巻第二十三(下)
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大智度初品中十一智釋論第三十八 
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


法智比智等の十一智

【經】十一智法智比智他心智世智苦智集智滅智道智盡智無生智如實智 十一智は、法智、比智、他心智、世智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智、如実智なり。
『十一智』とは、
『法智』、
『比智』、
『他心智』、
『世智』、
『苦智』、
『集智』、
『滅智』、
『道智』、
『尽智』、
『無生智』、
『如実智である!』。
  十一智(じゅういっち):十一種の認識力( eleven kinds of cognition )。十智に如実智を加える( The ten kinds of cognition , plus cognition of things as they are )。謂わゆる、
  1. 法智(梵語 dharma-jJaana ):法に関する認識力( cognition of dharmas ),
  2. 比智(梵語 anavaya-jJaana ):類型に関する認識力( cognition of types ),
  3. 他心智(梵語 para- mano- jJaana, paracittajJaana ):他人の心に関する認識力( cognition of other's minds ),
  4. 世智(梵語 saMvRti-jJaana ):世俗的認識力( conventional cognition ),
  5. 苦智(梵語 duHkha-jJaana ):苦痛に関する認識力( cognition of suffering ),
  6. 集智(梵語 samudaya-jJaana ):生起に関する認識力( cognition of arising ),
  7. 滅智(梵語 nirodha-jJaana ):中断に関する認識力( cognition of cessation ),
  8. 道智(梵語 maarga-jJaana ):道に関する認識力( cognition of the path ),
  9. 尽智(梵語 kSaya-jJaana ):終息に関する認識力( cognition of extinction ),
  10. 無生智(梵語 anutpaada-jJaana ):無生起に関する認識力( cognition of nonarising ),
  11. 如実智(梵語 yathaabhuuta-jJaana ):如実に関する認識力( cognition of reality ).『大智度論巻18下注:十智』参照。
【論】法智者。欲界繫法中無漏智。欲界繫因中無漏智。欲界繫法滅中無漏智。為斷欲界繫法道中無漏智。及法智品中無漏智。 法智とは、欲界繋の法中の無漏智と、欲界繋の因中の無漏智と、欲界繋の法滅中の無漏智と、欲界繋の法を断ぜんが為の道中の無漏智と、及び法智品中の無漏智なり。
『法智』とは、――
『欲界繋』の、
『法(苦諦所知)』中の、
『無漏智』と、
『欲界繋』の、
『因(集諦所知)』中の、
『無漏智』と、
『欲界繋』の、
『法滅(滅諦所知)』中の、
『無漏智』と、
『欲界繋の法を断じる!』為の、
『道(道諦所知)』中の、
『無漏智』と、
及び、
『法智の品(属類)』中の、
『無漏智である!』。
比智者。於色無色界中無漏智亦如是。 比智とは、色、無色界中に於ける無漏智なること、亦た是の如し。
『比智』とは、――
『色、無色界』中の、
『無漏智である!』が、
是のような、
『法智』と、
『同じである!』。
他心智者。知欲界色界繫現在他心心數法及無漏心心數法少分。 他心智とは、欲界、色界繋の現在の他の心、心数法、及び無漏の心、心数法の少分を知る。
『他心智』とは、――
『欲界、色界繋』の、
『現在』の、
『他の衆生』の、
『心、心数法』と、
『無漏』の、
『心、心数法の少分』を、
『知る!』。
世智者諸有漏智慧。 世智とは、諸の有漏の智慧なり。
『世智』とは、――
諸の、
『有漏』の、
『智慧である!』。
苦智者五受眾無常苦空無我觀時。得無漏智。 苦智とは、五受衆の無常、苦、空、無我を観る時に得る無漏智なり。
『苦智』とは、――
『五受衆(有漏の色、受、想、行、識衆)』は、
『無常、苦、空、無我である!』と、
『観る時に得る!』、
『無漏智である!』。
  無常苦空無我:苦諦に関する四行。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同巻23下注:十六行相』参照。
  十六行相(じゅうろくぎょうそう):梵語 SoDazaakaara の訳、十六種の相( sixteen forms )の義、十六の道に分析された四諦の意味、各諦ごとに四種の道を含む( Sixteen ways of analyzing the meaning of the truths, including four ways for each truth )。即ち、
  1. 第一聖諦に含まれる意味は、以下の如く分析される(The first noble truth is analyzed as containing the meanings of )、
    1. 無常 anitya :非永続性( impermanence ),
    2. 苦 duHkha :不満足性( unsatisfactoriness ),
    3. 空 zuunya :空虚性( emptiness ),
    4. 無我 anaatmaka :非自我( no-self ),
  2. 第二聖諦には以下の意味を含む( The second noble truth contains the implications of )、
    1. 因 hetu :苦痛の原因( cause of suffering ),
    2. 集 samudaya :寄せ集める( gathering ),
    3. 生 prabhaava :継続( continuation ),
    4. 縁 pratyaya :諸縁( conditions ),
  3. 第三聖諦には以下を含む( The third noble truth connotes )、
    1. 滅 nirodha :肉体的執著の消滅( extinction of physical attachments ),
    2. 静/止 zaanta :苦悩の静寂化( the calming of afflictions ),
    3. 妙 praNita :非苦悩の極地( the sublimity of no discomfort ),
    4. 離/出 niHsaraNa :有らゆる困難な状況からの離脱( the escape from all difficult circumstances ),
  4. 第四聖諦には以下が見受けられる( Within the fourth noble truth are seen )、
    1. 道 maarga :休止に至る道( the path to cessation ),
    2. 如/正 nyaaya :正義との一致( accordance with the correct principle ),
    3. 行 nyaaya :涅槃に至る活動( activity leading to nirvaaNa ),
    4. 出/達 nairyaaNika :生と死との超越( transcendence of life and death ).
集智者。有漏法因。因集生緣觀時無漏智。 集智とは、有漏法の因にして、因、集、生、縁を観る時の無漏智なり。
『集智』とは、――
『有漏法の因に関し!』、
『因、集、生、縁を観る!』時の、
『無漏智である!』。
  因集生縁:集諦に関する四行。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同巻23下注:十六行相』参照。
滅智者。滅止妙出觀時無漏智。 滅智とは、滅、止、妙、出を観る時の無漏智なり。
『滅智』とは、――
『有漏法の因の滅に関し!』、
『滅、止()、妙、出()を観る!』時の、
『無漏智である!』。
  滅止妙出:滅諦に関する四行。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同巻23下注:十六行相』参照。
道智者。道正行達觀時無漏智。 道智とは、道、正、行、達を観る時の無漏智なり。
『道智』とは、――
『有漏法の因の滅の道に関し!』、
『道、正()、行、達()を観る!』時の、
『無漏智である!』。
  道正行達:道諦に関する四行。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、同巻23下注:十六行相』参照。
盡智者。我見苦已斷集已盡證已修道已。如是念時無漏智慧見明覺。 尽智とは、『我れは、苦を見已り、集を断じ已り、尽く証し已り、道を修し已れり』、と是の如く念ずる時の無漏の智慧の見、明、覚なり。
『尽智』とは、――
わたしは、
已に、
『苦』を、
『見て!』、
已に、
『集』を、
『断じ!』、
已に、
『尽く!』、
『証し!』、
已に、
『道』を、
『修めた!』と、
是のように、
『念じる!』時の、
『無漏の智慧』の、
『見(梵語 dRSTi :見解 sight )』、
『明(梵語 vidyaa :知識 knowledge )』、
『覚(梵語 buddhi :智慧 intelligence )である!』。
無生智者。我見苦已不復更見。斷集已不復更斷。盡證已不復更證。修道已不復更修。如是念時無漏智慧見明覺。 無生智とは、『我れは苦を見已りて、復た更に見ず、集を断じ已りて、復た更に断ぜず、尽く証し已りて、復た更に証せず、道を修し已りて、復た更に修せず』、と是の如く念ずる時の無漏の智慧の見、明、覚なり。
『無生智』とは、――
わたしは、
『苦を見た!』、
『復た!』、
『更に、見ることはない!』、
『集を断じた!』、
『復た!』、
『更に、断じることはない!』、
『尽く証した!』、
『復た!』、
『更に、証することはない!』、
『道を修めた!』、
『復た!』、
『更に、修めることはない!』と、
是のように、
『念じる!』時の、
『無漏の智慧』の、
『見』、
『明』、
『覚である!』。
如實智者。一切法總相別相。如實正知無有罣礙。 如実智とは、一切法の総相、別相を如実に正知して、罣礙有ること無し。
『如実智』とは、――
一切の、
『法の総相、別相』を、
『如実に正知して!』、
『罣礙』が、
『無いことである!』。
是法智緣欲界繫法及欲界繫法因欲界繫法滅。為斷欲界繫法道比智亦如是。世智緣一切法。他心智緣他心有漏無漏心心數法。苦智集智緣五受眾滅智緣盡。道智緣無漏五眾。盡智無生智俱緣四諦。 是の法智は、欲界繋の法、及び欲界繋の法の因、欲界繋の法の滅、欲界繋の法を断ぜんが為の道を縁ず。比智も亦た是の如し。世智は、一切法を縁ず。他心智は、他心の有漏、無漏の心、心数法を縁ず。苦智、集智は五受衆を縁ず。滅智は、尽を縁ず。道智は、無漏の五衆を縁ず。尽智、無生智は倶に、四諦を縁ず。
是の、
『法智』は、
『欲界繋の法』と、
『欲界繋の法の因』と、
『欲界繋の法の滅』と、
『欲界繋の法を断じる道』とを、
『縁じ!』、
『比智』も、
亦た、
是のように、
『色、無色界繋』を、
『縁じる!』。
『世智』は、
一切の、
『法』を、
『縁じ!』、
『他心智』は、
『他心』の、
『有漏、無漏の心、心数法』を、
『縁じ!』、
『苦智、集智』は、
『五受衆』を、
『縁じ!』、
『滅智』は、
『尽』を、
『縁じ!』、
『道智』は、
『無漏の五受衆』を、
『縁じ!』、
『尽智、無生智』は、
倶に、
『四諦』を、
『縁じる!』。
十智一有漏八無漏一當分別。他心智緣有漏心。是有漏緣無漏心。是無漏 十智の一は有漏、八は無漏、一は当に分別すべし。他心智は、有漏心を縁ずれば、是れ有漏、無漏心を縁ずれば、是れ無漏なり。
『十智(如実智を除く!)』の、
『一(世智)』は、
『有漏であり!』、
『八(世智、他心智を除く!)』は、
『無漏である!』が、
『一(他心智)』は、こう分別すべきである、――
『他心智』は、
『有漏心を縁じれば!』、
是の、
『心』は、
『有漏であり!』、
『無漏心を縁じれば!』、
是の、
『心』は、
『無漏である!』。
法智。攝法智及他心智苦智集智滅智道智盡智無生智少分。比智亦如是。 法智は、法智、及び他心智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智の少分を摂す。比智も亦た是の如し。
『法智』は、
『法智』、
及び、
『他心智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智の少分』を、
『包摂する!』。
『比智』も、
亦た、
是のように、
『比智』、
及び、
『他心智、乃至無生智の少分』を、
『包摂する!』。
世智攝世智及他心智少分。 世智は、世智、及び他心智の少分を摂す。
『世智』は、
『世智』、
及び、
『他心智の少分』を、
『包摂する!』。
他心智攝他心智及法智比智世智道智盡智無生智少分。 他心智は、他心智、及び法智、比智、世智、道智、尽智、無生智の少分を摂す。
『他心智』は、
『他心智』、
及び、
『法智、比智、世智、道智、尽智、無生智の少分』を、
『包摂する!』。
苦智攝苦智及法智比智盡智無生智少分。集智滅智亦如是。 苦智は、苦智及び法智、比智、尽智、無生智の少分を摂す。集智、滅智も亦た是の如し。
『苦智』は、
『苦智』、
及び、
『法智、比智、尽智、無生智の少分』を、
『包摂する!』。
『集智、滅智』も、
亦た、
『是の通りである!』。
道智攝道智及法智比智他心智盡智無生智少分。 道智は、道智、及び法智、比智、他心智、尽智、無生智の少分を摂す。
『道智』は、
『道智』、
及び、
『法智、比智、他心智、尽智、無生智の少分』を、
『包摂する!』。
盡智攝盡智及法智比智他心智苦智集智滅智道智少分。無生智亦如是。 尽智は、尽智、及び法智、比智、他心智、苦智、集智、滅智、道智の少分を摂す。無生智も亦た是の如し。
『尽智』は、
『尽智』、
及び、
『法智、比智、他心智、苦智、集智、滅智、道智の少分』を、
『包摂する!』。
『無生智』も、
亦た、
『是の通りである!』。
九智八根相應。除慧根憂根苦根。世智十根相應除慧根。 九智は、八根に相応す、慧根、憂根、苦根を除く。世智は十根に相応す、慧根を除く。
『九智(世智、如実智を除く!)』は、
『慧根、憂根、苦根を除いた!』、
『八根(意、楽、喜、捨、信、精進、念、定根)』に、
『相応する!』。
『世智』は、
『慧根を除いた!』、
『十根(意、苦、楽、憂、喜、捨、信、精進、念、定根)』に、
『相応する!』。
  二十二根(にじゅうにこん):眼等の六根、喜楽等の五受根、信等の五根、及び命根、男、女根、未知当知根等の三無漏根の総称。『大智度論十七下注:二十二根』参照。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻154』:『法智十一根少分相應。如正見說。如法智。類智苦集滅道智亦爾。他心智十根少分相應。謂意樂喜捨信等四已知具知根。義如攝中說。世俗智二根八根少分相應。二根者。謂苦憂根。八根少分相應者。謂意樂喜捨信等四根。云何與彼少分相應。謂彼八根通有漏無漏。今唯與彼有漏相應故言少分。空無願無相十一根少分相應。如念等覺支說說一切有部發智』
法智比智苦智。空三昧相應。法智比智滅智盡智無生智。無相三昧相應。法智比智他心智苦智集智道智盡智無生智。無作三昧相應。 法智、比智、苦智は、空三昧相応す。法智、比智、滅智、尽智、無生智は、無相三昧相応す。法智、比智、他心智、苦智、集智、道智、尽智、無生智は、無作三昧相応す。
『法智、比智、苦智』は、
『空三昧』に、
『相応する!』。
『法智、比智、滅智、尽智、無生智』は、
『無相三昧』に、
『相応する!』。
『法智、比智、他心智、苦智、集智、道智、尽智、無生智』は、
『無作三昧』に、
『相応する!』。
法智比智世智苦智盡智無生智。無常想苦想無我想相應。世智中四想相應。法智比智滅智盡智無生智。後三想相應。 法智、比智、世智、苦智、尽智、無生智は、無常想、苦想、無我想相応す。世智中には、四想相応す。法智、比智、滅智、尽智、無生智は、後の三想相応す。
『法智、比智、世智、苦智、尽智、無生智』は、
『無常、苦、無我の三想』に、
『相応する!』。
『世智』中には、
『無常、苦、空、無我の四想』が、
『相応する!』。
『法智、比智、滅智、尽智、無生智』は、
『後の苦、空、無我の三想』に、
『相応する!』。
有人言。世智或與離想相應。法智緣九智除比智。比智亦如是。世智他心智盡智無生智緣十智。苦智集智緣世智及有漏他心智。滅智不緣智道智。緣九智除世智。 有る人の言わく、『世智は、或は離想と相応し、法智は九智を縁じて比智を除き、比智も亦た是の如し。世智、他心智、尽智、無生智は十智を縁じ、苦智、集智は世智、及び有漏の他心智を縁じ、滅智は智を縁ぜず、道智は九智を縁じて、世智を除く』、と。
有る人は、こう言っている、――
或は、
『世智』は、
『離想』に、
『相応し!』、
『法智』は、
『比智を除いた!』、
『九智』を、
『縁じ!』、
『比智』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『世智、他心智、尽智、無生智』は、
『十智』を、
『縁じ!』、
『苦智、集智』は、
『世智』と、
『有漏の他心智』とを、
『縁じ!』、
『滅智』は、
『智』を、
『縁じず!』、
『道智』は、
『世智を除いた!』、
『九智』を、
『縁じる!』、と。
法智比智十六相。他心智四相。苦集滅道各各四相。盡智無生智俱十四相。除空相無我相。煖法頂法忍法中世智十六相。世間第一法中世智四相除無相。(轉相觀相也舊言十六聖行) 法智、比智は十六相、他心智は四相、苦、集、滅、道は各各四相、尽智、無生智は倶に十四相にして、空相、無我相を除く、煖法、頂法、忍法中の世智は十六相、世間第一法中の世智は十四相にして、無相を除く。
『法智、比智』は、
『十六相』を、
『観察し!』、
『他心智』は、
『四相』を、
『観察し!』、
『苦、集、滅、道智』は、
『各各の四相』を、
『観察し!』、
『尽智、無生智』は、
『空相、無我相を除いた十四相』を、
『観察し!』、
『煖法、頂法、忍法中の世智』は、
『十六相』を、
『観察し!』、
『世間第一法中の世智』は、
『無常、無我相を除いた十四相』を、
『観察する!』。
  世間第一法中世智四相:意味不明。仮りに十六相より無常、無我を除いて十四相に定む。
初入無漏心成就一世智。第二心增苦智法智。第四心增比智。第六心增集智。第十心增滅智。第十四心增道智。若離欲者增他心智。無學道增盡智。得不壞解脫增無生智。 初めて有漏心に入りて一世智を成就し、第二心には、苦智、法智を増し、第四心には、比智を増し、第六心には、集智を増し、第十心には、滅智を増し、第十四心には、道智を増し、若し離欲なれば、他心智を増し、無学道なれば、尽智を増し、不壊解脱を得れば、無生智を増す。
『初めて無漏心に入れば!』、
『一の世智』を、
『成就し!』、
『第二心(苦法智)に入れば!』、
『苦智、法智』を、
『増進し!』、
『第四心(苦比智)に入れば!』、
『比智』を、
『増進し!』、
『第六心(集法智)に入れば!』、
『集智』を、
『増進し!』、
『第十心(滅法智)に入れば!』、
『滅智』を、
『増進し!』、
『第十四心(道法智)に入れば!』、
『道智』を、
『増進し!』、
若し、
『離欲ならば!』、
『他心智』を、
『増進し!』、
『無学道』は、
『尽智』を、
『増進し!』、
『不壊解脱を得ていれば!』、
『無生智』を、
『増進する!』。
  十六心(じゅうろくしん):十六種の心の状態( sixteen mental states )、梵語 SoDaza- chitta, SoDaza- cittaka の訳、八忍/八種の忍耐と八智/八種の智慧とを含む( Comprised of the eight kinds of tolerance )。『大智度論巻12上注:八忍八智、同巻23下注:八忍、同巻23下注:八智』参照。
  八忍(はちにん):八種の忍耐( eight kinds of tolerance )、梵語 aSTa- jJaana- kSaantiH の訳、欲界及び上二界に於いて、四諦に関する全き悟りを得る為に必要な忍耐に関する八種の力( The eight powers of patient endurance, in the desire-realm and the two realms above it, necessary to acquire the full realization of the truth of the Four Noble Truths. )。三十四心/三十四の悟った心の状態中の一分( Part of the thirty-four enlightened mental states ; )、八智/八種の智慧に伴って、人を助けて、邪見に堕するのを防ぐ精神情態、或は心構えであり( along with the eight kinds of wisdom, mental states or attitudes that help one to sever mistaken views, )、四諦の各に就いて[法と類(比)との]二種の型がある( two types for each of the Four Noble Truths. )、是れ等の四種は、四種の法に関する忍耐/四法忍を生起し、その忍耐/辛抱は、其の結果として悟りを齎す( These four give rise to the four kinds of tolerance of dharma , the endurance or patient pursuit that results in their realization. )、色、無色界に於いては、それ等は四類(比)忍と呼ばれる( In the realm of form and the formless realm, they are called the four tolerances of type. )、其の見道中の惑/見惑の真実を熟考することに由り、意が止み、八種の智慧が獲得される( By contemplation of the truths of the afflictions in the purview of the path of seeing, will cease, and the eight kinds of wisdom are acquired; )、故に智慧は忍耐に依って齎されるので、八忍八智の十六を十六心と称する、即ち、惑が破られる時の見道に於ける十六種の心の状態である( therefore wisdom results from patient endurance, and the sixteen, are called the 十六心, i.e. the sixteen mental states during the stage of the path of seeing 見道, when 惑 delusory views are destroyed. )。謂わゆる( The eight are: )
  1. 苦法忍 duhkhe- dharma- jJaana- kSaantiH :苦の法に関する忍耐( the tolerance of the Dharma of suffering ),
  2. 苦類(比)忍 duhke'nvaya- jJaana- kSaantiH :苦の真実を悟った後に起る認識( the recognition that arises after realizing the truth of suffering ),
  3. 集法忍 samudaye- dharma- jJaana- kSaantiH :苦の因の真実に関する認識/忍耐( the recognition [tolerance] of the truth of the cause of suffering ),
  4. 集類忍 samudaye'nvaya- jJaana- kSaantiH :生起の類に関する忍耐、苦の因の真実を悟った後に生起する認識( the tolerance of kinds of arising; the recognition that arises after realizing the truth of the cause of suffering ),
  5. 滅法忍 nirodhe- dharma- jJaana- kSaantiH :滅の法に関する忍耐、即ち苦を消滅する方法に関する真実の認識( the tolerance of the Dharma of cessation; the recognition of the truth of how to extinguish suffering ),
  6. 滅類忍 nirodhe'nvaya- jJaana- kSaantiH :滅の類に関する忍耐、即ち苦を消滅させる方法に関する真実を悟った後に生起する認識( the tolerance of kinds of cessation; the recognition that arises after realizing the truth of how to extinguish suffering ),
  7. 道法忍 maarge- dharma- jJaana- kSaantiH :聖道に関する忍耐、即ち道の真実に関する認識( the tolerance of the path; the recognition of the truth of the Path ),
  8. 道類忍 maarge'nvaya- jJaana- kSaantiH :聖道に関する真実を悟った後に生起する認識( the recognition that arises after realizing the truth of the path ).
  八智(はっち):八種の認識力( eight kinds of cognition )、梵語 aSTa- jJaana の訳、是れ等は八忍と共に十六心を構成する( These, together with the eight tolerances, constitute the sixteen minds. )、各の忍(又は因)は、関連した洞察に先行する( Each one of the tolerances (or causes) precedes an insight with which it is associated. )、此等は見道に於いて体験される( These are experienced in the path of seeing. )、即ち( They are: )、
  1. 苦法智 duhkhe- dharma- jJaana :苦の法に関する認識力( the cognition of the dharma of suffering ),
  2. 苦類智 duhke'nvaya- jJaana :苦の類に関する認識力( the cognition of kinds of suffering ),
  3. 集法智 samudaye- dharma- jJaana :生起の法に関する認識力( the cognition of the dharma of arising ),
  4. 集類智 samudaye'nvaya- jJaana :生起の類に関する認識力( the cognition of kinds of arising ),
  5. 滅法智 nirodhe- dharma- jJaana :滅の法に関する認識力( the cognition of the dharma of cessation ),
  6. 滅類智 nirodhe'nvaya- jJaana :滅の類に関する認識力( the cognition of kinds of cessation ),
  7. 道法智 maarge- dharma- jJaana :聖道に関する認識力( the cognition of the Way ),
  8. 道類智 maarge'nvaya- jJaana :聖道の類に関する認識力( the cognition of kinds of the way ).
初無漏心中不修智。第二心中現在未來修二智。第四心中現在修二智未來修三智。第六心中現在未來修二智。第八心中現在修二智。未來修三智。第十心中現在未來修二智。第十二心中現在修二智。未來修三智。第十四心中現在未來修二智第十六心中現在修二智。未來修六智。若離欲修七智。 初の無漏心中には智を修せず、第二心中の現在、未来に二智を修し、第四心中の現在に二智を修し、未来には三智を修し、第六心中の現在、未来には二智を修し、第八心中の現在には二智を修し、未来には三智を修し、第十心中の現在、未来には二智を修し、第十二心中の現在には二智を修し、未来には三智を修し、第十四心中の現在、未来には二智を修し、第十六心中の現在には二智を修し、未来には六智を修して、若し離欲なれば、七智を修す。
『初めて無漏心中に入った!』時には、
『智』を、
『修めない!』が、
『第二心(苦法智)』中の、
『現在、未来』には、
『二智(法智、苦智?)』を、
『修め!』、
『第四心(苦比智)』中の、
『現在』には、
『二智(比智、苦智?)』を、
『修め!』、
『未来』には、
『三智(比智、苦智、集智?)』を、
『修め!』、
『第六心(集法智)』中の、
『現在、未来』には、
『二智(法智、集智?)』を、
『修め!』、
『第八心(集比智)』中の、
『現在』には、
『二智(比智、集智?)』を、
『修め!』、
『未来』には、
『三智(比智、集智、滅智?)』を、
『修め!』、
『第十心(滅法智)』中の、
『現在、未来』には、
『二智(法智、滅智?)』を、
『修め!』、
『第十二心(滅比智)』中の、
『現在』には、
『二智(比智、滅智?)』を、
『修め!』、
『未来』には、
『三智(比智、滅智、道智?)』を、
『修め!』、
『第十四心(道法智)』中の、
『現在、未来』には、
『二智(法智、道智?)』を、
『修め!』、
『第十六心(道比智)』中の、
『現在』には、
『二智(比智、道智?)』を、
『修め!』、
『未来』には、
『六智(法智、比智、苦智、集智、滅智、道智?)』を、
『修める!』、
若し、
『離欲ならば!』、
『七智(法智、比智、苦智、集智、滅智、道智、尽智?)』を、
『修める!』。
須陀洹欲離欲界結使。十七心中修七智。除他心智盡智無生智。第九解脫心中修八智。除盡智無生智。 須陀洹は、欲界の結使を離れんと欲して、十七心中に七智を修し、他心智、尽智、無生智を除く、第九解脱心中に八智を修し、尽智、無生智を除く。
『須陀洹』は、
『欲界』の、
『結使』を、
『離れようとして!』、
『十七心(十八心より第九解脱心を除く!)』中に、
『他心智、尽智、無生智を除いた!』、
『七智(法智、比智、世智、苦智、集智、滅智、道智)』を、
『修め!』、
『第九解脱心』中に、
『尽智、無生智を除いた!』、
『八智(法智、比智、他心智、世智、苦智、集智、滅智、道智)』を、
『修める!』。
  十七心(じゅうしちしん):九無間九解脱の十八心中、最後の第九解脱を除く。『大智度論巻12上注:三十四心、九無間、九解脱、解脱道』参照。
信解脫人轉作見得。雙道中修六智。除他心智世智盡智無生智。離七地欲時。無礙道中修七智除他心智盡智無生智。解脫道中修八智除盡智無生智。離有頂欲時無礙道中修六智。除他心智世智盡智無生智。八解脫道中修七智。除世智盡智無生智。 信解脱の人は、転じて見得と作り、双の道中に六智を修し、他心智、世智、尽智、無生智を除く、七地の欲を離るる時、無礙道中に、七智を修し、他心智、尽智、無生智を除く、解脱道中に八智を修す、尽智、無生智を除く、有頂の欲を離るる時、無礙道中には六智を修し、他心智、世智、尽智、無生智を除く、八解脱道中には七智を修す、世智、尽智、無生智を除く。
『信解脱の人』は、
転じて、
『見得と作り!』、
『双道(無礙道、解脱道)』中に、
『他心智、世智、尽智、無生智を除く!』、
『六智』を、
『修め!』、
『七地(已作地)の欲を離れる!』時に、
『無礙道』中には、
『他心智、尽智、無生智を除く!』、
『七智』を、
『修め!』、
『解脱道』中には、
『尽智、無生智を除く!』、
『八智』を、
『修め!』、
『有頂地(色界第四処色究竟天)の欲を離れる!』時に、
『無礙道』中には、
『他心智、世智、尽智、無生智を除く!』、
『六智』を、
『修め!』、
『八解脱道』中には、
『世智、尽智、無生智を除く!』、
『七智』を、
『修める!』。
  信解脱(しんげだつ):十八種の有学の聖人中第三位、鈍根の随信行(第一位)の者の修道位に入れるを云う。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  見得(けんとく):十八種の有学の聖人中第四位、利根の随法行(第二位)の者の修道位に入れるを云う。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  十八有学(じゅうはちうがく):修行に於ける十八の位階( eighteen levels in application of practices )、梵語 aSTaadaza- zaikSaaH の訳、即ち以下の通り( These are: )
  1. 随信行 zraddhaanusaarin :信に従る修行( practice according to faith ),
  2. 随法行 dharmaanusaarin :教に従る修行( practice according to the teachings ),
  3. 信解脱 zraddhaadhimuktaa :信頼( confidence ),
  4. 見得 dRSTi-praapta :眼見を通して達成される( attained through insight ),
  5. 身証 kaaya-saakSin :此の身に於いて証明する( witnessing in this body ),
  6. 家家 kulaMkula :家族より家族へ至る者( goer from clan to clan ),
  7. 一間 ekaviicika :一度限りの中断( one interruption ),
  8. 預流(須陀洹)向 srotaaappati-phala-pratipanna :勝利者(阿羅漢)の流れに近づいた段階( approaching stream winner status ),
  9. 預流果 srotaaapanna :勝利者の流れに在ることを悟った段階( realizing stream winner status ),
  10. 一来(斯陀含)向 sakRdaagaami-phala-pratipanna :[人間界への]一度限りの帰還者であることに近づいた段階( approaching once-returned status ),
  11. 一来果 sakRdaagaamin :一度限りの帰還者であると悟った段階( realizing once returner status ),
  12. 不還(阿那含)向 anaagaami-phala-pratipanna :帰還しない者であることに近づいた段階( approaching nonreturner status ),
  13. 不還果 anaagaaamin :帰還しない者であると悟った段階( realizing nonreturner status ),
  14. 中般 antaraaparinirvaayin :中間的段階( the intermediate state ),
  15. 生般 upapadya-parinirvaayin :涅槃へ生まれかわる( rebirth into nirvāṇa ),
  16. 有行般 saaghisaMskaara-parinirvaayin :修行を伴う涅槃( nirvāṇa with practice ),
  17. 無行般 anabhisaMskaara-parinirvaayin :修行を伴わない涅槃( nirvāṇa without practice ),
  18. 上流般 uurdhva-srotas :流を逆上する涅槃( nirvāṇa countering the flow ).
  七地(しちじ):已作地/已辨地/乾慧地等の十地中の第七地。声聞人は尽智、無生智を得て阿羅漢を得、菩薩に於いては仏地を成就する地。『大智度論巻29下注:十地』参照。
  無礙道(むげどう):正しく煩悩を断ずる位。是れに九種の差別あれば、又九無礙道、九無間道とも称す。『大智度論巻2上注:無礙道、解脱道、巻12上注:九無間、九解脱、解脱道』参照。
  解脱道(げだつどう):正しく煩悩を断じ已りて解脱を証する位。是れに九種の差別あれば、又九解脱道とも称す。『大智度論巻2上注:無礙道、解脱道、巻12上注:九無間、九解脱、解脱道』参照。
無學初心第九解脫不時解脫人修十智及一切有漏無漏善根。若時解脫人修九智及一切有漏無漏善根。 無学の初心の第九解脱にして、不時解脱の人は、十智、及び一切の有漏、無漏の善根を修し、若し時解脱の人なれば、九智、及び一切の有漏、無漏の善根を修す。
『無学の初心である!』、
『第九解脱道』中に、
『不時解脱の人』は、
『十智』と、
『一切の有漏、無漏の善根』とを、
『修め!』、
『時解脱の人』は、
『九智(無生智を除く!)』と、
『一切御有漏、無漏の善根』とを、
『修める!』。
  不時解脱(ふじげだつ):利根の阿羅漢が時を待たずして得る解脱。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  時解脱(じげだつ):鈍根の阿羅漢が時を待って得る解脱。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
如是等種種以阿毘曇門廣分別。如實智分別相。此般若波羅蜜後品廣說。 是れ等の如く種種に、阿毘曇門を以って広く分別す。如実智の分別相は、此の般若波羅蜜の後の品に広く説く。
『十智』に関しては、
是れ等のように、
種種に、
『阿毘曇門を用いて!』、
『広く分別した!』が、
『如実智の分別相』は、
此の、
『般若波羅蜜経』の、
『後の品』に、
『広く説かれている!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5広乗品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂苦智集智滅智道智盡智無生智法智比智世智他心智如實智。云何名苦智。知苦不生是名苦智。云何名集智。知集應斷是名集智。云何名滅智。知苦滅是名滅智。云何名道智。知八聖道分是名道智。云何名盡智。知諸婬恚癡盡是名盡智。云何名無生智。知諸有中無生是名無生智。云何名法智。知五蔭本事是名法智。云何名比智。知眼無常乃至意觸因緣生受無常是名比智。云何名世智。知因緣名字是名世智。云何名他心智。知他眾生心是名他心智。云何名如實智。諸佛一切種智是名如實智。須菩提。是名菩薩摩訶薩摩訶衍。以不可得故。』
復次有人言。法智者知欲界五眾無常苦空無我。知諸法因緣和合生。所謂無明因緣諸行乃至生因緣老死。如佛為須尸摩梵志說。先用法智分別諸法。後用涅槃智。 復た次ぎに、有る人の言わく、『法智とは、欲界の五衆の無常、苦、空、無我を知り、諸法の因縁和合の生、謂わゆる無明は諸行の因縁、乃至生は老死の因縁なるを知る。仏の須尸摩梵志の為に説きたもうが如し、『先に法智を用いて、諸法を分別し、後に涅槃の智を用う』、と。
復た次ぎに、
有る人は、こう言っている、――
『法智』は、
『欲界の五衆』は、
『無常、苦、空、無我である!』と、
『知り!』、
諸の、
『法』は、
『因縁和合の生である!』と、
『知ることである!』。
謂わゆる、
『無明』は、
『諸行の因縁である!』と、
『知り!』、
『乃至生』は、
『老死の因縁である!』と、
『知る!』。
譬えば、
『仏』が、
『須尸摩梵志』の為に、こう説かれた通りである、――
先に、
『法智を用いて!』、
諸の、
『法』を、
『分別し!』、
後に、
『涅槃(寂滅≒無)という!』、
『智』を、
『用いる!』、と。
  須尸摩(しゅしま):梵志名。又須深と称す。「雑阿含経巻14(347)」に出づ。
  参考:『雑阿含経巻14(347)』:『爾時。須深知眾多比丘去已。作是思惟。此諸尊者所說不同。前後相違。言不得正受。而復記說自知作證。作是思惟已。往詣佛所。稽首禮足。退住一面。白佛言。世尊。彼眾多比丘於我面前記說。我生已盡。梵行已立。所作已作。自知不受後有。我即問彼尊者。得離欲.惡不善法。乃至身作證。不起諸漏。心善解脫耶。彼答我言。不也。須深。我即問言。所說不同。前後相違。言不入正受。而復記說。自知作證。彼答我言。得慧解脫。作此說已。各從座起而去。我今問世尊。云何彼所說不同。前後相違。不得正受。而復說言。自知作證。佛告須深。彼先知法住。後知涅槃。彼諸善男子獨一靜處。專精思惟。不放逸法。離於我見。不起諸漏。心善解脫。須深白佛。我今不知先知法住。後知涅槃。彼諸善男子獨一靜處。專精思惟。不放逸法。離於我見。不起諸漏。心善解脫。佛告須深。不問汝知不知。且自先知法住。後知涅槃。彼諸善男子獨一靜處。專精思惟。不放逸住。離於我見。心善解脫。須深白佛。唯願世尊為我說法。令我得知法住智。得見法住智。佛告須深。我今問汝。隨意答我。須深。於意云何。有生故有老死。不離生有老死耶。須深答曰。如是。世尊。有生故有老死。不離生有老死。如是生.有.取.愛.受.觸.六入處.名色.識.行.無明。有無明故有行。不離無明而有行耶。須深白佛。如是。世尊。有無明故有行。不離無明而有行。佛告須深。無生故無老死。不離生滅而老死滅耶。須深白佛言。如是。世尊。無生故無老死。不離生滅而老死滅。如是。乃至無無明故無行。不離無明滅而行滅耶。須深白佛。如是。世尊。無無明故無行。不離無明滅而行滅。佛告須深。作如是知.如是見者。為有離欲.惡不善法。乃至身作證具足住不。須深白佛。不也。世尊。佛告須深。是名先知法住。後知涅槃。彼諸善男子獨一靜處。專精思惟。不放逸住。離於我見。不起諸漏。心善解脫。』
  :須尸摩:須深(しゅじん)。『雑阿含経巻第14(第三四七経)』参照。概略は次のとおり、須深梵志は仏の弟子となり、衆多の比丘に解脱せるや不やと問うたところ、比丘は、わが生すでに尽き、梵行すでに立ち、所作すでに作せども、欲と悪不善とを離れず、乃至身に証を作さず、諸漏を起さざることなく、心に解脱を善くせずと答えた。須深これを解し得ず、仏に訳を問うたところ、仏の答うらく、『須深よ、彼は先に法住を知り、後に涅槃を知るなり。彼の諸の善男子は、独り一静処にて、専精に不放逸の法を思惟して、我見を離るるが故に、諸漏を起さず、心に解脱を善くせり。須深よ、汝、知ると知らざるとを問わざれ、且く自ら先に法住を知り、後に涅槃を知るべし。』と。ここに法住とは、必ず一切の諸法中に在りて住するをいう。蓋し、これ即ち、欲を離れ、悪不善を作さざる等を以って解脱するに非ず、五衆の無常等を思惟すれば、解脱は自然に生ずるを云えるなり。
比智者知現在五受眾無常苦空無我。過去未來及色無色界中五受眾。無常苦空無我亦如是。譬如見現在火熱能燒。以此比知過去未來及餘國火。亦如是。 比智は、現在の五受衆の無常、苦、空、無我なるを知り、過去、未来の色、無色中の五受衆の無常、苦、空、無我なることの、亦た是の如きに及ぶ。譬えば現在の火の熱の、能く焼くを見て、此を以って比べ、過去、未来、及び余の国の火も亦た是の如きを知るが如し。
『比智』とは、
『現在』の、
『五衆は無常、苦、空、無我である!』と、
『知って!』、
『過去、未来の色、無色界』中の、
『五受衆が無常、苦、空、無我である!』と、
是のように、
『知る!』に、
『及ぶことである!』。
譬えば、
『現在』の、
『火の熱』は、
『焼くことができる!』と、
『知って!』、
此の、
『火』を、
『用いて!』、
『類推する!』が故に、
『過去、未来、及び余の国』の、
『火』も、
亦た、
『是の通りだ!』と、
『知るようなものである!』。
他心智者。知他眾生心心數法。 他心智は、他の衆生の心、心数法を知る。
『他心智』は、
『他の衆生』の、
『心、心数法』を、
『知る!』。
問曰。若知他心心數法。何以故。但名知他心。 問うて曰く、若し他の心、心数法を知らば、何を以っての故にか、但だ他心を知ると名づく。
問い、
若し、
他の、
『心』と、
『心数法』とを、
『知るのであれば!』、
何故、
但だ、
他の、
『心を知る!』と、
『称するのですか?』。
答曰。心是主故但名知他心。若說心當知已說心數法。 答えて曰く、心は是れ主なるが故に但だ、他の心を知ると名づく。若し心を説けば、当に知るべし、已に心数法を説けるを。
答え、
『心』は、
『主である!』が故に、
但だ、
『他の心を知る!』と、
『称するのである!』。
若し、
『心を説けば!』、
当然、こう知らねばならない、――
已に、
『心数法も!』、
『説かれたのだ!』、と。
世智者名為假智。聖人於實法中知凡夫人。但假名中知。以是故名假智。如棟梁椽壁名為屋。但知是事不知實義。是名世智。 世智とは、名づけて仮智と為す。聖人は、実法中に知り、凡夫人は、但だ仮名中に知る。是を以っての故に仮智と名づく。棟、梁、椽、壁を名づけて、屋と為すが如く、但だ是の事を知りて、実義を知らざる、是れを世智と名づく。
『世智』とは、
『仮』の、
『智』と、
『称する!』。
『聖人』は、
『実』の、
『法』中に、
『知っている!』が、
『凡夫人』は、
但だ、
『仮名』中に、
『知るだけであり!』、
是の故に、
『仮の智』と、
『呼ぶ!』。
譬えば、
『棟(むね)や!』、
『梁(はり)や!』、
『椽(たるき)や!』、
『壁』が、
『屋』と、
『呼ばれるように!』、
但だ、
是の、
『事を知るだけで!』、
『実の義』を、
『知らない!』ので、
是れを、
『世智』と、
『呼ぶのである!』。
苦智者。用苦慧呵五受眾。 苦智とは、苦慧を用いて、五受衆を呵す。
『苦智』は、
『苦慧(≒苦智)を用いて!』、
『五受衆』を、
『呵する!』。
  (ち):梵語jJaana、闍那、若那。事理に於ける決断なり。「大乗義章巻9」に、「慧心もて法を安んずる、之を名づけて忍と為し、境に於いて決断する、之を説いて智と為す」と曰い、「唯識述記巻9」に、「忍を智と言う、以って決断するが故なり」と曰う。<(丁)
  (え):事理を分別し、疑念を決断する作用を云う。又事理に通達する作用なり。又智と慧とは、為に名を通ずと雖も、然るに二者は実に相対す。有為の事相に達するを智と為し、無為の空理に達するを慧と為す。「唯識論巻9」に、「云何が慧と為す?所観の境に於いて簡択するを性と為し、疑を断ずるを業と為す。謂わく得失を観ずるも、倶に境中に非ず、慧に由りて推求し、決定を得るが故なり」と曰い、「倶舎論巻4」に、「慧は、法に於いて簡択あるを謂う」と曰い、「大乗義章巻2」に、「縁に於いて決定するを縁と為す」と曰い、「同巻10」に、「観達するを慧と為す」と曰い、「同巻20本」に、「慧とは、行方便に拠りて観達するを慧と名づけ、実に就き論を以って、真の心体明らかに、自性に闇なき、之を目けて慧と為す」と曰えり。<(丁)
  (ち):梵語若那jJaanaの訳。巴梨語JaaNa、又闍那に作る。即ち一切の事理に対し決定して能く了知する精神作用を云う。「大毘婆沙論巻106」に、「決定の義は是れ智の義なり」と云い、「大智度論巻23」に、「決定して知り、疑う所なきが故に名づけて智と為す」と云い、「倶舎論光記巻26」に、「智は謂わく決断、或いは謂わく重知なり」と云える是れなり。七十五法及び百法の中には、見及び忍と共に慧の心所に摂せらる。蓋し此の中、見は推求推度を性とし、忍は忍可して其の疑未だ已に断ぜざるを云うに対し、智は重ねて了知して、能く所断の疑を決断するに名づくるなり。凡そ智は世間出世間の一切の事理に対し決定了知する精神作用を称したるものにして、諸経論中に其の分類等に関し説述する所甚だ多し。「瑜伽師地論巻88」には正智邪智の二種を分別し、「智に二種あり、一には正智、二には邪智なり。此の中、正智は有事に依りて生ず、邪智も亦た爾り。此の二智は倶に有事に依ると雖も、然れども正智は実の如く事を取り、邪智は邪分別にして実の如く事を取らず」と云えり。是れ外道の邪教非理作意に由りて生ずる智を邪智とし、仏の正教如理作意に由りて生ずる智を正智と名づけたるなり。又「楞伽阿跋多羅宝経巻3」には智に世間智laukika-jJaana、出世間智lokoottara-j.、出世間上上智lokoottaratama-j.の三種の別ありとし、諸の外道凡夫等が一切諸法の有無に執著するを世間智、諸の声聞縁覚が自相同相を虚妄分別するを出世間智、仏菩薩が一切諸法不生不滅なりと観じ、有無の二見を離るるを出世間上上智となせり。就中、原始仏教に於いては主として苦集滅道の四諦の理を観じ、世間有漏の因果並びに出世無漏の因果に諦して如実に知見すべきことを説けり。「雑阿含経巻15」に、「爾の時世尊、五比丘に告ぐ、此の苦聖諦は本と未だ曽て聞かざる所の法なり、当に正思惟する時、眼智cakkhu-karaNii、明覚JaaNa-karaNiiを生ずべし。此の苦の集、此の苦の滅、此の苦滅の跡道聖諦は本と未だ曽て聞かざる所の法なり、当に正思惟する時、眼智明覚を生ずべし」と云えり。是れ即ち仏成道の初め、五比丘の為に四聖諦を説き、之に依りて眼智明覚を発生すべきことを示されたるを伝うるなり。阿毘達磨諸経論中には智に関する多種の分別あり。即ち「阿毘達磨発智論巻7乃至巻10」に智蘊を施設し、一智乃至八智、十智、四十四智、七十七智等を説き、「大毘婆沙論巻93乃至巻111」には広く之を解釈し、「成実論巻15及び巻16」には二智、四智、五智、六智、八智、十智、四十四智、七十七智等の諸品を設け、「阿毘曇心論巻4」並びに「雑阿毘曇心論巻6」には智品を立て、三智、四智、十智を明し、「倶舎論巻26、巻27」にも亦た智品を設け、二智、四智、六智、八智、九智、及び十智を解説せり。一智乃至八智に関し、「大毘婆沙論巻106」に、「或いは一智に一切の智を摂するあり、謂わく法智にして如法智に非ず。智の体は是れ法なるを以っての故なり。或いは二智に一切の智を摂するあり、謂わく有漏智無漏智なり。或いは三智に一切の智を摂するあり、謂わく法智、類智、世俗智なり。或いは四智に一切の智を摂するあり、謂わく前の三智に他心智を加う。或いは五智に一切の智を摂するあり、謂わく世俗智及び苦集滅道の智なり。或いは六智に一切の智を摂するあり、謂わく前の五智に他心智を加う。或いは四智智に一切の智を摂するあり、謂わく八智中より他心智を除く。或いは八智に一切の智を摂するあり、謂わく此の中に法智、類智、他心智、世俗智、苦智、集智、滅智、道智を説く」と云えり。此の中、苦智duHkha-jJaanaは苦諦の理を知り、集智samudaya-j.は集諦の理を知り、滅智nirodha-j.は滅諦の理を知り、道智maarga-j.は道諦の離を知るを云い、又法智はdharma-j.は三界の中、特に欲界の四諦を観ずる智にして、具には言わば之に苦法智、集法智、滅法智、道法智の別あり。類智anvaya-j.は色無色界の四諦を観ずる智にして、之に亦た苦類智、集類智、滅類智、道類智の別あり。此等の六智(又は八智)は皆無漏なり。世俗智saMvRti-j.は世俗の境を縁ずるの智にして即ち有漏智なり、他心智paracitta-j.は他人の心を知るの智にして有漏無漏に通ず。又此の八智に尽智kSaya-j.無生智anutpaada-j.の二を加えて十智とす。就中、尽智は無学位に於いて我れ已に苦を知り、我れ已に集を断じ、我れ已に滅を証し、我れ已に道を修せりと遍知し、漏尽の得と俱生する無漏智を云い、無生智は無学位に於いて我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと遍知し、非択滅の得と俱生する無漏智を云うなり。又四十四智とは、十二支の中の無明を除き、余の十一支に就き各四諦を観ずるの智にして、即ち知老死智、知老死集智、知老死滅智、知趣老死滅行智、乃至知行智、知行集智、知行滅智、知趣行滅行智を云い、七十七智とは、亦た十二支の中の無明は因なきが故に之を除き、余の十一支に就き各三世順逆及び其の法性常住を観ずる智にして、即ち知生縁老死智、知非不生縁老死智、知過去生縁老死智、知彼非不生縁老死智、知未来生縁老死智、知彼非不生縁老死智、法住智、乃至知無明縁行智、知彼非不無明縁行智、知過去無明縁行智、知彼非不明縁行智、知未来無明縁行智、知彼非不無明縁行智、法住智を云うなり。是れ先づ現在に於いて生を縁として老死ありと観じ、次に生を縁とせざる老死あるに非ずと観じ、是の如く過去未来に就いても各順逆二観をなし、又生起の法を遍知して有仏無仏法性常住と知るを法住智とし、一支に各七智あるが故に総じて七十七智を成ずるなり。此の中、上の四十四智及び今前六智は法、類、世俗及び四諦智の随一に摂するなり。又「大毘婆沙論巻106」には前の法等の八智の外に別に法住智、涅槃智、死生智、漏尽智、宿住随念智、妙願智、尽智、無生智の八智を出し、其の中、法住智は諸法生起の因を知るの智にして、即ち法、類、世俗、及び集の四智に摂し、涅槃智は滅を知るの智にして、法、類、世俗、滅の四智に摂し、死生、漏尽、宿住の三智は六通の中の三明の智にして、即ち未来後際の法に通達するを死生智と云い、世俗智に摂し、漏尽の法を縁じて涅槃性に通達するを漏尽智と云い、法、類、世俗、及び滅智、若しくは尽無生智を除く余の八智に摂し、過去前際の法に通達するを宿住随念智と云い、世俗智に摂す。妙願智は不動羅漢が妙智を起して願の如く了ずる智にして世俗智に摂すと云えり。又「成実論巻16五智品」には、法住智、泥洹智、無諍智、願智、辺際智の五智を挙げ、其の中、無諍智は法住泥洹の二智を以って心を修し、諍う所なきに至る阿羅漢の智を云い、願智は諸法中に於いて障礙なき智を云い、辺際智は最上智を得るに随い、増損寿命等の事に於いて自在力を得るを云うとなせり。蓋し如上の諸説は主として三界四諦の理を観じて見修二惑を断じ、尽智無生智を得て阿羅漢果を証し、遂に涅槃に入るの過程を分別せるものなり。然るに「大品般若経巻1序品」には法智類智乃至無生智等の十智の外に別に如実智を説き、総じて十一智ありとなせり。如実智に関しては「大智度論巻23」に、「如実智とは十種の智は知ること能わざる所なり。如実智を以っての故に能く十智の各各の相、各各の縁、各各の別異、各各の有観の法を知る。是の如実智の中には相なく縁なく別なく、諸の観法を滅して亦た有観ならず。十智の中には法眼慧眼あり、如実智の中には唯仏眼のみあり。十智は阿羅漢辟支仏菩薩に共に有り、如実智は唯独り仏にのみ有り。所以は何ん、独り仏にのみ不誑の法あり、是れを以っての故に如実知は独り仏にのみ有り。復た次ぎに是の十智は如実智の中に入れば本の名字を失い、唯一実智のみあり。譬えば十方諸流の水皆大海に入れば本の名字を捨てて但だ大海と名づくるが如し」と云えり。是れ蓋し十智を以って三乗共有の智となし、仏には此の十智の外、別に独有の如実智あることを説き、且つ十智は皆如実智に摂せらるることを示せるものにして、即ち般若所説の諸法実相の妙智を如実智となすの意なり。又「大品般若経巻1序品」には四智の説を出し、「菩薩摩訶薩、道慧を具足せんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし。菩薩摩訶薩、道慧を以って道種慧を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。道種慧を以って一切智を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし。一切智を以って一切種智を具足せんと欲せば当に般若波羅蜜を習行すべし」と云い、又「同巻9大明品」には一切智、道種智、一切種智の三智の名を出せり。就中、道慧は一道を知りて一向に涅槃に趣く智を云い、道種慧は二道乃至無量の道門を知り、而も皆同一道にして差別なしと知る智を云い、一切智は諸法の総相を知り、未だ尽く別相を知る能わざる智を云い、一切種智は能く尽く総相別相を知るの智を云うなり。「大智度論巻27」には此の中、一切智を二乗の智、道種智を菩薩の智、一切種智を仏所得の智となせり。又十波羅蜜の中には第六に般若波羅蜜を置き、第十に智波羅蜜を立つ。此の二の別に関し、「解深密経巻4地波羅蜜多品」に、「若し諸の菩薩は菩薩蔵に於いて已に能く聞縁し、善く修習するが故に能く静慮を発す、是の如きを智波羅蜜多と名づく。此の智に由るが故に出世間の慧を引発するに堪能なり。是の故に我れ智波羅蜜多は慧波羅蜜多の為に助伴と為ると説く」と云えり。是れ智波羅蜜jJaana-paaramitaaを以って方便助伴とし、慧波羅蜜(般若波羅蜜prajJa-paaramitaa)を以って正智となすの意なり。又「成唯識論巻9」には、智波羅蜜に受用法楽智と成熟有情智の二種ありとし、六度に由りて妙智を成立し、法楽を受用するを受用法楽智と名づけ、此の智に依りて有情を成熟し、大饒益をなすを成熟有情智と名づくとせり。又「旧華厳経巻3盧舎那仏品」には、諸仏の無量慧海に入るに十智あり、又諸仏如来の五海に十智あることを説き、「同巻8十住品」には三昧力に因りて得する方便の十智、十住の初発心に依りて得する十智、潅頂住の菩薩の成就する十智、並びに潅頂住の菩薩の勝進分に於いて学する十智等を列ね、「同巻24十地品」には燄慧地に於いて学する十智を明せり。又「瑜伽師地論巻55」、「梁訳摂大乗論巻下」、「仏性論巻2、3」、「十八空論」、「成唯識論巻9」には智に根本後得の二種の別ありとし、就中、根本智は正しく真如の理に契証する智にして、之を如理智、無分別智、真智、勝義智、正体智と名づけ、後得智は根本智の後に得し、世俗の境を縁ずるの智にして、又之を如量智、分別智、俗智、世俗智と称すとなせり。又「瑜伽師地論巻55」等には、此の二種に加行智を加えて三智とし、「顕揚聖教論巻17」には又聞所生智、思所生智、修所生智、順決択分智、見道、修道、究竟道、不善清浄世俗智、善清浄世俗智、勝義智、不善清浄行有分別智、善清浄行有分別智、善清浄行分別智、成所作前行智、成所作智、成所作五智、声聞等智、菩薩等智等の十八種の現観智を挙げ、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」には、信解智、道理智、不散智、内証智、他性智、下智、上智、厭患智、不起智、無生智、智智、究竟智、大義智の十三智を列ね、此の中、初の三は三慧所生の智、内障智は勝義智、他性智は他心智、下智は法智、上智は類智、次の四智は四諦智、究竟智は尽無生智、大義智は大乗菩薩の智なりとせり。又「仏地経」、「大乗荘厳経論巻3」、「大乗本生心地観経巻2」、「梁訳摂大乗論巻下」、「成唯識論巻10」等には、仏所得の智に大円鏡智aadarza-jJaana、平等性智samataa-j.妙観察智pratyavekSaa-j.、成所作智kRtyaanuSThaana-j.の四智あることを説けり。就中、成所作智は因位の前五識を転じて得し、妙観察智は第六識、平等性智は第七識、大円鏡智は第八識を転じて得する無漏の智にして、初地以上に分得の義あるも、之を円満成就するは即ち妙覚の果位に在りとせらるるなり。又「発菩提心論」等には仏地経の説に依り、此の四智に法界体性智を加えて総じて五智となし、就中、法界体性智を大日、他の四智を阿閦等の四仏に配せり。其の他諸経論並びに章疏等に智の類別を説くもの更に甚だ多し。今一一之を縷説するに遑あらざるなり。又古来智の力用等を喩説し、智火、智炬、智光、智剣、智鏡、智眼、智海、智船等の熟語あり。又「舍利弗阿毘曇論巻9至巻11」、「尊婆須蜜菩薩所集論巻8」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「倶舎論巻27」、「瑜伽師地論巻10、13、38、69」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「大乗起信論」、「同義記巻5」、「観音玄義巻3」、「大乗義章巻9、10、12、15、19」、「大乗玄論巻4」、「法華経玄義巻2上」、「成唯識論述記巻10本、末」、「華厳経探玄記巻3、5」、「大乗法苑義林章巻7本」等に出づ。<(望)
  (え):梵語prajJaaの訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。事理を簡択する精神作用を云う。「倶舎論巻4」に、「慧は謂わく法に於いて能く簡択あり」と云い、「同光記巻1」に、「唯慧の一種のみ三の現観を具す。推求するを見と名づけ、境を慮るを縁と名づけ、成辦するを事と名づく。故に独り名を標す。余の心心所は縁と事との二あるも見現観なく、余の俱有法は、唯事現観あるも見と縁との二なし」と云えり。是れ即ち能く推求し、能く境を慮り、能く成辦する所あるを名づけて慧となすの意なり。又「倶舎論巻26」に、「慧に二種あり、有漏と無漏となり。唯無漏の慧に立つるに聖の名を以ってす。此の聖慧の中、八忍は智の性に非ず、自の所断の疑未だ已に断ぜざるが故なり。見の性に摂すべし。推度の性なるが故なり。尽と無生との二は智にして見の性に非ず、已に求を息め心推度せざるが故なり。所余は皆智と見との二性に通ず、已に自の疑を断じ、推度の性なるが故なり。諸の有漏の慧は皆智の性に摂す。中に於いて唯六は亦た是れ見の性なり、謂わく五染汚見と世の正見とを六となす。是の如く説く所の聖と有漏との慧は、皆択法なるが故に、並びに慧の性に摂す」と云い、「同光記巻1」には、「忍にして智に非ざるあり、八忍の如し。智にして見に非ざるあり、尽と無生との如し。慧は具に三を摂す」と云えり。之に依るに慧の名は広く、其の中に具に忍と智と見との三を摂することを知るべし。又「成唯識論述記巻5本」に、「我見は即ち是れ別境に摂せらる。五十一の心所中には、義別なるをもて説いて二となす。一に慧は是れ別境なり、三性九地に通ずるが故なり。二に見は唯染汚なり、九地等に通ずるが故なり。既に寛狭あれば別に説き、不同なるが故に開いて二となす」と云い、「百法問答鈔巻1」に、「慧の心所に於いて二類あり、悪の慧と善の慧となり。悪の慧は推求の用猛利にして、顛倒して簡択す。煩悩の中に立てて悪見となすなり。善の慧は顛倒に非ず、正しく簡択し推求すれば正見と名づけ、亦た正慧とも名づく」と云えり。是れ唯識に於いては我見と慧とは其の義別なるが故に心所の中に開いて二となすと云うの意なり。又「大毘婆沙論巻42」に慧は能く諸法の自相を分別し、亦た能く諸法の共相を分別すとし、又慧に聞所成慧、思所成慧、修所成慧及び生得慧等の別あることを説き、広く其の界繋及び行相等を分別せり。又五根五力及び二十二根等の中には、之を立てて慧根慧力等となせり。又「大毘婆沙論巻142」、「倶舎論巻1、22」、「同光記巻4、26」、「阿毘達磨順正理論巻10」、「成唯識論巻4」、「百法問答鈔巻4」等に出づ。<(望)
問曰。五受眾亦無常亦苦亦空亦無我。何以故。但說苦智不說無常空無我智。 問うて曰く、五受衆は、亦た無常、亦た苦、亦た空、亦た無我なり。何を以っての故にか、但だ苦智を説いて、無常、空、無我の智を説かざる。
問い、
『五受衆』は、
『無常でもあり!』、
『苦でもあり!』、
『空でもあり!』、
『無我でもある!』のに、
何故、
但だ、
『苦智のみ!』を、
『説いて!』、
而も、
『無常、苦、無我の智』を、
『説かないのですか?』。
答曰。為苦諦故說苦智。集諦故說集智。滅諦故說滅智。道諦故說道智。 答えて曰く、苦諦の為の故に、苦智を説き、集諦の故に集智を説き、滅諦の故に滅智を説き、道諦の故に道智を説けばなり。
答え、
『苦諦を為す!』が故に、
『苦智である!』と、
『説き!』、
『集諦を為す!』が故に、
『集智である!』と、
『説き!』、
『滅諦を為す!』が故に、
『滅智である!』と、
『説き!』、
『道諦を為す!』が故に、
『道智である!』と、
『説くからである!』。
問曰。五受眾有種種惡。何以故。但說苦諦不說無常諦空無我諦。 問うて曰く、五受衆に、種種の悪有れば、何を以っての故にか、但だ苦諦を説いて、無常諦、空、無我諦を説かざる。
問い、
『五受衆』には、
種種の、
『悪』が、
『有るのに!』、
何故、
但だ、
『苦諦のみ!』を、
『説いて!』、
而も、
『無常、空、無我諦』を、
『説かないのですか?』。
答曰。若說無常空無我諦。亦不壞法相。以眾生多著樂畏苦故。佛呵世間一切皆是苦。欲令捨離故。無常空無我中。眾生不大畏故不說。 答えて曰く、若し無常、空、無我諦を説くも、亦た不壊法の相ならん。衆生は多く、楽に著して苦を畏るるを以っての故に、仏は、『世間の一切は皆、是れ苦なり』、と呵して、捨離せしめんと欲したもうが故なり。無常、空、無我中に、衆生は畏るること大ならざるが故に説かず。
答え、
若し、
『無常、苦、無我諦を説いたとしても!』、
亦た、
『不壊法の相』を、
『説くことになろう!』。
『衆生』は、
多く、
『楽に著して!』、
『苦』を、
『畏れる!』が故に、
『仏』は、
『世間の一切』は、
皆、
『苦である!』と、
『説かれたのであり!』、
是の、
『法』を、
『捨離させようとされたからである!』。
『無常、空、無我』中に、
『衆生』は、
『大きく!』は、
『畏れない!』が故に、
此等の、
『法』を、
『説かれなかった!』。
復次佛說法中五受眾有異名名為苦。以是故但說苦智。是苦智或有漏或無漏。若在煖法頂法忍法世間第一法是有漏。若入見諦道是無漏。何以故。從煖法。至世間第一法中。四種觀苦故。集智滅智道智亦如是。 復た次ぎに、仏の説法中に、五受衆には異名有りて、名づけて苦と為せば、是を以っての故に、但だ苦智を説きたまえり。是の苦智は、或は有漏、或は無漏にして、若し煖法、頂法、忍法、世間第一法に在れば、是れ有漏なり。若し見諦道に入れば、是れ無漏なり。何を以っての故に、煖法より、世間第一法に至る中に、四種に苦を観るが故なり。集智、滅智、道智も亦た是の如し。
復た次ぎに、
『仏の説法』中に、
『五受衆』には、
『異名が有り!』、
『苦』と、
『呼ばれる!』ので、
是の故に、
但だ、
『苦智』を、
『説くのである!』。
是の、
『苦智』は、
『有漏か!』、
『無漏である!』が、
若し、
『煖法、頂法、忍法、世間第一法(四善根位)に在れば!』、
『有漏であり!』、
若し、
『見諦道に入れば!』、
『無漏である!』。
何故ならば、
『煖法、乃至世間第一法』中にも、
『苦』を、
『四種に観察するからである!』。
『集智、滅智、道智』も、
亦た、
『是の通りである!』。
復次苦智名知苦相。實不生集智。名知一切法離無有和合。滅智名知諸法常寂滅如涅槃。道智名知一切法常清淨無正無邪。盡智名知一切法無所有。無生智名知一切生法不實不定故不生。如實智者。十種智所不能知。以如實智故。能知 復た次ぎに、苦智を、苦相の実に不生なるを知ると名づけ、集智を、一切法を離るれば、和合有ること無きを知ると名づけ、滅智を、諸法は常に寂滅にして、涅槃の如しと知ると名づけ、道智を一切法は常に清浄にして、無正、無邪なるを知ると名づけ、尽智を、一切法の無所有なるを知ると名づけ、無生智を、一切の生法は不実、不定なるが故に不生なりと知ると名づく。如実智は、十種の智の知る能わざる所を、如実智を以っての故に、能く知る。
復た次ぎに、
『苦智』とは、
『苦相』は、
『実に不生である!』と、
『知ることである!』。
『集智』とは、
『一切法を離れれば!』、
『和合は無い!』と、
『知ることである!』。
『滅智』とは、
『諸法は常に寂滅しており!』、
『涅槃のようだ!』と、
『知ることである!』。
『道智』とは、
『一切法は常に清浄であり!』、
『正、邪が無い!』と、
『知ることである!』。
『尽智』とは、
『一切法』には、
『所有が無い!』と、
『知ることである!』。
『無生智』とは、
『一切の生法』は、
『不実であり!』、
『不定であり!』、
故に、
『不生である!』と、
『知ることである!』。
『如実智』は、
『十種』の、
『智を用いて!』、
『知ることのできない!』所でも、
是の、
『如実智を用いれば!』、
『知ることができる!』。
十智各各相各各緣各各別異各各有觀法。是如實智中。無相無緣無別。滅諸觀法亦不有觀。 十智の各各の相、各各の縁、各各の別異、各各の有する観法は、是の如実智中には、無相、無縁、無別なり。諸観法を滅すれば、亦た観有るにあらず。
『十智』は、
各各に、
『相』が、
『有り!』、
各各に、
『縁』が、
『有り!』、
各各に、
『別異』が、
『有り!』、
各各に、
『観法』が、
『有る!』が、
是の、
『如実智』中には、
『相』も、
『縁』も、
『別』も、
『無く!』、
諸の、
『観法』を、
『滅する!』ので、
亦た( no more )、
『観』は、
『存在しない!』。
十智中有法眼慧眼。如實智中唯有佛眼。十智阿羅漢辟支佛菩薩共有。如實智唯獨佛有。所以者何。獨佛有不誑法。以是故知。如實智獨佛有。 十智中には、法眼、慧眼有り、如実智中には唯だ仏眼有り。十智は阿羅漢、辟支仏、菩薩に共に有り、如実智は、唯だ独り仏のみ有り。所以は何んとなれば、独り仏のみ、不誑の法有ればなり。是を以っての故に知る、如実智は、独り仏のみ有り。
『十智』中には、
『法眼』と、
『慧眼』とが、
『有り!』、
『如実智』中には、
唯だ、
『仏眼のみ!』が、
『有る!』。
『十智』は、
『阿羅漢、辟支仏、菩薩』に、
『共に!』、
『有る!』が、
『如実智』は、
唯だ、
独り、
『仏のみ!』に、
『有る!』。
何故ならば、
独り、
『仏にのみ!』、
『不誑の法』が、
『有るからである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
独り、
『仏にのみ!』、
『如実智』が、
『有る!』、と。
復次是十智入如實智中。失本名字唯有一實智。譬如十方諸流水皆入大海捨本名字但名大海。如是等種種分別十一智義。此中略說 復た次ぎに、是の十智は、如実智中に入りて、本の名字を失い、唯だ一実智のみ有り。譬えば十方の諸の流水の、皆大海に入りて、本の名字を捨て、但だ大海と名づくるが如し。是れ等の如く種種に十一智の義を分別して、此の中に略説せり。
復た次ぎに、
是の、
『十智』は、
『如実智中に入って!』、
本の、
『名字』を、
『失う!』ので、
但だ、
『如実智という!』、
『一名』で、
『呼ばれることになる!』。
譬えば、
『十方の諸の流水』が、
皆、
『大海に入れば!』、
本の、
『名字』を、
『捨てて!』、
但だ、
『大海とのみ!』、
『呼ばれるようなものである!』。
是れ等のように、
種種に、
『十一智』の、
『義』を、
『分別した!』が、
此の中は、
『略して!』、
『説いたに過ぎない!』。



有覚有観等の三三昧

【經】三三昧有覺有觀三昧。無覺有觀三昧。無覺無觀三昧 三三昧は、有覚有観三昧、無覚有観三昧、無覚無観三昧なり。
『三三昧』は、
『有覚有観三昧』と、
『無覚有観三昧』と、
『無覚無観三昧である!』。
  三三昧(さんさんまい):三種の三昧の意。『大智度論巻7上注:三三昧、巻20上注:三昧』参照。
  有覚有観三昧(うかくうかんさんまい):覚(尋)観(伺)に相応する三昧。即ち欲界、未到地、初禅の禅定を云う。『大智度論巻7上注:三三昧、巻20上注:三昧』参照。
  無覚有観三昧(むかくうかんさんまい):覚(尋)に相応せず、観(伺)のみに相応する三昧。即ち二禅の中間の禅定を云う。『大智度論巻7上注:三三昧、巻20上注:三昧』参照。
  無覚無観三昧(むかくむかんさんまい):覚(尋)観(伺)に相応せざる三昧。即ち二禅乃至有頂地の禅定を云う。『大智度論巻7上注:三三昧、巻20上注:三昧』参照。
【論】一切禪定攝心。皆名為三摩提。秦言正心行處。是心從無始世界來常曲不端。得是正心行處心則端直。譬如蛇行常曲入竹筒中則直。 一切の禅定は、心を摂め、皆名づけて三摩提と為し、秦には正心の行処と言う。是の心は、無始の世界より来、常に曲がりて端しからざるも、是の正心の行処を得れば、心は則ち端直なり。譬えば蛇の行くこと常に曲がれるも、竹筒中に入れば、則ち直なるが如し。
一切の、
『禅定』は、
『心』を、
『摂める( put in order )!』ので、
皆、
『三摩提( samaadhi ≒ setting to right )と呼ばれ!』、
秦には、
『正心の行処』と、
『言う!』。
是の、
『心』は、
『無始の世界より!』、
常に、
『曲がって!』、
『端直でない!』が、
是の、
『正心』の、
『行処』を、
『得れば!』、
則ち、
『心』は、
『端直となる!』。
譬えば、
『蛇』は、
『常に!』、
『曲がって!』、
『行くものである!』が、
『竹筒に入れれば!』、
『端直に!』、
『行くようなものである!』。
  摂心(しょうしん):心をおさめて散らさない。
  三摩提(さんまだい):梵語samaadhiの音写、正定、等持等と訳す。又三昧、三摩地とも称す。心の一境に住して動ぜざる状態を云う。『大智度論巻20上注:三昧』参照。
  (たん):まっすぐ。直。ただしい。正。
  端直(たんじき):まっすぐ。正しくなおい。正しく真直ぐで、屈曲のないこと。
是三昧三種。欲界未到地。初禪與覺觀相應故。名有覺有觀。二禪中間但觀相應故。名無覺有觀。從第二禪乃至有頂地。非覺觀相應故。名無覺無觀。 是の三昧は三種にして、欲界、未到地、初禅は、覚、観と相応するが故に、有覚有観と名づけ、二禅、中間には、但だ観と相応するが故に、無覚有観と名づけ、二禅より乃至有頂地には、覚、観の相応に非ざるが故に、無覚無観と名づく。
是の、
『三昧』が、
『三種である!』のは、
『欲界、未到地、初禅の定』は、
『覚』とも、
『観』とも、
『相応する!』が故に、
是れを、
『有覚有観』と、
『称し!』、
『二禅、中間の定』は、
但だ、
『観とのみ!』、
『相応する!』が故に、
是れを、
『無覚有観』と、
『称し!』、
『第二禅、乃至有頂地の定』は、
『覚』とも、
『観』とも、
『相応しない!』が故に、
是れを、
『無覚無観』と、
『称する!』。
  未到地(みとうじ):定の勢力が初禅に近い地に在るを云う。『大智度論巻17下注:未到地』参照。
  中間(ちゅうげん):初禅と二禅との中間に在る定を云う。『大智度論巻17下注:中間静慮』参照。
問曰三昧相應心數法乃至二十。何以故但說覺觀。 問うて曰く、三昧相応の心数法は、乃至二十あり。何を以っての故にか、但だ覚、観のみを説く。
問い、
『三昧に相応する!』、
『心数法』は、
乃至、
『二十ぐらい!』は、
『有る!』のに、
何故、
但だ、
『覚、観のみ!』を、
『説くのですか?』。
答曰。是覺觀嬈亂三昧。以是故說是二事。雖善而是三昧賊難可捨離。 答えて曰く、是の覚観は、三昧を嬈乱すれば、是を以っての故に説かく、『是の二事は、善なりと雖も、是れ三昧の賊にして、捨離すべきこと難し』、と。
答え、
是の、
『覚、観』は、
『三昧』を、
『嬈乱する!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
是の、
『二事』は、
『善ではある!』が、
『三昧には!』、
『賊であり!』、
而も、
『容易に!』、
『捨離されるものでもない!』。
有人言。心有覺觀者無三昧。以是故佛說有覺有觀三昧但不牢固覺觀力小微。是時可得有三昧。是覺觀能生三昧亦能壞三昧。譬如風能生雨亦能壞雨。三種善覺觀能生初禪。得初禪時發大歡喜覺觀故心散還失。以是故但說覺觀。 有る人の言わく、『心に覚、観有れば、三昧無し。是を以っての故に仏の説きたまわく、有覚有観三昧は但だ牢固ならず。覚観の力小微なれば、是の時三昧有るを得べし、と。是の覚、観は能く三昧を生じ、亦た能く三昧を壊る。譬えば風の能く雨を生じ、亦た能く雨を壊るが如し。三種の善の覚、観は、能く初禅を生じ、初禅を得たる時には、大歓喜を発すも、覚、観の故に心散じて還って失う。是を以っての故に但だ、覚、観を説く』、と。
有る人は、こう言っている、――
『心』に、
『覚、観が有れば!』、
『三昧』は、
『無い!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれたのである、――
『有覚有観三昧』は、
但だ、
『牢固でないだけだ!』が、
若し、
『覚、観』の、
『力』が、
『小微になれば!』、
是の時、
『三昧』を、
『有することもできる!』、と。
是の、
『覚、観』は、
『三昧』を、
『生じさせることもでき!』、
亦た、
『三昧』を、
『壊ることもできる!』。
譬えば、
『風』が、
『雨』を、
『降らせることもでき!』、
亦た、
『雨』を、
『降らせなくさせることもできるように!』、
『三種の善覚』と、
『観』とは、
『初禅』を、
『生じさせることができる!』が、
『初禅を得た!』時に、
『大歓喜』を、
『発せば!』、
『覚、観』の故に、
『心』が、
『還って!』、
『散失する!』。
是の故に、
但だ、
『覚、観のみ!』を、
『説くのである!』、と。
問曰。覺觀有何差別。 問うて曰く、覚、観には、何の差別か有る。
問い、
『覚』と、
『観』とには、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。麤心相名覺。細心相名觀。初緣中心發相名覺。後分別籌量好醜名觀。 答えて曰く、麁なる心相を覚と名づけ、細なる心相を観と名づく。初めて縁中に、心の発る相を覚と名づけ、後に好醜を分別し、籌量するを観と名づく。
答え、
『麁の心相』を、
『覚』と、
『呼び!』、
『細の心相』を、
『観』と、
『呼ぶ!』。
『縁』中に、
『心相』が、
『初めて発る!』のを、
『覚』と、
『呼び!』、
『後に!』、
『好、醜を分別、籌量する!』のを、
『観』と、
『呼ぶ!』。
  麁心(そしん):境を縁じて最初に発る心心数法。
  細心(さいしん):境を微細に分別籌量する心心数法。
有三種麤覺。欲覺瞋覺惱覺。有三種善覺。出要覺無瞋覺無惱覺。有三種細覺。親里覺國土覺不死覺。六種覺妨三昧。三種善覺能開三昧門。若覺觀過多還失三昧。如風能使船風過則壞船。如是種種分別覺觀。 三種の麁覚有り、欲覚、瞋覚、悩覚なり。三種の善覚有り、出要覚、無瞋覚、無悩覚なり。三種の細覚有り、親里覚、国土覚、不死覚なり。六種の覚は三昧を妨げ、三種の善覚は能く三昧の門を開けしむ。若し覚、観過多なれば、還って三昧を失う。風の能く船を使い、風過ぐれば則ち船を壊るが如し。是の如く種種に覚、観を分別す。
『麁覚』は、
『三種有り!』、
『欲覚、瞋覚、悩覚である!』。
『善覚』は、
『三種有り!』、
『出要覚、無瞋覚、無悩覚である!』。
『細覚』は、
『三種有り!』、
『親里覚、国土覚、不死覚なり!』。
『六種の覚』は、
『三昧』を、
『妨げ!』、
『三種の善覚』は、
『三昧の門』を、
『開く!』が、
若し、
『覚、観が過多ならば!』、
還って、
『三昧』を、
『失う!』。
譬えば、
『風』は、
『船』を、
『使うことができる!』が、
『風が過多ならば!』、
『船』を、
『壊ることになるようなものである!』。
是のように、
種種に、
『覚、観』を、
『分別する!』。
  欲覚(よくかく):貪欲の念なり。
  瞋覚(しんかく):瞋恚の念なり。
  悩覚(のうかく):他を悩害する念なり。
  出要覚(しゅつようかく):常に生死を出離する要道を憶う念なり。
  無瞋覚(むしんかく):常に無瞋を憶う念なり。
  無悩覚(むのうかく):常に他を悩ますこと無からんと憶う念なり。
  親里覚(しんりかく):常に親戚、郷里を憶う念なり。
  国土覚(こくどかく):常に国土の安危を憶う念なり。
  不死覚(ふしかく):富みて財宝あるに、常に不死を憶う念なり。
問曰。經說三種法。有覺有觀法。無覺有觀法。無覺無觀法。有覺有觀地。無覺有觀地。無覺無觀地。今何以但說三種三昧。 問うて曰く、経に三種の法を、『有覚有観の法、無覚有観の法、無覚無観の法、有覚有観の地、無覚有観の地、無覚無観の地なり』、と説けり。今は何を以ってか、但だ三種の三昧を説ける。
問い、
『経』には、
『三種の法』を、
『有覚有観の法、無覚有観の法、無覚無観の法と!』、
『有覚有観の地、無覚有観の地、無覚無観の地とである!』と、
『説かれている!』が、
今は、
何故、
但だ、
『三種の三昧のみ!』を、
『説くのですか?』。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻4』:『三法。有覺有觀法。無覺有觀法。無覺無觀法。三地。有覺有觀地。無覺有觀地。無覺無觀地。』
答曰。妙而可用者取。有覺有觀法者。欲界未到地初禪中覺觀相應法。若善若不善若無記。無覺有觀法者。禪中間觀相應法。若善若無記。無覺無觀法者。離覺觀法一切色心不相應行及無為法。 答えて曰く、妙なるも、用うべき者の取ればなり。有覚有観の法とは、欲界、未到地、初禅中の覚、観相応の法にして、若しは善、若しは不善、若しは無起なり。無覚有観の法とは、禅と、中間の観相応の法にして、若しは善、若しは無記なり。無覚無観の法とは、覚、観を離れたる法にして、一切の色と、心不相応行、及び無為法なり。
答え、
『妙である!』が、
『用いる!』者が、
『取る!』が故に、
是の、
『三種の三昧』を、
『説くのである!』。
『有覚有観の法』とは、
『欲界、未到地、初禅』中の、
『覚にも!』、
『観にも!』、
『相応する!』、
『善か!』、
『不善か!』、
『無記の!』、
『法である!』。
『無覚有観の法』とは、
『禅か!』、
『中間禅の!』、
『観のみ!』に、
『相応する!』、
『善か!』、
『無記の!』、
『法である!』。
『無覚無観の法』とは、
『覚、観を離れた法であり!』、
『一切の色法と!』、
『心不相応の行と!』、
『無為法である!』。
有覺有觀地者。欲界未到地梵世。無覺有觀地者。禪中間善修是地作大梵王。無覺無觀地者。一切光音一切遍淨一切廣果一切無色地。 有覚有観の地とは、欲界、未到地、梵世なり。無覚有観の地とは、禅の中間にして、善く是の地を修すれば、大梵王と作る。無覚無観の地とは、一切の光音、一切の遍浄、一切の広果、一切の無色の地なり。
『有覚有観の地』とは、
『欲界と!』、
『未到地と!』、
『梵世(初禅天)である!』。
『無覚有観の地』とは、
『禅の中間(初禅、二禅の中間)である!』が、
是の、
『地』を、
『善く!』、
『修めれば!』、
『大梵天(初禅天)』の、
『王』と、
『作る!』。
『無覚無観の地』とは、
『一切の光音天(第二禅天)と!』、
『一切の遍浄天(第三禅天)と!』、
『一切の広果天(第四禅天)と!』、
『一切の無色地である!』。
  梵世(ぼんせ):梵世天、即ち初禅なり。
  大梵王(だいぼんおう):大梵天、即ち初禅天の王なり。
  光音(こうおん):光音天、即ち二禅なり。
  遍浄(へんじょう):遍浄天、即ち三禅なり。
  広果(こうか):広果天、即ち四禅なり。
於中上妙者是三昧。何等是三昧從空等三三昧。乃至金剛及阿羅漢辟支佛諸三昧。觀十方佛三昧乃至首楞嚴三昧。從斷一切疑三昧。乃至三昧王等諸佛三昧。如是等種種分別。略說三三昧義竟 中に於いて上妙の者は、是れ三昧なり。何等か是れ三昧なる。空等の三三昧より、乃至金剛、及び阿羅漢、辟支仏の諸三昧、十方の仏を観る三昧、乃至首楞厳三昧、一切の疑を断ずる三昧より、乃至三昧王等の諸仏の三昧、是れ等の如き種種に分別して、三三昧の義を略説し竟る。
是の、
『地』中の、
『上妙の者』が、
『三昧である!』。
『三昧』とは、
何のような、
『三昧であるのか?』、――
即ち、
『空等の三三昧、乃至金剛三昧』と、
『阿羅漢、辟支仏の諸三昧』と、
『十方の仏を観る三昧、乃至首楞厳三昧』と、
『一切の疑を断じる三昧、乃至三昧王等の諸仏の三昧』、
是れ等のように、
種種に、
『三昧』を、
『分別する!』。
『三三昧の義』を、
『略して!』、
『説いた!』。



未知欲知等の三根

【經】三根未知欲知根知根知已根 三根は、未知欲知根、知根、知已根なり。
『三根(無漏の三根)』は、
『未知欲知根と!』、
『知根と!』、
『知已根である!』。
  未知欲知根(みちよくちこん):見道に於ける意楽喜捨の四根、及び信等の五根を立てて未知欲知根と称す。三無漏根の一。二十二根の一。『大智度論巻17下注:二十二根、巻23下注:三無漏根』参照。
  知根(ちこん):修道に於ける意楽喜捨の四根、及び信等の五根を立てて知根と称す。三無漏根の一。二十二根の一。『大智度論巻17下注:二十二根、巻23下注:三無漏根』参照。
  知已根(ちいこん):無学道に於ける意楽喜捨の四根、及び信等の五根を立てて知已根と称す。三無漏根の一。二十二根の一。『大智度論巻17下注:二十二根、巻23下注:三無漏根』参照。
  三無漏根(さんむろこん):梵語triiNy anaasraveendriyaaNiの訳。無漏の根となるものに三種の別あるの意。二十二根の一科。一に未知当知根anaajJaataajJaasyaamiindriya、二に已知根aajJeendriya、三に具知根aajJaataaviindriyaなり。又初を未知欲知根、第二を知根、第三を無知根とも名づく。「雑阿含経巻26」に、「三根あり、未知当知根、知根、無知根なり」と云い、「倶舎論巻3」に、「意と楽と喜と捨と信等の五根と、是の如き九根は三道に在りて次での如く三無漏根を建立す。謂わく見道に在りては、意等の九に依りて未知当知根を立つ。若し修道に在りては、即ち此の九に依りて已知根を立つ。無学道に在りても亦た此の九に依りて具知根を立つ」と云える是れなり。蓋し三無漏根は、意楽喜捨の四根と信進念定慧の五根との九を以って体とし、順次に見修無学の三道に在りて建立し、無漏清浄の法を生長するが故に名づけて根と為すなり。此の中、見道に於ける十五刹那八忍七智は、上下八諦に於いて未だ曽て知らざるを当に知るべき行相転ずるが故に、彼の行者を未知当知と名づく。修道に在りては、上下八諦に於いて未だ曽て知らざるを当に知るべきことなきも、但だ余の随眠を断除せんが為の故に、即ち彼の諦に於いて復た数数了知す、是の故に彼の行者を説いて名づけて已知と為す。無学道に在りては已に惑なきが故に、能く諦境に於いて己れ已に知ると知るの解を作す、故に名づけて知と為す。此の知を成就することある者を具知と名づく。或いは此の知を習うて已に性を成ずる者を名づけて具知と為す。是の如く彼の三道に於ける行者所有の根を未知当知根等と名づくるなり。「倶舎論巻3」に有余師の説を挙げて、此の三無漏根は後後の道と涅槃とを得るに於いて増上の用あり、謂わゆる未知当知根は已知根の道を得るに於いて増上の用あり、已知根は具知根の道を得るに於いて増上の用あり、具知根は涅槃を得るに於いて増上の用あり。又見所断の煩悩滅する中に於いて、未知当知根は増上の用あり、修所断の煩悩滅する中に於いて已知根は増上の用あり、現法楽住の中に於いて、具知根は増上の用あり。是の如く一一各能く増上の用あるが故に立てて根と為すと云えり。若し大乗に依らば其の説今と同じからず。「瑜伽論記巻16上」に、「秦は戒賢の二解を述ぶ。一説には、地前の十信等の四位を総じて勝解行地と名づく。未だ初地の遍満真如を知らず、彼の真を知らんと欲して、地前方便の解行を修習するが故に未知欲知根と名づく。此れ則ち未だ単知せざるを単知せんと欲す。小論の見道十五心に、未だ重知せざるを重知せんと欲するの義に同じからず。昔に浄心地と名づくるは、梵本に順ぜざるが故に、今の正語には浄増上意楽地と名づく。初地には正しく遍満真如を知るが故に知根と名づく。即ち九地に例するに、応に知るべし亦た爾り。十地已還は障未だ尽きず、故に知明了ならず。如来地中には障已に尽くるが故に、知明了なることを得、所以に具知と名づく。旧に欲知根と云い、亦た知已知根というは並びに梵語に違すと。一説には、地前の解行及び初地の未だ真観を出でざる已来は、皆是れ未知根の位なり。今此の論文は前方便を挙ぐるが故に、地前に依りて初根を立つ。初地出観已後は第二根に属する故に、浄増上意楽地等に於いて第二根を立つ。今唯識論の道理を尋ぬるに、初見道の時も亦た初根に属す。但だ時促るを以っての故に略して説かず」と云えり。「瑜伽論略纂巻15」に出す所亦た略ぼ之に同じ。之に依るに大乗には両説ありと雖も、共に見道以前を立てて未知当知根となし、之を小乗の説の如く三道に配して解せざることを知るべし。又「長阿含経巻8」、「本事経巻7」、「集異門足論巻5」、「発智論巻14」、「大毘婆沙論巻142、143、150」、「雑阿毘曇心論巻8」、「倶舎論巻2」、「順正理論巻9」、「瑜伽師地論巻57」、「大乗阿毘達磨雑集論巻10」、「成唯識論巻2、7」、「同述記巻7末」、「大乗義章巻4」、「倶舎論光記巻3」、「同宝疏巻3」等に出づ。<(望)『大智度論巻17下注:二十二根』参照。
【論】未知欲知根者無漏九根和合。信行法行人。於見諦道中名未知欲知根。所謂信等五根。喜樂捨根意根。信解見得人。思惟道中是九根轉名知根。無學道中。是九根名知已根。 未知欲知根は、無漏の九根の和合にして、信行、法行の人の、見諦道中に於けるを、未知欲知根と名づく。謂わゆる信等の五根と、喜、楽、捨根と意根となり。信解、見得の人は、思惟道中に、是の九根転じて知根と名づけ、無学道中に是の九根を知已根と名づく。
『未知欲知根』とは、
『九根』の、
『和合である!』。
『見諦道』中の、
『信行、法行の人』に於いては、
謂わゆる、
『信等の五根、喜、楽、捨根、意根である!』、
是の、
『九根』を、
『未知欲知根』と、
『呼び!』、
『思惟道』中の、
『信解、見得の人』に於いては、
是の、
『九根を転じて!』、
『知根』と、
『称し!』、
『無学道』中に於いては、
是の、
『九根』を、
『知已根』と、
『称するのである!』。
  信行(しんぎょう):見道十五心中に於ける鈍根の人を云う。十八有学の一。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  法行(ほうぎょう):見道十五心中に於ける利根の人を云う。十八有学の一。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  信解(しんげ):信行の人の修道位に入れるを云う。十八有学の一。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  見得(けんとく):法行の人の修道位に入れるを云う。十八有学の一。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
問曰。何以故。於二十二根中。但取是三根。 問うて曰く、何を以っての故にか、二十二根中に於いて、但だ是の三根を取る。
問い、
何故、
『二十二根』中に於いて、
但だ、
是の、
『三根』を、
『取るのですか?』。
答曰。利解了了自在相。是名為根。餘十九根根相不具足故不取。是三根利能直入至涅槃。諸有為法中主故。得自在能勝諸根。 答えて曰く、利解了了として自在の相、是れを名づけて根と為す。余の十九根は、根相具足せざるが故に取らず。是の三根は利にして、能く涅槃に直入して至り、諸の有為法中の主なるが故に、自在を得て、能く諸根に勝る。
答え、
『理解』が、
『鋭利、明了、自在である!』ような、
『相』を、
『根(知根)』と、
『称し!』、
余の、
『十九根(眼等の五根、男女根、命根、意根、苦楽憂喜捨根、信等の五根)』は、
『相』が、
『具足しない!』が故に、
『取らないのである!』。
是の、
『三根』は、
『鋭利であり!』、
『涅槃』に、
『直入して!』、
『至ることができ!』、
諸の、
『有為法中の主である!』が故に、
『自在を得て!』、
『諸根』に、
『勝ることができる!』。
  (り):梵語 tiikSNa の訳、鋭い/鋭利な( sharp, keen )、熱心な( zealous )、熱い( hot )、辛い( pungent )の意。
復次十根但有漏自得。無所利益故九根不定。或有漏或無漏故不說。菩薩應具足。 復た次ぎに、十根は、但だ有漏なれば、自ら得て、利益する所無きが故に、九根は不定にして或は有漏、或は無漏なるが故に、『菩薩は、応に具足すべし』、と説かず。
復た次ぎに、
『十根(眼等の五根、男女根、命根、苦憂根)』は、
自ら、
『得るような!』、
『利益する!』所が、
『無い!』が故に、
『九根(意根、楽喜捨根、信等の五根)』は、
或は、
『有漏であったり!』、
『無漏であったりする!』が故に、
是の故に、こう説かないのである、――
『菩薩』は、
『十九根』を、
『具足せねばならない!』、と。
問曰。十想亦有漏亦無漏。何以故。說應具足。 問うて曰く、十想も亦た有漏、亦た無漏なり。何を以っての故にか、『応に具足すべし』と説く。
問い、
『十想』も、
亦た、
『有漏でもあり!』、
『無漏でもある!』が、
何故、こう説くのですか?――
『具足せねばならない!』、と。
答曰。十想皆是助道求涅槃法。信等五根雖是善法不盡求涅槃。如阿毘曇中說。誰成就信等五根。不斷善根者。 答えて曰く、十想は、皆是れ道を助けて、涅槃を求むる法なり。信等の五根は、是れ善法なりと雖も、尽くは、涅槃を求めず。阿毘曇中に、『誰か信等の五根を成就する。善根を断たざる者なり』、と説けるが如し。
答え、
『十想』は、
皆、
『道を助けて!』、
『涅槃を求める!』、
『法である!』が、
『信等の五根』は、
皆、
『善法ではある!』が、
尽くが、
『涅槃』を、
『求めるものではない!』。
『阿毘曇』中に、こう説く通りである、――
誰が、
『信』等の、
『五根』を、
『成就するのか?』。
『善根』を、
『断たない!』者が、
『成就する!』、と。
復次若五根清淨變為無漏。三根中已攝。是三根中必有意根。三受中必有一受。以是故但說三根。 復た次ぎに、若し五根清浄なれば、変じて無漏と為り、三根中に已に摂せり。是の三根中には、必ず意根有り、三受中には、必ず一受有り、是を以っての故に、但だ三根を説く。
復た次ぎに、
若し、
『五根(眼、耳、鼻、舌、身根)』が、
『清浄ならば!』、
『無漏』に、
『変じる!』ので、
『三根』中に、
已に、
『包摂されることになり!』、
是の、
『三根』中には、
必ず、
『意根』が、
『有り!』、
『三受(喜、楽、捨受)』中には、
必ず、
『一受(捨受)』が、
『有るので!』、
則ち、
『男、女、命、憂、苦』を、
『捨てることができる!』。
是の故に、
但だ、
『三根』を、
『説くのである!』。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻37』:『問曰。二十二根。名有二十二。實體有幾。答曰。阿毘曇者。作如是說。二十二根。名有二十二。實體十七。彼作是說。五根更無別體。謂男根。女根。未知欲知根。知根。知已根。問曰。彼何故說男根女根無別體。答曰。彼說身根外更無男根女根別體如說。云何男根。答曰。身根少分。云何女根。答曰。身根少分。何故三無漏根。無有別體。答曰。九根之外。更無三根別體。九根者。意根。樂根。喜根。捨根。信等五根。此九根。有時名未知欲知根。有時名知根。有時名知已根。在見道時。名未知欲知根。在修道時。名知根。在無學道時。名知已根。復次在堅信堅法身中。名未知欲知根。在信解脫見到身證身中。名知根。在慧解脫俱解脫身中。名知已根。所以者何。九根合聚。名未知欲知根。九根合聚。名知根。九根合聚。名知已根。以是事故。說三無漏根無有別體。是故說根。名有二十二。實體有十七。尊者曇摩多羅。作如是說。二十二根。名有二十二。實體有十四。向說五根無有別體。更說三根亦無別體。謂命根捨根定根。問曰。彼何故說命根無別體。答曰。命根是心不相應行陰。彼說心不相應行陰無有別體。何故說捨根。無別體。答曰。彼說苦受樂受外更無別捨受。諸所受若苦若樂不苦不樂。云何名受。‥‥』
復次二十二根。有善有不善有無記雜。是故不說應具足。 復た次ぎに、二十二根は、善有り、不善有り、無記有りて雑う。是の故に応に具足すべしとは説かず。
復た次ぎに、
『二十二根』には、
『善、不善、無記』が、
『雑って!』、
『有る!』ので、
是の故に、こうは説かないのである、――
当然、
『具足せねばならない!』、と。
是三根受眾行眾識眾攝。 是の三根は受衆、行衆、識衆に摂す。
是の、
『三根』は、
『受衆、行衆、識衆』に、
『包摂される!』。
未知欲知根在六地。知根知已根在九地。 未知欲知根は、六地に在り、知根、知已根は九地に在り。
『未知欲知根』は、
『六地(未至定、中間、四禅)』に、
『在る!』が、
『知根、知已根』は、
『九地(未至定、中間、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処)』に、
『在る!』。
三根緣四諦六想相應。 三根は四諦を縁じて、六想相応なり。
『三根』は、
『四諦を縁じて!』、
『六想(無常、苦、無我、断、離欲、尽想)』に、
『相応する!』。
未知欲知根三根因。知根二根因。知已根但知已根因。 未知欲知根は三根の因なり。知根は二根の因なり。知已根は但だ知已根の因なり。
『未知欲知根』は、
『三根(未知欲知、知、知已根)』の、
『因であり!』、
『知根』は、
『二根(知、知已根)』の、
『因であり!』、
『知已根』は、
但だ、
『知已根』の、
『因である!』。
未知欲知根。次第生二根。知根次第或生有漏根。或生知根或生知已根。知已根或生有漏根或生知已根。如是等以阿毘曇門廣分別說。 未知欲知根は、次第に二根を生じ、知根は、次第に或は有漏根を生じ、或は知根を生じ、或は知已根を生じ、知已根は、或は有漏根を生じ、或は知已根を生ず。是れ等の如く、阿毘曇門を以って、広く分別して説けり。
『未知欲知根』は、
次第に、
『二根』を、
『生じ!』、
『知根』は、
次第に、
或は、
『有漏根』を、
『生じ!』、
或は、
『知根』を、
『生じ!』、
或は、
『知已根』を、
『生じ!』、
『知已根』は、
次第に、
或は、
『有漏根』を、
『生じ!』、
或は、
『知已根』を、
『生じる!』。
是れ等のように、
『阿毘曇門を用いて!』、
広く、
『分別して!』、
『説いた!』。
復次未知欲知根。名諸法實相。未知欲知故生信等五根。是五根力故。能得諸法實相。 復た次ぎに、未知欲知根を、諸法の実相と名づけ、未知欲知の故に信等の五根を生じ、是の五根の力の故に、能く諸法の実相を得。
復た次ぎに、
『未知欲知根』とは、
諸の、
『法の実相』を、
『知りたいということであり!』、
是の、
『未知欲知根』の故に、
『信等の五根』を、
『生じ!』、
是の、
『五根の力』の故に、
諸の、
『法の実相』が、
『得られるのである!』。
如人初入胎中得二根身根命根。爾時如段肉未具。諸根不能有所別知。五根成就能知五塵。菩薩亦如是。初發心欲作佛。未具足是五根。雖有願欲知諸法實相不能得知。 人の初めて胎中に入りて二根の身根、命根を得るに、爾の時は段肉の如く、未だ諸根を具えざれば、別知する所有る能わず。五根成就して、能く五塵を知るが如し。菩薩も亦た是の如く、初めて心を発して、仏と作らんと欲するに、未だ是の五根を具足せず、願有りて、諸法の実相を知らんと欲すと雖も、知るを得る能わず。
譬えば、
『人』が、
初めて、
『胎に入って!』、
『身根、命根の二根』を、
『得て!』も、
爾の時は、
譬えば、
『段肉(肉塊)のように!』、
『諸根』が、
『具わらず!』、
何も、
『分別して!』、
『知ることができない!』が、
『五根を成就すれば!』、
『五塵(色、声、香、味、触)』を、
『知ることができるように!』、
『菩薩』も、
是のように、
初めて、
『心を発して!』、
『仏に作ろう!』と、
『思っても!』、
未だ、
『五根が具足しない!』が故に、
『諸法の実相』を、
『知りたいという!』、
『願が有っても!』、
『諸法の実相』を、
『知ること!』は、
『不可能である!』。
菩薩生是信等五根。則能知諸法實相。如眼四大及四大造色和合名為眼。先雖有四大。四大造色未清淨故。不名眼根。不斷善根人雖有信未清淨故。不名為根。 菩薩は、是の信等の五根を生ずれば、則ち能く諸法の実相を知る。眼の四大と、及び四大造の色の和合を名づけて、眼と為すに、先に四大と、四大造の色有りと雖も、未だ清浄ならざるが故に、眼根と名づけざるが如く、善根を断たざる人の、信有りと雖も、未だ清浄ならざるが故に、名づけて根と為さず。
『菩薩』は、
是の、
『信等の五根』を、
『生じれば!』、
則ち、
『諸法の実相』を、
『知ることができる!』。
譬えば、
『眼』は、
『四大』と、
『四大造の色』との、
『和合』が、
『眼』と、
『呼ばれるのである!』が、
先に、
『四大』と、
『四大造の色』とが、
『有っても!』、
『清浄でない!』が故に、
是れを、
『眼根』と、
『称することがないように!』、
『善根を断たない!』、
『人であり!』、
『信』が、
『有ったとしても!』、
『清浄でない!』が故に、
是れを、
『信根』と、
『称することはない!』。
若菩薩得是信等五根。是時能信諸法實相不生不滅不垢不淨非有非無非取非捨常寂滅真淨如虛空。不可示不可說。一切語言道過出一切心心數法所行如涅槃。是則佛法。 若し菩薩、是の信等の五根を得れば、是の時能く諸法の実相の不生不滅、不垢不浄、非有非無、非取非捨、常寂滅にして、真浄なること虚空の如きを信ず。不可示、不可説にして、一切の語言の道を過ぎ、一切の心心数法の所行を出でて、涅槃の如き、是れ則ち仏の法なり。
若し、
『菩薩』が、
是の、
『信等の五根』を、
『得れば!』、
是の時、
『諸法の実相』が、
『不生不滅、不垢不浄、非有非無、非取非捨であり!』、
『常に寂滅しており!』、
『虚空のように真浄である!』と、
『信じることができる!』。
則ち、
『不可示、不可説であり!』、
一切の、
『語言の道( way )』を、
『過ぎ!』、
一切の、
『心、心数法の所行』を、
『出て!』、
譬えば、
『涅槃』と、
『同じならば!』、
是れが、
則ち、
『仏』の、
『法である!』。
菩薩以信根力故。能受精進根力故。懃行不退不轉。念根力故不令不善法入攝諸善法。定根力故心散五欲中。能攝實相中慧根力故。於佛智慧中少多得義味不可壞。 菩薩は信根の力を以っての故に、能く受け、精進根の力の故に懃行して不退不転なり。念根力の故に不善法をして入らしめず、諸善法を摂せしめ、定根力の故に心を五欲中に散じて、能く実相中に摂し、慧根力の故に、仏の智慧中に於いて、少多の義味の壊るべからざるを得。
『菩薩』は、
『信根という!』、
『力』の故に、
『諸法の実相』を、
『受けることができ!』、
『精進根という!』、
『力』の故に、
『懃行して!』、
『退転せず!』、
『念根という!』、
『力』の故に、
『心』に、
『不善法』を、
『入らせず!』、
『心』に、
『諸の善法』を、
『摂取させる!』。
『定根という!』、
『力』の故に、
『心』を、
『五欲中に散じながら!』、
『実相中に捉り摂めることができ!』、
『慧根という!』、
『力』の故に、
『仏の智慧』中に於いて、
少しばかり、
『壊られない義味(意味)』を、
『得ることができる!』。
五根所依意根必與受具。若喜若樂若捨。 五根の所依たる意根は、必ず受と与に具わる。若しは喜、若しは楽、若しは捨なり。
『五根の所依である!』、
『意根』は、
必ず、
『喜か!』、
『楽か!』、
『捨という!』、
『受とともに!』、
『具わる!』。
依是根入菩薩位乃至未得無生法忍果。是名未知欲知根。此中知諸法實相。了了故名知根。從是得無生法忍果。住阿鞞跋致地得受記。乃至滿十地。坐道場得金剛三昧。於其中間名為知根。斷一切煩惱習。得阿耨多羅三藐三菩提。一切可知法。智慧遍滿故。名為知已根
大智度論卷第二十三
是の根に依りて、菩薩位に入りて、乃至未だ無生法忍の果を得ざる、是れを未知欲知根と名づく。此の中に、諸法の実相を知りて、了了たるが故に、知根と名づく。是より無生法忍の果を得て、阿鞞跋致地に住し、受記を得て、乃至十地を満たして、道場に坐し、金剛三昧を得るまで、其の中間に於けるを、名づけて知根と為し、一切の煩悩の習を断じ、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切の可知法に智慧遍満するが故に、名づけて知已根と為す。
大智度論巻第二十三
是の、
『信等の五根に依って!』、
『菩薩の位に入り!』、
乃至、
『無生法忍』を、
『得るまで!』、
是れを、
『未知欲知根』と、
『呼び!』、
此の中に、
『諸法の実相』を、
『知って!』、
『了了である!』が故に、
初めて、
『知根』と、
『呼ばれ!』、
是より、
『無生法忍の果を得て!』、
『阿鞞跋致地に住まり!』、
『受記を得て!』、
乃至、
『十地を満たして!』、
『道場に坐り!』、
『金剛三昧』を、
『得るまで!』の、
其の、
『中間』を、
『知根』と、
『称し!』、
『一切の煩悩の習を断って!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』を、
『得て!』、
『一切の可知法』に於いて、
『智慧』が、
『遍満する!』が故に、
是れを、
『知已根』と、
『称する!』。

大智度論巻第二十三


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