巻第二十三(上)
大智度論初品中十想釋論第三十七
1. 無常想
2. 苦想
3. 無我想
4. 食厭想
5. 世間不可楽想及び断、離、尽想
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大智度論初品中十想釋論第三十七(卷二十三)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


無常想

【經】十想無常想苦想無我想食不淨想一切世間不可樂想死想不淨想斷想離欲想盡想 十想とは、無常想、苦想、無我想、食不浄想、一切世間不可楽想、死想、不浄想、断想、離欲想、尽想なり。
『十想』とは、――
『無常想と!』、
『苦想と!』、
『無我想と!』、
『食不浄想と!』、
『一切世間不可楽想と!』、
『死想と!』、
『不浄想と!』、
『断想と!』、
『離欲想と!』、
『尽想とである!』。
  十想(じっそう):梵語 daSa-saMjJaa 、十種の熟考( ten kinds of contemplations )、
  1. 無常想:無常に関する熟考( The contemplation of impermanence )、
  2. 苦想:苦に関する熟考( The contemplation of suffering )、
  3. 無我想:無我( anaatman )に関する熟考( The contemplation of the lack of a self )、
  4. 食不浄想:食物の不浄に関する熟考( The contemplation of the impurity of what we eat )、
  5. 世間不可楽想:此の世間に於ける真の幸福は見出だしがたいことに関する熟考( The contemplation that it is impossible to find true happiness in this world )、
  6. 死想:死に関する熟考( The contemplation of death )、
  7. 不浄想:我々の肉体の不浄に関する熟考( The contemplation of the impurity of our physical bodies )、
  8. 断想:婬欲及び妄想を断つことに関する熟考( The contemplation of severing passions and delusions )、
  9. 離想:欲望から自由になることに関する熟考( The contemplation of becoming free of desires )、
  10. 尽想:業縁を滅尽することに関する熟考( The contemplation of exhausting our karmic bonds )。『大智度論巻17下注:十想』参照。
【論】問曰。是一切行法。何以故。或時名為智或時名為念或時名為想。 問うて曰く、是の一切の行法は、何を以っての故にか、或は時に名づけて智と為し、或は時に名づけて念と為し、或は時に名づけて想と為す。
問い、
是の、
『一切の行法』は、
何故、
或は時に、
『智』と、
『呼ばれ!』、
或は時に、
『念』と、
『呼ばれ!』、
或は時に、
『想』と、
『呼ばれるのですか?』。
答曰。初習善法為不失故但名念。能轉相轉心故名為想。決定知無所疑故名為智。觀一切有為法無常。智慧相應相。是名無常想。一切有為法無常者。新新生滅故屬因緣故不增積故。 答えて曰く、初めて善法を習うに、失せざらしめんが為の故に、但だ念と名づけ、能く相を転じ、心を転ずるが故に名づけて、想と為し、決定して知り、疑う所の無きが故に名づけて、智と為す。一切の有為法は、無常なりと観て、智慧、相に相応すれば、是れを無常想と名づく。一切の有為法の無常とは、新新に生滅するが故に、因縁に属するが故に、増積せざるが故なり。
答え、
『習ったばかり!』の、
『善法』を、
『忘失しない!』為の故に、
但だ、
『念』と、
『呼び!』、
『相』や、
『心』を、
『転じることができる!』が故に、
是れを、
『想』と、
『呼び!』、
『決定して知り!』、
『疑う!』所が、
『無くなれば!』、
是れを、
『智』と、
『呼び!』、
『一切の有為法』は、
『無常である!』と、
『観察して!』、
『智慧』が、
『相』に、
『相応すれば!』、
是れを、
『無常想』と、
『呼ぶ!』。
『一切の有為法』が、
『無常である!』のは、――
『有為法』は、
『新新』に、
『生滅するからであり!』、
『有為法』は、
『因縁』に、
『繋属するからであり!』、
『有為法』は、
『増積しないからである!』。
  増積(ぞうしゃく):ましつむ。
  参考:『大智度論巻43』:『菩薩或觀色無常。無常亦有二種。一者念念滅。一切有為法不過一念住。二者相續法壞故名為無常。如人命盡。若火燒草木。如煎水消盡。若初發心菩薩行是相續斷麤無常心厭故。若久行菩薩能觀諸法念念生滅無常。是二菩薩皆墮取相中。所以者何。是色常無常相不可得。如先說。受想行識亦如是。苦樂我非我亦爾。』
復次生時無來處。滅亦無去處。是故名無常。 復た次ぎに、生時に来処無く、滅も亦た去処無ければ、是の故に無常と名づく。
復た次ぎに、
『有為法』は、
『生時』には、
『来処』が、
『無く!』、
『滅時』にも、
『去処』が、
『無い!』ので、
是の故に、
『無常』と、
『呼ばれるのである!』。
  来処(らいしょ):先にいた場所。
  去処(こしょ):去りゆくさきの場所。
復次二種世間無常故說無常。一者眾生無常。二者世界無常。如說
 大地草木皆磨滅 
 須彌巨海亦崩竭 
 諸天住處皆燒盡 
 爾時世界何物常 
 十力世尊身光具 
 智慧明照亦無量 
 度脫一切諸眾生 
 名聞普遍滿十方 
 今日廓然悉安在 
 何有智者不感傷
復た次ぎに、二種の世間の無常なるが故に、無常と説く。一には衆生の無常、二には世界の無常なり。説くが如し、
大地の草木は、皆磨滅し、
須弥と巨海も亦た崩竭し、
諸天の住処も皆焼尽すれば、
爾の時世界の何物か常なる。

十力の世尊には、身光具わり、
智慧の明照すること、亦た無量、
一切の諸衆生を度脱すれば、
名聞普遍して十方に満つ。

今日廓然として、悉く安在したまえども、
何ぞ智者にして、感傷せざる有らんや。
復た次ぎに、
『二種の世間』が、
『無常である!』が故に、
『無常』と、
『説くのである!』。
謂わゆる、
一には、
『衆生』が、
『無常であり!』、
二には、
『世界』が、
『無常である!』。
譬えば、こう説く通りである、――
『大地』の、
『草、木』は、
皆、
『磨滅し!』、
『須弥』も、
『巨海』も、
亦た、
『崩壊して!』、
『枯竭した!』、
『諸天』の、
『住処』も、
皆、
『焼けて!』、
『尽きた!』のに、
爾の時、
『世界』の、
『何物が!』、
『常であろうか?』。
『十力の世尊』の、
『身』には、
『光』が、
『具わり!』、
『智慧』の、
『光明』も、
『無量である!』。
『一切の!』、
諸の、
『衆生』を、
『度脱して!』、
十方に、
遍く、
『名聞』が、
『満ちている!』。
『今日』、
『廓然として!』、
『安穏に!』、
『世間』に、
『処在されている!』が、
『感傷しない!』、
『智者が!』、
『何処かに!』、
『有るのだろうか?』。
  世間(せけん):梵語路迦lokaの訳。又laukikaに作る。巴梨語同じ。毀壊すべきものの意。略して世と名づく。即ち毀壊すべく、又は対治せらるべき有為有漏の現象を云う。「梁訳大乗論釈巻15」に、「世間の法は或いは自然に壊し、或いは対治壊に由る」と云い、「倶舎論巻1」に、「此の有漏法は亦た有諍と名づけ、(中略)亦た世間と名づく。毀壊すべきが故に、対治を有するが故なり」と云い、「仏性論巻2」に、「世に三失あり、一には対治して滅尽すべきが故に名づけて世と為す。此の法は則ち対治なきが故に出世と名づく。二に静住せざるが故に名づけて世と為す、虚妄の心に由る果報は念念に滅して住せざるが故なり。此の法は爾らざるが故に出世と名づく。三に倒見あるに由るが故に、心世間に在れば則ち恒に倒見なり。人の三界に在れば心中に決して苦法忍等を見ることを得ざるが如し。其の虚妄なるを以っての故に名づけて世と為す。此の法は能く世間を出づるが故に真実と名づけ、出世蔵と為す」と云える是れなり。是れ毀壊すべく、亦た対治して滅尽せらるべきものを世間と名づけたるなり。蓋し梵語路迦lokaは称友yazomitraの解釈に依るに、元と見るの義なる語根lokより来たれる語なるも、亦た毀壊するの義なる語根luj(ruj)より来たれる名詞とも見るを得べし。就中、後者の場合には正しくlogaに作るべきも、今は不規則にてlokaとなし、従って之に可毀壊、可破壊、可滅等の義ありとなすと云えり。又梵語laukikaは世俗或いは凡俗の義にして、即ち非学を意味す。今世を有漏の略名とし、之に対治せらるべき義ありとなせるは、即ち此の語義に約せるものなるが如し。「旧華厳経巻10夜摩天品」に、「三世五陰の法を説きて名づけて世間と為す、斯れ虚妄に由りて有り」と云い、「大方等大集経巻17」に、「善男子、五受陰を名づけて世間と為す」と云い、「大智度論巻63」に、「世間とは所謂三界なり」と云い、「大乗起信論」に、「一切世間の有為の法は久しく停まることを得るものなく、須臾に変壊し、一切の心行は念念に生滅す。是を以っての故に苦なりと観ずべし。過去所念の諸法は恍惚として夢の如しと観ずべく、現在所念の諸法は猶お電光の如しと観ずべく、未来所念の諸法は猶お雲の忽爾として起るが如しと観ずべし。世間一切の有身は悉く皆不浄にして種種の穢汚あり、一として楽しむべきものなしと観ずべし」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻3」に、「三界の所摂及び出世智後所得の彼に似て顕現するは是れ世間の義なり。彼に似て顕現すとは、謂わく三界の所摂に似たる相顕現するなり。真如等の所現の相貌に似たるは是れ出世間なり、未曽得なるが故なり。是の如く諸蘊の一分と十五界と十処の全と及び三界と二処の一分とは是れ世間なり。一分とは謂わく正智の所摂、及び後所得の出世間の相に似て顕現す。並びに無為法を除く」と云えるは、皆有漏有為虚妄の三界の諸法を総じて世間となせるものにして、即ち凡俗の意に基づけるものなるを見るべし。又「勝鬘宝窟巻下本」には界外の変易生死も亦た世間と名づくべきことを明し、「三種の意生身の人には復た分段なし、名づけて涅槃と為すも、猶お変易あれば名づけて世間と為す。故に此の人は亦た是れ涅槃の人、亦た是れ世間の人なり」と云い、「華厳経探玄記巻3」には更に此の意に基づきて四句を分別し、「初の中に四句あり、一に或いは唯世間なり、謂わく地前及び凡位の所居なり。二に或いは唯涅槃なり、謂わく諸の仏果位所住の涅槃なり。設し自受用土も亦た是れ大涅槃に摂することを得べし。三に或いは亦世間亦涅槃なり。宝性等の論に依るに、無流法界中に依りて三種の意生身あり。応に知るべし、彼は無漏善根の所作に因るが故に名づけて世間と為し、是れは有漏の業煩悩の作に非ざるは亦た涅槃と名づく。此の義に依るが故に、勝鬘経に云わく、世尊、有為世間あり、無為世間あり、有為涅槃あり、無為涅槃ありと。解して云わく、有為世間は是れ凡位、無為涅槃は是れ仏果、有為涅槃と無為世間は是れ変易の報なり。所望異なるが故に俱句に属するなり。四に義準するに諸仏の清浄法界は、是れ世間に非ず涅槃に非ず。是れ二乗の涅槃に非ざるを以っての故なり」と云えり。是れ無為涅槃を除き、余の有為無為の世間及び有為涅槃を総じて世間と名づけたるなり。又世間に二種三種等の別あり。「倶舎論巻8」等に有情世間、器世間の二種を分類し、「大智度論巻70」等に五陰、衆生、国土の三種世間を説き、「華厳経孔目章巻3」等に器世間、智正覚世間、衆生世間の三種世間を出し、「因明入正理論疏巻中本」に非学世間、学者世間の二種を分ち、「大般涅槃経疏巻18」に五陰、五欲、国土、衆生及び仏等の六世間を挙ぐるが如き是れなり。又「大般涅槃経巻18梵行品」、「大智度論巻27」、「梁訳摂大乗論釈巻3、8」、「摩訶止観巻5上」、「華厳経探玄記巻1、17」、「異部宗輪論述記」、「大明三蔵法数巻18」等に出づ。<(望)
  世界(せかい):梵語路迦駄覩loka-dhaatuの訳。巴梨語同じ。毀壊すべき処所の意。又略して界とも名づく。即ち衆生住居の所依処たる山川国土等を云う。「大楼炭経巻1閻浮利品」に、「一の日月の四天下の時を旋照するが如く、爾所の四千の天下の世界に千の日月あり、千の須弥山王あり。四千の天下、四千の大海水、四千の大龍宮、四千の大金翅鳥、四千の悪道、四千の大悪道、七千の種種の大樹、八千の種種の大山、万の種種の大泥犁あり。是れを一の小千世界と名づく。一の小千世界の如く、爾所の小千の千世界あり、是れを名づけて中千世界と為す。一の中千世界の如く、爾所の中千の千世界あり、是れを名づけて三千大千世界と為す。悉く焼して成敗す、是れを一仏刹と為す」と云えり。「長阿含巻18閻浮提洲品」、「起世経巻1閻浮州品」等の所説亦た皆之に同じ。是れ一の日月所照の範囲たる四天下(即ち須弥四洲)を以って一世界となし、千の四天下を以って一小千世界となし、千の小千世界を以って一中千世界となし、更に千の中千世界を以って一大千世界となし、之を一仏所化の土となすの意なり。蓋し仏教の世界説は一須弥山世界を単位となし、之を合聚して小中大の三千世界を建立し、更に全宇宙には是の如き三千世界が無数に存在すとなすなり。「大智度論巻50」に更に一仏世界に五重の別あることを説き、「三千大千世界を一世界と名づく、一時に起り一時に滅す。(第一重)是の如き等の十方如恒河沙等の世界は是れ一仏世界なり。(第二重)是の如き一仏世界の数の如恒河沙等の世界は是れ一仏世界海なり。(第三重)是の如き仏世界海の数の如十方恒河沙の世界は是れ一仏世界種なり。(第四重)是の如き世界種の十方無量なる是れを一仏世界と名づく。(第五重)一切世界の中に於いて是の如き分を取る、是れを一仏所度の分と名づく」と云えり。以って其の世界説の広大無辺なるを見るべし。又此の中、一世界に住する有情に就き分類せば、地獄餓鬼畜生修羅人間天上の六道の別あり。就中、地獄等の五道の有情の住する世界を欲界と名づけ、天上の中、有色天の住する世界を色界、無色天の住する世界を無色界と名づく。又大乗諸経論には此等三界の外に諸仏浄土の存在することを説けり。「大智度論巻93」に、「浄仏土あり三界を出づ、乃至煩悩の名もなし」と云い、「瑜伽師地論巻93」に、「清浄世界の中には那落迦傍生餓鬼の得べきなく、亦た欲界色界無色界なし」と云える如き是れなり。又「摩訶止観巻5上」等には、六道の外に声聞縁覚菩薩及び仏の四聖を立て、之を総じて十界と名づけ、各其の所居の国土の別を論じ、又「華厳五教章巻3」には華厳経の所説に基づき、十仏境界の所依に国土海と世界海の二種の別ありとし、国土海は十仏自体の所居たる不可説円融自在の依報を云い、世界海は舎那十身摂化の処にして、之に蓮華蔵荘厳世界海、十重世界海、無量雑類世界の三類あることを説くに至れり。又「雑阿含経巻34」、「別訳雑阿含経巻16」、「起世因本経巻1」、「旧華厳経巻37離世間品」、「大仏頂首楞厳経巻4」、「大毘婆沙論巻134」、「立世阿毘曇論巻2」、「雑阿毘曇心論巻8」、「倶舎論巻8、12」、「瑜伽師地論巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」、「維摩経玄疏巻1」、「華厳五教章巻3」等に出づ。<(望)
  須弥(しゅみ):世界の中心に聳える高山の名。『大智度論巻9上注:須弥山』参照。
  度脱(どだつ):此岸より彼岸にわたして、苦をのがれさせる。
  廓然(かくねん):がらんとして何物もないさま。
  感傷(かんしょう):物に感じて心が傷む。
如是舍利弗目犍連須菩提等諸聖人。轉輪聖王諸國王常樂天王及諸天聖德尊貴皆亦盡。大火焰明忽然滅。 是の如く舎利弗、目揵連、須菩提等の諸聖人も、転輪聖王も、諸国の王も、常楽の天王、及び諸天の聖徳、尊貴も、皆亦た尽きて、大火焔の明は忽然として滅す。
是のように、
『舎利弗、目揵連、須菩提等の諸聖人』や、
『転輪聖王、諸国の王』や、
『常楽の天王』と、
『諸天の聖徳、尊貴』も、
皆、
『尽きるのであり!』、
『大火焔の明』が、
『忽然として!』、
『滅するである!』。
  舎利弗(しゃりほつ):智慧第一の仏弟子。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
  目犍連(もっけんれん):神通第一の仏弟子。『大智度論巻21下注:摩訶目犍連』参照。
  須菩提(しゅぼだい):無諍第一の仏弟子。『大智度論巻11上注:須菩提』参照。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):四天下の主。『大智度論巻21下注:転輪聖王』参照。
  忽然(こつねん):たちまち。突然。
世間轉壞如風中燈。如險岸樹。如漏器盛水不久空竭。如是一切眾生。及眾生住處。皆無常故名為無常。 世間の転た壊すること風中の灯の如く、険岸の樹の如く、漏器に水を盛りて、久しからずして空竭するが如し。是の如く、一切の衆生、及び衆生の住処は、皆無常なるが故に、名づけて無常と為す。
『世間』が、
『転(うた)た!』、
『滅する!』のは、
譬えば、
『風』中の、
『灯』が、
『滅したり!』、
『険岸』の、
『樹(たちき)』が、
『崩落したり!』、
『漏る器に水を盛れば!』、
『久しからずして!』、
『空竭するようである!』が、
是のように、
一切の、
『衆生』と、
『衆生の住処』とは、
皆、
『無常である!』が故に、
是れを、
『無常』と、
『称する!』。
  (てん):うたた。いよいよ。次第にはげしくなるさま。
  険岸(けんがん):けわしく高い岸辺。
問曰。菩薩何以故行是無常想。 問うて曰く、菩薩は、何を以っての故にか、是の無常想を行ずる。
問い、
何故、
『菩薩』は、
是の、
『無常想』を、
『行うのですか?』。
答曰。以眾生著常顛倒受眾苦不得免生死行者得是無常想教化眾生。言諸法皆無常。汝莫著常顛倒失行道時。諸佛上妙法。所謂四真諦。四諦中苦諦為初。苦四行中無常行為初。以是故菩薩行無常想。 答えて曰く、衆生の、常顛倒に著して、衆苦を受くるも、生死を免るるを得ざるを以って、行者は、是の無常想を得て、衆生を教化して言わく、『諸法は、皆無常なり。汝は、常顛倒に著して、行道の時を失う莫かれ。諸仏の上妙の法は、謂わゆる四真諦なり。四諦中には苦諦を初と為す。苦の四行中には、無常行を初と為す』、と。是を以っての故に、菩薩は無常想を行ずるなり。
答え、
『衆生』は、
『常という!』、
『顛倒に著して!』、
『衆苦』を、
『受けながら!』、
『生死』を、
『免れる!』、
『機会がない!』が故に、
『行者』は、
是の、
『無常想を得て!』、
『衆生』を、
『教化しながら!』、
こう言う、――
『諸法』は、
皆、
『無常である!』。
お前は、
『常という!』、
『顛倒』に、
『著して!』、
『道』を、
『行う時』を、
『失ってはならない!』。
『諸仏の上妙の法』は、
謂わゆる、
『四真諦(四諦)である!』が、
『四諦』中には、
『苦諦』が、
『初であり!』、
『苦諦の四行(無常、苦、空、無我)』中には、
『無常行』が、
『初である!』、と。
是の故に、
『菩薩』は、
『無常想』を、
『行うのである!』。
  苦四行(くのしぎょう):苦諦を観ずるに無常、苦、空、無我の四行相あるを云う。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、巻18下注:四聖諦』参照。
問曰。有人見無常事至轉更堅著。如國王夫人寶女從地中生。為十頭羅剎將度大海王大憂愁。智臣諫言王智力具足。夫人還在不久何以懷憂。 問うて曰く、有る人の無常の事の至れるを見て、転た更に堅著す。国王の夫人の如し。宝女地中より生じて、十頭羅刹と為り、将いて大海を渡る。王、大いに憂愁す。智臣諌めて言わく、『王は智力具足して、夫人還って在るも久しからざらん。何を以ってか憂を懐く』、と。
問い、
有る、
『人』は、
『無常の事』が、
『至る!』のを、
『見て!』、
更に、
『益々!』、
『堅く著するようになる!』。
例えば、
『国王の夫人』が、そうであった、――
『宝女』が、
『地中より生じて!』、
『十頭羅刹』と、
『為り!』、
『夫人を将いて!』、
『大海』を、
『渡ってしまった!』。
『王』が、
『大いに!』、
『憂愁している!』と、
『智臣』が、
『諌めて!』、こう言った、――
『王』には、
『智力』が、
『具わっている!』し、
『夫人が還って!』、
『在ったとしても!』、
『久しくないだろう!』。
何故、
『憂』を、
『懐いているのか?』、と。
  夫人(ぶにん):梵語devii弟脾の訳。国王の妃、后の意。義訳して夫人と為す。<(丁)
  宝女(ほうにょ):宝のような美女。
  十頭羅刹(じゅうづらせつ):古印度伝説ラーマーヤナraamaayaNa中に於いて羅摩raama王の妃私多を劫める十頭を有する羅刹raakSasa(魔物の義)羅婆那raavaNaを指す。乃ち楞伽laGkaa国の羅刹王羅婆那を云う。「入楞伽経巻1」に、「爾の時、羅婆那十頭羅刹楞伽王は、分別心の過ぐるを見て、分別心中に住せず」と云える是れなり。『大智度論巻23上注:羅刹、羅摩王』参照。
  羅刹(らせつ):梵名raakSasa、巴梨名rakkhasa、又羅刹娑、邏刹娑、羅叉娑、羅乞察娑、或いは阿落刹娑に作り、其の女姓を羅刹斯raakSasii(巴梨語rakkhasii)と云い、又羅叉私に作る。可畏、速疾鬼、或いは護者と訳す。「玄応音義巻24」に、「羅刹娑、或いは阿落刹娑と言う。是れ悪鬼の通名なり。又羅叉娑と云い、此に護者と云う。若し女は則ち羅叉私と名づく。旧に羅刹と云うは訛略なり」と云い、「慧琳音義巻25」に、「羅刹は此に悪鬼と云うなり。人の血肉を食い、或いは空を飛び、或いは地を行き、捷疾にして畏るべきなり」と云い、又「同巻7」に、「羅刹娑は梵語なり。古に羅刹と云うは訛なり。(中略)此れ乃ち暴悪鬼の名なり。男は極めて醜く、女は即ち甚だ妹美なり。並びに皆人を食啖す。別に羅刹女国あり、海島の中に居る」と云えり。是れ羅刹は悪鬼にして人の血肉を食啖し、又別に海島中に羅刹女国あることを伝うるなり。此の中、羅刹女国に関しては、「仏本行集経巻49五百比丘因縁品」に往昔閻浮提に五百の商人あり、珍宝を求めんが為に海に入り、忽ち悪風に吹かれて羅刹国に至るに、多くの羅刹女ありて之を迎え、彼等を将いて一鉄城に置き、本形を変じて端正の相を現じ、五慾の具を以って大いに娯楽せしむ。時に商主は諸女の睡臥するを伺い、竊かに外に出でて見るに、此の城を去る遠からず復た一鉄城あり、遙かに大叫喚の声を聞き、仍りて樹に上りて彼の城中を望見するに、内に多くの死者あり、或いは已に半身支解して未だ死せず、或いは饑渇逼悩して坐するもの等あり。乃ち大恐怖を生じ、遂に馬王鶏尸を念じて他の商人と共に其の城を脱出し、閻浮提に帰還することを得たりと云えり。「有部毘奈耶巻47」、「大毘婆沙論巻78」、「梵文大事mahaavastu」並びに「大唐西域記巻11僧伽羅国」の條にも亦た略之と同一の説話を載し、「法華経巻7普門品」に掲ぐる羅刹鬼国も恐らく亦た同一伝説に基づけるものなるべし。就中、「西域記」に此の説話を以って僧伽羅即ち錫蘭に関するものとなし、又「有部毘奈耶」に彼の羅刹国を錫蘭の一名なる赤銅洲taamradviipaとなせるを以って見るに、所謂羅刹女国は錫蘭島を指せるものとなすべきが如し。蓋し錫蘭を羅刹の住処となせることは、印度古代の叙事詩なるラーマーヤナraamaayaNaに、羅摩raamaが鬼王邏伐拏raavaNuを逐うて楞伽島に渡り、遂に彼を誅して妃私多ziitaa或いはsiitaaを奪還せりと云える物語に起因するものなるべく、而して之を羅刹と名づけたるは、南印地方の住民が元と人肉を食したるが為なるべしと称せらる。又羅刹は地獄に在りて罪人を呵責するものとせられ、「大智度論巻16」には、悪羅刹獄卒は牛馬等の種種の形を作して罪人を呑噉し齩嚙すと云い、「倶舎論巻11」には、「琰魔王は諸の羅刹娑をして諸の有情を擲ちて地獄に置かしむ」と云えり。又「法華経巻7陀羅尼品」には藍婆等の十羅刹女、「大方等大集経巻1」には住厠羅刹、産乳羅刹の二羅刹、「孔雀王呪経巻下」には八大羅刹女、十大羅刹女、十二大羅刹女、七十一羅刹女等の名を列し、又「大智度論巻54」等には之を夜叉と共に毘沙門天王の所領となせり。又「長阿含巻7弊宿経」、「大般涅槃経巻14」、「金光明最勝王経巻6」、「新華厳経巻68」、「供養十二天大威徳天報恩品」、「翻梵語巻7」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻6、7」等に出づ。<(望)
  羅摩王(らまおう):羅摩raamaは梵名。又邏摩、囉摩に作り、能善、作善、或いは虚、戯と訳し、一にラーマ・チャンドラraama-candraとも称す。印度太古の聖王にして、叙事詩「邏摩衍拏raamaayaNa」の主人格なり。中印度阿踰陀ayodhyaa国十車dazaratha王の長子にして、夙に諸藝に達し声誉あり。尋いで毘提訶videha国ヂャナカjanaka王の女私多ziitaa或いはsiitaaと婚し、適ま王位継承に関し、讒せられて十四年謫居の刑を受け、仍りて妃及び末弟ラクシュマナlakSmaNaと共に檀陀柯林daNDakaaraNya(檀特山)に住す。父王の崩後、王位に即かんことを求められしも、刑期満ぜざるの故を以って之を辞し、次弟ブハラタbharata代わりて万機を摂す。山林に止まること十年、後南進してゴーダーヴァリーgodaavarii河辺に到り、林中の悪羅刹を討伐するに、鬼王邏伐拏raavaNaは怨を啣み、其の妃私多を奪うて楞伽laGkaa(即ち錫蘭)に還る。羅摩は乃ち猿王等の援助を得、長橋を架して楞伽に渡り、遂に邏伐拏を誅して妃を救い、且つ火誓に由りて妃の貞潔なるを知り、大いに歓喜す。時に刑期既に満ちたるを以って妃と共に本国に帰り、遂に王位に登りて聖化を布けりと云う。此の物語は古くより印度に行われたるものにして、既に西暦前四五世紀の頃、ヴァールミーキvaalmiikiは之を賦して詩篇となせり。是れ印度最古の叙事詩にして、古来マハーブハーラタmahaabhaarataと共に二大叙事詩として広く人口に膾炙せらるる所なり。現存「邏摩衍拏」は七篇四万八千頌より成り、此の中、第二乃至第六の五篇はヴァールミーキの作に係り、第一第七の二篇は西暦第二世紀の頃新に添加せられしものと伝え、即位後に於ける王及び妃の事蹟を敍し、又王を毘湿笯神の権化として称讃せり。後ラーマ・プールヴァ・ターパニーヤraama-puurva-taapaniiya、ラーマ・ウッタラ・ターパニーヤraamoottara-taapaniiya等の新ウパニシャッド撰せらるるに及び、漸次羅摩の信仰興隆し、第十四五世紀の頃、毘湿笯派中に羅摩派を出し、遂に羅摩を以って最高神となすに至れり。此の説話は亦仏典中にも伝えられ、「大毘婆沙論巻46」に、「邏摩衍拏書の如きは一万二千頌あり、唯二事を明すのみ。一は邏伐拏の私多を劫めて去るを明し、二は邏摩の私多を将いて還るを明す」と云い、「仏所行讃巻5分舎利品」に、「羅摩は私陀の為に諸の鬼神を殺害す」と云い、又「入楞伽経」は楞伽山に於いて邏伐拏を対告衆として説述せられしものにして、邏摩衍拏書に関連するものありというべし。又「仏本行経巻7」、「仏本行集経巻21」、「大荘厳論経巻5」、「大乗入楞伽経巻7」、「婆数槃豆法師伝」等に出づ。<(望)
答言。我所以憂者不慮。我婦叵得但恐壯時易過。亦如人好華好果見時欲過便大生著。如是知無常乃更生諸結使。云何言無常能令心厭破諸結使。 答えて言わく、『我が憂うる所以は、我が婦の得叵(がた)きを慮るにあらず、但だ壮時の過ぎ易きを恐る。亦た人の好華、好果を見る時、過ぎんと欲するに、便ち大に著を生ずるが如し』、と。是の如く無常を知りて、乃ち諸の結使を更に生ず。云何が、『無常は、能く心をして、諸の結使を厭うて破らしむ』、と言う。
『王は答えて!』、こう言った、――
わたしが、
『憂えている!』のは、
わたしの、
『婦』が、
『得がたい!』のを、
『慮ってではない!』。
但だ、
『壮年の時』の、
『過ぎやすい!』のを、
『恐れるのだ!』、と。
亦た、
『人』が、
『好華、好果を見た!』時、
『過ぎようとすれば!』、
益々、
『著』を、
『生じるようなものだ!』、と。
是のように、
『無常を知って!』、
やっと、
更に、
『諸の結使』を、
『生じる!』のに、
何故、こう言うのか?――
『無常』は、
『心』に、
『諸の結使』を、
『厭わせて!』、
『破らせる!』、と。
  (ない):<代名詞>お前の/汝が( your )、彼れの( his )、此の( this )、此のように( so )。<動詞>すなわち。是れ( be )。<副詞>すなわち。ちょうど今( just now )、只だ/僅かに( only then )、不意に/なんと( unexpectedly, actually )、同時に( at the same time )、そこで/そうすると/是に於いて( then, where upon )。<接続詞>すなわち。しかし/しかしながら( but, however )。
答曰。如是見無常是知無常少分為不具足。與禽獸見無常無異。以是故。佛告舍利弗。當具足修無常想。 答えて曰く、是の如く無常を見るは、是れ無常の少分を知りて、具足せずと為し、禽獣の見る無常と異なる無し。是を以っての故に、仏の舎利弗に告げたまわく、『当に具足して、無常想を修すべし』、と。
答え、
是のように、
『無常を見る!』のは、
『無常の少分』を、
『知るだけで!』、
『具足せず!』、
『禽獣』が、
『無常を見る!』のと、
『異ならない!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『舎利弗』に、こう告げられたのである、――
『無常想』は、
『具足して!』、
『修めねばならない!』、と。
問曰。何等是具足無常想。 問うて曰く、何等か、是れ無常想を具足する。
問い、
何のようなものが、
『具足した!』、
『無常想ですか?』。
答曰。觀有為法念念生滅。如風吹塵。如山上水流。如火焰隨滅。一切有為法無牢無強。不可取不可著。為如幻化誑惑凡夫。因是無常得入空門。是空中一切法不可得故。無常亦不可得。 答えて曰く、有為法の念念に生滅すること、風の塵を吹くが如く、山上より水の流るるが如く、火焔の随って滅するが如きを観て、一切の有為法は、牢無く、強無く、取るべからず、著すべからざること、幻化の凡夫を誑惑するが如しと為す。是の無常に因りて、空門に入るを得れば、是の空中には一切法の不可得なるが故に、無常も亦た不可得なり。
答え、
『有為法』は、
『念念に!』、
『消滅する!』のを、
『観察すれば!』、
譬えば、
『風に吹かれた、塵のようであり!』、
『山上より流れる、水のようであり!』、
『随って滅する、火焔のようであり!』、
『一切の有為法』は、
『堅牢、強固でなく!』、
『取ることもできず!』、
『著することもできず!』、
譬えば、
『凡夫を誑惑する!』、
『幻、化のようである!』。
是の、
『無常観に因って!』、
『空門』に、
『入ることができれば!』、
是の、
『空』中には、
『一切の!』、
『法』が、
『認められない!』が故に、
『無常という!』、
『法』も、
『認められない!』。
  (ずい):したがう。他につきしたがう。
  (ろう):かたい。堅固。
  (い):ために。ゆえに。故に同じ。
所以者何。一念中生住滅相不可得。生時不得有住滅。住時不得有生滅。滅時不得有生住。生住滅相性相違故無。是無故無常亦無。 所以は何んとなれば、一念中の生住滅の相は不可得なればなり。生時には住、滅有るを得ず、住時には生、滅有るを得ず、滅時には生、住有るを得ず。生住滅は相性の相違するが故に無し。是れ無きが故に、無常も亦た無し。
何故ならば、
『一念』中には、
『生、住、滅』の、
『相』が、
『認められないからである!』。
何故ならば、
『有為法』には、
『生、住、滅』の、
『三相』が、
『有るはずなのに!』、
是の、
『生時』には、
『住、滅が有る!』とは、
『認められず!』、
『住時』には、
『生、滅が有る!』とは、
『認められず!』、
『滅時』には、
『生、住が有る!』とは、
『認められない!』ので、
『生、住、滅』は、
『相、性』が、
『相違するからである!』。
是の故に、
『有為法』の、
『相』は、
『無いことになり!』、
是れが、
『無い!』が故に、
『無常』も、
『無いことになる!』。
  性相(しょうとそう):性とは法の自体にして、内に在りて改易すべからざるを云い、相とは相貌にして、外に現れて分別すべきを云う。有為、無為は相対すれば、則ち無為法を性と為し、有為法を相と為す。而れども有為、無為は皆性、相有り、自体を性と云い、可識を相と云う。「大智度論巻31」に、「性は其の体を言い、相は可識を言う」と云い、「法華経方便品」に、「是の如き相、是の如き性」と云い、「涅槃経巻2」に、「汝、今当に諸行の性、相を観ずべし」と云える是れなり。<(丁)『大智度論巻20上注:性』、『大智度論巻15上注:相』参照。
  参考:『中論巻1三相品』:『若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。』
問曰。若無無常。佛何以苦諦中說無常。 問うて曰く、若し無常無くんば、仏は何を以ってか、苦諦中に無常を説きたまえる。
問い、
若し、
『無常が無ければ!』、
『仏』は、
何故、
『苦諦四行(無常、苦、空、無我)』中に、
『無常』を、
『説かれたのですか?』。
答曰。凡夫人生邪見故。謂世間是常。為滅除是常見故說無常。不為無常是實故說。 答えて曰く、凡夫人は邪見を生ずるが故に、『世間は、是れ常なり』、と謂えば、是の常見を滅除せんが為の故に、無常を説き、無常を是れ実なりと為さんが故に説きたまわず。
答え、
『凡夫人』は、
『邪見を生じる!』が故に、――
『世間』は、
『常である!』と、
『謂う!』ので、
是の、
『常見』を、
『滅除しよう!』と、
『思われ!』、
是の故に、
『無常である!』と、
『説かれたのであり!』、
是の、
『無常は実である!』と、
『思われた!』が故に、
『説かれたのではない!』。
復次佛未出世。凡夫人但用世俗道遮諸煩惱。今欲拔諸煩惱根本故說是無常。 復た次ぎに、仏、未だ出世したまわざるとき、凡夫人は但だ世俗の道を用いて、諸の煩悩を遮せり。今、諸の煩悩の根本を抜かんと欲するが故に、是れ無常なりと説きたまえり。
復た次ぎに、
『仏』は、
未だ、
『世』に、
『出られなかった!』時、
『凡夫人』は、
但だ、
『世俗の道を用いて!』、
諸の、
『煩悩』を、
『遮っていたのである!』が、
『仏』は、
今、
諸の、
『煩悩の根本』を、
『抜こう!』と、
『思われた!』が故に、
是れは、
『無常である!』と、
『説かれたのである!』。
復次諸外道法。但以形離五欲。謂是解脫。佛說邪相因緣故縛。觀無常正相故解脫。 復た次ぎに、諸の外道の法には、但だ形の、五欲を離るるを以って、謂わく、『是れ解脱なり』、と。仏の説きたまわく、『邪相の因縁の故に縛せられ、無常の正相を観るが故に解脱す』、と。
復た次ぎに、
諸の、
『外道の法』には、
但だ、
『形()』が、
『五欲』を、
『離れたならば!』、
是れが、
『解脱である!』と、
『謂う!』が、
『仏』は、
こう説かれている、――
『邪相を見る!』、
『因縁』の故に、
『繋縛され!』、
『無常という!』、
『正相を観る!』が故に、
『解脱する!』、と。
復有二種觀無常相。一者有餘二者無餘。如佛說一切人物滅盡唯有名在。是名有餘。若人物滅盡名亦滅。是名無餘。 復た次ぎに、二種の観の無常相有り。一には有余、二には無余なり。仏の説きたまえるが如し、『一切の人、物滅尽して、但だ名のみ在る有り、是れを有余と名づく。若し人、物滅尽して、名も亦た滅すれば、是れを無余と名づく』、と。
復た、
『二種に観る!』
『無常相が有る!』、――
一には、
『有余であり!』、
二には、
『無余である!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
一切の、
『人』や、
『物』が、
『滅尽して!』、
但だ、
『名のみ!』が、
『存在する!』。
是れを、
『有余』と、
『称する!』。
若し、
『人』や、
『物』が、
『滅尽して!』、
亦た、
『名』も、
『滅すれば!』、
是れを、
『無余』と、
『称する!』、と。
復有二種觀無常相。一者身死盡滅。二者新新生滅。 復た、二種の観の無常相有り、一には身死して尽滅す、二には新新に生滅す。
復た、
『二種に観る!』、
『無常相が有る!』、――
一には、
『身』が、
『死んで!』、
『滅尽し!』、
二には、
『身』が、
『新新に!』、
『生、滅する!』。
復次有言持戒為重。所以者何。依戒因緣故。次第得漏盡。有言多聞為重。所以者何。依智慧故能有所得。有言禪定為重。如佛所說定能得道。有言以十二頭陀為重。所以者何。能淨戒行故。 復た次ぎに、有るいは言わく、『持戒を重しと為す。所以は何んとなれば、戒に依る因縁の故に、次第に漏尽を得ればなり』、と。有るいは言わく、『多聞を重しと為す。所以は何んとなれば、智慧に依るが故に能く所得有ればなり』、と。有るいは言わく、『禅定を重しと為す。仏の所説の如きは、定んで能く道を得ればなり』、と。有るいは言わく、『十二頭陀を重しと為す。所以は何んとなれば、能く戒行を浄むればなり』、と。
復た次ぎに、
有る者は、こう言っている、――
『持戒』が、
『重い!』と、
『思う!』。
何故ならば、
『持戒』に、
『依存する!』、
『因縁』の故に、
次第に、
『漏尽』を、
『得るからである!』、と。
有る者は、こう言っている、――
『多聞』が、
『重い!』と、
『思う!』。
何故ならば、
『智慧に依存する!』が故に、
『所得』が、
『有るからである!』、と。
有る者は、こう言っている、――
『禅定』が、
『重い!』と、
『思う!』、
何故ならば、
『仏の所説など』は、
決定して、
『道』を、
『得させるからである!』、と。
有る者は、こう言っている、――
『十二頭陀』が、
『重い!』と、
『思う!』。
何故ならば、
『戒、行』を、
『浄めさせるからである!』、と。
  十二頭陀(じゅうにづだ):身心を修治して煩悩の塵垢を振り払うに十二種の別あるを云う。即ち一に在阿蘭若処、二に常行乞食、三に次第乞食、四に受一食法、五に節量食、六に中後不得飲漿、七に著弊納衣、八に但三衣、九に塚間住、十に樹下止、十一に露地坐、十二に但坐不臥なり。『大智度論巻6下注:十二頭陀行』参照。
如是各各以所行為貴。更不復懃求涅槃。佛言是諸功德。皆是趣涅槃分。若觀諸法無常。是為真涅槃道。如是等種種因緣故。諸法雖空而說是無常想。 是の如く各各の所行を貴しと為し、更に復た懃めて涅槃を求めず。仏の言わく、『是の諸功徳は、皆是れ涅槃に趣く分なり。若し諸法の無常を観ずれば、是れを真の涅槃の道と為す』、と。是れ等のごとき種種の因縁の故に、諸法は空なりと雖も、而も是の無常想を説く。
是のように、
各各の、
『所行』を、
『貴い!』と、
『思い!』、
更に、
復た、
『努力して!』、
『涅槃』を、
『求めない!』ので、
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『諸の功徳』は、
皆、
『涅槃に趣く道』の、
『一分に!』、
『過ぎない!』が、
若し、
『諸法』の、
『無常』を、
『観察すれば!』、
是れは、
『真の!』、
『涅槃の道である!』、と。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』の故に、
『諸法』は、
『空である!』が、
而も、
是の、
『無常想』を、
『説くのである!』。
復次無常想。即是聖道別名。佛種種異名說道。或言四念處。或言四諦。或言無常想。如經中說。善修無常想。能斷一切欲愛色愛無色愛掉慢。無明盡。能除三界結使。以是故即名為道。 復た次ぎに、無常想は、即ち是れ聖道の別名なり。仏は種種の異名もて、道を説きたまえば、或は『四念処なり』と言い、或は『四諦なり』と言い、或は『無常想なり』と言えり。経中に説くが如し、『無常想を善修すれば、能く一切の欲愛、色愛、無色愛、掉、慢を断じて、無明尽き、能く三界の結使を除く』、と。是を以っての故に、即ち名づけて、道と為す。
復た次ぎに、
『無常想』とは、
即ち、
『聖道』の、
『別名である!』。
『仏』は、
『種種の異名』を、
『道である!』と、
『説いて!』、
或は、こう言われた、――
是の、
『四念処』が、
『道である!』、と。
或は、こう言われた、――
是の、
『四諦』が、
『道である!』、と。
或は、こう言われた、――
是の、
『無常想』が、
『道である!』、と。
例えば、
『経』中に、こう説かれている、――
『無常想』を、
『善く!』、
『修めれば!』、
一切の、
『欲愛、色愛、無色愛、掉、慢』を、
『断絶させることができ!』、
『無明』が、
『尽きて!』、
『三界』の、
『結使』を、
『除くことができる!』、と。
是の故に、
『無常想』を、
『道』と、
『称するのである!』。
  (じょう):心をして高挙せしめ、安静せしめざる煩悩を云う。掉挙。
  (まん):己を恃んで他を凌ぐことを云う。十六惑の一。七慢九慢の別有り。
是無常想或有漏或無漏。正得無常是無漏。初學無常是有漏。 是の無常想は、或は有漏、或は無漏にして、正しく無常を得れば、是れ無漏、初めて無常を学べば、是れ有漏なり。
是の、
『無常想』は、
或は、
『有漏か!』、
『無漏である!』が、
若し、
正しく、
『無常である!』と、
『認識すれば!』、
是れは、
『無漏』の、
『無常想であり!』、
初めて、
『無常である!』と、
『学べば!』、
是れは、
『有漏』の、
『無常想である!』。
    有漏法(うろほう):(一)有漏は梵語saasrava(又saazrava)の訳。諸漏と互いに随増する法の意。無漏法に対す。即ち四諦の中の苦集二諦の法を云う。「倶舎論巻1」に、「有漏の法とは云何ん、謂わく道諦を除いて余の有為法なり。所以は何ん、諸漏は中に於いて等しく随増するが故なり。滅道諦を縁じて諸漏生ずと雖も、而も随増せざるが故に有漏に非ず」と云える是れなり。此の中、漏は漏泄の義にして即ち諸煩悩を指す。此の諸煩悩は彼の苦集二諦の相応法の中に於いて、及び所縁の境の中に於いて互いに相随順し互いに相増長するが故に、彼の苦集二諦の法を有漏と名づく。滅道二諦を縁じて諸漏生ずることあるも、互いに随増せざるが故に、彼の二諦の法は有漏に非ずとなすなり。蓋し随増には相応と所縁との二種あり、相応とは煩悩と相応する心所が、彼の煩悩と互いに相随順増長するを云い、所縁とは煩悩の為に縁ぜられる境が、彼の煩悩と互いに相随順増長するを云うなり。「倶舎論巻19」に、九十八随眠の中、幾ばくか所縁に由るが故に随増し、幾ばくか相応に由るが故に随増するやと徴し、其の答に、「遍行随眠は遍く自地の五部の諸法に於いて所縁随増す、能く遍く自地の法を縁ずるを以っての故なり。所余の五部の非遍随眠の所縁随増は唯自部に於いてす、唯自部を以って所縁となすが故なり。これは総に拠りて説く。別して分別せば六の無漏縁と九の上縁との惑は、所縁の境に於いて随増の義なし。所以は何ん、無漏と上との境は摂受する所に非ず、及び相違するが故なり。(中略)今次に相応随増を辨ずべし、謂わく随って何れの随眠も、自の相応の法に於いて、相応に由るが故に彼に於いて随増す」と云えり。是れ遍行随眠は普く自地の五部(四諦及び修道)の諸法を縁ずる時、及び余の五部の非遍随眠は自地の自部の諸法を縁ずる時、何れも皆其の所縁の境と互いに相随順増長し、又能縁の随眠は、皆亦た自と相応する心所法の中に於いて互いに相随増することを説けるものにして、前者は即ち所縁随増、後者は即ち相応随増なり。譬えば糞穢に水土を混ずるに、糞穢の力によりて水土を穢し、亦た水土の力によりて糞穢を増大するが如く、煩悩の力に由りて心心所を染し、亦た心心所の勢力に由りて更に煩悩を増長するは即ち相応随増なり。又猪犬等あり、此の雑穢の聚に耽著して其の中に遊戯し、糞穢に塗れて転た不浄を増大ならしむるが如く、所縁の境が能縁の煩悩に随順して、更に是れを増長せしむるは即ち所縁随増なり。是の如く諸煩悩と相応して互いに随増し、又諸煩悩の為に縁ぜられて互いに随増する法を名づけて有漏と称す。即ち苦集二諦の法なり。滅道二諦の法を縁ずる時、諸漏亦た生ずることあるも、炎石の上に足止まらざるが如く、彼の法には能縁の煩悩を随増するの義なし、故に有漏と名づけざるなり。「倶舎論光記巻1」に依るに、仏涅槃の後五百年中、炎羅縛蠋国に法勝論師あり、阿毘曇心論を造り、中に随生を以って有漏を解す。六百年に至りて達磨多羅あり、滅道二諦は諸漏生ずと雖も有漏に非ず、生の義に過あるを以って改めて随増となす。即ち過あることなし。今論主は亦た彼の釈に同ずと云えり。是れ今の随増の説は達磨多羅の雑阿毘曇心論に基づきしものなるを指摘せるなり。又「倶舎論巻1」には有漏に取蘊、有諍、苦、集、世間、見処、三有等の異名ありとし、之を解釈して「煩悩を取と名づく、蘊は取より生ずるが故に取蘊と名づく、草糠の火の如し。或いは蘊は取に属するが故に取蘊と名づく、帝王の臣の如し。或いは蘊は取を生ずるが故に取蘊と名づく、花果樹の如し。此の有漏法は亦た有諍と名づく。煩悩を諍と名づく、善品を触動するが故に自他を損害するが故に、諍随増するが故に、名づけて有諍となす。猶お有漏の如し。亦た名づけて苦となす、聖心に違するが故なり。亦た名づけて集となす、能く苦を招くが故なり。亦た世間と名づく、毀壊すべきが故に、有対治の故なり。亦た見処と名づく、見は其の中に住して眠を随増するが故なり。亦た三有を名づく、有の因と、有の依と、三有の摂との故なり。是の如き等の類は是れ有漏法の隨義別名なり」と云えり。之に依るに有漏法は世間三有の苦集の因果を総称するものなるを知るべし。又「倶舎論巻2」には、十八界中、五根五境及び五識の十五界を唯有漏とし、余の意法意識の三界は有漏無漏に通ずとなせり。即ち彼の文に、「意及び意識の道諦の摂なるものを名づけて無漏となし、余を有漏と名づく。法界の若し是れ道諦と無為となるを名づけて無漏となし、余を有漏と名づく。余の十五界は唯有漏と名づく」と云える其の意なり。按ずるに説一切有部に於いては、是の如く随増を以って有漏の義とし、之に由りて苦集二諦を凡べて有漏法と名づくと説けるも、自相続の中の六識の煩悩は、善及び無覆無記の心と俱起せず、随って随増の義なきが故に、彼の善等は即ち有漏と名づくべからざる等の失あり。分別論者及び大衆部の諸師は、随眠は不相応法にして、所縁に於いても、相応法の中に於いても随増せず。而も現に相続して起るが故に、それに由りて善及び無覆無記心も亦た有漏法となるものなりと説き、有部が五根等の前十五界を唯有漏とし、随って仏身も前十五界に属するが故に、亦た有漏たるを免れずとなすに対し、仏は随眠を永断するを以って、其の身は即ち無漏ならざるべからずとす。経部に於いては自身中に有漏の種あり、其の種より彼の善等を生ずるが故に、彼の心は即ち有漏となるものなりと云い、又唯識大乗に於いては此等の諸説を破し、第七末那の我執を以って漏の体とし、之と俱転するものを凡べて有漏法と名づくとせり。即ち「成唯識論巻5」に、「諸の有漏は、自身の現行の煩悩と俱起俱滅して互いに相増益するに由り、方に有漏と成る。此に由りて有漏法の種を熏成し、後時に現起して有漏の義成ず。異生既に然り、有学も亦た爾り。無学の有漏は漏と倶なるに非ずと雖も、而も先時の有漏種より起るが故に有漏と成るというも理に於いて違することなし。末那ありて恒に我執を起すに由り、善等の法をして有漏の義成ぜしむ。此の意若し無くんば、彼は定んで有るに非ず。故に別に此の第七識あることを知る」と云える其の意なり。是れ六識相応の煩悩にも漏の義ありと雖も、第七識は諸識の染浄依となり、恒に相続して間断せざるが故に、之を以って漏の体となし、之と俱転するものを名づけて有漏となすべしというの意なり。又「阿毘達磨発智論巻1」、「大毘婆沙論巻22、76、86、172」、「雑阿毘曇心論巻1」、「倶舎論巻13」、「同光記巻2、19」、「同宝疏巻1、2、19」、「阿毘達磨順正理論巻1、49」、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」、「成唯識論巻10」、「同述記巻5末、10末」、「同了義灯巻5本」等に出づ。(二)三漏の一。四漏の一。欲漏、無明漏等に対す。即ち上二界の根本煩悩中、無明を除きて余の五十二法を云う。「倶舎論巻20」に、「色無色界の煩悩より癡を除きて五十二物を総じて有漏と名づく。謂わく上二界の根本煩悩に各二十六あり」と云える是れなり。是れ上二界を有と名づくるが故に、其の中の煩悩を有漏と称したるなり。又「大毘婆沙論巻47、48」、「雑阿毘曇心論巻4」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」、「倶舎論光記巻20」等に出づ。<(望)
  無漏法(むろほう):梵語anaasrava-dharmaの訳。諸漏の随増することなき法の意。有漏法に対す。即ち無為及び道諦所摂の法を云う。「大毘婆沙論巻137」に、「諸の無漏法は能く有を損減し、能く有に違害し、能く有を破壊す」と云い、「倶舎論巻1」に、「虚空等の三種の無為及び道聖諦を無漏法と名づく。所以は何ぞ、諸漏は中に於いて随増せざるが故なり」と云える是れなり。是れ即ち虚空寂滅非択滅の三種の無為、及び七覚支八正道支等の道聖諦の法は共に皆煩悩を随増するの義なく、有を損減するものなるが故に無漏法と名づくることを説けるものなり。此の中、寂滅は滅諦涅槃の道果にして離繋を以って性となし、非択滅は縁闕に由りて永く未来法の生を礙え、虚空は唯無礙を以って性とし、共に作用なく、諸漏随増の依処に非ざるが故に総じて之を無漏法となす。即ち無為の無漏法なり。道諦三十七品は有為法にして、就中、七覚支八正道支は唯無漏、余の四念住等は有漏無漏に通ず。即ち学無学法を総じて道聖諦と名づけたるものにして、所謂有為の無漏法なり。此等は皆界繋に堕せず、非所断の法なり。又説一切有部に於いては十八界の中、意法意識の後三界は有漏無漏に通ずとなすも、五根五境五識の前十五界は唯有漏に限るとし、仏の生身の如きも他の所縁となりて其の煩悩を随増するが故に、即ち有漏にして無漏に非ずとなすなり。然るに大衆部等に於いては仏身中に在るものは十八界皆共に無漏なりとし、又譬喩者等は非有情数の五境の如きも漏の所依に非ざるが故に亦た皆無漏と名づくとなせり。「大毘婆沙論巻173」に、「分別論者及び大衆部の師は執す、仏の生身は是れ無漏法なりと。(中略)又彼れ説いて言わく、仏は一切の煩悩并びに習気皆永断するが故に、云何ぞ生身当に是れ有漏なるべき」と云い、又「順正理論巻1」に、「譬喩者は理に違し経に背きて妄に是の説を為す、非有情数と理過の身中所有の色等を無漏法と名づく」と云い、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」に、「五の無取蘊の全と及び三界二処の少分は是れ無漏なり」と云える其の説なり。蓋し「雑阿含経巻2」に有漏無漏法を分別し、「若し色の有漏なるは是れ取なり、彼の色は能く愛恚を生ず。是の如く受想行識の有漏なるは是れ取なり、彼の識は能く愛恚を生ず。是れを有漏法と名づく。云何が無漏法なる。諸の所有の色の無漏なるは受に非ず、彼の色の若しは過去未来現在に彼の色は愛恚を生ぜず。是の如く受想行識の無漏なるは受に非ず、彼の識は若し過去未来現在に愛恚を生ぜず。是れを無漏法と名づく」と云えり。是れ色等の五蘊の取に非ざるものを総じて無漏法と名づけたるものにして、大衆部及び譬喩者等の説は恐らく之に基づけるものならん。又「大毘婆沙論巻44、76」、「雑阿毘曇心論巻1」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「倶舎論巻13、24」、「同光記巻2」等に出づ。<(望)
  参考:『雑阿含(270)経巻10』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如田夫。於夏末秋初深耕其地。發荄斷草。如是。比丘。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如。比丘。如人刈草。手攬其端。舉而抖擻。萎枯悉落。取其長者。如是。比丘。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如菴羅果著樹。猛風搖條。果悉墮落。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如樓閣。中心堅固。眾材所依。攝受不散。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如一切眾生跡。象跡為大。能攝受故。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如閻浮提一切諸河。悉赴大海。其大海者。最為第一。悉攝受故。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如日出。能除一切世間闇冥。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。譬如轉輪聖王。於諸小王最上.最勝。如是。無常想修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。諸比丘。云何修無常想。修習多修習。能斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。若比丘於空露地.若林樹間。善正思惟。觀察色無常。受.想.行.識無常。如是思惟。斷一切欲愛.色愛.無色愛.掉慢.無明。所以者何。無常想者。能建立無我想。聖弟子住無我想。心離我慢。順得涅槃。佛說是經已。時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
摩訶衍中諸菩薩心廣大。種種教化一切眾生故。是無常想。亦有漏亦無漏。 摩訶衍中の諸菩薩は心広大にして、種種に一切の衆生を教化するが故に、是の無常想は、亦た有漏、亦た無漏なり。
『摩訶衍』中の、
『諸菩薩』は、
『心』が、
『広大であって!』、
種種に、
一切の、
『衆生』を、
『教化する!』が故に、
是の、
『無常想』には、
『有漏もあり!』、
『無漏もある!』。
若無漏在九地。若有漏在十一地。緣三界五受眾。四根相應除苦根。凡夫聖人得如是等種種因緣。說無常想功德。 若し無漏なれば、九地に在り、若し有漏なれば、十一地に在り、三界の五受衆を縁じて、四根に相応し、苦根を除く。凡夫、聖人の得なり。是れ等の種種の因縁もて、無常想の功徳を説けり。
是の、
『無常想』が、
『無漏ならば!』、
『九地(未至定、中間禅、根本禅、下三無色)』中に、
『在り!』、
『有漏ならば!』、
『十一地(欲界、未至定、中間禅、根本禅、四無色)』中に、
『在り!』、
『三界』の、
『五受衆』を、
『縁じ!』、
『苦根を除く!』、
『四根(楽、憂、喜、捨根)』に、
『相応し!』、
『凡夫、聖人』の、
『所得である!』。
是れ等の、
種種の、
『因縁』は、
『無常想の功徳』を、
『説くものである!』。
  五受衆(ごじゅしゅ):煩悩より生じ、或いは煩悩を生ずる有漏の五蘊の意。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
  五根(ごこん):苦根、楽根、憂根、喜根、捨根を総じて云う。『大智度論巻17下注:五受』参照。
  参考:『阿毘達磨大毘婆沙論巻166』:『如是十想界分別者。不淨想厭食想一切世間不可樂想欲色界。餘三界及非界。地者。不淨想厭食想在十地。謂欲界。靜慮中間。四靜慮。及四近分。一切世間不可樂想在七地。謂欲界。未至。靜慮中間。根本四靜慮。餘七想有漏者。在十一地。謂欲界。未至。靜慮中間。根本四靜慮。四無色。無漏者。在九地。謂未至。靜慮中間。根本四靜慮。下三無色。所依者。不淨想厭食想一切世間不可樂想依欲界。餘依三界』



苦想

苦想者。行者作是念。一切有為法無常故苦。 苦想とは、行者は、是の念を作さく、『一切の有為法は、無常なるが故に苦なり』、と。
『苦想』とは、
『行者』が、こう念じることである、――
一切の、
『有為法』は、
『無常である!』が故に、
『苦である!』、と。
問曰。若有為法無常故苦者。諸賢聖人有為無漏法亦應當苦。 問うて曰く、若し有為法は、無常なるが故に苦なれば、諸の賢聖の人の有為無漏法も、亦た応当に苦なるべし。
問い、
若し、
『有為法』が、
『無常である!』が故に、
『苦である!』とすれば、――
諸の、
『賢聖の人』の、
『有為』の、
『無漏法』も、
『苦でなければならない!』。
  有為無漏法(ういむろほう):有為の無漏法の義。有為は、「倶舎論巻1」に、「諸の有為法は謂わく色等の五蘊なり。(中略)是の如きの五法に具に有為を摂す。衆縁聚集して共に作す所なるが故に」と云い、無漏法は、「同巻1」に、「虚空等の三種の無為、及び道聖諦を無漏法と名づく。」と云うに依り、即ち有為の無漏法とは道聖諦を指すものと知る。『大智度論巻23上注:無漏、有為』、並びに『同巻31上注:有為無漏法』参照。
  有為(うい):梵語saMskRtaの訳。無為に対す。為作あるの義。即ち因縁所成の現象の諸法を云う。「倶舎論巻1」に、「諸の有為法は謂わく色等の五蘊なり。(中略)是の如きの五法に具に有為を摂す。衆縁聚集して共に作す所なるが故に。少法として一縁所生のものあることなし」と云えり。是れ有為法は即ち色受想行識の五蘊なることを顕せるなり。又「同巻5」に有為の相を明して、「相は謂わく諸の有為の生住異滅の性なり。論じて曰わく、此の四種は是れ有為の相なるに由る。法若し此れあらば是れ有為なるべし。此れと相違するは是れ無為法なり。此れ諸法に於いて能く起すを生と名づけ、能く安ずるを住と名づけ、能く衰えしむるを異と名づけ、能く壊するを滅と名づく。性は是れ体の義なり」と云い、又「成唯識論巻2」には、「有為の法は因縁力の故に本無今有なり。暫く有るも還って無し。無為に異なることを表せんとして仮りに四相を立つ」と云えり。是れ有為の諸法には必ず生住異滅の四相あることを明せるなり。七十五法中には、三無為を除いて余の七十二法、百法中には六無為を除いて余の九十四法を総べて有為に摂す。又「雑阿含経巻12」、「阿毘達磨発智論巻2」、「大毘婆沙論巻38」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻13」、「倶舎論光記巻1、5」、「同宝疏巻1、5」、「成唯識論述記巻2末」等に出づ。<(望)
答曰。諸法雖無常。愛著者生苦。無所著者無苦。 答えて曰く、諸法は無常なりと雖も、愛著すれば、苦を生ず。所著無ければ、苦無し。
答え、
『諸法』は、
『無常である!』が、
敢て、
『愛著すれば!』、
『苦』を、
『生じ!』、
『所著が無ければ!』、
『苦』も、
『無い!』。
問曰。有諸聖人。雖無所著亦皆有苦。如舍利弗風熱病苦。畢陵伽婆蹉眼痛苦。羅婆那跋提(音聲第一也)痔病苦。云何言無苦。 問うて曰く、有る諸聖人は、所著無しと雖も、亦た皆苦有り。舎利弗の風熱の病に苦しみ、畢陵伽婆蹉の眼痛に苦しみ、羅婆那跋提の痔病に苦しむが如し。云何が、苦無しと言う。
問い、
有る、
『諸聖人』は、
『所著が無くても!』、
皆、
『苦』が、
『有った!』。
例えば、
『舎利弗』は、
『風、熱』の、
『病』に、
『苦しみ!』、
『畢陵伽婆蹉』は、
『眼』の、
『痛み』に、
『苦しみ!』、
『羅婆那跋提』は、
『痔』の、
『病』に、
『苦しんだ!』。
何故、――
『苦』は、
『無い!』と、
『言うのですか?』。
  畢陵伽婆蹉(ひりょうがばしゃ):梵名pilinda-vatsa、又はpilindavaza、巴梨名pilinda-vaccha、或いはpilindiya-vaccha、又畢陵伽筏蹉、畢陵伽波蹉、必陵伽婆磋、畢隣陀婆蹉、畢藺陀筏蹉、比利陀婆遮、畢那嚩蹉に作り、略して畢陵伽、或いは畢陵と称し、又梵漢並挙して畢隣陀子とも云う。余習、或いは悪口と訳す。畢陵伽は姓、婆蹉は名なり。「巴梨文真諦解釈paramatha-diipanii」に依るに、師は舎衛城の人にして婆羅門種なり、初めチューラガンドハーラcuula-gandhaaraと名づくる隠身呪を学び、名声を得しも、後仏に見えて其の呪力を失い、遂に出家して弟子となれりと云い、「増一阿含経巻3弟子品」には、「言語麁獷にして尊貴を避けざるは、所謂比利陀婆遮比丘是れなり。金光三昧に入るも亦た是れ比利陀婆遮比丘なり」と云えり。其の性憍慢にして言語麁獷なりしが如く、「摩訶僧祇律巻30」には、師は仏と八大声聞とを除き、余の一切を賎しめて尽く首陀羅なりと言い、又和上、阿闍梨、諸上座をも皆軽んじて首陀羅と呼びしことを記し、又「大智度論巻2」には、師は嘗て乞食して恒河を渡り、恒神を罵りしを以って、神は仏所に到りて此の事を告ぐるに、仏は為に師をして恒神に懺謝せしめ、且つ師が五百世以来常に婆羅門の家に生まれ、自ら憍貴して余人を軽賎す、是れ本来所習の口言なりと語られたりと云えり。余習又は悪口の称あるは蓋し之に基づくなり。又師は神通に長じたるが如く、「有部毘奈耶巻5」に、師の甥が竹林中に於いて秋賊に劫奪せられたる時、師は神通力を以って之を救助し、又師は頻毘娑羅王より浄人五百を給与せられ、浄人の房を造りたるに、秋賊あり其の財物を盗みたるを以って、神通力を現じて之を奪還せしことを伝え、「摩訶僧祇律巻29」に、師は曽て一放牧家の女に種種の衣服珠宝瓔珞等を化作して之を与え、王の喚問する所となりしに由り、即ち王宮の壁を変じて金と作せしことを記せり。又師は多病にして、「有部毘奈耶薬事巻1」に、師纔かに出家し已るに多く諸疾あり、仏は為に薬帒を持することを聴されたりと云い、「有部毘奈耶皮革事巻下」に、師は常に病によりて往きて説法する能わず、仏為に乗輿を聴されたることを伝え、又「大智度論巻2、23」、「十誦律巻25、26」、「鼻奈耶巻8」等には師が眼病を患いしことを記せり。又「阿羅漢具徳経」、「四分律巻10、42」、「五分律巻5、7、8、17、20、21、28」、「十誦律巻8」、「有部鼻奈耶雑事巻10」、「毘尼母経巻3」、「大毘婆沙論巻16」、「法華義記巻1」、「法華経文句巻2上」、「法華義疏巻1(吉蔵)」、「慧琳音義巻8、27、78」、「翻梵語巻2」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  羅婆那跋提(らばなばっだい):梵名、賢塩、或いは鹹賢と訳す。『根本説一切有部毘奈耶薬事巻17』によれば、拘留孫(くるそん)仏の時、この人は人足として、この仏の塔を作ることに従事した。そして塔を作りながら、「こんな大塔を作ってどうしようと言うのだ?いったいいつまでかかるのだ?もっと小さければ、安くでき、手間もかからず楽もでき、すぐにも完成するものを!」と悪口雑言を吐いたので、命が終ると地獄に堕ちた。迦葉(かしょう)仏の時、雄の拘耆羅(くきら、声のよい鳥)鳥となり、波羅奈斯(はらなし)の林の中で法を説く仏や、それを聞く比丘たちのそばで常に和雅の音を出して飛び回っていた。その善根により、人間に生まれた時、釈迦牟尼仏の本で出家して阿羅漢と成り、比丘たちの為に美しい声で法を説いた。
答曰。有二種苦。一者身苦。二者心苦。是諸聖人以智慧力故。無復憂愁嫉妒瞋恚等心苦。已受先世業因緣四大造身。有老病飢渴寒熱等身苦。於身苦中亦復薄少。如人了了知負他債償之不以為苦。若人不憶負債債主強奪瞋惱生苦。 答えて曰く、二種の苦有り、一には身苦、二には心苦なり。是の諸の聖人は、智慧の力を以っての故に、復た憂愁、嫉妒、瞋恚等の心苦無けれども、已に先世の業の因縁の四大造の身を受くれば、老病、飢渴、寒熱等の身の苦有るも、身苦中に於いても亦復た薄少にして、人の了了に他に債を負うを知れば、之を償うに、以って苦と為さず、若し人、債を負うを憶えずして、債主強いて奪わば、瞋悩して苦を生ずるが如し。
答えて曰く、
『苦』には、
『二種有り!』、
一には、
『身苦であり!』、
二には、
『心苦である!』。
是の、
『諸の聖人』は、
『智慧の力を用いる!』が故に、
もう、
『憂愁、嫉妒、瞋恚する!』等の、
『心苦』は、
『無い!』が、
已に、
『先世の業の因縁』の、
『四大造の身』を、
『受ける!』が故に、
『老病、飢渴、寒熱』等の、
『身苦』が、
『有り!』、
『身苦』中に於いても、
『苦』は、
『もはや!』、
『薄少である!』。
譬えば、
『人』が、
『他人に!』、
『債を負うている!』と、
『了了に知っていれば!』、
是の、
『債を償っても!』、
『苦ではない!』が、
若し、
『身に憶えのない!』、
『債』を、
『負っていて!』、
『債主』が、
『強いて!』、
『奪えば!』、
『心に瞋悩して!』、
『苦』を、
『生じるようなものである!』。
問曰。苦受是心心數法。身如草木離心則無所覺。云何言聖人但受身苦。 問うて曰く、苦受は、是れ心心数法なり。身は、草木の如く、心を離れては、則ち覚ゆる所無し。云何が、『聖人は、但だ身苦を受く』、と言う。
問い、
『苦受』は、
『心、心数法である!』が、
『身』は、
『草、木のように!』、
『心』を、
『離れれば!』、
則ち、
『所覚(感覚)』が、
『無いことになる!』。
何故、こう言うのですか?――
『聖人』は、
但だ、
『身苦のみ!』を、
『受ける!』、と。
答曰。凡夫人受苦時。心生愁惱。為瞋使所使。心但向五欲。如佛所說。凡夫人除五欲。不知更有出苦法。於樂受中貪欲使所使。不苦不樂受中。無明使所使。凡夫人受苦時。內受三毒苦。外受寒熱鞭杖等。如人內熱盛外熱亦盛。 答えて曰く、凡夫人は、苦を受くる時、心に愁悩を生じ、瞋使の為に使われて、心は但だ五欲に向えばなり。仏の所説の如し、『凡夫人は、五欲を除くも、更に出苦の法有るを知らず。楽受中に於いて、貪欲使に使われ、不苦不楽受中には無明使に使わる。凡夫人は、苦を受くる時、内には三毒の苦を受け、外には寒熱、鞭杖等を受く。人の内に熱盛んなれば、外の熱も亦た盛んなるが如し』、と。
答え、
『凡夫人』は、
『苦を受ける!』時、
『心』に、
『愁悩を生じて!』、
『瞋使』に、
『使われる!』ので、
『心』は、
但だ、
『五欲のみ!』に、
『向かうのである!』。
例えば、
『仏の所説』は、こうである、――
『凡夫人』は、
『五欲を除いても!』、
更に、
『苦を出す!』、
『法が有る!』のを、
『知らない!』。
則ち、
『楽受』中には、
『貪欲使』に、
『使われ!』、
『不苦不楽受』中には、
『無明使』に、
『使われる!』ので、
『凡夫人』は、
『苦を受ける!』時に、
内には、
『三毒の苦』を、
『受け!』、
外には、
『寒熱、鞭杖』等を、
『受ける!』、
譬えば、
『人』が、
内に、
『熱』が、
『盛んならば!』、
外にも、
『熱』が、
『盛んであるようなものである!』。
  参考:『別訳雑阿含(68)経巻4』:『佛告大王。如是大王。若有沙門婆羅門。五支不具。不任福田。復有五支滿足。堪任福田。施得大果。得大利益。極為熾盛。果報增廣。云何名為具於五支。斷除五蓋。云斷除五蓋何。斷除欲蓋瞋恚睡眠調悔及疑。自知除五欲。名斷除五蓋。』
  参考:『雑阿含(470)経巻17』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。爾時。世尊告諸比丘。愚癡無聞凡夫生苦樂受.不苦不樂受。多聞聖弟子亦生苦樂受.不苦不樂受。諸比丘。凡夫.聖人有何差別。諸比丘白佛。世尊是法根.法眼.法依。善哉。世尊。唯願廣說。諸比丘聞已。當受奉行。佛告諸比丘。愚癡無聞凡夫身觸生諸受。苦痛逼迫。乃至奪命。憂愁啼哭。稱怨號呼。佛告諸比丘。諦聽。善思。當為汝說。諸比丘。愚癡無聞凡夫身觸生諸受。增諸苦痛。乃至奪命。愁憂稱怨。啼哭號呼。心生狂亂。當於爾時。增長二受。若身受.若心受。譬如士夫身被雙毒箭。極生苦痛。愚癡無聞凡夫亦復如是。增長二受。身受.心受。極生苦痛。所以者何。以彼愚癡無聞凡夫不了知故。於諸五欲生樂受觸。受五欲樂。受五欲樂故。為貪使所使。苦受觸故。則生瞋恚。生瞋恚故。為恚使所使。於此二受。若集.若滅.若味.若患.若離不如實知。不如實知故。生不苦不樂受。為癡使所使。為樂受所繫終不離。苦受所繫終不離。不苦不樂受所繫終不離。云何繫。謂為貪.恚.癡所繫。為生.老.病.死.憂.悲.惱苦所繫。多聞聖弟子身觸生苦受。大苦逼迫。乃至奪命。不起憂悲稱怨.啼哭號呼.心亂發狂。當於爾時。唯生一受。所謂身受。不生心受。譬如士夫被一毒箭。不被第二毒箭。當於爾時。唯生一受。所謂身受。不生心受。為樂受觸。不染欲樂。不染欲樂故。於彼樂受。貪使不使。於苦觸受不生瞋恚。不生瞋恚故。恚使不使。於彼二使。集.滅.昧.患.離如實知。如實知故。不苦不樂受癡使不使。於彼樂受解脫不繫。苦受.不苦不樂受解脫不繫。於何不繫。謂貪.恚.癡不繫。生.老.病.死.憂.悲.惱苦不繫。爾時。世尊即說偈言 多聞於苦樂  非不受覺知  彼於凡夫人  其實大有聞  樂受不放逸  苦觸不增憂  苦樂二俱捨  不順亦不違  比丘勤方便  正智不傾動  於此一切受  黠慧能了知  了知諸受故  現法盡諸漏  身死不墮數  永處般涅槃  佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
如經說。凡夫人失所愛物。身心俱受苦。如二箭雙射。諸賢聖人無憂愁苦。但有身苦更無餘苦。 経に説けるが如し、『凡夫人は、所愛の物を失いて、身心倶に苦を受くること、二箭を双射するが如し。諸の賢聖の人は、憂愁の苦無く、但だ身苦有りて、更に余の苦無し』、と。
例えば、
『経』に、こう説く通りである、――
『凡夫人』が、
『所愛』の、
『物』を、
『失う!』と、
『身、心』が、
皆、
『苦』を、
『受けるので!』、
譬えば、
『二本の箭』に、
『射られたようである!』が、
『諸の賢聖の人』は、
『憂愁』の、
『苦』が、
『無く!』、
但だ、
『身苦のみ!』、
『有って!』、
更に、
『余の苦』は、
『無い!』、と。
復次五識相應苦。及外因緣杖楚寒熱等苦。是名身苦。餘殘名心苦。 復た次ぎに、五識相応の苦、及び外の因縁なる杖楚、寒熱等の苦は、是れを身苦と名づけ、余残を心苦を名づく。
復た次ぎに、
『五識』に、
『相応した!』、
『苦』と、
『外の因縁である!』、
『杖楚、寒熱』等の、
『苦』は、
是れを、
『身苦』と、
『呼び!』、
『余残の苦』を、
『心苦』と、
『称する!』。
  杖楚(じょうそ):むちうつこと。
復次我言有為無漏法。不著故非苦。聖人身是有漏。有漏法則苦有何咎。是末後身所受苦亦微少。 復た次ぎに、我が言わく、『有為の無漏法は、著せざるが故に苦に非ず』、と。聖人の身は、是れ有漏なり。有漏法なれば、則ち苦なるに、何の咎か有らん。是れ末後の身なれば、受くる所の苦も亦た微少なり。
復た次ぎに、
わたしは、こう言った、――
『有為の無漏法』は、
『著さなければ!』、
『苦ではない!』、と。
『聖人』の、
『身』は、
『有漏である!』が、
『有漏法ならば!』、
『苦であったとしても!』、
何のような、
『咎』が、
『有るのか?』。
是れは、
『末後の身である!』が故に、
『受ける!』所の、
『苦』も、
『微少なのである!』。
問曰。若無常即是苦者。道亦是苦。云何以苦離苦。 問うて曰く、若し無常にして、即ち是れ苦なれば、道も亦た是れ苦なり。云何が、苦を以って苦を離るる。
問い、
若し、
『無常』が、
即ち、
『苦であれば!』、
『道』も、
亦た、
『苦である!』。
何故、
『苦を用いて!』、
『苦』を、
『離れるのですか?』。
答曰。無常即是苦。為五受眾故說。道雖作法故無常不名為苦。所以者何。是能滅苦不生諸著。與空無我等諸智和合故。但是無常而非苦。 答えて曰く、無常は、即ち是れ苦なりとは、五受衆の為の故に説く。道は、作法なるが故に無常なりと雖も、名づけて苦と為さず。所以は何んとなれば、是れ能く苦を滅して、諸著を生ぜざれば、空、無我と等しく、諸智の和合の故に、但だ是れ無常なるも、苦に非ざればなり。
答え、
『無常』が、
『苦である!』とは、――
『五受衆(有漏の色、受、想、行、識)』の、
『無常』の為の故に、
『苦である!』と、
『説くのであり!』、
『道』は、
『作法である!』が故に、
『無常である!』が、
是れが、
『苦』と、
『呼ばれることはない!』。
何故ならば、
是れは、
『苦を滅して!』、
諸の、
『著』を、
『生じない!』ので、
『空』や、
『無我』と、
『等しく!』、
諸の、
『智』と、
『和合する!』が故に、
但だ、
是れは、
『無常というだけで!』、
『苦ではないからである!』。
  五受衆(ごじゅしゅ):梵語 paJca- upaadaana- skandha の訳、五種の受取る者の集団( five accepting aggregates )の義、取に従属する五種の要素( Five constituents subject to appropriation )、不浄な愛著の対象としての五種の集団( the five aggregates as objects of impure attachment )、有漏の五衆( contaminated five aggregates )の意。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
  作法(さほう):作為有る法、即ち行為の意。『大智度論巻20下注:作法』参照。
如諸阿羅漢得道時說偈言
 我等不貪生  亦復不樂死 
 一心及智慧  待時至而去
諸の阿羅漢の道を得る時、偈を説いて言うが如し、
我等は生を貪らず、亦復た死を楽しまず、
一心及び智慧もて、時の至るを待ちて去るのみ
例えば、
諸の、
『阿羅漢』は、
『道を得た!』時、
『偈を説いて!』、こう言っている、――
わたし達は、
『生を貪らず!』、
亦た、
無論、
『死』を、
『楽しむこともない!』。
『一心』と、
『智慧』とで、
『時の至る!』のを、
『待ちながら!』、
『去るだけである!』。
  参考:『阿那律八念経』:『賢者阿那律聞佛說經。開導其意受行三月。漏盡意解得三治以為證已。自覺得羅漢。便說偈言 夫欲而無厭  樂眾以放意  是行以致苦  修惡多所著  少欲知道行  知慚不自見  是法墮清淨  遠惡致度世  道意不貪生  亦無樂死別  吾以如空定  諸苦得待時  從佛受教命  守行棄欲惡  所身患已捨  得利就無為  自致至三治  已拔恩愛根  當於維沙聚  竹園般泥洹』
佛取涅槃時。阿難等諸未離欲人。未善修八聖道故皆涕泣憂愁。諸離欲阿那含皆驚愕。諸漏盡阿羅漢其心不變。但言世間眼滅。疾以得道力故。雖從佛得大利益。知重佛無量功德而不生苦。以是故知道雖無常。非苦因緣故不名為苦。但五受眾是苦。何以故。愛著故無常。敗壞故如受念處中。苦義此中應廣說。 仏の涅槃を取りたまえる時、阿難等の諸の未離欲の人は、未だ善く八聖道を修めざるが故に、皆涕泣し憂愁し、諸の離欲の阿那含は皆驚愕せるに、諸の漏尽の阿羅漢は其の心変らずして、但だ言わく、『世間の眼の滅すること、疾かなり』、と。得道の力を以っての故に、仏より大利益を得て、仏の無量の功徳を知りて重んずと雖も、而も苦を生ぜず。是を以っての故に知る、道は無常なりと雖も、苦の因縁に非ざるが故に、名づけて苦と為さず。但だ五受衆のみ、是れ苦なり。何を以っての故に、愛著するが故に無常なり。敗壊するが故なり。受念処中の苦の義の如し。此の中にも応に広く説くべし。
『仏』が、
『涅槃を取られる!』時、
『阿難』等の、
諸の、
『未離欲の人』は、
未だ、
『八聖道』を、
『善く!』、
『修めていない!』が故に、
皆、
『涕泣して!』、
『憂愁した!』が、
諸の、
『離欲の阿那含』は、
皆、
『驚愕し!』、
諸の、
『漏尽の阿羅漢』は、
其の、
『心』を、
『変えることなく!』、
但だ、
『世間の眼が滅する!』のは、
『疾かである!』と、
『言うのみで!』、
『得道の力』の故に、
『仏より!』、
『大利益』を、
『得て!』、
『仏の無量の功徳』を、
『知って!』、
『重んじていながら!』、
而も、
『苦』を、
『生じることはなかった!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『道』は、
『無常ではあるが!』、
『苦』の、
『因縁ではなく!』、
故に、
『苦』と、
『呼ばれることはない!』。
但だ、
『五受衆のみ!』が、
『苦である!』。
何故ならば、
『愛著する!』が故に、
『無常であり!』、
『敗壊するからである!』。
『苦の義』は、
例えば、
『受念処』中に、
『説いた通りである!』が、
此の中にも、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
復次苦者有身常是苦。癡覆故不覺。如說
 騎乘疲極故  求索住立處 
 住立疲極故  求索坐息處 
 坐久疲極故  求索安臥處 
 眾極由作生  初樂後則苦 
 視眴息出入  屈伸坐臥起 
 行立及去來  此事無不苦
復た次ぎに、苦とは、身有れば常に是れ苦なるも、癡に覆わるるが故に覚らず。説くが如し、
騎乗して疲極するが故に、住立する処を求索し、
住立して疲極するが故に、坐息する処を求索し、
坐すこと久しく疲極するが故に、安臥の処を求索す。

衆極は作に由りて生ず、初め楽なるも後に則ち苦なり、
視眴し息を出入するも、屈伸坐臥して起つも、
行立及び去来するも、此の事は苦ならざる無し。
復た次ぎに、
『苦』は、
『身が有れば!』、
『常に!』、
『苦である!』が、
『癡に覆われる!』が故に、
『苦だ!』と、
『覚らないだけである!』。
譬えば、こう説く通りである、――
『騎乗して!』、
『疲極すれば!』、
『立ち止まる処』を、
『求索する!』、
『立ち止まって!』、
『疲極すれば!』、
『坐って休む処』を、
『求索する!』、
『久しく坐っていて!』、
『疲極すれば!』、
『安らかに臥せる処』を、
『求索する!』。
『多く!』の、
『疲極』が、
『行為により!』、
『生じる!』ので、
『初め!』は、
『楽であっても!』、
『後には!』、
『苦となる!』。
『見詰めても!』、
『眴いても!』、
『息』を、
『出しても!』、
『入れても!』、
『身』を、
『屈、伸しても!』、
『坐、臥して!』、
『起ち上がっても!』、
『歩いても!』、
『立ち止まっても!』、
又、
『来ても!』、
『去っても!』、
此の、
『事』が、
『苦でない!』ことが、
『無い!』。
  騎乗(きじょう):馬に乗る。騎は馬にのる、乗は車に乗るの義。
  住立(じゅうりゅう):たちどまって立つ。
  坐息(ざそく):坐ってやすむ。
  安臥(あんが):安らかにねる。
  (ごく):<名詞>[本義]棟木( ridgepole )。最高の地位( highest position )、君位( throne )、頂点( top )、極限/極地( extremity )、北極星( Polaris )、最高基準( highest norm, highest standard )。<副詞>最も/極めて/非常に( extremely, exceedingly, very )。<動詞>到達する/至る( reach )、へとへとになる/疲極/窮尽/竭尽する( exhaust )、探究/究明する( study deeply )、誅殺する( punish )、極点に到達する( reach the limit )。<形容詞>最高の/最遠の/極点の( extreme )、急速に( fast )、切望/切迫して( anxiously )。
  (さ):おこない。行為。
  視眴(しけん):みつめるとまたたくと。
  屈伸(くっしん):かがむとのびると。
  坐臥(ざが)すわるとふせると。
  (き):おきあがる。
  行立(ぎょうりゅう):あるくとたつと。
  去来(こらい):さるとくると。
問曰。是五受眾為一切皆苦。為苦想觀故苦。若一切皆苦。佛云何說有三種受苦受樂受不苦不樂受。若以苦想故苦。云何說苦諦為實苦。 問うて曰く、是の五受衆は、一切を皆苦と為すや、苦想観の故に苦と為すや。若し一切皆苦なれば、仏は云何が、『三種の受有り、苦受、楽受、不苦不楽受なり』、と説きたまえる。若し苦想を以っての故に苦なれば、云何が、『苦諦を実の苦と為す』、と説きたまえるや。
問い、
是の、
『五受衆』は、
『一切』が、
皆、
『苦であるのか?』、
『苦想』を、
『観る!』が故に、
『苦であるのか?』。
若し、
『一切』が、
皆、
『苦ならば!』、
『仏』は、
何故、こう説かれたのか?――
『苦受、楽受、不苦不楽受という!』、
『三種の受』が、
『有る!』、と。
若し、
『苦想』を、
『観る!』が故に、
『苦ならば!』、
何故、
こう説くのか?――
『苦諦』が、
『実の!』、
『苦である!』、と。
答曰。五受眾一切皆苦。凡夫人四顛倒因緣。為欲所逼以五欲為樂。如人塗瘡大痛息故以為樂瘡非樂也。佛說三種受為世間故。於實法中非是樂也 答えて曰く、五受衆は一切皆苦なるに、凡夫人は四顛倒の因縁より、欲の為に逼られ、五欲を以って楽と為すは、人の瘡に塗りて、大痛の息むが故に、以って楽と為すも、瘡は楽に非ざるが如し。仏の三種の受を説きたまえるは、世間の為の故にして、実法中に於いては、是れ楽なるに非ず。
答え、
『五受衆』は、
『一切』が、
皆、
『苦である!』が、
『凡夫人』は、
『四顛倒の因縁』の故に、
『欲』に
『逼迫されて!』、
『五欲』を、
『楽だ!』と、
『思うのである!』。
譬えば、
『人』が、
『瘡(きず)』に、
『薬を塗れば!』、
『大痛が息()んで!』、
『楽だ!』と、
『思う!』が、
『瘡』が、
『楽でない!』のと、
『同じである!』。
『仏の説かれた!』、
『三種の受』は、
『世間』の為の故に、
『説かれたのであり!』、
『実法』中の、
『楽受』は、
『楽ではない!』。
  四顛倒(してんどう):凡夫の顛倒を常楽我淨の四種に分類せるを云う。『大智度論巻18上注:四顛倒』参照。
若五受眾中實有樂。何以故佛說滅五受眾名為樂。 若し五受衆中に実に楽有れば、何を以っての故にか、仏は、『五受衆を滅するを、名づけて楽と為す』、と説きたまえる。
若し、
『五受衆』中に、
『実に!』、
『楽』が、
『有れば!』、
何故、
『仏』は、こう説かれたのか?――
『五受衆を滅する!』のを、
『楽』と、
『称する!』、と。
復次隨其所嗜樂心則生樂無定也。樂若實定不待心著。如火實熱不待著而熱也。以樂無定故名為苦。 復た次ぎに、其の嗜む所に随いて、楽心則ち生ずれば、楽に定無し。楽若し実に定まれば、心の著するを待たず。火の実に熱なれば、著を待たずして、熱なるが如し。楽に定無きを以っての故に名づけて、苦と為す。
復た次ぎに、
其の、
『嗜む!』所に、
『随って!』、
『楽心』が、
『生じるのであり!』、
『楽』に、
『決定』が、
『有るわけではない!』。
若し、
『楽』が、
『実』に、
『決定していれば!』、
『心』が、
『著する!』のを、
『待つはずがない!』。
譬えば、
『火』は、
『実に!』、
『熱いので!』、
『触れなくても!』、
『熱い!』のと、
『同じように!』。
即ち、
『楽』には、
『決定』が、
『無い!』が故に、
是れを、
『苦』と、
『呼ぶのである!』。
復次世間顛倒樂能得今世後世無量苦果報故名為苦。 復た次ぎに、世間の顛倒せる楽は、能く今世、後世の無量の苦の果報を得しむるが故に、名づけて苦と為す。
復た次ぎに、
『世間』の、
『顛倒した楽』は、
『今世、後世』の、
『無量の苦』の、
『果報』を、
『得させる!』が故に、
是れを、
『苦』と、
『呼ぶのである!』。
譬如大河水中著少毒。不能令水異。世間顛倒毒藥。於一切大苦水中。則不現如說
 從天下生地獄時 
 憶本天上歡樂事 
 宮觀婇女滿目前 
 園苑浴池以娛志 
 又見獄火來燒身 
 似如大火焚竹林 
 是時雖見天上樂 
 徒自感結無所益
是苦想攝緣如無常想。如是等種種分別苦。名為苦想。
譬えば大河の水中に少しの毒を著くるも、水をして異ならしむる能わざるが如く、世間の顛倒せる毒薬は、一切の大苦の水中に於いては、則ち現れず。説くが如し、
天より下りて、地獄に生ずる時、
本の天上の歓楽事を憶うに、
宮観、婇女、目前に満ち、
園苑、浴池を以って志を娯ましむ。

又獄火の来たりて身を焼くを見れば、
大火の竹林を焚くが如きに似たり、
是の時天上の楽を見ると雖も、
徒らに自ら感結して益する所無し。
是の苦想に摂する縁は無常想の如し。是れ等の如き種種に苦を分別するを、名づけて苦想と為す。
譬えば、
『大河の水』中に、
『少しだけ!』、
『毒』を、
『混ぜても!』、
『水』を、
『異ならせられない!』のと、
『同じように!』、
『世間』の、
『顛倒という!』、
『毒薬(楽顛倒)』は、
『一切が苦である!』という、
『水』中には、
『現れない!』。
譬えば、こう説く通りである、――
『天より!』、
『下って!』、
『地獄』に、
『生まれる!』時、
『憶い出す!』のは、――
『本の!』、
『天上』の、
『歓楽の事ばかり!』、
『宮観、婇女』が、
『目前』に、
『満ち!』、
『園苑、浴池』の、
『娯楽』に、
『耽溺する!』。
又、
『獄火が来て!』、
『身を焼く!』のを、
『見れば!』、
『大火』が、
『竹林を焚く!』のにも、
『似ており!』、
是の時、
『天上』の、
『楽』を、
『見ても!』、
徒らに、
『心』に、
『感動』が、
『結ぼるだけで!』、
何の、
『益する!』所も、
『無い!』。
是の、
『苦想に摂する!』、
『縁』は、
『無常想』と、
『同じである!』。
是れ等のように、
種種に、
『苦』を、
『分別する!』こと、
是れを、
『苦想』と、
『称する!』。
  (おく):おぼえる。常に忘れぬ。
  宮観(ぐうかん):宮殿と観台。みやとものみ。
  婇女(さいにょ):うねめ。官女。
  園苑(おんおん):その。
  浴池(よくち):水浴のための人工の池。
  (し):<名詞>[本義]意志/意願( will )。記録( record, annuals )、心情/気分( frame of mind )、自覚/意識( consciousness )。<動詞>志す/心を向ける/専心する( devote )、記憶する/留意する( keep in mind )、讃美する( admire )、記録する( record )、敍述する( narrate )。
  獄火(ごくか):地獄の火。
  (ぶん):やく。たく。もやす。
  (と):いたずらに。



無我想

無我想者。苦則是無我。所以者何。五受眾中盡皆是苦相。無有自在。若無自在是則無我。若有我自在者。不應令身有苦。如所說
 諸有無智人  身心計是我 
 漸近堅著故  不知無常法 
 是身無作者  亦無有受者 
 是身為無生  而作種種事 
 六情塵因緣  六種識得生 
 從三事和合  因緣觸法生 
 從觸法因緣  受念業法生 
 如珠日草薪  和合故火生 
 情塵識和合  所作事業成 
 相續相似有  如種有牙莖
無我想とは、苦なれば、則ち是れ無我なればなり。所以は何んとなれば、五受衆中の尽くは、皆、是れ苦相にして、自在なる有ること無ければなり。若し自在無ければ、是れ則ち無我なり。若し我の自在なる有らば、応に身をして苦有らしむるべからず。所説の如し、
諸の有らゆる無智の人は、身心を是れ我なりと計り、
漸近して堅著するが故に、無常の法を知らず。
是の身には作者無く、亦た受者も有ること無し、
是の身を無生にして、而も種種の事を作すと為す。

六情塵の因縁に、六種の識生ずるを得、
三事の和合の因縁によって、触法生ず。
触法の因縁により、受、念の業法生ず。

珠、日、草、薪の和合の故に、火の生ずるが如く、
情塵と識との和合の所作により、事業成じ、
相続せる相似の有は、種に芽と茎と有るが如し。
『無我想』とは、――
『苦ならば!』、
則ち、
『無我だからである!』。
何故ならば、
『五受衆』中の、
『尽く!』が、
皆、
『苦である!』のは、
此の中に、
『自在』が、
『無いからである!』。
若し、
『自在が無ければ!』、
則ち、
『我』も、
『無いことになる!』。
若し、
『我』が、
『有って!』、
『自在ならば!』、
『身』に、
『苦』を、
『有らせるはずがない!』。
譬えば、こう説かれた通りである、――
諸の、
有らゆる、
『無智の人』は、
『身、心』を、
是れが、
『我である!』と、
『推測しながら!』、
次第に、
『親しんで!』、
『堅く著し!』、
是の故に、
『無常の法』を、
『知ることがない!』。
是の、
『身』には、
『作者(造物者)』も、
『受者(被造者)』も、
『無い!』が故に、
是の、
『身は無生でありながら!』、
『種種の事』を、
『作す!』。
即ち、
『六情』と、
『六塵』との、
『因縁』に、
『六種』の、
『識』が、
『生じる!』と、
『三事和合の因縁より!』、
『触法』が、
『生じ!』、
『触法の因縁より!』、
『受、念(想行識)』の、
『業報』が、
『生じる!』。
譬えば、
『珠(レンズ)、日、草、薪の和合』の故に、
『火』が、
『生じるように!』、
『情、塵、識が和合して!』、
『作す!』所の、
『事業』が、
『成立する!』。
即ち、
『我相』とは、
『相続した!』、
『相似』の、
『有(存在)であり!』、
譬えば、
『種子』に、
『芽、茎が有る!』のと、
『同じである!』。
  (け):かんがえる。
  (しゅ):たま。レンズ。
  草薪(そうしん):くさとたきぎと。
  事業(じごう):事、即ち有為法と、業、即ち身口意善悪無記の所作との総称。『大智度論巻23上注:事、業』参照。
  (じ):梵語artha、迦他、又は遏他の訳。事とは理に対するの称。顕密に其の義を異にす。顕教は因縁を離れたる無為法を以って理と為し、因縁生の有為法を事と為す。密教は理を解して摂持の義と為す。一切の事相は、各各其の体を摂持すれば、則ち是れ即ち理にして、其の体を挙げて、地水火風空識の六大と為し、之を称して六大法界と為す。但だ台家に依れば性具の義なり、則ち十界三千の諸法は、悉く性具と為し、而も因縁に依りて生を始むるに非ざるが故に、是れも亦た無為常住の真如法界なり。<(丁)『大智度論巻5下注:事理』参照。
  (ごう):梵語羯磨karmanの訳。巴梨語kamma、造作の義。即ち有情の身語意の造作を云う。「大毘婆沙論巻124」に、「契経に説くが如し、仏は摩納婆に告ぐ、世間の有情は皆自業に由る。皆是れ業の分なり。皆業より生じ、業を所依と為し、業は能く諸の有情類の彼彼の処所高下勝劣を分判すと。(中略)尊者世友説いて曰わく、世間の有情皆自業に由るとは、自の作業還って自ら異熟を受くるを謂う。皆是れ業の分とは、所作の業の如く、是の如き異熟を受くるを謂う。皆業より生ずとは、業を生因と為して異熟果を取り、彼彼の所応の生処に生ずるを謂う。業を所依と為すとは、業を依因と為して彼彼の有、彼彼の有具を受くるを謂う。業能く諸の有情類の彼彼の処所高下勝劣を分判すとは、前に説くが如く、彼彼の生処は業に由りて高下勝劣を分判するを謂う」と云えり。是れ有情は自所作の業の別に由りて、自ら種種の異熟の果報を受くることを説けるものなり。又「大毘婆沙論巻134」に、「有情の類、此の処所に於いて共業増長すれば世界便ち成じ、共業若し尽くれば世界便ち壊す」と云えり。是れ有情の共業に由りて器世間の成壊差別するを説くなり。凡そ仏教に在りては、一切の万有は皆因果の法に基づかざるものはなしとし、有情の種種苦楽の果報は勿論、其の依報たる世界の浄穢等も亦た悉く業に由りて感ずる所となせり。蓋し業は随眠に由りて生長するが故に随眠を以って有の本とし、十二縁起中にも無明を其の最初に置き、又惑業苦三道の説をなすと雖も、而も正しく有を感ずるは即ち業の能なり。故に経論中には処処に業の義を説き、又其の種類を分別して悪業を作らず、力めて善行を起すべきことを勧説せり。業の義に関しては、「大毘婆沙論巻113」に両説あり。初説は一に即ち作用を説いて業と名づけ、二に能く七衆の法式を任持するが故に業と名づけ、三に能く愛非愛の果を分別するが故に業と名づくとし、後説は一に亦た作用あるを業と名づく、即ち是れ語業なり。二に行動あるを業と名づく、即ち是れ身業なり。三に造作あるを業と名づく、即ち是れ意業なりと説くと云えり。此の中、初説は作用を以って業の義となせるも、後説は作用を語業、行動を身業、造作を意業の義となすなり。蓋し業は其の種別多しと雖も、之を要するに身業kaaya-karman、語業vaak-karman、意業manas-karmanの三を出でず。「雑阿含経巻14」に不善の身業口業意業、是れを不善法と名づく。善の身業口業意業、是れを善法と名づくと云い、又「増一阿含経巻12」に、身悪行、口悪行、意悪行、身善行、口善行、意善行と説き、「中阿含巻5水喩経」に、身浄行、口意浄行、身不浄行、口意不浄業と説ける如き並びに皆其の説なり。「大毘婆沙論巻113」に、身語意の三を立てて名づけて業となすことは三縁あるに由るとし、一に自性の故に語業を建立す、所謂業の性即ち語なるが故に語業と名づく。二に所依の故に身業を建立す、色形聚積するを総じて名づけて身と為す。此の業は身に依るが故に身業と名づく。三に等起の故に意業を建立す、意は謂わく意識、業は謂わく思なり。此の業は意に依り、復た意と倶に等しく身語を発するが故に意業と名づくと云えり。是れ語は其の体即ち業なるが故に名づけて語業とし、身業は身を所依として起こるものなるが故に身業と名づけ、意業は即ち思にして、此の思は意に依り、又意と倶に等しく身語を発起するものなるが故に、意業と名づくることを明にせるなり。但し説一切有部に於いては、是の如く身語二業は色法を以って体とし、意業は思を以って体となすと雖も、経量部及び大乗に於いては三業皆思を以って体とすと説けり。「大乗成業論」に、「三種の業は但だ思を体となす」と云い、「成唯識論巻1」に、「能く身を動するの思を説いて身業と名づけ、能く語を発するの思を説いて語業と名づけ、審と決との二思が意と相応するが故に、意を作動するが故に説いて意業と名づく」と云える是れなり。是れ婆沙の等起の義を布衍せるものというべく、兎に角身語二業も思を以って体とすとなせるは、即ち業論の大なる進展と称せざるべからず。又此の身語業等に各表業vijJapti-karman、無表業avijJapti-karmanの二種あり。即ち自心の善等を表示して、他をして知らしむるが故に表業と名づけ、自心を表示すること能わざるが故に無表と名づく。「倶舎論巻13」等に依るに、表業無表業は倶に色性を以って体となすが故に、身語二業には各之れ有り。意業は色に非ざれば表示すること能わず、故に表と名づけず。表なきが故に無表も亦た無しと云えり。是れに依るに業には総じて唯五門あり、所謂身表業kaaya-vijJapti-karman、語表業vaag-mijJapti-karman、身無表業kaayaavijJapti-karman、語無表業vaac-avijJapti-karman、及び意業是れなり。若し「成実論巻7」に依らば意業にも亦た無表ありとす。彼の論に「問うて曰わく、但だ身口のみ無作あり、意に無作なきや。答えて曰わく然らず。所以は何ん。是の中、因縁の但だ身口業のみ無作あり、而も無作なきことあることなし」と云える即ち其の意なり。又大乗の一師も意に表無表の二ありと立つ。「大乗法苑義林章巻3末」に、「若し大乗の説は、有義は表業にも亦た三種あり、更に意表を加う。瑜伽論巻53に説く、若し他に表示するを欲せず、唯自ら心を起して内意に思択し、語言を説かず、但だ善染汚無記法の現行の意表業を発することありと。故に意表あり。其れ此の意表の無表を発するは、唯是れ善性なり。菩薩にも亦た唯三支あり、業道に依ることを成ずるが故なり。染と無記とを除く。業の増上なるものは即ち無表を発す。余は則ち然らず。有義は不善にも亦た無表あり、十悪業道は極重方に成ず。後の三の意表も亦た無表を発するに、理に何の失かあらん。百行の所摂を倶に律儀と名づく、此に翻ずるは乃ち是れ不律儀の性なり。故に知んぬ、意の三も亦た無表を発することを。何ぞ身語を発する思の種を無表と名づくに、独り意の猛思をのみ無表と名づけざるべけんや。故に知んぬ、三表皆無表あり」と云える即ち其の説なり。又「成実論巻8」にいは、作業無作業及び非作非無作業を分別し、総じて是れを三種となせり。即ち彼の論に「欲界繋の業に三種あり、作と無作と非作非無作なり。色界繋の業も亦た是の如し。無色界には二種と及び無漏業とあり。身口所造の業を作と名づく、作の所集に因りて罪福常に随う。是の心不相応法を名づけて無作と為す。亦た無作あり、但だ心に従って生ず。非作非無作とは即ち是れ意なり。意は即ち是れ思なり、思を名づけて業と為す」と云える是れなり。是れ意業を名づけて非作非無作業となすの説にして、却って説一切有部の所立に同じというべし。又諸経論の中には業を分別して思業cetanaa-karman、思已業cetayitvaa-karmanの二種とす。「中阿含巻27達梵行経」に、「云何が業を知る。謂わく二業あり、思已と思との業なり。是れを業を知ると謂う」と云える即ち其の本説なり。就中、思業とは所謂心所の思にして、即ち意業なり。思已業とは又思所起業とも名づく、思の所作にして即ち身語二業なり。是の中に、説一切有部に於いては身語二業は色声を以って体とすと説くが故に、思已業を即ち色業と為すと雖も、経量部及び大乗に於いては、三業皆思を以って体とすと説くが故に、思惟思即ち審決二思を思業となし、作事思即ち動発勝思を思已業となせり。又経論中、或いは三性に約して、業を善業、悪業、無記業の三種に分ち、或いは界の上下及び感果の可愛非可愛に約して、福業、非福業、不動業の三種とし、或いは苦楽捨の三受に約して、順楽受業、順苦受業、順不苦不楽受業の三種とし、又此の三受業に各定不定の異あるが故に、更に之を決定業不定業の二種に分ち、又決定業の中、受報の時限同じからざるに由りて、之を順現法受業、順次生受業、順後次受業の三種とし、之に彼の不定業を併せて四業と説き、又或いは不定業を時分不定異熟定、時分不定異熟不定の二種に分ち、前の三種の決定業に併せて之を五業となし、或いは決定業の三種に各時分異熟定と時分定異熟不定との二を分ち、前の不定業の二種に加えて総じて八業となせり。或いは業を異熟に望めて、黒黒、白白、黒白黒白、非黒非白の四業となし、或いは界繋に約して、欲界繋業、色界繋業、無色界繋業の三種とし、学無学に約して、学業、無学業、非学非無学業とし、断非断に約して、見所断業、修所断業、非所断業とし、漏無漏に約して、有漏業、無漏業の二種とし、染不染に約して、染汚業、不染汙業とし、染汚の身語意業を分ちて、更に曲業、穢業、濁業の三種とし、異熟の有無に約して、有異熟業、無異熟業の二種とし、異熟の熟未熟に約して、異熟已熟業、異熟未熟業とし、無学の身語意業を立てて、身牟尼、語牟尼、意牟尼の三牟尼業とし、清浄の身語意業を名づけて、三妙行とし、不善の身語意業を名づけて、三悪行とし、或いは故作不故作に約して、故作業、不故作業を分ち、異熟を感ずる差別に約して、引業、満業の二とし、感果の共不共に約して、共業、不共業を分別し、其の他、浄業、不浄業、純業、雑業、作業、生業、軽罪業、重罪業、大利業、小利業、強力業、劣力業、五無間業、十善業、十悪業、十四垢業等の諸種の別あり。一一枚挙するに遑あらず。凡そ此等の業は、各因と為りて必ず果を招くものなり。其の中、総じて之を云わば、断道の有漏業には具に五果あり、異熟果、等流果、離繋果、士用果、増上果なり。自地の中の断道所招の可愛の異熟は異熟界なり、自地の中の後の等と若しくは増との諸の相似の法は等流果なり。道力を以って惑を断じて、証する所の択滅無為は離繋果なり。道力に由りて牽く所の俱有(倶生士用果)と解脱(無間士用果)と所修(或いは是れ隔越士用果)と断(不生士用果)とは士用果なり。自性を離れて余の後生の有為法は増上果なり。断道の無漏業には唯四果あり、即ち前の五の中、異熟果を除く。余の断道に非ざる有漏善及び不善業にも亦た四果あり。即ち前の五の中、離繋果を除く。余の断道に非ざる無漏及び無記業には唯三果あり。即ち前の五の中、異熟と離繋との二果を除く。一一の諸業は之に準じて其の果を分別すべし。又業は果を感ずる因なるが故に業因と名づけ、之を牽引する力を業力、其の作用を業用と云い、有情を繋縛して自在ならざらしむるを業繋、業縛、又は業縄と称し、其の所感の果報を業果又は業報と呼べり。又「中阿含経巻3、58」、「長阿含経巻11」、「雑阿含経巻13、37、49」、「本事経巻1」、「正法念処経巻34」、「優婆塞戒経巻6、7」、「大般涅槃経巻36、37」、「集異門足論巻6、7」、「阿毘達磨発智論巻11、12」、「大毘婆沙論巻19、20、51、114、115、116、117、119、144」、「雑阿毘曇心論巻3」、「倶舎論巻3、13、15、16、17、18、22」、「順正理論巻40、41、42、43」、「大乗阿毘達磨集論巻4」、「同雑集論巻8」、「大智度論巻94」、「中論巻3」、「般若灯論釈巻10」、「十地経論巻4、11」、「瑜伽師地論巻9、60、66、90」、「成唯識論巻2、8」、「大乗義章巻7」、「法華経玄義巻2上」、「法華経玄賛巻10末」、「摩訶止観巻3上」等に出づ。<(望)
復次我相不可得故無我。一切法有相故則知有。如見煙覺熱故知有火。於五塵中各各別異。故知有情種種思惟籌量諸法故知有。心心數法此我無相故知無我。 復た次ぎに、我相の不可得なるが故に無我なり。一切法は、相有るが故に則ち有るを知る。煙を見て熱を覚るが故に、火有るを知るが如く、五塵中に於いて、各各別異なるが故に、情有るを知り、種種に諸法を思惟籌量するが故に、心心数法有るを知る。此の我は、無相なるが故に、無我を知る。
復た次ぎに、
『我相』は、
『認識できない!』が故に、
『我』は、
『無い!』。
『一切の法』は、
『相が有る!』が故に、
則ち、
『有る!』と、
『知るからである!』。
譬えば、
『煙を見たり!』、
『熱を感じたりする!』が故に、
『火』が、
『有る!』と、
『知るように!』、
『五塵』中に、
各各、
『別異』を、
『見る!』が故に、
『五情』が、
『有る!』ことを、
『知り!』、
種種に、
『諸法』を、
『思惟し!』、
『籌量する!』が故に、
『心、心数法』が、
『有る!』のを、
『知るのであり!』、
此の、
『我』には、
『相』が、
『無い!』が故に、
『我』は、
『無い!』と、
『知るのである!』。
  別異(べつい):異なるものをわける。区別する。辨別する。
問曰。有出入氣則是我相。視眴壽命心苦樂愛憎精懃等是我相。若無我誰有是出入息視眴壽命心苦樂愛憎精懃等。當知有我在內動發故。壽命心亦是我法。若無我如牛無御。有我故能制心入法不為放逸。若無我者誰制御心。受苦樂者是我。若無我者。為如樹木則不應別苦樂。愛憎精懃亦如是。我雖微細不可以五情知。因是相故可知為有。 問うて曰く、出入の気有れば、則ち是れ我の相なり。視眴、寿、命、心、苦楽、愛憎、精懃等は、是れ我の相なり。若し我無くんば、誰にか、此の出入息、視眴、寿、命、心、苦楽、愛憎、精懃等有らん。当に知るべし、我有りと、内に在りて、動発するが故なり。寿、命、心も亦た是れ我法なり。若し我無くんば、牛に御無きが如し。我有るが故に能く心を制して、法に入り、放逸と為らず。若し我無くんば、誰か心を制御せん。苦楽を受くる者は、是れ我なり。若し我無くんば、樹木の如しと為し、則ち応に苦楽を別くるべからず。愛憎、精懃も亦た是の如し。我は、微細にして、五情を以って知るべからずと雖も、是の相に因るが故に、知るべければ、有りと為す。
問い、
『出、入する!』、
『気息』が、
『有れば!』、
是れが、
『我の相である!』。
『視眴(見詰めると眴く)』、
『寿、命、心』や、
『苦楽、愛憎、精懃』等も、
『我の相である!』。
若し、
『我が無ければ!』、
誰が、
是の、
『出入息、視眴、寿命心、苦楽、愛憎、精懃』等を、
『有するのか?』。
当然、こう知らねばならぬ、――
『我』が、
『内に有って!』、
『動かし!』、
『発している( start )のだ!』と。
『寿、命、心』も、
亦た、
『我という!』、
『法である!』。
若し、
『我が無ければ!』、
則ち、
『牛』に、
『御者が無いようなものである!』。
『我が有る!』が故に、
『心を制して!』、
『法(事物)に入らせ!』、
『放逸にさせないのだ!』
若し、
『我が無ければ!』、
誰が、
『心』を、
『制御するのか?』。
『苦楽を受ける!』者が、
『我である!』。
若し、
『我が無ければ!』、
譬えば、
『樹木』と、
『同じである!』。
則ち、
『苦、楽』を、
『分別できるはずがない!』。
亦た、
『愛憎、精懃』も、
『是の通りである!』。
『我』は、
『微細であり!』、
『五情』で、
『知ることはできない!』が、
是の、
『相』に、
『因って!』、
『知ることができる!』が故に、
『我』が、
『有る!』と、
『言うのである!』。
  動発(どうほつ):うごかしておこす。
答曰。是諸相皆是識相。有識則有入出息視眴壽命等。若識離身則無。汝等我常遍故。死人亦應有視眴入出息壽命等。 答えて曰く、是の諸相は皆、是れ識相なり。識有れば、則ち入出息、視眴、寿命等有り。若し識にして身を離るれば、則ち無し。汝等が我は、常遍なるが故に、死人も亦た応に視眴、入出息、寿命等有るべし。
答え、
是の、
『諸の相』は、
皆、
『識の相である!』。
『識が有れば!』、
『入出息、視眴、寿命』等が、
『有る!』が、
若し、
『識』が、
『身』を、
『離れてしまえば!』、
則ち、
是れ等の、
『相』は、
『無いことになる!』。
お前達の、
『我』は、
『常に!』、
『遍在する!』が故に、
当然、
『死人』にも、
『視眴、入出息、寿命』等が、
『有るはずである!』。
復次出入息等是色法。隨心風力故動發。此是識相非我相。壽命是心不相應行。亦是識相。 復た次ぎに、出入息等は、是れ色法なれば、心の風力に随いて、故に動発す。此れは是れ識相にして、我相に非ず。寿命は是れ心不相応行にして、亦た是れ識相なり。
復た次ぎに、
『出入息』等は、
『色法であり!』、
『心(心法=心数法の発動機)』の、
『風力に随って!』、
『動発するだけである!』ので、
是れは、
『識相であって!』、
『我相ではない!』。
『寿、命』は、
『心不相応行であり!』、
是れも、
亦た、
『識相である!』。
  色法(しきほう):梵語ruupa-dharmaの訳。五位の一。ruupaは形、姿、特質等を示す語にして色と訳す。色法は即ち質礙又は変礙の法を云い、蓋し五根五境等の色蘊を色法となす。『大智度論巻23上注:色心二法』参照。
  色心二法(しきしんにほう):色法と心法との併称。色法とは質礙又は変礙の法を云い、心法とは慮知の性なるものを云う。所謂物心二元なり。「仁王護国般若波羅蜜多経巻上菩薩行品」に、「諸の有情の色心の二法を生ず。色を色蘊と名づけ、心を四蘊と名づく。皆積集の性にして真実を隠覆す。大王、此の一の色法より無量の色を生ず、眼の得るを色と為し、耳の得るを声と為し、鼻の得るを香と為し、舌の得るを味と為し、身の得るを触と為し、堅持を地と名づけ、津潤を水と名づけ、煖性を火と名づけ、傾動を風と名づけ、五識処を生ずるを五色根と名づく。是の如く展転して一色一心より不可説無量の色心を生ず、皆幻の如くなるが故なり」と云い、「倶舎論巻30」に、「何をか相続転変差別と名づくる、謂わく業を先と為し、後に色心起る中に間断なきを名づけて相続と為す」と云える其の例なり。是れ蓋し五根五境等の色蘊を色法となし、受想行識の四蘊を通じて心法となすの意なり。又「法華玄義釈籤巻14」に、「初に十如の中、相は唯だ色に在り、性は唯だ心に在り、体と力と作は縁の義にして、心色を兼ぬ、因と果とは唯だ心なり、報は唯だ色に約す。十二因縁には苦と業とは両ながら兼ね、或いは唯だ心に在り。四諦は即ち三は色心を兼ね、滅は唯だ心に在り。二諦三諦は皆俗は色心を具し、真中は唯だ心なり」と云えり。以って諸門に各皆色心の別あるを知るべし。又「仁王経疏巻4、5」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏神宝記巻4」、「華厳遊心法界記」等に出づ。<(望)
  心不相応行(しんふそうおうぎょう):梵語citta-viprayukta-dharmaの訳。心に相応せざる行蘊の意。五位の一。『大智度論巻11上注:五位、事理五法、巻19上注:心不相応行』参照。
問曰。若入無心定中。或眠無夢時息亦出入有壽命。何以故。言皆是識相。 問うて曰く、若し無心定中に入り、或は眠りて夢無き時にも、息は亦た出入して、寿命有り。何を以っての故にか、『皆是れ識相なり』と言う。
問い、
若し、
『無心定』に、
『入っていたり!』、
或は、
『眠っていて!』、
『夢』が、
『無い!』時にも、
『息』は、
亦た、
『出入している!』ので、
則ち、
『寿、命』が、
『有るはずである!』。
何故、こう言うのか?――
皆、
是れは、
『識の相である!』、と。
  無心定(むしんじょう):無想、及び滅尽の二定を云う。有心定、即ち四禅四無色等に対す。『大智度論巻17下注:定』参照。
答曰。無心定等識雖暫無。不久必還生識不捨身故。有識時多無識時少。是故名識相。如人出行不得言其家無主。 答えて曰く、無心定等の識は、暫く無しと雖も、久しからずして必ず還って生ずるは、識の身を捨てざるが故なり。識有る時は多く、識無き時は少なければ、是の故に識相と名づく。人は出行するも、其の家に主無しと言うを得ざるが如し。
答え、
『無心定』等は、
『識』が、
『暫く!』、
『無いだけであり!』、
『久しからずして!』、
『必ず!』
『また生じることになる!』。
『識』が、
『身』を、
『捨てていないからである!』。
『無心定』には、
『識』の、
『無い!』時は、
『少なく!』、
『識』の、
『有る!』時が、
『多い!』ので、
是の故に、
『識の相である!』と、
『言うのである!』。
譬えば、
『人』が、
『外に!』、
『出ていても!』、
其の、
『家』に、
『主が無い!』とは、
『言わないようなものである!』。
苦樂憎愛精懃等。是心相應共緣隨心行。心有故便有。心無故便無。以是故是識相非我相。 苦楽、憎愛、精懃等は、是れ心相応にして、共に随心行を縁じ、心有るが故に便ち有り、心無きが故に便ち無し。是を以っての故に、是れ識相にして、我相に非ず。
『苦楽、憎愛、精懃』等は、
『心相応であり!』、
共に、
『随心行』を、
『縁じる!』ので、
『心が有れば!』、
便ち、
『有ることになり!』、
『心が無ければ!』、
便ち、
『無いことになる!』ので、
是の故に、
是れは、
『識相であって!』、
『我相ではない!』。
  心相応(しんそうおう):心法に相応する法の意。五位の一。心数法、又心所有法とも称す。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  随心行(ずいしんぎょう):心法に随って生起する行蘊の意。又心随転とも称す。『大智度論巻20下注:随心行、転随転』参照。
  (しん):又心法、或いは心王と称す。五位の一。心所有法を有し、縁慮の用を有する法を云う。『大智度論巻19下注:心』参照。
復次若有我者。我有二種。若常若無常。如說
 若我是常  則無後身 
 常不生故  亦無解脫 
 亦無妄無作  以是故當知 
 無作罪福者  亦無有受者 
 捨我及我所  然後得涅槃 
 若實有我者  不應捨我心 
 若我無常者  則應隨身滅 
 如大岸墮水  亦無有罪福
復た次ぎに、若し我有れば、我には二種有り、若しは常、若しは無常なり。説の如し、
若し我は是れ常なれば、則ち後身無く、
常に不生の故に、亦た解脱無し。

亦た妄無く作無く、是の故に当に知るべし、
罪福を作す者無く、亦た受者有ること無し。
我及び我所を捨つれば、然る後に涅槃を得ん、
若し実に我有れば、応に我心を捨つるべからず。
若し我に常無くんば、則ち応に身に随いて滅すべし、
大岸より水に墮つるも、亦た罪福有る無きが如し。
復た次ぎに、
若し、
『我が有れば!』、
『我』には、
『常、無常の二種』が、
『有ることになる!』。
譬えば、こう説く通りである、――
若し、
『我が常ならば!』、
則ち、
『後身』は、
『無く!』、
常に、
『不生である!』が故に、
亦た、
『解脱』も、
『無いことになる!』。
亦た、
『妄(意味なき)作も無く!』、
『作も無い!』が故に、
是の故に、こう知らねばならぬ、――
『罪福』を、
『作す!』者も、
『無く!』、
『罪福の業』を、
『受ける!』者も、
『無く!』、
『我』と、
『我の所有』とを、
『捨てれば!』、
その後に、
『涅槃』を、
『得るのだ!』、と。
若し、
『我』が、
『実に有れば!』、
『我の心』を、
『捨てることはできない!』が、
若し、
『我』に、
『常が無ければ!』、
則ち、
『身に随って!』、
『滅するはずである!』。
譬えば、
『大岸より!』、
『水』に、
『堕ちても!』、
亦た、
『罪、福が無い!』のと、
『同じである!』。
  (もう):みだれる。道理や礼法にもとること。いつわる。不法のさま。いつわる。忘れる。
  大岸(だいがん):高い崖。絶崖。
如是我及知者不知者作者不作者。如檀波羅蜜中說。不得是我相故。知一切法中無我。若知一切法中無我。則不應生我心。 是の如き我、及び知者、不知者、作者、不作者は、檀波羅蜜中に説けるが如く、是の我相を得ざるが故に、一切法中に我無きを知る。若し一切法中に我無きを知れば、則ち応に我心を生ずべからず。
是のような、
『我、及び知者、不知者、作者、不作者』は、
『檀波羅蜜中に説いたように!』、――
是の、
『我相を認められない!』が故に、
『一切法』中に、
『我は無い!』と、
『知るのであり!』、
若し、
『一切法』中に、
『我が無い!』と、
『知れば!』、
則ち、
『我心』を、
『生じるはずがない!』。
若無我亦無我所心。我我所離故則無有縛。若無縛則是涅槃。是故行者應行無我想。 若し我無く、亦た我所の無ければ、心の我我所を離るるが故に、則ち縛有ること無し。若し縛無ければ、則ち是れ涅槃なり。是の故に行者は、応に無我想を行ずべし。
若し、
『我』も、
『我所』も、
『無ければ!』、
『心』が、
『我、我所』を、
『離れる!』が故に、
則ち、
『縛』も、
『無いことになる!』。
若し、
『縛が無ければ!』、
則ち、
『涅槃である!』。
是の故に、
『行者』は、
『無我想』を、
『行わなければならない!』。
問曰。是無常苦無我。為一事為三事。若是一事不應說三。若是三事。佛何以故說無常即是苦。苦即是無我。 問うて曰く、是の無常、苦、無我は、一事と為すや、三事と為すや。若し是れ一事なれば、応に三を説くべからず。若し是れ三事なれば、仏は何を以っての故にか、『無常は、即ち是れ苦なり。苦は、即ち是れ無我なり』、と説きたまえる。
答え、
是の、
『無常、苦、無我』は、
『一事ですか?』、
『三事ですか?』。
若し、
『一事』ならば、
『三』と、
『説くべきでなく!』、
若し、
『三事』ならば、
何故、
『仏』は、こう説かれたのですか?――
『無常』は、
即ち、
『苦であり!』、
『苦』は、
即ち、
『無我である!』、と。
答曰。是一事。所謂受有漏法。觀門分別故。有三種異無常行相應是無常想。苦行相應是苦想。無我行相應是無我想。無常不令入三界。苦令知三界罪過。無我則捨世間。 答えて曰く、是れ一事なり。謂わゆる有漏法を受くるを、観門ごとに分別するが故に、三種の異有り。無常行に相応すれば、是れ無常想なり、苦行に相応すれば、是れ苦想なり、無我行に相応すれば、是れ無我想なり。無常は、三界に入らしめず、苦は三界の罪過を知らしめ、無我、則ち世間を捨つればなり。
答え、
是れは、
『一事であり!』、
謂わゆる、
『有漏法を受ける!』ことを、
『観門ごとに!』、
『別に!』、
『分ける!』が故に、
『三種』の、
『異』が、
『有るのである!』。
即ち、
『無常に相応する!』、
『行(思い!)』が、
『無常想であり!』、
『苦に相応する!』、
『行』が、
『苦想であり!』、
『無我に相応する!』、
『行』が、
『無我想である!』が、
『無常』は、
『三界』に、
『入らせず!』、
『苦』は、
『三界の罪過』を、
『知らせ!』、
『無我ならば!』、
『世間』を、
『捨てたことになる!』。
復次無常生厭心。苦生畏怖。無我出拔令解脫。 復た次ぎに、無常は厭心を生じ、苦は畏怖を生じ、無我は出し抜きて、解脱せしむ。
復た次ぎに、
『無常』は、
『厭心』を、
『生じさせ!』、
『苦』は、
『畏怖』を、
『生じさせ!』、
『無我』は、
『出し抜いて!』、
『解脱させる!』。
無常者佛說五受眾是無常。苦者佛說無常則是苦。無我者佛說苦即是無我。 無常とは、仏の説きたまわく、『五受衆は、是れ無常なり』、と。苦とは、仏の説きたまわく、『無常なれば、則ち是れ苦なり』、と。無我とは、仏の説きたまわく、『苦とは、即ち是れ無我なり』、と。
『無常』とは、
『仏』は、こう説かれている、――
『五受衆』は、
是れは、
『無常である!』、と。
『苦』とは、
『仏』は、こう説かれている、――
『無常ならば!』、
則ち、
『苦だということになる!』、と。
『無我』とは、
『仏』は、こう説かれている、――
『苦である!』のは、
即ち、
『無我だからである!』、と。
無常者佛示五受眾盡滅相。苦者佛示如箭入心。無我者佛示捨離相。 無常を、仏の示したまわく、『五受衆は、尽滅の相なり』、と。苦を、仏の示したまわく、『箭の心に入るが如し』、と。無我を、仏の示したまわく、『捨離の相なり』、と。
『無常』を、
『仏』は、こう示された、――
『五受衆』は、
『滅尽の相である!』、と。
『苦』を、
『仏』は、こう示された、――
『箭』が、
『心』に、
『入ったようである!』、と。
『無我』を、
『仏』は、こう示された、――
『捨離の相である!』、と。
無常者示斷愛。苦者示斷我習慢。無我者示斷邪見。 無常は、愛を断ずるを示し、苦は、我の習える慢を断ずるを示し、無我は、邪見を断ずるを示す。
『無常』は、
『愛』を、
『断じる!』ことを、
『指示し!』、
『苦』は、
『我が習った!』、
『慢を断じる!』ことを、
『指示し!』、
『無我』は、
『邪見』を、
『断じる!』ことを、
『指示している!』。
  (まん):我慢の意。即ち有我と有我所とに執して心をして高挙せしむる煩悩を云う。七慢の一。『大智度論巻2上注:七使』参照。
無常者遮常見。苦者遮今世涅槃樂見。無我者遮著處。 無常は、常見を遮し、苦は、今世の涅槃の楽見を遮し、無我は、著する処を遮す。
『無常』は、
『常見』を、
『遮断し!』、
『苦』は、
『今世の涅槃という!』、
『楽見』を、
『遮断し!』、
『無我』は、
『著する!』、
『処』を、
『遮断する!』。
無常者世間所可著常法是。苦者世間計樂處是。無我者世間所可計我牢固者是。是為三相分別想。無我想緣攝種種。如苦想中說。 無常は、世間の著すべき所の常法是れなり。苦は、世間の楽を計する処是れなり。無我は、世間の計すべき所の我の牢固なるは是れなり。是れを三相分別の想と為し、無我想の縁摂する種種は、苦想中に説けるが如し。
『無常』とは、――
『世間に著される!』、
『常法』が、
『是れである!』。
『苦』とは、――
『世間の計する(思い込んでいる)!』、
『楽処』が、
『是れである!』。
『無我』とは、
『世間に計される!』、
『我は牢固である!』とは、
『是れである!』。
是れは、
『三相』に、
『分別する!』、
『想である!』。
『無我想』が、
『縁じて!』、
『摂する!』、
種種の、
『法』は、
例えば、
『苦想』中に、
『説いた通りである!』。
  (け):◯梵語 pratii の訳、受入れる/容認する( to receive, accept )、容認する/認める/確信する/思い込む( to admit, recognize, be certain of, be convinced that )の義。◯梵語 kalpanaa の訳、心中に創造する/真実だと思い込む( creating in the mind, assuming anything to be real )の義。推定する/考える/推測する/想像する/図式化する/認める( estimate, consider, think about, reckon, imagine, schematize, perceive )の意。唯識に於いては、此の語は、諸法と我に関する不正確な結論/仮定を導くものとして、否定的な意味に於いて使われる( In Yogâcāra this term has negative connotations of making inaccurate determinations and assumptions regarding the nature of knowable things (dharmas) and one's own self (ātman). )。



食厭想

食厭想者。觀是食從不淨因緣生。如肉從精血水道生。是為膿虫住處。如酥乳酪血變所成與爛膿無異。 食厭想とは、『是の食は、不浄の因縁より生ず』、と観ずるなり。肉の如きは、精、血、水の道より生じ、是れを膿虫の住処と為す。酥、乳、酪の如きは血の変じて成ずる所にして、膿爛と異無し。
『食厭想』とは、こう観ることである、――
是の、
『食』は、
『不浄の因縁より!』、
『生じる!』、と。
例えば、
『肉』は、
『精、血、水』の、
『道より!』、
『生じ!』、
是れは、
『膿虫』の、
『住処である!』。
『酥、乳、酪』は、
『血』が、
『変じて!』、
『成じる!』所で、
『爛膿』と、
『異』が、
『無い!』。
  食厭想(じきえんそう):食不浄想に同じ。
  (そ):牛や羊の乳を精錬した飲料。薄いもの。
  (らく):牛や羊や馬の乳を精錬した飲料。濃いもの。又チーズ。
廚人汗垢種種不淨。若著口中腦有爛涎。二道流下與唾和合。然後成味。其狀如吐從腹門入。地持水爛風動火煮如釜熟糜。滓濁下沈清者在上。譬如釀酒滓濁為屎清者為尿。腰有三孔風吹膩汁散入百脈。與先血和合凝變為肉。 廚人の汗垢と種種の不浄なるを、若し口中に著くれば、腦には爛涎有り、二道を流下して、唾と和合し、然る後に味を成ずれば、其の状、吐の如くして、腹門より入る。地持ち、水爛れしめ、風動いて、火煮ること、釜の糜を熟するが如し。滓は濁りて下に沈み、清き者は上に在り。譬えば酒を醸すに、滓濁りて屎と為り、清き者は尿と為る。腰に三孔有り、風吹き、膩汁散じて、百脈に入り、先の血と和合し、凝変して肉と為る。
『廚人』の、
『汗、垢』と、
種種の、
『不浄の食』とを、
『口中に著ければ!』、
『脳に有る!』、
『爛涎』と、
『共に!』、
皆、
『二道を流下しながら!』、
『唾』と、
『和合し!』、
その後、
『味』と、
『成る!』が、
其の、
『状態』は、
『反吐のようである!』。
やがて、
『腹門より入れば!』、
『地が保持し!』、
『水が爛れさせ( spoiled )!』、
『風が動かし!』、
『火が煮て!』、
まるで、
『釜』が、
『糜(かゆ)』を、
『煮るようなものである!』。
『滓(おり)』は、
『濁って!』、
『下』に、
『沈み!』、
『清い!』者は、
『上』に、
『在る!』が、
譬えば、
『酒を醸すように!』、
『濁った!』、
『滓』は、
『屎と為り!』、
『清い!』者は、
『尿と為る!』と、
『腰に有る!』、
『三孔より!』、
『風』が、
『膩汁』を、
『吹き上げる!』と、
『百脈(血中)』に、
『散らし!』て、
『入れて!』、
『先の!』、
『血』と、
『和合し!』、
『凝り固まりながら!』、
『変じて!』、
『肉と為る!』。
  (に):油っぽい/脂っこい( oily, greasy )。汚い( dirty )。
  (みゃく):脈拍( pulse )。動脈と静脈( arteries and veins )。
  爛涎(らんぜん):腐ったねばい汁。腐汁。
  (らん):煮る。煮える。
  (み):かゆ。濃いかゆ。
  滓濁(しじょく):にごり。にごる。滓はおりの意。
從新肉生脂骨髓。從是中生身根。從新舊肉合。生五情根。從五根生五識。五識次第生意識。分別取相籌量好醜。然後生我我所心等諸煩惱及諸罪業。 新なる肉より、脂、骨、随を生じ、是の中より身根を生じ、新旧の肉の合するによりて、五情根を生ず。五根より五識を生じ、五識は次第に意識を生じ、分別して相を取り、好醜を籌量し、然る後に我我所の心等の諸煩悩、及び諸罪業を生ず。
『新しい!』、
『肉より!』、
『脂、骨、随』が、
『生じ!』、
是の中より、
『身根』を、
『生じ!』、
『新、旧』の、
『肉が合するにより!』、
『五情根』を、
『生じ!』、
『五根より!』、
『五識』が、
『生じ!』、
『五識より!』、
『次第に!』、
『意識』を、
『生じて!』、
『相』を、
『取って!』、
『分別し!』、
『好』と、
『醜』とを、
『籌量して!』、
その後、
『我、我所の心』等の、
諸の、
『煩悩と、罪業と』を、
『生じる!』。
觀食如是本末因緣種種不淨。知內四大與外四大無異。但以我見故強為我有。 食の是の如き本末の因縁の種種の不浄を観て知るらく、『内の四大と、外の四大とは、異なること無く、但だ我見を以っての故に、強いて我有りと為すのみ』、と。
『食』の、
是のような、
『本、末の因縁である!』、
『種種の不浄を観て!』、こう知る、――
『内の四大』と、
『外の四大』とに、
『異なり!』は、
『無く!』、
但だ、
『我見』の故に、
強いて、
『我が有る!』と、
『思うだけだ!』、と。
復次思惟此食墾植耘除收穫蹂治。舂磨洮汰炊煮乃成用功甚重。計一缽之飯。作夫流汗集合。量之食少汗多。此食作之功重辛苦如是。入口食之即成不淨。無所一直宿昔之間變為屎尿。本是美味人之所嗜變成不淨惡不欲見。 復た次ぎに、思惟すらく、『此の食は、墾植、耘除、収穫、蹂治、舂磨、洮汰、炊煮して、乃ち成れば、功を用うること甚だ重く、一鉢の飯を計りて、作夫の流す汗を集合して之を量れば、食は少なく汗は多し。此の食は、之を作す功は重く、辛苦は是の如し。口に入れて之を食すれば、即ち不浄と成り、一直する所の宿昔の間無くして、変じて屎尿と為る。本は是れ美味にして、人の嗜む所なるも、変じて不浄と成れば、悪みて見んことを欲せず。
復た次ぎに、
こう思惟する、――
此の、
『食』は、
『墾植、耘除、収穫、蹂治、舂磨、洮汰、炊煮して!』、
『ようやく!』、
『成るのであり!』、
『用いる!』、
『功』は、
『甚だ重い!』。
『一鉢の飯の量』と、
『作夫の流す汗の集合』とを、
『計り!』、
『比べれば!』、
『食は少ないのに!』、
『汗ばかり!』が、
『多い!』。
此の、
『食を作る!』、
『功績』は、
『重く!』、
其の、
『辛苦』は、
『是の通りである!』のに。
此の、
『食』を、
『口』に、
『入れて!』、
『食えば!』、
即時に、
『不浄』と、
『成るのであり!』、
『一直する(中断しない)!』所の、
『宿昔(一宿)の間すら!』、
『無く!』、
『変じて!』、
『屎尿』と、
『為る!』。
『本』は、
『美味であり!』、
『人』に、
『嗜まれたものである!』が、
『変じて!』、
『不浄と成れば!』、
『悪んで!』、
『見ようともしない!』。
  墾植(ごんじき):たがやしてうえる。
  耘除(うんじょ):草をすいてのぞく。
  蹂治(にゅうじ):稲をふんで籾殻をとる。
  舂磨(しゅま):臼でついてぬかをとる。
  洮汰(どうた):洗い清める。
  炊煮(すいしゃ):にたきする。
  (く):わざ。
  作夫(さふ):作業人。
  一直(いちじき):湾曲しない/真っ直ぐな( straight )、始終( continuously, always, all along, all the way )。
  宿昔(しゅくしゃく):従来より/昔から( in the past )、非常に短い期間に( in a short period )、常に/一向に( usually )。
行者自思如此弊食。我若貪著當墮地獄噉燒鐵丸。從地獄出當作畜生牛羊駱駝償其宿債。或作豬狗常噉糞除。如是觀食則生厭想。因食厭故於五欲中皆厭。 行者の自ら思わく、『此の如き弊食を、我れ若し貪著せば、当に地獄に堕ちて、焼くる鉄丸を噉うべし。地獄より出づれば、当に畜生の牛羊、駱駝と作りて、其の宿債を償うべし。或は猪狗と作りて、常に糞を噉いて除くべし』、と。是の如く食を観ずれば、則ち厭想を生じ、食を厭うに因るが故に、五欲中に於いて、皆厭う。
『行者』は、
自ら、こう思う、――
わたしが、
若し、
此のような、
『弊食(腐食)』を、
『貪って!』、
『著すれば!』、
当然、
『地獄に堕ちて!』、
『焼けた鉄丸』を、
『噉うことになろう!』。
『地獄より出たとしても!』、
『牛羊、駱駝』等の、
『畜生に生まれて!』、
其の、
『宿債』を、
『償うことになろう!』。
或は、
『猪、狗と作り!』、
常に、
『糞』を、
『噉って!』、
『除くことになろう!』、と。
是のように、
『食を観れば!』、
則ち、
『厭想』を、
『生じることになり!』、
『食厭想に因る!』が故に、
『五欲』中を、
『皆厭うことになる!』。
  弊食(へいじき):麁悪の食。
  宿債(しゅくさい):以前からの借金。
  糞除(ふんじょ):穢をはらいのぞく。糞はけがれをはらう、掃除するの意。
譬如一婆羅門修淨潔法。有事緣故到不淨國。自思我當云何得免此不淨。唯當乾食可得清淨。見一老母賣白髓餅而語之言。我有因緣住此百日。常作此餅送來當多與價。老母日日作餅送之。婆羅門貪著飽食歡喜。老母作餅初時白淨。後轉無色無味。即問老母何緣爾耶。母言癰瘡差故。 譬えば、一婆羅門は浄潔の法を修するに、事縁有るが故に不浄国に到り、自ら思うらく、『我れは、当に云何が、此の不浄を免るるを得べし。唯だ当に乾食すべくして、清浄なるを得べし』、と。一老母の白髄餅を売れるを見て、之に語りて言わく、『我れは因縁有りて、此に住まること百日ならん。常に此の餅を作りて送り来たらんに、当に多く価を与うべし』、と。老母は日日餅を作りて、之に送れり。婆羅門は貪著し、飽食して、歓喜す。老母の作れる餅は、初の時白浄なるも、後には無色、無味に転ず。即ち老母に問わく、『何に縁りてか、爾るや』、と。母の言わく、『癰瘡の差ゆるが故なり』、と。
譬えば、
『一婆羅門』は、
『浄潔の法を修めていた!』が、
『仕事の縁が有った!』が故に、
『不浄の国』に、
『到ることになり!』、
自ら、こう思った、――
わたしは、
何のようにして、
此の、
『不浄』を、
『免れるのがよかろう?』。
唯だ、
『乾食のみ!』を、
『食っていれば!』、
『清浄でいられるだろう!』、と。
『一老母』が、
『白髄の(真白な!)餅』を、
『売っている!』のを、
『見た!』ので、
此の、
『老母に語って!』、こう言った、――
わたしは、
『因縁が有って!』、
此に、
『百日』、
『住まることになった!』。
常に、
此の、
『餅を作って!』、
『送って来れば!』、
多くの、
『対価』を、
『与えるだろう!』、と。
『老母』は、
毎日、
『餅を作って!』、
此の、
『婆羅門』に、
『送る!』と、
『婆羅門』は、
此の、
『餅』に、
『貪著し!』、
『飽食して!』、
『歓喜した!』。
『老母の作る!』、
『餅』は、
初は、
『浄らかに!』、
『真白であった!』が、
後に、
『無色、無味』に、
『転じていった!』。
そこで、
『婆羅門』は、
『老母』に、こう問うた、――
何のような、
『因縁』の故に、
『爾うなったのか?』、と。
『老母』は、こう言った、――
『癰瘡(でき物)』が、
『治癒したからです!』、と。
  浄潔法(じょうけつほう):浄潔を修する法。
  事縁(じえん):仕事の縁。
  乾食(けんじき):ほしいい。又乾物。
  白髄(びゃくずい):白浄と精髄/精華( cream )。
  飽食(ほうじき):あくまで食う。腹一杯たべる。
婆羅門問。此言何謂。母言。我大家夫人隱處生癰。以麵酥甘草拊之。癰熟膿出和合酥餅。日日如是。以此作餅與汝。是以餅好。今夫人癰差。我當何處更得。婆羅門聞之兩拳打頭搥胸吁嘔。我當云何破此淨法我為了矣。棄捨緣事馳還本國。 婆羅門の問わく、『此れ言は、何の謂ぞや』、と。母の言わく、『我が大家の夫人、隠処に癰を生ずれば、麺、酥、甘草を以って、之を拊(な)づ。癰熟して膿を出し、酥、餅に和合す。日日是の如く、此れを以って餅と作し、汝に与う。是を以って餅好し。今夫人が癰差ゆれば、我れは当に何処にか、更に得べき』、と。婆羅門は、之を聞いて両の拳もて頭を打ち、胸を搥って、吁嘔すらく、『我れは当に云何が、此の浄法を破るべき。我れは為に了れり』、と。縁事を棄捨し、本国に馳せ還れり。
『婆羅門』は、こう問うた、――
此の、
『言葉』は、
何ういう、
『意味か?』、と。
『母』は、こう言った、――
わたしの、
『大家の夫人』は、
『隠処( concealed place )』に、
『癰』を、
『生じた!』が、
『麺、酥、甘草』を、
『用いて!』、
『撫でている!』と、
『癰が熟して!』、
『膿』が、
『出て来て!』、
『酥、餅』に、
『和合したので!』、
毎日、
是のようにして、
此の、
『餅を作り!』、
『お前に!』、
『与えていた!』。
是の故に、
此の、
『餅』は、
『好もしいのである!』。
今、
『夫人』の、
『癰』は、
『治癒してしまった!』ので、
わたしは、
何処で、
更に、
『癰』を、
『得ればよいのか?』、と。
『婆羅門』は、
之を
『聞いて!』、
『両拳』で、
『頭を打ち!』、
『胸を搥って!』、
『吁嘔しながら!』、こう言った、 ――
わたしは、
何故、
此の、
『清浄の法』を、
『破ることになってしまったのか?』。
わたしは、
『了ってしまった!』、と。
そして、
『縁事を棄捨して!』、
『本国』へ、
『馳せ!』、
『還った!』。
  癰瘡(ようそう):かさ。できもの。はれもの。
  (しゃ):いゆ。癒える。
  (ごん):ことば。
  (い):いい。むね。わけ。理由。
  (が):わが。親しむことに冠する辞。わが親愛する所のという意。
  夫人(ぶにん):王侯等地位有る人の正妻。
  (めん):むぎこ。うどん粉。
  (ふ):なでる。
  (つい):うつ。
  吁嘔(くお):吁(く)も、嘔(お)も声のさま。コオッに似た音をあげるの意。
  (い):ために。ゆえに。もって。故。以。
行者亦如是。著是飲食歡喜樂噉。見其好色細滑香美可口不觀不淨。後受苦報悔將何及。若能觀食本末如是生惡厭心。因離食欲四欲皆捨。於欲界中樂悉皆捨離斷此五欲。於五下分結亦斷。如是等種種因緣惡罪不復樂著。是名食厭想。 行者も亦た是の如く、是の飲食に著して、歓喜し楽しんで噉い、其の好色、細滑、香美、可口なるを見て、不浄を観ず、後に苦報を受けて、悔やむも将(もっ)て何ぞ及ぶべし。若し能く食の本末を是の如く観て、悪厭の心を生ずれば、食欲を離るるに因って、四欲を皆捨て、欲界中の楽に於いて、皆捨離し、此の五欲を断ずるに、五下分結に於いても亦た断ず。是れ等の如き種種の因縁に、罪を悪んで、復た楽著せざれば、是れを食厭想と名づく。
『行者』も、
是のように、
是の、
『飲食に著して!』、
『歓喜し!』、
『楽しんで!』、
『噉い!』、
其の、
『好色、細滑、香美、可口を見る!』が、
『不浄である!』とは、
『観ず!』、
後に、
『苦報を受けて!』、
『悔やんでも!』、
其れが、
何のように、
『及ぶのだろうか?』。
若し、
『食』の、
是のような、
『本末を観て』、
『悪厭する心』を、
『生じたならば!』、
『食欲を離れる!』が故に、
『四欲』を、
『皆、捨てて!』、
『欲界中の楽』を、
『悉く!』、
『皆、捨離し!』、
此の、
『欲界』中の、
『五欲』が、
『断たれる!』が故に、
『五下分結』も、
亦た、
『断たれるのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』に、
『食』の、
『罪』を、
『悪んで!』、
もう、
『楽しんで!』、
『著さなければ!』、
是れを、
『食厭想』と、
『称するのである!』。
  可口(かく):美味い/口当たりがいい( nice, tasty, agreeable to the taste )。
  (しょう):扶助/補助( support )、従事する( follow )、送って行く( send )、携帯する( bring )、案内する( lead, guide )、服従する( be obedient to, submit to )、供養する/養う( provide for )、保養する( recuperate, rest, maintain )、行く/進む( advance, go )、使用する( use )、~せんとす( will, be going to )、必ず( certainly )、正しく( just )、近い( nearly )、[反語]まさか/豈に( really )、[手段]以って( by, by means of )、於いて/在( at, in )、若し( if )、或は( or )。
  五欲(ごよく):梵語paJca kaamaaHの訳。巴梨語paJca kaamaa、五種の情欲の意。又五妙欲、妙五欲paJca kaamaguNaaH(巴paJca kaamaguNaa)、或いは五妙色とも名づく。即ち色声香味触の五境に染著して起す五種の情欲を云う。一に色欲ruupa-kaama、二に声欲zabda-k.、三に香欲gandha-k.、四に味欲rasa-k.、五に触欲spraSTavya-k.なり。「仏遺教経」に、「汝等比丘已に能く戒に住せば、当に五根を制すべし。放逸にして五欲に入らしむること勿かれ」と云い、「大智度論巻17」に、「哀哉、衆生は常に五欲の為に悩まされ、而も猶お之を求めて已まず。此の五欲は之を得ば転た劇しくして、火の疥を炙くが如し。五欲の益なきこと狗の骨を齩むが如く、五欲の諍を増すこと鳥の肉を競うが如く、五欲の人を焼くこと逆風に炬を執るが如く、五欲の人を害すること悪蛇を践むが如く、五欲の実なきこと夢の所得の如く、五欲の久しからざること仮借の須臾の如し。世人愚惑にして五欲に貪著し、死に至るまで捨てず。之が為に後世に無量の苦を受く」と云い、又「同巻37」に、「五欲は鉤の魚を賊するが如く、摾の鹿を害するが如く、灯の蛾を焚くが如し。是の故に怨の如くせんと欲すと説く。怨家の害は一世に過ぎざるも、五欲に著する因縁は三悪道に堕し、無量世に諸の苦毒を受く」と云える是れなり。「摩訶止観巻4下」には呵五欲の目を立てて、止観二十五方便の一科と為せり。彼れに依るに「色欲とは所謂赤白長短明眸善睞素頚翠眉皓歯丹脣、乃至依報の紅黄朱紫諸珍宝の物は人心を感動す。禅門の中に説く所の如し。色害尤も深く、人をして狂酔せしむ。生死の根本は良に此に由るなり。難陀の如き欲の為に戒を持す、羅漢を得と雖も、習気尚お多し。況んや復た具縛の者をや。(中略)国王荒に耽りて度無く、宗廟社稷の重きを顧みず、欲楽の為の故に身を怨国に入る。此の間の上代、国を亡ぼし家を破るは多く欲より起る。赫赫宗周褒姒之を滅ぼすとは即ち其の事なり。経に云わく、衆生財色に貪狼し、之に坐して道を得ずと。観経に云わく、色使に使せられて恩愛の奴となり、自在を得ず、若し能く色の過患を知らば則ち為に欺かれずと、是の如く呵し已らば色欲即ち息み、縁想生ぜず、専心に空に入るべし。声欲とは即ち是れ嬌媚妖詞、婬声染語、絲竹絃管、環釧鈴珮等の声なり。香欲とは即ち是れ鬱茀氛氳、蘭馨麝氣、芬芳酷烈郁毓の物、及び男女身分等香等の香なり。味欲とは即ち是れ酒肉珍肴、肥瘦津膩、甘甜酸辣、酥油鮮血等なり。触欲とは即ち是れ冷暖細滑、輕重強軟、名衣上服、男女身分等なり。此の五の過患は、色は熱金丸の之を執らば即ち焼くが如く、声は毒塗鼓の之を聞かば必ず死する如く、香は憋龍の気の之を嗅がば則ち病むが如く、味は沸蜜湯の舌則ち爛るるが如く、蜜塗刀の之を舐めば則ち傷つくが如く、触は臥師子の之に近づかば則ち齧むが如し。此の五欲は之を得ば厭くことなく、悪心転た熾んにして火に薪を益すが如し。世世害を為すこと怨賊より劇し」と云えり。以って其の呵責の趣旨を見るべし。又「大明三蔵法数巻24」には、別に財欲、色欲、飲食欲、名欲、睡眠欲を五欲と名づくるの説を出せり。又「中阿含経巻38」、「雑阿含経巻38」、「増一阿含経巻7、25」、「摩訶僧祇律巻10」、「集異門足論巻11」、「大毘婆沙論巻173」、「大智度論巻7、93」、「瑜伽師地論巻11」、「禅波羅蜜次第法門巻2」、「修習止観坐禅法要」、「観心論疏巻3」、「止観大意」、「止観輔行伝弘決巻4之3」、「法苑珠林巻71」等に出づ。<(望)
  五下分結(ごげぶんけつ):五上分結に対す。下分界、即ち欲界に結縛する五種の煩悩の意。欲貪、瞋恚、有身見、戒禁取見、疑を云う。『大智度論巻15上注:五下分結、五上分結』参照。
問曰。無常苦無我想。與無漏智慧相應。食厭等四想與有漏智慧相應。次第法應在前。今何以後說。 問うて曰く、無常、苦、無我の想は、無漏の智慧と相応し、食厭等の四想は、有漏の智慧に相応するも、次第の法は、応に前に在るべし。今は何を以ってか、後に説ける。
問い、
『無常、苦、無我の想』は、
『無漏の智慧』に、
『相応し!』、
『食厭等の四想』は、
『有漏の智慧』に、
『相応する!』ので、
『次第(易解→難解)の法』では、
当然、
『前に!』、
『無ければならない!』のに、
何故、
今は、
『後に説かれたのですか?』。
答曰。佛法有二種道見道修道。見道中用是三想。破諸邪見等得聖果猶未離欲。為離欲故三想次第說是食厭等四想。得離婬欲等諸煩惱。 答えて曰く、仏法には二種の道有りて、見道、修道なり。見道中には、是の三想を用いて、諸の邪見等を破れば、聖果得るも、猶お未だ離欲せず。離欲せんが為の故に、三想の次第に、是の食厭等の四想を説き、婬欲等の諸煩悩を離るるを得しむ。
答え、
『仏法』には、
『見道』と、
『修道』の、
『二種が有り!』、
『見道』中には、
是の、
『三想を用いて!』、
諸の、
『邪見等を破って!』、
『聖果』を、
『得るのである!』が、
猶お、
未だ、
『欲』を、
『離れてはいない!』ので、
『欲を離れる!』為の故に、
『三想の次第に!』、
是の、
『食厭』等の、
『四想』を、
『説き!』、
『婬欲』等の、
『諸の煩悩』を、
『離れさせるのである!』。
  見道(けんどう):初めて四諦の理を見て見惑を断ずる位。即ち四向四果中の預流向。『大智度論巻18下注:三道』参照。
  修道(しゅどう):見道の者が数数修習して断惑を断ずる位。即ち四向四果中の預流果乃至阿羅漢向。『大智度論巻18下注:三道』参照。
初三想示見諦道。中四想為示學修道。後三想示無學道。 初の三想は、見諦道を示し、中の四想は、学修道を示し、後の三想は無学道を示す。
『初の三想(無常、苦、無我)』は、
『見諦道』を、
『示し!』、
『中の四想(食不淨、世間不可樂、死、不淨)』は、
『修学道』を、
『示し!』、
『後の三想(斷、離欲、盡)』は、
『無学道』を、
『示す!』。
  見諦道(けんたいどう):四諦の理を見て見惑を断ずる位。『大智度論巻18下注:三道』参照。
  無学道(むがくどう):時解脱、不時解脱の聖者にして、已に諸の煩悩を尽くして学する所無きの位。即ち四向四果中の阿羅漢。『大智度論巻18下注:三道』参照。
初習身念處中。雖有食厭想功用少故佛不說。今為須陀洹斯陀含度欲故無我想次第說食厭等四想。 初は、身念処を習う中にも、食厭想有りと雖も、功用少なきが故に仏は説きたまわず。今、須陀洹、斯陀含の欲を度せしめんが為の故に、無我想の次第に、食厭等の四想を説きたまえり。
『初の三想』は、
『身念処(無常、苦、無我想)を習う!』中にも、
『食厭想が有る!』が、
『功用が少ない!』が故に、
『仏』は、
『説かれなかった!』が、
今、
『須陀洹、斯陀含』に、
『欲』を、
『度させよう!』と、
『思われた!』が故に、
『無我想の次第に!』、
『食厭等の四想』を、
『説かれたのである!』。



世間不可楽想及び断、離、尽想

一切世間不可樂想者。若念世間色欲滋味車乘服飾廬觀園宅種種樂事則生樂想。若念世間眾惡罪事。則心生厭想。 一切世間不可楽想とは、若し世間の色欲の滋味、車乗、服飾、廬観、園宅、種種の楽事を念ずれば、則ち楽想を生じ、若し世間の衆悪、罪事を念ずれば、則ち心に厭想を生ず。
『一切世間不可楽想』とは、――
若し、
『世間の色欲である!』、
『滋味、車乗、服飾、廬観、園宅、種種の楽事』を、
『念じれば!』、
則ち、
『楽想』を、
『生じることになり!』、
若し、
『世間』の、
『衆悪、罪事』を、
『念じれば!』、
則ち、
『心』に、
『厭想』を、
『生じることになる!』。
  廬観(ろかん):庵室と楼観。
何等惡事。惡事有二種。一者眾生。二者土地。眾生有八苦之患。生老病死恩愛別離怨憎同處所求不得。略而言之五受眾苦 何等か、悪事なる。悪事には二種有り、一には衆生、二には土地なり。衆生に八苦の患有り、生老病死、恩愛別離、怨憎同処、所求不得と、略して之を言わば五受衆の苦なり。
『悪事』とは、
何のようなものか?――
『悪事』には、
『二種有って!』、
一には、
『衆生』の、
『悪事であり!』、
二には、
『土地』の、
『悪事である!』。
『衆生』には、
『八苦の患が有り!』、
謂わゆる、
『生、老、病、死』と、
『恩愛しながら別離する!』こと、
『怨憎しながら同処する!』こと、
『所求を得られない!』こと、
之を、略して言えば、――
『五受衆の苦である!』。
  八苦(はちく):梵語aSTtau duHkhataaHの訳。八種の苦の意。即ち世間の苦果を八種に分類せるもの。一に生苦jaati-duHkha、二に老苦jaraa-d.、三に病苦vyaadhi-d.、四に死苦maraNa-d.、五に怨憎会苦apriya-saMprayoge duHkhaM、六に愛別離苦priya-viprayoge duHkhaM、七に求不得苦yad apiicchayaa paryeSamaaNo na labhate tad api duHkham、八に五盛陰苦saMkSepeNa paJcoopaadaana-skandha-duHkhamなり。「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が苦聖諦なる、謂わく生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、略五盛陰苦なり」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻78」に之を釈し、「生相と合するが故に生苦と名づけ、住異相と合するが故に老苦と名づけ、逼悩相と合するが故に病苦と名づけ、滅相と合するが故に死苦と名づけ、非愛会の相と合するが故に非愛会苦(即ち怨憎会苦)と名づけ、愛別離の相と合するが故に愛別離苦と名づけ、不自在不随所欲の相と合するが故に求不得苦と名づけ、是の如き諸苦は皆是れ有漏取蘊の所摂なるが故に略説一切五取蘊苦(即ち略五盛陰苦)と名づく。復た次ぎに生は是れ一切の苦の安足処にして、苦の良田なるが故に生苦と名づけ、老は能く可愛の盛年を衰変するが故に老苦と名づけ、病は能く可愛の安適を損壊するが故に病苦と名づけ、死は能く可愛の寿命を断滅するが故に死苦と名づけ、不可愛の境と身と合する時、衆苦を引生するが故に非愛会苦と名づけ、諸の可愛の境が身を遠離する時、衆苦を引生するが故に愛別離苦と名づけ、如意の事を求めて果遂せざる時、衆苦を引生するが故に求不得苦と名づけ、是の如き諸苦は皆是れ有漏取蘊の所摂なるが故に略説一切五取蘊苦と名づく」と云えり。以って其の義旨を見るべし。又「大乗阿毘達磨雑集論巻6」には、二苦、三苦、六苦と今の八苦との相摂を明し、今の前七苦を二苦の中の世俗苦、後の五盛陰苦を勝義苦と為し、又今の前五苦は苦受の自相なるが故に之を三苦の中の苦苦、愛別離苦及び求不得苦の二苦は楽受を壊する自相なるが故に之を壊苦、五盛陰苦は不安隠を解脱せざるが故に之を行苦とし、又今の生苦を六苦の中の逼迫苦、老病死の三苦を転変苦、怨憎会苦を合会苦、愛別離苦を別離苦、求不得苦を所希不果苦、五盛陰苦を麁重苦に配せり。又「仏本行集経巻34」には、今の五盛陰苦を以って、憂悲悩苦となし、「瑜伽師地論巻44」には、別に寒苦、熱苦、飢苦、渇苦、不自在苦、自逼悩苦、他逼悩苦、一類威儀多時住苦の八苦を出せり。又「増一阿含経巻17四諦品」、「大般涅槃経巻12」、「菩薩地持経巻7」、「顕揚聖教論巻15」等に出づ。<(望)
  五受衆(ごじゅしゅ):有漏の五衆の意。又五取蘊、五受陰等に称す。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
眾生之罪。婬欲多故不別好醜。不隨父母師長教誨。無有慚愧與禽獸無異。瞋恚多故不別輕重。瞋毒狂發乃至不受佛語。不欲聞法。不畏惡道。杖楚橫加不知他苦。入大闇中都無所見。愚癡多故所求不以道。不識事緣。如搆角求乳。無明覆故。雖蒙日照永無所見。慳貪多故其舍如塚人不向之。憍慢多故不敬賢聖不孝父母。憍逸自壞永無所直。邪見多故不信今世後世不信罪福不可共處。如是等諸煩惱多故。弊敗為無所直。 衆生の罪は、婬欲多きが故に好醜を別たず、父母師長の教誨に随わず、慚愧有ること無くして、禽獣と異無く、瞋恚多きが故に軽重を別たず、瞋毒狂を発して、乃至仏語すら受けず、法を聞かんと欲せず、悪道を畏れずして、杖楚を横ざまに加えて、他の苦を知らず、大闇中に入りて、都て見る所無く、愚癡多きが故に、求むる所を道を以ってせず、事縁を識らず、角を搆(ひ)いて乳を求むるが如く、無明の覆えるが故に、日照を蒙ると雖も、永く見る所無く、慳貪多きが故に其の舎は塚の如く、人、之に向わず、憍慢多きが故に、賢聖を敬わず、父母に孝ならず、憍逸して自ら壊り、永く直(ただ)さるる無く、邪見多きが故に今世、後世を信ぜず、罪福を信ぜず、共処すべからず。是れ等のごとき諸の煩悩多きが故に弊敗するも直す所無し。
『衆生の罪』とは、
『婬欲が多い!』が故に、
『好、醜』を、
『分別せず!』、
『父母、師長』の、
『教誨』に、
『随わず!』、
『慚愧する!』ことが、
『無い!』が故に、
則ち、
『禽獣』と、
『異ならない!』。
『瞋恚が多い!』が故に、
『軽、重』を、
『分別せず!』、
『瞋毒』が、
『狂』を、
『発して!』、
乃至、
『仏』の、
『語すら!』、
『受けず!』、
『法』を、
『聞こうとも!』、
『思わず!』、
『悪処』の、
『道』を、
『畏れず!』、
『杖、楚(鞭、策)』を、
『横ざま( perverse and violent )に!』、
『他人』に、
『加える!』が、
『他人』の、
『苦痛』を、
『知らず!』、
譬えば、
『大闇』中に於いて、
『何物も!』、
『見えないようなものである!』。
『愚癡が多い!』が故に、
『何事をも!』、
『道』を、
『用いて!』、
『求めようとせず!』、
『事の起る!』、
『因縁』を、
『知らない!』ので、
譬えば、
『角を牽いて!』、
『乳』を、
『求めるようなものであり!』、
『無明に覆われる!』が故に、
『日』が、
『照らす!』のを、
『蒙りながら!』、
永く、
『何事をも!』、
『見ることがない!』。
『慳貪が多い!』が故に、
其の、
『舎』は、
『塚(墓場)』と、
『同じように!』、
『人』が、
『寄りつかない!』。
『憍慢が多い!』が故に、
『賢聖』を、
『敬わず!』、
『父母』を、
『孝養せず!』、
『憍逸して( indulge )!』、
自らを、
『損害し!』、
『破壊しながら!』、
永く、
『誰にも!』、
『直されない!』。
『邪見が多い!』が故に、
『今世』も、
『後世』も、
『信じず!』、
『罪報』も、
『福報』も、
『信じない!』ので、
誰も、
『処』を、
『共にすることができない!』。
是れ等のような、
諸の、
『煩悩が多い!』が故に、
『弊敗(腐敗)しながら!』、
『直されることがない!』。
  (おう):ほしいまま。まげる。てあらい。
  杖楚(じょうそ):むちうつこと。
  (と):すべて。凡。
  憍逸(きょういつ):ほしいまま。
  (じき):ただす。曲を正す。
  弊敗(へいはい):つかれやぶれる。
惡業多故造無間罪。或殺父母或傷害賢聖或要時榮貴讒賊忠貞殘害親戚。 悪業多きが故に、無間罪を造りて、或は父母を殺し、或は賢聖を傷害し、或は時の栄貴を要めて忠貞を讒賊し、親戚を残害す。
『悪業が多い!』が故に、
『無間獄』の、
『罪』を、
『造って!』、
或は、
『父母』を、
『殺し!』、
或は、
『賢聖』を、
『傷害し!』、
或は、
時の、
『栄貴を要求して!』、
『忠貞を讒賊し(陥れ)!』、
『親戚を残害する!』。
  栄貴(ようき):位貴くして栄ゆること。
  讒賊(ざんぞく):人をおとしいれてそこなう。
  残害(ざんがい):殺害。
  親戚(しんしゃく):父子兄弟。
復次世間眾生善好者少。弊惡者多。或時雖有善行貧賤鄙陋。或雖富貴端政而所行不善。或雖好布施而貧乏無財。或雖富有財寶。而慳惜貪著不肯布施。或見人有所思默無所說。便謂憍高自畜不下接物。或見好下接物恩惠普潤。便謂欺誑諂飾。或見能語善論。便謂恃是小智以為憍慢。或見質直好人。便共欺誑調捉引挽陵易。或見善心柔濡。便共輕陵踏蹴不以理遇。若見持戒清淨者。便謂所行矯異輕賤不數。如是等眾生弊惡無一可樂 復た次ぎに、世間の衆生には善好の者少なく、弊悪の者多し。或は時に善行有りと雖も、貧賤、鄙陋なり。或は富貴、端政なりと雖も、所行善からず。或は布施を好むと雖も、貧乏して財無し。或は富みて財宝有りと雖も、慳惜し、貪著して、布施を肯(うべな)わず。或は人の思う所有りて、黙して所説無きを見て、便ち謂わく、『憍高にして自ら畜え、物を下接せず』、と。或は好く物を下接して恩恵普く潤すを見て、便ち謂わく、『欺誑し諂いて飾れり』、と。或は能く語り、善く論ずるを見て、便ち謂わく、『是の小智を恃んで、以って憍慢を為す』、と。或は質直なる好人を見て、便ち共に欺誑し、調捉し、引挽し、陵易し、或は善心にして柔濡なるを見て、便ち共に軽陵し、踏蹴して、理を以って遇せず。若し持戒清浄の者を見れば、便ち謂わく、『所行矯異なり、軽賎して数えず』、と。是れ等の如き衆生は弊悪にして、一の楽しむべき無し。
復た次ぎに、
『世間の衆生』には、
『善好の者』は、
『少なく!』、
『弊悪の者』は、
『多い!』ので、
或は、
時に、
『善行が有っても!』、
『貧賤であったり!』、
『鄙陋であったりし!』、
或は、
『富貴であったり!』、
『端政であったりしても!』、
『所行』が、
『善くない!』。
或は、
『布施を好んでも!』、
『貧乏で!』、
『財が無く!』、
或は、
『富んで!』、
『財宝』が、
『有っても!』、
『慳惜で!』、
『物』に、
『貪著する!』ので、
『布施する!』ことを、
『好まない!』。
或は、
『思う所の有る!』、
『人』が、
『黙って!』、
『何も説かない!』のを、
『見る!』と、
便ち、こう謂う、――
『憍り高ぶっている!』、
『自ら!』、
『蓄えるばかりで!』、
『人には!』、
『何物も!』、
『下さらないのか?』、と。
或は、
『人』が、、
『好んで!』、
『物』を、
『下げ渡して!』、
普く、
『恩恵に潤す!』のを、
『見る!』と、
便ち、こう謂う、――
『人』を、
『欺(だま)し!』、
『誑(あざむ)いて!』、
『諂って!』、
『身』を、
『飾っていられる!』、と。
或は、
『人』が、
『談話が上手く!』、
『善く論じる!』のを、
『見る!』と、
便ち、こう謂う、――
『小さな!』、
『智慧』を、
『恃んで!』、
其の、
『智慧』で、
『憍慢していられる!』、と。
或は、
『人』が、
『質直であり!』、
『好い人である!』のを、
『見る!』と、
便ち、
『共に!』、
『欺誑して(たぶらかして)!』、
『調捉し(従順にし)!』、
『引挽し(引き廻して)!』、
『陵易する(軽蔑して侮る)!』。
或は、
『人の善心』が、
『柔軟である!』のを、
『見る!』と、
便ち、
『共に!』、
『軽陵し(軽蔑して凌ぎ)!』、
『踏蹴し(蹈みにじって)!』、
『道理』に、
『順じて!』、
『処遇しない!』。
或は、
『人が持戒して!』、
『清浄である!』のを、
『見る!』と、
便ち、こう謂い、――
『所行』が、
『奇矯であり!』、
『奇異である!』と。
『軽賎して!』、
『人の数』にも、
『入れない!』。
是れ等のような、
『衆生』は、
『弊悪であり!』、
『何一つ!』、
『楽しむものがない!』。
  善好(ぜんこう):善くて好もしい。
  弊悪(へいあく):疲れて悪い。
  貧賤(ひんせん):貧しくいやしい。
  鄙陋(ひる):いやしく低い。粗野。
  端政(たんじょう):端正。ととのってきちんとしていること。
  憍高(きょうこう):おごりたかぶる。
  下接(げしょう):下位の者に与える。
  (もつ):事物。人。
  欺誑(ごこう):だましあざむく。
  諂飾(てんしき):へつらいかざる。へつらってよくみせる。
  質直(しつじき):じみでまっすぐ。質朴正直。
  (ぐう):そなえる。供。さずける。授。支給。
  調捉(ちょうそく):徴用する。
  引挽(いんめん):ひっぱる。ひきずりまわすこと。
  陵易(りょうやく):しのぎあなどる。軽視して侮る
  柔濡(にゅうにゅ):やわらか。柔軟。
  軽陵(きょうりょう):かろんじてしのぐ。
  踏蹴(とうしゅう):ふみつける。
  (ぐう):あつかう。処遇。
  矯異(きょうい):正にそむきことなる。
  軽賎(きょうせん):身分賤しき者。
  (しゅ):かずにいれる。
  可楽(からく):楽しむべきもの。所楽。
土地。惡者一切土地多衰無吉。寒熱飢渴疾病惡疫毒氣侵害老病死畏無處不有。身所去處眾苦隨之無處得免。雖有好國豐樂安隱。多為諸煩惱所惱則不名樂土。 土地の悪とは、一切の土地は衰多くして、吉無し。寒熱、飢渴、疾病、悪疫、毒気侵害し、老病死の畏は、処として有らざる無し。身の去る所の処に、衆苦之に随い、処として免るるを得る無し。好国の豊楽、安穏なる有りと雖も、多くは、諸の煩悩の悩ます所と為し、則ち楽土と名づけず。
『土地の悪』とは、
一切の、
『土地』は、
『衰が多く!』、
『吉は無い!』。
一切の、
『土地』は、
『寒熱、飢渴、疾病、悪疫、毒気』に、
『侵害され!』、
『老病死の畏』の、
『無い処』は、
『無い!』。
又、
『身の去る!』、
『処』には、
『衆苦』も、
『随うのであり!』、
『衆苦』を、
『免れられる処』は、
『無いのである!』。
有る、
『好国』は、
『豊楽であり!』、
『安穏である!』としても、
『多く!』が、
『諸の煩悩』に、
『悩まされる!』ので、
則ち、
『楽土』と、
『呼ばれることはない!』。
  (すい):おとろえる。やせる。
  (きち):よい。善。
一切皆有二種苦。身苦心苦。無國不有如說
 有國土多寒  或有國多熱 
 有國無救護  或有國多惡 
 有國常飢餓  或有國多病 
 有國不修福  如是無樂處
眾生土地有如是惡。思惟世間無一可樂。
一切は、皆、二種の苦有り、身苦、心苦は、国として有らざる無し。説の如し、
有る国土は寒多く、或は有る国は熱多し、
有る国は救護無く、或は有る国は悪多し。
有る国は常に飢餓し、或は有る国は病多し、
有る国は福を修めず、是の如く楽処無し。
衆生と土地には、是の如き悪有れば、思惟するに世間には一の楽しむべき無し。
一切の、
『国』には、
『二種の苦』が、
『有り!』、
『身苦、心苦の無い!』、
『国』は、
『無い!』。
譬えば、こう説く通りである、――
有る、
『国土』は、
『寒い日』が、
『多く!』、
或は、有る、
『国』は、
『熱い日』が、
『多い!』。
有る、
『国』は、
『救護する人』が、
『無く!』、
或は、有る、
『国』は、
『悪』が、
『多い!』。
有る、
『国』は、
『常に!』、
『飢餓である!』が、
或は、有る、
『国』には、
『病』が、
『多い!』。
有る、
『国』では、
『福』を、
『修めない!』、
是のように、
『楽な!』、
『処』は、
『無いのである!』。
『衆生、土地』の、
是のような、
『悪』が、
『有り!』、
思惟すれば、――
『世間』には、
『一も!』、
『楽しい事』が、
『無いのである!』。
欲界惡事如是。上二界死時退時。大生懊惱甚於下界。譬如極高處墮摧碎爛壞。 欲界の悪事は、是の如し。上二界は死する時、退く時に、大いに懊悩を生ずること、下界よりも甚だし。譬えば、極高の処より堕つれば、摧砕し、爛壊するが如し。
『欲界』の、
『悪事』は、
『是の通りである!』が、
『上二界』の、
『死ぬ時、退く時に生じる!』
『懊悩』は、
『下界よりも!』、
『甚だしい!』。
譬えば、
『極めて高い処より!』、
『堕ちれば!』、
『摧砕して!』、
『爛壊するようなものである!』。
  退時(たいじ):蓋し罷免、擯出を受け、天上に居られなくなることを云う。
  摧砕(ざいさい):くだける。
  爛壊(らんえ):ただれくさる。
問曰。無常想苦想無我想一切世間不可樂想。有何等異而別說。 問うて曰く、無常想、苦想、無我想と、一切世間不可楽想とには、何等の異有りてか、別に説ける。
問い、
『無常想、苦想、無我想』と、
『一切世間不可楽想』とには、
何のようが、
『異が有って!』、
『別に!』、
『説かれるのですか?』。
答曰。有二種觀。總觀別觀。前為總觀此中別觀。 答えて曰く、二種の観有り、総観、別観なり。前を総観と為し、此の中は別観なり。
答え、
『観』には、
『総観、別観の二種』が、
『有り!』、
前の、
『無常、苦、無我想』は、
『総観であり!』、
此の、
『一切世間不可楽想』中は、
『別観である!』。
復有二種觀。法觀眾生觀。前為呵一切法觀。此中觀眾生罪惡不同。 復た二種の観有り、法観、衆生観なり。前を一切法を呵す観と為し、此の中には衆生の罪悪の不同を観る。
復た、
『観』には、
『法観、衆生観の二種』が、
『有り!』、
前は、
『一切法』を、
『呵る!』、
『観であった!』が、
此の中には、
『衆生の罪悪』の、
『不同』を、
『観るのである!』。
復次前者無漏道。此中有漏道。前見諦道今思惟道。如是等種種差別。一切地中攝緣三界法。是名一切世間不可樂想。 復た次ぎに、前者は無漏道にして、此の中は有漏道なり。前は見諦道にして、今は思惟道なり。是れ等のごとき種種に差別するも、一切の地中に摂し、三界の法を縁ずれば、是れを一切世間不可楽想と名づく。
復た次ぎに、
前は、
『無漏道であり!』、
此の中は、
『有漏道である!』。
前は、
『見諦道であり!』、
今は、
『思惟道である!』。
是れ等のように、
種種の、
『差別がある!』が、
『一切の地』中に、
『摂(おさ)めて!』、
『三界の法』を、
『縁じるので!』、
是れを、
『一切世間不可楽想』と、
『称する!』。
死想者如死念中說。不淨想者如身念處中說。斷想離想盡想者緣涅槃相。斷諸結使故名斷想。離結使故名離想。盡諸結使故名盡想。 死想は、死念中に説けるが如し。不浄想は身念処中に説けるが如し。断想、離相、尽想は、涅槃の相を縁じ、諸の結使を断ずるが故に断想と名づけ、結使を離るるが故に離想と名づけ、諸の結使を尽くすが故に尽想と名づく。
『死想』は、
『死念』中に、
『説いた通りであり!』、
『不浄想』は、
『身念処』中い、
『説いた通りである!』。
『断想、離想、尽想』は、
『涅槃の相』を、
『縁じる!』。
諸の、
『結使を断じる!』が故に、
『断想』と、
『呼び!』、
『結使を離れる!』が故に、
『離想』と、
『呼び!』、
諸の、
『結使を尽くす!』が故に、
『尽想』と、
『呼ぶ!』。
問曰。若爾者一想便足。何以說三。 問うて曰く、若し爾らば、一想にて便ち足らん。何を以ってか三を説く。
問い、
若し、
爾うならば、
『一想のみ!』で、
『足るだろう!』。
何故、
『三想』を、
『説くのですか?』。
答曰。如前一法三種說。無常即是苦。苦即是無我。此亦如是一切世間罪惡深重故三種呵。如伐大樹不可以一下斷。涅槃微妙法。昔所未得。是故種種讚。名為斷想離想盡想。 答えて曰く、前の一法を、『無常は即ち是れ苦なり、苦は即ち是れ無我なり』、と三種に説けるが如く、此れも亦た是の如く一切の世間は、罪悪深重なるが故に三種に呵せり。大樹を伐るに、一下を以って断ずべからざるが如し。涅槃の微妙の法は、昔より未だ得ざる所なれば、是の故に種種に讚ずるを、名づけて断想、離想、尽想と為す。
答え、
前に、
『一法』を、
『無常は、即ち苦であり!』、
『苦は、即ち無我である!』と、
『三種に!』、
『説いたように!』、
此れも、
亦た、
是のように、
一切の、
『世間の罪悪は深重である!』が故に、
『三種に!』、
『呵すのである!』。
例えば、
『大樹』は、
『伐ろうとしても!』、
『一下では!』、
『断てないように!』、
『涅槃という!』、
『微妙の法』は、
『昔より!』、
『得られていない!』が故に、
是の故に、
『種種に讃じて!』、
『断想、離想、尽想』と、
『称するのである!』。
復次斷三毒故名為斷。離愛故名為離。滅一切苦更不生故名為盡。 復た次ぎに、三毒を断ずるが故に名づけて、断と為し、愛を離るるが故に名づけて、離と為し、一切の苦を滅して、更に生ぜざるが故に名づけて、尽と為す。
復た次ぎに、
『三毒』を、
『断じる!』が故に、
『断』と、
『称し!』、
『愛』を、
『離れる!』が故に、
『離』と、
『称し!』、
『一切の苦』を、
『滅して!』、
『更に生じさせない!』が故に、
『尽』と、
『称する!』。
復次行者於煖法頂法忍法世間第一法正智慧觀。遠諸煩惱是名離想。得無漏道斷諸結使。是名斷想。入涅槃時滅五受眾不復相續。是名盡想。 復た次ぎに、行者は煖法、頂法、忍法、世間第一法の正智慧の観に於いて、諸の煩悩を遠ざくるが故に、是れを離想と名づけ、無漏道を得て、諸の結使を断ずれば、是れを断想と名づけ、涅槃に入る時には、五受衆を滅して、復た相続せれば、是れを尽想と名づく。
復た次ぎに、
『行者』は、
『煖法、頂法、忍法、世間第一法』の、
『正智慧の観』で、
諸の、
『煩悩』を、
『遠ざける!』ので、
是れを、
『離想』と、
『呼び!』、
『無漏道を得て!』、
諸の、
『結使』を、
『断じる!』ので、
是れを、
『断想』と、
『呼び!』、
『涅槃に入る!』時には、
『五受衆を滅して!』、
『復た!』、
『相続させない!』ので、
是れを、
『尽想』と、
『呼ぶ!』。
  煖法(なんぽう):四善根位第一、即ち無漏の慧火に近づき暖かみを感ずる位。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  頂法(ちょうぼう):四善根位第二、即ち山頂に立ちて進退を分くる位。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  忍法(にんぽう):四善根位第三、即ち四諦を明了して忍ぶ位。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  世間第一法(せけんだいいっぽう):四善根位第四、即ち有漏中に最上の善根を生ずる位。『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
斷想有餘涅槃。盡想無餘涅槃。離想二涅槃方便門。是三想有漏無漏故。一切地中攝(十想竟) 断想は有余涅槃なり。尽想は無余涅槃なり。離想は二涅槃の方便門なり。是の三想は、有漏、無漏なるが故に一切の地中に摂す。(十想竟れり)
『断想』は、
『有余涅槃であり!』、
『尽想』は、
『無余涅槃であり!』、
『離想』は、
『二涅槃』の、
『方便門である!』。
是の、
『三想』は、
『有漏でもあり!』、
『無漏でもある!』が故に、
一切の、
『地』に、
『摂められる!』。


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