巻第二十一(上)
釋初品中八背捨義第三十四
1.八背捨
2.八勝処
3.十一切処、九次第定
釋初品中九相義第三十五
1.九相、十想
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大智度論釋初品中八背捨義第三十四(卷二十一)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


八背捨

八背捨者。內有色外亦觀色是初背捨。內無色外觀色是第二背捨。淨背捨身作證第三背捨。四無色定及滅受想定。是五。合為八背捨。背是淨潔五欲。離是著心故名背捨。 八背捨とは、内に色有り、外にも亦た色を観る、是れ初の背捨なり。内に色無く、外に色を観る、是れ第二の背捨なり。浄く背捨して、身に証を作せば、第三の背捨なり。四無色定、及び滅受想定は、是の五を合して、八背捨と為す。是の浄潔の五欲に背き、是の著心を離るるが故に、背捨と名づく。
『八背捨』とは、――
『内』に、
『色が有り!』、
『外』にも、
『色を観れば!』、
是の、
『背捨(解脱)』は、
『初の背捨である!』。
『内』に、
『色が無いのに!』、
『外』の、
『色を観れば!』、
是の、
『背捨』は、
『第二の背捨である!』。
『浄く!』、
『背捨した!』と、
『身』に、
『証を作せば(認識すれば)!』、
是の、
『背捨』は、
『第三の背捨である!』。
『四無色定』と、
『滅受想定』との、
『五背捨』を、
『合して!』、
『八背捨とする!』。
是の、
『浄潔』の、
『五欲』に、
『背(そむ)いて!』、
是の、
『著心』を、
『離れる(捨てる)!』が故に、
是れを、
『背捨』と、
『呼ぶのである!』。
  背捨(はいしゃ):解脱( liberation )、梵語 vimokSa の訳、解放する( release, deliverance from )/放棄する( abandonment, renunciatio )の義。『大智度論巻21上注:八解脱』参照。
  八解脱(はちげだつ):八種の解放/解脱( eight kinds of liberation )、梵語 aStaa- vimokSa の訳、又八背捨と訳す。精神統一の八種の段階( Eight stages of mental concentration. )、此の八は経典に依り変化し得る( These eight can vary according to the text. )、代表的な者は以下の通り( One representative set includes: ):
  1. 內有色想觀外色解脱 :心中に欲望が起きた時、対象、或は有らゆる事物を観察し、その中に染汚を認識することに依る解脱( Liberation, when subjective desire arises, by examination of the object, or of all things and realization of their filthiness. )、
  2. 內無色想觀外色解脫 :已に欲望を滅した後、更に観想することに依る解脱( Liberation, when no subjective desire arises, by still meditating as above. )、以上の二は、不浄を観想し、以下は浄を観想することによる解脱である( These two are deliverance by meditation on impurity, the next on purity. )、
  3. 淨身作證具足住解脫:有らゆる欲望を解脱して恒常的状態にあると認識するに至るまで、精神を浄に集中する( Liberation by concentration on the pure to the realization of a permanent state of freedom from all desire. )、以上の三は四禅に相応する( The above three correspond to the four dhyānas. )、
  4. 空無邊處解脫 :虚空、或は非物質の無限を認識する中に於ける解脱( Liberation in realization of the infinity of space, or the immaterial. )、
  5. 識無邊處解脫 :無限の識を認識する中に於ける解脱( Liberation in realization of infinite knowledge. )、
  6. 無所有處解脫:有らゆる事物が無いと認識する中に於ける解脱( Liberation in realization of nothingness, or nowhereness. )、
  7. 非想非非想處解脫:思考/想も、思考の欠落/非想も無いという精神の状態に於ける解脱( Liberation in the state of mind where there is neither thought nor absence of thought. )、以上の四は、欲望の形色に関する観想より生起し、四無色天処に属する( These four arise out of meditation in regard to desire and form, and are associated with the four formless heavens. )、
  8. 滅受想定解脫 :感覚/受と意識/想との最終的絶滅/涅槃中に於ける精神情態に依る解脱( Liberation by means of a state of mind in which there is final extinction, nirvāṇa, of both sensation, vedanā, and consciousness, saṃjñā. )。
  八背捨(はっぱいしゃ):又八解脱とも云う。即ち内有色想観諸色解脱、内無色想観外色解脱、浄解脱身作証具足、超諸色想観有対想不思惟種種想入無辺空空無辺処具足住解脱、超一切空無辺処入無辺識識無辺処具足住解脱、超一切識無辺処入無所有無所有処具足住解脱、超一切無所有処入非想非非想処具足住解脱、超一切非想非非想処入想受滅身作証具足住解脱の八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  四無色定(しむしきじょう):四種の無色定の意。即ち空無辺処定、色無辺処定、無所有処定、非想非非想処定の併称なり。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
  滅受想定(めつじゅそうじょう):一切の心心所を滅せしむる定の意。或いは非想非非想処定の別名とも云い、或いは滅尽定とも称す。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
  八背捨(はっぱいしゃ):背捨、八解脱、八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階の修行法。八勝処、十一切処と合わせて三法(さんぽう)といい、三界の貪愛を遠離する一具の出世間の禅である。『背捨を初門と為し、勝処を中行と為し、一切処を成就と為す。三種の観足りて、即ちこれ観禅の体成就す。』(智21)
(1)内有色想観外色解脱:色や形に対する想い(色想)が内心にあることを除くために、不淨観を修める。(内身に色想の貪有り、この貪を除く為に、外の不浄青瘀等の色を観じて、貪を起させない。この故に解脱といい、この初の解脱は初禅の浄に従って起り、欲界の色に縁ずる。)
(2)内無色想観外色解脱:内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。(内心に色想の貪が無いとはいえ、更に堅固ならしめんと欲して、外の不浄青瘀等の色を観じ、貪を起させない。この故に解脱といい、これは二禅に依って起り、初禅の色に縁ずる。)
(3)浄解脱身作証具足住:前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起こさないようにする。(浄色を観ずるが故に浄解脱という。定中に於いて不浄相を除き、ただ八色等の光明清浄、光潔なる妙宝の色を観ずる。浄色を観じて貪を生ぜず、これを観じて勝れたるを顕すに足り、この性を証得して身中に解脱する。故に身作証といい、具足円満して、この定に住するを得るが故に、具足住という。この第三解脱の位は、第四禅に依って起り、また欲界の色に縁ずる。)
(4)空無辺処解脱:物質的な想いをすべて滅して、空無辺処定に入る。
(5)識無辺処解脱:空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。
(6)無所有処解脱:識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。
(7)非想非非想処解脱:無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。(これは四無色定に依って起り、各各所得の定に於いて、空、無常、無我を観じ、厭心を生じてこれを棄捨する。故に解脱という。)
(8)滅受想定身作証具住:受想などを捨てて、滅尽定(めつじんじょう)に入る。(滅受想定とは、滅尽定である。これもまた第四禅に依って、前の非非想、即ち一切の所縁を棄捨する。故に解脱という。)
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の物を観察して貪著の心を除くための八種の勝れた禅定。
(1)内有色想観外色少勝処:色や形に対する想(色想)が内心にあることを除くために少しの物を観察して貪著を除く。(内心に色想有るが故に内有色想といい、また道の未だ増長せざるを以って、もし多くの色を観じるならば則ち恐れて摂持し難きが故に少しの色を観ず。故に観外色少という。ただ内身の不浄を観じ、或は少しばかりの外色の清浄なるを観ず。)
(2)内有色想観外色多勝処:いろいろな物を観察して貪著を除く。(内心に色想が有る義は上と同じ。ただ行人の道を観ずることの漸く熟するを以って多く外色を観じて妨げ無く、一死屍も百千万の死屍も諦観し、一膨脹相を観ずるが若く、時に悉く一切の膨脹相を観じ、広大の外色の清浄なるを観ず。この故に観外色多という。)
(3)内無色想観外色少勝処:内心に色想が無くなってもなお少しの物を観察して貪著を除く。(道を観ずること漸く勝妙となり、外色を観じても、内心に色想を存ぜず、故に内無色想という。外色を観ずること少の義は、第一勝処の如し。また浄不浄を観ずることも第一と同じ。)
(4)内無色想観外色多勝処:更にいろいろな物を観察して貪著を除く。(内心に色想を留めず、故に内無色想という。外色を観ずること多の義は、第二勝処と同じ。浄不浄を観ずることも前と同じ。以上の四者は浄不浄の雑観である。)
(5)青勝処:内心に色想が無くなってもなお、青色について観察して貪著を除く。(外の青色を観じて転変自在に、少を多と為し、多を少と為し、所見の青相に於いて、法愛を起さない。)
(6)黄勝処、(7)赤勝処、(8)白勝処は青勝処と同じように、黄色、赤色、白色を観ずる。
  十一切処(じゅういっさじょ):十一切入、十遍処、一切入、青黄赤白地水火風空識の十の法(もの)は、その一一が一切の処に周辺すると観察し、一切はその十の法に過ぎないと観じて、物に貪著する心を除くこと。
  四無色定(しむしきじょう):無色界の禅定。
(1)空無辺処定:空間は無限大なりと思惟すること。行人は色籠を厭患すること牢獄の如くして、心にこれを出離せんと欲し、色想を捨てて無辺の虚空に縁じ、心と無辺の虚空と相応する。
(2)識無辺処定:識は無限大なりと思惟すること。行人は更に前の外の空を厭患し、その虚空を捨てて内の識に縁じ、心識を無辺の解と為し、心と無辺の識と相応する。
(3)無所有処定:何者も無しと思惟すること。行人は更にその識を厭患し、心識は無所有なりと観じ、心と無所有と相応する。
(4)非想非非想処定:ほとんど無想にちかい定。前の識処は有想、無所有処は夢想なり、この前の有想を捨てるが故に非想といい、無想を捨てるが故に非非想という。
不壞內外色。不內外滅色相。以是不淨心觀色。是名初背捨。壞內色滅內色相。不壞外色不滅外色相。以是不淨心觀外色。是第二背捨。是二皆觀不淨。一者觀內觀外。二者不見內但見外。 内外の色を壊らず、内外の色相を滅せず、是の不浄の心を以って、色を観る、是れを初背捨と名づく。内の色を壊り、内の色相を滅し、外の色を壊らず、外の色相を滅せず、是の不浄の心を以って、外の色を観る、是れ第二背捨なり。是の二は、皆不浄を観る。一には内を観、外を観る。二には内を見ず、但だ外を見る。
『内、外の色』を、
『壊(やぶ)らず!』、
『内、外の色相』を、
『滅せず!』、
是の、
『不浄の心』で、
『色』を、
『観る!』、
是れが、
『初』の、
『背捨である!』。
『内の色』を、
『壊り!』、
『内の色相』を、
『滅して!』、
『外の色』を、
『壊らず!』、
『外の色相』を、
『滅せず!』、
是の、
『不浄の心』で、
『外の色』を、
『観る!』、
是れが、
『第二』の、
『背捨である!』。
是の、
『二(初、第二)』は、
皆、
『不浄』を、
『観る!』。
『一()』は、
『内、外』に、
『不浄』を、
『観るが!』、
『二(第二)』は、
『内』には、
『不浄』を、
『見ず!』、
『外』にだけ、
『不浄』を、
『見るのである!』。
何以故。眾生有二分行。愛行見行。愛多者著樂多縛在外諸結使行。見多者多著身見等行。為內結使縛。以是故愛多者觀外色不淨。見多者觀自身不淨壞敗故。 何を以っての故に、衆生には二分の行有りて、愛行、見行なり。愛多き者は、楽に著して、多くは外の諸結使の行に縛さる。見多き者は、身見等の行に多く著して、内の結使に縛さる。是を以っての故に、愛多き者は、外色の不浄を観、見多き者は、自身の不浄、壊敗を観るが故なり。
何故ならば、
『衆生』の、
『行』には、
『愛行、見行』の、
『二分』が、
『有り!』、
『愛の多い!』者は、
『楽に著する!』ので、
『外の諸結使』の、
『行』に、
『縛られ!』、
『見の多い!』者は、
『身見』等の、
『行に著して!』、
『内の結使』に、
『縛られる!』ので、
是の故に、
『愛の多い!』者は、
『外』に、
『色の不浄』を、
『観察し!』、
『見の多い!』者は、
『自身の内』に、
『不浄、壊敗の原因』を、
『観察するからである!』。
  (ぎょう):五蘊の一。行蘊、即ち眼触、乃至意触所生の思の義、種種の分別、思量の意。『大智度論巻11下注:行』参照。
  (ばく):拘束の義。貪等の煩悩が、衆生を拘束して自在ならしめざるを云う。『大智度論巻41下注:縛』参照。
  愛行(あいぎょう):愛の煩悩に由る行、即ち事物に対して染著を生ずるに由りて、分別思量するの義。『大智度論巻42上注:愛』参照。
  見行(けんぎょう):見の煩悩に由る行、即ち理義を推度する中に於いて染著を生ずるに由り、分別思量するの義。『大智度論巻7上注:見』参照。
  (ざい):~に。~を。於に同じ。
  壊敗(えはい):やぶれる。こわれる。破壊と腐敗。
  (こ):<名詞>[本義] 原因/理由( cause, reason )。事/事情( thing )、事故( accident )、旧友/昔馴染み( old friend )、旧習/因習( outmoded conventions )、先祖( ancestors )、古い事物( the stale )、古くささ( staleness )。<形容詞>古い/昔の/前の( ancient, old, former )。<動詞>死ぬ( die )、衰老する( be old and feeble )。<副詞>故意に/わざと/計画的に( deliberately, on purpose )、本来/本より/初めて( first, originally )、本のように/本のままに( still )。<接続詞>此のゆえに/所以に/此れに因って/此の為に( therefor )。
復次行者初心未細攝繫心一處難。故內外觀漸習調柔。能內壞色相但觀外。 復た次ぎに、行者は初心にして、未だ細ならざれば、心を摂して、一処に繋くるすら難し。故に内外を観て、漸く調柔を習い、能く内に色相を壊りて、但だ外のみを観る。
復た次ぎに、
『行者』が、
『初心ならば!』、
未だ、
『心』が、
『細(緻密)でなく!』、
『心』を、
『摂(おさ)めて!』、
『一処に繋()ける!』ことが、
『難しい!』。
故に、
『内、外』を、
『観察して!』、
漸(ようや)く、
『心』が、
『習慣的に!』、
『調柔(従順)となり!』、
『内の色』を、
『壊って!』、
『外の色のみ!』を、
『観察できる!』。
  (さい):梵語 suukSma の訳、微細な/繊細な/微妙な/小さい/緻密な( minute, delicate, fine, tiny, subtle )の義。
  (ぜん):ようやく。次第に。
  調柔(ちょうにゅう):柔軟な( pliant )、梵語 karmaNyatva, karmaNya の訳、宗教的実践に適する/こと( suitable for a religious action )の義、柔軟で順応性があること/柔軟性/適応性( To be flexible and adaptable; flexibility, adaptability. )の意。
問曰。若無內色相誰當觀外。 問うて曰く、若し内の色相無くんば、誰か当に外を観るべし。
問い、
若し、
『内』の、
『色相』が、
『無ければ!』、
誰が、
『外』を、
『観ることになるのですか?』。
答曰。是為得解道。非實道。行者念未來死及火燒虫噉埋著土中皆磨滅。若現在觀亦分別是身。乃至微塵皆無。是名內無色相外觀色。 答えて曰く、是れを得解の道と為し、実の道に非ず。行者の念ずらく、『未来に死して、火に焼かれ、虫に噉われ、土中に埋著せらるるに及べば、皆磨滅せん。若し現在の是の身を観て、亦た分別すれば、乃至微塵まで、皆無し』、と。是れを内に色相無く、外に色を観ると名づく。
答え、
是れは、
『解脱を得る!』、
『道ではある!』が、
『実の!』、
『道ではない!』。
『行者』は、こう念じるのである、――
未来に、
『死んで!』、
『火に焼かれたり!』、
『虫に噉われたり!』、
『土中に埋められれば!』、
是の、
『身』は、
皆、
『磨滅することになる!』。
若し、
現在、
是の、
『身』を、
『観察して!』、
乃至、
『微塵(素粒子)にまで!』、
『分別すれば!』、
皆、
『無くなるのだ!』、と。
是れを、
『内』に、
『色が無く!』、
『外』に、
『色を観る!』と、
『称するのである!』。
  (ぎゅう):およぶ。至に同じ。
  埋著(まいじゃく):うづめる。
問曰。二勝處見內外色。六勝處但見外色。一背捨見內外色二背捨但見外色。何以故但內有壞色相。外色不能壞。 問うて曰く、二勝処は、内外の色を見、六勝処は、但だ外色のみを見、一背捨は内外の色を見、二背捨は但だ外色を見る。何を以っての故にか、但だ内に有る、色相を壊りて、外の色を壊る能わざる。
問い、
『二勝処』は、
『内、外』の、
『色』を、
『見!』、
『六勝処』は、
『外のみ!』の、
『色』を、
『見て!』、
『一背捨』は、
『内、外』の、
『色』を、
『見!』、
『二背捨』は、
『外のみ!』の、
『色』を、
『見る!』が、
何故、
但だ、
『内に有る!』、
『色相だけ!』を、
『壊って!』、
『外』の、
『色』は、
『壊ることができないのですか?』。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。即ち内有色想観外色少勝処、内有色想観外色多勝処、内無色想観外色少勝処、内無色想観外色多勝処、内無色想観外色青勝処、内無色想観外色黄勝処、内無色想観外色赤勝処、内無色想観外色白勝処の併称なり。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
答曰。行者眼見是身有死相。取是未來死相以況今身。外四大不見滅相故。難可觀無故。不說外色壞。 答えて曰く、行者は眼にて、是の身に死相有るを見、是の未来の死相を取りて、以って今の見に況(くら)ぶるも、外の四大には、滅相を見ざるが故に、無を観べきこと難ければ、外色の壊るるを説かず。
答え、
『行者』は、
是の、
『身』に、
『死相が有る!』のを、
『眼』に、
『見れば!』、
是の、
『未来』の、
『死相』を、
『取って!』、
『今』の、
『身』に、
『比擬することができる!』が、
『外の四大(地水火風)』は、
『滅相を見ない!』が故に、
『無を観る!』ことが、
『難しい!』が故に、
『外』の、
『色が壊れる!』ことを、
『説かないのである!』。
  (きょう):<名詞>[本義]寒冷な水( cold water )。状況/情況/境遇( condition )。<動詞>比擬/比喩/比較する( compare )、訪問する( visit )。<接続詞>何況/いわんや/その上/なおまた/更に( besides, moreover )。<副詞>更に加えて/復た( more )。
復次離色界時。是時亦不見外色。 復た次ぎに、色界を離るる時、是の時も亦た外色を見ず。
復た次ぎに、
『色界を離れる!』時、
是の、
『時』にも、
『外の色』を、
『見ることはない!』。
淨背捨身作證者。不淨中淨觀。如八勝處說。前八一切處。觀清淨地水火風及青黃赤白。觀青色如青蓮華。如金精山。如優摩伽華。如真青婆羅捺衣。觀黃赤白各隨色亦復如是。總名淨背捨。 浄背捨に、身に証を作すとは、不浄中の浄観にして、八勝処に説くが如し。前の八一切処に、清浄の地水火風、及び青黄赤白を観るに、青色を、青蓮華の如し、金精山の如し、優摩伽華の如し、真青の婆羅捺衣の如しと観、黄赤白を観て、各色に随うも、亦復た是の如く、総じて浄背捨と名づく。
『浄背捨した!』と、
『身』に、
『証を作す!』とは、――
謂わゆる、
『不浄』中の、
『浄観である!』。
例えば、
『八勝処に説く!』のと、
『同じである!』。
又、
『十一切処』中の、
『前の八一切処』では、
『清浄な!』、
『地、水、火、風、青、黄、赤、白』を、
『観察して!』、
『青色』は、
『青蓮華のようだ!』と、
『観察し!』、
有るいは、
『金精山、優摩伽華、真青の婆羅捺衣のようだ!』と、
『観察し!』、
『黄、赤、白』も、
『色に随って!』、
『観察する!』が、
是れ等も、
亦た、
総じて、
『浄背捨』と、
『呼ばれる!』。
  十一切処(じゅういっさいじょ):又十徧処とも称す。勝解作意に依りて地水火風、及び青黄赤白、空、識の十法が、各、一切処に周遍して間隙なしと観ずるを云う。即ち地遍処、水遍処、火遍処、風遍処、青遍処、黄遍処、赤遍処、白遍処、空遍処、識遍処の総称なり。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  金精山(こんしょうせん):不明。
  優摩伽華(うまかげ):花の名。委細不明。
  婆羅捺衣(ばらなえ):婆羅捺baaraaNaは、中印度波羅奈斯vaaaraNasii国に産する綿布の名。『大智度論巻21上注:婆羅痆斯国』参照。
  婆羅痆斯国(ばらなしこく):婆羅痆斯vaaraaNasiiは梵名。或いはvaaraNasii、varaaaNasii、varaNasii、巴梨名baaraaNasii、又婆羅那私、婆羅捺写、筏羅痆斯、波羅那斯、波羅柰斯、波羅柰写、婆羅柰、婆羅㮏、波羅柰、波羅㮏、波羅私、婆羅、或いは波羅に作り、江繞と訳す。中印度に在りし古国の名。「大唐西域記巻7」に、「婆羅痆斯国は周四千余里、国の大都城は西殑伽河に臨み、長さ十八九里、広さ五六里あり。閭閻櫛比し、居人殷盛に、家に巨万を積み、室に奇貨を盈つ。人性温恭にして、俗強学を重んじ、多く外道を信じ、少しく仏法を敬す。気序和にして穀稼盛んに、果木扶疎、茂草藿靡す。伽藍三十余所、僧徒三千余人あり、並びに小乗正量部の法を学す。天祠百余所、外道万余人あり、並びに多く大自在天に宗事す」と云い、且つ大城の東北婆羅痆varaNaa(巴梨名baraNaa、現名barnaa)河の西に阿育王塔、河の東北十余里に鹿野伽藍、其の附近に初転法輪処、弥勒菩薩受記処、護明菩薩受記処等の旧趾ありしことを記するもの是れなり。蓋し婆羅痆斯国は古の迦尸kaasi国にして、其の都城は一に迦尸城と称せられたり。「仏所行讃巻3転法輪品」に、「如来は漸く前行して迦尸城に至る。其の地は勝荘厳なること天帝釈宮の如く、恒河、波羅㮏二水の双流する間に在り」と云い、「長阿含巻5典尊経」、「中阿含巻12毘婆陵耆経」、「高僧法顕伝」等にも波羅柰を以って皆迦尸国の都城となせり。されど「長阿含巻3遊行経」、「過去現在因果経」等に波羅㮏国と記するに依れば、亦た夙に其の国号ありしを知るなり。此の都城は恒河の左岸、婆羅痆河の河口に位置し、即ち現今のベナレスbenares市に当たれり。其の名称に関しては、「大毘婆沙論巻183」に、「問う、何が故に婆羅痆斯と名づくるや。答え、此れは是れ河の名なり。其れを去ること遠からずして王城を造立す、是の故に此の城を亦た婆羅痆斯と名づく」と云い、又「ヴァーマナ・プラーナvaamana- puraaNa、iii」には、バラナーvaraNaa河とアシasi(又はasii)河との中間に在るが故に其の名を得たりとし、或いは太古バナール王raajaa banaarの造立に係るが故に、其の名を取れるものともなせり。此の地は古くより繁栄せしが如く、「大楼炭経巻6」、「起世経巻10」等には、閻浮洲に於いて初め占婆城を作り、次いで波羅奈城を作り、後王舎城を規度すと云い、又「起世経巻10」、「仏本行集経巻10賢劫王種品」、「有部毘奈耶破僧事巻1」、及び「巴梨文島史diipavaMsa、iii」等には、昔時転輪聖王難勝等が此の都城に在りて一洲を領せりと云い、「長阿含巻1大本経」には、迦葉仏出世の時、波羅㮏城は汲毗王の治する所なりしと云えり。釈尊成道の初め、此の地鹿野苑に来たりて始めて法輪を転ぜられたることは著名なる事実にして、「過去現在因果経巻3」、「増一阿含経巻14」等に悉く記する所なり。又「中阿含巻12毘婆陵耆経、巻13説本経」、「雑阿含経巻39」等には、仏は後屡此の地に遊化せえられしことを伝え、「十誦律巻40」には此の地を以って仏の六大説処の一となせり。又此の地は夙に學問興行し、来た印度呾叉始羅takSasilaaと倶に婆羅門教学の一中心地をなせるものにして、「中阿含巻17長寿王本起経」に、拘娑羅国長寿王は迦赦国梵摩達哆王に敗れて波羅㮏に逃れ、村邑の間に在りて受学し、後博士となり、其の子長生童子も亦た此の国に受学せしことを伝え、玄奘遊歴の当時、湿婆派の盛んなりしことは、亦た前引西域記の記事に徴して知るを得べし。後西紀一一九四年回教徒の配下に帰せし以来、仏教は全く其の跡を絶つに至り、現今印度教の聖地として最も有名なり。此の地方には古くより綿布を産し、婆羅痆斯、或いは波羅㮏衣baaraaNa(又はbaaraaNaseyyaka)と称せらる。「中阿含巻32優婆離経」に、「波羅㮏衣の如く白浄にして色を受くるに忍ゆ」と云い、「同巻23水浄梵志経」、「瑜伽師地論巻49」等にも又同説を出し、又「長阿含巻9十上経」、「集異門足論巻19」、「玄応音義巻23」等には、波羅㮏衣を青黄赤等の諸色に染色することを記せり。又「長阿含経巻2」、「中阿含巻59第一得経」、「雑阿含経巻23」、「仏本行集経巻33転妙法輪品」、「仁王般若波羅蜜経巻下受持品」、「四分律巻32」、「大智度論巻3」、「善見律毘婆沙巻6、10」、「翻梵語巻8」、「玄応音義巻10、21、23」、「慧琳音義巻10、14、26、30、32、62、83、100」等に出づ。<(望)
問曰。若總是淨背捨。不應說一切處。 問うて曰く、若し総じて是れ浄背捨なれば、応に一切処を説くべからず。
問い、
若し、
是れが、
『総じて!』、
『浄背捨ならば!』、
当然、
『一切処など!』、
『説くべきでない!』。
答曰。背捨是初行者。勝處是中行。一切處是久行。不淨觀有二種。一者不淨二者淨。不淨觀中二背捨四勝處。淨觀中一背捨四勝處。八一切處。 答えて曰く、背捨は是れ初行の者なり、勝処は是れ中行、一切処は是れ久行なればなり。不浄観には、二種有り、一には不浄、二には浄なり。不浄観中には二背捨、四勝処あり、浄観中には一背捨、四勝処、八一切処なり。
答え、
『背捨』は、
『初めて!』、
『行う者であり!』、
『勝処』は、
『中ほどに!』、
『行い!』、
『一切処』は、
『久しく!』、
『行うからである!』。
『不浄観』には、
『二種有り!』、
一には、
『不浄である!』と、
『観!』、
二には、
『浄である!』と、
『観る!』。
『不浄観』中には、
『二背捨(初、第二)』と、
『四勝処(初、第二、三、四)が有り!』、
『浄観』中には、
『一背捨(第三)』と、
『四勝処(第五、六、七、八)』と、
『八一切処(地、水、火、風、青、黄、赤、白)とが有る!』。
  不浄観(ふじょうかん):身の不浄を観ずる観法の意。『大智度論巻17下注:不浄観』参照。
問曰。行者以不淨為淨名為顛倒。淨背捨觀云何不顛倒。 問うて曰く、行者の不浄を以って浄と為すを名づけて、顛倒と為す。浄背捨の観は、云何が顛倒ならざる。
問い、
『行者』が、
『不浄』を、
『浄である!』と、
『思えば!』、
是れは、
『顛倒』と、
『呼ばれる!』が、
『浄背捨』という、
『観』は、
何故、
『顛倒でないのですか?』。
答曰。女色不淨妄見為淨。是名顛倒。淨背捨觀。一切實青色廣大故不顛倒。 答えて曰く、女色の不浄を妄見して、浄と為せば、是れを顛倒と名づく。浄背捨は、一切は実に青色にして、広大なりと観るが故に、顛倒にあらず。
答え、
『女色』という、
『不浄』を、
『浄である!』と、
『妄見する!』ので、
是れを、
『顛倒』と、
『称するのである!』。
『浄背捨』は、
一切は、
実に、
『青色であり!』、
『広大である!』と、
『観る!』が故に、
『顛倒でない!』。
復次為調心故。淨觀以久習。不淨觀心厭。以是故習淨觀非顛倒。亦是中不著故。 復た次ぎに、心を調えんが為の故に浄観するは、久しく不浄観を習うを以って、心に厭えば、是を以っての故に、浄観を習うも、顛倒に非ず。亦た是の中に著せざるが故なり。
復た次ぎに、
『心』を、
『調える!』為の故に、
『浄観する!』のは、
久しく、
『不浄観』を、
『習う(実習する)!』が故に、
『心』に、
『不浄』を、
『厭うからである!』。
是の故に、
『浄観』を、
『習っても!』、
『顛倒でない!』。
亦た、
是の中に、
『著さない!』が故に、
『顛倒ではない!』。
復次行者先觀身不淨。隨身法所有內外不淨繫心觀中。是時生厭婬恚癡薄即自驚悟。我為無目此身如是。云何生著。攝心實觀無令復錯。心既調柔想身皮肉血髓不淨除卻。唯有白骨繫心骨人。若外馳散攝之令還。深攝心故見白骨流光。如珂如貝能照內外諸物。是為淨背捨初門。然後觀骨人散滅。但見骨光取外淨潔色相。 復た次ぎに、行者は先に身の不浄を観るに、身法の有らゆる内外の不浄に随いて、心を繋けて観る中に、是の時、厭を生じて、婬恚癡薄れ、即ち自ら驚悟すらく、『我れを、目無しと為す。此の身は是の如し。云何が著を生ずる』、と。心を摂して、実観し、復た錯(あやま)たしむること無し。心既に調柔すれば、身を想うも、皮肉、血髄の不浄除却し、唯だ白骨有れば、心を骨人に繋く。若し外に馳散すれば、之を摂して、還らしむ。深く心を摂するが故に、白骨に流光を見ること、珂の如く、貝の如く、能く内外の諸物を照らす。是れを浄背捨の初門と為し、然る後に骨人の散滅するを観るに、但だ骨光を見て、外の浄潔なる色相を取る。
復た次ぎに、
『行者』は、
先に、
『身』の、
『不浄』を、
『観察する!』が、
『身』という、
『法に有る!』、
『内、外の不浄』に、
『心』を、
『繋けて!』、
『観る!』中に、
是の時、
『心』に、
『厭を生じて!』、
『淫、恚、癡』が、
『薄れ!』、
即座に、
自ら、
『驚いて!』、
『悟ることになる!』、――
わたしには、
『目』が、
『無かったのだ!』。
此の、
『身』は、
『是の通りなのに!』、
何故、
『著』を、
『生じたのだろう?』、と。
そこで、
『心』を、
『摂(おさ)めて!』、
『実』を、
『観れば!』、
もう、
『錯覚させられる!』ことは、
『無い!』。
『心』は、
既に、
『調柔(従順)になり!』、
『身』を、
『観想しても!』、
『皮、肉、血、髄』の、
『不浄』は、
『除却されており!』、
唯だ、
『白骨のみ!』が、
『有る!』。
『心』を、
『骨人』に、
『繋()けて!』、
若し、
外に、
『馳散しようとすれば!』、
『摂めて!』、
『還らせる!』ので、
深く、
『心』を、
『摂めることになり!』、
故に、
『白骨』より、
『光が流れる!』のが、
『見え!』、
『珂、貝のように!』、
『内、外の諸物』を、
『照らしている!』。
是れは、
『浄背捨』の、
『初門であり!』、
そうした後、
『骨人』の、
『散滅する!』のを、
『観察する!』と、
唯だ、
『骨』の、
『光のみ!』が、
『見え!』、
外の、
『浄潔』の、
『色相』を、
『取ることになる!』。
  (さく):そむく。たがう。乖に同じ、不合の意。
  (か):白馬瑙。くつわ貝、その介殼は外が黄黒く、内が白く、馬のくつわを飾るに用いられる。
  (ばい):かいがら。介殼。
復次若金剛真珠金銀寶物。若清淨地若淨水。如無煙無薪淨潔火。若清風無塵。諸青色如金精山。諸黃色如瞻蔔花。諸赤色如赤蓮華。諸白色如白雪等。取是相繫心淨觀隨是諸色。各有清淨光曜。是時行者得受喜樂遍滿身中。是名淨背捨。緣淨故名為淨背捨。遍身受樂故名為身證。得是心樂背捨五欲不復喜樂。是名背捨。 復た次ぎに、金剛、真珠、金銀、宝物の若(ごと)き、清浄の地、若しは浄水の若き、無煙、無薪の浄潔なる火の如き、清風に塵無きが若き、諸の青色の金精山の如き、諸の黄色の瞻蔔の花の如き、諸の赤色の赤蓮華の如き、諸の白色の白雪の如き等、是の相を取りて、心を繋けて、是の諸色に随うて、各に清浄の光曜有るを浄観す。是の時行者は、喜楽を受け、身中に遍満するを得。是れを浄背捨と名づけ、浄を縁ずるが故に名づけて、浄背捨と為し、遍身に楽を受くるが故に名づけて、身証と為し、是の心楽を得て、五欲を背捨すれば、復た喜楽せず。是れを背捨と名づく。
復た次ぎに、
譬えば、
『金剛、真珠、金銀、宝物』や、
『清浄の地』や、
『浄水』や、
『煙、薪の無い浄潔の火』や、
『塵の無い清風』や、
譬えば、
『金精山のような!』、
『諸の青色』や、
『瞻蔔花のような!』、
『諸の黄色』や、
『赤蓮華のような!』、
『諸の赤色』や、
『白雪のような!』、
『諸の白色』等の、
是のような、
『相を取って!』、
『心』に、
『繋け!』、
是の、
諸の、
『色に随って!』、
各に、
『清浄の光曜が有る!』のを、
『浄観すれば!』、
是の時、
『行者』は、
『喜、楽を受けて!』、
『身』中に、
『遍満することになる!』。
是れを、
『浄背捨』と、
『称する!』が、
是れは、
『浄を縁じる!』が故に、
『浄背捨』と、
『呼ばれ!』、
『遍身(全身)に!』、
『楽を受ける!』が故に、
『身証』と、
『称され!』、
是の、
『心の楽を得れば!』、
『五欲』を、
『背捨して!』、
もう、
『喜、楽しない!』が故に、
是れを、
『背捨』と、
『称するのである!』。
  瞻蔔花(せんぷくげ):梔子(くちなし)の花。又『大智度論巻21上注:瞻蔔樹』参照。
  瞻蔔樹(せんぶじゅ):瞻蔔campakaは梵名。巴梨名同じ。又瞻蔔加、旃簸迦、占博迦、瞻博迦、瞻波迦、詹波、占波、占匐、占婆、瞻波、瞻婆、薝蔔に作り、金色花樹、或いは黄花樹とも称す。又其の華を瞻蔔華campaka- puSpa(巴campaka- puppha)と云い、或いは瞻波華、瞻波迦花に作り、金色華、黄色花とも訳す。印度に産する花樹の名。学名Micinelia champaka、樹は高大にして、葉は其の面滑沢に、長さ六七寸あり。黄色の花を生じ芳香あり。樹皮、葉及び花より薬料香料を採取す。「長阿含経巻18閻浮提洲品」に、「復た叢林あり、瞻婆と名づく。縦広五十由旬あり」と云い、「法華経巻5分別功徳品」に、「華香末香を散じ、須曼、瞻蔔、阿提目多伽を以って油に熏じて常に之を燃やす」と云い、又「善見律毘婆沙巻3」に、「王即ち華を散ずる八過し、礼を作し去りて支帝耶処に到るに、人あり瞻蔔華を以って王に献ず」と云える是れなり。「慧琳音義巻8」に、「瞻博迦花は梵語、花樹の名なり。旧に瞻匐と云うは訛略なり。此の花芬馥し、香数里に聞こゆ。大なるは楸(ひさぎ)花の如く、爛然として金色なり。亦た是れ香の名なり」と云えり。此の中、香は花より採取せるものにして、瞻蔔華香と称せらる。又「翻梵語巻9」、「玄応音義巻3、4」、「慧苑音義巻上」、「翻訳名義集巻3」、「枳橘易土集巻13」、「類聚名物考巻318」等に出づ。<(望)
  光曜(こうよう):ひかり。かがやき。光暉に同じ。
未漏盡故。中間或結使心生隨著淨色。復懃精進斷此著故。如是淨觀從心想生。譬如幻主觀所幻物。知從己出心不生著能不隨所緣。是時背捨變名勝處。 未だ漏尽ならざるが故に、中間は、或は結使の心生じ、随って、浄色に著すれば、復た精進を懃めて、此の著を断ずるが故に、是の如き浄観は、心想より生じ、譬えば幻主の所幻の物を観るが如く、己より心を出すを識り、著を生ぜず、能く所縁に随わず。是の時を背捨変じて、勝処と名づく。
『中間』は、
未だ、
『漏が尽きない!』が故に、
或は、
『結使』の、
『心』が、
『生じて!』、
随って、
『浄色』に、
『著するようになる!』ので、
復た、
『精進を懃(つと)めて!』、
此の、
『著』を、
『断じるのである!』が、
故に、
是のような、
『浄観』は、
『心想』より、
『生じるのであり!』、
譬えば、
『幻主』が、
『幻で現した!』、
『物』を、
『観るように!』、
是の、
『浄観』は、
『己より出た!』、
『心である!』と、
『知って!』、
『著を生じず!』、
『所縁』に、
『随うこともない!』。
是の時、
『背捨』は、
『変じて!』、
『勝処』と、
『呼ばれるのである!』。
  中間(ちゅうげん):具に中間地、或いは中間静慮と称す。即ち初禅と、其の上の七定との中間に位する無尋(覚)、唯伺(観)の定を云う。『大智度論巻17下注:中間静慮』参照。
於淨觀雖勝未能廣大。是時行者還取淨相。用背捨力及勝處力故。取是淨地相。漸漸遍滿十方虛空。水火風亦爾。取青相漸令廣大亦遍十方虛空。黃赤白亦如是。是時勝處復變為一切處。是三事一義轉變有三名。 浄観に於いて、勝れたりと雖も、未だ能く広大ならず。是の時、行者は、還(ま)た浄相を取り、背捨の力、及び勝処の力を用いるが故に、是の浄地の相を取り、漸漸にして十方の虚空に遍満す。水火風も亦た爾(しか)り。青相を取りて、漸く広大ならしめ、亦た十方の虚空に遍からしむ。黄赤白も亦た是の如し。是の時、勝処は復た変じて、一切処と為る。是の三事は、一義なるも、転変して三名有り。
『勝処』は、
『浄観よりも!』、
『勝れている!』が、
『広大にすることができない!』。
是の時、
『行者』は、
還()た、
『浄相を取り!』、
『背捨の力』と、
『勝処の力』とを、
『用いて!』、
是の、
『浄地の相』を、
『取り!』、
次第に、
『十方の虚空』に、
『遍満させる!』。
『浄水、火、風の相』を、
『取る!』ことも、
亦た、
『是の通りである!』。
『青色の相』を、
『取って!』、
『広大にし!』、
亦た、
『十方の虚空』に、
『遍満させ!』、
『黄、赤、白色の相』を、
『取る!』ことも、
亦た、
『是の通りである!』。
是の時、
『勝処』は、
復た、
『変じて!』、
『一切処』と、
『為るのである!』が、
是のような、
『三事』は、
『一義でありながら!』、
『三名』が、
『有るのである!』。
問曰。是三背捨八勝處十一切處。是實觀。是得解觀。若實觀。身有皮肉何以但見白骨。又三十六物合為身法。何以分別散觀。四大各自有相。何以滅三大。但觀一地大。四色非盡是青。何以都作青觀。 問うて曰く、是の三背捨、八勝処、十一切処は、是れ実の観、是れ得解の観にして、若し実に身に有る皮肉を観れば、何を以ってか、但だ白骨のみを見る。又三十六物合して、身法を為すに、何を以ってか、分別して散観する。四大には、各自ら自相有るに、何を以ってか、三大を滅するを以って、但だ一地大のみを観る。四色は尽く、是れ青なるに非ざるに、何を以ってか、都(みな)青観を作す。
問い、
是の、
『三背捨』や、
『八勝処』や、
『一切処』が、
『実観であり!』、
『得解(解脱を得る為の!)の観ならば!』、
若し、
『身に有る!』、
『皮、肉』を、
『実観する!』のに、
何故、
但だ、
『白骨のみ!』を、
『見るのですか?』。
又、
『三十六物』の、
『合した!』ものが、
『身』という、
『法であるのに!』、
何故、
『分別して!』、
『散じて(ばらばらに)!』、
『観るのですか?』。
又、
『四大』には、
『各自に!』、
『相』が、
『有るのに!』、
何故、
『三大』を、
『滅して!』、
但だ、
『一地大のみ!』を、
『観るのですか?』。
又、
『四色(黄、青、赤、白)』の、
尽くが、
『青でない!』のに、
何故、
『都(みな)青である!』という、
『観を作すのですか?』。
  三十六物(さんじゅうろくもつ):三十六種の不浄物の意。即ち人の身中に三十六種の不浄物ありと観ずるを云う。「大智度論巻48」に、「髪毛等乃至脳膜、略説すれば即ち三十六、広説すれば即ち衆多なり」と云い、「五門禅経要用法」に、「愛を除かんと欲せば応に三十六物を観ずべし」と云える是れなり。三十六物に関しては諸説不同あり、「雑阿含経巻43」には、髪、毛、爪、齒、塵垢、流涎、皮、肉、白骨、筋、脈、心、肝、肺、脾、腎、膓、肚、生蔵、熟蔵、胞、涙、汗、涕、沫、肪、脂、髄、痰、癊、膿、血、脳、汁、屎、溺の三十六種を列ね、「増一阿含巻2」には、髪、毛、爪、齒、皮、肉、筋、骨、髄、膽、肝、肺、心、脾、腎、大膓、小膓、白膜、膀胱、屎、尿、百葉、倉、膓、胃、脬(一に泡に作る)、溺、涙、唾、涕、膿、血、肪、脂、髑髏、脳の三十六物を説き、「大般若波羅蜜多経巻53」には、髪、毛、爪、齒、皮革、血、肉、筋、脈、骨、髄、心、肝、肺、腎、脾、膽、胞、胃、大膓、小膓、屎、尿、洟、唾、涎、涙、垢、汗、淡、膿、肪、[月*冊]、脳、膜、[月*蚩]聹の三十六種を出し、「大品般若経巻5」には、髪、毛、爪、齒、薄皮、厚皮、筋、肉、骨、髄、脾、腎、心、膽、肝、肺、小膓、大膓、胃、胞、尿、屎、垢、汗、涙、洟、涎、唾、膿、血、黄白痰、癊、肪、[月*冊]、脳、膜の三十六種を挙げ、「坐禅三昧経巻上」には、髪、毛、爪、齒、薄皮、厚皮、血、肉、筋、脈、骨、髄、肝、肺、心、脾、腎、胃、大膓、小膓、尿、屎、洟、唾、汗、涙、垢、坋(一に圿に作る)、膿、脳、胞、膽、痰水、微膚、脂、肪、脳膜の三十六種を列ね、「禅要経」、並びに「禅法要解巻上」には、髪、毛、爪、齒、涕、涙、涎、唾、汗、垢、肪、[月*冊]、皮、膜、肌肉、筋、脈、髄、脳、心、肝、脾、腎、肺、胃、膓、肚、胞、膽、痰、癊、生蔵、膿、血、屎、尿の三十六種を出せり。又「達磨多羅禅経巻下」には、前の「大品般若経」所説の三十六物の中、膽と涎とを除きて唯三十四種を列ね、「止観輔行伝弘決巻9之二」には涎を除き、脈を加えて三十六物とし、又「大乗本生心地観経巻6」には三十七種の不浄穢悪ありと云えり。又「止観輔行伝弘決巻9之二」に、諸天皆云う、内外中間に各十二物ありと。唯禅門の中には但だ内外を分つ、外に十物あり、内は二十六なり。中に於いて二十二は是れ地、十四は是れ水なり。而も名相を分って地水に所属せざるも、応に髪、毛、爪、齒、薄皮、厚皮、筋、肉、骨、髄(十)、脾、腎、肝、膽、肺、大膓、小膓、心、胃、胞(十)、屎、尿、垢、汗、涙、涕、唾、膿、血、脈(十)、黄痰白痰、癊、肪、[月*冊]、脳、膜(六)此の三十六の中、髪毛爪齒垢汗涙涕唾屎尿、此の十は外に属し、余は内に属す。十の中、髪毛爪齒を除いて膿血肪[月*冊]黄痰白痰癊髄脳、此の十四は水に属し、余は地に属す。若し各十二を分たば相に随って知るべし」と云えり。以って内外等の別を見るべし。又「大明三蔵法数巻48」には、髪、毛、爪、齒、眵、涙、涎、唾、屎、尿、垢、汗を外相の十二物とし、皮、膚、血、肉、筋、脈、骨、髄、肪、膏、脳、膜を身器の十二物とし、肝、膽、膓、胃、脾、腎、心、肺、生蔵、熟蔵、赤痰、白痰を内含の十二物となせり。又「増一阿含経巻25、49」、「大般涅槃経巻12」、「七処三観経」、「人本欲生経」、「内身章句経」、「思惟略要法」、「大般涅槃経義記巻5」、「大般涅槃経疏巻14」等に出づ。<(望)
答曰。有實觀亦有得解觀。身相實是不淨。是為實觀。外法中有淨相種種色相。是為實淨觀。淨不淨是為實觀。以此少許淨。廣觀一切皆是淨。取是一水遍觀一切皆是水。取是少許青相。遍一切皆是青。如是等是為得解觀非實。 答えて曰く、有るいは実観なり、亦た有るいは得解の観なり。身相は、実に是れ不浄なりとせば、是れを実観と為す。外法中に有る浄相、種種の色相は、是れを実の浄と為す。浄、不浄を観ること、是れを実観と為す。此の小許の浄を以って、広く一切は、皆是れ浄なりと観、是の一水を取りて、遍く一切は皆、是れ水なりと観、是の小許の青相を取りて、遍く一切は、皆是れ青なりとする、是れ等の如きは、是れを得解の観と為し、実に非ず。
答え、
有るいは、
『実観である!』か、
『得解の観である!』。
即ち、
『身相』が、
『実に!』、
『不浄だとすれば!』、
是れは、
『実観であり!』、
『外法中に有る!』、
『浄相』や、
『種種の色相』は、
是れは、
『実の!』、
『浄であり!』、
『浄、不浄』を、
是のように、
『観れば!』、
是れは、
『実観である!』が、
例えば、
『少しばかり!』の、
『浄を観て!』、
一切は、
『皆、浄である!』と、
『広く、観たり!』、
是の、
『一水を取って!』、
一切は、
『皆、水である!』と、
『遍く、観たり!』、
『少しばかり!』の、
『青相を取って!』、
一切は、
『皆、青である!』と、
『遍く、観たりすれば!』、
是れ等のような事は、
皆、
『得解の観であり!』、
『実の観ではない!』。
  少許(しょうこ):少しばかり。
四無色背捨。如四無色定中觀。欲得背捨先入無色定。無色定是背捨之初門。背捨色緣無量虛空處。 四無色の背捨は、四無色定中の観の如し。背捨を得んと欲すれば、先に無色定に入り、無色定は、是れ背捨の初門なり。色を背捨して、無量の虚空処を縁ずる。
『四無色』の、
『背捨』は、
『四無色定』中の、
『観』に、
『似ている!』。
即ち、
『背捨』を、
『得ようとすれば!』、
先に、
『無色定』に、
『入る!』ので、
『無色定』は、
『背捨』の、
『初門である!』。
『色』を、
『背捨して!』、
『無量の虚空処』を、
『縁じるのである!』。
問曰。無色定亦爾有何等異。 問うて曰く、無色定も、亦た爾らば、何等の異か有らん。
問い、
『無色定』も、
亦た、
『そのようであれば!』、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。凡夫人得是無色定是為無色。聖人深心得無色定一向不迴。是名背捨。餘殘識處無所有處非有想非無想處亦如是。背滅受想諸心心數法。是名滅受想背捨。 答えて曰く、凡夫人は、是の無色定を得て、是れを無色と為すも、聖人は、深心に無色定を得れば、一向にして、迴らせず。是れを背捨と名づく。余残の識処、無所有処、非有想非無想処も亦た是の如し。滅受想に背く、諸の心、心数法、是れを滅受想の背捨と名づく。
答え、
『凡夫人』は、
是の、
『無色定を得る!』と、
是れは、
『無色である!』と、
『思う!』が、
『聖人』が、
『深心』に、
『無色定を得る!』のは、
『一向に得るだけで!』、
『意』を、
『迴らすことはない!』。
是れを、
『背捨』と、
『称する!』。
『余残の!』、
『識処、無所有処、非有想非無想処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『滅受想』を、
『背捨するような!』、
諸の、
『心、心数法』を、
『滅受想の背捨』と、
『称する!』。
  滅受想(めつじゅそう):又滅尽定と称す。即ち無所有処の染を離れたる者の所入の定を云う。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
問曰。無想定何以不名背捨。 問うて曰く、無想定は、何を以ってか、背捨と名づけざる。
問い、
『無想定(外道の定)』は、
何故、
『背捨』と、
『呼ばれないのですか?』。
  無想定(むそうじょう):想無き定の意。即ち無想天(色界第四禅天八天中第三広果天の異名、或いは広果天の其の上の五淨居天との中間の天とも云う)を以って真解脱なりと執する者が想を厭壊して心心所法を滅せしむる定を云う。『大智度論巻17下注:無想定』参照。
答曰。邪見者不審諸法過失。直入定中謂是涅槃。從定起時還生悔心墮在邪見。是故非背捨。滅受想患厭散亂心故。入定休息似涅槃法。著身中得故名身證。 答えて曰く、邪見の者は、諸法の過失を審らかにせず、直だ定中に入りて、是れを涅槃と謂い、定より起つ時は、還って悔心を生じ、邪見に墮つ。是の故に背捨に非ず。滅受想は、散乱心を患厭するが故に、定に入れば、休息すること涅槃に似たる法なれども、身中得るを著するが故に、身証と名づく。
答え、
『邪見の者』は、
諸の、
『法(無想定)』の、
『過失』を、
『審らかにせず!』、
直()だ、
『定』中に、
『入っただけで!』、
是れが、
『涅槃である!』と、
『謂うので!』、
『定』より、
『起つ!』時には、
還って、
『悔心』を、
『生じることになり!』、
即ち、
『邪見』に、
『堕ちるのである!』。
是の故に、
是のような、
『無想定』は、
『背捨ではない!』。
『滅受想』は、
『散乱する!』、
『心』を、
『患厭する!』が故に、
『定』に、
『入って!』、
『休息する!』ので、
是れは、
『涅槃』に、
『似た!』、
『法である!』が、
『身』中に、
『得よう!』と、
『著する!』が故に、
是れを、
『身証』と、
『呼ぶのである!』。



八勝処

八勝處者。內有色相外觀色少。若好若醜是色勝知勝觀。是名初勝處。內有色相外觀色多。若好若醜是色勝知勝觀。是名第二勝處。第三第四亦如是。但以內無色相外觀色為異。內亦無色相。外觀諸色青黃赤白。是為八勝處。 八勝処とは、内に色相有り、外に色の少しを観て、若しは好、若しは醜なるも、是の色を勝れて知り、勝れて観る、是れを初の勝処と名づく。内に色相有り、外に色の多きを観て、若しは好、若しは醜なるも、是の色を勝れて知り、勝れて観る、是れを第二の勝処と名づく。第三、第四も亦た是の如し。但だ内に色相無く、外に色を観るを以って、異と為す。内に、亦た色相無く、外に諸色の青、黄、赤、白を観る、是れを八勝処と為す。
『八勝処』とは、
『内に!』、
『色の相が有り!』、
『外の色』を、
『少しばかり!』、
『観て!』、
是の、
『色』の、
『好』や、
『醜』を、
『勝れて!』、
『知り!』、
『観るならば!』、
是れを、
『初の勝処』と、
『称する!』。
『内に!』、
『色の相が有り!』、
『外の色』を、
『多く!』、
『観て!』、
是の、
『色』の、
『好』や、
『醜』を、
『勝れて!』、
『知り!』、
『観るならば!』、
是れを、
『第二の勝処』と、
『称する!』。
『第三、第四』も、
亦た、
『是の通りである!』が、
但だ、
『内に!』、
『色の相』が、
『無い!』のに、
『外の!』、
『色を観る!』ところが、
『異なる!』。
『内に!』、
亦た、
『色の相が無く!』、
『外に!』、
諸の、
『色の青、黄、赤、白』を、
『観れば!』、
是を、
『八勝処』と、
『称する!』。
內有色相外觀色者。內身不壞見外緣少者。緣少故名少。觀道未增長故觀少因緣。觀多畏難攝故。譬如鹿遊未調不中遠放。 内に色相有り、外に色を観るとは、内身を壊らず、外縁を見る。少とは、縁少きが故に少と名づく。道を観ること、未だ増長せざるが故に、少しの因縁を観るも、多く観れば、摂め難きを畏るるが故なり。譬えば、鹿遊びて、未だ調わざれば、遠く放つこと中(あた)らざるが如し。
『内に!』、
『色の相が有り!』、
『外に!』、
『色を観る!』とは、――
則ち、
『内の!』、
『身』を、
『壊らずに!』、
『外の!』、
『縁』を、
『観ることである!』。
『少しばかり!』とは、――
則ち、
『少しだけ!』、
『縁じる!』が故に、
是れを、
『少』と、
『呼ぶのである!』。
即ち、
『道』を、
『観る!』ことが、
『増長していない!』が故に、
『少し!』の、
『因縁だけ!』を、
『観るのであり!』、
若し、
『多くを観れば!』、
『心』を、
『摂(おさ)め難い!』のを、
『畏れるからである!』。
譬えば、
『鹿』を、
『遊そばせる!』時、
未だ、
『調わなければ(従順でなければ)!』、
遠くに、
『放つ!』のが、
『適当でないようなものである!』。
  調(ちょう):ととのう。なじむ。適合する。不調は折り合わぬこと。
  (ちゅう):あたる。応ずる。試験に及第する。不中は猶お不可の如し。
  (ほう):はなれる。逃げる。
若好若醜者。初學繫心緣中。若眉間若額上若鼻端。內身不淨相內身中不淨相。觀外諸色善業報故名好。不善業報故名醜 若しは好、若しは醜とは、初学は、心を縁中に繋くること、若しは眉間、若しは額上、若しは鼻端なり。内身の不浄相(を観る者)は、内身中には不浄相なるも、外の諸色を観れば、善業の報の故に好と名づけ、不善業の報の故に醜と名づく。
『好とか!』、
『醜とか!』とは、――
則ち、
『初学の者』が、
『心』を、
『縁(対象)』中に、
『繋ける(集中する)!』のは、
例えば、
『眉間、額上、鼻端』等の、
『縁』中に、
『繋けるのである!』が、
『内身』の、
『不浄相を観る者』は、
『内には!』、
『身』中の、
『不浄相』を、
『観て!』、
『外には!』、
諸の、
『色』を、
『観る!』時、、
『善業の報』を、
『縁じる!』が故に、
是れを、
『好』と、
『呼び!』、
『不善業の報』を、
『縁じる!』が故に、
是れを、
『醜』と、
『呼ぶのである!』。
復次行者如從師所受觀外緣種種不淨。是名醜色。行者或時憶念忘故。生淨相觀淨色是名好色。 復た次ぎに、行者は、師より受くる所の如き観もて、外に種種の不浄を縁じて、是れを醜色と名づけ、行者、或時には、憶念を忘るるが故に、浄相を生じて、浄色を観、是れを好色と名づく。
復た次ぎに、
『行者』は、
例えば、
『師より受けた!』、
『観を用いて!』、
『外に!』は、
種種の、
『不浄』を、
『縁じて!』、
是れを、
『醜色』と、
『呼ぶ!』が、
『行者』は、
或は、
『憶念しながら!』、
『忘れる!』が故に、
『浄相』を、
『生じて!』、
是の、
『浄色』を、
『観る!』ので、
是れを、
『好色』と、
『呼ぶ!』。
復次行者自身中繫心一處。觀欲界中色二種。一者能生婬欲。二者能生瞋恚。能生婬欲者。是淨色名為好。能生瞋恚者。是不淨色名為醜。 復た次ぎに、行者は、自身中に、心を一処に繋け、欲界中の色の二種を観る。一には、能く婬欲を生じ、二には、能く瞋恚を生ず。能く婬欲を生ずとは、是れ浄色にして、名づけて好と為す。能く瞋恚を生ずとは、是れ不浄色にして、名づけて醜と為す。
復た次ぎに、
『行者』は、
自ら、
『心』を、
『身中の一処』に、
『繋けて!』、
『欲界』中の、
『二種の色』を、
『観察する!』。
謂わゆる、
一には、
『婬欲』を、
『生じさせる!』、
『色であり!』、
二には、
『瞋恚』を、
『生じさせる!』、
『色である!』。
即ち、
『婬欲を生じさせる!』者は、
『浄の色であり!』、
是れを、
『好』と、
『呼び!』、
『瞋恚を生じさせる!』者は、
『不浄の色であり!』、
是れを、
『醜』と、
『呼ぶ!』。
於緣中自在勝知勝見。行者於能生婬欲端正色中不生婬欲。於能生瞋恚惡色中不生瞋恚。但觀色四大因緣和合生。如水沫不堅固。是名若好若醜。 縁中に於いて、自在に勝知、勝見する行者は、能く婬欲を生ずる、端正の色中に於いて、婬欲を生ぜず。能く瞋恚を生ずる、悪色中に於いて、瞋恚を生ぜず、但だ色に、四大と因縁との和合の生を観る。水沫の堅固ならざるが如し。是れを若しは好、若しは醜と名づく。
『縁』中に、
『知、見』が、
『勝れて!』、
『自在である!』ような、
『行者』は、
『婬欲を生じさせる!』、
『端正な色』中にも、
『婬欲』を、
『生じず!』、
『瞋恚を生じさせる!』、
『悪色』中にも、
『瞋恚』を、
『生じず!』、
但だ、
『色』中に、
『四大』と、
『因縁』との、
『和合の生』を、
『観るだけである!』。
譬えば、
『水沫のように!』、
『堅固でない!』、
『四大、因縁』の、
『和合の生』、
是れを、
『好、醜』と、
『呼ぶのである!』。
勝處者行者住是不淨門中。婬欲瞋恚等諸結使來能不隨是名勝處。勝是不淨中淨顛倒等諸煩惱賊故。 勝処とは、行者は、是の不浄門中に住して、婬欲、瞋恚等の諸の結使来たるも、能く随わざれば、是れを勝処と名づく。是の不浄中の、浄顛倒等の諸の煩悩の賊に勝つが故なり。
『勝処』とは、――
『行者』は、
『婬欲、瞋恚』等の、
諸の、
『結使』が、
『来ても!』、
『随わない!』ので、
是れを、
『勝処』と、
『称する!』。
何故ならば、
是の、
『不浄』中の、
『浄顛倒』等の、
諸の、
『煩悩の賊』に、
『勝つからである!』。
問曰。行者云何內色相外觀色。 問うて曰く、行者は、云何が内の色相の、外に色を観る。
問い、
『行者』は、
何のように、
『内には!』、
『色相』が、
『有り!』、
『外には!』、
『色』を、
『観るのですか?』。
答曰。是八勝處。深入定心調柔者可得。行者或時見內身不淨。亦見外色不淨。 答えて曰く、是の八勝処は、深く定に入りて、心調柔なれば、得べし。行者は、或は時に、内身の不浄を見、亦た外色の不浄を見る。
答え、
是の、
『八勝処』は、
『定』に、
『深く!』、
『入って!』、
『心』が、
『調柔であれば!』、
『得ることができる!』。
『行者』は、
或は、
時に、
『内に!』、
『身の不浄』を、
『見!』、
時に、
『外に!』、
『色の不浄』を、
『見る!』。
不淨觀有二種。一者三十六物等種種不淨。二者除內外皮肉五藏。但觀白骨如珂如雪。三十六物等觀是名醜。如珂如雪觀是名好。 不浄観には二種有り、一には三十六物等の種種の不浄なり。二には、内、外の皮、肉、五蔵を除いて、但だ、白骨の珂の如き、雪の如きを観る。三十六物等の観は、是れを醜と名づけ、珂の如き、雪の如き観は、是れを好と名づく。
『不浄観』には、
『二種有り!』、
一には、
『三十六物』等の、
種種の、
『不浄』を、
『観!』、
二には、
『内、外』の、
『皮、肉、五蔵を除いて!』、
但だ、
『珂、雪のような!』、
『白骨のみ!』を、
『観る!』。
『三十六物』等を、
『観れば!』、
是れを、
『醜』と、
『呼び!』、
『珂、雪など!』を、
『観れば!』、
是れを、
『好』と、
『呼ぶ!』が、
是れ等は、
皆、
『不浄である!』、と。
行者內外觀時心散亂難入禪。除自身相但觀外色。如阿毘曇中說。行者以得解脫觀見是身死。死已舉出塚間。若火燒若虫噉皆已滅盡。是時但見虫火不見身。是名內無色相外觀色。 行者は、内外を観る時には、心散乱して、禅に入り難ければ、自身の相を除き、但だ外色のみを観る。阿毘曇中に説けるが如し、行者は、解脱を得る観を以って、是の身の死するを見るに、死し已りて、塚間に挙出し、若しは火に焼かれ、若しは虫に噉われて、皆、已に滅尽すれば、是の時、但だ虫、火のみを見て、身を見ず。是れを内に色相無く、外に色を観ると名づく。
『行者』は、
『内、外を観る!』時、
『心が散乱すれば!』、
『禅に入る!』ことが、
『難しい!』ので、
自らの、
『身を除いて!』、
但だ、
『外の色のみ!』を、
『観るのである!』。
『阿毘曇』などには、こう説かれている、――
『行者』は、
『解脱を得る!』、
『観を用いて!』、
是の、
『身』が、
『死ぬ!』のを、
『見る!』が、
『死んで!』、
『塚間(死体置き場)まで!』、
『挙出し(擔ぎ出し)!』、
即ち、
『火に焼かれたり!』、
『虫に噉われたりして!』、
皆、
『滅して!』、
『尽きてしまう!』と、
但だ、
『虫』や、
『火だけ!』が、
『見えて!』、
『身』を、
『見ることはない!』。
是れを、
『内には!』、
『色相が無く!』、
『外に!』、
『色を観る!』と、
『称する!』。
  挙出(こしゅつ):持ち上げて外に出す。棄てる。
  塚間(ちょうげん):死体を棄てる所。墓場。
  参考:『阿毘曇八揵度論巻20』:『又世尊言。彼內無色想外觀色。云何內無色想外觀色。答曰。如此身當死。已死當棄塚間。已棄塚間當埋地。已埋地當種種虫食。已種種虫食。彼不觀此身但見彼種種虫。如此身當死已死當棄塚間。已棄塚間當積薪已積薪。當火燒已火燒。彼不觀此身但見火。如此身雪聚凝酥醍醐當置火上。已置火上當融消。已融消彼不觀此身但見火。如是內無色想外觀色。又世尊言。有無色想。云何有無色想。答曰。如此身當死。已死當棄塚間。已棄塚間當埋地。已埋地當種種虫食。已種種虫食當處處散。已處處散彼不觀此身。亦不見彼種種虫。如此身當死。已死當棄塚間。已棄塚間當積薪。已積薪當火燒。已火燒當滅。已滅彼不觀此身亦不見火。如此身雪聚凝酥醍醐當置火上。已置火上當融消。已融消當滅。已滅彼不觀此身亦不見火。如是有無色想。』
行者如教受觀身是骨人。若心外散還攝骨人緣中。何以故。是人初習行。未能觀細緣故。是名少色。行者觀道轉深增長。以此一骨人。遍觀閻浮提皆是骨人。是名為多。還復攝念觀一骨人。以是故名勝知勝見。 行者は、教えられて受くるが如く、身は是れ骨人なりと観る。若し心、外の散ずれば、還って骨人の縁中に摂す。何を以っての故に、是の人は初めて、行を習えば、未だ細縁を観る能わざるが故なり、是れを少しの色と名づく。行者は、観道、転た深く増長すれば、此の一骨人を以って、遍く閻浮提は、皆是れ骨人なりと観れば、是れを名づけて、多と為す。還って復た、念を摂して、一骨人を観る、是を以っての故に勝知、勝見と名づく。
『行者』は、
『教えられて!』、
『受けたように!』、
是の、
『身』は、
『骨人である!』と、
『観ている!』と、
『心』が、
『外に!』、
『散乱する!』ので、
還って、
復た、
『骨人の縁』中に、
『摂める!』。
何故ならば、
是の、
『人』は、
『行』を、
『初めて!』、
『習った!』ので、
未だ、
『細かな縁』を、
『観られないからであり!』、
是れを、
『少しの色』と、
『呼ぶのである!』。
『行者』は、
『観る道』が、
次第に、
『深まり!』、
『増長する!』と、
此の、
『一骨人を観るだけで!』、
『閻浮提の人』は、
『皆、骨人である!』と、
『遍く、観ることができる!』、
是れを、
『多く観る!』と、
『呼び!』、
還って、
復た、
『念を摂めて!』、
『一骨人』を、
『観ることができる!』と、
是の故に、
是れを、
『知、見』が、
『勝れている!』と、
『称する!』。
復次隨意五欲中。男女相淨潔相。能勝故名為勝處。譬如健人乘馬繫賊。能破是名為勝。又能制御其馬。是亦名勝。 復た次ぎに、随意の五欲中、男女相、浄潔相に、能く勝つが故に名づけて、勝処と為す。譬えば健人の馬に乗りて賊を繋ぐに、能く破れば、是れを名づけて勝つと為し、又能く其の馬を制御すれば、是れも亦た勝つと名づくるが如し。
復た次ぎに、
『随意(意のまま)の!』、
『五欲』中の、
『男、女の相』や、
『浄潔の相』に、
『勝つことができる!』が故に、
是れを、
『勝処』と、
『称す!』。
譬えば、
『健人』が、
『馬に乗って!』、
『賊を繋げば!』、
是の、
『賊を破ることができる!』が故に、
『勝つ!』と、
『称し!』、
又、
其の、
『馬』を、
『制御することができる!』が故に、
亦た、
『勝つ!』と、
『称するようなものである!』。
  (しょう):かつ(克)。たえる。よくする(任)。こらえる(堪)。
  健人(ごんにん):つよい人。
行者亦如是。能自於不淨觀中。少能多多能少。是為勝處。亦能破五欲賊亦名勝處。 行者も亦た是の如く、能く自ら不浄観中に於いて、少なきを能く多くし、多きを能く少なくすれば、是れを勝処と為し、亦た能く五欲の賊を破れば、亦た勝処と名づく。
『行者』も、
是のように、
自ら、
『不浄観』中に於いて、
『少し!』の、
『色』を、
『多くすることができ!』、
『多く!』の、
『色』を、
『少なくすることができる!』ので、
是れを、
『勝処』と、
『称し!』、
亦た、
『五欲』という、
『賊を破る!』が故に、
亦た、
『勝処』と、
『称する!』。
內未能壞身外觀色。若多若少若好若醜。是初第二勝處。內壞身無色相觀外色。若多若少若好若醜。是第三第四勝處。攝心深入定中壞內身。觀外淨緣青青色黃赤白白色。是為後四勝處。 内に未だ身を壊る能わずして、外に色を観ること、若しは多、若しは少、若しは好、若しは醜なれば、是れ初、第二の勝処なり。内に身を壊りて色相無く、外の色を観ること、若しは多、若しは少、若しは好、若しは醜なれば、是れ第三、第四の勝処なり。心を摂して深く定中に入り、内の身を壊りて、外に浄く青を縁じて青色、黄、赤、白には白色を観れば、是れを後の四勝処と為す。
『内に!』、
未だ、
『身』を、
『壊ることができないまま!』、
『外に!』、
『色』の、
『多とか!』、
『少とか!』、
『好とか!』、
『醜とか!』を、
『観れば!』、
是れは、
『初、第二』の、
『勝処である!』。
『内に!』、
『身を壊って!』、
『色相』が、
『無く!』、
『外に!』、
『色』の、
『多、少、好、醜』を、
『観れば!』、
是れは、
『第三、第四』の、
『勝処である!』。
『心を摂めて!』、
『定中に深く入り!』、
『内には!』、
『身』を、
『壊って!』、
『外には!』、
『浄く!』、
『青を縁じて!』、
『青色である!』と、
『観!』、
『黄、赤、白を縁じて!』、
『黄、赤、白色である!』と、
『観れば!』、
是れは、
『後の!』、
『四勝処である!』。
問曰。是後四勝處。十一切處中青等四處。有何等異。 問うて曰く、是の後の四勝処と、十一切処中の青等の四処と、何等の異か有る。
問い、
是の、
『後の四勝処』と、
『十一切処中の青等の四処』とは、
何のような、
『異(ちがい)』が、
『有るのですか?』。
答曰。青一切處。能普緣一切令青是勝處若多若少隨意觀。不令異心奪。觀勝是緣名為勝處。譬如轉輪聖王。遍勝四天下。閻浮提王勝一天下而已。一切處普遍勝一切緣。勝處但觀少色能勝。不能遍一切緣。如是等略說八勝處。 答えて曰く、青一切処は、能く普く一切を縁じて、青ならしむるに、是の勝処は、若しは多、若しは少なるを、随意に観るも、異心をして奪わしめず、観は、是の縁に勝れば、名づけて勝処と為す。譬えば転輪聖王は、遍く四天下に勝れ、閻浮提の王は、一天下のみに勝るるが如し。一切処は、普遍して、一切に勝りて縁じ、勝処は、但だ少しの色を観て、能く勝るも、一切を遍く縁ずる能わず。是れ等の如く、八勝処を略説す。
答え、
『青一切処』は、
『一切』を、
『普く!』、
『縁じて!』、
『青にする!』が、
是の、
『勝処』は、
『多い!』とか、
『少ない!』とかの、
『色』を、
『意のまま!』に、
『観るだけで!』、
『異心』に、
『意』を、
『奪わせない(失わせない)!』、
即ち、
『観』が、
是れを、
『縁じる!』ことよりも、
『勝る!』ので、
是れを、
『勝処』と、
『呼ぶのである!』。
譬えば、
『転輪聖王』は、
遍く、
『四天下』に、
『勝る!』が、
『閻浮提の王』は、
但だ、
『一天下にのみ!』、
『勝るように!』、
『一切処』は、
『普遍的に!』、
『一切に!』、
『勝って!』、
『縁じる!』が、
『勝処』は、
但だ、
『少しの!』、
『色を観る!』ことに、
『勝ることができるだけで!』、
『一切を!』、
『遍く!』、
『縁じることはできない!』。
是れ等のように、
『八勝処』を、
『略して!』、
『説いた!』。
  (だつ):奪い取る( take by force )、強奪する( rob, snatch )、先取到達を争う(優勝を奪う/奪冠等)、喪失させる/削除する(剥奪等)、乱す(目を奪う/心を奪う等)。



十一切処、九次第定

十一切處者。背捨勝處已說。此以遍滿緣故名一切處。 十一切処とは、背捨、勝処は已に説けり。此れは遍満して縁ずるを以っての故に、一切処と名づく。
『十一切処』とは、
『背捨』や、
『勝処』では、
『已に説いた!』が、
此れが、
『遍満して!』、
『一切を!』、
『縁じる!』が故に、
是れを、
『一切処』と、
『称するのである!』。
問曰。何以無所有處非有想非無想處。不名一切處。 問うて曰く、何を以ってか、無所有処、非有想非無想処を、一切処と名づけざる。
問い、
何故、
『無所有処』や、
『非有想非無想処』を、
『一切処』と、
『呼ばないのですか?』。
答曰。是得解之心。安隱快樂廣大無量無邊虛空處。是佛所說。一切處中皆有識。能疾緣一切法故。一切法中皆見有識。以是故二處立一切處。無所有中無物可廣。亦不得快樂佛亦不說是無所有無邊無量。非有想非無想處。心鈍難得取相令廣大。 答えて曰く、是れ得解の心にして、『安隠、快楽、広大、無量、無辺の虚空処なり』とは、是れ仏の所説なり。一切処中には、皆識有りて、能く疾かに一切の法を縁ずるが故に、一切法中に、皆識有るを見る。是を以っての故に、二処を、一切処に立て、無所有中には、物の広ぐべき無く、亦た快楽を得ざれば、仏も亦た、是の無所有を、『無辺、無量なり』とは説きたまわず。非有想非無想処は、心鈍く、相を取りて、広大ならしむることを得難し。
答え、
是れは、
『得解の心であり!』、
『安隠、快楽、広大、無量、無辺』の、
『虚空処である!』とは、
是れは、
『仏』の、
『所説である!』。
『一切処』中には、
皆、
『識』が、
『有り!』、
疾かに、
『一切の法』を、
『縁じることができる!』が故に、
『一切の法』中には、
皆、
『識が有る!』と、
『見える(即ち無辺識処)!』ので、
是の故に、
『一切処』中に、
『空処、識処』の、
『二処』を、
『立てられたのである!』が、
『無所有』中には、
『広げられるような!』、
『物』が、
『無い!』し、
亦た、
『快楽』を、
『得ることもない!』ので、
『仏』も、
亦た、
是の、
『無所有』が、
『無辺、無量である!』とは、
『説かれなかったのである!』。
『非有想非無想処』は、
『心が鈍く!』、
『相を取って!』、
『広大にする!』ことが、
『難しい!』ので、
是の故に、
『一切処』中には、
『無所有処、非有想非無想処』の、
『二処』を、
『立てられなかった!』。
復次虛空處近色界。亦能緣色。識處能緣緣色。又識處起能超入第四禪。第四禪起超入識處。無所有處非有想非無想處。遠無色因緣故非一切處。 復た次ぎに、虚空処は、色界に近く、亦た能く色を縁じ、識処は、能く縁と色とを縁ず。又識処を起ちて、能く第四禅に超入し、第四禅を起ちて、識処に超入するも、無所有処、非有想非無想処は遠くして、色の因縁無きが故に、一切処に非ず。
復た次ぎに、
『虚空処』は、
『色界に近い!』ので、
又、
『色』を、
『縁じることができ!』、
『識処』は、
『縁』と、
『色』とを、
『縁じることができる!』し、
又、
『識処を起てば!』、
『空処を超えて!』、
『第四禅』に、
『入ることができ!』、
『第四禅を起てば!』、
『空処を超えて!』、
『識処』に、
『入ることができる!』が、
『無所有処、非有想非無想処』は、
『色界に遠く!』、
『色』という、
『因縁が無い!』が故に、
『一切処ではない!』。
是三種法皆行得 是の三種の法は、皆、行得である。
是の、
『三種の法(背捨、勝処、一切処)』は、
皆、
『行得(修行して得るもの)である!』。
  行得(ぎょうとく):色の応に除却すべきを観じ、一切の色相を過ごすこと。『大智度論巻20下』参照。
  参考:『大智度論巻20』:『行得者。觀是色麤惡重苦老病殺害等種種苦惱因緣。如重病如癰瘡如毒刺。皆是虛誑妄語應當除卻。如是思惟已。過一切色相。滅一切有對相。不念一切異相。入無邊虛空處定。』
勝處。一切處是有漏。初三背捨第七第八背捨是有漏。餘殘或有漏或無漏。 勝処、一切処は、是れ有漏、初の三背捨、第七、第八背捨は、是れ有漏、余残は或は有漏、或は無漏なり。
『勝処』と、
『一切処』とは、
『有漏であり!』、
『背捨』の、
『初、第二、三、七、八』も、
『有漏である!』が、
『余残』は、
『有漏か!』、
『無漏である!』。
初二背捨初四勝處。初禪二禪中攝。淨背捨後四勝處八一切處。第四禪中攝。二一切處即名說空處。空處攝識處。識處攝 初の二背捨、初の四勝処は、初禅、二禅中に摂す。浄背捨、後の四勝処、八一切処は、第四禅中に摂し、二一切処は、即ち名づけて、空処と説くものは、空処に摂し、識処は、識処に摂す。
『初、第二の背捨』と、
『初、第二、三、四の勝処』は、
『初禅、二禅』中に、
『摂(おさ)め!』、
『浄背捨』と、
『第五、六、七、八の勝処』と、
『八一切処(空、識を除く!)』は、
『第四禅』中に、
『摂め!』、
『二一切処(空、識処)』は、
『空処』と、
『説かれた!』者は、
『空処』に、
『摂め!』、
『識処』と、
『説かれた!』者は、
『識処』に、
『摂める!』。
前三背捨八勝處八一切處。皆緣欲界。後四背捨緣無色界及無漏法諸妙功德。在根本中。若無色根本不緣下地故。滅受想定非心心數法故無緣。非有想非無想處背捨。但緣無色四陰及無漏法。 前の三背捨、八勝処、八一切処は、皆欲界を縁じ、後の四背捨は無色界、及び無漏法の諸の妙功徳を縁じて、根本中に在り。若し無色の根本なれば、下地を縁ぜざるが故なり。滅受想定は、心心数法に非ざるが故に、無縁なり。非有想非有想処の背捨は、但だ無色の四陰、及び無漏法を縁ず。
『初、第二、三背捨』と、
『八勝処』と、
『八一切処』とは、
皆、
『欲界』を、
『縁じ!』、
『第五、六、七、八背捨』は、
『根本定』中に於いて、
『無色界』と、
『無漏法の諸の妙功徳』とを、
『縁じる!』。
『無色界』の、
『根本定』は、
『下地』を、
『縁じないからである!』。
『滅受想定』は、
『心、心数法でない!』が故に、
『縁じる!』ことは、
『無い!』。
『非有想非無想処』の、
『背捨』は、
但だ、
『無色の四陰(受想行識)』と、
『無漏法』とを、
『縁じる!』。
  根本(こんぽん):各下地の修惑を離れて得する初禅、乃至非想非非想の根本地所摂の定を云う。『大智度論巻17下注:根本定』参照。
九次第定者。從初禪心起。次第入第二禪。不令餘心得入。若善若垢如是乃至滅受想定。 九次第定とは、初禅の心より起ちて、次第に第二禅に入り、余心をして入るを得しめず。若しは善、若しは垢なり。是の如く、乃至滅受想定なり。
『九次第定』とは、
『初禅』の、
『心』を、
『起って!』、
『次第に(順次に)!』、
『第二禅』の、
『心』に、
『入って!』、
『余の!』、
『心』を、
『入れさせない!』が、
乃至、
『滅受想定まで!』、
是の、
『心』は、
『善か!』、
『垢である!』。
  九次第定(くしだいじょう):次第に無間に修する九種の定の意。即ち初禅次第定、乃至四禅次第定、空処次第定、乃至非想非非想処次第定、滅受想定を云う。『大智度論巻17下注:九次第定』参照。
問曰。餘者亦有次第。何以但稱九次第定。 問うて曰く、余の者にも、亦た次第有り。何を以ってか、但だ九次第定と称する。
問い、
『余の者にも!』、
亦た、
『次第』は、
『有る!』が、
何故、
但だ、
『九次第定とのみ!』、
『称するのですか?』。
答曰。餘功德皆有異心間生故非次第此中深心智慧利行者自試其心。從一禪心起次入二禪。不令異念得入。於此功德心柔軟善斷法愛故。能心心相次。是次第二是有漏七或有漏或無漏 答えて曰く、余の功徳は、皆異心有りて、間に生ずるが故に、次第に非ず。此の中に深心、智慧、利行の者は、自ら其の心を試して、一禅の心より起ちて、次に二禅に入り、異念をして、入るを得しめず。此の功徳に於いて、心柔軟なれば、善く法愛を断ずるが故に、能く心心相次ぐ。是の次第は、二は是れ有漏、七は或は有漏、或は無漏なり。
答え、
『余の!』、
『功徳』は、
皆、
有る、
『異心』の、
『間』に、
『生じる!』が故に、
『心、心』の、
『次第ではない!』。
此の中で、
『深心、智慧、利行の者』は、
自らの、
『心』を、
『試すのである!』。
即ち、
『初禅』の、
『心』より、
『起つ!』と、
『次第に!』、
『第二禅』に、
『入る!』が、
『異念』を、
『入らせない!』ので、
此の、
『功徳』で、
『心』が、
『柔軟となり!』、
『善く!』、
『法愛』を、
『断つ!』ので、
『心』と、
『心』とが、
『相互に!』、
『次第できるのである!』。
是の、
『次第』中の、
『二』は、
『有漏である!』が、
『七』は、
『有漏か!』、
『無漏である!』。
  参考:『大智度論巻21上』:『第七第八背捨是有漏。餘殘或有漏或無漏。』
禪。中間未到地不牢固。又是聖人所得。又此大功德不在邊地。是故無次第。八背捨八勝處十一切處九次第定聲聞法中略說 禅の中間、未到地は、牢固ならず。又是れ聖人の所得なり。又、此の大功徳は、辺地に在らざれば、是の故に次第無し。八背捨、八勝処、十一切処、九次第定は、声聞法中に略説せり。
『禅の中間、未到地』は、
『牢固でなく!』、
又、
是の、
『九次第定』は、
『聖人』の、
『所得であり!』、
又、
此の、
『大功徳』は、
『辺地』には、
『存在しない!』ので、
是の故に、
『禅の中間、未到地』に、
『次第』は、
『無い!』。
『八背捨、八勝処、十一切処、九次第定』は、
『声聞法』中には、
『略して!』、
『説かれている!』。



大智度論釋初品中九相義第三十五


九相、十想

【經】九相脹相壞相血塗相膿爛相青相噉相散相骨相燒相 九相とは、脹相、壊相、血塗相、膿爛相、青相、噉相、散相、骨相、焼相なり。
『九相』とは、
『脹相』、
『壊相』、
『血塗相』、
『膿爛相』、
『青相』、
『噉相』、
『散相』、
『骨相』、
『焼相である!』。
  九相(くそう):梵語 navaakaara の訳、九種の相( nine marks )の義。死体上に観想する九種の相の意。『大智度論巻21上注:九想』参照。
  九想(くそう):梵語 navasaMjJaa の訳、九種の想( nine perceptions )の義。婬欲( kaama- raaga )或は六欲を抑制する為に行う死体上に於ける九種の観想( Meditation on a corpse in order to curb the passion or the sex body-oriented desires. )の意。不浄観の一種( one of the varieties of meditations on the unclean )。即ち、
  1. 脹想 (脹相) vyaadhmaatakasaMjJaa :其の膨脹( its tumefaction )、
  2. 靑瘀想 (靑瘀相, 靑相, 靑想) viniilakasaMjJaa :其の青く斑の色( its blue, mottled color )、
  3. 壞想 (壞相) vipadumakasaMjJaa :其の腐敗( its decay )、
  4. 血塗想 (血塗相) vilohitakasaMjJaa :其の血の汚れ等( its mess of blood, etc. )、
  5. 膿爛想 (膿爛相) vipuuyakasaMjJaa :其の膿を出して悪臭を放つ肉( its discharges and rotten flesh )、
  6. 噉想 (噉相) vidagdhakasaMjJaa :其の鳥獣に貪り食われたさま its being devoured by birds and beasts )、
  7. 散想 (散相) vikSiptakasaMjJaa :其の手足の散らばるさま( its dismembering )、
  8. 骨想 (骨相) asthisaMjJaa :其の諸の骨( its bones )、
  9. 燒想 (燒相) vidagdhakasaMjJaa :其れ等の焼かれて塵に帰すさま( their being burnt and returning to dust. )。
【論】問曰。應當先習九相離欲然後得諸禪。何以故諸禪定後方說九相。 問うて曰く、応当に先に九相を習いて、欲を離れ、然る後に諸禅を得べし。何を以っての故にか、諸の禅定の後に、方(まさ)に九相を説くべき。
問い、
当然、
先に、
『九相を習って!』、
『欲』を、
『離れ!』、
その後、
諸の、
『禅』を、
『得べきです!』。
何故、
諸の、
『禅定の後』に、
『九相』を、
『説かねばならぬのですか?』。
  (ほう):[本義]双胴船、並行( parallel boats, parallel )。<動詞>匹敵/相当する( match, be equal to )、比較/比擬する( compare )、辨別/区別する( differentiate )、占有する( occupy )、依拠する( rely on )、摸倣/模擬する( mimic, simulate, copy )、過失を責める/中傷する( vilify, defame, slander )。<名詞>筏( raft )、方形( cube, square )、方向/方位( orientation, direction )、地区/地方( locality, place, region )、方面( aspect, side )、規律/道理( law, rule, reason )、儒家の倫理道徳と学問( moral principle and knowledge, learning )、薬物の配合方( recipe )、品類/類別( sort )、大地( the earth )、方法( method )。<形容詞>方正/正直( upright )。<副詞>丁度/丁度其の時( just, at the time when )、[時間を表示する]まさに・将に相当、[範囲・程度を表示する]只、僅かに( only )。<介詞・前置詞>[時間を表示する]在、当に相当( at )。
答曰。先說果報。令行者心樂。九相雖是不淨。人貪其果報故必習行。 答えて曰く、先に果報を説いて、行者の心をして、楽しましむればなり。九相は、是れ不浄なりと雖も、人は、其の果報を貪るが故に、必ず習行すべし。
答え、
先に、
『果報を説いて!』、
『行者の心』を、
『楽しませるからである!』。
『九相』は、
『不浄である!』が、
『人』は、
其の、
『果報』を、
『貪るものである!』が故に、
必ず、
『九相』を、
『習行せねばならぬ!』。
問曰。行者云何觀是脹相等九事。 問うて曰く、行者は、云何が是の脹相等の九事を観る。
問い、
『行者』は、
何のように、
是の、
『脹相等の九事』を、
『観るのですか?』。
答曰。行者先持戒清淨令心不悔故。易受觀法。能破婬欲諸煩惱賊。觀人初死之日。辭訣言語息出不反奄忽已死。室家驚慟號哭呼天言說方爾。奄便那去氣滅身冷無所覺識。此為大畏無可免處。譬如劫盡火燒無有遺脫。 答えて曰く、行者は、先に持戒清浄なれば、心をして悔いざらしむるが故に、易(たやす)く観法を受け、能く婬欲、諸の煩悩の賊を破る。人の初めて死する日を観るに、辞訣の言語に息出でて反らず、奄忽として、已に死す。室家驚慟し、号哭し、天を呼びて言説すらく、『方に爾(なんじ)奄として便ち那(いづく)にか去らんとする』、と。気滅して、身冷たく、覚識する所無し。此れを大畏と為すも、免るべき処無し。譬えば、劫尽の火焼きて、遺脱すること有ること無きが如し。
答え、
『行者』は、
先に、
『持戒して!』
『清浄ならば!』、
『心』を、
『悔いさせない!』が故に、
『観法』を、
『容易に!』、
『受けることができ!』、
『婬欲のような!』、
諸の、
『煩悩の賊』を、
『破ることができる!』。
『人の死ぬ!』、
『初日』を観てみると、――
『訣別の言葉とともに!』、
『出た!』、
『息』が、
『反らなくなり!』、
『奄忽(忽然)として!』、
已に、
『死んでいる!』。
『室家(家族)』は、
『驚いて!』、
『泣いたり!』、
『叫んだりし!』、
『天』に、、
『呼びかけて!』、こう言う、――
お前は、
『息』が、
『弱ってきた!』が、
いったい、
何処へ、
『去ろうとしているのか?』、と。
『気息』が、
『滅する!』と、
『身』が、
『冷えてきて!』、
『覚識(覚知)する!』所は、
何も、
『無い!』。
此れは、
『大いに!』、
『畏れられている!』が、
『免れられる!』、
『処』は、
『何処にも無い!』。
譬えば、
『劫尽』の、
『火に焼かれる!』と、
『遺脱(遺漏逸脱)する!』所の、
『物』は、
『何も無いようなものである!』。
  辞訣(じけつ):いとまごい。わかれの言葉をのべる。辞決。
  奄忽(えんこつ):<副詞>突然/急に/不意に (suddenly, quickly, all of a sudden)。<動詞>死去する (die)。
  (えん):<副詞>突然に( suddenly )。<形容詞>気息の微弱な様子( the breath is dying out )。例:気息奄奄。
  便(べん):すなわち。躊躇無く。拘りの無いさま。
  室家(しっけ):室は婦、家は家人の意。
  驚慟(きょうどう):驚いて大声でなく。
  号哭(ごうこく):大声をあげてなく。
  言説(ごんぜつ):いう。のべる。はなす。
  (に):お前/なんじ/汝。
  (な):なに。どこ。何に同じ。
  劫尽火(こうじんか):劫の尽きんとするとき自然に出づる火。
  遺脱(いだつ):もれる。又漏れ落ちる。遺漏と脱落。
如說
 死至無貧富  無懃修善惡 
 無貴亦無賤  老少無免者 
 無祈請可救  亦無欺誑離 
 無捍挌得脫  一切無免處
説の如し、
死の至るに貧富無く、懃修する善悪も無く、
貴無く亦た賎無く、老少の免るる者無し。
祈請して救うべき無く、亦た欺誑して離るる無く、
捍挌して脱を得る無く、一切に免るる処無し。
譬えば、
こう説く通りである、――
『死』の、
『至る!』のには、
『差別』が、
『無い!』、
『貧、富』や、
『懃修する善、悪』や、
『貴、賎』の、
『差別も無く!』、
『死は至る!』。
『老いたる!』者も、
『少(わか)い!』者も、
『死を免れる!』者は、
『無い!』。
『死』は、
『祈請して!』、
『救われた!』者も、
『無く!』、
『欺誑して!』、
『離れられた!』者も、
『無く!』、
『捍挌(格闘)して!』、
『脱れられた!』者も、
『無い!』、
『一切に!』、
『免れる処』は、
『無いのだから!』。
  (にょ):そこで。
  懃修(ごんしゅ):ねんごろにおさめる。
  祈請(きしょう):神仏にいのり請う。
  欺誑(ごこう):だます。だまくらかす。
  捍挌(かんかく):ふせぎはばむ。
死法名為永離恩愛之處。一切有生之所惡者。雖甚惡之無得脫者。我身不久必當如是同於木石無所別知。 死法を名づけて、永く恩愛の処を離ると為すも、一切の有生の悪(にく)む所の者にして、甚だ之を悪むと雖も、脱れ得る者無し。我が身は、久しからずして、必ず当に是の如く、木石に同じく、別知する所無かるべし。
『死』という、
『法』は、
『恩愛の処』を、
『永く!』、
『離れることであり!』、
一切の、
『有生の者(衆生)』に、
『悪(にく)まれる者である!』。
『死』を、
『甚だ悪んでいても!』、
『脱れられた!』者は、
『無い!』。
わたしの、
『身』は、
『久しからずして!』、
『必ず!』、
是のように、
『木石と同じになり!』、
『別け知られる!』ことも、
『無くなるはずだ!』。
  恩愛(おんあい):互いに恩を施し愛著するの意。親子夫妻等の恋恋たる愛情を云う。「無量寿経巻下」に、「室家父子兄弟夫婦、一は死し一は生じ、更更相哀愍して恩愛思慕し、憂念結縛す」と云い、「円覚経」に、「一切衆生は無始際より種種の恩愛貪欲あるが故に輪迴あり」と云い、又「摩訶止観第四下」に、「色使に使われ、恩愛の奴となりて自在を得ず」と云える其の例なり。是れ恩愛が流転輪迴の原因をなすことを説けるものなり。<(望)
  有生(うしょう):生を有するものの義。有情、衆生の意。生は生起の意。『大智度論巻21上注:生』参照。
  (しょう):梵語jaataの訳。又はjaati、巴梨語同じ。生起の意。十二因縁の一、具に生支と名づく。即ち過去の業力に由りて正しく当来の果を結するを云う。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が生なる、謂わく即ち現在の識の位の未来時に在るを生の位と名づく」と云い、「倶舎論巻9」に、「是の業力に由り、此より捨命して正しく当有を結する、此の位を生と名づく」と云える是れなり。是れ説一切有部の分位縁起の説を挙げたるものにして、即ち託胎結生の一刹那の五蘊を生と名づけたるなり。又大乗唯識家に於いては、愛取有を能生支となすに対し、生を老死と共に所生支に摂し、且つ単に結生の一刹那に約せず広義に之を解せり。「成唯識論巻6」に、「中有より本有の中に至り、未だ衰変せざるより来た皆生支に摂す」と云えり。是れ生有の初より未だ衰老に至らざる間を通じて生支となすの意なり。又生は住相等と共に四相の一、本有等と共に四有の一、滅及び断常等と共に八計の一に数えらる。又「法蘊足論巻10」、「大毘婆沙論巻9」、「雑阿毘曇心論巻8」、「順正理論巻25」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「倶舎論光記巻9」、「成唯識論述記巻8本」等に出づ。<(望)
  参考:『出曜経巻8』:『人在世間遇諸苦惱。亦由恩愛不能捨離。是故説曰世苦無數端也。斯由念恩愛者。生死久長苦本難尋。愚者處中不自覺知。人相戀慕非徒一類。或念父母兄弟宗親知識。死者生者於中興念。追號啼哭。是故説曰。斯由念恩愛也。』
  参考:『増壹阿含經卷第十一(一三)』:『聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。有此二法。不可敬待亦不足愛著。世人所捐棄。云何爲二法。怨憎共會。此不可敬待亦不足愛著。世人所捐棄。恩愛別離。不可敬待亦不足愛著。世人所捐棄。是謂比丘有此二法。世人所不喜不可敬待。比丘復有二法。世人所不棄。云何爲二法。怨憎別離世人之所。恩愛集一處甚可愛敬。世人之所喜。是謂比丘有此二法世人所喜。我今説此怨憎共會恩愛別離。復説怨憎別離恩愛共會。有何義有何縁。比丘報曰。世尊諸法之王。唯願世尊。與我等説。諸比丘聞已當共奉行。世尊告曰。諦聽善思念之。吾當爲汝分別説之。諸比丘。此二法由愛興由愛生。由愛成由愛起。當學除其愛不令使生。如是諸比丘當作是學。爾時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行』
我今不應貪著五欲不覺死至同於牛羊。牛羊禽獸雖見死者。跳騰哮吼不自覺悟。我既得人身識別好醜。當求甘露不死之法 我れは今、応に五欲に貪著して、死の至るを覚らざること、牛羊と同じかるべからず。牛羊、禽獣は、死者を見て、跳騰し、哮吼すと雖も、自ら覚悟せず。我れは既に人身を得て、好醜を識別せり、当に甘露の不死の法を求むべし。
わたしは、
今、
『五欲に貪著して!』、
『死』の、
『至る!』のを、
『覚らないような!』、
『牛羊』と、
『同じであってはならない!』。
『牛羊』や、
『禽獣』は、
『死者を見ても!』、
『跳騰し!』、
『哮吼するばかりで!』、
自らの、
『死』を、
『覚悟しない!』が、
わたしは、
既に、
『人身を得て!』、
『好、醜』を、
『識別することができる!』。
当然、
『不死の法』という、
『甘露』を、
『求めねばならない!』。
  跳騰(ちょうとう):おどりあがる。
  哮吼(こうく):たけりほえる。
如說
 六情身完具  智鑒亦明利 
 而不求道法  唐受身智慧 
 禽獸亦皆知  欲樂以自恣 
 而不知方便  為道修善事 
 既已得人身  而但自放恣 
 不知修善行  與彼亦何異 
 三惡道眾生  不得修道業 
 已得此人身  當勉自益利
説の如し、
六情を身に完具し、智鑒も亦た明利なるも、
道法を求めざれば、唐しく身と智慧を受くるのみ。
禽獣も亦た皆知る、欲楽を以って自ら恣にするを、
而も方便して、道の為めに善事を修するを知らず。

既已に人身を得たるに、而も但だ自ら放恣して、
善行を修するを知らざれば、彼と亦た何んが異らん。
三悪道の衆生は、道業を修するを得ず、
已に此の人身を得たれば、当に勉めて自ら益利すべし。
例えば、こう説く通りである、――
『六情(眼耳鼻舌身意)』を、
完全に、
『身に具(そな)え!』、
『智鑑(智慧)』も、
『明利なのに!』、
而も、
『道法を求めなければ!』、
『智慧や身を受けた!』ことが、
『無駄になる!』。
『禽獣』も、
皆、
自ら、
『欲の楽』を、
『恣(ほしいまま)にする!』ことなら、
『知っている!』が、
而し、
『方便して!』、
『道の為めに!』、
『善事を修める!』ことは、
『知らない!』。
『人身』を、
既に、
『得たというのに!』、
自らを、
『放任して!』、
『恣にする!』だけで、
『善行』を、
『修める!』ことを、
『知らなければ!』、
彼の、
『禽獣』と、
何が、
『異なるのか?』。
『三悪道』の、
『衆生』は、
『道業』を、
『修める!』、
『機会がない!』。
已に、
此の、
『人身』を、
『得たのである!』から、
当然、
自ら、
『勉めて!』、
『利益すべきだ!』。
  完具(かんぐ):完全にそなわる。欠けた所がない。
  智鑒(ちかん):さとくてよく物事をみわける力のあること。智鑑。
  明利(みょうり):聡明で鋭利なこと。
  (とう):むなしい。いたずらに。
  (し):ほしいまま。
  放恣(ほうし):ほしいまま。きまま。
  益利(やくり):利得をふやす。利益。
行者到死屍邊。見死屍膖脹。如韋囊盛風。異於本相心生厭畏。我身亦當如是未脫此法。身中主識役御此身。視聽言語作罪作福。以此自貴為何所趣。而今但見空舍在此。是身好相細腰姝媚長眼直鼻平額高眉。如是等好令人心惑。今但見膖脹好在何處。男女之相亦不可識。作此觀已呵著欲心。此臭屎囊膖脹可惡何足貪著。 行者は、死屍の辺に到りて、死屍の膖脹せるを見るに、韋嚢の風を盛るが如く、本相に異なれば、心に厭畏を生ずらく、『我が身も亦た当に是の如くなるべきも、未だ此の法を脱れず。身中の主たる識は、此の身を役御して、視聴し、言語して罪を作り、福を作り、此を以って自らを貴ぶも、何をか趣く所と為さんや。而も今は、但だ空舎の此に在るを見る。是の身の好相は細き腰、姝媚、長眼、直鼻、平額、高眉なり。是れ等の如き好もて、人心をして惑わしむれど、今は但だ膖脹を見るのみ。好は何処にか在らん。男女の相も亦た識るべからず』、と。此の観を作し已りて、著欲の心を呵すらく、『此の臭き屎嚢の膖脹せる、悪むべし、何ぞ貪著するに足らん』、と。
『行者』は、
『死屍の辺に到り!』、
『死屍』を、
『見る!』と、
『膖脹して!』、
『韋嚢(皮袋)』に、
『風』を、
『盛ったようであり!』、
『本』の、
『相』と、
『異なっている!』。
『心』に、
『厭畏を生じて!』、こう言う、――
わたしの、
『身』も、
『是の通りだ!』が、
未だに、
此の、
『法(死法)』を、
『脱れていない!』。
『身』中の、
『主である!』、
『識』は、
此の、
『身』を、
『使役し!』、
『制御して!』、
『視聴し!』、
『言語して!』、
『罪、福』を、
『作りながら!』、
此の、
『身』を以って、
『自らを!』、
『貴んでいる!』が、
いったい、
『何処へ!』、
『趣こうとしているのか?』。
而も、
今は、
但だ、
『空舎』が、
此(ここ)に、
『在る!』のを、
『見るだけだ!』。
是の、
『身』の、
『好相』は、
『細い腰や!』、
『美貌や!』、
『切れ長の眼や!』、
『まっすぐな鼻や!』、
『広い額や!』、
『高い眉であった!』が、
是れ等の、
『好相』を以って、
『人』の、
『心』を、
『惑わしていたのに!』、
今は、
但だ、
『膖脹した身』を、
『見るだけだ!』。
彼の、
『好相』は、
いったい、
『何処に!』、
『在るのか?』。
『男か?』、
『女か?』の、
『相すら!』、
『見分けられないのに!』、と。
此れを、
『観てしまう!』と、
『著欲の心』を、こう呵りつける、――
此の、
『臭い!』、
『膖脹した!』、
『屎嚢(糞袋)』は、
『憎悪すべきだ!』。
何うして、
『貪著する!』に、
『足ろうか?』、と。
  死屍(しし):しかばね。死体。
  膖脹(ほうちょう):むくんでふくれる。はらがふくれる。
  韋嚢(いのう):なめしがわのふくろ。
  厭畏(えんい):いといおそれる。
  役御(やくご):めしつかう。
  空舎(くうしゃ):あきいえ。
  好相(こうそう):好ましい容貌。
  細腰(さいよう):ほそいこし。
  姝媚(しゅみ):みめよく、なまめかしいさま。媚態。
  (しゅ):<形容詞>[本義]好美な/美しい( beautiful )。<名詞>美女( beauty )。
  (み):<動詞>[本義]愛/喜愛する( love )、褒めそやす/おもねる/ごまをする/偏愛する( fawn on, flatter, toady, favor with )。<形容詞>愛らしい/魅惑的な( charming, enchanting, fascinating )。
  長眼(ちょうげん):切れ長の眼。
  直鼻(じきび):まっすぐな鼻。
  平額(ひょうがく):たいらなひたい。
  高眉(こうみ):ゆみなりのたかいまゆ。
  (こう):好もしいところ。
  屎嚢(しのう):くそぶくろ。
死屍風熱轉大裂壞在地。五藏屎尿膿血流出 死屍は、風に熱せられて、転た大となり、裂壊して地に在り、五蔵より屎尿、膿血流出す。
『死屍』は、
『風に熱せられて!』、
『次第に!』、
『大きくなり!』、
『破裂して!』、
『地』に、
『横たわり!』、
『五蔵より!』、
『屎尿、膿血』が、
『流れ!』、
『出て!』、
やがて、
『悪露』が、
『現われる!』。
  裂壊(れつえ):破裂してこわれる。
惡露已現。行者取是壞相以況己身。我亦如是皆有是物與此何異。我為甚惑為此屎囊薄皮所誑。如燈蛾投火。但貪明色不知燒身。已見裂壞男女相滅。我所著者亦皆如是。 悪露の已に現るるに、行者は是の壊相を取りて、以って己が身に況(くら)ぶらく、『我れも亦た是の如く、皆是の物有り。此れと何ぞ異ならんや。我れは甚だ惑わされて、此の屎嚢、薄皮に誑されたり。灯蛾の火に投ずるが如く、但だ明色を貪りて、身を焼くことを知らず』、と。裂壊せるを見已るに、男女の相滅すらく、『我が著する所の者も、亦た皆是の如し』、と。
『悪露が現われる!』と、
『行者』は、
是の、
『壊相を取り!』、
『己の身』に、
『見較べて!』、こう言う、――
わたしも、
亦た、
『是の通りだ!』。
わたしにも、
是の、
『物』は、
『皆、有るのだ!』。
此れと、
何が、
『異なるのか?』。
わたしは、
『甚だ!』、
『惑わされていた!』。
此の、
『屎嚢や!』、
『薄皮』の為に、
『誑(たぶらか)されていたのだ!』。
譬えば、
『灯に集まる!』、
『蛾』が、
『火』に、
『身を投じるように!』、
但だ、
『明るい!』、
『色を貪るばかりで!』、
『身を焼いている!』のを、
『知らなかったのだ!』、と。
是のように、
『裂壊の相』を、
『見てしまう!』と、
『男、女の相』も、
『滅してしまい!』、
こう言う、――
わたしが、
『著する!』所とは、
皆、
『是の通りだ!』、と。
  悪露(あくろ):身体の不浄の津液。即ち膿、血、屎、尿の類。悪は憎厭、露は津液の意。
  灯蛾(とうが):ともしびに集まる蛾の意。
  明色(みょうしき):明るい色。
死屍已壞肉血塗漫。或見杖楚死者青瘀黃赤。或日曝瘀黑。具取是相觀。所著者若赤白之色淨潔端正與此何異。既見青瘀黃赤鳥獸不食。不埋不藏不久膿爛種種虫生。 死屍は已に壊れ、肉は血に塗漫す。或は杖楚に死する者を見れば、青瘀、黄、赤なり。或は日に曝されて瘀、黒なり。具(つぶさ)に是の相を取りて、所著の者を観れば、若しは赤、白の色にして、浄潔、端正も、此れと何ぞ異ならん。既に青瘀、黄、赤の鳥獣に食われず、埋められず、蔵せられざるを見れば、久しからずして膿爛し、種種の虫を生ぜん。
『死屍』が、
『破裂する!』と、
『肉』が、
『血』に、
『塗れている!』。
或は、
『杖楚(鞭打ちの刑罰)に死んだ!』者ならば、
『青(青痣)』や
『瘀(黒ずみ)』や、
『黄(脂肪)』や、
『赤(裂肉)』が、
『見えるだろう!』。
或は、
『日に曝されていれば!』、
『瘀』や、
『黒』が、
『見えるだろう!』。
是の、
『相』を、
『具(つぶさ)に!』、
『取って!』、
『観察すれば!』、
『貪著していた!』所は、
『赤』や、
『白』の、
『色に過ぎず!』、
此れは、
『浄潔』や、
『端正』と、
『何が!』、
『異なっているのか?』。
既に、
『青、瘀、黄、赤』が、
『鳥獣に食われず!』、
『地中に埋蔵されない!』のを、
『見てしまった!』が、
『久しからず!』、
『膿爛して!』、
『種種の虫』を、
『生じることだろう!』。
  塗漫(づまん):ぬりこめる。まみれる。
  (けん):る。らる。受け身を表す。
  杖楚(じょうそ):むちうつ。
  (お):血がとどこおること。古い血。
  青瘀(しょうお):鬱血して青い。
  膿爛(のうらん):うみただれる。
行者見已念此死屍本有好色。好香塗身衣以上服飾以華綵。今但臭壞膿爛塗染。此是其實分。先所飾綵皆是假借。 行者は、見已りて、念ずらく、『此の死屍は、本好色有り、好香を身に塗り、衣は上服を以ってし、飾は華綵を以ってしたるも、今は但だ臭く壊れて、膿爛塗染するのみ。此れは是れ其の実分なり。先に飾せる所の綵は、皆是れ仮借なり』、と。
『行者』は、
『見てしまう!』と、こう念じる、――
此の、
『死屍』は、
本、
『好色が有り!』、
『好香』を、
『身』に、
『塗って!』、
『衣』には、
『上服』を、
『用い!』、
『装飾』には、
『華綵』を、
『用いていた!』が、
今は、
但だ、
『臭く破壊して!』、
『膿爛』を、
『身』に、
『塗染している!』。
此れが、
是の、
『好色』の、
『実』の、
『分なのだ!』。
先に、
『身』を、
『飾っていた!』、
『綵(彩絹)』は、
皆、
『仮借(借り物)だったのだ!』、と。
  好色(こうしき):このもしい肉体。
  上服(じょうふく):上等の衣服。
  華綵(けさい):花の模様のあやぎぬ。
  (さい):模様のあるあやぎぬ。
  臭壊(しゅうえ):臭くなって壊れる。腐敗。
  塗染(づせん):ぬりそめる。
  仮借(けしゃく):人の物をかりる。借り物。
若不燒不埋棄之曠野。為鳥獸所食。烏挑其眼狗分手腳。虎狼刳腹分掣爴裂。殘藉在地 若し焼かず、埋めずして、之を曠野に棄つれば、鳥獣の食う所と為りて、烏、其の眼を挑り、狗、手脚を分け、虎狼、腹を剔り、分け掣いて爴裂すれば、残藉地に在り。
若し、
『焼くこともなく!』、
『埋めることもなく!』、
『死屍』を、
『曠野』に、
『棄てたならば!』、
『鳥獣に食われて!』、
『烏』が、
『眼』を、
『挑(えぐ)り!』、
『狗』が、
『手、脚』を、
『分け!』、
『虎狼』が、
『腹を刳って!』、
『分けて!』、
『引っ張り!』、
『爪』で、
『掴(つか)んで!』、
『引き裂き!』、
『狼藉』の、
『痕跡のみ!』が、
『地』に、
『在る!』。
  (ちょう):うがつ。えぐる。
  (く):さく。
  (せい):ひく。
  (かく):つめでつかむ。
  残藉(ざんしゃく):残は毀壊、破壊の義、藉は践蹈、陵辱の義。壊してまき散らす。
有盡不盡。行者見已心生厭想。思惟此屍未壞之時人所著處。而今壞敗無復本相但見殘藉。鳥獸食處甚可惡畏。 尽くると、尽きざると有るに、行者は見已りて、心に厭想を生じて、思惟すらく、『此の屍は、未だ壊れざる時には、人の所著の処なるも、今は壊敗して、本相に復する無し、但だ残藉を見るのみ。鳥獣の食う処は、甚だ悪畏すべし』、と。
『尽きた!』者も、
『尽きない!』者も、
『有る!』が、
『行者』は、
『見てしまう!』と、
『心』に、
『厭想』を、
『生じて!』、
こう思惟する、――
此の、
『屍体』は、
未だ、
『破壊しない!』時には、
『人』の、
『著する!』、
『処であった!』が、
今は、
『壊敗して!』、
『回復すべき!』、
『本の相』が、
『無い!』。
但だ、
『狼藉』の、
『痕跡』を、
『見るのみだ!』。
『鳥獣』に、
『食われる!』、
『処』は、
甚だ、
『憎悪すべきであり!』、
『畏怖すべきである!』、と。
  壊敗(えはい):こわれる。くさる。
鳥獸已去風日飄曝。筋斷骨離各各異處。 鳥獣已に去りて、風日飄曝すれば、筋断じて骨離れ、各各処を異にす。
『鳥獣』が、
『去ってしまい!』、
『風、日』に、
『飄曝される!』と、
『筋が断ちきれ!』て、
『骨』が、
『離れ!』、
各各が、
『処』を、
『異にすることになる!』。
  飄曝(ひょうばく):風がさらすと、日がさらすと。
行者思惟本見身法和合而有身相。男女皆可分別。今已離散各在異處。和合法滅身相亦無皆異於本。所可愛著今在何處。 行者の思惟すらく、『本は身法の和合を見るに、身相有り、男女は皆分別すべし。今は已に離散して、各異処に在れば、和合の法滅して、身相も亦た無く、皆本と異なる。愛著すべき所は、今何処にか在る』、と。
『行者』は、こう思惟する、――
本、
『身』という、
『法』の、
『和合』が、
『見えて!』、
『身』という、
『相』が、
『有った!』ので、
『男でも!』、
『女でも!』、
皆、
『分別できた!』が、
今は、
已に、
『離散してしまい!』、
各は、
『異なる処』に、
『在る!』。
『和合した!』、
『法が滅すれば!』、
『身相』も、
『無くなり!』、
皆、
『本』と、
『異なってしまった!』。
本、
『愛著されていた!』者は、
今、
『何処に!』、
『在るのか?』、と。
身既離散處處白骨。鳥獸食已唯有骨在。觀是骨人是為骨相。骨相有二種。一者骨人筋骨相連。二者骨節分離。筋骨相連破男女長短好色細滑之相。骨節分離破眾生根本實相。 身は既に離散して、処処の白骨あり。鳥獣食い已りて、但だ骨の在る有り。是の骨人を観る、是れを骨相と為す。骨相には二種有り、一には骨人の筋骨相連なる。二には骨節分離す。筋骨相連なれば、男女、長短、好色、細滑の相を破る。骨節分離すれば、衆生の根本の実相を破る。
『身』は、
既に、
『離散した!』が、
『処処』に、
『白骨がある!』。
『鳥獣』が、
『食ってしまえば!』、
唯だ、
『骨だけ!』が、
『残ることになる!』。
是の、
『骨人』を、
『観る!』こと、
是れが、
『骨相である!』。
『骨相』には、
『二種有り!』、
一には、
『筋、骨』の、
『連なった!』、
『骨人であり!』、
二には、
『骨、節』が、
『分離して!』、
『骨人ではない!』。
『筋、骨』が、
『連なっていても!』、
『男女、長短、好色、細滑の相』は、
『破れており!』、
『骨、節』が、
『分離していれば!』、
『衆生』という、
『根本の実相』が、
『破れている!』。
復有二種。一者淨二者不淨。淨者久骨白淨無血無膩色如白雪。不淨者餘血塗染膩膏未盡。 復た二種有り、一には浄、二には不浄なり。浄の者は久骨の白浄、無血、無膩にして、色は白雪の如し。不浄の者は、余の血に塗染され、膩膏未だ尽きず。
復た、
『二種有り!』、
一には、
『浄であり!』、
二には、
『不浄である!』。
『浄の者』は、
『久骨(古骨)である!』が故に、
『白浄であり!』、
『血、膩(脂肪)が無く!』、
『白雪のような色である!』。
『不浄の者』は、
『余の者であり!』、
『血に塗染され!』、
『膩膏(脂肪)も尽きていない!』。
  久骨(くこつ):時を経た骨。古い骨。
  (に):あぶら。にじみ出たあぶら。脂垢。
  (こう):あぶら。あぶらみ。
行者到屍林中。或見積多草木焚燒死屍。腹破眼出皮色燋黑甚可惡畏。須臾之間變為灰燼。行者取是燒相思惟。此身未死之前。沐浴香華五欲自恣。今為火燒甚於兵刃。此屍初死形猶似人。火燒須臾本相都失。一切有身皆歸無常我亦如是。 行者は屍林中に到りて、或は多くの草木を積みて、死屍を焚焼するを見るに、腹破れて眼出で、皮色燋げて黒ずみ、甚だ悪畏すべし。須臾の間に変じて灰燼と為る。行者は是の焼相を取りて思惟すらく、『此の身は、未だ死せざる前は、沐浴、華香もて五欲を自ら恣にせるも、今は火に焼かるれば、兵刃よりも甚だし。此の屍、初めて死するに、形は猶お人に似たり。火に焼かるれば、須臾にして本相を都(みな)失う。一切の有身は、皆無常に帰す。我れも亦た是の如し』、と。
『行者』は、
『屍林中に到り!』、
或は、
『草木』を、
『多く!』、
『積んで!』、
『死屍』を、
『焚焼する!』のを、
『見る!』が、
『腹は破れ!』、
『眼は出て!』、
『皮膚の色』は、
『燋げて!』、
『黒ずみ!』、
甚だ、
『憎悪すべく!』、
『畏怖すべきである!』が、
『須臾の間』に、
『灰燼』に、
『為ってしまう!』。
『行者』は、
是の、
『焼相』を、
『取って!』、
こう思惟する、――
此の、
『身』は、
『死ぬ前には!』、
『沐浴』や、
『華香』で、
自ら、
『五欲』を、
『恣にしていた!』が、
今、
『火に焼かれて!』、
『兵刃よりも!』、
『損壊』が、
『甚だしい!』。
此の、
『屍』も、
『死んだばかり!』には、
『形』が、
『人』に、
『似ていた!』が、
『火に焼かれれば!』、
『須臾の間』に、
『本の相』を、
『都(みな)失ってしまった!』。
一切の、
『身の有る!』者は、
皆、
『無常』に、
『帰するのだ!』。
わたしも、
亦た、
『是の通りなのだ!』、と。
  屍林(しりん):又、屍陀林、尸陀林と称す。王舎城附近の森林の名にして、古くより死屍を棄てし処の称。『大智度論巻21上:尸陀林』参照。
  屍陀林(しだりん):又、尸陀林と称す。古、死屍を棄てし林の名。『大智度論巻21上注:尸陀林』参照。
  尸陀林(しだりん):尸陀ziitaは梵名。林は梵語vanaの訳。巴梨名siita- vana、又尸多婆那、尸陀伐那、尸摩賒那、或いは屍陀林に作り、又寒林とも云う。王舎城附近の森林の名。幽邃にして寒く、且つ死尸を棄つる処なるが故に此の称あり。「雑阿含経巻22」に、「仏は王舎城寒林中の丘塚の間に住す」と云い、「大般涅槃経巻33」に、「死し已りて食吐鬼の中に生ずれば、其の同学の輩は当に其の尸を舁きて寒林中に置く」と云い、又「大智度論巻3」に、「復た次ぎに王舎城の南屍陀林中に諸の死人多し。諸の鷲常に来たりて之を噉う」と云える是れなり。又「大唐西域記巻9」に、「大王は徳化邕穆にして、政教明察なるも、今茲に細民謹まずして此の火災を致す。宜しく厳科を制して以って後犯を清くすべし。若し火起ることあらば先づ発する処を窮究し、其の首悪を罰して之を寒林に遷せ。寒林は屍を棄つる所にして、俗に不祥の地と謂い、人の遊往の迹を絶つ。彼に遷さしめば夫れ屍を棄つるに同じ。既に陋居を恥じて当に自ら謹護すべし」と云い、又「玄応音義巻18」に、「尸陀林は正しく尸多婆那と言う、此に寒林と云う。其の林幽邃にして且つ寒く、因って以って名づくるなり。王舎城の側に在り、死人多く其の中に送らる。今摠じて棄屍の処を指して尸陀林と名づくるは彼の名を取れるなり」と云えり。又「雑阿含経巻39」、「別訳雑阿含経巻2」、「入楞伽経巻8」、「大寒林聖難拏陀羅尼経」、「五分律巻21」、「摩訶僧祇律巻23」、「四分律巻38」、「十誦律巻34」、「立世阿毘曇論巻1六大国品」、「高僧法顕伝」、「玄応音義巻7」、「翻訳名義集巻7」等に出づ。<(望)
  焚焼(ぼんしょう):勢いよくやく。
  灰燼(かいじん):灰と燃えさし。
  兵刃(ひょうじん):戦にもちいるはもの。刀剣。
  有身(うしん):身を有するものの意。
是九相斷諸煩惱。於滅婬欲最勝。為滅婬欲故說是九相。 是の九相は、諸の煩悩を断つも、婬欲を滅するに於いて最勝なれば、婬欲を滅せんが為の故に、是の九相を説けり。
是の、
『九相』は、
諸の、
『煩悩』を、
『断つ!』が、
『婬欲』を、
『滅する!』ことに於いて、
『最勝であり!』、
『婬欲』を、
『滅する!』為の故に、
是の、
『九相』が、
『説かれたのである!』。
問曰。無常等十想為滅何事故說。 問うて曰く、無常等の十想は、何事を滅せんが為の故に説く。
問い、
『無常等の十想』は、
何のような、
『事』を、
『滅する!』為の故に、
『説かれたのですか?』。
  十想(じゅうそう):十種の熟考( ten kinds of contemplations )、梵語 daSa- saMjJaa の訳。
  1. 無常想:無常に関する熟考( The contemplation of impermanence )、
  2. 苦想:苦に関する熟考( The contemplation of suffering )、
  3. 無我想:無我( anaatman )に関する熟考( The contemplation of the lack of a self )、
  4. 食不浄想:食物の不浄に関する熟考( The contemplation of the impurity of what we eat )、
  5. 世間不可楽想:此の世間に於ける真の幸福は見出だしがたいことに関する熟考( The contemplation that it is impossible to find true happiness in this world )、
  6. 死想:死に関する熟考( The contemplation of death )、
  7. 不浄想:我々の肉体の不浄に関する熟考( The contemplation of the impurity of our physical bodies )、
  8. 断想:婬欲及び妄想を断つことに関する熟考( The contemplation of severing passions and delusions )、
  9. 離想:欲望から自由になることに関する熟考( The contemplation of becoming free of desires )、
  10. 尽想:業縁を滅尽することに関する熟考( The contemplation of exhausting our karmic bonds )。
  十想(じっそう):次のものを心の中に観察して思うこと。
   (1)無常想:一切の物は因縁によって造られ、無常である。
   (2)苦想:一切の物は無常であるが故に苦である。
   (3)無我想:一切の物には不変の我はなく、無我である。
   (4)食不淨想:食は不淨の因縁から生じる。殺生、偸盗によらない食はない。
   (5)一切世間不可楽想:一切の世間に楽しむべきものは何物もない。
   (6)死想:死とは何であるか。
   (7)不淨想:肉体とは不淨である。
   (8)断想:煩悩を断つとは何事であるか。
   (9)離欲想:この世に思いを残さず。
   (10)尽想:生死を尽くして涅槃に入る。
答曰。亦為滅婬欲等三毒。 答えて曰く、亦た婬欲等の三毒を滅せんが為なり。
答え、
亦た、
『婬欲等の三毒』を、
『滅する!』為に、
『説かれた!』。
問曰。若爾者二相有何等異。 問うて曰く、若し爾らば、二相には、何等の異か有る。
問い、
若し、そうならば、
『二相』には、
何のような、
『異(ちがい)』が、
『有るのですか?』。
答曰。九相為遮未得禪定為婬欲所覆故。十想能除滅婬欲等三毒。九相如縛賊十想如斬殺。九相為初學。十想為成就。 答えて曰く、九相は未得の禅定の、婬欲の為に覆わるるを遮せんが為の故にして、十想は能く婬欲等の三毒を除滅す。九相は賊を縛するが如く、十想は斬殺するが如し。九相は初学の為にして、十想は成就せんが為なり。
答え、
『九相』は、
『未得の禅定』が、
『婬欲』に、
『覆われる!』のを、
『遮る為である!』が、
『十想』は、
『婬欲』等の、
『三毒』を、
『除いて!』、
『滅することができる!』。
『九相』は、
譬えば、
『賊』を、
『縛るようなものであり!』、
『十想』は、
譬えば、
『賊』を、
『斬殺するようなものである!』。
『九相』は、
『初学の為であり!』、
『十想』は、
『成就する為である!』。
復次是十想中。不淨想攝九相。有人言。十想中不淨想食不淨想世間不可樂想。攝九相。 復た次ぎに、是の十想中の不浄想は、九相を摂す。有る人の言わく、『十想中の不浄想、食不浄想、世間不可楽想は九相を摂す』、と。
復た次ぎに、
是の、
『十想』中の、
『不浄想』には、
『九相』が、
『摂(おさ)められている!』。
有る人は、こう言っている、――
『十想』中の、
『不浄想』、
『食不浄想』、
『世間不可楽想』に、
『九相』を、
『摂める!』、と。
復有人言。十想九相同為離欲俱為涅槃。 復た有る人の言わく、『十想と九相とは、同じく離欲の為にして、倶に涅槃の為なり』、と。
復た、
有る人は、こう言っている、――
『十想』と、
『九相』とは、
『同じく!』、
『離欲の為であり!』、
亦た、
『倶(とも)に!』、
『涅槃の為である!』、と。
所以者何。初死相動轉言語須臾之間忽然已死。身體膖脹爛壞分散各各變異是則無常。若著此法無常壞時是即為苦。若無常苦無得自在者。是則無我。不淨無常苦無我則不可樂。觀身如是。食雖在口腦涎流下與唾和合成味。而咽與吐無異下入腹中即是食不淨想。以此九相觀身無常變異。念念皆滅即是死想。以是九相厭世間樂。知煩惱斷則安隱寂滅即是斷想。以是九相遮諸煩惱即是離想。以是九相厭世間故。知此五眾滅。更不復生是處安隱。即是盡想。 所以は何んとなれば、初めて死せんとする相は、動転し、言語して須臾の間に忽然として已に死し、身体膖脹し、爛壊し、分散して各各変異すれば、是れ則ち無常なり。若し此の法に著すれば、無常に壊する時、是れ即ち苦と為り、若し無常、苦なれば、自在を得る者無し、是れ則ち無我なり。不浄、無常、苦、無我なれば、則ち不可楽なりと、身の是の如きを観る。食は、口に在りて、脳より涎流下し、唾と和合して味を成ずと雖も、而も咽(の)むと吐くと異無く、下りて腹中に入れば、即ち是れ食不浄想なり。此の九相を以って、身の無常を観ずれば、変異して念念に皆滅す、即ち是れ死想なり。是の九相を以って、世間の楽を厭い、煩悩断じて、則ち安隠、寂滅なるを知れば、即ち是れ断想なり。是の九相を以って諸の煩悩を遮すれば、即ち是れ離想なり。是の九相を以って、世間を厭うが故に、此の五衆滅すれば、更に復た生ぜずと知れば、是の処は安隠にして、即ち是れ尽想なり。
何故ならば、
初めて、
『死のうとする!』、
『相』は、――
『動転し!』、
『言語しながら!』、
『須臾の間』に、
『忽然として!』、
『死んでしまう!』が、
『身』が、
『膖脹し!』、
『爛壊し!』、
『分散して!』、
各各が、
『変異する!』ので、
則ち、
是れが、
『無常想である!』。
若し、
此の、
『法()』に、
『著していた!』としても、
『無常』に、
『壊られれば!』、
是の時は、
『苦』と、
『為ることになる!』。
若し、
『無常、苦ならば!』、
『自在』を、
『得る!』者は、
『無い!』ので、
即ち、
是れは、
『無我である!』。
『不浄、無常、苦、無我ならば!』、
則ち、
是れは、
『不可楽想である!』。
是のように、
『身を観たならば!』、
『口』中に、
『在る!』、
『食』と、
『脳より!』、
『流下した!』、
『唾、涎』が、
『和合して!』、
『味』と、
『成るのである!』が、
而し、
『咽()みこむ!』者と、
『吐く!』者とには、
『異』が、
『無く!』、
『腹』中に、
『下って!』、
『入ることになる!』。
即ち、
是れが、
『食不浄想である!』。
此の、
『九相』を以って、
『身』の、
『無常』を、
『観れば!』、
是の、
『身』は、
『変異して!』、
『念念に皆滅する!』ので、
即ち、
是れが、
『死想である!』。
是の、
『九相』を以って、
『世間』の、
『楽』を、
『厭い!』、
『煩悩』が、
『断たれて!』、
則ち、
『安隠、寂滅である!』と、
『知れば!』、
即ち、
是れが、
『断想である!』。
是の、
『九相』を以って、
諸の、
『煩悩』を、
『遮れば!』、
即ち、
是れが、
『離想である!』。
是の、
『九相』を以って、
『世間を厭い!』、
此の、
『五衆』が、
『滅してしまい!』、
更に、
『復た、生じることはない!』と、
『知れば!』、
是の、
『処』は、
『安隠であり!』、
即ち、
是れが、
『尽想である!』。
  動転(どうてん):みだれさわぐこと。
  (じき):くいもの。
  脳涎(のうぜん):脳より流れ下るねばい汁の意。
  流下(るげ):流れくだる。
  (いん):のみこむ。嚥に同じ。
  (と):はきだす。
復次九相為因。十想為果。是故先九相後十想。 復た次ぎに、九相を因と為し、十想を果と為せば、是の故に先に九相、後に十想なり。
復た次ぎに、
『九相』は、
『因であり!』、
『十想』は、
『果である!』ので、
是の故に、
『九相』が、
『先で!』、
『十想』は、
『後である!』。
復次九相為外門。十想為內門。是故經言。二為甘露門。一者不淨門。二者安那般那門。 復た次ぎに、九相を外門と為し、十想を内門と為す。是の故に経に言わく、『二は甘露門なり。一には不浄門、二には安那般那門なり』、と。
復た次ぎに、
『九相』は、
『外の門であり!』、
『十想』は、
『内の門であり!』、
是の故に、
『経』には、こう言われている、――
『二』は、
『甘露門である!』。
即ち、
一には、
『不浄の門であり!』、
二には、
『安那般那(数息観)の門である!』、と。
  安那般那(あんなはんな):梵語aana- apaana、数息と訳す。息の出入を数えて心を摂し、散乱せしめざる法。『大智度論巻17下注:数息観、巻11上注:十六特勝』参照。
  参考:『出曜経巻17』:『出息入息念者。安者謂息入。般者謂息出。彼修行人當善觀察二甘露門。一者安般二者不淨觀。或有行人但修安般或修不淨觀。彼修安般者。思惟分別出息入息。息長亦知息短亦知息熅亦知息冷亦知。意若錯亂復從一始。從頭至足分別了知。設復錯者復從一始。如是經歷返覆數過自知意至。吾今捉息皆得自在。欲使氣息從左耳出如意不難從左耳入。亦復如是從右耳出入。或從鼻出入皆能隨意。最後迴息從頂上出隨意者成數息法。設不成者腦蓋發壞即取命終。如是學人經十二年。或有成有不成者。復次行人分別思惟不淨觀。往至城外丘曠[土*(蒙- 卄)]間。觀死人屍骸諦熟分別。此屍我形有何差別。復還至精舍或坐床或敷坐具。或復露坐內自思惟。經憶[土*(蒙- 卄)]間死屍暴露。我身與彼等無差別。如是經歷過十二年。有得定者不得定者。是故說出息入息念也。』
是九相除人七種染著。或有人染著色。若赤若白若赤白若黃若黑。或有人不著色但染著形容。細膚纖指修目高眉。或有人不著容色但染著威儀。進止坐起行住禮拜俯仰揚眉頓睫親近按摩。或有人不著容色威儀。但染著言語。軟聲美辭隨時而說。應意承旨能動人心。或有人不著容色威儀軟聲。但染著細滑柔膚軟肌。熱時身涼寒時體溫。或有人皆著五事。或有人都不著五事但染著人相。若男若女雖得上六種欲。不得所著之人猶無所解。捨世所重五種欲樂而隨其死。 是の九相は、人の七種の染著を除く。或は有る人は色の若しは赤、若しは白、若しは赤白、若しは黄、若しは黒に染著す。或は有る人は色に著せず、但だ形容の細膚、繊指、修目、高眉に染著す。或は有る人は容色に著せず、但だ威儀の進止、坐起、行住、礼拜、俯仰、揚眉、頓睫、親近、按摩に染著す。或は有る人は容色、威儀に著せず、但だ言語の軟声、美辞、随時に説いて、意に応じて旨を承け、能く人心を動かすに染著す。或は有る人は容色、意義、軟声に著せず、但だ細滑、柔膚、軟肌、熱時に身涼しく、寒時に体の温かきに染著す。或は有る人は五事に皆著す。或は有る人は五事に都著せず、但だ人相の若しは男、若しは女に染著して、上の六種の欲を得と雖も、所著の人を得ざれば、猶お解くる所無く、世に重んずる所の五種の欲楽を捨てて、其の死に随う。
是の、
『九相』は、
『人』の、
『七種の染著』を、
『除く!』。
或は、
有る人は、
『色』の、
『赤、白、赤白、黄、黒』に、
『染著する!』。
或は、
有る人は、
『色』には、
『著さない!』が、
但だ、
『細かい膚』や、
『繊細な指』や、
『長い目』や、
『高い眉』のような、
『形容』に、
『染著する!』。
或は、
有る人は、
『色、形容』には、
『著さない!』が、
但だ、
『進止、坐起、行住とか!』、
『礼拜、俯仰とか!』、
『眉を掲げたり!』、
『睫(まつげ)を瞬いたり!』、
『親しく近づいたり!』、
『按摩する!』ような、
『威儀』に、
『染著する!』。
或は、
有る人は、
『色、形容、威儀』には、
『著さない!』が、
但だ、
『軟らかい声とか!』、
『美しい言葉とか!』、
『時に随って説くこととか!』、
『意に応じて命令を承けることとか!』、
『人の心を動かすことができる!』というような、
『言語』に、
『染著する!』。
或は、
有る人は、
『色、形容、威儀、言語』には、
『著さない!』が、
但だ、
『柔らかい膚とか!』、
『軟らかい肌とか!』、
『暑い時に身が涼しいとか!』、
『寒い時に体が温かいとか!』というような、
『細滑である!』ことに、
『染著する!』。
或は、
有る人は、
『五事』に、
皆、
『著する!』。
或は、
有る人は、
『五事』には、
都(すべ)て、
『著さない!』が、
但だ、
『男とか!』、
『女とか!』の、
『人の相』に、
『染著し!』、
上の、
『六種』の、
『欲』を、
『得たとしても!』、
『著している!』所の、
『人』を、
『得られなければ!』、
猶お、
『心の解ける!』ことが、
『無く!』、
世に、
『重んじられる!』、
『五種の欲楽』を、
『捨てて!』、
其の、
『人』の、
『死』に、
『随順する!』。
  細膚(さいふ):きめの細かい皮膚。
  繊指(せんし):ほそながい指。
  修目(しゅもく):ながい眼。
  高眉(こうみ):高く眉。
  進止(しんし):進むと止まると。
  坐起(ざき):坐ると起つと。
  行住(ぎょうじゅう):行くと住まると。
  礼拜(らいはい):神仏を拜すること。礼は敬意を表すること。拜は敬意を表する容。
  俯仰(ふぎょう):下を見ると上を見る。身のこなし。
  揚眉(ようみ):眉をあげる。眼をみはる。
  頓睫(とんしょう):まつげをまたたかせる。
  親近(しんごん):親しみ近づく。
  按摩(あんま):手で身体をなでる。
  軟声(なんしょう):やわらかい声。
  美辞(みじ):美しいことば。
  随意(ずいい):思い通りにすること。
  承旨(じょうし):おおせをうけたまわる。
  (し):<形容詞>[本義]美味な( delicious )、美事な( fine )。<名詞>美味な食品( delicious food )、意思/意義/目的( meaning, aim, purpose )、意図( intention )、命令( decree )。
  細滑(さいかつ)きめこまかくなめらか。
  柔膚(にゅうふ):やわらかな皮膚。膚は身体の表を被う皮。
  軟肌(なんき):やわらかな肉。肌は皮膚に蔽われた肉。
  (げ):とける。結ぼった心がとける。医家では汗が出て病が治ることを解という。
死相多除威儀語言愛。膖脹相壞相噉相散相多除形容愛。血塗相青瘀相膿爛相。多除色愛。骨相燒相多除細滑愛。九相除雜愛及所著人愛。噉相散相骨相偏除人愛。噉殘離散白骨中不見有人可著。 死相は、多く威儀、語言の愛を除き、膖脹相、壊相、噉相、散相は、多く形容の愛を除き、血塗相、青瘀相、膿爛相は、多く色の愛を除き、骨相、焼相は、多く細滑の愛を除き、九相は、雑愛、及び所著の人の愛を除き、噉相、散相、骨相は偏に人の愛を除き、噉残、離散、白骨中には、人の著すべき有るを見ず。
『死相』は、
多くが、
『威儀、語言』の、
『愛』を、
『除き!』、
『膖脹相、壊相、噉相、散相』は、
多くが、
『形容』の、
『愛』を、
『除き!』、
『血塗相、青瘀相、膿爛相』は、
多くが、
『色』の、
『愛』を、
『除き!』、
『骨相、焼相』は、
多くが、
『細滑』の、
『愛』を、
『除き!』、
『九相』は、
皆、
『雑愛』と、
『著する人の愛』とを、
『除き!』、
『噉相、散相、骨相』は、
偏に、
『人』の、
『愛』を、
『除き!』、
『噉残()相、離散()相、白骨()相』中には、
『著すことのできる!』ような、
『人が有る!』と、
『見ることがない!』。
  (あい):欲望、貪欲、婬欲の義。十二縁起の一。即ち「大毘婆沙論巻23」に、「已に食愛、婬愛、及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることあらず、是れ愛の位なり」と云えるものにして、欲するも未だ著するには至らざるの意なり。『大智度論巻17下注:愛、取』参照。
  (ざん):毀壊、破壊の義。
以是九相觀離愛心。瞋癡亦微薄。不淨中淨顛倒。癡故著是身。 是の九相観を以って、愛心を離るれば、瞋、癡も亦た微薄なり。不浄中の浄顛倒は、癡故に是の身に著すればなり。
是の、
『九相の観』を以って、
『愛()』の、
『心』を、
『離れれば!』、
『瞋』と、
『癡』とも、
復た、
『微薄になる!』。
『不浄』中於いて、
『浄』に、
『顛倒する!』のは、
『癡』故に、
是の、
『身』に、
『著するからである!』。
今以是九相披析身內。見是身相癡心薄。癡心薄則貪欲薄。貪欲薄則瞋亦薄。 今、是の九相を以って身内を披析し、是の身相を見れば、癡心薄れ、癡心薄るれば、則ち貪欲薄れ、貪欲薄るれば、則ち瞋も亦た薄る。
今、
是の、
『九相』を以って、
『身』の、
『内』から、
『披析(分析)し!』、
是の、
『身相を見れば!』、
則ち、
『癡心』が、
『薄れ!』、
『癡心が薄れれば!』、
則ち、
『貪欲』が、
『薄れ!』、
『貪欲が薄れれば!』、
則ち、
『瞋』も、
『薄れるのである!』。
  披析(ひしゃく):わけてさく。分析。
所以者何。人以貪身故生瞋。今觀身不淨心厭故不復貪身。不貪身故不復生瞋。三毒薄故一切九十八使山皆動。漸漸增進其道。以金剛三昧摧碎結山。九相雖是不淨觀。依是能成大事。譬如大海中臭屍溺人依以得渡。 所以は何んとなれば、人は身を貪るを以っての故に瞋を生じ、今、身の不浄を観て、心に厭うが故に、復た身を貪らず。身を貪らざるが故に復た瞋を生ぜず。三毒薄るるが故に、一切の九十八使の山、皆動いて、漸漸に其の道を増進すれば、金剛三昧を以って、結の山を摧砕す。九相は、是れ不浄観と雖も、是れに依りて、能く大事を成ず。譬えば大海中の臭屍の、溺人依るを以って、度を得るが如し。
何故ならば、
『人』は、
『身を貪る!』が故に、
『瞋』を、
『生じる!』が、
今、
『身』の、
『不浄を観て!』、
『心』に、
『厭う!』が故に、
復た、
『身』を、
『貪ることはない!』。
『身を貪らない!』が故に、
復た、
『瞋』を、
『生じることもなく!』、
『三毒の薄れる!』が故に、
一切の、
『九十八使』の、
『山』が、
『皆、動いて!』、
其の、
『道』を、
『次第に、増進することができ!』、
『金剛三昧』を以って、
『結使の山』を、
『摧砕する(打ち砕く)のである!』。
『九相』は、
『不浄の観ではあるが!』、
是の、
『不浄に依って!』、
『大事』を、
『成すことができる!』。
譬えば、
『大海』中の、
『臭い!』、
『屍であっても!』、
『溺れた人』は、
是の、
『屍に依る!』ことで、
『大海』を、
『渡ることができるようなものである!』。
  九十八使(くじゅうはっし):見惑八十八使、修惑十使の総称。『大智度論巻7上注:九十八随眠、巻14下注:九十八使』参照。
  摧砕(ぜさい):くじきくだく。うちこわす。
  金剛三昧(こんごうさんまい):行人が最後に一切の煩悩を打ち砕く三昧。金剛は帝釈、及び密迹力士所持の武器にして、能く山を摧くと云う。『大智度論巻4上注:金剛三昧、巻11上注:金剛』参照。
問曰。是九相有何性何所緣何處攝。 問うて曰く、是の九相は、何の性有りて、何の所縁、何の処に摂するや。
問い、
是の、
『九相』は、
何のような、
『性』が、
『有り!』、
何を、
『縁じて!』、
何の、
『処』に、
『摂めるのですか?』。
答曰。取相性緣。欲界身色想陰攝。亦身念處少分。或欲界攝。或初禪二禪四禪攝。未離欲散心人得欲界繫。離欲人心得色界繫。膖脹等八相。欲界初禪二禪中攝。淨骨相欲界初禪二禪四禪中攝。三禪中多樂故無是相。 答えて曰く、取相の性にして、欲界の身を縁じ、色、想陰に摂し、亦た身念処の少分なり。或は欲界に摂し、或は初禅、二禅、四禅に摂し、未だ離欲せざる散心の人は欲界繋を得、離欲の人は心に色界繋を得、膖脹等の八相は、欲界、初禅、二禅中に摂し、浄骨相は欲界、初禅、二禅、四禅中に摂し、三禅中には楽多きが故に、是の相無し。
答え、
『取相の性であり!』、
『欲界』の、
『身』を、
『縁じて!』、
『色、想』の、
『陰()』に、
『摂める!』。
亦た、
『身念処の少分であり!』、
或は、
『欲界』に、
『摂め!』、
或は、
『初禅、二禅、四禅』に、
『摂める!』。
未だ、
『離欲でない!』、
『散心の人』は、
『心』中に、
『欲界の繋(繋縛)』を、
『得て!』、
『離欲』の、
『人』は、
『心』に、
『色界の繋』を、
『得る!』。
『膖脹等の八相』は、
『欲界、初禅、二禅』中に、
『摂め!』、
『浄骨相』は、
『欲界、初禅、二禅、四禅』中に、
『摂める!』が、
『三禅』中は、
『楽が多い!』が故に、
是の、
『相』が、
『無い!』。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻11』:『根者。謂二十二根。問此二十二根。幾色。幾非色。答七是色。十五非色。一切不可見。七有對。十五無對。十有漏。三無漏。九分別。意根。或有漏。或無漏。云何有漏。謂有漏意思惟相應意根。云何無漏。謂無漏意思惟相應意根。如意根。樂根喜根捨根信精進念定慧根亦如是。一切是有為。一有報。十一無報。十分別。意根。或有報。或無報。云何有報。謂不善善有漏意根。云何無報。謂無記無漏意根。如意根。樂根喜根捨根亦如是。苦根。或有報。或無報。云何有報。謂善不善苦根。云何無報。謂無記苦根。信精進念定慧根。若有漏。彼有報。若無漏。彼無報。一切從因緣生世所攝。七是色所攝。十五是名所攝。八是內入所攝。十一是外入所攝。三分別。未知當知根已知根無知根所攝心意識。是內入所攝。餘是外入所攝。一切是智知。十是斷智知。及斷三非斷智知。及不斷。九分別。九若有漏。彼斷智知。及斷。若無漏。非斷智知。及不斷。八應修八不應修。六分別。意根。或應修。或不應修。云何應修。謂善意根。云何不應修。謂不善無記意根。如意根樂根苦根喜根捨根亦如是。憂根或應修。或不應修。云何應修。謂善憂根。云何不應修。謂不善憂根。十六不穢污。六分別。意根。或穢污。或不穢污。云何穢污。謂隱沒。云何不穢污。謂不隱沒。如意根。樂根苦根喜根憂根捨根亦如是。一切是果。及有果。十五不受。七分別。眼根。或受。或不受。云何受。若自性受。云何不受。若非自性受。如眼根。耳根鼻根舌根身根男根女根亦如是。七四大造。十五非四大造。一切是有上。十是有。三非有。九分別。九若有漏。彼是有。若無漏。彼非有。八因不相應。十四因相應。或善處攝非根。作四句。善處攝非根者。謂善色陰想陰。根所不攝善行陰。及數滅。根攝非善處者。謂八根六根少分。善處攝亦根者。謂八根六根少分。非善處攝亦非根者。謂不善色陰想陰。根所不攝不善行陰。根所不攝無記色陰想陰。根所不攝無記行陰。及虛空非數滅。或不善處攝非根。作四句。不善處攝非根者。謂不善色陰想陰。根所不攝不善行陰。根攝非不善處者。謂十六根六根少分。不善處攝亦根攝者。謂六根少分。非不善處攝亦非根者。謂善色陰想陰。根所不攝善行陰。及數滅根所不攝無記色陰想陰。根所不攝無記行陰。及虛空非數滅。或無記處攝非根。作四句。無記處攝非根者。謂根所不攝無記色陰想陰。根所不攝無記行陰。虛空及非數滅。根攝非無記處者。謂九根及五根少分。無記處攝亦根者。謂八根及五根少分。非無記處攝亦非根者。謂善色陰想陰。根所不攝善行陰。及數滅。及不善色陰想陰。根所不攝不善行陰。漏處所不攝。或有漏處攝非根。作四句。有漏處攝非根者。謂根所不攝有漏色陰想陰。根所不攝有漏行陰。根攝非有漏處者。謂三根及九根少分。有漏處攝亦根者。謂十根及九根少分。非有漏處攝亦非根者。謂無漏色陰想陰。根所不攝無漏行陰。及無為。或無漏處攝非根。作四句。無漏處攝非根者。謂無漏色陰想陰根所不攝無漏行陰。及無為。根攝非無漏處者。謂十根及九根少分。無漏處攝亦根攝者。謂三根及九根少分。非無漏處攝亦非根者。謂根所不攝有漏色陰想陰。根所不攝有漏行陰』
是九相是開身念處門。身念處開三念處門。是四念處開三十七品門三十七品開涅槃城門。入涅槃離一切憂惱諸苦。滅五陰因緣生故。受涅槃常樂。 是の九相は、是れ身念処の門を開き、身念処は三念処の門を開き、是の四念処は、三十七品の門を開き、三十七品は涅槃城の門を開き、涅槃に入りて、一切の憂悩と諸苦を離れ、五陰を滅する因縁の生ずるが故に、涅槃の常楽を受く。
是の、
『九相』は、
『身念処』の、
『門』を、
『開き!』、
『身念処』は、
『三念処』の、
『門』を、
『開き!』、
是の、
『四念処』は、
『三十七品』の、
『門』を、
『開き!』、
『三十七品』は、
『涅槃城』の、
『門』を、
『開き!』、
『涅槃に入って!』、
一切の、
『憂悩、諸苦』を、
『離れ!』、
『五陰を滅する!』、
『因縁が生じる!』が故に、
『涅槃の常楽』を、
『受ける!』。
  四念処(しねんじょ):四種の念処の意。三十七菩提分法の一科。『大智度論巻15下注:四念処、巻17下注:三十七菩提分法』参照。
  三十七品(さんじゅうしちほん):菩提に帰趣する三十七種の法を云う。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
問曰。聲聞人如是觀心厭離。欲疾入涅槃。菩薩憐愍一切眾生。集一切佛法度一切眾生。不求疾入涅槃故觀是九相。云何不墮二乘證。 問うて曰く、声聞人は、是の如く観て、心に厭離し、疾かに涅槃に入らんと欲す。菩薩は一切の衆生を憐愍して、一切の仏法を集め、一切の衆生を度して、疾かに涅槃に入るを求めず。故に是の九相を観て、云何が二乗の証に堕ちざるや。
問い、
『声聞人』が、
是のように、
『身を観る!』と、
『心』に、
『厭離して!』、
疾かに、
『涅槃』に、
『入ろう!』と、
『思う!』が、
『菩薩』は、
一切の、
『衆生』を、
『憐愍して!』、
一切の、
『仏法』を、
『集め!』、
一切の、
『衆生』を、
『度して!』、
疾かに、
『涅槃』に、
『入る!』ことを、
『求めない!』。
故に、
是の、
『菩薩』が、
『九相』を、
『観ても!』、
何故、
『二乗の証(涅槃)』に、
『堕ちないのですか?』。
答曰。菩薩於眾生心生憐愍。知眾生以三毒因緣故。受今世後世身生苦痛。是三毒終不自滅。亦不可以餘理得滅。但觀所著內外身相。然後可除。以是故菩薩欲滅是婬欲毒故。觀是九相。 答えて曰く、菩薩は、衆生に於いて、心に憐愍を生じ、衆生の三毒の因縁を以っての故に、今世、後世の身、心に苦痛を受くるを知る。是の三毒は終に自ら滅せず、亦た余の理を以って、滅を得るべからず。但だ所著の内外の身相を観て、然る後に除くべし。是を以っての故に、菩薩は、是の婬欲の毒を滅せんと欲するが故に、是の九相を観る。
答え、
『菩薩』が、
『衆生』に於いて、
『心』に、
『憐愍』を、
『生じる!』のは、
『衆生』が、
『三毒の因縁』の故に、
『今世、後世』の、
『身心に受ける!』、
『苦痛を知るからである!』。
是の、
『三毒』は、
自ら、
『滅することはなく!』、
亦た、
『他の道理』で、
『滅せられるものでもない!』。
但だ、
『著する!』所の、
『内、外の身相』を、
『観察して!』、
その後に、
『除くことができる!』ので、
是の故に、
『菩薩』は、
是の、
『婬欲の毒』を、
『滅しよう!』と、
『思い!』、
故に、
是の、
『九相』を、
『観察するのである!』。
  :受今世後世身生苦痛を他本に従いて、受今世後世身心苦痛に改む。
如人憐愍病者。合和諸藥以療之。菩薩亦如是。為著色眾生。說是青瘀相等。隨其所著分別諸相如先說。是為菩薩行九相觀 人の病者を憐愍して、諸薬を和合し、以って之を療するが如く、菩薩も亦た是の如く、色に著する衆生の為には、是の青瘀相等を説き、其の著する所に隨って、諸相を分別して、先の如く説く。是れを菩薩の行ずる九相観と為す。
譬えば、
『人』が、
『病者を憐愍して!』、
諸の、
『薬』を、
『和合し!』、
是の、
『薬』を以って、
『治療するように!』、
『菩薩』も、
是のように、
『色』に、
『著する!』、
『衆生』の為には、
是の、
『青瘀相』等を、
『説いて!』、
其の、
『著する!』所に、
『随い!』、
諸の、
『相を分別して!』、
『先のように!』、
『説く!』。
是れが、
『菩薩』の、
『行う!』、
『九相観である!』。
復次菩薩。以大慈悲心行是九相作如是念。我未具足一切佛法不入涅槃。是為一法門。我不應住此一門。我當學一切法門。以是故菩薩行九相無所妨。 復た次ぎに、菩薩は、大慈悲の心を以って、是の九相を行じ、是の如き念を作さく、『我れは未だ一切の仏法を具足せざれば、涅槃に入らずして、是れを一法門と為すも、我れは応に此の一門に住すべからず。我れは当に一切の法門を学すべし』、と。是を以っての故に、菩薩は、九相を行ずるも、妨ぐる所無し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『大慈悲の心』を以って、
是の、
『九相』を、
『行いながら!』、
是のような、
『念』を、
『作す!』、――
わたしは、
未だ、
一切の、
『仏法』を、
『具足していない!』。
わたしは、
『涅槃に入らずに!』、
是の、
『九相』を、
『一法門とする!』が、
此の、
『一門のみ!』に、
『住まるわけではない!』。
わたしは、
一切の、
『法門』を、
『学ばねばならぬのだ!』、と。
是の故に、
『菩薩』が、
『九相を行っても!』、
『妨げられる!』ことは、
『無い!』。
菩薩行是九相。或時厭患心起。如是不淨身可惡可患。欲疾取涅槃。爾時菩薩作是念。十方諸佛說一切法相空。空中無無常。何況有不淨。但為破淨顛倒故習此不淨。是不淨皆從因緣和合生。無有自性皆歸空相。我今不應取是因緣和合生。無自性不淨法。欲疾入涅槃。 菩薩は、是の九相を行ずるに、或は時に、厭患の心起こり、『是の如き不浄の身は、悪むべし、患うべし』と、疾かに涅槃を取らんと欲す。爾の時、菩薩は是の念を作さく、『十方の諸仏の説きたまわく、一切の法相は空なり、と。空中には無常無く、何に況んや不浄有るをや。但だ浄顛倒を破せんが為の故に、此の不浄を習う。是の不浄は、皆因縁和合より生ずれば、自性有ること無く、皆空相に帰す。我れは今、応に此の因縁和合の生にして無自性なる、不浄の法を取りて、疾かに涅槃に入るを欲すべからず』、と。
『菩薩』は、
是の、
『九相を行いながら!』、
或は、
時に、
『厭患の心が起きる!』、――
是のような、
『不浄の身』は、
『悪らしく!』、
『患わしい!』、
疾かに、
『涅槃を取ろう!』と、
『思う!』、と。
爾の時、
『菩薩』は、
是の念を作す、――
『十方の諸仏』は、こう説かれた、――
一切の、
『法の相』は、
『空である!』、と。
『空』中には、
『無常すら!』、
『無い!』、
況()して、
『不浄など!』が、
『有るはずがない!』。
但だ、
『浄という!』、
『顛倒』を、
『破る!』為の故に、
此の、
『不浄』を、
『習うだけだ!』。
此の、
『不浄』は、
皆、
『因縁の和合』より、
『生じており!』、
『自性』が、
『無い!』。
皆、
『空相』に、
『帰着するのだ!』。
わたしは、
今、
是の、
『因縁』の、
『和合して!』、
『生じた!』、
『自性の無い!』、
『不浄の法』を、
『取って(執著して)!』、
疾かに、
『涅槃に入ろう!』と、
『思ってはならない!』、と。
經中亦有是說。若色中無味相。眾生不應著色。以色中有味故眾生起著。若色無過罪。眾生亦無厭色者。以色實有過惡故觀色則厭。若色中無出相。眾生亦不能於色得脫。以色有出相故。眾生於色得解脫。味是淨相因緣故。以是故菩薩不於不淨中沒早取涅槃。九相義分別竟 経中にも、亦た是の説有り、『若し色中に、味相無くんば、衆生は応に色に著すべからず。色中に味有るを以っての故に、衆生は著を起す。若し色に過罪無くんば、衆生も亦た色を厭う者無けん。色には実に過悪有るを以っての故に、色を観れば、則ち厭うなり。若し色中に、出相無くんば、衆生も亦た色に於いて、脱を得る能わざらん。色に出相有るを以っての故に、衆生は色に於いて解脱を得。味は是れ浄相の因縁なるが故なり。是を以っての故に、菩薩は不浄中に於いて、没して早く涅槃を取らず。九相の義を分別し竟る。
『経』中にも、
是の説が有る、――
若し、
『色』中に、
『味相(美点)』が、
『無ければ!』、
『衆生』が、
『色』に、
『著するはずがない!』。
即ち、
『色』中に、
『味』が、
『有る!』が故に、
『衆生』は、
『著』を、
『起すのである!』。
若し、
『色』中に、
『過罪』が、
『無ければ!』、
『色を厭う!』、
『衆生』も、
『無いだろう!』。
即ち、
『色』中には、
『実に!』、
『過悪が有る!』が故に、
『色を観て!』、
『厭心』を、
『生じるのである!』。
若し、
『色』中に、
『出離の相』が、
『無ければ!』、
『解脱を得る!』、
『衆生』も、
『無いだろう!』。
即ち、
『色』中に、
『出離の相』が、
『有る!』が故に、
『衆生』は、
『色』を、
『解脱できる!』、
『色』中の、
『味』が、
『浄相の因縁だからである!』。
是の故に、
『菩薩』は、
『不浄』中に、
『没しながら!』、
『早く!』、
『涅槃』を、
『取らないのである!』。
以上、――
『九相の義』を、
『分別し竟った!』。
  (み):◯梵語 rasa の訳、味/味境/五境の一( Taste; one of the five sensory objects )。◯梵語 aasvaada の訳、[時として隠喩的に]美味そうに食うこと/味わうこと/楽しむこと( eating with a relish, tasting, enjoying (also metaphorically) )、味/滋味/風味/美味( flavor, taste )。◯梵語 vyaJjana の訳、明示/明白なしるし( manifestation )、「成実論巻6」に、「又説きたまわく、何等か色中の味と為す。謂わゆる色に因りて能く喜楽を生ず」と云うが如し。
  参考:『雑阿含巻3第66経』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。常當修習方便禪思。內寂其心。所以者何。修習方便禪思。內寂其心已。如實觀察。云何如實觀察。如實觀察此色.此色集.此色滅。此受.想.行.識。此識集.此識滅。云何色集。云何受.想.行.識集。比丘。愚癡無聞凡夫不如實觀察色集.色味.色患.色離故。樂彼色。讚歎愛著。於未來世色復生。受.想.行.識亦如是廣說。彼色生。受.想.行.識生已。不解脫於色。不解脫於受.想.行.識。我說彼不解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦。純大苦聚。是名色集。受.想.行.識集。云何色滅。受.想.行.識滅。多聞聖弟子如實觀察色集.色滅.色味.色患.色離。如實知。如實知故。不樂於色。不讚歎色。不樂著色。亦不生未來色。受.想.行.識亦如是廣說。色不生。受.想.行.識不生故。於色得解脫。於受.想.行.識得解脫。我說彼解脫生.老.病.死.憂.悲.惱苦聚。是名色滅。受.想.行.識滅。是故。比丘。常當修習方便禪思。內寂其心。精勤方便。如實觀察。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
  参考:『成実論巻6』:『苦諦聚受論中受相品第七十八 問曰云何為受。答曰。苦樂不苦不樂。問曰。何謂為苦。何謂為樂。云何名為不苦不樂。答曰。若增益身心是名為樂損減身心是名為苦。與二相違名不苦不樂。問曰。此三受無決定相。所以者何。如即一事。或增身心。或為損減。或俱相違。答曰。是緣不定非受不定。所以者何。如即一火。或時生樂或時生苦。或時能生不苦不樂。從緣生受是則決定。即此一事以隨時故。或為樂因或為苦因。或為不苦不樂因。問曰。以何時故此緣能為苦樂等因。答曰。隨能遮苦。於是時中則生樂相。如人為寒所惱。爾時熱觸能生樂相。問曰。是熱觸過增還能為苦。非復是樂。故知樂受亦無。答曰。世俗名相故有樂受。非真實義。隨是人喜熱觸時亦為增益。又遮先苦。爾時是中則生樂相。若離先苦。是熱觸則不能為樂。故非實有。問曰。汝言但以名相故有樂者。是事不然。所以者何。經中佛自說三受。若實無樂。云何說三。又說色若定苦眾生於中不生貪著。又說何等為色中味。所謂因色能生喜樂。又說樂受生時樂。住時樂。壞時苦。苦受生時苦。住時苦。壞時樂。不苦不樂受不知苦不知樂。又樂受是福報。苦受是罪報。若實無樂受。罪福但有苦果。而實不然。又欲界中亦有樂受。若實無樂受。色無色界不應有受。而實不然。又說樂受中貪使。若無樂受貪何處使。不可說苦受中貪使。故知實有樂受。答曰。若實有樂受應說其相何者為樂。而實不可說。當知但以苦差別中名為樂相。一切世界從大地獄上至有頂。皆是苦相。為多苦所惱。於小苦中生此樂相。如人為熱苦所惱。則以冷觸為樂。是故諸經。作如是說無所妨也。問曰。亦可說世間一切皆樂。於微樂中而生苦相。若不爾者。亦不得言於微苦中生樂想也。答曰。苦受相麁故不可以微樂為苦。又樂雖微亦非惱相。所以者何。不見有人受微樂故。舉手大呼。又受轉微故名寂滅相。猶如上地轉轉寂滅。是故說微樂中生苦相者。但有是語。凡夫愚人於微苦中。妄生樂相。則有道理。』


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