巻第二十二(上)
大智度論釋初品中八念義第三十六之餘
1.法を念じる
2.僧を念じる
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大智度論釋初品中八念義第三十六之餘(卷二十二)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


法を念じる

念法者。如佛演說。行者應念。是法巧出得今世果無執惱。不待時能到善處通達無礙。 法を念ずとは、仏の演説したまえるが如し、『行者、応に念ずべし、是の法は、巧みに出して、今世の果を得しめて、執悩を無からしめ、時を待たずして、能く善処に到るに、通達、無礙ならしむ、と』、と。
『法を念じる!』とは、――
例えば、
『仏が演説された通りである!』、――
『行者』は、こう念じなければならない、――
是の、
『法(般若波羅蜜)』は、
『巧みに!』、
『法(方便)』を、
『出(いだ)して!』、
『今世には!』、
『果を得させて!』、
『執悩』を、
『無くさせ!』、
『時を待たずに!』、
『善処に到らせて!』、
『通達させ!』、
『無礙にさせる!』、と。
巧出者。二諦不相違故。所謂世諦第一義諦是。智者不能壞。愚者不起諍故。是法亦離二邊。所謂若受五欲樂若受苦行。復離二邊。若常若斷若我若無我若有若無。如是等二邊不著是名巧出。諸外道輩自貴其法。毀賤他法故不能巧出。 巧みに出すとは、二諦の相違せざるが故なり。謂わゆる世諦と、第一義諦とにして、是れ智者も壊る能わず、愚者は諍を起さざるが故なり。是の法も、亦た二辺を離る。謂わゆる若しは五欲の楽を受け、若しは苦行を受くるなり。復た二辺を離るらく、若しは常、若しは断、若しは我、若しは無我、若しは有、若しは無なり。是れ等の如き二辺に著せざる、是れを巧みに出すと名づく。諸の外道の輩は、自ら其の法を貴び、他の法を毀賎するが故に巧みに出すこと能わず。
『巧みに出す!』とは、――
『二諦』が、
『相違しないからである!』。
謂わゆる、
『世諦』と、
『第一義諦』とが、
『相違しない!』という、
『法』は、
則ち、
『智者すら!』、
『壊(やぶ)ることができず!』、
『愚者にも!』、
『諍(いさかい)』を、
『起させないからである!』が、
是の、
『法(般若波羅蜜)』も、
亦た、
『二辺』を、
『離れている!』。
謂わゆる、
『五欲』の、
『楽』を、
『受けたり!』、
『苦』の、
『行』を、
『受けることである!』が、
復た、
『常か、断か?』、
『我か、無我か?』、
『有か、無か?』という、
『二辺』も、
『離れる!』ので、
是れ等のような、
『二辺』を、
『離れる!』こと、
是れを、
『巧みに出す!』と、
『称するのである!』。
諸の、
『外道の輩』は、
自らの、
『法』を、
『貴んで!』、
他の、
『法』を、
『毀賎する!』が故に、
巧みに、
『法』を、
『出すことができない!』。
得今世果者。離愛因緣世間種種苦。離邪見因緣種種論議鬥諍。身心得安樂。如佛說
 持戒者安樂  身心不熱惱 
 臥安覺亦安  名覺亦遠聞
今世の果を得とは、世間の種種の苦の因縁たる愛を離れ、種種の論義、闘諍の因縁たる邪見を離れ、身心に安楽を得ればなり。仏の説きたまえるが如し、
持戒の者は安楽にして、身心熱悩せず、
臥して安んじ覚めて亦た安んじ、名声も亦た遠く聞こゆ
『今世』の、
『果を得る!』とは、――
『世間』の、
種種の、
『苦の因縁である!』、
『愛』を、
『離れ!』、
種種の、
『論義、闘諍の因縁である!』、
『邪見』を、
『離れれば!』、
即ち、
『身心』に、
『安楽』を、
『得るからである!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『持戒する!』者は、
『身心』が、
『熱』に、
『悩まされず!』、
『臥せても!』、
『覚めても!』、
『安楽であり!』、
亦た、
『名声』も、
『遠くまで!』、
『聞える!』、と。
  :名覚は他本に従い名声に改む。
  参考:『中阿含経巻10(42)』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。尊者阿難則於晡時從燕坐起。往詣佛所。稽首禮足。卻住一面。白曰。世尊。持戒為何義。世尊答曰。阿難。持戒者。令不悔義。阿難。若有持戒者。便得不悔。復問。世尊。不悔為何義。世尊答曰。阿難。不悔者。令歡悅義。阿難。若有不悔者。便得歡悅。復問世尊。歡悅為何義。世尊答曰。阿難。歡悅者。令喜義。阿難。若有歡悅者。便得喜。復問。世尊。喜為何義。世尊答曰。阿難。喜者。令止義。阿難。若有喜者。便得止身。復問。世尊。止為何義。世尊答曰。阿難。止者。令樂義。阿難。若有止者。便得覺樂。復問。世尊。樂為何義。世尊答曰。阿難。樂者。令定義。阿難。若有樂者。便得定心。復問。世尊。定為何義。世尊答曰。阿難。定者。令見如實.知如真義。阿難。若有定者。便得見如實.知如真。復問。世尊。見如實.知如真為何義。世尊答曰。阿難。見如實.知如真者。令厭義。阿難。若有見如實.知如真者。便得厭。復問。世尊。厭為何義。世尊答曰。阿難。厭者。令無欲義。阿難。若有厭者。便得無欲。復問。世尊。無欲為何義。世尊答曰。阿難。無欲者。令解脫義。阿難。若有無欲者。便得解脫一切婬.怒.癡。是為。阿難。因持戒便得不悔。因不悔便得歡悅。因歡悅便得喜。因喜便得止。因止便得樂。因樂便得定。阿難。多聞聖弟子因定便得見如實.知如真。因見如實.知如真。便得厭。因厭便得無欲。因無欲便得解脫。因解脫便知解脫。生已盡。梵行已立。所作已辦。不更受有。知如真。阿難。是為法法相益。法法相因。如是此戒趣至第一。謂度此岸。得至彼岸。佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
復次此佛法中因緣展轉生果。所謂持戒清淨故心不悔。心不悔故生法歡喜。法歡喜故身心快樂。身心快樂故能攝心。攝心故如實知。如實知故得厭。得厭故離欲。離欲故得解脫得解脫果報得涅槃。是名得今世果。 復た次ぎに、此の仏法中には、因縁展転として果を生ず。謂わゆる持戒清浄なるが故に、心に悔いず、心悔いざるが故に、法に歓喜を生じ、法を歓喜するが故に、身心快楽となり、身心快楽なるが故に、能く心を摂め、心を摂むるが故に如実に知り、如実に知るが故に厭を得、厭を得るが故に欲を離れ、欲を離るるが故に、解脱を得、解脱を得る果報もて、涅槃を得、是れを今世に果を得と名づく。
復た次ぎに、
此の、
『仏法』中には、
『因縁』が、
『展転(転転)として!』、
『果』を、
『生じるのである!』が、
謂わゆる、
『持戒して!』、
『清浄である!』が故に、
『心』が、
『悔いず!』、
『心が悔いない!』が故に、
『法』に、
『歓喜を生じ!』、
『法を歓喜する!』が故に、
『身心』が、
『快楽になり!』、
『身心が快楽である!』が故に、
『心』を、
『摂(おさ)めることができ!』、
『心を摂める!』が故に、
『如実に!』、
『知り!』、
『如実に知る!』が故に、
『世間』を、
『厭(いと)うことができ!』、
『世間を厭う!』が故に、
『欲』を、
『離れ!』、
『欲を離れる!』が故に、
『世間』を、
『解脱することができ!』、
『解脱して得た!』、
『果報』の故に、
『涅槃』を、
『得る!』ので、
是れを、
『今世に果を得る!』と、
『称するのである!』。
外道法空行苦無所得。如閻浮阿羅漢得道時自說
 我昔作外道  五十有五年 
 但食乾牛屎  裸形臥棘上
我受如是辛苦。竟無所得。不如今得見佛聞法。出家三日所作事辦得阿羅漢。以是故知。佛法得今世果。
外道の法は、空しく苦を行じて所得無し。閻浮阿羅漢の道を得し時、自ら説けるが如し、
我れ昔外道と作りて、五十有(ゆう)五年、
但だ乾牛屎を食い、裸形を棘上に臥せり。
我れは、是の如き辛苦を受くるも、竟(つい)に所得無く、今仏に見(まみ)えて法を聞くことを得、出家して三日にして、所作の事辦じ、阿羅漢を得たるに如かず、と。是を以っての故に知る、仏法は、今世の果を得しむ。
『外道の法』は、
『空しく!』、
『苦を行いながら!』、
『所得』が、
『無い!』。
例えば、
『閻浮阿羅漢』などは、
『道を得た!』時に、
自ら、こう説いている、――
わたしは、
昔、
『外道と作って!』、
『五十五年の間』、
但だ、
『乾いた!』、
『牛屎(牛糞)のみ!』を、
『食って!』、
『裸形』を、
『刺上』に、
『臥せていた!』が、
わたしは、
是のような、
『辛苦を受けながら!』、
竟(つい)に、
『所得』が、
『無かった!』。
今、
『仏に見(まみ)えて!』、
『法』を、
『聞くことができ!』、
『出家して!』、
『三日目に!』、
『作すべき!』、
『事』を、
『達成して!』、
『阿羅漢』を、
『得た!』のには、
『及ぶものでなかった!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『仏の法』は、
『今世に!』、
『果』を、
『得ることができる!』、と。
  閻浮阿羅漢(えんぶあらかん):不明。
  乾牛屎(けんごし):牛糞のかわいたもの。通常は燃料に用い、或いは壁、土間に塗る。
  (きょく):とげ。
  (べん):<動詞>[本義]処理/経営/解決する( handle, conduct, transact )、経営/管理する( found, run )、行う( do )、準備する( prepare )、懲罰する( punish )、達成/成し遂げる( accomplish, achieve )。
問曰。若佛法得今世果。何以故。佛諸弟子有無所得者。 問うて曰く、若し仏法もて、今世の果を得れば、何を以っての故にか、仏の諸弟子に、所得無き者有る。
問い、
若し、
『仏の法』が、
『今世』の、
『果』を、
『得させれば!』、
何故、
『仏の諸弟子』中に、
『所得の無い!』者が、
『有るのか?』。
答曰。行者能如佛所說。次第修行無不得報。如病人隨良醫教。將和治法病無不差。若不隨佛教。不次第行。破戒亂心故無所得。非法不良也。 答えて曰く、行者は、能く仏の所説の如く、次第に修行すれば、報を得ざる無きこと、病人の良医の教に随いて、将(も)って治法に和すれば、病の差(い)えざる無きが如し。若し仏の教に随わず、次第に行ぜざれば、破戒、乱心の心の故に、所得無ければ、法の不良なるに非ざるなり。
答え、
『行者』が、
『仏の所説のように!』、
『次第に修行すれば!』、
『報が得られない!』ことは、
『無い!』。
譬えば、
『病人』が、
『良医の教』に、
『随い!』、
『治法』に、
『和して!』、
『用いれば!』、
『差()えない!』、
『病』は、
『無いようなものである!』。
若し、
『仏の教』に、
『随わず!』、
『次第に!』、
『修行しなければ!』、
『破戒して!』、
『心を乱す!』が故に、
『所得』が、
『無いのであり!』、
『法が不良である!』が故に、
『所得』が、
『無いのではない!』。
  (しょう):<動詞>扶助する/支持する( support )、奉行する( follow )、送行する( send )、携帯する( bring )、領導する( lead, guide )、服従する/随従する( be obedient to , submit to )、供養する( provide for )、保養する/休養する( recuperate, rest maintain )、伝達する( express )、進む/行く( advance, go )。<副詞>必ず/必定/当に~すべし( certainly )、要ず/まさに~せんとす( will, be going to )、正に( just )、ほとんど( nearly )、豈/何ぞ/どうして( how can )。<前置詞>~によって/~を以って/~を用いて( by, by means of )、於いて/在って( at, in )。<接続詞>又/且つ( also )、若し( if )、或は( or )。<助詞>動詞の後に在って、動作/行為の趣向、或は親交を表示する。
  (わ):<形容詞>和諧/協調( harmonious, coordinated )、和順/平和( gentle, mild )、和睦/融和( on friendly terms, harmonious )、喜悦/和悦( happy )、暖和/清和( warm )、適度な( moderate )、快適( comfortable )、日本的( Japanese )、混和( mix )。<動詞>適当にする/調和する/妥協する( be in harmonious proportion, compromise )、和解する/仲直りする( become reconciled )、引分ける( end in a draw )、結合する/和合する/一つに纏まる( converge )。<名詞>総計( sum )、講和/和平( peace )。<前置詞>と/与( with )、向って/対して( to )、ように/如く( as )。<接続詞>と/与( and )、或は( or )。
  (しゃ):病がいえる。病除こるの意。癒に同じ。
復次諸未得道者。今世雖不得涅槃。後世得受福樂。漸次當得涅槃終不虛也。如佛所說。其有出家為涅槃者。若遲若疾皆當得涅槃。如是等能得今世果。 復た次ぎに、諸の未得道の者も、今世に涅槃を得ずと雖も、後世に福楽を受くるを得、漸次に当に涅槃を得べければ、終(つい)に虚しからざるなり。仏の所説の如きは、『其れ涅槃の為に出家する者有らば、若しは遅く、若しは疾く、皆当に涅槃を得べし』、と。是れ等の如きは、能く今世の果を得るなり。
復た次ぎに、
諸の、
未だ、
『得道しない!』者は、
『今世』に、
『涅槃』を、
『得ることがなくても!』、
『後世』には、
『福楽』を、
『受けることができ!』、
『漸次に( gradually )!』、
『涅槃』を、
『得ることになる!』ので、
『結局は( finally )!』
『虚しくない!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
其処に、
『涅槃』の為に、
『出家する!』者が、
『有れば!』、
『遅かれ、疾かれ!』、
『結局は!』、
『涅槃を得るのである!』、と。
無熱惱者。熱惱有二種。身惱心惱。身惱者。繫縛牢獄拷掠刑戮等。心惱者。婬欲瞋恚慳貪嫉妒因緣故。生憂愁怖畏等。此佛法中持戒清淨故。身無是繫縛牢獄拷掠刑戮等惱。心離五欲除五蓋得實道故。無是婬欲瞋恚慳貪嫉妒邪疑等惱。無惱故無熱。 熱悩無しとは、熱悩に二種有り、身悩と心悩なり。身悩とは、繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等なり。心悩とは、婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒の因縁の故に生ずる憂愁、怖畏等なり。此の仏法中には持戒して清浄なるが故に、身には、是の繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等の悩無く、心は五欲を離れて、五蓋を除き、実道を得るが故に、是の婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒、邪疑等の悩無く、悩無きが故に熱無し。
『熱悩が無い!』とは、
『熱悩』には、
『二種有り!』、
『身の悩(なやみ)と!』、
『心の悩である!』。
『身の悩』とは、
『繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等』の、
『悩であり!』、
『心の悩』とは、
『婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒の因縁』の故に
『生じる!』、
『憂愁、怖畏等である!』。
此の、
『仏法』中には、
『身』が、
『持戒して!』、
『清浄である!』が故に、
是の、
『繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等』の、
『悩』が、
『無く!』、
『心』が、
『五欲(色声香味触)を離れ!』、
『五蓋(貪欲、瞋恚、惛沈、掉挙、疑)を除いて!』、
『実の道』を、
『得る!』が故に、
是の、
『婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒、邪疑』等の、
『悩』が、
『無いのである!』が、
是れ等の、
『悩が無い!』が故に、
『熱くなる!』ことも、
『無いのである!』。
  拷掠(こうりゃく):拷問に同じ。
  刑戮(ぎょうりく):刑罰に同じ。
  五蓋(ごがい):五種の障蓋の義。即ち煩悩中、蓋の義あるものを立てて貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉挙悪作蓋、疑蓋の五種に分類せるを云う。『大智度論巻19下注:五蓋』参照。
復次無漏禪定。生喜樂遍身受故諸熱則除。譬如人大熱悶得入清涼池中。冷然清了無復熱惱。 復た次ぎに、無漏の禅定は、喜楽を生じて、遍身に受くるが故に、諸熱則ち除(のぞ)こる。譬えば人、大熱に悶ゆるに、清涼なる池中に入るを得れば、冷然清了として、復た熱悩無きが如し。
復た次ぎに、
『無漏の禅定』の、
『生じる!』、
『喜楽』を、
『遍身(全身)に!』、
『受ける!』が故に、
諸の、
『熱』も、
『除かれることになる!』。
譬えば、
『大熱』に、
『悶えていても!』、
『清涼な!』、
『池』中に、
『入ることができれば!』、
即ち、
『冷たくなって!』、
『清々しくなり!』、
復た(もう)、
『熱に悩まされる!』ことも、
『無くなるようなものである!』。
  大熱(だいねつ):最も炎暑の時季を云う。熱帯の堪え難き暑さ等。
  冷然(りょうねん):涼しいさま。
  清了(しょうりょう):清々しくなった。
復次諸煩惱。若屬見若屬愛是名熱。佛法中無此故名無熱惱。 復た次ぎに、諸の煩悩は、若しは見に属し、若しは愛に属し、是れを熱と名づく。仏法中には、此無きが故に、熱悩無しと名づく。
復た次ぎに、
諸の、
『煩悩』は、
『愛』か、
『見』に、
『属す!』ので、
是れを、
『熱くなる!』と、
『称するのである!』が、
『仏法』中に、
此の、
『愛、見』を、
『無くする!』が故に、
『熱に悩まされる!』ことが、
『無い!』と、
『称するのである!』。
不待時者。佛法不待時而行。亦不待時與果。外道法日未出時受法。日出時不受法。或有日出時受。日未出不受。有晝受夜不受。有夜受晝不受。 時を待たずとは、仏法は時を待たずに行じ、亦た時を待たずに果を与うればなり。外道の法は、日未だ出でざる時に法を受け、日の出づる時に法を受けず。或は日の出づる時に受けて、日未だ出でざれば受けざる有り、昼に受けて夜に受けざる有り、夜に受けて昼に受けざる有り。
『時を待たない!』とは、
『仏』の、
『法』は、
『時を待たずに!』、
『何時でも!』、
『行うことができ!』、
亦た、
『時を待たずに!』、
『果』を、
『与える!』が、
『外道』の、
『法』は、
未だ、
『日が出ていない!』時に、
『法』を、
『受け!』、
『日が出ている!』時には、
『法』を、
『受けない!』とか、
或は、
有る、
『法』は、
『日』が、
『出ている!』時に、
『受けて!』、
『日』が、
『出ていなければ!』、
『受けない!』とか、
有るいは、
『昼』に、
『受けて!』、
『夜』には、
『受けない!』とか、
有るいは、
『夜』に、
『受けて!』、
『昼』には、
『受けないからである!』。
佛法中無受待時。隨修八聖道時便得涅槃。譬如火得薪便然。無漏智慧生時。便能燒諸煩惱不待時也。 仏法中には、受くるに時を待つこと無く、八聖道を修する時に随いて、便(すなわ)ち涅槃を得。譬えば、火の薪を得れば、便ち然(も)ゆるが如く、無漏の智慧生ずる時、便ち能く諸の煩悩を焼いて、時を待たず。
『仏』の、
『法』中には、
『受ける!』のに、
『時を待つ!』ことは、
『無く!』、
『八聖道(正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定)を修める!』、
『時』の、
『流れ!』に、
『随って!』、
『間もなく!』、
『涅槃』を、
『得ることになる!』。
譬えば、
『火』が、
『薪を得れば!』
『間もなく!』、
『燃えるように!』、
『無漏の智慧』が、
『生じる!』、
『時』に、
『随って!』、
『間もなく!』、
『諸の煩悩』を、
『焼くのであるから!』、
則ち、
『時』を、
『待つことがないのである!』。
  八聖道(はっしょうどう):正しく涅槃を求趣するに八種の道支あるを云う。謂わゆる正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定なり。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
問曰。如佛說。有時藥時衣時食。若人善根未熟待時當得。何以言無時。 問うて曰く、仏の説きたまえるが如きは、『時薬、時衣、時食有り』、『若し人、善根未だ熟さざれば、時を待って当に得べし』、となり。何を以ってか、『時無し』、と言う。
問い、
例えば、
『仏』は、
『時薬、時衣、時食』が、
『有る!』と、
『説かれた!』し、
若し、
『人』の、
『善根』が、
『熟していなくても!』、
『時を待てば!』、
『得ることになる!』とも、
『説かれている!』。
何故、
『時は無い!』と、
『言うのですか?』。
  時薬(じやく):十誦律に依れば、食時に取る薬の意なるが如し。
  時衣(じえ):安居後の一ヶ月(凡そ七月十六日至八月十五日)を衣時といい、正規には比丘はこの中に於いて、僧伽の配分を受けたり、在家の施与を受けて、今後一年間に要する三衣を整えるべきであり、是れを時衣という。それ以外は非時衣といい、特別の事情が無ければ得ることができない。
  時食(じじき):日の出から正午までの間に唯一食するのが比丘の作法であり、それ以外の時に食するを非時食と呼んで特別の事情のあるときに限って許される。
  参考:『十誦律巻25医薬法』:『佛言。若不自乞檀越施應受。從今日聽僧服四種藥。何等四種藥。一時藥。二時分藥。三七日藥。四盡形藥。時藥者。五種佉陀尼五種蒲闍尼五似食。何等五種佉陀尼。一根食。二莖食。三葉食。四磨食。五果食。何等根食。芋根蔙根藕根蘆蔔根蕪菁根。如是等種種根可食。何等莖食。蘆蔔莖穀梨莖羅勒莖柯藍莖。如是等種種是莖佉陀尼。何等葉食。蘆蔔穀梨葉羅勒葉柯藍葉。如是等種種葉可食。是葉佉陀尼。何等磨食。稻大麥小麥。如是等種種。是磨佉陀尼食。何等果食。菴羅果閻浮果波羅薩果鎮頭佉果那梨耆羅果。如是等種種。是果佉陀尼。何等五種蒲闍尼食。一飯二糗三糒四魚五肉。如是五種蒲闍尼食。何等五種似食。糜粟穬麥莠子迦師如是等種種。是名似食。未漉漿汁。是名時藥。時分藥者。若淨漉漿汁。是名時分藥。七日藥者。若酥油蜜石蜜。是名七日藥。盡形藥者。五種根藥。何等五種。一舍利。二薑。三附子。四波提毘沙。五菖蒲根。是藥盡形壽共房宿無罪。五種果藥。呵梨勒。鞞醯勒。阿摩勒。胡椒。蓽芺羅。盡形壽共房宿。有五種鹽。黑鹽紫鹽赤鹽鹵土鹽白鹽。盡形壽共房舍宿。有五種樹膠藥。興渠薩闍羅茶帝夜帝夜波羅帝夜槃那。盡形壽共房宿。五種湯。根湯莖湯葉湯華湯果湯。盡形壽共房宿。是四種藥。時藥時分藥七日藥盡形藥。若即日受時藥時分藥七日藥盡形藥。若和合一處。此藥時應服。非時不應服。時藥力故。若即日受時分藥七日藥盡形藥。是藥和合一處。是藥應時分服。過時分不應服。時分藥力故。若即日受七日藥盡形藥。是藥和合一處。七日應服。過七日不應服。七日藥力故。盡形藥隨意服。若即日受時藥不淨。受時分藥七日藥盡形藥。和合一處不應服。即日受時分藥不淨。受七日藥盡形藥。和合一處不應服。即日受七日藥不淨。受盡形藥。和合一處。不應服。長老優波離問佛。是三種藥。時分藥七日藥盡形藥。是三種藥。舉宿得口受不。佛言。不得。是三種藥。惡捉得口受不。佛言。不得。是三種藥。手受口受。不病得服不。佛言。不得。是三種藥。手受口受。病得服不。佛言得』
  参考:『十誦律巻55』:『云何名時衣。答若夏末月得衣物。是名時衣。』
  参考:『十誦律巻13九十波逸提』:『佛以種種因緣訶責。云何名比丘。非時入白衣家乞食。佛言。若比丘非時入白衣家。何但得如是過罪。當復更得過於是罪。從今諸比丘應一食。』
答曰。此時者隨世俗法。為佛法久住故。結時戒。若為修道。得涅槃及諸禪定智慧微妙法不待時也。諸外道法皆待時節。佛法但待因緣具足。若雖持戒禪定。而智慧未成就不能成道。若持戒禪定智慧皆成就便得果。不復待時。 答えて曰く、此の時は、世俗の法に随いて、仏法の久住せんが為の故に、時戒を結びたまえばなり。若し道を修して、涅槃、及び諸の禅定、智慧、微妙の法を得んが為めなれば、時を待たざるなり。諸の外道の法は、皆時節を待つも、仏法は但だ因縁の具足するを待つ。若し、持戒、禅定ありと雖も、而るに智慧未だ成就せざれば、道を成ずる能わず。若し持戒、禅定、智慧、皆成就すれば、便ち果を得て、復た時を待たず。
答え、
此の、
『時』は、
『世俗』の、
『法』に、
『随いながら!』、
『仏法』を、
『久しく!』、
『住めようとされた!』が故に、
『時に関する!』、
『戒』を、
『結ばれたのである!』。
若し、
『道を修めて!』、
『涅槃』や、
『諸の禅定、智慧など!』の、
『微妙の法』を、
『得るのであれば!』、
則ち、
『時』を、
『待つことはない!』。
諸の、
『外道』の、
『法』は、
皆、
『時節』を、
『待って!』、
『得るものである!』が、
『仏』の、
『法』は、
但だ、
『因縁』の、
『具足する!』のを、
『待つだけである!』。
若し、
『持戒、禅定が有っても!』、
『智慧』を、
『成就していなければ!』、
則ち、
『道』を、
『成就することができない!』し、
若し、
『持戒、禅定、智慧』が、
皆、
『成就していれば!』、
間もなく、
『果』を、
『得られるので!』、
復た、
『時』を、
『待つことはない!』。
  時戒(じかい):時薬、時衣、時食等、時に関する戒律の意。
復次久久得果名為時。即得不名時。譬如好染一入便成。心淨人亦如是。聞法即染得法眼淨。是名不待時。 復た次ぎに、久久にして果を得るを名づけて、時と為すも、即ち得るを、時と名づけず。譬えば好染の一たび入れば、便ち成ずるが如し。心浄き人も亦た是の如く、法を聞けば即ち染まりて、法眼の淨なるを得、是れを時を待たずと名づく。
復た次ぎに、
『長時にして!』、
『果を得れば!』、
『時』と、
『呼ばれる!』が、
『即時に!』、
『果を得れば!』、
『時』と、
『呼ばない!』。
譬えば、
『好い染料』は、
『一度!』、
『入っただけで!』、
『間もなく!』、
『染め!』が、
『完成するように!』、
『心の浄い人』も、
是のように、
『法』を、
『聞くだけで!』、
『法』の、
『眼』を、
『浄めることができる!』ので、
是れを、
『時』を、
『待たない!』と、
『称するのである!』。
  好染(こうせん):好い染液の意。
  法眼浄(ほうげんじょう):梵語dharmacakSu- vizuddhaの訳。法眼の清浄なるを云う。又浄法眼、或いは清浄法眼とも称す。即ち四聖諦の法に於いて疑惑する所なく正しく其の理を知見するを云う。「長阿含経巻13」に、「爾の時に世尊、婆羅門の心已に調柔し、清浄無垢にして道教を受くるに堪うるを知り、諸仏の常法の如く、苦聖諦、集聖諦、苦滅聖諦、苦出要諦を説く。時に婆羅門即ち座上に於いて遠塵離垢して法眼浄dhamma- cakkhuを得たり」と云い、「雑阿含経巻5」に、「那拘羅長者は法眼浄を得たり」と云い、「五分律巻3」に、「仏は其の意を知りて更に為に法を説く、所謂苦集尽道なり。法を聞いて開解し、諸法の中に於いて遠塵離垢して法眼浄を得、法を見、法を得し已る」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻182」に経の文を解し、「此の中、遠塵とは謂わ随眠を遠ざく。離垢とは謂わく纏垢を離る。諸法の中に於いてとは謂わく四聖諦の中に於いてなり。浄法眼を生ずとは謂わく四聖諦を見て浄法眼生ずるなり」と云えり。是れ随眠纏苦を遠離し、正しく四聖諦の理を知見するを法眼浄と名づけたるものにして、即ち見道を指すの意なるを知るべし。又「大毘婆沙論巻66」に、「遠塵離垢して諸法の中に於いて浄法眼を生ずとは前三果を説く。謂わく諸の具縛、及び欲界五品の染を離れ已りて正性離生に入り、浄法眼を生ぜば預流果を得し、若し欲界六七品の染を離れ已りて正性離生に入り、浄法眼を生ぜば一来果を得し、若し欲界乃至無所有処の染を離れ已りて正性離生に入り、浄法眼を生ぜば不還果を得す」と云えり。是れ見道以前に於いて未だ全く惑を断ぜず、或いは又欲界五品の惑を断じ、見道に入りて浄法眼を生ずるものは初果を得し、欲界六七品の惑を断じ、見道に入りて浄法眼を生ずる者は第二果を得し、欲界の九品乃至無所有処の惑を断じ、見道に入りて浄法眼を生ずる者は第三果を証することを説けるものにして、此の中、後の二は即ち超越証に約せるなり。又吉蔵の「維摩経略疏巻4」に、「法眼浄と云うは小乗にも亦た法眼あり、大乗にも亦た法眼あり。小乗の法眼は即ち初果にして、四諦の法を見るを法眼と名づく。大乗の法眼は即ち初地にして、真の無生法を得るが故に法眼浄と云う。(中略)若し五眼の中の法眼は二乗に無き所、唯菩薩にのみ在り」と云えり。是れ小乗に於いては法眼浄を初果とし、大乗に於いては初地となすことを明し、又五眼の中の法眼は大乗の法眼浄にして、二乗は之を具せずとなすの意なり。又「長阿含巻15究羅檀頭経」、「無量寿経巻下」、「四分律巻32」、「注維摩詰経巻1」、「無量寿経義疏巻下」、「大乗義章巻20本」等に出づ。<(望)
。能到善處者。是三十七無漏道法。能將人到涅槃。譬如入恒河必得至大海。諸餘外道法。非一切智人所說。邪見雜故將至惡處。或時將至天上還墮受苦。皆無常故不名善處。 能く善処に到るとは、是れ三十七無漏道法は、能く人を将(ひき)いて、涅槃に到らしむるなり。譬えば恒河に入れば、必ず大海に至るを得るが如し。諸余の外道の法は、一切智の人の所説に非ざれば、邪見雑(まじ)うるが故に、将いて悪処に至り、或は時に将いて、天上に至るも、還って堕して苦を受く。皆無常なるが故に、善処と名づけず。
『善処に到らせる!』とは、
是れは、
『三十七品』の、
『無漏』の、
『道法であり!』、
『人を将(ひき)いて!』、
『涅槃』に、
『到らせるからである!』。
譬えば、
『恒河に入れば!』、
必ず、
『大海』に、
『至ることができる!』のと、
『同じである!』。
諸余の、
『外道の法』は、
『一切智の人』の、
『所説ではない!』が故に、
『邪見』が、
『雑(まじ)っており!』、
故に、
『人を将いて!』、
『悪処』に、
『至らせる!』、
或は、
『人を将いて!』、
『天上』に、
『至っても!』、
還()た、
『堕ちて!』、
『苦を受けさせる!』ので、
皆、
『無常であり!』、
故に、
『善処』とは、
『呼ばれない!』。
  三十七無漏道法(さんじゅうしちむろどうほう):菩提に帰趣する三十七種の法の意。謂わゆる四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道支なり。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
問曰。無有將去者。云何得將至善處。 問うて曰く、将(ひ)きいて去る者有ること無くんば、云何が、将いて善処に至るを得る。
問い、
若し、
『将()きいて!』、
『去る!』者が、
『無ければ!』、
何故、
『将(ひき)いて!』、
『善処』に、
『至らせられるのですか?』。
答曰。雖無將去者。但諸法能將諸法去。無漏善五眾斷。五眾中強名眾生。將去入涅槃。如風吹塵如水漂草。雖無將去者而可有去。 答えて曰く、将きいて去る者無しと雖も、但だ諸法は、能く諸法を将いて、去ればなり。無漏の善の五衆は断ずるも、五衆中に強いて衆生と名づけ、将いて去りて、涅槃に入るること、風の塵を吹くが如く、水の草を漂わすが如くして、将きいて去る者無しと雖も、去ること有るべし。
答え、
『将きいて!』、
『去る!』者は、
『無い!』が、
但だ、
『諸の法』は、
『諸の法』を、
『将いて!』、
『去らせることができる!』。
『無漏である!』、
『善』の、
『五衆』は、
『断絶する!』が、
『五衆』中に、
強いて、
『衆生』と、
『呼び!』、
是の、
『衆生』を、
『将いて!』、
『去らせ!』、
『涅槃』に、
『入れるのである!』。
譬えば、
『風』が、
『塵』を、
『吹いたり!』、
『水』が、
『草』を、
『漂わせるように!』、
『将きいて!』、
『去る!』者は、
『無い!』が、
而し、
『去ることまでが!』、
『無いとは言えない!』。
  無漏善五衆(むろぜんごしゅ):四禅所摂の無漏の善の五陰を云う。『大智度論巻20上』参照。
復次因緣和合無有作。亦無有將去者。而果報屬因緣不得自在。是即名為去。 復た次ぎに、因縁和合に作の有ること無し。復た将かれて去る者有ること無し。而も果報は因縁に属して、自在なるを得ず。是れ即ち名づけて、去ると為す。
復た次ぎに、
『因縁の和合』に、
『作( doing )』は、
『無く!』、
亦た、
『将かれて去る!』者も、
『無い!』が、
而し、
『果報』は、
『因縁』に、
『属する!』ので、
『自在ではない!』。
是れを、
即ち、
『去る!』と、
『称するのである!』。
通達無礙者。得佛法印故通達無礙。如得王印則無所留難。 通達無礙とは、仏法の印を得るが故に、通達無礙なり。王の印を得れば、則ち留難する所無きが如し。
『通達無礙(通行自由)』とは、
『仏法という!』、
『印(通行手形)を得た!』が故に、
『通達無礙なのである!』。
譬えば、
『王の印を得れば!』、
『留難(拘留)される!』ことが、
『無いようなものである!』。
  留難(るなん):難題を持ち出して引き止めること。
問曰。何等是佛法印。 問うて曰く、何等か、是れ仏法の印なる。
問い、
是の、
『仏法の印』とは、
『何のようなものですか?』。
答曰。佛法印有三種。一者一切有為法。念念生滅皆無常。二者一切法無我。三者寂滅涅槃。 答えて曰く、仏法の印に三種有り、一には、一切の有為法は、念念生滅して、皆無常なり。二には、一切の法は無我なり。三には、寂滅は涅槃なり。
答え、
『仏法の印』には、
『三種有り!』、
一には、
一切の、
『有為法(五衆、十二入等)』は、
『念念に(一瞬毎に)!』、
『生、滅する!』ので、
皆、
『無常である!』。
二には、
一切の、
『法(有為法+無為法)』中に、
『我』は、
『無い(存在しない)!』。
三には、
即ち、
『涅槃』とは、
『寂滅である!』。
  三法印(さんぽういん):  法に於ける三種の印章( three seals of the Dharma )の義。梵語 tri- dRSTi- namitta- mudraa )の訳、略して三印とも名づく。、即ち仏教の教説として印可せらるる範疇に三種ある( Three aspects of the Buddhist teaching that clearly distinguish it from non-Buddhist teachings: )を云う。『大智度論巻14上注:三法印』参照。
  1. 諸行無常 anityaaH sarva- saMskaaraaH :有らゆる事物は無常である( all things are impermanent )の印、
  2. 諸法無我 niraatmaanaH sarva- dharmaaH :有らゆる事物は固有の存在を欠く( all things lack inherent existence (no-self) )の印、
  3. 涅槃寂静 zaantaM nirvaaNam :而も涅槃とは完全なる無活動を云う( and that nirvaaNa is perfect quiescence )の印なり。
行者知三界皆是有為生滅。作法先有今無今有後無。念念生滅相續相似生故。可得見知。如流水燈焰長風相似相續。故人以為一眾生於無常法中常顛倒故。謂去者是常住。是名一切作法無常印。 行者の知るらく、『三界は、皆是れ有為にして生滅なり。作法は先に有りて、今無く、今有りて、後に無く、念念に生、滅し、相続し、相似して生ずるが故に、見知するを得べし。流水、灯焔、長風の如く、相似の相続するが故に、人は以って、一衆生と為し、無常法中に於いて、常顛倒するが故に、『去者は、是れ常住なり』、と謂う。是れを一切作法の無常印と名づく。
『行者』は、こう知る、――
『三界』は、
皆、
『有為であり!』、
『生、滅する!』。
『作法(有為法)』は、
『先に!』、
『有った!』者は、
『今!』、
『無く!』、
『今!』、
『有る!』者が、
『後には!』、
『無い!』、
『念念に!』、
『相続して!』、
『相似しながら( be alike )!』、
『生じる!』が故に、
是の、
『法』を、
『見、知できるのである!』。
『有為法』は、
譬えば、
『流れる水』や、
『灯の焔』や、
『長い風のような!』、
『相似した!』、
『相続(継続した固体)である!』が故に、
『人』は、
此の、
『相似の相続』を以って、
『一衆生である!』と、
『思い!』、
『無常法』中に、
『常である!』と、
『顛倒する!』が故に、
『去る者()』は、
『常住である!』と、
『謂うのである!』。
是れを、
一切の、
『作法は無常である!』という、
『印』と、
『称する!』。
  作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting )、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為, 事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta-dharma, kRtaka の訳、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial things. )。◯梵語 karman, kriyaa, dharmaakara の訳、例えば禁酒/浄行等の仏教徒の修行者の行動に伴う日常行為に関する規則/儀礼/行儀作法( Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so forth )。又羯磨と音訳し、受戒等の儀式を遂行すること( To perform ceremonies, such as ordination ceremonies. )。
  相続(そうぞく):梵語 saMtaana の訳、継続した継承( continued succession )の義。継続した固体( continuing individual existence )、永久・不変・継続的・固有の存在[身体]( Eternal, unchanging continual individual substance (body) )の意。
  相似生(そうじしょう):梵語 sadRza- utpatti の訳、相似して生起する( arises similarly )の義。
一切法無我。諸法內無主無作者。無知無見無生者無造業者。一切法皆屬因緣。屬因緣故不自在。不自在故無我我相不可得故。如破我品中說。是名無我印。 一切の法に我無しとは、諸法の内に主無く、作者無く、知無く、見無く、生者無く、造業の者無くして、一切の法は、皆因縁に属す。因縁に属するが故に自在ならず。自在ならざるが故に我無し。我相の不可得なるが故なり。『破我品』中に説けるが如し。是れを無我の印と名づく。
一切の、
『法』には、
『我』が、
『無い(存在しない)!』とは、――
諸の、
『法の内(色、受、想、行、識の内)』には、
『主(神我)、作者(行為者)、知、見、生者』が、
『無く!』、
『業』を、
『造る者』も、
『無いからである!』。
一切の、
『法』は、
皆、
『因縁』に、
『属し!』、
『因縁』に、
『属する!』が故に、
『法』は、
『自在でなく!』、
『自在でない!』が故に、
『我』が、
『無い!』。
即ち、
『我相(主、自在等)が、
諸の、
『法』中に、
『認識できないからである!』。
例えば、
『破我品』中に、
『説いた通りであり!』、
是れを、
『無我の印』と、
『称する!』。
  破我品(はがぼん):『大智度論巻12釈法施義』参照。
  参考:『大智度論巻12』:『問曰。云何我不可得。答曰。如上我聞一時中已說。今當更說。佛說六識。眼識及眼識相應法共緣色。不緣屋舍城郭種種諸名。耳鼻舌身識亦如是。意識及意識相應法。知眼知色知眼識。乃至知意知法知意識。是識所緣法皆空無我生滅故。不自在故。無為法中亦不計我。苦樂不受故。是中若強有我法。應當有第七識識我。而今不爾。以是故知無我。問曰。何以識無我。一切人各於自身中生計我。不於他身中生我。若自身中無我。而妄見為我者。他身中無我亦應於他身而妄見為我。復次若內無我。色識念念生滅。云何分別知是色青黃赤白。復次若無我今現在人識。漸漸生滅。身命斷時亦盡諸行罪福。誰隨誰受。誰受苦樂誰解脫者。如是種種內緣故。知有我。答曰。此俱有難。若於他身生計我者。復當言。何以不自身中生計我。復次五眾因緣生故空無我。從無明因緣生二十身見。是我見自於五陰相續生。以從此五眾緣生故。即計此五眾為我。不在他身以其習故。復次若有神者可有彼我。汝神有無未了而問彼我。其猶人問兔角。答似馬角。馬角若實有可以證兔角。馬角猶尚未了。而欲以證兔角。復次自於身生我故便自謂有神。汝言神遍亦應計他身為我以是故不應言自身中生計我心於他身不生。故知有神。』
問曰。何以故。但作法無常一切法無我。 問うて曰く、何を以っての故にか、但だ作法は無常にして、一切法は無我なる。
問い、
何故、
但だ、
『作法(有為法)のみ!』が、
『無常であり!』、
『一切法』は、
『無我なのですか?』。
答曰。不作法無因無緣故。不生不滅。不生不滅故。不名為無常。 答えて曰く、不作法は、無因、無縁なるが故に、不生不滅にして、不生不滅なるが故に、名づけて無常と為さず。
答え、
『不作法(無為法)』は、
『無因、無縁である!』が故に、
『不生、不滅であり!』、
『不生、不滅である!』が故に、
『無常』とは、
『称されないからである!』。
復次不作法中。不生心著顛倒。以是故不說是無常。可說言無我。有人說。神是常遍知相。以是故說一切法中無我。 復た次ぎに、不作法中には、心を生じて著して顛倒せず。是を以っての故に、是れ無常なりと説かざるも、説いて無我なりと言うべし。有る人の説かく、『神は、是れ常にして、遍知の相なり』、と。是を以っての故に説かく、『一切法中に我無し』、と。
復た次ぎに、
『不作法』中には、
『著して!』、
『顛倒するような!』、
『心』を、
『生じない!』ので、
是の故に、
是れは、
『無常である!』とは、
『説かない!』が、
是れは、
『無我である!』と、
『説くことはできる!』。
有る人は、こう説いている、――
『神』は、
『常であり!』、
『遍知の相である!』、と。
是の故に、こう説くのである、――
『一切の法』中に、
『我』は、
『無い!』、と。
  (じん):梵語purSaの訳、又神我とも訳す。数論派二十五諦中の一。即ち知と思を体とせる不変不動の精神的原理にして、独存の見者非作者なるを云う。『大智度論巻4下注:神、巻22上注:数論』参照。
  数論(すうろん):梵語僧佉saaMkhyaの訳。又僧企耶に作り、数術、或いは制数論とも訳す。数に基づく論の意。外道四執の一。二十種外道の一。又雨衆外道とも称す。即ち迦毘羅kapilaの唱道せし学派を云う。其の名称に関しては、「百論疏巻上之中」に、「僧佉とは此に制数論と云う。一切の法を明すに二十五諦を出でざるが故なり。一切法を二十五諦の中に摂入するを名づけて制数論と為す」と云い、「成唯識論述記巻1末」に、「梵に僧佉と云う。此に翻じて数と為す。即ち智慧の数なり。数は諸法を度(はか)る根本なれば立てて名とす、数より起る論なれば名づけて数論と為す。論能く数を生ずれば亦た数論と名づく。其の数論を造り、及び数論を学ぶものを数論者と名づく」と云えり。是れ智慧分別に依る計数を数の義とし、此の数に基づく論なるが故に名づけて数論となすの意なり。蓋し此の派の学説が遠く古優波尼沙土に淵源することは疑を容れざる所なるも、迦毘羅の一派創唱は恐らく仏滅以後に在るべし。「仏所行讃巻3阿羅藍鬱頭藍品」に、「爾の時、阿羅藍は太子の所問を聞き、自ら諸の経論を以って略して其れが為に解説し、汝は是れ機悟の士、聡中の第一なり。今当に我が説を聴くべしと。(中略)迦毘羅仙人及び弟子眷属は、此の我が要義に於いて修学して解脱を得たり。彼の迦毘羅とは今の波闍波提なり」と云い、「仏本行集経巻22問阿羅邏品」、「過去現在因果経巻3」等に出す所亦た之に同じ。是れ釈尊出家学道の時、阿羅藍araDaに就きて数論の説を学せられたりとなすなり。又近時泰西学者の間に仏教十二因縁の教旨が数論の二十五諦説に類似し、其の他苦観等の類同あるを指摘し、凡べて之を本学派より受けたる影響なりと断じ、亦た其の成立を仏教以前に置かんとするものありと雖も、原始仏典に多く数論の名声並びに其の学説を出さざるを以って見るに、本学派は仏陀以後に於いて興起せるものとなすべきが如し。但し「仏所行讃」等に出せる伝説は、単に仏陀の博学を証せんとするの意に外ならずと解するを得べく、又二十五諦を以って十二因縁説の根基となすが如きも未だ的確ならざるものありというべし。迦毘羅以後の伝承に関しては、「金七十論巻下」に、「弟子次第し来たりて大師の智を伝受すとは、是の智は迦毘羅より来、阿修利に至り、阿修利は般尸訶に伝与し、般尸訶は褐伽に伝与し、褐伽は優楼佉に伝与し、優楼佉は跋婆利に与え、跋婆利は自在黒に伝与す。是の如く次第して自在黒は此の智を得、大論の受持すべきこと難きを見、故に略して七十偈を抄す」と云い、又「迦毘羅仙人は阿修利の為に略説すること此の如し。最初に唯暗生じ、此の闇の中に智田あり、智田は即ち是れ人なり。人あるも未だ智あらず、故に生して田と為す。次に廻転変異す。此れ第一転の生なり、乃至解脱すと。阿修利仙人は般尸訶の為に略説すること亦た是の如し。是の般尸訶は広く此の智を説きて六十千偈あり。次第して乃ち婆羅門の姓は拘式、名は自在黒に至りて抄集して七十偈を出す」と云えり。是れ迦毘羅より阿修利aasuriに、阿修利より般尸訶paJcazikhaに伝え、般尸訶は其の義を広説して六十千偈となし、更に褐伽garga、優楼佉uluuka、跋婆利を経て自在黒iizvarakRSNaに至り、更に之を略説して七十偈となせりとなすの意なり。此の中、般尸訶は迦毘羅の説を敷衍し、本学派を発展せしめたる師にして六十千偈を出すと云うに依れば既に経を作りしことを知るべく、現に又「外典章疏」中に其の言として十数種の断片を出せり。又マハーブハーラタmahaabhaarata中には般尸訶の前後に於いて行われたりと認むべき数論の説を出し、「仏所行讃巻3」、「大荘厳論経巻1」、「大智度論巻70」、「外道小乗涅槃論」等にも亦た其の後に於ける学説を載せり。此等の文献に依るに当時本学派中には、神我自性の二元の外に別に最高原理として梵を認めんとする有神的立論あり、又二十五諦転変の次第に関しても、数種の類型ありて未だ一定せざりしが如し。即ち「外道小乗涅槃論」に、「第十四外道僧佉論師は説く、二十五諦の自性は因にして諸の衆生を生ず、是れ涅槃の因なり。自性は是れ常なるが故に自性より大を生じ、大より意を生じ、意より智を生じ、智より五分を生じ、五分より五知根を生じ、五知根より五業根を生じ、五業根より五大を生ず」と云える如き其の例なり。後自在黒出づるに及び、再び伝承の教義を改革整理し、新に僧佉頌saaMkhya- kaarikaaを作り、一元論を排して二元論を採用し、茲に本学派は確立するに至れり。天親の作と伝うる長行釈と共に真諦によりて訳出せらる。是れ所謂「金七十論」なり。爾来支那及び本邦に於いて外道の最なるものとして広く学習せられ、又印度に於いても其の後盛んに行われ、近時は之を印度六派哲学の随一となしつつあり。其の所立の宗義は二十五諦を立てて万有の生成転変を説くに在り。二十五諦とは、一に自性prakRti、二に覚buddhi、三に我慢ahaGkaara、四に五知根paJca- jJaaneendriya、五に五作根paJca- karmeendriya、六に心根manas、七に五唯paJca- tanmaatra、八に五大paJca- mahaabhuuta、九に神我purSaなり。此の中、神我とは知と思を体とせる不変不動の精神的原理にして、独存の見者非作者なるを云い、自性とは非変異avyakta、或いは勝因pradhaanaとも称し、即ち物質的原理にして、薩埵sattva、羅闍rajas、多磨tamasの三徳が尚お平衡状態に在り、後発して一切の諸法を展開すべき体質たるものを云う。此の二は宇宙生成の根本原理にして、若し一たび此の両者結合せば、譬えば盲人(自性)の跛者(神我)と合して所在に至るが如く、自性は神我の知に依りて三徳の平衡を失し、次第に転変して二十三諦を生ず。即ち初に先づ覚を生じ、三徳の分化更に進むに従って次第に覚は我慢を生じ、我慢は一に十一根を生じ、又別に五唯を生じ、五唯は更に五大を生じて総じて二十五諦となり、宇宙万象初めて備わるとなすなり。就中、覚は又大mahatとも称し、即ち彼此を知覚する決智を云う。之に法、智慧、離欲、自在、及び非法、非智、愛欲、不自在の八分あり。前の四は薩埵の相にして、此の分増長せば遂に解脱に至る。後の四は多磨の相にして、此の分増長せば漸次向下して我慢等を生ず。我慢とは我が声、我が触、乃至我が福徳として愛する我執の謂にして、之に変異我慢vaikRtaahaGkaara、大初我慢bhuutaady- a.焔熾我慢taijasaa.の三種あり。変異我慢とは覚の中の薩埵の増長によりて生ぜしものにして、能く十一根を生ずるものを云い、大初我慢とは覚の中の多磨の増長に依りて生ぜしものにして、能く五唯五大を生ずるものを云い、焔熾我慢とは、覚の中の羅闍の増長によりて生ぜしものにして、之に十一根を生ずると、五唯五大を生ずるとの両種あり。次に我慢より生ずるものの中、五唯は五六を生ずる功能ある純粋無雑の原質を称したるものにして、即ち声触色味香の五種なり。就中、声唯は能く空大を生じ、触唯は風大を生じ、色唯は火大を生じ、味唯は水大を生じ、香唯は地大を生ず。十一根とは耳皮眼舌鼻の五知根と、舌手足男女大遺の五作根と、及び心根とを云う。此の中、五知根は能く五唯を取るものにして、即ち耳根は声を取り、皮根は触を取り、眼根は色を取り、舌根は味を取り、鼻根は香を取る。五作根は能く諸事を作すものにして、即ち舌根は言語を作し、手根は執持を作し、足根は行歩を作し、男女根は戯楽を作し、及び児を生み、大遺根は糞穢を除棄す。又心根は能分別を体となし、之に二種を分つ。即ち若し知根と相応するものは之を知根と名づけ、作根と相応するものは之を作根と名づくなり。二十五諦の中、若し変異の有無に就いて之を分別せば、第一自性は唯本にして変異に非ず、第二十五神我は本に非ず変異に非ず。中間の二十三諦は凡べて皆変異なり。但し其の中、覚と我慢及び五唯の七諦は本にして亦た変異、十一根及び五大の十六諦は唯変異にして本に非ざるなり。「金七十論疏巻上」には、数論は総じて二十五諦を以って宗となすも、別を談ぜば諸法常宗、従縁顕了宗、因中有果宗、因果体用同一宗の四宗の別ありとなせり。就中、諸法常宗とは外道十六宗中の第五にして、即ち数論は別して此の宗に属すべきことを指摘せるなり。「大乗法苑義林章巻1本」に、「諸法皆常宗とは、謂わく伊師迦(僧佉の喩名)は計す、我及び世間は皆是れ常住なりと。即ち全常一分常等を計す」と云える是れなり。従縁顕了宗とは外道十六宗中の第二にして、即ち前引「大乗法苑義林章」の連文に「従縁顕了宗とは、謂わく即ち僧佉及び声論者なり、僧佉師は計す、一切法の体は自性本有なり。衆縁に従って顕れ、縁の所生には非ず。若し縁顕すに非ずんば果は先より是れ有なるべし。復た因より生ぜば道理に応ぜず」と云える是れなり。因中有果宗とは亦た外道十六宗中の第一にして、即ち「義林章」の連文に、「因中有果宗とは、謂わく雨衆外道執す、諸法の因中に常に果の性あり。禾は穀を以って因と為すが如き、禾を求めんと欲する時は唯穀を種ゆ。禾は定んで穀より生じ、麦より生ぜず。故に穀の因中に先より已に禾の性あることを知る。爾らざれば一切は一切法より生ずべし」と云える是れなり。因果体用同一宗とは外道四執中の第一にして、即ち一切法一と計するを云う。「外道小乗四宗論」に、「僧佉外道言わく、我と覚との二法は是れ一なり。何を以っての故に、二相の差別は得べからざるが故なり。問うて曰わく、如何が二相の差別得べからざる。答えて曰わく、牛と馬との異法の如きは、二相の差別見るべく取るべく、此れは是れ牛、此れは是れ馬なりと言うべし。而るに我は覚を離れば我得べからず、我を離れば覚得べからず。我が経の中に説くが如し、我と覚との体相は火と熱との如し、二法の差別は得べからずと。問うて曰わく、如何が差別得べからざるや。答えて曰わく、彼の法は異と説くべからざるが故なり。譬えば白畳の如く、此れは是れ白、此れは是れ畳と語言すべからず。二法の差別は白畳の如く、一切法の因果も亦た是の如し」と云える是れなり。蓋し数論は外道中最も有力なる学派にして随って仏典中其の説を破せるもの少なからず。「大智度論巻70」、「百論」、「外道小乗四宗論」、「瑜伽師地論巻6」、「仏性論巻1」、「入大乗論巻上」、「成唯識論巻1」等に其の諸法常住、計我及び因中有果等の説を難斥せる如き即ち是れなり。又「大般涅槃経巻16、39」、「同疏巻32」、「方便心論」、「成実論巻3」、「顕揚聖教論巻9」、「随相論」、「梁訳摂大乗論釈巻2」、「十八空論」、「婆藪槃豆法師伝」、「大乗義章巻6」、「摩訶止観巻10之1」、「法華文句巻8之3」、「三論玄義」、「中観論疏巻1末」、「百論疏巻中之上、下之上」、「成唯識論述記巻4末」、「同了義灯巻2本」、「同演秘巻1末」、「同同学鈔巻1之7」、「因明入正理論巻中本」、「因明論疏瑞源記巻4」、「倶舎論光記巻3、11、13」、「同宝疏巻11」、「大慈恩寺三蔵法師伝巻4」、「玄応音義巻11」、「慧琳音義巻47」、「華厳経疏隨疏演義鈔巻13」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望)
  :数論学派(すろんがくは)は、神我は永遠に存在し一切を知っているが、自性という物質的身心を持つことにより、有限の存在になるとする。
寂滅者是涅槃。三毒三衰火滅故名寂滅印。 寂滅とは、是れ涅槃にして、三毒三衰の火滅するが故に寂滅印と名づく。
『寂滅』は、
是れが、
『涅槃であり!』、
『三毒(貪瞋癡)、三衰(老病死)の火』が、
『滅する!』が故に、
是れを、
『寂滅の印』と、
『称するのである!』。
  三衰(さんすい):老病死を云う。
問曰。寂滅印中何以但一法不多說。 問うて曰く、寂滅印中には、何を以ってか、但だ一法にして、多くを説かざる。
問い、
『寂滅の印』中には、
何故、
但だ、
『涅槃の一法のみ!』で、
『多く!』を、
『説かないのですか?』。
答曰。初印中說五眾。二印中說一切法皆無我。第三印中說二印果。是名寂滅印。一切作法無常。則破我所外五欲等。若說無我破內我法。我我所破故。是名寂滅涅槃。 答えて曰く、初の印中には五衆を説き、二の印中には一切法の皆無我なるを説き、第三の印中には、二印の果を説いて、是れを寂滅の印と名づく。一切の作法は、無常なれば、則ち我所と、外の五欲等を破る。若し無我を説けば、内の我法を破る。我、我所破るるが故に、是れを寂滅涅槃と名づく。
答え、
『初の印』中には、
『五衆』は、
『無常である!』と、
『説き!』、
『第二の印』中には、
『一切の法』は、
『皆、無我である!』と、
『説き!』、
『第三の印』中には、
『上の二印』の、
『果』を、
『説いて!』、
是れを、
『寂滅の印』と、
『称する!』。
一切の、
『作法』が、
『無常ならば!』、
則ち、
『我所、外の五欲(色声香味触)』等が、
『破られ!』、
若し、
『無我である!』と、
『説けば!』、
則ち、
『内法の我』が、
『破られ!』、
『我、我所』が、
『破られた!』が故に、
是れを、
『寂滅、涅槃』と、
『称するのである!』。
行者觀作法無常。便生厭厭世苦。既知厭苦存著觀主。謂能作是觀。以是故有第二法印。知一切無我。於五眾十二入十八界十二因緣中。內外分別推求觀主不可得。不可得故是一切法無我作如是知已不作戲論。無所依止但歸於滅。以是故說寂滅涅槃印。 行者は、作法の無常なるを観るに、便ち厭を生じて、世苦を厭えば、既に厭を知れば、苦は著、観の主に存す。謂わゆる能く、是の観を作すものなり。是を以っての故に、第二の法印有りて、一切は無我なりと知り、五衆、十二入、十八界、十二因縁中に於いては、内、外に分別して、観主を推求するも、不可得なり。不可得なるが故に、是れ一切法の無我なり。是の如く知を作し已りて、戯論を作さざれば、依止する所無く、但だ滅に帰するのみ。是を以っての故に説かく、寂滅涅槃の印なりと。
『行者』は、
一切の、
『作法』が、
『無常である!』と、
『観て!』、
間もなく、
『厭を生じて!』、
『世間の苦』を、
『厭う!』が、
既に、
『厭を知れば!』、
『苦』は、
『著、観の主』に、
『存する!』。
謂わゆる、
是の、
『観』を、
『作す者である!』。
是の故に、
『第二の法印が有り!』、
一切は、
『無我である!』と、
『知ることになる!』。
即ち、
『五衆、十二入、十八界、十二因縁』中の、
『内、外を分別して!』、
『観主』を、
『推求しても!』、
『得られない(認識できない)!』、
『得られない!』が故に、
是の、
一切の、
『法』中には、
『我』が、
『無い(存在しない)!』と、
是のように、
『知った!』が故に、
『戯論を作さず!』、
『依止する!』所の、
『法』が、
『無くなり!』、
但だ、
『滅』に、
『帰するのである!』。
是の故に、
『寂滅』は、
『涅槃の印である!』と、
『説く!』。
問曰。摩訶衍中說諸法不生不滅一相所謂無相。此中云何說一切有為作法無常名為法印。二法云何不相違。 問うて曰く、摩訶衍中に説かく、『諸法は不生、不滅の一相、謂わゆる無相なり』、と。此の中には云何が、『一切の有為の作法の無常なるを名づけて、法印と為す』、と説いて、二法は云何が相違せざる。
問い、
『摩訶衍』中には、
こう説かれている、――
諸の、
『法』は、
『不生、不滅』の、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相である!』、と。
此の中には、
何故、こう説いて、――
一切の、
『有為の作法』は、
『無常であり!』、
是れを、
『法印』と、
『称する!』、と。
此の、
『二法』は、
何故、
『相違しないのですか?』。
答曰。觀無常即是觀空因緣。如觀色念念無常。即知為空。過去色滅壞不可見故無色相。未來色不生無作無用不可見故無色相。現在色亦無住不可見不可分別知故無色相。無色相即是空。空即是無生無滅。無生無滅及生滅其實是一。說有廣略 答えて曰く、無常を観れば、即ち是れ空の因縁を観る。色の念念に無常なるを観れば、即ち空と為すを知るが如し。過去の色の滅壊して、見るべからざるが故に、色相無く、未来の色は生ぜざれば、無作、無用にして、見るべからざるが故に色相無く、現在の色も亦た住する無ければ、見るべからず、分別して知るべからざるが故に、色相無く、色相無ければ、即ち是れ空なり。空なれば、即ち是れ無生、無滅なり。無生、無滅なれば、生滅に及ぶまで、其の実是れ一なり。説に広略有り。
答え、
『無常を観れば!』、
『空』の、
『因縁』を、
『観ることになる!』。
例えば、
『色』が、
『念念に生、滅して!』、
『無常である!』のを、
『観れば!』、
即ち、
『空である!』と、
『知るのである!』が、
『過去の色』は、
『滅壊しており!』、
『見ることができない!』が故に、
『色相』が、
『無く!』、
『未来の色』は、
『生じていない!』が故に、
『作用する!』ことが、
『無く!』、
『見ることができない!』が故に、
『色相』が、
『無く!』、
『現在の色』も、
『住まる!』ことが、
『無く!』、
故に、
『見ることもできず!』、
『分別して!』、
『知ることができず!』、
故に、
『色相』が、
『無い!』。
則ち、
『過去、未来、現在』に、
『色相が無い!』が故に、
即ち、
是れが、
『空であり!』、
『空ならば!』、
即ち、
是れは、
『無生、無滅であり!』、
『無生、無滅ならば!』、
『生、滅の実』が、
『一である!』ことにまで、
『及ぶのである!』。
但だ、
『説』に、
『広、略の別』が、
『有るだけである!』。
問曰。過去未來色不可見故無色相。現在色住時可見。云何言無色相。 問うて曰く、過去、未来の色は見るべからざるが故に色相無けれども、現在の色は、住する時に見るべし。云何が色相無しと言う。
問い、
『過去、未来の色』は、
『見ることができない!』が故に、
『色相』が、
『無くても!』、
『現在の色』は、
『住まる!』時には、
『見ることができる!』、
何故、
『色相が無い!』と、
『言うのですか?』。
答曰。現在色亦無住時。如四念處中說。若法後見壞相當知初生時壞相。以隨逐微細故不識。如人著屐。若初日新而無有故。後應常新不應有故。若無故應是常。常故無罪無福。無罪無福故。則道俗法亂。 答えて曰く、現在の色にも亦た住する時無し。四念処中に説けるが如く、若し法に、後の壊相を見れば、当に知るべし、初生の時の壊相、随逐するも微細なるを以っての故に識らざるを。人の屐を著くるに、若し初日に新にして、故有ること無ければ、後も応に常に新にして、応に故有るべからざるが如く、若し故無くんば、応に是れ常なるべし。常なるが故に、無罪、無福なり。無罪、無福なるが故に、則ち道俗の法乱れん。
答え、
『現在の色』にも、
『住まる!』時は、
『無い!』。
例えば、
『四念処』中に、説いたように、――
若し、
後に、
『法』の、
『壊相』を、
『見れば!』、
こう知ることになるだろう、――
初めて、
『生じた!』時にも、
『壊相』が、
『随逐していた!』が、
『微細である!』が故に、
此の、
『壊相』を、
『認識しなかったのだ!』、と。
譬えば、
『人の履()く!』、
『屐(下駄)』が、
若し、
『初日に!』、
『新であり!』、
而も、
『故(ふるさ)』が、
『無ければ!』、
『後になっても!』、
『常に!』、
『新であり!』、
当然、
『故』は、
『有るはずがないように!』、
若し、
『現在の色』に、
『故が無ければ!』、
是の、
『色』は、
『常でなくてはならず!』、
『常である!』が故に、
『罪、福』が、
『無く!』、
『罪、福が無い!』が故に、
則ち、
『道、俗の法』が、
『乱れることになる!』。
  屐(ぎゃく):履物。下駄、足駄、サンダルの類。
復次生滅相常隨作法無有住時。若有住時則無生滅。以是故現在色無有住。住中亦無有生滅。是一念中住。亦是有為法故。是名通達無礙。如是應念法。 復た次ぎに、生滅の相は、常に作法に随い、住する時有ること無し。若し住する時有れば、則ち生滅無し。是を以っての故に、現在の色に住有ること無し。住中にも亦た生、滅あること無し。是の一念中の住も亦た是れ有為法なるが故なり。是れを通達無礙と名づけ、是の如く、応に法を念ずべし。
復た次ぎに、
『生、滅の相』は、
常に、
『作法に随っており!』、
『住まる!』時が、
『無い!』。
若し、
『住まる時が有れば!』、
『生、滅』は、
『無いことになる!』。
是の故に、
『現在の色』には、
『住』が、
『無く(存在せず)!』、
『住』中にも、
『生、滅』は、
『無い!』。
是の、
『一念』中の、
『住』も、
『有為法だからである!』。
是れを、
『通達、無礙』と、
『称し!』、
是のように、
『法』を、
『念じなければならない!』。
復次法有二種。一者佛所演說三藏十二部八萬四千法聚。二者佛所說法義。所謂持戒禪定智慧八聖道。及解脫果涅槃等。行者先當念佛所演說。次當念法義。 復た次ぎに、法には二種有り、一には仏の演説したまえる所の、三蔵、十二部、八万四千の法聚なり。二には仏の所説の法義にして、謂わゆる持戒、禅定、智慧、八聖道、及び解脱果の涅槃等なり。行者は、先に当に仏の演説したもう所を念じて、次に当に法義を念ずべし。
復た次ぎに、
『法』には、
『二種有り!』、
一には、
『仏の演説された!』所の、
『三蔵、十二部、八万四千』の、
『法聚()であり!』。
二には、
『仏の説かれた!』所の、
『法』の、
『義であり!』、
謂わゆる、
『持戒、禅定、智慧、八聖道』と、
『解脱の果、涅槃等である!』。
『行者』は、
先に、
『仏の演説された!』所の、
『経』を、
『念じて!』、
次に、
『法』の、
『義』を、
『念じなければならない!』。
  十二部経(じゅうにぶきょう):梵語dvaadazaaGga- buddha- vacanaの訳。又はd.- b.- zaasana、d.- dharma- pravacana、又十二分経、或いは十二分聖教とも訳す。即ち仏所説の経典を其の内容又は形式の不同によりて十二種に分類せるもの。一に修多羅suutra、二に祇夜geya、三に和伽羅那vyaakaraNa、四に伽陀gaathaa、五に優陀那udaana、六に尼陀那nidaana、七に阿波陀那avadaana、八に伊帝曰多伽itivRttaka、九に闍陀迦jaataka、十に毘仏略vaipulya、十一に阿浮陀達磨adbhuta- dharma、十二に優波提舎upadezaなり。「雑阿含経巻41」に、「仏二比丘に告ぐ、汝等我が所説たる修多羅、祇夜、受記、伽陀、優陀那、尼陀那、阿波陀那、伊帝目多伽、闍多伽、毘富羅、阿浮陀達摩、優波提舎等の法を持せよ」と云い、「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩は十方諸仏所説の十二部経たる修多羅、祇夜、受記経、伽陀、憂陀那、因縁経、阿波陀那、如是語経、本生経、方広経、未曽有経、論議経を聞かんと欲す。諸の声聞等、聞くと聞かざると尽く誦し受持せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と云える是れなり。此の中、初に修多羅とは経、契経、或いは法本等と訳す。即ち総じては一部一経に名づけ、別しては直説せる長行を云う。二に祇夜とは応頌、又は重頌等と訳す。即ち重ねて頌を以って長行直説の義を説示し、或いは長行中の未了義を補釈宣説するを云う。三に和伽羅那とは授記、授決、又は記別等と訳す。即ち或いは弟子の死生因果を記し、深義を分明に記し、菩薩の後に成仏すべきことを記するを云う。四に伽陀とは頌又は不重頌等と訳す。即ち直に偈を以って其の義を説くを云う。五に憂陀那とは自説、又は無問自説等と訳す。即ち衆の請問を待たず、仏自ら直説するを云う。六に尼陀那とは因縁、又は縁起等とも訳す。即ち衆の請問に応じ、乃至種種の因縁に遇いて説法するを云う。七に阿波陀那とは譬喩、又は解語等と訳す。即ち譬喩を以って法義を説けるを云う。八に伊帝曰多伽とは本事、又は如是語等と訳す。即ち本生を除きて余の前世の有らゆる事を宣説し、或いは結句に如是語ありて其の所説を竟るものを云う。九に闍陀伽とは生又は本生等と訳す。即ち仏の前世に於ける種種の大悲行を説くを云う。十に毘仏略とは方等、又は方広等と訳す。即ち広大平等の理義を宣明するを云う。十一に阿浮陀達磨とは未曽有法、又は希法等と訳す。即ち仏及び諸弟子等の希奇の事を説けるを云う。十二に優婆提舎とは論議、又は義等と訳す。諸法の体性を論議決択して其の義を分別明了ならしむるを云うなり。「大乗義章巻1」に立名の所由を解し、修多羅と祇夜と伽陀とは教体に就き、毘仏略は理、余の八は事に随って名を立つとし、又修多羅は喩に従って名づけ、祇夜と伽陀とは当相に名づけ、優波提舎と授記と優陀那とは体事合せ目し、余の六は事に随って称するものなりと云い、更に闍陀迦と伊帝曰多伽とは唯過去を説き、和伽羅那は未来を説き、方広は理平等なるが故に三世に属せざるも、余の八は皆是れ三世に通ずとなせり。蓋し此の十二部は仏所説の教法を其の理義又は形式上より分類せしものなるが故に、小乗経典中にも之を具すること固より言を俟たず。阿含中に処処に具に十二部の名を出し、又「瑜伽師地論巻21」に、「仏は声聞の為に十二分教を説く」と云える皆其の証なり。然るに「法華経巻1方便品」には声聞の九部経として、修多羅、伽陀、本事、本生、未曽有、因縁、譬喩、祇夜及び優波提舎経の九部を挙げ、「大般涅槃経巻5」には、「諸の声聞は慧力あることなきを以って、是の故に如来は為に半字九部経典を説き、而も為に毘伽羅論方等大乗を説かず」と云い、又「同巻18」には、「十一部経には則ち壊滅あるも、方等経典には壊滅あることなし」と云い、「菩薩地持経巻3力種性品」にも、「十二部経は唯方広部のみ是れ菩薩蔵にして、余の十一部は是れ声聞蔵なり」と云えり。是れ小乗経典には、唯九部、又は十一部を存し、方広等は其の中に、具せずとなすの説なり。又「大般涅槃経巻3金剛身品」には、大乗の九部経として、修多羅、祇夜、受記、伽陀、優陀那、伊帝曰多伽、闍陀伽、毘仏略、阿浮陀達磨を出せり。是れ皆方広経を以って大乗菩薩蔵とし、之を中心として其の具欠を分別せるものにして、原初の意に合せざるものありといわざるを得ず。又此の十二部を経律論三蔵に摂するに諸説あり。「瑜伽師地論巻25」には、「是の如き所説の十二分教は三蔵の所摂なり。謂わく或いは素呾䌫蔵の摂あり、或いは毘奈耶蔵の摂あり、或いは阿毘達磨蔵の摂あり。当に知るべし此の中、若し契経、応頌、記別、諷誦、自説、譬喩、本事、本生、方広、希法を説かば是れを素呾䌫蔵と名づく。若し因縁を説かば是れを毘奈耶蔵と名づく。若し論議を説かば是れを阿毘達磨蔵と名づく」と云い、「大乗阿毘達磨集論巻6」には、「是の如き契経等の十二分聖教は三蔵の所摂なり。何等をか三と為す、一には素怛䌫蔵、二に毘奈耶蔵、三に阿毘達磨蔵なり。此れに復た二あり、一に声聞蔵、二に菩薩蔵なり。契経、応頌、記莂、諷誦、自説、此の五は声聞蔵中の素呾䌫蔵の摂、縁起、譬喩、本事、本生、此の四は二蔵の中の毘奈耶蔵并びに眷属の摂、方広と希法、此の二は菩薩蔵中の素呾䌫蔵の摂、論議の一種は声聞菩薩の二蔵の中の阿毘達磨の摂なり」と云い、又「四分律巻54」には凡べて之を経蔵中の雑蔵に摂すと云えり。以って其の異同を見るべし。又新訳家が之を十二分教と訳したるに関し、「大乗法苑義林章巻2本」に、「先徳は翻じて十二部経と為す。但だ部の言義に二種を含むを以ってなり。一には謂わく部袟、二には謂わく部類なり。世人は十二の部袟ありと謂い、経の名も亦た濫じて総別明らめ難し。今翻じて十二分教と為す。分とは類の義、支の義、段の義、教の義なり。前の如きの教に十二の義類と支條と分断との異あるが故に即ち帯数釈なり」と云い、「華厳経疏巻24」にも、「旧には十二部経と名づく。部帙と濫ずるを恐れて改めて分教と名づく」と云えり。又「中阿含巻1善法経」、「巻4五心経」、「巻54阿梨吒経」、「長阿含経巻3、12」、「増一阿含経巻3、21、46、48」、「般泥洹経」、「大集法門経巻上」、「仏臨涅槃記法住経」、「大般涅槃経巻15」、「大悲経巻5教品」、「摩訶摩耶経巻下」、「大宝積経巻37」、「旧華厳経巻12菩薩十無尽蔵品」、「大方等大集教巻22」、「解深密経巻3」、「法滅尽経」、「自在王菩薩経巻下」、「蓮華面経巻下」、「放光般若経巻1放光品」、「菩薩瓔珞本業経巻下釈義品」、「四分律巻1」、「五分律巻1」、「集異門足論巻14、17」、「大毘婆沙論巻126」、「順正理論巻44」、「成実論巻1」、「大智度論巻25、33」、「瑜伽師地論巻81、85」、「顕揚聖教論巻6、12」、「大乗阿毘達磨集論巻5、11」、「涅槃経集解巻36」、「大智度論疏巻14」、「法華経玄義巻1下、6上」、「大乗玄論巻5」、「大般涅槃経義記巻2」、「華厳経孔目章巻2」、「華厳経隨疏演義鈔巻46」等に出づ。<(望)
  十二部経:(1)修多羅(しゅたら):契経(かいきょう)、経典中直に法義を説く長行の文。契経とは、理に契(かな)い機(き、衆生)に契う経典をいう。(2)祇夜(ぎや):応頌(おうじゅ)、重頌(じゅうじゅ)、前の長行の文にその義の宜しきを説く偈(げ、詩文)を重ねたもの。(3)伽陀(かだ):諷頌(ふじゅ)、長行に依らず、直に偈を説くもの。(4)尼陀那(にだな):因縁(いんねん)、縁起(えんぎ)、経中に仏を見、法を聞く因縁、及び仏の法を説き教化する因縁の処を説く。諸経の序品の如きもの。因縁経。(5)伊帝目多伽(いていもくたか):本事(ほんじ)、如是語(にょぜご)、仏弟子の過去世の因縁の経文。法華経中の薬王菩薩本事品の如きもの。(6)闍多伽(じゃたか):本生(ほんしょう)、仏が自身の過去世の因縁を説く経文。(7)阿浮陀達摩(あぶだだつま):未曾有(みぞう)、仏の現す種種の神力、不思議の事を説く経文。(8)阿波陀那(あはだな):譬喩(ひゆ)、経中の譬喩を説く処。(9)優波提舎(うはだいしゃ):論議(ろんぎ)、法理を以って論議問答する経文。(10)優陀那(うだな):自説(じせつ)、無問(むもん)、仏の自説の経文。阿弥陀経の如きもの。(11)毘仏略(びぶつりゃく):方等(ほうどう)、方広(ほうこう)、広大平等の理義を宣明する経文。(12)和伽羅那(わからな)、授記(じゅき)、菩薩が成仏の記を受ける経文。この十二部中の修多羅、祇夜、伽陀の三者は経文上の体裁をいい、その他の九部はその経文に記載された別事に従って名を立てるものである。『大智度論巻第33』参照。
念佛所演說者。佛語美妙皆真實有大饒益。佛所演說亦深亦淺。觀實相故深。巧說故淺。重語無失各各有義故。 仏の演説したもう所を念ずとは、仏の語は、美妙にして、皆真実なれば、大饒益有り。仏の演説したもう所は、亦た深く、亦た浅くして、実相を観るが故に深く、巧説したもうが故に浅し。語を重ねたもうも、失無く、各各義有るが故なり。
『仏』の、
『演説される!』所を、
『念じる!』とは、――
『仏』の、
『語』は、
『美妙でありながら!』、
皆、
『真実であり!』、
『大饒益が有る!』。
『仏』の、
『演説される!』所は、
『深くもあり!』、
『浅くもある!』が、
『実相』を、
『観る!』が故に、
『深く!』、
『巧みに!』、
『説かれる!』が故に、
『浅く!』、
『語』を、
『重ねられても!』、
『過失ではなく!』、
各各に、
『義が有る!』が故に、
『重ねられるのである!』。
佛所演說。住四處有四種功德莊嚴。一慧處二諦處三捨處四滅處。有四種答故不可壞。一定答二解答三反問答四置答。 仏の演説したもう所は、四処に住して、四種の功徳有りて、荘厳す。一には慧の処、二には諦の処、三には捨の処、四には滅の処なり。四種の答有るが故に壊るべからず、一には定答、二には解答、三には反問答、四には置答なり。
『仏の演説される!』所は、
『四処に住まり!』、
『四種』の、
『功徳(勝れた特質)』が、
『荘厳している!』。
『四処』とは、
即ち、
一には、
『慧(道の智慧)』の、
『処』に、
『住まり!』、
二には、
『諦(四聖諦)』の、
『処』に、
『住まり!』、
三には、
『捨(布施/出家)』の、
『処』に、
『住まり!』、
四には、
『滅(涅槃)』の、
『処』に、
『住まる!』。
『四功徳』とは、
『仏の所説』には、
『四種の答が有る!』が故に、
『破壊することができない!』、
即ち、
一には、
『決定して!』、
『答え!』、
二には、
『解説して!』、
『答え!』、
三には、
『反問して!』、
『答え!』、
四には、
『捨置して!』、
『答えられる!』。
  四処(しじょ):仏心の存する処に四種あるを云う。謂わゆる一に諦処、二に捨処、三に滅処、四に慧処なり。此れに就き、「十住毘婆沙論巻9」に、「又念ず、諸仏は是れ大願者にして、大悲を成就して断絶せず、大慈を具足して深く衆生を安んじ、大喜を行じて一切の願を満たし、捨心を行じて憎愛を捨離し、衆生を捨てず、諦処に行じて常に欺誑せず、捨処に行じて慳垢を浄除し、善処に行じて其の心善く寂し、慧処に行じて大智慧を得」と云い、又「同巻13」に、「復た四法有りて能く仏道を摂す。一には諦処、二には捨処、三には滅処、四には慧処なり。偈に説くが如し、諦捨定具足し、慧利清浄を得て、精進して仏道を求む。当に此の四法を集むべし」と云える是れなり。蓋し此の中に就き、諦処とは所説の法の如実に了義にして、常に欺誑なきを云い、捨処とは慳垢を浄除して心に慳貪なきを云い、滅処とは又善処とも称し、禅定に住して其の心の寂静安穏なるを云い、慧処とは邪見を除きたる心は平等にして、諍論の事なきを云うなり。
  四種答(ししゅとう):仏の質問に対する返答には四種の別有るの意。即ち決了答、解義答、反問答、置答なり。又四記とも称す。『大智度論巻2、26、巻35下注:四記』参照。
  功徳(くどく):梵語 guNa の訳、弓の弦( bow string )の義、品質/特質/特性/特色( a quality, peculiarity, attribute or property )等の義、高潔な性質、又は賢人の勝れた特質( the virtuous qualities, or superior traits of a sage )の意。
佛所演說或時聽而遮。或時遮而聽。或聽而不遮。或遮而不聽。此四皆順從無違。 仏の演説したもう所は、或は時に聴(ゆる)し、而も遮し、或は時に遮して、而も聴し、或は聴して、而も遮せず、或は遮して、而も聴さず。此の四は、皆順従にして、違うこと無し。
『仏』の、
『演説される!』所は、
或時には、
『善を聴(ゆる)す!』ことで、
『悪』を、
『遮り!』、
或時には、
『悪を遮る!』ことで、
『善』を、
『聴し!』、
或は、
『善』を、
『聴して!』、
『遮らず!』、
或は、
『悪』を、
『遮って!』、
『聴されない!』が、
此の、
『四』には、
皆が、
『順従( yield to )して!』、
『違反しない!』。
  (ちょう):ゆるす/許可すること。
  (しゃ):比丘の為に禁戒を結んで、悪行を遮止すること。遮制。
  順従(じゅんじゅう):従順。したがう。
  (い):たがう。戒に違背すること。犯戒。
佛說得諸法相故無戲論。有義理說故破有無論。 仏の説は、諸法の相を得るが故に、戯論無し。義理有る説の故に、有無の論を破す。
『仏』の、
『説(所説)』は、
諸の、
『法の相(実相)を得る!』が故に、
『戯論する!』ことが、
『無く!』、
『義理の有る説である!』が故に、
『有、無の論』を、
『破る!』。
佛演說隨順第一義。雖說世間法亦無咎。與二諦不相違故。隨順利益。說於清淨人中為美妙。於不淨人中為苦惡。於美語苦語中亦無過罪。 仏の演説は、第一義に随順すれば、世間の法を説くと雖も、亦た咎無く、二諦と相違せざるが故に、利益に随順す。清浄人中に於いては、為に美妙を説き、不浄人中に於いては、為に苦悪なるも、美語、苦語中に於いて、亦た過罪無し。
『仏の演説』は、
『第一義に随順する!』ので、
『世間』の、
『法』を、
『説かれたとしても!』、
亦た、
『咎』は、
『無く!』、
『第一義諦』と、
『世諦』との、
『二諦が相違しない!』が故に、
『利益する!』ことに、
『随順する!』。
『仏』は、
『清浄人』中に於いては、
此の、
『人』の為に、
『美妙の語』を、
『説き!』、
『不浄人』中に於いては、
此の、
『人』の為に、
『苦悪(にがい)の語』を、
『説かれた!』ので、
『美妙の語』と、
『苦悪の語』と、
『二語を説かれたのである!』が、
亦た、
『過失の罪』は、
『無いのである!』。
  苦悪(くあく):にがくして不快なること。
佛語皆隨善法。亦不著善法。雖是垢法怨家亦不以為高。雖種種有所訶。亦無有訶罪。雖種種讚法亦無所依止。 仏の語は、皆善法に随い、亦た善法にも著せず。是れ垢法の怨家なりと雖も、亦た以って高しと為さず。種種に訶す所有りと雖も、亦た訶の罪有ること無く、種種に法を讃ずと雖も、亦た依止する所無し。
『仏の語』は、
皆、
『善法』に、
『随いながらも!』、
亦た、
『善法』に、
『著することもなく!』、
是れは、
『垢法(煩悩法)であり!』、
『怨家である!』と、
『説かれた!』が、
亦た、
『自法を高い!』と、
『思われることもなく!』、
種種に、
『訶責(叱責)する!』所の、
『語』が、
『有りながらも!』、
亦た、
『訶責の罪』が、
『有るのでもなく!』、
種種に、
『自法』を、
『讃じらたが!』、
亦た、
『依止する法』が、
『有るのでもない!』。
  垢法(くほう):世間法に同じ。外道法。
  怨家(おんけ):怨恨を懐く者。
  (こう):たっとい。りっぱ。
  (か):大声でしかる。呵責。
佛言說中亦無增無減。或略或廣。佛語初善久久研求亦善。 仏の言説中には、亦た増無く、減無く、或は略し、或は広し。仏の語は、初め善く、久久に研求すれば、亦た善し。
『仏』の、
『言説』は、
『増、減する!』ことが、
『無い!』が、
或は、
『略して!』、
『説き!』、
或は、
『広く!』、
『説かれた!』。
『仏』の、
『語』は、
『初めて!』、
『聞いて!』、
『善く(好く)!』、
『久久に!』、
『研究しても!』、
『善い!』。
  久久(くく):ながい時間。
  研求(けんぐ):道理をきわめ求める。研究と探求。
佛語雖多義味不薄。雖種種雜語義亦不亂。雖能引人心亦不令人生愛著。雖殊異高顯。亦不令人畏難。雖遍有所到。凡小人亦不能解。 仏の語は、多義なりと雖も、味は薄からず、種種に語を雑うと雖も、義は亦た乱れず、能く人心を引くと雖も、亦た人をして、愛著を生ぜしめず、殊異にして、高く顕ると雖も、亦た人をして畏難せしめず、遍く到る所有りと雖も、凡小の人には、亦た解す能わず。
『仏』の、
『語』は、
『義』が、
『多い!』が、
亦た、
『味』が、
『薄いこともなく!』、
種種に、
『語』を、
『雑えながらも!』、
亦た、
『義』が、
『乱れることもなく!』、
『人』の、
『心』を、
『引くことができる!』が、
亦た、
『愛著』を、
『生じさせることもなく! 、
『殊異の語』が、
『高く!』、
『顕れてるが!』、
『人』に、
『怖畏させることもなく!』、
『非難させることもなく!』、
『遍く!』、
『有らゆる!』、
『処』に、
『到りながらも!』、
『凡小の人』には、
亦た、
『理解することができない!』。
  高顕(こうけん):たかくあらわれる。
佛語如是有種種希有事。能令人衣毛為豎。流汗氣滿身體戰懼。亦能令諸天心厭聲滿十方六種動地。亦能令人於無始世界所堅著者能令捨。所不堅著者能令樂。 仏の語は、是の如く、種種の希有の事有りて、能く人の衣毛をして、為に豎たしめ、汗を流し、気を満たし、身体を戦懼せしむ。亦た能く諸天の心をして、厭声もて十方を満たしめ、六種に地を動かしむ。亦た能く人をして、無始の世界より、堅く著する所の者を、能く捨てしめ、堅く著せざる所の者を能く楽しましむ。
『仏』の、
『語』は、
是のように、
種種の、
『希有の事が有り!』、
『人』に、
『鳥肌を立たせ!』、
『汗を流させ!』、
『気を満たして!』、
『身体を戦慄させ!』、
亦た、
『諸天』に、
『心より!』、
『十方』に、
『厭声』を、
『満たさせて!』、
『地』を、
『六種』に、
『動かし!』、
亦た、
『人』に、
『無始の世界より!』、
『堅く!』、
『著する所の者(五欲)』を、
『捨てさせ!』、
『堅く!』、
『著しない所の者(涅槃)』を、
『楽しませる!』。
  (じゅ):よだつ。たつ。堅く立てる。
  衣毛(えもう):皮膚を覆う毛。
  流汗(るかん):汗をながす。
  (け):活動する力のもと。気力。元気。
  戦懼(せんく):おののきおそれる。
佛語罪惡人聞之自有罪故憂怖熱惱。善一心精進入道。人聞如服甘露味。初亦好中亦好後亦好。 仏の語は、罪悪の人、之を聞かば、自ら罪有るが故に憂怖し、熱悩し、善く一心に精進して、道に入る人聞かば、甘露味を服するが如く、初も亦た好く、中も亦た好く、後も亦た好し。
『仏』の、
『語』は、
『罪悪の人』が、
『聞けば!』、
自ら、
『有する罪』の故に、
『憂怖し!』、
『熱悩する!』が、
『善く!』、
『一心に精進して!』、
『道に入った!』、
『人』が、
『聞けば!』、
譬えば、
『甘露味』を、
『服()んだように!』、
『初も!』、
『中も!』、
『後も!』、
皆、
『好い!』。
復次多會眾中。各各欲有所聞。佛以一言答。各各得解。各各自見佛獨為我說。於大眾中雖有遠近。聞者聲無增減。滿三千大千世界乃至十方無量世界。應度者聞。不應度者不聞。譬如雷霆振地。聾者不聞。聽者得悟。如是種種念佛言語。 復た次ぎに、多くの会衆中の各各の、所聞有らんと欲するに、仏一言以って答えたまい、各各解を得て、各各自ら、仏の、独り我が為に説きたまえるを見、大衆中に於いて、遠近有りと雖も、聞く者の声に増減無く、三千大千世界、乃至十方の無量の世界を満たし、応に度すべき者は聞き、応に度すべからざる者は聞かず。譬えば雷霆の地を振るわすに、聾者は聴かざるが如く、聴く者は悟ることを得。是の如く種種に仏の言語を念ず。
復た次ぎに、
『会に集まった!』、
『多衆』中の、
各各は、
何か、
『聞きたい!』と、
『思っていた!』が、
『仏』が、
『一言』を、
『用いて!』、
『答えられる!』と、
各各は、
『義』を、
『理解することができ!』、
各各は、こう見るのである、――
『仏』は、
独り、
『わたしだけの為に!』、
『説かれているのだ!』。
『大衆』中には、
『遠い!』者も、
『近い!』者も、
『有りながら!』、
『声』は、
『聞く者にとって!』、
『増えもせず!』、
『減りもせず!』、
『三千大千世界』、
『乃至十方の無量の世界』を、
『満たして!』、
『度する!』に、
『相応しい!』者は、
『聞き!』、
『度する!』に、
『相応しからぬ!』者は、
『聞かなかった!』ので、
譬えば、
『雷霆』が、
『地』を、
『振るわしても!』、
『聾者』には、
『聞えない!』のと、
『同じであった!』が、
『聴いた者』は、
『悟り!』を、
『得ることができた!』。
是のように、
種種に、
『仏の言語』を、
『念じるのである!』。
  会衆(えしゅ):聴法に集会する衆。
  欲有(よくう):有ることをねがう。
  所聞(しょもん):所問に同じ。聞は問に通ず。
  (けん):まのあたりにする。
  雷霆(らいてい):雷鳴のひびき。いかづち。
何等是法義信戒捨聞定慧等為道。諸善法及三法印。如通達中說。一切有為法無常。一切法無我。寂滅涅槃。是名佛法義。 何等か、是れ法義なる。信、戒、捨、聞、定、慧等、道の為めの諸善法、及び三法印なり。通達中に説けるが如く、一切の有為法は無常にして、一切の法に我無く、寂滅は涅槃なり。是れを仏法の義と名づく。
是の、
『法の義』とは、
何のようなものか?――
即ち、
『信、戒、捨、聞、定、慧』等の、
『道の為めの!』、
諸の、
『善法』と、
『三法印である!』。
例えば、
『通達』中に説いたように、――
一切の、
『有為法』には、
『常』が、
『無く!』、
一切の、
『法』には、
『我』が、
『無く!』、
『寂滅』は、
『涅槃である!』。
是れを、
『仏法の義』と、
『称する!』。
是三印。一切論議師所不能壞。雖種種多有所說。亦無能轉諸法性者。如冷相無能轉令熱。諸法性不可壞。假使人能傷虛空。是諸法印如法不可壞。 是の三印は、一切の論議師の壊る能わざる所にして、種種に多くの所説有りと雖も、亦た能く諸法の性を転ずる者無し。冷相を、能く転じて熱ならしむる無きが如く、諸法の性は壊るべからず。仮令(たとい)、人能く虚空を傷つくとも、是の諸の法印は、如法に壊るべからず。
是の、
『三印』は、
一切の、
『論議師』に、
『壊られることはなく!』、
種種に、
『多く!』の、
『所説』が、
『有ったとしても!』、
亦た、
『諸法の性』を、
『転じることのできる!』者は、
『無いのである!』。
譬えば、
『冷相』を、
『熱相に転じられる!』者が、
『無いように!』、
『諸法の性』は、
『壊られないのであり!』、
仮令(たとい)、
『人』が、
『虚空』を、
『傷つけられたとしても!』、
是の、
諸の、
『法印』は、
『如法』に、
『壊られることはない!』。
  :冷相を熱くさせる:氷で湯を沸かし、火で湯を冷ますの意。
聖人知是三種法相。於一切依止邪見各各鬥諍處得離。譬如有目人。見群盲諍種種色相。愍而笑之不與共諍。 聖人は、是の三種の法相を知りて、一切の依止、邪見、各各の闘諍の処に於いて、離るるを得。譬えば有目の人の、群盲の種種の色相を諍うを見て、愍れみて之を笑い、与共(とも)に諍わざるが如し。
『聖人』は、
是の、
『三種』の、
『法相』を、
『知り!』、
一切の、
『依止すべき法』や、
『邪見という!』、
各各の、
『闘諍の処より!』、
『離れることができる!』。
譬えば、
『有目の人』が、
『群盲』が、
種種の、
『色相について!』、
『言い諍っている!』のを、
『見れば!』、
『群盲』を、
『愍れんで!』、
『笑うだけで!』、
『共に!』、
『諍わない!』のと、
『同じことである!』。
  与共(よぐう):ともにす/共同にする( share with somebody )。
問曰。佛說聲聞法有四種實。摩訶衍中有一實。今何以故說三實。 問うて曰く、仏の説きたまわく、『声聞法には、四種の実有り。摩訶衍中には一実有り』、と。今は何を以っての故にか、三実を説く。
問い、
『仏』は、こう説かれた、――
『声聞法』には、
『四種』の、
『実(四聖諦)』が、
『有り!』、
『摩訶衍』中には、
『一』の、
『実(寂滅涅槃)』が、
『有る!』、と。
今は、
何故、
『三』の、
『実』を、
『説くのですか?』。
答曰。佛說三種實法印。廣說則四種。略說則一種。無常即是苦諦集諦道諦說。無我則一切法說。寂滅涅槃即是盡諦。 答え、仏は、三種の実の法印を説きたまえるも、広説すれば、則ち四種、略説すれば、則ち一種なり。無常は、即ち是れ苦諦、集諦、道諦にして、無我を説けば、則ち一切の法なり。寂滅涅槃を説けば、即ち是れ尽諦なり。
答え、
『仏』は、
『三種』の、
『実の法印』を、
『説かれた!』が、
『広く!』、
『説けば!』、
『四種であり!』、
『略して!』、
『説けば!』、
『一種である!』。
則ち、
『無常』とは、
即ち、
『苦諦、集諦、道諦であり!』、
『無我』は、
則ち、
『一切の法であり!』、
『寂滅涅槃』は、
即ち、
『尽諦である!』。
復次有為法無常。念念生滅故。皆屬因緣無有自在。無有自在故無我。無常無我無相故心不著。無相不著故。即是寂滅涅槃。以是故摩訶衍法中。雖說一切法不生不滅一相所謂無相。無相即寂滅涅槃。 復た次ぎに、有為法は無常にして、念念生滅するが故に、皆因縁に属し、自在有ること無く、自在有ること無きが故に無我なり。無常、無我には相無きが故に、心著せず。無相には著せざるが故に、即ち是れ寂滅涅槃なり。是を以っての故に、摩訶衍法中には、一切法の不生、不滅、一相にして謂わゆる無相なりと説くと雖も、無相なれば、即ち寂滅の涅槃なり。
復た次ぎに、
『有為法』は、
『無常であり!』、
『念念に!』、
『生、滅する!』が故に、
皆、
『因縁に属して!』、
『自在』が、
『無く!』、
『自在が無い!』が故に、
『我』が、
『無く!』、
『無常、無我』は、
『無相である!』が故に、
『心』が、
『著さず!』、
『無相』は、
『心が著さない!』が故に、
即ち、
『寂滅の涅槃である!』。
是の故に、
『摩訶衍法』中には、
『一切の法』は、
『不生、不滅であり!』、
『一相であり!』、
『謂わゆる無相である!』と、
『説く!』が、
『無相ならば!』、
是れは、
即ち、
『寂滅涅槃なのである!』。
是念法三昧緣智緣盡。諸菩薩及辟支佛功德。 是の念法三昧は、智縁尽を縁ずれば、諸の菩薩及び辟支仏の功徳なり。
是の、
『念法三昧』は、
『智縁尽(智慧で煩悩を滅尽すること)』を、
『縁じる!』ので、
是れは、
諸の、
『菩薩、辟支仏』の、
『功徳である!』。
  智縁尽(ちえんじん):三無為の一。非智縁尽、或いは虚空無為に対す。即ち智慧を以って煩悩を滅尽して得する無為を云う。『大智度論巻19上、及び31上注:三無為』参照。
問曰。何以故念佛。但緣佛身中無學諸功德。念僧三昧緣佛弟子身中諸學無學法。餘殘善無漏法。皆念法三昧所緣。 問うて曰く、何を以っての故にか、仏を念ずるに、但だ仏身中の無学の諸功徳を縁じ、僧を念ずる三昧は、仏弟子の身中の諸の学、無学の法を縁じて、余残の善の無漏法は、皆、念法三昧の所縁なる。
問い、
何故、
『念仏』は、
但だ、
『仏の身』中の、
『無学の諸功徳』を、
『縁じ!』、
『念僧三昧』は、
『仏』の、
『弟子の身』中の、
『諸の学、無学の法』を、
『縁じ!』、
『余残』の、
『善の無漏法』は、
皆、
『念法三昧』の、
『所縁なのですか?』。
  無学(むがく):学、又は有学に対す。三道の一、無学道に在るものの意。一切の善法を已に学し已りたる阿羅漢の位を云う。『大智度論巻18下注:三道、巻22上注:無学道』参照。
  無学道(むがくどう):梵語azaikSa- maargaの訳。三道の一。又無学位、或いは無学地と名づく。即ち阿羅漢果を証して更に学すべき勝果の道なきを云う。「大毘婆沙論巻68」に、「無学道に六種性あるが如く、修道にも亦た此の六種性あり」と云い、「倶舎論巻24」に、「是の如く尽智已に生ずる時に至りて便ち無学阿羅漢果を成ず。已に無学応果の法を得たるが故に、別果を得んが為に修すべき所の学は此れに有ることなし。故に無学の名を得」と云える是れなり。是れ一切の煩悩を解脱し、尽智無生智を証して更に学すべき勝果の道なきを無学道と名づけたるものにして、即ち阿羅漢果を指すなり。蓋し無学の阿羅漢には利鈍の別あり、鈍根の者は必ず時を待ちて解脱するが故に之を時愛心解脱又は時解脱と称し、利根の者は必ずしも時を待たざるが故に之を不動心解脱又は不時解脱と名づく。又慧解脱倶解脱の別あり、慧の力に由りて煩悩障に於いて解脱を得たる者を慧解脱と名づけ、慧と定との力に由りて煩悩及び解脱の二障を離れ、滅尽定を得たる者を倶解脱と称す。又此の中、時解脱に退法等の五種の別あり、之に不時解脱の不動法種性を合して六種性と称し、不退法に更に不動法及び不退法の一を分ちて亦た七聖となし、之に独覚及び大覚の二種、或いは慧解脱倶解脱の二種を加え、総じて九無学ありとなすなり。又「大毘婆沙論巻66」に阿羅漢の成ずる法に有為無為の別あることを説き、「若し法にして阿羅漢果の摂なるは、此れは是れ無学法なりや。答う、或いは無学、或いは非無学なり。義不定なるが故なり。云何が無学なる、答う有為の阿羅漢果なり。謂わく尽智、無生智、無学の正見及び彼の眷属なり。云何が非学非無学なる、答う無為の阿羅漢果なり。謂わく三界一切の見修所断法の断なり」と云えり。是れ阿羅漢果所摂の法の中、三界一切の見修所断法の断は非学非無学にして、即ち無為の阿羅漢果なり。尽智無生智等の十無学支は無学法にして、即ち有為の阿羅漢果なることを明せるなり。又無学道は唯識五位の中には究竟位に当たり、十地の中には第十地及び仏地に配せらる。又「大毘婆沙論巻51、94、101」、「雑阿毘曇心論巻5」、「顕揚聖教論巻3」、「倶舎論巻25」、「同光記巻24、25」、「大乗義章巻17本末」、「大乗法苑義林章巻2末」等に出づ。<(望)
  (がく):無学に対する語。三道中の見道、及び修道を云う。『大智度論巻18下注:三道』参照。
答曰。迦栴延尼子如是說。摩訶衍人說。三世十方諸佛及諸佛。從初發意乃至法盡。於其中間所作功德神力。皆是念佛三昧所緣。 答えて曰く、迦旃延尼子は、是の如く説けり、『摩訶衍人の説は、三世十方の諸仏、及び諸仏の、初発意より乃至法尽まで、其の中間の所作の功徳、神力は、皆是れ念仏三昧の所縁なりと』、と。
答え、
『迦多衍尼子』は、是のように説いている、――
『摩訶衍人』は、こう説いている、――
『三世、十方の世界の諸仏』と、
『現在、此の世界の諸仏』との、
『初発意より!』、
其の、
『法』が、
『尽きるまで!』の、
其の、
『中間の所作である!』、
『功徳』や、
『神力』は、
皆、
『念仏三昧』の、
『所縁である!』、と。
  迦旃延尼子(かせんねんにし):西北印度の仏教を宣揚せし有部の大論師にして、発智論の著者なり。又迦多衍尼子と称す。『大智度論巻22上注:迦多衍尼子』参照。
  迦多衍尼子(かたえんにし):迦多衍尼kaatyaayaniiは梵名。子はputraの訳。巴梨名kaccaayanii- putta、又迦底耶夜那子、迦陀衍那子、迦旃延尼子、迦氈延尼子、迦多衍那、迦旃延に作る。剪剃女子、剪剃種、剪剔種、又は文飾、好肩、肩縄と訳す。婆羅門十姓の一にして、印度貴族の名なり。伝え云う、往古婆羅門あり、二子を生み、年五十にして山に入りて修道す。彼の二子、父の鬢髪蓬の如く乱れしを見て、為に剃除せしに、形容端正となれり。諸仙之を見て皆剃除せんと欲す。然るに兄の心傲慢にして、父に非ずんば剃る能わずと云いて、之を拒みたるも、弟の性慈愍にして、乃ち彼等の為に之を剃る。諸仙是に於いて、兄の種族の後来貧窮にして剪剃を以って自活せんことを祈り、又弟の種族の後来富貴にして、剪剃の事を作さざらんことを呪願せり。この因縁に依りて、兄の種族は非父種と名づけられ、極めて貧窮にして剪剃自活し、弟の種族は剪剃種と名づけられ、極めて富貴にして而も剪剃の事を作さずと。今此の剪剃種の出なるが故に、迦多衍尼子の名を立つ。西北印度の仏教を宣揚せし有部の大論師にして、発智論の著者なり。其の出世年代に異説あり、「異部宗輪論述記」には仏滅三百年の初とし、「大唐西域記巻4」、及び「倶舎論宝疏巻1」には三百年中とし、「同光記巻1」には、三百年末とし、「婆藪槃豆法師伝」には之を五百年中とせり。但し仏滅に異説ある以上は、此の不定の紀元を標的として起算せる年代を確定し得ざるは、固より言を俟たず。凡そ西紀前後の出世と見ば大差なからん。何れの部に於いて出家せしかに就いても異説あり。「異部宗輪論述記」に依らば上座部に於いて出家し、先づ対法を弘め、後に経律を弘むと云い、「婆藪槃豆法師伝」には、先に薩婆多部に於いて出家すと云えり。著書としては「阿毘達磨発智論20巻」あり、説一切有部の大系を記述したるものとして頗る著名なり。彼の五百大阿羅漢の編纂したる「大毘婆沙論200巻」は、即ち此の論に註解を加えたるなり。「大智度論巻2」に迦旃延婆羅門道人、智慧利根にして、尽く三蔵内外の経書を読み、仏語を解せんと欲するが故に、「発智経八揵度」を作る。後諸の弟子等、後人の尽く八揵度を解する能わざるが為の故に、鞞婆沙を作るとあり。何れの国に於いて此の論を著わしたるかに就いて亦た異説あり。「大唐西域記巻4」には、至那僕底国に於いて此の論を製すと云い、又「婆藪槃豆法師伝」には、五百阿羅漢及び五百菩薩と共に、罽賓国に於いて八揵度論を製す、亦た発智論というと記せり。されど之を発智論の本文に徴するも、五百阿羅漢等と共に之を製したる形跡なし、是れ恐らくは婆沙の編纂と其の事蹟を混交したりしものならん。故に今は「大唐西域記」の説に従うを可とす。又「三論玄義」等に出づ。<(望)
如佛所說及所說法義經。從一句一偈。乃至八萬四千法聚。信戒捨聞定智慧等諸善法。乃至無餘涅槃。皆是念法三昧所緣。諸菩薩辟支佛及聲聞眾。除佛餘殘一切聖眾及諸功德。是念僧三昧所緣。 仏の所説、及び所説の法義の経は、一句、一偈より、乃至八万四千の法聚まで、信、戒、捨、聞、定、智慧等の諸善法、乃至無余涅槃は、皆、是れ念法三昧の所縁なり。諸の菩薩、辟支仏、及び声聞衆と、仏を除きたる余残の一切の聖衆と、及び諸功徳は、是れ念僧三昧の所縁なり。
『仏の所説』と、
『仏の所説の法義』との、
『経』の、
『一句、一偈より!』、
『八万四千の法聚まで!』と、
『信、戒、捨、聞、定、智慧』等の、
『諸善法』と、
『乃至無余涅槃』は、
皆、
『念法三昧』の、
『所縁であり!』、
『諸の菩薩、辟支仏、声聞の衆』と、
『仏を除く余残の一切の聖衆』と、
其の、
『諸の功徳』とは、
皆、
『念僧三昧』の、
『所縁である!』。



僧を念じる

念僧者是佛弟子眾。戒眾具足禪定眾智慧眾解脫眾解脫知見眾具足。四雙八輩應受供養恭敬禮事。是世間無上福田。 僧を念ずとは、是れ仏の弟子衆なり。戒衆具足し、禅定衆、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆具足せる、四双八輩は、応に供養、恭敬、礼事を受くべく、是れ世間の無上の福田なり。
『僧を念じる!』とは、
『仏の弟子衆であり!』、
『戒衆、禅定衆、智慧衆、解脱衆、解脱知見衆が具足した!』、
『四双八輩(四向四果)』は、
『供養、恭敬、礼事』を、
『受ける!』に、
『相応しく!』、
是れは、
『世間』の、
『無上の!』、
『福田である!』。
  四双八輩(しそうはちはい):聖者の四種の位階、即ち須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢に、各向、果二種の異有るを謂いて四双と為し、総じて八輩と称す。『大智度論巻18下注:四向四果』参照。
  戒衆(かいしゅ):五分法身の一。『大智度論巻21下』参照。
  禅定衆(ぜんじょうしゅ):五分法身の一。『大智度論巻21下』参照。
  智慧衆(ちえしゅ):五分法身の一。『大智度論巻21下』参照。
  解脱衆(げだつしゅ):五分法身の一。『大智度論巻21下』参照。
  解脱知見衆(げだつちけんしゅ):五分法身の一。『大智度論巻21下』参照。
  礼事(らいじ):礼を尽くして、奉仕すること。
行者應念如佛所讚僧。若聲聞僧若辟支佛僧若菩薩僧功德是聖僧。五眾具足如上說。 行者は応に、仏の讃じたもう所の僧の如く、若しは声聞僧、若しは辟支仏僧、若しは菩薩僧の功徳を念ずべし。是の聖僧の五衆具足せること、上に説けるが如し。
『行者』は、
例えば、
『仏』が、
『讃じられた!』所の、
『僧のように!』、
『声聞僧』や、
『辟支仏僧』や、
『菩薩僧』の、
『功徳』を、
『念じなければならない!』。
是の、
『聖僧』には、
上に説いたように、
『五衆』が、
『具足しているからである!』。
問曰。先已以五眾讚佛。云何復以五眾讚僧。 問うて曰く、先に已に五衆を以って仏を讚ぜり。云何が復た五衆を以って、僧を讃ずる。
問い、
先に、
已に、
『五衆を用いて!』、
『仏』を、
『讃じたのに!』、
何故、
復た、
『五衆を用いて!』、
『僧』を、
『讃じるのですか?』。
答曰。隨弟子所得五眾而讚具足。具足有二種。一者實具足。二者名具足。如佛弟子所可應得者盡得而讚。是名名具足。如佛所得而讚是名實具足。 答えて曰く、弟子の所得の五衆に随いて、具足を讃ずるに、具足には二種有りて、一には実の具足、二には名の具足なり。仏の弟子の応に得べき所の者は、尽くを得れば、讃ずるが如き。是れを名の具足と名づけ、仏の所得を、而も讃ずるが如きは、是れを実の具足と名づく。
答え、
『弟子の所得』の、
『五衆に随って!』、
『具足』を、
『讃じるのである!』が、
『具足』には、
『二種有って!』、
一には、
『実に!』、
『具足する!』者、
二には、
『名のみ!』、
『具足する!』者である。
『仏の弟子』が、
『得るべき』者を、
『尽く得た!』ので、
『讃じるようなもの!』は、
是れを、
『名の具足』と、
『呼び!』、
『仏』の、
『所得』を、
『讃じるようなもの!』は、
是れを、
『実の具足』と、
『称する!』。
復次為欲異於外道出家眾在家眾故。作如是讚。外道在家眾讚其富貴豪尊勢力。出家眾讚其邪見苦行染著智慧執論諍競。 復た次ぎに、外道の出家衆、在家衆に異ならんと欲するが為の故に、是の如き讚を作す。外道の在家衆は、其の富貴、豪尊、勢力を讃じ、出家衆は、其の邪見、苦行を讃じて、智慧に染著し、論に執して、諍競す。
復た次ぎに、
『外道の出家衆、在家衆』に、
『異なりたい!』と、
『思う!』が故に、
是のような、
『讚』を、
『作すのである!』。
『外道』の、
『在家衆』は、
其の、
『富貴、豪尊、勢力』を、
『讃じ!』、
『出家衆』は、
其の、
『邪見、苦行を讃じて!』、
『智慧』に、
『染著し!』、
『論争に執して!』、
『是非』を、
『諍競するからである!』。
 
念僧眾中。或有持戒禪定智慧等少不足稱。以是故佛自讚弟子眾一切功德根本住處戒眾具足乃至解脫知見眾具足。住是戒眾中不傾動。引禪定弓放智慧箭。破諸煩惱賊得解脫。於是解脫中生知見。譬如健人先安足挽弓放箭能破怨敵。得出二怖免罪於王拔難於陣決了知見賊已破滅心生歡喜。是故以五眾讚。 僧衆を念ずる中に、或は持戒、禅定、智慧等少なく、称するに足らざる有り。是を以っての故に、仏は自ら弟子衆を讃じたまわく、『一切の功徳の根本の住処なる戒衆具足し、乃至解脱知見衆具足す』、と。是の戒衆中に住して傾動せず、禅定の弓を引いて、智慧の箭を放ち、諸の煩悩の賊を破りて、解脱を得。是の解脱中に於いて、知見生ず。譬えば健人の先に足を安んじて、弓を挽き、箭を放ち、能く怨敵を破り、二怖を出づるを得て、罪を王に免れ、難を陣に抜き、決了して賊の已に破滅せるを知見し、心に歓喜を生ず。是の故に五衆を以って讃ず。
『僧衆を念じる!』中に、
或は、
有る者は、
『持戒、禅定、智慧』等が、
『少なく!』、
『称讃する!』に、
『不足する!』ので、
是の故に、
『仏』は、
自ら、
『弟子衆を讃じて!』、こう励まされた、――
一切の、
『功徳の根本』の、
『住処である!』、
『戒衆、乃至解脱知見衆』が、
『具足している!』、と。
是の、
『戒衆』中に、
『傾動せず(身動ぎせず)に!』、
『住まり!』、
『禅定衆』の、
『弓』を、
『引き!』、
『智慧衆』の、
『箭』を、
『放ち!』、
諸の、
『煩悩』の、
『賊を破って!』、
『解脱を得!』、
是の、
『解脱』中に、
『知見』を、
『生じる!』。
譬えば、
『健人( a strong soldier )』が、
先に、
『足を安置して!』、
『弓を挽き!』、
『箭を放ち!』、
『怨敵を破って!』、
『二怖より!』、
『出ることができ!』、
謂わゆる、
『王』の、
『刑罰』を、
『免れて!』、
『戦陣』の、
『危難』を、
『抜けて!』、
決了して、
『賊』が、
已に、
『破滅した!』ことを、
『知見するように!』、
『解脱』中に、
『知見を生じて!』、
其の、
『心』に、
『歓喜』を、
『生じる!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『五衆』を、
『讃じられたのである!』。
應供養者五眾功德具足故。如富貴豪勢之人人所宗敬。佛弟子眾亦如是。有淨戒禪定智慧財富解脫解脫知見勢力故。應供養恭敬合掌禮事。 応に供養すべしとは、五衆の功徳具足するが故に、富貴、豪勢の人の人に宗敬さるるが如く、仏の弟子衆も亦た是の如く、浄戒、禅定、智慧の財富と、解脱、解脱知見の勢力有るが故に、応に供養、恭敬、合掌、礼事すべし。
『供養すべきである!』とは、――
『五衆という!』、
『功徳』が、
『具足している!』が故に、
譬えば、
『富貴、豪勢の人』が、
『人』に、
『宗敬(尊敬)されるように!』、
『仏の弟子衆』も、
是のように、
『浄戒、禅定、智慧』の、
『財富』が、
『有り!』、
『解脱、解脱知見』の、
『勢力』が、
『有る!』が故に、
当然、
『人』は、
『供養し!』、
『恭敬し!』、
『合掌し!』、
『礼事すべきである!』。
  宗敬(しゅうきょう):尊びうやまう。
世間無上福田者。施主有二種。貧者富者。貧者禮事恭敬迎送而得果報。富者亦能恭敬禮事迎送。又以財物供養而得果報。是故名為世間無上福田。譬如良田耕治調柔以時下種。溉灌豐渥所獲必多。 世間の無上の福田とは、施主には二種有りて、貧者と富者となり。貧者は、礼事、恭敬、迎送して、果報を得、富者も亦た能く恭敬、礼事、迎送し、又財物を以って供養すれば、果報を得。是の故に名づけて、世間の無上の福田と為す。譬えば良田の耕治し、調柔し、時を以って種を下し、漑潅して豊渥すれば、獲る所必ず多きが如し。
『世間の無上の福田』とは、――
『施主』には、
『二種有り!』、
『貧者』と、
『富者とである!』。
『貧者』は、
『礼事、恭敬、迎送すれば!』、
『果報』を、
『得られる!』し、
『富者』も、
亦た、
『恭敬、礼事、迎送することができれば!』、
又、
『財物を供養して!』、
『果報』を、
『得ることができる!』ので、
是の故に、
『世間』の、
『無上の福田』と、
『称されるのである!』。
譬えば、
『良田』が、
『耕され!』、
『調えられて!』、
『柔らかくなり!』、
『適時に!』、
『種が!』、
『蒔かれて!』、
『潅漑して!』、
『地』が、
『潤えば!』、
『収穫』が、
『必然的に!』、
『多いようなものである!』。
  耕治(こうじ):たがやして整える。
  調柔(ちょうにゅう):ととのえやわらげる。
  漑潅(がいかん):水をかける。
  豊渥(ぶあく):ゆたかにうるおう。
眾僧福田亦復如是。以智慧犁耕出結使根。以四無量心磨治調柔。諸檀越下信施穀子。溉以念施恭敬清淨心水。若今世若後世。得無量世間樂。及得三乘果。 衆僧の福田も亦復た是の如く、智慧の犁を以って耕して、結使の根を出し、四無量心を以って、磨治し調柔するに、諸の檀越、信施の穀子を下し、漑(そそ)ぐに念施、恭敬、清浄心の水を以ってすれば、若しは今世、若しは後世に、無量の世間の楽を得て、及び三乗の果を得。
『衆僧の福田』も、
是のように、
『智慧』の、
『犁(すき)』で、
『耕して!』、
『結使』の、
『根』を、
『抜き出し!』、
『四無量心』で、
『磨治し!』、
『調柔する!』ので、
諸の、
『檀越』は、
『信施』の、
『穀子(もみ)』を、
『蒔いて!』、
『念施、恭敬、清浄心』の、
『水』で、
『潅漑すれば!』、
『今世』か、
『後世』に、
『無量』の、
『世間の楽』を、
『得て!』、
及び、
『三乗の果』を、
『得ることになる!』。
  (り):すき。からすき。農具の名。牛にひかせて耕す具。
  四無量心(しむりょうしん):慈、悲、喜、捨の四心の無量なるを云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  磨治(まじ):みがきととのえる。
  檀越(だんおつ):梵語daana- pati。巴梨語同じ。具に陀那鉢底と云い、又陀那婆に作り、施主、或いは布施家と訳す。又梵漢兼挙して檀越施主、檀越主、檀那主、或いは檀主とも称す。即ち僧衆に衣食等を施与する信男信女を云う。「増一阿含経巻3清信士品」に、「大檀越主は所謂須達長者是れなり」と云い、「大般涅槃経巻11」に、「寧ろ熱鉄を以って周匝して身を纏うも、終に敢て破戒の身を以って信心檀越の衣服を受けじ」と云える其の例なり。檀越及び受施者の心事に関しては諸経に多説あり。「長阿含巻11善生経」に、「善生、檀越は当に五事を以って沙門婆羅門に供奉すべし。云何が五と為す、一には身に慈を行じ、二には口に慈を行じ、三には意に慈を行じ、四には時を以って施し、五には門に制止せず。善生、檀越若し此の五字を以って沙門婆羅門に供奉せば、沙門婆羅門は当に復た六事を以って之に教授すべし。云何が六と為す、一には防護して悪を為さしめず、二には善処を指授し、三には教えて善心を懐かしめ、四には未聞の者をして聞かしめ、五には已に聞く者をして能く善解せしめ、六には天の路を開示す。善生、是の如く檀越は沙門婆羅門に恭奉せば、則ち彼れ方に安隠して憂畏あることなからん」と云い、「増一阿含経巻4護心品」に、「檀越施主は当に恭敬すること子の父母に孝順するが如く、之を養い之に侍して五陰を長益し、閻浮利地に於いて種種の義を現ずべし。檀越主を観ずるに、能く人の戒聞三昧智慧を成じ、諸比丘は饒益せらるる所多く、三宝の中に於いて罣礙する所なく、能く卿等に衣被飲食床榻臥具病痩医薬を施す。是の故に諸比丘は当に慈心ありて檀越の所に於いて小恩も常に忘れざるべし。況んや復た大なる者をや」と云い、又「同巻24」に、檀越施主は時に随って恵施するに五の功徳あり。名聞四遠して衆人歎誉するを第一の徳となし、衆中に至りて慚愧を懐かず、亦た畏るる所なきを第二の徳となし、衆人敬仰して見る者歓悦するを第三の徳となし、命終の後、天上に生まれば天の為に敬せられ、人中に生まれば人の為に尊貴せらるるを第四の徳となし、其の智慧遠く衆人の上に出で、現身に漏尽きて後世を経ざるを第五の徳となすと云える皆即ち其の説なり。檀越の語義に関しては、「南海寄帰内法伝巻1受斎軌則の條」に、「梵に陀那鉢底と云い、訳して施主と為す。陀那は是れ施、鉢底は是れ主なり。而るに檀越と云うは本正訳に非ず。那の字を略去し、上の陀音を取りて転じて名づけて檀と為し、更に越の字を加う。意に道(い)わく檀捨を行ずるに由りて自ら貧窮を越渡すべしと。妙釈然りと雖も終に正本に乖く。旧に達䞋と云うは訛なり」と云い、「四分律疏飾宗義記巻5末」にも亦た略ぼ同説を出せり。是れ檀越は訛音にして、即ち陀那の那を略去し、又陀の音の上転を取りて檀となし、更に越字を添加せしものにして正訳に非ずとなすの意なり。蓋し陀波鉢底が正音なることは元とより言を俟たざる所なるも、檀越も亦た梵語daana- patiの音写にして、即ち檀は陀那daana(施の義)、越は鉢底pati(主の義)の対音となすべきものなるが如し。何となれば「濡首菩薩無上清浄分衛経巻下」に、三摩鉢底samaapattiを三摩越と音写し、又「道行般若経巻9薩陀波倫菩薩品」に、「国を揵陀越と名づく」と云えるは、「梵文八千頌般若aSTasaahasrikaa- prajJaapaaramitaaa」のgandhavati naama nagariiに相当し、其の他遮迦越、或いは遮迦越羅は梵語cakra- vartinの音写、阿惟越致は梵語avaivartyaの音写なるを以って見るに、越は古来patti、又はva、vati vartinの対音とせられたるを知るべく、されば今の越も亦た鉢底patiの音写と認むるを得べきを以ってなり。従って越に越渡の義ありとなすは謬というべし。又「中阿含巻47瞿曇弥経」、「増一阿含経巻29」、「梵網経巻下」、「大宝積経巻47」、「大威徳陀羅尼経巻6」、「有部毘奈耶出家事巻1」、「大智度論巻3」、「玄応音義巻4」、「法苑珠林巻41、42」、「釈子要覧巻下」等に出づ。<(望)
  信施(しんせ):信者が仏法僧の三宝に捧げる施物の意。
  (がい):そそぐ。水をそそぐ。水を田にながし入れる。
如薄拘羅比丘。鞞婆尸佛時。以一呵梨勒果供養眾僧。九十一劫天上人中受福樂果常無疾病。今值釋迦牟尼佛出家漏盡得阿羅漢。 薄拘羅比丘の如きは、毘婆尸仏の時、一呵梨勒果を以って、衆生を供養すれば、九十一劫天上、人中に福楽の果を受けて、常に疾病無く、今、釈迦牟尼仏に値いて、出家し漏尽きて、阿羅漢を得たり。
例えば、
『薄拘羅( bakkula )比丘』などは、
『毘婆尸仏( vipazyin )の時』に、
『一』の、
『呵梨勒の果』を、
『衆僧』に、
『供養した!』が故に、
『九十一劫』に、
『天上、人中』に、
『福楽』の、
『果』を、
『受けて!』、
『常に!』、
『疾病』が、
『無く!』、
『今』、
『釈迦牟尼仏に値い!』、
『出家して!』、
『漏が尽きて!』、
『阿羅漢』を、
『得たのである!』。
  薄拘羅(はっくら):仏の大弟子の名。『大智度論巻38下注:薄拘羅』参照。
  鞞婆尸仏(びばしぶつ):鞞婆尸vipazyinは梵名。巴梨名vipassin、過去七仏の一。『大智度論巻37下注:毘婆尸仏』参照。
  呵梨勒(かりろく):梵名haritaki。果名。五薬の一。『大智度論巻38下注:訶梨勒』参照。
  参考:『中阿含巻8薄拘羅経』:『我聞如是。一時。佛般涅槃後不久。尊者薄拘羅遊王舍城。在竹林加蘭哆園。爾時。有一異學。是尊者薄拘羅未出家時親善朋友。中後仿佯。往詣尊者薄拘羅所。共相問訊。卻坐一面。異學曰。賢者薄拘羅。我欲有所問。為見聽不。尊者薄拘羅答曰。異學。隨汝所問。聞已當思。異學問曰。賢者薄拘羅。於此正法.律中學道幾時。尊者薄拘羅答曰。異學。我於此正法.律中學道已來八十年。異學復問曰。賢者薄拘羅。汝於此正法律中學道已來八十年。頗憶曾行婬欲事耶。尊者薄拘羅語異學曰。汝莫作是問。更問餘事。賢者薄拘羅。於此正法.律中學道已來八十年。頗憶曾起欲想耶。異學。汝應作是問。於是。異學便作是語。我今更問賢者薄拘羅。汝於此正法.律中學道已來八十年。頗憶曾起欲想耶。於是。尊者薄拘羅因此異學問。便語諸比丘。諸賢。我於此正法.律中學道已來八十年。以此起貢高者。都無是想。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我於此正法.律中學道已來八十年。未曾有欲想。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我持糞掃衣來八十年。若因此起貢高者。都無是相。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我持糞掃衣來八十年。未曾憶受居士衣。未曾割截作衣。未曾倩他比丘作衣。未曾用針縫衣。未曾持針縫囊。乃至一縷。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我乞食來八十年。若因此起貢高者。都無是相。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我乞食來八十年。未曾憶受居士請。未曾超越乞食。未曾從大家乞食於中當得淨好極妙豐饒食噉含消。未曾視女人面。未曾憶入比丘尼坊中。未曾憶與比丘尼共相問訊。乃至道路亦不共語。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作此說。諸賢。我於此正法.律中學道已來八十年。未曾憶畜沙彌。未曾憶為白衣說法。乃至四句頌亦不為說。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我於此正法.律中學道已來八十年。未曾有病。乃至彈指頃頭痛者。未曾憶服藥。乃至一片訶梨勒。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我結加趺坐。於八十年未曾猗壁猗樹。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我於三日夜中得三達證。若尊者薄拘羅作此說。是謂尊者薄拘羅未曾有法。復次。尊者薄拘羅作是說。諸賢。我結加趺坐而般涅槃。尊者薄拘羅便結加趺坐而般涅槃。若尊者薄拘羅結加趺坐而般涅槃。是謂尊者薄拘羅未曾有法。尊者薄拘羅所說如是。彼時異學及諸比丘聞所說已。歡喜奉行』
  参考:『分別功徳論巻4』:『所以稱婆拘羅壽命極長者。以曩昔曾供養六萬佛。於諸佛所常行慈心。蜎飛蠕動有形命類。恒加慈愍。無有毫釐殺害之想。由是慈福今獲其報。佛告阿難。如我今日。皮身清淨無過於我。猶如蓮華不著泥水。正壽八十。不如婆拘羅壽百六十者。如來隨世欲適眾生。不現其異故壽八十。婆拘羅者受前宿世慈心之福。故得年壽加倍之報。或問。但以慈心便獲如此之壽耶。復更有。餘乎。曰有。昔毘婆尸如來出世。時有十六萬八千比丘。遊行教化。時有長者。居明貞修。稟性良謙不好飲酒。時歲節會少相勸勉。薄飲少多。輒以酒勢行詣世尊禮拜問訊訖。便請佛及諸弟子。願受我九十日請。比丘疾病者。皆詣我家而取醫藥。所須之物皆來取之。語訖還家約敕家內曰。我已請佛及諸弟子。四事供養皆當辦具。約敕竟。便睡眠。眠久還覺。其婦白曰。君先約敕嚴辦供具。而今默然所以得爾。長者驚曰。我向何所言說耶。婦曰。君未眠時無所說耶。曰我不省有所說。婦曰。君先言。我已請佛及諸弟子。供九十日所須短乏。不作是語耶。長者思惟曰。酒之誤人乃至於斯已爾。慚愧便當即請。明日清旦於舍燒香。遙請世尊。有一比丘來索藥。長者問曰。何所患苦。答曰。患頭痛。長者曰。此必膈上有水仰攻其頭。是以頭痛耳。即施一呵梨勒果。但服此藥足消此患。比丘服藥病即除愈。緣是福報。九十一劫未曾病患。生長者家至年八十。出家學道經八十年。道俗之紀合百六十。在家時曾捔牛。斯須頭痛尋即除愈。自爾常無疾患。以是之故。婆拘羅長壽第一。於百年壽中而加六十者。此人五濁壽命。最為奇特。其喻於臭穢之中而生蓮花也。阿難問婆拘羅。何以不為人說法耶。為無四辯。為乏智慧。而不說法乎。答曰。我於四辯捷疾之智。非為不足。直自樂靜不喜憒鬧。故不說法耳。難曰。婆拘羅長壽者。何以不生三方耶。答曰。諸佛所以不生者。以其土人難化故。此土眾生利根捷疾。極惡勇猛取道不難。是故往古諸佛皆生此中。婆拘羅應在此成道。故不生三方耳』
如沙門二十億。鞞婆尸佛時。作一房舍以物覆地供養眾僧。九十一劫天上人中受福樂果。足不蹈地。生時足下毛長二寸柔軟淨好。父見歡喜與二十億兩金。見佛聞法得阿羅漢。於諸弟子中精進第一。如是等少施得大果報。是故名世間無上福田。 沙門二十億の如きは、毘婆尸仏の時、一房舎を作り、物を以って地を覆い、衆僧を供養すれば、九十一劫に天上、人中に福楽の果を受け、足に地を蹈まず、生時に足下の毛の長さ二寸にして柔軟、浄好なれば、父見て歓喜し、二十億両の金を与うるも、仏に見(まみ)えて法を聞き、阿羅漢を得て、諸弟子中の精進第一なり。是れ等の如き小施もて、大果報を得れば、是の故に世間の無上の福田と名づく。
例えば、
『沙門の二十億』などは、
『毘婆尸仏の時』、
『一』の、
『房舎を作り!』、
『物で地を覆って!』、
『衆僧』を、
『供養した!』が故に、
『九十一劫』に、
『天上、人中』に、
『福楽』の、
『果』を、
『受けて!』、
『足』が、
『地』を、
『蹈まなかった!』が故に、
『生時』に、
『足の裏』には、
『長さ二寸』の、
『毛』が、
『生えていて!』、
『柔軟であり!』、
『浄好であった!』ので、
『父』は、
是の、
『毛』を、
『見て!』、
『歓喜し!』、
『二十億両』の、
『金』を、
『与えたのである!』が、
『後に!』、
『仏に見(まみ)えて!』、
『法を聞き!』、
『阿羅漢』を、
『得て!』、
諸の、
『弟子』中に於いて、
『精進』が、
『第一であった!』。
是れ等のように、
『小施』でも、
『大きな!』、
『果報』を、
『得られる!』ので、
是の故に、
『世間』の、
『無上の福田』と、
『称する!』。
  沙門(しゃもん):梵名、具に舎囉摩拏zramaNaと云い、又室囉末拏、室羅末拏、[口*室]羅摩拏、[口*室]摩那拏、室摩那拏、沙迦懣嚢、或いは沙門那、沙聞那、娑門、桑門、喪門等に作る。巴梨名samaNa、勤労、功労、劬労、勤懇、静志、浄志、又は息止、息心、息悪、勤息、修道、乏道、或いは貧道と訳す。出家の総名にして、即ち鬚髪を剃除し、諸悪不善を止息し、身心を調御して能く善品を勤修し、以って涅槃に行趣せんと期待するものを云う。其の語義に関しては、「玄応音義巻6」に、「沙門は旧に桑門と云い、或いは喪門と云うは皆訛略なり。正しくは室羅那拏と言い、或いは舎囉磨拏と言う。此に功労と言う、道を修するに多労あるを言うなり。又勤労と云う、至誠を言うなりい。義に亦た息と名づく、法を得るが故に暫く寧息するを以ってなり。旧訳に息心と云い、或いは静志と言える是れなり」と云い、又「慧琳音義巻26」に、「娑門は梵語なり、此に勤労と云う。内道外道の総名なり。皆出家に拠りて言を為すのみ。古経に桑門と為し、或いは娑門と為す。羅什法師は言便に非ざるを以って改めて沙門と為すなり」と云えり。是れzramaNaは勤労の義を有する語幹zramaに語尾Naを連結したる語なれば、之を訳して勤労となし、又zramaはzamaに変じ得るが故に息止の義ありとなせるなり。但し沙門の音は古来舎囉摩拏の訛略となすも、近時或いは之を以って亀茲語のSamaane、又は于闐語のssamanaaを音写せしものならざるかを疑うに至れり。又西蔵語には修善の義あり。沙門の何物たるかに関しては、「中阿含巻8阿修羅経」に、「刹利種の族姓子、鬚髪を剃除して袈裟衣を著し、至信に家を捨て家なくして道を学す。彼れ本名を捨てて同じく沙門と曰う。梵志種、居士種、工師種の族姓子、鬚髪を剃除して袈裟衣を著し、至信に家を捨て家なくして道を学す。彼れ本名を捨てて同じく沙門と曰う」と云い、「同巻48馬邑経」に、「云何が沙門なる、謂わく諸悪不善の法の諸漏穢汚にして、当来有本煩熱の苦報たる生老病死の為の因を息止す、是れを沙門と謂う」と云い、又「雑阿含経巻28」に、「何等をか沙門の法と為す、謂わく八聖道、正見乃至正定なり。何等をか沙門の義と為す、謂わく貪欲永く尽き、瞋恚愚癡永く尽き、一切の煩悩永く尽く。是れを沙門の義となす」と云えり。又「増一阿含経巻26」には、沙門に五種の毀辱の法あることを説き、「沙門出家に五の毀辱の法あり。云何が五と為す、一には頭髪長く、二には爪長く、三には衣裳垢坋し、四には時宜を知らず、五には多く所論あり」と云い、「大宝積経巻113沙門品」には、沙門に三十二垢及び八法の覆沙門行あるを説き、「沙門の垢に三十二あり、出家の人は応に遠離すべき所なり。何等か三十二なる、欲覚は是れ沙門の垢なり、瞋覚は是れ沙門の垢なり、悩覚は是れ沙門の垢なり、自讃は是れ沙門の垢なり、毀他は是れ沙門の垢なり、邪求利養は是れ沙門の垢なり、利に因りて利を求むるは是れ沙門の垢なり、他を損して福を施さしむる是れ沙門の垢なり、罪禍を覆蔵するは是れ沙門の垢なり、在家の人に親近するは是れ沙門の垢なり、出家の人に親近するは是れ沙門の垢なり、衆閙を楽うは是れ沙門の垢なり、未だ利養を得ざるに方便を作して求むるは是れ沙門の垢なり、他の利養に於いて心に悕望を生ずるは是れ沙門の垢なり、自ら利養に於いて心に足るを知らざるは是れ沙門の垢なり、他の利養の中に於いて心に嫉妬を生ずるは是れ沙門の垢なり、常に他の過を求むるは是れ沙門の垢なり、己の過を見ざるは是れ沙門の垢なり、解脱戒に於いて而も堅持せざるは是れ沙門の垢なり、慚愧を知らざるは是れ沙門の垢なり、恭恪の意なく、心に慢じて掉動して羞恥あることなきは是れ沙門の垢なり、諸の結使を起すは是れ沙門の垢なり、十二因縁に逆らうは是れ沙門の垢なり、辺見を摂取するは是れ沙門の垢なり、寂滅せず離欲せざるは是れ沙門の垢なり、生死を楽うて涅槃を楽わざるは是れ沙門の垢なり、好んで外典を楽しむは是れ沙門の垢なり、五蓋、心を覆うて諸の煩悩を起すは是れ沙門の垢なり、業報を信ぜざるは是れ沙門の垢なり、三脱門を畏るるは是れ沙門の垢なり、深妙の法を謗じ不寂滅を行ずるは是れ沙門の垢なり、三宝の中に於いて心に尊敬せざるは是れ沙門の垢なり。迦葉、是れを沙門の三十二垢と名づく。若し能く是の諸の垢を離れば是れを沙門と名づく。迦葉、又八法の覆沙門行あり、何等か八なる。一には師長を敬順せず、二に法を尊敬せず、三に不善思惟し、四に未だ聞法せざる所を聞き已りて誹謗し、五に衆生なく我なく命なく人法なきことを聞き已りて心に驚畏を生じ、六に一切行の本来無生なることを聞き已りて、而も有為法を解して無為法を解せず、七に説の次第法を聞き已りて大深処に堕し、八に一切法に生なく性なく出なきことを聞き已りて而も心迷没するなり。迦葉、是れを八法の沙門の行を覆うと名づく。是の如きの八法は出家沙門は応当に遠離すべし。迦葉、我れ剃頭法服を名づけて沙門と為すと説かず、所謂功徳儀式の具足することある者を乃ち名づけて沙門と為す」と云えり。以って沙門の行持の厳なるを見るべし。又沙門には四果の別あり、是れを四沙門果と称す。「雑阿含経巻29」に、「何等をか沙門果と為す、謂わく須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果なり。何等をか須陀洹果と為す、謂わく三結断なり。何等をか斯陀含果と為す、謂わく三結断にして貪恚癡薄し、何等をか阿那含果と為す、謂わく五下分結尽く、何等をか阿羅漢果と為す、謂わく貪恚癡永く尽き、一切の煩悩永く尽くるなり」と云い、「中阿含巻26師子吼経」に、「爾の時世尊は諸比丘に告ぐ、此の中に第一沙門、第二第三第四沙門あり。此の外には更に沙門梵志なし、異道一切空には沙門梵志なし」と云える是れなり。又「長阿含巻3遊行経」等には、沙門に勝道乃至汚道の四種の別あるを説けり。即ち彼の経に、「沙門に凡そ四あり。志趣各同じからず、汝当に之を識別すべし。一に行道殊勝、二に善説道義、三に依道生活、四に為道作穢なり。何をか道殊勝に善く道の義を説き、道に依りて生活し、道の為に穢を作すありと謂うや。能く恩愛の刺を度し、涅槃に入ること疑なく、天人の路を超越す、此れを道殊勝と説く。善く第一義を解し、道を説きて垢穢なく、慈仁にして衆疑を決す、是れを善説道と為す。善く法句を敷演し、道に依りて以って自ら生き、遙かに無垢場を望むを依道生活と名づく。内に姧邪を懐き、外像は清白の如く、虚誑にして誠実なし。是れ為道作穢なり」と云い、又「大毘婆沙論巻66」に、「准陀経の中に亦た是の説を作す、沙門に四あり、第五あることなし。四沙門とは一に勝道沙門、二に示道沙門、三に命道沙門、四に汚道沙門なり。応に知るべし、此の中の勝道沙門とは謂わく仏世尊なり、自ら能く覚するが故に、一切の独覚も応に知るべし亦た然り。示道沙門とは謂わく尊者舎利子なり、等雙なきが故に、大法将なるが故に、常に能く仏の転法輪に随うが故なり。一切の無学の声聞も応に知るべし亦た爾り。命道沙門とは謂わく尊者阿難陀なり。学位に居ると雖も無学に同じく、多聞にして聞持し、浄戒禁を具す。一切の有学も応に知るべし亦た然り。汚道沙門とは謂わく莫喝落迦苾芻なり、憙んで他の財物等を盗する是れなり」と云える其の説なり。又「大乗大集地蔵十輪経巻5」にも此の四種沙門の説を挙げ、是れを勝義僧、世俗僧、唖羊僧、無慚愧僧の四種僧に配し、勝義僧は勝道沙門、若しくは示道沙門、世俗僧は示道沙門、若しくは命道沙門、余の唖羊僧及び無慚愧僧は汚道沙門に摂すとなせり。又「大宝積経巻112普照菩薩会」に、沙門に形服沙門、威儀欺誑沙門、貪求名聞沙門、実行沙門の四種あることを説き、就中、形服沙門とは具足して僧伽梨を被り、鬚髪を剃除し、応器を執持するも、而も不浄の三業を成就して破戒懈怠なるを云い、威儀欺誑沙門とは身に四威儀を具足し、諸の美味を断じ、四聖種を修し、出家して憒鬧の衆を遠離し、言語柔軟等の法を行ずるも皆欺誑にして、善浄を為さず、空法に於いて見得あり、無得の法に於いては恐畏の心を生ずるを云い、名聞沙門とは現因縁を以って持戒を行じ、人をして知らしめんと欲して自ら力めて読誦し、他人をして多聞たるを知らしめんと欲し、自ら力めて独処して閑静に在り、人をして阿練若たるを知らしめんと欲し、少欲知足にして遠離行を行ずるも、但だ人をして知らしむるためにして厭離を以ってせず、又善寂、得道、沙門婆羅門果、涅槃等のためにせざるを云い、実行沙門とは身命を貪らず、諸法の空無相無願を聞いて如説に行じて、涅槃の為に梵行を修せず、空無我の見を起すを楽わず、依止の法を離れて一切の煩悩を解脱せんことを求め、一切諸法本来無垢畢竟清浄なりと見、自らに依止し他に依らず、正法身を以って仏を見ず、空遠離を以って尚お法を見ず、無為法を以って僧を見ず、諸法に於いて所断除なく、所修の行なく、生死に住せず、涅槃に著せず、本来寂滅なりと知り、有縛を見せず、解脱を求めざるを云うとなせり。又「中阿含巻29沙門二十億経」、「雑阿含経巻14、29、35」、「増一阿含経巻14、42」、「仏般泥洹経巻上」、「仏本行集経巻39」、「那先比丘経巻上」、「大般涅槃経巻34」、「十誦律巻6」、「有部毘奈耶雑事巻37」、「大毘婆沙論巻141」、「倶舎論巻15、24」、「同光記巻24」、「同頌疏巻24」、「瑜伽師地論巻29、97」、「同略纂巻8」、「華厳経疏巻15」、「四分律羯磨疏巻3」、「弘明集巻8」、「翻梵語巻2」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻18、27」、「釈子要覧巻上」等に出づ。<(望)
  二十億(にじゅうおく):阿羅漢の名。又二十億耳と称す。『大智度論巻9下注:二十億耳』参照。
  参考:『分別功徳論巻4』:『二十億耳比丘。所以稱苦行第一者。昔占波國有大長者。生一子。端正姝妙。足下生毛長四寸。未曾躡地。所以足下生毛者。昔迦葉佛時。為大長者。財寶無極。為眾僧起精舍講堂訖。以白[疊*毛]布地。令眾僧蹈上。由是因緣故。得足下生毛。所以字二十億耳者。生時自然耳中生寶珠。價直二十億。即以為稱。時瓶沙王聞其奇異。欲與相見。故命令來。計道里十五日行乘車而來。將欲下車。輒布[疊*毛]在地。然後行上。既到王所。王命令坐。勞問訖。聞能彈琴。即命使彈之。相娛樂訖。共至佛所。時佛與大眾廣說妙法。見佛歡喜頭面禮足。佛命令坐。聞法欣悅即求出家。佛然其出家之志。即為沙門。勇猛精進經行不懈。肌肉細軟足下傷破。經行之處血流成泥。積行遂久漏猶未除。疲懈心生欲還白衣。我家錢財自恣。廣為福德且免三惡。佛知其念。忽然於前從地踊出。問比丘曰。汝本彈琴時。急緩眾絃得成妙曲不。答曰。不成。若眾絃盡緩復得成不。答曰。不成。若不緩不急絃柱相應得成妙音不。答曰。得成。佛言。行亦如是。不急不緩處其中適。和調得所。乃可成道耳。思惟佛語。心豁開解。便成羅漢。以是因緣故稱苦行第一也』
僧中有四雙八輩者。佛所以說世間無上福田。以有此八輩聖人故。名無上福田。 僧中には、四双八輩有りとは、仏の世間の無上の福田を説きたまえる所以(ゆえ)にして、此の八輩の聖人有るを以っての故に、無上の福田と名づく。
『僧』中には、
『四双八輩が有る!』とは、
則ち、
『仏』が、
『世間の無上の福田』を、
『説かれた!』、
『所以(ゆえ)であり!』、
此の、
『八輩』の、
『聖人』が、
『有る!』が故に、
『僧』を、
『無上の福田』と、
『称するのである!』。
問曰如佛告給孤獨居士。世間福田應供養者有二種。若學人若無學人。學人十八無學人有九。今此中何以故但說八。 問うて曰く、仏の給孤獨居士に告げたもうが如きは、『世間の福田の、応に供養すべき者には二種有りて、若しは学人、若しは無学人なり。学人は十八、無学人には九有り』、と。今、此の中には、何を以っての故にか、但だ八を説く。
問い、
例えば、
『仏』は、
『給孤獨居士』に、こう告げられている、――
『世間の福田』の、
『供養せねばならぬ!』者には、
『二種有って!』、
『学人』と、
『無学人である!』。
是の中、
『学人』は、
『十八種あり!』、
『無学人』には、
『九種ある!』、と。
今、
此の中には、
何故、
但だ、
『八のみ!』を、
『説くのですか?』。
  給孤獨(ぎっこどく):梵名須達sudatta、中印度舎衛城の長者。其の性仁慈にして常に孤独を憐れみ、衣食を給施せしを以って、時の人、之を給孤獨と称す。『大智度論巻22上注:須達』参照。
  須達(しゅだつ):梵名sudatta、巴梨名同じ。又須達多、蘇達哆に作り、善施、善授、善与、或いは善給、善温と訳す。中印度舎衛城の長者にして、波斯匿王の大臣なり。其の性慈仁にして常に孤独を憐れみ、衣食を給施せしを以って時人呼んで阿那他擯荼陀anaatha- piNDada(巴anaathapiNDika)と称す。又阿難邠低、阿難邠邸、阿難賓坻、阿那邠地、阿那邠持に作り、給孤獨食、或いは給孤獨と訳す。帰仏の因縁に関しては、「雑阿含経巻22」、「中本起経巻下須達品」、「衆許摩訶帝経巻11、12」、「賢愚経巻10須達起精舎品」等に依るに、須達に七男二女あり、第六児に至る迄既に次第に納娶し、第七子は偏に之を愛念せしを以って、為に容姿極妙の女を得んと欲し、諸婆羅門をして推覓せしむるに、王舎城の大臣護弥長者の女之に適す。因りて須達は護弥の家に至りて女を求め、其の夜宿するに、家内騒然として飲食を辨具するを知り、国王太子大臣等を請じて大会を設くるものならんと推し、之を質すに、護弥は仏及び比丘僧を請ずる旨を答う。是に於いて須達は初めて仏の名を聞き、挙身毛竪ち転側寝ねず。明旦仏に見え、其の偈を聞きて即ち浄信を発し、三尊に帰命し、五戒を受けて清信士となる。仍りて本国に還りて精舎を建て、仏を請ぜんと欲し、舎利弗と共に帰りて諸地を按行し、遂に祇陀の園を卜して精舎を造営すと云えり。是れ所謂祇樹給孤獨園jetavanaanaathapiNDadasyaaraaamaなり。祇園精舎建立の事実は頗る著名にして、中央印度ブハルフートbharbut塔の欄楯には其の造営の光景を刻し、図の右半に園林購入の状をあらわし、須達は牛車より金塊を卸下せんとし、祇陀は之に対して立ち、左半に精舎奉献の場面を描き、須達は仏の来たるを迎え、水瓶を傾け、浄水を仏に潅ぐの姿勢を取れり。而して図の下方には西暦二世紀を降らざるブラフミーbrahmii文字を以ってjetavana anaadhapeDiko deti koTi saMthatena kotaaの銘を彫出せり。之に依れば須達は一億金を投じて園林を購買せしことを知るなり。又仏陀伽耶buddha- gaya塔の欄楯彫刻中にも之と同巧異曲の作あり。共に印度最古の仏伝彫刻の一として貴重せらる。又「阿那邠邸化七子経」に依るに、須達は後益仏を尊信して、其の七子(増一阿含経巻49には四子とあり)仏法を信ぜず、狩猟、飲酒等を好めるを以って、各一千両金を与え、仏に請うて三帰五戒を受けしめたりと云い、又「増一阿含経巻22」には、其の女須摩提sumaagadhaaが満富城中の満財長者の息に嫁し、裸形外道を信ぜしを、教化して帰仏せしめたることを記し、又「賢愚経巻10蘇曼女十子品」に、其の女蘇曼sumanaaは才美にして常に仏に侍せしに、特叉尸利国の王子、精舎に来たりて之を見、強いて奪い去りて十子を生む。十子皆狩猟を好みしが、蘇曼の感化に依りて出家し、十阿羅漢となれりと云い、又「玉耶経」には須達の子の婦たる玉耶が其の生家の富豪を恃みて常に婦道に悖りしにより、仏は長者の請に応じて之を諭し、遂に帰仏受戒せしことを敍せり。其の他、須達の下婢毘底羅、親友好施等も皆初め仏法を信ぜざりしが、後遂に仏に帰し、一族尽く三宝を尊信するに至れり。後須達病むや、仏の其の舎に至りて種種説法し、阿難、舎利弗も亦た来たりて法を説き、為に心解脱を得、命終の後三十三天に生じたりと云う。須達長者、又は給孤獨長者と称せられて有名なり。又「中阿含巻6教化病経」、「巻30行欲経」、「同福田経」、「同優婆塞経」、「巻39須達哆経」、「伏婬経」、「三帰五戒慈心厭離功徳経」、「須達経」、「長者施報経」、「雑阿含経巻22、37」、「別訳雑阿含経巻9」、「増一阿含経巻3清信士品」、「巻4護心品」、「同巻37、49」、「阿羅漢具徳経」、「須摩提女経」、「三摩竭経」、「給孤長者女得度因縁経」、「玉耶女経」、「菩薩本生鬘論巻4」、「仏所行讃巻4」、「撰集百縁経巻4、6、8」、「大荘厳論経巻11」、「法句譬喩経巻1」、「出曜経巻27」、「大般涅槃経巻29」、「龍王兄弟経」、「観仏三昧海経巻6」、「孛経抄」、「五分律巻25」、「摩訶僧祇律巻23」、「四分律巻50」、「十誦律巻34」、「有部毘奈耶巻5」、「大毘婆沙論巻51」、「分別功徳論巻2」、「高僧法顕伝」、「釈迦譜巻8」、「大唐西域記巻6」、「倶舎論疏巻23」、「玄応音義巻3」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻26、45」等に出づ。<(望)
  十八有学(じゅうはちうがく):十八種の有学の聖人の意。
    (1)信行(しんぎょう):見道十五心中に於ける鈍根の人。
    (2)法行(ほうぎょう):見道十五心中に於ける利根の人。
    (3)信解(しんげ):信行の人の修道(しゅどう、思惟道)位に入れるもの。
    (4)見得(けんとく):法行の人の修道位に入れるもの。
    (5)身証(しんしょう):不還果(ふげんか、阿那含果)の人の滅尽定を得たもの。
    (6)家家(けけ):一来向(いちらいこう、斯陀含向)の人の中、欲界修惑の三乃至四品を断ぜるもの。
    (7)一種(いっしゅ):不還向(阿那含向)の人の中、既に七乃至八品の惑を断じ、ただ九品の惑の為に住果(阿羅漢果)に隔てられたもの。
    (8)~(13)預流向乃至不還果。
    (14)中般涅槃(ちゅうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の一。
    (15)生般涅槃(しょうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の二。
    (16)行般涅槃(ぎょうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の三。
    (17)無行般涅槃(むぎょうはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の四。
    (18)上流般涅槃(じょうるはつねはん):七種不還の中、色界生の五種の聖者の五。『大智度論巻40上注:十八有学』参照。
  九無学(くむがく):九種阿羅漢(くしゅあらかん)、九種の無学の聖人の意。
    (1)退法阿羅漢(たいほうあらかん):時に因縁により、すでに得た阿羅漢の覚りから退去しやすい者。
    (2)思法阿羅漢(しほうあらかん):退失を恐れて自殺しようと思う者。
    (3)護法阿羅漢(ごほうあらかん):覚りの境地を楽しみ退失を恐れて防護する者。
    (4)安住法阿羅漢(あんじゅうほうあらかん):現在の覚りに安住して進みも退きもしない者。
    (5)堪達法阿羅漢(たんだつほうあらかん):次に進むことの出来る者。
    (6)不退法阿羅漢(ふたいほうあらかん):本来利根にして退失の恐れのない者。
    (7)不動法阿羅漢(ふどうほうあらかん):修行の力により退失の恐れのない者。
    (8)辟支仏。
    (9)仏。『大智度論巻32下注:九無学』参照。
  八忍八智(はちにんはっち):十六心(じゅうろくしん)、見道(けんどう、聖者の流れに乗った預流向、預流果)の無漏の智慧でもって四諦を現観するとき、欲界の四諦を現観する智慧を法智、色無色界の四諦を現観するする智慧を比智というが、それに各忍と智とが有る。 欲界の苦諦を現観するに、苦法智忍と苦法智が有り、色無色界に、苦比智忍と苦比智とが有り、合計十六心有る。 即ち、苦法忍、苦法智、苦比忍、苦比智、集法忍、集法智、集比忍、集比智、滅法忍、滅法智、滅比忍、滅比智、道法忍、道法智、道比忍、道比智である。 (智15)
    (1)苦法智(くほうち):欲界は苦であると知る智慧。
    (2)苦比智(くひち):色無色界は苦であると知る智慧。
    (3)集法智(じゅうほうち):欲界の苦の原因は渇愛にあると知る智慧。集諦を知る。
    (4)集比智(じゅうひち):色界無色界の苦の原因は渇愛にあると知る智慧。
    (5)滅法智(めつほうち):欲界の渇愛を無くせば苦も無くなると知る智慧。
    (6)滅比智(めつひち):色界無色界の渇愛を無くせば苦も無くなると知る智慧。
    (7)道法智(どうほうち):欲界の渇愛を無くすには正しい道によると知る智慧。
    (8)道比智(どうひち):色界無色界の渇愛を無くすには正しい道によると知る智慧。
  四向四果(しこうしか):小乗における修行の階位。四段階あり、各位について修行をし終え結果の出た状態を果(か)といい、修行しつつある状態を向(こう)という。
   (1)須陀洹(しゅだおん):三界の見惑(けんわく、根本的な煩悩のこと)を断ち終わって、無漏の聖者の流れに入り終わった位。この位を得ると、貪瞋癡等の煩悩が断たれ、常楽我浄の邪見を排することが出来る。
   (2)斯陀含(しだごん):修惑(しゅわく、細々と残る具体的な煩悩のこと)を断ちつつある位。もう一度人間として生まれなくてはならない。
   (3)阿那含(あなごん):修惑を完全に断ち終わった位。再び欲界に還ってこない位。
   (4)阿羅漢(あらかん):一切の見惑と修惑を立ち尽くし涅槃に入って再び生まれない位。
  三道(さんどう):聖者の通る道には次の三段階がある。
   (1)見道(けんどう):初めて無漏の智を生じて四諦の理を照見する位。道とは学人の通る道、この道を通りながら、貪瞋癡など煩悩を断ち、淨楽我常などの邪見を排して、不淨苦無我無常の真諦に至ることである。無漏の智とは四聖諦をとおして煩悩が断たれた智慧をいう。この見道で断たれるべき煩悩を見惑(けんわく)、見諦断(けんたいだん)という。
   (2)修道(しゅどう):根本的な煩悩を断ち終わり、更に残る具体的な事物にたいする煩悩を断つために何度も繰り返して修学することをいう。この修道で断たれるべき煩悩を修惑(しゅわく)、思惑(しわく)、思惟断(しゆいだん)という。
   (3)無学道(むがくどう):真諦を体得し終わったことをいう。断つべき煩悩が無いことを無断(むだん)という。
答曰。彼廣說故十八及九。今此略說故八。彼二十七聖人此八皆攝。信行法行或向須陀洹攝。或向斯陀含攝。或向阿那含攝。家家向斯陀含攝。一種向阿那含攝。五種阿那含向阿羅漢攝。信行法行入思惟道。名信解脫見得。是信解脫見得十五學人攝。九種福田阿羅漢攝。 答えて曰く、彼には、広説するが故に、十八、及び九なり。今此には、略説するが故に八なり。彼の二十七聖人は、此の八に皆摂(おさ)めり。信行、法行は、或は向須陀洹に摂め、或は向斯陀含に摂め、或は向阿那含に摂め、家家は、向斯陀含に摂め、一種は向阿那含に摂め、五種は阿那含と、向阿羅漢に摂め、信行、法行は思惟道に入りては、信解脱、見得と名づけ、是の信解脱、見得は、十五学人に摂め、九種福田は、阿羅漢に摂む。
答え、
彼の、
『経』には、
『広説する!』が故に、
『十八と九』を、
『説き!』、
今、
此(ここ)では、
『略説する!』が故に、
『八』を、
『説くのである!』。
彼の、
『二十七聖人』は、
此には、
皆、
『八』に、
『摂(おさ)められる!』が、
即ち、
『信行(十八有学中の第一)』と、
『法行(同第二)』とは、
『向須陀洹』か、
『向斯陀含』か、
『向阿那含』に、
『摂め!』、
『家家(同第六)』は、
『向斯陀含』に、
『摂め!』、
『一種(同第七)』は、
『向阿那含』に、
『摂め!』、
『五種(同第十四乃至十八)』は、
『阿那含』と、
『向阿羅漢』に、
『摂め!』、
『信行』と、
『法行』とは、
『思惟道に入れば!』、
『信解脱(同第三)』とか、
『見得(同第四)』と、
『呼ばれて!』、
是の、
『信解脱』と、
『見得』とは、
『十五学人』に、
『摂め!』、
『九種の福田である!』、
『無学人』は、
『阿羅漢』に、
『摂める!』。
  信行(しんぎょう):十八有学中の第一。見道十五心(八忍八智中道類智を除く)中の鈍根の者に名づく。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  法行(ほうぎょう):十八有学中の第二。見道十五心(八忍八智中道類智を除く)中の利根の者に名づく。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  家家(けけ):十八有学中の第六。一来向の人の中、欲界修惑の三品乃至四品を断ぜる者に名づく。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  一種(いっしゅ):十八有学中の第七。不還向の人の中、既に七品乃至八品の惑を断じて、唯第九品の惑の為に住果を間隔せらるる者を名づく。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  五種(ごしゅ):十八有学中の第十四中般乃至第十八上流般の意。即ち色界生の五種の聖者なり。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  信解脱(しんげだつ):随信行の人の修道位に入れるに名づく。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  見得(けんとく):随法行の人の修道位に入れるに名づく。『大智度論巻40上十八有学』参照。
  十五学人(じゅうごがくにん):蓋し信解は十八有学より信行、法行、及び見得を除き、見得は同じく信行、法行、及び信解を除くの意なり。
復次行者應念僧。僧是我趣涅槃之真伴。一戒一見如是。應歡喜一心恭敬順從無違。我先伴種種眾惡妻子奴婢人民等。是入三惡道伴。今得聖人伴安隱至涅槃。佛如醫王法如良藥僧如瞻病人。我當清淨持戒正憶念。如佛所說法藥我當順從。僧是我斷諸結病中一因緣。所謂瞻病人。是故當念僧。 復た次ぎに、行者は、応に僧を念ずべし、『僧は、是れ我が涅槃に趣く真の伴にして、一戒、一見なり。是の如く、応に歓喜し、一心に恭敬し、順従にして、違うこと無かるべし。我れは先に、種種の衆悪、妻子、奴婢、人民等を伴えるも、是れ三悪道に入る伴なり。今、聖人の伴を得れば、安隠にして、涅槃に至らん。仏は、医王の如く、法は良薬の如く、僧は瞻病人の如し。我れは、当に清浄に持戒して、正憶念すべし。仏の所説の法薬の如きにも、我れは当に順従なるべし。僧は、是れ我が諸結の病を断ずる中の一因縁にして、謂わゆる瞻病人なり。是の故に、当に僧を念ずべし』、と。
復た次ぎに、
『行者』は、
『僧』を、こう念じなくてはならない、――
『僧』は、
わたしが、
『涅槃に趣く!』時の、
『真の!』、
『伴であり!』、
『戒』と、
『見』とが、
『同一である!』と、
是のように、
『僧』を、
『歓喜して!』、
『一心に恭敬し!』、
『順従にして!』、
『違背してはならない!』。
わたしは、
先に、
種種の、
『衆悪、妻子、奴婢、人民』等を、
『伴っていた!』が、
是れは、
『三悪道に入る!』為の、
『伴である!』。
今、
『聖人』の、
『伴』を、
『得たので!』、
『安隠』に、
『涅槃』に、
『至ることになった!』。
譬えば、
『仏』は、
『医王であり!』、
『法』は、
『良薬であり!』、
『僧』は、
『看病人のようなものである!』。
わたしは、
『清浄に持戒し!』、
『仏の説かれた!』、
『法の薬』に、
『順従して!』、
『違背してはならない!』。
『僧』は、
わたしが、
諸の、
『結使の病』を、
『断じる!』為の、
『一因縁であり!』、
謂わゆる、
『看病人である!』。
是の故に、
当然、
『僧』を、
『念じなければならない!』、と。
  一戒一見(いっかいいっけん):僧中の同一戒、同一見を謂う。
  瞻病人(せんびょうにん):看病人に同じ。
復次僧有無量戒禪定智慧等具足。其德不可測量。如一富貴長者信樂僧。白僧執事。我次第請僧於舍食。日日次請乃至沙彌。執事不聽沙彌受請。 復た次ぎに、僧には、無量の戒、禅定、智慧等有りて具足すれば、其の徳は測量すべからず。一富貴の長者の如し、僧を信楽して、僧の執事に白さく、『我れ次第に僧に請うて、舎に於いて食せしめん』、と。日日請を次いで、乃(すなわ)ち沙弥に至りて、執事は、沙弥に請を受くるを聴(ゆる)さず。
復た次ぎに、
『僧』には、
無量の、
『戒、禅定、智慧』等が、
『有って!』、
『具足する!』が故に、
其の、
『徳』は、
『測量することができない!』。
例えば、
『一富貴の長者』が、そうである、――
『僧』の、
『執事』に、こう言った、――
わたしは、
『次第に!』、
『僧』を、
『請うて(召して)!』、
『舎(いえ)』で、
『食』を、
『与えよう!』、と。
日日、
『次第に!』、
『請うて!』、
やがて、
『沙弥(見習い比丘)』に、
『至った!』が、
『執事』は、
『沙弥』が、
『請(招待)』を、
『受ける!』のを、
『許可しなかった!』。
  信楽(しんぎょう):所聞の法を信順し、之を愛楽する、即ち信心歓喜するの意。
  沙弥(しゃみ):梵名。具に室羅摩拏洛迦zraamaNeraka、或いは室羅末尼羅zraamaNeraと云い、又知る末拏伊落迦、室羅磨拏、室羅那拏に作る。巴梨語saamaNera、勤策、息慈、息悪、労策、求寂、功労、労之少者等と訳す。五衆の一。七種の一。出家して十戒を受持し、具足戒を受くるに至るまでの男子を云う。沙弥の語義に関しては、「玄応音義巻23」に、「梵言室末拏伊落迦は此に労之少者と云うなり。又息慈と言う、謂わく悪を息め慈を行ずる義訳なり。旧に沙弥と言うは訛略なり」と云い、「倶舎論光記巻14」に、「梵に室羅摩拏洛迦と云うは唐に勤策と言う。謂わく苾芻の為に勤めて策励を加えらる。洛は是れ男声なり。旧に沙弥と云うは訛なり」と云い、又「南海寄帰内法伝巻3受戒軌則の條」に、「次に本師の前に於いて阿遮利耶は十学処を授く。或いは時に闇誦し、或いは文を読むべし。既に戒を受け已らば室羅末尼羅と名づく。(訳して求寂と為す、涅槃円寂の処に趣かんと欲求するを言う。旧に沙弥と云うは言略にして而も音訛なり。翻じて息慈と作すは、意准ずるも而も拠なきなり)。威儀節度請教白事は、進具者と体に二准なし」と云えり。此等は皆沙弥を室羅摩拏洛迦等の訛略となせるものなりと雖も、近時学者中には沙弥は亀茲語にsamaane又はsanmirと云い、于闐語にssamanaaと云うを以って、或いは此等の語を音写せしものならざるかを疑うものあるに至れり。蓋し沙弥は所謂小僧にして、七歳以上の者を称す。其の年齢に随って三種の称呼あり、「摩訶僧祇律巻29」に、「沙弥に三品あり、一には七歳より十三に至るを名づけて駆烏沙弥と為す。二には十四より十九に至る、是れを応法沙弥と名づけ、三には二十より七十に至る、是れを名字沙弥と名づく。是の三品は皆沙弥と名づく」と云える是れなり。沙弥は十戒を受けて之を持するを規とし、若し進んで具足戒を受くれば之を大僧と称す。沙弥の十戒とは一に不殺戒、二に不盗戒、三に不婬戒、四に不妄語戒、五に不飲酒戒、六に離高広大牀戒、七に離花鬘等戒、八に離歌舞等戒、九に離金宝物戒、十に離非食時戒なり。之を勤策律儀と名づけ、又沙弥戒と称す。又「沙弥十戒法并威儀法」には、沙弥は日常十四事七十二威儀を守るべきことを説き、一に師と語るに二條、二に師を礼するに十條、三に早起して戸に入るに五條、四に三衣を襞(たた)むに五條、五に師に随って行くに五條、六に師の所須を供するに五條、七に歯を洗うに五條、八に日暮に戸に入るに五條、九に師に従って経を受くるに五條、十に師に三衣を授くるに五條、十一に洗鉢に五條、十二に掃地に五條、十三に師に従って檀越の家に至るに五條、十四に浴室に入るに五條を挙げ、更に又「同経」には問訊敬礼に関する十三條以下多くの行儀を出せり。又「四分律巻34」に依るに、父母の聴許なきものは度して沙弥となすべからず、僧伽藍中に沙弥を度することある時は、一切の僧に白して知らしむべく、一家尽く死せる孤児にして、能く駆烏に堪うるものを除き、余は十二歳以下の小児を度すべからずとし、又大比丘は沙弥に対して房舎臥具等を順次に与うべく、織縄床は之を愛護せざる沙弥には(小沙弥は大小便等にて之を汙すを以って)与うべからず。施物ある時は、衆僧の意見によりて比丘と等分、半分、若しくは三分して其の一を与うべしとなせり。蓋し仏陀が比丘の外に沙弥を設けられしは、「四分律巻34」に十七群童子が具足戒を受けて僧団に入り、一日一食等の戒に堪えずして夜中号泣せしを以って、二十歳以下の童子に具足戒を授くべからずと制せられたりと云うに起因するが如く、又僧団中、始めて沙弥となれるものは、即ち羅睺羅なりとなせり。後世に至り十戒を受持するものを法同沙弥と名づけ、之に対し唯剃髪するのみにして持戒せざるものを形同沙弥と称せり。「四分律行事鈔資持記巻下4之2」に、「此の中、須らく形と法との二同を分つべし。若し但だ剃髪せるは形同沙弥と名づけ、若し十戒を受くるは法同沙弥と名づく」と云える即ち其の説なり。又「五分律巻17」、「十誦律巻21」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」、「善見律毘婆沙巻16」、「倶舎論巻14」、「翻訳名義集巻3」、「釈子要覧巻上」、「大明三蔵法数巻29」等に出づ。<(望)
  沙弥尼(しゃみに):梵名。具に室羅摩拏理迦zraamaNerikaaと云い、又室利摩拏理に作る。巴梨語saamaNerikaa、勤策女等と訳す。五衆の一。七衆の一。出家して十戒を受持し具足戒を受くるに至るまでの女子を云う。其の語義に関し「倶舎論光記巻14」に、「梵に室羅摩拏理迦と云うは唐に勤策女と言う。(中略)理は是れ女声なり。旧に沙弥尼と云うは訛なり」と云えり。沙弥に同じく十戒を持し、又「沙弥尼離戒文」には、沙弥尼は日常不得著繒綵衣以下七十三條の威儀を守るべしとなせり。但し沙弥尼は具足戒を受くる以前、更に二年間に於いて六法戒を受くるを要す。「四分律巻48比丘尼犍度」に「童女十八の者は二年中戒を学し、年二十に満じて比丘尼僧の中にて大戒を受くることを聴す。若し年十歳にして曽て出嫡せし者は二年戒を学し、十二に満ちてために戒を受くることを聴す」と云える是れなり。是れ懐妊を覚らず出家して戒を受け、後其の身大にして転た現じたるにより此の法を制せられたるものにして、之を式叉摩那、或いは学法沙弥尼と称す。但し此の法の未だ制せられざりし以前に於いては、年齢に制限なく、沙弥尼は唯十戒を持し、後直に進んで具足戒を受けたるものの如く、「大愛道比丘尼経巻上」に最初に比丘尼となりし仏の姨母大愛道が、先に唯十戒を受けて沙弥尼となり、後直に具戒を受けしことを記するによりて知るを得べし。又「沙弥尼戒経」、「曇無徳律部雑羯磨」、「倶舎論巻14」、「四分比丘尼鈔巻1」、「四分律行事鈔資持記巻下4」、「翻訳名義集巻3」、「釈子要覧巻上」、「大明三蔵法数巻29」、「沙弥尼律儀要略」等に出づ。<(望)
  執事(しつじ):梵語vaiyaavRtyakaraの訳。巴梨名veyyaaccakara、事務を執る者の意。又執事の人とも云う。「長阿含巻1大本経」に、「毘婆尸仏に執事の弟子あり、名づけて無憂と曰う。(中略)我が執事の弟子を名づけて阿難と曰う」と云い、「善生子経」に、「東面は父母の為にし、師教は宜しく南面すべし。西面は子婦の為にし、朋友は北面に位す。奴客執事は下、沙門梵志は上、此の如く応に礼を為すべし」と云い、又「四分律巻7」に、「彼の使、比丘に語りて言わく、大徳、執事の人ありや不や。須衣の比丘は応に語りて言うべし有り、若しは僧伽藍の民、若しは優婆塞、此れは是れ比丘の執事の人なり。常に諸比丘の執事を為すと。時に彼の使は執事の人の所に往き、衣価を与え已り、還りて比丘の所に至りて此の如きの言を作す、大徳、示す所の某甲執事の人に我れ已に衣価を与う。大徳、時を知りて彼に往き、当に衣を得べし」と云い、「大智度論巻6」に、「譬えば執事の比丘の高声に手を挙げて唱えて言わば、衆皆寂静なるが如し。是れ声を以って声を遮すと為す。声を求むるに非ざるなり」と云える其の例なり。但し前引「長阿含経」の別訳たる「七仏経」、「七仏父母姓字経」及び「増一阿含経巻45」、「賢劫経巻7」等には執事を侍者と訳し、又「善生子経」の別訳たる「長阿含巻11善生経」には僮僕と訳し、同「中阿含巻33善生経」及び「尸迦羅越六方礼経」には婢使と訳せり。之に依るに執事は雑務を執る人に名づけたるものなるを知るべし。又「大般涅槃経巻10」等に出づ。<(望)
  (しょう):こう。僧に請うて比丘、比丘尼を食に招くこと。請食とも称す。
  請食(しょうじき):檀越が、僧に請うて比丘、比丘尼を食事に招くに由り、僧中の執事が次第に比丘等に指示して、往かしむることを云う。『大智度論巻22上注:僧物』参照。
  僧物(そうもつ):梵語saaGghikaの訳。巴梨語同じ。又僧伽物、或いは僧祇物とも名づく。三宝物の一。即ち僧団に属する一切の物資を云う。之に四方僧物と現前僧物との二種あり、四方僧物とは一切の沙門比丘等の共に用うべきものにして、又之を十方僧物、或いは常住僧物と名づく。即ち寺舎厨庫田園僕畜等なり。現前僧物とは、現前僧の特に受用すべきものにして、即ち施主より現前の僧衆に施与せられたるもの、若しくは亡比丘の遺物等を云うなり。「五分律巻25」に、「仏は是の事を以って比丘僧を集め、諸比丘に告ぐ、四方僧に五種の物あり、護すべからず、売るべからず、分つべからず。何をか五と謂う。一に住処地、二に房舎、三に須用物、四に果樹、五に華果なり。一切の沙門釈子比丘に皆其の分あり。若しは護り、若しは売り、若しは分たば皆偸羅遮罪を犯ず」と云えり。是れ即ち此等は皆四方僧物にして、一切の沙門比丘等の共用すべきものなるが故に、現前の僧に於いて之を処分すべからざることを説けるものなり。又「四分律巻41」に、「爾の時、舎衛国に多知識比丘死せるあり、多くの僧伽藍あり、多く僧伽藍に属する園田果樹あり、多くの別房、多く別房に属する物あり、多くの銅瓶銅瓫斧鑿灯台、多くの諸の重物あり。多く縄床木床臥褥坐褥枕あり、多く伊梨延陀耄羅耄耄羅氍氀を畜え、多く僧伽藍を守る人あり。多く車輿あり、多く澡罐錫杖扇あり、多く鉄作器木作器陶作器皮作器剃髪刀竹作器、多くの衣鉢尼師壇針筒あり。諸比丘は云何にすべきかを知らず、仏に白す。仏言わく、多知識無知識一切、僧に属すと。諸比丘、僧に園田菓樹を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属すと。彼れ別房及び別房に属する物を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属すと。彼れ銅瓶銅瓫斧鑿及び諸の種種の重物を分ち仏に白す、仏言わく縄床木床臥褥坐褥枕、応に分つべからず、四方僧に属すと。彼れ縄床木床坐褥臥褥枕を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属すと。彼れ伊梨延陀耄羅耄耄羅氍氀を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属す。今より已去、諸比丘に氍氀の広さ三肘、長さ五肘、毛の長さ三指なるものは現前の僧応に分つべきことを聴すと。彼れ車輿、守僧伽藍の人を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属すと。彼れ水瓶澡罐錫杖扇を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属すと。彼れ鉄作器木作器陶作器皮作器竹作器を分つ、仏言わく、応に分つべからず、四方僧に属す。今より已去、剃刀衣鉢坐具針筒を分つことを聴すと。彼れ俱夜羅器を分つ、現前の僧応に分つべし」と云い、又「根本薩婆多部律摂巻7」に、「随応と言うは所謂田宅邸店臥具氈褥、諸の銅鉄器は並びに応に分つべからず。若し鉄鉢小鉢及び小銅瓶銅椀、戸鑰針錐刀子鉄杓火鑪、及び斧並びに此れを盛る諸帒、若しくは瓦器、謂わゆる鉢小鉢浄触君持、有らゆる貯油の器は此れ並びに応に分つべく、余は応に分つべからず。其の竹木器及び皮臥物、剃髪の具、奴婢飲食穀麦豆等は四方僧に入る。若しは移転すべき物は応に僧庫に貯え、四方の僧伽をして共用せしむべし。若し田宅村園郊店屋宇の移すべからざる者は四方僧伽に入る。若し余の有らゆる一切の衣被は、法衣俗衣若しは染未染を問うことなく、及び皮油瓶鞋履の属は並びに現前に応に分つべし。大竿にして贍部影像処の懸幡の竿と作るべく、細なるものにして苾芻に行与せば錫杖の竿と作るべきもの、四足の内、若しは象馬駝乗驢騾は当に王家に与うべく、牛羊は四方僧伽に入る。並びに応に分つべからず。若し甲鎧の類は亦た王家に入る。雑兵刃等にして打して針錐刀子及び錫杖の頭と作るべきものは、応に上座より現前僧伽に行与すべし」等と云えり。之に依るに苟くも四方僧伽の共用に供すべきものは、現前僧に於いて之を分配すべからざるものなるを知るべし。又現前物に関しては、「摩訶僧祇律巻28」に、「復た四種の物の語に随って応に現前僧に属すべきものあり。何等か四なる、我れ衣と衣の直と物の物の直とを施す、是れを四種物属現前僧と名づく。復た十種の応に現前僧に属すべきものあり、何等か十なる、時薬、夜分薬、七日薬、尽寿薬、死比丘物、施住処、大会、非時衣、雑物、請食なり。時薬とは前食後食哆波那食にして、現前僧の応に得べきものなり。是れを時薬と名づく。夜分薬とは十四種の漿なり、応に広く説くべし。是れを夜分薬と名づく。七日薬とは酥油蜜石蜜生酥膏なり、応に広く説くべし。是れを七日薬と名づく。尽寿薬とは呵梨勒鞞醯勒阿摩勒なり、第二戒中に広く説けるが如し。是れを尽寿薬と名づく。死比丘物とは若し比丘死する時、所有の衣鉢雑物にして、現前僧の応に得べきもの、是れを死比丘物と名づく。施住処とは若し檀越僧房精舎を作り已りて大会を設け、此の住処及び余の雑物を以って施し、現前僧の応に得べきもの、是れを住処施と名づく。大会とは仏生大会、菩提大会、転法輪大会、阿難大会、羅睺羅大会、五年大会、是の中の施物にして、現前僧の応に得べきものなり。非時衣とは迦絺那衣なき十一月、迦絺那衣ある七月、中に於ける施物にして、現前僧の応に得べきもの、是れを非時衣と名づく。雑物とは鉢鉢支鉹腰帯刀子鍼筒革屣盛油革嚢軍持澡瓶、此の如き此の雑物施にして、現前僧の応に得べきもの、是れを雑物と名づく。請食とは檀越、現前僧を食に請し、次第して往くなり。是れを請食と名づく。是れを十事現前僧応得と名づく」と云える是れなり。但し「四分律行事鈔巻中1」には常住僧物を更に常住常住物、十方常住物の二種に、現前僧物を現前現前物、十方現前物の二種に分ちて総じて四種となせり。又三宝物は互用するを得ず。「大宝積経巻113宝梁聚会営事比丘品」に、「常住僧物は応に招提僧に与えず、招提僧物は応に常住僧に与えず。常住僧物は応に招提僧物と共に雑えず、常住僧物、招提僧物は仏物と共に雑えず、仏物は常住僧物、招提僧物と共に雑えず」と云い、又「摩訶僧祇律巻3」に、「若し比丘、摩摩帝(分配知事)となり、塔に物なく、衆僧に物あるとき便ち是の念を作す、天人の衆僧に供養する所以は皆仏恩を蒙ればなり。仏に供養するは便ち衆僧に供養すと為すと。即ち僧物を持て塔を修治せば、此の摩摩帝は波羅夷を得ん。若し塔に物あり、衆僧に物なきとき便ち是の念を作す、僧に供養せば仏も亦た其の中に在りと。便ち塔物を持ちて衆僧に供養せば、摩摩帝の用者は波羅夷を得ん。若し塔に物なく僧に物あらば、如法に貸用することを得。但し分明に疏記して某時に貸用し、某時に当に還すべきことを得んと言うべし。若し僧に物なく塔に物あらば、如法の貸用を得ること亦た是の如し」と云える即ち其の説なり。以って其の制の厳なるを見るべし。又「正法念処経巻1十善業道品」、「大方等大集経巻44」、「五分律巻5、9」、「摩訶僧祇律巻14、18、31、35」、「四分律巻18、50」、「十誦律巻8、10、28」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻2、3、5」、「根本薩婆多部律摂巻8」、「有部毘奈耶巻20、24」、「有部毘奈耶雑事巻17、20」、「有部尼陀那巻5」、「善見律毘婆沙巻9」、「毘尼母経巻6」、「南海寄帰内法伝巻4亡財僧現」、「四分律行事鈔資持記巻中1下」、「釈子要覧巻中」等に出づ。<(望)
諸沙彌言。以何意故不聽沙彌。答言。以檀越不喜請年少故。便說偈言
 鬚髮白如雪  齒落皮肉皺 
 僂步形體羸  樂請如是輩
諸の沙弥の言わく、『何なる意を以っての故にか、沙弥を聴さざる』、と。答えて言わく、『檀越の喜んで、年少を請わざるを以っての故なり』、と。便ち偈を説いて言わく、
鬚髪の白きこと雪の如く、歯落ちて皮肉皺む、
僂歩して形体羸り、請を楽しむは是の如き輩なり
諸の、
『沙弥』は、
こう言った、――
何のような、
『意』の故に、
『沙弥』を、
『許可しないのか?』、と。
答えて、こう言った、――
『檀越』が、
『年少』を、
『請う!』のを、
『喜ばないからだ!』、と。
『沙弥』は、
そこで、
『偈を説いて!』、こう言った、――
『髪の毛も!』、
『顎の髭も!』、
『雪のように!』、
『白くなり!』、
『歯』は、
『抜け落ちて!』、
『皮』も、
『肉』も、
『皺だらけ!』、
『腰』を、
『屈めて!』、
『よちよち歩く!』、
是のような、
『輩ばかり!』が、
『請』を、
『楽しむのか!』、と。
  鬚髪(しゅほつ):梵語 keza-zmazru の訳、髪の毛と顎髭の毛( the hair of the head and the hairs of the beard )。
  (しゅ):しわむ。しわがよること。
  (る):まげる。湾曲/屈曲する。
  僂歩(るぶ):腰を屈めて歩く。
  (るい):よわる/疲れて弱る。
諸沙彌等皆是大阿羅漢。如打師子頭欻然從坐起。而說偈言
 檀越無智人  見形不取德 
 捨是少年相  但取老瘦黑
諸の沙弥は等しく、皆是れ大阿羅漢なり。師子の頭を打つが如く、欻然として、坐より起ち、而も偈を説いて言わく、
檀越は無智の人なり、形を見て徳を取らず、
是の少年の相を捨てて、但だ老いて痩黒なるを取る
諸の、
『沙弥』は、
皆、
『等しく!』、
『大阿羅漢であった!』ので、
譬えば、
『師子の頭』を、
『打ったようなものである!』。
忽然として、
『坐より!』、
『起ちながら!』、
而も、
『偈を説いて!』、こう言った、――
『檀越というのは!』、
『無智の人であろう!』、
『形を見るだけで!』、
『徳』を、
『取らず!』、
是の、
『若者』の、
『相』を、
『取らず!』に、
但だ、
『痩せて黒くなった!』、
『老いぼれ!』を、
『取るのだから!』。
  欻然(くちねん):にわかに。忽然に同じ。
  痩黒(しゅこく):やせてくろずむ。
上尊耆年相者。如佛說偈
 所謂長老相  不必以年耆 
 形瘦鬚髮白  空老內無德 
 能捨罪福果  精進行梵行 
 已離一切法  是名為長老
上尊の耆年の相とは、仏の偈を説きたもうが如し、
謂わゆる長老の相は、必ずしも年の耆なるを以ってせず、
形痩にして鬚髪白くとも、空しく老ゆれば内に徳無し。
能く罪福の果を捨てて、精進し梵行を行じて、
已に一切の法を離るれば、是れを名づけて長老と為す。
『尊ぶべき!』、
『長老の相』とは、
『仏』が、
『偈を説いて!』、こう言われている――
謂わゆる、
『長老の相』とは、
必ずしも、
『年』が、
『老いることではない!』。
若し、
『形が痩せ!』、
『鬚髪が白くとも!』、
『空しく!』、
『老いるならば!』、
『内』には、
『徳』が、
『無いからだ!』。
若し、
『罪福の果を捨てて!』、
『精進して!』、
『梵行を行い!』、
已に、
『一切の法』を、
『離れることができれば!』、
是の、
『人』こそ、
『長老』と、
『称される!』、と。
  上尊(じょうそん):梵語 agra の訳、主要な/前方の/第一の/卓越した/突出した/上役/最上の( foremost, anterior, first, prominent, projecting, chief, best )の義、又上首、最勝、最第一等に訳す。
  耆年(ぎねん):梵語 sthavira の訳、幅広い/分厚い/緻密な/中身の詰まった/強い/勢力のある/年長の/老齢の/尊敬すべき( broad, thick, compact, solid, strong, powerful, old, ancient, venerable )、[仏教徒に於いて]長老( (with Buddhists) an " Elder " )の義。
  (ぎ):老年( old )。古くは六十歳以上の老人に云う。
是時諸沙彌復作是念。我等不應坐觀。此檀越品量僧好惡。即復說偈
 讚歎呵罵中  我等心雖一 
 是人毀佛法  不應不教誨 
 當疾到其舍  以法教語之 
 我等不度者  是則為棄物
是の時、諸の沙弥の復た是の念を作さく、『我等は、応に、此の檀越の僧の好悪を品量するを坐して観るべからず』、と。即ち復た偈を説かく、
讃歎と呵罵の中に、我等の心は一なりと雖も、
是の人は仏法を毀れば、応に教誨せざるべからず。
当に疾かに其の舎に到りて、法を以って之に教語すべし、
我等度せずんば、是れ則ち物を棄つると為す。
是の時、
諸の、
『沙弥』は、
復た、こう念じた、――
わたし達は、
此の、
『檀越』が、
『僧』の、
『好、悪』を、
『品定めするのを!』、
『坐して!』、
『観ているべきではない!』、と。
そして、
復た、
『偈』を、こう説いた、――
『讃歎』中にも、
『呵罵(罵倒)』中にも、
わたし達の、
『心』は、
『一である!』が、
是の、
『人が毀(そし)った!』のは、
『仏』の、
『法である!』が故に、
わたし達は、
是の、
『人』を、
『教誨せずにはいられない!』。
疾かに、
其の、
『舎に到り!』、
『法』で、
『教誨するとしよう!』。
わたし達が、
是の、
『人を度さなければ!』、
則ち、
『物()』が、
『棄てられたことになる!』、と。
  坐観(ざかん):よそごとに観る。観て何もしないこと。傍観。
  品量(ほんりょう):しな定めしてはかること。
  呵罵(かめ):叱りののしる。
  (き):そしる。
  教誨(きょうけ):おしえさとす。丁寧に教える。
  教語(きょうご):おしえかたる。
即時諸沙彌自變其身皆成老年。鬚髮白如雪秀眉垂覆眼。皮皺如波浪。其脊曲如弓。兩手負杖行。次第而受請。舉身皆振掉。行止不自安。譬如白楊樹隨風而動搖。 即時に諸の沙弥は、自ら其の身を変じて、皆老年と成れば、鬚髪の白きこと雪の如く、秀眉垂れて眼を覆い、皮は皺みて波浪の如く、其の背の曲がれること弓の如し。両手に杖に負(よ)りて行き、次第に請を受くるに、身を挙げて皆振掉し、行止自ら安んぜず、譬えば白楊の樹の風に随いて、動揺するが如し。
即時に、
諸の、
『沙弥』は、
自ら、
其の、
『身を変じて!』、
皆、
『老年と成り!』、
『鬚髪』は、
『雪のように!』、
『白く!』、
『眉毛は垂れて!』、
『眼』を、
『覆い!』、
『皮』は、
『波浪のように!』、
『皺み!』、
『背』は、
『弓のように!』、
『曲り!』、
『両手』で、
『杖に縋って!』、
『歩きながら!』、
次第に、
『請を受けた!』が、
『全身が振るえて!』、
『行くにも!』、
『止まるにも!』、
『自ら!』、
『安んじることがなく!』、
譬えば、
『白楊の樹』が、
『風に随って!』、
『動揺するようであった!』。
  秀眉(しゅうみ):ひいでたまゆ。顔つきがすぐれていること。
  (ふ):<動詞>[本義]頼る/依存する( rely on )、背負う( carry on the back )、~を背にする( with one's back to )、抱え持つ( hold )、心に抱く( cherish )、負う/引受ける( shoulder )、背く/違背する/裏切る( betray )、負債を負う/欠乏する/不足する( owe, lack, be short of )、失敗する( fail in )、享有する( enjoy )、忍ぶ( suffer )、加える/負加する( add )、償う/補償する( compensate )、失う( lose )。<形容詞>マイナス( minus, negative )。
  振掉(しんじょう):ふるえうごく。振動。
  行止(ぎょうし):あるくととまると。
  白楊(びゃくよう):はこやなぎ。
檀越見此輩歡喜迎入坐。坐已須臾頃還復年少形。檀越驚怖言
 如是耆老相  還變成少身 
 如服還年藥  是事何由然
檀越は、此の輩を見て歓喜し、迎え入れて坐せしむ。坐し已りて須臾の頃にして、還って年少の形を復するに、檀越の驚怖して言わく、
是の如き耆老の相、還り変じて少(わか)き身と成り、
還年薬を服せるが如し、是の事は何に由りてか然る。
『檀越』は、
此の、
『輩を歓喜して!』、
『迎え入れ!』、
『坐らせた!』。
『沙弥』は、
『坐ってしまう!』と、
還()た、
『年少の形』に、
『復(もど)った!』。
『檀越』は、
『驚き怖れて!』、こう言った、――
是のような、
『老人の相』が、
還た、
『変じて!』、
『少年の身』と、
『成った!』。
まるで、
『若返り!』の、
『薬』を、
『服()んだようだ!』。
是の、
『事』は、
何のような、
『理由で!』、
『こうなったのか?』、と。
  入坐(にゅうざ):座にひきいれる。
  少身(しょうしん):若者のからだ。
  還年薬(げんねんやく):若返りの薬。
諸沙彌言。汝莫生疑畏。我等非非人。汝欲平量僧。是事甚可傷。我等相憐愍故現如是化。汝當深識之聖眾不可量。如說
 譬如以蚊嘴  猶可測海底 
 一切天與人  無能量僧者 
 僧以功德貴  猶尚不分別 
 而汝以年歲  稱量諸大德 
 大小生於智  不在於老少 
 有智懃精進  雖少而是老 
 懈怠無智慧  雖老而是少 
 汝今平量僧  是則為大失。
諸の沙弥の言わく、『汝は、疑と畏を生ずる莫れ。我等は、非人に非ず。汝は、僧を平量せんと欲するに、是の事は甚だ傷むべし。我等は相憐愍するが故に、是の如き化を現ぜり。汝は、当に深く之を識り、聖衆を量るべからず。説の如し、
譬えば蚊の嘴を以ってするが如きは、猶お海底を測るべし、
一切の天と人とに、能く僧を量る者無し。
僧は功徳を以ってすら貴きは、猶尚お分別せず、
而るに汝は年歳を以って、諸の大徳を称量せり。

大小は智に於いて生じ、老少には在らず、
有智にして懃めて精進なれば、少なりと雖も是れ老なり。
懈怠にして智慧無くんば、老なりと雖も是れ少なり、
汝が今僧を平量せるは、是れ則ち大失と為す。
諸の、
『沙弥』は、こう言った、――
お前は、
『疑い!』や、
『畏れ!』を、
『生じてはならぬ!』。
わたし達は、
『非人ではないからだ!』。
お前は、
『僧』を、
『称量しようとしている!』が、
是れは、
『甚だ哀しむべき!』、
『事である!』。
わたし達は、
お前を、
『憐愍する!』が故に、
是のような、
『化』を、
『現したのである!』から、
お前は、
是の、
『事』を、
『深く!』、
『認識して!』、
『聖衆』を、
『量ろうとしてはならぬ!』。
例えば、こう説く通りである、――
譬えば、
『蚊』の、
『嘴』で、
『測ろうとすれば!』、
『海底すら!』、
『測ることは!』、
『可能である!』が、
一切の、
『天、人』には、
『僧を量れる!』者は、
『無い!』。
『僧』は、
『功徳』を、
『用いてすら!』、
其の、
『貴さ!』は、
『分別できない!』のに、
お前は、
『年歳』を、
『用いて!』、
諸の、
『大徳』を、
『称量している!』。
『大、小』は、
『智中に生じて!』、
『老、少』中に、
『在るのではない!』、
『智慧が有り!』、
『懃めて!』、
『精進すれば!』、
『年少であろうと!』、
是れは、
『長老なのだ!』。
『懈怠して!』、
『智慧が無ければ!』、
『老いていようと!』、
『年少である!』。
お前は、
今、
『僧を称量した!』が、
是れは、
『大きな!』、
『過失である!』、と。
  非人(ひにん):鬼神。
  平量(ひょうりょう):称量/秤量に同じ。量をはかる。
  (しょう):<名詞>[本義]傷つくこと/傷つけること/精神的外傷( wound, injury, trauma )、服喪/愁傷( funeral arrangements, mourning )、損失( loss )、負傷者( the wounded )。<動詞>傷つける/傷害/損傷( injure, hurt )、傷つけられる/負傷する( be wounded, be harmed )、謗毀する/中傷する( slander )、怒らせる( offend )、死亡する( pass away )、悲哀/憂愁する( grief, be distressed, sad )、厭う( be sick of )。
  (し):くちばし。
如欲以一指測知大海底。為智者之所笑。汝不聞佛說四事雖小而不可輕。太子雖小當為國王。是不可輕。蛇子雖小毒能殺人。亦不可輕。小火雖微能燒山野。又不可輕也。沙彌雖小得聖神通最不可輕。 一指を以って測りて、大海底を知らんと欲せば、智者の為に笑われんが如し。汝は、仏の説きたもうを聞かざるや、『四事は小なりと雖も、軽んずべからず。太子は小なりと雖も、当に国王と為るべければ、是れを軽んずべからず。蛇子は小なりと雖も、毒は能く人を殺せば、亦た軽んずべからず。小火は微なりと雖も、能く山野を焼けば、又軽んずべからざるなり。沙弥は小なりと雖も、聖神通を得れば、最も軽んずべからず』、と。
譬えば、
『一指を用いて!』、
『大海底』を、
『測って!』、
『知ろうとすれば!』、
『智者』に、
『笑われる!』のと、
『同じである!』。
お前は、聞かなかったのか?――
『仏』は、こう説かれている、――
『四事』は、
『小であっても!』、
『軽んじてはならない!』。
『太子』は、
『小であっても!』、
『国王』と、
『為るのだから!』、
是れを、
『軽んじてはならない!』。
『蛇子』は、
『小であっても!』、
『毒』は、
『人を殺すことができるのだから!』、
亦た、
是れも、
『軽んじてはならない!』。
『小火』は、
『微であっても!』、
『山野』を、
『焼くことができるのだから!』、
又、
是れを、
『軽んじてはならない!』。
『沙弥』は、
『小であっても!』、
『聖神通』を、
『得ることができるのだから!』、
是れは、
『最も!』、
『軽んじてはならない!』、と。
  測知(しきち):量を測って知る。
又有四種人。如菴羅果。生而似熟熟而似生。生而似生熟而似熟。佛弟子亦如是。有聖功德成就。而威儀語言不似善人。有威儀語言似善人。而聖功德不成就。有威儀語言不似善人。聖功德未成就。有威儀語言似善人。而聖功德成就。 又四種の人有り、菴羅果の、生なれど、熟すに似る、熟すれど、生に似る、生にして、生に似る、熟して、熟せるに似るが如し。仏の弟子も、亦た是の如く、有るいは聖功徳の成就すれども、威儀語言は善人に似ず。有るいは威儀語言は善人に似たれども、聖功徳成就せず。有るいは威儀語言は善人に似ずして、聖功徳未だ成就せず。有るいは威儀語言は善人に似て、聖功徳成就す。
又、
『四種』の、
『人が有り!』、――
譬えば、
『菴羅果( mango )』が、
有るいは、
『生(なま)である!』のに
『熟した!』者に、
『似ており!』、
有るいは、
『熟している!』のに、
『生である!』者に、
『似ており!』、
有るいは、
『生であって!』、
『生である!』者に、
『似ており!』、
有るいは、
『熟していて!』、
『熟した!』者に、
『似ているようなものである!』。
『仏の弟子』も、
是のように、
有るいは、
『聖功徳』が、
『成就している!』のに、
『威儀、語言』は、
『善人』に、
『似ていない!』。
有るいは、
『威儀、語言』は、
『善人』に、
『似ている!』が、
『聖功徳』は、
『成就していない!』。
有るいは、
『威儀、語言』は、
『善人』に、
『似ていない!』し、
『聖功徳』も、
未だ、
『成就していない!』。
有るいは、
『威儀、語言』は、
『善人』に、
『似ており!』、
『聖功徳』も、
『成就しているのである!』。
  菴羅(あんら):菴羅は梵名aamra、又菴婆羅、菴摩羅、菴没羅等に作り、奈、柰、㮈等と訳す。マンゴーの樹/果( the mango tree, the fruit of the mango tree )(。『大智度論巻14上注:奈園、菴羅樹園』参照。
  善人(ぜんにん):持戒清浄なる人。「大智度論巻13」に、「尸羅は好んで善道を行じて自ら放逸ならず、是れを尸羅と名づく。或いは戒を受けて善を行じ、或いは戒を受けずして善を行ずるも皆尸羅と名づく」と云える是れなり。『大智度論巻22上注:戒』参照。
  (かい):梵語尸羅ziilaの訳。巴梨語siila、三学の一。六波羅蜜の一。十波羅蜜の一。身口七支の悪を防止するものにして、即ち仏教に帰入せし者の守るべき軌範を云う。尸羅の語は、元と動詞五根ziil(屡行うの義)より来たれる名詞にして、屡行うこと、又は行為、習慣、性格、道徳、敬虔等の諸義を有す。「大智度論巻13」に、「尸羅は好んで善道を行じて自ら放逸ならず、是れを尸羅と名づく。或いは戒を受けて善を行じ、或いは戒を受けずして善を行ずるも皆尸羅と名づく」と云い、且つ其の註に「尸羅は秦に性善と言う」と云えり。是れ屡行うことによりて遂に其の性格を成ずることを意味するものなるが如し。又「倶舎論巻14」に、「能く険業を平らぐるが故に尸羅と名づく」と云い、「発菩提心経論巻上」に、「身口意の悪を断じ、能く一切不善の法を制するが故に名づけて戒となす」と云い、又「玄応音義巻14」に、「尸羅と言うは此に止得と云う、謂わく悪を止め善を得るなり」と云えるは、共に尸羅を止悪の義と解せるものにして、即ち性善の反面を言い顕したるものと謂うべし。然るに「大毘婆沙論」等には尸羅に清凉等の多義ありとす。即ち彼の論「巻44」に、「尸羅と言うは是れ清凉の義なり。謂わく悪は能く身心をして熱悩ならしむるも、戒は善く安適ならしむるが故に清凉と曰う。又悪は能く悪趣の熱悩を招くも、戒は善趣を招くが故に清凉と曰う。又尸羅は是れ安眠の義なり。謂わく持戒の者は安隠に眠ることを得て、常に善夢を得るが故に尸羅と曰う。又尸羅は是れ数習の義なり。常に善法を習うが故に尸羅と曰う。又尸羅は是れ得定の義なり。謂わく持戒の者は心に定を得易きが故に尸羅と曰う。又尸羅は是れ隧隥の義なり。伽他に説くが如し、仏法池清凉、尸羅為隧隥、聖浴不濡身、逮彼岸功徳と。又尸羅は是れ厳具の義なり。荘厳の具あり、幼に於いて好となすも壮老年に非ず。荘厳の具あり、壮に於いて好となすも幼老年に非ず。荘厳の具あり、老に於いて好となすも、幼壮年に非ず。尸羅の身を厳るは三時に常に好し。又尸羅は是れ明鏡の義なり。鏡明なれば浄像其の中に現ずるが如く、浄尸羅に住すれば無我の像現ず。又尸羅は是れ階陛の義なり。尊者無滅の言うが如く、我れ尸羅を踏みて無上慧の殿に階升すと。又尸羅は是れ増上の義なり。仏の三千大千世界に於いて威勢あるは皆尸羅の力なり。(中略)又尸羅は是れ頭首の義なり。頭首あれば即ち能く色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚し、法を知るが如く、尸羅あれば即ち能く四聖諦の色を見、未曽有の名身等の声を聞き、三十七覚分の花香を嗅ぎ、出家遠離の三菩提寂静の味を嘗め、静慮解脱等持等至の触を覚し、蘊処界自相共相の法を知る。是の故に尸羅は是れ頭首の義なり」と云えり。是れ尸羅に清凉乃至頭首の十義ありとなすの説なり。又「菩提資糧論巻1」にも十義を出し、「尸羅と言うは謂わく習近なり、此れは是れ体相なり。又本性の義なり、世間にも楽戒苦戒等あるが如し。又清凉の義なり、不悔の因となりて心の熱憂悩を離るるが故なり。又安隠の義なり、能く他世の楽因となるが故なり。又安静の義なり、能く止観を建立するが故なり。又寂滅の義なり、涅槃の楽を得る因なるが故なり。又端厳の義なり、能く荘飾するを以っての故なり。又浄潔の義なり、能く悪戒の垢を洗うが故なり。又頭首の義なり、能く衆に入りて怯弱なきの因となるが故なり。又讃歎の義なり、能く名称を生ずるが故なり」と云えり。此の中、習近は前の婆沙の数習に当たり、即ち屡行うの義なれば、善く原語の意味に合すというべく、又本性は大智度論の所謂性善と同義にして、即ち数習によりて成ぜられたる性格を意味するものというべし。清凉は恐らく尸羅の字音に類似せるziita又はziitalaより来たれる転釈なるべく、此の語には清凉の義あり、随って亦た熱悩を離れて安適ならしむるが故に、安隠又は安静の意を附したるものなるべく、又安眠は動詞五根ziiに臥又は眠の義あるより来たりしが如く、又頭首は尸羅の音に類似せるziiras又はiirSa(頭の義)より転ぜし解釈なるべし。されば此等の諸義は多くは戒の功用等に就き転釈を試みたるものというべく、随って尸羅の語義としては適切ならざるものあるが如し。「四分律行事鈔巻中1」に依るに、戒を説くに戒法、戒体、戒行、戒相の四別ありとし、其の中、戒法の下に戒は聖道の本基にして、諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずる因なりとし、且つ戒に大用あり、之を持することによりて生死海に没溺することを免ると云い、又戒体の下に、戒には羯磨作法によりて発得する無表の体あり、其の体相続するが故に、常に身口七支の悪を防止することを得と云い、又戒行の下には既に此戒を受得すれば、其の要期の思願に随って必ず之を行ずべきことを説き、又戒相の下には其の行ずべき戒品並びに犯不犯等の相状を広く分別せり。蓋し戒は元と仏教に帰入したる者に対し、随時仏陀が制せられたるものにして、其の初は唯単に諸悪莫作と宣せられたるに過ぎざりしが如きも、後漸次僧衆の間に非行起るに及び、戒の種類は頗る多数に上り、其の犯不犯軽重等の相も亦た複雑を極むるに至れり。凡そ仏教の教団中に出家在家の別あり、出家の中に於いて未だ二十歳に満たざる男女には、殺生乃至不畜金銀宝の十戒を持せしめ、又其の中の女子には、特に具足戒を受くる二年以前、即ち十八歳に達したる時、六法戒を持せしめ、斯くて男女共に二十歳に満つれば、男子には約二百五十戒、女子には約三百四十八戒を持せしむ。之を出家の五衆と称するなり。在家の男女には共に殺生乃至飲酒の五戒を持せしめ、又一日一夜出家の戒たる八斎戒を持せしむることあり。是の如く道俗七衆の別に対し戒を授く各異あるも、其の体は五戒八戒十戒及び具足戒の四種を出でず。「倶舎論巻14」に、「別解脱律儀の相の差別に八あり、一に苾芻律儀、二に苾芻尼律儀、三に正学律儀、四に勤策律儀、五に勤策女律儀、六に近事律儀、七に近事女律儀、八に近住律儀なり。是の如きの八種の律儀の相の差別を総じて第一別解脱律儀と名づく。八の名ありと雖も実体は唯四なり、一に苾芻律儀、二に勤策律儀、三に近事律儀、四に近住律儀なり。唯此の四種の別解脱律儀のみ皆体実あり、相各別なるが故なり。所以は何ん、苾芻律儀を離れて別の苾芻尼律儀なく、勤策律儀を離れて別の正学、勤策女律儀なく、近事律儀を離れて別の近事女律儀なければなり」と云える即ち其の意なり。又「大毘婆沙論巻123」、「大智度論巻22」、「倶舎論巻14」等には、律儀に別解脱律儀と静慮律儀と無漏律儀との三種ありとす。別解脱律儀は所謂欲塵戒にして、即ち今の所引の如く五八十具の戒を云う。静慮律儀は静慮より生ずる律儀にして、之を色塵戒、又は定共戒と称す。即ち色界定を得たる者の成就する所にして、定を得する時、其の心に自ら悪の身口七支を防護する功能あるを云うなり。無漏律儀とは無漏道より生ずる律儀にして、之を無漏戒、又は道共戒と称す。即ち学無学の聖者の成就する所にして、無漏を得る時、其の心に自ら悪の身口七支を防護する功能あるを云うなり。別解脱の八種の律儀は、未だ定を得ざる者、又未だ無漏を得ざる者が、羯磨作法に依りて別別に受得する戒なるに反し、定共道共の二戒は作法に依らず、唯即ち静慮又は無漏を得する時、同時に起る無表を称し、七支頓得なるが故に之を名づけて随心転の戒となすなり。是の如く律儀に三種の別を立て、又別解脱律儀に総じて八種の異ありとなすも、其の中、根本重罪たるものは即ち殺盗婬妄の四にして、若し之を犯ずることあらば教団を去らしむ。故に四波羅夷と称す。大乗勃興するに及んで六波羅蜜を以って菩薩の行法とし、其の中、菩薩の修すべき戒波羅蜜は声聞の戒と異ならざるべからずとなすに至り、茲に亦た菩薩大乗戒に就き種種の説を生ぜり。「大宝積経巻17宝髻菩薩会」に、菩薩の行ずる戒度無極に一事戒乃至十事戒ありとし、「新華厳経巻53」に、菩薩の戒に不捨菩提心等の十種の戒ありと云い、又「大智度論巻46」に、尸羅波羅蜜は一切の戒法を総ぶ、譬えば大海の衆流を総摂するが如しと云い、而して十善を以って総相戒とし、余の無量の戒を別相戒となせり。此等は五八十具の外に別に菩薩の持すべき戒波羅蜜ありとなすの説なり。又「大般涅槃経巻11聖行品」には、菩薩の戒に世教の戒と正法戒との二種、並びに性重戒と息世譏嫌戒との二種ありとし、性重戒は殺盗婬妄の四波羅夷を云い、息世譏嫌戒は軽秤販売等の遮制の戒を云うとなせり。是れ戒を性戒遮戒、又は重戒軽戒の二種に区分するの説なり。又「優婆塞戒経巻3受戒品」には、優婆塞所持の戒に、殺盗婬妄及び説四衆過、酤酒の六波羅夷、並びに二十八軽戒ありとし、「三帰及優婆塞二十二戒」には二十二戒を説き(此の経今存せざるも題名に依りて知る)、「潅頂経巻12薬師経」には善信菩薩二十四戒の語を出し、「優婆塞五戒威儀経」には、自讃毀他、慳惜財法、瞋不受悔、謗乱正法の四波羅夷、並びに三十八軽戒を列ね、「菩薩内戒経」には重軽合して四十七戒を挙げたり、又「菩薩地持経巻4方便処戒品」には、菩薩の尸波羅蜜に自性戒、一切戒、難戒、一切門戒、善人戒、一切行戒、除悩戒、此世他楽戒及び清浄戒の九種ありとし、就中、第二の一切戒に律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒の三種の別あることを説き、更に律儀戒に四波羅夷四十二軽戒ありとせり。四波羅夷は即ち自讃毀他等にして、前の「優婆塞五戒威儀経」に同じ。「菩薩善戒経」並びに「瑜伽師地論菩薩地」は、「菩薩地持経」と同本異訳にして、共に三聚浄戒を挙ぐるも、律儀戒の数は稍異あり。即ち「瑜伽論巻40、41」には、四波羅夷(地持に同じ)並びに四十二軽戒を列ね、「善戒経」には八波羅夷及び五十軽戒を出せり。八波羅夷とは前の自讃毀他等の四に殺盗婬妄の四重禁を加えたるなり。又「梵網経」には三聚戒の別を出さざるも、十波羅夷四十八軽戒を説き、「菩薩瓔珞本業経巻下大衆受学品」には三聚戒を説き、其の中、摂律儀戒に十波羅夷及び八万威儀戒ありとなせり。十波羅夷とは「善戒経」の八波羅夷に、「優婆塞戒経」所説の説四衆過及び酤酒の二を加えたるものにして、即ち重戒に関する前来の諸説を綜合せしものというべし。軽戒の廃立は前述の如く諸説一准ならずと雖も、亦た其の間に脈絡の見るべきものなきにあらず。之に依りて略ぼ大乗戒発達の径路を窺うを得べし。蓋し支那に於いては律儀一戒不異声聞と称し、大乗の人は縦い其の要期を異にするも、尚お五八十具の声聞戒に依りて七衆の別を建立すべしとし、大小乗戒の間に別に乖諍を生ぜざりしも、本邦最澄に及んで円頓菩薩の所持の戒は、「梵網」所説の十重四十八軽戒にして、声聞戒とは全く其の相承を異にするものなるを主張し、後又人天戒、声聞戒、権大乗戒、一仏乗戒の四門の持各別なることを論ずるに至れり。又「増一阿含経巻1、30、44」、「文殊師利問経巻上」、「菩薩善戒経巻4」、「大方等陀羅尼経巻1」、「受十善戒経」、「大毘婆沙論巻122」、「雑阿毘曇心論巻8」、「阿毘達磨順正理論巻36」、「成実論巻9」、「瑜伽師地論巻42」、「大乗義章巻10」、「梵網菩薩戒経義疏巻上」、「大乗法苑義林章巻3末」、「四分律行事鈔巻上1」、「同資持記巻上1、中1下」等に出づ。<(望)
汝云何不念是言。而欲稱量於僧。汝若欲毀僧是則為自毀。汝為大失。已過事不可追。方來善心除去諸疑悔。 汝は、云何が是の言を念ぜずして、而も僧を称量せんと欲する。汝、若し僧を毀(そし)らんと欲せば、則ち自らに毀(やぶ)られん。汝は大失を為せるも、已に過ぐる事は追うべからず。方(まさ)に善心を来たして、諸の疑悔を除去すべし。
お前は、
何故、
是の、
『言』を、
『念じずに!』、
而も、
『僧』を、
『称量しようとするのか?』。
お前が、
若し、
『僧を毀(そし)れば!』、
則ち、
『自ら!』を、
『毀ることになるぞ!』。
お前は、
『大きな!』、
『過失』を、
『為した!』が、
是の、
『事』は、
『已に過ぎた事だ!』、
『追うてはなるまい!』。
今こそ、
『善心を来たして!』、
諸の、
『疑惑』と、
『悔恨』とを、
『除去せねばならぬ!』。
  (らい):<名詞>[本義]小麦( wheat )、未来/将来/新来の( future, next, incoming )。<動詞>去、往に対す、来る/彼より此に至る/遠より近に到る( come, arrive )、帰る/往復する( make a round trip, go to a place and come back )、帰順して忠誠を誓う( come ove and pledge allegiance )、招く/起させる( incur, give rise )、加わる( join )、出現する( crop up )、始まる/開始する/発生する( happen, begin, start )、派生/由来する( derive )。<助詞>過去を示す( ove the past )、以来( ever sence )。
聽我所說
 聖眾不可量  難以威儀知 
 不可以族姓  亦不以多聞 
 亦不以威德  又不以耆年 
 亦不以嚴容  復不以辯言 
 聖眾大海水  功德故甚深 
 佛以百事讚是僧 
 施之雖少得報多 
 是第三寶聲遠聞 
 以是故應供養僧 
 不應分別是老少 
 多知少聞及明闇 
 如人觀林不分別 
 伊蘭瞻蔔及薩羅 
 汝欲念僧當如是 
 不應以愚分別聖 
 摩訶迦葉出家時 
 納衣價直十萬金 
 欲作乞人下賤服 
 更求麤弊不能得 
 聖眾僧中亦如是 
 求索最下小福田 
 能報施者十萬倍 
 更求不如不可得 
 眾僧大海水  結戒為畔際 
 若有破戒者  終不在僧數 
 譬如大海水  不共死屍宿
我が所説を聴け、
聖衆は量るべからず、威儀を以っては知り難し、
族姓を以ってすべからず、亦た多聞を以ってせざれ、
亦た威徳を以ってせざれ、又耆年を以ってせざれ、
亦た厳容を以ってせざれ、復た辯言を以ってせざれ、
聖衆の大海水は、功徳の故に甚だ深し。
仏は百事を以って、是の僧を讃じたまえば、
之に施せば、少なしと雖も得る報は多し、
是れ第三の宝なりとの声は遠く聞こゆ、
是を以っての故に応に僧を供養すべし。

応に是の老少と、
多知少聞、及び明闇を分別すべからず、
人の林を観て、伊蘭、瞻蔔、及び薩羅を分別せざるが如く、
汝は僧を念ぜんと欲せば、当に是の如くすべし。

応に愚を以って、聖を分別すべからず、
摩訶迦葉の出家せし時、
納衣の価直十万金なるを、
乞人の下賎の服と作さんと欲し、
更に麁弊なるを求むるも得る能わず。

聖衆の僧中も亦た是の如く、
最下の小福田を求索するも、
能く施者に報ずること十万倍にして、
更に如かざるを求むれど得べからず。

衆僧の大海水は、結戒を畔際と為し、
若し破戒の者有れば、終に僧数に在らず、
譬えば大海水の死屍と共に宿らざるが如し。
わたしの、
『所説を聴け!』、――
『聖衆』を、
『量ってはならない!』。
何故ならば、
『威儀を用いて!』、
『知ろうとすれば!』、
『難しく!』、
『族姓を用いて!』も、
亦た、
『困難である!』。
『多聞を用いて!』、
『知ろうとしても!』、
『難しく!』、
『威徳、耆年、厳容を用いて!』、
『知ろうとしても!』、
『難しく!』、
亦た、
『辯言を用いても!』、
『難しい!』。
『聖衆』の、
『大海水』は、
『功徳』の故に、
『甚だ深い!』。
『仏』は、
『百事を用いて!』、
是の、
『僧』を、
『讃じられた!』。
『僧に施せば!』、
『少しであっても!』、
『得られる!』、
『果報』は、
『多く!』、
是の、
『僧』は、
『第三の宝である!』という、
『声』は、
『遠くまで!』、
『聞えている!』。
是の故に、
当然、
『僧』を、
『供養せねばならない!』。
是の、
『僧』の、
『老年か、年少か?』、
『知識は、多いか?』、
『見聞は、少なくないか?』、
『明智か、闇鈍か?』を、
『分別してはならない!』。
譬えば、
『人』が、
『林を観て!』、
『伊蘭か、瞻蔔か、薩羅か?』を、
『分別しないように!』。
お前は、
『僧を念じようとすれば!』、
是のように、
『念じねばならず!』、
『愚である!』のに、
『聖』を、
『分別してはならない!』。
『摩訶迦葉』は、
『出家した!』時、
『著けていた!』、
『納衣』は、
『価直十万金であった!』ので、
『乞人らしい!』、
『下賎の服』に、
『代えようとして!』、
更(あらた)に、
『麁弊の服』を、
『求めた!』が、
『得られなかった!』が、
『聖衆の僧』中は、
亦た、
是のように、
『最下の!』、
『小福田』を、
『求めたとしても!』、
『施者』に、
『十万倍』を、
『報ゆることができ!』、
更に、
『及ばない!』者を、
『求めても!』、
『得ることはできない!』。
『衆僧』の、
『大海水』は、
『結戒』が、
『畔際(堤防)である!』ので、
若し、
『破戒の者が有れば!』、
終に、
『僧数(僧の員数)』中に、
『存在しない!』。
譬えば、
『大海水』が、
『死屍』と、
『共に!』、
『宿ることがないように!』。
――大海水は死者を嫌って、陸地に上げるの意――
  (ほう):いま。まさに~すべし。将、当に同じ。
  (らい):まねく。いたす。よびよせる。致、詔(召)に同じ。
  厳容(ごんよう):威厳あるようす。
  多知(たち):多く知ること。
  少聞(しょうもん):少しだけ聞くこと。
  明闇(みょうあん):道に明るいと暗いと。
  伊蘭(いらん):梵名eraavaNa、樹名。花は愛すべきも悪臭ありて四十里に及ぶ。『大智度論巻13上注:伊蘭』参照。
  瞻蔔(せんぷく):梔子(くちなし)の花(大漢和辞典)。或いは又「翻訳名義集巻3」には、「瞻蔔、或いは詹波、正に贍博迦と云うべし。大論には黄華と翻ず。樹形高大なり。新に苦末羅と云い、此れ金色にして、西域に近き海岸樹なり。金翅鳥来たらば、即ち其の上に居すと云う」と云い、「大智度論巻10」の註には、「占匍(黄華樹なり)」と云えり。『大智度論巻10下注:占匍』参照。
  薩羅(さら):杉なり。「翻梵語巻9」に、「薩羅(訳して曰う杉なり)」と云えり。
  摩訶迦葉(まかかしょう):仏の大弟子。頭陀第一の称あり。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  納衣(のうえ):つぎはぎした衣の意。比丘の著くるべき法衣。又糞掃衣と称す。『大智度論巻13下注:衲衣』参照。
  価直(げじき):あたい。価値。
  麁弊(そへい):そまつでやぶれている。ぼろ。
  求索(ぐさく):探しもとめる。
  畔際(はんざい):つつみ。堤防。
  僧数(そうじゅ):僧聚に同じ。
  参考:『雑阿含経巻41(1144)』:『如是我聞。一時。尊者摩訶迦葉.尊者阿難住王舍城耆闍崛山中。世尊涅槃未久。時。世飢饉。乞食難得。時。尊者阿難與眾多年少比丘俱。不能善攝諸根。食不知量。不能初夜.後夜精懃禪思。樂著睡眠。常求世利。人間遊行至南天竺。有三十年少弟子捨戒還俗。餘多童子。時。尊者阿難於南山國土遊行。以少徒眾還王舍城。時。尊者阿難舉衣缽。洗足已。至尊者摩訶迦葉所。稽首禮足。退坐一面。時。尊者摩訶迦葉問尊者阿難。汝從何來。徒眾尟少。阿難答言。從南山國土人間遊行。年少比丘三十人捨戒還俗。徒眾損減。又今在者多是童子。尊者摩訶迦葉語阿難言。有幾福利。如來.應.等正覺所知所見。聽三人已上制群食戒。阿難答言。為二事故。何等為二。一者為貧小家。二者多諸惡人以為伴黨。相破壞故。莫令惡人於僧中住。而受眾名。映障大眾。別為二部。互相嫌諍。尊者迦葉語阿難言。汝知此義。如何於飢饉時。與眾多年少弟子南山國土遊行。令三十人捨戒還俗。徒眾損減。餘者多是童子。如阿難。汝徒眾消滅。汝是童子。不知籌量。阿難答言。云何。尊者摩訶迦葉。我以頭髮二色。猶言童子。尊者摩訶迦葉言。汝於飢饉世。與諸年少弟子人間遊行。致令三十弟子捨戒還俗。其餘在者復是童子。徒眾消滅。不知籌量。而言宿士眾壞。阿難。眾極壞。阿難。汝是童子。不籌量故。時。低舍比丘尼聞尊者摩訶迦葉以童子責尊者阿難。毘提訶牟尼。聞已不歡喜。作是惡言。云何。阿梨摩訶迦葉本外道聞。而已童子呵責阿梨阿難。毘提訶牟尼。令童子名流行。尊者摩訶迦葉以天耳聞低舍比丘尼心不歡喜。口出惡言。聞已。語尊者阿難。汝看。是低舍比丘尼心不歡喜。口說惡語。言。摩訶迦葉本門外道。而責阿梨阿難。毘提訶牟尼。令童子名流行。尊者阿難答言。且止。尊者摩訶迦葉。忍之。尊者摩訶迦葉。此愚癡老嫗無自性智。尊者摩訶迦葉語阿難言。我自出家。都不知有異師。唯如來.應.等正覺。我未出家時。常念生.老.病.死.憂.悲.惱苦。知在家荒務。多諸煩惱。出家空閑。難可俗人處於非家。一向鮮潔。盡其形壽。純一滿淨。梵行清白。當剃鬚髮。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。以百千金貴價之衣。段段割截為僧伽梨。若世間阿羅漢者。闇從出家。我出家已。於王舍城那羅聚落中間多子塔所。遇值世尊正身端坐。相好奇特。諸根寂靜。第一息滅。猶如金山。我時見已。作是念。此是我師。此是世尊。此是羅漢。此是等正覺。我時一心合掌敬禮。白佛言。是我大師。我是弟子。佛告我言。如是。迦葉。我是汝師。汝是弟子。迦葉。汝今成就如是真實淨心所恭敬者。不知言知。不見言見。實非羅漢而言羅漢。非等正覺言等正覺者。應當自然身碎七分。迦葉。我今知故言知。見故言見。真阿羅漢言阿羅漢。真等正覺言等正覺。迦葉。我今有因緣故。為聲聞說法。非無因緣故。依。非無依。有神力。非無神力。是故。迦葉。若欲聞法。應如是學。若欲聞法。以義饒益。當一其心。恭敬尊重。專心側聽。而作是念。我當正觀五陰生滅。六觸入處集起.滅沒。於四念處正念樂住。修七覺分.八解脫。身作證。常念其身。未嘗斷絕。離無慚愧。於大師所及大德梵行常住慚愧。如是應當學。爾時。世尊為我說法。示教照喜。示教照喜已。從座起去。我亦隨去。向於住處。我以百千價直衣割截僧伽梨。四攝為座。爾時。世尊知我至心。處處下道。我即敷衣。以為坐具。請佛令坐。世尊即坐。以手摩衣。歎言。迦葉。此衣輕細。此衣柔軟。我時白言。如是。世尊。此衣輕細。此衣柔軟。唯願世尊受我此衣。佛告迦葉。汝當受我糞掃衣。我當受汝僧伽梨。佛即自手授我糞掃納衣。我即奉佛僧伽梨。如是漸漸教授。我八日之中。以學法受於乞食。至第九日。起於無學。阿難。若有正問。誰是世尊法子。從佛口生.從法化生。付以法財。諸禪.解脫.三昧.正受。應答我是。是則正說。譬如轉輪聖王第一長子。當以灌頂。住於王位。受王五欲。不苦方便自然而得。我亦如是。為佛法子。從佛口生.從法化生。得法餘財法。禪.解脫.三昧.正受。不苦方便自然而得。譬如轉輪聖王寶象。高七八肘。一多羅葉能映障者。如是我所成就六神通智。則可映障。若有於神通境界智證有疑惑者。我悉能為分別記說。天耳.他心通.宿命智.生死智.漏盡作證智通有疑惑者。我悉能為分別記說。令得決定。尊者阿難語尊者摩訶迦葉。如是。如是。摩訶迦葉。如轉輪聖王寶象。高七八肘。欲以一多羅葉能映障者。如是。尊者摩訶迦葉六神通智則可映障。若有於神通境界作證智。乃至漏盡作證智有疑惑者。尊者摩訶迦葉能為記說。令其決定。我於長夜敬信尊重尊者摩訶迦葉。以有如是大德神力故。尊者摩訶迦葉說是語時。尊者阿難聞其所說。歡喜受持』
  参考:『大般涅槃経巻第32』:『大海有八不思議。何等為八。一者漸漸轉深。二者深難得底。三者同一鹹味。四者潮不過限。五者有種種寶藏。六者大身眾生在中居住。七者不宿死尸。八者一切萬流大雨投之不增不減』
檀越聞是事。見是神通力身驚毛豎。合掌白諸沙彌言。諸聖人。我今懺悔。我是凡夫人心常懷罪。我有少疑今欲請問。而說偈言
 大德已過疑  我今得遭遇 
 若復不諮問  則是愚中愚
諸沙彌言。汝欲問者便問。我當以所聞答
檀越は、是の事を聞き、是の神通力を観て、身驚き、毛竪(よだ)ちて、合掌し、諸の沙弥に白して言わく、『諸聖人、我れは今懺悔す。我れは、是れ凡夫人なれば、心に常に罪を懐(いだ)けり。我れに少しき疑有り、今請うて問わんと欲す』と、而して偈を説いて言わく、
大徳の已に過ぎたまえる疑に、我れは今遭遇するを得、
若し復た諮問せざれば、則ち是れ愚中の愚なり。
諸の沙弥の言わく、『汝、問わんと欲すれば、便ち問え。我れは当に所聞を以って、答えん』、と。
『檀越』は、
是の、
『事を聞き!』、
是の、
『神通力を見て!』、
『驚いて!』、
『身の毛』が、
『豎(よだ)ち!』、
『合掌する!』と、
諸の、
『沙弥に白して!』、こう言った、――
諸聖人!
わたしは、
今、
『懺悔する!』。
わたしは、
『凡夫人である!』が故に、
『心には!』、
『常に!』、
『罪を懐いているのだ!』。
わたしには、
『少しばかり!』、
『疑う!』所が、
『有る!』が、
今、
『請うて!』、
『問いたい!』と、
『思う!』、と。
そして、
『偈を説いて!』、こう言った、――
『大徳』の、
已に、
『過去った!』、
『疑』に、
わたしは、
今、
『遭遇することができた!』。
若し、
復たしても、
『問わなければ!』、
是れは、
『愚』中の、
『愚であろう!』、と。
諸の、
『沙弥』は、こう言った、――
お前が、
『問いたい!』と、
『思うならば!』、
すぐにも、
『問え!』。
わたしは、
『聞かれたことに!』、
『答えるだろう!』、と。
  諮問(しもん):助言を求める/相談する( consult, take counsel )。
檀越問言。於佛寶中信心清淨。於僧寶中信心清淨。何者福勝。 檀越の問うて言わく、『仏宝中に於いて、信心清浄なると、僧宝中に於いて、信心清浄なると、何れの者の福か、勝れる。
『檀越は問うて!』、こう言った、――
『仏宝』中に、
『信心』が、
『清浄である(混じりけがない)!』のと、
『僧宝』中に、
『信心』が、
『清浄である!』のとでは、
何方の、
『福』が、
『勝るのですか?』、と。
答曰。我等初不見僧寶佛寶有增減。何以故。佛一時舍婆提乞食。有一婆羅門姓婆羅埵逝。佛數數到其家乞食。心作是念。是沙門何以來數數如負其債。佛時說偈
 時雨數數墮  五穀數數成 
 數數修福業  數數受果報 
 數數受生法  故受數數死 
 聖法數數成  誰數數生死
答えて曰く、我等は、初より、僧宝、仏宝に増減あるを見ず。何を以っての故に、仏は一時、舎婆提に乞食したもうに、一婆羅門姓の婆羅埵逝なる有り。仏数数(しばしば)、其の家に到りて、乞食したまえるに、心に是の念を作さく、『是の娑門は、何を以ってか、来たること数数にして、其れに債を負えるが如き』、と。仏の時に偈を説きたまわく、
時の雨数数堕つれば、五穀数数成ず、
数数福業を修すれば、数数果報を受く。
数数生法を受くれば、故に数数死を受く、
聖法数数成ずれば、誰か数数生死せん。
諸の、
『沙弥は答えて!』、こう言った、――
わたし達は、
初より、
『僧宝』や、
『仏宝』が、
『多かったり、少なかったりする!』のを、
『見たことがない!』。
何故ならば、
『仏』は、
『一時(あるとき)』、
『舎婆提』で、
『乞食されていた!』が、
『一婆羅門姓』の、
『婆羅埵逝という!』者が、
『有り!』、
『仏』は、
『数数(しばしば)!』、
其の、
『家に到って!』、
『乞食されていた!』ので、
『婆羅門』は、
『心』に、こう念じた、――
是の、
『沙門』は、
何故、
『数数!』、
『来るのだろう!』。
まるで、
『負債でも!』、
『負うているようだ!』、と。
『仏』は、
この時、
『偈』を、こう説かれた、――
『時の雨』が、
『数数!』、
『降る!』が故に、
『数数!』、
『五穀』が、
『成るのである!』。
『人』は、
『数数!』、
『福業』を、
『修める!』が故に、
『数数!』、
『果報』を、
『受け!』、
又、
『数数!』、
『生法()』を、
『受ける!』が故に、
『数数!』、
『死』を、
『受けるのである!』。
『聖法』が、
若し、
『数数!』、
『成就すれば!』、
誰が、
『数数!』、
『生死するのか?』、と。
  舎婆提(しゃばだい):梵名zraavastii、又舎衛国と称す。即ち憍薩羅(梵kosala)国の王都、城内に祇園精舎あり、此の城内に於いて釈尊は、数乞食せられたりと伝う。『大智度論巻22上注:舎衛国』参照。
  舎衛国(しゃえいこく):舎衛zraavastiiは梵語。巴梨語zavatthi、又舎婆提、室羅伐、室羅筏、尸羅跋提、舎囉婆悉帝、室羅伐悉底、捨羅婆悉帝夜、奢羅摩死底等に作り、又舎衛城と云う。聞、聞物、聞者、無物不有、多有、豊徳、好道等と訳す。中印度古王国の名。国号の由来に関しては「玄応音義巻3」に、「舎衛国は十二遊経に無物不有国と云う。或いは舎婆提城と言い、或いは舎羅婆悉帝夜と言うは並びに訛なり。正しくは室羅伐国と言い、此に訳して聞者城と云う。法鏡経には聞物国と云う。善見律に云わく、舎衛は是れ人の名なり、昔人あり此の地に居住す。往古に王あり、此の地の好なるを見るが故に乞うて立てて国となし、此の人の名を以って舎衛国と号す。一に多有国と名づく、諸国の珍奇皆此の国に帰するなり」と云い、「慧苑音義巻下」に、「室羅筏国は旧に舎衛国と云う、具には室羅筏悉底と称す。此に翻じて好道と為す。或いは聞物と云う。此れ乃ち城の名にして是れ国号に非ず。其の城多く人物を出し、好んで道徳を行い、五天共に聞くを以っての故に聞物と名づく。或いは室羅筏悉底と曰うは此に聞者城と云う。西域俗聞伝記に云わく、昔此の処に於いて一老仙あり、仙道を修習す。復た少仙あり、其れに従って受学す。厥れを聞者と号す。老仙歿するの後、少仙此の城を建立し、即ち少仙の名を以って其の城の称と為す。然るに国都を号して憍薩羅と為す。但だ勝に就きて彰し易きを以っての故に城を国号に取る耳」と云えり。此の中、舎衛を以って人名となすの説は、毘瑟紐富蘭那viSNu- puraNaにも出す所にして、彼の中には此の都城の創建者を日種の王シュラーヴァスタzraavastaなりとせり。又無物不有の伝説は南方所伝にも存し、即ち人あり、此の城に如何なる貨物かあるkiM bhaNDaM atthiと問うに、城人之に対し、何物も無き物なしsabbaM atthiと答えたりと云えるもの是れなり。又聞者等の説は、zrava又はzravasに耳、聞、若しくは好名聞等の義あるに依り、之より転釈せるものなるが如し。又舎衛城は北憍薩羅uttara- kozalaa国の都城なるも、阿含等に多く之を国名となし、又「大唐西域記巻6」にも之を室羅伐悉底国と称せるは、即ち城名を取りて国号となせるものなり。蓋し憍薩羅には南北の二国あり、就中、北憍薩羅は単に憍薩羅の名を以って知られ、南憍薩羅は多く南の字を附してdakSiNa- kozalaaと呼ばるるを常とす。然るに「大唐西域記」に南憍薩羅を単に憍薩羅となし(慈恩伝には南の字を附す)却って北憍薩羅を室羅伐悉底国となせるは、是れ元と南北同名なるが故に、夙に南憍薩羅と区別せんが為に北憍薩羅を城名によりて室羅筏悉底と称したるが故なるべし。按ずるに仏在世の時、舎衛城は波斯匿王の統治に係り、仏は久しく之に止住して四衆を教化せられたり。「分別功徳論巻2」に、「仏舎衛に在りて二十五年を経るを以って諸国に在るに比するに最も久し。久しき所以は、其の国最妙にして諸の珍奇多く、人民熾盛にして最も義理あり、祇樹精舎に異神験あるを以ってなり。衆僧在りて講集する時に当り、諸の獼猴数千ありて来たり、左右に在りて観聴し、寂寞として声なく、及び諸の飛鳥も普く皆来集す。衆僧正に罷むれば各所止に還るも、揵搥適ま鳴れば已に復た来集す。此れ国多く仁慈なるに由るが故に異類影附す」と云い、又「大智度論巻3」には、仏が多く王舍及び舎衛の二城に住せられたる所由を説き、漚祇尼等の諸大城は辺境の地なるが為に住せず、波羅奈、迦毘羅等は此の二城に比するに小にして、人民多からざるが故に多く之に住せず。王舍、舎衛の二城は殷賑にして人民多く、且つ知恩の故に多く之に住す。知恩とは舎衛国は仏所生の地たるにより、生身の恩を報ぜんが為に住し、王舎城は仏其の地に於いて成仏して法身を成就せるを以って、法身の恩を報ぜんが為に多く之に住すと云えり。是の如く仏は久しく舎衛に住せられたるが故に、経典中、其の名最も多く散見し、且つ阿含部の諸経を初め、「賢愚経」、「弥勒下生経」、「同上生経」、「大宝積経郁伽長者会等の諸会」、「阿弥陀経」、「文殊般若経」、「金剛般若経」等の諸大乗経は皆此の地を以って説処となせり。仏在世の時其の都城が頗る殷盛なりしことは諸経論に斉しく之を伝え、又「大智度論巻3」には舎婆提城に九億の家ありといえり。然るに西暦五世紀の初め法顕が其の地を巡礼せし時、既に頗る荒廃に帰せり。即ち「高僧法顕伝」に、「此れ(沙祇大城)より南行八由延にして拘薩羅国舎衛城に到る。城内人民希曠にして都て二百余家あり。即ち波斯匿王の所治の城なり。大愛道故精舎の処、須達長者の井壁、及び鴦掘魔得道泥洹焼身の処、後人塔を起すもの皆此の城中に在り。(中略)城の南門を出でて千二百歩、道西に長者須達は精舎を起せり。精舎は東向して門を開き、門戸の両辺に二の石柱あり、左柱は上に輪形を作り、右柱は上に牛形を作る。精舎の左右は池流清浄にして樹林尚お茂し、衆華異色あり、蔚然として観るべし。即ち所謂祇洹精舎なり。(中略)法顕、道整初めて祇洹精舎に到り、昔世尊の此に住せる二十五年なるを念い、自ら生まれて辺地に在りしを傷む。諸同志と共に諸国を遊歴するに、或いは還る者あり、或いは無常する者あり。今日乃ち仏の空処を見て愴然として心悲しむ」と云い、且つ其の地に僧伽藍九十八所あり、一処を除き他は皆住僧あり、法顕等の到るを見て之を問訊せしことを記せるに依りて、以って当時の状勢を窺うを得べし。後二百年を経て玄奘其の地に到るに荒蕪更に甚だしきものあり。「大唐西域記巻6」に、「此れ(鞞索迦国)より東北に行く五百余里にして室羅伐悉底国に至る。室羅伐悉底国は周六千余里、都城荒頓し、疆場紀なし。宮城の故基は周二十余里、多く荒圮すと雖も尚お居人あり。穀稼豊にして気序和に、風俗淳質にして、学に篤く福を好む。伽藍数百あるも圮壊良に多し。僧徒寡少にして正量部を学す。天祠百所あり、外道甚だ多し」と記し、又其の城内に勝軍王所建大法堂の故基、鉢羅闍鉢底精舎の故基、須達長者故宅の趾、指鬘外道改悔証果の地等あり、皆塔を建つと云い、又城外に祇園精舎、仏陀為病比丘看病処、舎利弗目連競神通処、外道殺婬女謗仏処、提婆達多陥入地獄大坑、瞿迦棃比丘陥入地獄坑、戦遮婆羅門女陥入地獄坑、影覆精舎、舎利弗降伏外道故地、毘廬択迦王見仏帰兵処、群盗得眼林等の旧址、及び大城の西北六十里に迦葉仏本生の地あることを記せり。之に依るに玄奘の当時舎衛城は頗る荒圮し、種種の聖蹟も皆亦た廃墟に帰したるを見るべし。其の位地に関し、カンニンガムA.Cunninghamは之を尼波羅に近きウードoudh(古のayodhyaa、又は沙祇saaketa)の北方五十八哩にして、ラープティrapti河の左岸なるサヘト・マヘトsahet mahetの地なるべしと推定し、而して法顕が沙祇より南行八由旬と記せるを、玄奘の所伝等によりて北行八由旬(約五十六哩)の誤とし、又後の西域記の所謂鞞索迦vizakaの都城を以って法顕伝の沙祇となし、それより東北五百里と云えるを三百五十里と訂正し、此の数は即ち四十里一由旬の計算に依れば八由旬を得とし、以って法顕玄奘両伝の相違を会通すべしとなせり。蓋しカンニンガムが斯の如き大膽なる訂正を肯てせし所以は、此のサヘト・マヘトの古趾に於いてzravastiiの銘を有する巨大なる仏像を発見し、及び玄奘の所謂周二十里に相当する周囲三哩余に亘る城壁の遺蹟を発見せしに由るが故なり。加之最近又此の地より、西紀九百七十四年(実はsaMvat 1130とあり)祇園精舎に住する僧伽に寺田を施す旨を刻せる銅板、並びに同千百二十年曲女城のmadana- paala王の大臣ヴィドャー・ドハラvidyaa- dharaが此の地に一寺院を建立すべき旨を刻せる石片、及び降三世、観音、多羅等の諸像を発掘せるに依りて、サヘト・マヘトが舎衛城の古趾たることを確かむるを得るに至れり。又此の都城の荒廃せる年代に就き、カンニンガムは南方所伝に此の王キヒラドハーラkhiradhaaraが西紀二百七十五年より三百二年迄在位せることを伝うるに依り、即ち其の荒廃を此の王の後、法顕の渡天以前に在りとし、以ってグプタ王朝の没落(西暦五世紀の初め)に関連あるものとなせり。但し観音等の像を発掘し、及び寺田寄附等の事実ありしに徴するに、玄奘歴訪の後尚お此の地に大乗教の行われしを知るべく、少くとも西暦第十三紀頃迄は僧伽の存続せしことを見るを得るなり。又「長阿含経巻3」、「中阿含巻55持斎経」、「雑阿含経巻23」、「増一阿含経巻49」、「十二遊経」、「四分律巻50」、「五分律巻25」、「摩訶僧祇律巻8」、「有部毘奈耶雑事巻38」、「同破僧事巻8」、「阿育王伝巻2」、「金剛般若経疏」、「勝鬘宝窟巻上本」、「阿弥陀経疏」、「玄応音義巻21」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻10、26」、「麒麟音義巻2」等に出づ。<(望)
  王舎城(おうしゃじょう):王舍は梵名曷羅闍姞利呬raaja- gRhaの訳。巴梨名raaja- gaha、又羅閲揭梨醯、羅閲祇、羅閲に作る。中印度摩揭陀国往古の首府の名。現今のパトナpatnaの南方ビハルbehar地方のラジギルrajgirは其の旧址なり。「大唐西域記巻9」に、「石柱の東北遠からずして曷羅闍姞利呬城に至る。外郭已に壊れて復た遺堵なし。内城毀ると雖も基址猶お峻たり。周二十余里、面に一門あり」と云える是れなり。蓋し摩揭陀の王都は元と矩奢揭羅補羅kuzaagrapura(上茅宮城)に在りしも、頻婆娑羅王の時、今の地に遷りたりしが如く、西域記には、王は城内に失火多かりしを以って、火を失する者は寒林に移るべしと命じたりしに、偶ま王宮に失火あり、仍りて王は自ら寒林に移り、且つ吠舎離の来寇に備えんが為に、其の地に城邑を築き之を新王舎城となせりと云い、又「大智度論巻3」には摩伽陀王先所住の城は、城中失火して七度に至り、国人役に疲れしを以って、五山周匝の地を選びて移転せしものなりと云い、又「高僧法顕伝」には、新城を阿闍世王の造る所となせり。其の名称に関しては、「善見律毘婆沙巻8」に、「初劫に慢他多maandhaataa王、瞿貧陀mahaagovinda王、是の如き聖王を初めとし、此の地に於いて舎宅を立つ、故に王舍と名づく。又別解あり、此の国は若し仏出世の時、及び転輪聖王は此の地を立てて国土と成す。若し聖人出世することなくんば、此の地は夜叉主とならん」と云い、又「大智度論巻3」には、摩伽陀国王に子あり、一頭両面四臂なり、王不祥として之を曠野に棄つ。後此の子諸国を兼併して天下を統治し、諸国の王一万八千人を取りて之を五山の中に置きしを以って人此の山を呼んで王舎城と為せりと云い、又一説を挙げ、摩伽陀国王は此の地の五山周匝して城の如きを見、宮城を作りて止住せしより名づくと云い、又一説を出し、往古此国に婆数王あり、其の子広車王なる者、出家の地を探求せしに、此の地の五山周匝峻固にして温泉涼池皆悉く清浄なるを見、遂に宮舎を造立せしより名づくと云えり。又旧王舎城に関し、「大唐西域記巻9」に、「上茅宮城は摩揭陀国の正中に在り。古先国王の都せし所なり。多く勝上の吉祥香茅を出す。故を以って之を上茅城と謂うなり。崇山四周し以って外郭を為し、西は峡径を通じ、北は山門を闕く。東西は長く南北は狭し。周一百五十余里、内城の余趾は周三十余里あり」と云えり。此の旧城は五山にて囲まれ、極めて要害の地なれば、一に山城girvRja(巴梨名girbbaja)と称せられ、今尚お内城の南壁と北壁とを存せり。又西域記には王舎城附近に仏陀伐那山、杖林、二温泉、伏酔象塔、阿湿婆恃苾芻説法処、室利毱多火坑、時縛迦大医法堂、畢鉢羅石室、提婆達多入定石室、自殺比丘塔、迦蘭陀竹園、仏舎利塔、阿難半身舎利塔、第一結集石室、迦蘭陀池、無憂王石柱等の仏教の遺跡あることを記せり。而して新王舎城は後阿育王が都を波吒釐城に遷し、此の地を以って婆羅門に施すに至る迄、摩揭陀の王都たり。又「長阿含経巻3、22」、「阿闍世王経」、「十二遊経」、「法華経文句巻1上」、「法華義疏巻1」、「無量寿経義疏巻上(慧遠)」、「玄応音義巻3、14」、「法華経玄賛巻1末」、「慧琳音義巻6」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  婆羅門姓(ばらもんしょう):印度四姓の一。祭祀を司る貴種。『大智度論巻32下注:四姓』参照。
  婆羅埵逝(ばらたせい):不明。
  (しゅ):しばしば。数数も同じ。
  参考:『雑阿含経巻42』:『如是我聞。一時。佛住王舍城迦蘭陀竹園。世尊晨朝著衣持缽。入王舍城乞食。次第行乞至火與婆羅門舍。火與婆羅門遙見佛來。即具眾美飲食。滿缽與之。如是二日.三日。乞食復至其舍。火與婆羅門遙見佛來。作是念。禿頭沙門何故數來。貪美食耶。爾時。世尊知火與婆羅門心念已。即說偈言 王天日日雨  田夫日夜耕  數數殖種子  是田數收穀  如人數懷妊  乳牛數懷犢  數數有求者  則能數惠施  數數惠施故  常得大名稱  數數棄死屍  數數哭悲戀  數數生數死  數數憂悲苦  數數以火燒  數數諸蟲食  若得賢聖道  不數受諸有  亦不數生死  不數憂悲苦  不數數火燒  不數諸蟲食  時。火與婆羅門聞佛說偈。還得信心。復以種種飲食滿缽與之。世尊不受。以因說偈而施故。復說偈言 因為說偈法  不應受飲食  當觀察自法  說法不受食  婆羅門當知  斯則淨命活  應以餘供養  純淨大仙人  已盡諸有漏  穢法悉已斷  供養以飲食  於其良福田  欲求福德者  則我田為良  火與婆羅門白佛。今以此食。應著何所。佛告婆羅門。我不見諸天.魔.梵.沙門.婆羅門.天神.世人有能食此信施。令身安樂。汝持是食去棄於無蟲水中。及少生草地。時。婆羅門即以此食持著無蟲水中。水即煙出。沸聲啾啾。譬如鐵丸燒令火色。擲著水中。水即煙起。沸聲啾啾。亦復如是。婆羅門持此飲食著水中。水即煙出。沸聲啾啾。於時火與婆羅門歎言。甚奇。瞿曇。大德大力。能令此食而作神變。時。火與婆羅門因此飯食神變。得信敬心。稽首佛足。退住一面。白佛言。世尊。我今可得於正法中出家.受具足。修梵行不。佛告婆羅門。汝今可得於正法中出家.受具足。彼即出家已。作是思惟。所以族姓子剃除髮鬚。著袈裟衣。正信.非家.出家學道。乃至得阿羅漢。心善解脫』
婆羅門聞是偈已。作是念。佛大聖人具知我心。慚愧取缽入舍盛滿美食以奉上佛。佛不受作是言。我為說偈故得此食我不食也。 婆羅門は、是の偈を聞き已りて、是の念を作さく、『仏の大聖人は、具(つぶさ)に我が心を知りたもう』、と。慚愧して鉢を取り、舎に入りて、美食を盛満し、以って仏に奉上す。仏は受けずして、是の言を作したまわく、『我れ、偈を説かんが為の故に、此の食を得るも、我れは食わず』、と。
『婆羅門』は、
是の、
『偈を聞いて!』、こう念じると、――
『仏という!』、
『大聖人』は、
わたしの、
『心』を、
『具(つぶさ)に知っていられる!』、と。
そして、
『慚愧しながら!』、
『仏』の、
『鉢』を、
『取ると!』、
『舎(いえ)に入って!』、
『美食』を、
『山盛りにし!』、
それを、
『仏』に、
『捧げた!』。
『仏』は、
『鉢を受けずに!』、こう言われた、――
わたしは、
此の、
『偈』を、
『説く!』為に、
此の、
『食』を、
『乞うた!』が、
わたしが、
之を、
『食うことはない!』、と。
婆羅門言。是食當與誰。佛言。我不見天及人能消是食者。汝持去置少草地若無虫水中。即如佛教持食著無虫水中。水即大沸煙火俱出。如投大熱鐵。 婆羅門の言わく、『是の食を、当に誰にか与うべき』、と。仏の言わく、『我れは、天及び人の能く是の食を消する者を見ず。汝、持ち去りて、少草の地、若しは虫無き水中に置け』、と。即ち仏の教の如く、食を持ちて、虫無き水中に著くれば、水即ち大いに沸きて、煙と火と倶に出でて、大熱鉄を投ずるが如し。
『婆羅門』は、こう言った、――
是の、
『食』は、
誰に、
『与えましょう?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
わたしは、
是の、
『食を消化できるような!』、
『天や、人』を、
『見たことがない!』。
お前は、
是の、
『食』を、
『持ち去り!』、
『少草の地』か、
『無虫の水中』に、
『置け!』、と。
『婆羅門』は、
そこで、
『仏の教のように!』、
『食を持って!』、
『無虫の水中』に、
『著ける!』と、
『水』は、
たちどころに、
『大いに!』、
『沸き!』、
『煙』と、
『火』とが、
『同時に!』、
『出たので!』、
まるで、
『大熱鉄』を、
『水中』に、
『投じたかのようであった!』。
婆羅門見已驚怖言未曾有也。乃至食中神力如是。還到佛所頭面禮佛足。懺悔乞出家受戒。 婆羅門の見已りて、驚怖して言わく、『未曽有なり。乃至食中の神力すら、是の如し』、と。還って仏の所に到り、頭面に仏足を礼して、懺悔し、出家し受戒せんことを乞う。
『婆羅門』は、
『見て!』、
『驚き!』、
『怖れて!』、
こう言った、――
『未曽有である!』、
『食』中でさえ、
『神力』が、
『是れほどであろうとは!』、と。
『還って!』、
『仏の所に到る!』と、
『頭面』に、
『仏足』を、
『礼して!』、
『懺悔し!』、
『出家、受戒』を、
『乞うた!』。
佛言善來。即時鬚髮自墮便成沙門。漸漸斷結得阿羅漢道。 仏の言わく、『善く来たれり』、と。即時に鬚髪自ら堕ちて、便ち沙門と成り、漸漸に結を断じて、阿羅漢道を得たり。
『仏』が、
『善く来た!』と、
『言われる!』と、
即時に、
『鬚髪』が、
『自然に!』、
『堕ちて!』、
やがて、
『沙門』と、
『成り!』、
次第に、
『結を断じて!』、
『阿羅漢の道』を、
『得た(悟った)!』。
復有摩訶憍曇彌。以金色上下寶衣奉佛。佛知眾僧堪能受用告憍曇彌。以此上下衣與眾僧。以是故知佛寶僧寶福無多少。 復た、摩訶憍曇弥有り、金色の上下の宝衣を以って、仏に奉る。仏は衆僧の能く受用するに堪うるを知り、憍曇弥に告げたまわく、『此の上下の衣を以って、衆僧に与えよ』、と。是を以っての故に、仏宝と、僧宝との福に、多少無きことを知る。
復た、
『摩訶憍曇弥( mahaa- gautamii )が有り!』、
『金色の上下の宝衣』を、
『仏』に、
『奉った!』ところ、
『仏』は、
『衆僧』が、
此の、
『宝衣を受用する!』に、
『堪えられる!』ことを、
『知り!』、
『憍曇弥』に、こう告げられた、――
此の、
『上下の衣』を、
『衆僧』に、
『与えよ!』、と。
是の故に、
こう知るのである、――
『仏宝』と、
『僧宝』とには、
『福の多、少』は、
『無い!』、と。
  摩訶憍曇弥(まかきょうどんみ):梵名mahaa- gautamii、釈尊の母摩訶摩耶の妹。仏母亡き後、仏を養育すと云う。『大智度論巻10下注:摩訶波闍波提』参照。
  受用(じゅゆう):もちいる。受けて用いる。役に立つ。
檀越言。若為佛布施。僧能消能受。何以故。婆羅埵逝婆羅門食佛不教令僧食。 檀越の言わく、『若し、仏の為に布施して、僧能く消し、能く受くれば、何を以っての故にか、婆羅埵逝婆羅門の食を、仏は教えて、僧に食せしめざる』、と。
『檀越』は、こう言った、――
若し、
『仏』の為の、
『布施』を、
『僧』が、
『消化して!』、
『受けられれば!』、
何故、
『婆羅埵逝婆羅門の食』を、
『仏』は、
『僧に教えて!』、
『食わせないのか?』、と。
諸沙彌答言。為顯僧大力故。若不見食在水中有大神力者。無以知僧力為大。若為佛施物而僧得受。便知僧力為大。譬如藥師欲試毒藥。先以與雞雞即時死然後自服。乃知藥師威力為大。是故檀越當知
 若人愛敬佛  亦當愛敬僧 
 不當有分別  同皆為寶故
諸の沙弥の答えて言わく、『僧の大力を顕さんが為の故なり。若し食の水中に在りて、大神力有るを見ざれば、僧の力を知るを以って、大と為すこと為し。若し仏の為に物を施して、僧受くることを得ば、便ち僧の力を知りて、大と為さん。譬えば、薬師の毒薬を試さんと欲して、先に鶏に与え、鶏の即時に死して、然る後に自ら服するを以って、薬師の威力を知りて、大と為すが如し。是の故に檀越の当に知るべし、
若し人仏を愛敬すれば、亦た当に僧を愛敬すべし、
当に分別する有るべからず、同じく皆宝と為すが故なり。
諸の、
『沙弥は答えて!』、こう言った、――
『僧』の、
『大力』を、
『現すためである!』。
若し、
『食』が、
『水中』に於いて、
『大神力が有る!』ことを、
『見なければ!』、
『僧の力』が、
『大きいと知る!』者が、
『無かったであろう!』。
若し、
『仏』に、
『施された!』、
『物』を、
『僧』でも、
『受けられる!』と、
『知れば!』、
そこで、
『僧の力が大である!』と、
『知ることになろう!』。
譬えば、
『薬師』が、
『毒薬』を、
『試そう!』と、
『思い!』、
先に、
『鶏』に、
『与えて!』、
即時に、
『鶏』が、
『死んでから!』、
その後、
自ら、
『毒薬』を、
『服んだとすれば!』、
やっと、
『薬師の威力』が、
『大きい!』と、
『知るようなものである!』。
是の故に、
『檀越』は、こう知らねばならぬ、――
若し、
『人』が、
『仏』を、
『愛敬すれば!』、
当然、
『僧』も、
『愛敬せねばならず!』、
当然、
『僧』を、
『分別すべきではない!』。
何故ならば、
皆、
『同じように!』、
『宝だからである!』。
爾時檀越聞說是事歡喜言。我某甲從今日若有入僧數中。若小若大一心信敬不敢分別。 爾の時、檀越は、是の事を説くを聞いて、歓喜して言わく、『我れ某甲は、今日より、若し僧数中に入るもの有らば、若しは小、若しは大なるを、一心に信敬して、敢て分別せず』、と。
爾の時、
『檀越』は、
是の、
『事』が、
『説かれる!』のを、
『聞き!』、
『歓喜し!』、こう言った、――
わたくし、
『某甲(なにがし)』は、
『今日より!』、
若し、
『僧数』中に、
『入る!』者が、
『有れば!』、
『大であろうと!』、
『小であろうと!』、
『一心』に、
『信敬して!』、
其れを、
『分別しよう!』とは、
『思いません!』、と。
  某甲(むこう):自称の代名詞。それがし。
  不敢(ふかん):憚る/何うしてできようか( I dare not, how dare I )、するな( do not )、[謙譲語]それに値しない( don't deserve it )。
諸沙彌言。汝心信敬無上福田。不久當得道。何以故
 多聞及持戒  智慧禪定者 
 皆入僧數中  如萬川歸海 
 譬如眾藥草  依止於雪山 
 百穀諸草木  皆依止於地 
 一切諸善人  皆在僧數中
諸の沙弥の言わく、『汝が心信敬するは、無上の福田なり。久しからずして、当に道を得ん。何を以っての故に、
多聞及び持戒と、智慧と禅定との、
皆僧数中に入ること、万川の海に帰するが如し。

譬えば衆薬草は、雪山に依止し、
百穀と諸の草木は、皆地に依止するが如く、
一切の諸善人は、皆僧数中に在り。
諸の、
『沙弥』は、こう言った、――
お前の、
『心より!』、
『信敬する!』のは、
『無上の福田である!』。
お前は、
『久しからずして!』、
『道』を、
『得ることになるだろう!』。
何故ならば、
『多聞、持戒、智慧、禅定』は、
皆、
『僧数』中に、
『入り!』、
譬えば、
『万川』が、
『海に帰するようなものである!』。
譬えば、
『衆薬草』は、
皆、
『雪山』に、
『依止し!』、
『百穀、諸草木』は、
皆、
『地』に、
『依止するように!』、
一切の、
『諸善人』は、
皆、
『僧数』中に、
『在るからである!』。
復次汝等曾聞佛為長鬼神將軍讚三善男子阿泥盧陀難提迦翅彌羅不。佛言。若一切世間天及人。一心念三善男子長夜得無量利益。以是事故倍當信敬僧。是三人不名僧。佛說念三人有如是果報。何況一心清淨念僧。 復た次ぎに、汝等は、曽て仏の長鬼神将軍の為に、三善男子の阿泥盧陀、難提、迦翅弥羅を讃じたまえるを聞くや、不や。仏の言わく、『若し一切の世間の天、及び人、一心に三善男子を念ずれば、長夜に無量の利益を得ん』、と。是の事を以っての故に倍して、当に僧を信敬すべし。是の三人は、僧と名づけざるも、仏は、三人を念ずれば、是の如き果報有りと説きたまえり。何に況んや、一心に清浄に僧を念ずるをや。
復た次ぎに、
お前達は、
曽て、聞いたことがあるか?――
『仏』が、
『長鬼神将軍』の為に、
『三善男子』の、
『阿泥盧陀、難提、迦翅弥羅』を、
『讃えられた!』のを。
『仏』は、こう言われた、――
一切の、
『世間の天、人』は、
若し、
『一心に!』、
『三善男子』を、
『念ずれば!』、
『長夜』に、
『無量の利益』を、
『得るだろう!』、と。
是の故に、
『倍して!』、
『僧』を、
『信敬せねばならない!』。
是の、
『三人』は、
『僧』とは、
『呼ばれなかった!』が、
『仏』は、
『三人』を、
『念じれば!』、
是のような、
『果報が有る!』と、
『説かれたのである!』。
況して、
『一心』に、
『清浄に!』、
『僧を念じれば!』、
『尚更である!』。
  長鬼神将軍(ちょうきじんしょうぐん):又長鬼天と称す。『中阿含経巻48(185)』参照。
  阿泥廬陀(あにるだ):林中の少欲知足の人。又阿那律陀と称す。『中阿含経巻48(185)』参照。
  難提(なんだい):林中の少欲知足の人。『中阿含経巻48(185)』参照。
  迦翅弥羅(かしみら):林中の少欲知足の人。又金毘羅と称す。『中阿含経巻48(185)』参照。
  長夜(ちょうや):長い夜。無明の生活に喩う。
  参考:『中阿含経巻48(185)』:『我聞如是。一時。佛遊那摩提瘦。在揵祁精舍。爾時。世尊過夜平旦。著衣持缽。入那摩提而行乞食。食訖中後。往詣牛角娑羅林。爾時。牛角娑羅林有三族姓子共在中住。尊者阿那律陀.尊者難提.尊者金毘羅。彼尊者等所行如是。若彼乞食有前還者。便敷床汲水。出洗足器。安洗足橙及拭腳巾.水瓶.澡罐。若所乞食能盡食者。便盡食之。若有餘者。器盛覆舉。食訖收缽。澡洗手足。以尼師壇著於肩上。入室燕坐。若彼乞食有後還者。能盡食者亦盡食之。若不足者。取前餘食。足而食之。若有餘者。便瀉著淨地及無蟲水中。取彼食器。淨洗拭已。舉著一面。收卷床席。拾洗足橙。收拭腳巾。舉洗足器及水瓶.澡罐。掃灑食堂。糞除淨已。收舉衣缽。澡洗手足。以尼師壇著於肩上。入室燕坐。彼尊者等至於晡時。若有先從燕坐起者。見水瓶.澡罐空無有水。便持行取。若能勝者。便舉持來。安著一面。若不能勝。則便以手招一比丘。兩人共舉。持著一面。各不相語。各不相問。彼尊者等五日一集。或共說法。或聖默然。於是。守林人遙見世尊來。逆呵止曰。沙門。沙門。莫入此林。所以者何。今此林中有三族姓子。尊者阿那律陀.尊者難提.尊者金毘羅。彼若見汝。或有不可。世尊告曰。汝守林人。彼若見我。必可。無不可。於是。尊者阿那律陀遙見世尊來。即呵彼曰。汝守林人。莫呵世尊。汝守林人。莫呵善逝。所以者何。是我尊來。我善逝來。尊者阿那律陀出迎世尊。攝佛衣缽。尊者難提為佛敷床。尊者金毘羅為佛取水。爾時。世尊洗手足已。坐彼尊者所敷之座。坐已。問曰。阿那律陀。汝常安隱。無所乏耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。我常安隱。無有所乏。世尊復問。阿那律陀。云何安隱。無所乏耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。我作是念。我有善利。有大功德。謂我與如是梵行共行。世尊。我常向彼梵行行慈身業。見與不見。等無有異。行慈口業。行慈意業。見與不見。等無有異。世尊。我作是念。我今寧可自捨己心。隨彼諸賢心。我便自捨己心。隨彼諸賢心。我未曾有一不可心。世尊。如是我常安隱。無有所乏。問尊者難提。答亦如是。復問尊者金毘羅曰。汝常安隱。無所乏耶。尊者金毘羅白曰。世尊。我常安隱。無有所乏。問曰。金毘羅。云何安隱。無所乏耶。尊者金毘羅白曰。世尊。我作是念。我有善利。有大功德。謂我與如是梵行共行。世尊。我常向彼梵行行慈身業。見與不見。等無有異。行慈口業。行慈意業。見與不見。等無有異。世尊。我作是念。我今寧可自捨己心。隨彼諸賢心。我便自捨己心。隨彼諸賢心。我未曾有一不可心。世尊。如是我常安隱。無有所乏。世尊歎曰。善哉。善哉。阿那律陀。如是汝等常共和合。安隱無諍。一心一師。合一水乳。頗得人上之法。而有差降安樂住止耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。如是我等常共和合。安隱無諍。一心一師。合一水乳。得人上之法。而有差降安樂住止。世尊。我等離欲.離惡不善之法。至得第四禪成就遊。世尊。如是我等常共和合。安隱無諍。一心一師。合一水乳。得此人上之法。而有差降安樂住止。世尊歎曰。善哉。善哉。阿那律陀。捨此住止。過此度此。頗更有餘得人上之法。而有差降安樂住止耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。捨此住止。過此度此。更復有餘得人上之法。而有差降安樂住止。世尊。我心與慈俱。遍滿一方成就遊。如是二三四方。四維上下。普周一切。心與慈俱。無結無怨。無恚無諍。極廣甚大。無量善修。遍滿一切世間成就遊。如是悲.喜心與捨俱。無結無怨。無恚無諍。極廣甚大。無量善修。遍滿一切世間成就遊。世尊。捨此住止。過此度此。謂更有此餘得人上之法。而有差降安樂住止。世尊歎曰。善哉。善哉。阿那律陀。捨此住止。過此度此。頗更有餘得人上之法。而有差降安樂住止耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。捨此住止。過此度此。更復有餘得人上之法。而有差降安樂住止。世尊。我等度一切色想。至得非有想非無想處成就遊。世尊。捨此住止。過此度此。謂更有此餘得人上之法。而有差降安樂住止。世尊歎曰。善哉。善哉。阿那律陀。捨此住止。過此度此。頗更有餘得人上之法。而有差降安樂住止耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。捨此住止。過此度此。更復有餘得人上之法。而有差降安樂住止。世尊。我等得如意足.天耳智.他心智.宿命智.生死智。諸漏已盡。得無漏。心解脫.慧解脫。於現法中自知自覺。自作證成就遊。生已盡。梵行已立。所作已辦。不更受有。知如真。世尊。捨此住止。過此度此。謂更有此餘得人上之法。而有差降安樂住止。世尊歎曰。善哉。善哉。阿那律陀。捨此住止。過此度此。頗更有餘得人上之法。而有差降安樂住止耶。尊者阿那律陀白曰。世尊。捨此住止。過此度此。更無有餘得人上之法。而有差降安樂住止。於是。世尊便作是念。此族姓子之所遊行。安隱快樂。我今寧可為彼說法。世尊作是念已。即為尊者阿那律陀.尊者難提.尊者金毘羅說法。勸發渴仰。成就歡喜。無量方便為彼說法。勸發渴仰。成就歡喜已。從坐起去。於是。尊者阿那律陀.難提.金毘羅送世尊。隨其近遠。便還所住。尊者難提.尊者金毘羅歎尊者阿那律陀曰。善哉。善哉。尊者阿那律陀。我等初不聞尊者阿那律陀說如是義。我等如是有大如意足。有大威德。有大福祐。有大威神。然尊者阿那律陀盡向世尊極稱譽我等。尊者阿那律陀歎尊者難提.金毘羅曰。善哉。善哉。尊者。我亦初未曾從諸賢等聞。尊者如是有大如意足。有大威德。有大福祐。有大威神。然我長夜以心知尊者心。尊者有大如意足。有大威德。有大福祐。有大威神。是故我向世尊如是如是說。於是。長鬼天形體極妙。光明巍巍。夜將向旦。往詣佛所。稽首佛足。卻住一面。白世尊曰。大仙人。諸跋耆人得大善利。謂現有世尊及三族姓子。尊者阿那律陀.尊者難提.尊者金毘羅。地神從長鬼天聞所說。放高大音聲。大仙人。諸跋耆人得大善利。謂現有世尊及三族姓子。尊者阿那律陀.難提.金毘羅。從地神聞聲。虛空天.四王天.三十三天.[火*僉]摩天.兜率哆天.化樂天.他化樂天。須臾聲徹至于梵天。大仙人。諸跋耆人得大善利。謂現有世尊及三族姓子。尊者阿那律陀.難提.金毘羅。世尊告曰。如是。如是。長鬼天。諸跋耆人得大善利。謂現有世尊及三族姓子。尊者阿那律陀.難提.金毘羅。長鬼天。地神聞汝聲已。便放高大音聲。大仙人。諸跋耆人得大善利。謂現有世尊及三族姓子。尊者阿那律陀.難提.金毘羅。從地神聞聲。虛空天.四天王天三十三天.[火*僉]摩天.兜率哆天.化樂天.他化樂天。須臾聲徹至于梵天。大仙人。諸跋耆人得大善利。謂現有世尊及三族姓子。尊者阿那律陀.難提.金毘羅。長鬼天。若彼三族家。此三族姓子剃除鬚髮。著袈裟衣。至信.捨家.無家.學道。彼三族家憶此三族姓子所因.所行者。彼亦長夜得大善利。安隱快樂。若彼村邑及天.魔.梵.沙門.梵志。從人至天。憶此三族姓子所因.所行者。彼亦長夜得利饒益。安隱快樂。長鬼天。此三族姓子如是有大如意足。有大威德。有大福祐。有大威神。佛說如是。此三族姓子及長鬼天聞佛所說。歡喜奉行』
  :『中阿含経巻第48第185経牛角沙羅林経第四』によれば、跋耆(ばつぎ)国の牛角娑羅林に族姓子(善男子)の阿那律、難提、金毘羅が住んでいた。三人は皆、乞食をして帰ると床を敷き水を汲んで手脚を洗い、足を洗う桶や水瓶などを納めると、食器を棚から取り出して得た物を食い、食いおわると食器を洗って棚に納め、室を清掃し水で浄めて坐禅をし、無駄口を言わず水と牛乳のように一に和合して暮らしていた。世尊はそれを見て、今安穏に住して乏しき所は無いかと訊ねると、阿那律は安穏に住して乏しき所は無いと答える。世尊が何のように安穏なのかと訊ねると、阿那律は慈による身口意の業を人が見ようと見ていまいと常に行じ、己の心を捨てて諸の賢聖の心に随っているために、未だかつて一として善からぬ心を懐いたことが無いので、安穏であり乏しき所が無いと答える。世尊は善きかな、ではもっと上の人に過ぎたる法を得たならば、そこにても安穏で乏しき所が無いかと訊ねると、世尊、われ等は欲を離れて四禅に住すという人に過ぎたる法を得ておりますので、そこにて安穏であり乏しき所もありません。ではもっと上ならば何うか?四無量心に住しております。ではもっと上では?四無色定、六通、乃至解脱に住しております。それを聞いた長鬼天がこの跋耆国の人々は大善利を得ている、何故ならば仏とこの三人がいるからであると讃え、諸の諸天もそれに賛同する。
是故檀越當任力念僧僧名。如說偈
 是諸聖人眾  則為雄猛軍 
 摧滅魔王賊  是伴至涅槃
是の故に檀越は、当に力に任せて、僧と僧の名を念ずべし。偈に説くが如し、
是の諸聖人衆は、則ち雄猛なる軍と為す、
魔王の賊を摧滅し、是れに伴いて涅槃に至れ。
是の故に、
『檀越』は、
『力に任せて!』、
『僧、僧の名』を、
『念じねばならない!』。
譬えば、
『偈』に、こう説く通りである、――
是の、
諸の、
『聖人の衆とは!』、
『雄猛な軍である!』。
是れを、
『伴って!』、
『魔王』の、
『賊』を、
『摧滅しながら!』、
即ち、
『涅槃』に、
『至れ!』。
  雄猛(ゆみょう):雄々しく猛々しい。
  (ぐん):いくさ。兵士。
  摧滅(さいめつ):くじきほろぼす。
諸沙彌為檀越。種種說僧聖功德。檀越聞已舉家大小皆見四諦得須陀洹道。以是因緣故。應當一心念僧。 諸の沙弥は、檀越の為に、種種に僧の聖功徳を説き、檀越は聞き已りて、家を挙げて大小皆、四諦を見、須陀洹の道を得。是の因縁を以っての故に、応当に一心に僧を念ずべし。
諸の、
『沙弥』は、
『檀越』の為に、
種種に、
『僧の聖功徳』を、
『説いた!』ので、
『檀越』は、
『聞きおわる!』と、
『家』中の、
『大も!』、
『小も!』、
皆、
『四諦を見て!』、
『須陀洹の道』を、
『得たのである!』。
是の、
『因縁』の故に、
『一心』に、
『僧』を、
『念じなければならない! 。


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