巻第二十四(上)
大智度論初品十力釋論第三十九
1.十智総論
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大智度論初品十力釋論第三十九(卷二十四)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


十智総論

【經】舍利弗。菩薩摩訶薩欲遍知佛十力四無所畏四無礙智十八不共法大慈大悲。當習行般若波羅蜜 舍利弗、菩薩摩訶薩は、遍く仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。
舍利弗!
『菩薩摩訶薩』が、
遍く、
『仏の十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法、大慈大悲』を、
『知ろう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習慣的に!』、
『行わねばならない!』。
  十力(じゅうりき):仏のみ成就する十種の智力を云う。仏十八不共法の一科。『大智度論巻16上注:十力、同巻19上注:十力』参照。
  四無所畏(しむしょい):仏、菩薩は四種の無所畏を得るが故に、説法に当りて怖畏する所なく勇猛安隠なるを云う。『大智度論巻5(下)注:四無所畏』参照。
  四無礙智(しむげち):四種の無礙自在なる解智を云う。『大智度論巻17(下)注:四無礙解』参照。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):唯仏菩薩のみ有し、声聞縁覚に通ぜざる十八種の功徳法を云う。『大智度論巻16(上)注:十八不共法』参照。
  大慈大悲(だいじだいひ):平等無縁なる仏の慈悲を云う。『大智度論巻24(上)注:慈悲』参照。
  慈悲(じひ):慈と悲との併称。慈は梵語弥羅maitriiの訳。亦たは梅怛麗薬maitrya、巴梨語metti、悲は梵語迦楼那karuNaaの訳。又加盧那に作る、巴梨語同じ。衆生を愛念して楽を与うるを慈、衆生を愍傷して苦を抜くを悲と云い、或いは無利益を除くを慈、利楽を与うるを悲と云うなり。「大般涅槃経巻15」に、「諸の衆生の為に無利益を除く、是れを大慈と名づけ、衆生に無量の利楽を与えんと欲す、是れを大悲と名づく」と云い、「大智度論巻20」に、「慈は衆生を愛念するに名づく、常に安隠楽事を求めて以って之を饒益す。悲は衆生を愍念するに名づく、五道中の種種の身苦心苦を受く」と云い、又「倶舎論巻29」に、「初習業の位に云何が慈を修する、謂わく先づ自所受の楽を思惟し、或いは仏菩薩声聞及び独覚等の所受の快楽を説くを聞きて便ち是の念をなす、願わくは諸の有情をして一切等しく是の如きの快楽を受けしめんと。若し彼れ本来煩悩増盛にして、是の如く平等に心を運ぶこと能わざれば、有情に於いて分ちて三品となすべし、所謂親友と処中と怨讐となり。親に復た三を分つ、謂わく下中上なり。中品は唯一なり。怨にも亦た三を分つ、謂わく下中上なり。総じて七品を成ず。品の別を分ち已りて、先づ上の親に於いて真誠の与楽勝解を発起し、此の願成じ已らば中下の親に於いても亦た漸次に是の如きの勝解を修す、親の三品に於いて平等なることを得已らば、次に中品と下中上の怨とに於いて亦た漸次に是の如きの勝解を修す。数習力に由りて能く上の怨に於いて与楽の願を起して上の親と等しからしむ。此の勝解を修して既に無退を得ば、次に所縁に於いて漸修して広からしむ。謂わく漸に想を運びて一邑、一国、一方、一切の世界を思惟し、与楽の行相遍満せざることなし。是れを慈無量を修習すること成ずとなす。(中略)悲を修する法も此れに准じて知るべし」と云える是れなり。是れ四無量心の中の慈無量悲無量の二を説けるものにして、即ち声聞の人等が衆生を縁じて楽を与え、又其の苦を抜かんと観想するの法を明かしたるなり。然るに「大般涅槃経」等には慈悲に衆生縁、法縁、無縁の三種の別あることを説けり。即ち彼の経「巻15」に、「慈に三縁あり、一には衆生を縁じ、二には法を縁じ、三には則ち無縁なり。(中略)衆生縁とは五陰を縁じて其の楽を与えんことを願う、是れを衆生縁と名づく。法縁とは諸の衆生の所須の物を縁じて之を施与す、是れを法縁と名づく。無縁とは如来を縁ず、是れを無縁と名づく。慈とは多く貧窮の衆生を縁ず、如来大師は貧窮を永離して第一の楽を受く。若し衆生を縁ぜば則ち仏を縁ぜず、法も亦た是の如し。是の義を以っての故に、如来を縁ずる者を名づけて無縁と曰う。世尊、慈の所縁は一切衆生なり、父母妻子親属を縁ずるが如し、是の義を以っての故に名づけて衆生縁と曰う。法縁とは父母妻子親属を見ず、一切法は皆縁より生ずと見る、是れを法縁と名づく。無縁とは法相及び衆生相に住せず、是れを無縁と名づく」と云い、又「大智度論巻40」に、「慈悲心に三種あり、衆生縁、法縁、無縁なり。凡夫は衆生縁なり、声聞辟支仏及び菩薩は初は衆生縁、後は法縁なり。諸仏は善く畢竟空を修行するが故に名づけて無縁となす」と云える其の説なり。浄影の「観無量寿経義疏巻末」に之を解し、衆生縁とは諸の衆生を縁じて楽を与え、苦を抜かんと欲するを云い、法縁とは諸の衆生は無我無人にして、但だ五陰生滅の法数のみありと観じて慈悲を行じ、或いは衆生は妄に我れ人の為に纏縛せらるるを念じ、深く哀傷して慈悲を行ずるを云い、無縁とは五陰空寂にして本来無所有なり、故に第一義諦に住して無度の度を施すを云うとし、又智顗の「観無量寿仏経疏巻下」に、「一に衆生縁は心に一切衆生を攀縁することなく、而も衆生に於いて自然に益を現ず。涅槃経に我れ実に往かず、慈善根力を以って能く衆生をして斯の如きの事を見せしむと云うが如し。二に法縁とは心に法を観ずることなく、而も諸法に於いて自然に普く照らす、日の物を照すに分別する所なきが如し。三に無縁とは心に理を観ずることなく、而も平等第一義の中に於いて自然に安住す」と云えり。是れ即ち親疎各別の衆生を縁じて慈悲を起すを衆生縁とし、無我の理を知り、衆生は幻化の如しと観じて慈悲を行ずるを法縁とし、法相及び衆生相を見ず、第一義諦に住して平等に慈悲を起すを無縁と名づけたるなり。蓋し慈悲は凡夫二乗等も亦た之を起すと雖も、其れ等は所謂衆生縁又は法縁にして平等無縁なること能わず、故に仏の慈悲を独り名づけて大慈大悲mahaa-maitrii-mahaa-karuNaaとなす。「観無量寿経」に、「仏心とは大慈悲是れなり」と云い、又「大智度論巻27」に委説し、「問うて曰わく、大慈大悲は是の如くんば、何等か是れ小慈小悲にして、此の小に因りて名づけて大と為す。答えて曰わく、四無量心の中の慈悲を名づけて小と為し、此の中の十八不共法に次第して大慈悲を説くを名づけて大となす。復た次ぎに諸仏心中の慈悲を名づけて大となし、余人心中のものを名づけて小となす。問うて曰わく、若し爾らば何を以って菩薩は大慈大悲を行ずと言うや。答えて曰わく、菩薩の大慈は仏に於いて小となし二乗に於いて大となす。此れは是れ仮りに名づけて大となす。仏の大慈大悲は真実にして最大なり。復た次ぎに小慈は但だ心に衆生に楽を与えんと念ずるも実には楽事なし。小悲は衆生の種種の身苦心苦を観ずるに名づく、憐愍するのみにして脱せしむること能わず。大慈は衆生をして楽を得しめんと念じ、亦た楽事を与う。大悲は衆生の苦を憐愍し、亦た能く苦を脱せしむ。復た次ぎに凡夫人声聞辟支仏菩薩の慈悲を名づけて小となし、諸仏の慈悲を乃ち名づけて大となす、復た次ぎに大慈は大人の心中より生じ、十力四無所畏四無礙智十八不共法の大法の中より出で、能く三悪道の大苦を破し、能く三種の大楽を与う。天楽と人楽と涅槃楽となり。復た次ぎに是の大慈は十方三世の衆生乃至昆虫に遍満し、慈は骨髄に徹して心捨離せず、三千大千世界の衆生の三悪道に堕せんに、若し人ありて一一皆代わりて其の苦を受け、苦を脱することを得しめ已りて、五所欲の楽、禅定の楽、世間最上の楽を以って自ら恣に之を与えて皆満足せしめんも、仏の慈悲に比するに千萬分中の一分にも及ばず。何を以っての故に、世間の楽は欺誑不実にして生死を離れざるが故なり」と云える即ち其の説なり。以って諸仏の大慈悲の広大なることを見るべし。又「旧華厳経巻37」、「大乗本生心地観経巻1」、「説無垢称経巻4」、「十住毘婆沙論巻1」、「菩薩地持経巻7」、「十地経論巻2」、「仏地経論巻5」、「大毘婆沙論巻17、82」、「順正理論巻78」、「往生論註巻下」、「同記巻2」、「観音玄義巻上」、「法華経文句記巻7下、巻8上」、「大般涅槃経疏巻4」、「華厳経探玄記巻12」、「大日経疏巻1」、「同演奥鈔巻2」、「理趣釈」、「金剛頂瑜伽他化自在天理趣会普賢修行念誦儀軌」、「止観輔行伝弘決巻9之3」、「四分律行事鈔資持記巻下3之4」等に出づ。<(望)
  習行(じゅうぎょう):ならいおこなう。習慣的に行ずる。
  :十力:諸法を如実に知る智力。
  1. 処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。
  2. 業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないことをいう。
  3. 静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。
  4. 根上下智力:衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。
  5. 種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。
  6. 種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。
  7. 遍趣行智力:五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。
  8. 宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。
  9. 死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。
  10. 漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。

  :四無所畏:説法に対する自信。
  1. 一切正智無所畏:一切を正智して説法するに畏るる所無し。
  2. 一切漏尽無所畏:一切の漏尽きて説法するに畏るる所無し。
  3. 説障法無所畏:一切の障法(涅槃道を遮る法)を説くに畏るる所無し。
  4. 説尽苦聖道無所畏:一切の苦を尽くして涅槃に至る道を説くに畏るる所無し。

  :四無礙智:説法に対する智辦。
  1. 義無礙智:義(言説すべからざる諸法の実相)に対する無礙の智慧。
  2. 法無礙智:法(一切義の名字、事物の名前)に対する無礙の智慧。
  3. 辞無礙智:辞(言語、論法)に対する無礙の智慧。
  4. 楽説無礙智:巧みに説法する智慧。

  :十八不共法:仏のみに有する十八の功徳。
  1. 身無失:仏は戒定慧と智慧と慈悲を用いて常にその身を修めるが故に一切の煩悩がない。
  2. 口無失:その為に身の過失がなく、口の過失がなく、
  3. 念無失:心に思うことにも過失がない。
  4. 無異想:仏は一切の衆生を平等に済度して、心に選ぶことがない。
  5. 無不定心:仏は行住坐臥において勝れた禅定にあって、心が散乱することがない。
  6. 無不知己捨:仏は一切の物事に通じてそれに執著しない。
  7. 欲無滅:仏は衆生を済度することを欲して、厭きることがない。
  8. 精進無滅:仏は衆生を済度して休息することがない。
  9. 念無滅:仏は三世の諸仏の法と一切の智慧に相応して満足し、その状態から退くことがない。
  10. 慧無滅:仏は一切の智慧を具えて尽きることがない。
  11. 解脱無滅:仏は一切の執著を永久に遠離していること。
  12. 解脱知見無滅:仏は一切に解脱しているため、あらゆることを実相のままに理解することができる。
  13. 一切身業隨智慧行:仏の智慧はすべて衆生を導くために使われる。
  14. 一切口業隨智慧行:それは仏のすべての身体の行為と、説法と、
  15. 一切意業隨智慧行:心の働きのすべてに及ぶ。
  16. 智慧知過去世無礙:仏の智慧は全ての衆生の過去世を礙(さまたげ)なく照らし知ることができる。
  17. 智慧知未来世無礙:未来世も同じ。
  18. 智慧知現在世無礙:現在世も同じ。

【論】問曰。是十力四無所畏等。是佛無上法。應當前說。何以故。先說九相八念等。 問うて曰く、是の十力、四無所畏等は、是れ仏の無上法なれば、応当に前に説くべし。何を以っての故にか、先に九相、八念等を説きたまえる。
問い、
是の、
『十力、四無所畏』等は、
『仏』の、
『無上の法であり!』、
当然、
『前に!』、
『説くべきである!』のに、
何故、
『九相、八念』等を、
『先に!』、
『説かれたのですか?』。
答曰。六波羅蜜是菩薩所應用先已說。三十七品乃至三無漏根是聲聞法。菩薩行是六波羅蜜得力故。欲過聲聞辟支佛地。亦欲教化向聲聞辟支佛人令入佛道。是故呵是小乘法捨一切眾生無所利益。 答えて曰く、六波羅蜜は、是れ菩薩の応に用うべき所なれば、先に已に説けり。三十七品、乃至三無漏根は、是れ声聞法なり。菩薩は、是の六波羅蜜を行じて力を得るが故に、声聞、辟支仏の地を過ぎんと欲し、亦た声聞、辟支仏に向かう人を教化して、仏道に入れしめんと欲す。是の故に、是の小乗法の一切の衆生を捨てて、利益する所無きを呵す。
答え、
『六波羅蜜』は、
『菩薩に用いられる!』が故に、
已に、
『先に!』、
『説かれている!』。
『三十七品、乃至三無漏根という!』のは、
是れは、
『声聞』の、
『法である!』。
『菩薩』は、
是の、
『六波羅蜜を行って!』、
『力』を、
『得た!』が故に、
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎたい!』と、
『思っている!』し、
亦た、
『声聞、辟支仏に向かう!』、
『人を教化して!』、
『仏道に入らせよう!』と、
『思っている!』ので、
是の故に、こう呵るのである、――
是の、
『小乗の法』は、
一切の、
『衆生』を、
『捨ててしまう!』ので、
何処にも、
『利益する!』所が、
『無い!』、と。
  三十七品(さんじゅうしちほん):菩提に帰趣する助道法に三十七種の別あるを云う。即ち四念処、四正勤、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分の総称なり。『大智度論巻17(下)注:三十七菩提分法』参照。
  三無漏根(さんむろこん):無漏の根となるものに三種の別あるを云う。二十二根の一科。即ち未知欲知根、知根、知已根の総称。『大智度論巻17(下)注:二十二根、巻23(下)注:三無漏根』参照。
若諸聲聞人言。汝是凡夫人未斷結使。不能行是法是故空呵。以是故佛言菩薩應具足三十七品等。諸聲聞法不可得故。雖行是諸法以不可得故。為眾生行邪行故。行此正行常不捨是諸法不可得空。亦不疾取涅槃證。若菩薩不解不行是小乘。而但呵者誰當肯信。 若しは、諸の声聞人の言わく、『汝は、是れ凡夫人にして、未だ結使を断ぜざれば、是の法を行ずる能わず。是の故に空もて呵せり』、と。是を以っての故に、仏の言わく、『菩薩は、応に三十七品等を具足すべし。諸の声聞法は、不可得なるが故なり』、と。是の諸法を行ずと雖も、不可得なるを以っての故に、衆生の邪行を行ずるが為の故に、此の正行を行ずるも、常に捨てず。是の諸法は不可得にして空なれば、亦た疾かに涅槃の証を取らず。若し菩薩にして、是の小乗を解せず、行ぜずして、而も但だ呵せば、誰か当に肯て信ずべき。
若しは、
『諸の声聞人』は、こう言うだろう、――
お前は、
『凡夫人であり!』、
未だ、
『結使』を、
『断じていない!』が故に、
是の、
『法』を、
『行うことができず!』、
是の故に、
『空である!』と、
『呵すのだ!』』、と。
是の故に、
『仏』は、こう言われた、――
『菩薩ならば!』、
当然、
『三十七品』等を、
『具足すべきである!』のは、
諸の、
『声聞の法』が、
『不可得だからである!』、と。
是の、
諸の、
『声聞の法を行ってはいる!』が、
是の、
『諸法』は、
『不可得である!』が故に、
亦た、
『衆生』が、
『邪行』を、
『行っている!』が為の故に、
此の、
『正法(声聞法)を行って!』、
『常に!』、
『捨てないのである!』。
是の、
諸の、
『法』は、
『不可得という!』、
『空である!』が故に、
亦た、
是の、
『法を用いて!』、
疾かに、
『涅槃の証』を、
『取ることもない!』。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『小乗の法』を、
『理解することもなく!』、
『行うこともなく!』、
但だ、
之を、
『呵すだけであれば!』、
誰が、
肯て、
『信じるだろうか?』。
譬如釋迦牟尼佛。若先不行六年苦行。而呵言非道者無人信受。以是故自行苦行過於餘人。成佛道時呵是苦行道人皆信受。是故六波羅蜜後次第行聲聞法 譬えば、釈迦牟尼仏にして、若し先に六年の苦行を行ぜず、而も呵して、『道に非ず』、と言えば、人の信受する無きが如し。是を以っての故に、自ら苦行を行じて、余人に過ぐれば、仏道を成ずる時、是の苦行の道を呵すも、人は、皆信受せり。是の故に、六波羅蜜の後に次第して、声聞法を行ず。
譬えば、
『釈迦牟尼仏など!』は、
若し、
先に、
『六年』の、
『苦行』を、
『行わずに!』、
但だ、
『道でない!』と、
『呵したとすれば!』、
『人』に、
『信受される!』ことが、
『無かったであろう!』が故に、
是の故に、
自ら、
『苦行を行い!』、
『余人に!』、
『過ぎてから!』、
『仏道を成じた!』時、
是の、
『苦行』を、
『呵した!』ので、
『人』が、
皆、
『信受したようなものである!』。
是の故に、
『六波羅蜜の後』に、
次第に、
『声聞法』を、
『行うのである!』。
復次此非但是聲聞法。是法中和合不捨眾生意具足一切佛法。以不可得空智故。名菩薩法。 復た次ぎに、此れは但だ是れ声聞のみの法なるに非ず。是の法中に、衆生を捨てざるの意を和合すれば、一切の仏法を具足し、不可得空の智を以っての故に、菩薩法と名づく。
復た次ぎに、
此の、
『三十七品』等は、
但だ、
『声聞のみ!』の、
『法ではない!』。
是の、
『法』中に、
『衆生を捨てないという!』、
『意』を、
『和合すれば!』、
一切の、
『仏法』を、
『具足するのである!』が、
『菩薩』は、
『不可得空という!』、
『智』を、
『用いて!』、
是の、
『法』を、
『行う!』が故に、
是れを、
『菩薩の法』と、
『称するのである!』。
問曰。若菩薩具足三十七品諸法者。云何不入聲聞法位。 問うて曰く、若し菩薩にして、三十七品の諸法を具足すれば、云何が、声聞の法位に入らざる。
問い、
若し、
『菩薩』が、
『三十七品』の、
『諸法』を、
『具足するならば!』、
何故、
『声聞』の、
『法位』に、
『入らないのですか?』。
答曰。具足者具足觀知而不取證。了了觀知故名具足如佛說
 一切畏杖痛  莫不惜壽命 
 恕已可為喻  杖不加群生
雖言一切畏杖痛。無色界眾生無身。色界雖有身而無鞭杖。欲界中諸佛轉輪聖王夜摩天已上皆不畏杖楚。為畏得杖處者故言一切。具足亦如是。不為求證著法故言具足。
答えて曰く、具足すとは、観知を具足すれども、証を取らざれば、了了に観知するが故に、具足と名づく。仏の説きたまえるが如し、
一切は杖痛を畏れ、寿命を惜まざる莫し、
恕し已りて為に喩すべし、杖を群生に加えざれ。
『一切は杖痛を畏る』、と言うと雖も、無色界の衆生には身無く、色界は身有りと雖も、鞭杖無ければ、欲界中の諸仏、転輪聖王、夜摩天は已に上りて、皆杖楚を畏れず。杖処を得るを畏るる者の為の故に、『一切』、と言う。具足も亦た是の如く、証を求めて法に著するものの為の故に、『具足』、と言うにあらず。
答え、
『具足』とは、
『具足して観、知しながら!』、
『証』を、
『取らなければ!』、
『了了に観、知する!』が故に、
『具足』と、
『称する!』。
譬えば、
『仏』は、こう説かれている、――
一切は、
『杖痛を畏れ!』、
『寿命を惜まない!』者が、
『無い!』。
『衆生』を、
『恕(ゆる)したならば!』、
『諭(さと)すがよい!』、
『群生』に、
『杖』を、
『加えてはならない!』、と。
『一切』は、
『杖痛を畏れる!』、とは言っても、――
『無色界』の、
『衆生』には、
『身』が、
『無く!』、
『色界』は、
『身が有っても!』、
『鞭杖』が、
『無い!』。
『欲界』中の、
『諸仏、転輪聖王、夜摩天』は、
『上位である!』が故に、
皆、
『杖楚』を、
『畏れない!』。
即ち、
『杖処()を得る!』のを、
『畏れる!』者の為に、
『一切』と、
『言うのである!』。
『具足』も、
亦た、
是のように、
『証を求めて!』、
『法に著する!』者の為の故に、
『具足』と、
『言うのではない!』。
  (じょ):さとる。ゆるす。己を推して人に及ぼすを恕と為す。己の欲せざる所は人に施すことなきなり。
  (ゆ):<動詞>[本義]告げる( inform )、諭す/諭示/啓発/開導する( enlighten )、知る( know, understaqnd )、たとう/譬える/比喩する( draw an analogy )。
  群生(ぐんしょう):群れて生ずるものの意。衆生。
  鞭杖(べんじょう):むちとつえ。
  杖楚(じょうそ):つえとしもと。楚はいばらの小枝。教える時に用う。
  杖処(じょうしょ):杖を受くるに其の理由ある処。罪の如し。
  参考:『出曜経巻27』:『若人嬈亂彼自求安樂世者。世多有人執迷惑意怨讎心深。觸嬈於人自望快樂宗族蒙慶。如種苦栽冀望甘果。唐喪功夫無益於時。是故說曰。若人嬈亂彼自求安樂世也。遂成其怨憎終不脫苦患者。卒鬥殺人猶尚可恕。懷毒陰謀乃不可親。如斯之類必趣惡道。所以然者由其執愚不捨故也。是故說曰遂成其怨憎終不脫苦患也  善樂於愛欲  以杖加群生  於中自求安  後世不得樂 善樂於愛欲者。一切眾生皆貪樂樂不樂苦惱。見苦則群心不願樂。己自行殺教人殺生。己自婬泆教人婬泆。己自妄言綺語。復教人妄言綺語。己自不與取。復教他人竊盜他物。是故說曰善樂於愛欲也。以杖加群生者。所行非法濫抂百姓。意之所存以傷為本。是故說曰以杖加群生也。於中自求安後世不得樂。人作惡行皆自為己。捨身受形遭諸苦惱。經歷生死沈漂五道。所生之處罪苦自隨。是故說曰於中自求安後世不得樂也  人欲得歡樂  杖不加群生  於中自求樂  後世亦得樂 人欲得歡樂杖不加群生者。一切眾生皆貪於樂不樂於苦。見彼苦者興慈愍心。四等平均視彼如赤子。初不起怨捶打眾生。處世皆求安身。設我今日觸嬈彼者。後世之中受對無數。是故說曰人欲得歡樂杖不加群生於中自求樂後世亦得樂也  樂法樂學行  慎莫行惡法  能善行法者  今世後世樂 夫人在世務行於法選擇善法。去其惡者周旋往來。追善知識採取善教。所至到處興有法事。是故說曰樂法樂學行慎莫行惡法能善行法者今世後世樂也』
復次我先說。不捨眾生以不可得空智和合故。不墮聲聞地。 復た次ぎに、我れは先に説けり、『衆生を捨てざるを以って、不可得空の智と和合するが故に、声聞の地に堕せず』、と。
復た次ぎに、
わたしは、
先に、こう説いた、――
『衆生を捨てない!』ことを、
『不可得という!』、
『空智』と、
『和合する!』が故に、
『声聞』の、
『地』には、
『堕ちないのである!』、と。
問曰。從六波羅蜜。至三無漏根。但言應具足。自此以後何以故。皆言欲得欲知是事。當習行般若波羅蜜。 問うて曰く、六波羅蜜より、三無漏根に至るまでは、但だ、『応に具足すべし』、と言い、此れより以後は、何を以っての故にか、皆、『是の事を得んと欲し、知らんと欲すれば、当に般若波羅蜜を習行すべし』、と言う。
問い、
『六波羅蜜、乃至三無漏根』は、
但だ、
『具足せねばならない!』と、
『言い!』
此れ以後は、
皆、
何故、こう言うのですか?――
是の、
『事』を、
『得ようとし!』、
『知ろうとするならば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『習慣的に!』、
『行わねばならない!』、と。
答曰。聲聞法有量有限故。言應具足。自此已下是諸佛法甚深無量。菩薩未得故言欲得是事當學般若波羅蜜。 答えて曰く、声聞法は、有量、有限なるが故に、『応に具足すべし』、と言うも、此れより已下は、是れ諸仏の法にして、甚だ深く、無量なるも、菩薩は、未だ得ざるが故に、『是の事を得んと欲すれば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と言えり。
答え、
『声聞の法』は、
『有量、有限である!』が故に、
『具足せねばならない!』と、
『言い!』、
此れ以下は、
『諸仏の法であり!』、
『甚だ深く!』、
『無量である!』が、
『菩薩』が、
未だ、
『得ていない!』が故に、
こう言うのである、――
是の、
『事』を、
『得よう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
復次聲聞法易解易知故言具足。菩薩法佛法難解難知故言當學。 復た次ぎに、声聞の法は、解し易く、知り易きが故に、『具足』、と言い、菩薩の法、仏の法は、解し難く、知り難きが故に、『当に学すべし』、と言う。
復た次ぎに、
『声聞の法』は、
『理解し易く、知り易い!』が故に、
『具足』と、
『言い!』、
『菩薩の法、仏の法』は、
『理解し難く、知り難い!』が故に、
『学ばねばならない!』と、
『言う!』。
復次聲聞法總相。但知苦知苦因知苦盡知盡苦道。 復た次ぎに、声聞の法は総相なれば、但だ苦を知り、苦の因を知り、苦の尽くるを知り、苦を尽くす道を知る。
復た次ぎに、
『声聞の法』は、
『総相であり!』、
但だ、
『苦を知り!』、
『苦の因を知り!』、
『苦の尽きることを知り!』、
『苦を尽くす道を知る!』。
譬如二種醫。一者但知病知病因知差病知差病藥。而不知一切病不知一切病因不知一切病差。不知一切差病藥。若復但知治人病不知治畜生病。或能治一國土。不能治餘國土。有能治數十種病。不悉知四百四種病病因病差差病藥亦如是。二者於四種中悉皆遍知。遍知藥遍知病。聲聞人如小醫不能遍知。菩薩摩訶薩如大醫。無病不知無藥不識。以是故聲聞法應具足。菩薩法應當學 譬えば二種の医の如し。一には、但だ病を知り、病の因を知り、病を差すを知り、病を差す薬を知るも、一切の病を知らず、一切の病の因を知らず、一切の病の差ゆることを知らず、一切の病を差す薬を知らず。若しは復た、但だ人の病を治するを知りて、畜生の病を治するを知らず。或は能く一国土を治するも、余の国土を治する能わず。有るいは能く数十種の病を治するも、悉くは、四百四種の病を知らず。病の因と、病の差ゆると、病を差す薬も亦た是の如し。二には、四種の中に於いて、悉く皆遍く知ること、遍く薬を知り、遍く病を知る。声聞人は、小医の如く、遍く知る能わざるも、菩薩摩訶薩は、大医の如く、病の知らざる無く、薬の識らざる無し。是を以っての故に、声聞法は、応に具足すべく、菩薩法は応当に学すべし。
譬えば、
『医』には、
『二種有るようなものである!』、――
一には、
但だ、
一種の、
『病』と、
『病の因』と、
『病の治癒』と、
『病を治癒する薬』とを、
『知るだけで!』、
一切の、
『病』も、
『病の因』も、
『病の治癒』も、
『病を治癒する薬』も、
『知らない!』。
若しは、
復た、
但だ、
『人』の、
『病を治療する!』ことを、
『知るだけで!』、
『畜生』の、
『病を治療する!』ことは、
『知らない!』。
或は、
『一国』の、
『領土ならば!』、
『統治できる!』が、
『余の国』の、
『領土までは!』、
『統治できない!』。
有るいは、
『数十種』の、
『病ならば!』、
『治療できる!』が、
『四百四種の病』を、
『悉くは!』、
『知らない!』。
亦た、
『病の因』、
『病の治癒』、
『病を治癒する薬』も、
『是の通りである!』。
二には、
『四種』中に於いて、
皆悉く、
『遍く!』、
『知ることである!』、
『薬の四種』を、
『遍く!』、
『知り!』、
『病の四種』を、
『遍く!』、
『知ることである!』が、
『声聞人』は、
『小医のように!』、
『遍く!』、
『知ることができず!』、
『菩薩摩訶薩』は、
『大医のように!』、
『知らない!』、
『病』が、
『無く!』、
『識らない!』、
『薬』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『声聞法』は、
当然、
『具足せねばならず!』、
『菩薩法』は、
当然、
『学ばねばならぬのである!』。
佛有十力者。是處不是處如實知一力也。知眾生過去未來現在諸業諸受。知造業處知因緣知報二力也。知諸禪解脫三昧定垢淨分別相如實知三力也。知他眾生諸根上下相如實知四力也。知他眾生種種欲五力也。知世間種種無數性六力也。知一切道至處相七力也。 仏に十力有りとは、是処不是処を如実に知る、一の力なり。衆生の過去、未来、現在の諸業、諸受を知り、造業の処を知り、因縁を知り、報を知る、二の力なり。諸の禅、解脱、三昧、定の垢浄の相を分別して、如実に知る、三の力なり。他の衆生の諸根を知りて、上下の相を如実に知る、四の力なり。他の衆生の種種の欲を知る、五の力なり。世間の種種、無数の性を知る、六の力なり。一切の道の至る処の相を知る、七の力なり。
『仏に有る!』、
『十力』とは、
『是の処』と、
『是でない処』とを、
『如実に知れば!』、
『一の力である!』。
『衆生の過去、未来、現在の!』、
『諸業、諸受()』と、
『造業の処』と、
『造業の因縁』と、
『造業の報』とを、
『知れば!』、
『二の力である!』。
『諸の禅、解脱、三昧、定』の、
『相を分別して!』、
『如実に知れば!』、
『三の力である!』。
『他の衆生』の、
『諸根を知り!』、
『諸根の相を分別して!』、
『如実に知れば!』、
『四の力である!』。
『他の衆生』の、
『種種の欲』を、
『知れば!』、
『五の力である!』。
『世間』の、
『種種、無数の性』を、
『知れば!』、
『六の力である!』。
『一切の道の至る!』、
『処の相』を、
『知れば!』、
『七の力である!』。
知種種宿命。共相共因緣一世二世乃至百千世劫初劫盡。我在彼眾生中如是姓名。飲食苦樂壽命長短。彼中死是間生是間死還生是間。此間生名姓飲食苦樂。壽命長短亦如是八力也。 種種の宿命の共相、共因縁を一世、二世、乃至百千世、劫初より劫尽までを知り、我れは彼の衆生中に在りて、是の如き姓名、飲食、苦楽、寿命の長短なり、彼の中に死して、是の間に生じ、是の間に死して、還た是の間に生じ、此の間の生の名姓、飲食、苦楽、寿命の長短も亦た是の如き、八の力なり。
『種種の宿命』の、
『共相、共因縁』を、
『一世、二世、乃至百千世、劫初より劫尽まで!』、
『知り!』、
わたしは、
『彼の世間の衆生中に在る!』時には、
是のような、
『姓名であり!』、
『飲食であり!』、
『苦楽であり!』、
『寿命の長短であり!』、
『彼の世間中に死んで、是の世間に生まれ!』、
『是の世間中に死んで、還って是の世間に生まれ!』、
『此の世間に生まれる!』と、
是のような、
『姓名であり!』、
『飲食であり!』、
『苦楽であり!』、
『寿命である!』と、
亦た、
是のように、
『知れば!』、
『八の力である!』。
  共相(ぐうそう):梵語saamaanya-lakSaNaの訳。共通の相の意。自相に対す。即ち自法のみに限らず、他の法の上にも共通する義相を云う。「仏地経論巻6」に、「若し分別心にて一の種類の能詮所詮を立て、通じて諸法に在ること縷の花を貫くが如くなるを、名づけて共相と為す。此れ要らず散心分別仮立にして、是れ比量の境なり」と云い、「成唯識論述記巻2末」に、「法の自体は唯だ証智のみ知る、言説及ばず。是れ自相なり。若し法の体性の言説の及ぶ所にして、仮智の所縁なる、是れを共相と為す」と云い、又「百法問答鈔巻2」に、「可言の共相とは、彼此の法に於いて、随って何れの法にも分別の行解を作して言慮するの時、慮解の前に当情に浮ぶ所の相なり。此の相は、偏に是れ分別心が仮智仮言を以って、安立し施設し増益する所の相なり。唯能縁の行解のみありて、都べて所縁の真実共相の体なきなり」と云える是れなり。是れ蓋し不可言にして唯証智のみ之を知るを自相となすに対し、可言施設にして仮智の所縁たるものを総じて共相と為すの意なり。但し可言施設の中に就いて相望対論せば、更に唯共相あり、自相亦共相あり。唯共相とは、「倶舎論巻23」に、「一切の有為は皆非常の性なり、一切の有漏は皆是れ苦の性なり、及び一切の法は空と非我との性なるを、名づけて共相と為す」と云い、「成唯識論述記巻2末」に、「有るは是れ共相にして自相に非ず。空無我等の如し」と云い、「百法問答鈔巻2」に、「唯共相とは、彼此の諸法の上に同じく空無我等の相あり、此の相は諸法の体の上の共の義相にして、都べて別の体性なし。既に唯だ彼此貫通の相にして、全く自に限る義門なきが故に、是れ至極の共相なり」と云える其の説なり。自相亦共相とは、「因明入正理論疏巻上本」に、「可説の中に五蘊等を自と為し、無常等を共と為す。色蘊の中に色処を自と為し、色蘊を共と為す。色処の中に青等を自と為し、色処を共と為す。青等の中に衣華を自と為し、青等を共と為す。衣華の中に極微を自と為し、衣華を共と為す。是の如く乃至離言を自と為し、極微を共と為す。離言の中に聖智内冥に本真を得るが故に、之を名づけて自と為し、説いて離言と為し、之を名づけて共と為す。共相は仮有なり、仮智の変なるが故なり。自相は真なるべし。現量に親しく依り、聖智証するが故なり。此れを除いて以外に説いて自性と為すは、皆仮の自性なり。真の自性には非ず。仮智と及び言詮とを離れたるに非ざるが故なり」と云える是れなり。是れ即ち一往可説の法の中に於いて自相共相を対望せば、重重の不同ありと雖も、而も真の自相は唯だ聖智の所証にして、余の自性は仮智及び言詮を離れざれば、乃ち総じて共相と名づくべしと云うの意なり。又「大毘婆沙論巻42」、「大乗法苑義林章巻2末」、「成唯識論掌中枢要巻上末」、「倶舎論光記巻23」等に出づ。<(望)
  共相(ぐうそう):諸法に自共二相有り、自体の相に局るを自相と曰い、他の相に通ずるを共相と曰う。例えば五蘊中に五蘊の各事は、是れ自相なるが如し。空無我等の理、生住異滅等の相は、是れ共相なり。乃至青色に於いて多く事体有り、其の一一の事体は、是れ自相なり。華の青、果の青、乃至金の青、衣の青、自他共通の青は、是れ共相なり。故に自相共相、重重相望して尽くる無く、遂に自相の実体無し。「唯識述記巻2末」には、「五蘊中に、五蘊の事を以って自相と為し、空無我等の理を共相と為すが如し。(中略)是の如く展転して不可説に至るを自相と為し、可説の極微等を共相と為す、故に理を以って推すに自相の体無し。且く不可説の法体を説いて自相と名づけ、可説を共相と為す。理を以って論ずれば、共は既に共に非ず、自も亦た自に非ず」と曰えり。<(丁)
  共因縁(ぐういんねん):自他に共通の因縁の意。蓋し十二因縁に於ける無明の如き、又諸仏来生の因縁たる大慈悲の如きを云う。
佛天眼淨過諸天人眼見眾生死時生時端正醜陋。若大若小若墮惡道若墮善道。如是業因緣受報。是諸眾生惡身業成就。惡口業成就。惡意業成就。謗毀聖人邪見邪見業成就。是因緣故身壞死時入惡道。生地獄中。是諸眾生善身業成就。善口業成就。善意業成就不謗聖人正見正見業成就。是因緣故身壞死時入善道生天上九力也。 仏の天眼の浄きこと、諸の天、人の眼に過ぎ、衆生の死する時、生ずる時、端正醜陋、若しは大、若しは小、若しは悪道に堕し、若しは善道に堕し、是の如き業の因縁、受報を見る。是の諸の衆生は、悪の身業成就し、悪の口業成就し、悪の意業成就すれば、聖人を謗毀して、邪見し、邪見の業成就すれば、是の因縁の故に、身壊れて死する時、悪道に入りて、地獄中に生ず。是の諸の衆生は、善の身業成就し、善の口業成就し、善の意業成就すれば、聖人を謗らずして正見し、正見の業成就すれば、是の因縁の故に身壊れて死する時、善道に入りて、天上に生ずる、九の力なり。
『仏の天眼』は、
『諸の天、人の眼を過ぎて!』、
『浄い!』ので、
『衆生』の、
『死ぬ時と、生まれる時』、
『端正か、醜陋か?』、
『大か、小か?』、
『悪道に堕ちるか、善道に堕ちるか?』、
是のような、
『業の因縁』と、
『受ける報』とを、
『知り!』、
是の、
『諸の衆生』は、
『悪』の、
『身業、口業、意業』が、
『成就して!』、
『聖人』を、
『謗毀する!』が故に、
『邪見し!』、
『邪見に因る!』、
『業』が、
『成就する!』と、
是の、
『因縁』の故に、
『身が壊れて死ぬ!』時には、
『悪道に入って!』、
『地獄』中に、
『生まれる!』。
是の、
『諸の衆生』は、
『善』の、
『身業、口業、意業』が、
『成就して!』、
『聖人』を、
『謗らない!』が故に、
『正見し!』、
『正見に因る!』、
『業』が、
『成就する!』と、
是の、
『因縁』の故に、
『身が壊れて死ぬ!』時には、
『善道に入って!』、
『天上』に、
『生まれる!』と、
亦た、
是のように、
『見れば!』、
『九の力である!』。
  醜陋(しゅうる):人の容貌がみにくい。醜劣。
  謗毀(ぼうき):そしりやぶる。
佛諸漏盡故。無漏心解脫。無漏智慧解脫。現在法中自識知我生已盡持戒已作後有盡。如實知十力也。 仏は諸漏尽きたもうが故に、無漏の心解脱し、無漏の智慧解脱して、現在の法中に、自ら、『我が生は已に尽き、持戒を已に作したれば、後の有も尽きん』、と識知して、如実に知りたもう、十の力なり。
『仏』は、
『諸漏が尽きている!』が故に、
『無漏』の、
『心』が、
『解脱し!』、
『無漏』の、
『智慧』が、
『解脱している!』ので、
『現在の法(五衆、十二入、十八界)』中に、
自ら、
わたしの、
『生は、已に尽き!』、
『持戒は、已に作された!』ので、
後の、
『有( being )も尽きた!』と、
『如実に知っていられる!』、
是れが、
『十の力である!』。
  心解脱(しんげだつ):貪愛を離るるを云う。『大智度論巻18(下)注:解脱』参照。
  智慧解脱(ちえげだつ):慧解脱のこと。無明を離るるを云う。『大智度論巻18(下)注:解脱』参照。
問曰。是十力菩薩未得。聲聞辟支佛所不能得。今何以說。 問うて曰く、是の十力は、菩薩の未だ得ずして、声聞、辟支仏の得る能わざる所なり。今、何を以ってか説く。
問い、
是の、
『十力』を、
『菩薩は得ていない!』し、
『声聞、辟支仏』の、
『得られる所でもない!』のに、
今、
何故、
『説くのですか?』。
答曰。聲聞人雖不能得。若聞是十力功德。作是念佛有如是大功德。自慶言我等善利蒙益不少。得信心清淨入盡苦道。諸菩薩者聞之。懃修菩薩道。當得如是十力等大功德果。 答えて曰く、声聞人は、得る能わずと雖も、若し是の十力の功徳を聞かば、『仏には、是の如き大功徳有り』、と是の念を作し、自ら慶んで、『我等が善利は、益を蒙ること少なからず』、と言い、信心清浄を得て、尽苦の道に入り、諸の菩薩は、之を聞いて、菩薩道を懃修して、当に是の如き十力等の大功徳の果を得べし。
答え、
『声聞人』は、
是の、
『十力』を、
『得ることができない!』が、
若し、
『十力の功徳を聞けば!』、こう念じて、――
『仏』には、
是のような、
『大功徳』が、
『有ったのだ!』、と。
自ら、
『慶んで!』、こう言い、――
わたし達の、
『善が利い!』のは、
是の、
『大功徳の益』を、
『少なからず!』、
『蒙ったからだ!』、と。
そして、
『信心が清浄になって!』、
『苦を尽くす(仏世界を浄める)!』、
『道(菩薩道)』に、
『入る!』ので、
諸の、
『菩薩』は、
是の、
『事を聞いて!』、
『菩薩道』を、
『懃修する!』ので、
当然、
是のような、
『十力等の大功徳の果』を、
『得ることになる!』。
復次有聲聞人及菩薩。修念佛三昧。非但念佛身。當念佛種種功德法身。 復た次ぎに、有る声聞人、及び菩薩は、念仏三昧を修するに、但だ仏身を念ずるに非ずして、当に仏の種種の功徳なる法身を念ずべし。
復た次ぎに、
有る、
『声聞人』や、
『菩薩』は、
『念仏三昧を修める!』時、
但だ、
『仏』の、
『身』を、
『念じるだけでなく!』、
『仏の種種の功徳である!』、
『法身』を、
『念じるはずである!』。
應作是念佛一切種一切法能解故名一切智人。一切法如實善分別說故。名一切見人。一切法現前知故。名一切知見無礙人。等心一切眾生故。名大慈悲人。有大慈悲故。名為世救。如實道來故。名為如來。應受一切世間供養故。名為應供人。成就不顛倒智慧故。名正遍知。戒定慧智成就故。名明行。成不復還故。名善逝。知世間總相別相故。名世間解。 応に是の念仏を作すべし。一切種、一切法を能く解するが故に、一切智人と名づけ、一切法を如実に善く分別して説くが故に、一切見人と名づけ、一切法を現前に知るが故に、一切知見の無礙の人と名づけ、一切の衆生に等心たるが故に、大慈悲の人と名づけ、大慈悲有るが故に、名づけて世の救いと為し、如実の道を来たるが故に名づけて、如来と為し、応に一切の世間の供養を受くべきが故に、名づけて応供の人と為し、不顛倒の智慧を成就するが故に、正遍知と名づけ、戒定慧の智成就するが故に、明行と名づけ、復た還らざるを成ずるが故に、善逝と名づけ、世間の総相、別相を知るが故に、世間解と名づく。
当然、
是のように、
『仏』を、
『念じなければならない!』、――
『仏』は、
『一切種』と、
『一切法』とを、
『理解することができる!』が故に、
『一切智の人』と、
『称し!』、
『一切法』を、
『如実に、善く分別して説く!』が故に、
『一切を見る人』と、
『称し!』、
『一切法』を、
『現前に知る!』が故に、
『一切を知見して無礙の人』と、
『称し!』、
『一切の衆生』に於いて、
『等心である!』が故に、
『大慈悲の人』と、
『称し!』、
『大慈悲が有る!』が故に、
『世の救い!』と、
『称され!』、
『如実の道を来た!』が故に、
『如来』と、
『称され!』、
『一切の世間』の、
『供養を受けるに相応しい!』が故に、
『応供の人』と、
『称され!』、
『不顛倒』の、
『智慧を成就した!』が故に、
『正遍知』と、
『称し!』、
『戒、定、慧という!』、
『智を成就した!』が故に、
『明行』と、
『称し!』、
『もう世間には還らない!』という、
『智を成就した!』が故に、
『善逝』と、
『称し!』、
『世間』の、
『総相、別相を知る!』が故に、
『世間解』と、
『称する!』。
善說出世間安隱道故。名無上調御師。以三種教法度眾生故。名天人師。一切世間煩惱睡能自覺亦能覺人故。名為覺人。一切所願具足故。名有德。十力成就故。名堅誓。得四無畏故。名人師子。得無量甚深智故。名大功德海。一切記說無礙故。名如風。一切好醜無憎愛故。名如地。燒一切結使薪故。名如火。善斷一切煩惱習故。名具足解脫。最上處住故。名為世尊。 善く出世間の安隠の道を説くが故に、無上調御師と名づけ、三種の教法を以って、衆生を度するが故に、天人師と名づけ、一切の世間の煩悩の睡を能く自ら覚め、亦た能く人を覚めしむるが故に、名づけて覚人と為し、一切の所願を具足するが故に、有徳と名づけ、十力の成就するが故に、堅誓と名づけ、四無畏を得るが故に、人の師子と名づけ、無量甚深の智を得るが故に、大功徳海と名づけ、一切を記説して、無礙なるが故に、如風と名づけ、一切の好醜に憎愛無きが故に、如地と名づけ、一切の結使の薪を焼くが故に、如火と名づけ、善く一切の煩悩の習を断ずるが故に、具足解脱と名づけ、最上処に住するが故に名づけて、世尊と為す。
『仏』は、
『善く!』、
『出世間の安隠の道を説く!』が故に、
『無上の調御師』と、
『称し!』、
『三種の教法(声聞、辟支仏、菩薩法)を用いて!』
『衆生を度する!』が故に、
『天、人の師』と、
『称し!』、
『一切の世間の煩悩の睡より!』、
『自ら覚め!』、
『人をも覚ます!』が故に、
『覚めた人』と、
『称し!』、
『一切の所願を具足する!』が故に、
『有徳』と、
『称し!』、
『十力を成就する!』が故に、
『堅誓』と、
『称し!』、
『四無畏を得た!』が故に、
『人の師子』と、
『称し!』、
『無量甚深の智を得た!』が故に、
『大功徳の海』と、
『称し!』、
『一切を記(記録)し、説いて!』、
『無礙である!』が故に、
『風のようだ!』と、
『称し!』、
『一切の好、醜』中に、
『憎、愛が無い!』が故に、
『地のようだ!』と、
『称し!』、
『一切の結使』の、
『薪を焼く!』が故に、
『火のようだ!』と、
『称し!』、
『善く!』、
『一切の煩悩の習を断つ!』が故に、
『具足して解脱する!』と、
『称し!』、
『最上の処に住まる!』が故に、
『世に尊ばれる!』と、
『称する!』。
佛有如是等諸功德故應念佛。以是故菩薩摩訶薩。欲得佛十力四無所畏十八不共法。當學般若波羅蜜。 仏には、是れ等のごとき諸の功徳有るが故に、応に仏を念ずべし。是を以っての故に、菩薩摩訶薩は、仏の十力、四無所畏、十八不共法を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし。
『仏』には、
是れ等のような、
諸の、
『功徳が有る!』が故に、
当然、
『仏』を、
『念じなければならない!』。
是の故に、
『菩薩摩訶薩』は、
『仏』の、
『十力、四無所畏、十八不共法』を、
『得よう!』と、
『思うならば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならぬのである!』。
復次佛在王舍城耆闍崛山中。說是般若波羅蜜時。佛四部眾及諸外道在家出家。諸天龍鬼神等種種大眾集會。佛入三昧王三昧。放大光明遍照恒河沙等世界。地六種震動。說是般若波羅蜜六波羅蜜乃至三無漏根。 復た次ぎに、仏は、王舎城の耆闍崛山中に在りて、是の般若波羅蜜を説きたまえる時、仏の四部衆、及び諸の外道の在家、出家、諸の天、龍、鬼神等の種種の大衆集会せり。仏は、三昧王三昧に入りて、大光明を放ちて、遍く恒河沙に等しき世界を照らして、地をして六種に震動せしめ、是の般若波羅蜜、六波羅蜜、乃至三無漏根を説きたまえり。
復た次ぎに、
『仏』が、
『王舎城の耆闍崛山』中に於いて、
是の、
『般若波羅蜜を説かれた!』時、
『仏の四部の衆』と、
『諸の外道の在家、出家』と、
『諸の天、龍、鬼神』等の、
種種の、
『大衆』が、
『集会した!』。
『仏』は、
『三昧王三昧に入って!』、
『大光明を放って!』、
遍く、
『恒河沙に等しいほど!』の、
『世界』を、
『照らし!』、
『地』を、
『六種に!』、
『震動させて!』、
是の、
『般若波羅蜜』と、
『六波羅蜜、乃至三無漏根』を、
『説かれたのである!』。
是中有眾生疑。有何等力有幾種力故。能作如是不可思議感動利益。佛知眾生心有如是疑故言。我有諸法實相智力。是力有十種用。是十種智故。能作如是感動變化。亦能過是所作。以是故言欲得十力當學般若波羅蜜。 是の中の、有る衆生の疑わく、『何等の力有り、幾種の力有るが故に、能く是の如き不可思議を作して、感動し利益する』、と。仏の、衆生の心に是の如き疑有るを知るが故に言わく、『我れには、諸法の実相の智力有り。是の力には十種の用有り。是の十種の智の故に、能く是の如き感動、変化を作し、亦た能く是の所作を過ぐ』、と。是を以っての故に、言わく、『十力を得んと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし』、と。
是の中に、
有る、
『衆生』は、
『疑』を、こう生じた、――
何のような、
『力』が、
『有り!』、
幾種の、
『力』が、
『有る!』が故に、
是のような、
『不可思議を作して!』、
『感動し!』、
『利益することができるのか?』、と。
『仏』は、
『衆生の心』中に、
是のような、
『疑が有る!』のを、
『知る!』が故に、こう言われた、――
わたしには、
『諸法の実相という!』、
『智の力』が、
『有る!』が、
是の、
『力』には、
『十種の用( use )』が、
『有り!』、
是の、
『十種の智』の故に、
是のように、
『感動して!』、
『変化させられるのであり!』、
是の、
『智』は、
是の、
『所作をも!』、
『超過しているのである!』、と。
是の故に、こう言うのである、――
『十力』を、
『得よう!』と、
『思えば!』、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『学ばねばならない!』、と。
復次佛弟子世世殖善根。以少罪緣故墮外道。諸外道常言。佛非實有功德力。是幻術力誑惑人心。佛弟子墮外道者。心疑若爾者佛非大人。欲滅是惡謗故言。我實有十力四無所畏故度眾生。非是幻誑也。 復た次ぎに、仏の弟子は、世世に善根を殖うれども、少しの罪縁を以っての故に、外道に堕つ。諸の外道の常に、『仏は、実に功徳力有るに非ず。是れ幻術の力の人心を誑惑するなり』、と言いたれば、仏弟子の外道に堕つる者の心に疑わく、『若し爾らば、仏は大人に非ず』、と。是の悪謗を滅せんと欲するが故に言わく、『我れ実に十力、四無所畏有るが故に、衆生を度せば、是れ幻の誑すに非ず』、と。
復た次ぎに、
『仏』の、
『弟子』は、
『世世に!』、
『善根』を、
『殖えていても!』、
『少しばかり!』の、
『罪の縁』の故に、
『外道』に、
『堕ちるからである!』。
『諸の外道』は、
常に、こう言っているので、――
『仏』は、
『実に!』、
『功徳の力』が、
『有るのではない!』。
是れは、
『幻術の力』で、
『人心』を、
『誑惑しているのだ!』、と。
『仏弟子の外道に堕ちる!』者は、
『心に疑って!』、こう言う、――
若し、
爾うならば、
『仏』は、
『大人(世尊)ではないのだ!』、と。
『仏』は、
是の、
『悪口、誹謗』を、
『滅そう!』と、
『思われた!』が故に、
こう言われた、――
わたしには、
実に、
『十力、四無所畏が有る!』が故に、
『衆生』を、
『度すのだ!』、
是れは、
『幻』で、
『衆生』を、
『誑すのではない!』、と。
  誑惑(こうわく):あざむきまどわす。
  悪謗(あくぼう):悪罵と誹謗。口汚くののしりそしる。
復次諸菩薩修菩薩道。苦行事難辦難成故欲懈息。是故佛言。行是十力當得無量果報。 復た次ぎに、諸の菩薩は、菩薩道を修するに、苦行の事は辦じ難く、成し難きが故に懈息す。是の故に仏の言わく、『是の十力を行ずれば、当に無量の果報を得べし』、と。
復た次ぎに、
諸の、
『菩薩』が、
『菩薩道を修める!』時、
『苦行の事』は、
『処理し難く!』、
『成就し難い!』が故に、
『懈怠して!』、
『休息したい!』と、
『思う!』。
是の故に、
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『十力を行えば!』、
『無量の果報』を、
『得ることになる!』、と。
譬如估客主慰喻商人言。汝等慎勿疲惓。精勤努力得至寶山。當得七寶如意寶珠。佛亦如是安慰諸菩薩言。無得疲厭當勤精進修菩薩道。行是十力當得無量果報。如是等種種利益因緣故。說十力等。 譬えば、估客主の商人を慰喩して言うが如し、『汝等、慎んで疲倦する勿かれ。精勤努力せば、宝山に至るを得、当に七宝、如意宝珠を得べし』、とし。仏も亦た是の如く、諸菩薩を安慰して言わく、『疲厭を得る無かれ。当に勤精、精進して菩薩道を修するべし。是の十力を行ぜば、当に無量の果報を得べし』、と。是れ等の如き、種種の利益の因縁なるが故に、十力等を説く。
譬えば、
『估客主』が、
『商人を慰喩して!』、こう言うようなものである、――
お前達は、
『身を慎んで!』、
『疲倦( weary )してはならない!』。
若し、
『精勤、努力して!』、
『宝山』に、
『至ることができれば!』、
当然、
『七宝や、如意宝珠』が、
『得られるのだから!』、と。
是のように、
『菩薩』も、
『諸の菩薩を安慰して!』、こう言うのである、――
『疲厭(疲倦)してはならない!』。
『精勤、精進して!』、
『菩薩道』を、
『修めなければならない!』、
是の、
『十力を行えば!』、
当然、
『無量の果報』を、
『得られるのだから!』、と。
是れ等のような、
種種の、
『利益の因縁である!』が故に、
『十力』等を、
『説くのである!』。
  (べん):そなえる。具。
  懈息(けそく):なまけてやすむ。
  估客主(こきゃくしゅ):隊商の首領。估客は商人に同じ。
  慰喩(いゆ):なぐさめさとす。
  (しん):つつしむ。軽はずみを起さぬこと。慎重。
  疲倦(ひけん):つかれうむ。疲労していやになる。
  疲厭(ひえん):つかれいとう。疲労していやになる。
問曰。佛有無量力。何以故但說十力。 問うて曰く、仏に無量の力有るに、何を以っての故にか、但だ十力を説く。
問い、
『仏』には、
『無量の力』が、
『有るのに!』、
何故、
但だ、
『十力だけ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。諸佛雖有無量力。度人因緣故。說十力足成辦其事。 答えて曰く、諸仏には、無量の力有りと雖も、人を度する因縁の故に、十力を説けば、其の事を成辦するに足る。
答え、
『諸の仏』には、
『無量の力が有る!』が、
『人』を、
『度す!』為の、
『因縁である!』が故に、
但だ、
『十力』を、
『説けば!』、
其の、
『事を成辦( accomplish )する!』のに、
『不足しない!』。
以是處不是處智力。分別籌量眾生是可度是不可度。以業報智力。分別籌量是人業障是人報障是人無障。以禪定解脫三昧智力。分別籌量是人著味是人不著味。以上下根智力。分別籌量眾生智力多少。以種種欲智力。分別籌量眾生所樂。以種種性智力。分別籌量眾生深心所趣。以一切至處道智力。分別籌量眾生解脫門。以宿命智力。分別眾生先所從來。以生死智力。分別眾生生處好醜。以漏盡智力分別籌量眾生得涅槃。 是処不是処の智力を以って、衆生を、是れは度すべき、是れは度すべからずを分別、籌量し、業報の智力を以って、是の人は業障なり、是の人は報障なり、是の人は無障なりと分別、籌量し、禅定解脱三昧の智力を以って、是の人は味に著す、是の人は味に著せずと分別、籌量し、上下根の智力を以って、衆生の智力の多少を分別、籌量し、種種欲の智力を以って、衆生の楽しむ所を分別、籌量し、種種性の智力を以って、衆生の深心の趣く所を分別、籌量し、一切至処道の智力を以って、衆生の解脱門を分別、籌量し、宿命の智力を以って、衆生の先に従って来たる所を分別し、生死の智力を以って、衆生の生処の好醜を分別し、漏尽の智力を以って衆生の得る涅槃を分別、籌量す。
即ち、
『是処不是処の智力を用いて!』、
『衆生』を、
『是れは度すことができる!』、
『是れは度すことができない!』と、
『分別、籌量し!』、
『業報の智力を用いて!』、
『衆生』を、
『是の人は業障である!』、
『是の人は報障である!』、
『是の人は無障である!』と、
『分別、籌量し!』、
『禅定解脱三昧の智力を用いて!』、
『衆生』を、
『是の人は禅味に著す!』、
『是の人は禅味に著さない!』と、
『分別、籌量し!』、
『上下根の智力を用いて!』、
『衆生』の、
『智力の多、少』を、
『分別、籌量し!』、
『種種欲の智力を用いて!』、
『衆生』の、
『楽しむ!』所を、
『分別、籌量し!』、
『種種性の智力を用いて!』、
『衆生』の、
『深心の趣く!』所を、
『分別、籌量し!』、
『一切至処道の智力を用いて!』、
『衆生』の、
『解脱する門』を、
『分別、籌量し!』、
『宿命の智力を用いて!』、
『衆生』の、
『来た処』を、
『分別、籌量し!』、
『生死の智力を用いて!』、
『衆生』の、
『生処の好、醜』を、
『分別、籌量し!』、
『漏尽の智力を用いて!』、
『衆生の得る!』、
『涅槃』を、
『分別、籌量する!』。
  籌量(ちゅうりょう):かぞえはかる。計算して量をはかる。
  業障(ごっしょう):悪罪、悪業を以って聖道を障うるを云う。三障の一。『大智度論巻8(上)注:三障』参照。
  報障(ほうしょう):三悪道を以っての故に聖道を障うるを云う。三障の一。『大智度論巻8(上)注:三障』三障。
  :三障:
  1. 煩悩障:貪瞋癡等の煩悩は正道を障える。
  2. 業障:五逆十悪等の悪業は正道を障える。
  3. 報障:地獄餓鬼畜生等の苦報は正道を障える。
佛用是十種力度脫眾生。審諦不錯皆得具足。以是故佛雖有無量力但說此十力。 仏は、是の十種の力を用いて、衆生を度脱したまえば、審諦不錯、皆具足するを得。是を以っての故に、仏には、無量の力有りと雖も、但だ此の十力を説く。
『仏』は、
是の、
『十種の力を用いて!』、
『衆生』を、
『度脱される!』ので、
『審諦(明察)することも!』
『錯謬しないことも!』、
皆、
『具足するのである!』。
是の故に、
『仏』には、
『無量の力が有りながら!』、
但だ、
此の、
『十力だけ!』を、
『説かれたのである!』。
  審諦(しんたい):つまびらかにする。明らかに知る。
復次是處不是處力定。知從是因緣出是果報。是中總攝九力。為欲度眾生故。於初力中分別有九種。何以故。是世間眾生現前見穀從種出。而不能知。何況心心數法因緣果報。佛於內外因緣果報。了了遍知故名為力。 復た次ぎに、是処不是処の力は、定んで是の因縁より、是の果報を出すを知り、是の中に総じて九力を摂す。衆生を度せんと欲するが為の故に、初の力中に分別して、九種有り。何を以っての故に、是の世間の衆生は、現前に穀の種より出づるを見るも、知る能わず。何に況んや、心心数法の因縁、果報をや。仏は内外の因縁、果報に於いて、了了に遍く知りたもうが故に名づけて、力と為す。
復た次ぎに、
『是処不是処の力』は、
定んで、こう知る、――
是の、
『因縁より!』、
是の、
『果報を!』、
『出す!』、と。
是の中に、
総じて、
『以下の九力が含まれている!』が、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思われた!』が故に、
『初の力』中を、
『分別して!』、
『九種』を、
『出したのである!』。
何故ならば、
是の、
『世間の衆生』は、
『現前』に、
『穀が種より出る!』のを、
『見ていながら!』、
而も、
『因縁、果報』を、
『知ることができないからである!』。
況して、
『心、心数法』中の、
『因縁、果報』は、
『尚更である!』。
『仏』は、
『内、外の因縁、果報』を、
『了了に!』、
『遍く知る!』が故に、
是れを、
『力』と、
『称するのである!』。
  :此の十種の力は、皆因縁、果報を知る智力である。
佛知是眾生業煩惱因緣故縛。淨禪定三昧解脫因緣故解。是一切眾生三世三種諸業諸煩惱輕重深淺麤細。佛悉遍知故名力。 仏は、是の衆生は、業、煩悩の因縁の故に縛され、浄き禅定、三昧、解脱の因縁の故に解かるるを知り、是の一切の衆生の三世、三種の諸業、諸煩悩の軽重、深浅、麁細を、仏は、悉く遍く知るが故に、力と名づく。
『仏』は、
是の、
『衆生』は、
『業、煩悩』の、
『因縁』の故に、
『縛され!』、
『浄い禅定、三昧、解脱』の、
『因縁』の故に、
『解かれる!』と、
『知り!』、
是の、
『一切の衆生の三世』の、
『三種(身、口、意)の諸業、諸煩悩の軽重、深浅、麁細』を、
悉く、
『遍く!』、
『知る!』が故に、
是れを、
『力(業報智力)』と、
『称するのである!』。
一切眾生諸禪定解脫三昧大小深淺解脫因緣。佛悉遍知故名力。 一切の衆生の諸禅定、解脱、三昧の大小、深浅と解脱の因縁を、仏は、悉く遍く知るが故に、力と名づく。
『仏』は、
『一切の衆生』の、
『諸の禅定、解脱、三昧』の、
『大小、深浅』と、
『解脱の因縁』とを、
悉く、
『遍く!』、
『知る!』が故に、
是れを、
『力(禅定解脱三昧智力)』と、
『称する!』。
眾生鈍根為後身故。作罪福業因緣。利根人為不生故集諸業。佛悉知此上下根好醜相故名力。 衆生の鈍根は、後身の為の故の罪福業の因縁を作し、利根の人は、不生の為の故に、諸業を集む。仏は悉く、此の上下根の好醜の相を知るが故に、力と名づく。
『衆生』の、
『鈍根』は、
『後身を生じる!』為の故に、
『罪福の業の因縁』を、
『作る!』が、
『利根』の、
『人』は、
『後身を生じさせない!』為の故に、
『善の諸業』を、
『集める!』ので、
『仏』は、
悉く、
此の、
『上、下根』の、
『好、醜の相』を、
『知る!』が故に、
是れを、
『力(上下根智力)』と、
『称する!』。
知一切眾生二種欲。作上下根因緣。二種欲善惡種種別異。佛悉遍知故名力。 一切衆生の二種の欲を知るに、上下根の因縁を作し、二種の欲には、善悪種種の別異あり。仏は、悉く遍く知るが故に名づけて力と名づく。
『一切の衆生』の、
『二種(善、悪)の欲』は、
『上、下根の因縁を作す!』ことを、
『知れば!』、
『二種の欲の善、悪にも!』、
『種種の別異』が、
『有るのである!』が、
『仏』は、
悉くを、
『遍く!』、
『知る!』が故に、
是れを、
『力(種種欲智力)』と、
『呼ぶのである!』。
二種欲由二種性因緣故。遍知眾生深心所趣故名力。 二種の欲は、二種の性の因縁に由るが故に、遍く衆生の深心の趣く所を知り、故に力と名づく。
『二種の欲』は、
『二種の性という!』、
『因縁』に、
『由来する!』が故に、
『衆生の深心の趣く!』所を、
『遍く!』、
『知ることになり!』、
是の故に、
『力(種種性智力)』と、
『称するのである!』。
一切眾生種種性因緣故行二種道。所謂善道惡道種種門所至處。佛悉遍知故名力。 一切の衆生は、種種の性の因縁の故に、二種の道を行ず。謂わゆる善道、悪道の種種の門の至る所の処を、仏は悉く、遍く知るが故に、力と名づく。
『一切の衆生』は、
『種種の性の因縁』の故に、
『二種の道』を、
『行うことになる!』。
謂わゆる、
『善道、悪道である!』が、
種種の、
『門』の、
『至る処』を、
『仏』は、
悉く、
『遍く!』、
『知る!』が故に、
是れを、
『力(一切至処道智力)』と、
『称するのである!』。
過去未來世中因緣果報智慧無礙。是名宿命生死智力。 過去、未来世中に、因縁、果報の智慧は無礙なれば、是れを宿命生死の智力と名づく。
『過去、未来世』中に、
『因縁、果報を知る!』、
『智慧』が、
『無礙である!』が故に、
是れを、
『宿命、生死の智力』と、
『称する!』。
知過去未來因果。已悉知方便壞因緣果報相續。是名漏盡力。佛知三世中二種因緣。分別籌量眾生根欲性。為盡漏故說法。是漏盡力。 過去、未来の因果を知り已りて、悉く方便して、因縁、果報の相続を壊るを知れば、是れを漏尽の力と名づく。仏は、三世中の二種の因縁を知りて、衆生の根、欲、性を分別、籌量し、漏尽の為の故に法を説きたまえば、是れ漏尽の力なり。
『過去、未来の因果を知って!』、
悉く、
『因縁、果報の相続を壊る!』、
『方便』を、
『知る!』が故に、
是れを、
『漏尽の力』と、
『称する!』。
『仏』は、
『三世』中の、
『二種の因縁を知り!』、
『衆生』の、
『根、欲、性』を、
『分別、籌量する!』と、
『衆生』が、
『漏を尽くす!』為の故に、
『法を説かれる!』ので、
是れを、
『漏尽の力』と、
『称する!』。


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