巻第二十一(下)
大智度論釋初品中八念義第三十六之一
1. 八   念
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大智度論釋初品中八念義第三十六之一  
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


八念

【經】念佛念法念僧念戒念捨念天念入出息念死 仏を念じ、法を念じ、僧を念じ、戒を念じ、捨を念じ、天を念じ、入出息を念じ、死を念ず。
『仏を念じ!』、
『法を念じ!』、
『僧を念じ!』、
『戒を念じ!』、
『捨を念じ!』、
『天を念じ!』、
『入出息を念じ!』、
『死を念じる!』。
  八念(はちねん):八種の心念の意。即ち仏等の八種を思念するを云う。一に念仏buddhaanusmRti、二に念法dharmaanusumRti、三に念僧saGghaanusmRti、四に念戒zillaanusmRti、五に念捨tyaagaanusmRti、六に念天devataanusmRti、七に念入出息aanaapaana- smRti、八に念死maraNaanusmRtiなり。「大品般若経巻1序品」に、「仏を念じ、法を念じ、僧を念じ、戒を念じ、捨を念じ、天を念じ、入出の息を念じ、死を念ず」と云い、「大智度論巻21八念義」に、「仏弟子は阿蘭若処、空舎塚間、山林曠野に於いて善く九想内外の不浄観を修し、其の身を厭患して是の念を作す、我れ云何ぞ是の底下不浄の屎尿の嚢を擔えるやと。自ら随って懎然として驚怖し、及び悪魔あり種種の悪事を作し、来たりて之を恐怖し、其れを退せしめんと欲するが為に、是を以っての故に、仏は次第して為に八念を説く」と云える是れなり。此の中、初に念仏とは、仏は多陀阿伽度阿羅呵三藐三仏陀乃至婆伽婆にして、無量不可思議の功徳を円具し、苦を抜き楽を与うるものなりと念ずるを云う。二に念法とは、法は清浄にして二辺を離れ、能く煩悩を滅して通達無礙なりと念ずるを云う。三に念僧とは、僧は所謂四双八輩にして、能く正道を修し聖果を証し、世間無上の福田なりと念ずるを云う。四に念戒とは、戒は諸悪を遮し、一切善法の所住の処にして無上菩提の本なり。就中、律儀戒は諸悪をして自在なるを得ざらしめ、定共戒は諸の煩悩を遮し、無漏戒は無明を破して慧解脱を得しむと念ずるを云う。五に念捨とは、捨に施捨と捨諸煩悩の二あり、施捨に亦た財施法施の二種あり。財施は一切善法の本にして能く慳貪を治し、法施は利益甚大にして、之によりて能く正道を得て諸の煩悩を除き、又捨諸煩悩は三結乃至九十八使等の諸煩悩を断除して安隠歓喜を得しむと念ずるを云う。六に念天とは、四天王天乃至他化自在天、並びに名天生天浄天生浄天等の諸天は、果報清浄にして一切を利安すと念ずるを云う。七に念入出息とは、息の長短及び冷熱を観知し、又出入を尋ね、長短の数を分別して能く心の散乱を除き、以って定に入らしむと念ずるを云う。八に念死とは、死に自死、他因縁死の二種あり、此の二種の死は生より以来常に身と倶にして避くべき所なしと念ずるを云うなり。蓋し八念は六念に後の二を加えたるものにして、又十念は此の八念に更に亦た二念を加えたるなり。又「法界次第初門巻中上」、「大明三蔵法数巻31」等に出づ。<(望)『大智度論巻18下注:六念』参照。
【論】問曰。何以故九相次第有八念。 問うて曰く、何を以っての故にか、九相の次第に八念有る。
問い、
何故、
『九相に次いで!』、
『八念』が、
『有るのですか?』。
答曰。佛弟子於阿蘭若處空舍塚間山林曠野。善修九相內外不淨觀。厭患其身而作是念。我云何擔是底下不淨屎尿囊。自隨懎然驚怖。及為惡魔作種種惡事來恐怖之欲令其退。以是故佛次第為說八念。 答えて曰く、仏の弟子は、阿蘭若処なる空舎、塚間、山林、曠野に於いて、善く九相なる内外の不浄観を修め、其の身を厭患して、是の念を作さく、『我れは云何が、是の底下、不浄なる屎尿の嚢を擔える』、と。自ら懎然とし、驚怖するに随いて、悪魔の為に作さるる種種の悪事来たりて、之を恐怖するに及び、其れをして、退かしめんと欲すれば、是を以っての故に、仏は次第に、為に八念を説きたまえり。
答え、
『仏の弟子』は、
『阿蘭若処の空舎、塚間、山林、曠野』に於いて、
『善く!』、
『九相』の、
『内、外の不浄観』を、
『修める!』と、
其の、
『身』を、
『厭患することになり!』、
是の、
『念』を、
『作すことになる!』、――
わたしは、
何故、
是の、
『最低に不浄である!』、
『屎、尿の嚢』を、
『擔(にな)っているのだろう?』、と。
自ら、
『懎然として(がっかりして)!』、
『驚怖する!』に、
『随って!』、
『悪魔に作られた!』、
種種の、
『悪事』が、
『来て!』、
此の、
『弟子』を、
『恐怖させ!』、
其の、
『心』を、
『退かせようとする!』ので、
是の故に、
『仏』は、
『次第に!』、
其の、
『弟子』の為に、
『八念』を、
『説かれたのである!』。
  阿蘭若処(あらんにゃじょ):阿蘭若araNyaは梵語。巴梨語araJJa、又阿練若、阿蘭那、阿蘭拏、阿練茹、或いは阿蘭攘に作り、略して蘭若、又は練若とも云う。無諍、無諍声、無諍行、空寂、又は最閑処と訳す。即ち聚落を距つる一俱廬舎(一説に本邦の五十町、約5km)にして、修行に適する閑処を云う。「有部毘奈耶巻24」に、「阿蘭若住処に在りとは、村を去ること五百弓にして、一拘盧舎あるを阿蘭若処と名づく」と云い、「薩婆多毘尼毘婆沙巻5」に、「阿練若処とは聚落を去る五百弓なるを阿練若処と名づく」と云える是れなり。但し一俱廬舎の量は中国と北方とに於いて同じからず、是れ土地の平地又は山地なるによりて音響の達する距離に異あるが為なり。「倶舎論光記巻13」に、「阿の言は無なり、練若を喧雑と名づく」と云い、「玄応音義巻23」には、「阿は此に無と云う、練若に両義あり、一には声という、謂わく人声なく、及び鼓譟等の声なし。二には斫という、謂わく斫伐等の諠鬧なし。聚落を去る一俱廬舎を阿練若処となすと言うと雖も、亦た須く斫伐の処を離るべし」とあり。又「慧苑音義巻上」には阿蘭若に達磨阿蘭若dharmaaraNya、摩登伽阿蘭若maataGgaaraNya、檀陀迦阿蘭若daNDakaaraNyaの三種の別ありとし、達磨阿蘭若は諸法本来湛寂にして起作の義なし、因って其の処を法の阿蘭若処とす。摩登伽阿蘭若とは塚間の処なり、村落を去る一俱廬舎にして、大牛の吼声の及ばざる処なり。檀陀迦阿蘭若は沙磧の処なりと云えり。又「大毘婆沙論巻163」、「十住毘婆沙論巻16」、「大日経疏巻3」、「大乗義章巻15」等に出づ。<(望)
  空舎(くうしゃ):空屋。
  塚間(ちょうげん):死屍を棄てる処。墓場。
  底下(たいげ):最下。
  懎然(しょうねん):悲しみ恨む/がっかりする。
如經中說。佛告諸比丘。若於阿蘭若處空舍塚間山林曠野。在中思惟。若有怖畏衣毛為豎。爾時當念佛。佛是多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀乃至婆伽婆。恐怖則滅。 経中に説けるが如し、仏の諸比丘に告げたまわく、『若しは阿蘭若処の空舎、塚間、山林、曠野に於いて、中に在りて思惟せんに、若し怖畏有りて、衣毛為に豎(よだ)たば、爾の時は当に仏を念ずべし。仏は是れ多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀、乃至婆伽婆なりと、恐怖は、則ち滅せん。
例えば、
『経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『諸比丘』に、こう告げられた、――
若し、
『阿蘭若処』の、
『空舎、塚間、山林、曠野』中に、
『在って!』、
『思惟している!』時、
若し、
『怖畏が有り!』、
其の、
『怖畏』が、
『衣毛(体毛)』を、
『豎(よだ)たせたならば!』、
爾の時、
『仏』を、
『念じなければならない!』、――
則ち、
『仏』は、
『多陀阿伽度(如来)であり!』、
『阿羅訶(応供)であり!』、
『三藐三仏陀(正遍知)であり!』、
乃至、
『婆伽婆(世尊)である!』と。
若し、
是のようにすれば、――
則ち、
『恐怖』は、
『滅することになるだろう!』。
  多陀阿伽度(ただあかど):梵語tathaagata、又多陀阿伽陀と称し、如来と訳す。『大智度論巻2下注:多陀阿伽陀、巻21下注:十号』参照。
  阿羅呵(あらか):梵語arhat、又阿羅漢と称し、応供と訳す。『大智度論巻2下注:阿羅呵、巻21下注:十号』参照。
  三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ):梵語samyak- saMbuddha、正遍知と訳す。『大智度論巻2下注:三藐三仏陀、巻21下注:十号』参照。
  婆伽婆(ばがば):梵語bhagavat、巴梨語bhagavaa、又bhagavant、又婆伽梵、婆伽伴、婆誐鑁、薄伽梵、薄伽伴、薄伽畔、薄阿梵、薄伽跋帝、婆誐縛底、或いは婆誐嚩帝に作り、有徳、有大功徳、有名称、衆祐、巧分別、能破、或いは世尊と訳す。衆徳を具して世に尊重恭敬せらるる者の意にして、即ち仏の尊称なり。「大智度論巻2」に婆伽婆を釈し、「仏の功徳は無量にして、名号も亦た無量なり。此の名は其の大なる者を取る、人の多く識るを以っての故なり」と云い、又「仏地経論巻1」に、「仏は十種の功徳名号を具す、何故に如来の教の伝法者は、一切の経首に但だ是の如き薄伽梵の名を置くや。謂わく此の一名は世咸な尊重するが故なり。諸の外道も皆本師を称して薄伽梵と名づく。又此の一名は衆徳を総摂するも余名は爾らず、是の故に経首に皆此の名を置く」と云える是れなり。是れ婆伽婆の名は最も広く世に知られ、且つ此の名は独り衆徳を総摂するが故に、之を仏の尊称となすことを明にせるなり。其の語義に関しては、「法蘊足論巻2証浄品」に、「薄伽梵とは、謂わく善法を有するを薄伽梵と名づく。無上の諸善法を成就するが故なり。或いは善法を修するを薄伽梵と名づく、已に無上の諸の善法を修するが故なり。又仏世尊は円満に身戒心慧を修習し、大悲を成就して限なく量なく、無量の法を成ずれば薄伽梵と名づく。又仏世尊は大威徳を具し、能く往き能く至り、能く壊し能く成じ、能く自在に転ずれば薄伽梵と名づく。又仏世尊は永く一切の貪瞋癡等の悪不善の法を破し、永く雑染の後有の熾然たる苦の異熟果を破し、永く当来の生老病死を破すれば薄伽梵と名づく。(中略)又仏世尊は未聞の法に於いて能く自ら通達して最上覚を得、現法智、無障礙智を成じ、善く当来を解し、梵行果を修し、諸弟子の為に分別し解説し、大法会を設けて普く有情に施せば薄伽梵と名づく。(中略)又仏世尊は諸の弟子の為に宜に随って説法し、皆歓喜し恭敬し信受して教の如く修行せしめ、名称普く聞こえて諸方域に遍じ、讃礼せざるものなければ梵と名づく」と云い、「大智度論巻2」に、「婆伽婆とは、婆伽は徳と言い、婆は有と言う。是れを有徳と名づく。復た次ぎに婆伽は分別と名づけ、婆は巧と名づく。巧に諸法の総相別相を分別するが故に婆伽婆と名づく。復た次ぎに婆伽は名声と名づけ、婆は有と名づけ、有名称と名づく。名声を得ること仏の如きものあることなければなり。(中略)復た次ぎに婆伽は破と名づけ、婆は能と名づく。是の人は能く婬怒癡を破するが故に称して婆伽婆と為す」と云い、又「大般涅槃経巻18」に、「婆伽婆とは、婆伽は破に名づけ、婆は煩悩に名づく。能く煩悩を破するが故に婆伽婆と名づく。又能く諸の善法を成就するが故に、又能く善く諸の法義を解するが故に、大功徳ありて能く勝るものなきが故に、大名聞ありて十方に遍きが故に、又能く種種に大に恵施するが故に、又無量阿僧祇劫に於いて女根を吐くが故なり」と云い、「仏地経論巻1」に、「薄伽梵とは、謂わく薄伽の声は六義に依りて転ず、一に自在の義、二に熾盛の義、三に端厳の義、四に名称の義、五に吉祥の義、六に尊貴の義なり。(中略)是の如く一切の如来は一切の種を具有して皆相離れず、是の故に如来を薄伽梵と名づく」と云えり。按ずるに梵語bhagavatは、名詞bhagaと後接字vatとの合成語にして、bhagaには徳、威徳、善法、名声、尊貴、吉祥、端厳、施、智、全能、女根等の義あり。vatは有、或いは具の義なるが故に有徳、有名声等の諸釈を生じたるなり。又婆伽婆bhagavatを以って、破の義なる動詞bhaJjの過去受動分詞bhagna(破れたる)に後接字vatを附したる過去能動分詞bhagnavat(破り了りたる)より転化せしものと解せば、即ち能破の義となるなり。蓋し梵語婆伽婆には元と世尊の義なきも、一般に解し易きが故に、古来多く義訳して之を世尊となすなり。又「増一阿含経巻14」、「百論巻上」、「瑜伽師地論巻38」、「仁王護国般若波羅蜜多道場念誦儀軌巻下」、「大乗義章巻20末」、「仁王般若経疏巻6(吉蔵)」、「翻梵語巻1」、「四分律疏飾宗義記巻3本」、「玄応音義巻3、21」、「異部宗輪論述記」、「華厳経探玄記巻9」、「大日経疏巻1」、「慧琳音義巻1、10、12」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
  十号(じゅうごう):十種の名号の意。又如来十号、或いは十種通号とも称す。即ち諸仏の通号に十種あるを云う。但し具には十一号あり。一に如来、二に応供、三に正遍知、四に明行足、五に善逝、六に世間解、七に無上士、八に調御丈夫、九に天人師、十に仏、十一に世尊なり。「雑阿含経巻20」に、「尊者摩訶迦旃延答えて言わく、梵志よ、我れに大師の如来応等正覚明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊あり」と云い、「増一阿含経巻14高幢品」に、「若し畏怖ありて衣毛竪たば、爾の時、当に我が身を念ずべし、此れは是れ如来至真等正覚明行成為善逝世間解無上士道法御天人師にして仏衆祐と号し、世に出現す」と云い、「法華経巻1序品」に、「爾の時仏あり、日月灯明如来応供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊と号す。(中略)初仏後仏皆同一字にして日月灯明と名づけ、十号具足す」と云い、「十住毘婆沙論巻12助念仏三昧品」に、「是の故に新発意の菩薩は応に十号の妙相を以って仏を念ずべし。(中略)十号の妙相とは所謂如来応供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊なり」と云える是れなり。蓋し徳を以って名を立つるに、仏徳無量なれば其の名も亦た無量なりと雖も、今一数の満に随って之を十号となすなり。就中、如来とは梵語多陀阿伽度tathaagata(巴梨語同じ)の訳にして、又如去、如解、如説等と翻ず。即ち法相の如く解し、法相の如く説き、安隠の道より来たりて更に後有の中に去らざるを云う。応供とは梵語阿羅訶arhat(巴arahan)の訳にして、又殺賊、不生、無生、至真、真人、応真、無著果、応、或いは応供人とも翻ず。即ち諸の結使を除尽し一切智を得て、人天の供養を受くるに応ずるを云う。正遍知とは梵語三藐三仏陀samyak- saMbuddha(巴sammaa- sambuddha)の訳にして、又正真道、正遍覚、正遍覚知、正遍知一切法、等正覚、正等覚、或いは正等正覚とも翻ず。即ち苦を知ること苦の相の如く、集を知ること集の相の如く、滅を知ること滅の相の如く、道を知ること道の相の如く、是の如く一切諸法悉く了知して遍ぜざる所なきを云う。明行足とは梵語鞞侈遮羅那三般那vidyaa- caraNa- saMpanna(巴vijjaa- caraNa- sampanna)の訳にして、又明善行、明行成、明行円満、或いは明行とも翻ず。即ち天眼宿命漏尽の三明及び身口の行業悉く円満具足して失あることなきを云う。善逝とは梵語修伽陀sugata(巴同じ)の訳にして、又好去、好説、善解、善説無患、或いは為善逝とも翻ず。即ち種種の諸の深三摩提、無量の諸の大智慧の中に去るを云う。世間解とは梵語路迦憊loka- vid(巴loka- vidu)の訳にして、又知世間と翻ず。即ち衆生非衆生の二種の世間を知り、世間及び世間の因を知り、世間の滅及び出世間の道を知るを云う。無上士とは梵語阿耨多羅anuttaara(巴同じ)の訳にして、又無上、或いは無上丈夫とも翻ず。自ら涅槃の法を知り、他に従って聞かず。即ち諸法の中に涅槃は無上なるが如く、仏は衆生の中に於いて最上第一なるを云う。調御丈夫と梵語富楼沙曇藐婆羅提puruSa- damya- saarathi(巴purisa- damma- saarathi)の訳にして、又道法御、調御、調御士、或いは可化丈夫調御師とも翻ず。即ち大慈大智あるが故に、時に或いは軟美の語、或いは苦切の語、或いは雑語等を以って種種に方便し、丈夫を調御して道に入らしむるを云う。但し丈夫と説くは其の主たるものを挙ぐ。二根無根及び女人等を摂せずというに非ず。天人師とは梵語舎多提婆魔[少/免]舎喃zastaa deva- manuSyaaNaaM(巴satthaa deva- manusaanam)の訳にして、又天人教師と翻ず。即ち応作不応作、是善是不善を示導し、教に随って行じて道法を捨てず、以って煩悩解脱の報を得しむるを云う。亦た余道を度するも、天人を度すること多きが故に天人師と称するなり。仏とは梵語仏陀buddha(巴同じ)の音写にして、覚者、知者、或いは覚人とも翻ず。即ち自覚覚他覚行円満し、三世一切の諸法を知見して覚知了了たるを云う。世尊とは梵語婆伽婆bhagavat(巴bhagavant)の訳にして、又衆祐、有大功徳、或いは破浄地とも翻ず。即ち衆徳を具して世に尊重恭敬せらるるを云うなり。以上は「大智度論巻2」の説に依りて略して之を解す。余論には更に諸解あり。蓋し是の如く仏の通号には具に十一種あるも、諸経論には之を開合して唯十号となせり。即ち「十号経」には世間解と無上士を合して一号となし、「大智度論巻21、24」、「成実論巻1十号品」、「菩薩地持経巻3」、「瑜伽師地論巻38」等には無上士と調御丈夫を合して一号とし、又「菩薩瓔珞本業経巻下因果品」、並びに「大智度論巻2」等には之を開いて二号とし、世尊を加えず。又別に無上士と調御丈夫を二号とし、仏と世尊を合して一号となせるものあり。之に関し、「大般涅槃経疏巻18」に、「成論と阿含とは皆無上士と調御丈夫とを合して一号となし、世尊に至りて十数方に満ず。今の経と釈論とは無上士と調御とを開きて両と為し、仏に至りて則ち十名已に足る。総じて上の徳の十号を結して具足するを世の所尊と為す」と云えり。又「大乗義章巻20末」には、此の中、無上士調御丈夫合一の説によりて之を自利利他に分別し、「十の中、前の五は是れ自利の徳、後の五は利他なり。自利の中に就きて分ちて両対と為す。初二の一対は、前(如来)は道円を明し、後(応供)は滅極を彰す。後三の一対は、前の二(正遍知、明行足)は因円、後の一(善逝)は果極なり。(中略)後の五は化徳なり。中に於いて前の四徳は能く物を化し、後の一種は(世尊)は世の為に欽敬せらる。前の四の中に就き、初の一(世間解)は其の化他の智を明して世間を解了し、第二(無上士調御丈夫)は其の化他の能を明して能く物の心を調え、第三(天人師)は其の化他の徳を明して師徳具足し、第四(仏)は其の化他の行を明して覚行窮満す」と云えり。以って其の配意を見るべし。又「六度集経巻8」、「大般涅槃経巻18」、「大乗舎黎娑擔摩経」、「無量寿経巻上」、「同義疏巻上」、「同連義述文賛巻中」、「坐禅三昧経巻上治思覚法門」、「大智度論巻10」、「瑜伽師地論巻83」、「同略纂巻11」、「仏地経論巻1」、「注維摩詰経巻9」、「法華経玄賛巻2」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
  衣毛(えもう):体を覆う毛。
  参考:『雑阿含経巻35(981)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。若比丘住於空閑.樹下.空舍。有時恐怖。心驚毛豎者。當念如來事及法事.僧事。如前廣說。念如來事.法事.僧事之時。恐怖即除。諸比丘。過去世時。釋提桓因與阿修羅共戰。爾時。帝釋語諸三十三天言。諸仁者。諸天阿修羅共鬥戰時。若生恐怖。心驚毛豎者。汝當念我伏敵之幢。念彼幢時。恐怖即除。如是。比丘。若於空閑.樹下.空舍而生恐怖。心驚毛豎者。當念如來。如來.應.等正覺。乃至佛.世尊。彼當念時。恐怖即除。所以者何。彼天帝釋懷貪.恚.癡。於生.老.病.死.憂.悲.惱苦不得解脫。有恐怖.畏懼.逃竄.避難。而猶告諸三十三天令念我摧伏敵幢。況復如來.應.等正覺。乃至佛.世尊。離貪.恚.癡。解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦。無諸恐怖.畏懼.逃避。而不能令其念如來者。除諸恐怖。佛說是經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
若不念佛當疾念法。佛法清淨巧出善說。得今世報指示開發。有智之人心力能解。如是念法怖畏則除。 若し仏を念ぜずば、当に疾かに法を念ずべし。『仏の法は、清浄にして、巧みに善説を出して、今世の報を得しめ、有智の人の心力をして指示し、開発して、能く解かしむ』、と。是の如く法を念ずれば、怖畏は、則ち除こらん。
若し、
『仏』を、
『念じないのであれば!』、
疾かに、
『法』を、
『念じねばならない!』、――
則ち、
『仏の法』は、
『清浄であり!』、
『善い説』を、
『巧みに!』、
『出して!』、
『今世』の、
『報』を、
『得させ!』、
『有智の人』の、
『心力』を、
『指示し開発して!』、
『理解させる!』、と。
是のように、
『法を念じれば!』、
則ち、
『怖畏』は、
『除かれることになるだろう!』。
若不念法則當念僧。佛弟子眾修正道隨法行。僧中有阿羅漢向阿羅漢乃至須陀洹向須陀洹四雙八輩。是佛弟子眾。應供養合手恭敬禮拜迎送。世間無上福田。作如是念僧恐怖即滅 若し法を念ぜずんば、則ち当に僧を念ずべし。『仏の弟子衆は、正道を修め、法に随って行ず。僧中には、阿羅漢向、阿羅漢、乃至須陀洹向、須陀洹の四双八輩有り。是の仏の弟子は、応に供養し、手を合せて恭敬、礼拜、迎送すべき、世間の無上の福田なり』、と。是の如き念僧を作さば、恐怖は即ち滅せん。
若し、
『法』を、
『念じないのであれば!』、
則ち、
『僧』を、
『念じねばならない!』、――
『仏の弟子衆』は、
『正道を修め!』、
『法』に、
『随って!』、
『行っている!』。
『僧』中には、
『阿羅漢向、阿羅漢、乃至須陀洹向、須陀洹という!』、
『四双八輩』が、
『有るが!』、
是の、
『仏の弟子衆』は、
『供養され!』、
『合掌、恭敬、礼拝、迎送されるべき!』、
『世間』の、
『無上の福田である!』、と。
是のように、
『僧を念じれば!』、
即ち、
『恐怖』は、
『滅することになる!』。
  四双八輩(しそうはちはい):声聞の聖者には、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢の四種の別ありて、此の中に就きても、更に向、果の二種の別あるを云う。『大智度論巻18下注:四向四果』参照。
佛告諸比丘。釋提桓因與阿修羅鬥在大陣中。時告諸天眾汝與阿修羅鬥時。設有恐怖當念我七寶幢恐怖即滅。若不念我幢當念伊舍那天子(帝釋左面天王也)寶幢恐怖即除。若不念伊舍那寶幢。當念婆樓那天子(右面天子)寶幢恐怖即除。以是故知為除恐怖因緣故。次第說八念。 仏の諸比丘に告げたまわく、『釈提桓因、阿修羅と闘いて、大陣中に在る時、諸天衆に告ぐらく、汝、阿修羅と闘う時、設(も)し恐怖有らば、当に我が七宝の幢を念ずべし。恐怖は、即ち滅せん。若し我が幢を念ぜずば、当に伊舎那天子の宝幢を念ずべし。恐怖は即ち除こらん。若し伊舎那の宝幢を念ぜずば、当に婆楼那天子の宝幢を念ずべし、恐怖は、即ち除こらん』、と。是を以っての故に知る、恐怖の因縁を除かんが為の故に、次第して八念を説きたまえり。
『仏』は、
『諸比丘』に、こう告げられた、――
『釈提桓因』は、
『阿修羅と闘って!』、
『大陣』中に、
『在る!』時、
『諸天衆』に、こう告げた、――
お前達は、
『阿修羅と闘う!』時、
設()し、
『恐怖が有れば!』、
『わたしの!』、
『七宝の幢』を、
『念じよ!』。
即座に、
『恐怖』は、
『滅するだろう!』。
若しは、
『わたしの!』、
『幢』を、
『念じなかった!』としても、
『伊舎那天子』の、
『宝幢』を、
『念じよ!』。
即座に、
『恐怖』は、
『除かれるだろう!』。
若しは、
『伊舎那』の、
『幢』を、
『念じなかった!』としても、
『婆楼那天子』の、
『宝幢』を、
『念じよ!』。
即座に、
『恐怖』は、
『除かれるだろう!』と、と。
是の故に、
こう知ることになる、――
『恐怖』の、
『因縁』を、
『除く!』為の故に、
『次第に!』、
『八念』を、
『説かれたのである!』、と。
  釈提桓因(しゃくだいかんいん):梵名zakya- devendra、巴梨名sakka- devaanam- indo、具に釈迦提婆因提に作り、又釈提婆那民、因陀羅、天帝釈、帝釈等とも称す。即ち須弥山頂なる忉利天善見大城に住し、四天王等を領する天主の名。『大智度論巻21下注:因陀羅』参照。
  因陀羅(いんだら):梵名indra、巴梨名inda、又因陀邏、因陀囉、因達羅、因提棃、因提利、因提、因抵に作る。最勝、又は無上の義。主、或いは帝と訳す。須弥山頂なる忉利天善見大城に住し、四天王等を領する天主の名。又帝釈、天帝釈、釈迦天王、釈迦因陀羅、又は釈提桓因ともいう。就中、釈提桓因とは、「大智度論巻54」に依るに、「釈迦は秦に能といい、提婆は秦に天といい、因提は秦に主という。合して之を釈提婆那民という」とあり、是れ即ち釈は釈迦zakya、提桓(桓は本と洹と音通)は提婆deva、因は因提indraの略にして、具には釈提婆那民(巴梨名sakka- devaanam- indo、梵名zakya- devendra)と称すと云うの意なり。「法華経玄賛巻2本」にも、「梵に釈迦提婆因達羅という。釈迦は姓なり、提婆は天なり、因達羅は帝なり。正しく能天帝という」と云えり。然るに「慧苑音義巻上」に釈迦因陀羅を釈して、「釈迦は正しくは鑠羯羅という、此に帝という。因陀羅は此に主という」と云えり。蓋し梵語にありては、明らかに釈迦zakyaと鑠羯羅zakraの二語を分ち、釈迦は之を能と訳し、鑠羯羅は別に有力と翻じて、因陀羅の権威あることを顕わす語となし、或いは又因陀羅を指して鑠羯羅とも呼べり。之に依るに慧苑が釈迦と鑠羯羅との別を立てたるは、頗る現時の梵語に吻合する所ありというべし。されど巴梨語にありては、釈迦、鑠羯羅、共にsakkaなるを以って、彼の智度論の釈提婆那民は、巴梨語のsakka- devaanam- indoの音訳なるに通ず。若し然らば羅什が能天主と訳したるも、強ち錯謬なりとするを得ず。又釈迦天王は巴梨語のsakko- devaraajaa、帝釈又は天帝釈は、帝は因陀羅、天帝は提婆因陀羅の訳にして、釈は梵語なれば即ち梵漢併称なり。又此の因陀羅に諸種の別名あり。「雑阿含経巻40」、「別訳雑阿含経巻2」には、釈提桓因、富蘭陀羅puraindara(又富蘭陀但羅、不蘭陀に作る。破城者の義。降伏又は調伏諸根明とも訳す)、摩伽婆maghavaar(又摩佉婆に作る。恵施者の義。無勝とも訳す)、婆娑婆vasavaana(又婆蹉婆に作る。婆娑の主の義。好厳飾とも訳す)、憍尸迦kauzika、舎脂鉢低zacipati(舎脂夫)、千眼sahasraakSa、因提利等の八名を挙げ、又「大般涅槃経巻33」には、「云何が一義にして無量の名を説くや。猶お帝釈の如し。亦た帝釈と名づけ、亦た憍尸迦と名づく。亦た婆蹉婆と名づけ、亦た富蘭陀羅と名づけ、亦た摩佉婆と名づけ、亦た因陀羅と名づけ、亦た千眼と名づけ、亦た舎脂夫と名づけ、亦た金剛と名づけ、亦た宝頂と名づけ、亦た宝幢と名づく」とあり、斯く因陀羅に諸種の別名ありしことは、古くより伝えられたる所にして、或いは百八名、或いは千名ありきとも云う。因陀羅の形像は眼を以って荘厳せられ、巨象の上に坐せり。象は即ち㖶羅婆那象王にして、元と是れ雲を擬せるものという。眼を以って荘厳となせるに就いては、婆羅門の神話に於いて、因陀羅は曽て瞿曇gautama仙の妃アハリヤーahaliyaaを姦したる罪によりて、身に千女陰の章を附せられたるを、後修供の功徳に由って、之を千眼に化したり。爾後聡明智慧ありて、千種の義を観ずることを得るの標幟なりと云わるるに至りしものといえり。但し上古の因陀羅は、必ずしも千眼荘厳身には非ざりしが如きも、此の説話は彼の「菩薩本縁経巻2」に、「瞿曇仙人、釈身上に千女根を化す」と云い、又「雑阿含経巻40」に、「何の因、何の縁にて釈提桓因復た千眼と名づくるや、仏比丘に告ぐ、彼の釈提桓因、本と人なりし時、聡明智慧一座の間に於いて、千種の義を思うて観察思量せり、是の因縁を以って彼の天帝釈を亦た千眼と名づく」とあるに符合する所なり。蓋し因陀羅は、梵天、毘沙門天等と共に、最も早く仏教に混入せる一神にして、其の説話は殆ど孰れの経典にも見出だされ得べし。若し「六度集経」等に依らば、因陀羅が天上より下り来たりて、種種の身を現じて、菩薩六度の行を試問し援護し、又は菩薩自身も嘗て此の帝釈身を現じたることを記せり。是れ帝釈天の神話としては甚だ古き思想を伝うるものにして、吠陀時代の因陀羅の説明と略ぼ相同じ。吠陀時代の因陀羅は、中空の神、特に雨神として、諸神中最高位を占め、崇拝甚だ厚かりしものなり。仏教経典中にも因陀羅を雨神として伝えたるものなきに非ず。其の稍発達せる説話、即ち仏経時代の因陀羅は忉利天上の主尊として説明せらる。就中、尤も顕著なる説話は、阿修羅との戦闘譚にして、「長阿含経巻21」、「雑阿含経巻40」、「別訳雑阿含経巻2」、「大楼炭経巻5」、「起世経巻8」、「起世因本経巻8」、「正法念処経巻20」、「観仏三昧海経巻1」、「立世阿毘曇論巻5」等に広く散見せり。此の因陀羅対阿修羅の戦闘譚は、本と是れ吠陀時代の因陀羅が、風雨神marutを従えて旱魃の魔鬼vRtraを破り、以って印度民族を助けたりとの神話を拡充して伝えたるものならんという。但し帝釈即ち因陀羅は孰れの経典にも其の名を見ざることなく、仏の侍者又は説法会座の一聴衆、或いは護法善神の一として伝えられたり。降りて婆羅門教隆盛時代、プラーナpuraaNaの成立せられたる頃に至りては、湿縛、毘紐等の崇拝盛んにして、因陀羅を祀ること亦た吠陀時代の如く厚からず。密教に至りては護世八方天の一として之を拜祀せり。又「大般涅槃経疏巻28」、「大日経義釈巻4」、「慧琳音義巻27」等に出づ。<(望)
  阿修羅(あしゅら):梵名asura。戦闘に属する一類の鬼神にして、経中には常に帝釈天と争闘す。『大智度論巻30上注:阿修羅』参照。
  伊舎那天(いしゃなてん):伊舎那iizaanaは梵名。又伊賒那、伊奢那、伊遮那、或いは伊沙に作り、又摩醯首羅にも作る。司配者の義。自在、衆生主と訳す。護世八方天の一。十方護法神王の一。十二天の一。「供養十二大威徳天報恩品」に、「伊舎那天喜ぶ時は諸天も亦た喜び、魔衆乱れず。旧に摩醯首羅と名づく。仏言わく、若し摩醯首羅天を供養し已らば、為に一切の諸天を供養せよ。此の天瞋る時、魔衆現れて国土荒乱せん」とあり。<(望)『大智度論巻13下注:摩醯首羅』参照。
  婆楼那天(ばるなてん):婆楼那varuNaは梵名。巴梨名同じ。又嚩嚕拏、縛楼那、皤嚕那に作り、縛嚕拏龍王とも称す。水天と訳す。十二天の一。護世八方天の一。即ち西方の守護神なり。「陀羅尼集経巻11報恩品」に、「水天喜ぶ時は二の利益あり、一には人身渇せず、二には雨沢時に順ず。此の天愼る時は亦た二損あり、一には人身乾渇し、二には器界旱魃して万物乾尽し、或いは大雨を雨ふらして世界水に満ち、草木及び衆生を流損す」と云える是れなり。蓋し水天則ち婆楼那は其の起原頗る古く、既に梨倶吠陀中に司法神として記載せられ、同伴神のmitraが昼を司宰するに対し、夜を司る神として信ぜられたり。初は天界に住したりしが、後阿闥婆吠陀に至りて水神となり、マハーブハーラタmahaabhaarataに於いては水界の主即ち龍種の王となし、又西方の守護神となせり。近時又此の神名は希臘神話のuranosと同一語原に出づとなし、更に其の起原を遠きに置かんとするものあり。仏典に在りても其の名は早くより伝えられ、「長阿含巻20忉利天品」に四大天神の一として水神を出し、「雑阿含巻35」に帝釈伊舎那と共に人民擁護の神として之を列し、「新華厳経巻67」に婆楼那天の名を挙げ、「金光明最勝王経巻9諸天藥叉護持品」には、日天月天風神等と共に水神を出し、「仏母大孔雀明王経巻上」には無熱悩池に住する龍王となせり。又「大雲輸請雨経巻上」、「大教王経巻10」、「供養護世八天法」、「華厳経疏巻57」、「慧苑音義巻下」等に出づ。<(望)
問曰。經中說三念因緣除恐怖。五念復云何能除恐怖。 問うて曰く、経中に説かく、『三念の因縁もて、恐怖を除く』、と。五念は、復た云何が能く、恐怖を除く。
問い、
『経』には、
『三念の因縁』は、
『恐怖を除く!』と、
『説かれている!』が、
復た、
何のように、
『五念』が、
『恐怖を除くのですか?』。
答曰。是比丘自念布施持戒功德。怖畏亦除。所以者何。若破戒心畏墮地獄。若慳貪心畏墮餓鬼及貧窮中。自念我有是淨戒布施。若念淨戒若念布施。心則歡喜作是言。若我命未盡當更增進功德。若當命終不畏墮惡道。以是故念戒施。亦能令怖畏不生。 答えて曰く、是の比丘は、自ら布施、持戒の功徳を念ずれば、怖畏も亦た除こる。所以は何んとなれば、若し破戒なれば、心は地獄に堕つるを畏れ、若し慳貪なれば、心は餓鬼、及び貧窮中に墮つるを畏るるも、自ら、『我れには、是の浄戒、布施有り』、と念ずればなり。若しは浄戒を念じ、若しは布施を念ずれば、心は則ち歓喜して、是の言を作さく、『若し我が命、未だ尽きずんば、当に更に功徳を増進すべし。若し当に命終るべくんば、悪道に堕つるを畏れじ』、と。是を以っての故に、戒、施を念ずれば、亦た能く怖畏をして、生ぜざらしむ。
答え、
是の、
『比丘』が、
自ら、
『布施、持戒』の、
『功徳』を、
『念じれば!』、
亦た、
『怖畏』も、
『除かれる!』。
何故ならば、
若し、
『破戒すれば!』、
『心』は、
『地獄に堕ちる!』のを、
『畏れることになり!』、
若し、
『慳貪すれば!』、
『心』は、
『餓鬼や、貧窮中に堕ちる!』のを、
『畏れることになる!』ので、
自ら、
わたしには、
是の、
『浄戒、布施が有る!』と、
『念じるからである!』。
若し、
『浄戒』や、
『布施』を、
『念じれば!』、
則ち、
『心』が、
『歓喜して!』、
是の、
『言』を、
『作すだろう!』、――
若し、
わたしの、
『命』が、
未だ、
『尽きなければ!』、
更に、
『功徳』を、
『増進するはずだ!』。
若し、
『命』が、
『終らねばならぬとしても!』、
『悪道』に、
『堕ちる!』ことを、
『畏れない!』、と。
是の故に、
『持戒』や、
『布施』を、
『念じれば!』、
亦た、
『怖畏をも!』、
『生じなくさせるのである!』。
念上諸天皆是布施持戒果報。此諸天以福德因緣故生彼。我亦有是福德。以是故念天。亦能令怖畏不生。 今、『上の諸天は、皆、是れ布施、持戒の果報なり。此の諸天は、福徳の因縁を以っての故に、彼に生ぜり。我れも亦た是の福徳有り』、と念ず。是を以っての故に、天を念ずれば、亦た能く怖畏をして生ぜざらしむ。
上の、
『諸天』は、
皆、
『布施、持戒の果報である!』と、
『念じ!』、
此の、
『諸天』は、
『福徳の因縁』の故に、
『彼(かしこ)』に、
『生まれたのである!』が、
わたしにも、
亦た、
是の、
『福徳が有るのだ!』と、
『念じる!』ので、
是の故に、
『天を念じれば!』、
亦た、
『怖畏』を、
『生じなくさせるのである!』。
十六行念安那般那時細覺尚滅。何況恐怖麤覺 十六行に安那般那を念ずる時、細覚すら尚お滅す。何に況んや、恐怖の麁覚をや。
『十六行(四諦十六行相)』中に、
『安那般那(出入息)を念じる!』時には、
『微細の覚すら!』、
『滅するのである!』から、
『恐怖のような!』、
『麁雑の覚』は、
『尚更である!』。
  十六行(じゅうろくぎょう):四諦を観ずる十六種の行を云い、其の十六種の行相を称して十六行相と云う。『大智度論巻17下注:十六行相』参照。
  安那般那(あんなぱんな):出入の息を数えて、心を一境に摂し、散乱を対治して以って正定に入る法を云う。『大智度論巻17下注:数息観』参照。
  (かく):尋求推度するを其の性とし、心をして疾かに、麁性に転ぜしむる精神作用を云う。即ち散心の行の、数ば起生するを名づけて覚となすなり。『大智度論巻17下注:覚』参照。
念。死者念五眾身念念生滅。從生已來常與死俱。今何以畏死。 死を念ずとは、『五衆の身は念念に生滅して、生じてより已来、常に死と倶なり。今は何を以ってか、死を畏れん』と念ずるなり。
『死を念じる!』とは、
こう念じることである、――
『五衆の身』は、
『念念に!』、
『生じたり!』、
『滅したりしており!』、
『生じて以来!』、
『常に!』、
『死といっしょにいる!』。
何故、
『今さら!』、
『死を畏れるのか?』、と。
是五念佛雖不說。亦當除恐怖。所以者何。念他功德以除恐怖則難。自念己事以除恐怖則易。以是故佛不說。 是の五念を、仏は説きたまわずと雖も、亦た当に恐怖を除くべし。所以は何んとなれば、他の功徳を念ずるを以って、恐怖を除くは、則ち難し。自ら己が事を念ずるを以って、恐怖を除くは、則ち易し。是を以っての故に、仏は説きたまわず。
是の、
『五念』を、
『仏』は、
『説かれなかった!』が、
亦た、
『恐怖』を、
『除くはずである!』。
何故ならば、
『他の功徳(仏、法、僧の三福田)』を、
『念じて!』、
『恐怖』を、
『除く!』のは、
則ち、
『難しいことである!』が、
『自らの事(布施、持戒、念天、念出入息、念死)』を、
『念じて!』、
『恐怖』を、
『除く!』のは、
則ち、
『易(たやす)いことだからであり!』、
是の故に、
『仏』は、
『五念が除く!』とは、
『説かれなかったのである!』。
問曰。云何是念佛。 問うて曰く、云何が是れ仏を念ずる。
問い、
何のように、
『仏』を、
『念じるのですか?』。
答曰。行者一心念佛。得如實智慧。大慈大悲成就。是故言無錯謬。麤細多少深淺皆無不實。皆是實故名為多陀阿伽度。 答えて曰く、行者は、一心に仏を念ずらく、如実の智慧を得て、大慈大悲成就すれば、是の故に言に錯謬無く、麁細、多少、深浅皆実ならざる無く、皆是れ実なるが故に名づけて、多陀阿伽度と為す。
答え、
『行者』は、
『仏』を、
『一心』に、こう念じる、――
『仏』は、
『如実の智慧を得て!』、
『大慈、大悲』を、
『成就された!』ので、
是の故に、
『言(ことば)』に、
『錯謬(錯誤)』が、
『無く!』、
『麁細、多少、深浅の言』には、
皆、
『実でない!』ものが、
『無い!』。
是の、
『言』が、
皆、
『実である!』が故に、
是れを、
『多陀阿伽度(如中より来た者)』と、
『称するのだ!』。
亦如過去未來現在十方諸佛。於眾生中起大悲心。行六波羅蜜得諸法相。來至阿耨多羅三藐三菩提中。此佛亦如是。是名多陀阿伽度。 亦た過去、未来、現在の十方の諸仏の、衆生中に於いて大悲心を起し、六波羅蜜を行じて、諸法の相を得、来たりて阿耨多羅三藐三菩提中に至りたもうが如く、此の仏も亦た是の如し、是れを多陀阿伽度と名づく。
亦た、
『過去、未来、現在』の、
『十方』の、
諸の、
『仏』が、
『衆生』中に、
『大悲心』を、
『起し!』、
『六波羅蜜を行って!』、
『諸法の相』を、
『認識し!』、
『世間に来て!』、
『阿耨多羅三藐三菩提』中に、
『到達されたように!』、
此の、
『仏』も、
亦た、
『是の通りであり!』、
是れを、
『多陀阿伽度』と、
『称するのだ!』。
如三世十方諸佛身。放大光明遍照十方破諸黑闇。心出智慧光明。破眾生無明闇冥。功德名聞亦遍滿十方。去至涅槃中。此佛亦如是去。以是故亦名多陀阿伽度。 三世十方の諸仏の身より、大光明を放って、十方を遍照し、諸の黒闇を破り、心より智慧の光明を出して、衆生の無明の闇冥を破れば、功徳、名聞も亦た十方に遍満し、去りて涅槃中に至りたもうが如く、此の仏も亦た是の如く去りたもう。是を以っての故に、亦た多陀阿伽度と名づく。
『三世、十方』の、
諸の、
『仏』は、
『身より放った!』、
『大光明』で、
『十方』の、
『世界』を、
『遍く照して!』、
諸の、
『黒闇』を、
『破り!』、
『心より出た!』、
『智慧の光明』で、
『衆生の無明という!』、
『闇冥』を、
『破って!』、
『功徳、名聞』が、
『十方』を、
『遍く満たす!』と、
『世間を去って!』、
『涅槃』中に、
『去られた!』が、
此の、
『仏』も、
亦た、
『是のように!』、
『去られた!』ので、
是の故にも、
『多陀阿伽度(如中に去る者)』と、
『称するのだ!』。
有如是功德故。應受一切諸天世人最上供養。是故名阿羅呵。 是の如き功徳有るが故に、応に一切の諸天、世人の最上の供養を受くべし。是の故に阿羅訶と名づく。
是のような、
『功徳が有る!』が故に、
一切の、
『諸天、世人の最上の供養』を、
『受ける!』に、
『相応しい!』。
是の故に、
『阿羅訶(供養を受けるに相応しい者)』と、
『称するのである!』。
若有人言。何以故。但佛如實說。如來如去故。應受最上供養。以佛得正遍智慧故。正名諸法不動不壞相。遍名不為一法二法。故以悉知一切法無餘不盡。是名三藐三佛陀。 若しは、有る人の言わく、『何を以っての故にか、但だ仏のみ如実に説き、如より来たり、如に去り、故に応に最上の供養を受くべき』、と。仏は、正遍の智慧を得たるを以っての故なり。正とは、諸法の不動、不壊の相に名づけ、遍とは、一法、二法の為ならざるを名づく。故に悉く、一切法を知りて余無く、尽きざるが故に、是れを三藐三仏陀と名づく。
若し、
有る人が、こう言ったとする、――
何故、
但だ、
『仏だけが!』、
『如実に説き!』、
『如より来て!』、
『如に去る!』ので、
故に、
『最上の供養』を、
『受ける!』に、
『相応しいのか?』、と。
何故ならば、
『仏』は、
『正、遍する!』、
『智慧』を、
『得られたからである!』。
『正』とは、
『諸法』の、
『不動、不壊の相』を、
『正しく!』、
『知るからであり!』、
『遍』とは、
『一法』や、
『二法』の、
『不動、不壊の相』を、
『正しく!』、
『知るのではないからである!』。
故に、
『悉く!』、
『一切の法』を、
『余す所無く!』、
『知っても!』、
『智慧』が、
『尽きない!』ので、
是れを、
『三藐三仏陀(正遍知する者)』と、
『称するのである!』。
  (い):ために/もって。以に同じ。理由を表す。
是正遍智慧。不從無因而得。亦不從無緣得。是中依智慧持戒具足故。得正遍智慧。智慧名菩薩從初發意乃至金剛三昧相應智慧。持戒名菩薩從初發意乃至金剛三昧身業口業清淨隨意行已。是故名鞞闍遮羅那三般那 是の正遍の智慧は、無因に従いて得ず、亦た無縁に従いて得るにもあらず。是の中に、智慧に依って、持戒具足するが故に、正遍の智慧を得。智慧は、菩薩の初発意より、乃至金剛三昧に相応する智慧なり。持戒は、菩薩の初発意より、乃至金剛三昧の身業と口業は、清浄にして、意に随いて行じ已ればなり。是の故に鞞闍遮羅那三般那と名づく。
是の、
『正、遍の智慧』は、
『因、縁』の、
『無いままに!』、
『得たものではない!』。
是の中に、
『智慧に依って!』、
『持戒』が、
『具足する!』が故に、
『正、遍する!』、
『智慧』を、
『得たのである!』。
即ち、
『智慧』とは、
『菩薩』の、
『初発意より、乃至金剛三昧まで!』に、
『相応する!』、
『智慧であり!』、
『持戒』とは、
『菩薩』の、
『初発意より、乃至金剛三昧まで!』の、
『身業、口業』が、
『清浄でありながら!』、
『意のまま!』に、
『行われた!』、
『持戒である!』。
是の故に、
『鞞闍遮羅那三般那(明行を具足する者)』と、
『称する!』。
  鞞闍遮羅那三般那(びじゃしゃらなさんぱんな):梵名vidyaa- caraNa- saMpanna、明行足と訳す。『大智度論巻2下注:鞞侈遮羅那三般那、巻21下注:十号』参照。
若。行是二行得善去。如車有兩輪善去者。如先佛所去處。佛亦如是去。故名修伽陀。 若し是の二行を行ずれば、善去を得うること、車に両輪有るが如し。善去とは、先の仏の去りたまいし所の処なり。仏は亦た是の如く去りたまえば、故に修伽陀と名づく。
若し、
是の、
『二行』を、
『行えば!』、
『得られる!』、
『善去(善く去ること)』は、
『車の両輪のようである!』。
『善く去る!』とは、
例えば、
『先の仏』の、
『去られた!』、
『処(涅槃)である!』。
『仏』も、
亦た、
是のように、
『去られる!』ので、
故に、
『修伽陀(善く逝く者)』と、
『称するのである!』。
  修伽陀(しゅかだ):梵名sugata、善逝、善去と訳す。『大智度論巻2下注:修伽陀、巻21下注:十号』参照。
若有言。佛自修其法不知我等事。以是故知世間知世間因知世間盡知世間盡道。故名為路迦憊。 若しは、有るが言わく、『仏は、自ら其の法を修すれば、我等の事を知らず』、と。是を以っての故に、世間を知り、世間の因を知り、世間の尽くるを知り、世間の尽くる道を知りたもうが故に、名づけて路迦憊と為す。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『仏』は、
『自ら!』の、
『法』を、
『修めるだけであり!』、
『我(神我)』等の、
『事』は、
『知らないのだ!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『世間(苦諦)』と、
『世間の因(集諦)』と、
『世間の尽きる!(滅諦)』ことと、
『世間の尽きる道(道諦)』とを、
『知っていられる!』が故に、
是れを、
『路迦憊(世間を解知する者)』と、
『称する!』。
  路迦憊(ろかび):梵名lokavid、世間解、知世間と訳す。『大智度論巻2下注:路迦憊、世間、巻21下注:十号』参照。
知世間已調御眾生。於種種師中最為無上。以是故名阿耨多羅富樓沙曇藐婆羅提。 世間を知り已りて、衆生を調御したまえば、種種の師中に於いて最も無上と為す。是を以っての故に、阿耨多羅富楼沙曇藐婆羅提と名づく。
『仏』は、
『世間を知って!』、
『衆生』を、
『調御された!』が、
種種の、
『師』中の、
『最も第一である!』。
是の故に、
『阿耨多羅富楼沙曇藐婆羅提(無上の調御師)』と、
『称する!』。
  阿耨多羅富楼沙曇藐婆羅提(あのくたらふるしゃどんみゃくばらだい):梵名anuttara- puruSadamyasaarathi、無上調御師と訳す。『大智度論巻2下注:阿耨多羅、富楼沙曇藐婆羅提、巻21下注:十号』参照。
能以三種道滅三毒。令眾生行三乘道。以是故名貰多提婆摩㝹舍喃。 能く三種の道を以って、三毒を滅し、衆生をして、三乗の道を行ぜしむれば、是を以っての故に、貰多提婆摩㝹舍喃と名づく。
『仏』は、
『三種の道(空、無相、無作)を用いて!』、
『衆生』の、
『三毒』を、
『滅して!』、
『三乗』の、
『道』を、
『行わせられる!』。
是の故に、
『貰多提婆摩㝹舍喃(天と人との教師)』と、
『称する!』。
  貰多提婆魔㝹舍喃(せただいばまぬしゃなん):梵名zaastaa devaanaaM ca manuSyaanaaM、天人師と訳す。『大智度論巻2下注:舍多提婆摩菟舍喃、巻21下注:十号』参照。
  参考:『大智度論巻4菩薩釈論』:『復次三種道皆是菩提。一者佛道二者聲聞道三者辟支佛道。辟支佛道聲聞道。雖得菩提。而不稱為菩提。佛功德中菩提稱為菩提。是名菩提薩埵。』
若有言。以何事故能自利益無量。復能利益他人無量。佛一切智慧成就故。過去未來現在。盡不盡動不動。一切世間了了悉知。故名為佛陀。得是九種名號。有大名稱遍滿十方。以是故名為婆伽婆。 若しは、有るが言わく、『何なる事を以っての故に、能く自ら利益すること無量なる。復た能く他人を利益すること無量なる』、と。仏は、一切の智慧成就したもうが故に、過去、現在、未来の尽くると、尽きざると、動くと、動かざるとの、一切の世間を了了に悉く知りたもうが故に、名づけて仏陀と為し、是の九種の名号を得て、大名称の十方に遍満する有り、是を以っての故に、名づけて婆伽婆と為す。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『仏』は、
何のような、
『事』の故に、
『自らをも!』、
『無量に!』、
『利益し!』、
『他人をも!』、
『無量に!』、
『利益するのですか?』、と。
『仏』は、
一切の、
『智慧を成就された!』が故に、
『過去、現在、未来の法』中の、
『尽きた!』ものも、
『尽きない!』ものも、
『動いた!』ものも、
『動かない!』ものも、
『一切の世間の法』を、
『了了に!』、
『悉く知る!』が故に、
是れを、
『仏陀(覚知した者)』と、
『称するのであり!』、
是の、
『九種』の、
『名号』を、
『得て!』、
『十方に遍満する!』、
『大名称』を、
『所有された!』が故に、
是れを、
『婆伽婆(世間に尊ばれる者)』と、
『称するのである!』。
  仏陀(ぶっだ):梵名buddha、覚者、知者、或いは覚と訳し、又略して仏と称す。『大智度論巻21下注:仏』参照。
  (ぶつ):梵語仏陀buddhaの略称。巴梨語同じ。又仏馱、浮陀、浮屠、浮図、浮頭、没馱、歩他、或いは馞陀に作り、覚者、知者、或いは覚と訳し、和語に「ホトケ」と訓ず。覚寤せし者の意。即ち一切法の性相を如実に知見し、等正覚を成ぜし大聖者を云う。「中阿含巻6教化病経」に、「釈種子あり、釈の宗族を捨てて鬚髪を剃除し、袈裟衣を著し、至信にして家を捨て、家なくして道を学し、無上等正覚を得たり。是れを名づけて仏と為す」と云い、「雑阿含経巻12」に、「仏比丘に告ぐ、縁起の法は我が所作に非ず、亦た余人の作にも非ず。然るに彼の如来世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界常住なり。彼の如来は自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す」と云い、又「大智度論巻70」に、「仏あるも仏なきも此の相常住なり。能く是の相を知るが故に名づけて仏と為す」と云える是れなり。是れ釈尊が如実に諸法の性相を知見せられたるが故に、名づけて仏と号することを説けるものなり。蓋し梵語buddhaは「知る」又は「悟る」の義なる語根budhの過去受動分詞にして、即ち知者又は覚者の義なり。「大般若経巻478無事品」、「根本薩婆多部律摂巻1」等に、一切智を得るが故に仏と名づくと云い、「大智度論巻94」、「善見律毘婆沙巻8」等に、仏は是れ一切智なりと云い、「過去現在因果経巻3」、「大品般若経巻9大明品」、「同巻24四摂品」、「大荘厳論経巻11」、「大智度論巻88」等に、一切種智を成ずるが故に仏と名づくと云い、「尊婆須蜜菩薩所集論巻9」、「坐禅三昧経巻上」に、一切諸法を知るが故に仏と名づくと云い、「阿毘曇心論経巻1界品」に、一切法一切種を知るが故に仏と名づくと云い、又「大智度論巻27」に仏は一切智、一切種智なりと云えるは皆其の義を明にせるものというべし。又諸経論には特に仏所覚の法を指示せるもの少なからず。「大品般若経巻22道行品」に、「諸法の実義を知るが故に名づけて仏と為す。復た次ぎに諸法の実相を得るが故に名づけて仏と為す。復た次ぎに実義に通達するが故に名づけて仏と為す。復た次ぎに実の如く一切法を知るが故に名づけて仏と為す」と云い、「大般若経巻365巧便行品」に、「善現、覚と実との義に随うが故に仏陀と名づく。復た次ぎに善現、覚と実との法を現ずるが故に仏陀と名づく。復た次ぎに善現、実義に通達するが故に仏陀と名づく。復た次ぎに善現、一切法に於いて実の如く覚を現ずるが故に仏陀と名づく。復た次ぎに善現、一切法の自相共相、有相無相に於いて自然に開覚するが故に仏陀と名づく。復た次ぎに善現、三世の法及び無為法に於いて一切種相無障智転ずるが故に仏陀と名づく。復た次ぎに善現、実の如く開覚し、一切有情をして顛倒の悪業衆苦を離れしむるが故に仏陀と名づく。復た次ぎに能く実の如く一切の法相は所謂無相なりと覚するが故に仏陀と名づく」と云い、「華手経巻6求法品」に、「一切法は法に非ず非法に非ず、垢に非ず浄に非ず、亦た過去未来現在に非ざるを知り、是の相に随順するが故に覚者と名づく。亦た法に若しは生、若しは滅、若しは来、若しは去なきことを覚す、故に覚者と名づく」と云い、「首楞厳三昧経巻上」に、一切諸法は是れ寂滅相なりと通達するを仏と名づくと云い、「如来荘厳智慧光明入一切仏境界経巻下」に、如来は如実に衆生の色受想行の四種の心住を不生不滅なりと知るが故に仏と名づくと云い、「大智度論巻65」に、「正しく一切法一切種を知るが故に覚と名づく。一切法とは所謂五衆十二入十八界等なり。復た次ぎに一切法とは外道の経書技術禅定等に名づく、略して説くに五種あり、所謂凡夫法、声聞法、辟支仏法、菩薩法、仏法なり。仏は略して知るに二種の相あり、所謂総相別相なり。又分別相、畢竟空相を以ってす。広く知るは則ち一切種なり、一切種とは是れ一切無量無辺の法門なり。是の事を以っての故に名づけて仏波羅蜜と為す」と云い、又「般若灯論巻1」に、人法二種の無我に通達するが故に仏婆伽婆と名づくと云える如き皆其の例にして、此等は主として大乗の義に約して仏所覚の法を説けるものというべし。又仏の正覚は煩悩等の悪法を断じ、迷闇を破するに由りて成ぜらるるものなるが故に、之に約して仏の義を解説せるもの亦た少なからず。「法句経巻下述仏品」に、悪を壊して度するを仏と為すと云い、「央掘魔羅経巻2」に、一切の虚偽を離るるが故に仏と名づくと云い、「梵摩喩経」に生死の癡本等を尽くし、一切智を得るを仏と号すと云い、「菩薩本行経巻上」に、「謂う所の仏とは、諸悪永く尽きて諸善普く会し、復た衆垢なく、諸欲都て滅す」と云い、「大品般若経巻26差別品」に、解脱道の中に於いて一切の闇蔽なきを仏と名づくと云い、「大乗入楞伽経巻4」に、二無我を覚し、二種の障を除き、二種の死を離れ、二煩悩を断ずるを仏と名づくと云い、「仁王般若波羅蜜経巻上菩薩教化品」に、三界煩悩の果報を断尽せるを仏と名づくと云い、「菩提資糧論巻1」に、「覚とは覚寤を義と為す。無智の睡を離るるを以っての故なり」と云い、「十住毘婆沙論巻8」に、能く貪欲瞋恚愚癡一切の煩悩悪法に勝るるを仏と名づくと云い、「瑜伽師地論巻83」に、一切の煩悩并びに諸の習気を断じ、菩提を得るを仏と名づくと云える皆即ち其の説なり。又仏は自ら覚悟するのみならず、亦た他をして覚悟せしむるが故に自覚覚他と称せらる。「大般涅槃経巻18」に、「仏とは覚に名づく。既に自ら覚悟し、復た能く他を覚せしむ」と云い、「大方便仏報恩経巻6」、「文殊師利問経巻下嘱累品」、「菩薩瓔珞経巻13淨居天品」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」、「成実論巻1具足品」、「般若灯論巻14」等にも亦た自覚覚他の義を以って仏を解釈し、又「大乗義章巻20」には、「既に能く自ら覚し、後能く他を覚して覚行窮満す。故に名づけて仏と為す」と云えり。蓋し仏とは今より二千五百余年前、印度に降誕せられたる釈尊の敬称にして、釈尊は夙に出家し、一切の煩悩悪法を断じ、如実に一切法一切種の性相を知見して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説して其れをして度脱を得しめ、人天の大師として四衆の渇仰する所となり、有らゆる讃辞美辞を捧げられたり。「雑阿含経巻5」に、「諸明には日を最と為し、十方天人の中には等正覚を最と為す」と云い、「中阿含巻34喩経」に、「無足二足四足多足、色無色、有想無想乃至非有想非無想、如来は彼に於いて極めて第一たり、大たり上たり、最たり勝たり、尊たり妙たり」と云い、又「雑阿含経巻20」等に、仏に如来tathaagata、応供arahat、正遍知samyaksaMbuddha、明行足vidyaa- caraNa- saMpanna、善逝sugata、世間解lokavi、無上士anuttara、調御丈夫puruSa- damya- saarathi、天人師zaastR、仏世尊buddha- bhagavatの十号あることを説くを始め、「法華経巻3薬草喩品」に、一切知者sarvajJa、一切見者sarvadarzin、知道者maargavid、開道者maargasyaakhyaatR、説道者maargadezika等の諸名、「新華厳経巻42」に、如来、仏、法師、一切智、所依処、導師、大導師、光明、十力自在、一切見者の十名、「菩薩本業経」に、大聖人、大沙門、衆祐、神人、勇智、世尊、能儒、昇仙、天師、最勝の十名、「離垢慧菩薩所問礼仏法経」に、仏世尊者、大慈悲者、一切智者、一切知見者、諸畏已離者、人中人師子、大龍王、人中人仙士、大丈夫、一切遍知不思議身、無上身、無等身、不与二乗共身、清浄法身、一切衆中最尊上者等の諸名、「観仏三昧海経巻9本行品」に、婆伽婆、阿羅呵、三藐三仏陀、功徳日、智満月、清涼池、除罪珠、光明蔵、智慧山、戒品河、迷衢導、邪見灯、破煩悩賊、一切衆生父母、大帰依処、「華手経巻1序品」に、仏、大師、世尊、炬、灯、帰、救、世間舎、照明者、将導者、療衆病者、示説道者、究竟道者、一切智者、「大威徳陀羅尼経巻2」に、十力、仏陀、知自生智非師智、知帝釈、知梵、知大自在、知不可称、知善月、知普明、知導師、主将、勝導師、世親、不離福、勝陣、勇健、善丈夫、最丈夫、最極丈夫、最勇猛丈夫、商主、師子、須弥山、不動者、普眼、金剛、如金剛、善宿、宿王、月、日、離暗、閻浮金光、普光、「大智度論巻2」に、阿娑磨(無等)、阿娑摩娑摩(無等等)、路迦那他(世尊)、婆檀陀(大徳)、尸梨伽那(厚徳)等の諸名を挙げ、又「大威徳陀羅尼経巻6」に、如来、自然、健者等の一百三名、「方広大荘厳経巻11」に、仏、正遍知、自然悟等の二百七十名、「瑜伽師地論巻82」に、哀愍者、大悲者、楽為義者等の六十余名、「仏一百八名讃」に、一切義成就、正等覚等の一百八名を列ね、其の他、両足尊dvipadoottama、天中天devaatideva、大仙maharSi、人中牛王puruSa rSabha等の嘉号を立つる如き、皆仏の徳行の広大無辺なりしを証するものというべし。仏は又其の身に三十二相八十種好を具足し、尽智無生智等の無漏の無学法、並びに十力四無畏等の諸の不共法を成就せられたりとし、説一切有部等に於いては、此の中、仏に生身法身の二種の別あることを説き、仏の肉身を生身仏と名づけ、其の所得の無学法等を立てて法身仏と称し、生身は有漏、法身は無漏なりとし、仏と目せらるる自体は即ち法身にして生身に非ずとなせり。「雑阿毘曇心論巻10」に仏に生身法身の二種ありとし、其の下に「諸仏の成就する所の無学法を名づけて仏となす。帰とは仏所得の無学法に帰するを仏に帰すと名づく。仏の成就する所の無諍等の有漏法に帰せず、自性不解脱なるが故なり。是を以っての故に、当に知るべし亦た生身を除くを」と云える即ち其の説なり。是れ仏の生身は有漏なるが故に之に帰せず、仏の成就する無為法を以って真に帰すべき仏陀の自体となすの説なり。又大衆部並びに維摩、首楞厳、涅槃等の諸大乗経に於いては生身即法身の説を作し、尋いで又報身浄土の説起り、仏陀観は遂に驚くべき発展を遂ぐるに至れり。按ずるに仏陀として人類の歴史上に現れたるものは唯釈迦一仏なるも、諸経中には釈尊の以前に既に毘婆尸等の諸仏並びに然灯仏等の出現せしことを説き、未来に亦た弥勒等の諸仏出世し、現在にも阿閦、弥陀等の恒沙の諸仏出現しつつあることを宣説せり。即ち「長阿含巻1大本経」、「雑阿含経巻15、17」、「増一阿含経巻44、45、50」、「出曜経巻2」、「賢愚経巻9淨居天請仏洗品」、「禅秘要法経巻中」、「仏母大孔雀明王経巻上」、「守護大千国土経巻下」、「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経巻1」、「如来方便善巧呪経」、「陀羅尼雑集巻1、8」、「善楽長者経」、「聖虚空蔵菩薩陀羅尼経」、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経巻1」、「五分律巻1」、「弥沙塞五分戒本」、「薩婆多部毘尼摩得勒伽巻7」、「大智度論巻9」等には、過去の七仏として毘婆尸vipazyin、尸棄zikhin、毘舎婆vizvabhuk、拘楼孫krakucchanda、俱那含牟尼kanakanuni、迦葉kaazyapa、及び釈迦牟尼zaakyamuniの七仏を挙げ、「増一阿含巻11、13、40」、「修行本起経巻上現変品」、「太子瑞応本起経巻上」、「四分律巻31」等には、釈尊の因位に於ける授記の師仏として然灯diipaMkara仏を出せり。又「巴梨文仏種性経buddhavaMsa」及び「大史mahaavaMsa,i」等には、然灯仏の後に於いて憍陳如koNDaJJa、吉祥maGgala、須摩那sumana、離婆多revata、蘇毘多subhita、高見anomadassi、蓮華paduma、那羅陀naarada、蓮華上padumuttara、須弥陀sumedha、修闍多sujaata、喜見piyadassi、義見atthadassi、法見dhammadassi、悉達多siddhattha、帝沙tissa、弗沙pussa、及び毘婆尸vipassi乃至迦葉kassapaの二十四仏順次に出現せりとし、「僧伽羅刹所集経巻中」には、一切華無上仏、毘婆施仏、「大悲経巻3殖善根品」には、蓮華上、一切世間最勝自在、極高行、上誉、釈迦牟尼、帝沙、弗沙、及び毘婆沙等の七仏、「普曜経巻1論降神品」には、徳英、乃至惟衢、式棄等の四十五仏、「無量寿経巻上」、「観虚空蔵菩薩経」、「観薬王薬上菩薩経」、「三劫三千仏縁起」等には、光遠、月光等の五十三仏出世すとなせり。此等は概ね皆然灯仏を以って最古の出現とし、毘婆尸等の過去七仏は其の後に於いて順次に出世すとなせるものなり。然るに「巴梨文本生経仏伝niddanakathaa」には、然灯仏の前にtaGhaMkara、medhaMkara、saraNaMkaraの三仏、「般舟三昧経巻中羼羅耶仏品」には、羼羅耶、術闍波提、賴毘羅の三仏、「普曜経巻1論降神品」には、蓮華上padmoottara、法英dharmaketuの二仏、「無量門微密持経」には宝首曜王如来出世せりと云い、「六度集経巻3」、「賢愚経巻3貪女難陀品」、「増一阿含経巻38」には、然灯仏は勒那識祇ratana- sikhi(宝蔵、宝髻、啑と訳す)仏より受記を得たりとし、「法華経巻1序品」には、然灯仏の前に二万の日月灯明candrasuuryapradiipa仏出世せりと云い、「仏蔵経巻下浄見品」には、三十億の釈迦牟尼仏、八千の定光仏、六万の光明仏等を供養せりと云い、「仏本行集経巻1至4」には、釈尊は過去に三十億の釈迦仏、八億の然灯仏、三億の弗沙仏等の世に転輪聖王となり、帝釈幢、上幢、幢相等の五百余仏、宝体、能作光、然灯等の十七仏、然灯、勝一切、蓮華上等の十四仏を供養すと云い、「大毘婆沙論巻178」、「大智度論巻4」、「倶舎論巻18」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻24」等には、釈尊は因位初阿僧祇劫に於いて釈迦牟尼より宝髻に至る七万五千仏、第二阿僧祇劫に於いて宝髻より然灯に至る七万六千仏、第三阿僧祇劫に於いて然灯より毘婆尸に至る七万七千仏に逢事し、更に相好業を修する九十一劫の中に於いて、毘婆尸乃至迦葉の六仏に逢事せりと云えり。此等は然灯仏以前に更に過去の古仏ありとし、特に「大毘婆沙論」等は最古出現の仏を釈迦牟尼と名づけ、然灯は第三阿僧祇劫の初に於いて釈尊の逢事せし仏となすの説なり。其の他、「月灯三昧経巻4」には音声身等の十二仏、及び無毀身等の数十仏、「観虚空蔵菩薩経」には、釈迦牟尼、金剛不壊身等の三十五仏、「大乗金剛髻珠菩薩修行分」には普眼、普賢、華灯等の五十八仏、御yほび摩尼山日光明王、金山髻、摩尼金剛山頂灯王等の五十八仏、「僧伽吒経巻2」には十二億の宝上仏、十八億の宝明仏、二十億の式棄仏、「諸仏経」には六十俱胝の諸仏、八十俱胝の妙華仏、五百の正梵仏、「思益梵天所問経巻2問談品」には、憙見劫の七十二那由他仏、善化劫の二十二億仏、梵歎劫の八千仏、「手杖論」には、初無数劫に五个七十千仏、第二無数劫に六个七十千仏、第三無数劫に七个七十千仏、「発菩提心論巻下空無相品」には、三十三億九万八千仏、八万四千億九万辟支仏、六百二十万一千二百六十一仏を供養せりと云い、其の他尚諸経に過去出現の諸仏を説けるもの甚だ多し。又未来仏に関しては、「中阿含巻13説本経」、「長阿含巻6転輪聖王修行経」、「増一阿含経巻1、44」、「賢愚経巻12波婆利品」、「弥勒大成仏経」、「弥勒来時経」、「大毘婆沙論巻178」、「大智度論巻29」等に、当来弥勒maitreya仏の下生出現を説くを始めとし、「増一阿含経巻45」には、弥勒の後、師子応、承柔順、光焔、無垢、宝光の五仏順次に出世すと云い、「宝網経」には弥勒、無垢、師子英、光明等の当来仏の名を挙げ、「師子月仏本生経」には、弥勒に次いで師子月仏出世すと云い、「新華厳経巻73」には、大悲、饒益世間、大悲師子等の五百仏次第に興世すと云い、「悲華経巻4」には、智剛吼自在相王仏以下一万余仏出世すと云い、「未来星宿劫千仏名経」には、龍威、華厳、王中王等の千仏の名を列ね、「雑阿含経巻34」、「増一阿含経巻45」等には、過去仏の如く未来仏も亦た其の数無量恒河沙の如しと云い、又「阿閦仏国経巻下諸菩薩学成品」、「雑宝蔵経巻1鹿女夫人縁」、「賢愚経巻9淨居天請仏洗品」、「大宝積経巻9」、「大悲経巻3礼拝品」、「千仏因縁経」、「維摩経巻下法供養品」、「弘道広顕三昧経巻4受封拜品」、「第一義法勝経」、「観薬王薬上二菩薩経」等には、拘楼孫仏より楼由仏に至る賢劫千仏の出現を説き、(但し賢愚経には毘婆尸等の七仏の後に出興すとなす)「賢劫経巻7千仏興立品」、並びに「現在賢劫千仏名経」には、具に賢劫千仏の名を列ね、又「賢愚経巻8歎古品」には、賢劫千仏の後、更に大称劫に千仏、喩星宿劫に八万仏、重清浄劫に八万四千仏出現すべしと云えり。蓋し阿含等に於いては、上述の如く毘婆尸等の過去七仏並びに然灯仏及び未来弥勒仏等の出現を説くも、現在世に於いて二仏並出の理なしとし、諸仏は三世に亘りて唯間歇的に世に出現するものとなすに反し、大乗諸経に於いては、世界は無数にして十方に遍在し、其の中には老病死等の種種の苦悩あるが故に、随って諸仏は出現して之を救済するを要し、又現に無数の菩薩ありて同時に発心修行するが故に、同時に亦た多仏出現の理あるべしとなし、現在十方の世界に同時に無量恒河沙の諸仏出現しつつありとなせり。現在出現の諸仏に関しては大乗諸経に記述するもの甚だ多く、即ち「阿閦仏国経巻上」、「悲華経巻4」等には、阿閦skSobhya仏は東方阿比羅提世界に住すと云い、「無量寿経」等には、阿弥陀仏は西方極楽世界に現在すと説き、「薬師如来本願経」等には、薬師bhaiSajyaguru如来は東方浄琉璃世界に在りと云い、「東方最勝王如来経」には、最勝灯如来は東方無辺華仏土に住すと云い、「八大菩薩経」には、東方無能勝仏土に善精進吉祥如来等の五仏、「八吉祥神呪経」には、東方満所願聚世界に安隠嘱累満具足王如来等の八仏、「十吉祥経」には、東方荘厳世界に大光耀如来等の十仏、「大方広菩薩蔵文殊師利根本儀軌経巻1」には、東方に開華王saGkusumitaraajendra等の十一仏、「大方等無想経巻4」には、南方須曼那世界に浄光秘密如来等の五仏、「文殊師利所説不思議仏境界経巻下」には、上方一切功徳光明世界に普賢如来、「密迹金剛力士経(大宝積経巻10)」には、上方に蓮華上如来、西方に光明王如来、「受持七仏名号所生功徳経」には、東方に輪遍照吉祥等の五仏、南方に超無辺迹等の二仏、「金光明経巻1序品」、「金剛頂経巻上」には、東方に阿閦、南方に宝相ratnaketu、西方に無量寿、北方に微妙音dundubhisvara、又「大宝積経巻60」には、普光常多功徳海王等の四方四仏、「大方等大集経巻24護法品」には、宝蓋光明功徳等の四方四仏、「智炬陀羅尼経」には、智炬等の四方四仏を挙げ、「大乗大方広仏冠経」には、東方に定手最上吉祥等の六仏、南方無辺歩迹等の三仏、西方に大光明照仏、北方に宝開花普耀吉祥仏、「大乗不思議神通境界経巻上」には、東方に超過行等の九仏、南方に最極高等の十仏、西方に無垢明等の十仏、北方に堅固勇猛等の十二仏、「大宝積経巻58」には、東方に集吉祥王、南方に師子勇猛奮迅、西方に摩尼積王、北方に娑羅起王、東北方に大自在王、「菩薩心論」及び「三十七尊礼文」等には、東方阿閦、南方宝生、西方阿弥陀、北方不空成就、中央毘盧遮那、「称揚諸仏功徳経」には、東方に宝海等の五十三仏、南方に日月灯明等の三十九仏、西方に阿弥陀等の三仏、北方に豊厳王等の六仏、上方に金宝光明等の二十七仏、「放光般若経巻1放光品」、「大品般若経巻1序品」等には東西南北上下の六方に宝事ratnaakara等の六仏、「宝網経」には、妙尊音王等の六方六仏、「金光明最勝王経巻5金勝陀羅尼品」には、不動等の六方六仏、「阿弥陀経」には、東方に阿閦鞞等の五仏、南方に日月灯candrasuuryapradiipa等の五仏、西方に無量寿等の七仏、北方に焔肩mahaaruciskandha等の五仏、下方に師子siMha等の六仏、上方に梵音brahmaghoSa等の十仏、「仏昇忉利天為母説法経巻下」には、四方四維に離垢意等の八仏、「法華経巻3化城喩品」には、東方阿閦、須弥頂merukuuTaの二仏を始め、四方四維十六仏、「中陰経巻上如来五弘誓入中陰教化品」には、東南北の三方及び四維上下の九方に堅固東の九仏、「普曜経巻5迦林龍品」には、四方四維上下の十方に無垢光vimalaprabhaasa等の十仏ありと云い、「大般若経巻1」には、宝性等の十方十仏、「旧華厳経巻4如来名号品」には、不動智等の十方十仏、「兜沙経巻1」には、阿逝堕等の十方十仏、「菩薩本業経」、「賢首経」、「潅頂経巻11」、「菩薩瓔珞本業経巻上集衆品」等には、入精進等の十方十仏、「大宝積経巻101功徳宝花敷菩薩会」には、無量功徳宝荘厳威徳王等の十方十仏、「大哀経巻1諸菩薩所生荘厳大会法典品」には、離垢浄光海華無断光言王等の十方十仏、「滅十方冥経」には等行等の十方十仏、「大乗宝月童子問法経」、「観仏三昧海経巻10念十方仏品」、「十住毘婆沙論巻5」等には善徳等の十方十仏、「徳護長者経」には仁自在王等の十方十仏、「離垢慧菩薩所問礼仏法経」には阿閦等の十方十仏、「観仏三昧海経巻9本行品」には宝威徳上王等の十方十仏、「力荘厳三昧経巻上」には一切光等の十方十仏、「菩薩瓔珞経巻11三世法相品」には無念等の十方十仏、「観薬王薬上二菩薩経」には須弥灯光明等の十方十仏、「菩薩蔵経」には月勝吉等の十方十仏、「五千五百仏名神呪除障滅罪経」、「十二仏名神呪校量功徳除障滅罪経」には、虚空功徳清浄微塵等目端正功徳相光明華波頭摩琉璃光宝体香最上香供養訖種種荘厳頂髻無量無辺日月光明願力荘厳変化荘厳法界出生無障礙王等の十方十二仏、「称讃浄土仏摂受経」には不動等の十方四十二仏、「仏名経巻1」には阿閦等の十方一百十仏、「華手経巻3至5」には空性等の十方約九百仏、「不可思議功徳諸仏所護念経」には、宝光月殿妙尊音王等の十方一千数十仏、「大品般若経巻12無作品」、「謗仏経」には十方各千仏、「大方等大集経賢護分巻2三昧行品」には、十方百千億那由他仏、「大方等大集経巻56建立塔寺品」には、東弗婆提に八万仏、北鬱単越に百千仏、西瞿陀尼に五万仏、諸海島国に百千仏、閻浮提に二百五十千仏出現すと云えり。其の他、「新華厳経巻16昇須弥山頂品」には迦葉等の十仏、「同須弥頂上偈讃品」には殊特月等の十仏、「同巻23兜率宮中偈讃品」には無尽幢等の十仏、「大方等陀羅尼経巻授記分」には無量寿等の十仏、「仏頂大白傘蓋陀羅尼経」には賢勇堅部器械王等の十仏、「文殊師利法宝蔵陀羅尼経」には娑羅王等の十一仏、「無量寿経巻下」には遠照等の十三仏、「不空羂索神変真言経巻1」には金光明吼声自在王等の十九仏、「一切如来名号陀羅尼経」には宝師子自在等の二十六仏、「決定毘尼経」、「観虚空蔵菩薩経」等には釈迦牟尼等の三十五仏、「瑜伽集要焔口施食儀」には釈迦牟尼等の三十六仏、「大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経」には吉祥密等の三十七仏、「大雲輪請雨経巻上」には毘盧遮那蔵大雲等の五十三仏、「百仏名経」には月光等の百仏、「十住毘婆沙論巻5易行品」には阿弥陀等の百二十六仏、「五千五百仏名神呪除障滅罪経」には虚空功徳等の四千七百二十五仏、「十二巻仏名経」には阿閦等の一万一千余仏の名を出せり。惟うに一切衆生皆仏性を有すとせば、過去無数劫に既に仏性開発して成仏せしもの甚だ多かるべく、又未来無数劫の間に発心修行して当に成仏すべきもの亦た過多なるべきは言を俟たず。されば三世十方に恒沙無量の諸仏出現すとなすは固より当然の事理にして、敢て怪しむを要せざる所なり。但し是の如き諸仏は悉く皆歴史上の仏陀たる釈尊を基準となすものにして、即ち過去の諸仏は釈尊が因位に於いて奉事供養し、若しくは授記を得たることに関し、未来の諸仏は釈尊の後を承け、展転断絶せざることを示し、現在の諸仏は釈尊既に涅槃に入ると雖も、其の実身は尚お十方に示現して教化休まざるの相を表したるものとなすべく、「首楞厳三昧経巻下」に、東方荘厳世界の照明荘厳自在王仏は釈尊と同体なりと云い、「仏昇忉利天為母説法経巻下」に、離垢意等の八方八仏は釈尊の分身なりと説ける如き、皆其の間の消息を伝うるものというべし。又「大方便仏報恩経巻6」に、「一切諸仏に三事の等あり、一には積行等しく、二には法身等しく、三には衆生を度すること等し。一切諸仏は尽く三阿僧祇劫に菩薩行を修し、尽く五分法身、十力四無所畏十八不共法を具足し、尽く無数阿僧祇の衆生を度して泥洹に入る」と云い、「楞伽阿跋多羅宝経巻3」に、字等akSara- samataa、語等vaak- s.、身等kaaya- s.、法等dharma- s.の四等を説き、「薩婆多毘尼毘婆沙巻1」、「摂大乗論釈巻15」等に諸仏同一法身なりと云えるは、三世十方多仏出現を説くも、其れ等は唯即ち一大法身仏に外ならざるの意を明にせるなり。又和語に仏を「ホトケ」と訓ずるに関し、「徒然草参考巻1」に舜統院の西谷鈔を引き、「和語にほとけとよむ事四義有り。一には煩悩のきずなほどけしと云う心。二には万法の義理をよく心得ほどけるゆえなりと。三には善光寺の如来を、守屋などが火にてやきけれども、湯にならざるゆえ、難波江にすてたりしを、ほりいだして見れば、ほとほりけ有りしゆえ也。四には聖徳太子、仏の御経を点じてよみほどけるゆえ也。如影集の四を見るべしとなん」と云い、「日本釈名巻中」には、ほとは人、けは消ゆるの意にして、仏は人の消えたるなりと云い、「屠龍工随筆」には、仏像をほどに入れて焼き溶けたるが故なりと云い、「円珠菴雑記」には、貴人を木に譬ゆるが故に、浮屠に木計を加えたるものなりと云い、又「貞丈雑記巻16」には、浮屠家又は仏陀家の音読なりとし、「塩尻巻54」には、事物異名を引きて、浮屠形又は仏陀教の音転なりと云い、「東雅巻4」には、百済の方言によりしに似たりと云えり。又「雑阿含経巻32」、「増一阿含経巻2」、「生経巻3弟子過命経」、「大乗本生心地観経巻2」、「菩薩本生鬘論巻4」、「長寿王経」、「大般若経巻464菩薩行品」、「大品般若経巻14仏母品」、「大薩遮尼乾子所説経巻9」、「金剛三昧経」、「新華厳経巻16須弥頂上偈讃品」、「大宝積経巻76」、「宝積三昧文殊師利菩薩問法身経」、「大般涅槃経巻18、34」、「自在王経巻下」、「大集譬喩王経巻上」、「維摩経巻上方便品」、「同巻下菩薩行品」、「月上女経巻上」、「優婆夷浄行法門経巻上」、「禅秘要法経巻中、下」、「菩薩瓔珞経巻6」、「大乗密厳経巻上」、「法集経巻1」、「十号経」、「大法炬陀羅尼経巻12問等覚品」、「大乗瑜伽金剛性海曼殊室利千臂千缽大教王経巻7、9」、「善見律毘婆沙巻4」、「優婆塞戒経巻1三種菩薩品」、「大毘婆沙論巻143」、「大智度論巻10、21、72、88、92、95、99」、「金剛般若波羅蜜経論巻下」、「涅槃論」、「仏地経論巻1」、「法蘊足論巻2」、「瑜伽師地論巻38、82」、「大乗法界無差別論」、「入大乗論巻上」、「弘明集巻1」、「金光明経文句巻1」、「観無量寿経疏」、「維摩経義疏巻1」、「阿弥陀経義述」等に出づ。<(望)
  婆伽婆(ばがば):梵語 bhagavat の訳、幸運を有する/幸運な/成功した/幸福な( possessing fortune, fortunate, prosperous, happy )、栄誉ある/著名な/神々しい/崇敬すべき/尊敬するに足る( glorious, illustrious, divine, adorable, venerable )、[神々、或は神格化された英雄に適用される]神聖な(holy (applied to gods, demigods) )の義、神聖な/崇敬すべき方( the divine or adorable one )の意。
經中佛自說。如是名號應當作是念佛。 経中に仏は自ら、是の如き名号を説きたまえば、応当に是の念仏を作すべし。
『経』中に、
『仏』は、
自ら、
是のような、
『名号』を、
『説かれている!』ので、
当然、
是のように、
『仏』を、
『念じなくてはならない!』。
復次一切種種功德。盡在於佛。佛是劫初轉輪聖王摩訶三磨陀等種。閻浮提中智慧威德。諸釋子中生貴性憍曇氏。生時光明遍照三千大千世界。梵天王持寶蓋。釋提桓因以天寶衣承接。阿那婆蹋多龍王婆伽多龍王。以妙香湯澡浴。生時地六種動。行至七步安詳如象王。觀視四方作師子吼。我是末後身。當度一切眾生。 復た次ぎに、一切の種種の功徳は、尽く仏に在り。仏は是れ劫初の転輪聖王なる摩訶三磨陀等にして、閻浮提中に智慧と威徳とを種え、諸釈子中の貴性なる憍曇氏に生まれ、生るる時に光明は、遍く三千大千世界を照らし、梵天王は、宝蓋を持し、釈提桓因は、天の宝衣を以って、承接し、阿那婆蹋多龍王、婆伽多龍王は、妙香の湯を以って澡浴し、生時に地は六種に動き、行くこと七歩に至りて、安詳たること象王の如く、四方を観視して、師子吼を作さく、『我れは、是れ末後の身なり。当に一切の衆生を度すべし』、と。
復た次ぎに、
一切の、
種種の、
『功徳』は、
尽く、
『仏』に、
『在る!』。
則ち、      ――以下、本生経――
『仏』は、
『劫初』には、
『転輪聖王の摩訶三磨陀等であり!』、
『閻浮提』中に、
『智慧、威徳の因縁』を、
『種え!』、
『諸釈子』中の、
『貴性(貴姓)である!』、
『憍曇氏』に、
『生まれた!』が、
『生時』には、
『光明』が、
『遍く!』、
『三千大千世界』を、
『照らし!』、
『梵天王』は、
『宝蓋』を、
『持(たも)ち!』、
『釈提桓因』は、
『天の宝衣』で、
『受けて取り!』、
『阿那婆蹋多龍王、婆伽多龍王』は、
『妙香の湯』で、
『澡浴した!』。
『生時』に、
『地が六種に動く!』と、
『歩いて!』、
『七歩』に、
『至り!』、
『象王のように!』、
『安詳として!』、
『四方を観視する!』と、
『師子吼』を、こう作された、――
わたしは、
是の、
『最後の身』を、
『用いて!』、
一切の、
『衆生』を、
『度することになろう!』、と。
  転輪聖王(てんりんじょうおう):梵語cakra- varti- raajanの訳。巴梨名raajaa cakkavattin、又斫迦羅伐刺底、斫迦羅伐辢底遏、遮迦羅跋帝、斫迦囉跋底、或いは遮迦越に作り、一に転輪王、転輪聖帝、飛行転輪帝、飛行皇帝、又は単に輪王とも称す。即ち七宝を成就し、四徳を具足して須弥四洲を統一し、正法を以って世を治御する大帝王を云う。「中阿含巻11四洲経」に頂生王の事を記し、「往昔王あり、名づけて頂生と曰う。転輪王と作りて聡明智慧あり、四種の軍ありて天下を整御し、己に由りて自在に、如法の法王にして七宝を成就す。彼の七宝とは輪宝、象宝、馬宝、珠宝、女宝、居士宝、主兵臣宝、是れを七宝と為す。千子具足し、顔貌端正に、勇猛無畏にして能く他の衆を伏す。彼れ必ず此の一切の地乃至大海を統領するに刀杖を以ってせず、法を以って教令して安楽を得しむ」と云い、又「長阿含経巻18転輪聖王品」に依るに、転輪聖王は七宝を成就し、四神徳あり、七宝とは一に金輪宝、二に白象宝、三に紺馬宝、四に神珠宝、五に玉女宝、六に居士宝、七に主兵宝なり。金輪宝成就とは、転輪聖王十五日の月満ずる時、高殿の上に昇るに、天の金輪宝忽然として王の前に現じ、東方に向って転ず。王乃ち四兵を将いて其の後に随って行くに、東方の小国王は皆帰伏して各其の国土を献ず。次いで南方西方北方を行くに、輪の至る所に随って其の諸国王は各皆其の国土を献ず。白象宝成就とは、純白六牙の象宝忽然として王の前に現じ、王之に試乗するに、清旦に城を出で、能く四海を周遊して食時に還る。紺馬宝成就とは、紺青の馬宝忽然として現じ、王之に試乗するに、亦た四海を周遊して食時に還る。神珠宝成就とは、清徹無瑕の神珠宝現じ、之を高幢の上に置くに、夜冥中に於いて光を放ち、一由旬の地を照して昼となす。玉女宝成就とは、玉女忽然として現じ、面貌端正にして挙身の毛孔より栴檀香を出し、言語柔濡にして挙動安詳なり。居士宝成就とは、居士丈夫忽然として出で、能く地中の伏蔵を知り、又水中の宝瓶を出して王の用に供し、主兵宝成就とは主将忽然として現じ、智謀雄猛にして能く四兵を令す。又四神徳とは王に長寿、無患、顔貌端正、宝蔵盈満の四徳あり、他の能く及ばざる所なりと云い、又転輪聖王は此の閻浮提を治する時、地平正にして荊棘蚊虻瓦礫等なく、又四時和調し、自然の粳米百果等ありて衆味具足し、人民熾盛にして財宝豊饒なりと云い、「同巻4遊行経」に、転輪聖王に四の奇特未曽有法あり。即ち行住座臥の四時に、挙国の民庶皆来たりて奉迎し、見已りて歓喜し、教を聞きて亦た喜び、威顔を瞻仰して厭足あることなしと云えり。是れ転輪聖王は七宝を成就し、又四神徳及び四未曽有法を具足し、千子を有し、須弥四洲を統領し、治するに正法を以ってし、其の国土亦た豊饒にして人民皆和楽すとなせるものなり。蓋し転輪聖王出現の説は釈尊時代に盛んに行われたるが如く、諸経論に仏と転輪聖王とを比説するもの甚だ多し。彼の「雑阿含経巻17」に、「転輪聖王出世の時、七宝ありて世間に現ず。(中略)是の如く如来の出世にも亦た七覚分の宝ありて現ず」と云い、「大智度論巻25」に、「仏は転輪聖王と何の相似かある。答えて曰わく、王の清浄不雑の種中に生じ、姓に随って家業成就し、衆相をもて身を荘厳し、王徳具足して能く法輪を転じ、香湯頂に潅ぎて王位を四天下の首に受け、一切の賊を壊除し、法令敢て違することなく、宝蔵豊溢し、軍容七宝以って校飾と為し、四摂法を以って衆生を摂取し、善く王法を用いて貴姓に委任し、主兵大臣は以って国政を治め、妙上珍宝楽うて以って布施し、知念する所ありて終始異なきが如く、仏法の王も亦た是の如し、釈迦牟尼、然灯、宝華等の仏は、諸仏清浄の姓中に生じ、先づ仏の威儀行業あり、三十二相を具足して以って自ら荘厳し、聖主の威徳備に具して真の法輪を転じ、智慧甘露の味を智首に潅ぎ、三界の中に於いて尊く、一切の煩悩の賊を破壊し、学無学の衆歓喜し、所結の禁戒は敢て違する者なく、無量の法宝蔵具足し、七覚分宝を荘厳とし、八万四千の法聚を軍とし、出世間の四摂法を以って衆生を摂し、方便を知りて、四聖諦の法を説くを法王の儀と為す」と云えるが如きは、転輪聖王の七宝及び其の治化を以って仏の七覚支等に比説せるものなるを見るべく、又「雑阿含経巻15」等に仏の説法を転法輪と名づけたるは、転輪聖王の転輪宝に擬説せるものなること疑を容れず。又「長阿含巻15究羅檀頭経」、「中阿含巻41梵摩経」、「太子瑞応本起経巻上」等に、若し三十二相を成就せば必ず二処ありて虚ならず。若し家に在らば必ず転輪聖王となり、若し出家せば必ず正覚を成ずべしと云えるは、即ち転輪聖王が仏に同じく三十二相を具することを説けるものなるを知るべく、又「増一阿含経巻8」等に、二仏並出せざるを二転輪聖王並現せざるに喩えたるが如き皆其の例なり。又「大毘婆沙論」等には転輪聖王の輪宝に金銀銅鉄の四種の別ありとし、之を金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王と名づくるの説を出せり。即ち彼の「論巻30」に、「諸の転輪王の力は亦た不定なり、四洲に王たる者には那羅延の力あり、三洲に王たる者には伐浪伽の力あり、二洲に王たる者には鉢羅塞建提の力あり、一洲に王たる者には摩訶諾健那の力あり。此の四輪宝に亦た差別あり、四洲に王たる者には金輪宝あり、其の量は正等四俱廬舎なり。三洲に王たる者には銀輪宝あり、其の量は正等三俱廬舎なり。二洲に王たる者には銅輪宝あり、其の量は正等二俱廬舎なり。一洲に王たる者には鉄輪宝あり、其の量は正等一俱廬舎なり。四輪宝に此の差別あるが如く、応に知るべし余の宝にも亦た勝劣あるを。謂わく四洲に王たる者には余の宝最も勝れ、乃至一洲に王たる者は余の宝最も劣る」と云い、又「倶舎論巻12」に、「施設足の中に四種ありと説く、金と銀と銅と鉄との輪、応に別なるべきが故なり。其の次第の如く勝と上と中と下となり。逆次に能く王として一二三四洲を領す。謂わく鉄輪王は一洲の界に王たり、銅輪は二に王たり、銀輪は三に王たり、若し金輪王は四洲の界に王たり。(中略)四種の輪王の威の諸方を定むるにも亦た差別あり。謂わく金輪は諸の小国王各自ら来たり迎えて是の如きの請を作す、我等の国土は寛広豊饒、安隠富楽にして諸の人衆多し。唯願わくは天尊親しく教勅を垂れよ。我等は皆是れ天尊の翼従なりと。若し銀輪王ならば自ら彼の土に往き、威厳近く至らば彼れ方に臣伏し、若し銅輪王は彼の国に至り已りて威を宣べ徳を競い、彼れ方に勝を推し、若し鉄輪王は亦た彼の国に至りて威を現じ陣を列ね、剋勝して便ち止む」と云える其の説なり。「衆許摩訶帝経巻1」、「瑜伽師地論巻4」等亦た之に同じ。是れ即ち須弥四洲を統治するを金輪王、乃至一洲を統治するを鉄輪王と名づけたるなり。「仁王般若波羅蜜経巻上菩薩教化品」、「菩薩瓔珞本業経巻上賢聖学観品」等には、此等の説に基づき、彼の四輪王を菩薩の行位に配し、鉄輪王を十信位、銅輪王を十住位、銀輪王を十行位、金輪王を十廻向位となし、又「法苑珠林巻43」には真諦の説を出し、輪王に軍輪王、財輪王、法輪王の三種の別ありとし、阿育王等を軍輪王、金輪乃至鉄輪の四王を財輪王、如来を法輪王となせり。按ずるに転輪聖王は多く太古に出現するものと信ぜられ、諸経論に其の王名を挙ぐるもの少なからず。即ち「中阿含巻11四洲経」に頂生王、「同巻14大善見王経」に大善見王を出すを始めとし、「長阿含経巻22世本縁品」、「四分律巻31」等には、閻浮提第三十二代の民主善思王の次に伽[少/兔]麁等の十転輪聖王種族あり、已後転輪聖王相続絶えずと云い、「彰所知論巻上」には、成劫の五王に次いで頂生王等の五輪王出世すとなせる如き是れなり。此等は皆印度太古に出世せし実在の王を指せるものなるが如し。其の他又「長阿含巻6転輪聖王修行経」には、当来弥勒出現の時儴伽saMkha転輪聖王出現すと云い、「悲華経巻3諸仏本授記品」に刪提嵐界善持劫中に無量浄転輪聖王出現すとし、「如来智印経」には月髻仏出世の時、慧起転輪聖王出現し、其の千子は賢劫千仏となると云えり。又転輪聖王出現の時期は人寿無量歳の時より八万歳に至るの間に在りとせられ、「倶舎論巻12」に、「此の洲の人寿無量歳より乃至八万歳に転輪王生ずることあり。八万を減ずる時は有情の富楽寿量損減し、衆悪漸く盛んなり。大人の器に非ざるが故に輪王なし」と云えり。但し「法華経玄賛巻4」には、「此れ金輪は必ず劫の増に出で、銀銅鉄輪王の出時は不定なるを説く。是を以って無憂王の世は仏滅百年にして鉄輪王なり」と云い、金輪王は定んで人寿八万歳以前に出世するも、銀輪乃至鉄輪王の出世は不定にして、即ち阿育王の如き鉄輪王は人寿百歳の時にも出世すとなせり。又「中阿含経巻13、15」、「増一阿含経巻13、33、48」、「無量寿経巻上」、「大方便仏報恩経巻2」、「悲華経巻2」、「仏本行集経巻1至5」、「大宝積経巻59、75、76」、「大般涅槃経巻12」、「賢愚経巻8、13」、「慧印三昧経」、「大薩遮尼乾子所説経巻3」、「陀羅尼集経巻1」、「施設論巻1、3」、「大毘婆沙論巻150、183」、「大智度論巻4、24、82」、「教律異相巻24」、「翻梵語巻4」、「大唐西域記巻1」、「玄応音義巻3、4」、「倶舎論光記巻12」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望)
  摩訶三磨陀(まかさんまだ):梵名mahaasaMmata、大平等王、又は大同意とも云う。
  憍曇氏(きょうどんし):憍曇は梵名gautama、又瞿曇に作り、仏五姓の一なり。『大智度論巻3上注:仏五姓、巻21下注:瞿曇』参照。
  瞿曇(くどん):梵名gautama、又gotamaに作る。巴梨名gotama、又裘曇、瞿答摩、喬答摩、驕答摩、具譚、俱譚に作る。地最勝、泥土、地種、暗牛、牛糞種、或いは滅悪と訳す。日種、甘蔗種、阿儗囉娑aGgirasは其の異称なり。印度刹帝利種族中の一姓。瞿曇仙人の苗裔にして、即ち釈尊所属の本姓を云う。「十二遊経」に、「遮迦越王あり、瞿曇氏と名づく。純熟の姓なり。菩薩兜術天上に在りて意下生せんと欲し、天下に於いて誰れの国に生まるべきかを観ずるに、言わく唯白浄王家のみ身を生ずべし」と云える是れなり。又瞿曇姓の由来に関し、「中観論疏巻10末」に、「瞿曇は此に泥土と云う。即ち是れ姓なり。二の因縁あり、一は釈迦の先祖、王となり、世を厭いて出家し、瞿曇仙人に事う。時人師を呼んで大瞿曇と為し、資を以って小瞿曇と為す。即ち師の姓に従えるなり。次は小瞿曇害せられて以後、大瞿曇は土を以って其の血に和し、分ちて両分となし、還りて遂に各男女を生ぜり。是れに由りて已来瞿曇姓の称あるなり」と云えり。是れ「十二遊経」の説に依りしものなり。然るに「倶舎論光記巻27」には、「喬答摩は是れ刹帝利の中の一姓なり。喬の中より出づる所なれば喬答摩と名づくるなり。旧に瞿曇と云うは訛なり。曽て聞く、往昔刹帝利種あり、賊に位を簒われて父歿し、子は逃る。仙人あり、其の子を慈収して養い、意に其の種の後嗣を絶たざらんことを念ず。後漸く長大なり。星を瞻する者ありて彼れの怨王に白す。(中略)遙かに小児に勧めて世情を起さしめ、冀わくは遺体を留めよと。小児苦悩して志あれども従わず。仙、密雲を化して其れが為に掩障し、細雨沾灑して暫く苦飢を息む。一女人を現じて以って其の欲想を動かすに、小児此れを縁じて精を地に泄す。仙、牛糞を以って承け、裹み帰りて甘蔗園に置く。日光の触に因りて糞団開割して一男子を生ず、形容殊妙にして、後長じて王と為る。因りて以って相伝えて牛糞種と為し、或いは地種と名づけ、或いは日種と名づく」と云い、又「大日経疏巻16」にも、「瞿曇仙は虚空の中に欲を行じ、二渧の汚ありて地に下り、地に甘蔗を生じ、日炙りて二子を生む。釈王となるもの是れなり」と云えり。是れ前と説を異にす。蓋し釈種の祖に関しては種種の称あり。「衆許摩訶帝経巻2」に、「初生の時、卵は日の照らすに因るを以って、乃ち為に名を立てて日族と為し、第一姓と為す。復た是れ瞿曇所生の子なれば、因りて瞿曇を立てて第二姓と為す。又是れ自身の所生なれば、因りて阿儗囉娑を立てて第三姓と為す。甘蔗園中に收得養育せらるるに由り、因りて甘蔗を立てて第四姓と為す」と云い、又「唯識二十論述記巻下」には、「喬答摩は先に瞿曇と云う。此に甘蔗種、或いは日炙種、或いは牛糞種等と言う」と云える是れなり。又瞿曇の意義に関し、「法華経文句巻1下」に、「瞿曇は此に純淑と言う。又舎夷と名づく、舎夷は貴姓なり」と云い、「慧苑音義巻上」に、「瞿曇氏は具に瞿答摩と云う。瞿と云うは此に地と云うなり。答摩は最勝なり。謂わく天を除ける以外、地に在る人類には、此の族最勝なるが故に地最勝と云うなり」と云い、又「慧琳音義巻25」には、此の王種は民の為に患を除くが故に、翻じて滅悪と為すと云えり。按ずるに梵語gotamaは、太古瞿曇仙人の姓にして、其の子孫をgautamaと称せり。就中、瞿goは牛、又瞿kuは土地の義、tamaは最上の義なれば、地最勝、或いは泥土、、或いは地種と訳し、又tamasに暗黒の義あれば、暗牛、或いは牛糞と翻じたるなり。即ち此の語に斯かる諸義あるが故に、随って上掲の如き種種の神話的伝説を生じたるものなるべし。一説にgotamaは牛の最大なるものの義なれば、之を以って人の尊称と為したるものなりと云えり。是れ字義に於いて当れるのみならず、上古印度に於いて特に牛を飼養し、之を重んじたる風習あるに徴するに、此の説或いは最も穏健なるやも知るべからず。釈尊は本と此の種姓の出なるを以って、諸経論中、指して瞿曇、又は喬答摩と称すること多く、又婆羅門古経典の作者にも、此の名を有する者少からず。是れ皆姓を以って其の人を呼びたるなり。又「仏本行集経巻5」、「釈迦譜巻1」、「法華経玄賛巻9本」、「玄応音義巻13、21、23」、「慧琳音義巻12」、「希麟音義巻6」、「翻訳名義集巻1」等に出づ。<(望)
  瞿曇仙(くどんせん):瞿曇gautamaは梵名。又gotamaに作る。巴梨名gotama、又瞿曇仙人、瞿曇大仙、喬答摩仙とも称し、一名zaradvatとも云う。七大仙の一。十鉢羅闍鉢底の一。即ち太古の仙人なり。「十二遊経」に、「昔阿僧祇劫の時、菩薩は国王たり。其の父母早く喪亡し、国を譲りて持ちて弟に与え、国を捨てて行じて道を求む。遙かに一婆羅門の姓瞿曇なるものを見、菩薩因りて婆羅門に随って道を学す。婆羅門、菩薩に答えて言わく、体に著くる所の王者の衣服を解き、髪を編み莎を結んで衣と為し、吾が服する所の如くせば、吾が瞿曇の姓を受けんと。是に於いて菩薩は服衣を受けて体に被り、瞿曇を姓とす。志を潔うして深山林藪険阻に入り、坐禅して道を念ず。婆羅門言わく、卿は是れ王者にして久しく尊貴に在り、懃苦を簡ぶ。夏は水を飲みて衆の果蓏を食うべく、冬は城邑街里に還りて乞食すべし。其の樹下に還りて禅思し毀ること勿かれと。菩薩其の所に乞食し、其の国界に還るに、挙国王者より下庶民に及ぶまで、能く菩薩を識る者なし。謂って以って小瞿曇と為す。菩薩は城外の甘果園中に於いて以って精舎を作り、中に於いて独坐す。時に国中に五百の大賊あり、官物を劫取して逃走し、路菩薩の廬辺に由り、蹤跡放散し、遺物は菩薩の舎の左右に在り。明日捕賊は賊者を追尋するに、蹤跡菩薩の舎の下に在り。因って菩薩を収め、便ち将って上問し、謂って菩薩を国中の大賊と為す。前後劫盗、罪死に過ぐるあり。王便ち臣下に勅すらく、此の如きの人は、法応に木を以って身を貫き、立てて大標と為すべしと。其の身血出でて地に流下す。是に大瞿曇は深山の中に於いて、天眼を以って徹視して之を見、便ち神足を以って飛び来たりて之を問う、子に何の罪ありて其の痛酷なること乃ち爾るや。瘡豈に傷毒せざらんや、苦を忍ぶこと斯くの如くなるやと。菩薩答えて曰わく、外に瘡痛あるも内に慈心を懐く。何の罪にて横に誅害せらるるかを知らずと。大瞿曇言わく、卿に子姪なし。当に何んが継嗣すべき、忍痛、此の如くなるやと。菩薩答えて言わく、命は須臾に在り。何ぞ子孫を陳べんと。是に於いて国王、左右をして彊弩飛箭を以って射て之を殺さしむ。大瞿曇悲哀涕泣し、其の尸を下して喪棺に之を斂む。是に於いて土中の余血を取り、泥を以って之を団め、各左右を取りて山中に持著し、其の精舎に還りて左面の血を左器の中に著け、其の右も亦た然り。大瞿曇言わく、子は是れ道士なり。若し其れ至誠ならば、天神当に血をして化して人と成らしむべしと。却後十月にして左は即ち男と成り、右は即ち女となる。是に於いて便ち瞿曇氏を姓とす」と云えり。「衆許摩訶帝経巻2」、「倶舎論光記巻27」等にも亦た此の説を出せり。是れ即ち小瞿曇の烈行にして、又瞿曇姓の由りて出でたる事縁なり。然るに「大般涅槃経巻39」、「菩薩本縁経巻中」等に依るに、瞿曇仙人は大に神通を現じ、十二年中、釈の身を変作し、並びに釈の身をして羝羊の形と作し、千の女根を作りて釈の身に在らしめたりと云えり。是れ婆羅門神話に瞿曇の妃をアハッルヤーahalyaaとなし、彼の妃は帝釈天と通じたるを以って、仙は大に怒りて妃を林間に逐い、乃ち帝釈天の身に千陰の章を附したりと云うに一致する所なるも、恐らくは是れ大瞿曇仙に関する神話にして、小瞿曇には非ざるべし。「長阿含巻13阿摩昼経」に之を又十二大仙の一とし、「仏開解梵志阿颰経」には、天地開闢の大梵志道士二十三人の一とし、又「大孔雀呪王経巻下」等には、頞瑟吒迦を始め瞿曇等の諸仙は、皆是れ古旧の大仙にして、日明論を造り、善く呪術に閑うと云い、「大日経巻5秘密曼荼羅品」には、末建拏等と共に之を火天の眷属と為せり。又「釈迦譜巻1」、「中観論疏巻10末」等に出づ。<(望)
  梵天王(ぼんてんのう):色界初禅大梵天の主。『大智度論巻8上注:大梵天』参照。
  承接(じょうしょう):引き受ける。受け取る。
  阿那婆蹋多(あなばとうた):龍王の名。『大智度論巻4下注:阿那婆達多龍王』参照。
  婆伽多(ばがた):龍王の名。
  安詳(あんじょう):安隠微妙のさま。又大人の相、又は動寂無礙なるさま。
  末後(まつご):最後の。
阿私陀仙人相之告淨飯王。是人足下千輻輪相指合縵網。當自於法中安平立。無能動無能壞者。手中德字縵網莊嚴。當以此手安慰眾生令無所畏。如是乃至肉骨髻相。如青珠山頂。青色光明從四邊出。頭中頂相無能見上。若天若人無有勝者。白毫眉間跱。白光踰頗梨。淨眼長廣其色紺青。鼻高直好甚可愛樂。口四十齒白淨利好。四牙上白其光最勝。脣上下等不大不小不長不短。舌薄而大軟赤紅色如天蓮華。梵聲深遠聞者悅樂聽無厭足。身色好妙勝閻浮檀金。大光周身種種雜色妙好無比。如是等三十二相具足。是人不久出家得一切智成佛。佛身功德如是應當念佛。 阿私陀仙人の、之を相(み)て、浄飯王に告ぐらく、『是の人の、足下千輻輪相、指合縵網は、当に自ら法中に安平に立たしめ、能く動かす無く、能く壊る者無かるべし。手中の徳字、縵網荘厳するは、当に此の手を以って、衆生を安慰し、所畏無からしむべし。是の如く乃至肉骨髻相は、青珠の山頂に、青色の光明四辺より出づるが如く、頭中の頂相は、能く見上ぐる者の無きこと、若しは天、若しは人の勝るる者の有ること無し。白毫は眉間に峙(そばだ)ちて白光は頗梨を踰(こ)ゆ。浄眼は長く広くして、其の色は紺青なり。鼻は高く直くして好ましく、甚だ愛楽すべし。口は、四十歯白浄にして利く好ましく、四牙は上(たか)くして白く、其の光は最勝なり。唇は、上下等しく、大きからず、小さからず、長からず、短からず。舌は薄く、大きく、軟らかく、赤紅色にして天の蓮華の如し。梵声は、深く遠く、聞く者をして悦楽せしめ、聞いて厭足する無し。身色は好妙にして、閻浮檀金に勝り、大光身を周りて、種種の雑色の妙好なること無比なり。是れ等の如き三十二相具足すれば、是の人は、久しからずして出家し、一切智を得て、仏と成るべし』、と。仏身の功徳は是の如し、応当に仏を念ずべし。
『阿私陀仙人』は、
之を、
『相()て!』、
『浄飯王』に、こう告げた、――
是の、
『人』の、
『足下』の、
『千輻輪相』や、
『指合縵網相』は、
自らを、
『法』中に、
『安らかに平に!』、
『立たせて!』、
『動かす者』や、
『壊る者』が、
『無い!』。
『手中』を、
『徳字相』と、
『縵網相』とが、
『荘厳する!』のは、
此の、
『手で!』、
『衆生』を、
『安慰し!』、
『衆生』に、
『畏れる!』所を、
『無くさせるからである!』。
是のようにして、
乃至、
『肉骨髻相』は、
『青珠の山頂のように!』、
『青色の光明』が、
『四方より!』、
『出て!』、
『頭中』の、
『頂相』を、
『見上げる者』が、
『無く!』、
『天、人中』には、
『勝る者』が、
『無い!』。
『眉間』には、
『白毫が聳え立ち!』、
『白い光』は、
『頗梨(水晶)』を、
『超える!』。
『浄眼』は、
『長く広く!』、
其の、
『色』は、
『紺青である!』。
『鼻』は、
『高く!』、
『真直ぐ!』で、
『好もしく!』、
『甚だ!』、
『愛らしく!』、
『楽しい!』。
『口』の、
『四十歯』は、
『白く浄らかで!』、
『利く!』、
『好もしく!』、
『四牙』は、
『高く白く!』、
其の、
『光』は、
『最勝である!』。
『唇』は、
『上、下が等しく!』、
『大きくもなく!』、
『小さくもなく!』、
『長くもなく!』、
『短くもない!』。
『舌』は、
『薄くて!』、
『大きく!』、
『軟らかく!』、
『天の!』、
『蓮華のように!』、
『赤紅色である!』。
『梵声(梵天の声)』は、
『深くて遠く!』、
『聞く者』を、
『悦楽させ!』、
『聴いて!』、
『厭足する!』ことが、
『無い!』。
『身』の、
『色』は、
『好妙であって!』、
『閻浮檀金』に、
『勝り!』、
『大光』が、
『身』を、
『周辺し!』、
『色』が、
『種種に雑って!』、
『妙好であり!』、
『無比である!』。
是れ等のような、
『三十二相』が、
『具足している!』ので、
是の、
『人』は、
『久しからずして!』、
『出家し!』、
『一切智を得て!』、
『仏』に、
『成るだろう!』、と。
『仏の身』の、
『功徳』は、
『是の通りである!』。
当然、
『仏』を、
『念じなければならない!』。
  阿私陀(あしだ):(一)梵名asita、又阿私多、阿私哆、阿私吒、阿斯陀、阿私、或いは阿夷に作る。不白、無比、端厳等と訳す。釈尊降誕の時、之を占相して成仏を予言せし仙人の名。「仏本行集経巻7乃至10」等に依るに、始め此の仙は五通を具足し、常に三十三天集会の所に到りて出入自在なりしが、南印度増長林に於いて菩薩托胎の瑞相を観、後太子の降誕を聞きて其の侍者那羅陀(naalaka)と共に浄飯王宮に到り、太子を占す。大丈夫の相好あるを見て、其の出家して必ず正覚を成じ、菩提を得て無上最妙法輪を転ずべきを予言し、又自ら顧みて既に老衰に及び、太子の成道教化を待つこと能わざるを知り、悲嘆大に号泣せしが、後に侍者那羅童子を出家せしめ、太子の成道を待たしめしと云う。又「仏所行讃巻1」、「瑞応本起経巻上」、「修行本起経巻上」、「方広大荘厳経巻3」、「普曜経巻2」、「過去現在因果経巻1」、「大般涅槃経巻27」、「大智度論巻29」、「高僧法顕伝」、「慧琳音義巻26」、「翻梵語巻5」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。(二)仏陀が過去因位に王たりし時、就きて其の奴僕となりて法華を聴受せし仙人の名。「法華経巻4提婆達多品」に、「誰か大法を有たん者、若し我が為に解脱せば、身当に奴僕と為るべし。時に阿私仙あり、来たりて大王に白す」等と云い、且つ此の仙人は提婆達多の前身なりしことを説けり。又「法華経玄賛巻9本」等に出づ。<(望)
  足下千輻輪相(そくげせんぷくりんそう):足裏に有る千輻輪の相。『大智度論巻21下注:三十二相、巻29下』参照。
  指合縵網(しごうまんもうそう):手指の各間に有る肉膜。『大智度論巻21下注:三十二相、巻29下』参照。
  安平立(あんぴょうりゅう):安静にして平らに立つ。
  徳字(とくじ):八十随形好の一。功徳を有する手相。『大智度論巻10下注:八十随形好』参照。
  肉骨髻相(にくこつけいそう):頭頂の肉の隆起。『大智度論巻21下注:三十二相、巻29下』参照。
  青珠山(しょうじゅせん):山の名。
  (じょう):頂上。
  白毫(びゃくごう):眉間に有る白く長き一毛。『大智度論巻21下注:三十二相、巻29下』参照。
  (じ):そばだつ/聳え立つ。
  頗梨(はり):又玻璃(梵語sphaTika)に作る。一説に水精なりと。『大智度論巻7上注:七宝』参照。
  四牙(しげ):四本の糸切り歯/犬歯。
  (じょう):[本義]高い( high )。<名詞>上天/天帝( sky )、上級者/尊長/社会的最高層( superiors, higher-ups, higher authority )、君主( emperor )。<形容詞>上等の/上流の( first-class, first-rate, superior )、前の/以前の( previous )、遠方の( faraway, distant )、広大な( vast, broad )、豊かな/豊足せる( rich )。<動詞>登る/上昇する( go up, mount )、報告する( report )、獻上する( present to one's superior )、唱道する( advocate )、納付する( pay )、添補する( add )、前進/向上する( advance )、去る/到る( go )、当番となる( be on duty )。
  (しん):くちびる。唇に同じ。
  梵声(ぼんしょう):又梵音とも云う。『大智度論巻21下注:梵音』参照。
  梵音(ぼんおん):大梵天王所出の音声に五種の清浄の音有り、仏の音声も亦た是の如く、故に三十二相中に梵音相有り。「法華経序品」に、「梵音微妙にして、人をして聞くを楽しましむ」と云い、「法華文句」に、「仏の報得の清浄の音声は最勝なり、号して梵音と為す」と云い、「華厳経」には、「清浄微妙の梵音を演出し、最上無上の正法を宣揚するに、聞く者は歓喜して、浄妙の道を得」と云い、「長阿含巻5闍尼沙経」には、「時に梵童子の忉利天に告げて曰わく、其れ音声の五種に清浄なる有りて、乃ち梵声と名づく。何等か五なる、一には其の音正直なり、二には其の音和雅なり、三には其の音清徹なり、四には其の音深満なり、五には其の音徧周して遠く聞こゆ。此の五を具すれば、乃ち梵音と名づく」と云い、「三蔵法数巻32」に、「梵音とは、即ち大梵天王所出の声にして、五種の清浄の音有り」と云える是れなり。<(丁)
  閻浮檀金(えんぶだんこん):河より産する沙金の名。『大智度論巻9上注:閻浮檀金』参照。
復次佛身功德身力。勝於十萬白香象寶。是為父母遺體力。若神通功德力無量無限。佛身以三十二相八十隨形好莊嚴。內有無量佛法功德故視之無厭。見佛身者忘世五欲萬事不憶。若見佛身。一處愛樂無厭不能移觀佛身功德如是。應當念佛 復た次ぎに、仏の身の功徳、身の力は、十万の白香の象宝に勝る。是れ父母の遺せる体の力と為す。若しは神通の功徳の力なれば、無量、無限なり。仏の身は、三十二相、八十随形好荘厳し、内には無量の仏法の功徳有るが故に、之を視て厭くこと無し。仏の身を見る者は、世の五欲を忘れて、万事を憶えず。若し仏の身を見れば、一処ごとに愛楽して、厭くことなく、移して観る能わず。仏の身の功徳は、是の如し、応当に仏を念ずべし。
復た次ぎに、
『仏』の、
『身の功徳力』は、
『十万』の、
『白香の象宝』にも、
『勝るのである!』が、
是れは、
『父母の遺した!』、
『体の力である!』が故に、
『有量、有限である!』が、
若し、
『神通』の、
『功徳の力ならば!』、
『無量、無限である!』。
『仏』の、
『身』は、
『三十二相』や、
『八十随形好』が、
『荘厳しており!』、
『内』には、
『仏法』の、
『功徳』が、
『無量である!』が故に、
之を、
『視ていて!』、
『厭きる!』ことが、
『無い!』。
『仏』の、
『身を見る!』者は、
『世間』の、
『五欲』を、
『忘れてしまい!』、
『万事』、
『憶えていない!』。
若し、
『仏』の、
『身を見れば!』、
『身の一処ごとに!』、
『愛楽して!』、
『厭きること無く!』、
『視線』を、
『移して!』、
『観ることができない!』。
『仏』の、
『身の功徳』は、
『是の通りである!』から、
当然、
『仏』を、
『念じなくてはならない!』。
  三十二相(さんじゅうにそう):梵語dvaatriMzan mahaa- puruSa- lakSaNaaniの訳。巴梨語dvattiMsa mahaa- purisa- lakkhaNaani、仏及び転輪聖王の身に具足せる三十二種の微妙の相を云う。又三十二大丈夫相、三十二大人相、大丈夫三十二相、大人三十二相、三十二大士相と名づけ、略して大丈夫相、大士相、大人相、四八相とも称す。一に足下安平立相、二に足下二輪相、三に長指相、四に足跟広平相、五に手足指縵網相、六に手足柔軟相、七に足趺高満相、八に伊泥延腨相、九に正立手摩膝相、十に陰蔵相、十一に身広長等相、十二に毛上向相、十三に一一孔一毛生相、十四に金色相、十五に丈光相、十六に細薄皮相、十七に七処隆満相、十八に両腋下隆満相、十九に上身如師子相、二十に大直身相、二十一に眉円満相、二十二に四十歯相、二十三に歯斉相、二十四に牙白相、二十五に師子頬相、二十六に味中得上味相、二十七に大舌相、二十八に梵声相、二十九に真青眼相、三十に牛眼睫相、三十一に頂髻相、三十二に白毛相なり。是れ「大智度論巻4」に依りて列ぬる所なり。然るに三十二相の名称及び順位に就きては、諸経論に異説あり。「大般若波羅蜜多経巻381」、「菩薩善戒経巻9」等には、今の如く足下安平立相を第一とし、白毛相を第三十二となすも、「方広大荘厳経巻3」、「妙吉祥菩薩所問大乗法螺経」等には白毛相を第一とし、足下安平立相を第三十二となし、其の他、一経には一相となせるも、他経には分って二相となせるものあり。又一経には三十二相の随一となせるも、他経には之を八十種好に摂するあり。各相の出没、順位の不同等悉く之を列記すること難し。就中、第一足下安平立相su- pratiSThita- paada(巴梨語suppatiTThita- paada)は、又足下平相、足安立相、安立足相、足安平相、足下平満相、足下安平相、足安平立相、足下平正相、足下善住相、足下安立相、両足掌下皆悉平満相、足善安住等按地相、足下平正周遍案地相、足下平満𨂻地善住相と名づく。足下の平坦にして善く安住すること、香奩の底の平正にして高下なきが如く、たとい地に高低あるも、其の高低に随って地上に密触し、其の間一針一髪の容るべきものなきを云う。是れ仏因位に菩薩の行を行ずる時、常に施を行じて惜まず、戒禁を守りて破らず忍辱を修して忿怒を生ぜず、深く禅定に入り、大高山の如く安住せしことに由りて感得したまえる妙相なり。即ち仏の慈悲平等にして、菩薩より乃至逆罪の者も、悉く皆憐愍して引導利益するの徳を表す。第二足下二輪相とは、又足下輪相、千輻輪相、足下千輻輪相、足下生輪相、足下千輻網輪相、常現千輻輪相、足下千輻輪輞轂衆相、足下具足千輻輪相、双足下現千輻輪輞轂衆相等の名あり。足下に千輻輪宝の文様分明にして、輞轂等の一切の妙相を円満せるを云う。是れ仏因位に父母師長善友乃至畜生に至るまで、如法の財を以って布施し、供給せしことに由りて感得し給える妙相にして、輪宝の八方上下に頓に転じて、山を開き水を分け石を砕き木を折り、天に飛び地に降りて、怨敵を伏し悪魔を摧破するが如く、常に一切の衆生を愍念して、瞋恚の山を開き、貪愛の水を分け、愚癡の無明を照破するの徳を表す。然るに此の相に関し、単に足下のみならず、両手にも亦た輪相ありとなすの説あり。故に即ち之を手足輪相cakraaGkita- hasta- paada- tala(巴heTTha paada- talesu cakkaani jaataani)、手足千輻輪相、手足掌中各有輪相、両手両足皆有輪相と名づけ、或いは分って二相となし、之を足下輪相、手掌輪相となせり。第三長指相diirghaaGguli(巴diigh- aGguli)とは、又繊長指相、十指繊長相、指繊長相、指長好相等の名あり。十指の繊長なるを称す。然るに之を単に足指のみに取りて足指繊長相と名づくると、手指のみに取りて手指繊長相と名づくると、或いは手足並び取りて手足相、手足長指相、手足指繊長相、手足指皆繊長相、手足諸指円満繊長、両手両足皆悉繊長相と名づくるとの諸説あり。是れ仏因位に諸の師長に於いて恭敬礼拜し、合掌起立して常に歓喜を生ぜしめ、殺さず盗まず、憍慢を破せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち指の繊長なるは寿命長遠にして衆生に愛楽帰依せらるるの徳を表す。第四足跟広平相aayata- paada- paarSNi(巴aayata- paNhii)とは、又足跟広相、足跟満相、足跟長相、足跟踝後両辺平満相、脚跟長相、傭足跟相、足跟満好相、足跟円長相、足跟円満相、足跟趺長相、足跟円正相、足跟広平相、足跟広長円満相、足跟広具足満好相、足跟円好相等の名あり。跟は足踵なり、即ち足踵の円満広平なるを云う。是れ仏因位に持戒と聞法と恵施との行業を勤修し、又不与取を離るることに由りて感得し給える妙相にして、即ち寿命長遠にして、尽未来際衆生を化益するの徳を表す。第五手足指縵網相jaalaavanaddha- hasta- paada(巴jaala- hattha- paada)とは、手足網縵相、手足指鞔相、手足縵網相、手足網相、手足合網縵相、手足網縵猶如雁王相、俱有網鞔相、手足十指網密相、両手両足皆有網鞔相、指網縵相、手足指皆網鞔相、指間雁王相、手足指間具足羅網相等の名あり。手足の一一の指間に網縵して雁王の如き蹼あり、黄金色にして其の紋様綾羅の如し。是れ仏因位に常に四摂法を修して、衆生を摂取せしことに由りて感得し給える妙相にして、恰も水鳥の或いは陸に或いは水に出没自在無礙なるが如く、常に三界流転の愛河に没して五道の衆生を摂取し、煩悩悪業の浪を離れて無為の彼岸に至らしむることを表す。第六手足柔軟相mRdu- taruNa- hasta- paada- tala(巴mudu- taluNa- hattha- paada)とは、又手足輭相、手足柔軟勝余身相、手脚柔輭如天劫貝相、両手両足皆悉柔輭相、手足如兜羅綿相、手足細軟相、手足柔軟勝過一切相、柔軟相等の名あり。手足極めて柔軟にして余の一切の身分に勝ること猶お兜羅綿の如く、其の色又紅赤なるを云う。是れ仏因位に上妙の衣服飲食臥具を以って師長に供養し、又父母師長病ある時、親しく手を以って或いは洗い或いは拭い、或いは手を取り或いは臂を持し、或いは其の体を摩して、奉事供養せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち仏の慈悲柔軟の手を以って親疎等しく摂取するの徳を表す。第七足趺高満相ucchaGkha- paada(巴ussaGkha- paada)とは、又足趺高好相、足趺高相、足趺高平相、足趺上隆相、足趺端厚相、足趺高平好相、足趺隆起相、足趺脩高充満相、足趺高隆相等の名あり。足趺の充満柔軟にして、其の形、亀背の甲の如く、厚さ四指にして行歩の時、印文を現ずるを云う。「大智度論巻4」に、「足地を蹈むに広からず狭からず、足下の色は赤蓮華の如く、足指の間の網及び足辺の色は真珊瑚の如く、指爪は浄赤銅の如く、足趺の上は真金色、足趺の上の毛は青毘琉璃色なり。其の足厳好なること、譬えば雑宝の屐の種種の荘飾の如し」とあり。是れ仏因位に修福転た増し、精進勇猛なりしに由りて感得し給える妙相にして、即ち利益衆生大悲無上の内徳を表す。第八に伊泥延腨相aiNeya- jaGgha(巴cNi- jaGgha)とは、又伊尼延鹿王相、伊尼鹿王腨相、腨如鹿王相、伊尼鹿腨相、鹿腨相、鹿王腨相、足両踝傭相、両腨鹿王相、足踝傭相、腨相厳好如伊尼鹿王相、腨傭長如伊尼鹿王相、翳泥耶腨相、傭腨腸如伊尼延鹿王相、瑿泥耶腨相、伊尼延鹿腨相、腨如伊尼鹿王相、伊泥延腨相、瑿泥邪仙鹿王腨相、双腨如黳泥耶仙鹿王腨相、伊泥延鹿腨繊好相、腨如鹿王相、鹿腨脹相等の名あり。伊泥延は鹿の一種にして、仏の双腨の漸漸に繊く円く、微妙なること、猶お鹿王の腨の如くなるを云う。是れ仏因位に専心に聞法し、又演説せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち見るものをして歓喜讃嘆し、修学速疾に、一切の罪障を消滅せしむるの徳を表す。第九正立手摩膝相sthitaanavanata- pralamba- baahutaa(巴thitako va anonamanto ubhohi paaNi- talehi jannukaani parimasati parimajjati)とは、又正立不屈二手過膝相、平立手摩膝相、立身摩膝相、手摩膝相、手過膝相、平身端坐垂手過膝相、立手摩膝相、平住手摩膝相、平住手過膝相、垂手過膝相、双臂脩直傭相、平住両手摩膝相、正立不曲二手過膝相等の名あり。双臂脩直にして俯せず仰がず、正立するに、其の両手は膝を摩すること、譬えば白象の平立するに其の鼻の膝に至りて順うが如くなるを云う。是れ仏因位に飲食足ることを知りて貪著せず、常に恵施を好みて財を惜まず。病者あれば自ら看て薬を与うること、臣子の君父に事うるが如く、又能く我慢を離れしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち仏の愚悪凡夫を引導して苦を抜き楽を与え、一切の悪魔を降伏して衆生を哀愍摩頂するの徳を表す。第十陰蔵相kozoopagata- vasti- guhya(巴kosohita- vattha- guyha)とは、又陰蔵如馬王相、長陰蔵相、陰馬蔵相、勢峯蔵密相、馬王隠蔵相、象馬蔵相、象王馬王蔵相、勢峯蔵匿隠密不現相、陰蔵不退相、如象馬王蔵相、陰蔵隠密相、陰相等の名あり。陰相其の勢高くして峯の如くなるも、而も隠密して現ぜざること、馬王の如く又象王の如くなるを云う。是れ仏因位に慚愧を修して邪婬を断じ、他の過失を覆蔵し、怖畏する者を見て之を救護し、裸形跣足の者を見て衣服履物を施与し、供養せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち寿命長遠にして多弟子を得るの徳を表す。第十一身広長等相nyagrodha- parimaNDala(巴nigrodha- parimaNDala)とは、又身円満如尼拘律樹相、身縦広相、身体上下縦横正等如尼拘樹相、体相縦広量等周匝円満如諾瞿陀相、身縦広等如尼拘類樹相、身分円満如尼拘陀樹相、尼俱盧陀身相、身相円満如諾瞿陀相、身円満足如尼拘陀樹相、身分円満相、身縦広等如尼拘陀樹相、身相円満如尼拘陀樹相、身形妙円満如尼拘陀樹相、尼俱楼樹相、円身相等の名あり。仏身の縦広左右上下、其の量全く等しく、周匝円満なること尼拘律樹の如くなるを云う。是れ仏因位に常に衆生を勧めて三昧を行ぜしめ、又施すに無畏を以ってし、飲食知足して楽を恵施し、瞻病給薬せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち永離血肉身、金剛力身、無上智身、浄法力身、安住力身、功徳力身、無礙身、無染身、円応身、具足法身等を得て、無上法王尊貴自在なるの徳を表す。第十二毛上向相uurdhvaM- ga- roma(巴uddhagga- loma)とは、又身毛上靡相、毛上旋相、毛上向右旋相、身毛右旋相、身毛上向相、身毛上向靡相、毛生上向而右旋相(巴uddhaggaani lomaani jaataani niilaani aJjana- vaNNaani kuNDala- vattani padakkhiNaavattaka- jaataani)、身毛右旋上靡相、髪毛端皆上靡右旋宛転相等の名あり。仏の髪毛は、頭より手足に至るまで一切の毛端皆上に靡き、右に旋りて転ずるを云う。其の色紺青にして柔潤なり。但し之を二相に分ちて、身毛上靡相と一一毛右旋相となすの説あり。是れ仏因位に無量世に於いて常に衆生を化し、布施持戒を修し、及び一切の善法を行ぜしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち瞻仰の衆生をして心に歓喜を生じ、得益無量ならしむるの徳を表す。第十三一一孔一一毛生相ekaika- roma- pradakSiNaavarta(巴ekekaani lomaani loma- kuupesu jaataani)とは、又毛孔一毛相、一孔一毛相、一一毛相、一一孔一毛生相、一孔一毛旋生相、毛孔各一毛生相、一一毛孔皆生一毛相、身諸毛孔一一毛生相、孔生一毛相、一毛孔有一毛生相、身一孔一毛生相、一孔一毛不相雑乱、輭身一一孔中一毛生相等の名あり。身の一孔に各必ず一毛を生ずるを云う。其の毛青瑠璃色にして、一一の毛孔より微妙の香気を出す。是れ仏因位に師長父母兄弟及び其の他尊重する処に随って供養衛護し、善を修し法を思惟し、人に教えて倦むことなく、無量の智者に親近して問を楽い論を楽い修を楽い、道路を掃治して棘刺を除去するを楽いしことに由りて、感得し給える所の妙相にして、即ち其の光を蒙るものをして悉く二十劫の罪障を消滅せしむるの徳あるを表す。第十四金色相suvarNa- varNa(巴suvaNNa- vaNNa)とは、又身金色相、身真金色相、黄金色相、皮如金色、真妙金色相、身皮皆金色相、金色身相、膚体柔軟細滑紫磨金色相、身色勝上金相、身皮金色相、身色微妙勝閻浮金相、身体皮膚皆作金色相、身黄金色如紫磨金相等の名あり。仏の身及び手足等悉く真金色をなし、微妙光潔にして恰も衆宝荘厳の妙金台の如くなるを云う。是れ仏因位の時、人をして悦予し歓喜せしむべき飲食騎乗衣服荘厳の具、資身の什物等を施与し、諸の忿恚を離れ、愛眼を以って衆生を見、能く与え難きを与えしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち瞻仰の衆生をして愛楽して厭捨せず、亦た滅罪生善の益を得しめ、仏自ら浄潔の衣服臥具房舎楼閣を得給うの徳を表す。第十五丈光相とは、又常光一尋相、円光一尋相、身光面各一丈相、身光一丈相、常光面各一尋相、身光面一尋相等の名あり。仏の身光は任運に三千世界を照し、若し作意する時は無量無辺の世界を照らすと雖も、諸の衆生を愍念するが故に、光を摂して四維上下各一尋なるを云う。即ち通身光明常照の相なり。是れ仏因位の時、大菩提心を発して無量の行願を修し、一切の行業悉く利他の為に作せしことに由りて感得し給える妙相にして、一切の外道悪魔を摧伏し、衆生をして惑を破し障を除き、一切の志願を満足せしむるの徳を表す。第十六細薄皮相suukSma- suvarNa- cchavi(巴sukhuma- cchavi)とは、又皮膚細滑相、皮膚細軟相、皮膚薄相、皮膚細輭、皮膚細密相、皮膚細滑不受塵垢相、身皮細滑塵垢不著相、皮薄好相、細薄皮相、身皮細薄潤滑相、皮膚細軟如兜羅綿相等の名あり。仏の身皮の細薄にして潤沢を有し、一切の塵垢不浄を留めざるを云う。是れ仏因位の時、清浄の衣服臥具楼閣房舎等を以って悉く施与して著せず、智者に親近し、悪人を遠離し、好んで問答し、行路を掃治せしことに由りて感得し給える所の妙相にして、即ち仏の平等無垢の大慈悲を以って衆生を化益するの徳を表す。第十七七処隆満相saptootsada(巴satt- ussada)とは、又七処満肩相、七処平満相、七処満相、七処隆相、身七処満相、得七処満相、七処満足相、七処充満相、七処皆満相、七処充満光浄柔輭相、七処満好相等の名あり。両手両足下両肩項中の七処の肉、円満にして清浄に、光明ありて柔軟微妙なるを云う。是れ仏因位の時、所敬の物も能く捨して惜まず、福田と非福田とを見ずして、能く施行せしことに由りて感得し給える所の妙相にして、仏の七随眠を断尽して七聖財を具足し、一切の衆生をして滅罪生善の益を得しむるの徳を表す。第十八両腋下隆満相citaantaraaMsa(巴cit- antaraMsa)とは、又両腋満相、髆間充実相、両腋下満如摩尼珠相、髆腋悉皆充実相、両腋下平好相、肩髆円満相、両腋下満相、腋下満相、腋下平満相等の名あり。仏の髆腋下は、骨肉共に充満して乃ち虚ならざるを云う。是れ仏因位の時、衆生に医薬飯食を与え、復た自ら能く看病せしことに由りて感得し給える所の妙相なり。第十九上身如師子相siMha- puurvaardha- kaaya(巴siiha- pubbaddha- kaaya)とは、又上身相、師子上身相、師子身相、身如師子相、上半如師子相、上身如師子相、上身大猶如師子相、前分如師子王臆相、其身上分如師子相、其身上半如師子相等の名あり。仏の上半身の広大にして、行住座臥威容端厳なること、恰も師子王の如くなるを云う。是れ仏因位の時、無量世中に於いて未だ曽て両舌せず、他に善法を教え、仁和を行い、衆生の願を与え、又其の外護となり、衆と共に善業を修し、若しくは財若しくは法、其の所望に随って成就満足せしめ、如法にして随順愛語し、我慢を遠離せることに由りて感得し給える妙相にして、即ち威容高貴慈悲満足の徳を表す。或いは頷臆如師子王相と合して、之を頷臆并身上半威容広大如師子相となすの説あり。第二十大直身相とは、又身端直相、広洪直相、大人直身相、身高妙満足七肘相、身広端正相、身広洪直相、身分洪直相、身大好端直相、身量七肘相、身相脩広端厳相等の名あり。仏の身体広大にして端直無比なるを云う。是れ仏因位の時、無量世中に於いて一切衆生の為に医薬を施し、病を看て安楽を得しめ、又勧めて善心を起し、殺生戒を持せしめ、所受の財を用いて師長父母に供養し、一切の憍慢を離れ、盗戒を持すること極めて堅固なりしに由りて感得し給える妙相にして、見聞の衆生をして正念を得て苦を止め、十善行を修して身心安穏ならしむるの徳を表す。第二十一肩円好相su- saMvRta- skandha(巴samavatta- kkhandha)とは、又臂円相、肩善円相、肩円満相、肩円相、肩円大相、肩円厚相、両肩平整相、両肩円正無有欠減相、両肩円好相、肩善円満相、両肩円満相、肩項円満妙殊相等の名あり。仏の両肩円満豊膄にして殊勝微妙なるを云う。是れ仏因位の時、如法に財を求めて布施し、無量世中に於いて能く善と不善とを分別して言説し、無謬不義の法を説かず。又仏像を造り寺塔を修め、無畏を施して常に慚愧ありしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち見聞の輩をして楽愛して厭足なく、惑を滅し業を除き功徳無量ならしむるの徳を表す。第二十二四十歯相catvaariMzad- danta(巴cattaariisa- danta)とは、又四十歯具足相、四十歯斉相、四十歯満相、具四十歯相、悉具四十歯相、四十歯無有増減相、口四十歯相、具四十歯皆悉斉平相、四十歯斉而光潔相等の名あり。仏歯は其の数四十枚あり、斉等平満にして白きこと雪の如くなるを云う。「大智度論巻4」に、「余人は三十二歯、身に三百余骨、頭骨九あり。菩薩は四十歯にして頭に一骨あり。菩薩は歯骨多く頭骨少く、余人は歯骨少く頭骨多し」とあり。是れ仏因位の時、無量世の中に於いて両舌悪口恚心を遠離し、十善の法を以って衆生を化益し、和合の語を以って衆生を摂取し、深義を思惟し、平等の慈悲を修習せしことに由りて感得し給える妙相にして、常に清浄の妙香を出して衆生の悪口業を制止し、無量の罪を滅し、仏所に生じて無量の楽を受けしむるの徳を表す。第二十三歯斉相sama- danta(巴同じ)とは、又歯斉密相、歯方斉平相、歯斉平相、歯白斉密相、歯斉牙密相、歯不疎相、歯斉密無疎欠相、歯斉平密相、歯斉不疎相、歯密斉平相、歯斉密等相、歯斉平浄密相、諸歯斉密相等の名あり。仏の諸歯斉等にして、麁なく細なく、入なく出なく、歯間密接して、一毫も容るべからざるを云う。是れ仏因位に無量世の中に於いて、十善の法を以って衆生を化益し、心に自ら歓喜を生じ、常に他人の功徳を称揚せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち清浄和順能く同心の眷属を得て、更に破壊することなきの徳を表す。第二十四牙白相su- zukla- danta(巴susukka- daaThaa)とは、又四牙白浄相、歯白如雪相、歯牙鮮白相、四牙白相、四牙俱鋒利白類呵雪相、四牙鮮潔相、牙歯鮮白有光明相、四牙白而大相、四牙皎白相、四牙鮮白鋒利相、四牙最白而大相、四牙白浄相等の名あり。然るに此の相は諸経論の諸説一定ならず、或いは牙歯合説し、或いは牙歯分説し、或いは前の歯斉相と合して別に一相を立てざるあり。四牙とは、四十歯の外に上下に別に各二牙あるを云う。其の色鮮白にして光潔に、鋭利なること鋒の如く、堅固なること金剛の如し。是れ仏因位の時、無量世の中に於いて常に欲界の慈を修し、善法を思惟するを楽欲せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち能く一切衆生の強盛堅固なる三毒を、摧破して漏すことなきの徳を表す。第二十五師子頬相siMha- hanu(巴siiha- hanu)とは、又頰車相、獅子王頬相、頰車如師子相、方頬如師子王相、頰車方如師子相、頬方如師子相、頬如師子相、頰車方正如師子王相等の名あり。両頬の隆満して師子王の如くなるを云う。是れ仏因位の時、常に両舌せず、又他を教えて両舌なからしめしに由りて感得し給える妙相にして、即ち見聞の輩をして、百劫生死の罪を除滅し、面たり諸仏を見ることを得しむるの徳を表す。第二十六味中得上味相rasa- rasaagrataa(巴rasaggas- aggi)とは、又得味中上味相、咽中津液得上味相、次第得上味相、得上味相、常得上味相、舌得上味相、知味味相、味中最上味相、味中上味相、舌上得上味相、於諸味中而得上味相、味中得上味咽中二処津液流出相、諸味中得最上味相、常得味中上味相、所食之物皆為上味相等の名あり。仏口は諸味中、常に最上味を得るを云う。上味に二義あり、一は三千界中第一の上味を云い、二は縦い麁味なりと雖も、仏口に入らば転じて上味となるを云う。是れ仏因位の時、無量世の中に於いて衆生所須の飯食を与え、又衆生を見ること一子の如く、所須の善法を菩提に廻向し、他の求めを待たずして能く施与せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち仏妙法の能く衆生の志願を満足せしむるの徳を表す。第二十七大舌相prabhuuta- tanu- jihvaa(巴pahuutaa- jivha)とは、又舌広博相、舌覆面至髪際相、広長舌相、舌能覆面相、舌広長相、舌柔薄広大紅赤相、舌軟薄能覆面至髪際相、舌広博普覆面輪及髪辺際相、舌大広長而薄相、舌軟薄相、舌薄浄広長相、舌大軟薄能覆面至耳髪際相、舌広長大柔軟紅薄相等の名あり。仏の舌相は軟薄にして広長に、若し口より出せば其の面を覆うて髪際に至るを云う。是れ仏因位に無量世の中に於いて、自ら能く十善業を修し、他の修するを見て歓喜讃歎し、衆生を憐愍して弘誓心を発し、正法を教導して大に法徳を行じ、大悲を以って法界に廻向し、法味を施与せしことに由りて感得し給える妙相にして、之を観ずるものは、百億八万四千劫の生死の罪を除滅し、身を捨てて他世に生まれ、八十億の諸仏に値遇し、菩薩の記を受くることを得せしむるの徳を表す。第二十八梵声相brahma- svara(巴brahma- ssara)とは、又得梵音相、声如梵王相、梵音声相、梵音相、梵音可愛相、得梵音声其語雷震相、得梵音声相、得大梵音相、梵音深遠相、梵音声相、梵音詞韻和雅猶如天鼓相、梵音深遠如迦陵頻伽声相、弘雅梵声相、声如梵王相等の名あり。仏清浄の梵音は洪声円満にして、天鼓の響の如く、微妙最勝にして迦陵頻伽の音の如く、聞く者をして愛楽して得益無量ならしむると云う。是れ仏因位の時、無量世の中に於いて自ら悪口せず、実語美語を説きて人をして悪口せしめず。善語を教え、正法を謗らず、都て麁悪の語を遠離し、一切の悪言を制守せしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち聞く者をして其の器に随って益を得しめ、皆善心を生じて乱雑あることなく、大小権実能く解了して惑を断じ疑を消し、常に愛楽して聞かんことを欲せしむるの徳を表す。第二十九真青眼相abhiniila- netra(巴abhiniila- netta)とは、又目紺色相、浄眼明鏡相、目紺青相、紺眼相、紺浄眼相、眼色紺青相、目広青蓮華相、眼如優鉢羅華相、目紺青色相、眼紺青色相、眼睛紺青鮮白紅環間飾皎潔分明相、眼色如金精相、目相鮮明如青蓮華葉相、眼目紺青相等の名あり。仏の眼睛紺青にして青蓮華の如くなるを云う。是れ仏因位の時、生生世世に乞者の意に随って歓喜心を以って眼を棄施せしことに由りて感得し給える妙相なり。第三十牛眼睫相go- pakSmaa(巴go- pakhuma)とは、又眼上下瞬如牛王相、牛王睫相、牛王䀹相、䀹如牛王相、承涙処満猶如牛王相、眼睫如牛王相、眼如牛王上下俱瞬相、眼如牛王相、眼睫猶若牛王相、眉眼䀹如牛王相等の名あり。仏の睫毛の斉整にして雑乱せざること、猶お牛王の如くなるを云う。是れ仏因位に善心と無上善根心と敬悲心とを以って、一切衆生を見ること父母の如く、常に三毒を起さず、一子の思を以って憐愍愛護せしことに由りて感得し給える妙相にして、前の真青眼相と共に、仏眼を観ずる者をして未来世中、眼常に清浄にして眼根に病患なく、七劫の罪障を消滅せしむるの徳を表す。或いは真青眼相と合説して、之を眼色紺青而眼睫如牛王相abhiniila- netra- go- pakSmaa(巴abhiniila- netta- go- pakhuma)又は牛王紺色目相、目睫青緻猶如牛王相等と名づくるの説あり。第三十一頂髻相uSNiiSa- ziraskataa(巴uNhiisa- siiso)とは、又頂上肉髻相、頂上現烏瑟膩沙相、肉髻相、頂肉髻相、烏瑟膩沙相、頂肉髻成相、鬱尼沙相、肉髻円好高勝相、頂肉骨成相、頂髪肉骨成相、頂上肉髻高広平好相等の名あり。仏の頂上に肉隆起し、其の形、髻の如くなるを云う。是れ仏因位の時心に十善法を受持し、又人を教えて受持せしめしことに由りて感得し給える妙相にして、即ち衆生の機に応じて形を示現し、妙法を演説するの徳を表す。但し此の相と無見頂相との同異に関しては、「優婆塞戒経巻6」には之を別相とし、其の中、肉髻相は十善法受持の報にして、無見頂相は賢聖師長父母尊重讃歎供養の報なりと説き、「無上依経巻下」には、無見頂相を八十種好の第一として肉髻相に区別し、「瑜伽師地論巻49」には、其の頂上に、烏瑟膩沙及び如来無見頂相を現ず、合して一種の大丈夫を立つと云いて、之を一相となせり。蓋し無見頂相とは、仏の頭頂中、乃至十地の菩薩も見ること能わざる相を称したるものにして、是れ即ち肉髻の正中正位に名づけたるものに外ならざれば、肉髻相を離れて別に無見頂相あるべきに非ざるなり。第三十二白毛相uurNaa- keza(巴uNNaa bhamuk- antare jaataa)とは、又白毫相、眉間白毫相、白毫荘厳面相、白毫毛光相、眉間白毫光相、眉間毫相、額上毫相功徳満足相、眉間生毛、潔白右縈相、眉間白毛長好右旋相、眉間白毫軟白兜羅綿相等の名あり。仏の眉間に白毛あり、柔軟にして兜羅綿の如く、其の色雪白にして光潔清浄なるを云う。之を伸ぶれば一丈五尺、収むれば右旋宛転して円三寸径一寸あり。是れ仏因位の時、善衆生の三学を修するを見て、其の美を称讃して毀呰せず、謗者あらば遮制守護せし因縁に由りて感得し給える妙相にして、之を観ずる者をして、百億那由陀恒河沙劫の生死の罪を除却せしむるの徳を表す。以上は「大智度論巻4」に出す所の順位に依り、兼ねて諸経論の所説を参酌して記述する所なり。其の得相の因に関しても亦た諸説一ならず、「優婆塞戒経巻3」、「瑜伽師地論巻49」等には、各相に就きて一一に其の別因を明し、「無上依経巻下」には、決定無雑、諦観微密、常修無間、不顛倒の四種の正業に由りて三十二相を感得せりとなせり。「菩薩地持経巻10」に決定修、専心修、常修、無罪修の四種の業を出し、「瑜伽師地論巻49」に決定修、委悉修、恒常修、無罪修の四種の善修事業を説けるも、並びに皆「無上依経」に同じく、即ち共因を明せるものというべし。又「瑜伽師地論巻49」に、「三十二種大丈夫相は差別あることなく、当に知るべし皆浄戒を用って因と為して而も能く感得す。何を以っての故に、若し諸の菩薩は浄戒を毀犯せば、尚お下賎の人身を得ること能わず、何に況んや能く大丈夫相を感ぜんや」と云えるは、是れ即ち通因を明せるなり。然るに広く通因を論ずるに其の三種あり、一には浄戒、二には百福、三には一切諸行是れなり。又一切諸行を総因と名づけ、之に対して六十二因と浄戒と四種善法との三を別因となすの説あり。六十二因とは、前の一一の相の下に記述する所の如し。浄戒とは今の所説の如し。四種善法とは善修決業と善巧方便と饒益有情と無倒廻向となり。「瑜伽師地論巻49」等に出す所の如し。然るに此の三十二相は独り仏のみに非ず、転輪聖王も亦た之を具足す。其の優劣に関しては、「優婆塞戒経巻1」に、「是の三十二相は即ち是れ大悲の果報なり、転輪聖王は是の相ありと雖も、相は明了に具足成就せず」と云い、「方広大荘厳経巻3」に、「王の太子は必定して転輪聖王と作らず、何を以っての故に、三十二大人の相極めて明了なるが故に」と云い、又「大智度論巻29」に、「三十二相に二種あり、一には具足す、仏の如し。二には具足せず、転輪聖王、難陀等の如し。般若波羅蜜と布施と和合するが故に、能く相好を具足すること仏の如し。余人は但だ布施等を行ずるのみなれば相具足せず」と云い、又「同論巻4」に、「菩薩の相は七事の転輪聖王の相に勝るるあり、菩薩の相は一に浄好、二に分明、三に処を失せず、四に具足し、五に深入、六に智慧行に随って世間に随わず、七に遠離に随う。転輪聖王の相は爾らず」と云えり。以って其の別を見るべし。又此の中、一相二相等は世人も亦た得ることあり。前の「大智度論」の連文に、「三十二相は転輪聖王も亦た有り、諸天魔王も亦た能く此の相を化作し、難陀、提婆達等皆三十相あり、婆跋隷婆羅門に三相あり、摩訶迦葉の婦に金色の相あり、乃至今世の人にも亦た各各一相二相あり」と云える是れなり。又「中阿含巻11三十二相経」、「長阿含経巻1」、「仏本行集経巻9」、「過去現在因果経巻1」、「旧華厳経巻32」、「大般若波羅蜜多経巻573」、「大薩遮尼乾子所説経巻6」、「坐禅三昧経巻上」、「大乗百福荘厳相経」、「観仏三昧海経巻1至4」、「大乗造像功徳経巻下」、「大乗四法経」、「宝授菩薩菩提行経」、「演道俗業経」、「優婆夷浄行法門経巻下」、「無量義経徳行品」、「弥勒大成仏経」、「弥勒下生経」、「宝女所問経巻4三十二相品」、「七仏経」、「金光王童子経」、「金剛般若波羅蜜多経」、「大毘婆沙論巻177」、「十住毘婆沙論巻8」、「菩薩善戒経巻9」、「菩薩地持経巻10」、「宝髻経四法憂波提舎」、「法界次第初門巻下之下」、「華厳経孔目章巻3」、「法華経玄賛巻4」、「説無垢称経賛巻4本」、「観経定善義」等に出づ。<(望)
復次佛持戒具足清淨。從初發心修戒增積無量。與憐愍心俱不求果報。不向聲聞辟支佛道。不雜諸結使。但為自心清淨不惱眾生故。世世持戒。以是故得佛道時戒得具足。應如是念佛戒眾。 復た次ぎに、仏は持戒具足して清浄なり。初発心より、戒を修めて、増積すること無量なり。憐愍心と倶なれば、果報を求めず、声聞、辟支仏道に向わず、諸の結使を雑えず、但だ自らの心を清浄にし、衆生を悩ませざらんが為の故に、世世に持戒したもう。是を以っての故に、仏道を得たまえる時には、戒も具足するを得。応に是の如く、仏の戒衆を念ずべし。
復た次ぎに、
『仏』は、
『持戒』が、
『具足して!』、
『清浄である!』。
則ち、
『初発心より!』、
『修戒の功徳』を、
『無量に!』、
『増積(積集)した!』が、
『憐愍心』と、
『倶にある!』が故に、
『果報』を、
『求めず!』、
『声聞』にも、
『辟支仏道』にも、
『向わず!』、
諸の、
『結使』を、
『雑えず!』、
但だ、
自ら、
『心を清浄にして!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』が為の故に、
『世世に!』、
『持戒されたのであり!』、
是の故に、
『仏道を得られた!』時には、
『戒』も、
『具足することができたのである!』。
当然、
是のように、
『仏の戒衆』を、
『念じなければならない!』。
  戒衆(かいしゅ):五分法身の一。五分法身とは、仏の法身は、色受想行識なる有漏の五蘊には非ず、戒定慧解脱解脱知見なる無漏の五蘊を具足するを云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
復次佛定眾具足。問曰。持戒以身口業清淨故可知。智慧以分別說法能除眾生疑故可知。定者餘人修定尚不可知。何況於佛云何得知。 復た次ぎに、仏の定衆は具足す。問うて曰く、持戒は、身口業の清浄なるを以っての故に知るべし。智慧は、分別し、説法して、能く衆生の疑を除くを以っての故に知るべし。定は、余人の修定すら、尚お知るべからず。何に況んや、仏に於いて、云何が知るを得る。
復た次ぎに、
『仏』の、
『定衆』は、
『具足している!』。
問い、
『持戒』は、
『身、口業』が、
『清浄である!』ことを以っての故に、
『知ることができ!』、
『智慧』は、
『分別、説法して!』、
『衆生の疑を除くことができる!』が故に、
『知ることができる!』が、
『定』は、
『余の人』が、
『定を修めていることすら!』、
『知ることができない!』。
況()して、
何故、
『仏の定衆』を、
『知ることができるのか?』。
  定衆(じょうしゅ):五分法身の一。五分法身とは、仏の法身は、色受想行識なる有漏の五蘊には非ず、戒定慧解脱解脱知見なる無漏の五蘊を具足するを云うなり。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
答曰。大智慧具足故當知禪定必具足。譬如見蓮華大必知池亦深大。又如燈明大者必知蘇油亦多。亦以佛神通變化力無量無比故。知禪定力亦具足。亦如見果大故知因亦必大。 答えて曰く、大智慧の具足するが故に、当に禅定も必ず具足するを知るべし。譬えば蓮華の大なるを見れば、必ず池も亦た深大なるを知るが如し。又灯明の大なれば、必ず、蘇油も亦た多しと知るが如し。亦た仏の神通、変化の力の無量、無比なるを以っての故に、禅定の力も亦た具足するを知る。亦た果の大なるを見るが故に、因も亦た必ず大なるを知るが如し。
答え、
『大智慧』が、
『具足している!』が故に、
こう知らねばならぬ、――
『禅定』も、
『必ず!』、
『具足しているはずだ!』、と。
譬えば、
『蓮華』を、
『大きなものだ!』と、
『見る!』が故に、
必ず、こう知るようなものである、――
『池』も、
『深く大きいだろう!』と。
又、
『灯明』が、
『大きければ!』、
必ず、こう知るようなものである、――
『蘇油(灯油)』も、
『多いだろう!』、と。
亦た、
『仏』の、
『神通、変化の力』が、
『無量、無比である!』と、
『思う!』が故に、
こう知るのであるが、――
『禅定の力』も、
『具足しているだろう!』、と。
亦た、
『果』を、
『大きなものだ!』と、
『見る!』が故に、
こう知るようなものである、――
『因』も、
『必ず、大きいがろう!』、と。
  蘇油(そゆ):香の名。又蘇合香、蘇合油、蘇合とも称す。波斯等に産する落葉喬木の樹皮の中から取った膏油。薬用とする。<(大漢和) 蓋し酥油の如し。
  酥油(そゆ):牛羊の乳を熬って造った油。<(大漢和)
復次有時佛自為人說。我禪定相甚深。 復た次ぎに、有る時に、仏は自ら人の為に説きたまわく、『我が禅定の相は甚だ深し』、と。
復た次ぎに、
有る時、
『仏』は、
自ら、
『人』の為に、
こう説かれた、――
わたしの、
『禅定』の、
『相』は、
『甚だ深い!』、と。
  為人(いにん):ひととなり。行動/人としての振舞い( behavel, conduct oneself in sosiety)。他人と友好的であること( be a decent person )。顔貌( facial features )。
如經中說。佛在阿頭摩國林樹下坐入禪定。是時大雨雷電霹靂。有四特牛耕者二人。聞聲怖死。須臾便晴。佛起經行。 経中に説けるが如し、仏は、阿頭摩国の林樹の下に在りて坐し、禅定に入りたまえり。是の時、大雨、雷電、霹靂す。四特牛、耕者二人有り、声を聞いて怖れて死す。須臾にして便ち晴るれば、仏は起ちて経行したもう。
例えば、
『経』中に、こう説かれている、――
『仏』は、
『阿頭摩国』の、
『林樹下に坐って!』、
『坐禅』に、
『入っていられた!』。
是の時、
『大雨が降り!』、
『雷が鳴り!』、
『稲妻が光った!』。
有る、
『四頭の牡牛』と、
『二人の耕者』が、
『雷鳴を聞いて!』、
『怖れて!』、
『死んだ!』。
暫くして、
『空が晴れる!』と、
『仏』は、
『坐禅』より、
『起って!』、
『経行された!』。
  阿頭摩(あづま):国名。委細不明。
  特牛(とくご):おうし。牡牛。
  参考:『長阿含経巻3遊行経』:『時。有阿羅漢弟子。名曰福貴。於拘夷那竭城向波婆城。中路見佛在一樹下。容貌端正。諸根寂定。得上調意第一寂滅。譬如大龍。亦如澄水。清淨無穢。見已歡喜。善心生焉。即到佛所。頭面禮足。在一面坐。而白佛言。世尊。出家之人在清淨處。慕樂閑居。甚奇特也。有五百乘車經過其邊。而不聞見。我師一時在拘夷那竭城.波婆城。二城中間道側樹下。靜默而坐。時有五百乘車經過其邊。車聲轟轟覺而不聞。是時。有人來問我師。向群車過。寧見不耶。對曰。不見。又問。聞耶。對曰。不聞。又問。汝在此耶。在餘處耶。答曰。在此。又問。汝醒悟耶。答曰。醒悟。又問。汝為覺寐。答曰。不寐。彼人默念。是希有也。出家之人專精乃爾。車聲轟轟覺而不聞。即語我師曰。向有五百乘車從此道過。車聲振動。尚自不聞。豈他聞哉。即為作禮。歡喜而去。佛告福貴。我今問汝。隨意所答。群車振動覺而不聞。雷動天地覺而不聞。何者為難。福貴白佛言。千萬車聲。豈等雷電。不聞車聲未足為難。雷動天地覺而不聞。斯乃為難。佛告福貴。我於一時遊阿越村。在一草廬。時有異雲暴起。雷電霹靂。殺四特牛.耕者兄弟二人。人眾大聚。時。我出草廬。彷徉經行。彼大眾中有一人來至我所。頭面禮足。隨我經行。我知而故問。彼大眾聚何所為耶。其人即問。佛向在何所。為覺寐耶。答曰。在此。時不寐也。其人亦歎希聞得定如佛者也。雷電霹靂。聲聒天地。而獨寂定覺而不聞。乃白佛言。向有異雲暴起。雷電霹靂。殺四特牛.耕者兄弟二人。彼大眾聚。其正為此。其人心悅即得法喜。禮佛而去』
有一居士禮佛足已。隨從佛後白佛言。世尊。向者雷電霹靂。有四特牛耕者二人聞聲怖死。世尊聞不。佛言。不聞。居士言。佛時睡耶。佛言不睡。問曰。入無心想定耶。佛言。不也。我有心想但入定耳。居士言。未曾有也。諸佛禪定大為甚深。有心想在禪定。如是大聲覺而不聞。 有る一居士、仏足を礼し已り、仏の後に随従して、仏に白して言さく、『世尊、向(さき)には、雷電、霹靂ありて、有る四特牛、耕者の二人、声を聞いて怖れて死せり。世尊は聞きたもうや、不や』、と。仏の言わく、『聞かず』、と。居士の言わく、『仏は時に睡りたまえりや』、と。仏の言わく、『睡らず』、と。問うて曰く、『心想無き定に入りたまえりや』、と。仏の言わく、『不なり。我れは心想有り、但だ定に入れるのみ』、と。居士の言わく、『未曽有なり。諸仏の禅定の大なること、甚だ深しと為す。心想有る禅定に在りて、是の如く大声覚すに、聞きたまわず』、と。
有る、
『一居士』が、
『仏』の、
『足』を、
『礼する!』と、
『仏』の、
『後』に、
『随順しながら!』、
『仏』に白して、こう言った、――
世尊!
先程、
『雷電、霹靂が有り!』、
有る、
『四頭の牡牛』と、
『二人の耕者』が、
『雷鳴を聞いて!』、
『怖れて!』、
『死にました!』が、
『世尊』は、
『雷鳴』を、
『聞かれませんでしたか?』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
『聞かなかった!』、と。
『居士』は、
こう言った、――
『仏』は、
爾の時、
『睡っていられたのですか?』。
『仏』は、
こう言われた、――
『睡っていなかった!』。
こう問うた、――
『心想の無い!』、
『定』に、
『入られていたのですか?』。
『仏』は、
こう言われた、――
『入っていなかった!』。
わたしは、
但だ、
『心想の有る!』、
『定』に、
『入っていたのだ!』、と。
『居士』は、
こう言った、――
未曽有です!
諸の、
『仏』の、
『禅定』は、
『大にして!』、
『甚だ深いものです!』。
『心想が有りながら!』、
『禅定』に、
『在り!』、
是のような、
『大音』が、
『覚醒しようとしても!』、
『聞かれないとは!』、と。
  (こう):さきに。以前、前日、往時、久しからず、少し前等の意。
如餘經中。佛告諸比丘。佛入出諸定。舍利弗目揵連尚不聞其名。何況能知何者是。如三昧王三昧師子遊戲三昧等。佛入其中能令十方世界六種震動。放大光明化為無量諸佛遍滿十方。 余の経中の如し。仏の諸比丘に告げたまわく、『仏の入出する諸の定は、舎利弗、目揵連すら、尚お其の名を聞かず。何に況んや、能く是の何者なるやを知るをや。三昧王三昧、師子遊戯三昧等の如きは、仏其の中に入りて、能く十方の世界をして、六種に震動せしめ、大光明を放って、化して、無量の諸仏と為し、十方に遍満せしむ』、と。
例えば、
『余の経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『諸比丘』に、こう告げられた、――
『仏の入、出する!』、
諸の、
『定』は、
『舎利弗、目揵連』すら、
尚お、
其の、
『名』を、
『聞かない!』。
況して、
是の、
『定』が、
何者なのか、
『知ることはできない!』。
例えば、
『三昧王三昧、師子遊戯三昧』等の中に、
『仏が入る!』と、
『十方の世界』を、
『六種に!』、
『震動させ!』、
『大光明』を、
『放って!』、
『化した!』、
『無量の諸仏』を、
その中に、
『遍満させるのである!』、と。
如阿難一時心生念。過去然燈佛時。時世好人壽長易化度。今釋迦牟尼佛時世惡人壽短難教化。佛事未訖而入涅槃耶。清旦以是事白佛。 阿難の如きは、一時に心に念を生ずらく、『過去の然灯仏の時、時世は好もしく、人は寿長ければ、化度し易し。今の釈迦牟尼仏は、時世悪しく、人の寿短ければ、教化し難し。仏事の未だ訖(おわ)らざるに、涅槃に入りたもうや』、と。清旦、是の事を以って、仏に白す。
例えば、
『阿難』は、
『一時』、
『心』に、是の念が生じた、――
『過去』の、
『然灯仏の時』には、
『時、世』が、
『好ましく!』、
『人』は、
『寿が長い!』ので、
『化度する!』ことも、
『容易であった!』が、
『今』の、
『釈迦牟尼仏』は、
『時、世』が、
『悪く!』、
『人』は、
『寿が短い!』ので、
『教化する!』ことが、
『困難である!』。
『仏』は、
『仕事』が、
未だ、
『訖(おわ)っていない!』のに、
『涅槃』に、
『入られるのだろうか?』、と。
『阿難』は、
『清旦に!』、
是の、
『事』を、
『仏に申した!』。
  清旦(しょうたん):すがすがしい早朝。
  参考:『賢愚経巻2降六師品』:『又第八日受帝釋請。為佛作師子座。如來昇座。帝釋侍左。梵王侍右。眾會一切。靜然坐定。佛徐申臂。以手接座。欻有大聲。如象鳴吼。應時即有五大神鬼。摧滅挽拽。六師高座。金剛密跡。捉金剛杵。杵頭出火。舉擬六師。六師驚怖奔突而走。慚此重辱。投河而死。六師徒類。九億人眾。皆來歸佛。求為弟子。佛言善來比丘。鬚髮自落。法衣在身皆成沙門。佛為說法。示其法要。漏盡結解。悉得羅漢。於是如來。從八萬毛孔。皆放光明。遍滿虛空。一一光頭。有大蓮花。一一華上。皆有化佛與諸大眾。圍繞說法。眾會睹茲無上之化。信敬之心。倍益隆盛。佛即為說。隨其所應。有發大心。得果生天。進福增善。數甚眾多。』
已日出。佛時入日出三昧。如日出光明照閻浮提。佛身如是毛孔普出光明。遍照十方恒河沙等世界。一一光中出七寶千葉蓮華。一一華上皆有坐佛。一一諸佛皆放無量光明。一一光中皆出七寶千葉蓮華。一一華上皆有坐佛。是諸佛等遍滿十方恒河沙等世界教化眾生。或有說法或有默然或以經行。或神通變化身出水火。如是等種種方便。度脫十方五道眾生。 已に日出づ。仏は時に、日出三昧に入りたもう。日の光明を出して、閻浮提を照らすが如く、仏身は是の如く毛孔より、普く光明を出して、遍く、十方の恒河沙に等しき世間を照らしたもう。一一の光中より、七宝の千葉の蓮華を出し、一一の華上には、皆坐せる仏有り。一一の諸仏は、皆無量の光明を放ち、一一の光中に、皆七宝の千葉の蓮華を出し、一一の華上には、皆坐せる仏有り。是の諸仏は等しく、十方の恒河沙に等しき世界に遍満し、衆生を教化す。或は法を説く有り、或は黙然たる有り、或は経行を以ってし、或は神通、変化して、身より水火を出す。是れ等の如き種種の方便もて、十方の五道の衆生を度脱す。
已に、
『日』が、
『出てしまう!』と、
『仏』は、
その時、
『日出』という、
『三昧』に、
『入られた!』。
則ち、
『日』が、
『光明を出して!』、
『閻浮提』を、
『照らすように!』、
『仏の身』は、
是のように、
『毛孔』より、
普く、
『光明』を、
『出して!』、
遍く、
『十方の恒河沙に等しい世界』を、
『照らし!』、
『一一の光』中より、
『七宝』の、
『千葉の蓮華』を、
『出し!』、
『一一の華』上に、
皆、
『坐った仏』が、
『有り!』、
『一一の諸仏』は、
皆、
『無量の光明』を、
『放ち!』、
『一一の光』中には、
皆、
『七宝』の、
『千葉の蓮華』を、
『出し!』、
『一一の華』上には、
皆、
『坐った仏』が、
『有り!』、
是の、
『諸仏』は、
『等しく!』、
『遍く!』、
『十方の恒河沙に等しい世界を満たして!』、
『衆生』を、
『教化した!』。
或は、
『法』を、
『説く!』者が、
『有り!』、
或は、
『黙然として!』、
『教化する!』者が、
『有り!』、
或は、
『経行して!』、
『化導する!』者が、
『有り!』、
或は、
『神通、変化して!』、
『身』より、
『水、火』を、
『出して!』、
『衆生』を、
『教化する!』者が、
『有る!』。
是れ等のような、
種種の、
『方便』で、
『十方』の、
『五道の衆生』を、
『度脱していた!』。
阿難承佛威神悉見是事。佛攝神足從三昧起。告阿難。見是事不。聞是事不。阿難言。蒙佛威神已見已聞。 阿難は、仏の威神を承けて、悉く是の事を見る。仏は神足を摂めて、三昧より起ち、阿難に告げたまわく、『是の事を見るや不や。是の事を聞くや不や』、と。阿難の言わく、『仏の威神を蒙りて、已に見、已に聞けり』、と。
『阿難』は、
『仏』の、
『威神』を、
『承けて(蒙って)!』、
悉く、
是の、
『事』を、
『見た!』。
『仏』は、
『神足を摂(おさ)めて!』、
『三昧』より、
『起つ!』と、
『阿難』に、こう告げられた、――
是の、
『事』を、
『見たか?』。
是の、
『事』を、
『聞いたか?』、と。
『阿難』は、
こう言った、――
『仏』の、
『威神』を、
『蒙り!』、
已に、
『見て!』、
『聞きました!』、と。
佛言。佛有如是力能究竟佛事不。阿難言。世尊。若眾生滿十方恒河沙等世界中。佛壽一日用如是力必能究竟施作佛事。阿難歎言。未曾有也。世尊。諸佛法無量不可思議。以是故知佛禪定具足。 仏の言わく、『仏には、是の如き力有りて、能く仏事を究竟するや不や』、と。阿難の言わく、『世尊、若し衆生、十方の恒河沙に等しき世界中に満ち、仏の寿一日なりとすれども、、是の如き力を用いたまいて、必ず能く、究竟して、仏事を施作したまわん』、と。阿難の歎じて言わく、『未曽有なり。世尊、諸仏の法は無量、不可思議なり』、と。是を以っての故に知る、仏の禅定は具足す。
『仏』は、こう言われた、――
『仏』には、
是のような、
『力』が、
『有り!』、
『仏』の、
『仕事』を、
『究竟する(極める)ことができるのか?』、と。
『阿難』は、こう言った、――
世尊!
若し、
『衆生』が、
『十方の恒河沙に等しい!』、
『世界』中に、
『満ちており!』、
『仏』の、
『寿』が、
『一日しかなくても!』、
『仏』が、
是のような、
『力』を、
『用いられれば!』、
必ず、
『仏の仕事』を、
『究竟じて!』、
『遂行することができます!』、と。
『阿難』は、
『歎じて!』、こう言った、――
未曽有です!
世尊!
諸の、
『仏の法』は、
『無量であり!』、
『不可思議です!』、と。
是の故に、
こう知ることになる、――
『仏』の、
『禅定』は、
『具足している!』、と。
  施作(せさ):施行する/遂行する/成し遂げる( execute, carry out, make out )。
復次佛慧眾具足。從初發心於阿僧祇劫中無法不行。世世集諸功德。一心專精不惜身命以求智慧。如薩陀波崙菩薩。 復た次ぎに、仏の慧衆は具足す。初発心より、阿僧祇劫中に於いて、法の行ぜざる無く、世世に諸功徳を集め、一心に専精して、身命を惜まず、以って智慧を求むること、薩陀波崙菩薩の如し。
復た次ぎに、
『仏』の、
『慧衆(智慧)』は、
『具足している!』。
『仏』は、
『初発心より!』、
『阿僧祇劫』中に於いて、
『有らゆる!』、
『法』を、
『行って!』、
『世世』に、
諸の、
『功徳』を、
『集め!』、
『一心に専精して(専ら)!』、
『身、命を惜まずに!』、
『智慧』を、
『求められた!』が、
例えば、
『薩陀波崙菩薩』と、
『同じようにである!』。
  慧衆(えしゅ):五分法身の一。五分法身とは、仏の法身は、色受想行識なる有漏の五蘊には非ず、戒衆、定衆、慧衆、解脱衆、解脱知見衆の五種よりなる無漏の五蘊を具足するを云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  薩陀波崙(さっだはろん):菩薩名。梵語sadaa- prarudita、又薩陀波倫とも称す。『大智度論巻21下注:薩陀波倫菩薩』参照。
  薩陀波倫菩薩(さだはりんぼさつ):薩陀波倫sadaa- praruditaは梵名。又薩陀波崙、或いは薩刺陀波羅に作る。常啼、常悲、普慈又は常歓喜と訳す。「道行般若経巻9薩陀波倫菩薩品」に依るに、此の菩薩は夢中に於いて東方に般若波羅蜜の大法あるを聞き、其の法を求めんが為に東行し、中路に魔所楽国に於いて身を売りて其の師を供養し、遂に二万里を過ぎて揵陀越gandhavati国に達し、曇無竭dharmoodgata菩薩に面して其の法を受けたることを記せり。此の中、揵陀越は北印度健馱邏gandhaaraを指せるものなるが如く、又「大毘婆沙論」編纂以前に般若が健馱邏地方に流行せし事実あるを以って考うるに、薩陀波倫菩薩は恐らく実在の人にして、早き時代に印度の西方より遙かに般若波羅蜜の法を求めて健馱邏に来たりしものなるべし。其の名称の由来に関しては、「大智度論巻96」に、「有人言わく、其れ小時に喜び啼けるを以っての故に常啼と名づく。有人言わく、此の菩薩は大悲を行じて心柔軟なるが故に、衆生の悪世に在りて貪窮老病憂苦するを見て之が為に悲泣す。是の故に衆人号して薩陀波崙と為す。有人言わく、是の菩薩は仏道を求むるが故に人衆を遠離し、空閑処に在りて心の遠離を求め、一心に思惟籌量して仏道を勤求する時、世に仏なし。是の菩薩は世世に慈悲心を行ずるも、小因縁を以っての故に無仏の世に生ず。是の人は悲心をもて衆生に於いて精進を欲して失わず、是の故に空閑林中に在り。是の人は先世福徳の因縁及び今世一心に大に大精進を欲するを以って、是の二の因縁を以っての故に、空中の教声を聞くも、久しからずして便ち滅す。即ち復た心に念ず、我れ云何ぞ問わざると。是の因縁を以っての故に憂愁啼哭すること七日七夜なり。是れに因るが故に天龍鬼神は号して常啼と曰う」と云えり。後世此の菩薩は曇無竭菩薩(法踊)と共に般若菩薩の脇侍として、般若十六善神と共に図画せらるるに至れり。又「大明度経巻6普慈闓品」、「放光般若経巻20薩陀波倫品」、「大品般若経巻27常啼品」、「仏母宝徳蔵般若波羅蜜経巻3常歓喜品」、「六度集経巻7」、「翻梵語巻2」、「麒麟音義巻5」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
復次以善修大悲智慧故具足慧眾。餘人無是大悲。雖有智慧不得具足大悲。欲度眾生求種種智慧故。及斷法愛滅六十二邪見不墮二邊。若受五欲樂若修身苦道。若斷滅若計常若有若無等。如是諸法邊。 復た次ぎに、大悲、智慧を善修するを以っての故に、慧衆を具足したもう。余人は、是の大悲無ければ、智慧有りと雖も、具足するを得ず。大悲もて、衆生を度せんと欲し、種種の智慧を求むるが故に、法愛を断じて、六十二邪見を滅するに及び、二辺の若しは五欲の楽を受け、若しは、身苦の道を修め、若しは断滅、若しは計常、若しは有、若しは無等の、是の如き諸法の辺に堕したまわず。
復た次ぎに、
『仏』は、
『善く!』、
『大悲、智慧を修めた!』が故に、
『慧衆』を、
『具足された!』。
『余の人』は、
是の、
『大悲』が、
『無い!』ので、
若し、
『智慧』が、
『有ったとしても!』、
『具足することはない!』。
『大悲』で、
『衆生』を、
『度そう!』と、
『思い!』、
種種の、
『智慧』を、
『求めた!』が故に、
即ち、
『法』の、
『愛』を、
『断じて!』、
『六十二の邪見』を、
『滅するに!』、
『及び!』、
『二辺』の、
謂わゆる、
『五欲の楽を受けるのか?』、
『身苦の道を修めるのか?』、
『断滅なのか?』、
『計常なのか?』、
『有なのか?』、
『無なのか?』等の、
諸の、
『法の辺』に、
『堕ちられないのである!』。
復次佛慧無上徹鑒無比。從甚深禪定中生故。諸麤細煩惱所不能動故。善修三十七品四禪四無量心四無色定八背捨九次第定等諸功德故。有十力四無所畏四無礙智十八不共法。得無礙不可思議解脫故。佛慧眾具足。 復た次ぎに、仏の慧の無上にして、徹鑑すること無比なるは、甚だ深き禅定中より生ずるが故に、諸の麁細の煩悩の動ずる能わざる所なるが故に、三十七品、四禅、四無量心、四無色定、八背捨、九次第定等の諸功徳を修するが故に、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法有りて、無礙不可思議の解脱を得るが故に、仏の慧衆は具足す。
復た次ぎに、
『仏の慧』は、
『透徹して!』、
『明察する!』こと、
『無上であり!』、
『無比である!』が、
『甚だ深い!』、
『禅定』中より、
『生じる!』が故に、
諸の、
『麁、細』の、
『煩悩には!』、
『動かされず!』、
善く、
『三十七品、四禅、四無量心、四無色定、八背捨、九次第定』等の、
諸の、
『功徳』を、
『修める!』が故に、
『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法』が、
『有り!』、
『無礙、不可思議』の、
『解脱』を、
『得られた!』が故に、
『仏』の、
『慧衆』は、
『具足するのである!』。
  徹鑒(てつかん):見通す。透徹して明察する。徹鑑。
復次能降伏外道大論議師。所謂憂樓頻蠡迦葉摩訶迦葉舍利弗目揵連薩遮尼揵子婆蹉首羅長爪等。大論議師輩皆降伏。是故知佛慧眾具足。 復た次ぎに、能く外道の大論議師を降伏したもう。謂わゆる憂樓頻蠡迦葉、摩訶迦葉、舎利弗、目揵連、薩遮尼揵子、婆蹉首羅、長爪等の大論議師の輩は、皆降伏すれば、是の故に知る、仏の慧衆は具足すと。
復た次ぎに、
『仏の慧』は、
『外道』の、
『大論議師』を、
『降伏することができる!』。
謂わゆる、
『憂樓頻蠡迦葉、摩訶迦葉、舎利弗、目揵連、薩遮尼揵子、婆蹉首羅、長爪』等の、
『大論議師の輩』は、
皆、
『降伏したのである!』が、
是の故に、こう知る、――
『仏』の、
『慧衆』は、
『具足している!』、と。
  憂樓頻蠡迦葉(うるびんらかしょう):梵名uruvilvaa- kaazyapa、仏弟子。『大智度論巻21下注:優楼頻螺迦葉』参照。
  優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう):梵名uruvilvaa- kaasyapa、巴梨名uruvela- kassapa、又烏廬頻螺迦葉波、鄔廬頻螺迦葉、優婁頻螺迦葉、優樓毘蠡迦葉、優樓頻蠡迦葉、優為頻蠡迦葉、漚楼頻騾迦葉、烏魯尾螺迦葉、優為迦葉、鬱毘邏迦葉、鬱鞞羅迦葉、鬱俾羅迦摂等に作る。三迦葉の一。優楼頻螺uruvilvaaは仏陀伽耶の南、尼連禅河畔の地名にして、迦葉kaazyapaは其の姓なり。又耆年迦葉、上時迦葉とも云う。「翻訳名義集巻2」に、「優楼頻螺迦葉、文句に翻じて木瓜林と云う。近く此の林に居るが故なり。孤山云わく、此に木瓜癃(音隆)と云う。胸前に癃あり、木瓜の如きが故なり。又云わく、此の林神に祷りて生む、故に名を得たり」と云えり。帰仏前は二弟たる伽耶迦葉gyaa- kaazyapa、那提迦葉nadii- kaazyapaと共に事火外道に属し、頭上に髪を結びて螺髻の形をなせしを以って、又螺髪jaTila梵志と名づけられたり。長兄は五百人の弟子を有し、中兄は三百人、小弟は二百人の弟子を有したりといえば、摩揭陀国に於いては、有数の耆宿にして、四方の帰信を集めたるものの如し。仏は成道の後、先づ鹿野苑に於いて五比丘を度し、次いで耶舎等を度し、弟子を四方に分遣して伝道に従事せしめし時、仏自らは苦行林中の迦葉済度の途に上り給えり。時に長兄は最も上流に、二弟は少し下流に修道せり。仏陀先づ長兄優楼頻螺迦葉の廬に至りて、一夜彼れの火堂に宿せんことを請い給うに、迦葉は此の堂内に毒龍あり、恐らくは其の害を蒙らんと陳べしも、仏は三たび請うて、其の許容を得、内に結跏趺坐す。中夜に毒龍来たりて瞋恚の火炎を以って向いしかば、仏は火光三昧に入りて、身より大火を出し給えり。迦葉之を見て思惟すらく、彼の沙門愍むべし、遂に毒龍の為に害せられたりと。然るに清旦に至り、仏は彼の毒龍を伏して之を鉢中に盛り、迦葉の前に至り給いしかば、迦葉大に之を奇とし、心に畏るる所ありしも、猶お未だ服せず。仏亦た為に種種の神通を現じ給うに、迦葉は遂に仏足を頂礼して弟子たらんことを請い、五百弟子も亦た皆其の師に従って帰仏し、即ち祭火の器具を悉く尼連禅河に投ず。二弟之を見て急に長兄の許に至り、事の状を詳にして、亦た其の弟子と共に同じく帰仏せしを以って、三迦葉及び一千の弟子は皆仏教教団中の人となれり。是に於いて仏陀は彼等が為に、火に関する説法を為して、一同の帰信をして益篤からしめ、一千人を伴い、王舎城に至りて、頻婆娑羅王を化度せんとし給いしに、王は之を迎え、衆中に耆宿たる迦葉ありしを見て、仏が迦葉に帰せしか、迦葉が仏に帰せしかを知らずして、頗る惑う所あり。仏は之を察し、迦葉をして帰仏の理由を述べしめ、然る後王及び大衆を化導せり。其の後に於ける三迦葉の事蹟は伝わらざれども、「増一阿含経巻3」に、一百の阿羅漢を列挙せる中、長兄迦葉を以って聖衆を将養すとし、中兄迦葉を以って心意寂然とし、小弟迦葉を以って都て著する所なしと為せるより見れば、三人共に仏門中有数の長老たりしや疑なし。其の後多くの名を留めざるより見れば、他に比して早く入寂し、其の年齢も亦た長じたりしを察すべし。蓋し三迦葉教化の事蹟は、彼の「仏昇忉利天為母説法」、「帝釈窟説法」、及び「阿波邏羅龍王降伏」等の説話と共に古くより流布せられしものにして、現にサンチーsanchii大塔の塔門の浮雕に其等教化の事蹟を現わせり。即ち一は「仏往詣迦葉所」、及び「火神堂現神変」にして、一は「帝釈所献二好石前仏迦葉問答」、及び「尼連禅水上現神変」の相なり。又ラホールlahor博物館所蔵のものに「仏降龍盛鉢」を現せるものあり。其の他、アマラーヴァチーamaraavatii及び古健駄羅地方の遺品中にも、此の種の奇蹟を図示せるものあり。又密教にては、胎蔵界曼荼羅遍知院の三角智印の左に優楼頻螺迦葉を画き、其の形像を肉色比丘形とし、合掌して座具に坐せしめ、密号を善巧金剛、梵篋を三摩耶形とせり。又「中本起経巻上」、「太子瑞応本起経巻下」、「普曜経巻8」、「中阿含経巻11」、「増一阿含経巻14、28」、「過去現在因果経巻4」、「方広大荘厳経巻12」、「仏所行讃巻4」、「仏本行集経巻40」、「衆許摩訶帝経巻9」、「初分説経巻上」、「五分律巻16」、「四分律巻32」、「有部毘奈耶破僧事巻6」、「黒氏梵志経」、「十二遊経」、「大唐西域記巻8」、「玄応音義巻25」、「慧琳音義巻26」、「麒麟音義巻9」、「翻梵語巻2、5」等に出づ。<(望)
  摩訶迦葉(まかかしょう):梵名mahaakaazyapa、仏十大弟子中頭陀第一と称す。『大智度論巻33上注:摩訶迦葉』参照。
  舎利弗(しゃりほつ):梵名zaariputra。巴梨名saariputta、又奢利富多羅、奢利弗多羅、奢唎補怛羅、設利弗呾羅、舎利弗怛羅、舎利弗多羅、舎利弗多、舎利弗羅に作る。舎利の子の義。鶖鷺子、秋露子、鴝鵒子、鸜鵒子と訳し、又梵漢兼挙して舎利子、或いは舎梨子とも云う。即ち母に従って得たる名なり。又旧に身子と翻ずるは誤なり。故に「玄応音義巻3」に、「旧に身子と云うは謬なり。身とは舎梨にして、此の奢利と声に長短あり、故に其の誤あり」と云えり。是れ身は梵語舎梨zariiraの訳にして、鳥名なる奢利zaariと其の音同じからざるを指摘せるなり。又一に優波低沙upatiSya(巴upatissa)と名づく。又優波帝須、優婆提舎、憂波提舎、優婆室沙、鄔波底沙、憂波提、優波替に作り、大光と翻ず。即ち父に従って得たる称なり。「大智度論巻11」に依るに、摩伽陀国王舎城に婆羅門論議師あり、摩陀羅(maaThala)と名づく。論議を善くするを以って、国王頻婆娑羅は其の食封として城外の一邑(即ち那羅陀村)を与う。後其の婦一女を生む。其の眼舎利鳥の眼に似たるが故に、其の女を名づけて舎利となす。時に南天竺に一の婆羅門大論議師あり、提舎(tiSya)と名づく。王舎城に入りて摩陀羅と論議し之に勝つ。仍りて王は摩陀羅の封邑を没して提舎を賞し、摩陀羅は又其の女舎利を以って提舎に与う。幾ばくもなく舎利は男子を産せしを以って、乃ち父は其の名字を逐うて之に憂波提舎(憂波は秦に逐と言う、提舎は星の名なり)と字す。然るに舎利の生む所なるを以って衆人呼んで舎利弗(弗は秦に子と言う)となす。憂波提舎と言わずして但だ舎利弗と言うは、時人其の母を貴重するが故なりと云えり。「増一阿含経巻33」、「有部毘奈耶出家事巻1」等にも亦た此の説を出せり。されば舎利弗の名は母に従って呼ばれたるものなるを知るべし。又「仏本行集経巻47舎利目連因縁品」には、王舎城外那羅陀(naalada)村に巨富大婆羅門あり、檀嬢耶那と名づく。又有師言わく檀那達多(daanadatta)と名づくと。八子あり、其の第一子は即ち優婆低沙なり。又摩訶僧祇師言わく、彼の婆羅門に七子あり、其の第五子を優波坻沙と名づくと云えり。是れ父の名を檀嬢耶那とし、且つ元と彼れを王舎城外那羅陀村の人となすの説なり。師は形貌端厳にして色相具足し、長ずるに及びて世の技藝を習い、四吠陀論に通暁し、又余の諸論を釈し、年十六にして既に能く他の論議を摧伏し、父の諸弟子は亦た皆師に帰服せり。少にして目犍連と親交あり、曽て倶に王舎城外祇離渠呵(gRdhrakuuTa)山の大祭に詣で、諸人の嬉戯するを見て世の無常を感じ、即ち鬚髪を剃除し、六師外道の一なる刪闍耶毘羅胝子(saJjaya- vairaTTiputra)の許に至りて出家学道し、七日七夜にして其の教旨に通じ、彼の弟子二百五十人(或いは五百人とも云う)の上首となる。されど之を以って未だ苦際を尽くすの教となさず、彼の外道の歿後、目犍連と共に誓って曰わく、若し先に上妙の法を得ば必ず相啓悟せんと。時に仏は王舎城にあり、其の弟子阿説示衣を著し鉢を持し、城中に入りて食を乞う。師其の威儀端正にして行歩庠序あるを見、之に感じて其の師の誰なるか、又何の法を学するかを問う。時に阿説示乃ち偈を以って仏所説の因果法を説くに、師之を聞きて諸法無我の理を知り、還りて目犍連に所聞の法を告げ、倶に弟子二百五十人を将いて竹園に詣り、仏を拜して其の弟子となり、後半月を経て阿羅漢果を証せり。此の事実は仏成道後未だ久しからざる間に起りしものにして、「十二遊経」に之を成道第五年に置けるは、聊か遅きに失するが如し。帰仏後の事蹟は詳ならざれども、常に多く仏に従い、諸弟子中の上首として聖化を補翼し、聡明衆に勝れ、智慧第一と称せられたり。「増一阿含経巻3弟子品」には十大弟子の一に数え、「智慧無窮にして諸疑を決了するは、所謂舎利弗比丘是れなり」と讃し、「長阿含巻1大本経」には、師及び目犍連を以って仏諸弟子中の最第一となし、又「増一阿含経巻29」、「大智度論巻45」、「大唐西域記巻6」等には、目犍連は其の神力を以ってするも、師が地に擲ちし衣帯を挙ぐる能わず、神通の力は智慧の力に如かずと歎じたることを記せり。以って其の智力の優逸なりしを見るを得べし。師は又夙に外典に通暁せしを以って、帰仏の後屡外道等を摧伏せり。「衆許摩訶帝経巻11、12」、「賢愚経巻10須達起精舎盆」等に須達多長者が仏に帰依し、祇園精舎を建立せんとするや、舎衛城の婆羅門は其の法が仏の為に滅破せられんことを怖れて之を沮み、王に請うて論議せんことを求めたる時、師は仏の命を奉じて舎衛城に赴き、赤眼婆羅門と論議して之を摧伏し、彼れを帰仏せしめたるが如き、又「四分律巻46」、「十誦律巻37」等に仏の晩年に際し、提婆達多が五事の非法を唱えて僧団を破し、諸比丘を率いて伽耶山中に入るや、師は目犍連と共に彼の山に到り、逆に五百の比丘をして其の非を悟り、仏に帰属せしめたるが如き、皆其の例なり。師は既に是の如く僧伽の長老として崇敬せられたるのみならず、仏も亦た師を愛重し給いしが如く、「雑阿含経巻45」に、「汝舎利弗は持戒多聞、少欲知足、修行遠離、精勤方便、正念正受、捷疾智慧、明利智慧、出要智慧、厭離智慧、大智慧、広智慧、深智慧、無比智慧、智宝成就し、示教照喜亦た常に讃歎し、示教利喜衆の為に説法し、未だ曽て疲倦せず。譬えば転輪聖王の第一長子が、応に潅頂を受くべくして而も未だ潅頂せず、已に潅頂の儀法に住して、父の法の如く転ずべき所の者は亦た当に随って転ずべきが如し。汝も今是の如し、我が長子として潅頂を受くるに隣するも而も未だ潅頂せず、儀法に住して我が転ずべき所の法輪は汝亦た随って転ずべし。無所起を得、諸の有漏を尽くし、心善く解脱す」と云い、又「受新歳経」に「猶お転輪聖王の最大太子が、当に王位を紹ぎて法輪を転ずべきが如く、舎利弗も亦た復た是の如く、無上清浄法輪を転ずべし」と云えるに見て之を知るを得べし。彼の「長阿含巻8衆集経」、「同巻9十上経」等は、師が仏の命を承けて諸比丘の為に演説せし法要を集録せしものに係る。後師は仏が年八十に垂んとし、却後三月当に涅槃すべしと告げ、又目犍連が執杖梵志の為に害せらるるを聞き、乃ち自ら先づ滅度を取らんと欲して仏所を辞し、弟子均頭と共に本生処那羅陀聚落に還り、偶ま身に疾病を感じ、後夜初禅より四禅に入りて終に般涅槃せり。均頭乃ち之を荼毘し、其の舎利を得て鉢中に盛り、衣と共に之を携えて舎衛城に至り、阿難に師の滅度を告ぐるに、阿難は悲歎止まざりしを以って、仏は為に五分法身の不滅を説きて之を慰藉せられたりと云う。尋いで須達多長者は師の為に窣堵波を建立して其の遺骨を収め、後阿育王は祇洹精舎に至りて師の塔を供養せり。又「大唐西域記巻4秣莵羅国」の條には、同国に師の遺身の塔の存せしことを記せり。其の著作と伝えらるるものに「阿毘達磨集異門足論20巻」、「舎利弗阿毘曇論30巻」あり。又「中阿含経巻5至7」、「増一阿含経巻18、26」、「雑阿含経巻23、24」、「生経巻2舎利弗般泥洹経」、「普曜経巻8化舎利弗目連品」、「方広大荘厳経巻12転法輪品」、「中本起経巻上舎利弗大目揵連来学品」、「過去現在因果経巻4」、「撰集百縁経巻10長爪梵志縁」、「仏本行集経巻48」、「仏本行経巻4」、「仏所行讃巻4大弟子出家品」、「僧伽羅刹所集経巻下」、「賢愚経巻6」、「宝星陀羅尼経巻1」、「初分説経巻下」、「四分律巻34」、「五分律巻16、17」、「善見律毘婆沙巻14」、「有部毘奈耶雑事巻18」、「同破僧事巻10」、「同出家事巻2」、「大智度論巻1、2、23」、「阿育王伝巻2」、「阿育王経巻2」、「注維摩詰経巻2」、「高僧法顕伝」、「釈迦譜巻5」、「倶舎論宝疏巻1」、「華厳経隨疏演義鈔巻84」、「慧苑音義巻下」、「慧琳音義巻10、26、27」等に出づ。<(望)
  目揵連(もっけんれん):梵名、具に摩訶目犍連mahaamaudgalyaayanaと称す。『大智度論巻21下注:摩訶目犍連』参照。
  摩訶目犍連(まかもっけんれん):梵名mahaamaudgalyaayana。巴梨名mahaamoggallaana、又摩訶目揵連、摩訶目伽連、摩訶没特伽羅、摩訶毛伽利耶夜那、摩訶毛嗢揭羅演那、大目犍連、大目乾連、大目連に作り、或いは単に目犍連、目連、目伽略、勿伽羅、目犍連延、目犍羅夜那と称す。摩訶は大、目犍連は采菽氏、菜茯根、取菉豆子、採緑豆子、取胡豆と訳す。又一名拘律陀kolitaと云い、拘律、拘利陀、劬律陀、俱離多、俱哩多、拘理迦、拘離迦に作り、天抱と訳す。摩訶目揵連は母の姓、拘律陀は父の名に取るなり。「大智度論巻11」に、「名は拘律陀、姓は大目揵連」と云い、「巴梨文法句経註dhammapada- atthakathaa」に、名は拘律陀、婆羅門女モッガリヤmoggaliyaの子なりと云い、又「慧琳音義巻27」に、「梵に摩訶没特伽羅と云い、此に採菽子と云い、又菉豆子と云う。母氏は是れ採菉豆仙人の種なり。父の本に従って俱利迦と名づく」とあり。仏十大弟子の一。摩揭陀国王舎城外拘律陀村の人、婆羅門種なり。生まれて容貌端正にして、幼より舎利弗と親交あり。曽て王舎城附近の祇離渠呵山頂の大会に詣で、大衆の嬉戯するを見て世の無常を感じ、舎利弗と共に出家し、六師外道の一なる刪闍耶に投じて修学し、七日にして悉く其の義に通ず。尋いで教授師となり、彼の弟子二百五十人を主領せしも、未だ究竟して苦際を尽くすこと能わず。仍りて舎利弗に語り、先づ善師を得ば互いに啓悟せんことを約す。後舎利弗は仏弟子阿説示に逢いて諸法無我の理を悟り、之を師に告げしを以って、師は乃ち其の弟子二百五十人と倶に竹園に詣りて仏に謁し、其の示教を蒙り、一月を経て阿羅漢果を証せり。是れ「仏本行集経巻47舎利弗目連縁品」、並びに「四分律巻35」、「五分律巻16」等に伝うる所なり。帰仏後の事蹟に関し、「中阿含巻20長老上尊睡眠経」及び「巴梨文長老偈註paramattha- diipanii」には、師一時摩揭陀国善知識kallavaalamutta村に在りて独坐思惟し、適ま睡眠して師の警覚を被り、不睡法を受けたることを記し、後舎利弗と共に修道に精進し、遂に諸弟子中の上首として仏の教化を補翼するに至れり。「長阿含巻1大本経」に師及び舎利弗を以って仏弟子中の最第一となし、「増一阿含経巻4」には、師及び舎利弗は比丘の限或いは量にして、好んで正法を学し、邪業を作さずと云い、又「仏本行集経巻48」、「大智度論巻40」等には、舎利弗を仏右面の弟子、師を左面の弟子となせり。師は又特に神足第一を以って称せられ、「増一阿含経巻3弟子品」に、「神足軽挙し、十方に飛到するは所謂大目揵連比丘是れなり」と云い、「雑阿含経巻23」、「中阿含巻48牛角娑羅林経」、「増一阿含経巻36」、「大智度論巻41」等に亦た皆師の神足第一なることを説き、「増一阿含経巻28」には、仏が三十三天に昇り給いし時、師は神通を現じて難陀、優婆難陀龍王を化し、尋いで三十三天に到りて仏の降下を請いしことを記し、「同巻10」に師は又三十三天に到り、右脚の指を以って地を按じて宮殿を震動せしめたりと云い、「同巻29六重品」には、東方七恒沙の仏土を過ぎ、奇光如来の所に至りて神通を顕現せしことを記し、其の他、諸経に師の神足往反を伝うるもの頗る多し。又「雑阿含経巻19、34、43」等には仏に代りて衆に説法せしことを伝え、「盂蘭盆経」には母の餓鬼の苦を救わんが為に、仏の教に従いて盂蘭盆供を修したりと云えり。又提婆達多破僧の時、師は舎利弗と共に伽耶山に到り、彼の五百の徒衆をして仏に復帰せしめ、後王舎城に行乞し、執杖梵志の為に瓦石を以って害せられたりと云う。是れ仏涅槃前の事に係る。「大唐西域記巻9摩揭陀国」の條に、師の遺身の舎利塔が拘理迦村に存せしことを伝え、「同巻4」には秣莵羅国にも遺身塔及び髪爪塔等ありと云い、又「大智度論巻1」、称友の「倶舎釈論」等には、六足論の一なる「施設足論」を、「倶舎論光記巻1」には「法蘊足論」を師の作とし、「異部宗輪論」には師を以って法蔵部の祖となせり。又阿闍都assaji、舎舎都(又弗那跋punabhasuka)の二弟子ありしことは、「摩訶僧祇律巻16」、「巴梨文法句経註」等に之を記し、「鼻奈耶巻2」に此の二弟子は執杖梵志を殺して師の怨を報ぜりと云えり。又密教にては之を現図胎蔵界曼荼羅釈迦院中尊釈迦牟尼仏の右方上列第四位に安ず。其の形像は沙門形にして右手は拳に作し頭指を舒べ、左手は袈裟の角を執り面を少しく左に向けて赤蓮華座に坐す。又「中阿含巻9瞻波経、巻30降魔経」、「雑阿含経巻16、18、19、24、48」、「増一阿含経巻12、18」、「観無量寿経」、「方広大荘厳経巻12」、「十二遊経」、「撰集百縁経巻5」、「出曜経巻25」、「四分律巻46」、「十誦律巻37」、「有部毘奈耶雑事巻18」、「同出家事巻1、2」、「同破僧事巻10、17、20」、「法華経文句巻1下」、「翻梵語巻2」、「玄応音義巻6、23」、「慧琳音義巻6、12、23」、「華厳経疏隨疏演義鈔巻84」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
  薩遮尼揵子(さっしゃにけんじ):巴梨名saccaka- nigaNTha- putta。尼乾陀若提子を中興の祖となす外道の一派に属する論師を云う。『大智度論巻21下注:尼揵子論師』参照。
  尼揵子論師(にけんじろんし):尼揵はnigaNThaは巴梨名。又niggantha、梵名nigrantha、又尼犍陀、尼乾陀、泥揵連他、呢揭爛陀、尼乾、尼虔、乾陀に作り、離繋、無繋、不繋、無結、或いは無継と訳す。又一に無慚、或いは裸形外道と名づけ、宿作因論師とも称す。外道四執の一。外道十六宗の一。二十種外道の一。即ち勒沙婆RSabhaの創唱に係り、尼乾陀若提子nigaNTha naataputtaを中興の祖とする外道の一派にして、耆那jaina教と称せらるるもの是れなり。其の名称に関しては、「百論疏巻上之中」に、「尼揵子は此に無結と云う。修行を経るに依りて煩悩の結を離る、故に以って名と為す。亦た那耶修摩と名づく」と云い、又「成唯識論述記巻1末」に無慚を釈し、「即ち是れ尼揵子なり。今正しく翻じて離繋と云い、亦た無慚と云う。即ち羞なきなり、三界の繋縛を離るるなり。其の露形なるを以って、仏法には之を毀りて無慚と曰う。即ち慚羞なきなり」と云えり。是れ苦行に依りて煩悩の結を離れ、三界の繋縛を離れんことを期するが故に離繋或いは無結と称し、又裸形にして衣を纏わざるが故に、貶して無慚と名づくることを明にせるなり。蓋し此の一派は開祖勒沙婆が中印度憍薩羅国に在りて始めて唱道せし所に係り、後二十三伝してパールシュヴァpaarzvaに至り、更に二百五十年を経て毘舎離国に尼乾陀若提子あり、其の教義を大成して第二十四祖となり、是れより教勢大に盛んなるに至れり。尼乾陀若提子は釈尊と同代の出にして、又同じく中印度に於いて弘教せしを以って、其の弟子等の間に屡論難を交えたるが如く、「雑阿含経巻5」、「増一阿含経巻30」、「大薩遮尼乾子所説経」等には、毘舎離国の薩遮尼揵子saccaka- nigaNTha- puttaが仏弟子阿説示assajiと対論し、後遂に仏の為に屈せられしことを記せり。尼乾陀若提子の在世中には多数の教徒を擁したりしが、彼れの成道後第十四年に至り、其の女アノジャーanojjaaの夫なるジャマーリjamaaliは、異説を唱えて師説に背き、為に其の教団は分離せりと伝えられ、又「長阿含巻12清浄経」、「中阿含巻52周那経」等には、彼れの滅後久しからず其の徒は二分して相諍えりと云えり。孔雀王朝チャンドラグプタcandragupta王の頃(即ち西暦前第三世紀の初)ブハドラバーフbhadrabaahuを首長とする一群の尼乾子教徒は、大飢饉の為め南印度に移りて厳格なる苦行を修し、尋いで中印度に帰るに及び、サンブフータビジャヤsaMbhuutavijayaを長老とする残留教徒との間に異見を生じ、ブハドラバーフ等は身に白衣を纏うを許さず、茲に二派分裂の端を啓き、西暦第一世紀の終わりに遂にサンブフータヴィジャヤを祖とする白衣派zvetaambaraと、ブハドラバーフを祖とする空衣派digambaraとの対立を見るに至れり。後仏教の興隆に厭せられて其の教勢漸次衰え、僅かに西南印度の間に行わるるに過ぎざりしも、第十一二世紀の頃に及び、仏教の衰微に乗じて其の勢力を挽回し、又印度教との融合を企て、湿婆、毘紐笯等を崇拝するに至り、尋いで又第十五世紀に白衣派中よりスターナカヴァーシーsthaanaka- vaasii派分離し、復た古説を唱え偶像崇拜を排せり。蓋し此の外道に於いては人生は苦なりと観じ、苦行によりて宿作の業因を滅し、又身業不作によりて諸漏を起さず、以って解脱を証せんとするに在り。「雑阿含経巻21」に此の派の所説を挙げ、宿命の業は苦行を行ずるに依りて悉く之を吐出し、又身業不作に依りて未来世に諸漏を起さず、為に諸業永く尽き、業尽くるが故に苦も亦た尽きて遂に苦辺を究竟すと云えり。「中阿含巻4尼乾経」、「同巻25苦陰経」、「増一阿含経巻35」、「有部毘奈耶出家事巻1」等にも亦た同説を出し、又「瑜伽師地論巻7」、「顕揚聖教論巻10」、「大乗法苑義林章巻1本」等には、此の派に於いて現世の苦は皆過去宿作の悪を以って因となすと説くとし、之を名づけて宿作因論師、又諸因宿作宗と称せり。又「方便心論明造論品」に此の派の学説を出し、「命、無命、罪、福、漏、無漏、戒具足、縛、解あり、五智は聞智、思智、自覚智、慧智、義智なり。六障は不見障、苦受障、愚癡障、命尽障、性障、名障なり。四濁は瞋、慢、貪、諂なり。是れを皆名づけて尼乾陀の法と為す」と云えり。此の中、初の命jiiva、無命ajiiva、罪paapa、福puNya、漏aasrava、無漏nirjaraa、戒具足saMvara、縛bandha、解mokSaの九を九諦と云い、又罪福の二を除きて七諦とも称し、或いは単に命、無命の二諦ともなすなり。就中、命は即ち霊魂にして、宇宙の生命的原理を云い、之に活動性、感覚、並びに思智mati、聞智zruta、自覚智avadhi(他界智)、慧智manaHparyaaya(他心智)、義智kevala(絶対智)の五智を具す。無命は命以外のものの総称にして、之に物質pudgala、及び運動の原理としての法dharma、静止の原理としての非法adharma、並びに此等万有の存在する場所としての虚空aakaaza、即ち四実在体astikaayaを含み、命と共に宇宙形成の要素となるものを云う。即ち此の二元を以って宇宙の構成を説明し、更に罪以下の七諦、或いは漏以下の五諦を以って此の二元の関係を明にし、有情輪迴の原因を解釈せんとするなり。即ち命は瞋krodha、慢maana、諂maayaa、貪lobhaの四濁kaSaayaの為に染汚せられて、其の表面に業の分子を附着するにより、非命(即ち肉体)の為に縛せられて輪迴を生ず。業には善悪の別あり、善業を福と云い、悪業を罪と云う。共に不見障jJaanaavaraNiiya(又はdarsanaavaraNiiya)、苦受障vedaniiya、愚癡障mohaniiya、命尽障aayuHkarman、性障gotra、名障naamanの六障を有す。又此の業が命に附着するを漏と云い、更に命を束縛するを縛と云う。是れ即ち輪迴の因なり。若し命が無命より分離して其の本性を顕さば、即ち輪迴を脱して苦辺を究竟することを得るが故に、先づ五戒(或いは四戒)を守り苦行を修し、以って業が命に漏入するを防がざるべからず。之を名づけて戒具足と云うなり。又命より宿業を分離せしめて無漏即ち寂静の境に達せしめ、更に進んで一切の業を滅して全く無命と分離するに至るを解脱となすなり。「外道小乗涅槃論」に、「外道尼犍子論師は是の如きの説を作す、初め一男と共に一女を生み、彼の二和合して能く一切の有命無命等の物を生ず。後時に離散して彼の処に還没するを名づけて涅槃と為す」と云えるは、恐らく男を命とし、女を無命とし、此の二離散して命に帰するを涅槃と名づけたるものなるべし。蓋し尼乾陀若提子は耆那教中興の祖の名称にして、即ち若提族の出なる尼乾陀の意なるも、提婆の「外道小乗四宗論」、堅意の「入大乗論巻上」等には外道の四宗を列ね、其の中、第三を尼犍子論師、第四を若提子論師とし、前者は一切法亦一亦異を計し、後者は一切法非一非異を計すと云い、又「百論疏巻上之中」には、尼犍子は経に依りて十六諦ありと説く、即ち聞慧より天文地理、算数、医方、呪術及び四韋陀の八を生じ、修慧より六天の行、星宿天に事うるの行、及び長仙の行の八を生ずとなし、若提子論師は六障六自在ありと説き、又非有非無を立てて宗となし、若し一切法有と言わば一法として取るべきなく、若し無と言わば而も万物歴然たり。故に即ち寂黙を守ると云えり。之に依るに尼犍子、若提子は別派なりと云うべく、又「外道小乗涅槃論」にも尼乾子論師の外に別に倮形外道論師を出せり。是れ若提子論師を以って倮形外道と名づけたるものと見るべく、若し然りとせば尼犍子論師は彼の所謂白衣派に当たり、若提子論師は空衣派に当るとなすべきが如く、或いは又勒沙婆の旧派を奉ずる者を尼犍子論師と呼び、尼乾陀若提子の新派に属する者を若提子論師と名づけたるやも知るべからず。但し「成唯識論巻1」には、彼の四宗の中、第三を無慚外道、第四を邪命外道とし、若提子の名を出さず。又「大般涅槃経巻19」には尼乾陀若提子の学説として、「施なく善なく、父なく母なく、今世なく後世なく、阿羅漢なく、修なく道なし。一切の衆生は八万劫を経ば生死の輪に於いて自然に得脱す。有罪無罪も悉く亦た是の如し。四大河、所謂辛頭、恒河、博叉、私陀の悉く大海に入れば差別あることなきが如く、一切衆生も亦復た是の如く、解脱を得る時悉く差別なし」と云えり。是れ或いは前記若提子論師の非有非無論を指すか、或いは又此の派の学説に非ずして、刪闍夜毘羅胝子の所説を挙げたるものなるか詳ならず。按ずるに尼乾子外道は釈尊と時代を同じくし、共に反婆羅門的思潮にして、且つ同一地方に行われたるを以って、其の教義及び行法等に両者相通ずる者多し。「大唐西域記巻3僧訶補羅国」の條に白衣派の法を評し、本師所説の法は多く仏教の義を竊み、大を苾芻と為し、小を沙弥と称し、威儀律行は頗る僧の法に同じ。唯少髪を留め、露形或いは白衣を服するを異となすのみと云えるは即ち其の一班を伝えたるものと云うべし。又「中阿含巻55持斎経」、「雑阿含経巻32、49」、「百論巻上」、「十八空論」、「随相論」、「注維摩詰経巻3」、「大唐西域記巻10」、「玄応音義巻6、10」、「止観輔行伝弘決巻10之一」、「翻訳名義集巻5」等に出づ。<(望)
  婆蹉首羅(ばしゃしゅら):不明。梵語婆蹉は即ち犢子部の義。「翻梵語巻2」に、「訳して曰わく婆蹉とは犢なり、亦た姓なりとも云う。首羅とは勇なり」と云える是れなり。或いは犢子部の首羅なる論師なるやも知れざるも、犢子部は釈尊と時代を相違すれば、恐らくは婆蹉は姓の名となすを寧ろ可となすべし。『大智度論巻21下注:犢子部』参照。
  犢子部(とくしぶ):梵語跋私弗底梨与vaastii- ptriiyaの訳。巴梨名vajji- puttaka、亦た跋私弗多羅、婆蹉妬路、婆蹉富羅、跋私弗、婆蹉に作り、一に跋次子、跋私弗多羅可住子、或いは可住子弟子とも称す。小乗二十部の一。「異部宗輪論」に、「後即ち此の第三百年に於いて説一切有部より一部を流出す、犢子部と名づく」と云える是れなり。蓋し此の部の分派に関しては異説甚だ多し、「舎利弗問経」、「南伝島史」、「西蔵伝ブハヴャbhavya第一説、第二説」、「ターラナータtaaranaatha」の上座部及び大衆部所伝には上座部より分派せりとし、「ターラナータ」の正量部伝には大衆部等と共に之を根本分派の一とし、又「同有部伝」には正量部より、「文殊師利問経巻下分部品」には雪山部より、「ブハヴャ」の第三説には根本上座部より各分派せりとし、又「南伝」には其の分裂を仏滅二百年中となせり。其の部名並びに部主に関しては、「三論玄義」に真諦三蔵の説を挙げて、「可住子弟子部と言うは、仙人あり可住と名づく、女人あり是れは此れ仙人の種なり、故に可住子と名づく。阿羅漢あり是れ可住女人の子なり、故に可住子と名づく。此の部は是れ此の羅漢の弟子なり、故に可住子の弟子と名づくるなり。舎利弗は是れ羅睺羅の和上、羅睺羅は是れ可住子の和上、此の部は復た是れ可住子の弟子なり。舎利弗は仏の九分毘曇を釈して法相毘曇と名づく。羅睺羅は舎利弗の毘曇を弘め、可住子は羅睺羅の所説を弘め、此の部は復た可住子の所説を弘むるなり」と云えり。是れ可住を以って古仙人の名とし、其の後裔に可住子阿羅漢あり、今此の部は其の弟子の所唱なるが故に、之を可住子弟子部と名づくとなすの説なり。然るに「異部宗輪論述記」には此の説を非し、別に犢子の名称に関する伝説を出し、「上古に仙あり、山の静処に居り、貪欲已に起りて止まる所を知らず、近に母牛あり、因りて染して子を生む。自後の仙種を皆犢子と言う、則ち婆羅門姓なり。仏の在日に犢子外道あり、仏に帰して出家す。涅槃経(第三十九)に説くが如し。此の後の門徒相伝えて絶えず。此に至りて部を分ち、遠く襲うて従って名とし、犢子部と言う」と云い、又「倶舎論光記巻30」に、「犢子部と言うは十八部の中の一称なり。仏在世の時犢子外道あり、実我ありと計す。計は外道に同じきが故に以って名を標す」と云えり。是に此の部主を以って仏在世の犢子外道の徒党となすの説なり。按ずるに可住子と犢子との訳語の相違は梵音の不同なるが如く、「玄応音義巻23」に、「犢子部。梵に跋私弗多羅と言い、此に可住子部と云う。旧に犢子と言うは猶お不了なり。梵音の長短なるが故なり。長音に跋私と呼ばば則ち是れ可住なり、若し短音に呼ばば則ち犢と言う」と云えり。是れ恐らく梵語vaasa(或いはvaasi)に住居の義あるが故に之を長音とし、vatsa(或いはvatsii)に犢の義あるが故に之を短音と名づけしものなるべし。然るに称友yazomitraの「梵文倶舎論疏」、並びに「翻訳名義大集」等には此の部の梵名としてvaatsii- putriiyaの語を出せり。vaatsiiはvatsaより作れるvaatsyaの女性形なるが如く、若し然りとすれば可住の訳は謬にして、即ち犢子を正翻となすべし。又赤沼智善氏は此の部の諸師は十六大国の一なる筏蹉vatsa国の比丘なりしを以って、vatsii putriyaaと呼べるものなりとし、且つ巴梨名vajji- puttakaは、第二結集の時の跋耆vajji(梵語のvRji)と今のvatsaとを混同或いは同視せしものなるべしと解せり。但し西蔵名gnas- ma- buHi sdeは住女子部の義にして、可住子部の漢訳に近似せるは注意を要すべき所なり。此の部が舎利弗の法系に属することは、上述の如く真諦之を伝うるのみならず、「大智度論巻2」にも有人の言を挙げ、「仏の在時に舎利弗は仏語を解するが故に阿毘曇を作る。後犢子道人等読誦す。乃ち今に至りて名づけて舎利弗阿毘曇と為す」と云えり。されば舎利弗の説を禀け、彼の阿毘曇を尊重せし一派なりというべし。其の所立の教義は非即非離蘊の我を立て、之を五法蔵中の不可説法蔵に摂するを其の特色となす。「大毘婆沙論巻11」に、「或いは補特伽羅自体実有なりと執するあり、犢子部の如し。彼れ是の説を作す、我れは我れありと許す、能く本所作の事を憶念し、先づ自ら領納し、今自ら憶すべきが故なり。若し我なくんば何に縁りて能く本所作の事を憶せんや」と云い、「大智度論巻1」に、「是の仏法の中に亦た犢子比丘の説あり、四大和合して眼法あるが如く、是の如く五衆和合して人法あり。犢子阿毘曇の中に説く、五衆は人を離れず、人は五衆を離れず、五衆是れ人、五衆を離るる是れ人なりと説くべからず。人は是れ第五不可説法蔵中の所摂なり」と云い、又「異部宗輪論」に、「其の犢子部の本宗同義は、謂わく補特伽羅は蘊に即し蘊に離るるに非ず、蘊処界に依りて仮に名を施設す。諸行には暫住あり、亦た刹那滅あり。諸法は若し補特伽羅を離れば、前世より転じて後世に至ることなし。補特伽羅に依りて移転ありと説くべし」と云い、「同述記」に之を釈し、「其の犢子部は謂わく、補特伽羅は即蘊離蘊に非ずと。謂わく実に我あり有為無為に非ず、然も蘊と即せず離せず。仏無我を説くは但だ即蘊離蘊の外道等の如き所計の我悉く皆是れ無なるが故なり。不可説の非即蘊離蘊の我なきに非ず。既に不可説なり、亦た形量大小等を言うべからず、乃ち成仏に至るまで此の我常に在り」と云える即ち其の説なり。是れ此の部に於いては非即非離蘊の我を立て、此の我に依りて諸法は前世より転じて後世に至ることを得べしとなし、又仏無我と説くは外道所計の如き即蘊離蘊の我なきが為にして、非即非離蘊の我なしというには非ずとなすの意を明せるなり。又五法蔵の説とは、一切所知の法を分類して過去、未来、現在、無為、及び不可説の五蔵となすを称するものにして、即ち有為法を分ちて過去未来現在の三法蔵とし、無為法は三世の摂に非ざるが故に別に立てて一蔵とし、非即非離蘊の補特伽羅は、亦た此等有為無為に摂すべきものに非ざるが故に、更に之を立てて不可説法蔵となすの意なり。古来多く此の部の補特伽羅実有の説を破斥し、之を附仏法の外道なりと貶黜するも、五法蔵の説は「大般若経巻490」、「十住毘婆沙論巻10」等にも之を出し、又彼の補特伽羅が前世より転じて後世に至ると言うは、即ち之を以って輪廻の主体となすの意にして、瑜伽派の所謂阿頼耶識説の由漸をなせるものと認むるを得べく、されば其の所立は大乗仏教の経義と頗る交渉あるものなりというべし。又「異部宗輪論」に依るに、此の部に於いては有為法の中に暫住のものあり、刹那滅のものあり、心心所法の如きは刹那滅なるも、大地の如きは劫を経、命根の如きは一期存続すと説くと云い、又眼等の前五識は無記性にして、染汚と相応せず、亦た離染の力用なく、唯第六意識のみ有記性にして即ち所断ありとし、又忍と名と相と世第一法との四を以って名づけて四善根となし、見道は総じて十三心にして、就中、初の十二心を行向とし、第十三心を住果となすと云えり。此等は皆説一切有部及び大衆部等の所立に同じからざる所なり。又「大毘婆沙論巻33」に依るに、此の部に於いては涅槃の自性に学無学非学非無学の三種の相ありと説くと云い、又「巴梨文論事註」には、此の部は説一切有部、正量部、並びに大衆部中の一部に同じく、不時解脱の羅漢及び預流果には退転なきも時解脱の羅漢には退転ありと説くと云えり。其の他又「大毘婆沙論巻2、13、22、45、46、118」、「大智度論巻10」、「倶舎論巻2、30」、「隨相論」、「四諦論巻1」、「尊婆須蜜菩薩所集論巻3」等に此の部の所立に関し散説する所あり。又「異部宗輪論」には後此の部より法上、賢胄、正量、密林山の四部を流出し、其の分派の所因は「已解脱更堕、堕由貪復還、獲安喜所楽、隨楽行至楽」の一偈の解釈に就き異義を生じたるに由るとなせり。又「部執異論」、「十八部論」、「中論巻2」、「出三蔵記集巻3」、「成唯識論述記巻1本、末」、「華厳五教章巻1」等に出づ。<(望)
  長爪(ちょうそう):舎利弗の母舎利の弟。本外道梵志たりしが後仏に帰服せりと云う。『大智度論巻3上注:長爪梵志』参照。
復次佛三藏十二部經。八萬四千法聚。見是語言多故。知智慧亦大。譬如一居士清朝見大雨處語眾人言。昨夜雨龍其力甚大。眾人言。汝何以知之。答言。我見地濕泥多山崩樹折殺諸鳥獸。以此故知龍力為大。佛亦如是。甚深智慧雖非眼見。雨大法雨諸大論議師及釋梵天王皆以降伏。以是可知佛智慧多。 復た次ぎに、仏の三蔵、十二部経、八万四千の法聚に、是の語言の多きを見るが故に、智慧も亦た大なりと知る。譬えば、一居士、清朝に大雨する処を見て、衆人に語りて言わく、『昨夜の雨龍は、其の力甚だ大なり』、と。衆人の言わく、『汝は、何を以ってか、之を知る』、と。答えて言わく、『我れは、地湿り、泥多くして山崩れ、樹折れて諸の鳥獣を殺すを見る。此を以っての故に、龍の力の大と為すを知る』、と。仏も亦た是の如く、甚だ深き智慧は、眼に見るに非ずと雖も、大法の雨を雨ふらし、諸の大論議師、及び釈、梵、天王、皆以って降伏すれば、是を以って、仏の智慧の多きを知る。
復た次ぎに、
『仏』の、
『三蔵、十二部経、八万四千の法聚』に、
是の、
『語言』の、
『多い!』のを、
『見る!』が故に、
『智慧』も、
『大である!』と、
『知る!』。
譬えば、
『一居士』が、
『清朝』、
『大雨が降った!』、
『処』を、
『見て!』、
『衆人』に、
『語って!』、こう言った、――
『昨夜の雨龍』は、
『力』が、
『甚だ大であった!』、と。
『衆人』は、
こう言った、――
お前は、
何故、
『知っているのか?』、と。
こう答えた、――
わたしは、
『地が湿って!』、
『泥が多く!』、
『山が崩れて!』、
『樹木が折れ!』、
諸の、
『鳥獣』が、
『殺された!』のを、
『見た!』ので、
是の故に、
『龍の力』が、
『大である!』と、
『知ったのだ!』、と。
『仏』も、
是のように、
『甚だ深い!』、
『智慧』は、
『眼』に、
『見えることはない!』が、
『大法』の、
『雨』を、
『降らして!』、
諸の、
『大論議師』と、
『釈、梵、天王』を、
皆、
『降伏された!』ので、
是の故に、
『仏』の、
『智慧は多い!』と、
『知ることができる!』。
  清朝(しょうちょう):清々しく晴れた朝。
  大雨処(だいうしょ):大いに雨のふりし処。
  雨龍(うりゅう):能く雨を降らす龍の総称。
  参考:『分別功徳論巻1』:『何謂龍不可思議。凡興雲致雨者。皆由於龍。雨之從龍眼耳鼻口出。為從身出耶。為從心出乎。依須彌山止有五種天。亦能降雨。何以別龍雨天雨。天雨者。細霧下者是。麤下是龍雨。何謂五種天。第一曲腳天。第二頂上天。第三放逸天。第四饒力天。第五四天王。阿須輪興兵上天鬥時。先與曲腳天鬥。得勝然後次至頂上。次至放逸及與四天王乃至三十三天。下四天欲鬥時。以雨卻敵。更無兵仗。有二種雨。有歡喜雨。有瞋恚雨。和調降雨是歡喜也。雷雹霹靂是瞋恚也。阿須輪亦降雨。天亦下雨。龍亦降雨。各各致雨理不可定。故曰龍雨不可思議』
復次諸佛得無礙解脫故。於一切法中智慧無礙。 復た次ぎに、諸仏は、無礙解脱を得たまえるが故に、一切法中に於いて、智慧無礙なり。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』は、
『無礙解脱』を、
『得られた!』が故に、
一切の、
『法』中に於いて、
『智慧』が、
『無礙なのである!』。
  無礙解脱(むげげだつ):唯仏のみ煩悩障礙、定障礙、一切法障礙の三種の礙を解脱せりの意。即ち「十住毘婆沙論巻11」に、「無礙解脱とは解脱に三種あり、一には煩悩障礙に於いて解脱し、二には定障礙に於いて解脱し、三には一切法障礙に於いて解脱す。是の中、慧解脱を得るは阿羅漢にして煩悩障礙を離れて解脱を得、共解脱は阿羅漢及び辟支仏にして煩悩の障礙を離れて解脱を得、諸禅の障礙を離れて解脱を得。唯諸仏のみありて三解脱を具す、所謂煩悩障礙解脱、諸禅定障礙解脱、一切法障礙解脱なり。総じて是れ三種の解脱なるが故に仏を無礙解脱と名づく」と云える是れなり。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
復次佛此智慧皆清淨出諸觀上。不觀諸法常相無常相有邊相無邊相有去相無去相有相無相有漏相無漏相有為相無為相生滅相不生滅相空相不空相。常清淨無量如虛空。以是故無礙。若觀生滅者。不得觀不生滅。觀不生滅者。不得觀生滅。若不生滅實生滅不實。若生滅實不生滅不實。如是等諸觀皆爾。得無礙智故。知佛慧眾具足。 復た次ぎに、仏の此の智慧は、皆清浄なること、諸観の上に出で、諸法の常相、無常相、有辺相、無辺相、有去相、無去相、有相、無相、有漏相、無漏相、有為相、無為相、生滅相、不生滅相、空相、不空相を観ず、常に清浄無量なること、虚空の如し。是を以っての故に、無礙なり。若し生滅を観れば、不生滅を観るを得ず。不生滅を観れば、生滅を観るを得ず。若し不生滅にして、実なれば、生滅は不実なり。若し生滅にして、実なれば、不生滅は不実なり。是れ等の如き諸観は皆爾り。無礙智を得たまえるが故に、仏の慧衆の具足せるを知る。
復た次ぎに、
『仏』の、
此の、
『智慧』は、
皆、
『清浄であり!』、
諸の、
『観』の、
『上に!』、
『出る!』。
『仏』は、
諸の、
『法』の、
『常相、無常相』、
『有辺相、無辺相』、
『有去相、無去相』、
『有相、無相』、
『有漏相、無漏相』、
『有為相、無為相』、
『生滅相、不生滅相』、
『空相、不空相』を、
『観ることがない!』が故に、
其の、
『智慧』は、
常に、
『清浄であり!』、
譬えば、
『虚空のように!』、
『無量であり!』、
是の故に、
『無礙である!』。
若し、
『生滅を観れば!』、
『不生滅』を、
『観る!』ことを、
『容認しないだろう!』。
若し、
『不生滅を観れば!』、
『生滅』を、
『観る!』ことを、
『容認しないだろう!』。
若し、
『不生滅』が、
『実ならば!』、
『生滅』は、
『不実である!』。
若し、
『生滅』が、
『実ならば!』、
『不生滅』は、
『不実である!』。
是れ等の、
諸の、
『観』は、
皆、
『是の通りである!』。
『仏』は、
『無礙智を得られた!』が故に、
こう知ることになる、――
『仏』の、
『慧衆』は、
『具足している!』、と。
復次念佛解脫眾具足。佛解脫諸煩惱及習。根本拔故。解脫真不可壞。一切智慧成就故。名為無礙解脫。成就八解脫。甚深遍得故。名為具足解脫。 復た次ぎに、仏の解脱衆の具足せるを念ず。仏は、諸の煩悩、及び習を解脱して、根本を抜くが故に解脱は真にして、壊るべからず。一切の智慧成就するが故に名づけて、無礙解脱と為す。八解脱を成就し、甚だ深く遍く得たまえるが故に、名づけて解脱を具足すと為す。
復た次ぎに、
『仏』の、
『解脱衆』が、
『具足する!』ことを、
『念じる!』。
『仏』は、
諸の、
『煩悩』と、
『習』とを、
『解脱して!』、
其の、
『根本』が、
『抜けている!』が故に、
『解脱』は、
『真であり!』、
『壊ることができない!』。
『仏』は、
一切の、
『智慧』が、
『成就している!』が故に、
其の、
『解脱』を、
『無礙解脱』と、
『称する!』。
『八解脱(八背捨)』を、
『成就して!』、
『甚だ深く!』、
『遍く!』、
『解脱』を、
『得られた!』が故に、
『解脱』を、
『具足した!』と、
『称するのである!』。
  解脱衆(げだつしゅ):五分法身の一。五分法身とは、仏の法身は、色受想行識なる有漏の五蘊には非ず、戒定慧解脱解脱知見なる無漏の五蘊を具足するを云うなり。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  (じゅう):習は慣習の義。即ち永く慣習するにことに由りて残る所の煩悩の気分の意。『大智度論巻11上注:習気』参照。
  八解脱(はちげだつ):八背捨。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八背捨』参照。
復次離時解脫及慧解脫故。便具足成就共解脫。成就如是等解脫故。名具足解脫眾。 復た次ぎに、時解脱、及び慧解脱を離るるが故に、便ち具足して、共解脱を成就す。是れ等の如き解脱を成就するが故に、解脱衆を具足すと名づく。
復た次ぎに、
『時解脱』と、
『慧解脱』とを、
『離れる!』が故に、
即ち、
『共解脱』を、
『具足して(完全に)!』、
『成就するのであり!』、
是れ等のような、
『解脱』を、
『成就する!』が故に、
『解脱衆』を、
『具足する!』と、
『呼ぶのである!』。
  時解脱(じげだつ):鈍根の阿羅漢が時を待って得る解脱の意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  慧解脱(えげだつ):無礙の善根に依りて愚癡を離るるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  共解脱(くげだつ):煩悩、及び解脱の二障を併せ断ずるの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
復次破魔軍故得解脫。離煩惱故得解脫。離遮諸禪法故得解脫。於諸禪定入出自在無礙故。 復た次ぎに、魔軍を破るが故に解脱を得、煩悩を離るるが故に解脱を得、諸禅を遮る法を離るるが故に、解脱を得。諸の禅定に於いて、入出に自在なるは、無礙なるが故なり。
復た次ぎに、
『魔軍を破る!』が故に、
『解脱』を、
『得!』、
『煩悩を離れる!』が故に、
『解脱』を、
『得!』、
諸の、
『禅を遮る!』、
『法』を、
『離れる!』が故に、
『解脱』を、
『得る!』。
諸の、
『禅定』の、
『入、出』が、
『自在である!』のは、
則ち、
『解脱する!』ことが、
『無礙だからである!』。
復次菩薩於見諦道中。得深十六解脫。一苦法智相應有為解脫。二苦諦斷十結盡得無為解脫。如是乃至道比智。思惟道中得十八解脫。一或比智或法智相應有為解脫。二斷無色界三思惟結故得無為解脫。如是乃至第十八。盡智相應有為解脫及一切結使盡得無為解脫。如是諸解脫和合。名為解脫眾具足。 復た次ぎに、菩薩は見諦道中に於いて、深き十六の解脱を得。一には苦法智相応の有為の解脱、二には苦諦にて十結を断じ尽くして、得る無為の解脱、是の如き、乃至道比智なり。思惟道中には、十八解脱を得。一には或は比智、或は法智相応の有為の解脱、二には無色界の三思惟結を断ずるが故に得る無為の解脱にして、是の如く乃至第十八の尽智相応の有為解脱、及び一切の結使尽きて得る無為の解脱なり。是の如き諸の解脱の和合を名づけて、解脱衆具足と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『見諦道』中に於いて、
『深い!』、
『十六の解脱』を、
『得る!』。
則ち、
一には、
『苦法智』に、
『相応する!』、
『有為』の、
『解脱であり!』、
二には、
『苦諦』で、
『十結』を、
『断じ!』、
『尽くして!』、
『得た!』、
『無為』の、
『解脱であり!』、
是れ等のような、
乃至、
『道比智』に、
『相応する!』、
『有為』の、
『解脱であり!』、
『道諦』で、
『正道』を、
『窮め!』、
『尽くして!』、
『得た!』、
『無為』の、
『解脱である!』。
『思惟道』中には、
『十八解脱』を、
『得る!』、
則ち、
一には、
『比智、法智』に、
『相応する!』、
『有為』の、
『解脱であり!』、
二には、
『無色界の三思惟結』を、
『断じて得る!』、
『無為』の、
『解脱であり!』、
是のような、
乃至、
第十八の、
『尽智』に、
『相応する!』、
『有為』の、
『解脱』と、
一切の、
『結使』を、
『尽くして得る!』、
『無為』の、
『解脱である!』。
是のような、
諸の、
『解脱の和合』を、
『解脱衆』が、
『具足する!』と、
『称する!』。
  見諦道(けんたいどう):修行の位階。又見道とも称す。即ち無漏の智を以って四諦を現観し、其の理を見照する位。『大智度論巻7下見諦道、巻18下注:三道』参照。
  十六解脱(じゅうろくげだつ):見道所得の解脱に十六種あるの意。即ち苦法智相応、苦比智、集法智、集比智、滅法智、滅比智、道法智、道比智相応に各有為解脱、無為解脱の二あるを云う。『大智度論巻12上注:三十四心、八忍八智』参照。
  十結(じっけつ):十種の煩悩の意。即ち有身見、辺執見、邪見、見取、戒禁取、貪、瞋、慢、無明、疑を云う。『大智度論巻40上注:十結』参照。
  思惟道(しゆいどう):修行の位階。又修道と称す。即ち見道に在る者が数数修習して修惑を断ずる位。『大智度論巻18下注:三道』参照。
  十八解脱(じゅうはちげだつ):修道所断の九品の惑、即ち上上乃至下下を断ずる中、其の一一に於いて比智、或いは法智相応の有為解脱と、無色界の修所断の貪、癡、慢の三種の結を断じて得る無為解脱が有り、併せて十八に至るを云う。『大智度論巻12上注:三十四心、八忍八智、解脱道、巻17下注:四道』参照。
  三思惟結(さんしゆいけつ):色無色界に摂する睡眠中、修所断には貪、癡、慢の三種あるを云う。『大智度論巻20下注:色無色界三十一睡眠』参照。
  尽智(じんち):十智の一。煩悩を断じ已りて四諦を証する時に生ずる自信智。『大智度論巻2上注:十智』参照。
  十結(じっけつ):『舎利弗阿毘曇論』には次の十結を説く。
    (1)見結:諸見を起す煩悩。
    (2)疑結:四諦の理を疑う煩悩。
    (3)戒道結:苦行のごとき戒律を行ずる煩悩。
    (4)欲染結:欲界の貪欲。
    (5)瞋恚結:怒りと嫉妬。
    (6)色染結:色界の煩悩。
    (7)無色染結:無色界の煩悩。
    (8)無明結:無明、生存に関する根本的な煩悩。
    (9)慢結:憍慢の煩悩。
    (10)掉結:心を興奮させ安静にさせない煩悩。
復次念佛解脫知見眾具足。解脫知見眾有二種。一者佛於解脫諸煩惱中。用盡智自證知。知苦已斷集已盡證已修道已。是為盡智解脫知見眾。知苦已不復更知。乃至修道已不復更修。是為無生智解脫知見眾。 復た次ぎに、仏の解脱知見衆の具足せるを念ず。解脱知見衆には、二種有り、一には仏は、諸の煩悩を解脱する中に於いて、尽智を用いて、自ら証知して、苦を知り已り、集を断じ已り、尽を証し已り、道を修し已りたもうに、是れを尽智の解脱知見衆と為し、苦を知り已りて、復た更に知らず、乃至道を修し已りて、復た更に修せず、是れを無生智の解脱知見衆と為す。
復た次ぎに、
『仏』の、
『解脱知見衆』は、
『具足する!』と、
『念じる!』。
『解脱知見衆』には、
『二種有り!』、
一には、
『仏』は、
諸の、
『煩悩』を、
『解脱する!』中に、
『尽智を用いて!』、
『自ら!』、こう証知される、――
『苦』は、
『知り!』、
『已った!』、
『集』は、
『断じ!』、
『已った!』、
『尽』は、
『証し!』、
『已った!』、
『道』は、
『修め!』、
『已った!』、と。
是れを、
『尽智』の、
『解脱知見衆』と、
『称する!』。
『無生智を用いて!』、
『自ら!』、こう証知される、――
『苦』は、
『知り!』、
『已った!』、
復た、
『更に!』、
『知ることはない!』。
乃至、
『道』は、
『修め!』、
『已った!』、
復た、
『更に!』、
『修めることはない!』、と。
是れを、
『無生智』の、
『解脱知見衆』と、
『称する!』。
  解脱知見衆(げだつちけんしゅ):五分法身の一。五分法身とは、仏の法身は、色受想行識なる有漏の五蘊には非ず、戒定慧解脱解脱知見なる無漏の五蘊を具足するを云うなり。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  尽智(じんち):十智中の第九智。即ち無学位に於いて我れ已に苦を知り、我れ已に集を断じ、我れ已に滅を証し、我れ已に道を修せりと遍知し、漏尽の得と俱生する無漏智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  無生智(むしょうち):十智中の第十智。即ち無学位に於いて我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと遍知し、非択滅の得と倶生する無漏智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
二者佛知是人入空門得解脫。是人無相門得解脫。是人無作門得解脫。是人無方便可令解脫。是人久久可得解脫。是人不久可得解脫。是人即時得解脫。是人軟語得解脫。是人苦教得解脫。是人雜語得解脫。是人見神通力得解脫。是人說法得解脫。是人婬欲多。為增婬欲得解脫。是人瞋恚多。為增瞋恚得解脫。如難陀漚樓頻螺龍是。如是等種種因緣得解脫。如法眼中說。於是諸解脫中了了知見。是名解脫知見眾具足。 二には、仏の知りたまわく、是の人は、空門に入りて解脱を得ん。是の人は、無相門にて、解脱を得ん。是の人は、無作門にて解脱を得ん。是の人は、方便の解脱せしむべき無し。是の人は、久久にして解脱を得べし。是の人は、久しからずして、解脱を得べし。是の人は、即時に解脱を得ん。是の人は、軟語もて、解脱を得ん。是の人は、苦教もて、解脱を得ん。是の人は、雑語もて、解脱を得ん。是の人は、神通力を見て、解脱を得ん。是の人は、説法もて、解脱を得ん。是の人は、婬欲多く、婬欲を増さんが為に、解脱を得ん。是の人は、瞋恚多く、瞋恚を増さんが為に、解脱を得ん。難陀、漚楼頻螺龍の如きは是れなり。是れ等の如く種種の因縁もて、解脱を得ること、法眼中に説くが如し。是の諸の解脱中に於いて、了了に知見したまえば、是れを解脱知見衆の具足と名づく。
二には、
『仏』は、
こう知っていられる、――
是の人は、
『空門に入って!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『無相門』で、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『無作門』で、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人を、
『解脱させられる!』、
『方便』は、
『無い!』。
是の人は、
『久久(長久)にして!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『久しからずして!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『即時に!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『軟語( gentle talking )すれば!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』、
是の人は、
『苦教( hard teaching )すれば!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『雑語(苦軟交雑)すれば!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『神通力を見て!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『法を説きながら!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『婬欲が多い!』ので、
『婬欲を増そうとして!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
是の人は、
『瞋恚が多い!』ので、
『瞋恚を増そうとして!』、
『解脱』を、
『得るだろう!』。
例えば、
『難陀』や、
『漚楼頻螺龍』が、
『是れである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、
『解脱』を、
『得るのである!』が、
『法眼』中に、
『説いた!』のと、
『同じである!』。
是のような、
諸の、
『解脱の中にある!』ことを、
『了了に!』、
『知見すれば!』、
是れを、
『解脱知見衆』が、
『具足する!』と、
『称する!』。
  軟語(なんご):優しく語りかける( gentle talking )。
  苦教(くきょう):教えて刻苦勉励せしむ( hard teaching )。
  難陀(なんだ):龍の名。婆難陀と共に兄弟の龍王として知らる。性頗る凶悪なるも、仏大弟子目揵連に降伏せられて、仏に帰順せり。『大智度論巻32下注:難陀婆難陀龍王兄弟』参照。
  漚楼頻螺龍(うるびんらりゅう):仏弟子漚楼頻螺迦葉、本事火外道たりし時、其の石窟中に住せし龍。『大智度論巻21下注:優楼頻蠡迦葉』参照。
  法眼(ほうげん):五眼の一。即ち菩薩の眼にして、衆生を度せんが為に、一切の法門を照見する智慧を云う。『大智度論巻5上注:五眼、巻7下』参照。
復次念佛一切智一切知見大慈大悲十力四無所畏四無礙智十八不共法等。念如佛所知無量不可思議諸功德。是名念佛。 復た次ぎに、仏の一切智、一切の知見、大慈、大悲、十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法等を念じ、仏の知りたもう所の如き、無量、不可思議の諸の功徳を念ず。是れを念仏と名づく。
復た次ぎに、
『仏』の、
『一切智』や、
『一切の知見』、
『大慈、大悲』、
『十力、四無所畏、四無礙智、十八不共法』等を、
『念じ!』、
『仏の所知』の、
『無量、不可思議』の、
諸の、
『功徳』を、
『念じれば!』、
是れを、
『仏』を、
『念じる!』と、
『称する!』。
是念在七地中。或有漏或無漏。有漏者有報。無漏者無報。三根相應樂喜捨根。行得亦果報得。行得者如此間國中學念佛三昧。果報得者如無量壽佛國。人生便自然能念佛。如是等如阿毘曇中廣分別
大智度論卷第二十一
是の念は、七地中に在り、或は有漏、或は無漏なり。有漏は有報、無漏は無報なり。三根に相応す、楽、喜、捨根なり。行の得、亦た果報の得なり。行得は、此の間の国中に学ぶ念仏三昧の如し。果報得は、無量寿仏国の人の生じて、便ち自然に能く仏を念ずるが如し。是れ等の如きは、阿毘曇中に広く分別せるが如し。

大智度論巻第二十一
是の、
『念』は、
『七地(無色界の上二地を除く)に在り!』、
『有漏か!』、
『無漏である!』。
『有漏』の、
『念』は、
『有報であり!』、
『無漏』の、
『念』は、
『無報である!』。
又、
『念』は、
『楽、喜、捨根の三根に相応し!』、
『行の得か!』、
『果報の得である!』。
『行じて得る!』、
『念』は、
此の、
『世間の国中に学ばれる!』、
『念仏三昧』と、
『同じであり!』、
『果報で得る!』、
『念』は、
『無量寿国の人』が、
『生まれながらに!』、
『便ち(労なく)!』、
『自然に!』、
『仏』を、
『念じることができる!』のと、
『同じである!』。
是れ等のように、
『阿毘曇』中などには、
『広く!』、
『分別している!』

大智度論巻第二十一
  七地(しちじ):三界九地中、無色界の上二地を除く。
  無量寿仏(むりょうじゅぶつ):梵名amitaayus- buddha、無量寿はamitaayusの訳。又阿弥陀仏とも称す。即ち西方極楽世界の教主なり。『大智度論巻21下注:阿弥陀仏』参照。
  阿弥陀仏(あみだぶつ):梵名amita- buddha、又阿弥多、阿弭跢、阿弭嚲に作る。無量の義なり。西方極楽世界の教主の名。又阿弥多廋amitaayus、阿弥多廋斯、或いは阿弥多婆amitaabha、阿弥嚲皤の称あり。就中、廋斯aayusは寿の義、婆aabhaは光明の義なれば、阿弥多廋を訳して無量寿、阿弥多婆を訳して無量光となせり。「阿弥陀経」に、「彼の仏を何故に阿弥陀と号するや。舎利弗、彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照らすに障礙する所なし。是の故に号して阿弥陀となす。又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民(の寿命)は無量無辺阿僧祇劫なり。故に阿弥陀と名づく」と云えり。之に依るに彼の仏を阿弥陀amita即ち無量と号することは、彼の仏の光明の無量なると、並びに彼の仏及び其の国人の寿命の無量無辺阿僧祇劫なるとに由ることを知るを得べし。若し然りとすれば、光明無量、寿命無量は、彼の仏を阿弥陀と号する理由を明らかにせしに止まるものと謂うべし。然るに「梵文阿弥陀経」並びに「称讃浄土仏摂受経」には、何故に彼の仏を無量寿と名づくるやと問い、其の答に、彼の如来及び諸の有情の寿命は無量無数大劫なり。故に彼の如来を無量寿と名づくるといい、又彼の仏を何故に無量光と名づくるやと問い、その答に、彼の如来は恒に無量無辺の妙光を放ちて、遍く一切の十方仏土を照らし、仏事を施作して障礙あることなし。故に彼の如来を無量光と名づくと云えり。若し之に依らば、彼の仏は最初より無量寿、無量光の名称を有せしものといわざるべからざるも、上の羅什訳「阿弥陀経」には唯だ阿弥陀仏といいて、無量寿、無量光の名称を挙げざるのみならず、亦た無量寿といえば寿命無量、無量光といえば光明無量の義既に明らかなるを以って、別に問答を施して彼の名称の意義を闡明するの要なしと謂うべし。且つ今の説の如くならば、彼の仏に最初より両名ありとせざるべからざるも、一仏に両名ありという如き、他に其の例を見ず。「般舟三昧経」、「大阿弥陀経」、「維摩詰経」等の古経に皆唯だ阿弥陀の称号をかかげて、無量寿、無量光の名称を出さざるを以って考うるに、彼の仏の原名は単に阿弥陀即ち無量なることを知ると同時に、無量寿、無量光の称号は、其の後彼の原名の有する意義を取りて、更に之に命名せしものと認めざるべからず。又「平等覚経」には、彼の仏を無量清浄仏と号せり。後出「阿弥陀仏偈」に、「世界名清浄、得仏号無量」といい、「称讃浄土仏摂受経」に、彼の界中には唯だ無量清浄の喜楽のみあり、故に名づけて極楽世界となすというに依るに、彼の無量清浄仏の名称は、其の国土の清浄荘厳が無量なるより起りしものなるを察するを得べし。されば是れ亦た阿弥陀の原名中に含蓄されたる一種の意義を取りて、彼の仏の一名となせるものというべし。蓋し阿弥陀仏は今より十劫以前に成道し、現に西方極楽世界に在りて、大衆の為に説法しつつありと信ぜらるる仏なり。「無量寿経巻上」に依るに、過去久遠無量劫に錠光如来世に興出し、次に光遠等の五十二仏相次いで出世し、次に世自在王如来世に出現せし時、国王あり、彼の仏の説法を聞きて心に歓喜を生じ、尋いで無上菩提の心を発して、王位を棄てて沙門となり、号して法蔵という。世自在王如来の所に詣でて頌を以って彼の仏を讃歎し、自ら浄仏国土の法を修行せんと欲するの意あることを演ぶるに、仏は即ち二百十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説き、又其の心願に応じて、悉くそれ等の諸刹土を現じて之を見せしむ。時に法蔵比丘は仏の所説を聞き、又彼の諸仏の刹土を覩見して、無上殊勝の願を超発し、五劫の間思惟してそれ等の諸刹土につき選択し、再び彼の仏の所に詣でて四十八の大願を演べ、それより兆載永劫の間に功を積み徳を累ねて、遂に十劫以前に正覚を成ぜられたりとなせり。「大阿弥陀経」等の異訳の諸経に記する所も之に異ならざるも、過去仏の数並びに法蔵所発の本願の数及びその願文等は互いに同じからず。又「悲華経巻2」には、弥陀の因位を無諍念と名づくる転輪聖王となし、師仏を宝蔵如来とし、指導者を釈迦の前身にして而も宝蔵如来の父なる宝海梵志とし、観音、勢至、文殊、普賢、阿閦等を王の千子の一とし、又「阿弥陀鼓音声王陀羅尼経」には、弥陀の父は月上転輪聖王にして、母を殊勝妙顔と名づけ、子を月明と名づく等と云い、「法華経巻3」には、弥陀、阿閦、釈迦等を共に大通智勝仏の十六王子の一人とし、其の他、「慧印三昧経」、「無量門微密持経」、「賴陀和羅所問徳光経」、「決定総持経」、「賢劫経巻1、3」、「済諸方等学経」、「大法炬陀羅尼経巻17」等にも亦た皆弥陀因位の各種の本生譚を記載せり。蓋し阿弥陀仏の崇拜は古来最も盛んにして、独り支那、西蔵、朝鮮、日本に於いて然るのみならず、印度及び西域等にも亦た曽ては広く弘通せられたるが如く、現存大乗経論中、弥陀又は極楽の事を散説せるもの凡そ二百四部あり。是れ彼仏の本願及び其の浄土に関する教義が深く人心に投じたる結果と認めざるべからず。「般舟三昧経巻上」には阿弥陀仏の身に三十二相あり、光明徹照して端正無比なりと云い、「観無量寿経」には、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金の色の如く、仏身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は右に旋りて宛転して五須弥山の如く、仏眼は青白分明にして四大海水の如し。身の諸の毛孔より光明を演出すること須弥山の如く、其の円光は百億三千大千世界の如し。其の身に八万四千の相あり、一一の相の中に各八万四千の随形好あり、一一の好の中に復た八万四千の光明あり、一一の光明は遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てずと云えり。形像は一尊像三尊像等あり。又九品来迎の説に依りて九品の像を造立し、其の印契等に各別ありとなせり。又真言密教に於いては、阿弥陀仏を以って大日法身の妙観察智を表するものとし、金剛界曼荼羅に在りては受用智慧身阿弥陀如来と称して、之を西方月輪の中央に画き、其の身を黄色、若しくは金色とし、除散乱即ち三摩地の印を結び、その前方に金剛法菩薩(観音)、右方に金剛利菩薩(文殊)、左方に金剛因菩薩(弥勒)、後方に金剛語菩薩(維摩)を安ぜり。種子は紇利俱(hriiH)、密号は清浄金剛、三摩耶形は普通の蓮華とす。胎蔵界曼荼羅に在りては無量寿如来と称し、之を中台八葉の西方に安ぜり。其の身は普通に白黄色となすも儀軌の説は真金色なり。目やや閉じ、軽衣を着して宝蓮の上に結跏趺坐し、入定の印を結ぶ。種子は闇(aM)、密号は清浄金剛、三摩耶形は初割の蓮華なり。又西蔵に於いては阿弥陀仏を無量光saGs- rgyas Hod- dpag- med、無量寿saGs- rgyas tshe- dpag- medの二仏とし、智慧を得んと希うものは無量光仏に帰依し、延寿福楽を得んと欲するものは無量寿仏を崇拜すという。又「十住毘婆沙論巻5易行品」、「無量寿経憂波提舎」、「往生論註」、「観経疏(善導)」等に出づ。<(望)


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