巻第十九(上)
大智度論釋初品中三十七品義第三十一
1.三十七品
2.四念処
3.四念処と三念処
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大智度論釋初品中三十七品義第三十一
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


三十七品

【經】菩薩摩訶薩以不住法。住般若波羅蜜中。不生故應具足四念處四正懃四如意足五根五力七覺分八聖道分。 菩薩摩訶薩は、不住の法を以って、般若波羅蜜中に住し、不生なるが故に、応に四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分を具足すべし。
『菩薩摩訶薩』は、
『住まらない!』という、
『法』を、
『用いて!』
『般若波羅蜜』中に、
『住(とどま)り!』、
『身、心』は、
『不生である!』が故に、
『四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分』を、
『具足せねばならない!』。
  四念処(しねんじょ):四種の念処の意。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  四正懃(ししょうごん):止悪修善の為の方便精勤の意。『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  四如意足(しにょいそく):神用を現起する四種の定の意。『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  五根(ごこん):聖道を増上するに用ある五種の根。『大智度論巻15下注:五根』参照。
  五力(ごりき):聖道を発生する五種の力用。『大智度論巻15下注:五力』参照。
  七覚分(しちかくぶん):菩提に順趣する七種の法。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  八聖道分(はっしょうどうぶん):八種の正道の意。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
【論】問曰。三十七品。是聲聞辟支佛道。六波羅蜜是菩薩摩訶薩道。何以故於菩薩道中說聲聞法。 問うて曰く、三十七品は、是れ声聞、辟支仏の道なり。六波羅蜜は、是れ菩薩摩訶薩の道なり。何を以っての故にか、菩薩道中に於いて、声聞の法を説く。
問い、
『三十七品』は、
『声聞、辟支仏』の、
『道であり!』、
『六波羅蜜』が、
『菩薩摩訶薩』の、
『道である!』。
何故、
『菩薩道』中に、
『声聞の法』を、
『説くのですか?』。
  三十七品:梵語 sapta- triMzad- bodhi- pakSyaan dharmaan, sapta- triMzad- pakSikaa- dharmaaH の訳、具に三十七道品、三十七菩提分法、三十七助道法と訳す、菩提に属する三十七の法( the therty three ways of belonging to perfect intelligence )の義、菩提に至る三十七種の修行( thirty-seven kinds of practices for the attainment of enlightenment )の意、即ち、
  1. 四念処:念頭に置くべき四種の根本原理( he four bases of mindfulness )
    1. 身念処:不浄を、一切の色身中に観る
    2. 受念処:苦を、一切の諸受/苦・楽・不苦不楽中に観る
    3. 心念処:無常を、識心の念念生滅する中に観る
    4. 法念処:無我を、諸法の因縁生故に自主自在の性無き中に観る
  2. 四正勤:適切な四種の努力( the four kinds of right effort )
    1. 已生の悪をして、永く断ぜしむ
    2. 未生の悪をして、生ぜざらしむ
    3. 未生の善をして、生ぜしむ
    4. 已生の善をして、増長せしむ
  3. 四如意足:超自然的な四種の力( the four occult powers )
    1. 欲如意足:所修の法を欲願して、能く願の如く満足ならしむ
    2. 精進如意足:所修の法に一心を専注し、能く願の如く満足ならしむ
    3. 念如意足:所修の法を記憶して忘れず、能く願の如く満足ならしむ
    4. 思惟如意足:所修の法を思惟して忘失せず、能く願の如く満足ならしむ
  4. 五根:健全性に関する四種の根本( the five wholesome roots )
    1. 信根:正道/助道法を篤く信ずる
    2. 精進根:正法のみを修めて間雑無し
    3. 念根:正法を記憶して永く忘れず
    4. 慧根:正法を観照して明了である
  5. 五力:健全な四種の力( the five wholesome powers )
    1. 信力:信根増長すれば、能く諸疑惑を破る
    2. 精進力:精進根増長すれば、能く身心の懈怠を破る
    3. 念力:念根増長すれば、能く諸邪念を破って功徳を正念する
    4. 定力:定根増長すれば、諸乱想を破って諸の禅定を発す
    5. 慧力:慧根増長すれば、能く三界の惑を遮止する
  6. 七覚分:覚りに関する七種の要素( the seven factors of enlightenment )
    1. 択法覚分:能く諸法の真偽を簡択する
    2. 精進覚分:諸の道法を修めて、心に間雑無し
    3. 喜覚分:真実の法を開悟して、心に歓喜を得る
    4. 除覚分:能く諸見、煩悩を断除する
    5. 捨覚分:能く見、念、著する所の境を捨離する
    6. 定覚分:能く能く所発の禅定を覚了する
    7. 念覚分:能く所修の道法を思惟する
  7. 八聖道分:神聖な八重の道( the eightfold holy path )
    1. 正見:能く真理/真諦を見る
    2. 正思惟:正法を思惟して、能く心に邪念無し
    3. 正語:正法を説いて、能く言に虚妄無し
    4. 正業:能く清浄の善業に住まる
    5. 正命:能く如法に乞食活命する
    6. 正精進:正道を修めて、能く間雑無からしむ
    7. 正念:能く善法を専心憶念する
    8. 正定:身心寂静して、能く真空の理に正住する
   「雑阿含経巻26、27、28」、「倶舎論巻25」、「大毘婆沙論巻96」等に出づ。<(佛)
 三十七道品(さんじゅうしちどうほん):覚りに至る三十七の過程を三十七あげたもので、以下に示す四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道分を総合したもの。
 四念処(しねんじょ):次のように自ら身、受(粗の感覚)、心、法について観じ、常楽我淨(じょうらくがじょう)の四顛倒を破ることをいう。
   (1)身念処:この身は不淨であると観察して、世間は淨であるとの見解を正す。なお淨不淨とは近くはこの身が死ねば汚いものに変わることからも分かるように、もともと汚いことを表すが、遠くは因縁によって作られた本性を持たざるものという意味をさしている。
   (2)受念処:我々の五感に感ずるところのものは、全て苦であることを観察して、この世が楽であるとの見解を正す。楽と観ずるところのものは全て苦の因縁となることを知ること。
   (3)心念処:心は常ならざることを観察して、この世は常なりという見解をただす。心は五感にさらされて常に変化することを知ること。
   (4)法念処:法は無我なることを観察して、この世に我ありという見解を正す。法とは上の三を除いた全てのもののことをいい、無我とは自性がなく自在ならざることをいう。
 四正勤(ししょうごん):常に、次の事に精進する。
   (1)悪を生じない。
   (2)悪を断つ。
   (3)善を生じる。
   (4)善を増大せしむ。
 四如意足(しにょいそく):四正勤に次いで修める四種の禅定。(1)欲望、(2)努力、(3)思念、(4)観察についての超越的な能力をいう。前の四念処中には実の智慧を修め、四正勤中には正しい精進を修めて智慧と精進力を増多せしめたのであるが、定力が小し弱いため、今四種の禅定を修めて心を摂め、禅定と智慧とを均等ならしめ、所願を皆得ようとする。意のままに得る、これを以って如意、或いは神足という。(智19)
    (1)欲:欲願を主として定を得る。
    (2)精進:努力を主として定を得る。
    (3)心:心念を主として定を得る。
    (4)思惟:観察を主として定を得る。
 五根(ごこん):仏道を行うときの根本的な行い。
    (1)信根:仏法僧の三宝と四諦を信ずること。
    (2)精進根:十善などの善いことを怠らずに行うこと。
    (3)念根:正法を憶念して忘れないこと。
    (4)定根:心を散乱せしめないこと。
    (5)慧根:真理を思惟すること。
 五力(ごりき):前の五根が増長して生じた力。
    (1)信力:信根を増長して、諸の邪信の者を破る。
    (2)精進力:精進根を増長して、身の懈怠するを破る。
    (3)念力:念根を増長して、諸の邪念を破る。
    (4)定力:定根を増長して、諸の乱想を破る。
    (5)慧力:慧根を増長して、諸の惑いを破る。
 七覚分(しちかくぶん):覚りを助ける七つのもの。
    (1)念覚分:憶念して忘れないこと。
    (2)択法覚分:物事の真偽を選択する智慧のこと。
    (3)精進覚分:正法に精進すること。
    (4)喜覚分:正法を喜ぶこと。
    (5)軽安覚分:身心が軽快であること。
    (6)定覚分:心を散乱せしめないこと。
    (7)捨覚分:心が偏らず平等であること。捨とは平等を意味する。
 八正道(はっしょうどう):正しい生活の基本。
    (1)正見:苦集滅道の四諦の理を認めること、八正道の基本。
    (2)正思惟:既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させる。
    (3)正語:正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かない。
    (4)正業:正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしない。
    (5)正命:身口意の三業を修め、正法に順じて生活する。
    (6)正精進:正しい智慧でもって、涅槃の道を精進する。
    (7)正念:正しい智慧でもって、常に正道を心にかける。
    (8)正定:正しい智慧でもって、心を統一する。
答曰。菩薩摩訶薩。應學一切善法一切道。如佛告須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。悉學一切善法一切道。所謂乾慧地乃至佛地。是九地應學而不取證。佛地亦學亦證。 答えて曰く、菩薩摩訶薩は、応に一切の善法、一切の道を学ぶべければなり。仏の須菩提に、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、悉く一切の善法、一切の道を学ぶ』、と告げたもうが如きは。所謂乾慧地、乃至仏地にして、是の九地は、応に学びて証を取ず、仏地は亦学び、亦証すべし。
答え、
『菩薩摩訶薩』は、
一切の、
『善法』と、
『道』とを、
『学ばねばならないからである!』
例えば、
『仏』が、
『須菩提』に、告げられた、――
『菩薩摩訶薩』は、
一切の、
『善法』と、
『道』とを、
悉(ことごと)く、
『学ばねばならない!』とは、
謂わゆる、
『乾慧地、乃至仏地であり』、
是の中の、
『九地』は、
当然、
『学んでも!』、
『取証(確証)してはならず!』、
『仏地』も、
亦た、
『学びながら!』、
『取証するということである!』。
  乾慧地(けんねじ):乾慧地等の十地中、第一地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  取証(しゅしょう):悟る( to realize )、梵語 samanvaagata の訳、実現する/把握して証言する( actualize, to grasp and witness )、悟りを確信/実現するの意。
  (しょう):悟る( to realize )、梵語 adhigama の訳、達成する行為/取得/獲得( the act of attaining, acquisition )、取得/熟達/研究/知識( acquirement, mastery, study, knowledge )の義、実現する/完全に悟りを開く/心中に明了に知る/疑いが無い/結果を実現する/到達する/体験する( to actualize; to be fully enlightened; to know clearly within oneself, without a doubt. to realize the result; to reach to; to experience )の意。
  仏地(ぶつじ):乾慧地等の十地中、第十地。『大智度論巻19上注:十地』参照。
  十地(じゅうじ):梵語 daza bhuumaya Hの訳。十種の地の意。又訳して十住とも称す。地は住処の義、又住持或いは生成の義。即ち其の処に住し、又其の地法を住持し、及び因縁となりて果を生成するを云うなり。(一)乾慧等の十地。共地、或いは三乗共十地と称す。即ち菩薩の具足すべき十種の地を云う。一に乾慧地 zukla- vidarzanaa- bhuumi、二に性地 gotra- bhuumi、三に八人地 aSTamaka- bhuumi、四に見地 darzana- bhuumi、五に薄地 tanuu- bhuumi、六に離欲地 viita- raaga- bhuumi、七に已作地 kRtaavii- bhuumi、八に辟支仏地、九に菩薩地、十に仏地なり。「大品般若経巻17深奥品」に、「須菩提、仏に白して言さく、世尊、何等か是れ十地にして、菩薩具足し已らば阿耨多羅三藐三菩提を得るや。仏言わく、菩薩摩訶薩は乾慧地、性地、八人地、見地、薄地、離欲地、已作地、辟支仏地、菩薩地、仏地を具足す。是の地を具足せば阿耨多羅三藐三菩提を得ん」と云い、又「同巻6発趣品」に、「菩薩摩訶薩は是の十地の中に住し、方便力を以っての故に六波羅蜜を行じ、四念処乃至十八不共法を行じ、乾慧地、性地、八人地、見地、薄地、離欲地、已作地、辟支仏地、菩薩地を過ぎ、是の九地を過ぎて仏地に住す。是れを菩薩の十地と為す」と云える是れなり。此の中、初に乾慧地とは、又過滅浄地、寂然雑見現入地、超浄観地、見浄地、或いは浄観地とも名づく。「大品般若経発趣品」に依るに、菩薩は初地に住する時十事を行ず、一に深心堅固に、二に一切衆生の中に於いて心を等しくし、三に布施し、四に善知識に親近し、五に法を求め、六に常に出家し、七に仏身を愛楽し、八に法教を演出し、九に憍慢を破し、十に実語す。是の如く初地の中に住して十事の治地業を修治すと云えり。二に性地とは又種姓地、或いは種地とも名づく。「同発趣品」に菩薩は二地の中に住して常に八法を念ず、一に戒浄に、二に恩を知りて恩を報じ、三に忍辱に住し、四に歓喜を受け、五に一切衆生を捨てず、六に大悲心に入り、七に師を信じて恭敬諮受し、八に諸波羅蜜を勤求すと云えり。三に八人地とは又第八地、或いは八地とも名づく。「同発趣品」に菩薩は三地の中に住して五法を行ず、一に多く学問し、二に浄法を施し、三に仏国土を荘厳し、四に世間無量の勤苦を受け、五に慚愧処に住すと云えり。四に見地とは又具見地と名づく、「同発趣品」に菩薩は四地の中に住して不捨の十法を行ず、一に阿蘭若住処を捨てず、二に少欲、三に知足、四に頭陀の功徳を捨てず、五に戒を捨てず、六に諸欲を穢悪し、七に世間の心を厭い、八に一切の所有を捨し、九に心没せず、十に一切物を惜まずと云えり。五に薄地とは又柔軟地、或いは微欲地とも名づく。「同発趣品」に菩薩は五地の中に住して十二法を遠離す、一に親しき白衣、二に比丘尼、三に慳惜の他家、四に無益の談処、五に瞋恚、六に自大、七に蔑人、八に十不善道、九に大慢、十に自用、十一に顛倒、十二に婬怒癡を各遠離すと云えり。六に離欲地とは又離貪地、或いは滅婬怒癡地とも名づく。「同発趣品」に菩薩は六地の中に住して六波羅蜜を具足し、又六種の不応為の事あり、一に声聞辟支仏の意を起さず、二に布施して憂心を生ずべからず、三に索むる所あるものを見て心没せず、四に所有の物を布施し、五に布施の後心悔いず、六に深法を疑わずと云えり。七に已作地とは又所作辨地、或いは已辨地とも名づく。「同発趣品」に菩薩は七地の中に住せば二十法に著すべからず、一に我に著せず、二に衆生に著せず、三に寿命に著せず、四に衆数乃至知者見者に著せず、五に断見に著せず、六に常見に著せず、七に作相すべからず、八に作因見すべからず、九に名色に著せず、十に五衆に著せず、十一に十八界に著せず、十二に十二入に著せず、十三に三界に著せず、十四に著処を作さず、十五に所期処を作さず、十六に依処を作さず、十七に仏に依るの見に著せず、十八に法に依るの見に著せず、十九に僧に依るの見に著せず、二十に戒に依るの見に著せず。又応に二十法具足すべし、一に空を具足し、二に無相を証し、三に無作を知り、四に三分清浄、五に一切衆生の中に慈悲智を具足し、六に一切衆生を念ぜず、七に一切法を等しと観じ、八に諸法の実相を知るも是の事亦た念ぜず、九に無生法忍、十に無生智、十一に諸法一相と説き、十二に分別相を破し、十三に憶想を転じ、十四に見を転じ、十五に煩悩を転じ、十六に等定慧地、十七に調意、十八に心寂滅、十九に無礙智、二十に不染愛なりと云えり。八に辟支仏地とは、「同発趣品」に菩薩は八地の中に住せば五法を具足すべし、一に衆生の心に順入し、二に遊戯神通し、三に諸仏の国を観じ、四に所見の仏国の如く自ら其の国を荘厳し、五に如実に仏身を観じて自ら仏身を荘厳す。復た五法あり、一に上下の諸根を知り、二に仏世界を浄め、三に如幻三昧に入り、四に常に三昧に入り、五に衆生所応の善根に随って身を受くと云えり。九に菩薩地とは、「同発趣品」に菩薩は九地の中に住して十二法を具足す、一に無辺世界の所度の分を受け、二に是の如きの願を得、三に諸の天龍夜叉揵闥婆の語を知りて為に法を説き、四に処胎成就し、五に家成就し、六に所生成就し、七に姓成就し、八に眷属成就し、九に出生成就し、十に出家成就し、十一に荘厳仏樹成就し、十二に一切の諸善功徳成満具足すと云えり。十に仏地とは又如来地とも名づく。「同発趣品」に十地の菩薩は当に知るべし仏の如し。菩薩此の十地の中に住し、方便力を以って六波羅蜜乃至十八不共法を行じ、乾慧地乃至菩薩地を過ぎて仏地に住すと云えり。是れ即ち此の十地を以って菩薩の具足すべきものとし、若し之を具足せば即ち無上菩提を得べしとなすの意なり。されば仏地と言うも唯仏の如く十八不共法等を行ずるの意にして、真の仏果を指すに非ざるを知るべし。蓋し此の十地は一種特殊の菩薩の階位を説けるものにして、彼の「菩薩本業経」等所説の発心等の十住、並びに「十地経」所説の歓喜等の十地と全く異なる所なり。「大智度論巻49」には之を共地と名づけ、声聞の位次に共じて菩薩の地位を説けるものとなせり。即ち彼の文に、「地に二種あり、一には但菩薩地、二には共地なり。共地とは謂わゆる乾慧地乃至仏地なり。但菩薩地とは歓喜地、離垢地、有光地、増曜地、難勝地、現在地、深入地、不動地、善根地、法雲地なり。此の地の相は十地経の中に広く説くが如し」と云い、又「同巻75」に、「謂わゆる菩薩は初発心来、般若波羅蜜を行じて初地乃至十地を具足す、是の十地は皆佐助して無上道を成ず。十地とは乾慧地等なり。乾慧地に二種あり、一には声聞、二には菩薩なり。声聞の人は独り涅槃の為の故に、勤めて精進して戒を持し、心清浄にして道を受くるに堪任し、或いは観仏三昧、或いは不浄観を習い、或いは慈悲無常等の観を行じ、分別して諸の善法を集めて不善法を捨す。智慧ありと雖も禅定の水を得ざれば、則ち得道すること能わず。故に乾慧地と名づく。菩薩に於いては、則ち初発心乃至未だ順忍を得ざるものなり。性地とは、声聞の人は燸法より乃至世間第一法なり。菩薩に於いては順忍を得、諸法実相に愛著するも亦た邪見を生ぜず、禅定の水を得るなり。八人地とは苦法忍より乃ち道比智忍に至る是の十五心なり。菩薩に於いては則ち是れ無生法忍にして菩薩位に入るなり。見地とは初めて聖果を得、謂わゆる須陀洹果なり。菩薩に於いては則ち是れ阿鞞跋致なり。薄地とは或いは須陀洹、或いは斯陀含なり。欲界の九種の煩悩分断するが故なり。菩薩に於いては阿鞞跋致地を過ぎて乃至未だ成仏せず、諸の煩悩を断じて余気亦た薄きなり。離欲地とは、欲界等の貪欲諸煩悩を離る、是れを阿那含と名づく。菩薩に於いては離欲の因縁の故に五神通を得。已作地とは、声聞の人は尽智無生智を得て阿羅漢を得。菩薩に於いては仏地を成就す。辟支仏地とは先世に辟支仏道の因縁を種え、今世に少因縁を得て出家し、亦た深因縁の法を観じて成道するを辟支仏と名づく。辟支仏は秦に因縁と言い、亦た覚と名づく。菩薩地とは乾慧地より乃至離欲地なり、上に説くが如し。復た次ぎに菩薩地とは、歓喜地より乃至法雲地を皆菩薩地と名づく。有る人言わく、一発心来乃至金剛三昧を菩薩地と名づくと。仏地とは一切種智等の諸仏の法なり。菩薩は自地の中に於いて行具足し、他地の中に於いて観具足す、二事具するが故に具足と名づく」と云えり。是れ蓋し乾慧地を声聞地中の資糧位とし、而して之を菩薩の順忍以前に、性地を内凡四善根位とし、之を菩薩の順忍に、八人地を見道須陀洹向とし、之を菩薩の無生法忍に、見地を須陀洹果とし、之を菩薩の阿鞞跋致に、薄地を斯陀含、離欲地を阿那含とし、之を菩薩の阿鞞跋致以上に、已作地を阿羅漢とし、之を仏地に配するの意なり。然るに若し此の解釈に依らば今の十地の中、菩薩に共通するは唯前七地に限り、第八辟支仏地は之に共ぜず、且つ前七地に既に菩薩地仏地を尽くせるを以って、此の外に別に第九第十の二地を立つるは即ち重複といわざるべからず。按ずるに此の十地の説は元と声聞の位次を分って乾慧乃至已作の七地とし、之に辟支仏、菩薩及び仏の三地を加えて十地となせるものにして、唯広く位の尊卑に約して之を次第せるに止まるが如く、之を共位と名づけて一一菩薩の位次を声聞の諸地に配するが如きは、恐らく後世の解釈に属するものなるべし。「摩訶止観巻6上」には「大智度論」の意を承け、此の十地を通教の三乗共位を説けるものとし、且つ之を広く菩薩の五十三位に配し、「外凡三賢は是れ乾慧地なり、而も名づけて十信と為す。内凡四善根は是れ性地なり、而も名づけて十住十行十迴向と為す。八人見地は是れ須陀洹なり、而も名づけて初歓喜地と為すなり。薄地は是れ斯陀含なり、斯陀含に向あり果あり。向を立てて離垢地と為し、果を立てて明地と為す。離欲地は是れ阿那含なり。阿那含に向あり果あり、向を立てて炎地と為し、果を立てて難勝地と為す。已辨地は是れ阿羅漢なり。阿羅漢に向あり果あり、向を立てて現前地と為し、果を立てて遠行地と為す。辟支仏地を立てて不動地と為し、菩薩地を立てて善慧地と為す。或いは菩薩地の後心を以って法雲地と為し、或いは仏地を以って法雲地と為す」と云えり。又「大仏頂首楞厳経巻8」には、更に五十七位を立て、十慧地を置けり。又「光讃般若経巻7十住品」、「放光般若経巻4治地品」、「同巻13甚深品」、「大品般若経巻6発趣品」、「大般若経巻415修治品」、「同巻416修治品」、「勝天王般若波羅蜜経巻2法界品」、「大智度論巻50、51」、「大乗義章巻14」、「法華経玄義巻4下」等に出づ。
(二)歓喜等の十地。或いは十住とも称す。即ち菩薩の経べき十階の地位を云う。五十二位中の第四十一位より第五十位に至る十位に配せらる。一に歓喜地、梵名波牟提陀普 pramuditaa- bhuumi、又極喜地、喜地、或いは悦予地とも訳す。二に離垢地、梵名維摩羅普 vimalaa- bhuumi、又無垢地、或いは浄地とも訳す。三に明地、梵名波披羅普 prabhaakarii- bhuumi、又発光地、有光地、或いは興光地とも訳す。四に焔地、梵名阿至摸普 arciSmatii- bhuumi、又焔慧地、増曜地、或いは暉曜地とも訳す。五に難勝地、梵名頭闍耶普 sudurjayaa- bhuumi、又極難勝地と訳す。六に現前地、梵名阿比目佉普 abhimukhii- bhuumi、又現在地、或いは目見地とも訳す。七に遠行地、梵名頭羅迦摩普 duuraMgama- bhuumi、又深行地、深入地、或いは深遠地とも訳す。八に不動地、梵名阿遮羅普 acalaa- bhuumi、九に善慧地、梵名抄頭摩提普 saadhumatii- bhuumi、又善哉意地、善根地とも訳す。十に法雲地、梵名曇摩弥迦普 dharma- meghaa- bhuumi、又法雨地と訳す。「旧華厳経巻23」に、「菩薩摩訶薩の智地に十あり。過去未来現在の諸仏は、已に説き今説き当に説くべし。是の地の為の故に我れ是の如く説く。何等をか十と為す、一に曰わく歓喜、二に曰わく離垢、三に曰わく明、四に曰わく焔、五に曰わく難勝、六に曰わく現前、七に曰わく遠行、八に曰わく不動、九に曰わく善慧、十に曰わく法雲なり。是の十地は三世の諸仏已に説き今説き当に説くべし。我れ諸仏の国土に是の十地を説かざるものあるを見ず。何を以っての故に、此の十地は是れ菩薩最上の妙道、最上明浄の法門なればなり」と云える是れなり。其の意義に関しては、「合部金光明経巻3陀羅尼最浄地品」に、「善男子、云何が初地を而も歓喜と名づくる。出世の心を得るは昔未だ得ざる所、而も今始めて大事大用を得、意の所願の如く悉く皆成就し、大いに歓喜慶楽するが故なり。是の故に初地を名づけて歓喜地と為す。一切の微細の罪、破戒の過失皆清浄なるが故に、是の故に二地を説いて無垢地と名づく。無量の智慧光明三昧は傾動すべからず、能く摧伏するものなし。聞持陀羅尼を本と作すが故なり。是の故に三地を説いて明地と名づく。能く煩悩を焼き、智慧の火を以って光明を増長す、是れ修行道品の依処所なるが故なり。是の故に四地を説いて焔地と名づく。是の修行の方便勝智自在は得難きが故に見思の煩悩は伏すべからざるが故に、是の故に五地を説いて難勝地と名づく。行法相続して了了顕現し、無相多思惟現前するが故に、是の故に六地を説いて現前地と名づく。無漏無間、無相思惟、解脱三昧遠く修行するが故に、是の地清浄にして無障無礙なり。是の故に七地を説いて遠行地と名づく。無相正思惟修得自在にして、諸の煩悩行も動ぜしむること能わず。是の故に八地を説いて不動地と名づく。一切の種種の法を説いて自在を得、患累なきが故に智慧を増長し、自在無礙なるが故に、是の故に九地を説いて善慧地と名づく。法身は虚空の如く、智慧は大雲の如く、能く遍満して一切を覆わしむるが故に、是の故に第十を法雲地と名づく」と云い、又「成唯識論巻9」に、「十地と言うは、一に極喜地は初めて聖性を獲て具に二空を証し、能く自他を益して大喜を生ずるが故なり。二に離垢地は浄尸羅を具し、能く微細毀犯を起す煩悩の垢を遠離するが故なり。三に発光地は勝定と大法の総持を成就し、能く無辺の妙慧の光を発するが故なり。四に焔慧地は最勝の菩提分法に安住し、煩悩の薪を焼く慧の焔増すが故なり。五に極難勝地は真俗両智の行相互に違せるを、合して相応せしむること極めて難勝なるが故なり。六に現前地は縁起に住する智が無分別最勝の般若を引きて現前せしむるが故なり。七に遠行地は無相住の功用の後辺に至りて、世間と二乗との道を出過するが故なり。八に不動地は無分別智忍任運に相続して、相と用と煩悩とは動ずる能わざるが故なり。九に善慧地は微妙の四無礙解を成就し、能く十方に遍じて善く法を説くが故なり。十に法雲地は大法智の雲、衆徳の水を含みて如空の麁重を蔽い、法身に充満するが故なり」と云い、更に又其の中、初地に於いて施波羅蜜を行じ、異生性障を断じて遍行真如を証し、第二地に於いて戒波羅蜜を行じ、邪行障を断じて最勝真如を証し、第三地に於いて忍波羅蜜を行じ、闇鈍障を断じて勝流真如を証し、第四地に於いて精進波羅蜜を行じ、微細煩悩現行障を断じて無摂受真如を証し、第五地に於いて静慮波羅蜜を行じ、於下乗般涅槃障を断じて類無別真如を証し、第六地に於いて般若波羅蜜を行じ、麁相現行障を断じて無染浄真如を証し、第七地に於いて方便善巧波羅蜜を行じ、細相現行障を断じて法無別真如を証し、第八地に於いて願波羅蜜を行じ、無相中作加行障を断じて不増減真如を証し、第九地に於いて力波羅蜜を行じ、利他中不欲行障を断じて智自在所依真如を証し、第十地に於いて智波羅蜜を行じ、於諸法中未得自在障を断じて業自在等所依真如を証すと云えり。以って其の名称の所由並びに断証の別を見るべし。又「菩薩地持経巻9住品」には菩薩の十二住を説き、其の中、今の十地を以って第三乃至第十二住とし、之を順次に歓喜住、増上戒住、増上意住、菩提分法相応増上慧住、諦相応増上慧住、縁起生滅相応増上慧住、有行有開発無相住、無行無開発無相住、無礙住、最上菩薩住と名づけ、且つ其の義を解し、「云何が歓喜住なる、菩薩の浄心に住する是れを歓喜住と名づく。云何が増上戒住なる、菩薩は浄心に因りて性戒具足して住す。云何が増上意住なる、菩薩は増上戒浄に因りて世俗の禅三昧正受に住す。云何が菩提分法相応慧住なる、菩薩は世俗浄の智に因りて真実の三昧真諦覚正念処等の三十七菩提分法を観察して住す。云何が諦相応慧住なる、菩薩は菩提分法の観察に因りて真諦の慧に住す。云何が縁起生滅相応慧住なる、菩薩は真諦の覚を増上と為し已りて、有因縁苦生、有因縁苦滅の観察性に住す。云何が有行有開発無相住なる、菩薩は三種の増上慧を増上と為し已りて、有行有開発不断無間にして一切法如に、諸の妄相を離れて修慧と倶に住す。云何が無行無開発無相住なる、即ち此の無相に住して多く修すること淳至に、不断無間に増長し、道に随順して住す。云何が無礙住なる、菩薩は快浄不動智慧三昧に依り、仏所説の無上方広の章句義辞に於いて分別観察して住す。云何が最上菩薩住なる、菩薩は究竟の菩薩道に住し、阿耨多羅三藐三菩提の大法潅頂を得て一生相続し、若し最後身には此の住に於いて次第に無上菩提を得、一切の仏事を作して住す」と云えり。是れ蓋し所行の法に就いて十地の名称を立て、且つ其の相を明にせるものなり。又「同巻10地品」には種性等の七地を説き、其の中、今の初地を第三浄心地、二地乃至七地を第四行跡地、八地を第五決定地、九地を第六決定行地、十地及び仏地を第七畢竟地に配し、又「成唯識論巻9」には、資糧等の五位の中、今の初地を第三通達位、二地乃至第十地を修習位となせり。又「華厳経探玄記巻9」には十義を以って十地の義を分別し、「一に本に約せば唯是れ果海不可説の性なり。二に所証に約せば是れ離垢真如なり。三に智に約せば、謂わく根本後得等の三智なり。四に断に約せば謂わく二障の種現を離るるなり。五に所修に約せば、初地は修願の行、二地は戒行、三は禅行、四は道品行、五は諦行、六は縁生行、七は菩提分行、八は浄土行、九は説法行、十は受位行なり。六に修成に約せば、四行あり、謂わく初地は信楽行、二は戒行、三は定行、四已上は総じて是れ慧行なり。慧行の中に四五六は是れ二乗の慧、七地已去は是れ菩薩の慧なり。七に位に約せば、二位あり、謂わく証位と阿含位なり。是れ十地の位なるが故なり。八に乗法に寄するに約せば、謂わく初二三地は世間に寄す、人天乗なり。四五六地は出世間に寄す、是れ三乗なり。八地已上は出出世間にして、是れ一乗法なり。故に諸乗を以って此の地法と為すなり。九に寄位の行に約せば、謂わく十地に於いて檀等の十度の行を成ず。十に現報に約せば十王事の相なり」と云い、又此の中、寄位に関し、「華厳五教章巻1」に、「本業経、仁王経及び地論、梁摂論等には皆初二三地を以って世間に寄在し、四地より七地に至るを出世間に寄せ、八地已上を出出世間に寄す。出世間の中に於いて四地五地は声聞法に寄せ、六地は縁覚法に寄せ、七地は菩薩法に寄せ、八地已上は一乗法に寄す」と云えり。以って各其の義趣を見るべし。又「仁王般若波羅蜜経巻上教化品」には五忍及び十四忍の説をなし、十四忍の中、今の十地を以って第四乃至第十三忍に配し、之を順次に善覚忍、離達忍、明慧忍、炎慧忍、勝慧忍、法現忍、遠達忍、等覚忍、慧光忍、潅頂忍と名づけ、且つ初地を鳩摩羅伽位、四天王、二地を無相闍陀波羅位、忉利王、三地を伽羅陀位、炎天王、四地を須陀洹位、兜率天王、五地を斯陀含位、化楽天王、六地を阿那含位、自在天王、七地を阿羅漢梵天位、初禅王、八地を摩訶羅伽位、二禅王、九地を婆伽梵位、三禅王、十地を婆伽度位、四禅王となし、又「梵網経巻上」には四忍の説を立て、其の中、今の十地を堅聖忍とし、且つ之を名づけて体性平等地、体性善慧地、体性光明地、体性爾焔地、体性慧照地、体性華光地、体性満足地、体性仏吼地、体性華厳地、体性入仏界地と称せり。又「菩薩瓔珞本業経巻上賢聖学観品」には四十二賢聖の説をなし、其の中、今の十地を第三十一乃至第四十位とし、之を順次に鳩摩羅伽(逆流歓喜地)、須阿伽一波(道流離垢地)、須那迦(流照明地)、須陀洹(観明炎地)、斯陀含(度障難勝地)、阿那含(薄流現前地)、阿羅漢(過三有遠行地)、阿尼羅漢(変化生不動地)、阿那訶(慧光妙善地)、阿訶羅弗(明行足法雲地)と名づけ、且つ初地は中道第一義諦の慧に住し、三観現前して百法明門に入り、心心寂滅して自然に薩婆若海に流入し、二地は自ら十善を行じ、又人をして十善を行ぜしめ、三地は如幻三昧に入りて十二門禅を行じ、四地は遍く法宝蔵を行じ、五地は法界智観に入りて十六諦を知り、六地は十の十二因縁を観じて智を起し、七地は三空智を以って三界の二習を観じ、色心の果報滅して遺余なく、一切の功徳行功用開発し、八地は不思議無功用観に入りて、無相の大慧、方便の大用を得、九地は法際智に入り、四十辯才一切の功徳行皆成就し、十地は無礙智観に入り、二習無明皆已に尽きて大職位を受くと云えり。此等の説は恐らく支那に於いて唱道せられたるものなるべく、華厳、地持等の所説に類せざるもの多しというべし。又密教に於いては十地を以って十六大菩薩の位とし、阿閦の四親近なる金剛薩埵及び王愛喜の四菩薩を初地に、宝生の四親近なる宝光幢笑の四菩薩を二地乃至七地に、弥陀の四親近なる法利因語、不空成就の四親近なる業護牙拳の各四菩薩を八九十の三地に摂すとなせり。蓋し歓喜等の十地は「華厳十地品」等に説く所にして、彼の「菩薩本業経」等所説の発心等の十住、「大品般若経」所説の乾慧等の十地と異なるものなりと雖も、而も亦た互いに相通ずるものなきに非ざるが如し。又梵文「大事 mahaavastu Vol.I.ch.iv.」にも別に十地の説を出せり。一に難登 dur- aaroha、二に結慢 baddha- maanaa、三に華荘厳 puSpa- maNDita、四に明輝 rucira、五に心広 citta- vistara、六に妙相具足 ruupavatii、七に難勝 dur- jaya、八に生誕因縁 janma- nideza、九に王子位 yauvaraajyata、十に潅頂位 abhiSekataなり。此の中、明輝、難勝及び潅頂は、今の第三第五及び第十地と其の義相同じ。之に依るに大乗菩薩の階位に関し、夙に種種の説の提唱せられたるを見るべく、而して今の十地は其れ等の諸説を整理し之を大成したるものとなすべきが如し。又「漸備一切知徳経」、「十住経」、「十地経」、「菩薩十住経」、「相続解脱地波羅蜜了義経」、「解深密経巻4」、「菩薩善戒経巻8」、「大般若経巻54」、「大宝積経巻115」、「大仏頂首楞厳経巻8」、「新華厳経巻34至39」、「同疏巻31至44」等に出づ。
(三)声聞の十地。即ち声聞の位次を十種に分類せるもの。一に受三帰地、二に信地、三に信法地、四に内凡夫地、五に学信戒地、六に八人地、七に須陀洹地、八に斯陀含地、九に阿那含地、十に阿羅漢地なり。「大乗同性経巻下」に、「声聞の地に凡そ十種あり。何等をか十となす、一には受三帰地、二には信地、三には信法地、四には内凡夫地、五には学信戒地、六には八人地、七には須陀洹地、八には斯陀含地、九には阿那含地、十には阿羅漢地なり。善丈夫、是れを十種声聞の地と名づく」と云える是れなり。此の中、受三帰地とは又三帰行地と名づく、即ち仏法に入りて三帰を受行する位を云い、信地とは又随信行地と名づく、即ち外凡資糧位中の鈍根の者を云い、信法地とは又随法行地と名づく、即ち資糧位中の利根の者を云い、内凡夫地とは又善凡夫地と名づく、即ち内凡加行四善根の位を云い、学信戒地とは又学戒地と名づく、恐らく見道以上の信解の人を云い、八人地とは又第八人地と名づく、見道十五心の位にして即ち須陀洹向を云い、須陀洹地とは初果、斯陀含地とは第二果、阿那含地とは第三果、阿羅漢地とは即ち第四果を云うなり。「釈浄土二蔵義巻7」に之を前掲「大品般若経」所説の三乗共十地に配し、「一に受三帰地とは、五停心に当たる、初めて仏法に入りて三宝に帰するが故なり。二に信地とは別相念処に当たる、已に仏法に入りて四念住を信ずるが故なり。三に信法地とは総相念処に当たる、法念住に居して四念を観ずるが故なり。以上の三地は乾慧地より開す。四に内凡夫地とは四善根に当たる、性地と同じ。内凡は聖の先なり。内凡即ち先なるが故に持業釈なり。或いは内凡夫と云う、義亦た前に同じ。五に学信戒地とは八忍に当たる、断惑の慧忍は惑染を遮するが故なり。六に八人地とは八智に当たる、証理の智八なるが故に八人と云う。已上の二地は八人地より開す。七に須陀洹地とは見地に同じ、八に斯陀含地とは薄地に同じ、九に阿那含地とは離欲地に同じ、十に阿羅漢地とは已辨地に同じなり」と云えり。亦た「証契大乗経巻下」、「華厳経孔目章巻3」、「同章抄巻3上」、「十住心論巻4」、「同広名目巻3」等に出づ。
(四)辟支仏の十地。又支仏の十地、或いは独覚の十地とも名づく。即ち辟支仏の位次に十種の別ありとなすを云う。一に昔行具足地、二に自覚甚深十二因縁地、三に覚了四聖諦地、四に甚深利智地、五に八聖道地、六に覚了法界虚空界衆生界地、七に証寂滅地、八に六通地、九に徹秘密地、十に習気漸薄地なり。「大乗同性経巻下」に、「辟支仏地に其の十種あり。何等をか十となす、一には昔行具足地、二には自覚甚深十二因縁地、三には覚了四聖諦地、四には甚深利智地、五には八聖道地、六には覚了法界虚空界衆生界地、七には証寂滅地、八には六通地、九には徹秘密地、十には習気漸薄地なり。善丈夫、是れを十種の辟支仏地と名づく」と云える是れなり。此の中、昔行具足地とは又衆善資地、方便具足地とも名づく、即ち過去の四生百劫等に苦行を修する位を云い、自覚甚深十二因縁地とは又自覚深縁起地とも名づく、即ち師教に依らず十二因縁の理を自覚する位を云い、覚了四聖諦地とは又覚四聖諦地と名づく、即ち四聖諦の理を覚了する位を云い、甚深利智地とは又勝深利智地と名づく、即ち深智を起す位を云い、八聖道地とは又八聖支道地と名づく、即ち八正道を修する位を云い、覚了法界虚空界衆生界地とは又知法界虚空界衆生界地、覚了法界等地とも名づく、即ち法界虚空界衆生界の相を覚了する位を云い、証寂滅地とは又証滅地と名づく、即ち寂滅涅槃を証する位を云い、六通地とは又六通性地、或いは通地とも名づく、即ち漏尽等の六通を証得する位を云い、徹秘密地とは又入微妙地、或いは徹微密地とも名づく、即ち縁起微密の理に通徹する位を云い、習気漸薄地とは又習気薄地と名づく、即ち習気を断じて漸漸微薄なる位を云うなり。「釈浄土二蔵義巻7」に亦た之を三乗共十地及び前の声聞の十地に配し、「一に方便具足地は五停心に当たり、受三帰地に同じ。仏道の初心にして方便をもて散を摂し、三宝に帰するが故なり。二に自覚甚深十二因縁地は別相念処総相念処に当たり、信地及び信法地に同じ。総別に縁を観じて顛倒を破するが故なり。已上の二地は乾慧地より開す。三に覚了四聖諦地は四諦十六行相を修するが故に四善根に当たり、内凡夫地に同じ。即ち是れ性地なり。四に甚深利智地は、断惑の慧忍深堅固なるが故に八忍に当たり、学信戒地に同じ。五に八聖道地は、八智証理の上に八正道を修するが故に第十六心に当たり、八人地に同じ。已上の二地は八人地より開す。六に覚了法界等地は具に覚了法界虚空界衆生界地と云う。無漏の真明を発し、三界の見惑を断じ已りて法界浄を得るが故に須陀洹に同じ。即ち是れ見地なり。七に証寂滅地は、欲界六品の修惑を断じて寂静滅を得るが故に斯陀含に同じ。即ち是れ薄地なり。八に通地は欲の九品の惑皆悉く断尽するが故に通と云うなり。或いは六通とも云う、六神通を得るが故なり。阿那含に同じ。即ち是れ離欲地なり。九に徹微密地とは、総じて三界の八十八使と八十一品の見思の両惑を断じて、微妙細密の幽旨に徹するが故に徹微密地と云う。阿羅漢に同じ。即ち是れ已辨地なり。十に習気漸薄地は少分の無知を断ずるが故に亦た断薄と云う、義亦た前に同じ。是れ支仏地なり」と云えり。又「証契大乗経巻下」、「華厳経孔目章巻3」、「同章抄巻3上」、「十住心論巻5」、「同広名目巻3」等に出づ。
(五)仏の十地。即ち仏地の諸徳を十種に分類せるもの。一に甚深難知広明智徳地、又最勝甚深難識毘富羅光明作地と名づく。二に清浄身分威厳不思議明徳地、又無垢身威荘厳不可思議光明作地と名づく。三に善明月幢相海蔵地、又作妙光明月幢宝幟海蔵地と名づく。四に精妙金光功徳神通智徳地、又浄妙金光功徳神通智作地と名づく。五に火輪威蔵明徳地、又光明味場威蔵照作地と名づく。六に虚空内清浄無垢焔光開相地、又空中勝浄無垢持炬開敷作地と名づく。七に広勝法界蔵明界地、又勝広法界蔵光明起地と名づく。八に最浄普覚智蔵能浄無垢遍無礙智通地、又最勝妙浄仏智蔵光明遍照清浄諸障智通地と名づく。九に無辺億荘厳廻向能照明地、又無辺荘厳俱胝願毘盧遮那光作地と名づく。十に毘盧遮那智海蔵地、又智海陪盧遮那地と名づくるなり。「大乗同性経巻下」に、「仏に十地あり、一切の菩薩及び声聞辟支仏等の能く行うこと能わざる所なり。何をか十となす。一を甚深難知広明智徳地と名づけ、二を清浄身分威厳不思議明徳地と名づけ、三を善明月幢宝相海蔵地と名づけ、四を精妙金光功徳神通智徳地と名づけ、五を火輪威蔵明徳地と名づけ、六を虚空内清浄無垢焔光開相地と名づけ、七を広勝法界蔵明界地と名づけ、八を最浄普覚智蔵能浄無垢遍無礙智通地と名づけ、九を無辺億荘厳廻向能照明地と名づけ、十を毘盧遮那智海蔵地と名づく。善丈夫、此の地は是れ如来の十地の名号なり。諸仏の智慧は具に説くべからず。善丈夫、仏の初地とは一切微細の習気除くが故に、復た一切法に自在を得るが故なり。第二地とは法輪を転ずるが故に、深法を説くが故なり。第三地とは諸の声聞の戒を説くが故に、又復た三乗を顕説するが故なり。第四地とは八万四千の法門を説くが故に、又復た種種の魔を降伏するが故なり。第五地とは如法に諸外道を降伏するが故に、又復た傲慢及び衆数を降伏するが故なり。第六地とは無量の衆生を六通の中に教示するが故に、又復た六種の大神通を顕現するが故なり。謂わく無辺の清浄仏刹の功徳荘厳を現じ、無辺の菩薩大衆の囲遶を顕現し、無辺広大の仏刹を顕現し、、無辺の仏刹の自体を顕現し、無辺の諸仏刹中に従兜率天下託胎乃至法滅を顕現し、無辺の種種の神通を示現す。第七地とは諸菩薩の為に実の如く七菩提分無所有を説くが故に、復た所著なきが故なり。第八地とは一切菩薩に阿耨多羅三藐三菩提の四種記を授くるが故なり。第九地とは諸菩薩の為に善方便を現ずるが故なり。第十地とは諸菩薩の為に一切諸法無所有を説くが故に、復た告げて一切諸法本来寂滅大涅槃を知らしむるが故なり」と云える是れなり。「釈浄土二蔵義巻8」には、此の十地を順次に歓喜等の十地の菩薩の能化となし、初地を名づけて甚深自証仏、二地を説戒方便仏、三地を説定方便仏、四地を降魔方便仏、五地を伏外方便仏、六地を神変方便仏、七地を無著方便仏、八地を授記方便仏、九地を善現方便仏、十地を一切法無所有方便仏と称せり。又「証契大乗経巻下」、「華厳経探玄記巻3」、「華厳経孔目章巻3」、「同章抄巻3上」等に出づ。<(望)
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻6発趣品』:『云何菩薩一切諸善功德成滿具足。菩薩得眾生清淨佛國亦淨。是為菩薩住九地中具足十二法。云何菩薩住十地中當知如佛。若菩薩摩訶薩。具足六波羅蜜四念處乃至十八不共法。一切種智具足滿。斷一切煩惱及習。是名菩薩摩訶薩住十地中當知如佛。須菩提。菩薩摩訶薩住是十地中。以方便力故行六波羅蜜。行四念處乃至十八不共法。過乾慧地性地八人地見地薄地離欲地已作地辟支佛地菩薩地。過是九地住於佛地。是為菩薩十地。如是須菩提。是名菩薩摩訶薩大乘發趣』
  十地(じゅうじ):菩薩が菩提心を得てから仏に成るまでの十段階。
   (1)乾慧地:淨観地、真理を観じようとする智慧はあっても、未だ禅定の水に潤されていない。
   (2)性地:種性地、諸法実相に愛著するが、邪見を起こさず、智慧と禅定を伴なう。
   (3)八人地:八地、人とは忍で認可のこと。欲界の四聖諦、色界無色界の四聖諦に通達したという意味で、二度と生まれないという確信を得た状態。
   (4)見地:具見地、八人地の完全なものであり、この地を得れば菩薩は修行が後戻りしない不退の位、謂わゆる阿惟越致(あゆいおっち)、または阿鞞跋致(あびばっち)となる。
   (5)薄地:柔軟地、微欲地、煩悩がかすかに残っている状態。
   (6)離欲地:欲を離れて五神通を得た状態。
   (7)已作地:已辨地、菩薩が仏と同じ心を得た状態。
   (8)辟支佛地:縁覚地、因縁の法を観じて釈迦仏等の他の仏に依らず独自に成仏した状態。
   (9)菩薩地:前述の乾慧地から離欲地までのすべてを併せた位、又は菩薩が仏になる直前の位。
   (10)仏地:仏の心そのままをいう。
復次何處說三十七品。但是聲聞辟支佛法。非菩薩道。是般若波羅蜜摩訶衍品中。佛說四念處乃至八聖道分。是摩訶衍三藏中。亦不說三十七品獨是小乘法。 復た次ぎに、何処にか、三十七品は、但だ是れ声聞、辟支仏の法にして、菩薩の道に非ずと説く。是の般若波羅蜜の摩訶衍品中に、仏は、『四念処、乃至八聖道分は、是れ摩訶衍の三蔵中なり』と説きたもうも、亦た『三十七品は、独り是れ小乗の法なり』とは説きたまわず。
復た次ぎに、
何処に、
『三十七品』は、
但だ、
『声聞、辟支仏』の、
『法であって!』、
『菩薩』の、
『道ではない!』と、
『説かれているのか?』。
是の、
『般若波羅蜜の摩訶衍品』中に、
『仏』は、
『四念処、乃至八聖道分』が、
『摩訶衍の三蔵』中に、
『有る!』とは、
『説かれた!』が、
『三十七品』が、
独り、
『小乗の法である!』とは、
『説かれなかった!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻5広乗品』:『佛告須菩提。菩薩摩訶薩摩訶衍。所謂四念處。何等四。須菩提。菩薩摩訶薩內身中循身觀亦無身覺。以不可得故。外身中內外身中循身觀亦無身覺。以不可得故。懃精進一心除世間貪憂。內受內心內法。外受外心外法。內外受內外心內外法。循法觀亦無法覺。以不可得故。懃精進一心除世間貪憂。須菩提。菩薩摩訶薩云何內身中循身觀。須菩提。若菩薩摩訶薩行時知行。住時知住。坐時知坐。臥時知臥。知身所行如是知。須菩提。菩薩摩訶薩如是內身中循身觀。懃精進一心除世間貪憂。以不可得故。‥‥』
佛以大慈故。說三十七品涅槃道。隨眾生願隨眾生因緣各得其道。欲求聲聞人。得聲聞道。種辟支佛善根人。得辟支佛道。求佛道者得佛道。隨其本願諸根利鈍。有大悲無大悲。 仏は、大慈を以っての故に、三十七品の涅槃の道を説きて、衆生の願に随い、衆生の因縁に随いて、各に其の道を得しめ、声聞を欲求する人には、声聞の道を得しめ、辟支仏の善根を種うる人には、辟支仏の道を得しめ、仏の道を求むる者には、仏の道を得しむるも、其の本願と、諸根の利鈍に随いて、大悲有り、大悲無し。
『仏』は、
『大慈』の故に、
『三十七品()』の、
『涅槃の道』を、
『説いて!』、
『衆生』の、
『願』と、
『因縁』とに、
『随い!』、
各に、
其の、
『道』を、
『得させられた!』ので、
『声聞』を、
『欲求する人』には、
『声聞』を、
『得させ!』、
『辟支仏』の、
『善根を種える人』には、
『辟支仏の道』を、
『得させ!』、
『仏』の、
『道を求める!』者には、
『仏の道』を、
『得させられた!』ので、
『衆生』は、
其の、
『本来』の、
『願』に、
『随い!』、
『諸根』の、
『利、鈍』に、
『随って!』、
有る者は、
『大悲』が、
『有って!』、
『菩薩』と、
『為り!』、
有る者は、
『大悲』が、
『無くて!』、
『声聞、辟支仏』と、
『為るのである!』。
譬如龍王降雨普雨天下。雨無差別。大樹大草根大故多受。小樹小草根小故少受。 譬えば、龍王の雨を降らすは、遍く天下に雨ふらして、雨には差別無きも、大樹、大草の根は大なるが故に、多く受け、小樹、小草の根は小なるが故に少し受くるが如し。
譬えば、
『龍王』が、
『雨』を、
『降らす!』時、
普く、
『天下』に、
『降らす!』ので、
『雨』には、
『差別』が
『無い!』が、
『大樹、大草の根』は、
『大である!』が故に、
『多く!』を、
『受け!』、
『小樹、小草の根』は、
『小である!』が故に、
『少ししか!』、
『受けられないようなものである!』。
問曰。三十七品雖無處說獨是聲聞辟支佛道非菩薩道。以義推之可知。菩薩久住生死往來五道。不疾取涅槃。是三十七品但說涅槃法。不說波羅蜜。亦不說大悲。以是故知非菩薩道。 問うて曰く、三十七品は、『独り、是れ声聞、辟支仏の道にして、菩薩の道に非ず』と説く処無しと雖も、義を以って之を推せば知るべし、菩薩は、久しく生死に住して、五道を往来し、涅槃を取ること疾かならざるに、是の三十七品は、但だ涅槃の法を説いて、波羅蜜を説かず、亦た大悲を説かざるを。是を以っての故に、菩薩道に非ざるを知る。
問い、
『三十七品』は、
独り、
『声聞、辟支仏の道であり!』、
『菩薩の道でない!』、と。
『説かれた処』は、
『無い!』が、
『義』を、
『用いて!』、
是の、
『三十七品』を、
『推()せば!』、
こう知ることになる、――
『菩薩』は、
『生死』中に、
『久しく住まって!』、
『五道』を、
『往来する!』ので、
『疾かに!』、
『涅槃』を、
『取らない!』が、
是の、
『三十七品』は、
但だ、
『涅槃のみ!』を、
『説いて!』、
『波羅蜜』も、
『大悲』も、
『説かない!』。
是の故に、
こう知るのである、――
是の、
『三十七品』は、
『菩薩の道でない!』、と。
答曰。菩薩雖久住生死中。亦應知實道非實道是世間是涅槃。知是已立大願。眾生可愍。我當拔出著無為處。以是實法行諸波羅蜜能到佛道。菩薩雖學雖知是法。未具足六波羅蜜故不取證。 答え、菩薩は、久しく生死中に住すと雖も、亦た応に実道と非実道、是れ世間、是れ涅槃なりと知るべし。是れを知り已りて、大願を立つらく、『衆生は、愍れむべし、我れは当に抜き出して、無為の処に著くべし』、と。是の実法を以って、諸の波羅蜜を行ずれば、能く仏道に到るも、菩薩は、学ぶと雖も、是の法を知ると雖も、未だ六波羅蜜を具足せざるが故に、証を取らず。
答え、
『菩薩』が、
久しく、
『生死』中に、
『住まれば!』、
当然、
『実の道か、実の道でないか?』、
『世間か、涅槃か?』を、
『知るはずであり!』、
是れを、
『知って!』、
『大願』を、こう立てるのである、――
『衆生』は、
『愍(あわ)れむべきだ!』。
わたしは、
『衆生』を、
『苦界』より、
『抜き出して!』、
『無為』の、
『処』に、
『著()かねばならぬ!』、と。
是の、
『実の法』を、
『用いて!』、
諸の、
『波羅蜜』を、
『行えば!』、
『仏』の、
『道』に、
『到ることができる!』が、
『菩薩』は、
是の、
『法』を、
『学んで!』、
『知りながら!』、
未だ、
『六波羅蜜』を、
『具足しない!』が故に、
『取証しないのである!』。
  :六波羅蜜を具足すれば、即ち取証する、即ち涅槃/阿耨多羅三藐三菩提を得る。
如佛說。譬如仰射空中箭箭相柱不令落地。菩薩摩訶薩亦如是。以般若波羅蜜箭。射三解脫門空中。復以方便箭射般若箭。令不墮涅槃地。 仏の説の如く、譬えば、空中を仰射するに、箭と箭と相柱えて、地に落ちざらしむるが如し。菩薩摩訶薩も亦た是の如く、般若波羅蜜の箭を以って、三解脱門の空中に射、復た方便の箭を以って、般若の箭を射て、涅槃の地に堕ちざらしむ。
例えば、
『仏』が、こう説かれた通りである、――
譬えば、
『空』中に、
『仰いで!』、
『射れば!』、
『箭()』と、
『箭』とが、
『互に!』、
『柱(ささ)えあって!』、
『地』に、
『落ちさせない!』のと、
『同じことだ!』、と。
『菩薩摩訶薩』も、
是のように、
『三解脱門の空』中に、
『般若波羅蜜の箭』を、
『射て!』、
復た、
『方便の箭』で、
『般若の箭』を、
『射て!』、
『涅槃の地』に、
『般若の箭』を、
『堕ちさせないのである!』。
  (ちゅう):支える( support )。拄に通ず。
  三解脱門(さんげだつもん):解脱には空、無相、無作の三種の門あるの意。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻18河天品』:『須菩提。菩薩摩訶薩亦如是。於一切眾生中慈悲喜捨心遍滿足。爾時菩薩摩訶薩。住四無量心具足六波羅蜜。不取漏盡證學一切種智。入空無相無作解脫門。是時菩薩不隨一切諸相。亦不證無相三昧。以不證無相三昧故。不墮聲聞辟支佛地。須菩提。譬如有翼之鳥飛騰虛空而不墮墜。雖在空中。亦不住空。須菩提。菩薩摩訶薩亦如是學空解脫門學無相無作解脫門亦不作證。以不證故不墮聲聞辟支佛地。未具足佛十力大慈大悲無量諸佛法一切種智。亦不證空無相無作解脫門。須菩提。譬如健人學諸射法善於射術。仰射空中復以後箭射於前箭。箭箭相拄不令前墮隨意自在。若欲令墮便止後箭爾乃墮地。須菩提。菩薩摩訶薩亦如是。行般若波羅蜜以方便力故。為阿耨多羅三藐三菩提。諸善根未具足不於實際作證。若善根成就是時便於實際作證。以是故。須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。應如是觀諸法法相』
復次若如汝所說。菩薩久住生死中。應受種種身心苦惱。若不得實智。云何能忍是事。以是故菩薩摩訶薩求是道品實智時。以般若波羅蜜力故。能轉世間為道果涅槃。 復た次ぎに、若し、汝が所説の如く、菩薩は久しく生死中に住すれば、応に種種の身心の苦悩を受くべし。若し実智を得ずんば、云何が能く、是の事を忍ばん。是を以っての故に、菩薩摩訶薩は、是の道品に、実智を求むる時、般若波羅蜜の力を以っての故に、能く世間を転じて、道果の涅槃と為すなり。
復た次ぎに、
若し、
お前の、
『所説のように!』、
『菩薩』が、
『生死』中に、
『久しく!』、
『住まれば!』、
当然、
種々の、
『身、心の苦悩』を、
『受けるはずである!』。
若し、
『実の智』を、
『得ていなければ!』、
何故、
是の、
『事』を、
『忍ぶことができるのか?』。
是の故に、
『菩薩摩訶薩』が、
是の、
『道品』中に、
『実の智』を、
『求める!』時には、
『般若波羅蜜』という、
『力』の故に、
『世間』の、
『生、死』を、
『転じて!』、
『道果』の、
『涅槃』と、
『為すのである!』。
何以故。三界世間。皆從和合生。和合生者無有自性。無自性故是則為空。空故不可取。不可取相是涅槃。以是故說菩薩摩訶薩。不住法住般若波羅蜜中。不生故應具足四念處。 何を以っての故に、三界の世間は、皆和合より生じ、和合の生なれば、自性有ること無く、自性無きが故に是れを、則ち空と為し、空なるが故に取るべからず、取るべからざる相は、是れ涅槃なり。是を以っての故に説かく、『菩薩摩訶薩は、不住の法もて、般若波羅蜜中に住し、不生の故に応に四念処を具足すべし』、と。
何故ならば、
『三界の世間』は、
皆、
『和合より!』、
『生じ!』、
『和合の生』の故に、
『自性』が、
『無く!』、
『自性』の、
『無い!』が故に、
『空であり!』、
『空』の故に、
『取ることができない!』が、
『取ることができない!』という、
『相』が、
『涅槃だからである!』。
是の故に、こう説く、――
『菩薩摩訶薩』が、
『住まらない!』という、
『法』を、
『用いて!』、
『般若波羅蜜』中に、
『住まれば!』、
『身、心』は、
『不生である!』が故に、
当然、
『四念処の法』を、
『具足せねばならない!』、と。
復次聲聞辟支佛法中。不說世間即是涅槃。何以故。智慧不深入諸法故。菩薩法中說世間即是涅槃。智慧深入諸法故。 復た次ぎに、声聞、辟支仏の法中には、『世間は、即ち是れ涅槃なり』と説かず。何を以っての故に、智慧の諸法に深く入らざるが故なり。菩薩中に説かく、『世間は、即ち是れ涅槃なり』とは、智慧の諸法に深く入るが故なり。
復た次ぎに、
『声聞、辟支仏の法』中には、
こう説かない、――
『世間』とは、
即ち、
『涅槃である!』、と。
何故ならば、
『智慧』が、
諸の、
『法』に、
『深く入らないからである!』。
『菩薩の法』中に、
こう説くのは、――
『世間』とは、
即ち、
『涅槃である!』、と。
『智慧』が、
諸の、
『法』に、
『深く入るからである!』。
如佛告須菩提。色即是空空即是色。受想行識即是空。空即是受想行識。空即是涅槃。涅槃即是空。 仏の須菩提に、『色は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ色なり。受想行識は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ受想行識なり』、と告げたもうが如く、空は、即ち是れ涅槃なり。涅槃は、即ち是れ空なり。
例えば、
『仏』が、
『須菩提』に、こう告げられたように、――
『色』とは、
即ち、
『空であり!』、
『空』とは、
即ち、
『色である!』。
『受想行識』とは、
即ち、
『空であり!』、
『空』とは、
即ち、
『受想行識である!』、と。
是のように、
『空』とは、
即ち、
『涅槃であり!』、
『涅槃』とは、
即ち、
『空なのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻1奉鉢品』:『舍利弗白佛言。菩薩摩訶薩云何應行般若波羅蜜。佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見菩薩不見菩薩字。不見般若波羅蜜亦不見我行般若波羅蜜。亦不見我不行般若波羅蜜。何以故。菩薩菩薩字性空。空中無色無受想行識。離色亦無空。離受想行識亦無空。色即是空。空即是色。受想行識即是空。空即是識。何以故。舍利弗。但有名字故謂為菩提。但有名字故謂為菩薩。但有名字故謂為空。所以者何。諸法實性。無生無滅無垢無淨故。菩薩摩訶薩如是行。亦不見生亦不見滅。亦不見垢亦不見淨。何以故。名字是因緣和合作法。但分別憶想假名說。是故菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。不見一切名字。不見故不著』
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻25実際品』:『菩提。菩薩摩訶薩如是方便力成就眾生。是菩薩摩訶薩。即為眾生說布施持戒果報。是布施持戒果報自性空。知布施持戒果報自性空已是中不著。不著故心不散能生智慧。以是智慧斷一切結使煩惱習。入無餘涅槃。是世俗法非第一實義。何以故。空中無有滅亦無使滅者。諸法畢竟空即是涅槃。』
中論中亦說
 涅槃不異世間  世間不異涅槃 
 涅槃際世間際  一際無有異故
中論中にも、亦た説かく、
涅槃は世間と異ならず、世間は涅槃と異ならず、
涅槃際、世間際は一際にして異有る無きが故なり
『中論』中にも、こう説いている、――
『涅槃』は、
『世間』と、
『異ならず!』、
『世間』は、
『涅槃』と、
『異ならない!』。
『涅槃の際(界域)』と、
『世間の際(界域)』とは、
『一際であり!』、
『異ならないからである!』、と。
  参考:『中論巻4観涅槃品』:
       『涅槃與世間  無有少分別  世間與涅槃  亦無少分別‥‥』
       『涅槃之實際  及與世間際  如是二際者  無毫釐差別‥‥』
菩薩摩訶薩得是實相故。不厭世間不樂涅槃。三十七品是實智之地。 菩薩摩訶薩は、是の実相を得るが故に、世間を厭わず、涅槃を楽しまず。三十七品は、是れ実智の地なり。
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
『実の相』を、
『得る(認識する)!』が故に、
『世間を厭わず!』、
『涅槃を楽しまないのである!』が、
『三十七品』とは、
是の、
『実の智』を、
『生じさせるべき!』、
『地なのである!』。
問曰。四念處則能具足得道何以說三十七。若汝以略說故四念處。廣說故三十七。此則不然。何以故。若廣應無量。 問うて曰く、四念処は、則ち能く具足して、道を得しむれば、何を以ってか、三十七を説く。若し汝、略説を以っての故に四念処、広説を以っての故に、三十七なれば、此れ則ち然らず。何を以っての故に、若し広ければ、応に無量なるべければなり。
問い、
『四念処』が、
則ち、
『具足して(完全に)!』、
『道』を、
『得ることができれば!』、
何故、
『三十七品』を、
『説くのか?』。
若し
お前が、
『略説』の故に、
『四念処である!』と、
『説き!』、
『広説』の故に、
『三十七品である!』と、
『説けば!』。
此れは、
則ち、
『正しくないことになる!』。
何故ならば、
若し、
『広ければ!』、
『無量のはずだからである!』。
答曰。四念處雖具足能得道。亦應說四正懃等諸法。何以故眾生心種種不同。結使亦種種。所樂所解法亦種種。佛法雖一實一相。為眾生故。於十二部經八萬四千法聚。作是分別說。若不爾初轉法輪。說四諦則足。不須餘法。 答えて曰く、四念処は、具足して、能く道を得と雖も、亦た応に、四正懃等の諸法を説くべし。何を以っての故に、衆生の心は種種に不同にして、結使も亦た種種あり、所楽、所解の法も亦た種種なり。仏法は、一実、一相なりと雖も、衆生の為めの故に、十二部経、八万四千の法聚に於いて、是の分別を作して説けばなり。若し爾らずんば、初転法輪に、四諦を説けば、則ち足り、余法を須たず。
答え、
『四念処』は、
『具足して!』、
『道』を、
『得させる!』が、
当然、
『四正懃』等の、
『諸法』も、
『説かねばならない!』。
何故ならば、
『衆生』の、
『心』は、
『種種に!』、
『不同であり!』、
『結使(煩悩)』も、
『種種に!』、
『不同であり!』、
『楽しむ!』所や、
『理解する!』所の、
『法(事物)』も、
『種種だからである!』。
『仏』の、
『法』は、
『一実法であり!』、
『一実相である!』が、
『衆生』の為めの故に、
『十二部の経』や、
『八万四千の法聚』に於いて、
是れを、
『分別して!』、
『説かれた!』。
若し、
爾()うでなければ、
初めて、
『法輪』を、
『転じられた!』時、
但だ、
『四諦』を、
『説けば!』、
『足るはずであり!』、
則ち、
『他の法』は、
『必要ないことになる!』。
以有眾生厭苦著樂。為是眾生故。說四諦身心等諸法皆是苦無有樂。是苦因緣由愛等諸煩惱。是苦所盡處名涅槃。方便至涅槃。是為道。 有る衆生は、苦を厭うて楽に著すれば、是の衆生の為めの故に、四諦を、『身心等の諸法は、皆是れ苦にして、楽有ること無し。是の苦の因縁は、愛等の諸の煩悩に由る。是の苦を尽くる所の処を、涅槃と名づく。方便の、涅槃に至る、是れを道を為す』、と説きたまえり。
有る、
『衆生』は、
『苦を厭い!』、
『楽に著する!』ので、
是の、
『衆生』の為めの故に、
『四諦』を、こう説かれた、――
『身、心等の諸法』は、     ――苦諦――
皆、
『苦であり!』、
『楽は無い!』。
是の、               ――集諦――
『苦の因縁』は、
『愛』等の、
『諸の煩悩に由る!』。
是の、               ――滅退――
『苦』の、
『尽された処』が、
『涅槃である!』。
『涅槃』に、            ――道諦――
『至る!』、
『方便』が、
『道である!』、と。
有眾生多念亂心顛倒故。著此身受心法中。作邪行。為是人故說四念處。如是等諸道法。各各為眾生說。 有る衆生は、多念、乱心、顛倒の故に、此の身、受、心、法中に著して、邪行を作せば、是の人の為めの故に、四念処を説く。是の如き等の諸の道法は、各各、衆生の為めに説きたまえり。
有る、
『衆生』は、
『多念、乱心、顛倒である!』が故に、
此の、
『身、受、心、法』中に、
『著して!』、
『邪行』を、
『作す!』ので、
是の、
『人』の為めの故に、
『四念処』を、
『説かれたのである!』が、
是れ等のような、
諸の、
『道法』は、
各各、
『衆生の為め!』に、
『説かれたのである!』。
譬如藥師不得以一藥治眾病。眾病不同藥亦不一。佛亦如是隨眾生心病種種。以眾藥治之。 譬えば、薬師は、一薬を以って、衆病を治すを得ず、衆病同じからざれば、薬も亦た一ならざるが如し。仏も亦た是の如く、衆生心の病に随いて、種種に衆薬を以って、之を治したもう。
譬えば、
『薬師』は、
『一薬』で、
『衆病』を、
『治すことができず!』、
『衆病』は、
『同じでなく!』、
亦た、
『薬』も、
『一でないように!』、
『仏』も、
是のように、
『衆生』の、
『心の病』に、
『随い!』、
種種に、
『衆薬』を、
『用いて!』、
『治されるのである!』。
或說一法度眾生。如佛告一比丘。非汝物莫取。比丘言。知已世尊。佛言。云何知。比丘言。諸法非我物不應取。或以二法度眾生。定及慧。或以三法戒定慧。或以四法四念處。是故四念處雖可得道。餘法行異分別多少異觀亦異。以是故應說四正懃等諸餘法。 或は一法を説いて、衆生を度したもう。仏の一比丘に告げたまえるが如し、『汝が物に非ざれば、取ること莫かれ!』。比丘の言わく、『知り已れり、世尊』、と。仏の言わく、『云何が知る』、と。比丘の言わく、『諸法は我が物に非ざれば、応に取るべからず』、と。或は、二法を以って、衆生を度す、定、及び慧なり。或は三法を以ってす、戒、定、慧なり。或は四法を以ってす、四念処なり。是の故に四念処は、道を得べしと雖も、余法は、行異なり、分別の多少異なり、観も亦た異なり。是を以っての故に、応に四正懃等の諸の余法を説きたもうべし。
或は、
『仏』は、
『一法』を、
『説いて!』、
『衆生』を、
『度された!』。
例えば、
『仏』は、
『一比丘』に、こう告げられたのである、――
お前の、
『物でなければ!』、
『取ってはならない!』、と。
『比丘』は、こう言った、――
『分りました!』、
世尊!、と。
『仏』は、こう言われた、――
何のように、
『分ったのか?』、と。
『比丘』は、こう言った、――
諸の、
『法』は、
『わたしの!』、
『物ではない!』ので、
当然、
『取ってはならないのです!』、と。
或は、
『二法』で、
『衆生』を、
『度された!』、
『定、慧である!』。
或は、
『三法』で、
『度された!』、
『戒、定、慧である!』。
或は、
『四法』の、
『四念処』で、
『度された!』。
是の故に、
『四念処』が、
『度』を、
『得る!』、
『道であっても!』、
『他の法』は、
『行』や、
『分別の多少』や、
『観』が、
『異なる!』ので、
是の故に、
『四正懃』等の、
諸の、
『他の法』も、
『説くべきなのである!』。
復次諸菩薩摩訶薩信力大故。為度一切眾生故。是中佛為一時說三十七品。若說異法道門十想等。皆攝在三十七品中。 復た次ぎに、諸の菩薩摩訶薩は、信力の大なるが故に、一切の衆生を度せんが為めの故に、是の中に、仏は為めに一時に、三十七品を説きたまえり。若しは、異法の道門を説きたまえるも、十想等は、皆三十七品中に摂せり。
復た次ぎに、
諸の、
『菩薩摩訶薩』の、
『信』の、
『力』が、
『大である!』が故に、
一切の、
『衆生』を、
『度す為めである!』が故に、
是の、
『摩訶般若波羅蜜』中に、
『仏』は、
一時に、
『三十七品』を、
『説かれたのである!』。
若し、
『三十七品』に、
『異なる!』、
『道門』を、
『説かれた!』としても、
『十想』等の、
『道門』は、
皆、
『三十七品』中に、
『含まれている!』。
  十想(じっそう):無常、苦等の十種の観想。『大智度論巻17下注:十想』参照。
  (ざい):に。於に同じ。
  十想(じっそう):次のものを心の中に観察して思うこと。
    (1)無常想:一切の物は因縁によって造られ、無常である。
    (2)苦想:一切の物は無常であるが故に苦である。
    (3)無我想:一切の物には不変の我はなく、無我である。
    (4)食不淨想:食は不淨の因縁から生じる。殺生、偸盗によらない食はない。
    (5)一切世間不可楽想:一切の世間に楽しむべきものは何物もない。
    (6)死想:死とは何か。
    (7)不淨想:肉体とは不淨である。
    (8)断想:煩悩を断つとは何事か。
    (9)離欲想:この世に思いを残さず。
    (10)尽想:生死を尽くして涅槃に入る。
是三十七品眾藥和合。足療一切眾生病。是故不用多說。如佛雖有無量力但說十力。於度眾生事足。 是の三十七品の衆薬の和合は、一切の衆生の病を療するに足る。是の故に、多説を用いず。仏には、無量の力有りと雖も、但だ十力を説けば、衆生を度する事に於いて足るが如し。
是の、
『三十七品』という、
『衆薬の和合』は、
一切の、
『衆生の病』を、
『治療する!』に、
『足る!』ので、
是の故に、
『多く!』、
『説く!』、
『必要がない!』。
例えば、
『仏』には、
『無量の力』が、
『有る!』が、
但だ、
『十力』を、
『説けば!』、
『衆生を度する!』という、
『事』に、
『足るようなものである!』。
  十力(じゅうりき):梵語 deza- balaani の訳、◯特に仏にのみ所有される十種の認識の力( Ten kinds of powers of awareness specially possessed by the Buddha. )を云う。「阿毘曇心論」に依れば( In the *Saṃyuktâbhidharma-hṛdaya-śāstra )、即ち( they are defined as: )、
  1. 処非処智力:正邪を識別すること/有らゆる状況に於いて正邪を知ること( distinguishing right and wrong; knowing what is right or wrong in every condition )
  2. 自業智力:自己の業、及び有らゆる衆生の過去・現在・未来の業を知ること( knowing one's own karma, as well as knowing the karma of every being, past, present, and future )、又業の熟成を知ること/業異熟智力( or knowing karmic maturation )
  3. 靜慮解脫等持等至智力:有らゆる形式の瞑想、有らゆる段階の禅定、及び三昧を知ること( knowledge of all forms of meditation; knowing all stages of dhyāna liberation, and samādhi )
  4. 根勝劣智力/根上下智力:衆生/有情の相対的な能力を知ること( knowledge of the relative capacities of sentient beings )
  5. 種種勝解智力:衆生の関心事、欲望、或は個々の衆生の道徳的傾向を知ること( knowledge of what sentient beings have devoted interest in; the desires, or moral direction of every being )
  6. 種種界智力:種種の原因要素/種子を知ること( knowledge of the varieties of causal factors (seeds) )
  7. 遍趣行智力:衆生のたどる進路/道の全範囲を知ること( knowledge of the gamut of courses and paths pursued by sentient beings )
  8. 宿住隨念智力:過去世の記憶を知ること( knowledge of remembrance of past lives )
  9. 死生智力:人が何処に死に、何処に生まれるやを知ること( knowledge of where people will die and be reborn )
  10. 漏盡智力:有らゆる汚染を破壊する方法を知ること( knowledge of the methods of destroying all contamination )であり、
  又「梵網経」に依れば、十力は( In the Sutra of Brahmā's Net, the ten powers are:)、
  1. 處力:power of the knowledge of appropriateness
  2. 智力:knowledge power
  3. 果欲力:power of [knowledge of] fruits desired
  4. 性力:power of [knowledge of] natures
  5. 根力:power of the [knowledge of] faculties
  6. 定力:power of [knowledge of] determination
  7. 道力:power of [knowledge of] the path
  8. 天眼力:power of the divine eye
  9. 宿世力:power of [knowledge of] previous lives
  10. 解脫力:power of [the knowledge of] liberation . である。
                 『大智度論巻16上注:十力』参照。
  十力(じゅうりき):仏の持つ十の智慧。種種有るが、例えば次のもの。
    (1)処非処智力:物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。
    (2)業異熟智力:一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。
        異熟とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないこと。
    (3)静慮解脱等持等至智力:諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。
    (4)根上下智力:衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。
        根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。
    (5)種々勝解智力:一切衆生の理解の程度を知る智力。
    (6)種々界智力:世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。
    (7)遍趣行智力:五戒などの行により諸々の世界に趣く因果を知る智力。
    (8)宿住隨念智力:過去世の事を如実に知る智力。
    (9)死生智力:天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。
    (10)漏尽智力:煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。
是三十七品。十法為根本。何等十。信戒思惟精進念定慧除喜捨。 是の三十七品は、十法を根本と為す。何等か十なる。信、戒、思惟、精進、念、定、慧、除、喜、捨なり。
是の、
『三十七品』の、
『根本』は、
『十法である!』。
何のような、
『十法か?』――
『信、戒、思惟、精進、念、定、慧、除、喜、捨である!』。
  (じょ):梵語 pratiprazrabdhi の訳、脱落/除去( omission, removal )の義、又「阿含経」には『猗』に作り、「大品」、「大智度論」を除く余の大乗典籍には、多く『軽安』に作る、応に梵語 prazrabdhi の訳なるべし、信用/信頼( trust, confidence )の義。適応性/順応性/柔軟性/融通性( flexibility, pliancy, adaptability )の意。七覚分の一。
  十法(じっぽう):又十根、十根本、十菩提分、十覚分とも名づくべきものなり。菩提に順趣する十種の法の意。即ち十とは、一には慧、二には勤、三には定、四には信、五には念、六には喜、七には捨、八には軽安、九には戒、十には尋の十種にして、謂わゆる三十七品は、是の十種を以って体と為すことを云う。即ち「阿毘達磨倶舎論巻25」に、「三十七法は、菩提に順趣す。是の故に皆、菩提分法と名づく。此の三十七の体は各別なるや。爾らず。何をか云う。頌して曰わく、此の実事に唯十あり、謂わく慧、勤、定、信、念、喜、捨、軽安、及び戒、尋を体と為すと。論じて曰わく、此の覚分の名は、三十七なりと雖も、実事は唯十にして、即ち慧、勤等なり。謂わく四念住、慧根、慧力、択法覚支、正見は、慧を以って体と為す。四正断、精進根、精進力、精進覚支、正精進は、勤を以って体と為す。四神足、定根、定力、定覚支、正定は、定を以って体と為す。信根、信力は、信を以って体と為す。念根、念力、念覚支、正念は、念を以って体と為す。喜覚支は、喜を以って体と為す。捨覚支は、捨を以って体と為す。軽安覚支は、軽安を以って体と為す。正語、正業、正命は、戒を以って体と為す。正思惟は、尋を以って体と為す。是の如く、覚分の実事は唯十なり。即ち是れ信等の五根力の上に、更に喜、捨、軽安、戒、尋を加えたるなり」と云い、「大智度論巻19」に、「仏に無量の力ありと雖も、但だ十力を説けば、衆生を度するに於いて事足るが如く、是の三十七品も、十法を根本と為す。何等か十なる、信、戒、思惟、精進、念、定、慧、除、喜、捨なり。信とは、信根、信力なり。戒とは、正語、正業、正命なり。精進とは、四正懃の精進、精進根、精進力、精進覚、正精進なり。念とは、念根、念力、念覚、正念なり。定とは、四如意足、定根、定力、定覚、正定なり。慧とは、四念処、慧根、慧力、択法覚、正見なり。是の諸法は、智慧に随順するを念ずる縁の中に止住す、是の時を念処と名づく。邪法を破る正道中に行ずるが故に、正懃と名づく。心を摂して縁中に於いて安隠なるが故に、如意足と名づく。軟智心の得なるが故に根利と名づけ、智心の得なるが故に力と名づく。修道の用なるが故に覚と名づけ、見道の用なるが故に道と名づく」と云える即ち是れなり。此の中に就き、慧とは心が理に随順して、四諦、諸法実相等を観ずるを云い、勤、又は精進とは善法を修むるに勇猛なるを云い、定とは心を菩提の一境に止めて散失せしめざるを云い、信とは三宝、四諦、因果等を信ずるを云い、念とは正法を憶念して忘れざるを云い、喜とは心に善法を得るに即ち歓喜を生ずるを云い、捨とは諸の妄謬を捨て、一切法を捨てて、平心坦懐、更に追憶せざるを云い、軽安、又は除とは身心の麁重を断除して、身心をして軽利安適ならしむるを云い、戒とは正見し、不善を作さずして、身口意三業の清浄なるを云い、尋、又は志、又は思惟とは常に四諦の理を思惟して、智慧を増長するを云う。以って其の意を知るべし。<(丁)
  参考:『大品経巻5』:『復次須菩提菩薩摩訶薩摩訶衍所謂七覺分。何等七菩薩摩訶薩修念覺分依離依無染向涅槃擇法覺分精進覺分喜覺分除覺分定覺分捨覺分依離依無染向涅槃以不可得故是名菩薩摩訶薩摩訶衍』
  参考:『大智度論巻19』:『七覺分者,菩薩於一切法,不憶不念,是名念覺分。一切法中,求索善法、不善法、無記法不可得,是名擇法覺分。不入三界,破壞諸界相,是名精進覺分。於一切作法不生著樂,憂喜相壞故,是名喜覺分。於一切法中除心,緣不可得故,是名除覺分。知一切法常定相,不亂不定,是名定覺分。於一切法不著不依止,亦不見是捨心,是名捨覺分。菩薩觀七覺分空如是。』
  参考:『長阿含巻8』:『復有七法謂七覺意念覺意法覺意精進覺意喜覺意猗覺意定覺意護覺意』
  参考:『雑阿含巻28』:『何等為七謂念覺支擇法覺支精進覺支猗覺支喜覺支定覺支捨覺支』
信者信根信力。戒者正語正業正命。精進者四正懃精進根精進力精進覺正精進。念者念根念力念覺正念。定者四如意足定根定力定覺正定。慧者四念處慧根慧力擇法覺正見。 信とは、信根、信力なり。戒とは、正語、正業、正命なり。精進とは、四正懃、精進根、精進力、精進覚、正精進なり。念とは、念根、念力、念覚、正念なり。定とは、四如意足、定根、定力、定覚、正定なり。慧とは、四念処、慧根、慧力、択法覚、正見なり。
『信』とは、
『信根』と、
『信力である!』。
『戒』とは、
『正語』、
『正業』、
『正命である!』。
『精進』とは、
『四正懃』と、
『精進根』、
『精進力』、
『精進覚分』、
『正精進である!』。
『念』とは、
『念根』、
『念力』、
『念覚分』、
『正念である!』。
『定』とは、
『四如意足』、
『定根』、
『定力』、
『定覚分』、
『正定である!』。
『慧』とは、
『四念処』、
『慧根』、
『慧力』、
『択法覚分』、
『正見である!』。
  信根等:『大智度論巻15下注:五根』参照。
  信力等:『大智度論巻15下注:五力』参照。
  正語等:『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  四正懃:『大智度論巻16上注:四正断』参照。
  四如意足:『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  精進覚等:『大智度論巻18下七覚支』参照。
  四念処:『大智度論巻15下注:四念処』参照。
是諸法念隨順智慧緣中止住。是時名念處。破邪法正道中行故。名正懃。攝心安隱於緣中故。名如意足。軟智心得故名根利。智心得故名力。修道用故名覺。見道用故名道。 是の諸法の念は、智慧に随順して、縁中に止住す。是の時を念処と名づく。邪法を破りて、正道中を行くが故に、正勤と名づく。心を摂して、縁中に安隠なるが故に、如意足と名づく。軟智の心に得るが故に、根と名づく。利智の心に得るが故に、力と名づく。修道の用なるが故に覚と名づけ、見道の用なるが故に、道と名づく。
是の、
『諸の法』は、
『智慧』に、
『随順して!』、
『縁(所縁)』中に、
『止住する!』ので、
是の時を、
『念処』と、
『呼ぶのである!』。
『邪法』を、
『破って!』、
『正道』中を、
『行く!』ので、
是れを、
『正懃』と、
『称し!』、
『心』を、
『摂(捕捉 arrest )すれば!』、
『縁』中に、
『安隠である!』ので、
是れを、
『如意足』と、
『称し!』、
『柔軟な!』、
『智』の、
『心』に、
『得る!』が故に、
是れを、
『根』と、
『称し!』、
『鋭利な!』、
『智』の、
『心』に、
『得る!』が故に、
是れを、
『力』と、
『称し!』、
『修道』の、
『用(機能 function )である!』が故に、
是れを、
『覚』と、
『称し!』、
『見道』の、
『用である!』が故に、
是れを、
『道』と、
『称する!』。
  修道(しゅどう):三道の一。声聞乗の一来向より阿羅漢向に至るまでに、究竟じて三界の修惑を断ずる位を云う。又菩薩乗の十地の間に、俱生起の煩悩、所知の二障を断ずる位なり。既に見道に於いて、一旦、真諦を照見せるに、更に真観を修習するが故に、謂いて修道と為す。<(丁)『大智度論巻18下注:三道』参照。
  (ゆう):用いる( to use )、◯梵語 kRtya の訳、適用する/実践に移す( To apply, to put into practice )、機能[働き]/行動/活躍( Function, action, activity )の義。又◯梵語 paribhoga の訳、楽しみ[特に与えられた事物に関して]( Enjoyment (esp. of given things) )の義、熟語[受用]として見受けられる。
問曰。應先說道。何以故行道然後得諸善法。譬如人先行道然後得所至處。今何以顛倒先說四念處。後說八正道。 問うて曰く、応に先に道を説くべし。何を以っての故に、道を行じて、然る後に諸の善法を得ればなり。譬えば、人の先に道を行き、然る後に、至る所の処を得るが如し。今は何を以ってか、顛倒して先に四念処を説き、後に八正道を説く。
問い、
当然、
先に、
『道』を、
『説くべきである!』。
何故ならば、
『道』を、
『行って!』、
その後に、
『諸の善法』を、
『得るからである!』。
譬えば、
『人』が、
先に、
『道』を、
『行き!』、
その後、
『到達すべき!』、
『処』に、
『到るようなものである!』。
今は、
何故、
『顛倒して!』、
先に、
『四念処』を、
『説き!』、
後に、
『八正道』を、
『説くのか?』。
答曰。不顛倒也。三十七品是初欲入道時名字。如行者到師所聽道法時。先用念持是法。是時名念處。持已從法中求果故。精進行。是時名正懃。多精進故心散亂。攝心調柔故名如意足。 答えて曰く、顛倒せず。三十七品は、是れ初めて道に入らんと欲する時の名字にして、行者の師の所に到りて、道法を聴く時、先に念を用いて、是の法を持すれば、是の時を念処と名づけ、持し已れば、法中より、果を求めんが故に、精進して行ずれば、是の時を正懃と名づけ、精進多きが故に、心散乱すれば、心を摂して調柔ならしむるが故に、如意足と名づく。
答え、
『顛倒ではない!』。
『三十七品』とは、
初めて、
『道』に、
『入ろうとする!』時の、
『名字でだからである!』。
例えば、
『行者』が、
『師の所』に、
『到って!』、
『道法』を、
『聴く!』時には、
先に、
『念』を、
『用いて!』、
是の、
『法』を、
『記憶する!』ので、
是の時を、
『念処』と、
『呼び!』、
『記憶した!』ならば、
是の、
『法』中に、
『果』を、
『求める!』が故に、
『精進して!』、
『法』を、
『行う!』ので、
是の時を、
『正懃』と、
『呼び!』、
多く、
『精進すれば!』、
『心』が、
『散乱する!』が故に、
『心』を、
『捕捉して!』、
『調柔(調整柔軟)にする!』ので、
是の時を、
『如意足』と、
『呼ぶのである!』。
心調柔已生五根。諸法實相甚深難解。信根故能信是名信根。不惜身命一心求道。是名精進根。常念佛道不念餘事是名念根。常攝心在道是名定根。觀四諦實相是名慧根。 心調柔なり已れば、五根を生じ、諸法の実相の甚深難解なるを、信根の故に、能く信ずれば、是れを信根と名づけ、身命を惜まず、一心に道を求むれば、是れを精進根と名づけ、常に仏道を念じて、余事を念ぜざるが故に、是れを念根と名づけ、常に心を摂して、道に在らしむれば、是れを定根と名づけ、四諦の実相を観ずれば、是れを慧根と名づく。
『心』が、
『調柔すれば!』、
『五根』を、
『生じる!』。
『諸法』は、
『甚だ深く!』、
『解し難い!』が、
『信根』の故に、
『信じることができる!』ので、
是れを、
『信根』と、
『呼び!』、
『身命』を、
『惜まず!』に、
『一心』に、
『道を求める!』ので、
是れを、
『精進根』と、
『呼び!』、
『仏道』を、
『常に念じて!』、
『他の事』を、
『念じない!』ので、
是れを、
『念根』と、
『呼び!』、
『心』を、
『常に捕捉して!』、
『道』に、
『在らせる!』ので、
是れを、
『定根』と、
『呼び!』、
『四諦』という、
『実相』を、
『観る!』ので、
是れを、
『慧根』と、
『呼ぶ!』。
是五根增長能遮煩惱。如大樹力能遮水。是五根增長時能轉入深法。是名為力。 是の五根は増長すれば、能く煩悩を遮す。大樹の力の能く水を遮するが如し。是の五根は、増長せし時、能く転じて、深法に入らしむれば、是れを名づけて力と為す。
是の、
『五根』が、
『増長すれば!』、
『煩悩』を、
『遮ることができる!』、
譬えば、
『大樹』の、
『力』が、
『水』を、
『遮れるようなものである!』。
是の、
『五根』が、
『増長した!』時には、
『心』を、
『転じて!』、
『深い!』、
『法』に、
『悟入させる!』ので、
是れを、
『力』と、
『呼ぶのである!』。
得力已分別道法有三分。擇法覺精進覺喜覺。此三法行道時。若心沒能令起除覺定覺捨覺。此三法若行道時。心動散能攝令定念覺在二處。能集善法能遮惡法。如守門人有利者令入。無益者除卻。 力を得已りて道法を分別すれば、三分有り。択法覚、精進覚、喜覚なり。此の三法は、道を行ずる時、若し心没すれば、能く起たしむ。除覚、定覚、捨覚の、此の三法は、若し道を行ずる時、心動散すれば、能く摂して、定まらしむ。念覚は、二処に在りて、能く善法を集め、能く悪法を遮る。守門人の利有る者には、入らしめ、益無き者を除却するが如し。
『力』を、
『得たならば!』、
『道法』は、
『分別して!』、
『三分』が、
『有る!』。
『一分』の、
『択法覚分』、
『精進覚分』、
『喜覚分』の、
此の、
『三法』は、
『道』を、
『行う!』時、
若し、
『心』が、
『埋没すれば!』、
『励起させることができる!』。
『二分』の、
『除(猗 flexibility )覚分』、
『定覚分』、
『捨覚分』の、
此の、
『三法』は、
『道』を、
『行う!』時、
若し、
『心』が、
『動散すれば!』、
『捕捉して!』、
『道』に、
『定めることができる!』。
『三分』の、
『念覚分』は、
『善、悪二処』に、
『在り!』、
『善法を集めて!』、
『悪法を遮る!』。
譬えば、
『守門人』が、
『利』の、
『有る!』者を、
『入らせて!』、
『益』の、
『無い!』者を、
『去らせるようなものである!』。
若心沒時念三法起。若心散時念三法。攝無學實覺。此七事能到故名為分。得是法安隱具足已。欲入涅槃無為城故行是諸法。是時名為道。 若し心没すれば、時に三法を念じて起たしめ、若し心散ずる時には、三法を念じて、摂す。無学の実覚に、此の七事は能く到らしむるが故に、名づけて分と為す。是の法を得れば安隠具足し已り、涅槃の無為の城に入らんと欲するが故に、是の諸法を行じ、是の時を名づけて、道と為す。
若し、
『心』が、
『没した!』時には、
『三法(択法、精進、喜)』を、
『念じて!』、
『励起し!』、
若し、
『心』が、
『散じた!』時には、
『三法(除、定、捨)』を、
『念じて!』、
『捕捉する!』。
『無学(阿羅漢)』の、
『実覚』に、
此の、
『七事』は、
『到達させる!』が故に、
是れを、
『分()』と、
『呼び!』、
是の、
『法』を、
『得れば!』、
『安隠』が、
『具足する!』ので、
『涅槃』という、
『無為の城』に、
『入ろうとする!』が故に、
是の時を、
『道(聖道)』と、
『呼ぶのである!』。



四念処

問曰。何等是四念處。 問うて曰く、何等か、是れ四念処なる。
問い、
何のようなものが、
『四念処ですか?』。
答曰。身念處受心法念處。是為四念處觀四法四種。觀身不淨。觀受是苦。觀心無常。觀法無我。是四法雖各有四種。身應多觀不淨受多觀苦心多觀無常法多觀無我。 答えて曰く、心念処、受、心、法念処、是れを四念処と為し、四法を四種に観る。身を不浄なりと観、受は是れ苦なりと観、心は無常なりと観、法は無我なりと観る。是の四法には、各四種有りと雖も、身には、応に多く不浄を観、受には多く苦を観、心には多く無常を観、法には多く無我を観るべし。
答え、
『身念処』と、
『受念処』と、
『心念処』と、
『法念処』とが、
『四念処であり!』、
『四法(身、受、心、法)』を、
『四種(不浄、苦、無常、無我)』に、
『観るのである!』、――
即ち、
『身』には、
『不浄』を、
『観!』、
『受』には、
『苦』を、
『観!』、
『心』には、
『無常』を、
『観!』、
『法』には、
『無我』を、
『観る!』。
是の、
『四法』は、
各に、
『四種』が、
『有る!』が、
『身』には、
『多く!』、
『不浄を観!』、
『受』には、
『多く!』、
『苦を観!』、
『心』には、
『多く!』、
『無常を観!』、
『法』には、
『多く!』、
『無我を観るのである!』。
何以故。凡夫人未入道時。是四法中邪行起四顛倒。諸不淨法中淨顛倒。苦中樂顛倒。無常中常顛倒。無我中我顛倒。破是四顛倒故。說是四念處。破淨倒故說身念處。破樂倒故說受念處。破常倒故說心念處。破我倒故說法念處。以是故說四不少不多。 何を以っての故に、凡夫人は、未だ道に入らざる時、是の四法中に邪行して、四顛倒を起す。諸の不浄法中には浄の顛倒、苦中には楽の顛倒をし、無常中には常の顛倒をし、無我中には我の顛倒をす。是の四顛倒を破らんが故に、是の四念処を説く。浄倒を破らんが故に身念処を説き、楽倒を破らんが故に受念処を説き、常倒を破らんが故に心念処を説き、我倒を破らんが故に法念処を説き、是を以っての故に、四を説けば、少なからず、多からず。
何故ならば、
『凡夫人』が、
未だ、
『道』に、
『入らない!』時には、
是の、
『四法』中に、
『邪行(邪思)して!』、
『四顛倒』を、
『生じる!』。
諸の、
『不浄』中には、
『浄である!』と、
『顛倒し!』、
『苦』中には、
『楽である!』と、
『顛倒し!』、
『無常』中には、
『無常である!』と、
『顛倒し!』、
『無我』中には、
『我である!』と、
『顛倒する!』。
是の、
『四顛倒』を、
『破る!』為めの故に、
是の、
『四念処』を、
『説くのである!』。
即ち、
『浄の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『身念処』を、
『説き!』、
『楽の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『受念処』を、
『説き!』、
『常の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『心念処』を、
『説き!』、
『我の顛倒』を、
『破ろうとする!』が故に、
『法念処』を、
『説くのである!』。
是の故に、
是の、
『四』を、
『説けば!』、
『少なくもなく!』、
『多くもない!』。
  顛倒(てんどう):逆しまの状態( inverted )、梵語 viparyaasa の訳、ひっくり返す/転覆する( overturning, overthrow )、交換/倒置する( exchange, inversion )、置き換え/取換える/逆/反対/対立( transposition, exchange, reverse, contrariety, opposition )の義、悪化( change for the worse, deterioration )、間違い/妄想( error, mistake, delusion )、不実/虚偽の事について、実/真実の事であると想像すること( imagining what is unreal or false to be real or true )の意。◯梵語 viparyaya の訳、反転した/逆転した/非を認めない/違背する( reversed, inverted, perverse, contrary to )、悪化( change for the worse )、誤解/錯誤( misapprehension, error, mistake )の義。
  四顛倒(してんどう):四種の倒置/逆転( four inversions )、梵語 viparyaasa- catuSka の訳、viparyaasa は転覆する( overturning, overthrow, upsetting )、~の逆/反対/対立( reverse, contrariety, opposition, opposite of )の義、人を真実の道から踏み外させる四種の逆転した見解( The four inverted views, which cause one to fall from the true path )、謂わゆる常、楽、我、浄に関する四種の歪曲された見解( The four distorted views in regard to permanence 常, joy 樂, self 我, and purity 淨. )。其れには二種あり、一には上記の四種の一般的信念であり、初期の仏教徒の、一切は無常であり、苦、無我、不浄であるとする教義により否定された( the common belief in the four above, denied by the early Buddhist doctrine that all is impermanent 無常, suffering 苦, lacking selfhood 無我, and impure 不淨 )、二には涅槃は常、楽、我、浄の状態ではないとする、小乗学派の誤った信念である。小乗の教義は、経験的生命に関する一般的見解を破ったが、大乗の教義は、両方の見解を否定したのである( the false belief of the lesser vehicle school that nirvāṇa is not a state of permanence, joy, self, and purity. The lesser vehicle doctrine refutes the common view in regard to the phenomenal life; the Mahāyāna teaching refutes both views )。四種とは即ち以下のごとし、――
  1. 常顛倒 nitya-viparyaasa (永久に関する誤解 the error of permanence ):一時的なものを永久であると看做す(taking the impermanent to be permanent );
  2. 楽顛倒 sukha- viparyaasa (愉楽に関する誤解 the error of enjoyment ) :苦痛を愉楽として認識する( perceiving suffering as enjoyment );
  3. 我顛倒 aatma- viparyaasa (自己に関する誤解 the error of self ) :非自己でないものを自己として認識する( perceiving what is not a self to be a self );
  4. 浄顛倒 zuci- viparyaasa (清浄に関する誤解 the error of purity ) :不浄を清浄であると視る( seeing the impure as pure )。
問曰。云何得是四念處。 問うて曰く、云何が、是の四念処を得る。
問い、
何のようにして、
是の、
『四念処』を、
『得るのですか?』。
答曰。行者依淨戒住。一心行精進。觀身五種不淨相。何等五。一者生處不淨。二者種子不淨。三者自性不淨。四者自相不淨。五者究竟不淨。 答えて曰く、行者は、浄戒に依りて住し、一心に精進を行じて、身に五種の不浄相を観る。何等か五なる、一には生処の不浄、二には種子の不浄、三には自性の不浄、四には自相の不浄、五には究竟じて不浄なり。
答え、
『行者』は、
『浄戒』に、
『依って( rely on )!』、
『住まり( stay )!』、
『一心』に、
『精進』を、
『行って!』、
『身』に、
『五種の不浄相』を、
『観る!』。
何のような、
『五なのか?』、――
一には、
『生処』は、
『不浄である!』と、
『観る!』。
二には、
『種子』は、
『不浄である!』と、
『観る!』。
三には、
『自性』は、
『不浄である!』と、
『観る!』。
四には、
『自相』は、
『不浄である!』と、
『観る!』。
五には、
『究竟じて!』、
『不浄である!』と、
『観る!』。
云何名生處不淨。頭足腹脊脅肋。諸不淨物和合名為女身。內有生藏熟藏屎尿不淨。外有煩惱業因緣風。吹識種令入二藏中間。若八月若九月如在屎尿坑中。 云何が、生処は不浄なる。頭、足、腹、脊、脇、肋、諸の不浄物の和合を、名づけて女身と為す。内に生蔵、熟蔵、屎尿の不浄有り、外に煩悩の業の因縁の風有り、識種を吹いて、二蔵の中間に入らしめ、若しは八月、若しは九月、屎尿の坑の中に在るが如し。
何故、
『生処』の、
『不浄』と、
『称するのか?』、――
『頭、足、背骨、脇腹、肋骨』と、
諸の、
『不浄の物』の、
『和合』が、
『女身である!』。
内には、
『生蔵()、熟蔵()、屎尿』の、
『不浄』が、
『有り!』、
外には、
『煩悩』という、
『業の因縁』の、
『風』が、
『識種(地、水、火、風、空、識種の一)』を、
『吹いて!』、
『二蔵の中間』に、
『入れる!』と、
『八、九ヶ月の間』は、
猶お、
『屎、尿の坑』中に、
『在るようなものである!』。
  生処(しょうじょ):何物かの生起すべき場所( locus for the arising of something )、◯梵語 upapatti- sthaana の訳、嘗て何物かが生成された場所( the place where something was once (formerly) produced )、出生の場所( place of birth )の意。◯梵語 aakara の訳、発端の場所( place of origin )の義。
  生蔵(しょうぞう):梵語 aamaazaya の訳、未消化の食物の貯蔵所/臍から上の腹部( the receptacle of the undigested food, the upper part of the belly as far as the navel )の義、胃( stomach )の意。
  熟蔵(じゅくぞう):梵語 pakvaazaya の訳、[消化の火によって]調理済みの[食物の]貯蔵場所[、即ち腸]( the resting- place [i.e. the intestines], where [food] has been cooked [by the digestive fires] )の意。
  屎尿(しにょう):糞と尿。
  (にょ):猶お乃の如し。
如說
 是身為臭穢  不從花間生 
 亦不從瞻蔔  又不出寶山
是名生處不淨。
説の如し、
是の身を臭穢と為すは、花間より生ぜざればなり、
亦た瞻蔔によらず、又宝山より出でず。
是れを生処の不浄と名づく。
譬えば、こう説く通りである、――
是の、
『身』が、
『臭く!』、
『穢い!』のは、
『花の間』からも、
『瞻蔔(梔子)』からも、
『生じなかったからである!』が、
又、
『宝の山』から、
『出たのでもない!』。
是れを、
『生処の不浄』と、
『呼ぶ!』。
  臭穢(しゅうえ):臭くきたない。
  瞻蔔(せんぷく):梔子(くちなし)の花。
種子不淨者。父母以妄想邪憶念風吹婬欲火故。血髓膏流熱變為精。宿業行因緣識種子。在赤白精中住。是名身種子。 種子の不浄とは、父母は、妄想と邪憶念の風を以って、婬欲の火を吹くが故に、血、髄、膏の流は、熱に変じて精と為り、宿業と行の因縁に、識の種子は、赤白の精中に在りて住す、是れを身の種子と名づく。
『種子の不浄』とは、
『父、母』の、
『妄想、邪憶念の風』が、
『婬欲の火』を、
『吹く!』が故に、
『血、髄、膏の流』が、
『熱に変じて!』、
『精と為り!』、
『宿業と行為』の、
『因縁』の故に、
『赤白の精』中に、
『識の種子』が、
『住まる!』ので、
是れを、
『身』の、
『種子』と、
『称する!』。
如說
 是身種不淨  非餘妙寶物 
 不由淨白生  但從尿道出
是名種子不淨。
説の如し、
是の身種は不浄なり、余の妙なる宝物に非ず、
浄白由り生ぜず、但だ尿道より出づ。
是れを種子の不浄と名づく。
譬えば、こう説く通りである、――
是の、
『身』の、
『種子』は、
『不浄である!』、
他の、
『妙なる!』、
『宝物ではない!』。
『種子』は、
『浄白の道』より、
『生じるのではなく!』、
但だ、
『尿道』より、
『出る!』。
是れを、
『種子』が、
『不浄である!』と、
『称する!』。
自性不淨者。從足至頂四邊薄皮。其中所有不淨充滿。飾以衣服澡浴花香。食以上饌眾味餚膳。經宿之間皆為不淨。假令衣以天衣。食以天食。以身性故亦為不淨。何況人衣食。 自性の不浄とは、足より頂に至る四辺の薄皮は、其の中に有らゆる不浄充満し、飾るには衣服、澡浴、花香を以ってし、食うには、上饌、衆味、餚膳を以ってするも、経宿の間に、皆不浄と為る。仮令、衣るには天衣を以ってし、食うには天食を以ってすとも、身の性を以っての故に、亦た不浄と為る。何に況んや、人の衣、食をや。
『自性の不浄』とは、――
『足』より、
『頂』に、
『至る!』までの、
『四辺の薄皮』は、
其の中に、
有らゆる、
『不浄』が、
『充満している!』ので、
『飾る!』には、
『衣服、澡浴、花香』を、
『用い!』、
『食う!』には、
『上饌、衆味、餚膳』を、
『用いた!』としても、
『夜の間』に、
皆、
『不浄と為る!』ので、
仮令(たとい)、
『天上』の、
『食(じき)』を、
『食い!』、
『天』の、
『衣』を、
『衣()た!』としても、
『身』の、
『性である!』が故に、
『不浄と為る!』。
況()して、
『人間』の、
『食、衣など!』は、
『言うまでもない!』。
  澡浴(そうよく):身体を洗い、髪をすすぐ。
  上饌(じょうせん):上等の膳部。上等の御馳走。
  衆味(しゅみ):多くの味。
  餚膳(こうぜん):膳部。食べ物。
  経宿(きょうしゅく):一夜を経る。
如說
 地水火風質  能變除不淨 
 傾海洗此身  不能令香潔
是名自性不淨。
説の如し、
地水火風の質は、能く変じて不浄を除くも、
海を傾けて此の身を洗うとも、香潔ならしむ能わず。
是れを自性の不浄と名づく。
譬えば、こう説く通りである、――
『地、水、火、風の質()』は、
『不浄』を、
『変じて!』、
『除くことができる!』が、
『海を傾けて!』、
『此の身』を、
『洗っても!』、
『香潔にすることはできない!』。
是れを、
『自性』が、
『不浄である!』と、
『称する!』。
  (しち):性に同じ。
自相不淨者。是身九孔常流不淨。眼流眵淚耳出結聹鼻中涕流口出涎吐。廁道水道常出屎尿。及諸毛孔汗流不淨。 自相の不浄とは、是の身の九孔は常に不浄を流せばなり。眼は、眵涙を流し、耳は、結聹を出し、鼻中より涕が流れ、口は涎吐を出し、廁道、水道は常に、屎尿を出し、及び諸の毛孔より汗流れて不浄なり。
『自相の不浄』とは、
是の、
『身の九孔』は、
常に、
『不浄』を、
『流すからである!』。
『眼』は、
『眵(めやに)と涙』を、
『流し!』、
『耳』は、
『結聹(耳垢)』を、
『出し!』、
『鼻』中より、
『涕(鼻水)』が、
『流れ!』、
『口』は、
『涎(よだれ)と吐(へど)』を、
『出し!』、
『廁道(肛門)』と、
『水道(尿道)』とは、
常に、
『屎、尿』を、
『出し!』、
及び、
諸の、
『毛孔』より、
『汗が流れて!』、
『不浄である!』。
  九孔(くく):両目、両耳、両鼻孔、口、大小便道の総称。九竅に同じ。
  眵涙(しるい):目やにと涙。
  結聹(けつねい):耳糞。
  (たい):鼻水。
  涎吐(ぜんと)よだれとへど。
  廁道(しどう):肛門。
  水道(すいどう):尿道。
如說
 種種不淨物  充滿於身內 
 常流出不止  如漏囊盛物
是名自相不淨。
説の如し、
種種の不浄物は、身内に充満し、
常に流出して止らざること、漏嚢に物を盛るが如し
是れを、自相の不浄と名づく。
譬えば、こう説く通りである、――
種種の、
『不浄の物』が、
『身の内』に、
『充満し!』、
常に、
『流出して!』、
『止らない!』のは、
譬えば、
『漏れる嚢(ふくろ)』に、
『物』を、
『盛るようなものだ!』。
是れを、
『自相の不浄』と、
『呼ぶ!』。
  漏嚢(ろのう):穴のあいたふくろ。
究竟不淨者。是身若投火則為灰。若虫食則為屎。在地則腐壞為土。在水則膖脹爛壞。或為水虫所食。一切死屍中人身最不淨。不淨法九相中當廣說。 究竟の不浄とは、是の身は、若し火に投ずれば、則ち灰と為り、若し虫に食わるれば、則ち屎と為り、地に在れば、則ち腐壊して土と為り、水に在れば、則ち膖脹し爛壊して、或は水虫の食う所と為り、一切の死屍中に、人身は最も不浄なること、不浄法の九相中に当に広説すべし。
『究竟の不浄』とは、――
是の、
『身』は、
若し、
『火』に、
『投じられれば!』、
『灰と為り!』、
若し、
『虫』に、
『食われれば!』、
『屎と為り!』、
若し、
『地に在れば!』、
『腐壊して!』、
『土と為り!』、
若し、
『水に在れば!』、
『膨張し!』、
『爛壊して!』、
或は、
『水虫』に、
『食わる!』。
一切の、
『死屍』中に、
『人身』が、
『最も不浄である!』ことは、
『不浄法』の、
『九相』中に、
『広く説かねばならない!』。
  腐壊(ふえ):腐って壊れる。
  膖脹(ほうちょう):はれてふくれる。膨張に同じ。
  爛壊(らんえ):腐りただれて壊れる。
  死屍(しし):しかばね。死骸。
  不浄法九相(ふじょうほうくそう):人の不浄を示す九種の相。『大智度論巻17下注:不浄観、九想観、巻21上九相義』参照。
如說
 審諦觀此身  終必歸死處 
 難御無反復  背恩如小人
是名究竟不淨。
説の如し、
審諦して此の身を観れば、終に必ず死処に帰す、
御し難く反復無く、恩に背くこと小人の如し。
是れを究竟の不浄と名づく。
譬えば、こう説く通りである、――
慎重に、
此の、
『身』を、
『観察すれば!』、
終に、
必ず、
『死処』に、
『帰着する!』。
此の、
『身』は、
『制御し難い!』のに、
『報酬も無く!』、
『恩』に、
『背(そむ)く!』こと、
『小人のようだ!』。
是れを、
『究竟の不浄』と、
『呼ぶ!』。
  審諦(しんたい):慎重に熟視する( look at carefully )。
  難御(なんご):御しがたい悍馬。
  反復(ほんぷく):反映( to reflect )、有る人の以前の行為に対する反映( to reflect on one's prior activities )、親切に対する応当行為( to repay acts of kindness )。報酬。
  背恩(はいおん):恩義にそむく。
  小人(しょうにん):召使い、奴僕の類。
復次是身生時死時。所近身物所安身處皆為不淨。如香美淨水隨百川流既入大海變成鹹苦。身所食噉種種美味好色好香細滑上饌。入腹海中變成不淨。是身如是從生至終。常有不淨甚可患厭。 復た次ぎに、是の身は、生ずる時、死する時、近づく所の身の物、安んずる所の身の処を、皆不浄と為す。香、美、浄なる水の百川に随いて流れ、既に大海に入れば、変じて鹹苦と成るが如く、身の食噉する所の種種の美味、好色、好香、細滑なる上饌も、腹の海中に入れば、変じて不浄と成る。是の身は、是の如く生ずるより、終りに至るまで、常に、不浄有れば、甚だ患厭すべし。
復た次ぎに、
是の、
『身』は、
『生まれた!』時も、
『死ぬ!』時も、
『身』に、
『近づけた!』所の、
『物』や、
『身』の、
『安んじた!』所の、
『処』は、
皆、
『不浄と為る!』。
譬えば、
『好香、美味の浄水』が、
『百川』を、
『流れて!』、
既に、
『大海』に、
『入れば!』、
皆、
『変じて!』、
『鹹苦』と、
『成るように!』、
『身』の、
『食噉する!』所の、
種種の、
『美味、好色、好香、細滑』の、
『上饌』は、
『腹の海』に、
『入れば!』、
『変じて!』、
『不浄』と、
『成るのである!』。
是の、
『身』は、
『生まれた!』時より、
『命の終る!』時まで、
常に、
『不浄が有り!』、
『甚だ!』、
『厭い患うべきである!』。
  香美浄(こうみじょう):好香美味清浄。
  鹹苦(げんく):からくにがい。
  食噉(じきたん):くらう。
  患厭(げんえん):患い厭う。
行者思惟是身雖復不淨。若少有常者。猶差而復無常。雖復不淨無常。有少樂者。猶差而復大苦。是身是眾苦生處。如水從地生風從空出火因木有。是身如是內外諸苦皆從身出。內苦名老病死等。外苦名刀杖寒熱飢渴等。有此身故有是苦。 行者の思惟すらく、『是の身は、復た不浄なりと雖も、若し少しく常有らば、猶お差あり、而も復た無常なり。復た不浄、無常なりと雖も、少しの楽有らば、猶お差あり、而も復た大苦なり。是の身は、是れ衆苦の生処なること、水の地より生じ、風の空より生じ、火の木に因って有るが如し。是の身は、是の如く内外の諸苦、皆身より出づ。内苦を老病死等と名づけ、外苦を刀杖、寒熱、飢渴等と名づくれば、此の身有るが故に、是の苦有り』、と。
『行者』は、こう思惟する、――
是の、
『身』が、
復た、
『不浄だとしても!』、
若し、
『少しでも!』、
『常』が、
『有れば!』、
猶お( yet )、
『差(あまり)』が、
『有るのだが!』、
而し、
復た、
『無常なのだ!』。
復た、
『不浄、無常だとしても!』、
『少しでも!』、
『楽』が、
『有れば!』、
猶お、
『差』が、
『有るのだが!』、
而し、
復た、
『大苦なのだ!』。
是の、
『身』は、
『衆苦』の、
『生処である!』。
譬えば、
『水』が、
『地』より、
『生じたり!』、
『風』が、
『空』より、
『生じたりして!』、
『火』が、
『木に因って!』、
『有るようなものだ!』。
是の、
『身』は、
是のように、
『内、外の諸苦』が、
皆、
『身』より、
『出る!』。
内の、
『苦』を、
『老、病、死』等と、
『呼び!』、
外の、
『苦』を、
『刀杖、寒熱、飢渴』等と、
『呼べば!』、
是の、
『身』の、
『有る!』が故に、
是の、
『苦』が、
『有るのだ!』、と。
  (さ):謬( mistake )、区別/差別/差異( difference )、余剰( remainder )、尚お可なり/まだ良い( rather )、不足( fall short of )、奇異( strange )、好ましからず( bad )、指名して派遣する( assign, dispatch, send on an errand )、選択( select )、使い( messenger )病が癒える( be recovered )、等級( grade, rank )、限度/限界( limit )、不斉/不等( uneven )。
問曰。身非但是苦性。亦從身有樂。若令無身隨意。五欲誰當受者。 問うて曰く、身は、但だ是れ苦性なるに非ず、亦た身に従りて、楽有り。若し身を無からしむれば、随意の五欲は、誰か当に受くべき者なる。
問い、
『身』は、
但だ、
『苦』の、
『性であるのではない!』。
亦た、
『身によって!』、
『楽』が、
『有るのだ!』。
若し、
『身』を、
『無くせば!』、
『意のまま!』の、
『五欲』は、
『誰が、受けるのか?』。
答曰。四聖諦苦。聖人知實是苦。愚夫謂之為樂。聖實可依愚惑宜棄。是身實苦以止大苦故。以小苦為樂。譬如應死之人得刑罰代命甚大歡喜。罰實為苦以代死故謂之為樂。 答えて曰く、四聖諦の苦とは、聖人は、実に是れ苦なりと知り、愚夫は、之を謂いて楽と為す。聖の実は依るべく、愚の惑は宜しく棄つべし。是の身は、実に苦なり。大苦を止むるを以っての故に、小苦を以って楽と為すのみ。譬えば、応に死ぬべき人の、刑罰を得て、命に代うれば、甚だ大歓喜するが如し。罰は、実に苦と為すも、死と代うるを以っての故に、之を謂いて楽と為す。
答え、
『四聖諦の苦』は、
『聖人』は、
是れを、
『苦である!』と、
『実に知る!』が、
『愚夫』は、
之を、
『楽である!』と、
『謂うのである!』。
『聖人』の、
『実』は、
『依る(頼る)べきである!』が、
『愚人』の、
『惑』は、
『棄てるべきである!』。
是の、
『身』は、
『実』に、
『苦である!』が、
『大苦』を、
『止める!』が故に、
『小苦』を、
『楽である!』と、
『思う!』。
譬えば、
『死ぬはず!』の、
『人』が、
『命』に、
『代えて!』、
『刑罰』を、
『得れば!』、
『甚だ!』、
『大歓喜する!』のと、
『同じである!』。
『罰』は、
『実に!』、
『苦である!』が、
『死』に、
『代る!』が故に、
之を、
『楽だ!』と、
『謂うのである!』。
復次新苦為樂故苦為苦。如初坐時樂久則生苦。初行立臥亦樂久亦為苦。屈申俯仰視眴喘息苦常隨身。從初受胎出生至死無有樂時。 復た次ぎに、新なる苦を楽と為し、故き苦を苦と為す。初めて坐る時には楽なれども、久しければ則ち苦を生じ、初めて行、立、臥すれば、亦た楽なれども、久しければ、亦た苦と為るが如く、屈申、俯仰、視眴、喘息の苦は、常に身に随う。初めて受胎、出生するより死に至るまで、楽の時は有ること無し。
復た次ぎに、
『新たな!』、
『苦』は、
『楽である!』が、
『故(ふる)い!』、
『苦』は、
『苦である!』。
例えば、
初めて、
『坐る!』時は、
『楽である!』が、
久しくすれば、
『苦』を、
『生じ!』、
初めて、
『行く!』、
『立つ!』、
『臥せる!』時には、
亦た、
『楽である!』が、
久しくすれば、
亦た、
『苦となるように!』、
『屈(かがむ!)、申(のびる!)』、
『俯(うつむく!)、仰(あおぐ!)』、
『視(見つめる!)、眴(またたく!)』、
『喘(あえぐ!)、息(いきする!)』の時にも、
『苦』は、
『常に!』、
『身に随い!』、
初めて、
『受胎、出生した!』時より、
『死』に、
『至る!』まで、
『楽の時』は、
『無いのである!』。
  (こ):ふるい。旧に同じ。
  俯仰(ふぎょう):うつむくとあおぐ。
  視眴(しけん):見つめるとまたたく。
  喘息(ぜんそく):いきする。口で息すると、鼻で息する。
若汝以受婬欲為樂。婬病重故求外女色。得之愈多患至愈重。如患疥病向火。揩炙當時小樂大痛轉深。如是小樂亦是病因緣故有。非是實樂無病。觀之為生慈愍。 若し汝、婬欲を受くるを以って、楽と為せば、婬病は重きが故に、外に女色を求め、之を得れば、愈よ多く、患は愈よ重きに至る。疥病を患いて、火に向い、揩炙すれば、時に当りて小楽あれども、大痛転た深きが如し。是の如き小楽は、亦た是れ病の因縁の故に有れば、是れ実の楽にして、病無きに非ず。之を観れば、為めに慈愍を生ず。
若し、
お前が、
『婬欲』を、
『受けて!』、
『楽だ!』と、
『思えば!』、
『婬欲の病』は、
『重い!』が故に、
『女色』を、
『外に求め!』、
之を、
『得れば!』、
『愈(いよい)よ!』、
『多く求めて!』、
『患()』は、
『愈よ!』、
『重くなる!』。
譬えば、
『疥病(疥癬)』を、
『患い!』、
『火』に、
『向けて!』、
『擦ったり!』、
『炙ったり!』すれば、
その時だけは、
『小楽』が、
『有っても!』、
『大痛』が、
『転(うた)た!』、
『深くなるように!』、
是のような、
『小楽』は、
亦た、
『病の因縁』の故に、
『有り!』、
是れは、
『実楽でもなく!』、
『無病でもない!』ので、
『智者』は、
之を
『観て!』、
『慈愍(あわれみ)』を、
『生じるのである!』。
  疥病(かいびょう):ひぜん。疥癬虫により生ずる皮疹、極めて痒し。疥癬。
  揩炙(かいしゃ):摩擦して、火にあぶる。
離欲之人觀婬欲者亦復如是。愍此狂惑為欲火所燒多受多苦。如是等種種因緣。知身苦相苦因。 離欲の人の、婬欲の者を観るも、亦復た是の如く、此の狂惑して、欲の火の焼く所と為り、多く受け、多く苦しむを愍れむ。是の如き等の種種の因縁に、身の苦相、苦因なるを知る。
『離欲の人』が、
『婬欲の者』を、
『観る!』のも、
『是の通りである!』、
此れが、
『狂惑して!』、
『欲の火』に、
『焼かれ!』、
『多く!』の、
『苦』を、
『多く受ける!』のを、
『愍(あわ)れむのである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、
『身』の、
『苦相』を、
『知り!』、
『身』が、
『苦の因である!』ことを、
『知る!』。
行者知身但是不淨無常苦物。不得已而養育之。譬如父母生子。子復弊暴以從己生故。要當養育成就。 行者は、身は但だ是れ不浄、無常、苦なる物と知るも、得已らざれば、之を養育す。譬えば父母、子を生めば、子復た弊暴なれども、己より生ぜしを以っての故に、要ず当に養育し、成就すべきが如し。
『行者』は、
『身』が、
但だ、
『不浄、無常、苦だけ!』の、
『物である!』と、
『知っても!』、
『納得できなければ!』、
之を、
『養育する!』。
譬えば、
『父母』が、
『子』を、
『生めば!』、
『子』が、
復た、
『弊悪、粗暴であった!』としても、
『己(おのれ)』より、
『生じた!』が故に、
要(かなら)ず、
『養育し!』、
『成就するようなものである!』。
身實無我。何以故。不自在故。譬如病風之人不能俯仰行來。病咽塞者不能語言。以是故知身不自在。如人有物隨意取用。身不得爾。不自在。故審知無我。 身は実に無我なり。何を以っての故に、自在ならざるが故なり。譬えば風を病む人の俯仰、行来する能わず、病に咽を塞がるれば、語言する能わず。是を以っての故に、身の自在ならざるを知るが如く、人に物有れば、随意に取りて用うるも、身は爾ることを得ず、自在ならざるが故に、審らかに無我なるを知る。
『身』は、
『実に!』、
『無我である!』。
何故ならば、
『自在でないからである!』。
譬えば、
『風邪』を、
『病む人』が、
『俯仰することも!』、
『往来することもできず!』、
『病』に、
『咽(のど)』が、
『塞がれば!』、
『言葉』を、
『語ることができない!』ので、
是の故に、
『身』が、
『自在でない!』と、
『知るのであり!』、
譬えば、
『人』は、
『所有する!』、
『物』を、
『意のままに!』、
『取って!』、
『用いる!』が、
『身』は、
爾のようにできず、
『自在でない!』が故に、
審らかに、
『無我である!』と、
『知るのである!』。
  (ふく):かえす。報に同じ。
  弊暴(へいぼう):わるい。弊悪暴虐。
  (ふう):四肢偏枯の病。四肢が萎えて不随なるを云う。又は瘋癲病、或いは癩病。
  咽塞(えつそく):咽の塞がる病。
行者思惟是身如是。不淨無常苦空無我。有如是等無量過惡。如是等種種觀身。是名身念處。 行者の思惟すらく、『是の身は、是の如く、不浄、無常、苦、空無我にして、是の如き等の無量の加悪有り』、と。是の如き等の種種に身を観る、是れを身念処と名づく。
『行者』は、こう思惟する、――
是の、
『身』は、
是のように、
『不浄、無常、苦、空無我であり!』、
是れ等のような、
『無量の過悪(過患)』が、
『有る!』、と。
是れ等のように、
種種に、
『身』を、
『観察する!』こと、
是れを、
『身念処』と、
『称する!』。
得是身念處觀已復思惟。眾生以何因緣故。貪著此身。樂受故。所以者何。從內六情外六塵和合故。生六種識。六種識中生三種受。苦受樂受不苦不樂受。是樂受一切眾生所欲苦受一切眾生所不欲。不苦不樂受不取不棄 是の身念処の観を得已りて、復た思惟すらく、『衆生は、何の因縁を以っての故にか、此の身を貪著する。楽受の故なり。所以は何んとなれば、内の六情と、外の六塵との和合によるが故に、六種の識を生じ、六種の識中に三種の受を生ず。苦受、楽受、不苦不楽受なり。是の楽受は、一切の衆生の欲する所にして、苦受は、一切の衆生の欲せざる所なり。不苦不楽受は取らず、棄てず。
是の、
『身念処』を、
『観察することができれば!』、
復た、こう思惟する、――
『衆生』は、
何の、
『因縁』の故に、
此の、
『身』を、
『貪著するのか?』。
何故ならば、
『楽受』の故に、
『貪著するのだ!』。
何故ならば、
内の、
『六情(眼耳鼻舌身意)』と、
外の、
『六塵(色声香味触法)』との、
『和合による!』が故に、
『六種の識』を、
『生じ!』、
『六種の識』中に、
『三種の受』を、
『生じるからだ!』。
謂わゆる、
『苦受』と、
『楽受』と、
『不苦不楽受である!』。
是の、
『楽受』は、
一切の、
『衆生』の、
『欲する!』所、
『苦受』は、
一切の、
『衆生』の、
『欲しない!』所
『不苦不楽受』は、
『受』を、
『取る(貪る)こともなく!』、
『棄てる(厭う)こともない!』。
  三受(さんじゅ):梵語 tisro vedanaaH の訳。巴梨語 tisso vedanaa、受は領納の義。即ち内の六根が外の六境に触対して領納する感覚に三種の別あるを云う。又三痛とも名づく。一に苦受 duHkha- vedanaa(巴梨語 dukkha- vedanaa)、二に楽受 sukha- v.(巴同じ。)、三に捨受 upekSa- v.(巴 upekkha- v.)、或いは不苦不楽受 aduHkhaasukhaa- v.(巴 adukkhaa- ukha- v.)なり。又苦痛、楽痛、不苦不楽痛に作る。「倶舎論巻4」に、「受とは謂わく三種あり、苦と楽と倶非とを領納するに差別あるが故なり」と云い、「成唯識論巻5」に、「受とは能く順と違と中との境を領納して、心等をして歓と慼と捨との相を起さしむ」と云える是れなり。此の中、苦受とは違情の境相を領納して、身心を逼迫ならしむるを云い、楽受とは順情の境相を領納して、身心を適悦ならしむるを云い、捨受とは中容の境相を領納して、身心をして逼迫にもあらず、適悦にもあらざらしむるを云う。此の三は眼耳鼻舌身意の六根に通じて有り。亦た皆有漏無漏に通ず。或いは之を各各二種に分ち、五識と相応するを身受と名づけ、意識と相応するを心受と名づくるなり。又「雑阿含経巻8」、「別訳雑阿含経巻11」、「増一阿含経巻12、42」、「阿毘達磨発智論巻14」、「成実論巻6」、「大乗義章巻7」、「四念処巻1」、「大蔵法数巻10」等に出づ。<(望)
如說
 若作惡人及出家 
 諸天世人及蠕動 
 一切十方五道中 
 無不好樂而惡苦 
 狂惑顛倒無智故 
 不知涅槃常樂處
説の如し、
若しは作悪の人、及び出家と、
諸天、世人、及び蠕動ならんに、
一切の十方五道中に、
楽を好み、苦を悪まざる無けれども、
狂惑、顛倒、無智の故に、
涅槃の常楽の処を知らず。
例えば、こう説く通りである、――
若しは、
『悪を作す人だろうが!』、
『出家だろうが!』、
『諸の天、世人だろうが!』、
『蠕動(動物)だろうが!』、
一切の、
『十方、五道』中に、
『楽』を、
『好まない!』者も、
『苦』を、
『悪(にく)まない!』者も、
『無い!』が、
皆、
『狂惑、顛倒、無智』の故に、
『涅槃』という、
『常楽の処』を、
『知らない!』。
  蠕動(ねんどう):虫のうごめくさま。転じて動物を云う。
行者觀是樂受。以實知之無有樂也。但有眾苦。何以故。樂名實樂無有顛倒。一切世間樂受。皆從顛倒生無有實者。 行者は、是の楽受を観るに、実を以って之を知るに、楽有ること無きや、但だ衆苦有るのみ。何を以っての故に、楽を実楽には、顛倒有ること無しと名づけ、一切の世間の楽受は、皆顛倒より生じて、実の者有ること無ければなり。
『行者』は、
是の、
『楽受』を、
『観察して!』、
『実』を、
『知れば!』、――
『楽受』には、
『楽』が、
『無いばかりか!』、
但だ、
『衆苦』が、
『有るばかりである!』。
何故ならば、
『楽』を、こう説明すれば、――
『実の楽』には、
『顛倒』が、
『無い!』、と。
一切の、
『世間の楽受』は、
『顛倒』より、
『生じた者であり!』、
皆、
『実』の、
『無い者だからである!』。
  (や):も亦た/同様に/何方でも( also, as well as, either, likewise, too )。
復次是樂受。雖欲求樂能得大苦。如說
 若人入海遭惡風 
 海浪崛起如黑山 
 若入大陣鬥戰中 
 經大險道惡山間 
 豪貴長者降屈身 
 親近小人為色欲 
 如是種種大苦事 
 皆為著樂貪心故
以是故知樂受能生種種苦。
復た次ぎに、是の楽受は、楽を欲求すと雖も、能く大苦を得。説の如し、
若し人海に入りて、悪風に遭わば、
海浪の崛起すること、黒山の如くならん、
若し大陣、闘戦中に入らば、
大険道と、悪山の間を経ん。
豪貴の長者の、身を降屈して、
小人を親近するは、色欲の為めならん。
是の如き種種の大苦事は、
皆、楽に著する貪心の為めの故なり。
是を以っての故に知る、楽受は、能く種種の苦を生ずと。
復た次ぎに、
是の、
『楽受』は、
『楽』を、
『求めたい!』と、
『思う!』者に、
『大きな!』、
『苦』を、
『得させる!』。
例えば、こう説く通りである、――
若し、
『人』が、
『海に入って!』、
『悪風』に、
『遭遇すれば!』、
『海浪』が、
『黒山のように!』、
『隆起するだろう!』。
若し、
『戦闘』中の、
『大陣』に、
『入れば!』、
『大険道』や、
『悪山の間』を、
『経()ることになるだろう!』。
若し、
『豪貴の長者』が、
『降服して!』、
『身』を、
『屈(かが)め!』、
『小人』を、
『親しみ!』、
『近づければ!』、
是れは、
『色欲の為めだろう!』。
是のような、
種種の、
『大苦事』は、
皆、
『貪心』が、
『楽』に、
『著するからである!』。
是の故に、こう知ることになる、――
『楽受』は、
種種の、
『苦』を、
『生じさせる!』、と。
  海浪(かいろう):海のなみ。
  崛起(くっき):そびえ立つ。山が聳え立つの義。
  降屈(ごうくつ):身を降し節を屈する。くだりしたがう。
復次雖佛說三種受有樂受。樂少故名為苦。如一斗蜜投之大河則失氣味。 復た次ぎに、仏は、三種の受を説きたもうと雖も、有る楽受は、楽少なきが故に、名づけて苦と為す。一斗の蜜を、大河に投ずれば、則ち気味を失うが如し。
復た次ぎに、
『仏』は、
『三受』を、
『説かれた!』が、
有る、
『楽受』は、
『楽』が、
『少ない!』が故に、
是れを、
『苦』と、
『呼ぶのである!』。
譬えば、
『一斗』の、
『蜜でも!』、
之を、
『大河』に、
『投ずれば!』、
則ち、
『気味』を、
『失うようなものである!』。
問曰。若世間樂顛倒因緣故苦。諸聖人禪定生無漏樂。應是實樂。何以故。此樂不從愚癡顛倒有故。此云何是苦。 問うて曰く、若し世間の楽なれば、顛倒の因縁の故に苦ならん。諸聖人の禅定より生ずる無漏の楽は、応に是れ実の楽なるべし。何を以っての故に、此の楽は、愚癡、顛倒に従らずに有るが故なり。此れは、云何が是れ苦なる。
問い、
若し、
『世間の楽』ならば、
『顛倒』の、
『因縁』の故に、
『苦であろう!』が、
諸の、
『聖人』の、
『禅定』より、
『生じた!』、
『無漏の楽』は、
当然、
『実の楽のはずだ!』。
何故ならば、
此の、
『楽』は、
『愚癡、顛倒』に、
『従らずに!』、
『有るからである!』。
此れが、
何故、
『苦なのですか?』。
答曰。非是苦也。雖佛說無常即是苦。為有漏法故說苦。何以故。凡夫人於有漏法中心著。以有漏法無常失壞故生苦。無漏法心不著故。雖無常不能生憂悲苦惱等故。不名為苦。亦諸使不使故。 答えて曰く、是れ苦に非ざるなり。仏は、無常は、即ち是れ苦なりと説くと雖も、有漏法の為めの故に、苦を説きたまえり。何を以っての故に、凡夫人は、有漏法中に心著し、有漏法の無常にして、失壊するを以っての故に、苦を生ずるも、無漏法には心著せざるが故に、無常なりと雖も、憂悲、苦悩等を生ずる能わざるが故に、名づけて苦と為さず。亦た諸の使の使わざるが故なり。
答え、
是れは、
『苦ではない!』。
『仏』は、
『無常』は、
『苦である!』と、
『説かれた!』が、
『有漏法』の為めの故に、
『苦である!』と、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
『凡夫人』は、
『有漏法』中に、
『心』が、
『著するのであり!』、
『有漏法』は、
『無常であり!』、
『失壊する!』が故に、
即ち、
『苦』を、
『生じるからである!』。
『凡夫人」は、
『無漏法』には、
『心』が、
『著さない!』が故に、
『無常であっても!』、
『憂悲、苦悩』等を、
『生じさせず!』、
故に、
『苦』とは、
『呼ばれない!』。
亦た、
諸の、
『使(欲使等)』に、
『使われないからである!』。
復次若無漏樂。是苦者。佛不別說道諦。苦諦攝故。 復た次ぎに、若し無漏の楽にして、是れ苦ならば、仏は別に、道諦を説きたまわざらん。苦諦に摂するが故なり。
復た次ぎに、
若し、
『無漏』の、
『楽』が、
『苦ならば!』、
『仏』は、
別に、
『道諦』を、
『説かれなかっただろう!』。
何故ならば、
『苦諦』に、
『含まれるからである!』。
問曰有二種樂。有漏樂無漏樂。有漏樂下賤弊惡。無漏樂上妙。何以故。於下賤樂中生著。上妙樂中而不生著。上妙樂中生著應多。如金銀寶物貪著應重。豈同草木。 問うて曰く、二種の楽有り、有漏の楽、無漏の楽なり。有漏の楽は下賎、弊悪にして、無漏の楽は上妙なり。何を以っての故にか、下賎の楽中に、著を生じ、上妙の楽中には、著を生ぜざる。上妙の楽中に生ずる著は、応に多かるべし。金銀宝物の貪著は、応に重かるべきが如し、豈に草木と同じからんや。
問い、
『楽』には、
『二種』有り、
『有漏の楽』と、
『無漏の楽である!』。
『有漏の楽』は、
『下賎であり!』、
『弊悪である!』が、
『無漏の楽』は、
『上妙である!』。
何故、
『下賎の楽』中に、
『著』を、
『生じて!』、
『上妙の楽』中に、
『著』を、
『生じないのですか?』。
『上妙の楽』中に、
『生じる!』、
『著』は、
『多いはずです!』。
譬えば、
『金、銀、宝物の貪著』が、
『重いはずである!』のと、
『同じことです!』。
何故、
『草木』と、
『同じなのですか?』。
答曰。無漏樂上妙。而智慧多。智慧多故能離此著。有漏樂中愛等結使多。愛為著本。實智慧能離。以是故不著。 答えて曰く、無漏の楽は上妙にして、而も智慧多し。智慧の多きが故に、能く此の著を離る。有漏の楽中には、愛等の結使多し。愛を著の本と為し、実の智慧は能く離る。是を以っての故に著せず。
答え、
『無漏の楽』は、
『上妙であり!』、
而も、
『智慧』が、
『多いからである!』。
『智慧』の、
『多い!』が故に、
此の、
『著』を、
『離れることができる!』。
『有漏の楽』中には、
『愛』等の、
『結使』が、
『多く!』、
『愛』は、
『著』の、
『本である!』が、
『実の智慧』は、
是の、
『結使』を、
『離れることができ!』、
是の故に、
『有漏の楽』に、
『著さないのである!』。
復次無漏智慧。常觀一切無常。觀無常故。不生愛等諸結使。譬如羊近於虎。雖得好草美水而不能肥。如是諸聖人雖受無漏樂。無常空觀故。不生染著脂。 復た次ぎに、無漏の智慧は、常に一切に無常を観る。無常を観るが故に、愛等の諸結使を生ぜず。譬えば羊は、虎に近けば、好草、美水を得と雖も、肥ゆる能わざるが如し。是の如く諸聖人は、無漏の楽を得と雖も、無常、空を観るが故に、染著の脂を生ぜず。
復た次ぎに、
『無漏の智慧』は、
常に、
『一切に!』、
『無常』を、
『観る!』が、
『無常を観る!』が故に、
『愛等の諸結使』を、
『生じないからである!』。
譬えば、
『羊』が、
『虎』に、
『近づく!』と、
『好草』や、
『美水』を、
『得ても!』、
『肥えることができない!』が、
是のように、
『諸の聖人』は、
『無漏の楽』を、
『受けたとしても!』、
『無常』や、
『空』を、
『観る!』が故に、
『染著の脂』を、
『生じないのである!』。
復次無漏樂。不離三三昧十六聖行。常無眾生相。若有眾生相則生著心。以是故無漏樂。雖復上妙而不生著。 復た次ぎに、無漏の楽は、三三昧、十六聖行を離れざれば、常に衆生相無し。若し衆生相有れば、則ち著心を生ず。是を以っての故に、無漏の楽は、復た上妙なりと雖も、著を生ぜず。
復た次ぎに、
『無漏の楽』は、
『三三昧』や、
『十六聖行』を、
『離れない!』ので、
常に、
『衆生の相』が、
『無い!』。
若し、
『衆生の相』が、
『有れば!』、
則ち、
『著心』を、
『生じることになるだろう!』、
是の故に、
『無漏の楽』は、
復た、
『上妙である!』が、
『著』を、
『生じないのである!』。
  三三昧(さんさんまい):空、無相、無作の三種の三昧を云う。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  十六聖行(じゅうろくしょうぎょう):梵語 SoDazaakaaraaH の訳、十六行相、四諦十六行相とも云う、初めて聖者の流れに乗る須陀洹向/預流向位以前の四善根位に於いて、四諦を観ずる十六の行相の意。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
  1. 苦諦、この世は苦であるを四種に観察する。
    1. 無常 anitaya:縁を待って成ずるが故に。
    2. 苦 duHkha:無常なるが故に、この世は苦である。
    3. 空 zuunya:無常なるが故に、一切は実体が無い。
    4. 無我 anaatman:我にも、また実体が無い。
  2. 集諦、この世は苦である原因を四種に観察する。
    1. 集 samudaya:愛執は苦を集める。
    2. 因 hetu:愛執は苦の原因である。
    3. 縁 pratyaya:苦は更なる苦の原因である。
    4. 生 prabhava:苦は更なる苦を生じる。
  3. 滅諦、苦の滅した境地を四種に観察する。
    1. 尽 nirodha:愛執を尽くせば苦は滅する。
    2. 滅 zaanta:苦が滅すれば生死も尽きる。
    3. 妙 praniita:生死の尽きた境地は殊妙である。
    4. 出 niHsaraNa:苦界を出て理想の境地に入る。
  4. 道諦、苦を滅する道を四種に観察する。
    1. 道 maarga:八正道は苦を滅する道である。
    2. 正 nyaaya:八正道は正しい。
    3. 行 pratipad:八正道は理想の境地に行く。
    4. 跡 nairyaaaNika:仏の遺跡を行けばよい。
  三三昧(さんさんまい):三種の三昧( three samādhis )、梵語 samaadhi- traya の訳、即ち、
  1. 空三昧(梵 zuunyataa- samaadhi):空に関する自己の洞察に基づき、我、我所及び苦の観念より解放されること( to free the mind of the ideas of me and mine and suffering, based on one's insight into emptiness )
  2. 無相三昧(梵 animitta- samaadhi):有らゆる現象は空であるとの洞察に基づき、形状、外観に関する観念より免れること、例えば五境、男女、三有等( to be rid of the idea of form, or externals, based on the insight into the emptiness of all phenomena. I.e. the which are the five senses, and male and female, and the three existences )
  3. 無作三昧(梵 apraNihita- samaadhi):又無願三昧に作る。有らゆる事物、及び名字は空であるとの洞察に基づき、有らゆる欲望を免れること( to be rid of all desires, based on an insight into the emptiness of all things, also termed )。梵 praNihita は、誘導される/指図される( directed towards )の義、又梵 apraNihita は、無目的/欲望を免れる( purposelessness, free from desire )の義、即ち無作三昧とは、貪心/汚染心の指図を受けないの意。
如是種種因緣。觀世間樂受是苦。觀苦受如箭。不苦不樂受。觀無常壞敗相。如是則樂受中不生欲著。苦受中不生恚。不苦不樂受中不生愚癡。是名受念處。 是の如き種種の因縁に、世間の楽受は、是れ苦なりと観、苦受は箭の如しと観、不苦不楽受には、無常敗壊の相を観るに、是の如きは、則ち楽受中に欲著を生ぜず、苦受中に恚を生ぜず、不苦不楽受中に愚癡を生ぜず、是れを受念処と名づく。
是のような、
種種の、
『因縁』に、
『世間』の、
『楽受』は、
『苦である!』と、
『観察し!』、
『苦受』は、
『箭のようだ!』と、
『観察し!』、
『不苦不楽受』には、
『無常、敗壊の相』を、
『観察すれば!』、
是のような、
『観』は、
『楽受』中には、
『欲著』を、
『生じず!』、
『苦受』中には、
『恚』を、
『生じず!』、
『不苦不楽受』中には、
『愚癡』を、
『生じない!』。
是れを、
『受念処』と、
『称する!』。
行者思惟以樂故貪身誰受是樂。思惟已知從心受。眾生心狂顛倒故。而受此樂。當觀是心無常生滅相一念不住。無可受樂。人以顛倒故。謂得受樂。 行者の思惟すらく、『楽を以っての故に、身を貪るも、誰か是の楽を受くる』、と。思惟し已り、心に従いて受くるを知る、『衆生は、心狂い顛倒するが故に、此の楽を受く。当に観るべし、是の心は無常、生滅の相にして、一念も住まらず、楽を受くべき無きを。人は顛倒を以っての故に、楽を受くるを得と謂う』、と。
『行者』は、こう思惟する、――
『楽』の故に、
『身』を、
『貪っている!』が、
誰が、
是の、
『楽』を、
『受けるのか?』。
『行者』は、
思惟して、こう知ることになる、――
『心』に、
『従って!』、
『受けるのだ!』。
『衆生』は、
『心』が、
『狂い!』、
『顛倒する!』が故に、
此の、
『楽』を、
『受けるのだから!』、
こう観察せねばならない、――
是の、
『心』は、
『無常という!』、
『生滅の相であり!』、
『一念(一瞬)』も、
『住まらない!』。
何処にも、
『楽』を、
『受ける!』者は、
『無いのに!』、
『人』は、
『顛倒』の故に、こう謂うのだ、――
『楽』を、
『受けることができる!』、と。
何以故。初欲受樂時心生異。樂生時心異。各各不相及。云何言心受樂。過去心已滅故不受樂。未來心不生故不受樂。現在心一念住疾故不覺受樂。 何を以っての故に、初めて楽を受けんと欲する時の心は異を生じて、楽の生ずる時の心異なればなり。各各相及ばざるに、云何が、心に楽を受くと言う。過去の心は、已に滅するが故に楽を受けず。未来の心は生ぜざるが故に、楽を受けず。現在の心は、一念住まるも、疾きが故に、楽を受くるを覚えず。
何故ならば、
初めて、
『楽』を、
『受けようとする!』時の、
『心』に、
『異』を、
『生じて!』、
『楽』が、
『生じた!』時の、
『心』と、
『異なるからだ!』。
各各が、
『互に!』、
『及ぶ(関連する)ことがない!』のに、
何故、こう言うのか?――
『心』が、
『楽』を、
『受ける!』、と。
『過去の心』は、
已に、
『滅した!』が故に、
『楽』を、
『受けず!』、
『未来の心』は、
未だ、
『生じない!』が故に、
『楽』を、
『受けず!』、
『現在の心』は、
『一念』、
『住まるだけで!』、
『疾い!』が故に、
『楽』を、
『受けた!』と、
『覚ることもない!』。
問曰。過去未來不應受樂。現在心一念住時應受樂。云何言不受。 問うて曰く、過去、未来は、応に楽を受くべからず。現在の心は、一念住する時に、応に楽を受くべし。云何が、受けずと言う。
問い、
『過去、未来の心』は、
当然、
『楽』を、
『受けるはずがない!』が、
『現在の心』は、
『一念』、
『住まる!』時に、
当然、
『楽』を、
『受けるはずである!』。
何故、
『受けない!』と、
『言うのですか?』。
答曰。我已說去疾故不覺受樂。 答えて曰く、我れは已に説けり、去ることの疾きが故に、楽を受くるを覚らざるなり。
答え、
わたしは、
已に、こう説いた、――
『現在の心』は、
『疾(すみや)か!』に、
『去る!』が故に、
『楽』を、
『受けた!』と、
『覚らないのだ!』、と。
復次諸法無常相故無住時。若心一念住。第二念時亦應住。是為常住無有滅相。 復た次ぎに、諸法は、無常相の故に住する時無し。若し心、一念住せば、第二念の時にも、亦た応に住すべし。是れを常住と為し、滅相有ること無し。
復た次ぎに、
諸の、
『法』は、
『無常の相である!』が故に、
『住まる!』時が、
『無い!』。
若し、
『一念でも!』、
『住まれば!』、
当然、
『第二念の時』にも、
『住まるはずである!』が、
是れは、
『常住であり!』、
『滅相』が、
『無いことになる!』。
如佛說。一切有為法三相住中。亦有滅相。若無滅者不應是有為相。 仏の説きたもうが如し、『一切の有為法は、三相なり。住中にも、亦た滅相有り』、と。若し滅無くんば、応に是れ有為の相なるべからず。
例えば、
『仏』は、こう説かれたが、――
一切の、
『有為法』は、
『三相であり!』、
『住』中にも、
『滅相』が、
『有る!』、と。
若し、
『住』中に、
『滅相』が、
『無ければ!』、
是れが、
『有為の相であるはずがない!』。
  三相(さんそう):三種の様相( three aspects )、梵語 triiNi- lakSaNaani の訳、有為法( saMskRta- dharma )の三種の表れである生相、住相、滅相( The three marks of arising, abiding, and ceasing )の意。即ち、
  1. 生相(梵 utpaad- lakSaNa ):生起を表す( to mark of arising )
  2. 住相(梵 sthiti ):居住を表す( to mark of abiding )
  3. 滅相(梵 nirodha- lakSaNa ):絶滅を表す( to mark of extinction )
  参考:『大宝積経巻94』:『若過去世陰界入等。即是滅盡。不實不在。無我無我所。若未來世陰界入等。是未生未起。無我無我所。若現在陰界入。是念念不住。何以故。世法無有一念住者。若有一念。是一念中亦有生住滅。是生住滅亦復不住。』
  参考:『中論巻2三相品』:『問曰。經說有為法有三相生住滅。萬物以生法生。以住法住。以滅法滅。是故有諸法。答曰不爾。何以故。三相無決定故。是三相為是有為能作有為相。為是無為能作有為相。二俱不然。何以故 若生是有為  則應有三相  若生是無為  何名有為相 若生是有為。應有三相生住滅。是事不然。何以故。共相違故。相違者。生相應生法。住相應住法。滅相應滅法。若法生時。不應有住滅相違法。一時則不然。如明闇不俱。以是故生不應是有為法。住滅相亦應如是。』
復次若法後有滅。當知初已有滅。譬如人著新衣。初著日若不故第二日亦不應故。如是乃至十歲應常新不應故。而實已故。當知與新俱有。微故不覺。故事已成方乃覺知。以是故知諸法無有住時。云何心住時得受樂。若無住而受樂是事不然。 復た次ぎに、若し法は、後に滅有らば、当に知るべし、初に已に滅有りと。譬えば、人新衣を著くるに、初めて著くる日に、若し故からざれば、第二日にも亦た、応に故かるべからず。是の如く乃至十歳にも、応に常に新しく、応に故かるべからず、而れども実に已に故きが如し。当に知るべし、新と倶に、微故有りて、覚らざるのみ。故き事已に成ずれば、方(まさ)に乃ち覚知すべし。是を以っての故に知るらく、『諸法には、住時有ること無し』、と。云何が心の住時に、楽を受くるを得ん。若し住無くして、而も楽を受くれば、是の事は然らず。
復た次ぎに、
若し、
『法』が、
後に、
『滅』が、
『有れば!』、
当然、こう知らねばならぬ、――
已に、
『滅』は、
『有ったのだ!』、と。
譬えば、こういうことである、――
『人』が、
新しい、
『衣』を、
『著()ける!』時、
初めて、
『衣を著けた!』、
『日』に、
『故(ふる)くなければ!』、
当然、
『第二日』にも、
『故いはずがない!』。
是のようにして、
乃至、
『十年たっても!』、
常に、
『新しいはずであり!』、
『故いはずがない!』が、
而し、
『実に!』、
『已に故くなっている!』。
当然、こう知らねばならない、――
『新しさ!』と、
『微かな!』、
『故さ!』とが、
倶(とも)に、
『有る!』のに、
『覚らないだけだ!』。
『故い!』、
『事』が、
已に、
『成立してから!』、
その時、、
ようやく、
『覚知するのだ!』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
諸の、
『法』には、
『住まる!』時は、
『無い!』、と。
何故、
『心』が、
『住まる!』時に、
『楽』を、
『受けることができるのか?』。
若し、
『住まる!』ことが、
『無くても!』、
而し、
『楽』を、
『受けるとすれば!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
以是故知無有實受樂者。但世俗法。以諸心相續故。謂為一相受樂。 是を以っての故に知る、実に楽を受くる者の有ること無く、但だ世俗の法には、諸の心相続するを以っての故に、謂いて、一相にして、楽を受くと為すのみ。
是の故に、こう知る、――
実に、
『楽』を、
『受ける!』者は、
『無い!』が、
但だ、
『世俗の法』には、
諸の、
『心』が、
『相続(連続)する!』が故に、
こう謂うのである、――
諸の、
『心』は、
『一相であり!』、
『楽を受ける!』、と。
問曰。云何當知一切有為法無常。 問うて曰く、云何が、当に知るべき、一切の有為法は無常なりと。
問い、
何故、こう知らねばならぬのですか?――
一切の、
『有為法』は、
『無常である!』、と。
答曰。我先已說今當更答。是有為法一切屬因緣故無常。先無今有故今有後無故無常。 答えて曰く、我れは先に已に説けり、今当に更に答うべし。是の有為法の一切は、因縁に属するが故に無常なり。先に無くして、今有るが故に、今有りて、後に無きが故に無常なり。
答え、
わたしは、
先に、説いたが、
今、更に答えるとしよう、――
是の、
『有為法』は、
一切が、
『因縁』に、
『属する(従属する)!』が故に、
『無常なのである!』。
先に、
『無い!』者が、
今、
『有る!』が故に、
『無常であり!』、
今、
『有る!』者が、
後には、
『無い!』が故に、
『無常なのである!』。
復次無常相。常隨逐有為法故。有為法無有增損故。一切有為法相侵剋故無常。 復た次ぎに、無常の相は、常に有為法を随逐するが故に、有為法は、増損することの有ること無きが故に、一切の有為法は、相侵剋するが故に無常なり。
復た次ぎに、
『有為法』は、
常に、
『無常の相』が、
『随逐する!』が故に、
『有為法』は、
『増、損する!』ことの、
『無い!』が故に、
『有為法』は、
一切が、
『互に!』、
『侵害しあう!』が故に、
是の故に、
『有為法』は、
『無常である!』。
  随逐(ずいちく):跡を追う。
  侵剋(しんこく):侵し殺す。侵し損なう。侵害。
復次有為法有二種老常隨逐故。一者將老二者壞老。有二種死常隨逐故。一者自死二者他殺。以是故知一切有為法皆無常。 復た次ぎに、有為法には、二種の老有りて、常に随逐するが故に、一には将に老いんとし、二には壊れて老ゆ、二種の死有りて、常に随逐するが故に、一には自ら死し、二には他殺す。是を以っての故に知る、一切の有為法は、皆、無常なり。
復た次ぎに、
『有為法』には、
『二種の老』が有って、
常に、
『随逐する!』が故に、
『無常である!』、
一には、
やがて、
『老いよう!』とする、
『老であり!』、
二には、
已に、
『壊れた!』という、
『老である!』。
『二種の死』が有って、
常に、
『随逐する!』が故に、
『無常である!』、
一には、
『自ら!』、
『死に!』、
二には、
『他に!』、
『殺される!』。
是の故に、こう知ることになる、――
一切の、
『有為法』は、
皆、
『無常である!』、と。
於有為法中心無常最易得。如佛說凡夫人或時知身無常。而不能知心無常。若凡夫言身有常。猶差以心為常是大惑。何以故。身住或十歲二十歲。是心日月時頃須臾過去。生滅各異念念不停。欲生異生欲滅異滅。如幻事實相不可得。如是無量因緣故知心無常。是名心念處。 有為法中には、心の無常最も得易し。仏の説きたもうが如し、『凡夫人は、或は時に、身の無常を知るも、而し、心の無常を知る能わず。若し凡夫にして、『身は有常なり』と言わば、猶お差(い)ゆべし。心を以って常と為さば、是れ大惑なり。何を以っての故に、身の住すること、或は十歳、二十歳なるに、是の心は日、月、時、頃、須臾の過去に生滅して、各異なり、念念に停まらず。生ぜんと欲して、異生じ、滅せんと欲して、異滅す。幻事の如く、実相を得べからず。是の如き無量の因縁の故に知るらく、心は無常なりと、是れを心念処と名づく。
『有為法』中には、
『心』の、
『無常』が、
『最も得易い(認めやすい)!』が、
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
『凡夫人』は、
或は時に、
『身』の、
『無常』を、
『知る!』が、
『心』の、
『無常』を、
『知ることができない!』、と。
若し、
『凡夫人』が、
『身』は、
『有常である!』と、
『言えば!』、
猶お、
『差(治癒すること)がある!』が、
若し、
『心』を、
『常である!』と、
『思えば!』、
是れは、
『大惑(惑乱)である!』。
何故ならば、
『身』は、
『十年とか!』、
『二十年とか』、
『住まる!』が、
『心』は、
『日、月、時、頃、須臾』の、
『過去に!』、
『生、滅する!』ので、
各各の、
『心』は、
『異なっており!』、
念念(一瞬)も、
『停滞することがない!』。
有る、
『心』の、
『生じようとする!』時には、
『異なる心』が、
『生じ!』、
『心』の、
『滅しようとする!』時には、
『異なる心』が、
『滅するので!』、
例えば、
『幻事(まぼろし)のように!』、
『実相』は、
『認められない!』。
是のような、
無量の、
『因縁』の故に、こう知るのである、――
『心』は、
『無常である!』、と。
是れを、
『心念処』と、
『称する!』。
  (にち):一日。一昼夜。
  (がつ):一ヶ月。二十九日、又は三十日。
  (じ):春秋冬夏の四時。
  (きょう):しばらく。僅かの時間の意。
  須臾(しゅゆ):梵語刹那 kSaNa の訳。暫時の意。
行者思惟是心屬誰。誰使是心觀已不見有主。一切法因緣和合故不自在。不自在故無自性。無自性故無我。若無我誰當使是心。 行者の思惟すらく、『是の心は、誰にか属する。誰か是の心を使う』、と。観已りて、主有るを見ず。一切の法は、因縁の和合なるが故に、自在ならず。自在ならざるが故に、自性無し。自性無きが故に、無我なり。若し無我なれば、誰か当に是の心を使うべき。
『行者』は、
こう思惟して、――
是の、
『心』は、
誰に、
『属するのか?』、
誰が、
是の、
『心』を、
『使うのか?』、と。
観察したが、――
是の、
『心の主』が、
『有る!』とは、
『見えなかった!』。
一切の、
『法』は、
『因縁』の、
『和合である!』が故に、
『自在ではない!』、
『自在でない!』が故に、
『自性』が、
『無い!』、
『自性の無い!』が故に、
『無我である!』。
若し、
『法』に、
『我が無ければ!』、
是の、
『心』を、
『誰が使うことになるのか?』。
問曰。應有我。何以故。心能使身。亦應有我能使心。譬如國主使將將使兵。如是應有我使心有心使身。為受五欲樂故。 問うて曰く、応に我有り。何を以っての故に、心は能く身を使えば、亦た応に我有りて、能く心を使うべし。譬えば国主は、将を使い、将は兵を使うが如し。是の如く応に我有りて、心を使い、心有りて、身を使うは、五欲の楽を受くる為めの故なるべし。
問い、
当然、
『我』が、
『有るはずである!』。
何故ならば、
『心』が、
『身』を、
『使うことのできる!』のは、
『我』が有って、
『心』を、
『使うからである!』。
譬えば、
『国主』が、
『将』を、
『使い!』、
『将』が、
『兵』を、
『使うようなものである!』。
是のように、
有る、
『我』が、
『心』を、
『使い!』、
有る、
『心』が、
『身』を、
『使う!』ので、
それが、
『五欲の楽』を、
『受ける!』、
『理由である!』。
復次各各有我心故知實有我。若但有身心顛倒故計我者。何以故。不他身中起我。以是相故知各各有我。 復た次ぎに、各各は我、心有るが故に、実に我有るを知る。若し但だ、身心の顛倒有るが故に、我を計すれば、何を以っての故にか、他身中に我を起さざらん。是の相を以っての故に、各各に我有るを知る。
復た次ぎに、
各各に、
『我、心』の、
『有る!』が故に、
実に、
『我が有る!』と、
『知る!』。
若し、
但だ、
『身』と、
『心』とが、
『有るだけで!』、
『顛倒』の故に、
『我』を、
『容認するとすれば!』、
何故、
『他の身』中に、
『我』を、
『起さないのか?』。
是の、
『相』の故に、こう知ることになる、――
各各には、
『我』が、
『有る!』、と。
  (け):◯梵語 pratii の訳、受入れる/容認する( to receive, accept )、容認する/認める/確信する/思い込む( to admit, recognize, be certain of, be convinced that )の義。◯梵語 kalpanaa の訳、心中に創造する/真実だと思い込む( creating in the mind, assuming anything to be real )の義。推定する/考える/推測する/想像する/図式化する/認める( estimate, consider, think about, reckon, imagine, schematize, perceive )の意。唯識に於いては、此の語は、諸法と我に関する不正確な結論/仮定を導くものとして、否定的な意味に於いて使われる( In Yogâcāra this term has negative connotations of making inaccurate determinations and assumptions regarding the nature of knowable things (dharmas) and one's own self (ātman). )。
  (が):自我( self )、梵語 aatman の訳、息/魂、生命/知覚/感覚の本源、独立した魂/自己、個人的存在の基礎( The breath, the soul, principle of life and sensation, The individual soul, self, The basis of personal existence)の義、我れ/我が/我等/我れに/我等が( I, my, we, me, our )、自我/個性( Subject, personality )の意。仏教に於いて、我は、 aatman という印度的概念である、或る不滅、不変の自己と同義語であるが、仏教に於いては、五蘊より成り立つが故に、我は、独立した永久的実体ではないと考えられている( In Buddhism, it is the equivalent of the Indian concept of ātman, an eternal, unchanging 'self,' which in Buddhism is understood as being composed of the five aggregates 五蘊 and hence not an independent and permanent entity. )、我とは、そのような自己に関する確信であるが、それを釈迦牟尼仏陀は、その教の中で論駁したのである( It is the belief in such a self that Śākyamuni Buddha refuted in his teachings. )。仏教はその基本的原理として、無我という観念を採用しているが、但だ我を仮の自己としてならば認めてもいる( Buddhism takes as its fundamental principle the notion of no-self 無我, only recognizing a provisional self. )。不滅の自己が継続的に輪廻するという間違った見解は、有らゆる誤解の基である( The erroneous idea of a permanent self continued in cyclic existence is the source of all illusion. )。大乗に於いて、我という自己の観念は、但だ想像的個人、又は有情的主体に係るのみならず、自己の身心、又は客観的現象に於ける、独立した存在を具象化するという、基本的傾向に係るが( In Mahāyāna, the notion of self refers not only to an imagined personality or subject in sentient beings, but also the basic tendency to reify independent existence in either one's own person or objective phenomena, )、即ち人[衆生]無我、及び法無我であり( thus, 'selflessness of person' 人無我 and 'selflessness of phenomena' 法無我. )、涅槃経には、「常住不変の自己は、超越的世界に於いて、輪廻的存在を超え、常、楽、浄と共にある」と説かれている( the Nirvana Sutra posits a permanent self in the transcendental world, above the range of cyclic existence, along with permanence, bliss, and purity 常我樂淨. )。
答曰。若心使身有我使心。應更有使我者。若更有使我者是則無窮。又更有使我者則有兩神。若更無我但我能使心。亦應但心能使身。 答えて曰く、若し心、身を使い、我有りて、心を使わば、応に更に我を使う者有るべし。若し更に我を使う者有らば、是れ則ち無窮なり。又更に我を使う者有らば、則ち両神有り。若し更に我無くして、但だ我のみにして、能く心を使わば、亦た応に但だ心のみにして、能く身を使わん。
答え、
若し、
有る、
『心』が、
『身』を、
『使い!』、
有る、
『我』が、
『心』を、
『使うとすれば!』、
更に、
『我』を、
『使う!』者が、
『有るはずである!』が、
若し、
更に、
『我』を、
『使う!』者が、
『有れば!』、
則ち、
『無窮である!』。
又、
更に、
『我』を、
『使う!』者が、
『有れば!』、
『神(我の主)』が、
『両(ふた)つ!』、
『有ることになる!』。
若し、
更に、
『我』が、
『無く!』、
但だ、
『我のみで!』、
『心』を、
『使うことができれば!』、
当然、
『心のみで!』、
『身』を、
『使えなくてはならない!』。
  (じん):心霊の力( psychic power )、心/本質/主体( heart, essence, core )、◯梵語 Rddhi, Rddhika の訳、増加、成長、繁栄、成功、幸運、富、多量( increase, growth, prosperity, success, good fortune, wealth, abundance )、達成/完全/神通力/魔術( accomplishment, perfection, supernatural power, magic )の義、超自然的/超自然的作用( Supernatural; supernormal function )、不可解な精神的神力/能力( Inscrutable spiritual powers, or power )の意。◯梵語 deva, devataa, daivata の訳、神霊/神/神霊の/神の( spirit, god, spiritual, godly )の意。◯梵語 aatman, yakSa の訳、霊魂/亡霊/精神( soul, ghost, spirit )の義。◯梵語 jiiva, ojas の訳、生存/実存すること( living, existing, alive )の義。
若汝以心屬神除心則神無所知。若無所知云何能使心。若神有知相復何用心為。以是故知但心是識相故。自能使身不待神也。如火性能燒物不假於人。 若し、汝、心は神に属すと以(おも)わば、心を除けば、則ち神には、知る所無けん。若し知る所無くんば、云何が能く心を使わん。若し神に知る相有らば、復た心を用って何をか為さん。是を以っての故に知る、但だ心のみ、是れ識相なるが故に、自ら能く身を使いて、神を待たざるなり。火性の能く物を焼いて、人を仮らざるが如し。
若し、
お前が、こう思えば、――
『心』は、
『神』に、
『属す!』、と。
『心』を、
『除けば!』、
則ち、
『神』には、
『知る!』所が、
『無いことになる!』。
若し、
『神』に、
『知る!』所が、
『無ければ!』、
何故、
『心』を、
『使えるのか?』。
若し、
『神』に、
『知る!』という、
『相』が、
『有れば!』、
復た、
『心』を、
『用いて!』、
何を、
『為そうというのか?』。
是の故に、こう知ることになる、――
但だ、
『心だけが!』、
『識る!』という、
『相である!』が故に、
自ら、
『身』を、
『使うことができる!』ので、
復た、
『神』を、
『待つことはない!』、と。
譬えば、
『火性』は、
『物』を、
『焼くことができ!』、
『人』の、
『力』を、
『借りないようなものである!』。
  (い):いう。或いはおもう。謂に同じ。
  (け):かりる。借に同じ。
問曰。火雖有燒力。非人不用心雖有識相非神不使。 問うて曰く、火は、焼く力有りと雖も、人の用いざるに非ず。心は、識相有りと雖も、神の使わざるに非ず。
問い、
『火』には、
『焼く力』が、
『有る!』が、
『人』が、
『火』を、
『用いないわけではない!』。
『心』には、
『識の相』が、
『有る!』が、
『神』が、
『心』を、
『使わないわけではない!』。
答曰。諸法有相故有。是神無相故無。汝雖欲以氣息出入苦樂等為神相。是事不然。何以故。出入息等是身相。受苦樂等是心相。云何以身心為神相。 答えて曰く、諸法は、相有るが故に有り。是の神は、無相なるが故に無し。汝は、気息の出入、苦楽等を以って、神相と為さんと欲すれど、是の事は然らず。何を以っての故に、出入息等は、是れ身相にして、苦楽等を受くるは、是れ心相なればなり。云何が身心を以って、神相と為さんや。
答え、
諸の、
『法』は、
『相』が、
『有る!』が故に、
『有る!』が、
是の、
『神』は、
『相』が、
『無い!』が故に、
『無い!』。
お前は、
『気息の出入』や、
『苦楽』等を、
『神』の、
『相にしよう!』と、
『思っている!』が、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
『出入する息』等は、
『身』の、
『相であり!』、
『受ける苦楽』等は、
『心』の、
『相だからである!』。
何故、
『身、心の相』を、
『神の相だ!』と、
『思うのか?』。
復次或時火自能燒不待於人。但以名故名為人燒。汝論墮負處。何以故神則是人。不應以人喻人。又復汝言各各有我心故。知實有我。若但有身心顛倒故。計我者。何以不他身中起我。汝於有我無我未了而問。何以不他身中起我。自身他身皆從我有。我亦不可得。 復た次ぎに、或は時に、火は自ら能く焼いて、人を待たざるも、但だ名を以っての故に名づけて、人焼くと為す。汝が論は、負処に堕ちたり。何を以っての故に、神は、則ち是れ人なれば、応に人を以って、人を喩うべからず。又復た汝が言わく、『各各に我、心有るが故に、実に我有りと知る』、と。若し但だ、身心有りて、顛倒の故に、我を計すれば、何を以ってか、他身中に我を起さざる。汝は、有我、無我に於いて未だ了せざるに、『何を以ってか、他身中に、我を起さざる』、と問えり。自身、他身は皆我より有るに、我も亦た得べからざればなり。
復た次ぎに、
或は時に、
『火』は、
自ら、
『焼くことができる!』ので、
『人』を、
『待たない!』が、
但だ、
『人』が、
『焼く!』と、
『言われているだけである!』。
お前の、
『論』は、
『負処』に、
『堕ちた!』。
何故ならば、
『神』が、
『人ならば!』、
『人』を、
『用いて!』、
『人』を、
『説明するはずがない!』。
又復た、
お前は、こう言った、――
各各は、
『我』と、
『心』の、
『有る!』が故に、
実に、
『我は有る!』と、
『知る!』。
若し、
但だ、
『身、心』が、
『有るだけ!』で、
『顛倒』の故に、
『我』を、
『容認するとすれば!』、
何故、
『他の身』中に、
『我』を、
『起さないのか?』、と。
お前は、
『有我、無我』について、
未だ、
『意味』を、
『明了にしない!』まま、
こう問うたのだ、――
何故、
『他の身』中に、
『我』を、
『起さないのか?』、と。
『自らの身』と、
『他の身』とは、
皆、
『我』に、
『従属して!』、
『有る!』が、
亦た、
『我』も、
『認められていないのだ!』。
  (ゆ):通知/報告/説明する( inform, report, explain )、知る/気づく( know )、類似点を示す( draw an analogy )、
  :他は我の対語、他にも我にも属さない身は無い。我無ければ、即ち他も亦た無し。
若色相若無色相若常無常有邊無邊。有去者不去者。有知者不知者。有作者無作者。有自在者不自在者。如是等我相皆不可得。如上我聞品中說。 若しは色の相、若しは無色の相、若しは常、無常、有辺、無辺、去有る者、去らざる者、知有る者、知らざる者、作有る者、作無き者、自在有る者、自在ならざる者、是の如き等の我相は、皆得べからざること、上の我聞品中に説くが如し。
例えば、
『色の相、無色の相』、
『常、無常』、
『有辺、無辺』、
『去ることの有る者、去らない者』、
『知ることの有る者、知らない者』、
『作すことの有る者、作すことの無い者』、
『自在を有する者、自在でない者』、
是れ等のような、
『我の相』は、
皆、
『認められない!』と、
上の、
『我聞品』中に、
『説かれている!』。
  参考:『大智度論巻1縁起義釈論』:『世界者有法從因緣和合故有無別性。譬如車轅軸輻輞等和合故有無別車。人亦如是。五眾和合故有無別人。若無世界悉檀者。佛是實語人。云何言我以清淨天眼見諸眾生隨善惡業死此生彼受果報。善業者生天人中。惡業者墮三惡道。』
如是等種種因緣。觀諸法和合因緣生無有實法有我。是名法念處。 是れ等の如き、種種の因縁に、諸法は、和合の因縁生にして、実法の我を有すること有ること無きを観る、是れを法念処と名づく。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』で、こう観る、――
諸の、
『法』は、
『和合の因縁』の、
『生(存在)であり!』、
実の、
『法』が、
『我を有する!』ことは、
『無い!』、と。
是れを、
『法念処』と、
『呼ぶのである!』。



四念処と三念処

是四念處有三種。性念處共念處緣念處。 是の四念処には、三種有り、性念処、共念処、縁念処なり。
是の、
『四念処』は、
各に、
『三種の念処』が有り、
『性念処』、
『共念処』、
『縁念処である!』。
  性念処(しょうねんじょ):身受心法の四種の法を観察する智慧。「大智度論巻19」に、「云何が性念処と為す。身を観る智慧は、是れ身念処なり。諸受を観る智慧は、是れを受念処と名づけ、諸心を観る智慧は、是れを心念処と名づけ、諸法を観る智慧は、是れを法念処と名づく。是れを性念処と為す」と云える、即ち是れなり。又『大智度論巻19上注:三念住』参照。
  共念処(ぐうねんじょ):身受心法の四種の法の観察を首と為す、有漏/無漏の因縁生の道。「大智度論巻19」に、「云何が共念処と名づくる。身を観ずるを首と為す因縁生の道の、若しは有漏、若しは無漏なる、是れ身念処なり。受を観、心を観、法を観るを首と為す、因縁生の道の、若しは有漏、若しは無漏なる、是れを受、心、法念処と名づく。是れを共念処と為す」と云える、即ち是れなり。又『大智度論巻19上注:三念住』参照。
  縁念処(えんねんじょ):身受心法の四種の法の一切の所縁の法。「大智度論巻19」に、「云何が、縁念処と為す。一切の色法、謂わゆる十入、及び法入の少分、是れを身念処と名づけ、六種の受なる眼触生の受、耳鼻舌身意触生の受は、是れを受念処と名づけ、六種の識なる眼識、耳鼻舌身意識は、是れを心念処と名づけ、想衆、行衆、及び三無為は、是れを法念処と名づく。是れを縁念処と名づく」と云える、即ち是れなり。又『大智度論巻19上注:三念住』参照。
  三念処(さんねんじょ):三種の念処の意。又三念住と称す。『大智度論巻19上注:三念住』参照。
  三念住(さんねんじゅう):梵語 triiNi smRty- upasthaanaani の訳。念の所住に三種の別あるの意。又三念処とも訳す。(一)順境違境俱境に対して歓慼の心を生ぜず、正念正知に安住するを云う。又三意止とも名づく。仏十八不共法の一科なり。「大毘婆沙論巻17」に、「一仏が十力四無所畏大悲三念住の十八不共法等の無辺の功徳を具足するが如く、余仏も亦た爾り」と云い、「倶舎論巻27」に、「諸の弟子衆は一向に恭敬して能く正しく受行するも、如来之を縁じて歓喜を生ぜず、捨てて正念正知に安住す。是れを如来の第一念住と謂う。諸の弟子衆は唯恭敬せず、正しく受行せざるも、如来之を縁じて憂慼を生ぜず、捨てて正念正知に安住す。是れを如来の第二念住と謂う。諸の弟子衆は一類は恭敬して能く正しく受行し、一類は敬せず、正しく受行せざるも如来之を縁じて歓慼を生ぜず、捨てて正念正知に安住す。是れを如来の第三念住と謂う」と云える是れなり。蓋し此の三念住は皆念と慧とを以って体とし、唯仏のみ具する所の功徳にして、二乗は得ること能わず、之に関し、「大毘婆沙論巻36」に、「何が故に三種の念住は是れ仏不共の法なりと説くや、答う、仏は恒に衆の為に法要を宣説す、是れ衆生を御するが故に偏に之を説く。声聞独覚には此の事なし、故に其れありと言わず。復た次ぎに声聞独覚には少分ありと雖も、究竟に非ざるが故に建立せず。復た次ぎに声聞独覚は貪恚を断ずと雖も而も余習あるが故に、若し徒衆違順ある時は便ち相似の貪恚憂喜を生ずるが故に、三念住ありと建立せず」と云えり。又「中阿含教巻42」、「大毘婆沙論巻31」、「大智度論巻24」、「成実論巻1三不護品」、「摂大乗論本巻下」、「大乗阿毘達磨雑集論巻14」等に出づ。
(二)四念住の体に就き各三種を分別せるもの。一に自性念住 svabhaava- smRty- upasthaana、二に相雑念住 saMsarga- s.- u.、三に所縁念住 aalaMbana- s.- u. なり。又性念処、共念処、縁念処とも訳す。「倶舎論巻23」に、「何等を名づけて四念住の体となすや。此の四念住の体に各三あり、自性と相雑と所縁と別なるが故なり。自性念住は慧を以って体となす。此の慧に三種あり、謂わく聞等の所成なり。即ち此れを亦た三種の念住と名づく。相雑念住は慧と所縁の俱有を以って体となし、所縁念住は慧の所縁の諸法を以って体となす」と云える是れなり。此の中、自性念住とは、身受心法の四念住が各聞思修の三慧を以って体となすを云い、相雑念住とは、能念の慧と倶なる諸の心心所及び其の他の俱有法を云い、所縁念住とは、彼の慧の所縁たる身受心法を云うなり。即ち四念住の体に各此の三念住の別あるなり。又「大毘婆沙論巻187」に依るに、三念住の中、自性念住及び所縁念住は煩悩を断ずること能わず、唯相雑念住のみ能く煩悩を断ず。又三慧の中、聞慧は名に依りて義に転じ、思慧は作意に作りて定地に非ざるが故に、共に煩悩を断ずること能わず、修慧は名を待たずして義に転じ、及び定地の所摂なるが故に能く煩悩を断ずと云えり。又「四教義巻2」には、三種の念処は三種の羅漢を成ずとし、若し単に性念処を修せば慧解脱羅漢を成じ、共念処は倶解脱羅漢を成じ、縁念処は無礙解脱羅漢を成ずと云えり。又「雑阿毘曇心論巻5」、「大智度論巻19」、「瑜伽師地論巻28」、「大乗義章巻16末」、「四念処巻1」、「法華経玄義巻4上」、「倶舎論光記巻23」等に出づ。<(望)
云何為性念處。觀身智慧是身念處。觀諸受智慧是名受念處。觀諸心智慧是名心念處。觀諸法智慧是名法念處。是為性念處。 云何が性念処と為す。身を観る智慧は、是れ身念処なり。諸受を観る智慧は、是れを受念処と名づけ、諸心を観る智慧は、是れを心念処と名づけ、諸法を観る智慧は、是れを法念処と名づく。是れを性念処と為す。
何を、
『性念処というのか?』、――
『身を観る!』、
『智慧』を、
『身念処』と、
『称し!』、
『諸受を観る!』、
『智慧』を、
『受念処』と、
『称し!』、
『諸心を観る!』、
『智慧』を、
『心念処』と、
『称し!』、
『諸法を観る!』、
『智慧』を、
『法念処』と、
『称する!』時、
是れが、
『性念処である!』。
云何名共念處。觀身為首因緣生道。若有漏若無漏是身念處。觀受觀心觀法為首因緣生道。若有漏若無漏。是名受心法念處。是為共念處。 云何が共念処と名づくる。身を観ずるを首と為す因縁生の道の、若しは有漏、若しは無漏なる、是れ身念処なり。受を観、心を観、法を観るを首と為す、因縁生の道の、若しは有漏、若しは無漏なる、是れを受、心、法念処と名づく。是れを共念処と為す。
何を、
『共念処というのか?』、――
『身の観察』を、
『首と為す!』、
『有漏、無漏』の、
『因縁生の道』が、
『身念処であり!』、
『受、心、法の観察』を、
『首と為す!』、
『有漏、無漏』の、
『因縁生の道』が、
『受、心、法念処である!』時、
是れが、
『共念処である!』。
云何為緣念處。一切色法。所謂十入及法入少分是名身念處。六種受眼觸生受。耳鼻舌身意觸生受。是名受念處。六種識眼識耳鼻舌身意識。是名心念處。想眾行眾及三無為。是名法念處。是名緣念處。 云何が、縁念処と為す。一切の色法、謂わゆる十入、及び法入の少分、是れを身念処と名づけ、六種の受なる眼触生の受、耳鼻舌身意触生の受は、是れを受念処と名づけ、六種の識なる眼識、耳鼻舌身意識は、是れを心念処と名づけ、想衆、行衆、及び三無為は、是れを法念処と名づく。是れを縁念処と名づく。
何を、
『縁念処というのか?』、――
一切の、
『色法』、
謂わゆる、
『十入(眼入乃至身入、色入乃至触入)』と、
『法入の少分』、
是れを、
『身念処』と、
『呼び!』、
六種の、
『受である!』、
『眼触生の受』と、
『耳鼻舌身意触生の受』とを、
『受念処』と、
『呼び!』、
六種の、
『識である!』、
『眼識、耳鼻舌身意識』を、
『心念処』と、
『呼び!』、
『想衆、行衆』と、
及び、
『三無為』を、
『法念処』と、
『呼ぶ!』時、
是れを、
『縁念処』と、
『称する!』。
  三無為(さんむい):条件に依らない三種の現象( three unconditioned phenomena )、梵語 trividham asaMskRtam の訳、因、縁、或は依存に従属しないもの/時間に依らず、永久的な、行為無き、超世俗的な何物か( Anything not subject to cause, condition, or dependence; out of time, eternal, inactive, supra-mundane. )、三種の条件に依らない現象、説一切有部の説に依れば、( The three kinds of unconditioned phenomena according to Sarvâstivāda doctrine: )
  1. 虚空/虚空無為:梵語 aakaazaasaMskRta の訳、空間/天空( space or ether )
  2. 数縁尽/択滅無為:梵語 pratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta の訳、煩悩の汚染の分析的停止( analytical cessation of the contamination of the afflictions )
  3. 非数縁尽/非擇滅無爲 :梵語 apratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta の訳、非分析的、或は努力無き煩悩の汚染の停止( non-analytical or effortless cessation )である。
  三無為(さんむい):梵語 triiNy asaMskRtaani の訳。一に虚空無為 aakaazaasaMskRta、二に択滅無為 pratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta、三に非択滅無為 apratisaMkhyaa- nirodhaasaMskRta なり。「倶舎論巻1」に、「無漏は云何、謂わく道聖諦と及び三無為となり。何等をか三と為す、虚空と二滅となり。二滅とは何ぞ、択と非択との滅なり。此の虚空等の三種の無為と及び道聖諦とを無漏法と名づく」と云える是れなり。此の中、虚空は但だ無礙を以って性となし、一体不可分にして、又所得の法に非ず。択滅は又数滅と名づく。即ち滅諦涅槃にして、離繋を性とし、択力を以って之を証得す。即ち諸の有漏の法が繋縛を遠離し、解脱を証得するを名づけて択滅と為す。択滅は所繋の事量に随って別なるが故に、其の量は有漏法の数に同じく、即ち多体あり。非択滅は又非数滅と名づく。永く未来法の生を礙うるものなり。択に因らず但だ縁闕に由りて得す。其の量は有為法の数の如く即ち多体あり。蓋し説一切有部に於いては三無為皆別体ありとなすも、経量部及び大乗にては之を仮立となせり。「成唯識論巻2」に、「契経に虚空等の諸の無為法ありと説くに略して二種あり、一は識変に依りて仮に有と施設す、謂わく曽て虚空等と説きし名を聞き、分別に随って虚空等の相あり。数習力の故に心等の生ずる時、虚空等の無為に似たる相現ず。此の所現の相は前後相似して、変易あることなきを仮設して常と為す。二に法性に依りて仮に有と施設す、謂わく空無我所顕の真如は、有無俱非にして心言路絶し、一切法と一異等に非ず。是れ真理なるが故に法性と名づく。諸の障礙を離るるが故に虚空と名づけ、簡択力に由りて諸の雑染を滅し、究竟じて証会するが故に択滅と名づけ、択力に由らずして本性清浄、或いは縁闕の所顕なるが故に非択滅と名づく。(中略)皆真如に依りて仮立す」と云えるは、即ち大乗仮立の説を述べたるなり。又「大毘婆沙論巻32」、「異部宗輪論」、「入阿毘達磨論巻下」、「倶舎論巻6」、「順正理論巻1」、「成唯識論巻10」、「同述記巻2末」、「大乗義章巻2」、「倶舎論光記巻1、6」、「同宝疏巻1、6」等に出づ。<(望)
是性念處智慧性故。無色不可見無對。或有漏或無漏。有漏有報無漏無報。皆有為因緣生。三世攝名攝外入攝。 是の性念処は、智慧の性なるが故に、無色、不可見、無対の、或は有漏、或は無漏、有漏なれば有報、無漏なれば無報にして、皆有為の因縁生、三世の摂、名の摂、外入の摂なり。
是の、
『性念処』は、――
『智慧の性である!』が故に、
『無色、不可見、無対であり!』、
『有漏か、無漏である!』が、
『有漏ならば、有報であり!』、
『無漏ならば、無報であり!』、
皆、
『有為の因縁生であり!』、
『三世に属し!』、
『名(受想行識)に属し!』、
『外入()に属す!』。
以慧知有漏是斷。知無漏非斷。知有漏是可斷無漏非可斷。是修法是無垢。是果亦有果。一切非受法非四大造。有上法有漏念處。是有無漏念處。是非有皆是相應因。 慧を以って知り、有漏なれば、是れ断知なり、無漏は断知に非ず。有漏なれば、是れ可断なり、無漏は可断に非ず。是れ修法にして、是れ無垢なり。是れ果にして、亦た果有り。一切は受法に非ず、四大の造に非ず。有上の法なり。有漏の念処は、是れ有なり。無漏の念処は、是れ有に非ず、皆、是れ相応因なり。
是の、
『性念処』は、――
『慧で知り!』、
『有漏は断知であり!』、
『無漏は断知でなく!』、
『有漏は可断であり!』、
『無漏は可断でなく!』、
『修法であり!』、
『無垢であり!』、
『果であり、亦た果を有し!』、
『一切は受法でも、四大の造でもなく!』、
『有上の法であり!』、
『有漏の念処は、有(存在)であり!』、
『無漏の念処は、有でなく!』、
『皆、相応因である!』。
  断知(だんち):又遍知、或いは断遍知とも云う。遍知とは、即ち四諦の境に於いて周遍して知るの意にして、智を以って其の性となすと雖も、此の智を以って知り、煩悩を断ずるを云うなり。「雑阿毘曇心論巻4」に、「断知とは、今当に説くべし、欲界中の解脱は、聖は四断知を説く、色無色を離るるは、当に知るべし、五断知なり。九断知とは、欲界の煩悩断ずるに、四断知を立て、色無色界の煩悩断ずるに五断知を立つ。智なりと雖も、知にして断なり。是の智果の故に、断知と説くは、業果も、亦た業と名づくるが如し。苦集の煩悩尽くるを、総じて一断知と説き、滅道の断は各一なり。欲の如く上も亦た三あり。彼の欲界の見苦集断の煩悩の尽くるに一断知を立て、見滅の断は二、見道の断は三なり。欲界の如く、色無色界の見苦見集の断も亦た一を立て、見滅の断は二、見道の断は三なり」と云える是れなり。此の中に就き、蓋し断知とは、四諦の境を知る智慧を性とし、其の智慧を以って、其の周遍の煩悩を断つを云い、此れに欲界の見苦断、見集断に総じて一断知、見滅断、見道断に各一断知を立つる等して、見修総じて九断知あるを云うなり。『大智度論巻19上注:九遍知』参照。
  九遍知(くへんち):遍知は梵語 parijJaa の訳。九種の遍知の意。即ち見修無学の三道の中、特に見修道所断の煩悩等の断に九種の別を建立するを云う。「倶舎論巻21」に、「諸の断に総じて九種の遍知を立つ。謂わく三界繋の見諦所断の煩悩等の断に六遍知を立て、所余の三界の修道所断の煩悩等の断に三遍知を立つ」と云える是れなり。蓋し遍知の語は四諦の境に於いて周遍して知るの意にして、智を以って其の性となすと雖も、今は智を遍知と称したるに非ず、即ち此の智に因りて煩悩を断ずるが故に、果に因の名を附して断を遍知と名づけたるなり。即ち智遍知に非ずして断遍知を云うなり。「倶舎論光記巻21」に、「断遍知とは謂わく諸断の択滅を体と為す。遍知は是れ智にして、即ち是れ断の因なり。断は是れ智の果にして、体は遍知に非ず。而も是れを遍知と名づくるは、此れ果の上に於いて因の名を仮立す」と云える即ち其の意なり。就中、三界繋の見諦所断の煩悩等の断に六種ありとは、欲界繋の苦と集との二部の所断に一の遍知を立て、又滅と道との二部の所断に各一の遍知を立つるを云う。故に欲界の見諦所断の煩悩等の断に合して三遍知あり。又色無色二界の見諦所断の煩悩等の断にも、欲界に同じく見苦集と見滅と見道等との三遍知あり。総じて是の如く三界見諦所断の法の断に六種の遍知あり。又所余の三界の修道所断の煩悩等の断に三種ありとは、欲界繋の修道所断の煩悩等の断に一の遍知を立つ、即ち是れ五順下分結尽遍知なり。色界所繋の修道所断の煩悩等の断に一の遍知を立つ、即ち是れ色愛尽遍知なり。無色界繋の修道所断の煩悩等の断に一の遍知を立つ、即ち一切結永尽遍知なり。総じて是の如く三界修道所断の法の断に三種の遍知あり。故に見修合して九遍知を成ず。但し修道所断の法の断には、色無色の二界に別に各一の遍知を立て、見道所断には之を合して各別に立てざる所以は、修所断は対治不同なるを以ってなり。此の中、見断法断の六種遍知は忍の果にして、修断法断の三種は智の果たり。一一の断に別に遍知を立てずして、唯だ是の如き九位に之を建立する所以は、総じて四縁あるに由る。謂わゆる見断六忍の果は、無漏の離繋得を得ると、有頂を欠すると、双因を滅するとの三縁を具するに由りて特に遍知の名を立つ。無漏の離繋得を得るとは、無漏道所断には必ず離繋得あり、是れ有漏断を簡す。有頂を欠すとは有頂地の惑をも断ずるを云い、双因を滅すとは自部の同類因及び他部の遍行因を滅するを云う。是に由りて異生の位に双因を滅することあるも、無漏断の得なく、又未だ有頂を欠せざるが故に、断を得るも遍知と名づけず。若し聖位の中、見諦に入りて未だ苦類忍現行せざる以前は、已に無漏断の得を得るも未だ有頂を欠かず、未だ双因を滅せず。苦類智、集法忍の位に至れば、更に有頂を欠くと雖も未だ双因を滅せず、未だ見集所断の諸の適行因を滅せず。後の法智、類智の位に至りて、諸の所得の断に三縁具するが故に、方に遍知を建立することを得。又修断三智の果は、前の三の外に別に越界縁を加え、総じて四縁を具するに由りて特に遍知の名を立つ。越界縁とは界を越ゆるの意にして、即ち欲界並びに色無色界繋の修道所断の煩悩等を断ずる時、前の三縁と及び越界縁との四縁を具するが故に各一の遍知を立つ。但し諸の越界の位には皆必ず双因を滅すと雖も、而も双因を滅する時、皆越界に非ざるが故に、滅双因の外に別に越界縁を立つるなり。又此の遍知は、異生は定んで成ずるの理なし。諸の聖者の見道に住する中、初より集法忍の時に至るまでは亦た未だ之を成就せず、集法智、集類忍の時に至りて唯一を成就し、集類智、滅法忍の時に至りて二を成就し、滅法智、滅類忍の時に至りて三を成就し、滅類智、道法忍の時に至りて四を成就し、道法智、道類忍の時に至りて五を成就し、又修道の位に住して未だ欲界の染を離るることを得ざると、及び離欲退の者とは六を成就し、又全く欲を離れて色愛未だ尽きず、或いは先に欲を離るるも、道類智より未だ色尽の勝果道を起さざる以前は、唯だ順下分尽遍知の一を成就し、色愛を有する者は色愛永尽より、又先に色を離るる者は色尽道を起すより、未だ全く無色愛を離れざる以前に至るまでは、前の順下分尽と色愛尽との二を成就し、無学位に住する者は唯だ一切結永尽の一を成就するなり。又「品類足論巻6」、「阿毘達磨発智論巻4」、「大毘婆沙論巻34、186」、「瑜伽師地論巻57」、「阿毘達磨順正理論巻58」、「大乗阿毘達磨雑集論巻15」、「倶舎論宝疏巻21」等に出づ。<(望)
  相応因(そうおういん):同時相応の心心所法が更に互いに因と作ることを云う。六因の一。『大智度論巻17下注:六因、巻32上注:六因』参照。
四念處攝六種善中一種行眾善分。行眾善分攝四念處。不善無記漏中不相攝。 四念処は六種の善中の一種なる行衆の善分を摂し、行衆の善分には、四念処を摂す。不善、無記の漏中には相摂せず。
『四念処』は、
『六種の善』中の、
『一種である!』、
『行衆の善分』が、
『属し!』、
『行衆の善分』は、
『四念処』に、
『属する!』が、
『不善、無記』の、
『有漏』中には、
『互に!』、
『属しない!』。
  六種善(ろくしゅぜん):五衆中の善、及び択滅を云う。「阿毘達磨品類足論巻10」に、「六有り善処を摂す。謂わゆる善の五蘊及び択滅なり。六善処に五学処を摂し、五学処に六善処を摂す。五有り不善処を摂す。謂わゆる不善の五蘊なり。五不善処に五学処を摂し、五学処に五不善処を摂す」と云える是れなり。
或有四念處非有漏。或有漏非四念處。或有四念處亦有漏。或非四念處亦非有漏。有四念處非有漏者。是無漏性四念處。有漏非四念處者。除有漏性四念處。餘殘有漏分。四念處亦有漏法者。有漏性四念處。非四念處非有漏法者。除無漏性四念處。餘殘無漏法。無漏四句亦如是。 或は四念処にして、有漏に非ざる有り、或は有漏にして、四念処に非ず。或は四念処にして、亦た有漏、或は四念処に非ずして、亦た有漏に非ざる有り。四念処にして、有漏に非ざる有りとは、是れ無漏性の四念処なり。有漏にして四念処に非ずとは、有漏性の四念処を除く、余残の有漏分なり。四念処にして亦た有漏法なりとは、有漏性の四念処なり。四念処に非ず、有漏法に非ずとは、無漏性の四念処を除く、余残の無漏法なり。無漏の四句も亦た是の如し。
或は、
有る者は、
『四念処であり、有漏でない!』、或は、
『有漏であり、四念処でない!』、或は、
『四念処でもあり、有漏でもある!』、或は、
『四念処でもなく、有漏でもない!』。
是の中の、
『四念処だが、有漏でない!』とは、
『無漏性』の、
『四念処である!』。
『有漏だが、四念処でない!』とは、
『有漏性の四念処を除く!』、
『その他の有漏分(有漏法)である!』。
『四念処であり、無漏でもある!』とは、
『有漏性』の、
『四念処である!』。
『四念処でもなく、有漏法でもない!』とは、
『無漏性の四念処を除く!』、
『その他の無漏法である!』。
『無漏の四句』も、
亦た、
『是の通りである!』。
共念處是共念處中。身業口業是為色。餘殘非色。一切不可見皆無對。或有漏或無漏皆有為。有漏念處有報。無漏念處無報。因緣生三世攝。身口業色攝。餘殘名攝。心意識內入攝。餘殘外入攝。 共念処は、是の共念処中の身業、口業は、是れを色と為し、余残は色に非ず、一切は不可見にして、皆無対なり、或は有漏、或は無漏にして、皆有為なり、有漏の念処は有報、無漏の念処は無報なり、因縁生にして、三世の摂、身口業、色の摂、余残は名の摂、心、意、識は内入の摂、余残は外入の摂なり。
『共念処』は、――
是の、
『共念処』中の、
『身業、口業』は、
『色である!』が、
『その他(意業)』は、
『色でない!』、
一切は、
『不可見であり!』、
『無対である!』。
或は、
『有漏か!』、
『無漏である!』が、
皆、
『有為である!』。
『有漏』の、
『念処』は、
『有報であり!』、
『無漏』の、
『念処』は、
『無報である!』。
『因縁生であって!』、
『三世に属し!』、
『身、口業』は、
『色に属し!』、
『その他』は、
『名に属し!』、
『心、意、識』は、
『内入に属し!』、
『その他』は、
『外入に属す!』。
以慧知有漏是斷。知無漏非斷。知有漏可斷無漏非可斷。皆修法皆無垢。是果亦有果。一切非受法。身口業是四大造。餘殘非四大造。皆有上法有漏念處。是有無漏念處。是非有身口業及心不相應諸行。是非相應因。餘殘是相應因。 慧を以って知り、有漏は是れ断知、無漏は断知に非ず、有漏は可断、無漏は可断に非ず、皆修法、皆無垢にして、是れ果にして、亦た果有り、一切は受法に非ず、身口業は、是れ四大造、余残は四大造に非ず、皆有上の法にして、有漏の念処は、是れ有、無漏の念処は、是れ有に非ず、身口業、及び心不相応諸行は、是れ相応因に非ず、余残は是れ相応因なり。
是の、
『共念処』は、――
『慧で知り!』、
『有漏は、断知であり!』、
『無漏は、断知でなく!』、
『有漏は、可断であり!』、
『無漏は、可断でなく!』、
『皆、修法であり!』、
『皆、無垢であり!』、
『果であって、果を有し!』、
『一切は、受法でなく!』、
『身、口業は四大の造であり!』、
『その他は、四大の造でなく!』、
『皆、有上の法であり!』、
『有漏の念処は、有であり!』、
『無漏の念処は、有でなく!』、
『身、口業と心不相応諸行は、相応因でなく!』、
『その他は、相応因である!』。
  心不相応諸行(しんふそうおうしょぎょう):五衆中の行衆に摂するも、無想定の如く、心心所法に相応せざる法を云う。『大智度論巻19上注:心不相応行』参照。
  心不相応行(しんふそうおうぎょう):梵語 citta- viprayukta- saMskaara の訳。巴梨語 citta- vippayutta- dhamma、心と相応せざる行の意。具に心不相応行蘊と云い、又非色不相応行蘊と名づけ、略して不相応行、或いは不相応とも名づく。即ち其の性非色悲心にして、心と相応せざる有為法の聚集を云う。「法蘊足論巻10」に、「云何が心不相応行蘊なる、謂わく得、無想定、広説乃至文身なり。復た所余の是の如き類の法あり、心と相応せざる、是れを心不相応行蘊と名づく」と云い、「倶舎論巻4」に、「心不相応行とは、得、非得、同分、無想、二定、命、相、名身等の類なり。論じて曰わく、是の如きの諸法は心と相応せず、色等の性に非ざる行蘊の所摂なり。是の故に心不相応行と名づく」と云える是れなり。即ち小乗説一切有部に在りては、色心及び心所の外に別に心と相応せざる得非得等の実法ありとし、其の体有為法なるを以って之を行蘊に摂し、総じて心不相応行と名づくるなり。但し其の数に関しては異説あり、「品類足論巻1」には、得、無想定、滅定、無想事、命根、衆同分、依得、事得、処得、生、老、住、無常性、名身、句身、文身の十六法を挙げ、「阿毘曇甘露味論巻上」には、彼の中の命根を除き、凡夫性を加えて十六法となし、又依得、事得、処得を種類方得、物得、入得と名づけ、「雑阿毘曇心論巻9」には、此の中の三得を除き、唯十四法となせり。「入阿毘達磨論巻上」には、亦た十四法を挙ぐるも、凡夫性を改めて非得となせり。蓋し凡夫性は聖性に対して非得なるが故に即ち非得の一分なるも、凡夫性の外に更に亦た非得あり、即ち凡夫性は狭く、非得は広きが故に之を改めて非得となし、余の非得を摂したるなり。「倶舎論」所立の十四法は全く之に同じく、即ち「入阿毘達磨論」に依れるものなるを見るべし。又「順正理論巻12」には「倶舎本頌」の等の字を釈して、「等とは句身、文身及び和合性を等取す」と云い、上の十四法に和合性を加えて十五法となせり。又「成実論巻7不相応行品」には、得、不得、無想定、滅尽定、無想処、命根、生、滅、住、異、老、死、名衆、句衆、字衆、凡夫法の十六法を挙げ、「同巻7無作品」には更に無作(無表)を以って不相応行蘊の所摂となせり。之に関し同品に、「已に無作の法ありて心に非ざるを知る。今是れ色とせんや、是れ心不相応行とせんや。答えて曰わく、是れ行蘊の所摂なり。所以は何ぞ、作起の相を行と名づく、無作は是れ作起の相なるが故なり。色は是れ悩壊の相にして作起の相に非ず」と云えり。以って其の意旨を見るべし。又「瑜伽師地論巻3」には心不相応行に総じて二十四法ありとす。即ち得、無想定、滅尽定、無想異熟、命根、衆同分、生、老、住、無常、名身、句身、文身、異生性、流転、定異、相応、勢速、次第、時、方、数、和合及び不和合なり。「大乗阿毘達磨集論巻1」には、此の中の不和合を除きて二十三法となし、又「大乗五蘊論」には、得、無想等至、滅尽等至、無想所有、命根、衆同分、生、老、住、無常、名身、句身、文身、異生性の十四法を挙げ、全く「雑阿毘曇心論巻9」の説に同じ。但し大乗に於いては不相応行を以って色心の分位に仮立し、之を説一切有部の如く実法となさず。「顕揚聖教論巻18」に、「問う、諸の心不相応行は皆是れ仮有なり、云何が応に知るべき。答う、二種の過失に由るが故なり。一に因の過失、二に体の過失なり。因の過失とは、若し生は是れ生の因にして能く生を生ずるが故に、説いて名づけて生となすと言わば、是れ即ち別の果の生の得べきなし。此の生は誰の能生の因と為るが故に之を説いて生となさん。若し生は是れ生の体なりと言わば、是れ即ち他より生ずるが故に、応に説いて能生となすべからず。是の如く余の心不相応行も理の如く応に知るべし」と云い、又「大乗五蘊論」に、「云何が心不相応行なる、謂わく色心心法の分位に依りて但だ仮に建立す。決定の異性及び不異性を施設すべからず」と云える即ち其の説なり。又「異部宗輪論」、「大毘婆沙論巻22」、「倶舎論巻19」、「順正理論巻45」等に依るに、分別部及び犢子部等に於いては随眠を以って不相応法となすことを明せり。「成唯識論演秘巻2末」に、「彼の意に説いて云わく、随眠は即ち是れ貪等なり、随眠に亦た十種あり。若し無心の位及び善を起す時、随眠あるに由りて異生等と名づく。若し是れ心所ならば無心等の位には既に諸染無ければ聖者と名づくべし。若し彼の位に在らば何ぞ無心及び善心等と名づけん。此に由りて計して心不相応となす」と云える即ち亦た其の意なり。又「大毘婆沙論巻45」、「顕揚聖教論巻2」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「成唯識論巻1、2」、「同述記巻2本」、「倶舎論光記巻4」等に出づ。<(望)
五善分攝四念處。四念處亦攝五善分。餘殘不相攝。不善無記漏法不攝。 五善分に、四念処を摂し、四念処も亦た五善分を摂す。余残は相摂せず。不善、無記の漏法には摂せず。
是の、
『共念処』中の、
『五善分』には、
『四念処が属し!』、
『四念処』にも、
『五善分が属す!』が、
『その他』は、
互に、
『属さない!』し、
『不善、無記の漏法』に、
『四念処』が、
『属することもない!』。
或有四念處非有漏。或有漏非四念處。或有四念處亦有漏。或非四念處亦非有漏。有四念處非有漏者。無漏四念處。有漏非四念處者。除有漏四念處。餘殘有漏法有四念處亦有漏者。有漏四念處。非四念處非有漏者。虛空數緣盡。非數緣盡。 或は、四念処にして、有漏に非ざる有り、或は有漏にして、四念処に非ず、或は四念処にして、亦た有漏なる有り、或は四念処に非ずして、亦た有漏に非ず、四念処にして、有漏に非ざる有りとは、無漏の四念処なり。有漏にして、四念処に非ずとは、有漏の四念処を除く、余残の有漏法なり。四念処にして、亦た有漏なる有りとは、有漏の四念処なり。四念処に非ずして、有漏に非ずとは、虚空、数縁尽、非数縁尽なり。
或は、
有る者は、
『四念処であり、有漏でない!』、或は、
『有漏であり、四念処でない!』、或は、
『四念処でもあり、有漏でもある!』、或は、
『四念処でもなく、有漏でもない!』。
是の中、
『四念処であり、有漏でない!』とは、
『無漏』の、
『四念処である!』。
『有漏であり、四念処でない!』とは、
『有漏の四念処を除く!』、
『その他の有漏法である!』。
『四念処でもあり、有漏でもある!』とは、
『有漏』の、
『四念処である!』。
『四念処でもなく、有漏でもない!』とは、
『虚空、数縁尽、非数縁尽(三無為法)である!』。
  虚空(こくう):又虚空無為とも称す。三無為の一。『大智度論巻19上注:三無為』参照。
  数縁尽(しゅえんじん):又択滅無為とも称す。三無為の一。『大智度論巻19上注:三無為』参照。
  非数縁尽(ひしゅえんじん):又非択滅無為とも称す。三無為の一。『大智度論巻19上注:三無為』参照。
或有四念處非無漏。或有無漏非四念處。或有四念處亦無漏。或非四念處非無漏。有四念處非無漏者。有漏四念處。有無漏非四念處者。三無為法。有四念處亦無漏者。無漏四念處。非四念處非無漏者。除有漏四念處。餘殘有漏法。 或は、四念処にして、無漏に非ざる有り、或は無漏にして、四念処に非ざる有り、或は四念処にして、亦た無漏なる有り、或は四念処に非ずして、無漏に非ず。四念処にして、無漏に非ざる有りとは、無漏の四念処なり。無漏にして、四念処に非ざる有りとは、三無為法なり。四念処にして、亦た無漏なる有りとは、無漏の四念処なり。四念処に非ずして、無漏に非ずとは、有漏の四念処を除く、余残の有漏法なり。
或は、
有る者は、
『四念処であり、無漏でない!』、或は、
『無漏であり、四念処でない!』、或は、
『四念処でもあり、無漏でもある!』、或は、
『四念処でもなく、無漏でもない!』。
是の中に、
『四念処であり、無漏でない!』とは、
『有漏』の、
『四念処である!』。
『無漏であり、四念処でない!』とは、
『三無為法である!』。
『四念処でもあり、無漏でもある!』とは、
『無漏』の、
『四念処である!』。
『四念処でもなく、無漏でもない!』とは、
『有漏の四念処を除く!』、
『その他の有漏法である!』。
是緣念處。緣念處中一念處是色。三念處非色。三不可見。一當分別。身念處有可見有不可見。可見者一入。不可見者九入。及一入少分。三無對一當分別。身念處有對。十入無對。一入少分。身念處有漏十入及一入少分。無漏一入少分。 是の縁念処とは、縁念処中の一念処は、是れ色、三念処は、色に非ず、三は不可見、一は当に分別すべし、身念処には可見有り、不可見有り、可見とは、一入なり、不可見とは九入と、及び一入の少分なり。三は無対にして、一は当に分別すべし、身念処の有対は十入、無対は一入の少分なり。身念処の有漏は十入、及び一入の少分にして、無漏は一入の少分なり。
是の、
『縁念処』とは、――
『縁念処』中の、
『一念処(身念処)』は、
『色である!』が、
『三念処』は、
『色でない!』、
『三念処』は、
『不可見である!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『身念処』には、
『可見』と、
『不可見』とが、
『有り!』、
『可見』は、
『一入()である!』が、
『不可見』は、
『九入(声香味触、眼耳鼻舌身)』と、
『一入()の少分である!』。
『三念処』は、
『無対である!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『身念処』の、
『有対』は、
『十入であり!』、
『無対』は、
『一入の少分である!』。
『身念処』の、
『有漏』は、
『十入』と、
『一入の少分であり!』、
『無漏』は、
『一入の少分である!』。
受念處有漏。意相應是有漏。無漏意相應是無漏。心念處亦如是。 受念処は、有漏の意相応は、是れ有漏なるべし。無漏の意相応は、是れ無漏なるべし。心念処も亦た是の如し。
『受念処』は、
『有漏の意』に、
『相応すれば!』、
『有漏であり!』、
『無漏の意』に、
『相応すれば!』、
『無漏である!』。
『心念処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
法念處有漏。想眾行眾是有漏。無漏想眾行眾及無為法是無漏。 法念処は、有漏の想衆、行衆は、是れ有漏、無漏の想衆、行衆、及び無為法は、是れ無漏なり。
『法念処』は、
『有漏』の、
『想衆、行衆』は、
『有漏であり!』、
『無漏』の、
『想衆、行衆』と、
及び、
『無為法』は、
『無漏である!』。
三是有為一當分別。法念處想眾行眾是有為。三無為法是無為。 三は是れ有為、一は当に分別すべし、法念処の想衆、行衆は、是れ有為なり。三無為法は、是れ無為なり。
『三念処』は、
『有為であり!』、
『一念処』は、分別すべきである、――
『法念処』の、
『想衆、行衆』は、
『有為であり!』、
『三無為法』は、
『無為である!』。
不善身念處及善有漏身念處是有報。無記身念處及無漏是無報。受念處心念處法念處亦如是。 不善の身念処、及び善の有漏の身念処は、是れ有報なり。無記の身念処、及び無漏は、是れ無報なり。受念処、心念処、法念処も、亦た是の如し。
『不善』の、
『身念処』と、
『善、有漏』の、
『身念処』は、
『有報であり!』、
『無記』の、
『身念処』と、
『無漏』の、
『身念処』は、
『無報である!』。
『受念処、心念処、法念処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
三從因緣生一當分別。法念處有為從因緣生。無為不從因緣生。 三は、因縁より生じ、一は当に分別すべし、法念処の有為は、因縁より生じ、無為は因縁より生ぜず。
『三念処』は、
『因縁生である!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『法念処』の、
『有為』は、
『因縁生である!』が、
『無為』は、
『因縁生ではない!』。
三三世攝。一當分別。法念處有為是三世攝。無為非三世攝。 三は三世の摂、一は当に分別すべし、法念処の有為は、是れ三世の摂、無為は三世の摂に非ず。
『三念処』は、
『三世に属する!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『法念処』の、
『有為』は、
『三世に属する!』が、
『無為』は、
『三世に属さない!』。
一念處攝色。三攝名。 一念処には、色を摂し、三には名を摂す。
『一念処』には、
『色が属し!』、
『三念処』には、
『名が属す!』。
一念處內入攝。受念處法念處外入攝。一當分別。身念處或內入攝。或外入攝。五內入是內入攝。五外入及一入少分是外入攝。 一念処は内入の摂、受念処、法念処は外入の摂、一は当に分別すべし、身念処は或は内入に摂し、或は外入に摂す。五内入は、是れ内入の摂、五外入、及び一入の少分は、是れ外入の摂なり。
『一念処(心念処)』は、
『内入に属し!』、
『受念処、法念処』は、
『外入に属し!』、
『一念処』は、分別すべきである、――
『身念処』は、
或は、
『内入に属し!』、
或は、
『外入に属する!』が、
『身念処』の、
『五内入(眼耳鼻舌身)』は、
『内入に属し!』、
『五外入(色声香味触)』と、
『一入()の少分』は、
『外入に属す!』。
以慧知有漏者是斷見。無漏者非斷見。有漏者可斷。無漏者非可斷。 慧を以って知り、有漏は、是れ断知、無漏は断知に非ず。有漏は可断、無漏は可断に非ず。
是の、
『縁念処』は、
『慧で知り!』、
『有漏は、断知であり!』、
『無漏は、断知でない!』。
『有漏は、可断であり!』、
『無漏は、可断でない!』。
  :断見:理に従って断知に改む。
修當分別。身念處善應修不善及無記不應修受心念處。亦如是。法念處有為善法應修。不善及無記及數緣盡不應修。 修は、当に分別すべし、身念処の善は、応に修すべし。不善、及び無記は応に修すべからず。受、心念処も亦た是の如し。法念処の有為の善法は、応に修すべし。不善、及び無記、及び数縁尽は、応に修すべからず。
『修』は、分別すべきである、――
『身念処』の、
『善』は、
『修めるべきである!』が、
『不善、無記』は、
『修めるべきでない!』。
『受念処、心念処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『法念処』の、
『有為の善法』は、
『修めるべきである!』が、
『不善、無記、数縁尽』は、
『修めるべきでない!』。
垢當分別。身念處隱沒是垢。不隱沒非垢。受心法念處亦如是。 垢は、当に分別すべし、身念処の隠没は、是れ垢なり。不隠没は垢に非ず。受、心、法念処も亦た是の如し。
『垢』は、分別すべきである、――
『身念処』の、
『隠没』は、
『垢である!』が、
『不隠没』は、
『垢でない!』。
『受、心、法念処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  隠没(おんもつ):聖道を覆障する染汙性の無記を云う。『大智度論巻32上注:有覆無記』参照。
  不隠没(ふおんもつ):聖道を覆障せざる無記性の法。『大智度論巻32上注:無覆無記』参照。
三念處是果亦有果。一當分別。法念處或果非有果。或果亦有果或非果非有果。數緣盡是果非有果。有為法念處是果亦有果。虛空非數緣盡。是非果非有果 三念処は、是れ果にして、亦た果有り、一は当に分別すべし、法念処は、或は果にして、果有るに非ず。或は果にして、亦た果有り、或は果に非ず、果有るに非ず。数縁尽は、是れ果にして、果有るに非ず。有為の法念処は、果にして、亦た果有り、虚空、非数縁尽は、是れ果に非ずして、果有るに非ず。
『三念処』は、
『果であって、果を有する!』、
『一念処』は、分別すべきである、――
『法念処』は、
或は、
『果であって、果を有しない!』、或は、
『果であるが、果を有する!』、或は、
『果でなく、果を有しない!』が、
『数縁尽』は、
『果であるが、果を有しない!』、
『有為の法念処』は、
『果であって、果を有する!』、
『虚空、非数縁尽』は、
『果でなく、果を有しない!』。
三不受一當分別。身念處墮身數是受。不墮身數非受。 三は受にあらず、一は当に分別すべし、身念処の身数に堕す、是れ受なり。身数に堕せざるは、受に非ず。
是の、
『縁念処』の、
『三念処』は、
『受でない!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『身念処』の、
『身の数(員数)』に、
『堕ちる!』のが、
『受であり!』、
『身の数』に、
『堕ちない!』のは、
『受ではない!』。
三非四大造一當分別。身念處九入及二入少分四大造。一入少分非四大造。 三は、四大造に非ず、一は当に分別すべし、身念処の九入、及び二入の少分は、四大造なり、一入の少分は、四大造に非ず。
『三念処』は、
『四大造でない!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『身念処』の、
『九入(眼耳鼻舌身、色声香味)』と、
『二入(触、法の少分≒無表色)の少分』は、
『四大造であり!』、
『一入()の少分』は、
『四大造でない!』。
  参考:『阿毘達磨品類足論巻1』:『色云何。謂諸所有色。一切四大種。及四大種所造色。四大種者。謂地界水界火界風界。所造色者。謂眼根耳根鼻根舌根身根色聲香味。所觸一分。及無表色。』
三念處有上一當分別。法念處有為及虛空非數緣盡是有上。涅槃是無上。 三念処は有上、一は当に分別すべし、法念処の有為、及び虚空、非数縁尽は、是れ有上、涅槃は是れ無上なり。
『三念処』は、
『有上である!』が、
『一念処』は、分別すべきである、――
『法念処』の、
『有為』と、
『虚空、非数縁尽』は、
『有上である!』が、
『涅槃』は、
『無上である!』。
四念處若有漏是有。若無漏是非有。 四念処は、若しは有漏なれば、是れ有なり、若し無漏なれば、是れ有に非ず。
『四念処』が、
若し、
『有漏ならば!』、
『有である!』が、
若し、
『無漏ならば!』、
『有ではない!』。
二念處相應因一念處不相應因一當分別。受念處心念處相應因。身念處不相應因。法念處想眾及相應行眾是相應因。餘殘是不相應因。 二念処は、相応因、一念処は、相応因にあらず、一は当に分別すべし、受念処、身念処は相応因なり、身念処は、相応因にあらず、法念処の想衆、及び相応の行衆は、是れ相応因なり、余残は、是れ相応因にあらず。
『二念処』は、
『相応因であり!』、
『一念処』は、
『相応因でなく!』、
『一念処』は、分別すべきである、――
即ち、
『受念処、心念処』は、
『相応因であり!』、
『身念処』は、
『相応因でなく!』、
『法念処』の、
『想衆』と、
『相応の行衆』は、
『相応因であり!』、
『その他』は、
『相応因でない!』。
四念處分攝六善法。六善法亦攝四念處分。不善分無記分亦如是。隨種相攝。 四念処の分に、六善法を摂す。六善法にも、亦た四念処の分を摂す。不善分、無記分も亦た是の如く、種に随いて、相摂す。
『四念処の分』には、
『六善法が属し!』、
『六善法』にも、
『四念処が属す!』。
『不善分、無記分』も、
是のように、
『種に随って!』、
互に、
『属する!』。
三漏攝一念處分。一念處分亦攝三漏。有漏攝四念處分。四念處分亦攝有漏。無漏攝四念處分。四念處分亦攝無漏。如是等義千難中廣說。 三漏には、一念処の分を摂し、一念処の分にも、亦た三漏を摂す。有漏には、四念処の分を摂し、四念処の分にも、亦た有漏を摂す。無漏には、四念処の分を摂し、四念処の分にも、亦た無漏を摂す。是の如き等の義は、千難中に広く説けり。
『三漏』には、
『一念処の分が属し!』、
『一念処の分』にも、
『三漏が属す!』。
『有漏』には、
『四念処の分が属し!』、
『四念処の分』にも、
『有漏が属す!』。
『無漏』には、
『四念処の分が属し!』、
『四念処の分』にも、
『無漏が属す!』。
是れ等のような、
『義』は、
『千難』中に、
『広く説かれている!』。
  三漏(さんろ):梵語 traya aasravaaH の訳。巴梨語 tayo aasavaa、三種の漏の意。又三有漏とも名づく。漏は留住の義にして、即ち有情をして三界に留住せしむるものに三種あるを云う。一に欲漏 kaamaasrava(巴 kaamaasava)、二に有漏 bhaavaasrava(巴 bhavaasava)、三に無明漏 avidyaasrava(巴 avijjaasava)なり。又欲有漏、有有漏、無明有漏とも名づく。「長阿含経巻8」に、「復た三法あり、謂わく三有漏なり。欲漏、有漏、無明漏なり」と云い、「雑阿含経巻18」に、「有漏とは三有漏なり、謂わく欲有漏、有有漏、無明有漏なり」と云い、「大般涅槃経巻22」に、「三漏とは欲界の一切の煩悩より無明を除いて是れを欲漏と名づけ、色無色界の一切の煩悩より無明を除いて是れを有漏と名づけ、三界の無明を無明漏と名づく」と云える是れなり。即ち欲界繋の根本煩悩三十六随眠の中、五部の無明を除いて余の三十一種、并びに十纏を欲漏と名づく。総じて四十一物あり。三十六随眠とは、苦諦の下の十、集諦の下の七、滅諦の下の七、道諦の下の八、及び修道の下の四を指すなり。又色無色界繋の根本煩悩各三十一随眠の中、亦た各五部の無明を除いて余の二十六種を有漏と名づく。二界合して五十二物あり。三十一随眠とは、前の欲界繋の三十六物の中、五部の瞋を除く。上界には瞋無きを以ってなり。但し「入阿毘達磨論巻上」には、惛沈と掉挙を加え、総じて五十四物ありとなせり。上二界の随眠を合説して立てて一の有漏となすことは、三義同じきに由る。三義とは一に同じく無記の性なり、二に同じく内門に於いて転ず、三に同じく定地に依りて生ずるを云うなり。有漏の名は有は有身を云う、即ち漏多く有身を縁ずるが故に有漏と名づく。上二界の貪を有貪と名づくるが如し。無漏に対する有漏の謂には非ざるなり。又三界五部の無明を無明漏と名づく。総じて十五物あり。無明は三有生死の根本なるが故に、別して立てて一漏と為す。三漏総合して一百八事あり。又「大毘婆沙論巻47」に依るに、譬喩論師は但だ無明漏及び有愛漏の二漏を立つ、無明は是れ前際縁起の根本にして、有愛は是れ後際縁起の根本なるに由ると云い、又「同巻48」には、分別論者は欲漏、有漏、見漏、無明漏の四漏ありと説くと云えり。又「長阿含経巻2」、「雑阿含経巻31」、「増一阿含経巻23」、「大般涅槃経巻37」、「集異門足論巻4」、「品類足論巻5」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「雑阿毘曇心論巻4」、「順正理論巻53」、「大乗阿毘達磨雑集論巻7」、「大乗義章巻5本」、「涅槃経会疏巻20」、「法華文句記巻1下」、「倶舎論光記巻20」、「同宝疏巻20」等に出づ。<(望)
  千難(せんなん):「衆事分阿毘曇論巻8、9」参照。
  三漏(さんろ):三界の煩悩と無明。
    (1)欲漏(よくろ):欲界中の無明を除く一切の煩悩。
    (2)有漏(うろ):色無色界中の無明を除く一切の煩悩。無漏有漏の有漏ではない。
    (3)無明漏(むみょうろ):無明。


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