問曰。何等是四念處。 |
問うて曰く、何等か、是れ四念処なる。 |
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答曰。身念處受心法念處。是為四念處觀四法四種。觀身不淨。觀受是苦。觀心無常。觀法無我。是四法雖各有四種。身應多觀不淨受多觀苦心多觀無常法多觀無我。 |
答えて曰く、心念処、受、心、法念処、是れを四念処と為し、四法を四種に観る。身を不浄なりと観、受は是れ苦なりと観、心は無常なりと観、法は無我なりと観る。是の四法には、各四種有りと雖も、身には、応に多く不浄を観、受には多く苦を観、心には多く無常を観、法には多く無我を観るべし。 |
答え、
『身念処』と、
『受念処』と、
『心念処』と、
『法念処』とが、
『四念処であり!』、
『四法( 身、受、心、法)』を、
『四種(不浄、苦、無常、無我)』に、
『観るのである!』、――
即ち、
『身』には、
『不浄』を、
『観!』、
『受』には、
『苦』を、
『観!』、
『心』には、
『無常』を、
『観!』、
『法』には、
『無我』を、
『観る!』。
是の、
『四法』は、
各に、
『四種』が、
『有る!』が、
『身』には、
『多く!』、
『不浄を観!』、
『受』には、
『多く!』、
『苦を観!』、
『心』には、
『多く!』、
『無常を観!』、
『法』には、
『多く!』、
『無我を観るのである!』。
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何以故。凡夫人未入道時。是四法中邪行起四顛倒。諸不淨法中淨顛倒。苦中樂顛倒。無常中常顛倒。無我中我顛倒。破是四顛倒故。說是四念處。破淨倒故說身念處。破樂倒故說受念處。破常倒故說心念處。破我倒故說法念處。以是故說四不少不多。 |
何を以っての故に、凡夫人は、未だ道に入らざる時、是の四法中に邪行して、四顛倒を起す。諸の不浄法中には浄の顛倒、苦中には楽の顛倒をし、無常中には常の顛倒をし、無我中には我の顛倒をす。是の四顛倒を破らんが故に、是の四念処を説く。浄倒を破らんが故に身念処を説き、楽倒を破らんが故に受念処を説き、常倒を破らんが故に心念処を説き、我倒を破らんが故に法念処を説き、是を以っての故に、四を説けば、少なからず、多からず。 |
何故ならば、
『凡夫人』が、
未だ、
『道』に、
『入らない!』時には、
是の、
『四法』中に、
『邪行( 邪思)して!』、
『四顛倒』を、
『生じる!』。
諸の、
『不浄』中には、
『浄である!』と、
『顛倒し!』、
『苦』中には、
『楽である!』と、
『顛倒し!』、
『無常』中には、
『無常である!』と、
『顛倒し!』、
『無我』中には、
『我である!』と、
『顛倒する!』。
是の、
『四顛倒』を、
即ち、
『浄の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『身念処』を、
『説き!』、
『楽の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『受念処』を、
『説き!』、
『常の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『心念処』を、
『説き!』、
『我の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『法念処』を、
『説くのである!』。
是の故に、
是の、
『四』を、
『説けば!』、
『少なくもなく!』、
『多くもない!』。
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顛倒(てんどう):逆しまの状態( inverted )、梵語 viparyaasa の訳、ひっくり返す/転覆する( overturning, overthrow
)、交換/倒置する( exchange, inversion )、置き換え/取換える/逆/反対/対立( transposition, exchange,
reverse, contrariety, opposition )の義、悪化( change for the worse, deterioration
)、間違い/妄想( error, mistake, delusion )、不実/虚偽の事について、実/真実の事であると想像すること( imagining
what is unreal or false to be real or true )の意。◯梵語 viparyaya の訳、反転した/逆転した/非を認めない/違背する(
reversed, inverted, perverse, contrary to )、悪化( change for the worse )、誤解/錯誤(
misapprehension, error, mistake )の義。
四顛倒(してんどう):四種の倒置/逆転( four inversions )、梵語 viparyaasa- catuSka の訳、viparyaasa
は転覆する( overturning, overthrow, upsetting )、~の逆/反対/対立( reverse, contrariety,
opposition, opposite of )の義、人を真実の道から踏み外させる四種の逆転した見解( The four inverted
views, which cause one to fall from the true path )、謂わゆる常、楽、我、浄に関する四種の歪曲された見解(
The four distorted views in regard to permanence 常, joy 樂, self 我, and
purity 淨. )。其れには二種あり、一には上記の四種の一般的信念であり、初期の仏教徒の、一切は無常であり、苦、無我、不浄であるとする教義により否定された(
the common belief in the four above, denied by the early Buddhist doctrine
that all is impermanent 無常, suffering 苦, lacking selfhood 無我, and impure
不淨 )、二には涅槃は常、楽、我、浄の状態ではないとする、小乗学派の誤った信念である。小乗の教義は、経験的生命に関する一般的見解を破ったが、大乗の教義は、両方の見解を否定したのである(
the false belief of the lesser vehicle school that nirvāṇa is not a state
of permanence, joy, self, and purity. The lesser vehicle doctrine refutes
the common view in regard to the phenomenal life; the Mahāyāna teaching
refutes both views )。四種とは即ち以下のごとし、――
- 常顛倒 nitya-viparyaasa (永久に関する誤解 the error of permanence ):一時的なものを永久であると看做す(taking
the impermanent to be permanent );
- 楽顛倒 sukha- viparyaasa (愉楽に関する誤解 the error of enjoyment ) :苦痛を愉楽として認識する(
perceiving suffering as enjoyment );
- 我顛倒 aatma- viparyaasa (自己に関する誤解 the error of self ) :非自己でないものを自己として認識する(
perceiving what is not a self to be a self );
- 浄顛倒 zuci- viparyaasa (清浄に関する誤解 the error of purity ) :不浄を清浄であると視る( seeing
the impure as pure )。
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問曰。云何得是四念處。 |
問うて曰く、云何が、是の四念処を得る。 |
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答曰。行者依淨戒住。一心行精進。觀身五種不淨相。何等五。一者生處不淨。二者種子不淨。三者自性不淨。四者自相不淨。五者究竟不淨。 |
答えて曰く、行者は、浄戒に依りて住し、一心に精進を行じて、身に五種の不浄相を観る。何等か五なる、一には生処の不浄、二には種子の不浄、三には自性の不浄、四には自相の不浄、五には究竟じて不浄なり。 |
答え、
『行者』は、
『浄戒』に、
『依って( rely on )!』、
『住まり( stay )!』、
『一心』に、
『精進』を、
『行って!』、
『身』に、
『五種の不浄相』を、
『観る!』。
何のような、
『五なのか?』、――
一には、
二には、
三には、
四には、
五には、
『究竟じて!』、
『不浄である!』と、
『観る!』。
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云何名生處不淨。頭足腹脊脅肋。諸不淨物和合名為女身。內有生藏熟藏屎尿不淨。外有煩惱業因緣風。吹識種令入二藏中間。若八月若九月如在屎尿坑中。 |
云何が、生処は不浄なる。頭、足、腹、脊、脇、肋、諸の不浄物の和合を、名づけて女身と為す。内に生蔵、熟蔵、屎尿の不浄有り、外に煩悩の業の因縁の風有り、識種を吹いて、二蔵の中間に入らしめ、若しは八月、若しは九月、屎尿の坑の中に在るが如し。 |
何故、
『生処』の、
『不浄』と、
『称するのか?』、――
『頭、足、背骨、脇腹、肋骨』と、
諸の、
『不浄の物』の、
『和合』が、
『女身である!』。
内には、
『生蔵( 胃)、熟蔵( 腸)、屎尿』の、
『不浄』が、
『有り!』、
外には、
『煩悩』という、
『業の因縁』の、
『風』が、
『識種( 地、水、火、風、空、識種の一)』を、
『吹いて!』、
『二蔵の中間』に、
『入れる!』と、
『八、九ヶ月の間』は、
猶お、
『屎、尿の坑』中に、
『在るようなものである!』。
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生処(しょうじょ):何物かの生起すべき場所( locus for the arising of something )、◯梵語 upapatti-
sthaana の訳、嘗て何物かが生成された場所( the place where something was once (formerly)
produced )、出生の場所( place of birth )の意。◯梵語 aakara の訳、発端の場所( place of origin
)の義。
生蔵(しょうぞう):梵語 aamaazaya の訳、未消化の食物の貯蔵所/臍から上の腹部( the receptacle of the undigested
food, the upper part of the belly as far as the navel )の義、胃( stomach )の意。
熟蔵(じゅくぞう):梵語 pakvaazaya の訳、[消化の火によって]調理済みの[食物の]貯蔵場所[、即ち腸]( the resting- place
[i.e. the intestines], where [food] has been cooked [by the digestive fires]
)の意。
屎尿(しにょう):糞と尿。
如(にょ):猶お乃の如し。 |
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如說
是身為臭穢 不從花間生
亦不從瞻蔔 又不出寶山
是名生處不淨。 |
説の如し、
是の身を臭穢と為すは、花間より生ぜざればなり、
亦た瞻蔔によらず、又宝山より出でず。
是れを生処の不浄と名づく。 |
譬えば、こう説く通りである、――
是の、
『身』が、
『臭く!』、
『穢い!』のは、
『花の間』からも、
『瞻蔔( 梔子)』からも、
『生じなかったからである!』が、
又、
『宝の山』から、
『出たのでもない!』。
是れを、
『生処の不浄』と、
『呼ぶ!』。
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臭穢(しゅうえ):臭くきたない。
瞻蔔(せんぷく):梔子(くちなし)の花。 |
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種子不淨者。父母以妄想邪憶念風吹婬欲火故。血髓膏流熱變為精。宿業行因緣識種子。在赤白精中住。是名身種子。 |
種子の不浄とは、父母は、妄想と邪憶念の風を以って、婬欲の火を吹くが故に、血、髄、膏の流は、熱に変じて精と為り、宿業と行の因縁に、識の種子は、赤白の精中に在りて住す、是れを身の種子と名づく。 |
『種子の不浄』とは、
『父、母』の、
『妄想、邪憶念の風』が、
『婬欲の火』を、
『吹く!』が故に、
『血、髄、膏の流』が、
『熱に変じて!』、
『精と為り!』、
『宿業と行為』の、
『因縁』の故に、
『赤白の精』中に、
『識の種子』が、
『住まる!』ので、
是れを、
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如說
是身種不淨 非餘妙寶物
不由淨白生 但從尿道出
是名種子不淨。 |
説の如し、
是の身種は不浄なり、余の妙なる宝物に非ず、
浄白由り生ぜず、但だ尿道より出づ。
是れを種子の不浄と名づく。 |
譬えば、こう説く通りである、――
是の、
『身』の、
『種子』は、
『不浄である!』、
他の、
『妙なる!』、
『宝物ではない!』。
『種子』は、
『浄白の道』より、
『生じるのではなく!』、
但だ、
『尿道』より、
『出る!』。
是れを、
『種子』が、
『不浄である!』と、
『称する!』。
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自性不淨者。從足至頂四邊薄皮。其中所有不淨充滿。飾以衣服澡浴花香。食以上饌眾味餚膳。經宿之間皆為不淨。假令衣以天衣。食以天食。以身性故亦為不淨。何況人衣食。 |
自性の不浄とは、足より頂に至る四辺の薄皮は、其の中に有らゆる不浄充満し、飾るには衣服、澡浴、花香を以ってし、食うには、上饌、衆味、餚膳を以ってするも、経宿の間に、皆不浄と為る。仮令、衣るには天衣を以ってし、食うには天食を以ってすとも、身の性を以っての故に、亦た不浄と為る。何に況んや、人の衣、食をや。 |
『自性の不浄』とは、――
『足』より、
『頂』に、
『至る!』までの、
『四辺の薄皮』は、
其の中に、
有らゆる、
『不浄』が、
『充満している!』ので、
『飾る!』には、
『衣服、澡浴、花香』を、
『用い!』、
『食う!』には、
『上饌、衆味、餚膳』を、
『用いた!』としても、
『夜の間』に、
皆、
『不浄と為る!』ので、
仮令( たとい)、
『天上』の、
『食(じき)』を、
『食い!』、
『天』の、
『衣』を、
『衣(き)た!』としても、
『身』の、
『性である!』が故に、
『不浄と為る!』。
況( ま)して、
『人間』の、
『食、衣など!』は、
『言うまでもない!』。
|
|
澡浴(そうよく):身体を洗い、髪をすすぐ。
上饌(じょうせん):上等の膳部。上等の御馳走。
衆味(しゅみ):多くの味。
餚膳(こうぜん):膳部。食べ物。
経宿(きょうしゅく):一夜を経る。 |
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如說
地水火風質 能變除不淨
傾海洗此身 不能令香潔
是名自性不淨。 |
説の如し、
地水火風の質は、能く変じて不浄を除くも、
海を傾けて此の身を洗うとも、香潔ならしむ能わず。
是れを自性の不浄と名づく。 |
譬えば、こう説く通りである、――
『地、水、火、風の質( 性)』は、
『不浄』を、
『変じて!』、
『除くことができる!』が、
『海を傾けて!』、
『此の身』を、
『洗っても!』、
『香潔にすることはできない!』。
是れを、
『自性』が、
『不浄である!』と、
『称する!』。
|
質(しち):性に同じ。 |
|
|
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自相不淨者。是身九孔常流不淨。眼流眵淚耳出結聹鼻中涕流口出涎吐。廁道水道常出屎尿。及諸毛孔汗流不淨。 |
自相の不浄とは、是の身の九孔は常に不浄を流せばなり。眼は、眵涙を流し、耳は、結聹を出し、鼻中より涕が流れ、口は涎吐を出し、廁道、水道は常に、屎尿を出し、及び諸の毛孔より汗流れて不浄なり。 |
『自相の不浄』とは、
是の、
『身の九孔』は、
『眼』は、
『眵(めやに)と涙』を、
『流し!』、
『耳』は、
『結聹(耳垢)』を、
『出し!』、
『鼻』中より、
『涕(鼻水)』が、
『流れ!』、
『口』は、
『涎(よだれ)と吐(へど)』を、
『出し!』、
『廁道( 肛門)』と、
『水道( 尿道)』とは、
及び、
諸の、
『毛孔』より、
『汗が流れて!』、
『不浄である!』。
|
九孔(くく):両目、両耳、両鼻孔、口、大小便道の総称。九竅に同じ。
眵涙(しるい):目やにと涙。
結聹(けつねい):耳糞。
涕(たい):鼻水。
涎吐(ぜんと)よだれとへど。
廁道(しどう):肛門。
水道(すいどう):尿道。 |
|
|
|
如說
種種不淨物 充滿於身內
常流出不止 如漏囊盛物
是名自相不淨。 |
説の如し、
種種の不浄物は、身内に充満し、
常に流出して止らざること、漏嚢に物を盛るが如し
是れを、自相の不浄と名づく。 |
譬えば、こう説く通りである、――
種種の、
『不浄の物』が、
『身の内』に、
『充満し!』、
常に、
『流出して!』、
『止らない!』のは、
譬えば、
『漏れる嚢( ふくろ)』に、
『物』を、
『盛るようなものだ!』。
是れを、
『自相の不浄』と、
『呼ぶ!』。
|
漏嚢(ろのう):穴のあいたふくろ。 |
|
|
|
究竟不淨者。是身若投火則為灰。若虫食則為屎。在地則腐壞為土。在水則膖脹爛壞。或為水虫所食。一切死屍中人身最不淨。不淨法九相中當廣說。 |
究竟の不浄とは、是の身は、若し火に投ずれば、則ち灰と為り、若し虫に食わるれば、則ち屎と為り、地に在れば、則ち腐壊して土と為り、水に在れば、則ち膖脹し爛壊して、或は水虫の食う所と為り、一切の死屍中に、人身は最も不浄なること、不浄法の九相中に当に広説すべし。 |
『究竟の不浄』とは、――
是の、
『身』は、
若し、
『火』に、
『投じられれば!』、
『灰と為り!』、
若し、
若し、
『地に在れば!』、
『腐壊して!』、
『土と為り!』、
若し、
『水に在れば!』、
『膨張し!』、
『爛壊して!』、
或は、
『水虫』に、
『食わる!』。
一切の、
『死屍』中に、
『人身』が、
『最も不浄である!』ことは、
『不浄法』の、
『九相』中に、
『広く説かねばならない!』。
|
腐壊(ふえ):腐って壊れる。
膖脹(ほうちょう):はれてふくれる。膨張に同じ。
爛壊(らんえ):腐りただれて壊れる。
死屍(しし):しかばね。死骸。
不浄法九相(ふじょうほうくそう):人の不浄を示す九種の相。『大智度論巻17下注:不浄観、九想観、巻21上九相義』参照。 |
|
|
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如說
審諦觀此身 終必歸死處
難御無反復 背恩如小人
是名究竟不淨。 |
説の如し、
審諦して此の身を観れば、終に必ず死処に帰す、
御し難く反復無く、恩に背くこと小人の如し。
是れを究竟の不浄と名づく。 |
譬えば、こう説く通りである、――
慎重に、
終に、
此の、
『身』は、
『制御し難い!』のに、
『報酬も無く!』、
『恩』に、
『背(そむ)く!』こと、
『小人のようだ!』。
是れを、
『究竟の不浄』と、
『呼ぶ!』。
|
審諦(しんたい):慎重に熟視する( look at carefully )。
難御(なんご):御しがたい悍馬。
反復(ほんぷく):反映( to reflect )、有る人の以前の行為に対する反映( to reflect on one's prior activities
)、親切に対する応当行為( to repay acts of kindness )。報酬。
背恩(はいおん):恩義にそむく。
小人(しょうにん):召使い、奴僕の類。 |
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復次是身生時死時。所近身物所安身處皆為不淨。如香美淨水隨百川流既入大海變成鹹苦。身所食噉種種美味好色好香細滑上饌。入腹海中變成不淨。是身如是從生至終。常有不淨甚可患厭。 |
復た次ぎに、是の身は、生ずる時、死する時、近づく所の身の物、安んずる所の身の処を、皆不浄と為す。香、美、浄なる水の百川に随いて流れ、既に大海に入れば、変じて鹹苦と成るが如く、身の食噉する所の種種の美味、好色、好香、細滑なる上饌も、腹の海中に入れば、変じて不浄と成る。是の身は、是の如く生ずるより、終りに至るまで、常に、不浄有れば、甚だ患厭すべし。 |
復た次ぎに、
是の、
『身』は、
『生まれた!』時も、
『死ぬ!』時も、
『身』に、
『近づけた!』所の、
『物』や、
『身』の、
『安んじた!』所の、
『処』は、
皆、
『不浄と為る!』。
譬えば、
『好香、美味の浄水』が、
『百川』を、
『流れて!』、
既に、
『大海』に、
『入れば!』、
皆、
『身』の、
『食噉する!』所の、
種種の、
『美味、好色、好香、細滑』の、
『上饌』は、
『腹の海』に、
『入れば!』、
『変じて!』、
『不浄』と、
『成るのである!』。
是の、
『身』は、
『生まれた!』時より、
『命の終る!』時まで、
常に、
『不浄が有り!』、
『甚だ!』、
『厭い患うべきである!』。
|
香美浄(こうみじょう):好香美味清浄。
鹹苦(げんく):からくにがい。
食噉(じきたん):くらう。
患厭(げんえん):患い厭う。 |
|
|
|
行者思惟是身雖復不淨。若少有常者。猶差而復無常。雖復不淨無常。有少樂者。猶差而復大苦。是身是眾苦生處。如水從地生風從空出火因木有。是身如是內外諸苦皆從身出。內苦名老病死等。外苦名刀杖寒熱飢渴等。有此身故有是苦。 |
行者の思惟すらく、『是の身は、復た不浄なりと雖も、若し少しく常有らば、猶お差あり、而も復た無常なり。復た不浄、無常なりと雖も、少しの楽有らば、猶お差あり、而も復た大苦なり。是の身は、是れ衆苦の生処なること、水の地より生じ、風の空より生じ、火の木に因って有るが如し。是の身は、是の如く内外の諸苦、皆身より出づ。内苦を老病死等と名づけ、外苦を刀杖、寒熱、飢渴等と名づくれば、此の身有るが故に、是の苦有り』、と。 |
『行者』は、こう思惟する、――
是の、
『身』が、
復た、
『不浄だとしても!』、
若し、
『少しでも!』、
『常』が、
『有れば!』、
猶お( yet )、
『差(あまり)』が、
『有るのだが!』、
而し、
復た、
『無常なのだ!』。
復た、
『不浄、無常だとしても!』、
『少しでも!』、
『楽』が、
『有れば!』、
猶お、
『差』が、
『有るのだが!』、
而し、
復た、
『大苦なのだ!』。
是の、
『身』は、
『衆苦』の、
『生処である!』。
譬えば、
『水』が、
『地』より、
『生じたり!』、
『風』が、
『空』より、
『生じたりして!』、
『火』が、
『木に因って!』、
『有るようなものだ!』。
是の、
『身』は、
是のように、
『内、外の諸苦』が、
皆、
『身』より、
『出る!』。
内の、
外の、
『苦』を、
『刀杖、寒熱、飢渴』等と、
『呼べば!』、
是の、
『身』の、
『有る!』が故に、
是の、
『苦』が、
『有るのだ!』、と。
|
差(さ):謬( mistake )、区別/差別/差異( difference )、余剰( remainder )、尚お可なり/まだ良い( rather
)、不足( fall short of )、奇異( strange )、好ましからず( bad )、指名して派遣する( assign, dispatch,
send on an errand )、選択( select )、使い( messenger )病が癒える( be recovered )、等級(
grade, rank )、限度/限界( limit )、不斉/不等( uneven )。 |
|
|
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問曰。身非但是苦性。亦從身有樂。若令無身隨意。五欲誰當受者。 |
問うて曰く、身は、但だ是れ苦性なるに非ず、亦た身に従りて、楽有り。若し身を無からしむれば、随意の五欲は、誰か当に受くべき者なる。 |
問い、
『身』は、
亦た、
若し、
『身』を、
『無くせば!』、
『意のまま!』の、
『五欲』は、
『誰が、受けるのか?』。
|
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|
答曰。四聖諦苦。聖人知實是苦。愚夫謂之為樂。聖實可依愚惑宜棄。是身實苦以止大苦故。以小苦為樂。譬如應死之人得刑罰代命甚大歡喜。罰實為苦以代死故謂之為樂。 |
答えて曰く、四聖諦の苦とは、聖人は、実に是れ苦なりと知り、愚夫は、之を謂いて楽と為す。聖の実は依るべく、愚の惑は宜しく棄つべし。是の身は、実に苦なり。大苦を止むるを以っての故に、小苦を以って楽と為すのみ。譬えば、応に死ぬべき人の、刑罰を得て、命に代うれば、甚だ大歓喜するが如し。罰は、実に苦と為すも、死と代うるを以っての故に、之を謂いて楽と為す。 |
答え、
『四聖諦の苦』は、
『聖人』は、
『愚夫』は、
『聖人』の、
『実』は、
『依る(頼る)べきである!』が、
『愚人』の、
『惑』は、
『棄てるべきである!』。
是の、
『身』は、
『実』に、
『苦である!』が、
『大苦』を、
『止める!』が故に、
『小苦』を、
『楽である!』と、
『思う!』。
譬えば、
『死ぬはず!』の、
『人』が、
『命』に、
『代えて!』、
『刑罰』を、
『得れば!』、
『甚だ!』、
『大歓喜する!』のと、
『同じである!』。
『罰』は、
『実に!』、
『苦である!』が、
『死』に、
『代る!』が故に、
之を、
『楽だ!』と、
『謂うのである!』。
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復次新苦為樂故苦為苦。如初坐時樂久則生苦。初行立臥亦樂久亦為苦。屈申俯仰視眴喘息苦常隨身。從初受胎出生至死無有樂時。 |
復た次ぎに、新なる苦を楽と為し、故き苦を苦と為す。初めて坐る時には楽なれども、久しければ則ち苦を生じ、初めて行、立、臥すれば、亦た楽なれども、久しければ、亦た苦と為るが如く、屈申、俯仰、視眴、喘息の苦は、常に身に随う。初めて受胎、出生するより死に至るまで、楽の時は有ること無し。 |
復た次ぎに、
『新たな!』、
『苦』は、
『楽である!』が、
『故( ふる)い!』、
『苦』は、
『苦である!』。
例えば、
初めて、
初めて、
『行く!』、
『立つ!』、
『臥せる!』時には、
亦た、
『楽である!』が、
久しくすれば、
亦た、
『苦となるように!』、
『屈( かがむ!)、申( のびる!)』、
『俯( うつむく!)、仰( あおぐ!)』、
『視( 見つめる!)、眴( またたく!)』、
『喘( あえぐ!)、息( いきする!)』の時にも、
初めて、
『受胎、出生した!』時より、
『死』に、
『至る!』まで、
『楽の時』は、
『無いのである!』。
|
故(こ):ふるい。旧に同じ。
俯仰(ふぎょう):うつむくとあおぐ。
視眴(しけん):見つめるとまたたく。
喘息(ぜんそく):いきする。口で息すると、鼻で息する。 |
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若汝以受婬欲為樂。婬病重故求外女色。得之愈多患至愈重。如患疥病向火。揩炙當時小樂大痛轉深。如是小樂亦是病因緣故有。非是實樂無病。觀之為生慈愍。 |
若し汝、婬欲を受くるを以って、楽と為せば、婬病は重きが故に、外に女色を求め、之を得れば、愈よ多く、患は愈よ重きに至る。疥病を患いて、火に向い、揩炙すれば、時に当りて小楽あれども、大痛転た深きが如し。是の如き小楽は、亦た是れ病の因縁の故に有れば、是れ実の楽にして、病無きに非ず。之を観れば、為めに慈愍を生ず。 |
若し、
お前が、
『婬欲』を、
『婬欲の病』は、
『重い!』が故に、
『女色』を、
『外に求め!』、
之を、
『得れば!』、
『愈(いよい)よ!』、
『多く求めて!』、
『患( 病)』は、
『愈よ!』、
『重くなる!』。
譬えば、
『疥病( 疥癬)』を、
『患い!』、
『火』に、
『向けて!』、
『擦ったり!』、
『炙ったり!』すれば、 その時だけは、
『小楽』が、
『有っても!』、
『大痛』が、
『転(うた)た!』、
『深くなるように!』、
是のような、
『小楽』は、
亦た、
『病の因縁』の故に、
『有り!』、
是れは、
『実楽でもなく!』、
『無病でもない!』ので、
『智者』は、
之を
『観て!』、
『慈愍(あわれみ)』を、
『生じるのである!』。
|
疥病(かいびょう):ひぜん。疥癬虫により生ずる皮疹、極めて痒し。疥癬。
揩炙(かいしゃ):摩擦して、火にあぶる。 |
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離欲之人觀婬欲者亦復如是。愍此狂惑為欲火所燒多受多苦。如是等種種因緣。知身苦相苦因。 |
離欲の人の、婬欲の者を観るも、亦復た是の如く、此の狂惑して、欲の火の焼く所と為り、多く受け、多く苦しむを愍れむ。是の如き等の種種の因縁に、身の苦相、苦因なるを知る。 |
『離欲の人』が、
『婬欲の者』を、
『観る!』のも、
『是の通りである!』、
此れが、
『狂惑して!』、
『欲の火』に、
『焼かれ!』、
『多く!』の、
『苦』を、
『多く受ける!』のを、
『愍(あわ)れむのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、
『身』の、
『苦相』を、
『知り!』、
『身』が、
『苦の因である!』ことを、
『知る!』。
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行者知身但是不淨無常苦物。不得已而養育之。譬如父母生子。子復弊暴以從己生故。要當養育成就。 |
行者は、身は但だ是れ不浄、無常、苦なる物と知るも、得已らざれば、之を養育す。譬えば父母、子を生めば、子復た弊暴なれども、己より生ぜしを以っての故に、要ず当に養育し、成就すべきが如し。 |
『行者』は、
『身』が、
但だ、
『不浄、無常、苦だけ!』の、
『物である!』と、
『知っても!』、
『納得できなければ!』、
之を、
『養育する!』。
譬えば、
『父母』が、
『子』を、
『生めば!』、
『子』が、
復た、
『弊悪、粗暴であった!』としても、
『己( おのれ)』より、
『生じた!』が故に、
要( かなら)ず、
『養育し!』、
『成就するようなものである!』。
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身實無我。何以故。不自在故。譬如病風之人不能俯仰行來。病咽塞者不能語言。以是故知身不自在。如人有物隨意取用。身不得爾。不自在。故審知無我。 |
身は実に無我なり。何を以っての故に、自在ならざるが故なり。譬えば風を病む人の俯仰、行来する能わず、病に咽を塞がるれば、語言する能わず。是を以っての故に、身の自在ならざるを知るが如く、人に物有れば、随意に取りて用うるも、身は爾ることを得ず、自在ならざるが故に、審らかに無我なるを知る。 |
『身』は、
『実に!』、
『無我である!』。
何故ならば、
『自在でないからである!』。
譬えば、
『風邪』を、
『病む人』が、
『俯仰することも!』、
『往来することもできず!』、
『病』に、
『咽( のど)』が、
『塞がれば!』、
『言葉』を、
『語ることができない!』ので、
是の故に、
『身』が、
『自在でない!』と、
『知るのであり!』、
譬えば、
『人』は、
『所有する!』、
『物』を、
『意のままに!』、
『取って!』、
『用いる!』が、
『身』は、
爾のようにできず、
『自在でない!』が故に、
審らかに、
『無我である!』と、
『知るのである!』。
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復(ふく):かえす。報に同じ。
弊暴(へいぼう):わるい。弊悪暴虐。
風(ふう):四肢偏枯の病。四肢が萎えて不随なるを云う。又は瘋癲病、或いは癩病。
咽塞(えつそく):咽の塞がる病。 |
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行者思惟是身如是。不淨無常苦空無我。有如是等無量過惡。如是等種種觀身。是名身念處。 |
行者の思惟すらく、『是の身は、是の如く、不浄、無常、苦、空無我にして、是の如き等の無量の加悪有り』、と。是の如き等の種種に身を観る、是れを身念処と名づく。 |
『行者』は、こう思惟する、――
是の、
『身』は、
是のように、
『不浄、無常、苦、空無我であり!』、
是れ等のような、
『無量の過悪(過患)』が、
『有る!』、と。
是れ等のように、
種種に、
『身』を、
『観察する!』こと、
是れを、
『身念処』と、
『称する!』。
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得是身念處觀已復思惟。眾生以何因緣故。貪著此身。樂受故。所以者何。從內六情外六塵和合故。生六種識。六種識中生三種受。苦受樂受不苦不樂受。是樂受一切眾生所欲苦受一切眾生所不欲。不苦不樂受不取不棄 |
是の身念処の観を得已りて、復た思惟すらく、『衆生は、何の因縁を以っての故にか、此の身を貪著する。楽受の故なり。所以は何んとなれば、内の六情と、外の六塵との和合によるが故に、六種の識を生じ、六種の識中に三種の受を生ず。苦受、楽受、不苦不楽受なり。是の楽受は、一切の衆生の欲する所にして、苦受は、一切の衆生の欲せざる所なり。不苦不楽受は取らず、棄てず。 |
是の、
『身念処』を、
『観察することができれば!』、
復た、こう思惟する、――
『衆生』は、
何の、
『因縁』の故に、
此の、
『身』を、
『貪著するのか?』。
何故ならば、
『楽受』の故に、
『貪著するのだ!』。
何故ならば、
内の、
『六情(眼耳鼻舌身意)』と、
外の、
『六塵( 色声香味触法)』との、
『和合による!』が故に、
『六種の識』を、
『生じ!』、
『六種の識』中に、
『三種の受』を、
『生じるからだ!』。
謂わゆる、
『苦受』と、
『楽受』と、
『不苦不楽受である!』。
是の、
『楽受』は、
『苦受』は、
『不苦不楽受』は、
『受』を、
『取る(貪る)こともなく!』、
『棄てる(厭う)こともない!』。
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三受(さんじゅ):梵語 tisro vedanaaH の訳。巴梨語 tisso vedanaa、受は領納の義。即ち内の六根が外の六境に触対して領納する感覚に三種の別あるを云う。又三痛とも名づく。一に苦受 duHkha- vedanaa(巴梨語 dukkha- vedanaa)、二に楽受 sukha- v.(巴同じ。)、三に捨受 upekSa- v.(巴 upekkha- v.)、或いは不苦不楽受 aduHkhaasukhaa- v.(巴 adukkhaa- ukha- v.)なり。又苦痛、楽痛、不苦不楽痛に作る。「倶舎論巻4」に、「受とは謂わく三種あり、苦と楽と倶非とを領納するに差別あるが故なり」と云い、「成唯識論巻5」に、「受とは能く順と違と中との境を領納して、心等をして歓と慼と捨との相を起さしむ」と云える是れなり。此の中、苦受とは違情の境相を領納して、身心を逼迫ならしむるを云い、楽受とは順情の境相を領納して、身心を適悦ならしむるを云い、捨受とは中容の境相を領納して、身心をして逼迫にもあらず、適悦にもあらざらしむるを云う。此の三は眼耳鼻舌身意の六根に通じて有り。亦た皆有漏無漏に通ず。或いは之を各各二種に分ち、五識と相応するを身受と名づけ、意識と相応するを心受と名づくるなり。又「雑阿含経巻8」、「別訳雑阿含経巻11」、「増一阿含経巻12、42」、「阿毘達磨発智論巻14」、「成実論巻6」、「大乗義章巻7」、「四念処巻1」、「大蔵法数巻10」等に出づ。<(望) |
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如說
若作惡人及出家
諸天世人及蠕動
一切十方五道中
無不好樂而惡苦
狂惑顛倒無智故
不知涅槃常樂處 |
説の如し、
若しは作悪の人、及び出家と、
諸天、世人、及び蠕動ならんに、
一切の十方五道中に、
楽を好み、苦を悪まざる無けれども、
狂惑、顛倒、無智の故に、
涅槃の常楽の処を知らず。
|
例えば、こう説く通りである、――
若しは、
『悪を作す人だろうが!』、
『出家だろうが!』、
『諸の天、世人だろうが!』、
『蠕動(動物)だろうが!』、
一切の、
『十方、五道』中に、
『楽』を、
『好まない!』者も、
『苦』を、
『悪(にく)まない!』者も、
『無い!』が、
皆、
『狂惑、顛倒、無智』の故に、
『涅槃』という、
『常楽の処』を、
『知らない!』。
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蠕動(ねんどう):虫のうごめくさま。転じて動物を云う。 |
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行者觀是樂受。以實知之無有樂也。但有眾苦。何以故。樂名實樂無有顛倒。一切世間樂受。皆從顛倒生無有實者。 |
行者は、是の楽受を観るに、実を以って之を知るに、楽有ること無きや、但だ衆苦有るのみ。何を以っての故に、楽を実楽には、顛倒有ること無しと名づけ、一切の世間の楽受は、皆顛倒より生じて、実の者有ること無ければなり。 |
『行者』は、
是の、
『楽受』を、
『観察して!』、
『実』を、
『知れば!』、――
『楽受』には、
『楽』が、
『無いばかりか!』、
但だ、
『衆苦』が、
『有るばかりである!』。
何故ならば、
『楽』を、こう説明すれば、――
一切の、
『世間の楽受』は、
『顛倒』より、
『生じた者であり!』、
皆、
『実』の、
『無い者だからである!』。
|
也(や):も亦た/同様に/何方でも( also, as well as, either, likewise, too )。 |
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復次是樂受。雖欲求樂能得大苦。如說
若人入海遭惡風
海浪崛起如黑山
若入大陣鬥戰中
經大險道惡山間
豪貴長者降屈身
親近小人為色欲
如是種種大苦事
皆為著樂貪心故
以是故知樂受能生種種苦。 |
復た次ぎに、是の楽受は、楽を欲求すと雖も、能く大苦を得。説の如し、
若し人海に入りて、悪風に遭わば、
海浪の崛起すること、黒山の如くならん、
若し大陣、闘戦中に入らば、
大険道と、悪山の間を経ん。
豪貴の長者の、身を降屈して、
小人を親近するは、色欲の為めならん。
是の如き種種の大苦事は、
皆、楽に著する貪心の為めの故なり。
是を以っての故に知る、楽受は、能く種種の苦を生ずと。 |
復た次ぎに、
是の、
『楽受』は、
『楽』を、
『求めたい!』と、
『思う!』者に、
『大きな!』、
『苦』を、
『得させる!』。
例えば、こう説く通りである、――
若し、
『人』が、
『海に入って!』、
『悪風』に、
『遭遇すれば!』、
『海浪』が、
『黒山のように!』、
『隆起するだろう!』。
若し、
『戦闘』中の、
『大陣』に、
『入れば!』、
『大険道』や、
『悪山の間』を、
『経(へ)ることになるだろう!』。
若し、
『豪貴の長者』が、
『降服して!』、
『身』を、
『屈(かが)め!』、
『小人』を、
『親しみ!』、
『近づければ!』、
是れは、
『色欲の為めだろう!』。
是のような、
種種の、
『大苦事』は、
皆、
『貪心』が、
『楽』に、
『著するからである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
|
海浪(かいろう):海のなみ。
崛起(くっき):そびえ立つ。山が聳え立つの義。
降屈(ごうくつ):身を降し節を屈する。くだりしたがう。 |
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復次雖佛說三種受有樂受。樂少故名為苦。如一斗蜜投之大河則失氣味。 |
復た次ぎに、仏は、三種の受を説きたもうと雖も、有る楽受は、楽少なきが故に、名づけて苦と為す。一斗の蜜を、大河に投ずれば、則ち気味を失うが如し。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『三受』を、
『説かれた!』が、
有る、
『楽受』は、
『楽』が、
『少ない!』が故に、
是れを、
『苦』と、
『呼ぶのである!』。
譬えば、
『一斗』の、
『蜜でも!』、
之を、
『大河』に、
『投ずれば!』、
則ち、
『気味』を、
『失うようなものである!』。
|
|
|
|
|
問曰。若世間樂顛倒因緣故苦。諸聖人禪定生無漏樂。應是實樂。何以故。此樂不從愚癡顛倒有故。此云何是苦。 |
問うて曰く、若し世間の楽なれば、顛倒の因縁の故に苦ならん。諸聖人の禅定より生ずる無漏の楽は、応に是れ実の楽なるべし。何を以っての故に、此の楽は、愚癡、顛倒に従らずに有るが故なり。此れは、云何が是れ苦なる。 |
問い、
若し、
『世間の楽』ならば、
『顛倒』の、
『因縁』の故に、
『苦であろう!』が、
諸の、
『聖人』の、
『禅定』より、
『生じた!』、
『無漏の楽』は、
当然、
『実の楽のはずだ!』。
何故ならば、
此の、
『楽』は、
『愚癡、顛倒』に、
『従らずに!』、
『有るからである!』。
此れが、
何故、
『苦なのですか?』。
|
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|
答曰。非是苦也。雖佛說無常即是苦。為有漏法故說苦。何以故。凡夫人於有漏法中心著。以有漏法無常失壞故生苦。無漏法心不著故。雖無常不能生憂悲苦惱等故。不名為苦。亦諸使不使故。 |
答えて曰く、是れ苦に非ざるなり。仏は、無常は、即ち是れ苦なりと説くと雖も、有漏法の為めの故に、苦を説きたまえり。何を以っての故に、凡夫人は、有漏法中に心著し、有漏法の無常にして、失壊するを以っての故に、苦を生ずるも、無漏法には心著せざるが故に、無常なりと雖も、憂悲、苦悩等を生ずる能わざるが故に、名づけて苦と為さず。亦た諸の使の使わざるが故なり。 |
答え、
是れは、
『苦ではない!』。
『仏』は、
『無常』は、
『苦である!』と、
『説かれた!』が、
『有漏法』の為めの故に、
『苦である!』と、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
『凡夫人』は、
『有漏法』中に、
『心』が、
『著するのであり!』、
『有漏法』は、
『無常であり!』、
『失壊する!』が故に、
即ち、
『苦』を、
『生じるからである!』。
『凡夫人」は、
『無漏法』には、
『心』が、
『著さない!』が故に、
『無常であっても!』、
『憂悲、苦悩』等を、
『生じさせず!』、
故に、
『苦』とは、
『呼ばれない!』。
亦た、
諸の、
『使(欲使等)』に、
『使われないからである!』。
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復次若無漏樂。是苦者。佛不別說道諦。苦諦攝故。 |
復た次ぎに、若し無漏の楽にして、是れ苦ならば、仏は別に、道諦を説きたまわざらん。苦諦に摂するが故なり。 |
復た次ぎに、
若し、
『無漏』の、
『楽』が、
『苦ならば!』、
『仏』は、
別に、
『道諦』を、
『説かれなかっただろう!』。
何故ならば、
『苦諦』に、
『含まれるからである!』。
|
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問曰有二種樂。有漏樂無漏樂。有漏樂下賤弊惡。無漏樂上妙。何以故。於下賤樂中生著。上妙樂中而不生著。上妙樂中生著應多。如金銀寶物貪著應重。豈同草木。 |
問うて曰く、二種の楽有り、有漏の楽、無漏の楽なり。有漏の楽は下賎、弊悪にして、無漏の楽は上妙なり。何を以っての故にか、下賎の楽中に、著を生じ、上妙の楽中には、著を生ぜざる。上妙の楽中に生ずる著は、応に多かるべし。金銀宝物の貪著は、応に重かるべきが如し、豈に草木と同じからんや。 |
問い、
『楽』には、
『二種』有り、
『有漏の楽』と、
『無漏の楽である!』。
『有漏の楽』は、
『下賎であり!』、
『弊悪である!』が、
『無漏の楽』は、
『上妙である!』。
何故、
『下賎の楽』中に、
『著』を、
『生じて!』、
『上妙の楽』中に、
『著』を、
『生じないのですか?』。
『上妙の楽』中に、
『生じる!』、
『著』は、
『多いはずです!』。
譬えば、
『金、銀、宝物の貪著』が、
『重いはずである!』のと、
『同じことです!』。
何故、
『草木』と、
『同じなのですか?』。
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答曰。無漏樂上妙。而智慧多。智慧多故能離此著。有漏樂中愛等結使多。愛為著本。實智慧能離。以是故不著。 |
答えて曰く、無漏の楽は上妙にして、而も智慧多し。智慧の多きが故に、能く此の著を離る。有漏の楽中には、愛等の結使多し。愛を著の本と為し、実の智慧は能く離る。是を以っての故に著せず。 |
答え、
『無漏の楽』は、
『上妙であり!』、
而も、
『智慧』が、
『多いからである!』。
『智慧』の、
『多い!』が故に、
此の、
『著』を、
『離れることができる!』。
『有漏の楽』中には、
『愛』等の、
『結使』が、
『多く!』、
『愛』は、
『著』の、
『本である!』が、
『実の智慧』は、
是の、
『結使』を、
『離れることができ!』、
是の故に、
『有漏の楽』に、
『著さないのである!』。
|
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復次無漏智慧。常觀一切無常。觀無常故。不生愛等諸結使。譬如羊近於虎。雖得好草美水而不能肥。如是諸聖人雖受無漏樂。無常空觀故。不生染著脂。 |
復た次ぎに、無漏の智慧は、常に一切に無常を観る。無常を観るが故に、愛等の諸結使を生ぜず。譬えば羊は、虎に近けば、好草、美水を得と雖も、肥ゆる能わざるが如し。是の如く諸聖人は、無漏の楽を得と雖も、無常、空を観るが故に、染著の脂を生ぜず。 |
復た次ぎに、
『無漏の智慧』は、
常に、
『一切に!』、
『無常』を、
『観る!』が、
『無常を観る!』が故に、
『愛等の諸結使』を、
『生じないからである!』。
譬えば、
『羊』が、
『虎』に、
『近づく!』と、
『好草』や、
『美水』を、
『得ても!』、
『肥えることができない!』が、
是のように、
『諸の聖人』は、
『無漏の楽』を、
『受けたとしても!』、
『無常』や、
『空』を、
『観る!』が故に、
『染著の脂』を、
『生じないのである!』。
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復次無漏樂。不離三三昧十六聖行。常無眾生相。若有眾生相則生著心。以是故無漏樂。雖復上妙而不生著。 |
復た次ぎに、無漏の楽は、三三昧、十六聖行を離れざれば、常に衆生相無し。若し衆生相有れば、則ち著心を生ず。是を以っての故に、無漏の楽は、復た上妙なりと雖も、著を生ぜず。 |
復た次ぎに、
『無漏の楽』は、
『三三昧』や、
『十六聖行』を、
『離れない!』ので、
常に、
『衆生の相』が、
『無い!』。
若し、
『衆生の相』が、
『有れば!』、
則ち、
『著心』を、
『生じることになるだろう!』、
是の故に、
『無漏の楽』は、
復た、
『上妙である!』が、
『著』を、
『生じないのである!』。
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三三昧(さんさんまい):空、無相、無作の三種の三昧を云う。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
十六聖行(じゅうろくしょうぎょう):梵語 SoDazaakaaraaH の訳、十六行相、四諦十六行相とも云う、初めて聖者の流れに乗る須陀洹向/預流向位以前の四善根位に於いて、四諦を観ずる十六の行相の意。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
- 苦諦、この世は苦であるを四種に観察する。
- 無常 anitaya:縁を待って成ずるが故に。
- 苦 duHkha:無常なるが故に、この世は苦である。
- 空 zuunya:無常なるが故に、一切は実体が無い。
- 無我 anaatman:我にも、また実体が無い。
- 集諦、この世は苦である原因を四種に観察する。
- 集 samudaya:愛執は苦を集める。
- 因 hetu:愛執は苦の原因である。
- 縁 pratyaya:苦は更なる苦の原因である。
- 生 prabhava:苦は更なる苦を生じる。
- 滅諦、苦の滅した境地を四種に観察する。
- 尽 nirodha:愛執を尽くせば苦は滅する。
- 滅 zaanta:苦が滅すれば生死も尽きる。
- 妙 praniita:生死の尽きた境地は殊妙である。
- 出 niHsaraNa:苦界を出て理想の境地に入る。
- 道諦、苦を滅する道を四種に観察する。
- 道 maarga:八正道は苦を滅する道である。
- 正 nyaaya:八正道は正しい。
- 行 pratipad:八正道は理想の境地に行く。
- 跡 nairyaaaNika:仏の遺跡を行けばよい。
三三昧(さんさんまい):三種の三昧( three samādhis )、梵語 samaadhi- traya の訳、即ち、
- 空三昧(梵 zuunyataa- samaadhi):空に関する自己の洞察に基づき、我、我所及び苦の観念より解放されること( to free
the mind of the ideas of me and mine and suffering, based on one's insight
into emptiness )
- 無相三昧(梵 animitta- samaadhi):有らゆる現象は空であるとの洞察に基づき、形状、外観に関する観念より免れること、例えば五境、男女、三有等(
to be rid of the idea of form, or externals, based on the insight into
the emptiness of all phenomena. I.e. the which are the five senses, and
male and female, and the three existences )
- 無作三昧(梵 apraNihita- samaadhi):又無願三昧に作る。有らゆる事物、及び名字は空であるとの洞察に基づき、有らゆる欲望を免れること(
to be rid of all desires, based on an insight into the emptiness of all
things, also termed )。梵 praNihita は、誘導される/指図される( directed towards )の義、又梵
apraNihita は、無目的/欲望を免れる( purposelessness, free from desire )の義、即ち無作三昧とは、貪心/汚染心の指図を受けないの意。
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如是種種因緣。觀世間樂受是苦。觀苦受如箭。不苦不樂受。觀無常壞敗相。如是則樂受中不生欲著。苦受中不生恚。不苦不樂受中不生愚癡。是名受念處。 |
是の如き種種の因縁に、世間の楽受は、是れ苦なりと観、苦受は箭の如しと観、不苦不楽受には、無常敗壊の相を観るに、是の如きは、則ち楽受中に欲著を生ぜず、苦受中に恚を生ぜず、不苦不楽受中に愚癡を生ぜず、是れを受念処と名づく。 |
是のような、
種種の、
『因縁』に、
『世間』の、
『楽受』は、
『苦である!』と、
『観察し!』、
『苦受』は、
『箭のようだ!』と、
『観察し!』、
『不苦不楽受』には、
『無常、敗壊の相』を、
『観察すれば!』、
是のような、
『観』は、
『楽受』中には、
『欲著』を、
『生じず!』、
『苦受』中には、
『恚』を、
『生じず!』、
『不苦不楽受』中には、
『愚癡』を、
『生じない!』。
是れを、
『受念処』と、
『称する!』。
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行者思惟以樂故貪身誰受是樂。思惟已知從心受。眾生心狂顛倒故。而受此樂。當觀是心無常生滅相一念不住。無可受樂。人以顛倒故。謂得受樂。 |
行者の思惟すらく、『楽を以っての故に、身を貪るも、誰か是の楽を受くる』、と。思惟し已り、心に従いて受くるを知る、『衆生は、心狂い顛倒するが故に、此の楽を受く。当に観るべし、是の心は無常、生滅の相にして、一念も住まらず、楽を受くべき無きを。人は顛倒を以っての故に、楽を受くるを得と謂う』、と。 |
『行者』は、こう思惟する、――
『楽』の故に、
『身』を、
『貪っている!』が、
誰が、
『行者』は、
思惟して、こう知ることになる、――
『心』に、
『従って!』、
『受けるのだ!』。
『衆生』は、
『心』が、
『狂い!』、
『顛倒する!』が故に、
此の、
『楽』を、
『受けるのだから!』、
こう観察せねばならない、――
是の、
『心』は、
『無常という!』、
『生滅の相であり!』、
『一念(一瞬)』も、
『住まらない!』。
何処にも、
『人』は、
『顛倒』の故に、こう謂うのだ、――
『楽』を、
『受けることができる!』、と。
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何以故。初欲受樂時心生異。樂生時心異。各各不相及。云何言心受樂。過去心已滅故不受樂。未來心不生故不受樂。現在心一念住疾故不覺受樂。 |
何を以っての故に、初めて楽を受けんと欲する時の心は異を生じて、楽の生ずる時の心異なればなり。各各相及ばざるに、云何が、心に楽を受くと言う。過去の心は、已に滅するが故に楽を受けず。未来の心は生ぜざるが故に、楽を受けず。現在の心は、一念住まるも、疾きが故に、楽を受くるを覚えず。 |
何故ならば、
初めて、
『楽』を、
『受けようとする!』時の、
『楽』が、
『生じた!』時の、
『心』と、
『異なるからだ!』。
各各が、
『互に!』、
『及ぶ(関連する)ことがない!』のに、
何故、こう言うのか?――
『過去の心』は、
『未来の心』は、
未だ、
『生じない!』が故に、
『楽』を、
『受けず!』、
『現在の心』は、
『一念』、
『住まるだけで!』、
『疾い!』が故に、
『楽』を、
『受けた!』と、
『覚ることもない!』。
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問曰。過去未來不應受樂。現在心一念住時應受樂。云何言不受。 |
問うて曰く、過去、未来は、応に楽を受くべからず。現在の心は、一念住する時に、応に楽を受くべし。云何が、受けずと言う。 |
問い、
『過去、未来の心』は、
『現在の心』は、
『一念』、
『住まる!』時に、
当然、
『楽』を、
『受けるはずである!』。
何故、
『受けない!』と、
『言うのですか?』。
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答曰。我已說去疾故不覺受樂。 |
答えて曰く、我れは已に説けり、去ることの疾きが故に、楽を受くるを覚らざるなり。 |
答え、
わたしは、
已に、こう説いた、――
『現在の心』は、
『疾(すみや)か!』に、
『去る!』が故に、
『楽』を、
『受けた!』と、
『覚らないのだ!』、と。
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復次諸法無常相故無住時。若心一念住。第二念時亦應住。是為常住無有滅相。 |
復た次ぎに、諸法は、無常相の故に住する時無し。若し心、一念住せば、第二念の時にも、亦た応に住すべし。是れを常住と為し、滅相有ること無し。 |
復た次ぎに、
諸の、
『法』は、
『無常の相である!』が故に、
『住まる!』時が、
『無い!』。
若し、
『一念でも!』、
『住まれば!』、
当然、
是れは、
『常住であり!』、
『滅相』が、
『無いことになる!』。
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如佛說。一切有為法三相住中。亦有滅相。若無滅者不應是有為相。 |
仏の説きたもうが如し、『一切の有為法は、三相なり。住中にも、亦た滅相有り』、と。若し滅無くんば、応に是れ有為の相なるべからず。 |
例えば、
『仏』は、こう説かれたが、――
一切の、
『有為法』は、
『三相であり!』、
『住』中にも、
『滅相』が、
『有る!』、と。
若し、
『住』中に、
『滅相』が、
『無ければ!』、
是れが、
『有為の相であるはずがない!』。
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三相(さんそう):三種の様相( three aspects )、梵語 triiNi- lakSaNaani の訳、有為法( saMskRta- dharma
)の三種の表れである生相、住相、滅相( The three marks of arising, abiding, and ceasing )の意。即ち、
- 生相(梵 utpaad- lakSaNa ):生起を表す( to mark of arising )
- 住相(梵 sthiti ):居住を表す( to mark of abiding )
- 滅相(梵 nirodha- lakSaNa ):絶滅を表す( to mark of extinction )
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参考:『大宝積経巻94』:『若過去世陰界入等。即是滅盡。不實不在。無我無我所。若未來世陰界入等。是未生未起。無我無我所。若現在陰界入。是念念不住。何以故。世法無有一念住者。若有一念。是一念中亦有生住滅。是生住滅亦復不住。』
参考:『中論巻2三相品』:『問曰。經說有為法有三相生住滅。萬物以生法生。以住法住。以滅法滅。是故有諸法。答曰不爾。何以故。三相無決定故。是三相為是有為能作有為相。為是無為能作有為相。二俱不然。何以故 若生是有為 則應有三相 若生是無為 何名有為相 若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。』 |
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復次若法後有滅。當知初已有滅。譬如人著新衣。初著日若不故第二日亦不應故。如是乃至十歲應常新不應故。而實已故。當知與新俱有。微故不覺。故事已成方乃覺知。以是故知諸法無有住時。云何心住時得受樂。若無住而受樂是事不然。 |
復た次ぎに、若し法は、後に滅有らば、当に知るべし、初に已に滅有りと。譬えば、人新衣を著くるに、初めて著くる日に、若し故からざれば、第二日にも亦た、応に故かるべからず。是の如く乃至十歳にも、応に常に新しく、応に故かるべからず、而れども実に已に故きが如し。当に知るべし、新と倶に、微故有りて、覚らざるのみ。故き事已に成ずれば、方(まさ)に乃ち覚知すべし。是を以っての故に知るらく、『諸法には、住時有ること無し』、と。云何が心の住時に、楽を受くるを得ん。若し住無くして、而も楽を受くれば、是の事は然らず。 |
復た次ぎに、
若し、
譬えば、こういうことである、――
『人』が、
新しい、
『衣』を、
『著(つ)ける!』時、
初めて、
『衣を著けた!』、
『日』に、
『故(ふる)くなければ!』、
当然、
『第二日』にも、
『故いはずがない!』。
是のようにして、
乃至、
『十年たっても!』、
常に、
『新しいはずであり!』、
『故いはずがない!』が、
而し、
『実に!』、
『已に故くなっている!』。
当然、こう知らねばならない、――
『新しさ!』と、
『微かな!』、
『故さ!』とが、
倶( とも)に、
『有る!』のに、
『覚らないだけだ!』。
『故い!』、
『事』が、
已に、
『成立してから!』、
その時、、
ようやく、
『覚知するのだ!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
諸の、
『法』には、
『住まる!』時は、
『無い!』、と。
何故、
『心』が、
『住まる!』時に、
『楽』を、
『受けることができるのか?』。
若し、
『住まる!』ことが、
『無くても!』、
而し、
『楽』を、
『受けるとすれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
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以是故知無有實受樂者。但世俗法。以諸心相續故。謂為一相受樂。 |
是を以っての故に知る、実に楽を受くる者の有ること無く、但だ世俗の法には、諸の心相続するを以っての故に、謂いて、一相にして、楽を受くと為すのみ。 |
是の故に、こう知る、――
実に、
但だ、
『世俗の法』には、
諸の、
『心』が、
『相続(連続)する!』が故に、
こう謂うのである、――
諸の、
『心』は、
『一相であり!』、
『楽を受ける!』、と。
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問曰。云何當知一切有為法無常。 |
問うて曰く、云何が、当に知るべき、一切の有為法は無常なりと。 |
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答曰。我先已說今當更答。是有為法一切屬因緣故無常。先無今有故今有後無故無常。 |
答えて曰く、我れは先に已に説けり、今当に更に答うべし。是の有為法の一切は、因縁に属するが故に無常なり。先に無くして、今有るが故に、今有りて、後に無きが故に無常なり。 |
答え、
わたしは、
先に、説いたが、
今、更に答えるとしよう、――
是の、
『有為法』は、
一切が、
『因縁』に、
『属する(従属する)!』が故に、
『無常なのである!』。
先に、
『無い!』者が、
今、
『有る!』が故に、
『無常であり!』、
今、
『有る!』者が、
後には、
『無い!』が故に、
『無常なのである!』。
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復次無常相。常隨逐有為法故。有為法無有增損故。一切有為法相侵剋故無常。 |
復た次ぎに、無常の相は、常に有為法を随逐するが故に、有為法は、増損することの有ること無きが故に、一切の有為法は、相侵剋するが故に無常なり。 |
復た次ぎに、
『有為法』は、
『有為法』は、
『有為法』は、
一切が、
『互に!』、
『侵害しあう!』が故に、
是の故に、
『有為法』は、
『無常である!』。
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随逐(ずいちく):跡を追う。
侵剋(しんこく):侵し殺す。侵し損なう。侵害。 |
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復次有為法有二種老常隨逐故。一者將老二者壞老。有二種死常隨逐故。一者自死二者他殺。以是故知一切有為法皆無常。 |
復た次ぎに、有為法には、二種の老有りて、常に随逐するが故に、一には将に老いんとし、二には壊れて老ゆ、二種の死有りて、常に随逐するが故に、一には自ら死し、二には他殺す。是を以っての故に知る、一切の有為法は、皆、無常なり。 |
復た次ぎに、
『有為法』には、
『二種の老』が有って、
常に、
『随逐する!』が故に、
『無常である!』、
一には、
やがて、
『老いよう!』とする、
『老であり!』、
二には、
『二種の死』が有って、
常に、
『随逐する!』が故に、
『無常である!』、
一には、
二には、
是の故に、こう知ることになる、――
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於有為法中心無常最易得。如佛說凡夫人或時知身無常。而不能知心無常。若凡夫言身有常。猶差以心為常是大惑。何以故。身住或十歲二十歲。是心日月時頃須臾過去。生滅各異念念不停。欲生異生欲滅異滅。如幻事實相不可得。如是無量因緣故知心無常。是名心念處。 |
有為法中には、心の無常最も得易し。仏の説きたもうが如し、『凡夫人は、或は時に、身の無常を知るも、而し、心の無常を知る能わず。若し凡夫にして、『身は有常なり』と言わば、猶お差(い)ゆべし。心を以って常と為さば、是れ大惑なり。何を以っての故に、身の住すること、或は十歳、二十歳なるに、是の心は日、月、時、頃、須臾の過去に生滅して、各異なり、念念に停まらず。生ぜんと欲して、異生じ、滅せんと欲して、異滅す。幻事の如く、実相を得べからず。是の如き無量の因縁の故に知るらく、心は無常なりと、是れを心念処と名づく。 |
『有為法』中には、
『心』の、
『無常』が、
『最も得易い(認めやすい)!』が、
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『凡夫人』は、
或は時に、
『身』の、
『無常』を、
『知る!』が、
『心』の、
『無常』を、
『知ることができない!』、と。
若し、
『凡夫人』が、
『身』は、
『有常である!』と、
『言えば!』、
猶お、
『差(治癒すること)がある!』が、
若し、
『心』を、
『常である!』と、
『思えば!』、
是れは、
『大惑(惑乱)である!』。
何故ならば、
『身』は、
『十年とか!』、
『二十年とか』、
『住まる!』が、
『心』は、
『日、月、時、頃、須臾』の、
『過去に!』、
『生、滅する!』ので、
各各の、
『心』は、
『異なっており!』、
念念( 一瞬)も、
『停滞することがない!』。
有る、
『心』の、
『生じようとする!』時には、
『異なる心』が、
『生じ!』、
『心』の、
『滅しようとする!』時には、
『異なる心』が、
『滅するので!』、
例えば、
是のような、
無量の、
『因縁』の故に、こう知るのである、――
『心』は、
『無常である!』、と。
是れを、
『心念処』と、
『称する!』。
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日(にち):一日。一昼夜。
月(がつ):一ヶ月。二十九日、又は三十日。
時(じ):春秋冬夏の四時。
頃(きょう):しばらく。僅かの時間の意。
須臾(しゅゆ):梵語刹那 kSaNa の訳。暫時の意。 |
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行者思惟是心屬誰。誰使是心觀已不見有主。一切法因緣和合故不自在。不自在故無自性。無自性故無我。若無我誰當使是心。 |
行者の思惟すらく、『是の心は、誰にか属する。誰か是の心を使う』、と。観已りて、主有るを見ず。一切の法は、因縁の和合なるが故に、自在ならず。自在ならざるが故に、自性無し。自性無きが故に、無我なり。若し無我なれば、誰か当に是の心を使うべき。 |
『行者』は、
こう思惟して、――
観察したが、――
是の、
『心の主』が、
『有る!』とは、
『見えなかった!』。
一切の、
『法』は、
『因縁』の、
『和合である!』が故に、
『自在ではない!』、
『自在でない!』が故に、
『自性』が、
『無い!』、
『自性の無い!』が故に、
『無我である!』。
若し、
『法』に、
『我が無ければ!』、
是の、
『心』を、
『誰が使うことになるのか?』。
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問曰。應有我。何以故。心能使身。亦應有我能使心。譬如國主使將將使兵。如是應有我使心有心使身。為受五欲樂故。 |
問うて曰く、応に我有り。何を以っての故に、心は能く身を使えば、亦た応に我有りて、能く心を使うべし。譬えば国主は、将を使い、将は兵を使うが如し。是の如く応に我有りて、心を使い、心有りて、身を使うは、五欲の楽を受くる為めの故なるべし。 |
問い、
当然、
『我』が、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『心』が、
『身』を、
『使うことのできる!』のは、
『我』が有って、
『心』を、
『使うからである!』。
譬えば、
『国主』が、
『将』を、
『使い!』、
『将』が、
『兵』を、
『使うようなものである!』。
是のように、
有る、
有る、
それが、
『五欲の楽』を、
『受ける!』、
『理由である!』。
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復次各各有我心故知實有我。若但有身心顛倒故計我者。何以故。不他身中起我。以是相故知各各有我。 |
復た次ぎに、各各は我、心有るが故に、実に我有るを知る。若し但だ、身心の顛倒有るが故に、我を計すれば、何を以っての故にか、他身中に我を起さざらん。是の相を以っての故に、各各に我有るを知る。 |
復た次ぎに、
各各に、
『我、心』の、
『有る!』が故に、
実に、
『我が有る!』と、
『知る!』。
若し、
但だ、
『身』と、
『心』とが、
『有るだけで!』、
『顛倒』の故に、
『我』を、
『容認するとすれば!』、
何故、
『他の身』中に、
『我』を、
『起さないのか?』。
是の、
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計(け):◯梵語 pratii の訳、受入れる/容認する( to receive, accept )、容認する/認める/確信する/思い込む( to
admit, recognize, be certain of, be convinced that )の義。◯梵語 kalpanaa の訳、心中に創造する/真実だと思い込む(
creating in the mind, assuming anything to be real )の義。推定する/考える/推測する/想像する/図式化する/認める(
estimate, consider, think about, reckon, imagine, schematize, perceive
)の意。唯識に於いては、此の語は、諸法と我に関する不正確な結論/仮定を導くものとして、否定的な意味に於いて使われる( In Yogâcāra
this term has negative connotations of making inaccurate determinations
and assumptions regarding the nature of knowable things (dharmas) and one's
own self (ātman). )。
我(が):自我( self )、梵語 aatman の訳、息/魂、生命/知覚/感覚の本源、独立した魂/自己、個人的存在の基礎( The breath,
the soul, principle of life and sensation, The individual soul, self, The
basis of personal existence)の義、我れ/我が/我等/我れに/我等が( I, my, we, me, our )、自我/個性(
Subject, personality )の意。仏教に於いて、我は、 aatman という印度的概念である、或る不滅、不変の自己と同義語であるが、仏教に於いては、五蘊より成り立つが故に、我は、独立した永久的実体ではないと考えられている(
In Buddhism, it is the equivalent of the Indian concept of ātman, an eternal,
unchanging 'self,' which in Buddhism is understood as being composed of
the five aggregates 五蘊 and hence not an independent and permanent entity.
)、我とは、そのような自己に関する確信であるが、それを釈迦牟尼仏陀は、その教の中で論駁したのである( It is the belief in
such a self that Śākyamuni Buddha refuted in his teachings. )。仏教はその基本的原理として、無我という観念を採用しているが、但だ我を仮の自己としてならば認めてもいる(
Buddhism takes as its fundamental principle the notion of no-self 無我, only
recognizing a provisional self. )。不滅の自己が継続的に輪廻するという間違った見解は、有らゆる誤解の基である(
The erroneous idea of a permanent self continued in cyclic existence is
the source of all illusion. )。大乗に於いて、我という自己の観念は、但だ想像的個人、又は有情的主体に係るのみならず、自己の身心、又は客観的現象に於ける、独立した存在を具象化するという、基本的傾向に係るが(
In Mahāyāna, the notion of self refers not only to an imagined personality
or subject in sentient beings, but also the basic tendency to reify independent
existence in either one's own person or objective phenomena, )、即ち人[衆生]無我、及び法無我であり(
thus, 'selflessness of person' 人無我 and 'selflessness of phenomena' 法無我.
)、涅槃経には、「常住不変の自己は、超越的世界に於いて、輪廻的存在を超え、常、楽、浄と共にある」と説かれている( the Nirvana Sutra
posits a permanent self in the transcendental world, above the range of
cyclic existence, along with permanence, bliss, and purity 常我樂淨. )。 |
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答曰。若心使身有我使心。應更有使我者。若更有使我者是則無窮。又更有使我者則有兩神。若更無我但我能使心。亦應但心能使身。 |
答えて曰く、若し心、身を使い、我有りて、心を使わば、応に更に我を使う者有るべし。若し更に我を使う者有らば、是れ則ち無窮なり。又更に我を使う者有らば、則ち両神有り。若し更に我無くして、但だ我のみにして、能く心を使わば、亦た応に但だ心のみにして、能く身を使わん。 |
答え、
若し、
有る、
有る、
更に、
『我』を、
『使う!』者が、
『有るはずである!』が、
若し、
更に、
『我』を、
『使う!』者が、
『有れば!』、
則ち、
『無窮である!』。
又、
更に、
『我』を、
『使う!』者が、
『有れば!』、
『神( 我の主)』が、
『両(ふた)つ!』、
『有ることになる!』。
若し、
更に、
但だ、
『我のみで!』、
『心』を、
『使うことができれば!』、
当然、
『心のみで!』、
『身』を、
『使えなくてはならない!』。
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神(じん):心霊の力( psychic power )、心/本質/主体( heart, essence, core )、◯梵語 Rddhi, Rddhika
の訳、増加、成長、繁栄、成功、幸運、富、多量( increase, growth, prosperity, success, good fortune,
wealth, abundance )、達成/完全/神通力/魔術( accomplishment, perfection, supernatural
power, magic )の義、超自然的/超自然的作用( Supernatural; supernormal function )、不可解な精神的神力/能力(
Inscrutable spiritual powers, or power )の意。◯梵語 deva, devataa, daivata の訳、神霊/神/神霊の/神の(
spirit, god, spiritual, godly )の意。◯梵語 aatman, yakSa の訳、霊魂/亡霊/精神( soul,
ghost, spirit )の義。◯梵語 jiiva, ojas の訳、生存/実存すること( living, existing, alive
)の義。 |
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若汝以心屬神除心則神無所知。若無所知云何能使心。若神有知相復何用心為。以是故知但心是識相故。自能使身不待神也。如火性能燒物不假於人。 |
若し、汝、心は神に属すと以(おも)わば、心を除けば、則ち神には、知る所無けん。若し知る所無くんば、云何が能く心を使わん。若し神に知る相有らば、復た心を用って何をか為さん。是を以っての故に知る、但だ心のみ、是れ識相なるが故に、自ら能く身を使いて、神を待たざるなり。火性の能く物を焼いて、人を仮らざるが如し。 |
若し、
お前が、こう思えば、――
『心』は、
『神』に、
『属す!』、と。
『心』を、
『除けば!』、
則ち、
『神』には、
『知る!』所が、
『無いことになる!』。
若し、
『神』に、
『知る!』所が、
『無ければ!』、
何故、
『心』を、
『使えるのか?』。
若し、
『神』に、
『知る!』という、
『相』が、
『有れば!』、
復た、
『心』を、
『用いて!』、
何を、
『為そうというのか?』。
是の故に、こう知ることになる、――
但だ、
『心だけが!』、
自ら、
『身』を、
『使うことができる!』ので、
復た、
『神』を、
『待つことはない!』、と。
譬えば、
『火性』は、
『物』を、
『焼くことができ!』、
『人』の、
『力』を、
『借りないようなものである!』。
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以(い):いう。或いはおもう。謂に同じ。
仮(け):かりる。借に同じ。 |
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問曰。火雖有燒力。非人不用心雖有識相非神不使。 |
問うて曰く、火は、焼く力有りと雖も、人の用いざるに非ず。心は、識相有りと雖も、神の使わざるに非ず。 |
問い、
『火』には、
『焼く力』が、
『有る!』が、
『人』が、
『火』を、
『用いないわけではない!』。
『心』には、
『識の相』が、
『有る!』が、
『神』が、
『心』を、
『使わないわけではない!』。
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答曰。諸法有相故有。是神無相故無。汝雖欲以氣息出入苦樂等為神相。是事不然。何以故。出入息等是身相。受苦樂等是心相。云何以身心為神相。 |
答えて曰く、諸法は、相有るが故に有り。是の神は、無相なるが故に無し。汝は、気息の出入、苦楽等を以って、神相と為さんと欲すれど、是の事は然らず。何を以っての故に、出入息等は、是れ身相にして、苦楽等を受くるは、是れ心相なればなり。云何が身心を以って、神相と為さんや。 |
答え、
諸の、
是の、
お前は、
『気息の出入』や、
『苦楽』等を、
『神』の、
『相にしよう!』と、
『思っている!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『出入する息』等は、
『身』の、
『相であり!』、
『受ける苦楽』等は、
『心』の、
『相だからである!』。
何故、
『身、心の相』を、
『神の相だ!』と、
『思うのか?』。
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復次或時火自能燒不待於人。但以名故名為人燒。汝論墮負處。何以故神則是人。不應以人喻人。又復汝言各各有我心故。知實有我。若但有身心顛倒故。計我者。何以不他身中起我。汝於有我無我未了而問。何以不他身中起我。自身他身皆從我有。我亦不可得。 |
復た次ぎに、或は時に、火は自ら能く焼いて、人を待たざるも、但だ名を以っての故に名づけて、人焼くと為す。汝が論は、負処に堕ちたり。何を以っての故に、神は、則ち是れ人なれば、応に人を以って、人を喩うべからず。又復た汝が言わく、『各各に我、心有るが故に、実に我有りと知る』、と。若し但だ、身心有りて、顛倒の故に、我を計すれば、何を以ってか、他身中に我を起さざる。汝は、有我、無我に於いて未だ了せざるに、『何を以ってか、他身中に、我を起さざる』、と問えり。自身、他身は皆我より有るに、我も亦た得べからざればなり。 |
復た次ぎに、
或は時に、
『火』は、
自ら、
『焼くことができる!』ので、
『人』を、
『待たない!』が、
但だ、
『人』が、
『焼く!』と、
『言われているだけである!』。
お前の、
何故ならば、
『神』が、
『人ならば!』、
『人』を、
『用いて!』、
『人』を、
『説明するはずがない!』。
又復た、
お前は、こう言った、――
各各は、
『我』と、
『心』の、
『有る!』が故に、
実に、
『我は有る!』と、
『知る!』。
若し、
但だ、
『身、心』が、
『有るだけ!』で、
『顛倒』の故に、
『我』を、
『容認するとすれば!』、
何故、
『他の身』中に、
『我』を、
『起さないのか?』、と。
お前は、
『有我、無我』について、
未だ、
『意味』を、
『明了にしない!』まま、 こう問うたのだ、――
何故、
『他の身』中に、
『我』を、
『起さないのか?』、と。
『自らの身』と、
『他の身』とは、
皆、
『我』に、
『従属して!』、
『有る!』が、
亦た、
『我』も、
『認められていないのだ!』。
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喻(ゆ):通知/報告/説明する( inform, report, explain )、知る/気づく( know )、類似点を示す( draw an
analogy )、 |
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註:他は我の対語、他にも我にも属さない身は無い。我無ければ、即ち他も亦た無し。 |
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若色相若無色相若常無常有邊無邊。有去者不去者。有知者不知者。有作者無作者。有自在者不自在者。如是等我相皆不可得。如上我聞品中說。 |
若しは色の相、若しは無色の相、若しは常、無常、有辺、無辺、去有る者、去らざる者、知有る者、知らざる者、作有る者、作無き者、自在有る者、自在ならざる者、是の如き等の我相は、皆得べからざること、上の我聞品中に説くが如し。 |
例えば、
『色の相、無色の相』、
『常、無常』、
『有辺、無辺』、
『去ることの有る者、去らない者』、
『知ることの有る者、知らない者』、
『作すことの有る者、作すことの無い者』、
『自在を有する者、自在でない者』、
是れ等のような、
『我の相』は、
皆、
『認められない!』と、
上の、
『我聞品』中に、
『説かれている!』。
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参考:『大智度論巻1縁起義釈論』:『世界者有法從因緣和合故有無別性。譬如車轅軸輻輞等和合故有無別車。人亦如是。五眾和合故有無別人。若無世界悉檀者。佛是實語人。云何言我以清淨天眼見諸眾生隨善惡業死此生彼受果報。善業者生天人中。惡業者墮三惡道。』 |
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如是等種種因緣。觀諸法和合因緣生無有實法有我。是名法念處。 |
是れ等の如き、種種の因縁に、諸法は、和合の因縁生にして、実法の我を有すること有ること無きを観る、是れを法念処と名づく。 |
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう観る、――
諸の、
『法』は、
『和合の因縁』の、
『生(存在)であり!』、
実の、
『法』が、
『我を有する!』ことは、
『無い!』、と。
是れを、
『法念処』と、
『呼ぶのである!』。
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