
『不善人も!』、
皆、
『怖れる!』が、
『仏の師子吼』は、
但だ、
『善人のみ!』が、
『怖れる!』。
復次師子吼一切時怖畏。佛師子吼雖小怖畏。眾生示世間惡罪。令不樂世間生。觀涅槃功德利益。能除世間種種怖畏。閉惡趣開善道。能令人到涅槃城。 復た次ぎに、師子吼は一切の時に怖畏し、仏の師子吼は小しく畏せしむと雖も、衆生に世間の罪悪を示して、世間の生を楽しまざらしめ、涅槃の功徳、利益を観せて、能く世間の種種の怖畏を除かしめ、悪趣を閉ざし、善道を開きて、能く人をして、涅槃の城に到らしむ。
復た次ぎに、
『師子吼』は、
『一切の時に!』、
『怖畏させる!』が、
『仏の師子吼』は、
『小し怖畏させるだけである!』が、
『衆生』に、
『世間の罪悪を示して!』、
『世間の生』を、
『楽しませず!』、
『涅槃の功徳、利益を観せて!』、
『世間の種種の怖畏』を、
『除かせ!』、
『悪趣を閉ざし、善道を開いて!』、
『人』を、
『涅槃の城に到らせる!』。
復次二十事故。佛語名師子吼。所謂依止十力故。不縮故。不展故。梵音故。未曾有故。能引大眾故。惡魔驚怖故。擾亂魔民故。諸天歡喜故。得出魔網故。斷魔縛故。破魔鉤故。過魔界故。自法增長故。減損他法故。果報不誑故。說法不空故。凡夫人入聖道故。入聖道者得具足漏盡故。隨所應得三乘故。以是故佛語名師子吼。是名師子吼總相別相義。 復た次ぎに、二十事の故に仏語を師子吼と名づく。謂わゆる十力に依止するが故に、縮まざるが故に、展べざるが故に、梵音なるが故に、未曽有なるが故に、能く大衆を引くが故に、悪魔驚怖するが故に、魔民を擾乱するが故に、諸天歓喜するが故に、魔網を出づるを得るが故に、魔の縛を断ずるが故に、魔の鉤を破るが故に、魔界を過ぐるが故に、自法を増長するが故に、他法を減損するが故に、果報の誑(いつわ)らざるが故に、法を説いて空しからざるが故に、凡夫人を聖道に入れしむが故に、聖道に入る者は漏尽を具足するを得るが故に、所応に随いて、三乗を得るが故に、是を以っての故に仏語を師子吼と名づけ、是れを師子吼の総相、別相の義と名づく。
復た次ぎに、
『二十事』の故に、
『仏が語られる!』のを、
『師子吼』と、
『呼ぶのである!』。
謂わゆる、
『十力』に、
『依止して!』、
『語られる!』が故に、
『法』を、
『縮めて語られない!』が故に、
『展(ひろ)げて語られない!』が故に、
『梵(清浄)の!』、
『音()で!』、
『語られる!』が故に、
『未曽有の!』、
『法』を、
『語られる!』が故に、
『語られて!』、
『大衆を引くことができる!』が故に、
『悪魔を驚怖させる!』が故に、
『魔民を擾乱させる!』が故に、
『諸天を歓喜させる!』が故に、
『魔』の、
『網を出させることができる!』が故に、
『縛を断つ!』が故に、
『鉤を破る!』が故に、
『魔界』を、
『超過する!』が故に、
『自法』を、
『増長する!』が故に、
『他法』を、
『減損する!』が故に、
『果報』が、
『誑(いつわ)らない!』が故に、
『説かれた!』、
『法』が、
『空しくない!』が故に、
『凡夫人』を、
『聖道』に、
『入れる!』が故に、
『聖道に入った!』者を、
『漏尽』を、
『具足させることができる!』が故に、
『所応に随って!』、
『三乗』を、
『得させる!』が故に、
是の故に、
『仏が語られる!』のを、
『師子吼』と、
『称するのであり!』、
是れを、
『師子吼』の、
『総相、別相の義』と、
『称する!』。
  依止(えし):よりどころとしてとどまる。よりどころとする。乃ち「法華経巻1方便品」に、「若しは有、若しは無等、此の諸見に依止す」と云えるが如し。
  擾乱(じょうらん):かきみだす/みだれる/混乱/搔擾( confusion, disturb )。
  梵音(ぼんおん):仏の声は大梵天王所出の声の如く清浄なることを云う。『大智度論巻21下注:梵音、巻30下注:六十四梵音』参照。



梵輪を転じる

轉梵輪者清淨故名梵。佛智慧及智慧相應法是名輪。佛之所說。受者隨法行是名轉。是輪以具足四念處為轂。五根五力為輻。四如意足為堅牢輞。而正懃為密合輪。三解脫為榍。禪定智慧為調適。無漏戒為塗輪香。七覺意為雜華瓔珞。正見為隨右轉輪。信心清淨為可愛喜。正精進為疾去。無畏師子吼為妙聲能怖魔輪破十二因緣節解輪。壞生死輪離煩惱輪。斷業輪障世間輪破苦輪。能令行者歡喜天人敬慕。是輪無能轉者。是輪持佛法。以是故名轉梵輪。 梵輪を転ずとは、清浄なるが故に梵と名づけ、仏の智慧、及び智慧相応の法は、是れを輪と名づけ、仏の所説なり。受者の法に随いて行ずる、是れを転と名づく。是の輪の以って具足するに四念処を轂と為し、五根五力を輻と為し、四如意足を堅牢なる輞と為して、正懃を輪を密合すと為し、三解脱門を榍と為し、禅定、智慧を調適と為し、無漏戒を輪に香を塗ると為し、七覚意を雑華の瓔珞と為し、正見を右に随って輪を転ずと為し、信心の清浄を可愛を喜と為し、正精進を疾かに去ると為し、無畏の師子吼を妙声と為し、能く魔を怖れしむ輪、十二因縁の節を破りて解く輪、生死を壊(やぶ)る輪、煩悩を離るる輪、業を断ずる輪、世間を障うる輪、苦を破る輪にして、能く行者をして歓喜せしめ、天人をして敬慕せしむ。是の輪を能く転ずる者無く、是の輪は仏法を持(たも)つ。是を以っての故に梵輪を転ずと名づく。
『梵輪を転じる!』とは、
『清浄である!』ことを、
『梵』と、
『称し!』、
『仏の智慧と!』、
『智慧に相応する法と!』が、
『輪であり!』、
『仏の所説である!』。
『受者』が、
『法に随って行う!』ことを、
『転じる!』と、
『称する!』。
是の、
『輪』の、
『具足する!』のは、
『四念処という!』、
『轂(こしき)と!』、
『五根五力という!』、
『輻()と!』、
『四如意足という!』、
『堅牢な!』、
『輞(おおわ)とであり!』、
『正懃して!』、
『輪として!』、
『密接に合体させ!』、
『三解脱(空、無相、無作解脱門)という!』、
『榍(くさび)』を、
『打ち!』、
『禅定と、智慧とで!』、
『適切に!』、
『調整し!』、
『無漏戒という!』、
『香』を、
『輪に塗り!』、
『七覚意という!』、
『雑華の瓔珞で!』、
『荘厳し!』、
『正見という!』、
『右(正位の御者)に随って!』、
『輪を転じ!』、
『信心の清浄という!』、
『愛すべき!』者を、
『喜び!』、
『正精進して!』、
『疾かに!』、
『去り!』、
『無畏の師子吼という!』、
『妙声で!』、
『魔輪を怖じ気させる!』。
是の、
『輪』は、
『十二因縁の支節を破って!』、
『解釈する!』、
『輪であり!』、
『生死』を、
『壊(やぶ)る!』、
『輪であり!』、
『煩悩』を、
『離れる!』、
『輪であり!』、
『業』を、
『断じる!』、
『輪であり!』、
『世間』を、
『障()える!』、
『輪であり!』、
『苦』を、
『破る!』、
『輪であり!』、
『行者』を、
『歓喜させ!』、
『天人』に、
『敬慕される!』。
是の、
『輪』は、
『転じられる!』者が、
『無く!』、
是の、
『輪』は、
『仏法』を、
『保持する!』ので、
是の故に、
『梵輪を転じる!』と、
『称する!』。
  (りん):転輪聖王所有の車輪状の武器、径は凡そ2メートル80センチ。『起世経巻2』に云わく、『転輪聖王は、閻浮洲に出で、水を以って潅頂して刹利の主と作り、十五日の月盛円満受斎の晨に於いて洗沐清浄し、不擣の白氈を以って衣服と為し、髪を解きて垂下し、飾るに摩尼及び諸の瓔珞を以ってし、楼閣の上に在り。親属群臣前後に囲遶す。この時、王の前に金の輪宝あり、忽然として来応す。輪の経は七肘にして、千輻、轂、輞の衆相満足し、自然の成就にして工匠の造に非ず』と。一肘(ちゅう)は二尺乃至一尺五寸、一尺は22.5センチ乃至18センチ。
  (こく):こしき。車輪の中心、輻(や)の集まる所。
  (ふく):や。車輪の中心(轂)と外輪(輞)とを繋ぐ材。古制は三十本を用いて一輪を尽くる。
  (もう):おおわ。車輪の外周をつつむわ。
  (せつ):くさび。楔。
  調適(ちょうちゃく):調えて適合させる。調整と適合。
  (う):上位側としての右側( the right side as the side of precedence )。車右。兵車の右端に乗って、車を掌る人。
  四念処(しねんじょ):四種の念処の意。即ち身念処、受念処、心念処、法念処を云う。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  五根五力(ごこんごりき):煩悩を伏し聖道を引くに於いて増上の用ある五種の根、及び五根の増上により生ずる五種の力を云う。即ち信根、精進根、念根、定根、慧根、及び信力、精進力、念力、定力、慧力の総称。『大智度論巻下注:五根、五力』参照。
  四如意足(しにょいそく):欲、勤、心、観の四法の力に由りて引発せられ、種種の神用を現起する三摩地を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  四正懃(ししょうごん):悪を遮断し、善を生長せしめんが為にする四種の方便精勤を云う。即ち未生悪令不生、已生悪令永断、未生善令生、已生善令増上なり。『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  三解脱(さんげだつ):三種の解脱の意。即ち三障を解脱す、謂わゆる煩悩障解脱、業障解脱、異熟障解脱なり。又三種の無礙解脱あり、一に煩悩障礙解脱、二に諸禅定障礙解脱、三に一切法障礙解脱なり。「十住毘婆沙論巻11」に、「無礙解脱とは、解脱に三種有り、一には煩悩障礙に於いて解脱す、二には定障礙に於いて解脱す、三には一切法障礙に於いて解脱すなり。是の中、得慧解脱の阿羅漢は煩悩障礙を離るるを得て解脱し、共解脱の阿羅漢及び辟支仏は煩悩障礙を離るるを得て解脱し、諸の禅定障礙を離るるを得て解脱し、唯だ諸仏のみ有りて三解脱を具す。所謂煩悩障礙解脱、諸禅定障礙解脱、一切法解脱なり。是の三種の解脱を総ぶるが故に、仏を無礙解脱と名づけ、常に心に随うて共に生じ、乃至無余涅槃に則ち止む」と云える是れなり。或いは三解脱門、即ち空解脱門、無相解脱門、無作解脱門の錯なるべし。『大智度論巻8上注:三障、巻18下注:三解脱門』参照。
  無漏戒(むろかい):無漏道と倶なる律儀の意。『大智度論巻22下注:無漏律儀』参照。
  七覚意(しちかくい):菩提に順趣するに七種の支法有るを云う。即ち念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支なり。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  正見(しょうけん):八正道の第一。即ち苦は是れ苦、習は是れ習、滅は是れ滅、道は是れ道なりと見、又施あり斎あり呪説あり、善悪の業あり善悪業の報あり、此世彼世あり、父母あり、世に真人ありて善処に往至し、善く去り善く向い、此世彼世に自ら知り自ら覚し自ら作証して成就すと見るを云う。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  信心清浄(しんじんしょうじょう):信によりて得たる心の清浄を云う。『大智度論巻25下注:信心』参照。
  信心(しんじん):信と相応する心の意。即ち信によりて澄浄なることを得たる心を云う。「雑阿含経巻26」に、「何等をか信力と為す、如来の所に於いて正信心を起し、深く堅固に入るなり」と云い、「大集経巻58陀羅尼品」に、「如来の所に於いて信心あることなくんば、其の心常に悪法と相応して衆生を悩乱し、衆生を損壊せん」と云い、「大般涅槃経巻35」に、「或いは阿耨多羅三藐三菩提は信心を因と為すと説く。是れ菩提の因は復た無量なりと雖も、若し信心を説かば則ち已に摂尽す」と云い、又「梁訳摂大乗論巻中」に、「大乗の中に於いて信心及び決了心を生ずるが故に、一切の邪意及び疑を滅す」と云える皆其の説なり。蓋し信は入道の第一歩なるが故に、信進念定慧の五根の中には之を最初に置き、又華厳等には之を人の手に比説せり。即ち「旧華厳経巻41」に、「所謂信の手とは、一切の仏所説の正法に於いて、一向に信心究竟して受持するが故なり」と云い、「大智度論巻1」に、「経の中に信を説いて手と為す、人に手あれば宝山の中に入りて自在に能く取るも、若し手なければ所取あること能わざるが如し。信ある人も亦た是の如く、仏法の無漏根力覚道禅定の宝山の中に入りて自在に取る所なり。若し信なければ手なきが如し、手なき人は宝山の中に入るも、則ち所取あること能わず。信なきも亦た是の如く、仏法の宝山に入るも空しくして得る所なし。仏自ら念言すらく、若し人に信あらば、是の人は能く我が大海の中に入り、能く沙門果を得て空しからず。剃頭染衣するも若し信なければ是の人は我が法海の中に入ること能わず、枯樹の華実を生ぜざるが如く沙門果を得ず」と云える其の説なり。又「仁王般若経」等には信心を以って菩薩行の始源とし、之を菩薩階位の第一位に置けり。即ち「仁王般若波羅蜜経巻上菩薩教化品」に、「伏忍聖胎の三十人は十信と十止と十堅心なり。三世の諸仏は中に於いて行じ、此の伏忍に由りて生ぜざるはなし。一切菩薩の行の本源なり、是の故に発心信心難し。若し信心を得ば必ず不退にして、進んで無生初地の道に入り、衆生を教化して覚中に行ず。是れを菩薩の初発心と名づく」と云い、又「菩薩瓔珞本業経巻下釈義品」に、「発心住とは是の上進分の善根の人、若しは一劫二劫に一恒二恒三恒の仏所に十信心を行じ、三宝を信じ、常に八万四千の般若波羅蜜に住して、一切の行、一切の法門皆習うて受行し、常に信心を起して邪見十重五逆八倒を作さざれば、難処に生ぜずして常に仏法に値わん」と云い、又「大乗起信論」に、「信心を修行し、一万劫を経て信心成就するが故に、諸仏菩薩教えて発心せしめ、或いは大悲を以っての故に能く自ら発心し、或いは正法滅せんと欲するに因りて、護法の因縁を以って能く自ら発心す。是の如く信心成就して発心を得る者は、正定聚に入りて畢竟じて退せず」と云える是れなり。又「大般涅槃経」には仏性を以って大信心となし、信心を具せざるものを一闡提信不具足となせり。彼の経「巻32」に、「仏性とは大信心と名づく。何を以っての故に、信心を以っての故に菩薩摩訶薩は則ち能く檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足す、一切の衆生は必定して当に大信心を得べきが故なり。是の故に説いて一切衆生悉く仏性ありと言うなり。大信心とは即ち是れ仏性なり」と云い、又「同巻36」に、「仏性は是れ衆生の有なりと信ずと雖も、必ずしも一切皆悉く之を有せず、是の故に名づけて信不具足となす。善男子、信に二種あり、一には信、二には求なり。是の如きの人は復た信ありと雖も推求すること能わず、是の故に名づけて信不具足と為す。信に復た二種あり、一に聞より生じ、二に思より生ず。是の人の信心は聞より生じ、思より生ぜず、是の故に名づけて信不具足と為す。復た二種あり、一に道ありと信じ、二に得者を信ず。是の人の信心は唯道ありと信じ、都て得道の人あることを信ぜず、是の故に名づけて信不具足と為す。復た二種あり、一には正を信じ、二には邪を信ず。因果あり、仏法僧ありと言うは、是れを正を信ずと名づけ、因果なく、三宝の性異なりと言い、諸の邪語たる富蘭那等を信ずるは、是れを邪を信ずと名づく。是の人は仏法僧宝を信ずと雖も、三宝同一性相なるを信ぜず、因果を信ずと雖も得者を信ぜず。是の故に名づけて信不具足と為す」と云える即ち其の説なり。蓋し此等は主として仏法僧の三宝及び因果の理を信ずべきを説けるものなりと雖も、浄土門に於いては特に又弥陀の願力を信ずべきことを説き、専ら信心を強調せり。「無量寿経巻上第十八願の文」に、「至心に信楽して我が国に生ぜんと欲す」と云い、「同巻下」に、「諸有の衆生、其の名号を聞いて信心歓喜乃至一念し、至心に廻向して彼の国に生ぜんと願ぜば、即ち往生を得て不退転に住す」と云えり。是れ至心に信楽して弥陀の浄土に生ぜんことを願ずべしとなすの意なり。曇鸞の「往生論註巻下」には、称名憶念するも尚お所願を満ぜざるは三種の不相応あるに由るとし、「一には信心淳からず、存するがごとく、亡きがごとくなるが故なり。二には信心一ならず、決定なきが故なり。三には信心相続せず、余念間つるが故なり」と云えり。又善導の「観経散善義深心釈」には機法二種の信心を説き、又其の中、法に就人立信及び就行立信の別ありとし、就人立信の下に弥陀の願力、釈迦の勧説、諸仏の証誠を信ずべきを説き、若し異学異見別解別行の人、乃至縦い化仏報仏等来たりて往生を得ずと言うとも、一念疑退の信を生ぜざれと云い、又就行立信の下に称名は順彼仏願の行なるが故に、之に就いて決定往生の信を立つべしとし、二河白道の譬喩を挙げて広く信心を守護すべきことを説けり。源空の「選択本願念仏集」に其の意を受け、「生死の家には疑を以って所止と為し、涅槃の城には信を以って能入と為す。故に今二種の信心を建立して九品の往生を決定するものなり」と云い、又良忠の「選択伝弘決疑鈔巻3」には、「余法の信心は具に載せ難し、今浄土に就いて信心を分別するに二種の信あり。一に我が身を信ず、謂わく無始より已来、罪悪力ありて没溺已に久しく善根力なくして出要に足らず、深く是の理を信じて専ら他力に帰すべし。二に仏願を信ず、謂わく仏の本願偏に此の人を化す、寧んぞ自力に泥んで徒に火宅に在らんや。此の日月輪は堕落せしむべきも、弥陀の本誓は改むべからざるなり。幸いに此の法に値えり、盍ぞ彼の土に往かざらんや」と云い、更に始終信疑、多少信疑等に就いて広く四句分別をなせり。又親鸞の「顕浄土真実信文類」には、「謹んで往相廻向を按ずるに大信あり、大信心とは即ち是れ長生不死の神方、忻浄厭穢の妙術、選択廻向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり、斯の心即ち是れ念仏往生の願より出でたり」と云い、又「信心と言うは則ち本願力廻向の信心なり」と云い、「高僧和讃」に、「信心すなわち一心なり、一心すなわち金剛心、金剛心は菩提心、この心すなわち他力なり」と云い、信心を以って如来の利他廻向の心なりとし、信心為本の説を主張せり。又「新華厳経巻14」、「同疏巻16、50」、「南本涅槃経巻30、32」、「同疏巻25、28」、「梵網経巻上」、「十地経論巻2」、「梁訳摂大乗論釈巻7」、「大乗義章巻14」、「法華経玄義巻上」、「四教義巻5」、「菩薩戒経義疏巻上」、「安楽集巻上」等に出づ。<(望)
  正精進(しょうしょうじん):八正道の一。已生の悪法は断じ、未生の悪法は生ぜざらしめ、未生の善法は生ぜしめ、已生の善法は増長満具せしめんことを発願し、能く方便を求めて精勤するを云う。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  四無畏(しむい):如来の畏るる所無きに四種の別あるを云う。即ち如来は一切智を得、一切の漏尽き、一切の障道の法を説き、一切の尽苦の道を説きたることに関し、若し人が其れを否定しようと、如来の畏るる所に非ざるを云う。『大智度論巻5下注:四無所畏、巻25上本文』参照。
  (ふ):おどす。おそれさせる。
  十二因縁(じゅうにいんねん):衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類せるもの。即ち無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死を云う。『大智度論巻44上注:十二因縁、十二因縁の考察』参照。
  節解(せちげ):刑の名。骨節の節々を分解すること。
  (ごう):梵語羯磨karmanの訳、造作の義、行為、所作、行動、作用、意志等の身心の活動の意なり。又因果関係と結合して、即ち過去の行為に由り種種の異熟果を来たしむる能力を云う。『大智度論巻31下注:業』参照。
復次佛轉法輪。如轉輪聖王轉寶輪。問曰。佛與轉輪聖王有何相似。 復た次ぎに、仏の法輪を転じたもうこと、転輪聖王の宝輪を転ずるが如し。問うて曰く、仏と転輪聖王と何なる相似か有る。
復た次ぎに、
『仏』が、
『法輪』を、
『転じられる!』のは、
譬えば、
『転輪聖王』が、
『宝輪』を、
『転じるようなものである!』。
問い、
『仏』と、
『転輪聖王』と、
何のような、
『相似』が、
『有るのですか?』。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):七宝を成就し、四徳を具足して須弥四洲を統一し、正法を以って世を治御する大帝王を云う。此の中に就き、七宝とは、金輪宝、白象宝、紺馬宝、神珠宝、玉女宝、居士宝、主兵宝を云い、四徳とは、王に長寿、無患、顔貌端正、宝蔵盈満の徳あるを云う。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
答曰。如王清淨不雜種中生。隨姓家業成就。眾相莊嚴身。王德具足能轉寶輪。香湯灌頂受王位。於四天下之首。壞除一切賊法令無敢違。寶藏豐溢軍容七寶以為校飾。以四攝法攝取眾生。善用王法委任貴姓。主兵大臣以治國政。妙上珍寶樂以布施。有所知念終始無異。 答えて曰く、王の如きは、清浄にして、雑種中に生じず、姓に随って家業成就し、衆相身を荘厳し、王徳具足して、能く宝輪を転じ、香湯の潅頂もて王位を受け、四天下に於いて首たりて、一切の賊を壊除し、法もて敢て違うこと無からしめ、宝蔵豊溢して、軍容は七宝を以って校飾と為し、四摂法を以って衆生を摂取し、王法を善用すべく、貴姓に委任し、主兵、大臣を以って国政を治め、妙上の珍宝を以って布施するを楽しみ、知念する所有れば、終始異無し。
答え、
例えば、
『王ならば!』、
『清浄種中に生まれて!』、
『雑種』中には、
『生まれず!』、
『貴姓に随って!』、
『家業』を、
『成就し!』、
『王徳が具足して!』、
『宝輪』を、
『転じることができ!』、
『香湯の潅頂で!』、
『王位』を、
『受けて!』、
『四天下の首となって!』、
『一切の賊』を、
『壊敗、滅除した!』ので、
『法』に、
『敢て違背する!』者も、
『無く!』、
『宝蔵が豊溢して!』、
『軍容』も、
『七宝で校飾し!』、
『四摂法(布施、愛語、利行、同時)を用いて!』、
『衆生』を、
『摂取( holding together )し!』、
『王法を善用して!』、
『貴姓』に、
『委任し!』、
『主兵(大将)、大臣を用いて!』、
『国政』を、
『治め!』、
『妙上の珍宝を用いて!』、
『出家に!』、
『布施し!』、
『知、念する所が有れば!』、
『異なる!』ことが、
『無い!』が、
  豊溢(ぶいち):ゆたかにみちあふれる。
  軍容(ぐんよう):軍隊の儀容。
  校飾(きょうじき):正してかざる。装飾。
  四摂法(ししょうぼう):四種の摂受の法の意。即ち菩薩が衆生を摂受し、調熟するに布施、愛語、利行、同事の四種の法あるを云う。『大智度論巻18下注:四摂法』参照。
  摂取(せっしゅ):梵語 saMgraha の訳、束ねて保持する/捕縛する/握りしめる/取る/把握/受領/獲得する( holding together, seizing, grasping, taking, reception, obtainment )、或は[食物、医療その他を飲食するという意味において]取得する( taking (in the sense of eating or drinking food, medicine etc.) )等の義。
  王法(おうぼう):国の法律。
  主兵大臣(しゅひょうだいじん):七宝の一。軍を主る大臣。
佛法王亦如是。釋迦牟尼然燈寶華等佛諸佛清淨姓中生。先佛威儀行業。具足三十二相以自莊嚴。聖主威德備具轉真法輪。智慧甘露味灌智首。於三界中尊。破壞一切煩惱賊。學無學眾歡喜。所結禁戒無敢違者。無量法寶藏具足。七覺分寶莊嚴。八萬四千法聚軍。出世間四攝法以攝眾生。知方便說四聖諦法為法王儀。舍利弗彌勒等大將善治佛國法。諸無漏根力覺。種種妙寶樂以布施。深求一切眾生善事。為所念堅固。是為相似。 仏法の王も亦た是の如く、釈迦牟尼、然灯、宝華等の仏、諸仏の清浄の姓中に生じ、先の仏の威儀、行業具足して、三十二相を以って自ら荘厳し、聖主の威徳備具して、真の法輪を転じ、智慧の甘露味を、智首に潅ぎ、三界中に於いて尊ばれ、一切の煩悩の賊を破壊して、学無学衆を歓喜せしめ、結ぶ所の禁戒を敢て違う者無く、無量の法宝の蔵を具足し、七覚分の宝もて八万四千の法聚の軍を荘厳し、出世間の四摂法を以って衆生を摂し、方便を知りて四聖諦の法を法王の儀と為すと説き、舍利弗、弥勒等の大将に、仏国の法を善治せしめ、諸の無漏の根、力、覚なる種種の妙宝を以って布施するを楽しみ、一切の衆生の善事を探求して所念と為して堅固ならしむ。是れを相似と為す。
『仏という!』、
『法王』も、
是のように、
『釈迦牟尼、然灯、宝華等の仏や!』、
『諸仏の!』、
『清浄の姓』中に、
『生まれ!』、
先の、
『仏』の、
『威儀、行業』を、
『具足し!』、
自ら、
『三十二相』で、
『荘厳し!』、
『聖主』の、
『威徳』を、
『備具し!』、
『真の!』、
『法輪』を、
『転じて!』、
『智慧の甘露味』を、
『智慧の首に潅いで!』、
『三界』中に、
『尊ばれ!』、
『一切の煩悩の賊を破壊して!』、
『学、無学衆』を、
『歓喜させ!』、
『結ぶ所の禁戒』を、
『敢て違う!』者は、
『無く!』、
『無量の法宝の蔵を具足し!』、
『七覚分の宝を用いて!』、
『八万四千の法聚の軍』を、
『荘厳し!』、
『出世間の四摂法を用いて!』、
『衆生』を、
『摂取し!』、
『方便を知って!』、
『四聖諦の法』は、
『法王の儀( moral standard )である!』と、
『説き!』、
『舍利弗、弥勒等の大将』に、
『仏国の法』を、
『善治させ!』、
『諸の無漏の根、力、覚という!』、
『種種の妙宝を用いて!』、
『布施する!』のを、
『楽しみ!』、
『一切の衆生に応ずる!』、
『善事(十善道)を探求して!』、
『堅固に!』、
『念じさせる!』。
是れが、
『相似である!』。
  然灯(ねんとう):仏の名。定光、錠光とも称す。『大智度論巻25上注:定光如来』参照。
  定光如来(じょうこうにょらい):定光は梵語提和竭羅diipaMkaraの訳。巴梨名同じ。又提惒竭羅、提洹竭に作り、錠光、然灯、普光、或いは灯光とも翻ず。過去世に出現し、釈尊に受記せし仏なり。其の本縁に関しては、「増一阿含経巻13」に過去久遠劫に王あり、地主と名づく。閻浮里地を統領す。彼の王に善明と名づくる大臣あり、王は閻浮提の半を与えて之を統治せしむ。善明王の第一夫人を日月光と名づく、一男子を生む。生まるる時、閻浮里内に晃然たる金色あり、顔貌端正にして三十二相を具す。因りて名を立てて灯光と号す。年二十九歳に至りて出家学道し、即夜に成道す。善明王は四十億の男女と共に灯光如来の所に詣でて其の説法を聴き、尋いで地主王の請によりて如来は其の国界に至り、彼の王及び四十億衆の為に説法し、王は後七万歳の間、四事を以って如来及び其の衆を供養し、如来の滅後更に亦た七万歳の間、其の形像舎利を供養せりとし、而して爾の時の地主王は即ち釈尊自身なりと云えり。是れ定光(即ち灯光)如来を以って善明王の子とし、釈尊の前身なる地主王の治下に出現して其の供養を受けたりとなすの説なり。「四分律巻31」にも略ぼ同一説話を出し、定光如来を以って勝怨王の大臣提閻浮婆提の子とし、成道の後、勝怨王の供養を受けたりとなすも、王を以って釈尊の前身となさず。其の時別に仙人珍宝の弟子弥却あり、七茎の花を以って如来の上に散じ、且つ鹿皮の衣を脱して道路の泥濘を掩い、尚お足らざりしを以って髻髪を解きて泥上に布き、如来をして其の上を踏みて過ぎしめたるにより、如来は弥却の当来成仏を記別せりと云い、而して弥却を釈尊の前身となせり。此の中、後段の散花解髪等の記事は、「増一阿含経巻11」、「修行本起経巻上」、「過去現在因果経巻1」、「仏本行集経巻3」等に悉く記する所にして、即ち釈尊の授記本生として頗る著名なるものなり。但し「大法鼓経巻上」には、前記「増一阿含巻13」所載と同一説話を出し、而して定光如来は釈尊の前身なる地自在王(即ち地主王)に対し当来成仏の記を授けたりと云うも、是れ他の諸経に出さざる所にして、即ち此の経特有の説なりというべし。又「四分律巻31」には、定光如来は一城を化作し、其の父王提閻浮婆提の都城なる提婆跋提城の人民と交通せしめ、後之を火焼して人をして厭離の心を生ぜしめたることを記し、又「賢愚経巻3貧女難陀品」には、過去久遠二阿僧祇九十一劫に閻浮提に大国王あり、波塞奇と名づく。王に太子勒那識祇(即ち宝髻)あり、出家学道して成道す。時に比丘阿梨蜜羅は日日灯を燃やして彼の仏を供養せしにより、仏は為に比丘に授記して、当来成仏して定光如来と名づくべしと告げたりと云えり。是れ定光如来は昔時宝髻仏より授記せられたりとなすの説なり。定光如来出現の時劫に関しては、「増一阿含経巻13」、「仏本行集経巻3発心供養品」等に単に過去久遠劫となせるも、「修行本起経巻上」、「太子瑞応本起経巻上」等には過去九十一劫となせり。又此の如来は過去仏中に於いて最も有名なるが故に、諸経論には此の如来を中心として其の前後に諸仏の出現せしことを説けるもの甚だ多し。即ち「大阿弥陀経巻上」には此の如来の以後に三十三仏、「平等覚経巻1」には三十八仏、「無量寿経巻上」には五十二仏各次第に出現し、次に阿弥陀の師仏なる世自在王仏世に出でたりと云い、「大悲経巻3殖善根品」には、此の如来の以後に蓮華上仏乃至過去七仏等、総じて十四仏出世すと云い、「観薬王薬上二菩薩経」には普光仏以下総じて五十三仏の名を列せり。又「大宝積経巻17無量寿如来会」には此の如来の以前に四十仏、「大乗無量寿荘厳経巻上」には三十七仏、「梵文無量寿経」には八十仏各次第に出世し、更に其の前に阿弥陀の師仏なる世自在王仏出現せりとなし、「仏本行集経巻1」には釈尊が往昔転輪聖王たりし時、三十億の釈迦如来、八億の然灯如来、三億の弗沙如来等に値遇せりと云い、又「大毘婆沙論巻178」には、釈尊は初劫阿僧企耶に於いて七万五千仏に逢事す、最初を釈迦牟尼と名づけ、最後を宝髻と名づく。第二劫阿僧企耶に於いて七万六千仏に逢事す、最初は即ち宝髻にして、最後を然灯と名づく。第三劫阿僧企耶に於いて七万七千の仏に逢事す、最初は即ち然灯にして、最後を勝観と名づく。相異熟業を修する九十一劫の中に於いて六仏に逢事す、最初は即ち勝観にして最後を迦葉波と名づくと云えり。「大智度論巻4」、「倶舎論巻18」等亦た之に同じ。此の中、婆沙の説は定光如来を以って第三阿僧祇劫の最初に出すとなせるものにして、前の九十一劫出現説と同じからざるを見るなり。現在印度サンチーsanchi塔門の刻画中には、定光如来が大城を化作せし相を図出せるものあり。是れ四分律の記事に合する所なり。又「増一阿含経巻38、40」、「道行般若経巻6」、「放光般若経巻6、9、13」、「異出菩薩本起経巻1」、「中本起経巻上転法輪品」、「六度集経」、「仏蔵経巻下」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」、「大毘婆沙論巻71、177」、「大智度論巻9、34、35」、「十住毘婆沙論巻5易行品」、「大唐西域記巻2」、「翻梵語巻1」、「玄応音義巻3、5、10」、「慧琳音義巻9」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
  宝華(ほうけ):仏の名。宝華仏と号す。即ち「60華厳経巻56」に出る仏の名。「40華厳経巻29」には宝華光如来の名を出せり。『大智度論巻25下注:宝華仏』参照。
  宝華仏(ほうけぶつ):「旧華厳経巻56」に依るに、善財童子、善知識を求めて迦毘羅城の釈迦女瞿夷を尋ぬ。瞿夷宝蓮華蔵の師子座に坐して善財に語りて已に成就せる一切菩薩の三昧海を分別し観察する法門を説き、善財の、大聖、阿耨多羅三藐三菩提を発してより来、其れ已に久しきやと問えるに応えて、自ら其の本生を語るらく、乃ち往古の世、世界の微塵に等しき劫を過ぎて劫あり、勝光明と名づく、時に世界あり、離恐怖と名づく、彼の世界の中に四天下あり、彼の閻浮提の中に一王都あり、妙徳樹須弥山と名づけ、八十の王都に於いて最勝と為す。彼に王あり、一切宝主と名づけ、六万の婇女、五百の大臣、五百の王子あり、端正勇健にして怨敵を摧伏す。其の王太子を増上功徳主と名づけ、顔貌殊妙、相好身を飾り、万の婇女と倶に妙幢蓋を持し、諸の宝華を散じ、諸の伎楽を作し、妙宝の車に乗りて香牙山に詣り、園林に遊戯せり。(中略)時に母人あり、名づけて善現と曰い、一童女を将いる。離垢妙徳と名づく、端厳殊妙にして、脩短所を得、顔容倫無く、目髪金色、脣歯丹素、口より梵音を出し、才能玄妙、言語聡辯、慈心を修習し、見るもの厭く無く、貪恚癡少く、常に慚愧を懐い、心に諂曲無し。妙宝の車に乗り、婇女に囲遶せられ、母に従いて遊観せり。(中略)時に彼の園外に一道場あり、法雲光と名づく、勝日光如来応供等正覚有りて世に出興し、彼の道場に於いて無上道を成ず。時に彼の女夢に彼の如来の身を見る。夢より覚め已りて、空中に天あり、之に告げて曰わく、汝が夢に見し所は是れ勝日光仏なり。成道已来始めて七日を経、今道場に在りて無量の菩薩大衆に囲遶せらる。彼の仏の衆会には一切の天龍八部鬼神乃至無量の淨居諸天地神風神海神火神山神樹神叢林薬草城廓等の神皆悉く雲集し、世尊を奉覲して正法を聴受すと。即ち彼の女人、太子の所に至りて、唯だ願わくは我れを哀れみて納受したまい、倶に彼の如来を往詣して供養したまえと請えるに、太子は彼の如来の出興せるを聞いて、心大に歓喜し、踊躍無量、彼の仏を見んと欲し、五百の宝を以って彼の女人に散じ、此の女と倶に香牙園を出でて、道場に往詣し、車を下りて歩を進め、遙かに如来の相好厳身を見るに、其の心の澄浄なること鏡、淵渟の如し、諸根の調伏せること猶お象王の如し。心大に歓喜し、踊躍無量なり。婇女衆と仏所に往詣し、頭面に足を礼し、恭敬供養し遶ること無数匝、各五百の衆妙の宝華を持して、彼の仏を供養し、彼の如来の為に五百の衆香の楼閣を興立し、雑宝もて厳飾す。時に彼の如来、為に普門灯明修多羅を説く。経を説くを聞き已りて一切法中に三昧海を得たり。所謂諸仏願海三昧、普く三世を照らす光蔵三昧、一切の諸仏と対見する三昧、普く一切衆生を照らす三昧、普く世界海を照らす浄智灯光明三昧、普く衆生の根海を照らす智光明三昧、衆生を救護する光雲三昧、衆生を教化する現前智灯明三昧、諸仏の宝輪を聞持する三昧、普賢行を具する浄雲三昧なり。一切法の中に於いて是の如き等の三昧海を得。時に彼の玉女は、諸法の中に於いて不可壊寂静の法門を得、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得。(中略)即ち太子、仏所より還りて、父王に勝日光如来の出興せるを告ぐるに、王太子より之を聞き已りて、殊勝の心を発す。王位を太子に授与し、王位を捨てて、諸の眷属と倶に道場に詣で、仏に従いて出家学道して、眷属と倶に皆離癡翳の法、真実灯陀羅尼及び世界の微塵に等しき陀羅尼を得、又菩薩の十明及び無量の辯、塵無礙の身とを得、諸仏の所に詣りて悉く仏の正法輪を聞きて受持し、大法師となり、神通力を以って諸の世界に遍く化すべき所に随いて、彼れの為に身を現じて、仏の法と並びに諸の過去の菩薩の所行と菩薩の本生とを讃歎し、又仏の無量無辺自在の神力を讃歎して正法を守護す。爾の時太子は七宝自ら至りて転輪聖王と作るを得、八万の王城の一一に各五百の楼閣と大僧伽藍とを建立し、衆宝もて荘厳し、一一の伽藍に大塔を建立し、香華繒蓋もて之を供養し、又一一の王城に次第に仏を請じて供養す。時に仏、城に入るに、無量の衆生皆大いに歓喜して、善根を長養し菩提心を発す。(中略)爾の時、如来の次第に彼の諸王の請を受くる時、是の如く無量の衆生を饒益す。爾の時の太子増上功徳主とは豈に異人ならんや、今の釈迦牟尼仏是れなり。爾の時の王、宝主は宝華仏是れなり。宝華如来は今東方に在り。世界海の微塵に等しき世界海を過ぎて一世界海あり、法界虚空光雲と名づく、中に世界あり、仏円満光妙徳灯と名づく、彼に道場あり、名づけて一切天王光幢と曰う。彼の仏始めて正覚を成ぜしより、不可説仏刹の微塵に等しき菩薩に囲遶せられ法を説く。彼の宝華仏は菩薩たりし時、彼の刹海を浄めたり。彼の刹海中の三世の諸仏の世に出興せるは、皆宝華仏の菩薩たりし時、教化して阿耨多羅三藐三菩提心を発さしめたればなり。爾の時の女の母善現とは、今の我が母善目是れなり。王の眷属は彼の如来の所の大衆是れなり、皆悉く普賢の諸行を具足し、大願成就し、清浄法身普く世間を照らし、其の心壊する無く、菩薩の諸三昧門を逮得し、清浄眼を以って皆悉く一切諸仏を対見し、一切の如来の虚空に等しき妙音声雲を以って正法を転ずるを悉く聞きて受持し、諸法の中に於いて自在力を得、出入息の頃に遍く一切諸仏の世界に遊び、微妙の音を以って衆生の為に法を説き、而も未だ曽て一切の仏所を離れず、未来劫を尽くして菩薩行を修し、化すべき所に随いて悉く為に身を現ず。爾の時の離垢妙徳宝女、増上功徳主転輪王と共に、四事もて勝日光仏を供養せしとは、我が身是れなりと。即ち是れに依りて、宝華仏の本生の大略を知るべし。又「40華厳経巻29」、「80華厳経巻75」等に出づ。
復次佛於轉輪聖王有殊勝。轉輪聖王不離諸煩惱。佛已永離諸煩惱。轉輪聖王沒在老死泥。佛已出離。轉輪聖王為恩愛僕。佛已過出。轉輪聖王行生死險道中。佛已過度。轉輪聖王在愚癡闇中。佛住第一光明中。轉輪聖王極自在四天下。佛自在無量無邊世界。轉輪聖王財寶自在。佛心寶自在。轉輪聖王渴樂天樂。佛乃至有頂樂已離。轉輪聖王從他求樂。佛自心生樂。以是故佛於轉輪聖王為最殊勝。 復た次ぎに、仏は、転輪聖王に於いて殊勝たる有り。転輪聖王は、諸の煩悩を離れざるに、仏は已に永く諸の煩悩を離る。転輪聖王は、老死の泥に没在するに、仏は已に出離す。転輪聖王は、恩愛の僕為るに、仏は已に過出す。転輪聖王は生死の嶮道中を行くに、仏は已に過度す。転輪聖王は愚癡の闇中に在るに、仏は第一の光明中に住す。転輪聖王は四天下に自在なるに極まり、仏は無量、無辺の世界に自在なり。転輪聖王は財宝に自在なるに、仏は心宝に自在なり。転輪聖王は天の楽を渇楽するに、仏は乃至有頂の楽すら已に離る。転輪聖王は他に従いて楽を求むるに、仏は自心に楽を生ず。是を以っての故に、仏は転輪聖王に於いて、最も殊勝と為す。
復た次ぎに、
『仏』には、
『転輪聖王よりも!』、
『殊勝な事』が、
『有る!』。
則ち、
『転輪聖王は諸煩悩を離れていない!』が、
『仏』は、
已に、
『諸煩悩』を、
『永く離れている!』。
『転輪聖王は老死の泥に没在する!』が、
『仏』は、
已に、
『老死より!』、
『出離している!』。
『転輪聖王は恩愛の僕である!』が、
『仏』は、
已に、
『恩愛より!』、
『過出している!』、
『転輪聖王は生死の嶮道中を行く!』が、
『仏』は、
已に、
『生死』を、
『過度している!』。
『転輪聖王は愚癡の闇中に在る!』が、
『仏』は、
第一の、
『光明』中に、
『住まっている!』。
『転輪聖王は四天下の自在に極まる!』が、
『仏』は、
『無量無辺の世界』に、
『自在である!』。
『転輪聖王は財宝に自在である!』が、
『仏』は、
『心の宝』に、
『自在である!』。
『転輪聖王は天楽を渇楽する!』が、
『仏』は、
已に、
『乃至有頂の楽すら!』、
『離れている!』、
『転輪聖王は他より楽を求める!』が、
『仏』は、
自ら、
『心』に、
『楽を生じる!』。
是の故に、
『仏』は、
『転輪聖王よりも!』、
『最も殊勝である!』。
  殊勝(しゅしょう):梵語 zreSTha の訳、最も華麗/壮麗な( most splendid or beautiful )、最も優秀な/第一の/首たる( most excellent, best, first, chief )の義。
復次轉輪聖王手轉寶輪空中無礙。佛轉法輪一切世間天及人中無礙無遮。其見寶輪者眾毒皆滅。遇佛法輪一切煩惱毒皆滅。見寶輪者諸災惡害皆滅。遇佛法輪一切邪見疑悔災害皆悉消滅。王以是輪治四天下。佛以法輪治一切世間天及人。令得法自在。是為相似。 復た次ぎに、転輪聖王は手づから宝輪を転じて、空中に無礙なるに、仏は法輪を転じて、一切の世間の天、及び人中に無礙無遮なり。其の宝輪を見る者は、衆毒皆滅し、仏の法輪に遇えば、一切の煩悩の毒皆滅す。宝輪を見る者は、諸の災悪の害皆滅し、仏の法輪に遇えば、一切の邪見、疑、悔の災害皆悉く消滅す。王は、是の輪を以って四天下を治め、仏は法輪を以って一切の世間の天、及び人を治めて、法の自在を得しむ。是れを相似と為す。
復た次ぎに、
『転輪聖王は手づから、法輪を転じて!』、
『空中に無礙であり!』、
『仏は法輪を転じて!』、
『一切の世間の天、人』中に、
『無礙、無遮である!』、
『転輪聖王の宝輪を見る!』者は、
『衆毒が、皆滅し!』、
『仏の法輪に遇えば!』、
『一切の煩悩の毒』が、
『皆、滅する!』。
『転輪聖王の宝輪を見る!』者は、
『諸の災悪の害が皆、滅し!』、
『仏の法輪に遇えば!』、
『一切の邪見、疑、悔の災害』が、
『皆、悉く消滅する!』。
『転輪聖王は宝輪を用いて!』、
『四天下を治め!』、
『仏は宝輪を用いて!』、
『一切の世間の天、人を治め!』、
『法を得る!』ことを、
『自在にさせる!』。
是れが、
『相似である!』。
復次法輪於寶輪大有殊勝。寶輪欺誑法輪堅實。寶輪長三毒火。法輪滅三毒火。寶輪有漏。法輪無漏。寶輪樂五欲樂法輪樂法樂。寶輪結使處。法輪非結使處。寶輪有量處行。法輪無量國行。寶輪以一心清淨布施故世世可得。法輪無量阿僧祇劫。集一切善業因緣及智慧故得。寶輪王死後更不轉。佛滅度後法輪猶轉。寶輪在一人。法輪在一切可度者。 復た次ぎに法輪は宝輪に於いて大いに殊勝有り。宝輪は欺誑にして、法輪は堅実なり。宝輪は三毒の火を長じ、法輪は三毒の火を滅す。宝輪は有漏にして、法輪は無漏なり。宝輪は五欲の楽を楽しみ、法輪は法楽を楽しむ。宝輪は結使の処にして、法輪は結使の処に非ず。宝輪は有量の処に行き、法輪は無量の国へ行く。宝輪は一心清浄なる布施を以っての故に世世に得べく、法輪は無量阿僧祇劫に一切の善業の因縁、及び智慧を集むるが故に得。宝輪は王の死後更に転ぜざるに、仏の滅度の後にも法輪は猶お転ず。宝輪は一人に在り、法輪は一切の度す可き者に在り。
復た次ぎに、
『法輪』は、
『宝輪よりも!』、
『大いに殊勝な事』が、
『有る!』。
『宝輪は虚誑である!』が、
『法輪』は、
『堅実である!』。
『宝輪は三毒の火を増長させる!』が、
『法輪』は、
『三毒の火を滅除する!』、
『宝輪は有漏である!』が、
『法輪』は、
『無漏である!』。
『宝輪は五欲の楽を楽しむ!』が、
『法輪』は、
『法楽を楽しむ!』。
『宝輪は結使の処である!』が、
『法輪』は、
『結使の処でない!』。
『宝輪は有量の処へ行く!』が、
『法輪』は、
『無量の国へ行く!』。
『宝輪』は、
『一心、清浄の布施を用いれば!』、
『世世に!』、
『得られる!』が
『法輪は無量、阿僧祇劫に!』、
『一切の善業の因縁と智慧とを集めて!』、
『得る!』。
『宝輪』は、
『王の死後には、更に転じない!』が、
『法輪』は、
『仏の滅度の後にも、猶お転じる!』。
『宝輪』は、
『一人に属する!』が、
『法輪』は、
『一切の度すべき者に属する!』。
復次梵名廣。佛轉法輪十方無不遍故名廣。 復た次ぎに、梵を広と名づくるに、仏の法輪を転じたもうに、十方に遍からざる無きが故に、広と名づく。
復た次ぎに、
『梵( Skr. brahman )』とは、
『広める( expansion )!』の、
『意味である!』が、
『仏』が、
『法輪を転じられる!』と、
『十方に!』、
『遍かない所』が、
『無い!』が故に、
是れを、
『広い()!』と、
『呼ぶのである!』。
  (ぼん):梵語 brahman, brahma の訳、発達/拡大/発展/発育( growth, expansion, evolution, development )等の義、宗教的/霊的知識( religious or spiritual knowledge )、神聖な生活/精進( holy life )、最終解脱( final emancipation )。梵語 braahma の訳、神聖な知識に係わる( relating to sacred knowledge )、婆羅門に係わる/属すること( relating or belonging to the Brahmans )等の義。梵語 Brahman の訳、梵天王( Brahman among the gods )。
復次四梵行心說故名梵輪。 復た次ぎに、四梵行心を説くが故に、梵輪と名づく。
復た次ぎに、
『四梵行心(慈、悲、喜、捨無量心)を説く!』が故に、
『梵輪』と、
『称する!』。
  四梵行心(しぼんぎょうしん):欲界の天を度し、無欲の地に処せんが為に行ずる四種の心の意。即ち慈悲喜捨に於ける四種の無量心を云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
復次佛初得道時。梵天王請轉法輪故名梵輪。 復た次ぎに、仏の初めて道を得る時、梵天王請うて法輪を転ぜしむるが故に、梵輪と名づく。
復た次ぎに、
『仏』が、
『初めて、道を得られた!』時、
『梵天王( Brahman )』が、
『法輪を転じられるよう!』、
『請うた!』が故に、
是れを、
『梵輪( brahma-cakra )』と、
『称する!』。
復次佛在波羅柰轉法輪。阿若憍陳如。得道聲徹梵天故名梵輪。 復た次ぎに、仏の波羅柰に在りて法輪を転じたもうに、阿若憍陳如道を得て、声梵天に徹るが故に、梵輪と名づく。
復た次ぎに、
『仏が波羅柰に於いて!』、
『法輪を転じられる!』と、
『阿若憍陳如が道を得て!』、
『阿若( I am not unknown )という声』が、
『梵天に!』、
『徹った!』が故に、
是れを、
『梵輪』と、
『称する!』。
  波羅奈(はらな):中印度に在りし古国の名。『大智度論巻21上注:婆羅痆斯国』参照。
  阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ):仏の成道後最初に化度された五比丘の一。『大智度論巻22下注:阿若憍陳如、五比丘』参照。
  阿若(あにゃ):梵語 aajJaata の訳、無知に非ず( I am not unkown )の意。梵語 ajJaata ( unknown )の否定の語。
復次有人貴梵天。欲令歡喜故名梵輪。以是故名梵輪。 復た次ぎに、有る人は、梵天を貴べば、歓喜せしめんと欲するが故に、梵輪と名づく。是を以って梵輪と名づく。
復た次ぎに、
有る人は、
『梵天を貴び!』、
『梵天』を、
『歓喜させたい!』が故に、
是れを、
『梵輪』と、
『呼んだのである!』。
是の故に、
『仏の法輪』を、
『梵輪』と、
『称するのである!』。
問曰。佛或時名法輪。或時名梵輪。有何等異。 問うて曰く、仏は或は時に法輪と名づけ、或は時に梵輪と名づけたもう。何等の異か有る。
問い、
『仏』は、
或る時には、
『法輪』と、
『呼び!』、
或る時には、
『梵輪』と、
『呼ばれる!』が、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。說梵輪法輪無異。 答えて曰く、梵輪と説きたもうは、法輪と異無し。
答え、
『梵輪と説かれても!』、
『法輪』と、
『異ならない!』。
復次有人言說梵輪者。現四無量心。說法輪者示四諦法。 復た次ぎに、有る人の言わく、『梵輪と説けば、四無量心を現し、法輪と説けば、四諦の法を示す』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『梵輪を説いて!』、
『四無量心』を、
『現され!』、
『法輪を説いて!』、
『四諦の法』を、
『示されたのである!』、と。
復次梵輪因四無量心得道。是名梵輪。依餘法得道是名法輪。梵輪示四禪。法輪示三十七品。梵輪示修禪定聖道。法輪示修智慧聖道。如是等分別梵輪法輪差別。 復た次ぎに、梵輪は、四無量心に因りて道を得れば、是れを梵輪と名づけ、余の法に依りて道を得れば、是れを法輪と名づく。梵輪は、四禅を示し、法輪は三十七品を示す。梵輪は禅定を修する聖道を示し、法輪は智慧を修する聖道を示す。是れ等の如き梵輪と法輪の差別を分別す。
復た次ぎに、
『梵輪』とは、
『四無量心に因って!』、
『道』を、
『得るならば!』、
是れを、
『梵輪』と、
『称し!』、
『余の法に依って!』、
『道』を、
『得るならば!』、
是れを、
『法輪』と、
『称す!』。
『梵輪』は、
『四禅を示し!』、
『法輪』は、
『三十七品』を、
『示す!』。
『梵輪』は、
『禅定を修める!』、
『聖道』を、
『示し!』、
『法輪』は、
『智慧を修める!』、
『聖道』を、
『示す!』。
是れ等のように、
『梵輪、法輪の差別』を、
『分別する!』。



無畏の性

問曰。何法是無畏性。 問うて曰く、何なる法か、是れ無畏の性なる。
問い、
何のような、
『法』が、
『無畏の性ですか?』。
答曰。佛初得道時。得一切佛法十力四無所畏等。此中未來世。得四無所畏智相應法。名無所畏。如布施時心中思相應捨法生。又如四無量心相應名慈法門。 答えて曰く、仏の初めて道を得たもう時、一切の仏法、十力、四無所畏等を得たまえり。此の中の未来世に得る四無所畏の智に相応する法を、無所畏と名づく。布施する時、心中の思に相応して、捨法生ずるが如く、又四無量心相応を、慈法の門と名づくるが如し。
答え、
『仏』は、
『初めて道を得た!』時に、
一切の、
『仏法と十力、四無所畏等を!』、
『得られたのである!』が、
此の中の、
『未来世に得る!』、
『四無所畏の智』に、
『相応する!』、
『法』を、
『無所畏』と、
『称するのである!』。
譬えば、
『布施する!』時の、
『心』中の、
『思に相応して!』、
『捨法』が、
『生じるようなものであり!』、
『四無量心に相応する!』、
『心所法(思等)』を、
『慈法の門』と、
『称するようなものである!』。
  十力(じゅうりき):仏のみ成就する十種の智力を云う。謂わゆる是処不是処智力、業報智力、禅定解脱三昧智力、上下根智力、種種欲智力、種種性智力、一切至処道智力、宿命智力、生死智力、漏尽智力是れなり。『大智度論巻16上注:十力、巻24上本文』参照。
  四無所畏(しむしょい):四種の無所畏の意。仏、菩薩は四種の無所畏を得るが故に説法に当りて怖畏する所なく勇猛安隠なるを云い、即ち仏は已に一切智を得、一切の漏尽き、一切の障道の法を説き、一切の尽苦の道を説きたれば、有る人之を謗るとも、其の四種の事に関して畏るる所の無きことを云う。『大智度論巻5下注:四無所畏、巻25上本文』参照。
問曰。是四無所畏中有何次第。 問うて曰く、是の四無所畏中には、何なる次第か有る。
問い、
是の、
『四無所畏』中には、
何のような、
『次第』が、
『有るのですか?』。
答曰。初無畏中示人知一切法。知一切法故我漏盡。漏盡故知障漏盡法。斷是障法故說道。 答えて曰く、初の無畏中には、人に一切の法を知りたるを示し、一切の法を知るが故に、我が漏尽き、漏尽きたるが故に、漏尽を障うる法を知り、是の障法を断ずるが故に、道を説く。
答え、
『初の無畏』中に、
『一切法を知る!』ことを、
『人』に、
『示し!』、
『一切法を知る!』が故に、
わたしの、
『漏』が、
『尽きたのであり!』、
『漏が尽きた!』が故に、
『漏を尽くす!』のを、
『障えぎる法( obstructing factors )』を、
『知り!』、
是の、
『障法を断じた!』が故に、
『道』を、
『説くのである!』。
復次初無畏。如示藥師一切藥草。第二示一切病滅。第三知禁忌第四示所應食。 復た次ぎに、初の無畏は、薬師の一切の薬草を示すが如く、第二に一切の病の滅するを示し、第三に禁忌を知り、第四に応に食すべき所を示す。
復た次ぎに、
『初の無畏』は、
譬えば、
『薬師』の、
『一切の薬』を、
『示すようなものであり!』、
第二には、
『一切の病』が、
『滅した!』ことを、
『示し!』、
第三には、
『禁忌』を、
『知る!』ことを、
『示し!』、
第四には、
『食わねばならぬ!』、
『食』を、
『示すのである!』。
復次初無畏中。說一切種智。第二無畏中。說無一切煩惱習。第三無畏中。說法無謬失。第四無畏中。所說事辦得至涅槃。 復た次ぎに、初の無畏中には、一切種智を説き、第二の無畏中には、一切の煩悩の習無きを説き、第三の無畏中には、法に謬失無きを説き、第四の無畏中の所説の事辦ずれば、涅槃に至るを得。
復た次ぎに、
『初の無畏』中には、
『一切種智』を、
『説き!』、
『第二の無畏』中には、
『一切の煩悩の習が無い!』ことを、
『説き!』、
『第三の無畏』中には、
『法には謬失が無い!』ことを、
『説き!』、
『第四の無畏』中に、
『説かれた!』、
『事』が、
『達成されれば!』、
則ち、
『涅槃』に、
『至ることができるのである!』。
問曰。如般若波羅蜜中說。五眾乃至十力四無所畏十八不共法皆空。今云何分別說其相。 問うて曰く、般若波羅蜜中に説くが如くんば、五衆、乃至十力、四無所畏、十八不共法は、皆空ならん。今は、云何が分別して、其の相を説く。
問い、
『般若波羅蜜』中に、
『説かれた通りならば!』、
『五衆、乃至十力、四無所畏、十八不共法』は、
皆、
『空だということになる!』が、
今は、
何故、
其の、
『相を分別して!』、
『説くのですか?』。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):声聞縁覚に通ぜず、唯仏又は菩薩のみ有する十八種の功徳法を云う。此れに二種あり。一に「雑阿毘曇心論巻6」等の阿毘曇中には、十力、四無所畏、三念住、大悲の総称とし、謂わゆる十力に処非処智力、業異熟智力、静慮解脱等持等至智力、根上下智力、種種勝解智力、種種界智力、遍趣行智力、宿住随念知力、死生智力、漏尽智力を挙げ、四無所畏には正等覚無畏、漏永尽無畏、説障法無畏、説出道無畏、三念住に於恭敬聴聞者住平等心、於不恭敬聴聞者住平等心、於恭敬聴聞与不恭敬聴聞者住平等心を挙げ、及び大悲なり。二に「般若経」所説の十八不共法には、謂わく諸仏身無失、口無失、念無失、無異想、無不定、無不知己捨心、欲無減、精進無減、念無減、慧無減、解脱無減、解脱知見無減、一切身業随智慧行、一切口業随智慧行、一切意業随智慧行、智慧知見過去世無礙無障、智慧知見未来世無礙無障、智慧知見現在世無礙無障なり。『大智度論巻16上注:十八不共法、巻26上本文』参照。
答曰。佛法中不可得空。於諸法無所礙。因是不可得空。說一切佛法十二部經。譬如虛空無所有而一切物皆依以長成。 答えて曰く、仏法中の不可得空は、諸法に於いて、礙うる所無く、是の不可得空に因りて、一切の仏法、十二部経を説けり。譬えば虚空に所有無けれども、一切の物は、皆依りて以って長成するが如し。
答え、
『仏法』中の、
『不可得空』とは、
『諸法』には、
『障礙する!』所が、
『無いことであり!』、
是の、
『不可得空に因って!』、
『一切の仏法、十二部経』が、
『説かれたのである!』。
譬えば、
『虚空』には、
『有らゆる物』が、
『無い!』が、
『虚空に依って!』、
『一切の物』が、
『成長するようなものである!』。
  不可得空(ふかとくくう):十八空の一。諸の因縁法中に我法等を求むるに不可得なるを云う。『大智度論巻31下本文、巻42下注:十八空』
復次是十力四無所畏。不以取相著心分別故。但為度眾生。知眾生從是因緣得解脫。譬如藥草但為差病。不為求藥草相。如中論中說
 若信諸法空  是則順於理 
 若不信法空  一切皆違失 
 若以無是空  無所應造作 
 未作已有業  不作有作者 
 如是諸法相  誰能思量者 
 唯有淨直心  所說無依止 
 離於有無見  心自然內滅
復た次ぎに、是の十力、四無所畏は相を取る著心を以って、分別するにあらざるが故に、但だ衆生を度する為に、衆生の是の因縁に従らば、解脱を得んことを知る。譬えば薬草の、但だ病を差(いや)す為にして、薬草の相を求めんが為にあらざるが如し。中論中に説けるが如し、
若し諸法の空を信ずれば、是れ則ち理に順じ、
若し法の空を信ぜざれば、一切は皆違失なり。
若し無を以って是れ空ならば、応に造作すべき所無く、
未だ作さざるに已に業有り、作さざるに作者有らん。
是の如き諸法の相を、誰か能く思量する者なる、
唯だ浄直の心有りて、所説には依止無く、
有無の見を離るれば、心は自然に内より滅す。
復た次ぎに、
是の、
『十力、四無所畏』は、
『相を取る!』、
『著心を用いて!』、
『分別するのではない!』が故に、
但だ、
『衆生を度する!』為に、
『衆生』が、
是の、
『因縁によれば!』、
『解脱するだろう!』と、
『知るだけである!』。
譬えば、
『薬草を知る!』のは、
但だ、
『病』を、
『差(いや)す!』為であり、
『薬草の相』を、
『求める!』為に、
『知るのではないようなものである!』。
例えば、
『中論』中に、こう説かれている通りである、――
若し、
『諸法』が、
『空である!』と、
『信ずれば!』、
則ち、
『理』に、
『順ずる!』が、
若し、
『法』が、
『空である!』と、
『信じなければ!』、
一切は、
皆、
『違失することになる!』。
若し、
『無』が、
即ち、
『空ならば!』、
則ち、
『造作すべき!』、
『事、物』が、
『無いことになり!』、
未だ、
『作らないのに!』、
已に、
『業』が、
『有り!』、
未だ、
『作らない!』のに、
『作者』が、
『有るだろう!』。
是のような、
『諸法の相』が、
誰に、
『思量できるのだろうか?』、
唯だ、
『清浄質直の心が有るだけで!』、
『所説』には、
『依止すべき!』所が、
『無い!』。
『有無の見を離れれば!』、
『心』は、
『自然に!』、
『内より滅するだろう!』、と。
  参考:『中論巻4四諦品偈』:『以有空義故  一切法得成  若無空義者  一切則不成(中略)若汝見諸法  決定有性者  即為見諸法  無因亦無緣  即為破因果  作作者作法  亦復壞一切  萬物之生滅  眾因緣生法  我說即是無  亦為是假名  亦是中道義  未曾有一法  不從因緣生  是故一切法  無不是空者』
問曰。聲聞法。說十力四無所畏如是。摩訶衍分別十力四無所畏復云何。 問うて曰く、声聞法に説とける十力、四無所畏は是の如し。摩訶衍に分別する十力、四無所畏は復た云何。
問い、
『声聞法に説かれた!』、
『十力、四無所畏』は、
『是の通りである!』が、
『摩訶衍』には、
『十力、四無所畏』を、
いったい、
何のように、
『分別するのですか?』。
答曰。是十力四無所畏中盡知遍知。是摩訶衍中說十力四無所畏。 答えて曰く、是の十力、四無所畏中に尽く知り、遍く知れば、是れ摩訶衍中に説く十力、四無所畏なり。
答え、
是の、
『十力、四無所畏』中を、
『尽く、知って!』、
『遍く、知れば!』、
是れが、
『摩訶衍に説かれた!』、
『十力、四無所畏である!』。
  参考:『大智度論巻24』:『【經】舍利弗。菩薩摩訶薩欲遍知佛十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲。當習行般若波羅蜜』
問曰。聲聞法中亦說盡知遍知。云何言摩訶衍中說盡知遍知。 問うて曰く、声聞法中にも亦た尽く知り、遍く知ると説く。云何が、摩訶衍中には尽く知り、遍く知ると説くと言う。
問い、
『声聞法』中にも、こう説かれている、――
『尽く、知り!』、
『遍く、知る!』、と。
何故、こう言うのですか?――
『摩訶衍』中には、こう説かれている、――
『尽く、知り!』、
『遍く、知る!』、と。
答曰。諸論議師說。佛盡知遍知非佛自說。今說摩訶衍中十力四無所畏故。佛自說我盡知遍知。 答えて曰く、諸の論議師は、『仏は尽く知り、遍く知る』、と説くも、仏の自説には非ず。今は、摩訶衍中の十力、四無所畏を説くが故に、仏は、自ら、『我れは尽く知り、遍く知る』、と説きたまえり。
答え、
諸の、
『論議師』は、こう説いているが、――
『仏』は、
『尽く、知り!』、
『遍く、知る!』、と。
『仏』が、
『自ら!』、
『説かれたものではない!』。
今は、
『摩訶衍』中の、
『十力、四無所畏』を、
『説こうとされた!』が故に、
『仏』は、
自ら、こう説かれたのである、――
わたしは、
『尽く、知っており!』、
『遍く、知っている!』、と。
復次為聲聞人。說十力四無所畏。合說四諦十二因緣等。諸聲聞法皆為到涅槃今說摩訶衍中十力四無所畏合大悲諸法實相不生不滅說。 復た次ぎに、声聞人の為には十力、四無所畏を説いて、合せて四諦、十二因縁等を説きたもうは、諸の声聞法は、皆涅槃に到らんが為なればなり。今、摩訶衍中の十力、四無所畏を説いて、大悲、諸法の実相の不生、不滅の説を合せたまえり。
復た次ぎに、
『声聞人』の為には、
『十力、四無所畏を説いて!』、
合せて、
『四諦、十二因縁』等を、
『説かれた!』が、
諸の、
『声聞法』は、
皆、
『涅槃に到る!』為に、
『説かれている!』。
今は、
『摩訶衍』中の、
『十力、四無所畏を説いて!』、
『大悲や、諸法実相の不生、不滅の説に!』、
『合せられたのである!』。



菩薩の十力、四無所畏

問曰。佛有十力四無所畏。菩薩有不。 問うて曰く、仏には十力、四無所畏有りて、菩薩には有りや不や。
問い、
『仏』には、
『十力、四無所畏が有る!』が、
『菩薩』にも、
『有りますか?』。
  菩薩十力(ぼさつのじゅうりき):菩薩の有する十種の力。是れに種種あり。『大智度論巻16上注:十力』参照。
答曰有。何者是。一者發一切智心堅深牢固力。二者具足大慈故不捨一切眾生力。三者不須一切供養恭敬利故具足大悲力。四者信一切佛法具足生一切佛法及心不厭故大精進力。五者一心惠行威儀不壞故。禪定力。六者除二邊故。隨十二因緣行故。斷一切邪見故。滅一切憶想分別戲論故。具足智慧力。七者成就一切眾生故。受無量生死故。集諸善根無厭足故。知一切世間如夢故。不厭生死力。八者觀諸法實相故。知無吾我無眾生故。信解諸法不出不生故。無生法忍力。九者入空無相無作解脫門觀故。知見聲聞辟支佛解脫故。得解脫力。十者深法自在故。知一切眾生心行所趣故。具足無礙智力。是為菩薩十力。 答えて曰く、有り。何者か是れ、一には一切智の心を発す堅深牢固なる力、二には大慈を具足せるが故の一切の衆生を捨てざる力、三には一切の供養、恭敬の利を須(ま)たざるが故に具足せる大悲の力、四には一切の仏法を信じて、具足して一切の仏法を生じ、及び心に厭わざるが故の大精進の力、五には一心に恵行して、威儀を壊らざるが故の禅定の力、六には二辺を除くが故に、十二因縁に随いて行ずるが故に、一切の邪見を断ずるが故に、一切の憶想、分別、戯論を滅するが故に具足せる智慧の力、七には一切の衆生を成就するが故に、無量の生死を受くるが故に、諸の善根を集めて厭足無きが故に、一切の世間は夢の如しと知るが故の生死を厭わざる力、八には諸法の実相を観るが故に、吾我無く、衆生無きを知るが故に、諸法の不出、不生を信解するが故の無生法忍の力、九には空、無相、無作の解脱門に入りて観るが故に、声聞、辟支仏の解脱を知見するが故に得る解脱の力、十には深法に自在なるが故に、一切の衆生の心行の趣く所を知るが故に具足せる無礙の智力、是れを菩薩の十力と為す。
答え、
有る!
是れは、何のようなものか?――
一には、
『一切智の心を発す!』、
『堅く、深く、牢固な!』、
『力!』、
二には、
『大慈を具足する!』が故に、
『一切の衆生を捨てない!』、
『力!』、
三には、
『一切の供養、恭敬の利を須(もと)めない!』が故に、
『具足する!』、
『大悲の力!』、
四には、
『一切の仏法を信じて!』、
『一切の仏法を具足して生じ!』、
『心に厭わない!』までに、
『及んだ( attain )!』が故に、
『具足する!』、
『大精進の力!』、
五には、
『一心に恵行(布施、持戒、忍辱行)し!』、
『威儀が壊れない!』が故に、
『具足する!』、
『禅定の力!』、
六には、
『二辺の見を除く!』が故に、
『十二因縁に随って行う!』が故に、
『一切の邪見を断じる!』が故に、
『一切の憶想、分別、戯論を滅する!』が故に、
『具足する!』、
『智慧の力!』、
七には、
『一切の衆生を成就する!』が故に、
『無量の生死を受ける!』が故に、
『諸の善根を集めて、厭足しない!』が故に、
『一切の世間は夢のようだと知る!』が故に、
『生死を厭わない!』、
『力!』、
八には、
『諸法の実相を観る!』が故に、
『吾我も衆生も無いと知る!』が故に、
『諸法は不出、不生であると信解する!』が故に、
『具足する!』、
『無生法忍の力!』、
九には、
『空、無相、無作の解脱門に入って、観る!』が故に、
『声聞、辟支仏の解脱を知見する!』が故に、
『得る!』、
『解脱の力!』、
十には、
『深法に自在である!』が故に、
『一切の衆生の心行の趣く所を知る!』が故に、
『具足する!』、
『無礙の智力!』、
是れが、
『菩薩の十力である!』。
  (ぎゅう):<動詞>追いつく( overtake, catch up with )、至る/到達する( attain, reach )、待つ( wait )、比較する( compare with )、関連する( implicate )、提供する( provide )。<介詞>[ある期間/時間的間隔を示す]その間( while, be in time for )。<接続詞>~と( and )。<副詞>[反問を示す]どうして/豈( how )、[頻繁であることを示す]またもや/又( also )、非常に/極めて( very )。
  恵行(えぎょう):衆生に恩恵を与える行。即ち布施、持戒、忍辱行を云う。
  無生法忍(むしょうほうにん):諸法の無生の理を観じて之を諦忍するを云う。『大智度論巻19下注:無生法忍』参照。
何等為菩薩四無所畏。一者一切聞持故。諸陀羅尼得故。憶念不忘故。在眾說法無所畏。二者一切法中得解脫故。一切法藥分別知用故。知一切眾生根故。在大眾中隨應說法無所畏。三者菩薩常離一切眾畏。不作是念十方有來難我者我不能答。不見是相在大眾中說法無所畏。四者恣一切人來問難者。一一皆答能斷疑惑。在大眾中說法無所畏。是為菩薩四無所畏。 何等をか、菩薩の四無所畏と為す。一には、一切を聞持するが故に、諸の陀羅尼を得るが故に、憶念して忘れざるが故に、衆に在りて法を説くも、所畏無し、二には、一切の法中に解脱を得るが故に、一切の法の薬を分別して用を知るが故に、一切の衆生の根を知るが故に、大衆中に在りて、応ずるに随い法を説くも、所畏無し、三には、菩薩は常に一切の衆畏を離るれば、『十方より来たりて我れを難ずる者有らば、我れは答うる能わざらん』と、是の念を作さず、是の相を見せずして、大衆中に在りて法を説くも、所畏無し、四には一切の人を恣に来たりて問難せしむれば、一一に皆答え、能く疑惑を断ずれば、大衆中に在りて、法を説くも所畏無し、是れを菩薩の四無所畏と為す。
何のようなものが、
『菩薩』の、
『四無所畏なのか?』、――
一には、
『一切の法を聞持する!』が故に、
『諸の陀羅尼を得る!』が故に、
『憶念して忘れない!』が故に、
『大衆中に法を説いても!』、
『畏れる!』所が、
『無い!』、
二には、
『一切の法中より解脱できる!』が故に、
『一切の法の薬を分別して、用( uses )を知る』が故に、
『一切の衆生の根( fuculties )を知る!』が故に、
『大衆中に所応に随い、法を説いても!』、
『畏れる!』所が、
『無い!』、
三には、
『菩薩は常に!』、
『一切の衆畏を離れている!』が故に、
十方より来て、
『わたしを、難じる者が有っても!』、
『わたしには、答えられないだろう!』と、
是のように、
『念じることもなく!』、
是のような、
『相』を、
『現すこともない!』ので、
『大衆中に法を説いても!』、
『畏れる!』所が、
『無い!』、
四には、
『一切の人を恣(ほしいまま let )に!』、
『来させて!』、
『問難させても!』、
『一一に皆答えて!』、
『疑惑』を、
『断じることができる!』ので、
『大衆中に法を説いても!』、
『畏れる!』所が、
『無い!』。
是れが、
『菩薩』の、
『四無所畏である!』。
  菩薩四無所畏(ぼさつのしむしょい):菩薩の衆中に説法するに当り、畏るる所無き四種の法を云う。即ち謂わゆる能持無所畏、知根無所畏、答報無所畏、決疑無所畏なり。『大智度論巻5下本文、注:四無所畏、巻25下本文』参照。



四無礙智

四無礙智者。義無礙智法無礙智辭無礙智樂說無礙智。 四無礙智とは、義無礙智、法無礙智、辞無礙智、楽説無礙智なり。
『四無礙智』とは、
『義無礙智』、
『法無礙智』、
『辞無礙智』、
『楽説無礙智である!』。
  四無礙智(しむげち):梵語 pratisaMvid の訳、理解と表現に関する無礙なる四種の能力( four abilities of unhindered understanding and expression )。即ち、
  1. 義無礙智 artha-pratisaMvid :説法するに当り、内容と意味に関して無礙なり to be unobstructed with regard to the content and meaning of the Dharma teachings,
  2. 法無礙智 dharma-pratisaMvid :説法するに当って謬失無く、法に関して無礙なり no mistake in teaching; to be unobstructed with regard to the Dharma,
  3. 辞無礙智 nirukti-pratisaMvid :無礙なる説法、即ち有らゆる言語の理解 'unhindered speech,' that is, the understanding of all languages,
  4. 楽説無礙 pratibhaana pratisaMvid :無礙にして容易なる表現、即ち衆生を救う為に、上記三無礙智を自在に用いること 'unhindered ease in explanation' which is the free use of the above three in the effort of saving all sentient beings.
義無礙智者。用名字言語所說事。各各諸法相。所謂堅相。此中地堅相是義。地名字是法。以言語說地是辭。於三種智中樂說自在是樂說。於此四事中。通達無滯是名無礙智。濕相水。熱相火。動相風。心思相五眾無常相。五受眾無常苦空相。一切法無我相。如是等總相別相。分別諸法亦如是。是名義無礙智。 義無礙智とは、名字、語言を用うる所説の事、各各の諸法の相なり。謂わゆる堅相は、此の中の地は堅相にして、是れ義なり。地の名字は是れ法なり。語言を以って、地を説く、是れ辞なり。三種の智中に於いて、説くことの自在なるを楽しむ、是れ楽説なり。此の四事中に於いて、通達して無滞なる是れを無礙智と名づく。湿相なる水、熱相なる火、動相なる風、心の思相、五衆の無常相、五受衆の無常、苦、空相、一切法の無我相、是れ等の如き総相、別相の諸法を分別すること、亦た是の如くんば、是れを義無礙智と名づく。
『義無礙智』とは、
『義』とは、
『名字、言語を用いて説かれた事や!』、
『各各の諸法の相である!』。
謂わゆる、
『堅相ならば!』、
此の、
『世間』中の、
『地』は、
『堅相であり!』、
是れが、
『義である!』。
『地という!』、
『名字』、
是れが、
『法である!』、
『言語を用いて!』、
『地を説けば!』、
是れが、
『辞である!』、
是の、
『三種の智』中に於いて、
『説くことが!』、
『自在である!』ことを、
『楽しむ!』、
是れが、
『楽説である!』。
此の、
『四事』中に於いて、
『通達して滞らなければ!』、
是れを、
『無礙智』と、
『称するのである!』。
『湿相ならば!』、
『水であり!』、
『熱相ならば!』、
『火であり!』、
『動相ならば!』、
『風である!』。
又、
『心』は、
『思という!』、
『相であり!』、
『五衆』は、
『無常という!』、
『相であり!』、
『五受衆』は、
『無常、苦、空という!』、
『相であり!』、
『一切法』は、
『無我という!』、
『相である!』、
是れ等のような、
『総相、別相を用いて!』、
『諸法』を、
『分別する!』ことが、
亦た、
是のように、
『通達して滞らなければ!』、
是れを、
『義無礙智』と、
『称する!』。
  楽説(ぎょうせつ):説くをたのしむ。
  無滞(むたい):とどこおることがない。無礙。無障。
  五受衆(ごじゅしゅ):取(受)より生じ、或いは取を生ずる五種の蘊(衆)の意。即ち有漏の五衆を指す。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
法無礙智者。知是義名字。堅相名為地。如是等一切名字分別中無滯。是名為法無礙智。所以者何。離名字義不可得。知義必由於名。以是故次義有法。 法無礙智とは、是の義の名字を知って、堅相なれば名づけて地と為す、是れ等の如く一切の名字を分別する中に、無滞なれば、是れを名づけて法無礙智と為す。所以は何んとなれば、名字を離れて義を得べからざればなり。義を知るには、必ず名に由れば、是を以っての故に義に次いで法有り。
『法無礙智』とは、
是の、
『義』の、
『名字』を、
『知って!』、
『堅相ならば!』、
『地』と、
『呼ぶ!』が、
是れ等のように、
『一切の名字』を、
『分別する!』中に、
『滞らない!』、
是れを、
『法無礙智』と、
『称する!』。
何故ならば、
『名字を離れて!』、
『義』を、
『認識することはできず!』、
『義を知る!』のは、
必ず、
『名字に由るからである!』。
是の故に、
『義に次いで!』、
『法』が、
『有る!』。
問曰。義之與名為合耶。為離耶。若合名。說火時應燒口。若離。說火時應得水。 問うて曰く、義の名と与(とも)なるや、合すと為すや、離ると為すや。若し名と合せば、火を説く時には、応に口を焼くべし。若し離れば、火を説く時、応に水を得べし。
問い、
『義』が、
『名と与にある( get along with )!』のは、
『合しているのか?』、
『離れているのか?』。
若し、
『名と合していれば!』、
『火と説く!』時には、
『口』を、
『焼くはずであり!』、
若し、
『離れていれば!』、
『火と説く!』時には、
『水』を、
『得るはずである!』。
  (し):<動詞>[本義]成長する( grow )。離れて往く/去る( go to, leave )。<代名詞>これ、あれ( this, that )、彼れが/其れが/それ等が/それ等を( he, her, it, they, them )、その/彼れの/他の( its, his, other )。<助詞>[所属関係を示す]~の( of )。
  (よ):<動詞>[本義]与える/給う( give, grant, offer )、共にある/伴う/一緒になる( get along with, be friendly with )、賞を与える( give a reward )、援助する( help )、随従する( follow )、[人に]随順する( conform with )、待つ( wait )、許可/允許する( permit )、交付する( pay )、親近する( be friend with )。<名詞>朋党/派閥( clique )、類/同類( kind )。<介詞>~と/~に及ぶ( with, to )、為に( for )、~より( from )、~に向い( to )。<接続詞>~と/同じく( and )。<助詞>[句末に置いて軽い疑問を表す]~か?。<動詞>あずかる/参与する( take part in )。
答曰。亦不合亦不離。古人假為立名以名諸法。後人因是名字識是事。如是各各有名字。是為法。是名字及義。 答えて曰く、亦た合せず、亦た離れず。古人は仮に為に名を立てて、以って諸法を名づくるに、後人是の名字に因りて、是の事を識る。是の如く各各に名字有りて、是れを法と為し、是れ名字、及び義なり。
答え、
『合することもなく、離れることもない!』。
『古人』が、
仮に、
有る、
『事』の為に、
『名』を、
『立てて!』、
是の、
『名を用いて!』、
諸の、
『法』を、
『呼ぶ!』と、
『後人』は、
是の、
『名字に因って!』、
是の、
『事』を、
『識ることになり!』、
是のようにして、
『各各』が、
『名字を有して』、
是れを、
『法』と、
『称し!』、
是れが、
『名字』と、
『義である!』。
云何令眾生得解。當以言辭分別莊嚴能令人解通達無滯。是名辭無礙智。 云何が衆生をして、解を得しむ。当に言辞を以って分別、荘厳して、能く人をして解せしむべく、通達無滞なれば、是れを辞無礙智と名づく。
何のように、
『衆生』に、
『理解させるのか?』。
当然、
『言辞を用いて!』、
『分別し、荘厳して!』、
『人』に、
『理解させねばならならず!』、
是れが、
『通達して滞らなければ!』、
是れを、
『辞無礙智』と、
『呼ぶのである!』。
說有道理開演無盡。亦於諸禪定中得自在無滯。是名樂說無礙智。 説いて道理有り、開演すること無尽にして、亦た諸の禅定中に自在を得て無滞なり。是れを楽説無礙智と名づく。
『法を説いて!』、
『道理が有り!』、
『義を開演して!』、
『尽きる!』ことが、
『無く!』、
亦た、
諸の、
『禅定中に自在となれば!』、
『滞る!』ことも、
『無くなる!』ので、
是れを、
『楽説無礙智』と、
『呼ぶ!』。
  開演(かいえん):義を開解し、敷演して説くこと。人に分かりやすく説法すること。
第一第四無礙智在九地中。第二第三無礙智。在欲界及梵天上。第二第三無礙世智。第一十智第四九智。是無礙三種上中下。上諸佛中大菩薩下大阿羅漢。 第一、第四の無礙智は九地中に在り、第二、第三の無礙智は欲界、及び梵天上に在り。第二、第三の無礙は世智にして、第一は十智、第四は九智なり。是の無礙には三種の上中下あり、上は諸仏、中は大菩薩、下は大阿羅漢なり。
『第一()、第四(楽説)無礙智』は、
『九地(欲界、未至禅、中間禅、四無色)』中に、
『在り!』、
『第二()、第三()無礙智』は、
『欲界と梵天』上に、
『在る!』。
『第二、第三無礙』は、
『世智であり!』、
『第一』は、
『十智』に、
『相応し!』、
『第四』は、
『九智(滅智を除く)』に、
『相応する!』。
是の、
『無礙』は、
『上、中、下』の、
『三種であり!』、
『上』は、
『諸仏』の、
『無礙!』、
『中』は、
『大菩薩』の、
『無礙!』、
『下』は、
『大阿羅漢』の、
『無礙である!』。
  九地(くじ):総じて欲界、未至、静慮中間、及び四静慮を云う。即ち「大毘婆沙論巻180」に、「地とは、法無礙解は、有るが説かく、二地に在り、謂わゆる欲界、初静慮なりと。有るが説かく、五地に在り、謂わゆる欲界、四静慮なりと。有るが説かく、七地に在り、謂わゆる欲界、未至、静慮中間及び四静慮なりと。義辯二無礙解は、有漏なれば十一地に在り、謂わゆる欲界、未至、静慮中間、四静慮、四無色なり。無漏なれば九地に在り、謂わゆる未至、静慮中間、四静慮、三無色なり。詞無礙解は二地に在り、謂わゆる欲界、初静慮なり」と云えるもの是れなり。『大智度論巻18下注:九地』参照。
  十智(じっち):有漏、及び無漏智を総じて十種に分類せるものを云う。謂わゆる法智、比智、他心智、世俗智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智なり。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  九智(くち):十智中、滅智を除く。即ち「大毘婆沙論巻180」に、「辯無礙解は、有るが説かく、九智の性なり、滅智を除くと。有るが説かく、七智の性なり、又尽、無生智を除くと。有るが説かく、六智の性なり、謂わゆる法智、類智、世俗智、道智、尽智、無生智なりと。有るが説かく、四智の性なり、又尽、無生智を除くと」と云える是れなり。
問曰。力無所畏無礙皆是智慧。內有力外無所畏則具足。何以復說無礙。 問うて曰く、力、無所畏、無礙は、皆是れ智慧なるに、内に力、外に無所畏有れば、則ち具足す。何を以ってか、復た無礙を説く。
問い、
『力、無所畏、無礙』は、
皆、
『智慧である!』が、
『内の力』と、
『外の無所畏』とが、
『有れば!』、
『具足する!』のに、
何故、
復た、
『無礙を説くのですか?』。
答曰。力無畏已分別。有人雖無所畏在大眾中說法而有礙。以是故說四無礙智。得是無礙智莊嚴四無所畏。四無所畏莊嚴十力。 答えて曰く、力、無畏は已に分別せり。有る人は、畏るる所無しと雖も、大衆中に在りて法を説くに、礙有り。是を以っての故に、四無礙智を説く。是の無礙智を得て四無所畏を荘厳し、四無所畏は十力を荘厳す。
答え、
『力、無畏』は、
已に、
『分別した!』が、
有る人は、
『畏れる所が無い!』のに、
『大衆中に法を説く!』と、
『礙』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『四無礙智』を
『説いたのである!』。
是の、
『無礙智を得て!』、
『四無所畏』を、
『荘厳し!』、
『四無所畏』は、
『十力』を、
『荘厳する!』。
復次說無所畏。或有疑者言。云何一人於大眾中得無所畏。佛以前有十力。後有四無礙智。是故在大眾中說法無所畏。如是等分別四無礙智。 復た次ぎに、無所畏を説くに、或は疑う者有りて言わく、『云何が、一人にして、大衆中に無所畏を得ん』、と。仏は前には十力有り、後には四無礙智有るを以って、是の故に大衆中に在りて法を説くに、畏るる所無きなり。是れ等の如く、四無礙智を分別す。
復た次ぎに、
『無所畏を説く!』と、
或いは、
有る、
『疑う!』者が、こう言うだろう、――
『一人』が、
何故、
『大衆中に在って!』、
『無所畏』を、
『得られるのか?』、と。
『仏』は、
前には、
『十力』が、
『有り!』、
後には、
『四無礙智』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『大衆中に在って!』、
『法を説きながら!』、
『畏れる!』所が、
『無いのである!』。
是れ等のように、
『四無礙智』を、
『分別する!』。



菩薩の四無礙智

問曰。摩訶衍中。有菩薩四無礙智不。 問うて曰く、摩訶衍中に、菩薩の四無礙智有りや不や。
問い、
『摩訶衍』中に、
『菩薩』の、
『四無礙智』は、
『有りますか?』。
答曰有。何者是。義無礙智者。義名諸法實相不可言說。義名字語言不別異。前後中亦如是。是名義不應離名字語言別有義。三事等故名為義。 答えて曰く、有り。何者か、是れなる。義無礙智とは、義を諸法の実相にして、言説すべからずと名づく。義、名字、語言を別異せず、前、後、中も亦た是の如し。是れを義と名づくるに、応に名字、語言を離れて、別に義有るべからず。三事の等しきが故に名づけて、義と為す。
答え、
有る!
何のようなものか?――
『義無礙智』とは、
『義』とは、
諸の、
『法の実相であり!』、
『言で!』、
『説くことはできない!』が、
『義と!』、
『名字()と!』、
『語言()と!』は、
『別異せず!』、
『義、名字、語言』の、
『前、後、中』も、
『同様である!』。
是れを、
『義と称する!』が、
『名字、語言を離れて!』、
『義』が、
『有るのではない!』。
『義、名字、語言』の、
『三事が等しい!』のを、
『義』と、
『称するのである!』。
復次一切諸法義。了了知通達無滯。是名義無礙智。 復た次ぎに、一切の諸法義を、了了と知りて、通達、無滞なる、是れを義無礙智と名づく。
復た次ぎに、
一切の、
『諸法の義』を、
『了了として知り!』、
『通達して!』、
『滞らなければ!』、
是れを、
『義無礙智』と、
『称する!』。
法無礙智者。法名一切義。名字為知義故。 法無礙智とは、法を一切の義の名字と名づけ、義を知らんが為の故なり。
『法無礙智』とは、
『法』を、
一切の、
『義の名字と称し!』、
『義を知る!』為の、
『故( cause≒根拠 )である!』。
  (こ):<名詞>[本義] 原因/理由( cause, reason )。事/事情( thing )、事故( accident )、旧友/昔馴染み( old friend )、旧習/因習( outmoded conventions )、先祖( ancestors )、古い事物( the stale )。<形容詞>古い/昔の/前の( ancient, old, former )。<動詞>死ぬ( die )、衰老する( be old and feeble )。<副詞>故意に/わざと/計画的に( deliberately, on purpose )、本来/本より/初めて( first, originally )、本のように/本のままに( still )。<接続詞>此のゆえに/所以に/此れに因って/此の為に( therefor )。
復次菩薩入是法無礙智中。常信法不信人。常依法不依非法。依法者無非法事。何以故是人一切諸名字。及語言知自相離故。 復た次ぎに、菩薩は是の法無礙智中に入りて、常に法を信じて、人を信ぜず。常に法に依りて、非法に依らず、法に依れば非法の事無し。何を以っての故に、是の人の一切の諸の名字、及び語言は、自相を離ると知るが故なり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の、
『法無礙智中に入って!』、
常に、
『法を信じて!』、
『人』を、
『信じず!』、
常に、
『法に依って!』、
『非法』に、
『依らない!』。
『法に依る!』ので、
『非法の事』が、
『無い!』。
何故ならば、
是の、
『人』が、
一切の、
『諸の名字、語言』は、
『自相を離れている!』と、
『知るからである!』。
復次以是法無礙智分別三乘。雖分別三乘而不壞法性。所以者何。法性一相所謂無相。是菩薩用是語言說法知語言空。如響相所說法示眾生。令信知同法性。所說名字言語通達無滯。是名法無礙智。 復た次ぎに、是の法無礙智を以って、三乗を分別すれば、三乗を分別すと雖も、法性を壊らず。所以は何んとなれば、法性は一相、謂わゆる無相なればなり。是の菩薩は、是の語言を用いて、法を説き、語言の空なること、響の相の如しと知り、所説の法を衆生に示して、信知して法性に同ぜしむ。所説の名字、言語に通達して無滞なる、是れを法無礙智と名づく。
復た次ぎに、
是の、
『法無礙智を用いて!』、
『三乗』を、
『分別すれば!』、
『三乗を分別しても!』、
『法性』を、
『壊らない!』。
何故ならば、
『法性』は、
『一相であり!』、
『謂わゆる無相だからである!』。
是の、
『菩薩』は、
是の、
『語言を用いて!』、
『法』を、
『説きながら!』、
『語言』は、
『響の相のように!』、
『空である!』と、
『知り!』、
『語言で説かれた!』、
『法を用いて!』、
『衆生』に、
『示し!』、
『信知させて!』、
『法性』に、
『同じさせる!』が、
是の、
『菩薩』が、
『所説』の、
『名字、言語』に、
『通達していて!』、
『滞らなければ!』、
是れを、
『法無礙智である!』と、
『称する!』。
辭無礙智者。以語言說名字義。種種莊嚴語言。隨其所應能令得解。 辞無礙智とは、語言を以って、名字の義を説き、種種に語言を荘厳し、其の所応に随って、能く解を得しむ。
『辞無礙智』とは、
『語言を用いて!』、
『名字の義』を、
『説いたり!』、
種種に、
『語言』を、
『荘厳して!』、
其の、
『衆生に応じて!』、
『理解』を、
『得させることである!』。
所謂天語龍夜叉揵闥婆阿脩羅迦樓羅摩睺羅伽等非人語。釋梵四天王等世主語人語。一語二語多語略語廣語女語男語過去未來現在語。如是等語言能令各各得解。自語他語無所毀譽。所以者何。是一切法不在語中語是非實義。若語是實義。不可以善語說不善。但為入涅槃故。說令解莫著語言。 謂わゆる天語、龍、夜叉、犍闥婆、阿脩羅、迦楼羅、摩睺羅伽等の非人の語、釈、梵、四天王等の世主の語、人語の一語、二語、多語、略語、広語、女語、男語、過去、未来、現在の語なり。是れ等の如き語言を、能く各各をして、解を得しめ、自語、他語に毀誉する所無し。所以は何んとなれば、是の一切の法は語中に在らず、語は是れ実義に非ざればなり。若し語にして、是れ実義ならば、善語を以って、不善を説くべからず。但だ涅槃に入れしめんが為の故に、説いて解せしめ、語言に著すこと莫し。
謂わゆる、
『天の語や!』、
『龍、夜叉、犍闥婆、阿脩羅、迦楼羅、摩睺羅伽等の非人の語や!』、
『釈、梵、四天王等の世主の語や!』、
『人語の一語や、二語や、多くの語や!』、
『略語や、広語や!』、
『女語や、男語や!』、
『過去の語や、未来の語や、現在の語や!』、
是れ等のような、
『語言を!』、
各各に、
『理解させ!』、
『自の語にも!』、
『他の語にも!』、
『貶されたり、誉められる!』所が、
『無いことである!』。
何故ならば、
是の、
『一切の法』は、
『語中に在るのではなく!』、
『語』が、
『実義ではないからである!』。
若し、
『語が実義ならば!』、
『善語を用いて!』、
『不善』を、
『説くことはできないだろう!』。
但だ、
『涅槃に入らせる!』為の故に、
『法』を、
『説いて!』、
『理解させるだけで!』、
『語言』に、
『著する!』ことが、
『無いからである!』。
  (りゅう):梵語那伽naagaの訳。巴梨名同じ。又曩誐に作り、其の長を龍王、或いは龍神と称す。八部衆の一。多く水中に住して雲を呼び、雨を起すと信ぜられたる蛇形の鬼類を云う。「新華厳経巻43」に、「譬えば難陀、跋難陀、摩那斯龍王及び余の大龍の雨を降らす時の如き、滴は車軸の如くにして辺際あることなく、是の如く雨ふらすと雖も雲終に尽きず。此れは是れ諸龍の無作の境界なり」と云い、「大智度論巻3」に、「復た次ぎに大龍王の大海より出でて大雲を起し、遍く虚空を覆い、大電光を放ちて明に天地を照らし、大洪雨を澍ぎて万物を潤沢するが如し」と云える是れなり。是れ龍は主として大海の中に住し、時に雲雨電光等の事象を現ずるものとなすなり。蓋し諸経論中に龍に関する説話を記載せるもの頗る多く、就中、仏伝中に現るるものを挙ぐれば、「過去現在因果経巻1」、「修行本起経巻上」、「普曜経巻2」、「方広大荘厳経巻3」等に、仏降誕の時、難陀及び優波難陀龍王は虚空の中に在りて清浄水を吐き、一温一凉、以って太子の身に潅げりと云い、「過去現在因果経巻3」、「有部毘奈耶破僧事巻5」等には、尼連禅河中に伽陵伽と名づくる盲龍あり、仏に値いて其の眼開くことを得たりと云い、「仏本行集経巻31」、「有部毘奈耶破僧事巻5」等に、仏菩提樹下より起ちて牟枝噒陀龍王池辺に至り、一樹下に坐して思惟せらるるに、七日洪雨止まず、龍王乃ち出でて仏を七匝し、七頭を以って仏の上を覆い、之を守護せしことを記し、「五分律巻15」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶雑事巻21」等には伊羅葉龍王の過去の本縁を説き、「仏本行集経巻1」、「善見律毘婆沙巻2」等には阿波邏羅龍王の帰仏、「増一阿含経巻14」、「太子瑞応本起経巻下」、「過去現在因果経巻4」、「仏本行集経巻40」、「方広大荘厳経巻12」等には、仏が優楼頻螺迦葉教化の時、火神堂中に於いて毒龍を降伏せられたることを敍し、又「大智度論巻14」に、「蘇陀蘇摩王経」を引き、仏の前身たる大力毒龍が身命を惜まずして禁戒を完うせし因縁を載せり。此等の説話は古来喧伝せられたるものにして、現に印度ブハルフートbharhut、サールナートハsaarnaatha、サンチーsanci、アマラーヴァチーamaraavatii及び瓜哇ボロブドールburobudur等の古塔に其の雕刻を存し、多く人身にして蛇形を冠せり。又「正法念処経巻18畜生品」に依るに、龍王は畜生趣の所摂にして、愚癡瞋恚の者此の報を受けて戯楽城に生まるとし、之に法行と非法行の二種あり、法行龍王は七頭にして、之を象面龍王、婆修吉龍王、得叉迦龍王、跋陀羅龍王、盧醯多龍王、鉢摩梯龍王、雲鬘龍王、阿跋多龍王、一切道龍王、鉢婆呵龍王と名づけ、瞋恚の心薄く、福徳を憶念して法行に随順するが故に熱沙の苦を受けず、善心を以って時に雨を降らし、世間の五穀を成熟せしむ。非法行龍王は其の名を波羅摩梯龍王、毘諶林婆龍王、迦羅龍王、睺楼睺羅龍王と云い、法行に順せずして不善を行じ、父母に孝せず、沙門及び婆羅門を敬せざるが故に、彼の城中に於いて常に熱沙の為に焼かれ、又閻浮提に大悪身を現じ、悪雲雨を起し、一切の五穀をして悉く弊悪ならしむと云い、又「長阿含巻18閻浮提州品」に、閻浮提の有らゆる龍王には凡べて三患あることを説き、一に諸龍は皆熱風熱沙を被りて身に著し、皮肉骨髄を焼かるる苦悩あり、二に悪風暴起して其の宮内を吹き、宝飾衣を失いて龍身自現するの苦悩あり、三に宮中に在りて娯楽する時、金翅大鳥来たりて搏撮す。諸龍怖懼して常に熱悩を懐く。唯阿耨達池の龍王のみ此の三患なしと云えり。以って其の種別及び日常の苦患を見るべし。又「長阿含経巻19龍鳥品」には、龍に卵生、胎生、湿生、化生の別あり。次の如く卵胎湿化の四種の金翅鳥の為に食せらると云い、「仏母大孔雀明王経巻上」には、龍王は或いは地上を行くあり、常に空に居るあり、恒に妙高山に依るあり、水中に依止するあり、或いは一首、二頭、乃至多頭の龍王あり、又無足、二足、四足乃至多足の龍王ありと云い、又「法華経巻1序品」等には難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の八大龍王来会して聴法せしことを記し、「瑜伽師地論巻2」には、七金山八支徳水中の龍宮に持地、歓喜近喜、馬騾、目支隣陀、意猛、持国、大黒、黳羅葉の八大龍王住することを記し、「仏母大孔雀明王経巻中」には、仏世尊龍王以下小白龍王に至る一百六十余の龍王の名を挙げ、此等は皆福徳龍王にして、若し其の名を称せば大利益を獲得し、且つ彼等は或時は震響し、或時は光明を放ち、或時は甘雨を降らして苗稼を成熟すべきことを説き、「大雲輪請雨経巻上」には、難那龍王乃至尼羯吒龍王の名を挙げ、此等の龍王には各陀羅尼あり、一切衆生の為に安楽を施し、瞻部洲に甘雨を降注して一切の樹木叢林薬草苗稼を増長せしむべしとなし、又「増一阿含経巻18」、「大宝積経巻86大神変会」、「大智度論巻30」等には龍境界不可思議の説を出せり。又「海龍王経巻2授決品」には龍王の子威首、「同巻3女宝錦受決品」には龍王の女宝錦、「同巻4法供養品」には海龍王の授決作仏を説き、「法華経巻4提婆達多品」にも、八歳の龍女南方成仏の事を記せり。又龍王の住所は龍宮と称せられ、「長阿含巻19龍鳥品」に、「大海の水底に娑竭龍王宮あり、縦広八万由旬にして宮牆七重あり、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹周匝厳飾し、皆七宝より成り、乃至無数の鳥相和して鳴くこと亦復た是の如し。須弥山王と佉陀羅山との二山の中間に難陀、婆難陀二龍王宮あり、各各縦広六千由旬にして宮牆七重あり、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹周匝校飾し、七宝を以って成じ、乃至無数の衆鳥相和鳴すること亦復た是の如し」と云い、又「正法念処経巻68身念処品」に、閻浮提の南方軍闍羅山を過ぎて一大海あり、海水の下五百由旬に龍王宮あり、種種の衆宝を以って荘厳し、毘琉璃宝、因陀羅青宝、頗梨の欄楯七宝荘厳し、光明摩尼種種の衆宝を以って殿堂を荘厳し、重閣殿は猶お日光の如く、是の如き無量の宮殿あり、徳叉迦龍王は自業を以っての故に此の宮殿に住すと云えり。又「大方等大集経巻45」に娑伽羅龍王は「日蔵授記大集経」を抄して彼の宮中に置くと云い、「龍樹菩薩伝」に大龍菩薩は龍樹を接して龍宮に入り、七宝蔵を開きて諸の方等深奥の経典を授けたりとし、龍王を以って大乗経典の守護者となすに至れり。按ずるに那伽naagaは蛇の神格化せるものにして、印度神話には之を人面蛇尾の半神となし、其の種族一千あり、迦葉波kazyaapaの婦カッドルkadruの生む所にして、地下或いはパーターラpaataalaに住すとなせり。仏典に記載せらるるものは多く、此等の神話より発達せしものなるべし。又印度には太古以来那伽と名づくる種族あり、非アーリヤン人種にして、現に東北印度アッサムassam地方及び緬甸西北部等に広く散在して龍蛇を崇拜し、多数の種別あり。且つ龍城naagapuraの名は今も尚お各地に存せり。されば龍王教化等の説話は、或いは此等那伽種族の帰仏を意味するやも知るべからずというべし。支那に於いても古くより龍の信仰行われ、「翻訳名義集巻4」に、「那伽は秦に龍と云う。説文に云わく、龍は鱗蟲の長なり、能く幽に能く明に、能く小に能く大に、能く長に能く短なり。春分にして天に登り、秋分にして地に入る、順なりと。広雅に云わく、鱗あるを鮫龍と曰い、翼あるを応龍と曰い、角あるを虬龍と曰い、角なきを螭龍と曰い、まだ天に升らざるを蟠龍と曰う」と云い、且つ頗る龍を尊び、天子を龍に比し、龍顔、龍車、龍座、龍舟等の呼称あり。是れ恐らく支那特有の思想にして、印度と其の起原を異にするものならん。又「中阿含経巻29龍象経」、「大楼炭経巻1」、「因縁僧護経」、「新華厳経巻64、67」、「弘道広顕三昧経」、「大方等大集経巻44」、「菩薩処胎経巻7」、「摩訶僧祇律巻20」、「大智度論巻3、4、12、16」、「立世阿毘曇論巻6」、「大唐西域記巻3、8」、「玄応音義巻23」、「慧琳音義巻9」、「異部宗輪論述記」、「法苑珠林巻6」、「華厳経探玄記巻2」等に出づ。<(望)
  夜叉(やしゃ):梵名yakSa。巴梨名yakkha、又藥叉、悦叉、閲叉、野叉に作り、捷疾、軽捷、勇健、能噉、傷者、苦活、祠祭、貴人、或いは威徳と訳す。八部衆の一。即ち地上又は空中等に住し、威勢ありて人を悩害し、或いは正法を守護する鬼類を云う。「長阿含巻12大会経」に、「北方の天王を毘沙門と名づく、諸の悦叉衆を領す」と云い、「大毘婆沙論巻133」に、「山頂(須弥山)の四角に各一峯あり、其の高広の量各五百なり。藥叉神あり、金剛手と名づく。中に於いて止住して諸天を守護すと云えり。是れ夜叉は毘沙門天王の所領にして、忉利天等に在りて諸天を守護することを説けるものなり。其の種類に関しては、「大智度論巻12」に地行、虚空、宮殿飛行の三種ありとし、地行夜叉は常に種種の歓楽音楽飲食を得、虚空夜叉は大力ありて至る所風の如く、宮殿飛行夜叉は種種の娯楽便身の物ありと云い、「注維摩詰経巻1」にも羅什の説を挙げ、夜叉に三種あり、一は地に在り、二は虚空に在り、三は天夜叉なり。地夜叉は但だ財施を以っての故に空を飛ぶこと能わず、天夜叉は車馬を施したるを以って能く飛行すと云い、又「順正理論巻31」に、「大勢鬼とは謂わく諸の藥叉及び邏刹婆、恭畔荼等なり。受くる所の富楽は諸天と同じ、或いは樹林に依り、或いは霊廟に住し、或いは山谷に居り、或いは空宮に処す」と云えり。是れに依るに夜叉には地行等の別あり。各種種の歓楽を受け、又威勢あるものなるを知るべし。蓋し夜叉は毘沙門天王の眷属とせらるるものにして、「起世経巻6四天王品」に、「毘沙門天王に五夜叉あり、恒に常に随逐して左右に侍衛す、防護の為の故なり。何者をか五となす、一を五丈と名づけ、二を曠野と名づけ、三を金山と名づけ、四を長身と名づけ、五を身毛と名づく」と云い、「大方等大集経巻52毘沙門天王品」には、毘沙門天王に無病、吉祥等の十六夜叉大臣大力軍将、並びに因陀羅、蘇摩、婆楼那、伊奢那、阿吒薄拘等の五十の夜叉軍将ありと云い、「金光明最勝王経巻1序品」には、毘沙門天王を上首とし、庵婆、持庵、蓮花光蔵、蓮花面、顰眉、現大怖、動地、呑食等の三万六千の藥叉衆来会すと云い、又「大日経疏巻5」には胎蔵界曼荼羅外金剛部中、北門に毘沙門天王を置き、其の作用に摩尼跋陀羅、布嚕那跋陀羅、半只迦、沙多祁哩、醯摩嚩多、毘灑迦、阿吒嚩迦、半遮羅の夜叉八大将を画くべしと云えり。又夜叉は正法守護神として諸経に其の名を掲ぐるもの多く、「薬師如来本願経」には宮毘羅、跋折羅等の十二夜叉大将が其の経の受持者を衛護せんと誓えりと云い、「陀羅尼集経巻3」に達哩底囉瑟吒等の十六大藥叉将(即ち般若十六善神)が、般若波羅蜜の名を念ずる者を擁護せんと願じたることを説き、「金光明最勝王経巻9諸天藥叉護持品」に、「宝王藥叉王及び満賢王、曠野、金毘羅、賓度羅黄色、此等の藥叉王に各五百の眷属あり、此の経を聴く者を見ば皆来たりて共に擁護せん」と云い、又「大毘婆沙論巻180」に二国将に戦わんとする時、護国藥叉先づ闘うと云い、「孔雀王呪経巻上」には鉤鉤孫陀等約百九十七の夜叉が諸国に住して怨敵を降伏すと云い、「大唐西域記巻3迦溼弥羅国の條」に、迦膩色迦王の時「大毘婆沙論」を結集し、之を石函に緘封して窣堵波を建て、藥叉神に命じて其の国を周衛せしめたりと云える如き即ち皆是れなり。此の中、阿吒薄拘即ち曠野鬼神に関し、「大吉義神呪経巻3」に、「諸の夜叉、羅刹鬼等あり、種種の形を作す、師子象虎、鹿馬牛驢駝羊等の形なり。或いは大頭にして其の身痩小なるを作し、或いは青形を作し、或時は腹赤くして一頭両面、或いは三面あり、或時は四面、麁毛竪髪して師子の毛の如し。或いは復た二頭、或いは復た剪頭、或時は一目にして鋸歯長く出で、麁唇下に垂れ、或いは復た喭鼻し、或いは復た耳を耽れ、或いは復た項を聳やかし、此の異形を以って世の為に畏を作す。或いは矛戟并びに三岐戈を持し、或時は剱を捉り、或いは鉄椎を捉り、或いは刀杖を捉り、声を掲げて大に叫びて甚だ怖懼すべく、力能く地を動ぜしむ。曠野鬼神は是の如き等の百千種の形あり、阿羅迦夜叉は彼の国に在りて住し、彼の国王となる。是の故に名づけて曠野の主となす。彼の曠野国中に於いて善化処あり、凡そ二十の夜叉鬼母あり、彼の諸子の夜叉等は身形姝大にして甚だ大力あり、能く見る者をして大驚懼を生じ普く皆怖畏せしめ、又復た能く見る者をして錯乱迷酔して守を失し猖狂放逸ならしむ。人の精気を飲み、諸の人民の為に此の患を為す者なり」と云い、「南本涅槃経巻15」、「観仏三昧海経巻2」にも亦た其の畏るべき状を説けり。又彼の訶利帝母即ち鬼子母神も大夜叉女神にして、「有部毘奈耶雑事巻31」に、「我が男女を取りて食に充つ、則ち是れ悪賊藥叉なり」と云えり。此等は夜叉を以って人の精気を奪い、肉血を噉う獰悪の鬼類となせるものなり。按ずるに梵語夜叉yakSaは「尊敬する」「祭祀する」又は「躁動する」の義なる語根yakSより来たれる名詞にして、半人半神の群を指すものと称せらる。「注維摩詰経巻1」に貴人と訳し、又「慧琳音義巻23」に、「夜叉。此に祠祭鬼と云う。謂わく俗間に祠祭し、以って恩福を求むる者なり、旧に翻じて捷疾鬼となすなり」と云えるは、即ち其の義に合するものとなすべし。又「大日経疏巻1」に密迹力士を以って夜叉王なりとし、之を金剛手、或いは執金剛と名づけ、「秘中最秘釈」には如来の心密の主を表するが故に秘密主と名づくと云い、且つ其の語義を釈し、西方に夜叉を秘密と為すは、其の身口意速疾隠秘にして了知すべきこと難きが故なりと云えり。是れ夜叉は其の行動速疾隠秘なりとなすなり。又「長阿含経巻20」、「大方等大集経巻50、56」、「金光明最勝王経巻6」、「大吉義神呪経巻4」、「立世阿毘曇論巻1、4」、「玄応音義巻18、21」、「慧琳音義巻27」等に出づ。<(望)
  揵闥婆(けんだつば):八部衆の一。帝釈天の雅楽を司る神の名。『大智度論巻25下注:乾闥婆』参照。
  乾闥婆(けんだつば):梵名gandharva。巴梨名gandhabba、又健達縛、乾達婆、健闥縛、犍達婆、彦達婆、犍沓和、乾沓和、乾沓惒、揵塔和、乾沓婆、巘沓嚩に作る。尋香行、香行、尋香、齅香、食香、食香前、或いは香陰と訳し、又尋香神、香神、香音神、楽神、或いは執楽天の称あり。八部衆の一。帝釈天の雅楽を司る神の名。「長阿含経巻18世記経閻浮提品」に、「雪山の右面に城あり、毘舎離と名づく。其の城の北に七黒山あり、七黒山の北に香山あり。其の山には常に歌唱伎楽音楽の声あり。山に二窟あり、一を名づけて昼となし、二を善昼と名づく。天の七宝より成り、柔濡香潔にして、猶お天衣の如し。妙音乾闥婆王は五百の乾闥婆を従えて、其の中に在りて止まる」と云い、又「註維摩経巻1」に、「乾闥婆とは、什曰わく天の楽神なり。地上の宝山中に処す。天は楽を作さんと欲する時、是の神の体の上に相出づることあり。然る後天に上るなり」と云い、「維摩経玄疏巻5」に、「乾闥婆は此に翻じて香陰と云う。此れは是れ凌空の神にして酒肉を噉わず、唯香を須いて五陰を資く。又云わく、是れ天主幢倒の楽神にして十宝山に居り、身に異相現ずれば、即ち天に上りて楽を奏す。往世に好んで伎楽を観聴し、戒緩にして鬼神に堕し、楽神と作る。布施の果報なれば諸天に似たり」と云い、又「慧琳音義巻11」に、「善く能く琴を弾じ、種種の雅楽も悉く皆能く妙なり。常に上界の諸天のために楽を設く。亦た尋香神と名づくるなり」と云える是れなり。是れ乾闥婆神は常に地上の宝山中に住し、時ありて忉利天に昇りて楽を奏すとなせるものなり。又諸経中には之を以って東方持国天の眷属となし、東方を守護する神となせり。「長阿含巻12大会経」に、「復た東方提頭賴吒天王dhataraTThaあり、乾沓惒神を領す」と云い、「仏母大孔雀明王経巻上」に、「東方に大天王あり、名づけて持国と曰う。是れ彦達嚩の主なり。無量百千の彦達嚩を以って眷属となし、東方を守護す」と云い、「大智度論巻54」に、「東方を提多羅吒と名づく、乾闥婆及び毘舎闍に主たり」と云える是れなり。是れ印度の神話にcitrarathaを以って乾闥婆と主領となすの説より転じたるものなるが如し。又此の乾闥嚩には多数の王及び眷属あるが如く、「法華経巻1序品」に、「四の乾闥婆王あり、楽manojJa乾闥婆王、楽音manojJasvara乾闥婆王、美madhura乾闥婆王、美音madhurasvara乾闥婆王なり。各若干百千の眷属と倶なり」と云い、「大宝積経巻1三律儀会」に、「十億の乾闥婆王あり、歌詠讃歎す」と云い、又「新華厳経巻1世主妙荘厳品」に、「復た無量の乾闥婆王あり、所謂持国dhRtaraaSTra乾闥婆王、樹光drumakiMnaraprabha乾闥婆王、浄目zucinetraratisaMbhava乾闥婆王、華冠puSpadrumakusumitamakuTa乾闥婆王、普音raticaraNasamantasvara乾闥婆王、楽揺動妙目pramuditapralamhasumayana乾闥婆王、妙音師子幢manojJarutasiMhadhvaja乾闥婆王、普放宝光明samantaratnakiraNamuktaprabha乾闥婆王、金剛樹華幢vajradrumakesaradhvaja乾闥婆王、楽普現荘厳sarvavyuuharatisvabhaavanayasaMdarzana乾闥婆王なり。是の如き等を而も上首と為し、其の数無量なり。皆大法に於いて深く信解を生じ、歓喜愛重して勤修して倦まず」と云い、又「大方等大集経巻52提頭賴吒天王護持品」には、仏は楽勝提頭賴吒天王、並びに其の子乾闥婆衆等をして、閻浮提の東方第四分を護持せしむることを説き、其の下に、般支迦、般遮羅、郎伽羅、扇陀、奚摩跋多、質多斯那、那荼王、褝那離沙婆、尸婆迦、牟真隣陀、毘湿婆蜜多羅、除珍達羅斯等の乾闥婆大臣大力軍将、好長耳、好長鼻、善充満、佉陀梨鉢帝の四大刹多羅、楽欲、著欲、憘歌の三兄弟大力軍将、隷利迦、槃梯等の十一兄弟、薩陀曼都、耶闍曼多等の三十三乾闥婆眷属の名を列ね、「大宝積経巻64乾闥婆授記品」には、三億六千万の乾闥婆衆が世尊を供養して記別を受けしことを記せり。多くは宝山中に住すと説くも、「玄応音義巻7」には大海中にも亦た有り、修羅に属すと云い、又「慧琳音義巻11」には、緊那羅女は多く此の神の妻室となると云えり。普通に八部衆の一として之を仏説法の会衆に加え、又「法華経巻7観世音菩薩普門品」には、之を観世音示現の三十三身の一とし、「補陀落海会軌」には其の形像を説きて、「乾闥婆身は頂上に八角の冠あり、身相は赤肉色にして身は大牛王の如く、左定は簫笛を執り、右慧は宝剱を持し、大威力相を具し、髪髻は焔鬘冠あり」と云い、又「千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経」、並びに「千手観音造次第法儀軌」には、之を観音二十八部衆の一となせり。蓋し印度古神話の伝うる所に依れば、吠陀時代の乾闥婆は、概して天の秘密及び真実を知りて之を顕示し、常に虚空の中に在りて諸天の為に蘇摩soma液を供し、且つ医薬に精しく、星座を整え、女人の好む所となり、帝釈宮に於いては常に諸天の宴席に侍して、歌を唱え楽を奏すとなし、又「阿他婆吠陀atharva- veda」には、六千三百三十三の乾闥婆神ありと云えり。之に依るに此の神は古くより帝釈天の宴席に侍し、唱歌奏楽を事とすと信ぜられたるを見るべし。又「毘紐古記viSNu- puraaNa」の説に依れば、此の神は諧調を鼓吹し、又ガームドハヤンダフgaaMdhayandah(辯説の女神)の為に盃を傾けつつ梵天より生ぜしが故に、乾闥婆と名づくtじょ云い、後代の神話には、之を迦葉波kaazyapa仙と其の妃アリシュターariSTaaとの間に生まれたる子なりとし、又「ハリヴァムサharivaMsa」には、梵天の鼻より生まれたりと云い、或いは迦葉波仙の妃なる牟尼muniの生む所なりとも云い、又「毘紐古記」には、此の神は下界に於いて龍と戦い、尽く其の宝を奪いたるにより、龍王は同胞の女ナルマダーnarmadaaを遣わして援を毘紐viSNuに乞い、毘紐即ち身を化して其の軍を破れることを記せり。又西域に於いては、作楽を生業とする者を称して乾闥婆と呼べり。「法華経玄賛巻2」に、「西域には此に由りて散楽を呼んで健闥婆と為す。専ら香気を尋ね、楽を作して乞求するが故なり。楽の中に二類あり、一は絲竹に非ず、鼓磐の類なり。二は是れ絲竹、簫筝の輩なり」と云い、又「唯識二十論述記巻上」に、「其れ西域に俳優を呼んで亦た尋香と云う。此等は王侯に事えず、生業を作さず。唯諸家の飲食等の香を尋ねて便ち其の門に往き、諸伎楽を作して飲食を求め、能く幻術を作す」と云える是れなり。一説に乾闥婆は香に住する神にして楽神に非ざるべしと云うも、乾闥婆には香の義あると同時に、亦た楽の義も含まれたれば、古来多く之を楽神として叙述せしものなるべし。又「中阿含経巻33釈問経」、「起世因本経巻10」、「金光明最勝王経巻1」、「大仏頂首楞厳経巻6」、「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌経」、「法華曼荼羅形色法経」、「尊勝仏頂修瑜伽法儀軌巻上」、「童子経念誦法」、「陀羅尼雑集巻4」、「大智度論巻10」、「法華経文句巻2下」、「華厳経疏巻5」、「観音義疏巻下」、「翻梵語巻7」、「玄応音義巻21、23」、「慧苑音義巻上」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
  阿修羅(あしゅら):六道の一。十界の一。戦闘を事とする一類の鬼類を云う。『大智度論巻25上注:阿修羅』参照。
  伽楼羅(かるら):梵名garuDa。巴梨名gauLa、又加楼羅、迦留羅、伽婁羅、伽楼羅、誐嚕拏、伽留荼、揭路荼、蘗嚕拏、或いは加嚕荼に作る。項癭、大嗉項、又は食吐悲苦声と訳す。一に蘇鉢刺尼suparNiに作る。金翅鳥、或いは妙翅鳥は其の翻なり。「慧苑音義巻上」に、「迦楼羅は此に食吐悲苦声という。謂わく此の鳥は凡べて龍を取り得て、先づ嗉中に内れ、後吐いて之を食す。其の龍猶お活く。此の時、楚痛して悲苦の声を出せばなり。或いは曰わく、此に大嗉項鳥という。謂わく此の鳥は常に龍を嗉内に貯う。其の項の麁を益たせばなり。旧に金翅、妙翅というは且く状に就いて名づく。敵対翻に非ず。然も其の翅に種種の宝色あり、唯だ金のみに非ざるなり」と云い、又「倶舎論光記巻8」には、「迦楼羅は此に項癭という。或いは蘇鉢刺尼と名づく、此に妙翅という。翅殊妙なればなり。旧に金翅鳥と名づくるは正しく目する所に非ず」といえり。蓋し是れ恐らくは鷲の如き猛性なる鳥の一類を神話化したるものにして、元より実在の動物に非ざるも、古来印度人は鳥類の巨魁として、斯の如き大怪鳥の存在を認容せり。「長阿含経巻19」に依るに、金翅鳥には卵生胎生湿生化生の四種ありとし、大海の北岸に究羅睒摩羅なる一大樹あり、其の樹下の囲り七由旬、高さ百由旬、枝葉四方に布くこと五十由旬なり。樹東に卵生龍王宮、卵生金翅鳥王宮あり。其の宮は各縦広六千由旬にして、七重の宮牆、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝校飾、七宝を以ってなり、乃至、無数の衆鳥相和して悲鳴せり。又樹南に胎生龍王宮、胎生金翅鳥王宮、樹西に湿生龍王宮、湿生金翅鳥王宮、樹北に化生龍王宮、化生金翅鳥王宮あり。其の縦広荘厳等は具に彼の卵生宮の如し。中に就き、卵生金翅鳥若し龍を食わんと欲する時は、究羅睒摩羅樹の東方より飛下し、翅を以って大海水を搏つに、海水披くこと二百由旬、乃ち卵生龍を取りて随意に之を食う。胎生金翅鳥は樹南より飛下し、水披くこと四百由旬、胎生龍を食う。亦た樹東より飛下して卵生龍を食うことを得。湿生金翅鳥は樹西より飛下し、水披くこと八百由旬、湿生龍を食う。又樹の東及び南より飛下して卵生胎生の諸龍を食う。化生金翅鳥は樹北より飛下し、水披くこと千六百由旬、化生龍を取りて之を食う。又樹の余方より飛下して他の諸種の龍を食うことを得。但だ沙竭龍王、難陀龍王、跋難陀龍王、伊那婆羅龍王、提頭賴吒龍王、善見龍王、阿盧龍王、伽拘羅龍王、伽毘羅龍王、阿波羅龍王、伽[少/兔]龍王、瞿伽[少/兔]龍王、阿耨達龍王、善住龍王、優睒伽波頭龍王、得叉伽龍王等の諸大龍王は食する能わず、又其等諸大龍王の附近に住するものも其の害を免るるを得といえり。又「立世阿毘曇論巻2」には、四洲の中間四処に各迦楼羅の住処ありとし、其の弗毘提と鬱単越との中間に在るものは、洲形団円にして囲り一千由旬あり。悉く是れ深浮留林にして、迦楼羅鳥は其の林中に住在す。洲外の水下に龍の住居あり。迦楼羅鳥則ち此の龍を捉え来たり、樹上に於いて食す。其の残余は猶お象骨の如く、狼藉として地上に在り。四洲に臭気あるは之が為なり。其の弗毘提と剡浮提との中間に在るものは、洲中に樹あり、曲深浮留と名づく。根茎枝幹竝びに皆具足し、形相愛すべし。其の葉繁密にして久しく住すれども凋まず、風雨入らず。世の精巧なる装飾華鬘及び衆宝耳璫の如く、亦た傘蓋高下相覆うが如し。高さ百由旬、下本洪直五十由旬、枝葉四もに布き径百由旬あり。鞞那低耶伽婁羅王其の樹上に住在す。此の王は嘗て摩那斯龍王と威力を角し、為に曲深浮留樹を摧曲せらる。因りて龍鳥二王共に誓願を立てて永く善友たらんことを約せりと云えり。「観音義疏巻下」には、伽楼羅が龍を以って常食となせる縁由を記して、先に此の鳥は龍と約すらく、汝は須弥を遶りて断たしめよ。我れは海を搏って泥を見せしめん。我れ如かざれば、子を輸して汝の為に給使せしめん。汝如かざれば、子を輸して我れに与え噉わしめよと。然るに天の力は須弥を持して之を断ぜしめず。故に龍は遂に子を輸して伽楼羅に噉わしむるに至れるなりと云い、「観仏三昧海経巻1」には、此の鳥の業報は応に諸龍を食すべし。閻浮提に於いて一日に一龍王及び五百の小龍を食し、明日は弗婆提に於いて、第三日は瞿耶尼に於いて、第四日は鬱単越に於いて各一龍王及び五百の小龍を食し、斯の如く周りては復た始め、八千歳を経と云えり。又「華厳経探玄記巻2」に、「海龍王経に依るに、其の鳥両翅相去ること三百三十六万里。閻浮提には止だ一足を容る。涅槃経に依るに、此の鳥は能く龍魚七宝等を食消す。唯だ金剛を除く、消すること能わざるを以ってなり。又応に命終すべき龍を食す」と云い、「教律異相巻48」には、此の鳥の扇ぐ所の風、若し眼に入る時は、人をして明を失せしむ。故に人間に来たらずと記せり。又其の身長に関しては、「菩薩従兜術天降神母胎説広普経巻7」に金翅鳥王身長八千由旬、左右の翅各長さ四千由旬ありとし、「大楼炭経巻4」には、身高四十里、衣広八十里、衣長四十里、衣重二両半と云えり。但し此の鳥は常に龍を食となすと雖も、沙竭等の諸大龍王、及び仏に帰依するもの、並びに過去に三帰を受けて化作を縷繋せるものは、其の害を免るるを得とす。即ち「増一阿含経巻19」に、「若し龍王をして仏に事うることあらしめば、金翅鳥は能く食噉すること能わず。然る所以は如来は常に四等の心を行ず。是を以っての故に鳥、龍を食すること能わず」と云い、「海龍王経巻4」に、噏気、大噏気、能羅、無量色の四大龍王が仏を請ぜしに、仏為に皂衣を脱して之に附与し以って金翅鳥の害毒を除去せしことを記し、又「菩薩従兜術天降神母胎説広普経巻7」に、化生龍王が如来の八関斎を受持せる故を以って、金翅鳥王の毒害を免れたることを説ける如き是れなり。又「観仏三昧海経巻1」に依るに、此の鳥死相現ずる時、諸龍毒を吐きて食を得るに由なし。諸山を巡遊して永く安きことを得ず。金剛山に至りて暫く住せる後、山より直下して大水際に至り、更に風輪際に至るに、風の為に吹かれて復た金剛山に還る。是の如きこと七返にして遂に命終す。其の毒を以っての故に十宝山をして同時に火起らしむ。爾の時難陀龍王此の山を焼かんことを懼れ、即ち車軸の如き大雨を降らす。是に於いて鳥肉散じ尽くして唯心のみ在り。其の心亦た前の如く直下すること七返にして復た金剛山に還住す。難陀龍王此の鳥心を取りて以って明珠とし、転輪王は得て如意珠となすと云い、又「浄名経疏巻2」には是れ畜生道の摂なり、慢多きが故に堕す。施を行ずるを以っての故に頸に如意珠あり。龍を以って食となすと云えり。又大乗諸経典の中には之を以って所謂八部衆の一とし、天、龍、阿修羅等と共に仏説法の会座に於ける一類の有情として之を列せり。「法華経巻1」に大威徳mahaa- tejas、大身mhaa- kaaya、大満mahaa- puurNa、如意maharddhi- praaptaの四大伽楼羅王の名を挙げ、「旧華厳経巻1」に大勇猛力、無畏宝髻、勇猛浄眼、不退荘厳、持大海光、持法堅固、勝根光明、充満普現、普遊諸方、普眼等観等の諸大伽楼羅王の名を挙げたる如き其の例なり。蓋し印度伝来の神話に依れば、迦楼羅は鳥類の王にして、毘瑟笯の乗御なり。迦葉波仙とヴィナターvinataaとの間に設けられたる子にして、其の生まるるや身光赫奕たりしを以って、諸天は之を火天と誤認して礼拝せり。ウンナチunnati又は毘那夜迦vinaayakaaを婦として、サムパーチsampaatiと名づくる子を挙ぐ。其の母ヴィナターは龍の母カドルーkadruuと不和なりしを以って、迦楼羅は遂に龍の大仇敵たりしと云う。是れ蛇を食う鳥を神話化せしものならん。「マハーブハーラタmahaabhaarata」に依れば、迦楼羅の父母は、其の子に婆羅門を除いて其の他の悪人を食うことを許したりしに、彼れは一婆羅門と其の婦とを呑みしを以って、婆羅門は怒りて迦楼羅の咽を焼き、其れをして終に吐き出さしめたりと云い、又迦楼羅は其の母が龍母カドルーの為に苦しめらるるを見、之を救わんが為に甘露を盗みたるに、帝釈天は怒りて之と戦い、甘露を奪い返したるも、而も迦楼羅の為に其の金剛杵を損ぜられたりと云える説話あり。其の異名は頗る多く、或いは親の名に因みてkaazyapii(迦葉波の子)、vainateya(ヴィナターの子)と呼ばれ、鳥類の王首としてsuparNa(妙翅)、garutmaan(具翼)と称せられ、或いはシャールマリンzaalmalin、タールクシャtaarkSya、毘那夜迦vinaayaka等の名あり。又其の性状に因みてsitaanana(白面)、rakta- pakSa(赤翅)、zveta- rohita(白赤)、panna- ganaazana(伏龍)、又はciraad(長食)、viSNu- ratha(毘瑟笯の乗御)、amRtaaharaNa(食甘露者)、sudhaa- hara(盗甘露者)、sureendra- jit(勝帝釈)、vajra- jit(伏金剛杵)等の異称あり。密教に於いては此の鳥王を以って大梵天、毘瑟笯天、大自在天等が衆生を悲愍して之を拔済せんが為に化現せる身なりとし、或いは文殊の化身なりとも云い、胎蔵界外金剛部南方諸天中に、迦楼羅王及び迦楼羅女を列せり。迦楼羅王は南西隅に近く摩尼阿修羅衆の左内側に在り、荷葉に坐し、左方に向い、鳥頭人身髻髪にして翼を有し、二手に篳篥を執りて吹けり。迦楼羅女は王の外側に在りて右方を向き、両手に螺を持して吹き、余の形像は略ぼ王と同じ。種子は共に(伽ga)、三昧耶形は王は篳篥、女は螺なり。蓋し迦楼羅の形像は頗る多樣にして、印度サンチー塔門の浮彫にあらわれたる菩提樹下諸動物蝟集中に見ゆるものは、単なる鳥形をなし、後世印度に行われたるものは、頭翼爪嘴は鷲の如く、体及び四肢は人間の如くにして、面は白く翼は赤く、其の体は金色なり。又「金剛光焔止風雨陀羅尼経」には、「蝋を持って大身蘗嚕荼王を模捏せよ。結跏趺坐、身量八指、両翅股開き、首に華鬘を戴き、面状は神面、觜状は鷹觜にして、右手に九頭四足の蛇龍王を把り、左手に三頭四足の蛇龍王を執り、純金をもて荘厳して彩色間飾し、身の諸の衣服は天の衣服の如くせよ」と云い、「阿娑縛抄巻163迦楼羅の巻」には、「一の絵図あり、形迦陵頻鳥の如く、觜あり。横に三鈷杵を含み、左右に各虵を執り、左右足は各虵を踏む」云々と云い、又「図像抄巻10」には「迦楼羅王雑密言経」を引きて、「其の身分は臍より已上は天王形の如く、唯鼻のみ鷹の觜の如くにして、而も緑色をなす。臍より已下は亦た鷹の如く、蠡髻に宝冠あり。髪鬚は肩を被い、臂腕に皆宝環釧あり。天衣瓔珞あり。遍身金色にして、翅は鳥の如く、而も両向して舒び、其の尾は下に向って散ず。四臂あり、二の正手は大印を結び、両手の指頭相交じり、左は右を押して虚心合掌し、印を以って心に当つ。余の二手は垂下して五指を舒べ、施願の勢をなす。其の觜、脛及び爪は皆是れ綵金剛珍の所成なり。金山の上に一の金架あり、架上に覆うに錦衾を以ってす。本尊は衾上に於いて正立して忿怒形を作し、牙歯を露出す。傘を以って之を覆い、首に円光あり、宝冠を戴く」とあり。其の他、又鳥身にして那羅延(即ち毘瑟笯)の乗御たるもの等あり。又「大楼炭経巻3」、「起世因本経巻5」、「新華厳経巻1」、「速疾立験魔醯首羅天説迦婁羅阿尾奢法」、「文殊師利菩薩根本大教王経金翅鳥王品」、「迦楼羅及諸天密言経」、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経巻3」、「法華経文句巻2下」、「観音義疏巻下」、「華厳経探玄記巻2」、「大日経疏巻6」、「慧琳音義巻1、12」、「翻訳名義集巻4」、「諸説不同記巻9」等に出づ。<(望)
  金翅鳥(こんじちょう):梵名蘇鉢刺尼suparNiの訳。又迦楼羅garuDaとも名づく。大怪鳥の名。『大智度論巻25下注:迦楼羅』参照。
  摩睺羅伽(まごらか):梵名mahoraga、又摩呼羅伽、摩護囉伽、莫呼勒伽、莫呼洛伽、莫呼洛、摩休洛、摩伏勒に作り、大腹行、大胷行、大胷腹行、大蟒、大蟒蛇、或いは大蟒神と訳す。八部衆の一。「注維摩経巻1」に、「什曰わく、是れ地龍にして而も腹行なり。肇曰わく、摩睺羅伽は大蟒神なり」と云い、「維摩経略疏巻2」に、「摩睺羅迦は此れは是れ蟒神なり、亦た地龍と云う。無足腹行の神なり。即ち世間の廟神は人の酒肉を受くるに悉く悉く蟒腹に入る。毀戒邪諂にして嗔多く施少く、酒肉を貪嗜し、戒緩にして鬼神に堕し、多くの嗔蟲其の身に入りて此れを唼食す」と云い、又「慧苑音義巻1」に、「摩睺羅伽。摩睺は此に大と云うなり。羅伽は胷腹行と云うなり。此れ畜龍の類に摂せらる。旧に蟒神と云うは相似たるも翻名は正対に非ざるなり」と云えり。是れ摩睺羅を以って無足腹行の蟒神となせるものなり。然るに「新華厳経巻1世主妙厳品」には善慧、清浄威音、勝慧荘厳髻、妙目主、如灯幢為衆所帰、最勝光明幢、師子臆、衆妙荘厳音、須弥堅固、可愛楽光明等の無量の摩睺羅伽王ありと云い、又「慧琳音義巻11」に、「是れ楽神の類なり、或いは非人と曰い、或いは大蟒神と云う。其の形は人身にして、而も蛇首なり」と云えり。又「現図胎蔵界曼荼羅」には、其の北辺(向って左辺)に三体の摩睺羅伽を安じ、中央の一は両手の臂を屈して拳にし、頭指を舒べて各胸に当て、左膝を竪てて坐し、左方の一は蛇冠を戴きて右方を向き、右方の一は両手に笛を吹けり。但し胎蔵図像並びに旧図様には、別に此の三体の東方(向って上方)に楽音衆即ち緊那羅二体を図し、之を総じて摩睺羅伽種族と呼べり。「諸説不同記巻10」に、「又別題に楽音衆あり、私に云わく是れ惣題なり。(中略)今按ずるに摩睺羅伽楽音衆と言うべきか」と註せり。種子は(麼ma)或いは(伽ga)、真言は南麼三曼多勃駄喃蘗囉嚂蘗囉嚂なり。又「大日経巻2普通真言蔵品」、「同疏巻10」、「翻梵語巻7」、「慧琳音義巻1、25、27」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
復次用是語言。能令眾生隨法義行。所以者何。言語皆入諸法實相中。是名辭無礙智。 復た次ぎに、是の語言を用うれば、能く衆生をして、法義に随いて行ぜしむ。所以は何んとなれば、言語は皆、諸法の実相中に入ればなり。是れを辞無礙智と名づく。
復た次ぎに、
是の、
『語言を用いれば!』、
『衆生』に、
『法の義』に、
『随って!』、
『行わせることができる!』。
何故ならば、
『言語』は、
『諸の法』の、
『実相』中に、
『入らせるからである!』。
是れを、
『辞無礙智』と、
『称する!』。
  (にゅう):<動詞>[本義]はいる/進入する( enter, come into )。参加/加入する( join, be admitted to, become a member of )、受納する( accept )、相応ずる/互に適応する( conform to )、到達する( attain )、侵入する( invade )、占領/占拠する( take in )。<名詞>収入( income )。
  (にゅう):梵語 praveza の訳、入る/入口/浸透/侵入( entering, entrance, a place of entrance, penetration or intrusion into )の義、真実に目覚める/理解し始める/真実に心を向けて、知識を発展させる( To awaken to the truth; begin to understand; to relate the mind to reality and thus evolve knowledge )の意。◯梵語 aayatana の訳、休息所/土台/座席/場所/家庭/家/住居( resting-place, support, seat, place, home, house, abode )の義、阿毘達磨及び唯識に於いて、感覚の界域を指す術語であり( In Abhidharma and Yogâcāra, this is a technical term referring to the fields of the senses )、感覚[六根]と、その対境[六境]の接する処( the place of the meeting between the organs and their objects )の意、処に同じ、六根及び六境を総じて十二入と称す。
樂說無礙智者。菩薩於一字中。能說一切字。一語中能說一切語。一法中能說一切法。於是中所說皆是法皆是實皆是真。皆隨可度者而有所益。 楽説無礙智とは、菩薩は、一字中に、能く一切の字を説き、一語中に能く一切の語を説き、一法中に能く一切法を説き、是の中の所説に於いて、皆、是れ法、皆是れ実、皆是れ真、皆度す可き者の随いて、益する所有り。
『楽説無礙智』とは、
『菩薩』は、
『一字』中に、
『一切の字』を、
『説くことができ!』、
『一語』中に、
『一切の語』を、
『説くことができ!』、
『一法』中に、
『一切の法』を、
『説くことができる!』し、
是の中に、
『説かれた義、名字、語言』は、
皆、
『法であり!』、
『実であり!』、
『真であり!』、
皆、
『度すべき者』に、
『応じて!』、
『有益である!』。
所謂樂修妒路者。為說修妒路。樂祇夜者為說祇夜。樂弊迦蘭陀者為說弊迦蘭陀。樂伽陀優陀那阿波陀那一筑多闍陀為頭離頞浮陀達摩優波提舍。皆為說是經。 謂わゆる修妒路を楽しむ者には、為に修妒路を説き、祇夜を楽しむ者には、為に祇夜を説き、弊迦蘭陀を楽しむ者には、為に弊迦蘭陀を説き、伽陀、優陀那、阿波陀那、一築多、闍陀、為頭離、阿浮陀達磨、優波提舎を楽しめば、皆為に是の経を説く。
謂わゆる、
『修妒路を楽しむ!』者の為には、
『修妒路』を、
『説き!』、
『祇夜を楽しむ!』者の為には、
『祇夜』を、
『説き!』、
『弊迦蘭陀を楽しむ!』者の為には、
『弊迦蘭陀』を、
『説き!』、
『伽陀、優陀那、阿波陀那、一築多、闍陀、為頭離、阿浮陀達磨、優波提舎』を、
『楽しむ!』者の為には、
皆、
是の、
『経』を、
『説く!』。
  修妒路(しゅとろ):梵名suutra、経、契経等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  祇夜(ぎや):梵名geya、応頌、重頌等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  弊迦蘭陀(へいからんだ):梵名vyaakaraNa、授記、授決、記別等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  伽陀(かだ):梵名gaathaa、頌、不重頌等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  優陀那(うだな):梵名udaana、自説、無問自説等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  尼陀那(にだな):梵名nidaana、因縁、縁起等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  阿波陀那(あぱだな):梵名avadaana、譬喩、解語等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  一築多(いっちくた):梵名itivRttaka、本事、如是語等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  闍陀(じゃだ):梵名jaataka、生、本生等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  為頭離(いづり):梵名vaipulya、方等、方広等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  頞浮陀達摩(あぶだだつま):梵名adbhuta- dharma、未曽有法、希法等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
  優波提舎(うぱだいしゃ):梵名upadeza、論義、義等と訳す。十二部経の一。『大智度論巻22上注:十二部経、巻23下本文』参照。
隨一切眾生根樂說。若好信者為說信根。好精進者為說精進根。好懃念者為說念根。好攝心者為說定根。好智慧者為說慧根。如五根等一切善根亦如是。 一切の衆生の根に随いて、説くを楽しみ、若し信を好む者の為には、信根を説き、精進を好む者の為には、精進根を説き、懃めて念ずることを好む者の為には、念根を説き、心を摂することを好む者の為には、定根を説き、智慧を好む者の為には、慧根を説き、五根等の如く一切の善根も亦た是の如し。
一切の、
『衆生の根に随って!』、
『説くことを!』、
『楽しむ!』ので、
若し、
『信を好む!』者の為には、
『信根』を、
『説き!』、
『精進を好む!』者の為には、
『精進根』を、
『説き!』、
『懃めて念ずることを好む!』者の為には、
『念根』を、
『説き!』、
『心を摂することを好む!』者の為には、
『定根』を、
『説き!』、
『智慧を好む!』者の為には、
『慧根』を、
『説き!』、
是れ等の、
『五根等のように!』、
『一切の善根』も、
『是の通りである!』。
復次二萬一千婬欲人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說二萬一千瞋恚人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說二萬一千愚癡人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說二萬一千等分人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說是名樂說無礙智。 復た次ぎに、二万一千の婬欲の人の根には、是の根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説き、是の諸根に随いて、楽しんで治法の次第を説きたまえば、菩薩は説くを楽しむ。二万一千の瞋恚の人の根には、是の根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説き、是の諸根に随いて、楽しんで治法の次第を説きたまえば、菩薩は説くを楽しむ。二万一千の愚癡の人の根には、是の根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説き、是の諸根に随いて、楽しんで治法の次第を説きたまえば、菩薩は説くを楽しむ。二万一千の等分の人の根には、是の根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説き、是の諸根に随いて、楽しんで治法の次第を説きたまえば、菩薩は説くを楽しむ。是れを楽説無礙智と名づく。
復た次ぎに、
『婬欲の人』には、
『二万一千の根( faculties )が有る!』ので、
是の、
『根』の為の故に、
『仏』は、
『八万四千』の、
『治法の根』を、
『説き!』、
是の、
『諸の根に随って!』、
『治法の次第』を、
『楽しんで!』、
『説かれる!』と、
『菩薩』が、
是れを、
『説く!』ことを、
『楽しみ!』、
『瞋恚の人』には、
『二万一千の根が有る!』ので、
是の、
『根』の為の故に、
『仏』は、
『八万四千』の、
『治法の根』を、
『説き!』、
是の、
『諸の根に随って!』、
『治法の次第』を、
『楽しんで!』、
『説かれる!』と、
『菩薩』が、
是れを、
『説く!』ことを、
『楽しみ!』、
『愚癡の人』には、
『二万一千の根が有る!』ので、
是の、
『根』の為の故に、
『仏』は、
『八万四千』の、
『治法の根』を、
『説き!』、
是の、
『諸の根に随って!』、
『治法の次第』を、
『楽しんで!』、
『説かれる!』と、
『菩薩』が、
是れを、
『説く!』ことを、
『楽しみ!』、
『婬欲、瞋恚、愚癡が等分の人』には、
『二万一千の根が有る!』ので、
是の、
『根』の為の故に、
『仏』は、
『八万四千』の、
『治法の根』を、
『説き!』、
是の、
『諸の根に随って!』、
『治法の次第』を、
『楽しんで!』、
『説かれる!』と、
『菩薩』が、
是れを、
『説く!』ことを、
『楽しむ!』ので、
是れを、
『楽説無礙智』と、
『称する!』。
復次菩薩用是無礙智。若一劫若半劫。各各莊嚴說法。亦不壞諸法性相。 復た次ぎに、菩薩は是の無礙智を用いて、若しは一劫、若しは半劫、各各説法を荘厳し、亦た諸の法性の相を壊らず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
是の、
『無礙智を用いて!』、
『一劫とか!』、
『半劫とか!』、
各各、
『説法』を、
『荘厳する!』ので、
亦た、
諸の、
『法性の相』を、
『壊ることがない!』。
是菩薩或隱身不現。而為眾生用一切毛孔說法。隨其所應不失本行。 是の菩薩は、或は身を隠して現われず、而も衆生の為に一切の毛孔を用いて法を説き、其の所応に随いて、本行を失わず。
是の、
『菩薩』は、
或は、
『身』を、
『隠して!』、
『現さず!』、
而も、
『衆生』の為に、
『一切の毛孔を用いて!』、
『法』を、
『説くのである!』が、
其の、
『衆生の心に応じながらも!』、
『本来の!』、
『菩薩の行』を、
『失うことがない!』。
是菩薩智慧無量。一切論議師不能窮盡亦不能壞。 是の菩薩の智慧は無量にして、一切の論議師も窮尽する能わず、亦た壊る能わず。
是の、
『菩薩の智慧は無量であり!』、
『一切の論議師には!』、
『窮めて!』、
『尽くすことができず!』、
亦た、
『壊ることもできない!』。
是菩薩得是無礙智轉身受生時。一切五通仙人所有經書咒術智慧技能自然悉知。 是の菩薩は、是の無礙智を得れば、身を転じて生を受くる時、一切の五通仙人の有らゆる経書、咒術、智慧、技能を自然に悉く知る。
是の、
『菩薩』が、
是の、
『無礙智を得る!』と、
『身を転じて!』、
『生』を、
『受けた!』時にも、
一切の、
『五通の仙人』の、
『有らゆる経書、咒術、智慧、技能』を、
『自然に!』、
『悉く知ることになる!』。
所謂四韋陀六鴦伽咒術。知日月五星經原夢經地動鬼語鳥語獸語四足獸鬼著人語國王相占豐儉日月五星鬥相醫藥章算數卜歌舞伎樂。如是等工巧技術諸經盡知明達。過一切人及諸外道。亦不自高亦不惱他。知是俗事不為涅槃。 謂わゆる四韋陀、六鴦伽、咒術、知日月五星経、原夢経、地動、鬼語、鳥語、獣語、四足獣、鬼著人の語、国王の相占、豊倹、日月、五星、闘相、医薬、章、算数、卜、歌舞、伎楽、是れ等の如き工巧、技術の諸経を尽く知り、明達して、一切の人、及び諸の外道に過ぎ、亦た自高せず、亦た他を悩ませず、是の俗事を知りて、涅槃の為とせず。
謂わゆる、
『四韋陀、六鴦伽、咒術、知日月五星経、原夢経、地動や!』、
『鬼語、鳥語、獣語、四足獣、鬼著人の語や!』、
『国王の相占、豊倹、日月、五星、闘相、医薬、章、算数、卜、歌舞、伎楽』、
是れ等のような、
『工巧、技術の諸経』を、
悉く、
『知って!』、
『明達(熟達)し!』、
一切の、
『人や、諸の外道を過ぎながら!』、
『自ら高ぶらず!』、
『他』を、
『悩ますこともなく!』、
是の、
『俗事を知りながらも!』、
『涅槃』を、
『目的としない!』。
  四韋陀(しいだ):韋陀は梵語veda。四種の婆羅門根本聖典なり。外道十八大経に摂す。『大智度論巻25上注:吠陀、十八大経』参照。
  六鴦伽(ろくおうが):鴦伽は梵語aGga、即ち支分、部分の義。蓋し外道十八大経中所摂の六論の如し。『大智度論巻25上注:十八大経』参照。
  原夢(げんむ):夢の根本を推求するの意。占夢。
  地動(じどう):地の動くを以って、吉凶を推求する意。
  豊倹(ぶけん):豊富と倹約。ゆたかとつづまやか。
  五星(ごしょう):五箇の星の意。又五執とも云う。一に水星budha、又能星、辰星、鉤星、司農とも名づく。二に金星zukra、又太白、殷星、太正、熒星、明星とも名づく。三に火星aGgaaraka、又熒惑、赤星、執法、罰星と名づく。四に木星bRhaspati、又歳星、摂提、重華、経星と名づく。五に土星zanizcara、又鎮星、地候とも名づく。「大方等大集経巻40」に、「虚空の中を見るに諸の列宿日月五星あり、昼夜運行して各常度を守り、為に天下に於いて照明を作す」と云い、「宿曜経巻上」に、「五星は速を以って遅に至る。即ち辰星、大白、熒惑、歳、鎮なり。排して次第を為し、行度緩急斯に於いて彰る」と云える是れなり。此の中、歳星は木曜、即ち五行の中の木の精にして東方蒼帝の子なり。熒惑星は火曜、即ち火の精にして南方赤帝の子なり。鎮星は土曜、即ち土の精にして中方黄帝の子なり。太白星は金曜、即ち金の精にして西方白帝の子なり。辰星は水曜、即ち水の精にして北方黒帝の子なり。此の五星は天を一周するに遅速同じからず、鎮星は二十九年半、歳星は十二年、熒惑星は二歳、太白及び辰星は各一歳にして、人命星に至る毎に吉凶等しからず。「七曜攘災決」には一一其の攘災の法を明せり。彼の真言の行者が曼荼羅を建立し、行法を修せんとするに、先づ良晨を定むることは、此等宿曜諸尊の本誓と相契いて、以って能く吉祥にして諸障を離れ、円満に其の法を成就せんことを期するに由れるものなり。又「大方広菩薩文殊師利根本儀軌経巻3」、「七曜星辰別行法」、「梵天火羅九曜」、「宿曜儀軌」、「金光明経巻2四天王品」、「同巻3正論品」、「大日経疏巻4」等に出づ。<(望)
  (しょう):ふみ。文書。文章。てほん。儀表。表。亀鑑。軌範。
  (ぼく):うらなうこと。卜相。卜占。卜筮。
  工巧(くぎょう):大工。細工。
  明達(みょうたつ):あきらかに事理に通じること。
  自高(じこう):みずからたかぶる。自大。
是菩薩成就四無礙智故。色力光明殊於諸梵。諸梵恭敬愛樂尊重心無所著。為如是等一切諸天所尊重恭敬亦無所著。但生無常苦空無我心。亦以神通發起諸天令心渴仰而為說法無盡無壞。斷除疑悔令住阿耨多羅三藐三菩提。是名摩訶衍中菩薩四無礙智力能度眾生。是名四無礙智義
大智度論卷第二十五
是の菩薩は、四無礙智を成就するが故に、色、力、光明を諸梵に殊にすれば、諸梵恭敬、愛楽、尊重するも、心に著する所無く、是れ等の如き一切の諸天に尊重、恭敬せらるるも、亦た著する所無く、但だ無常、苦、空、無我の心を生じて、亦た神通を以って、諸天を発起し、心に渇仰せしめ、為に法を説いて尽くること無く、壊るること無く、疑悔を断除して、阿耨多羅三藐三菩提に住せしむ。是れを摩訶衍中の菩薩の四無礙智の力は能く衆生を度すと名づけ、是れを四無礙智の義と名づく。
大智度論巻第二十五
是の、
『菩薩』は、
『四無礙智を成就する!』が故に、
『色、力、光明』が、
『諸の梵より!』も、
『殊勝であり!』、
諸の、
『梵』に、
『恭敬、愛楽、尊重される!』が、
『心』が、
是の、
『色、力、光明』に、
『著することはなく!』、
是れ等のような、
一切の、
『諸天』に、
『尊重、恭敬されながら!』、
是の、
『尊重、恭敬に!』、
『著することもなく!』、
但だ、
『無常、苦、空、無我』の、
『心』を、
『生じるだけで!』、
亦た、
『神通を用いて!』、
諸の、
『天を発起し(発奮させ)て!』、
其の、
『心』に、
『法』を、
『渇仰させ!』、
是の、
『天』の為に、
『法を説いて!』、
『尽きることもなく!』、
『壊られることもなく!』、
『疑、悔を断除して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』に、
『住まらせる!』。
是れを、
『摩訶衍』中の、
『菩薩の四無礙智の力』は、
『衆生を度することができる!』と、
『称し!』、
是れを、
『四無礙智の義』と、
『称する!』。

大智度論巻第二十五
  発起(ほっき):発憤してたたせる。他の人を発揚し鼓動すること。


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