巻第二十(上)
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大智度論釋初品中三三昧義第三十二(卷第二十)
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


三三昧、四禅、四無量、四無色、乃至十一切処

【經】空三昧無相三昧無作三昧。四禪四無量心四無色定。八背捨八勝處九次第定十一切處 空三昧、無相三昧、無作三昧、四禅、四無量心、四無色定、八背捨、八勝処、九次第定、十一切処、‥‥
『空三昧』、
『無相三昧』、
『無作三昧』、
『四禅』、
『四無量心』、
『四無色定』、
『八背捨』、
『八勝処』、
『九次第定』、
『十一切処』、‥‥
  空三昧(くうさんまい):一切諸法の無我、無我所を観ずる三昧。『大智度論巻5上注:三三昧』参照。
  無相三昧(むそうさんまい):一切諸法の無相を観ずる三昧。『大智度論巻5上注:三三昧』参照。
  無作三昧(むささんまい):一切諸法の無作相を観ずる三昧。『大智度論巻5上注:三三昧』参照。
  四禅(しぜん):色界の四種の禅定。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  四無量心(しむりょうしん):無量の衆生を縁じ、其れをして苦を離れ、楽を得しめんと思惟して入る、慈、悲、喜、捨の四種の定。『大智度論巻下注:四無量』参照。
  四無色定(しむしきじょう):無色界の四種の定。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
  八背捨(はっぱいしゃ):八種の定力に依りて、色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の色処を観じて所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  九次第定(くしだいじょう):次第に無間に修する九種の定の意。『大智度論巻17下注:九次第定』参照。
  十一切処(じゅういっさいじょ):勝解作意によりて、色等の十法が各一切処に周遍して間隙なしと観ずるを云う。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1』:『佛告舍利弗。菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中。以無所捨法應具足檀那波羅蜜。施者受者及財物不可得故。罪不罪不可得故。應具足尸羅波羅蜜。心不動故。應具足羼提波羅蜜。身心精進不懈怠故。應具足毘梨耶波羅蜜。不亂不味故。應具足禪那波羅蜜。於一切法不著故。應具足般若波羅蜜。菩薩摩訶薩以不住法住般若波羅蜜中。不生故。應具足四念處四正懃四如意足五根五力七覺分八聖道分。空三昧無相三昧無作三昧。四禪四無量心四無色定八背捨八勝處九次第定十一切處。九相。脹相壞相血塗相膿爛相青相噉相散相骨相燒相。念佛念法念僧念戒念捨念天念入出息念死。十想。無常想苦想無我想食不淨想一切世間不可樂想死想不淨想斷想離欲想盡想。十一智。法智比智他心智世智苦智集智滅智道智盡智無生智如實智。三三昧。有覺有觀三昧無覺有觀三昧。無覺無觀三昧。三根。未知欲知根知根知已根。舍利弗。菩薩摩訶薩欲遍知佛十力四無所畏四無閡智。十八不共法大慈大悲。當習行般若波羅蜜。』
【論】問曰。何以故次三十七品。後說八種法。 問うて曰く、何を以っての故にか、三十七品に次いで、後に八種の法を説く。
問い、
何故、
『三十七品に次いで!』、
後に、
『八種の法』を、
『説くのですか?』。
答曰。三十七品是趣涅槃道。行是道已得到涅槃城。涅槃城有三門。所謂空無相無作。已說道次應說到處門。四禪等是助開門法。 答えて曰く、三十七品は、是れ涅槃に趣く道にして、是の道を行き已れば、涅槃の城に到るを得。涅槃の城には、三門有り、所謂空、無相、無作なり。已に道を説けば、次いで応に到る処の門を説くべし。四禅等は、是れ開門を助くる法なり。
答え、
『三十七品』は、
『涅槃に趣く!』為の、
『道であり!』、
是の、
『道を行く!』と、
『涅槃の城』に、
『到ることができる!』。
『涅槃の城』には、
『三門が有り!』、
所謂、
『空』と、
『無相』と、
『無作である!』。
已に、
『三十七品』という、
『道』を、
『説いたならば!』、
次は、
『到った処』の、
『門』を、
『説かねばならぬ!』。
『四禅』等は、
『門を開く!』のを、
『助ける!』、
『法である!』。
復次三十七品是上妙法。欲界心散亂。行者依何地何方便得。當依色界無色界諸禪定。於四無量心八背捨八勝處九次第定十一切處中試心知得柔軟自在隨意不。譬如御者試馬曲折隨意然後入陣。 復た次ぎに、三十七品は、是れ上妙の法なるも、欲界に心散乱すれば、行者は何なる地、何なる方便に依りて得ん。当に色界、無色界の諸の禅定に依るべし。四無量心、八背捨、八勝処、九次第定、十一切処中に於いて、心を試して、柔軟を得て、自在に随意なるや不やを知る。譬えば、御者の馬を試して、曲折随意なれば、然る後に陣に入るが如し。
復た次ぎに、
『三十七品』は、
『上妙の法である!』が、
『欲界』の、
『心』が、
『散乱すれば!』、
『行者』は、
何のような、
『地()』と、
『方便』に、
『依って!』、
是の、
『上妙の法』を、
『得るのか?』。
当然、
『色界、無色界』の、
諸の、
『禅定』に、
『依らねばならぬ!』。
『行者』は、
当然
『四無量心』や、
『八背捨、八勝処、九次第定、十一切処』中に於いて、
『心を試して!』、
『柔軟、自在、随意か、何うか?』を、
『知らねばならぬ!』。
譬えば、
『御者』が、
『馬を試して!』、
『曲、折』が、
『随意ならば!』、
その後、
『陣』に、
『入れるようなものである!』。
十一切處亦如是。觀取小許青色。視一切物皆能使青。一切黃一切赤一切白皆如是。 十一切処も亦た是の如く、小許の青色を観取して、一切の物を視、皆青ならしむ。一切の黄なる、一切の赤なる、一切の白なるも、皆、是の如し。
『十一切処』も、
是のように、
『小許(少し)!』の、
『青色』を、
『観取すれば!』、
一切の、
『物を視て!』、
皆を、
『青くすることができる!』。
一切の、
『黄、赤、白』も、
是のようにして、
『心』を、
『摂(おさ)めるのである!』。
復次於八勝處緣中自在。初二背捨觀身不淨。第三背捨觀身還使淨。 復た次ぎに、八勝処の縁ずる中に於いて、自在なり。初、二背捨は、身の不浄なるを観、第三背捨に観を観て、還た浄ならしむ
復た次ぎに、
『八勝処』を、
『縁じる(接触する)!』中に、
『自在になれば!』、
『散乱した!』、
『心』を、
『摂めることができ!』、
『初、二背捨』で、
『身』の、
『不浄』を、
『観察し!』、
『第三背捨』の、
『観察』で、
還()た、
『身』を、
『浄くならせれば!』、
『散乱した!』、
『心』を、
『摂めることができる!』。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の物を観察して貪著の心を除くための八種の禅。八背捨、十一切処と合わせて三法(さんぽう)といい、三界の貪愛を遠離する一具の出世間の禅である。『背捨を初門と為し、勝処を中行と為し、一切処を成就と為す。三種の観足りて、即ちこれ観禅の体成就す。』(智21)
    (1)色や形に対する想(色想)が内心にあることを除くために少しの物を観察して貪著を除く。
    (2)いろいろな物を観察して貪著を除く。
    (3)内心に色想が無くなってもなお少しの物を観察して貪著を除く。
    (4)更にいろいろな物を観察して貪著を除く。
    (5)内心に色想が無くなってもなお、青色について観察して貪著を除く。
    (6)黄色、(7)赤色、(8)白色について観察して貪著を除く。
  八背捨(はっぱいしゃ):八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階の修行法。
    (1)色や形に対する想い(色想)が内心にあることを除くために、不淨観を修める。
    (2)内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。
    (3)前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起こさないようにする。
    (4)物質的な想いをすべて滅して、空無辺処定に入る。
    (5)空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。
    (6)識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。
    (7)無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。
    (8)受想などを捨てて、滅尽定(めつじんじょう、心と心所をすべて滅する)に入る。
四無量心慈觀眾生皆樂。悲觀眾生皆苦。喜觀眾生皆喜。捨是三心但觀眾生無有憎愛。 四無量心は、慈もて、衆生の皆楽なるを観、悲もて、衆生の皆苦なるを観、喜もて、衆生の皆喜なるを観、是の三心を捨てて、但だ衆生を観て、憎愛有ること無し。
『四無量心』の、
『慈』は、
『衆生』は、
『皆、楽しむ!』と、
『観察し!』、
『悲』は、
『衆生』は、
『皆、苦しむ!』と、
『観察し!』、
『喜』は、
『衆生』は、
『皆、喜ぶ!』と、
『観察し!』、
是の、
『三心』を、
『捨てて!』、
但だ、
『衆生』を、
『観察すれば!』、
『心』には、
『憎、愛する!』ことが、
『無い!』。
  四無量心(しむりょうしん):菩薩は慈悲喜捨の四が無量でなくてはならない。またこれは平等の心により起こるため四等ともいう。 所縁の境に従って無量といい、能起の心に従って等という。
   (1)慈:菩薩は『衆生は常に安穏楽事を求めている。』ことを知り、常にこれを以って饒益(にょうやく)する。この慈心により、衆生の中の瞋りの感情を除く。
   (2)悲:菩薩は『衆生が五道中に、種々に身の苦しみ心の苦しみを受ける。』ことを知り、常に哀れんで苦しみを抜く。この悲心により、衆生の中の悩みの感情を除く。
   (3)喜:菩薩は衆生に楽を与えて歓喜を得なければならない。この喜心により、菩薩は常に楽しむ。
   (4)捨:菩薩は上に挙げた三種の心を捨て、ただ衆生を心に掛けながら憎まず、愛することもない。この捨心により、衆生の中の愛憎の感情を除く。(智20)



三三昧と三解脱門

復次有二種觀。一者得解觀二者實觀。實觀者。是三十七品。以實觀難得故。次第說得解觀。得解觀中心柔軟易得實觀。用實觀得入三涅槃門。 復た次ぎに、二種の観有り、一には得解の観、二には実の観なり。実の観とは、是の三十七品なり。実の観の得難きを以っての故に、次第に得解の観を説き、得解の観中に心柔軟となれば、実の観を得易く、実の観を用うれば、三涅槃門に入るを得。
復た次ぎに、
『観』には、
『二種』有り、
一には、
『解(解脱)を得る!』、
『観であり!』、
二には、
『実の!』、
『観である!』。
『実の観』とは、
『三十七品である!』が、
『実の観』は、
『得難い!』が故に、
次第に(次に)、
『解を得る観』を、
『説かれたのである!』が、
『解を得る観』中に於いて、
『心が柔軟になれば!』、
『実の観』を、
『得易いからであり!』、
『実の観を用いれば!』、
『三種の涅槃門』に、
『入ることができるからである!』。
問曰。何等空涅槃門。 問うて曰く、何等か空涅槃門なる。
問い、
『空涅槃門』とは、
何のようなものですか?
答曰。觀諸法無我我所空。諸法從因緣和合生。無有作者無有受者。是名空門。 答えて曰く、諸法を観れば、我我所無く、空なり。諸法は因縁の和合より生じて、作者有ること無く、受者有ること無し。是れを空門と名づく。
答え、
諸の、
『法を観れば!』、――
『我』も、
『我所』も、
『無く!』、
『空である!』。
諸の、
『法』は、
『因縁』の、
『和合より!』、
『生じる!』ので、
『法(例えば:生)』を、
『作る!』者も、
『無く!』、
『法』を、
『受ける!』者も、
『無い!』。
是のような、
『観』を、
『空の門』と、
『称する!』。
復次空門。如忍智品中說。知是無我我所已。眾生云何於諸法中心著。行者思惟作是念。諸法從因緣生無有實法。但有相。而諸眾生取是相著我我所我今當觀是相有實可得不。審諦觀之都不可得。若男相女相一異相等。是相實皆不可得。 復た次ぎに、空門は、忍智品中に説けるが如く、是の我我所無きを知り已れば、衆生は云何が諸法中に於いて心著せん。行者の思惟して、是の念を作すらく、『諸法は、因縁より生ずれば、実法有ること無く、但だ相有るのみ。而も諸の衆生は、是の相を取りて、我我所に著す。我れは今、当に是の相に、実に得べきもの有りや不やを観るべし。審諦して之を観れば、都て不可得なり。若しは男相、女相、一、異相等、是の相は実に皆不可得なり。
復た次ぎに、
『空の門』は、
例えば、
『忍智品』中に説いたように、――
是の、
『我、我所』の、
『無い!』ことを、
『知れば!』、
『衆生』が、
何故、
『諸の法』中に、
『心』が、
『著するのか?』。
『行者』は、
『思惟して!』、
是の、
『念』を、
『作す!』、――
諸の、
『法』は、
『因縁』より、
『生じる!』ので、
此の中には、
『実の法』が、
『無い!』。
但だ、
『相』が、
『有るだけだ!』、
而し、
『衆生』は、
是の、
『相を取って!』、
『我、我所』に、
『著しているのだ!』。
わたしは、
今、観察せねばならぬ、――
是の、
『相』には、
『実に認識できる!』ものが、
『有るのだろうか?』。
審諦(つまびらか)に、
是の、
『相』を、
『観てみた!』が、
都(すべ)てに、
『何も!』、
『認められない!』。
例えば、
『男、女の相』も、
『一、異の相』も、
実に、
『皆が!』、
『認められないのだ!』。
  参考:『大智度論巻5菩薩功徳釈論第十』:『問曰。云何等云何忍。答曰。有二種等。眾生等法等。忍亦二種眾生忍法忍。云何眾生等。一切眾生中等心等念等愛等利。是名眾生等。問曰。慈悲力故於一切眾生中。應等念。不應等觀。何以故。菩薩行實道不顛倒如法相。云何於善人不善人大人小人人及畜生。一等觀。不善人中實有不善相。善人中實有善相。大人小人人及畜生亦爾。如牛相牛中住。馬相馬中住。牛相非馬中。馬相非牛中。馬不作牛故。眾生各各相。云何一等觀而不墮顛倒。答曰。若善相不善相是實。菩薩應墮顛倒。何以故破諸法相故以諸法非實。善相非實不善相非多相非少相。非人非畜生非一非異。以是故汝難非也。如說諸法相偈  不生不滅  不斷不常  不一不異  不去不來  因緣生法  滅諸戲論  佛能說是  我今當禮』
何以故。諸法無我我所故空。空故無男無女。一異等法我我所中名字。是一是異。以是故男女一異法實不可得。 何を以っての故に、諸法は我、我所の無いが故に空なり、空なるが故に男無く、女無ければなり。一異等の法は我、我所中に、是れは一なり、是れは異なりと名字するのみ。是を以っての故に男女、一異の法は、実に得べからず。
何故ならば、
諸の、
『法(五衆、十二入、十八界)』は、
『我、我所』の、
『無い!』が故に、
『空であり!』、
『空である!』が故に、
『男、女』が、
『無いからである!』。
『一とか!』、
『異とか!』の、
『法』は、
『我我所()』中に、
是れは、『一である!』とか、
是れは、『異である!』と、
但だ、
『呼んでいるだけなのだ!』。
是の故に、
『男、女、一、異』などの、
『法』が、
『実である!』とは、
『認められない!』、と。
復次四大及造色。圍虛空故名為身。是中內外入因緣和合。生識種身。得是種和合。作種種事言語坐起去來。於空六種和合中強名為男。強名為女。若六種是男應有六男。不可以一作六六作一。亦於地種中無男女相。乃至識種亦無男女相。若各各中無。和合中亦無。如六狗。各各不能生。師子和合亦不能生。無性故。 復た次ぎに、四大、及び造色は、虚空を囲むが故に名づけて、身と為し、是の中に内、外の入の因縁和合して、識種を生じ、身に是の種の和合を得て、種種の事、言語、坐起を作し、空しき六種の和合中に去来するを強いて名づけて、男と為し、強いて名づけて、女と為す。若し六種は、是れ男なれば、応に六男有るべきに、一を以て六と作し、六を一と作すべからざれば、亦た地種中に於いても、男女相無く、乃至識種にも、亦た男女相無し。若し各各中に無くんば、和合中にも亦た無けん。六狗の各各、師子を生ずる能わざれば、和合も亦た生ずる能わざるが如し。性無きが故なり。
復た次ぎに、
『四大と造色(四大所造の色)に囲まれた!』、
『虚空』を、
『身』と、
『称し!』、
是の中に、
『内入(眼耳鼻舌身法)』と、
『外入(色声香味触意)』との、
『因縁の和合』が、
『識種』を、
『生じ!』、
『身』に、
是の、
『識種』が、
『和合して!』、
種種の、
『仕事、言語、坐起』を、
『作すのである!』が、
是の、
『空虚な!』、
『六種の和合』中に、
『去、来する!』者を、
強いて、
『男』と、
『呼び!』、
強いて、
『女』と、
『呼ぶのである!』。
若し、
『六種』が、
『男ならば!』、
『六男』が、
『有るはずである!』が、
『一』を、
『六』と、
『作すことはできず!』、
『六』を、
『一』と、
『作すこともできない!』。
亦た、
『地種』中にも、
『男、女の相』は、
『無く!』、
『乃至識種』中にも、
『男、女の相』は、
『無い!』。
若し、
『各各に』、
『無ければ!』、
『和合』中にも、
『男、女の相』は、
『無いことになる!』。
譬えば、
『六狗(いぬ)』の、
『各各が!』、
『師子』を、
『生じることができなければ!』、
『和合しても!』、
『生じられない!』のと、
『同じである!』。
是れが、
『男、女の相』に、
『性の無い!』、
『理由である!』。
  造色(ぞうしき):梵語upaadaaya-ruupaの訳。所造色の略。四大所造の色の意なり。又所造とも云う。即ち一切の色法を指し、皆、地、水、火、風等の四大種の造作する所なるが故に、所造色と称して、四大種は、則ち是れ能造なり。
  識種(しきしゅ):梵語 vijJaana- dhaatu の訳、意識の要素( element of consciousness )。六種の一。人の所依たる四大、及び空、識を総じて六種と云い、或いは六大と称す。
  六種(ろくしゅ):梵語 Sad- dhaatu の訳、六種の要素( the sex elements )の義、是れ等の要素は、合成された形状/身体を合成する種子に似ている、六種とは所謂地、水、風、火、空間、及び意識である( These are like seeds that combine to form all composite forms. The six are: earth, water, wind, fire, space, and consciousness. )。人の所依たる四大、及び空、識の総称。「成実論巻2四諦品」に、「又六種有り、地水火風空識なり。四大、空を囲み、識、中に在りて有るに、数名づけて人と為す」と云える即ち是れなり。
  六大(ろくだい):六種の大なるものの意。又六界SaD dhaatavaHと名づく。即ち有情を成ずる所依に六種の別あるを云う。一に地pRthivii、二に水aap、三に火tejas、四に風vaayu、五に空aakaaza、六に識vijJaanaなり。「中阿含巻3度経」に、「云何が六界の法なる、我が自知自覚する所、汝の為に説かん、謂わく地界水火風空識界なり。是れを六界の法と謂う。我が自知自覚する所、汝の為に説くなり。六界合するを以っての故に便ち母胎に生ず」と云い、「倶舎論巻1」に、「彼の経中に説く所の六界は、地水火風の四界は已に説く、空識の二界は未だ其の相を説かず。即ち虚空を名づけて空界と為すとせんや、一切の識を識界と名づくとせんや。爾らず。云何、頌に曰わく、空界は謂わく竅隙(隙間)なり、伝説すらく是れ明闇なりと。識界は有漏の識なり、有情の生の所依なり。(中略)云何ぞ諸の無漏識を説いて識界と為さざるや、六界は是れ諸の有情の生の所依なりと許すに由るが故なり。是の如き諸界は続生の心より命終の心に至るまで恒に生を持するが故なり。諸の無漏法は則ち是の如くならず」と云える是れなり。是れ此の六界は有情一期の間能く其の生を任持するものなることを説けるものなり。此の中、地水火風の四界は即ち能造の大種にして、一切諸色の所依となり、空界は内外の竅隙にして亦た能く生長の因となり、共に色蘊に摂す。識界は即ち有漏識にして諸有を摂益任持するものなるが故に、総じて此の六界を有情相続の所依の体事となせるものなり。又「法蘊足論巻10」、「大毘婆沙論巻75」、「順正理論巻2」等に出づ。<(望)
問曰。何以故無男女。雖神無有別。即身分別有男女之異。是身不得離身分。身分亦不得離身。如見身分足。知有有分法名為身。足等身分異身。身即是男女相。 問うて曰く、何を以っての故にか、男女無き。神には別有ること無しと雖も、即ち身分には別に、男女の異有り。是の身は、身分を離るるを得ず、身分も亦た身を離るるを得ず。身分の足を見れば、有分の法有るを知りて、名づけて身と為すが如し。足等の身分は身に異なり、身は即ち是れ男女の相なり。
問い、
何故、
『男、女』が、
『無いのですか?』。
『神(身心の所有者)』に、
『男、女』の、
『別』が、
『無くても!』、
『身の分』には、
即ち、
『男、女』の、
『別異』が、
『有ります!』。
是の、
『身』は、
『身の分』を、
『離れられず!』、
『身の分』も、
『身』を、
『離れられない!』。
例えば、
『身の分である!』、
『足』を、
『見て!』、
『分を有する!』、
『法が有る!』ことを、
『知り!』、
是れを、
『身』と、
『呼ぶように!』、
『足』等の、
『身の分』は、
『身』に、
『異ならず!』、
『身』は、
『男、女』の、
『相なのです!』。
  :有有分法:一本には有有身分法に作る。
答曰。神已先破身相亦壞。今當重說。若有是有分名身。為各各分中具足有為身分。分在諸分中。若諸分中具足有身者。頭中應有腳。何以故。頭中具足有身故。若身分分在諸分中。是身與分無有異。有分者隨諸分故。 答えて曰く、神は、已に先に破れ、身相も亦た壊る。今当に重ねて説くべし。若し是の有分有りて、身と名づくれば、各各の分中に具足して有りと為すや、身分は、諸の分中に分けて在りと為すや。若し諸の分中に具足して身有らば、頭中にも応に脚有るべし。何を以っての故に、頭中に具足して身有るが故なり。若し身分にして、諸の分中に分けて在らば、是の身は、分と異有ること無けん。有分の者の諸分に随うが故なり。
答え、
『神』は、
已に、
『先に!』、
『破られており!』、
『身の相』も、
亦た、
『壊(やぶ)られている!』が、
今は、
『重ねて!』、
『説かねばならぬ!』。
若し、
是の、
『分』を、
『有する!』者が、
『有り!』、
之を、
『身』と、
『称するならば!』、
是の、
『身』は、
『各各の分』中に、
『具足して!』、
『有るのか?』、
『身の分』が、
『諸の分』中に、
『分かれて!』、
『在るのか?』。
若し、
諸の、
『分』中に、
『身』が、
『具足して!』、
『有れば!』、
『頭』中にも、
『脚』が、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『頭』中には、
『身』が、
『具足して!』、
『有るからである!』。
若し、
諸の、
『分』中に、
『身』が、
『分かれて!』、
『在れば!』、
是の、
『身』は、
『分』と、
『異ならない!』。
何故ならば、
『分を有する!』者が、
諸の、
『分』に、
『随うからである!』。
問曰。若足等身分與有分異。是有咎。今足等身分與有分身法不異故無咎。 問うて曰く、若し足等の身分、有分と異なりて、是れに咎有らば、今足等の身分と有分の身法と異ならずんば、故に咎無けん。
問い、
若し、
『足』等の、
『身の分』が、
『分を有する!』者と、
『異なって!』、
是れに、
『咎』が、
『有るとすれば!』、
今、
『足』等の、
『身の分』と、
『分を有する!』、
『身法()』とが、
『異ならなければ!』、
故に、
『咎』は、
『無いはずである!』。
答曰。若足等身分。與有分不異。頭即是足。何以故。二事是身不異故。又身分多有分一。不應多作一一作多。 答えて曰く、若し足等の身分、有分と異ならざれば、頭は、即ち是れ足なり。何を以っての故に、二事は是れ身と異ならざるが故なり。又身分は多く、有分は一なれば、応に多は一と作り、一は多と作るべからず。
答え、
若し、
『足』等の、
『身の分』が、
『分を有する!』者と、
『異ならなければ!』、
『頭』は、
即ち(そのままで)、
『足である!』。
何故ならば、
『二事』が、
『身』と、
『異ならないからである!』。
又、
『身の分』は、
『多く!』、
『分を有する!』者は、
『一なので!』、
当然、
『多』が、
『一』と、
『作るはずがなく!』、
『一』が、
『多』と、
『作るはずがない!』。
復次因無故果無。非果無故因無。身分與有分不異。應果無故因無。何以故。因果一故。若一若異中求身不可得。身無故何處有男女。若有男女為即是身為異身。身則無可得。若在餘法餘法非色故。無男女之別。但二世因緣和合。以顛倒心故。謂為男女。 復た次ぎに、因無きが故に果無きにして、果無きが故に因無きに非ず。身分と有分と異ならずんば、応に果無きが故に因無かるべし。何を以っての故に、因、果一なるが故なり。若しは一、若しは異中に身を求むるも、得べからず。身無きが故に何処にか男、女有らん。若し男、女有らば、即ち是れ身と為すや、身に異なりと為すや。身なれば、則ち得べきもの無し。若し余法に在らば、余法は色に非ざるが故に、男、女の別無し。但だ二世の因縁和合して、心を顛倒するを以っての故に謂いて、男、女と為す。
復た次ぎに、
『因()が無い!』が故に、
『果(身の分)』が、
『無いのであって!』、
『果が無い!』が故に、
『因』が、
『無いのではない!』。
『身の分』が、
『分を有する!』者と、
『異ならなければ!』、
当然、
『果の無い!』が故に、
『因』も、
『無いはずである!』。
何故ならば、
『因』と、
『果』とが、
『一だからである!』が、
『因、果』は、
『一であろうが!』、
『異であろうが!』、
若し、
『身』を、
『求めて!』、
『認められなければ!』、
『身』が、
『無い!』が故に、
何処に、
『男、女』が、
『有るのか?』。
若し、
『男、女が有れば!』、
是の、
『男、女』が、
『身なのか?』、
是れは、
『身』とは、
『異なるのか?』。
若し、
『身ならば!』、
『認められる!』ものが、
『無い!』。
若し、
『男、女』が、
『余の法に在れば!』、
『余の法』は、
『色(身法)でない!』が故に、
是れには、
『男、女の別』が、
『無い!』。
但だ、
『二世の因縁』が、
『和合して!』、
『心』を、
『顛倒させる!』が故に、
是れが、
『男、女である!』と、
『謂うだけである!』。
如說
 俯仰屈申立去來 
 視瞻言語中無實 
 風依識故有所作 
 是識滅相念念無 
 彼此男女有我心 
 無智慧故妄見有 
 骨鎖相連皮肉覆 
 機關動作如木人 
 內雖無實外似人 
 譬如洋金投水中 
 亦如野火焚竹林 
 因緣合故有聲出
如是等諸相如先所說。此中應廣說。是名無相門。
説くが如し、
俯仰し屈申し立ちて去来し、
視瞻し言語する中に実無し。
風は識に依るが故に所作有り、
是の識は滅相にして念念に無し。
彼此男女は有我の心の、
智恵無きが故に妄見して有り。

骨鎖相連なりて皮肉に覆わるるも、
機関の動作する木人の如し。
内に実無しと雖も外は人に似たり、
譬えば洋金を水中に投ずるが如く、
亦た野火の竹林を焚(た)くが如く、
因縁の合するが故に声の出づる有り。
是れ等の如き諸相は、先に説けるが如し。此の中に応に広く説くべし。是れを無相の門と名づく。
譬えば、こう説く通りである、――
『俯仰、屈申、立(坐起)、去来』や、
『視瞻、言語』中には、
『実』が、
『無い!』。
『風の所作(行為)』は、
『識に依って!』、
『有る!』が、
是の、
『識』は、
『念念に生滅して!』、
『無い!』。
『彼此、男女』は、
『我を有する!』、
『心』に、
『智恵』が、
『無い!』が故に、
『有る!』と、
『妄見するだけだ!』。
『骨鎖が連なっていようと!』、
『皮肉に覆われていようと!』、
『機関(機械)が動作しようと!』、
『木人』と、
『同じように!』、
『内に!』、
『実』が、
『無い!』のに、
『外』は、
『人』に、
『似ている!』。
譬えば、
『洋金(溶融した金属)』を、
『水中に投じたり!』、
『野火』が、
『竹林を焚()いたり!』すれば、
『声』が、
『出るように!』、
『因縁』が、
『和合する!』が故に、
有る者が、
『声』を、
『出すだけだ!』。
是れ等のような、
諸の、
『相』は、
『先に!』、
『説いた通りである!』が、
此の中にも、
『広く!』、
『説かねばならない!』。
是れを、
『無相の門』と、
『称する!』。
  俯仰(ふごう):うつむくとあおむく。
  屈申(くっしん):屈伸。かがむとのびる。
  (りゅう):たつ。
  去来(こらい):去ると来る。
  視瞻(しせん):物を見ること。瞻視。
  言語(ごんご):ことば。口で言うことば。
  念念(ねんねん):一瞬。念は短いあいだ。
  妄見(もうけん):実にあらざるを見る。
  骨鎖(こっさ):骨のくさり。連なった骨。
  機関(きかん):活動の仕かけを施した機械。
  木人(もくにん):木製の人形。木偶。
  洋金(ようこん):溶けて流れる金。
  野火(やか):のび。野原の草を焼く火。
無作者既知無相。都無所作。是名無作門。 無作とは、既に無相を知れば、都ての所作無し。是れを無作の門と名づく。
『無作』とは、
既に、
『無相である(≒手足が無い)!』ことを、
『知れば!』、
都(すべ)ての、
『所作(行為)』は、
『無い!』ので、
是れを、
『無作の門』と、
『称する!』。
問曰。是三種以智慧觀空觀無相觀無作。是智慧何以故名三昧。 問うて曰く、是の三種は、智慧を以って空を観じ、無相を観じ、無作を観ず。是の智慧を、何を以っての故にか、三昧と名づくる。
問い、
是の、
『三種の門』は、
『智慧を用いて!』、
『空、無相、無作』を、
『観察する!』が、
是の、
『智慧』を、
何故、
『三昧』と、
『呼ぶのですか?』。
  三昧(さんまい):samaadhi、梵語。巴梨語同じ。三摩地の旧音写なり。正定、又は等持等と訳す。心の一境に住して動ぜざる状態を云う。倶舎等に於いては三摩地を以って一の心所法とし、心は此の心所に摂持せらるるが故に、即ち一境に住することを得となせるも、経部及び成実論等には之を別の実有の心所となさず、唯心の一境に相続して転ずるを三摩地と名づくとせり。蓋し三摩地、解脱vimokza、禅dhyaana、及び三摩鉢底samaapatti等は、皆心の相続して一境に転ずる状態を指せるものなりと雖も、其の義は各同じからず。之に関し「大智度論巻28」に、「三昧に二種あり、声聞法の中の三昧と、摩訶衍法の中の三昧となり。声聞法の中の三昧とは所謂三三昧なり。復た次ぎに三三昧あり、空空三昧、無相無相三昧、無作無作三昧なり。復た三三昧あり、有覚有観、無覚有観、無覚無観なり。復た五支三昧、五智三昧等あり。是れを諸三昧と名づく。復た次ぎに一切の禅定を亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を亦た禅と名づけ、亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を除ける諸余の定を亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく、名づけて禅と為さず。十地の中の定を名づけて三昧と為す」と云い、又「十住毘婆沙論巻11」には、「禅とは四禅なり、定とは四無色定、四無量心等を皆名づけて定と為す、解脱とは八解脱なり、三昧とは諸禅解脱を除いて余の定を尽く三昧と名づく。有人言わく、三解脱門及び有覚有観定、無覚有観定、無覚無観定を名づけて三昧と為すと。有人言わく、定は小に、三昧は大なり。是の故に一切の諸仏菩薩所得の定を皆三昧と名づくと」と云えり。此の中、諸説あるも、要するに狭義には唯空無相無願及び有覚有観等の三を三昧と名づけ、広義には即ち四禅及び余の諸定をも皆亦た称して三昧となすの意なり。又「雑阿毘曇心論巻6」、「成実論巻12」、「十地経論巻5」等に亦た各其の説を出せり。故に「大乗義章巻13」に、「毘曇の如きに依らば、四禅を禅と名づけ、八解脱をば名づけて背捨と為し、四無色定と滅尽と無想とを通じて正受と名づけ、空無相無願を三摩提と名づく。故に彼の論に言わく、諸禅と及び背捨と正受と三摩提と、此の四名を用って表して諸定を別つと。若し成実に依らば、四禅を禅と名づけ、四空を定と名づけ、八解脱をば名づけて解脱と為し、一切禅定の用現在前するを三摩提と名づく。此の四名を以って名づけて諸定を別つ。若し地論に依らば、四禅を禅と名づけ、四無色定を説いて解脱となし、四無量心を名づけて三昧と為し、五神通をば三摩提と名づく。此の四名を以って名づけて諸行を別つ。又更に分別せば四禅を禅と名づけ、四空を定と名づく。空無相無願を名づけて三昧と為す、理と相応するを得るを正定と名づくるが故なり。滅尽と無想を名づけて正受と為す、是の処には心無く、身に法を納るるが故なり。四無量心を三摩提(恐らくは三摩跋か)と名づく、衆生縁の中に用現前するが故なり。八解脱をば名づけて解脱と為す、下縛を絶するが故なり。又下過に背くが故に背捨と云い、一切の禅定始習の方便に意を止めて縁に住するを奢摩他と名づく」と云えり。此の中、亦た諸説ありと雖も、禅と定と三昧と正受と三摩跋と解脱と奢摩他との七種の義を皆各別とするの意なるを見るべし。又「瑜伽師地論巻11」には、「此の地(三摩呬多地)の中に略して四種あり、一には静慮、二には解脱、三には等持、四には等至なり。静慮とは謂わく四静慮なり、一に従離生有尋有伺静慮、似に従定生無尋無伺静慮、三に離喜静慮、四に捨念清浄静慮なり。解脱とは謂わく八解脱なり、一に有色観諸色解脱、二に内無色想観外諸色解脱、三に浄解脱身作証具足住解脱、四に空無辺処解脱、五に識無辺処解脱、六に無所有処解脱、七に非想非非想処解脱、八に相受滅身作証具足住解脱なり。等持とは謂わく三三摩地なり、一に空、二に無願、三に無相なり。復た三種あり、謂わく有尋有伺、無尋唯伺、無尋無伺なり。復た三種あり、謂わく小と大と無量となり。復た二種あり、謂わく一分修と具分修となり。復た三種あり、謂わく喜俱行、楽俱行、捨俱行なり。復た四種あり、謂わく四修定なり。復た五種あり、謂わく五聖智三摩地なり。復た五種あり、謂わく聖五支三摩地なり。復た有因有具聖正三摩地あり、復た金剛喩三摩地あり、復た有学無学非学非無学等の三摩地あり。等至とは謂わく五現見三摩鉢底、八勝処三摩鉢底、十徧処三摩鉢底、四無色三摩鉢底、無想三摩鉢底、滅尽定等の三摩鉢底なり」と云い、又「倶舎論巻28」には、所依止の定の中に就いて四静慮と四無色と八等至と三等持とを別説し、四静慮は善の等持を以って自性と為す。諸の等持の中に於いて唯此れのみ支を摂し、止観均行にして最も能く審慮し、現法楽住及び楽通行の名を得るが故に、此の等持を独り静慮と名づく。四無色は亦た善の等持を以って自性となす。止増し観減ずるが故に無色には支を摂せず。此の静慮及び無色の根本等至に総じて八種あるが故に八等至と称す。中に於いて四静慮及び下三無色の七等至には、具に味等至と浄等至と無漏等至との三あり。有頂の等至には唯味と浄との二種ありて無漏なし。三等持は有尋有伺、無尋唯伺、無尋無伺なり。又空無願無相を三等持と名づけ、空空無願無願無相無相を三重等持と名づくと云い、次に定に依りて起す所の功徳に、四無量、八解脱、八勝処、十徧処等の別ありと云えり。是の如く三摩地は禅及び三摩鉢底等と其の義異ありと雖も、古訳家中には時に之を混同せしもの少からざりしが如し。玄奘訳の「発智論巻17」に、「八等至あり、謂わく四静慮四無色なり」と云えるを、苻秦訳の「阿毘曇八揵度論巻26」に、「八三昧とは四禅四無色定なり」と云える如き、又「雑阿毘曇心論巻7」に、空無願無相の三三摩地を三三摩提に作り、四静慮、四無色の八等至、並びに味浄及び無漏の三等至を皆三昧と称し、之に正受の訳語を附したるが如き、共に三摩地と三摩鉢底とを混同したる例なり。又「瑜伽論記巻4上」に、「景法師云わく、三摩呬多は又旧に三昧と名づくるは語訛なりと。泰云わく、三摩地は又旧に三摩跋提と名づくるは語訛なりと。是の二師の言には相違あるなり。今謂わく三昧即ち三摩地なることは当に基師の所説の如くなるべし。知る所以は、成実論に五聖智三昧と云えるを、此の論の第十二には五聖智三摩地と云うを以っての故なり。新羅元暁師云わく、三摩地と三昧とは名義各異なり。知る所以は、金光明経第三巻の中に十地の定を明すに、初の三地の定を三摩提と名づけ、後の七地の定を三昧と名づくるが如し。其れ若し一名にして而も訳に訛正あるならんには、何故に一師の訳経の中には或いは三昧と名づけ、或いは三摩提と名づけんや。故に知んぬ異なりと。今謂わく之れ然らず。彼の経に三摩提と言うは即ち今言う所の三摩呬多なり。此に等引と云う。彼れに三昧と言うは旧に翻じて正受と名づく。即ち今三摩地と云うは翻じて等持と名づく。二義別なるが故に上上の各名影略して互いに顕すなり。但だ恐らくは、暁公は地提の二字を別たずして濫りに斯の難を作すことを。然るに復た新翻の十巻金光明経を勘うるに、十地の定を皆三摩地と名づけたり。此れ即ち訳人の音を解する同じからざればなり」と云えるも、亦た古く三摩地、三摩呬多等の別を辯ぜざりしを示せるものを云うべし。按ずるに阿含等の中には唯四禅八定、并びに空無相無願及び有覚有観等の三昧を出すに過ぎずと雖も、大乗経中には三昧を説くこと甚だ多く、其の数実に数百千に上れり。就中、空zuunyataa、無相animitta、無願apraNihitaの三三昧、并びに空空zuunyataa- zuunyataa、無相無相animittaanimitta、無願無願apraNihitaapraNihitaの三重三昧は最も顕著なるものにして、「長阿含経巻9、10」、「中阿含経巻17」、「雑阿含経巻18」、「増一阿含経巻16、39」を始め、「大品般若経巻1、23」、「旧華厳経巻25」、「大般涅槃経巻25」、並びに「集異門足論巻6」、「発智論巻9、10、52」、「大毘婆沙論巻104、105、145、183」、「倶舎論巻28」、「大智度論巻20、23」、「成実論巻12」、「瑜伽師地論巻12」、「十地経論巻8」、「仏地経論巻1」、「成唯識論巻8」等に悉く之を出せり。是れ恐らく諸三昧中の原始的なるものにして、大乗空観の説は主として此の三昧より発展したるものなるが如し。試みに今諸大乗経を検するに、一経又は一品を通じて一種の三昧を詳述せるあり、或いは経中に略して其の相を説けるもの、或いは唯其の名称を出すに過ぎざるもの等あり。彼の「般舟三昧経」、「首楞厳三昧経」、「慧印三昧経」、「超日明三昧経」、「自誓三昧経」、「仏印三昧経」、「法華三昧経」、「如幻三昧経」、「念仏三昧経」、「観仏三昧海経」、「月灯三昧経」、「文殊師利普超三昧経」、「宝如来三昧経」、「力荘厳三昧経」、「金剛三昧経」、「等集衆徳三昧経」、「四童子三昧経」、「寂照神変三摩地経」等の如きは、各其の経中に題名の三昧及び其の功用等を詳説し、又「大品般若経巻1序品」には三昧王三昧の名を挙げ、「法華経巻1序品」には無量義処三昧anantanirudeza- pratiSThaana- s.の名を出し、「旧華厳経巻6賢首菩薩品」には華厳三昧、「同賢首品」並びに「大方等大集経巻15虚空蔵菩薩品」等には海印三昧、「旧華厳経巻44入法界品」には師子奮迅三昧を挙げ、「文殊師利所説般若波羅蜜経巻下」並びに「大般若経巻575」等には一行三昧ekavyuuha- s.(一相荘厳三摩地)を説き、「賢愚経巻12波婆利品」、并びに「一切智光明仙人慈心因縁不食肉経」には慈三昧を説き、「超日月三昧経巻上」には、法宝、善住、無動、度無動、宝積華、日光耀、諸利義、現在、慧光耀、勇猛伏、超日月等の十一種の三昧を挙げ、又「大品般若経巻3相行品」、「同巻5問乗品(大般若経巻414、大智度論巻43、47)」等には首楞厳zuuraMgana(健行)、宝印ratna- mudra、師子遊戯siMha- vikriiDita、妙月su- candra、月幢相candra- dhvaja- ketu、出諸法印sarva- dharmoodgata(出諸法、一切法湧)、潅頂vilokita- muurdha、畢法性dharma- dhaatu- niyata(法界決定)、畢幢相niyata- dhvaja- ketu(決定幢相)、金剛vajra(金剛喩)、入法印sarva- dharma- praveza- mudra、三昧王安立samaadhi- raajaa- supratiSThita(善立定王)、放光razmi- pramukta、力進bala- vyuuha(精進力)、出生samudgata(高出、等湧)、必入辯才nirukti- niyata- praveza(入一切言詞決定)、入名字adhivacana- praveza(釈名字、等入増語)、観方dig- vilokita、陀羅尼印aadhaaraNa- mudra(総持印)、不忘asaMpramoSa(無誑、無忘失)、摂諸法海印sarva- dharma- samavasaraNa- saagara- mudra(摂諸法海、諸法等趣海印)、遍覆虚空aakaaza- spharaNa、金剛輪vajra- maNDala、宝断raNaM- jaha(離塵?)、能照耀vairocana(能照、遍照)、不求animiSa(不眴)、三昧無処住aniketa- sthita(無住、無相住)、無心nizcinta(不思惟)、浄灯vimala- pradiipa(無垢灯)、無辺明ananta- prabha(無辺光)、能作明prabhaa- kari(発光)、普遍明(普照明、普照、梵?)、堅浄諸三昧zuddha- saara(浄堅定)、無垢明三昧vimala- prabha(無垢光)、作楽rati- kara(歓喜、発妙楽)、電光vidyut- pradiipa(電灯)、無尽akSaya、威徳tejovatii(具威光)、離尽kSayaapagata、不動aniJjya(無動)、荘厳avivarta(不退、無瑕隙)、日光suurya- pradiipa(日灯)、月浄candra- vimala(浄月)、浄明zuddha- prabhaasa(浄光)、能作明aaloka- kara(発明)、作行kaaraakaara(大般若闕)、知相jJaana- ketu(智幢)、如金剛vajroopama(金剛鬘?)、心住citta- sthiti(住心)、遍照samantaaloka(普明)、安立supratiSThita(善住)、宝頂ratna- koTi(宝聚、宝積)、妙法印vara- dharma- mudra、法等sarva- dharma- samataa(一切法平等性)、生喜ati- jaha(断喜、捨愛楽)、到法頂dharmoodgata(入法頂)、能散vikiraNa(飄散)、壊諸法処sarva- dharma- pada- prabheda(分別諸法句、分別法句)、字等相samaakSaraavakaara(平等字相)、離字akSaraapagata(離文字相)、断縁aarambaNa- cchedana(断所縁)、不壊avikaara(無変異)、無種相aprakaara(無品類)、無処行aniketa- caarin(無相行)、離闇timiraapagata(離蒙昧、離翳闇)、無去caaritravatii(具行?)、不動acala(不変異、不変動)、度縁viSaya- tiirNa(度境界)、集諸徳sarva- guNa- saMcaya- gata(集諸功徳、集一切功徳、大般若には次に決定住あり)、住無心sthita- nizchitta(無心住)、浄妙花zubha- puSpita- zuddhi(浄妙華)、覚意bodhy- aGgavatii(具覚支、大般若には次に無辺灯あり)、無量辯ananta- pratibhaana(無辺辯)、無等等asama- sama、度諸法sarva- dharmaatikramaNa(超一切法)、分別諸法pariccheda- kara(決判諸法)、散疑vimati- vikiraNa(散疑網)、無所処niradhiSThaana(無処、無所住)、一相eka- vyuuha(一荘厳、一相荘厳)、生行aakaaraabhinirhaara(引発行相)、一行ekaakaara(一行相)、不一行aakaaraanavakaara(離行相)、妙行(妙行相、梵?)、達一切有底散nairvedhika- sarva- bhava- taloopagata(達諸有底散壊)、入言語saMketa- ruta- prabeza(入名語、入施設語言)、離音声字語nirghoSaakSara- vimukta(解脱音声文字)、然炬jvalanoolka(炬熾然)、浄相lakSaNa- parizodhana(厳浄相)、破相anabhilakSita(無標幟)、一切種妙足sarvaakaara- varoopeta(具一切妙相)、不憙苦楽sarva- sukha- duHkha- nirabhinandii(不喜苦楽、不憙一切苦楽)、不尽行akSaya- karaNDa(無尽相、無尽行相)、多陀羅尼dhaaraNiimat(陀羅尼、具陀羅尼)、取諸邪正相samyaktva- mithyaatva- sarva- saMgrahaNa(摂諸邪正相、摂伏一切正性邪性)、滅憎愛anurodhaapratirodha(離憎愛)、逆順sarva- rodha- virodha- saMprazamana(静息一切違順)、浄光vimala- prabha(無垢明)、堅固saaravat(具堅固9、満月浄光paripuurNa- candra- vimala- prabha、大荘厳mahaa- vyuuha、能照一切世sarvaakaara- prabhaa- kara(照一切世間)、等samaadhi- samataa(三昧等、定平等性)、無諍行araNa- saraNa- sarva- samavasaraNa(摂一切有諍無諍、有諍無諍平等理趣)、無住処anilambha- niketa- nirata(不楽一切住処、無巣穴無標幟無愛楽?)、如住定tathataa- sthita- nizcita(決定安住真如)、壊身kaaya- kali- saMpramathana(壊身衰、離身穢悪)、壊語如虚空vaak- kali- vidhvaMsana- gagana- kalpa(離語穢悪、大般若には次に離意穢悪、如虚空の二あり)、離著虚空不染aakaazaasaGga- vimukti- nirupalepa(無染著如虚空)の所謂百八三昧を説き、「大品般若経巻27常啼品(大般若経巻399、大智度論巻97)」には、諸法性観(観一切法自性)、諸法性不可得(於一切法自性無所得)、破諸法無明(破一切法無智)、諸法不異(得一切法無差別)、諸法不壊自在(見一切法無変異)、諸法能照明(能照一切法)、諸法離暗(於一切法離闇)、諸法無異相続(得一切法無別意趣)、諸法不可得(知一切法都無所得)、散華(散一切花)、諸法無我(引発一切法無我)、如幻威勢(離幻)、得如鏡像(引発鏡像照明)、得一切衆生語言(引発一切有情語言)、一切衆生歓喜(令一切有情歓喜)、入分別音声(善随順一切有情語言)、得種種語言字句荘厳(引発種種語言文句)、無畏(無怖無断)、性常黙然(能説一切法本性不可説)、得無礙解脱、離塵垢(遠離一切塵)、名字語句荘厳(名句文詞善巧)、見諸法(於一切法起勝観)、諸法無礙頂(得一切法無礙際)、如虚空、如金剛(金剛喩)、不畏著色(雖現行色而無所犯)、得勝、転眼(得無退眼)、畢法性(出法界)、能与安隠(安慰調伏)、師子吼(師子奮迅欠呿哮吼)、勝一切衆生(映奪一切有情、大般若には次に遠離一切垢、於一切法得無染の二あり)、華荘厳(蓮花荘厳)、断疑(断一切疑)、随一切堅固(随順一切堅固)、出諸法得神通力無畏(大般若には之を出一切法と得神通力無畏の二とす)、能達諸法(現前通達一切法)、諸法財印(壊一切法印)、諸法無分別見(現一切法無差別)、離諸見(離一切見稠林)、離一切闇、離一切相、解脱一切著(脱一切著)、除一切懈怠(離一切懈怠)、得深法明(大般若はここに如妙高山を加う)、不可奪(不可引奪)、破魔(摧伏一切魔軍)、不著三界、起光明(引発一切殊勝光明)、見諸仏(現見諸仏)等の五十一種(大般若は五十四種)の三昧を挙げ、他にも「法華経巻7妙音菩薩品(正法華経巻9妙吼菩薩品)」には、妙幢相dhvajaagra- keyuura(尊幢)、法華saddharma- puNDariika(定法華)等の諸三昧を挙げ、又「同妙荘厳王本事品(正法華経巻10浄復浄王品)」には、菩薩浄vimala(進遠離垢)、日星宿nakSatra- raajaatitya(度宿日光)等の諸三昧を掲げ、又「旧華厳経巻4盧舎那仏品」には、諸仏具足功徳、普門方便、浄方便雲等の十種の三昧、並びに一切法具足、一切法来入安住菩提心等の諸三昧、「同巻18(新華厳経巻18)」には、菩薩不壊(菩薩勝定相続不断)、諸仏荘厳等の諸三昧、「同巻21(新華厳経巻31)」には、菩薩見一切仏、菩薩法界等の諸三昧を挙げ、「旧華厳経巻25」、「新華厳経巻27」並びに「十地経巻5」には、勝空zuuniyataa(空、空性)、性空svabhaava- z.(自性空、自性空性)等の十空三昧、及び菩薩善伏su- vicita- vicaya(菩薩善観択、善思択菩薩)、善思義suvicitaartha(善択擬)等の諸三昧を説き、又「同巻27(新華厳経巻39、十地経巻8)」には、菩薩離垢vimala(無垢大)、法界差別dharmadhaatu- vibhakti- praveza(法界剖析差別)等の百万阿僧祇の三昧ありと云い、又「同巻34(新華厳経巻51、如来興顕経巻2)」には、正覚(善覚智)、離苦寂静海(明盛離垢海、離垢之印)等の諸三昧、又「同巻38(新華厳経巻54)」には、一切世界、一切衆生身(於一切衆生身)等の十種の正受三昧、又「同巻45(新華厳経巻61、華厳経普賢行願品巻3)」には、普荘厳法界samanta- dharmadhaatu- vyuuha(普遍荘厳法界)、普照三世無礙sarva- try- adhvaasaGga- jJaana- viSayaavabhaasa(普照一切三世無礙境界、光照三世無礙境)等の一百三種の三昧を説き、又「同巻49(新華厳経巻66、華厳経普賢行願品巻13、14)」には、覚一切(新訳、行願品及び梵本闕)、奇特幢sarava- devayitaizvarya- dhvaja(了一切希有相、入一切安楽自在幢)等の一万、或いは十億の三昧門ありと云い、又「同巻50(新華厳経巻68、華厳経普賢行願品巻15)」には、無著境界saGga- viSaya(菩薩無著境界)、歓喜praamodyavat(菩薩歓喜)等の諸種の三昧を挙げ、又「同巻53(新華厳経巻70、華厳経普賢行願品巻20)」には、見現在一切諸仏sarva- tathaagataabhimukha- vijJaapana(現見一切仏)、普照一切仏刹sarva- kSetra- prasaraanugataavabhaasa(普照一切刹)等の一万の三昧ありと云い、又「同53(新華厳経巻71、華厳経普賢行願品巻21)」には、普照仏功徳海tathaagata- guNa- samudraavabhaasa(普照如来功徳海)、普照一切境界sarva- jagat- saMdarzana- samataavabhaasa- viSaya(普照一切離貪境界)等の諸三昧を挙げ、又「同巻56(新華厳経巻75、華厳経普賢行願品巻29)」には、諸仏願海sarva- tathaagata- praNidhaana- saagara- sambhavaavabhaasa- praveza(普照一切仏願海、一切如来願海出現光明)、普照三世光蔵try- adhvaavabhaasa- garbha(普照三世蔵、普照三世光明蔵)等の十三昧海を挙げ、又「同巻57(新華厳経巻76、華厳経普賢行願品巻30)」には、浄法虚空円満dharma- gagana- virajo- vicaara- maNDala(法空清浄輪、法空無尽清浄輪)、観察一切方海sarva- dik- samudraabhimukha- dakSus(観察十方海、現見十方一切諸仏刹海)等の十種の三昧門samaadhi- nidhyapti- mukhaを挙げ、其の他にも数多くの大乗経中に更に多くの名を見ることができる。又「伅真陀羅所問如来三昧経巻上」、「無希望経(象腋経)」、「無言童子経巻下」、「無極宝三昧経巻下(宝如来三昧経巻上)」、「最勝問菩薩十住除垢断結経巻4勇猛品」、「同巻7化衆生品」、「同巻8慈品」、「荘厳菩提心経巻1」、「華手経巻6三昧品」、「大樹緊那羅王所問経巻2」、「方等般泥洹経巻下如来化説法品」、「大般涅槃経巻14」、「千光眼観自在菩薩秘密法経」、「大方等無想経巻2三昧揵度」、「大方等大集経巻1瓔珞品」、「同巻28」、「悲華経巻7」、「同巻8檀波羅蜜品(大乗悲分陀利経巻7荘厳品)」、「金剛三昧本性清浄不壊不滅経」、「第一義法勝経(大威灯光仙人問疑経)」、「金剛上味陀羅尼経(金剛場陀羅尼経)」、「大方広十輪経巻1」、「大宝積経巻29文殊師利普門会(普門品経)」、「同巻90優婆離会(決定毘尼経)」、「同巻115無尽慧菩薩会(大方広菩薩十地経)」、「同巻117宝髻菩薩会」、「宝雨経巻4」、「大乗本生心地観経巻8発菩提心品」、「不空羂索神変真言経巻24執金剛秘密主問疑品」、「同巻29清浄蓮華王成就品」、「大日経巻1住心品」、「同巻2具縁品」、「同普通真言蔵品」、「同巻3悉地出現品」、「同転字輪漫荼羅行品」、「一切如来金剛三業最上秘密大教王経巻1安住一切如来三摩地大曼拏羅分」、「同菩提心分」、「同金剛荘厳三摩地分」、「同巻2一切如来真実三昧最上持明大士分」、「同巻3一切如来金剛相応三昧最上成就分」、「同金剛相応荘厳三昧真実観想正智三摩地分」、「同身語心未曽有大明句召尾日林毘多王最勝三摩地分」、「同巻4身語心未曽有大明句召毘日林毘多王最勝三摩地分」、「同巻5一切曼拏羅成就金剛現証菩提分」、「同6一切曼拏羅成就金剛現証菩提分」、「同一切如来三昧法金剛加持王分」、「同巻7一切如来三昧金剛加持王分」、「大仏頂広聚陀羅尼経巻4」、「梁訳摂大乗論巻下(魏訳摂大乗論巻下、唐訳摂大乗論巻下)」、「大毘婆沙論巻104、141、162」、「倶舎論巻4」、「同光記巻4、28」、「順正理論巻11」、「成唯識論巻5」、「同述記巻6本」、「摩訶止観巻2上」等に出づ。<(望)
答曰。是三種智慧若不住定中則是狂慧。多墮邪疑無所能作。若住定中則能破諸煩惱。得諸法實相。 答えて曰く、是の三種の智慧は、若し定中に住せざれば、則ち是れは狂慧にして、多く邪疑に堕ちて、能く作す所無し。若し定中に住すれば、則ち能く諸の煩悩を破りて、諸法の実相を得。
答え、
是の、
『三種の智慧』が、
若し、
『定』中に、
『住(とど)まらなければ!』、
多くは、
『邪疑に堕ちて!』、
何も、
『作すことができない!』が、
若し、
『定』中に、
『住まれば!』、
諸の、
『煩悩を破って!』、
諸の、
『法の実相』を、
『得られるからである!』。
  (じょう):心が一境に住して散ぜざる状態。『大智度論巻17下注:定、同注:三摩鉢底、巻20上注:三昧』参照。
復次是道異一切世間。與世間相違。諸聖人在定中得實相說。非是狂心語。 復た次ぎに、是の道は一切の世間を異にすれば、世間と相違す。諸の聖人は、定中に在りて、実相を得て説きたまえば、是れ狂心の語るに非ず。
復た次ぎに、
是の、
『道(仏の道)』は、
一切の、
『世間』と、
『異なる!』ので、
『空、無相、無作』も、
一切の、
『世間』と、
『相違する!』。
諸の、
『聖人』は、
『空、無相、無作の定(傾かない心)』中に、
『実相を得て!』、
『法』を、
『説かれる!』ので、
是の、
『法』は、
『狂心』の、
『語(ことば)ではない!』。
復次諸禪定中無此三法。不名為三昧。何以故。還退失墮生死故。 復た次ぎに、諸の禅定中に、此の三法無きは、名づけて三昧と為さず。何を以っての故に、還た退失して生死に墮つるが故なり。
復た次ぎに、
諸の、
『禅定』中に、
此の、
『三法』が、
『無ければ!』、
是れを、
『三昧』とは、
『呼ばない!』。
何故ならば、
還()た、
『禅定を退失して!』、
『生死』中に、
『堕ちるからである!』。
如佛說
 能持淨戒名比丘 
 能觀空名行定人 
 一心常懃精進者 
 是名真實行道人 
 於諸樂中第一者 
 斷諸渴愛滅狂法 
 捨五眾身及道法 
 是為常樂得涅槃
以是故三解脫門。佛說名為三昧。
仏の説きたまえるが如し、
能く浄戒を持つを、比丘と名づけ、
能く空を観ずるを、行定の人と名づけ、
一心に常に、精進を懃むる者は、
是れを真実の行道の人と名づく。

諸楽中の、第一なる者は、
諸の渇愛を断じて、狂法を滅し、
五衆の身を捨てて、道の法に及ぶ、
是れを常楽の涅槃を得と為す。
是を以っての故に三解脱門を仏は説いて名づけて、三昧と為したまえり。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
『浄戒』を、
『持(たも)つことができれば!』、
是れを、
『比丘』と、
『呼び!』、
『空』を、
『観ることができれば!』、
是れを、
『定を行う人』と、
『呼び!』、
『一心』に、
常に、
『精進』を、
『懃める!』者は、
是れを、
『真実の道を行く人』と、
『呼ぶ!』。
諸の、
『楽』中の、
『第一』は、――
諸の、
『渇愛』の、
『心』を、
『断って!』、
『狂癡』の、
『法()』を、
『滅し!』、
『五衆(色受想行識)』の、
『身』を、
『捨てて!』、
『道』の、
『法』に、
『及ぶ(到達する)!』、
是れが、
『常楽』の、
『涅槃を得るということである!』、と。
是の故に、
『仏』は、
『三解脱門を説いて!』、
『三昧』と、
『呼ばれたのである!』。
問曰。今何以故名解脫門。 問うて曰く、今は何を以っての故にか、解脱門と名づくる。
問い、
今は、
何故、
『解脱門』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。行是法時。得解脫到無餘涅槃。以是故名解脫門。無餘涅槃是真解脫。於身心苦得脫。有餘涅槃為作門。此三法雖非涅槃。涅槃因故名為涅槃。世間有因中說果果中說因。 答えて曰く、是の法を行ずる時、解脱を得て、無余涅槃に到れば、是を以っての故に解脱門と名づく。無余涅槃は、是れ真の解脱にして、身心の苦を脱るるを得。有余涅槃は、為に門と作る。此の三法は、涅槃に非ずと雖も、涅槃の因なるが故に名づけて、涅槃と為す。世間には、因中に果を説き、果中に因を説くあり。
答え、
是の、
『法』は、
『行う!』時に、
『解脱を得て!』、
『無余涅槃』に、
『到る!』ので、
是の故に、
『解脱の門』と、
『称する!』。
『無余涅槃』は、
『真の解脱であり!』、
『身、心』の、
『苦』を、
『脱れられる!』が、
『有余涅槃(解脱の門)』は、
其の、
『門』と、
『作るものである!』。
此の、
『三法(空、無相、無作)』は、
『涅槃ではない!』が、
『涅槃の因である!』が故に、
『涅槃』と、
『称される!』。
『世間』には、
『因』中に、
『果を説く!』ことも、
『有り!』、
『果』中に、
『因を説く!』ことも、
『有る!』。
是空無相無作是定性。是定相應心心數法。隨行身業口業。此中起心不相應。諸行和合皆名為三昧。譬如王來必有大臣營從。三昧如王智慧如大臣餘法如營從。餘法名雖不說必應有。何以故。定力不獨生。不能獨有所作故。是諸法共生共住共滅共成事互相利益。 是の空、無相、無作は、是れ定の性なり。是れ定相応の心心数法は、身業、口業を行ずるに随う。此の中に起こる心不相応諸行の和合は、皆名づけて三昧と為す。譬えば王来たれば、必ず大臣、営従有るが如く、三昧は王の如く、智慧は大臣の如く、余法は営従の如し。余法は、名を説かずと雖も、必ず応に有るべし。何を以っての故に、定力は、独り生ぜずして、独りにては所作有る能わざるが故なり。是の諸法は共に生じ、共に住し、共に滅して、共に事を成し、互に相利益す。
是の、
『空、無相、無作』は、
『定』の、
『性である!』。
是の、
『定に相応する!』、
『心、心数法』は、
『身業、口業の行い!』に、
『随い!』、
此の中に、
『起こる!』、
『心不相応諸行の和合』は、
皆、
『三昧』と、
『称する!』。
譬えば、
『王が来れば!』、
必ず、
『大臣』や、
『営従(取り巻き)』が、
『有るように!』、
即ち、
『三昧』は、
『王』に、
『似ており!』、
『智慧』は、
『大臣』に、
『似ており!』、
『余の法』は、
『営従』に、
『似ている!』。
此の中の、
『余の法』は、
『名』を、
『説かなくても!』、
必ず、
『有るはずである!』、
何故ならば、
『定』は、
独りでは、
『力』が、
『生じず!』、
独りでは、
何も、
『作すことができない!』ので、
故に、
諸の、
『法』と、
共に、
『生じ!』、
『住し!』、
『滅して!』、
共に、
『事を成し!』、
互に、
『利益し合うからである!』。
  心心数法(しんしんじゅほう):心の種種の作用を云う。『大智度論巻14上注:心所有法、巻19下注:心、巻11上注:五位』参照。
  心不相応諸行(しんふそうおうしょぎょう):心と相応せざる諸行の意。即ち「品類足論巻1」には、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、依得、事得、処得、生、老、住、無常性、名身、句身、文身の十六法を挙げる。『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
  営従(ようじゅう):梵語 parivaara の訳、取り巻き/従者( sorroundings, followers )。
  事理五法(じりごほう):一切法(あらゆる事物)を五種に分類する。
    (1)色法(しきほう):心法と心所法の所変。物質的なもの。
        (倶舎、唯識倶に、五根五境と法処所摂色(意識のみの対象)の十一)
    (2)心法(しんぽう):心王(しんのう)、心の本体、識の自相。
        五蘊の内の識蘊、主体的な心の働き。
        (倶舎:唯一の心王を立て、唯識:眼等の八種の心王を立てる)
    (3)心所法(しんじょほう):心数法(しんじゅほう)、心所、心数。
        細々した心の働き。上の八識と相応して起るもの。
        (受、想、思、触、欲、慧、念等、倶舎:四十六、唯識:五十一)
    (4)心不相応行法(しんふそうおうぎょうほう):心不相応(しんふそうおう)、
       上の三法に従属しないもの。
         例えば事物の概念。
         心とも色とも相応しない働き。物が生じたり滅したりする力。
         心と相応した働きを心相応(しんそうおう)という。
         上の三法のある部分の位を仮りて設けるもの。
         (得、非得、衆同分、命根、無想果、無想定等、倶舎:十四、唯識:二十四)
    (5)無為法(むいほう):上の四法の実性。
         因縁によって造られたものでないもので、生滅の変化がなく、
                 働きを起こすことがない。
         (択滅、非択滅、虚空等、倶舎:三、唯識:六を立てる)
是空三昧二行。一者觀五受眾一相異相無故空。二者觀我我所法不可得故無我。 是の空三昧の二行は、一には五受衆を観るに、一相にして異相無きが故に空なり。二には我我所の法を観るに、不可得なるが故に無我なり。
是の、
『空三昧』の、
『二行』とは、――
一には、
『五受衆(色受想行識)』を、
『観れば!』、
『一相であり!』、
『異相が無い!』ので、
故に、
『空である!』。
二には、
『我、我所』を、
『観れば!』、
『我、我所』は、
『認められない!』ので、
故に、
『無我である!』。
  (くう):苦諦中に空を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  無我(むが):苦諦中に無我を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  五受衆(ごじゅしゅ):有漏の五衆の意。又五取蘊、五受陰等に称す。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
  五取蘊(ごしゅうん):梵語paJca upaadaana- skandhaaHの訳。巴梨語paJc'upaadaana- kkhandhaa、取より生じ、或いは取を生ずる五種の蘊の意。又五受陰とも名づく。即ち煩悩より生じ、或いは煩悩を生ずる有漏の五蘊を云う。「雑阿含経巻3」に、「五受陰あり、謂わく色受陰、受想行識受陰なり。愚癡無聞の凡夫は無慧無明にして、五受陰に於いて我見繋著を生じ、心をして繋著せしめて而も貪欲を生ず」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻75」に之を釈し、「問う、色取蘊とは云何。答う、若し色の有漏有取なる、彼の色は過去未来現在に在りて或いは欲を起し、或いは貪を起し、或いは瞋を起し、或いは癡を起し、或いは怖を起し、或いは復た随って一心所随煩悩を起す。是れを色取蘊と名づく」と云い、受想行識も亦た是の如く広く分別せり。又彼の論に蘊と取蘊との別に就き多説を挙ぐる中、蘊は有漏無漏に通じ、取蘊は唯有漏なり。又蘊は苦集道の三諦を摂し、取蘊は苦集二諦を摂す。又蘊は十七界と一界の少分とを摂し、取蘊は十五界と三界の少分とを摂す。又蘊は十一処と一処の少分とを摂し、取蘊は十処と二処の少分とを摂す。又蘊は五蘊を摂し、取蘊は五蘊の各少分を摂す。又蘊の中には流転の者と呵責を受くるとあり、還滅の者と讃歎を受くるとあり、取蘊の中には流転の者と呵責を受くるとあり、還滅の者と讃歎を受くるとなしと云えり。以って両者の差異を知るべし。取蘊の名義に就きては、「倶舎論巻3」に、「煩悩を取と名づく、蘊は取より生ずるが故に取蘊と名づく、草糠火の如し。或いは蘊は取に属するが故に取蘊と名づく、帝王の臣の如し。或いは蘊は取を生ずるが故に取蘊と名づく、花果樹の如し」と云えり。是れ一切の煩悩を取と為すの説なり。然るに「大乗阿毘達磨雑集論巻1」には、「取と合するを以っての故に名づけて取蘊と為す。取は謂わく諸蘊の中の所有の欲貪なり。何が故に欲貪を説きて名づけて取と為すや、謂わく未来現在の諸蘊に於いて能く引いて捨てざるが故に、未来を希求し、現在に染著する欲貪を取と名づく。欲は希求の相、貪は染著の相なり。欲に由りて未来の自体を希求するを方便と為すが故に、常蘊を引取して起りて現前せしむ。貪に由りて現在の自体に貪著するを方便と為すが故に、現蘊を執取して捨離せざらしむ。是の故に此の二を説いて名づけて取と為す」と云えり。是れ特に貪欲を指して取と名づけたるなり。「成唯識論掌中枢要巻上末」に此の両説を批し、「欲貪を取と名づくとは対法の文なり。亦た十地に取支を解して愛増上を取と名づくと云うに同じと雖も、此れ義増に随いたるものにして真実の理に非ず。実に拠りて言わば、瑜伽等に一切の煩悩を取支と名づくと云えり。取蘊も亦た爾り」と云い、婆沙等の説を取れり。又「雑阿含経巻2」、「法乗義決定経巻上」、「瑜伽師地論巻65」、「成唯識論巻1」、「同述記巻1末」、「雑集論述記巻1」、「倶舎論光記巻1」等に出づ。<(望)
無相三昧四行。觀涅槃種種苦盡故名為盡。三毒等諸煩惱火滅故名為滅。一切法中第一故名為妙。離世間故名為出。 無相三昧の四行は、涅槃を観るに種種の苦尽くるが故に名づけて、尽と成し、三毒等の諸の煩悩の火滅するが故に名づけて、滅と為し、一切の法中に第一なるが故に名づけて、妙と為し、世間を離るるが故に名づけて、出と為す。
『無相三昧』の、
『四行』とは、――
『涅槃』を、
『観れば!』、
種種の、
『苦』が、
『尽きている!』ので、
故に、
『尽』と、
『称し!』、
諸の、
『煩悩』の、
『火』が、
『滅している!』ので、
故に、
『滅』と、
『称し!』、
一切の、
『法』中に、
『涅槃』は、
『第一である!』ので、
故に、
『妙』と、
『称し!』、
『世間』を、
『離れている!』ので、
故に、
『出』と、
『称する!』。
  (じん):滅諦中に尽を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (めつ):滅諦中に滅を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (みょう):滅諦中に妙を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (しゅつ)::滅諦中に出を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
無作三昧二行。觀五受眾因緣生故無常。身心惱故苦。觀五受眾因四行。煩惱有漏業和合能生苦果故名為集。以六因生苦果故名為因。四緣生苦果故名為緣。不多不少等因緣生果故名為生。觀五不受眾四行。是八聖道分能到涅槃故道不顛倒故正。一切聖人去處故跡。愛見煩惱不遮故必到。 無作三昧の二行とは、五受衆の因縁生なるを観るが故に無常なり、身心の悩むが故に苦なり。五受衆の因を観る四行とは、煩悩と有漏業の和合は、能く苦果を生ずるが故に名づけて、集と為し、六因を以て苦果を生ずるが故に名づけて、因と為し、四縁の苦果を生ずるが故に名づけて、縁と為し、多からず少なからずして、等しき因縁の果を生ずるが故に名づけて、生と為す。五不受衆を観る四行とは、是の八聖道分は、能く涅槃に到るが故に道なり、顛倒せざるが故に正なり、一切の聖人の去る処なるが故に跡なり、愛、見煩悩の遮らざるが故に必到なり。
『無作三昧』の、
『二行』とは、――
『五受衆』を、
『観れば!』、
『因縁』の、
『生である!』が故に、
『無常であり!』、
『身、心』の、
『悩む!』が故に、
『苦である!』。
『五受衆』の、
『因を観る!』、
『四行』とは、――
『煩悩、有漏業の和合』は、
『苦果を生じさせる!』が故に、
『集』と、
『称し!』、
『六因』は、
『苦果を生じる!』が故に、
『因』と、
『称し!』、
『四縁』は、
『苦果を生じる!』が故に、
『縁』と、
『称し!』、
『因縁の生じる!』、
『果』は、
『多くもなく!』、
『少なくもなく!』、
『因縁に等しい!』が故に、
『生』と、
『称する!』。
『五不受衆(生死を受けない無漏の五衆)』を、
『観る!』、
『四行』とは、――
是の、
『八聖道分』は、
『涅槃に到る!』が故に、
『道』と、
『称し!』、
『顛倒しない!』が故に、
『正』と、
『称し!』、
『一切の聖人』の、
『去られる!』、
『処である!』ので、
故に、
『跡』と、
『称し!』、
『愛煩悩、見煩悩』を、
『遮る!』が故に、
『必到』と、
『称する!』。
  無常(むじょう):苦諦中に無常を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (く):苦諦中に苦を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (じゅう):集諦中に集を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (いん):集諦中に因を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (えん):集諦中に縁を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (しょう):集諦中に生を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (どう):道諦中に道を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (しょう):道諦中に正を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  (しゃく):道諦中に跡を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  必到(ひっとう):道諦中に到を観ずる。十六行相の一。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  五不受衆(ごふじゅしゅ):無漏の五衆、即ち無漏の色受想行識なり。『大智度論巻20上注:五取蘊』参照。
  愛見(あいけん):愛結、及び見結を云う。
  六因(ろくいん):因に能作、俱有、同類、相応、遍行、異熟の六種の別あるを云う。『大智度論巻32上注:六因』参照。
  四縁(しえん):縁には因縁、次第縁、縁縁、増上縁の四種の別あるを云う。『大智度論巻32上注:四縁』参照。
  四諦十六行相(したいじゅうろくぎょうそう):
四聖諦十六行相(倶舎論巻26に依る)
1 非常 anitya irregular不規則 , unusual非常 , unstable不安定 , uncertain不確実。
2 duHkha uneasiness不安 , pain苦痛 , sorrow悲哀 , trouble悩乱 , difficulty困難。
3 zuunya empty vacant空虚 (as a look or stare) , absent不在 , absentminded , having no certain object or aim 確実な物も目的も無い, distracted惑乱。
4 非我 anaatmaka unreal架空の、虚妄の。
5 hetu " impulse 衝動" , motive動機 , cause原因 , cause of 原因となる, reason for 理由となる。
6 samudaya the aggregate of the constituent elements or factors of any being or existence存在の要因を集める。
7 prabhava production生産 , source , origin起原 , cause of existence存在の原因 (as father or mother , also " the Creator ") , birthplace , springing or rising or derived from 生起。
8 pratyaya belief firm conviction , trust , faith , assurance保証 or certainty of 確実にする。fundamental notion or idea 基礎となる認知。
9 nirodha suppression or annihilation of pain 苦痛の絶滅。
10 zaanta appeased安慰 , pacified平和 , tranquil平穏 , calm冷静 , free from passions情熱からの解放 , undisturbed乱されない。
11 praNiita led forwards 善導, advanced前進、進歩 , brought齎される , offered提供される , conveyed運ばれる。
12 niHsaraNa departure出発 , death final beatitude死、最終的至福。
13 maarga a way道 , manner行儀 method方法 , custom慣習 , usage慣習。
14 nyaaya an original type原型 , standard標準 , method方法 , rule規則 , a general or universal rule原理 , model , axiom公理 , system体系 , plan , manner ,a system of philosophy delivered by gautama釈尊より齎された哲学的体系。
15 pratipatti gaining利得 , obtaining獲得 , acquiring習得 , perception認識 , observation観察 , ascertainment確認 , knowledge知識 , intellect知性。
16 nairyaaNika treating of the manner of dying 死に関する対処法 , conducive to emancipation解放への資助。
  六因(ろくいん):有為法が生ずるには因と縁とが和合する必要があり、その因の体を六種に分別する。
   (1)能作因(のうさいん):名因(みょういん)、ある法(ほう、事物)を生じるに、他の一切の法は、或は積極的に力を与え、或は単に妨げないことにより、参与すること。 大地は草木を生じ、虚空は万物を妨げない。
   (2)倶有因(くういん):共因(ぐういん)、二以上の法が相互に依存して生ずること。 地水火風の四大、生住異滅の四種。 これらは相互に依存して一も欠けることがなく、互いに因となり、互いに果となる。
   (3)同類因(どうるいいん):相似因(そうじいん)、先の同類の法が後の同類の法を因と為すこと。 善法は善法の因となる。
   (4)相応因(そうおういん):心と心所の法は、必ず同時に相応して生じる。 あたかも一つの法のように見えるもの。
   (5)遍行因(へんぎょういん):遍因(へんいん)、同類因の中に別に一を立てて、遍く一切の惑いを生じる煩悩をいう。
   (6)異熟因(いじゅくいん):報因(ほういん)、不善業と有漏の善業とが因となって無記(むき、善悪未定)の果を引く時、これを異熟(いじゅく、異なる境界に熟す)因という。 異熟(いじゅく)とは、過去の善悪に依り、世を隔てて果報を得ることをいう。 五逆等の悪と十善等の有漏の善とが因となる、地獄の果と天上の果とは異熟であることをいう。
  四縁(しえん):物が心に働きかけるとき、次のような四つの縁が考えられる。
    (1)因縁(いんねん):強い働きの因(六根)、弱い働きの縁(六境)が心と心の働きを生ずる。
    (2)次第縁(しだいえん):心と心の働きは次々と間を置かずに起きる。
    (3)縁縁(えんえん):外境によって造られた心と心の働きは、再び自心を生じさせる。
    (4)増上縁(ぞうじょうえん):外境によって、心と心の働きを増上させる。
  また、心識を能縁(のうえん)といい、心識の対象を所縁(しょえん)という。
  また、心と心所(個別的な心の働き)とが対境に向ってはたらき、その相を取ることを縁ずるという。
是三解脫門在九地中。四禪未到地禪中間三無色。無漏性故。 是の三解脱門は、九地中に在り、四禅、未到地、禅の中間、三無色は無漏の性なるが故なり。
是の、
『三解脱門』は、
『九地』中に、
『在る!』、
何故ならば、
『四禅、未到地、禅の中間、三無色の九地』は、
『無漏の性だからである』。
  九地(くじ):四禅、未到地、禅中間、三無色の総称。
  四禅(しぜん):色界の四種の禅定。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  未到地(みとうじ):欲界の頂、色界直前の位。『大智度論巻17下注:未到地、巻39上注:未到地』参照。
  禅中間(ぜんちゅうげん):初禅、第二禅の中間の意。『大智度論巻17下注:中間静慮、巻39上注:中間地』参照。
  三無色(さんむしき):無色界下三地、即ち色無辺処、識無辺処、無所有処を云う。『大智度論巻8下注:四無色定』参照。
  四禅(しぜん):色界(しきかい)すなわち欲望がなく色身のみがある世界の禅定に四段階がある。禅定は物事を考えるところから、ただ楽しみのみの状態に進み、ついには一切の心の働きを超える。 初禅から第四禅の各段階に、既にその段階に達した根本定(こんぽんじょう)と、そこに達する準備段階的な近分定(きんぶんじょう)とがある。 また初禅の近分定を、特に未至定(みしじょう)或は未到地(みとうち)といい、初禅の根本定と二禅の近分定との中間を、特に中間地(ちゅうげんち)という。
    (1)初禅(しょぜん):覚(粗雑な感覚)、観(思惟観察)、喜、楽、定(心不動)にて煩悩が起きない。
    (2)二禅(にぜん):喜、楽のみ有りて、心が浄まり信根生ずる。
    (3)三禅(さんぜん):楽のみ有りて、捨(しゃ、自他の区別を失う)、正念、正慧、定を得る。
    (4)四禅(しぜん):感覚を受けず不楽不苦、捨、念清浄、定を得る。
  四無色定(しむしきじょう):無色界の禅定。
    (1)空無辺処定(くうむへんじょじょう):空間は無限大なりと思惟すること。
    (2)識無辺処定(しきむへんじょじょう):識は無限大なりと思惟すること。
    (3)無所有処定(むしょうじょじょう):何者も無しと思惟すること。
    (4)非想非非想処定(ひそうひひそうじょじょう):ほとんど無想にちかい定。
或有說者。三解脫門一向無漏。三三昧或有漏或無漏。以是故三昧解脫有二名。 或は説く者有り、『三解脱門は、一向に無漏なり。三三昧は、或は有漏、或は無漏なり。是の故に、三昧、解脱の二名有り』、と。
或は、
有る者は、こう説いている、――
『三解脱門』は、
一向に、
『無漏である!』が、
『三三昧』は、
或は、
『有漏であり!』、
或は、
『無漏である!』ので、
是の故に、
『三昧、解脱』という、
『二名』が、
『有るのだ!』、と。
如是說者在十一地。六地三無色欲界及有頂地。若有漏者繫在十一地。無漏者不繫。喜根樂根捨根相應。初學在欲界中。成就在色無色界中。如是等成就不成就修不修。如阿毘曇中廣說。 是の如く説けば、十一地に有り、六地、三無色、欲界、及び有頂地なり。若し有漏なれば、十一地に在りて繋り、無漏なれば不繋なり。喜根、楽根、捨根相応にして、初学は、欲界中に在りて、成就すれば色、無色界中に在り。是れ等の如き、成就、不成就、修、不修は、阿毘曇中に広く説けるが如し。
是のように説けば、――
『三解脱門/三三昧』は、
『六地(四禅、未到地、禅の中間)、三無色、欲界、有頂地(第四無色処)』の、
『十一地』に、
『在る!』。
若し、
『有漏ならば!』、
『十一地』に、
『繋縛する!』、
『煩悩であり!』、
『無漏ならば!』、
『不繋(生死に繋がれない)である!』。
又、
『喜根、楽根、捨根』に、
『相応し!』、
『初学ならば!』、
『欲界』中に、
『修めて!』、
『色、無色界』中に、
『成就する!』。
是れ等のような、
『三解脱門/三三昧』の、
『成就、不成就』や、
『修、不修』は、
『阿毘曇』中に、
広く、
『説かれた通りである!』。
  十一地(じゅういちじ):欲界、四禅、未到地、禅中間、四無色を云う。
  有頂地(うちょうじ):無色界第四処、非想非非想処の意。『大智度論巻18上注:非想非非想処』参照。
  (け):三界に繋縛するの意。煩悩の異名。『大智度論巻8下注:繋』参照。
  不繋(ふけ):繋に非ざるの意。『大智度論巻8下注:繋』参照。
  参考:『鞞婆沙論巻13鞞婆沙三三昧処』:『三三昧者。空三昧無願三昧無想三昧。問曰。應說一三昧。如十大地十心心數法。如五根五力七覺種八道種。說一三昧應說二三昧。如所說有漏無漏。相續不相續。繫不繫。應說四三昧。如所說欲界繫色界繫無色界繫不繫。應說五三昧。如所說欲界繫色界繫無色界繫斷無斷。應說六三昧。如所說欲界繫色界繫無色界繫學無學非學非無學。應說九三昧。如所說增上增上中增上軟。中上中中中軟。軟上軟中軟軟。應說十八三昧。有漏九種無漏九種意故。一時頃有無量三昧。云何一三昧廣施設三三昧。云何無量三昧略施設三三昧耶。答曰。以三事故。一行二不願三緣。行者空三昧行二行。空行非我行。不願者。不願有故。問曰。若不願是無願者亦不願道耶。答曰。不也。何以故。無願者是聖道能除有。以故不願有。聖道者不願道。何況願有緣者無想。離十想法故。十想法者。五界想。色聲香味細滑。二眾生想。男想女想。三有為有為想。生老無常。此者彼中無一。是離十想法故名無想。是謂三事故行不願緣說三三昧。或曰。除結故說三三昧。空三昧除身見。無願三昧除戒盜。無想三昧除疑。是謂除結故說三三昧。彼施設中說謂空三昧。即是空三昧非無願。非無想。謂無願即是無願。非空三昧非無想。謂無想三昧即是無想。非空三昧非無願。問曰。何以故別說三。答曰。行各異故。謂空三昧行。此行非無願行非無想行。謂無願行。此行非空三昧行非無想行。謂無想行。此行非空三昧行非無願行。是謂行各異故別說三三昧。復如所說。謂空三昧即是空三昧。亦是無願非無想。謂無願即是無願。亦是空三昧非無想。謂無想即是無想。非空三昧亦非無願。問曰。何以故并說二別說一。答曰。一時得故。共除結故。一時得者。若依空三昧取證亦得無願。若依無願取證亦得空三昧。共除結者。此二俱具若斷除結種。是謂一時得故。共除結故。并說二別說一。復如所說。謂空三昧即是空三昧。亦是無願亦是無想。問曰。何以故一切并說。答曰。此三昧空無有常計常。常住不變易以是故一切并說謂無願即是無願亦是空三昧亦是無想。問曰。何以故此三昧無願。答曰。此三昧不願婬恚癡。亦不願受當來有。是故此三昧是無願。謂無願三昧即是無想。亦是空三昧亦是無願。問曰。何以故此三昧是無想。答曰。此三昧無有色想。無有聲香味細滑法想。是故此三昧無想。問曰。三三昧有何性。答曰。行陰性。界者或三界繫或不繫。地者或十一地或九地。依者依三界。行者空三昧有二行。空行非我行。無願有十行。無常行因習本緣道正趣出要。無想有四行。盡止妙離。此中應作四句。謂空三昧亦是行空行耶。答曰。或空三昧非行空行。云何空三昧非行空行耶。答曰。謂空三昧行非我行。是謂空三昧非行空行。云何空行非空三昧耶。答曰。謂空三昧行空行時相應諸法。是謂行空行非空三昧。云何空三昧亦是行空行。答曰。謂空三昧行空行。是謂空三昧亦是行空行。云何非空三昧亦非行空行。答曰。若即取此種類。應說謂空三昧行。餘行相應法。若不即取此種類。應說除此行如行。如是已行當行。如空行三四句。如是無我行亦三四句。是謂空三昧六四句。無願三十。無想十二。并說四十八四句。緣者空三昧緣苦諦。無願緣三諦。無想緣盡諦。意止者空三昧無願四意止。無想法意。止智者雖性非智。空三昧四智相應。法智未知智苦智等智。無願七智相應。法智未知智等智知他心智苦智習智道智。無想四智相應。法智未知智盡智等智。定者即定。痛者三痛相應。樂根喜根護根。問曰。當言過去耶。當言未來耶。當言現在耶。答曰。當言過去。當言未來。當言現在。問曰。當言過去緣耶。當言未來緣耶。當言現在緣耶。當言非世緣耶。答曰。空無願當言過去緣。當言未來緣。當言現在緣。無想者當言非世緣。問曰。當言名緣耶。當言義緣耶。答曰。當言名緣當言義緣。問曰。當言己意緣耶。當言他意緣耶。當言非意緣。答曰。空三昧無願當言己意緣。當言他意緣。無想三昧當言非意緣。此是三三昧性。已種相身所有自然。說性已當說行。何以故說三昧。三昧有何義。答曰。三事故說三昧。一等二相續三緣縛。等者眾生久時心數法亂。謂令正真。因三昧故。相續者眾生久時心數法不次第生。若生善便有不善無記。若生不善便有善無記。若生無記便有善不善。謂令一向次第生善相縛相續除不善無記。唯因三昧故。緣縛者眾生久時心數法散。色聲香味細滑法。謂令攝撿縛一緣中。因三昧故。是謂三事故等相續緣縛說三昧。或曰。以三事故。一攝二不散三不捨說三昧。或曰。復有三事故。一者一意二不散三相續說三昧。如世尊契經說三三昧三解脫門。問曰。三三昧者。空三昧無願無相解脫門。亦空三昧無願無相。此二何差別。答曰。三昧者有漏無漏。解脫門者一向無漏。是謂差別。問曰。此論更有論生。何以故三昧有漏無漏。解脫門一向無漏耶。答曰。此是解脫門。解脫門者不應有漏。亦不應繫縛。是故三昧有漏無漏。解脫門一向無漏‥‥』
復次有二種空義。觀一切法空。所謂眾生空法空。眾生空如上說。法空者諸法自相空。如佛告須菩提。色色相空受想行識識相空。 復た次ぎに、二種の空義有りて、一切の法の空なるを観る。所謂衆生空、法空なり。衆生空は上に説けるが如し。法空とは、諸法の自相は空なればなり。仏の須菩提に告げたもうが如し、『色と色相とは空なり。受想行識と識相とは空なり』、と。
復た次ぎに、
『空の義(意味)』には、
『二種有って!』、
一切の、
『法』に、
『空』を、
『観る!』。
所謂、
『衆生の空』と、
『法の空である!』。
『衆生の空』は、
上に、
『説いた通りである!』が、
『法の空』とは、――
諸の、
『法』は、
『自相』が、
『空だからである!』。
例えば、
『仏』は、
『須菩提』に、こう告げられた、――
『色』と、
『色の相』とは、
『空であり!』、
『受、想、行、識』と、
『識の相』とは、
『空である!』、と。
  衆生空(しゅじょうくう):色受想行識の五衆中には無我、無我所なることを云う。二空の一。『大智度論巻20上注:我空』参照。
  生空(しょうくう):衆生空に同じ。『大智度論巻20上注:我空』参照。
  我空(がくう):梵語aatma- zuunyataaの訳。我の体は空無なるの意。又人空、生空、人無我、或いは衆生無我とも云う。二空の一。即ち衆生の身は五蘊仮和合にして、其の内に別の我体なしと説くを云う。「大乗義章巻1」に、「人無我とは経中に亦た衆生無我と名づけ、亦た生空と名づけ、亦た人空と名づけ、亦た我空と名づく。衆法成生するが故に衆生と曰う。生は但だ仮有にして其の自性なし、是の故に名づけて衆生無我となす。衆生の性相は一切皆無なり、之を説いて空となす。宰用を人と名づく。無我と空とは義前の釈に同じ。性実を我と名づく。陰の中に我なし、故に我空と曰う。空と無我とは眼目の異にして、左右に之を名づくるも、皆傷ぶること無きを得。若し別して之を分たば、空と無我と隠顕互いに彰す」と云い、「成実論巻12滅法心品」に、「空観とは仮名の衆生を見ず、人の瓶を見るに水なきを以っての故に空なるが如く、是の如く五陰の中を見るに、人なきが故に空なり」と云える是れなり。又「成実論述記巻1末」には、「何をか二空という、謂わく即ち生と法となり。先に人我と云う、今説いて生となす。但し人我と説かば余の趣を該ねざるが故なり。彼れ皆有と執す、此れを説いて空となす。空とは即ち彼の無にして別体なきをいうなり」と云えり。是れ蓋し我の無を縁じて智を起し、以って真如の理を顕わすを我空真如と名づくるの意なり。又「五蘊皆空経」、「放光般若経巻18」、「成唯識論巻1」等に出づ。<(望)
  法空(ほうくう):法の自性空なるの意。又法無我dharma- nairaatmyaとも名づく。二空の一。即ち一切法は無我又は因縁生にして定実の自性なきが故に空なりと観達するを云う。蓋し法空を論ずるに一切法無我の義に由るものと、因縁生の義に由るものとの両説あり。「大毘婆沙論巻9」に、「尊者世友説いて言わく、我れは定んで諸法皆空なりと説かず、定んで一切法無我なりと説く。問う、若し非我の行相と空の行相とは倶に能く一切法を縁ぜば、此の二の行相は何の差別か有る。答う、非我の行相は我見を対治し、空の行相は我所の見を対治す」と云えり。是れ説一切有部に於いては、法体の恒有を認むるが故に諸法皆空を説かざるも、而も一切法無我と観じて以って我見を対治することを明にせるなり。然るに「成実論巻12滅法心品」には、無我なるが故に諸法は空なりとし、「又二種の観あり、空観と無我観となり。空観とは仮名の衆生を見ず、人の瓶を見るに水なきを以っての故に空というが如し。是の如く五陰の中を見るに人なきが故に空なり。若し法を見ざれば是れを無我と名づく。又経中に説く、無我智を得ば則ち正しく解脱すと。故に知る、色の性滅し、受想行識の性滅する是れを無我と名づくることを。無我は即ち是れ無性なり。問うて曰わく、若し無性を以って無我と名づけば、今五陰は実に無なるや。答えて曰わく、五陰は実に無なるも世諦を以っての故に有なり。所以は何ぞ、仏説く、諸行は尽く皆幻の如く化の如しと。世諦を以っての故に有なるも実有に非ざるなり」と云い、又「瑜伽師地論巻93」に、「一切無我にして差別あることなきを総じて名づけて空と為す。謂わく補特伽羅無我及び法無我なり。補特伽羅無我とは、謂わく一切縁生の行を離れて外に別に実我あること不可得なるが故なり。法無我とは謂わく即ち一切縁生の諸行は性実我に非ず、是れ無常なるが故なり。是の如きの二種を略摂して一と為し、彼の処に此れを説きて名づけて大空と為す」と云えり。是れ五蘊等の法は無我にして、実の自性無きが故に空となすの意なり。又「成実論滅法心品」の連文に、「若し衆生を壊するは是れ仮名空なり、若し色を破壊する是れを法空と名づく」と云い、「同巻10身見品」に、「無先経の中に説く、五陰散滅する是れを法空となす」と云えるは、色等の法は遂に破壊散滅するが故に之を空となせるものにして、所謂析空の説なり。又「大智度論巻31」に、「略説するに二種の空あり、衆生空と法空となり。小乗の弟子は鈍根なるが故に為に衆生空を説く、我我所無なるが故に則ち余法に著せず。大乗の弟子は利根なるが故に為に法空を説く。即時に世間は常に空にして涅槃の如しと知る。声聞の論議師は説く、内空は内法の中に於いて我なく我所なく、常なく作者なく、知者なく受者なし、是れを内空と名づく。外空も亦た是の如し。内法の相、外法の相即ち是れ空なりと説かず。大乗には説く、内法の中に内法の相なく、外法の中に外法の相なし」と云い、又「中論巻4四諦品」に、「未だ曽て一法として因縁より生ぜざるものあることなし。是の故に一切法は是れ空に非ざるものなし」と云えり。是れ因縁より生ずる法は皆実の自性なく、故に其の体即ち空なりとなすの意にして、所謂体空の説なり。「大乗義章巻1二無我義」には、総じて四宗に約して空の義を分別し、毘曇立性宗は唯生空を明して法空を説かず。定実破性宗には具に二空を明し、苦空無常等の集成せる諸法を法和合と名づけ、法和合の中、空にして定性なきを法空となし、般若破相宗は苦空無常等の離分破壊を待たず、彼の仮名の諸法を即ち空なりとし、顕実宗には依持縁起の二門を分ち、依持門には妄想法の空なるを衆生空と名づけ、所依の真実の寂なるを法空となし、縁起門には真如の体寂なるを法空とし、縁用の寂滅なるを衆生空となすと云えり。此の中、破性宗の空は析空、破相宗の空は体空、顕実宗の中の依持門の二空は三性三無性、縁起門の二空は真如の体用に就き分別せしものというべし。又「大智度論巻6、18、20、50、53」、「瑜伽師地論巻90」、「菩薩地持経巻8」、「顕揚聖教論巻16」、「十地経論巻8」、「三無性論巻上」、「摩訶止観巻3下」、「三論玄義」等に出づ。<(望)
  二空(にくう):衆生空、及び法空の総称。『大智度論巻20上注:我法二空』参照。
  我法二空(がほうにくう):我空と法空との併称。又人法二空、生法二空、或いは人法二無我と云い、略して二空、二無我とも称す。即ち常一主宰の我なく、及び諸法の自性も亦た空なりと体達するを云う。「中論巻4観邪見品」に、「是の如き空性の法の中に人もなく法もなし」と云い、「成唯識論巻1」に、「我法の執に由りて二障具に生ず。若し二空を証すれば彼の障随って断ず」と云い、「同述記巻1本」に、「何をか二空という、謂わく即ち生と法となり」と云い、又「華厳経孔目章巻3人法二空章」に、「人法二空とは謂わく人空と法空となり。人我の執なき処に顕るる真如を人空と名づけ、法我執なくして顕るる真如を法空と名づく」と云える是れなり。蓋し小乗に在りては、概して法の実有を認むるが故に単に我空のみを立つるも、成実論に於いては諸蘊の法も亦た空なりとし、併せて二空を説けり。即ち彼の「論巻12滅法心品」に、「又二種の観あり、空観と無我観となり。空観とは仮名の衆生を見ず、人の瓶を見て水なきを以っての故に空というが如し。是の如く五陰の中を見るに、人なきが故に空なり。若し法を見ざるは是れを無我と名づく。又経中に説く、無我智を得ば則ち正しく解脱すと。故に知る、色の性滅し、受想行識の性滅する、是れを無我と名づく。無我は即ち是れ無の性なり」と云える是れなり。此の中、空観は即ち我空を指し、無我観は即ち法空を指すなり。「三論玄義」には、此論の二観と大乗の二空とを比較し、四異を立てて大に二者の殊あることを論ぜり。四異とは彼の文に依るに、「一に小乗は法を拆して空を明し、大乗は本性空寂なり。二に小乗は唯三界内の人法二空のみを明かし、空の義即ち短し。大乗は三界内外の人法併空を明かし、空の義即ち長し。三に小乗は但だ空を明かして未だ不空を説かず、大乗は空を明かし、亦た不空をも辨ず。故に涅槃に云わく、声聞の人は但だ空を見て不空を見ず。智者は空及び不空を見ると。空とは一切の生死にして、不空とは大涅槃を謂うなり。四に小乗は名づけて但空と為す、謂わく但だ空に住す。菩薩は不可得空と名づく、空も亦た不可得なり。故に知る二空を明かすと雖も空の義異あり」と云えり。是れ小乗の空を以って拆空界内空但空とし、大乗の空を性空不但空不可得空となすの説なり。又「華厳経孔目章巻3人法二空章」には「人空は小乗に通ずるも、而も未だ清浄ならず、三乗に至って方に清浄なり。法空は三乗に在るも、而も未だ清浄ならず。一乗に至って究竟じて浄なり」と云えり。是れ「中論」等の所説を以って更に未了となすの意なり。又「大乗義章巻1」、「大乗法苑義林章巻4末」等に出づ。<(望)
  参考:『大智度論巻18』:『空門者生空法空。如頻婆娑羅王迎經中。佛告大王。色生時但空生。色滅時但空滅。諸行生時但空生。滅時但空滅。是中無吾我。無人無神。無人從今世至後世。除因緣和合名字等眾生。凡夫愚人逐名求實。如是等經中佛說生空。法空者。如佛說大空經中。十二因緣無明乃至老死。若有人言是老死。若言誰老死皆是邪見。生有取愛受觸六入名色識行無明亦如是。若有人言身即是神。若言身異於神。是二雖異同為邪見。佛言。身即是神。如是邪見非我弟子。身異於神亦是邪見。非我弟子。是經中佛說法空。若說誰老死。當知是虛妄是名生空。若說是老死當知是虛妄是名法空。乃至無明亦如是。』
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3』:『復次世尊。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。色中不應住。受想行識中不應住。眼耳鼻舌身意中不應住。色聲香味觸法中不應住。眼識乃至意識中不應住。眼觸乃至意觸中不應住。眼觸因緣生受。乃至意觸因緣生受中不應住。地種。水火風種空識種中不應住。無明乃至老死中不應住。何以故。世尊。色色相空。受想行識識相空。世尊。色空不名為色。離空亦無色。色即是空空即是色。受想行識。識空不名為識離空亦無識。識即是空空即是識。乃至老死老死相空。世尊。老死空不名老死。離空亦無老死。老死即是空。空即是老死。世尊。以是因緣故。菩薩摩訶薩欲行般若波羅蜜。不應色中住。乃至老死中不應住。』
問曰。眾生空法不空是可信。法自相空是不可信。何以故。若法自相空則無生無滅。無生無滅故無罪無福。無罪無福故何用學道。 問うて曰く、衆生は空にして、法は不空なりとは、是れ信ずべし。法の自相の空なること、是れ信ずべからず。何を以っての故に、若し法の自相にして空なれば、則ち無生無滅なり。無生無滅の故に無罪無福なり。無罪無福なれば、故に何を用ってか、道を学ばん。
問い、
『衆生は空である!』が、
『法』は、
『空でない!』、
是れは、
『信じられる!』が、
『法』は、
其の、
『自相』が、
『空である!』、
是れは、
『信じられない!』。
何故ならば、
若し、
『法』の、
『自相』が、
『空ならば!』、
則ち、
『生、滅』は、
『無いことになる!』。
『生、滅の無い!』が故に、
『罪、福』も、
『無い!』、
『罪、福』は、
『無い!』が故に、
何故、
『道』を、
『学ぶのか?』。
答曰。有法空故有罪福。若無法空不應有罪福。何以故。若諸法實有自性則無可壞。性相不從因緣生。若從因緣生便是作法。若法性是作法則可破。若言法性可作可破。是事不然。 答えて曰く、法空有るが故に罪福有り。若し法空無くんば、応に罪福有るべからず。何を以っての故に、若し諸法にして、実に自性有らば、則ち壊るべき無く、性相は因縁に従らずして生ぜん。若し因縁に従りて生ずれば、便ち是れ作法なり。若し法の性にして、是れ作法なれば、則ち破るべし。若し法の性にして、作るべく、破るべしと言わば、是の事は然らず。
答え、
『法の空』が、
『有る!』が故に、
『罪、福』は、
『有る!』。
『法の空』が、
『無ければ!』、
『罪、福』は、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
若し、
諸の、
『法』に、
実に、
『自性』が、
『有れば!』、
則ち、
『壊られる!』ことが、
『無く!』、
『法』の、
『性、相』は、
『因縁より!』、
『生じないことになる!』。
若し、
『法』が、
『因縁』より、
『生じれば!』、
是れは、
『作られた!』、
『法だということになり!』、
若し、
『法』の、
『性』が、
『作られた!』、
『法ならば!』、
則ち、
『破られることになる!』が、
若し、こう言えば、――
『法』の、
『性』は、
『作られる!』し、
『破られる!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
  便是(べんぜ):すなわち。とりもなおさず。即に同じ。
  性相(しょうそう):性の相、或いは性と相なり。性とは法の自体にして、内に在りて改易すべからざるなり。相とは相貌にして、外に現われて分別すべきなり。有為無為の相対は則ち無為法を性と為し、有為法を相と為すも、而も有為無為は皆性相有れば、自体を性と云い、可識を相と云う。「大智度論巻31」に、「性は其の体を言い、相は可識を言う」と云い、「法華経方便品」に、「是の如きは相なり。是の如きは性なり」と云い、「涅槃経巻2」に、「汝は今当に諸行の性相を観るべし」と云える、皆是の例なり。<(丁)
  (しょう):梵語prakRtiの訳。巴梨語pakati、本質の意。相、又は修に対す。即ち本来自爾の体質にして改変せざるものを云う。「大智度論巻31」に、「性は自有に名づく、因縁を待たず。若し因縁を待たば則ち是れ作法にして名づけて性と為さず」と云い、「同巻32」に、「法性とは法は涅槃に名づく。壊すべからず、戯論すべからざる法なり。性は本分の種に名づく。黄石の中に金の性あるが如く、白石の中に銀の性あるが如く、是の如く一切世間法の中に皆涅槃の性あり」と云い、又「菩薩地持経巻1種性品」に、「菩薩六入殊勝展転相続無始法爾なる、是れを性種性と名づく」と云い、「大乗荘厳経論巻1種性品」に、「問う、若し爾らば云何が性と名づくる。答う、功徳を度する義なるっが故なり。度とは功徳を出生するの義なり、此の道理に由り、是の故に性と名づく」と云える是れなり。此等は他の因縁を待たず、無始法爾として有する本分の因種を性と名づけたるなり。又「大智度論巻31」に性に総別の異あることを説き、「一切法の性に二種あり、一には総性、二には別性なり。総性とは無常苦空無我無生無滅無来無去無入無出等なり。別性とは火は熱の性、水は湿の性なるが如く、心を識の性と為す。人の喜んで諸悪を作すを名づけて悪性と為し、好んで善事を集むるを名づけて善性と為すが如し」と云えり。此の中、無常等は一切法共通の理性を云い、熱性等は諸法各別の自性に名づけたるなり。又「摩訶止観巻5上」に十如の中の如是性を釈し、「如是性とは性は以って内に拠る。総じて三義あり、一に不改を性と名づく。無行経に不動性と称す、性は即ち不改の義なり。又性は性分に名づく、種類の義は分分不同にして各各改むべからず。又性は是れ実性なり、実性は即ち理性にして、極実にして過ぐるものなし。即ち仏性の異名のみ」と云い、又「華厳経疏巻49」に、「性に二義あり、一に種性の義、二には法性の義なり」と云えり。此等は性に多義あることを示したるなり。又「成唯識論巻9」に徧依円の三性に関し、「此の性は即ち是れ唯識の実性なり。謂わく唯識の性に略して二種あり、一には虚妄、謂わく遍計所執なり。二には真実、謂わく円成実性なり。虚妄に簡ばんが為に実性の言を説く。復た二性あり、一には世俗、謂わく依他起なり、二には勝義、謂わく円成実なり。世俗に簡ばんが為の故に実性と説く」と云えり。是れ唯識の性に真妄及び真俗の別あるを説き、其の中、円成実を以って唯識の実性となすことを明にせるなり。其の他又種性に約して五種性、仏性或いは如来性等と云い、法の本質に約して法性、理性等と云い、又其の性の真実なるを実性、其の中の功徳を性徳と名づけ、元と自ら之を具するを性具と云い、其の体即ち縁起するを性起等と称するなり。又「入楞伽経巻2」、「解深密経巻2一切法相品」、「大智度論巻24」、「大乗義章巻1、4」、「大城法苑義林章巻1末」、「成唯識論述記巻9本、9末」等に出づ。<(望)
  (そう):形相、又は状態の意、性に対す。『大智度論巻15上注:相』参照。
性名不作法。不待因緣有。諸法自性有。自性有則無生者性先有故。若無生則無滅。生滅無故無罪福。無罪福故何用學道。 性を不作の法と名づけ、因縁を待たずして有り。諸法に自性有りとは、自性有らば、則ち生ずる者無けん。性の先に有るが故なり。若し生無くんば、則ち滅無けん。生滅無きが故に罪福無く、罪福無きが故に道を学びて何に用うる。
『性』とは、
『作られない!』、
『法であり!』、
『因縁』を、
『待たずに!』、
『有る(存在する)からである!』。
諸の、
『法』に、
『自性』が、
『有れば!』、――
『自性』が、
『有れば!』、
則ち、
『生じる!』ことは、
『無い』。
何故ならば、
『性』が、
『先に!』、
『有るからである!』。
若し、
『生』が、
『無ければ!』、
則ち、
『滅』も、
『無いことになり!』、
『生』と、
『滅』の、
『無い!』が故に、
『罪、福』も、
『無く!』、
『罪』も、
『福』も、
『無い!』が故に、
何故、
『道』を、
『学ぶのか?』。
  参考:『中論巻4観四諦品』:『復次 若諸法不空  無作罪福者  不空何所作  以其性定故  若諸法不空。終無有人作罪福者。何以故。罪福性先已定故。又無作作者故。』
若眾生有真性者。則無能害無能利。自性定故。如是等人則不知恩義破業果報。 若し衆生にして、真の性有る者なれば、則ち能く害する無く、能く利する無し。自性定まれるが故なり。是れ等の如き人は、則ち恩義を知らずして、業の果報を破らん。
若し、
『衆生』に、
『真の性』が、
『有れば!』、
則ち、
『害する!』ことも、
『利する!』ことも、
『無いことになる!』。
自らの、
『性』が、
『定まっているからである!』。
是れ等のような、
『人』は、
『恩義を知らない!』ので、
『業の果報』を、
『破ることになる!』。
法空中亦無法空相。汝得法空心著故而生是難。是法空諸佛以憐愍心。為斷愛結除邪見故說。 法空中には、亦た法の空相なる無し。汝は、法空を得て、心に著するが故に、是の難を生ず。是の法空を、諸仏は憐愍の心を以って、愛結を断じ、邪見を除かしめん為の故に説きたまえり。
『法の空』中にも、
亦た、
『法』の、
『空相』は、
『無い!』。
お前は、
『法の空』を、
『認めて!』、
『心』が、
『著する!』が故に、
是のような、
『問難』を、
『生じたのだ!』。
諸の、
『仏』は、
『憐愍の心』で、
『愛結を断って!』、
『邪見を除く!』為の故に、
是の、
『法の空』を、
『説かれたのである!』。
復次諸法實相能滅諸苦。是諸聖人真實行處。若是法空有性者。說一切法空時。云何亦自空。若無法空性汝何所難。以是二空能觀諸法空。心得離諸法知世間虛誑如幻。 復た次ぎに、諸法の実相は能く諸苦を滅し、是れ諸聖人の真実の行処なり。若し是の法空にして性有らば、一切法の空を説く時、云何が亦た自ら空ならしむる。若し法空の性無ければ、汝が何んが難ずる所なる。是の二空を以って、能く諸法の空を観ずれば、心に諸法を離るるを得て、世間の虚誑なること幻の如きを知る。
復た次ぎに、
諸の、
『法の実相』は、
諸の、
『苦』を、
『滅することができる!』ので、
是れは、
諸の、
『聖人』の、
『真実の行処である!』が、
若し、
是の、
『法の空』に、
『性』が、
『有れば!』、
一切の、
『法』は、
『空である!』と、
『説く!』時、
何のように、
亦た、
『自ら!』を、
『空にするのか?』。
若し、
『法の空』に、
『性』が
『無ければ』、
お前は、
何を、
『難じているのか?』。
是の、
『二空を用いて!』、
諸の、
『法』は、
『空である!』と、
『観ることができれば!』、
『心』に、
諸の、
『法』を、
『離れることができて!』、
『世間』は、
『幻のように!』、
『虚誑である!』と、
『知ることになる!』。
如是觀空。若取是諸法空相。從是因緣生憍慢等諸結使言。我能知諸法實相。是時應學無相門。以滅取空相故。 是の如く、空を観るに、若し是の諸法に、空相を取れば、是の因縁より、憍慢等の諸結使を生じて、『我れは能く、諸法の実相を知る』、と言わん。是の時には、応に無相門を学ぶべし。空相を取るを滅するを以っての故なり。
是のように、
『空を観て!』、
若し、
諸の、
『法』に、
『空相』を、
『取れば!』、
是の、
『因縁により!』、
『憍、慢等の諸の結使』を、
『生じて!』、
こう言うだろう、――
わたしは、
諸の、
『法の実相』を、
『知ることができた!』、と。
是の時には、
当然、
『無相』という、
『門』を、
『学ばねばならぬ!』。
是の、
『無相を用いて!』、
『空相を取る!』ことを、
『滅するからである!』。
若於無相中生戲論。欲分別有所作著是無相。是時復自思惟。我為謬錯。諸法空無相中。云何得相取相作戲論。是時應隨空無相行身口意。不應有所作。應觀無作相 若し、無相中に於いて、戯論を生じて分別し、所作有らんと欲し、是の無相に著して、是の時、復た自ら、『我れは、諸法の空、無相中に謬錯を為せり。云何が相を得て、相を取り、戯論を作さん』、と思惟せば、是の時、応に空、無相に随うて、身口意を行ずべし。応に所作有るべからず。応に作相無きを観ずべし。
若し、
『無相』中に、
『戯論』を、
『生じて!』、
『分別し!』、
『無相の所作』が、
『有ってほしい!』と、
『思い!』、
是の、
『無相』に、
『著して!』、
是の時、
復た、
自ら、こう思惟すれば、――
わたしは、
諸の、
『法』の、
『空、無相』中に、
『謬錯(錯誤)していた!』。
何うして、
『相を認識し!』、
『相に取著して!』、
『戯論』を、
『作したのだろう!』、と。
是の時こそ、
当然、
『空、無相に随って!』、
『身、口、意』を、
『行わねばならない!』。
『空、無相』に、
『所作』の、
『有るはずがなく!』、
『空、無相』には、
『作相が無い!』と、
『観なければならない!』。
滅三毒。不應起身口意業。不應求三界中生身。如是思惟時。還入無作解脫門。 『三毒を滅すれば、応に身口意業を起さざるべく、応に三界中に身を生ずるを求めざるべし』と、是の如く思惟する時、還って無作解脱門に入る。
『三毒を滅すれば!』、
当然、
『身、口、意』の、
『業』を、
『起すはずがなく!』、
『三界中に生じる!』、
『身』を、
『求めるはずがない!』と、
是のように、
『思惟する!』時、
還()た、
『無作解脱門』に、
『入るのである!』。
是三解脫門。摩訶衍中是一法。以行因緣故。說有三種。觀諸法空是名空。於空中不可取相。是時空轉名無相。無相中不應有所作為三界生。是時無相轉名無作。譬如城有三門。一人身不得一時從三門入。若入則從一門。 是の三解脱門は、摩訶衍中には、是れ一法にして、行の因縁を以っての故に、三種有りと説く。諸法に空を観れば、是れを空と名づけ、空中には相を取るべからざれば、是の時空を転じて、無相と名づけ、無相中には、応に所作有りて、三界の生を為すべからざれば、是の時無相を転じて、無作と名づく。譬えば城に三門有り、一人の身は、一時に三門より入るべからず、若し入れば、則ち一門に従るが如し。
是の、
『三解脱門』は、
『摩訶衍』中には、
『一法である!』が、
『行の因縁』の故に、
『三種有る!』と、
『説かれるのである!』。
諸の、
『法』に、
『空』を、
『観れば!』、
是の時を、
『空』と、
『呼び!』、
若し、
『空』中には、
『相を取ることはできない!』と、
『観れば!』、
是の時、
『空を転じて!』、
『無相』と、
『呼び!』、
若し、
『無相』中には、
『所作が有り!』、
『三界』に、
『生まれさせるはずがない!』と、
『観れば!』、
是の時、
『無相を転じて!』、
『無作』と、
『呼ぶ!』。
譬えば、
『城』に、
『三門』が、
『有ったとしても!』、
『一人の身』は、
『三門より!』、
『一時に!』、
『入ることができず!』、
若し、
『入れば!』、
必ず、
『一門より!』、
『入るようなものである!』。
諸法實相是涅槃城。城有三門。空無相無作。若人入空門不得是空。亦不取相。是人直入事辦故不須二門。若入是空門取相得是空。於是人不名為門。通塗更塞。若除空相是時從無相門入。若於無相相。心著生戲論。是時除取無相相。入無作門。 諸法の実相は、是れ涅槃の城なり。城に三門有り、空、無相、無作なり。若し人、空門に入りても、是れ空なりと得ず、亦た相を取らずんば、是の人は、直ちに事に入りて辦ずるが故に、二門を須いず。若し是の空門に入りて、相を取り、是れ空なりと得れば、是の人に於いては、名づけて門と為さず。通ずるに塗りて、更に塞がればなり。若し空相を除けば、是の時無相門より入る。若し無相の相に於いて、心著して戯論を生ぜば、是の時、無相の相を取るを除いて、無作門に入る。
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『涅槃』という、
『城だとすれば!』、
是の、
『城』には、
『三門が有り!』、
『空』、
『無相』、
『無作である!』。
若し、
『人』が、
『空』という、
『門』に、
『入って!』、
是れが、
『空だ!』と、
『認めず!』、
亦た、
『空の相』を、
『取らなければ!』、
是の、
『人』は、
直ちに、
『事』に、
『入れば!』、
『辦ずる(用が足る)!』が故に、
『二門』を、
『必要としない!』。
若し、
是の、
『空』という、
『門に入って!』、
『相を取り!』、
是れが、
『空だ!』と、
『認めれば!』、
是の、
『人』に於いて、
『空』は、
『門でないことになる!』。
『通じていた!』
『門』を、
『塗って!』、
『塞いだからである!』。
若し、
『空の相』を
『除けば!』、
是の時、
『無相』という、
『門』より、
『入ったことになる!』。
若し、
『無相の相』に、
『心が著して!』、
『戯論』を、
『生じた!』時、
是の時、
『無相』という、
『相を取る!』ことを、
『除けば!』、
『無作』という、
『門』に、
『入ったことになる!』。
阿毘曇義中。是空解脫門。緣苦諦攝五眾。無相解脫門緣一法。所謂數緣盡。無作解脫門。緣三諦攝五眾。 阿毘曇の義中には、是の空解脱門は、苦諦を縁じて五衆を摂し、無相解脱門は一法を縁ず、所謂数縁尽なり。無作解脱門は三諦を縁じて、五衆を摂す。
『阿毘曇の義』中には、
是の、
『空解脱門』は、
『苦諦』を、
『縁じて!』、
『五衆』を、
『摂(おさ)め!』、
『無相解脱門』は、
『一法』を、
『縁じる!』、
所謂、
『数縁尽である!』。
『無作解脱門』は、
『三諦(苦、集、道諦)』を、
『縁じて!』、
『五衆』を、
『摂める!』。
  数縁尽(しゅえんじん):智慧の力に依って煩悩を断つ一種の滅諦なり。三無為の一。又寂滅無為とも称す。『大智度論巻19上注:三無為、巻31上注:三無為』参照。
  三諦(さんたい):不明。或いは滅諦を除ける苦諦、集諦、道諦を指すものなるか。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻46』:『復有三事故名三昧。一住一緣。二繫在一緣。三正思惟。復有三事故名三昧。一自正心。二生種善根。三令心正。直相續。復有三事故名三昧。一於緣中不從。二持種種善法。三能令種種善心住一緣中尊者和須蜜說曰。何故名三昧。答曰。能令種種善心住一緣中。餘說如上。尊者佛陀提婆說曰。三昧有多名。有善法三昧。有不善法三昧。有無記法三昧。有九次第三昧。此中說心正三昧名三昧。界者。有漏者。三界繫。無漏者不繫。地者。有漏者在十一地。無漏者在九地。所依身者。依三界身行者。空有二行。無願有十行。無相有四行。緣者空三昧。有漏者緣一切。無漏者緣苦諦。無願緣三諦。無相緣滅諦。念處者空無願三昧是四念處。無相三昧是法念處。智者空三昧與四智俱。謂法智比智等智苦智。無願三昧與七智俱。除滅智。無相三昧與四智俱。謂法智比智等智滅智。三昧者即三昧根者總而言之。與三根相應。過去未來現在者。是三世。緣三世法者。空三昧緣三世及非世法。無願緣三世。無相緣非世。善不善無記者。是善緣善。不善無記者。空無願緣三種。無相緣善。是三界繫不繫者。或三界繫或不繫。緣三界繫及不繫者。空三昧。有漏者緣三界繫及不繫。無漏者緣三界繫。無願緣三界繫及不繫。無相緣不繫。是學無學非學非無學者。是三種。緣學無學非學非無學者。空三昧。有漏者。緣三種。無漏者緣非學非無學。無願緣三種。無相緣非學非無學。是見道斷修道斷不斷者。有漏者是修道斷。無漏者不斷。緣見道斷修道斷不斷者。空三昧。有漏者緣三種。無漏者緣見道斷修道斷。無願緣三種。無相緣不斷。緣名緣義者。空無願緣義緣名。無相緣義。緣自身他身非身者。空三昧。有漏者緣三種。無漏者及無願緣自身他身。無相緣非身。』
摩訶衍義中。是三解脫門。緣諸法實相。以是三解脫門觀世間即是涅槃。何以故。涅槃空無相無作。世間亦如是。 摩訶衍の義中には、是の三解脱門は、諸法の実相を縁じて、是の三解脱門を以って、世間を観れば、即ち是れ涅槃なり。何を以っての故に、涅槃の空、無相、無作なること、世間も亦た是の如し。
『摩訶衍の義』中には、
是の、
『三解脱門』は、
諸の、
『法の実相』を、
『縁じるのであり!』、
是の、
『三解脱門』を、
『用いて!』、
『世間』を、
『観れば!』、
是の、
『世間そのものが!』、
『涅槃である!』。
何故ならば、
『涅槃』は、
『空、無相、無作であり!』、
亦た、
『世間』も、
『是の通りだからである!』。
問曰。如經說涅槃一門。今何以說三。 問うて曰く、経に説けるが如きは、涅槃は一門なり、今は何を以ってか、三門を説く。
問い、
『経』などには、
『涅槃』は、
『一門だ!』と、
『説かれている!』のに、
今は、
何故、
『三門』を、
『説くのですか?』。
答曰。先已說。法雖一而義有三。 答えて曰く、先に已に説けり、『法は一なりと雖も、義は三有り』、と。
答え、
先に、こう説いた通りである、――
『法』は、
『一である!』が、
而し、
『義』は、
『三有る!』、と。
復次應度者有三種。愛多者見多者愛見等者。見多者為說空解脫門。見一切諸法從因緣生無有自性。無有自性故空。空故諸見滅。愛多者為說無作解脫門。見一切法無常苦從因緣生。見已心厭離愛即得入道。愛見等者為說無相解脫門。聞是男女等相無故斷愛。一異等相無故斷見。 復た次ぎに、応に度すべき者に三種有ればなり。愛多き者、見多き者、愛と見と等しき者なり。見多き者には、為に空解脱門を説けば、一切の諸法は、因縁より生じて、自性有ること無きを見て、自性有ること無きが故に空なり、空なるが故に、諸の見滅す。愛多き者の為には、無作解脱門を説けば、一切法は無常、苦にして因縁より生ずるを見て、見已りて心に愛を厭離し、即ち道に入るを得。愛、見等しき者の為には、無相解脱門を説けば、是の男女等の相無きを聞くが故に、愛を断じ、一異等の相無きが故に、見を断ず。
復た次ぎに、
『度すべき!』者には、
『愛の多い!』者と、
『見の多い!』者と、
『愛と見と等しい!』者との、
『三種』、
『有るからである!』。
即ち、
『見の多い!』者の為に、
『空解脱門を説けば!』、
一切の、
諸の、
『法』は、
『因縁より!』、
『生じて!』、
『自性』が、
『無い!』ことを、
『見て!』、
諸の、
『法』は
『自性が無い!』が故に、
『空であり!』、
『空である!』が故に、
『諸の見』が、
『滅することになり!』、
『愛の多い!』者の為に、
『無作解脱門を説けば!』、
一切の、
『法』は、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
『因縁より生じる!』のを、
『見て!』、
『心』に、
『愛』を、
『厭うて!』、
『離る!』ので、
即ち、
『道』に、
『入ることができる!』。
『愛、見の等しい!』者の為に、
『無相解脱門を説けば!』、
是の、
『男、女等の相』の、
『無い!』ことを、
『聞く!』が故に、
『愛』を、
『断つことになり!』、
『一、異等の相』の、
『無い!』ことを、
『聞く!』が故に、
『見』を、
『断つことになる!』。
佛或一時說二門。或一時說三門。菩薩應遍學知一切道。故說三門。更欲說餘事故。三解脫門義略說。 仏は、或は一時に二門を説き、或は一時に三門を説きたまえども、菩薩は応に遍く、一切の道を学びて知るべきが故に、三門を説きたまい、更に余事を説かんと欲したもうが故に、三解脱門の義は略して説きたまえり。
『仏』は、
或は、
『一時に!』、
『二門』を、
『説かれ!』、
或は、
『一時に!』、
『三門』を、
『説かれた!』が、
『菩薩』は、
当然、
一切の、
『道』を、
遍く、
『学んで!』、
『知らねばならぬ!』が故に、
『仏』は、
『三門を説かれ!』、
更に、
『余の事』も、
『説こう!』と、
『思われた!』が故に、
『三解脱門』は、
『略して!』、
『説かれたのである!』。



 四禅

四禪有二種。一者淨禪。二者無漏禪。云何名淨禪。有漏善五眾是。云何名無漏。無漏五眾。 四禅には、二種有り、一には浄禅、二には無漏禅なり。云何が浄禅と名づくる。有漏の善の五衆是れなり。云何が無漏と名づくる。無漏の五衆是れなり。
『四禅』には、
『二種』有り、
一には、
『浄禅であり!』、
二には、
『無漏禅である!』。
何故、
『浄禅と呼ぶのか?』、――
是の、
『禅』は、
『有漏』の、
『善の五衆だからである!』。
何故、
『無漏禅と呼ぶのか?』、
是の、
『禅』は、
『無漏』の、
『五衆だからである!』。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻10』:『禪無量無色三摩提定菩提品根入陰界。禪者。謂四禪。問云何四。答謂初禪。二禪。三禪。四禪。問此四禪。幾色。幾非色。答禪所攝身口業。此是色。餘非色。一切不可見。一切是無對。問禪幾有漏。幾無漏。答一切應分別。禪或有漏。或無漏。云何有漏。謂禪所攝有漏五陰。云何無漏。謂禪所攝無漏五陰。一切是有為。若有漏。彼有報。若無漏。彼無報。一切從因緣生世所攝。禪所攝身口業。是色所攝。餘是名所攝。禪所攝心意識。是內入所攝。餘是外入所攝。一切是智知。若有漏。斷智知。及斷。若無漏。非斷智知。及不斷。一切是應修。一切不穢污。一切是果及有果。一切是不受。禪所攝身口業。是四大造餘非四大造。一切是有上。禪若有漏。彼是有。若無漏。彼非有。禪所攝身口業。及心不相應行。因不相應。餘因相應。善五處少分攝四禪。四禪亦攝善五處少分。不善處所不攝。無記處所不攝。漏處所不攝。或有漏處攝非禪。作四句。有漏處攝非禪者。謂禪所不攝有漏五陰。禪攝非有漏處者。謂無漏四禪。有漏處攝亦禪者。謂有漏四禪。非有漏處攝亦非禪者。謂禪所不攝無漏五陰及無為。或無漏處攝非禪。作四句。無漏處攝非禪者。謂禪所不攝無漏五陰。及無為。禪攝非無漏處者。謂有漏四禪。無漏處攝亦禪者。謂無漏四禪。非無漏處攝亦非禪者。謂禪所不攝有漏五陰。一切或過去。或未來。或現在一切。若有漏。是色界繫。若無漏。是不繫。問禪幾學。幾無學。幾非學非無學。答一切應分別。禪或學。或無學。或非學非無學。云何學。謂禪所攝學五陰。云何無學。謂禪所攝無學五陰。云何非學非無學。謂禪所攝有漏五陰。禪若有漏。彼修斷。若無漏。彼不斷。禪所攝身口業。及心不相應行。非心非心法非心相應。禪所攝受陰想陰。彼相應行陰。是心法心相應心意識。即心也。問禪幾心隨轉非受相應。答作四句。心隨轉非受相應者。謂心隨轉身口業。心隨轉心不相應行及受。受相應非心隨轉者。謂心意識。心隨轉亦受相應者。謂想陰。彼相應行陰。非心隨轉亦非受相應者。謂除心隨轉心不相應行。若餘心不相應行。如受想行亦如是。除其自性。三非覺非觀。一分別初禪。或覺隨轉非觀相應。作四句。覺隨轉非觀相應者。謂覺隨轉身口業。覺隨轉心不相應行。及覺相應觀。觀相應非覺隨轉者。謂覺。覺隨轉亦觀相應者。謂覺觀相應心心法。非覺隨轉亦非觀相應者。謂除覺隨轉心不相應行。若餘心不相應行。問禪幾見非見處。答作四句。見非見處者。謂禪所攝盡智無生智。所不攝無漏慧。見處非見者。謂見所不攝有漏四禪見亦見處者。謂世俗正見。非見亦非見處者。謂見所不攝無漏四禪。一切非身見因身見亦非彼因。禪所攝身口業及思。此是業非業報。餘非業亦非業報。問禪幾業非業隨轉。答作四句。業非業隨轉者。謂思業。業隨轉非業者。謂受陰想陰識陰。若思所不攝業隨轉行陰。業亦業隨轉者。謂業隨轉身口業。非業亦非業隨轉者。謂除業隨轉心不相應行。若餘心不相應行。禪所攝身口業。是造色色非可見色。餘非造色色亦非可見色。禪所攝身口業。是造色色非有對色。餘非造色色亦非有對色。一切是甚深難了難了甚深。一切是善亦善因。一切非不善亦非不善因。一切非無記亦非無記因。一切是因緣緣亦有因。問禪幾次第非次第緣緣。答一切應分別。初禪。或次第非次第緣緣。作三句。次第非次第緣緣者。謂未來現前必起心心法。次第亦次第緣緣者。謂過去現在心心法。非次第亦非次第緣緣者。謂除未來現前必起心心法。若餘未來心心法。及身口業心不相應行。如初禪。第二第三禪亦如是。第四禪。或次第非次第緣緣。作三句。次第非次第緣緣者。謂未來現前必起心心法。及無想正受。已起當起。次第亦次第緣緣者。謂過去現在心心法。非次第亦非次第緣緣者。謂除未來現前必起心心法。若餘未來心心法。除次第心不相應行。若餘心不相應行。及身口業。禪所攝身口業心不相應行。是緣緣緣非有緣餘者。是緣緣緣亦有緣。一切是增上緣緣及有增上。禪若有漏。彼隨流非流。若無漏。彼非流亦非隨流。』
  :禅は、但だ坐禅と行禅のみにあらず、行住坐臥に応じて常に有り。
是四禪中所攝身口業是色法。餘殘非色法一切不可見無對。或有漏或無漏。有漏者善有漏五眾。無漏者無漏五眾。皆是有為。有漏者色界繫。無漏者不繫。 是の四禅中の所摂の身口業は是れ色法にして、余残は色法に非ずして、一切は不可見、無対なり。或は有漏、或は無漏にして有漏なれば善の有漏の五衆、無漏なれば無漏の五衆にして、皆是れ有為なり。有漏なれば、色界繋にして、無漏なれば不繋なり。
是の、
『四禅に摂せられる!』、
『身、口』の、
『業』は、
『色法である!』が、
『余残()』の、
『業』は、
『色法でなく!』、
一切は、
『不可見であり!』、
『無対である!』。
是の、
『四禅』は、
或は、
『有漏であり!』、
或は、
『無漏である!』が、
若し、
『有漏ならば!』、
『有漏』の、
『善の五衆であり!』、
『無漏ならば!』、
『無漏』の、
『五衆であり!』、
皆、
『有為である!』。
又、
『有漏ならば!』、
『色界』の、
『繋であり!』、
『無漏ならば!』、
『不繋である!』。
禪攝身業口業及心不相應。諸行是非心非心數法非心相應。禪攝受眾想眾及相應行眾。是心數法亦心相應。禪攝心意識但心。 禅に摂する身業、口業、及び心不相応諸行は、是れ心に非ず、心数法に非ず、心相応に非ず。禅に摂する受衆、想衆、及び相応の行衆は、是れ心数法にして、亦た心相応なり。禅に摂する心意識は、但だ心なり。
『禅』に、
『摂する(属する)!』、
『身業、口業、心不相応の諸行』は、
『心でなく!』、
『心数法でもなく!』、
『心相応でもない!』。
『禅』に、
『摂する!』、
『受衆、想衆と相応の行衆』は、
『心数法であり!』、
『心相応である!』。
『禅』に、
『摂する!』、
『心意識』は、
但だ、
『心のみである!』。
  心意識(しんいしき):心と意と識との併称。心は梵語質多citta、意は梵語末那manas、識は梵語毘若南vijJaanaの訳。即ち義の意に依りて能縁の心を三種に分別せるもの。「大毘婆沙論巻72」に、「諸の契経の中に心と意と識とを説く」と云い、「倶舎論巻4」に、「然るに心心所は、契経の中に於いて義に随って種種の名相を建立す。今当に此の名義の差別を辯ずべし、頌に曰わく、心と意と識とは体一なり」と云える是れなり。蓋し説一切有部に於いては、心意識は其の名異なれりと雖も、体は即ち一なりとす。之に関し「大毘婆沙論巻72」に、其の名義の不同を釈するに多説を挙げ、「或は有説は差別あること無し、心は即ち是れ意、意は即ち是れ識なり。此の三は声別なるも義は異なきが故なり。(中略)復た有説は心意識の三は亦た差別あり、謂わく名即ち差別す。心と名づけ意と名づけ識と名づくる異なるが故なり。復た次ぎに世に亦た差別あり、謂わく過去を意と名づけ、未来を心と名づけ、現在を識と名づくるが故なり。復た次ぎに施設に亦た差別あり、謂わく界の中に心を施設し、処の中に意を施設し、蘊の中に識を施設するが故なり。復た次ぎに義に亦た差別あり、謂わく心は是れ種族の義、意は是れ生門の義、識は是れ積集の義なり。(中略)復た次ぎに滋長は是れ心の業なり、思量は是れ意の業なり、分別は是れ識の業なり。脇尊者言わく、滋長分別は是れ心の業なり、思量思惟は是れ意の業なり、分別解了は是れ識の業なりと。応に知るべし、此の中、滋長は是れ有漏の心、分別は是れ無漏の心なり。思量は是れ有漏の意、思惟は是れ無漏の意なり。分別は是れ有漏の識、解了は是れ無漏の識なり。心意識の三は是れを差別と謂うなり」と云い、又「倶舎論巻4」に、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。復た有が釈して言わく、浄不浄界の種種差別の故に名づけて心となす、即ち此れ他の為に所依止と作るが故に名づけて意となす、能依止となるが故に名づけて識となすと。故に心と意と識との三の名の所詮の義は異ありと雖も、而も体は是れ一なり」と云えり。是れ心意識は其の体一なりと雖も、世等の異あるが故に別名を立つとなすの意なり。然るに大乗に於いては心意識其の体各別なりとし、心は第八阿頼耶識、意は第七末那識、識は前六識を称すとなせり。「瑜伽師地論巻62」に、「此の中、諸識を皆心意識と名づくるも、若し最勝に就かば、阿頼耶識を心と名づく、何を以っての故に、此の識は能く一切法の種子を集聚するに由るが故なり。一切の時に於いて執受の境を縁じ、不可知の一類の器境を縁ず。末那を意と名づく、一切の時に於いて我我所及び我慢等を執し、思量を性となす。余識を識と名づく、謂わく境界に於いて了別するを相となす」と云い、又「成唯識論巻5」に、「薄伽梵は処処の経中に心意識の三種の別義を説けり。集起を心と名づけ、思量を意と名づけ、了別を識と名づく。是れ三の別義なり。是の如き三義は八識に通ずと雖も、而も勝顕なるに随って第八を心と名づく、諸法の種を集めて諸法を起すが故なり。第七を意と名づく、蔵識等を縁じ恒に審に思量して我等と為すが故なり。余の六を識と名づく、六の別境に於いて麁動に間断して了別して転ずるが故なり。入楞伽の伽他の中に説くが如し、蔵識を説いて心と名づけ、思量の性を意と名づけ、能く諸境の相を了する、是れを説いて名づけて識となす」と云える即ち其の説なり。是れ阿頼耶識は集起の義勝るるが故に心と名づけ、末那識は思量の義勝るるが故に意と名づけ、前六識は了別の義勝るるが故に識と名づくとなすなり。又「大乗起信論」にも心を阿梨耶識、意を五意、識を六識となせり。即ち彼の文に「復た次ぎに生滅の因縁とは、所謂衆生は心と意と意識との転ずるに依るが故なり。此の義云何ん、阿梨耶識に依るを以って無明ありと説く。不覚にして起り、能く見、能く現じ、能く境界を取り、念を起して相続す、故に説いて意と為す。此の意に復た五種の名あり。(中略)復た次ぎに意識と言うは、即ち此の相続識は諸の凡夫の取著転た深きに依り、我我所を計して種種に妄執し、事に随って攀縁して六塵を分別す、名づけて意識となし、亦た分離識と名づけ、又復た説いて分別事識と名づく」と云える是れなり。是れ大旨瑜伽等の説に異ならずと雖も、意に五種の別ありとなすは頗る同じからざる所なり。又「仏性論巻3」には心を六識心、意を阿陀那識、識を阿梨耶識に配し、前諸説と亦た異あり。又「入楞伽経巻7」、「解深密経巻2」、「五事毘婆沙論巻下」、「阿毘曇心論巻1」、「成実論巻5」、「摂大乗論本巻上」、「顕揚聖教論巻1」、「十地経論巻3」、「唐訳摂大乗論巻1」、「唯識二十論」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「順正理論巻10」、「大乗義章巻3末」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻5末」等に出づ。<(望)
四禪或有隨心行。非受相應。或受相應非隨心行。或隨心行亦受相應。或非隨心行非受相應。隨心行非受相應者。四禪攝身業口業隨心行心不相應諸行及受。受相應非隨心行者。四禪攝心意識。隨心行亦受相應者。四禪攝想眾及相應行眾。非隨心行亦非受相應者。除四禪中攝隨心行心不相應諸行。餘殘心不相應。諸行想行相應亦如是。 四禅は、或は随心行にして、受相応に非ざる有り。或は受相応にして随心行に非ず。或は随心行にして、亦た受相応なり。或は随心行に非ずして、受相応に非ず。随心行にして受相応に非ずとは、四禅に摂する身業、口業、随心行、心不相応諸行、及び受なり。受相応にして随心行に非ずとは、四禅に摂する心意識なり。随心行にして亦た受相応とは、四禅に摂する想衆、及び相応の行衆なり。随心行に非ずして亦た受相応に非ずとは、四禅中に摂する随心行と心不相応諸行とを除く、余残の心不相応諸行なり。想、行相応も亦た是の如し。
『四禅』は、
或は、
『随心行であって!』、
『受相応でない!』。
或は、
『受相応であって!』、
『随心行でない!』。
或は、
『随心行でもあり!』、
『受相応でもある!』。
或は、
『随心行でもなく!』、
『受相応でもない!』。
此の中の、
『随心行であって!』、
『受相応でない!』とは、――
『四禅に摂する!』、
『身業、口業、随心行、心不相応諸行』と、
『受である!』。
『受相応であって!』、
『随心行でない!』とは、――
『四禅に摂する!』、
『心意識である!』。
『随心行でもあり!』、
『受相応でもある!』とは、――
『四禅に摂する!』、
『想衆』と、
『想衆相応の行衆である!』。
『随心行でもなく!』、
『受相応でもない!』とは、――
『四禅』中の、
『随心行、心不相応諸行を除く!』、
『余残の心不相応諸行である!』。
是の、
『受相応のように!』、
『想相応、行相応』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  随心行(ずいしんぎょう):心法に随って生起する行蘊、即ち意触に随って生ずる思、即ち分別思量の意。蓋し「衆事分阿毘曇論巻10」に、「問う、無色の、幾ばくの心随転は、受相応に非ざる。答う、四句を作さん、心随転にして、受相応に非ずとは、謂わく心随転と、心不相応行と、及び受なり。受相応にして、心随転に非ずとは、謂わく心意識なり。心随転にして、亦た受相応とは、謂わく想陰と、彼の相応の行陰なり。心随転に非ずして、亦た受相応に非ずとは、謂わく心随転を除く心不相応行、若しくは余の心不相応行なり。受、想、行の如きも、亦た是の如し。其の自性を除けば、一切は覚随転に非ず、観相応に非ず」と云えるに由り、即ち心随転とも称することを知る。又随転とも称するが如し。『大智度論巻11下注:行、巻14上注:心所有法』参照。
  心随転(しんずいてん):心に随従して生起する法の意。『大智度論巻20下注:転随転』参照。
  転随転(てんずいてん):転と随転との併称。転は梵語pravRttiの訳にして、法の生起するを云い、随転は梵語anuvRttiの訳にして、彼の法に随従して生起する者を云う。「倶舎論巻13」に、「表無表業の等起に二あり、謂わく因等起と刹那等起なり。先に在りて因となるが故に、彼の刹那に有るが故なり。次の如く初を転と名づけ、第二を随転と名づく」と云えり。是れ将に業を作らんとする時、先づ因となりて能く彼の業を引発する心を名づけて転とし、次に正しく業を作る時、業と相離れず、刹那に転起する心を名づけて随転となすの意なり。又諸識に就き転随転を分別せば、見所断の識は内門転にして、身語の表業を起す時、唯因等起となりて尋伺を生ずる資糧となるに過ぎず、故に彼の識は唯転にして随転に非ず。又五識身は無分別にして唯外門にのみ起り、刹那に等起するものなるが故に、唯随転にして転に非ず。修所断の三性の意識は内外門に転ずるが故に転及び随転に通じ、又無漏は在定の心、異熟生は任運起の心にして、共に加行起の心に非ざるが故に転及び随転に摂せざるなり。又「大乗阿毘達磨雑集論巻1」に、「生因とは即ち是れ起因なり、謂わく大種を離れて色起らざるが故なり。依因とは即ち是れ転因なり、謂わく大種を捨せば諸の所造色は功能の別処に拠るものあることなきが故なり。立因とは即ち随転因なり、大種変異するに由りて能依の造色も随って変異するが故なり」と云えり。是れ所造の色は大種を依として転ずるものなるが故に、大種を転の因とし、又大種変異する時、能依の造色も亦た変異するが故に、大種を随転の因となすの意にして、共に初刹那の転起を転と名づけ、二刹那以後俱時に相続転起するを随転と名づけたるなり。又「発智論巻12」、「大毘婆沙論巻24、117」、「雑阿毘曇心論巻3」、「順正理論巻36」、「倶舎論光記巻13」等に出づ。<(望)
  参考:『阿毘達磨品類足論巻13』:『道聖諦所攝身語業。心不相應行。非心非心所非心相應。受蘊想蘊相應行蘊。是心所與心相應。心意識唯是心。幾隨心轉非受相應等者。一非隨心轉非受相應。三應分別。謂苦聖諦有四句。或隨心轉非受相應。謂隨心轉身語業心不相應行。及受或受相應非隨心轉。謂心意識。或隨心轉亦受相應。謂想蘊及相應行蘊。或非隨心轉非受相應。謂除隨心轉身語業心不相應行。諸餘色心不相應行。集聖諦亦爾。道聖諦有四句。或隨心轉非受相應。謂身語業。及隨心轉心不相應行并受。或受相應非隨心轉。謂心意識。或隨心轉亦受相應。謂想蘊及相應行蘊。或非隨心轉非受相應。謂除隨心轉心不相應行。諸餘心不相應行。幾隨心轉非想行相應等者。除其自性。如受應知。』
是四禪中三禪非隨覺行。亦非觀相應。初禪或有隨覺行。非觀相應。或觀相應非隨覺行。或有隨覺行亦觀相應。或有非隨覺行非觀相應。隨覺行非觀相應者。初禪攝身業口業及隨覺行心不相應諸行及觀。觀相應非隨覺行者。謂覺隨覺行。亦觀相應者。覺觀相應諸心心數法。非隨覺行亦非觀相應者。除隨覺行心不相應諸行。餘殘心不相應諸行。 是の四禅中の三禅は、随覚行に非ずして亦た観相応に非ず。初禅は、或は随覚行にして、観相応に非ざる有り、或は観相応にして、随覚行に非ず。或は随覚行にして、亦た観相応なる有り。或は随覚行に非ずして、観相応に非ざる有り。随覚行にして、観相応に非ずとは、初禅に摂する身業、口業、及び随覚行、心不相応諸行、及び観なり。観相応にして、随覚行に非ずとは、謂わゆる覚なり。随覚行にして、亦た観相応とは、覚、観相応の諸の心心数法なり。随覚行に非ずして、亦た観相応に非ずとは、随覚行、心不相応諸行を除く、余残の心不相応諸行なり。
是の、
『四禅』中の、
『三禅』は、
『随覚行でもなく!』、
『観相応でもない!』。
『初禅』は、
或は、
『随覚行であって!』
『観相応でない!』。
或は、
『観相応であって!』、
『随覚行でない!』。
或は、
『随覚行でもあり!』、
『観相応でもある!』。
或は、
『随覚行でもなく!』、
『観相応でもない!』。
此の中、
『随覚行であって!』、
『観相応でない!』とは、
『初禅に摂する!』、――
『身業、口業』と、
『随覚』の、
『行衆』と、
『心不相応諸行』と、
『観である!』。
『観相応であって!』、
『随覚行でない!』とは、――
『覚である!』。
『随覚行でもあり!』、
『観相応でもある!』とは、――
『覚、観』に、
『相応する!』、
『諸の心心数法である!』。
『随覚行でもなく!』、
『観相応でもない!』とは、――
『随覚』の、
『行衆』と、
『心不相応諸行』とを、
『除いた!』、
『余残』の、
『心不相応諸行である!』。
  随覚行(ずいかくぎょう):覚に随う行衆。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  観相応(かんそうおう):観に相応する色、受、想、行、識衆。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
四禪皆有因緣亦與因緣。 四禅は皆因縁有り、亦た因縁を与う。
『四禅』は、
皆、
『因縁』が、
『有り!』、
亦た、
『因縁』を、
『与える!』。
四禪中初禪。或次第非與次第緣。或次第亦與次第緣。或非次第亦非與次第緣。次第非與次第緣者。未來世中欲生心心數法。次第亦與次第緣者。過去現在心心數法。非次第亦不與次第緣者。除未來世欲生心心數法。餘殘未來世中心心數法。身業口業及心不相應諸行。第二第三禪亦如是。 四禅中の初禅は、或は次第にして、次第縁に与るに非ず。或は次第にして、亦た次第縁に与る。或は次第に非ずして、亦た次第縁に与るに非ず。次第にして、次第縁に与るに非ずとは、未来世中の生ぜんと欲する心心数法なり。次第にして亦た次第縁に与るとは、過去、現在の心心数法なり。次第に非ずして亦た次第縁に与らずとは、未来世の生ぜんと欲する心心数法を除く、余残の未来世中の心心数法、身業、口業、及び心不相応諸行なり。第二、第三禅も亦た是の如し。
『四禅』中の、
『初禅』は、
或は、
『次第である!』が、
『次第縁に与(あずか)らない!』。
或は、
『次第でもあり!』、
『次第縁にも与る!』。
或は、
『次第でもなく!』、
『次第縁にも与らない!』。
此の中、
『次第である!』が、
『次第縁に与らない!』とは、――
『未来世』中の、
『生じようとする!』、
『心、心数法である!』。
『次第でもあり!』、
『次第縁にも与る!』とは、――
『過去、現在』の、
『心、心数法である!』。
『次第でもなく!』、
『次第縁にも与らない!』とは、――
『未来世』の、
『生じようとする!』、
『心、心数法を除く!』、
『余残』の、
『心心数法』と、
『身業、口業、心不相応諸行である!』。
『第二禅、第三禅』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  次第(しだい):次第に縁ずる、即ち前の心心数法の縁をかりて生ずるの意。『大智度論巻32上注:四縁』参照。
  次第縁(しだいえん):一刹那の心心所法が、次後の刹那の心心所法の生ずる縁となること。『大智度論巻32上注:四縁』参照。
  四縁(しえん):物が心に働きかけるとき、次のような四つの縁が考えられる。
    (1)因縁(いんねん):強い働きの因(六根)、弱い働きの縁(六境)が心と心の働きを生ずる。
    (2)次第縁(しだいえん):心と心の働きは次々と間を置かずに起きる。
    (3)縁縁(えんえん):外境によって造られた心と心の働きは、再び自心を生じさせる。
    (4)増上縁(ぞうじょうえん):外境によって、心と心の働きを増上させる。
  また、心識を能縁(のうえん)といい、心識の対象を所縁(しょえん)という。
  また、心と心所(個別的な心の働き)とが対境に向ってはたらき、その相を取ることを縁ずるという。
第四禪次第不與次第緣者。未來世中欲生心心數法。及無想定若生若欲生。次第亦與次第緣者。過去現在心心數法。非次第亦非與次第緣者。除未來世中欲生心心數法。餘殘未來世心心數法。除心次第心不相應諸行。餘殘心不相應諸行。及身業口業。 第四禅の次第にして、次第縁に与らずとは、未来世中の生ぜんと欲する心心数法、及び無想定の若しは生じ、若しは生ぜんと欲するなり。次第にして、亦た次第縁に与るとは、過去、現在の心心数法なり。次第に非ずして、亦た次第縁に与るに非ずとは、未来世中の生ぜんと欲する心心数法を除く、余残の未来世の心心数法と、心の次第する心不相応諸行を除く、余残の心不相応諸行、及び身業、口業なり。
『第四禅』の、
『次第である!』が、
『次第縁に与らない!』とは、――
『未来世』中に、
『生じようとする!』、
『心、心数法』と、
『已に生じた!』か、
『生じようとする!』、
『無想定である!』。
『次第でもあり!』、
『次第縁にも与る!』とは、――
『過去、現在』の、
『心、心数法である!』。
『次第でもなく!』、
『次第縁にも与らない!』とは、――
『未来世』に、
『生じようとする!』、
『心、心数法』を、
『除く!』、
『余残』の、
『未来世』の、
『心、心数法』と、
『心』に、
『次第する!』、
『心不相応諸行』を、
『除く!』、
『余残』の、
『心不相諸行』と、
『身業、口業である!』。
四禪中攝身業口業及心不相應諸行與緣非緣餘殘亦緣亦與緣。是四禪亦增上緣。亦與增上緣。如是等阿毘曇分中廣分別。 四禅中に摂する身業、口業、及び心不相応諸行は、縁に与るも、縁ずるに非ず。余残は亦た縁じ、亦た縁に与る。是の四禅は、亦た増上を縁じて、亦た増上縁に与る。是の如き等は阿毘曇分中に広く分別せり。
『四禅』中に、
『摂する!』、
『身業、口業、心不相応諸行』は、
『縁に与る!』が、
『縁じない!』。
『余残』は、
『縁じる!』し、
『縁にも与る!』。
是の、
『四禅』は、
『増上』を、
『縁じる!』が、
亦た、
『増上縁』にも、
『与る!』。
是れ等のように、
『阿毘曇の分』中に
『広く!』、
『分別されている!』。
菩薩得禪方便及禪相禪支禪波羅蜜中已廣說。 菩薩は、禅の方便、及び禅相、禅支を得ること、禅波羅蜜中に已に広く説けり。
『菩薩の得る!』、
『禅の方便』、
『禅の相』、
『禅の支』は、
『禅波羅蜜』中に、
已に、
『広く説いた!』。
  禅相:略して八味、八浄、七無漏の二十三種。『大智度論巻17下、同注:三等至』参照。
  禅支:四禅の各各に、夫々自地と下地に浄定、無漏定有るの意。『大智度論巻17下』参照。
問曰。是般若波羅蜜論議中。但說諸法相空。菩薩云何於空法中能起禪定。 問うて曰く、是の般若波羅蜜の論義中には、但だ諸法の相の空なるを説く。菩薩は、云何が、空法中に、能く禅定を起す。
問い、
是の、
『般若波羅蜜の論義』中には、
但だ、
『諸法の相』は、
『空である!』と、
『説かれている!』が、
『菩薩』は、
何故、
『空法』中に、
『禅定』を、
『起すことができるのですか?』。
答曰。菩薩知諸五欲及五蓋從因緣生無自性空無所有。捨之甚易。眾生顛倒因緣故。著此少弊樂。而離禪中深妙樂。 答えて曰く、菩薩は、諸の五欲、及び五蓋は因縁より生じて、無自性、空、無所有なるを知れば、之を捨つること甚だ易し。衆生は顛倒の因縁の故に、此の少しの弊楽に著して、禅中の深い妙楽を離る。
答え、
『菩薩』は、
諸の、
『五欲、五蓋』は、
『因縁より生じて!』、
『自性無く!』、
『空であり!』、
『所有が無い!』と、
『知る!』ので、
之を、
『捨てる!』ことが、
『甚だ!』、
『容易である!』。
『衆生』は、
『顛倒の因縁』の故に、
此の、
『少し!』の、
『弊楽(劣楽)』に、
『著して!』、
而も、
『禅』中の、
『深い妙楽』を、
『離れる!』。
菩薩為是眾生故。起大悲心修行禪定繫心緣中離五欲除五蓋入大喜初禪。滅覺觀攝心。深入內清淨得微妙喜。入第二禪。以深喜散定故。離一切喜得遍滿樂入第三禪。離一切苦樂。除一切憂喜及出入息。以清淨微妙捨而自莊嚴。入第四禪。 菩薩は、是の衆生の為の故に、大悲心を起して、禅定を修行し、心を縁中に繋けて、五欲を離れ、五蓋を除き、大喜の初禅に入る。覚観を滅して、心を摂め、深く内なる清浄に入り、微妙の喜を得て第二禅に入る。深き喜の定を散ずるを以っての故に、一切の喜を離れて、遍満する楽を得て第三禅に入る。一切の苦、楽を離れ、一切の憂、喜、及び出入する息を除き、清浄、微妙の捨を以って、自ら荘厳して第四禅に入る。
『菩薩』は、      ―― 四禅の説明 ――
是の、
『衆生』の為の故に、
『大悲心を起して!』、
『禅定』を、
『修行し!』、
『心』を、
『縁』中に、
『繋()け!』、
『五欲を離れて!』、        ―― 初禅 ――
『五蓋』を、
『除き!』、
『大喜』の、
『初禅』に、
『入る!』。
『覚、観を滅して!』、      ―― 第二禅 ――
『心』を、
『摂(おさ)め!』、
『内』の、
『清浄』に、
『深く入り!』、
『微妙の喜』を、
『得て!』、
『第二禅』に、
『入る!』。
『深い喜』は、            ―― 第三禅 ――
『定を散じる!』が故に、
一切の、
『喜』を、
『離れて!』、
『遍満する!』、
『楽を得て!』、
『第三禅』に、
『入る!』。
一切の、               ―― 第四禅 ――
『苦、楽』を、
『離れ!』、
一切の、
『憂、喜』と、
『出入する息』を、
『離れ!』、
『清浄にして!』、
『微妙な!』、
『捨』で、
自ら、
『荘厳して!』、
『第四禅』に、
『入る!』。
是菩薩雖知諸法空無相。以眾生不知故。以禪相教化眾生。若實有諸法空。是不名為空。亦不應捨五欲而得禪。無捨無得故。今諸法空相亦不可得。不應作是難言。若諸法空云何能得禪。 是の菩薩は、諸法の空、無相を知ると雖も、衆生の知らざるを以っての故に、禅の相を以って衆生を教化す。若し実に諸法の空有れば、之を名づけて空と為さず。亦た応に五欲を捨てて、禅を得るべからず。捨無く、得無きが故なり。今、諸法の空相も、亦た得べからず。応に是の難を作して、『若し諸法空なれば、云何が能く禅を得る』、と言うべからず。
是の、
『菩薩』は、
諸の、
『法』が、
『空であり!』、
『無相である!』と、
『知っている!』が、
『衆生』は、
『知らない!』が故に、
『禅の相』を、
『用いて!』、
『衆生』を、
『教化するのである!』。
若し、
諸の、
『法の空』が、
『実に!』、
『有れば!』、
是れを、
『空』とは、
『呼ばないだろう!』。
亦た、
『五欲』を、
『捨てるはずがなく!』、
『禅』を、
『得るはずがない!』。
何故ならば、
『捨』も、
『得』も、
『空である!』が故に、
『無いからである!』。
今、
諸の、
『法』の、
『空相』は、
『認められないのである!』から、
当然、
是のように、
難じて、言うべきでない、――
若し、
諸の、
『法』が、
『空ならば!』、
何故、
『禅』を、
『得られるのか?』、と。
復次是菩薩不以取相愛著故。行禪如人服藥欲以除病不以美也。為戒清淨智慧成就故行禪。 復た次ぎに、是の菩薩は、相を取りて愛著するを以っての故に、禅を行ずるにあらず。人の薬を服むこと、病を除くを以ってして、美きを以ってせざるが如し。戒清浄にして、智慧成就せんが為の故に禅を行ず。
復た次ぎに、
是の
『菩薩』は、
『相を取って!』、
『愛著する!』が故に、
『禅』を、
『行うのではない!』。
譬えば、
『人』が、
『薬を服む!』のは、
『病を除く為であり!』、
『美いからでないように!』、
『戒が清浄になって』、
『智慧』が、
『成就する!』為の故に、
『禅』を、
『行うのである!』。
菩薩於一一禪中。行大慈觀空。於禪無所依止。以五欲麤誑顛倒故。以細微妙虛妄法治。譬如有毒能治諸毒 菩薩は、一一の禅中に於いて、大慈の観空を行ずれば、禅に於いて、依止する所無く、五欲の麁、誑にして、顛倒なるを以っての故に、細、微妙にして虚妄の法を以って治すること、譬えば、有る毒の能く諸毒を治するが如し。
『菩薩』は、
一一の、
『禅』中に於いて、
『大慈』の、
『観空』を、
『行う!』ので、
『禅』に於いては、
『依止する!』所が、
『無い!』。
『五欲』は、
『粗雑、虚誑であり!』、
『顛倒である!』が故に、
『禅』という、
『細微、深妙な!』、
『虚妄の法』で、
『顛倒』を、
『治すのであり!』、
譬えば、
『有る毒』が、
『諸の毒』を、
『治すことができる!』のと、
『同じである!』。


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