巻第二十二(下)
大智度論釋初品中八念義第三十六之餘
1.戒を念じる
2.捨を念じる
3.天を念じる
4.死を念じる
5.八念の次第
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大智度論釋初品中八念義第三十六之餘(卷二十二)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


戒を念じる

念戒者。戒有二種有漏戒無漏戒。有漏復有二種一者律儀戒二者定共戒。行者初學念是三種戒。學三種已但念無漏戒。 戒を念ずるとは、戒には二種有り、有漏戒と無漏戒となり。有漏にも復た二種有り、一には律儀戒、二には定共戒なり。行者は初学なれば、是の三種の戒を念じ、三種を学び已れば、但だ無漏戒を念ず。
『戒を念じる!』とは、――
『戒』には、
『二種有り!』、
『有漏戒』と、
『無漏戒である!』。
『有漏戒』にも、
復た、
『二種有り!』、
『律儀戒』と、
『定共戒である!』。
『行者』は、
『初めて!』、
『戒を学ぶ!』時には、
是の、
『三種の戒(律儀戒、定共戒、無漏戒)』を、
『念じ!』、
『三種』の、
『戒を学び已れば!』、
但だ、
『無漏戒のみ!』を、
『念じることになる!』。
  三種戒(さんしゅかい):戒に三種の別あるを説く。『大智度論巻22下注:三種律儀』参照。
  三種律儀(さんしゅりちぎ):律儀無表即ち戒体に三種の別あるをいう。説一切有部の所立。「倶舎論巻14」に、「律儀の差別に略して三種あり。一には別解脱律儀、謂わく欲纏戒なり。二には静慮生律儀、謂わく色纏戒なり。三には道生律儀、謂わく無漏戒なり」とある。この中、別解脱律儀praatimokSa- saMvaraはまた別解脱戒等ともいい、静慮生律儀はまた静慮律儀dhyaana- saMvara或いは定共戒等ともいい、道生律儀はまた無漏律儀anaasrava- saMvara或いは道共戒等ともいう。その一一については『大智度論巻22下注:静慮律儀、別解脱律儀、無漏律儀、律儀』参照。
  律儀戒(りちぎかい):戒を受け別別に身口七支の諸悪を解脱するの意。『大智度論巻22下注:別解脱律儀』参照。
  別解脱律儀(べつげだつりちぎ):梵語praatimokSa- saMvaraの訳。巴梨語paaTiokkha- saMvara、別解脱に依る律儀の意。又別解律儀、波羅提木叉律儀、別解脱調伏、別解脱戒、別解脱法、依別解脱戒、護従解脱、或いは戒律儀、律儀戒、木叉戒とも称す。三種律儀の一。静慮律儀、無漏律儀に対す。即ち戒を受け、別別に身口七支の諸悪を解脱するを云う。「大毘婆沙論巻119」に、「別解脱律儀とは謂わく欲界の尸羅なり」と云い、「雑阿毘曇心論巻3」に、「依別解脱戒とは、受戒と式叉と尸羅との随転なり。(中略)若し受戒せば則ち別解脱律儀を成就す」と云える是れなり。是れ別解脱律儀は欲界の戒にして、静慮律儀等の随心転の戒に同じからざることを説けるものなり。又「倶舎論巻14」に、「別解脱律儀の相の差別に八あり、一に苾芻律儀、二に苾芻尼律儀、三に正学律儀、四に勤策律儀、五に勤策女律儀、六に近事律儀、七に近事女律儀、八に近住律儀なり。是の如き八種律儀の相の差別を総じて第一別解脱律儀と名づく。八の名ありと雖も実体は唯四なり。一に苾芻律儀、二に勤策律儀、三に近事律儀、四に近住律儀なり。唯此の四種の別解脱律儀のみ皆体実あり、相各別なるが故なり。所以は何ん、苾芻律儀を離れて別の苾芻尼律儀なく、勤策律儀を離れて別の正学、勤策女律儀なく、近事律儀を離れて別の近事女律儀なければなり」と云い、又「律宗綱要巻上」に智首の「四分律疏巻1」を引き、「別解脱律儀とは謂わく五八十具なり」と云えり。之に依るに比丘比丘尼は具足戒、沙弥沙弥尼は十戒、式叉摩那は六法、優婆塞優婆夷は五戒、鄔波婆沙は八斎戒を受持し、以って別別に身口七支の諸悪を棄捨するが故に総じて之を別解脱律儀と名づくるものなるを知るなり。又此等の戒の得捨に関し、「倶舎論巻14」には、別解脱律儀は僧伽と補特伽羅との教等に由りて得すとし、就中、僧伽に従って得するものは苾芻苾芻尼及び正学の三律儀にして余の五は補特伽羅に従って得すと云い、又具足戒の得戒に別に自然得、見諦得、善来得、信仏得、問答得、敬重得、遣使得、辺五得、十衆得、三帰得の十種ありとなせり。又此の八種の律儀の中、近住は唯一日一夜を限りて受持するも、余の七種は皆尽形寿なり。「大毘婆沙論巻119」、「倶舎論巻15」等に、尽形寿の律儀は意楽、命終、二形生、断善根の四縁に由りて捨し、一日一夜の律儀は之に夜尽を加え、総じて五縁に由りて捨すとし、又「四分律巻57」には今の四縁に正法滅の一縁を加え、「瑜伽師地論巻53」には犯重捨を加え、倶に尽形寿の捨戒に五縁ありとなせり。別解脱の意義に関しては、「根本薩婆多部律摂巻1」に、「別解脱と言うは、別解脱経に依りて如説に修行するに由り、下下等の九品の諸惑に於いて漸次に断除し、永く退せざるが故なり。諸の煩悩に於いて解脱を得るを別解脱と名づく。又見修の煩悩は其の類各多し、別別の品に於いて而も能く捨離するを別解脱と名づく」と云い、「梵網経菩薩戒本述記巻上本」に、身の七支を別別に解脱するが故に別解脱と名づくと云い、又「大乗義章巻10三種律儀義」には、定道二種の心(即ち静慮と無漏)に依る解脱に簡別せんが為に別解脱と名づくと云い、「華厳経疏巻1」、「梵網経古迹記巻上本」等には、七支別別に非を防ぐと、及び定道に二戒に揀異するとの二義ありとなせり。又「倶舎論巻14」及び「同光記巻14」に別解脱と別解脱律儀との別を説き、別解脱は別別に諸種の悪を棄捨するものにして、即ち受戒初念の表無表に局り、別解脱律儀は能く過非を遮防するの義なれば、広く初念及び第二念以後に通ずとなせり。又「中阿含巻33釈問経」、「大毘婆沙論巻120、122、123」、「成実論巻8七善律儀品」、「大智度論巻22」、「瑜伽師地論巻40」、「入阿毘達磨論巻上」、「四分律疏開宗記巻1本」、「希麟音義巻9」等に出づ。<(望)
  定共戒(じょうぐかい):定と共に生ずる律儀の意。『大智度論巻22下注:静慮律儀』参照。
  静慮律儀(じょうりょりちぎ):梵語dhyaana- samvaraの訳。静慮より生ずる律儀の意。又禅律儀、定律儀、或いは定共戒、定戒、禅戒とも名づく。三種律儀の一。別解脱律儀、無漏律儀に対す。即ち犯戒を防護する色界定俱生の有漏戒を云う。「大毘婆沙論巻119」に、「静慮律儀とは、謂わく色界の尸羅なり」と云い、「倶舎論巻14」に、「静慮律儀は有漏の根本と近分との静慮地の心を得るに由りて、爾の時便ち得す。心と倶なるが故なり」と云える是れなり。其の防護の相に関しては「瑜伽師地論巻53」に、「若し即ち此の所受の律儀に於いて、能く欠犯なきを以って依止となし、無悔等を修し、乃至具足して初静慮に入り、奢摩他の能く損伏する力に由りて一切犯戒の種子を損伏する、是れを静慮律儀と名づく」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻8」に、「静慮律儀所摂の業とは、謂わく能く犯戒を発起する煩悩の種子を損伏す。欲界の欲を離るる者の所有の遠離と、初二三静慮の欲を離るる者の所有の遠離と、是れを静慮律儀所摂の身語業の性と名づく。犯戒を発起する煩悩とは、謂わく貪瞋等の欲界所繋の煩悩随煩悩なり。能く彼の種子を損伏すとは、謂わく伏対治力に由りて彼の種子を損するなり。欲界の欲を離るとは、謂わく伏対治力に由りて或いは少分離欲し、或いは全分離欲するなり。所有の遠離とは、謂わく彼の犯戒に従って得る所の遠離の性なり。初二三静慮の欲を離るとは、謂わく遠分対治力に由りて、彼の犯戒を発起する煩悩所有の種子をして転た更に衰損せしむるなり。第四静慮の欲を離ると説かざる所以は、無色界は麁色なきに由るが故に、略して色の戒律儀を建立せず」と云えり。是れ蓋し静慮律儀は犯戒を発起する煩悩の種子を損伏するを以って其の業となし、就中、欲界の欲は未至定に於いて断対治に依り、初二三静慮の欲は遠分等の対治に依りて各其の種子を衰損せしむるものなるを説けるものなり。又其の戒体に関しては「大乗法苑義林章巻3末」に、「静慮の無表は、法爾の一切の上二界十七地の中に有漏定と倶なる現行の思の上に、欲界の悪戒を防ぐ功能あるを以って体と為す。此れ道と倶なる無漏戒の外の静慮律儀を説くなり。故に対法に云わく、無色界には麁色なきを以っての故に略して色の戒律儀を建立せずと。無色地にも実には定戒あり、有りと説かざるは略して立てざるが故なり」と云えり。此の中、静慮律儀を以って上二界に通ずとなせるは、説一切有部に於いて唯色界に限るとなすに揀異するの意なるを知るべし。又其の捨戒に関し、「大乗義章巻10」に退捨、生上時捨の二を挙げ、「大乗法苑義林章巻3末」には、止息捨、不行捨、失用捨、永無捨の四を出せり。就中、止息捨とは此の戒は随心転の戒なるが故に、出定時には成就せざるを云い、不行捨とは下上地より上下地に易地する時行ぜざるを云い、失用捨とは退捨にして、即ち静慮を退失する時其の用を失するを云い、永無捨とは無余涅槃に入りて、一切皆捨するを云うなり。又「大毘婆沙論巻120、122」、「雑阿毘曇心論巻3」、「瑜伽師地論巻82」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻15」、「同光記巻14、15」等に出づ。<(望)
  無漏戒(むろかい):無漏道と倶なる律儀の意。『大智度論巻22下注:無漏律儀』参照。
  無漏律儀(むろりちぎ):梵語anaasrava- saMvaraの訳。無漏道と倶なる律儀の意。又道共戒、道生律儀、或いは無漏戒とも名づく。即ち聖者が無漏の定心を得ることに由りて発する戒を云う。「大毘婆沙論巻119」に、「無漏律儀とは謂わく無漏の尸羅なり」と云い、「倶舎論巻14」に、「道生律儀は聖者のみ成就す。此れに復た二種あり、謂わく学と無学となり」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻8」に、「無漏律儀所摂の業とは、謂わく已見諦の者の無漏の作意力に由りて得る所の無漏の遠離戒の性なり」と云える是れなり。是れ此の律儀は無漏の戒にして、学無学の聖者のみ成就する所なるを説けるものなり。又「倶舎論巻14」に此の律儀を得する相を明し、「無漏律儀は無漏の根本と近分との静慮地の心を得するに由りて、爾の時便ち得す。亦た心と倶なるが故なり。彼の声は前の静慮心を顕さんが為なり。復た聖の言を説くは無漏を簡取す。六の静慮地に無漏心あり、謂わく未至と中間と及び四根本定なり。三の近分には非ず」と云えり。是れ無漏律儀は随心転の戒にして、未至中間及び四根本の六地の無漏の定心を得する時即ち発得し、恒に無漏心と俱生俱滅し、異心又は無心等の位に転ぜざるものなることを明せるなり。又此の中、余の無漏律儀は唯厭壊対治となるも、未至定中の九無間道と俱生する無漏律儀は静慮律儀と共に能く欲界の悪戒及び其の能起の煩悩を断じ、断対治となるが故に特に之を断律儀と名づく。「倶舎論巻14」に、「未至定中の九無間道と俱生する静慮と無漏の律儀は、能く永く欲纏の悪戒及び能起の惑を断ずるを以って断律儀と名づく」と云える即ち其の意なり。又此の戒は別解脱律儀の如く表業あることなく、唯無表のみあり。説一切有部に於いては無表を以って実色となすが故に、無色界に生ぜる聖者は此の戒を成就するも必ず現起することなしとなすなり。然るに唯識家に於いて総じて無表を実色となさず、就中、色無色界の所有の無漏道と俱転し、犯戒の非を断ずる功能を以って無漏律儀となし、之を現行の思の上に仮立するが故に、通じて色無色界にも応に随って皆此の無漏戒ありとなすなり。又捨戒の縁に関し、「倶舎論巻15」には三縁ありとし、「無漏の善法は三縁に由りて捨す、一に得果に由る、謂わく得果の時は前の向道及び果道を捨するが故なり。二に練根に由る、謂わく練根の位には利道を得し鈍道を捨するに由るが故なり。三に退失に由る、謂わく得退する時は果道勝果道を退失するが故なり」と云えり。但し「大乗法苑義林章巻3本表無表章」には、止息捨、暫無捨、得果捨、練根捨、入無余涅槃一切永捨の五縁ありとなせり。又「成実論巻8七善律儀品」には、善律儀に戒律儀、禅律儀、定律儀の三種ありとし、無漏律儀は後の二に摂するが故に別に説かずと云えり。又「雑阿毘曇心論巻3」、「瑜伽師地論巻53」、「倶舎論巻16」、「順正理論巻36、39」、「大乗義章巻10」等に出づ。<(望)
  律儀(りちぎ):梵語三婆囉saMvaraの訳。巴梨語同じ。又三婆邏、或いは三跋羅に作り、等護、擁護、防護、護、或いは禁戒とも訳す。即ち身口意の過非を防護するを云う。「雑阿毘曇心論巻10」に、「彼の一切の悪戒の対治なるが故に律儀と名づく、悪戒を防護するが故なり」と云い、「倶舎論巻14」に、「悪戒の相続を能く遮し能く滅するが故に律儀と名づく」と云い、又義浄の「有部百一羯磨」の註に、「此に護と言うは梵に三跋羅と云う、訳して擁護となす。帰戒を受くるに由りて護られて三塗に落ちざらしむ。旧に律儀と云うは乃ち義訳に当る。是れ律法儀式なるを云うなり」と云えり。是れ梵語三跋羅即ち律儀は一切の悪戒を防護するの意なることを説けるものなり。蓋し律儀の語は広く悪戒を遮し、通じて身口意の過非を防護するに名づけたるものにして、之に身律儀語律儀意律儀等の別あり。「雑阿含経巻11」に、「云何が律儀なる。眼根は律儀に摂護せられば、眼識は色を識りて心染著せず。心不染著し已らば常に楽受に住し、心楽に住し已らば常に其の心を一にし、其の心を一にし已らば如実に知見し、如実に知見し已らば諸の疑惑を離れ、諸の疑惑を離れ已らば他に由りて誤られず、常に安楽に住せん。耳鼻舌真意も亦復た是の如し。是れを律儀と名づく」と云い、又「倶舎論巻14」に、「世尊所説の略戒の頌に曰わく、身体儀善哉、善哉語律儀、意律儀善哉、善哉遍律儀と。又契経に説く、応に善く守護すべし、応に善く眼根律儀に安住すべしと」と云える是れなり。是れ律儀は総じて身口意の三業を護り、又眼等の六根を守護して境に於いて諸の過患を起さしめざるものなるを云うなり。説一切有部に於いては此の中、身律儀語律儀は無表色を以って体とし、意律儀根律儀は正念正知を以って其の自性となすと説くなり。「大毘婆沙論巻44」に、「根律儀は正念正知を以って自性となし、根不律儀は失念不正知を以って自性となす」と云い、「倶舎論巻14」に、「此の意と根との律儀は何を以って自性となすや。此の二の自性は無表色に非ず。若し爾らば是れ何ぞ。頌に曰わく、正知と正念とを合して意と根との律儀と名づく」と云える其の説なり。是れ即ち意律儀根律儀は正念正知を以って自性とし、其の体無表に非ざることを明にせるなり。然るに大乗に於いては無表を以って色となさず、之を思の種子の上に仮立し、随って意にも亦た表無表ありとなせり。之に関し「大乗法苑義林章巻3末」に三解を挙げ、一解は意に表業あり、此の意表より唯善性の無表を発すとし、一解は十悪業道中の貪瞋邪見の三の意表も無表を発するの理ありとし、不善にも亦た無表ありと云い、一解は唯身語二業にのみ無表ありとし、律儀と名づくるも皆無表に非ず、律儀の名は寛く、無表の名は狭く、此の二語は其の義各別なりと説くとし、而して窺基は自ら第三解を正とすと云えり。此の中、前の二解は意に無表ありとなすの説なるが故に、若し之に依らば意律儀は意の無表を体となすべく、随って律儀と無表とは同義にして寛狭なしというを得べし。第三解は律儀は通じて身口意の過患を防護するものなるが故に其の義広く、無表は唯其の中の身口二業の非を防ぐものなるが故に其の義狭しとなすの意にして、即ち上記倶舎等と同説なるを見るべし。就中、「倶舎論巻14」に無表の律儀に別解脱律儀、静慮生律儀(定共戒)、道生律儀(道共戒)の三種ありとし、其の中、別解脱律儀は欲纏戒にして、此の律儀の相に苾芻律儀、苾芻尼律儀、正学律儀、勤策律儀、勤策女律儀、近事律儀、近事女律儀、近住律儀の八種ありと云い、静慮生律儀は色纏戒にして、即ち静慮を得する者の成ずる戒を云い、道生律儀は聖者の成就する無漏戒にして、之を学無学の二ありとなし、又此の静慮無漏の二種の律儀の中、未至定中の九無間道と俱生するものを特に断律儀prahaaNa- saMvaraと名づくと云えり。是れ此の静慮及び道生の二戒は能く欲纏の悪戒及び能起の惑を永断するが故に断律儀と名づけたるなり。「大毘婆沙論巻119」には、之を前の三種に併せて総じて四種の律儀ありとなせり。又「瑜伽師地論巻53」に、律儀に能起、摂受、防護、還引、下品、中品、上品、清浄の八種の別ありとし、受戒以前に先づ心を起して、我れ当に是の如き戒を受くべしと決意するを能起律儀と云い、正しく戒を摂受するを摂受律儀と云い、爾後五根の増上力に依り、彼の思種と俱行して罪を作らざるを防護律儀と云い、若し犯あらば即ち悔除するを還引律儀と云い、少分少時にのみ離し、唯自のみ離して他を勧めざるを下品律儀と云い、多分多時に離し、亦た他を勧むるを中品律儀と云い、一切離し尽形寿離し、亦た他を勧め、且つ無量の門を以って戒を讃歎し、同法の者を慶慰するを上品律儀と云い、又静慮と無漏の律儀を清浄律儀と名づくと云えり。此の中、前の七種は別解脱律儀の受得并びに機の不同に就き分別せるものにして、就中、能起の心を名づけて能起律儀となせるは、即ち広義の律儀に約するの意なり。又俗に実直にして義理堅き者を「リチギ」と称するは義の転じたるなり。又「雑阿含経巻43」、「根本薩婆多部律摂巻1」、「大毘婆沙論巻44、117、120」、「成実論巻8」、「大智度論巻22」、「瑜伽師地論巻40」、「雑阿毘曇心論巻3」、「入阿毘達磨論巻上」、「大乗阿毘達磨雑集論巻8」、「大乗義章巻10」、「菩薩戒義疏巻上」、「四分律行事鈔巻中1」、「玄応音義巻14」等に出づ。<(望)
是律儀戒能令諸惡不得自在。枯朽折減。禪定戒能遮諸煩惱。何以故。得內樂故。不求世間樂。無漏戒能拔諸惡煩惱根本故。 是の律儀戒は、能く諸悪をして、自在を得しめず、枯朽し、折減せしむ。禅定戒は、能く諸煩悩を遮す。何を以っての故に、内楽を得るが故に、世間の楽を求めず、無漏戒は、能く諸悪、煩悩の根本を抜くが故なり。
是の、
『律儀戒』は、
諸の、
『悪』に、
『自在を得られないようにし!』、
『枯らして朽ちさせ!』、
『折って減らせるのであり!』、
『禅定戒(定共戒と無漏戒)』は、
諸の、
『煩悩』を、
『遮って!』、
『生じさせない!』。
何故ならば、
『定共戒』は、
『内』に、
『楽』を、
『得る!』が故に、
『世間』の、
『楽』を、
『求めない!』し、
『無漏戒』は、
諸の、
『悪、煩悩の根本』を、
『抜くからである!』。
  枯朽(こく):かれてくさる。
  折減(しゃくげん):おれてへる。
  禅定戒(ぜんじょうかい):禅定中に自然に得る戒の意。定共戒及び無漏戒の意。『大智度論巻22下注:静慮律儀、無漏律儀』参照。
問曰。云何念戒。 問うて曰く、云何が戒を念ずる。
問い、
何のように、
『戒』を、
『念じるのですか?』。
答曰。如先說念僧中。佛如醫王法如良藥僧如膽病人。戒如服藥禁忌。行者自念我若不隨禁忌。三寶於我為無所益。又如導師指示好道。行者不用導師無咎。以是故我應念戒 答えて、先に念僧中に説けるが如く、仏は医王の如く、法は良薬の如く、僧は瞻病人の如く、戒は服薬の禁忌の如くなるに、行者は、自ら念ずらく、『我れ、若し禁忌に随わずんば、三宝も、我れに於いて、益する所無しと為す。又導師の好道を指示するに、行者の用いざるは、導師に咎無きが如し。是を以っての故に、我れは応に戒を念ずべし』、と。
答え、
先に、
『僧を念ずる!』中に、
『説いた通ように!』、
即ち、
『仏』は、
『医王』に、
『似ており!』、
『法』は、
『良薬』に、
『似ており!』、
『僧』は、
『看病人』に、
『似ている!』が、
『戒』は、
『服薬の禁忌』に、
『似ている!』、
『行者』は、
自ら、こう念じるだろう、――
わたしが、
若し、
『禁忌に随わなければ!』、
わたしには、
『三宝すら!』、
『無益である!』。
又、
『導師』が、
『好道を指示していれば!』、
『行者』が、
『用いなくても!』、
『導師』に、
『咎(とが:過罪)』は、
『無いようなものである!』。
是の故に、
わたしは、
『戒』を、
『念じなくてはならない!』、と。
  瞻病人(せんびょうにん):看病人。
  禁忌(ごんき):きらってとどめる。日月、方位、医薬、食餌などに就いて忌み嫌うこと。飲食、飲酒、喫煙等を制限するの意。
復次是戒一切善法之所住處。譬如百穀藥木依地而生。持戒清淨能生長諸深禪定實相智慧。亦是出家人之初門。一切出家人之所依仗。到涅槃之初因緣。如說持戒故心不悔。乃至得解脫涅槃。 復た次ぎに、是の戒は、一切の善法の所住の処なり。譬えば百穀、薬木の地に依りて、生ずるが如し。持戒して清浄なれば、能く諸の深き禅定と、実相の智慧とを生長す。亦た是れ出家人の初門なれば、一切の出家人の依仗する所にして、涅槃に到る初の因縁なり。説の如く、持戒するが故に、心に悔いず、乃至解脱、涅槃を得。
復た次ぎに、
是の、
『戒』は、
一切の、
『善法』の、
『所住する!』、
『処である!』。
譬えば、
『百穀、薬木』が、
『地に依って!』、
『生じるように!』、
『持戒して!』、
『清浄になれば!』、
諸の、
『深い禅定』や、
『実相の智慧』を、
『出生して!』、
『成長させられる!』。
亦た、
『戒』は、
一切の、
『出家人』の、
『初門であり!』、
一切の、
『出家人』の、
『頼る!』、
『杖であり!』。
一切の、
『出家人』が、
『涅槃に到る!』、
『初の因縁である!』ので、
『説かれたように!』、
『持戒すれば!』、
故に、
『心』が、
『悔いることなく!』、
やがて、
『解脱を得て!』、
『涅槃に至るのである!』。
  依仗(えじょう):頼る/当てにする( count on, rely on )。
  参考:『中阿含経巻10(42)』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。尊者阿難則於晡時從燕坐起。往詣佛所。稽首禮足。卻住一面。白曰。世尊。持戒為何義。世尊答曰。阿難。持戒者。令不悔義。阿難。若有持戒者。便得不悔。復問。世尊。不悔為何義。世尊答曰。阿難。不悔者。令歡悅義。阿難。若有不悔者。便得歡悅。復問世尊。歡悅為何義。世尊答曰。阿難。歡悅者。令喜義。阿難。若有歡悅者。便得喜。復問。世尊。喜為何義。世尊答曰。阿難。喜者。令止義。阿難。若有喜者。便得止身。復問。世尊。止為何義。世尊答曰。阿難。止者。令樂義。阿難。若有止者。便得覺樂。復問。世尊。樂為何義。世尊答曰。阿難。樂者。令定義。阿難。若有樂者。便得定心。復問。世尊。定為何義。世尊答曰。阿難。定者。令見如實.知如真義。阿難。若有定者。便得見如實.知如真。復問。世尊。見如實.知如真為何義。世尊答曰。阿難。見如實.知如真者。令厭義。阿難。若有見如實.知如真者。便得厭。復問。世尊。厭為何義。世尊答曰。阿難。厭者。令無欲義。阿難。若有厭者。便得無欲。復問。世尊。無欲為何義。世尊答曰。阿難。無欲者。令解脫義。阿難。若有無欲者。便得解脫一切婬.怒.癡。是為。阿難。因持戒便得不悔。因不悔便得歡悅。因歡悅便得喜。因喜便得止。因止便得樂。因樂便得定。阿難。多聞聖弟子因定便得見如實.知如真。因見如實.知如真。便得厭。因厭便得無欲。因無欲便得解脫。因解脫便知解脫。生已盡。梵行已立。所作已辦。不更受有。知如真。阿難。是為法法相益。法法相因。如是此戒趣至第一。謂度此岸。得至彼岸。佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
行者念清淨戒不缺戒不破戒不穿戒不雜戒自在戒不著戒。智者所讚戒無諸瑕隙名為清淨戒。 行者は清浄戒を念じて、戒を欠かず、戒を破らず、戒を穿たず、戒を雑えず、戒に自在にして、戒に著せず。智者に讃ぜらるる戒にして、諸の瑕隙無きを名づけて、清浄戒と為す。
『行者』は、
『清浄戒を念じて!』、
『戒』を、
『欠かすことなく!』、
『破ることなく!』、
『穿(うが)つことなく!』、
『戒』を、
『雑えず!』、
『戒に自在である!』が、
『戒』に、
『著することもない!』。
『清浄戒』とは、――、
『智者』に、
『讃じられる!』、
『戒であり!』、
諸の、
『隙間の無い!』、
『戒』、
是れを、
『清浄な戒』と、
『称するのである!』。
  瑕隙(けげき):空隙。すきま。
云何名不缺戒。五眾戒中除四重戒。犯諸餘重者。是名缺犯。餘罪是為破。復次身罪名缺口罪名破。復次大罪名缺小罪名破。 云何が欠けざる戒と名づくる。五衆戒中に、四重戒を除きて、諸余の重を犯せる者は、是れを欠犯と名づく。余罪は、是れを破と為し、復た次ぎに、身の罪を欠と名づけ、口の罪を破と名づく。復た次ぎに、大罪を欠と名づけ、小罪を破と名づく。
何故、
『戒』を、
『欠かない!』と、
『称するのか?』、――
『五衆戒(波羅夷、僧残、波逸提、波羅提提舎尼、突吉羅)』中の、
『四重戒(波羅夷)を除いて!』、
『余罪の重罪(僧残)』を、
『欠犯』と、
『称し!』、
『余の軽罪(波逸提、波羅提提舎尼、突吉羅)』を、
『破犯』と、
『称する!』。
復た次ぎに、
『身の罪』を、
『欠く!』と、
『称して!』、
『口の罪』を、
『破る!』と、
『称する!』。
復た次ぎに、
『大罪』を、
『欠く!』と、
『称して!』、
『小罪』を、
『破る!』と、
『称する!』。
  五衆戒(ごしゅかい):比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十一戒(七滅諍を合すれば三百四十八戒)を五科に分類せるを云う。「大智度論巻22下注:五篇」参照。
  五篇(ごへん):五種の章品の意。又五犯、五犯聚、五衆罪、五衆戒、或いは五種制とも名づく。即ち比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十一戒(七滅諍を合すれば三百四十八戒)を五科に分類せるを云う。一に波羅夷paaraajika(巴梨語同じ)、二に僧残saMghaavazoSa(巴saGghaadisesa)、三に波逸提paayattika(巴paacittiya)、四に波羅提提舎尼pratidezaniiya(巴paaTidesaniiya)、五に突吉羅duSkRta(巴dukkaTa)なり。「薩婆多毘尼毘婆沙巻2」に、「罪とは総じて五篇の罪なり、一切是れ罪と名づく。五篇の戒の外にも亦た種種の罪あり。今仏は戒を結して罪の軽重を示す、故に此れは是れ波羅夷罪、此れは是れ僧残、此れは是れ波逸提、此れは是れ波羅提提舎尼、此れは是れ突吉羅と云う」と云える是れなり。此の中、比丘と比丘尼の五篇は其の数同じからず。比丘の五篇中、波羅夷罪は婬盗殺妄の四重禁を云い、僧残罪は故出精等の十三事を云い、波逸提罪は三十捨堕と九十単提とを云い、波羅提提舎尼罪は蘭若受食等の四事を云い、突吉羅罪は百衆学と七滅諍とを云う。比丘尼の五篇は、八波羅夷、十七僧残、三十捨堕及び百七十八単提、八波羅提提舎尼、百衆学(或いは七滅諍あり)なり。二不定は過を防ぐ由緒たりと雖も、未だ正罪あらざるが故に篇に加えざるなり。又「四分律巻59」、「薩婆多部毘尼摩得勒伽巻1」、「摩訶僧祇律巻20、32」、「四分比丘戒本疏巻上」、「四分律行事鈔資持記巻中1之1」、「四分律行事鈔簡正記巻9」、「翻訳名義集巻19」等に出づ。<(望)
  四重戒(しじゅうかい):比丘の二百五十戒中、婬盗殺妄の四種の重罪に対する戒。『大智度論巻22下注:四波羅夷法』参照。
  四波羅夷法(しはらいほう):梵語catvaaraH paaraaajikaa dharmaaH、巴梨語cattaaro paaraajikaa dhammaa、又四波羅夷、四波羅市迦法に作り、四極悪法、或いは四他勝法と訳す。比丘の避くべき四種の根本重罪を云う。一に非梵行a- brahma- caryaa(巴a- brahma- cariya)、二に不与取adattaadaana(巴adinnaadaana)、三に殺vadha、又はbadha(巴同じ)、四に上人法uttara- manuSya- dharma(巴uttari- manussa- dhamma)なり。又略して婬盗殺妄と称す。「四分律比丘戒本」に、「諸大徳、是の四波羅夷法は半月半月説戒経中より来たる」と云い、又「諸大徳、我れ已に四波羅夷法を説けり。若し比丘、一一の波羅夷法を犯ぜば、諸比丘と共住することを得ず。前の如く後も亦た是の如し」と云える是れなり。就中、非梵行とは又不浄行、或いは婬と名づく。即ち人或いは畜生等と共に婬を行ずるを云う。不与取とは又盗と名づく。即ち盗心を以って与えられざるに物を取り、国の刑に処せらるべきものを云う。殺とは又断人命と名づく。自ら人命を断じ、或いは殺者を求め、或いは又死を讃歎して之を勧むるを云う。上人法とは又過人法、妄説上人法、妄説自得上人法、或いは妄語と名づく。未だ上人法を体得せずして之を証したりと語るを云うなり。此の四は極重罪にして、若し之を犯ずれば他の比丘と共住することを許さず。故に名づけて波羅夷罪となすなり。又「四分律巻1、2」、「四分僧戒本」、「五分律巻1、2」、「同戒本」、「摩訶僧祇律巻1至4」、「同大比丘戒本」、「十誦律巻1、2、52、57至59」、「有部毘奈耶巻1至10」、「同頌巻上」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2、3」、「薩婆多部毘尼摩得勒伽巻1」、「根本薩婆多部律摂巻2、3」、「鼻奈耶巻1、2」等に出づ。<(望)
  五衆戒(ごしゅかい):五篇、比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒を五科に分類するをいう。
   (1)波羅夷罪(はらいざい):婬、盗、殺人、妄語。四重禁。
   (2)僧残罪(そうざんざい):僧伽婆尸沙(そうがばししゃ)、波羅夷罪の次に重い十三事。
   (3)波逸提罪(はいつだいざい):僧残の次に重い三十捨堕(しゃだ)及び九十単提(たんだい)。
   (4)波羅提提舎尼罪(はらだいだいしゃにざい):波逸提の次に重い四事。
   (5)突吉羅罪(とっきらざい):軽罪。百衆学法及び七滅諍法。
善心迴向涅槃。不令結使種種惡覺觀得入。是名不穿。為涅槃為世間向二處。是名為雜隨戒。不隨外緣如自在人無所繫屬。持是淨戒不為愛結所拘。是為自在戒。 善心を涅槃に迴向して、結使、種種の悪の覚観をして、入るを得しめざる、是れを穿たずと名づく。涅槃の為と、世間の為との二処に向かえば、是れを名づけて、雑と名づく。戒に随いて、外縁に随わず、自在の人の如く、繋属する所無く、是の浄戒を持して、愛結の為に拘(とら)えられざる、是れを自在の戒と為す。
『善心』を、
『涅槃に廻向して!』、
『結使』や、
『種種の悪の覚、観』を、
『入らせない!』こと、
是れを、
『穿たない!』と、
『称する!』。
『涅槃の為』と、
『世間の為』との、
『二処に向かえば!』、
是れを、
『雑える!』と、
『称する!』。
『戒に随って!』、
『外縁に随わず!』、
『自在の人のように!』、
『繋属する!』者が、
『無く!』、
是の、
『浄戒を持(たも)って!』、
『愛結』に、
『拘捉されない!』、
是れを、
『自在の戒』と、
『称する!』。
  (く):とらう。とらえる。拘捉。
於戒不生愛慢等諸結使知戒實相。亦不取是戒。若取是戒譬如人在囹圄桎梏所拘雖得蒙赦。而復為金鎖所繫。人為恩愛煩惱所繫。如在牢獄。雖得出家愛著禁戒如著金鎖。行者若知戒是無漏因緣。而不生著是則解脫。無所繫縛是名不著戒。 戒に於いて、愛慢等の諸結使を生ぜず、戒の実相を知り、亦た是の戒を取らず、若し是の戒を取らば、譬えば人の囹圄に在りて、桎梏に拘えるれば、赦を蒙るを得ると雖も、而も復た金鎖に繋がるるが如く、人は、恩愛、煩悩の為に繋がるること、牢獄に在るが如く、出家するを得と雖も、禁戒に愛著すれば、金鎖に著くるが如し。行者は、若し戒は、是れ無漏の因縁なりと知りて、而も著を生ぜざれば、是れ則ち解脱して、繋縛する所無し、是れを戒に著せずと名づく。
『戒』に於いて、
『愛、慢』等の、
『諸の結使』を、
『生じることなく!』、
『戒』の、
『実相』を、
『知りながら!』、
亦た、
是の、
『戒』を、
『取ることもない!』。
若し、
是の、
『戒を取れば!』、
譬えば、
『牢獄』で、
『桎梏』に、
『拘捉されていた!』、
『人』が、
『赦免』を、
『蒙りながら!』、
復たしても、
『金鎖』に、
『繋がれるように!』、
『人』が、
『恩愛』や、
『煩悩』に、
『繋がれていれば!』、
是れは、
『牢獄に在る!』のと、
『同じであり!』、
『出家できたのに!』、
『禁戒』に、
『愛著すれば!』、
是れは、
『金鎖に繋がれる!』のと、
『同じである!』。
『行者』が、
若し、
『戒』は、
『無漏に至る!』、
『因縁である!』と、
『知りながら!』、
是の、
『戒』にも、
『著を生じなければ!』、
是れは、
則ち、
『解脱して!』、
何にも、
『繋縛されない!』ので、
是れを、
『戒』に、
『著さない!』と、
『称するのである!』。
  囹圄(りょうご):牢獄。
  桎梏(しちこく):足かせと手かせ。
  (しゃ):ゆるし。刑罰罪科をゆるすこと。
諸佛菩薩辟支佛及聲聞所讚戒。若行是戒用是戒。是名智所讚戒。 諸仏、菩薩、辟支仏、及び声聞の讃ずる所の戒とは、若し是の戒を行じて、是の戒を用いれば、是れを智の讃ずる所の戒と名づく。
諸の、
『仏、菩薩、辟支仏、声聞』に、
『讃じられる!』、
『戒』とは、
若し、
是の、
『戒』を、
『行ったり!』、
『用いたりすれば!』、
是れを、
『智者の讃じる!』、
『戒』と、
『称するからである!』。
外道戒者。牛戒鹿戒狗戒羅刹鬼戒啞戒聾戒。如是等戒智所不讚。唐苦無善報。 外道の戒とは、牛の戒、鹿の戒、狗の戒、羅刹鬼の戒、唖の戒、聾の戒、是れ等の如き戒の智の讃ぜざる所なるは、唐(むな)しく苦しみて、善報無ければなり。
『外道』の、
『戒』とは、
『牛の戒』、
『鹿の戒』、
『狗の戒』、
『羅刹鬼の戒』、
『唖の戒』、
『聾の戒であり!』、
是れ等のような、
『戒』は、
『智者』に、
『讃じられない!』。
何故ならば、
『唐(いたずら)に!』、
『苦しいだけで!』、
而も、
『善報』が、
『無いからである!』。
  (とう):むなしい。空に同じ。
復次智所讚者。於三種戒中無漏戒。不破不壞依此戒得實智慧。是聖所讚戒。無漏戒有三種。如佛說正語正業正命是三業。義如八聖道中說。是中應廣說。 復た次ぎに、智の讃ずる所なりとは、三種の戒中、無漏戒は破れず、壊せずして、此の戒に依り、実の智慧を得れば、是れ聖の讃ずる所の戒なり。無漏戒には三種有り、仏の説きたまえるが如く、正語、正業、正命にして、是の三業の義は、八聖道中に説けるが如し。是の中にも、応に広く説くべし。
復た次ぎに、
『智者』に、
『讃じられる!』、
『戒』とは、――
『三種の戒』中、
『無漏戒』は、
『破られず!』、
『壊されず!』、
此の、
『戒に依れば!』、
『実の智慧』を、
『得られる!』ので、
是の、
『無漏戒』は、
『聖者』に、
『讃じられる!』、
『戒である!』。
『無漏戒』には、
『三種有り!』、
例えば、
『仏の説では!』、
『正語』、
『正業』、
『正命であり!』、
是の、
『三業の義』は、
『八聖道』中に、
『説いた通りである!』が、
是の中にも、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
問曰。若持戒是禪定因緣。禪定是智慧因緣。八聖道中何以慧在前。戒在中定在後。 問うて曰く、若し持戒は是れ禅定の因縁、禅定は是れ智慧の因縁なれば、八聖道中には、何を以ってか、慧は前に在り、戒は中に在り、定は後に在る。
問い、
若し、
『持戒』が、
『禅定』の、
『因縁であり!』、
『禅定』が、
『智慧』の、
『因縁ならば!』、
何故、
『八聖道』中に、
『智慧(正見、正思惟)』が、
『前』に、
『在り!』、
『戒(正語、正業、正命)』が、
『中』に、
『在り!』、
『定(正精進、正念、正定)』が、
『後』に、
『在るのですか?』。
  八聖道(はっしょうどう):正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の総称。『大智度論巻18上注:八正道、巻19上本文』参照。
答曰。行路之法應先以眼見道而後行。行時當精懃。精懃行時常念如導師所教。念已一心進路不順非道。正見亦如是。先以正智慧觀五受眾皆苦。是名苦。苦從愛等諸結使和合生。是名集。愛等結使滅是名涅槃。如是等觀八分。名為道。是名正見。 答えて曰く、行路の法は、応に先に眼を以って、道を見て、後に行くべし。行く時には、当に精懃すべし。精懃して行く時には、常に導師の教うる所の如く念ずべく、念じ已りて一心に路を進めば、非道に順ぜず。正見も亦た是の如く、先に正智慧を以って、五受衆は皆苦なりと観れば、是れを苦と名づけ、苦は愛等の諸結使の和合より生ずれば、是れを集と名づけ、愛等の結使滅すれば、是れを涅槃と名づく。是れ等の如き観を八分し、名づけて道と為せば、是れを正見と名づく。
答え、
『行路の法』は、
先に、
『眼を用いて!』、
『道』を、
『見て!』、
後に、
『道』を、
『行き!』、
『道を行く!』時には、
『懃めて!』、
『精進して!』、
『行かねばならず!』、
『懃めて!』、
『精進して行く!』時には、
常に、
『導師』に、
『教えられた!』ことを、
『念じ!』、
『念じたならば!』、
『一心』に、
『路を進んで』、
『道でないところ』に、
『踏み込まなければ!』、
是れが、
『行路の法である!』が、
『正見』も、
亦た、
『是のように!』、――
先に、
『正智慧を用いて!』、
『五受衆(有漏の色受想行識)』は、
皆、
『苦である!』と、
『知ったならば!』、
是れを、
『苦』と、
『称し!』、
『苦』は、
『愛等の諸結使』の、
『和合より!』、
『生じる!』ので、
是れを、
『集』と、
『称し!』、
『愛』等の、
『結使』が、
『滅すれば!』、
是れを、
『涅槃』と、
『称し!』、
是れ等の、
『観』を、
『八分して!』、
是れを、
『道』と、
『称すれば!』、
是れを、
『正見』と、
『呼ぶのである!』。
  精懃(しょうごん):もっぱらつとめる。精進、懃精進に同じ。
  五受衆(ごじゅしゅ):有漏の五衆の意。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
行者是時心定知世間虛妄可捨。涅槃實法可取。決定是事是名正見。知見是事心力未大未能發行。思惟籌量發動正見令得力。是名正思惟。智慧既發欲以言宣故次正語。正業正命。戒行時精進不懈。不令住色無色定中。是名正方便。用是正見觀四諦。常念不忘念。一切煩惱是賊應當捨。正見等是我真伴應當隨。是名正念。於四諦中攝心不散。不令向色無色定中。一心向涅槃。是名正定。 行者は、是の時、心定まりて、世間の虚妄にして、捨つべく、涅槃の実法にして、取るべきを知り、是の事を決定すれば、是れを正見と名づけ、是の事を知見するに、心未だ大ならず、未だ行を発す能わざれば、思惟し、籌量し、発動の正見に、力を得しむれば、是れを正思惟と名づけ、智慧既に発れば、言を以って宣べんと欲するが故に次に正語、正業、正命の戒なり。行ずる時は、精進して懈(おこた)らず、色、無色定中に住せしめざれば、是れを正方便と名づけ、是の正見を用いて、四諦を観、常に念じて忘れず、一切の煩悩は、是れ賊にして、応当に捨つべく、正見等は、是れ我が真の伴なれば、応当に随うべしと念ずれば、是れを正念と名づけ、四諦中に心を摂して、散ぜず、色、無色定中に向わしめずして、一心に涅槃に向えば、是れを正定と名づく。
『行者』は、
是の時、
『心が定まって!』、こう知る、――
『世間』は、
『虚妄であって!』、
『捨てなくてはならない!』が、
『涅槃』は、
『実法である!』ので、
『取らなくてはならない!』、と。
是の、
『事』に、
『心』が、
『決定すれば!』、
是れを、
『正見』と、
『称する!』。
是の、
『事を知、見しながら!』、
『心』が、
未だ、
『大きくない!』が故に、
未だ、
『行』を、
『発動することができない!』時、
『思惟、籌量して!』、
『正見』を、
『発動し!』、
『力を得させれば!』、
是れを、
『正思惟』と、
『称する!』。
『智慧(正見、正思惟)が発動すれば!』、
『言葉』で、
『宣()べよう!』と、
『思う!』が故に、
『正語』、
『正業』、
『正命』等の、
『戒』を、
『次とし!』、
『行う!』時には、
『精進して!』、
『懈(おこた)らなければ!』、
『色、無色定』中に、
『心』を、
『住(とど)まらせない!』ので、
是れを、
『正方便』と、
『称する!』。
是の、
『正見を用いて!』、
『四諦を観ながら!』、
常に、
『念じて!』、
『忘れず!』、
一切の、
『煩悩』は、
『賊である!』が故に、
『捨てなくてはならない!』が、
『正見等の八正道』は、
わたしの、
『真の伴侶である!』が故に、
『随わねばならない!』と、
是のように、
『念じれば!』、
是れを、
『正念』と、
『称し!』、
『四聖諦』中に、
『心』を、
『摂(おさ)めて!』、
『散じさせず!』、
『心』を、
『色、無色』の、
『定』中に、
『向わせることなく!』、
『一心』を、
『涅槃』に、
『向ければ!』、
是れを、
『正定』と、
『称する!』。
是初得善有漏。名為煖法頂法忍法中義。次第增進初中後心入無漏心中。疾一心中具。無有前後分別次第。 是れ初に得る善、有漏にして名づけて煖法、頂法、忍法中の義と為す。次第に、初中後の心を増進して、無漏心中に入れば、疾かに一心中に具わり、前後の次第を分別すること有ること無し。
是れは、
『初めて得る!』時には、
『善』、
『有漏』の、
『法であり!』、
『煖法、頂法、忍法と呼ばれる!』、
『法』の、
『義である!』が、
『次第に!』、
『初、中、後』の、
『心』が、
『増進して!』、
『心』が、
『無漏』中に、
『入る!』と、
『一心』中に、
『疾かに!』、
『具足することになり!』、
『前、後というような!』、
『次第の分別』が、
『無くなる!』。
正見相應正思惟正方便正念正定。三種戒隨是分分行。正見分別好醜利益為事。正思惟發動正見為事。正語等持是智慧諸功德不令散失。正方便驅策令速進不息。正念七事所應行者憶而不忘。正定令心清淨不濁不亂。令正見七分得成。如無風房中燈則照明了了。如是無漏戒在八聖道中。亦為智者所讚。 正見は、正思惟、正方便、正念、正定に相応し、三種の戒は、是の分分に随いて行ず。正見は、好醜、利益を分別するを事と為し、正思惟は、正見を発動するを事と為し、正語等は、是の智慧と、諸功徳を持して、散失せしめず。正方便は、駆策して、速かに進ましめて、休まざらしむ。正念は、七事の応に行ずべき所の者の、憶して、忘れざるなり。正定は、心をして、清浄ならしめ、濁らず、乱れざらしめ、正見の七分をして、成ずるを得しむ。無風の房中の灯は、則ち照明すること了了なるが如し。是の如き無漏戒は、八聖道中に在りて、亦た智者の讃ずる所と為す。
『正見』は、
『正思惟、正方便、正念、正定』に、
『相応して!』、
『三種の戒(正語、正業、正命)』は、
是の、
『分分(正思惟、正方便、正念、正定)』に、
『随って!』、
『行われる!』。
『正見』は、
『好醜、利益』を、
『分別する!』ことが、
『事( work )である!』。
『正思惟』は、
『正見』を、
『発動する!』ことが、
『事である!』。
『正語等の戒』とは、
是の、
『智慧』や、
『諸の功徳』を、
『保持して!』、
『散失させないことであり!』、
『正方便(正精進)』とは、
『駆策して( whip on )!』
『速かに!』、
『進ませて!』、
『休息させないことであり!』、
『正念』とは、
『七事(正見、正思惟、正語等、正方便、正定)』を、
『行うべき!』者が、
『記憶して!』、
『忘れないことである!』。
『正定』とは、
『心』を、
『清浄にして!』、
『濁らせず!』、
『乱れさせず!』、
『正見に相応する!』、
『七分』をして、
『成就させることである!』。
例えば、
『無風の房』中の、
『灯』は、
『照明して!』、
『了了とするようなものである!』。
是れ等のような、
『無漏』の、
『戒』は、
『八聖道』中に、
『在り!』、
亦た、
『智者』に、
『讃ぜられている!』。
  駆策(くさく):駆使する/使役する( drive, whip on, order about )。
問曰。無漏戒應為智者所讚。有漏戒何以讚。 問うて曰く、無漏の戒は、応に智者の讃ずる所為るべし。有漏の戒は、何を以ってか、讃ずる。
問い、
『無漏』の、
『戒』は、
当然、
『智者』に、
『讃じられなくてはならない!』が、
『有漏』の、
『戒』を、
何故、
『讃じるのですか?』。
答曰。有漏戒似無漏。隨無漏同行因緣。是故智者合讚。如賊中有人叛來歸我。彼雖是賊今來向我。我當內之可以破賊何可不念。諸煩惱賊在三界城中住。有漏戒善根。若煖法頂法忍法世間第一法。與餘有漏法異故。行者受用。以是因緣故破諸結使賊。得苦法忍無漏法財。以是故智者所讚。是名念戒。 答えて曰く、有漏の戒は、無漏に似て、無漏に随い、行の因縁を同じうすれば、是の故に、智者は合せて讃ずるなり。賊中に有る人叛(そむ)き来たりて、我れに帰すれば、彼れは是れ賊なりと雖も、今は来たりて我れに向かえば、我れ当に之を内にして、以って賊を破るべし。何ぞ念ぜざるべきや。諸の煩悩の賊は、三界の城中に在りて住するに、有漏戒は善根の若しは煖法、頂法、忍法、世間第一法にして、余の有漏法と異なるが故に、行者、受用すれば、是の因縁を以っての故に、諸の結使の賊を破りて、苦法忍の無漏法の財を得。是を以っての故に、智者に讃ぜらる。是れを戒を念ずと名づく。
答え、
『有漏』の、
『戒』は、
『無漏に似て!』、
『無漏に随う!』ので、
『無漏』と、
『行』の、
『因縁』が、
『同じである!』ので、
是の故に、
『智者』は、
『合せて!』、
『讃じるのである!』。
譬えば、こうである、――
『賊』中の、
有る、
『人』が、
『賊』に、
『叛(そむ)いて!』、
『来る!』と、
わたしに、
『帰属した!』。
彼れは、
『賊ではあった!』が、
今は、
わたしに、
『帰属している!』。
わたしは、
是の、
『人』を、
『内に入れ!』、
『利用して!』、
『賊』を、
『破らねばならない!』。
何うして、
是の、
『人』を、
『念じないことがあろう!』。
諸の、
『煩悩の賊』は、
『三界という!』、
『城』中に、
『住まっている!』。
『有漏の戒』は、
『善根であり!』、
『煖法、頂法、忍法だろうが!』、
『世間第一法だろうが!』、
『余の!』、
『有漏法』とは、
『異なる!』が故に、
『行者』が、
『受用するならば!』、
是の、
『因縁』の故に、
諸の、
『結使』の、
『賊』を、
『破って!』、
『苦法忍という!』、
『無漏法の財』を、
『得ることになる!』。
是の故に、
『智者に讃じられるのであり!』、
是れを、
『戒を念じる!』と、
『称するのである!』。
  煖法(なんぽう):四善根位第一。『大智度論巻18上注:煖法、四善根位』参照。
  頂法(ちょうぼう):四善根位第二。『大智度論巻18上注:頂法、四善根位』参照。
  忍法(にんぽう):四善根位第三。『大智度論巻18上注:忍法、四善根位』参照。



捨を念じる

念捨者有二種捨。一者施二者捨諸煩惱。施捨有二種。一者財施。二者法施。三種捨和合名為捨。 捨を念ずるとは、二種の捨有り、一には施なり、二には諸の煩悩を捨つるなり。施の捨には二種有り、一には財施なり、二には法施なり。三種の捨の和合を名づけて、捨と為す。
『捨を念じる!』とは、――
『捨』には、
『二種有り!』、
一には、
『施すという!』、
『捨であり!』、
二には、
諸の、
『煩悩』を、
『捨てることである!』。
『施の捨』には、
『二種有り!』、
一には、
『財』を、
『施すことであり!』、
二には、
『法』を、
『施すことである!』。
是の、
『三種の捨』の、
『和合』を、
『捨』と、
『称するのである!』。
  (しゃ):梵語憂畢叉upekSaaの訳。巴梨語upekkhaa、又はupekhaa、平静、又は無関心の義。(一)心所の名。又行捨とも名づく。十大善地法の一。十一善心所の一。心をして平等正直にして、寂静に住せしむる精神作用を云う。「品類足論巻3」に、「捨とは云何ん、謂わく身平等心平等、身正直心正直にして、無警覚にして寂静に住する是れを名づけて捨となす」と云い、「倶舎論巻4」に、「心平等性にして、無警覚の性なるを説きて名づけて捨となす」と云える是れなり。又「成唯識論巻6」には、「云何が行捨なる、精進と三根とが心をして平等正直にして無功用に住せしむるを性となし、掉挙を対治して静住するを業となす。謂わく、即ち四の法が心をして掉挙等の障を遠離し、静住せしむるを捨と名づく。平等正直にして無功用に住する初中後の位に捨の差別を辨ず。不放逸は先づ雑染を除くに由りて、捨復た心をして寂静にして住せしむ。此れ別体なし、不放逸の如く彼の四法を離れて相用なきが故なり。能く寂静ならしむるは即ち四の法なるが故に、寂静ならしむる所は即ち心等なるが故なり」と云えり。是れ唯識大乗に於いては、説一切有部の如く捨に別体あるを認めず、精進及び無貪無瞋無癡の四法が心をして掉挙等の障を離れ、寂静にして住せしむるを名づけて捨となせるものにして、前の倶舎等の説と異あるを見るべし。又「大毘婆沙論巻95」、「瑜伽師地論巻29」等には、七覚支の中の捨覚支を以って奢摩他品の所摂となせるも、「大般涅槃経巻30」には奢摩他毘鉢舎那の異相を見ざるを捨と名づくとせり。即ち彼の文に「若し色相を取るも、色の常無常相を観ずる能わざる、是れを三昧と名づけ、若し能く色の常無常相を観ずる、是れを慧相と名づけ、三昧と慧と等しく一切法を観ずる、是れを捨相と名づく。(中略)又奢摩他とは名づけて寂静と曰う、能く三業をして寂静を成ぜしむるが故なり。又奢摩他とは名づけて遠離と曰う、能く衆生をして五欲を離れしむるが故なり。又奢摩他とは能清と曰う、能く貪欲瞋恚愚癡の三濁の法を清むるが故なり。是の義を以っての故に、故に定相と名づく。毘婆舎那は名づけて正見となし、亦た了見と名づけ、名づけて能見となし、名づけて遍見と曰い、次第見と名づけ、別相見と名づく。是れを名づけて慧となす。憂畢叉とは名づけて平等と曰い、亦た不諍と名づけ、又不観と名づけ、又不行と名づく。是れを名づけて捨となす」と云える其の説なり。又「摩訶止観巻上」に此の意を承け「止は即ち奢摩他、観は即ち毘婆舎那なり。他と那と等しきが故に即ち憂畢叉は三徳に通ず」と云い、捨を以って中道観の異名となせるは、即ち其の義を転用したるものというべし。又「大毘婆沙論巻42」、「成実論巻6」、「顕揚聖教論巻1」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻25」、「順正理論巻11」、「大乗義章巻10」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻6本」等に出づ。(二)三受の一。五受の一。又捨受、不苦不楽受aduhkhaasukha- vedanaa、或いは不苦不楽覚とも名づく。即ち中容の境を領納することによりて生ずる処中の覚受を云う。「大毘婆沙論巻143」に、「不苦不楽受は、唯不明利不軽躁にして安住するが故に合して一を立つ」と云い、「倶舎論巻3」に、「中は謂わく非悦非不悦なり、是れ即ち不苦不楽受なり。此の処中の受を名づけて捨根となす」と云い、「成唯識論巻5」に、「中容の境相を領し、身に於いて心に於いて、逼に非ず悦に非ざるを不苦不楽受と名づく」と云える是れなり。是れ不苦不楽の処中の受を捨と名づけたるなり。静慮支の中には、第四静慮の四支中に非苦楽受あり、是れ第四静慮は唯捨受に順ずるが故なり。又「大毘婆沙論巻115」に三受業を三界九地に配する中、広果繋の善業及び無色界繋の善業を以って順不苦不楽受業となせり。是れ欲界及び下三静慮地には順不苦不楽受業なしとするの意なり。又「成実論巻6辯三受品」には「雑阿含経巻17」の意に依り、楽受は貪、苦受は瞋、捨受は無明の為に使わることを明し、「不苦不楽受は其の相寂滅なること無色定の如し。寂滅なるを以っての故に煩悩細行す、凡夫は中に於いて解脱の想を生ず。是の故に仏は此の中に無明使ありと説く」と云えり。又八識の中、前六識は皆三受と相応するも、第七第八の二識は唯捨受とのみ相応す。是れ第八識は其の行相極めて微細にして、違順の境相を分別すること能わず、又第七識は恒に内門に転じて転易なく、変異受と相応せざるに由るなり。又「中阿含巻58法楽比丘尼経」、「発智論巻14」、「大毘婆沙論巻142」、「成唯識論巻3、5」、「大乗義章巻7」、「倶舎論光記巻3、28」、「成唯識論述記巻3本、5本」等に出づ。(三)捨失の意。得に対す。即ち已に得せるものを今捨失するを云う。不成就と同義なり。「大毘婆沙論巻63」に、「是の如き九遍知は誰か幾ばくか捨し、誰か幾ばくか得する。答う諸の有情あり、捨なく得なし、謂わく諸の異生なり」と云い、又「大毘婆沙論巻117」に、「不律儀に住する者にして八戒斎を受くる時は、不律儀を捨して律儀を得す。明旦に至る時、律儀を捨するも不律儀を得せず。律儀を得するが故に不律儀を捨し、分斉極まるが故に又律儀を捨す。是の故に非律儀非不律儀と名づく」と云える其の例なり。又「雑阿毘曇心論巻4」、「倶舎論巻21」、「順正理論巻56」、「倶舎論光記巻21」等に出づ。<(望)
財施是一切善法根本故。行者作是念。上四念因緣故。得差煩惱病。今以何因緣故得是四念。則是先世今世。於三寶中少有布施因緣故。所以者何。眾生於無始世界中。不知於三寶中布施故福皆盡滅。是三寶有無量法。是故施亦不盡必得涅槃。 財施とは、是れ一切の善法の根本なるが故に、行者は是の念を作さく、『上の四念の因縁の故に、煩悩の病を差ゆるを得たり。今は、何の因縁を以っての故にか、是の四念を得ん。則ち是れ先世、今世の三宝中に、少しく布施すること有る因縁故なり』、と。所以は何んとなれば、衆生は、無始の世界中に於いて、三宝中に布施するを知らざるが故に、福は皆、尽く滅すればなり。是の三宝には、無量の法有りて、是の故に施も亦た尽きずして、必ず涅槃を得。
『財の施』は、
一切の、
『善法』の、
『根本である!』が故に、
『行者』は、
是の、
『念を作すことになる!』、――
上の、
『四念(念仏、念法、念僧、念戒)』の、
『因縁』の故に、
『煩悩という!』、
『病』を、
『治癒することができた!』が、
今、
何のような、
『因縁を用いて!』、
是の、
『四念』を、
『得るのだろうか?』、
則ち、
是れは、
『先世、今世』の、
『三宝に布施した!』ことが、
『少し有った!』という、
『因縁』の故に、
是の、
『四念』を、
『得られたのである!』。
何故ならば、
『衆生』は、
『無始の世界』中より、
『三宝に布施する!』ことを、
『知らなかった!』が故に、
『布施の福』が、
『皆、尽く!』、
『滅していた!』が、
是の、
『三宝』には、
『無量の法』が、
『有る!』ので、
是の故に、
『布施すれば!』、
『福』が、
『尽きることなく!』、
必ず、
『涅槃』を、
『得られるからである!』。
  (しゃ):<動詞>[本義]間違える/錯誤/当を失する( mistake )、標準に達しない( fall short of )、負債がある( owe )、指定する/選任する/派遣する/差し遣わす( assign, dispatch, send on an errand )、選択する( select )、病が癒える( be recoverd )、等級をつける( grade )。<名詞>区別/差異( difference )、等級( grade, rank )、限界/界限( limit )。<副詞>むしろ/やや( rather )。<形容詞>奇異( strange )、好ましくない/低級( poor, bad )、不揃い/平でない( uneven )。
復次過去諸佛初發心時。皆以少多布施為因緣。如佛說是布施是初助道因緣。 復た次ぎに、過去の諸仏は、初発心の時、皆少多の布施を以って、因縁と為したまえり。仏の、是の布施は、是れ初の助道の因縁なりと説きたまえるが如し。
復た次ぎに、
『過去の諸仏』は、
初めて、
『心』を、
『発された!』時、
皆、
『少しばかり!』の、
『布施』が、
『発心』の、
『因縁であった!』。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
是の、
『布施』が、
『初めて!』の、
『道を助けた!』、
『因縁である!』、と。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻23』:『是菩薩摩訶薩若行檀那波羅蜜時。自行布施亦教人布施。讚歎布施功德。歡喜讚歎行布施者。以是布施因緣故得大財富。是菩薩遠離慳心。布施眾生食飲衣服香華瓔珞房舍臥具燈燭種種資生所須盡給與之。菩薩摩訶薩行是布施及持戒。生天人中得大尊貴。以是持戒布施故得禪定眾。以是布施持戒禪定故得智慧眾解脫眾解脫知見眾。是菩薩因是布施持戒禪定眾智慧眾解脫眾解脫知見眾故。過聲聞辟支佛地入菩薩位。入菩薩位已得淨佛國土成就眾生得一切種智。得一切種智已轉法輪。轉法輪已以三乘法度脫眾生生死。如是須菩提。菩薩以是布施次第行次第學次第道。是事皆不可得。何以故。自性無所有故。』
復次人命無常財物如電。若人不乞猶尚應與。何況乞而不施。以是應施作助道因緣。 復た次ぎに、人命の無常にして、財物は電(いなづま)の如し。若し人乞わずとも、猶尚お応に与うべし。何に況んや乞うて、施さざるをや。是を以っての故に、応に施して、助道の因縁と作すべし。
復た次ぎに、
『人命』は、
『無常であり!』、
『財物』は、
『電光』と、
『同じである!』。
若し、
『人』に、
『乞われなくても!』、
猶お、
『人命、財物』は、
『与えるべきである!』。
況して、
『乞われながら!』、
『施さない!』など、
『言うまでもない!』。
是の故に、
『施して!』、
『助道の因縁』と、
『作すべきなのである!』。
復次財物是種種煩惱罪業因緣。若持戒禪定智慧種種善法。是涅槃因緣。以是故財物尚應自棄。何況好福田中而不布施。 復た次ぎに、財物は、是れ種種の煩悩、罪業の因縁なり。持戒、禅定、智慧、種種の善法の若(ごと)きは、是れ涅槃の因縁なり。是を以っての故に、財物は尚お応に自ら棄つべし。何に況んや、福田中に布施せざるをや。
復た次ぎに、
『財物』は、
種種の、
『煩悩、罪業』の、
『因縁である!』が、
『持戒、禅定、智慧』や、
種種の、
『善法』は、
『涅槃の因縁である!』。
是の故に、
『財物』は、
『乞われなくても!』、
尚お、
自ら、
『棄てるべきであり!』、
況して、
『福田』中に、
『布施しない!』ことなど、
『言うまでもない!』。
譬如有兄弟二人。各擔十斤金行道中更無餘伴。兄作是念我何以不殺弟取金。此曠路中人無知者。弟復生念欲殺兄取金。兄弟各有惡心。語言視瞻皆異。兄弟即自悟還生悔心。我等非人與禽獸何異。同生兄弟而為少金故而生惡心。兄弟共至深水邊。 譬えば、有る兄弟の二人の如し、各十斤の金を擔いて行く道中、更に余の伴無し。兄の是の念を作さく、『我れは何を以ってか、弟を殺して、金を取らざる。此の曠路中には、人の知る者無けん』、と。弟も復た念を生じて、兄を殺して、金を取らんと欲す。兄弟に各悪心有れば、語言、視瞻、皆異なる。兄弟は即ち自ら悟りて、還って悔心を生ずらく、『我等は人に非ず、禽獣と何か異なる。同生の兄弟にして、而も少しの金の為の故に、悪心を生ぜり』、と。兄弟は、共に深水の辺に至れり。
譬えば、
有る、
『兄弟の二人』が、そうである、――
各、
『十斤(1斤=500g)の金』を、
『擔(にな)いながら!』、
『旅行していたが!』、
『道』中に、
『余の伴侶』は、
『無かった!』。
是の時、
『兄』は、こう思った、――
わたしは、
何故、
『弟を殺して!』、
『金』を、
『取らないのか?』。
此の、
『曠野の路』中には、
『知る人』が、
『無いのに!』、と。
『弟』にも、
復た、
『兄を殺して!』、
『金』を、
『取りたい!』という、
是のような、
『思い!』が、
『生じた!』。
『兄弟』には、
各、
『悪心が有った!』ので、
『語言(言葉遣い!)』も、
『視瞻(目つき!)』も、
皆、
『常とは!』、
『異なっていた!』。
『兄弟』は、
そこで、
自ら、
『非を!』、
『悟り!』、
還って、
『後悔の心』が、生じた、――
わたし達は、
『人でない!』。
何処が、
『禽獣』と、
『異なるのか?』。
わたし達は、
『同生』の、
『兄弟なのに!』、
少しばかりの、
『金の為に!』、
『悪心を生じた!』。
『兄弟』は、
共に、
『深い川の辺』に、
『至った!』。
  (たん):担う。背負う。
  曠路(こうろ):曠野の路。人気のないみち。
  視瞻(しせん):目つき。
  悔心(けしん):後悔の心。
  同生(どうしょう):父を同じくする者。
  深水(じんすい):深い川。
兄以金投著水中。弟言。善哉善哉。弟尋復棄金水中。兄復言。善哉善哉。兄弟更互相問。何以故言善哉。各相答言。我以此金故。生不善心欲相危害今得棄之故言善哉。二辭各爾。 兄は、金を以って、水中に投著す。弟の言わく、『善い哉、善い哉』、と。弟は尋いで復た金を水中に棄つ。兄の復た言わく、『善い哉、善い哉』、と。兄弟は更に互に相問わく、『何を以っての故にか、善い哉と言える』、と。各相答えて言わく、『我れは、此の金を以っての故に、不善心を生じて、相危害せんと欲す。今、之を棄つるを得るが故に、善い哉と言えり』、と。二の辞は、各爾り。
『兄』が、
『金』を、
『水中に投げる!』と、
『弟』が、こう言った、――
『善いぞ!』、
『善いぞ!』、と。
『弟』も、
『兄』に、
『続いて!』、
復た、
『金』を、
『水中に棄てる!』と、
『兄』も、
復た、こう言った、――
『善いぞ!』、
『善いぞ!』と。
『兄弟』は、
互に、こう問うた、――
何故、
『善いぞ!』と、
『言ったのか?』、と。
各は、こう答えた、――
わたしは、
此の、
『金』の故に、
『不善心』を、
『生じて!』、
『お前を!』、
『危害しよう!』と、
『思った!』が、
今、
是の、
『金』を、
『棄てることができた!』ので、
故に、
『善いぞ!』と、
『言ったのだ!』、と。
『二人』は、
各、
『爾のように!』、
『告白した!』。
  投著(とうじゃく):なげる。著は動作をあらわす語につく助辞。
  (じ):<名詞>[本義]訴訟( legal case, lawsuit )。自白/自供( oral confession )、言辞/文辞( word, diction, speech, statement )、指令の語( order )、口実/言訳( excuses )。<動詞>講説( speak, talk )、告別/別辞( bid farewell, say good-bye to )、辞退する( decline )、尋問/審問する( try, interrogate )、派遣する( dispatch, expel )、解雇/免職する( dismiss )。
以是故知財為惡心因緣常應自捨。何況施得大福而不施。如說
 施名行寶藏  亦為善親友 
 終始相利益  無有能壞者 
 施為好密蓋  能遮飢渴雨 
 施為堅牢船  能度貧窮海 
 慳為凶衰相  為之生憂畏 
 洗之以施水  則為生福利 
 慳惜不衣食  終身無歡樂 
 雖云有財物  與貧困無異 
 慳人之室宅  譬如丘塚墓 
 求者遠避之  終無有向者 
 如是慳貪人  智者所擯棄 
 命氣雖未盡  與死等無異 
 慳人無福慧  於施無堅要 
 臨當墮死坑  戀惜生懊恨 
 涕泣當獨去  憂悔火燒身 
 好施者安樂  終無有是苦 
 人修布施者  名聞滿十方 
 智者所愛敬  入眾無所畏 
 命終生天上  久必得涅槃
如是等種種訶慳貪讚布施。是名念財施。
是を以っての故に知る、財は、悪心の為の因縁なれば、常に応に自ら捨つべし。何に況んや、施せば大福を得るに、而も施さざるをや。説の如し、
施を宝蔵に行くと名づけ、亦た善なる親友と為す、
終始相利益するも、能く壊る者の有ること無し。
施を好密なる蓋と為す、能く飢渴の雨を遮うればなり、
施を堅牢なる船と為す、能く貧窮の海を度すればなり。
慳を凶衰の相と為す、之が為に憂畏を生ずればなり、
之を洗うに施の水を以うれば、則ち福利を生ずと為す。
慳惜して衣食せずんば、終に身に歓楽無く、
財物有りと云うと雖も、貧困と異なる無し。

慳人の室宅は、譬えば丘塚墓の如く、
求者は之を遠く避け、終に向者の有ること無し。
是の如き慳貪の人は、智者の擯棄する所なれば、
命気未だ尽きずと雖も、死と等しく異なる無し。
慳人に福慧無く、施すに於いて堅要無けれど、
当に死坑に堕せんとするに臨みて、恋惜は懊恨を生ず。

涕泣するも当に独り去り、憂悔の火に身を焼くべきに、
好施の者は安楽にして、終に是の苦の有ること無し。
人にして布施を修すれば、名聞は十方に満ち、
智者の愛敬する所となりて、衆に入りて所畏無く、
命終れば天上に生じ、久しくして必ず涅槃を得。
是れ等の如き種種に慳貪を訶して、布施を讃ずれば、是れを財施を念ずと名づく。
是の故に、こう知る、――
『財』は、
『悪心の因縁である!』が故に、
常に、
『自ら!』、
『捨てなくてはならない!』。
況して、
『施せば!』、
『大福』を、
『得られるのに!』、
『施さないとは!』。
例えば、こう説く通りである、――
『施』を、
『宝蔵に行く!』と、
『称し!』、
亦た、
『善い親友』とも、
『称する!』。
『施』は、
『現在世に!』、
『利益』が、
『有るばかりでなく!』、
『未来世の!』、
『福報』は、
『誰にも壊されない!』。
『施』は、
『好密な!』、
『蓋( umbrella )である!』、
何故ならば、
『飢渴の雨』を、
『遮ることができる!』。
『施』は、
『堅牢な!』、
『船である!』、
何故ならば、
『貧窮の海』を、
『渡ることができる!』。
『慳(物を惜む!)』は、
『凶衰』の、
『相である!』。
『慳』の為に、
『憂畏』が、
『生じるからだ!』。
『慳の垢』を、
『洗う!』のに、
『施の水』を、
『用いれば!』、
則ち、
『福利』を、
『生じることになる!』。
『慳惜して!』、
『衣食を用いなければ!』、
『身の終りまで!』、
『歓楽する!』ことが、
『無い!』。
『財物が有っても!』、
『貧困』と、
『異ならない!』。
『慳人』の、
『室宅(家庭)』は、
譬えば、
『丘、塚、墓』と、
『同じである!』。
『食を求める!』者すら、
遠回りして、
之を、
『避ける!』ので、
終に、
『向かう!』者が、
『無い!』。
是のような、
『慳貪の人』は、
『智者』には、
『擯(しりぞ)けられ!』、
『棄てられて!』、
『命』の、
『気配』が、
『尽きていなくても!』、
『死』と、
『等しく!』、
『異ならない!』。
『慳人』には、
『福』も、
『慧』も、
『無く!』、
『施すことに!』、
『堅固な要塞』が、
『有る訳がない!』のに、
『死の坑』に、
『堕ちようとする!』に、
『臨んで!』、
『恋惜して!』、
『懊恨(懊悩)』を、
『生じる!』。
『慳人』は、
『泣きながら!』、
『独りで!』、
『世』を、
『去り!』、
『憂悲』と、
『後悔』の、
『火』に、
『身を焼くことになる!』のに、
『施を好む!』者は、
『安楽であり!』、
『最後まで!』、
是の、
『苦しみ!』が、
『無い!』。
『人』は、
『布施を修めれば!』、
『名聞』が、
『十方』に、
『満ちて!』、
『智者』には、
『愛し!』、
『敬われ!』、
『衆( people )中に入っても!』、
『畏れる!』所が、
『無く!』、
『命』が、
『終れば!』、
『天上に生じて!』、
『久しくすれば!』、
『必ず!』、
『涅槃を得ることになる!』。
是れ等のように、
種種に、
『慳貪を訶って!』、
『布施』を、
『讃じれば!』、
是れを、
『財施を念じる!』と、
『称するのである!』。
  (ぎょう):あるく。左右の足を交互にあげて進む。
  親友(しんぬ):したしいとも。
  終始(しゅうし):いつも。始めから終わりまで。始終。
  (そう):あい。共に。目的語の人称代名詞をかねる辞。
  好密(こうみつ):目が細かくこのもしい。
  (がい):かさ。日傘、雨傘の類。
  飢渇(きかつ):うえとかわき。
  堅牢(けんろう):堅固。丈夫。
  貧窮(びんぐ):まずしくきわまる。
  (けん):おしむ。
  凶衰(きょうすい):わざわい。災害と衰亡。
  憂畏(うい):うれえおそれる。
  慳惜(けんじゃく):おしむ。物惜しみする。
  衣食(えじき):衣服と食物。
  (けん):おしむ。
  室宅(しったく):すまい。家。
  (く):おか。王者のはか。丘墓。
  (ちょう):つか。高大に盛り上がったはか。墳墓。
  (ぼ):はか。土を盛らない庶民のはか。
  (こう):したう。心をむける。
  慳貪(けんどん):おしみむさぼる。慳惜と貪欲。
  擯棄(ひんき):退け棄てる。
  命気(みょうけ):いのちといき。寿命と気息。
  慳人(けんにん):物惜しみするひと。
  福慧(ふくえ):福報と智慧。
  堅要(けんよう):堅固な要害。障害物。
  死坑(しきょう):死のあな。死を坑に譬えていうもの。
  恋惜(れんじゃく):いとしみおしむ。
  懊恨(おうこん):なやみうらむ。
  涕泣(たいきゅう):なみだを流して泣く。
  憂悔(うけ):うれいてくやむ。
  好施(こうせ):ほどこしをこのむ。
  名聞(みょうもん):名声。
  愛敬(あいきょう):愛し敬う。
  (しゅ):多くのひと。
  命終(みょうじゅう):いのちのおわり。またその時。
云何念法施。行者作是念。法施利益甚大。法施因緣故一切佛弟子等得道。 云何が法施を念ずる。行者の是の念を作さく、『法施の利益は甚大なり。法施の因縁の故に、一切の仏弟子等、道を得』、と。
何のように、
『法』を、
『施す!』ことを、
『念じるのか?』、――
『行者』が、
是の、
『念を作すことである!』、――
『法の施』の、
『利益』は、
『甚だ大きい!』。
『法の施』の、
『因縁』の故に、
一切の、
『仏弟子』等が、
『道』を、
『得るからである!』、と。
復次佛說二種施中法施為第一。何以故。財施果報有量。法施果報無量。財施欲界報。法施三界報。亦出三界報。若不求名聞財利力勢。但為學佛道弘大慈悲。度眾生生老病死苦。是名清淨法施。若不爾者為如市易法。 復た次ぎに、仏の説きたまわく、『二種の施中には、法施を第一と為す。何を以っての故に、財施の果報は有量なれど、法施の果報は無量なればなり。財施は、欲界の報あり、法施には三界の報ありて、亦た三界を出づる報あり。若し名聞、財利、力勢を求めず、但だ仏道を学びて、大慈悲を弘め、衆生の生老病死の苦を度せんが為なれば、是れを清浄の法施と名づく。若し爾らずんば、法を市易するが如しと為す。
復た次ぎに、
『仏』は、こう説かれている、――
『二種の施』中には、
『法』を、
『施す!』ことが、
『第一である!』。
何故ならば、
『財を施す!』、
『果報』は、
『有量である!』が、
『法を施す!』、
『果報』は、
『無量だからである!』。
又、
『財を施せば!』、
『欲界』の、
『果報があり!』、
『法を施せば!』、
『三界』の、
『果報ばかりでなく!』、
亦た、
『三界を出るという!』、
『果報もある!』。
『法を施す!』時、
若し、
『名聞、財利、力勢』を、
『求めず!』、
但だ、
『仏道を学んで!』、
『大慈悲の心』を、
『拡げ!』、
『衆生の生老病死の苦』を、
『度す為に!』、
『法を施せば!』、
是れを、
『清浄な法施』と、
『称し!』、
若し、
爾うでなければ、
是れを、
『法を売買するようだ!』と、
『称する!』。
  市易(しやく):貿易。交易。売買。
復次財施施多財物減少。法施施多法更增益。財施是無量世中舊法。法施聖法初來未得。名為新法。財施但能救諸飢渴寒熱等病。法施能除九十八諸煩惱等病。如是等種種因緣。分別財施法施。行者應念法施。 復た次ぎに、財施は施すこと多ければ、財物減少し、法施は施すこと多ければ、法は更に増益す。財施は、是れ無量世中の旧法にして、法施は聖法の初より来(このかた)、未だ得ざれば、名づけて新法と為す。財施は、但だ能く諸の飢渴、寒熱等の病を救い、法施は、能く九十八の諸煩悩等の病を除く。是れ等の如き種種の因縁もて、財施、法施を分別して、行者は応に法施を念ずべし。
復た次ぎに、
『財施』は、
『多く!』、
『施せば!』、
『施すほど!』、
則ち、
『財物』が、
『減少する!』が、
『法施』は、
『多く!』、
『施せば!』、
『施すほど!』、
更に、
『法』が、
『増益する!』。
『財施』は、
『無量世』中の、
『旧法である!』が、
『法施』は、
『聖法』の、
『初めより!』、
『得られなかった!』ので、
是れを、
『新法』と、
『称する!』。
『財施』は、
但だ、
諸の、
『飢渴、寒熱等の病』を、
『救うだけだが!』、
『法施』は、
『九十八種』の、
諸の、
『煩悩等の病』を、
『除く!』。
是れ等のように、
種種の、
『因縁を用いて!』、
『財施、法施』を、
『分別して!』、
『行者』は、
『法施』を、
『念じなければならない!』。
問曰。何等是法施。 問うて曰く、何等か、是れ法施なる。
問い、
何を、
『法施』と、
『言うのですか?』。
答曰。佛所說十二部經。清淨心為福德與他說。是名法施。復有以神通力令人得道。亦名法施。 答えて曰く、仏の所説の十二部経を、清浄心もて、福徳を他に与えんが為に説く、是れを法施と名づく。復た神通力を以って、人をして道を得しむる有れば、亦た法施と名づく。
答え、
『仏が説かれた!』、
『十二部の経』を、
『清浄心』で、
『他人』に、
『福徳を与える!』為に、
『説けば!』、
是れを、
『法施』と、
『称し!』、
復た、
有る者が、
『神通力を用いて!』、
『人』に、
『道』を、
『得させれば!』、
是れも、
『法施』と、
『呼ばれる!』。
如網明菩薩經中說。有人見佛光明。得道者生天者。如是等口雖不說令他得法故。亦名法施。 網明菩薩経中に説けるが如し、『有る人は、仏の光明を見て、道を得る者なり。天に生ずる者なり』、と。是れ等の如く、口に説かずと雖も、他をして法を得しむるが故に、亦た法施と名づく。
例えば、
『網明菩薩経』中には、こう説かれている、――
有る人は、
『仏』の、
『光明を見て!』、
『道』を、
『得る者である!』、
有るいは、
『天』に、
『生じる者である!』、と。
是れ等のように、
『口で説かなくても!』、
『他』に、
『法』を、
『得させられれば!』、
亦た、
『法施』と、
『称するのである!』。
  参考:『勝思惟梵天所問経巻1』:『爾時網明童子菩薩即從坐起。整服右肩右膝著地。頂禮佛足合掌向佛。動此三千大千世界。觀察三千大千世界一切眾生。而白佛言。世尊。我欲少問。若佛聽者。乃敢諮請。佛言。網明。恣汝所問。我當解說悅可爾心。於是網明童子菩薩。既蒙聽許心大歡喜。即白佛言。世尊。如來身相超百千萬日月光明。我自惟念。若有眾生能見佛身及思惟者。甚為希有。我復思惟。若有眾生能見佛身及思惟者。皆是如來威神之力。佛言。網明。如是如是。如汝所言。若佛如來不加威神。眾生無有能見佛身及思惟者。亦無有能問如來者。何以故。網明。如來有光名寂莊嚴。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能見佛身思惟佛身不壞眼根。網明。如來有光名無畏辯。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來其辯無盡。網明。如來有光名集一切諸善根本。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來轉輪聖王行業因緣。如來有光名淨莊嚴。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來天帝釋王行業因緣。如來有光名曰自在。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來大梵天王行業因緣。如來有光名離煩惱。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來聲聞乘人所行之道。如來有光名善遠離。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來緣覺乘人所行之道。如來有光名益一切智智。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。能問如來最上佛乘大乘之道。如來有光名曰住益佛來去時足下光明。若以此光觸諸眾生。遇斯光者。隨所壽終生於天上。如來有光名一切莊嚴。若佛入城放斯光明。眾生遇者得樂歡喜。諸莊嚴具莊嚴其城。如來有光名曰分散。若以此光觸諸世界。無量無邊世界震動。如來有光名曰生樂。若以此光觸諸眾生。能滅地獄眾生苦惱。如來有光名曰上慈。若以此光觸諸眾生。能令畜生不相殺害。如來有光名曰涼樂。若以此光觸諸眾生。能滅餓鬼飢渴熱惱。如來有光名曰明淨。若以此光觸諸眾生。能令盲者得眼能視。如來有光名曰聽聰。若以此光觸諸眾生。能令聾者得耳聞聲。如來有光名曰止息。若以此光觸諸眾生。住十不善惡業道者。能令安住十善業道。如來有光名曰慚愧。若以此光觸諸眾生。能令狂者皆得正念。如來有光名曰離惡。若以此光觸諸眾生。令邪見者皆得正見。如來有光名曰能捨。若以此光觸諸眾生。能令慳者破慳貪心修行布施。如來有光名無悔熱。若以此光觸諸眾生。令毀禁者皆得持戒。如來有光名曰安利。若以此光觸諸眾生。能令瞋者皆行忍辱。如來有光名曰勤修。若以此光觸諸眾生。令懈怠者皆行精進。如來有光名曰一心。若以此光觸諸眾生。令忘念者皆得禪定。如來有光名曰能解。若以此光觸諸眾生。令愚癡者皆得智慧。如來有光名無垢淨。若以此光觸諸眾生。令不信者皆得正信。如來有光名曰能持。若以此光觸諸眾生。令少聞者皆得多聞。如來有光名曰威儀。若以此光觸諸眾生。無慚愧者皆得慚愧。如來有光名曰安隱。若以此光觸諸眾生。令多欲者斷除婬欲。如來有光名曰歡喜。若以此光觸諸眾生。令多怒者斷除瞋恚。如來有光名曰照明。若以此光觸諸眾生。令多癡者觀十二緣斷除愚癡。如來有光名曰遍行。若以此光觸諸眾生。令等分者斷除等分。網明如來有光名曰示現一切種色。若以此光觸諸眾生。能令遇者皆見佛身種種異色無量種色過百千萬色。網明。當知如來若以一劫。若餘殘劫。依於如來光明說法不可窮盡。是故如來應正遍知光明功德。無量無邊不可窮盡』
是法施應觀眾生心性煩惱多少智慧利鈍。應隨所利益而為說法。譬如隨病服藥則有益。有婬欲重有瞋恚重有愚癡重。有兩兩雜三三雜。婬重者為說不淨觀。瞋重者為說慈心。癡重者為說深因緣。兩雜者說兩觀。三雜者說三觀。若人不知病相。錯投藥者病則為增。 是の法施は、応に衆生の心性、煩悩の多少、智慧の利鈍を観ずべく、応に利益する所に随うて、為に法を説くべし。譬えば病に随いて、薬を服めば、則ち益有るが如く、有るいは婬欲重く、有るいは瞋恚重く、有るいは愚痴重く、有るいは両両雑え、三三雑うれば、婬重くんば、為に不浄観を説き、瞋重くんば、為に慈心を説き、癡重くんば、為に深き因縁を説き、両を雑うれば両観を説き、三雑うれば三観を説く。若し人、病相を知らずして、錯ちて薬を投ぜば、病は即ち為に増さん。
是の、
『法施』は、
『衆生』の、
『心性』、
『煩悩の多少』、
『智慧の利鈍』を、
『観察しなければならず!』、
『利益する!』所の、
『衆生に随って!』、
『法』を、
『説かなければならない!』。
譬えば、
『病に応じて!』、
『薬』を、
『服めば!』、
則ち、
『益が有る!』のと、
『同じである!』。
有る者は、
『婬欲という!』、
『煩悩』が、
『重く!』、
有る者は、
『瞋恚という!』、
『煩悩』が、
『重く!』、
有る者は、
『愚痴という!』、
『煩悩』が、
『重く!』、
有る者は、
『煩悩』を、
『両(ふたつ)づつ!』、
『雑(まじ)え!』、
有る者は、
『煩悩』が、
『三(みっつ)づつ!』、
『雑えるのである!』が、
有る人が、
若し、
『淫(貪 or 婬)が重ければ!』、
『不浄観』を、
『説き!』、
若し、
『瞋が重ければ!』、
『慈心』を、
『説き!』、
若し、
『癡を重ければ!』、
『深い因縁』を、
『説き!』、
若し、
『両を雑えていれば!』、
『両の観』を、
『説き!』、
若し、
『三を雑えていれば!』、
『三の観』を、
『説く!』。
若し、
『人』が、
『病の相』を、
『知らずに!』、
『薬』を、
『誤って!』、
『投じれば!』、
則ち、
『病』が、
『増すからである!』。
若著眾生相者。為說但有五眾此中無我。若言無眾生相者。即為說五眾相續有。不令墮斷滅故。求富樂者為說布施。欲生天者為說持戒。 若し衆生相に著せば、為に『但だ五衆有りて、此の中には我無し』、と説き、若し、『衆生相無し』と言わば、即ち為に『五衆の相続有り』、と説く、断滅に堕せしめざらんが故なり。富楽を求むる者には、為に布施を説き、天に生ぜんと欲する者には、為に持戒を説く。
有る者が、
若し、
『衆生という!』、
『相』に、
『著していれば!』、
是の、
『人』の為には、こう説く、――
但だ、
『五衆』が、
『有るだけで!』、
此の中には、
『我』は、
『無い!』、と。
若し、こう言えば、――
『衆生という!』、
『相』は、
『無い!』、と。
是の、
『人』の為には、こう説く、――
『五衆』は、
『相続して!』、
『有る!』、と。
是の、
『人』を、
『断滅』に、
『堕ちいらせない為である!』。
若し、
『富、楽』を、
『求めていれば!』、
是の、
『人』の為には、
『布施』を、
『説き!』、
若し、
『天』に、
『生まれたい!』と、
『思っていれば!』、
是の、
『人』の為には、
『持戒』を、
『説くのである!』。
人中多所貧乏者。為說天上事。惱患居家者。為說出家法。著錢財居家者。為說在家五戒法。若不樂世間。為說三法印。無常無我涅槃。依隨經法自演作義理。譬喻莊嚴法施為眾生說。如是等種種利益。故當念法施。 人中に貧乏する所多き者には、為に天上の事を説き、悩患する居家の者には、為に出家の法を説き、銭、財に著する居家の者には、為に在家の五戒の法を説き、若し世間を楽しまざれば、為に三法印の無常、無我、涅槃を説き、経法に依って随い、自ら演じて、義理、譬喩を作りて、法施を荘厳し、衆生の為に説く。是れ等の如き、種種の利益の故に当に法施を念ずべし。
若し、
『人』中に、
『多く!』の、
『物』が、
『欠乏しておれば!』、
是の、
『人』の為には、
『天上の事』を、
『説き!』、
若し、
『悩み!』、
『患う!』、
『居家の者ならば!』、
是の、
『人』の為には、
『出家の法』を、
『説き!』、
若し、
『銭、財に著する!』、
『居家の者ならば!』、
是の、
『人』の為には、
『在家の五戒の法』を、
『説き!』、
若し、
『世間を楽しまなければ!』、
是の、
『人』の為に、
『諸行無常、諸法無我、涅槃寂静』という、
『三法印』を、
『説き!』、
『経法に随って!』、
自ら、
『義理を演繹して!』、
『譬喩』を、
『作り!』、
『法施を荘厳して!』、
『衆生』の為に、
『説く!』。
是れ等のような、
種種の、
『利益』の故に、
当然、
『法施』を、
『念じなければならない!』。
  貧乏(びんぼう):まずしい。貨財をかく。
  悩患(のうげん):なやみうれう。
  三法印(さんぽういん):三種の法印の意。即ち仏教の教説として印可せらるる範疇に、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三種あるを云う。『大智度論巻14上注:三法印、巻22上』参照。
  依随(えずい):たよってしたがう。
  演作(えんさ):敷衍して作る。作って延べ説く。
捨煩惱者。三結乃至九十八使等皆斷除卻。是名為捨。念捨是法如捨毒蛇如捨桎梏。得安隱歡喜。 煩悩を捨つとは、三結、乃至九十八使等は、皆断除して却(しりぞ)く。是れを名づけて捨と為す。是の法を捨てんと念ずること、毒蛇を捨つるが如く、桎梏を捨つるが如くなれば、安隠、歓喜を得。
『煩悩を捨てる!』とは、
『三結、乃至九十八使』等の、
『煩悩』を、
皆、
『断じ!』、
『除いて!』、
『却(しりぞ)ける!』こと、
是れを、
『捨』と、
『称する!』。
是の、
『法』を、
『捨てよう!』と、
『念じて!』、
譬えば、
『毒蛇、桎梏』を、
『捨てるようにすれば!』、
則ち、
『安隠、歓喜』を、
『得るからである!』。
  除却(じょきゃく):のぞきさる。
  三結(さんけつ):三種の結煩悩の意。即ち見結、戒取結、疑結なり。『大智度論巻3下注:結、巻41下注:結』参照。
  九十八使(くじゅうはっし):見惑八十八使、修惑十使の総称。『大智度論巻7上注:九十八随眠、巻14下注:九十八使』参照。
復次念捨煩惱亦入念法中。 復た次ぎに、煩悩を捨てんと念ずれば、亦た念法中に入る。
復た次ぎに、
『煩悩』を、
『捨てよう!』と、
『念じる!』者は、
亦た、
『念法』中に、
『入ることになる!』。
問曰。若入念法中。今何以更說。 問うて曰く、若し念法中に入らば、今は何を以ってか、更に説く。
問い、
若し、
『捨を念じて!』、
『念法』中に、
『入るならば!』、
今は、
何故、
更に、
『念捨』を、
『説くのですか?』。
答曰。捨諸煩惱。是法微妙難得無上無量。是故更別說。 答えて曰く、諸の煩悩を捨つる、是の法は微妙にして得難く、無上、無量なれば、是の故に更に別に説けり。
答え、
諸の、
『煩悩』を、
『捨てるという!』、
是の、
『法』は、
『微妙であり!』、
『得難く!』、
『無上、無量である!』ので、
是の故に、
更に、
『別けて!』、
『説いたのである!』。
復次念法與念捨異。念法念佛法微妙諸法中第一。念捨念諸煩惱罪惡捨之為快。行相別。是為異。 復た次ぎに、念法と念捨とは異なり。念法、念仏の法の微妙なること、諸法中に第一なり。念捨は、諸の煩悩、罪悪を念じて、之を捨つれば、快しと為す。行相別なれば、是れを異と為す。
復た次ぎに、
『念法』と、
『念捨』とは、
『異なるからである!』。
『念法、念仏という!』、
是の、
『法』が、
『微妙である!』のは、
諸の、
『法』中に、
『第一である!』が、
『念捨』は、
諸の、
『煩悩、罪悪を念じて!』、
之を、
『捨てれば!』、
『愉快である!』ので、
是のように、
『行』の、
『相』が、
『別であり!』、
是れを、
『異なる!』と、
『称するのである!』。
如是等種種因緣。行者當念捨。念捨者是初學禪智。中畏生增上慢。 是れ等の如き種種の因縁に、行者は当に捨を念ずべし。捨を念ずる者は、是れ初学の禅智中に、増上慢を生ずるを畏るるなり。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、
『行者』は、
当然、
『捨』を、
『念じねばならない!』。
何故ならば、
『捨を念じる!』者は、
『初学』の、
『禅、智中に生じる!』、
『増上慢』を、
『畏れるからである!』。



天を念じる

念天者有四天王天乃至他化自在天。 天を念ずとは、四天王天、乃至他化自在天有り。
『天を念じる!』とは、――
『天』には、
『四天王天、乃至他化自在天』が、
『有る!』。
問曰。佛弟子應一心念佛及佛法。何以念天。 問うて曰く、仏弟子は、応に一心に、仏及び仏法を念ずべし。何を以ってか、天を念ずる。
問い、
『仏』の、
『弟子ならば!』、
当然、
『一心』に、
『仏と、仏の法』とを、
『念じなくてはならない!』。
何故、
『天』を、
『念じるのですか?』。
答曰。知布施業因緣果報故。受天上富樂。以是因緣故念天。 答えて曰く、布施の業の因縁と、果報とを知るが故に、天上の富楽を受くれば、是の因縁を以っての故に、天を念ず。
答え、
『布施の業』の、
『因縁』と、
『果報』とを、
『知る!』が故に、
『天上』の、
『富楽』を、
『受ける!』ので、
是の、
『因縁』の故に、
『天』を、
『念じるのである!』。
復次是八念佛自說因緣。念天者。應作是念有四天王天。是天五善法因緣故生彼中。信罪福受持戒聞善法修布施學智慧。我亦有是五法。以是故歡喜。言天以是五法故生富樂處。我亦有是我欲生彼亦可得生。我以天福無常故不受。乃至他化自在天亦如是。 復た次ぎに、是の八念は、仏の自ら因縁を説きたまわく、『天を念ず者は、応に是の念を作すべし。四天王天有り、是の天は、五善法の因縁の故に彼の中に生ず、罪福を信じ、戒を受けて持(たも)ち、善法を聞き、布施を修め、智慧を学ぶなり。我れも亦た是の五法有れば、是を以っての故に歓喜す。天と言うは、是の五法を以っての故に生ずる富楽の処なり。我れも亦た、是の我有りて、彼(かしこ)に生ぜんと欲すれば、亦た生を得べけん。我れは、天の福の無常なるを以っての故に受けざること、乃至他化自在天も亦た是の如し』、と。
復た次ぎに、
是の、
『八念の因縁』を、
『仏』は、
自ら、こう説かれている、――
『天を念じる!』者は、
こう念じなければならない、――
『四天王天が有る!』が、
是の、
『天』は、
『五善法の因縁』の故に、
彼の、
『天』に、
『生じるのである!』。
謂わゆる、
『罪、福』の、
『報が有る!』と、
『信じて!』、
『戒』を、
『受けて!』、
『持(たも)ち!』、
『善法』を、
『人より!』、
『聞き!』、
『布施』を、
『修めて!』、
『智慧』を、
『学ぶことである!』が、
わたしにも、
是の、
『五法』が、
『有り!』、
是の故に、
『歓喜するのである!』。
謂わゆる、
『天』とは、
是の、
『五法』の故に
『生まれる!』、
『富楽の処である!』。
わたしにも、
是の、
『我』が、
『有り!』、
わたしが、
彼の、
『処』に、
『生まれたい!』と、
『思えば!』、
亦た、
『容易に!』、
『生まれることができる!』が、
わたしは、
『天』の、
『福は無常である!』と、
『知る!』が故に、
是の、
『福』を、
『受けないだけである!』。
乃至、
『他化自在天』の、
『福』も、
『是の通りである!』、と。
問曰。三界中清淨天多。何以故但念欲天。 問うて曰く、三界中には清浄の天多し。何を以っての故にか、但だ欲天を念ず。
問い、
『三界』中には、
『清浄の天』は、
『多い!』が、
何故、
但だ、
『欲界の天』を、
『念じるのですか?』。
答曰。聲聞法中說念欲界天。摩訶衍中。說念一切三界天。 答えて曰く、声聞法中には、欲界の天を念ずと説くも、摩訶衍中には、一切の三界の天を念ずと説く。
答え、
『声聞法』中には、こう説かれているが、――
『欲界』の、
『天』を、
『念じる!』、と。
『摩訶衍』中には、こう説いている、――
『三界』の、
『一切の天』を、
『念じる!』、と。
行者未得道時。或心著人間五欲。以是故佛說念天。若能斷婬欲。則生上二界天中。若不能斷婬欲。即生六欲天中。是中有妙細清淨五欲。佛雖不欲令人更生受五欲。有眾生不任入涅槃。為是眾生故。說念天。 行者は、未だ道を得ざる時には、或は心、人間の五欲に著す。是を以っての故に、仏の天を念ずるを説きたまわく、『若し能く、婬欲を断ずれば、則ち上二界の天中に生じ、若し婬欲を断ずる能わざれば、即ち六欲天中に生ず。是の中には、妙細、清浄の五欲有り』、と。仏は人をして、更に生じて、五欲を受けしめんと欲したまわずと雖も、有る衆生は、涅槃に入るに任えざれば、是の衆生の為の故に、天を念ずることを説きたまえり。
『行者』が、
未だ、
『道』を、
『得ていなければ!』、
或は、
『心』が、
『人間の五欲』に、
『著する!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『天を念じる!』ことを、こう説かれた、――
若し、
『婬欲』を、
『断つことができれば!』、
則ち、
『上二界の天』中に、
『生まれるだろう!』。
若し、
『婬欲』を、
『断つことができなければ!』、
即ち、
『六欲天』中に、
『生まれるだろう!』。
是の、
『六欲天』中には、
『微妙、細滑、清浄の五欲』が、
『有るだろう!』、と。
『仏』は、
『人』を、
更に、
『天に生まれて!』、
『五欲を受けさせよう!』と、
『思われた訳ではない!』が、
有る、
『衆生』は、
『涅槃に入る!』ことに、
『任()えられない!』ので、
是の、
『衆生』の為の故に、
『天を念じる!』ことを、
『説かれたのである!』。
  参考:『別訳雑阿含経巻9(187)』:『如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤  獨園。爾時須達多長者。遇病困篤。於時世尊。聞其病甚。即於晨朝。著衣持缽。往詣其家。須達長者。遙見佛來。動身欲起。佛告長者。不須汝起。爾時世尊。別敷座坐。佛告長者。汝所患苦。為可忍不。醫療有降。不至增乎。長者白佛。今所患苦。甚為難忍。所受痛苦。遂漸增長。苦痛逼切。甚可患厭。譬如力人以繩繫於弱劣者頭。[打- 丁+(稯- 禾)]搣掣頓。揉捺其頭。我患首疾。亦復如是。譬如屠家以彼利刀。而開牛腹。撓攪五內。我患腹痛。亦復如是。譬如二大力士。捉彼羸瘦極患之人。向火[火*(高/木)]炙。我患身體。煩熱苦痛。亦復如是。佛告長者。汝於今者。應於佛所生不壞信。法僧及戒。亦當如是。長者白言。如佛所說。四不壞信。我亦具得。佛告長者。依四不壞。爾今次應修於六念。汝當念佛諸功德。憶佛十號。如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。是名念佛。云何念法。如來所說勝妙之法。等同慶善。現在得利。及獲得證。離諸熱惱。不擇時節。能向善趣。現在開示。乃至智者自知。是名念法。云何念僧。常當憶念僧之德行。如來聖僧。得向具足。應病授藥。正真向道。所行次第。不越限度。能隨於佛。所行之法。須陀洹果向須陀洹。斯陀含果向斯陀含。阿那含果向阿那含。阿羅漢果向阿羅漢。是名如來聲聞僧。具足戒定慧解脫解脫知見。為他所請。如是等僧。宜應敬禮合掌向之。是名念僧。云何念戒。自念所行滿足之戒。白淨戒。不瑕戒。不缺戒。不穿漏戒。純淨戒。無垢穢戒。不求財物戒。智者所樂戒。無可譏嫌戒。次應自念。是名念戒。云何念施。己所行施。我得善利。應離慳貪行於布施。心無所著。悉能放捨。若施之時。手自授與。心常樂施。無有厭倦。捨心具足。若有乞索。常為開分。是名念施。云何念天。常當護心念六欲天。念須陀洹斯陀含。生彼六天。須達多白佛言。世尊。如佛所說。六念之法。我已具修。須達白佛。唯願世尊。在此中食。佛默受請。日時既到。須達長者為於如來設眾餚饌。種種備具清淨香潔。設是供已。合掌向佛。而作是言。世尊出世難可值遇。佛為長者。種種說法。示教利喜。從座而去。須達長者於佛去後。尋於其夜。身壞命終。得生天上。既生天上。尋還佛所。須達天子光色倍常。照于祇洹。悉皆大明。頂禮佛足在一面坐。而說偈言 此今猶故是  祇洹之園林  仙聖所住處  林池甚閑靜  法主居其中  我今生喜樂  信戒定慧業  正命能使淨  若能修如是  向來之上行  非種姓財富  能得獲斯事  智慧舍利弗  寂然持禁戒  空處樂恬靜  最勝無倫匹  佛告天曰。如是如是。爾時世尊即說偈言 信戒定慧業  正念能使淨  非種姓財富  能獲如斯事  智慧舍利弗  寂滅能持戒  空處樂恬靜  最上無倫匹  須達天子聞佛所說。歡喜頂禮。於座上沒。還於天宮。爾時世尊於天未曉。入講堂中。敷座而坐。告諸比丘。向有一天。光色倍常。來詣我所。其光暉曜。普照祇洹。悉皆大明。禮我足已。卻坐一面。而說斯偈 此今猶故是  祇洹之園林  仙聖所住處  林池甚閑靜  法主居其中  我今生悅樂  信戒定慧業  正命能使淨  若能修如是  向來之上事  非種姓財富  能獲如斯事  智慧舍利弗  寂然持禁戒  空處樂恬靜  最勝無倫匹  爾時尊者阿難在如來後。聞天說偈。即白佛言。此必是須達長者。得生天上。是故還來讚舍利弗。佛言。如是如是。彼須達多生天上。來至我所。說如斯偈。爾時阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
如國王子在高危處立不可救護。欲自投地。王使人敷厚綿褥墮則不死差於墮地故。 国王の子の、高危の処に在りて立ち、救護すべからざるが如し。自ら地に投ぜんと欲すれば、王は、人をして厚き綿の褥を敷かしめ、則ち死せず。地に堕つるに差(たが)うが故なり。
譬えば、こうである、――
『国王の子』が、
『危険な!』、
『髙処』に、
『立っており!』、
『救護されそうになかった!』ので、
自ら、
『地』に、
『飛び下りようとした!』が、
『王』が、
『人に命じて!』、
『厚い綿の褥』を、
『敷かせた!』ので、
則ち、
『死ぬことはなかった!』。
何故ならば、
『地に堕ちた!』のとは、
『差が有るからである!』。
  (ざい):に。場所を示す辞。於に同じ。
復次有四種天。名天生天淨天生淨天。名天者。如今國王名天子。生天者。從四天王乃至非有想非無想天。淨天者。人中生諸聖人。生淨天者。三界天中生諸聖人。所謂須陀洹家家。斯陀含一種。或於天上得阿那含阿羅漢道。 復た次ぎに、四種の天有り、名天、生天、浄天、生浄天なり。名天とは、今の国王を天子と名づくるが如し。生天とは、四天王、乃至非有想非無想天なり。浄天とは、人中に生まるる諸の聖人なり。生浄天とは、三界の天中に生ずる諸聖人なり。謂わゆる須陀洹、家家、斯陀含、一種、或は天上に阿那含、阿羅漢の道を得たるなり。
復た次ぎに、
『天』には、
『四種有り!』、
『名天』と、
『生天』と、
『浄天』と、
『生浄天である!』。
此の中の、
『名天』とは、
例えば、
『今の国王』を、
『天子』と、
『称するようなものである!』。
『生天』とは、
『四天王天、乃至非有想非無想天である!』。
『浄天』とは、
『人中に生まれた!』、
諸の、
『聖人である!』。
『生浄天』とは、
『三界の天中に生まれた!』、
諸の、
『聖人であり!』、
謂わゆる、
『須陀洹』、
『家家』、
『斯陀含』と、
『一種であり!』、
或は、
『天上』に於いて、
『阿那含、阿羅漢道』を、
『得た者である!』。
  四種天(ししゅてん):人中、天上の衆生にして天の称呼を得たるものに四種の差別あることを云う。即ち「大智度論巻22」に説ける名天、生天、浄天、生浄天なり。『大智度論巻22下注:天』参照。
  (てん):梵語提婆devaの訳。巴梨語同じ。又泥嚩に作る。五趣の一、六道の一、十界の一。又天趣deva- gati、天世界deva- loka、天界、天道、天上、或いは娑嚩羅誐svargaと称す。即ち天人の住する勝妙の世界を云う。其の名称に関し、「正法念処経巻22」に、「諸楽集まるが故に、之を名づけて天と為す」と云い、「大毘婆沙論巻172」に、「諸趣の中に於いて、彼の趣は最勝、最楽、最善、最妙、最高なり。故に天趣と名づく。有るが説く、先に上の身語意の妙行を造作し、増長し、彼に往き彼に生じ、彼の生をして相続せしむ。故に天趣と名づく。有るが説く、天とは是れ仮名仮想なり乃至広説す。有るが説く、光明増するが故に天と名と名づく。彼の自然の身光恒に照して昼夜等しきを以っての故なり。声論者説く、能く照らすが故に天と名づく、現の勝果の照を以って先時所修の因を了するが故なり。復た次ぎに戯楽の故に天と名づく、恒に遊戯して勝楽を受くるを以っての故なり」と云い、又「立世阿毘曇論巻6」に、「云何が天道を説いて提婆と名づくるや。提婆と言うは善行の名なり。善行に因るが故に此の道に於いて生ず。復た提婆を説いて名づけて光明と曰う、恒に光あるが故なり。又提婆とは名づけて聖道と曰い、又提婆とは名づけて意楽と曰い、又提婆とは名づけて上道と曰う。又提婆とは応に一切の善業を修すべく長ずべし、是の義を以っての故に名づけて提婆と曰う」と云い、「大般涅槃経巻18」に、「天とは昼と名づく、天上は昼長くして夜短し。是の故に天と名づく。又復た天とは無愁悩と名づく、常に快楽を受く。是の故に天と名づく。又復た天とは名づけて灯明と為す、能く黒闇を破して大明と為す。是の故に天と名づく。亦た能く悪業の黒闇を破し、善業を得るを以って天上に生ず、是の故に天と名づく。又復た天とは吉と名づく、吉祥を以っての故に名づけて天と為すことを得。又復た天とは名づけて日と曰う、光明あるが故に名づけて曰いて天と為す。是の義を以っての故に名づけて天と為すなり」と云えり。以って其の諸義を見るべし。蓋し梵語提婆devaは、「光を放つ」の義なる語根divより来たれる名詞にして、天上の者、又は尊き者等の意義を有し、普通に神の称呼として用いらるると同時に亦た其れ等の住居する処所をも指すに至れり。就中、其の処所に関しては、「倶舎論巻8」に欲界に六天、色界に四静慮十七天、無色界に四処、即ち三界総じて二十七天ありとなせり。欲界の六天とは一に四大王衆天caaturmahaaraajakaayika- deva、二に三十三天trayastriMza、三に夜摩天yaama、四に覩史多天tuSita、五に楽変化天nirmaaNa- rati、六に他化自在天paramirmita- vaza- vartinなり。之を六欲天SaD- deva- nikaayaと称す。色界四静慮処dhyaana- bhuumika、十七天とは、初静慮処に三天あり、一に梵衆天brahma- kaayika、二に梵輔天brahma- purohita、三に大梵天mahaa- brahmaaNaなり。第二静慮処に亦た三天あり。一に少光天pariittaabhaa、二に無量光天apramaaNaabhaa、三に極光浄天aabhaasvaraなり。第三静慮処に亦た三天あり、一に少浄天pariitta- zubha、二に無量浄天apramaaNa- zubha、三に遍浄天zubha- kRtsnaなり。第四静慮処に八天あり、一に無雲天anabhraka、二に福生天puNya- prasava、三に広果天bRhat- phala、四に無煩天abRha、五に無熱天atapa、六に善現天su- dRza、七に善見天su- darzana、八に色究竟天akaniSThaなり。無色界の四処とは一に空無辺処aakaazaanantyaatana、二に識無辺処vijJaanaananTyaayatana、三に無所有処aakiJcanyaayatana、四に非想非非想処naivasaMjJaa- naasaMjJaayatanaなり。今此等諸天の相状を略説せば、六欲天の中、四大王衆天は亦た照頭摩羅天、四天王天、四大王天、大王天或は四王天とも名づく。即ち蘇迷盧sumeru山に四層級ある中、第四層級に住する持国dhRta- raaSTra、増長viruuDhaka、醜目viruupaakSa、多聞vaizravaNaの四天を指し、並びに其の所部の天衆たる初層級に住する堅手kuruta- paaNi、第二層級に住する持鬘maalaa- dhaara、第三層級に住する恒憍sadaa- matta等の諸藥叉神、及び所部の封邑たる持双yugaM- dhara等の七金山上の天居を総称するなり。故に此の天は六欲天中、其の所領最も広し。其の身量は四分の一俱盧舎にして、人の五十歳を一昼夜とする五百歳を以って定寿とし、初生の時既に五歳の人の如く、生じ已らば身形速かに成満す。次に三十三天は又忉利天と称し、蘇迷盧山頂に住する住善法堂等の三十三天を指すなり。此の山頂は四角形を成し、各面八万踰繕那(有余師は二万踰繕那)にして、四隅に各一峯あり、金剛手vajra- paaNi藥叉神之に住して諸天を守護し、又其の中央に天帝釈zakra- devaanaam- indraの住処たる善見sudarzana宮あり。其の身量は半俱盧舎にして、人の百歳を一昼夜とする一千歳を以って定寿とし、初生の時既に六歳の人の如く、生じ已らば身形速かに成満す。此の二天は地に依りて住するが故に地居天bhuumy- avacaraa devaaHと称し、形を交えて婬を成すこと人と別なきも、而も風気泄らば熱悩便ち除き、人の如く余の不浄なし。次に夜摩天以上の四天并びに色界の諸天は謂わゆる空居天antariikSe- caraa devaaHにして、三十三天の上方空間に各四万踰繕那を隔てて重畳羅列せり。就中、夜摩天は又焔摩天、炎摩天、[火*僉]摩天、焔天、炎天、塩天、時分天、或いは四分天とも云い、其の主を須夜摩天suyaama- devaraaja(又須焔摩天、須燄天に作る)と称す。身量四分の三俱盧舎にして、人の二百歳を一昼夜とする二千歳を定寿とし、纔かに抱いて婬を成し、初生の時既に七歳の人の如く、生じ已らば身形速かに成満す。次に覩史多天は又兜師哆天、兜率陀天、兜率多天、覩史天、兜率天、兜術天、知足天、或いは喜足天とも云い、其の主を刪兜率陀天王saMtuSita- devaraajaと称す。身量一俱盧舎にして、人の四百歳を一昼夜とする四千歳を定寿とし、但だ手を執ることに由りて婬を成し、初生の時既に八歳の人の如く、生じ已らば身形速かに成満す。次に楽変化天は、神通力に由りて自ら五妙欲の境を化作して之を受用す。又化自在王天、化自在天、無憍楽天、無貢高天、不驕楽天、楽無慢天、化楽天、変化天、楽化天、泥摩羅提羅鄰優天、尼摩羅提天、維摩羅眤天、或いは尼摩羅天とも云い、其の主をsunirmita- devaraajaと称す。身量一俱盧舎四分の一にして、人の八百歳を一昼夜とする八千歳を定寿とし、唯相向かいて笑みて婬を成し、初生の時既に九歳の人の如く、生じ已らば身形速かに成満す。次に他化自在天は、他をして妙欲の境を化作せしめて之を受用す。又他化自転天、他化楽天、化応声天、化自在天、波羅蜜尼和耶拔致天、波羅蜜和耶拔致天、波羅尼和耶拔致天、波羅維摩婆奢天、或いは波羅尼蜜天とも云い、其の主を自在天王vazavartti- devaraajaと称す。身量一俱盧舎半にして、人の一千六百歳を一昼夜とする一万六千歳を定寿とし、相視て婬を成し、初生の時既に十歳の人の如く、生じ已らば身形既に成満す。此等四天の所居の宮殿は蘇迷盧山頂の量に等し。但し有余師は処の上なるに随って其の量倍倍に増すとなせり。又此の六欲天は欲境を受用するに三種の別ありと雖も、倶に欲を受くるが故に欲生(kamootpatti)と名づくるなり。次に色界初静慮処に三天ある中、梵衆天は大梵天の所有所化所領の天衆にして、又梵身天、梵世天、或いは梵迦夷天とも称し、身量は半踰繕那、定寿は四分の一大劫なり。梵輔天は大梵天の前に於いて行列侍衛する天衆にして、又梵具天、梵善益天、梵先益天、梵前益天、梵先行天、梵不数楼天、梵輔楼天、梵弗還天、梵富楼天、或いは富楼梵天とも称す。身量一踰繕那、定寿は半大劫なり。大梵天は摩訶梵天、或いは単に梵天とも云い、其の身量一踰繕那半にして、四分の三大劫を定寿とす。此等初静慮の三天は欲不善を離れて喜楽を生ずるが故に離喜楽と称し、所居の宮殿は一の四洲の量に等し。但し有余師は小千界に等しとす。次に第二静慮天に三天ある中、少光天は光明最少なるが故に少光と名づけ、又小光天、少光音天、水微天、光天、波梨陀天、波利陀天、或いは波利答天とも云い、身量二踰繕那にして、定寿は二大劫なり。無量光天は光明転た勝れて測り難く、又無量光音天、無量水天、水無量天、妙光天、阿波羅那天、或いは[疾- 矢+盍]波摩那天とも云い、身量四踰繕那にして、四大劫を定寿とす。極光浄天は其の浄光自他の処を遍照す。又極浄光天、遍勝光天、極光天、光厳天、光曜天、光耀天、光音天、水音天、晃昱天、阿会亘羞天、阿陂亘羞天、或いは阿会亘修天とも称し、身量八踰繕那にして、八大劫を定寿とす。此等第二静慮の三天は、定力に依りて喜楽を生ずるが故に定生喜楽と称し、所居の宮殿は小千界の量に等し。但し有余師は中千界に等しとす。次に第三静慮処に三天ある中、少浄天は意地の楽受(即ち浄)最劣なるが故に少浄と名づく。又少善天、約浄天、少浄天、少静天、少浄果天、浄天、波利多首天、波利首訶天、波利陀首訶天、或いは波栗羞訶天とも云い、身量十六踰繕那にして、十六大劫を定寿とす。無量浄天は其の浄転た増して測り難く、又無量浄果天、無量善天、阿波摩羞天、阿波摩首天、阿波摩首訶天、或いは阿波羅天等とも称し、身量三十二踰繕那にして、三十二大劫を定寿とす。遍浄天は其の浄周普して楽の過ぐるものなく、又極遍浄天、極光浄天、広善天、浄果天、難及浄天、浄難逮天、首訶迦天、或いは羞訖天等とも称し、身量六十四踰繕那にして、六十四大劫を定寿とす。此等第三静慮の三天は、喜を離れて楽を生ずるが故に離喜妙楽と称し、所居の宮殿は中千界の量に等し。但し有余師は大千界に等しとす。又以上初二三静慮処は楽生に三種の別ありと雖も、倶に長時の間苦を離れ楽を受くるが故に楽生sukhootpattiと名づくるなり。次に第四静慮処に八天ある中、無雲天は以下の諸天が皆雲地あるに対し、即ち無雲の初に居るが故に無雲と名づく。又無陰行天、無陰天、無蔭天、無罣礙天、或いは阿那婆迦天とも称し、身量百二十五踰繕那にして、百二十五大劫を定寿とす。福生天は異生の勝福の者の生ずべき所にして、又受福天、得福天、生福天、又は福徳天とも云い、身量二百五十踰繕那にして、二百五十大劫を定寿とす。広果天は異生の果報の中に於いて其の方所最も殊勝なる所にして、又大果天、密果天、或いは果実天とも云い、身量五百踰繕那にして、五百大劫を定寿とす。次に無煩天以上色究竟天に至る五天は所謂五淨居zuddhaavaasa天にして、前の三天の如く凡聖雑居せず、即ち純聖の止まる所なるが故に淨居と称す。就中、無煩天は煩雑なき最初の天にして、又不煩天、無繋天、無広天、不広天、無造天、無誑天、或いは阿浮訶那天とも云い、身量一千踰繕那にして、一千大劫を定寿とす。無熱天は已に雑修静慮上中品の障を伏除し、意楽調柔にして諸の熱悩を離るるが故に無熱と名づく。又不熱天、不悩天、不焼天、無求天、阿陀波天、或いは阿答和天とも云い、身量二千踰繕那にして、二千大劫を定寿とす。善現天は已に上品の雑修静慮を得て、果徳彰れ易きが故に善現と名づく。又善見天、善観天、快見天、或いは妙見天とも称し、身量四千踰繕那にして、四千大劫を定寿とす。善見天は雑修定障の余品微に至り、見ること極めて清徹なるが故に善見と名づく。又大善見天、善現天、楽見天、妙見天、快見天、或いは色天とも云い、身量八千踰繕那にして、八千大劫を定寿とす。色究竟天は色界中能く此の天に過ぐるものなきが故に色究竟と名づく。又究竟天、無小天、阿迦尼吒天、阿迦膩吒天、或いは阿迦貳吒天とも云い、身量一万六千踰繕那にして、一万六千大劫を定寿とす。此等第四静慮の八天は、共に初生の時身量周円にして妙衣服を具し、所居の宮殿は大千界の量に等し。但し有余師は辺際なしとなせり。次に無色界の四処の中、空無辺処は空無辺処定を修するものの受くる異熟にして、又無辺虚空処、無量空処、空処、虚空無辺処天、無辺空処天、空無辺入天、無量空処天、虚空智天、或いは空智天とも称し、二万大劫を定寿とす。識無辺処は識無辺処定を修する者の受くる異熟にして、又無量識処、無辺識処、識処、無辺識処天、識無辺処天、無量識処天、識無辺入天、識無辺天、或いは識智天とも云い、四万大劫を定寿とす。無所有処は無所有処定を修する者の受くる異熟にして、又不用処、無所有処天、無所有智天、無所有入天、無所有天、或いは阿竭然天とも云い、六万大劫を定寿とす。非想非非想処は非想非非想処定を修する者の受くる異熟にして、又有相無想処、非想非非想処天、非想非非想入天、非想非非想天、非有想非無想処天、無思想亦有思想天、或いは有想無想智天とも云い、八万大劫を定寿とす。此の四処は色なきが故に方処なく、唯異熟生の差別に随って之を建立するなり。蓋し天界の説は広く諸経論に散見する所にして、倶舎論には是の如く三界総じて二十七天ありとし、「法乗決定経巻上」、「雑阿毘曇心論巻8」所載の有説、並びに「彰所知論巻上」等に出す所は即ち之に同じと雖も、他の諸経等の所説は廃立一准ならず。就中、「義足経巻下蓮華色比丘尼経」、「中阿含巻9地動経」、並びに「有部毘奈耶雑事巻29」には六欲天中の四大王衆天を闕き、「長阿含経巻20」、「光讃般若経巻5摩訶薩品」、「如来不思議秘密大乗経巻8」、「大集譬喩王経巻下」、「瑜伽師地論巻4」、並びに「梵文大事mahaavastu,avalokita- suutra(2)には、他化自在天の上に別に魔天maara- bhavanaありとなせり。又色界初静慮処に関し、「中阿含経巻43」には唯梵身の一天、「大方広文殊師利根本儀軌経」には亦た大梵の一天とし、「中阿含巻9地動経」、「大智度論巻16」、「倶舎論巻8所掲迦湿弥羅論師説」、「順正理論巻21」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻12」、「阿毘曇心論巻4契経品」、「阿毘曇心論経巻5修多羅品」、「雑阿毘曇心論巻8」には梵衆、梵輔の二天とし、「梵文gaNDavyuuha」には梵眷属brahma- paarSadya(又梵衆、梵会、梵波利沙、梵波利産、梵波産に作る)、梵輔brahma- purohita、大梵mahaa- brahmaの三天、「長阿含経」、「起世経巻8」、「大品般若経巻12無作品」、「摩訶般若鈔経巻2」、「大般若経巻402歓喜品」、「巻403」、「如来不思議秘密大乗経」、「大宝積経巻37」、「大乗菩薩蔵正法経巻9」、「三法度論巻下」、「梵文大事」、「同lalitavistara,5 paricala- parivarta」、「同dharma- saMgraha」には、梵身、梵輔、梵会、大梵の四天、「仏本行集経巻9相師占看品」、「菩薩本業経」には梵、梵衆、梵輔、大梵の四天、「光讃般若経」には梵天、梵迦夷、梵具、梵天の四天、「旧華厳経巻12」、「新華厳経巻21」には梵天、梵身、梵輔、梵眷属の四天、「大方等大集経巻1瓔珞品」には梵天、大梵、梵師、梵衆の四天、「道行般若経巻3漚惒拘舎羅勧助品」、「小品般若経巻2明呪品」、「兜沙経」、「大宝積経巻10」には梵天、梵迦夷、梵輔楼、梵波利産、摩訶梵の五天、「大集譬喩王経」には梵身、梵光、梵衆、梵輔、大梵の五天、「大哀経巻1諸菩薩所生荘厳大会法典品」には梵天、梵忍、梵身、梵満、梵度著、大梵の六天、「巴梨文中部majjhima- nikaaya、120 saGkhaaruppatti- sutta」にはsahasso brahmaa(千梵)、disahasso b.(二千梵)、tisahasso b.(三千梵)、catusahasso b.(四千梵)、paJcasahasso b.(五千梵)、dasasahasso d.(十千梵)、satasahasso b.(百千梵)の七天となせり。又第二静慮処に関し、「中阿含巻43意行経」には唯晃昱の一天、「如来不思議秘密大乗経」、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経巻5」には亦唯少光の一天を挙ぐるも、「大宝積経巻37」には少光、無量光の二天、「大楼炭経」には阿維比、波利答、阿波羅那の三天、「大方等大集経」、「大集譬喩王経」には光(又は有光、光曜、水行、或い[疾- 矢+盍]天)、少光、無量光の三天、「長阿含経」、「起世経」、「仏本行集経」、「大般若経巻402、403」、「光讃般若経」、「大品般若経」、「道行般若経」、「大明度経巻2変謀明慧品」、「摩訶般若鈔経」、「小品般若経」、「旧華厳経巻12十無尽蔵品」、「新華厳経巻21」、「兜沙経」、「大宝積経巻10」、「大哀経」、「巴梨文中部」、「梵文大事」には、光aabha(巴梨名abha)、少光、無量光、光音の四天、「菩薩本業経」には清明、水行、水微、水無量、水音の五天となし、又第三静慮処に関し、「中阿含経巻43」、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経」には唯遍浄の一天、「dharma- saMgraha」には少浄pariitta- zubhaaH、遍浄zubhakRtsnaaHの二天、「大方等大集経」には浄天(又は清浄、約浄、浄厳、或いは首訶)、少浄、無量浄の三天、「長阿含経」、「起世経」、「仏本行集経」、「大般若経巻402、403」、「光讃般若経」、「大品般若経」、「道行般若経」、「小品般若経」、「旧華厳経巻12」、「新華厳経巻21」、「大宝積経巻10」、「大哀経」、「大集譬喩王経」、「巴梨文中部」、「梵文大事」には浄zubha(巴梨名subha)、少浄、無量浄、遍浄の四天、「旧華厳経巻52」には少浄果、無量浄果、浄果、少浄、無量浄、遍浄の六天となせり。又第四静慮処に関し、前記倶舎論には無雲等の三天並びに五淨居の八天を挙ぐるも、「大品般若経」、「大乗菩薩蔵正法経」、「諸行有為経」、「決定義経」、「lalitavistara,dharmasaMgraha」、「順正理論巻21所掲有余師説」、「同上座説」、「阿毘曇心論」、「阿毘曇心論経」、「阿毘曇甘露味経巻上界道品」、「立世阿毘曇論巻6」、「大乗阿毘達磨集論巻3」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」には、共に広果天の次に無想天(或いは無想有情天)を加えて九天となし、又「中阿含経巻43」には五淨居を挙げず、唯果実の一天を出し、「方広大荘厳経巻2降生品」には淨居、阿迦尼吒、摩醯首羅の三天、「光讃般若経」には善見、所見善、於是見、一善の四天を列ね、共に無雲等の三天を掲げず。又「如来不思議秘密大乗経」、「梵文大事」、「巴梨文論事kathaavatthu,2」には、五淨居の外、広果を挙げて凡べて六天とし、「三法度論」には果実、無想の二天を加えて七天、「大宝積経巻37」には広果、有想、無想の三天を加えて八天、「大般若経巻402」、「旧華厳経巻12」、「新華厳経巻21」には広(又は厳飾、密身)、少広(又は少厳飾、少密身)、無量広(又は無量厳飾、無量密身)、広果(又は厳飾果実、密果)の四天、「新華厳経巻69」には無雲、福生、広果、少広の四天、「大仏頂首楞厳経巻9」には福生、福愛、広果、無想の四天、「吽迦陀野儀軌巻上」には自在、無憂、福生、広果の四天を加えて共に九天とし、「長阿含経」、「起世経」、「大般若経巻403」には広、少広、無量広、広果、無想の五天を加えて十天となせり。其の他「巴梨文中部」には、第四静慮処に、広果vehapphala、無煩aviha、無熱atappa、善見sudassi、色究竟akaniTThaの五天、「旧華厳経巻52」には果実、不熱、善現、淨居、阿迦尼吒の五天、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経」には福生、無熱、善見、善現、色究竟の五天、「十誦律巻36」には阿那婆訶、福徳、広果、不熱、喜見、楽見、阿迦尼吒の七天、「義足経」、「大明度経」には守妙、玄妙、福徳、徳淳(又は徳純)、近際、快見、無結愛の七天、「大哀経」には浄身、用果、無揵、於是、善施、善所施、一善の七天、「大集譬喩王経」には広、少広、無量広、広果、無熱、善見、善現、阿迦尼吒の八天、「仏本行集経」には広、少広、無量広、広果、熱、無熱、無比、善現、阿迦尼吒の九天、「兜沙経」には推呵、波栗推呵、阿波堕訶、惟于潘、阿惟潘、阿陀波、無[無/足]、阿迦膩吒、阿惟先惟先尼[口*苛]の九天、「菩薩本業経」には守妙、微妙、広妙、極妙、福愛、受勝、近際、善観、快見、無結愛の十天、「大楼炭経巻4」には維阿、波利多維、阿波摩維呵、阿披波羅、維阿鉢、維呵、阿答和、善見、色、阿迦尼吒の十天、又「大宝積経巻10」には広果、御辞、離辞、仮使、善見、一究竟、淨居の七天ありとし、更に淨居に所奉行決了一処究竟、真究竟、無瞋恚、不親近の四天ありとなせり。之に依るに色界四静慮処、特に其の中の第四静慮処に関し、種種の異説の行われたるを知るなり。又無色界に関しては、諸経論に同じく皆空無辺処等の四処ありとなすも、唯「巴梨文論事」に其の中の空無辺処を闕き、「菩薩本業経」に識慧天、無所念慧天、二十八無色天の三天となすを異とするのみ。又諸天の身量寿量等に関しても諸経論に多説あり、就中、欲界六天の身量に関し、「彰所知論巻上」には四大王衆天以上、順次に四分の一俱盧舎、半俱盧舎、二俱盧舎、四俱盧舎、八俱盧舎、十六俱盧舎なりとし、「瑜伽師地論巻4」には、「四大王衆天の身量は拘盧舎の四分の一なるが如く、三十三天の身量は復た一足を増し、帝釈の身量は半拘盧舎、時分天の身量も亦た半拘盧舎なり。此の上の一切は欲界天の身量の如く、当に知るべし。漸漸に各一足を増す」と云い、又「大楼炭経巻4」には、六欲天の身量は順次に二十里(半由旬)、四十里、八十里、百六十里、三百二十里、六百四十里ありとなせり。又色無色界の諸天の寿量に関し、「長阿含経巻20忉利天品」には、梵迦夷天は一劫、光量天は二劫、遍浄天は三劫、果実天は四劫、無想天は五百劫、無造天は一千劫、無熱天は二千劫、善見天は三千劫、大善見天は四千劫、色究竟天は五千劫、空処は一万劫、識処は二万一千劫、不用処は四万二千劫、有想無想処は八万四千劫なりと云い、「大楼炭経巻4」には梵迦夷天は一劫、光音天は二劫、遍浄天は四劫、遺呼鉢天は八劫、無想天は七劫、阿毘波天は十劫、阿答和天は二十劫、修陀旃天は四十劫、須陀旃尼天は八十劫、阿迦尼吒天は百劫、虚空知天は一万劫、識知天は二万劫、阿竭若天は四万劫、無思想亦有思想天は八万劫なりとし、「立世阿毘曇論巻7寿量品」には梵先行天は二十小劫、梵衆天は四十小劫、大梵天は六十小劫、少光天は百二十小劫、無量光天は百四十小劫、勝偏光天は二大劫、少浄天は二大劫半、無量浄天は三大劫半、遍浄天は四大劫、無雲天は三百大劫、受福天は四百大劫、広果天は五百大劫、無想天は一千大劫、善見天は一千五百大劫、善現天は二千大劫、無煩天は四千大劫、不焼天は八千大劫、阿迦尼吒天は一万六千大劫、空無辺入天の下品は一万七千五百大劫、同中品は一万八千五百大劫、同上品は二万大劫、識無辺入天の下品は三万大劫、同中品は三万五千大劫、同上品は四万大劫、無所有無辺入天の下品は五万大劫、同中品は五万五千大劫、同上品は六万大劫、非想天の下品は七万大劫、同中品は七万五千大劫、同上品は八万大劫なりとせり。又生天の業因に関しても諸経論に多説あり、就中、「四分律巻51」に、「悪業は地獄に堕し、善業は天上に生ず」と云い、「雑阿含経巻37」に、「十善業跡の因縁の故に、身壊し命終して天上に生ずることを得」と云い、「仏為首迦長者説業報差別経」に、「復た十業あり、能く衆生をして欲天の報を得しむ。所謂具足して増上の十善を修行するなり。復た十業あり、能く衆生をして色天の報を得しむ、所謂有漏の十善を修行して定と相応するなり。復た四業あり、能く衆生をして無色天の報を得しむ。一には一切の色想を過ぎ、有対の想等を滅して空処定に入る。二には一切の空処定を過ぎて識処定に入る。三には一切の識処定を過ぎて無所有処定に入る。四には無所有処定を過ぎて非想非非想定に入る。是の四業を以って無色天の報を得」と云い、又「中阿含巻43意行経」に、若し欲を離れ悪不善の法を離れ有覚有観にして離生の喜楽あらば初禅を成就し、乃至命終して梵身天の中に生じ、覚観已に息み、内靖一心、無覚無観にして定生の喜楽あらば第二禅を成就し、乃至命終して晃昱天の中に生じ、喜欲を離れ捨して遊を求むるなく、正念正智にして身に楽を覚え、楽を念じ空に住せば第三禅を成就し、乃至命終して遍浄天の中に生じ、楽苦及び喜憂の本已に滅し、不苦不楽にして捨念清浄なれば第四禅を成就し、乃至命終して果実天の中に生じ、一切の色想を度し、有対の想を滅し、若干の想を念ぜず、無量空なれば無量空処を成就し、乃至命終して無量空処天の中に生じ、無量空処を度し、無量識なれば無量識処を成就し、乃至命終して無量識処天の中に生じ、無量識処を度し、無所有なれば無所有処を成就し、乃至命終して無所有処天の中に生じ、一切無所有処の想を度し、非有想非無想なれば非有想非無想処を成就し、乃至命終して非有想非無想処天の中に生ずべしと云えり。之に依るに欲界諸天は主として世間の善業を以って其の業因とし、色界諸天は四静慮、無色界諸天は四無色定を各生因となせるものなるを知るべし。按ずるに欲界諸天の中、三十三天(因陀羅)及び焔摩は既に吠陀時代より崇拜せられ、又仏陀の当時優波尼沙土を奉ぜる正統婆羅門は、六欲天の上に唯一の梵天ありとし、其の他の修道者は又無想定、四静慮、四無色定を修し、以って無想天、四静慮処、或いは四無色処に生ずべしとなし、各其の行を修習せり。後時代を経るに随い、主として色界諸天の数を増し、終に上記の如き諸説を生ずるに至りしものなるを知るべし。又此等三界諸天の外、転輪聖王及び仏等を呼びて天と称することあり。「分別功徳論巻3」に挙天、生天、清浄天の三種を説き、転輪聖王は衆人の為に挙げられ、十善を以って世に教え、亦た人をして天に生ぜしめ、人の上に在るが故に称して挙天と為し、四天王より二十八天に至る諸天は流転息まず、生死を離れざるが故に名づけて生天となし、仏及び縁覚声聞の三人は皆結使を尽くして三界を出で、清浄無欲なるが故に清浄天となすと云い、「大智度論巻4」にも亦た仮号天、生天、清浄天の三種を明し、「同巻22」には更に名天、生天、浄天、生浄天の四種を説き、「名天とは今の国王を天子と名づくるが如し、生天とは四天王より乃至非有想非無想天なり、浄天とは人中に生ぜる諸の聖人、生浄天とは三界の天中に生ぜる諸の聖人なり」と云い、又「大般涅槃経巻22」には世間天、生天、浄天、義天の四種を挙げ、世間天は国王、生天は四天王等、浄天は須陀洹より辟支仏に至り、義天は十住の菩薩を指すとし、「同巻18」には大涅槃に住する諸仏菩薩を第一義天と名づくべしと云えり。又一般には仏を天中天devaatideva、天人師zaastaa devaanaaM ca manuSyaanaaM、或いは天人所奉尊nara- maru- yakSa- puujitaと称し、天中の最勝尊となすなり。「大教王経巻10」には天を類別して三界主、飛行天、虚空行天、地居天、水居天の五類とし、其の中、三界主に大自在天、那羅延天、拘摩羅、梵天、帝釈の五天、飛行天に甘露軍荼利、月天、大勝杖、金剛氷誐羅の四天、虚空行天に末度末多、作甘露、最勝、持勝の四天、地居天に守蔵、風天、水天、俱尾羅の四天、水居天に縛羅賀、焔摩、必哩体尾祖梨葛、水天の四天並びに其の天后ありとなし、「現図金剛界曼荼羅成身」等の諸会、並びに「胎蔵界曼荼羅外金剛部院」に此等の二十天(大自在天を除く)を図出し、又現大藏經中には毘沙門天、大吉祥天女、摩利支天、訶利帝母、氷揭羅天、穣麌梨童女、大聖歓喜天、金翅鳥王、摩醯首羅天、那羅延天、宝蔵天女、堅牢地天、大黒天、金毘羅童子、焔羅王、深沙大将、十羅刹女、十六善神、八方天、十天、十二天及び諸星宿等の経軌を存せり。又天上に在る華香等には皆天の字を冠し、天華、天香、天楽、天鼓、天冠、天蓋、天衣、天宮、天堂等の称呼あり。「大智度論巻9」に、「天竺国の法は諸の好物を名づけて皆天物と名づく」と云うに依れば、独り天上の物のみならず、地上の好物にも亦た天の字を冠せしめたるものなるを知るべし。又「中阿含巻18天経」、「雑阿含巻30、31」、「増一阿含経巻2、7」、「罵意経」、「光明童子因縁経」、「仏母出生三法蔵般若波羅蜜多経巻4」、「金光明最勝王経巻3」、「法集名数経」、「六趣輪廻経」、「分別業報経」、「較量寿命経」、「諸法集要経巻8持戒品」、「四分律巻51」、「有部尼陀那巻1」、「陀羅尼門諸部要目」、「金剛頂経瑜伽十八会指帰」、「集異門足論巻14」、「発智論巻15」、「大智度論巻30、54」、「瑜伽師地論巻37威力品」、「教律異相巻1」、「法華経文句巻4下」、「大乗義章巻6」、「法苑珠林巻2」、「梵語千字文」、「梵語雑名」、「翻訳名義集巻4」等に出づ。<(望)
  須陀洹(しゅだおん):声聞聖者の四階位中の第一。『大智度論巻18下注:四向四果』参照。
  家家(けけ):声聞十八有学中の第六。斯陀含向の人。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  斯陀含(しだごん):声聞聖者の四階位中の第二。『大智度論巻18下注:四向四果』参照。
  一種(いっしゅ):声聞十八有学中の第七。阿那含向の人。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  阿那含(あなごん):声聞聖者の四階位中の第三。『大智度論巻18下注:四向四果』参照。
  阿羅漢(あらかん):声聞聖者の四階位中の第四。『大智度論巻18下注:四向四果』参照。
生淨天。色界中有五種阿那含。不還是間。即於彼得阿羅漢。無色界中一種阿那含。離色界生無色界。是中修無漏道。得阿羅漢入涅槃。念是二種天生天生淨天。如是等天是名念天。 生浄天の、色界中に有る五種の阿那含は、是の間に還らず、即ち彼に於いて阿羅漢を得。無色界中の一種の阿那含は、色界を離れて、無色界に生じ、是の中に無漏道を修めて、阿羅漢を得、涅槃に入る。是の二種の天なる生天と生浄天を念じ、是れ等の如き天は、是れを天を念ずと名づく。
『生浄天』の、
『色界中に有る!』、
『五種の阿那含(中般、生般、有行般、無行般及び上流般の勝)』は、
是の、
『世間』に、
『還ることなく!』、
彼の、
『天』中に於いて、
『阿羅漢を得!』、
『無色界』中の、
『一種の阿那含(上流般中の劣)』は、
『色界を離れて!』、
『無色界』に、
『生じ!』、
是の中に、
『無漏道を修めて!』、
『阿羅漢を得て!』、
『涅槃』に、
『入る!』。
是の、
『生天、生浄天という!』、
『二種』の、
『天』を、
『念じる!』が故に、
是れ等が、
『天であり!』、
是れを、
『天を念じる!』と、
『称するのである!』。
  五種阿那含(ごしゅのあなごん):十八有学中の中般、生般、有行般、無行般、上流般の五種を云う。『大智度論巻18下注:五阿那含、同巻40上注:十八有学』参照。
念安那般那者。如禪經中說。 安那般那を念ずとは、禅経中に説けるが如し。
『安那般那を念じる!』とは、
『禅経』中に、
『説かれた通りである!』。
  安那般那(あんなぱんな):数息観。『大智度論巻17下注:数息観』参照。
  参考:『坐禅三昧経巻1』:『問曰。若餘不淨念佛四等觀中。亦得斷思覺。何以故。獨數息。答曰。餘觀法寬難失故。數息法急易轉故。譬如放牛。以牛難失故守之少事。如放獼猴易失故守之多事。此亦如是。數息心數不得少時他念。少時他念則失數。以是故初斷思覺應數息。已得數法當行隨法斷諸思覺。入息至竟當隨莫數一。出息至竟當隨莫數二。譬如負債人債主隨逐初不捨離。如是思惟。是入息是還出更有異。出息是還入更有異。是時知入息異出息異。何以故。出息暖入息冷。問曰。入出息是一息。何以故。出息還更入故。譬如含水水暖吐水水冷。冷者還暖暖者還冷故。答曰。不爾。內心動故有息出。出已即滅。鼻口引外則有息入。入故息滅。亦無將出亦無將入。復次少壯老人。少者入息長。壯者入出息等。老者出息長。是故非一息。復次臍邊風發相似相續。息出至口鼻邊。出已便滅。譬如[夢- 夕+棐]囊中風開時即滅。若以口鼻因緣引之則風入。是從新因緣邊生。譬如扇眾緣合故則有風。是時知入出息因緣而有虛誑不真生滅無常。如是思惟。出息從口鼻因緣引之。而有入息因緣心動令生。而惑者不知以為我息。息者是風。與外風無異。地水火空亦復如是。是五大因緣合故生識。識亦如是非我有也。五陰十二入十八持亦復如是。如是知之逐息入息出。是以名隨。已得隨法當行止法。止法者數隨心極住意風門念入出息。問曰。何以故止。答曰。斷諸思覺故。心不散故。數隨息時心不定心多劇故止則心閑少事故心住一處故念息出入。譬如守門人門邊住。觀人入出。止心亦爾。知息出時。從臍心胸咽至口鼻。息入時從口鼻咽胸心至臍。如是繫心一處。是名為止。復次心止法中住觀。入息時五陰生滅異。出息時五陰生滅異。如是心亂便除卻。一心思惟令觀增長。是名為觀法。捨風門住離麤觀法。離麤觀法知息無常。此名轉觀。觀五陰無常。亦念入息出息生滅無常。見初頭息無所從來。次觀後息亦無跡處。因緣合故有。因緣散故無。是名轉觀法。除滅五蓋及諸煩惱。雖先得止觀煩惱不淨心雜今此淨法心獨得清淨。復次前觀異學相似行道念息入出。今無漏道相似行善有漏道。是謂清淨。復次初觀身念止分。漸漸一切身念止。次行痛心念止。是中非清淨無漏道遠故今法念止中。觀十六行念入出息。得煖法頂法忍法世間第一法苦法忍乃至無學盡智。是名清淨。是十六分中初入息分。六種安那般那行。出息分亦如是。一心念息入出若長若短。譬如人怖走上山若擔負重若上氣。如是比是息短。若人極時得安息歡喜。又如得利從獄中出。如是為息長。一切息隨二處。若長若短處。是故言息長息短。是中亦行安那般那六事。念諸息遍身。亦念息出入。悉觀身中諸出息入息。覺知遍至身中乃至足指遍諸毛孔如水入沙。息出覺知從足至髮遍諸毛孔亦如水入沙。譬如[夢- 夕+棐]囊入出皆滿。口鼻風入出亦爾。觀身周遍見風行處。如藕根孔亦如魚網。復心非獨口鼻觀息入出。一切毛孔及九孔中。亦見息入息出。是故知息遍諸身除諸身行。亦念入出息。』



死を念じる

念死者。有二種死。一者自死二者他因緣死。是二種死行者常念。是身若他不殺必當自死。如是有為法中。不應彈指頃生信不死心。是身一切時中皆有死不待老。不應恃是種種憂惱凶衰身。生心望安隱不死。是心癡人所生。身中四大各各相害。如人持毒蛇篋。云何智人以為安隱。若出氣保當還入入息保出。睡眠保復得還覺。是皆難必。何以故。是身內外多怨故。 死を念ずるとは、二種の死有り、一には自ら死し、二には他の因縁にて死す。是の二種の死を、行者の常に念ずらく、『是の身は、若し他に殺されずとも、必ず当に自ら死すべし。是の如き有為法中には、応に弾指の頃にも、不死を信ずる心を生ずべからず。是の身は、一切時中に、皆死の老を待たざる有り。応に是の種種の憂悩、凶衰の身を恃(たの)み、心を生じて、安隠、不死を望むべからず。是の心は癡人の所生なり。身中の四大の各各相害すること、人の毒蛇の篋を持つが如し。云何が智人にして、以って安隠と為さんや。若し気を出して保たんに、当に還って入り、息を入れて保たんには、出で、睡眠して保たんにも、復た還って覚を得べし。是れは皆、必なり難し。何を以っての故に、是の身は、内外に怨多きが故なり。
『死を念じる!』とは、――
『死』には、
『二種有り!』、
一には、
自らの、
『因縁』で、
『死に!』、
二には、
他の、
『因縁』で、
『死ぬのである!』が、
是の、
『二種の死』を、
『行者』は、
『常に!』、こう念じるのである、――
是の、
『身』は、
『他に!』、
『殺されなくても!』、
必ず、
『自ら!』、
『死ぬことになる!』。
是のような、
『有為法』中には、
『弾指の頃(一瞬の時)にも!』、
『不死を信じる!』、
『心』を、
『生じてはならない!』。
是の、
『身』は、
『一切の時(一瞬毎)』中に、
皆、
『老(おゆること)を待たない!』、
『死』が、
『有る!』。
是の、
種種に、
『憂悩、凶衰する!』、
『身』を、
『恃(たの)んで!』、
『安隠、不死を望む!』、
『心』を、
『生じてはならない!』。
是の、
『心』は、
『癡人のみ!』に、
『生じるものだからである!』。
是の、
『身』中には、
『四大が有り!』、
各各が、
『互に!』、
『害し合っている!』。
譬えば、
『人』が、
『毒蛇の篋』を、
『持つ!』のと、
『同じである!』のに、
何故、
『智人』が、
『安隠だ!』と、
『思うのだろうか?』。
若し、
『気息』を、
『出して!』、
『保っていても!』、
必ず、
『還って!』、
『入るはずであり!』、
『気息』を、
『入れて!』、
『保っていたとしても!』、
必ず、
『出るはずである!』。
又、
『睡眠』を、
『保っていても!』、
復た、
『還って!』、
『覚めることになる!』ので、
是れは、
皆、
『必定である!』ことが、
『困難である!』。
何故ならば、
是の、
『身の内、外』には、
『怨』が、
『多いからである!』、と。
如說
 或有胎中死  或有生時死 
 或年壯時死  或老至時死 
 亦如果熟時  種種因緣墮 
 當求免離此  死怨之惡賊 
 是賊難可信  時捨則安隱 
 假使大智人  威德力無上 
 無前亦無後  於今無脫者 
 亦無巧辭謝  無請求得脫 
 亦無捍挌處  可以得免者 
 亦非持淨戒  精進可以脫 
 死賊無憐愍  來時無避處
説くが如し、
或は胎中に死する有り、或は生時に死する有り、
或は年壮んなる時死し、或は老の至れる時死す。
亦た果の熟せる時に、種種の因縁もて墮つるが如く、
当に求めて、此の死怨の悪賊を免れて離るべし、
是の賊は信ずべきこと難く、時に捨つれば則ち安隠なり。

仮使(たとい)大智の人の、威徳力無上にして、
前に無く亦た後に無くとも、今に於いて脱るる者無く、
亦た巧みに辞謝する無く、請い求めて脱るるを得る無く、
亦た捍挌の処にて、以って免るるを得るべき者無く、
亦た浄戒を持ち、精進して以って免るるべきにも非ず、
死の賊には憐愍無く、来たる時には避くる処無し。
譬えば、こう説く通りである、――
或は、
『胎』中に、
『死ぬ!』者も、
『有り!』、
或は、
『生まれる!』時に、
『死ぬ!』者も、
『有り!』、
或は、
『年』の、
『壮(さか)んな!』時に、
『死に!』、
或は、
『老』が、
『至る!』時に、
『死ぬ!』が、
亦た、
『果が熟する!』時、
種種の、
『因縁』で、
『堕ちるようでもある!』が、
此の、
『死という!』、
『怨敵、悪賊』は、、
『免れて離れるよう!』、
『求めなくてはならない!』。
是の、
『賊』は、
『信じようとしても!』、
『難しい!』が、
『時』に、
『捨ててしまえば!』、
『安隠である!』。
仮使(たとい)、
『大智の人』が、
『威、徳、力』が、
『無上であり!』、
『前にも無く!』、
『後にも無いとしても!』、
『今に至るまで!』、
『脱れた!』者は、
『無く!』、
『巧みに!』、
『辞謝(辞退)した!』者も、
『無く!』、
『請求して!』、
『免れられた!』者も、
『無く!』、
『防禦の処』で、
『免れられた!』者も、
『無く!』、
『持戒、精進して!』、
『免れられた!』者も、
『無い!』。
『死の賊』は、
『憐愍しない!』が故に、
『来た!』時には、
『避ける処』が、
『無い!』。
  年壮(ねんしょう):盛んなる年齢。三十歳前後を云う。壮年。
  仮使(けし):たとい。
  (やく):<名詞>[本義]人の腋窩( armpit )。<副詞>もまた/又~の如し( also )、又もや/復た( again )、~と~と( both ....and .... )、僅かに/只だ( but, only )。
  辞謝(じしゃ):ことわる。辞退する。
  請求(しょうぐ):こいもとめる。要求。
  捍挌(かんかく):ふせぎはばむ。防御。
是故行者不應於無常危脆命中而信望活。如佛為比丘說死相義。有一比丘偏袒白佛。我能修是死相。佛言。汝云何修。 是の故に、行者は、応に無常、危脆の命中に於いて、信じて、活くることを望むべからず。仏の比丘の為に、死相の義を説きたもうが如し。有る一比丘、偏袒して、仏に白さく、『我れは能く、是の死相を修す』、と。仏の言わく、『汝は、云何が修する』、と。
是の故に、
『行者』は、
『無常であり!』、
『堅固でない!』、
『命』中に、
『信じて!』、
『活きよう!』と、
『望んではならない!』。
例えば、
『仏』は、
『比丘』の為に、
『死』の、
『相( appearance )』と、
『義( mean )』とを、
こう説かれている、――
有る、
『一比丘』が、
『偏袒して(片肌を脱ぎ)!』、
『仏』に、こう白(もう)した、――
わたしは、
是の、
『死の相』を、
『修めることができました!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前は、
何のように、
『死の相』を、
『修めたのか?』、と。
  危脆(きぜい):あやうくもろい。堅固でない。
  (かつ):いきながらえる。命がたすかる。死なずに逃れる。生存。
  偏袒(へんたん):衣の片肌をぬぐ。
  参考:『増一阿含経巻35』:『聞如是。一時。佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。汝等當修行死想。思惟死想。時。彼座上有一比丘白世尊言。我常修行.思惟死想。世尊告曰。汝云何思惟.修行死想。比丘白佛言。思惟死想時。意欲存七日。思惟七覺意。於如來法中多所饒益。死後無恨。如是。世尊。我思惟死想。世尊告曰。止。止。比丘。此非行死想之行。此名為放逸之法。復有一比丘白世尊言。我能堪任修行死想。世尊告曰。汝云何修行.思惟死想。比丘白佛言。我今作是念。意欲存在六日。思惟如來正法已。便取命終。此則有所增益。如是思惟死想。世尊告曰。止。止。比丘。汝亦是放逸之法。非思惟死想也。復有比丘白佛言。欲存在五日。或言四日。或言三日.二日.一日者。爾時。世尊告諸比丘。止。止。比丘。此亦是放逸之法。非為思惟死想。爾時。復有一比丘白世尊言。我能堪忍修行死想。比丘白佛言。我到時。著衣持缽。入舍衛城乞食已。還出舍衛城。歸所在。入靜室中。思惟七覺意而取命終。此則思惟死想。世尊告曰。止。止。比丘。此亦非思惟.修行死想。汝等諸比丘所說者。皆是放逸之行。非是修行死想之法。是時。世尊重告比丘。其能如婆迦利比丘者。此則名為思惟死想。彼比丘者。善能思惟死想。厭患此身惡露不淨。若比丘思惟死想。繫意在前。心不移動。念出入息往還之數。於其中間思惟七覺意。則於如來法多所饒益。所以然者。一切諸行皆空.皆寂.起者.滅者皆是幻化。無有真實。是故。比丘。當於出入息中思惟死想。便脫生.老.病.死.愁.憂.苦.惱。如是。比丘。當知作如是學。爾時。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
比丘言。我不望過七歲活。佛言。汝為放逸修死相。有比丘言。我不望過七月活。有比丘言七日。有言六五四三二一日活。佛言。汝等皆是放逸修死相。有言從旦至食時。有言一食頃。佛言。汝等亦是放逸修死相。 比丘の言わく、『我れは七歳を過ぎて活くるを望まず』、と。仏の言わく、『汝は放逸にして、死相を修すと為す』、と。有る比丘の言わく、『我れは七月を過ぎて活くるを望まず』、と。有る比丘の言わく、『七日』、と。有るが言わく、『六、五、四、三、二、一日活く』、と。仏の言わく、『汝等は皆、是れ放逸にして、死相を修せり』、と。有るが言わく、『旦より食時に至るまで』、と。有るが言わく、『一食の頃』、と。仏の言わく、『汝等も亦た放逸して、死相を修せり』、と。
『比丘』は、こう言った、――
わたしは、
『七年を過ぎて!』、
『活きよう!』とは、
『望みません!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前は、
『無頓着に!』、
『死の相』を、
『修めたようだな!』、と。
有る、
『比丘』は、こう言った、――
わたしは、
『七月を過ぎて!』、
『活きよう!』とは、
『望みません!』、と。
有る、
『比丘』は、こう言った、――
『七日を過ぎては!』、と。
有る者は、こう言った、――
『六、五、四、三、二、一日を過ぎては!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前達は、
皆、
『無頓着に!』、
『死の相』を、
『修めているのだ!』、と。
有る者が、こう言った、――
『早朝より、昼食の時まで!』、と。
有る者は、こう言った、――
『一食する頃(あいだ)だけ!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
お前達も、
亦た、
『無頓着に!』、
『死の相』を、
『修めたのだ!』、と。
  放逸(ほういつ):梵語 pramatta の訳、又惛醉、放逸、迷醉、雑乱等に訳す。興奮した/むちゃくちゃな/淫らな/発情した( excited, wanton, lascivious, rutting )、酔っ払った( drunken, intoxicated )、気の狂った( mad, insane )、不注意な/無頓着な/忘れっぽい( inattentive, careless, heedless, negligent, forgetful of )、甘えた( indulging in )の義。
  (たん):よあけ。あけがた。
  食時(じきじ):食事時。正午。
  一食頃(いちじきのきょう):食事の間。
一比丘偏袒白佛。我於出氣不望入。於入氣不望出。佛言。是真修死相為不放逸。比丘。一切有為法念念生滅。住時甚少其猶如幻。欺誑無智行者。如是等種種因緣念死相。 一比丘の偏袒して、仏に白さく、『我れは、気を出すに於いては、入るを望まず。気を入るに於いては、出すを望まず』、と。仏の言わく、『是れ真に死相を修して、放逸ならずと為す。比丘、一切の有為法は、念念に生、滅して、住する時は甚だ少なく、其れは猶お幻の如く、無智の行者を欺誑す』、と。是れ等のごとく種種の因縁もて、死相を念ず。
『一比丘が偏袒して!』、
『仏』に、こう白した、――
わたしは、
『気息を出す!』時には、
『入る!』ことを、
『望まず!』、
『気息を入れる!』時には、
『出す!』ことを、
『望みません!』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
是れが、
『真に!』、
『死の相』を、
『修めるということであり!』、
『無頓着に!』、
『修めているのではない!』。
比丘!
一切の、
『有為法』は、
『念念に(一瞬毎に)!』、
『生じたり!』、
『滅したりしている!』ので、
『住まる!』時は、
『甚だ!』、
『少ないのである!』が、
其れが、
『幻のように!』、
『無智』の、
『行者』を、
『欺誑しているのである!』、と。
是れ等のように、
種種の、
『因縁』に、
『死の相』を、
『念じるのである!』。



八念の次第

問曰。法是三世諸佛師。何以故念佛在前。是八念云何有次第。 問うて曰く、法は、是れ三世の諸仏の師なり。何を以っての故にか、念仏の前に在る。是の八念は、云何が次第有る。
問い、
『法』は、
『三世の諸仏』の、
『師である!』が、
何故、
『仏を念じる!』ことが、
『前に在るのですか?』。
是の、
『八念』には、
何のような、
『次第』が、
『有るのですか?』。
答曰。是法雖是十方三世諸佛師。佛能演出是法其功大故。譬如雪山中有寶山。寶山頂有如意寶珠種種寶物多。有人欲上或有半道還者。有近而還者。有一大德國王。憐愍眾生為作大梯。人民大小乃至七歲小兒。皆得上山隨意取如意珠等種種寶物。 答えて曰く、是の法は、是れ十方三世の諸仏の師なりと雖も、仏の、能く是の法を演出したもう、其の功の大なるが故なり。譬えば雪山中に宝山有り、宝山の頂に如意宝珠有りて、種種の宝物多し。有る人は、上らんと欲して、或は道を半ばにして、還る者有り、近づきながら、還る者有り。有る一大徳の国王は、衆生を憐愍して、為に大梯を作れば、人民の大小、乃至七歳の小児まで、皆上りて、意に随いて、如意珠等の種種の宝物を得るが如し。
答え、
是の、
『法』は、
『十方、三世の諸仏』の、
『師である!』が、
『仏』は、
是の、
『法』を、
『演出される!』ので、
其の、
『功』が、
『大だからである!』。
譬えば、こうである、――
『雪山』中に、
『宝山が有り!』、
『宝山の頂』には、
『如意宝珠が有り!』、
『種種の宝物が多かった!』。
有る、
『人』は、
『上ろうとした!』が、
或は、
『道』の、
『半ばで!』、
『還り!』、
或は、
『宝山』の、
『近くで!』、
『還ってしまった!』。
有る、
『一大徳の国王』が、
『衆生を憐愍して!』、
『大きな梯』を、
『作ってやった!』ので、
『人民』は、
『大となく、小となく!』、
『七歳の小児まで!』が、
皆、
『山に上り、!』、
『如意宝珠等』の、
『種種の宝物』を、
『思い、思いに!』、
『随って!』、
『得ることができた!』。
  演出(えんしゅつ):説き出す。延べ説いて世間に出す。
佛亦如是世間諸法實相寶山。九十六種異道皆不能得。乃至梵天王求諸法實相亦不能得。何況餘人。 仏も亦た是の如し。世間の諸法の実相の宝山には、九十六種の異道あるも、皆、得る能わず。乃至梵天王すら、諸法の実相を求めて、亦た得る能わず。何に況んや、余人をや。
『仏』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『世間の諸法』の、
『実相の宝山』には、
『九十六種の異道』が、
『有る!』が、
皆、
『実相の宝』を、
『得ることができない!』。
乃至、
『梵天王までが!』、
亦た、
『諸法の実相』を、
『求めても!』、
『得られないのである!』から、
況して、
『余の人』は、
『尚更であろう!』。
佛以大慈悲憐愍眾生故。具足六波羅蜜。得一切智慧方便。說十二部經八萬四千法聚梯。阿若憍陳如舍利弗目揵連摩訶迦葉。乃至七歲沙彌蘇摩等。皆得諸無漏法根力覺道實相。實相雖微妙。一切眾生皆蒙佛恩故得。以是故念佛在前。 仏は、大慈悲を以って衆生を憐愍するが故に、六波羅蜜を具足して、一切の智慧、方便を得て、十二部の経、八万四千の法聚を説きたまえば、阿若憍陳如、舎利弗、目揵連、摩訶迦葉、乃至七歳の沙弥蘇摩等も、皆、諸の無漏法の根、力、覚、道、実相を得たり。実相は、微妙なりと雖も、一切の衆生は、皆仏恩を蒙るが故に得。是を以っての故に、念仏は前に在り。
『仏』は、
『大慈悲を用いて!』、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
『六波羅蜜を具足して!』、
一切の、
『智慧』と、
『方便』とを、
『得て!』、
『十二部の経』や、
『八万四千の法聚』を、
『説かれたので!』、
『阿若憍陳如、舎利弗、目揵連、摩訶迦葉』や、
『七歳の沙弥蘇摩』に、
『至るまで!』、
皆が、
『諸の無漏法』の、
『五根、五力、七覚、八聖道、実相』を、
『得られたのである!』。
『実相』は、
『微妙ではある!』が、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『仏恩を蒙る!』が故に、
『実相』を、
『得ることができる!』ので、
是の故に、
『仏を念じる!』ことが、
『前に在るのである!』。
  阿若憍陳如(あにゃきょうちんにょ):巴梨名aJJa- koNDaJJa。梵名aajJaata- kauNDinya、又阿若多憍陳那、阿惹憍陳如、阿若憍隣、阿若拘隣、阿若居隣、阿若俱隣、憍陳如、憍陳那、拘隣若、拘隣、俱隣、居隣、居倫等に作り、或いは単に陳如とも云う。阿若は名にして解了の義。初知、已知、了教、了本際、知本際、或いは無智と訳す。憍陳如は姓にしてkuNDin族の者の義なり。五比丘の一。釈尊の最初に化度せられたる比丘として有名なり。「仏本行集経巻25」等に、初め選ばれて悉多太子の苦行に親侍し、後太子が苦行を廃せられたるを見て之を捨てしが、鹿苑初転法輪に遇うて仏道に入りしことを記し、又「仏所行讃巻3転法輪品」に、「彼れ法を知るを以っての故に阿若憍憐と名づく。仏弟子の中に於いて最先第一悟なり」と云えるは、阿若の名が初めて悟入せる際に得たることを示すものなり。其の後の事蹟は不詳なりと雖も、教団中の最長老として常に上座に位せしは明らかなり。「増一阿含経巻3弟子品」に、「我が声聞中第一比丘にして、寛仁博識、善く能く勧化し、聖衆を将養して威儀を失せざるは所謂阿若拘隣比丘なり。初めて法味を受けて四諦を思惟したるも、亦た是れ阿若拘隣比丘なり」と云えり。又「阿羅漢具徳経」、「方広大荘厳経巻11」、「普曜経巻7」、「仏本行集経巻34」、「過去現在因果経巻3」、「中本起経巻上」、「大般涅槃経巻40」、「四分律巻32」、「五分律巻15」、「有部毘奈耶破僧事巻5」、「大毘婆沙論巻93」、「仏祖統紀巻2」、「大唐西域記巻7」、「翻訳名義集巻2」、「慧琳音義巻18、27」等に出づ。<(望)
  五比丘(ごびく):梵語paJca bhikSavaHの訳。巴梨語paJca(- vaggiya)bhikkhuu、五人の比丘の意。又五群比丘とも名づく。釈尊成道の後、初めて教化を受けたる五人の比丘を云う。一に阿若憍陳如aajJaata- kauNDinya(巴梨語aJJaakondaJJa)、二に阿説示azva- jit(巴assaji)、三に摩訶男mahaa- raaman(巴mahaanaama)、四に婆提bhadrika(巴bhaddiya)、五に婆数vaaSpa(巴vappa)なり。釈尊出家して苦行林に赴き給いし時、父浄飯王は其の安否を憂い、此等五人を遣して釈尊に奉仕し、同じく修行せしめたるに、後彼等は釈尊が尼連禅河に浴し、善生村女の乳粥を受けたるを見て、之を志願の堕落となし、捨てて波羅奈斯国鹿野苑に赴き苦行を継続せり。然るに釈尊は幾ばくもなく成道し已りて鹿野苑に至り、此の五人の為に初めて法輪を転じ、四聖諦、八正道、布施、持戒、生天等の法を説き給いしに、彼等は之を聞きて忽ち法眼浄を得、仏陀最初の弟子と為れり。但し此の得道に同時異時の両説あり、「四分律巻32」には、阿若憍陳如先づ法眼浄を得、次に阿説示、摩訶男の二人、後に婆提、婆数の二人之を得たりと云い、「五分律巻15」、「過去現在因果経巻3」、「仏本行集経巻34」等にも亦た異時の説をなすと雖も、独り「中本起経巻上」には同時得道の説を出せり。又此の五比丘序列の次第は経律に依りて同じからず、今は「四分律巻32」所出の列次に依る。又「中本起経巻上」には此の中の婆数に代うるに十力迦葉を以ってし、「翻訳名義集巻2」には之を同名異人となせるも、「仏所行讃巻3」には摩訶男の代わりに十力迦葉を出せり。但し「同讃」の梵本には十力迦葉を挙げず、且つ巴梨所伝の五比丘中にも此の名を挙げざるよりすれば、「名義集」の説は信じ難きが如し。又「法華経文句巻1上」に依れば、此の中、憍陳如、阿説示の二人は釈尊母系の親、余の三人は父系の親なりとし、且つ「二人は欲を以って浄となし、三人は苦行を以って浄となす」等と云えり。印度カルカッタ博物館には、ローリヤーン、タンガイloriyaan tangai出土に係る釈尊初転法輪五比丘教化の相を刻せる石版を蔵す。高さ十六吋、幅二呎三吋あり。又「中阿含経巻56」、「増一阿含経巻3、14」、「方広大荘厳経巻11」、「普曜経巻7」、「衆許摩訶帝経巻7」、「四分律巻14」、「毘奈耶破僧事巻6」、「法華経玄賛巻4」、「大唐西域記巻7」、「法苑珠林巻11」等に出づ。<(望)
  舎利弗(しゃりほつ):仏弟子中智慧第一。『大智度論巻21下注:舎利弗』参照。
  目揵連(もっけんれん):仏弟子中神通第一。『大智度論巻21下注:摩訶目犍連』参照。
  摩訶迦葉(まかかしょう):仏弟子中頭陀第一。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  沙弥蘇摩(しゃみそま):不明。但し、『沙弥羅経』あり。
  参考:『沙弥羅経』:『沙彌羅經 失譯附三秦錄 昔有小兒。名曰沙彌羅。年始七歲。意好道德。隨一沙門。為作弟子。處在山中。給師所使。誦念經法。心不懈怠。至年八歲。得阿羅漢。道眼能洞視。所見無極。耳能徹聽。天上天下。所為善惡。皆悉聞之。身能飛行。在能至到。能分一身。變作萬身。自在現化。無所不作。自知宿命。所從來生及諸人物。蚑行蠕動。皆悉知之。坐見宿命。為五母作子。時便自笑。時師顧問。語沙彌羅。汝笑何等。此間山中。亦無歌舞。汝笑我耶。沙彌羅言。不敢笑師。我還自笑。一神受身。為五母作子。五母為我晝夜啼哭。感傷愁毒。不能自止。恒言念子。未曾忽忘。自念一身。而愁五家。是以自笑。不敢笑師。我為第一母作子。時有並鄰居。亦生一子。與我同日。我死以後。同日子出入行步。母見之便言。悲念我子在家。亦當出入行步如是。感傷悲哀。淚下如雨。我為第二母作子。時我夭命早死。我母見人乳兒。便念乳我。悲念感傷。我為第三母作子。時年始十歲。我命復死。我母飯時。便悲淚出。我子在者。當與俱食捨我死去。使我獨食。哽咽呼天。怨言念子。我為第四母作子。時薄命先死。我母見我等輩。同時因媒娶婦。悲念我言。今子在者。亦當娶婦。我何所犯。而殺我子。我為第五母作子。時年始七歲。好道辭家。捨母隨師。入山求道。一心思禪。得阿羅漢道。我母日日啼哭念我。我生一子。隨師學道。不知所在。飢渴寒暑。今為死生。於是五母共會一處。各各悲哀。言念我子。相對啼哭。不能自止。我一魂神。展轉五母腹中作子。依因二親。受形成人。而使五母啼哭發狂。各念我身。乃欲自殺。是故笑耳。我念世間。欲網因緣。生死罪福。造行根源。惡入地獄。善行生天。我畏世苦。辭家入山。精進禪定。得道昇仙。睹見餓鬼地獄畜生。苦痛之處。代為恐怖。憐傷五母。不能自脫。又憂我身。我所求索。願行如言。永離生死。斷絕身根。如人不種當所泥洹。善會師說。已飛騰虛空 沙彌羅經』
次第念法次第念僧。僧隨佛語能解法故第三。餘人不能解僧能得解。以是故稱為寶。人中寶者是佛。九十六種道法中寶者是佛法。一切眾中寶者是僧。 次第に法を念じ、次第に僧を念ずるに、僧は、仏の語に随いて、能く法を解くが故に第三なり。余人は、解く能わざるも、僧は能く解くことを得れば、是を以っての故に称して、宝と為す。人中の宝は、是れ仏なり。九十六種の道法中の宝は、是れ仏法なり。一切の衆生中の宝は、是れ僧なり。
『次第に!』、
『法』を、
『念じ!』、
『次第に!』、
『僧』を、
『念じるのである!』が、
『僧』は、
『仏の語』に、
『随って!』、
『法』を、
『理解することができる!』ので、
是の故に、
『第三である!』。
『余の人』は、
『法』を、
『理解することができない!』が、
『僧』は、
『法』を、
『理解することができる!』ので、
是の故に、
『宝』と、
『称されるのである!』。
『人』中の、
『宝』は、
『仏であり!』、
『九十六種の道法』中の、
『宝』は、
『仏法であり!』、
『一切の衆』中の、
『宝』は、
『僧である!』。
復次以佛因緣故。法出世間。以法因緣故有僧。行者念我云何當得法寶。得在僧數中。當除卻一切麤細身口惡業。是故次第說持戒。 復た次ぎに、仏の因縁を以っての故に、法は世間に出で、法の因縁を以っての故に、僧有り。行者の念ずらく、『我れは云何が、当に法宝を得て、僧数中に在るを得べし。当に一切の麁、細の身、口の悪業を除くべし』、と。是の故に次第に、持戒を説く。
復た次ぎに、
『仏という!』、
『因縁』の故に、
『法』が、
『世間に出て!』、
『法という!』、
『因縁』の故に、
『僧』が、
『有る!』が、
『行者』は、こう念じる、――
わたしは、
何のようにして、
『法宝を得て!』、
『僧数』中に、
『加わればよいのか?』。
『麁であろうが!』、
『細であろうが!』、
一切の、
『身、口の悪業』を、
『除かねばならぬ!』、と。
是の故に、
『次第に!』、
『持戒』を、
『説くのである!』。
復次云何分別有七眾。以有戒故欲除心惡。破慳貪故念捨。欲令受者得樂故破瞋恚。信福得果報故破邪見。住持戒布施法中。則為住十善道中離十不善道。 復た次ぎに、云何が分別して、七衆有る、戒有るを以っての故なり。心より悪を除き、慳貪を破らんと欲するが故に捨を念ず。受者をして、楽を得しめんと欲するが故に、瞋恚を壊り、福を信じて、果報を得るが故に、邪見を破り、持戒、布施の法中に住すれば、則ち為に、十善道中に住して、十不善道を離る。
復た次ぎに、
何のように、
『七衆(比丘、比丘尼、式叉摩那、沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷)』が、
『有る!』と、
『分別するのか?』。
『戒』が、
『有る!』が故に、
『知ることができ!』、
『戒の有る!』が故に、
『心より!』、
『悪を除いて!』、
『慳貪』を、
『破ろうとする!』ので、
是の故に、
『捨』を、
『念じることになる!』。
『行者』は、
『布施する!』時、
『受者』に、
『楽』を、
『得させよう!』と、
『思う!』ので、
是の故に、
『瞋恚』を、
『破ることになり!』、
『持戒する!』時、
『福を信じて!』、
『果報』を、
『得る!』ので、
是の故に、
『邪見』を、
『破ることになり!』、
『布施、持戒の法』中に、
『住(とど)まれば!』、
則ち、
『十善道』中に、
『住まって!』、
『十不善道』を、
『離れることになる!』。
  七衆(しちしゅ):僧を成ずる比丘、比丘尼、式叉摩那、沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷の七種を云う。『大智度論巻9上注:五衆、巻22上注:沙弥、沙弥尼、戒』参照。
  (かい):比丘、比丘尼の具足戒、沙弥、沙弥尼の十戒、優婆夷、優婆塞の五戒、式叉摩那の六法戒を云う。『大智度論巻22上注:戒、沙弥、沙弥尼』参照。
十善道有二種果。若上行者得淨天中生。中行得生天。以是故戒施次第念天。行禪定故得二種天。滅諸惡覺但集善法攝心一處。是故念天。次第念安那般那。 十善道には、二種の果有り、若し上行なれば、浄天中に生ずるを得、中行なれば、天に生ずるを得。是を以っての故に、戒、施の次第に天を念ず。禅定を行ずるが故に、二種の天を得、諸悪覚を滅して、但だ善法を集め、心を一処に摂すれば、是の故に念天の次第に安那般那を念ず。
『十善道』の、
『果』には、
『二種有り!』、
若し、
『上行ならば!』、
『浄天』中に、
『生まれることができ!』、
『中行ならば!』、
『天』中に、
『生まれることができる!』。
是の故に、
『戒、施の次第に!』、
『天』を、
『念じる!』。
『禅定を行う!』が故に、
『二種の天(色、無色界の天)を得て!』、
諸の、
『悪覚を滅する!』と、
但だ、
『善法のみ!』を、
『集めることになり!』、
『心』を、
『一処』に、
『摂(おさ)める!』ので、
是の故に、
『念天の次第に!』、
『安那般那』を、
『念じるのである!』。
  十善道(じゅうぜんどう):不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見の十種の善行の総称なるも、略して説けば乃ち戒、及び施に過ぎず。『大智度論巻8下注:十善』参照。
念安那般那。能滅諸惡覺如雨淹塵。見息出入知身危脆。由息入出身得存立。是故念入出息次第念死。 安那般那を念ずれば、能く諸の悪覚を滅すること、雨の塵を淹(あら)うが如し。息の出入するを見て、身の危脆なるを知り、息の入出に由りて、身の存立するを得れば、是の故に念入出息の次第に死を念ず。
『安那般那(息の入出)を念じれば!』、
譬えば、
『雨』が、
『塵』を、
『洗い流すように!』、
諸の、
『悪覚』を、
『滅することができ!』、
『息の出入を見て!』、
『身』は、
『脆く!』、
『危うく!』、
『息の入出により!』、
『身は存立している!』と、
『知る!』ので、
是の故に、
『念入出息の次第に!』、
『死』を、
『念じる!』。
  (えん):ひたす。漬に同じ。古訓あらう。
復次行者或時恃有七念。著此功德懈怠心生。是時當念死死事常在前。云何當懈怠著此法愛。如阿那律佛滅度時說
 有為法如雲  智者不應信 
 無常金剛來  破聖主山王
是名八念次第。
復た次ぎに、行者は、或は時に七念有るを恃んで、此の功徳に著して、懈怠心を生ず。是の時、当に死を念ずべし。死の事は、常に前に在れば、云何が当に懈怠して、此の法に著して愛する。阿那律の仏の滅度したもう時説けるが如し、
有為法は雲の如し、智者は応に信ずべからず、
無常の金剛来たりて、聖主の山王を破せり。
是れを八念の次第と名づく。
復た次ぎに、
『行者』は、
或は、
時に、
『七念』が、
『有る!』と、
『恃(たの)んで!』、
此の、
『功徳』に、
『著する!』ので、
故に、
『懈怠』を、
『生じる!』。
是の時、
『死』を、こう念じなくてはならない、――
『死という!』、
『事』は、
『常に!』、
『前に在る!』のに、
何故、
『懈怠して!』、
此の、
『法に著し!』、
『愛しているのか?』、と。
譬えば、
『阿那律』は、
『仏』の、
『滅度に際して!』、こう説いている、――
『有為法』は、
『雲のようである!』、
『智者』が、
『信じるものでない!』。
『無常という!』、
『金剛( vajira )が来れば!』、
『聖主()という!』、
『山王すら!』、
『破ってしまうのだ!』。
是れを、
『八念の次第』と、
『称する!』。
  阿那律(あなりつ):仏弟子中天眼第一。『大智度論巻33上注:阿[少/兔]楼駄』参照。
  金剛(こんごう):梵語跋折羅vajraの訳。巴梨語vajira、又跋闍羅、跋日羅、伐折羅、嚩日羅に作る。金中最剛の義なり。之に二種あり、一は武器、一は宝石なり。武器は帝釈并びに密迹力士等の所持の杵にして所謂金剛杵なり。宝石は即ち金剛石diamondにして、透明無色、光輝あり、日中には種種の色を現じ、夜中には蛍光を放つ。此の中、経論中には多く前者を取りて譬喩となすも、稀に亦た後者に約するものあり。「金剛仙論巻1」に、「金剛と言うは譬喩に従って名となし、其の堅実の義を取る。世間の金剛の如き二義あり、一は其の体堅実にして能く万物を破す。二は則ち万物は金剛を壊すること能わず。此の果頭無為法身の金剛般若及び十地の智恵を明すに亦た二義あり、一は能く魔の怨敵を摧き諸の煩悩を壊す、二は諸魔煩悩は沮壊する能わず、故に金剛と名づく。又凡夫二乗は此の理教に於いて解入する能わず、故に亦た金剛と名づく」と云い、「金剛般若波羅蜜経疏」に、「西に跋闍羅と云い、亦た斫迦羅と云う。此に金剛と翻ず。是れ利鉄を云う。亦た破具と名づく。大経を引いて云わく、仏、迦葉に告ぐ、汝今決断すること譬えば金剛力の如しと。又云わく、劫火起る時一切皆銷す。利鋭なる者は下に在りて金剛際と名づくと。又云わく、往古は諸仏の舎利変じて金剛如意珠と為ると。今通じて堅利を取りて譬と為す」と云い、又「金剛般若経疏論纂要巻上」に、「金剛とは梵に跋折羅と云う。力士の執る所の杵是れなり。此の宝は金中最剛の故に金剛と名づく。帝釈は之を有するも薄福の者は見難し。極堅極利なるを般若に喩う。物の能く之を壊すべき無く、而も能く万物を砕壊す。涅槃経に云わく、譬えば金剛の如き能く壊する者なく、而も能く一切の諸物を砕壊すと。無著云わく、金剛は壊し難しと。又云わく金剛能く断ずと。又云わく金剛は細牢の故なりと。細とは智の因の故に、牢とは不可壊の故なり。皆堅を以って般若の体に喩え、利を般若の用に喩う。又真諦の記に六種の金剛を説く、一に青色は能く災厄を消す、般若の能く業障を除くに喩う。二に黄色は人の所須に随う、無漏の功徳に喩う、三に赤色は日に対して火を出す、慧は本質に対して無生の智火を出す。四に白色は能く濁水を清む、般若は能く疑濁を清む。五に空色は人をして空中に行坐せしむ、慧は法執を破して真空の理に住す。六に碧色は能く諸毒を消す、慧は三毒を除く」と云えり。此等は主として武器の金剛の堅利なるを般若の体用に喩えたるなり。又「大般涅槃経巻24」に、「諸宝の中に金剛は最勝なるが如く、菩薩所得の金剛三昧も亦た復た是の如し」と云い、又「譬えば金剛の如き、若し日中に在らば色則ち定まらず。金剛三昧も亦復た是の如し」と云えるは、即ち金剛宝石を金剛と称し、之を金剛三昧に比況せるなり。又密教にては武器の金剛たる独鈷、三鈷、五鈷等を以って諸尊の三摩耶形とし、之を各諸尊の住する三摩地の標幟となせり。「大日経疏巻1」に持金剛を釈して「梵に伐折囉陀羅と云う。此の伐折羅は即ち是れ金剛杵、陀羅は是れ執持の義なり。故に旧訳に執金剛と云う。今持金剛と謂うは兼ねて深浅の二釈を得、義に於いて勝と為すが故なり。文便に随えば互いに其の辞を為す。若し世諦常途の所表は、則ち云う、生身仏に常に五百の執金剛神あり、翌従待衛すと。然るに此の宗の密意は、伐折羅は是れ如来の金剛智印なり、是の如き智印は其の数無量にして、能く此れを持する者も亦復た無辺なり。(中略)爾の時無量法門の眷属は一一皆執金剛神を現じ、如来の威猛大勢を顕発す。譬えば帝釈が手に金剛を執りて修羅の軍を破るが如く、今此の諸の執金剛も亦復た是の如く、各一門より大空の戦具を持し、能く衆生の無相の煩悩を壊す。故に以って相況するなり」と云い、又「秘密曼荼羅十住心論巻10」に、「金剛と言うは、五部の諸尊所持の法界標幟なり。独三五鈷、輪、剣、摩尼、蓮華等の種種の三昧耶身を通じて金剛と名づく。金剛は常恒不動不壊能壊の義を表す」と云える其の説なり。又「金剛般若経疏巻1」、「梵語雑名」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻21」、「希麟音義巻7」等に出づ。<(望)
問曰。是說聲聞八念。菩薩八念有何差別。 問うて曰く、是に説く声聞の八念は、菩薩の八念と何なる差別か有る。
問い、
是(ここ)に説く、
『声聞の八念』は、
『菩薩の八念』と、
何のような、
『差別』が、
『有るのですか?』。
答曰。聲聞為身故。菩薩為一切眾生故。聲聞但為脫老病死故。菩薩為遍具一切智功德故。是為差別。 答えて曰く、声聞は、身の為の故、菩薩は一切の衆生の為の故なり。声聞は、但だ老病死を脱れんが為の故、菩薩は遍く一切智の功徳を具えんが為の故なり。是れを差別と為す。
答え、
『声聞の八念』は、
『身』の為に、
『作し!』、
『菩薩の八念』は、
『一切の衆生』の為に、
『作す!』。
『声聞の八念』は、
但だ、
『老病死』を、
『脱れる為であり!』、
『菩薩の八念』は、
遍く、
『一切智()の功徳』を、
『具える為である!』。
是れが、
『差別である!』。
復次佛是中亦說告舍利弗。菩薩摩訶薩以不住法。住般若波羅蜜中。應具足檀波羅蜜。乃至應具足八念不可得故。初有不住後有不可得。以此二印以是故異。不住不可得義如先說(丹注云八念竟)
大智度論卷第二十二
復た次ぎに、仏は、是の中に亦た説いて、舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、不住の法を以って、般若波羅蜜中に住して、応に檀波羅蜜を具足すべく、乃至応に八念を具足すべし。不可得の故なり』、と。初に不住有り、後に不可得有り、此の二印を以って、是を以っての故に異なる。不住、不可得の義は、先に説けるが如し。
大智度論巻第二十二
復た次ぎに、
『仏』は、
是の中にも、
『舎利弗』に、こう告げられている、――
『菩薩摩訶薩』は、
『不住の法を用いて!』、
『般若波羅蜜』中に、
『住まっている!』ので、
当然、
『檀波羅蜜』を、
『具足するはずであり!』、
乃至、
『八念』を、
『具足するはずである!』。
何故ならば、
皆、
『不可得(認識不能)だからである!』、と。
初には、
『不住』と、
『説かれ!』、
後には、
『不可得』と、
『説かれた!』が、
此の、
『不住、不可得という!』、
『二印』を、
『菩薩』は、
『用いている!』ので、
是の故に、
『声聞、菩薩』の、
『八念』が、
『異なるのである!』。
『不住、不可得の義』は、
先に、
『説いた通りである!』。

大智度論巻第二十二
  参考:『大智度論巻11』:『問曰。云何名不住法住般若波羅蜜中能具足六波羅蜜。答曰。如是菩薩觀一切法非常非無常。非苦非樂非空非實。非我非無我。非生滅非不生滅。如是住甚深般若波羅蜜中。於般若波羅蜜相亦不取。是名不住法住。若取般若波羅蜜相。是為住法住』
  参考:『大智度論巻12』:『問曰。檀名捨財。何以言具足無所捨法。答曰。檀有二種。一者出世間。二者不出世間。今說出世間檀無相。無相故無所捨。是故言具足無所捨法。復次財物不可得故。名為無所捨。是物未來過去空。現在分別無一定法。以是故言無所捨。復次以行者捨財時心念。此施大有功德。倚是而生憍慢愛結等。以是故言無所捨。以無所捨故無憍慢。無憍慢故愛結等不生。復次施者有二種。一者世間人二者出世間人。世間人能捨財不能捨施。出世間人能捨財能捨施。何以故。以財物施心俱不可得故。以是故言具足無所捨法。復次檀波羅蜜中。言財施受者三事不可得。問曰。三事和合故名為檀。今言三事不可得。云何名檀波羅蜜具足滿。今有財有施有受者。云何三事不可得。如所施疊實有。何以故。疊有名則有疊法。若無疊法亦無疊名。以有名故應實有疊。復次疊有長有短麤細白黑黃赤。有因有緣有作有破有果報隨法生心。十尺為長五尺為短。縷大為麤縷小為細。隨染有色有縷為因。織具為緣。是因緣和合故為疊。人功為作人毀為破。御寒暑弊身體名果報。人得之大喜失之大憂。以之施故得福助道。若盜若劫戮之都市。死入地獄。如是等種種因緣。故知有此疊是名疊法。云何言施物不可得。答曰。汝言有名故有是事。不然。何以知之。名有二種有實有不實。不實名。如有一草名朱利。(朱利秦言賊也)草亦不盜不劫實非賊而名為賊。又如兔角龜毛。亦但有名而無實疊雖不如兔角龜毛無。然因緣會故有。因緣散故無。如林如軍是皆有名而無實。譬如木人雖有人名不應求其人法。疊中雖有名亦不應求疊真實。疊能生人心念因緣。得之便喜失之便憂。是為念因緣。心生有二因緣。有從實而生。有從不實而生。如夢中所見如水中月。如夜見杌樹謂為人。如是名從不實中能令心生。是緣不定。不應言心生有故便是有。‥‥』


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