巻第二十(下)
大智度論釋初品中四無量義第三十三
1.四無量心
2.四無色定
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大智度論釋初品中四無量義第三十三
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


四無量心

四無量心者。慈悲喜捨。慈名愛念眾生。常求安隱樂事以饒益之。悲名愍念眾生。受五道中種種身苦心苦。喜名欲令眾生。從樂得歡喜。捨名捨三種心。但念眾生不憎不愛。修慈心為除眾生中瞋覺故。修悲心為除眾生中惱覺故。修喜心為除不悅樂故。修捨心為除眾生中愛憎故。 四無量心とは、慈悲喜捨なり。慈を衆生を愛念して、常に安隠の楽事を求めて、以って之を饒益すと名づけ、悲を衆生を愍念して、五道中の種種の身苦、心苦を受くと名づけ、喜を衆生をして、楽に従わしめんと欲して、歓喜を得と名づけ、捨を三種の心を捨てて、但だ衆生を念じて、憎せず、愛せずと名づく。慈心を修するは、衆生中の瞋覚を除かんが為めの故、悲心を修するは、衆生中の悩覚を除かんが為めの故、喜心を修するは、悦楽せざるを除かんが為めの故、捨心を修するは、衆生中の愛、憎を除かんが為めの故なり。
『四無量心』とは、――
『慈、悲、喜、捨である!』。
『慈』とは、――
『衆生を愛念して!』、
常に、
『安隠』の、
『事』を、
『求め!』、
是の、
『事を用いて!』
『衆生』を、
『饒益することである!』。
『悲』とは、――
『衆生を愍念して!』、
『五道』中に、
種種の、
『身苦、心苦』を、
『受けることである!』。
『喜』とは、――
『衆生』を、
『楽に従わせて!』、
『歓喜』を、
『得よう!』と、
『思うことである!』。
『捨』とは、――
『三種』の、
『心を捨て!』、
但だ、
『衆生』を、
『念じるだけで!』、
『憎、愛しないことである!』。
『慈心を修める!』のは、――
『衆生』中の、
『瞋覚』を、
『除こう!』と、
『思うからである!』。
『悲心を修める!』のは、――
『衆生』中の、
『悩覚』を、
『除こう!』と、
『思うからである!』。
『喜心を修める!』のは、――
『悦楽しない!』、
『心』を、
『除こう!』と、
『思うからである!』。
『捨心を修める!』のは、――
『衆生』中の、
『愛、憎』を、
『除こう!』と、
『思うからである!』。
  四無量心(しむりょうしん):慈悲喜捨の心の無量なるを云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  瞋覚(しんかく):瞋恚を懐ける精神作用の意。『大智度論巻17下注:覚』参照。
  悩覚(のうかく):他の衆生を悩さんと欲する精神作用を云う。『大智度論巻17下注:覚』参照。
問曰。四禪中已有四無量心乃至十一切處。今何以故別說。 問うて曰く、四禅中には、已に四無量心、乃至十一切処有り。今は何を以っての故にか、別に説く。
問い、
『四禅』中には、
已に、
『四無量心、乃至十一切処』が、
『有る!』が、
何故、
今、
『四無量心』を、
『別に説くのですか?』。
  参考:『大智度論巻17』:『復次是四禪處有四等心。五神通背捨勝處。一切處無諍三昧。願智頂禪自在定練禪。十四變化心般舟般。諸菩薩三昧首楞嚴等。略說則百二十。諸佛三昧不動等。略說則百八。及佛得道捨壽。如是等種種功德妙定皆在禪中。以是故禪名波羅蜜。餘定不名波羅蜜。』
答曰。雖四禪中皆有。是法若不別說名字。則不知其功德。譬如囊中寶物。不開出則人不知。若欲得大福德者。為說四無量心。患厭色如在牢獄。為說四無色定。於緣中不能得自在隨意觀所緣。為說八勝處。若有遮道不得通達為說八背捨。心不調柔不能從禪起次第入禪。為說九次第定。不能得一切緣遍照隨意得解。為說十一切處。 答えて曰く、四禅中に、皆是の法有りと雖も、若し別に名字を説かざれば、則ち其の功徳を知らず。譬えば嚢中の宝物は、開いて出さざれば、則ち人知らざるが如し。若し大福徳を得んと欲すれば、為めに四無量心を説き、色の牢獄に在るが如きを患厭すれば、為めに四無色定を説き、縁中に於いて、自在を得て、随意に所縁を観る能わざれば、為めに八勝処を説き、若し道を遮うる有りて、通達するを得ざれば、為めに八背捨を説き、心調柔せずして、禅より起ちて、次第に禅に入る能わざれば、為めに九次第定を説き、一切の縁の遍く照すを得て、随意に解を得る能わざれば、為めに十一切処を説く。
答え、
『四禅』中にも、
皆、
是の、
『法(四無量心)』は、
『有る!』が、
若し、
別に、
『名字』を、
『説かなければ!』、
其の、
『功徳』を、
『知らないことになる!』。
譬えば、
『曩( purse )』中の、
『宝物』は、
『開いて!』、
『出さなければ!』、
則ち、
『人』に、
『知られないようなものである!』。
若し、
『大福徳』を、
『得ようとする!』者ならば、
其の為には、
『四無量心』を、
『説き!』、
『色()』を、
『牢獄』に、
『在るようだ!』と、
『患厭する!』者ならば、
其の為に、
『四無色定』を、
『説き!』、
『縁()』中に、
『自在を得られず!』、
『所縁』を、
『意の随(まま)に!』
『観られなければ! 』、
其の為には、
『八勝処』を、
『説き!』、
若し、
『道』を、
『遮る!』者が、
『有り!』、
『道』を、
『通達することができなければ!』、
其の為には、
『八背捨』を、
『説き!』、
『心』が、
『調柔(柔軟)でなく!』、
『禅を起って!』、
『次第の禅』に、
『入ることができなければ!』、
其の為には、
『九次第定』を、
『説き!』、
一切の、
『縁』を、
『遍く!』、
『照すことができず!』、
『意の随に!』、
『所縁』を、
『理解することができなければ!』、
其の為には、
『十一切処』を、
『説くのである!』。
  (ち):<動詞>:[本義]知る/識る( know )。理解/了解する( understand )、管理/主宰する( administer )、識別/区別する( distinguish )、認める/評価する( appreciate )、親友/昵懇である( be close friends )、知覚する/気づく( perceive )、参与/参加する( participate in, have a hand in )、<名詞>:知識( knowledge )、知覚( consciousness )、知己/知友( bosom friend )、智/智恵/才智( wisdom, ability )。
  患厭(げんえん):思い患って厭う。
  四無色定(しむしきじょう):四種の無色定の意。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):所縁を勝伏する八種の勝処。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  八背捨(はっぱいしゃ):色貪等に棄背する八種の定力。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  九次第定(くしだいじょう):次第に無間に修する九種の定。『大智度論巻17下注:九次第定』参照。
  十一切処(じゅういっさいじょ):色等の十法が一切処に周遍すると観ずる定。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
若念十方眾生。令得樂時心數法中生法名為慈。是慈相應受想行識眾。是法起身業口業及心不相應諸行。是法和合皆名為慈名為慈故。是法生以慈為主。是故慈得名。譬如一切心心數法。雖皆是後世業因緣。而但思得名。於作業中思最有力故。悲喜捨亦如是。 若し十方の衆生をして、楽を得しめんと念ずる時、心数法中に生ずる法を名づけて、慈と為す。是の慈は受想行識衆に相応し、是の法は、身業、口業、及び心不相応諸行を起す。是の法と和合すれば、皆名づけて慈と為し、名づけて慈と為す故は、是の法生ずれば、慈を以って主と為し、是の故に慈のみ名を得。譬えば一切の心、心数法は、皆是れ後世の業の因縁なりと雖も、但だ思のみ名を得るは、業を作す中に於いて、思は最も力有るが故なるが如し。悲、喜、捨も亦た是の如し。
若し、
『十方の衆生』に、
『楽』を、
『得させよう!』と、
『念じれば!』、
その時、
『心数法中に生じる!』、
『法』を、
『慈』と、
『称する!』。
是の、
『慈』は、
『受、想、行、識衆』に、
『相応し!』、
是の、
『法』は、
『身業、口業、及び心不相応諸行』を、
『起す!』。
是の、
『法()』と、
『和合すれば!』、
皆、
『慈』と、
『呼ばれる!』が、
『慈と呼ばれる!』、
『故(わけ)』は、
是の、
『法』が、
『慈を主として!』、
『生じるからであり!』、
是の故に、
『慈』と、
『呼ばれるのである!』。
譬えば、
一切の、
『心、心数法』は、
皆、
『後世の業』の、
『因縁である!』が、
但だ、
『思のみ!』が、
『後世の業』の、
『因縁』と、
『呼ばれる!』のは、
『思』は、
『業を作す!』中に、
『最も!』、
『有力だからである!』。
『悲、喜、捨』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  (し):梵語cetanaaの訳。造作の義。心所の名。七十五法の一。百法の一。即ち境に於いて審慮し、心心所をして造作せしむる精神作用を云う。「倶舎論巻4」に、「思は謂わく、心をして造作することあらしむ」と云い、「順正理論巻10」に、「心をして善不善無記を造作して、妙劣中の性を成ぜしむるを説いて名づけて思となす。思あるに由るが故に、心をして境に於いて動作の用あらしむ。猶お磁石の勢力の能く鉄をして動用あらしむるが如し」と云い、又「成唯識論巻3」に、「思とは謂わく心を造作せしむるを性と為し、善品等に於いて心を役するを業と為す。謂わく能く境の正因等の相を取り、自心を駈役して善等を造らしむ」と云える是れなり。倶舎等に於いては之を十大地法の一となし、恒に一切の心に相応すとし、唯識にては五遍行の一とし、心の起る時必ず有りとなせり。蓋し思は心心所をして造作せしむる法にして、即ち身語意三業の原動力となるものを云う。「倶舎論巻13」に依るに、思に思惟思と作事思の二種ありとす。彼の文に、「契経の中に説く、二種の業あり、一には思業、二には思已業なり。此の二何の異ぞ。謂わく前加行に思惟の思を起して、我れ当に是の如く是の如きの所応作の事を為すべしと。名づけて思業となす。既に思惟し已りて作事の思を起して、前の所思に随って所作の事を作し、身を動し語を発するを思已業と名づく」と云える是れなり。是れ豫め所応作の事を思惟するを思惟思とし、其の事を作さんと欲するを作事思とし、此の二を共に思業と名づけ、正しく身語を発動するを名づけて思已業となすの意なり。此の中、思業は即ち意業にして、心所の思を以って其の体とし、思已業は即ち身語二業にして、前の思によりて等起せられたるものなるが故に、色声を以って其の体となすとするなり。然るに経部及び大乗唯識家に於いては三業は皆思を以って体となすと云い、又思に審慮思、決定思、動発勝思の三の別ありとす。「成唯識論巻1」に、「能く身を動ずるの思を説いて身業と名づけ、能く語を発するの思を説いて語業と名づけ、審と決との二思が意と相応するが故に、意を作動するが故に説いて意業と名づく。身語を起すの思の造作する所あるを説いて名づけて業となす。是れ審と決との思の遊履する所なるが故に、通じて苦楽の異熟果を生ずるが故に亦た名づけて道となす」と云える是れなり。「瑜伽師地論巻54」に、加行思、決定思、等起思と名づけたるも其の意亦た同じ。此の中、先づ境に対して正因邪因俱相違等の相を取り、之を審察考慮するを審慮思と名づけ、審慮し終りて其の意決定するを決定思と名づけ、正しく身語を動発する位を動発勝思と名づく。前の二は倶舎の所謂思惟思に当たり、後の一は作事思に当たれり。但し倶舎等にては此の二業は思惟作事の二思の外に身語二業を以って思の所等起とし、別に色声を以って其の体となすと説くと雖も、大乗にては能等起の思を以って身語二業の体とし、即ち三業皆思を体とすとなせり。是れ二者の異点なり。又大乗にては思は造作の義なるに依り、但だ眼触所生乃至意触の六思身を以って名づけて行蘊となすと雖も、倶舎等に於いては行蘊は唯思のみに限らず、広く他の心所及び不相応法をも摂するものとなせり。又「中阿含巻33釈問経」、「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻16、42、74、117」、「雑阿毘曇心論巻3」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻5、9、18」、「順正理論巻33、36」、「大乗成業論」、「成唯識論巻5」、「同述記巻1末、3末」、「同演秘巻1本、3末」、「瑜伽師地論巻55」、「倶舎論光記巻4、13」等に出づ。<(望)
是慈在色界。或有漏或無漏。或可斷或不可斷。亦在根本禪中亦禪中間。三根相應除苦根憂根。如是等阿毘曇分別說。取眾生相故有漏。取相已入諸法實相故無漏。 是の慈は、色界に在りて、或は有漏、或は無漏にして、或は可断、或は不可断なり。亦た根本禅中、亦た禅の中間に在り、三根に相応して、苦根、憂恨を除く。是れ等の如く、阿毘曇は分別して説く。衆生相を取るが故に有漏、相を取り已りて、諸法の実相に入るが故に無漏なり。
是の、
『慈』は、
『色界に在り!』、
『有漏か、無漏であり!』、
『可断か、不可断である!』。
亦た、
『根本禅』中と、
『禅の中間』にも、
『在り!』、
『三根(喜、楽、捨)に相応して!』、
『苦根、憂恨』を、
『除く!』と、
是れ等のように、
『阿毘曇』は、
『分別して!』、
『説いている!』が、
『有漏、無漏については!』、
『衆生』という、
『相を取る!』が故に、
『有漏であり!』、
『相』を、
『取った!』後、
『諸法』の、
『実相に入る!』が故に、
『無漏である!』。
  五根(ごこん):憂、苦、喜、楽、捨の五受根の意。『大智度論巻17下注:五受』参照。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻10』:『無量者。謂四無量。問云何四。答謂慈悲喜捨。問此四無量。幾色。幾非色。答無量所攝身口業。此是色。餘非色一切是不可見。一切是無對。一切是有漏。一切是有為。一切是有報。一切從因緣生世所攝。無量所攝身口業。此是色所攝。餘是名所攝。無量所攝心意識。是內入所攝。餘是外入所攝。一切是智知。一切是斷智知及斷。一切是應修。一切不穢污。一切是果及有果。一切是有上。一切是不受。無量所攝身口業。是四大造。餘非四大造。一切是有無量所攝身口業。及心不相應行。因不相應。餘因相應。善五處少分攝四無量。四無量亦攝善五處少分。不善處所不攝。無記處所不攝漏處所不攝。無漏處所不攝。有漏五處少分攝四無量。四無量亦攝有漏五處少分一切。或過去。或未來。或現在。一切是善。一切是色界繫。一切是非學非無學。一切是修斷。無量所攝身口業。心不相應行。非心非心法非心相應受陰想陰。彼相應行陰。心法心相應心意識。即心也。問無量。幾心隨轉非受相應。答一切應分別。慈或心隨轉非受相應。作四句。心隨轉非受相應者。謂心隨轉身口業。心隨轉心不相應行及受。受相應非心隨轉者。謂心意識。心隨轉亦受相應者。謂想陰。彼相應行陰。非心隨轉亦非受相應者。謂除心隨轉心不相應行。若餘心不相應行。如慈悲喜捨亦如是。如受想行亦如是。除其自性。問無量。幾覺隨轉非觀相應。答一切應分別慈心。或覺隨轉非觀相應。作四句。覺隨轉非觀相應者。謂覺隨轉身口業。覺隨轉心不相應行及覺相應觀。觀相應非覺隨轉者謂覺。若覺不相應觀相應心心法。覺隨轉亦觀相應者。謂覺觀相應心心法。非覺隨轉亦非觀相應者。謂除覺隨轉身口業。若餘身口業。除覺隨轉心不相應行。若餘心不相應行。及覺不相應觀。及非覺觀相應心心法如慈悲捨亦如是。喜或覺隨轉非觀相應。作四句。覺隨轉非觀相應者。謂覺隨轉身口業。覺隨轉心不相應行及覺相應觀。觀相應非覺隨轉者。謂覺。覺隨轉亦觀相應者。謂覺觀相應心心法。非覺隨轉亦非觀相應者。謂除覺隨轉身口業。若餘身口業。除覺隨轉心不相應行。若餘心不相應行。及非覺觀相應心心法。無量。或見亦見處。或見處非見。見亦見處者。謂世俗正見。餘是見處非見。一切非身見因。身見亦非彼因。無量所攝身口業及思。是業非業報。餘非業亦非業報。問無量幾業非業隨轉。答作四句。業非業隨轉者。謂思業。業隨轉非業者。謂受陰想陰識陰。若思所不攝業隨轉行陰。業亦業隨轉者。謂業隨轉身口業。非業亦非業隨轉者。謂除業隨轉心不相應行。若餘心不相應行。無量所攝身口業。是造色色非可見色。餘非造色色亦非可見色。無量所攝身口業。是造色色非有對色。餘非造色色亦非有對色。一切是甚深難了難了甚深。一切是善亦善因。一切非不善亦非不善因。一切非無記亦非無記因。一切是因緣緣亦有因。問無量幾次第非次第緣緣。答作三句。次第非次第緣緣者。謂未來現前必起心心法。次第亦次第緣緣者。謂過去現在心心法。非次第亦非次第緣緣者。謂除未來現前必起心心法。若餘未來心心法。及身口業心不相應行。無量所攝身口業。心不相應行。緣緣緣非有緣。餘緣緣緣亦有緣。一切是增上緣緣及有增上。一切隨流非流。』
  五受恨(ごじゅこん):受とは心が外界に接触したとき受ける印象感覚(苦楽、明暗、大小等)のこと。
    (1)喜根(きこん):喜び。意識が順境にあって受ける喜び。
    (2)楽根(らくこん):楽しみ。眼等の五識が順境にあって受ける楽しみ。
    (3)苦根(くこん):苦しみ。眼等の五識が思いと違う境にあって受ける苦痛。
    (4)憂根(うこん):憂い。意識が思いと違う境にあって受ける憂悩。
    (5)捨根(しゃこん):苦楽を離れ不適不順なる境も甘んじて受けること。(智1)
以是故無盡意菩薩問中說。慈有三種。一者眾生緣二者法緣三者無緣。 是を以っての故に、無尽意菩薩問中に説かく、『慈には三種有り、一には衆生の縁、二には法の縁、三には無縁なり』、と。
是の故に、
『無尽意菩薩問()』中に、こう説く、――
『慈』には、
『三種』有り、
一には、
『衆生』を、
『縁じる!』、
『慈であり!』、
二には、
『法』を、
『縁じる!』、
『慈であり!』、
三には、
『縁じる!』ことの、
『無い!』、
『慈である!』。
  参考:『大般涅槃経巻14』:『復次善男子。復有梵行。謂慈悲喜捨。迦葉菩薩白佛言。世尊。若多修慈能斷瞋恚。修悲心者亦斷瞋恚云何而言四無量心。推義而言則應有三。世尊。慈有三緣。一緣眾生。二緣於法。三則無緣。悲喜捨心亦復如是。若從是義唯應有三。不應有四。眾生緣者緣於五陰。願與其樂。是名眾生緣。法緣者。緣諸眾生所須之物而施與之。是名法緣。無緣者緣於如來。是名無緣。慈者多緣貧窮眾生。如來大師永離貧窮受第一樂。若緣眾生則不緣佛。法亦如是。以是義故緣如來者。名曰無緣。世尊。慈之所緣一切眾生。如緣父母妻子親屬。以是義故名眾生緣。法緣者不見父母妻子親屬。見一切法皆從緣生。是名法緣。無緣者不住法相及眾生相。是名無緣。悲喜捨心亦復如是。是故應三不應有四。世尊。人有二種。一者見行。二者愛行。見行之人多修慈悲。愛行之人多修喜捨。是故應二不應有四。世尊。夫無量者名曰無邊。邊不可得故名無量。若無量者則應是一不應言四。若言四者何得無量。是故應一不應四也。』
問曰。是四無量心云何行。 問うて曰く、是の四無量心を、云何が行ずる。
問い、
是の、
『四無量心』は、
『何のように!』、
『行うのですか?』。
答曰。如佛處處經中說。有比丘以慈相應心。無恚無恨無怨無惱。廣大無量善修慈心得解遍滿。東方世界眾生慈心得解遍滿。南西北方四維上下十方世界眾生。以悲喜捨相應心亦如是。 答えて曰く、仏の処処の経中に説けるが如し、『有る比丘は、慈相応の心を以って、無恚、無恨、無怨、無悩にして、広大、無量に善く修する、慈心に、解を得て、東方の世界の衆生に遍満し、慈心に解を得て、南西北方、四維上下の十方の世界の衆生に遍満す。悲、喜、捨相応の心を以ってするも、亦た是の如し』、と。
答え、
『仏』が、
『処処の経』中に、説かれた通りである、――
有る、
『比丘』は、
『慈に相応する!』、
『心』に、
『恚、恨、怨、悩が無く!』、
『広、大、無量』に、
『善く修められた!』、
『慈心』は、
『解脱(自在)を得て!』、
『東方』の、
『世界の衆生』に、
『遍満し!』、
『解脱を得た!』、
『慈心』は、
『南西北方、四維上下』の、
『十方の世界の衆生』にも、
『遍満する!』。
『悲、喜、捨に相応する!』、
『心の遍満する!』ことも、
亦た、
是の、
『慈』と、
『同じである!』。
  参考:『十住経巻2』:『是菩薩。以慈心高廣無量。無瞋無恨無惱害。以信解力。遍滿一方。二方。三方四方。四維上下。亦復如是。悲心喜心捨心。高廣無量。無瞋恨無惱害。以信解力。遍滿一方。第二三。四方四維上下。亦復如是。』
慈相應心者。慈名心數法。能除心中憒濁。所謂瞋恨慳貪等煩惱。譬如淨水珠著濁水中水即清。 慈相応の心とは、慈を心数法にして、能く心中の憒濁を除くと名づく。謂わゆる瞋恨、慳貪等の煩悩なり。譬えば浄水珠を濁水中に著くれば、水即ち清きが如し。
『慈に相応する!』、
『心』とは、――
『慈』とは、
『心』中の、
『憒濁(惑濁)を除くことのできる!』、
『心数法である!』。
『憒濁』とは、
謂わゆる、
『瞋恨、慳貪』等の、
『煩悩である!』。
譬えば、
『浄水珠』を、
『濁水中に漬ける!』と、
『水が清くなる!』のと、
『同じである!』。
  憒濁(けじょく):心が乱れて濁ること。
  浄水珠(じょうすいじゅ):水を浄らかにする宝珠。
無恚恨者。於眾生中若有因緣若無因緣而瞋。若欲惡口罵詈殺害劫奪是名瞋。待時節得處所有勢力當加害是名恨。以慈除此二事故。名無瞋恨 無恚、恨とは、衆生中に於いて、衆生中に於いて、若しは因縁有りて、若しは因縁無くして、瞋り、若しは悪口、罵詈、殺害、劫奪せんと欲す、是れを瞋と名づけ、時節を待ち、処する所を得、有らゆる勢力もて、当に加害せんとすれば、是れを恨と名づく。慈は、此の二事を除くを以っての故に、瞋、恨無しと名づく。
『恚、恨が無い!』とは、
『衆生』中に、
『因縁が有ろう!』と、
『因縁が無かろう!』と、
『瞋』が、
『起こり!』、
若し、
『悪口、罵詈、殺害、劫奪しようとすれば!』、
是れを、
『瞋』と、
『呼び!』、
『時節を待ち』、
『処置の場所を得て!』、
有らゆる、
『勢力』で、
『加害しようとすれば!』、
是れを、
『恨』と、
『呼ぶのである!』が、
『慈』は、
此の、
『二事を除く!』が故に、
『瞋、恨が無い!』と、
『称するのである!』。
  (い):いかる。怒に同じ。
  (こん):うらむ。
  (しん):いかる。恚に同じ。
  罵詈(めり):ののしる。悪口に同じ。
  劫奪(こうだつ):おびやかして奪う。
無怨無惱。恨即是怨。初嫌為恨。恨久成怨身口業加害。是名惱。 無怨、無悩とは、恨は、即ち是れ怨なり。初めて嫌うを恨と為し、恨は、久しくすれば怨と成り、身口の業もて加害するに、是れを悩と名づく。
『怨、悩が無い!』とは、――
『恨(うらむ!)』とは、
即ち、
『怨(うらむ!)である!』。
初めて、
『嫌う!』のを、
『恨』と、
『呼び!』、
久しくして、
『怨と成り!』、
『身、口業』が、
『加害する!』ので、
是れを、
『悩(なやます!)』と、
『呼ぶ!』。
  (おん):うらみいかる。
  (のう):なやむ。又なやます。
復次初生瞋結名為瞋。瞋增長籌量持著。心中未決了是名恨。亦名怨。若心已定無所畏忌。是名惱。以慈心力除捨離此三事。是名無瞋無恨無怨無惱。 復た次ぎに、初めて生じたる瞋結を名づけて、瞋と為し、瞋増長して籌量し、持著して、心中に未だ決了せざる、是れを恨と名づけ、亦た怨と名づく。若し心已に定まりて、畏忌する所無ければ、是れを悩と名づく。慈心の力を以って、此の三事を除き捨て離るれば、是れを無瞋、無恨、無怨、無悩と名づく。
復た次ぎに、
初めて、
『生じた!』、
『瞋結』を、
『瞋』と、
『呼び!』、
『瞋』が、
『増長して!』、
『籌量し(思い計り)!』、
『持著(執著し)する!』が、
未だ、
『心』中に、
『決了しなければ!』、
是れを、
『恨』と、
『呼び!』、
亦たは、
『怨』と、
『呼び!』、
已に、
『心』中に、
『決定して!』、
『畏忌する(畏れ憚る)!』所が、
『無くなれば!』、
是れを、
『悩』と、
『呼ぶ!』が、
此の、
『三事(瞋、恨、悩)』を、
『除き!』、
『捨てて!』、
『離れれば!』、
是れを、
『瞋、恨、怨、悩が無い!』と、
『呼ぶ!』。
  参考:『僧伽羅刹所集経巻上』:『曾聞空靜山林之中。有烏鹿鴿蛇在彼止。於彼有仙人菩薩常處其中食果飲水。爾時烏往詣彼仙人所。在一面立。便作是說。世有何苦。爾時烏便作是言。飢為最苦。由何因緣而生此苦。我等各各自當陳說。身體疲極煩熾諸根不定。口不能言耳無所聞。常懷思想。是故飢最為苦。此苦患身火所燒。由此飢饉此病難療。共相牽連皆有如是之苦。是時鹿便作是語。驚怖為苦。所謂驚怖者。身在獨處見獵師常懷驚怖。身心之穢常恐無此身。復畏獵師欲殺害己。此身有何牢。要住無常處馳走東西。此驚怖者由何而生。常有此念。彼一切有是行。捨離一切身。我等有此身常。懷驚怖須臾不寧。皆是本所造壞敗之苦。有如是驚怖。以是之故。驚怖為苦。是時鴿便作是語。欲最為苦。更樂其中心境界淨。思惟所處無脫此欲患。此欲猶如火。亦如脂酥著器。然則熾狂有所說染著其心。欲火亦復如是。染著其心消盡其形增益諸縛。無數劫為欲惑會合熾然燒人形體。以是之故。欲最為苦。時蛇便作是語。瞋恚最為苦。所謂瞋恚者。便傷害人命。無有尊卑。增諸罪根。身體顏色常變易。動有殺意。頻蹙眼赤牙齒長利人所惡見。搖頭動身長息吐毒。身體肌皮純有嗔恚之火。一切世人皆不喜見。常伏空處。飢亦瞋飽亦瞋。眼視不善。有如是之變。彼猶如火焚燒山澤。此瞋恚火亦復如是。以是故瞋恚為苦。』
此無瞋無恨無怨無惱佛以是讚歎慈心。一切眾生皆畏於苦貪著於樂。瞋為苦因緣慈是樂因緣。 此の無瞋、無恨、無怨、無悩を、仏は是れを以って、慈心を讃歎したまわく、『一切の衆生は、皆、苦を畏れて、楽を貪著すれば、瞋は苦の因縁と為し、慈は是れ楽の因縁なり』、と。
此の、
『瞋、恨、怨、悩』の、
『無い!』が故に、
『仏』は、
『慈心』を、こう讃歎される、――
一切の、
『衆生』は、
皆、
『苦』を、
『畏れて!』、
而も、
『楽』を、
『貪著する!』が、
『瞋』とは、
是れは、
『苦』の、
『因縁であり!』、
『慈』とは、
是れは、
『楽』の、
『因縁である!』、と。
眾生聞是慈三昧。能除苦能與樂故。一心懃精進行是三昧。以是故無瞋無恨無怨無惱。 衆生は、是の慈三昧の、能く苦を除いて、能く楽を与うるを聞くが故に、一心に精進を懃めて、是の三昧を行ずれば、是を以っての故に、無瞋、無恨、無怨、無悩なり。
『衆生』は、
是の、
『慈三昧』は、
『苦を除いて!』、
『楽を与えることができる!』と、
『聞く!』が故に、
『一心』に、
『精進を懃めて!』、
是の、
『三昧』を、
『行う!』ので、
是の故に、
『瞋、恨、怨、悩』が、
『無いのである!』。
廣大無量者。一大心分別有三名。廣名一方大名高遠無量名下方及九方。 広、大、無量とは、一大心を分別すれば、三名有ればなり。広を一方と名づけ、大を高遠と名づけ、無量を下方、及び九方と名づく。
『広、大、無量』とは、――
『一大心』を、
『分別すれば!』、
『三名』が、
『有るからである!』。
即ち、
一に、
『広』とは、
『一方』に於いて、
『広いのであり!』、
二に、
『大』とは、
『高く!』、
『遠いことであり!』、
三に、
『無量』とは、
『下方』と、
『九方(東西南北、四維、及び上方)である!』。
復次下名廣中名大上名無量。 復た次ぎに、下を広と名づけ、中を大と名づけ、上を無量と名づく。
復た次ぎに、
『善く修める!』中に、
『下』を、
『広い!』と、
『称し!』、
『中』を、
『大きい!』と、
『称し!』、
『上』を、
『無量である!』と、
『称する!』。
復次緣四方眾生心。是名廣。緣四維眾生心。是名大。緣上下方眾生心。是名無量。 復た次ぎに、四方の衆生心を縁ずるに、是れを広と名づけ、四維の衆生心を縁ずるに、是れを大と名づけ、上下方の衆生心を縁ずるに、是れを無量と名づく。
復た次ぎに、
『四方』の、
『衆生の心』を、
『縁じる!』ので、
是れを、
『広い!』、
『称し!』、
『四維』の、
『衆生の心』を、
『縁じる!』ので、
是れを、
『大きい!』と、
『称し!』、
『上下方』の、
『衆生の心』を、
『縁じる!』ので、
是れを、
『無量』と、
『称する!』。
復次破瞋恨心是名廣。破怨心是名大。破惱心是名無量。 復た次ぎに、瞋、恨の心を破るに、是れを広と名づけ、怨の心を破るに、是れを大と名づけ、悩の心を破るに、是れを無量と名づく。
復た次ぎに、
『瞋、恨』の、
『心を破れば!』、
是れを、
『広い!』と、
『称し!』、
『怨』の、
『心を破れば!』、
是れを、
『大きい!』と、
『称し!』、
『悩』の、
『心を破れば!』、
是れを、
『無量』と、
『称する!』。
復次一切煩惱心小人所行生小事故名為小。復小於此故名瞋恨怨惱。破是小中之小。是名廣大無量。所以者何。大因緣常能破小事故。 復た次ぎに、一切の煩悩の心は、小人の所行にして、小事を生ずるが故に名づけて、小と為し、復た此に於いて小なるが故に、瞋、恨、怨、悩と名づけ、是の小中の小を破るに、是れを広大無量と名づく。所以は何んとなれば、大の因縁は、常に能く小事を破るが故なり。
復た次ぎに、
一切の、
『煩悩の心』は、
『小人の所行であり!』、
『小事』を、
『生じる!』ので、
故に、
『小』と、
『呼ばれる!』が、
復た、
此の、
『煩悩』中の、
『小である!』が故に、
『瞋、恨、怨、悩』と、
『呼ぶのであり!』、
是の、
『小』中の、
『小を破る!』が故に、
『広、大、無量』と、
『称する!』。
何故ならば、
『大の因縁』は、
常に、
『小事』を、
『破ることができるからである!』。
廣心者。畏罪畏墮地獄故除心中惡法大心者。信樂福德果報故除惡心。無量心者。為欲得涅槃故除惡心。 広心の者は、罪を畏れ、地獄に堕するを畏るるが故に、心中の悪法を除き、大心の者は、楽と福徳の果報を信ずるが故に悪心を除き、無量心の者は、涅槃を得んと欲するが為めの故に、悪心を除く。
『広心の者』は、
『罪』や、
『地獄に堕ちる!』ことを、
『畏れる!』が故に、
『心』中の、
『悪法』を、
『除き!』、
『大心の者』は、
『楽、福徳』の、
『果報』を、
『信じる!』が故に、
『心』の、
『悪』を、
『除き!』、
『無量心の者』は、
『涅槃』を、
『得たい!』と、
『思う!』が故に、
『心』の、
『悪』を、
『除く!』。
復次行者持戒清淨故是心廣。禪定具足故是心大。智慧成就故是心無量。以是慈心念得道聖人。是名無量心。用無量法分別聖人故。念諸天及人尊貴處故。名為大心。念諸餘下賤眾生及三惡道。是名廣心。於所愛眾生中。以慈念廣於念已故。名為廣心。以慈念中人是名大心。以慈念怨憎其功德多故。名無量心。 復た次ぎに、行者は持戒して清浄なるが故に、是の心広く、禅定を具足するが故に、是の心大きく、智慧を成就するが故に、是の心無量なり。是の慈心を以って、得道の聖人を念ずるに、是れを無量心と名づけ、無量の法を用いて聖人を分別するが故に、諸天、及び人の尊貴する処を念ずるが故に、名づけて大心と為し、諸余の下賎の衆生、及び三悪道を念ずる、是れを広心と名づく。所愛の衆生中に於いて、慈を以って念ずるに、念じ已ることの広きが故に名づけて、広心と為し、慈を以って中を念ずる人は、是れを大心と名づけ、慈を以って怨憎を念ずれば、其の功徳多きが故に、無量心と名づく。
復た次ぎに、
『行者』は、
『持戒して!』、
『清浄である!』が故に、
是の、
『心』は、
『広く!』、
『禅定』を、
『具足する!』が故に、
是の、
『心』は、
『大きく!』、
『智慧』を、
『成就する!』が故に、
是の、
『心』は、
『無量である!』。
是の、
『慈心』で、
『道を得た!』、
『聖人』を、
『念じる!』が故に、
是れを、
『無量の心』と、
『称し!』、
『無量の法』を、
『用いて!』、
『聖人』を、
『分別する!』が故に、
『諸の天、人』の、
『尊貴する処』を、
『念じる!』が故に、
是れを、
『大心』と、
『称し!』、
『諸余の!』、
『下賎の衆生』と、
『三悪道』とを、
『念じる!』が故に、
是れを、
『広心』と、
『称す!』。
『所愛の衆生』中に、
『慈』を、
『用いて!』、
『念じれば!』、
『広く!』
『衆生』を、
『念じる!』が故に、
是れを、
『広心』と、
『称し!』、
『慈』を、
『用いて!』、
『中(非愛、非憎)を念じる!』、
『人である!』が故に、
是れを、
『大心』と、
『称し!』、
『慈』を、
『用いて!』、
『怨、憎の者』を、
『念じれば!』、
其の、
『功徳』は、
『多い!』が故に、
是れを、
『無量の心』と、
『称する!』。
復次為狹緣心故名為廣。為小緣心故名為大。為有量心故名為無量。如是等分別義。 復た次ぎに、狭き縁の為めの心なるが故に、名づけて広と為し、小き縁の為めの心なるが故に、名づけて大と為し、有量の為めの心なるが故に、名づけて無量と為す。是れ等の如く義を分別す。
復た次ぎに、
『狭い!』、
『縁の為めの!』
『心である!』が故に、
是れを、
『広い!』と、
『称し!』、
『小さな!』、
『縁の為めの!』、
『心である!』が故に、
是れを、
『大きい!』と、
『称し!』、
『有量』の、
『縁の為めの!』、
『心である!』が故に、
是れを、
『無量』と、
『称する!』。
是れ等のように、
『義』を、
『分別する!』。
善修者是慈心牢固初得慈心不名為修。非但愛念眾生中。非但好眾生中。非但益己眾生中。非但一方眾生中。名為善修。 善修とは、是の慈心は、牢固なればなり。初めて慈心を得るをば、名づけて修と為さず。但だ愛念する衆生中のみに非ず、但だ好もしき衆生中のみに非ず、但だ己を益する衆生中のみに非ず、但だ一方の衆生中のみに非ざるを、名づけて善修と為す。
『善く修める!』とは、
是の、
『慈心』は、
『牢固だからであり!』、
『初めて得た!』、
『慈心』を、
『修める!』とは、
『呼ばないからである!』。
是の、
『善く修められた!』、
『慈心』は、
但だ、
『愛する!』、
『衆生中だけの!』
『慈心ではなく!』、
但だ、
『好もしい!』、
『衆生中だけの!』、
『慈心でもなく!』、
但だ、
『己を益する!』、
『衆生中だけの!』、
『慈心でもなく!』、
但だ、
『一方』の、
『衆生中だけの!』、
『慈心でもない!』。
是れを、
『善く修められた!』、
『慈心』と、
『称する!』。
久行得深。愛樂愛憎及中三種眾生正等無異。十方五道眾生中。以一慈心視之。如父如母如兄弟姊妹子姪知識。常求好事。欲令得利益安隱。如是心遍滿十方眾生中。如是慈心名眾生緣。多在凡夫人行處或有學人未漏盡者。行 久しく行じて、深く愛楽するを得れば、愛、憎、及び中の三種の衆生は、正等無異なり。十方の五道の衆生中に、一慈心を以って之を視ること、父の如く、母の如く、兄弟、姉妹、子姪、知識の如く、常に好事を求めて、利益、安隠を得しめんと欲す。是の如き心は、十方の衆生中に遍満し、是の如き慈心を衆生の縁と名づく。多くは凡夫人の行処に在り、或は有学人、未だ漏を尽くさざる者行ずるなり
『慈心』を、
『久しく行えば!』、
『深く!』、
『衆生』を、
『愛楽することができ!』、
『愛、憎、中』の、
『三種の衆生』中に、
『正等となり!』、
『無異となる!』、
『十方の五道』の、
『衆生』中に、
『一慈心』を、
『用いて!』、
『視るようになり!』、
例えば、
『父母、兄弟、姉妹、子姪、知識のように!』、
『十方、五道の衆生』を、
『視て!』、
常に、
『好事を求めて!』、
『利益、安隠を得させたい!』と、
『思うようになる!』。
是れ等のような、
『心』が、
『十方』の、
『衆生』中に、
『遍満する!』と、
是のような、
『慈心』を、
『衆生の縁』と、
『呼ぶのである!』が、
多くは、
『凡夫人』が、
『慈心を行う!』、
『処(対象)であり!』、
或は、
『有学人』や、
『未だ漏の尽きていない!』者が、
『慈心』を、
『行うのである!』。
  愛楽(あいぎょう):いつくしみたのしむ。
  子姪(してつ):子と姪(めい)。
  知識(ちしき):善き知り合い。善友。
  行処(ぎょうじょ):思慮の場所/志す対象。
  (ざい):おいて。於に同じ。
法緣者。諸漏盡阿羅漢辟支佛諸佛。是諸聖人破吾我相。滅一異相故。但觀從因緣相續生諸欲。以慈念眾生時。從和合因緣相續生但空。五眾即是眾生。念是五眾以慈念。眾生不知是法空。而常一心欲得樂。聖人愍之令隨意得樂。為世俗法故。名為法緣。 法縁とは、諸漏尽くる阿羅漢、辟支仏、諸仏、是の諸の聖人は、吾我の相を破り、一異の相を滅するが故に、但だ因縁の相続より生ずる諸欲なりと観るに、慈を以って衆生を念ずる時、和合の因縁の相続より生ずれば、但だ空にして、五衆が、即ち是れ衆生なり。是の衆生を念ずるに、慈を以って念ずらく、『衆生は、是の法の空なるを知らずして、而も常に一心に楽を得んと欲す』、と。聖人は、之を愍れみて、随意に楽を得しむるも、世俗の法と為すが故に、名づけて法縁と為す。
『法の縁』とは、――
諸の、
『漏の尽きた!』、
『阿羅漢、辟支仏、諸仏』などの、
是の、
諸の、
『聖人』は、
『吾、我』の、
『相』を、
『破り!』、
『一、異』の、
『相』を、
『滅する!』が故に、
但だ、
『因縁の相続より生じた!』、
『諸欲(五境=色声香味触)に過ぎない!』と、
『衆生』を、
『観察し!』、
『慈』を以って、
『衆生を念じる!』時にも、
『衆生』は、
『和合した因縁』の、
『相続より!』、
『生じる!』ので、
但だ、
『空でしかない!』、
『五衆』が、
『衆生なのである!』。
是の、
『五衆を念じる!』時、
『慈』を以って、こう念じる、――
『衆生』は、
是の、
『五衆』という、
『法』が、
『空である!』とも、
『知らず!』に、
而も、
『一心』に、
『楽を得たい!』と、
『思っている!』、と。
是の、
『聖人』が、
是の、
『衆生を愍れんで!』、
『意の随に!』、
『楽』を、
『得させる!』のは、
『世俗の法である!』、
『五衆』に、
『楽を得させるのであり!』、
是れを、
『法の縁』と、
『称する!』。
  諸欲(しょよく):有らゆる欲望( all desires )、梵語 kaamaaH の訳、通常五境に於ける五種の欲望/五欲を指す( Usually refers to the five desires for the five sensory objects )。
  五欲(ごよく):五種の欲望( five desires )、梵語 paJca kaama- guNaaH の訳、◯色声香味触の五境に執著するに由りて生起する五種の欲望( Five kinds of desire that arise from attachment to the objects of eyes, ears, nose, tongue, and body )、 凡夫の欲望( the desires of regular people )、又色欲、声欲、香欲、味欲、触欲等の欲望の原因と為すべき感覚の五種の対象そのもの/五境を指す( Also a reference to the five objects themselves in the sense that they are the cause of these desires: form, sound, fragrance, flavor, and tactility. )。◯財欲、色欲、飲食欲、名欲、睡眠欲の五種の欲望( The five desires of wealth, sex, food, fam, and sleep. )。
無緣者是慈但諸佛有。何以故。諸佛心不住有為無為性中。不依止過去世未來現在世知諸緣不實顛倒虛誑故。心無所緣。佛以眾生不知是諸法實相。往來五道心著諸法分別取捨。以是諸法實相智慧。令眾生得之。是名無緣。 無縁とは、是の慈は、但だ諸仏に有り。何を以っての故に、諸仏の心は、有為、無為の性中に住まらず、過去世、未来、現在世に依止せざれば、諸縁の不実、顛倒、虚誑なるを知るが故に、心に所縁無ければなり。仏は、衆生の、是の諸法の実相を知らずして、五道を往来し、心諸法に著して、分別し、取捨するを以って、是の諸法の実相の智慧を以って、衆生をして、之を得しむ。是れを無縁と名づく。
『無縁』とは、――
是の、
『慈』は、
但だ、
『諸仏のみ!』に、
『有る!』。
何故ならば、
『諸仏』の、
『心』は、
『有為、無為』の、
『性』中に、
『住まらず!』、
『過去、未来、現在』の、
『世間』に、
『依止しない!』が故に、
諸の、
『縁』は、
『不実、顛倒、虚誑である!』と、
『知る!』が故に、
『心』に、
『所縁』が、
『無いからである!』。
『衆生』が、
是の、
諸の、
『法』の、
『実相を知らない!』が故に、
『五道』を、
『往来し!』、
諸の、
『法』に、
『著して!』、
『分別し!』、
『取捨する!』のを、――
『仏』は、
『知っていられる!』が故に、
諸の、
『法の実相』という、
『智慧』を、
『衆生』に、
『得させられるのであり!』、
是れを、
『無縁』と、
『称するのである!』。
譬如給賜貧人。或與財物或與金銀寶物。或與如意真珠。眾生緣法緣無緣亦復如是。是為略說慈心義。 譬えば貧人に給賜するに、或は財物を与え、或は金銀、宝物を与え、或は如意の真珠を与うるが如く、衆生縁、法縁、無縁も亦た是の如し。是れを慈心の義を略説すと為す。
譬えば、
『貧人に給賜( present )する!』のに、
或は、
『財物』を、
『与え!』、
或は、
『金銀、宝物』を、
『与え!』、
或は、
『如意の真珠』を、
『与えるように!』、
『衆生の縁、法の縁、無縁』も、
亦復た、
『是の通りなのである!』。
是れで、
『慈心の義』を、
『略して!』、
『説いたことになる!』。
悲心義亦如是。以憐愍心遍觀十方眾生苦。作是念眾生可愍莫令受是種種苦。無瞋無恨無怨無惱心乃至十方亦如是。 悲心の義も亦た是の如し。憐愍心を以って、十方の衆生の苦を遍く観て、是の念を作さく、『衆生は愍れむべし。是の種種の苦を受けしむる莫かれ』と、無瞋、無恨、無怨、無悩の心、乃至十方も亦た是の如し。
『悲心の義』も、
是のように、
『憐愍の心』で、
遍く、
『十方の衆生』の、
『苦』を、
『観て!』、
是の念を作す、――
『衆生』は、
『愍れまれねばならない!』。
是の、
『種種の苦』を、
『衆生』に、
『受けさせてはならない!』、と。
是の時の、
『無瞋、無恨、無怨、無悩の心、乃至十方』まで、
亦た、
是の、
『慈心』と、
『同じである!』。
  参考:『大智度論巻20』:『問曰。是四無量心云何行。答曰。如佛處處經中說。有比丘以慈相應心。無恚無恨無怨無惱。廣大無量善修慈心得解遍滿。東方世界眾生慈心得解遍滿。南西北方四維上下十方世界眾生。以悲喜捨相應心亦如是。慈相應心者。慈名心數法。能除心中憒濁。所謂瞋恨慳貪等煩惱。譬如淨水珠著濁水中水即清。無恚恨者。於眾生中若有因緣若無因緣而瞋。若欲惡口罵詈殺害劫奪是名瞋。待時節得處所有勢力當加害是名恨。以慈除此二事故。名無瞋恨無怨無惱。恨即是怨。初嫌為恨。恨久成怨身口業加害。是名惱。復次初生瞋結名為瞋。瞋增長籌量持著。心中未決了是名恨。亦名怨。若心已定無所畏忌。是名惱。以慈心力除捨離此三事。是名無瞋無恨無怨無惱。此無瞋無恨無怨無惱佛以是讚歎慈心。一切眾生皆畏於苦貪著於樂。瞋為苦因緣慈是樂因緣。眾生聞是慈三昧。能除苦能與樂故。一心懃精進行是三昧。以是故無瞋無恨無怨無惱。廣大無量者。一大心分別有三名。廣名一方大名高遠無量名下方及九方。復次下名廣中名大上名無量。復次緣四方眾生心。是名廣。緣四維眾生心。是名大。緣上下方眾生心。是名無量。復次破瞋恨心是名廣。破怨心是名大。破惱心是名無量。復次一切煩惱心小人所行生小事故名為小。復小於此故名瞋恨怨惱。破是小中之小。是名廣大無量。所以者何。大因緣常能破小事故。廣心者。畏罪畏墮地獄故除心中惡法大心者。信樂福德果報故除惡心。無量心者。為欲得涅槃故除惡心。復次行者持戒清淨故是心廣。禪定具足故是心大。智慧成就故是心無量。以是慈心念得道聖人。是名無量心。用無量法分別聖人故。念諸天及人尊貴處故。名為大心。念諸餘下賤眾生及三惡道。是名廣心。於所愛眾生中。以慈念廣於念已故。名為廣心。以慈念中人是名大心。以慈念怨憎其功德多故。名無量心。復次為狹緣心故名為廣。為小緣心故名為大。為有量心故名為無量。如是等分別義。』
問曰。有三種眾生。有受樂如諸天及人少分。有受苦如三惡道及人中少分。有受不苦不樂五道中少分。云何行慈者觀一切眾生皆受樂。行悲者觀一切眾生皆受苦。 問うて曰く、三種の衆生有り、有るいは楽を受くること、諸天、及び人の少分の如し。有るいは苦を受くること三悪道、及び人中の少分の如し。有るいは不苦不楽を受くるもの、五道中の少分なり。云何が行慈の者は、一切の衆生の皆楽を受くるを観、行悲の者は、一切の衆生の皆苦を受くるを観る。
問い、
『衆生』には、
『三種』有り、
有る者は、
譬えば、
『諸天』や、
『人中の少分のように!』、
『楽』を、
『受け!』、
有る者は、
譬えば、
『三悪道』や、
『人中の少分のように!』、
『苦』を、
『受け!』、
有るいは、
『不苦不楽』を、
『受ける!』が、
『五道中の少分である!』。
何故、
『慈を行う!』者は、こう観るのか?――
一切の、
『衆生』は、
皆、
『楽』を、
『受けている!』、と。
何故、
『悲を行う!』者は、こう観るのか?――
一切の、
『衆生』は、
皆、
『苦』を、
『受けている!』、と。
答曰。行者欲學是慈無量心時。先作願。願諸眾生受種種樂。取受樂人相。攝心入禪。是相漸漸增廣。即見眾生皆受樂。譬如鑽火先以軟草乾牛屎。火勢轉大能燒大濕木。慈三昧亦如是。初生慈願時唯及諸親族知識。慈心轉廣怨親同等皆見得樂。是慈禪定增長成就故。悲喜捨心亦如是。 答えて曰く、行者は、是の慈無量心を学ばんと欲する時、先に願を、『願わくは、諸の衆生、種種の楽を受けん』、と作して、楽を受くる人の相を取り、心を摂めて、禅に入るに、是の相漸漸にして増広すれば、即ち衆生の皆楽を受くるを見る。譬えば火を鑽るに、先に軟草、乾牛屎を以ってし、火勢転た大なれば、能く大湿木を焼くが如し。慈三昧も亦た是の如く、初めて慈を生じて、願う時には、唯だ諸の親族、知識に及ぶのみなれど、慈心転た広まれば、怨親同等にして、皆楽を得るを見る。是の慈の禅定増長して、成就するが故なり。悲、喜、捨心も亦た是の如し。
答え、
『行者』が、
是の、
『慈無量』という、
『心』を、
『学ぼうとする!』時、
願わくは、――
諸の、
『衆生』が、
『種種の楽』を、
『受けるように!』と、
先に、
是のような、
『願を作して!』、
『楽を受ける!』、
『人の相』を、
『取り!』、
『心を摂(おさ)めて!』、
『禅定に入り!』、
是の、
『相』を、
『次第に増広する!』と、
即ち、
『衆生』が、
皆、
『楽しんでいる!』のが、
『見える!』。
譬えば、
『火を鑽()る!』のに、
先に、
『軟かい草』や、
『乾いた牛屎』を、
『用いれば!』、
次第に、
『火勢が大きくなって!』、
『湿った大木』を、
『焼くことができるようなものである!』。
是のように、
『慈三昧』も、
初めて、
『慈を生じて!』、
『願』を、
『作す!』時には、
唯だ、
諸の、
『親族、知識』に、
『及ぶだけである!』が、
次第に、
『慈心が広大になれば!』、
『怨、親』が、
『同等になり!』、
皆、
『楽を得る!』のが、
『見えてくる!』。
是の、
『慈』という、
『禅定(三昧)』が、
『増長して!』、
『成就するからである!』。
亦た、
『悲、喜、捨』の、
『心』も、
『是の通りである!』。
  鑽火(さんか):木できりもんで火を取ること。
  軟草(なんそう):柔らかい草。
  乾牛屎(けんごし):乾燥した牛の糞。
  湿木(しつもく):湿った木。
  知識(ちしき):知人。友人。
問曰。悲心中取受苦人相。喜心中取受喜人相。捨心中取何等相。 問うて曰く、悲心中には、苦を受くる人の相を取り、喜心中には、喜を受くる人の相を取りて、捨心中には、何等の相を取る。
問い、
『悲心』中には、
『苦を受ける!』、
『人の相』を、
『取り!』、
『喜心』中には、
『喜を受ける!』、
『人の相』を、
『取るならば!』、
『捨心』中には、
何のような、
『相』を、
『取るのですか?』。
答曰。取受不苦不樂人相。行者以是心漸漸增廣。盡見一切受不苦不樂。 答えて曰く、不苦不楽を受くる人の相を取る。行者は、是の心の漸漸に増広するを以って、尽く一切の不苦不楽を受くるを見る。
答え、
『不苦不楽を受ける!』、
『人の相』を、
『取るのである!』。
『行者』は、
是の、
『心』が、
『次第に!』、
『増広する!』が故に、
尽く、
一切の、
『不苦不楽を受ける!』、
『相』を、
『見ることになる!』。
  (い):<動詞>[本義]用いる( use )。使令する( take )、恃む( depend on )、看做す( consider as )、従事する( do )、<名詞>原因( reason )、<介詞>[手段]~で( using, taking, by means of )、依って/従って( in accordance with, by )、[時、場所]於いて/在りて( in )、[起点]~より( from )、<接続詞>為に( in order to, so as to, for )、[原因]因って/由って( because of )、[並列]~と( and, as well as )。
問曰。是三種心中應有福德。是捨心於眾生不苦不樂。有何等饒益。 問うて曰く、是の三種の心中には、応に福徳有るべし。是の捨心は、衆生に於いて、不苦不楽なれば、何等の饒益することか有る。
問い、
是の、
『三種の心』中には、
当然、
『福徳』が、
『有るはずだが!』、
是の、
『捨心』は、
『衆生にとっては!』、
『苦でもなく!』、
『楽でもない!』、
何のような、
『饒益(利益)』が、
『有るのですか?』。
答曰。行者作是念。一切眾生離樂時得苦。苦時即是苦。得不苦不樂則安隱。以是饒益。行者行慈喜心。或時貪著心生行悲心。或時憂愁心生。以是貪憂故。心亂。入是捨心除此貪憂。貪憂除故名為捨心。 答えて曰く、行者の是の念を作さく、『一切の衆生は、楽を離るる時に苦を得て、苦の時は、即ち是れ苦なるに、不苦不楽を得れば、則ち安隠なり』、と。是を以って饒益す。行者は、慈、喜の心を行ずれば、或は時に貪著の心生じ、悲心を行ずれば、或は時に憂愁の心生ず。是の貪、憂を以っての故に、心乱るれば、是の捨心に入りて、此の貪、憂を除き、貪、憂の除こるが故に、名づけて捨心と為す。
答え、
『行者』は、
是の念を作す、――
一切の、
『衆生』は、
『楽』を、
『離れる!』時には、
『苦を得て!』、
『苦』の時には、
是れが、
『苦である!』が、
若し、
『不苦不楽』を、
『得られれば!』、
『安隠である!』、と。
是の、
『理由で!』、
『衆生』を、
『饒益するのである!』。
『行者』は、
『慈、喜の心』を、
『行う!』時には、
或は、
『貪著の心』が、
『生じ!』、
『悲の心』を、
『行う!』時には、
或は、
『憂愁の心』が、
『生じて!』、
是の、
『貪、憂』の故に、
『心』が、
『乱れることになる!』が、
是の、
『捨心に入れば!』、
此の、
『貪、憂』を、
『除くことになり!』、
『貪、憂』が、
『除かれた!』が故に、
是れを、
『捨心』と、
『呼ぶのである!』。
問曰。悲心捨心可知有別。慈心令眾生樂。喜心令眾生喜。樂與喜有何等異。 問うて曰く、悲心、捨心は、別有るを知るべし。慈心は、衆生をして楽しましめ、喜心は、衆生をして喜ばしむるに、楽と喜と、何等の異か有る。
問い、
『悲心』と、
『捨心』とは、
『区別が有る!』と、
『知ることができるだろう!』。
『慈心』は、
『衆生』を、
『楽しませ!』、
『喜心』は、
『衆生』を、
『喜ばせるとすれば!』、
『楽』と、
『喜』とに、
何のような、
『異』が、
『有るのですか?』。
答曰。身樂名樂心樂名喜。五識相應樂名樂。意識相應樂名喜。五塵中生樂名樂。法塵中生樂名喜。先求樂願令眾生得從樂。因令眾生得喜。如人憐愍貧人。先施寶物是名樂。後教令賣買得受五欲樂。是名喜。 答えて曰く、身楽を楽と名づけ、心楽を喜と名づく。五識相応の楽を、楽と名づけ、意識相応の楽を、喜と名づく。五塵中に生ずる楽を、楽と名づけ、法塵中に生ずる楽を、喜と名づく。先に楽を求めて、衆生をして、従って楽を得しめんと願い、因りて、衆生をして喜を得しむ。人の貧人を憐愍するに、先に宝物を施せば、是れを楽と名づけ、後に教えて、売買させて、五欲の楽を受くるを得しむれば、是れを喜と名づくるが如し。
答え、
『身』の、
『楽』を、
『楽』と、
『呼び!』、
『心』の、
『楽』を、
『喜』と、
『呼ぶ!』、
『五識に相応する!』、
『楽』を、
『楽』と、
『呼び!』、
『意識に相応する!』、
『楽』を、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
『五塵中に生じる!』、
『楽』を、
『楽』と、
『呼び!』、
『法塵中に生じる!』、
『楽』を、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
先に、
『楽を求めて!』、
之に従って、
『衆生』に、
『楽を得させたい!』と、
『願い!』、
之に因って、
『衆生』に、
『喜』を、
『得させる!』。
例えば、
『貧人を憐愍して!』、
先に、
『宝物』を、
『施せば!』、
是れを、
『楽』と、
『呼び!』、
後に、
『売買を教えて!』、
『五欲の楽』を、
『受けさせられれば!』、
是れを、
『喜』と、
『呼ぶようなものである!』。
復次欲界樂願令眾生得是名樂。色界樂願令眾生得是名喜。 復た次ぎに、欲界の楽を、衆生をして得しめんと願えば、是れを楽と名づけ、色界の楽を、衆生に得しめんと願えば、是れを喜と名づく。
復た次ぎに、
『欲界』の、
『楽』を、
『衆生』に、
『得させたい!』と、
『願えば!』、
是れを、
『楽』と、
『呼び!』、
『色界』の、
『楽』を、
『衆生』に、
『得させたい!』と、
『願えば!』、
是れを、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
復次欲界中五識相應樂。初禪中三識相應樂。三禪中一切樂。是名樂。欲界及初禪意識相應樂。二禪中一切樂。是名喜。麤樂名樂細樂名喜。因時名樂果時名喜。初得樂時是名樂。歡心內發樂相。外現歌舞踊躍是名喜。譬如初服藥時是名樂。藥發遍身時是名喜。 復た次ぎに、欲界中の五識相応の楽、初禅中の三識相応の楽は、三禅中の一切の楽は、是れを楽と名づけ、欲界、及び初禅の意識相応の楽、二禅中の一切の楽は、是れを喜と名づく。麁の楽を楽と名づけ、細の楽を喜と名づく。因時を楽と名づけ、果時を喜と名づく。初めて楽を得る時は、是れを楽と名づけ、歓心内に楽相を発し、外に歌舞、踊躍を現せば、是れを喜と名づく。譬えば初めて薬を服む時は、是れを楽と名づけ、薬の遍身に発する時、是れを喜と名づくるが如し。
復た次ぎに、
『欲界』中の、
『五識に相応する!』、
『楽』と、
『初禅』中の、
『三識(眼、耳、鼻識?)に相応する!』、
『楽』と、
『三禅』中の、
『一切の楽』は、
是れを、
『楽』と、
『呼び!』、
『欲界、初禅』の、
『意識に相応する! 、
『楽』と、
『二禅』中の、
『一切の楽』は、
是れを、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
『麁大な!』、
『楽』は、
是れを、
『楽』と、
『呼び!』、
『細緻な!』、
『楽』は、
是れを、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
『因時』の、
『楽』を、
『楽』と、
『呼び!』、
『果時』の、
『楽』を、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
『初めて得た!』、
『楽』は、
是れを、
『楽』と、
『呼び!』、
『歓心』が、
内に、
『楽相』を、
『発し!』、
外に、
『歌舞、踊躍』を、
『現せば!』、
是れを、
『喜』と、
『呼ぶ!』。
譬えば、
初めて、
『薬を服む!』時の、
『楽』は、
是れを、
『楽』と、
『呼ぶ!』が、
『薬の効』が、
『遍身に発る!』時には、
是れを、
『喜』と、
『呼ぶようなものである!』。
  参考:『阿毘達磨順正理論巻78』:『論曰。生靜慮中初有三受。一者喜受意識相應。二者樂受三識相應。三者捨受四識相應。第二有二。謂喜與捨意識相應。無有樂受無餘識故。心悅麤故。第三有二。謂樂與捨意識相應。第四有一。謂唯捨受意識相應。是謂定生受有差別。上三靜慮無三識身及無尋伺。如何生彼能見聞觸及起表業。非生彼地無眼識等。但非彼繫所以者何。』
問曰。若爾者何以不和合二心作一無量。而分別為二法。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、二心を和合して、一無量と作さずして、而も分別して二法と為す。
問い、
若し、
爾うならば、
何故、
『二心を和合して!』、
『一無量心』と、
『作さず!』、
而も、
『二法』に、
『分別するのですか?』。
答曰。行者初心未攝。未能深愛眾生故。但與樂。攝心深愛眾生故與喜。以是故先樂而後喜。 答えて曰く、行者は初めは心を未だ摂せず、未だ能く深く衆生を愛せざるが故に、但だ楽を与え、心を摂して、深く衆生を愛するが故に喜を与うれば、是を以っての故に、先に楽、後に喜なり。
答え、
『行者』は、
初めは、
『心』を、
『摂(おさ)められず!』に、
深く、
『衆生を愛することができない!』が故に、
但だ、
『楽のみ!』を、
『与える!』が、
『心』を、
『摂められれば!』、
深く、
『衆生を愛する!』が故に、
『喜』を、
『与えることになる!』。
是の故に、
先が、
『楽であり!』、
後が、
『喜である!』。
問曰。若爾者何以不慈喜次第。 問うて曰く、若し爾らば、何を以ってか、慈、喜と次第せざる。
問い、
若し、
爾うならば、
何故、
『慈、喜』が、
『次第しないのですか?』。
答曰。行慈心時。愛眾生如兒子。願與樂出慈三昧故。見眾生受種種苦。發深愛心憐愍眾生。令得深樂。譬如父母雖常愛子。若得病急是時愛心轉重。菩薩亦如是。入悲心觀眾生苦憐愍心生便與深樂。以是故悲心在中。 答えて曰く、慈心を行ずる時、衆生を児子の如く愛して、楽を与えんことを願い、慈三昧を出づるが故に、衆生の種種の苦を受くるを見て、深き愛心を発して、衆生を憐愍し、深き楽を得しむ。譬えば父母の常に子を愛すと雖も、若し病の急なるを得れば、是の時愛心転た重きが如し。菩薩も亦た是の如く、悲心に入りて、衆生の苦を観、憐愍の心生じて、便ち深き楽を与う。是を以っての故に、悲心は中に在り。
答え、
『慈心を行う!』時、
譬えば、
『児子のように!』、
『衆生』を、
『愛して!』、
『衆生』に、
『楽を与えたい!』と、
『願う!』が、
『慈三昧より出る!』が故に、
『衆生』が、
種種の、
『苦』を、
『受けている!』のが、
『見える!』ので、
深い、
『愛心が発って!』、
『衆生』を、
『憐愍し!』、
深い、
『楽』を、
『衆生』に、
『得させるからである!』。
譬えば、
『父母』は、
常に、
『子』を、
『愛している!』が、
若し、
『病』を、
『得て!』、
『切迫すれば!』、
是の時、
『愛心』が、
『どんどん!』、
『重くなるように!』、
亦た、
『菩薩』も、
是のように、
『悲心に入って!』、
『衆生』の、
『苦』を、
『観る!』ので、
『憐愍心が生じて!』、
直ぐにも、
『深い楽』を、
『与えるのである!』。
是の故に、
『悲心』は、
『慈心、喜心』の
『中間』に、
『在るのである!』。
問曰。若如是深愛眾生復何以行捨心。 問うて曰く、若し是の如く深く衆生を愛すれば、復た何を以ってか、捨心を行ずる。
問い、
若し、
是のように、
深く、
『衆生』を、
『愛するならば!』、
いったい、
何故、
『捨心』を、
『行うのですか?』。
答曰。行者如是觀。常不捨眾生。但念捨是三種心。何以故。妨廢餘法故。亦以是慈心。欲令眾生樂。而不能令得樂。悲心欲令眾生離苦。亦不能令得離苦。行喜心時亦不能令眾生得大喜。此但憶想未有實事。欲令眾生得實事。當發心作佛。行六波羅蜜具足佛法。令眾生得是實樂。以是故捨是三心入是捨心。 答えて曰く、行者は是の如く観るに、常に衆生を捨てず、但だ是の三種の心を捨てんことを念ず。何を以っての故に、余法を妨廃するが故なり。亦た是の慈心を以って、衆生をして、楽ならしめんと欲すれども、楽を得しむ能わず。悲心もて、衆生をして苦を離れしめんと欲するも、亦た苦を離るるを得しむ能わず。喜心を行ずる時にも、亦た衆生をして、大喜を得しむ能わず。此れ但だ憶想にして、未だ実事有らず、衆生をして、実事を得しめんと欲すれば、当に心を発して仏と作り、六波羅蜜を行じて、仏法を具足し、衆生をして、是の実の楽を得しむべし。是を以っての故に、是の三心を捨てて、是の捨心に入る。
答え、
『行者』は、
是のように、
『観て!』、
常に、
『衆生』を、
『捨てず!』、
但だ、
是の、
『三種の心』を、
『捨てたい!』と、
『念じるだけである!』。
何故ならば、
『余の法』を、
『妨げ!』、
『廃れさせるからである!』。
亦た、
是の、
『慈心』を以って、
『衆生』を、
『楽にならせたい!』と、
『思っても!』、
『衆生』に、
『楽』を、
『得させられない!』し、
『悲心』を以って、
『衆生』に、
『苦を離れさせたい!』と、
『思っても!』、
『衆生』に、
『苦』を、
『離れさせることはできない!』。
亦た、
『喜心を行う!』時にも、
『衆生』に、
『大喜』を、
『得させられない!』。
此れは、
但だ、
『憶想するだけで!』、
未だ、
『実の事』が、
『無いからである!』。
若し、
『衆生』に、
『実の事』を、
『得させたい!』と、
『思うならば!』、
当然、
『心を発して!』、
『仏と作り!』、
『六波羅蜜を行って!』、
『仏法』を、
『具足し!』、
『衆生』に、
是の、
『実の楽』を、
『得させねばならない!』。
是の故に、
是の、
『三心を捨てて!』、
是の、
『捨心』に、
『入るのである!』。
復次如慈悲喜。心愛深故捨眾生難。入是捨心故易得出離。 復た次ぎに、慈、悲、喜心の如きは、愛深きが故に、衆生を捨つること難く、是の捨心に入るが故に、出離を得易し。
復た次ぎに、
『慈、悲、喜』などの、
『心』は、
『愛』が、
『深い!』が故に、
『衆生』を、
『捨てる!』ことが、
『難しい!』が、
是の、
『捨心に入る!』が故に、
『出離』が、
『得易い!』。
問曰。菩薩行六波羅蜜。乃至成佛亦不能令一切眾生離苦得樂。何以故。但言是三心憶想心生無有實事。 問うて曰く、菩薩の六波羅蜜を行じて、乃至仏と成るまで、亦た一切の衆生をして、苦を離れ、楽を得しむる能わず。何を以っての故に、但だ、『是の三心は憶想の心生じて、実の事有ること無し』、と言う。
問い、
『菩薩』は、
『六波羅蜜を行い!』、
乃至、
『仏』と、
『成るまでは!』、
一切の、
『衆生』には、
『苦を離れさせて!』、
『楽を得させられない!』が、
何故、
但だ、こう言うのですか?――
是の、
『三心』は、
『心』に、
『生じた!』、
『憶想であり!』、
『実』の、
『事』が、
『無い!』、と。
答曰。是菩薩作佛時。雖不能令一切眾生得樂。但菩薩發大誓願。從是大願得大福德果報。得大報故能大饒益凡夫。聲聞行是四無量。為自調自利故。亦但空念眾生。 答えて曰く、是の菩薩は、仏と作る時にも、一切の衆生をして、楽を得しむる能わずと雖も、但だ菩薩は、大誓願を発せば、是の大願によりて、大福徳の果報を得、大報を得るが故に、能く凡夫を大饒益す。声聞は、是の四無量を行ずるも、自ら調え、自ら利せんが為めの故なれば、亦た但だ空しく、衆生を念ずるのみ。
答え、
是の、
『菩薩』は、
『仏と作った!』時すら、
一切の、
『衆生』には、
『楽』を、
『得させられない!』が、
但だ、
『菩薩』は、
『大誓願を発した!』が故に、
是の、
『大願により!』、
『大福徳の果報』を、
『得ることになり!』、
『大果報を得る!』が故に、
『凡夫』を、
『大饒益することができるのである!』。
『声聞』は、
是の、
『四無量心を行っても!』、
自らを、
『調えて!』、
『利するだけである!』が故に、
但だ、
空しく、
『衆生』を、
『念じるだけである!』。
諸菩薩行是慈心。欲令眾生離苦得樂。從此慈心因緣。亦自作福德。亦教他作福德。受果報時或作轉輪聖王多所饒益。菩薩或時出家行禪。引導眾生教令行禪。得生清淨界受無量心樂。若作佛時共無量阿僧祇眾生。入無餘涅槃。比於空心願益是為大利。乃至舍利餘法多所饒益。 諸の菩薩は、是の慈心を行じて、衆生をして苦を離れ、楽を得しめんと欲すれば、此の慈心の因縁によりて、亦た自ら福徳を作し、亦た他に教えて、福徳を作さしめ、果報を受くる時には、或は転輪聖王と作りて、饒益する所多く、菩薩は、或は時に出家して禅を行じ、衆生を引導して、教えて禅を行ぜしめ、清浄界に生ずるを得て、無量の心に楽を受けしむ。若し、仏と作りたる時には、無量阿僧祇の衆生と共に、無余涅槃に入れば、空心もて、益を願うに比して、是れを大利と為し、乃至舎利、余法までも、饒益する所多し。
諸の、
『菩薩』が、
是の、
『慈心を行う!』時には、
『衆生』に、
『苦を離れて、楽を得させたい!』と、
『思う!』が故に、
此の、
『慈心の因縁により!』、
自らも、
『福徳』を、
『作し!』、
他にも、
『福徳』を、
『教えて!』、
『作させる!』ので、
『果報を受ける!』時には、
或は、
『転輪聖王と作って!』、
『饒益する!』所が、
『多く!』、
『菩薩』が、
或は、
『出家して!』、
『禅』を、
『行う!』時には、
『衆生を引導して!』、
『禅』を、
『教えて!』、
『行わせ!』、
『清浄』の、
『世界』に、
『生まれさせて!』、
『無量、無数の心』に、
『楽』を、
『受けさせ!』、
若し、
『仏と作った!』時には、
『無量阿僧祇』の、
『衆生と共に!』、
『無余涅槃』に、
『入る!』ので、
『空しい!』、
『声聞の心』の、
『願、益』に、
『比べて!』、
是れは、
『大利益であり!』、
乃至、
『舎利』や、
『余の法』までも、
『饒益する!』所が、
『多いのである!』。
復次若一佛盡度一切眾生。餘佛則無所復度。是則無未來佛為斷佛種。有如是等過。以是故一佛不度一切眾生。 復た次ぎに、若し一仏にして、尽く一切の衆生を度すれば、余の仏は、則ち復た度する所無く、是れ則ち未来の仏無く、仏種を断ずと為す。是れ等の如き過有れば、是を以っての故に、一仏にして、一切の衆生を度したまわず。
復た次ぎに、
若し、
『一仏』が、
一切の、
『衆生』を、
『尽く!』、
『度してしまえば!』、
『余の仏』には、
もう、
『度す!』所の、
『衆生』が、
『無いことになる!』が、
是れは、
則ち、
『未来』の、
『仏』が、
『無いことになり!』、
『仏』の、
『種』が、
『断じられることになる!』。
是れ等のような、
『過が有る!』ので、
是の故に、
『一仏』が、
『一切の衆生』を、
『度すことはない!』。
復次是眾生性從癡而有。非實定法。三世十方諸佛。求眾生實不可得。云何盡度一切。 復た次ぎに、是の衆生の性は、癡に従って有るも、実定の法に非ず。三世十方の諸仏も、衆生を求むれば、実に得べからず。云何が尽く一切を度せん。
復た次ぎに、
是の、
『衆生』の、
『性』は、
『癡』に、
『従って!』、
『有るのであって!』、
『実』が、
『定まった!』、
『法ではない!』。
『三世の十方』の、
『諸仏』が、
『衆生を求めても!』、
『実』は、
『認められない!』のに、
何故、
一切を、
『尽く!』、
『度すことができるのか?』。
問曰。若空不可得盡度者少亦俱空。何以度少。 問うて曰く、若し度す者の尽くが、空しくして不可得なれば、少なくとも、亦た倶に空し。何を以ってか、少しを度する。
問い、
若し、
『度す!』者の、
『尽く!』が、
『空しくして!』、
『認められなければ!』、
『少し!』でも、
『同じように!』、
『空しいはずである!』。
何故、
『少しならば!』、
『度せるのか?』。
答曰。我言三世十方佛求一切眾生不可得故無所度。汝難言何以不盡度。是為墮負處。汝於負處不能自拔。而難言無眾生中多少一種何以度少。是為重墮負處。 答えて曰く、我が言わく、『三世の十方の仏の一切の衆生を求むたもうに、不可得なるが故に度する所無し』、と。汝が難じて言わく、『何を以ってか、尽くを度せざる』、と。是れ負処に堕つると為す。汝は負処に於いて、自ら抜く能わずして、難じて言わく、『衆生無き中の多少の一種にして、何を以ってか少を度する』、と。是れを重ねて負処に堕すると為す。
答え、
わたしが、こう言うと、――
『三世、十方』の、
『仏』が、
一切の、
『衆生』を、
『求めた!』が、
『認識できなかった!』が故に、
『度する!』所の、
『衆生』は、
『無い!』、と。
お前は難じて、こう言った、――
何故、
『尽く!』を、
『度さないのか?』、と。
是れは、
『負処』に、
『堕ちたのである!』。
お前は、
『負処』より、
自らを、
『抜くことができない!』のに、
難じて、こう言った、――
『衆生が無い!』中の、
『多、少』中の、
『一種である!』が、
何故、
『少のみ!』を、
『度すのか?』、と。
是れは、
重ねて、
『負処』に、
『堕ちたのである!』。
復次諸法實相第一義中則無眾生。亦無度。但以世俗法故說言有度。汝於世俗中。求第一義。是事不可得。譬如瓦石中求珍寶不可得。 復た次ぎに、諸法の実相の第一義中には、則ち衆生無く、亦た度無し。但だ世俗の法を以っての故に、説いて『度有り』と言う。汝は、世俗中に於いて、第一義を求むるも、是の事は不可得なり。譬えば瓦石中に珍宝を求めて、不可得なるが如し。
復た次ぎに、
諸の、
『法』の、
『実相という!』、
『第一義』中には、
則ち、
『衆生』も、
『無く!』、
亦た、
『度する!』ことも、
『無い!』が、
但だ、
『世俗の法を用いる!』が故に、
『度が有る!』と、
『言うのである!』。
お前は、
『世俗の法』中に、
『第一義』を、
『求めている!』が、
是の、
『事』は、
『不可得( unobtainable )なのである!』。
譬えば、
『瓦石』中に、
『珍宝』を、
『求めても!』、
『得られないようなものである!』。
復次諸佛從初發心。乃至法盡。於其中間所有功德。皆是作法有限有量有初有後故。所度眾生亦應有量。不應以隨因緣果報有量法盡度無量眾生。如大力士弓勢雖大箭遠必墮。亦如劫盡大火燒三千世界明照無量雖久必滅。 復た次ぎに、諸仏の初発心より、乃至法の尽くるまでの、其の中間に於ける有らゆる功徳は、皆是れ作法、有限、有量、有初、有後なるが故に、度したもう所の衆生も、亦た応に有量なるべし。応に因縁果報に随う、有量の法を以って、尽く無量の衆生を度すべからず。大力の士の弓勢は、大なりと雖も、箭遠くんば、必ず堕つるが如く、亦た劫尽の大火は、三千世界を焼いて、明照すること無量にして、久しと雖も、必ず滅するが如し。
復た次ぎに、
諸の、
『仏』の、
初めて、
『心』を、
『発した!』時より、
乃至、
『法』の、
『尽きる!』までの、
其の、
『中間』の、
有らゆる、
『功徳』は、
皆、
『作法(≒有為法)であり!』、
『限、量が有り!』、
『初、後が有る!』が故に、
『度された!』所の、
『衆生』も、
『有量でなければならず!』、
亦た、
『因縁果報(因果の法則)に随う!』、
『有量の法』を以って、
『無量の衆生』の、
『尽く!』を、
『度せるはずがない!』。
譬えば、
『大力の士』の、
『弓』の、
『勢』が、
『大であった!』としても、
『箭』は、
『遠く飛べば!』、
『必ず堕ちるようなものであり!』、
亦た、
『劫尽の大火』は、
『三千世界を焼いて!』、
『明照』が、
『無量だとしても!』、
『久しくすれば!』、
『必ず!』、
『滅するようなものである!』。
  劫尽(こうじん):劫の尽くる時。
  明照(みょうしょう):明るく照らす。
  作法(さほう):作為有る法/造作された法。『大智度論巻19下注:業』参照。
菩薩成佛亦如是。從初發意執精進弓用智慧箭。深入佛法大作佛事亦必當滅。菩薩得一切種智時。身出光明照無量世界。一一光明變化作無量身。度十方無量眾生。涅槃後八萬四千法聚。舍利化度眾生。如劫盡火照久亦復滅。 菩薩は、仏と成りても、亦た是の如く、初発意より、精進の弓を執り、智慧の箭を用いて、深く仏法に入り、大いに仏事を作すも、亦た必ず当に滅すべし。菩薩は、一切種智を得る時、身より光明を出して、無量の世界を明照し、一一の光明変化して、無量の身を作し、十方の無量の衆生を度して、涅槃の後には、八万四千の法聚、舎利もて衆生を化度したもうも、劫尽の火の如く、照すこと久しければ、亦復た滅す。
『菩薩』は、
『仏と成っても!』、
是のように、
初めて、
『意』を、
『発した!』時より、
常に、
『精進という!』、
『弓』を、
『執り!』、
『智慧という!』、
『箭』を、
『用い!』、
深く、
『仏』の、
『法』に、
『入って!』、
大いに、
『仏』の、
『事( work )』を、
『作すのである!』が、
亦た、
当然、
『必ず!』、
『滅することになる!』。
『菩薩』は、
『一切種智を得た!』時、
『身』より、
『光明を出して!』、
『無量の世界』を、
『明照し!』、
『一一』の、
『光明が変化して!』、
『無量の身』を、
『化作し!』、
『十方』の、
『無量の衆生』を、
『度して!』、
『涅槃の後』には、
『八万四千の法聚』と、
『舎利』とが、
『衆生』を、
『化度するのである!』が、
譬えば、
『劫尽の火のように!』、
『久しく!』
『照らせば!』、
復た、
『滅するのである!』。
  化作(けさ):別の形に変化すること。
  化度(けど):衆生を悪より善に化して度するの意。
問曰。汝自言光明變化作無量身。度十方無量眾生。今何以言有量因緣故。所度亦應有量。 問うて曰く、汝が自ら言わく、『光明変化して、無量の身と作り、十方の無量の衆生を度す』、と。今は何を以ってか言う、『有量の因縁の故に、度する所も亦た応に有量なるべし』、と。
問い、
お前は、
自ら、こう言ったが、――
『光明』が、
『変化して!』、
『無量の身』と、
『作り!』、
『十方』の、
『無量の衆生』を、
『度す!』、と。
今は、
何故、こう言うのか?――
『有量』の、
『因縁』の故に、
亦た、
『度す!』所も、
『有量でなければならない!』、と。
答曰。無量有二種。一者實無量。諸聖人所不能量。譬如虛空涅槃眾生性是不可量。二者有法可量。但力劣者不能量。譬如須彌山大海水斤兩渧數多少。諸佛菩薩能知。諸天世人所不能知。佛度眾生亦如是。諸佛能知。但非汝等所及故言無量。 答えて曰く、無量には二種有り。一には実の無量にして、諸の聖人の量る能わざる所なり。譬えば虚空、涅槃、衆生の性は、是れ不可量なり。二には法有りて量るべきに、但だ力の劣る者の量る能わざるのみ。譬えば須弥山、大海水の斤両、渧数の多少の如し。諸仏、菩薩は能く知りたもうに、諸天、世人の知る能わざる所なり。仏の衆生を度したもうも、亦た是の如く、諸仏は能く知りたもう。但だ汝等が及ぶ所に非ざるが故に、無量と言う。
答え、
『無量』には、
『二種有り!』、
一には、
『実の無量であり!』、
諸の、
『聖人すら!』、
『量れない所である!』。
譬えば、
『虚空、涅槃、衆生の性』、
是れは、
『量れない!』。
二には、
『法』が、
『有って!』、
『量ることができる!』が、
但だ、
『力の劣る!』者に、
『量れないだけである!』。
譬えば、
『須弥山の斤両』や、
『大海水の渧数(滴数)』などの、
『多少』は、
諸の、
『仏、菩薩だけ!』が、
『知ることができ!』、
諸の、
『天、世人』の、
『知ることのできない所である!』が、
『仏の度される!』、
『衆生』も、
亦た、
是のように、
諸の、
『仏だけ!』が、
『知ることができ!』、
お前などの、
『及ぶ所ではない!』が故に、
こう言うのである、――
『無量である!』、と。
  斤両(きんりょう):目方の単位。衡量の名。一斤は十六両にして、今の約600g。
  渧数(たいすう):しずくの数。
復次諸法因緣和合生故無有自性。自性無故常空。常空中眾生不可得。 復た次ぎに、諸法は因縁和合の生なるが故に、自性有ること無し。自性無きが故に常空なり。常空中には、衆生は不可得なり。
復た次ぎに、
諸の、
『法』は、
『因縁』の、
『和合』の、
『生である!』が故に、
自らの、
『性』が、
『無い!』。
『法』に、
『自性』が、
『無い!』が故に、
『常に空である!』。
『常に空である!』中には、
『衆生』は、
『認められない!』。
如佛說
 我坐道場時  智慧不可得 
 空拳誑小兒  以度於一切 
 諸法之實相  則是眾生相 
 若取眾生相  則遠離實道 
 常念常空相  是人非行道 
 不生滅法中  而作分別相 
 若分別憶想  則是魔羅網 
 不動不依止  是則為法印
仏の説きたまえるが如し、
我が道場に坐する時の、智慧は不可得なり、
空拳の小児を誑すを以って、一切を度す。
諸法の実相は、則ち是れ衆生相なり、
若し衆生の相を取らば、則ち実道を遠離せん。

常に常空の相を念ぜば、是の人は行道に非ず、
生滅せざる法中に、相の分別を作せばなり。
若し分別し憶想せば、則ち是れ魔の羅網なり、
動ぜず、依止せず、是れを則ち法印と為す。
例えば、
『仏』は、こう説かれた、――
わたしの、
『道場に坐す!』時の、
『智慧』は、
『認識することができない!』。
譬えば、
『小児を誑(たぶらか)すような!』、
『空拳』を、
『用いて!』、
一切を、
『度するからである!』。
諸の、
『法の実相』は、
則ち、
是れが、
『衆生の相である!』が、
若し、
『衆生の相』を、
『取ろうとすれば!』、
則ち、
『実の道』を、
『遠離することになろう!』。
常に、
『常空の相』を、
『念ずれば!』、
是の、
『人』は、
『道』を、
『行うことにならない!』、
『不生不滅』の、
『法』中に、
『相』を、
『分別しようとするからである!』。
若し、
『分別、憶想すれば!』、
是れは、
『魔』の、
『羅網(鳥網)である!』。
『法』に、
『心』を、
『動かさず!』、
『依止しなければ!』、
是れが、
則ち、
『法印である!』。
  空拳(くうけん):空のこぶし。
  羅網(らもう):鳥獣を捕捉する網( net, trap, snare )。
  依止(えし):よりどころとしてとどまる。よりどころとすること。
  法印(ほういん):法の印章( dharma-seal )、梵語 dharma- mudraa の訳、仏の真実性の印章、仏の真実性、常住性、普遍性と、有る仏から、別の仏に伝達することの確実性を表す( The seal of Buddha-truth, expressing its reality and immutability, also its universality and its authentic transmission from one Buddha or patriarch to another. )。『大智度論巻14下注:三法印』参照。
  参考:『大乗頂王経』:『我說於常想  常體不可得  常無常無故  求之不可得  樂想眾生者  不知於樂想  此是顛倒想  分別生於人  是故彼有想  命者及以人  若有知法者  彼此不可得  非道得菩提  非道亦不得  此是諸法性  求法不可得  性及於實事  智者不分別  汝應如是知  此道是菩提  不行此妙乘  佛乘無上乘  於此生分別  是人不知法  不行此妙乘  佛乘無上乘  若不修此行  甚深定難證  諸法無實事  實事不可得  若無實事者  云何得有樂  若樂若苦等  猶如空中跡  智者如說知  其心得解脫  我說有我者  其法無實事  以無有我故  無有能知者  無有知者故  是智慧境界  是以說命想  畢竟不可得  若我若命等  自性無實事  大智能解知  少智則迷惑  性及於實事  此凡夫境界  不知此乘中  佛乘不思議  甚深修多羅  不聞不受持  於此法門中  無法可演說  我不得一法  亦無法可說  我坐道場時  不證一智慧  無智亦如是  菩提無得故  菩提及道場  說時不可得  凡夫起分別  稱言佛說法  此是微密言  甚深佛所說  若不聞此法  最勝之所說  甚深及與佛  此是魔境界  其人不知味  守護一切法  諸菩薩眾等  無不了此法  諸佛及菩提  二俱不可得  如是妄言說  稱云佛說法  如此云何有  依止於可求  若有智慧者  分別甚深法  如是信讚歎  諸佛不思議  是故善思惟  當修學深法  其法義甚深  甚深智能覺  如是言說此  言說亦無得  眾生見顛倒  此非其境界  非唯三昧故  能知於此義  三昧非三昧  於空中亦無  此非智境界  亦非非智境  應覺知此際  非是智慧境  我昔聞此法  行於甚深處  眾生所樂異  信受者希有  若不信此經  最勝之所說  多佛種善根  是人乃能信』
問曰。若樂有二分。慈心喜心。悲心觀苦何以不作二分。 問うて曰く、若し楽に、二分有りて、慈心、喜心なれば、悲心の苦を観ずるに、何を以ってか、二分を作さざる。
問い、
若し、
『楽』に、
『慈心、喜心』の、
『二分』が、
『有るならば!』、
何故、
『苦を観る!』、
『悲心』は、
『二分』と、
『作さないのですか?』。
答曰。樂是一切眾生所愛重故作二分。是苦不愛不念故不作二分。又受樂時心軟。受苦時心堅。 答えて曰く、楽は、是れ一切の衆生の愛重する所なるが故に、二分を作す。是の苦は、愛せず、念ぜざるが故に二分を作さず。又楽を受くる時の心は軟らかく、苦を受くる時の心は堅ければなり。
答え、
『楽』は、
一切の、
『衆生』の、
『愛する所であり!』、
『重んじる所である!』が故に、
是れを、
『二分』と、
『作し!』、
是の、
『苦』は、
『愛されず!』、
『念じられない!』が故に、
則ち、
『二分』を、
『作さないのである!』。
又、
『楽を受ける!』時の、
『心』は、
『軟らかく!』、
『苦を受ける!』時の、
『心』は、
『堅いからである!』。
如阿育王弟違陀輸。七日作閻浮提王。得上妙自恣五欲。過七日已。阿育王問言。閻浮提主受樂歡暢不。答言。我不見不聞不覺。何以故。旃陀羅日日振鈴高聲唱。七日中已爾許日過。過七日已汝當死。我聞是聲雖作閻浮提王上妙五欲。憂苦深故不聞不見。 阿育王の弟違陀輸は、七日、閻浮提の王と作り、上妙を得て、自ら五欲を恣にす。七日を過ぎ已りて、阿育王の問うて言わく、『閻浮提の主の楽を受くること、歓暢なるや不や』、と。答えて言わく、『我れは見ず、聞かず、覚らず。何を以っての故に、旃陀羅の日日、鈴を振りて、高声に唱うらく、七日中の已に爾許の日過ぎたり。七日を過ぎ已れば、汝は当に死すべしと。我れ是の声を聞いて、閻浮提の王の上妙の五欲を作すと雖も、憂苦深きが故に、聞かず、見ざるなり』、と。
例えば、
『阿育王の弟』の、
『違陀輸』は、
『七日間』、
『閻浮提の王と作って!』、
『上妙』の、
『五欲(色声香味触)』を、
『得て!』、
自ら、
『恣(ほしいまま)にした!』が、
『七日が過ぎる!』と、
『阿育王』は問うて、こう言った、――
『閻浮提の主の受ける!』、
『楽』を、
『徹底的に!』、
『楽しんだか?』、と。
『違陀輸』は答えて、こう言った、――
わたしは、
『見ることもなく!』、
『聞くこともなく!』、
『覚ることもありませんでした!』。
何故ならば、
『旃陀羅(処刑人)』が、
『日日』、
『鈴』を、
『振りながら!』、
『高声』に、こう唱えるからです、――
『七日』中の、
何々の、
『日』が、
『過ぎました!』。
『七日が過ぎれば!』、
あなたは、
『死なねばなりません!』、と。
わたしは、
是の、
『声』を、
『聞いておりました!』ので、
『閻浮提の王』の、
『上妙』の、
『五欲』を、
『作していても!』、
『憂苦の深い!』が故に、
『聞えるものもなく!』、
『見えるものもないのです!』、と。
  歓暢(かんちょう):徹底的に楽しむ( thoroughly delighted )。
  爾許(にこ):こればかり。
  上妙(じょうみょう):上等ですばらしい。
  阿育王(あいくおう):阿育azokaは梵名。巴梨名asoka、又阿輸迦、阿輸伽、阿恕伽、阿戌笴、阿儵に作る。無憂と訳す。又天愛喜見王devaanaMpiya piyadasiの称あり。西紀前三世紀頃の出にして、印度を統一し、大いに仏経を保護せし大王なり。印度摩揭陀国孔雀maurya王朝の祖旃陀掘多candragupta大王の孫にして父は賓頭沙羅bindusaara、母は梵文azokaavadaana、並びに「阿育王伝巻1」等にsubhadraaangiiなりとし、婆羅門姓なりと云えり。(ターラナータの印度仏教史第六章にはcampaarNa国のnemita王の子とす)。幼時甚だ狂暴にして父王の寵なく、偶ま德叉尸羅takSaziila国に叛逆あるや、父王は彼れをして往きて之を征討せしむ。蓋し其の陣歿を期せるなり。されど阿育は予期に反して能く之を平定し、威権大いに張り、遂に父王の崩後、其の兄弟を殺して王位に登れり。或いはいう、九十九人の兄弟を殺し、王位に登れる後も亦た狂暴を極め、臣を殺し、婦女を戮し、又地獄を作りて無辜の民を残害せしを以って暴悪阿育caNDaazoka(ターラナータの印度仏教史には愛欲阿育kaamaazokaとす)と呼ばれたりと。されど「大磨崖法勅第四章、第五章、第六章」、並びに「石柱法勅第七章」、及び「皇后の法勅」等に、王の治世中に尚お兄弟姉妹ありしことを記すれば、其の殺戮の伝説は後世に至りて誇張せられたるものというべし。王が華氏城を首都とし、且つ其の主権の範囲が、西北は臾那yonas(yavanas)、カンボーヂャkambojas等の種族より、南は案達羅andhra、プリンダpulindas種族に及びしことは「磨崖法勅第二章、第五章及び第十三章」に記する所に依りて知るを得べし。斯の如く王は広袤数千里に亘る大版図を統御して其の施政宜しきを得たりしのみならず、亦た真理を愛好し、博愛の精神の盛んなりしことは、印度の古今を通じて空前絶後たるは勿論、実に有史以来の大王たりと称せざるべからず。王の帰仏の年月並びに其の因縁に関しては諸説あり、「阿育王伝巻1」等には海samudra比丘の奇跡を見たるに基づくとし、「島史第六章」、並びに「善見律毘婆沙巻1」には、尼瞿陀nigrodhaの感化に起因すとし、ターラナータの「印度仏経史第六章」には、耶舎yaza阿羅漢の弟子の奇瑞に由来すとなせり。「小磨崖法勅」に依るに、王は帰仏の後、二年半有余は単に優婆塞たるに止まり、未だ精懃することなかりしも、其の後一年有余に亘り、僧に近づきて熱心に修道せしと云えり。此の記載を「大磨崖法勅第八章」の、「潅頂即位十年を過ぎて三菩提に往けり」と云える文に合考するに、王の優婆塞となりしは即位後第七年頃なりしを知るなり。但し「島史第六章」には、王の帰仏を即位後三年となせり。又「大磨崖法勅第十三章」に依るに、王は即位後八年にして羯[飯- 反+夌]伽kaliGgaを征服せしが、其の殺戮の悲惨なるを見て大いに感動し、仏教の信念を一層熱烈ならしめたるが如く、仍りて王は兵力に依る統一を放棄し、「法による勝利なるものこそ是れ即ち最上の勝利なれ」(大磨崖法勅第十三章)との信念の下に、仏教の宣伝に専心するに至れり。王が其の国内に八万四千の僧伽藍を建て、八万四千の仏塔を造れりと云える伝説は、「島史第六章」、「善見律毘婆沙巻1」、「雑阿含経巻23」、「阿育王伝巻1」等に悉く掲ぐる所なるも、王の法勅中には此等の事を記せず。又「善見律毘婆沙巻2」に、王は即位の十七年華氏城に於いて第三次の仏典結集を企て、目犍連子帝須moggaliputta- tissaを上座として一千の長老之に従事し、九月を経て遂に其の功を終え、次いで罽賓kasmiira及び犍陀羅gandhaara国に末闡提majjhantikaを、摩醯娑末陀羅mahisakamaNDala国に摩訶提婆mahaadevaを、婆那婆私vanavaasi国に勒棄多rakkhitaを、阿波蘭多迦aparantaka国に曇無徳yonaka- dhammarakkhitaを、摩訶勒咜mahaaraTTha国に摩訶曇無徳mahaadhammarakkhitaを、臾那世界yonaka- loka国に摩訶勒棄多mahaarakkhitaを、雪山辺himavantapadesa国に末示摩majjhimaを、金地suvaNNabhuumi国に須那迦sonaka、及び鬱多羅uttaraを、師子tambapaNNidiipa国に摩哂陀mahinda、鬱帝夜uttiya、参婆楼sambala、拔陀bhaddasaalaを差遣し、各伝道に従事せしめたることを記し、又「島史第七章」には、巴梨論蔵の一なる迦他跋偸kathaavatthuは当時結集の際に結集せられたるものとなせり。然るに王の法勅中には亦た此等の事を伝えず。但だ「大磨崖法勅第三章、第五章、及び第十三章」等に、王は五年毎に司法と徴税を掌る官吏の会議を開き、法の教勅、法の樹立増長の為に法大官dhamma- mahaamaataを設けたることを記し、且つ其の正法に随順せる地方も、「善見律毘婆沙」に伝うるものより遙かに広範囲にして、西方はシリアsyria、エヂプトegypt、マケドニアmacedonia、キレネcyrene等に及びしことを想察し得べきものあり。加之第三結集の伝説は、北方伝たる「阿育王伝」等には全然之を欠けり。「大智度論巻2」に、「阿輸迦王は般闍于瑟(即ち五年大会)の大会を作し、諸大法師論議異なりしが故に別部の名字あり」と云うも、是れ必ずしも結集の義と見るべきに非ず。されば第三結集の伝説は事実未だ詳ならざるものありと謂うべし。王の当時に存せし経典としては、カルカッタ・バイラートcalcutta- bairaatの「小磨崖法勅」に、毘奈耶に於ける「最勝法説vinaya- samukase」、「聖種経aliya- vasaaNii」、「当来怖畏経anaagata- bhayaani」、「牟尼偈muni- gaathaa」、「寂黙行経moneya- suute」、「優波帝沙門経upatisa- pasine」、「説羅睺羅経laaghuloovada」の七種を挙ぐ。此等は巴梨律蔵中の「大品」、「増上部経」、「経集」、「中部経」等の一部に相当するものと想像せらる。又「善見律毘婆沙巻2」に各地に派遣せられし伝道師の其の地方に於いて説ける経として、「読譬喩経asivisopama- suttanta」、「天使経devaduuta- sutta」、「無始経anamataggapariyaaya- kathaa」、「火聚譬経aggikkhandhuupa- suttantakathaa」、「摩訶那羅陀迦葉本生経mahaanaaradakassapa- jaataka」、「迦羅羅摩経kaalakaaraama- suttanta」、「初転法輪経dhammacakkappavattana- suttanta」、「梵網経brahmajaala- suttanta」の八種を挙げ、「島史第八章」には同じく諸伝道師の説ける経として、anamataggiya、aggikkhandhopama- suttakathaa、naaradakassapa- jaatakakathaa、kaalakaaraama- suttantakathaa、dhammacakkappavattanaの五部を出せり。此等は共に王の時代に行われたる経典なりというべし。又「大磨崖法勅第一章より第四章、第十一章」、「石柱法勅第五、第七章」に依るに、王は即位の後、二十六回の特赦を行い、其の他殺生を禁じ、布施を行い、路傍に樹木を植え、井を穿つ等の業を興したることを記し、又仏陀の誕生地たる臘伐尼に存する石柱には、潅頂即位後二十年にして此の地に詣でたることを刻し、「ニグリーヴァnigliiva石柱法勅」には、拘那含牟尼konaakamana仏の塔に賽して之を修補せしこと等を録せり。王の晩年は悲惨なりしが如く、そは「阿育王伝巻3」等に王の后帝沙羅叉tassaarakkhaaは王子駒那羅kuNaalaと通ぜんとして果たさず、人をして其の眼を挑らしめたるにより、王は怒りて帝沙羅叉を焚殺せりと云い、又王は所有の財宝を悉く供養し了りて更に供養の資なく、最後に半阿摩勒amalaka果を取りて之を鶏雀kurkuTa寺に供養せりと伝えらるるに依りて察するを得べし。王の出世年代に関しては古来種種に異説するも、「大磨崖法勅第十三章」に挙げたる希臘五王国の各王在位の共通年数は、西紀前二六一年、若しくは二七二年より二五八年に至る四年間、若しくは十五年間なるを以って、其の潅頂即位が西紀前二七〇年頃に在りしことを推定するを得べし。又仏滅より王の出世に至るまでの年数に関しては北方伝たる「雑阿含経巻23」、「賢愚経巻3阿輸迦施土品」、「僧伽羅刹所集経巻下」、「雑譬喩経巻上」、「大荘厳論経巻10」、「大智度論巻2」等に仏滅百年とし、「異部宗輪論」に百有余年、「十八部論」及び「部執異論」には百十六年となせり。又南方伝たる「島史第六章」、「善見律毘婆沙巻2」等には、王の即位を仏滅二百十八年とし、而して仏滅百年頃、別に迦羅育kaalaasokaなる王ありて在位せりとし、「西蔵文于闐懸記」には、仏入滅後二百三十四年にして達磨阿育王ありと云い、又「島史第五章」には、王の治世を三十七年間となせり。又「阿育王伝」、「阿育王経」、「阿育王息壊目因縁経」、「舎利弗問経」、「大荘厳論経巻3、4、10」、「分別功徳論巻3」、「撰集百縁経巻10」、「付法蔵因縁伝巻3」、「大唐西域記巻8」等に出づ。<(望)
  違陀輸(いだゆ):梵名vitaazoka?又毘多輸柯に作る。「阿育王経巻3毘多輸柯因縁」には、阿育王の弟なれど、外道の法を信ぜしが故に、王の教勅を蒙って外道の苦行も、亦た五欲に著するも、倶に空しきことを悟ることができ、後に仏に帰依して阿羅漢を成ずと云えり。此の中、王は方便心を以って、浴室に於いて衣冠を脱ぎ、大臣に命じて、謀りて王弟に其れを著けしむれば、王弟知らずに其れを著け、戯れて王の玉座に登れり。王、其れを観るに及んで、怒りて行殺の人を呼び、王弟には七日の間、王たるを聴し、其の後殺すべしと命ずと云々。
  旃陀羅(せんだら):梵語caNDaalaの訳、屠殺者と訳す。『大智度論巻14下注:旃陀羅』参照。
  参考:『阿育王経巻3』:『毘多輸柯因緣  是時阿育王於佛法生大信心。起八萬四千塔已作五眾大會以飲食供養。有三十萬阿羅漢學人一倍精進凡夫無數。阿育王倍生信心。時阿育王弟毘多輸柯信外道法言。釋迦牟尼弟子無有解脫。何以故。常樂樂行畏苦行故。乃至阿育王語其弟言。汝於非處莫起信心。於佛法處當生信心。時阿育王於異時中欲為捕獵。阿育王弟於彼山中見一仙人五熱炙身。其於苦道而起實意。往其所禮其足。說言大德住此幾時。仙人答言。經十二年。復更問言。汝食何食。答言。常食樹木果根。復問。汝衣何衣。答言。結茅為衣。復問。臥處云何。答言。以草鋪地。又問。汝因何事而起煩惱。答言。見鹿行欲起我欲心。以欲心火燒於我心。時阿育王弟心便生疑。如此苦行尚起欲心。佛之弟子常修樂行。云何見欲而不起心。既起欲心何得於欲而起厭離。即說偈言 仙人往苦林  食樹花果根  服氣除穢食  不能滅欲愛  釋迦牟尼子  食酥酪乳味  於種種衣服  悉皆不能捨  若伏諸根者  頻陀山能浮  阿育王弟復更說言。釋迦弟子誑阿育王令作功德。時阿育王聞其此言。即設方便語大臣言。我弟於外道生信。當以方便令其得入佛法。時大臣答阿育王言。大王云何教我所作。王語大臣。我今欲洗入彼浴室。應脫天冠及衣服等。汝當以我服飾莊嚴我弟令登王座。臣答言爾。及至阿育王將入浴室脫莊嚴具。入浴室已。是時大臣語阿育王弟。若無阿育汝當作王。是故今者試著天冠被天衣服及登王座。大臣語已而便與著令登王座。時大臣即白阿育王言。王所敕使臣已作竟。阿育王出觀其弟。著天冠及登王座。而語言。我今未滅汝已作王。阿育王嗔即命行殺之人。身著青衣披髮執鈴。至已禮王白言。今者欲何所作。王語言。我捨此弟汝可殺之。王語已竟。便有多人執諸器仗而圍繞之。是時大臣禮阿育王足。而白王言。此是王弟願王忍辱莫起嗔心。時阿育王答大臣言。我當忍辱。至於七日為我弟故於七日中暫與其國令其作王。種種伎樂及諸婇女以供給之。一切臣民皆往問訊。行殺之人執刀門立。日日白王。今一日已過餘六日在。如是乃至六日已過餘一日在。至第七日王莊嚴具天冠衣服還阿育王。大臣諸人將毘多輸柯共往問訊阿育大王。時王問言。汝七日為王種種伎樂好聞見不。弟以偈答言 若人見色  及聞音聲  食種種味  此能答王  王復語言。我與汝國七日為王。百種伎樂皆恣汝意。無數眾人日日問訊咒願於汝。云何而言。不見不聞不得好味。復以偈答 我於七日中  不見不聞聲  不嗅不嘗味  亦不覺諸觸  我身莊嚴具  及諸婇女等  思惟懼死故  不知如此事  伎女歌舞聲  宮殿及臥具  大地諸珍寶  初無歡喜心  以見行殺者  執刀在門立  又聞搖鈴聲  令我懷死畏  死撅釘我心  不知妙五欲  既著畏死病  不得安隱眠  思惟死將至  不覺夜已過  是時阿育王語其弟言。毘多輸柯汝於一生中思惟死苦。雖得上妙五欲而不生愛。出家比丘於十二入思惟無量生死無常。云何而得起煩惱耶。又復思惟地獄之苦及諸畜生更相殘害。餓鬼飢渴眾苦所逼。思惟人中四方馳走初無安樂。思惟天上壞敗之苦。如是五道身心之苦無有樂處。觀此五陰無常苦空無我不實。譬如空村無有居民。如是五陰皆空無我。以無常火燒諸世間。佛諸弟子常作此觀。云何而得起煩惱耶。復說偈言 汝於一日中  思惟生死畏  而無有歡樂  不起貪愛心  佛諸弟子等  日日觀生死  云何生歡樂  而起煩惱心  於飲食衣服  及以臥具等  思惟解脫法  而不起著心  觀身如怨家  三有如火宅  思惟何方便  而得解脫之  深樂解脫法  不貪於五欲  其心如蓮華  處水而不著  時阿育王。以善方便佛法教化毘多輸柯。時毘多輸柯合掌向王而說言。大王。我於今者歸依如來及以法僧。而說偈言 我今歸依佛  佛面如蓮華  天人所歸依  無漏法及僧  時阿育王。以兩手抱其弟頸而語言。我不誤汝。為欲令汝信佛法故。是故為汝現此方便。時毘多輸柯以種種華香及諸伎樂供養佛塔。以種種飲食供養眾僧。復往雞寺耶舍上座六通羅漢所。至已對耶舍坐為欲聞法。時耶舍以神通力。見其前世已造善業。今於此生是最後身得阿羅漢。為其說法讚歎出家。既得聞法便樂出家。即起合掌白耶舍言。善說法律我得出家受具足不。於佛法中欲修梵行。耶舍答言。善男子。汝可還白阿育王聽出家不。時毘多輸柯即還阿育王處。至已合掌白言。大王。今當聽我出家。我於佛法欲修梵行。復說偈言 我心亂不住  猶如象無鉤  王意如鐵鉤  勿制我出家  王為地中主  當聽我出家  佛作世間光  今欲修其行  阿育王聞其言。手抱其頸。悲泣落淚而語言。毘多輸柯勿作此意。何以故。出家之人形服麤弊飲食假人眠臥樹下。汝今制心勿欲出家。毘多輸柯答言。大王。我於今者不為瞋故而欲出家。亦不為貪欲。不為貧苦。亦不為脫怨家。但見世間種種諸苦生死相隨無有脫處。唯見佛法正路能脫生死終無所畏。是故我今樂欲出家。阿育王聞之更增悲泣。時毘多輸柯復說偈言 生死為懸繩  有人則恒動  在上必復墮  和合必分離  時阿育王復語之言。汝當先習乞食。然後乃得出家。時王後園有一大樹以草布地令住其下。與一瓦缽令入宮乞食。毘多輸柯。即便持缽行入宮內。種種上食而便得之。時阿育王嗔宮內人。汝於今者云何乃與乞食者上食。從今已去當以麤食施之。乃至以麥為飯。經宿臭壞乃可施與。時毘多輸柯得而食之不以為惡。阿育王見而語之言。汝今勿食此食。聽汝出家。出家之後恒來見我。乃至毘多輸柯往至雞寺。至已思惟。我若於此出家。人物亂我不得修道。當於遠處而出家也。便往毘提國於彼出家。思惟精進得阿羅漢果。』
  阿育王(あいくおう):アショカ王。西暦前321年ころ、印度に孔雀王朝を創立した旃陀掘多(せんだくった、チャンドラグプタ)大王の孫。西暦前270年ころ、全印度を統一し、大いに仏教を保護して、これを各地に宣布せしめた。
  違陀輸(いだゆ):韋陀輸(いだゆ)、帝須(たいす)、阿育王の弟。初め仏教を信じなかったが、一日森林に入り、群鹿が交尾するのを見て、比丘は、はたして本当に、欲を制することができるのだろうかと疑い、還ってからこれを王に語った。王は、これが疑いを解くためと、これを仏教に帰せしめんが為に、一計を案じて、これに七日の間王位に就け、七日を過ぎれば命を取ろうと告げた。違陀輸は、七日の間、王位に上って快楽を恣にしたが、死を畏れて安んずる日が無く、欲も起こらず、憂悩し憔悴した。七日を過ぎて王は、違陀輸を諭してこう告げた、『出家の比丘は、常に死を思っている。その故に染著心を起こす暇が無いのだ。』と。(『南伝善見律』による)
  旃陀羅(せんだら):屠殺者。四姓の外の最下級の姓。
以是故知苦力多樂力弱。若人遍身受樂。得一處針刺眾樂皆失但覺刺苦。樂力弱故。二分乃強苦力多故一處足明。 是を以っての故に知るらく、『苦の力は多く、楽の力は弱し』、と。若し人、遍身に楽を受けんに、一処に針の刺すを得れば、衆楽は、皆失いて、但だ刺す苦を覚えん。楽の力の弱きが故に、二分すれば乃ち強く、苦の力は多きが故に一処にて、明らむるに足る。
是の故に、こう知ることになる、――
『苦』の、
『力』は、
『多い!』が、
『楽』の、
『力』は、
『弱いのだ!』、と。
若し、
『人』は、
『遍身(全身)』に、
『楽』を、
『受けていたとしても!』、
『一処』を、
『針』で、
『刺されたならば!』、
『衆楽』は、
皆、
『失われて!』、
但だ、
『刺された!』、
『苦のみ!』を、
『覚るだろう!』。
『楽』は、
『力が弱い!』が故に、
『二分して!』、
『強めようとし!』、
『苦』は、
『力が多い!』が故に、
『一処に明せば!』、
『足るのである!』。
問曰。行是四無量心。得何等果報。 問うて曰く、是の四無量心を行ずれば、何等の果報をか得ん。
問い、
是の、
『四無量心を行えば!』、
何のような、
『果報』を、
『得るのですか?』。
答曰。佛說入是慈三昧。現在得五功德。入火不燒。中毒不死。兵刃不傷。終不橫死。善神擁護。以利益無量眾生故。得是無量福德。以是有漏無量心。緣眾生故生清淨處。所謂色界。 答えて曰く、仏の説きたまわく、『是の慈三昧に入れば、現在に五功徳を得て、火に入りて焼けず、毒に中りて死せず、兵刃に傷つかず、終に横死せずして、善神擁護す。無量の衆生を利益するを以っての故に、是の無量の福徳を得、是の無漏の無量心を以って、衆生を縁ずるが故に、清浄の処に生ず、謂わゆる色界なり』、と。
答え、
『仏』は、こう説かれた、――
是の、
『慈三昧に入れば!』、
現在に、
『五功徳を得て!』、
『火』に、
『入っても!』、
『死なず!』、
『毒』に、
『中っても!』、
『死なず!』、
『兵刃』にも、
『傷つかず!』、
『命』の、
『終るまで!』、
『横死せず!』、
『善神』に、
『擁護される!』し、
『無量の衆生』を、
『利益する!』が故に、
是の、
『無量の福徳』を、
『得て!』、
是の、
『有漏の無量心』で、
『衆生』を、
『縁じる!』が故に、
『色界という!』、
『清浄の処』に、
『生まれる!』、と。
問曰。何以故。佛說慈報生梵天上。 問い、何を以っての故にか、仏は、『慈の報は、梵天上に生ず』と説きたまえる。
問い、
何故、
『仏』は、こう説かれたのですか?――
『慈の報』で、
『梵天上』に、
『生まれる!』、と。
  参考:『長阿含巻15種徳経』:『佛告婆羅門。彼剎利王為大祀已。剃除鬚髮。服三法衣。出家為道。修四無量心。身壞命終。生梵天上。時。王夫人為大施已。亦復除髮。服三法衣。出家修道。行四梵行。身壞命終。生梵天上。婆羅門大臣教王四方祭祀已。亦為大施。然後剃除鬚髮。服三法衣。出家修道。行四梵行。身壞命終。生梵天上』
答曰。以梵天眾生所尊貴。皆聞皆識故。佛在天竺國。天竺國常多婆羅門。婆羅門法所有福德盡願生梵天。若眾生聞行慈生梵天。皆多信向行慈法。以是故說行慈生梵天。 答えて曰く、梵天は、衆生の尊貴する所にして、皆聞き、皆識るを以っての故なり。仏は、天竺国に在すに、天竺国には常に婆羅門多く、婆羅門の法の有らゆる福徳は、尽く願うて梵天に生ぜんことなり。若し衆生、慈を行ずれば、梵天に生ずと聞けば、皆多く信じて、慈を行ずる法に向わん。是を以っての故に説かく、『慈を行じて、梵天に生ず』、と。
答え、
『梵天』は、
『衆生』の、
『尊貴する所であり!』、
皆、
『聞いて!』、
『識っているからである!』。
『仏』は、
『天竺国に居られた!』が、
『天竺国』には、
常に、
『婆羅門』が、
『多く!』、
『婆羅門の法』の、
有らゆる、
『福徳』は、
尽くが、
願って、
『梵天』に、
『生じることである!』が故に、
若し、
『衆生』が、
『慈を行えば!』、
『梵天に生じる!』と、
『聞けば!』、
皆、
『多く(重く)!』、
『信じて!』、
『慈を行う!』、
『法』に、
『向かうことになる!』ので、
是の故に、こう説くのである、――
『慈を行えば!』、
『梵天』に、
『生じる!』、と。
  (た):<形容詞>[本義]多く/多い( many, much, more )。過多( too many, too much )、重要な( heavy, value )、賢い/好もしい( good )、程度が大きい( much more )、称讃に値する( to deserve praise )、<副詞>どれぐらい( how )、只だ( only )、多大に( mostly )。
  参考:『大智度論巻13』:『問曰。若八種律儀。及淨命是名為戒。何以故優婆塞。於口律儀中。無三律儀及淨命。答曰。白衣居家。受世間樂兼修福德。不能盡行戒法。是故佛令持五戒。復次四種口業中妄語最重。復次妄語心生故作。餘者或故作或不故作。復次但說妄語已攝三事。復次諸善法中實為最大。若說實語四種正語皆已攝得。復次白衣處世。當官理務家業作使。是故難持不惡口法。妄語故作事重故不應作。』
  :梵天とは、色界の初禅天を云う。之に梵衆天、梵輔天、大梵天の三種の別あるも、皆、覚、観、喜、楽あり。乃ち此の中に於いて、覚、観を滅して二禅に生じ、喜を滅して三禅に生じ、楽を滅して四禅に生ずる。『大智度論巻4下注:梵天、巻7下注:四禅』参照。
復次斷婬欲天皆名為梵。說梵皆攝色界。以是故斷婬欲法名為梵行。離欲亦名梵。若說梵則攝四禪四無色定。 復た次ぎに、婬欲を断ちたる天を、皆名づけて梵と為すに、梵を説けば、皆色界を摂む。是を以っての故に、婬欲を断つ法を、名づけて梵行と為し、欲を離るるをも、亦た梵と名づく。若し梵を説けば、則ち四禅、四無色定を摂む。
復た次ぎに、
『婬欲を断った!』、
『天』は、
皆、
『梵』と、
『呼ばれる!』ので、
『梵』と説けば、
皆、
『色界』を、
『摂(おさ)めることになる!』。
是の故に、
『婬欲を断つ!』、
『法』を、
『梵行』と、
『呼び!』、
『欲を離れた!』者をも、
亦た、
『梵』と、
『呼ぶ!』ので、
若し、
『梵』と説けば、
則ち、
『四禅、四無色定』を、
『摂めることになる!』。
復次覺觀難滅故。不說上地名。譬如五戒中口律儀。但說一種不妄語則攝三事。 復た次ぎに、覚、観は滅し難きが故に、上地の名を説かず。譬えば五戒中の口の律儀の、但だ一種の不妄語を説けば、則ち三事を摂するが如し。
復た次ぎに、
『覚、観』は、
『滅し難い!』が故に、
『上地(無色界)の名』を、
『説かない!』。
譬えば、
『五戒中の口の律儀』は、
但だ、
『一種』の、
『不妄語』を、
『説けば!』、
則ち、
『三事(不悪口、不両舌、不綺語)』を、
『摂めるようなものである!』。
問曰。慈有五功德。悲喜捨何以不說有功德。 問うて曰く、慈には五功徳有り、悲、喜、捨は何を以っての故にか、功徳有りと説かざる。
問い、
『慈』には、
『五功徳』、
『有った!』が、
『悲、喜、捨』は、
何故、
『功徳が有る!』と、
『説かないのですか?』。
答曰。如上譬喻。說一則攝三事此亦如是。若說慈則已說悲喜捨。 答えて曰く、上の譬喩の、一を説けば、則ち三事を摂するが如く、此れも亦た是の如く、若し慈を説けば、則ち已に悲、喜、捨を説けり。
答え、
上の、
『譬喩』の、
『一を説けば!』、
則ち、
『三事』を、
『摂めることになるように!』、
此れも、
是のように、
若し、
『慈を説けば!』、
則ち、
『悲、喜、捨』を、
『説いたことになる!』。
復次慈是真無量。慈為如王餘三隨從如人民。所以者何。先以慈心欲令眾生得樂。見有不得樂者故生悲心。欲令眾生離苦心得法樂故生喜心。於三事中。無憎無愛無貪無憂故生捨心。 復た次ぎに、慈は是れ真の無量なり。慈は、王の如しと為し、余の三の随従すること、人民の如し。所以は何んとなれば、先に慈心を以って、衆生をして楽を得しめんと欲し、楽を得ざる者の有るを見て、故に悲心を生じ、衆生をして苦を離れしめんと欲するに、心に法楽を得るが故に喜心を生じ、三事中に於いて、無憎、無愛、無貪、無憂なるが故に捨心を生ずればなり。
復た次ぎに、
『慈』は、
『真の!』、
『無量である!』。
『慈』は、
譬えば、
『王のようであり!』、
『余の三』は、
『人民のように!』、
『随従する!』。
何故ならば、
先に、
『慈心』を以って、
『衆生』に、
『楽』を、
『得させ!』、
『楽を得ない!』者が、
『有る!』のを、
『見る!』が故に、
『悲心』を、
『生じ!』、
『悲心』を以って、
『衆生』に、
『苦』を、
『離れさせて!』、
『心』に、
『法楽を得る!』が故に、
『喜心』を、
『生じ!』、
『三事』中に於いて、
『憎、愛、貪、憂の無い!』が故に、
『捨心』を、
『生じるからである!』。
復次慈以樂與眾生故。增一阿含中說有五功德悲心。於摩訶衍經處處說其功德。如明網菩薩經中說。菩薩處眾生中。行三十二種悲。漸漸增廣轉成大悲。大悲是一切諸佛菩薩功德之根本。是般若波羅蜜之母。諸佛之祖母。菩薩以大悲心故。得般若波羅蜜。得般若波羅蜜故得作佛。 復た次ぎに、慈は、楽を以って衆生に与うるが故に、『増一阿含』中に、『五功徳有り』と説き、悲心は、摩訶衍経の処処に其の功徳を説くこと、『明網菩薩経』中に、『菩薩は衆生中に処して、三十二種の悲を行じ、漸漸に増広して、転た大悲と成る。大悲は是れ一切の諸仏、菩薩の功徳の根本なり。是れ般若波羅蜜の母にして、諸仏の祖母なり。菩薩は、大悲心を以っての故に、般若波羅蜜を得、般若波羅蜜を得るが故に、仏と作るを得』、と説けるが如し。
復た次ぎに、
『慈』は、
『楽』を、
『衆生』に、
『与える!』が故に、
『増一阿含経』中に、
『五功徳』が、
『有る!』と、
『説かれており!』、
『摩訶衍経』の、
『処処』に、
其の、
『功徳』を、
『説いている!』が、
『悲』は、
『明網菩薩経』中などには、こう説いている、――
『菩薩』は、
『衆生』中に於いて、
『三十二種』の、
『悲』を、
『行い!』、
『次第に増広する!』と、
『転じて!』、
『大悲と成る!』が、
『大悲』は、
一切の、
諸の、
『仏、菩薩』の、
『功徳』の、
『根本であり!』、
是れは、
『般若波羅蜜』の、
『母であり!』、
諸の、
『仏』の、
『祖母である!』。
『菩薩』は、
『大悲心』の故に、
『般若波羅蜜』を、
『得ることができ!』、
『般若波羅蜜を得る!』が故に、
『仏』と、
『作ることができる!』、と。
  参考:『思益梵天所問経巻2』:『世尊。何謂大悲。佛言。如來以三十二種大悲。救護眾生。何等三十二。一切法無我。而眾生不信不解說有我生。如來於此而起大悲。一切諸法無眾生。而眾生說有眾生。如來於此而起大悲。一切法無壽命者。而眾生說有壽命者。如來於此而起大悲。一切法無人。而眾生說有人。如來於此而起大悲。一切法無所有。而眾生住於有見。如來於此而起大悲。一切法無住。而眾生有住。如來於此而起大悲。一切法無歸處。而眾生樂於歸處。如來於此而起大悲。一切法非我所。而眾生著於我所。如來於此而起大悲。一切法無所屬。而眾生計有所屬。如來於此而起大悲。一切法無取相。而眾生有取相。如來於此而起大悲。一切法無生。而眾生住於有生。如來於此而起大悲。一切法無退生。而眾生住於退生。如來於此而起大悲。一切法無垢。而眾生著垢。如來於此而起大悲。一切法離染。而眾生有染。如來於此而起大悲。一切法離瞋。而眾生有瞋。如來於此而起大悲。一切法離癡。而眾生有癡。如來於此而起大悲。一切法無所從來。而眾生著有所從來。如來於此而起大悲。一切法無所去。而眾生著於有去。如來於此而起大悲。一切法無起。而眾生計有所起。如來於此而起大悲。一切法無戲論。而眾生著於戲論。如來於此而起大悲。一切法空。而眾生墮於有見。如來於此而起大悲。一切法無相。而眾生著於有相。如來於此而起大悲。一切法無作。而眾生著於有作。如來於此而起大悲。世間常共瞋恨諍競。如來於此而起大悲。世間邪見顛倒行於邪道。欲令住於正道。如來於此而起大悲。世間饕餮無有厭足互相熬奪。欲令眾生住於聖財信戒聞施慧等。如來於此而起大悲。眾生是產業妻子恩愛之僕。於此危脆之物生堅固想。欲令眾生知悉無常。如來於此而起大悲。眾生身為怨賊。貪著養育以為親友。欲為眾生作真知識。令畢眾苦究竟涅槃。如來於此而起大悲。眾生好行欺誑邪命自活。欲令行於正命。如來於此而起大悲。眾生樂著眾苦不淨居家。欲令出於三界。如來於此而起大悲。一切諸法從因緣有。而眾生於聖解脫生於懈怠。欲說精進令樂解脫。如來於此而起大悲。眾生棄捨最上無礙智慧。求於聲聞辟支佛道。欲引導之令發大心緣於佛法。如來於此而起大悲。梵天。如來如是於諸眾生行此三十二種大悲。是故如來名為行大悲者。若菩薩於眾生中。常能修集此大悲心。則為入阿惟越致。為大福田威德具足。常能利益一切眾生。』
如是等種種讚大悲。喜捨心餘處亦有讚。慈悲二事遍大故。佛讚其功德。慈以功德難有故。悲以能成大業故。 是れ等の如く、種種に大悲を讃じて、喜、捨の心は、余処にも亦た讃ずる有り。慈、悲の二事は遍く大なるが故に、仏は其の功徳を讃じたもう。慈は、功徳の有難きを以っての故に、悲は能く大業を成ずるを以っての故なり。
是れ等のように、
種種に、
『大悲を讃じている!』が、
『喜、捨の心』も、
『余の処』には、
『讃じる!』ことも、
『有る!』。
『慈、悲の二事』は、
『普遍して!』、
『大事である!』が故に、
『仏』は、
其の、
『功徳』を、
『讃じられた!』が、
何故ならば、
『慈』は、
『功徳』が、
『有難いからであり!』、
『悲』は、
『大業』を、
『成すことができるからである!』。
問曰。佛說四無量功德。慈心好修善修福極遍淨天。悲心好修善修福極虛空處。喜心好修善修福極識處。捨心好修善修福極無所有處。云何言慈果報應生梵天上。 問うて曰く、仏の説きたまわく、『四無量の功徳は、慈心は好く善を修め、福を修めて遍浄天を極む。悲心は好く善を修め、福を修めて虚空処を極む。喜心は好く善を修め、福を修めて識処を極む。捨心は好く善を修め、福を修めて無所有処を極む』、と。云何が、『慈の果報は、応に梵天上に生ずべし』、と言う。
問い、
『仏』は、こう説かれている、――
『四無量の功徳』は、
『慈心』を以って、
好く、
『善、福を修めて!』、
『遍浄天(色界第三禅天処)』に、
『至り!』、
『悲心』を以って、
好く、
『善、福を修めて!』、
『虚空処(無色界初天処)』に、
『至り!』、
『喜心』を以って、
好く、
『善、福を修めて!』、
『識処(無色界第二天処)』に、
『至り!』、
『捨心』を以って、
好く、
『善、福を修めて!』、
『無所有処(無色界第三天処)』に、
『至る!』、と。
何故、
こう言うのですか?――
『慈の果報』は、
『梵天上(色界初禅天処)』に、
『生じることになる!』、と。
  遍浄天(へんじょうてん):色界第三禅天中の最頂位の天。
  参考:『大毘婆沙論巻83』:『如契經說。修慈究竟極至遍淨天。修悲究竟極至空無邊處修喜究竟極至識無邊處。修捨究竟極至無所有處。』
答曰。諸佛法不可思議。隨眾生應度者如是說。 答えて曰く、諸仏の法の不可思議なるは、衆生の応に度すべき者に随うて、是の如き説けばなり。
答え、
諸の、
『仏』の、
『法』が、
『不思議である!』のは、
『度されるはず!』の、
『衆生に随って!』、
是のように、
『説かれるからである!』。
復次從慈定起。迴向第三禪易。從悲定起向虛空處。從喜定起入識處。從捨定起。入無所有處易故。 復た次ぎに、慈の定より起ちて、第三禅に迴向するは易く、悲の定より起ちて、虚空処に向い、喜の定より起ちて、識処に入り、捨の定より起ちて、無所有処に入るは、易きが故なり。
復た次ぎに、
『慈の定』より、
『起ち!』、
『迴らし(方向を変え)て!』、
『第三禅』に、
『向かう!』ことは、
『易(たやす)く!』、
『悲の定』より、
『起って!』、
『虚空処』に、
『向う!』ことも、
『喜の定』より、
『起って!』、
『識処』に、
『入る!』ことも、
『捨の定』より、
『起って!』、
『無所有処』に、
『入る!』ことも、
『易いからである!』。
復次慈心願令眾生得樂。此果報自應受樂。三界中遍淨最為樂故。言福極遍淨。 復た次ぎに、慈心もて、衆生をして楽を得しめんと願えば、此の果報は、自ら応に楽を受くべし。三界中に遍浄は最も楽と為すが故に、言わく、『福は遍浄を極む』、と。
復た次ぎに、
『慈心』を以って、
『衆生』に、
『楽を得させたい!』と、
『願えば!』、
此の、
『果報』は、
自ら、
『楽を受けることになる!』。
『三界』中に、
『遍浄天』は、
『最も楽である!』が故に、
『遍浄天を極める!』と、
『言うのである!』。
悲心觀眾生老病殘害苦行者憐愍心生。云何令得離苦。若為除內苦外苦復來。若為除外苦內苦復來。行者思惟有身必有苦。唯有無身乃得無苦。虛空能破色。是故福極虛空處。 悲心もて衆生の生、老、病、残害の苦を観るに、行者には憐愍心生ずらく、『云何が、苦を離るるを得しめん。若し為めに内苦を除かしむれば、外苦復た来たらん。若し為めに外苦を除かしむれば、内苦復た来たらん』、と。行者の思惟すらく、『身有れば、必ず苦有り。唯だ無身にして、乃ち苦無きを得る有るのみ。虚空なれば、能く色を破らん』、と。是の故に福は、虚空処を極む。
『悲心』を以って、
『衆生』の、
『老、病、残害の苦』を、
『観れば!』、
『行者の心』には、
『憐愍が生じる!』、――
何のようにすれば、
『苦』を、
『離れさせられるのか?』。
若し、
『衆生』に、
『内苦』を、
『除かせたとしても!』、
復た、
『外苦』が、
『来るだろう!』。
若し、
『衆生』に、
『外苦』を、
『除かせれば!』、
復た、
『内苦』が、
『来るだろう!』、と。
『行者』は、
こう思惟する、――
『身が有れば!』、
必ず、
『苦』が、
『有るのだ!』。
唯だ、
『無身のみ!』が、
ようやく、
『苦』を、
『無くせるのだ!』。
『虚空処』ならば、
『色』を、
『破ることができる!』、と。
是の故に、こう言うのである、――
『福』は、
『虚空処』に、
『極まる!』、と。
喜心欲與眾生心識樂。心識樂者。心得離身如鳥出籠。虛空處心雖得出身。猶繫心虛空識處無量。於一切法中皆有心識。識得自在無邊。以是故喜福極在識處。 喜心は、衆生に心識の楽を与えんと欲す。心識の楽とは、心の身を離るることを得ること、鳥の籠を出づるが如し。虚空処の心は、身を出づるを得と雖も、猶お心を虚空に繋ぐ。識処は無量にして、一切法中に皆心識有れば、識は自在の無辺なるを得る。是を以っての故に、喜の福は極まりて、識処に在り。
『喜心』は、
『衆生』に、
『心識の楽』を、
『与えようとする!』。
『心識の楽』とは、――
『心』が、
例えば、
『鳥』が、
『籠を出るように!』、
『身を離れることである!』。
『虚空処の心』は、
『身』を、
『出ることができた!』が、
猶お、
『心』は、
『虚空に繋がれている!』。
『識処』の、
『心識』は、
『無量であり!』、
『一切の法』中に、
皆、
『心識』が、
『有り!』。
『識』は、
『自在』と、
『無辺』とを、
『得ることになり!』、
是の故に、
『喜の福』は、
『識処』に、
『極まるのである!』。
捨心者。捨眾生中苦樂。苦樂捨故得真捨法。所謂無所有處。以是故捨心福。極無所有處。如是四無量。但聖人所得非凡夫。 捨心とは、衆生中の苦楽を捨つれば、苦楽を捨つるが故に真の捨法を得。謂わゆる無所有処なり。是を以っての故に、捨心の福は、無所有処に極まる。是の如きの四無量は、但だ聖人の所得にして、凡夫に非ず。
『捨心』とは、
『衆生』中の、
『苦、楽』を、
『捨てることである!』が、
『苦、楽を捨てる!』が故に、
『真の!』、
『捨法』を、
『得ることになる!』。
謂わゆる、
『無所有処である!』。
是の故に、
『捨心の福』は、
『無所有処』に、
『極まるのである!』。
是のような、
『四無量』は、
但だ、
『聖人にのみ!』、
『得られる!』、
『法であり!』、
『凡夫人』の、
『得る所ではない!』。
復次佛知未來世諸弟子鈍根故。分別著諸法。錯說四無量相。是四無量心。眾生緣故但是有漏。但緣欲界故。無色界中無。何以故。無色界不緣欲界故。為斷如是人妄見故。說四無量心無色界中。 復た次ぎに、仏は、未来世の諸の弟子の鈍根なるが故に、諸法を分別して著し、四無量の相を錯りて、『是の四無量心は、衆生を縁ずるが故に、但だ是れ有漏なり、但だ欲界を縁ずるが故に、無色界中には無し。何を以っての故に、無色界は、欲界を縁ぜざるが故なり』、と説くを知り、是の如き人の妄見を断ぜんが為めの故に、四無量心を無色界中に説きたまえり。
復た次ぎに、
『未来世』の、
諸の、
『仏の弟子』は、
『鈍根である!』が故に、
諸の、
『法』を、
『分別して!』、
『著し!』、
『四無量の相』を、
『錯って!』、こう説くだろう、――
是の、
『四無量心』は、
『衆生を縁じる!』が故に、
但だ、
『有漏であり!』、
但だ、
『欲界を縁じる!』が故に
『無色界』中』には、
『無い!』。
何故ならば、
『無色界』は、
『欲界』を、
『縁じないからである!』、と。
『仏』は、
是のように、
『知っていられ!』、
是のような、
『人』の、
『妄見』を、
『断とうとされた!』が故に、
是の、
『四無量心』を、
『無色界』中にも、
『説かれたのである!』。
佛以四無量心。普緣十方眾生故。亦應緣無色界中。如無盡意菩薩問中說。慈有三種。眾生緣法緣無緣。論者言。眾生緣是有漏無緣是無漏。法緣或有漏或無漏。如是種種略說四無量心。 仏は、四無量心を以って、普く十方の衆生を縁じたもうが故に、亦た応に無色界中にも縁ずべし。『無尽意菩薩問』中に説けるが如し、『慈には、三種有り、衆生を縁ずる、法を縁ずる、無縁なり』、と。論者の言わく、『衆生を縁ずるは、是れ有漏にして、無縁なるは、是れ無漏なり。法を縁ずるは、或は有漏、或は無漏なり』、と。是の如く種種に四無量心を略説す。
『仏』は、
『四無量心』を以って、
普く、
『十方』の、
『衆生』を、
『縁じられる!』が故に、
当然、
『無色界』中をも、
『縁じられるはずである!』。
例えば、
『無尽意菩薩問経』中、こう説く通りである、――
『慈』には、
『三種』有り、
『衆生』を、
『縁じる!』、
『慈』、
『法』を、
『縁じる!』、
『慈』、
『縁じる!』ことの、
『無い!』、
『慈である!』、と。
『論者』は、こう言う、――
『衆生を縁じる!』、
『慈』は、
『有漏であり!』、
『縁じることの無い!』、
『慈』は、
『無漏である!』、
『法を縁じる!』、
『慈』は、
或は、
『有漏であり!』、
或は、
『無漏である!』、と。
是のように、
種種に、
『四無量心』を、
『略説した!』。
  参考:『大方等大集経巻29無尽意菩薩品』:『爾時無盡意菩薩復語舍利弗。菩薩修慈亦不可盡。何以故。菩薩之慈無量無邊。是修慈者無有齊限等眾生界。菩薩修慈發心普覆。舍利弗。譬如虛空無不普覆。是菩薩慈亦復如是。一切眾生無不覆者。舍利弗。如眾生界無量無邊不可窮盡。菩薩修慈亦復如是。無量無邊無有窮盡虛空無盡故眾生無盡。眾生無盡故菩薩修慈亦不可盡。是謂大士所修慈心不可得盡。舍利弗言。善男子。齊幾名眾生界。無盡意言。所有地界水火風界其量無邊。而猶不多於眾生界。舍利弗言。唯善男子。頗可得說譬喻比不。無盡意言可說。但不得以小事為喻。舍利弗。東方去此盡一恒沙佛之世界。南西北方四維上下。皆一恒沙佛世界。作一大海其水滿溢。使一恒河沙等諸眾生聚集。共以一毛破為百分以一分毛渧取一渧。如是一恒河沙共取一渧。二恒河沙共取二渧。如是展轉乃至盡此滿大海水盡。是眾生界猶不可盡。菩薩慈心悉能遍覆如是眾生。舍利弗。於意云何。是修慈善根豈可盡耶。舍利弗言。實不可盡。唯善男子。是虛空性尚可得盡。菩薩慈心不可盡也。若有菩薩聞作是說不生驚怖。當知是人得無盡慈。舍利弗。是慈能自擁護己身。是慈亦能利益他人。是慈無諍。是慈能斷一切瞋恚荒穢繫縛。是慈能離諸結及使。是慈歡喜。是慈不見一切眾生破戒之過。是慈無熱身心受樂。是慈遠離一切惱害。是慈能離一切怖畏。是慈能順眾聖人道。是慈能令瞋者歡喜。是慈能勝一切鬥諍。是慈能生利養稱歎。是慈莊嚴釋梵威德。是慈常為智人所讚。是慈常護凡夫愚人。是慈常能隨順梵道。是慈不雜遠離欲界。是慈能向解脫法門。是慈能攝一切諸乘。是慈能攝非財功德。是慈長養一切功德。是慈過諸無作功德。是慈悉能莊嚴相好。是慈能離下劣鈍根。是慈能開天人涅槃諸善正道。是慈能離三惡八難。是慈愛樂諸善法等。是慈如願一切所欲成就自在。是慈平等於諸眾生。是慈發行離諸異相。是慈正向持戒之門。是慈能護諸犯禁者。是慈能成無上忍力。是慈能離諸慢放逸。是慈發起無諍精進入於正道。是慈根本入聖禪定。是慈善能分別於心離諸煩惱。是慈因慧而生總持語言文字。是慈定伴離魔結伴。是慈常與歡喜同止。是慈善為心之所使。是慈堅持威儀戒法。是慈能離諸掉動等。是慈能滅種種諸相。是慈善香慚愧塗身。是慈能除煩惱臭氣。舍利弗。夫修慈者。悉能擁護一切眾生。能捨己樂與他眾生。聲聞修慈齊為己身。菩薩之慈悉為一切無量眾生。舍利弗。夫修慈者能度諸流。慈所及處有緣眾生。又緣於法又無所緣。緣眾生者初發心也。緣法緣者已習行也。緣無緣者得深法忍也。舍利弗。是名菩薩修行大慈而不可盡』



四無色定

四無色定者。虛空處識處無所有處非有想非無想處。 四無色定とは、虚空処、識処、無所有処、非有想非無想処なり。
『四無色定』とは、――
『虚空処』、
『識処』、
『無所有処』、
『非有想非無想処である!』。
是四無色有三種。一者有垢。二者生得。三者行得。有垢者。無色中攝三十一結。及此結使中起心相應行。生得者。行是四無色定業報因緣故。生無色界得不隱沒無記四眾。行得者。觀是色麤惡重苦老病殺害等種種苦惱因緣。如重病如癰瘡如毒刺。皆是虛誑妄語應當除卻。如是思惟已。過一切色相。滅一切有對相。不念一切異相。入無邊虛空處定。 是の四無色には、三種有り、一には有垢、二には生得、三には行得なり。有垢とは、無色中に摂する三十一結、及び此の結使中より起こる心相応行なり。生得とは、是の四無色定の業報の因縁を行ずるが故に、無色界に生じて、不隠没無記の四衆を得ればなり。行得とは、是の色の麁悪、重苦、老、病、殺害等の種種の苦悩の因縁なるを観て、重病の如く、癰瘡の如く、毒刺の如きは、皆是れ虚誑、妄語にして、当に除却すべしと、是の如く思惟し已りて、一切の色相を過ぎて、一切の有対の相を滅し、一切の異相を念ぜず、無辺虚空処定に入ればなり。
是の、
『四無色』には、
『三種』有り、
一は、
『有垢であり!』、
二は、
『生得であり!』、
三は、
『行得である!』。
『有垢』とは、
『無色』中に、
『摂(おさ)める!』、
『三十一結』と、
此の、
『結使中に起こる!』、
『心相応行である!』。
『生得』とは、
是の、
『四無色定の業報』の、
『因縁』を、
『行う!』が故に、
『無色界に生じて!』、
『不隠没無記の四衆(受想行識)』を、
『得るからである!』。
『行得』とは、
是の、
『色』は、
『麁悪(粗悪)、重苦であり!』、
『老、病、殺害等の種種の苦悩の因縁である!』、
譬えば、
『重病、癰疽、毒刺のようだ!』と、
『観て!』、
是れは、
皆、
『虚誑、妄語であり!』、
『除却せねばならない!』と、
是のように、
『思惟して!』、
一切の、
『色の相』を、
『過ぎ!』、
一切の、
『有対の相』を、
『滅し!』、
一切の、
『異相(別相:空相の対)』を、
『念じることなく!』、
無辺の、
『虚空処定』に、
『入るのである!』。
  三十一結(さんじゅういちけつ):又、色無色界三十一睡眠とも称す。即ち色界、及び無色界に、各存する三十一種の結使を云う。『大智度論巻20下注:色無色界三十一睡眠』参照。
  色無色界三十一睡眠(しきむしきかいさんじゅういちずいみん):色界、及び無色界に存する三十一種の睡眠の意。即ち貪、瞋、癡、慢、疑、見、身、辺、邪、取、戒の十随眠の中、色界、無色界の見苦所断に九種(瞋を除く)、見集、見滅所断に各六種(瞋、身、辺、戒を除く)、見道所断に七種(瞋、身、辺を除く)、修所断に三種(貪、癡、慢)の各三十一種あることを云う。又「品類足論巻3」、「阿毘達磨発智論巻5」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「大毘婆沙論巻46」、「倶舎論巻19」等に出づ。『大智度論巻7上注:九十八随眠』参照。
  不隠没無記(ふおんもつむき):又無覆無記とも云う。聖道を覆障することなき無記性の法。『大智度論巻32上注:無覆無記』参照。
  癰瘡(ようそう):悪性のできもの。
  毒刺(どくし):毒のとげ。
  除却(じょきゃく):除き去る。
  有対(うたい):対象に拘束される法の意。『大智度論巻20下注:有対』参照。
  異相(いそう):一一同じからざるの意。各各殊別の相にして、或いは法相とも称す。
問曰。云何能滅是三種相。 問うて曰く、云何が能く、是の三種の相を滅する。
問い、
何故、
是の、
『三種の相(色、有対、異相)』を、
『滅することができるのですか?』。
答曰。是三種相。皆從因緣和合生故無自性。自性無故。是三種虛誑無實易可得滅。 答えて曰く、是の三種の相は、皆因縁和合より生ずるが故に、自性無く、自性無きが故に、是の三種は虚誑、無実にして、滅を得べきこと易し。
答え、
是の、
『三種の相』は、
皆、
『因縁』の、
『和合より!』、
『生じる!』が故に、
是の、
『自性』は、
『無い!』。
是の、
『三種』は、
『自性の無い!』が故に、
『虚誑であり!』、
『無実であり!』、
則ち、
『易く!』、
『滅せられるのである!』。
復次是色分別分分破散後皆無。以是故若後無今亦無。眾生顛倒故。於和合色中。取一相異相心著色相。我今不應隨愚人學。當求實事。實事中無是一相異相。 復た次ぎに、是の色は分別すれば、分分に破散して、後には皆無し。是を以っての故に、若し後に無ければ、今も亦た無し。衆生は顛倒の故に和合の色中に於いて、一相、異相を取りて、心は色相に著す。我れは今、応に愚人に随うて学ぶべからず、当に実事を求むべし。実事中には、是の一相、異相無し。
復た次ぎに、
是の、
『色』は、
『分別すれば!』、
『分分に!』、
『破散して!』、
後には、
皆、
『無くなる!』。
是の故に、
若し、
『色』が、
『後に!』、
『無ければ!』、
亦た、
『今も!』、
『無いはずである!』。
『衆生』は、
『顛倒する!』が故に、
『和合の色』中に、
『一相(空相)』や、
『異相(別相)』を、
『取って!』、
『心』が、
『色の相』に、
『著する!』が、
わたしは、
今、
是のような、
『愚人』に、
『随って!』、
『学ぶべきでなく!』、
当然、
『実の事』を、
『求めねばならない!』し、
『実の事』中には、
是のような、
『一相、異相』は、
『無いのである!』。
復次行者作是念。我若除卻離諸法得利為深。我先捨財物妻子。出家得清淨持戒。心安隱不怖不畏。離諸欲諸惡不善法。離生喜樂得初禪。離覺觀內清淨故。得第二禪中大喜樂。離喜在第三禪地。於諸樂中最第一。捨是樂得念捨清淨第四禪。今捨是四禪。應更得妙定。以是故過是色相。滅有對相不念異相。 復た次ぎに、行者は是の念を作さく、『我れ、若し諸法を除却して、離るれば、利を得ること深しと為す。我れ先に財物、妻子を捨てて出家し、清浄の持戒を得れば、心安隠にして、怖れず、畏れざらん。諸欲、諸悪、不善法を離るれば、離生喜楽にして、初禅を得ん、覚観を離るれば、内の清浄なるが故に、第二禅中の大喜楽を得ん、喜を離れて、第三禅地に在れば、諸楽中に於いて最も第一ならん、是の楽を捨てて、念捨清浄の第四禅を得ん。今、是の四禅を捨てて、応に更に妙定を得べし』、と。是を以っての故に、是の色相を過ぎて、有対の相を滅し、異相を念ぜざるなり。
復た次ぎに、
『行者』は、
是の念を作す、――
わたしは、
若し、
諸の、
『法』を、
『除き!』、
『去り!』、
『離れるならば!』、
『得る!』、
『利』は、
『深まるだろう!』。
わたしは、
先に、
『財物、妻子』を、
『捨てて!』、
『出家し!』、
『清浄』の、
『持戒』を、
『得たならば!』、
『心』は、
『安隠になって!』、
『怖畏しなくなるだろう!』。
若し、
諸の、
『欲』や、
『悪、不善法』を、
『離れれば!』、
『離生喜楽となって!』、
『初禅』を、
『得るだろう!』。
若し、
諸の、
『覚、観を離れれば!』、
『内』が、
『清浄になる!』が故に、
『第二禅』中の、
『大喜、楽』を、
『得るだろう!』。
若し、
諸の、
『喜を離れて!』、
『第三禅の地』に、
『在れば!』、
諸の、
『楽』中の、
『最も第一となるだろう!』。
若し、
是の、
『楽を捨てるならば!』、
『捨』を、
『念じて!』、
『清浄な!』、
『第四禅』を、
『得られるだろう!』。
今、
是の、
『第四禅を捨てたならば!』、
更に、
『妙定』を、
『得るはずだ!』、と。
是の故に、
是の、
『色相を過ぎ!』、
『有対相を滅して!』、
『異相を念じないのである!』。
  離生喜楽(りしょうきらく):色界の初禅天を指す、欲界の悪を離れて、喜楽二受の処に生ずるが故なり。
  参考:『長阿含巻8』:『復有四法。謂四禪。於是。比丘除欲.惡不善法。有覺.有觀。離生喜.樂。入於初禪。滅有覺.觀。內信.一心。無覺.無觀。定生喜.樂。入第二禪。離喜修捨.念.進。自知身樂。諸聖所求。憶念.捨.樂。入第三禪。離苦.樂行。先滅憂.喜。不苦不樂.捨.念.清淨。入第四禪。』
佛說三種色。有色可見有對。有色不可見有對。有色不可見無對。過色相者。是可見有對色。滅有對相者。是不可見有對色。不念異相者。是不可見無對色。 仏の説きたまわく、『三種の色とは、有る色は可見、有対にして、有る色は不可見、有対、有る色は不可見、無対なり』、と。色相を過ぐとは、是の可見、有対の色なり。有対相を滅すとは、是の不可見、有対の色なり。異相を念ぜずとは、是の不可見、無対の色なり。
『仏』は、こう説かれた、――
『三種の色』とは、――
有る、
『色』は、
『可見であり!』、
『有対(≒可触)である!』、
有る、
『色』は、
『不可見であり!』、
『有対である!』、
有る、
『色』は、
『不可見であり!』、
『無対(≒不可触)である!』、と。
是の中に、
『色相を過ぎる!』とは、
是の、
『可見、有対』の、
『色である!』、
『有対相を滅する!』とは、
是の、
『不可見、有対』の、
『色である!』、
『異相を念じない!』とは、
是の、
『不可見、無対』の、
『色である!』。
  有対(うたい):梵語sa- pratighaの訳。無対に対す。対は礙の義にして、即ち五根五境及び心心所等の法が他の為に障礙せられて生ぜず、若しくは所取所縁の境の為に拘礙せられて、他に転ずる能わざるを云う。「倶舎論巻2」に、「十界は有対なり。対は是れ礙の義なり。此れに復た三種あり、障礙と境界と所縁と異なるが故なり。障礙有対とは、謂わく十色界は自ら他の処に於いて礙えられて生ぜず、手が手を礙え、或いは石が石を礙え、或いは二相礙うるが如し。境界有対とは、謂わく十二界と法界の一分との諸の有境の法は、色等の境に於いてす。(中略)所縁有対とは、謂わく心心所は自らの所縁に於いてす」と云える是れなり。是れ五根五境の十色界は、物質なるが故に、手が手を礙え、石が石を礙えて、二物同時に同処に於いて生ずる能わざるが如きを名づけて障礙有対とし、五根七心界並びに相応の心所は、各自色等の境の為に拘礙せられて他の境に転ぜず、即ち魚等の眼が水に於いて拘礙せられ、人等の眼が陸に於いて拘礙せらるる如くなるを境界有対とし、心心所が唯だ自らの所縁に於いて転ずるを称して所縁有対となすの意なり。境界有対と所縁有対との別は、境界有対は、五根及び心心所法が其の境界に於いて見聞取境の功能ある辺を云い、所縁有対は心心所法が其の境界を執し、行相を帯びて起る辺を云うなり。又此の中、障礙有対と境界有対とを対比するに互いに広狭あり。即ち七心界と法界の一分たる諸の相応法は境界にして障礙に非ず、色等の五境は障礙にして境界に非ず、眼等の五根は障礙にして亦た境界なり、法界の一分たる非相応法は障礙に非ず亦た境界に非ざるなり。又境界有対と所縁有対とを相望すれば、所縁は境界に比して狭し。即ち所縁は必ず境界なれども、境界は必ずし所縁に非ず、眼等の五根の如き是れなり。又「阿毘達磨発智論巻5」、「大毘婆沙論巻76、128」、「雑阿毘曇心論巻1」、「成唯識論巻1」、「同述記巻2本」、「同了義灯巻2本」等に出づ。<(望)
  無対(むたい):梵語apratighaの訳。対礙なきの意。有対に対す。即ち極微所成に非ざる無障礙の法を云う。「大毘婆沙論巻76」に、「無対法とは云何、答う、二処なり、謂わく意処及び法処なり。問う、有対無対は是れ何の義なるや。答う、諸の極微の積集は是れ有対の義、極微の積集に非ざるは是れ無対の義なり。復た次ぎに諸の分析すべきは是れ有対の義、分析すべからざるは是れ無対の義なり。復た次ぎに諸の積集すべきは是れ有対の義、積集すべからざるは是れ無対の義なり。復た次ぎに諸の障礙あるは是れ有対の義、若し障礙なきは是れ無対の義なり。復た次ぎに諸の形質あるは是れ無対の義、若し形質なきは是れ無対の義なり。復た次ぎに若し能く容受し、及び能く障礙するは是れ有対の義、若し能く容受せず、及び能く障礙せざるは是れ無対の義なり」と云える是れなり。是れ十二処の中、眼等の五根及び色等の五境の十処は障礙あるが故に之を有対と名づくるに対し、意処及び法処の二処は障礙なきが故に無対となすことを説けるものなり。但し有対には障礙有対、境界有対、所縁有対の三種あり。今十色処を有対とし、意処法処を無対となせるは、此の中の障礙有対に就いて論じたるなり。又「倶舎論巻2」、「同光記巻2」、「成唯識論述記巻2本」等に出づ。<(望)
復次眼見色壞故名過色。耳聲鼻香舌味身觸壞故過有對相。於二種餘色及無教色種種分別故名異相。如是觀離色界中染。得無邊虛空處。得三無色。因緣方便如禪波羅蜜品中說。 復た次ぎに、眼見の色の壊るるが故に色を過ぎ、耳声、鼻香、舌味、身触の壊るるが故に有対の相を過ぎ、二種の余の色、及び無教色に於いて種種に分別するが故に、異相と名づく。是の如く観て、色界中の染を離るれば、無辺虚空処を得。三無色を得る因縁と方便は、禅波羅蜜品中に説けるが如し。
復た次ぎに、
『眼に見る!』、
『色』が、
『壊られる!』が故に、
是れを、
『色を過ぎる!』と、
『称する!』。
『耳と声、鼻と香、舌と味、身と触』の、
『法』が、
『壊られる!』が故に、
是れを、
『有対相を過ぎる!』と、
『称する!』。
是の、
『二種』の、
『余の色』と、
『無教色(不可見無対の色)』とを、
種種に、
『分別する!』が故に、
『異相』と、
『称する!』。
是のように、
『色を観て!』、
『色界』中の、
『染』を、
『離れれば!』、
『無色界』の、
『無辺虚空処』を、
『得る!』。
『三無色(識処、無所有処、非有想非無想処)を得る!』為めの、
『因縁』と、
『方便』は、
例えば、
『禅波羅蜜品』中に、
『説いた通りである!』。
  無教色/無表色(むきょうしき/むひょうしき):表現されない色( unexpressed form )、梵語 avijJapti- ruupa の訳、表示無き色/情報を与えない色( Non-indicative form; non-informative form. )、他人には知覚できないが、而し自身中には存在し、影響に由り、実在性を推測される色( Form that cannot be perceived by others, but which nonetheless exists within oneself, with its existence being surmised through inference. )、仏教徒が持戒を誓う時、有る種の不可見の法が自身中に生じるが、その法は持戒、遮悪の一助となる( When a Buddhist vows to keep the precepts of Buddhism, a certain type of invisible dharma is produced within his body which is instrumental in his keeping the precepts and eschewing evil. )、それが無表と呼ばれるのは、眼に見えないからである( It is termed unexpressed because it cannot be seen. )、不可見無対色の同意語( Synonymous with invisible and materially insubstantial (or unobstructive) form. )。『大智度論巻13上注:無表色』参照。
  参考:『大智度論巻17』:『過一切色相不念別相。滅有對相得入無邊虛空處。行者作是念。若無色則無飢渴寒熱之苦。是身色麤重弊惡虛誑非實。先世因緣和合報得此身。種種苦惱之所住處。云何當得免此身患。當觀此身中虛空。常觀身空如籠如甑。常念不捨則得度色不復見身。如內身空外色亦爾。是時能觀無量無邊空。得此觀已無苦無樂其心轉增。如鳥閉著瓶中瓶破得出。是名空處定。是空無量無邊。以識緣之緣多則散能破於定。行者觀虛空。緣受想行識。如病如癰如瘡如刺。無常苦空無我。欺誑和合則有非是實也。如是念已。捨虛空緣但緣識。云何而緣現前識。緣過去未來無量無邊識。是識無量無邊。如虛空無量無邊。是名識處定。是識無量無邊。以識緣之識多則散能破於定。行者觀是緣識。受想行識如病如癰如瘡如刺。無常苦空無我。欺誑和合而有非實有也。如是觀已則破識相。是呵識處讚無所有處。破諸識相繫心在無所有中。是名無所有處定。無所有處緣受想行識。如病如癰如瘡如刺。無常苦空無我。欺誑和合而有非實有也。如是思惟。無想處如癰。有想處如病如癰如瘡如刺。第一妙處是非有想非無想處。』
是四無色一常有漏三當分別。虛空處或有漏或無漏。有漏者。虛空處攝有漏四眾。無漏者虛空處攝無漏四眾。識處無所有處亦如是。一切皆有為 是の四無色は、一は常に有漏、三は当に分別すべし、虚空処は或は有漏、或は無漏なり、有漏とは、虚空処は有漏の四衆を摂すればなり。無漏とは虚空処は、無漏の四衆を摂すればなり。識処、無所有処も亦た是の如し。一切は皆有為なり。
是の、
『四無色』は、
『一』は、
『常に!』、
『有漏である!』が、
『三』は、
『分別すべきであり!』、
『虚空処』は、
『有漏か、無漏である!』、――
『有漏』とは、
『虚空処に摂(おさ)める!』、
『有漏』の、
『四衆(受想行識)であり!』、
『無漏』とは、
『虚空処に摂める!』、
『無漏』の、
『四衆である!』。
『識処、無所有処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『四無色』は、
一切が、
皆、
『有為である!』。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻10』:『無色者。謂四無色。問云何四。答謂。空入處。識入處。無所有入處。非想非非想入處。問此四無色。幾色幾非色。答一切是非色一切不可見。一切是無對。一有漏。三分別空處。或有漏或無漏。云何有漏。謂空處所攝有漏四陰。云何無漏。謂空處所攝無漏四陰。如空處。識處無所有處亦如是。一切是有為。問無色。幾有報幾無報。答一切應分別。空處。或有報或無報。云何有報。謂善有漏空處。云何無報。謂無記無漏空處。如空處。識處無所有處亦如是。非想非非想處。或有報或無報。云何有報。謂善非想非非想處。云何無報。謂無記非想非非想處。一切從因緣生世所攝。一切是名所攝。無色所攝心意識。是內入所攝。餘是外入所攝。一切是智知。一斷智知及斷三分別。三若有漏。彼斷智知及斷。若無漏。非斷智知及不斷。問無色。幾是應修幾是不應修。答一切應分別空處。或應修或不應修。云何應修。謂善空處。云何不應修。謂無記空處。如空處。識處無所有處非想非非想處亦如是。問無色。幾穢污幾不穢污。答一切應分別無色。或穢污或不穢污。云何穢污。謂隱沒。云何不穢污。謂不隱沒。一切是果及有果。一切是不受。一切非四大造。一切有上。一是有。三分別。三若有漏。彼是有若無漏。彼非有。無色所攝心不相應行。因不相應。餘因相應。或善處攝非無色。作四句。善處攝非無色者。謂善色陰。無色所不攝善四陰。及數滅。無色攝非善處者。謂無記四無色。善處攝亦無色者。謂善四無色。非善處攝亦非無色者。謂不善五陰。無記色陰。無色所不攝無記四陰。及虛空非數滅。不善處所不攝。或無記處攝非無色。作四句。無記處攝非無色者。謂無記色陰。無色所不攝無記四陰。虛空及非數滅。無色攝非無記者。謂善四無色。無記處攝亦無色者。謂無記四無色。非無記處攝亦非無色者。謂善五陰。及數滅。或漏處攝非無色。作四句。漏處攝非無色者。謂一漏處。及二漏處少分。無色攝非漏處者。謂漏處所不攝四無色。漏處攝亦無色者。謂二漏處少分。非漏處攝亦非無色者。謂色陰。漏處所不攝四陰。及無為。或有漏處攝非無色。作四句。有漏處攝非無色者。謂有漏色陰。無色所不攝有漏四陰。無色攝非有漏處者。謂三無色少分。有漏處攝亦無色者。謂一無色。及三無色少分。非有漏處攝亦非無色者。謂無漏色陰。無色所不攝無漏四陰。及無為。或無漏處攝非無色。作四句。無漏處攝非無色者。謂無漏色陰。無色所不攝無漏四陰。及無為。無色攝非無漏處者。謂一無色。及三無色少分。無漏處攝亦無色者。謂三無色少分。非無漏處攝亦非無色者。謂有漏色陰。及無色所不攝有漏四陰。一切。或過去。或未來。或現在。問無色。幾善幾無記。答一切應分別無色。或善或無記。云何善。謂無色所攝善四陰。云何無記。謂無色所攝無記四陰。一無色界繫。三分別。三若有漏。彼無色界繫。若無漏。彼不繫。一非學非無學。三分別。空處。或學。或無學。或非學非無學。云何學。謂空處所攝學四陰。云何無學。謂空處所攝無學四陰。云何非學非無學。謂空處所攝有漏四陰。如空處。識處無所有處亦如是。問無色。幾見斷。幾修斷。幾不斷。答一切應分別空處。或見斷。或修斷。或不斷。云何見斷。謂空處隨信行隨法行人無間忍等斷。彼云何斷。謂見斷二十八使。彼相應空處。彼所起心不相應行。云何修斷。謂空處學見跡修斷。彼云何斷。謂修斷三使。彼相應空處。彼所起心不相應行。及不穢污有漏空處。云何不斷。謂無漏空處。如空處。識處無所有處亦如是。非想非非想處。或見斷。或修斷。云何見斷。謂非想非非想隨信行隨法行人。無間忍等斷。彼云何斷。謂見斷二十八使。彼相應非想非非想處。彼所起心不相應行。云何修斷。謂非想非非想處學見跡修斷。彼云何斷。謂修斷三使。彼相應非想非非想處。彼所起心不相應行。及不穢污有漏非想非非想處。無色所攝心不相應行。非心非心法非心相應受陰想陰。彼相應行陰。心法心相應心意識。即心也。問無色。幾心隨轉非受相應。答作四句。心隨轉非受相應者。謂心隨轉心不相應行及受。受相應非心隨轉者。謂心意識。心隨轉亦受相應者。謂想陰。彼相應行陰。非心隨轉亦非受相應者。謂除心隨轉心不相應行。若餘心不相應行。如受想行亦如是。除其自性。一切非覺隨轉非觀相應。問無色。幾見非見處。答一切應分別。空處。或見非見處。作四句。見非見處者。謂空處所攝盡智無生智。所不攝無漏慧。見處非見者。謂見所不攝有漏空處。見亦見處者。謂五見。世俗正見。非見亦非見處者。謂見所不攝無漏空處如空處。識處無所有處亦如是。非想非非想處。或見亦見處。或見處非見。見亦見處者。謂五見。世俗正見。餘見處非見。四無色。幾身見因廣說如苦集諦。問無色。幾業非業報。答一切應分別。空處。或業非業報。作四句。業非業報者。謂報所不攝思業。業報非業者。謂思所不攝。報生空處。業亦業報者。謂報生思業。非業亦非業報者。謂除業業報空處。若餘空處。如空處。乃至非想非非想處亦如是。問無色。幾業非業隨轉。答作三句。業非業隨轉者。謂思業。業隨轉非業者。謂受陰想陰識陰。若思所不攝業隨轉行陰。非業亦非業隨轉者。謂除業隨轉心不相應行。若餘心不相應行。一切非造色色非可見色。一切非造色色非有對色。一切是甚深難了難了甚深。問無色。幾善因非善。答作三句。善因非善者。謂善報生四無色。善亦善因者。謂善四無色。非善亦非善因者。謂除善報生四無色。若餘無記四無色。一切非不善亦非不善因。問無色。幾無記非無記因。答一切應分別。無色。或無記亦無記因。或非無記亦非無記因。無記亦無記因者。謂無記四無色。非無記亦非無記因者。謂善四無色。一切因緣緣及有因。問無色幾次第非次第緣緣。答一切應分別。空處或次第非次第緣緣。作三句。次第非次第緣緣者。謂未來現前必起心心法空處。過去現在阿羅漢最後命終心心法空處。次第亦次第緣緣者。謂除過去現在阿羅漢最後命終心心法空處。若餘過去現在心心法空處。非次第亦非次第緣緣者。謂除未來現前必起心心法空處。若餘未來心心法空處。及心不相應行。如空處。識處無所有處亦如是。非想非非想處。或次第非次第緣緣。作三句。次第非次第緣緣者。謂未來現前必起心心法非想非非想處。過去現在阿羅漢最後命終心心法非想非非想處。及滅盡正受。已起當起。次第亦次第緣緣者。謂除過去現在阿羅漢最後命終心心法非想非非想處。若餘過去現在非想非非想處。非次第亦非次第緣緣者。謂除未來現前必起心心法非想非非想處。若餘未來心心法非想非非想處。除次第心不相應行。若餘心不相應行。無色所不攝心不相應行。緣緣緣非有緣餘緣緣緣及有緣。一切是增上緣緣及有增上』
善。有漏虛空處是有報無記。及無漏虛空處是無報。識處無所有處亦如是。善非有想非無想處是有報無記。非有想非無想處是無報。 善、有漏の虚空処は、是れ有報なり。無記、及び無漏の虚空処は、是れ無報なり。識処、無所有処も亦た是の如し。善の非有想非無想処は、是れ有報なり、無記の非有想非無想処は、是れ無報なり。
『善』の、
『有漏』の、
『虚空処』は、
『有報である!』、
『無記』の、
『無漏』の、
『虚空処』は、
『無報である!』。
『識処』と、
『無所有処』も、
亦た、
『是の通りである!』が、
『善』の、
『非有想非無想処』は、
『有報であり!』、
『無記』の、
『非有想非無想処』は、
『無報である!』。
善四無色定是可修無記。四無色定非可修。 善の四無色定は、是れ修すべし。無記の四無色定は修すべきに非ず。
『善』の、
『四無色定』は、
『修める!』のに、
『適する!』が、
『無記』の、
『四無色定』は、
『修める!』のに、
『適さない!』。
隱沒者是有垢。不隱沒者是無垢。 隠没とは、是れ有垢なり。不隠没は是れ無垢なり。
『隠没』は、
『有垢である!』が、
『不隠没』は、
『無垢である!』。
  隠没(おんもつ):隠没無記の義。無記の中、聖道を覆う汚染性の無記を云う。『大智度論巻32上注:有覆無記』参照。
  不隠没(ふおんもつ):不隠没無記の義。無記の中、聖道を覆わない無記を云う。『大智度論巻32上注:無覆無記』参照。
一有三中。有漏者是有。無漏者是非有。 一は有なり、三中の有漏は、是れ有なり、無漏は、是れ有に非ず。
『一』は、
『有である!』が、
『三』中の、
『有漏』は、
『有であり!』、
『無漏』は、
『有でない!』。
四無色定攝。心心數法是相應因。心不相應諸行是非相應因。 四無色定の摂する心心数法は、是れ相応因にして、心不相応諸行は、是れ相応因に非ず。
『四無色定に摂する!』、
『心、心数法』は、
『相応因である!』が、
『心不相応諸行』は、
『相応因でない!』。
  相応因(そうおういん):同時相応の心心所法が更に互いに展転して因となるを云う。『大智度論巻32上注:六因』参照。
  (う):生死相続の義。
  心不相応諸行(しんふそうおうしょぎょう):又心不相応行とも云う。即ち心と相応せず、亦た色等の性に非ざる行蘊の所摂の意。『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
  事理五法(じりごほう):一切法(あらゆる存在)を五種に分類する。
    (1)色法(しきほう):心法と心所法の所変。物質的なもの。
        (倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)
    (2)心法(しんぽう):心王(しんのう)、心の本体、識の自相。
        五蘊の内の識蘊、主体的な心の働き。
        (倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立てる)
    (3)心所法(しんじょほう):心数法(しんじゅほう)、心所、心数。
        細々した心の働き。上の八識と相応して起るもの。
        (受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)
    (4)心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう):心不相応(しんふそうおう)、
       上の三法に従属しないもの。
         例えば事物の概念。
         心とも色とも相応しない働き。物が生じたり滅したりする力。
         心と相応した働きを心相応(しんそうおう)という。
         上の三法のある部分の位を仮りて設けるもの。
         (得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)
    (5)無為法(むいほう):上の四法の実性。
         因縁によって造られたものでないもので、生滅の変化がなく、
                 働きを起こすことがない。
         (択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立てる)
有善法非四無色中。有四無色中非善法。有亦善法亦四無色中。有非善法亦非四無色中。有善法非四無色者。一切善色眾。及四無色不攝四眾及智緣盡。有四無色中非善法者。無記四無色。有亦善法亦四無色者。善四無色。有非善法亦非四無色者。一切不善五眾。及無記色眾。及四無色不攝無記四眾虛空。及非智緣盡。不善法中不相攝。 有るいは善法にして、四無色中に非ず。有るいは四無色中にして、善法に非ず。有るいは亦た善法にして、亦た四無色中なり。有るいは善法に非ずして、亦た四無色中に非ず。有るいは善法にして、四無色に非ずとは、一切の善の色衆、及び四無色に摂せざる四衆、及び智縁尽なり。有るいは四無色中にして、善法に非ずとは、無記の四無色なり。有るいは亦た善法にして、亦た四無色なりとは、善の四無色なり。有るいは善法に非ずして、亦た四無色に非ずとは、一切の不善の五衆、及び無記の色衆、及び四無色に摂せざる無記の四衆と、虚空、及び非智縁尽にして、不善法中には相摂せず。
有るいは、
『善法である!』が、
『四無色中にない!』、
有るいは、
『四無色中にある!』が、
『善法でない!』、
有るいは、
『善法でもあり!』、
『四無色中でもある!』、
有るいは、
『善法でもなく!』、
『四無色中にもない!』。
是の中、
有る者が、
『善法である!』が、
『四無色でない!』とは、――
『一切の善の色衆』と、
『四無色に摂めない!』、
『四衆』と、
『智縁尽である!』。
有る者が、
『四無色中にある!』が、
『善法でない!』とは、――
『無記の四無色である!』。
有る者が、
『善法でもあり!』、
『四無色でもある!』とは、――
『善の四無色である!』。
有る者が、
『善法でもなく!』、
『四無色でもない!』とは、――
『一切の不善の五衆』と、
『無記の色衆』と、
『四無色に摂めない!』、
『無記』の、
『四衆』と、
『虚空』と、
『非智縁尽である!』が、
是れ等は、
『不善法』に、
『摂めない!』。
  虚空(こくう):又虚空無為と称す。虚空の如く一切を受容し、一切の処に遍満する、真理の如きを云う。『大智度論巻19上注:三無為、巻31上注:三無為』参照。
  智縁尽(ちえんじん):又数縁尽、択滅無為とも称し、智慧の力を以って無為を証するを云う。『大智度論巻19上注:三無為、巻31上注:三無為』参照。
  非智縁尽(ひちえんじん):又非数縁尽、非択滅無為とも称し、智慧の力に依らずに無為を証するの意。『大智度論巻19上注:三無為、巻31上注:三無為』参照。
有無記法非四無色。有四無色非無記法。有亦無記法亦四無色。有非無記亦非四無色。有無記法非四無色者。無記色眾及四無色不攝無記四眾虛空及非智緣盡。有四無色中非無記法者。善四無色。亦無記法亦四無色者。無記四無色。亦非無記法亦非四無色者。不善五眾善色眾無色不攝善四眾及智緣盡。 有るいは無記法にして、四無色に非ず。有るいは四無色にして、無記法に非ず。有るいは亦た無記法にして、亦た四無色なり。有るいは無記に非ずして、亦た四無色に非ず。有るいは無記法にして、四無色に非ずとは、無記の色衆、及び四無色に摂せざる無記の四衆と、虚空、及び非智縁尽なり。有るいは四無色中にして、無記法に非ずとは、善の四無色なり。亦た無記法にして、亦た四無色なりとは、無記の四無色なり。亦た無記法に非ずして、亦た四無色に非ずとは、不善の五衆、善の色衆、無色に摂せざる善の四衆、及び智縁尽なり。
有るいは、
『無記法である!』が、
『四無色でない!』。
有るいは、
『四無色である!』が、
『無記法でない!』。
有るいは、
『無記法でもあり!』、
『四無色でもある!』。
有るいは、
『無記法でもなく!』、
『四無色でもない!』。
有る者が、
『無記法である!』が、
『四無色でない!』とは、――
『無記の色衆』と、
『四無色に摂めない!』、
『無記の四衆』と、
『虚空』と、
『非智縁尽である!』。
有る者が、
『四無色中にある!』が、
『無記法でない!』とは、――
『善の四無色である!』。
有る者が、
『無記法でもあり!』、
『四無色でもある!』とは、――
『無記の四無色である!』。
有る者が、
『無記法でもなく!』、
『四無色でもない!』とは、――
『不善の五衆』、
『善の色衆』、
『無色に摂めない!』、
『善の四衆』と、
『智縁尽である!』。
或漏非四無色或四無色非漏。或漏亦四無色或非漏亦非四無色。漏非四無色者。一漏及二漏少分。四無色非漏者。漏不攝四無色。亦漏亦四無色者。二漏少分非漏非四無色者。色眾及漏無色不攝四眾及無為法。 或は漏にして、四無色に非ず。或は四無色にして、漏に非ず。或は漏にしてて、亦た四無色なり。或は漏に非ずして、亦た四無色に非ず。漏にして、四無色に非ずとは、一漏、及び二漏の少分なり。四無色にして、漏に非ずとは、漏に摂せざる四無色なり。亦た漏にして、亦た四無色なりとは、二漏の少分なり。漏に非ずして、四無色に非ずとは、色衆及び及び漏の無色に摂せざる四衆、及び無為法なり。
或は、
『漏である!』が、
『四無色でない!』。
或は、
『四無色である!』が、
『漏でない!』。
或は、
『漏でもあり!』、
『四無色でもある!』。
或は、
『漏でもなく!』、
『四無色でもない!』。
或は、
『漏である!』が、
『四無色でない!』とは、――
『一漏(欲漏)』と、
『二漏(有漏、無明漏)の少分である!』。
或は、
『四無色である!』が、
『漏でない!』とは、――
『漏に摂めない!』、
『四無色である!』。
或は、
『漏でもあり!』、
『四無色でもある!』とは、――
『二漏の少分である!』。
或は、
『漏でもなく!』、
『四無色でもない!』とは、――
『色衆』と、
『漏の無色に摂めない!』、
『四衆』と、
『無為法である!』。
  一漏(いちろ):欲漏なり。三漏の中、欲漏は欲界に有ればなり。
  二漏(にろ):有漏と無明漏となり。三漏の中、有漏は上二界に有り、無明漏は三界に有ればなり。
  (ろ):梵語aasravaの訳。巴梨語aasava、漏泄の意。即ち諸の煩悩を云う。「大毘婆沙論巻47」に、「何故に唯煩悩を説きて漏と為し、業を説かざるや。答う、(中略)定んで煩悩を断ぜずして而も諸業を捨することあることなし。是の故に唯煩悩を説きて漏となす」と云い、「倶舎論巻20」に、「有情を稽留して久しく生死に住せしめ、或いは生死の中に流転して有頂天より無間獄に至らしむ。彼の相続は六瘡門に於いて過を泄すこと無窮なるに由るが故に名づけて漏と為す」と云える是れなり。是れ衆生は煩悩の為に常に六根門に於いて過患を漏泄し、之に由りて生死の中に留められ、又三界に流転するが故に、彼の煩悩を漏と名づくることを明かせるなり。其の語義に関し、「大毘婆沙論巻47」に留住、淹貯、流派、禁持、魅惑、酔乱の大義を出し、即ち有情をして三界に留住せしむるを留住の義とし、業の種を煩悩の器中に淹貯すれば能く後有を生ずるを淹貯の義とし、六処門より煩悩を流派するを流派の義とし、煩悩に禁持せられて諸趣を循環し、自在に涅槃に趣く能わざるを禁持の義とし、煩悩に魅惑せられて三悪業を起すを魅惑の義とし、煩悩の酒を飲み無慚無愧にして顛倒放逸なるを酔乱の義となすと云えり。是れ梵語aasravaは「流る」の義なる動詞aa- sruより来たれる名詞なるが故に流派の義ありとし、又「坐す」の義なる動詞aasより来たれりと解し、留住又は淹貯等の義ありとなせるものなり。又漏の分類に関し、「長阿含経巻8」には欲界の煩悩を欲漏、上二界の煩悩を有漏、三界の無明を総じて無明漏とし、之を三漏と名づけ、又「大毘婆沙論巻47」に譬喩者は唯無明漏、有愛漏の二漏を立て、「同巻48」に分別論者は欲漏、有漏、見漏、無明漏の四漏を立つと云い、又「大般涅槃経巻22、23」等には、見漏、修漏、根漏、悪漏、親近漏、受漏、念漏の七漏ありとなせり。就中、六根門より漏泄する過患を根漏、悪王悪国悪知識等によりて生ぜらるる煩悩を悪漏、衣服房舎等に親近することによりて生ぜらるるものを親近漏、諸受より生ずるを受漏、邪念より生ずるを念漏となせり。又「成実論巻10雑煩悩品」、「瑜伽師地論巻8、84」、「入阿毘達磨論巻上」、「大乗義章巻5末」等に出づ。<(望)
  三漏(さんろ):欲漏、有漏、無明漏の総称。「大般涅槃経巻22」に、欲界の無明漏を除く一切の煩悩を欲漏と名づけ、色無色界の無明漏を除く一切の煩悩を有漏(無漏の対に非ず)と名づけ、三界の無明を無明漏と名づく、と云える即ち是れなり。『大智度論巻19上注:三漏』参照。
或有漏非四無色。或四無色非有漏。或有漏亦四無色。或非有漏非四無色。有漏非四無色者。有漏色眾。及無色不攝有漏四眾。四無色非有漏者。三無色少分。亦有漏亦四無色者。一無色及三無色少分。亦非有漏非四無色者。無漏色眾無色不攝無漏四眾及三無為。 或は有漏にして、四無色に非ず。或は四無色にして、有漏に非ず。或は有漏にして、亦た四無色なり。或は有漏に非ずして、四無色にも非ず。有漏にして、四無色に非ずとは、有漏の色衆、及び無色に摂せざる有漏の四衆なり。四無色にして、有漏に非ずとは、三無色の少分なり。亦た有漏にして、亦た四無色なりとは、一無色、及び三無色の少分なり。亦た有漏に非ず、四無色に非ずとは、無漏の色衆、無色に摂せざる無漏の四衆、及び三無為なり。
或は、
『有漏である!』が、
『四無色でない!』。
或は、
『四無色である!』が、
『有漏でない!』。
或は、
『有漏でもあり!』、
『四無色でもある!』。
或は、
『有漏でもなく!』、
『四無色でもない!』。
或は、
『有漏である!』が、
『四無色でない!』とは、――
『有漏の色衆』と、
『無色に摂めない!』、
『有漏の四衆である!』。
或は、
『四無色である!』が、
『有漏でない!』とは、――
『三無色の少分である!』。
或は、
『有漏でもあり!』、
『四無色でもある!』とは、――
『一無色(非有想非無想処?≒癡故に)』と、
『三無色の少分である!』。
或は、
『有漏でもなく!』、
『四無色でもない!』とは、――
『無漏の色衆』と、
『無色に摂めない!』、
『無漏の四衆』と、
『三無為(虚空、択滅、非択滅無為)である!』。
  三無為(さんむい):無為に三種の別ありの意。『大智度論巻19上注:三無為』参照。
或無漏非四無色。或四無色非無漏。或無漏亦四無色。或非無漏亦非四無色。無漏非四無色者。無漏色眾及無色不攝無漏四眾。及三無為。四無色非無漏者。一無色及三無色少分。亦無漏亦四無色者。三無色少分。非無漏非四無色者。有漏色眾及無色不攝有漏四眾。 或は無漏にして、四無色に非ず。或は四無色にして、無漏に非ず。或は無漏にして、亦た四無色なり。或は無漏に非ずして、四無色に非ず。無漏にして、四無色に非ずとは、無漏の色衆、及び無色に摂せざる無漏の四衆、及び三無為なり。四無色にして、無漏に非ずとは、一無色、及び三無色の少分なり。亦た無漏にして、亦た四無色なりとは、三無色の少分なり。無漏に非ずして、四無色に非ずとは、有漏の色衆、及び無色に摂せざる有漏の四衆なり。
或は、
『無漏である!』が、
『四無色でない!』。
或は、
『四無色である!』が、
『無漏でない!』。
或は、
『無漏でもあり!』、
『四無色でもある!』。
或は、
『無漏でもなく!』、
『四無色でもない!』。
或は、
『無漏である!』が、
『四無色でない!』とは、――
『無漏の色衆』と、
『無色に摂めない!』、
『無漏の四衆である!』。
或は、
『四無色である!』が、
『無漏でない!』とは、――
『一無色』と、
『三無色の少分である!』。
或は、
『無漏でもあり!』、
『四無色でもある!』とは、――
『三無色の少分である!』。
或は、
『無漏でもなく!』、
『四無色でもない!』とは、――
『有漏の色衆』と、
『無色に摂めない!』、
『無漏の四衆である!』。
虛空處或見諦斷或思惟斷或不斷。見諦斷者。信行法行人。用見諦忍斷。何者是二十八使。及二十八使相應。虛空處及此起心不相應諸行。思惟斷者。學見道用思惟斷。何者是思惟所斷。三使及此相應虛空處。及此起心不相應諸行。及無垢有漏虛空處。不斷者。無漏虛空處。識處無所有處亦如是。 虚空処は或は見諦断、或は思惟断、或は不断なり。見諦断とは、信行、法行の人の見諦を用いて、忍びて断ずるなり。何者なりや是れ、二十八使、及び二十八使相応の虚空処、及び此れの起す心不相応諸行なり。思惟断とは、見道を学び、思惟を用いて断ず。何者なりや是れ思惟の断ずる所なる。三使、及び此れに相応する虚空処、及び此れの起す心不相応諸行、及び無垢有漏の虚空処なり。不断とは、無漏の虚空処なり。識処と無所有処も亦た、是の如し。
『虚空処』は、
或は、
『見諦断であり!』、
或は、
『思惟断であり!』、
或は、
『不断である!』。
『虚空処』の、
『見諦断』は、――
『信行、法行の人』が、
『見諦を用いて!』、
『忍んで!』、
『断じる!』。
何者が、
『断じられるのか?』、――
『二十八使』と、
『二十八使』に、
『相応する!』、
『虚空処』と、
『二十八使』の、
『起す!』、
『心不相応諸行である!』。
『思惟断』は、――
『見道を学び!』、
『思惟』を、
『用いて!』、
『断じる!』。
何者が、
『思惟して!』、
『断じられるのか?』、――
『三使(貪、癡、慢)』と、
『三使』に、
『相応する!』、
『虚空処』と、
『三使』の、
『起す!』、
『心不相応諸行』と、
『無垢、有漏』の、
『虚空処である!』。
『不断』とは、
『無漏の虚空処である!』。
『識処、無所有処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  見諦断(けんたいだん):又見所断とも称す。三断の一。即ち見道位に於いて四諦の理を見て断ずべき煩悩の意。『大智度論巻20下注:三断、見所断、巻32下注:見惑』参照。
  思惟断(しゆいだん):又修所断とも称す。三断の一。修道位に於いて思惟修習して断ずべき煩悩の意。『大智度論巻20下注:三断、修所断』参照。
  不断(ふだん):又非所断とも称す。三断の一。其の体無漏にして、断ぜらるべきものに非ざるの意。『大智度論巻20下注:三断、非所断』参照。
  三断(さんだん):三種の断の意。(一)断非断を分別して三種となすを云う。一に見所断darzana- heya、二に修所断bhaavanaa- heya、三に非所断a- heyaなり。「倶舎論巻2」に、「十八界の中、幾ばくか見所断、幾ばくか修所断、幾ばくか非所断なる。頌に曰わく、十五は唯修断なり、後の三界は三に通ず、不染と非六生と色とは定んで見所断に非ず」と云える是れなり。凡そ断とは縛を断じて離繋を証得するの謂なり。其の中、見道所断の法を見所断と名づけ、修道所断の法を修所断と名づけ、見修所断に非ざる法を非所断と名づく。意法意識の後三界の中、見道所断の睡眠及び相応法は理に迷うて起り、四相と得とは彼の見惑の親しく発起する所なるが故に、共に皆見所断なり。五根五境五識の前十五界の中、五根と香味触の三とは不染汚の性なり、亦た是れ色法にして縁縛断なるが故に、又色声の二は心親しく発起し、亦た是れ色法にして縁縛断なるが故に共に修所断なり。五識の善及び無記なるは、是れ不染汚にして縁縛断なるが故に、染汚なるは事に迷うて起るが故に、共に皆唯修所断なり。又後三界の中、見所断以外の有漏の若しは無色にして善無覆無記なるは、是れ不染汚にして縁縛断なるが故に、若し又諦の煩悩及び彼の相応法は事に迷うて起るが故に、四相及び得は是れ彼の修惑の親しく発起する所なるが故に、若し善染の無表は是れ修断の心の親しく発起する所なるのみならず、亦た是れ色法にして縁縛断なるが故に、皆並びに修所断なり。凡そ不染と非六生と色とは定んで見所断に非ず。不染とは有漏の善と無覆無記なり、非六生とは五根より生ずる五識等にして、即ち第六意根より生ずるに非ざるを云う。色とは有漏の染不染の一切の身語業等なり。此等は諦理に迷うて親しく起るに非ざるが故に即ち見所断に非ざるなり。又一切の無漏は、縛の繋する所に非ざるが故に皆非所断なりとす。但し大乗の説は少しく之と異あり。「大乗阿毘達磨雑集論巻4」に依るに、見所断とは分別所起の染汚の見と疑と見処と疑処と、見等に於いて起す所の邪行と煩悩随煩悩と、及び見等所発の身語意業、並びに一切の悪趣等の蘊界処なり。此の中、分別所起の染汚の見と疑とは、不正法を聞く等を先となして起す所の五見等なり。分別所起の言は俱生の薩迦耶見及び辺執見を簡ぶ。見処とは諸見の相応と俱有と及び種子なり。疑処も亦た爾り。見等に於いて起す所の邪行と煩悩随煩悩とは、見等の門に依り、及び見等を縁じて起す所の貪等の一切を指し、修所断及び無漏を除く。修所断とは見道を得たる後の見所断と相違する諸の有漏法なり。即ち分別起の染汚の見等を除く余の有漏法にして、麁重の所隨となる順決択分の善をも摂するなりい。非所断とは諸の無漏法にして、即ち出世の聖道及び後所得並びに無為法と、十界四処諸蘊の一分となり。又無学身中の身語業は善無記なるが故に亦た是れ非所断なりと云えり。以って其の異同を見るべし。又「品類足論巻2」、「大毘婆沙論巻51、52」、「瑜伽師地論巻66、90」、「倶舎論巻3」、「順正理論巻6」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻4」、「成唯識論巻5」、「倶舎論光記巻2」等に出づ。(二)所断の法に随って能断に三種の別を立つるを云う。一に自性断、二に不生断、三に縁縛断なり。「宗鏡録巻76」に、「又三種の断あり、一に自性断とは灯の闇を破するが如く、智慧起る時、煩悩の闇障自性応に断ずべし。二に不生断とは謂わく初地の法空を得るの時、能く三途悪道の苦果をして永く更に生ぜざらしめ、人中の無根、二形、北州、無想天等の種子をして後果を生ぜざらしむるを不生断と名づくるなり。三に縁縛断とは但だ心中の惑を断じ、外塵の境に於いて貪瞋を起さず、境に於いて縁ずと雖も而も染著せざるを縁縛断と名づくるなり。三断の中に於いて自性と不生と此の二は任運に能く断ず。皆縁縛の一断に由りて能く三界の因果をして生ぜざらしむ」と云える是れなり。又「大明三蔵法数巻10」等に出づ。<(望)
  見所断(けんしょだん):梵語darzana- prahaatavyaの訳。見道に断ぜらるるものの意。具に見道所断と云い、又略して見断とも名づく。三断の一。修所断、非所断に対す。「倶舎論巻2」に、「八十八睡眠と及び彼の俱有法と、並びに随行の得とは皆見所断なり」と云い、「同光記巻2」に之を釈して「見断の睡眠及び相応法は、理に迷うて起るが故に、四相と得とは是れ彼の見惑親しく発起するが故に皆見所断なり。修断の相なければ修断に通ぜず、無漏に非ざるが故に非断に通ぜず」と云えり。是れ八十八使の見惑及び其の相応俱有たる大地法等の心所、並びに四相及び随行の得を総じて見所断となすの説なり。但し見道十五心の中、順次に四諦の理を見るの別に随って所断の殊あり。即ち見道の苦諦所断を見苦所断、集諦所断を見集所断、滅諦所断を見滅所断、道諦所断を見道所断と名づく。「倶舎論巻19」に、「十随眠の中、薩迦耶見は唯だ一部に在り、謂わく見苦所断なり。辺執見も亦た爾り。戒禁取は通じて二部に在り、謂わく見苦と見道との所断なり。邪見は四部に通ず、謂わく見苦集滅道所断なり。見取と疑とも亦た然り。余の貪等の四は各五部に通ず、謂わく見の四諦と及び修所断となり」と云える即ち其の意なり。然るに唯識大乗に於いては睡眠を分別起俱生起の二種に分ち、分別起を見道所断となせり。「成唯識論巻8」には、「是の如き分別起のものは見所断に摂し、任運起のものは修所断に摂す」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻4」に、「云何が見所断、幾ばくか是れ見所断なる。何の義の為の故に見所断を観ずるや。謂わく分別所起の染汚の見と疑と見処と疑処と及び見等所発の身語意業と、並びに一切の一切の悪趣等の蘊と界と処とは是れ見所断の義なり」と云える是れなり。又倶舎にては見所断の惑を八十八使となせるも、唯識にては見所断の分別の睡眠に百十二種ありとなせり。「成唯識論巻9」に出す所の如し。又「大毘婆沙論巻51、86」、「倶舎論巻3」、「阿毘達磨順正理論巻6」、「顕揚聖教論巻17」、「成唯識論巻6」、「同述記巻6末」、「大乗法苑義林章巻2末」、「雑修論述記巻6」、「倶舎論光記巻19」、「同宝疏巻2、19」等に出づ。<(望)
  修所断(しゅしょだん):梵語bhaavanaa- prahaatavyaの訳。修道所断の意。又修道断、或いは略して修断とも名づく。三断の一。見所断、非所断に対す。即ち修道位に於いて断ぜらるる煩悩を云う。「倶舎論巻2」に、「八十八睡眠及び俱有法並びに随行の得は皆見所断、諸余の有漏は皆修所断なり」と云い、「同巻19」に、「智所害の諸の睡眠は一切の地に摂し、唯修所断なり。諸の聖者及び諸の異生は其の所応の如く、皆無漏と世俗との智を数習することに由りて断ぜらるるを以っての故なり」と云える是れなり。是れ忍所害の睡眠は、下八地に在りては凡聖の別に依りて見修二断に通ずと雖も、智所害の睡眠は、一切の地に於いて凡聖共に根本及び後得の二智を数習することに由りて、断ぜらるるものなることを明にせるなり。又「大乗阿毘達磨雑集論巻4」には見所断との別を説き、「見道を得たる後、見所断と相応する諸の有漏法は是れ修所断の義なり。見所断と相違すとは、謂わく分別所起の染汚の見等を除きて余の有漏法なり。有漏法の言には亦た決択分に随順する善を摂す。麁重に随わるるが故なり。一切の一分は是れ修所断なり、一分とは見所断及び無漏法を除く」と云えり。若し七十五法に就きて之を分別せば、善悪の散及び定共の無表色、余の五根五境、小煩悩地法の十及び不定地法の悪作、並びに十四不相応中、得及び四相を除きて、余の九種は総じて唯修所断なり。又道共の無表及び三無為の唯非所断、並びに疑の唯見所断なるを除き、余の心王、大地法の十、大善地法の十、大煩悩地法の六、不善地法の二、不定地法中の睡眠、及び貪瞋慢の四、不相応中の得及び四相の五、並びに尋伺の中、俱生起或いは其の所縁となる皆修所断に摂するなり。大乗唯識宗に在りて派、修所断の迷事の随眠は修道位たる十地に於いて之を断ぜず、迷事にして執に非ざるものは十地に於いて後得智を以って之を断じ、修所断の二障の種は金剛喩定現前する時、之を頓断すとなせり。「成唯識論巻10」に、「煩悩障の中、(中略)修所断の種は金剛喩定現在前する時一切を頓断す。彼の障の現起は地前に漸伏し、初地以上に能く頓伏して永く行ぜざらしむ。阿羅漢の如し。(中略)所知障の種は、初地の初心に頓に一切の見所断の者を断じ、修所断は十地の修道中に於いて漸次に断じ、乃至正しく金剛喩定起る一刹那の中に方に皆断尽す」と云える即ち其の説なり。又「品類足論巻3」、「大毘婆沙論巻51至53、62」、「倶舎論巻3」、「順正理論巻6、46」、「成唯識論巻6」、「倶舎論光記巻19」、「大乗法苑義林章巻2末」等に出づ。<(望)
  非所断(ひしょだん):梵語a- heyaの訳。断ぜらるべきものに非ざるの意。又非断、不断、或いは無断とも名づく。三断の一。即ち其の体無漏にして断ずべきに非ざるを云う。「品類足論巻6」に、「非所断の法とは云何、謂わく無漏法なり」と云い、「倶舎論巻4」に、「諸の無漏法を非所断と名づく」と云い、又「聖道所引の択滅の得及び道諦の得は皆非所断なり」と云える是れなり。是れ無漏法其の性無過にして繋縛に非ざるが故に、名づけて非所断となすことを明かせるなり。倶舎等に於いては、十八界中の後三界、大地法中の尋伺、大善地法の十、不相応行中の得及び四相、二十二根中の信等の五根、並びに意喜楽捨の四根等の無漏に摂せらるるもの、及び三無漏根、並びに色法中の道共の無表は共に皆非所断となすなり。「瑜伽師地論巻66」には、非所断に自性浄と已断との二義あることを説き、「云何が非所断の法なる、謂わく一切有学の出世間の法と一切無学の相続中の所有の諸法なり。此の中、若し出世の法は一切の時に於いて自性浄なり、故に非所断と名づけ、余の世間法は已断に由るが故に非所断と名づく」と云い、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」に、「云何が非所断なる、幾ばくか是れ非所断なる、何の義の為の故に非所断を観ずるや。謂わく諸の無漏法は決択分の善を除き、是れ非所断なり。無漏法とは謂わく出世の聖道及び後所得、並びに無為法、十界と四処と諸蘊の一分なり、是れ非所断なり。問う何等の色声か是れ非所断なる。答う、無学身中の善の身語業の自性は是れ非所断なり。執著成満の我を捨せんが為の故に非所断を観察するなり」と云えり。是れ出世無漏の有為無為の諸法は自性浄なるが故に非所断、無学身中の善の身語業は畢竟断に由るが故に亦た非所断なることを明にするの意なり。又「大毘婆沙論巻145」、「雑阿毘曇心論巻1」、「倶舎論巻3」、「順正理論巻6」、「雑修論述記巻6」等に出づ。<(望)
  信行(しんぎょう):又随信行とも称す。七聖の一。即ち見道中の鈍根の者を云う。『大智度論巻18下注:三道、七聖、巻32下注:信行』参照。
  法行(ほうぎょう):又随法行とも称す。七聖の一。即ち見道中の利根の者を云う。『大智度論巻18下注:三道、七聖、巻32下注:法行』参照。
  忍断(にんだん):忍びて断ずるの意。
  二十八使(にじゅうはっし):又色無色界三十一随眠中、見所断に摂するものを云う。即ち貪、瞋、癡、慢、疑、見、身、辺、邪、取、戒の十随眠の中、無色界の見苦所断に九種(瞋を除く)、見集、見滅所断に六種(瞋、身、辺、戒を除く)、見道所断に七種(瞋、身、辺を除く)の二十八種なり。『大智度論巻20下注:色無色界三十一随眠』参照。
  思惟所断三使(しゆいしょだんさんし):修所断に摂する三種の随眠の意。即ち貪、癡、慢を云う。『大智度論巻20下注:色無色界三十一随眠』参照。
  無垢(むく):垢の無い状態の意。『大智度論巻20下注:垢』参照。
  (く):梵語malaの訳。滓汚不浄の義。心を染汚する法にして、即ち煩悩の異名なり。「倶舎論巻2」に、「垢と漏とは、名異にして体同じ」と云い、「阿毘達磨順正理論巻1」に、「垢とは謂わく貪等なり」と云い、又「大乗義章巻5本」に、「浄心を染汚するを説いて垢となす」と云える是れなり。之に二垢、三垢、五垢、六垢等の別あり。「旧華厳経巻14浄行品」に、「身心無垢」と云い、「無量寿経巻下」に、「三垢生滅し身意柔輭なり」と云い、「倶舎論巻21」に、悩、害、恨、諂、誑、憍を名づけて六垢とし、「舎利弗阿毘曇論巻14」に、欲貪、瞋恚、惛眠、掉悔及び疑の五蓋は、煩悩の垢膩なれば心垢と名づくと云い、又「同巻20」に疑、不思惟、怖、悲、悪、睡眠、過精進、輭精進、無能、若干想、著色の十一心垢、希望、瞋恚、睡眠、掉悔、疑、悩害、常念怨嫌、懐恨、燋熱、嫉妬、慳惜、詭詐、姧欺、無慚、無愧、矜高、諍訟、自高、放逸、慢、増上慢の二十一心垢を出せり。又煩悩垢、塵垢、惑垢、染垢、垢穢等の熟語あり。<(望)
非有想非無想處。或見諦斷或思惟斷。見諦斷者信行法行人。用見諦忍斷。何者是二十八使。及此相應非有想非無想處。及此起心不相應諸行。思惟斷者。學見道用思惟斷。何者是思惟所斷。三使及此相應非有想非無想處。及此起心不相應諸行。及無垢非有想非無想處。 非有想非無想処は、或は見諦断、或は思惟断なり。見諦断は信行、法行の人、見諦を用いて忍断す。何者なりや是れ、二十八使、及び此れに相応する非有想非無想処、及び此れの起す心不相応諸行なり。思惟断は、見道を学び思惟を用いて断ず。何者なりや是れ、思惟所断なる。三使、及び此れに相応する非有想非無想処、及び此れの起す心不相応諸行、及び無垢の非有想非無想処なり。
『非有想非無想処』は、
或は、
『見諦断であり!』、
或は、
『思惟断である!』。
『非有想非無想処』の、
『見諦断』は、――
『信行、法行の人』が、
『見諦を用いて!』、
『忍んで!』、
『断じる!』。
何者を、
『断じるのか?』、――
『二十八使』と、
『二十八使』に、
『相応する!』、
『非有想非無想処』と、
『二十八使』の、
『起す!』、
『心不相応諸行である!』。
『思惟断』は、――
『見諦を学び!』、
『思惟して!』、
『断じられる!』。
是の、
『思惟して断じられる!』とは、
何者なのか?――
『三使』と、
『三使』に、
『相応する!』、
『非有想非無想処』と、
『三使』の、
『起す!』、
『心不相応諸行』と、
『無垢』の、
『非有想非無想処である!』。
  参考:『中阿含巻2漏尽経』:『我聞如是。一時。佛遊拘樓瘦。在劍磨瑟曇拘樓都邑。爾時。世尊告諸比丘。以知.以見故諸漏得盡。非不知.非不見也。云何以知.以見故諸漏得盡耶。有正思惟.不正思惟。若不正思惟者。未生欲漏而生。已生便增廣。未生有漏.無明漏而生。已生便增廣。若正思惟者。未生欲漏而不生。已生便滅。未生有漏.無明漏而不生。已生便滅。然凡夫愚人不得聞正法。不值真知識。不知聖法。不調御聖法。不知如真法。不正思惟者。未生欲漏而生。已生便增廣。未生有漏.無明漏而生。已生便增廣。正思惟者。未生欲漏而不生。已生便滅。未生有漏.無明漏而不生。已生便滅。不知如真法故。不應念法而念。應念法而不念。以不應念法而念。應念法而不念故。未生欲漏而生。已生便增廣。未生有漏.無明漏而生。已生便增廣。多聞聖弟子得聞正法。值真知識。調御聖法。知如真法。不正思惟者。未生欲漏而生。已生便增廣。未生有漏.無明漏而生。已生便增廣。正思惟者。未生欲漏而不生。已生便滅。未生有漏.無明漏而不生。已生便滅。知如真法已。不應念法不念。應念法便念。以不應念法不念。應念法便念故。未生欲漏而不生。已生便滅。未生有漏.無明漏而不生。已生便滅也。有七斷漏.煩惱.憂慼法。云何為七。有漏從見斷。有漏從護斷。有漏從離斷。有漏從用斷。有漏從忍斷。有漏從除斷。有漏從思惟斷。云何有漏從見斷耶。凡夫愚人不得聞正法。不值真知識。不知聖法。不調御聖法。不知如真法。不正思惟故。便作是念。我有過去世。我無過去世。我何因過去世。我云何過去世耶。我有未來世。我無未來世。我何因未來世。我云何未來世耶。自疑己身何謂。是云何是耶。今此眾生從何所來。當至何所。本何因有。當何因有。彼作如是不正思惟。於六見中隨其見生而生真有神。此見生而生真無神。此見生而生神見神。此見生而生神見非神。此見生而生非神見神。此見生而生此是神。能語.能知.能作.教.作起.教起。生彼彼處。受善惡報。定無所從來。定不有.定不當有。是謂見之弊。為見所動。見結所繫。凡夫愚人以是之故。便受生.老.病.死苦也。多聞聖弟子得聞正法。值真知識。調御聖法。知如真法。知苦如真。知苦習.知苦滅.知苦滅道如真。如是知如真已。則三結盡。身見.戒取.疑三結盡已。得須陀洹。不墮惡法。定趣正覺。極受七有。天上人間七往來已。便得苦際。若不知見者。則生煩惱.憂慼。知見則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從見斷也。云何有漏從護斷耶。比丘。眼見色護眼根者。以正思惟不淨觀也。不護眼根者。不正思惟以淨觀也。若不護者。則生煩惱.憂慼。護則不生煩惱.憂慼。如是耳.鼻.舌.身.意知法。護意根者。以正思惟不淨觀也。不護意根者。不正思惟以淨觀也。若不護者。則生煩惱.憂慼。護則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從護斷也。云何有漏從離斷耶。比丘。見惡象則當遠離。惡馬.惡牛.惡狗.毒蛇.惡道.溝坑.屏廁.江河.深泉.山巖.惡知識.惡朋友.惡異道.惡閭里.惡居止。若諸梵行與其同處。人無疑者而使有疑。比丘者應當離。惡知識.惡朋友.惡異道.惡閭里.惡居止。若諸梵行與其同處。人無疑者而使有疑。盡當遠離。若不離者。則生煩惱.憂慼。離則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從離斷也。云何有漏從用斷耶。比丘。若用衣服。非為利故。非以貢高故。非為嚴飾故。但為蚊虻.風雨.寒熱故。以慚愧故也。若用飲食。非為利故。非以貢高故。非為肥悅故。但為令身久住。除煩惱.憂慼故。以行梵行故。欲令故病斷。新病不生故。久住安隱無病故也。若用居止房舍.床褥.臥具。非為利故。非以貢高故。非為嚴飾故。但為疲惓得止息故。得靜坐故也。若用湯藥。非為利故。非以貢高故。非為肥悅故。但為除病惱故。攝御命根故。安隱無病故。若不用者。則生煩惱.憂慼。用則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從用斷也。云何有漏從忍斷耶。比丘。精進斷惡不善。修善法故。常有起想。專心精勤。身體.皮肉.筋骨.血髓皆令乾竭。不捨精進。要得所求。乃捨精進。比丘。復當堪忍飢渴.寒熱.蚊虻蠅蚤虱。風日所逼。惡聲捶杖。亦能忍之。身遇諸病。極為苦痛。至命欲絕。諸不可樂。皆能堪忍。若不忍者。則生煩惱.憂慼。忍則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從忍斷也。云何有漏從除斷耶。比丘。生欲念不除斷捨離。生恚念.害念不除斷捨離。若不除者。則生煩惱.憂慼。除則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從除斷也。云何有漏從思惟斷耶。比丘。思惟初念覺支。依離.依無欲.依於滅盡。起至出要。法精進喜息定。思惟第七捨覺支。依離依無欲依於滅盡。趣至出要。若不思惟者。則生煩惱.憂慼。思惟則不生煩惱.憂慼。是謂有漏從思惟斷也。若使比丘有漏從見斷則以見斷。有漏從護斷則以護斷。有漏從離斷則以離斷。有漏從用斷則以用斷。有漏從忍斷則以忍斷。有漏從除斷則以除斷。有漏從思惟斷則以思惟斷。是謂比丘一切漏盡諸結已解。能以正智而得苦際。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
四無色中攝心不相應諸行。是非心非心數法非心相應。受眾想眾及此相應行眾是心數法。亦心相應心意識獨心 四無色中に摂する心不相応諸行は、是れ心に非ず、心数法に非ず、心相応に非ず。受衆、想衆、及び此れに相応する行衆は、是れ心数法にして、亦た心相応なり。心、意、識は独り心なり。
『四無色中に摂める!』、
『心不相応諸行』は、
『心でもなく!』、
『心数法でもなく!』、
『心相応でもない!』。
『受衆、想衆』と、
『受衆、想衆相応の行衆』とは、
『心数法であり!』、
『心相応である!』。
『四無色』には、
『心、意、識』中の、
『心だけ!』を、
『摂める!』。
  心相応(しんそうおう):梵語 citta- saMprayukta の訳、心に結びついた精神的要素( mental functions (factors) directly associated with the mind )の義。心に心法に相応して生ずる法の意。心数法の異名。又受衆、想衆、及び此れに相応する行衆なりとも云う。即ち「大智度論巻20」に、「受衆、想衆、及び此れに相応する行衆は、是れ心数法にして、亦た心相応なり」と云える是れなり。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  心意識(しんいしき):心と意と識との総称。『大智度論巻20上注:心意識』参照。
四無色。或有隨心行非受相應。或受相應非隨心行。或隨心行亦受相應。或非隨心行非受相應。隨心行非受相應者。隨心行心不相應諸行及受。受相應不隨心行者心是。隨心行亦受相應者。想眾及此相應行眾。非隨心行非受相應者。除隨心行心不相應諸行。餘殘心不相應諸行想相應行相應。亦應如是說。 四無色は、或は随心行にして、受相応に非ざる有り、或は受相応にして、随心行に非ず、或は随心行にして、亦た受相応なり、或は随心行に非ずして、受相応にも非ず。随心行にして、受相応に非ずとは、随心行と心不相応の諸行、及び受なり。受相応にして、随心行にあらずとは、心是れなり。随心行にして、亦た受相応なりとは、想衆、及び此れに相応する行衆なり。随心行に非ずして、受相応に非ずとは、随心行の心不相応諸行を除く、余残の心不相応諸行なり。想相応、行相応も亦た応に是の如く説くべし。
『四無色』は、
或は、
『随心行である!』が、
『受相応でない!』。
或は、
『受相応である!』が、
『随心行でない!』。
或は、
『随心行でもあり!』、
『受相応でもある!』。
或は、
『随心行でもなく!』、
『受相応でもない!』。
是の中、
或は、
『随心行である!』が、
『受相応でない!』とは、――
『随心行』の、
『心不相応諸行』と、
『受である!』。
或は、
『受相応である!』が、
『随心行でない!』とは、――
『心である!』。
或は、
『随心行でもあり!』、
『受相応でもある!』とは、――
『想衆』と、
『想衆』に、
『相応する!』、
『行衆である!』。
或は、
『随心行でもなく!』、
『受相応でもない!』とは、――
『随心行』の、
『心不相応諸行』を、
『除いた!』、
『余残』の、
『心不相応諸行である!』。
『想相応、行相応』も、
亦た、
是のように、
『説くべきである!』。
  随心行(ずいしんぎょう):心法に随って生ずる行衆の意。『大智度論巻20上注:随心行』参照。
虛空處或從身見因不還與身見作因。或從身見因亦還與身見作因。或不從身見因。亦不還與身見作因。從身見因不還與身見作因者。除過去現在見苦斷諸使及此相應虛空處。亦除過去現在見集斷諸邊結及此相應虛空處。亦除未來世中身見及相應虛空處。亦除身見生老住滅。餘殘有垢虛空處。從身見因亦還與身見作因者。上所除者是。亦不從身見因亦不還與身見作因者。無垢虛空處。識處無所有處非有想非無想處亦如是。 虚空処は或は身見の因に従りて、還って身見の与(ため)に因と作らず。或は身見の因に従りて、亦た還って身見の与に因と作る。或は身見の因に従らずして、亦た還って身見の与に因と作らず。身見の因に従りて、還って身見の与に因と作らずとは、過去、現在の見苦断の諸使、及び此れに相応する虚空処とを除き、亦た過去、現在の見集断の諸辺結、及び此れに相応する虚空処を除き、亦た未来世中の身見、及び相応の虚空処を除き、亦た身見の生、老、住、滅を除きし、余残の有垢の虚空処なり。身見の因に従りて、亦た還って身見の与に因と作るとは、上に除きし所是れなり。亦た身見の因に従らず、亦た還って身見の与に因と作らずとは、無垢の虚空処なり。識処、無所有処、非有想非無想処も、亦た是の如し。
『虚空処』は、
或は、
『身見』の、
『因に従る!』が、
還って、
『身見』の、
『因と作らない!』。
或は、
『身見』の、
『因に従り!』、
亦た、
『身見』の、
『因と作る!』、
或は、
『身見』の、
『因に従らず!』、
亦た、
『身見』の、
『因とも作らない!』。
是の中、
或は、
『身見』の、
『因に従る!』が、
還って、
『身見』の、
『因と作らない!』とは、――
『過去、現在』の、
『見苦断の諸の結使(十結等)』と、
此れに、
『相応する虚空処』を、
『除き!』、
『過去、現在』の、
『見集断の諸の辺結(辺見)』と、
此れに、
『相応する虚空処』とを、
『除き!』、
『未来世』の、
『身見』と、
此れに、
『相応する虚空処』とを、
『除き!』、
亦た、
『身見』の、
『生、老、住、滅』を、
『除いた!』、
『余残』の、
『有垢』の、
『虚空処である!』。
或は、
『身見』の、
『因に従り!』、
亦た、
『身見』の、
『因とも作る!』とは、――
上に、
『除かれた!』、
『虚空処等である!』。
或は、
『身見』の、
『因に従らず!』、
亦た、
『身見』の、
『因とも作らない!』とは、
『無垢』の、
『虚空処である!』。
亦た、
『識処、無所有処、非有想非無想処』も、
『是の通りである!』。
  身見(しんけん):梵語 sat-kaaya-dRSTi の訳、 我及び我所に執して身心は有りと唱うる煩悩。十結の一。『大智度論巻20下注:十結』参照。
  辺結(へんけつ):梵語 anta-graaha-dRSTi の訳、又辺見に作る、所執の我我所の事に於いて断滅、若しくは常住と執し、神の有る無しを唱うる煩悩。十結の一。『大智度論巻20下注:十結』参照。
  十結(じっけつ):十種の結使の煩悩の意。十結に二種有り。(一)十使の別名、謂わゆる五利使五鈍使の総称。即ち、「修行道地経巻5」に、「已に苦本を見れば便ち慧眼の十結を除くを見る。何を謂いてか十と為す、一に曰わく貪身、二に曰わく見神、三に曰わく邪見、四に曰わく猶豫、五に曰わく失戒、六に曰わく狐疑、七に曰わく愛欲、八に曰わく瞋恚、九に曰わく貢高、十に曰わく愚癡なり。是の十結を棄て已りて此の心を獲れば則ち無漏に向かいて正見に入り、凡夫地を度して聖道に住す」と云える是れなり。是れ則ち、「衆事分阿毘曇論巻3」に、「云何が見苦断の十使なる、答う、謂わく身見、辺見、見苦断の邪見、見取、戒取、疑、貪、恚、慢、無明なり」と云えるものと同じにして、即ち貪身は身見に、見神は辺見に、邪見は邪見に、猶豫は見取に、失戒は戒取に、狐疑は疑に、愛欲は貪に、瞋恚は恚に、貢高は慢に、愚癡は無明に相当するものなり。此の中に就き、前の五を五見、或いは五利使と称し、後の五を五鈍使と称す。即ち一に身見sat-kaayadRSTi(巴梨語sakkaaya-diTThi)、二に辺見anta-graaha-dRSTi(巴antaggaaha-diTThi)、三に邪見mithyaa-dRSTi(巴micchaa-diTThi)、四に見取dRSTi-paraamarza(巴diTThi-paraamaasa)、五に戒取ziila-vrata-paraamarza(巴siilabbata-paraamaasa)、六に貪raaga(巴梨語同じ)、七に瞋pratigha(巴paTigha)、八に癡muuDha(巴muuLha)、九に慢maana(巴同じ)、十に疑vicikitsaa(巴vicikicchaa)なり。此の中、身見は又有身見とも称し、我及び我所に執して身心は有りと唱うるものを云い、辺見は又辺執見とも称し、所執の我我所の事に於いて断滅、若しくは常住と執し、神の有る無しを唱うるものを云い、邪見は四諦因果の同利を撥無するを云い、見取は又見取見とも称し、即ち劣法たる身見、辺見、邪見、及び余の非見を執取して、最勝なりと妄計するを云い、戒取は又戒禁取、或いは戒禁取見とも称し、因に非ず道に非ざるを妄に因又は道と計して或いは苦行に精進し、或いは天神に事うるものを云う。貪は又貪欲、或いは貪愛とも称し、即ち染汙の愛にして、財物等を欲求する精神作用を云、瞋は瞋恚、瞋怒、或いは恚、或いは怒とも称し、即ち有情に対して憎恚し、或いは有情に対して傷害の事を為さんと欲する精神作用を云い、癡は又愚癡とも名づけ、或は無明と称す、即ち事理に対して闇昧なる精神作用にして、所知の境に於いて理の如く解するを障え、辨了の相なきを云う。慢とは即ち他に対して自ら高慢となりて、他を恃まざる精神作用を云い、疑とは即ち迷悟因果の理に対して猶豫して疑い、決定せざる精神作用を云う。(二)謂わゆる五下分結五上分結の総称。「大智度論巻86」に、「無学は或いは九、或いは十断なり。十使の結使を断ずるに名づく。謂わゆる上下分の十結なり」と説くに依る。此の中、五下分結とは、下分界を順益する五種の結の意にして、又五順下分結、或いは五下結、或いは五下とも称す。即ち下の欲界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる五種の煩悩を云う。一に欲貪、二に瞋恚、三に有身見、四に戒禁取見、五に疑なり。五上分結とは、上分界を順益する五種の結の意にして、又五順上分結、或いは五上結、或いは五上とも称す。即ち上の色無色界を順益して、有情をして其の界を超えざらしむる煩悩を云う。一に色貪、二に無色貪、三に掉挙、四に慢、五に無明なり。此の中、色貪とは又色愛とも称して色界中の貪等の愛に名づけ、無色貪は又無色愛とも称して無色界中の貪等の愛に名づく。掉挙は即ち心をして寂静、止息ならしめずして、軽躁なる精神作用を云い、無明は即ち事理に対して闇昧なる精神作用を云う。<(望)
四無色定一切有因緣亦與因緣。 四無色定の一切は、因縁有りて、亦た因縁に与る。
『四無色定』の、
一切は、
『因縁が有り!』、
亦た、
『因縁として!』、
『関与する!』。
虛空處或次第不與次第緣。或次第亦與次第緣。或非次第亦不與次第緣。次第不與次第緣者未來世中欲生。心心數法虛空處及阿羅漢。過去現在最後滅時。心心數虛空處。次第亦與次第緣者。除過去現在阿羅漢最後滅時。心心數虛空處。餘殘過去現在心心數法虛空處。非次第。亦不與次第緣者。除未來世中。欲生心心數虛空處。餘殘未來世中心心數虛空處。及心不相應諸行。識處無所有處亦如是。 虚空処は、或は次第にして、次第縁に与らず。或は次第にして、亦た次第縁に与る。或は次第に非ず、亦た次第縁に与らず。次第にして、次第縁に与らずとは、未来世中の生ぜんと欲する心心数法の虚空処、及び阿羅漢の過去、現在の最後の滅時の心心数の虚空なり。次第にして、亦た次第縁に与るとは、過去、現在の阿羅漢の最後の滅時の心、心数の虚空処を除く、余残の過去、現在の心心数法の虚空処なり。次第に非ず、亦た次第縁に与らずとは、未来世中の生ぜんと欲する心心数の虚空処を除く、余残の未来世中の心心数の虚空処、及び心不相応諸行なり。識処、無所有処も亦た是の如し。
『虚空処』は、
或は、
『次第である!』が、
『次第縁』には、
『関与しない!』。
或は、
『次第であり!』、
『次第縁』にも、
『関与する!』。
或は、
『次第でもなく!』、
『次第縁』にも、
『関与しない!』。
是の中、
或は、
『次第である!』が、
『次第縁』には、
『関与しない!』とは、――
『未来世中に生じようとする!』、
『心、心数法という!』、
『虚空処』と、
『阿羅漢の最後の滅時』の、
『心、心数法という!』、
『虚空処である!』。
或は、
『次第でもあり!』、
『次第縁』にも、
『関与する!』とは、――
『過去、現在』の、
『阿羅漢の滅時』の、
『心、心数法という!』、
『虚空処』を、
『除いた!』、
『余残の!』、
『過去、現在』の、
『心、心数法という!』、
『虚空処である!』。
或は、
『次第でもなく!』、
『次第縁』にも、
『関与しない!』とは、――
『未来世中に生じようとする!』、
『心、心数法という!』、
『虚空処』を、
『除いた!』、
『余残の!』、
『未来世中の心、心数法という!』、
『虚空処』と、
『心不相応諸行である!』。
亦た、
『識処、無所有処』も、
『是の通りである!』。
  因縁(いんねん):四縁の一。六因中の能作因を除き、余の俱有相応等の五因の性にして、諸法の生起する時、親しき原因となるものを云う。『大智度論巻32上注:四縁、六因』参照。
  次第縁(しだいえん):又等無間縁とも称す。四縁の一。前念の心心所法が開避して、能く無間に後念の心心所法を生ぜしむる縁となるを云う。『大智度論巻32上注:四縁』参照。
  四縁(しえん):物が心に働きかけるとき、次のような四つの縁が考えられる。
    (1)因縁(いんねん):強い働きの因(六根)、弱い働きの縁(六境)が心と心の働きを生ずる。
    (2)次第縁(しだいえん):心と心の働きは次々と間を置かずに起きる。
    (3)縁縁(えんえん):外境によって造られた心と心の働きは、再び自心を生じさせる。
    (4)増上縁(ぞうじょうえん):外境によって、心と心の働きを増上させる。
    ※心識を能縁(のうえん)といい、心識の対象を所縁(しょえん)という。
    ※心と心所(個別的な心の働き)とが対境に向ってはたらき、その相を取ることを縁ずるという。
    ※心所は心数法ともいう。
非有想非無想處。或次第不與次第緣。或次第亦與次第緣。或非次第亦不與次第緣。次第不與次第緣者。未來世中欲生心心數法非有想非無想處。及阿羅漢。過去現在最後滅時心心數法非有想非無想處及滅受想。若生若欲生。次第亦與次第緣者。除過去現在阿羅漢最後滅時心心數非有想非無想處。餘殘過去現在心心數非有想非無想處。非次第亦非與次第緣者。除未來世中欲生心心數非有想非無想處。餘殘未來世中心心數非有想非無想處。除心次第心不相應諸行。餘殘心不相應諸行。 非有想非無想処は、或は次第にして、次第縁に与らず。或は次第にして、亦た次第縁に与る。或は次第に非ず、亦た次第縁にも与らず。次第にして、次第縁に与らずとは、未来世中の生ぜんと欲する心、心数法の非有想非無想処、及び阿羅漢の過去、現在の最後の滅時の心、心数法の非有想非無想処、及び滅受想の若しは生じ、若しは生ぜんと欲するなり。次第にして、亦た次第縁にも与るとは、過去、現在の阿羅漢の最後の滅時の心、心数の非有想非無想処を除きし、余残の過去、現在の心、心数の非有想非無想処なり。次第に非ず、亦た次第縁にも与らずとは、未来世中の生ぜんと欲する心、心数の非有想非無想処を除きし、余残の未来世中の心、心数の非有想非無想処と、心に次第する心不相応諸行を除きし、余残の心不相応諸行なり。
『非有想非無想処』は、
或は、
『次第である!』が、
『次第縁』には、
『関与しない!』。
或は、
『次第でもあり!』、
『次第縁』にも、
『関与する!』。
或は、
『次第でもなく!』、
『次第縁』にも、
『関与しない!』。
是の中、
或は、
『次第である!』が、
『次第縁』には、
『関与しない!』とは、――
『未来世中に生じようとする!』、
『心、心数法という!』、
『非有想非無想処』と、
『阿羅漢』の、
『過去、現在』の、
『最後の滅時の心、心数法という!』、、
『非有想非無想処』と、
『生じたか、生じようとする!』、
『滅受想である!』。
或は、
『次第でもあり!』、
『次第縁』にも、
『関与する!』とは、――
『過去、現在』の、
『阿羅漢』の、
『最後の滅時の心、心数法という!』、
『非有想非無想処』を、
『除いた!』、
『余残の!』、
『過去、現在』の、
『心心数法という!』、
『非有想非無想処である!』。
或は、
『次第ではなく!』、
『次第縁』にも、
『関与しない!』とは、――
『未来世中に生じようとする!』、
『心、心数法という!』、
『非有想非無想処』を、
『除いた!』、
『余残の!』、
『未来世』中の、
『心、心数法という!』、
『非有想非無想処』と、
『心』の、
『次第である!』、
『心不相応諸行』を、
『除いた!』、
『余残の!』、
『心不相応諸行である!』。
  滅受想(めつじゅそう):滅受想定、滅尽定とも称す。即ち無所有処の染を離れたる者所入の定を云う。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
四無色中攝諸心心數法有緣亦與緣緣。四無色攝心不相應諸行非緣與緣緣。 四無色中に摂する諸の心心数法は有縁にして、亦た縁縁にも与る。四無色に摂する心不相応諸行は、非縁にして、縁縁に与る。
『四無色中に摂める!』、
諸の、
『心、心数法』は、
『有縁であり!』、
『縁縁にも!』、
『関与する!』。
『四無色中に摂める!』、
諸の、
『心不相応行』は、
『非縁である!』が、
『縁縁に!』、
『関与する!』。
  有縁(うえん):縁に依って法が生起することの意。
  非縁(ひえん):法の存在が縁に依らないことの意。
  縁縁(えんえん):又所縁縁とも称す。四縁の一。心心所法の為に所取の境となるものを云う。『大智度論巻32上注:四縁』参照。
四無色皆是增上。亦與增上緣。如是等種種分別四無色。如阿毘曇分中說。此中應廣說。 四無色は、皆此れ増上にして、亦た増上縁に与る。是れ等の如く種種に四無色を分別す。阿毘曇中に説けるが如し。此の中にも、応に広く説くべし。
『四無色』は、
皆、
『増上であり!』、
『増上縁』にも、
『関与する!』。
是れ等のように、
種種に、
『四無色』を、
『分別した!』のは、
『阿毘曇』中に、
『説かれた!』のと、
『同じである!』が、
此の中にも、
『広く!』、
『説かねばならぬからである!』。
  増上縁(ぞうじょうえん):四縁の一。六因中の能作因にして、即ち障礙をなさずして能く後念の法を生起せしむるものを云う。『大智度論巻32上注:四縁、六因』参照。
問曰。摩訶衍中。四無色云何。 問うて曰く、摩訶衍中の四無色は云何。
問い、
『摩訶衍』中の、
『四無色』とは、
『何を言うのですか?』。
答曰。與諸法實相共智慧行。是摩訶衍中四無色。 答えて曰く、諸法の実相を共にする智慧の行、是れ摩訶衍中の四無色なり。
答え、
諸の、
『法』の、
『実相を共にする!』、
『智慧』の、
『行(thinking)であり!』、
是れが、
『摩訶衍』中の、
『四無色である!』。
問曰。何等是諸法實相。 問うて曰く、何等か是れ諸法の実相なる。
問い、
何のようなものが、
諸の、
『法』の、
『実相なのですか?』。
答曰。諸法諸法自性空。 答えて曰く、諸法と諸法の自性は空なり。
答え、
諸の、
『法』は、
『空であり!』、
諸の、
『法の自性』も、
『空である!』。
問曰。色法和合分別因緣故空。此無色中云何空。 問うて曰く、色法の和合は、因縁を分別するが故に空なり。此の無色中は云何が空なる。
問い、
『色法という!』、
『和合』は、
『因縁を分別する!』が故に、
『空である!』が、
此の、
『無色』中には、
何故、
『空なのですか?』。
答曰。色是眼見耳聞麤事能令空。何況不可見無有對。不覺苦樂而不空。 答えて曰く、色は、是れ眼見、耳聞の麁事なれば、能く空ならしむ。何に況んや、不可見にして有対無く、苦楽を覚らずして、而も空ならざるをや。
答え、
『色』は、
『眼に見て!』、
『耳に聞く!』、
『麁事である!』が、
『空にすることができる!』。
況して、
『不可見であり!』、
『有対が無く!』、
『苦、楽すら覚らない!』のに、
而も、
『空でないことがあろうか?』。
復次色法分別。乃至微塵皆散滅歸空。是心心數法。在日月時節須臾頃乃至一念中不可得。是名四無色定義。如是等種種。略說四無色
大智度論卷第二十
復た次ぎに、色法は乃至微塵まで、分別すれば、皆散滅して、空に帰す。是の心、心数法は、日月、時節、須臾の頃、乃至一念中に在りて、不可得なり。是れを四無色の定義と名づく。是れ等の如き種種に四無色を略説す。
大智度論巻第二十
復た次ぎに、
『色法』は、
乃至、
『微塵にまで!』、
『分別すれば!』、
皆、
『散滅して!』、
『空』に、
『帰する!』が、
是の、
『心、心数法』は、
『日月、時節、須臾の頃(あいだ)、乃至一念』中に於いて、
皆、
『認識することができない!』。
是れが、
『四無色』の、
『定義である!』。
是れ等のように、
種種に、
『四無色』を、
『略説した!』。

大智度論巻第二十
  微塵(みじん):眼根所取の最も微細なる色量を云う。『大智度論巻5上注:微塵』参照。
  須臾(しゅゆ):漢語。暫時と云うに同じ。しばらく。


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