【經】十想無常想苦想無我想食不淨想一切世間不可樂想死想不淨想斷想離欲想盡想 |
十想とは、無常想、苦想、無我想、食不浄想、一切世間不可楽想、死想、不浄想、断想、離欲想、尽想なり。 |
『十想』とは、――
『無常想と!』、
『苦想と!』、
『無我想と!』、
『食不浄想と!』、
『一切世間不可楽想と!』、
『死想と!』、
『不浄想と!』、
『断想と!』、
『離欲想と!』、
『尽想とである!』。
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十想(じっそう):梵語 daSa-saMjJaa 、十種の熟考( ten kinds of contemplations )、
- 無常想:無常に関する熟考( The contemplation of impermanence )、
- 苦想:苦に関する熟考( The contemplation of suffering )、
- 無我想:無我( anaatman )に関する熟考( The contemplation of the lack of a self )、
- 食不浄想:食物の不浄に関する熟考( The contemplation of the impurity of what we eat )、
- 世間不可楽想:此の世間に於ける真の幸福は見出だしがたいことに関する熟考( The contemplation that it is impossible to find true happiness in this world )、
- 死想:死に関する熟考( The contemplation of death )、
- 不浄想:我々の肉体の不浄に関する熟考( The contemplation of the impurity of our physical bodies )、
- 断想:婬欲及び妄想を断つことに関する熟考( The contemplation of severing passions and delusions
)、
- 離想:欲望から自由になることに関する熟考( The contemplation of becoming free of desires )、
- 尽想:業縁を滅尽することに関する熟考( The contemplation of exhausting our karmic bonds )。『大智度論巻17下注:十想』参照。
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【論】問曰。是一切行法。何以故。或時名為智或時名為念或時名為想。 |
問うて曰く、是の一切の行法は、何を以っての故にか、或は時に名づけて智と為し、或は時に名づけて念と為し、或は時に名づけて想と為す。 |
問い、
是の、
『一切の行法』は、
何故、
或は時に、
『智』と、
『呼ばれ!』、
或は時に、
『念』と、
『呼ばれ!』、
或は時に、
『想』と、
『呼ばれるのですか?』。
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答曰。初習善法為不失故但名念。能轉相轉心故名為想。決定知無所疑故名為智。觀一切有為法無常。智慧相應相。是名無常想。一切有為法無常者。新新生滅故屬因緣故不增積故。 |
答えて曰く、初めて善法を習うに、失せざらしめんが為の故に、但だ念と名づけ、能く相を転じ、心を転ずるが故に名づけて、想と為し、決定して知り、疑う所の無きが故に名づけて、智と為す。一切の有為法は、無常なりと観て、智慧、相に相応すれば、是れを無常想と名づく。一切の有為法の無常とは、新新に生滅するが故に、因縁に属するが故に、増積せざるが故なり。 |
答え、
『習ったばかり!』の、
『善法』を、
『忘失しない!』為の故に、
但だ、
『念』と、
『呼び!』、
『相』や、
『心』を、
『転じることができる!』が故に、
是れを、
『想』と、
『呼び!』、
『決定して知り!』、
『疑う!』所が、
『無くなれば!』、
是れを、
『智』と、
『呼び!』、
『一切の有為法』は、
『無常である!』と、
『観察して!』、
『智慧』が、
『相』に、
『相応すれば!』、
是れを、
『無常想』と、
『呼ぶ!』。
『一切の有為法』が、
『無常である!』のは、――
『有為法』は、
『新新』に、
『生滅するからであり!』、
『有為法』は、
『因縁』に、
『繋属するからであり!』、
『有為法』は、
『増積しないからである!』。
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増積(ぞうしゃく):ましつむ。 |
参考:『大智度論巻43』:『菩薩或觀色無常。無常亦有二種。一者念念滅。一切有為法不過一念住。二者相續法壞故名為無常。如人命盡。若火燒草木。如煎水消盡。若初發心菩薩行是相續斷麤無常心厭故。若久行菩薩能觀諸法念念生滅無常。是二菩薩皆墮取相中。所以者何。是色常無常相不可得。如先說。受想行識亦如是。苦樂我非我亦爾。』 |
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復次生時無來處。滅亦無去處。是故名無常。 |
復た次ぎに、生時に来処無く、滅も亦た去処無ければ、是の故に無常と名づく。 |
復た次ぎに、
『有為法』は、
『生時』には、
『来処』が、
『無く!』、
『滅時』にも、
『去処』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『無常』と、
『呼ばれるのである!』。
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来処(らいしょ):先にいた場所。
去処(こしょ):去りゆくさきの場所。 |
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復次二種世間無常故說無常。一者眾生無常。二者世界無常。如說
大地草木皆磨滅
須彌巨海亦崩竭
諸天住處皆燒盡
爾時世界何物常
十力世尊身光具
智慧明照亦無量
度脫一切諸眾生
名聞普遍滿十方
今日廓然悉安在
何有智者不感傷 |
復た次ぎに、二種の世間の無常なるが故に、無常と説く。一には衆生の無常、二には世界の無常なり。説くが如し、
大地の草木は、皆磨滅し、
須弥と巨海も亦た崩竭し、
諸天の住処も皆焼尽すれば、
爾の時世界の何物か常なる。
十力の世尊には、身光具わり、
智慧の明照すること、亦た無量、
一切の諸衆生を度脱すれば、
名聞普遍して十方に満つ。
今日廓然として、悉く安在したまえども、
何ぞ智者にして、感傷せざる有らんや。
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復た次ぎに、
『二種の世間』が、
『無常である!』が故に、
『無常』と、
『説くのである!』。
謂わゆる、
一には、
『衆生』が、
『無常であり!』、
二には、
『世界』が、
『無常である!』。
譬えば、こう説く通りである、――
『大地』の、
『須弥』も、
『巨海』も、
『諸天』の、
『住処』も、
皆、
『焼けて!』、
『尽きた!』のに、
爾の時、
『世界』の、
『何物が!』、
『常であろうか?』。
『十力の世尊』の、
『身』には、
『光』が、
『具わり!』、
『智慧』の、
『光明』も、
『無量である!』。
『一切の!』、
諸の、
『衆生』を、
『度脱して!』、
十方に、
遍く、
『名聞』が、
『満ちている!』。
『今日』、
『廓然として!』、
『安穏に!』、
『世間』に、
『処在されている!』が、
『感傷しない!』、
『智者が!』、
『何処かに!』、
『有るのだろうか?』。
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世間(せけん):梵語路迦lokaの訳。又laukikaに作る。巴梨語同じ。毀壊すべきものの意。略して世と名づく。即ち毀壊すべく、又は対治せらるべき有為有漏の現象を云う。「梁訳大乗論釈巻15」に、「世間の法は或いは自然に壊し、或いは対治壊に由る」と云い、「倶舎論巻1」に、「此の有漏法は亦た有諍と名づけ、(中略)亦た世間と名づく。毀壊すべきが故に、対治を有するが故なり」と云い、「仏性論巻2」に、「世に三失あり、一には対治して滅尽すべきが故に名づけて世と為す。此の法は則ち対治なきが故に出世と名づく。二に静住せざるが故に名づけて世と為す、虚妄の心に由る果報は念念に滅して住せざるが故なり。此の法は爾らざるが故に出世と名づく。三に倒見あるに由るが故に、心世間に在れば則ち恒に倒見なり。人の三界に在れば心中に決して苦法忍等を見ることを得ざるが如し。其の虚妄なるを以っての故に名づけて世と為す。此の法は能く世間を出づるが故に真実と名づけ、出世蔵と為す」と云える是れなり。是れ毀壊すべく、亦た対治して滅尽せらるべきものを世間と名づけたるなり。蓋し梵語路迦lokaは称友yazomitraの解釈に依るに、元と見るの義なる語根lokより来たれる語なるも、亦た毀壊するの義なる語根luj(ruj)より来たれる名詞とも見るを得べし。就中、後者の場合には正しくlogaに作るべきも、今は不規則にてlokaとなし、従って之に可毀壊、可破壊、可滅等の義ありとなすと云えり。又梵語laukikaは世俗或いは凡俗の義にして、即ち非学を意味す。今世を有漏の略名とし、之に対治せらるべき義ありとなせるは、即ち此の語義に約せるものなるが如し。「旧華厳経巻10夜摩天品」に、「三世五陰の法を説きて名づけて世間と為す、斯れ虚妄に由りて有り」と云い、「大方等大集経巻17」に、「善男子、五受陰を名づけて世間と為す」と云い、「大智度論巻63」に、「世間とは所謂三界なり」と云い、「大乗起信論」に、「一切世間の有為の法は久しく停まることを得るものなく、須臾に変壊し、一切の心行は念念に生滅す。是を以っての故に苦なりと観ずべし。過去所念の諸法は恍惚として夢の如しと観ずべく、現在所念の諸法は猶お電光の如しと観ずべく、未来所念の諸法は猶お雲の忽爾として起るが如しと観ずべし。世間一切の有身は悉く皆不浄にして種種の穢汚あり、一として楽しむべきものなしと観ずべし」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻3」に、「三界の所摂及び出世智後所得の彼に似て顕現するは是れ世間の義なり。彼に似て顕現すとは、謂わく三界の所摂に似たる相顕現するなり。真如等の所現の相貌に似たるは是れ出世間なり、未曽得なるが故なり。是の如く諸蘊の一分と十五界と十処の全と及び三界と二処の一分とは是れ世間なり。一分とは謂わく正智の所摂、及び後所得の出世間の相に似て顕現す。並びに無為法を除く」と云えるは、皆有漏有為虚妄の三界の諸法を総じて世間となせるものにして、即ち凡俗の意に基づけるものなるを見るべし。又「勝鬘宝窟巻下本」には界外の変易生死も亦た世間と名づくべきことを明し、「三種の意生身の人には復た分段なし、名づけて涅槃と為すも、猶お変易あれば名づけて世間と為す。故に此の人は亦た是れ涅槃の人、亦た是れ世間の人なり」と云い、「華厳経探玄記巻3」には更に此の意に基づきて四句を分別し、「初の中に四句あり、一に或いは唯世間なり、謂わく地前及び凡位の所居なり。二に或いは唯涅槃なり、謂わく諸の仏果位所住の涅槃なり。設し自受用土も亦た是れ大涅槃に摂することを得べし。三に或いは亦世間亦涅槃なり。宝性等の論に依るに、無流法界中に依りて三種の意生身あり。応に知るべし、彼は無漏善根の所作に因るが故に名づけて世間と為し、是れは有漏の業煩悩の作に非ざるは亦た涅槃と名づく。此の義に依るが故に、勝鬘経に云わく、世尊、有為世間あり、無為世間あり、有為涅槃あり、無為涅槃ありと。解して云わく、有為世間は是れ凡位、無為涅槃は是れ仏果、有為涅槃と無為世間は是れ変易の報なり。所望異なるが故に俱句に属するなり。四に義準するに諸仏の清浄法界は、是れ世間に非ず涅槃に非ず。是れ二乗の涅槃に非ざるを以っての故なり」と云えり。是れ無為涅槃を除き、余の有為無為の世間及び有為涅槃を総じて世間と名づけたるなり。又世間に二種三種等の別あり。「倶舎論巻8」等に有情世間、器世間の二種を分類し、「大智度論巻70」等に五陰、衆生、国土の三種世間を説き、「華厳経孔目章巻3」等に器世間、智正覚世間、衆生世間の三種世間を出し、「因明入正理論疏巻中本」に非学世間、学者世間の二種を分ち、「大般涅槃経疏巻18」に五陰、五欲、国土、衆生及び仏等の六世間を挙ぐるが如き是れなり。又「大般涅槃経巻18梵行品」、「大智度論巻27」、「梁訳摂大乗論釈巻3、8」、「摩訶止観巻5上」、「華厳経探玄記巻1、17」、「異部宗輪論述記」、「大明三蔵法数巻18」等に出づ。<(望)
世界(せかい):梵語路迦駄覩loka-dhaatuの訳。巴梨語同じ。毀壊すべき処所の意。又略して界とも名づく。即ち衆生住居の所依処たる山川国土等を云う。「大楼炭経巻1閻浮利品」に、「一の日月の四天下の時を旋照するが如く、爾所の四千の天下の世界に千の日月あり、千の須弥山王あり。四千の天下、四千の大海水、四千の大龍宮、四千の大金翅鳥、四千の悪道、四千の大悪道、七千の種種の大樹、八千の種種の大山、万の種種の大泥犁あり。是れを一の小千世界と名づく。一の小千世界の如く、爾所の小千の千世界あり、是れを名づけて中千世界と為す。一の中千世界の如く、爾所の中千の千世界あり、是れを名づけて三千大千世界と為す。悉く焼して成敗す、是れを一仏刹と為す」と云えり。「長阿含巻18閻浮提洲品」、「起世経巻1閻浮州品」等の所説亦た皆之に同じ。是れ一の日月所照の範囲たる四天下(即ち須弥四洲)を以って一世界となし、千の四天下を以って一小千世界となし、千の小千世界を以って一中千世界となし、更に千の中千世界を以って一大千世界となし、之を一仏所化の土となすの意なり。蓋し仏教の世界説は一須弥山世界を単位となし、之を合聚して小中大の三千世界を建立し、更に全宇宙には是の如き三千世界が無数に存在すとなすなり。「大智度論巻50」に更に一仏世界に五重の別あることを説き、「三千大千世界を一世界と名づく、一時に起り一時に滅す。(第一重)是の如き等の十方如恒河沙等の世界は是れ一仏世界なり。(第二重)是の如き一仏世界の数の如恒河沙等の世界は是れ一仏世界海なり。(第三重)是の如き仏世界海の数の如十方恒河沙の世界は是れ一仏世界種なり。(第四重)是の如き世界種の十方無量なる是れを一仏世界と名づく。(第五重)一切世界の中に於いて是の如き分を取る、是れを一仏所度の分と名づく」と云えり。以って其の世界説の広大無辺なるを見るべし。又此の中、一世界に住する有情に就き分類せば、地獄餓鬼畜生修羅人間天上の六道の別あり。就中、地獄等の五道の有情の住する世界を欲界と名づけ、天上の中、有色天の住する世界を色界、無色天の住する世界を無色界と名づく。又大乗諸経論には此等三界の外に諸仏浄土の存在することを説けり。「大智度論巻93」に、「浄仏土あり三界を出づ、乃至煩悩の名もなし」と云い、「瑜伽師地論巻93」に、「清浄世界の中には那落迦傍生餓鬼の得べきなく、亦た欲界色界無色界なし」と云える如き是れなり。又「摩訶止観巻5上」等には、六道の外に声聞縁覚菩薩及び仏の四聖を立て、之を総じて十界と名づけ、各其の所居の国土の別を論じ、又「華厳五教章巻3」には華厳経の所説に基づき、十仏境界の所依に国土海と世界海の二種の別ありとし、国土海は十仏自体の所居たる不可説円融自在の依報を云い、世界海は舎那十身摂化の処にして、之に蓮華蔵荘厳世界海、十重世界海、無量雑類世界の三類あることを説くに至れり。又「雑阿含経巻34」、「別訳雑阿含経巻16」、「起世因本経巻1」、「旧華厳経巻37離世間品」、「大仏頂首楞厳経巻4」、「大毘婆沙論巻134」、「立世阿毘曇論巻2」、「雑阿毘曇心論巻8」、「倶舎論巻8、12」、「瑜伽師地論巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」、「維摩経玄疏巻1」、「華厳五教章巻3」等に出づ。<(望)
須弥(しゅみ):世界の中心に聳える高山の名。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。
度脱(どだつ):此岸より彼岸にわたして、苦をのがれさせる。
廓然(かくねん):がらんとして何物もないさま。
感傷(かんしょう):物に感じて心が傷む。 |
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如是舍利弗目犍連須菩提等諸聖人。轉輪聖王諸國王常樂天王及諸天聖德尊貴皆亦盡。大火焰明忽然滅。 |
是の如く舎利弗、目揵連、須菩提等の諸聖人も、転輪聖王も、諸国の王も、常楽の天王、及び諸天の聖徳、尊貴も、皆亦た尽きて、大火焔の明は忽然として滅す。 |
是のように、
『舎利弗、目揵連、須菩提等の諸聖人』や、
『転輪聖王、諸国の王』や、
『常楽の天王』と、
『諸天の聖徳、尊貴』も、
皆、
『尽きるのであり!』、
『大火焔の明』が、
『忽然として!』、
『滅するである!』。
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舎利弗(しゃりほつ):智慧第一の仏弟子。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
目犍連(もっけんれん):神通第一の仏弟子。『大智度論巻21下注:摩訶目犍連』参照。
須菩提(しゅぼだい):無諍第一の仏弟子。『大智度論巻11上注:須菩提』参照。
転輪聖王(てんりんじょうおう):四天下の主。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
忽然(こつねん):たちまち。突然。 |
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世間轉壞如風中燈。如險岸樹。如漏器盛水不久空竭。如是一切眾生。及眾生住處。皆無常故名為無常。 |
世間の転た壊すること風中の灯の如く、険岸の樹の如く、漏器に水を盛りて、久しからずして空竭するが如し。是の如く、一切の衆生、及び衆生の住処は、皆無常なるが故に、名づけて無常と為す。 |
『世間』が、
『転(うた)た!』、
『滅する!』のは、
譬えば、
『風』中の、
『灯』が、
『滅したり!』、
『険岸』の、
『樹(たちき)』が、
『崩落したり!』、
『漏る器に水を盛れば!』、
『久しからずして!』、
『空竭するようである!』が、
是のように、
一切の、
『衆生』と、
『衆生の住処』とは、
皆、
『無常である!』が故に、
是れを、
『無常』と、
『称する!』。
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転(てん):うたた。いよいよ。次第にはげしくなるさま。
険岸(けんがん):けわしく高い岸辺。 |
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問曰。菩薩何以故行是無常想。 |
問うて曰く、菩薩は、何を以っての故にか、是の無常想を行ずる。 |
問い、
何故、
『菩薩』は、
是の、
『無常想』を、
『行うのですか?』。
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答曰。以眾生著常顛倒受眾苦不得免生死行者得是無常想教化眾生。言諸法皆無常。汝莫著常顛倒失行道時。諸佛上妙法。所謂四真諦。四諦中苦諦為初。苦四行中無常行為初。以是故菩薩行無常想。 |
答えて曰く、衆生の、常顛倒に著して、衆苦を受くるも、生死を免るるを得ざるを以って、行者は、是の無常想を得て、衆生を教化して言わく、『諸法は、皆無常なり。汝は、常顛倒に著して、行道の時を失う莫かれ。諸仏の上妙の法は、謂わゆる四真諦なり。四諦中には苦諦を初と為す。苦の四行中には、無常行を初と為す』、と。是を以っての故に、菩薩は無常想を行ずるなり。 |
答え、
『衆生』は、
『常という!』、
『顛倒に著して!』、
『衆苦』を、
『受けながら!』、
『生死』を、
『免れる!』、
『機会がない!』が故に、
『行者』は、
是の、
『無常想を得て!』、
『衆生』を、
『教化しながら!』、
こう言う、――
『諸法』は、
皆、
『無常である!』。
お前は、
『常という!』、
『顛倒』に、
『著して!』、
『道』を、
『行う時』を、
『失ってはならない!』。
『諸仏の上妙の法』は、
謂わゆる、
『四真諦( 四諦)である!』が、
『四諦』中には、
『苦諦』が、
『初であり!』、
『苦諦の四行( 無常、苦、空、無我)』中には、
『無常行』が、
『初である!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『無常想』を、
『行うのである!』。
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苦四行(くのしぎょう):苦諦を観ずるに無常、苦、空、無我の四行相あるを云う。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、巻18下注:四聖諦』参照。 |
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問曰。有人見無常事至轉更堅著。如國王夫人寶女從地中生。為十頭羅剎將度大海王大憂愁。智臣諫言王智力具足。夫人還在不久何以懷憂。 |
問うて曰く、有る人の無常の事の至れるを見て、転た更に堅著す。国王の夫人の如し。宝女地中より生じて、十頭羅刹と為り、将いて大海を渡る。王、大いに憂愁す。智臣諌めて言わく、『王は智力具足して、夫人還って在るも久しからざらん。何を以ってか憂を懐く』、と。 |
問い、
有る、
『人』は、
『無常の事』が、
『至る!』のを、
『見て!』、
更に、
『益々!』、
『堅く著するようになる!』。
例えば、
『国王の夫人』が、そうであった、――
『宝女』が、
『地中より生じて!』、
『十頭羅刹』と、
『為り!』、
『夫人を将いて!』、
『大海』を、
『渡ってしまった!』。
『王』が、
『大いに!』、
『憂愁している!』と、
『智臣』が、
『諌めて!』、こう言った、――
『王』には、
『智力』が、
『具わっている!』し、
『夫人が還って!』、
『在ったとしても!』、
『久しくないだろう!』。
何故、
『憂』を、
『懐いているのか?』、と。
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夫人(ぶにん):梵語devii弟脾の訳。国王の妃、后の意。義訳して夫人と為す。<(丁)
宝女(ほうにょ):宝のような美女。
十頭羅刹(じゅうづらせつ):古印度伝説ラーマーヤナraamaayaNa中に於いて羅摩raama王の妃私多を劫める十頭を有する羅刹raakSasa(魔物の義)羅婆那raavaNaを指す。乃ち楞伽laGkaa国の羅刹王羅婆那を云う。「入楞伽経巻1」に、「爾の時、羅婆那十頭羅刹楞伽王は、分別心の過ぐるを見て、分別心中に住せず」と云える是れなり。『大智度論巻23上注:羅刹、羅摩王』参照。
羅刹(らせつ):梵名raakSasa、巴梨名rakkhasa、又羅刹娑、邏刹娑、羅叉娑、羅乞察娑、或いは阿落刹娑に作り、其の女姓を羅刹斯raakSasii(巴梨語rakkhasii)と云い、又羅叉私に作る。可畏、速疾鬼、或いは護者と訳す。「玄応音義巻24」に、「羅刹娑、或いは阿落刹娑と言う。是れ悪鬼の通名なり。又羅叉娑と云い、此に護者と云う。若し女は則ち羅叉私と名づく。旧に羅刹と云うは訛略なり」と云い、「慧琳音義巻25」に、「羅刹は此に悪鬼と云うなり。人の血肉を食い、或いは空を飛び、或いは地を行き、捷疾にして畏るべきなり」と云い、又「同巻7」に、「羅刹娑は梵語なり。古に羅刹と云うは訛なり。(中略)此れ乃ち暴悪鬼の名なり。男は極めて醜く、女は即ち甚だ妹美なり。並びに皆人を食啖す。別に羅刹女国あり、海島の中に居る」と云えり。是れ羅刹は悪鬼にして人の血肉を食啖し、又別に海島中に羅刹女国あることを伝うるなり。此の中、羅刹女国に関しては、「仏本行集経巻49五百比丘因縁品」に往昔閻浮提に五百の商人あり、珍宝を求めんが為に海に入り、忽ち悪風に吹かれて羅刹国に至るに、多くの羅刹女ありて之を迎え、彼等を将いて一鉄城に置き、本形を変じて端正の相を現じ、五慾の具を以って大いに娯楽せしむ。時に商主は諸女の睡臥するを伺い、竊かに外に出でて見るに、此の城を去る遠からず復た一鉄城あり、遙かに大叫喚の声を聞き、仍りて樹に上りて彼の城中を望見するに、内に多くの死者あり、或いは已に半身支解して未だ死せず、或いは饑渇逼悩して坐するもの等あり。乃ち大恐怖を生じ、遂に馬王鶏尸を念じて他の商人と共に其の城を脱出し、閻浮提に帰還することを得たりと云えり。「有部毘奈耶巻47」、「大毘婆沙論巻78」、「梵文大事mahaavastu」並びに「大唐西域記巻11僧伽羅国」の條にも亦た略之と同一の説話を載し、「法華経巻7普門品」に掲ぐる羅刹鬼国も恐らく亦た同一伝説に基づけるものなるべし。就中、「西域記」に此の説話を以って僧伽羅即ち錫蘭に関するものとなし、又「有部毘奈耶」に彼の羅刹国を錫蘭の一名なる赤銅洲taamradviipaとなせるを以って見るに、所謂羅刹女国は錫蘭島を指せるものとなすべきが如し。蓋し錫蘭を羅刹の住処となせることは、印度古代の叙事詩なるラーマーヤナraamaayaNaに、羅摩raamaが鬼王邏伐拏raavaNuを逐うて楞伽島に渡り、遂に彼を誅して妃私多ziitaa或いはsiitaaを奪還せりと云える物語に起因するものなるべく、而して之を羅刹と名づけたるは、南印地方の住民が元と人肉を食したるが為なるべしと称せらる。又羅刹は地獄に在りて罪人を呵責するものとせられ、「大智度論巻16」には、悪羅刹獄卒は牛馬等の種種の形を作して罪人を呑噉し齩嚙すと云い、「倶舎論巻11」には、「琰魔王は諸の羅刹娑をして諸の有情を擲ちて地獄に置かしむ」と云えり。又「法華経巻7陀羅尼品」には藍婆等の十羅刹女、「大方等大集経巻1」には住厠羅刹、産乳羅刹の二羅刹、「孔雀王呪経巻下」には八大羅刹女、十大羅刹女、十二大羅刹女、七十一羅刹女等の名を列し、又「大智度論巻54」等には之を夜叉と共に毘沙門天王の所領となせり。又「長阿含巻7弊宿経」、「大般涅槃経巻14」、「金光明最勝王経巻6」、「新華厳経巻68」、「供養十二天大威徳天報恩品」、「翻梵語巻7」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻6、7」等に出づ。<(望)
羅摩王(らまおう):羅摩raamaは梵名。又邏摩、囉摩に作り、能善、作善、或いは虚、戯と訳し、一にラーマ・チャンドラraama-candraとも称す。印度太古の聖王にして、叙事詩「邏摩衍拏raamaayaNa」の主人格なり。中印度阿踰陀ayodhyaa国十車dazaratha王の長子にして、夙に諸藝に達し声誉あり。尋いで毘提訶videha国ヂャナカjanaka王の女私多ziitaa或いはsiitaaと婚し、適ま王位継承に関し、讒せられて十四年謫居の刑を受け、仍りて妃及び末弟ラクシュマナlakSmaNaと共に檀陀柯林daNDakaaraNya(檀特山)に住す。父王の崩後、王位に即かんことを求められしも、刑期満ぜざるの故を以って之を辞し、次弟ブハラタbharata代わりて万機を摂す。山林に止まること十年、後南進してゴーダーヴァリーgodaavarii河辺に到り、林中の悪羅刹を討伐するに、鬼王邏伐拏raavaNaは怨を啣み、其の妃私多を奪うて楞伽laGkaa(即ち錫蘭)に還る。羅摩は乃ち猿王等の援助を得、長橋を架して楞伽に渡り、遂に邏伐拏を誅して妃を救い、且つ火誓に由りて妃の貞潔なるを知り、大いに歓喜す。時に刑期既に満ちたるを以って妃と共に本国に帰り、遂に王位に登りて聖化を布けりと云う。此の物語は古くより印度に行われたるものにして、既に西暦前四五世紀の頃、ヴァールミーキvaalmiikiは之を賦して詩篇となせり。是れ印度最古の叙事詩にして、古来マハーブハーラタmahaabhaarataと共に二大叙事詩として広く人口に膾炙せらるる所なり。現存「邏摩衍拏」は七篇四万八千頌より成り、此の中、第二乃至第六の五篇はヴァールミーキの作に係り、第一第七の二篇は西暦第二世紀の頃新に添加せられしものと伝え、即位後に於ける王及び妃の事蹟を敍し、又王を毘湿笯神の権化として称讃せり。後ラーマ・プールヴァ・ターパニーヤraama-puurva-taapaniiya、ラーマ・ウッタラ・ターパニーヤraamoottara-taapaniiya等の新ウパニシャッド撰せらるるに及び、漸次羅摩の信仰興隆し、第十四五世紀の頃、毘湿笯派中に羅摩派を出し、遂に羅摩を以って最高神となすに至れり。此の説話は亦仏典中にも伝えられ、「大毘婆沙論巻46」に、「邏摩衍拏書の如きは一万二千頌あり、唯二事を明すのみ。一は邏伐拏の私多を劫めて去るを明し、二は邏摩の私多を将いて還るを明す」と云い、「仏所行讃巻5分舎利品」に、「羅摩は私陀の為に諸の鬼神を殺害す」と云い、又「入楞伽経」は楞伽山に於いて邏伐拏を対告衆として説述せられしものにして、邏摩衍拏書に関連するものありというべし。又「仏本行経巻7」、「仏本行集経巻21」、「大荘厳論経巻5」、「大乗入楞伽経巻7」、「婆数槃豆法師伝」等に出づ。<(望) |
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答言。我所以憂者不慮。我婦叵得但恐壯時易過。亦如人好華好果見時欲過便大生著。如是知無常乃更生諸結使。云何言無常能令心厭破諸結使。 |
答えて言わく、『我が憂うる所以は、我が婦の得叵(がた)きを慮るにあらず、但だ壮時の過ぎ易きを恐る。亦た人の好華、好果を見る時、過ぎんと欲するに、便ち大に著を生ずるが如し』、と。是の如く無常を知りて、乃ち諸の結使を更に生ず。云何が、『無常は、能く心をして、諸の結使を厭うて破らしむ』、と言う。 |
『王は答えて!』、こう言った、――
わたしが、
『憂えている!』のは、
わたしの、
『婦』が、
『得がたい!』のを、
『慮ってではない!』。
但だ、
『壮年の時』の、
『過ぎやすい!』のを、
『恐れるのだ!』、と。
亦た、
『人』が、
『好華、好果を見た!』時、
『過ぎようとすれば!』、
益々、
『著』を、
『生じるようなものだ!』、と。
是のように、
『無常を知って!』、
やっと、
更に、
『諸の結使』を、
『生じる!』のに、
何故、こう言うのか?――
『無常』は、
『心』に、
『諸の結使』を、
『厭わせて!』、
『破らせる!』、と。
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乃(ない):<代名詞>お前の/汝が( your )、彼れの( his )、此の( this )、此のように( so )。<動詞>すなわち。是れ(
be )。<副詞>すなわち。ちょうど今( just now )、只だ/僅かに( only then )、不意に/なんと( unexpectedly,
actually )、同時に( at the same time )、そこで/そうすると/是に於いて( then, where upon )。<接続詞>すなわち。しかし/しかしながら(
but, however )。 |
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答曰。如是見無常是知無常少分為不具足。與禽獸見無常無異。以是故。佛告舍利弗。當具足修無常想。 |
答えて曰く、是の如く無常を見るは、是れ無常の少分を知りて、具足せずと為し、禽獣の見る無常と異なる無し。是を以っての故に、仏の舎利弗に告げたまわく、『当に具足して、無常想を修すべし』、と。 |
答え、
是のように、
『無常を見る!』のは、
『無常の少分』を、
『知るだけで!』、
『具足せず!』、
『禽獣』が、
『無常を見る!』のと、
『異ならない!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられたのである、――
『無常想』は、
『具足して!』、
『修めねばならない!』、と。
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問曰。何等是具足無常想。 |
問うて曰く、何等か、是れ無常想を具足する。 |
問い、
何のようなものが、
『具足した!』、
『無常想ですか?』。
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答曰。觀有為法念念生滅。如風吹塵。如山上水流。如火焰隨滅。一切有為法無牢無強。不可取不可著。為如幻化誑惑凡夫。因是無常得入空門。是空中一切法不可得故。無常亦不可得。 |
答えて曰く、有為法の念念に生滅すること、風の塵を吹くが如く、山上より水の流るるが如く、火焔の随って滅するが如きを観て、一切の有為法は、牢無く、強無く、取るべからず、著すべからざること、幻化の凡夫を誑惑するが如しと為す。是の無常に因りて、空門に入るを得れば、是の空中には一切法の不可得なるが故に、無常も亦た不可得なり。 |
答え、
『有為法』は、
『念念に!』、
『消滅する!』のを、
『観察すれば!』、
譬えば、
『風に吹かれた、塵のようであり!』、
『山上より流れる、水のようであり!』、
『随って滅する、火焔のようであり!』、
『一切の有為法』は、
『堅牢、強固でなく!』、
『取ることもできず!』、
『著することもできず!』、
譬えば、
『凡夫を誑惑する!』、
『幻、化のようである!』。
是の、
『無常観に因って!』、
『空門』に、
『入ることができれば!』、
是の、
『空』中には、
『一切の!』、
『法』が、
『認められない!』が故に、
『無常という!』、
『法』も、
『認められない!』。
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隨(ずい):したがう。他につきしたがう。
牢(ろう):かたい。堅固。
為(い):ために。ゆえに。故に同じ。 |
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所以者何。一念中生住滅相不可得。生時不得有住滅。住時不得有生滅。滅時不得有生住。生住滅相性相違故無。是無故無常亦無。 |
所以は何んとなれば、一念中の生住滅の相は不可得なればなり。生時には住、滅有るを得ず、住時には生、滅有るを得ず、滅時には生、住有るを得ず。生住滅は相性の相違するが故に無し。是れ無きが故に、無常も亦た無し。 |
何故ならば、
『一念』中には、
『生、住、滅』の、
『相』が、
『認められないからである!』。
何故ならば、
『有為法』には、
『生、住、滅』の、
『三相』が、
『有るはずなのに!』、
是の、
『生時』には、
『住、滅が有る!』とは、
『認められず!』、
『住時』には、
『生、滅が有る!』とは、
『認められず!』、
『滅時』には、
『生、住が有る!』とは、
『認められない!』ので、
『生、住、滅』は、
『相、性』が、
『相違するからである!』。
是の故に、
『有為法』の、
『相』は、
『無いことになり!』、
是れが、
『無い!』が故に、
『無常』も、
『無いことになる!』。
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性相(しょうとそう):性とは法の自体にして、内に在りて改易すべからざるを云い、相とは相貌にして、外に現れて分別すべきを云う。有為、無為は相対すれば、則ち無為法を性と為し、有為法を相と為す。而れども有為、無為は皆性、相有り、自体を性と云い、可識を相と云う。「大智度論巻31」に、「性は其の体を言い、相は可識を言う」と云い、「法華経方便品」に、「是の如き相、是の如き性」と云い、「涅槃経巻2」に、「汝、今当に諸行の性、相を観ずべし」と云える是れなり。<(丁)『大智度論巻20上注:性』、『大智度論巻15上注:相』参照。 |
参考:『中論巻1三相品』:『若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。』 |
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問曰。若無無常。佛何以苦諦中說無常。 |
問うて曰く、若し無常無くんば、仏は何を以ってか、苦諦中に無常を説きたまえる。 |
問い、
若し、
『無常が無ければ!』、
『仏』は、
何故、
『苦諦四行( 無常、苦、空、無我)』中に、
『無常』を、
『説かれたのですか?』。
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答曰。凡夫人生邪見故。謂世間是常。為滅除是常見故說無常。不為無常是實故說。 |
答えて曰く、凡夫人は邪見を生ずるが故に、『世間は、是れ常なり』、と謂えば、是の常見を滅除せんが為の故に、無常を説き、無常を是れ実なりと為さんが故に説きたまわず。 |
答え、
『凡夫人』は、
『邪見を生じる!』が故に、――
『世間』は、
『常である!』と、
『謂う!』ので、
是の、
『常見』を、
『滅除しよう!』と、
『思われ!』、
是の故に、
『無常である!』と、
『説かれたのであり!』、
是の、
『無常は実である!』と、
『思われた!』が故に、
『説かれたのではない!』。
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復次佛未出世。凡夫人但用世俗道遮諸煩惱。今欲拔諸煩惱根本故說是無常。 |
復た次ぎに、仏、未だ出世したまわざるとき、凡夫人は但だ世俗の道を用いて、諸の煩悩を遮せり。今、諸の煩悩の根本を抜かんと欲するが故に、是れ無常なりと説きたまえり。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『凡夫人』は、
但だ、
『世俗の道を用いて!』、
諸の、
『煩悩』を、
『遮っていたのである!』が、
『仏』は、
今、
諸の、
『煩悩の根本』を、
『抜こう!』と、
『思われた!』が故に、
是れは、
『無常である!』と、
『説かれたのである!』。
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復次諸外道法。但以形離五欲。謂是解脫。佛說邪相因緣故縛。觀無常正相故解脫。 |
復た次ぎに、諸の外道の法には、但だ形の、五欲を離るるを以って、謂わく、『是れ解脱なり』、と。仏の説きたまわく、『邪相の因縁の故に縛せられ、無常の正相を観るが故に解脱す』、と。 |
復た次ぎに、
諸の、
『外道の法』には、
但だ、
『形( 身)』が、
『五欲』を、
『離れたならば!』、
是れが、
『解脱である!』と、
『謂う!』が、
『仏』は、
こう説かれている、――
『邪相を見る!』、
『因縁』の故に、
『繋縛され!』、
『無常という!』、
『正相を観る!』が故に、
『解脱する!』、と。
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復有二種觀無常相。一者有餘二者無餘。如佛說一切人物滅盡唯有名在。是名有餘。若人物滅盡名亦滅。是名無餘。 |
復た次ぎに、二種の観の無常相有り。一には有余、二には無余なり。仏の説きたまえるが如し、『一切の人、物滅尽して、但だ名のみ在る有り、是れを有余と名づく。若し人、物滅尽して、名も亦た滅すれば、是れを無余と名づく』、と。 |
復た、
『二種に観る!』
『無常相が有る!』、――
一には、
『有余であり!』、
二には、
『無余である!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
一切の、
『人』や、
『物』が、
『滅尽して!』、
但だ、
『名のみ!』が、
『存在する!』。
是れを、
『有余』と、
『称する!』。
若し、
『人』や、
『物』が、
『滅尽して!』、
亦た、
『名』も、
『滅すれば!』、
是れを、
『無余』と、
『称する!』、と。
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復有二種觀無常相。一者身死盡滅。二者新新生滅。 |
復た、二種の観の無常相有り、一には身死して尽滅す、二には新新に生滅す。 |
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復次有言持戒為重。所以者何。依戒因緣故。次第得漏盡。有言多聞為重。所以者何。依智慧故能有所得。有言禪定為重。如佛所說定能得道。有言以十二頭陀為重。所以者何。能淨戒行故。 |
復た次ぎに、有るいは言わく、『持戒を重しと為す。所以は何んとなれば、戒に依る因縁の故に、次第に漏尽を得ればなり』、と。有るいは言わく、『多聞を重しと為す。所以は何んとなれば、智慧に依るが故に能く所得有ればなり』、と。有るいは言わく、『禅定を重しと為す。仏の所説の如きは、定んで能く道を得ればなり』、と。有るいは言わく、『十二頭陀を重しと為す。所以は何んとなれば、能く戒行を浄むればなり』、と。 |
復た次ぎに、
有る者は、こう言っている、――
『持戒』が、
『重い!』と、
『思う!』。
何故ならば、
『持戒』に、
『依存する!』、
『因縁』の故に、
次第に、
『漏尽』を、
『得るからである!』、と。
有る者は、こう言っている、――
『多聞』が、
『重い!』と、
『思う!』。
何故ならば、
『智慧に依存する!』が故に、
『所得』が、
『有るからである!』、と。
有る者は、こう言っている、――
『禅定』が、
『重い!』と、
『思う!』、
何故ならば、
『仏の所説など』は、
決定して、
『道』を、
『得させるからである!』、と。
有る者は、こう言っている、――
『十二頭陀』が、
『重い!』と、
『思う!』。
何故ならば、
『戒、行』を、
『浄めさせるからである!』、と。
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十二頭陀(じゅうにづだ):身心を修治して煩悩の塵垢を振り払うに十二種の別あるを云う。即ち一に在阿蘭若処、二に常行乞食、三に次第乞食、四に受一食法、五に節量食、六に中後不得飲漿、七に著弊納衣、八に但三衣、九に塚間住、十に樹下止、十一に露地坐、十二に但坐不臥なり。『大智度論巻6下注:十二頭陀行』参照。 |
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如是各各以所行為貴。更不復懃求涅槃。佛言是諸功德。皆是趣涅槃分。若觀諸法無常。是為真涅槃道。如是等種種因緣故。諸法雖空而說是無常想。 |
是の如く各各の所行を貴しと為し、更に復た懃めて涅槃を求めず。仏の言わく、『是の諸功徳は、皆是れ涅槃に趣く分なり。若し諸法の無常を観ずれば、是れを真の涅槃の道と為す』、と。是れ等のごとき種種の因縁の故に、諸法は空なりと雖も、而も是の無常想を説く。 |
是のように、
各各の、
更に、
復た、
『努力して!』、
『涅槃』を、
『求めない!』ので、
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『諸の功徳』は、
皆、
『涅槃に趣く道』の、
『一分に!』、
『過ぎない!』が、
若し、
『諸法』の、
『無常』を、
『観察すれば!』、
是れは、
『真の!』、
『涅槃の道である!』、と。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『諸法』は、
『空である!』が、
而も、
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復次無常想。即是聖道別名。佛種種異名說道。或言四念處。或言四諦。或言無常想。如經中說。善修無常想。能斷一切欲愛色愛無色愛掉慢。無明盡。能除三界結使。以是故即名為道。 |
復た次ぎに、無常想は、即ち是れ聖道の別名なり。仏は種種の異名もて、道を説きたまえば、或は『四念処なり』と言い、或は『四諦なり』と言い、或は『無常想なり』と言えり。経中に説くが如し、『無常想を善修すれば、能く一切の欲愛、色愛、無色愛、掉、慢を断じて、無明尽き、能く三界の結使を除く』、と。是を以っての故に、即ち名づけて、道と為す。 |
復た次ぎに、
『無常想』とは、
『仏』は、
『種種の異名』を、
『道である!』と、
『説いて!』、
或は、こう言われた、――
或は、こう言われた、――
或は、こう言われた、――
例えば、
『経』中に、こう説かれている、――
『無常想』を、
『善く!』、
『修めれば!』、
一切の、
『欲愛、色愛、無色愛、掉、慢』を、
『断絶させることができ!』、
『無明』が、
『尽きて!』、
『三界』の、
『結使』を、
『除くことができる!』、と。
是の故に、
『無常想』を、
『道』と、
『称するのである!』。
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掉(じょう):心をして高挙せしめ、安静せしめざる煩悩を云う。掉挙。
慢(まん):己を恃んで他を凌ぐことを云う。十六惑の一。七慢九慢の別有り。 |
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是無常想或有漏或無漏。正得無常是無漏。初學無常是有漏。 |
是の無常想は、或は有漏、或は無漏にして、正しく無常を得れば、是れ無漏、初めて無常を学べば、是れ有漏なり。 |
是の、
『無常想』は、
若し、
正しく、
『無常である!』と、
『認識すれば!』、
是れは、
『無漏』の、
『無常想であり!』、
初めて、
『無常である!』と、
『学べば!』、
是れは、
『有漏』の、
『無常想である!』。
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有漏法(うろほう):(一)有漏は梵語saasrava(又saazrava)の訳。諸漏と互いに随増する法の意。無漏法に対す。即ち四諦の中の苦集二諦の法を云う。「倶舎論巻1」に、「有漏の法とは云何ん、謂わく道諦を除いて余の有為法なり。所以は何ん、諸漏は中に於いて等しく随増するが故なり。滅道諦を縁じて諸漏生ずと雖も、而も随増せざるが故に有漏に非ず」と云える是れなり。此の中、漏は漏泄の義にして即ち諸煩悩を指す。此の諸煩悩は彼の苦集二諦の相応法の中に於いて、及び所縁の境の中に於いて互いに相随順し互いに相増長するが故に、彼の苦集二諦の法を有漏と名づく。滅道二諦を縁じて諸漏生ずることあるも、互いに随増せざるが故に、彼の二諦の法は有漏に非ずとなすなり。蓋し随増には相応と所縁との二種あり、相応とは煩悩と相応する心所が、彼の煩悩と互いに相随順増長するを云い、所縁とは煩悩の為に縁ぜられる境が、彼の煩悩と互いに相随順増長するを云うなり。「倶舎論巻19」に、九十八随眠の中、幾ばくか所縁に由るが故に随増し、幾ばくか相応に由るが故に随増するやと徴し、其の答に、「遍行随眠は遍く自地の五部の諸法に於いて所縁随増す、能く遍く自地の法を縁ずるを以っての故なり。所余の五部の非遍随眠の所縁随増は唯自部に於いてす、唯自部を以って所縁となすが故なり。これは総に拠りて説く。別して分別せば六の無漏縁と九の上縁との惑は、所縁の境に於いて随増の義なし。所以は何ん、無漏と上との境は摂受する所に非ず、及び相違するが故なり。(中略)今次に相応随増を辨ずべし、謂わく随って何れの随眠も、自の相応の法に於いて、相応に由るが故に彼に於いて随増す」と云えり。是れ遍行随眠は普く自地の五部(四諦及び修道)の諸法を縁ずる時、及び余の五部の非遍随眠は自地の自部の諸法を縁ずる時、何れも皆其の所縁の境と互いに相随順増長し、又能縁の随眠は、皆亦た自と相応する心所法の中に於いて互いに相随増することを説けるものにして、前者は即ち所縁随増、後者は即ち相応随増なり。譬えば糞穢に水土を混ずるに、糞穢の力によりて水土を穢し、亦た水土の力によりて糞穢を増大するが如く、煩悩の力に由りて心心所を染し、亦た心心所の勢力に由りて更に煩悩を増長するは即ち相応随増なり。又猪犬等あり、此の雑穢の聚に耽著して其の中に遊戯し、糞穢に塗れて転た不浄を増大ならしむるが如く、所縁の境が能縁の煩悩に随順して、更に是れを増長せしむるは即ち所縁随増なり。是の如く諸煩悩と相応して互いに随増し、又諸煩悩の為に縁ぜられて互いに随増する法を名づけて有漏と称す。即ち苦集二諦の法なり。滅道二諦の法を縁ずる時、諸漏亦た生ずることあるも、炎石の上に足止まらざるが如く、彼の法には能縁の煩悩を随増するの義なし、故に有漏と名づけざるなり。「倶舎論光記巻1」に依るに、仏涅槃の後五百年中、炎羅縛蠋国に法勝論師あり、阿毘曇心論を造り、中に随生を以って有漏を解す。六百年に至りて達磨多羅あり、滅道二諦は諸漏生ずと雖も有漏に非ず、生の義に過あるを以って改めて随増となす。即ち過あることなし。今論主は亦た彼の釈に同ずと云えり。是れ今の随増の説は達磨多羅の雑阿毘曇心論に基づきしものなるを指摘せるなり。又「倶舎論巻1」には有漏に取蘊、有諍、苦、集、世間、見処、三有等の異名ありとし、之を解釈して「煩悩を取と名づく、蘊は取より生ずるが故に取蘊と名づく、草糠の火の如し。或いは蘊は取に属するが故に取蘊と名づく、帝王の臣の如し。或いは蘊は取を生ずるが故に取蘊と名づく、花果樹の如し。此の有漏法は亦た有諍と名づく。煩悩を諍と名づく、善品を触動するが故に自他を損害するが故に、諍随増するが故に、名づけて有諍となす。猶お有漏の如し。亦た名づけて苦となす、聖心に違するが故なり。亦た名づけて集となす、能く苦を招くが故なり。亦た世間と名づく、毀壊すべきが故に、有対治の故なり。亦た見処と名づく、見は其の中に住して眠を随増するが故なり。亦た三有を名づく、有の因と、有の依と、三有の摂との故なり。是の如き等の類は是れ有漏法の隨義別名なり」と云えり。之に依るに有漏法は世間三有の苦集の因果を総称するものなるを知るべし。又「倶舎論巻2」には、十八界中、五根五境及び五識の十五界を唯有漏とし、余の意法意識の三界は有漏無漏に通ずとなせり。即ち彼の文に、「意及び意識の道諦の摂なるものを名づけて無漏となし、余を有漏と名づく。法界の若し是れ道諦と無為となるを名づけて無漏となし、余を有漏と名づく。余の十五界は唯有漏と名づく」と云える其の意なり。按ずるに説一切有部に於いては、是の如く随増を以って有漏の義とし、之に由りて苦集二諦を凡べて有漏法と名づくと説けるも、自相続の中の六識の煩悩は、善及び無覆無記の心と俱起せず、随って随増の義なきが故に、彼の善等は即ち有漏と名づくべからざる等の失あり。分別論者及び大衆部の諸師は、随眠は不相応法にして、所縁に於いても、相応法の中に於いても随増せず。而も現に相続して起るが故に、それに由りて善及び無覆無記心も亦た有漏法となるものなりと説き、有部が五根等の前十五界を唯有漏とし、随って仏身も前十五界に属するが故に、亦た有漏たるを免れずとなすに対し、仏は随眠を永断するを以って、其の身は即ち無漏ならざるべからずとす。経部に於いては自身中に有漏の種あり、其の種より彼の善等を生ずるが故に、彼の心は即ち有漏となるものなりと云い、又唯識大乗に於いては此等の諸説を破し、第七末那の我執を以って漏の体とし、之と俱転するものを凡べて有漏法と名づくとせり。即ち「成唯識論巻5」に、「諸の有漏は、自身の現行の煩悩と俱起俱滅して互いに相増益するに由り、方に有漏と成る。此に由りて有漏法の種を熏成し、後時に現起して有漏の義成ず。異生既に然り、有学も亦た爾り。無学の有漏は漏と倶なるに非ずと雖も、而も先時の有漏種より起るが故に有漏と成るというも理に於いて違することなし。末那ありて恒に我執を起すに由り、善等の法をして有漏の義成ぜしむ。此の意若し無くんば、彼は定んで有るに非ず。故に別に此の第七識あることを知る」と云える其の意なり。是れ六識相応の煩悩にも漏の義ありと雖も、第七識は諸識の染浄依となり、恒に相続して間断せざるが故に、之を以って漏の体となし、之と俱転するものを名づけて有漏となすべしというの意なり。又「阿毘達磨発智論巻1」、「大毘婆沙論巻22、76、86、172」、「雑阿毘曇心論巻1」、「倶舎論巻13」、「同光記巻2、19」、「同宝疏巻1、2、19」、「阿毘達磨順正理論巻1、49」、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」、「成唯識論巻10」、「同述記巻5末、10末」、「同了義灯巻5本」等に出づ。(二)三漏の一。四漏の一。欲漏、無明漏等に対す。即ち上二界の根本煩悩中、無明を除きて余の五十二法を云う。「倶舎論巻20」に、「色無色界の煩悩より癡を除きて五十二物を総じて有漏と名づく。謂わく上二界の根本煩悩に各二十六あり」と云える是れなり。是れ上二界を有と名づくるが故に、其の中の煩悩を有漏と称したるなり。又「大毘婆沙論巻47、48」、「雑阿毘曇心論巻4」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」、「倶舎論光記巻20」等に出づ。<(望)
無漏法(むろほう):梵語anaasrava-dharmaの訳。諸漏の随増することなき法の意。有漏法に対す。即ち無為及び道諦所摂の法を云う。「大毘婆沙論巻137」に、「諸の無漏法は能く有を損減し、能く有に違害し、能く有を破壊す」と云い、「倶舎論巻1」に、「虚空等の三種の無為及び道聖諦を無漏法と名づく。所以は何ぞ、諸漏は中に於いて随増せざるが故なり」と云える是れなり。是れ即ち虚空寂滅非択滅の三種の無為、及び七覚支八正道支等の道聖諦の法は共に皆煩悩を随増するの義なく、有を損減するものなるが故に無漏法と名づくることを説けるものなり。此の中、寂滅は滅諦涅槃の道果にして離繋を以って性となし、非択滅は縁闕に由りて永く未来法の生を礙え、虚空は唯無礙を以って性とし、共に作用なく、諸漏随増の依処に非ざるが故に総じて之を無漏法となす。即ち無為の無漏法なり。道諦三十七品は有為法にして、就中、七覚支八正道支は唯無漏、余の四念住等は有漏無漏に通ず。即ち学無学法を総じて道聖諦と名づけたるものにして、所謂有為の無漏法なり。此等は皆界繋に堕せず、非所断の法なり。又説一切有部に於いては十八界の中、意法意識の後三界は有漏無漏に通ずとなすも、五根五境五識の前十五界は唯有漏に限るとし、仏の生身の如きも他の所縁となりて其の煩悩を随増するが故に、即ち有漏にして無漏に非ずとなすなり。然るに大衆部等に於いては仏身中に在るものは十八界皆共に無漏なりとし、又譬喩者等は非有情数の五境の如きも漏の所依に非ざるが故に亦た皆無漏と名づくとなせり。「大毘婆沙論巻173」に、「分別論者及び大衆部の師は執す、仏の生身は是れ無漏法なりと。(中略)又彼れ説いて言わく、仏は一切の煩悩并びに習気皆永断するが故に、云何ぞ生身当に是れ有漏なるべき」と云い、又「順正理論巻1」に、「譬喩者は理に違し経に背きて妄に是の説を為す、非有情数と理過の身中所有の色等を無漏法と名づく」と云い、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」に、「五の無取蘊の全と及び三界二処の少分は是れ無漏なり」と云える其の説なり。蓋し「雑阿含経巻2」に有漏無漏法を分別し、「若し色の有漏なるは是れ取なり、彼の色は能く愛恚を生ず。是の如く受想行識の有漏なるは是れ取なり、彼の識は能く愛恚を生ず。是れを有漏法と名づく。云何が無漏法なる。諸の所有の色の無漏なるは受に非ず、彼の色の若しは過去未来現在に彼の色は愛恚を生ぜず。是の如く受想行識の無漏なるは受に非ず、彼の識は若し過去未来現在に愛恚を生ぜず。是れを無漏法と名づく」と云えり。是れ色等の五蘊の取に非ざるものを総じて無漏法と名づけたるものにして、大衆部及び譬喩者等の説は恐らく之に基づけるものならん。又「大毘婆沙論巻44、76」、「雑阿毘曇心論巻1」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「倶舎論巻13、24」、「同光記巻2」等に出づ。<(望) |
参考:『雑阿含(270)経巻10』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如田夫。於夏末秋初深耕其地。發荄斷草。如是。比丘。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如。比丘。如人刈草。手攬其端。舉而抖擻。萎枯悉落。取其長者。如是。比丘。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如菴羅果著樹。猛風搖條。果悉墮落。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如樓閣。中心堅固。眾材所依。攝受不散。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如一切眾生跡。象跡為大。能攝受故。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如閻浮提一切諸河。悉赴大海。其大海者。最為第一。悉攝受故。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如日出。能除一切世間闇冥。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如轉輪聖王。於諸小王最上.最勝。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。諸比丘。云何修無常想。修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。若比丘於空露地.若林樹間。善正思惟。觀察色無常。受.想.行.識無常。如是思惟。斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。所以者何。無常想者。能建立無我想。聖弟子住無我想。心離我慢。順得涅槃。佛說是經已。時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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摩訶衍中諸菩薩心廣大。種種教化一切眾生故。是無常想。亦有漏亦無漏。 |
摩訶衍中の諸菩薩は心広大にして、種種に一切の衆生を教化するが故に、是の無常想は、亦た有漏、亦た無漏なり。 |
『摩訶衍』中の、
『諸菩薩』は、
『心』が、
『広大であって!』、
種種に、
一切の、
『衆生』を、
『教化する!』が故に、
是の、
『無常想』には、
『有漏もあり!』、
『無漏もある!』。
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若無漏在九地。若有漏在十一地。緣三界五受眾。四根相應除苦根。凡夫聖人得如是等種種因緣。說無常想功德。 |
若し無漏なれば、九地に在り、若し有漏なれば、十一地に在り、三界の五受衆を縁じて、四根に相応し、苦根を除く。凡夫、聖人の得なり。是れ等の種種の因縁もて、無常想の功徳を説けり。 |
是の、
『無常想』が、
『無漏ならば!』、
『九地(未至定、中間禅、根本禅、下三無色)』中に、
『在り!』、
『有漏ならば!』、
『十一地(欲界、未至定、中間禅、根本禅、四無色)』中に、
『在り!』、
『三界』の、
『五受衆』を、
『縁じ!』、
『苦根を除く!』、
『四根(楽、憂、喜、捨根)』に、
『相応し!』、
『凡夫、聖人』の、
『所得である!』。
是れ等の、
種種の、
『因縁』は、
『無常想の功徳』を、
『説くものである!』。
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五受衆(ごじゅしゅ):煩悩より生じ、或いは煩悩を生ずる有漏の五蘊の意。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
五根(ごこん):苦根、楽根、憂根、喜根、捨根を総じて云う。『大智度論巻17下注:五受』参照。 |
参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻166』:『如是十想界分別者。不淨想厭食想一切世間不可樂想欲色界。餘三界及非界。地者。不淨想厭食想在十地。謂欲界。靜慮中間。四靜慮。及四近分。一切世間不可樂想在七地。謂欲界。未至。靜慮中間。根本四靜慮。餘七想有漏者。在十一地。謂欲界。未至。靜慮中間。根本四靜慮。四無色。無漏者。在九地。謂未至。靜慮中間。根本四靜慮。下三無色。所依者。不淨想厭食想一切世間不可樂想依欲界。餘依三界』 |
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