巻第十九(下)
釋初品中三十七品義第三十一
1.内、外の四念処
2.摩訶衍の三十七品
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大智度論釋初品中三十七品義第三十一
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


内、外の四念処

問曰。何等為內身。何等為外身。如內身外身皆已攝盡。何以復說內外身觀。 問うて曰く、何等をか、内身と為し、何等をか、外身と為す。内身、外身の如きは、皆已に摂し尽せり。何を以ってか、復た内、外身の観を説く。
問い、            ――身念処の内、外――
何が、
『内身なのですか?』、
何が、
『外身なのですか?』。
例えば、
『内身』や、
『外身』は、
已に、
皆、
『説き尽されている!』のに、
何故、
復た、
『内、外身』を、
『説くのですか?』。
答曰。內名自身外名他身。自身有二種。一者身內不淨。二者身外皮毛爪髮等。 答えて曰く、内を、自身と名づけ、外を、他身と名づく。自身には、二種有り、一には身内の不浄、二には身外の皮、毛、爪、髪等なり。
答え、
『内』とは、
『自ら!』の、
『身であり!』、
『外』とは、
『他の!』、
『身である!』。
『自らの身』には、
『二種』有り、
一には、
『身』の、
『内』の、
『不浄であり!』、
二には、
『身』の、
『外』の、
『皮、毛、爪、髪等である!』。
復次行者觀死屍膖脹爛壞。取是相。自觀身亦如是相如是事。我未離此法。死屍是外身行者身是內身。 復た次ぎに、行者は、死屍の膖脹、爛壊を観て、是の相を取りて、自らの身も亦た是の如き相、是の如き事なるも、我れ未だ此の法を離れずと観れば、死屍は、是れ外身、行者の身は、是れ内身なり。
復た次ぎに、
『行者』が、
『死屍』の、
『膨脹、爛壊の相』を、
『見て!』、
是の、
『相』を、
『取り(認め!)!』、こう観察する、――
自らの、
『身』も、
是のような、
『相であり!』、
是のような、
『事であろう!』、
わたしは、
未だ、
此の、
『法()』を、
『離れていない!』、と。
是の、
『死者』の、
『屍(しかばね)』は、
『外身であり!』、
『行者』の、
『身』は、
『内身である!』。
  膖脹(ほうちょう):膨張に同じ。
如行者或時見端政女人心著。即時觀其身不淨。是為外。自知我身亦爾。是為內。 行者の或は時に端政なる女人を見て、心著するが如きに、即時に其の身の不浄なるを観れば、是れを外と為し、自ら我が身も亦た爾りと知れば、是れを内と為す。
例えば、
『行者』が、
或は、
『端正な!』、
『女人』を、
『見て!』、
『心』が、
『著する!』時、
即時に、
其の、
『身の不浄』を、
『観れば!』、
是れが、
『外身であり!』、
自ら、
『わたしの身』も、
『爾の通りだ!』と、
『知れば!』、
是れが、
『内身である!』。
  端政(たんじょう):端正に同じ。
復次眼等五情為內身。色等五塵為外身。四大為內身。四大造色為外身。覺苦樂處為內身。不覺苦樂處為外身。自身及眼等諸根是為內身。妻子財寶田宅所用之物。是為外身。所以者何。一切色法盡是身念處故。 復た次ぎに、眼等の五情を内身と為し、色等の五塵を外身と為す。四大を内身と為し、四大造の色を外身と為す。苦楽を覚る処を内身と為し、苦楽を覚らざる処を外身と為す。自身、及び眼等の諸根は、是れを内身と為し、妻子、財宝、田宅、所用の物は、是れを外身と為す。所以は何んとなれば、一切の色法は、尽く是れ身念処なるが故なり。
復た次ぎに、
『眼』等の、
『五情』は、
『内身であり!』、
『色』等の、
『五塵』は、
『外身である!』。
『四大』は、
『内身であり!』、
『四大の造る!』、
『色()』は、
『外身である!』。
『苦楽を覚る!』、
『処』は、
『内身であり!』、
『苦楽を覚らない!』、
『処』は、
『外身である!』。
『自ら』の、
『身』と、
『眼等の諸根』は、
『内身であり!』、
『妻子、財宝』や、
『使用される物』は、
『外身である!』。
何故ならば、
一切の、
『色法』は、
皆、
『身』という、
『念処だからである!』。
行者求是內身有淨常樂我。審悉求之都不可得。如先說觀法。內觀不得外或當有耶。何以故。外物是一切眾生著處。 行者は、是の内身に有る浄、常、楽、我を求むるに、審らかに悉く、之を求むるも、都て不可得なり。先に説ける観法の如く、内観して得ざるも、外には、或は当に有るべきや。何を以っての故に、外物は、是れ一切の衆生の著す処なればなり。
『行者』は、
是の、
『内身』に、
『有る(存在する)!』、
『浄、常、楽、我』を、
『求めて!』、
審(つまび)らかに、
悉(ことごと)くを、
『求めた!』が、
都(すべ)ての、
『浄、常、楽、我』が、
『得られない(認められない)!』のは、
先に、
『観法』を、
『説いた通りである!』。
『内観して!』、
『得られなければ!』、
或は、
『外に!』、
『有るのだろうか?』。
何故ならば、
『外の物』は、
一切の、
『衆生の著する!』、
『処だからである!』。
  (ぐ):さがしもとめる。索に同じ。
  審悉(しんしつ):くわしくしらべる。
外身觀時亦不可得。復作是念。我內觀不得。外或有耶。外觀亦復不得。自念我或誤錯。今當總觀內外。 外身を観る時も、亦た不可得なれば、復た是の念を作さく、『我れは内観して得ざれば、外には或は有らんやと、外観するも、亦復た得ず』、と。自ら念ずらく、『我れ或は誤錯せりと。今当に、総じて内外を観るべし』、と。
『外身』を、
『観る!』時にも、
『外身』を、
『認められない!』ので、
復た、こう念じた、――
わたしは、
『内観して!』、
『得られず!』、
『外』には、
『有るだろう!』と、
『外観した!』が、
やはり、
『得られなかった!』、と。
自ら、こう念じた、――
わたしは、
或は、
『錯誤していたのだろう!』。
今は、
『内、外』を、
『総観せねばならぬ!』、と。
觀內觀外是為別相。一時俱觀是為總相。總觀別觀了不可得。所觀已竟。 内を観、外を観るは、是れを別相と為す。一時に倶に観るは、是れを総相と為す。総観、別観し了りて、不可得なれば、観る所は、已に竟れり。
『内』や、
『外』を、
『観る!』のは、
『別相であり!』、
『一時に!』、
『倶に(皆、同時に)!』、
『観る!』のは、
『総相である!』。
『総相』と、
『別相』とを、
『観ても!』、
『得られなければ!』、
已に、
『全部』を、
『観たことになる!』。
  (きょう):[本義]奏楽の終り( (perform on a musical instrument) end, finish )。終る/完了する/窮まる( finish, complete )、追求( investigate )、国境( border )、終に( in the end, eventually )、なんと/突然( actually, unexpectedly )、すっかり( throughout, whole )、全部の( whole )。
  (ひつ):[本義]田網( a hand-net )。網を用いて狩猟する( hunt with a hand-net )、完成/完結する( finish, accomplish, conclude )、使い尽す( exhaust )、全部/都て/完全に( fully, completely, altogether )。
  (しゅう):[本義]糸を糸球に巻き付ける( wind silk tightly )。終了/終結( end, finish )、死/死ぬ( death, die )、完成する( complete )、相当( equal )、全ての/尽くの( all, entire, whole )、多くの/衆( many )、始終/総じて( consistently, throughout, from start to finish )、結局/畢竟( after all )、常に/久しく( often, for a long time )。
  (かん):[本義]全て/完全( whole, complete )、堅固( firm )、充足/充実( full )、完成する/完了する( finish, complete )、満期になる/使い切る( run out, use up )、修復する( renovate )、保全/保護/保守する( preserve, keep )、修築する( build )、生命の終結、或は危急の境地に入る( hopeless )。
  (りょう):動詞、或は形容詞の後に用いて、完成/完結/完了を表示する( used after the verb or adj. to indicate completion )、終結する/終わる( end )、悟る( understand )、聡明な/賢い( wise )、清楚/明晰( clear )、光明( light )、完全に( entirely )、動詞の後、「得」或は「不」と連用して、副詞的に「可能」を表示する( used after a verb as a complement with“得”or“不”to indicate possibility or finality )、例:辦得了; 你來得了來不了。
  畢竟(ひっきょう): 結局/到底/大体( after all, at all, all in all )、固執/堅持/支持する( persist in, uphold )。
問曰。身念處可得內外。諸受是外入攝。云何分別有內受外受。 問うて曰く、身念処は、内外を得べし。諸の受は、是れ外入に摂す。云何が分別して、内受、外受有らん。
問い、            ――受念処の内、外――
『身念処』は、
『内身』と、
『外身』を、
『得られるだろう!』が、
諸の、
『受』は、
『外入(色声香味触法)』に、
『摂する(属する)!』。
何故、
『分別して!』、
『内受、外受』が、
『有るのですか?』。
答曰。佛說有二種受。身受心受。身受是外心受是內。復有五識相應受是外。意識相應受是內。十二入因緣故。諸受生。內六入分生受。是為內。外六入分生受。是為外。麤受是為外細受是為內。 答えて曰く、仏の説きたまわく、『二種の受有り、身受、心受なり』、と。身受は是れ外にして、心受は、是れ内なり。復た五識相応の受は、是れ外にして、意識相応の受は、是れ内なり。十二入の因縁の故に諸受生じて、内の六入分の生ずる受は、是れを内と為し、外の六入分の生ずる受は、是れを外と為す。麁受は、是れを外と為し、細受は、是れを内と為す。
答え、
『仏』は、こう説かれたが、――
『受』には、
『二種有り!』、
則ち、
『身受』と、
『心受である!』、と。
『身受』は、
『外であり!』、
『心受』は、
『内である!』。
復た、
有る、
『五識相応』の、
『受』は、
『外であり!』、
『意識相応』の、
『受』は、
『内である!』。
復た、
『十二入の因縁』の故に、
諸の、
『受』が、
『生じて!』、
内の、
『六入分の生じる!』、
『受』は、
『内であり!』、
外の、
『六入分の生じる!』、
『受』は、
『外である!』。
復た、
『麁』の、
『受』は、
『外であり!』、
『細』の、
『受』は、
『内である!』。
  (じゅ):梵語 vedanaa の訳。巴梨語同じ。又痛、或いは覚と翻ず。(一)五蘊の一。十大地法の一。五遍行の一。即ち違順及び倶非の触又は境を領納して苦楽等を覚する精神作用を云う。「雑阿含経巻13」に、「三事和合して触あり、触と倶に受と想と思とを生ず」と云い、「入阿毘達磨論巻上」に、「受句義とは謂わく三種の領納なり、一に楽、二に苦、三に不苦不楽なり。即ち是れ三随触を領納するの義なり、愛と非愛と非二の触より生じ、身心の分位差別の所起なり。境に於いて歓と慼と非二なるを相となし、能く愛の因となるが故に受と名づく」と云い、「倶舎論巻1」に、「受とは随触を領納す」と云える是れなり。是れ即ち自所隨の触を領納するを受の義となすの説なり。「順正理論巻2」に、「諸受を説くに略して二種あり、一に執取受、二に自性受なり。執取受とは謂わく能く自所縁の境を領納するなり、自性受とは謂わく能く自所隨の触を領納するなり。(中略)触を近縁となすが故に、領触に就いて受の自性となす。所縁を領するに非ざること理定んで成立す」と云い、又「阿毘達磨蔵顕宗論巻2」に、「随触を領納するを自性受と名づく。所縁を領納するも亦た是れ受の相なるも、一境の法と別相知り難し。一切皆同じく境を領納するが故なり。心心所が境を執受する時、一切皆自境を領納すと名づくるを以ってなり。是の故に唯随触を領納するを説いて自性受と名づく。別相定まるが故なり。所縁を領納するを執取受と名づく。此に辯ずる所に非ず、相不定なるが故なり」と云えり。是れ所縁を領納するの義に就かば、一切の心心所を皆受と名づくべきが故に、特に随触を領納するを以って受の義となすべきことを明らかにせるなり。然るに「五事毘婆沙論」等には所縁の境を領納するを受の義とす。即ち彼の論「巻下」に、「受とは云何ん、謂わく領納の性なり。領納の用あるを領納の性と名づく、即ち是れ所縁の境を領受するの義なり」と云い、「雑阿毘曇心論巻2」に、「受とは可楽と不可楽と俱相違なり。境界より受く」と云える是れなり。又「成唯識論巻3」にも之と同義を挙げ、且つ「順正理論」等の説を破し、「受とは謂わく順違俱非の境相を領納するを性となし、愛を起すを業となす。能く合と離と非二の欲を起すが故なり。有るは是の説を作す、受に二種あり、一に境界受は謂わく所縁を領するなり、二に自性受は謂わく倶なる触を領するなり。唯自性受のみ是れ受の自相にして、境界受は余の相に共ずるを以っての故なりと。彼の説理に非ず、受は定んで俱生の触を縁ぜざるが故なり。若し触に似て生ずるを触を領すと名づけば、因に似たる果は応に皆受の性なるべし。又既に因を受けば応に因の受と名づくべし、何ぞ自性と名づけんや。若し王の諸国邑を含むが如く、受能く触所生の受の体を領するを以って自性受と名づけば、理亦た然らず、自の所執に違し、自ら証せざるが故なり。若し自性を捨せざるを自性受と名づけば、応に一切法は皆是れ受の自性なるべし。故に彼の所説は但だ嬰児を誘うのみ。然るに境界受は余の相に共ずるに非ず、順等の相を領し、定んで己に属する者を境界受と名づく。余に共ぜざるが故なり」と云い、又「同述記巻3末」に、「大乗の中には触を領すと雖も、境を領すること勝るるに約して以って受の体を立つるが故なり。薩婆多は亦た境及び同時の触を領するが故に、倶舎は受は随触を領すと説き、正理論師は二種の受あるも領触を評取す」と云えり。是れ受は俱生の触を縁ずる能わざるが故に、即ち順違等の境界の相を領するを其の本義となすべしとするの意なり。又受は之を分類するに其の種別甚だ多し。「雑阿含経巻17」に、「仏、優陀夷に告ぐ、我れ時に一受を説けるあり、或時は二受を説き、或は三四五六、十八、三十六、乃至百八受を説き、或時は無量受を説けり。云何が我れ一受を説くとは、所有の受は皆悉く是れ苦なりと説くが如し。是れを我れ一受を説くと名づく。云何が二受を説く、身受心受を説くなり。是れを二受と名づく。云何が三受なる、楽受苦受不苦不楽受なり。云何が四受なる、謂わく欲界繋受、色界繋受、無色界繋受、及び不繋受なり。云何が五受なる、謂わく楽根喜根苦根憂根捨根なり。是れ五受を説くと名づく。云何が六受を説く、謂わく眼触生受、耳鼻舌身意触生受なり。云何が十八受を説く、謂わく随六喜行、随六憂行、随六捨行受なり。是れを十八受を説くと名づく。云何が三十六受なる、依六貪著喜、依六離貪著喜、依六貪著憂、依六離貪著憂、依六貪著捨、依六離貪著捨なり。是れを三十六受を説くと名づく。云何が百八受を説く、謂わく三十六受の過去の三十六と未来の三十六と現在の三十六となり。是れを百八受を説くと名づく。云何が無量受なる、此受彼受等と説くが如し。比丘是の如き無量の名号、是れを無量受を説くと名づく」と云える即ち其の説なり。此の中、一受とは、凡そ受の自相に苦楽捨の三種ありと雖も、楽受は壊苦の故に苦、苦受は苦苦の故に苦、捨受は行苦の故に苦なれば、総じて之を一受として一切皆苦と説くを云うなり。二受とは五識身に在るを身受と名づけ、意地に在るを心受と名づく。「大毘婆沙論巻115」に身受心受の別を解するに多説を挙げ、有説は受の五識身に在るを身受と名づけ、意地に在るを心受と名づく。有説は無分別なるを身受と名づけ、有分別なるを心受と名づく。有説は自相の境を縁ずるを身受と名づけ、自相共相の境を縁ずるを心受と名づく。有説は現在の境を縁ずるを身受と名づけ、三世及び無為の境を縁ずるを心受と名づく。有説は実有の境を縁ずるを身受と名づけ、実有と仮有の境を縁ずるを心受と名づく。有説は境に於いて一往取るを身受と名づけ、数数取るを心受と名づく。有説は境に於いて蹔く縁じて即ち了するを身受と名づけ、推尋して乃ち了するを心受と名づく。有説は色に依りて色を縁ずるを身受と名づけ、非色に依りて色非色を縁ずるを心受と名づくと云い、又尊者世友は所有の受は皆是れ心受にして身受あることなきも、而も五根に依りて転ずるものは、恒に身を以って増上縁となすが故に之を身受と名づけ、意根に依りて転ずるものは、恒に心を以って増上縁となすが故に之を心受と名づくとし、又有説は亦た身受あることなきも、若し三根に依りて転じて和合の境を取るを身受と名づけ、不和合の境を取るを心受と名づくと云い、又大徳は身受心受に寛狭あり、即ち身受は亦た皆心受なるも、心受にして而も身受に非ざるあり、謂わく補特伽羅を縁じ、及び法処所摂の色、心不相応行、無為法等を縁ずる如き、但だ内事に依りて其の相を執取し、分別を起すは唯名づけて心受となすと云えり。以って其の多説を見るべし。三受は受の自相に約して分別せるものにして、即ち愛非愛及び非二の触を領して苦楽捨の三種の覚を生ずるを云うなり。「大毘婆沙論巻142」に尊者法救の説を挙げ、「楽受と苦受は上あり下あり、利あり鈍あり、躁あり静あり。諸の上利躁なる者を楽受と苦受と名づけ、諸の下鈍静なる者を不苦不楽受と名づく」と云えり。四受は界繋の不同に従って分別したるものにして、其の中、欲界繋受を又有味著受と名づけ、余の三を無味著受と名づく。即ち前者は自体愛相応の受にして、後者は不相応の受なり。又五受は身心に約して受の自相を細別せるものにして、其の中、五識相応の身悦及び第三静慮の意識相応の心悦を楽受、初二静慮及び欲界の意識相応の心悦を喜受、五識相応の身不悦を苦受、意識相応の心不悦を憂受、身心の非悦非不悦を捨受と名づくるなり。六受は眼等の六根門に約して分別せるものにして、即ち眼触乃至意触所生の受を称して六受身となすなり。十八受は又十八意近行受と名づく。六の喜意近行と六の憂意近行と六の捨意近行となり。即ち喜憂捨の三受は意識を近縁として、各色声等の六境に行ずるが故に総じて十八受を成ずるなり。三十六受は前の十八意近行に就き更に染善の二品を分別したるものにして、又三十六師句と名づく。即ち六の喜意近行に染受に順ずる躭嗜依と善受に順ずる出離依との別あり、六の憂意近行及び六の捨意近行に亦た各染受に順ずる躭嗜依と善受に順ずる出離依との別あるが故に、総じて三十六受を成ずるなり。又百八受は前の三十六受に各過現未の三世の別あるを云い、無量受は此受彼受等と説くが如く、受の相に更に無量の別あるを云うなり。又「雑阿含経巻8」、「増一阿含経巻12三宝品、巻46放牛品」、「法蘊足論巻9、10」、「発智論巻14」、「大毘婆沙論巻148」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「大智度論巻36」、「成実論巻6、8」、「倶舎論巻10」、「瑜伽師地論巻53」、「顕揚聖教論巻1、5」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「大乗義章巻7」、「四念処巻1」、「倶舎論光記巻1、10」、「雑修論述記巻3、5」等に出づ。(二)十二因縁の一。受支と名づく。即ち幼少年期に於いて苦楽等の相を了するを云う。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が受なる、謂わく能く苦楽を別ち、亦た能く損害の縁を避け、火に触れ刀に触れず、毒を食し糞を食せず。已に食貪を起すと雖も、未だ婬及び具愛を起さず。是れ受の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「已に三受の因の差別の相を了するも未だ婬貪を起さず、此の位を受と名づく」と云い、又「大乗義章巻4」に、「匍匐以後、未だ色愛あらず、但だ食愛あるを習一愛と名づく。斯れより已来を判じて受支と名づく」と云える是れなり。是れ説一切有部に於ける謂わゆる分位縁起の説にして、既に能く苦楽等の相を了するも、未だ婬愛を起さざる幼少年期の位を受と称したるなり。総じて五蘊を以って体とし、但だ受を体となすに非ず。然るに唯識大乗に於いては無明及び行を以って能引支となすに対し、識乃至受の五支を所引支となし、又無明及び行を以って能熏となすに対し、識等の五支を所熏の種子となし、其の説倶舎等に同じからざるものあり。「瑜伽師地論巻9」に、「此の種子の触は是れ後有の受の種子に随逐せらる」と云い、「成唯識論巻8」に、「所引支とは、謂わく本識内に親しく当来異熟果の摂たる識等の五を生ずべき種子なり。是れ前の二支に引発せらるるが故なり」と云える即ち其の意なり。又「中阿含巻24大因経」、「長阿含巻10大縁方便経」、「瑜伽師地論巻56、93」、「十地経論巻3」、「順正理論巻26」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「倶舎論光記巻9」、「瑜伽論記巻3上」、「成唯識論述記巻8本」等に出づ。<(望)
二種苦。內苦外苦。內苦有二種身苦心苦。身苦者身痛頭痛等。四百四種病是為身苦。心苦者憂愁瞋怖嫉妒疑如是等。是為心苦。二苦和合是為內苦。 二種の苦は、内苦、外苦なり。内苦には、二種の身苦、心苦有り。身苦とは、身痛、頭痛等の四百四種の病、是れを身苦と為す。心苦とは、憂愁、瞋怖、嫉妒、疑、是の如き等は、是れを心苦と為す。二苦の和合は、是れを内苦と為す。
『苦』は、
『二種あり!』、
『外苦』と、
『内苦である!』。
『内苦』には、
『二種』有り、
『身苦』と、
『心苦である!』。
『身苦』とは、
『身痛、頭痛』等の、
『四百四種の病』が、
『身苦であり!』、
『心苦』とは、
『憂愁、瞋怖、嫉妒、疑』等の、
是れ等が、
『心苦である!』。
是の、
『二苦の和合』を、
『内苦』と、
『称する!』。
外苦有二種。一者王者勝己惡賊師子虎狼蚖蛇等逼害。二者風雨寒熱雷電霹靂等。是二種苦名為外受。樂受不苦不樂受亦如是。 外苦には二種有り、一には王者の己に勝(た)え、悪賊、師子、虎狼、蚖蛇等の逼害なり。二には風雨、寒熱、雷電、霹靂等なり。是の二種の苦を名づけて、外受と為す。楽受、不苦不楽受も亦た是の如し。
『外苦』には、
『二種』有り、
一には、
『王者』が、
『己に!』、
『勝(たえ)る!』ことと、
『悪賊、師子、虎狼、蚖蛇』等の、
『逼害』という、
『苦である!』。
二には、
『風雨、寒熱、雷電、霹靂』等の、
『苦である!』。
是の、
『二種の苦』を、
『外受』と、
『称し!』、
『楽受、不苦不楽受』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  (しょう):[本義]耐える/堪える/任える/克つ( can bear )、打ち負かす/戦に勝つ( defeat )、超過する/上回る( surpass, prevail over )、匹敵する/相当する( be equal to )、行動を慎む/抑制する( exercise restraint, check, subdue )、上昇する( rise )、名称古跡( scenic spots and historical sites )、勝利( victory )、美妙( wonderful )、尽す/完る( exhausted, completely )。
  師子(しし):獅子に同じ。
  蚖蛇(がんだ):まむし。
  逼害(ひつがい):せまりそこなう。逼殺に同じ。
  雷電(らいでん):かみなりといなびかり。雷鳴と電光。
  霹靂(ひゃくりゃく):急激なかみなり。又かみなりが落ちること。疾雷。
復次緣內法是為內受。緣外法是為外受。 復た次ぎに、内法を縁ずる、是れを内受と為し、外法を縁ずる、是れを外受と為す。
復た次ぎに、
『内法を縁じる!』、
『受』を、
『内受』と、
『称し!』、
『外法を縁じる!』、
『受』を、
『外受』と、
『称する!』。
復次一百八受是為內受。餘殘是外受。 復た次ぎに、一百八受は、是れを内受と為し、余残は、是れ外受なり。
復た次ぎに、
『一百八受』を、
『内受』と、
『称すれば!』、
『余残』は、
『外受である!』。
  百八受(ひゃくはちじゅ):一受、二受、三、四、五、六、十八、三十六、百八受が有る。
    (1)一受:有らゆる受は悉く皆苦。
    (2)二受:身受と心受。
    (3)三受:楽受、苦聚、不苦不楽受。
    (4)四受:欲界繋の受、色界繋の受、無色界繋の受、不繋の受。
    (5)五受:楽根、喜根、苦根、憂根、捨根。
    (6)六受:眼触の生ずる受、耳鼻舌身意触の生ずる受。
    (7)十八受:六喜に随って行ずる受、六憂に随って行ずる受、六捨に随って行ずる受。
    (8)三十六受:六貪著に依る喜、憂、捨、及び六貪著を離るるに依る喜、憂、捨。
    (9)百八受:現在、過去、未来の三十六受。  (雑阿含経巻第17)
問曰。心是內入攝。云何言觀外心。 問うて曰く、心は、是れ内入の摂なり。云何が、外心を観ると言う。
問い、            ――心念処の内、外――
『心』は、
『内入』の、
『摂(所属)である!』。
何故、こう言うのか?――
『外』の、
『心』を、
『観る!』と。
答曰。心雖內入攝緣外法故。名為外心緣內法故是為內心。意識是內心五識是外心。攝心入禪是內心。散亂心是外心。內五蓋內七覺相應心。是為內心。外五蓋外七覺相應心。是為外心。如是等種種分別內外。是為內外心。 答えて曰く、心は、内入に摂すと雖も、外法を縁ずるが故に名づけて、外心と為し、内法を縁ずるが故に、是れを内心と為す。意識は是れ内心にして、五識は是れ外心なり。心を摂して禅に入れば、是れ内心なり。散乱心は、是れ外心なり。内の五蓋、内の七覚相応の心は、是れを内心と為し、外の五蓋、外の七覚相応の心は、是れを外心と為す。是の如き等の種種に内外を分別する、是れを内外心と為す。
答え、
『心』は、
『内入に摂する!』が、
『外法を縁ずる!』が故に、
『外心』と、
『呼び!』、
『内法を縁ずる!』が故に、
『内心』と、
『呼ぶ!』。
『意識』は、
『内心であり!』、
『五識』は、
『外心である!』。
『禅定に入った!』、
『摂心』は、
『内心であり!』、
『散乱心』は、
『外心である!』。
『内の五蓋』と、
『内の七覚』に、
『相応すれば!』、
『内心』と、
『称し!』、
『外の五蓋』と、
『外の七覚』に、
『相応すれば!』、
『外心』と、
『称する!』。
是れ等のように、
種種に、
『内、外』を、
『分別すれば!』、
是れを、
『内、外心』と、
『称する!』。
  心法(しんぽう):『大智度論巻19下注:心』参照。
  心事(しんじ):『大智度論巻19下注:心』参照。
  (しん):梵語質多 citta の訳。巴梨語同じ。又心法或いは心事とも名づく。即ち縁慮の用を有する法を云う。(一)心王及び心所法の総称。色又は身に対す。「旧華厳経巻10」に、「心は工画師の如く、種種の五蘊を画く。一切世界の中、法として造らざるなし」と云い、「大乗起信論」に、「言う所の法とは謂わく衆生の心なり。是の心は則ち一切の世間出世間の法を摂す、此の心に依りて摩訶衍の義を顕示す」と云い、又「大乗荘厳経論巻2」に、「心の外に物あることなく、物無なれば心も亦た無なり。二の無を解するを以っての故に善く真法界に住す」と云い、「十八空論」に、「相とは又二種あり、一に色相とは謂わく四大五塵なり。二に無色相とは謂わく一切の四蘊の心法なり」と云える是れなり。是れ心王心所を分たず、広く能縁慮知の法を心と名づけたるものにして、五蘊の中には総じて受想行識の四蘊を指すなり。(二)心王の名。心所法に対す。即ち心所法の能有たる六識又は八識を云う。「倶舎論巻4」に、「一切の法に略して五品あり、一に色、二に心、三に心所、四に不相応行、五に無為なり」と云い、「瑜伽師地論巻100」に、「一切の事は要を以って之を謂わば、一に心事、二に心所有法事、三に色事、四に心不相応行事、五に無為事なり」と云える是れなり。是れ慮知ある法の中、特に六識又は八識を心と名づけたるなり。若し五蘊に就き之を分別せば、心は即ち識蘊にして、心所法は受想行の三蘊に摂す。「大乗阿毘達磨雑集論巻3」に、「心とは謂わく識蘊にして、七識界及び意処なり。心所有法とは受蘊と想蘊と相応の行蘊、及び法界と法処の一分なり」と云える即ち其の意なり。又「大毘婆沙論巻16」には、心王の力は心所法に勝るることを論じ、「彼れ是の説を作す、若し法あり彼の法力の任持に由りて生ぜば、此の法と彼の法と相応す。是の故に心と心と相応す、心力は心を持して生ずることを得しむるが故なり。心所法と心とは相応す、心力は彼れを持して生ずることを得しむるが故なり。(中略)平等相似は是れ相応の義なるも、心は勝るること王の如し」と云い、又「辯中辺論巻上」には、心王と心所とは境を了別するに総別の異あることを説き、「異門の相とは唯能く境の総相を了するを心と名づけ、亦た差別を了するを名づけて受等の諸の心所法と名づく」と云えり。以って其の異同を知るべし。(三)第八阿頼耶識の別名。前六識を識、第七識を意と名づくるに対す。「瑜伽師地論巻62」に、「諸識を皆心意識と名づくるも、若し最勝に就かば阿頼耶識を心と名づく」と云い、又「同巻1」に、「心とは謂わく一切の種子の所隨依止の性なり。所隨依附依止の性とは、体能く執受する異熟所摂の阿頼耶識なり」と云い、「摂大乗論本巻上」に、「若し阿頼耶識を離るれば別の得べきものなし。是の故に阿頼耶識を成就し以って心体となす、此れを種子となすに由りて意及び識転ず。何の因縁の故に亦た説きて心と名づくるや、種種の法の熏習の種子積集する所なるに由るが故なり」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻2」に、「心とは謂わく蘊界処の習気所熏の一切種子の阿頼耶識なり。又異熟識と名づけ、亦た阿陀那識と名づく。能く諸の習気を積集するを以っての故なり」と云える是れなり。是れ心を積集の義とし、阿頼耶識に種子を積集するの義あるを以って特に之を其の別名となしたるなり。但し倶舎等にては心意識を名異体一となすが故に、通じて心を六識の称となすなり。又慧沼の「金光明最勝王経疏巻2末」に依るに心に総じて四種の別ありとす。即ち彼の文に、「凡そ心と言うに四義あり、一に真実を心と名づく、般若多心の如し。即ち真如の理を亦た名づけて心となすが故なり。勝鬘経に自性清浄心と云う、彼れを乾栗心と名づく。二は縁慮心なり、即ち八識に通ず。彼れを質多と名づく。三に積集の義を心と名づく、亦た八識に通ず。能所の積集に通ずるが故なり。四に積集最勝の義を心と名づく、即ち第八なり」と云える是れなり。此の中、初の真実心は即ち汗栗駄hRd心にして、普通に之を非縁慮心となすなり。第二第三は即ち八識を以って心と名づけたるものにして、即ち心王を心となすの義に当たり、第四は唯第八阿頼耶識を名づけて心となせるものにして、法相家独特の説なり。又「入楞伽経巻9」、「解深密経巻1」、「顕揚聖教論巻17」、「成唯識論巻2」、「大乗起信論義疏巻上之上」、「大乗義章巻3末」、「倶舎論光記巻4」、「大乗法苑義林章巻1末」、「成唯識論述記巻2末」等に出づ。<(望)
  心数法(しんじゅほう):心に属し、之に相応する精神作用を云う。五位の一。『大智度論巻14上注:心所有法、巻11上注:五位』参照。
  五蓋(ごがい):梵語 paJca aavaraNaani の訳。巴梨語同じ。五種の障蓋の義。即ち煩悩中、蓋 aavaraNa の義あるものを立てて五種に分類せるを云う。一に貪欲蓋 raaga- aararaNa、二に瞋恚蓋 pratigha- aa.、三に惛沈睡眠蓋 styaana- middha- aa.又睡眠蓋に作る。四に掉挙悪作蓋 auddhatya- kaukRtya- aa.又掉戯蓋、調戯蓋、掉悔蓋に作る。五に疑蓋 vicikitsaa- aa. なり。「長阿含経巻12清浄経」に、「彼の学比丘、方に上求を欲し、安隠処を求むるに、未だ五蓋を滅せざれば、四念処に於いて精勤すること能わず」と云い、「増一阿含経巻24」に、「彼れ云何が名づけて不善聚と為す、謂わゆる五蓋なり。云何が五と為す、貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、調戯蓋、疑蓋なり。是れを謂って名づけて五蓋と為す」と云い、「雑阿含経巻26」に、「貪欲蓋、瞋恚蓋、睡眠蓋、掉悔蓋、疑蓋なり。此の如き五蓋は覆と為り蓋と為る」と云える是れなり。「大毘婆沙論巻48」に蓋の義を解し、「問う、何が故に蓋と名づくる。蓋は是れ何の義ぞや。答う、障の義、覆の義、破の義、壊の義、堕の義、臥の義、是れ蓋の義なり。此の中、障の義是れ蓋の義とは、謂わく聖道を障え、及び聖道の加行善根を障うるが故に名づけて蓋と為す。覆の義乃至臥の義是れ蓋の義とは、契経に説くが如き、五大樹の種子あり、小なりと雖も、而も枝体大となれば余の小樹を覆い、枝体等をして破壊堕臥して花果を生ぜざらしむ。云何が五と為す、一を建折那と名づけ、二を劫臂怛羅と名づけ、三を阿湿縛健陀と名づけ、四を鄔曇跋羅と名づけ、五を諾瞿陀と名づく。是の如く有情欲界の心樹は、此の五蓋の覆う所と為るが故に破壊堕臥して、七覚支の花、四沙門の果を生長すること能わず。故に覆等の義是れ蓋の義なり」と云えり。以って蓋の意義を知るべし。又此の五蓋の中、惛沈睡眠蓋は惛沈及び睡眠の二を立てて一蓋となし、掉挙悪作蓋は亦た掉挙及び悪作の二を立てて一蓋となす。余の三蓋は一一別に蓋を立て、唯此の二のみ二を合して各一蓋と為せるに関し、「大毘婆沙論巻48」には、所食と能治と事用と相同じきに由るとす。即ち惛沈及び睡眠の二は、同じく瞢憒と不楽と頻欠と食不平性と心昧劣性との五種の法を所食即ち資糧となし、同じく光明の想を能治となし、倶に能く心性をして沉昧ならしむるを事用となす。亦た掉挙及び悪作の二は同じく親里の尋と国土の尋と不死の尋と、随って昔の種種更わる所の戯笑歓娯承奉等の事を念ずるとを所食とし、同じく奢摩他を能治とし、倶に能く心をして寂静ならざらしむるを事用と為す。故に惛眠と掉悔の二を合して各一蓋を立つと云い、又諸の煩悩に皆蓋の義あるも、独り此の五を説く所以は、此の五は無漏の五蘊に於いて能く勝れたる障と為るが故なり。謂わゆる貪欲と瞋恚とは能く戒蘊を障え、惛沉と睡眠とは能く慧蘊を障え、掉挙と悪作とは定蘊を障え、疑は四諦に於いて疑うが故に、能く乃至解脱と解脱知見とをして皆起ることを得ざらしむ。故に唯此の五を建立して蓋となすと云えり。更に余説あり。又「中阿含巻10本際経」、「雑阿含経巻27、28」、「悲華経巻6」、「集異門足論巻12」、「大毘婆沙論巻38」、「倶舎論巻21」、「順正理論巻55」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」、「入阿毘達磨論巻下」、「大智度論巻17」、「成実論巻10」、「瑜伽師地論巻11」、「大乗義章巻5本」、「摩訶止観巻4下」等に出づ。<(望)
  七覚(しちかく):菩提に順趣する七種の法、即ち念、択法、精進、喜、軽安、定、捨なり。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
問曰。法念處是外入攝。云何言觀內法。 問うて曰く、法念処は、是れ外入に摂す。云何が、内法を観ると言う。
問い、            ――法念処の内、外――
『法念処』は、
『外入』の、
『摂である!』。
何故、こう言うのか?――
『内』の、
『法』を、
『観る!』、と。
答曰。除受餘心數法。能緣內法心數法是內法。緣外法心數法及無為心不相應行是為外法。 答えて曰く、受を除きて、余の心数法の、能く内法を縁ずる心数法は、是れ内法なり。外法を縁ずる心数法、及び無為の心不相応行は、是れを外法と為す。
答え、
『受を除いた!』、
『余の心数法』中の、
『内法』を、
『縁じる!』、
『心数法』が、
『内法であり!』、
『外法』を、
『縁じる!』、
『心数法』と、
『無為』の、
『心不相応行』とが、
『外法である!』。
  無為法(むいほう):梵語 asaMskRta- dharma の訳。為作なき法の意。有為法に対す。即ち生滅為作を離れたる無因無果の法を云う。「大毘婆沙論巻76」に、「若し法にして生なく滅なく、因なく果なく、無為の相を得たる、是れ無為の義なり」と云い、「倶舎論巻6」に、「無事法とは云何、謂わく諸の無為法なり。無事と言うは謂わく無体性なり。毘婆沙師は此の釈を許さず。若し爾らば彼れは事の義を訳すること云何、(中略)因を説きて事と名づく、無為法は都て因あることを顕わす。是の故に無為は実有の物なりと雖も、常に用なきが故に無因無果なり」と云える是れなり。是れ説一切有部に於いては、生住異滅の四相と合し、取果与果の作用あるものを有為法と名づけ、之に対し生滅なく、又取果与果の作用なきものを無為法と名づくることを明せるなり。又説一切有部に於いては、無為法に択滅、非択滅、虚空の三種ありとし、分別論者は択滅非択滅の外に無常滅を立て、大衆部、一説部、説出世部及び鶏胤部にては、択非択及び虚空の三無為の外に空無辺処等の四無色処、並びに縁起支性、聖道支性を立てて総じて九無為ありとし、化他部は此の中の四無色処を除き、別に不動、善法、不善法、無記法の四を立て、亦た総じて九種となし、大乗唯識家に於いては択滅等の三の外に不動、想受滅、真如の三を立てて六無為とし、或いは此の中の真如を開して善法、不善法、無記法の三とし、総じて八無為ありとなせり。又無為法は説一切有部に於いては之を有体となすも、経量部及び大乗唯識家にては無体とし、其の実相を認めず。就中、唯識家にては無為は識変と法性とに依りて仮立するものとなし、即ち経等に宣説せる虚空等の名を聞き、数習力に因りて無為に似たる相を変現し、前後相似して変易なきを仮説し、或いは空無我所顕の法性真如の義に依り、仮に障礙を離れたるを虚空無為等と称したるものにして、色心等の外に別に常法の無為と名づけらるべきものなしとなすなり。又「発智論巻2」、「品類足論巻1」、「大毘婆沙論巻21、39」、「顕揚聖教論巻1」、「倶舎論巻1」、「成唯識論巻2」等に出づ。<(望)
  心不相応行(しんふそうおうぎょう):心と相応せざる行蘊の意。「品類足論巻1」に依れば、即ち得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、依得、事得、処得、生、老、住、無常性、名身、句身、文身の十六法を挙ぐるも、又異説多し。『大智度論巻19上注:心不相応行、巻11上注:五位、巻14上注:心所有法』参照。
復次意識所緣法。是名為法。如佛所說。依緣生意識。是中除受餘心數法。是為內法。餘心不相應行及無為法。是為外法。 復た次ぎに、意識所縁の法は、是れを名づけて、法と為す。仏の所説の如く、縁に依りて、意識を生じ、是の中に、受を除きて、余の心数法は、是れを内法と為し、余の心不相応行、及び無為法は、是れを外法と為す。
復た次ぎに、
『意識』の、
『所縁の法』を、
『法』と、
『称する!』。
『仏』の説かれたように、――
『縁じる!』ことに、
『依って!』、
『意識』という、
『法』が、
『生じるのである!』。
是の中の、
『受を除いた!』、
『余の心数法』が、
『内法であり!』、
余の、
『心不相応行と無為法』が、
『外法である!』。
  意識(いしき):梵語 mano- vijJaana の訳。六識の一。八識の一。九識の一。意に依る識の意。第六識とも名づく。即ち意根を所依として起り、法境を所縁として正しく其の総相を了別する識を云う。倶舎等の六識家に在りては、六識は共に意根に依りて起り、体一義別の同一心王に過ぎざるも、五識には別に眼等の五根の所依あり、意識には別の所依なきが故に、即ち通依の意根を以って其の所依となすなり。十八界の中には別に之を立てて意識界となすも、五蘊十二処には前五識と合して之を識蘊及び意処に摂す。又此の識は自性、計度、随念の三分別を有し、善悪無記の三性、欲色無色の三界、有漏無漏及び定散に通じ、三世非世の有為無為の法を縁じて、境の総相を取るを其の用と為す。故に「倶舎論光記巻3」に、「意識は遍く一切の境を縁ずるが故に一切境識と名づく」と云えり。又唯識等の八識家に在りては、第六意識は自類及び第七第八識を開導根とし、五識の為に俱有依となり、亦た第七末那識を俱有依となすと説けり。但し意識の俱有所依には二種あり。即ち第七識は不共依にして、第八識は共依なり。「成唯識論巻5」に、「六識身は皆意に依りて転ずと雖も、然も不共なるに随って意識の名を立つ。五識身の如く相濫する過なし。或いは唯意のみに依るが故に意識と名づく」と云えり。是れ此の識は第七末那即ち意を不共依とするが故に意識と名づくというの意なり。亦た此の識は自性、計度、随念の三分別に通ずるも、就中、計度分別は独り此の識に限るとす。又此の識は五受と相応し、根と境と作意と根本の第八識と能生の種子とを生縁とし、色法と心法と有法と無法と及び三世の諸法とを所識とし、多く恒に現起するも、時には現起せざることありとす。「成唯識論巻7」に、「意識は常に現起す。無想天に生まれたると、及び無心の二定と睡眠と悶絶とを除く」と云える其の意なり。又此の識を分別するに具に四あり、明了の意識と、定中の意識と、独散の意識と、夢中の意識となり。此の中、初の一は五識と倶なるが故に、五俱の意識と名づけ、後の三は五識と倶ならざるが故に凡べて之を独頭の意識と称す。「百法問答鈔巻1」に、「独頭の意識とは五識と倶なるにあらず、独り起れる意識なり。故に独頭の意識と名づく。此の意識は構画分別して明了ならざる比量の心なり。此の独頭の意識は普く十八界を縁ず」と云えり。就中、定位の意識は唯是れ現量、散位の意識は独頭は比量非量に通ずるなり。又明了の意識は前五識を助けて現起せしめ、亦た五識をして明了に境を取らしむるが故に、名づけて五俱の意識となすなり。「成唯識論巻7」に、「五と倶なる意識は五を助けて起らしむ。専ら五識の所縁を了ぜんが為のみに非ず、又彼の所縁に於いて能く明了に取ること、眼等の識に異なるが故に用なきに非ず。此に由りて聖教に彼の意識を説いて有分別と名づく」と云い、「百法問答鈔巻1」に、「五俱の意識とは五識と俱起して、彼と同じく唯だ現前の五境を縁ずる意識なり」と云える其の意なり。蓋し前五識は唯だ自性分別のみなるを以って、所対の境を縁ずるも明了ならず。故に有分別の意識は之と倶に起りて、前五識を助けて明了に境を縁ぜしむ。前五識に四の所依ある中、第六意識を明了依となすは即ち此の義に由るなり。但し此の中に亦た二類あり、一は五同縁の意識にして、即ち五識と俱起して彼の識と同一所対の境を縁ずる意識を云う。例せば眼識が青色を見る時、意識も亦た他縁せずして、青色を縁ずるが如き是れなり。故に五同縁の意識の作用は、五識と同じく唯だ現量縁なり。二は不同縁の意識にして、即ち五識と俱起して明了依となると雖も、意識は縁用自在なるが故に、傍ら十八界の諸法を縁ずる場合を云う。「百法問答鈔巻1」に、「五俱の意識も亦た十八界を縁ず、謂わく五俱の意識は五同縁の五境を本と為すと雖も、意識は縁用自在なるが故に傍らに十八界の諸法を縁ず」と云える即ち其の意なり。例せば眼識は煙を見、同時の意識は火あることを分別するが如き(比量)、若しくは又眼識は縄を見、同時の意識は分別して蛇となすが如き(非量)是れなり。但し此の如き不同縁の場合には、単に五俱と名づけて五同縁と云わず。故に五俱は同縁不同縁の二種に通じて其の義広く、五同縁は唯だ五俱中の同縁の場合のみを称するが故に其の義狭しと謂うべし。此等は大乗唯識家の所談なり。小乗倶舎等にては二心竝起を許さざるが故に、前五識と第六識と俱起することなく、即ち前五識の起りたる次に刹那に、第六識起りて前境を分別すと説くなり。又「大乗起信論」には六識を総じて意識と名づくるの説を出せり。即ち彼の文に「諸の凡夫取著転た深きに依りて我我所を計し、種種に妄執して、事に随って攀縁し六塵を分別す。名づけて意識となし、亦た分離識と名づけ、又復た説いて分別事識と名づく」と云える是れなり。是れ謂わゆる一意識の計にして、六識体一説より転じたるものなるべし。又「大毘婆沙論巻71」、「雑阿毘曇心論巻1」、「五事毘婆沙論巻下」、「倶舎論巻2、3」、「同光記巻2、3」、「瑜伽師地論巻1、56、85」、「成唯識論巻4」、「同述記巻4本、5本、7本」、「同了義灯巻1末」、「大乗義章巻3末」、「大乗起信論義疏巻上(曇延)」、「同義疏巻2(慧遠)」、「同義記巻4」等に出づ。<(望)
四正懃有二種。一者性正懃。二者共正懃。性正懃者。為道故四種精進。遮二種不善法。集二種善法。 四正懃には、二種有り、一には性正懃、二には共正懃なり。性正懃とは、道の為めの故の四種の精進にして、二種の不善法を遮(さ)え、二種の善法を集む。
『四正懃(四正勤)』には、
『二種』有り、
一には、
『性正懃』、
二には、
『共正懃である!』。
『性正懃』は、
『道』の為めの故の、
『四種の精進であり!』、
『二種』の、
『不善法』を、
『遮り!』、
『二種』の、
『善法』を、
『集める!』。
  四正懃(ししょうごん):道を修するの為の故に必須なる止悪修善の四種の方便精勤を云う。『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  性正懃(しょうしょうごん):唯道の為の故に為す止悪修善の四種の精進を云う。
  共正懃(ぐうしょうごん):道、及び非道の為の故に為す止悪修善の四種の精進を云う。
四念處觀時。若有懈怠心。五蓋等諸煩惱覆心。離五種信等善根時。不善法若已生為斷故。未生不令生故。懃精進。信等善根未生為生故。已生為增長故。懃精進。精進法於四念處多故。得名正懃。 四念処を観る時、若しは懈怠心有りて、五蓋等の諸煩悩は心を覆い、五種の信等の善根を離れん時、不善法、若し已に生ぜば、断ぜんが為めの故に、未だ生ぜざれば、生ぜざらしめんが故に、懃精進す。信等の善根、未だ生ぜざれば、生ぜんが為めの故に、已に生じたれば、増長せんが為めの故に、懃精進す。精進の法は、四念処に於いて多きが故に、正懃と名づくるを得。
『四念処』を、
『観る!』時、
若し、
『懈怠心が有って!』、
『五蓋等の諸煩悩』が、
『心』を、
『覆えば!』、
『心』が、
『信等の善根』を、
『離れる!』時、
『不善法』が、
已に、
『生じていれば!』、
『断じる!』為めの故に、
未だ、
『生じていなければ!』、
『生じさせない!』為めの故に、
則ち、
『精進』を、
『懃め!』、
『信等の善根(善法)』が、
未だ、
『生じていなければ!』、
『生じさせる!』為めの故に、
已に、
『生じていれば!』、
『増長させる!』為めの故に、
則ち、
『精進』を、
『懃めるのである!』が、
『精進の法』は、
『四念処』に於いて、
『多い!』が故に、
『正懃』と、
『呼ばれる!』。
  (お):在/[場所]~で、給/[人]~に(施す/与える)、向/[人]~に向って(言う/問う)、対/[人、事物]~に対して、至・到/[場所]~に到って、由・従[場所]~より/~を経由して、動詞の後に置いて受動態を表す/~される、為/[目的語]~を、形容詞の後に置いて、比較を表す/~より(少ない)、為/[目的]~の為めに( for the sake of, in order to, for the reason that )、和・与/~と(異なる)、与・和/並列を表す/~と~と、依る/依拠する( depend on, rely on )。
問曰。何以故。於七種法中此四名正懃。後八名正道。餘者不名正。 問うて曰く、何を以っての故にか、七種の法中に於いて、此の四を正懃と名づけ、後の八を正道と名づけて、余は正と名づけざる。
問い、
何故、
『七種の法(四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八正道)』中の、
此の、
『四(四正懃)』を、
『正懃』と、
『呼び!』、
後の、
『八(八正道)』を、
『正道』と、
『呼んで!』、
余の、
『法』を、
『正』と、
『呼ばないのですか?』。
答曰。四種精進心勇發動畏錯誤故。言正懃。行道趣法故。畏墮邪法故。言正道。 答えて曰く、四種の精進は、心勇みて発動し、錯誤を畏るるが故に、正懃と言い、道を行きて法に趣くが故に、邪法に墮つるを畏るるが故に、正道と言う。
答え、
『四種の精進』は、
『心』が、
『勇猛に!』、
『発動する!』時、
『錯誤する!』ことを、
『畏れる!』が故に、
是れを、
『正懃』と、
『言い!』、
『道』を、
『行って!』、
『法』に、
『趣向する!』時、
『邪法』に、
『堕ちる!』ことを、
『畏れる!』が故に、
是れを、
『正道』と、
『言うのである!』。
性者四種精進性。共者四種精進性為首。因緣生道若有漏若無漏。若有色若無色如上說。 性とは、四種の精進の性なり。共とは、四種の精進の性を首と為す因縁生の道にして、若しは有漏、若しは無漏、若しは有色、若しは無色なること上に説けるが如し。
『性正懃』とは、
『四種の精進』の、
『性であり!』、
『共正懃』とは、
『四種の精進』の、
『性』を、
『首とする!』、
『因縁生』の、
『道であり!』、
是の、
『道』は、上に説いたように、――
『有漏か、無漏であり!』、
『有色か、無色である!』。
行四正懃時心小散故。以定攝心故。名如意足。譬如美食少鹽則無味。得鹽則味足如意。又如人有二足。復得好馬好車如意所至。 四正懃を行ずる時、心少しく散ずるが故に、定を以って心を摂するが故に、如意足と名づく。譬えば、美食に塩少なければ、則ち味無く、塩を得れば、則ち味足りて意の如くなるが如し。又、人に二足有るも、復た好馬、好車を得れば、至る所は意の如くなるが如し。
『四正懃』を、
『行う!』時、
『心』が、
『小(すこ)し!』、
『散乱する!』が故に、
『定』で、
『心』を、
『摂する(取締る)!』が故に、
是の、
『定』を、
『如意足』と、
『称する!』。
譬えば、
『美食』に、
『塩』が、
『少なければ!』、
則ち、
『味』が、
『無いことになる!』が、
『塩を得れば!』、
『意のままに!』、
『味』が、
『足るようなものである!』。
又、
『人』には、
『二足が有る!』が、
更に、
『好馬、好車を得れば!』、
『至る!』所が、
『意のままになるようなものである!』。
  四如意足(しにょいそく):欲、念、勤、観の四法の力に由りて引発せられて種種の神用を現起する定を云う。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
行者如是得四念處實智慧四正懃中正精進。精進故智慧增多。定力小弱。得四種定攝心故。智定力等所願皆得故。名如意足。 行者は、是の如く四念処に実の智慧を得て、四正懃中に正精進し、精進するが故に智慧増々多く、定力小しく弱きも、四種の定を得て、心を摂するが故に、智、定の力等しくして、所願を皆得るが故に、如意足と名づく。
『行者』は、
是のように、
『四念処』中に、
『実の智慧を得て!』、
『四正懃』中に、
『正精進すれば!』、
『精進する!』が故に、
『智慧』は、
『増々多くなる!』が、
『定の力』が、
『小し弱い!』ので、
『四種の定を得て!』、
『心』を、
『摂する!』が故に、
『智、定』の、
『力が等しくなって!』、
『願う!』所を、
皆、
『得る!』が故に、
是の、
『四種の定』を、
『如意足』と、
『称する!』。
問曰。四念處四正懃中已有定。何以故不名如意足。 問うて曰く、四念処、四正懃中には、已に定有り。何を以っての故にか、如意足と名づけざる。
問い、
『四念処、四正懃』中には、
已に、
『定』が、
『有る!』のに、
何故、
『如意足』と、
『呼ばないのですか?』。
答曰。彼雖有定。智慧精進力多定力弱故。行者不得如意願。 答えて曰く、彼にも、定有りと雖も、智慧、精進の力多くして、定力弱きが故に、行者は、意の如く願を得ざればなり。
答え、
『四念処、四正懃』中にも、
『定』は、
『有る!』が、
而し、
『智慧、精進』の、
『力』が、
『多く!』、
『定』の、
『力』が、
『弱い!』が故に、
『行者』は、
『意のままに!』、
『願う!』所を、
『得られないからである!』。
四種定者。欲為主得定。精進為主得定。定因緣生道。若有漏若無漏心為主得定。思惟為主得定。定因緣生道。若有漏若無漏。 四種の定とは、欲を主と為して定を得るも、精進を主と為して定を得るも、定の因縁もて道を生ずれば、若しは有漏、若しは無漏なり。心を主と為して定を得るも、思惟を主と為して定を得るも、定の因縁もて道を生ずれば、若しは有漏、若しは無漏なり。
『四種』の、       ――四如意足――
『定』とは、――
『欲』を、
『主として!』、
『定』を、
『得ても!』、
『精進』を、
『主として!』、
『定』を、
『得ても!』、
『定の因縁』の故に、
『道』を、
『生じる!』が故に、
是の、
『定』は、
『有漏か、無漏であり!』、
『心』を、
『主として!』、
『定』を、
『得ても!』、
『思惟』を、
『主として!』、
『定』を、
『得てても!』、
『定の因縁』の故に、
『道』を、
『生じる!』が故に、
是の、
『定』は、
『有漏か、無漏である!』。
共善五眾名為共如意。欲主等四種定。名為性如意。四正懃四如意足。如性念處共念處中廣分別說。 善の五衆と共なるを、名づけて共如意と為し、欲主等の四種の定を、名づけて性如意と為す。四正懃、四如意足は、性念処、共念処中に広く分別して説けるが如し。
『欲主』等の、
『四種の定』が、
『善の五衆』と、
『共(いっしょ)ならば!』、
是れを、
『共如意』と、
『称し!』、
『欲主』等の、
『四種の定』を、
『性如意』と、
『称する!』。
『四正懃、四如意足』は、
『性念処、共念処』中に、
『広く分別して!』、
『説いた通りである!』。
  善五衆(ぜんのごしゅ):不善の身口意業を起さざる時の五衆の意。
  性念処共念処:『大智度論巻19上』参照。
五根者。信道及助道善法。是名信根。行者行是道助道法時。懃求不息是名精進根。念道及助道法。更無他念是名念根。一心念不散是名定根。為道及助道法。觀無常等十六行。是名慧根。 五根とは、道、及び助道の善法を信ずる、是れを信根と名づく。行者は、是の道、助道の法を行う時、懃求して息まず、是れを精進根と名づく。道、及び助道の法を念じて、更に他を念ずる無き、是れを念根と名づく。一心に念じて、散ぜざる、是れを定根と名づく。道、及び助道の法の為めに、無常等の十六行を観ずる、是れを慧根と名づく。
『五根』とは、――       ――五根・五力――
『行者』が、
『道』と、
『助道の善法』を、
『信じる!』こと、
是れを、
『信根』と、
『称する!』。
『行者』が、
是の、
『道』と、
『助道の法』を、
『行う!』時、
『道』を、
『懃求して!』、
『息(やす)まなければ!』、
是れを、
『精進根』と、
『称する!』。
『行者』が、
但だ、
『道』と、
『助道の法』のみを、
『念じて!』、
更に、
『他の法』を、
『念じなければ!』、
是れを、
『念根』と、
『称する!』。
『行者』が、
『一心』に、
『道を念じて!』、
『心』を、
『散乱させなければ!』、
是れを、
『定根』と、
『称する!』。
『行者』が、
『道』や、
『助道の法』の為めに、
『無常』等の、
『十六行(十六行相)』を、
『観れば!』、
是れを、
『慧根』と、
『称する!』。
  懃求(ごんぐ):道を得んと精進すること。
  十六行(じゅうろくぎょう):観行者の加行時に於いて四諦の一一を観ずるに用うる各四行相を云う。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、巻18下注:四聖諦』参照。
  十六行相:四聖諦を観察する十六の行。
    (1- 4)苦を観察する四種(無常、苦、空、無我)。
    (5- 8)苦の因を観察する四種(集、因、縁、生)。
    (9- 12)苦の尽きるを観察する四種(尽、滅、妙、出)。
    (13- 16)道を観察する四種(道、正、行、跡)。(大智度論巻第11上)
是五根增長不為煩惱所壞。是名為力。如五根中說。 是の五根の増長して、煩悩の壊る所と為らざる、是れを名づけて力と為す。五根中に説くが如し。
是の、
『五根』が、
『煩悩』に、
『壊されない!』までに、
『増長する!』と、
是れを、
『五力』と、
『呼ぶ!』のは、
例えば、
『五根』中に、
『説く通りである!』。
是五根五力行眾中攝。常共相應。隨心行心數法。共心生共心住共心滅。若有是法心墮正定。若無是法心墮邪定。 是の五根と五力は、行衆中に摂し、常に共に相応し、心行に随う心数法にして、心と共に生じ、心と共に住し、心と共に滅す。若し是の法有れば、心は正定に堕し、若し是の法無ければ、心は邪定に堕す。
是の、
『五根』と、
『五力』とは、
『行衆』中に、
『摂し(属し)て!』、
常に、
『共に(いっしょに)!』、
『相応し( 付き随い ≒corresponding )!』、
『心行』に、
『随う!』、
『心数法であり!』、
『心(心法)』と、
『共に!』、
『生じ!』、
『心』と、
『共に!』、
『住し!』、
『心』と、
『共に!』、
『滅する!』。
若し、
是の、
『法が有れば!』、
『心』は、
『正定』に、
『堕ち!』、
是の、
『法が無ければ!』、
『心』は、
『邪定』に、
『堕ちる!』。
  共相応(ぐうそうおう):五種の根、或いは五種の力は常に共に相応する。
  随心行(ずいしんぎょう):心行、即ち分別、思量に随って生起する法の意。『大智度論巻20下注:随心行』参照。
  共心生(ぐうしんしょう):心と共に生ずる。
  共心住(ぐうしんじゅう):心と共に住する。
  共心滅(ぐうしんめつ):心と共に滅する。
  :五根五力中の念、定、慧の三種は心所有法中の大地法に摂し、信、精進の二種は同大善地法に摂す。
七覺如先說義。問曰。先雖說義。非以阿毘曇法說。 七覚は、先に義を説けるが如し。
問うて曰く、先に義を説くと雖も、阿毘曇の法を以って説けるに非ず。
『七覚(七覚分)の義』は、       ――阿毘曇の七覚分――
『先に!』、
『説く通りである!』。
問い、
先に、
『義』を、
『説いた!』が、
『阿毘曇』の、
『法』で、
『説かれたものではない!』。
  七覚(しちかく):七種の覚分。即ち念、択法、精進、喜、軽安、定、捨を云う。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  参考:『大智度論巻19』:『問曰。應先說道。何以故行道然後得諸善法。譬如人先行道然後得所至處。今何以顛倒先說四念處。後說八正道。答曰。不顛倒也。三十七品是初欲入道時名字。如行者到師所聽道法時。先用念持是法。是時名念處。持已從法中求果故。精進行。是時名正懃。多精進故心散亂。攝心調柔故名如意足。心調柔已生五根。諸法實相甚深難解。信根故能信是名信根。不惜身命一心求道。是名精進根。常念佛道不念餘事是名念根。常攝心在道是名定根。觀四諦實相是名慧根。是五根增長能遮煩惱。如大樹力能遮水。是五根增長時能轉入深法。是名為力。得力已分別道法有三分。擇法覺精進覺喜覺。此三法行道時。若心沒能令起除覺定覺捨覺。此三法若行道時。心動散能攝令定念覺在二處。能集善法能遮惡法。如守門人有利者令入。無益者除卻。若心沒時念三法起。若心散時念三法。攝無覺實覺。此七事能到故名為分。得是法安隱具足已。欲入涅槃無為城故行是諸法。是時名為道。』
  七覚分(しちかくぶん):覚りを助ける七つのもの。
    (1)念覚分:憶念して忘れないこと。
    (2)択法覚分:物事の真偽を選択する智慧のこと。
    (3)精進覚分:正法に精進すること。
    (4)喜覚分:正法を喜ぶこと。
    (5)除(軽安)覚分:身心が軽快であること。
    (6)定覚分:心を散乱せしめないこと。
    (7)捨覚分:心が偏らず平等であること。
答曰。今當更說。如四念處義是七覺分。無色不可見無對無漏有為因緣生。三世攝名攝外入攝。 答えて曰く、今当に更に説くべし。四念処の義の如く、是の七覚分は、無色、不可見、無対、無漏、有為の因縁生にして、三世に摂し、名に摂し、外入に摂す。
答え、
今、
更に、説かねばならぬ、――
例えば、
『四念処の義のように!』、
是の、
『七覚分』は、
『無色、不可見、無対であり!』、
『無漏、有為の因縁生であり!』、
『三世に摂し!』、
『名(受想行識)に摂し!』、
『外入()に摂す!』。
慧知非斷見不可斷。修法無垢法。是果亦有果。非受法非四大造。有上法非有相應因。 慧知にして、断見に非ず、不可断、修法、無垢法にして、是れ果にして、亦た果有り、受法に非ず、四大造に非ず、有上法にして、有に非ずして、相応因なり。
亦た、
『慧で知り!』、
『断見でなく!』、
『不可断、修法、無垢法であり!』、
是れは、
『果であって!』、
『果』が、
『有り!』、
『受法でなく!』、
『四大造でなく!』、
『有上法であり!』、
『有法でなく!』、
『相応因である!』。
  慧知(えち):智慧を以って遍く知るの意。智遍知とも称す。『大智度論巻19上注:九遍知』参照。
  (う):梵語 bhava の訳。存在の義。異熟の果体、及び能く之を引く業等を云う。『大智度論巻7上注:有』参照。
  相応因(そうおういん):同時相応の心心所が互いに展転して因となることを云う。『大智度論巻32上注:六因』参照。
二善分攝七覺分。七覺分攝二善分。不善無記漏有漏法不相攝。無漏二分攝七覺分。七覺分攝無漏二分。如是等種種。如千難中廣說。 二善分に、七覚分を摂し、七覚分に二善分を摂す。不善、無記の漏、有漏法は、相摂せず。無漏の二分に七覚分を摂し、七覚分に無漏の二分を摂す。是の如き等の種種は、千難中に広く説けるが如し。
『二善分(集善、遮悪)』には、
『七覚分』を、
『摂して!』、
『七覚分』には、
『二善分』を、
『摂する!』が、
『不善、無記の漏法、有漏法』は、
『互に!』、
『摂しない!』。
『無漏の二分(五分法身中の定身、慧身)』には、
『七覚分』を、
『摂して!』、
『七覚分』には、
『無漏の二分』を、
『摂する!』。
是れ等のような、
種種は、
『千難』中に、
『広く説かれる通りである!』。
  二善分(にぜんぶん):善二処とも称す。二種の善分の意。則ち一に善を集め、二に悪を遮すを云う。「大智度論巻19」に、「念覚は二処に在り、能く善法を集め、能く悪法を遮す」と云える是れなり。
  無漏二分(むろにぶん):蓋し五分法身中の定身、慧身を云う。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  千難(せんなん):「衆事分阿毘曇論巻10」、「品類足論巻15」等参照。
  参考:『衆事分阿毘曇論巻10』:『菩提品者。謂七覺支。問云何七。答謂念覺支。乃至捨覺支。問此七覺支幾色幾非色。答一切非色。一切不可見。一切是無對。一切是無漏。一切是有為。一切是無報。一切從因緣生世所攝。一切是名所攝。一切是外入所攝。一切是智知。一切非斷智知及不斷。一切是應修。一切不穢污。一切是果及有果。一切是不受。一切非四大造。一切是有上。一切非有。一切因相應。善二處少分攝七覺支。七覺支亦攝善二處少分。不善處所不攝。無記處所不攝。漏處所不攝。有漏處所不攝。無漏二處少分攝七覺支。七覺支亦攝無漏二處少分。一切。或過去。或未來。或現在。一切是善。一切是不繫。問覺支幾學幾無學。答一切應分別。念覺支。或學。或無學。云何學。謂學意思惟相應念覺支。云何無學。謂無學意思惟相應念覺支。如念覺支。餘一切亦如是。一切是不斷。一切是心法心相應。一心隨轉非受相應。六心隨轉亦受相應。一切心隨轉想行相應。除其自性。問覺支。幾覺隨轉非觀相應。答一切應分別。念覺支。或有覺有觀。或無覺有觀。或無覺無觀。云何有覺有觀。謂有覺有觀意思惟相應念覺支。云何無覺有觀。謂無覺有觀意思惟相應念覺支。云何無覺無觀。謂無覺無觀意思惟相應念覺支。如念覺支。擇法精進猗定捨覺支亦如是。喜覺支。或有覺有觀。或無覺無觀。云何有覺有觀。謂有覺有觀意思惟相應喜覺支。云何無覺無觀。謂無覺無觀意思惟相應喜覺支。亦非見亦非見處。一分別。擇法覺支所攝盡智無生智。所不攝無漏慧。是見非見處。餘非見亦非見處。一切非身見因身見亦非彼因。一切非業亦非業報。一切是業隨轉非業。一切非造色色非可見色。一切非造色色非有對色。一切是甚深難了難了甚深。一切是善亦善因。一切非不善亦非不善因。一切非無記亦非無記因。一切是因緣緣亦有因。問覺支。幾次第非次第緣緣。答一切應分別。念覺支。或次第非次第緣緣。作三句。次第非次第緣緣者。謂未來現前必起念覺支。次第亦次第緣緣者。謂過去現在念覺支。非次第亦非次第緣緣者。謂除未來現前必起念覺支。若餘未來念覺支。如念覺支。餘一切亦如是。一切是緣緣緣。亦有緣。一切是增上緣緣及有增上。一切非流亦非隨流』
八聖道分如先說。正見是智慧。如四念處慧根慧力擇法覺中說。正思惟觀四諦時。無漏心相應。思惟動發覺知籌量。正方便如四正懃精進根精進力精進覺中說。正念如念根念力念覺中說。正定如如意足定根定力定覺中說。正語正業正命今當說。 八聖道分は、先に説けるが如く、正見は、是れ智慧にして、四念処、慧根、慧力、択法覚中に説けるが如し。正思惟は、四諦を観ずる時の無漏心相応にして、思惟して動発する覚知、籌量なり。正方便は、四正懃、精進根、精進力、精進覚中に説けるが如し。正念は、念根、念力、念覚中に説けるが如し。正定は、如意足、定根、定力、定覚中に説けるが如し。正語、正業、正命は今当に説くべし。
『八聖道分』は、       ――八聖道分――
先に説くように、――
『正見』は、
『智慧であり!』、
例えば、
『四念処、慧根、慧力、択法覚分』中に、
『説く通りである!』。
『正思惟』は、
『四諦を観る!』時の、
『無漏の心』に、
『相応しながら!』、
『思惟して!』、
『発動される!』、
『覚知、籌量である!』。
『正方便(正精進)』は、
例えば、
『四正懃、精進根、精進力、精進覚分』中に、
『説く通りである!』。
『正念』は、
例えば、
『念根、念力、念覚分』中に、
『説く通りである!』。
『正定』は、
例えば、
『如意足、定根、定力、定覚分』中に、
『説く通りである!』。
『正語、正業、正命』は、
今、
『説かねばならぬ!』。
  動発(どうほつ):動かし発する。
  籌量(ちゅうりょう):数え量る。
除四種邪命攝口業。以無漏智慧除捨。離餘口邪業。是名正語。正業亦如是。五種邪命以無漏智慧除捨。離是為正命。 四種の邪命を除いて、口業を摂し、無漏の智慧を以って除捨して、余の口の邪業を離るる、是れを正語と名づく。正業も亦た是の如し。五種の邪命を、無漏の智慧を以って除捨して離るる、是れを正命と為す。
『正語』とは、
『四種』の、
『邪命(邪な活命)を除いて!』、
『口業』を、
『摂し(取り締まり)!』、
『無漏』の、
『智慧を用いて!』、
『余の口の邪業』を、
『除捨して離れる!』、
是れを、
『正語』と、
『称する!』。
『正業』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『正命』とは、
『無漏』の、
『智慧を用いて!』、
『五種の邪命』を、
『除捨して離れる!』、
是れを、
『正命』と、
『称する!』。
  邪命(じゃみょう):邪なる因縁を以って生活する。
問曰。何等是五種邪命。 問うて曰く、何等か、是れ五種の邪命なる。
問い、
何のような、
『五種の邪命』を、
『言うのですか?』。
答曰。一者若行者為利養故詐現異相奇特。二者為利養故自說功德。三者為利養故占相吉凶為人說。四者為利養故高聲現威令人畏敬。五者為利養故稱說所得供養以動人心。邪因緣活命故。是為邪命。 答えて曰く、一には、若し行者、利養の為めの故に詐りて、異相、奇特を現し、二には、利養の為めの故に、自ら功徳を説き、三には、利養の為めの故に、吉凶を占相して、人の為めに説き、四には、利養の為めの故に、高声に威を現して、人をして畏敬せしめ、五には、利養の為めの故に、所得の供養を称説して、以って人心を動かせば、邪因縁の活命の故に、是れを邪命と為す。
答え、
『行者』が、
一には、
『利養』の為めの故に、
『詐(いつわ)って!』、
『異相(奇妙な様子)』や、
『奇特(奇怪な特技)』を、
『現し!』、
二には、
『利養』の為めの故に、
自らの、
『功徳』を、
『説き!』、
三には、
『利養』の為めの故に、
『吉、凶を占相して!』、
『人』の為めに、
『説き!』、
四には、
『利養』の為めの故に、
『高声に説き!』、
『威厳』を、
『現して(見せて)!』、
自らを、
『人』に、
『畏敬させ!』、
五には、
『利養』の為めの故に、
『得た!』所の、
『供養』を、
『誉め称えて説けば!』、
『邪悪な!』、
『因縁』を、
『用いて!』、
『活命(生活)する!』が故に、
是れを、
『邪命』と、
『呼ぶのである!』。
  利養(りよう):身をこやし養う。
  異相(いそう):常人と異なった人相。
  奇特(きどく):類なく珍しいこと。奇怪なこと。
  畏敬(いきょう):おそれうやまう。
  称説(しょうせつ):誉め称えて説く。
是八正道有三分。三種為戒分。三種為定分。二種為慧分。慧分定分分別如先說。戒分今當說。 是の八正道には、三分有りて、三種を戒分と為し、三種を定分と為し、二種を慧分と為す。慧分、定分の分別は、先に説けるが如し。戒分は、今当に説くべし。
是の、
『八正道』には、
『三分』が有り、
『三種』を、
『戒分(正語、正業、正命)』と、
『称し!』、
『三種』を、
『定分(正方便、正念、正定)』と、
『称し!』、
『二種』を、
『慧分(正見、正思惟)』と、
『称する!』。
『慧分、定分』は、
先に、
『説いた通りである!』が、
『戒分』は、

『説かねばならぬ!』。
戒分是色性不可見。無對無漏有為無報因緣生。三世攝色攝。非名攝外入攝。 戒分は、是れ色性、不可見、無対、無漏、有為、無報、因縁生、三世の摂、色の摂、名の摂に非ずして、外入の摂なり。
『戒分』は、
『色性、不可見、無対、無漏、有為、無報の因縁生であり!』、
『三世の摂(所属)、色の摂であり!』、
『名の摂ではなく、外入の摂である!』。
慧知非斷見不可斷。修法無垢法。是果亦有果。非受法四大造有上法非有法。相應因。 慧知にして、断見に非ず、不可断の修法、無垢法なり。是れ果にして、亦た果有り、受法に非ず、四大造、有上法、有法に非ずして、相応因に非ず。
亦た、
『慧で知り!』、
『断見でなく、不可断の修法、無垢法であり!』、
是れは、
『果でありながら!』、
『果』が、
『有り!』、
『受法でなく、四大造、有上法であり!』、
『有法でなく、相応因でもない!』。
  :相応因:他本に従い非相応因に改む。
一善分攝三正。三正攝一善分。不善無記漏有漏不相攝。無漏一法攝三正。三正亦攝無漏一法。如是等種種分別。如阿毘曇廣說。 一善分に三正を摂し、三正に一善分を摂す。不善、無記の漏、有漏は、相摂せず。無漏の一法に三正を摂し、三正にも亦た無漏の一法を摂す。是の如き等の種種の分別は、阿毘曇に広く説けるが如し。
亦た、
『一善分(遮悪)』には、
『三正(正語、正業、正命)』を、
『摂して!』、
『三正』には、
『一善分』を、
『摂する!』。
『不善、無記の漏、有漏』は、
『互に!』、
『摂しない!』。
亦た、
『無漏の一法(五分法身の戒身)』には、
『三正』を、
『摂し!』、
『三正』にも、
『無漏の一法』を、
『摂する!』。
是れ等のような、
種種の、
『分別』は、
『阿毘曇』中に、
『広く説かれた通りである!』。
是三十七品。初禪地具有。未到地中三十六。除喜覺。第二禪中亦三十六。除正行禪中間第三第四禪三十五。除喜覺除正行。三無色定中三十二。除喜覺正行正語正業正命。有頂中二十二。除七覺分八聖道分。欲界中二十二亦如是。是為聲聞法中分別義。 是の三十七品は、初禅地に具有し、未到地中には、三十六なり、喜覚を除く。第二禅中にも亦た三十六にして、正行を除く。禅の中間、第三禅、第四禅は三十五なり、喜覚を除き、正行を除く。三無色定中は三十二なり、喜覚、正行、正語、正業、正命を除く。有頂中は二十二なり、七覚分と八聖道分を除く。欲界中の二十二なるも、亦た是の如し。是れを声聞法中に分別せる義と名づく。
是の、
『三十七品』は、
『初禅地』には、
『具足して!』、
『有る!』が、
『未到地(初禅直前)』中には、
『喜覚を除いて!』、
『三十六であり!』、
『第二禅』中にも、
『正行(正方便)を除いて!』、
『三十六であり!』、
『中間(初禅と二禅の間)、第三、第四禅』には、
『喜覚、正行を除いて!』、
『三十五であり!』、
『三無色定』中には、
『喜覚、正行、正語、正業、正命を除いて!』、
『三十二であり!』、
『有頂(非想非非想処定)』中には、
『七覚分、八聖道分を除いて!』、
『二十二であり!』、
『欲界中』にも、
亦た同じように、
『二十二である!』。
是れは、
『声聞法』中に、
『分別する!』、
『三十七品の義である!』。
  具有(ぐう):具足して有る。みなすべてある。
  未到地(みとうじ):初禅直前の地。
  中間(ちゅうげん):初禅と第二禅との中間の地。
  正行(しょうぎょう):梵語 samyak-prayoga の訳、正しい実践/修行( proper practice )の義。正方便(梵 samyak- vyaayaama :適切な修行/練習 (right exercise or training) )に同じ。



摩訶衍の三十七品

問曰摩訶衍所說。三十七品義云何。 問うて曰く、摩訶衍の所説の三十七品の義は、云何。
問い、
『摩訶衍』には、
何のような、
『三十七品の義』が、
『説かれているのか?』。
答曰菩薩摩訶薩。行四念處觀是內身無常苦如病如癰。肉聚敗壞不淨充滿九孔流出。是為行廁。 答えて曰く、菩薩摩訶薩は、四念処を行じて観るらく、是の内身は無常、苦なること、病の如く、癰の如く、肉聚敗壊して、不浄充満し、九孔より流出すれば、是れを行廁と為すと。
答え、
『菩薩摩訶薩』は、      ――摩訶衍の身念処――
『四念処を行って!』、
是の、
『内身を観れば!』、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
譬えば、
『病か、癰(悪瘡)のように!』、
『肉聚が敗壊(腐爛)して!』、
『不浄が充満し!』、
『九孔より流出している!』ので、
是れは、
『行廁(歩く便所)だ!』と、
『思う!』。
  (よう):悪性のできもの。大きくて根は浅く、顔、ぼんのくぼ、背などに簇生する。腫物。悪瘡。
  敗壊(はいえ):やぶれくずれる。腐り爛れる。腐敗壊爛。
  行廁(ぎょうし):あるくかわや。
如是觀身惡露無一淨處。骨幹肉塗筋纏皮裹。先世受有漏業因緣。今世沐浴華香衣服飲食臥具醫藥等所成。如車有兩輪牛力牽故能有所至。二世因緣以成身車。識牛所牽周旋往反。 是の如く身の悪露を観れば、一浄処すら無く、骨の幹に肉を塗り、筋を纏いて、皮もて裹むのみ。先世の有漏業を受くる因縁と、今世の沐浴、華香、衣服、飲食、臥具、医薬等の成ずる所なり。車に両輪有りて、牛力牽くが故に、能く至る所有るが如く、二世の因縁を以って、身の車を成じ、識の牛に牽かれて、周旋往反す。
是のように、
『身』の、
『悪露を観れば!』、
『一浄処すら!』、
『無い!』。
是の、
『身』は、
『骨の幹』に、
『肉を塗り!』、
『筋を纏(まと)い!』、
『皮で裹(つつ)み!』、
『先世』の、
『有漏の業(業報≒身)』を、
『受ける!』、
『因縁』と、
『今世』の、
『沐浴、華香、衣服、飲食、臥具、医薬等』との、
『和合』の、
『所成である!』。
譬えば、
『車』に、
『両輪が有り!』、
『牛の力』に、
『牽かれる!』が故に、
有る、
『処』に、
『到達できるように!』、
『二世の因縁』で、
『生成された!』、
『身』という、
『車』が、
『識』という、
『牛』に、
『牽かれて!』、
『五道』を、
『周旋し!』、
『往反するのである!』、
  悪露(あくろ):身の不浄の津液:膿血、屎尿等。
  周旋(しゅうせん):ぐるぐるまわる。
  往反(おうへん):いったりきたりする。往返。
是身四大和合造。如水沫聚虛無堅固。是身無常久必破壞。是身相身中不可得。亦不在外亦不在中間。身不自覺無知無作如牆壁瓦石。是身中無定身相。無有作是身者。亦無使作者。是身先際後際中際皆不可得。八萬戶虫無量諸病。及諸飢渴寒熱刑殘等常惱此身。 是の身は四大の和合の造にして、水沫の聚の如く、虚しく堅固無し。是の身は無常にして、久しくすれば必ず破壊す。是の身の相は、身中に不可得なり、亦た外に在らず、亦た中間に在らざるも、身は自ら無知、無作なること、牆壁、瓦石の如きを覚らず。是の身中には、定身の相無く、是の身を作す者の有ること無く、亦た作さしむる者も無し。是の身の先際、後際、中際は皆不可得なるも、八万戸の虫、無量の諸病、及び諸飢渇、寒熱、刑残等は、常に此の身を悩ます。
是の、
『身』は、
『四大の和合』の、
『所造であり!』、
譬えば、
『水沫の聚のように!』、
『堅固さが無い!』。
是の、
『身』は、
『無常であり!』、
『久しくすれば!』、
『必ず破壊する!』。
是の、
『身の相』は、
『身の中』に、
『認められず!』、
亦た、
『身の外』にも、
『外と中の間』にも、
『認められない!』が、
『身』は、
自らを、
『牆壁か、瓦石のように!』、
『無知、無作である!』と、
『覚ることはない!』。
是の、
『身』中には、
『定まった!』、
『身の相』が、
『無く!』、
是の、
『身を作る!』者も、
『無く!』、
亦た、
『作らせた!』者も、
『無い!』。
是の、
『身』は、
『先際(過去)』も、
『後際(未来)』も、
『中際(現在)』も、
皆、
『認められない!』のに、
『八万戸()の虫』や、
『無量の諸病』や、
『諸の飢渴、寒熱、刑残』等が、
常に、
此の、
『身』を、
『悩ませている!』。
  先際(せんざい):先の際限。最も過去。
  後際(ごさい):後の際限。最も未来。
  中際(ちゅうさい):先際と後際の中間。
  (こ):[本義]単扇の門( door )、住居/人家/一家族( family )、戸籍簿( census register )、家屋( house )、出入口/洞戸/洞穴( hole )、洞穴( cave )、有る種の職業に従事する人/家族[例:猟戸、農業戸]( a person or family of some occupations )、家格( family status )、口座( account )、阻止( hinder, stop )。
  刑残(ぎょうざん):刑罰を受けて身をそこなう。
菩薩摩訶薩觀身如是。知非我身亦非他有。不得自在有作及所不作是身。身相空從虛妄因緣生。是身假有屬本業因緣。 菩薩摩訶薩は、身の是の如きを観て知るらく、『我が身に非ず、亦た他の有に非ず。自在を得ずして、作し、及び作さざる所有り。是の身は、身相の空なる、虚妄の因縁より生ず。是の身は、仮りに有るも、本の業の因縁に属す』、と。
『菩薩摩訶薩』は、
『身』を、
是のように、
『観て!』、こう知ることになる、――
わたしの、
『身ではない!』、
亦た、
『他の!』、
『有(存在)でもない!』。
是の、
『身』は、
『自ら!』、
『在ることはできない!』のに、
是れには、
『作す!』所も、
『作さない!』所も、
『有るのだ!』。
是の、
『身』は、
『身の相』が、
『空であり!』、
『虚妄』の、
『因縁』より、
『生じたのだ!』。
是のような、
『身』は、
『仮りに!』、
『有った!』としても、
本の、
『業の因縁』に、
『属するものである!』、と。
  仮有(けう):仮の有。
  本業(ほんごう):先世の業。
菩薩自念我不應惜身命。何以故。是身相不合不散不來不去不生不滅不依猗。循身觀。是身無我無我所故空。空故無男女等諸相。無相故不作願。 菩薩の自ら念ずらく、『我れは応に身命を惜むべからず。何を以っての故に、是の身相は合せず、散ぜず、来たらず、去らず、生ぜず、滅せず、依猗せず、身を循(めぐ)りて観れば、是の身は我無く、我所無きが故に空なり。空なるが故に男女等の諸相無く、相無きが故に願を作さず』、と。
『菩薩』は、
自ら、こう念じる、――
わたしは、
当然、
『身、命』を、
『惜むべきでない!』。
何故ならば、
是の、
『身の相』は、
『合することもなく(地水火風識が合することもなく)!』、
『散ずることもなく(地水火風識に散ずることもなく)!』、
『来たのでもなく(過去より来たのでもなく)!』、
『去るのでもなく(未来へ去るのでもなく)!』、
『生じることもなく!』、
『滅することもなく!』、
『依拠することもない(霊魂が身に依拠することもない)!』。
是の、
『身』を、
『循(めぐ)って!』、
『観てみれば!』、――
是の、
『身』は、
『我』も、
『我所』も、
『無い!』が故に、
『空であり!』、
『空』の故に、
『男女等の諸相』が、
『無く!』、
『無相』の故に、
『願(菩薩の本願)』を、
『作すこともないのだ!』、と。
  依猗(えい):よる/依拠する。
  (じゅん):巡る/巡行する。
  作願(さがん):願をなす。
如是觀者得入無作智門。知身無作。無作者。但從諸法因緣和合生。是諸因緣作是身者。亦從虛妄顛倒故有。是因緣中亦無因緣相。是因緣生亦無生相。 是の如く観れば、無作の智門に入るを得て、身の作無く、作者無くして、但だ諸法の因縁の和合より生ずるを知る。是の諸因縁の作なる、是の身は、亦た虚妄による、顛倒の故に有れば、是の因縁中にも、亦た因縁の相無く、是の因縁の生にも、亦た生相無し。
是のように、
『観れば!』、――
『無作』という、
『智の門』に、
『入ることができ!』、
こう知ることになる、――
『身』は、
『作(所作)』も、
『作者』も、
『無く!』、
但だ、
『諸法の因縁』の、
『和合』により、
『生じたものである!』。
是の、
『因縁の作(所作)である!』、
『身』は、
『虚妄による!』、
『顛倒』の故に、
『有る!』が故に、
是の、
『因縁』中にも、
亦た、
『因縁の相』が、
『無く!』、
是の、
『因縁の生(所生)』にも、
亦た、
『生の相』は、
『無いのである!』。
如是思惟知是身從本以來無有生相。知是身無相無可取。無生故無相。無相故無生。但誑凡夫故名為身。 是の如く思惟して、『是の身は、本より以来、生相有ること無し』と知り、『是の身は無相にして、取るべき無し。無生の故に無相なり。無相の故に無生なり。但だ凡夫を誑すが故に名づけて、身と為す』と知る。
是のように、
『思惟して!』、こう知ることになる、――
是の、
『身』は、
本来、
『生の相』が、
『無い!』。
是の、
『身』には、
『取るべき!』、
『相』の、
『無い!』が故に、
則ち、
『無生である!』。
『身』は、
『無生である!』が故に、
『相』が、
『無く!』、
『無相である!』が故に、
『生』が、
『無い!』。
但だ、
『凡夫を誑(たぶらか)す!』が故に、
『身』と、
『呼ぶだけだ!』、と。
菩薩如是觀身實相時。離諸染欲著心。常繫念在身循身觀。如是名為菩薩身念處。觀外身觀內外身亦如是。 菩薩は、是の如く身の実相を観ずる時、諸の染欲、著心を離れて、常に念を繋けて身に在り、身を循りて観る、是の如きを名づけて菩薩の身念処と為す。外身を観る、内外身を観ることも、亦た是の如し。
『菩薩』は、
是のように、
『身』の、
『実の相』を、
『観る!』時、
諸の、
『染欲』や、
『著心』を、
『離れて!』、
常に、
『念』を、
『身』に、
『繋()け!』、
『身』を、
『循って!』、
『観察する!』ので、
是れを、
『菩薩』の、
『身念処』と、
『称する!』。
『菩薩』が、
『外身』や、
『内外身』を、
『観る!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
  繋念在身(けねんざいしん):念を身に繋ける。在は於に同じ。
菩薩云何觀諸受。觀內受是受有三種。若苦若樂若不苦不樂。是諸受無所從來。滅無所至。但從虛誑顛倒妄想生。是報果屬先世業因緣。 菩薩は、云何が、諸受を観る。内受を観ずらく、是の受には、三種有りて、若しは苦、若しは楽、若しは不苦不楽なり。是の諸受は、従来する所無く、滅して至る所無く、但だ虚妄、顛倒、妄想によりて生ず。是れ報果にして、先世の業の因縁に属す。
『菩薩』は、          ――摩訶衍の受念処――
何のように、
諸の、
『受』を、
『観るのか?』、――
『菩薩』は、
『内受』を、こう観る、――
是の、
『受』には、
『苦、楽、不苦不楽の三種』が、
『有る!』。
是の、
『諸受』は、
『生じる!』時には、
『来た処』が、
『無く!』、
『滅する!』時には、
『去る処』も、
『無い!』、
但だ、
『虚誑、顛倒、妄想』により、
『生じるだけである!』が、
是れは、
『報果であり!』、
『先世の業の因縁』に、
『属する!』、と。
是菩薩如是求諸受。不在過去不在未來不在現在。知是諸受空無我無我所。無常破壞法。 是の菩薩は、是の如く諸受を求むるに、過去に在らず、未来に在らず、現在に在らざれば、是の諸受は、空、無我、無我所、無常、破壊の法なるを知る。
是の、
『菩薩』は、
是のように、
諸の、
『受』を、
『求めた!』が、
『受』は、
『過去、未来、現在』に、
『存在しない!』ので、
こう知ることになる、――
是の、
諸の、
『受』は、
『空、無我、無我所であり!』、
『無常、破壊(可破)の法である!』、と。
觀是三世諸受空無相無作入解脫門。亦觀諸受生滅。亦知諸受不合不散不生不滅。如是入不生門。知諸受不生故無相。無相故不生。 是の三世の諸受の空、無相、無作を観て、解脱門に入り、亦た諸受の生滅を観て、亦た諸受の合せず、散ぜず、生ぜず、滅せざるを知り、是の如くして、不生の門に入りて、諸受の不生の故に無相、無相の故に不生なるを知る。
是の、
『三世』の、
『諸受』の、
『空、無相、無作』を、
『観て!』、
則ち、
『解脱門』に、
『入り!』、
亦た、
『諸受』の、
『生、滅』を、
『観て!』、
『諸受』の、
『不合、不散、不生、不滅』を、
『知り!』、
是のようにして、
『諸受』の、
『不生の門』に、
『入って!』、
こう知ることになる、――
『諸受』は、
『不生』の故に、
『相』が、
『無く!』、
『相』の、
『無い!』が故に、
『不生である!』、と。
如是知已繫心緣中。若有苦樂不苦不樂來。心不受不著不作依止。如是等因緣觀諸受。是名受念處。觀外受觀內外受亦如是。 是の如く知り已りて、心を縁中に繋け、若し苦、楽、不苦不楽有りて来たるも、心は受けず、著せず、依止と作らず。是れ等の如き因縁もて、諸受を観る、是れを受念処と名づく。外受を観る、内外受を観るも亦た是の如し。
是のように、知ったならば、――
『心』を、
『縁』中に、
『繋けて!』、
若し、
有る、
『苦』や、
『楽』や、
『不苦不楽』が、
『来たとしても!』、
『心』は、
之を、
『受けることもなく!』、
『著すこともなく!』、
『依止(苦、楽等の拠り所)と作ることもない!』。
是れ等のような、
『因縁』で、
諸の、
『受』を、
『観る!』。
是れを、
『菩薩』の、
『受念処』と、
『称する!』。
『外受を観る!』ことも、
『内外受を観る!』ことも、
亦た、
『是の通りである!』。
菩薩云何觀心念處。菩薩觀內心。是內心有三相。生住滅。作是念是心無所從來。滅亦無所至。但從內外因緣和合生。是心無有定實相。亦無實生住滅。亦不在過去未來現在世中。是心不在內不在外不在中間。是心亦無性無相。亦無生者無使生者。外有種種雜六塵因緣。內有顛倒心相。生滅相續故強名為心。 菩薩は云何が心念処を観る。菩薩の内心を観ずらく、『是の内心には、三相の生、住、滅有り』、と。是の念を作すらく、『是の心は、従来する所無く、滅して亦た至る所無し。但だ内外の因縁の和合によりて生ずれば、是の心には、定実の相有ること無く、亦た実の生、住、滅無く、亦た過去、未来、現在世中に在らず。是の心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず。是の心は、亦た無性、無相なり。亦た生ずる者無く、生ぜしむる者も無く、外には種種に雑えたる六塵の因縁あり、内に顛倒の心相有りて、生、滅相続するが故に、強いて名づけて、心と為すのみ』、と。
『菩薩』は、         ――摩訶衍の心念処――
何のように、
『心念処』を、
『観るのか?』、――
『菩薩』は、
『内心』を、こう観て、――
是の、
『内心』には、
『生、住、滅の三相』が、
『有る!』、と。
是の、
『念を作す!』、――
是の、
『心』の、
『生じる!』時には、
『来た処』が、
『無く!』、
『滅する!』時にも、
『去る処』が、
『無く!』、
但だ、
『内、外』の、
『因縁の和合』により、
『生じるだけである!』。
是の、
『心』は、
『定実』の、
『相』が、
『無く!』、
亦た、
『実』の、
『生、住、滅』も、
『無く!』、
亦た、
『過去、未来、現在世』に、
『存在することもない!』。
是の、
『心』は、
『内』にも、
『外』にも、
『内、外の中間』にも、
『無い!』。
是の、
『心』は、
『無性であり!』
『無相であり!』、
亦た、
『生まれた!』者も、
『生まれさせた!』者も、
『無く!』、
『外』には、
『種種雑多な!』、
『六塵の因縁』が、
『有り!』、
『内』には、
『顛倒した!』、
『心の相』が、
『有って!』、
『生』と、
『滅』とが、
『相続する!』が故に、
強いて、
『心』と、
『呼ぶだけである!』、と。
如是心中實心相不可得。是心性不生不滅。常是淨相客煩惱相著故。名為不淨心。 是の如き心中に、実の心相は不可得なるも、是の心性は不生、不滅にして、常に是れ浄相なるも、客の煩悩相著するが故に、名づけて不浄心と為す。
是のような、
『心』中に、
『実』の、
『心相』は、
『認められない!』が、
是の、
『心の性』は、
『不生、不滅であり!』、
『常に、浄相である!』が、
『客の煩悩』が、
之に、
『附着する!』が故に、
是れを、
『不浄の心』と、
『呼ぶのである!』。
心不自知。何以故是心心相空故。是心本末無有實法。是心與諸法無合無散。亦無前際後際中際。無色無形無對。但顛倒虛誑生。是心空無我。無我所無常無實。是名隨順心觀。 心は、自らを知らず。何を以っての故に、是の心の心相の空なるが故に、是の心は、本末、実法有ること無し。是の心は、諸法と合無く、散無く、亦た前際、後際、中際無く、無色、無形、無対にして、但だ顛倒虚誑の生なり。是の心は空、無我、無我所、無常、無実なれば、是れを心に随順して観ると名づく。
『心』は、
『自ら!』を、
『知らない!』、――
何故ならば、
是の、
『心』は、
『心の相』が、
『空である!』が故に、
是の、
『心』は、
『本より、末まで!』、
『実の法』が、
『無く!』、
是の、
『心』は、
『諸法』と、
『合、散する!』ことが、
『無く!』、
亦た、
『前際、後際、中際』が、
『無く!』、
亦た、
『無色、無形、無対である!』が故に、
但だ、
『顛倒した!』、
『虚誑』より、
『生じたものであり!』、
是の、
『心』は、
『空、無我、無我所であり!』、
『無常であり!』、
『無実である!』と、
是のように、観れば、――
是れを、
『心に随順した!』、
『観』と、
『称する!』。
知心相無生。入無生法中。何以故。是心無生無性無相。智者能知。 心相の無生を知れば、無生法中に入る。何を以っての故に、是の心は、無生、無性、無相なるを、智者は能く知ればなり。
『心の相』は、
『無生である!』と、
『知れば!』、――
則ち、
『無生の法』中に、
『入る(正知する)ことになる!』。
何故ならば、
『智者』のみが、
是の、
『心』を、
『無生、無性、無相である!』と、
『知るからである!』。
智者雖觀是心生滅相。亦不得實生滅法。不分別垢淨。而得心清淨。以是心清淨故。不為客煩惱所染。如是等觀內心觀外心。觀內外心亦如是。 智者は、是の心の生、滅の相を観ると雖も、亦た実の生、滅の法を得ざれば、垢、浄を分別せずして、而して心に清浄を得、是の心の清浄を以っての故に、客煩悩に染せられず。是れ等の内心を観るが如く、外心を観るも、内外心を観るも、亦た是の如し。
『智者』は、
是の、
『心』の、
『生、滅の相』を、
『観る!』が、
亦た、
『実』の、
『生、滅する法』は、
『認められない!』ので、
則ち、
『垢、浄』を、
『分別しないで!』、
而も、
『心』に、
『清浄』を、
『得るのであり!』、
是の、
『心』が、
『清浄である!』が故に、
『客の煩悩』に、
『染められることもない!』。
是れ等のように、
『内心』を、
『観れば!』、――
『外心』も、
『内外心』も、
亦た、
『是の通りである!』。
菩薩云何觀法念處。觀一切法不在內不在外。不在中間。不過去未來。現在世中但從因緣和合妄見生無有實定。無有是法是誰法。 菩薩は、云何が法念処を観る。一切の法を観るに、内に在らず、外に在らず、中間に在らず、過去、未来、現在世中にあらず、但だ因縁和合より、生を妄見して、実定の有ること無し。是の法有ること無くんば、是れ誰が法なる。
『菩薩』は、         ――摩訶衍の法念処――
何のように、
『法念処』を、
『観るのか?』、――
一切の、
『法』を、
『観れば!』、――
是の、
『法』は、
『内』にも、
『外』にも、
『内、外の中間』にも、
『存在せず!』、
『過去、未来、現在』の、
『世間』にも、
『存在しない!』。
但だ、
『因縁の和合』により、
『生』を、
『妄見するのであり!』、
『実定』の、
『法』は、
『無いのである!』。
若し、
是の、
『法が無ければ!』、
是れは、
誰の、
『法(五衆、十二入、十八界)なのか?』。
諸法中法相不可得。亦無法若合若散。一切法無所有。如虛空。一切法虛誑如幻。諸法性淨不相污染。諸法無所受。諸受無所有故。諸法無所知。心心數法虛誑故。 諸法中に法相は不可得なり。亦た法の若しは合し、若しは散ずる無し。一切の法は、無所有なること、虚空の如し。一切の法は、虚誑なること幻の如し。諸法の性は浄にして、相汚染せず。諸法には、所受無く、諸受の無所有なるが故に、諸法には、知る所無し。心、心数法の虚誑なるが故なり。
諸の、
『法』中に、
『法の相』は、
『認められず!』、
亦た、
『合、散する!』、
『法』も、
『無い!』。
一切の、
『法』は、
『虚空のように!』、
『無所有( nothing existing )である!』。
一切の、
『法』は、
『幻のように!』、
『虚誑である!』。
諸の、
『法の性』は、
『浄であって!』、
『汚染されない!』。
諸の、
『法(五衆)』には、
『所受(≒能受≒受者≒我)』が、
『無く!』、
諸の、
『受(苦楽等)』は、
『無所有である!』が故に、
諸の、
『法』には、
『知る所()』が、
『無い!』。
何故ならば、
『心、心数法』が、
『虚誑だからである!』。
如是觀時不見有法若一相若異相。觀一切法空無我。是時作是念。一切諸法因緣生故無有自性。是為實空。實空故無有相。無有相故無作。無作故不見法若生若滅住。是智慧中入無生法忍門。 是の如く観る時、有る法の若しは一相、若しは異相なるを見ずして、一切法の空、無我なるを観る。是の時、是の念を作さく、『一切の諸法は、因縁生なるが故に、自性有ること無く、是れを実空と為す。実空なるが故に、相有ること無く、相有ること無きが故に、作無く、作無きが故に、法の若しは生、若しは滅、住なるを見ず。是の智慧中に、無生法忍の門に入る。
是のように、観る時、――
有る、
『法』が、
『一相である!』とか、
『異相である!』と、
『見ることはなく!』、
一切の、
『法』は、
『空であり!』、
『無我である!』と、
『観る!』ので、
是の時、
是の念を作す、――
一切の、
『諸法』は、
『因縁の生である!』が故に、
『自性』が、
『無い!』、
是れが、
『実の!』、
『空である!』。
『諸法』は、
『実の空である!』が故に、
『相』が、
『無く!』、
『相の無い!』が故に、
『作』が、
『無く!』、
『作の無い!』が故に、
『法』が、
『生じる!』のを、
『見ることがなく!』、
『法』が、
『滅、住する!』のを、
『見ることもない!』、と。
是のような、
『智慧』中に、
『無生法忍(法の無生に耐えること)』の、
『門』に、
『入るのである!』。
  無生法忍(むしょうほうにん):梵語 anutpattika- dharma- kSaanti の訳。又無生忍とも名づく。即ち諸法無生の理を観じて之を諦忍するを云う。「大般若経巻449転不転品」に、「是の如き不退転の菩薩摩訶薩は、自相空を以って一切法を観じ、已に菩薩の正性離生に入り、乃至少法の得べきものを見ず、不可得の故に造作する所なく、造作する所なきが故に無生法忍と名づく。是の如き無生法忍を得るに由るが故に、不退転の菩薩摩訶薩と名づく」と云える是れなり。是れ菩薩は諸法空を観じ、見道初地に入りて始めて一切法畢竟不生の理を見るを無生法忍と名づけたるなり。又「大智度論巻86」に、「二乗の人は諸仏菩薩の智慧に於いて少気分を得。是の故に八人の若しは智若しは断、乃至辟支仏の若しは智若しは断は皆是れ菩薩の無生法忍なり。智は学人の八智に名づく、無学に或いは九、或いは十の断あり、十種の結使を断ずと名づく。(中略)智断は皆是れ菩薩の忍なり、声聞の人は四諦を以って得道し、菩薩は一諦を以って入道す。仏は説く、是の四諦は皆是れ一諦なり、分別するが故に四あり。是の四諦の二乗の智断は皆一諦の中に在りと。菩薩は先に柔順忍の中に住し、無生無滅亦非無生非無滅を学して有見無見有無見非有非無見等を離れ、諸の戯論を滅して無生忍を得るなり。無生忍とは仏後品の中に自ら説く、乃至作仏まで常に悪心を生ぜず、是の故に無生忍と名づくと。論者言わく、是の忍を得て一切法畢竟空を観じて縁を断ぜば心心数生ぜず、是れを無生忍と名づくと。又復た言わく、能く声聞辟支仏の智慧を過ぐるを無生忍と名づく。声聞辟支仏の智慧は色等の五衆の生滅を観じ、心に厭離して解脱を得んと欲す。菩薩は大福徳智慧を以って生滅を観ずる時、心に怖畏すること小乗の人の如くならず。菩薩は慧眼を以って生滅を求むるに実の定相不可得なり。(中略)無生忍も亦た是の如し、一には生滅を破すと雖も無生無滅に著せず、故に常顛倒に堕せず。二には不生滅に著するが故に常顛倒に堕す、真の無生は諸観を滅して語言道断し、一切法は涅槃の相の如く、本より已来常に自ら無生なりと観ず。智慧を以って観ずるが故に無生をして是れ無生無滅畢竟清浄なることを得しむるに非ず、無常観尚お取らず、何に況んや生滅をや。是の如き等の相を無生法忍と名づく。是の無生忍を得るが故に即ち菩薩位に入る」と云えり。是れ蓋し声聞の八人地乃至已辨地、並びに辟支仏地等に於いて四諦を観じ、凡べて智断あるは皆菩薩の無生法忍の少気分を得るに過ぎず、苦集滅道の四諦は実は諸法実相の一諦を分別せるものにして、声聞は鈍根なるが故に四諦を観じて得道するも、菩薩は利根なるが故に直に諸法実相を観じて入道するものなることを明にせるなり。之に依るに無生法忍は声聞が見道に入りて四諦の理を見るが如く、菩薩は即ち初地に入りて諸法無生無滅の理を諦忍し、以って不退転地に住することを説けるものなるを知るべし。「無量寿経巻上」に、「我が名字を聞くも即ち第一第二第三法忍に至ることを得ず、諸仏の法に於いて即ち不退転を得ること能わずんば正覚を取らじ」と云い、又「坐禅三昧経巻下」に、「菩薩は見道に応に三種の忍法を行ずべし、生忍、柔順法忍、無生法忍なり」と云えるも亦た同説にして、即ち地前に音響忍、柔順忍を得、初地見道に入りて正しく無生法忍を得るの意を示せるものというべし。又「瑜伽師地論巻74」に、不退転地の菩薩は遍依円の三性に依りて本性、自然及び煩悩苦垢の三種の無生忍を得ることを説けり。本性無生忍とは又本来無生忍とも名づけ、遍計所執の体性都無を観じて本性無生を忍するを云い、自然無生忍とは、依他の諸法の因縁生なるを観じて自然生なしと忍するを云い、煩悩苦垢無生忍とは又惑苦無生忍と名づけ、諸法の実性たる真如法性は無為に安住して一切の雑染と相応せず、本来寂静なりと忍するを云う。即ち三無性の理を忍知するを無生忍と名づけたるなり。但し「旧華厳経巻25十地品」に、菩薩は第七地に住し、三業清浄にして無相行を修し、無生法忍を得て諸法を照明すと云い、又「仁王般若波羅蜜経巻上菩薩行品」に、伏忍信忍順忍無生忍寂滅忍の五忍の説を出し、前四忍に上中下の三品、後の寂滅忍に上下の二品ありとし、信忍の三品を初二三地、順忍の三品を四五六地、無生忍の三品を七八九地に配せるは共に一種の異説なりというべし。又懐観の「釈浄土群疑論巻6」に諸経の異説を挙げ、「仁王般若には無生法忍は七八九地に在りと説き、諸論の中には無生法忍は初地に在り、或いは忍位に在りと説き、菩薩瓔珞経には無生法忍は十住の位に在りと説き、華厳経には無生法忍は十信の位に在りと説き、占察経には無生法忍は十信の前の凡夫位に在りと説く。(中略)無生忍に六位あり、一に聞慧は十信の前に在り、二に生勝解は十信の後に在り、三に思慧は十住の後に在り、四に修慧は煗の後に在り、五に証得は初地に在り、六に相続は八地に在り、此れ因中に在り。仏果は円満す」と云い、又「法華経玄賛巻9」にも、本論(瑜伽)に初地と説くは初得の位に拠る。長時は七地に在り、相続は八地に在り、円満は仏地に在りと云えり。又「大品般若経巻22」、「入楞伽経巻3」、「大智度論巻15」、「顕揚聖教論巻6」、「成唯識論巻8」、「同述記巻9本」、「大乗義章巻12、14」、「中観論疏巻4」、「浄土論巻上」等に出づ。<(望)
  無生法忍(むしょうほうにん):生滅を遠離した真如実相の理体を無生法といい、真智によりこの理に安住して不動なることを無生法忍という。
爾時雖觀諸法生滅。亦入無相門。何以故一切法離諸相。智者之所解。如是觀時繫心緣中。隨順諸法相。不念身受心法。知是四法無處所。是為內法念處。外法念處內外法念處亦如是。 爾の時、諸法の生、滅を観ると雖も、亦た無相の門に入る。何を以っての故に、一切の法の、諸相を離るるは、智者の解する所なればなり。是の如く観る時、心を縁中に繋けて、諸法の相に随順すれば、身受心法を念ぜずして、是の四法の処する所無きを知る。是れを内法の念処と為す。外法の念処、内外法の念処も亦た是の如し。
爾の時、
諸の、
『法』の、
『生、滅』を、
『観ていながら!』、
亦た、
『無相の門』に、
『入ることになる!』。
何故ならば、
『智者』は、こう理解するからである、――
一切の、
『法』は、
『諸相(生、住、滅相)』を、
『離れている!』、と。
是のように、観る時、――
『心』を、
『縁』中に、
『繋け!』、
諸の、
『法の相(実相)』に、
『随順しながら!』、
而も、
『身、受、心、法』を、
『念じない!』。
何故ならば、
是の、
『四法』の、
『処在する!』所が、
『無いからである!』。
是れを、
『内法』の、
『念処』と、
『称する!』。
『外法の念処』も、
『内外法の念処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
四正懃四如意足。亦如是應分別觀空無處所。 四正懃、四如意足も、亦た是の如く、応に分別して、空にして、処する所無きを観るべし。
『四正懃、四如意足』も、
是のように、
『分別して!』、こう観ねばならない、――
『空であり!』、
『処在する!』所が、
『無い!』、と。
云何為菩薩所行五根。菩薩摩訶薩。觀五根修五根。 云何が、菩薩所行の五根と為す。菩薩摩訶薩は、五根を観て、五根を修む。
『菩薩の行う!』所の、         ――摩訶衍の五根・五力――
『五根』とは、
何のようなものか?――
『菩薩摩訶薩』は、
『五根』を、
『観察しながら!』、
而も、
『五根』を、
『修める!』。
  五根(ごこん):聖道を増上するに用ある五種の根。『大智度論巻15下注:五根』参照。
  五力(ごりき):聖道を発生する五種の力用。『大智度論巻15下注:五力』参照。
信根者。信一切法從因緣生顛倒妄見心生如旋火輪如夢如幻。信諸法不淨無常苦無我如病如癰如刺災變敗壞。 信根とは、『一切法は、因縁より生ずるに、顛倒して、心に生ずる、旋火輪の如く、夢の如く、幻の如きを妄見す』と信じ、『諸法は不浄、無常、苦、無我なること、病の如く、癰の如く、刺の如く、災変し敗壊す』と信ず。
『信根』とは、         ――摩訶衍の信根――
こう信じることである、――
一切の、
『法』は、
『因縁』より、
『生じる!』が、
譬えば、
『旋火輪のような!』、
『夢のような!』、
『幻のような!』ものが、
『心』に、
『生じて!』、
是れを、
『法である!』と、
『顛倒して!』、
『妄見するのだ!』、と。
又、こう信じることである、――
諸の、
『法』は、
『不浄であり!』、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
『無我である!』ので、
譬えば、
『病のように!』、
『癰のように!』、
『刺のように!』、
『災』に、
『変じて!』、
『敗壊(腐爛)するのだ!』、と。
  (し):刺し傷。
  災変(さいへん):わざわい。自然の災。天災地変。
  敗壊(はいえ):やぶれくずれる。腐って爛れる。
  (む):不に同じ。
信諸法無所有如空拳誑小兒。信諸法不在過去不在未來不在現在。無所從來滅無所至。信諸法空無相無作不生不滅。無信相無相而信持戒禪定智慧解脫解脫知見。 『諸法の無所有なること、空拳もて小児を誑すが如し』と信じ、『諸法は過去に在らず、未来に在らず、現在に在らず、従来する所無く、滅して至る所無し』と信じ、『諸法は空、無相、無作、不生、不滅にして、信相無く、相無し』と信じて、而も『持戒、禅定、智慧、解脱、解脱知見』を信ず。
又、こう信じることである、――
諸の、
『法』は、
『無所有であり!』、
譬えば、
『空の拳』で、
『小児を誑すようなものだ!』、と。
又、こう信じることである、――
諸の、
『法』は、
『過去』にも、
『未来』にも、
『現在』にも、
『存在せず!』、
『生じる!』時には、
『来た処』が、
『無く!』、
『滅する!』時にも、
『去る処』が、
『無いのだ!』、と。
又、こう信じることである、――
諸の、
『法』は、
『空、無相、無作であり!』、
『不生、不滅であり!』、
『信相が無く!』、
『相も無い!』、と。
而も、
『持戒、禅定、智慧、解脱、解脱知見(=五分法身)』の、
『功徳』を、
『信じることである!』。
得是信根故不復退轉。以信根為首。善住持戒。住持戒已信心不動不轉。一心信。依業果報離諸邪見更不信餘語。但受佛法信眾僧。 是の信根を得るが故に、復た退転せず。信根を以って首と為せば、善く持戒に住し、持戒に住し已れば、信心は不動、不転なり。一心に、業に依る果報を信じて、諸の邪見を離れ、更に余の語を信ぜず、但だ仏法を受けて、衆僧を信ず。
是の、
『信根を得る!』が故に、
復た、
『退転することはない!』。
『信根』を、
『首とすれば!』、
『持戒』に、
『善く!』、
『住まり!』、
『持戒に住まれば!』、
『信心』は、
『動くこともなく!』、
『転じることもない!』。
『一心』に、
『業による!』、
『果報』を、
『信じて!』、
諸の、
『邪見』を、
『離れ!』、
更に、
『余の語』を、
『信じず!』、
但だ、
『仏法を受けて!』、
『衆僧』を、
『信じるのである!』。
住實道中直心柔軟能忍。通達無礙不動不壞得力自在。是名信根。 実道中に住して、直心柔軟にして、能く忍び、通達無礙、不動不壊にして、力の自在を得る、是れを信根と名づく。
『実の道』中に、
『住まって!』、
『直心(率直な心)』が、
『柔軟で!』、
『忍ぶことができ!』、
『通達して!』、
『無礙であり!』、
『動くこともなく!』、
『壊れることもなく!』、
『力』の、
『自在』を、
『得たならば!』、
是れを、
『信根』と、
『称する!』。
精進根者。晝夜常行精進。除卻五蓋攝護五根。諸深經法欲得欲知欲行欲誦欲讀乃至欲聞。若諸不善惡法起令疾滅。未生者令不生。未生諸善法令生。已生令增廣。亦不惡不善法亦不愛。善法得等精進。直進不轉得正精進。定心故名為精進根。 精進根とは、昼夜に常に精進を行じて、五蓋を除却し、五根を摂護して、諸の深経の法を得んと欲し、知らんと欲し、行ぜんと欲し、誦せんと欲し、読まんと欲し、乃至聞かんと欲して、若し諸の不善、悪法起らば、疾かに滅せしめ、未だ生ぜざれば、生ぜざらしめ、未だ生ぜざる諸の善法を生ぜしめ、已に生ぜしは、増広せしめ、亦た不善の法を悪まず、亦た善法も愛せず、等の精進、直進、不転を得て、正精進を得、心を定むるが故に名づけて、精進根と為す。
『精進根』とは、         ――摩訶衍の精進根――
『昼、夜』、
常に、
『精進を行って!』、
『五蓋』を、
『除いて!』、
『却()りぞけ!』、
『五根』を、
『摂(おさ)めて!』、
『護り!』、
諸の、
『深い経、法』を、
『得ようとし!』、
『知ろうとし!』、
『行おうとし!』、
『諳誦しようとし!』、
『読もうとし!』、
『乃至聞こうとして!』、
諸の、
『不善、悪法』が、
未だ、
『生じていなければ!』、
『生じさせず!』、
已に、
『生じていれば!』、
『疾かに除滅させ!』、
諸の、
『善法』が、
未だ、
『生じていなければ!』、
『生じさせ!』、
已に、
『生じていれば!』、
『増広させる!』が、
又、
『不善の法』を、
『悪まず!』、
亦た、
『善法』を、
『愛することはなく!』、
『心』に、
『等(平等)』の、
『精進、直進、不転』を、
『得!』、
『正精進』を、
『得て!』、
『心』を、
『定める!』が故に、
是れを、
『精進根』と、
『呼ぶ!』。
  除却(じょきゃく):除きしりぞける。
  摂護(しょうご):取り締まって乱れないようにまもる。
  (とう):又平等とも称す。差別無く、均斉せる心の状態。『大智度論巻19下注:平等』参照。
  平等(びょうどう):梵語samaの訳。巴梨語同じ。均平斉等の意。差別に対す。即ち人法等の性の均平斉等にして差別なきを云う。蓋し諸経論に平等に関して説述せるもの甚だ多し。就中、「雑阿含巻20」には四姓平等を説き、「大王、是の如き四姓は悉く皆平等なり、何の差別かあらん。当に知るべし、大王、四種姓は皆悉く平等にして、勝如差別の異あることなし」と云えり。是れ仏陀が印度吠陀以来の制なりし婆羅門等の四姓の優劣差別を否定し、悉く平等なりと認められたることを伝うるなり。又「新華厳経巻53離世間品」には広く十種平等の説を出し、即ち菩薩あり、一切衆生平等、一切法平等、一切刹平等、一切深心平等(旧華厳経には一切仏乗平等)、一切善根平等、一切菩薩平等(旧華厳経には一切菩提平等)、一切願平等、一切波羅蜜平等、一切行平等、一切仏平等の十種平等に安住せば、一切諸仏の無上平等の法を得んと云い、「同巻30十廻向品」に業平等、報平等、身平等、方便平等、願平等、一切衆生平等、一切刹平等、一切行平等、一切智平等、三世諸仏平等の十種の平等を説き、又「大方等大集経巻50」に、衆生平等、法平等、清浄平等、布施平等、戒平等、忍平等、精進平等、禅平等、智平等、一切法平等の十種の平等を具すれば、速かに無畏の大城に入ることを得べしと云えり。此等は広く人法国土修行乃至諸仏等は悉く皆平等無別なるの理を説けるものなり。又「大般若経巻570平等品」には諸法の自性平等なることを説き、「諸法は自性寂静不生不滅なりと等観するが故に平等と名づく。一切の煩悩虚妄分別は自性寂静不生不滅なるが故に平等と名づく。名相分別は自性寂静不生不滅なるが故に平等と名づく。諸の顛倒を滅し、攀縁を起さざるが故に平等と名づく。能く心を縁じて無明有愛を滅すれば、即ち倶に寂静にして癡愛滅するが故に、復た我及び我所に執著せざるが故に平等と名づく。我我所の執永く滅除するが故に、名色寂静なるが故に平等と名づく。名色滅するが故に、辺見生ぜざるが故に平等と名づく。断常滅するが故に、身見寂静なるが故に平等と名づく」と云い、「新華厳経巻37十地品」に、「謂わゆる一切の法は無相の故に平等なり、無体の故に平等なり、無生の故に平等なり、無成の故に平等なり、本来清浄の故に平等なり、無戯論の故に平等なり、無取捨の故に平等なり、寂静の故に平等なり、幻の如く夢の如く、影の如く響の如く、水中の月の如く、鏡中の像の如く、焔の如く化の如きが故に平等なり、有無不二の故に平等なり」と云い、又「大乗起信論」に、「一切の諸法は唯妄念に依りて而も差別あり、若し妄念を離れば則ち一切境界の相んし。是の故に一切法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして変異あることなし」と云えり。是れ一切法は自性寂静無生無滅にして、言説の相を離れ、心念の相を離るるが故に、畢竟平等なるの意を明にせるものなり。又「大宝積経巻60」に、「此の生滅は即ち無生滅なり。無生滅なるを以って是れ則ち平等なり。菩薩此の平等を修すれば便ち能く無上菩提を証得せん」と云い、「大乗荘厳経論巻12」に、「無遍とは是れ布施心平等なり。諸の求者に於いて愛憎に堕せるが故なり。無犯とは是れ持戒心平等なり。乃至微細の戒行も亦た欠かざるが故なり。遍忍とは是れ忍辱心平等なり、普く勝劣の衆生に於いて皆能く忍ぶが故なり。善利を起すとは是れ精進心平等なり、一切の善根を起し、及び自他一切種の利を起さんが為に而も勤行するが故なり。禅とは亦た是れ学定心平等なり、菩薩定を修し、亦た諸善根を起すが為に、及び諸の利益を起すが為に而も精進するが故なり、無分別とは是れ修慧心平等なり、初発心より乃至究竟まで所行の諸度皆三輪清浄なるが故なり。是れを諸度心平等と名づく」と云い、「仏地経論巻5」に、菩薩は十地の修行に於いて諸相増上喜愛平等法性、一切領受縁起平等法性、遠離異相非相平等法性、弘済大慈平等法性、無待大悲平等法性、随諸衆生所楽示現平等法性、一切衆生敬受所説平等法性、世間寂静皆同一味平等法性、世間諸法苦楽一味平等法性、修殖無量功徳究竟平等法性の十平等性を証得し、以って平等性智を成ずと云えるは、主として菩薩の修行に関する平等の義を説けるものというべし。又「大品般若経巻26平等品」に、「今諸の凡夫の人は平等なり、諸の須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢、辟支仏、諸の菩薩摩訶薩、諸仏及び聖法は皆平等なり。是れ一平等にして二なし」と云い、「大般涅槃経巻29師子吼菩薩品」に、「衆生の仏性は不一不二なり。諸仏と平等にして猶お虚空の如し、一切の衆生同じく共に之あり」と云い、「大方等大集経巻45」に、「如来は我れ及び諸の衆生に於いて平等無二なり」と云えるは、凡聖一切皆平等にして差別なきを説けるものなり。又「大品般若経巻26平等品」には、仏法僧三宝の平等なるを明し、「旧華厳経巻10夜摩天宮菩薩説偈品」には、心、仏、衆生の三差別なきを説き、「大般若経巻409、485」には、般若波羅蜜と三摩地と菩薩の三平等なるを敍し、「大日経巻1」には身語意三密の平等を説き、又「大智度論巻100」には平等に法等、衆生等の二あることを明し、「菩薩は是の二等中に住して一切の法を観ずるに皆平等なり。衆生等の中に住して怨親憎愛皆悉く平等にして福徳門を開き諸悪趣を閉づ。法等中に住して一切法の中に於いて憶想分別著心取相皆除滅す。但だ諸法の空を見る。空は即ち是れ平等なり」と云い、其の他、仏を平等覚、自性法身を平等法身、唯有一乗の仏慧を平等大慧、従空入仮観を平等観、三密の平等無差を三平等観、怨親を同視するを怨親平等と名づくる如き、其の用例甚だ多し。又「勝天王般若波羅蜜経巻4」、「大般若経巻537」、「宝雨経巻9」、「法華経巻1、3」、「新華厳経巻32」、「大宝積経巻39、59、77、87」、「持心梵天所問経巻3」、「大般涅槃経巻30」、「大方等大集経巻3、17、26、51」、「菩薩瓔珞本業経巻上」、「倶舎論巻4、29」、「大智度論巻10、54、78、82、95」、「十住毘婆沙論巻8」、「中論巻4」、「大乗荘厳経論巻3、8、13」、「法華論巻下」、「往生論」、「仏地経論巻3」、「往生論註」、「法華経文句巻8下」、「成唯識論述記巻5本」等に出づ。<(望)
念根者。菩薩常一心念。欲具足布施持戒禪定智慧解脫。欲淨身口意業。諸法生滅住異。智中常一心念。一心念苦集盡道。一心念分別根力覺道禪定解脫生滅入出。一心念諸法不生不滅無作無說。為得無生智慧具足諸佛法故。一心念不令聲聞辟支佛心得入。常念不忘。如是諸法甚深清淨觀行得故。得如是自在念。是名念根。 念根とは、菩薩は、常に一心に念じて、布施、持戒、禅定、智慧、解脱を具足せんと欲し、身口意業を浄めんと欲し、諸法の生滅、住異を智中に常に一心に念じて、苦、集、尽、道を一心に念じ、根、力、覚、道、禅定、解脱、生滅、入出を分別せんと一心に念じ、諸法の不生、不滅、無作、無説を一心に念じ、無生智を得て、諸仏の法を具足せんが為めの故に、声聞、辟支仏の心をして、入るを得ざらしめんと一心に念じ、是の如き諸法の甚深清浄なる観、行、得を常に念じて忘れざるが故に、是の如き自在の念を得る、是れを念根と名づく。
『念根』とは、         ――摩訶衍の念根――
『菩薩』は、
常に、
『一心に念じて!』、
『布施、持戒、禅定、智慧、解脱』を、
『具足したい!』と、
『思い!』、
『身、口、意業』を、
『浄めたい!』と、
『思い!』、
諸の、
『法』の、
『生、滅』や、
『住(変化しない!)、異(変化する!)』を、
『智』中に、
常に、
『一心に念じて!』、
『苦、集、滅、道』を、
『証得しよう!』と、
『一心に念じ!』、
『五根、五力、七覚分、八正道』、
『禅定、解脱、生滅、入出』を、
『分別しよう!』と、
『一心に念じ!』、
諸の、
『法』の、
『不生、不滅、無作、無説』を、
『一心に念じ!』、
『無生智』を、
『得て!』、
『諸仏の法』を、
『具足する!』為めの故に、
『声聞、辟支仏の心』が、
『入らない!』ように、
『一心に念じ!』、
是のような、
諸の、
『法』の、
『甚だ深く、清浄な!』、
『観察、修行、証得』を、
常に、
『念じて!』、
『忘れない!』が故に、
是のような、
『自在の念』を、
『得る!』。
是れを、
『念根』と、
『称する!』。
定根者菩薩善取定相。能生種種禪定。了了知定門。善知入定善知住定善知出定。於定不著不味不作依止。善知所緣善知壞緣。自在遊戲諸禪定。亦知無緣定不隨他語。不專隨禪定。行自在出入無礙。是名為定根。 定根とは、菩薩は、善く定の相を取って、能く種種の禅定を生じ、了了に定門を知り、善く定に入るを知り、善く定に住するを知り、善く定を出づるを知るも、定に於いて著せず、味わわず、依止と作さず。善く所縁を知り、善く縁を壊るを知り、自在に諸の禅定に遊戯して、亦た無縁の定を知りて、他の語に随わず、禅定に随うを専らとせず、自在の出入無礙なるを行ずる、是れを名づけて、定根と為す。
『定根』とは、         ――摩訶衍の定根――
諸の、
『菩薩』は、
善く、
『定の相』を、
『取って!』、
種種の、
『禅定』を、
『生じさせ!』、
了了に、
『定の門』を、
『知って!』、
善く、
『定に入る!』ことを、
『知り!』、
善く、
『定に住まる!』ことを、
『知り!』、
善く、
『定を出る!』ことを、
『知りながら!』、
而も、
『定』を、
『著することもなく!』、
『味わうこともなく!』、
『依止と作すこともなく!』、
善く、
『定』の、
『縁じる!』所を、
『知り!』、
善く、
『定』中に於いて、
『縁を壊(やぶ≒中止)る!』ことを、
『知って!』、
諸の、
『禅定』を、
『自在に遊戯し!』、
亦た、
『無縁の(何も縁じない)!』、
『定』を、
『知っている!』ので、
故に、
『他の語』に、
『随わず!』、
専ら、
『禅定のみ!』に、
『随うのではなく!』、
諸の、
『禅定の出、入』を、
『自在に行って!』、
『無礙である!』。
是れを、
『定根』と、
『称する!』。
慧根者。菩薩為盡苦聖智慧成就。是智慧為離諸法為涅槃。以智慧觀一切三界無常。為三衰三毒火所燒觀已於三界中。智慧亦不著。一切三界。轉為空無相無作解脫門。一心為求佛法如救頭然。 慧根とは、菩薩の、苦を尽くさんが為めの聖智慧の成就するなり。是の智慧は、諸法を離れんが為め、涅槃の為めにして、智慧を以って、一切の三界の無常にして、三衰、三毒の火に焼かるるを観、観已りて、三界中の智慧にも、亦た著せず。一切の三界を転じて、空、無相、無作解脱門と為し、一心に仏法を求めんが為めに、頭然を救うが如くす。
『慧根』とは、         ――摩訶衍の慧根――
『菩薩』の、
『苦を尽す!』為めの、
『聖智慧』が、
『成就することである!』。
是の、
『智慧』は、
諸の、
『法』を、
『離れる為めに!』、
亦た、
『涅槃の為めに!』、
『智慧』で、
こう観るが――
一切の、
『三界』は、
『無常であり!』、
『三衰(老、病、死)、三毒(貪、瞋、癡)の火』に、
『焼かれている!』、と。
観てしまえば、――
是の、
『三界』中に於いては、
亦た、
『智慧』にも、
『著することがない!』ので、
一切の、
『三界』を、
『転じて!』、
『空、無相、無作の解脱門である!』と、
『見るのであり!』、
『一心』に、
『仏の法』を、
『求めて!』、
譬えば、
『頭上の燃火』を、
『救うようにするのである!』。
  (い):もって。以に同じ。
  頭然(づねん):頭上の火。
是菩薩智慧無能壞者。於三界無所依。於隨意五欲中心常離之。慧根力故。積聚無量功德。於諸法實相。利入無疑無難。於世間無憂。於涅槃無喜。得自在智慧。故名為慧根。 是の菩薩の智慧は、能く壊る者無く、三界に於いて所依無く、随意の五欲中に於いて、心は常に之を離れ、慧根の力の故に、無量の功徳を積聚し、諸法の実相に於いて、利く入りて疑無く、難無く、世間に於いて、憂うること無く、涅槃に於いて喜ぶこと無く、自在の智慧を得るが故に、名づけて慧根と為す。
是の、
『菩薩の智慧』は、
『壊ることのできる!』者が、
『無く!』、
亦た、
『三界』には、
是の、
『智慧』の、
『依拠する!』所が、
『無い!』ので、
『随意の五欲』中に於いても、
『心』は、
常に、
是の、
『智慧』を、
『離れている!』が、
『慧根の力』の故に、
無量の、
『功徳』を、
『積集して!』、
諸の、
『法』の、
『実相』に、
『利く!』、
『入って!』、
『法』を、
『疑、難する!』ことが、
『無く!』、
『世間』を、
『憂う!』ことも、
『無く!』、
『涅槃』を、
『喜ぶ!』ことも、
『無い!』という、
『自在』の、
『智慧』を、
『得る!』が故に、
是れを、
『慧根』と、
『呼ぶのである!』。
  積聚(しゃくじゅう):積んで集める。積集。
菩薩得是五根。善知眾生諸根相。知染欲眾生根。知離欲眾生根。知瞋恚眾生根。亦知離瞋恚眾生根。知愚癡眾生根。亦知離愚癡眾生根。知欲墮惡道眾生根。知欲生人中眾生根。知欲生天上眾生根。知鈍眾生根。知利眾生根。知上中下眾生根。知罪眾生根。知無罪眾生根。知逆順眾生根。知常生欲界色界無色界眾生根知厚善根薄善根眾生根。知正定邪定不定眾生根。知輕躁眾生根。知持重眾生根。知慳貪眾生根。知能捨眾生根。知恭敬眾生根。知不恭敬眾生根。知淨戒不淨戒眾生根。知瞋恚忍辱眾生根。知精進懈怠眾生根。知亂心攝心愚癡智慧眾生根。知無畏有畏眾生根。知增上慢不增上慢眾生根。知正道邪道眾生根。知守根不守根眾生根。知求聲聞眾生根。知求辟支佛眾生根。知求佛道眾生根。於知眾生根中。得自在方便力故。名為知根。 菩薩は、是の五根を得て、善く衆生の諸根の相を知り、染欲の衆生の根を知り、離欲の衆生の根を知り、瞋恚の衆生の根を知り、亦た瞋恚を離るる衆生の根を知り、愚癡の衆生の根を知り、亦た愚癡を離るる衆生の根を知り、悪道に堕ちんと欲する衆生の根を知り、人中に生ぜんと欲する衆生の根を知り、天上に生ぜんと欲する衆生の根を知り、鈍なる衆生の根を知り、利なる衆生の根を知り、上中下の衆生の根を知り、罪の衆生の根を知り、無罪の衆生の根を知り、逆順する衆生の根を知り、常に欲界、色界、無色界に生ずる衆生の根を知り、厚き善根と、薄き善根の衆生の根を知り、正定、邪定、不定の衆生の根を知り、軽躁の衆生の根を知り、持重の衆生の根を知り、慳貪の衆生の根を知り、能く捨つる衆生の根を知り、恭敬する衆生の根を知り、恭敬せざる衆生の根を知り、浄戒と不浄戒の衆生の根を知り、瞋恚と忍辱の衆生の根を知り、精進と懈怠の衆生の根を知り、乱心と摂心、愚癡と智慧の衆生の根を知り、無畏と有畏の衆生の根を知り、増上慢と増上慢ならざる衆生の根を知り、正道と邪道の衆生の根を知り、根を守ると根を守らざるとの衆生の根を知り、声聞を求むる衆生の根を知り、辟支仏を求むる衆生の根を知り、仏道を求むる衆生の根を知り、衆生の根を知る中に於いて、自在の方便力を得るが故に、名づけて知根と為す。
『菩薩』は、
是の、
『五根を得て!』、
善く、
『衆生』の、
『諸根の相』を、
『知る!』。
謂わゆる、
『染欲』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『離欲』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『瞋恚』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『瞋恚を離れた!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『愚癡』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『愚癡を離れた!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『悪道に堕ちようとする!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『人中に生じようとする!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『天上に生じようとする!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『鈍』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『利』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『上、中、下』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『罪』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『罪の無い!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『三界を逆、順する!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『常に欲界、色界、無色界に生じようとする!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『厚い善根、薄い善根』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『正定、邪定、不定』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『軽躁』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『持重(慎重)』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『慳、貪』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『捨てることのできる!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『恭敬する!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『恭敬しない!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『浄戒、不浄戒』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『瞋恚、忍辱』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『精進、懈怠』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『乱心、摂心、愚癡、智慧』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『無畏、有畏』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『増上慢、増上慢でない!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『正道、邪道』の、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『根を守る、根を守らない!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『声聞を求める!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『辟支仏を求める!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『仏道を求める!』、
『衆生の根』を、
『知り!』、
『衆生の根』を、
『知る!』中に、
『自在の方便力』を、
『得る!』が故に、
是れを、
『知()根』と、
『呼ぶ!』。
  持重(じじゅう):用心深い/慎重/浮薄でない( prudent )。
菩薩行是五根增長。能破煩惱度眾生得無生法忍。是名五力。 菩薩は、是の五根を行じて、増長すれば、能く煩悩を壊りて、衆生を度し、無生法忍を得れば、是れを五力と名づく。
『菩薩』が、
是の、
『五根』を、
『行いながら!』、
『増長すれば!』、
『煩悩を壊って!』、
『衆生』を、
『度することができ!』、
『無生法忍』を、
『得る!』。
是れを、
『五力』と、
『称する!』。
復次天魔外道不能沮壞。是名為力。 復た次ぎに、天魔、外道の沮壊する能わざる、是れを名づけて力と為す。
復た次ぎに、
『天魔、外道』に、
『妨害されず!』、
『破壊されない!』、
『根』は、
是れを、
『力』と、
『称する!』。
  沮壊(そえ):阻止・破壊。
七覺分者。菩薩於一切法不憶不念。是名念覺分。一切法中求索善法不善法無記法不可得。是名擇法覺分。不入三界破壞諸界相。是名精進覺分。於一切作法不生著樂。憂喜相壞故是名喜覺分。於一切法中。除心緣不可得故。是名除覺分。知一切法常定相不亂不定。是名定覺分。於一切法不著不依止。亦不見。是捨心是名捨覺分。菩薩觀七覺分空如是。 七覚分とは、菩薩は、一切法に於いて、憶せず、念ぜず、是れを念覚分と名づく。一切法中に善法、不善法、無記法を求索して不可得なり、是れを択法覚分と名づく。三界に入らずして、諸の界相を破壊す、是れを精進覚分と名づく。一切の作法に於いて、著、楽を生ぜず、憂、喜の相の壊るるが故なり、是れを喜覚分と名づく。一切法中に於いて、心縁を除く、不可得なるが故なり、是れを除覚分と名づく。一切法の常に定相なるを知りて、乱れず、定まらず、是れを定覚分と名づく。一切法に於いて、著せず、依止せず、亦是の捨心なることも見ず、是れを捨覚分と名づく。菩薩は、七覚分を観るに、空なること是の如し。
『七覚分』とは、         ――摩訶衍の七覚分――
『菩薩』は、
一切の、
『法』を、
『憶、念しない!』。
是れを、
『念覚分』と、
『称する!』。
一切の、
『法』中に、
『善、不善、無記の法』を、
『求索した!』が、
『認められない!』。
是れを、
『択法覚分』と、
『称する!』。
諸の、
『界の相』を、
『三界』に、
『入らない!』ことで、
『破壊する!』。
是れを、
『精進覚分』と、
『称する!』。
一切の、
『作法(有為法)』に、
『著』や、
『楽』を、
『生じない!』、
何故ならば、
『憂、喜の相』は、
『壊れているからである!』。
是れを、
『喜覚分』と、
『称する!』。
一切の、
『法』中に、
『心』が、
『縁じる!』ことを、
『除いた!』、
何故ならば、
『縁』は、
『認められないからである!』。
是れを、
『除(軽安)覚分』と、
『称する!』。
一切の、
『法』は、
『常に定まった!』、
『相である!』と、
『知って!』、
『心』が、
『乱れることもなく!』、
『定まることもない!』。
是れを、
『定覚分』と、
『称する!』。
一切の、
『法』に、
『著することもなく!』、
『依止することもない!』が、
是れが、
『捨心である!』と、
『見ることもない!』。
是れを、
『捨覚分』と、
『称する!』。
『菩薩の観る!』、
『七覚分』が、
『空である!』のは、
『是の通りである!』。
  七覚分(しちかくぶん):菩提に順趣する七種の法の意。即ち念、択法、精進、喜、軽安、定、捨を云う。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  (おく):常に思う。忘れない。常に意中に在るを謂う。
  (ねん):心にかける。常に思う。心に粘り着いて離れない。思いめぐらす。
  求索(ぐさく):探し求める。
  作法(さほう):◯梵語 karaNa の訳、行為( the act of making, doing, producing, effecting )、行うこと/造ること/成し遂げること/引き起こすこと( doing, making, effecting, causing )の義。又行為, 事, 事業, 令作, 作, 作法, 具, 成, 成所作, 成辨, 所作, 所化, 時間, 立, 能作, 造作等に訳す。◯梵語 saMskRta- dharma, kRtaka の訳、[材料から]造られた物/被創造物/人造物( Thing that are made; created things; artificial things )の義。尚お有為法 saMskRta- dharma の如し。
  作法(さほう):法を作為するの意。即ち受戒、捨戒、懺悔、祈願等の時、所定の法によりて軌式を施作するを云う。「毘尼母経巻2」に、「応止羯磨とは、諸の比丘皆集まるに但だ所作不如法にして、応に羯磨作法すべきに羯磨作せず、応に自作法すべきに自作せず。衆中に毘尼を持し、行清浄なるものあり、説いて言わく、此れは非法非律なり、是れは不応作なりと。即ち止めて作さず、是れを止羯磨と名づく」と云い、「南海寄帰内法伝巻2結浄地法」の章に、「旧の触処に至らば便ち浄を為すなり。然るに此れ宿を経るを得ざれば、即ち須く作法すべきなり」と云い、「大日経疏巻10」に、「結界に由るが故に、乃至諸の持明も亦た破壊すること能わず。猶お比丘の結界して法事を作すに、界外に在る比丘の作法すと雖も、障破すること能わざるが如きなり」と云い、「大方広仏華厳経疏巻27」に、「懺に二種あり、若し遮罪を犯ぜば、先づ教に依りて作法して之を悔すべし」と云い、又「四分律行事鈔資持記巻上三之二」に、「捨戒の中に総じて四の捨あり、一に作法捨、二に命終捨、三に二形生、四に断善根なり。此れは作法の一種を明す」と云える皆即ち其の例なり。又真言家に於いては、加持祈祷供養等を修するに用うる作法を明かせるもの甚だ多し、即ち「阿婆縛抄」に出せる受地作法、五色絲、護作法、伝法作法、仏経供養作法、開眼作法、印仏作法、食法作法、洗浴作法、御衣木加持作法、妊者帯加持作法、浴湯加持作法、衣等加持作法の如き其の一例なり。<(望)
  作法(さほう):梵語羯磨 karma、巴梨語 kamma の訳。身口意に於ける作為、奉業なり。<(丁)
  作法(さほう)出家修行者に対して、日常の行、住、坐、臥、必ず須く遵守すべき所の礼法を言う。或いは受戒、捨戒、懺悔、祈願等の儀式の中に規定せらるる軌式方法を指す。行法の中に、婦人或いは酔者有る道路に於いて行かず、行走時に須く筆直にして、且つ前方を正視すべきが如く、坐、臥、食に於けるに至るまで、亦た一定の礼法有り。亦た儀式の中に於いても、亦た規定の作法有り、即ち此の特定の作法有るに因り、始めて能く儀式をして順利進行せしむるは、此れ即ち僧団の行事中の羯磨作法なり。「南海寄帰内法伝巻2結浄地法章」に、「旧の触処に至らば、便ち浄を為すなり。然るに此れ宿を経るを得ざれば、即ち須く作法すべきなり」と云い、「大方広仏華厳経疏巻27」に、「若し遮罪を犯ぜば、先づ当に教に依りて作法し、之を悔やむべし」と云える是れなり。又「毘尼母経巻2」、「大日経疏巻10」、「四分律行事鈔資持記巻上三之二」等に出づ。<(佛)
  除覚分(じょかくぶん):梵語 prazrabdhi-saMbodhyaNga の訳、又軽安覚支とも訳す。梵 prazrabdhi は信頼( trust, confidence )の義、心に信頼 confidence /柔軟 pliancy /静安 calm を得ること。
問曰。此七覺分何以略說。 問うて曰く、此の七覚分は、何を以ってか、略説する。
問い、
此の、
『七覚分』は、
何故、
『略説したのですか?』。
答曰。七覺分中。念慧精進定。上已廣說。三覺今當說。 答えて曰く、七覚分中の念、慧、精進、定は、上に已に広説せり。三覚は、今当に説くべし。
答え、
『七覚分』中の、
『念、慧(択法)、精進、定覚分』は、
上に、
『已に、広説した!』が、
『三覚分(喜、除、捨覚分)』は、
今、
『説かねばならぬ!』。
菩薩行喜覺分。觀是喜非實。何以故。是喜從因緣生。作法有法無常法可著法。若生著是無常相。變壞則生憂。凡夫人以顛倒故心著。若知諸法實空。是時心悔我則受虛誑。如人闇中飢渴所逼食不淨物。晝日觀知乃覺其非。若如是觀。於實智慧中生喜是為真喜。 菩薩は、喜覚分を行じて、是の喜の非実なるを観る。何を以っての故に、是の喜は、因縁より生ずる作法、有法、無常の法、可著の法にして、若し著を生ずれば、是の無常相は変壊して、則ち憂を生ずればなり。凡夫人は、顛倒を以っての故に心に著するも、若し諸法に実空を知らば、是の時、心に悔ゆるらく、『我れは、則ち虚誑を受けたり』、と。人の闇中に飢渴に逼られ、不浄物を食うも、昼日に観知して、乃ち其の非なるを覚るが如し。若し是の如く観れば、実の智慧中に於いて、喜を生じ、是れを真の喜と為す。
『菩薩』は、         ――摩訶衍の喜覚分――
『喜覚分』を、
『行う!』時、
是の、
『喜は実でない!』と、
『観る!』。
何故ならば、
是の、
『喜』は、
『作法(有為法)、有法であり!』、
『無常の法であり!』、
『可著の法であり!』、
若し、
是の、
『喜』に於いて、
『著』を、
『生じれば!』、
是の、
『無常の相』が、
『変壊する!』時、
則ち、
『憂』を、
『生じるからである!』。
『凡夫人』は、
『顛倒』の故に、
是の、
『喜』に於いて、
『心』が、
『著する!』が、
若し、
諸の、
『法』は、
『実の空である!』と、
『知れば!』、
是の時、
『心』は、こう悔ゆるだろう、――
わたしは、
『虚誑の喜』を、
『受けていのだ!』、と。
譬えば、
『人』が、
『闇』中に、
『飢渴して!』、
『不浄物』を、
『食った!』が、
『昼の日』中に、
『観て知り!』、
ようやく、
『非(食ってはならないこと)』を、
『覚るようなものである!』。
若し、
是のように、観れば、――
『実の智慧』中に、
『喜』を、
『生じることになる!』ので、
是れを、
『真の喜』と、
『呼ぶ!』。
得是真喜先除身麤。次除心麤。然後除一切法相。得快樂遍身心中。是為除覺分。 是の真の喜を得て、先に身の麁なるを除き、次に心の麁なるを除き、然る後に一切の法相を除いて、快楽を遍き身心中に得る、是れを除覚分と為す。
是の、         ――摩訶衍の除覚分――
『真の喜』を、
『得て!』、
先に、
『身』の、
『麁相(粗大にして除き易き相)』を、
『除き!』、
次に、
『心』の、
『麁相』を、
『除いて!』、
その後、
一切の、
『法』の、
『相』を、
『除き!』、
遍く、
『身、心』中に、
『快楽』を、
『得る!』。
是れを、
『除覚分』と、
『称する!』。
  (そ):梵語 sthuula の訳、大きい/厚い/頑丈な( large, thick, stout, massive, bulky, big, huge )、粗大な/大まかな/ざらざらした( coarse, gross, rough )の義。
既得喜除捨諸觀行。所謂無常觀苦觀空無我觀生滅觀不生不滅觀有觀無觀非有非無觀。如是等戲論盡捨。何以故。無相無緣無作無戲論常寂滅。是實法相。 既に喜、除を得て、諸の観行を捨つ。謂わゆる無常観、苦観、空無我観、生滅観、不生不滅観、有観、無観、非有非無観にして、是れ等の如き戯論を尽く捨つ。何を以っての故に、無相、無縁、無作、無戯論にして、常寂滅なる、是れ実の法相なればなり。
既に、             ――摩訶衍の捨覚分――
『喜覚分、除覚分』を、
『得た!』ならば、
諸の、
『観行』を、
『捨てることになる!』。
謂わゆる、
『無常観、苦観、空無我観』、
『生観、滅観、不生不滅観』、
『有観、無観、非有非無観であり!』、
是れ等のような、
『戯論』を、
『尽く!』、
『捨てるのである!』。
何故ならば、
『無相、無縁、無作、無戯論、常寂滅の相』、
是れが、
実の、
『法の相だからである!』。
若不行捨便有諸諍。若以有為實則以無為虛。若以無為實則以有為虛。若以非有非無為實。則以有無為虛。於實愛著於虛恚憎。生憂喜處云何不捨。得如是喜除捨。七覺分則具足滿。 若し捨を行ぜざれば、便ち諸の諍有り。若し有を以って実と為さば、則ち無を以って虚と為し、若し無を以って実と為さば、則ち有を以って虚と為し、非有非無を以って実と為さば、則ち有無を以って虚と為す。実に於いて愛著し、虚に於いて恚憎するは、憂喜の生ずる処なり。云何が捨てざる。是の如き喜、除、捨を得れば、七覚分は則ち具足して満つ。
若し、
『捨』を、
『行わなければ!』、
諸の、
『諍(いさかい)』が、
『有ることになる!』、――
若し、
『有』を、
『実とすれば!』、
則ち、
『無』は、
『虚だということになり!』、
若し、
『無』を、
『実とすれば!』、
則ち、
『有』は、
『虚だということになり!』、
若し、
『非有非無』を、
『実とすれば!』、
則ち、
『有、無』は、
『虚だということになる!』が、
若し、
『実』を、
『愛著して!』、
而も、
『虚』を、
『恚憎すれば!』、
是の、
『実』や、
『虚』は、
『憂、喜を生じる!』、
『処となる!』が、
何故、
『捨てないのか?』。
是のような、
『喜、除、捨』を、
『得れば!』、
則ち、
『七覚分』を、
『満足したことになる!』。
  便(べん):たやすく。輒、即に同じ。
八聖道分者。正見正方便正念正定上已說。正思惟今當說。 八聖道分とは、正見、正方便、正念、正定は上に已に説けり。正思惟を、今当に説くべし。
『八聖道分(八正道)』とは、――      ――摩訶衍の八聖道分――
『正見、正方便、正念、正定』は、
上に、
『已に、説いた!』。
『正思惟』を、
今、
『説かねばならぬ!』。
  八聖道分(はっしょうどうぶん):聖道に八種の分有るの意。即ち正見、正思、正語、正業、正命、正方便、正念、正定を云う。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
菩薩於諸法空無所得住。如是正見中。觀正思惟相。知一切思惟皆是邪思惟。乃至思惟涅槃思惟佛皆亦如是。何以故。斷一切思惟分別。是名正思惟。 菩薩は、諸法の空、無所有に於いて、是の如き正見中に住して、正思惟の相を観て、一切の思惟は、皆是れ邪思惟にして、乃至涅槃を思惟し、仏を思惟するも、皆、亦た是の如きを知る。何を以っての故に、一切の思惟、分別を断ずれば、是れを正思惟と名づくればなり。
『菩薩』は、         ――摩訶衍の正思惟――
諸の、
『法』は、
『空であり!』、
『無所有である!』という、
是のような、
『正見』中に、
『住まって!』、
『正思惟』の、
『相』を、
『観察しながら!』、
こう知ることになる、――
一切の、
『思惟』は、
皆、
『邪思惟であり!』、
乃至、
『涅槃を思惟する!』ことも、
『仏を思惟する!』ことも、
皆、
『是の通りである!』、と。
何故ならば、
一切の、
『思惟、分別』を、
『断つ!』こと、
是れを、
『正思惟』と、
『称するからである!』。
諸思惟分別。皆從不實虛誑顛倒故有分別。思惟相皆無。菩薩住如是正思惟中。不見是正是邪。過諸思惟分別。是為正思惟。一切思惟分別皆悉平等。悉平等故心不著。如是等名為菩薩正思惟相。 諸の思惟、分別は、皆不実、虚誑、顛倒に従るが故有れば、分別、思惟の相は、皆無し。菩薩は、是の如き正思惟中に住して、是れは正、是れは邪なりと見ずして、諸の思惟、分別を過ぐる、是れを正思惟と為し、一切の思惟、分別は、皆悉く平等なり、悉く平等なるが故に心に著せず。是れ等の如きを名づけて、菩薩の正思惟の相と為す。
諸の、
『思惟、分別』は、
皆、
『不実、虚誑、顛倒』に、
『従う!』が故に、
『有る!』ので、
実の、
『分別』や、
『思惟』の、
『相』は、
皆、
『無い!』。
『菩薩』は、
是のような、
『正思惟中に住まって!』、
是れは、
『正である!』とも、
是れは、
『邪である!』と、
『見ず!』、
諸の、
『思惟、分別を過ぎた!』ものを、
『正思惟だ!』と、
『思い!』、
一切の、
『思惟、分別』は、
皆悉く、
『平等であり!』、
悉く、
『平等である!』が故に、
『心』の、
『著することがない!』。
是れ等のような、
『思惟、分別の相』、
是れが、
『菩薩』の、
『正思惟の相である!』。
正語者。菩薩知一切語皆從虛妄不實顛倒取相分別生是時菩薩作是念。語中無語相。一切口業滅知諸語實相。是為正語。是諸語皆無所從來。滅亦無所去。是菩薩行正語法。 正語とは、菩薩は、一切の語は、皆虚妄、不実、顛倒により、取相分別して生ずるを知り、是の時、菩薩の是の念を作さく、『語中に、語相無し』と。一切の口業滅して、諸語の実相を知りて、是れを正語と為せば、是の諸語は、皆従来する所無く、滅して亦た去る所無し、是れ菩薩の行ずる正語の法なり。
『正語』とは、         ――摩訶衍の正語――
『菩薩』は、こう知って、――
一切の、
『語』は、
皆、
『虚妄、不実、顛倒』が、
『相を取って!』、
『分別する!』が故に、
『生じるのである!』、と。
是の、念を作す、――
是のような、
『語』中には、
『語の相』が、
『無いのだ!』、と。
即ち、
一切の、
『口業』が、
『滅して!』、
諸の、
『語の実相』を、
『知る!』。
是れが、
『正語である!』。
是の、
諸の、
『語』には、
『生じる!』時には、
『来た処』が、
『無く!』、
『滅する!』時にも、
『去る処』が、
『無い!』。
是れが、
『菩薩』の、
『行う!』、
『正語の法である!』。
諸有所語皆住實相中說。以是故諸經說。菩薩住正語中能作清淨口業。知一切語言真相。雖有所說不墮邪語。 諸の有らゆる所語は、皆、実相中に住して説く。是を以っての故に、諸の経に説かく、『菩薩は正語中に住まりて、能く清浄の口業を作し、一切の語言の真相を知りて、所説有りと雖も、邪語に堕ちず』、と。
諸の、
有らゆる、
『菩薩の所語()』は、
『実相』中に、
『住まって!』、
『説かれる!』のであり、
是の故に、
諸の、
『経』には、こう説かれている、――
『菩薩』は、
『正語』中に、
『住まって!』、
『清浄な!』、
『口業』を、
『作すことができる!』。
『菩薩』は、
『一切の語言』の、
『真の相』を、
『知る!』が故に、
『所説が有っても!』、
『邪語』に、
『堕ちることはない!』、と。
  参考:『持世経巻4』:『持世。菩薩摩訶薩勤集正語。是人見一切語言虛妄不實從顛倒起。但憶想分別從眾因緣有。作是念。是語言相語言中不可得。滅一切語如實知一切口業。名為正語。是語言無所從來亦無所去。能如是見者。名為正語。是人爾時安住實相中。有所語言皆是正語。是故說安住正語中。是人得住第一清淨口業。亦知見諸口業相。亦通達一切語言。是人所說終不有邪。是故說名住於正語』
正業者。菩薩知一切業邪相虛妄無實皆無作相。何以故無有一業可得定相。 正業とは、菩薩の知るらく、『一切の業は邪相、虚妄、無実にして、皆作相無し。何を以っての故に、一業の定相を得べきもの有ること無ければなり』、と。
『正業』とは、         ――摩訶衍の正業――
『菩薩』は、こう知るからである、――
一切の、
『業の相』は、
『邪相であり!』、
『虚妄であり!』、
『無実であり!』、
皆、
『作相(作されたという相)』が、
『無い!』。
何故ならば、
『定相を得られる!』、
『業』は、
『一業も無いからである!』、と。
問曰。若一切業皆空。云何佛說布施等是善業。殺害等是不善業。餘事動作是無記業 問うて曰く、若し一切の業にして、皆空なれば、云何が仏の説きたまわく、『布施等は是れ善業なり。殺害等は是れ不善業なり。余の事の動作は是れ無記業なり』、と。
問い、
若し、
一切の、
『業』が、
皆、
『空ならば!』、
何故、
『仏』は、こう説かれたのですか?――
『布施』等は、
『善』の、
『業である!』。
『殺害』等は、
『不善』の、
『業である!』。
『余の事の動作』は、
『無記』の、
『業である!』、と。
答曰。諸業中尚無有一。何況有三。何以故。如行時已過則無去業。未至亦無去業。現在去時亦無去業。以是故無去業。 答えて曰く、諸業中には、尚お一有る無し。何に況んや三有るをや。何を以っての故に、行く時の如きは、已に過ぎたれば、則ち去業無く、未だ至らざれば、亦た去業無く、現在の去る時にも、亦た去業無し。是を以っての故に、去業無し。
答え、
諸の、
『業』中には、
尚お、
『一すら!』、
『無いのであるから!』、
況して、
『三(善、不善、無記)』の、
『有るはずがない!』。
何故ならば、
例えば、
『行く(去る)!』、
『時』は、
其の、
『時』が、
『已に!』、
『過ぎてしまえば!』、
則ち、
『去る業』が、
『無く!』、
其の、
『時』が、
『未だ!』、
『至らなくても!』、
亦た、
『去る業』が、
『無く!』、
其の、
『時』が、
『現在の去る時』でも、
『去る業』は、
『無い!』ので、
是の故に、
『過去、未来、現在』の、
『一切の時』に、
『去る業』が、
『無いからである!』。
  参考:『中論巻1観去来品』:『問曰。世間眼見三時有作。已去未去去時。以有作故當知有諸法。答曰 已去無有去  未去亦無去  離已去未去  去時亦無去  已去無有去已去故。若離去有去業。是事不然。未去亦無去。未有去法故。去時名半去半未去。不離已去未去故。問曰 動處則有去  此中有去時  非已去未去  是故去時去  隨有作業處。是中應有去。眼見去時中有作業。已去中作業已滅。未去中未有作業。是故當知去時有去。答曰 云何於去時  而當有去法  若離於去法  去時不可得  去時有去法。是事不然。何以故。離去法去時不可得。若離去法有去時者。應去時中有去。如器中有果。』
問曰。已過處則應無。未至處亦應無。今去處應是有去。 問うて曰く、已に過ぎたる処には、則ち応に無かるべし。未だ至らざる処にも、亦た応に無かるべし。今の去る処には、応に是の去有るべし。
問い、
已に、
『過ぎた処』には、
当然、
『去(去ること)』が、
『無く!』、
未だ、
『至らない処』にも、
当然、
『去』は、
『無い!』が、
今、
『去る処』に、
何故、
『去』が、
『無いのですか?』。
答曰。今去處亦無去。何以故。除去業今去處不可得。若除去業今去處可得者。是中應有去而不然。除今去處則無去業。除去業則無今去處。是相與共緣故。不得但言今去處有去。 答えて曰く、今去る処にも、去無し。何を以っての故に、去る業を除きて、今の去る処は得べからざればなり。若し去る業を除いて、今去る処を得べくんば、是の中に、応に去有るべし。而れども然らず。今去る処を除けば、則ち去る業無し。去る業を除けば、則ち今去る処無し。是れは相共縁を与うるが故に、但だ、『今去る処に、去有り』と言うを得ず。
答え、
『今去る処』にも、
『去』は、
『無い!』。
何故ならば、
『去る業』を、
『除けば!』、
『今去る処』が、
『認められないからである!』。
若し、
『去る業』を、
『除いても!』、
『今去る処』が、
『認められれば!』、
是の、
『処の中』にも、
『去( going )』が、
『有るはずである!』が、
而し、
『去る業』を、
『除けば!』、
『そういうことはない!』。
『今去る処』を、
『除けば!』、
則ち、
『去る業』は、
『無いことになり!』、
『去る業』を、
『除けば!』、
則ち、
『今去る処』は、
『無いことになる!』。
是れは、
『互に!』、
『共通の縁』を、
『与え合っている!』が故に、
但だ、こう言えないのである、――
『今去る処』には、
『去』が、
『有る!』と。
復次若今去處有去業。離去業應當有今去處。離今去處應當有去業。 復た次ぎに、若し今去る処に、去る業有らば、去る業を離れて、応当に今去る処有るべく、今去る処を離れて、応当に去る業有るべし。
復た次ぎに、
若し、
『今去る処』に、
『去る業』が、
『有れば!』、
『去る業』を、
『離れても!』、
当然、
『今去る処』が、
『有るはずであり!』、
『今去る処』を、
『離れても!』、
当然、
『去る業』が、
『有るはずである!』。
問曰。若爾者有何咎。 問うて曰く、若し爾らば、何なる咎か有らん。
問い、
若し、そうならば、――
何のような、
『咎』が、
『有るのですか?』。
答曰。一時有二去業故。若有二去業。則有二去者。何以故。除去者則無去。若除去者今去處不可得。無今去處故亦無去者。 答えて曰く、一時に二去業有るが故なり。若し二去業有らば、則ち二去者有らん。何を以っての故に、去者を除けば、則ち去無し。若し去者を除けば、今去る処は不可得なり。今去る処無きが故に、亦た去者無し。
答え、
『二去業( two acts of going )』が、
『一時に!』、
『有るからである!』。
若し、
『二去業』が、
『有れば!』、
則ち、
『二去者( two goers )』が、
『有ることになる!』。
何故ならば、
『去る者』を、
『除けば!』、
則ち、
『去』が、
『無いことになる!』ので、
若し、
『去る者』を、
『除けば!』、
則ち、
『今去る処( the place from where one is going )』が、
『認められず!』、
又、
『今去る処』の、
『無い!』が故に、
亦た、
『去る者』も、
『無いことになる!』。
復次不去者亦不去故無去業。若除去者不去者。更無第三去者。 復た次ぎに、去らざる者も、亦た去らざるが故に、去業無し。若し去る者と、去らざる者とを除けば、更に第三の去る者無し。
復た次ぎに、
『去らない者』も、
『去らない!』が故に、
『去る業』は、
『無い!』。
若し、
『去る者』と、
『去らない者』とを、
『除けば!』、
更に、
『第三の去者』は、
『無いだろう!』。
問曰。不去者不去應爾。去者何以故言不去。 問うて曰く、去らざる者の去らざること、応に爾るべし。去る者を、何を以っての故にか、去らずと言う。
問い、
『去らない者』が、
『去らない!』のは、
『その通りだろう!』。
『去る者』を、
何故、
『去らない!』と、
『言うのか?』。
答曰。除去業去者不可得。除去者去業不可得。如是等一切業空。是名正業。 答えて曰く、去る業を除けば、去る者は不可得、去る者を除けば、去る業は不可得なれば、是れ等の如き一切の業は空なればなり。是れを正業と名づく。
答え、
『去る業』を、
『除けば!』、
『去る者』は、
『認められない!』し、
『去る者』を、
『除けば!』、
『去る業』は、
『認められない!』ので、
是れ等のような、
一切の、
『業』は、
『空だからである!』。
是れを、
『正業』と、
『称する!』。
諸菩薩入一切諸業平等。不以邪業為惡。不以正業為善。無所作不作正業不作邪業。是名實智慧。即是正業。 諸の菩薩は、一切の諸業平等に入りて、邪業を以って悪と為さず、正業を以って善と為さず。所作無くして、正業を作さず、邪業を作さず、是れを実の智慧と名づくれば、即ち是れ正業なり。
諸の、
『菩薩』は、
一切の、
諸の、
『業』の、
『平等(平等性)』に、
『入って!』、
『邪業』を、
『悪』と、
『思わず!』、
『正業』を、
『善』と、
『思わず!』、
『作す!』所の、
『無くなる!』が故に、
『正業、邪業』を、
『作すということもない!』。
是れを、
『実の智慧』と、
『呼び!』、
即ち、
是れが、
『正業である!』。
復次諸法等中無正無邪。如實知諸業。如實知已不造不休。如是智人常有正業無邪業。是名為菩薩正業。 復た次ぎに、諸法の等中には、正無く、邪無く、如実の諸業を知り、如実に知り已りて、造らず、休まず。是の如き智人は、常に正業有りて、邪業無し。是れを名づけて、菩薩の正業と為す。
復た次ぎに、
諸の、
『法』の、
『平等中に入れば!』、
『正、邪』が、
『無くなって!』、
『如実』に、
諸の、
『業』を、
『知ることになり!』、
『如実に知れば!』、
諸の、
『業』を、
『造ることも、休むこともない!』。
是のような、
『智の人』は、
常に、
『正業が有って!』、
『邪業』は、
『無い!』。
是れを、
『菩薩』の、
『正業』と、
『称する!』。
正命者。一切資生活命之具悉正不邪。住不戲論智中不取正命不捨邪命。亦不住正法中。亦不住邪法中。常住清淨智中。入平等正命不見命不見非命。行如是實智慧。以是故名正命。 正命とは、一切の資生、活命の具は、悉く正にして邪にあらず。不戯論の智中に住すれば、正命を取らず、邪命を捨てず。亦た正法中に住せず、亦た邪法中にも住せず、常に清浄の智中に住して、平等の正命に入りて、命を見ず、非命を見ず、是の如き実の智慧を行ずれば、是を以っての故に、正命と名づく。
『正命』とは、
一切の、
『資生、活命の具』は、
悉く、
『正であって!』、
『邪ではない!』。
『不戯論』という、
『智』中に、
『住まれば!』、
則ち、
『正命を取ることもなく!』、
『邪命を捨てることもない!』。
亦た、
『正法中に住まることもなく!』、
『邪法中に住まることもなく!』、
常に、
『清浄』という、
『智』中に、
『住まって!』、
『平等』という、
『正命』に、
『入れば!』、
則ち、
『命( life )を見ることもなく!』、
『非命( non-life )を見ることもない!』。
是のような、
『実の智慧』を、
『行えば!』、
是の故に、
『正命』と、
『称する!』。
  資生(ししょう):生活のもとで。生活を助けること。
  活命(かつみょう):命を助けること。生活。
若菩薩摩訶薩。能觀是三十七品。得過聲聞辟支佛地。入菩薩位中。漸漸得成一切種智
大智度論卷第十九
若し菩薩摩訶薩、能く是の三十七品を観れば、声聞、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位中に入るを得、漸漸に一切種智を成ずるを得ん。
大智度論巻第十九
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『三十七品』を、
『観ることができれば!』、
則ち、
『声聞、辟支仏の地』を、
『過ぎて!』、
『菩薩の位』中に、
『入ることができ!』、
次第に、
『一切種智』を、
『成就することになるだろう!』。

大智度論巻第十九


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