念法者。如佛演說。行者應念。是法巧出得今世果無執惱。不待時能到善處通達無礙。 |
法を念ずとは、仏の演説したまえるが如し、『行者、応に念ずべし、是の法は、巧みに出して、今世の果を得しめて、執悩を無からしめ、時を待たずして、能く善処に到るに、通達、無礙ならしむ、と』、と。 |
『法を念じる!』とは、――
例えば、
『仏が演説された通りである!』、――
『行者』は、こう念じなければならない、――
是の、
『法( 般若波羅蜜)』は、
『巧みに!』、
『法(方便)』を、
『出(いだ)して!』、
『今世には!』、
『果を得させて!』、
『執悩』を、
『無くさせ!』、
『時を待たずに!』、
『善処に到らせて!』、
『通達させ!』、
『無礙にさせる!』、と。
|
|
|
|
|
巧出者。二諦不相違故。所謂世諦第一義諦是。智者不能壞。愚者不起諍故。是法亦離二邊。所謂若受五欲樂若受苦行。復離二邊。若常若斷若我若無我若有若無。如是等二邊不著是名巧出。諸外道輩自貴其法。毀賤他法故不能巧出。 |
巧みに出すとは、二諦の相違せざるが故なり。謂わゆる世諦と、第一義諦とにして、是れ智者も壊る能わず、愚者は諍を起さざるが故なり。是の法も、亦た二辺を離る。謂わゆる若しは五欲の楽を受け、若しは苦行を受くるなり。復た二辺を離るらく、若しは常、若しは断、若しは我、若しは無我、若しは有、若しは無なり。是れ等の如き二辺に著せざる、是れを巧みに出すと名づく。諸の外道の輩は、自ら其の法を貴び、他の法を毀賎するが故に巧みに出すこと能わず。 |
『巧みに出す!』とは、――
『二諦』が、
『相違しないからである!』。
謂わゆる、
『世諦』と、
『第一義諦』とが、
『相違しない!』という、
『法』は、
則ち、
『智者すら!』、
『壊(やぶ)ることができず!』、
『愚者にも!』、
『諍(いさかい)』を、
『起させないからである!』が、
是の、
『法( 般若波羅蜜)』も、
亦た、
『二辺』を、
『離れている!』。
謂わゆる、
『五欲』の、
『楽』を、
『受けたり!』、
『苦』の、
『行』を、
『受けることである!』が、
復た、
『常か、断か?』、
『我か、無我か?』、
『有か、無か?』という、
『二辺』も、
『離れる!』ので、
是れ等のような、
『二辺』を、
『離れる!』こと、
是れを、
『巧みに出す!』と、
『称するのである!』。
諸の、
『外道の輩』は、
自らの、
『法』を、
『貴んで!』、
他の、
『法』を、
『毀賎する!』が故に、
巧みに、
『法』を、
『出すことができない!』。
|
|
|
|
|
得今世果者。離愛因緣世間種種苦。離邪見因緣種種論議鬥諍。身心得安樂。如佛說
持戒者安樂 身心不熱惱
臥安覺亦安 名覺亦遠聞 |
今世の果を得とは、世間の種種の苦の因縁たる愛を離れ、種種の論義、闘諍の因縁たる邪見を離れ、身心に安楽を得ればなり。仏の説きたまえるが如し、
持戒の者は安楽にして、身心熱悩せず、
臥して安んじ覚めて亦た安んじ、名声も亦た遠く聞こゆ
|
『今世』の、
『果を得る!』とは、――
『世間』の、
種種の、
種種の、
『論義、闘諍の因縁である!』、
『邪見』を、
『離れれば!』、
即ち、
『身心』に、
『安楽』を、
『得るからである!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『持戒する!』者は、
『身心』が、
『熱』に、
『悩まされず!』、
『臥せても!』、
『覚めても!』、
『安楽であり!』、
亦た、
『名声』も、
『遠くまで!』、
『聞える!』、と。
|
注:名覚は他本に従い名声に改む。 |
参考:『中阿含経巻10(42)』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。尊者阿難則於晡時從燕坐起。往詣佛所。稽首禮足。卻住一面。白曰。世尊。持戒為何義。世尊答曰。阿難。持戒者。令不悔義。阿難。若有持戒者。便得不悔。復問。世尊。不悔為何義。世尊答曰。阿難。不悔者。令歡悅義。阿難。若有不悔者。便得歡悅。復問世尊。歡悅為何義。世尊答曰。阿難。歡悅者。令喜義。阿難。若有歡悅者。便得喜。復問。世尊。喜為何義。世尊答曰。阿難。喜者。令止義。阿難。若有喜者。便得止身。復問。世尊。止為何義。世尊答曰。阿難。止者。令樂義。阿難。若有止者。便得覺樂。復問。世尊。樂為何義。世尊答曰。阿難。樂者。令定義。阿難。若有樂者。便得定心。復問。世尊。定為何義。世尊答曰。阿難。定者。令見如實.知如真義。阿難。若有定者。便得見如實.知如真。復問。世尊。見如實.知如真為何義。世尊答曰。阿難。見如實.知如真者。令厭義。阿難。若有見如實.知如真者。便得厭。復問。世尊。厭為何義。世尊答曰。阿難。厭者。令無欲義。阿難。若有厭者。便得無欲。復問。世尊。無欲為何義。世尊答曰。阿難。無欲者。令解脫義。阿難。若有無欲者。便得解脫一切婬.怒.癡。是為。阿難。因持戒便得不悔。因不悔便得歡悅。因歡悅便得喜。因喜便得止。因止便得樂。因樂便得定。阿難。多聞聖弟子因定便得見如實.知如真。因見如實.知如真。便得厭。因厭便得無欲。因無欲便得解脫。因解脫便知解脫。生已盡。梵行已立。所作已辦。不更受有。知如真。阿難。是為法法相益。法法相因。如是此戒趣至第一。謂度此岸。得至彼岸。佛說如是。尊者阿難及諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
|
|
復次此佛法中因緣展轉生果。所謂持戒清淨故心不悔。心不悔故生法歡喜。法歡喜故身心快樂。身心快樂故能攝心。攝心故如實知。如實知故得厭。得厭故離欲。離欲故得解脫得解脫果報得涅槃。是名得今世果。 |
復た次ぎに、此の仏法中には、因縁展転として果を生ず。謂わゆる持戒清浄なるが故に、心に悔いず、心悔いざるが故に、法に歓喜を生じ、法を歓喜するが故に、身心快楽となり、身心快楽なるが故に、能く心を摂め、心を摂むるが故に如実に知り、如実に知るが故に厭を得、厭を得るが故に欲を離れ、欲を離るるが故に、解脱を得、解脱を得る果報もて、涅槃を得、是れを今世に果を得と名づく。 |
復た次ぎに、
此の、
『仏法』中には、
『因縁』が、
『展転( 転転)として!』、
『果』を、
『生じるのである!』が、
謂わゆる、
『持戒して!』、
『清浄である!』が故に、
『心』が、
『悔いず!』、
『心が悔いない!』が故に、
『法』に、
『歓喜を生じ!』、
『法を歓喜する!』が故に、
『身心』が、
『快楽になり!』、
『身心が快楽である!』が故に、
『心』を、
『摂(おさ)めることができ!』、
『心を摂める!』が故に、
『如実に!』、
『知り!』、
『如実に知る!』が故に、
『世間』を、
『厭(いと)うことができ!』、
『世間を厭う!』が故に、
『欲』を、
『離れ!』、
『欲を離れる!』が故に、
『世間』を、
『解脱することができ!』、
『解脱して得た!』、
『果報』の故に、
『涅槃』を、
『得る!』ので、
是れを、
『今世に果を得る!』と、
『称するのである!』。
|
|
|
|
|
外道法空行苦無所得。如閻浮阿羅漢得道時自說
我昔作外道 五十有五年
但食乾牛屎 裸形臥棘上
我受如是辛苦。竟無所得。不如今得見佛聞法。出家三日所作事辦得阿羅漢。以是故知。佛法得今世果。 |
外道の法は、空しく苦を行じて所得無し。閻浮阿羅漢の道を得し時、自ら説けるが如し、
我れ昔外道と作りて、五十有(ゆう)五年、
但だ乾牛屎を食い、裸形を棘上に臥せり。
我れは、是の如き辛苦を受くるも、竟(つい)に所得無く、今仏に見(まみ)えて法を聞くことを得、出家して三日にして、所作の事辦じ、阿羅漢を得たるに如かず、と。是を以っての故に知る、仏法は、今世の果を得しむ。 |
『外道の法』は、
『空しく!』、
『苦を行いながら!』、
『所得』が、
『無い!』。
例えば、
『閻浮阿羅漢』などは、
『道を得た!』時に、
自ら、こう説いている、――
わたしは、
昔、
『外道と作って!』、
『五十五年の間』、
但だ、
『乾いた!』、
『牛屎(牛糞)のみ!』を、
『食って!』、
『裸形』を、
『刺上』に、
『臥せていた!』が、
わたしは、
今、
『仏に見( まみ)えて!』、
『法』を、
『聞くことができ!』、
『出家して!』、
『三日目に!』、
『作すべき!』、
『事』を、
『達成して!』、
『阿羅漢』を、
『得た!』のには、
『及ぶものでなかった!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『仏の法』は、
『今世に!』、
『果』を、
『得ることができる!』、と。
|
閻浮阿羅漢(えんぶあらかん):不明。
乾牛屎(けんごし):牛糞のかわいたもの。通常は燃料に用い、或いは壁、土間に塗る。
棘(きょく):とげ。
辨(べん):<動詞>[本義]処理/経営/解決する( handle, conduct, transact )、経営/管理する( found, run )、行う(
do )、準備する( prepare )、懲罰する( punish )、達成/成し遂げる( accomplish, achieve )。 |
|
|
|
問曰。若佛法得今世果。何以故。佛諸弟子有無所得者。 |
問うて曰く、若し仏法もて、今世の果を得れば、何を以っての故にか、仏の諸弟子に、所得無き者有る。 |
問い、
若し、
『仏の法』が、
何故、
『仏の諸弟子』中に、
『所得の無い!』者が、
『有るのか?』。
|
|
|
|
|
答曰。行者能如佛所說。次第修行無不得報。如病人隨良醫教。將和治法病無不差。若不隨佛教。不次第行。破戒亂心故無所得。非法不良也。 |
答えて曰く、行者は、能く仏の所説の如く、次第に修行すれば、報を得ざる無きこと、病人の良医の教に随いて、将(も)って治法に和すれば、病の差(い)えざる無きが如し。若し仏の教に随わず、次第に行ぜざれば、破戒、乱心の心の故に、所得無ければ、法の不良なるに非ざるなり。 |
答え、
『行者』が、
『仏の所説のように!』、
『次第に修行すれば!』、
『報が得られない!』ことは、
『無い!』。
譬えば、
『病人』が、
『良医の教』に、
『随い!』、
『治法』に、
『和して!』、
『用いれば!』、
『差( い)えない!』、
『病』は、
『無いようなものである!』。
若し、
『仏の教』に、
『随わず!』、
『次第に!』、
『修行しなければ!』、
『破戒して!』、
『心を乱す!』が故に、
『所得』が、
『無いのであり!』、
『法が不良である!』が故に、
『所得』が、
『無いのではない!』。
|
将(しょう):<動詞>扶助する/支持する( support )、奉行する( follow )、送行する( send )、携帯する( bring )、領導する( lead, guide )、服従する/随従する( be obedient to , submit to )、供養する( provide for )、保養する/休養する( recuperate, rest maintain )、伝達する( express )、進む/行く( advance, go )。<副詞>必ず/必定/当に~すべし( certainly )、要ず/まさに~せんとす( will, be going to )、正に( just )、ほとんど( nearly )、豈/何ぞ/どうして( how can )。<前置詞>~によって/~を以って/~を用いて( by, by means of )、於いて/在って( at, in )。<接続詞>又/且つ( also )、若し( if )、或は( or )。<助詞>動詞の後に在って、動作/行為の趣向、或は親交を表示する。
和(わ):<形容詞>和諧/協調( harmonious, coordinated )、和順/平和( gentle, mild )、和睦/融和(
on friendly terms, harmonious )、喜悦/和悦( happy )、暖和/清和( warm )、適度な( moderate
)、快適( comfortable )、日本的( Japanese )、混和( mix )。<動詞>適当にする/調和する/妥協する( be in
harmonious proportion, compromise )、和解する/仲直りする( become reconciled )、引分ける(
end in a draw )、結合する/和合する/一つに纏まる( converge )。<名詞>総計( sum )、講和/和平( peace
)。<前置詞>と/与( with )、向って/対して( to )、ように/如く( as )。<接続詞>と/与( and )、或は( or )。
差(しゃ):病がいえる。病除こるの意。癒に同じ。 |
|
|
|
復次諸未得道者。今世雖不得涅槃。後世得受福樂。漸次當得涅槃終不虛也。如佛所說。其有出家為涅槃者。若遲若疾皆當得涅槃。如是等能得今世果。 |
復た次ぎに、諸の未得道の者も、今世に涅槃を得ずと雖も、後世に福楽を受くるを得、漸次に当に涅槃を得べければ、終(つい)に虚しからざるなり。仏の所説の如きは、『其れ涅槃の為に出家する者有らば、若しは遅く、若しは疾く、皆当に涅槃を得べし』、と。是れ等の如きは、能く今世の果を得るなり。 |
復た次ぎに、
諸の、
未だ、
『得道しない!』者は、
『今世』に、
『涅槃』を、
『得ることがなくても!』、
『後世』には、
『福楽』を、
『受けることができ!』、
『漸次に( gradually )!』、
『涅槃』を、
『得ることになる!』ので、
『結局は( finally )!』
『虚しくない!』。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
其処に、
『涅槃』の為に、
『出家する!』者が、
『有れば!』、
『遅かれ、疾かれ!』、
『結局は!』、
『涅槃を得るのである!』、と。
|
|
|
|
|
無熱惱者。熱惱有二種。身惱心惱。身惱者。繫縛牢獄拷掠刑戮等。心惱者。婬欲瞋恚慳貪嫉妒因緣故。生憂愁怖畏等。此佛法中持戒清淨故。身無是繫縛牢獄拷掠刑戮等惱。心離五欲除五蓋得實道故。無是婬欲瞋恚慳貪嫉妒邪疑等惱。無惱故無熱。 |
熱悩無しとは、熱悩に二種有り、身悩と心悩なり。身悩とは、繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等なり。心悩とは、婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒の因縁の故に生ずる憂愁、怖畏等なり。此の仏法中には持戒して清浄なるが故に、身には、是の繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等の悩無く、心は五欲を離れて、五蓋を除き、実道を得るが故に、是の婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒、邪疑等の悩無く、悩無きが故に熱無し。 |
『熱悩が無い!』とは、
『熱悩』には、
『二種有り!』、
『身の悩(なやみ)と!』、
『心の悩である!』。
『身の悩』とは、
『繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等』の、
『悩であり!』、
『心の悩』とは、
『婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒の因縁』の故に
『生じる!』、
『憂愁、怖畏等である!』。
此の、
『仏法』中には、
『身』が、
『持戒して!』、
『清浄である!』が故に、
是の、
『繋縛、牢獄、拷掠、刑戮等』の、
『悩』が、
『無く!』、
『心』が、
『五欲( 色声香味触)を離れ!』、
『五蓋( 貪欲、瞋恚、惛沈、掉挙、疑)を除いて!』、
『実の道』を、
『得る!』が故に、
是の、
『婬欲、瞋恚、慳貪、嫉妒、邪疑』等の、
『悩』が、
『無いのである!』が、
是れ等の、
『悩が無い!』が故に、
『熱くなる!』ことも、
『無いのである!』。
|
拷掠(こうりゃく):拷問に同じ。
刑戮(ぎょうりく):刑罰に同じ。
五蓋(ごがい):五種の障蓋の義。即ち煩悩中、蓋の義あるものを立てて貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉挙悪作蓋、疑蓋の五種に分類せるを云う。『大智度論巻19下注:五蓋』参照。 |
|
|
|
復次無漏禪定。生喜樂遍身受故諸熱則除。譬如人大熱悶得入清涼池中。冷然清了無復熱惱。 |
復た次ぎに、無漏の禅定は、喜楽を生じて、遍身に受くるが故に、諸熱則ち除(のぞ)こる。譬えば人、大熱に悶ゆるに、清涼なる池中に入るを得れば、冷然清了として、復た熱悩無きが如し。 |
復た次ぎに、
『無漏の禅定』の、
『生じる!』、
『喜楽』を、
『遍身(全身)に!』、
『受ける!』が故に、
諸の、
『熱』も、
『除かれることになる!』。
譬えば、
『大熱』に、
『悶えていても!』、
『清涼な!』、
『池』中に、
『入ることができれば!』、
即ち、
『冷たくなって!』、
『清々しくなり!』、
復た( もう)、
『熱に悩まされる!』ことも、
『無くなるようなものである!』。
|
大熱(だいねつ):最も炎暑の時季を云う。熱帯の堪え難き暑さ等。
冷然(りょうねん):涼しいさま。
清了(しょうりょう):清々しくなった。 |
|
|
|
復次諸煩惱。若屬見若屬愛是名熱。佛法中無此故名無熱惱。 |
復た次ぎに、諸の煩悩は、若しは見に属し、若しは愛に属し、是れを熱と名づく。仏法中には、此無きが故に、熱悩無しと名づく。 |
復た次ぎに、
諸の、
『煩悩』は、
『愛』か、
『見』に、
『属す!』ので、
是れを、
『熱くなる!』と、
『称するのである!』が、
『仏法』中に、
此の、
『愛、見』を、
『無くする!』が故に、
『熱に悩まされる!』ことが、
『無い!』と、
『称するのである!』。
|
|
|
|
|
不待時者。佛法不待時而行。亦不待時與果。外道法日未出時受法。日出時不受法。或有日出時受。日未出不受。有晝受夜不受。有夜受晝不受。 |
時を待たずとは、仏法は時を待たずに行じ、亦た時を待たずに果を与うればなり。外道の法は、日未だ出でざる時に法を受け、日の出づる時に法を受けず。或は日の出づる時に受けて、日未だ出でざれば受けざる有り、昼に受けて夜に受けざる有り、夜に受けて昼に受けざる有り。 |
『時を待たない!』とは、
『仏』の、
『法』は、
『時を待たずに!』、
『何時でも!』、
『行うことができ!』、
亦た、
『時を待たずに!』、
『果』を、
『与える!』が、
『外道』の、
『法』は、
未だ、
『日が出ていない!』時に、
『法』を、
『受け!』、
『日が出ている!』時には、
『法』を、
『受けない!』とか、
或は、
有る、
『法』は、
『日』が、
『出ている!』時に、
『受けて!』、
『日』が、
『出ていなければ!』、
『受けない!』とか、
有るいは、
『昼』に、
『受けて!』、
『夜』には、
『受けない!』とか、
有るいは、
『夜』に、
『受けて!』、
『昼』には、
『受けないからである!』。
|
|
|
|
|
佛法中無受待時。隨修八聖道時便得涅槃。譬如火得薪便然。無漏智慧生時。便能燒諸煩惱不待時也。 |
仏法中には、受くるに時を待つこと無く、八聖道を修する時に随いて、便(すなわ)ち涅槃を得。譬えば、火の薪を得れば、便ち然(も)ゆるが如く、無漏の智慧生ずる時、便ち能く諸の煩悩を焼いて、時を待たず。 |
『仏』の、
『法』中には、
『受ける!』のに、
『時を待つ!』ことは、
『無く!』、
『八聖道( 正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定)を修める!』、
『時』の、
『流れ!』に、
『随って!』、
『間もなく!』、
『涅槃』を、
『得ることになる!』。
譬えば、
『火』が、
『薪を得れば!』
『間もなく!』、
『燃えるように!』、
『無漏の智慧』が、
『生じる!』、
『時』に、
『随って!』、
『間もなく!』、
『諸の煩悩』を、
『焼くのであるから!』、
則ち、
『時』を、
『待つことがないのである!』。
|
八聖道(はっしょうどう):正しく涅槃を求趣するに八種の道支あるを云う。謂わゆる正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定なり。『大智度論巻18上注:八正道』参照。 |
|
|
|
問曰。如佛說。有時藥時衣時食。若人善根未熟待時當得。何以言無時。 |
問うて曰く、仏の説きたまえるが如きは、『時薬、時衣、時食有り』、『若し人、善根未だ熟さざれば、時を待って当に得べし』、となり。何を以ってか、『時無し』、と言う。 |
問い、
例えば、
『仏』は、
『時薬、時衣、時食』が、
『有る!』と、
『説かれた!』し、
若し、
『人』の、
『善根』が、
『熟していなくても!』、
『時を待てば!』、
『得ることになる!』とも、
『説かれている!』。
何故、
『時は無い!』と、
『言うのですか?』。
|
時薬(じやく):十誦律に依れば、食時に取る薬の意なるが如し。
時衣(じえ):安居後の一ヶ月(凡そ七月十六日至八月十五日)を衣時といい、正規には比丘はこの中に於いて、僧伽の配分を受けたり、在家の施与を受けて、今後一年間に要する三衣を整えるべきであり、是れを時衣という。それ以外は非時衣といい、特別の事情が無ければ得ることができない。
時食(じじき):日の出から正午までの間に唯一食するのが比丘の作法であり、それ以外の時に食するを非時食と呼んで特別の事情のあるときに限って許される。 |
参考:『十誦律巻25医薬法』:『佛言。若不自乞檀越施應受。從今日聽僧服四種藥。何等四種藥。一時藥。二時分藥。三七日藥。四盡形藥。時藥者。五種佉陀尼五種蒲闍尼五似食。何等五種佉陀尼。一根食。二莖食。三葉食。四磨食。五果食。何等根食。芋根蔙根藕根蘆蔔根蕪菁根。如是等種種根可食。何等莖食。蘆蔔莖穀梨莖羅勒莖柯藍莖。如是等種種是莖佉陀尼。何等葉食。蘆蔔穀梨葉羅勒葉柯藍葉。如是等種種葉可食。是葉佉陀尼。何等磨食。稻大麥小麥。如是等種種。是磨佉陀尼食。何等果食。菴羅果閻浮果波羅薩果鎮頭佉果那梨耆羅果。如是等種種。是果佉陀尼。何等五種蒲闍尼食。一飯二糗三糒四魚五肉。如是五種蒲闍尼食。何等五種似食。糜粟穬麥莠子迦師如是等種種。是名似食。未漉漿汁。是名時藥。時分藥者。若淨漉漿汁。是名時分藥。七日藥者。若酥油蜜石蜜。是名七日藥。盡形藥者。五種根藥。何等五種。一舍利。二薑。三附子。四波提毘沙。五菖蒲根。是藥盡形壽共房宿無罪。五種果藥。呵梨勒。鞞醯勒。阿摩勒。胡椒。蓽芺羅。盡形壽共房宿。有五種鹽。黑鹽紫鹽赤鹽鹵土鹽白鹽。盡形壽共房舍宿。有五種樹膠藥。興渠薩闍羅茶帝夜帝夜波羅帝夜槃那。盡形壽共房宿。五種湯。根湯莖湯葉湯華湯果湯。盡形壽共房宿。是四種藥。時藥時分藥七日藥盡形藥。若即日受時藥時分藥七日藥盡形藥。若和合一處。此藥時應服。非時不應服。時藥力故。若即日受時分藥七日藥盡形藥。是藥和合一處。是藥應時分服。過時分不應服。時分藥力故。若即日受七日藥盡形藥。是藥和合一處。七日應服。過七日不應服。七日藥力故。盡形藥隨意服。若即日受時藥不淨。受時分藥七日藥盡形藥。和合一處不應服。即日受時分藥不淨。受七日藥盡形藥。和合一處不應服。即日受七日藥不淨。受盡形藥。和合一處。不應服。長老優波離問佛。是三種藥。時分藥七日藥盡形藥。是三種藥。舉宿得口受不。佛言。不得。是三種藥。惡捉得口受不。佛言。不得。是三種藥。手受口受。不病得服不。佛言。不得。是三種藥。手受口受。病得服不。佛言得』
参考:『十誦律巻55』:『云何名時衣。答若夏末月得衣物。是名時衣。』
参考:『十誦律巻13九十波逸提』:『佛以種種因緣訶責。云何名比丘。非時入白衣家乞食。佛言。若比丘非時入白衣家。何但得如是過罪。當復更得過於是罪。從今諸比丘應一食。』 |
|
|
答曰。此時者隨世俗法。為佛法久住故。結時戒。若為修道。得涅槃及諸禪定智慧微妙法不待時也。諸外道法皆待時節。佛法但待因緣具足。若雖持戒禪定。而智慧未成就不能成道。若持戒禪定智慧皆成就便得果。不復待時。 |
答えて曰く、此の時は、世俗の法に随いて、仏法の久住せんが為の故に、時戒を結びたまえばなり。若し道を修して、涅槃、及び諸の禅定、智慧、微妙の法を得んが為めなれば、時を待たざるなり。諸の外道の法は、皆時節を待つも、仏法は但だ因縁の具足するを待つ。若し、持戒、禅定ありと雖も、而るに智慧未だ成就せざれば、道を成ずる能わず。若し持戒、禅定、智慧、皆成就すれば、便ち果を得て、復た時を待たず。 |
答え、
此の、
『時』は、
『世俗』の、
『法』に、
『随いながら!』、
『仏法』を、
『久しく!』、
『住めようとされた!』が故に、
『時に関する!』、
『戒』を、
『結ばれたのである!』。
若し、
『道を修めて!』、
『涅槃』や、
『諸の禅定、智慧など!』の、
『微妙の法』を、
『得るのであれば!』、
則ち、
『時』を、
『待つことはない!』。
諸の、
『外道』の、
『法』は、
皆、
『時節』を、
『待って!』、
『得るものである!』が、
『仏』の、
『法』は、
但だ、
『因縁』の、
『具足する!』のを、
『待つだけである!』。
若し、
『持戒、禅定が有っても!』、
『智慧』を、
『成就していなければ!』、
則ち、
『道』を、
『成就することができない!』し、
若し、
『持戒、禅定、智慧』が、
皆、
『成就していれば!』、
間もなく、
『果』を、
『得られるので!』、
復た、
『時』を、
『待つことはない!』。
|
時戒(じかい):時薬、時衣、時食等、時に関する戒律の意。 |
|
|
|
復次久久得果名為時。即得不名時。譬如好染一入便成。心淨人亦如是。聞法即染得法眼淨。是名不待時。 |
復た次ぎに、久久にして果を得るを名づけて、時と為すも、即ち得るを、時と名づけず。譬えば好染の一たび入れば、便ち成ずるが如し。心浄き人も亦た是の如く、法を聞けば即ち染まりて、法眼の淨なるを得、是れを時を待たずと名づく。 |
復た次ぎに、
『長時にして!』、
『果を得れば!』、
『時』と、
『呼ばれる!』が、
『即時に!』、
譬えば、
『好い染料』は、
『一度!』、
『入っただけで!』、
『間もなく!』、
『染め!』が、
『完成するように!』、
『心の浄い人』も、
是のように、
『法』を、
『聞くだけで!』、
『法』の、
『眼』を、
『浄めることができる!』ので、
是れを、
『時』を、
『待たない!』と、
『称するのである!』。
|
好染(こうせん):好い染液の意。
法眼浄(ほうげんじょう):梵語dharmacakSu- vizuddhaの訳。法眼の清浄なるを云う。又浄法眼、或いは清浄法眼とも称す。即ち四聖諦の法に於いて疑惑する所なく正しく其の理を知見するを云う。「長阿含経巻13」に、「爾の時に世尊、婆羅門の心已に調柔し、清浄無垢にして道教を受くるに堪うるを知り、諸仏の常法の如く、苦聖諦、集聖諦、苦滅聖諦、苦出要諦を説く。時に婆羅門即ち座上に於いて遠塵離垢して法眼浄dhamma-
cakkhuを得たり」と云い、「雑阿含経巻5」に、「那拘羅長者は法眼浄を得たり」と云い、「五分律巻3」に、「仏は其の意を知りて更に為に法を説く、所謂苦集尽道なり。法を聞いて開解し、諸法の中に於いて遠塵離垢して法眼浄を得、法を見、法を得し已る」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻182」に経の文を解し、「此の中、遠塵とは謂わ随眠を遠ざく。離垢とは謂わく纏垢を離る。諸法の中に於いてとは謂わく四聖諦の中に於いてなり。浄法眼を生ずとは謂わく四聖諦を見て浄法眼生ずるなり」と云えり。是れ随眠纏苦を遠離し、正しく四聖諦の理を知見するを法眼浄と名づけたるものにして、即ち見道を指すの意なるを知るべし。又「大毘婆沙論巻66」に、「遠塵離垢して諸法の中に於いて浄法眼を生ずとは前三果を説く。謂わく諸の具縛、及び欲界五品の染を離れ已りて正性離生に入り、浄法眼を生ぜば預流果を得し、若し欲界六七品の染を離れ已りて正性離生に入り、浄法眼を生ぜば一来果を得し、若し欲界乃至無所有処の染を離れ已りて正性離生に入り、浄法眼を生ぜば不還果を得す」と云えり。是れ見道以前に於いて未だ全く惑を断ぜず、或いは又欲界五品の惑を断じ、見道に入りて浄法眼を生ずるものは初果を得し、欲界六七品の惑を断じ、見道に入りて浄法眼を生ずる者は第二果を得し、欲界の九品乃至無所有処の惑を断じ、見道に入りて浄法眼を生ずる者は第三果を証することを説けるものにして、此の中、後の二は即ち超越証に約せるなり。又吉蔵の「維摩経略疏巻4」に、「法眼浄と云うは小乗にも亦た法眼あり、大乗にも亦た法眼あり。小乗の法眼は即ち初果にして、四諦の法を見るを法眼と名づく。大乗の法眼は即ち初地にして、真の無生法を得るが故に法眼浄と云う。(中略)若し五眼の中の法眼は二乗に無き所、唯菩薩にのみ在り」と云えり。是れ小乗に於いては法眼浄を初果とし、大乗に於いては初地となすことを明し、又五眼の中の法眼は大乗の法眼浄にして、二乗は之を具せずとなすの意なり。又「長阿含巻15究羅檀頭経」、「無量寿経巻下」、「四分律巻32」、「注維摩詰経巻1」、「無量寿経義疏巻下」、「大乗義章巻20本」等に出づ。<(望) |
|
|
|
。能到善處者。是三十七無漏道法。能將人到涅槃。譬如入恒河必得至大海。諸餘外道法。非一切智人所說。邪見雜故將至惡處。或時將至天上還墮受苦。皆無常故不名善處。 |
能く善処に到るとは、是れ三十七無漏道法は、能く人を将(ひき)いて、涅槃に到らしむるなり。譬えば恒河に入れば、必ず大海に至るを得るが如し。諸余の外道の法は、一切智の人の所説に非ざれば、邪見雑(まじ)うるが故に、将いて悪処に至り、或は時に将いて、天上に至るも、還って堕して苦を受く。皆無常なるが故に、善処と名づけず。 |
『善処に到らせる!』とは、
是れは、
『三十七品』の、
『無漏』の、
『道法であり!』、
『人を将( ひき)いて!』、
『涅槃』に、
『到らせるからである!』。
譬えば、
『恒河に入れば!』、
必ず、
『大海』に、
『至ることができる!』のと、
『同じである!』。
諸余の、
『外道の法』は、
『一切智の人』の、
『所説ではない!』が故に、
『邪見』が、
『雑(まじ)っており!』、
故に、
『人を将いて!』、
『悪処』に、
『至らせる!』、
或は、
『人を将いて!』、
『天上』に、
『至っても!』、
還( ま)た、
『堕ちて!』、
『苦を受けさせる!』ので、
皆、
『無常であり!』、
故に、
『善処』とは、
『呼ばれない!』。
|
三十七無漏道法(さんじゅうしちむろどうほう):菩提に帰趣する三十七種の法の意。謂わゆる四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道支なり。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。 |
|
|
|
問曰。無有將去者。云何得將至善處。 |
問うて曰く、将(ひ)きいて去る者有ること無くんば、云何が、将いて善処に至るを得る。 |
問い、
若し、
『将( ひ)きいて!』、
『去る!』者が、
『無ければ!』、
何故、
『将( ひき)いて!』、
『善処』に、
『至らせられるのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。雖無將去者。但諸法能將諸法去。無漏善五眾斷。五眾中強名眾生。將去入涅槃。如風吹塵如水漂草。雖無將去者而可有去。 |
答えて曰く、将きいて去る者無しと雖も、但だ諸法は、能く諸法を将いて、去ればなり。無漏の善の五衆は断ずるも、五衆中に強いて衆生と名づけ、将いて去りて、涅槃に入るること、風の塵を吹くが如く、水の草を漂わすが如くして、将きいて去る者無しと雖も、去ること有るべし。 |
答え、
『将きいて!』、
『去る!』者は、
『無い!』が、
但だ、
『諸の法』は、
『諸の法』を、
『将いて!』、
『去らせることができる!』。
『無漏である!』、
『五衆』中に、
強いて、
『衆生』と、
『呼び!』、
是の、
『衆生』を、
『将いて!』、
『去らせ!』、
『涅槃』に、
『入れるのである!』。
譬えば、
『風』が、
『塵』を、
『吹いたり!』、
『水』が、
『草』を、
『漂わせるように!』、
『将きいて!』、
『去る!』者は、
『無い!』が、
而し、
『去ることまでが!』、
『無いとは言えない!』。
|
無漏善五衆(むろぜんごしゅ):四禅所摂の無漏の善の五陰を云う。『大智度論巻20上』参照。 |
|
|
|
復次因緣和合無有作。亦無有將去者。而果報屬因緣不得自在。是即名為去。 |
復た次ぎに、因縁和合に作の有ること無し。復た将かれて去る者有ること無し。而も果報は因縁に属して、自在なるを得ず。是れ即ち名づけて、去ると為す。 |
復た次ぎに、
『因縁の和合』に、
『作( doing )』は、
『無く!』、
亦た、
『将かれて去る!』者も、
『無い!』が、
而し、
『果報』は、
『因縁』に、
『属する!』ので、
『自在ではない!』。
是れを、
|
|
|
|
|
通達無礙者。得佛法印故通達無礙。如得王印則無所留難。 |
通達無礙とは、仏法の印を得るが故に、通達無礙なり。王の印を得れば、則ち留難する所無きが如し。 |
『通達無礙( 通行自由)』とは、
『仏法という!』、
『印(通行手形)を得た!』が故に、
『通達無礙なのである!』。
譬えば、
『王の印を得れば!』、
『留難(拘留)される!』ことが、
『無いようなものである!』。
|
留難(るなん):難題を持ち出して引き止めること。 |
|
|
|
問曰。何等是佛法印。 |
問うて曰く、何等か、是れ仏法の印なる。 |
問い、
是の、
『仏法の印』とは、
『何のようなものですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。佛法印有三種。一者一切有為法。念念生滅皆無常。二者一切法無我。三者寂滅涅槃。 |
答えて曰く、仏法の印に三種有り、一には、一切の有為法は、念念生滅して、皆無常なり。二には、一切の法は無我なり。三には、寂滅は涅槃なり。 |
答え、
『仏法の印』には、
『三種有り!』、
一には、
一切の、
『有為法( 五衆、十二入等)』は、
『念念に(一瞬毎に)!』、
『生、滅する!』ので、
皆、
『無常である!』。
二には、
一切の、
『法( 有為法+無為法)』中に、
『我』は、
『無い(存在しない)!』。
三には、
|
三法印(さんぽういん): 法に於ける三種の印章( three seals of the Dharma )の義。梵語 tri- dRSTi- namitta-
mudraa )の訳、略して三印とも名づく。、即ち仏教の教説として印可せらるる範疇に三種ある( Three aspects of the Buddhist
teaching that clearly distinguish it from non-Buddhist teachings: )を云う。『大智度論巻14上注:三法印』参照。
- 諸行無常 anityaaH sarva- saMskaaraaH :有らゆる事物は無常である( all things are impermanent
)の印、
- 諸法無我 niraatmaanaH sarva- dharmaaH :有らゆる事物は固有の存在を欠く( all things lack inherent
existence (no-self) )の印、
- 涅槃寂静 zaantaM nirvaaNam :而も涅槃とは完全なる無活動を云う( and that nirvaaNa is perfect
quiescence )の印なり。
|
|
|
|
行者知三界皆是有為生滅。作法先有今無今有後無。念念生滅相續相似生故。可得見知。如流水燈焰長風相似相續。故人以為一眾生於無常法中常顛倒故。謂去者是常住。是名一切作法無常印。 |
行者の知るらく、『三界は、皆是れ有為にして生滅なり。作法は先に有りて、今無く、今有りて、後に無く、念念に生、滅し、相続し、相似して生ずるが故に、見知するを得べし。流水、灯焔、長風の如く、相似の相続するが故に、人は以って、一衆生と為し、無常法中に於いて、常顛倒するが故に、『去者は、是れ常住なり』、と謂う。是れを一切作法の無常印と名づく。 |
『行者』は、こう知る、――
『三界』は、
『作法( 有為法)』は、
『先に!』、
『今!』、
『念念に!』、
『相続して!』、
『相似しながら( be alike )!』、
『生じる!』が故に、
是の、
『法』を、
『見、知できるのである!』。
『有為法』は、
譬えば、
『流れる水』や、
『灯の焔』や、
『長い風のような!』、
『相似した!』、
『相続(継続した固体)である!』が故に、
『人』は、
此の、
『相似の相続』を以って、
『一衆生である!』と、
『思い!』、
『無常法』中に、
『常である!』と、
『顛倒する!』が故に、 『去る者( 我)』は、
『常住である!』と、
『謂うのである!』。
是れを、
一切の、
『作法は無常である!』という、
『印』と、
『称する!』。
|
作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting
)、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為,
事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta-dharma,
kRtaka の訳、造られた事物/被造物( Thing that are made; created things; artificial things.
)。◯梵語 karman, kriyaa, dharmaakara の訳、例えば禁酒/浄行等の仏教徒の修行者の行動に伴う日常行為に関する規則/儀礼/行儀作法(
Regulations, protocol, rules of decorum, regarding daily behavior that
are followed by renunciant Buddhist practitioners, such as not drinking
alcohol, not having sex, as well as rules governing salutations and so
forth )。又羯磨と音訳し、受戒等の儀式を遂行すること( To perform ceremonies, such as ordination
ceremonies. )。
相続(そうぞく):梵語 saMtaana の訳、継続した継承( continued succession )の義。継続した固体( continuing
individual existence )、永久・不変・継続的・固有の存在[身体]( Eternal, unchanging continual
individual substance (body) )の意。
相似生(そうじしょう):梵語 sadRza- utpatti の訳、相似して生起する( arises similarly )の義。 |
|
|
|
一切法無我。諸法內無主無作者。無知無見無生者無造業者。一切法皆屬因緣。屬因緣故不自在。不自在故無我我相不可得故。如破我品中說。是名無我印。 |
一切の法に我無しとは、諸法の内に主無く、作者無く、知無く、見無く、生者無く、造業の者無くして、一切の法は、皆因縁に属す。因縁に属するが故に自在ならず。自在ならざるが故に我無し。我相の不可得なるが故なり。『破我品』中に説けるが如し。是れを無我の印と名づく。 |
一切の、
『法』には、
『我』が、
『無い(存在しない)!』とは、――
諸の、
『法の内( 色、受、想、行、識の内)』には、
『主( 神我)、作者( 行為者)、知、見、生者』が、
『無く!』、
『業』を、
『造る者』も、
『無いからである!』。
一切の、
『法』は、
『因縁』に、
『属する!』が故に、
『法』は、
『自在でなく!』、
『自在でない!』が故に、
『我』が、
『無い!』。
即ち、
『我相( 主、自在等)が、
諸の、
『法』中に、
『認識できないからである!』。
例えば、
『破我品』中に、
『説いた通りであり!』、
是れを、
『無我の印』と、
『称する!』。
|
破我品(はがぼん):『大智度論巻12釈法施義』参照。 |
参考:『大智度論巻12』:『問曰。云何我不可得。答曰。如上我聞一時中已說。今當更說。佛說六識。眼識及眼識相應法共緣色。不緣屋舍城郭種種諸名。耳鼻舌身識亦如是。意識及意識相應法。知眼知色知眼識。乃至知意知法知意識。是識所緣法皆空無我生滅故。不自在故。無為法中亦不計我。苦樂不受故。是中若強有我法。應當有第七識識我。而今不爾。以是故知無我。問曰。何以識無我。一切人各於自身中生計我。不於他身中生我。若自身中無我。而妄見為我者。他身中無我亦應於他身而妄見為我。復次若內無我。色識念念生滅。云何分別知是色青黃赤白。復次若無我今現在人識。漸漸生滅。身命斷時亦盡諸行罪福。誰隨誰受。誰受苦樂誰解脫者。如是種種內緣故。知有我。答曰。此俱有難。若於他身生計我者。復當言。何以不自身中生計我。復次五眾因緣生故空無我。從無明因緣生二十身見。是我見自於五陰相續生。以從此五眾緣生故。即計此五眾為我。不在他身以其習故。復次若有神者可有彼我。汝神有無未了而問彼我。其猶人問兔角。答似馬角。馬角若實有可以證兔角。馬角猶尚未了。而欲以證兔角。復次自於身生我故便自謂有神。汝言神遍亦應計他身為我以是故不應言自身中生計我心於他身不生。故知有神。』 |
|
|
問曰。何以故。但作法無常一切法無我。 |
問うて曰く、何を以っての故にか、但だ作法は無常にして、一切法は無我なる。 |
問い、
何故、
但だ、
『作法( 有為法)のみ!』が、
『無常であり!』、
『一切法』は、
『無我なのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。不作法無因無緣故。不生不滅。不生不滅故。不名為無常。 |
答えて曰く、不作法は、無因、無縁なるが故に、不生不滅にして、不生不滅なるが故に、名づけて無常と為さず。 |
答え、
『不作法( 無為法)』は、
『無因、無縁である!』が故に、
『不生、不滅であり!』、
『不生、不滅である!』が故に、
『無常』とは、
『称されないからである!』。
|
|
|
|
|
復次不作法中。不生心著顛倒。以是故不說是無常。可說言無我。有人說。神是常遍知相。以是故說一切法中無我。 |
復た次ぎに、不作法中には、心を生じて著して顛倒せず。是を以っての故に、是れ無常なりと説かざるも、説いて無我なりと言うべし。有る人の説かく、『神は、是れ常にして、遍知の相なり』、と。是を以っての故に説かく、『一切法中に我無し』、と。 |
復た次ぎに、
『不作法』中には、
『著して!』、
『顛倒するような!』、
『心』を、
『生じない!』ので、
是の故に、
是れは、
『無常である!』とは、
『説かない!』が、
是れは、
『無我である!』と、
『説くことはできる!』。
有る人は、こう説いている、――
『神』は、
『常であり!』、
『遍知の相である!』、と。
是の故に、こう説くのである、――
|
神(じん):梵語purSaの訳、又神我とも訳す。数論派二十五諦中の一。即ち知と思を体とせる不変不動の精神的原理にして、独存の見者非作者なるを云う。『大智度論巻4下注:神、巻22上注:数論』参照。
数論(すうろん):梵語僧佉saaMkhyaの訳。又僧企耶に作り、数術、或いは制数論とも訳す。数に基づく論の意。外道四執の一。二十種外道の一。又雨衆外道とも称す。即ち迦毘羅kapilaの唱道せし学派を云う。其の名称に関しては、「百論疏巻上之中」に、「僧佉とは此に制数論と云う。一切の法を明すに二十五諦を出でざるが故なり。一切法を二十五諦の中に摂入するを名づけて制数論と為す」と云い、「成唯識論述記巻1末」に、「梵に僧佉と云う。此に翻じて数と為す。即ち智慧の数なり。数は諸法を度(はか)る根本なれば立てて名とす、数より起る論なれば名づけて数論と為す。論能く数を生ずれば亦た数論と名づく。其の数論を造り、及び数論を学ぶものを数論者と名づく」と云えり。是れ智慧分別に依る計数を数の義とし、此の数に基づく論なるが故に名づけて数論となすの意なり。蓋し此の派の学説が遠く古優波尼沙土に淵源することは疑を容れざる所なるも、迦毘羅の一派創唱は恐らく仏滅以後に在るべし。「仏所行讃巻3阿羅藍鬱頭藍品」に、「爾の時、阿羅藍は太子の所問を聞き、自ら諸の経論を以って略して其れが為に解説し、汝は是れ機悟の士、聡中の第一なり。今当に我が説を聴くべしと。(中略)迦毘羅仙人及び弟子眷属は、此の我が要義に於いて修学して解脱を得たり。彼の迦毘羅とは今の波闍波提なり」と云い、「仏本行集経巻22問阿羅邏品」、「過去現在因果経巻3」等に出す所亦た之に同じ。是れ釈尊出家学道の時、阿羅藍araDaに就きて数論の説を学せられたりとなすなり。又近時泰西学者の間に仏教十二因縁の教旨が数論の二十五諦説に類似し、其の他苦観等の類同あるを指摘し、凡べて之を本学派より受けたる影響なりと断じ、亦た其の成立を仏教以前に置かんとするものありと雖も、原始仏典に多く数論の名声並びに其の学説を出さざるを以って見るに、本学派は仏陀以後に於いて興起せるものとなすべきが如し。但し「仏所行讃」等に出せる伝説は、単に仏陀の博学を証せんとするの意に外ならずと解するを得べく、又二十五諦を以って十二因縁説の根基となすが如きも未だ的確ならざるものありというべし。迦毘羅以後の伝承に関しては、「金七十論巻下」に、「弟子次第し来たりて大師の智を伝受すとは、是の智は迦毘羅より来、阿修利に至り、阿修利は般尸訶に伝与し、般尸訶は褐伽に伝与し、褐伽は優楼佉に伝与し、優楼佉は跋婆利に与え、跋婆利は自在黒に伝与す。是の如く次第して自在黒は此の智を得、大論の受持すべきこと難きを見、故に略して七十偈を抄す」と云い、又「迦毘羅仙人は阿修利の為に略説すること此の如し。最初に唯暗生じ、此の闇の中に智田あり、智田は即ち是れ人なり。人あるも未だ智あらず、故に生して田と為す。次に廻転変異す。此れ第一転の生なり、乃至解脱すと。阿修利仙人は般尸訶の為に略説すること亦た是の如し。是の般尸訶は広く此の智を説きて六十千偈あり。次第して乃ち婆羅門の姓は拘式、名は自在黒に至りて抄集して七十偈を出す」と云えり。是れ迦毘羅より阿修利aasuriに、阿修利より般尸訶paJcazikhaに伝え、般尸訶は其の義を広説して六十千偈となし、更に褐伽garga、優楼佉uluuka、跋婆利を経て自在黒iizvarakRSNaに至り、更に之を略説して七十偈となせりとなすの意なり。此の中、般尸訶は迦毘羅の説を敷衍し、本学派を発展せしめたる師にして六十千偈を出すと云うに依れば既に経を作りしことを知るべく、現に又「外典章疏」中に其の言として十数種の断片を出せり。又マハーブハーラタmahaabhaarata中には般尸訶の前後に於いて行われたりと認むべき数論の説を出し、「仏所行讃巻3」、「大荘厳論経巻1」、「大智度論巻70」、「外道小乗涅槃論」等にも亦た其の後に於ける学説を載せり。此等の文献に依るに当時本学派中には、神我自性の二元の外に別に最高原理として梵を認めんとする有神的立論あり、又二十五諦転変の次第に関しても、数種の類型ありて未だ一定せざりしが如し。即ち「外道小乗涅槃論」に、「第十四外道僧佉論師は説く、二十五諦の自性は因にして諸の衆生を生ず、是れ涅槃の因なり。自性は是れ常なるが故に自性より大を生じ、大より意を生じ、意より智を生じ、智より五分を生じ、五分より五知根を生じ、五知根より五業根を生じ、五業根より五大を生ず」と云える如き其の例なり。後自在黒出づるに及び、再び伝承の教義を改革整理し、新に僧佉頌saaMkhya-
kaarikaaを作り、一元論を排して二元論を採用し、茲に本学派は確立するに至れり。天親の作と伝うる長行釈と共に真諦によりて訳出せらる。是れ所謂「金七十論」なり。爾来支那及び本邦に於いて外道の最なるものとして広く学習せられ、又印度に於いても其の後盛んに行われ、近時は之を印度六派哲学の随一となしつつあり。其の所立の宗義は二十五諦を立てて万有の生成転変を説くに在り。二十五諦とは、一に自性prakRti、二に覚buddhi、三に我慢ahaGkaara、四に五知根paJca-
jJaaneendriya、五に五作根paJca- karmeendriya、六に心根manas、七に五唯paJca- tanmaatra、八に五大paJca-
mahaabhuuta、九に神我purSaなり。此の中、神我とは知と思を体とせる不変不動の精神的原理にして、独存の見者非作者なるを云い、自性とは非変異avyakta、或いは勝因pradhaanaとも称し、即ち物質的原理にして、薩埵sattva、羅闍rajas、多磨tamasの三徳が尚お平衡状態に在り、後発して一切の諸法を展開すべき体質たるものを云う。此の二は宇宙生成の根本原理にして、若し一たび此の両者結合せば、譬えば盲人(自性)の跛者(神我)と合して所在に至るが如く、自性は神我の知に依りて三徳の平衡を失し、次第に転変して二十三諦を生ず。即ち初に先づ覚を生じ、三徳の分化更に進むに従って次第に覚は我慢を生じ、我慢は一に十一根を生じ、又別に五唯を生じ、五唯は更に五大を生じて総じて二十五諦となり、宇宙万象初めて備わるとなすなり。就中、覚は又大mahatとも称し、即ち彼此を知覚する決智を云う。之に法、智慧、離欲、自在、及び非法、非智、愛欲、不自在の八分あり。前の四は薩埵の相にして、此の分増長せば遂に解脱に至る。後の四は多磨の相にして、此の分増長せば漸次向下して我慢等を生ず。我慢とは我が声、我が触、乃至我が福徳として愛する我執の謂にして、之に変異我慢vaikRtaahaGkaara、大初我慢bhuutaady-
a.焔熾我慢taijasaa.の三種あり。変異我慢とは覚の中の薩埵の増長によりて生ぜしものにして、能く十一根を生ずるものを云い、大初我慢とは覚の中の多磨の増長に依りて生ぜしものにして、能く五唯五大を生ずるものを云い、焔熾我慢とは、覚の中の羅闍の増長によりて生ぜしものにして、之に十一根を生ずると、五唯五大を生ずるとの両種あり。次に我慢より生ずるものの中、五唯は五六を生ずる功能ある純粋無雑の原質を称したるものにして、即ち声触色味香の五種なり。就中、声唯は能く空大を生じ、触唯は風大を生じ、色唯は火大を生じ、味唯は水大を生じ、香唯は地大を生ず。十一根とは耳皮眼舌鼻の五知根と、舌手足男女大遺の五作根と、及び心根とを云う。此の中、五知根は能く五唯を取るものにして、即ち耳根は声を取り、皮根は触を取り、眼根は色を取り、舌根は味を取り、鼻根は香を取る。五作根は能く諸事を作すものにして、即ち舌根は言語を作し、手根は執持を作し、足根は行歩を作し、男女根は戯楽を作し、及び児を生み、大遺根は糞穢を除棄す。又心根は能分別を体となし、之に二種を分つ。即ち若し知根と相応するものは之を知根と名づけ、作根と相応するものは之を作根と名づくなり。二十五諦の中、若し変異の有無に就いて之を分別せば、第一自性は唯本にして変異に非ず、第二十五神我は本に非ず変異に非ず。中間の二十三諦は凡べて皆変異なり。但し其の中、覚と我慢及び五唯の七諦は本にして亦た変異、十一根及び五大の十六諦は唯変異にして本に非ざるなり。「金七十論疏巻上」には、数論は総じて二十五諦を以って宗となすも、別を談ぜば諸法常宗、従縁顕了宗、因中有果宗、因果体用同一宗の四宗の別ありとなせり。就中、諸法常宗とは外道十六宗中の第五にして、即ち数論は別して此の宗に属すべきことを指摘せるなり。「大乗法苑義林章巻1本」に、「諸法皆常宗とは、謂わく伊師迦(僧佉の喩名)は計す、我及び世間は皆是れ常住なりと。即ち全常一分常等を計す」と云える是れなり。従縁顕了宗とは外道十六宗中の第二にして、即ち前引「大乗法苑義林章」の連文に「従縁顕了宗とは、謂わく即ち僧佉及び声論者なり、僧佉師は計す、一切法の体は自性本有なり。衆縁に従って顕れ、縁の所生には非ず。若し縁顕すに非ずんば果は先より是れ有なるべし。復た因より生ぜば道理に応ぜず」と云える是れなり。因中有果宗とは亦た外道十六宗中の第一にして、即ち「義林章」の連文に、「因中有果宗とは、謂わく雨衆外道執す、諸法の因中に常に果の性あり。禾は穀を以って因と為すが如き、禾を求めんと欲する時は唯穀を種ゆ。禾は定んで穀より生じ、麦より生ぜず。故に穀の因中に先より已に禾の性あることを知る。爾らざれば一切は一切法より生ずべし」と云える是れなり。因果体用同一宗とは外道四執中の第一にして、即ち一切法一と計するを云う。「外道小乗四宗論」に、「僧佉外道言わく、我と覚との二法は是れ一なり。何を以っての故に、二相の差別は得べからざるが故なり。問うて曰わく、如何が二相の差別得べからざる。答えて曰わく、牛と馬との異法の如きは、二相の差別見るべく取るべく、此れは是れ牛、此れは是れ馬なりと言うべし。而るに我は覚を離れば我得べからず、我を離れば覚得べからず。我が経の中に説くが如し、我と覚との体相は火と熱との如し、二法の差別は得べからずと。問うて曰わく、如何が差別得べからざるや。答えて曰わく、彼の法は異と説くべからざるが故なり。譬えば白畳の如く、此れは是れ白、此れは是れ畳と語言すべからず。二法の差別は白畳の如く、一切法の因果も亦た是の如し」と云える是れなり。蓋し数論は外道中最も有力なる学派にして随って仏典中其の説を破せるもの少なからず。「大智度論巻70」、「百論」、「外道小乗四宗論」、「瑜伽師地論巻6」、「仏性論巻1」、「入大乗論巻上」、「成唯識論巻1」等に其の諸法常住、計我及び因中有果等の説を難斥せる如き即ち是れなり。又「大般涅槃経巻16、39」、「同疏巻32」、「方便心論」、「成実論巻3」、「顕揚聖教論巻9」、「随相論」、「梁訳摂大乗論釈巻2」、「十八空論」、「婆藪槃豆法師伝」、「大乗義章巻6」、「摩訶止観巻10之1」、「法華文句巻8之3」、「三論玄義」、「中観論疏巻1末」、「百論疏巻中之上、下之上」、「成唯識論述記巻4末」、「同了義灯巻2本」、「同演秘巻1末」、「同同学鈔巻1之7」、「因明入正理論巻中本」、「因明論疏瑞源記巻4」、「倶舎論光記巻3、11、13」、「同宝疏巻11」、「大慈恩寺三蔵法師伝巻4」、「玄応音義巻11」、「慧琳音義巻47」、「華厳経疏隨疏演義鈔巻13」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望) |
|
注:数論学派(すろんがくは)は、神我は永遠に存在し一切を知っているが、自性という物質的身心を持つことにより、有限の存在になるとする。 |
|
寂滅者是涅槃。三毒三衰火滅故名寂滅印。 |
寂滅とは、是れ涅槃にして、三毒三衰の火滅するが故に寂滅印と名づく。 |
『寂滅』は、
是れが、
『涅槃であり!』、
『三毒(貪瞋癡)、三衰(老病死)の火』が、
『滅する!』が故に、
是れを、
『寂滅の印』と、
『称するのである!』。
|
三衰(さんすい):老病死を云う。 |
|
|
|
問曰。寂滅印中何以但一法不多說。 |
問うて曰く、寂滅印中には、何を以ってか、但だ一法にして、多くを説かざる。 |
問い、
『寂滅の印』中には、
何故、
但だ、
『涅槃の一法のみ!』で、
『多く!』を、
『説かないのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。初印中說五眾。二印中說一切法皆無我。第三印中說二印果。是名寂滅印。一切作法無常。則破我所外五欲等。若說無我破內我法。我我所破故。是名寂滅涅槃。 |
答えて曰く、初の印中には五衆を説き、二の印中には一切法の皆無我なるを説き、第三の印中には、二印の果を説いて、是れを寂滅の印と名づく。一切の作法は、無常なれば、則ち我所と、外の五欲等を破る。若し無我を説けば、内の我法を破る。我、我所破るるが故に、是れを寂滅涅槃と名づく。 |
答え、
『初の印』中には、
『第二の印』中には、
『一切の法』は、
『皆、無我である!』と、
『説き!』、
『第三の印』中には、
『上の二印』の、
『果』を、
『説いて!』、
是れを、
『寂滅の印』と、
『称する!』。
一切の、
『作法』が、
『無常ならば!』、
則ち、
『我所、外の五欲(色声香味触)』等が、
『破られ!』、
若し、
『無我である!』と、
『説けば!』、
則ち、
『内法の我』が、
『破られ!』、
『我、我所』が、
『破られた!』が故に、
是れを、
『寂滅、涅槃』と、
『称するのである!』。
|
|
|
|
|
行者觀作法無常。便生厭厭世苦。既知厭苦存著觀主。謂能作是觀。以是故有第二法印。知一切無我。於五眾十二入十八界十二因緣中。內外分別推求觀主不可得。不可得故是一切法無我作如是知已不作戲論。無所依止但歸於滅。以是故說寂滅涅槃印。 |
行者は、作法の無常なるを観るに、便ち厭を生じて、世苦を厭えば、既に厭を知れば、苦は著、観の主に存す。謂わゆる能く、是の観を作すものなり。是を以っての故に、第二の法印有りて、一切は無我なりと知り、五衆、十二入、十八界、十二因縁中に於いては、内、外に分別して、観主を推求するも、不可得なり。不可得なるが故に、是れ一切法の無我なり。是の如く知を作し已りて、戯論を作さざれば、依止する所無く、但だ滅に帰するのみ。是を以っての故に説かく、寂滅涅槃の印なりと。 |
『行者』は、
一切の、
間もなく、
『厭を生じて!』、
『世間の苦』を、
『厭う!』が、
既に、
是の故に、
『第二の法印が有り!』、
一切は、
『無我である!』と、
『知ることになる!』。
即ち、
『五衆、十二入、十八界、十二因縁』中の、
『内、外を分別して!』、
『観主』を、
『推求しても!』、
『得られない(認識できない)!』、
『得られない!』が故に、
是の、
一切の、
『法』中には、
『我』が、
『無い(存在しない)!』と、
是のように、
『知った!』が故に、
『戯論を作さず!』、
『依止する!』所の、
『法』が、
『無くなり!』、
但だ、
『滅』に、
『帰するのである!』。
是の故に、
『寂滅』は、
『涅槃の印である!』と、
『説く!』。
|
|
|
|
|
問曰。摩訶衍中說諸法不生不滅一相所謂無相。此中云何說一切有為作法無常名為法印。二法云何不相違。 |
問うて曰く、摩訶衍中に説かく、『諸法は不生、不滅の一相、謂わゆる無相なり』、と。此の中には云何が、『一切の有為の作法の無常なるを名づけて、法印と為す』、と説いて、二法は云何が相違せざる。 |
問い、
『摩訶衍』中には、
こう説かれている、――
諸の、
『法』は、
『不生、不滅』の、
『一相であり!』、
謂わゆる、
『無相である!』、と。
此の中には、
何故、こう説いて、――
一切の、
『有為の作法』は、
『無常であり!』、
是れを、
『法印』と、
『称する!』、と。
此の、
|
|
|
|
|
答曰。觀無常即是觀空因緣。如觀色念念無常。即知為空。過去色滅壞不可見故無色相。未來色不生無作無用不可見故無色相。現在色亦無住不可見不可分別知故無色相。無色相即是空。空即是無生無滅。無生無滅及生滅其實是一。說有廣略 |
答えて曰く、無常を観れば、即ち是れ空の因縁を観る。色の念念に無常なるを観れば、即ち空と為すを知るが如し。過去の色の滅壊して、見るべからざるが故に、色相無く、未来の色は生ぜざれば、無作、無用にして、見るべからざるが故に色相無く、現在の色も亦た住する無ければ、見るべからず、分別して知るべからざるが故に、色相無く、色相無ければ、即ち是れ空なり。空なれば、即ち是れ無生、無滅なり。無生、無滅なれば、生滅に及ぶまで、其の実是れ一なり。説に広略有り。 |
答え、
『無常を観れば!』、
例えば、
『色』が、
『念念に生、滅して!』、
『無常である!』のを、
『観れば!』、
即ち、
『空である!』と、
『知るのである!』が、
『過去の色』は、
『滅壊しており!』、
『見ることができない!』が故に、
『色相』が、
『無く!』、
『未来の色』は、
『生じていない!』が故に、
『作用する!』ことが、
『無く!』、
『見ることができない!』が故に、
『色相』が、
『無く!』、
『現在の色』も、
『住まる!』ことが、
『無く!』、
故に、
『見ることもできず!』、
『分別して!』、
『知ることができず!』、
故に、
『色相』が、
『無い!』。
則ち、
『過去、未来、現在』に、
『色相が無い!』が故に、
即ち、
是れが、
『空であり!』、
『空ならば!』、
『無生、無滅ならば!』、
『生、滅の実』が、
『一である!』ことにまで、
『及ぶのである!』。
但だ、
『説』に、
『広、略の別』が、
『有るだけである!』。
|
|
|
|
|
問曰。過去未來色不可見故無色相。現在色住時可見。云何言無色相。 |
問うて曰く、過去、未来の色は見るべからざるが故に色相無けれども、現在の色は、住する時に見るべし。云何が色相無しと言う。 |
問い、
『過去、未来の色』は、
『見ることができない!』が故に、
『色相』が、
『無くても!』、
『現在の色』は、
『住まる!』時には、
『見ることができる!』、
何故、
『色相が無い!』と、
『言うのですか?』。
|
|
|
|
|
答曰。現在色亦無住時。如四念處中說。若法後見壞相當知初生時壞相。以隨逐微細故不識。如人著屐。若初日新而無有故。後應常新不應有故。若無故應是常。常故無罪無福。無罪無福故。則道俗法亂。 |
答えて曰く、現在の色にも亦た住する時無し。四念処中に説けるが如く、若し法に、後の壊相を見れば、当に知るべし、初生の時の壊相、随逐するも微細なるを以っての故に識らざるを。人の屐を著くるに、若し初日に新にして、故有ること無ければ、後も応に常に新にして、応に故有るべからざるが如く、若し故無くんば、応に是れ常なるべし。常なるが故に、無罪、無福なり。無罪、無福なるが故に、則ち道俗の法乱れん。 |
答え、
『現在の色』にも、
『住まる!』時は、
『無い!』。
例えば、
『四念処』中に、説いたように、――
若し、
こう知ることになるだろう、――
初めて、
『生じた!』時にも、
『壊相』が、
『随逐していた!』が、
『微細である!』が故に、
此の、
『壊相』を、
『認識しなかったのだ!』、と。
譬えば、
『人の履( は)く!』、
『屐( 下駄)』が、
若し、
『初日に!』、
『新であり!』、
而も、
『故(ふるさ)』が、
『無ければ!』、
『後になっても!』、
『常に!』、
『新であり!』、
当然、
『故』は、
『有るはずがないように!』、
若し、
『現在の色』に、
『故が無ければ!』、
是の、
『色』は、
『常でなくてはならず!』、
『常である!』が故に、
『罪、福』が、
『無く!』、
『罪、福が無い!』が故に、
則ち、
『道、俗の法』が、
『乱れることになる!』。
|
屐(ぎゃく):履物。下駄、足駄、サンダルの類。 |
|
|
|
復次生滅相常隨作法無有住時。若有住時則無生滅。以是故現在色無有住。住中亦無有生滅。是一念中住。亦是有為法故。是名通達無礙。如是應念法。 |
復た次ぎに、生滅の相は、常に作法に随い、住する時有ること無し。若し住する時有れば、則ち生滅無し。是を以っての故に、現在の色に住有ること無し。住中にも亦た生、滅あること無し。是の一念中の住も亦た是れ有為法なるが故なり。是れを通達無礙と名づけ、是の如く、応に法を念ずべし。 |
復た次ぎに、
『生、滅の相』は、
常に、
『作法に随っており!』、
『住まる!』時が、
『無い!』。
若し、
『住まる時が有れば!』、
『生、滅』は、
『無いことになる!』。
是の故に、
『現在の色』には、
『住』が、
『無く(存在せず)!』、
『住』中にも、
『生、滅』は、
『無い!』。
是の、
『一念』中の、
『住』も、
『有為法だからである!』。
是れを、
『通達、無礙』と、
『称し!』、
是のように、
『法』を、
『念じなければならない!』。
|
|
|
|
|
復次法有二種。一者佛所演說三藏十二部八萬四千法聚。二者佛所說法義。所謂持戒禪定智慧八聖道。及解脫果涅槃等。行者先當念佛所演說。次當念法義。 |
復た次ぎに、法には二種有り、一には仏の演説したまえる所の、三蔵、十二部、八万四千の法聚なり。二には仏の所説の法義にして、謂わゆる持戒、禅定、智慧、八聖道、及び解脱果の涅槃等なり。行者は、先に当に仏の演説したもう所を念じて、次に当に法義を念ずべし。 |
復た次ぎに、
『法』には、
『二種有り!』、
一には、
『仏の演説された!』所の、
『三蔵、十二部、八万四千』の、
『法聚(経)であり!』。
二には、
『仏の説かれた!』所の、
『法』の、
『義であり!』、
謂わゆる、
『持戒、禅定、智慧、八聖道』と、
『解脱の果、涅槃等である!』。
『行者』は、
先に、
『仏の演説された!』所の、
『経』を、
『念じて!』、
次に、
『法』の、
『義』を、
『念じなければならない!』。
|
十二部経(じゅうにぶきょう):梵語dvaadazaaGga- buddha- vacanaの訳。又はd.- b.- zaasana、d.- dharma-
pravacana、又十二分経、或いは十二分聖教とも訳す。即ち仏所説の経典を其の内容又は形式の不同によりて十二種に分類せるもの。一に修多羅suutra、二に祇夜geya、三に和伽羅那vyaakaraNa、四に伽陀gaathaa、五に優陀那udaana、六に尼陀那nidaana、七に阿波陀那avadaana、八に伊帝曰多伽itivRttaka、九に闍陀迦jaataka、十に毘仏略vaipulya、十一に阿浮陀達磨adbhuta-
dharma、十二に優波提舎upadezaなり。「雑阿含経巻41」に、「仏二比丘に告ぐ、汝等我が所説たる修多羅、祇夜、受記、伽陀、優陀那、尼陀那、阿波陀那、伊帝目多伽、闍多伽、毘富羅、阿浮陀達摩、優波提舎等の法を持せよ」と云い、「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩は十方諸仏所説の十二部経たる修多羅、祇夜、受記経、伽陀、憂陀那、因縁経、阿波陀那、如是語経、本生経、方広経、未曽有経、論議経を聞かんと欲す。諸の声聞等、聞くと聞かざると尽く誦し受持せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と云える是れなり。此の中、初に修多羅とは経、契経、或いは法本等と訳す。即ち総じては一部一経に名づけ、別しては直説せる長行を云う。二に祇夜とは応頌、又は重頌等と訳す。即ち重ねて頌を以って長行直説の義を説示し、或いは長行中の未了義を補釈宣説するを云う。三に和伽羅那とは授記、授決、又は記別等と訳す。即ち或いは弟子の死生因果を記し、深義を分明に記し、菩薩の後に成仏すべきことを記するを云う。四に伽陀とは頌又は不重頌等と訳す。即ち直に偈を以って其の義を説くを云う。五に憂陀那とは自説、又は無問自説等と訳す。即ち衆の請問を待たず、仏自ら直説するを云う。六に尼陀那とは因縁、又は縁起等とも訳す。即ち衆の請問に応じ、乃至種種の因縁に遇いて説法するを云う。七に阿波陀那とは譬喩、又は解語等と訳す。即ち譬喩を以って法義を説けるを云う。八に伊帝曰多伽とは本事、又は如是語等と訳す。即ち本生を除きて余の前世の有らゆる事を宣説し、或いは結句に如是語ありて其の所説を竟るものを云う。九に闍陀伽とは生又は本生等と訳す。即ち仏の前世に於ける種種の大悲行を説くを云う。十に毘仏略とは方等、又は方広等と訳す。即ち広大平等の理義を宣明するを云う。十一に阿浮陀達磨とは未曽有法、又は希法等と訳す。即ち仏及び諸弟子等の希奇の事を説けるを云う。十二に優婆提舎とは論議、又は義等と訳す。諸法の体性を論議決択して其の義を分別明了ならしむるを云うなり。「大乗義章巻1」に立名の所由を解し、修多羅と祇夜と伽陀とは教体に就き、毘仏略は理、余の八は事に随って名を立つとし、又修多羅は喩に従って名づけ、祇夜と伽陀とは当相に名づけ、優波提舎と授記と優陀那とは体事合せ目し、余の六は事に随って称するものなりと云い、更に闍陀迦と伊帝曰多伽とは唯過去を説き、和伽羅那は未来を説き、方広は理平等なるが故に三世に属せざるも、余の八は皆是れ三世に通ずとなせり。蓋し此の十二部は仏所説の教法を其の理義又は形式上より分類せしものなるが故に、小乗経典中にも之を具すること固より言を俟たず。阿含中に処処に具に十二部の名を出し、又「瑜伽師地論巻21」に、「仏は声聞の為に十二分教を説く」と云える皆其の証なり。然るに「法華経巻1方便品」には声聞の九部経として、修多羅、伽陀、本事、本生、未曽有、因縁、譬喩、祇夜及び優波提舎経の九部を挙げ、「大般涅槃経巻5」には、「諸の声聞は慧力あることなきを以って、是の故に如来は為に半字九部経典を説き、而も為に毘伽羅論方等大乗を説かず」と云い、又「同巻18」には、「十一部経には則ち壊滅あるも、方等経典には壊滅あることなし」と云い、「菩薩地持経巻3力種性品」にも、「十二部経は唯方広部のみ是れ菩薩蔵にして、余の十一部は是れ声聞蔵なり」と云えり。是れ小乗経典には、唯九部、又は十一部を存し、方広等は其の中に、具せずとなすの説なり。又「大般涅槃経巻3金剛身品」には、大乗の九部経として、修多羅、祇夜、受記、伽陀、優陀那、伊帝曰多伽、闍陀伽、毘仏略、阿浮陀達磨を出せり。是れ皆方広経を以って大乗菩薩蔵とし、之を中心として其の具欠を分別せるものにして、原初の意に合せざるものありといわざるを得ず。又此の十二部を経律論三蔵に摂するに諸説あり。「瑜伽師地論巻25」には、「是の如き所説の十二分教は三蔵の所摂なり。謂わく或いは素呾䌫蔵の摂あり、或いは毘奈耶蔵の摂あり、或いは阿毘達磨蔵の摂あり。当に知るべし此の中、若し契経、応頌、記別、諷誦、自説、譬喩、本事、本生、方広、希法を説かば是れを素呾䌫蔵と名づく。若し因縁を説かば是れを毘奈耶蔵と名づく。若し論議を説かば是れを阿毘達磨蔵と名づく」と云い、「大乗阿毘達磨集論巻6」には、「是の如き契経等の十二分聖教は三蔵の所摂なり。何等をか三と為す、一には素怛䌫蔵、二に毘奈耶蔵、三に阿毘達磨蔵なり。此れに復た二あり、一に声聞蔵、二に菩薩蔵なり。契経、応頌、記莂、諷誦、自説、此の五は声聞蔵中の素呾䌫蔵の摂、縁起、譬喩、本事、本生、此の四は二蔵の中の毘奈耶蔵并びに眷属の摂、方広と希法、此の二は菩薩蔵中の素呾䌫蔵の摂、論議の一種は声聞菩薩の二蔵の中の阿毘達磨の摂なり」と云い、又「四分律巻54」には凡べて之を経蔵中の雑蔵に摂すと云えり。以って其の異同を見るべし。又新訳家が之を十二分教と訳したるに関し、「大乗法苑義林章巻2本」に、「先徳は翻じて十二部経と為す。但だ部の言義に二種を含むを以ってなり。一には謂わく部袟、二には謂わく部類なり。世人は十二の部袟ありと謂い、経の名も亦た濫じて総別明らめ難し。今翻じて十二分教と為す。分とは類の義、支の義、段の義、教の義なり。前の如きの教に十二の義類と支條と分断との異あるが故に即ち帯数釈なり」と云い、「華厳経疏巻24」にも、「旧には十二部経と名づく。部帙と濫ずるを恐れて改めて分教と名づく」と云えり。又「中阿含巻1善法経」、「巻4五心経」、「巻54阿梨吒経」、「長阿含経巻3、12」、「増一阿含経巻3、21、46、48」、「般泥洹経」、「大集法門経巻上」、「仏臨涅槃記法住経」、「大般涅槃経巻15」、「大悲経巻5教品」、「摩訶摩耶経巻下」、「大宝積経巻37」、「旧華厳経巻12菩薩十無尽蔵品」、「大方等大集教巻22」、「解深密経巻3」、「法滅尽経」、「自在王菩薩経巻下」、「蓮華面経巻下」、「放光般若経巻1放光品」、「菩薩瓔珞本業経巻下釈義品」、「四分律巻1」、「五分律巻1」、「集異門足論巻14、17」、「大毘婆沙論巻126」、「順正理論巻44」、「成実論巻1」、「大智度論巻25、33」、「瑜伽師地論巻81、85」、「顕揚聖教論巻6、12」、「大乗阿毘達磨集論巻5、11」、「涅槃経集解巻36」、「大智度論疏巻14」、「法華経玄義巻1下、6上」、「大乗玄論巻5」、「大般涅槃経義記巻2」、「華厳経孔目章巻2」、「華厳経隨疏演義鈔巻46」等に出づ。<(望) |
|
十二部経:(1)修多羅(しゅたら):契経(かいきょう)、経典中直に法義を説く長行の文。契経とは、理に契(かな)い機(き、衆生)に契う経典をいう。(2)祇夜(ぎや):応頌(おうじゅ)、重頌(じゅうじゅ)、前の長行の文にその義の宜しきを説く偈(げ、詩文)を重ねたもの。(3)伽陀(かだ):諷頌(ふじゅ)、長行に依らず、直に偈を説くもの。(4)尼陀那(にだな):因縁(いんねん)、縁起(えんぎ)、経中に仏を見、法を聞く因縁、及び仏の法を説き教化する因縁の処を説く。諸経の序品の如きもの。因縁経。(5)伊帝目多伽(いていもくたか):本事(ほんじ)、如是語(にょぜご)、仏弟子の過去世の因縁の経文。法華経中の薬王菩薩本事品の如きもの。(6)闍多伽(じゃたか):本生(ほんしょう)、仏が自身の過去世の因縁を説く経文。(7)阿浮陀達摩(あぶだだつま):未曾有(みぞう)、仏の現す種種の神力、不思議の事を説く経文。(8)阿波陀那(あはだな):譬喩(ひゆ)、経中の譬喩を説く処。(9)優波提舎(うはだいしゃ):論議(ろんぎ)、法理を以って論議問答する経文。(10)優陀那(うだな):自説(じせつ)、無問(むもん)、仏の自説の経文。阿弥陀経の如きもの。(11)毘仏略(びぶつりゃく):方等(ほうどう)、方広(ほうこう)、広大平等の理義を宣明する経文。(12)和伽羅那(わからな)、授記(じゅき)、菩薩が成仏の記を受ける経文。この十二部中の修多羅、祇夜、伽陀の三者は経文上の体裁をいい、その他の九部はその経文に記載された別事に従って名を立てるものである。『大智度論巻第33』参照。 |
|
念佛所演說者。佛語美妙皆真實有大饒益。佛所演說亦深亦淺。觀實相故深。巧說故淺。重語無失各各有義故。 |
仏の演説したもう所を念ずとは、仏の語は、美妙にして、皆真実なれば、大饒益有り。仏の演説したもう所は、亦た深く、亦た浅くして、実相を観るが故に深く、巧説したもうが故に浅し。語を重ねたもうも、失無く、各各義有るが故なり。 |
『仏』の、
『演説される!』所を、
『念じる!』とは、――
『仏』の、
『語』は、
『美妙でありながら!』、
皆、
『真実であり!』、
『大饒益が有る!』。
『仏』の、
『演説される!』所は、
『深くもあり!』、
『浅くもある!』が、
『実相』を、
『観る!』が故に、
『深く!』、
『巧みに!』、
『説かれる!』が故に、
『浅く!』、
『語』を、
『重ねられても!』、
『過失ではなく!』、
各各に、
『義が有る!』が故に、
『重ねられるのである!』。
|
|
|
|
|
佛所演說。住四處有四種功德莊嚴。一慧處二諦處三捨處四滅處。有四種答故不可壞。一定答二解答三反問答四置答。 |
仏の演説したもう所は、四処に住して、四種の功徳有りて、荘厳す。一には慧の処、二には諦の処、三には捨の処、四には滅の処なり。四種の答有るが故に壊るべからず、一には定答、二には解答、三には反問答、四には置答なり。 |
『仏の演説される!』所は、
『四処に住まり!』、
『四種』の、
『功徳(勝れた特質)』が、
『荘厳している!』。
『四処』とは、
即ち、
一には、
『慧( 道の智慧)』の、
『処』に、
『住まり!』、
二には、
三には、
『捨( 布施/出家)』の、
『処』に、
『住まり!』、
四には、
『四功徳』とは、
『仏の所説』には、
『四種の答が有る!』が故に、
『破壊することができない!』、
|
四処(しじょ):仏心の存する処に四種あるを云う。謂わゆる一に諦処、二に捨処、三に滅処、四に慧処なり。此れに就き、「十住毘婆沙論巻9」に、「又念ず、諸仏は是れ大願者にして、大悲を成就して断絶せず、大慈を具足して深く衆生を安んじ、大喜を行じて一切の願を満たし、捨心を行じて憎愛を捨離し、衆生を捨てず、諦処に行じて常に欺誑せず、捨処に行じて慳垢を浄除し、善処に行じて其の心善く寂し、慧処に行じて大智慧を得」と云い、又「同巻13」に、「復た四法有りて能く仏道を摂す。一には諦処、二には捨処、三には滅処、四には慧処なり。偈に説くが如し、諦捨定具足し、慧利清浄を得て、精進して仏道を求む。当に此の四法を集むべし」と云える是れなり。蓋し此の中に就き、諦処とは所説の法の如実に了義にして、常に欺誑なきを云い、捨処とは慳垢を浄除して心に慳貪なきを云い、滅処とは又善処とも称し、禅定に住して其の心の寂静安穏なるを云い、慧処とは邪見を除きたる心は平等にして、諍論の事なきを云うなり。
四種答(ししゅとう):仏の質問に対する返答には四種の別有るの意。即ち決了答、解義答、反問答、置答なり。又四記とも称す。『大智度論巻2、26、巻35下注:四記』参照。
功徳(くどく):梵語 guNa の訳、弓の弦( bow string )の義、品質/特質/特性/特色( a quality, peculiarity,
attribute or property )等の義、高潔な性質、又は賢人の勝れた特質( the virtuous qualities, or
superior traits of a sage )の意。 |
|
|
|
佛所演說或時聽而遮。或時遮而聽。或聽而不遮。或遮而不聽。此四皆順從無違。 |
仏の演説したもう所は、或は時に聴(ゆる)し、而も遮し、或は時に遮して、而も聴し、或は聴して、而も遮せず、或は遮して、而も聴さず。此の四は、皆順従にして、違うこと無し。 |
『仏』の、
『演説される!』所は、
或時には、
『善を聴( ゆる)す!』ことで、
『悪』を、
『遮り!』、
或時には、
或は、
或は、
此の、
『四』には、
皆が、
『順従( yield to )して!』、
『違反しない!』。
|
聴(ちょう):ゆるす/許可すること。
遮(しゃ):比丘の為に禁戒を結んで、悪行を遮止すること。遮制。
順従(じゅんじゅう):従順。したがう。
違(い):たがう。戒に違背すること。犯戒。 |
|
|
|
佛說得諸法相故無戲論。有義理說故破有無論。 |
仏の説は、諸法の相を得るが故に、戯論無し。義理有る説の故に、有無の論を破す。 |
『仏』の、
『説( 所説)』は、
諸の、
『法の相( 実相)を得る!』が故に、
『戯論する!』ことが、
『無く!』、
『義理の有る説である!』が故に、
『有、無の論』を、
『破る!』。
|
|
|
|
|
佛演說隨順第一義。雖說世間法亦無咎。與二諦不相違故。隨順利益。說於清淨人中為美妙。於不淨人中為苦惡。於美語苦語中亦無過罪。 |
仏の演説は、第一義に随順すれば、世間の法を説くと雖も、亦た咎無く、二諦と相違せざるが故に、利益に随順す。清浄人中に於いては、為に美妙を説き、不浄人中に於いては、為に苦悪なるも、美語、苦語中に於いて、亦た過罪無し。 |
『仏の演説』は、
『第一義に随順する!』ので、
『世間』の、
『法』を、
『説かれたとしても!』、
亦た、
『咎』は、
『無く!』、
『第一義諦』と、
『世諦』との、
『二諦が相違しない!』が故に、
『利益する!』ことに、
『随順する!』。
『仏』は、
『清浄人』中に於いては、
此の、
『不浄人』中に於いては、
此の、
『人』の為に、
『苦悪(にがい)の語』を、
『説かれた!』ので、
『美妙の語』と、
『苦悪の語』と、
『二語を説かれたのである!』が、
亦た、
『過失の罪』は、
『無いのである!』。
|
苦悪(くあく):にがくして不快なること。 |
|
|
|
佛語皆隨善法。亦不著善法。雖是垢法怨家亦不以為高。雖種種有所訶。亦無有訶罪。雖種種讚法亦無所依止。 |
仏の語は、皆善法に随い、亦た善法にも著せず。是れ垢法の怨家なりと雖も、亦た以って高しと為さず。種種に訶す所有りと雖も、亦た訶の罪有ること無く、種種に法を讃ずと雖も、亦た依止する所無し。 |
『仏の語』は、
皆、
『善法』に、
『随いながらも!』、
亦た、
『善法』に、
『著することもなく!』、
是れは、
『垢法( 煩悩法)であり!』、
『怨家である!』と、
『説かれた!』が、
亦た、
『自法を高い!』と、
『思われることもなく!』、
種種に、
『訶責( 叱責)する!』所の、
『語』が、
『有りながらも!』、
種種に、
『自法』を、
『讃じらたが!』、
亦た、
『依止する法』が、
『有るのでもない!』。
|
垢法(くほう):世間法に同じ。外道法。
怨家(おんけ):怨恨を懐く者。
高(こう):たっとい。りっぱ。
訶(か):大声でしかる。呵責。 |
|
|
|
佛言說中亦無增無減。或略或廣。佛語初善久久研求亦善。 |
仏の言説中には、亦た増無く、減無く、或は略し、或は広し。仏の語は、初め善く、久久に研求すれば、亦た善し。 |
『仏』の、
『言説』は、
『増、減する!』ことが、
『無い!』が、
或は、
『略して!』、
『説き!』、
或は、
『広く!』、
『説かれた!』。
『仏』の、
『語』は、
『初めて!』、
『聞いて!』、
『善く(好く)!』、
『久久に!』、
『研究しても!』、
『善い!』。
|
久久(くく):ながい時間。
研求(けんぐ):道理をきわめ求める。研究と探求。 |
|
|
|
佛語雖多義味不薄。雖種種雜語義亦不亂。雖能引人心亦不令人生愛著。雖殊異高顯。亦不令人畏難。雖遍有所到。凡小人亦不能解。 |
仏の語は、多義なりと雖も、味は薄からず、種種に語を雑うと雖も、義は亦た乱れず、能く人心を引くと雖も、亦た人をして、愛著を生ぜしめず、殊異にして、高く顕ると雖も、亦た人をして畏難せしめず、遍く到る所有りと雖も、凡小の人には、亦た解す能わず。 |
『仏』の、
『語』は、
『義』が、
『多い!』が、
亦た、
『味』が、
『薄いこともなく!』、
種種に、
『語』を、
『雑えながらも!』、
亦た、
『義』が、
『乱れることもなく!』、
『人』の、
『心』を、
『引くことができる!』が、
亦た、
『愛著』を、
『生じさせることもなく! 、
『殊異の語』が、
『高く!』、
『顕れてるが!』、
『人』に、
『怖畏させることもなく!』、
『非難させることもなく!』、
『遍く!』、
『有らゆる!』、
『処』に、
『到りながらも!』、
『凡小の人』には、
亦た、
『理解することができない!』。
|
高顕(こうけん):たかくあらわれる。 |
|
|
|
佛語如是有種種希有事。能令人衣毛為豎。流汗氣滿身體戰懼。亦能令諸天心厭聲滿十方六種動地。亦能令人於無始世界所堅著者能令捨。所不堅著者能令樂。 |
仏の語は、是の如く、種種の希有の事有りて、能く人の衣毛をして、為に豎たしめ、汗を流し、気を満たし、身体を戦懼せしむ。亦た能く諸天の心をして、厭声もて十方を満たしめ、六種に地を動かしむ。亦た能く人をして、無始の世界より、堅く著する所の者を、能く捨てしめ、堅く著せざる所の者を能く楽しましむ。 |
『仏』の、
『語』は、
是のように、
種種の、
『希有の事が有り!』、
『人』に、
『鳥肌を立たせ!』、
『汗を流させ!』、
『気を満たして!』、
『身体を戦慄させ!』、
亦た、
『諸天』に、
『心より!』、
『十方』に、
『厭声』を、
『満たさせて!』、
『地』を、
『六種』に、
『動かし!』、
亦た、
『人』に、
『無始の世界より!』、
『堅く!』、
『著する所の者(五欲)』を、
『捨てさせ!』、
『堅く!』、
『著しない所の者(涅槃)』を、
『楽しませる!』。
|
竪(じゅ):よだつ。たつ。堅く立てる。
衣毛(えもう):皮膚を覆う毛。
流汗(るかん):汗をながす。
気(け):活動する力のもと。気力。元気。
戦懼(せんく):おののきおそれる。 |
|
|
|
佛語罪惡人聞之自有罪故憂怖熱惱。善一心精進入道。人聞如服甘露味。初亦好中亦好後亦好。 |
仏の語は、罪悪の人、之を聞かば、自ら罪有るが故に憂怖し、熱悩し、善く一心に精進して、道に入る人聞かば、甘露味を服するが如く、初も亦た好く、中も亦た好く、後も亦た好し。 |
『仏』の、
『語』は、
『罪悪の人』が、
『聞けば!』、
自ら、
『有する罪』の故に、
『憂怖し!』、
『熱悩する!』が、
『善く!』、
『一心に精進して!』、
譬えば、
『甘露味』を、
『服(の)んだように!』、
『初も!』、
『中も!』、
『後も!』、
皆、
『好い!』。
|
|
|
|
|
復次多會眾中。各各欲有所聞。佛以一言答。各各得解。各各自見佛獨為我說。於大眾中雖有遠近。聞者聲無增減。滿三千大千世界乃至十方無量世界。應度者聞。不應度者不聞。譬如雷霆振地。聾者不聞。聽者得悟。如是種種念佛言語。 |
復た次ぎに、多くの会衆中の各各の、所聞有らんと欲するに、仏一言以って答えたまい、各各解を得て、各各自ら、仏の、独り我が為に説きたまえるを見、大衆中に於いて、遠近有りと雖も、聞く者の声に増減無く、三千大千世界、乃至十方の無量の世界を満たし、応に度すべき者は聞き、応に度すべからざる者は聞かず。譬えば雷霆の地を振るわすに、聾者は聴かざるが如く、聴く者は悟ることを得。是の如く種種に仏の言語を念ず。 |
復た次ぎに、
『会に集まった!』、
『多衆』中の、
『仏』が、
『一言』を、
『用いて!』、
『答えられる!』と、
各各は、
『義』を、
『理解することができ!』、
各各は、こう見るのである、――
『仏』は、
独り、
『わたしだけの為に!』、
『説かれているのだ!』。
『大衆』中には、
『遠い!』者も、
『近い!』者も、
『有りながら!』、
『声』は、
『聞く者にとって!』、
『増えもせず!』、
『減りもせず!』、
『三千大千世界』、
『乃至十方の無量の世界』を、
『満たして!』、
『度する!』に、
『相応しい!』者は、
『聞き!』、
『度する!』に、
『相応しからぬ!』者は、
『聞かなかった!』ので、
譬えば、
『雷霆』が、
『地』を、
『振るわしても!』、
『聾者』には、
『聞えない!』のと、
『同じであった!』が、
『聴いた者』は、
『悟り!』を、
『得ることができた!』。
是のように、
種種に、
『仏の言語』を、
『念じるのである!』。
|
会衆(えしゅ):聴法に集会する衆。
欲有(よくう):有ることをねがう。
所聞(しょもん):所問に同じ。聞は問に通ず。
見(けん):まのあたりにする。
雷霆(らいてい):雷鳴のひびき。いかづち。 |
|
|
|
何等是法義信戒捨聞定慧等為道。諸善法及三法印。如通達中說。一切有為法無常。一切法無我。寂滅涅槃。是名佛法義。 |
何等か、是れ法義なる。信、戒、捨、聞、定、慧等、道の為めの諸善法、及び三法印なり。通達中に説けるが如く、一切の有為法は無常にして、一切の法に我無く、寂滅は涅槃なり。是れを仏法の義と名づく。 |
是の、
『法の義』とは、
何のようなものか?――
即ち、
『信、戒、捨、聞、定、慧』等の、
『道の為めの!』、
諸の、
『善法』と、
『三法印である!』。
例えば、
『通達』中に説いたように、――
一切の、
一切の、
『法』には、
『我』が、
『無く!』、
『寂滅』は、
『涅槃である!』。
是れを、
『仏法の義』と、
『称する!』。
|
|
|
|
|
是三印。一切論議師所不能壞。雖種種多有所說。亦無能轉諸法性者。如冷相無能轉令熱。諸法性不可壞。假使人能傷虛空。是諸法印如法不可壞。 |
是の三印は、一切の論議師の壊る能わざる所にして、種種に多くの所説有りと雖も、亦た能く諸法の性を転ずる者無し。冷相を、能く転じて熱ならしむる無きが如く、諸法の性は壊るべからず。仮令(たとい)、人能く虚空を傷つくとも、是の諸の法印は、如法に壊るべからず。 |
是の、
『三印』は、
一切の、
『論議師』に、
『壊られることはなく!』、
種種に、
『多く!』の、
『所説』が、
『有ったとしても!』、
亦た、
『諸法の性』を、
『転じることのできる!』者は、
『無いのである!』。
譬えば、
『冷相』を、
『熱相に転じられる!』者が、
『無いように!』、
『諸法の性』は、
『壊られないのであり!』、
仮令(たとい)、
『人』が、
『虚空』を、
『傷つけられたとしても!』、
是の、
諸の、
『法印』は、
『如法』に、
『壊られることはない!』。
|
|
|
注:冷相を熱くさせる:氷で湯を沸かし、火で湯を冷ますの意。 |
|
聖人知是三種法相。於一切依止邪見各各鬥諍處得離。譬如有目人。見群盲諍種種色相。愍而笑之不與共諍。 |
聖人は、是の三種の法相を知りて、一切の依止、邪見、各各の闘諍の処に於いて、離るるを得。譬えば有目の人の、群盲の種種の色相を諍うを見て、愍れみて之を笑い、与共(とも)に諍わざるが如し。 |
『聖人』は、
是の、
一切の、
『依止すべき法』や、
『邪見という!』、
各各の、
『闘諍の処より!』、
『離れることができる!』。
譬えば、
『有目の人』が、
『群盲』が、
種種の、
『色相について!』、
『言い諍っている!』のを、
『見れば!』、
『群盲』を、
『愍れんで!』、
『笑うだけで!』、
『共に!』、
『諍わない!』のと、
『同じことである!』。
|
与共(よぐう):ともにす/共同にする( share with somebody )。 |
|
|
|
問曰。佛說聲聞法有四種實。摩訶衍中有一實。今何以故說三實。 |
問うて曰く、仏の説きたまわく、『声聞法には、四種の実有り。摩訶衍中には一実有り』、と。今は何を以っての故にか、三実を説く。 |
問い、
『仏』は、こう説かれた、――
『声聞法』には、
『摩訶衍』中には、
『一』の、
『実(寂滅涅槃)』が、
『有る!』、と。
今は、
|
|
|
|
|
答曰。佛說三種實法印。廣說則四種。略說則一種。無常即是苦諦集諦道諦說。無我則一切法說。寂滅涅槃即是盡諦。 |
答え、仏は、三種の実の法印を説きたまえるも、広説すれば、則ち四種、略説すれば、則ち一種なり。無常は、即ち是れ苦諦、集諦、道諦にして、無我を説けば、則ち一切の法なり。寂滅涅槃を説けば、即ち是れ尽諦なり。 |
答え、
『仏』は、
『三種』の、
『実の法印』を、
『説かれた!』が、
『広く!』、
『説けば!』、
『四種であり!』、
『略して!』、
『説けば!』、
『一種である!』。
則ち、
『無常』とは、
即ち、
『苦諦、集諦、道諦であり!』、
『無我』は、
則ち、
『一切の法であり!』、
『寂滅涅槃』は、
即ち、
『尽諦である!』。
|
|
|
|
|
復次有為法無常。念念生滅故。皆屬因緣無有自在。無有自在故無我。無常無我無相故心不著。無相不著故。即是寂滅涅槃。以是故摩訶衍法中。雖說一切法不生不滅一相所謂無相。無相即寂滅涅槃。 |
復た次ぎに、有為法は無常にして、念念生滅するが故に、皆因縁に属し、自在有ること無く、自在有ること無きが故に無我なり。無常、無我には相無きが故に、心著せず。無相には著せざるが故に、即ち是れ寂滅涅槃なり。是を以っての故に、摩訶衍法中には、一切法の不生、不滅、一相にして謂わゆる無相なりと説くと雖も、無相なれば、即ち寂滅の涅槃なり。 |
復た次ぎに、
『有為法』は、
『無常であり!』、
『念念に!』、
『生、滅する!』が故に、
皆、
『因縁に属して!』、
『自在』が、
『無く!』、
『自在が無い!』が故に、
『我』が、
『無く!』、
『無常、無我』は、
『無相である!』が故に、
『心』が、
『著さず!』、
『無相』は、
『心が著さない!』が故に、
即ち、
『寂滅の涅槃である!』。
是の故に、
『摩訶衍法』中には、
『一切の法』は、
『不生、不滅であり!』、
『一相であり!』、
『謂わゆる無相である!』と、
『説く!』が、
『無相ならば!』、
|
|
|
|
|
是念法三昧緣智緣盡。諸菩薩及辟支佛功德。 |
是の念法三昧は、智縁尽を縁ずれば、諸の菩薩及び辟支仏の功徳なり。 |
是の、
『念法三昧』は、
『智縁尽(智慧で煩悩を滅尽すること)』を、
『縁じる!』ので、
是れは、
|
智縁尽(ちえんじん):三無為の一。非智縁尽、或いは虚空無為に対す。即ち智慧を以って煩悩を滅尽して得する無為を云う。『大智度論巻19上、及び31上注:三無為』参照。 |
|
|
|
問曰。何以故念佛。但緣佛身中無學諸功德。念僧三昧緣佛弟子身中諸學無學法。餘殘善無漏法。皆念法三昧所緣。 |
問うて曰く、何を以っての故にか、仏を念ずるに、但だ仏身中の無学の諸功徳を縁じ、僧を念ずる三昧は、仏弟子の身中の諸の学、無学の法を縁じて、余残の善の無漏法は、皆、念法三昧の所縁なる。 |
問い、
何故、
『念仏』は、
但だ、
『仏の身』中の、
『無学の諸功徳』を、
『縁じ!』、
『念僧三昧』は、
『仏』の、
『弟子の身』中の、
『諸の学、無学の法』を、
『縁じ!』、
『余残』の、
|
無学(むがく):学、又は有学に対す。三道の一、無学道に在るものの意。一切の善法を已に学し已りたる阿羅漢の位を云う。『大智度論巻18下注:三道、巻22上注:無学道』参照。
無学道(むがくどう):梵語azaikSa- maargaの訳。三道の一。又無学位、或いは無学地と名づく。即ち阿羅漢果を証して更に学すべき勝果の道なきを云う。「大毘婆沙論巻68」に、「無学道に六種性あるが如く、修道にも亦た此の六種性あり」と云い、「倶舎論巻24」に、「是の如く尽智已に生ずる時に至りて便ち無学阿羅漢果を成ず。已に無学応果の法を得たるが故に、別果を得んが為に修すべき所の学は此れに有ることなし。故に無学の名を得」と云える是れなり。是れ一切の煩悩を解脱し、尽智無生智を証して更に学すべき勝果の道なきを無学道と名づけたるものにして、即ち阿羅漢果を指すなり。蓋し無学の阿羅漢には利鈍の別あり、鈍根の者は必ず時を待ちて解脱するが故に之を時愛心解脱又は時解脱と称し、利根の者は必ずしも時を待たざるが故に之を不動心解脱又は不時解脱と名づく。又慧解脱倶解脱の別あり、慧の力に由りて煩悩障に於いて解脱を得たる者を慧解脱と名づけ、慧と定との力に由りて煩悩及び解脱の二障を離れ、滅尽定を得たる者を倶解脱と称す。又此の中、時解脱に退法等の五種の別あり、之に不時解脱の不動法種性を合して六種性と称し、不退法に更に不動法及び不退法の一を分ちて亦た七聖となし、之に独覚及び大覚の二種、或いは慧解脱倶解脱の二種を加え、総じて九無学ありとなすなり。又「大毘婆沙論巻66」に阿羅漢の成ずる法に有為無為の別あることを説き、「若し法にして阿羅漢果の摂なるは、此れは是れ無学法なりや。答う、或いは無学、或いは非無学なり。義不定なるが故なり。云何が無学なる、答う有為の阿羅漢果なり。謂わく尽智、無生智、無学の正見及び彼の眷属なり。云何が非学非無学なる、答う無為の阿羅漢果なり。謂わく三界一切の見修所断法の断なり」と云えり。是れ阿羅漢果所摂の法の中、三界一切の見修所断法の断は非学非無学にして、即ち無為の阿羅漢果なり。尽智無生智等の十無学支は無学法にして、即ち有為の阿羅漢果なることを明せるなり。又無学道は唯識五位の中には究竟位に当たり、十地の中には第十地及び仏地に配せらる。又「大毘婆沙論巻51、94、101」、「雑阿毘曇心論巻5」、「顕揚聖教論巻3」、「倶舎論巻25」、「同光記巻24、25」、「大乗義章巻17本末」、「大乗法苑義林章巻2末」等に出づ。<(望)
学(がく):無学に対する語。三道中の見道、及び修道を云う。『大智度論巻18下注:三道』参照。 |
|
|
|
答曰。迦栴延尼子如是說。摩訶衍人說。三世十方諸佛及諸佛。從初發意乃至法盡。於其中間所作功德神力。皆是念佛三昧所緣。 |
答えて曰く、迦旃延尼子は、是の如く説けり、『摩訶衍人の説は、三世十方の諸仏、及び諸仏の、初発意より乃至法尽まで、其の中間の所作の功徳、神力は、皆是れ念仏三昧の所縁なりと』、と。 |
答え、
『迦多衍尼子』は、是のように説いている、――
『摩訶衍人』は、こう説いている、――
『三世、十方の世界の諸仏』と、
『現在、此の世界の諸仏』との、
『初発意より!』、
其の、
『法』が、
『尽きるまで!』の、
其の、
『中間の所作である!』、
『功徳』や、
『神力』は、
皆、
『念仏三昧』の、
『所縁である!』、と。
|
迦旃延尼子(かせんねんにし):西北印度の仏教を宣揚せし有部の大論師にして、発智論の著者なり。又迦多衍尼子と称す。『大智度論巻22上注:迦多衍尼子』参照。
迦多衍尼子(かたえんにし):迦多衍尼kaatyaayaniiは梵名。子はputraの訳。巴梨名kaccaayanii- putta、又迦底耶夜那子、迦陀衍那子、迦旃延尼子、迦氈延尼子、迦多衍那、迦旃延に作る。剪剃女子、剪剃種、剪剔種、又は文飾、好肩、肩縄と訳す。婆羅門十姓の一にして、印度貴族の名なり。伝え云う、往古婆羅門あり、二子を生み、年五十にして山に入りて修道す。彼の二子、父の鬢髪蓬の如く乱れしを見て、為に剃除せしに、形容端正となれり。諸仙之を見て皆剃除せんと欲す。然るに兄の心傲慢にして、父に非ずんば剃る能わずと云いて、之を拒みたるも、弟の性慈愍にして、乃ち彼等の為に之を剃る。諸仙是に於いて、兄の種族の後来貧窮にして剪剃を以って自活せんことを祈り、又弟の種族の後来富貴にして、剪剃の事を作さざらんことを呪願せり。この因縁に依りて、兄の種族は非父種と名づけられ、極めて貧窮にして剪剃自活し、弟の種族は剪剃種と名づけられ、極めて富貴にして而も剪剃の事を作さずと。今此の剪剃種の出なるが故に、迦多衍尼子の名を立つ。西北印度の仏教を宣揚せし有部の大論師にして、発智論の著者なり。其の出世年代に異説あり、「異部宗輪論述記」には仏滅三百年の初とし、「大唐西域記巻4」、及び「倶舎論宝疏巻1」には三百年中とし、「同光記巻1」には、三百年末とし、「婆藪槃豆法師伝」には之を五百年中とせり。但し仏滅に異説ある以上は、此の不定の紀元を標的として起算せる年代を確定し得ざるは、固より言を俟たず。凡そ西紀前後の出世と見ば大差なからん。何れの部に於いて出家せしかに就いても異説あり。「異部宗輪論述記」に依らば上座部に於いて出家し、先づ対法を弘め、後に経律を弘むと云い、「婆藪槃豆法師伝」には、先に薩婆多部に於いて出家すと云えり。著書としては「阿毘達磨発智論20巻」あり、説一切有部の大系を記述したるものとして頗る著名なり。彼の五百大阿羅漢の編纂したる「大毘婆沙論200巻」は、即ち此の論に註解を加えたるなり。「大智度論巻2」に迦旃延婆羅門道人、智慧利根にして、尽く三蔵内外の経書を読み、仏語を解せんと欲するが故に、「発智経八揵度」を作る。後諸の弟子等、後人の尽く八揵度を解する能わざるが為の故に、鞞婆沙を作るとあり。何れの国に於いて此の論を著わしたるかに就いて亦た異説あり。「大唐西域記巻4」には、至那僕底国に於いて此の論を製すと云い、又「婆藪槃豆法師伝」には、五百阿羅漢及び五百菩薩と共に、罽賓国に於いて八揵度論を製す、亦た発智論というと記せり。されど之を発智論の本文に徴するも、五百阿羅漢等と共に之を製したる形跡なし、是れ恐らくは婆沙の編纂と其の事蹟を混交したりしものならん。故に今は「大唐西域記」の説に従うを可とす。又「三論玄義」等に出づ。<(望) |
|
|
|
如佛所說及所說法義經。從一句一偈。乃至八萬四千法聚。信戒捨聞定智慧等諸善法。乃至無餘涅槃。皆是念法三昧所緣。諸菩薩辟支佛及聲聞眾。除佛餘殘一切聖眾及諸功德。是念僧三昧所緣。 |
仏の所説、及び所説の法義の経は、一句、一偈より、乃至八万四千の法聚まで、信、戒、捨、聞、定、智慧等の諸善法、乃至無余涅槃は、皆、是れ念法三昧の所縁なり。諸の菩薩、辟支仏、及び声聞衆と、仏を除きたる余残の一切の聖衆と、及び諸功徳は、是れ念僧三昧の所縁なり。 |
『仏の所説』と、
『仏の所説の法義』との、
『経』の、
『一句、一偈より!』、
『八万四千の法聚まで!』と、
『信、戒、捨、聞、定、智慧』等の、
『諸善法』と、
『乃至無余涅槃』は、
『諸の菩薩、辟支仏、声聞の衆』と、
『仏を除く余残の一切の聖衆』と、
其の、
『諸の功徳』とは、
|
|
|
|
|