巻第二十四(下)
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大智度論初品十力釋論第三十九
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


是処不是処を知る智力

問曰。何等為是處不是處力。 問うて曰く、何等をか、是処不是処力と為す。
問い、
『是処不是処力』とは、
何のようなものですか?
答曰。佛知一切諸法因緣果報定相。從是因緣生如是果報。從是因緣不生如是果報。所以者何。如多性經中說。是處不是處相。 答えて曰く、仏の一切の諸法の因縁、果報の定相を知りたまわく、『是の因縁より、是の如き果報を生ず、是の因縁より、是の如き果報を生ぜず』、と。所以は何んとなれば、多性経中に説く是処不是処の相の如し。
答え、
『仏』は、
『一切の諸法』の、
『因縁、果報の定相』を、こう知っていられる、――
是の、
『因縁より!』、
是のような、
『果報』を、
『生じる!』。
是の、
『因縁』は、
是のような、
『果報』を、
『生じない!』、と。
何故ならば、
例えば、
『多性経』中に説かれた、――
『是処不是処の相』と、
『同じだからである!』。
  参考:『中阿含巻47(181)経』:『中阿含心品多界經(181)第十  我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。尊者阿難獨安靖處宴坐思惟。心作是念。諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。於是。尊者阿難則於晡時。從宴坐起。往詣佛所。稽首佛足。卻住一面。白曰。世尊。我今獨安靖處宴坐思惟。心作是念。諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。世尊告曰。如是。阿難。如是。阿難。諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。猶如從葦[卄/積]草[卄/積]生火。燒樓閣堂屋阿難。如是諸有恐怖。從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。昔過去時若有恐怖。彼一切亦從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。當來時諸有恐怖。彼一切從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。今現在諸有恐怖。從愚癡生。不從智慧。諸有遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡生。不從智慧。阿難。是為愚癡有恐怖。智慧無恐怖。愚癡有遭事.災患.憂慼。智慧無遭事.災患.憂慼。阿難。諸有恐怖.遭事.災患.憂慼。彼一切從愚癡可得。不從智慧。於是。尊者阿難悲泣淚出。叉手向佛。白曰。世尊。云何比丘愚癡非智慧。世尊答曰。阿難。若有比丘不知界。不知處。不知因緣。不知是處.非處者。阿難。如是比丘愚癡非智慧。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘愚癡非智慧。世尊。云何比丘智慧非愚癡。世尊答曰。阿難。若有比丘知界.知處.知因緣。知是處.非處者。阿難。如是比丘智慧非愚癡。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘智慧非愚癡。世尊。云何比丘知界。世尊答曰。阿難。若有比丘見十八界知如真。眼界.色界.眼識界。耳界.聲界.耳識界.鼻界.香界.鼻識界。舌界.味界.舌識界。身界.觸界.身識界。意界.法界.意識界。阿難。見此十八界知如真。復次。阿難。見六界知如真。地界.水界.火界.風界.空界.識界。阿難。見此六界知如真。復次。阿難。見六界知如真。欲界.恚界.害界。無欲界.無恚界.無害界。阿難。見此六界知如真。復次。阿難。見六界知如真。樂界.苦界.喜界.憂界.捨界無明界。阿難。見此六界知如真。復次。阿難。見四界知如真。覺界.想界.行界.識界。阿難。見此四界知如真。復次。阿難。見三界知如真。欲界.色界.無色界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。色界.無色界.滅界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。過去界.未來界.現在界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。妙界.不妙界.中界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。善界.不善界.無記界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見三界知如真。學界.無學界.非學非無學界。阿難。見此三界知如真。復次。阿難。見二界知如真。有漏界.無漏界。阿難。見此二界知如真。復次。阿難。見二界知如真。有為界.無為界.阿難。見此二界知如真。阿難。見此六十二界知如真。阿難。如是比丘知界。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知界。世尊。云何比丘知處。世尊答曰。阿難。若有比丘見十二處知如真。眼處.色處。耳處.聲處。鼻處.香處。舌處.味處。身處.觸處。意處.法處。阿難。見此十二處知如真。阿難。如是比丘知處。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知處。云何比丘知因緣。世尊答曰。阿難。若有比丘見因緣及從因緣起知如真。因此有彼。無此無彼。此生彼生。此滅彼滅。謂緣無明有行乃至緣生有老死。若無明滅則行滅。乃至生滅則老死滅。阿難。如是比丘知因緣。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知因緣。云何比丘知是處.非處。世尊答曰。阿難。若有比丘見處是處知如真。見非處是非處知如真。阿難。若世中有二轉輪王並治者。終無是處。若世中有一轉輪王治者。必有是處。阿難。若世中有二如來者。終無是處。若世中有一如來者。必有是處。阿難。若見諦人故害父母。殺阿羅訶。破壞聖眾。惡心向佛。出如來血者。終無是處。若凡夫人故害父母。殺阿羅訶。破壞聖眾。惡心向佛。出如來血者。必有是處。阿難。若見諦人故犯戒。捨戒罷道者。終無是處。若凡夫人故犯戒。捨戒罷道者。必有是處。若見諦人捨離此內。從外求尊.求福田者。終無是處。若凡夫人捨離此內。從外求尊.求福田者。必有是處。阿難。若見諦人從餘沙門.梵志作是說諸尊。可見則見。可知則知者。終無是處。若凡夫人從餘沙門.梵志作是說諸尊。可見則見。可知則知者。必有是處。阿難。若見諦人信卜問吉凶者。終無是處。若凡夫人信卜問吉凶者。必有是處。阿難。若見諦人從餘沙門.梵志卜問吉凶相應。見有苦有煩。見是真者。終無是處。若凡夫人從餘沙門.梵志卜問吉凶相應。見有苦有煩。見是真者。必有是處。阿難。若見諦人生極苦甚重苦。不可愛.不可樂.不可思.不可念乃至斷命。捨離此內。更從外求。或有沙門.梵志。或持一句咒。二句.三句.四句.多句.百千句咒。令脫我苦。是求苦.習苦.趣苦.苦盡者。終無是處。若凡夫人捨離此內。更從外求。或有沙門.梵志持一句咒。二句.三句.四句.多句.百千句咒。令脫我苦。是求苦.習苦.趣苦.苦盡者。必有是處。阿難。若見諦人受八有者。終無是處。若凡夫人受八有者。必有是處。阿難。若身惡行。口.意惡行。因此緣此。身壞命終。趣至善處。生於天中者。終無是處。若身惡行。口.意惡行。因此緣此。身壞命終。趣至惡處。生地獄中者。必有是處。阿難。若身妙行。口.意妙行。因此緣此。身壞命終。趣至惡處。生地獄中者。終無是處。若身妙行。口.意妙行。因此緣此。身壞命終。趣至善處。生天中者。必有是處。阿難。若身惡行。口.意惡行。受樂報者。終無是處。阿難。若身惡行。口.意惡行。受苦報者。必有是處。阿難。若身妙行。口.意妙行。受苦報者。終無是處。若身妙行。口.意妙行。受樂報者。必有是處。阿難。若不斷五蓋心穢.慧羸。心正立四念處者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處者。必有是處。阿難。若不斷五蓋.心穢.慧羸。心不正立四念處。欲修七覺意者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處。修七覺意者。必有是處。阿難。若不斷五蓋.心穢.慧羸。心不正立四念處。不修七覺意。欲得無上正盡覺者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處。修七覺意。得無上正盡覺者。必有是處。阿難。若不斷五蓋.心穢.慧羸。心不正立四念處。不修七覺意。不得無上正盡覺。盡苦邊者。終無是處。若斷五蓋.心穢.慧羸。心正立四念處。修七覺意。得無上正盡覺。盡苦邊者。必有是處。阿難。如是比丘知是處.非處。尊者阿難白曰。世尊。如是比丘知是處.非處。於是。尊者阿難叉手向佛。白曰。世尊。此經名何。云何奉持。世尊告曰。阿難。當受持此多界.法界.甘露界.多鼓.法鼓.甘露鼓.法鏡.四品。是故稱此經名曰多界。佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。多界經第十竟』
女身作轉輪聖王無是處。何以故。一切女人皆屬男子。不得自在故。女人尚不得作轉輪聖王何況作佛。若女人得解脫涅槃。亦因男子得。無有自然得道。 女身もて転輪聖王と作るとは、是の処無し。何を以っての故に、一切の女人は、皆男子に属して、自在を得ざるが故なり。女人は、尚お転輪聖王すら作るを得ず、何に況んや仏と作るをや。若し女人にして、解脱、涅槃を得れば、亦た男子に因りて得、自然に道を得るもの有ること無し。
『女身のまま!』で、
『転輪聖王と作る!』とは、  ―― 1 ――
是の、
『処』は、
『無い!』。
何故ならば、
『一切の女人』は、
皆、
『男子に属して!』、
『自在』を、
『得られないからである!』。
『女人』は、
尚お、
『転輪聖王にすら!』、
『作れない!』ので、
況して、
『仏』に、
『作れるはずがない!』。
若し、
『女人』が、
『解脱して!』、
『涅槃』を、
『得られたとすれば!』、
必ず、
『男子』に、
『因って!』、
『得たのであり!』、
『自然』に、
『道を得た!』者など、
『有るはずがない!』。
  参考:『中本起経巻下瞿曇弥来作比丘尼品』:『爾時佛遊於迦維羅衛國釋氏精舍。與大比丘僧。千二百五十人俱。是時大愛道瞿曇彌。行到佛所。稽首作禮。卻住一面。叉手白佛言。我聞女人精進可得沙門四道。願得受佛法律。我以居家有信。欲出家為道。佛言且止。瞿曇彌。無樂以女人入我法律。服法衣者。當盡壽清淨究暢梵行。瞿曇彌。則復求哀。如是至三。佛不肯聽。便前作禮。遶佛而去。其後不久。佛時與諸大比丘俱。從釋氏精舍。入迦維羅衛國。大愛道聞佛從諸弟子來入國中。心大歡喜。即行到佛所。稽首佛足下。大愛道復白佛言。我聞女人精進可得沙門四道。願得受佛法律。我以居家有信。欲出家為道。佛言止止。瞿曇彌。無樂以女人入我法律。服法衣者。當盡壽清淨究暢梵行。大愛道。則復求哀。如是至三。佛不肯聽。便前作禮。遶佛而去。佛時與諸比丘。留止是國。避雨三月。補成衣已。著衣持缽。出國而去。大愛道即與諸老母等。俱行追佛。佛行轉到那私縣。頓止河上。大愛道便前稽首作禮卻住。白佛言。我聞女人精進可得沙門四道。願得受佛法律。我以居家有信。欲出家為道。佛言止止。瞿曇彌。無樂以女人入我法律。服法衣者。當盡壽清淨究暢梵行。大愛道則復求哀。如是至三。佛不肯聽。便前作禮。遶佛而退。住於門外。被弊敗之衣。徒跣而立。顏面垢穢。衣服污塵。身體疲勞。噓唏悲啼。賢者阿難。見伯母大愛道如是。即問言。瞿曇彌。何因弊衣徒跣。面垢衣塵疲勞悲啼。大愛道答言。賢者阿難。今我用女人故。不得受佛法律。是以自悲傷耳。阿難言。止止瞿曇彌。且自寬意。待我今入向佛說是事。賢者阿難。即入稽首佛足下。長跪白佛言。我從佛聞。女人精進可得沙門四道。今大愛道以至心欲受法律。其已居家有信。欲出家為道。願佛許之。佛言止止。阿難。無樂使女人入我法律為沙門也。所以者何。阿難。譬如族姓之家生子。多女少男。當知是家以為衰弱。不得大強盛也。今使女人入我法律者。必令佛清淨梵行不得久住。譬如稻田禾稼具熟。而有惡露災氣。則令善穀傷敗。今使女人入我法律者。必令佛清淨大道不得久興盛。阿難復言。今大愛道。多有善意。佛初生時。力自育養。至于長大。佛言有是。阿難。大愛道。信多善意。於我有恩。我生七日。而母終亡。大愛道。自育養我。至于長大。今我於天下為佛。亦多有恩德於大愛道。大愛道。但由我故。得來自歸佛自歸法自歸比丘僧。又信佛信法信比丘僧。不復疑苦。不復疑習。不復疑盡。不復疑道。方成其信。成其禁戒。成其多聞。成其布施。成其智慧。亦能自禁制。不殺生。不盜竊。不婬泆。不妄語。不飲酒。如是阿難。正使人終身相給施衣被。飲食臥具病困醫藥。不及我此恩德也。佛告阿難。假使女人。欲作沙門者。有八敬之法。不得踰越。當以盡壽。學而行之。譬如防水。善治堤塘。勿漏而已。其能如是者。可入我律戒。何謂八敬之法。一者比丘持大戒。女人比丘尼。當從受正法。二者比丘僧持大戒。半月已上。比丘尼。當禮事之。三者比丘僧比丘尼。不得相與並居同止。四者三月止一處。自相檢押。所聞所見。當自省察。五者比丘尼。不得訟問比丘僧事。以所聞見。若比丘僧。有所聞見。訟問比丘尼。比丘尼。即當自省察。六者比丘尼。有庶幾於道法。得問比丘僧經律之事。七者比丘尼。自未得道。若犯戒律。當半月詣眾中。首過自悔。以棄憍慢之態。八者比丘尼。雖有百歲持大戒。當處新受大戒幼稚比丘僧下坐。以謙敬為之作禮。是為八敬之法。我教女人不得踰越。當以盡壽學而行之。假令大愛道。審能持此八敬法者。聽為沙門。賢者阿難受佛語已熟諦便作禮而出。報大愛道言。瞿曇彌。可勿復愁。已得捨家之信去家就戒。佛說女人作沙門者。有八敬之法。不得踰越。但當終身勤意學行之耳。持心當如防水。善治堤塘勿漏而已。阿難便一一為伯母。說佛所教敕八敬之事言。能如是者。可入佛法律。大愛道。即歡喜而言。唯諾阿難。聽我一言。譬如四姓家女。沐浴塗香。衣莊嚴事。而人復欲利益之。安隱不怖。以好華香珍寶。結為[王*步]瑤。持與其女。豈不愛樂頭首受耶。今佛所教敕八敬法者。我亦歡心。願以首頂受之。爾時大愛道。便受大戒。為比丘尼。奉行法律。遂得應真。然後異時。大愛道比丘尼。與諸長老比丘尼。俱行詣賢者阿難。而問言。阿難。是諸長老比丘尼。皆久修梵行。且已見諦。云何當使為新受大戒幼小比丘僧作禮。阿難言。小且待我今入問之。阿難即入。稽首佛足下。白佛言。大愛道比丘尼言。是諸長老比丘尼。皆久修梵行。且已見諦。云何當使為新受大戒幼少比丘僧作禮。佛言止止。阿難。當慎此言勿得說也。但汝所知。不如我知。若使女人不於我道作沙門者。外諸異學梵志。及諸居士。皆當以衣被布地。求哀於諸沙門言。賢者有淨戒高行。願行此衣上。令我長得其福。佛言阿難。若使女人不於我道作沙門者。天下人民。皆當解髮布地。求哀於諸沙門言。賢者有戒聞慧行。願行此髮上。令我長得其福。若使女人不於我道作沙門者。天下人民。皆當豫具衣被飲食臥床病瘦醫藥。願諸沙門當自來取之。若使女人不於我道作沙門者。天下人民。奉事沙門當如事日月。如事天神。過踰於諸外道異學者上。若使女人不於我道作沙門者。佛之正法。當千歲興盛。佛復語阿難。以女人作沙門故。使我法五百歲而衰微。所以者何。阿難。女人有五處不能得作。何等為五。女人不得作如來至真等正覺。女人不得作轉輪聖王。女人不得作第二忉利天帝釋。女人不得作第六魔天王。女人不得作第七天梵天王。夫此五處者。皆丈夫得為之耳。丈夫得於天下作佛。得作轉輪聖王。得作天帝釋。得作魔天王。得作梵天王。佛說是已。皆歡喜受行』
  参考:『中阿含巻47(180)経』:『中阿含心品瞿曇彌經第九  我聞如是。一時。佛遊釋羇瘦。在加鞞羅衛尼拘類樹園。爾時。摩訶簸邏闍缽提瞿曇彌持新金縷黃色衣往詣佛所。稽首佛足。卻住一面。白曰。世尊。此新金縷黃色衣我自為世尊作。慈愍我故。願垂納受。世尊告曰。瞿曇彌。持此衣施比丘眾。施比丘眾已。便供養我。亦供養眾。大生主瞿曇彌至再三白曰。世尊。此新金縷黃色衣我自為世尊作。慈愍我故。願垂納受。世尊亦至再三告曰。瞿曇彌。持此衣施比丘眾。施比丘眾已。便供養我。亦供養眾。爾時。尊者阿難立世尊後執拂侍佛。於是。尊者阿難白曰。世尊。此大生主瞿曇彌於世尊多所饒益。世尊母命終後乳養世尊。世尊告曰。如是。阿難。如是。阿難。大生主瞿曇彌實於我多所饒益。我母命終後乳養於我。阿難。我亦於大生主瞿曇彌多所饒益。所以者何。大生主瞿曇彌因我故。得自歸於佛.法及比丘眾。不疑三尊.苦習滅道。成就信.戒.多聞.施.慧。離殺斷殺.不與取.邪婬.妄言.離酒斷酒。阿難。若有人因人故。得自歸於佛.法及比丘眾。不疑三尊.苦習滅道。成就信.戒.多聞.施.慧。離殺斷殺.不與取.邪婬.妄言.離酒斷酒者。此人供養於彼人至盡形壽。以飲食.衣被.床榻.湯藥及若干種諸生活具。不得報恩。復次。阿難。有七施眾。有十四私施。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。阿難。云何七施眾。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。信族姓男.族姓女。佛在世時。佛為首。施佛及比丘眾。是謂第一施眾。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。信族姓男.族姓女。世尊般涅槃後不久施二部眾。施比丘眾。施比丘尼眾。入比丘僧園而白眾曰。眾中爾所比丘來。布施彼也。入比丘尼僧房而白眾曰。眾中爾所比丘尼來。布施彼也。是謂第五施眾。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。阿難。當來時有比丘。名姓種。不精進。著袈裟衣。彼不精進。不精進故施。依眾故。緣眾故。上眾故。因眾故。我說爾時施主得無量不可數不可計福。得善得樂。況復今比丘成就行事。成就除事。成就行事除事。成就質直。成就柔軟。成就質直柔軟。成就忍。成就樂。成就忍樂。成就相應。成就經紀。成就相應經紀。成就威儀。成就行來遊。成就威儀行來遊。成就信。成就戒。成就多聞。成就施。成就慧。成就信.戒.多聞.施.慧耶。是謂第七施眾。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。是謂有七施眾。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。阿難。云何有十四私施。得大福。得大果。得大功德。得大廣報。有信族姓男.族姓女布施如來。施緣一覺。施阿羅訶。施向阿羅訶。施阿那含。施向阿那含。施斯陀含。施向斯陀含。施須陀洹。施向須陀洹。施離欲外仙人。施精進人。施不精進人。布施畜生。阿難。布施畜生得福百倍。施不精進人得福千倍。施精進人得福百千倍。施離欲外仙人得福億百千倍。施向須陀洹無量。得須陀洹無量。向斯陀含無量。得斯陀含無量。向阿那含無量。得阿那含無量。向阿羅訶無量。得阿羅訶無量。緣一覺無量。況復如來.無所著.等正覺耶。此十四私施得大福。得大果。得大功德。得大廣報。復次。阿難。有四種布施。三淨施。云何為四。或有布施。因施主淨。非受者。或有布施。因受者淨。非施主。或有布施。非因施主淨。亦非受者。或有布施。因施主淨。受者亦然。阿難。云何布施因施主淨。非受者耶。施主精進行妙法。見來見果。如是見.如是說。有施有施果。受者不精進。行惡法。不見來不見果。如是見.如是說。無施無施果。是謂布施因施主淨。非受者也。阿難。云何布施因受者淨。非施主耶。施主不精進。行惡法。不見來不見果。如是見.如是說。無施無施果。受者精進行妙法。見來見果。如是見.如是說。有施有施果。是謂布施因受者淨。非施主也。阿難。云何布施非因施主淨。亦非受者耶。施主不精進。行惡法。不見來不見果。如是見.如是說。無施無施果。受者亦不精進。行惡法。不見來不見果。如是見.如是說。無施無施果。是謂布施非因施主淨。亦非受者。阿難。云何布施因施主淨。受者亦然耶。施主精進行妙法。見來見果。如是見.如是說。有施有施果。受者亦精進行妙法。見來見果。如是見.如是說。有施有施果。是謂布施因施主淨。受者亦然。於是。世尊說此頌曰  精進施不精進  如法得歡喜心  信有業及果報  此施因施主淨  不精進施精進  不如法非喜心  不信業及果報  此施因受者淨  懈怠施不精進  不如法非喜心  不信業及果報  如是施無廣報  精進施於精進  如法得歡喜心  信有業及果報  如是施有廣報  奴婢及貧窮  自分施歡喜  信業信果報  此施善人稱  正護善身口  舒手以法乞  離欲施離欲  是財施第一  佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行。瞿曇彌經第九竟』
二轉輪聖王。一時出世無是處。何以故無怨業成就故。二轉輪聖王尚不同世何況二佛。 二転輪聖王の一時に出世すとは、是の処無し。何を以っての故に、無怨の業の成就するが故なり。二転輪聖王すら、尚お世を同ぜず、何に況んや、二仏をや。
『二転輪聖王』が、
『一時に!』、
『世間に!』、
『出る!』とは、―― 3 ――
是の、
『処』は、
『無い!』。
何故ならば、
『転輪聖王』は、
『無怨(無敵)という!』、
『業』が、
『成就しているからである!』。
『二転輪聖王すら!』、
尚お、
『世間』を、
『同じうしないのであるから!』、
況して、
『二仏』は、
『尚更である!』。
  無怨(むおん):梵語 asapatna, avaira, vigata-pratyarthika の訳、無敵/無対/平穏( without a rival or adversary, undisturbed )、相手になる者が無い( lack of adversary or opponent )の意。
惡業得受樂報無是處。惡業尚不能得世間樂。何況出世樂。若惡行生天無是處。惡行尚不能得生天何況涅槃。 悪業にして、楽報を受くるを得とは、是の処無し。悪業すら尚お世間の楽を得る能わず。何に況んや出世の楽をや。若し悪行にして、天に生ずれば、是の処無し。悪行すら、尚お天に生ずるを得る能わず。何に況んや涅槃をや。
『悪業でも!』、
『楽報を受けることができる!』とは、―― 4 ――
是の、
『処』は、
『無い!』。
『悪業』は、
尚お、
『世間の楽すら!』、
『得られないのであり!』、
況して、
『出世間の楽』は、
『尚更である!』。
『悪行の者』が、
若し、
『天』に、
『生まれるならば!』、
是の、
『処』は、
『無い!』。
『悪行の者』は、
尚お、
『天にすら!』、
『生まれなれない!』、
況して、
『涅槃』は、
『尚更である!』。
五蓋覆心散亂。離修七覺而得涅槃無是處。五蓋覆心離修七覺。尚不能得聲聞道何況佛道。心無覆蓋佛道可得。何況聲聞道。如是等是處不是處。多性經中佛口自說。 五蓋心を覆うて散乱し、七覚を修するを離れて、而も涅槃を得れば、是の処無し。五蓋心を覆うて、七覚を修するを離るれば、尚お声聞道すら得る能わず。何に況んや仏道をや。心に覆蓋無ければ、仏道を得べし。何に況んや声聞道をや。是れ等の如き是処不是処を『多性経』中に仏の口づから自ら説きたまえり。
『五蓋』が、
『心』を、
『覆って!』、
『散乱させ!』、
『七覚』を、
『修める!』のを、
『離れながら!』、
而も、
『涅槃を得れば!』、―― 5 ――
是の、
『処』は、
『無い!』。
『五蓋』が、
『心を覆って!』、
『七覚の修行』を、
『離れれば!』、
尚お、
『声聞道すら!』、
『得ることはない!』、
況して、
『仏道』は、
『尚更である!』。
『心』に、
『覆蓋が無ければ!』、
『仏道』を、
『得られるだろう!』、
況して、
『声聞道』は、
『尚更である!』。
是れ等のような、
『是処不是処』は、
『仏』が、
『口づから!』、
『自説されたものである!』。
諸論議師輩。依是佛語更廣說是處不是處。若言佛有闕失罪過。若諸賢聖求外道師。若諸賢聖自言我是佛。若諸賢聖墮惡道。若見諦所斷結使更生。若諸賢聖覆藏罪。若須陀洹二十五有皆無是處。 諸の論議師の輩は、是の仏の語に依りて、更に是処不是処を広説すらく、若しは、『仏には、欠失、罪過有り』、と言い、若しは、『諸賢聖は外道の師を求む』、若しは、『諸賢聖は、自ら我れは是れ仏なりと言う』、若しは、『諸賢聖は、悪道に堕つ』、若しは、『見諦所断の結使は、更に生ず』、若しは、『諸賢聖は、罪を覆蔵す』、若しは、『須陀洹は二十五有り』、と。皆是の処無し。
諸の、
『論議師の輩』は、
是の、
『仏』の、
『語』に、
『依存して!』、
更に、
『是処不是処』を、
『広く!』、
『説いて!』、
こう言っているが、――
若しは、
『仏』には、
『欠失(錯誤)、罪過』が、
『有る!』、と。
若しは、
『諸賢聖』は、
『外道の師』を、
『求める!』、と。
若しは、
『諸賢聖』は、
自ら、こう言う、――
わたしは、
『仏である!』、と。
若しは、
『諸賢聖』は、
『悪道』に、
『堕ちる!』、と。
若しは、
『見諦で断たれた!』、
『結使』は、
『再生する!』、と。
若しは、
『諸賢聖』は、
『罪』を、
『覆蔵(隠匿)する!』、と。
若しは、
『須陀洹』は、
『二十五種』、
『有る!』、と。
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  闕失(けつしつ):欠失。あやまり。過失。
  二十五有(にじゅうごう):二十五種の有の意。即ち三界有情の異熟の果体を二十五種に分類せるもの。一に地獄有、二に畜生有、三に餓鬼有、四に阿修羅有、五に弗婆提有、六に瞿耶尼有、七に鬱単越有、八に閻浮提有、九に四天処有、十に三十三天処有、十一に炎摩天有、十二に兜率天有、十三に化楽天有、十四に他化自在天有、十五に初禅有、十六に大梵天有、十七に二禅有、十八に三禅有、十九に四禅有、二十に無想有、二十一に淨居阿那含有、二十二に空処有、二十三に識処有、二十四に不用処有、二十五に非想非非想処有なり。「大般涅槃経巻14」に、「善男子、無垢三昧を得て能く地獄有を壊し、無退三昧を得て能く畜生有を壊し、心楽三昧を得て能く餓鬼有を壊し、歓喜三昧を得て能く阿修羅有を壊し、日光三昧を得て能く弗婆提有を断じ、月光三昧を得て能く瞿耶尼有を断じ、熱炎三昧を得て能く鬱単越有を断じ、如幻三昧を得て能く閻浮提有を断じ、一切法不動三昧を得て能く四天処有を断じ、難伏三昧を得て能く三十三天処有を断じ、悦意三昧を得て能く炎摩天有を断じ、青色三昧を得て能く兜率天有を断じ、黄色三昧を得て能く化楽天有を断じ、赤色三昧を得て能く他化自在天有を断じ、白色三昧を得て能く初禅有を断じ、種種三昧を得て能く大梵天有を断じ、双三昧を得て二禅有を断じ、雷音三昧を得て能く三禅有を断じ、霔雨三昧を得て能く四禅有を断じ、如虚空三昧を得て能く無想有を断じ、照鏡三昧を得て能く淨居阿那含有を断じ、無礙三昧を得て能く空処有を断じ、常三昧を得て能く識処有を断じ、楽三昧を得て能く不用処有を断じ、我三昧を得て能く非想非非想処有を断ず。善男子、是れを菩薩二十五三昧を得て二十五有を断ずと名づく」と云える是れなり。是れ六趣の中、地獄乃至阿修羅の四趣を各一有とし、人の四洲を開きて四有とし、天趣の中、六欲天、四禅及び四無色を各一有とし、別に初禅に大梵、四禅に無想、淨居の二天を開きて各一有となせるものにして、即ち欲界を十四種、色界を七種、無色界を四種に類別せるものなり。又「南本涅槃経巻13」、「入楞伽経巻7五法門品」、「涅槃経義記巻5下」、「大乗義章巻8末」、「摩訶止観巻9下」、「法華経玄義巻4上」、「大般涅槃経疏巻16」、「法苑珠林巻70」、「天台四教儀」等に出づ。<(望)
如賢聖分別中廣說。五逆人五種黃門墮四惡道。眾生鬱多羅越人魔眷屬三障所遮。若言得道皆無是處。 賢聖分別中に広く説けるが如し、五逆の人、五種の黄門、四悪道に堕ちたる衆生、鬱多羅越の人、魔の眷属は三障に遮らるるに、若し道を得と言わば、皆是の処無し。
例えば、
『賢聖分別』中に、
『広説されているように!』、――
『五逆の人』や、
『五種の黄門』や、
『四悪道に堕ちた衆生』や、
『鬱多羅越の人』や、
『魔の眷属』は、
『三障』に、
『遮られる!』ので、
若し、こう言えば、――
是れ等の、
『人』も、
『道を得る!』と、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  五逆(ごぎゃく):五種の逆罪の意。又五逆罪とも名づく。即ち恩田徳田を棄壊する五種の罪業を云う。(一)五無間業。梵語paJca anantarya-karmaaNiの訳。巴梨語paJca anantarika-kammaani、又五無間、或いは五不救罪とも名づく。即ち当果決定して、更に余業余生の之を間隔するものなき五種の重罪業を云う。一に害母maatR-ghaata(巴maatu-ghaataka)、二に害父pitR-ghaata(巴pitu-ghaataka)、三に害阿羅漢arhad-ghaata(巴arahanta-ghaataka)、四に破僧saMgha-bheda(巴saGgha-bhedaka)、五に悪心出仏身血tathaagatasyaantike duSTa-citta-rudhirootpaadana(巴rudhir'uppaadaka)なり。此の五業を無間と名づくることは、「倶舎論巻17」に、「異熟果決定して、更に余業余生の能く間隔を為すものなきに約するが故なり。此れ唯無間隔義に名づく。或いは此の業を造る補特伽羅は、此れより命終して定んで地獄の中に堕し、間隔なきが故に無間と名づく」と云えり。此の中、害母とは又殺母に作る。即ち故心を以って母を害するを云う。害父とは又殺父に作る。即ち故心を以って父を害するを云う。若し父母に於いて殺の加行を起すも、誤りて余の人を殺さば無間罪なし。父母に非ざるものに於いて殺の加行を起し、誤りて父母を殺すも亦た逆を成ぜず。必ず加行を起し、及び果究竟するに由りて方に無間罪を成ずるなり。害阿羅漢とは又殺阿羅漢に作る。即ち故心を以って阿羅漢を害するを云う。若し阿羅漢の想なきも、彼れに於いて定んで殺心を起して之を害せば、即ち逆罪を成ず。害者の意に於いて簡別して、此れは是れ阿羅漢ならば我れ即ち殺さずと言うことなきが故なり。若し殺の加行を起す時は阿羅漢に非ず、将に死せんとして方に阿羅漢果を得べき者を殺すも逆罪なし。阿羅漢の身に於いて殺の加行なきが故なり。若し父を害するに父是れ阿羅漢なるも、唯一の逆罪を得。彼の依止即ち一なるを以ってなり。破僧とは又破和合僧、或いは闘乱衆僧に作る。即ち虚誑語を以って僧の和合を破するを云う。之に破法輪僧と破羯磨僧との別あり。所謂異師異道を立て、即ち所破の僧をして師は仏に異なりと忍し、又仏説に異にして余の聖道ありと忍せしめ、能く聖道の輪を障うるを破法輪僧と名づけ、一界内の僧をして、各別住して布薩羯磨説戒を作さしむるを破羯磨僧と名づく。又法輪僧を破することは、唯瞻部州に在り。極少も九人なくんば成ぜず。所謂八苾芻分れて二衆と為るを所破とし、第九を能破とす。能破の人は必ず大苾芻にして、在家と苾芻尼等とに非ず。唯見行の者にして愛行の人に非ず、住浄行の人にして犯戒の者に非ず。必ず仏と異処にして破し、仏に対するに非ず。唯異生を破して聖者を破するに非ず。必ず其の夜に於いて和に復し、宿を経て住せず。又羯磨僧を破することは通じて三洲に在り。極少八人なり。各別に住して羯磨を作すに、必ず八人を要するを以ってなり。「四分律巻46」、「五分律巻25」、「十誦律巻36」等に、提婆達多破僧の縁を記するに見て之を知るべし。悪心出仏身血とは、略して出仏身血とも称す。即ち殺心を以って仏身を毀損し、血を出さしむるを云う。打心出血は無間罪を成ぜず。「増一阿含経巻47」、「四分律巻4」、「十誦律巻36」、「鼻奈耶巻5」、「大智度論巻14」等に提婆達多出仏身血の縁を記する所の如し。蓋し五無間業は唯人の三洲に在り、北瞿盧洲と余趣と余界とには無し。三洲の中に於いて唯女と及び男とのみ無間業を造り、扇搋等は之を造らず。又此の五無間の中、四は是れ身業、破僧の一は是れ語業なり。又三は是れ殺生、破僧は虚誑語の根本業道、出仏身血は是れ殺生業道の加行なり。又害母害父は是れ恩田を棄つ。父母は身生の本なり、而も彼の恩を棄つるを以って逆罪を成ず。余の三は徳田を壊す。阿羅漢等は諸の勝徳を具し、及び能く他の勝徳を生ず。而も彼の徳の所依を壊するが故に逆罪を得するなり。又五無間の中、破僧は其の罪最も重く、出仏身血、害阿羅漢、害母は次第に漸く軽く、害父最も軽し。「倶舎論巻18」に依るに、破僧は必ず無間大地獄の中に生じ、一中劫を経て極重苦を受く。余の逆は必ずしも無間に生ぜずと云えり。又「大乗入楞伽経巻5」には、此の五無間を外の五種無間と為し、之に対して別に内身の五種無間を説けり。即ち貪愛を殺すを殺母、無明を殺すを殺父、諸使を殺すを殺阿羅漢、五陰を破するを破和合僧、八種の識身を断ずるを悪心出仏身血と称すと云える是れなり。是れ五逆の義を転用し、貪愛等を断ずるを殺母等の義となせるものにして、却って五逆を行ずるを善の行為となしたるなり。又「優婆塞戒経巻7」、「虚空蔵菩薩経」、「大集地蔵十輪経巻3」、「合部金光明経巻2」、「金光明最勝王経巻3」、「大般涅槃経巻19」、「阿闍世王問五逆経」、「阿毘達磨発智論巻11」、「大毘婆沙論巻115、116、119」、「成実論巻8」、「雑阿毘曇心論巻3、11」、「倶舎論巻18」、「順正理論巻43」、「瑜伽師地論巻9」、「入大乗論巻下」、「大乗阿毘達磨雑集論巻8」、「大乗義章巻7」、「倶舎論光記巻17、18」、「同宝疏巻17、18」、「瑜伽論略纂巻3」、「瑜伽論記巻3上」等に出づ。(二)五無間同類業。梵語paJca upaanantariiyaaNiの訳。又五無間同類、近五無間、五無間同分、近五逆、類似五逆とも名づく。即ち前の五無間業と同類等似の五種の罪業を云う。一に汙母阿羅漢尼maatur arhantyaa duuSaNam、二に殺住定地菩薩niyatabhuumisthitasya bodhisattvasya naaraNam、三に殺有学zaikSasya maaraNam、四に奪僧合縁saMghaayadvaaraharaNam、五に破窣堵波stuupabhedanamなり。「倶舎論巻18」に、「母と無学の尼とを汚すと、住定の菩薩と及び有学の聖者を殺すと、僧の和合縁を奪うと、窣堵波を破壊するとは、是れ無間の同類なり」と云える是れなり。此の中、母と阿羅漢の尼と(一説は母の阿羅漢)に於いて非梵行を行ずるは、即ち害母の同類業なり。百大劫中の住定の菩薩を殺害するは、即ち害父の同類業なり。有学の聖者を殺すは、即ち害阿羅漢の同類業なり。僧の和合縁たる資具等を侵奪し、僧をして離散せしむるは、即ち破僧の同類業なり。仏窣堵波を破壊するは、即ち出仏身血の同類業なり。是れ倶舎等に出す所なるも、大乗の説は之と稍同じからず。「瑜伽師地論巻9」に、「無間業の同分とは、謂わく一あるが如き、阿羅漢の尼に於いて、及び母の所に於いて穢染行を行じ、最後有の菩薩を打し、或いは天廟衢路市肆に於いて殺羊の法を立て、流行して絶えず、或いは寄託、極委重を得たる親友同心耆旧等の所に於いて損害欺誑し、或いは有苦貧窮困乏無依無怙に於いて為に帰依と作り、無畏を施し已りて、後返って害を加え、或いは復た逼悩し、或いは僧(沙)門を劫奪し、或いは霊廟を破壊す。是の如き等の業を無間同分と名づく」と云えり。此の中、何れを五無間に類摂するやに就いては異説あり。「瑜伽論略纂巻4」には、「阿羅漢尼及び母を汚すは是れ害母の類なり、最後有の菩薩を打するは是れ殺父の類なり、或いは天廟等に於いて殺を行じ、或いは委重の所に於いて損害し、或いは貧苦困に於いて無畏を施し已りて返って害し逼悩するは是れ殺阿羅漢の類なり。僧門を劫奪するは是れ破僧の類なり、霊廟を破壊する等は是れ出仏身血の類なり。或いは総じて摂類す、別に配することを須いず」と云い、「瑜伽論記巻3上」には、「無学尼に染するは是れ殺阿羅漢の類なり、母に染するは是れ殺母の類なり、最後有の菩薩を打し、及び霊廟を破壊するは是れ出仏身血の類なり。僧門を劫奪するは是れ破僧の類なり。余は是れ殺父等の類なり」と云えり。又「大集地蔵十輪経巻3」には唯四種を挙ぐ。彼の経に、「復た四種の近無間大罪悪業根本の罪あり。何等をか四と為す、一には不善心を起して独覚を殺害す。是れ殺生命大罪悪業根本の罪なり。二には阿羅漢苾芻尼僧を婬す。是れ欲邪行大罪悪業根本の罪なり。三には所施の三宝財物を侵損す。是れ不与取大罪悪業根本の罪なり。四には倒見をもて和合僧衆を破壊す。是れ虚誑語大罪悪業根本の罪なり」と云える是れなり。又「順正理論巻43」、「倶舎論光記巻18」、「同宝疏巻18」等に出づ。(三)五種の根本重罪。又複の五逆とも名づく。所謂大乗の五逆を云う。「大薩遮尼揵子所説経巻4」に、「大王、五種の罪あり、名づけて根本と為す。何等をか五と為す、一には塔寺を破壊し、経像を焚焼し、或いは仏物法物僧物を取り、若しは人を教えて作さしめ、作すを見て助喜す。是れを第一根本重罪と名づく。若し声聞辟支仏の法及び大乗の法を謗じ、毀訾留難し隠蔽覆蔵す。是れを第二根本重罪と名づく。若し沙門あり、信心出家し鬚髪を剃除し身に染衣を著け、或いは戒を持するあり、或いは戒を持せず。牢獄に繋閉して枷鎖打縛し、策役駆使して諸の発調を責め、或いは袈裟を脱して逼りて還俗せしめ、或いは其の命を絶つ。是れを第三根本重罪と名づく。五逆の中に於いて若しは一業を造る。是れを第四根本重罪と名づく。一切善悪業報なしと謗じ、長夜に常に十不善業を行じて後世を畏れず、自ら作し、人を教えて堅住して捨てざらしむ。是れを第五根本重罪と名づく。大王当に知るべし、若し是の如き根本重罪を犯して而も自ら悔いず、決定して一切善根を焼滅せば、大地獄に趣き無間の苦を受けん」と言える是れなり。「合部金光明経巻2業障滅品」、並びに「金光最勝王経巻3滅業障品」にも亦た此の説あり。「瑜伽論略纂巻4」、「金光明最勝王経疏巻5」等には害父母等を三乗通説の五逆と称するに対し、之を名づけて大乗不共の五逆と為せり。「瑜伽論記巻5」、「往生十因」等に出づ。<(望)
  五種黄門(ごしゅおうもん):五種の不能行婬者の意。『大智度論巻24上注:五種不能男』参照。
  五種不能男(ごしゅふのうなん):五種の男根不具者の意。略して五種不男と云い、又五種黄門paJca paNDakaaHと名づく。即ち男根の不満なる者に五種の別あるを云う。「十誦律巻21」に、「五種の不能男あり。何等か五なる、一に生不能男、二に半月不能男、三に妬不能男、四に精不能男、五に病不能男なり」と云える是れなり。「四分律巻35」、「同巻59」に出す所亦た之に同じ。就中、生不能男とは又生不男、生黄門jaati-paNDakaとも名づく。生まれながらにして婬する能わざるを云い、半月不能男とは又半不男、半月黄門pakSa-paNDakaとも名づく。半月は婬し半月は婬する能わざるを云い、妬不能男とは又妬不男、妬黄門iirSya-paNDakaとも名づく。他の婬を行ずるを見て婬心起るを云い、精不能男とは又変不男、変黄門、抱生黄門、触抱黄門aasaktapraadurbhaabii-paNDakaとも名づく。他と婬を行ずる時、変じて男根を失うを云い、病不能男とは又犍不男、犍黄門、形残黄門aapat-paNDakaとも名づく。生まれ已りて朽爛し、若しは堕ち、若しは虫噉等に由りて截去せられたるを云うなり。但し「倶舎論巻15」に黄門に扇搋とSaNDhaと半択迦kaNDaakaとの二種ありとし、又「同巻3」に之を釈し、扇搋は唯無根にして、之に本性の扇搋と損壊の扇搋とあり。半択迦は有根にして、之に嫉妬と半月と潅灑とありと云えり。此の中、本性扇搋は前の生不男に当り、損壊扇搋は病不男に当り、嫉妬半択迦は妬不男に当り、半月半択迦は半月不男に当り、潅灑半択迦は精不男に当れり。之に依るに「十誦律」等は具に其の種類を挙げて五種不男とし、「倶舎論」は無根有根に約して、扇搋と半択迦との二種と為せるものなるを知るべし。又「大乗阿毘達磨雑集論巻8」には、半択迦に生便半択迦、嫉妬半択迦、半月半択迦、潅灑半択迦、除去半択迦の五種ありとし、「玄応音義巻24」には、亦た半択迦に半択迦、伊利沙半択迦(妬)、扇搋半択迦(無根)、博叉半択迦(半月)、留拏半択迦(割)の五種を挙げ、又「摩訶僧祇律巻23」には、生、捺破、割去、因他、半月の六種を出せり。此の中、捺破とは妻妾共に児を生み、相嫉妬して幼時に其の根を捺破するを云い、割去とは王大臣が人の男根を割却して以って門閤に備うるを云い、因他とは前人の触るるに因りて根の生起するを云うなり。此等は皆出家して具足戒を受くる能わずとせらるるなり。又「順正理論巻9」、「大乗法苑義林章巻3末」、「雑集論述記巻8」、「倶舎論光記巻15」、「法華文句記巻9上」、「四分律行事鈔資持記巻上3之1」、「法華三大部補注巻9」、「翻訳名義集巻5」、「大明三蔵法数巻22」「倶舎論要解巻2」、「同法義巻3」、「同略法義巻2」等に出づ。<(望)
  三障(さんしょう):聖道を障うるものに三種の別あるを云う。即ち煩悩障、業障、報障なり。『大智度論巻8上注:三障』参照。
經說法者輕法自輕破戒愚癡。若言得具足法喜亦無是處。 説法者を軽んじ、法を軽んじ、自らを軽んずる破戒、愚癡なるに、若し法喜を具足するを得と言わば、亦た是の処無し。
『説法者を軽んじたり!』、
『法を軽んじたり!』、
『自らを軽んじたりする!』、
『破戒、愚癡の者』なのに、
若し、こう言えば、――
是の、
『人』は、
『法の喜』を、
『具足することができる!』、と。
亦た、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  :経説法者は他本に従い、軽説法者に改む。
自言我是佛。此身口惡不悔欲見佛。若破僧罪不悔欲見佛。邪定入正定。正定入邪定。正定入不定。除佛法別有真得道人應得道身若死皆無是處。 自ら我れは是れ仏なりと言い、此の身口の悪を悔いずして、仏を見んと欲す。若しは破僧罪を悔いずして、仏を見んと欲す。邪定より正定に入り、正定より邪定に入り、正定より不定に入る。仏法を除きて別に真に道を得る人有り。応に道を得べき身にして、若し死すれば、皆是の処無し。
自ら、
わたしは、
『仏である!』と、
『言い!』、
此の、
『身、口の悪を悔いずに!』、
『仏を見ようとする!』者が、
『有るとか!』、
若しは、
『破僧の罪を悔いずに!』、
『仏を見ようとする!』者が、
『有るとか!』、
若しは、
『正定より!』、
『邪定に入る!』者が、
『有るとか!』、
『邪定より!』、
『正定に入る!』者が、
『有るとか!』、
『正定より!』、
『不定に入る!』者が、
『有るとか!』、
若しは、
『仏法を除いて!』、
別に、
『真の道を得た人』が、
『有るとか!』、
若しは、
『道を得るはず!』の、
『身でありながら!』、
『死ぬとか!』は、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
除因緣生識出名色更有法無是處。 因縁生の識より出づる名色を除きて、更に法有りとは、是の処無し。
『因縁生の識より出た!』、
『名色を除いて!』、
更に、
『法』が、
『有れば!』、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
佛遣使事未訖。若遮礙無是處。 仏の使を遣して、事の未だ訖らざるに、若し遮礙すれば、是の処無し。
『仏』が、
『使を遣して!』、
未だ、
『事』が、
『完結しない!』のに、
若し、
『遮礙される!』ことが、
『有れば!』、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  (こち):おわる。完結( finish, conclude )。
入慈三昧若他因緣死入滅盡定。在見諦道中若死皆無是處。 入慈三昧にして、若しは他の因縁にて死す、滅尽定に入る、見諦道中に若しは死す、皆是の処無し。
『入慈三昧の者』が、
『他人』の、
『因縁』で、
『死んだり!』、
若しくは、
『滅尽定』に、
『入ったり!』、
『見諦道中に在る!』者が、
若しは、
『死んだりすれば!』、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
若害佛及佛母無是處。 若し仏、及び仏母を害すれば、是の処無し。
若し、
『人』が、
『仏や、仏母』を、
『害すれば!』、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
轉輪聖王女寶象馬主藏臣主兵臣。若在胎中死母子夭喪皆無是處。 転輪聖王の女宝、象、馬、主蔵臣、主兵臣にして、若し胎中に在りて死し、母子夭喪すれば、皆是の処無し。
若し、
『転輪聖王』の、
『女宝、象宝、馬宝、主蔵臣、主兵臣』が、
『胎』中に、
『在りながら!』、
『死んだり!』、
『母、子』が、
『夭折すれば!』、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):金輪宝、白象宝、紺馬宝、神珠宝、女宝、居士宝、主兵臣宝の七宝を成就し、四徳を具足して須弥四洲を統一し、正法を以って世を治御する大帝王を云う。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
  夭喪(ようそう):わかじにする。夭折。
鬱多羅越人女寶佛母。命終次身入惡道皆無是處。 鬱多羅越の人の女宝、仏母、命終りて次の身にして、悪道に入れば、皆是の処無し。
若し、
『鬱多羅越の人の女宝』や、
『仏母』の、
『命』が、
『終り!』、
『次の身』が、
『悪道』に、
『入れば!』、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
有為常涅槃無常。凡夫人能斷非有想非無想結使。一切取相禪定中修聖道。無漏道有漏因。若地濕相水堅相火冷相風住相皆無是處。 有為は常にして、涅槃は無常なり。凡夫人は能く非有想非無想の結使を断ず。一切の取相の禅定中に聖道を修す。無漏道は有漏の因なり。若し地は湿相、水は堅相、火は冷相、風は住相なれば、皆是の処無し。
若しは、
『有為は常であり!』、
『涅槃』は、
『無常である!』とか、
若しは、
『凡夫人』は、
『非有想非無想の結使』を、
『断じることができる!』とか、
若しは、
『一切の取相の禅定』中に、
『聖道』を、
『修める!』とか、
若しは、
『無漏道』は、
『有漏』の、
『因である!』とか、
若しは、
『地は湿相であり!』、
『水は堅相であり!』、
『火は冷相であり!』、
『風は住相であれば!』、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』
無明不能生諸行。乃至生不能生老死無有是處。 無明にして諸行を生ずる能わず、乃至生は老死を生ずる能わざれば、是の処有ること無し。
若し、
『無明』が、
『諸行』を、
『生じることができず!』、
『乃至生』が、
『老死』を、
『生じることができなければ!』、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  十二因縁(じゅうにいんねん):衆生が生死に流転する因果相依の関係を十二支に分類せるもの。『大智度論巻44上注:十二因縁』参照。
二心一時生五識眾。能分別取相。若著若離若眼能起身業口業。若眼能入禪定無有是處。 二心一時に生ず。五識衆は能く分別して相を取り若しは著し、若しは離る。若しは眼は能く身業、口業を起し、若しは眼にして能く禅定に入れば、是の処有ること無し。
若しは、
『二心』が、
『一時』に、
『生じる!』とか、
若しは、
『五識衆』は、
『分別して!』、
『相を取ることができ!』、
『相』に、
『著したり!』、
『離れたりする!』とか、
若しは、
『眼』は、
『身、口の業』を、
『起すことができる!』とか、
若しは、
『眼』は、
『禅定』に、
『入ることができれば!』、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
但五識相續生不生意識但五識眾中著有相續。但五識眾能緣名能緣相。能緣無色法。能緣過去未來。能緣離三世法。但五識眾中有增觸明觸修禪定。若受善律儀不善律儀。若憂喜若有無覺無觀。若增益諸根皆無是處。鼻識舌識有隱沒無記凡夫人第六識離我行無是處。 但だ五識相続して生ずるも、意識を生ぜず。但だ五識衆中に有に著して相続す。但だ五識衆は能く名を縁じ、能く相を縁じ、能く無色法を縁じ、能く過去、未来を縁じ、能く三世を離るる法を縁ず。但だ五識衆中に増触、明触有りて禅定を修し、若しは善律儀、不善律儀を受け、若しは憂喜し、若しは無覚無観有り、若しは諸根を増益すとは、皆是の処無し。鼻識、舌識に隠没無記有り。凡夫人の第六識は我行を離るとは、是の処無し。
但だ、
『五識』は、
『相続して生じるだけで!』、
『意識』を、
『生じない!』とか、
但だ、
『五識』中に、
『有』に、
『著して!』、
『相続する!』とか、
但だ、
『五識衆だけで!』、
『名を縁じることができる!』とか、
『相を縁じることができる!』とか、
『無色法を縁じることができる!』とか、
『過去、未来を縁じることができる!』とか、
『三世の法を離れることができる!』とか、
但だ、
『五識衆』中に、
『増触、明触が有って!』、
『禅定』を、
『修め!』、
若しは、
『善律儀や、不善律儀』を、
『受け!』、
若しは、
『憂たり!』、
『喜んだりし!』、
若しは、
『無覚無観』が、
『有り!』、
若しは、
『諸根』を、
『増益する!』とすれば、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』し、
若しは、
『鼻識、舌識』に、
『隠没無記』が、
『有る!』とか、
若しは、
『凡夫人の第六識』が、
『我行(我見に依る思)』を、
『離れる!』とすれば、
皆、
是の、
『処』は、
『存在しない!』。
  増触(ぞうそく):又増語触と名づく。意を所縁と為して語を増する触の意。『大智度論巻24上注:触』参照。
  明触(みょうそく):無漏と相応する触の意。『大智度論巻24上注:触』参照。
  (そく):梵語sparzaの訳。巴梨語phassa。(一)心所の名。十大地法の一。五遍行の一。七十五法の一。百法の一。即ち一切の心心所法と相応して能く境に触対せしむる精神作用を云う。「倶舎論巻4」に、「触とは、謂わく根境識和合して生じ、能く触対あり」と云い、又「同巻10」に、「触に六種あり、所謂眼触乃至意触なり。此れ復た是れ何ぞ、三和合の所生なり。謂わく根と境と識と三和合するが故に、別に触生ずることあり」と云える是れなり。是れ根境識の三法和合する時、生ずる所の心所を触と名づけたるものにして、眼等の別に依りて之に眼触乃至意触の六触あることを説けるものなり。蓋し説一切有部に在りては是の如く三和生触の義を立て、即ち根境識和合する時、別の心所生ずとなせるも、経量部に於いては唯三の和合するを触と名づけ、別体ありとなさず。之を三和成触と名づく。前引「倶舎論巻10」の連文に、「有説は三和を即ち名づけて触と為す。彼れ経を引きて証す、契経に言うが如し、是の如き三法聚集和合するを説きて名づけて触と為すと」と云える其の説なり。又眼触等の六種の中、前の眼触乃至身触の五種は有対の根を以って所依とするが故に、総じて之を有対触と名づけ、後の意触は名を以って所縁の境となすが故に、所縁に約して之を増語触と名づく、又染浄等の相応法別なるに随って、之を分って総じて八種となす。即ち無漏と相応するを明触、染汚と相応するを無明触、有漏善及び無覆無記と相応するを非明非無明触と名づけ、更に無明触の中、愛と相応するを愛触、恚と相応するを恚触とし、又受の別に随って順楽受触、順苦受触、順不苦不楽受触となすを云うなり。総じて眼触等の六触、有対及び増語の二触、並びに今の八種を合し、即ち十六触あり。又「雑阿含経巻13」、「品類足論巻2」、「大毘婆沙論巻197」、「順正理論巻29」、「成実論巻6触品」、「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻1、5」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「成唯識論巻5」、「同述記巻6本」、「倶舎論光記巻4、10」等に出づ。(二)十二因縁の一。又触支と名づく。即ち嬰児期の於いて根境識和合するも、未だ苦楽の差別を了せざる位を云う。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が触なる、謂わく眼等の根能く触の為に所依止と作ると雖も、而も未だ苦楽の差別を了知せず、亦た未だ能く損害の縁を避くる能わず、火に触れ刀に触れ、毒を食し糞を食す。食と媱と具との愛猶お未だ現行せざるは是れ触の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「已に三和に至るも、未だ三受の因の差別を了せざる位を総じて名づけて触と為す」と云い、又「大乗義章巻4」に、「言う所の触とは経に成判あり、未だ苦楽を別たざる、是れを名づけて触と為すと。出胎以後匍匐以前は、違順苦楽等の事を思量分別する能わず、是の故に名づけて未別苦楽と為し、境に触れて方に覚するが故に名づけて触と為す」と云える是れなり。是れ一二歳の嬰児期に於いて根境識の三和合し、触対を生ずることなるも、未だ苦楽等の因を了知せざるに名づけたるものにして、但だ触の心所を体となすに非ず、総じて当期の五蘊を触と称したるなり。但し説一切有部に於いては是の如く分位縁起の説をなすと雖も、唯識大乗に在りては、識支等と共に之を無明及び行支に依りて牽引せらるる所引支の一となし、異熟の触の心所の種子となせり。「瑜伽師地論巻9」に、「此の六触の種子は、是れ後有の触の種子の所随逐たり」と云い、又「同巻56」に、「先世の因に由りて今生起することを得、果の異熟の摂なり。謂わく識と名色と六処と触と受となり」と云える即ち其の意なり。又「中阿含巻24大因経」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「増阿毘曇心論巻8」、「順正理論巻26」、「瑜伽師地論巻93」、「十地経論巻3」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「成唯識論巻8」、「同述記巻8本」、「倶舎論光記巻9」等に出づ。<(望)
  (そく):梵語spraSTavyaの訳。巴梨語phoTThabba、五境の一。十二処の一。十八界の一。七十五法の一。百法の一。身根所取の所触の法を云う。「大毘婆沙論巻127」に、「諸の能触の者を立てて身界と為し、諸の所触の者を立てて触界と為す」と云い、「倶舎論巻1」に、「当に触処を説くべし。触に十一あり、謂わく四大種と滑性と渋性と重性と軽性と及び冷と饑と渇となり。此の中の大種は後に当に説くべし。柔輭を滑と名づけ、麁強を渋と為し、称(はか)るべきを重と名づけ、此に翻ずるを軽と為し、煖の欲を冷と名づけ、食の欲を飢と名づけ、飲の欲を渇と名づく。此の三は因に於いて彼の名を立つるが故なり」と云える是れなり。是れ四大種及び滑渋等の十一種を身根所触の境となすの説なり。就中、四大種とは地水火風にして、即ち堅湿煖動を其の性とす。又滑性は柔輭、渋性は麁強、重性は称るべく、軽性は称るべからざるものを云い、又煖を欲せしむる所触を冷、食を欲せしむる所触を飢、飲を欲せしむる所触を渇と名づく。此の後の三は其の相知り難きが故に、因に於いて果の名を立てて冷飢渇と称するなり。又触の類別に関し、「法蘊足論巻10」には、上記滑等の七種の所造の色の外に更に煖を加えて八種となし、且つ余の有らゆる身根の所覚、及び身識所了の有らゆる名号、異語、増語、想、等想、施設言説等を触の所摂となし、又「大乗阿毘達磨雑集論巻1」には、「所触の一分とは、四大種所造の身根所取の義なり。謂わく滑、渋、軽、重、軟、緩、急、冷、飢、渇、飽、力、劣、悶、癢、黏、病、老、死、疲、息、勇なり。此の所触の一分は八因に由りて建立す、謂わく相の故に、摩の故に、称の故に、触の故に、執の故に、雑の故に、界不平等の故に、界平等の故なり。水と風と雑わるが故に冷あり、地と水と雑わるが故に黏あり、界平等なるが故に息と力と勇とあり、勇とは畏飽なきなり。二種の界不平等に由るが故に飢等の余の触あり」と云えり。是れ所造の色に就き広く二十二種を分類せるものなり。又「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻13」、「五事毘婆沙論巻下」、「雑阿毘曇心論巻1」、「入阿毘達磨論巻上」、「順正理論巻1」、「成実論巻5触相品」、「瑜伽師地論巻1」、「顕揚聖教論巻1」、「倶舎論光記巻1」等に出づ。<(望)
  善律儀(ぜんりちぎ):律儀を受くる者の得する無表の意。蓋し受戒に当り、要ず悪を遮せんと期す心を云う。『大智度論巻13下注:善律儀、巻18上注:表無表』参照。
  不善律儀(ふぜんりちぎ):又悪律儀とも称す。悪の律儀の意。即ち自活又は利の為に屠殺等を業となすものの得する無表の意。蓋し律儀を受けざる者の要ず悪を遮せんと期することなき心を云う。『大智度論巻24上注:悪律儀』参照。
  悪律儀(あくりちぎ):悪の律儀の意。又不律儀、或いは悪戒とも名づく。即ち自活又は利の為に屠殺等を業となすものの得する無表を云う。「倶舎論巻14」に、「此の悪行等の五種の異名は是れ不律儀の名の差別なり。是れ諸の智者の訶厭する所なるが故に、果非愛なるが故に悪行の名を立て、浄尸羅を障うるが故に悪戒と名づけ、身語の所造なるが故に名づけて業となし、根本の所摂なるが故に業道と名づけ、身語を禁ぜざれば不律儀と名づく」と云える是れなり。「大般涅槃経巻29」に悪律儀に十六種あることを説き、「一には利の為に羔羊を餧養し、肥え已らば転売し、二には利の為に買い已りて屠殺す。三には利の為に猪豚を餧養し、肥え已らば転売し、四には利の為に買い已りて屠殺す。五には利の為に牛犢を餧養し、肥え已らば転売し、六には利の為に買い已りて塗擦す。七には利の為に鶏を養うて肥えしめ、肥え已らば転売し、八には利の為に買い已りて屠殺す。九には釣魚、十には猟師、十一には劫奪、十二には魁膾、十三には飛鳥を網捕し、十四には両舌、十五には獄卒、十六には呪龍なり」と云い、又「大方便仏報恩経巻6」には屠児、魁膾、養猪、養鶏、捕魚、猟師、網鳥、捕蟒、呪龍、獄吏、作賊、王家常差捕賊の十二悪律儀を出せり。其の得捨に関し、「倶舎論巻14」に、「若し律儀に住するも勝煩悩に由りて殺縛等の諸の不善業を作さば、此れに由りて便ち不善の無表を発して不律儀に住するも、淳浄の信に由りて礼仏等の諸の勝善業を作さば、此れに由りて亦た諸の善の無表を発す」と云い、又「大方便仏報恩経」の連文には、死者欲愛尽くる時、律儀戒を受くる時、三帰を受くる時、此の三時に悪律儀戒を捨すと云えり。又「瑜伽師地論巻9」、「順正理論巻36」、「四分律行事鈔巻中1」、「倶舎論光記巻14」等に出づ。<(望)
  隠没無記(おんもつむき):又有覆無記とも称す。即ち其の性染汚にして聖道を覆障し、或いは又心を蔽うて不浄ならしむるも、而も用弱くして果を感ぜざる法を云う。『大智度論巻32上有覆無記』参照。
  :増触、明触:増触は増語触という。五根、五境、五識和合して生ずる心数法を触という。眼触等の六種の中、前の眼触乃至身触の五種は有対(物的)の根を以って所依となすが故に、総じてこれを有対触と名づけ、後の意触は名を以って所縁の境となすが故に、所縁に約してこれを増語触と名づく。また染浄等の相応法別なるに随って、これを分かって総じて八種となす。即ち無漏と相応するを明触、染汚と相応するを無明触、有漏善及び無覆無記と相応するを非明非無明触と名づけ、更に無明触中、愛と相応するを愛触、恚と相応するを恚触とし、又受の別に随って順楽受触、順苦受触、順不苦不楽受触という。総じて眼触等の六触、有対及び増語の二触、並びに今の八種を合して、即ち十六触あり。
如是等無量無是處。是處亦如是。 是れ等の如く、無量の無是処、是処も亦た是の如し。
是れ等のように、
無量の、
『是処や!』、
『無是処が!』、
亦た、
『是の通りである!』。
佛知是處無是處。分別籌量可度者為說法。不可度者為作因緣。譬如良醫知病可治不可治。 仏は、是処無是処を知りて、度すべき者を分別籌量して、為に法を説き、度すべからざる者の為には因縁を作したもう。譬えば良医の病の治すべきと治すべからざるとを知るが如し。
『仏』は、
『是処無是処を知って!』、
『度すことのできる!』者と、
『度すことのできない!』者とを、
『分別し!』、
『籌量して!』、
『度すことのできる!』者の為には、
『法』を、
『説き!』、
『度すことのできない!』者の為には、
『因縁』を、
『作られるのである!』。
譬えば、
『良医』が、
『病』を、
『治せるのか、治せないのか?』を、
『知るようなものである!』。
聲聞辟支佛所知少少故或不應度者欲度。如首羅應度而不度。如舍利弗所不度者。是佛無是事。無能壞無能勝。悉遍知故是名初力。 声聞、辟支仏は知る所少なく、少なきが故に或は応に度すべからざる者を度せんと欲す。首羅の応に度すべきに、度せざるが如く、舍利弗の度せざる所の者の如き、是れなり。仏には是の事無く、能く壊る無く、能く勝つ無く、悉く遍く知りたもうが故なり。是れを初の力と名づく。
『声聞、辟支仏』は、
『知る!』所が、
『少ない!』が、
『少ない!』が故に、
或は、
『度すべきでない!』者を、
『度そうとするのである!』。
例えば、
『首羅』は、
『度すべき!』、
『妻子』を、
『度さなかった!』し、
『舍利弗など!』が、
『度さなかった!』所も、
是の、
『度すべき!』者を、
『度さなかったのである!』が、
『仏』には、
是の、
『事』が、
『無い!』。
是の、
『力』が、
『誰にも壊られず!』、
『誰にも負けない!』のは、
『悉く!』を、
『遍く!』、
『知っていられるからであり!』、
是れを、
『第一の力』と、
『称する!』。
  首羅(しゅら):富貴の象師であり、種種に財宝田宅を有していたが、深く仏法僧に帰依して布施を好み、所有物の一切を布施して、婦児に供足できず飢乏させるに及び、諸居士は、沙門釈子は時を知らず、量を知らず、もし施者量を知らずとも、受者はまさに量を知るべし。この首羅象師は本、財物に富んでいたが、布施するに量を知らずして与え、婦児に供足できず飢乏させたのは甚だ憐愍すべしと難じた。この事、仏の知る所となり、『この舎に入りては、自らの手もて食を受けず』との戒を結ぶに至った。『十誦律第19』
  参考:『十誦律巻19』:『佛在維耶離。爾時有象師。名首羅。富貴有威德。多饒財寶。人民田宅種種成就。是人歸依佛歸依法歸依僧。見四諦得初道。好檀越施不能籌量。是人一月得官廩千金錢。持用布施及餘所有物。不能供足婦兒飢乏。諸居士瞋呵責言。沙門釋子不知時不知量。若施者不知量。受者應知量。是首羅象師本富饒財物。布施不知量與不能供足婦兒飢乏甚可憐愍。是中有比丘。少欲知足行頭陀。聞是事心不喜。以是事向佛廣說。佛以是事集比丘僧。種種因緣。呵責諸比丘云何名比丘。不知時不知量。若施者不知量。受者應知量。是首羅象師。好檀越施不能量故與。不能供婦兒飢乏。種種因緣呵已語諸比丘。汝等與首羅象師作學家羯磨。諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。入是家不得自手受食。若更有如是人僧亦應與作學家羯磨。學家羯磨者。僧一心和合。一比丘僧中唱言。大德僧聽。首羅象師學家。諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。入是學家不得自手受食。若僧時到僧忍聽。僧與首羅居士作學家羯磨。諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。不得入是家自手受食。白如是。如是白二羯磨。僧與首羅象師作學家羯磨竟。僧忍默然故是事如是持。是首羅象師。聞僧為作學家羯磨。諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。不得入我舍自手受食。聞已即詣佛所。頭面禮佛足卻坐一面。白佛言。願佛與我捨是學家羯磨佛語諸比丘。為首羅居士捨學家羯磨。若更有如首羅居士乞者。亦應為捨。捨法者。一心和合僧。是首羅居士。從坐起偏袒右肩脫革屣合掌白言。大德僧聽。我首羅居士布施不知量與。不能供婦兒飢乏。以是因緣故。僧為我作學家羯磨。諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。入我舍不得自手受食。我今從僧乞捨學家羯磨。如本諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。入我舍自手受食。如是應第二第三乞。僧應籌量宜可捨不可捨。若首羅象師財損減不增長。爾時若乞不乞不應捨。若首羅居士財物增長。若乞不乞皆應與捨。若首羅象師財物不增不減。爾時若乞應捨。不乞不應捨。是中一比丘應唱言。大德僧聽。是首羅象師先作檀越。布施不知量與。不能供婦兒飢乏。僧以是故。與作學家羯磨。諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。入是舍不得自手受食。今是首羅象師。從僧乞捨學家羯磨。如本諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。聽我舍自手受食。若僧時到僧忍聽。僧與首羅象師捨學家羯磨。如本聽諸比丘比丘尼式叉摩尼沙彌沙彌尼。入舍自手受食。白如是。如是白四羯磨。僧與首羅居士捨學家羯磨竟。僧忍默然故是事如是持。佛語諸比丘。以十利故與比丘結戒。從今是戒應如是說。有諸學家。僧作學家羯磨竟。若比丘如是學家。先不請後來自手受食。是比丘應向餘比丘說罪。作是言。長老。我墮可呵法不是處。是法可悔。我今發露悔過。是名波羅提提舍尼法。學家者得初道家。作學羯磨者。僧與是家作學羯磨先不請者。是學家先不請後來自手受食者。五佉陀尼食。五蒲闍尼食。五似食。是中犯者。若比丘學家中。先不請後來自手受食。受根食波羅提提舍尼罪。莖葉磨果飯糗糒魚肉糜粟[麩-夫+廣]麥莠子迦師食。皆波羅提提舍尼。隨自手受。隨得爾所波羅提提舍尼罪』
  参考:『賢愚経巻4出家功徳尸利苾提縁品』:『如是我聞。一時佛在摩伽陀國王舍城迦蘭陀竹園中。爾時世尊。讚歎出家。功德因緣其福甚多。若放男女。若放奴婢。若聽人民。若自己身。出家入道者。功德無量。布施之報。十世受福。六天人中。往返十到。猶故不如放人出家及自出家功德為勝。何以故。布施之報。福有限極。出家之福。無量無邊。又持戒果報。五通神仙。受天福報。極至梵世。於佛法中。出家果報。不可思議。乃至涅槃。福故不盡。假使有人。起七寶塔。高至三十三天。所得功德。不如出家。何以故。七寶塔者。貪惡愚人。能壞破故。出家之法。無有毀壞。欲求善法。除佛法已。更無勝故。‥‥以是義故。放人出家。若自出家。若老若少。其福最勝。爾時世尊。在王舍城迦蘭陀竹園。時王舍城。有一長者。名尸利苾提(秦言福增)。其年百歲。聞出家功德如是無量。便自思惟。我今何不於佛法中出家修道。即辭妻子奴婢大小。我欲出家。其人老耄。家中大小。莫不厭[怡-台+亥]。輕賤其言。無從用者。聞欲出家。咸各喜言。汝早應去。何以遲晚。今正是時。尸利苾提。即出其家。往趣竹林。欲見世尊求出家法。到竹林已。問諸比丘。佛世尊大仙。大悲廣利天人者。今何所在。比丘答言。如來世尊。餘行教化。利益不在。尸利苾提又問。次佛大師智慧上足。更復是誰。比丘指示彼尊者舍利弗是。即柱杖至舍利弗所。捨杖作禮。白言。尊者。聽我出家。時舍利弗。視是人已。念此人老。三事皆缺。不能學問坐禪佐助眾事。告言。汝去。汝老年過。不得出家。次向摩訶迦葉優波離阿[少/兔]樓陀等。次第五百大阿羅漢。彼皆問言。汝先向餘人未。答言。我先以向世尊。世尊不在。次向尊者舍利弗。又問彼何所說。答言。彼告我言。汝老年過不得出家。諸比丘言。彼舍利弗智慧第一。尚不聽汝。我等亦復不聽汝也。譬如良醫。善知瞻病。捨不療治。餘諸小醫。亦悉拱手。當知是人。必有死相。以舍利弗大智不聽。其餘比丘。亦爾不聽。尸利苾提。求諸比丘。不得出家。還出竹園。住門閫上。悲泣懊惱。舉聲大哭。我從生來。無有大過。何故特不聽我出家。如優波離。剃髮賤人。泥提。下穢除糞之人。鴦掘摩羅。殺無量人。及陀塞羈。大賊惡人。如是等人。尚得出家。我有何罪。不得出家。作是語時。世尊即於其前踊出。放大光明。相好莊嚴。譬如忉利天王帝釋七寶高車。佛問福增。汝何故哭。爾時長者。聞佛梵音。心懷喜踊。如子見父。五體投地。為佛作禮。泣白佛言。一切眾生。殺人作賊。妄語誹謗。下賤等人。皆得出家。我獨何罪。特不聽我佛法出家。我家大小。以我老耄。不復用我。今於佛法。不得出家。今設還家。必不前我。當何所趣。我今定當於此捨命。爾時佛告尸利苾提。誰能舉手於虛空中。而作定說。是應出家。此人不應是老。長者白佛言。世尊。法轉輪王。第一智子。次佛。第二世間導師。舍利弗者。此不聽我佛法出家。爾時世尊。以大慈悲。慰喻福增。譬如慈父慰喻孝子。而告之言。汝莫憂惱。我今當令汝得出家。非舍利弗三阿僧祇劫精懃苦行。百劫修福。非舍利弗世世難行。破頭挑眼。髓腦血肉。皮骨手足。耳鼻布施。非舍利弗投身餓虎。入於火坑。身琢千釘。剜身千燈。非舍利弗國城妻子。奴婢象馬。七寶施與。非舍利弗初阿僧祇劫。供養八萬八千諸佛。中阿僧祇劫。供養九萬九千諸佛。後阿僧祇劫。供養十萬諸佛世尊。出家持戒。具足尸波羅蜜。非舍利弗於法自在。何得制言。此應出家。此人不應。唯我一人。於法自在。唯我獨乘六度寶車。被忍辱鎧。於菩提樹下。坐金剛座。降魔王怨。獨得佛道。無與我等。汝來隨我。我當與汝出家。如是世尊種種慰喻。福增憂惱即除。心大歡喜。‥‥』



業報を知る智力

業報智力者。身口所作業。及此生無作業所受戒業亦惡業。日夜隨生業用生罪福業。是業佛略說三處攝。是名一切業相。 業報智力とは、身口の作す所の業、及び此に生ずる無作業、受戒する所の業、亦た悪業、日夜の生に随う業、用より生ずる罪福の業にして、是の業を仏は略説して三処に摂して、是れを一切の業相と名づけたもう。
『業報を知る智力』とは、――
『身、口の作す業』と、
是の、
『業より生じる!』、
『無作(外に表れない!)の業』と、
『受戒に係わる業』と、
『悪業』と、
『日夜の生活に随う業』と、
『行動より生じる罪、福の業』とを、
『知る!』、
『智力である!』が、
『仏』は、
是の、
『業』を、こう略説された、――
『三処(身、口、意、又は過去、未来、現在)に摂して!』、
是れを、
『一切の業相』と、
『呼ぶ!』、と。
  無作業(むさごう):梵語 avijJapti-karman の訳、外に表れない動き( unexpressed activity )の義、又無表業とも訳す。
  (ゆう):<動詞>[本義]使用/採用する( use, employ )、任用/適用する/用いる( appoint, apply )、運営/管理する( administer )、力を出す( put forth one's strength )、需要がある/必要とする( need )、力が及ぶ( be in power )、行動する/務める( act )。<名詞>功用/機能/作用/用途( function, use )、費用/資財( cost, expenses )。<助詞>由って/因って( with, on )、依拠して( rely on )、[原因]~の故に/為に( because of, for )。<接続詞>それで/是に於いて/従って/だから( hence, therefore, thus )、[目的]~の為に( for )。
  (ゆう):用いる( to use )、◯梵語 kRtya の訳、適用する/実践に移す( To apply, to put into practice )、機能[働き]/行動/活躍( Function, action, activity )の義。又◯梵語 paribhoga の訳、楽しみ[特に与えられた事物に関して]( Enjoyment (esp. of given things) )の義、熟語[受用]として見受けられる。
佛知一切眾生有業過去報亦過去。有業過去報在現在。有業過去報在未來。有業過去報在過去現在。有業過去報在過去未來。有業過去報在現在未來。有業過去報在過去未來現在。現在業亦如是。 仏の知りたまわく、『一切の衆生の有る業は過去にして、報も亦た過去なり。有る業は過去なるも、報は現在に在り。有る業は過去なるも、報は未来に在り。有る業は過去なるも、報は過去、現在に在り。有る業は過去なるも、報は過去、未来に在り。有る業は過去なるも、報は現在、未来に在り。有る業は過去なるも、報は過去、未来、現在に在り。現在の業も亦た是の如し。
『仏』は、こう知っていられる、――
『一切の衆生』の、
有る、
『業』は、
『過去であり!』、
『報』も、
亦た、
『過去である!』。
有る、
『業』は、
『過去である!』が、
『報』は、
『現在に在る!』。
有る、
『業』は、
『過去である!』が、
『報』は、
『未来に在る!』。
有る、
『業』は、
『過去である!』が、
『報』は、
『過去、現在に在る!』。
有る、
『業』は、
『過去である!』が、
『報』は、
『過去、未来に在る!』。
有る、
『業』は、
『過去である!』が、
『報』は、
『現在、未来に在る!』。
有る、
『業』は、
『過去である!』が、
『報』は、
『過去、未来現在に在る!』。
亦た、
『現在』の、
『業』も、
『是の通りである!』。
復次善心中。受善不善無記業報。不善心無記心亦如是。 復た次ぎに、善心中に善、不善、無記の業報を受け、不善心、無記心も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『善心』中に、
『善、不善、無記の業報』を、
『受ける!』が、
『不善心、無記心』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次樂業因緣故受樂報。苦業因緣故受苦報。不苦不樂業因緣故。受不苦不樂報。現報業因緣故。受現報。生報業因緣故受生報。後報業因緣故受後報。不淨業因緣故受惱報。淨業因緣故受無惱報。雜業因緣故受雜報。 復た次ぎに、楽業の因縁の故に楽報を受け、苦業の因縁の故に苦報を受け、不苦不楽業の因縁の故に、不苦不楽報を受け、現報の業の因縁の故に、現報を受け、生報の業の因縁の故に、生報を受け、後報の業の因縁の故に、後報を受け、不浄業の因縁の故に、悩報を受け、浄業の因縁の故に、無悩報を受け、雑業の因縁の故に、雑報を受く。
復た次ぎに、
『楽業(楽報を受ける因縁の業)の因縁』の故に、
『楽報』を、
『受け!』、
『苦業の因縁』の故に、
『苦報』を、
『受け!』、
『不苦不楽業の因縁』の故に、
『不苦不楽報』を、
『受け!』、
『現報の業の因縁』の故に、
『現報』を、
『受け!』、
『生報の業の因縁』の故に、
『生報』を、
『受け!』、
『後報の業の因縁』の故に、
『後報』を、
『受け!』、
『不浄業の因縁』の故に、
『悩報』を、
『受け!』、
『浄業の因縁』の故に、
『無悩報』を、
『受け!』、
『雑業の因縁』の故に、
『雑報』のを、
『受ける!』。
  現報(げんぽう):現在善悪の業を造り、現身に善悪の果を受くるの意。三報の一。『大智度論巻24下注:三報』参照。
  生報(しょうほう):此の生に善悪の業を作り、来生に苦楽の果報を受くの意。三報の一。『大智度論巻24下注:三報』参照。
  後報(ごほう):此の世に於いて善悪の業を造り、二生以後に於いて其の果報を得るの意。三報の一。『大智度論巻24上注:三報』参照。
  三報(さんぽう):三種の果報の意。一に現報、二に生報、三に後報なり。「成実論巻8三報業品」に、「問うて曰わく、経中に仏三種の業を説く、現報と生報と後報との業なり。何ものか是れなる。答えて曰わく、若し此の身に業を造りて即ち此の身に受くる、是れを現報と名づく。此の世に業を造りて次の来世に受くる、是れを生報と名づく。此の世に業を造り次の世を過ぎて受くる、是れを後報と名づく。次の世を過ぐるを以っての故に名づけて後と為す」と云える是れなり。又「慈悲水懺法巻中」に、「現報業とは現在に悪を作し現身に報を受くるなり。生報業とは此の生に善を作し悪を作し、来生に報を受くるなり。後報業とは或いは是の過去無量生の中に善を作し悪を作し、此の生の中に於いて受け、或いは未来無量生の中に在りて方に其の報を受くるなり」と云えり。廬山慧遠に「釈三報論一巻」の著ありしも、今之を伝えず。又「梁高僧伝巻6」、「大明三蔵法数巻11」等に出づ。<(望)
復次二種業。必受報業不必受報業。必受報業不可得離。或待時待人待處受報。如人應共轉輪聖王受福。待轉輪聖王好世。出是時。乃受是為待時。待人者。人即是轉輪聖王。待處者轉輪聖王所出處。 復た次ぎに、二種の業あり、必受報の業と、不必受報の業なり。必受報の業は、離るるを得べからず。或は時を待ち、人を待ち、処を待って報を受く。人の応に転輪聖王と共に福を受くべきは、転輪聖王の好世に出づるを待って、是の時乃ち受くれば、是れを時を待つと為す。人を待つとは、人とは即ち是れ転輪聖王なり。処を待つとは、転輪聖王の所出の処なり。
復た次ぎに、
『業』には、
『二種有り!』、
『必ず!』、
『報を受ける!』、
『業』と、
『必ずしも!』、
『報を受けない!』、
『業とである!』。
『必ず!』、
『報を受ける!』、
『業』は、
『離れることができない!』ので、
或は、
『時を待って!』、
『人を待って!』、
『処を待って!』、
『報』を、
『受けることになる!』。
例えば、
『人』が、
『転輪聖王と共に!』、
『福』を、
『受けることになっていれば!』、
即ち、
『転輪聖王』が、
『好世に出る!』のを、
『待って!』、
是の時、
ようやく、
『福を受ける!』ので、
是れを、
『時を待つ!』と、
『呼ぶのである!』、
『人を待つ!』とは、
『人』とは、
即ち、
『転輪聖王であり!』、
『処を待つ!』とは、
『転輪聖王の出る!』所の、
『処』を、
『待つのである!』。
復次是必受報業。不待技能功勳。若好若醜不求自來。如天上生人福樂自至地獄中人罪苦自追。不待因緣此業深重故。 復た次ぎに、是の必ず報を受くる業は、技能、功勲を待たず。若しは好、若しは醜の、求めずとも自ら来たること、天上に生ぜし人は福楽自ら至り、地獄中の人は罪苦自ら追うが如く、因縁を待たざるは、此の業の深く重きが故なり。
復た次ぎに、
是の、
『必ず!』、
『報を受ける業』は、
『技能、功勲』を、
『待たずに!』、
『好や!』、
『醜が!』、
『求めなくても!』、
『自ら来るのである!』。
例えば、
『天上に生まれた人』は、
『福楽』が、
『自ら至り!』、
『地獄中の人』は、
『罪苦』が、
『自ら追うようなものである!』。
是れが、
『因縁を待たない!』のは、
此の、
『業』が、
『深く重いからである!』。
復次必受報業。如毘琉璃軍殺七萬二千諸得道人及無量五戒優婆塞。如目連等大神通人所不能救。如薄拘羅後母投著火中湯中水中而不死。如佛遊諸國。雖出家行乞不須膳供。而五百乘車載王所食。葉中生粳米。隨飯百味羹。如是等善惡業必受。餘者不必受。 復た次ぎに、必ず報を受くる業は、毘琉璃の軍の七万二千の諸の得道の人、及び無量の五戒の優婆塞を殺せしが如きは、目連等の如き大神通の人の救う能わざる所なり。薄拘羅の如きは後母火中、湯中、水中に投著するも死なず。仏の如きは諸国に遊びて、出家行乞すと雖も、膳供を須(もち)いたまわざるに、而も五百乗の車に、王所食の葉中に生ぜし粳米を載せて、飯と百味の羹に随えり。是れ等の如き善悪の業は必ず受け、余の者は必ずしも受けず。
復た次ぎに、
『必ず!』、
『報を受ける!』、
『業』とは、――
例えば、
『毘琉璃の軍のように!』、
『七万二千の諸の道を得た人』と、
『無量の五戒の優婆塞』とを、
『殺したりすれば!』、
例えば、
『目連等のような!』、
『大神通の人』にも、
『救うことができず!』、
例えば、
『薄拘羅のように!』、
『後母(継母)』が、
『火中、湯中、水中』に、
『投げ込んでも!』、
『死なず!』、
例えば、
『仏など!』は、
『諸国に遊びながら!』、
『出家、行乞されていた!』のに、
『膳供(食物)』を、
『必要とされなかった!』し、
而も、
『五百の車乗』が、
『王の所食の葉(稲?)中に生じた!』、
『粳米(うるちまい)を載せて!』、
『飯と百味の羹(あつもの)』に、
『随ったのである!』が、
是れ等のような、
『善、悪の業』は、
『必ず!』、
『受けねばならず!』、
『余の者』は、
『必ずしも!』、
『受けることにはならないのである!』。
  毘琉璃(びるり):憍薩羅国の王。波斯匿王の太子。釈種に怨を懐き、王と為りて後、迦毘羅城を攻略して釈種を鏖滅せりと云えり。『大智度論巻9上注:毘琉璃王』
  薄拘羅(はっくら):仏の大弟子にして長寿の比丘の名。『大智度論巻38下注:薄拘羅』参照。
  膳供(ぜんぐ):そなえもの。膳に供する食物。
欲界受三種業報處。樂受業苦受業不苦不樂受業。色界受二種業報處。樂受業不苦不樂受業。無色界受一種業報處。不苦不樂受業。 欲界は、三種の業報を受くる処、楽受業、苦受業、不苦不楽受業なり。色界は二種の業報を受くる処、楽受業、不苦不楽受業なり。無色界は一種の業報を受くる処、不苦不楽受業なり。
『欲界』は、
『三種』の、
『業報を受ける!』、
『処であり!』、
謂わゆる、
『楽受業、苦受業、不苦不楽受業である!』。
『色界』は、
『二種』の、
『業報を受ける!』、
『処であり!』、
謂わゆる、
『楽受業、不苦不楽受業である!』。
『無色界』は、
『一種』の、
『業報を受ける!』、
『処であり!』、
謂わゆる、
『不苦不楽受業である!』。
或待事者依是事得受業報。如弗迦羅婆王。池中生千葉金色蓮華大如車輪。因是大會快樂。多人出家得道。 或は事を待つとは、是の事に依って、業報を受くるを得。弗迦羅婆王の如きは、池中に千葉金色の蓮華の大なること車輪の如きを生ずるに、是に大会し快楽するに因りて、多人出家し道を得たり。
或は、
『事を待つ!』とは、――
是の、
『事に依って!』、
『業報』を、
『受けることができるからである!』。
例えば、
『弗迦羅婆王など!』は、
『池』中に、
『千葉、金色で!』、
『車輪のように大きな!』、
『蓮華』が、
『生じた!』ので、
是(ここ)に、
『大会』を、
『集めて!』、
『快楽した!』が故に、
『多くの人』が、
『出家して!』、
『道を得たのである!』。
  弗迦羅婆(ふからば):王名。委細不明。
佛知一切眾生造諸業處。或欲界色界無色界。欲界在何道中。若天道在何天中。若人中在何天下。若閻浮提在何國。若是國在何城何聚落。何精舍何土地若是城在何里何巷。何舍在何處。 仏一切の衆生の諸業を造る処を知りたまわく、『或は欲界なりや、色界なりや、無色界なりや。欲界には何道中に在りや、若し天道なれば、何天中に在りや、若し人中なれば、何天下に在りや、若し閻浮提なれば何国に在りや。若し是の国なれば、何城、何聚落、何精舎、何土地に在りや。若し是の城なれば、何里、何巷、何舎に在りや、何の処に在りや』、と。
『仏』は、
『一切の衆生』の、
『諸業を造る!』、
『処』を、
こう知っていられる、――
或は、
『欲界なのか?』、
『色界なのか?』、
『無色界なのか?』、
若し、
『欲界ならば!』、
『何道』中に、
『在るのか?』。
若し、
『天道』中ならば、
『何天』中に、
『在るのか?』。
若し、
『人間』中ならば、
『何天下』に、
『在るのか?』。
若し、
『閻浮提』ならば、
『何国』に、
『在るのか?』。
若し、
『是の国』ならば、
『何城、何聚落、何精舎、何土地』に、
『在るのか?』。
若し、
『是の城』ならば、
『何里、何巷、何舎』に、
『在り!』、
何のような、
『処』に、
『在るのか?』、と。
知是業何等時作。過去一世二世乃至百千萬世。是業果報幾已受幾未受幾必受幾不必受。 是の業の何等の時に作りしやを知りたまわく、『過去の一世なりや、二世なりや、乃至百千万世なりや。是の業の果報は幾ばくにして已に受くるや、幾ばくにして未だ受けずや、幾ばくにして必ず受くや、幾ばくにして必ずしも受けずや』、と。
『仏』は、
是の、
『業』は、
何のような、
『時』に、
『作られたのか?』を、
こう知っていられる、――
是の、
『業が作られた!』のは、
『過去』の、
『一世の時なのか?』、
『二世の時なのか?』、
『乃至百千万世の時なのか?』。
是の、
『業の果報』は、
『幾ばくの時』には、
已に、
『受けているのか?』。
『幾ばくの時』には、
未だ、
『受けていないのか?』。
『幾ばくの時』には、
『必ず!』、
『受けるのか?』。
『幾ばくの時』には、
『必ずしも!』、
『受けていないのか?』、と。
知善不善所用事物。所謂刀杖教敕殺等。自殺遣人殺。諸餘惡業亦如是。 善、不善の所用の事物を知る、謂わゆる刀杖、教勅して殺す等、自ら殺す、人を遣して殺すなり。諸余の悪業も亦た是の如し。
『善、不善』の、
『用いられた!』、
『事物』を、こう知っている、――
謂わゆる、
『刀や、杖で殺したのか、教えて殺させたのか?』等、
『自らの手で殺したのか、人を遣して殺させたのか?』。
『諸余の悪業』も、
亦た、
『是の通りである!』。
善業亦如是。知如是布施持戒修善。施中所施何等土地。房舍衣服飲食醫藥臥具七寶財物。戒中受戒自然戒心生戒口言戒一行戒少分戒多分戒滿分戒一日戒七善道戒十戒具足戒定共戒。善福中修初禪二三四禪慈心悲喜捨心。如是等善業因緣。 善業も亦た是の如し。是の如く布施、持戒、修善を知る。施中には、施す所は何等の土地、房舎、衣服、飲食、医薬、臥具、七宝、財物なりや。戒中には、戒を受くるは、自然戒なりや、心生の戒なりや、口言の戒なりや。一行の戒なりや。少分の戒なりや。多分の戒なりや。満分の戒なりや。一日の戒なりや。七善道の戒なりや。十戒なりや。具足戒なりや。定共戒なりや。善福中に修せるは、初禅なりや。二、三、四禅なりや。慈心なりや。悲、喜、捨心なりや。是れ等の如きは善業の因縁なり。
『善業』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
是のように、
『布施、持戒、修善を知る!』、――
『施』中には、――
『施す!』所は、
何のような、
『土地なのか?』、
『房舎なのか?』、
『衣服なのか?』、
『飲食なのか?』、
『医薬なのか?』、
『臥具なのか?』、
『七宝なのか?』、
『財宝なのか?』。
『戒』中には、、――
『戒を受ける!』のは、
『自然の戒なのか?』、
『心生の戒なのか?』、
『口言の戒なのか?』、
『一行(例:殺のみ!)の戒なのか?』、
『少分(二、三、四戒のみ!)の戒なのか?』、
『多分(五、乃至九戒!)の戒なのか?』、
『満分(十戒具足!)の戒なのか?』、
『一日の戒なのか?』、
『七善道(身三、口四善道)の戒なのか?』、
『十戒(身三、口四、意三善道)なのか?』、
『具足戒(比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒)なのか?』、
『定共戒(禅定相応の戒)なのか?』。
『善福(修善)』中には、――
『修める!』のは、
『初禅なのか?』、
『二、三、四禅なのか?』、
『慈(慈無量)心なのか?』、
『悲、喜、捨心なのか?』。
是れ等のような、
『善業』の、
『因縁』を、
『知るのである!』。
  自然戒(じねんかい):仏の如く自然、無師にして具足戒を得るを云う。
  心生戒(しんしょうかい):五比丘の如く、道を得るに随い、即ち具足戒を得るを云う。
  口言戒(くごんかい):三宝に帰命し、我れ仏に随いて出家すと三唱し、即ち具足戒を得るを云う。
  定共戒(じょうぐかい):定と共に生ずる律儀の意。『大智度論巻22下注:静慮律儀』参照。
  参考:『十誦律巻56』:『佛在王舍城。語諸比丘。十種明具足戒。何等十。佛世尊自然無師得具足戒。五比丘得道即得具足戒。長老摩訶迦葉自誓即得具足戒。蘇陀隨順答佛論故得具足戒。邊地持律第五得受具足戒。摩訶波闍波提比丘尼受八重法即得具足戒。半迦尸尼遣使得受具足戒。佛命善來比丘得具足戒。歸命三寶已三唱我隨佛出家即得具足戒。白四羯磨得具足戒。是名十種具足戒。』
若慳貪若瞋恚若怖畏若邪見若惡知識等。種種惡業因緣福業因緣。若信若憐愍若恭敬若禪定若智慧若善知識等。種種善業因緣。 若しは慳貪、若しは瞋恚、若しは怖畏、若しは邪見、若しは悪知識等は、種種の悪業の因縁なり。福業の因縁の若しは信、若しは憐愍、若しは恭敬、若しは禅定、若しは智慧、若しは善知識等は、種種の善業の因縁なり。
『悪業の因縁を知る!』とは、――
『慳貪、瞋恚、怖畏、邪見、悪知識』等は、
種種の、
『悪業』の、
『因縁である!』。
『福業の因縁を知る!』とは、――
『信、憐愍、恭敬、禅定、智慧、善知識』等は、
種種の、
『善業』の、
『因縁である!』。
是諸業自在。一切天及人。是諸業相無能轉者。於億千萬世。常隨逐眾生不捨。如債主隨人。得因緣具足便與果報。如地中種子。得因緣時節和合便生。 是の諸業は、自在にして、一切の天、及び人には、是の諸業の相を能く転ずる者無く、億千万世に於いて、常に衆生を随逐して捨てず。債主の如く、人に随いて、因縁の具足するを得れば、便ち果報を与え、地中の種子の因縁を得て、時節和合すれば、便ち生ずるが如し。
是の、
『諸業』は、
一切の、
『天、人』中に、
『自在であり!』、
是の、
『諸業の相』を、
『転じられる!』者は、
『無い!』。
『億、千万世』中に、
常に、
『衆生』を、
『随逐して!』、
『捨てない!』ので、
譬えば、
『債主』が、
『人』に、
『随逐するように!』、
『因縁が具足すれば!』、
すぐにも、
『果報』を、
『与えるのであり!』、
譬えば、
『地中の種子』が、
『因縁を得て!』、
『時節』に、
『和合すれば!』、
すぐにも、
『芽』を、
『生じるようなものである!』。
是業能令眾生六道中受生駛疾於箭。一切眾生皆有諸業報分。如父母遺財。諸子皆應得分。是業果報時到不可遮止。如劫盡火隨眾生應生處處處安置。如大國王隨其所應而與官職。人命終時是業來蔭覆其心。如大山映物。 是の業は能く衆生をして、六道中に生を受けしめむること、箭よりも駛疾し、一切の衆生は、皆諸業の報分有ること、父母の財を遺すに、諸子皆応に分を得べきが如し。是の業の果報の時到りて、遮止すべからざること、劫尽の火の如く、衆生の、応に生ずべき処に随いて、処処に安置すること、大国王の其の所応に随いて、官職を与うるが如く、人命の終る時、是の業来たりて、其の心を蔭覆すること、大山の物に映るが如し。
是の、
『業』が、
『衆生に!』、
『六道の生』を、
『受けさせる!』のは、
譬えば、
『箭より!』、
『疾かであり!』、
一切の、
『衆生』が、
皆、
是の、
『業の報分』を、
『有する!』のは、
譬えば、
『父母』の、
『遺した!』、
『財産』を、
『諸子』が、
皆、
『応分に!』、
『得るようなものであり!』、
是の、
『業の果報』が、
『時』が、
『到れば!』、
『遮止できない!』のは、
譬えば、
『劫尽の時』の、
『火のようであり!』、
『衆生』を、
『生じるべき!』、
『処』に、
『随って!』、
『六道』中の
『処処に!』、
『安置する!』のは、
譬えば、
『大国の王』が、
其の、
『相応する!』所に、
『随って!』、
『臣』に、
『官職』を、
『与えるようなものであり!』、
『人命の終る!』時、
是の、
『業が来て!』、
其の、
『心』に、
『蔭を落とす!』のは、
譬えば、
『大山』が、
其の、
『影』を、
『物に映すようなものである!』。
  駛疾(ししつ):はやい。迅速。
  遮止(しゃし):さえぎりとどめる。制止。
  蔭覆(おんぷく):おおいかくす。隠蔽。
是業能與種種身。如工畫師作種種像。若人以正行業則與好報。若以邪行業則與惡報。如人事王隨事得報。如是等分別諸業相果報。 是の業の能く種種の身を与うること、工画師の種種の像を作るが如し。若し人、正行を以ってすれば、業は則ち好報を与え、若し邪行を以ってすれば、業は則ち悪報を与うること、人の王に事うるに、事に随いて報を得るが如し。是れ等の如く諸業の相と果報を分別す。
是の、
『業』が、
種種の、
『身』を、
『与えることができる!』のは、
譬えば、
『工画師』が、
種種の、
『像』を、
『作るようなものであり!』、
若し、
『人』が、
『正行』を、
『用いていれば!』、
『業』は、
『好報』を、
『与えることになり!』、
若し、
『邪行』を、
『用いていれば!』、
『業』は、
『悪報』を、
『与えることになる!』ので、
譬えば、
『人』が、
『王』に、
『事(つか)えれば!』、
『仕事に応じて!』、
『報』を、
『得るようなものである!』。
是れ等のように、
諸の、
『業の相、果報』を、
『分別する!』。
復次如分別業經中。佛告阿難。行惡人好處生。行善人惡處生。阿難言。是事云何。佛言。惡人今世罪業未熟。宿世善業已熟。以是因緣故。今雖為惡而生好處。或臨死時善心心數法生。是因緣故亦生好處。行善人生惡處者。今世善未熟。過世惡已熟。以是因緣故。今雖為善而生惡處。或臨死時不善心心數法生。是因緣故亦生惡處。 復た次ぎに、『分別業経』中の如し。仏の阿難に告げたまわく、『行悪の人は好処に生じ、行善の人は悪処い生ず』、と。阿難の言わく、『是の事や、云何』、と。仏の言わく、『悪人は今世に罪業未だ熟せず、宿世の善業已に熟したれば、是の因縁を以っての故に、今悪を為すと雖も、好処に生じ、或は死に臨んで、時に善の心、心数法生じて、是の因縁の故に亦た好処に生ずるなり。行善の人の悪処に生ずとは、今世の善、未だ熟せず、過世の悪已に熟すれば、是の因縁を以っての故に、今善を為すと雖も、悪処に生じ、或は死に臨んで、時に不善の心、心数法生じて、是の因縁の故に、亦た悪処に生ず。
復た次ぎに、
『分別業経』中には、こうある、――
『仏』は、
『阿難』に、こう告げられた、――
『悪を行う!』、
『人』でも、
『好処』に、
『生まれ!』、
『善を行う!』、
『人』でも、
『悪処』に、
『生じる!』。
『阿難』は、こう言った、――
是の、
『事』は、
『何を言うのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
『悪人』でも、
『今世』に、
未だ、
『宿世の罪業』が、
『熟さず!』、
已に、
『宿世の善業』が、
『熟していれば!』、
是の、
『因縁』の故に、
今、
『悪を為していても!』、
『好処』に、
『生まれるのであり!』、
或は、
『死に臨んで!』、
時に、
『善の心、心数法』が、
『生じた!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
亦た、
『好処』に、
『生まれるのである!』。
『善を行う人』が、、
『悪処』に、
『生まれる!』とは、――
即ち、
『今世』に、
未だ、
『過去世の善』が、
『熟さず!』、
已に、
『過去世の悪』が、
『熟している!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
今、
『善を為していても!』、
『悪処』に、
『生じるのであり!』、
或は、
『死に臨んで!』、
時に、
『不善の心、心数法』が、
『生じる!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
亦た、
『悪処』に、
『生まれるのである!』。
  参考:『中阿含巻44分別大業経』:『我聞如是。一時。佛遊王舍城。在竹林迦蘭哆園。爾時。尊者三彌提亦遊王舍城。住無事禪屋中。於是。異學哺羅陀子中後彷徉。往詣尊者三彌提所。共相問訊。卻坐一面。賢三彌提。我欲有所問。聽我問耶。尊者三彌提答曰。賢哺羅陀子。欲問便問。我聞已當思。異學哺羅陀子便問曰。賢三彌提。我面從沙門瞿曇聞。面從沙門瞿曇受。身.口業虛妄。唯意業真諦。或有定。比丘入彼定無所覺。尊者三彌提告曰。賢哺羅陀子。汝莫作是說。莫誣謗世尊。誣謗世尊者為不善也。世尊不如是說。賢哺羅陀子。世尊無量方便說。若故作業。作已成者。我說無不受報。或現世受。或後世受。若不故作業。作已成者。我不說必受報也。異學哺羅陀子至再三語尊者三彌提曰。賢三彌提。我面從沙門瞿曇聞。面從沙門瞿曇受。身.口業虛妄。唯意業真諦。或有定。比丘入彼定無所覺。尊者三彌提亦再三告曰。賢哺羅陀子。汝莫作是說。莫誣謗世尊。誣謗世尊者為不善也。世尊不如是說。賢哺羅陀子。世尊無量方便說。若故作業。作已成者。我說無不受報。或現世受。或後世受。若不故作業。作已成者。我不說必受報也。異學哺羅陀子問尊者三彌提。若故作業。作已成者。當受何報。尊者三彌提答曰。賢哺羅陀子。若故作業。作已成者。必受苦也。異學哺羅陀子復問尊者三彌提曰。賢三彌提。汝於此法.律學道幾時。尊者三彌提答曰。賢哺羅陀子。我於此法.律學道未久。始三年耳。於是。異學哺羅陀子便作是念。年少比丘尚能護師。況復舊學上尊上尊人耶。於是。異學哺羅陀子聞尊者三彌提所說。不是不非。即從座起。奮頭而去。彼時。尊者大周那去尊者三彌提晝行坐處不遠。於是。尊者大周那謂尊者三彌提與異學哺羅陀子所共論者。彼盡誦習。善受持已。即從座起。往詣尊者阿難所。共相問訊。卻坐一面。謂尊者三彌提與異學哺羅陀子所共論者。盡向尊者阿難說之。尊者阿難聞已。語曰。賢者周那。得因此論。可往見佛。奉獻世尊。賢者周那。今共詣佛。具向世尊而說此義。或能因是得從世尊聞異法也。於是。尊者阿難.尊者大周那共往詣佛。尊者大周那稽首佛足。卻坐一面。尊者阿難稽首佛足。卻住一面。彼時。尊者阿難語曰。賢者大周那。可說。可說。於是。世尊問曰。阿難。周那比丘欲說何事。尊者阿難白曰。世尊。今自當聞。於是。尊者大周那謂尊者三彌提與異學哺羅陀子所共論者盡向佛說。世尊聞已。告曰。阿難。看三彌提比丘癡人無道。所以者何。異學哺羅陀子問事不定。而三彌提比丘癡人一向答也。尊者阿難白曰。世尊。若三彌提比丘因此事說。所有覺者是苦。當何咎耶。世尊呵尊者阿難曰。看。阿難比丘亦復無道。阿難。此三彌提癡人。彼異學哺羅陀子盡問三覺。樂覺.苦覺.不苦不樂覺。阿難。若三彌提癡人為異學哺羅陀子所問。如是答者。賢哺羅陀子。若故作樂業。作已成者。當受樂報。若故作苦業。作已成者。當受苦報。若故作不苦不樂業。作已成者。當受不苦不樂報。阿難。若三彌提癡人為異學哺羅陀子所問。如是答者。異學哺羅陀子眼尚不敢視三彌提癡人。況復能問如是事耶。阿難。若汝從世尊問分別大業經者。於如來倍復增上心靖得喜。於是。尊者阿難叉手向佛白曰。世尊。今正是時。善逝。今正是時。若世尊為諸比丘說分別大業經者。諸比丘聞已。當善受持。世尊告曰。阿難。諦聽。善思念之。我當為汝具分別說。尊者阿難白曰。唯然。時。諸比丘受教而聽。佛言。阿難。或有一不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生善處天中。阿難。或有一離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生惡處地獄中。阿難。或有一不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生惡處地獄中。阿難。或有一離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生善處天中。阿難。若有一不離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生善處天中者。若有沙門.梵志得天眼。成就天眼而見彼。見已。作是念。無身惡行。亦無身惡行報。無口.意惡行。亦無口.意惡行報。所以者何。我見彼不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生善處天中。若更有如是比不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護者。彼一切身壞命終。亦生善處天中。如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣耶。若所見所知極力捫摸。一向著說。此是真諦。餘皆虛妄。阿難。若有一離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生惡處地獄中者。若有沙門.梵志得天眼。成就天眼而見彼。見已。作是念。無身妙行。亦無身妙行報。無口.意妙行。亦無口.意妙行報。所以者何。我見彼離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生惡處地獄中。若更有如是比離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護者。彼一切身壞命終。亦生惡處地獄中。如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣耶。若所見所知極力捫摸。一向著說。此是真諦。餘皆虛妄。阿難。若有一不離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生惡處地獄中者。若有沙門.梵志得天眼。成就天眼而見彼。見已。作是念。有身惡行。亦有身惡行報。有口.意惡行。亦有口.意惡行報。所以者何。我見彼不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生惡處地獄中。若更有如是比不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護者。彼一切身壞命終。亦生惡處地獄中。如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣耶。若所見所知極力捫摸。一向著說。此是真諦。餘皆虛妄。阿難。若有一離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生善處天中者。若有沙門.梵志得天眼。成就天眼而見彼。見已。作是念。有身妙行。亦有身妙行報。有口.意妙行。亦有口.意妙行報。所以者何。我見彼離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生善處天中。若更有如是比離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護者。彼一切身壞命終。亦生善處天中。如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣耶。若所見所知極力捫摸。一向著說。此是真諦。餘皆虛妄。阿難。於中若有一沙門.梵志得天眼。成就天眼。作如是說無身惡行。亦無身惡行報。無口.意惡行。亦無口.意惡行報。者。我不聽彼。若作是說。我見彼不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生善處天中。我聽彼也。若作是說若更有如是比不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護者。彼一切身壞命終。亦生善處天中。者。我不聽彼。若作是說如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣邪。者。我不聽彼。若所見所知極力捫摸。一向著說此是真諦。餘皆虛妄。者。我不聽彼。所以者何。阿難。如來知彼人異。阿難。於中若有一沙門.梵志得天眼。成就天眼。作如是說無身妙行。亦無身妙行報。無口.意妙行。亦無口.意妙行報。我不聽彼。若作是說。我見彼離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生惡處地獄中。我聽彼也。若作是說若更有如是比離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護者。彼一切身壞命終。亦生惡處地獄中。者。我不聽彼。若作是說如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣邪。者。我不聽彼。若所見所知極力捫摸。一向著說此是真諦。餘皆虛妄。者。我不聽彼。所以者何。阿難。如來知彼人異。阿難。於中若有一沙門.梵志得天眼。成就天眼。作如是說。有身惡行。亦有身惡行報。有口.意惡行。亦有口.意惡行報。我聽彼也。若作是說我見彼不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生惡處地獄中。者。我聽彼也。若作是說若更有如是比不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護者。彼一切身壞命終。亦生惡處地獄中。者。我不聽彼。若作是說如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣邪。者。我不聽彼。若所見所知極力捫摸。一向著說此是真諦。餘皆虛妄。者。我不聽彼。所以者何。阿難。如來知彼人異。阿難。於中若有一沙門.梵志得天眼。成就天眼。作如是說有身妙行。亦有身妙行報。有口.意妙行。亦有口.意妙行報。者。我聽彼也。若作是說。我見彼離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生善處天中。者。我聽彼也。若作是說若更有如是比離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。彼一切身壞命終。亦生善處天中。者。我不聽彼。若作是說如是見者。則為正見。異是見者。則彼智趣邪。者。我不聽彼。若所見所知極力捫摸。一向著說此是真諦。餘皆虛妄。者。我不聽彼。所以者何。阿難。如來知彼人異。阿難。若有一不離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生善處天中者。彼若本作不善業。作已成者。因不離.不護故。彼於現法中受報訖而生於彼。或復因後報故。彼不以此因.不以此緣。身壞命終。生善處天中。或復本作善業。作已成者。因離.護故。未盡應受善處報。彼因此緣此故。身壞命終。生善處天中。或復死時生善心。心所有法正見相應。彼因此緣此。身壞命終。生善處天中。阿難。如來知彼人為如是也。阿難。若有一離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生惡處地獄中者。彼若本作善業。作已成者。因離.護故。彼於現法中受報訖而生於彼。或復因後報故。彼不以此因.不以此緣。身壞命終。生惡處地獄中。或復本作不善業。作已成者。因不離.不護故。未盡應受地獄報。彼因此緣此。身壞命終。生惡處地獄中。或復死時生不善心。心所有法邪見相應。彼因此緣此。身壞命終。生惡處地獄中。阿難。如來知彼人為如是也。阿難。若有一不離殺.不與取.邪婬.妄言。乃至邪見。此不離.不護已。身壞命終。生惡處地獄中者。彼即因此緣此。身壞命終。生惡處地獄中。或復本作不善業。作已成者。因不離.不護故。未盡應受地獄報。彼因此緣此。身壞命終。生惡處地獄中。或復死時生不善心。心所有法邪見相應。彼因此緣此。身壞命終。生惡處地獄中。阿難。如來知彼人為如是也。阿難。若有一離殺.不與取.邪婬.妄言乃至邪見。此離.護已。身壞命終。生善處天中者。彼即因此緣此。身壞命終。生善處天中。或復本作善業。作已成者。因離.護故。未盡應受報。彼因此緣此。身壞命終。生善處天中。或復死時生善心。心所有法正見相應。彼因此緣此。身壞命終。生善處天中。阿難。如來知彼人為如是也。復次。有四種人。或有人無有似有。或有似無有。或無有似無有。或有似有。阿難。猶如四種奈。或奈不熟似熟。或熟似不熟。或不熟似不熟。或熟似熟。如是。阿難。四種奈喻人。或有人無有似有。或有似無有。或無有似無有。或有似有。佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
問曰。熟不熟義可爾。臨死時少許時心。云何能勝終身行力。 問うて曰く、熟すと熟せざるの義は爾るべし。死に臨んで、時に少しばかりの時の心、云何が能く終身の行力に勝るや。
問い、
『業』が、
『熟すか、熟さないか?』は、
『そうだと思います!』が、
『死に臨んだ!』時の、
『少時の心』が、
何故、
『終身の行力』に、
『勝るのですか?』。
答曰。是心雖時頃少而心力猛利。如火如毒雖少能成大事。是垂死時心決定猛健故。勝百歲行力。是後心名為大心。以捨身及諸根事急故。如人入陣不惜身命名為健。如阿羅漢。捨是身著故得阿羅漢道。 答えて曰く、是の心は、時頃少なしと雖も、心力猛利なれば、火の如く、毒の如く、少しと雖も、能く大事を成せば、是の死に垂(なんなん)とする時、心決定して猛健なるが故に、百歳の行力に勝れば、是の後心を名づけて、大心と為す。身及び諸根を捨つる事の急なるを以っての故なり。人の陣に入れば、身命を惜まざるが如し。名づけて健と為すは、阿羅漢の、是の身の著を捨つるが故に阿羅漢道を得るが如し。
答え、
是の、
『心』は、
『時間は少ない!』が、
『心力』が、
『猛利である!』が故に、
譬えば、
『火や、毒のように!』、
『少なくても!』、
『大事』を、
『成すことができ!』、
是の、
『死のうとする!』時の、
『心』は、
『決定しており!』、
『猛健である!』が故に、
『百年修行した!』、
『行力』にも、
『勝るからである!』。
是の、
『最後の心』を、
『大心と称する!』のは、
『身と、諸根を捨てる!』、
『事』が、
『切迫しているからであり!』、
譬えば、
『陣に入ったように!』、
『身、命』を、
『惜まない!』ので、
是れを、
『健と称する!』のは、
譬えば、
『阿羅漢』が、
是の、
『身の著を捨てる!』が故に、
『阿羅漢道』を、
『得るようなものである!』。
  時頃(じきょう):少しの間。時の経過。
  猛健(みょうごん):たけくすこやか。いさましくつよい。勇猛強健。
如是等種種罪福業報。轉報亦應如是。知聲聞人但知惡業罪報善業福報。不能如是細分別。佛悉遍知是業及業報。智慧勢力無礙無盡無能壞故。是名第二力。 是れ等の如き種種の罪福の業報の報に転ずること、亦た応に是の如く知るべし。声聞人は、但だ悪業の罪報と、善業の福報を知るも、是の如き細かに分別する能わず。仏の悉く遍く、是の業、及び業報を知りたもうは、智慧の勢力の無礙、無尽にして、能く壊るもの無きが故なれば、是れを第二の力と名づく。
『仏』は、
是れ等のような、
種種の、
『罪、福の業報』が、
『報』に、
『転じるという!』ことも、
亦た、
当然、
『是のように!』、
『知っていられる!』が、
『声聞人』は、
但だ、
『悪業の悪報』と、
『善業の福報』とを、
『知るだけで!』、
是のように、
『細かく!』、
『業報』を、
『分別することはできない!』。
『仏』が、
是の、
『業』と、
『業報』とを、
『悉く!』、
『遍く知っていられる!』のは、
『智慧の勢力』が、
『無礙、無尽であり!』、
『破壊できる!』者が、
『無いからであり!』、
是れを、
『第二の力』と、
『称する!』。



禅定解脱三昧の浄垢を分別する智力

禪定解脫三昧淨垢分別智力者。禪名四禪。佛知是禪佐助道法名相義分次第熏修有漏無漏學無學淨垢味不味深淺分別等。 禅定解脱三昧浄垢分別智力とは、禅を四禅と名づけ、仏は是の禅を佐助する道法の名、相、義分、次第、熏修、有漏、無漏、学、無学、浄、垢、味、不味、深、浅の分別等を知りたもう。
『禅、定、解脱、三昧』の、
『浄、垢の分別を知る!』、
『智力』とは、――
『禅』とは、
『四禅』を、
『称するのである!』が、
『仏』は、
是の、
『禅を佐助する道法』の、
『名、相、義分、次第、熏修、有漏、無漏、学、無学』、
『浄、垢、味、不味、深、浅』の、
『分別』等を、
『知っていられる!』。
  名相(みょうそう):一切の事物は名有り、相有り、耳に聞く可き、之を名と謂い、眼に見る可き、之を相と謂うに、皆是れ虚妄の法にして、法の実性に契う者に非ざるも、凡夫は常に此の虚妄の名相を分別し、種種の妄惑を起すを云う。又法門の名相に著して、無相の真理を忘るるは、学者の通弊なり。<(丁)
  次第(しだい):具に九次第定と称し、初禅、乃至滅受想定に至る九種の定を次第に無間に修するを云う。『大智度論巻17下注:九次第定』参照。
  熏修(くんじゅう):熏禅と修禅との併称。或は熏習の義に非ず。熏禅は能く遍く初禅を熏熟して皆悉く通利、転変自在ならしむるを云い、修禅は、超入超出順逆自在の禅を云う。『大智度論巻17下注:観練熏修、同巻24下注:熏習』参照。
  熏習(くんじゅう):梵語vaasanaaの訳。又pravRtti、或いはabhyaasa、薫陶串習の意。又略して熏とも称す。即ち染浄迷悟の諸法は薫陶串習の力に由りて生起せらるるものなるを云う。熏習の語義に関し、「大乗起信論」には、「熏習の義とは、世間の衣服に実に香なきも、若し人、香を以って熏習するが故に則ち香気あるが如し」と云えり。是れ香を以って薫ずれば物に香気あるが如く、数ば串習することによりて、遂に其の性を成ずるを云うなり。又「成唯識論巻2」に、「種をして生長せしむるが故に熏習と名づく」と云い、「同述記巻3本」には、「熏は発なり、或いは由致なり。習は生なり、近なり、数なり。即ち発して果を致し、本識の内に於いて種子をして生ぜしめ、近く生長せしむるが故なり」と云えり。是れ熏習によりて新に種子を生ぜしめ、又種子をして増長せしむるを云うなり。蓋し熏習を説くことは、主として大乗に在り。小乗の中、経部の如きは種子を立て、色心可熏の義を説きて、色心二法が互いに能所熏となると云い、又前後識類熏習すと云うが如き、唯識大乗の熏習論の基を為したりと見るべきものなるも、而も其の説未だ尽くさざる所あるが如し。「梁訳摂大乗論巻上」に依るに、種子に内外の別あるも、外の種子は熏習に由りて成ずるに非ず、唯だ内の種子のみ必ず熏ありと云い、「梁訳摂大乗論釈巻2」に之を釈して、「外の種子とは、穀麦等の如きは功能に由るが故に成じ、熏習に由るが故に成ぜず。内の種子は則ち爾らず、必ず熏習に由るが故に成ず」と云い、更に広く之を分別せり。之に依るに、熏習は必ず内の種子を生長せしむるの義によりて説くことを知るべし。然るに凡そ熏習には必ず能熏所熏の二物なかるべからず。「梁訳摂大乗論巻上」に、「堅と無記と可熏と能熏と相応するとなり。若し異ならば熏ず可からず」と云えるは、即ち所熏の体を示したるなり。「成唯識論巻2」には具に能熏所熏に各四義を具すべきことを説けり。即ち彼の文に、「何等の義に依りて熏習の名を立つるや、所熏と能熏と各四義を具して、種をして生長せしむるが故に熏習と名づく」と云える是れなり。中に就き所熏の四義とは、一に堅住性、二に無記性、三に可熏性、四に能熏と共に和合する性なり。能熏の四義とは、一に有生滅、二に有勝用、三に有増減、四に所熏と和合する性なり。所熏の四義の中、堅住性とは、凡そ所熏の法は必ず無始已来究竟位に至るまで、一類の性相続して断ぜず、能く習気を持するものなるべきを云う。之に由りて前七転識及び根塵並びに法処色等の如き、堅住ならざるものは所熏たる能わず。無記性とは、所熏の法は必ず無記平等にして違逆する所なく、能く善悪の習気を容るるに堪うるものなるべきを云う。之に由りて善悪の如き、勢力強盛なるものは所熏たる能わず。又如来の第八浄識は唯善なるが故に、但だ旧種を帯ぶるも、新に熏を受くることなし。可熏性とは、所熏の法は自在にして其の性堅密ならず、虚疎にして能く習気を保留するに適するものなるべきを云う。之に由りて心所の如き他に随って起り、又無為法の如き其の性堅密なるものは、並びに所熏たる能わず。能熏と和合する性とは、所熏の法は能熏と同時同処にして、不即不離のものなるべきを云う。之に由りて他身と刹那前後とは、和合する義なきが故に所熏たる能わず。但だ第八異熟識のみ独り此の四義を具するを以って名づけて所熏と為す。心所及び他の七転識等は、或いは間断あり、或いは自在ならず、又唯だ染汚にして、即ち此等の諸義を具せざるが故に所熏たる能わざるなり。又能熏の四義の中、有生滅とは、凡そ能熏の法は必ず非常にして能く作用あり、習気を生長せしむるものなるべきを云う。之に由りて無為は前後変ぜず、生長の用なきが故に能熏に非ず。有勝用とは、能熏の法は能縁の勢用及び強盛の勝用ありて、能く習気を引くに堪うるものなるべきを云う。之に由りて異熟無記の心心所等は、勢力羸劣なるが故に能熏たる能わず。有増減とは、能熏の法は増すべく減ずべくして、習気を摂植するものたるべきを云う。之に由りて仏果円満の善法は、増減なきが故に能熏に非ず。若し能熏ならば即ち円満に非ざるを以ってなり。所熏と和合する性とは、能熏の法は所熏と同時同処にして、不即不離のものなるべきを云う。之に由りて他身と刹那前後とは、和合する義なきが故に能熏たる能わず。唯だ七転識及び彼の心所は此の四義を具するを以って、名づけて能熏と為す。無為法は有生滅等の義なく、有為の八識中、果位の浄識は有増減の義なく、因位の第八識及び六識の異熟報たる無覆無記は有勝用の義なく、即ち此等の法は上の諸義を具せざるが故に、能熏に非ざるなり。要を取りて之を言わば、能熏たる七転識及び彼の心所が、所熏たる第八異熟識に熏じて、所熏の中の種子を生長せしむるの意なり。又此の中、名言に随って熏成せらるる種を名言習気と云い、我執に随って熏成せらるる種を我執習気と云い、有支に随って熏成せらるる種を有支習気と云い、又浄法界より等流せる正法を聞いて本有の無漏種を熏起するを聞熏習と云うなり。此等は即ち唯識家に於いて唱道する所の熏習の説なり。然るに「勝鬘」、「楞伽」等の経及び「起信論」等に依るに、熏習に凡べて斯の如き諸義を立てず、真如も亦た無明と能所熏となると説きて、頗る前説と径庭あり。彼の「勝鬘経」に、「此の自性清浄如来蔵は、而も客塵煩悩上煩悩に染せらる。不思議如来の境界なり」と云い、「楞伽阿跋多羅宝経巻4」に、「如来の蔵は是れ善不善の因にして、能く遍く一切の趣生を興造す。譬えば伎児の諸趣を変現するに我我所を離るるが如し。彼れを覚せざるが故に、三縁和合方便して生ず。外道は覚せず、作者に計著す。無始の虚偽悪習の為に熏ぜらるるを、名づけて識蔵生ずと為す」と云い、又「同巻1」に、「不思議熏及び不思議変は是れ現識の因なり、種種の塵を取ると及び無始の妄想熏とは是れ分別事識の因なり」と云える如きは、即ち如来蔵自性清浄心が、無明煩悩の熏を受けて、以って不浄を顕現することを説けるものなり。又「大乗起信論」には真如無明互熏の説をなし、真如浄法には実に染なきも、唯だ無明を以って熏習するが故に則ち染相あり、無明染法には実に浄業なきも、唯だ真如を以って熏習するが故に則ち浄用ありと云い、広く染法熏習、浄法熏習の二種を説けり。今其の説を略敍すれば、先づ染法熏習に妄境界熏習と妄心熏習と無明熏習の三種あり。初に妄境界熏習とは境界の縁に依りて、我法二執が増長せらるるを云う。之に増長念熏習と増長取熏習との別あり、即ち彼の境界の縁に依りて、法執分別の念の増長せらるるを増長念熏習と名づけ、我執の取著の増長せらるるを増長取熏習と名づく。前者は六麁の中に智相及び相続相の起因にして、後者は執取及び計名字相の起因となるなり。次に妄心熏習とは、業識及び分別事識の熏習力に由りて麁細二種の生死の生起せらるるを云う。之に亦た業識根本熏習と増長分別事識熏習との別あり。即ち業識の熏習に由りて、阿羅漢辟支仏及び初発意以上の菩薩をして已に分段生死の麁苦を離るるも、尚お細の分段と変易生死との苦を受けしむるを業識根本熏習と名づけ、又分別事識の熏習に由りて、凡夫をして三界業繋の分段の麁苦を受けしむるを増長分別事識熏習と名づく。三に無明熏習とは根本無明と其の所起の煩悩との力に由りて、業識と分別事識とが成ぜらるるを云う。之に根本熏習と所起見愛熏習との別あり、即ち根本不覚が真如を熏動して業等の諸識を成ずるを根本熏習とし、枝末不覚が心体を熏習して分別事識を成ぜしむるを所起見愛熏習とするなり。次に又浄法熏習に妄心熏習と真如熏習との二種あり。初に妄心熏習とは、分別事識及び五意の熏習に由りて、凡夫二乗及び菩薩をして発心修行せしむるを云う。之に亦た分別事識熏習と意熏習との二あり、即ち凡夫及び二乗をして、分別事識中に生死の苦を厭い無上道に発趣せしむるを分別事識熏習と云い、一切の菩薩をして五意中に発心修行して速かに菩提に趣向せしむるを意熏習と名づく。次に真如熏習とは真如浄法が自ら衆生の心に熏習するの謂にして、之に自体相熏習と用熏習との二あり。就中、真如は本来無漏の法を具足し、不思議の業用あるのみならず、亦た智の境界の性となりて常に衆生の心に熏ずるが故に、衆生をして生死を厭いて涅槃を求め、本具の真如性を信じて発心修行せしむるを自体相熏習と名づけ、諸仏菩薩の外縁の熏力によりて、衆生の善根の増長せらるるを用熏習と名づく。此の染浄二熏の中、染法熏習は無始有終にして、即ち成仏に至って断滅するも、真如熏習は無始無終にして、常恒に不思議の用熏習を施して永く止まずとするなり。蓋し唯識家に在りては、上述の如く能熏は有生滅、有勝用、有増減ならざるべからずと云い、之を有為の中の或る法に限るも、「起信論」には、無為法にして無生無滅なる真如にも亦た能熏の用ありとし、又唯識には、所熏は可熏性ならざるべからずと云い、之を虚疎の法に限るも、「起信論」には、堅密なる無為法も亦た所熏たるを得べしと為し、又唯識には、所熏は無記性ならざるべからずと云うも、「起信論」には至善なる真如、染汚なる無明も皆共に熏を受くと説くが如き、頗る熏習を広義に解し、迷悟の二大原理たる真如、無明の消長を、一に熏習の強弱に帰せんとするに在るを以って、其の所論自ら乖角する所あるを免れざるなり。又「梁訳摂大乗論釈巻5」、「唐訳摂大乗論釈巻2」、「成唯識論巻8」、「同述記巻8上」、「同了義灯巻3末」、「顕識論」、「大乗起信論義疏巻下之上」、「華厳孔目章巻1、3」、「大乗起信論義記巻下本」、「起信論疏記会本巻5」、「翻訳名義集巻6」等に出づ。<(望)
八解脫如禪中分別相說。禪攝一切色界定。說解脫。攝一切定禪波羅蜜。即是諸解脫禪定三昧解脫禪三昧皆名為定。定名為心不散亂。 八解脱は、禅中に相を分別して、『禅には、一切の色界の定を摂す』、と説き、『解脱には、一切の定を摂す』、と説くが如し。禅波羅蜜とは、即ち是れ諸の解脱、禅、定、三昧なり。解脱、禅、三昧は皆名づけて、定と為し、定を名づけて、心散乱せずと為す。
『解脱』とは、
『八解脱』と、
『称する!』が、
『禅(大智度論巻20)』中に、
『相を分別して!』、こう説いた、――
『禅』には、
一切の、
『色界の定』を、
『摂する!』。
『解脱』には、
一切の、
『定』を、
『摂する!』、と。
『禅波羅蜜』とは、
即ち、
諸の、
『解脱、禅、三昧であり!』、
『解脱、禅、三昧』は、
皆、
『定』と、
『称せられるのである!』が、
『定』とは、
『心』が、
『散乱しないことである!』。
  八解脱(はちげだつ):又八背捨とも称す。即ち八種の定力に由りて、色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八解脱、巻21上八背捨義』参照。
  八解脱:八背捨、貪著の心を捨てるための八種の定力。
  1. 内有色想観外色解脱:色や形に対する想い(色想)が内心にあることを除くために、不淨観を修める。(内身に色想の貪有り、この貪を除く為に、外の不浄青瘀等の色を観じて、貪を起させない。この故に解脱といい、この初の解脱は初禅の浄に従って起り、欲界の色に縁ずる。)
  2. 内無色想観外色解脱:内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。(内心に色想の貪が無いとはいえ、更に堅固ならしめんと欲して、外の不浄青瘀等の色を観じ、貪を起させない。この故に解脱といい、これは二禅に依って起り、初禅の色に縁ずる。)
  3. 浄解脱身作証具足住:前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起こさないようにする。(浄色を観ずるが故に浄解脱という。定中に於いて不浄相を除き、ただ八色等の光明清浄、光潔なる妙宝の色を観ずる。浄色を観じて貪を生ぜず、これを観じて勝れたるを顕すに足り、この性を証得して身中に解脱する。故に身作証といい、具足円満して、この定に住するを得るが故に、具足住という。この第三解脱の位は、第四禅に依って起り、また欲界の色に縁ずる。)
  4. 空無辺処解脱:物質的な想いをすべて滅して、空無辺処定に入る。
  5. 識無辺処解脱:空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。
  6. 無所有処解脱:識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。
  7. 非想非非想処解脱:無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。(これは四無色定に依って起り、各各所得の定に於いて、空、無常、無我を観じ、厭心を生じてこれを棄捨する。故に解脱という。)
  8. 滅受想定身作証具住:受想などを捨てて、滅尽定(めつじんじょう)に入る。(滅受想定とは、滅尽定である。これもまた第四禅に依って、前の非非想、即ち一切の所縁を棄捨する。故に解脱という。)
垢名愛見慢等諸煩惱。淨名真禪定。不雜愛見慢等煩惱如真金。 垢を愛、見、慢等の諸煩悩と名づけ、浄を真の禅定と名づけ、愛、見、慢等の煩悩を雑えざること、真金の如し。
『垢』は、
『愛、見、慢』等の、
諸の、
『煩悩』を、
『意味し!』、
『浄』は、
『真の!』、
『禅定』を、
『意味する!』が、
『愛、見、慢』等の、
『煩悩』を、
『雑えない!』ので、
譬えば、
『純粋な!』、
『金のようなものである!』。
分別名諸定中有一心行不一心行。常行不常行。難入易入。難出易出。別取相。總取相。轉治不轉治。 分別を諸の定中に一心行、不一心行、常行、不常行、難入、易入、難出、易出、別取相、総取相、転治、不転治有るに名づく。
『分別』とは、
諸の、
『定』中には、
『一心行と、不一心行』、
『常行と、不常行』、
『難入と、易入』、
『難出と、易出』、
『別取相と、総取相』、
『転治と、不転治』との、
『分別が有るという!』、
『意味である!』。
轉治如婬欲中慈心。瞋人不淨觀。愚癡人思惟邊無邊。掉戲心中用智慧分別諸法。沒心中欲攝心。若不爾者名不轉治。 転治とは、婬欲中の慈心。瞋人にして不浄を観る。愚癡人にして辺、無辺を思惟する。掉戯心中に智慧を用いて諸法を分別する。没心中に摂心せんと欲するが如し。若し爾らずんば、不転治と名づく。
『治法を転じる!』とは、――
『婬欲人』中に、
『慈心』を、
『起すこと!』、
『瞋人』が、
『不浄』を、
『観ること!』、
『愚癡人』が、
『辺、無辺』を、
『思惟すること!』、
『掉戯(躁鬱)心』中に、
『智慧を用いて!』、
『諸の法』を、
『分別すること!』、
『没心』中に、
『心を摂(おさ)めよう!』と、
『思うことである!』。
若し、
爾うでなければ、
是れを、
『治法を転じない!』と、
『称する!』。
  掉戯心(じょうげしん):戯れて静まらざる心。
  転治(てんじ):方向を間違えたる治癒の意。
  没心(もっしん):心に和合なきこと。心がしずむこと。
  摂心(しょうしん):散乱せる心を一にたもつこと。
是定中應分別時及住處。若身瘦羸是非行定時。如菩薩苦行時。作是念。我今不能生禪定。若多人處亦非行定處。 是の定中には、応に時、及び住処を分別すべし。若し身、痩羸なれば、是れは定を行ずる時に非ず。菩薩の苦行の時、是の念を作したまえるが如し、『我れ今、禅定を生ずること能わず。若しは多人の処にも亦た、定を行ずる処に非ず』、と。
是の、
『定』中には、
『時と、住処とを!』、
『分別せねばならない!』。
若し、
『身』が、
『痩せて!』、
『弱っていれば!』、
是れは、
『定を行う!』、
『時ではない!』。
例えば、
『菩薩』は、
『苦行された!』時、こう念じられている、――
わたしは、
今、 
『禅定』を、
『生じることができない!』、と。
若し、
『人』が、
『多い!』、
『処であっても!』、
やはり、
『禅定を行う!』、
『処ではない!』。
  痩羸(しゅるい):やせてよわる。
復次佛知是禪定失。是禪住是禪增益是禪到涅槃。 復た次ぎに、仏の知りたまわく、『是れ禅定の失なり。是れ禅に住するなり。是れ禅の増益なり。是れ禅より涅槃に到るなり』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、こう知っていられる、――
是れは、
『禅定』が、
『逸失している!』。
是れは、
『禅定』が、
『住まっている!』。
是れは、
『禅定』が、
『増益している!』。
是れは、
『禅定より!』、
『涅槃に到った!』、と。
復次佛知是人難入定難出定易入易出易入難出難入易出。 復た次ぎに、仏の知りたまわく、『是の人は定に入ること難く、定を出づること難し。入り易く、出で易し。入り易く、出で難し。入り難く、出で易し』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、こう知っていられる、――
是の、
『人』は、
『定』に、
『入り難く、出で難い!』、
『入り易く、出で易い!』
『入り易く、出で難い!』、
『入り難く、出で易い!』、と。
佛知是人應得如是禪。知是人失禪受五欲。知是人受五欲已還得禪。依是禪得阿羅漢。 仏の知りたまわく、『是の人は応に是の如き禅を得べし』、と。知りたまわく、『是の人は、禅を失いて、五欲を受く』、と。知りたまわく、『是の人は五欲を受け已りて、還って禅を得、是の禅に依りて、阿羅漢を得』、と。
『仏』は、
こう知っていられる、――
是の、
『人』は、
是のような、
『禅』を、
『得るだろう!』。
是の、
『人』は、
『禅を失って!』、
『五欲』を、
『受けるだろう!』。
是の、
『人』は、
『五欲を受けたならば!』、
還って、
『禅』を、
『得ることになり!』、
是の、
『禅に依って!』、
『阿羅漢を得るだろう!』、と。
如是等一切諸禪定解脫即是三昧是禪定。佛以甚深智慧盡知無能壞無能勝。是名第三力。 是れ等の如き、一切の諸の禅、定、解脱は、即ち是れ三昧にして、是れ禅定なり。仏は、甚深の智慧を以って、尽く知り、能く壊る無く、能く勝る無ければ、是れを第三の力と名づく。
是れ等のような、
一切の、
諸の、
『禅、定、解脱』は、
即ち、
『三昧であり!』、
是れを、
『禅定』と、
『称する!』。
『仏』は、
『甚だ深い智慧』で、
是の、
『禅定、三昧』を、
『尽く!』、
『知り!』、
是の、
『智慧』を、
『壊る者や!』、
是の、
『智慧』に、
『勝る者は!』、
『存在しない!』。
是れを、
『第三の力』と、
『称する!』。



衆生の根の上、下を知る智力

知眾生上下根智力者。佛知眾生是利根鈍根中根。利智名為上。鈍智名為下。佛用是上下根智力。分別一切眾生。是利根是中根是鈍根。 知衆生上下根智力とは、仏の衆生を知りたまわく、『是れは利根なり、鈍根なり、中根なり』、と。利智を名づけて上と為し、鈍智を名づけて下と為す。仏は是の上下根智力を用いて、一切の衆生を分別すらく、『是れは利根なり』、『是れは中根なり』、『是れは鈍根なり』、と。
『衆生の根』の、
『上、下を知る!』、
『智力』とは、――
『仏』は、
『衆生』を、こう知っていられる、――
是れは、
『利根である!』、
『鈍根である!』、
『中根である!』、と。
『衆生』の、
『利智』を、
『上』と、
『称し!』、
『鈍智』を、
『下』と、
『称する!』。
『仏』は、
是の、
『根の上、下を知る!』、
『智力』を、
『用いて!』、
一切の、
『衆生』を、こう分別される、――
是れは、
『利根である!』、
『中根である!』、
『鈍根である!』。
是人如是根。今世但能得初果。更不能得餘。是人但能得第二第三第四果。是人但能得初禪。是人但能得第二第三第四禪。乃至滅盡定亦如是。是人當作時解脫證。是人當作不時解脫證。是人能得於聲聞中第一。是人能得於辟支佛中第一。是人具足六波羅蜜。能得阿耨多羅三藐三菩提。 是の人の是の如き根は、今世には但だ能く初果を得て、更に余を得る能わず。是の人は、但だ能く第二、第三、第四果を得。是の人は、但だ能く初禅を得。是の人は、但だ能く第二、第三、第四禅を得。乃至滅尽定も亦た是の如し。是の人は、当に時解脱の証を作すべし。是の人は、当に不時解脱の証を作すべし。是の人は、能く声聞中の第一なるを得ん。是の人は、能く辟支仏中の第一なるを得ん。是の人は、六波羅蜜を具足して、能く阿耨多羅三藐三菩提を得ん、と。
是の、
『人』の、
是のような、
『根』は、
今世には、
但だ、
『初果(須陀洹果)』を、
『得るだけであり!』、
更に、
『余の果』を、
『得ることはできない!』。
是の、
『人』は、
但だ、
『第二、第三、第四果』を、
『得られるだけである!』。
是の、
『人』は、
但だ、
『初禅』を、
『得られるだけである!』。
是の、
『人』は、
但だ、
『第二、第三、第四禅』を、
『得られるだけである!』。
乃至、
亦た、
『滅尽定まで!』、
『是の通りである!』。
是の、
『人』は、
当然、
『時解脱の証(悟り!)』を、
『作すはずだ!』。
是の、
『人』は、
当然、
『不時解脱の証』を、
『作すはずだ!』。
是の、
『人』は、
『声聞』中に、
『第一の称』を、
『得ることができる!』。
是の、
『人』は、
『辟支仏』中に、
『第一の称』を、
『得ることができる!』。
是の、
『人』は、
『六波羅蜜を具足して!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得ることができるだろう!』、と。
  時解脱(じげだつ):鈍根の阿羅漢が時を待って得る解脱。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  不時解脱(ふじげだつ):利根の阿羅漢が時を待たずに得る解脱。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
如是知已。或為略說得度。或為廣說得度。或為略廣說得度。或以軟語教或以苦語教或以軟苦語教。 是の如く知り已りて、或は為に略説して度を得しめ、或は為に広説して度を得しめ、或は為に広略説して度を得しめ、或は軟語を以って教え、或は苦語を以って教え、或は軟苦語を以って教えたもう。
『仏』は、
是のように、
『知ってから!』、――
是の、
『人』の為に、
或は、
『略説して!』、
『度』を、
『得させ!』、
或は、
『広説して!』、
『度』を、
『得させ!』、
或は、
『略、広説して!』、
『度』を、
『得させ!』、
或は、
『軟語を用いて!』、
『教え!』、
或は、
『苦語を用いて!』、
『教え!』、
或は、
『軟、苦語を用いて!』、
『教えられる!』。
  略説(りゃくせつ):多くの例を挙げず、要旨のみを説く。
  広説(こうせつ):広く例を挙げ、要旨を詳細に説く。
  軟語(なんご):耳に快いことば。
  苦語(くご):耳に痛いことば。
佛亦分別。是人有餘根。應令增生信根。是人應令生精進念定慧根。是人用信根入正位。是人用慧根入正位。是人利根為結使所遮。如鴦群梨摩羅等。是人利根不為結使所遮。如舍利弗目連等。知根雖鈍而無遮。如周利般陀伽。有根鈍而遮者。 仏の亦た分別したまわく、『是の人には余根有り、応に増して、信根を生ぜしむべし。是の人は、応に精進、念、定、慧根を生ぜしむべし。是の人は、信根を用いて、正位に入らしめん。是の人は、慧根を用いて、正位に入らしめん。是の人は、利根なるも、結使の為に遮らる。鴦群梨摩羅等の如し。是の人は、利根にして、結使の為に遮られず。舍利弗、目連等の如し。知根は鈍なりと雖も、遮する無きは、周梨槃陀迦の如し。有るいは根鈍にして、遮する者なり。
『仏』は、
亦た、こう分別される、――
是の、
『人』には、
『余の根が有る!』ので、
其れを、
『増して!』、
『信根』を、
『生じさせよう!』。
是の、
『人』には、
『精進、念、定、慧根』を、
『生じさせよう!』。
是の、
『人』は、
『信根を用い(任用/適用し)て!』、
『正位』に、
『入らせよう!』。
是の、
『人』は、
『慧根を用いて!』、
『正位』に、
『入らせよう!』。
是の、
『人』は、
『利根である!』が、
『結使』に、
『遮られている!』。
例えば、
『鴦群梨摩羅( aGguli-maalya )等のようだ!』。
是の、
『人』は、
『利根であり!』、
『結使』に、
『遮られていない!』。
例えば、
『舍利弗、目連等のようだ!』。
是の、
『人』の、
『知根は鈍である!』が、
『遮る!』者が、
『無い!』。
例えば、
『周梨槃陀迦のようだ!』。
是の、
『人』の、
有る、
『根は鈍であり!』、
而も、
『余の根』を、
『遮っている!』。
  鴦群梨摩羅(おうぐんりまら):仏弟子の名。『大智度論巻24下注:央掘摩羅』参照。
  央掘摩羅(おうくつまら):梵名aGguli-maalya、aGguli-maaliiya、巴梨名aGguli-maala、又鴦窶利摩羅、鴦瞿利摩羅、鴦群梨摩羅、鴦掘摩羅、鴦掘魔羅、盎掘摩羅、央掘魔羅、央仇魔羅、鴦掘摩、鴦掘魔、央掘魔、或いは阿群に作る。指鬘、又は指髻と訳す。又梵漢兼挙して鴦崛鬘、或いは鴦崛髻とも云う。仏在世の時、室羅伐悉底城に住せし凶人にして、常に人を殺して指を取り、首に冠して鬘となせしが故に此の名あり。彼れ初め人を殺し、其の指を取ること既に多きも、未だ一千に(鴦掘摩経には一百)に満たず、仍りて母を害して其の数を充たさんと欲し、之を執えて剱を揮わんとする時、仏悲愍して行きて教化せんとし給いしが、彼れ遙かに仏を見、竊かに自ら喜んで曰わく、今我れ仏を害し母を害せば、必ず梵天に生ずることを得んと。乃ち剱を伏して仏に迫るに、仏徐ろに退く。彼れ之を追うも遂に近づくを得ず。世尊の教誨を聞きて大いに前非を悔い、仏門に帰して精進怠らず、遂に法眼浄を得たり。時に波斯匿王彼れを討たんと欲し、先づ仏所に詣り、謹んで教を請う。仏言わく、王若し彼れの出家学道を見ば、当に之を如何にすべきと。王曰わく、彼れは悪人にして毫氂の善なく、恒に人を殺害す。断じて出家学道するの理なしと。爾の時彼の央掘摩羅は仏を去る遠からず結跏趺坐せり。仏右手を伸ばして之を指示して言わく、是れ賊央掘摩羅なりと。王聞いて驚き怖れて彼れを拜し、又仏を礼して退く。後彼れは修行益々怠らず、遂に阿羅漢果を得たり。一日乞食して舎衛城に入るに、諸人之を見て相謂って曰わく、彼れは央掘摩羅なりと。乃ち城中の人民各瓦石を以って之を打ち、刀を以って之を斬る。彼れは流血淋漓として遂に仏所に還り来たれりと云う。後終わる所を知らず。「増一阿含経巻31」、「雑阿含経巻38」、「央掘魔羅経」、「鴦掘摩経」、「鴦掘髻経」、「賢愚経巻11」、「出曜経巻17、18」、「六度集経巻4」、「大般涅槃経巻31」、「大唐西域記巻6」、「玄応音義巻26」、「慧琳音義巻26」、「翻梵語巻2」等に出づ。<(望)
  周梨槃陀迦(しゅうりはんだか):仏弟子。『大智度論巻24下注:周利槃特』参照。
  周利槃特(しゅうりはんどく):梵名cuuDapanthaka、又cullapatka、kSullapanthaka、zuddhipaMthakaに作る。巴梨名cuuDapanthaka、又はcuuLapanthaka、或いはcullapannthaka、又周利槃陀伽、周離般他伽、周稚般他迦、注荼半託迦、朱荼半託迦、崑努鉢陀那、呪利般陀伽、周利般兎、周羅般陀、周林般特、拘利槃特、朱利槃特、知利満台、朱利満台に作り、略して半託伽、般特、般陀、般兎とも云う。小路、小路辺生、路辺生、蛇奴、或いは髻道と訳す。十六羅漢の一。舎衛城の婆羅門の子なり。得名の由来に関し、「有部毘奈耶巻31」に、舎衛城の婆羅門一男を生み、其の長生を欲するが為に、使女をして之を大路の辺に置き、敬を沙門婆羅門に致さしむ。後又一男を生み、之を小路の辺に置きて敬を沙門婆羅門に致さしむ。仍りて兄を大路、弟を小路と名づけたりと云い、「善見律毘婆沙巻16」には、大富長者の一女あり、其の奴と通じて他国に逃れ、後孕みて家に還らんと欲し、中途に一男を生み、後又更に一男を挙ぐ。故に兄を摩訶般陀、弟を周羅般陀と名づくと云えり。其の性魯鈍にして、学を受け明論を誦するも悉く皆忘失す。故に時人呼んで愚路と称す。父歿して後、兄出家して仏に帰し、家業日に衰えて貧窮なり。後師亦た兄大路に就いて出家し、一伽他を受くるに三月を経るも之を誦得すること能わず。大路怒りて之を房外に駆出す。時に仏は師をして諸比丘の鞋履を払拭せしめ、両句の法を授け給うに、其の義は業障を除去するに在るを知り、忽然として啓悟し、阿羅漢果を証せり。師の魯鈍なりし因縁に関しては、「大毘婆沙論巻180」に三説を挙ぐ。即ち一に師は昔迦葉仏の時、三蔵を受持せしも、慳貪にして曽て他の為に文義を授けざりしに由り、二に師は昔婆羅痆斯城に於いて、猪を販ぐの人となり、五百の猪の口を縛して之を船に載し彼岸に至るに、気通ぜざるが故に猪をして皆死に至らしめしに由り、三に師は昔曽て瞿陀獣の窟門を閉塞して窒息せしめたるために由ると云える是れなり。師は是の如く性鈍なりしも、証悟の後は神通に長じたるが如く、「増一阿含経巻3弟子品」には、「能く形体を変じて若干の変を作すは、所謂周利般兎比丘是れなり」と云い、「四分律巻12」には、師は六群比丘尼の為に軽侮せらるるを見て、大神力を現じて為に説法せりと云い、其の他、「増一阿含経巻40」等に師の威力を説ける者少からず。師は又十六羅漢の一に数えられ、其の眷属千六百の阿羅漢と共に持軸山に住して正法を護持し、有情を饒益すと信ぜられたり。像は筆者に依りて一様ならざるも、唐貫休の画けるものは古樹の窩中に坐し、左手を挙げ其の指頭を屈伸せり。蘇東坡の讃に「以口説法、法不可説、以手云人、手去法滅、生滅之中、自然真常、是故我法、不離色声」とあり。「大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記」には、十六羅漢中師を第十六位に置くも、西蔵所伝にては第十一位となせり。又「増一阿含経巻8、11」、「処処経」、「法句譬喩経巻2」、「出曜経巻19馬喩品」、「仏五百弟子自説本起経」、「仏華厳入如来徳智不思議境界経巻上」、「給孤長者女得度因縁経巻上」、「阿羅漢具徳経」、「十誦律巻11」、「分別功徳論巻5」、「翻梵語巻2」、「慧琳音義巻26」、「阿弥陀経通賛疏巻上」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
知是人見諦所斷根鈍思惟所斷根利。思惟所斷鈍見諦所斷利。 知りたまわく、『是の人は、見諦所断の根は鈍なるも、思惟所断の根は利なり』、『思惟所断は鈍なるも、見諦所断の根は利なり』。
『仏』は、
こう知っていられる、――
是の、
『人』は、
『見諦所断』の、
『根』は、
『鈍である!』が、
『思惟所断』の、
『根』は、
『利である!』。
是の、
『人』は、
『思惟所断』の、
『根』は、
『鈍である!』が、
『見諦所断』の、
『根』は、
『利である!』。
  見諦所断(けんたいしょだん):見諦所断の煩悩、或はその煩悩を断ずるに係わる者。
是人一切根同鈍同利。是人一切根不同鈍不同利。 是の人は、一切の根同じく鈍なり、同じく利なり。是の人は、一切の根同じく鈍ならず、同じく利ならず。
是の、
『人』は、
『一切の根』が、
『同じように!』、
『鈍である!』、
又は、
『同じように!』、
『利である!』。
是の、
『人』は、
『一切の根』が、
『同じように!』、
『鈍なのではない!』、
又、
『同じように!』、
『利なのではない!』。
是人先因力大。是人今緣力大。 是の人は、先の因力、大なり。是の人は、今の縁力、大なり。
是の、
『人』は、
先の、
『因力』が、
『大である!』。
是の、
『人』は、
今の、
『縁力』が、
『大である!』。
是人欲縛而得解。是人欲解而得縛。譬如鴦群梨摩羅。欲殺母害佛而得解脫。如一比丘。得四禪增上慢故還入地獄。 是の人は、縛されんと欲して、解を得。是の人は、解せんと欲して、縛を得。譬えば鴦群梨摩羅の、母を殺し、仏を害せんと発するも、解脱を得たるが如く、一比丘の、四禅を得るも、増上慢の故に還って、地獄に入るが如し。
是の、
『人』は、
『縛されようとして!』、
『解』を、
『得る!』。
是の、
『人』は、
『解かれようとして!』、
『縛』を、
『得る!』。
譬えば、
『鴦群梨摩羅』が、
『母を殺そうとし!』、
『仏を害そうとしながら!』、
而も、
『解脱』を、
『得たようなものであり!』、
又、
『一比丘』が、
『四禅』を、
『得ながら!』、
『増上慢である!』が故に、
還って、
『地獄』に、
『入ったようなものである!』。
知是人必墮惡道。是人難出是人易出。是人疾出是人久久乃出。 知りたまわく、『是の人は、必ず悪道に堕つ』。『是の人は、出づること難し』。『是の人は出づること易し』。『是の人は疾かに出づ』。『是の人は、久久にして乃(すなわ)ち出づ』、と。
『仏』は、こう知っていられる、――
是の、
『人』は、
必ず、
『悪道』に、
『堕ちる!』。
是の、
『人』は、
『悪道に堕ちれば!』、
『出る!』のが、
『難しい!』。
是の、
『人』は、
『悪道に堕ちても!』、
『出る!』のが、
『易しい!』。
是の、
『人』は、
『悪道に堕ちても!』、
『疾かに!』、
『出る!』。
是の、
『人』が、
『悪道に堕ちれば!』、
『久久にして!』、
『ようやく出られる!』、と。
如是等一切眾生上下根相皆悉遍知。無能壞無能勝。是名第四力。 是れ等の如く、一切の衆生の上下根の相を、皆悉く遍く知りて、能く壊る無く、能く勝る無し。是れを第四の力と名づく。
是れ等のように、
一切の、
『衆生』の、
『上、下の根』の、
『相』を、
皆、
『悉く遍く!』、
『知り!』、
是れを、
『壊る!』者も、
『無く!』、
是れに、
『勝る!』者も、
『無い!』ので、
是れを、
『第四の力』と、
『称する!』。



衆生の種種欲を知る智力

知眾生種種欲智力者。欲名信喜好樂。 知衆生種種欲智力とは、欲を信、喜、好、楽と名づく。
『衆生』の、
『種種の欲を知る!』、
『智力』とは、――
『欲』とは、この意味である、――
『信じる!』、
『喜ぶ!』、
『好む!』、
『楽しむ!』。
好五欲如孫陀羅難陀等。好名聞如提婆達等。好世間財利如須彌刹多羅等。好出家如耶舍等。好信如跋迦利等。好持戒如羅睺羅等。好施如施跋羅(丹注云佛姑甘露女所生)好頭陀遠離如摩訶迦葉。好坐禪如隸跋多等。好智慧如舍利弗等。好多聞如阿難等。好知毘尼如優婆離等。如是佛弟子各各有所好。 五欲を好むは、孫陀羅難陀等の如し。名聞を好むは、提婆達等の如し。世間の財利を好むは、須弥刹多羅等の如し。出家を好むは、耶舎等の如し。信を好むは、跋迦利等の如し。持戒を好むは、羅睺羅等の如し。施を好むは、施跋羅の如し。頭陀、遠離を好むは摩訶迦葉の如し。坐禅を好むは隸跋多等の如し。智慧を好むは、舍利弗等の如し。多聞を好むは、阿難等の如し。毘尼を知るを好むは、優婆離等の如し。是の如く、仏弟子は、各各、好む所有り。
『五欲を好む!』者は、
例えば、
『孫陀羅難陀等である!』。
『名聞を好む!』者は、
例えば、
『提婆達等である!』。
『世間の財利を好む!』者は、
例えば、
『須弥刹多羅等である!』。
『出家を好む!』者は、
例えば、
『耶舎等である!』。
『信を好む!』者は、
例えば、
『跋迦利等である!』。
『持戒を好む!』者は、
例えば、
『羅睺羅等である!』。
『施を好む!』者は、
例えば、
『施跋羅等である!』。
『頭陀、遠離を好む!』者は、
例えば、
『摩訶迦葉等である!』。
『坐禅を好む!』者は、
例えば、
『隸跋多等である!』。
『智慧を好む!』者は、
例えば、
『舍利弗等である!』。
『多聞を好む!』者は、
例えば、
『阿難等である!』。
『毘尼を知るを好む!』者は、
例えば、
『優婆離等である!』。
是のように、
『仏弟子』は、
各各に、
『好む所が有る!』。
  孫陀羅難陀(そんだらなんだ):仏弟子。『大智度論巻24下注:難陀』参照。
  難陀(なんだ):梵名nanda、巴梨名同じ。又難努、難屠、難提に作り、歓喜、有喜、嘉楽、或いは喜と訳す。又別に其の妻孫陀利の名に因みて孫陀羅難陀sundaraanandaとも名づく。浄飯王の第二子、母は釈尊の姨母摩訶波闍波提mahaaprajaapatiiにして、即ち釈尊の異母弟なり。長じて身長一丈五尺四寸、容姿端正にして三十相を具し、仏に比して唯白毫相を闕き、及び耳朶の垂るること少きを異とするのみ。其の出家の因縁に関し、「雑宝蔵経巻8仏弟難陀為仏所逼出家得道縁」に依るに、仏成道後、迦毘羅衛城に帰省し、城中に入りて乞食せらるる時、師は其の婦(即ち孫陀利)と共に家に在り、仏を供養せんと欲し、鉢を持して仏及び阿難に奉ずるに、倶に之を受けず。師仍りて仏を逐うて尼拘屢精舎に至るに、仏遽に師をして剃髪せしめんとす。師之を肯んぜざるも還ること能わず。後一日仏及び衆僧他行するを見、自ら逃れ去らんと欲し、水を汲み澡瓶に満たさんとするに、一瓶満つれば一瓶翻えり、又房門を閉ざさんとするに、一扇閉づれば一扇開く。異道より去らんとする時、遙かに仏の来るに会い、仍りて大樹の後に隠れんとするに樹亦た挙がる。仏即ち師を見て精舎に伴い、其の婦を念うこと切なるを知り、共に阿那波那山に至り、山中の老瞎獼猴が孫陀利の面首に似たるを説き、又忉利天に上りて彼の婦が天女に比し難きを示し、且つ其の中の一宮殿に天子なく、五百の天女等皆師の生天を待てるを見せしめ、尋いで師が生天を欲して戒行を精進せしにより、仏は更に師を将いて地獄に至り、諸鑊皆人を煮るも、唯一鑊のみ炊沸空停するを指し、是れ師が出家の功徳によりて生天するも、罷道の因縁の為に天寿を終わりたる後、堕すべき処なるを示し給う。是に於いて師は生天の福を修するを止め、仏に帰して一七日説法を聴き、遂に阿羅漢果を得たりと云えり。以って其の愛欲の断じ難かりしを見るべし。又「巴梨文本生jaataka,I」には、師は過去前生に於いて驢となり、カッパタkappaTaと名づくる商人の為に婦を好餌として駆使せられたるが故に、今即ち忉利天の婇女を好餌として仏の為に化益せられたるなりと云い、又前引「雑宝蔵経」の連文には、昔迦尸国満面王が比提希国の一婬女に恋著せし時、獼猴王は為に不浄観を説き、其の婬欲を除かしむ。獼猴王は釈尊、満面王は難陀、婬女は孫陀利なりと云い、又「仏五百弟子自説本起経難陀品」には、師は前世一比丘に洗浴を施したる功徳により、今王家に生まれて仏の弟となれることを記せり。又「巴梨文経集注suttanipaata-aTThakathaa」及び「増一阿含経巻7火滅品」には、難陀は後舎衛城香華園中の静閑処に在りて如来の出世甚だ遇い難きを思い、精勤して諸行を滅尽し、涅槃に入らんことを求めたる時、魔天偽りて孫陀利に告ぐるに、師が還俗して帰り来たるを以ってす。孫陀利歓喜踊躍して房舎を精勤修飾し、好坐具を敷き倡伎楽を作して之を待つ。時に波斯匿王之を聞きて愁憂し、白象に乗じて彼の園中に至り師を難詰するに、師は我れ既に阿羅漢果を成じて生死已に尽きたりと答え、仏は之に依りて諸比丘に対し、端正にして諸根寂静なるは難陀に勝るる者なしと説かれたりと云えり。「巴梨文長老偈thera-gaathaa第157偈、及び第158偈」は、即ち難陀得道の語なりと云う。又「増一阿含経巻3、9」、「雑阿含経巻11、38」、「仏本行集経巻11、56」、「出曜経巻24」、「衆許摩訶帝経巻2」、「阿羅漢具徳経」、「十二遊経」、「賢愚経巻6」、「無量寿経巻上」、「五分律巻15」、「摩訶僧祇律巻18」、「有部毘奈耶破僧事巻2」、「大智度論巻4」、「法華経玄賛巻1」、「慧琳音義巻23」等に出づ。<(望)
  提婆達(だいばだつ):破僧の悪人。『大智度論巻24下注:提婆達多』参照。
  提婆達多(だいばだった):梵名devadatta。巴梨名同じ。又提婆達兜、提惒達哆、褅婆達兜、地婆達多、地婆達兜、提婆達、或いは調達に作り、略して提婆、達多、達兜とも称し、天授、天熱、又は天与と訳す。逆罪を犯し、僧団を破して仏に敵対せし悪比丘なり。其の族姓に関しては異説あり、「起世経巻10」、及び「西蔵訳律蔵」には、甘露飯王の子にして阿難の弟なりとし、「五分律巻15」には、白飯王の子にして阿難と兄弟なりとし、「大方便仏報恩経巻3」には、斛飯王の子にして阿難の兄なりとし、又「巴梨文大史mahaavaMsa」には善覚suppabuddha長者の子にして、釈尊の妃耶輸陀羅yasodharaa(即ちbhaddakaccanaa)の兄弟なりとせり。之に依るに諸伝概ね阿難の兄弟となすに一致するを見るべし。幼時は釈尊、難陀等と共に諸藝を習い、其の伎優秀なりしと伝えられ、「仏本行集経巻13」に、「其の悉達多は最も初首となし、第二は難陀、第三は即ち提婆達多なり。唯此の童子三人を除き、余は更に勝るものなし」と云えり。又諸種の本縁経には少年時代より既に釈尊に対抗したることを伝え、毘舎離の離車族が釈尊は法王座に就くべきとなし、一象を贈りたるに、提婆達多は嫉心を生じて象を打殺したりと云い、或いは提婆達多が矢を以って飛鳥を射たる時、釈尊は其の矢を抜き、鳥を彼れに与えざりしとし、又「仏本行集経巻13捔術争婚品」には、提婆達多は釈尊と耶輸陀羅妃を争い、初めて仇讐を結びたりとなせり。後提婆は仏成道第六年倶伽梨、騫陀陀驃等の五百人と共に出家して仏弟子となり、十二年間善心に修行し、読経誦経問疑し、受法坐禅して休懈せず。然るに後僧伽の中に於いて意退転し、漸く悪念を生ずるに至り、利養を得んが為に神通を学ばんと欲し、仏に乞えるも許されず、仍りて十力迦葉の許に至りて通力を得、阿闍世太子の為に神変を現じて其の帰信を博し、為に太子は日日五百釜の食を送りて其の徒に供給せり。提婆は心憍り、自ら仏に代わりて僧団を教導せんと欲し、之を仏に乞いたるも許されず。是に於いて僧団を脱し、倶伽梨、騫陀陀驃、迦留陀提舎、三聞達多の四伴を始め、五百余の徒衆を率い、仏の諫止を容れず、自ら五法を制定して之を疾得涅槃の道となし、遂に破僧伽を敢てするに至れり。五法に関しては異説あり、「有部毘奈耶破僧事巻10」、並びに「西蔵伝」に依るに、一に乳酪を食せず、犢児を飢えしむるが故なり。二に魚肉を食せず、諸の衆生に於いて命を断ずるが故なり。三に塩を食せず、塩中に塵土多きが故なり。(西蔵伝には汗より作らるるが故なり)四に衣を受用する時其の縷績を截らず、即ち長布を用う。是れ織師の功労を壊するが故なり。五に村舍に住し、阿蘭若処に住せず、施主所施の物を棄捐するが為なりと云い、「五分律巻25」には、一に塩を食せず、二に酥乳を食せず、三に魚肉を食せず、四に乞食し、若し他の請を受けば善法生ぜず。五に春夏八月は露坐し、冬四月は草菴に住す。若し人の屋舎を受けば善法生ぜずと云い、「十誦律巻4、36」には、一に尽行寿衲衣を受著し、二に尽形寿乞食の法を受け、三に尽形寿一食の法を受け、四に尽形寿霊地坐法を受け、五に尽形寿断肉法を受くとなせり。総じて律目を一層厳格に規定せしものなるが如し。又「摩訶僧祇律巻7」に、「此の九部経に於いて更に異句異字異味異義を作り、各各文辞を異にして説き、自ら誦習して持し、亦た他をして誦持せしむ」と云うに依れば、法義に於いても亦た異説を唱えたるものとなすべし。斯くて提婆は王舎城に於いて独立の教団を擁し、阿闍世の知遇を受け、其の勢力漸く大なるに至りしを以って、仏は屡比丘衆を誡め、提婆の利養に貪著するを排せられたり。尋いで提婆は阿闍世に父王を弑して王たらんことを勧め、自ら亦た新王の威を藉りて教法の王たらんことを謀り、阿闍世は遂に父王頻婆沙羅を幽閉して摩揭陀の王位に即き、提婆は亦た仏を害せんと欲し、五百人をして投石器を以って仏を撃たしめんとしたるも果たさず。又耆闍崛山上より仏の頭上に大石を投下せるも、金毘羅神の支うる所となり、但だ破片は仏足を傷つけ血を出せり。又仏が王舎城に入りし時、狂象を放ちて害を加えんとしたるも、象は却って仏に帰伏して事なきを得たり。時に舎利弗及び目連は提婆の徒を諭して仏の僧団に復帰せしめ、阿闍世王亦た仏の教化を受けて厚く帰依するに至り、提婆は王官に赴くも容れられず、之を途上に遭遇せる蓮華色比丘尼の所為なりと速断し、打撲して遂に死に至らしめたり。提婆は更に尚お悪念を捨てず、自ら毒を十指の爪に盛り、仏に近づき其の脚を掻けるも、仏足は巌の如く固く、却って自ら手指を破り、遂に其の地に命終せりと云う。古来破和合僧、出仏身血、放狂象、殺蓮華色比丘尼、十爪毒手の五事を以って提婆の五逆となし、又其の中、特に破僧、傷仏、殺比丘尼の三事を三逆とも呼べり。「法華経文句巻8之4」に、「調達には但だ破と出と殺の三逆あり、放象と毒爪の二は殺の方便を兼ぬ。正に方便を兼ねて且く五と云うのみ」と云える其の説なり。蓋し四阿含及び本生経を始め、諸経に皆提婆の非行を伝え、命終して地獄に堕せりとなし、「高僧法顕伝舎衛城の條」に、「調達毒爪を以って仏を害せんと欲し、生きながら地獄に入るの処なり。後人皆之を幖幟す」と記し、又「大唐西域記巻6室羅伐悉底国の條」にも、「伽藍の東百余歩に大深坑あり、是れ提婆達多毒薬を以って仏を害せんと欲し、生身に地獄に陥入せる処なり」と云えり。されど「同記巻10羯羅拏蘇伐刺那国の條」に、「異道寔に多く、別に三伽藍あり、乳酪を食せず、提婆達多の遺訓に遵うなり」と云い、「高僧法顕伝」に、「調達亦た衆の在るあり、常に過去三仏を供養す、唯釈迦文仏を供養せず」とあり。之に依るに法顕及び玄奘の当時、尚お提婆達多の遺訓を遵守せる者ありしを見るべく、又「増一阿含経巻47」に提婆堕地獄の後、仏は目連を遣わして辟支仏果の記を授けしめたることを伝え、「大方便仏報恩経巻4」には、「如来は常に慈悲力を以って愍みて哀傷し、提婆達多に値遇するを以っての故に速かに成仏するを得たり。其の恩を念うが故に常に慈愍を垂る」と云い、「六度集経」にも亦た同一思想を記述し、加之「薩曇分陀利経」並びに「法華経巻4提婆達多品」には、提婆は往昔釈尊の師にして、当来天道国に於いて成仏し、天王仏と名づくべきことを記せり。之に依るに提婆は或いは古来伝うるが如き大逆ならざりしやも知るべからずというべし。又「中阿含巻27阿奴波経」、「増一阿含経巻5、9、11、12、23、38、48、49」、「雑阿含経巻16、18、38、48」、「別訳雑阿含経巻1、14」、「起世因本経巻10」、「十二遊経」、「修行本起経巻上」、「過去現在因果経巻2」、「出曜経巻14、15、16、25」、「雑宝蔵経巻2、3、5、7、8」、「菩薩本行経巻上」、「撰集百縁経巻4」、「賢愚経巻6、9、13」、「興起行経巻下」、「僧伽羅刹所集経巻下」、「法句譬喩経巻3」、「衆許摩訶帝経巻2、3、4」、「普曜経巻3試藝品」、「方広大荘厳経巻4現藝品」、「仏所行讃巻4」、「生経巻5君臣経」、「大荘厳論経巻13」、「六度集経巻1、4、5」、「大方広善巧方便経巻4」、「毘尼母経巻4」、「鼻奈耶巻2、5、7」、「薩婆多部律摂巻4」、「有部毘奈耶巻14、15」、「同破僧事巻2、3、13、14、16、18、19、20」、「同薬事巻15」、「十誦律巻10、12、13、36、37、40」、「五分律巻3」、「四分律巻4、13、14、46」、「善見律毘婆沙巻13、18」、「大毘婆沙論巻83」、「大智度論巻1、3、14、26、34、87、88」、「十住毘婆沙論巻10、11」、「釈迦譜巻6」、「法華義疏巻9」、「翻梵語巻2」、「翻訳名義集巻2」、「慧琳音義巻18」等に出づ。<(望)
  須弥刹多羅(しゅみせったら):不明。一に云わく梵名須那刹多羅sunakSatra(乃ち善星、或いは善宿と訳す)の謬なりと。
  善星(ぜんしょう):梵名須那刹多羅sunakSatraの訳。又善宿とも訳す。(伝説)是れ仏、太子たりし時の子なり。出家して十二部経を読誦し、能く欲界の煩悩を断じて、第四禅定を発得するに、謂いて真の涅槃と為せり。然るに彼れ悪友に近づきて、所得の解脱を退失せるに、以って涅槃の法無しと為して、因果撥無の邪見を起して、且つ仏に向かいて悪心を起し、無間地獄に堕せば、之に因りて称して、闡提比丘と曰えり。闡提とは、一闡提の略にして、不信の義、不成仏の義なり。又称して四禅比丘とも曰う。「涅槃経巻33」に、「善星比丘、是れ仏の菩薩の時の子なり、出家の後、十二部経を受持読誦分別解説し、欲界の結を壊して四禅を獲得す。(中略)善星比丘、復た十二部経を読誦し四禅を獲得すと雖も、乃至一偈一句一字の義も解せず、悪友に親近して四禅を退失せり。四禅を失い已りて悪邪見を生じ、是の如きの言を作さく、仏無く法無く、涅槃有ること無しと。(中略)善男子、汝若し是の如き事を信ぜずば、善星比丘は今尼連禅河に在り、共に往きて問うべし。爾の時、如来即ち迦葉と善星の所に往き給うに、善星比丘遙かに如来を見、見已りて即ち悪邪の心を生じ、悪心を以っての故に、生身陥入して阿鼻地獄に堕せり。(中略)其の無因、無果、無有作業を宣説するを以って、爾れ乃ち彼の善根を永断して、是れ一闡提なり、廝下の人なり、地獄に劫住すと記す」と曰い、「楞厳経巻8」に、「善星、一切法の空なるを妄説して、生身阿鼻地獄に陥入せり」と曰い、「法華玄賛巻1」に、「又経に云わく、仏に三子有り、一には善星、二には優婆摩耶、三には羅睺なりと。故に涅槃に云わく、善星比丘菩薩在家の子なりと」と曰える是れなり。<(丁)
  耶舎(やしゃ):(一)梵名yaza、又yazoda、巴梨名yasa、又耶奢、耶輸、夜輸、夜耶、虵虵、耶輸陀、耶輸伽、耶修陀に作り、名聞、名誉、名称、善称、宝称、或いは明、又は上傘と訳す。中印度婆羅痆斯国大富長者善覚(梵名俱梨迦、又は阿具利)の子なり。一に毘舎種の出とす。顔貌端正、相貌利根にして、幼より父母に愛念せられ、春夏冬の三時に殿舎を換え、五欲の楽を受けしが、年二十四に至り、一夜妓女等の睡眠狼藉を見て厭離の心を生じ、琉璃屣を著けて尸佉城門を出で、婆羅河に到りて宝屣を脱し、鹿野苑に入る。時に仏成道して苑中に在り、既に法輪を転じて五比丘を度し給いしを以って、師亦た乃ち仏に見え、妙法を聞きて法眼浄を得、善来得の法によりて五比丘に次いで具足戒を受け、其の父母及び故二(即ち婦)も亦た三宝に帰して仏門に入る。是れ優婆塞、優婆夷の初なり。又師の同友無垢(梵名毘摩羅vimala)、善臂(梵名修婆睺subaahu)、満願(梵名富蘭那迦puurNaka)、伽梵婆提gavaaMpatiの四人も倶に仏所に詣り、相次いで出家受具せり。其の後の事蹟詳ならざるも、常に僧伽の長老として尊敬せられしが如く、「中阿含巻8侍者経」には、師を称して尊者耶舎行籌長老となし、且つ仏は師を慰藉して、汝既に老体にして転た衰弊す、応に瞻視者を須うべしと語られたることを記せり。又「中本起経巻上」、「仏本行集経巻34至36」、「出曜経巻29」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶破僧事巻6」、「同薬事巻16、17」、「毘尼母経巻1」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻25」等に出づ。(二)耶舎:梵名yaza、巴梨名yasa、又夜舎、或いは耶舎陀yazodaに作り、名称、名聞と訳す。一に耶舎迦蘭陀子 yasa- kaakaNDakaputta と云い、耶舎陀迦蘭提子、耶舎迦那子、耶須拘迦迦乾陀子、又は迦乾陀子耶舎に作る。印度婆羅門種なり。出家して仏門に帰し、(十誦律巻60等には阿難の弟子とす)夙に三蔵に通じ、阿羅漢果を証し、六神通を得たり。仏滅後百年(一説百十年)迦羅育王治世の時、毘舎離の跋耆子等は塩浄等の十事を以って浄法となし、之を実行せしに依り、師は其の非を鳴らし、擯出せられしを以って、乃ち西印度に走りて離婆多等の長老に之を告げ、遂に毘舎離城に於いて七百の比丘を会し、彼の十事の非法なるを決せしめたり。是れ所謂第二結集にして、「四分律巻54」、「十誦律巻60」、「有部毘奈耶雑事巻40」、「巴梨文大史mahaavaMsa,iv」等に伝うる所なり。又「阿育王伝巻1」、「雑阿含経巻23」等に、阿育王の時、巴連弗邑雞雀精舎に上座耶舎あり、王が八万四千の舎利塔を建立せしことを讃嘆し、後優波毱多を王に推薦せしことを記せり。十事非法等の事に関し何等言及する所なきも、北方所伝に阿育王の出世を仏滅百年(或いは百十六年)となすに依れば、年代も合すというべく、蓋し同一人となすべきものなるが如し。又「五分律巻30」、「善見律毘婆沙巻1」、「三論玄義」、「大唐西域記巻7」等に出づ。<(望)
  跋迦利(ばっかり):不明。
  羅睺羅(らごら):梵名raahula。巴梨名同じ。又羅護羅、羅怙羅、囉怙羅、羅吼羅、曷羅怙羅、何羅怙羅、或いは羅云、羅芸、羅雲に作り、覆障、障月、執日と訳す。仏十大弟子の一。釈尊出家以前の子にして、妃耶輸陀羅の生む所なり。其の生誕の年時に関し、「仏本行集経巻55羅睺羅因縁品」、「衆許摩訶帝経巻6」、「有部毘奈耶破僧事巻5、12」等には仏成道の夜を以って生まれ、在胎六年となすも、「仏所行讃巻1処宮品」には仏出家以前の誕生とし、「仏本行集経巻55」の一説には出家前二年とし、「太子瑞応本起経巻上」には納妃の後六年とし、其の他又同十年となすの説あり。尋いで仏は成道後六年(一説七年)始めて迦毘羅城に帰還し給い、時に師は母と共に仏に面接するに、仏は乃ち舍利弗を和尚、目犍連を阿闍梨とし、師をして出家受戒せしめらる。是れ僧伽に於ける沙弥の嚆矢なり。出家の年時に関し、「仏本行集経巻55」に或る説を挙げ、「羅睺羅生まれて二年の後、菩薩爾の時方に始めて出家し、苦行六年、然る後道を成ず。成道より七歳にして方に始めて迦毘羅城に来向す。是の如く次第に数うるに羅睺羅出家の日は正しく年十五なり」と云えり。其の後の事蹟に関しては、「仏五百弟子自説本起経」、「四分律巻11」等に師未だ具戒を受けざりし時、比丘と同宿するを制せられたるを以って、為に房を出でて厠所に宿せりと伝え、「羅云忍辱経」には嘗て舎衛国の軽薄者の為に首を打たれ、血面に被りしも、師は慈心を以って能く之を忍べりと云い、又「中阿含巻3羅云経」、「出曜経巻11」等には、仏は嘗て師に対して戯笑妄語を誡められたることを記し、「鼻奈耶巻7」、「有部毘奈耶巻25」等には之を九十単堕中の小妄語戒の制縁となせり。後師は制戒を厳守し、修道に精進し、阿羅漢果を成ぜしが如く、「増一阿含経巻3弟子品」に、「禁戒を毀らず、誦読を懈らざるは所謂羅雲比丘是れなり」と云い、「雑阿含経巻8」に五受陰、六入、尼陀那法等を観察思惟して終に阿羅漢果を成ずと云い、「増一阿含経巻7」には安那般那を修して羅漢果を得たりとし、又古来密行第一を以って称せらる。又「大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記」には師を以って十六阿羅漢の第十一(西蔵伝に第十とす)に列し、眷属一千百の阿羅漢と共に畢利颺瞿(priyaGgu)洲に住して正法を護持し、以って有情を饒益すとなせり。唐禅月大師貫休は其の像を画き、蘇東坡讃して、「面門月満、瞳子電爛、示和猛容、作威喜観、龍象之姿、魚鳥所驚、以是幻身、為護法城」と云い、又明徳清は、「怒則不喜、双目如剣、眸子流火、晴空雷閃、凡有邪思、指之即空、本光独露、如日在中」と題せり。又「雑阿含経巻1、16」、「普曜経巻8」、「方広大荘厳経巻12」、「未曽有因縁経」、「雑宝蔵経巻10」、「四分律巻34」、「五分律巻17」、「摩訶僧祇律巻17」、「大智度論巻17」、「入大乗論巻上」、「注維摩詰経巻3」、「大唐西域記巻6」、「玄応音義巻2、23」、「慧琳音義巻13、27」等に出づ。<(望)
  施跋羅(せばつら):不明。「大智度論巻24丹注」に云わく、仏の姑甘露女の所生なりと。
  摩訶迦葉(まかかしょう):十大弟子の一。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  隷跋多(りばた):仏弟子。『大智度論巻24下注:離婆多』参照。
  離婆多(りばた):梵名revata。巴梨名同じ。又離越多、隷婆哆、隷跋多、梨波多、哩嚩帝、離婆、離曰、離越、麗越、或いは頡離伐多、頡隷伐多、頡戻茷多、頡麗筏多、褐麗筏多に作り、常作声、所供養、金、室星、又は適時と訳す。仏弟子なり。其の族姓に関し、「仏本行集経巻47舎利目連因縁品」に、摩訶陀国王舎城外那羅陀naalada村の富大婆羅門檀嬢耶那の末子にして、舍利弗の実弟なりとし、其の父母初め離婆多星に祈りて得たる所なるが故に此の名ありと云う。出家の因縁に関し、「巴梨文法句経註dhammapada-aTThakathaaには、師長じて婚せんと欲し、一時其の婦の家に到るに、忽ち身の老衰すべきを知り、帰途精舎に詣でて出家学道し、後佉弥囉khadira林に入りて止住し、遂に阿羅漢果を得たりと云い、「華厳経隨疏演義鈔巻84」、「阿弥陀経通賛疏巻上」等に「大智度論」の文を引き、師は曽て雨に遭いて神祠に止宿するに、深夜二鬼あり、人の屍を争い食うを見て身の虚幻なるを思い、仍りて仏所に詣りて人身の四大仮和合なるを聴き、遂に出家入道せりと云えり。後一時陀婆国に遊行し、寒雪に会うも革屣を著けず、為に其の脚を凍傷せしを以って、仏は其の少欲知足を讃じ、爾後寒国に於いては富羅を着し、革屣を著くべきこと許さる。是れ「五分律巻21」に伝うる所なり。師は又禅定を好みしが如く、「中阿含巻48牛角沙羅林経」に、「離越哆比丘は常に坐禅を楽しむ」と云い、「増一阿含経巻3弟子品」に、「坐禅入定して心錯乱せざるは、所謂離曰比丘是れなり」と云い、又「大毘婆沙論巻181」には、「臥具に於いて喜足すること頡戻筏多等お如し」とあり。又「有部毘奈耶雑事巻18」に舍利弗が仏に先だちて入滅するに当り、師に辞別せしことを記するに依るに、師は仏涅槃の頃尚お生存せしが如し。又「中阿含経巻8」、「増一阿含経巻29、46」、「文殊師利問経巻上」、「十誦律巻26」、「大智度論巻24」、「玄応音義巻6、22」、「慧琳音義巻8、23、26、27」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  毘尼(びに):梵語vinaya、又毘奈耶とも称す。律蔵の意なり。『大智度論巻24下注:律』参照。
  (りつ):梵語毘奈耶vinayaの訳。巴梨語同じ。又毘那耶、毘尼耶、鼻奈耶、鼻那夜、鞞泥迦、或いは毘尼、毘泥、比尼に作り、調伏、滅、離行、化度、善治、志真とも訳す。三蔵の一。毘那耶蔵vinaya-piTakaと称し、又律蔵、調伏蔵、或いは毘尼蔵と名づく。即ち比丘比丘尼に関する仏所制の禁戒を云う。「五分律巻30五百集法の條」に、「迦葉即ち優波離に問う、仏は何んの処に於いて初戒を制するや。優波離言わく、毘舎離に在りと。(中略)迦葉は是の如き等の問を作し、一切の比尼已るや、僧中に於いて唱えて言わく、此れは是れ比丘の比尼、此れは是れ比丘尼の比尼なり。合して名づけて比尼蔵と為す」と云い、「善見律毘婆沙巻1」に、「何をか比尼蔵と謂うや、二波羅提木叉、二十三蹇陀、波利婆羅、是れを毘尼蔵と名づく」と云い、又「分別功徳論巻1」に、「毘尼とは禁律なり、二部の僧の為に検悪歛非を説く。或いは二百五十、或いは五百事あり」と云える是れなり。是れ律は仏滅後優波離の誦出に係り、即ち比丘比丘尼の検悪歛非の事を説けるものなるを明にせるなり。蓋し戒は広く在家男女の受持すべき徳目等に通ずる称なりと雖も、律は唯出家に関する制條に名づけたるものにして、即ち二者同じからず。「有部毘奈耶巻9」に、「問うて曰わく、在家の俗侶も頗(も)し聞くを得るや不や。報えて言わく、二蔵を聞くことを得、謂わく論及び経なり。毘那耶の教は是れ出家の軌式なり。俗は聞くべからず」と云い、「分別功徳論巻1」に、「沙弥清信士女の聞見すべき所に非ず」と云うは即ち此の意を説けるものなり。毘那耶の語義に関しては、「清浄毘尼方広経」に、「毘尼とは煩悩を調伏し、煩悩を知るが為の故に毘尼と名づく」と云い、「善見律毘婆沙巻1」に、「問うて曰わく、何をか毘尼の義と謂うや。偈を説いて答えて曰わく、好を将うる一種に非ず、身口の業を調伏す。毘尼の義を知る者是の毘尼の義を説く」と云い、「毘尼母経巻1」に、「毘尼とは滅と名づく、諸の悪法を滅するが故に毘尼と名づく」と云い、又「同巻7」に、「云何が毘尼と名づくる。毘尼とは凡そ五義あり、一に懺悔、二に随順、三に滅、四に断、五に捨なり。云何が名づけて懺悔となすや、七篇中の所犯の如きは応に懺悔して除くべし。懺悔能く滅するを名づけて毘尼と為す。云何が名づけて随順と為すや、随順とは七部の衆は如来の所制所教に随って受用して行じて違逆あることなし、名づけて随順毘尼と為す。云何が滅と名づくる、能く七諍を滅するを滅毘尼と名づく。云何が断と名づくる、能く煩悩をして滅除して起こらざらしむるを断毘尼と名づく。云何が捨と名づくる、捨に二種あり、一には所作を捨し、二には見事を捨す。(中略)此の二種を捨毘尼と名づく」と云えり。蓋し梵語vinayaは「離す」又は「分つ」の義なる前置詞viと、「導く」の義なる動詞niiとの合接字たるviniiより転ぜし名詞にして、滅、断、除、又は訓練、善行等の諸義を有す。之に依るに前記諸説は各皆此の義旨を布衍せしものなるを知るなり。之を律と翻じたるに関し、「四分律含註戒本疏巻1上」に、「古に毘尼を訳して皆称して滅と為し、七毘尼を以って用いて四諍を殄すとす。今何んの義を以って之を翻じて律と為すや。律とは法なり、教に従って名となす。重軽、開遮、持犯を断割するは法に非ざれば定まらず。故に正しく之を翻ず」と云い、又「玄応音義巻14」に、「爾雅を案ずるに律は法なり、謂わく法則なり。又云わく、律は銓なり、法律は軽重を銓量する所以なり。又云わく、律は常なり、言わく常に行うべきなりと。釈名に云わく、律とは縲なり、人心を縲罔して放肆を得ざらしむるなり」と云えり。是れ毘那耶は軽重を銓量し、開遮持犯を断割する法軌なるが故に律の訳語を用いたることを明かせるなり。漢訳蔵経中、律と称せらるるもの四部あり、「四分律六十巻」、「弥沙塞五分律三十巻」、「十誦律六十一巻」、「摩訶僧祇律四十巻」なり。古来之に未伝の「迦葉遺部律」を加えて五部律と称す。其の他、「善見律毘婆沙十八巻(巴梨律略ぼ同じ)」、「有部毘奈耶五十巻」、「同苾芻尼毘那耶二十巻」、及び「西蔵律」等あり。後大乗菩薩戒起り、「菩薩地持経方便処戒品」、「梵網経巻下」等に其の戒相を説くに及び、之を「大乗律」と呼び、前の「四分律」等を声聞所持の「小乗律」とし、二者を区分するに至れり。其の別に関し、「文殊師利浄律経解律品」に、「何をか声聞の律と謂い、何をか菩薩の律と謂うや。答えて曰わく、教を受けて三界の難を畏れ、患悩を厭うは声聞の律なり。無量の生死周旋を護り、一切の人民蚑行喘息蠕動の類を安んぜんことを勧め、三界を開導し、其の疑網衆想の著を決するは是れ菩薩の律なり」と云えり。又「中阿含巻52」、「大乗瑜伽金剛性海曼殊室利千臂千鉢大教王経巻5」、「四分律巻57」、「十誦律巻60」、「摩訶僧祇律巻34」、「鼻奈耶巻1」、「律二十二明了論」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻9」、「大毘婆沙論巻1、6」、「顕揚聖教論巻20」、「大乗荘厳経論巻4」、「注維摩詰経巻1」、「大乗義章巻2本」、「菩薩戒本義疏巻上」、「四分律疏巻1本末(法礪)」、「四分律行事鈔巻中1」、「華厳経探玄記巻1」、「玄応音義巻21」、「希麟音義巻9」、「慧琳音義巻7、22」、「翻訳名義集巻9」等に出づ。<(望)
  舎利弗(しゃりほつ):十大弟子の一。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
  阿難(あなん):梵名aananda。巴梨名同じ。具には阿難陀と云う。歓喜、慶喜、又は無染と訳す。仏十大弟子の一。多聞第一と称せらる。迦毘羅城の釈氏にして、仏陀の従弟なり。其の父に関しては異説あり。「大方便仏報恩経巻3」、「仏本行集経巻11」、「大智度論巻3」等には斛飯王の子とし、「衆許摩訶帝経巻2」、「起世経巻10」、「起世因本経巻10」、「十二遊経」、「有部毘奈耶破僧事巻2」には甘露飯王の子とし、「五分律巻15」には白飯王の子とせり。其の生誕は「衆許摩訶帝経巻6」、「大智度論巻3」等に之を仏成道の日とす。即ち「大智度論」に、「悉達多菩薩は菩提樹下に至りて金剛座に坐す。乃至、是の時、斛飯王家の使来たりて浄飯王に白して言わく、貴弟、男を生むと。王心歓喜して言わく、今日は大吉なり、是れ歓喜日なり。来使に語りて言わく、是の子は当に字して阿難となすべし」と云える是れなり。但し「仏本行集経巻13」、「修行本起経巻上」等に悉達多太子が年十七にして射藝を試みし時、既に阿難ありしことを記するも、こは恐らくは不可なるべし。阿難は生まれて容姿端正、面は浄満月の如く、眼は青蓮華の如く、其の身は光浄にして明鏡の如くなりしを以って、出家以後と雖も婦女の誘惑に遭遇すること多く、之に関する説話は諸経律に散在せり。「摩鄧女経」の如き其の一なり。出家に関しては、「五分律巻3」に、仏陀が弥那邑阿[少/兔]林anupiyaaに在せし時、阿難は釈氏の王子跋提、阿那律、難提、調達、婆婆、金鞞盧、並びに剃頭人優波離等と共に仏陀の化度を蒙り、跋提等の六人は直に漏尽の阿羅漢となりしが、阿難は諸漏を尽くすこと能わず、又調達一人は何等獲るところなかりしことを記し、又「大唐西域記巻6」には、阿難等の出家は劫比羅城南尼拘律樹林に於いて行われたりとせり。是れ仏陀が故郷を訪問せられたる時、若しくは故郷より更に南方に遊化せられつつありし時に起りし事実なり。阿難の伝記中、最も注目すべきもの三あり。一は二十余年間常随給侍の弟子たりしこと是れなり。蓋し仏成道以後二十年間は仏陀の侍者一定せず、為に仏を煩わしたること多かりき。仏陀は一日衆に対して、我れ今年老いぬ、一人の侍者を得んと欲すと告げられしかば、衆は即ち仏陀の意を察して、阿難を薦む。時に阿難白すらく、我が願にして許さるるを得ば敢て命を奉ぜん。即ち若し仏陀が、仏陀に布施せられたる衣食を我れに与え給わず、而も我が受けたるものを仏陀に奉ずることを得ん。又仏陀を拜せんとて他国より来たれる者を、直に仏前に導くを得ん。又我が不在中の説法は、後仏口より直に聞くことを得んと。此の願意は直に仏陀の嘉納する所となりて、彼れは其の後二十余年間、影の形に随うが如く常に仏陀に侍従せり。是れ実に彼れをして多聞第一たらしめし所以なり。侍者となりし年時に関しては異説あり。「大般涅槃経巻40」並びに「同経後分巻上」には、彼れの三十歳の時とし、「大方便仏報恩経巻6」等には二十歳の時とするが如く、「雑阿含経巻35」、「有部毘奈耶雑事巻38」等には二十余歳の時となせり。二は仏の姨母憍曇弥の出家に尽力せしこと是れなり。事は何年に起りしや詳ならずと雖も、浄飯王世を去りて後、久しからざりしが如し。「中阿含巻28瞿曇弥経」、「五分律巻29」等に依るに、憍曇弥は初め出家の志切なりしも、仏陀之を許さず。為に舎衛国より毘耶離国に逐い来たりて之を請うこと甚だ力む。阿難亦た時に姨母の仏陀に対する恩あるを述べて共に之を請いしに由り、仏陀は八敬の法を設けて遂に聴許し給えりとせり。是れ仏教教団に尼僧あるの初にして、深く注意すべき事実なり。三には第一結集に対する功績これなり。仏陀年八十に垂んとして自ら涅槃に入らんと欲し、其の入滅の近きを告ぐるや、阿難は猶お未だ欲を離れざりしかば別離を哀しむの情に堪えず、愁悩頗る切なるものありき。仏陀は丁寧懇切に之を訓誡し、遂に双樹林下に涅槃し給うや、彼れは悲泣して悶絶せんとす。摩訶迦葉後れて之に会し、荼毘し終わりて後、阿那律と謀り、諸大弟子を率いて王舎城に至り、阿闍世王の保護の下に、三蔵結集の大業を決行せんとす。時に阿難は独り拘尸城に止まりて七日間舎利を供養し、尋いで祇洹精舎に至りて仏座を拜し、俯仰今昔の感に堪えず。乃ち最後の供養をなし、後王舎城に赴き、結集に加わらんとするに、迦葉は其の未離欲を警しめ、且つ五罪を挙げて之を呵責せり。五罪とは一に女人の出家を請いて正法五百歳を衰減せしめ、二に仏陀入滅の前に水を求められたる時之を給仕せず、三に仏の留寿を乞わずして入滅を早からしめ、四に仏の僧伽梨衣を畳む時、足を以って上を踏み、五に仏陀入滅の後、仏の陰蔵相を女人に示せしことをいうなり。阿難は時に之を衆の前に懺悔し、又退いて禅思し、其の夜臥せんとして頭未だ枕に至らざるに廓然として大悟し、遂に五百大阿羅漢の列に加わり、迦葉の指揮に従い、師子座に登りて自ら経を結集し、優波離は律を結集せりと云う。経法の後代に伝わることを得るは、一にその功績なりと謂わざるべからず。又「付法蔵因縁伝巻2」、「阿育王伝巻4」等には、阿難は摩訶迦葉の後を受け、付法蔵の第二祖となりて大法を伝持し、後入寂の近きを知りて法を商那和修に付囑し、以って中印度の仏教を任持せしめ、又末田地に付法して罽賓に開教せしめたりと云えり。其の滅度に関しては「大唐西域記巻7」に、阿難は既に入滅せんと欲し、摩揭陀を辞して吠舍釐城に向い、殑伽河を渡らんとす。時に摩揭陀国阿闍世王は阿難の徳を慕い、戎駕を厳にして追請せんとし、吠舍釐王は阿難の来るを聞き、軍旅を治めて北岸に之を迎えんとするを見、其の孰れにも偏せざらんが為に、中流に於いて舟中より虚空に上昇し、火を化して自ら骸を焚き、その遺骸を両分して南北両岸に堕ちしめたり。両軍為に大いに慟哭し、各本国に還りて窣堵波を起し之を供養したりと云う。其の年時は詳ならざるも、「緬甸仏伝」に阿闍世王は仏滅二十五年に崩じ、摩訶迦葉は仏滅二十年尚お在世せりと云うに依れば、阿難は仏滅二十年より二十五年に至る間に於いて入滅したりというべく、又「分別功徳論巻2」には、彼れは結集後十二年を経て入滅せりとなせり。又「法華経文句巻1上」に、「正法念経」を引きて、阿難に三種ありとし、阿難陀即ち歓喜は小乗蔵を持し、阿難跋陀(或いは阿難陀跋陀羅aanandabhadra)即ち歓喜賢は雑蔵を受持し、阿難娑伽(或いは阿難陀娑伽羅aanandasaagara)即ち歓喜海は仏蔵を持すと云い、又別に阿含経に典蔵阿難ありと云うを引きて凡べて四種の阿難ありとし、「華厳経探玄記巻2」には、「阿闍世王懺悔経」に依りて亦た前の三阿難を列ね、それ等は下乗中乗上乗を持すと云い、「華厳経疏演義鈔巻25」には、「集法経」の説として亦た三阿難を出し、声縁菩の三蔵を持すと云い、又「金剛仙論巻1」には阿難跋陀等の名を出さざれども、「三種の阿難あり、大小中乗を伝持す」と云えり。蓋し是れ等は阿難が善く一代大小の法蔵を受持伝弘せしより、所伝の法に従いて其の徳を賞嘆せしものにして、実に三人若しくは四人の阿難ありしに非ざることは言を俟たず。又密教にては、阿難を「胎蔵界曼荼羅釈迦院」の羅漢中に列し、現図には釈迦の左方上列第五位に安ぜり。その形像は「諸説不同記巻7」等に身肉色、比丘形にして、合掌して心に当て、面を左方に向け、荷葉に坐せしめ、密号を集法金剛となせり。又「長阿含巻2遊行経」、「中阿含巻33侍者経」、「雑阿含経巻44」、「増一阿含経巻1序品」、「同巻4弟子品」、「阿羅漢具徳経」、「阿難同学経」、「四分律巻54」、「五分律巻30」、「摩訶僧祇律巻32」、「毘尼母経巻3」、「有部毘奈耶雑事巻39、40」、「大毘婆沙論巻16」、「経律異相巻15」、「高僧法顕伝」、「大唐西域記巻9」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  優婆離(うばり):仏弟子。『大智度論巻24下注:優波離』参照。
  優波離(うぱり):梵名upaali。巴梨名同じ。又鄔波離、隝波離、優婆離、優波釐、優波梨、憂波離、憂波利等に作る。近取、近執と訳す。仏十大弟子の一。持律第一の称あり。「増一阿含経巻3弟子品」に、「我が声聞中第一比丘にして、戒律を奉持して触犯する所なきは、優波離比丘是れなり」と云えり。「五分律巻3」等に依れば、優波離は元とと首陀羅種の出にして、釈迦家に仕えて剃髪者たり。仏成道第六年に跋提bhaddiya、阿那律anuruddha、阿難aananda、難提nanda、調達devadatta、婆婆bhagu、金鞞盧kimbilaの七釈子の出家せし時、同伴して諸釈を剃髪せしが、自己の賎種にして聖衆中に入るを得ざるを憾み、愁然として楽しまず。仏其の志を察し、乃ち諸釈子と共に教団中に加えしめ給えり。此の時、仏は阿那律の請により、諸釈子の前に在りて優波離を度し、出家以前に於いては地位の高下あり、種姓の不同あるも、出家の後は自他共に其の区別を眼中に置くべからざる旨を示し給えり。是れ実に仏陀が広く門戸を開きて、四姓を平等に摂化せし第一歩たりしなり。教団中に置ける席次は、受戒の順序に従うべきものなるが故に、難陀は次第に礼を為して、優波離の前に至りて躊躇せし時、仏陀は教団中には唯だ受戒の前後をいうべきのみ、貴賎を以って論ずべからずと訓諭し給えりと云う。其の一生の事蹟は多く伝わらざれども、唯だ特筆すべきは、第一結集に際し阿難が経を誦出せるに対して、優波離は律を誦出せしこと、並びに律蔵伝持の第一祖たりしこと是れなり。又「仏本行集経巻53乃至55」には、優波離の前生の功徳、出家の因縁等を説き、「中阿含巻52優婆離経」には、優婆離が律に就きて仏と問答せしことを記せり。但し「同経巻32」に同名の経あれども、此れは優婆離居士に関するものにして、今の優婆離と同名異人なり。又密教に在りては「胎蔵界曼荼羅釈迦院」中に諸声聞の一として、彼れを釈迦仏の左方上列第七位に安じ、肉色比丘形にして荷葉に坐せしめたり。又「四分律巻4、5」、「五分律巻30」、「摩訶僧祇律巻32」、「善見律毘婆沙巻2」、「大智度論巻2」、「注維摩詰経巻3」、「弥勒上生経巻下」、「教律異相巻15」、「大唐西域記巻9」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  孫陀羅難陀:仏の姨母摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)の生んだ仏の異母弟、難陀。容姿端麗にして三十相を具え、仏に劣ること僅かに眉間白毫相を欠き、耳朶の垂るることの少きのみという。その婦孫陀利(そんだり)に因んで、孫陀羅難陀の名あり。仏により、出家せしめられ強いて剃髪さるるも、その婦を念うこと切にして、婬欲断ちがたきところ、仏の化導を得て阿羅漢果を得、仏より、端正なる者の婬欲は断ちがたきに、よく断てるを称えられて、端正なるに諸根寂静たるもの、難陀に勝るるもの無しと説かれた。
  提婆達:仏の父浄飯王の弟斛飯王の子にして阿難の兄、提婆達多。仏の弟子となりしが、独自に阿闍世王の供給を得るに及んで心驕り、仏と見を異にして、自ら僧伽を主宰せんと計るも、仏に許されず、ついに自らの弟子を率いて僧伽を破るに至った。
  須弥刹多羅:須那刹多羅の誤りか。
  須那刹多羅:悪弟子、善星、好星。『仏有悪弟子須那刹多羅等、有少因縁故作弟子、欲於仏所取射法』(『大智度論第100』参照)
  耶舎:中印度波羅奈国の大富長者善覚の子。俗世を厭離して出家を遂げ、仏の所で五比丘に次いで六番目の弟子となった。(彌沙塞部和醯五分律巻15)
  跋迦利:仏弟子。病んで苦痛に堪えかね、世尊に教を受けて自殺した。『雑阿含経47巻第1265経』参照。
  羅睺羅:仏の実子。十大弟子の中の密行第一。『大智度論巻2下』参照。
  施跋羅:仏の姑(おば、父の姉妹)甘露女の生んだ子。
  摩訶迦葉:十大弟子の中の頭陀(づだ、少欲知足)第一。『大智度論巻2上』参照。
  隷跋多:仏弟子離婆多(りばた)。二鬼が屍骸を争うのを見て、人身は仮の和合に過ぎないとの理を悟り、出家した。『大智度論巻12上』参照。
  舎利弗:仏の十大弟子の中の智慧第一。『大智度論巻11』参照。
  阿難:仏の十大弟子の中の多聞第一。『大智度論巻2上』参照。
  憂婆離:仏の十大弟子の中の持律第一。『大智度論巻2上』参照。
凡夫人亦各各有所喜。或有喜婬欲或有喜瞋恚。 凡夫人にも、亦た各各に喜ぶ所有り。或は婬欲を喜ぶ有り、或は瞋恚を喜ぶ有り。
『凡夫人』にも、
各各に、
『喜ぶ所が有り!』、
或は、
有る者は、
『婬欲』を、
『喜び!』、
或は、
有る者は、
『瞋恚』を、
『喜ぶ!』。
復次佛知是人多欲多瞋多癡。 復た次ぎに、仏の知りたまわく、『是の人は欲多し。瞋多し。癡多し』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、こう知っていられる、――
是の、
『人』は、
『欲が多い!』。
『瞋が多い!』、
『癡が多い!』、と。
問曰。何等是多欲多瞋多癡相。 問うて曰く、何等か是れ欲多く、瞋多く、癡多き相なる。
問い、
是の、
『欲が多い!』、
『瞋が多い!』、
『癡が多い!』とは、
何のような、
『相ですか?』。
答曰。如禪經中說。三毒相是中應廣說。知如是相已。多婬欲人不淨法門治。多瞋人慈心法門治。多愚癡人因緣法門治。 答えて曰く、禅経中に説けるが如し。三毒の相は、是の中に応に広説すべし。是の如き相を知り已りて、婬欲多き人には、不浄法門もて治し、瞋多き人には、慈心法門もて治し、愚癡多き人には、因縁法門もて治したもう。
答え、
『禅経』中に、
『説かれた!』のと、
『同じである!』が、
『三毒の相』は、
是の中に、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
『仏』は、
是のような、
『相を知られる!』と、――
『婬欲の多い!』、
『人』には、
『不浄という!』、
『法門』で、
『修治され!』、
『瞋恚の多い!』、
『人』には、
『慈心という!』、
『法門』で、
『修治され!』、
『愚癡の多い!』、
『人』には、
『因縁という!』、
『法門』で、
『修治される!』、
  参考:『坐禅三昧経巻上』:『或復問之。三毒之中何者偏重。婬欲多耶。瞋恚多耶。愚癡多耶。云何觀相。若多婬相為人輕便。多畜妻妾多語多信。顏色和悅言語便易。少於瞋恨亦少愁憂。多能技術好聞多識。愛著文頌善能談論。能察人情多諸畏怖。心在房室好著薄衣渴欲女色愛著臥具服飾香華。心多柔軟能有憐愍。美於言語好修福業。意樂生天處眾無難。別人好醜信任婦女。欲火熾盛心多悔變。喜自莊飾好觀綵畫。慳惜己物僥倖他財。好結親友不喜獨處。樂著所止隨逐流俗。乍驚乍懼志如獼猴。所見淺近作事無慮。輕志所為趣得適意。喜啼喜哭。身體細軟不堪寒苦。易阻易悅不能忍事。少得大喜少失大憂。自發伏匿。身溫汗臭薄膚細髮。多皺多白剪爪治鬚。白齒趣行喜潔淨衣。學不專一好遊林苑。多情多求意著常見。附近有德先意問訊。喜用他語強顏耐辱。聞事速解所為事業。分別好醜愍傷苦厄。自大好勝不受侵陵。喜行施惠接引善人。得美飲食與人共之。不存近細志在遠大。眼著色欲事不究竟。無有遠慮知世方俗觀察顏色逆探人心。美言辯慧結友不固。頭髮稀疏少於睡眠。坐臥行立不失容儀。所有財物能速救急。尋後悔惜受義疾得。尋復喜忘惜於舉動。難自改變難得離欲。作罪輕微。如是種種是婬欲相。瞋恚人相。多於憂惱。卒暴懷忿身口麤[麩-夫+黃]能忍眾苦觸事不可。多愁少歡能作大惡無憐愍心喜為鬥訟。顏貌毀悴皺眉眄睞。難語難悅難事難可。其心如瘡而宣人闕。義論強梁不可折伏。難可傾動難親難沮。含毒難吐受誦不失。多能多巧心不懶墮。造事疾速持望不語。意深難知受恩能報。有能聚眾自伏事人。不可沮敗能究竟事。難可干亂少所畏難。譬如師子不可屈伏。一向不迴直造直進。憶念不忘多慮思惟誦習憶持。能多施與小利不迴。為師利根離欲獨處少於婬欲。心常懷勝愛著斷見。眼常惡視真實言語說事分了。少於親友為事堅著。堅憶不忘多於筋力。肩胸姝大廣額齊髮。心堅難伏疾得難忘。能自離欲喜作重罪。如是種種是瞋恚相。愚癡人相。多疑多悔懶墮無見。自滿難屈憍慢難受可信不信非信而信。不知恭敬處處信向。多師輕躁無羞搪突。作事無慮反教渾戾。不擇親友不自修飾。好師異道不別善惡。難受易忘鈍根懈怠。訶謗行施心無憐愍破壞法橋觸事不了。瞋目不視無有智巧。多求悕望多疑少信。憎惡好人破罪福報。不別善言不能解過。不受誨喻親離憎怨。不知禮節喜作惡口。鬚髮爪長齒衣多垢。為人驅役畏處不畏。樂處而憂憂處而喜。悲處反笑笑處反悲。牽而後隨能忍苦事。不別諸味難得離欲。為罪深重。如是種種是愚癡相。若多婬欲人不淨法門治。若多瞋恚人慈心法門治。若多愚癡人思惟觀因緣法門治。若多思覺人念息法門治。若多等分人念佛法門治。諸如是等種種病。種種法門治』
如是隨所欲說法。所謂善欲隨心為說。如船順流。惡欲以苦切語教。如以榍出榍。是欲智中佛悉遍知。無能壞無能勝。是名第五力 是の如く、欲する所に随いて法を説きたもう。謂わゆる善欲には、心に随いて、為に説きたもうこと、船の流れに順ずるが如く、悪欲には、苦切の語を以って教えたもうこと、榍を以って、榍を出すが如し。是の欲智中に仏は悉く遍く知りたまいて、能く壊る無く、能く勝る無し。是れを第五の力と名づく。
是のように、
『衆生』の、
『欲する所に随って!』、
『法』を、
『説かれるのである!』。
謂わゆる、
『善の欲』には、
其の、
『心に随って!』、
『法』を、
『説かれる!』ので、
例えば、
『船』が、
『流』に、
『順ずるようであり!』、
『悪の欲』には、
『苦切の語を用いて!』、
『教えられる!』ので、
例えば、
『楔を用いて!』、
『楔』を、
『出すようなものである!』。
是の、
『欲智』中に、
『仏』は、
『悉く遍く!』、
『知っていられ!』、
『仏』を、
『壊る!』者も、
『無く!』、
『仏』に、
『勝る!』者も、
『無い!』ので、
是れを、
『第五の力』と、
『称する!』。
  (せつ):くさび。楔。物の間隙に、さしこんでその間隙を補うもの。



種種の性を知る智力

性智力者。佛知世間種種別異性。性名積習。相從性生。欲隨性作行。或時從欲為性。習欲成性。性名深心為事。欲名隨緣起。是為欲性分別。 性智力とは、仏は世間の種種別異の性を知りたもう。性を積習と名づく。相は、性より生じ、欲は、性に随いて作行す。或は時に欲に随いて性と為し、欲を習いて性と成す。性を深心の事と為すと名づく。欲を縁に随いて起すと名づく。是れを欲、性の分別と為す。
『性を知る智力』とは、――
『仏』は、
『世間』の、
『種種別異の性』を、
『知っていられる!』。
『性』とは、
『積習であり!』、
『相』は、
『性より!』、
『生じ!』、
『欲』は、
『性に随順して!』、
『働く!』。
或は時に、
『欲により!』、
『性』が、
『形成され!』、
『欲を習慣とする!』ことで、
『性』と、
『成る!』。
『性』は、
『深心に属する!』、
『事(例:信性、疑性)であり!』、
『欲』は、
『縁に随って!』、
『起るものである!』。
是れが、
『欲』と、
『性』との、
『分別である!』。
  作行(さぎょう):専念( application )。梵語 vicaraNa の訳、没頭( preoccupation )の義。梵語 abhisaMskaara, kaaraakaara, kaarya-kara, kRta-paricarya, vihita, veza の訳、構想( conception, idea )、形を作す( making a shape )、没頭する( making what is to be made )、整えられた( put in order, arranged )等の義。
  (い):<動詞>作す/行う/造る( do, act, make )、製作/創作する( make, compose )、治める( administer )、成る/変成する( become )、である/是れ( be )、学習する/研究する( study )、耕作する( plant )、設置/建立する( establish )、[使役]しむ( let )、思う/信じる/考える( think, believe, consider )、演奏する( play )。<介詞>[受け身]によって~せらる( by )、[時、場所]で( in )、<接続詞>と( and )、則ち/そこで( then )、若し( if )、或は( or )。<助詞>[所属]の/的/之( of )。<語気>たり。<動詞>助ける( help )、告げる( tell, speak )。<介詞>[理由]よって/因って/由って( because, for, on account of )、[目的]ために( for, for the benefit of, for the sake of )、[方向]対して/向って( facing to, toward )。
世間種種別異者。各各性多。性無量不可數。是名世間別異。有二種世間。世界世間。眾生世間。此中但說眾生世間。 世間の種種の別異とは、各各の性多ければ、性は無量、不可数なり。是れを世間の別異と名づく。二種の世間有り、世界世間と、衆生世間なり。此の中には但だ衆生世間を説く。
『世間の種種の別異』とは、
『世間( dhaatu≒element )の各各』は、
『性』が、
『多く!』、
『性』は、
『無量であり!』、
『不可数である!』ので、
是れを、
『世間の別異』と、
『称する!』。
『世間』には、
『二種有り!』、
『世界世間( loka-dhaatu )と!』、
『衆生世間( sattva-dhaatu )とである!』が、
此の中には、
但だ、
『衆生世間』を、
『説く!』。
佛知眾生如是性如是欲從是處來。若成就善根不善根。可度不可度。定不定。必不必。行何行生何處在何地。 仏の衆生を知りたまわく、『是の如き性、是の如き欲は、是の処より来たりて、若しは善根、不善根を成就し、度すべしや、度すべからずやの定まり、定まらずして、必ずや、必ずしも、何の行を行じ、何の処に生じて、何の地に在らん』、と。
『仏』は、
『衆生』を、こう知っていられる、――
是のような、
『性、欲の者』は、
是のような、
『処より!』、
『来て!』、
若しは、
『善根とか?』、
『不善根とか?』を、
『成就する!』ので、
是の故に、
『度すべきか?』、
『度すべからざるか?』が、
或は、『定まり!』、
或は、『定まらず!』、
何のような、
『行』を、
或は、『必ず行う!』が故に、
或は、『必ずしも行わない!』が故に、
何のような、
『処』に、
『生まれて!』、
何のような、
『地』に、
『在るだろう!』、と。
復次佛知是眾生種種性相。所謂隨所趣向。如是處偏多。如是貴。如是深心事。如是欲。如是業。如是行。如是煩惱。如是禮法。如是定。如是威儀。如是知。如是見。如是憶想分別。爾所結使生。爾所結使未生。隨所著生欲。隨欲染心。隨染心趣向。隨向貴重。隨貴重常覺觀。隨覺觀為戲論。隨戲論常念。隨念發行。隨發行作業。隨作業果報。 復た次ぎに、仏の知りたまわく、『是の衆生の種種の性、相は、謂わゆる趣向する所に随いて、是の如き処に偏に多く、是の如きを貴び、是の如きを深心の事とし、是の如き欲、是の如き業、是の如き行、是の如き煩悩、是の如き礼法、是の如き定、是の如き威儀、是の如き知、是の如き見、是の如き憶想、分別ありて、爾所(そこばく)の結使生じ、爾所の結使未だ生ぜず、著する所に随いて欲を生じ、欲にしたがいて心を染め、染心に随いて趣向し、向かうに随いて貴重し、貴重するに随いて常に覚観し、覚観に随いて戯論を為し、戯論に随いて常に念じ、念に随いて行を発し、行を発すに随いて、業を作り、業を作るに随いて果報あり』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、こう知っていられる、――
是の、
『衆生』の、
『種種の性、相に随って!』、
謂わゆる、
『趣向する!』所は』、
是のような、
『処』に、
『偏に多い!』、――
則ち、
是のような、
『事』を、
『貴び!』、
是のように、
『深心』を、
『事とし!』、
是のような、
『欲、業、行、煩悩、礼法、定、威儀であり!』、
是のように、
『知り!』、
『見て!』、
『憶想、分別し!』
爾所(そこばく/なにがしか)の、
『結使』を、
『生じ!』、
爾所の、
『結使』が、
『未だ生じず!』、
爾の、
『著する所に随って!』、
『欲』を、
『生じ!』、
『欲に随って!』、
『心』を、
『染め!』、
『染まった心に随って!』、
『法』を、
『趣向し!』、
『趣向する所』の、
『法に随って!』、
『貴重し!』、
『貴重する所に随って!』、
『常に!』、
『覚、観し!』、
『覚、観するに随って!』、
『戯論し!』、
『戯論するに随って!』、
『常に!』、
『念じ!』、
『念じるに随って!』、
『行』を、
『発動し!』、
『行に随って!』、
『業』を、
『作り!』、
『作られた業に随って!』、
『果報』が、
『有る!』。
復次佛用是種種性智力。知是眾生可度是不可度。 復た次ぎに、仏は是の種種性智力を用いて、知りたまわわく、『是の衆生は度すべし』、『是れは度すべからず』。
復た次ぎに、
『仏』は、
是の、
『種種性智力を用いて!』、こう知られる、――
是の、
『衆生』は、
『度すことができる!』とか、
『度すことができない!』。
是今世可度是後世可度。是即時可度。是異時可度。是現前可度。是眼不見可度。是人佛能度。是人聲聞能度。是人共可度。是人必可度。是人必不可度。 『是れは今世に度すべし』、『是れは後世に度すべし』、『是れは即時に度すべし』、『是れは異時に度すべし』、『是れは現前に度すべし』、『是れは眼に見るなくして度すべし』、『是の人は仏のみ能く度す』、『是の人は声聞にして能く度す』、『是の人は共に度すべし』。『是の人は必ず度すべし』、『是の人は必ずしも度すべからず』、
是れは、
『今世に!』、
『度すことにしよう!』。
是れは、
『後世に!』、
『度すことにしよう!』。
是れは、
『即時に!』、
『度すことにしよう!』。
是れは、
『別の時に!』、
『度すことにしよう!』。
是れは、
『現前に!』、
『度すことにしよう!』。
是れは、
『眼で見ずに!』、
『度すことにしよう!』、
是の人は、
『仏にしか!』、
『度すことができない!』。
是の人は、
『声聞にしか!』、
『度すことができない!』。
是の人は、
『いっしょに!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『必ず!』、
『度せるだろう!』。
是の人は、
『必ずしも!』、
『度せないだろう!』。
是人略說可度。是人廣說可度。是人略廣說可度。是人讚嘆可度。是人折伏可度。是人將迎可度。是人棄捨可度。是人細法可度。是人麤法可度。是人苦切可度。是人軟語可度。是人苦軟可度。 『是の人は略説して度すべし』、『是の人は広説して度すべし』、『是の人は略広説して度すべし』、『是の人は讃歎して度すべし』、『是の人は折伏して度すべし』、『是の人将迎して度すべし』、『是の人は棄捨して度すべし』、『是の人は細法もて度すべし』、『是の人は麁法もて度すべし』、『是の人は苦切して度すべし』、『是の人は軟語して度すべし』、『是の人は苦軟して度すべし』。
是の人は、
『略説して!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『広説して!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『略、広説して!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『讃歎して(褒め称えて)!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『折伏して(どやしつけて)!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『将迎して(丁寧に接して)!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『棄捨して(ほったらかしにして)!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『細(詳細な)法を用いて!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『麁(粗雑な)法を用いて!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『苦切して!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『軟語して!』、
『度すことにしよう!』。
是の人は、
『苦、軟語して!』、
『度すことにしよう!』。
是邪見是正見。是著過去是著未來。是著斷滅是著常。是著有見是著無見。 『是れ邪見なり』、『是れ正見なり』、『是れ過去に著せり』、『是れ未来に著せり』、『是れ断滅に著せり』、『是れ常に著せり』、『是れ有見に著せり』、『是れ無見に著せり』。
是れは、
『邪見である!』。
是れは、
『正見である!』。
是れは、
『過去』に、
『著している!』。
是れは、
『未来』に、
『著している!』。
是れは、
『断滅』に、
『著している!』、
是れは、
『常』に、
『著している!』、
是れは、
『有見』に、
『著している!』。
是れは、
『無見』に、
『著している!』。
是欲生是厭生。是求富貴樂。是著厚邪見。是說無因無緣。是說邪因緣。是說正因緣。是說無作業。是說邪作業。是說正作業。是說不求。是說邪求。是說正求。 『是れ欲生ず』、『是れ厭生ず』、『是れ富貴楽を求む』、『是れ厚き邪見に著す』、『是れ無因無縁を説けり』、『是れ邪因縁を説けり』、『是れ正因縁を説けり』、『是れ無作業を説けり』、『是れ邪作業を説けり』、『是れ正作業を説けり』、『是れ不求を説けり』、『是れ邪求を説けり』、『是れ正求を説けり』。
是れは、
『欲』が、
『生じている!』。
是れは、
『厭』が、
『生じている!』。
是れは、
『富、貴、楽』を、
『求めている!』。
是れは、
『厚い邪見』に、
『著している!』。
是れは、
『因縁は無い!』と、
『説いている!』。
是れは、
『邪な因縁』を、
『説いている!』。
是れは、
『正しい因縁』を、
『説いている!』。
是れは、
『作業は無い!』と、
『説いている!』。
是れは、
『邪な作業』を、
『説いている!』。
是れは、
『正しい作業』を、
『説いている!』。
是れは、
『何も求めない!』と、
『説いている!』。
是れは、
『邪な要求』を、
『説いている!』。
是れは、
『正しい要求』を、
『説いている!』。
是貴我。是貴五欲。是貴得利。是貴飲食。是貴說戲樂事。是樂眾。是樂憒鬧是樂遠離。是多行愛。是多行見。是好信。是好慧。是應守護是應捨。是貴持戒。是貴禪定。是貴智慧。 『是れ我を貴ぶ』、『是れ五欲を貴ぶ』、『是れ利を得るを貴ぶ』、『是れ飲食を貴ぶ』、『是れ戯楽の事を説くを貴ぶ』、『是れ衆を楽しむ』、『是れ憒鬧を楽しむ』、『是れ遠離を楽しむ』、『是れ多く愛を行ず』、『是れ多く見を行ず』、『是れ信を好む』、『是れ慧を好む』、『是れ応に守護すべし』、『是れ応に捨つべし』、『是れ持戒を貴ぶ』、『是れ禅定を貴ぶ』、『是れ智慧を貴ぶ』。
是れは、
『我』を、
『貴んでいる!』。
是れは、
『五欲』を、
『貴んでいる!』。
是れは、
『利を得る!』ことを、
『貴んでいる!』。
是れは、
『飲食』を、
『貴んでいる!』。
是れは、
『戯楽の事を説く!』者を、
『貴んでいる!』。
是れは、
『衆中に在る!』ことを、
『楽しんでいる!』。
是れは、
『憒鬧(巷の喧噪)』を、
『楽しんでいる!』。
是れは、
『遠離』を、
『楽しんでいる!』。
是れは、
『愛を行う!』ことが、
『多い!』。
是れは、
『見を行う!』ことが、
『多い!』。
是れは、
『信』を、
『好む!』。
是れは、
『慧』を、
『好む!』。
是れは、
『守護せねばならない!』。
是れは、
『捨てねばならない!』。
是れは、
『持戒』を、
『貴んでいる!』。
是れは、
『禅定』を、
『貴んでいる!』。
是れは、
『智慧』を、
『貴んでいる!』。
是易悟。是講說乃悟。是可引導。是句句解。是利根是鈍根是中根。是易出易拔。是難出難拔。是畏罪。是重罪。是畏生死。是不畏生死。是多欲是多瞋是多癡。是多欲瞋。是多欲癡。是多瞋癡。是多欲瞋癡。 『是れ悟り易し』、『是れ講説して乃ち悟る』、『是れ引導すべし』、『是れ句句ごとに解す』、『是れ利根なり』、『是れ鈍根なり』、『是れ中根なり』、『是れ出で易く、抜き易し』、『是れ出で難く、抜き難し』、『是れ罪を畏る』、『是れ罪を重んず』、『是れ生死を畏る』、『是れ生死を畏れず』、『是れ欲多し』、『是れ瞋多し』、『是れ癡多し』、『是れ欲、瞋多し』、『是れ欲、癡多し』、『是れ瞋、癡多し』、『是れ欲、瞋、癡多し』。
是れは、
『悟る!』のが、
『容易である!』。
是れは、
『講説して!』、
『やっと悟るだろう!』。
是れは、
『引導せねばならない!』。
是れは、
『一句ごとに!』、
『理解している!』。
是れは、
『利根である!』。
是れは、
『鈍根である!』。
是れは、
『中根である!』。
是れは、
『三界より出し易く!』、
『苦を抜き易い!』。
是れは、
『三界より出し難く!』、
『苦を抜き難い!』。
是れは、
『罪業』を、
『畏れている!』。
是れは、
『罪業』を、
『重んじている!』。
是れは、
『生死』を、
『畏れている!』。
是れは、
『生死』を、
『畏れていない!』。
是れは、
『欲』が、
『多い!』。
是れは、
『瞋』が、
『多い!』。
是れは、
『癡』が、
『多い!』。
是れは、
『欲、瞋』が、
『多い!』。
是れは、
『欲、癡』が、
『多い!』。
是れは、
『瞋、癡』が、
『多い!』。
是れは、
『欲、瞋、癡』が、
『多い!』。
是薄煩惱是厚煩惱。是少垢是多垢。是覆慧是略慧是廣慧。是人善知五眾相十二入十八界十二因緣。是處非是處。苦集滅道。善知入定出定住定。 『是れ薄き煩悩なり』、『是れ厚き煩悩なり』、『是れ少なき垢なり』、『是れ多き垢なり』、『是れ覆わるる慧なり』、『是れ略せる慧なり』、『是れ広き慧なり』、『是の人は善く五衆の相、十二入、十八界、十二因縁、是処非是処、苦集滅道を知り、善く入定、出定、住定を知る』。
是れは、
『薄い!』、
『煩悩である!』。
是れは、
『厚い!』、
『煩悩である!』。
是れは、
『少ない!』、
『垢である!』、
是れは、
『多い!』、
『垢である!』。
是れは、
『覆われた!』、
『慧である!』。
是れは、
『粗略な!』、
『慧である!』。
是れは、
『広博な!』、
『慧である!』。
是の人は、
『五衆、十二入、十八界、十二因縁、是処非是処、苦集滅道の相』や、
『入定、出定、住定の相』を、
『善く!』、
『知っている!』。
復次佛知是欲界眾生是色界是無色界眾生。是地獄畜生餓鬼人天。是卵生胎生濕生化生。是有色是無色是有想是無想。是短命是長命。是但凡夫人未離欲。是凡夫人離下地欲未離禪欲。如是乃至非有想非無想。是向道是得果。是辟支佛。是諸佛無礙解脫。 復た次ぎに、仏の知りたまわく、『是れは欲界の衆生なり』、『是れは色界なり』、『是れは無色界の衆生なり』、『是れは地獄、畜生、餓鬼、人、天なり』、『是れは卵生、胎生、湿生、化生なり』、『是れは有色なり』、『是れは無色なり』、『是れは有想なり』、『是れは無想なり』、『是れは短命なり』、『是れは長命なり』、『是れは但だ凡夫人にして、未だ離欲せざるなり』、『是れは凡夫人の下地の欲を離れて、未だ禅の欲を離れざるなり』、是の如く乃至非有想非無想なり。『是れは道に向かうなり』、『是れは果を得るなり』、『是れは辟支仏なり』、『是れは諸仏の無礙解脱なり』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、こう知っていられる、――
是れは、
『欲界』の、
『衆生である!』、
是れは、
『色界、無色界』の、
『衆生である!』。
是れは、
『地獄、畜生、餓鬼、人、天』の、
『衆生である!』。
是れは、
『卵生、胎生、湿生、化生』の、
『衆生である!』。
是れは、
『有色、無色』の、
『衆生である!』。
是れは、
『有想、無想』の、
『衆生である!』。
是れは、
『短命、長命』の、
『衆生である!』。
是れは、
但だの、
『凡夫人であり!』、
未だ、
『欲』を、
『離れていない!』。
是の、
『凡夫人』は、
『下地の欲を離れた!』が、
未だ、
『禅の欲』を、
『離れていない!』。
乃至、
『非有想非無想』まで
『是の通りである!』。
是れは、
『道』に、
『向っている!』。
是れは、
『声聞の果』を、
『得られるだろう!』。
是れは、
『辟支仏道』を、
『得られるだろう!』。
是れは、
『諸仏』の、
『無礙解脱である!』、と。
如是等種種分別。五道四生三聚假名障眾入界。善根不善根。諸結使地業果。是可度是不可度滅智分別。 是れ等の如く、種種に五道、四生、三聚、仮名、障、衆入界、善根、不善根、諸結使の地、業果を分別し、是れ度すべし、是れ度すべからずを、滅智もて分別す。
是れ等のように、
種種に、
『五道、四生、三聚、仮名、障、衆入界、善根、不善根、諸結使の地、業果』を、
『分別し!』、
是れを、
『度すことができるのか?』、
『度すことができないのか?』を、
『滅智(滅諦中の智)』で、
『分別する!』。
  滅智(めっち):滅諦の理を照了する智を云う。<(丁)
  心所法(しんじょほう):心数法。五法の一。心の所有の法の意。心王に従属し、これと相応する精神作用。『倶舎論第四』によれば、総じて四十六種有り、これを分類して六類となす。即ち、
  1. 大地法:常に一切の善不善等の心に相応する法にして、これに受、想、思、触、欲、慧、念、作意、勝解、三摩地(定、三昧)の十法がある。
  2. 大善地法:常に一切の善心に相応する法にして、これに信、不放逸、軽安、捨、慚、愧、無貪、無瞋、不害、勤の十法がある。
  3. 大煩悩地法:常に一切の染汚心に相応する煩悩にして、これに癡、放逸、懈怠、不信、惛沈、掉挙の六法がある。
  4. 大不善地法:一切の不善心に相応する法にして、これに無慚、無愧の二法がある。
  5. 小煩悩地法:少分の染汚心に相応して、各各別に現起する煩悩にして、これに忿、覆、慳、嫉、悩、害、恨、諂、誑、憍の十法がある。
  6. 不定地法:その他の五地(大地法等)に入らない特別の法であり、その他の五種の心所具有の決定性を有せず、一切の心或いは染心に遍からず、また未だ或いは善、或いは悪の決定性を有せず。その性質は非善非悪して広く善悪無記の三性に通じ、また大地法の受等の一切の心の如く、一切の心に遍からず、癡等の大煩悩地法の如く、一切の染心に遍からず、その相応する界地等が不定の法にして、これに尋(覚)、伺(観)、睡眠、悪作、貪、瞋、慢、疑の八法がある。
  大善地法:心所法六類中の第二。一切の善心と相応して倶起する心所法。『倶舎論第四』には、『大善法の地なれば大善地と名づけ、この中の法の若きは大善地の所有なるを大善法地と名づく。謂わく、法は、恒に諸の善心に於いて有る。』と。蓋し信等の十法は、一切の善心に周遍するが故に大善と名づけ、心王は彼の大善の所行の依処なるが故に大善地と名づけ、信等は彼の大善地の所有の法なるが故に大善地法と名づくるなり。即ち、
  1. 信:心をして澄浄ならしむ。
  2. 不放逸:専注して諸の善法を修める。
  3. 軽安:心の堪忍を性とし、身心の軽利安適なること。
  4. 捨:身心をして諸法に執著する念を捨離せしめ、平等に於いて住する。
  5. 慚:有徳に対して敬崇従属し、或いは所造の罪を内観して恥じる。
  6. 愧:罪果を怖れ、或いは他に対して所造の罪を恥じる。
  7. 無貪:諸の境界に於いて、愛染なき性。
  8. 無瞋:情(衆生)非情(器物)に於いて、恚害なき性。
  9. 不害:他を損悩しないこと。
  10. 勤:心をして勇悍(奮起)ならしむるを性とし、二悪(見思煩悩と無明煩悩)を勤断し、二善(止悪と修善)を懃修して退かない。
  大煩悩地法:心所法六類中の第三。染汚心と恒に相応する煩悩。即ち、
  1. 癡:暗昧(暗愚)にして、一切の所知の境に於いて、如理の解を障うる。
  2. 放逸:縦蕩(放蕩)にして、諸の善法を勤修しない。
  3. 懈怠:懶惰(怠惰)にして、心勇悍(奮起)ならざること。
  4. 不信:因果の理を信ぜざること。
  5. 惛沈:身心鈍重にして堪任ならざる性。
  6. 掉挙:躁動にして、心の静寂ならざること。
  大不善地法:心所法六類中の第四。一切の不善心と相応して現起する心所法。蓋し無慚等の二法は、恒に一切の不善心に周遍して倶起するが故に、大不善と名づけ、その依地たる心王を大不善地とし、この地の所有なるが故に、この二法を大不善地法と名づくるなり。即ち、
  1. 無慚:徳及び有徳者に対して崇敬し随属する所なく、敵対する所の法を恭敬し、また或いは自己所造の罪を観じて羞恥する心がない。
  2. 無愧:現在、当来二世の罪果に対して怖畏する所なく、また他人所造の罪を観じて羞恥する心がない。
  小煩悩地法:心所法六類中の第五。少分の染汚心に相応して各別に現起する煩悩。即ち、
  1. 忿:忿怒。有情(衆生)非情(器物)に対して、憤怒の心を産出する。
  2. 覆:覆罪。自罪を隠蔵する。
  3. 慳:吝嗇。財法に執著し、恵施の心がない。
  4. 嫉:賢を害する意。他人の盛事を妒み忌む。
  5. 悩:堅く悪事に執著して、理の如く悔改すること能わずに、身心を悩乱する。
  6. 害:他人に対して逼迫し、罵辱し、損悩する。
  7. 恨:忿の所縁の事に於いて、数数尋思し、怨を結んで捨てない。
  8. 諂:身を傾けて自らを下し、希って人の意を承ける。
  9. 誑:種種の手段を以って、その詭詐を極めて他人を惑乱し、是非を顛倒せしむ。
  10. 憍:自己の盛事を恃み、心をして傲逸(傲慢)ならしむ。
  不定地法:心所法六類中の第六。相応する界地等の不定なる心所法。即ち、
  1. 尋:覚、諸法の名義等を慌てて知ろうとする粗略な思考作用。
  2. 伺:観、境に於いて、微細に伺察する思考作用。
  3. 睡眠:心が昧暗に沈没し、覚醒の時に反して意識は曖昧模糊となる。
  4. 悪作:悔、所作の業を追悔する。
  5. 貪:染著して財物等を欲求する。
  6. 瞋:有情(衆生)に於いて憎悪し瞋恚する。
  7. 慢:己を恃みて高慢になる。
  8. 疑:猶予(躊躇)して決定しない。
以如是等分別。知世間種種別異性。得無礙解脫。如是等種種別異佛悉遍知。無能壞無能勝。是名第六力。 是れ等の如き分別を以って、世間の種種の別異の性を知りて、無礙解脱を得。是れ等の如き種種の別異を仏は悉く遍く知りたまいて、能く壊る無く、能く勝る無し。是れを第六の力と名づく。
是れ等のような、
『分別を用いて!』、
『世間』の、
種種の、
『別異の性』を、
『知り!』、
是の故に、
『無礙解脱』を、
『得る!』。
是れ等のような、
『種種の別異』を、
『仏』は、
『悉く遍く!』、
『知っていられ!』、
『仏』を、
『壊る!』者が、
『無く!』、
『仏』に、
『勝る!』者も、
『無い!』ので、
是れを、
『第六の力』と、
『称する!』。



一切の至処の道を知る智力

一切至處道智力者。有人言業即是道。所以者何。業因緣故遍行五道有業。能斷業能有所至。所謂三聖道分及無漏思。以是故諸業是一切至處道。 一切至処道智力とは、有る人の言わく、『業、即ち是れ道なり。所以は何んとなれば、業の因縁の故に、遍く五道を行き、有る業は能く業を断じ、能く至る所を有らしむればなり。謂わゆる三聖道分、及び無漏の思なり。是を以っての故に諸業は、是れ一切至処の道なり。
一切の、
『至処(目的地)の道を知る!』、
『智力』とは、――
有る人は、こう言っている、――
『業』が、
即ち、
是の、
『道である!』。
何故ならば、
『業の因縁』の故に、
遍く、
『五道』を、
『行くのである!』が、
有る、
『業』は、
『業』を、
『断じて!』、
有る、
『処』に、
『至らせるからである!』。
謂わゆる、
『三聖道分(正語、正業、正命)や!』、
『無漏の思という!』、
『業である!』が、
是の故に、
『諸の業』が、
『一切の至処への!』、
『道なのである!』、と。
  三聖道分(さんしょうどうぶん):蓋し八聖道分中正語正業正命の三聖道分は正しく戒品に相当し、能く業を以って業を断ずるものなり。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  (し):心心所をして造作せしむる法にして、身語意三業の原動力となるものを云う。『大智度論巻20上注:思』参照。
復次有人言。五別五智三昧(丹云無漏三昧禪五支)住一切處利益事辦。 復た次ぎに、有る人の言わく、『五別五智三昧もて一切処に住して利益すれば、事辦ずるなり』。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『五別五智三昧である!』、
是の、
『三昧に入り!』、
『一切の処』に、
『住まって!』、
『利益すれば!』、
『事(目的)』が、
『達成される!』、と。
  五別五智三昧(ごべつごちさんまい):即ち仏の五分法身、或いは其の徳目たる八聖道分を云う。「十住毘婆沙論巻11」に、「一切の処に至る道とは、能く一切の功徳を得る、是の道を名づけて、一切の処に至る道と為す。謂わゆる五分三昧、若しくは五知三昧、若しくは八聖道分是れなり」と云える是れなり。蓋し五別五智、或いは五分五智とは即ち戒定慧解脱解脱知見の五分法身なり。是の五分法身は、大乗的に見れば、是れ即ち五種の三昧、五種の智慧を云い、而も八聖道分も同じく無漏の戒定慧品に異ならざれば、故に「大智度論巻24」に、「五別五智三昧(仏の法身と、其の徳目たる八聖道分と)は、一切処に住して、利益の事辨ず」と云えるなり。又五智に関して、「成実論巻16」には聖者の証得する智に五種の別あるを云い、一に法住智、二に泥洹智、三に無諍智、四に願智、五に辺際智なり。此の中、法住智とは諸法の生起を知る智を云い、泥洹智とは諸法の滅尽を知る智を云い、無諍智とは他と諍わざる智を云い、願智とは諸法の中に於いて障礙なき智を云い、辺際智とは最上智を得て増損寿命等の中に於いて自在の力を得るを云うなり。又「阿毘曇毘婆沙論巻16」には、「如来に五智聖三昧有り、此れも亦た是れ是処非是処力なり、五智とは法智、比智、道智、尽智、無生智なり」と云い、又「大般涅槃経巻28」の如きには、無食三昧、無過三昧、真意清浄一心三昧、因果俱楽三昧、常念三昧を挙ぐる例あり。『大智度論巻8下注:五分法身、巻18上注:八正道、巻18下注:五智、五智三昧、巻20上注:三昧』参照。
  参考:『大般涅槃経巻28』:『奢摩他者名為能滅。能滅一切煩惱結故。又奢摩他者名曰能調。能調諸根惡不善故。又奢摩他者名曰寂靜。能令三業成寂靜故。又奢摩他者名曰遠離。能令眾生離五欲故。又奢摩他者名曰能清能清貪欲瞋恚愚癡三濁法故。以是義故。故名定相。毘婆舍那名為正見。亦名了見。名為能見。名曰遍見。名次第見。名別相見。是名為慧。憂畢叉者名曰平等。亦名不諍。又名不觀。亦名不行。是名為捨。善男子。奢摩他者有二種。一者世間。二出世間。復有二種。一者成就。二不成就。成就者所謂諸佛菩薩。不成就者所謂聲聞辟支佛等。復有三種。謂下中上。下者謂諸凡夫。中者聲聞緣覺。上者諸佛菩薩。復有四種。一退。二住。三進。四能大利益。復有五種。所謂五智三昧。何等為五。一無食三昧。二無過三昧。三身意清淨一心三昧。四因果俱樂三昧。五常念三昧。復有六種。一觀骨三昧。二慈三昧。三觀十二因緣三昧。四阿那婆那三昧。五念覺觀三昧。六觀生滅三昧。復有七種。所謂七覺分。一念覺分。二擇法覺分。三精進覺分。四喜覺分。五除覺分。六定覺分。七捨覺分。復有七種。一須陀洹三昧。二斯陀含三昧。三阿那含三昧。四阿羅漢三昧。五辟支佛三昧。六菩薩三昧。七如來覺知三昧。復有八種。謂八解脫三昧。一內有色相外觀色解脫三昧。二內無色相外觀色解脫三昧。三淨解脫身證三昧。四空處解脫三昧。五識處解脫三昧。六無所有處解脫三昧。七非有想非無想處解脫三昧。八滅盡定解脫三昧。復有九種。所謂九次第定。四禪四空及滅盡定三昧。復有十種。所謂十一切處三昧。何等為十。一者地一切處三昧。二者水一切處三昧。三者風一切處三昧。四者青一切處三昧。五者黃一切處三昧。六者赤一切處三昧。七者白一切處三昧。八者空一切處三昧。九者識一切處三昧。十者無所有一切處三昧。復有無數種所謂諸佛菩薩。善男子。是名三昧相善男子。慧有二種。一者世間。二出世間。復有三種。一者般若。二者毘婆舍那。三者闍那。般若者名一切眾生。毘婆舍那者一切聖人。闍那者諸佛菩薩。又般若者名為別相。毗婆舍那者名為總相。闍那者名為破相。復有四種。所謂觀四真諦。善男子。為三事故修奢摩他。何等為三。一者不放逸故。二者莊嚴大智故。三者得自在故。復次為三事故修毘婆舍那。何等為三。一者為觀生死惡果報故。二者為欲增長諸善根故。三者為破一切諸煩惱故』
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻16』:『如來有五聖智三昧。此亦是是處非處力。五智者。法智比智道智盡智無生智。』
  五別五智三昧:不明。五聖分支三昧と五智三昧か?
  五聖分支三昧:涅槃に至る禅定を五支に分類する。即ち、
  1. 第一支:初禅、二禅の喜相。
  2. 第二支:三禅にて喜楽を離れる。
  3. 第三支:四禅中の清浄心。
  4. 第四支:明相、この三支はよく相を明らかにする心を生じる。
  5. 第五支:観相、明相と観相とは因となって五陰を照破し、五陰の空なるを観ずるが故によく涅槃に至る。『成実論12』参照。
  五智三昧:定中に有すべき五種の智慧。即ち、
  1. 初智:わがこの三昧は聖にして清浄である。
  2. 二智:この三昧は凡夫の近づく所ではなく、智者の讃ずる所である。
  3. 三智:この三昧は寂静妙離の故に得た。
  4. 四智:この三昧は現在楽にして後にも楽報を得る。
  5. 五智:この三昧にわれは一心に入り一心に出る。『成実論12』参照。
  禅五支:五種の禅。華厳宗五祖圭峰宗密の説。即ち、
  1. 外道禅:異計を帯び、上を欣び下を厭うて修める。
  2. 凡夫禅:正信の因果であるが、また上を欣び下を厭うて修める。
  3. 小乗禅:『我空』を悟り真理に偏して修める。
  4. 大乗禅:『我法二空』の顕す所の真理を悟りて修める。
  5. 如来清浄禅:自心の本来清浄にして、本より煩悩無く、本より自ら無慮の智性を具足するにより、この心は即ち仏と、畢竟じて異なり無しと、ここに依って修める。『禅源諸詮集都序巻上之一』参照。
復有人言第四禪即是。何以故。第四禪一切諸定至處。如諸經中說。是善心定心不亂心攝心。皆入第四禪中。 復た有る人の言わく、『第四禅は、即ち是れなり。何を以っての故に、第四禅は、一切の諸定の至る処なればなり。諸経中に、是の善心、定心、不乱心、摂心は、皆第四禅中に入ると説けるが如し』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『第四禅』が、
即ち、
『是れである!』。
何故ならば、
『第四禅』は、
一切の、
『諸の定』の、
『至る処だからである!』。
例えば、
『諸の経』中に、こう説く通りである、――
是の、
『善心、定心、不乱心、摂心』は、
皆、
『第四禅』中に、
『入る!』、と。
復次有人言。如身念處。即是至處道。是諸道利益之本。 復た次ぎに、有る人の言わく、『身念処の如き、即ち是れ至処の道なり。是の諸道は利益の本なればなり』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
例えば、
『身念処』が、
即ち、
『至処の道である!』。
是の、
『諸の道』は、
『利益』の、
『根本だからである!』、と。
  身念処(しんねんじょ):身の念処なるを云う。四念処の一。『大智度論巻15下注:四念処、巻19上』参照。
復有人言。一切聖道是用是聖道得隨意利益。 復た有る人の言わく、『一切の聖道なり。是れ是の聖道を用うれば、随意の利益を得』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
一切の、
『聖道』が、
『至処の道である!』。
何故ならば、
是の、
『聖道を用いれば!』、
『意の随(まま)の!』、
『利益』が、
『得られるからである!』、と。
復有論者言。一切善道一切惡道一切聖道。各各知諸道至處。如毛豎經中說。佛悉遍知無能壞無能勝。是名第七力。 復た有る論者の言わく、『一切の善道、一切の悪道、一切の聖道の各各の、諸の道と至処とを知りたまえばなり。毛竪経中に説けるが如く、仏は、悉く遍く知りたまいて、能く壊る無く、能く勝る無ければ、是れを第七の力と名づく』、と。
復た、
有る論者は、こう言っている、――
『仏』は、
『一切の善道』と、
『一切の悪道』と、
『一切の聖道』との、
各各について、
諸の、
『道と至処』とを、
『知っていられる!』。
例えば、
『毛竪経』中に、説かれたように、――
『仏』は、
『悉く遍く!』、
『知って!』、
『仏』を、
『壊る!』者も、
『無く!』、
『仏』に、
『勝る!』者も、
『無い!』ので、
是れを、
『第七の力』と、
『称する!』、と。
  毛竪経(もうじゅきょう):『雑阿含経巻26(684)』、『増一阿含経巻42結禁品』、『仏説身毛喜竪経』等参照。
  参考:『佛說身毛喜豎經巻1』:『爾時尊者舍利子。於其食時著衣持缽。入毘舍離大城。次第乞食。聞彼城中善星長者子以多種緣謗佛法僧。時尊者舍利子。既行乞已。還復本處。飯食事訖。收攝衣缽。洗雙足已。往詣佛所。頭面著地。禮世尊足。退坐一面。而白佛言。世尊。我於今日。入毘舍離大城乞食。聞彼城中善星長者子。以多種緣謗佛法僧。而作是言。沙門瞿曇。尚無人中最上之法。況聖知見最勝所證入於論難。彼為聲聞。宣說諸法。所求所修。以自辯才及不正智。而為所證。其所說法。豈能出要盡苦邊際。世尊。彼長者子。捨離佛法。其來未久斯何等故。發如是言。爾時佛告尊者舍利子言。汝今當知。彼善星長者子。是大麤惡。覆藏自罪。以覆藏故。謗佛法僧。乃發是言。舍利子。如汝所聞彼長者子。出非義語而為誹謗。即作是言。沙門瞿曇。彼為聲聞所說諸法。豈能出要盡苦邊際者。汝當善聽。我今為汝略說其事。舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊十號具足。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。沙門瞿曇。尚無人中最上之法。況聖知見最勝所證入於論難。彼為聲聞。宣說諸法。所求所修。以自辯才及不正智。而為所證。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。如墜重擔。又如聲聞苾芻。戒定慧學。皆悉具足。少用勤力。智獲果證。不以為難。彼墮惡趣。亦復如是。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。於阿蘭若處。棲止坐臥。遠離闤闠種種憒鬧。人所應用房舍坐臥諸緣具等。亦悉棄置。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。離欲離罪息不善法。有尋有伺。離生喜樂。證初禪定。彼長者子。於如是事雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。止息尋伺。內外清淨。心一境性。無尋無伺。定生喜樂。證二禪定。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。離於喜貪。如實正知。修捨念行。身受妙樂。離於貪想。如聖所觀。捨念之行。離喜妙樂。證三禪定。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃出是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。苦樂悉斷。離先所有悅意惱意二種之法。除苦樂想。捨念清淨。證四禪定。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。過諸色想。離想對礙。於種種想。而不作意。緣無邊空。以為行相。證空無邊處定。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。餘之所證。九次第定。亦復如是。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。於處非處以自智力。悉如實知。如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。一切所行。所至之道。悉以正智。如實了知如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。於種種界。無數世界。悉以正智。如實了知。如來成就如是智力。彼長者子於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。於諸有情。所有無數種種信解。悉以正智稱量。如實一一了知。如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言。及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。於諸有情。差別諸根。悉以正智稱量。如實一一了知。如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。於諸有情。積集諸業。及其壽量。悉以正智稱量。如實一一了知。如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。一切禪定。解脫三摩地。三摩缽底。染淨所起。悉以正智。如實了知。如來成就如是智力。彼長者子。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。以淨天眼過於人眼。能觀世間一切有情生滅好醜。若貴若賤。隨業所受。若諸有情。於身口意。造不善業。毀訾賢聖。起於邪見。因斯積集邪見業故。身壞命終。墮在惡趣。生地獄中。若諸有情。於身口意。造眾善業。不毀賢聖。起於正見。因斯積集正見業故。身壞命終。生於善趣天界之中。即以天眼及以正智。悉見悉知。如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。種種宿住。隨念智力。所謂能知一生二生三四五生。若十二十。乃至百生千生百千生。無數百千生。於諸生中。若成若壞。諸有一切成壞劫事。昔如是姓。如是名字。如是種族。如是色相。如是飲食。如是壽量。如是苦樂。此滅彼生。彼滅此生。如是等事。悉以正智。如實思念。一一了知。如來成就如是智力。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄。又舍利子。彼長者子。於我法中不具信種。所有如來應供正等正覺。諸漏已盡。非漏隨增。心善解脫。慧善解脫。於如是法。以自通力。成就所證。舍利子。如來圓滿如是十力。彼長者子。於如是事。雖知雖見。以不信故。乃發是言。而為誹謗。由彼心言及彼所見。相續謗故。速墮地獄』



宿命を知る智力

宿命智力者。宿命有三種。有通有明有力。凡夫人但有通。聲聞人亦通亦明。佛亦通亦明亦力。所以者何。凡夫人但知宿命所經。不知業因緣相續。以是故。凡夫人但有通無有明。 宿命智力とは、宿命には三種有り、有るいは通、有るいは明、有るいは力なり。凡夫人は但だ通なり。声聞人は亦た通、亦た明なり。仏は亦た通、亦た明、亦た力なり。所以は何んとなれば、凡夫人は、但だ宿命の経る所を知りて、業の因縁の相続するを知らざれば、是を以っての故に、凡夫人は但だ通有りて、明有ること無し。
『宿命を知る!』、
『智力』とは、――
『宿命』には、
『三種有り!』、
有るいは、『通であり!』、
有るいは、『明であり!』、
有るいは、『力である!』が、
『凡夫人の宿命』は、
但だ、
『通だけである!』が、
『声聞人』は、
『通でもあり!』、
『明でもあり!』、
『仏』は、
『通でもあり!』、
『明でもあり!』、
『力でもある!』。
何故ならば、
『凡夫人』は、
但だ、
『宿命』の、
『経過した!』所を、
『知るだけであり!』、
『業の因縁』が、
『相続する!』ことを、
『知らない!』ので、
是の故に、
『凡夫人』には、
但だ、
『通が有るだけで!』、
『明』は、
『無いのである!』。
  宿命通(しゅくみょうつう):過去世中一世十世百世千万億世の事を憶念し了知するを云う。六神通の一。『大智度論巻18下注:六神通』参照。
  宿命明(しゅくみょうみょう):我れ及び衆生の一生より百千万億生に至る間に於いて、更る所の名と生と性と食と苦と楽と寿等、並びに此の処に死して余処に生じ、余処に死して此の処に生ぜる行と因と信等の種種の宿命の事に就き、皆悉く了知するを云う。三明の一。『大智度論巻16下注:三明』参照。
  宿命力(しゅくみょうりき):十力の一、宿住随念知力、知宿命智力、宿命智力とも云う。即ち如来は如実に過去世の種種の事に於いて憶念知悉するを云う。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  六神通:仏と大力の菩薩と転輪聖王の持つ六種の超能力をいう。即ち
  1. 、神足通:如意ともいい、即時に何処にでも行くことの出来る能力。
  2. 天眼通:世間の全てを見通す能力。
  3. 天耳通:世間の全てを聞く能力。
  4. 他心通:他の心を全て知る能力。
  5. 宿命通:自他の過去世を全て知る能力。
  6. 漏尽通:煩悩が全くないこと。
  三明:阿羅漢を除いて、仏菩薩の場合には三達ともいう。智慧の力で闇を照らす三種の光明。即ち、
  1. 宿命明、自他の過去世の生死の相を知る。
  2. 天眼明、自他の未来世に於ける生死の相を知る。
  3. 漏尽明、現在の苦の相を知り、一切の煩悩を尽くす智慧。『大智度論巻2、4』参照
聲聞人知集諦故。了了知業因緣相續生。以是故。聲聞人亦有通亦有明。若佛弟子先凡夫人時。得宿命智。入見諦道中知集因緣。第八無漏心得斷見故。通變為明。所以者何。明名見根本。若佛弟子先得聖道。後宿命智生。亦知集因緣力故通變為明。 声聞人は集諦を知るが故に、業の因縁の相続して生ずるを了了に知り、是を以っての故に、声聞人は亦た通有り、亦た明有り。若し仏弟子の、先に凡夫人たりし時、宿命智を得れば、見諦道中に入り、集の因縁を知り、第八無漏心の見を断ずるを得るが故に通変じて明と為る。所以は何んとなれば、明を見の根本と名づくるに、若し仏弟子、先に聖道を得て、後に宿命智生ずれば、亦た集の因縁の力を知るが故に、通変じて明と為ればなり。
『声聞人』は、
『集諦(苦の原因)を知る!』が故に、
『業の因縁』が、
『相続して生じる!』ことを、
『了了に知る!』ので、
是の故に、
『声聞人』には、
『通も有り!』、
『明も有る!』。
若し、
『仏弟子』が、
先に、
『凡夫人であった!』時、
『宿命智』を、
『得ていれば!』、
『見諦道中に入って!』、
『集の因縁』を、
『知る!』が故に、
『第八無漏心(集類智)』が、
『見煩悩』を、
『断じることができる!』ので、
是の故に、
『通が変じて!』、
『明』に、
『為るのである!』。
何故ならば、
『明』とは、
『見(正見)』の、
『根本であり!』、
若し、
『仏弟子』が、
先に、
『聖道』を、
『得ており!』、
後に、
『宿命智』が、
『生じれば!』、
亦た、
『集』の、
『因縁の力』を、
『知っている!』が故に、
是の故に、
『通が変じて!』、
『明』に、
『為るのである!』。
  第八無漏心(だいはちむろしん):不明。蓋し八忍八智の第八集類智にして、即ち集の因縁を知る知なり。『大智度論巻12上注:三十四心、八忍八智』参照。
  参考:『阿毘曇甘露味論巻下』:『十智。法智未知智等智知他人心智苦智習智盡智道智滅智無生智。云何法智。欲界繫諸行苦中無漏智。欲界繫諸行習中無漏智。欲界繫諸行盡中無漏智。欲界繫諸行道斷故。道中無漏智及法智地中無漏智。是謂法智。云何未知智。色無色界繫諸行苦中無漏智。色無色界繫諸行習中無漏智。色無色界繫諸行盡中無漏智。色無色界繫諸行道斷故。道中無漏智及未知智。未知智地中無漏智。是謂未知智。云何等智。一切有漏智慧。若善不善無記。是謂等智。云何知他人心智。禪中思惟力得欲界中知他心心數法。是謂知他心智。云何苦智。五受陰中無常苦空非我無漏智觀。是謂苦智。云何習智。五受陰習因有緣無漏智觀。是謂習智。云何盡智。盡止妙出無漏智觀。是謂盡智。云何道智。八直道應住出無漏智觀。是謂道智。云何滅智。見苦斷習無證思惟道。是四法中無漏智觀。是謂滅智。云何無生智。我已見苦不復更見。我已斷習不復更斷。已盡作證不復更作證。已思惟道不復更思惟道。是四法中無漏智觀。是謂無生智。是十智中二智十六行。法智未知智煖頂忍法中等智十六行。世間第一法中等智四行。餘殘無行。無漏他心智四行。如道智。有漏知他心智無行。苦智四行。習智四行。盡智四行。道智四行。滅智無生智。各十四行。除空無我行。未到禪及中禪地有九智。除知他心智。餘四禪中十智。無色定八智。除法智知他人心智。第一無漏心成就一等智。第二無漏心成就三智。等智法智苦智。第三無漏心過。第四無漏心成就四智。等智法智苦智未知智。第五無漏心過。第六無漏心成就五智。等智法智苦智未知智習法智。第七無漏心過。第八無漏心亦過。第九無漏心成就六智。等智法智苦智未知智習智盡智。第十第十一無漏心過。十二無漏心成就七智。等智法智苦智未知智習智盡智道智。若已離欲曾知他人心智。二種修智。得修行修。先未得功德今得是謂得修。先得功德現在前入是謂行修。見諦道中現在前修彼即當來修。如是諸忍現在前修亦當來修。苦未知智習未知智盡未知智。是三未知智中修等智。道未知智中或修六或修七。若未離欲修六智。已離欲修七智。知他人心智過須陀洹果。十七心中修七智。除滅智無生智知他心智。是十七心中信解脫得利根時。無礙解脫兩道中修六智。除他心智等智滅智無生智。得阿那含果。解脫道中修八智。除滅智無生智。如是七地離欲時。解脫道中修八智。除滅智無生智。是謂無礙道中修七智。除他人心智滅智無生智。有想無想離欲時。八解脫道中修七智。除等智滅智無生智。九無礙道中修六智。除等智知他心智滅智無生智。初無學心中修有漏無漏諸善根。初無學心苦未知智相應。有言習未知智相應。何以故。有想無想處生緣相應。初無學心見諦八忍求覓故名見。非智滅智無生智是智非見。餘殘無漏慧亦慧亦見亦智。除意識相應善有漏慧。及五邪見。餘殘有漏慧。亦智亦慧非見。法智九智緣。除未知智。未知智九智緣除法智。道智九智緣除等智。苦智習智一切有漏法緣。餘殘智十智緣。等智他心智滅智無生智。二智盡法智道法智。能滅三界結。六通四通。等智身通耳通眼通宿命通他心通。五智法智未知智道智等智他心智漏盡通。無漏九智除等智。四意止身意止八智。除他心智盡智。痛意止心意止九智。除盡智。法意止十智四辯法辯辭辯。等智應辯義辯。各十智願智七智。除他心智滅智無生智。十力第一力十智知。二力三力四力五力六力九智除盡智。七力十智。八力九力一智等智。十力九智除等智。第一無畏十智知。二無畏九智知除等智。三無畏八智知除道智盡智。四無畏八智知除苦智習智』
問曰。若佛本為菩薩時。先得宿命智。諸菩薩離無所有處煩惱。後入聖道故。云何佛說我初夜得初明。 問うて曰く、若し仏、本菩薩為(た)りし時、先に宿命智を得たまえば、諸の菩薩は、無所有処の煩悩を離れて、後に聖道に入るが故に、云何が仏は、『我れ初夜に、初の明を得たり』、と説きたまえる。
問い、
若し、
『仏』が、
本、
『菩薩であった!』時に、
先に、
『宿命智』を、
『得られたとすれば!』、
諸の、
『菩薩』は、
『無所有処(無色界第三処)』の、
『煩悩を離れて!』、
後に、
『聖道』に、
『入る!』が故に、
何故、
『仏』は、こう説かれたのですか?――
わたしは、
初夜(午後6~10時ごろ)に、
『初の明』を、
『得た!』、と。
答曰。是時非明。若佛在眾中說我彼時得是明。示眾人言是明初夜得。 答えて曰く、是の時は、明に非ざるも、若し仏、衆中に在れば、『我れ、彼の時に、是の明を得たり』、と説き、衆人に示すには、『是の明は、初夜に得』、と言うなり。
答え、
是の時の、
『宿命智』と、
『言う!』のは、
『明でない!』が、
若し、
『仏』が、
『衆()中に在れば!』、――
わたしは、
『彼の時に!』、
是の、
『明を得た!』と、
『説かれるだろう!』し、
『衆人(俗人)に示す!』時には、――
是の、
『明』は、
『初夜に得た!』と、
『言われるのである!』。
譬如國王未作王時生子。後作王時人問王子何時生。答言。王子某時生。是生時未作王。以今是王故以彼為王子。言王子彼時生。佛亦如是。宿命智生爾時未是明。但名通。後夜時知集因緣故。通變為明。後在眾中說言。我初夜時得是明。 譬えば国王の未だ王と作らざる時に生ぜし子を、後に王と作りたる時、人、『王子は何れの時にか生ず』、と問うに答えて、『王子は、某の時に生ず』、と言うも、是の生ずる時、未だ王と作らざるも、今是れ王たるを以っての故に、彼れを以って王子と為し、『王子は彼の時に生ず』、と言うが如し。仏も亦た是の如く、宿命智の生ずる、爾の時は未だ是れ明ならずして、但だ通と名づくるも、後夜の時、集の因縁を知るが故に通変じて明と為り、後衆中に在るに、説いて『我れは初夜の時是の明を得たり』、と言えり。
譬えば、
『国王』が、
未だ、
『王と作らない!』時に、
『生まれた!』、
『子でも!』、
後に、
『王と作った!』時、
『人』が、こう問えば、――
『王子』は、
『何の時に!』、
『生まれたのですか?』、と。
『王は答えて!』、こう言うだろう、――
『王子』は、
『某の時に!』、
『生まれた!』、と。
是の、
『王子を生んだ!』時には、
未だ、
『王』と、
『作っていなかった!』が、
今は、
『王である!』が故に、
彼れを、
『王子であるとして!』、
『王子』は、
『彼の時に生まれた!』と、
『言うからである!』。
『仏』も、
是のように、
『宿命智が生じた時』には、
未だ、
『明でなく!』、
但だ、
『通』と、
『呼ばれるものであった!』が、
『後夜の時』に、
『集の因縁を知った!』が故に、
『通が変じて!』、
『明』と、
『為り!』、
後に、
『衆中に説いて!』、こう言われたのである、――
わたしは、
『初夜の時』に、
是の、
『明』を、
『得たのである!』、と。
  初夜(しょや):昼夜六時の一、昼の三時を晨朝、日中、日没、夜の三時を初夜、中夜、後夜とする。
問曰。通明義。如是云何為力。 問うて曰く、通、明の義にして、是の如くんば、云何が力と為る。
問い、
『通、明の義』が、
是の通りならば、
何故、
『力』と、
『為るのですか?』。
答曰。佛用是明。知己身及眾生無量無邊世中宿命因緣所更種種悉遍知。是為力。是名第八力。 答えて曰く、仏は是の明を用いて、己が身、及び衆生の無量、無辺世中の宿命の因縁の更(ふ)る所を知り、種種に悉く遍く知りたまえば、是れを力と為し、是れを第八の力と名づく。
答え、
『仏』は、
是の、
『明を用いて!』、
『己の身と衆生』の、
『無量、無辺世』中の、
『宿命の因縁の経過』を、
『知られ!』、
種種に、
『悉く遍く!』、
『知っていられる!』が故に、
是れを、
『力』と、
『称し!』、
是れを、
『第八の力』と、
『呼ぶのである!』。
  (きょう):ふ。ふる。経。



生死を知る智力

生死智力者。佛用天眼見眾生生死處。凡夫人用是天眼。極多見四天下。聲聞人極多傍見小千世界上下亦遍見。 生死智力とは、仏は天眼を用いて、衆生の生死の処なるを見たもう。凡夫人は、是の天眼を用うるも、極めて多きは四天下を見る。声聞人は、極めて多きは小千世界を傍見し、上下も亦た遍く見る。
『生死を知る智力』とは、
『仏』は、
『天眼を用いて!』、
『衆生』とは、
『生死の処である!』と、
『見ていられる!』が、
『凡夫人』は、
是の、
『天眼を用いて!』、
『極めて多くとも!』、
『四天下』を、
『見るだけであり!』、
『声聞人』は、
『極めて多ければ!』、
『小千世界』を、
『傍見することができ!』、
亦た、
『上下』も、
『遍く見ることができる!』。
  小千世界(しょうせんせかい):千の世界の意。即ち「倶舎論巻11」に、「四大洲と日月と蘇迷盧と欲天と梵世と各一千なるを一小千世界と名づく」と云える是れなり。『大智度論巻7下注:三千大千世界』参照。
  傍見(ぼうけん):かたわらにみる。傍観。努力せずに見る。
  上下(じょうげ):不明。小千世界が上下に積み重なりたるの意か?但し「大毘婆沙論巻150」には中千世界を云う。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻150』:『問聲聞獨覺及佛天眼能見幾世界色。答聲聞天眼不作加行見小千界。若作加行見中千界。獨覺天眼不作加行見中千界。若作加行見大千界。世尊天眼不作加行見大千界。若作加行能見無量無邊世界。如天眼通。天耳通等亦爾』
問曰。大梵王亦能見千世界有何等異。 問うて曰く、大梵王も亦た能く千世界を見るに、何等の異か有る。
問い、
『大梵天王』も、
『小千世界』を、
『見ることができる!』が、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。大梵王自於千世界中立則遍見。若在邊立則不見餘處。聲聞人則不爾。在所住處常見千世界。辟支佛見百千世界。諸佛見無量無邊諸世界。 答えて曰く、大梵王は自ら千世界の中に於いて立てば、則ち遍く見るも、若し辺に在りて立てば、則ち余処を見ず。声聞人は、則ち爾らず、所住の処に在りて、常に千世界を見る。辟支仏は百千世界を見る。諸仏は無量、無辺の諸の世界を見たもう。
答え、
『大梵天王』は、
自ら、
『千世界』の、
『中央に立てば!』、
是の、
『千世界』を、
『遍く見ることになる!』が、
『周辺に立てば!』、
『余の処』は、
『見えない!』。
『声聞人』は、
そうでなく!
若し、
『所住の処からだとしても!』、
常に、
『千世界』を、
『見ている!』。
『辟支仏』は、
『百』の、
『千世界』を、
『見ており!』、
『諸仏』は、
『無量、無辺』の、
『諸の世界』を、
『見ていられる!』。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻150』:『問為生欲界所起天眼勝。為生色界所起勝耶。答欲界所起猛利故勝。謂佛獨覺到究竟聲聞所起天眼作用猛利。非生色界所能現前。色界所起所依故勝。謂彼依身廣大勝妙。所起天眼多極微成。非欲界中此眼得起。故二界起各有勝劣』
凡夫人天眼智。是通而非明亦如是。但見所有事。不能見隨業因緣受生。如宿命中說。 凡夫人の天眼智は、是れ通にして、明に非ざること、亦た是の如し。但だ有らゆる事を見るも、業の因縁に随いて生を受くることを見る能わず。宿命中に説けるが如し。
『凡夫人』の、
『天眼智』は、
『通であって!』、
『明でないという!』ことは、
亦た、
『是の通りである!』が、
但だ、
『有らゆる事を見ていながら!』、
『業の因縁に随って!』、
『生を受けるという!』ことは、
『見ることができない!』。
例えば、
『宿命』中に、
『説いた通りである!』。
復次得天眼人中最第一者阿泥盧豆。色界四大造色半頭清淨是天眼。佛天眼四大造色遍頭清淨。是為差別。 復た次ぎに、天眼を得たる人中の最も第一なる者は、阿尼廬豆なり。色界の四大造の色にして、半頭清浄なる、是れ天眼なり。仏の天眼は四大造の色、遍頭清浄なれば、是れを差別と為す。
復た次ぎに、
『天眼を得た人』中の、
『最も第一の者』は、
『阿尼廬豆であり!』、
是の、
『天眼』は、
『色界の四大造の色である!』が故に、
『半頭(前方)のみ!』が、
『清浄である( clear )!』が、
『仏』の、
『天眼』は、
『四大造の色でありながら!』、
『遍頭(前後)』が、
『清浄であり!』、
是れが、
『声聞の天眼』と、
『諸仏の天眼』との、
『差別である!』。
  阿尼廬豆(あにるだ):十大弟子の一。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
  半頭(はんづ):頭の半分。
  遍頭(へんづ):頭の全部。
復次聲聞人所住於三昧中得天眼。即所住三昧中能見。若有覺有觀三昧。若無覺有觀三昧。若無覺無觀三昧。佛隨所入三昧中住欲見盡見。若依無覺無觀三昧中得天眼。入有覺有觀三昧。若無覺有觀三昧中。亦能見。 復た次ぎに、声聞人は所住の三昧中に於いて天眼を得れば、即ち所住の三昧中に於いて能く見る。若しは有覚有観三昧、若しは無覚有観三昧、若しは無覚無観三昧なり。仏は所入の三昧中に住するに随って、見んと欲すれば、尽くを見たもうに、若し無覚無観三昧中に依れば天眼を得、有覚有観三昧、若しくは無覚有観三昧中に入りても、亦た能く見る。
復た次ぎに、
『声聞人』は、
『所住の三昧』中に於いて、
『天眼』を、
『得る!』が故に、
即ち、
『所住の三昧』中に於いて、
『見ることができる!』。
謂わゆる、
『初禅』中には、
『有覚有観三昧』中に、
『見ることができ!』、
『二禅』中には、
『無覚有観三昧』中に、
『見ることができ!』、
『三禅』中には、
『無覚無観三昧』中に、
『見ることができるのである!』が、
『仏』は、
『入られた!』所の、
『三昧中に住まって!』、
『見たい!』所を、
『尽く見られる!』ので、
若し、
『無覚無観三昧に依れば!』、
『天眼を得られて!』、
『尽く!』を、
『見られ!』、
『有覚有観三昧中に入られたり!』、
『無覚有観三昧中に入られたとしても!』、
亦た、
『尽く!』を、
『見ることができるのである!』。
  随所(ずいしょ):其の場処ごとに、到るところ。
  有覚有観三昧(うかくうかんさんまい):初禅、及び未到地の定。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  無覚有観三昧(むかくうかんさんまい):中間地の定。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  無覚無観三昧(むかくむかんさんまい):第二禅近分乃至非想非非想処の定。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
復次聲聞人用是天眼見時。所住三昧中心入餘三昧天眼則滅。佛則不爾。心雖入餘三昧天眼不滅。 復た次ぎに、声聞人は、是の天眼を用いて見る時、所住の三昧中の心、余の三昧に入れば、天眼則ち滅す。仏は則ち爾らずして、心余の三昧に入ると雖も、天眼は滅せず。
復た次ぎに、
『声聞人』は、
是の、
『天眼』を、
『用いて!』、
『見る!』時、
『所住の三昧』中の、
『心』が、
『余の三昧』に、
『入れば!』、
則ち、
『天眼』が、
『滅することになる!』が、
『仏』は、
そうでなく、
『心』が、
『余の三昧に入っても!』、
『天眼』の、
『滅することはない!』。
是智慧遍知一切眾生生死所趣。無能壞無能勝。是名第九力。 是の智慧は遍く、一切の衆生の生死と趣く所を知り、能く壊る無く、能く勝る無し。是れを第九の力と称す。
是の、
『智慧を用いて!』、
『仏』は、
『一切の衆生』の、
『生、死、趣く所』を、
『遍く知って!』、
『仏』を、
『壊る!』者も、
『無く!』、
『仏』に、
『勝る!』者も、
『無い!』ので、
是れを、
『第九の力』と、
『称する!』。



漏尽を知る智力

漏盡智力者。問曰。九力智慧分別有差別。漏盡則同。一切聲聞辟支佛有何等異。 漏尽智力とは、問うて曰く、九力は智慧の分別に差別有れども、漏の尽くるは、則ち同じなり。一切の声聞、辟支仏は、何等の異か有る。
『漏尽を知る智力』とは、――
問い、
『九力』は、
『智慧の分別』に、
『凡夫人、声聞人、諸仏の差別』が、
『有った!』が、
『漏が尽きる!』のは、
則ち、
『同じはずである!』。
『一切の声聞、辟支仏』には、
何のような、
『異(異点)』が、
『有るのですか?』。
答曰。雖漏盡是同。智慧分別大差別。聲聞極大力思惟所斷結生分住分滅分三時斷。佛則不爾。一生分時盡斷。 答えて曰く、漏の尽くること、是れ同じと雖も、智慧を分別すれば大いに差別あり。声聞の極めて大力なるものも、思惟所断の結を生分、住分、滅分の三時に断ず。仏は則ち爾らず、一生分の時、尽く断ず。
答え、
『漏が尽きる!』ことが、
『同じだとしても!』、
『智慧を分別すれば!』、
『差別』が、
『大きい!』。
『声聞』は、
『極めて大力の者でも!』、
『思惟所断の結』を、
『生、住、滅に三分して!』、
『三時』に、
『断じなくてはならない!』が、
『仏』は、
そうでなく、
『生の一分』を、
『断じる!』時に、
『尽く!』、
『断じてしまうからである!』。
聲聞人見諦所斷結使生時斷。思惟所斷三時滅。佛則見諦所斷思惟所斷無異。 声聞人は、見諦所断の結使は生時に断じ、思惟所断は三時に滅す。仏は則ち見諦所断と、思惟所断と異無し。
『声聞人』は、
『見諦所断の結使』は、
『生時』に、
『断じる!』が、
『思惟所断の結使』は、
『三時』に、
『滅しなくてはならない!』のに、
『仏』ならば、
『見諦所断でも!』、
『思惟所断でも!』、
『異なる!』ことが、
『無い!』。
聲聞人初入聖道時。入時與達時異。佛則一心中亦入亦達。一心中得一切智。一心中壞一切障。一心中得一切佛法。 声聞人は、初めて聖道に入る時、入る時と、達する時と異なるも、仏は則ち一心中に、亦た入り、亦た達し、一心中に一切智を得、一心中に一切障を壊り、一心中に一切仏法を得たもう。
『声聞人』は、
『聖道に初めて入る!』時、
『入る時』と、
『達する時』とが、
『異なる!』が、
『仏』ならば、
『一心』中に、
『入って!』、
『達し!』、
『一心』中に、
『一切の智』を、
『得!』、
『一心』中に、
『一切の障』を、
『壊り!』、
『一心』中に、
『一切の仏法』を、
『得られるのである!』。
復次諸聲聞人。有二種解脫。煩惱解脫法障解脫。佛有一切煩惱解脫。亦有一切法障解脫。佛自然得智慧。諸聲聞人隨教道行得。 復た次ぎに、諸の声聞人には、二種の解脱有り、煩悩解脱と法障解脱なり。仏は一切の煩悩の解脱有り、亦た一切の法障の解脱有り。仏は自然に智慧を得、諸の声聞人は教の道を行ずるに随いて得。
復た次ぎに、
諸の、
『声聞人』には、
『煩悩の解脱と!』、
『法障の解脱という!』、
『二種の解脱』が、
『有り!』、
『仏』にも、
亦た、
『一切の煩悩の解脱』が、
『有り!』、
亦た、
『一切の法障の解脱』が、
『有る!』が、
『仏の解脱』は、
『自然に!』、
『得た!』、
『智慧であり!』、
『諸声聞人の解脱』は、
『教えられた道を行う!』に、
『随って!』、
『得たものである!』。
  法障(ほうしょう):心を覆いて菩提心を失わしめる悪法を云う。「十住毘婆沙論巻4」に、能く大乗を求むる人を退転せしむる者、是の法障なる者は、不善法を行ずるを楽い、空無相無願及び諸波羅蜜等の諸の深妙の法を悪む、是の如き法は、能く菩提心を失す」と云える是れなり。
  参考:『十住毘婆沙論巻4』:『復次 不覺諸魔事  菩提心劣弱  業障及法障  亦失菩提心  不覺魔事者。若不知諸魔事。則不能制伏。若不制伏則失菩提心。問曰。何等是諸魔事。答曰。說應布施持戒忍辱精進禪定智慧波羅蜜時。及說大乘所攝深義時。不疾樂說。若樂說於其中間餘緣散亂。若書讀解說論議聽受等。驁慢自大其心散亂。緣想餘事妄念戲笑。互相譏論兩不和合。不能通達實義。從座而去作是念。我於此中無有受記心不清淨。亦不說我城邑聚落居家生處。是故不欲聞法不得滋味從座而去。捨大乘所說諸波羅蜜。及於聲聞辟支佛自調度經中求薩婆若。若書讀解說聽受等時。欲樂說餘種種事。破散般若波羅蜜。所謂說方國聚落城邑園林帥事賊事。兵甲器仗憎愛苦樂父母兄弟男女妻子衣服飲食臥具醫藥資生之物。心則散亂失般若波羅蜜。又說貪恚癡怨家親屬好時惡時歌舞伎樂憂愁戲笑經書文頌往世古事國主帝王地水火風五欲富貴及利養等世間諸事。令心喜悅。若魔化作比丘比丘尼形。以聲聞辟支佛經因緣令得而作是言。汝應習學是經捨本所習。聽法之人不樂聽受。說法者其心懈怠各有餘緣。聽者須法而說者欲至餘方。說者樂說而聽者欲至餘方。說者多欲貪諸利養。聽者無有與心。聽者信心樂欲聞法。而說者不樂為說。說者樂說聽者不樂。或時有說地獄諸苦。不如此身盡苦早取涅槃是最為利。說畜生無量苦惱餓鬼阿修羅種種過惡。說諸生死多有憂患汝於此身早取涅槃是最為利。又稱讚世間尊貴富樂。稱讚色無色界功德快善。生此中者是為大利。稱讚須陀洹乃至阿羅漢果功德之利。汝於此身證此諸果。是汝大利。又說法者樂於眷屬。聽法者不欲隨從。說法者欲至飢亂不安隱國土。語聽者言。汝今何用隨我至此諸國。即生厭懈而不隨逐。說法者貴敬檀越數行問訊。使聽法者不得聽受。於深法中令生疑惑。此非諸佛所說經法。我所說者是佛經法。若菩薩能行是法得證實際。如是等種種因緣兩不和合。當知是等悉是魔事。取要言之於一切善法有障閡者皆是魔事。菩提心劣弱者。諸煩惱有力故。道心劣弱無有勢力。於阿耨多羅三藐三菩提志願永絕。業障者誰有種種業障。此中說能令求大乘人退轉者。是法障者樂行不善法。惡空無相無願及諸波羅蜜等諸深妙法。如是四法能失菩提心。』
  無礙解脱:三解脱有り。諸仏のみ、この三種を具するが故に、その解脱を無礙解脱という。その三種とは、(1)煩悩障礙解脱:煩悩の障礙を離れる。慧解脱を得た阿羅漢の得る解脱。(2)禅定障礙解脱:諸禅の障礙を離れる。共解脱(くげだつ)を得た阿羅漢及び辟支仏の得る解脱。(3)一切法障礙解脱:一切法の障礙を離れる解脱。ただ諸仏のみ、この三解脱を具す。『十住毘婆沙論巻11』参照。
復有人言。若佛以智慧斷一切眾生煩惱。其智亦不鈍不減。譬如熱鐵丸著少綿上。雖燒此綿而火熱勢不減。佛智慧亦如是。燒一切煩惱智力亦不減。 復た有る人の言わく、『若しは、仏、智慧を以って、一切の衆生の煩悩を断じたもうに、其の智は亦た鈍ぜず、減ぜず。譬えば熱鉄の丸を少しの綿上に著くるに、此の綿を焼くと雖も、火熱の勢の減ぜざるが如し。仏の智慧も亦た是の如く、一切の煩悩を焼きて、智力は亦た減ぜず。
復た、
有る人は、こう言っている、――
若し、
『仏』が、
『智慧を用いて!』、
『一切の衆生』の、
『煩悩』を、
『断じられたとしても!』、
其の、
『智慧』は、
亦た、
『鈍ることもなく!』、
『減ることもない!』。
譬えば、
『熱鉄の丸』を、
『少しの綿上に著けて!』、
此の、
『綿』を、
『焼いたとしても!』、
其の、
『火熱の勢』が、
『減らないようなものである!』。
『仏の智慧』も、
是のように、
『一切の煩悩を焼いても!』、
其の、
『智力』が、
『減ることはない!』。
復次聲聞但知自盡漏。諸佛自知盡漏亦知盡他人漏。如淨經中說。 復た次ぎに、声聞は但だ自ら漏を尽くせるを知り、諸仏は自ら漏を尽くせるを知り、亦た他人の漏を尽くせるを知る。浄経中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『声聞』は、
但だ、
『自らの漏』を、
『尽くした!』と、
『知るだけである!』が、
『諸仏』は、
亦た、
『自らの漏』を、
『尽くした!』と、
『知り!』、
亦た、
『他人の漏』を、
『尽くした!』と、
『知る!』。
例えば、
『浄経』中に、
『説かれている通りである!』。
復次佛獨知眾生心中分別有九十八使一百九十六纏。除佛無有知者。 復た次ぎに、仏は独り、衆生の心中を分別して、九十八使、一百九十六纏有るを知りたまえるも、仏を除けば、知る者有ること無し。
復た次ぎに、
『仏』は、
独り、
『衆生の心中を分別して!』、
『九十八使、一百九十六纏が有る!』と、
『知っていられる!』が、
『仏を除けば!』、
『知っている!』者が、
『無い!』。
  九十八使(くじゅうはっし):九十八種の煩悩を云う。『大智度論巻7上注:使、九十八随眠、巻41下注:十結』参照。
  一百九十六纏(いっぴゃくくじゅうろくてん):使の所摂に非ざる一百九十六種の煩悩垢を云う。『大智度論巻24下注:纏と使との違い』参照。
  纏と使の違い:「十住毘婆沙論巻16」に、「煩悩、煩悩の垢とは、使の所摂を名づけて煩悩と為し、纏の所摂を名づけて垢と為す。使の所摂の煩悩とは、貪、瞋、慢、無明、身見、辺見、見取見、戒取、邪見、疑なり。是の十根本を、三界、見諦所断、思惟所断に随い分別するが故に、九十八使と名づく。使の所摂に非ざる者は、不信、無慚、無愧、諂曲、戯侮、堅執、懈怠、退没、随眠、佷戾(モトル)、慳嫉、憍不忍、食不知足なり、亦た三界、見諦所断、思惟所断を以って分別するが故に、一百九十六纏垢あり。有るが言わく、人の煩悩は、深心に在り、垢は浅心に在りと。有る人の言わく、諸の障蓋を名づけて纏垢と為し、余は皆煩悩と名づくと」と云える、其の違いなり。『大智度論巻7上注:纏』参照。
  苦法智(くほうち):無間に欲界の苦聖諦の境を縁じてこれを決了証知する無漏の法智の生ずるを云う。八忍八智の一。十六心の一。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  苦比智(くひち):無間に上二界の苦聖諦の境を縁じてこれを決了証知する無漏の法智の生ずるを云う。八忍八智の一。十六心の一。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  道比智(どうひち):無間に上二界の道聖諦の境を縁じてこれを決了証知する無漏の法智の生ずるを云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  九解脱道(くげだつどう):三界九地の修惑を断ずるに一地の惑に各九品有り、其の九品の解脱を総称して云う。『大智度論巻12上注:三十四心、解脱道』参照。
  参考:『十住毘婆沙論巻16』:『煩惱煩惱垢者。使所攝名為煩惱纏所攝名為垢。使所攝煩惱者。貪瞋慢無明身見邊見見取戒取邪見疑。是十根本隨三界見諦思惟所斷分別故名九十八使。非使所攝者。不信無慚無愧諂曲戲侮堅執懈怠退沒睡眠佷戾慳嫉憍不忍食不知足。亦以三界見諦思惟所斷分別故有一百九十六纏垢。有言人。煩惱在深心垢在淺心。有人言。諸障蓋名為纏垢。餘皆名煩惱。』
  九十八使(くじゅうはっし):倶舎宗では、煩悩は三界四諦の各各に八十八の見惑が有り、十の修惑が有るという。 (七使の項を参照のこと) その内訳は、見惑として、(1)欲界の苦諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。(2)欲界の集諦、滅諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、邪見、見取見。(3)欲界の道諦に関して、貪、瞋、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。(4)色界の苦諦に関して、貪、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。(5)色界の集諦、滅諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見。(6)色界の道諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。(7)無色界の苦諦に関して、貪、癡、慢、疑、身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見。(8)無色界の集諦、滅諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見。(9)無色界の道諦に関して、貪、癡、慢、疑、邪見、見取見、戒禁取見。修惑として、(10)欲界に、貪、瞋、癡、慢。(11)色界に、貪、癡、慢。(12)無色界に、貪、癡、慢。以上の合計九十八をいう。
  一百九十六纏:煩惱煩惱垢者。使所攝名為煩惱纏所攝名為垢。使所攝煩惱者。貪瞋慢無明身見邊見見取戒取邪見疑。是十根本隨三界見諦思惟所斷分別故名九十八使。非使所攝者。不信無慚無愧諂曲戲侮堅執懈怠退沒睡眠佷戾慳嫉憍不忍食不知足。亦以三界見諦思惟所斷分別故有一百九十六纏垢。
  九無間九解脱(くむげんくげだつ):九無礙道(くむげどう)、三界を分って九地と為し、また一地の修惑(しゅわく、修道で断つべき煩悩)を九品に分って、これを断つに、各、無間と解脱の二道が有る。 正しく惑を断つ智を無間道といい、解脱してすでに断ち終った智を解脱道という。一地の惑に九品あるので、九無間九解脱という。
佛亦獨知苦法智苦比智中斷爾所結使性。乃至道比智亦如是。思惟所斷九解脫道中亦爾。 仏は亦た独り苦法智、苦比智中に断ずべき爾の所の結使の性を知り、乃至道比智も亦た是の如く、思惟所断、九解脱道中も亦た爾り。
『仏』は、
亦た、
独り、
『苦法智、苦比智中に断じられる!』、
『結使の性』を、
『知り!』、
乃至、
『道比智まで!』、
亦た、
『是の通りであり!』、
『思惟所断、九解脱道中に断じられる!』、
『結使の性』も、
『是の通りである!』。
佛悉遍知一切眾生如是事聲聞若少知少說皆隨佛語。 仏は悉く遍く一切の衆生の是の如き事を知りたまえるも、声聞は若しは少しく知り、少しく説くも、皆仏の語に随えり。
『仏』は、
『一切の衆生』の、
是のような、
『事』を、
『悉く遍く! 、
『知っていられる!』が、
『声聞』は、
若し、
『少しだけ知り!』、
『少しだけ説いた!』としても、
皆、
『仏の語』に、
『随っているのである!』。
佛如是漏盡智慧力勢。無能壞無能勝。是名第十力。 仏の是の如き漏尽智の力勢は、能く壊る無く、能く勝る無し。是れを第十の力と名づく。
『仏』の、
是のような、
『漏尽の智慧』の、
『力勢』は、
『壊る!』者も、
『勝る!』者も、
『無い!』ので、
是れを、
『第十の力』と、
『称する!』。



十力総説

問曰。是十力何者最勝。 問うて曰く、是の十力の何者か、最勝なる。
問い、
是の、
『十力』中の、
何者が、
『最も!』、
『勝るのですか?』。
答曰。各各於自事中。大如水能漬火能燒。各自有力。 答えて曰く、各各自事中に於いて大なること、水の能く漬(ひた)し、火の能く焼くが如く、各自ら力有り。
答え、
各各が、
自らの、
『仕事』中に於いて、
『大(最勝)である!』。
例えば、
『水』は、
『物』を、
『漬(ひた)すことができ!』、
『火』が、
『物』を、
『焼くことができるように!』、
『各自』が、
『力』を、
『有している!』。
有人言初力為大。能攝十力故。或言漏盡力大。事辦得涅槃故。 有る人の言わく、『初力を大と為す、能く十力を摂するが故なり。』、と。或は言わく、『漏尽の力大なり、事辦ずれば涅槃を得るが故なり』、と。
有る人は、こう言っている、――
『初の力(是処非処智力)』が、
『大である!』、
何故ならば、
『十力』を、
『包含するからである!』、と。
或は、こう言っている、――
『漏尽の力』が、
『大である!』。
何故ならば、
『事(漏尽)が成就すれば!』、
『涅槃』を、
『得られるからである!』、と。
論者言是十力皆以無礙解脫為根本。無礙解脫為增上。 論者の言わく、是の十力は皆、無礙解脱を以って、根本と為し、無礙解脱を、増上と為す。
論者は言う、――
是の、
『十力』は、
皆、
『無礙解脱』が、
『根本であり!』、
『増上(推進力)である!』。
  無礙解脱(むげげだつ):唯仏のみ煩悩障礙、定障礙、一切法障礙の三種の礙を解脱せりの意。『大智度論巻18下注:解脱、巻21下注:無礙解脱』参照。
  増上(ぞうじょう):上位の( superior )、梵語 adhipati の訳、勝る/卓越した/圧倒した/支配的な( Surpassing, predominating, overwhelming, dominant )、梵 adhipati の原義は王の臣民に振るう卓越した力を云うが( The Sanskrit adhipati originally refers to the predominating power wielded by a king over his subjects )、一般的には前進/増進/着実に増強するの意であり、上進に似ている( the general sense of the term is that of advancing, increasing, becoming steadily more intense, like 上進. )、開発を目的とした増強/負荷を掛けること;何者かをして、強大ならしむること( To put more strength or weight into something to aid in its development; to make something become stronger or greater. )、促進/増大/発展すること( To accelerate, increase, develop. )。
問曰。若是十力獨是佛事。弟子今世無人能得。佛何以故說。 問うて曰く、若し是の十力は、独り是れ仏事にして、弟子は今世に人の能く得る無くんば、仏は何を以っての故にか、説きたまえる。
問い、
若し、
是の、
『十力』が、
独り、
『仏だけ!』の、
『事であり!』、
『弟子』中には、
今世に、
『得られる人』が、
『無いとすれば!』、
『仏』は、
何故、
是の、
『十力』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。斷人十力中疑故。無智人令心決定堅牢故。令四眾歡喜。言我等大師獨有如是力。不與一切眾生共。 答えて曰く、人の十力中に疑うを断たんが故に、無智の人の人の心をして、決定し堅牢ならしめんが故に、四衆をして歓喜して、『我等が大師は、独り是の如き力有り、一切衆生と共にせず』、と言わしめたまえり。
答え、
『人』が、
『十力』を、
『疑う!』のを、
『断つ!』為の故に、
『無智の人』の、
『心』を、
『決定して!』、
『堅牢にさせん!』が為の故に、
『四衆を歓喜させて!』、
こう言わせられたのである、――
わたし達の、
『大師だけ!』が、
独り、
是のような、
『力』を、
『有していられる!』。
一切の、
『衆生と共に!』、
『有していられるのではない!』、と。
又諸外道輩言。憍曇氏沙門常寂靜處住。智慧縮沒。以是故發至誠言。我十種智力四無所畏安立具足。在大眾中說具足智慧教化眾生。如師子吼轉梵輪。一切外道及天世人無能轉者。為止是謗故說是十力。 又諸の外道の輩の言わく、『憍曇氏の沙門は、常に寂静処住すれば、智慧も縮没せん』、と。是を以っての故に至誠の言を発したまわく、『我れ十種の智力、四無所畏に安立具足すれば、大衆中に在りて具足せる智慧を説いて、衆生を教化し、師子吼の如く梵輪を転ずるも、一切の外道、及び天、世人に、能く転ずる者無し』、と。是の謗を止めんが為の故に、是の十力を説きたまえり。
又、
『諸の外道の輩』が、こう言っているので、――
『憍曇氏の沙門』は、
常に、
『寂静処に住まっている!』が故に、
『智慧』も、
『縮没しているだろう!』、と。
『仏』は、
是の故に、
『至誠の言』を、こう発せられた、――
わたしは、
『十種の智力』と、
『四無所畏』とを、
『安立(建立)し!』、
『具足(達成)した!』が故に、
『大衆』中に於いて、
『具足した智慧を説いて!』、
『衆生』を、
『教化しながら!』、
『師子が吼えるように!』、
『梵輪』を、
『転じているのである!』。
一切の、
『外道や!』、
『天、世人』には、
是れを、
『転じられる!』者が、
『無い!』、と。
『仏』は、
是のような、
『謗(そしり)を止める!』為の故に、
是の、
『十力』を、
『説かれたのである!』。
  憍曇(きょうどん):梵名gautama、又gotamaに作り、又瞿曇に作る。釈尊の姓。『大智度論巻3上注:仏五姓、巻21下注:瞿曇』参照。
  沙門(しゃもん):梵名zramaNa、巴梨名samaNa、勤労、或いは息止等と訳す。出家の意。『大智度論巻22上注:沙門』参照。
  縮没(しゅくもつ):ちぢんでみえなくなる。
  至誠(しじょう):誠のいたり。嘘偽りのないまごころのいたり。
  安立(あんりゅう):安置し建立するの義。「無量寿経巻上」に、「無数の衆生を教化し、安立す」と云い、又「倶舎論巻11」に、「器世間を安立す」と云い、「唯識論巻8」に、「真如を安立す」と云い、「勝鬘宝窟巻上末」には、「安立とは、始めて建つるを安と曰い、終に成るを立と為す」と云える、皆其の例なり。<(丁)
  師子吼(ししく):梵語僧伽娜siMha-naadaの訳。巴梨語siiha-naada、如来の説法が能く一切の戯論を滅し、九十六種の異見を砕破するを、師子王の一たび咆吼すれば百獣悉く懾伏するに喩えたるもの。「長阿含巻11阿[少/兔]夷経」に、「野干は師子と称して自ら謂って獣王と為し、師子吼を作さんと欲して、還って野干の声を出す」と云い、「無量寿経巻上」に、「衆の為に法蔵を開いて広く功徳の宝を施し、常に大衆の中に於いて説法師子吼す」と云い、「維摩経巻上仏国品」に、「法城を護らんが為に正法を受持し、能く師子吼して名十方に聞こゆ。(中略)法を演べて畏れなきこと猶お師子の吼ゆるがごとし」と云い、又「大般涅槃経巻27」に、「師子王の如きは自ら身力を知り、牙爪鋒芒、四足を地に踞し、巌穴に安住し、尾を振るうて声を出す。若し能く是の如き諸相を具することあらば、当に知るべし是れ則ち能く師子吼することを。真の師子王は晨朝に穴を出でて頻申欠呿し、四向願望し、声を発して震吼す。十一事の為なり。何等をか十一となす、一に実の師子に非ずして詐りて師子と作るものを壊せんと欲するが為の故なり、二に自の身力を試みんと欲するが為の故なり、三に住処をして浄からしめんと欲するが為の故なり、四に諸子をして処所を知らしめんが為の故なり、五に群輩をして怖心なからしめんが為の故なり、六に眠者をして覚悟を得しめんが為の故なり、七に一切放逸の諸獣をして放逸ならざらしめんが為の故なり、八に諸獣をして来たりて依附せしめんが為の故なり、九に大香象を調せんと欲するが為の故なり、十に諸の子息に教告せんが為の故なり、十一に自らの眷属を荘厳せんが為の故なり。一切の禽獣にして師子の吼ゆるを聞かば、水性の属は深淵に潜没し、陸行の類は窟穴に蔵伏し、飛者は堕落し、諸の大香象は怖走して糞を失す。諸の善男子、彼の野干の如きは、師子を逐うて百年に至ると雖も、終に師子吼を作す能わざるなり。若し師子の子ならば、始めて三年を満ぜば則ち能く哮吼すること師子王の如し。善男子、如来正覚は智慧の牙爪、四如意の足、六波羅蜜満足の身、十力雄猛にして大悲を尾と為し、四禅清浄の窟宅に安住し、諸の衆生の為に而も師子吼し、魔軍を摧破し、衆に十力を示し、仏の行処を開き、諸の邪見の為に帰依処と作り、生死怖畏の衆を安撫し、無明睡眠の衆生を覚寤し、悪法を行ずる者は為に悔心を作し、邪見の一切の衆生を開示し、六師をして師子吼に非ざることを知らしめんが故に、富蘭那等の憍慢の心を破せんが為の故に、二乗をして悔心を生ぜしめんが為の故に、五住の諸の菩薩等に教えて大力の心を生ぜしめんが為の故に、正見の四部の衆をして、彼の邪見の四部の徒衆に於いて怖畏を生ぜざらしめんが為の故に、聖行梵行天行の窟宅より頻申して而も出で、(中略)衆生をして具足して尸波羅蜜に安住せしめんが為の故に、故に師子吼す。師子吼とは決定説と名づく、一切の衆生は悉く仏性あり、如来常住にして変易あることなし。善男子、声聞縁覚は如来世尊に随逐すること無量百千阿僧祇劫なりと雖も、而も亦た師子吼を作す能わず。十住の菩薩若し能く是の三行処を修行せば、当に知るべし是れは則ち能く師子吼す」と云える皆即ち其の説なり。師子吼の意義に関しては、「維摩詰所説経註巻1」に、「肇曰わく、師子吼は無畏音なり、凡そ言説する所、群邪異学を畏れず、師子吼すれば衆獣之に下るに喩う。師子吼は演法を美するなりと。(中略)什曰わく、上には一切時無畏なることを明かす、此れは説法無畏を明かす。上の師子吼は徳音遠く振るうことを明かし、此れは能く実法を説き、衆咸く敬順することを明かす。猶お師子吼の群獣を威懾するに喩うるなり」と云い、又「勝鬘宝窟巻上本」に、「馥法師は思益経を引き師子吼を解するに其の多義あり。略して三種を説く、一に如説修行、二に無畏説、三に決定説なり。所説は所行の如く、所行は所説の如く、虚説あることなきが故に師子吼と名づく。二に無畏説とは、世俗に小巫は大巫を見ば神気尽くと云えり。而るに勝鬘は親しく仏前に於いて勝衆に対して辯才を縦任にし、如法を宣揚す。畏懼する所なきが故なり。浄名には、演法無畏なること師子吼の如しと云えり。又無畏に二あり、一に他を畏れず、二に他をして畏れしむ。獣王震吼するも亦復た是の如し、一に百獣を畏れず、二に百獣をして畏れを生ぜしむ。大士の法を演ずる義も亦た同じく然り、他を畏れずとは、勝人座に臨むも而も道を弘めて綽然たるは、他を畏れざるを謂うなり。能く外道をして驚愧せしめ、天魔をして慴懼せしむるは、他をして畏れしむるを謂うなり。師子吼を決定説と名づくるは、此れ師子の性情を借りて喩と為す。師子の河を渡るに望直にして而も過ぐ、若し邪曲ならしめば即ち是れ廻還するが如し。菩薩の教を演ぶるも義亦た是の如し、究竟の理に依りて究竟の教を説き、若し究竟せざれば即便ち説かず。故に下の文に師子吼とは一向記説なりと云えり。一向記説とは猶お是れ決定説なり。又菩薩の説法は能く上大道を弘め、下群生を利す。邪として摧かざるはなく、正として顕わさざるはなし。故に下の文に決定して一乗の了義を宣唱すと云うなり。又能く非法の悪人を摧伏す、是の故に名づけて師子吼と為すなり」と云えり。以って其の喩意を見るべし。又「中阿含巻26師子吼経」、「新華厳経巻57」、「勝鬘経一乗章」、「大智度論巻25」等に出づ。<(望)
  四無所畏(しむしょい):四種の無所畏の意。即ち仏菩薩は四種の無所畏を得るが故に、説法に当りて怖畏する所なく勇猛安隠なるを云う。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  四無所畏:説法に対する自信。即ち、
  1. 一切正智無所畏:一切を正智して説法するに畏るる所無し。
  2. 一切漏尽無所畏:一切の漏尽きて説法するに畏るる所無し。
  3. 説障法無所畏:一切の障法(涅槃道を遮る法)を説くに畏るる所無し。
  4. 説尽苦聖道無所畏:一切の苦を尽くして涅槃に至る道を説くに畏るる所無し。
問曰。好人法一事。智慧尚不應自讚。何況無我無所著人而自讚十力。如說
 自讚自毀  讚他毀他 
 如是四種  智者不行
問うて曰く、好人の法の一事は、『智慧は尚お応に自ら讃ずべからず』、となり。何に況んや、我無く、所著人無くして、而も自ら十力を讃ずるをや。説くが如し、
自ら讃じて自ら毀(そし)り、他を讃じて他を謗る、
是の如き四種を、智者は行わず。
問い、
『好人の法(好い人というもの)』の、
『一事(条件)』は、――
『智慧すら!』、
尚お、
『自ら!』、
『讃じるべきでない!』。
況して、
『我も!』、
『著する人も!』、
『無いはずなのに!』、
自ら、
『十力』を、
『讃じるものだろうか?』。
こう説く通りである、――
『自らを、讃じること!』、
『自らを、毀(そし)ること!』、
『他を、讃じること!』、
『他を、毀ること!』、
是のような、
『四種』を、
『智者は行わない!』、と。
答曰。佛雖無我無所著。有無量力。大悲為度眾生故。但說十力不為自讚。 答えて曰く、仏には、我無く、所著無く、無量の力有りと雖も、大悲もて、衆生を度せんが為の故に、但だ十力を説いて、自ら讃ぜんが為にあらず。
答え、
『仏』には、
『我』も、
『著する!』所も、
『無く!』、
『無量の力』が、
『有る!』が、
『大悲』が、
『衆生を度する!』為の故に、
但だ、
『十力のみ!』を、
『説いたのであり!』、
自ら、
『無量の力』を、
『讃じたのではない!』。
譬如好賈客導師。見諸惡賊誑諸賈客示以非道。導師愍念故語諸賈客。我是實語人。汝莫隨誑惑者。又如諸弊醫等誑諸病人。良醫愍之語眾病者。我有良藥能除汝病。莫信欺誑以自苦困。 譬えば好き賈客の導師の、諸の悪賊の諸の賈客を誑して、非道を以って示すを見るに、導師愍念するが故に、諸の賈客に語るが如し、『我れは、是れ実語の人なり。汝、誑惑者に随う莫れ』、と。又諸の弊医等の、諸の病人を誑すに、良医の之を愍れみて、衆病者に語るが如し、『我れに良薬有り、能く汝か病を除かん。欺誑を信じて、以って自ら苦困すること莫れ』、と。
譬えば、
『好い賈客導師( a good guide )』が、
諸の、
『悪賊』の、
『諸の賈客( merchants )を誑して!』、
『非道を示している!』のを、
『見た!』時、
『導師』は、
『愍念する!』が故に、
『諸の賈客』に、こう語るようなものである、――
わたしが、
『実を語る!』、
『人である!』。
お前は、
『誑そうとする者』に、
『随ってはならない!』、と。
又、
『諸の悪医』等が、
諸の、
『病人』を、
『誑していた!』時、
『良医』が、
諸の、
『病者』に、こう語るようなものである、――
わたしには、
『良薬が有り!』、
お前の、
『病』を、
『除くことができる!』。
お前は、
『欺す者を信じて!』、
『自らを!』、
『困らせてはならない!』、と。
  弊医(へいい):悪医。
  欺誑(ごこう):だましたぶらかす。
  苦困(くこん):苦しみこまる。困苦。
復次佛功德深遠。若佛不自說無有知者。為眾生少說所益甚多。以是故佛自說是十力。 復た次ぎに、仏の功徳は深遠なるも、若しは仏、自ら知者有ること無しと説きたまわざるも、衆生の為に少し説けば、益する所甚だ多からん。是を以っての故に仏は、自ら是の十力を説きたまえり。
復た次ぎに、
『仏』の、
『功徳』は、
『深遠である!』が、
若しは( but )、
『仏』は、
『自らの!』為に、
『他に!』、
『知る者が無い!』と、
『説かなくても!』、
『衆生の!』為に、
『少し説けば!』、
『利益する!』所が、
『甚だ多い!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『自ら!』、
是の、
『十力』を、
『説かれたのだう!』。
  (にゃく):<動詞>[本義]従順( be obedient to )、の如し/に似ている( like, as if )、同じ/相当する( be equal to )、及ぶ/到達する( arrive )、対処する( treat with, handle )。<代名詞>此の如き/此の様な( such )、汝/汝の( you, your )、其の/他の( he, his )、何のように/何のような( how, what )、其のように( like so )、<接続詞>もし/仮如( if )、[句首に置いて、下の文を引き起す]もし( so )、もしは/或は( or )、と/与/和( and )、しかし/而るに( but )。<助詞>[形容詞/副詞の後に用いて、事物の状態を示す]ようだ、[句首にも用いる]。
復次有可度者必應為說。所應說中次第應說十力。若不說彼不得度。是故自說。 復た次ぎに、度すべき者有れば、必ず応に為に説きたもうべきに、応に説きたもうべき所の中に、次第に応に十力を説きたもうべし。若し説きたまわざれば、彼れを度するを得ず。是の故に自ら説きたまえり。
復た次ぎに、
『度さねばならない!』者が、
『有れば!』、
必ず、
其の為に、
『説かれるはずである!』が、
『説かれねばならぬ!』、
『法』中に、
次第に、
『十力』を、
『説かれるはずである!』。
若し、
『説かれなければ!』、
彼れは、
『度』を、
『得られないからである!』。
是の故に、
『自ら!』、
『説かれたのである!』。
譬如日月出時。不作是念。我照天下當有名稱。日月既出必自有名。佛亦如是。不自念為有名稱故自說功德。佛清淨語言說法。光明破眾生愚闇。自然有大名稱。以是故佛自說十力等諸功德無有失。 譬えば、日月の出づる時に、、『我れは、天下を照らせば、当に名称有るべし』、と是の念を作さざるも、日月は既に出で、必ず自ら名有るが如し。仏も亦た是の如く、自ら念じて、名声有らんが為の故に、自ら功徳を説きたもうにあらず。仏は清浄なる語言もて法を説きたもうに、光明、衆生の暗愚を照らせば、自然に大名称有り。是を以っての故に、仏は自ら十力等の諸功徳を説きたまえるも、失有ること無し。
譬えば、
『日、月』は、
『出る!』時に、こう念じることはないが、――
わたしは、
『天下』を、
『照らすのであるから!』、
当然、
『名称』が、
『有るはずだ!』、と。
既に、
『日、月は出ているのであるから!』、
必ず、
『自然に!』、
『名称』が、
『有るようなものである!』。
『仏』も、
是のように、
自ら、こう念じられることはないが、――
『名称が有るように!』、
自ら、
『功徳』を、
『説こう!』、と。
『仏』の、
『清浄な語言による!』、
『説法の光明』が、
『衆生』の、
『愚闇』を、
『照らす!』が故に、
『自然に!』、
『大名称』が、
『有るのであり!』、
是の故に、
『仏』は、
自ら、
『十力』等の、
諸の
功徳』を、
『説かれた!』が、
而し、
『過失』は、
『無いのである!』。
力名能有所辦。用是十種力增益智慧故。能破論議師。用是十種力增益智慧故能好說法。用是十種力增益智慧故。能摧伏不順。用是十種力增益智慧故。於諸法中得自在。如大國主於臣民大眾中得自在。是為以聲聞法略說十力義
大智度論卷第二十四
力を、能く辦ずる所有りと名づけ、是の十種の力を用いて、智慧を増益するが故に、能く論議師を破り、是の十種の力を用いて、智慧を増益するが故に、能く好んで法を説き、是の十種の力を用いて、智慧を増益するが故に、能く順わざるを摧伏し、是の十種の力を用いて、智慧を増益するが故に、諸法中に於いて自在を得ること、大国の主の、臣民、大衆中に於いて、自在を得るが如し。是れを、声聞法を以って、十力の義を略説すと為す
大智度論巻第二十四
『力』を、
有る、
『事』を、
『成就することができる!』と、
『称する!』が、
是の、
『十種の力を用いて!』、
『智慧を増益する!』が故に、
『論議師』を、
『破ることができ!』、
是の、
『十種の力を用いて!』、
『智慧を増益する!』が故に、
『好んで!』、
『法を説くことができ!』、
是の、
『十種の力を用いて!』、
『智慧を増益する!』が故に、
『順わない!』者を、
『摧伏することができ!』、
是の、
『十種の力を用いて!』、
『智慧を増益する!』が故に、
諸の、
『法』中に、
『自在を得ることができる!』、
譬えば、
『大国の主』が、
『臣民、大衆』中に、
『自在を得るようなものである!』。
是れは、
『声聞法を用いて!』、
『十力の義』を、
『略説したのである!』。

大智度論巻第二十四


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