巻第十八(下)
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大智度初序品中釋般若相義第三十
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


摩訶衍の空門

摩訶衍空門者。一切諸法性常自空。不以智慧方便觀故空。如佛為須菩提說色。色自空受想行識識自空。十二入十八界十二因緣三十七品十力四無所畏十八不共法大慈大悲薩婆若乃至阿耨多羅三藐三菩提皆自空。 摩訶衍の空門とは、一切諸法の性は、常に自ら空にして、智慧、方便を以って観るが故に空なるにあらず。仏の須菩提の為に説きたまえるが如し、『色の色は自ら空にして、受想行識の識は自ら空なり。十二入、十八界、十二因縁、三十七品、十力、四無所畏、十八不共法、大慈大悲、薩婆若、乃至阿耨多羅三藐三菩提は、皆自ら空なり』、と。
『摩訶衍(大乗)』の、
『空門』とは、――
一切の、
諸の、
『法の性』は、
『常に!』、
『自ら(人為無くして)!』、
『空であり!』、
『智慧、方便』を、
『用いて!』、
『観る!』が故に、
『空なのではない!』。
例えば、
『仏』は、
『須菩提』の為に、こう説かれている、――
『色』の、
『色』という、
『性』は、
『自ら!』、
『空であり!』、
『受想行識』の、
『識』という、
『性』は、
『自ら!』、
『空である!』。
『十二入、十八界』、
『十二因縁、三十七品』、
『十力、四無所畏、十八不共法、大慈大悲』、
『薩婆若、乃至阿耨多羅三藐三菩提』も、
皆、
『自ら!』、
『空なのである!』、と。
  摩訶衍(まかえん):梵語 mahaayaana 、巨大な車両( great vehicle )の義、大乗と訳す。小乗 hiinayaana ( simpler or lesser vehicle )に対す。龍樹に始まると伝えられる後期仏教の名、大乗経典中に於いて言及される( Name of the later system of Buddhist teaching said to have been first promulgated by nāgārjuna- and treated of in the mahā-yāna-sūtra-s )。
  須菩提(しゅぼだい):梵名 subhuuti、仏十大弟子の一、解空第一。『大智度論巻5下注:須菩提』参照。
  十二入(じゅうににゅう):六情、六塵の総称。『大智度論巻5上注:三科』参照。
  十八界(じゅうはっかい):六情、六塵、六識の総称。『大智度論巻5上注:三科』参照。
  十二因縁(じゅうにいんねん):人の我執を懐くに至る十二位の因縁。『大智度論巻3下注:十二因縁』参照。
  三十七品(さんじゅうしちほん):菩提に順趣する法の品類に三十七種あるを云う。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
  十力(じゅうりき):仏菩薩の十種の智力。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  四無所畏(しむしょい):仏菩薩の説法に関する四種の智慧。『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  薩婆若(さばにゃ):梵語 sarva- jJataa、一切智と訳す。『大智度論巻37上注:薩婆若』参照。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻21三慧品』:『世尊。云何應觀諸法自相空。佛言。應觀色色相空。應觀受想行識識相空。應觀眼眼相空乃至意色乃至法眼識界乃至意識界意識界相空。應觀內空內空相空。乃至應觀自相空自相空相空。應觀四禪四禪相空。乃至滅受想定滅受想定相空。應觀四念處四念處相空。乃至阿耨多羅三藐三菩提阿耨多羅三藐三菩提相空。如是須菩提。菩薩行般若波羅蜜時。應行諸法自相空。』
問曰。若一切諸法性常自空真空無所有者。云何不墮邪見。邪見名無罪無福無今世後世與此無異。 問うて曰く、若し一切諸法の性にして、常に自ら空、真空にして、無所有なれば、云何が邪見に堕ちざる。邪見を無罪、無福、今世後世無しと名づくれば、此れと異無し。
問い、
若し、
一切の、
諸の、
『法の性』が、
常に、
自ら、
『空であり!』、
『真空であり!』、
『無所有ならば!』、
何故、
『邪見』に、
『堕ちないのですか?』。
『邪見』とは、
『罪、福』も、
『今世、後世』も、
『無いということであり!』。
此れと、
『異(ことなり)』が、
『有りません!』。
答曰。無罪無福人。不言無今世。但言無後世。如草木之類自生自滅。或人生或人殺。止於現在更無後世生。而不知觀身內外所有自相皆空以是為異。 答えて曰く、無罪無福なれば、人は、今世無しと言わず、但だ後世無しと言わん。草木の類の自ら生じ、自ら滅するが如きは、或は人生じ、或は人殺すも、現在に止まりて、皿に後世の生無く、而も身の内外の有らゆる自相は、皆空なりと観ずるを知らず。是を以って異と為す。
答え、
『罪、福』が、
『無ければ!』、
『人』は、
『今世』が、
『無い!』と、
『言わず!』に、
但だ、
『後世』が、
『無い!』と、
『言うだろう!』。
例えば、こうである、――
『草木の類』は、
自ら、
『生じ!』、
自ら、
『滅する!』ので、
或は、
『人』が、
『生じさせても!』、
或は、
『人』が、
『殺しても!』、
即ち、
『現在』に、
『止まったまま!』で、
更に、
『後世の生』は、
『無く!』、
而も、
『身』の、
『内、外』の、
有らゆる、
『自相』が、
『皆、空である!』と、
『観察する!』ことを、
『知らない!』。
是れを、
『異なる!』と、
『言うのである!』。
復次邪見人多行眾惡斷諸善事。觀空人善法尚不欲作。何況作惡。 復た次ぎに、邪見の人は、多く衆悪を行じて、諸の善事を断つに、観空の人は、善法すら尚お作さんことを欲せず、何に況んや、悪を作さんをや。
復た次ぎに、
『邪見の人』は、
衆(もろもろ)の、
『悪』を、
『行って!』、
諸の、
『善事』を、
『断つ!』が、
『観空の人』は、
『善法』すら、
尚お、
『作さない!』ので、
況して、
『悪』を、
『作すはずがない!』。
問曰。邪見有二種。有破因破果。有破果不破因。如汝所說破果不破因。破果破因者。言無因無緣無罪無福則是破因。無今世後世罪福報是則破果。觀空人言皆空。則罪福因果皆無。與此有何等異。 問うて曰く、邪見には二種有り、有るいは因を破り、果を破る。有るいは果を破って因を破らず。汝が所説の如きは、果を破って因を破らず。果を破って因を破る者は、『無因、無縁、無罪、無福なれば、則ち是れ因を破る。今世、後世、罪福の報無ければ、是れ則ち果を破る』と言い、観空の人は、『皆、空なれば、則ち罪福、因果皆無し』と言わば、此れと何等の異か有る。
問い、
『邪見』には、
『二種』有り、
有るいは、
『因』と、
『果』とを、
『破り!』、
有るいは、
『果』のみを、
『破って!』、
『因』は、
『破らない!』が、
お前の、
『所説』は、
『果』を、
『破って!』、
『因』を、
『破らない!』のと、
『同じである!』。
『因』も、
『果』も、
『破る!』者は、こう言うが、――
『因、縁』も、
『罪、福』も、
『無いということ!』は、
則ち、
『因』を、
『破ったということであり!』、
『今世、後世』も、
『罪福の報』も、
『無いということ!』は、
則ち、
『果』を、
『破ったということだ!』と。
『観空の人』が、こう言うのと――
皆、
『空である!』ということは、
則ち、
『罪、福』も、
『因、果』も、
皆、
『無いということだ!』、と。
此れと、
何のような、
『異』が、
『有るのか?』。
答曰。邪見人於諸法斷滅令空。摩訶衍人知諸法真空不破不壞。 答えて曰く、邪見の人は、諸法の断滅に於いて、空ならしむるも、摩訶衍の人は、諸法の真空なるを知りて、破せず、壊せざるなり。
答え、
『邪見の人』は、
諸の、
『法』の、
『断滅する!』ことを、
『空だとする!』が、
『摩訶衍の人』は、
諸の、
『法』は、
『真空である!』と、
『知って!』、
『法』を、
『破ることもなく!』、
『壊すこともない!』。
問曰。是邪見三種。一者破罪福報不破罪福。破因緣果報不破因緣。破後世不破今世。二者破罪福報亦破罪福。破因緣果報亦破因緣。破後世亦破今世。不破一切法。三者破一切法皆令無所有。觀空人亦言真空無所有。與第三邪見有何等異。 問うて曰く、是の邪見には、三種有り、一には罪福の報を破り、罪福を破らず。因縁の果報を破りて、因縁を破らず。後世を破りて今世を破らず。二には罪福の報を破り、亦た罪福を破り、因縁の果報を破りて、亦た因縁を破り、後世を破りて、亦た今世を破るも、一切の法を破らず。三には一切の法を破りて、皆無所有ならしむ。観空の人も、亦た言わく、『真空にして、無所有なり』、と。第三の邪見と何等の異か有る。
問い、
是の、
『邪見』には、
『三種あり!』、
一には、
『罪福の報』は、
『破る!』が、
『罪福』を、
『破らず!』、
『因縁の果報』は、
『破る!』が、
『因縁』を、
『破らず!』、
『後世』を、
『破る!』が、
『今世』は、
『破らない!』。
二には、
『罪福の報』を、
『破って!』、
亦た、
『罪福』も、
『破り!』、
『因縁の果報』を、
『破って!』、
亦た、
『因縁』も、
『破り!』、
『後世』を、
『破って!』、
亦た、
『今世』も、
『破る!』が、
一切の、
『法』は、
『破らない!』。
三には、
一切の、
『法』を、
『破って!』、
皆、
『無所有にする!』。
『観空の人』は、
亦た、こう言っているが、――
一切の、
『法』は、
『真空であり!』、
『無所有である!』、と。
『第三の邪見』と、
何のような、
『異』が、
『有るのか?』。
答曰。邪見破諸法令空。觀空人知諸法真空不破不壞。 答えて曰く、邪見は、諸法を破って空ならしめ、観空の人は、諸法の真空を知りて、破らず、壊らず。
答え、
『邪見の人』は、
諸の、
『法』を、
『破って!』、
『空にする!』が、
『観空の人』は、
諸の、
『法』は、
『真空である!』と、
『知っている!』ので、
『法』を、
『破ることもなく!』、
『壊すこともない!』。
復次邪見人言諸法皆空無所有。取諸法空相戲論。觀空人知諸法空不取相不戲論。 復た次ぎに、邪見の人は、『諸法は皆空にして、無所有なり』と言い、諸法の空相を取りて、戯論す。観空の人は、諸法の空を知りて、相を取らず、戯論せず。
復た次ぎに、
『邪見の人』は、こう言って、――
諸の、
『法』は、
皆、
『空であり!』、
『無所有である!』、と。
而も、
諸の、
『法の空相』を、
『取って!』、
『戯論する!』。
『観空の人』は、
諸の、
『法』は、
『空である!』と、
『知る!』ので、
是の、
『相』を、
『取ることもなく!』、
『戯論することもない!』。
復次邪見人雖口說一切空。然於愛處生愛。瞋處生瞋。慢處生慢。癡處生癡。自誑其身。如佛弟子實知空心不動。一切結使生處不復生。譬如虛空煙火不能染大雨不能濕。如是觀空。種種煩惱不復著其心。 復た次ぎに、邪見の人は、口に一切の空を説くと雖も、然るに愛処に於いては、愛を生じ、瞋処に瞋を生じ、慢処に慢を生じ、癡処に癡を生じ、自ら其の身を誑る。仏弟子の如きは、実に空なるを知りて、心動ぜず、一切の結使を生処に亦た生ぜず。譬えば虚空の煙火に染むる能わず、大雨の湿す能わざるが如し。是の如き観空は、種種の煩悩も、復た其の心に著せず。
復た次ぎに、
『邪見の人』は、
『口』では、
一切は、
『空である!』と、
『説きながら!』、
然し、
『愛の処』には、
『愛』を、
『生じ!』、
『瞋の処』には、
『瞋』を、
『生じ!』、
『慢の処』には、
『慢』を、
『生じ!』、
『癡の処』には、
『癡』を、
『生じて!』、
自ら、
其の、
『身』を、
『誑(いつわ)っている!』が、
『仏弟子』などは、
実に、
『空である!』と、
『知る!』ので、
『心』が、
『動かず!』、
一切の、
『結使』の、
『生処』にも、
復た、
『結使』を、
『生じない!』。
譬えば、
『虚空』を、
『煙、火』が、
『染めることができず!』、
『大雨』が、
『湿すことができない!』のと、
『同じである!』。
是のように、
『空』を、
『観れば!』、
種種の、
『煩悩』にも、
復た、
其の、
『心』が、
『著することはない!』。
復次邪見人言無所有。不從愛因緣出。真空名從愛因緣生是為異。四無量心諸清淨法。以所緣不實故。猶尚不與真空智慧等。何況此邪見。 復た次ぎに、邪見の人は、無所有を言うも、愛の因縁より出でずして真空を愛の因縁より生ずと名づく。是れを異と為す。四無量心、諸の清浄の法すら、所縁の実ならざるを以っての故に、猶尚お真空の智慧と等しからず。何に況んや、此の邪見をや。
復た次ぎに、
『邪見の人』の、
『言う!』、
『無所有』は、
『愛』の、
『因縁』より、
『出ない!』ので、
『真空』も、
『愛の因縁』より、
『生じたものであり!』、
是れが、
『異である!』。
『四無量心(慈、悲、喜、捨心無量)』のような、
諸の、
『清浄の法』すら、
『縁じる!』所の、
『法(衆生)』が、
『実()でない!』が故に、
猶尚お、
『真空』の、
『智慧』とは、
『等しくない!』。
況して、
此のような、
『邪見』は、
『尚更である!』。
復次是見名為邪見。真空見名為正見。行邪見人今世為弊惡人。後世當入地獄。行真空智慧人今世致譽後世得作佛。譬如水火之異。亦如甘露毒藥天食須陀以比臭糞。 復た次ぎに、是見を名づけて、邪見と為し、真空見を名づけて、正見と為す。邪見を行ずる人は、今世には弊悪の人と為り、後世には当に地獄に入るべし。真空の智慧を行ずる人は、今世には誉を致し、後世には仏と作るを得。譬えば水、火の異なるが如く、亦た甘露と毒薬、天食の須陀を以って、臭糞に比するが如し。
復た次ぎに、
『是/非の見』を、
『邪見』と、
『呼び!』、
『真空の見』を、
『正見』と、
『呼ぶ!』。
『邪見を行う人』は、
『今世』には、
『弊悪な!』、
『人であり!』、
『後世』には、
『地獄』に、
『入ることになる!』が、
『真空の智慧を行う人』は、
『今世』には、
『名誉』を、
『致し(招き)!』、
『後世』には、
『仏』と、
『作ることができる!』ので、
譬えば、
『水、火』の、
『異なり!』と、
『同じであり!』、
亦た、
『甘露』を、
『毒薬』と、
『比べたり!』、
『天食の須陀(甘露)』を、
『臭い糞』と、
『比べるようなものである!』、
  須陀(しゅだ):梵語 sudhaa、或いは suta、又修陀、首陀、蘇陀に作り、甘露と訳す。天の甘露味なり。「玄応音義巻4」に、「須陀食、或いは修陀と云う。此れ天の食なり。修陀とは、此に白と云うなり。随相論に云わく、須陀、此に善と云う。陀は是れ貞実と言うなり」と云い、「同巻22」に、「蘇陀味、旧経中に須陀飯に作る、此れ天の甘露食なり」と云い、「瑜伽師地論巻4」には、「食樹あり、其の樹裏より四食味を出す、名づけて蘇陀と曰う、謂わゆる青黄赤白なり」と云い、「同略纂巻2」に、「四種の蘇陀味の者有り、謂わく青黄赤白色にして妙味あり」と云える是れなり。<(丁)
復次真空中有空空三昧。邪見空雖有空而無空空三昧。 復た次ぎに、真空中には、空空三昧有るも、邪見の空には、空有りと雖も、空空三昧無し。
復た次ぎに、
『真空』中には、
『空空三昧』が、
『有り!』、
『邪見の空』中には、
『空』は、
『有る!』が、
而し、
『空空三昧』は、
『無い!』。
  空空三昧(くうくうさんまい):空を縁じて復た空相を取る三昧。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
復次觀真空人。先有無量布施持戒禪定。其心柔軟。諸結使薄。然後得真空。邪見中無此事。但欲以憶想分別邪心取空。 復た次ぎに、真空を観る人は、先に無量の布施、持戒、禅定有れば、其の心柔軟にして、諸の結使薄く、然る後に真空を得るも、邪見中には、此の事無く、但だ憶想、分別の邪心を以って、空を取らんと欲す。
復た次ぎに、
『真空を観る人』は、
先に、
無量の、
『布施、持戒、禅定』が、
『有り!』、
其の、
『心』が、
『柔軟であり!』、
諸の、
『結使』が、
『薄くなって!』、
その後に、
『真空』を、
『得るのである!』が、
『邪見の人』中には、
此の、
『事』が、
『無く!』、
但だ、
『憶想、分別する!』、
『邪心』を、
『用いて!』、
『空』を、
『取ろう!』と、
『思うだけである!』。
譬如田舍人。初不識鹽。見貴人以鹽著種種肉菜中而食。問言。何以故爾。語言此鹽能令諸物味美故。此人便念此鹽能令諸物美自味必多。便空抄鹽滿口食之鹹苦傷口。而問言。汝何以言鹽能作美。 譬えば、田舎の人、初め塩を識らざれば、貴人の塩を以って、種種の肉菜中に著けて食うを見るに、問うて言わく、『何を以っての故にか、爾する』、と。語りて言わく、『此の塩は、能く諸物の味をして、美ならしむるが故なり』、と。此の人は、便ち此の塩は、能く諸物をして美ならしむれば、自らの味は、必ず多からんと念じ、便ち空しく、塩を抄(と)りて口を満たして、之を食うに、鹹苦口を傷つくれば、問うて言わく、『汝、何を以ってか、塩は、能く美を作すと言う』、と。
譬えば、こうである、――
『田舎の人』が、
初め、
『塩』を、
『識らず!』、
『貴人』が、
『塩』を、
種種の、
『肉菜中に著()けて!』、
『食っている!』のを、
『見た!』ので、
問うて、こう言った、――
何故、
『そうするのか?』、と。
語って、こう言った、――
此の、
『塩』は、
諸の、
『物の味』を、
『美(うま)くするからだ!』、と。
此の、
『人』は、
そこで、こう念じた(思いこんだ)、――
此の、
『塩』が、
諸の、
『物』を、
『美くすることができれば!』、
自らの、
『味』も、
『必ず多いはずだ!』、と。
そこで、
『空しく!』、
『塩』を、
『抄(すく)い!』、
『口』を、
『満たして!』、
『食った!』が、
『鹹(から)さ!』と、
『苦さ!』とで、
『口』を、
『傷つけた!』ので、
問うて、こう言った、――
お前は、
何故、こう言ったのか?――
『塩』は、
『美くする!』、
『働きがある!』、と。
  (しょう):とる。匙で物を取ること。
  鹹苦(げんく):塩辛くにがい。
貴人言。癡人。此當籌量多少和之令美。云何純食鹽。無智人聞空解脫門不行諸功德。但欲得空。是為邪見斷諸善根。如是等義名為空門。 貴人の言わく、『癡人、此れは当に多少を籌量して、之に和え、美ならしむるべし。云何が純ら塩を食う』、と。無智の人は、空解脱門を聞きて、諸の功徳を行ぜず、但だ空を得んと欲すれば、是れを邪見は、諸の善根を断ずと為す。是の如き等の義を名づけて、空門と為す。
『貴人』は、こう言った、――
癡人(愚か者)!
此の、
『塩』は、
『多少』を、
『籌量(計算)し!』、
『物』に、
『和()えて!』、
『美くさせるものだ!』。
何故、
純(もっぱ)ら、
『塩ばかり!』を、
『食うのか?』、と。
『無智の人』は、
『空解脱門』を、
『聞く!』と、
諸の、
『功徳』を、
『行わずに!』、
但だ、
『空』を、
『得ようとするだけである!』が、
是れは、
『邪見』が、
諸の、
『善根』を、
『断ったのである!』。
是れ等のような、
『義』を、
『空の門』と、
『称する!』。
  癡人(ちにん):馬鹿者。愚か者。
  籌量(ちゅうりょう):量をはかる。
  空解脱門(くうげだつもん):無漏の三三昧、即ち三解脱門の一。即ち無漏道に空を観じて解脱を得、無余涅槃に至るを云う。『大智度論巻18下注:三解脱門』参照。
  三解脱門(さんげだつもん):梵語 triiNi vimokSa- mukhaani の訳。三種の解脱の門の意。又略して三脱門、或いは三門とも名づく。即ち解脱を得て無余涅槃に到るべき法門に三種あるを云う。一に空門 zuunyataa、二に無相門 animitta、三に無願門 apraNihitaなり。無相は又無想、無願は又無作、或いは無欲に作る。「増一阿含経巻3」に、「又二諦と三解脱門とあり」と云い、「維摩経所説経巻上」に、「三脱門を楽えども非時を楽わず」と云い、「法印経」に、「此の法印は即ち是れ三解脱門なり。是れ諸仏根本の法にして諸仏の眼と為す」と云える是れなり。其の名義に関しては、「大智度論巻20」に、「是を以っての故に三解脱門を仏説いて名づけて三昧と為す。問うて曰わく、今何を以っての故に解脱門と名づくるや。答えて曰わく、是の法を行ずる時、解脱を得て無余涅槃に到る。是を以っての故に解脱門と名づく」と云い、「梁訳摂大乗論釈巻15」に、「大乗の中に於いて三解脱門あり。一に体は無性に由るが故に空なり、空の故に無相なり、無相の故に無願なり。若し此の門に至らば浄土に入ることを得」と云い、「仏地経論巻1」に、「次に説いて大空無相無願解脱を所入の門と為すと言うは、謂わく大宮殿の三解脱門を所入の処となす。解脱は即ち是れ出離涅槃なり、即ち大空等を解脱の門と名づく。此の門よりして而も浄土に入るに依る」と云えり。蓋し三解脱門は即ち空無相無願の三三昧なりと雖も、三三昧は有漏無漏に通じ、三解脱門は唯無漏なり。故に「倶舎論巻28」に、「此の三に各二種あり、謂わく浄と及び無漏となり。世出世間の等持別なるが故なり。世間の摂なるは十一地に通じ、出世の摂なるは唯九地に通ず。中に於いて無漏なるものを三解脱門と名づく。能く涅槃の為に入門と為るが故なり」と云い、又「顕揚聖教論巻2」に、「若し差別なく総じて空無相無願と名づけば、此れ聞思修所生の慧と世及び出世とに通ず、応に知るべし。若し空無相無願三摩地と名づけば、唯是れ修所生の慧にして世出世に通ず、応に知るべし。若し空無相無願解脱門と名づけば此れ唯出世なり、応に知るべし」と云える即ち其の義なり。又大乗に依るに、三解脱門は遍計所執等の三性に由りて建立する所となす。「瑜伽師地論巻74」に、「三種の解脱門は亦た三自性に由りて建立することを得。謂わく遍計所執の自性に由るが故に空解脱門を立て、依他起の自性に由るが故に無願解脱門を立て、円成実の自性に由るが故に無相解脱門を立つ」と云える是れなり。是れ三性を各一門に対せるものなりと雖も、「成唯識論巻8」には、理実には三性皆三門に通ずと云えり。亦た「聖法印経」、「旧華厳経巻25」、「大毘婆沙論巻104」、「十地経論巻8」、「大乗義章巻2」、「摩訶止観巻7上」、「同輔行巻7二」、「大乗法苑義林章巻2末」等に出づ。<(望)又『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
若人入此三門則知佛法義不相違背。能知是事即是般若波羅蜜力。於一切法無所罣礙。 若し、人此の三門に入れば、則ち仏法の義の相違背せざるを知る。能く是の事を知れば、即ち是れ般若波羅蜜の力にして、一切の法に於いて、罣礙する所無し。
若し、
『人』が、
此の、
『三門(空、無相、無作)』に、
『入れば!』、
則ち、
『仏法の義』は、
『互に!』、
『違背しない!』と、
『知ることになり!』、
是の、
『事』を、
『知ることができれば!』、
即ち、
是れが、
『般若波羅蜜の力であり!』、
一切の、
『法』に於いて、
『罣礙(障礙)される!』ことが、
『無い!』。
若不得般若波羅蜜法。入阿毘曇門則墮有中。若入空門則墮無中。若入昆勒門則墮有無中。 若し、般若波羅蜜の法を得ずして、阿毘曇門に入れば、則ち有中に堕し、若し空門に入れば、則ち無中に堕し、若し昆勒門に入れば、則ち有無中に堕す。
若し、
『般若波羅蜜の法』を、
『得ない!』で、
『阿毘曇の門』に、
『入れば!』、
則ち、
『有』中に、
『堕ちることになり!』、
若し、
『空の門』に、
『入れば!』、
則ち、
『無』中に、
『堕ちることになり!』、
若し、
『昆勒の門』に、
『入れば!』、
則ち、
『有、無』中に、
『堕ちることになるだろう!』。



般若波羅蜜中に諸法の一相、種種相を知る

復次菩薩摩訶薩。行般若波羅蜜。雖知諸法一相亦能知一切法種種相。雖知諸法種種相亦能知一切法一相。菩薩如是智慧名為般若波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行じて、諸法の一相なるを知ると雖も、亦た能く一切法の種種相を知り、諸法の種種相を知ると雖も、亦た能く一切法の一相なるを知る。菩薩の是の如き智慧を名づけて、般若波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『菩薩摩訶薩』は、
『般若波羅蜜』を、
『行って!』、
諸の、
『法』は、
『一相である!』と、
『知りながら!』、
亦た、
一切の、
『法』の、
『種種の相』も、
『知り!』。
諸の、
『法』の、
『種種の相』を、
『知りながら!』、
亦た、
一切の、
『法』は、
『一相である!』と、
『知る!』。
『菩薩』の、
是のような、
『智慧』を、
『般若波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰。菩薩摩訶薩。云何知一切法種種相。云何知一切法一相。 問うて曰く、菩薩摩訶薩は、云何が、一切法の種種相を知り、云何が一切法の一相なるを知る。
問い、
『菩薩摩訶薩』は、
何のように、
一切の、
『法』の、
『種種の相』を、
『知り!』、
何のように、
一切の、
『法』は、
『一相である!』と、
『知るのですか?』。
答曰。菩薩觀諸法相。所謂有相。因是有諸法中有心生。如是等一切有。 答えて曰く、菩薩は諸法の相、謂わゆる有相を観るに、是の有に因って、諸法中に有心生ずらく、『是れ等の如き一切は有なり』、と。
答え、
『菩薩摩訶薩』は、
諸の、
『法の相』、
謂わゆる、
『有の相』を、
『観察し!』、
是の、
『有る!』という、
『相(見かけ)』に、
『因り!』、
諸の、
『法』中に、
『有る!』という、
『心』が、
『生じて!』、
こう言う、――
是れ等のような、
一切の、
『法』は、
『有る!』、と。
問曰。無法中云何有心生。 問うて曰く、無法中に、云何が有心生ずる。
問い、
『無法』中に、
何のように、
『有の心』が、
『生じるのか?』。
答曰。若言無是事即是有法。 答えて曰く、若し是の事無しと言わば、即ち是れ法有り。
答え、
若し、
是の、
『事』は、
『無い!』と、
『言えば!』、
即ち、
是れが、
『有』という、
『法なのである!』。
復次菩薩觀一切法一相。所謂無相。如牛中無羊相羊中無牛相。如是等諸法中各各無他相。如先言因有故有心生。是法異於有。異故應無。 復た次ぎに、菩薩は、一切法の一相、謂わゆる無相を観ればなり。牛中に、羊の相無く、羊中に牛の相無きが如く、是の如き等の諸法中には、各各他相無し。先に、『有に因るが故に有心生ず』、と言うが如き、是の法は、有に於いて異なり、異なるが故に応に無なるべし。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『法』に、
『一相』、
謂わゆる、
『無相』を、
『観察する!』が、
譬えば、
『牛』中には、
『羊の相』が、
『無く!』、
『羊』中に、
『牛の相』が、
『無いように!』、
是れ等の、
諸の、
『法』中の、
各各にも、
『他の相(無相以外の相)』は、
『無い!』。
先に、こう言ったが、――
『有』に、
『因る!』が故に、
『有心』が、
『生じる!』、と。
是の、
『法』は、
『有』と、
『異なり!』、
『異なる!』が故に、
『無である!』。
若有法是牛羊亦應是牛。何以故。有法不異故。若異則無。如是等一切皆無。 若し、有法は、是れ牛なれば、羊も亦た応に是れ牛なるべし。何を以っての故に、有法の異ならざるが故なり。若し異なれば、則ち無し。是の如き等の一切は、皆無なり。
若し、
『有る!』という、
『法』が、
『牛ならば!』、
若し、
『羊』が、
『有れば!』、
是の、
『羊』も、
『牛でなければならない!』。
何故ならば、
『有る!』という、
『法』は、
『異ならないからである!』。
若し、
『異なれば!』、
則ち、
『無いのであり!』。
是れ等のような、
一切は、
皆、
『無いことになる!』。
復次菩薩觀一切法一因。是一法諸法中一心生諸法各各有一相。合眾一故名為二名為三。一為實。二三為虛。 復た次ぎに、菩薩は、一切法は一なりと観じ、是の一法に因りて、諸法中に一心生ず。諸法の各各に一相有り、衆(もろもろ)の一を合するが故に、名づけて二と為し、名づけて三と為すも、一を実と為し、二、三を虚と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう観察する、――
一切の、
『法』は、
『一である!』、と。
是の、
『一法』に、
『因って!』、
諸の、
『法』中に、
『一』という、
『心』が、
『生じ!』、
諸の、
『法』の、
各各に、
『一』の、
『相』が、
『有り!』、
衆(もろもろ)の、
『一』を、
『合する!』が故に、
是れを、
『二』とか、
『三』と、
『呼ぶ!』が、
此の中の、
『一』のみが、
『実であり!』、
『二、三』は、
『虚である!』。
復次菩薩觀諸法有所因故有。如人身無常。何以故。生滅相故。一切法皆如是有所因故有。 復た次ぎに、菩薩の観ずらく、『諸法は、所因有るが故に有り』、と。人身の無常の如し。何を以っての故に、生滅の相の故に、一切法は皆、是の如き所因有るが故に、有り。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
こう観察する、――
諸の、
『法』は、
『所因(所観)』の、
『有る!』が故に、
『有る!』、と。
譬えば、
『人の身』は、
『無常である!』が、
何故ならば、
『生、滅』の、
『相だからである!』。
一切の、
『法』も、
皆、
是のように、
『所因』の、
『有る!』が故に、
『有るのである!』。
復次一切諸法無所因故有。如人身無常生滅故。因生滅故知無常。此因復應有因。如是則無窮。若無窮則無因。若是因更無因是無常。因亦非因。如是等一切無因。 復た次ぎに、一切の諸法は、所因無きが故に有り。人身の無常は、生滅の故なるが如し。生滅に因るが故に、無常なるを知るも、此の因にも復た応に因有るべし。是の如きは則ち無窮なり。若し無窮なれば、則ち無因なり。若し是の因に更に因無ければ、是れ無常なり。因も亦た因に非ず。是の如き等の一切は無因なり。
復た次ぎに、
一切の、
諸の、
『法』は、
『所因』の、
『無い!』が故に、
『有る!』。
譬えば、
『人身』が、
『無常である!』のは、
『生滅するからである!』のと、
『同じである!』。
『生滅』に、
『因る!』が故に、
『無常である!』ことを、
『知る!』が、
此の、
『因(生滅)』にも、
復た、
『因』が、
『有るはずである!』。
是のようであれば、
則ち、
『無窮ということになる!』が、
若し、
『無窮ならば!』、
則ち、
『無因ということになる!』。
若し、
是の、
『因』に、
更に、
『因』が、
『無ければ!』、
是れは、
『無常であり!』、
『因』も、
亦た、
『因でないことになる!』ので、
是れ等のような、
一切は、
『無因なのである!』。
復次菩薩觀一切法有相。無有法無相者。如地堅重相水冷濕相火熱照相風輕動相虛空容受相。分別覺知是為識相。有此有彼是為方相。有久有近是為時相。濁惡心惱眾生是為罪相。淨善心愍眾生是為福相。著諸法是為縛相。不著諸法是為解脫相。現前知一切法無礙是為佛相。如是等一切各有相。 復た次ぎに、菩薩の観るらく、『一切法には相有り、法の無相なる者有ること無し』、と。地の堅、重相、水の冷、湿相、火の熱、照相、風の軽、動相、虚空の受容相なるが如く、分別、覚知は、是れを識の相と為し、有るいは此、有るいは彼は、是れを方の相と為し、有るいは久し、有るいは近しは、是れを時の相と為し、濁悪の心の衆生を悩すは、是れを罪の相と為し、浄善の心の衆生を愍れむは、是れを福の相と為し、諸法に著するは、是れを縛の相と為し、諸法に著せざるは、是れを解脱の相と為し、現前に一切法を知りて、無礙なるは、是れを仏の相と為す。是の如き等の一切は、各に相有り。
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう観察する、――
一切の、
『法』は、
『相』が、
『有り!』、
『法』として、
『相の無い!』者は、
『無い!』、と。
譬えば、
『地』の、
『堅、重の相』、
『水』の、
『冷、湿の相』、
『火』の、
『熱、照の相』、
『風』の、
『軽、動の相』、
『虚空』の、
『受容の相のように!』。
『分別』や、
『覚知』は、
『識の相であり!』、
『此(ここ)』と、
『彼(かしこ)』が、
『有れば!』、
『方の相であり!』、
『久しく!』と、
『近く!』が、
『有れば!』、
『時の相であり!』、
『濁悪の心』で、
『衆生を悩ます!』のは、
『罪の相であり!』、
『浄善の心』で、
『衆生を愍(あわ)れむ!』のは、
『福の相であり!』、
諸の、
『法に著する!』のは、
『縛の相であり!』、
諸の、
『法に著さない!』のは、
『解脱の相であり!』、
『現前』に、
『一切の法』を、
『知って!』、
『無礙である!』のは、
是れは、
『仏の相である!』。
是れ等のように、
一切の、
『法』には、
各、
『相』が、
『有る!』。
復次菩薩觀一切法皆無相。是諸相從因緣和合生。無自性故無。如地色香味觸四法和合故名地。不但色故名地。亦不但香但味但觸故名為地。 復た次ぎに、菩薩の観るらく、『一切法は、皆、相無し』、と。是の諸相は、因縁の和合より生じて、無自性なるが故に無し。地の色、香、味、触の四法の和合の故に、地と名づけ、但だ色の故に地と名づけず、亦た但だ香、但だ味、但だ触の故に名づけて、地と為さざるが如し。
復た次ぎに、
『菩薩』は、こう観察する、――
一切の、
『法』は、
皆、
『相』が、
『無い!』、と。
是の、
諸の、
『相』は、
『因縁の和合』より、
『生じ!』、
『自性の無い!』が故に、
『相』は、
『無い!』。
譬えば、
『地』は、
『色、香、味、触』という、
『四法』の、
『和合』の故に、
即ち、
『地』と、
『呼ばれる!』が、
但だ、
『色のみ!』の故に、
『地』と、
『呼ばれるのではなく!』、
但だ、
『香のみ!』、
『味のみ!』、
『触のみ!』の故に、
『地』と、
『呼ばれるのでもない!』。
何以故。若但色是地。餘三則不應是地。地則無香味觸。香味觸亦如是。 何を以っての故に、若し但だ色にして、是れ地なれば、余の三は、則ち応に是れ地なるべからず。地には、則ち香、味、触無し。香、味、触も亦た是の如し。
何故ならば、
若し、
但だ、
『色のみ!』で、
『地ならば!』、
他の、
『三』は、
『地であるはずがなく!』、
『地』には、
『香、味、触』が、
『無いことになるからである!』。
亦た、
『香、味、触』も、
『是の通りである!』。
復次是四法云何為一法。一法云何為四法。以是故不得以四為地。亦不得離四為地。 復た次ぎに、是の四法を、云何が一法と為し、一法を、云何が四法と為す。是を以っての故に、四を以って地と為すを得ず、亦た四を離れて、地と為すを得ず。
復た次ぎに、
是の、
『四法』を、
何故、
『一法』と、
『為す(看做す)のか?』。
『一法』を、
何故、
『四法』と、
『為すのか?』。
是の故に、
『四』を、
即ち、
『地である!』とは、
『認められず!』、
『四』を、
『離れて!』、
『地である!』とも、
『認められない!』。
問曰。我不以四為地。但因四法故地法生。此地在四法中住。 問うて曰く、我れは、四を以って地と為さず。但だ四法に因るが故に、地法生じ、此の地は、四法中に在りて住す。
問い、
わたしは、
『四』を、
『地』と、
『為すのではない!』。
但だ、
『四法』に、
『因る!』が故に、
『地法』が、
『生じるのであり!』、
此の、
『地』が、
『四法』中に、
『住まるのである!』。
答曰。若從四法生地。地與四法異。如父母生子子則異父母。若爾者今眼見色鼻知香舌知味身知觸。地若異此四法者。應更有異根異識知。若更無異根異識知則無有地。 答えて曰く、若し、四法より、地を生じて、地と四法と異なること、父母の子を生じて、子則ち父母と異なるが如くんば、若し爾らば、今眼に色を見、鼻に香を知り、舌に味を知り、身に触を知るに、地、若し此の四法と異ならば、応に更に異なる根、異なる識有りて知るべし。若し更に異なる根、異なる識の知ること無ければ、則ち地の有ること無し。
答え、
若し、
『四法』より、
『地』を、
『生じて!』、
『地』が、
『四法』と、
『異なり!』、
譬えば、
『父母』が、
『子』を、
『生じて!』、
『子』が、
『父母』と、
『異なるようだ!』として、
若し、
そうならば、
今、
『眼』が、
『色』を、
『見!』、
『鼻』が、
『香』を、
『知り!』、
『舌』が、
『味』を、
『知り!』、
『身』が、
『触』を、
『知るのである!』が、
『地』が、
若し、
此の、
『四法』と、
『異なれば!』、
更に、
『異なる根』と、
『異なる識』とが、
『有って!』、
『知るはずであり!』、
若し、
更に、
『異なる根』と、
『異なる識』との、
『知る!』ことが、
『無ければ!』、
則ち、
『地』は、
『無いことになる!』。
問曰。若上說地相有失。應如阿毘曇說地相。地名四大造色。但地種是堅相。地是可見色。 問うて曰く、若し上に説ける地相に失有らば、応に阿毘曇に説く地相の如くなるべし。地を、四大造の色と名づけ、但だ地種は、是れ堅相にして、地は是れ可見の色なり。
問い、
若し、
上に説く、
『地の相』に、
『失』が、
『有るとすれば!』、
当然、
『地』は、
『四大造の色である!』と、
『称する!』という、
『阿毘曇に説かれた!』、
『地相』と、
『同じでなければならない!』。
但だ、
『地種』は、
『堅相であり!』、
『地』は、
『可見』の、
『色である!』。
  四大(しだい):又四大種とも称す。地大、水大、火大、風大の総称。『大智度論巻18下注:四大種』参照。
  地種(じしゅ):四大中の一。地大に同じ。『大智度論巻18下注:四大種』参照。
  四大種(しだいしゅ):梵語 catvaari mahaa- bhuutaani の訳。巴梨語 cattaari mahaa- bhuutaani。略して四大とも称す。又四界(dhaatu)とも名づく。即ち一切の色法を造る四種の要素を云う。一に地大 pRthivii- dhaatu(巴 paThavii- mahaa- bhuuta )、二に水大 ab- dh.(巴 aapo- m- bh. )、三に火大 tejo- dh.(巴 tejo- m.- bh. )、四に風大 vaayu- dh.(巴 vayo- m.- bh. )なり。「中阿含巻7象跡喩経」に、「云何が四大なる、謂わく地界と水と火と風界となり」と云い、「大毘婆沙論巻127」に、「問う、地水火風は何の相、何の業なるや、答う、堅は是れ地の相にして、持は是れ地の業なり。湿は是れ水の相にして、摂は是れ水の業なり。燸は是れ火の相にして、熟は是れ火の業なり。動は是れ風の相にして、長は是れ風の業なり」と云い、「倶舎論巻1」に、「地水火風は能く自相と所造の色とを持す、故に名づけて界となす。是の如きの四界を亦た大種と名づく、一切の余色の所依の性なるが故に、体寛広なるが故に、或いは地等の増盛聚の中に於いて形相大なるが故なり。此の四大種は能く何の業を成ずるや。其の次第の如く能く持と摂と熟と長との四業を成ず。地界は能く持し、水界は能く摂し、火界は能く熟し、風界は能く長ず。長は謂わく増盛、或いは復た流引なり。業用既に爾り。自性は云何ん、其の次第の如く即ち堅湿煖動を用って性と為す。地界は堅性、水界は湿性、火界は煖性、風界は動性なり」と云える是れなり。此の中、地水火風というも仮の地水等を指すに非ず、即ち堅の性にして、能く物を任持するを地大とし、湿の性にして、能く物を摂収するを水大とし、煖の性にして、能く物を成熟するを火大とし、動の性にして、能く物を増長するを風大となす。触処の所摂にして無見有対なり。蓋し、此の四は相倚りて極微を造り、極微相聚りて色法を成ず。即ち一切色法の所依の性にして、其の能造なるが故に名づけて種となし、其の体寛広にして一切の色法に遍ずるが故に名づけて大となす。又此の四は其の形相各大にして、大地大水大火大風と称せらるるが故に亦た大と名づくるなり。極微を造るに関しては、「大毘婆沙論巻127」に、「応に是の説を作すべし、一の四大種は但だ能く一の造色の極微を造ると。問う、如何が因四にして果一を成ぜざらん、因は多にして果少なるは理然るべからず。答う、果少にして因多なるも理亦た失なし。世の現見に是の如きの類あるが故に、因は四にして果は一なるも理に於いて違なし」と云えり。是れ四大種相倚りて一極微を成じ、之を造色の単位となすことを説けるものなり。又説一切有部に於いては、能造の四大各別なるが故に、所造の色に十一種の不同を生ずとなせり。「大毘婆沙論巻127」に、「諸の四大種に十一種あり、謂わく眼処の所依乃至身処の所依、色処の所依乃至法処の所依なり。諸の所造の色に亦た十一種あり、謂わく眼処乃至身処、色処乃至法処なり。問う、眼処所依の大種は能く幾ばくの所造の色を造るや、乃至法処所依の大種は能く幾ばくの所造の色を造るや。答う、応に是の説を作すべし、眼処の所依の大種は唯眼処を造り、乃至法処の所依の大種は唯法処を造ると」と云えり。此の中、法処とは即ち無表色を指す。之に依るに眼根の所依の大種は唯眼根を造り、耳根の所依の大種は唯耳根を造り、乃至無表色の所依の大種は唯無表色を造るとなせるものなるを見るべし。又所造の色中には堅輭等の不同あり、一種の四大を以って造るに何故に是の如き異を生ずるやに関し、「大毘婆沙論巻131」に両説を挙ぐ。一説は四大は相離れず、展転相資けて同じく所作の事を作すものなりと雖も、其の体に増減あり、即ち堅き物の中には地大の極微多く、水火風の極微少し。乃至動く物の中には風大の極微多く、地水火の極微少しとし、一説は体には増減なく、唯其の勢力に増と微との異あり、即ち堅き物の中にも四大の極微の体は其の数等しと雖も、地大の極微の勢力増し、余の三大の極微の勢力微なり。乃至動く物の中には風大の極微の勢力増し、余の三大の極微の勢力微なりとせり。又有部に於いては、外の色等は四大と色香味触の四塵との八事俱生して、其の随一を減ずることなく、又内界に有りては此の八と身根との九事俱生し、或いは眼等の十事俱生すとなせり。然るに他の諸部に於いては其の所説各異あり、「大乗法苑義林章巻3本」に、「大衆部の説は四大を能造となし、四塵を所造となし、別の五根なし、即ち四塵なるが故なり。倶に有漏及び無漏に通ず、仏に有りと許すが故なり。成実論の説は四塵を能造となして四大を造り、四大は五根を成ず。五根は唯所造にして四塵は唯能造なり。四大は二に通じ、声は唯所造なりとす。薩婆多師は四大を能造となし、唯有漏有礙にして触処の所摂なり。五根と五塵と法処の無表色とを所造となす。五根と五塵とは皆唯有礙にして唯是れ有漏なり。法処の無表は無漏に通ずと説く、是れ無礙の摂にして、皆是れ実有なりとす。経部師の説は能造所蔵並びに有礙なりと雖も、皆仮実に通ず。極微は是れ実にして、麁色は是れ仮なり、並びに皆有漏なり。無表は仮立にして法処に色なく、色蘊に無表色ありと許さず。説仮部の説は能造所造、若しは麁若しは細、蘊門の中に在るは体皆是れ実なり、義の積聚なるが故に体は積聚に非ず。界処門に在るは並びに皆是れ仮なり、依と縁と並びに皆体の積聚の故なり。有無漏に通ずとす。一説部の説は能造所造唯一の名のみありて都て実体なしとす。説出世部の説は能造所造の若し有漏なるものは並びに皆是れ仮なり、顛倒より起るが故なり。諸の無漏なるものは並びに皆是れ実なり、倒生に非ざるが故なりとす。今大乗に依るに触処法処に皆是れ大種あり、散と定と別なるが故に、造色は十一処に通じてあり。大種と造色とは応に随って倶に通じて円成の所摂なり」と云えり。以って諸部の異説を見るべし。又「長阿含経巻16」、「法乗義決定経巻上」、「品類足論巻1」、「五事毘婆沙論巻上」、「大毘婆沙論巻75、132、133」、「雑阿毘曇心論巻1」、「大智度論巻48」、「成実論巻3」、「瑜伽師地論巻3」、「顕揚聖教論巻5」、「倶舎論巻4、13」、「順正理論巻2」、「大乗広五蘊論」、「倶舎論光記巻1、4、13」、「成唯識論述記巻2本」等に出づ。<(望)
答曰。若地但是色先已說失。又地為堅相。但眼見色如水中月鏡中像草木影。則無堅相。堅則身根觸知故。 答えて曰く、若し地は、但だ是れ色なれば、先に已に失を説けり。又地を堅相と為せば、但だ眼に色を見るに、水中の月、鏡中の像、草木の影の如く、則ち堅相無し。堅なれば、則ち身根、触知するが故なり。
答え、
若し、
『地』が、
但だ、
『色ならば!』、
先に、
『失』を、
『説いたはずである!』。
又、
『地』が、
『堅相ならば!』、
但だ、
『眼』に、
『見る!』、
『色』は、
譬えば、
『水中の月』や、
『鏡中の像』や、
『草木の影』と、
『同じであり!』、
則ち、
『堅相』が、
『無い!』
『堅い!』とは、
『身根』が、
『触れて!』、
『知るということだからである!』。
復次若眼見色是地堅相。是地種眼見色。亦是水火濕熱相。是水火種。若爾者風風種亦應分別而不分別如說何等是風風種。何等風種風。若是一物不應作二種。答若是不異者。地及地種不應異。 復た次ぎに、若し眼に色を見て、是れ地の堅相なれば、是れ地種なり。眼に色を見れば、亦た是れ水、火なり。湿、熱相なれば是れ水、火種なり。若し爾れば、風と風種とは、亦た応に分別すべくして、而も分別せず。説の如くんば、何等か是れ風にして風種なる。何等の風種か風なる。若し、是れ一物なれば、応に二種の答を作すべからず。若し、是れ異ならずんば、地と、及び地種とは、応に異なるべからず。
復た次ぎに、
若し、
『眼』に、
『色』を、
『見て!』、
是れが、
『地であり!』、
『堅相ならば!』、
是れは、
『地種である!』。
亦た、
『眼』に、
『色』を、
『見れば!』、
是れは、
『水、火であり!』、
『湿、熱』の、
『相ならば!』、
是れは、
『水、火種である!』。
若し、
そうならば、
『風』と、
『風種』とは、
『分別されなくてはならない!』のに、
『分別されることはない!』。
『説』の通りならば、
何のような、
『風』が、
『風種なのか?』。
何のような、
『風種』が、
『風なのか?』。
若し、
是れが、
『一物ならば!』、
『二種の答』を、
『作すはずがない!』。
若し、
是れが、
『異ならなければ!』、
『地と地種』は、
『異なってはならない!』。
問曰。是四大各各不相離。地中有四種。水火風各有四種但地中地多故。以地為名。水火風亦爾。 問うて曰く、是の四大の各各は、相離れず。地中に四種有り、水、火、風の各に四種有り。但だ地中には、地多きが故に、地を以って名と為す。水、火、風も亦た爾り。
問い、
是の、
『四大』の、
各各は、
互に、
『離れない!』ので、
『地』中には、
『四種』が、
『有り!』、
『水、火、風』中にも、
『四種』が、
『有る!』。
但だ、
『地』中には、
『地』が、
『多い!』ので、
故に、
『地』と、
『呼ばれるだけである!』。
『水、火、風』も、
亦た、
そうである!。
答曰。不然。何以故。若火中有四大應都是熱。無不熱火故。若三大在火中。不熱則不名為火。若熱則捨自性皆名為火。若謂細故不可知則與無無異。若有麤可得則知有細。若無麤亦無細。 答えて曰く、然らず。何を以っての故に、若し火中に四大有らば、応に都(すべ)て是れ熱なるべし。熱からざる火無きが故なり。若し三大、火中に在りて、熱からざれば、則ち名づけて火と為さず。若し熱ければ、則ち自性を捨てずして、皆名づけて火と為さん。若し細なるが故に知るべからずと謂わば、則ち無と異無けん。若し麁の得べきもの有れば、則ち細有るを知るも、若し麁無ければ、亦た細も無し。
答え、
そうではない!
何故ならば、
若し、
『火』中に、
『四大』が、
『有れば!』、
当然、
『都(すべ)て!』が、
『熱いはずである!』。
『熱くない!』、
『火』は、
『無いからである!』。
若し、
『三大』が、
『火』中に、
『在る!』のに、
『熱くなければ!』、
則ち、
『火』と、
『呼ばれないだろう!』。
若し、
『熱ければ!』、
則ち、
『自性』を、
『捨てたことになり!』、
『三大』は、
皆、
『火』と、
『呼ばれるだろう!』。
若し、
『三大』は、
『微細である!』が故に、
『知ることができない!』と、
『謂えば!』、
則ち、
『無』と、
『異ならない!』。
若し、
『麁(粗大)であって!』、
『認知できる!』ものが、
『有れば!』、
『細(麁の細分)』が、
『有る!』と、
『知ることになる!』が、
若し、
『麁』が、
『無ければ!』、
当然、
『細』も、
『無いはずである!』。
如是種種因緣地相不可得。若地相不可得。一切法相亦不可得。是故一切法皆一相。 是の如く種種の因縁に、地相は不可得なり。若し地相にして、不可得なれば、一切の法相も亦た不可得なり。是の故に、一切法は、皆一相なり。
是のように、
種種の、
『因縁』に、
『地の相』は、
『不可得である(認められない)!』。
若し、
『地の相』が、
『不可得ならば!』、
一切の、
『法の相』も、
『不可得である!』。
是の故に、
一切の、
『法の相』は、
皆、
『一相である!』。
問曰。不應言無相。何以故。於諸法無相即是相。若無無相則不可破一切法相。何以故。無無相故。若有是無相則不應言一切法無相。 問うて曰く、応に無相と言うべからず。何を以っての故に、諸法に於いて、無相は、即ち是れ相なればなり。若し無相無くんば、則ち一切の法相を破るべからず。何を以っての故に、無相無きが故なり。若し、是の無相有らば、則ち応に一切法は無相なりと言うべからず。
問い、
当然、
『無相である!』と、
『言うべきでない!』。
何故ならば、
諸の、
『法』に於いて、
『無相である!』とは、
即ち、
是れが、
『相だからである!』。
若し、
『無相』が、
『無ければ!』、
一切の、
『法の相』を、
『破ることはできない!』。
何故ならば、
『無相』が、
『無いからである!』。
若し、
是の、
『無相』という、
『相』が、
『有れば!』、
則ち、
『一切の法』は、
『無相である!』と、
『言うべきでない!』。
答曰。以無相破諸法相。若有無相相則墮諸法相中。若不入諸法相中則不應難無相。皆破諸法相亦自滅相。 答えて曰く、無相を以って、諸の法相を破るに、若し無相の相有らば、則ち諸の法相中に堕せん。若し諸の法相中に入らざれば、則ち応に難ずべからず。無相は、皆、諸の法相を破りて、亦た自ら相を滅すればなり。
答え、
『無相』を、
『用いて!』、
諸の、
『法』の、
『相』を、
『破る!』時、
若し、
『無相』という、
『相』が、
『有れば!』、
諸の、
『法の相』中に、
『堕ちることになる!』が、
若し、
諸の、
『法の相』中に、
『入らなければ!』、
『難ずべきではない!』。
何故ならば、
『無相』は、
諸の、
『法の相』を、
皆、
『破ってしまえば!』、
亦た、
自らの、
『相』も、
『滅するからである!』。
譬如前火木然諸薪已亦復自然。是故聖人行無相。無相三昧破無相故。 譬えば、火木を前めて、諸の薪を然し已れば、亦復た自ら然ゆるが如し。是の故に、聖人の無相無相三昧を行ずるは、無相を破るが故なり。
譬えば、
『火木(付け木)』を、
『前(すす)めて!』、
諸の、
『薪』を、
『然(もや)せば!』、
『火木』も、
亦復た、
自ら、
『然えるように!』、
是の故に、
『聖人』が、
『無相無相三昧』を、
『行う!』のは、
亦た、
『無相』も、
『破るからである!』。
復次菩薩。觀一切法不合不散無色無形無對無示無說一相。所謂無相。如是等諸法一相。 復た次ぎに、菩薩は、一切法の不合、不散、無色、無形、無対、無示、無説の一相なりと観る、謂わゆる無相なり。是れ等の如く諸法は、一相なり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『法』が、
『和合せず、破散せず!』、
『無色、無形、無対、無示、無説』の、
『一相である!』と、
『観る!』。
謂わゆる、
『無相である!』。
是れ等のように、
諸の、
『法』は、
『一相である!』。
云何觀種種相。一切法攝入二法中。所謂名色色無色可見不可見有對無對有漏無漏有為無為等。二百二法門如千難品中說。 云何が、種種の相を観る。一切法は、二法中に摂入す。謂わゆる名と色、色と無色、可見と不可見、有対と無対、有漏と無漏、有為と無為等の二百二の法門にして、千難品中に説けるが如し。
何のように、
種種の、
『相』を、
『観るのか?』、――
一切の、
『法』は、
『二法』中に、
『摂入する(含まれる)!』。
謂わゆる、
『名、色』、
『色、無色』、
『可見、不可見』、
『有対、無対』、
『有漏、無漏』、
『有為、無為』等の、
『二百二の法門であり!』、
例えば、
『千難品』中に、
『説かれた通りである!』。
  摂入(しょうにゅう):取り入れられる( be taken in, be absorbed )、摂取/吸収。
  千難品(せんなんぼん):「衆事分阿毘曇論巻8至11千問論品」、「阿毘達磨品類足論巻10至16辯千問品」等の如し。
復次有二法。忍辱柔和。又二法親敬供養。二施財施法施。二力慧分別力修道力。二具足戒具足正見具足。二相質直相柔軟相。二法定智。二法明解脱。二法世間法第一義法。二法念巧慧。二諦世諦第一義諦。二解脫待時解脫不壞心解脫。二種涅槃有餘涅槃無餘涅槃。二究竟事究竟願究竟。二見知見斷見。二具足義具足語具足。二法少欲知足。二法易養易滿。二法法隨法行。二智盡智無生智。如是等分別無量二法門。 復た次ぎに、二法有り、忍辱と柔和なり。又二法は親敬と供養なり。二施は財施と法施なり。二力は慧分別力と修道力なり。二具足は戒具足と正見具足なり。二相は質直相と柔軟相なり。二法は定と智なり。二法は明と解脱なり。二法は世間法と第一義法なり。二法は念と巧慧なり。二諦は世諦と第一義諦なり。二解脱は待時解脱と不壊心解脱なり。二種涅槃は有余涅槃と無余涅槃なり。二究竟は事究竟と願究竟なり。二見は知見と断見なり。二具足は義の具足と語の具足なり。二法は少欲と知足なり。二法は養い易きと満て易きなり。二法は、法と随法行なり。二智は尽智と無生智なり。是れ等の如く分別する、無量の二法門なり。
復た次ぎに、
有る、
『二法』は、
『忍辱』と、
『柔和である!』。
又、
『二法』は、
『親敬』と、
『供養である!』。
『二施』は、
『財施』と、
『法施である!』。
『二力』は、
『慧分別力』と、
『修道力である!』。
『二具足』は、
『戒の具足』と、
『正見の具足である!』。
『二相』は、
『質直の相』と、
『柔軟の相である!』。
『二法』は、
『定』と、
『智である!』。
『二法』は、
『明』と、
『解脱である!』。
『二法』は、
『世間法』と、
『第一義法である!』。
『二法』は、
『念』と、
『巧慧である!』。
『二諦』は、
『世諦』と、
『第一義諦である!』。
『二解脱』は、
『待時解脱』と、
『不壊心解脱である!』。
『二種涅槃』は、
『有余涅槃』と、
『無余涅槃である!』。
『二究竟』は、
『事()の究竟』と、
『願の究竟である!』。
『二見』は、
『見を知る!』ことと、
『見を断つことである!』。
『二具足』は、
『義の具足』と、
『語の具足である!』。
『二法』は、
『少欲』と、
『知足である!』。
『二法』は、
『養い易い!』ことと、
『満たし易いことである!』。
『二法』は、
『法』と、
『随法行である!』。
『二智』は、
『尽智』と、
『無生智である!』。
是れ等のように、
『分別すれば!』、
『二法門』は、
『無量である!』。
  待時解脱(たいじげだつ):又時解脱とも称す。時を待って解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  時解脱(じげだつ):鈍根の阿羅漢が時を待って得る解脱。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  不壊心解脱(ふえしんげだつ):又不時解脱とも称す。利根の者が時を待つことなく解脱するの意。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  不時解脱(ふじげだつ):利根の阿羅漢が時を待たずして得る解脱。『大智度論巻18下注:解脱』参照。
  解脱(げだつ):梵語 vimukta の訳。又は vimokSa、vimukti、mukti、巴梨語 vimutta、vimokkha、vimutti、又毘木叉、毘木底、木叉或いは木底等に作る。繋縛を離るるの意。即ち煩悩及び定障等の繋縛を遠離して自在を得るを云う。「大般涅槃経巻5」に広く百句解脱を説き、中に「涅槃をば名づけて解脱と為す」と云い、又「真解脱は、名づけて遠離一切繋縛と曰う。若し真解脱にして諸の繋縛を離るれば、則ち生あることなく、亦た和合なし。譬えば父母和合して子を生ずるが如し。真解脱は則ち是の如くならず、是の故に解脱を名づけて不生と曰う」と云えり。「顕揚聖教論巻13」に、「解脱とは是れ永断と離繋と清浄と尽と滅と離と知と是の如く等は名の差別なり、麁重永く除き煩悩断滅せるを体となす、名を釈せば能く種種の貪等の繋縛を脱するが故に解脱と名づく」と云い、又「成唯識論述記巻1本」に、「解脱と言うは体は即ち円寂なり。(中略)煩悩障に由りて諸の有情を縛し、恒に生死に処せしむ。円寂を証し已らば、能く彼の縛を離るるを以って解脱の名を立つ。解脱の体は即ち勝解の数には非ず。解は謂わく離縛にして、脱は謂わく自在なり」と云える是れなり。蓋し解脱には有為無為の二種あり、「大毘婆沙論巻28」に、「一切法の中に二の解脱あり、一には無為、謂わく択滅なり。二には有為、謂わく勝解なり」と云い、「大乗義章巻1」に、「解脱に二あり、一には無為、二には有為なり。無為解脱を直に木叉と名づけ、有為解脱を毘木叉と名づく。是の故に相続解脱経に言わく、涅槃の解脱を名づけて木叉とし、五分法身の有為解脱を毘木叉と名づくと」と云えり。是れ無為解脱の体は即ち択滅涅槃にして、之を木叉 mukti と名づけ、有為解脱の体は即ち勝解にして、之を毘木叉 vimokSa と名づくることを説けるものなり。就中、有為解脱は所謂無学阿羅漢の正見相応の勝解にして無学支と名づく、即ち大地法心所中の勝解を其の体となすが故に有為と名づく。之に時解脱、不時解脱の別あり。「大毘婆沙論巻101」に、「無学の勝解に復た二種あり、一に時愛心解脱は、即ち五種の阿羅漢果所摂の勝解なり。亦た時解脱と名づく。二に不動心解脱とは、謂わく不動法の阿羅漢果所摂の勝解なり。亦た不時解脱と名づく。此の二解脱に各二種あり、一を心解脱と名づく、貪愛を離るるが故なり。二を慧解脱と名づく、無明を離るるが故なり」と云える是れなり。是れ阿羅漢六種姓の中、前五種の鈍根の者は必ず時を待ちて解脱するが故に之を時愛心解脱又は時解脱と名づけ、第六不動法阿羅漢は利根にして必ずしも時を待たざるが故に之を不動心解脱又は不時解脱と名づくることを明し、又此の二種の中に於いて無貪の善根に由りて貪愛を離るるを心解脱と名づけ、無癡の善根に由りて愚癡を離るるを慧解脱と名づくることを説けるものなり。但し此の心及び慧の二種は共に唯煩悩障を解脱するものなるが故に之を総じて慧解脱と名づくるに対し、煩悩及び解脱の二障を併せ断ずるを倶解脱と称す。「倶舎論巻25」に、「諸の阿羅漢の滅定を得する者を倶解脱と名づく。慧と定との力に由りて、煩悩と解脱との障を解脱するが故なり」と云い、「大乗法苑義林章巻5本」に、「定慧の二障全く倶に能く尽くすを倶解脱と名づく」と云える即ち其の意なり。蓋し解脱は元と一種一味にして、如来の解脱と余の阿羅漢等の解脱と異なしとせられたりと雖も、後三乗の解脱に等差ありとするに至れり。「大智度論巻100」に、「此の解脱味に二種あり、一には但だ自ら身の為にし、二には兼ねて一切衆生の為にす。倶に一解脱門を求むと雖も、而も自利と利人の異あり、是の故に大小乗の差別あり」と云い、又「十住毘婆沙論巻11」に、「無礙解脱とは解脱に三種あり、一には煩悩障礙に於いて解脱し、二には定障礙に於いて解脱し、三には一切法障礙に於いて解脱す。是の中、慧解脱を得るは阿羅漢にして煩悩障礙を離れて解脱を得、共解脱は阿羅漢及び辟支仏にして煩悩の障礙を離れて解脱を得、諸禅の障礙を離れて解脱を得。唯諸仏のみありて三解脱を具す、所謂煩悩障礙解脱、諸禅定障礙解脱、一切法障礙解脱なり。総じて是れ三種の解脱なるが故に仏を無礙解脱と名づく」と云える是れなり。其の他、空無相無願の三三昧を三解脱、内有色観諸色解脱等の八背捨を八解脱、又煩悩、邪見、熾然、陰界入等の十種の解脱を十解脱と称し、又有余解脱、無余解脱、或いは色解脱、受解脱、想解脱、行解脱、識解脱等の別あり。又「中阿含経巻30」、「旧華厳経巻38」、「大毘婆沙論巻33、153」、「阿毘達磨順正理論巻70」、「瑜伽師地論巻85」、「成実論巻1、17」、「観音玄義巻上」、「法界次第初門巻中之下」、「涅槃経疏巻9」、「大乗義章巻17末、18」、「大乗法苑義林章巻5本」、「成唯識論述記巻9末」、「倶舎論光記巻25」等に出づ。<(望)
  随法行(ずいほうぎょう):利根の者が諸法を分別して故に道を得ること。七聖中の一、十八有学中の一。『大智度論巻18下七聖、大智度論巻40上注:随法行、十八有学』参照。
  七聖(しちしょう):七種の聖人の意。七賢に対す。又七聖者、七聖人とも名づく。即ち根の利鈍等に依りて学無学位に在る聖人を七種に分類せるもの。一に随信行 zraddha- anusaarin(巴 saddha- anusaarin )、二に随法行 dharma- anusaarin(巴 dhamma- anusaarin )、三に信解 zraddha- adhimukta(巴 saddhaa- vimutta )、四に見至 dRSTi- praapta(巴 diTThi- ppatta )、五に身証 kaaya- saakSin(巴 kaaya- sakkhin )、六に慧解脱 praJaa- vimukta(巴 paJJaa- vimutta )、七に倶解脱 ubhayato- bhaaga- vimukta(巴 ubhato- bhaaga- vimutta )なり。「集異門足論巻16」に、「七補特伽羅とは、云何が七となす。答う、一に随信行補特伽羅、二に随法行補特伽羅、三に信勝解補特伽羅、四に見至補特伽羅、五に身証補特伽羅、六に慧解脱補特伽羅、七に俱分解脱補特伽羅なり。云何が随信行補特伽羅なる。答う、此の随信行補特伽羅は先の凡位の中に禀性多信多愛多浄多勝解多慈愍にして、思惟少く称量少く観察少く簡択少く推求少し。彼れ多信多愛多浄多勝解多慈愍に由るが故に、如来或いは仏弟子の正法を宣説して教授教誡するに遇うことを得。(中略)勤めて諸行無常、有漏行苦、一切法空無我を観察するに由るが故に、便ち後時後分に於いて世第一法を修得し、此の無間より苦法智忍を生じて聖道と相応し、欲界の行を観じて無常或いは苦或いは空或いは無我となし、随一現前す。乃至未だ道類智を起して現在前せざる、爾時を随信行と名づく、是れを随信行補特伽羅と名づく。云何が随法行補特伽羅なる。答う、此の随法行補特伽羅は先の凡位の中に禀性多思惟多称量多観察多簡択多推求にして、信少く愛少く浄少く勝解少く慈愍少し。彼れ多思惟多称量多観察多簡択多推求に由るが故に、如来或いは仏弟子の正法を宣説して教授教誡するに遇うことを得。(中略)自ら諸行無常、有漏行苦、一切法空無我を審察するに由るが故に、便ち後時後分に於いて世第一法を修得し、此の無間より苦法智忍を生じて聖道に相応し、欲界の行を観じて無常或いは苦或いは空或いは無我となし、随一現前す。乃至未だ道類智を起して現在前せざる、爾時を随法行と名づく、是れを随法行補特伽羅と名づく。云何が信勝解補特伽羅なる。答う、便ち随信行補特伽羅は道類智を得るが故に、随信行の性を捨して信勝解の数に入る、是れを信勝解補特伽羅と名づく。云何が見至補特伽羅なる。答う、即ち随法行補特伽羅は道類智を得るが故に、随法行の性を捨して見至の数に入る、是れを見至補特伽羅と名づく。云何が身証補特伽羅なる。答う、若し補特伽羅あり、八解脱に於いて身に已に証し具足して住すと雖も、而も未だ慧を以って永く諸漏を尽くさず、是れを身証補特伽羅と名づく。云何が慧解脱補特伽羅なる。答う、若し補特伽羅あり、八解脱に於いて身に未だ証し具足して住せずと雖も、而も已に慧を以って永く諸漏を尽くす、是れを慧解脱補特伽羅と名づく。云何が俱分解脱補特伽羅なる。答う、若し補特伽羅あり、八解脱に於いて身に已に証し具足して住し、而も復た慧を以って永く諸漏を尽くす、是れを俱分解脱補特伽羅と名づく。問う何故に俱分解脱補特伽羅と名づくるや。答う、二分の障あり、一に煩悩分の障、二に解脱分の障なり、是れを俱分と名づく。此の補特伽羅は彼の二分の障に於いて心倶に解脱し、極めて解脱し永く解脱す、是れを俱分解脱補特伽羅と名づく」と云い、又「倶舎論巻25」に、「学無学位に七聖者あり、一切の聖者を皆此の中に摂す。一に随信行、二に随法行、三に信解、四に見至、五に身証、六に慧解脱、七に倶解脱なり」と云える是れなり。就中、随信行とは其の禀性多信なるが故に、他の説を信受して加行を修し、以って見道に入れる者を云い、随法行とは其の禀性多思惟なるが故に、自ら法に依りて加行を修し、以って見道に入れる者を云い、信解とは又信勝解と名づく、前の随信行の人の第十六心即ち修道位に入れる者を云い、見至とは又見到と名づく、即ち前の随法行の人の修道位に入れる者を云い、身証とは未だ慧を得て諸漏を尽くさざるも、身に已に八解脱を証するものを云い、慧解脱とは又時解脱と名づく、未だ身に八解脱を証せざるも、已に慧を以って永く諸漏を尽くせるものを云い、倶解脱とは又俱分解脱、或いは不時解脱とも名づく、身に已に八解脱を証し、亦た慧を以って永く諸漏を尽くせるものを云う。即ち煩悩障及び解脱障に於いて倶に解脱を得るが故に倶解脱と名づくるなり。「瑜伽師地論巻14」に、「又根に由るが故に、果の故に、解脱の故に七種の補特伽羅を建立す。向道の中に於いて鈍根と利根とに依りて随信と随法行とを建立し、果道の中に於いて即ち此の二種を信解と見到と名づく。定障解脱して煩悩障解脱に非ざるが故に身証を建立し、煩悩障を解脱して定障解脱に非ざるが故に慧解脱を建立し、定障煩悩障倶に解脱するが故に俱分解脱を建立す」と云える亦た即ち其の意なり。但し此の中、根に由るとは初の随信等の四は皆根の利鈍に由りて分別し、中に就き向道の中に於いては之を随信随法と名づけ、果道の中に於いては之を信解見至と名づくることを明し、又解脱の故にとは、身証等の三は解脱の不同に由りて建立することを示せるものというべし。然るに「倶舎論巻25」には、加行の異に依りて初の二種を立て、根の不同に依りて次の二種を立て、滅定を得るに依りて身証を立て、解脱の異に依りて後の二を立つとし、其の説異あり。又「大毘婆沙論巻93、109、168」、「雑阿毘曇心論巻5」、「大乗義章巻17本」、「法華経玄義巻4下」、「四教義巻6」、「倶舎論光記巻25」等に出づ。<(望)
復次知三道。見道修道無學道。三性斷性離性滅性。三修戒修定修慧修。三菩提佛菩提辟支迦佛菩提聲聞菩提。(更不復學智滿足之名也)三乘佛乘辟支迦佛乘聲聞乘。三歸依佛法僧。三住梵住天住聖住。三增上自增上他增上法增上。諸佛三不護身業不護口業不護意業不護。三福處布施持戒善心。三器杖聞器杖離欲器杖慧器杖。三輪變化輪示他心輪教化輪。三解脫門空解脫門無相解脫門無作解脫門。如是等無量三法門。 復た次ぎに知る、三道は見道、修道、無学道なり。三性は断性、離性、滅性なり。三修は戒修、定修、慧修なり。三菩提は仏の菩提、辟支迦仏の菩提、声聞の菩提なり。三乗は仏乗、辟支迦仏乗、声聞乗なり。三帰衣は仏法僧なり。三住は梵住、天住、聖住なり。三増上は自増上、他増上、法増上なり。諸仏の三不護は身業不護、口業不護、意業不護なり。三福処は布施、持戒、善心なり。三器杖は聞器仗、離欲器仗、慧器仗なり。三輪は変化輪、示他心輪、教化輪なり。三解脱門は空解脱門、無相解脱門、無作解脱門なり。是れ等の如き無量の三法門なり。
復た次ぎに、
こう知る、――
『三道』は、
『見道』、
『修道』、
『無学道である!』。
『三性』は、
『断性』、
『離性』、
『滅性である!』。
『三修』は、
『戒修』、
『定修』、
『慧修である!』。
『三菩提』は、
『仏の菩提』、
『辟支迦仏の菩提』、
『声聞の菩提である!』。
『三乗』は、
『仏乗』、
『辟支迦仏乗』、
『声聞乗である!』。
『三帰依(依止)』は、
『仏』、
『法』、
『僧である!』。
『三住』は、
『梵住』、
『天住』、
『聖住である!』。
『三増上』は、
『自増上』、
『他増上』、
『法増上である!』。
『諸仏の三不護』は、
『身業不護』、
『口業不護』、
『意業不護である!』。
『三福処』は、
『布施』、
『持戒』、
『善心である!』。
『三器杖』は、
『聞器仗』、
『離欲器仗』、
『慧器仗である!』。
『三輪』は、
『変化輪』、
『示他心輪』、
『教化輪である!』。
『三解脱門』は、
『空解脱門』、
『無相解脱門』、
『無作解脱門である!』。
是れ等のような、
無量の、
『三法門である!』。
  三道(さんどう):三種の道の意。(一)声聞及び菩薩の道位を三界に次第せるもの。一に見道 darzana- maarga、二に修道 bhaavanaa- maarga、三に無学道 azaikSa- maargaなり。又見地、修地、無学地と云い、或いは修地を分別地とも名づく。「雑阿毘曇心論巻5」に、「略して三地を説く、見地、修地、無学地なり」と云い、「倶舎論巻25」に、「此の事の別は唯六あり、三道に各二あるが故なり。(中略)事の別は唯六ありとは、謂わく見道の中に二の聖者あり、一に随信行、二に随法行なり。此れ修道に至りて別して二の名を立つ、一に信解、二に見至なり。此れ無学に至りて復た二の名を立つ、謂わく時解脱と不時解脱となり」と云える是れなり。就中、初めて諦理を見て見惑を断ずる位を見道と名づけ、次いで数数修習して修惑を断ずる位を修道とし、諸惑を断尽して繋縛を解脱し、更に学すべき法なき位を無学道と名づけたるなり。又此の中、見道は唯無漏にして、修道は有漏無漏に通ず。故に「倶舎論巻22」に、「見道は応に知るべし唯是れ無漏なり、修道は二に通ず。所以は何ぞ、見道は速かに能く三界を治するが故に、頓に九品の見所断を断ずるが故に、世間道には此の堪能あるに非ず、故に見道の中の道は唯無漏なり。修道は異あるが故に二種に通ず」と云えり。是れ見道は十五心の間に三界八十八使の見惑を頓断すべきが故に世間有漏の道は之に堪うる能わず、随って唯無漏なり。之に反し修道は其の時間速疾ならず、又九品漸に断じて頓断に非ざるが故に、即ち有漏無漏に通ずとなすの意なり。之を四向四果に配せば、預流向は見道、預流、一来、不還の三果及び後の三向は修道、阿羅漢果は即ち無学道なり。又之を唯識五位に配せば、通達位は見道、修習位は修道、究竟位は無学道に当たり、十地に配せば初地を見道、第二地より第九地を修道、第十地及び仏地を無学道となすなり。又「倶舎論巻21」、「彰所知論巻下」、「大乗義章巻10」、「大乗法苑義林章巻2末」等に出づ。(二)十二縁起を三種の道に類摂せるもの。又三聚とも名づく。一に煩悩道、二に業道、三に苦道なり。又惑 kleza、業 karman、苦 duHkha、或いは煩悩 kleza、業 karman、事 vastuに作る。事は事果の義にして、苦と其の意相同じ。「旧華厳経巻25」に、「又無明と愛と取と、是の三分は煩悩道を断ぜず、行と有との二分は業道を断ぜず、余の因縁分は苦道を断ぜず。先後際相続するが故に是の三道断ぜず」と云い、「阿毘曇甘露味論巻上因縁種品」に、「是の十二因縁に三種あり、一に煩悩、二に業、三に苦なり。三種は煩悩なり、無明と愛と取となり。二種は業なり、行及び有なり。七種は苦なり、識と名色と六入と更楽と痛と生と老死となり」と云える是れなり。是れ即ち十二縁起の中、無明と愛と取との三を煩悩に摂し、行と有との二を業に摂し、余の識等の七を苦に摂したるなり。「大毘婆沙論巻24」、「倶舎論巻9」、「瑜伽師地論巻56」等に出す所亦た皆此の説に同じ。然るに「大乗阿毘達磨雑集論巻4」には、此の中、識を亦た業の所摂とし、「成唯識論巻8」には、行と有の一分を業に摂し、識等の七と及び有の一分を苦の所摂となせり。又「瑜伽師地論巻56」に、「又二の業の中、初は是れ引業の所摂なり、謂わく行なり。後は是れ生業の所摂なり、謂わく有なり。三の煩悩の中、一は能く引業を発起す、謂わく無明なり。二は能く生業を発起す、謂わく愛と取となり。余の事の所摂の支の中、二は是れ未来苦支の所摂、謂わく生と老死となり。五は是れ未来苦因の所摂なり、謂わく現法の中、行は識に縁たるより、乃至触は受に縁たるなり。又即ち五支は亦た是れ現在苦支の所摂なり、先世の因に由りて今生起することを得ればなり」と云い、「華厳経探玄記巻13」に、「煩悩に二あり、謂わく能発と能潤となり。諸の煩悩皆能く発潤すと雖も、然も発業の位には無明の力増し、潤業受生には愛取の力勝るるが故に偏に説くなり。重発なきを以って一の無明を立て、数数漑潅するが故に愛と取とを分つ。業に亦た二あり、謂わく未潤と已潤となり。業の引因に在りて愛取未だ潤さず、初起造作の相顕なるを行と名づく。業の生因に在りて愛取已に潤し、近く当果を生ずるを立てて名づけて有と為す。此れ業有に約して説く。苦に亦た二あり、謂わく因に在ると果となり。識等の五種は唯是れ報因、生等の二位は但だ是れ報果なり」と云えり。以って其の種別の不同を見るべし。又此の三道の中、総じて之を言わば、煩悩より業を生じ、業より苦を生じ、苦より復た煩悩を生じ、輪廻絶ゆることなし。「十二因縁論」の頌に、「三によるが故に二を生じ、二によるが故に七を生じ、七より復た三を生ず。是の故に輪転の如し」と云えるは即ち其の義なり。若し委曲に之を論ぜば、煩悩より煩悩と業とを生じ、業より苦を生じ、苦より苦と煩悩とを生ず。「倶舎論巻9」に、「惑より惑を生ずとは、謂わく愛より取を生ず。惑より業を生ずとは、謂わく取より有を生じ、無明より行を生ず。業より事を生ずとは、謂わく行より識を生じ、及び有より生を生ず。事より事を生ずとは、謂わく識支より名色を生じ、乃至触より受支を生じ、及び生支より老死を生ず。事より惑を生ずとは、謂わく受より愛を生ず」と云えり。以って三道相生の次第を見るべし。又「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻93」、「十地経論巻8」、「順正理論巻28」等に出づ。<(望)
  三住(さんじゅう):三種の住処に於いて行住座臥を為すの意。即ち一に天住、二に梵住、三に聖住を云う。「阿毘達磨集異門足論巻6」に、「三住とは一に天住、二に梵住、三に聖住なり。天住とは云何。答う、謂わく四静慮なり。何等か四と為す、謂わく欲と悪不善法を離れ、有尋有伺、離生喜楽にして初静慮に入り具足して住す。広く説かば乃至第四静慮に入りて具足して住す。世尊の吠那補梨婆羅門の為に説くが如し、梵志当に知るべし、若しは時に我れ世間の四静慮中に於いて、一静慮を為すに随いて故に行ず、爾の時我れは天住を為して而も行ず。若しは時に我れ世間の四静慮中に於いて、一静慮を為すに随いて故に住し、或いは坐し或いは臥す、爾の時我れは天住を為して而も住し、或いは坐し或いは臥す。是の如し、世間の四静慮中に、一静慮に随い、親近し数習し、殷重して無間に勤修して捨てず。是れを天住と名づく。梵住とは云何。答う、謂わく四無量なり。何等をか四と為す。謂わく慈悲喜捨なり。世尊の吠那補梨婆羅門の為に説くが如し、梵志当に知るべし、若しは時に我れ四無量中に於いて、一無量を為すに随いて故に行ず、爾の時我れは梵住を為して而も行ず。若しは我れ四無量中に於いて、一無量を為すに随いて故に住し、或いは坐し或いは臥す、爾の時我れは梵住を為して而も住し、或いは坐し或いは臥す。是の如し、四無量中に一無量に随いて親近し数習し、殷重して無間に勤修して捨てず。是れを梵住と名づく。聖住とは云何。答う、謂わく四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八聖道支なり。世尊の吠那補梨婆羅門の為に説くが如し、梵志当に知るべし、若しは時に我れ出離遠離所生の善法中に於いて、一出離遠離所生の善法を為すに随いて故に行ず、爾の時我れは聖住を為して而も行ず。若しは時に我れは出離遠離所生の善法中に於いて、一出離遠離所生の善法を為すに随いて故に住し、或いは坐し或いは臥す、爾の時我れは聖住を為して而も住し、或いは坐し或いは臥す。是の如し、出離遠離所生の善法中に、一出離遠離所生の善法に随いて親近し数習し、殷重して無間に勤修して捨てず。是れを聖住と名づく」と云い、又「大智度論巻3」には、「復た次ぎに三種の住とは、天住梵住聖住なり。六種の欲天の住法は是れを天住と為す、梵天等乃至非有想非無想天の住法、是れを梵住と名づく。諸の仏、辟支仏、阿羅漢の住法、是れを聖住と名づく。是の三住法中に於いて、聖住法に住し、衆生を憐愍するが故に、王舎城に住す。復た次ぎに布施持戒善心の三事の故に天住と名づく、慈悲喜捨四無量心の故に梵住と名づく、空無相無作、是の三三昧を聖住と名づけ、聖住法に仏は中に於いて住す」と云える是れなり。就中、天住とは六欲天の住法、或いは四静慮を指し、又兼ねて布施持戒善心の三事に名づけ、梵住とは色無色界の諸天の住法、或いは慈悲喜捨の四無量に名づけ、聖住とは所謂三十七菩提分法、乃至空無相無作の三三昧に名づくることを知るべし。又「大智度論巻3」の連文には、「復た次ぎに四種の住あり、天住梵住聖住仏住なり。三住は前に説くが如し。仏住とは、首楞厳等、諸仏の無量の三昧、十力、四無所畏、十八不共法、一切智等種種諸の慧、及び八万四千の法蔵、度人門、是の如き等種種の諸仏の功徳は、是れ仏所住の処なり」と云えるにより、四種の住あることを説き、「阿毘達磨大毘婆沙論巻19」、「阿毘曇毘婆沙論巻14」等には天住梵住聖住仏住に学住と無学住の二を加えて併せて六住と説く。又「大集法門経巻上」、「雑阿含経巻29」、「仏所行讃巻4」、「発菩提心破諸魔経巻下」、「摩訶僧祇律巻1」、「瑜伽師地論巻11、34、38、74、98」、「菩薩地持経巻3」等に出づ。
  器杖(きじょう):武器を云う。器仗に同じ。
  三輪(さんりん):如来の身口意の三業の勝用を転輪聖王の輪宝に譬えたるもの。一に神変輪、二に記心輪、三に教誡輪なり。就中一に神変輪とは、復た神通輪、変化輪とも云い、仏の身業に由りて種種の神変を現じ、衆生をして正信を起さしむる者なり。二に記心輪とは、又記他心輪、示他心輪とも云い、仏の意業を以って他の心を分別し、差別を行ずる者なり。三に教誡輪とは、又正教輪、教化輪とも称し、仏の口業を以って彼れを教誡し、修行せしむる者なり。又「大乗大集地蔵十輪経巻6」、「瑜伽師地論巻27、37」、「倶舎論巻27」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」等に出づ。<(丁)、(望)
  三不護(さんふご):如来の三業は清浄無失なるが故に守護せずの意。「阿毘達磨集異門足論巻4」に出づ。
  参考:『阿毘達磨集異門足論巻4』:『三不護者。謂諸如來三業無失。可有隱藏恐他覺知故名不護。何等為三。一者如來所有身業。清淨現行無不清淨。現行身業恐他覺知須有藏護。二者如來所有語業。清淨現行無不清淨。現行語業恐他覺知須有藏護。三者如來所有意業。清淨現行無不清淨。現行意業恐他覺知須有藏護。云何如來所有身業清淨現行。答身業清淨現行者。謂離斷生命。離不與取。離欲邪行。復次離斷生命。離不與取。離非梵行。復次所有學身業清淨現行。所有無學身業清淨現行。所有善非學非無學身業清淨現行。總名身業清淨現行。於此義中意說如來。所有無學身業清淨現行。及所有善非學非無學身業清淨現行。如來具足圓滿成就如是身業清淨現行。故說如來所有身業清淨現行。云何如來無不清淨現行身業。答不清淨現行身業者。謂斷生命。不與取。欲邪行。復次斷生命不與取非梵行。復次所有不善身業。所有非理所引身業。所有身業能障礙定。總名不清淨現行身業。如來於此不清淨現行身業。已斷已遍知。如斷草根多羅樹頭。令永於後成不生法。由此如來無可隱匿覆蔽藏護。勿他見我此穢身業。故說如來無不清淨現行身業。云何如來所有語業清淨現行。答語業清淨現行者。謂離虛誑語離離間語離麤惡語離雜穢語。復次所有學語業清淨現行。所有無學語業清淨現行。所有善非學非無學語業清淨現行。總名語業清淨現行。於此義中意說如來。所有無學語業清淨現行。及所有善非學非無學語業清淨現行。如來具足圓滿成就如是語業清淨現行。故說如來所有語業清淨現行。云何如來無不清淨現行語業。答不清淨現行語業者。謂虛誑語離間語麤惡語雜穢語。復次所有不善語業。所有非理所引語業。所有語業能障礙定總名不清淨現行語業。如來於此不清淨現行語業。已斷已遍知。如斷草根多羅樹頭。令永於後成不生法。由此如來無可隱匿覆蔽藏護。勿他見我此穢語業。故說如來無不清淨現行語業。云何如來所有意業清淨現行。答意業清淨現行者。謂無貪無瞋正起。復次所有學意業清淨現行。所有無學意業清淨現行。所有善非學非無學意業清淨現行。總名意業清淨現行。於此義中意說如來。所有無學意業清淨現行。及所有善非學非無學意業清淨現行。如來具足圓滿成就如是意業清淨現行。故說如來所有意業清淨現行。云何如來無不清淨現行意業。答不清淨現行意業者。謂貪瞋邪見。復次所有不善意業。所有非理所引意業。所有意業能障礙定。總名不清淨現行意業。如來於此不清淨現行意業。已斷已遍知。如斷草根多羅樹頭。令永於後成不生法。由此如來無可隱匿覆蔽藏護。勿他見我此穢意業。故說如來無不清淨現行意業』
復知四法。四念處四正懃四如意足四聖諦四聖種四沙門果四知四信四道四攝法四依四通達善根四道四天人輪四堅法四無所畏四無量心。如是等無量四法門。 復た知る、四法とは四念処、四正懃、四如意足、四聖諦、四聖種、四沙門果、四知、四信、四道、四摂法、四依、四通達善根、四道、四天人輪、四堅法、四無所畏、四無量心、是れ等の如き無量の四法門なり。
復た、
こう知る、――
『四法』とは、
『四念処』、
『四正懃』、
『四如意足』、
『四聖諦』、
『四聖種』、
『四沙門果』、
『四知』、
『四信』、
『四道』、
『四摂法』、
『四依』、
『四通達善根』、
『四道』、
『四天人輪』、
『四堅法』、
『四無所畏』、
『四無量心であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『四法の門である!』。
  四念処(しねんじょ):『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  四正懃(ししょうごん):『大智度論巻15下注:精進、巻16上注:四正断』参照。
  四如意足(しにょいそく):『大智度論巻18下注:四神足』参照。
  四神足(しじんそく):梵語 catvaara Rddhi- paadaaH の訳。巴梨語 cattaaro iddhi- paadaa、又四如意足と称す。四種の神足の意。三十七菩提分法の一科。即ち欲等の四法の力に由りて引発せられ、種種の神用を現起する三摩地を云う。一に欲三摩地断行成就神足 chanda- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada(巴 chanda- samaadhi- padhaana- saMskaara- samanvaagata- iddhi- paada )、二に心三摩地断行成就神足 citta- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada(巴 citta- samaadhi- padhaana- saMskaara- samanvaagata- iddhi- paada )、三に勤三摩地断行成就神足 viirya- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada(巴 viirya- samaadhi- padhaana- saMskaara- samanvaagata- iddhi- paada )、四に観三摩地断行成就神足 miimaaMsaa- samaadhi- prahaaNa- saMskaara- samanvaagata- rddhi- paada(巴 miimaMsaa- samaadhi- padhaana- saMskaara- samanvaagata- iddhi- paada )なり。「長阿含巻5闍尼沙経」に、「復た次ぎに諸天、如来は善能く分別して四神足を説く。何等をか四と謂う、一には欲定滅行成就修習神足、二には精進定滅行成就修習神足、三には意定滅行成就修習神足、四には思惟定滅行成就修習神足なり。是れを如来善能く分別して四神足を説くとなす。又諸天に告ぐ、過去の諸の沙門婆羅門が無数の方便を以って無量の神足を現ずるは、皆四神足に由りて起る」と云い、「法蘊足論巻4神足品」に、「世尊は苾芻衆に告ぐ、四神足あり。何等をか四と為す、謂わく欲三摩地勝行成就神足、是れを第一と名づけ、勤三摩地勝行成就神足、是れを第二と名づけ、心三摩地勝行成就神足、是れを第三と名づけ、観三摩地勝行成就神足、是れを第四と名づく」と云える是れなり。此の中、欲三摩地断行成就神足とは又欲三摩地勝行成就神足、欲定滅行成就修習神足、欲神足、或いは欲如意足とも名づく。欲の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。心三摩地断行成就神足とは又心三摩地勝行成就神足、意定滅行成就修習神足、念神足、或いは念如意足とも名づく。心の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。勤三摩地断行成就神足とは又勤三摩地勝行成就神足、精進定滅行成就修習神足、勤神足、精進神足、或いは精進如意足、進如意足とも名づく。勤の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。観三摩地断行成就神足とは又観三摩地勝行成就神足、思惟定滅行成就修習神足、観神足、思惟神足、思惟如意足、慧如意足とも名づく。観の力に由りて引発せられて、種種の神用を現起する定を云う。「大毘婆沙論巻141」に神足は三摩地を以って其の自性となすことを説き、「問う、云何が神と名づけ、云何が足と名づくる。有るが是の説を作す、三摩地を神と名づけ、欲等の四を足と名づく。四法に摂受せらるるに由りて三摩地をして転ぜしむるが故なり。問う、等持には俱有相応法多し、何が故に此の四を独り神足と名づくるや。答う、此れ等持に於いて随順すること勝るるが故なり。謂わく俱有相応法の中に於いて等持を資益するは此の四を勝と為す。復た有説は三摩地は是れ神にして亦た足なり、欲等の四は唯足にして神に非ず。択法は是れ覚にして亦た支なるも余の六は唯支にして覚に非ず、正見は是れ道にして亦た支なるも余の七は唯支にして道に非ず、離非時食は是れ斎にして亦た支なるも、余の七は唯支にして斎に非ざるが如し。彼れも亦た是の如し。問う、若し三摩地は是れ神にして亦た足ならば、或いは応に一と立つべく、或いは応に五と立つべし。何が故に四と説くや。答う、唯三摩地を立てて神足となす、四因より生ずるが故に説いて四と為す。謂わく加行位に或いは欲の力に由りて等持を引発して其れをして現起せしめ、広説乃至、或いは観の力に由りて引いて現起せしむ。加行位に四法随増するに由りて、等持をして起さしむるが故に定位を得、一の等持に於いて四種を建立す」と云い、更に其の名義を釈し、「問う、此の四は何に縁りて説いて神足となすや。答う、諸の思求する所、諸の欲願する所、一切如意なるが故に名づけて神と為し、神を引発するが故に神足と名づく。然るに此の神の用に略して二種あり、一に世俗の欣ぶ所、二に聖者の楽う所なり。若し一を分って多とし、多を合して一と成す、此等を名づけて世俗の欣ぶ所となす。若し世間の諸の可意の事に於いて順想に住せず、諸の世間の不可意の事に於いて違想に住せず、諸の可意不可意の事に於いて捨に安住して正念正知す、此等を名づけて賢聖の楽う所と為す。復た三種の神用あり、一に運身、二に勝解、三に意勢なり。運身神用とは謂わく挙身虚を凌ぐこと猶お飛鳥の如く、亦た壁上に画く所の飛仙の如きなり。勝解神用とは謂わく遠に於いて近の解を作し、此の力に由るが故に、或いは此の洲に住して手に日月を捫し、或いは臂を屈伸する頃に色究竟天に至る。意勢神用とは謂わく眼識をもて色頂に至り、或いは上りて色究竟天に至り、或いは傍らに無辺の世界を越ゆ」と云えり。是れ欲勤等の力に由りて等持を引発し、更に其の等持を依止として種種の神用を現起するが故に、名づけて四神足と称することを説けるものなり。又此の四神足は四善根位の中、主として頂位に於いて之を修す。「倶舎論巻25」に、「頂法の位の中に能く勝善を持して無退の位に趣く、定の用勝たるが故に神足増すと説く」と云える即ち其の意なり。又「長阿含巻8衆集経」、「大集法門経巻上」、「仏般泥洹経巻上」、「中阿含巻21説虚経」、「雑阿含経巻30、31」、「順正理論巻71」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻34」、「大智度論巻19」、「瑜伽師地論巻29、98」、「大乗義章巻16末」、「法界次第初門巻中之下」、「倶舎論光記巻25」、「同宝疏巻25」等に出づ。<(望)
  四聖諦(ししょうたい):梵語 catvaary aarya- satyaani の訳。巴梨語 cattaari ariya- saccaani、略して四諦と云い、又四真諦とも称す。諦とは審実不虚の義にして、即ち四種の真実にして改まらざる理義を云う。一に苦諦 duHkha- satya、二に集諦 samudaya- s.、三に滅諦 nirodha- s.、四に道諦 maagra- s. なり。又苦聖諦、苦集聖諦、苦滅聖諦、苦出要聖諦と云い、或いは苦聖諦苦習諦苦滅諦苦滅道聖諦、苦諦苦集諦苦尽諦苦出要諦、苦聖諦集聖諦真聖諦道聖諦等とも名づく。「長阿含巻8八衆集経」に、「復た四法あり、謂わく四聖諦なり。苦聖諦、苦集聖諦、苦滅聖諦、苦出要聖諦なり」と云い、「中阿含巻7分別聖諦経」に、「世尊は我等の為に世に出づ、謂わく他の為に此の四聖諦を広教し、広示し、分別し発露し開仰し施設し顕現し趣向せしむ。云何が四と為す、謂わく苦聖諦と苦習と苦滅と苦滅道聖諦となり。諸賢、云何が苦聖諦なる、謂わく生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎会苦、愛別離苦、所求不得苦、略五盛陰苦なり。(中略)諸賢、云何が愛習苦習聖諦なる、謂わく衆生には実に愛の内の六処あり、眼処、耳鼻舌真意処なり。中に於いて若し愛あり膩あり染あり著あらば是れを名づけて習と為す。諸賢、多聞の聖弟子は是れ我れ是の如く此の法を知り、是の如く見、是の如く了し、是の如く視、是の如く覚すと知る。是れを愛習苦習聖諦と謂う。(中略)諸賢、云何が愛滅苦滅聖諦なる、謂わく衆生には実に愛の内の六処あり、眼処、耳鼻舌真意処なり。彼れ若し解脱して染せず著せず、断捨し吐尽し、無欲にして滅止没せば是れを苦滅と名づく。諸賢、多聞の聖弟子は我れ是の如く此の法を知り、是の如く見、是の如く了し、是の如く視、是の如く覚すと知る。是れを愛滅苦滅聖諦と謂う。(中略)諸賢、云何が苦滅道聖諦なる、謂わく正見、正志、正語、正業、正命、正方便、正念、正定なり」と云い、「仏遺教経」に、「仏の説きたもう苦諦は真実に是れ苦なり、楽ならしむべからず。集は真に是れ因なり、更に異の因なし。苦若し滅すれば即ち是れ因滅す、因滅するが故に果滅す。滅苦の道は実に是れ真の道なり、更に余の道なし」と云える是れなり。此の中、世間は四苦八苦の相にして実に苦なり、是れ審実にして虚ならざるを苦諦と云い、苦の因は集にして即ち内の眼等の六処より起る愛著に由りて苦の果を生ず。是れ審実にして虚ならざるを集諦と云い、彼の愛著を解脱し断捨せば即ち苦滅することを得、是れ審実にして虚ならざるを滅諦と云い、苦を滅するの道は即ち正見等の八正道にして、是れ亦た審実不虚なるを道諦と名づく。就中、苦集二諦は世間有漏の因果を顕し、滅道二諦は出世無漏の因果を示す。即ち世間有漏の果は苦諦、世間有漏の因は集諦、出世無漏の果は滅諦、出世無漏の因は道諦なり。苦等の名義に関しては、「大毘婆沙論巻77」に脇尊者は逼迫は苦の相、生長は集の相、寂静は滅の相、出離は道の相なりとし、尊者世友は流転は苦の相、能転は集の相、止息は滅の相、還滅は道の相なり。又或いは生依流転するは苦の相、能く生依を転ずるは集の相、生依止息するは滅の相、能く生依を滅するは道の相なりとし、大徳は五取蘊の苦と合成して恰も炉中の熱鉄団の如くなるを苦の相、其の苦蘊の煩悩より生じ、業に由りて転変するを集の相、究竟じて業煩悩を離れ、諸趣に於いて流転せざるを滅の相、戒定正観に依りて能く有の因を断じ、有の尽を証するを道の相となすと云えり。又四諦は何物を自性となすやに関し、諸部の間に異説あり、「大毘婆沙論巻77」に阿毘達磨の諸論師は、五取蘊を以って苦諦、有漏の因を集諦、択滅を滅諦、学無学法を道諦なりとし、譬喩者は諸の名色を苦諦、業煩悩を集諦、業煩悩の尽くるを滅諦、奢摩他毘鉢舎那を道諦なりとし、分別論者は八苦の相あるを苦諦、後有を招くの愛を集諦、後有を招くの愛尽くるを滅諦、八支聖道を道諦と云い、「四諦論巻1」にも亦た諸部の説を出せり。蓋し是の如く苦集滅道の順位を以って四諦の教義を組織したることは乃ち観行の次第に順じたるなり。「倶舎論巻22」に四諦は現観の次第に依れるものなるを説き、其の下に「何に縁りて現観の次第必ず然るや、加行位の中に是の如く観ずるが故なり。何に縁りて加行に必ず是の如く観ずるや。謂わく若し法あり是れ愛著処にして能く逼悩を作す、脱の因を求めんが為に此の法理応に最初に観察すべし、故に修行者は加行位の中に最初に苦を観ず、苦は即ち苦諦なり。次に復た苦は誰を以って因と為すかを観ず、便ち苦の因を観ず。因は即ち集諦なり。次に復た苦は誰を以って滅と為すかを観ず、便ち苦の滅を観ず。滅は即ち滅諦なり。後に苦の滅は誰を以って道と為すかを観ず、便ち滅の道を観ず。道は即ち道諦なり」と云い、更に又「雑阿含巻15良医経」の意に依りて、医王の善く病状を知るを苦諦に、善く病因を知るを集諦に、善く病の愈ゆるを知るを滅諦に、善く良薬を知るを道諦に比対せり。又「大毘婆沙論巻78」にも現観の次第に依ることを説き、苦諦は最も麁なるが故に最初に観じ、乃至道諦は最も細なるが故に最後に観ず。又苦に迷うの愚は能く集に迷うの愚を持するが故に、苦に迷うの愚を除かざれば終に集に迷うの愚を除くこと能わず、故に苦集と次第す。滅道も亦た爾り。又苦に迷うの愚は能く集に迷うの愚を引くを以って、苦に迷うの愚を除かざれば必ず集に迷うの愚を遮すること能わず、故に苦集と次第す。滅道も亦た爾り。又若し苦諦観を起さざれば必ず集諦観を起すこと能わず、苦諦観は集諦観の加行所依門の安足処なり、故に苦集と次第す。滅道も亦た爾りと云い、又「大乗義章巻3本」には諸法の生起は先因後果の次第なるも、今先果後因と次第するは即ち逆観に依るが故なりとし、又四諦は厭欣を趣意とするが故に顕著なる美悪の果を先に説き、因は其の相隠微にして厭欣の義弱きが故に後に説くと云えり。又此の四を諦と名づくるに関し、「増一阿含経巻17」に、「此の四諦あり、実有にして虚ならず。世尊の説く所なるが故に名づけて諦と為す」と云い、「大毘婆沙論巻77」に、「実の義は是れ諦の義なり、真の義、如の義、不顛倒の義、無虚誑の義は是れ諦の義なり」と云い、「四諦論巻1」に、「諦の義に七あり、一に不倒は是れ諦の義なり、譬えば火相の如し。二に実有は是れ諦の義なり、経中に説くが如し。三に無変異は是れ諦の義なり。四に無二行は是れ諦の義なり、譬えば樹提伽蛇耶達多行の如し。五に不更起は是れ諦の義なり、此の智に従わば更に起らず、火輪智に同じからず。六に不相違は是れ諦の義なり、譬えば業及び聖戒の如し。七に文義相称は是れ諦の義なり、何を以っての故に、苦と言わば必ず苦を義となす。此の七義に由るが故に名づけて諦となす」と云えり。是れ皆苦集滅道の説は真実不磨の理にして、永く改まらざるが故に諦と名づくることを明にしたるものなり。又之を四聖諦と名づくることは、此の理は唯聖者のみ之を見るが故なり。「大毘婆沙論巻78」に、「聖者成就するが故に聖諦と名づく」と云い、「倶舎論巻22」に、「何の義にて経中に於いて聖諦と為すや、是れ聖者の諦なるが故に聖の名を得るなり。非聖の者に於いて此れ豈に妄を成ぜんや、一切に於いて是の諦の性は顛倒なきが故なり。然るに唯聖者のみ実に見る、余には非ず。是の故に経中に但だ聖諦と名づく。非聖の諦に非ず、顛倒して見るが故なり」と云える即ち其の意なり。之に依るに世間を以って実に苦なりとし、乃至八正道を以って実に滅苦の道となすは、即ち聖者の所見所覚にして、凡夫は之に反し顛倒の見を有するものなるを知るべし。又観行者は加行位に於いて四諦を観ずるに各四行相を用う。即ち苦諦を観ずるに非常 anitya、苦 duHkha、空 zuunya、非我 anaatumakaの四行相、集諦を観ずるに因 hetu、集 samudaya、生 prabhava、縁 pratyaya、滅諦を観ずるに滅 nirodha、静 zaanta、妙 praNiita、離 niHsaraNa、道諦を観ずるに道 maarga、如 nyaaya、行 pratipatti、出 nairyaaNika の四行相を用うるなり。四諦合して十六行相あるが故に、之を四諦十六行相 ScDazabhir aakaarair visaaritaani catvaary aarya- satyaani と称す。十六行相の名義に関しては、「大毘婆沙論巻79」に両解を出せり。其の第一解に依るに、苦諦の四行相の中、苦は傷通逼迫すること恰も重擔を荷うが如く、聖心に違逆すと観ずるを云い、非常は諸の有為法は唯現在一刹那のみ能く所作あり、及び衆縁に繋属して方に所作あるものなりと観ずるを云い、空は我所見に違するを云い、非我は我見に違するを云う。集諦の四行相の中、因は種子の法の如しと観ずるを云い、集は能く等しく果を出現すと観ずるを云い、生は続起あらしむるを云い、縁は泥団輪縄水等の衆縁和合して瓶を成辦するが如く、能く成辦する所あるを云う。滅諦の四行相の中、滅は五取蘊の永く尽くるを云い、静は有為の相息むを云い、妙は善にして且つ常なるを云い、離は最極安隠なるを云う。道諦の四行相の中、道は邪道に違害するを云い、如は非理に違害するを云い、行は涅槃の宮に趣くを云い、出は永く生死を超度するを云うとなせり。又「倶舎論巻26」に更に一解を出し、苦諦の中、生滅するが故に非常とし、聖心に違するが故に苦とし、此に於いて我なきを空とし、自体非我なるを非我とす。集諦の中、現の総我を執して、総の自体の欲を起すは、苦に於いて初因なるが故に之を因とし、当の総我を執して、総の後有の欲を起すは、苦に於いて等しく招集するが故に名づけて集となし、当の別我を執して別の後有の欲を起すは、苦に於いて別の縁となるが故に名づけて縁とし、続生の我を執して続生時の欲を起し、或いは造業の我を執して造業時の欲を起すは、苦に於いて能く近く生ずるが故に名づけて生となす。滅諦の中、流転断ずるを滅とし、衆苦息むを静とし、更に上なきを妙とし、不退転なるを離とす。道諦の中、世間の正道の如くなるを道とし、如実に転ずるを如とし、定んで能く趣くを行とし、永く三有を離るるを出となすと云い、又十六行相を修するの意を説きて、「常と楽と我所と我との見を治せんが為の故に非常苦空非我の行相を修し、無因と一因と変因と知先因との見を治せんが為の故に因集生縁の行相を修し、解脱は是れ無なりとの見を治せんが為の故に滅の行相を修し、解脱は是れ苦なりとの見を治せんが為の故に静の行相を修し、静慮及び等至の楽は是れ妙なりとの見を治せんが為の故に妙の行相を修し、解脱は是れ数退堕し、永に非ずとの見を治せんが為の故に離の行相を修し、無道と邪道と余道と退道との見を治せんが為の故に道如行出の行相を修す」と云えり。以って観行者の行相次第及び其の意旨を見るべし。又此の四諦を世俗勝義の二諦に配するに関し、「大毘婆沙論巻77」に四説を挙ぐ。第一説は苦集二諦を世俗諦に、滅道二諦を勝義諦に配し、第二説は苦集滅の三諦を世俗諦に、道諦を勝義諦に配し、第三説は四諦を悉く世俗諦とし、一切法空非我空を勝義諦とし、第四説は四諦は総じて世俗勝義に通ずとし、就中、勝義諦は謂わゆる十六行相なりと云えり。蓋し四諦の説は仏陀成道の直後、鹿野苑に於いて五比丘の為に始めて転ぜられたる法輪にして、仏教中の基本的教義なると同時に、生死解脱の唯一の方法とせらるる所なり。「般涅槃経巻上」に、「仏は諸比丘に告ぐ、皆聴け。其れ道を為す者は当に四諦を知るべし。凡人は知らざるが故に長塗に走り、生死に宛転して休止する時なし。吾れ是を以って汝が意を啓かん」と云い、又「大毘婆沙論巻78」に、「此の拔済法は即ち四聖諦なり。有情をして此れに依りて道を修し、四聖諦を見て自疑を断ぜしめんと欲す。(中略)仏四聖諦の法を宣説するに由りて、異生性の極険難処より諸の有情を引きて諸の聖性の極平坦処に置く。謂わく道に入り、及び道果を得しむるが故に拔済と名づく。復た次ぎに平等処より正性に引入するが故に拔済と名づく」と云える皆即ち其の意なり。後世には四諦を以って声聞の法とし、単に小乗教中に於ける生死解脱の説となすに至れりと雖も、大乗経典中にも其の説を掲ぐるもの多く、特に「勝鬘経」及び「大般涅槃経巻12、13」等には之に対して大乗的解釈を附し、其の深義を発揮する所あり。就中、「勝鬘経法身章」には四諦に有作有量、無作無量の二種ありとし、小乗声聞の所知は有作有量、大乗菩薩の所知は無作無量なりとなせり。即ち彼の文に、「何等をか二聖諦の義を説くと為す、謂わく作聖諦の義を説き、無作聖諦の義を説くなり。作聖諦の義を説くとは是れ有量の四聖諦を説くなり。何を以っての故に、他に因るに非ずして能く一切の苦を知り、一切の集を断じ、一切の滅を証し、一切の道を修す。是の故に世尊、有為生死と無為生死とあり。涅槃も亦た是の如く、有余及び無余あり。無作聖諦の義を説くとは無量の四聖諦の義を説くなり。何を以っての故に能く自力を以って一切受の苦を知り、一切受の集を断じ、一切受の滅を証し、一切受滅の道を修す。是の如き八聖諦を如来は四聖諦と説く。是の如き無作四聖諦の義は、唯如来応等正覚のみ事究竟し、阿羅漢辟支仏は事究竟するに非ず。(中略)一切の如来の応等正覚は一切未来の苦を知り、一切の煩悩上煩悩に摂受せらるる一切の集を断じ、一切の意生身の陰を滅し、一切の苦滅を作証するを以ってなり」と云える是れなり。吉蔵の「勝鬘宝窟巻下本」に之を解して、有作無作の名義に三義ありとし、一には行に従って其の名を立つ、即ち小乗の観諦は未究竟なるが故に、後更に大乗の観諦の修作すべきものあり。此の有作の観智を所観の諦に名づけて有作と云う。大乗の観諦は後更に修すべきものなし、故に無作と名づく。二に有作無作は即ち有辺無辺なり、二乗の所観は未究竟にして所作の残留するものあるが故に有作と名づけ、如来の所照は究竟にして更に所作なきが故に無作と名づく。是れ能観の人に就きて分別せるなり。三に有作は起作の義にして即ち有為諦なり、無作は無起作の義にして即ち無為諦なりと云い、又之を有量無量と名づくることは、二乗の智力には限量あり、仏智には限量なきを示せるものにして、倶に人に随って其の名を立てたるものとなせり。又吉蔵の「中観論疏巻10本」には、有作の四諦は三界の苦果を苦諦、惑業煩悩を集諦、無為涅槃を滅諦、対治煩悩道を道諦となし、無作の四諦は分段変易の二種の生死を苦諦、五住の煩悩を集諦、二生死五住を滅するを滅諦、治惑の真解を道諦となすと云い、又「法華経玄賛巻7末」には、有作の四諦は分段生死十二因縁を苦諦、煩悩及び業を集諦、択滅を滅諦、生空智品を道諦となし、無作の四諦は変易生死の五蘊を苦諦、所知障を集諦、無作涅槃を滅諦、法空智品を道諦となすと云えり。又慧遠の「大乗義章巻3本」には此の経の説に依りて四種四諦の別を説けり。四種とは一に有作の四諦、二に無作の四諦、有量の四諦、無量の四諦なり。有作無作は行に就き、有量無量は法に就きて分別すとす。就中、有作は小乗の四諦にして、無作は大乗の四諦なり。即ち小乗の説は之を大乗に比するに、猶お無量の諦観の修行すべきものあるを以って有作と名づけ、大乗の説は更に余観の修すべきものなきが故に無作と名づく。但し小乗大乗の中に於いて亦た各有作無作を立つることを得べし、即ち因位に於いて修する四諦観は有作にして、果上の所行は無作なり。是れ為作造修するを有作と言い、任運進修するを無作と名づくるの意なり。有量無量には三種の意あり、一に寛狭に就きて分たば、小乗の所観は唯分段生死の因果に限るが故に有量と名づけ、大乗の所観は分段変易に亘るが故に無量と名づく。二に深浅に就きて分たば、小乗毘曇の如きは、但だ苦は真に苦にして楽ならしむべからず等と説き、成実論の如きは、苦は用仮無性の空なりと説き、共に法本を窮めざるが故に有量と名づく。大乗にては苦等の相は幻化にして畢竟空寂なり、其の体性は如来蔵縁起法界なりと説き、深を窮むるが故に無量と名づく。三に麁細に就きて分たば、小乗は総相麁観するが故に有量と名づけ、大乗は別相細観するが故に無量と名づくと云えり。又天台智顗は「勝鬘」並びに「南本涅槃経巻11」の説意に依り、四種の四諦を立てて之を化法の四教に配せり。四種とは一に生滅の四諦、二に無生滅の四諦、三に無量の四諦、四に無作の四諦なり。「法華経玄義巻2下」に依るに、此の中、生滅の四諦とは蔵教即ち小乗教の所説にして、因縁生滅の実有を認むるが故に生滅と名づく。即ち色心の無常逼迫するを苦諦とし、煩悩業の流動して生死を招くを集諦とし、子縛果縛の有を滅して無に帰するを滅諦とし、惑業を断じ、正智を起して涅槃に至るを道諦となすなり。滅諦をも生滅と称することは、蔵教は有為生滅の事に就きて四諦を説くが故なり。従って四諦の外に無為不生滅の真諦ありとす。是れ倶舎論等に滅諦即涅槃と説くに同じからず。無生滅の四諦とは略して無生の四諦とも云う。通教即ち大乗初門の所説にして、因縁諸法即空無生と説くが故に無生と名づく。即ち一切の生死は皆空にして逼迫の相なしと観ずるを苦諦とし、一切の惑業は皆空にして、和合して苦果を生ずることなしと観ずるを集諦とし、一切皆空にして特に滅すべきものなしと観ずるを滅諦とし、一切の道行は皆空にして能治の道亡ずとするを道諦と名づくとす。無量の四諦とは別教の所説にして、界内界外恒沙無量の差別を認むるが故に無量と名づく。即ち苦に無量の相あり、二乗の智眼を以っては知見すること能わず、唯菩薩のみ能く通達す。苦果を集むる惑業にも亦た無量の相あり、方便正修に依りて証せらるる涅槃にも亦た無量の相あり、涅槃の理を証する修道にも亦た無量の相、無量の差別あり、唯菩薩のみ能く通達する所なりとするを云う。無作の四諦とは円教の所説にして迷悟の当体即実相と作すが故に無作と名づく。即ち生死即如なれば苦の見るべきものなしと観ずるを苦諦とし、惑業本来清浄なれば集の断ずべきものなしと観ずるを集諦とし、生死即涅槃なれば滅の証すべきものなしと観ずるを滅諦とし、辺邪即中正なれば道の修すべきなしと観ずるを道諦となすなり。是れ仏の教法に蔵通別円の四種の別ありとなすが故に、随って四諦の理を観ずるにも亦た四種の浅深不同あるべきを示したるなり。又「長阿含巻8衆集経、9十上経」、「中阿含巻7象跡喩経、25念経」、「雑阿含経巻15、16」、「増一阿含経巻14、42」、「四諦経」、「阿那律八念経」、「転法輪経」、「仏本行集経巻34」、「賢愚経巻12」、「旧華厳経巻4、5」、「大方等大集経巻22」、「諸法無行経巻上」、「思益梵天所問経巻1解諸法品」、「大品般若経巻26差別品」、「大法炬陀羅尼経巻5四諦品」、「五分律巻15」、「善見律毘婆沙巻4」、「集異門足論巻7」、「品類足論巻6」、「法蘊足論巻6」、「舎利弗阿毘曇論巻4」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「解脱道論巻11、12」、「随相論」、「雑阿毘曇心論巻8」、「成実論巻2」、「中論巻4観四諦品」、「大智度論巻11、18、48、94」、「瑜伽師地論巻55、67、95」、「顕揚聖教論巻2」、「辯中辺論巻中」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6至10」、「成唯識論巻9」、「順正理論巻57、58」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻29」等に出づ。<(望)
  四聖種(ししょうしゅ):梵語 catvaara aarya- vaMzaaH の訳。巴梨語 cattaaro ariya- vaMsaa、四種の能く衆聖を生ずる種子の意。一に衣服喜足聖種(巴梨語 itariitara- ciivara- santuTThiyaa vaNNa- vaadii )、二に飲食喜足聖種(巴 itariitara- piNDa- paata- santuTThiyaa vaNNa- vaadii )、三に臥具喜足聖種(巴 itariitara- senaasana- santuTThiyaa vaNNa- vaadii )、四に楽断楽修聖種(巴 bhaavanaaraamo hoti bhaavanaarato pahaanaaraano hoti pahaanaarato )なり。「中阿含巻21説処経」に、「阿難、我れ本と汝の為に四聖種を説く。比丘比丘尼は麁素の衣を得て而も止足を知れ。衣の為の故に求めて其の意を満たさざれ。若し未だ衣を得ざるも、憂悒せず啼泣せず搥胸せず癡惑せざれ。若し衣を得るも染せず著せず、欲せず貪せず、触せず計せざれ。災患を見、出要を知りて衣を用いよ。此の事利の如く懈怠せずして正知せば、是れを比丘比丘尼の旧聖種に止住すと謂う。是の如く食と住処とに断を欲し断を楽い、修を欲し修を楽え」と云い、「大毘婆沙論巻181」に、「契経に説くが如し四聖種あり、一に依随所得食喜足聖種、二に依随所得衣喜足聖種、三に依随所得臥具喜足聖種、四に依有無有楽断楽修聖種なり」と云える是れなり。是れ比丘は衣食住の三に於いて足ることを知り、且つ自ら所応作の道に精進すべきことを説けるものなり。大毘婆沙論の連文に「問う世尊は何が故に此の契経を説くや、答う諸弟子の産業及び所作を安立せんが為の故なり。謂わく前の三は産業を安立し、第四は所作を安立す。前の三は産業を安立すとは、謂わく四種の業を捨てて一種の業を行ずるなり。四種の業を捨つとは一に農務を業となし、二に商売を業となし、三に傭作を業となし、四に自在を業となす。此に於いて皆捨つるなり。一種の業を行ずとは唯乞求を以って業となす」と云い、又「倶舎論巻22」に、「何の義を顕さんが為に四聖種を立つるや、諸弟子は俗の生具及び俗の事業を捨て、解脱を求めんが為に仏に帰して出家せしを以って、法王世尊は彼れを愍みて助道の二事を安立す。一には生具、二には事業なり。前の三は即ち是れ助道の生具、最後は即ち是れ助道の事業なり。汝等若し能く前の生具に依りて後の事業を作さば解脱久しきに非ずと。何が故に是の如きの二事を安立するや、四種の愛の生ずるを対治せんと欲するが故の為なり。故に契経に言わく、苾芻諦聴せよ、愛は衣服に因りて応に生ずべき時に生じ、応に住すべき時に住し、応に執すべき時に執すと。是の如く愛は飲食と臥具と及び有無有とに因りて皆是の如く説く。此の四を治せんが為に四聖種を説く」と云えり。之に依るに四聖種は俗の生具と俗の事業とを捨てて帰仏出家せし者に対し、助道の生具と助道の事業とを安立せられたるものなるを知るべし。即ち比丘等は農務、商売、傭作及び自在等の俗の産業を捨てて唯乞食を業とし、麁なる衣服飲食及び臥具に於いて足ることを知り、常に其れに対する貪愛を断ぜんことを楽欲し、斯くて生具を得ば其の事業として、五取蘊の有を断ぜんと楽欲し、五取蘊の当来断滅を修せんと楽欲するを名づけて四聖種となすなり。但し倶舎論等には第三を臥具となすも、前引中阿含並びに「倶舎釈論巻16」等には住処と名づけ、又「集異門足論巻8」に、「臥具とは謂わく院宇房堂楼閣台観、長廊円室龕窟廳庌草葉等の菴、土石等の穴なり」と云えば凡べて広く住処を意味するものというべし。又「大集法門経巻上」、「品類足論巻11」、「集異門足論巻6」、「大毘婆沙論巻96」、「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻14、25」、「順正理論巻59」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻29」、「大乗義章巻11」、「倶舎論光記巻22」、「釈氏要覧巻中」等に出づ。<(望)
  四沙門果(ししゃもんか):四種の聖者の位階を云う。謂わゆる預流果、一来果、不還果、阿羅漢果なり。『大智度論巻2上注:四果』参照。
  四知(しち):人の善悪の心を起すの時、四者直ちに之を知るを云う。謂わゆる天知る、地知る、傍人知る、自ら是れを知るなり。即ち「罵意経」に、「人の作す所の善悪は、四神有りて之を知る、一には地神之を知り、二には天神之を知り、三には傍らの人之を知り、四には自らの意之を知るなり」と云える是れなり。<(丁)
  四信(ししん):(一)真如及び三宝を信ずるを云う。一に根本を信じ、二に仏を信じ、三に法を信じ、四に僧を信ずるなり。「大乗起信論」に、「信心を説くに四種あり、云何が四と為す、一には根本を信ず、謂わゆる楽うて真如の法を念ずるが故なり。二には仏に無量の功徳ありと信ず、常に念じて親近し、供養し恭敬して善根を発起し、一切智を願求するが故なり。三には法に大利益ありと信じて、常に念じて諸波羅蜜を修行するが故なり。四には僧は能く正しく自利他利を修行すと信じて、常に楽うて諸の菩薩衆に親近し、如実の行を求学するが故なり」と云える是れなり。此の中、根本を信ずとは、真如は諸仏の師とする所にして、衆行の本源なり、常に之を信じて楽念観察すれば、空有能所等の一切対待の相を離るるを得べきが故なり。仏を信ずとは仏に無量の功徳ありと信じて、常に念じて親近供養し、速かに一切智を得んと願欲するが故なり。法を信ずとは、法は能く慳貪等の障を除きて大利益をなすと信じ、常に念じて諸波羅蜜を修行し、之に順ぜんことを願ずるが故なり。僧を信ずとは、僧は能く正しく自利他利の大行を修行すと信じて、常に楽うて諸の菩薩衆に親近し、如実の行を求学せんと欲するが故なり。「起信論疏筆削記巻18」に、此の四信は即ち真如を信じて仏の本となし、仏を信じて所成となし、法を信じて所依となし、僧を信じて所学となすものなりとし、且つ之を教理行果の四法に配せり。又「大乗起信論義疏巻下」、「同疏記巻下之下」、「同義記巻下末」等に出づ。<(望)(二)又四種の信義あり、一には諸行信義、二には、呵責有為信義、三には煩悩信義、四には清浄信義なり。即ち「月灯三昧経巻5」には、「童子、菩薩摩訶薩には復た四種の信義句あり、何等か四と為す、一には諸行信義句不可思議、二には呵責有為信義句不可思議、三には煩悩信義句不可思議、四には清浄信義句不可思議、是れを四種と為す」と云える是れなり。蓋し是れ菩薩は、六波羅蜜等の諸行を信じ、有為を呵責するを信じ、煩悩の苦あるを信じ、煩悩の滅、則ち清浄の境あるを信ずるなり。
  四道(しどう):二種の四道あり、(一)断惑証理の為の加行道、無間道、解脱道、勝進道の四種の道程。『大智度論巻17下注:四道』参照。(二)又四通行とも称す。四諦の理に通達し涅槃に趣向するに、依地と根の不同により四種の道あるを云う。即ち苦遅通行、苦速通行、楽遅通行、楽速通行なり。『大智度論巻18下注:四通行』参照。
  四摂法(ししょうぼう):梵語 catvaari saMgraha- vastuuni の訳。巴梨語 cattaari saMgaha- vatthuuni、四種の摂受の法の意。又四事摂法、四摂事、四集物と云い、略して四摂とも称す。即ち菩薩が衆生を摂受し、調熟する方法に四種あるを云う。一に布施摂 daana- saMgraha(巴梨語 daana- saMgaha )、二に愛語摂 priya- vaatita- s.(巴 eyya- vajja- s. )、三に利行摂 artha- caryaa- s.(巴 attha- cariyaa- s. )、四に同事摂 samaanaarthataa- s.(巴 samaanatthataa- s. )なり。「中阿含巻33善生経」に、「居士子、四摂事あり。云何が四となす、一には恵施、二には愛言、三には利行、四には等利なり」と云い、「大品般若経巻13聞持品」に、「是の諸の菩薩は菩薩道を行ずるの時、四事を以って無量百千の衆生を摂す。謂わゆる布施と愛語と利益と同事なり」と云い、又「集異門足論巻9」に、「四摂事とは一に布施摂事、二に愛語摂事、三に利行摂事、四に同事摂事なり」と云える是れなり。此の中、布施摂とは又布施摂事、布施随摂方便、随摂方便と云い、或いは恵施とも名づく。無所捨の心を以って財法二種の布施を行じ、以って能く衆生を摂するの謂いにして、即ち財を希う衆生の為には財を施して之を摂受し、法を希う衆生の為には法を施して之を摂受し、為に衆生をして親愛の心を生じ、随って道を受けて真理に住することを得しむるを云う。「集異門足論巻9」に、「云何が布施摂事なる、答う此の中、布施とは謂わく諸の施主が沙門、及び婆羅門、貧窮苦行道行乞者に、飲食湯薬衣服花鬘途散等の香、房舎臥具灯燭等の物を布施する、是れを布施と名づく。復た次ぎに世尊の手長者の為に説くが如し、長者当に知るべし、諸の布施の中には法施前勝なりと。是れを布施と名づく。摂事とは謂わく此の布施に由りて他に於いて等摂し、近摂し近持して相親附せしむ。是の如く他の有情に布施して能く等摂し、能く近摂し、能く近持して能く親附せしむ。是の故に名づけて布施摂事と為す」と云い、「大智度論巻66」に、「財施法施の二種を以って衆生を摂取す」と云い、又「瑜伽師地論巻38」に、「若し諸の菩薩先づ布施を行ずる、当に知るべし是れを随摂方便と名づく。何を以っての故に、先づ種種の財物を以って布施して有情を饒益し、彼れをして所説を聴受し、教を奉じて行ぜしめんと欲するが為の故なり」と云える是れなり。二に愛語摂とは又愛語摂事、愛語摂方便、能摂方便と云い、又愛言とも名づく。美輭の言を以って一切の根情に随順し、衆生の聞かんと楽う所を開喩するの謂にして、為に衆生をして親愛の心を生じて菩薩に依附し、随って道を受け真理に住することを得しむるを云う。「集異門足論巻9」に、「云何が愛語摂事なる、答う此の中、愛語とは謂わく可喜語、可味語、舒顔平視語、遠離顰蹙語、含笑前行語、先言慶慰語、可愛語、善来語なり。謂わく是の言を作さく、善来具寿、汝世事に於いて忍ぶべく度るべく、安楽にして住するや否や。汝飲食衣服臥具及び余の資縁に於いて乏少あることなきや。諸の是の如き等の種種安慰問訊の語言を善来語と名づけ、此れ及び前説を総じて愛語と名づく。復た次ぎに世尊の手長者の為に説くが如し、長者当に知るべし、諸の愛語の中に最も勝たる者は、謂わく善く諸の善男子善女人等を勧導して属耳聴法せしめ、時時説法し、時時教誨し、時時決択する、是れを愛語と名づく」と云い、「大智度論巻66」に、「愛語に二種あり、一には随意愛語、二には其の所愛の法に随って為に説く。是の菩薩未だ得道せざれば、衆生を憐愍して自ら憍慢を破し意に随って説法す、若し得道せば応に度すべき所の法に随って為に説き、高心富人には為に布施を讃す、是の人能く他の物利名称福徳を得るが故なり。若し為に持戒を讃じ持戒を毀呰せば、則ち心喜楽せず。是の如き等は其の所応に随って而も為に説法す」と云い、又「瑜伽師地論巻38」に、「彼彼の処に於いて愚癡の者あり、彼の所有の愚癡を除きて余なからしめんと欲するが為の故に、其れを摂受して正理を瞻察せしむ。是の如く愛語するを当に知るべし名づけて能摂方便と為す」と云える是れなり。三に利行摂とは又利行摂事、利益摂、令入方便、度方便と云い、或いは同行、同利等と名づく。身口意の行を起すに随って能く衆生をして各利益に霑わしむるの謂にして、衆生は勝利を蒙り、所得の利を欣ぶが故に為に親愛の心を生じ、菩薩に依附して道を受け真理に住することを得るに至るを云う。「集異門足論巻9」に、「云何が利行摂事なる、答う此の中、利行とは謂わく諸の有情の或いは重病に遭い、或いは厄難に遭いて困苦救うこと無からんに、便ち其の所に到りて慈愍心を起し、身語業を以って方便供侍し、方便救済する是れを利行と名づく。復た次ぎに世尊の手長者の為に説くが如し、長者当に知るべし、諸の利行の中に最も勝たる者は、謂わく不信の者を方便勧導し、調伏し安立し信をして円満ならしめ、若しは破戒の者を方便勧導し、調伏し安立して戒をして円満ならしめ、若しは慳貪の者を方便勧導し、調伏し安立して施をして円満ならしめ、若しは悪慧の者を方便勧導し、調伏し安立して慧をして円満ならしむ。諸の是の如き等を説いて利行と名づく」と云い、「大智度論巻66」に、「利益に亦た二種あり、一には今世利と後世利にして、為に説法し、法を以って治生し利事を勤修す。二には未信を教えて信ぜしめ、破戒を持戒せしめ、寡識を多聞ならしめ、不施者を布施せしめ、癡者に智慧を教え、是の如き等なり。善法を以って衆生を利益す」と云い、「瑜伽師地論巻38」に、「次に利行を行じ、彼の有情を抜きて不善処を出で、其の善処に於いて勧導し調伏して安処を建立す。是の如く利行するを当に知るべし名づけて令入方便と為す」と云える是れなり。四に同事摂とは又同事摂事、同事随順方便、随順方便、随転方便と云い、或いは同利とも名づく。菩薩法眼を用いて明に衆生の根縁を見、一切同欣の者あるに随って即ち形影を分散し、普く其の光に和して彼の事業に同じ、各利益に霑わしむるの謂にして、為に衆生をして親愛の心を生じ、菩薩に依附して道を信受し涅槃に住することを得しむるを云う。「集異門足論巻9」に、「云何が同事摂事なる、答う此の中、同事とは、謂わく断生命に於いて深く厭離する者に、善き助伴と為りて断生命を離れしめ、若しは不与取に於いて深く厭離する者に善き助伴と為りて不与取を離れしめ、若しは欲邪行に於いて深く厭離する者に、善き助伴と為りて欲邪行を離れしめ、若しは虚誑語に於いて深く厭離する者に善き助伴と為りて虚誑語を離れしめ、若しは飲諸酒に於いて深く厭離する者に、善き助伴と為りて飲諸酒を離れしむ、諸の是の如き等を説いて同事と名づく。復た次ぎに世尊の手長者の為に説くが如し、長者当に知るべし、諸の同事の中に最も勝たる者は、謂わく阿羅漢、不還、一来、預流果等が阿羅漢不還一来預流果のために同事を為すなりと。是れを同事と名づく」と云い、「大智度論巻66」に、「同事とは、菩薩は衆生を教化して善法を行ぜしめ、其の所行に同ずるなり。菩薩は善心にして、衆生悪心なれば、能く其の悪を化して己が善に同ぜしむるなり」と云い、又「瑜伽師地論巻38」に、「若し諸の菩薩是の如く方便し、諸の有情をして趣入を得しめ已りて、最後に其れが為に正事業に於いて同じく共に修行し、彼れをして随転せしむ。是の因縁に由りて所化の者をして是の説を作さざらしむ、汝自ら円満の浄信と円満の尸羅と円満の恵捨と円満の智慧あることなく、何に頼りてか善に於いて勧導し、他の諌誨呵擯に於いて与に憶念を作さんと。是の故に菩薩所行の第四の同事摂事は、当に知るべし是れを随転方便と名づく」と云える是れなり。又「瑜伽師地論巻43」には、此の四摂法に各各自性摂事、一切摂事、難行摂事、一切門摂事、善士摂事、一切種摂事、遂求摂事、此世他世楽摂事、清浄摂事の九種の摂事あることを説き、一一広く之を分別せり。蓋し四摂法は菩薩の化他方便行にして、諸位に之を通修するものなりと雖も、亦た其の増上の義により地位を分別することあり。「仁王護国般若波羅蜜多経巻上」に、歓喜地離垢地発光地に於いて能く四摂法を行ずと云い、「梵網経巻上」には、施心、好語心、益心、同心と名づけて、之を地前十長養十心中に摂し、又「大乗義章巻11」に、「地経の中の如きは、菩薩の初地に布施愛語の二増上し、第二地の中に愛語増上し、第三地の中に利行増上し、第四地の中に同利増上し、五地已上は四摂斉等なり。何故に初地に布施と愛語と増上するや、釈して言わく、初地は檀行をもて他を利し、彼れ能く財施の故に施増上し、彼れ法施を修するが故に愛語増上す。何故に二地に愛語増上するや、彼の地は戒を持して口の四過を離る。是れ愛語の摂なるが故に、二地の中には愛語増上するなり。何故に三地に利行増上するや、彼の衆生に於いて十種の救度の行を修するが故に、三地の中に利行増上するなり。何故に四地に同利増上するや、彼の四地中には衆生を捨てず、道品を修行するが故に同利増上す」と云えり。又「増一阿含経巻22」、「長阿含巻8衆集経」、「大集法門経巻上」、「大般若経巻438」、「維摩経巻上」、「旧華厳経巻26」、「阿差末菩薩経巻5」、「大方等大集経巻29、48」、「菩薩地持経巻7、8」、「瑜伽瑜祇経」、「大智度論巻88」、「大乗荘厳経論巻8」、「摂大乗論本巻中」、「唐訳摂大乗論釈巻5」、「大乗義章巻10」、「法界次第初門巻下之下」、「勝鬘宝窟巻中本」等に出づ。<(望)
  四依(しえ):梵語 catvaari pratisaraNaaniの訳。所依となるべき法及び人に四種の別あるを云う。(一)法の所依。人及び語等に依らずして、法及び義等に依るべきものなるを云う。一に依義不依語 artha- pratisaraNena bhavitavyaM na vyaJjana- pratisaraNena、二に依智不依識 jJaana- pratisaraNena bhavitavyaM na vijJaana- pratisaraNena、三に依了義経不依未了義経 niitaartha- suutra- pratisaraNena bhavitavyaM na neyaartha- suutra- pratisaraNena、四に依法不依人 dharma- pratisaraNena bhavitavyaM na pudgala- pratisaraNena なり。「維摩経巻下法供養品」に、「義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ、法に依りて人に依らざれ」と云い、又「大般涅槃経巻6」に、「当に四法に依るべし、何等をか四となす、法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」と云える是れなり。此の中、依義不依語とは又随義不随字、或いは取義不取語に作る。即ち文字語言に依らずして、其の中の義旨に依るべきを云う。依智不依識とは又随智不随識、帰慧不取所識に作る。即ち情識に依らずして、智に依るべきを云う。依了義経不依未了義経とは、又随了義経不随不了義経、或いは帰於要経不迷惑に作る。即ち不了義経に依らずして、如来の決定了義経に依るべきを云う。依法不依人とは又随法不随人、或いは帰於法而不取人に作る。即ち人に依らずして法に依るべきを云うなり。「大智度論巻9」に、「法に依るとは法に十二部あり、応に此の法に随うべく、応に人に随うべからず。義に依るとは、義の中には好悪罪福虚実を諍うことなきが故なり。語は以って義を得るも、義は語に非ざるなり。人の指を以って月を指して以って惑者に示すが如き、惑者は指のみを視て而も月を視ず。人之に語りて言わく、我れ指を以って月を指して汝をして之を知らしむ、汝何ぞ指のみを看て而も月を視ざるやと。此れも亦た是の如く、語を義の指と為す、語は義に非ざるなり。是を以っての故に応に語に依るべからず。智に依るとは、智は能く籌量して善悪を分別するも、識は常に楽を求めて正要に入らず。是の故に応に識に依るべからずと言う。了義経に依るとは、一切智を有するの人は仏第一なり、一切の諸の経書中には仏法第一なり、一切の衆生中には比丘僧第一なり。布施は大富を得、持戒は天に生ずることを得と。是の如き等は是れ了義経なり。説法師の如き、説法に五種の利あり、一は大富、二には人に愛せられ、三には端正、四には名声、五には後に涅槃を得と。是れを未了義と為す」と云えり。又「大般涅槃経巻6」には、法に依るとは即ち法性に依るを云い、人に依らずとは声聞に依らざるを云い、義に依るとは如来常住不変の義に依るを云い、語に依らずとは諸論綺飾の文辞に依らざるを云い、智に依るとは如来即ち是れ法身なりと知る真智に依るを云い、識に依らずとは、如来の功徳を知る能わざる声聞の知識に依らざるを云い、了義経に依るとは無上大乗を了義経とし、不了義経に依らずとは声聞乗を不了義となすと云えり。又「大方等大集経巻29」にも亦た詳説あり。又「大方便仏報恩経巻7」、「阿差末菩薩経巻6」、「菩薩善戒経巻6助道品」、「瑜伽師地論巻45」、「注維摩詰経巻10」、「維摩義記巻4末」、「同義疏巻6」等に出づ。(二)人の四依。即ち依るべき人に四種の別あるを云う。一に具煩悩性の人、二に須陀洹及び斯陀含の人、三に阿那含の人、四に阿羅漢の人なり。「大般涅槃経巻6」に、「是の大涅槃微妙の経中に四種の人あり。能く正法を護り、正法を建立し、正法を憶念し、能く多く利益し、世間を憐愍し、世間の依と為りて人天を安楽す。何等をか四と為す、人あり世に出でて煩悩性を具す、是れを第一と名づけ、須陀洹の人、斯陀含の人、是れを第二と名づけ、阿那含の人是れを第三と名づけ、阿羅漢の人是れを第四と名づく。是の四種の人は世に出現して能く多く利益し、世間を憐愍し、世間の依と為りて人天を安楽す」と云える是れなり。是れ蓋し此等の四種の人は能く世間を利益し、人天を安楽するが故に以って世の依憑とするに足るとなすの意なり。但し此の四依の人を大乗の階位に配するに関しては諸説あり。又「大般泥洹経巻4」、「大般涅槃経集解巻15」、「大乗義章巻11」、「四分律行事鈔資持記巻上一之一」等に出づ。<(望)
  四通達善根(しつうだつぜんごん):『大智度論巻18上注:四善根位』参照。
  四通行(しつうぎょう):梵語 catasraH pratipadaH の訳。巴梨語 catasso paTipadaa、四種の通行の意。又四種通行、四正行、四事行跡、或いは四道とも名づく。即ち四諦の理に通達し涅槃に趣向するに、依地と根との不同あるが故に四種の行の別を生ずるを云う。一に苦遅通行 duHkhaa pratipad dandhaabhjJaa(巴 dukkhaa paTipadaa dandhaabhiJJaa )、二に苦速通行 duHkhaa pratipat kSipraabhijJaa(巴 dukkhaa paTipadaa khippaabhiJJaa )、三に楽遅通行 sukhaa pratipad dandhaabhjJaa(巴 sukhaa paTipadaa dandhaabhiJJaa )、四に楽速通行 sukhaa pratipat kSipraabhijJaa(巴 sukhaa paTipadaa khippaabhiJJaa )なり。「長阿含巻8衆集経」に、「復た四法あり、謂わく四道なり。苦遅得、苦速得、楽遅得、楽速得なり」と云い、「大毘婆沙論巻93」に、「問う、世尊は何が故に一二三を広じ、十二等を略して是の如き四通行を建立するや。答う、三事を以っての故なり、一に地を以っての故に、二に根を以っての故に、三に補特伽羅を以っての故なり。此れ則ち総説なり。若し別説せば但だ二事を以ってす、謂わく地の故に根の故なり。或いは地の故に補特伽羅の故なり。地の故に根の故にとは、謂わく未至定、静慮中間、三無色定の諸の鈍根の者の所有の聖道を苦遅通行と名づけ、即ち此の諸地の諸の利根の者の所有の聖道を苦速通行と名づけ、四根本静慮の諸の鈍根の者の所有の聖道を楽遅通行と名づけ、即ち此の諸地の利根の者の所有の聖道を楽速通行と名づくるなり。地の故に補特伽羅の故にとは、謂わく未至定、静慮中間、三無色定の随信行と信勝解と時解脱の者の所有の聖道を苦遅通行と名づけ、即ち此の諸地の随法行と見至と不時解脱の者の所有の聖道を苦速通行と名づけ、四根本静慮の随信行と信勝解と時解脱の者の所有の聖道を楽遅通行と名づけ、即ち此の諸地の随法行と見至と不時解脱の者の所有の聖道を楽速通行と名づくるなり」と云い、「倶舎論巻25」に、「経に通行を説くに総じて四種あり、一に苦遅通行、二に苦速通行、三に楽遅通行、四に楽速通行なり。道の根本四静慮に依りて生ずるを楽通行と名づく、支を摂受し止観平等にして任運に転ずるを以っての故なり。道の無色未至中間に依るを苦痛行と名づく、支を摂せず止観等しからずして、艱辛に転ずるを以っての故なり。謂わく無色定は観減じ止増し、未至と中間は観増し止減ず。即ち此の楽苦の二通行の中、鈍根を遅と名づけ、利根を速と名づく。二行の境に於いて通達するに、稽遅なるが故に遅通と名づけ、此れに翻ずるを速と名づく。或いは遅鈍の者の起す所の通行を遅通行と名づけ、速は此れに相違す」と云える是れなり。此の中、苦痛行とは、未至、中間及び下三無色定に依りて離染得果するに、未至と中間は観増し止減じ、下三無色定は観減じ止増して、共に止観均等ならざるが故に転ずること苦艱なるを云う。就中、随信行と信勝解と時解脱の人は根鈍劣なるを以って、所観の境に於いて通達すること遅緩なるを苦遅通行、又は苦遅得と名づけ、随法行と見至と不時解脱の人は根優利なるを以って、所観の境に於いて通達すること速疾なるを苦速通行、又は苦速得と名づく。楽通行とは、四根本静慮に依りて離染得果するに、根本静慮は諸の禅支を摂受して止観均等なるが故に、転ずること任運容易なるを云う。就中、随信行等の人は鈍根なるを以って通達作証すること遅緩なるを楽遅通行、又は楽遅得と名づけ、随法行等の三人は利根なるを以って通達作証すること速疾なるを楽速通行、又は楽速得と名づく。即ち苦楽は依地の定の難易に由り、遅速は根の利鈍に由りて分別せるなり。又「順正理論巻71」には、之を仏及び二乗に例し、「大覚は楽速通行に依る、第四静慮を以って依となす。極利根なるに由り、正決定に入り、無上正等菩提を証得す。独覚の中に於いて麟喩覚は大覚に説くが如し。余は則ち不定なり。到究竟の二声聞の中に於いて、舎利子は苦速通行及び楽速通行に依りて聖に入り極果を証す。彼れ未至に依りて正決定に入り、第四定に依りて漏尽を得るが故なり。目連は唯苦速通行に依る、謂わく未至に依りて正決定に入り、無色定に依りて漏尽を得るが故なり」と云えり。又「増一阿含経巻23」、「長阿含巻12自歓喜経」、「集異門足論巻7」、「法蘊足論巻3通行品」、「品類足論巻11」、「大毘婆沙論巻94」、「阿毘曇心論巻4」、「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻63」、「順正理論巻71」、「大乗阿毘達磨雑集論巻10」、「四諦論巻4」、「大乗義章巻11」、「倶舎論光記巻25」等に出づ。<(望)
  四天人輪(してんにんりん):金銀銅鉄の四種の輪宝なり。『大智度論巻2下注:転輪聖王』参照。
  四堅法(しけんぽう):一には説堅、二には定堅、三には見堅、四には解脱堅なり。即ち「成実論巻2」に、「説堅とは若し一切は有為にして皆無常、苦なり。一切は無我にして寂滅、涅槃なりと説く、是れを説堅と名づく。是の聞慧満じて、此れに因って定を得るを、思慧満ずと名づく。此の定に因るが故に有為法の無常、苦等を観じ、能く正見を得るを修慧満ずと名づく。三慧もて果を得るを解脱堅と名づく」と云える是れなり。此の中に就いて、一に説堅とは説法に於いて聞法に由るが故に聞慧満ずるを云い、二に定堅とは聞慧満ずるに因りて定を得るが故に思慧満ずるを云い、三に見堅とは是の定に因るが故に正見を得て、故に修慧満ずるを云い、四に解脱堅とは上の三慧を得るに因って果を得ると解脱堅と云うとなすものなり。
  四無所畏(しむしょい):『大智度論巻5下注:四無所畏』参照。
  四無量心(しむりょうしん):『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  四聖種(ししょうしゅ):聖者になるための行法。
    (1~3)衣服、飲食、臥具は得る所に随って喜足する。
    (4)楽しんで悪を断ち、楽しんで善を修める。
  四知(しち):人が善悪の心を起す時、四者が直ちにこれを知る。謂わゆる天知る、地知る、傍らの人知る、自らこれを知る。『罵意経』に出る。
  四信(ししん):真如と仏法僧を信じること。
    (1)信根本:真如の法は諸仏の師にして、衆行の源である。故に根本という。
    (2)信仏:仏の大功徳を信楽する。
    (3)信法:法の大利益を信楽する。
    (4)信僧:僧の大行を信楽する。
  四道(しどう):煩悩を断つ過程を四に分けたもの。
    (1)加行道(けぎょうどう):煩悩を断とうと願う段階。
    (2)無間道(むげんどう):無礙道(むげどう)、直接煩悩を断つ段階。休む間がないので無間といいう。
    (3)解脱道(げだつどう):煩悩を一応断った段階。
    (4)勝進道(しょうじんどう):さらに一層の完成を目指す段階。
  四摂法(ししょうほう):菩薩は次の四つの事を心がけて人々を導く。
    (1)布施(ふせ):財または法を施す。
    (2)愛語(あいご):優しい言葉をかける。
    (3)利行(りぎょう):身体と口と意(こころ)のすべてで以って衆生を利益する。
    (4)同事(どうじ):衆生と同じ立場に身を置いて、苦楽を共にする。
   四依(しえ):比丘の依るべきもの。
    (1)衣は糞掃衣による。
    (2)食は乞食による。
    (3)住は樹下に坐す。
    (4)薬は腐爛薬(ふらんやく、牛の尿を醗酵させたもの)による。
  四善根位(しぜんこんい):初めて無漏(煩悩がまったく残っていない)の慧(心の働き)が生じて四聖諦の理を明了に見る位を見道(けんどう)というが、それに至るまでの四つの位。
    (1)煖法(なんぽう):温かみが火の前ぶれであるように、煩悩を焼き尽くす見道の無漏の慧の火に近づき、有漏(煩悩が残っている状態)の善根を生ずる位。
    (2)頂法(ちょうぼう):山の頂上にいるように、進むか退くかの境目にいる位。
    (3)忍法(にんぽう):四諦の理を明了に認め善根が定まって動かない位。
    (4)世間第一法(せけんだいいっぽう):世間、すなわち有漏法の中の最上の善根を生じる位。
  四天人輪:転輪聖王の持つ金銀銅鉄の四種の輪宝?
  四無所畏(しむしょい):以下のことに対する揺るぎない自信。
    (1)あらゆる物事についてすべて知っているということ。
    (2)すべての煩悩は断ち尽くされて少しの残りもないということ。
    (3)修行の妨げになる物事はすべて説き尽くしたということ。
    (4)苦しみの世界からの解脱する方法についてすべて説き尽くしたということ。
  四堅法(しけんぽう):説法を聞いて解脱するまでの過程。
    (1)説堅:一切の有為法は皆無常にして苦である、一切は無我である等を説く者がいる。
    (2)定堅:説くを聞いて聞慧が満ち、これに因りて定を得、思慧が満ちる。
    (3)見堅:この定に因り、有為法は無常であり苦である等を観じて、正見を得、また修慧が満ちる。
    (4)解脱堅:上の三慧により解脱の果を得る。(『成実論巻2』)
  四無量心(しむりょうしん):四等心(しとうしん)、菩薩は慈悲喜捨の四が無量でなくてはならない。またこれは平等の心により起こるため四等ともいう。 所縁の境に従って無量といい、能起の心に従って等という。
    (1)慈(じ):菩薩は『衆生は常に安穏楽事を求めている。』ことを知り、常にこれを以って饒益(にょうやく)する。この慈心により、衆生の中の瞋りの感情を除く。
    (2)悲(ひ):菩薩は『衆生が五道(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)の中で、種々に身の苦しみ心の苦しみを受ける。』ことを知り、常に哀れんで苦しみを抜く。この悲心により、衆生の中の悩みの感情を除く。
    (3)喜(き):菩薩は衆生に楽を与えて歓喜を得なければならない。この喜心により、菩薩は常に楽しむ。
    (4)捨(しゃ):菩薩は上に挙げた三種の心を捨て、ただ衆生を心に掛けながら憎まず、愛することもない。この捨心により、衆生の中の愛憎の感情を除く。
復知五無學眾五出性五解脫處五根五力五大施五智五阿那含五淨居天處五治道五智三昧五聖分支三昧五如法語道。如是等無量五法門。 復た知る、五無学衆、五出性、五解脱処、五根、五力、五大施、五智、五阿那含、五淨居天処、五治道、五智三昧、五聖分支三昧、五如法語道なり、是れ等の如き無量の五法門なり。
復た、
こう知る、――
『五法』とは、
『五無学衆』、
『五出性』、
『五解脱処』、
『五根』、
『五力』、
『五大施』、
『五智』、
『五阿那含』、
『五淨居天処』、
『五治道』、
『五智三昧』、
『五聖分支三昧』、
『五如法語道であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『五法の門である!』。
  五無学衆(ごむがくしゅ):無学法身の五衆の意。『大智度論巻8下注:五分法身』参照。
  五出性(ごしゅつしょう):出は出離/出要(梵 nissaraNa )の略、出離の要道の性に五種あるの意。即ち欲、瞋、嫉、色、身見を云う。「長阿含経巻8」に出づ。
  五解脱処(ごげだつじょ):解脱を得べき五種の処の意。即ち一に仏菩薩説法処、二に善諷誦経処、三に為他説法処、四に独思量諸法処、五に善取定相処を云う。「成実論巻14」に、「五解脱処あり、一には若しは仏及び尊勝比丘、之が為に法を説き、其の所聞に随うて則ち能く語言、義趣に通達し、通達するを以っての故に心に歓喜を生じ、歓喜すれば則ち身猗り、身猗れば則ち楽を受け、楽を受くれば則ち心摂す、是れ初解脱処なり。二には善く経を諷誦し、三には他の為に法を説き、四には独処に諸法を思量し、五には善く定相を取る」と云える即ち是れなり。
  五根五力(ごこんごりき):『大智度論巻15下注:五根、五力』参照。
  五大施(ごだいせ):即ち五戒なり。「増一阿含経巻20」に、「何者か是れ五大施なる、目連報えて言わく、一には不得殺生、此れを名づけて大施と為す、長者、当に形寿を尽くして、之を修行し、之を行ずべし。二には不盗を名づけて大施と為す、当に形寿を尽くして修行すべし。不婬、不妄語、不飲酒は、当に形寿を尽くして、之を修行すべし」と云い、又「五大施経」に、「仏世尊、一時舎衛国祇樹給孤獨園に在りて、苾芻衆と倶なり。仏の諸の苾芻に告げて言わく、五種の大施あり、今、汝が為に説かん、何等をか五と為す、謂わゆる一には不殺生、是れを大施と為す、二には不偸盗、三には不邪染、四には不妄語、五には不飲酒、是れを大施と為す。何の義を以っての故に、不殺行を持して大施と名づくる、謂わゆる不殺の故に、能く無量の有情の与に其の無畏を施す、無畏を以っての故に、無怨無憎無害なり、彼の無量の有情、無畏を得るに由りて已に怨憎害すること無し、已に乃ち天上人間に於いて安隠楽を得る、是の故に不殺を名づけて、大施と為す。不偸盗、不邪染、不妄語、不飲酒も亦た復たかくの如し」と云える是れなり。
  五智(ごち):五種の智を云う。即ち一には法住智、二には泥洹智、三には無諍智、四には願智、五には辺際智なり。「成実論巻16五智品」に、「五智は法住智、泥洹智、無諍智、願智、辺際智なり。諸法の生起を知るを法住智と名づく。生の老死に縁じ、乃至無明の行に縁ずるが如し。有仏にも無仏にも此の性は常住するを以っての故に法住智と曰う。此の法の滅するを泥洹智と名づく。生滅するが故に老死滅す、乃至無明滅するが故に行滅するが如し。(中略)無諍智とは何なる智を以ってしても他と諍わざるに随い、此れを無諍と名づく。有る人は慈心是れなり、慈心を以っての故に衆生を悩ませずと言い、復た有る人は空行是れなり、泥洹を楽うを以っての故に諍う所無しと言い、有る人は第四禅に在れば此れ必ずしも爾らず、是の阿羅漢は此の智を以って心を修し、皆諍う所無しと言う。願智とは諸法の中に於ける無障礙智を名づけて、願智と為す。(中略)辺際智とは随行者の最上智を得るに、一切の禅定の勲修増長するを以って、若しは寿命等を増損する中に於いて自在を得る力を、辺際智と名づく」と云える是れなり。
  五阿那含(ごあなごん):又五種不還とも称す。『大智度論巻18下注:阿那含』参照。
  五種不還(ごしゅふげん):不還果の聖者の般涅槃に至るまでの遅速等により五種の別あるを云う。『大智度論巻18下注:阿那含』参照。
  阿那含(あなごん):梵語 anaagaamin、又阿那伽弥、阿那伽迷に作る。不還、不来、又は不来相と訳す。声聞四果の第三、欲界九品の惑を断尽し、再び欲界に還り来たらざる聖者の名。「大智度論巻32」に、「阿那を不と云い、伽弥を来と名づく、是れを不来相と名づく。是の人は欲界の中に死して色界無色界の中に生ず。彼に於いて漏尽きて復た来生せず」と云い、「大乗義章巻11」に、「阿那含は此に不還と名づく。小乗法の中に、更に欲界に還りて身を受けず、阿那含と名づく」と云える是れなり。即ち此の聖者は欲界潤生の惑を全断せるが故に、欲界に還り来たらざることを説くなり。又此の九品全断の位を阿那含果と名づくるに対し、其の中の七品或いは八品を断じたる位を阿那含向と称す。又阿那含向の中に於いて、欲惑の七八品を断じ、余の一二品を対治すべき無漏の根を成じ、更に欲有の余の一生を受くべきものを一間 ekaviicikaと名づく。又阿那含果の聖者が色界又は無色界に生じて般涅槃する遅速等に由りて、中般 antara- pariNirvaayin、生般 upapaadya- pa.、有行般 saabhisaMskaara- pa.、無行般 anabhisaMskaara- pa.、上流般 uurdvasrota- pa. の五種の別を生ず。是れを五種不還と名づく。中につき中般は此の聖者が欲界に没して、色界に生ぜんとする時、其の中有に於いて阿羅漢果を証し、般涅槃するをいう。これに亦た速般と非速般と経久般との三の別あり。生般とは、色界に生じ已りて久しからずして能く聖道を起し、上地の惑を断じて般涅槃するをいい、有行般とは、色界に生じて長時に加行勤修し、後遂に般涅槃するをいい、無行般とは、色界に生じて功力を加えず、久しきを経て自然に上地の惑を断じて般涅槃するをいい、上流般とは先づ色界初禅に生じ、それより漸次上生して色究竟天、又は有頂天に至りて般涅槃するをいう。此の上流般に亦た楽慧、楽定の二種あり。楽慧とは智慧を愛楽し、静慮を雑修して色界の最高処たる色究竟天に生じ、般涅槃するものをいい、楽定とは定を愛楽し、静慮を雑修せずして上界に流生し、終に無色界の最高処たる有頂天に至りて円寂を証するをいうなり。又此の二種の上流に通じて三種の別あり、一に全超とは上根の機にして、即ち凡べて中間の諸天を超えて、初禅より直に色究竟天、若しくは有頂天に転生するをいい、二に半超とは中根の機にして、即ち中間の一乃至数天を超越するものをいい、三に遍没とは下根の機にして、即ち遍く諸天に受生するをいう。此の中、中般の三種と上流般の三種とを別開すれば、すべて九種となるが故に、之を九種不還と名づけ、又唯だ上流般の三種のみを開すれば、七種となるが故に之を七善士趣と名づく。又五種不還の中、生般、有行般、無行般を合して一の生般とし、之を中般及び上流般に並べて三種般と称することあり。又此の五種不還の外に、第六に無色般、第七に現般を加えて七種不還とするの説あり。之に従えば中般乃至上流般の五種は、色界に行くものを称し、無色般は上流中より別開せしものにして、即ち特に無色界に行き般涅槃するものを称す。又現般は色界若しくは無色界に行かず、即ち欲界に於いて般涅槃するものをいうなり。「中阿含経巻2、30」、「雑阿含経巻27」、「坐禅三昧経巻下」、「大毘婆沙論巻174、175」、「顕揚聖教論巻3」、「倶舎論巻24」、「同光記巻24」、「大乗義章巻17本」、「大乗法苑義林章巻5本」、「慧苑音義巻上」等に出づ。<(望)
  五淨居天処(ごじょうごてんじょ):聖者の居住する五種の天の意。『大智度論巻9上注:五淨居天』参照。
  五治道(ごじどう):不明。
  五智三昧(ごちさんまい):種種の五智三昧あり、(一)五種の三昧を云う。一には無食三昧、二には無過三昧、三には身意清浄一心三昧、四には因果俱楽三昧、五には常念三昧なり。即ち奢摩他(翻じて定、或いは止と訳す)に五種の別あるの意なり。「大般涅槃経巻30」に、「諸仏世尊の定慧等の故に明に仏性を見ること了了無礙にして、掌中の菴摩勒果を観るが如し。仏性を見る者を名づけて捨相と為す。奢摩他の者を名づけて能滅と為す、能く一切の煩悩結を滅する故に。又奢摩他の者を名づけて能調と曰う、能く諸根の悪不善を調するが故に。又奢摩他の者を名づけて寂静と曰う、能く三業をして寂静を成さしむるが故に、又奢摩他の者を名づけて遠離と曰う、能く衆生をして五欲を離れしむるが故に。又奢摩他の者を名づけて能清と曰う、能く貪欲瞋恚愚癡の三濁法を清むるが故に、是の義を以っての故に、故に定相と名づく。(中略)善男子、奢摩他の者に二種あり、一には世間、二には出世間なり。復た二種有り、(中略)復た五種あり、謂わゆる五智三昧なり、何等をか五と為す、一には無食三昧、二には無過三昧、三には身意清浄一心三昧、四には因果俱楽三昧、五には常念三昧なり」と云える是れなり。(二)如来の是処非処力を云う。「阿毘曇毘婆沙論巻16」に、「如来に五聖智三昧有り、此れも亦た是れ是処非処力なり。五智とは法智、比智、道智、尽智、無生智なり」と云える即ち是れなり。(三)聖者の三昧には五種の智の浅深あるを云う。「成実論巻12」に、「問うて曰わく、経中に聖五智三昧を説く、何者か是れなる。答えて曰わく、仏自ら説く、行者は是の念を作す、我が此の三昧は聖清浄なりと、是れを初智と名づく。此の三昧は凡夫の近づく所に非ず、是れ智者の讃ずる所なりと、是れ第二智なり。此の三昧は寂滅妙離の故に得と、是れ第三智なり。此の三昧は現在楽にして後に楽報を得と、是れ第四智なり。此の三昧は我れ一心に入り一心に出づと、是れ第五智なりと。仏は示す、定中にも亦た智慧あり、但だ心を繋くるに非ずと。行者は定を修習する時、若しは中に於いて煩悩を生ずるに、智を生じて此の煩悩を除き、三昧をして聖清浄為らしめんと欲す、是れを初智と名づく。聖清浄とは、謂わゆる凡夫の近づく所に非ず、是れ智者の讃ずる所なり。凡夫に非ずとは、謂わく諸の聖人は智を得るを以っての故に凡夫と名づけず、此の智は能く仮名を破す、是れ第二智なり。諸の煩悩を薄め、貪等の煩悩滅するが故に寂滅と名づく、寂滅の故に妙にして、諸の煩悩を離るるが故に名づけて離と為すを得、此れを得れば皆是れ離欲道なり、是れ第三智なり。煩悩の断を証するに随い、安隠寂滅を得、熱を離るる楽の故に現楽後楽と名づく、現楽を煩悩を離るる楽と名づけ、後楽は謂わゆる泥洹の楽なり、是れ第四智なり。行者は常に無相心を行じ、故に常に一心に出入す、是れ第五智なり。是の故に若し未だ此の第五智を生ぜざる者は、応に生ずべし、若し生ぜば即ち三昧の果を得ん」と云える是れなり。
  五聖分支三昧(ごしょうぶんしさんまい):四禅の三昧中に、喜、楽、清浄心、明相、観相の五支分あるを云う。又五聖枝三昧とも称す。『大智度論巻18下注:五聖枝三昧』参照。
  五聖支三昧(ごしょうしさんまい):四禅の三昧中に、喜、楽、清浄心、明相、観相の五支分あるを云う。又五聖支分三昧とも称す。即ち「成実論巻12五聖枝三昧品」に、「経中に説く、五聖枝三昧とは、謂わく喜、楽、清浄心、明相、観相なり。喜は是れ初禅二禅の喜相同じきが故に名づけて一枝と為す。第三禅に喜を離るるを以って楽を別して一枝と為し、第四禅中の清浄心を第三枝と名づく。此の三枝に依って能く明相、観相を生ず、是の明相は観相の与の因と為り、能く五陰を壊裂す。五陰の空なるを観るが故に観相と名づけ、能く涅槃に至るが故に名づけて聖と為す」と云える是れなり。
  五如法語道(ごにょほうごどう):五種の如法語あるの道の意。即ち如法語に実にして不実に非ず、時にして不時に非ず、善にして不善に非ず、慈にして不慈に非ず、益にして不益に非ずの五種あることを云う。「十誦律巻49五法初」に、「五如法語あり、実にして不実に非ず、時にして不時に非ず、善にして不善に非ず、慈にして不慈に非ず、益にして不益に非ず」と云える是れなり。
  参考:『長阿含経巻8』:『復有五法。謂五出要界。一者比丘於欲不樂.不動。亦不親近。但念出要。樂於遠離。親近不怠。其心調柔。出要離欲。彼所因欲起諸漏纏。亦盡捨滅而得解脫。是為欲出要。瞋恚出要.嫉妒出要.色出要.身見出要。亦復如是』
  五無学衆(ごむがくしゅ):阿羅漢の五種の功徳。五分法身の項を参照。
  五分法身(ごぶんほっしん):仏の法身は、常に五種の功徳が集まる。
   (1)戒(かい):如来の身口意の三業は、一切の過を離れる。
   (2)定(じょう):如来の心は寂静にして、一切の妄念を離れる。
   (3)慧(え):如来の真智は、一切の本性を観達する。
   (4)解脱(げだつ):如来の身心は、一切の繫縛を解脱する。
   (5)解脱知見(げだつちけん):如来は、すでに一切の繫縛を解脱したことを知る。
  五出性(ごしゅっしょう):不明。
  五解脱処(ごげだつじょ):身に解脱を得る要件。
    (1)仏の説法を聞いて心歓喜し身安楽となるが故に、心を摂し定めて諸漏尽き涅槃を得る。
    (2)善く経を諷誦する。
    (3)他の為に法を説く。
    (4)独処にて諸法を思量する。
    (5)善く定相を取る。(成実論14)
  五大施(ごだいせ):寿を尽して行う五種の布施。
    (1)不殺生。
    (2)不盗。
    (3)不婬。
    (4)不妄語。
    (5)不飲酒。
  十一智(じゅういっち):智慧を次の十一に分類する。十智(じっち)はこのうちの(11)如実智の無いもの。
    (1)法智(ほうち):欲界の四聖諦を観察する智慧。
    (2)比智(ひち):類智(るいち)、色界と無色界の四聖諦を観察する智慧。
    (3)他心智(たしんち):他人の現在の心と心所(心の働き)を知る智慧。
    (4)世智(せち):世俗の智慧。
    (5)苦智(くち):四聖諦のうち苦諦を知る智慧。
    (6)集智(じゅうち):四聖諦のうち集諦を知る智慧。
    (7)滅智(めっち):四聖諦のうち滅諦を知る智慧。
    (8)道智(どうち):四聖諦のうち道諦を知る智慧。
    (9)尽智(じんち):四聖諦を体現し尽したことを知る智慧。
    (10)無生智(むしょうち):四聖諦を体現し尽して再び生まれることはないことを知る智慧。
    (11)如実智(にょじつち):如実の相を知る智慧。
  五智(ごち):法智、比智、道智、尽智、無生智をいう。
  五阿那含(ごあなごん):不還果にある聖者の五種の般涅槃。
    (1)中般涅槃:不還果の聖者が欲界に死に色界に往く中間で余の煩悩を断ち般涅槃すること。
    (2)生般涅槃:色界に生じおわって久しからざるに、余の惑を断ち般涅槃すること。
    (3)有行般涅槃:生じおわって長時に修行し、余の惑を断って般涅槃すること。
    (4)無行般涅槃:生じおわって修行せず怠けて長時を経るに、余悪自然に解けて般涅槃すること。
    (5)上流般涅槃:下天より上天に進む間に、余の惑を断って般涅槃する。
                                    (阿毘達磨大毘婆沙論174)
  五淨居天(ごじょうごてん):第四禅天の無煩天より色究竟天をいう。
  五治道(ごちどう):不明。
  五智三昧(ごちさんまい):定中に有すべき五種の智慧。
    (1)初智:わがこの三昧は聖にして清浄である。
    (2)二智:この三昧は凡夫の近づく所ではなく、智者の讃ずる所である。
    (3)三智:この三昧は寂静妙離の故に得た。
    (4)四智:この三昧は現在楽にして後にも楽報を得る。
    (5)五智:この三昧にわれは一心に入り一心に出る。(成実論12)
  五聖分支三昧(ごしょうぶんしさんまい):涅槃に至る禅定の五要素。
    (1)第一支:初禅、二禅の喜相。
    (2)第二支:三禅にて喜楽を離れる。
    (3)第三支:四禅中の清浄心。
    (4)第四支:明相、この三支はよく相を明らかにする心を生じる。
    (5)第五支:観相、明相と観相とは因となって五陰を照破し、五陰の空なるを観ずるが故によく涅槃に至る。(成実論12)
  五如法語道(ごにょほうごどう):法を如法に説く五種の道。
    (1)実にして不実に非ず。
    (2)時にして不時に非ず。
    (3)善にして不善に非ず。
    (4)慈にして不慈に非ず。
    (5)益にして不益に非ず。(十誦律49)
復知六捨法六愛敬法六神通六種阿羅漢六地見諦道六隨順念六三昧六定六波羅蜜。如是等無量六法門。 復た知る、六捨法、六愛敬法、六神通、六種阿羅漢、六地見諦道、六随順念、六三昧、六定、六波羅蜜、是れ等の如き無量の六法門なり。
復た、
こう知る、――
『六法』とは、
『六捨法』、
『六愛敬法』、
『六神通』、
『六種阿羅漢』、
『六地見諦道』、
『六随順念』、
『六三昧』、
『六定』、
『六波羅蜜であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『六法の門である!』。
  六捨法(ろくしゃほう):六種の捨法の意。即ち眼見色の捨、乃至意識法の捨を云う。「雑阿含経巻13」に、「爾の時世尊諸比丘に告ぐ、六捨行あり、云何が六と為す、諸比丘、謂わゆる眼見色の捨は、彼の色処に於いて行ぜよ、耳声鼻香舌味身触意識法の捨は、彼の法処に於いて行ぜよ。是れを比丘の六捨行と名づく」と云える即ち是れなり。
  六愛敬法(ろくあいきょうほう):(一)又六和敬とも称し、梵行者が互いに和同愛敬するに六種の法あるを云う。『大智度論巻18下注:六和敬』参照。(二)又六敬法と称し、愛敬すべき六種の法を云う。「長阿含巻9十上経」に、「云何が六増法なる。謂わゆる六敬法の敬仏、敬法、敬僧、敬戒、敬定、敬父母なり」と云える是れなり。
  六和敬(ろくわぎょう):梵行者が互いに和同愛敬するに六種の法あるを云う。又六慰労法(巴梨語 cha saaraaNiiya dhammaa )、六可憘法と名づけ、略して六和とも称す。一に身業同、二に口業同、三に意業同、四に同戒、五に同施、六に同見なり。「中阿含巻52周那経」に、「阿難、我れ今汝が為に六慰労法を説かん(中略)云何が六と為す、慈の身業もて諸の梵行に向う。是の法は慰労の法にして愛法楽法なり。愛せしめ重ぜしめ奉ぜしめ敬せしめ、修せしめ摂せしめば沙門を得、一心を得、精進を得、涅槃を得ん。慈の口業、慈の意業あり。若し法利如法にして、自所得の飯食至りて鉢中に在るを得ば、是の如き利分は諸の梵行に布施せよ。是の法は慰労の法にして愛法楽法なり。(中略)若し戒あり欠かず穿たず、穢なく黒なく、地の如く他に随わず、聖の称誉する所、具足して善く受持せば、是の如き戒分は諸の梵行に布施せよ。是の法は慰労の法にして愛法楽法なり。(中略)若し聖見出要あり、明見深達して能く正しく苦を尽くさば、是の如き見分は諸の梵行に布施せよ。是の法は慰労の法にして愛法楽法なり。阿難、是の如くならば、汝は我が去後に於いて共同和合し、歓喜して諍わず、同一一心、同一一教にして水乳を合一し、快楽遊行して我が在時の如くならん」と云い、「無量寿経巻下」に、「六和敬を修して常に法施を行じ、志勇精進して心退弱ならず」と云える是れなり。是れ慈の身口意三業を以って諸の梵行者に向い、彼の梵行者をして亦た之を尊重奉行せしむるを身業同、口業同、意業同とし、自所得の如法の利分を布施するを同施、清浄の戒分を布施するを同戒、聖見の見分を布施するを同見と名づけたるなり。「大乗義章巻12六和敬義」に和敬の義を解し、「六和敬とは安楽不悩の行に同止するなり。起行乖かず、之を名づけて和と為し、行和するを以っての故に情相親重す、之を目して敬と為す、和敬不同なるも一門に六を説く」と云い、更に身業同口業同意業同に各離過同、作善同の二、同戒に受戒同、持戒同の二、作戒同、無作戒同の二、或いは律儀戒同、摂善戒同、摂衆生戒同の三、同施に内施同、外施同の二、或いは財施同、法施同、無畏施同の三、同見に世諦中見解無別、真諦中見解無別の二種あることを分別せり。又「増一阿含経巻29」、「新華厳経巻18」、「仁王般若経巻下」、「四分律巻50」、「集異門足論巻15」等に出づ。<(望)
  六神通(ろくじんづう):梵語 SaD abhijJaaH の訳。略して六通とも名づく。仏菩薩の定慧力に依りて示現する六種の無礙自在の妙用を云う。「長阿含巻巻9増一経」に、「云何が六証法なる、謂わく六神通なり。一には神足通証、二には天耳通証、三には知他心通証、四には宿命通証、五には天眼通証、六には漏尽通証なり」と云い、「倶舎論巻27」に、「通に六種あり、一には神境智証通、二には天眼智証通、三には天耳智証通、四には他心智証通、五には宿習随念智証通、六には漏尽智証通なり」と云える是れなり。此の中、神境智証通とは意の如く境界を変現し、又飛行自在なることを得るを云い、天眼智証通とは色界の四大種所造の眼根を得し、能く自地及び下地の近遠麁細等の諸色を見るを云い、天耳智証通とは色界の四大種所造の耳根を得し、能く人天三悪道等の一切遠近の声を聞くを云い、他心智証通とは能く他人の心の有垢無垢等を知るを云い、宿住隨念智証通とは過去世中の一世十世百世千万億世の事を憶念し了知するを云い、漏尽智証通とは煩悩及び煩悩の習断滅し、復た更に後有を受くることなしと証知するを云うなり。「倶舎論巻27」に前五通は異生凡夫も亦た之を得し、第六漏神通は唯聖者の所得なりと云い、「大智度論巻28」には五神通は菩薩の所得、六神通は唯仏の所得となせり。又「大智度論」の連文に六神通を次第を明し「問うて曰わく、禅経中に説けるが如き、先づ天眼を得て衆生を見るも而も其の声を聞かず、故に天耳通を求む。既に天眼天耳を得て衆生の身形音声を見知するも、而も語言の種種憂喜苦楽の辞を解せず、故に辞無礙智を求む。但だ其の辞を知るも而も其の心を知らず、故に他心を知る智を求む。其の心を知り已るも未だ本と従来する所を知らず、故に宿命通を求む。既に来たる所を知り、其の心の病を治せんと欲するが故に漏神通を求む。五通を具足することを得已るも、変化する能わざるが故に所度未だ広からず、邪見大福徳の人を降化する能わず、是の故に如意神通を求む。応に是の如く次第すべし、何を以っての故に先づ如意神通を求むるや。答えて曰わく、衆生は麁なる者多く、細なる者少し、是の故に先づ如意神通を以ってす。如意神通は能く麁細を兼ね、人を度すること多きが故なり。是を以って先づ説く」と云えり。以って其の説を見るべし。又此の六通の中、天眼通は一に死生智通と名づけ、宿命、漏尽の二通と共に其の用特に勝るるが故に立てて三明と為すなり。又「長阿含巻9十上経」、「中阿含巻20迦郗那経」、「集異門足論巻15」、「舎利弗阿毘曇論巻10」、「大毘婆沙論巻30、102」、「大智度論巻28」、「成実論巻16六通智品」、「瑜伽師地論巻39」、「大乗阿毘達磨雑集論巻14」、「法界次第初門巻中之上」等に出づ。<(望)
  六種阿羅漢(ろくしゅあらかん):阿羅漢の根の利鈍に六種あるを云う。「阿毘曇毘婆沙論巻35」に、「六種阿羅漢とは、謂わゆる退法、憶法、護法、等住、能進、不動なり」と云える是れなり。『大智度論巻3下注:六種阿羅漢、巻18下注:四向四果』参照。
  六地見諦道(ろくじけんたいどう):見所断の惑の六地に亘るを云う。「阿毘達磨大毘婆沙論巻4」に、「是の如き見道を見所断の惑を対治せんと欲すと為す、六地に安布す、一に未至定、乃至第六に第四静慮なり」と云える是れなり。
  六随順念(ろくずいじゅんねん):道に随順する六種の念を云う。即ち念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天なり。『大智度論巻18下注:六念、巻21至22釈初品中八念義』参照。
  六念(ろくねん):梵語 SaD anusmRtayaH の訳。巴梨語 cha anussati- TThaanaani、六種の思念の意。又六随念、或いは六念処とも称す。一に念仏、二に念法、三に念僧、四に念戒、五に念施、六に念天なり。「雑阿含経巻33」に、「若し比丘、学地に在りて未だ得ざる所に上昇し、道を進め、安隠涅槃を求めんに彼れ爾の時に於いて当に六念を修すべし、乃至進んで涅槃を得ん。譬えば飢人の身体羸痩せるも、美味食を得ば身体肥沢なるが如し」と云い、「大般涅槃経巻18」に、「云何が復た一切世間所不知見覚にして而も是れ菩薩所知見覚と名づくるや。所謂六念処なり、何等をか六と為す、念仏、念法、念僧、念戒、念施、念天なり」と云える是れなり。此の中、念仏とは、仏は如来応等正覚明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師仏世尊なりとし、常に仏の事を念ずるを云い、念法とは、仏の法律は能く生死を離れしむるを以って、須らく妄想を除きて其の法に通達すべしとなし、常に法の事を念ずるを云い、念僧とは、仏の弟子は随順の法を行じ、皆四双八輩の賢聖にして戒定慧解脱解脱知見具足し、供養すべき良福田なりとし、常に僧の事を念ずるを云い、念戒とは善く戒を護りて戒を壊せず戒を欠かず、明者は戒を称誉し、智者は戒を厭わずとなし、常に浄戒を念ずるを云い、念施とは又念捨とも称し、慳垢を離れて布施を行じ、具足しえ自ら等施すべしとなし、常に施捨の事を念ずるを云い、念天とは、正信心ある者は命終して四大天王等の六天に生ず、彼れ浄戒施捨聞慧を得たるを以って彼の天に生ず、我れ亦た当に正信心を行じ、戒施聞慧を行ずべしとし、以って諸天の事を念ずるを云うなり。蓋し六念は仏法僧の三尊を念じ、更に浄戒及び布施を念じ、又所生の天を念ずる者にして、即ち三宝に帰し、戒を持し、施を行じ、以って生天を期するの法を云うなり。主として優婆塞の為に教示せられたるものなるが如く、「別訳雑阿含経巻9」に、須達多長者が六念の法を修し、其の夜命終して天上に生じ、又時首長者が六念を修し、無熱天に生ぜしことを記せり。然るに「大般涅槃経巻18」には此の中の天を以って第一義天なりとし、「大智度論巻22」には声聞法の中には欲界天を念ずと説き、摩訶衍の中には一切三界天を念ずと説くと云い、「大乗義章巻12六念義」には、涅槃経の説に依り、涅槃の果を念ずると念天となせえり。又「大般涅槃経巻25」、「観仏三昧海経巻6」、「集異門足論巻16」、「観経散善義」等に出づ。<(望)
  六三昧(ろくさんまい):一相と種種相に関する六種の三昧を云う。「成実論巻12六三昧品」に、「問うて曰わく、経中に六三昧を説く、一相あり修して一相を為す、一相あり修して種種相を為す、一相あり修して一相種種相を為す、種種相の修も亦た是の如しと。何者か是れなる。答えて曰わく、一相とは応に是れ禅定なり、禅定は一縁中に於いて一心行ず、故に種種相は応に是れ知見なるべし、諸法の種種の性を知るが故に、五陰等の諸法の中に於いて方便するが故なり。問うて曰わく、云何が一相を修して一相を為す。答えて曰わく、若し人、定に因りて還た能く定を生ぜば、是れなり。一相を修して種種相を為すとは、若し人、定に因りて能く知見を生ぜば、是れなり。一相を修して一相種種相を為すとは、若し人、定に因りて禅定、及び五陰を生じて方便すれば、是れなり。種種相の集も亦た是の如し」と云える即ち是れなり。
  六定(ろくじょう):菩薩性の定に習相定、性定、道慧定、道種慧定、大慧定、正観定の六種あるを云う。「菩薩瓔珞本業経巻上賢聖学観品」に、「爾の時敬首菩薩の仏に言わく、云何が菩薩は名字義相を学観し、及び心所行の法は復た当に云何がなるべきと。仏言わく、(中略)仏子、一切諸仏は皆六明焔三三昧を説く、我れも亦た是の如く説かん、六種の性とは、是れ一切の菩薩の功徳瓔珞なり、(中略)仏子、性とは謂わゆる習種性、性種性、道種性、聖種性、等覚性、妙覚性なり、復た六堅と名づく、(中略)復た六定と名づく、習相定、性定、道慧定、道種慧定、大慧定、正観定なり」と云える即ち是れなり。
  四向四果(しこうしか):四向と四果との併称。又四向四得、四双八輩と称し、或いは八補特伽羅(巴梨語 TTha- puggalaa dakkhiNeyyaa )、八賢聖、八聖とも名づく。即ち声聞の進修に四階の果位及び其の向道あるを云う。一に須陀洹向 srota- aapatti- pratipannka(巴梨語 sota- aapatti- paTipannaka )、二に須陀洹果 srota- aapanna(巴 sota- aapanna )、三に斯陀含向 sakRdaagaami- pratipannaka(巴 sakadaagaami- paTipannaka )、四に斯陀含果 sakRdaagaamin(巴 sakadaagaamin )、五に阿那含向 anaagaami- pratipannaka(巴 anaagaami- paTipannaka )、六に阿那含果 anaagaamin(巴同じ)、七に阿羅漢向 arhat- pratipannaka(巴 arahatta- paTipannaka )、八に阿羅漢果 arhat(巴 arahat )なり。「増一阿含経巻39」に、「爾の時、世尊諸比丘に告ぐ、八種の人あり、生死に流転して生死に住せず。云何が八と為す、須陀洹に趣くと須陀洹を得ると、斯陀含に趣くと斯陀含を得ると、阿那含に趣くと阿那含を得ると、阿羅漢に趣くと阿羅漢を得るとなり」と云い、「倶舎論巻24」に、「有学及び無学とは総じて八種の補特伽羅を成ず、向を行じ果に住するに各四あるが故なり。謂わく預流果と向と、乃至所証の阿羅漢果を証得せんが為なり。名は八ありと雖も事は唯五なり、謂わく四果に住すると及び初果向となり」と云える是れなり。此の中、須陀洹向とは、須陀洹は訳して預流と云う、無漏道の流に預るが故なり。向は果に趣くの義にして、即ち四善根位より見道十五心に至る間の人を云う。之に利鈍の二種あり、鈍根の者を随信行と名づけ、利根の者を随法行と名づく。須陀洹果とは即ち初果にして、見道第十六心より斯陀含果を得するまでの人の住する位を云う。之に亦た利鈍あり、即ち前の随信行の者を信解と名づけ、随法行の者を見至又見得と称す。此の位より般涅槃するに至るまで、極めて多きものは、人天の中に往返して各七生す、故に之を極七返有の聖者と称す。斯陀含向とは、斯陀含は訳して一来と云う、向とは之に趣くの義にして、即ち須陀洹果の人が進んで欲界修惑の一品乃至五品を断ずる間を云う。此の中、修惑の三四品を断じ、能く無漏根を成じて欲界の三二生を受くるものを家家聖者と名づく。之に天家家人家家の二種あり。斯陀含果とは即ち第二果にして、欲界修惑の第六品を断ずるより、阿那含果を得するまでの人の住する位を云う。天趣より更に一たび人趣に来たりて般涅槃するが故に一来と云い、又下品の貪瞋癡のみを存するが故に薄貪瞋癡とも名づく。阿那含向とは、阿那含は訳して不還と云う。向とは之に趣くの義にして、即ち斯陀含果の人が更に進んで欲界修惑の七品或いは八品を断ずるまでの間を云う。尚お一品或いは二品の欲惑ありて欲界の一生を余すが故に又之を一間と名づく。阿那含果とは即ち第三果にして、欲界修惑の第九品を断じ、復た欲界に来生せざるが故に不還と名づけ、又総集して五下分結を断ずるが故に五下結断とも称す。此の位の人に中般生般等の不同あるが故に、五種不還、七種不還、九種不還等の別あり。又総じて此の人には滅定の得あり、似涅槃法を証得して身の寂静を得るが故に、身証那含とも称せらる。阿羅漢向とは阿羅漢果に趣くの義にして、即ち阿那含果の人が進んで色界初禅の一品の修惑、乃至有頂の八品の修惑を断じ、更に第九品の無間道金剛喩定に至るまでの間を云う。阿羅漢果とは第四果にして、即ち金剛喩定に於いて第九品の修惑を断尽し、解脱道に於いて尽智已に生じて更に学すべきの法なき極位に昇るを云う。前の四向三果を有学と名づくるに対し、此の果を得たる人を無学と称するなり。又此の無学の人の中、根の利鈍に依りて時解脱不時解脱の二種あり、時解脱は有学位中の信解の性より生じ、不時解脱は見至の性より生ず。又時解脱に退法、思法、護法、安住法、堪達法の五種あり、不時解脱に不動法の一種あり、合して六種阿羅漢となす。此の六に不退法と独覚及び大覚とを加えて九無学の名を立つ。又滅尽定の得不に約して、無学を慧解脱、倶解脱の二種とし、之に前の随信行、随法行と信解及び見至と身証とを合して七聖と名づくるなり。以上は次第証に約して向果を論ず。若し超越証の人に就き向果を説かば、先に異生位に於いて世俗智に依りて欲界修惑の一品乃至五品を断じ、見道十五心の位に在るものを預流向と名づけ、第十六心に至りて初果を証す。又六品乃至七八品を断じて此の位に在るものを一来向と名づけ、第十六心に至りて二果を証す。又総じて九品を断じ、或いは色界初禅の一品乃至無所有処の第九品を離れて此の位に在るものを不還向と名づけ、第十六心に至りて三果を証するなり。即ち初果及び第四果は之を超越することなきも、二果及び三果には超越の義ありとなすなり。但し成実論の意に依らば、一切の賢聖は総べて超越なしとす。又四果の退不退に関しては諸部に異説あり。説一切有部に於いては初果は審慮生にして、既に我見の根本を断じて我の所依なきが故に退なし。然るに修道位に在りては色等の麁事を依となし、所縁の境に於いて可意不可意等の染著あるが故に、後の三果には失念等の退ありとし、就中、阿羅漢の六種中、退法は性退なきも果退の義あり、思法護法安住堪達の四は性と果とに於いて共に退の義あり、独り不動法のみ性果共に退なしとなせり。若し経部に依らば現法楽住に依りて退不を論じ、初後無退中二有退とし、化地部及び大衆部は前三果は有退、阿羅漢果は無退とし、成実及び大乗に於いては亦た定に依りて退不を説き、四果は性果共に退なしとせり。又「大乗義章巻17末」には、四向四果の有漏無漏、有為無為等に就き、広く毘曇成実の異同を対照し之を分別せり。又是の如く向果を分たば総じて八種ありと雖も、爾の体事は唯初果向と四果に住するとの五に過ぎず、即ち後の三向は皆前果を離れて別に其の体あるに非ざればなり。又「雑阿含経巻36」、「増一阿含経巻36、37」、「羅什訳金剛般若波羅蜜経」、「大般涅槃経巻27」、「大毘婆沙論巻46至54」、「大智度論巻32」、「瑜伽師地論巻26」、「成実論巻2、3」、「異部宗輪論」、「倶舎論巻23」、「阿毘達磨順正理論巻61」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻30」、「大乗阿毘達磨雑集論巻13」、「大乗法苑義林章巻5本」、「倶舎論光記巻23、24」等に出づ。<(望)
  六捨法(ろくしゃほう):捨てるべき六のもの。
    (1)色捨処:色の行(作用、働き)を見る。
    (2)声捨処:声の行を聞く。
    (3)香捨処:香の行を嗅ぐ。
    (4)味捨処:味の行を味わう。
    (5)触捨処:触の行を覚える。
    (6)法捨処:法の行を知る。(大集法門経2)
  六愛敬法(ろくあいきょうほう):敬うべき六のもの。
    (1)仏。
    (2)法。
    (3)僧。
    (4)戒。
    (5)定。
    (6)慧。
  六種阿羅漢(ろくしゅあらかん):阿羅漢には次の六種の別がある。
    (1)退法阿羅漢(たいほうあらかん):時に因縁により、すでに得た阿羅漢の覚りから退去しやすい者。
    (2)思法阿羅漢(しほうあらかん):退失を恐れて自殺しようと思う者。
    (3)護法阿羅漢(ごほうあらかん):覚りの境地を楽しみ退失を恐れて防護する者。
    (4)安住法阿羅漢(あんじゅうほうあらかん):現在の覚りに安住して進みも退きもしない者。
    (5)堪達法阿羅漢(たんだつほうあらかん):次に進むことの出来る者。
    (6)不動法阿羅漢(ふどうほうあらかん):退失の恐れのない者。
  六地見諦道(ろくじけんたいどう):声聞預流果以上の見諦道を六地に分ける、詳細不明。
  六随順念(ろくずいじゅんねんん):六種の随順して念ずべきもの。
    (1)仏。
    (2)法。
    (3)僧。
    (4)戒。
    (5)捨、施。
    (6)天。
  六三昧(ろくさんまい):禅定の六種の様相。
    (1)有一相修為一相:一相とは禅定のこと、定に因りて、またよく定を生ずること。
    (2)有一相修為種種相:種種相とは法の種種の性を知見すること、定に因りて、法の種種相を知る。
    (3)有一相修為一相種種相:上の二を併せて修する。
    (4)有種種相修為一相:種種相を観じて定を生じる。
    (5)有種種相修為種種相:種種相を観じて更に別の種種相を観じる。
    (6)有種種相修為一相種種相:上の二を併せて修する。(成実論12)
復知七覺意七財七依止七想定七妙法七知七善人去處七淨七財福七非財福七助定法。如是等無量七法門。 復た知る、七覚意、七財、七依止、七想定、七妙法、七知、七善人去処、七浄、七財福、七非財福、七助定法、是れ等の如き無量の七法の門なり。
復た、
こう知る、――
『七法』とは、
『七覚意』、
『七財』、
『七依止』、
『七想定』、
『七妙法』、
『七知』、
『七善人去処』、
『七浄』、
『七財福』、
『七非財福』、
『七助定法であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『七法の門である!』。
  七覚意(しちかくい):又七覚支、七覚分と称す。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  七覚分(しちかくぶん):又七覚意、七覚支と称す。『大智度論巻18下注:七覚支』参照。
  七覚支(しちかくし):梵語 sapta bodhyaGgaani の訳。巴梨語 satta sambojjhaGgaa、菩提に順趣する七種の法の意。三十七菩提分法の一科。又七等覚支、七遍覚支、七菩提分、七覚分、七覚意、七覚志、七覚支法、七覚意法、七覚支宝、七菩提宝、七覚宝、七覚法、或いは略して七覚とも云う。一に念覚支 smRti- saMbodhyaGga(巴梨語 sati- sambojjhaGga )、二に択法覚支 dharma- pravicaya- s.(巴 dhamma- vicaya- s. )、三に精進覚支 viirya- s.(巴 viriya- s. )、四に喜覚支 priiti- s.(巴 piiti- s. )、五に軽安覚支 prazrabdhi- s.(巴 passaddhi- s. )、六に定覚支 samaadhi- s.(巴 samaadhi- s. )、七に捨覚支 upekSaa- s.(巴 upekhaa- s. )なり。「長阿含巻8衆集経」に、「復た七法あり、謂わく七覚意なり。念覚意、法覚意、精進覚意、喜覚意、猗覚意、定覚意、護覚意なり。是れを如来所説の正法と為す」と云い、又「雑阿含経巻26」に、「仏は無畏に告ぐ、若し婆羅門に一の勝念ありて決定成就し、久時の所作、久時の所説、能く随って憶念す。当に爾の時に於いて念覚支を習うべし。念覚を修し已りて念覚満足す。念覚満足し已らば、則ち選択分別に於いて思惟し、爾の時択法覚支修習す、択法覚支を修し已りて択法覚支満足す。彼れ選択分別して法を思量し已らば則ち精進方便し、精進覚支此に於いて修習す、精進覚支を修し已りて精進覚支満足す。彼れ精進方便已らば則ち歓喜生じて諸の食想を離れ、喜覚支を修す。喜覚支を修し已らば則ち喜覚支満足す。喜覚支満足し已りて身心猗息し、則ち猗覚支を修す。猗覚支を修し已りて猗覚満足す、身猗息し已らば則ち愛楽し、愛楽し已りて心定まらば則ち定覚支を修す、定覚支を修し已りて定覚満足す。定覚満足し已りて貪憂滅せば則ち捨心生じ、捨覚支を修す。捨覚支を修し已りて捨覚支満足す。是の如く無畏、此の因此の縁によりて衆生清浄なり」と云える是れなり。是れ先づ初に念覚支を修習し、乃至最後に捨覚支を修習すべきことを説けるものなり。此の中、念覚支とは又念等覚支、念覚意等と名づく。心明記の性にして念を以って其の体とし、憶持して忘れざるを云う。択法覚支とは又択法等覚支、法覚意、或いは法解覚意とも名づく。即ち毘鉢舎那にして慧を以って体とし、諸法を簡択分別するを云う。精進覚支とは又精進等覚支、精進覚意等と名づく。勤を以って体とし、励意して息まざるを言う。喜覚支とは又喜等覚支、喜覚意、愛喜覚意とも名づく。喜を以って体とし、欣悦歓喜するを云う。軽安覚支とは又軽安等覚支、安覚支、猗覚意、一向覚意、或いは息覚支等とも名づく。軽安を以って体とし、即ち身の軽安及び心の軽安を云う。定覚支とは又定等覚支、定覚意、惟定覚意等と名づく。心一境性にして定を以って体とし、其の心安住して散ぜざるを云う。捨覚支とは又捨等覚支、護覚意、或いは行護覚意とも名づく。心平等性にして行捨を以って体とし、其の心無警覚にして寂静に住するを云うなり。之を通じて覚支と名づくることは、此の七は菩提の位に近くして、如実の覚を助くること勝るるが故なり。之に関し「大毘婆沙論巻96」に、「問う、覚支と言うは是れ何の義なりや、能く覚悟するが故に覚支と名づくとせんや、覚の支となるが故に覚支と名づくとせんや。若し能く覚悟するが故に覚支と名づけば、則ち一は是にして六は非なるべし。若し覚の支なるが故に覚支と名づけば、則ち六は是にして一は非なるべし。有が是の説を作す、此れ能く覚悟するが故に覚支と名づく。問う、若し爾らば則ち一は是にして六は非なるべし。答う、六は是れ覚の分にして能く覚に随順す、勝に従って説いて亦た覚支と名づく。復た有説は是れ覚の支なるが故に覚支と名づく。問う、若し爾らば則ち六は是にして一は非なるべし。答う、択法は是れ覚にして亦た是れ覚支なり、余の六は是れ覚支にして覚に非ず」と云い、又「大乗義章巻16末」には三義を出し、「一に果に対して分別せば、果を名づけて覚と為す。是の七種は但だ是れ覚支にして覚と名づけず、果のために因と作るが故に覚支と名づく。是れ果の体に非ざるが故に覚と名づけず。二に七行に就いて相対分別せば択法の一種は是れ覚にして支に非ず、体是れ智慧なるが故に覚と名づくることを得。慧の因に非ざるが故に覚支と名づけず。余の六は是れ支にして覚と名づけず、覚の為に因と作るが故に支と名づくることを得。是れ慧の体に非ざるが故に覚と名づけず。三に修位に約して分別を為さば、此の七種は総修位を成じ、別に総の因と為れば倶に支と称することを得。此の門の中に就いて択法の一種は是れ覚にして亦た覚支なり。体是れ智慧なるが故に覚と名づくるを得、総修位を成ずるが故に覚支と名づく。余は智慧に非ざるが故に覚と名づけず、総修位を成ずるが故に支と称するを得」と云えり。之に依るに七覚支は総じて如実の覚を助くる支分なるが故に覚支と名づくるも、唯択法の一は其の体慧なれば、即ち覚にして亦た覚支と称せらるるを知るべし。又此の中、軽安と定と捨との三は奢摩他品に摂し、択法と精進と喜との三は毘鉢舎那品に摂す。「大毘婆沙論巻95」に、「三覚支は是れ奢摩他品、三覚支は是れ毘鉢舎那品なり。若し奢摩他品の覚支増する時は心をして沈下せしむ。爾の時応に観品の覚支を修し、心をして挙らしむべし。而も止品を修するが故に非時と説く。若し毘鉢舎那品の覚支増する時は心をして浮挙ならしむ。爾の時応に止品の覚支を修し、心を抑えて下らしむ。而も観品を修するが故に非時と説く。諸の覚支は一時にして起ると雖も、而も用に増減あるが故に各唯三と説く」と云い、又「瑜伽師地論巻29」に、「三品の所摂とは謂わく三覚支は奢摩他品の摂、三覚支は毘鉢舎那品の摂、一覚支は二品の摂に通ず。是の故に説いて七種覚支と名づく。謂わく択法覚支と精進覚支と喜覚支と、此の三は観品の所摂なり。安覚支と定覚支と捨覚支と、此の三は止品の所摂なり。念覚支の一種は俱品の所摂なり、説いて遍行と名づく」と云える即ち其の意なり。又七覚支は一向に無漏にして有漏に通ぜず。就中、説一切有部に於いては七覚支を以って修道位に増すとなすも、余部には之を見道位に建立し、如実に四聖諦を覚知するが故に覚支と名づくとせり。又「長阿含巻6転輪聖王修行経」、「同巻9十上経」、「同巻12清浄経」、「同巻22世本縁品」、「中阿含巻12食経」、「同巻21説処経」、「同巻24念処経」、「般泥洹経巻上」、「阿差末菩薩経巻7」、「大乗随転宣説諸法経巻10」、「集異門足論巻16」、「識身足論巻3」、「発智論巻7」、「大毘婆沙論巻97、141」、「大智度論巻19」、「成実論巻2」、「顕揚聖教論巻2」、「大乗荘厳経論巻11」、「倶舎論巻25」、「順正理論巻71」、「大乗阿毘達磨雑集論巻10」、「摩訶止観巻7上」等に出づ。<(望)
  七財(しちざい):梵語 sapta dhanaani の訳。巴梨語 satta dhanaani、七種の財宝の意。又七聖財 saptaarya- dhanaani(巴梨語 sattaariya- dhanaani )、七徳財、或いは七法財とも称す。即ち出世間の人の貯うべき財宝に七種あるを云う。一に信財 zraddhaa- dhana(巴梨語 saddhaa- dhana )、二に戒財 zila- dh.(巴 siila- dh. )、三に慚財 hrii- dh.(巴 hiri- dh. )、四に愧財 apatraapya- dh.(巴 ottappa- dh. )、五に聞財 zruta- dh.(巴 suta- dh. )、六に施財 tyaaga- dh.(巴 caaga- dh. )、七に慧財 prajJaa- dh.(巴 paJJaa- dh. )なり。「長阿含巻9十上経」に、「云何が七成法なる、謂わく七財なり。信財と戒財と慚財と愧財と聞財と施財と慧財とを七財と為す」と云い、「中阿含巻21説処経」に、「阿難、我れ本と汝の為に七財を説く、信財戒慚愧聞施慧財なり。阿難、此の七財は汝当に諸の年少の比丘の為に説いて以って彼れに教うべし。若し諸の年少の比丘の為に説いて此の七財を教えば、彼れ便ち安隠を得、力を得、楽を得て身心煩熱ならず、終身梵行を行ぜん」と云える是れなり。此の中、信財とは如来の所に於いて浄信を植え、信根生じて安住し、他の為に動乱せられざるを云い、戒財とは殺生、偸盗、邪婬、妄語及び飲酒を離るるを云い、慚財とは悪不善法の能く後世の苦果を引くものに於いて深く慚羞を起すを云い、愧財とは悪不善の法に於いて深く愧恥を生ずるを云い、聞財とは仏所説の無上の法要に於いて多聞を具足し、能く語義を持し、極めて善く通達するを云い、施財とは或いは捨財とも名づく、即ち慳垢を離れ、居家に住すと雖も而も心著することなく、能く恵施を行じ、好んで祠祀を設け、又施を行う時、平等に分布するを云い、慧財とは能く如実に四聖諦の理を知るを云うなり。但し「長阿含経巻2」等に出す所は之と稍異あり、即ち彼の経に「復た七法あり、法をして増長して損耗あることなからしむ。何をか謂って七となす、一には信ありて如来至真正覚十号具足を信じ、二には慚を知りて己の闕を恥じ、三には愧を知りて悪行を為せるを羞じ、四には多聞にして、其の受持する所の上中下の善、義味深奥に、清浄無穢にして梵行具足す。五には精勤苦行して悪を滅し善を修し、勤習して捨てず。六には昔し学習せし所は憶念して忘れず、七には智慧を修習して生滅の法を知り、賢聖の要に趣き諸の苦本を尽くす。是の如きの七法は則ち法をして増長して損耗あることなからしむ」と云えり。是れ前の七の中、戒及び施を除き、精進、憶念を加えて七財となすの説なり。又「未曽有因縁経巻下」には、「七徳財あり、何を以ってか謂って七と為す、第一は信財、二は精進財、第三は戒財、四は慚愧財、第五は聞財、六は捨財と為し、七は定慧財なり。是れを七財となす」と云い、慚愧を合して一とし、精進を加えて之を七財となし、又「旧華厳経巻12十無尽蔵品」に、信蔵、戒蔵、慚蔵、愧蔵、聞蔵、施蔵、慧蔵、正念蔵、持蔵、辯蔵の十蔵を説けるは、前の七財に正念等を加えたるものにして、「長阿含経巻2」の説より転じたるものとなすべきが如し。之を財と名づくるに関し、「注維摩詰経巻7」に、「富に七財宝あり、什曰わく、信戒聞捨慧慚愧なり。家に処すれば則ち能く財を捨し、出家すれば則ち能く五欲及び煩悩を捨するなり。善を信ずるに由るが故に戒を持す。戒を持すれば則ち悪を止め、悪を止め已れば則ち進んで衆善を行ず。進んで衆善を行ずるは要ず多聞に由る。法を聞くが故に能く捨す。能く捨せば慧生ず。故に五事次第して説く。五事を宝と為し、慚愧を守人と為す。守人は財主に於いて亦た是れ財なり、故に七事を通じて財と名づくるなりと。(中略)肇曰わく、七財は信戒聞捨慧慚愧なり。世人は玉帛を以って饒と為し、菩薩は七財を以って富と為す」と云えり。又「瑜伽師地論巻14」には、此の七聖財より生ずる楽を挙げ「又諸の世間の財を楽求する者は、楽を得んが為の故に楽って一切の凡財を積集すと雖も、而も未だ七種聖財の所生の楽を得る能わず。謂わく信と俱行する清浄の楽、善趣に生じて起す所の楽、自の妙好にして諸悪を行ぜざるを顧み、追悔あることなきより生ずる所の楽、他の誹毀を顧みて諸悪を行ぜず、追悔あることなきより生ずる所の楽、法に於いて義に於いて正解と俱行するより生ずる所の楽、後世の資財匱乏する所なきより生ずる所の楽、勝義諦に於いて如実に覚悟するより生ずる所の楽あり。諸の是の如き等の無量無辺無罪の楽は、世間の財を楽求し積集する者の皆得ざる所なり」と云えり。以って其の趣旨を見るべし。又「長阿含巻9増一経」、「法句経巻上篤信品」、「般泥洹経巻上」、「維摩経巻中仏道品」、「菩薩瓔珞本業経巻下因果品」、「大宝積経巻42」、「十誦律巻50」、「集異門足論巻16」、「倶舎論巻18」、「同光記巻18」、「同宝疏巻18」、「大乗義章巻12」等に出づ。<(望)
  七依止(しちえし):蓋し七識住なり。『大智度論巻18下注:七識住』参照。
  七識住(しちしきじゅう):梵語 sapta vijJaana- sthitayaH の訳。又七識処、七識止処、或いは七神識止処とも名づく。三界の中に於いて、識の愛楽して止住する所に七処あるを云う。一に身異想異識住、又身異想異如人一分天 naanaatva- kaayaa naanaatva- saMjJaanaH tad- yathaa maruSyaa ekatyaaz ca devaaH と名づく。二に身異想一識住、又身異想一如梵衆天謂劫初起 naanaatva- kaayaa ekatva- saMjJinaH tad- yathaa devaa brahma- kaayikaaH prathamaabhinirvRttaaH と名づく。三に身一想異識住、又身一想異如極光浄天 ekatva- kaayaa naanaatva- saMjJinaH tad- yathaa aabhaasvaraaH と名づく。四に身一想一識住、又身一想一如遍浄天 ekatva- kaayaa ekatva- saMjJinaH tad- yathaa devaaH zubhakRtsnaaH と名づく。五に空無辺処 aakaazaanantaayatana 識住、六に識無辺処 vijJaanaanantaayatana 識住、七に無所有処 aakiJcanyaayatana 識住なり。「中阿含巻24大因経」に、「如何が七識住なる、有色の衆生の若干の身にして若干の想あるなり、謂わく人及び欲天なり。是れを第一識住と謂う。復た次ぎに阿難、有色の衆生の若干の身にして一想なるあり、謂わく梵天より初生し夭寿ならず。是れを第二識住と謂う。復た次ぎに阿難、有色の衆生の一身にして若干の想なるあり、謂わく晃昱天なり。是れを第三識住と謂う。復た次ぎに阿難、有色の衆生の一身にして一想なるあり、謂わく遍浄天なり、是れを第四識住と謂う。復た次ぎに阿難、無色の衆生の一切の色想を度し、有対の想を滅して若干の想を念ぜず、無量空処にして是れ無量空処成就遊なるあり、謂わく無量空処天なり。是れを第五識住と謂う。復た次ぎに阿難、無色の衆生の一切の無量空処を度し、無量識処にして、是れ無量識処成就遊なるあり、謂わく無量識処天なり。是れを第六識住と謂う。復た次ぎに阿難、無色の衆生の一切の無量識処を度し、無所有処にして、是れ無所有処成就遊なるあり、謂わく無所有処天なり。是れを第七識住と謂う」と云い、又「倶舎論巻8」に、「身異及び想異と、身異同一想と、此れに翻ずると、身想一なると、並びに無色の下の三となり。故に識住に七あり。余は非なり、損壊あればなり」と云える是れなり。是れ蓋し有色の欲色二界中に於いて、身異想異を第一識住、身異想一を第二識住、身一想異を第三識住、身一想一を第四識住とし、又無色界の中に於いて下の三処を順次に第五第六第七識住となせるものなり。就中、身異想異とは人界と六欲天及び劫初起を除ける色界初禅天とを指せるものにして、此等の処所の有情は身相容貌各皆異あるが故に身異と云い、苦楽不苦不楽の想も各亦た差別あるが故に想異と名づく。身異想一とは色界初禅の劫初に起れる梵衆天の如き、彼等は皆自ら大梵王の所生なりと想い、大梵王も亦た此の諸の梵衆は皆我が所生なりと想い、同じく一因を執して想に別なきが故に想一と云い、大梵王の身は其の量高広にして、容貌威徳言語光明衣冠等一一皆梵衆と同じからざるが故に身異と名づく。身一想異とは色界第二禅にして、彼の中の有情は其の身相容貌異ならざるが故に身一と云い、楽と非苦楽との二想交も参るが故に想異と名づく。経に晃昱天(即ち極光浄天)を指せるは、即ち第二禅中に於いて後を挙げて兼ねて初を摂するなり。身一想一とは色界第三禅にして、彼の中の有情は身相異ならざるが故に身一と云い、唯楽想のみあるが故に想一と名づく。経に遍浄天を指せるは、亦た後を挙げて初を摂するなり。此の中、初禅には染汚の想別なきが故に想一と云い、二禅には二の善想あるが故に想異と云い、三禅には異熟の想一なるに由るが故に想一と云うなり。空無辺処は一切の有色処を超出し、識無辺処は一切の空無辺処を超出し、無所有処は一切の識無辺処を超出せし無色界の下の三天なり。此等の七処は識の安住処として、有情の皆往きて止まらんことを希う所なるが故に識住と名づく。余の悪趣と第四禅天と非想非非想処とは、共に其の中に識を損壊する法あるが故に識住に非ず。「倶舎論巻8」に、「所余は何が故に識住に非ざる、余処に於いては皆識を損壊する法あるが故なり。余処とは何ぞ、謂わく諸の悪処と第四静慮と及び有頂となり。所以は何ん、彼の処に識を損壊する法あるに由るが故に識住に非ず。何等をか名づけて識を損壊する法となす、謂わく諸の悪処には重き苦受ありて能く識を損し、第四静慮には無想定と無想事とあり、有頂天の中には滅尽定あり、能く識を壊して相続をして断ぜしむるが故に識住に非ず。復た説く、若し余処に処する有情は心に来止せんことを楽い、若し此に至らば更に出でんことを求めざれば、説いて識住と名づく。諸の悪処に於いては二義倶になし。第四静慮の心は恒に出でんことを求む、謂わく諸の異生は無想に入らんことを求め、若し諸の聖者は淨居或いは無色処に入らんことを楽い、若し淨居天は寂滅を証せんことを楽う。有頂は昧劣なるが故に識住に非ざるなり」と云える即ち其の意なり。又「大乗義章巻8末」に依るに、経に七識住を説くことは、外道の別計を破せんが為の故なり。即ち有る諸の外道は識を計して我となし、我は善を択びて居すとす。仏之を破せんが為に識住にして我住に非ずと説くなりと云えり。又「増一阿含経巻33、42」、「長阿含経巻8」、「集異門足論巻17」、「大毘婆沙論巻137、173」、「瑜伽師地論巻14」、「順正理論巻22」、「倶舎論光記巻8」等に出づ。<(望)
  七想定(しちそうじょう):不明。
  七妙法(しちみょうほう):梵語 sapta sat- puruSa- dharmaaH の訳。巴梨語 satta sappurisa- dhammaa、又七善法、七法、或いは七知とも称す。一に知法 dharma- jJa(巴 dhammaJJuu )、二に知義 artha- jJa(巴 atthaJJuu )、三に知時 kaala- jJa(巴 kaalaJJuu )、四に知節 maatra- jJa(巴 mattaJJuu )、五に知己 aatma- jJa(巴 attaJJuu )、六に知衆 parSaj- jJa(巴 parisaJJuu )、七に知人勝如 pudgala- jJa(巴 puggalaNNuu )なり。「増一阿含経巻33」に「若し比丘あり、七法を成就せば現法の中に於いて楽を受くること窮まりなく、尽漏を得んと欲せば便ち能く之を獲ん。云何が七法と為す、是に於いて比丘の法を知り、義を知り、時を知り、又能く自ら知り、復た能く足ることを知り、亦た復た衆中に入りて衆人を観察するを知る。是れを七法と謂う」と云い、「大般涅槃経巻15梵行品」に、「菩薩摩訶薩、大乗の大般涅槃に住し、七善法に住せば梵行を具するを得ん。何等をか七となす、一には法を知り、二には義を知り、三には時を知り、四には足ることを知り、五には自ら知り、六には衆を知り、七には尊卑を知るなり」と云える是れなり。此の中、知法とは能詮の教法に十二部経の別あるを了解するを云い、知義とは所詮の義理を分別し、文字に於いて壅塞せざるを云い、知時とは修行の時宜を知るの謂にして、即ち止を修すべき時に止を修し、観を修すべき時に観を修し、乃至語默誦授皆時に適いて之を行ずるを云い、知節とは又知量或いは知足と名づく、飲食衣服行住座臥等に於いて各其の節量を知るを云い、知己とは又自知と名づく、自己の徳の多少、信戒聞施乃至族姓、辯才等の分を了知するを云い、知衆とは集会の衆の族姓乃至法の適不適等を了知するを云い、知人勝如とは又知補特伽羅有勝有劣と名づく、衆の徳行の勝劣を了知するを云うなり。「涅槃経会疏巻14」には、此の中、前の三は自他に通じ、次の二は自行、後の二は唯化他なりとし、又七善は正しくは化他の為にし、自行を傍となすと云えり。又「中阿含巻1善法経」、「七知経」、「集異門足論巻17」、「大明三蔵法数巻29」等に出づ。<(望)
  七知(しちち):蓋し七妙法とも称す。『大智度論巻18下注:七妙法』参照。
  七善人去処(しちぜんにんこじょ):蓋し又七善士趣とも称す。『大智度論巻18下注:七善士処』参照。
  七善士処(しちぜんじじょ):阿那含果の聖者が色界又は無色界に生じて般涅槃する遅速等に由りて、即ち中般、生般、有行般、無行般、上流般の五種の別を生ずる中、上流般を開いて全超、半超、遍没の三種と為し、并び称して七種となるが故に、之を七善士処と名づく。『大智度論巻18下注:阿那含』参照。
  七浄(しちじょう):七種の浄の意。戒、心、見、度疑、道非道知見、行善知見、断悪知見の七種の浄なり。即ち「中阿含巻2七車経」に、「尊者舎利弗則ち晡時に於いて燕坐より起ちて尊者満慈子の所に往詣し、共に相問訊して却き、一面に坐して則ち尊者満慈子に問うて曰わく、賢者、沙門瞿曇に従いて梵行を修するや。答えて曰わく、是の如し。云何が、賢者、浄戒を以っての故に、沙門瞿曇に従いて梵行を修するや。答えて曰わく、不なり。心の浄を以っての故に、見の浄を以っての故に、道非道の知見の浄を以っての故に、道跡の知見の浄を以っての故に、道跡の断智の浄を以っての故に、沙門瞿曇に従いて梵行を修するや。答えて曰わく、不なり」と云い、「維摩経巻3仏道品」に、「八解の浴池、定水湛然として満ち、布くに七浄華を以ってし、此に浴する無垢の人」と云えるに就き、「注維摩経巻7」に、「七浄華を布くとは、什曰わく、一には戒の浄、始終浄なり。身口の所作に微悪すら有ることなく、意は垢を起さず、亦た相を取らず、受生を願ぜず、人に無畏を施し、衆生を限らず。二には心の浄なり、三乗もて煩悩心を制し、結心を断ずるより、乃至三乗の漏尽心を名づけて、心の浄と為す。三には見の浄なり、法の真性を見て妄想を起さず、是れを見の浄と名づく。四には疑を度すの浄なり、若し見未だ深からざれば、時に当たりて了すと雖も、後に或いは疑を生ぜん。若し見深くんば、疑断ぜん、疑を度すの浄と名づく。五には道を分別するの浄なり、善く能く是れ道なり、宜しく行ずべし、道に非ず、宜しく捨つるべしと見る、是れを道を分別するの浄と名づく。六には行断知見の浄なり、行とは謂わく苦にして難、苦にして易、楽にして難、楽にして易の四行なり、断とは謂わく諸結を断ずるなり。学地中は尽く未だ自ら行ずる所と、断ずる所とを知る能わず、既に無学の尽智無生智を得たれば、悉く自ら行ずる所と、断ずる所とを知りて通達分明なり、是れを行断知見の浄と名づく。七には涅槃の浄なり。生曰わく、一に戒の浄なる、二に心の浄なる、三に見の浄なる、四に度疑の浄なる、五に道非道知見の浄なる、六には行知見の浄なる、七には断知見の浄なるなり。此の七は既に浄好なるを以って理と為し、而も定の水より出づれば、義を水中華と為すなり」と云えるに由って其の義を知るべし。
  七財福(しちざいふく):不明。
  七非財福(しちひざいふく):不明。
  七助定法(しちじょじょうほう):不明。
  七財(しちざい):七つの財産。
    (1)信財。
    (2)戒財。
    (3)慚財、自己の罪過を羞恥する。
    (4)愧財、他人に対して羞恥する。
    (5)聞財。
    (6)施財。
    (7)慧財。
  七依止(しちえし):七つの頼るべきもの。詳細は不明。
  七想定(しちそうじょう):不明。
  七妙法(しちみょうほう):不明。
  七知法(しちちほう):七つの知るべきこと。
    (1)戒行に勤めること。
    (2)貪欲を勤めて滅すること。
    (3)邪見を勤めて破ること。
    (4)多聞に勤めること。
    (5)精進に勤めること。
    (6)正念(念仏、念法、念僧、念施、念戒、念天)に勤めること。
    (7)禅定に勤めること。(長阿含経9)
  七善人去処(しちぜんにんこしょ):善人の往く所。詳細は不明。
  七浄(しちじょう):不明。
  七財福(しちざいふく):不明。
  七非財福(しちひざいふく):不明。
  七助定法(しちじょじょうほう):定を助ける七つの法。詳細は不明。
復知八聖道分八背捨八勝處八大人念八種精進八丈夫八阿羅漢力。如是等無量八法門。 復た知る、八聖道分、八背捨、八勝処、八大人念、八種精進、八丈夫、八阿羅漢力、是れ等の如き無量の八法の門なり。
復た、
こう知る、――
『八法』とは、
『八聖道分』、
『八背捨』、
『八勝処』、
『八大人念』、
『八種精進』、
『八丈夫』、
『八阿羅漢力であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『八法の門である!』。
  八聖道分(はっしょうどうぶん):又八聖道、八正道とも称す。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  八背捨(はっぱいしゃ):又八解脱とも称す。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  八大人念(はちだいにんねん):又八大人覚とも称す。声聞、辟支仏、菩薩の大力量の人の覚悟する所の法に八種あるを云う。『大智度論巻18下注:八大人覚』参照。
  八大人覚(はちだいにんがく):巴梨語 aTTha mahaa- purisa- vitakkaa、大人の覚知思念する八種の法の意。又八大人念、大人八念、或いは八生法とも称す。一に少欲覚、二に知足覚、三に遠離覚、四に精進覚、五に正念覚、六に正定覚、七に正慧覚、八に不戯論覚なり。「中阿含巻18八念経」に、「是の時世尊便ち定より覚し、尊者阿那律陀を嘆じて曰わく、善哉善哉、阿那律陀。謂うに汝は安静処に在りて燕坐思惟して心に是の念を作したるべし、道は無欲に従う、有欲に非ずして得。道は知足に従う、無厭に非ずして得。道は遠離に従う、聚会を楽うに非ず、聚会に住するに非ず、聚会に合ずる非ずして得。道は精進に従う、懈怠に非ずして得。道は正念に従う、邪念に非ずして得。道は定意に従う、乱意に非ずして得。道は智慧に従う、愚癡に非ずして得と。阿那律陀、汝は如来より更に第八大人の念を受け、受け已りて則ち思うべし、道は不戯楽不戯行不戯に従う、戯に非ず楽戯に非ず行戯に非ずして得と。阿那律陀、若し汝此の大人の八念を成就せば、汝は必ず能く欲を離れ、悪不善の法を離れ、第四禅成就遊を得るに至らん」と云える是れなり。此の中、初に少欲覚とは又無欲覚と名づく。即ち修道の為に所須を欲求するも、但だ多くを求めざるを云う。二に知足覚とは因縁、持戒、若しくは他人の心情に関せず、少しく取りて心に満足するを云う。三に遠離覚とは又楽寂静覚、隠処覚と名づく。身に世間の纏縛を遠離し、心に諸煩悩を遠離して寂静を楽欲するを云う。四に精進覚とは又不疲倦覚と名づく。正勤を行じ、善法を修習して懈怠なきを云う。五に正念覚とは又正憶覚、不忘念覚、守正念覚、或いは制心覚とも名づく。常に身、受、心、法の四法に於いて正安念を修し、邪想を起さざるを云う。六に正定覚とは又定意覚、或いは定心覚とも名づく。禅定を修習して乱想を摂し、身心寂静を得て三昧現前するを云う。七に正慧覚とは又智慧覚と名づく。心に乱想を起さず、智眼を以って仏法を観じ、聖道を覚知するを云う。八に不戯論覚とは又無戯論覚と名づく。実我の法の若しくは一、若しくは異等の戯論をなさざるを云うなり。其の順位に関し、「成実論巻5無相応品」に、「八大人覚の中にも亦た次第して説く、若し比丘少欲を行ぜば則ち足ることを知り、足ることを知らば則ち遠離し、遠離すれば則ち精進し、精進すれば則ち正憶念し、正憶念すれば則ち心摂し、心摂すれば則ち慧を得、慧を得れば則ち戯論滅す」と云い、又「大乗義章巻13八大人覚義」には、前の七を方便、後の一を正証となせり。又「八大人覚経」所説の覚悟世間無常等の八種と今の八覚との同異に関し、観復の「遺教経論記巻中」に、彼の第一覚無常を今の第六、第二覚多欲苦を今の第一、第三覚知厭足を今の第二、第四覚知懈怠を今の第四、第五覚知愚癡を今の第七、第六覚知貪苦を今の第五、第七覚知五欲過を今の第三、第八覚生死熾然を今の第八に配し、名字少異ありと雖も義は大同なりと云えり。又「大般涅槃経巻27」には、今の不戯論を名づけて解脱となし、別に讃歎解脱及び教化衆生の二を加えて之を菩薩の十法となせり。又「長阿含巻9十上経」、「増一阿含経巻37八難品」、「阿那律八念経」、「仏遺教経」、「遺教経論」、「成実論巻1福田品」、「同巻14善覚品」、「八大人覚経略解」、「同経疏」等に出づ。<(望)
  八種精進(はっしゅしょうじん):八種の場合に於いて応に精進すべきことを云うものなり。此の八種の場合とは、即ち乞食未得と、乞食飽満と、執事有ると、当に執事すべきと、行来有ると、当に行来すべきと、患に遇えると、患小しく差ゆるとなり。「長阿含巻9十上経」に、「云何が八精進なる、比丘村に入りて乞食し、食を得ずして還らんに、即ち是の念を作せ、我れは身体は軽便なり、睡眠を少くし、宜しく坐禅、経行に精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘、即便ち精進す、是れを初の精進と為す。比丘、乞食に足るを得れば、便ち是の念を作せ、我れ今村に入りて、乞食飽満して気力充足す、宜しく勤めて坐禅、経行に精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即ち精進を尋ぬ。精進比丘設し執事有れば、便ち是の念を作せ、我れは執事に向かいて、我が行道を廃せり、今は宜しく坐禅、経行に精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即ち精進を尋ぬ。精進比丘設し執事を欲せば、便ち是の念を作せ、明は当に執事して、我が行道を廃すべし、今は宜しく坐禅、経行に精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即便ち精進す。精進比丘設し行来すること有らば、便ち是の念を作せ、我れは朝行来すれば、我が行道を廃せり、今は宜しく坐禅、経行に精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即ち精進を尋ぬ。精進比丘設し行来せんと欲せば、便ち是の念を作せ、我れは明に当に行きて、我が行道を廃すべし、今は宜しく坐禅、経行に精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即便ち精進す。精進比丘設し患に遇える時は、便ち是の念を作せ、我れ重病を得れば、或いは能く命終せん。今は宜しく精進すべしと。未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即便ち精進す。精進比丘患いて小しく差ゆれば、復た是の念を作せ、我れ病みて初めて差ゆ、或いは更に動を増して、我が行道を廃せん、今は宜しく坐禅、経行に精進すべしと、未だ得せざる者は得し、未だ獲せざる者は獲し、未だ証せざる者は証せん。是に於いて比丘即便ち坐禅、経行に精進す、是れを八と為す」と云えるに由って知るべし。
  八丈夫(はちじょうぶ):不明。
  八阿羅漢力(はちあらかんりき):阿羅漢の有する八種の力の意。即ち無所著の行者の一に愛欲を遠離する力、二に四念処を行じて具足する力、三に四正勤を行じて具足する力、四に四如意足を行じて具足する力、五に五根を行じて具足する力、六に五力を行じて具足する力、七に七覚支を行じて具足する力、八に八正道を行じて具足する力を云う。「長阿含十報法経巻下」に、「第十の八法は時に知り、当に自ら知るべし、八の無有著の行者の力なり、無所著の行者は愛欲を見ること譬えば火の如く、是の如く見、是の如く見るを知りて、見れば愛欲の念をして往くを愛せしめ、慧意をして復た著せしめず、著せざれば、是れを一力と為す。四意止を行じ已りて足する無所著の者是れを二力と為す。四意断を行じ已りて足すれば、是れを三力と為す。四禅を行じ已りて具足す、是れを四力と為す、五根を行じ已りて足す、是れを五力と為す。五力を行じ已りて足す、是れを六力と為す、七覚意を行じ已りて足す、是れを七力と為す。八行を行じ已りて足す、是れを八力と為す。是れを行者の八十法と為す」と云える即ち是れなり。
  八大人念(はちだいにんねん):聖者の念ずること。
    (1)少欲。
    (2)知足。
    (3)受行。
    (4)精進。
    (5)守意。
    (6)定意。
    (7)智慧。
    (8)無有家楽。(長阿含十報法経2)
  八種精進(はっしゅしょうじん):比丘の精進すべき八のこと。
    (1)乞食して得ることができない時、身体軽便を念じ、睡眠を少なくして坐禅、経行に精進する。
    (2)乞食して得ることができた時、気力充足を念じ、坐禅、経行に精進する。
    (3)執事している時、これがわが行道と念じ、坐禅、経行の如くに精進する。
    (4)執事しようとする時、明日もまた執事しようと念じ、坐禅、経行の如くに精進する。
    (5)路を往来する時、これがわが行道と念じ、坐禅、経行の如くに精進する。
    (6)路を往来しようとする時、明日もまた往来しようと念じ、坐禅、経行の如くに精進する。
    (7)病に遭った時、重病で明日は命がないかも知れないと念じ、坐禅、経行を精進する。
    (8)病が少し癒えた時、病が少し癒えたので、もっと精進しようと念ずる。(長阿含経9)
復知九次第定九名色等減(從名色至生死為九)九無漏智(得盡智故除等智也。)九無漏地(六禪三無色)九地思惟道如是等無量九法門。 復た知る、九次第定、九名色等減、九無漏智、九無漏地、九地思惟道、是れ等の如き無量の九法の門なり。
復た、
こう知る、――
『九法』とは、
『九次第定』、
『九名色等減』、
『九無漏智』、
『九無漏地』、
『九地思惟道であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『九法の門である!』。
  九次第定(くしだいじょう):次第に無間に修する九種の定の意。『大智度論巻17下注:九次第定』参照。
  九名色等減(くみょうしきとうげん):不明。
  九無漏智(くむろち):十智より世俗智を除く余の九智を云う。即ち法智、類智、苦智、集智、滅智、道智、他心智、尽智、無生智の総称なり。『大智度論巻18下注:無漏智、十智』参照。
  無漏智(むろち):梵語 anaasrava- jJaana の訳。有漏智に対す。即ち学無学位の聖者の成就する慧を云う。「大毘婆沙論巻97」に、「云何が無漏の智なる、答う、無漏の忍を除き余の無漏の慧なり。此れ復た何ぞ、謂わく学無学の八智なり」と云い、「倶舎論巻26」に、「是の如き十智は総じて唯二種あり、有漏と無漏なり。(中略)後の無漏智に法と類との別を分つ」と云える是れなり。是れ無漏智は苦集滅道の四諦の各法智類智にして、即ち有学無学の聖者の成就する八智を称することを説けるものなり。又前引「大毘婆沙論巻97」の連文に無漏智と無漏の見とを四句分別し「無漏の見にして無漏の智に非ざるあり、謂わく無漏の忍なり。此れ見の相あるも智の相なきが故なり。無漏智にして無漏の見に非ざるあり、謂わく尽無生智なり。此れ智の相あるも見の相なきが故なり。無漏の見にして亦た無漏の智なるあり、謂わく無漏の忍と尽無生智を除ける余の無漏の慧なり。此れ復た是れ何ぞ、謂わく学の八智と無学の正見なり。此れ見の相及び智の相あるが故なり。無漏の見に非ず亦た無漏の智に非ざるあり、謂わく前相を除く」と云えり。之に依るに無学の尽智無生智は唯無漏智にして無漏の見に非ざるも、有学の八智は無漏智なると同時に、亦た推度の性なるが故に無漏の見なることを明にせるなり。此の中、尽智無生智は即ち亦た法智類智にして無学の八智を指すなり。「倶舎論巻26」に、「法智類智は境の差別に由りて分ちて苦集滅道の四智と為す。是の如き六智は、若し無学の摂にして見の性に非ざる者を尽無生と名づく」と云える即ち其の意なり。又無学位に於いて無漏智を起すの義に関し、「大毘婆沙論巻107」に、「何が故に諸の阿羅漢は無漏智を起すや。答う、所捨の諸蘊の過患を観じ、及び所得の滅道の勝利を観ぜんと欲するが故に彼れ復た諸の無漏智を起す。復た次ぎに四縁に由りて無漏智を起す、一に現法楽に住せんが為の故に、二に功徳に遊戯せんが為の故に、三に本の所作を観ぜんが為の故に、四に聖財を受用せんが為の故なり」と云えり。又「大毘婆沙論巻106」、「雑阿毘曇心論巻6」、「入阿毘達磨論巻下」、「大乗阿毘達磨雑集論巻9」等に出づ。<(望)
  十智(じっち):梵語 daza jJaanaani の訳。十種の智の意。有漏及び無漏智を総じて十種に分類せるもの。一に世俗智 saMvRti- jJaana、二に法智 dharma- jJaana、三に類智 anvaya- jJaana、四に苦智 duHkha- jJaana、五に集智 samudaya- jJaana、六に滅智 nirodha- jJaana、七に道智 maarga- jJaana、八に他心智 para- citta- jJaana、九に尽智 kSaya- jJaana、十に無生智 anutpaada- jJaana なり。「品類足論巻1」に、「諸の所有の智とは十智あり、謂わく法智、類智、他心智、世俗智、苦智、集智、滅智、道智、尽智、無生智なり」と云い、「倶舎論巻26」に、「是の如き十智は総じて唯二種なり、有漏と無漏と性差別するが故なり」と云える是れなり。是れ即ち十智は有漏又は無漏の性なることを説けるものなり。此の中、世俗智とは又世俗等智、或いは等智とも名づく。多く世俗の境を取るの智にして、即ち有漏の慧の総称なり。法智とは欲界の四諦の理を縁じて欲界の煩悩を断ずる無漏智を云い、類智とは又比智、或いは未知智とも名づく。即ち法智に随って生じ、色無色界の四諦の理を縁じて其の煩悩を断ずる無漏智を云う。苦智とは五取蘊に於いて非常苦空無我の行相を作し、苦諦所属の煩悩を断ずる無漏智を云い、集智とは又習智と名づく。有漏の因性に於いて因集生縁の行相を作し、集諦所属の煩悩を断ずる無漏智を云い、滅智とは択滅無為に於いて滅静妙離の行相を作し、滅諦所属の煩悩を断ずる無漏智を云い、道智とは聖道に於いて道如行出の行相をなし、道諦所属の煩悩を断ずる無漏智を云う。他心智とは現在他相続の中の能縁の心を縁ずる智を云い、尽智とは無学位に於いて我れ已に苦を知り、我れ已に集を断じ、我れ已に滅を証し、我れ已に道を修せりと遍知し、漏尽の得と俱生する無漏智を云い、無生智とは無学位に於いて我れ已に苦を知る、復た更に知るべからず。我れ已に集を断ず、復た更に断ずべからず。我れ已に滅を証す、復た更に証すべからず。我れ已に道を修す、復た更に修すべからずと遍知し、非択滅の得と俱生する無漏智を云うなり。蓋し此の十智は自性、対治、行相、行相及び所縁、加行、事辦、因円の七縁に由りて、其の別を建立するなり。即ち世俗智は其の自性有漏なるに由り、法智及び類智は三界の煩悩を対治するに由り、苦智及び集智は非常苦空等の行相の差別に由り、滅智及び滅静妙離等の行相及び所縁の有為無為の別あるに由り、他心智は他心を知らんと欲する加行に由り、尽智は無学位に於いて作事成辦するに由り、無生智は一切の聖道を因とし無学果を円満するに由りて建立するなり。又何等の人か此の十智を具するかを言わば、異生及び未離欲の聖者は入見道初刹那苦法忍位に於いて唯世俗の一智を成じ、第二刹那苦法智位に於いて世俗智、法智、苦智の三智を成じ、第四刹那苦類智位に於いて前の三と及び類智の四智を成じ、第六刹那集法智位に於いて前の四と及び集智の五智を成じ、第十刹那滅法智位に於いて前の五と及び滅智の六智を成じ、第十四刹那道法智位に於いて前の六と及び道智の七智を成じ、又修道位に於いて未離欲の者は亦た此の七智を成じ、已離欲の者は前の七智と及び他心智の八智を成じ、時解脱の者は前の八智と及び尽智の九智を成じ、不時解脱の者は更に無生智を加えて具に十智を成ずるなり。又此の十智の依地を言わば、世俗智は欲界乃至有頂の十八地に依り、他心智は唯四根本静慮に依り、法智は四根本並びに未至中間の六地に依り、余の類智、四諦智、尽及び無生の七智は、欲界と有頂を除き、他の四根本、未至、中間、下三無色の九地に依るなり。又有漏無漏を分別せば、世俗智は有漏、余の八は無漏、他心智は有漏無漏に通ず。即ち他の有漏の心心所法を知るを有漏とし、他の無漏の心心所法を知るを無漏とす。又有漏縁無漏縁を分別せば、苦智集智の二は有漏縁、滅智道智の二は無漏縁、余の六は有漏縁無漏縁に通ず。又三性を分別せば、世俗智は善等の三に通じ、他の九智は唯善なり。又「大般若経巻489」には、此の十智に如説智を加えて十一智となせり。如説智に関し、彼の経に「若し智あり、無所得を以って方便と為し、一切法如説の相を知る、即ち是れ如来の一切相智なり。是れを如説智となす」と云えり。是れ一切法如説の相を知るを如説智と名づけたるなり。又「阿毘達磨発智論巻9」、「品類足論巻2」、「大毘婆沙論巻57、63、98至111、186、190」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「成実論巻16十智品」、「顕揚聖教論巻2」、「入阿毘達磨論巻下」、「雑阿毘曇心論巻6」、「順正理論巻73」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻35」、「大乗阿毘達磨雑集論巻15」、「倶舎論光記巻26」等に出づ。<(望)
  九無漏地(くむろじ):滅諦涅槃に趣向する聖道の所依となす九種の地を云う。即ち四静慮、未至、中間、及び下三無色なり。有頂地に聖道なきが故なり。『大智度論巻18下注:無漏道』参照。
  無漏道(むろどう):梵語 anaasrava- maarga の訳。諸漏の随増することなき道の意。又出世間道、或いは聖道とも称す。有漏道に対す。即ち煩悩を除滅して涅槃に趣向する聖道を云う。「倶舎論巻22」に、「彼の頌に言わく、無漏は謂わく聖道なりと。此れ道諦を説く」と云い、「同巻23」に、「諸の無漏道を総じて名づけて流と為す。此れ因となりて涅槃に趣くに由るが故なり」と云い、又「順正理論巻57」に、「余の有学無学の聖道は、若し生死に趣かば応に無漏に非ざるべし、若し涅槃に趣かば応に道諦の摂なるべし、若し倶に趣かざれば応に道と名づけざるべし。如何ぞ彼れは乃ち是れ道にして道諦に非ずと言うや。是の故に学無学の道は皆道諦に収むるの理善く成立す」と云える是れなり。是れ無漏の道は道諦にして、即ち滅諦涅槃に趣向する聖道に名づけたることを明にせるなり。四静慮未至中間及び下三無色の九地を所依として起り、有頂地には此の道あることなし。世第一法の無間に苦法忍を生ずるを無漏の初起とし、四沙門果の性にして、初果及び第四果は唯無漏道の所得、第二第三の二果は有漏無漏の二道に通ず。「大毘婆沙論巻66」に、「諸の無漏道は是れ実義の道なり。初後の二果は全く彼れの所得なり、故に初後の果を実義の果と名づく。復た次ぎに中間の二果は有漏無漏二道の共得なり、仮名の果と名づく」と云える即ち其の説なり。又此の道には加行、無間、解脱、勝進の四道あり。就中、無間道は諸惑能断の道を云い、解脱道は正しく解脱を証する道を云うなり。下八地の修惑は有漏断に通ずるも、有頂地の染は唯無漏道のみ能く之を断ず。又「倶舎論巻10」に無漏の断道には唯等流等の四果のみあり、異熟果なしと云えるは、無漏道に由りて当来愛非愛の異熟果を招くことなきを明すの意なり。又「大毘婆沙論巻55」、「倶舎論巻24」、「順正理論巻70」、「成唯識論巻5」等に出づ。<(望)
  九思惟道地(くしゆいどうじ):欲界を以って一地と為し、色界及び無色界を各分ちて四地と為し、合して九地の中に各九品の思惑あるを云う。
  九地(くじ):九種の地の意。又九有とも名づく。即ち欲界を一地、色界及び無色界を各四地に分類するを云う。一に欲界五趣地、二に離生喜楽地、三に定生喜楽地、四に離喜妙楽地、五に捨念清浄地、六に空無辺処地、七に識無辺処地、八に無所有処地、九に非想非非想処地なり。初に欲界五趣地は、或いは五趣雑居地とも名づく。即ち地獄餓鬼畜生、人及び天の五趣は等しく散地にして、並びに欲あるが故に合して一地と為す。二に離生喜楽地は即ち色界初禅にして、尋伺即ち覚観と相応し、已に欲界の苦を離れて喜楽を生ずるが故に立てて一地となす。三に定生喜楽地は即ち色界第二禅にして、已に尋伺なく、定より喜楽を生ずるが故に一地と為す。四に離喜妙楽地は即ち色界第三禅にして前の喜貪を離れ、心悦安静にして勝妙の楽あるが故に一地と為す。五に捨念清浄地は即ち色界第四禅にして、前の喜楽等を離れ、清浄平等にして捨受正念に住するが故に一地と為す。六に空無辺処地は無色界の第一定にして、色を厭うて空無辺処定に住し、七に識無辺処地は無色界の第二定にして、識無辺処定に住し、八に無所有処地は無色界の第三定にして、無所有処定に住し、九に非想非非想処地は無色界の第四定にして、非想非非想処定に住するが故に、各立てて一地と為すなり。此の中、後の四地は所謂四無色界にして、其の名称は別に異なることなし。前の五は「雑阿含経巻17」の説に基づき、其の名目を立つ。即ち彼の文に「云何が食念なる、謂わく五欲の因縁より念を生ず。云何が無食念なる、謂わく比丘慾を離れ、悪不善の法を離れて、有覚有観、離生喜楽、初禅具足して住す。是れを無食念と名づく。云何が無食無食念なる、謂わく比丘有覚有観息み、内浄一心にして、無覚無観、定生喜楽、第二禅具足して住す。是れを無食無食念と名づく。云何が有食楽なる、謂わく五欲の因縁より楽を生じ、喜を生ず、是れを有食楽と名づく。云何が無食楽なる、謂わく有覚有観息み、内浄一心にして、無覚無観、定生喜楽、是れを無食楽と名づく。云何が無食、無食楽なる、謂わく比丘喜貪を離れて捨心に住し、正念正知、安楽にして彼の聖説の捨に住す、是れを無食無食楽と名づく。云何が有食者なる、謂わく五欲の因縁より捨を生ず、是れを有食捨と名づく。云何が無食捨なる、謂わく彼の比丘喜貪を離れて捨心に住し、正念正知、安楽にして彼の聖説の捨に住し、第三禅具足して住す、是れを無食捨と名づく。云何が無食無食捨なる、謂わく比丘苦を離れ楽を息め、憂喜先づ已に離れて、不苦不楽捨浄念一心にして第四禅具足して住す、是れを無食無食捨と名づく」と云える是れなり。又「大毘婆沙論巻31、141」、「倶舎論巻28」、「阿毘達磨順正理論巻77」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻38」、「大乗義章巻13」、「釈氏要覧巻中」等に出づ。<(望)
復知十無學法十想十智十一切入十善大地佛十力。如是等無量十法門。 復た知る、十無学法、十想、十智、十一切入、十善大地、仏の十力なり、是れ等の如き無量の十法の門なり。
復た、
こう知る、――
『十法』とは、
『十無学法』、
『十想』、
『十智』、
『十一切入』、
『十善大地』、
『仏の十力であり!』、
是れ等のような、
無量の、
『十法の門である!』。
  十無学法(じゅうむがくほう):十種の無学の法の意。又十無学支とも称す。『大智度論巻18下注:十無学支』参照。
  十無学支(じゅうむがくし):十種の無学の支分の意。又十無学法とも名づく。即ち阿羅漢果を得たる無学の人の成就する無漏法に十種あるを云う。一に無学正見、二に無学正思惟、三に無学正語、四に無学正業、五に無学正命、六に無学正精進、七に無学正念、八に無学正定、九に無学正解脱、十に無学正智なり。「中阿含巻60例経」に、「彼れ乃至五蓋の穢と、慧の羸とを断ずるに、無学の正見乃至無学の正智を修す。是れを無明を別知せんと欲せば、当に十無学法を修すべしと謂うなり」と云い、「発智論巻7」に、「世尊説くが如し、漏尽の阿羅漢は十無学支を成就す」と云える是れなり。就中、無覚の正見とは無漏の作意相応の慧を云い、無学の正思惟とは正見と倶起する思惟を云い、無学の正語とは無漏の作意に依りて生ずる清浄の四種の語業を云い、無学の正業とは無漏の作意に依りて生ずる三種の身業を云い、無学の正命とは諸の邪命を遠離せる如法の活命を云い、無学の正精進とは欲楽正勤にして勇猛堪任なるを云い、無学の正念とは心明了にして諸法に於いて忘失せざるを云い、無学の正定とは心住安住近住等住して心に散乱なきを云い、無学の正解脱とは煩悩の縛を離れたる有為解脱を云い、無学の正智とは尽智及び無生智にして、即ち金剛喩定の後、諸漏の尽滅を知るを尽智と名づけ、諸漏の断尽に依りて後有の無生を縁ずるを無生智と名づくるなり。此の中、前の八支は即ち八正道なり、之に無学位に至りて始めて得する解脱と正智の二支を加えて以って無学の十支となすなり。「倶舎論巻25」に後の二支を立つる理由を明かし、「有学位の中には、尚お余縛ありて未だ解脱せざるが故に解脱支なし、少縛を離るるを脱者と名づく可きに非ず。解脱の体なくして解脱の智を立つ可きに非ず。無学は已に諸の煩悩の縛を脱し、復た能く二の解脱を了する智を起す。二顕了なるに由りて二支を立つ可し。有学は然らず、故に唯八を成ず」と云えり。以って其の建立の意旨を見るべし。又此の十支が無学身中に於いて三世に成就せらるる数は、有尋有伺定等の別によりて同じからず。即ち時解脱阿羅漢の練根して不動となり、若し有尋有伺定に依りて初めて無学智現在前するものは、過去には支なく、未来には十支を成じ、現在には尽智と正見と倶起せざるが故に即ち正見を除きて余の九支を成就し、第二刹那以後は已に前刹那に於いて九支を成ずるが故に過去に九、現在にも亦た九、未来には十支を成ず。若し無尋有伺定に依りて無学智現在前する者は、過去と現在に九、未来には十支あり。若し無尋無伺定に依りて無学智現在前する者は過去に九、未来に十、現在には唯八あり、是れ無尋伺なるが故に正思惟なく、及び正見を除くを以ってなり。若し復た無色定中、下三無色に依る者は、過去の九、及び未来の十は前に同じきも、彼の地は無尋伺にして且つ無色なるが故に現在には正思惟、正語、正業、正命なく、及び正見を除くを以って唯五支を成就するなり。色界に依る者は過去は九、未来は十、現在は五となすを云えるものにして、三界に於ける三世の無学支成就の一班を知るべし。又「大乗阿毘達磨雑集論巻10」には、此の十支は無学の五蘊に依止することを説き、即ち正語正業正命は無学の戒蘊、正念正定は無学の定蘊、正見正思惟正精進は無学の慧蘊、正解脱は無学の解脱蘊、正智は無学の解脱智見蘊なりと云えり。又「中阿含巻47五支物主経」、「同巻49聖道経」、「発智論巻16」、「大毘婆沙論巻94」、「顕揚聖教論巻3」、「順正理論巻72」、「倶舎論光記巻25」等に出づ。<(望)
  十想(じっそう):十種の観想の意。『大智度論巻17下注:十想』参照。
  十智(じっち):有漏無漏の十種の智を云う。『大智度論巻18下注:十智』参照。
  十一切入(じゅういっさいにゅう):十種の観想法を云う。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  十善大地(じゅうぜんだいじ):十の善大地法の意。又大善地法とも称す。恒に一切の善心に相応する十種の法にして、即ち信、不放逸、軽安、捨、慚、愧、無貪、無瞋、不害、勤なり。『大智度論巻14上注:心所有法、巻18下注:大地法、大善地法、大煩悩地法、大不善地法、小煩悩地法、不定地法』参照。
  十力(じゅうりき):仏所有の十種の智力を云う。『大智度論巻16上注:十力』参照。
  大地法(だいじほう):大地は梵語 mahaa- bhuumika の訳。一切の心と相応して俱起する心所法を云う。凡そ十種あり、一に受 vedanaa、二に想 saMjJaa、三に思 cetanaa、四に触 sparza、五に欲 chanda、六に慧 prajJaa、七に念 smRti、八に作意 manaskaara、九に勝解 adhimokSa、十に三摩地 samaadhiなり。「大毘婆沙論巻42」に、「若し法の一切心中に得べきものを大地法と名づく」と云い、「倶舎論巻4」に、「大法の地なるが故に名づけて大地と為し、此の中、若し法の大地の所有なるを大地法と名づく。謂わく法恒に一切の心に於いて有るなり。彼の法とは是れ何ぞ。頌に曰わく、受と想と触と欲と慧と念と作意と勝解と三摩地なり。一切の心に遍ず」と云える是れなり。是れ蓋し受等の十法は遍く善不善無記の三性の心品と相応するが故に大法と名づけ、此の大法は其の依地たる心王の所有なるが故に、之を大地法と名づくとなすの意なり。但し其の釈名に関しては諸説あり、「大毘婆沙論巻16」に、「問う、大地法とは是れ何の義なるや。答う、大とは謂わく心なり、是の如き十法は是れ心の起る処なり。大の地なるが故に大地と為し、大地即ち法なれば大地法と名づく。有説は心を名づけて大と為す、体用勝るるが故なり。即ち大は是れ地なるが故に大地と名づく、是れ諸の心所の所依処なるが故なり。受等の十法は諸の大地に於いて遍く得べきが故に大地法と名づく。有説は受等の十法は諸の心品に遍ずるが故に名づけて大と為し、心は是れ彼の地なるが故に大地と名づけ、受等は即ち是れ大地の所有なれば大地法と名づく」と云える是れなり。今「倶舎論」に於いては此の中の第三説を採るなり。又十法の中、受とは苦と楽と俱非とを領納するを云い、想とは境に於いて差別の相を取るを云い、思とは能く心をして造作あらしむるを云い、触とは根境識和合して生じ、能く触対するを云い、欲とは所作の事業を希求するを云い、慧とは法に於いて能く簡択あるを云い、念とは所縁の事に於いて明記して忘れざるを云い、作意とは能く心をして警覚せしむるを云い、勝解とは能く境に於いて印可審定するを云い、三摩地とは等持と訳し、心一境性を云うなり。但し説一切有部に於いては是の如く受等の十法が一切の心に遍じて刹那に俱起すとなし、且つ此の十法皆別体ありとなすも、経量部に於いては唯受想思の三のみ其の体ありとし、余の有を認めず。「順正理論巻10」に、「彼の上座言わく、所計の如き十大地法なし。此れに但だ三種のみあり、経に俱起の受想思と説くが故なり。豈に彼の経に亦た触ありと説かずや、彼の経に三和合の触と言うが如し。経に触ありと言うと雖も別体ありと説かず。故に彼の経に言わく、是の如きの三法類集和合するを説いて名づけて触となすと。故に所計の如き十大地法の性なしと」と云える即ち其の説なり。又唯識家に於いては此の十法を分ちて五遍行五別境の二種とし、作意、触、受、想、思の五法は、一切の心心所に遍じて相応するが故に遍行と名づくべきも、余の五法は各別の境を縁じて生ずるが故に、定んで遍行となすべからずとなせり。又「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻上」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「大乗広五蘊論」、「成唯識論巻3、5」、「同述記巻6本」、「倶舎論光記巻4」等に出づ。<(望)『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  大善地法(だいぜんじほう):梵語 kuzala- mahaa- bhuumikaa dharmaaH の訳。一切の善心と相応して俱起する心所法を云う。凡そ十種あり、一に信 zraddhaa、二に不放逸 apramaada、三に軽安 prasrabdhi、四に捨 upekSaa、五に慚 hrii、六に愧 apatraapya、七に無貪 alobha、八に無瞋 adveSa、九に不害 ahiMsaa、十に勤 viirya なり。「大毘婆沙論巻42」に、「若し法の唯一切の善心に在りて得べきものを大善地法と名づく」と云い、「倶舎論巻4」に、「大善法の地なれば大善地と名づく。此の中、若し法の大善地の所有なるを大善地法と名づく、謂わく法の恒に諸の善心に於いて有るなり。彼の法とは是れ何ぞ、頌に曰わく、信及び不放逸と、軽安と捨と慚と愧と、二根及び不害と勤となり。唯善心にのみ遍ず」と云える是れなり。蓋し信等の十法は一切の善心に周遍するが故に大善と名づけ、心王は彼の大善の所行の依処なるが故に大善地と名づけ、信等は彼の大善地の所有の法なるが故に大善地法と名づくるなり。就中、信とは心をして澄浄ならしむるを云い、不放逸とは専注して諸の善法を修するを云い、軽安とは心の堪忍を性とし、身心の軽利安適なるを云い、捨とは心の平等を性とし、驚覚なきを云い、慚とは有徳に対して敬崇従属し、或いは所造の罪を内観して恥づるを云い、愧とは罪果を怖れ、或いは他に対して所造の罪を恥づるを云い、無貪とは諸の境界に於いて愛染なき性を云い、無瞋とは情非情に於いて恚害なき性を云い、不害とは他を損悩することなきを云い、勤とは心をして勇悍ならしむるを性とし、二悪を勤断し二善を勤修して退なきを云うなり。但し無癡善根は慧を性となすが故に大地法に摂して今重ねて之を挙げず。又「順正理論巻11」には、此の十法外に別に厭欣の二法を加えて十二法となすも、倶舎家にては、厭は苦集を縁じ、欣は滅道を縁じ、一心に於いて互いに俱起すること能わざるが故に一切の善心に周遍せずとし、以って唯十法となせり。又「成唯識論巻6」には此等の十法に無癡を加えて十一善法となし、且つ欣、不忿、不恨、不悩、不嫉は欲と倶なる無瞋の一分、厭、不慳、不憍は慧と倶なる無貪の一分、不覆、不誑、不諂は無貪癡の一分なりとし、其の所説倶舎家と異あり。又「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻上」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「大乗広百論」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻6本」等に出づ。<(望)『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  大煩悩地法(だいぼんのうじほう):梵語 kleza- mahaa- bhuumikaa dharmaaH の訳。又大随煩悩と名づく。即ち染汙心と恒に相応する煩悩を云う。六種あり。一に癡 moha、二に放逸 pramaada、三に懈怠 kausiidya、四に不信 aazraddhya、五に惛沈 styaana、六に掉挙 auddhatya なり。「大毘婆沙論巻42」に、「若し法の一切染汙心の中に得べきを大煩悩地法と名づく」と云い、「倶舎論巻4」に、「若し法の大煩悩地の所有なるを大煩悩地法と名づく。謂わく法恒に染汙心に於いて有なり。彼の法とは是れ何ぞ、頌に曰わく、癡と逸と怠と不信と惛と掉となり。恒に唯染なり」と云える是れなり。是れ此の六法は恒に染汙心中に得べきが故に、之を大煩悩地法と名づくることを説けるものなり。就中、癡とは暗昧にして、一切の所知の境に於いて如理の解を障うるを云い、放逸とは縦蕩にして、諸の善法を勤修せざるを云い、懈怠とは懶惰にして、心勇悍ならざるを云い、不信とは因果の理を信ぜざるを云い、惛沈とは身心鈍重にして堪任ならざる性を云い、掉挙とは躁動にして心の静寂ならざるを云うなり。此の中、癡は六根本煩悩の一にして、余の五法は枝末の惑に属す。「品類足論巻2」、並びに「大毘婆沙論巻42」には、此の中の惛沈を除き、別に失念、心乱、不正知、非理作意、邪勝解の五法を加え、大煩悩地法に凡べて十法ありとなせり。然るに其の体に約せば、失念は念、心乱は三摩地、不正知は慧、非理作意は作意、邪勝解は勝解にして、即ち此の五を離れて別体なきが故に今は之を除き、別に一切煩悩と相応する惛沈を加えて六法となせるものなり。又「成唯識論巻6」には、此の六法の中、癡を除き、別に失念、散乱、不正理の三を加え、此の八法を大随煩悩、或いは八大随惑と称せり。蓋し此等の八法は煩悩の分位差別にして、即ち其の等流性なるが故に、其の中に癡を加えず。是れ倶舎等の所立に同じからざる所なり。又「界身足論巻下」、「雑阿毘曇心論巻2」、「順正理論巻11」、「倶舎論光記巻4」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  大不善地法(だいふぜんじほう):大不善地は梵語 a- kuzala- mahaa- bhuumika の訳。一切の不善心と相応して現起する心所法を云う。二種あり、一に無慚 aahriikya、二に無愧 anapatraapya なり。「倶舎論巻4」に、「大不善法の地なれば大不善地と名づく。此の中、若し法の大不善地の所有なるを大不善地法と名づく。謂わく法恒に不善心に於いて有るなり。彼の法は是れ何ぞ、頌に曰わく、唯不善心に遍ずるは、無慚と無愧となり」と云える是れなり。是れ蓋し此の二法は恒に一切の不善心に周遍して俱起するが故に大不善と名づけ、其の依地たる心王を大不善地とし、此の地の所有なるが故に即ち此の二法を大不善地法と名づくと云うの意なり。就中、無慚とは徳及び有徳者に対して敬なく崇なく、忌難なく随属する所なきを云い、無愧とは現当二世の罪果に於いて怖畏を見ざるを云い、又或いは所造の罪に於いて自ら観じて恥づることなきを無慚とし、他に観じて恥づることなきを無愧となすなり。「大毘婆沙論巻42」には此の二法の外、大有覆無記地たる無明、惛沈及び掉挙の三を加えて五大不善地法となせるも、倶舎家にては此等の三法を大煩悩地法に摂せり。又「成唯識論巻6」には此の二法は唯不善心に遍ずるが故に、大随煩悩及び小随煩悩に対して、之を中随煩悩と呼べり。又「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻上」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「大乗広五蘊論」、「成唯識論述記巻6末」、「倶舎論巻21」、「同光記巻4、21」等に出づ。<(望)『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  小煩悩地法(しょうぼんのうじほう):梵語 pariitta- kleza- bhuumika- dharmaaH の訳。又小随煩悩と名づく。即ち小分の染汙心と相応して各別に現起する煩悩を云う。凡そ十種あり、一に忿 krodha、二に覆 mrakSa、三に慳 maatsarya、四に嫉 iirSyaa、五に悩 pradaaza、六に害 vhiMsaa、七に恨 upanaaha、八に諂 maayaa、九に誑 zaaThya、十に憍 mada なり。「大毘婆沙論巻42」に、「若し法の少分の染汙心中に得べきを小煩悩地法と名づく」と云い、「倶舎論巻4」に、「小煩悩法の地なれば小煩悩地と名づく、此の中、若し法の小煩悩地の所有なるを小煩悩地法と名づく、謂わく法の少分の染汙心と倶なるなり。彼の法とは是れ何ぞ、頌に曰わく、忿と覆と慳と嫉と悩と害と諂と誑と憍となり。是の如きの類を名づけて小煩悩地法と為す」と云える是れなり。就中、忿とは情非情に於いて心をして憤発せしむるを云い、覆とは自罪を隠蔵するを云い、慳とは巧施と相違し、財法に於いて悋著ならしむるを云い、嫉とは他の諸の興盛の事に於いて心をして喜ばざらしむるを云い、悩とは諸有の罪事を堅執して如理の諌悔を取らず、自ら熱悩するを云い、害とは他に於いて能く逼迫をなし、打罵等の事を行ずるを云い、恨とは忿の所縁の事に於いて数数尋思し、怨を結んで捨せざるを云い、諂とは心険曲にして如実に自らを顕さず他を網するを云い、誑とは他を惑し極めて詭作なるを云い、憍とは自法に染著し、心をして傲逸ならしむるを云うなり。又此の中、忿覆慳嫉の四は無慚乃至惛沈の六と共に十纏に摂し、余の悩害等の六は六垢と名づけらる。又覆慳誑憍の四は貪の等流、忿嫉害恨の四は瞋の等流、悩は見取の等流、諂は諸見の等流なり。総じて修所断にして唯意識地に起り、無明と相応す。又忿覆慳嫉悩害恨の七は唯欲界繋、諂誑の二は欲界及び初静慮繋、憍は三界に通じて繋す。又「順正理論巻11」には此の十法の外に不忍不楽憤発等を又小煩悩地法となすも、倶舎家には不忍不楽は嫉に摂し、憤発は忿の中に摂し、以って唯十法となすなり。又「成唯識論巻6」には此等の十種を以って小随煩悩と名づけ、根本惑の分位の差別となし、皆貪等の一分を以って体となすと云い、即ち覆を貪及び癡の一分、悩を瞋の一分、諂及び誑を亦た貪癡の一分となし、其の説倶舎と異あり。又「雑阿毘曇心論巻2」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻21」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「大乗広五蘊論」、「倶舎論光記巻4、21」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  不定地法(ふじょうじほう):梵語 aniyata- bhuumika dharma の訳。相応する界地等の不定なる心所法を云う。之に八種あり、一に悪作 kaukRtya、二に睡眠 middha、三に尋 vitarka、四に伺 vicaara、五に貪 raaga、六に瞋 pratigha、七に慢 maana、八に疑 vicikitsaa なり。「倶舎論巻4」に、「已に五品の心所を説く、復た此の余の不定の心所あり、悪作、睡眠、尋、伺等の法なり」と云える是れなり。是れ此の八法は受等の大地法の如く一切の心に遍ぜず、癡等の大煩悩地法の如く一切の染心に遍ぜず、其の相応する界地等不定なるが故に不定地法と名づけたるなり。此の中、悪作は又悔と名づけ、所作の業を追悔するを云い、睡眠は又睡、或いは眠と名づけ、心の昧略なるを云い、尋は旧訳に覚と名づけ、諸法の名義等を麁猛に推求するを云い、伺は旧訳に観と名づけ、境に於いて微細に伺察するを云い、貪は染著して財物等を欲求するを云い、瞋は有情に於いて憎恚するを云い、慢は己を恃みて高挙するを云い、疑は猶豫して決定せざるを云うなり。就中、初の悪作等の四は随煩悩、後の貪等の四は根本煩悩に摂せらる。但し大乗唯識家に於いては、唯此の初の四を以って不定となし、後の四を煩悩の摂となせり。「成唯識論巻6」に、「悔と眠と尋と伺は、善染等に於いて皆不定なるが故に、触等の如く定んで心に遍ずるに非ざるが故に、欲等の如く定んで地に遍ぜざるが故に不定の名を立つ」と云える即ち其の説なり。又「瑜伽師地論巻58」に、「尋伺悪作睡眠、此の四は随煩悩なり、善不善無記心に通じて起るも一切処に非ず、一切時に非ず。若し極めて久しく尋求伺察することあらば、便ち身疲れて念を失せしめ、心も亦た労損す、是の故に尋伺を随煩悩と名づく。此の二は即ち初静慮地に至り、悪作と睡眠とは唯欲界に在り」と云えり。是れ悪作等の四を随煩悩と名づけたるものにして、倶舎等の説に同じ。又「順正理論巻11」、「顕揚聖教論巻1」、「大乗阿毘達磨論巻1」、「倶舎論光記巻4」等に出づ。<(望)『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
  十想(じっそう):次のものを心の中に観察して思うこと。
   (1)無常想(むじょうそう):一切の物は因縁によって造られ、無常である。
   (2)苦想(くそう):一切の物は無常であるが故に苦である。
   (3)無我想(むがそう):一切の物には不変の我はなく、無我である。
   (4)食不淨想(じきふじょうそう):食は不淨の因縁から生じる。殺生、偸盗によらない食はない。
   (5)一切世間不可楽想(いっさいせけんふかぎょうそう):一切の世間に楽しむべきものは何物もない。
   (6)死想(しそう):死とは何であるか。
   (7)不淨想(ふじょうそう):肉体とは不淨である。
   (8)断想(だんそう):煩悩を断つとは何事であるか。
   (9)離欲想(りよくそう):この世に思いを残さず。
   (10)尽想(じんそう):生死を尽くして涅槃に入る。
復知十一助聖道法。 復た知る、十一助聖道法なり。
復た、
こう知る、――
『十一助聖道法である!』。
  十一助聖道法(じゅういちじょしょうどうほう):三十七の助道品を十一種に分類せるものを云う。即ち慧、勤、定、信、念、喜、捨、軽安、戒、尋の十助道法を挙げ、此の中の戒を以って身業、語業の二種に分け、十一種となせるものなり。即ち「阿毘達磨倶舎論巻27」に、「論じて曰わく、此の覚分を名づけて三十七なりと雖も、実事は唯十にして、即ち慧勤等なり。謂わく四念住、慧根、慧力、択法覚支、正見は慧を以って体と為す。四正断、精進根、精進力、精進覚支、正精進は勤を以って体と為す。四神足、定根、定力、定覚支、正定は定を以って体と為す。信根、信力は信を以って体と為す。念根、念力、念覚支、正念は念を以って体と為す。喜覚支は喜を以って体と為す。捨覚支は行捨を以って体と為す。軽安覚支は軽安を以って体と為す。正語、正業、正命は戒を以って体と為す。正思惟は尋を以って体と為す。是の如き覚分の実事は唯十にして、即ち是れ信等の五根力の上に、更に喜、捨、軽安、戒、尋を加う。毘婆沙師は十一有りと説き、身業、語業の相雑えざるが故に、戒を分ちて二と為す」と云える是れなり。
復知十二因緣法。 復た知る、十二因縁法なり。
復た、
こう知る、――
『十二因縁の法である!』。
  十二因縁法(じゅうにいんねんほう):人が生老死の妄念を懐く至る十二支の因縁の意。『大智度論巻3下注:十二因縁』参照。
復知十三出法。十四變化心。十五心見諦道。十六安那般那行。十七聖行。十八不共法。十九離地思惟道中一百六十二道。能破煩惱賊。一百七十八沙門果。八十九有為果。八十九無為果。 復た知る、十三出法、十四変化心、十五心見諦道、十六安那般那行、十七聖行、十八不共法、十九離地、思惟道中の一百六十二道は、能く煩悩の賊を破り、一百七十八沙門果、八十九有為果、八十九無為果なり。
復た、
こう知る、――
『十三出法』、
『十四変化心』、
『十五心見諦道』、
『十六安那般那行』、
『十七聖行』、
『十八不共法』、
『十九離地』、
『思惟道中の一百六十二道は、能く煩悩の賊を破り』、
『一百七十八沙門果』、
『八十九有為果』、
『八十九無為果である!』。
  十三出法(じゅうさんしゅつほう):不明。
  十四変化心(じゅうしへんげしん):根本四静慮に各下地の変化心ありて、総じて十四変化心あるの意。『大智度論巻6下注:十四変化心』参照。
  十五心見諦道(じゅうごしんけんたいそう):八忍八智中、第十六道類智を除いた十五心は見道中に摂するを云う。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  十六安那般那行(じゅうろくあんなはんなぎょう):十六種の数息観の意。『大智度論巻11上注:十六特勝、巻17下注:数息観』参照。
  十七聖行(じゅうしちしょうぎょう):不明。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):唯仏及び菩薩の所有する十八種の功徳法を云う。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
  十九離地(じゅうくりじ):不明。
  十六安那般那行(じゅうろくあんなはんなぎょう):数息観(すそくかん)。
    (1)観入息:息の入るを観察する。
    (2)観出息:息の出るを観察する。
    (3)観息長息短:息の長いと短いとを観察する。
    (4)観息遍身:息が身に遍満するのを観察して、身が空であることを知る。
    (5)除諸身行:身の行いを除いて、息を楽にする。
    (6)受喜:喜びを感じる。
    (7)受楽:楽を感じる。
    (8)受諸心行:心の働きを感じる。
    (9)無作喜:心の働きを抑えて喜びを無くす。
    (10)心作摂:心の働きを完全に制する。
    (11)心作解脱:心を雑事から解放する。
    (12)観無常:一切は無常であることを観察する。
    (13)観散壊:一切は散じ壊することを観察する。
    (14)観離欲:欲を離れることを観察する。
    (15)観滅:煩悩が滅することを観察する。
    (16)観棄捨:一切は平等であり自他の差異が無いことを観察する。
如是等種種無量異相法。生滅增減得失垢淨悉能知之。 是れ等の如き、種種無量の異相の法の生滅、増減、得失、垢浄は、悉く、能く之を知る。
是れ等のような、
種種、
無量の、
『異相の法』の、
『生滅、増減、得失、垢浄』の、
悉くを、
『知ることができる!』。
菩薩摩訶薩知是諸法已。能令諸法入自性空而於諸法無所著。過聲聞辟支佛地。入菩薩位中。入菩薩位中已。以大悲憐愍故。以方便力分別諸法種種名字。度眾生令得三乘。 菩薩摩訶薩は、是の諸法を知り已りて、能く諸法をして、自性空に入れしむれば、諸法に於いて著する所無く、声聞、辟支仏の地を過ぎて、菩薩位中に入り、菩薩位中に入り已りて、大悲を以って憐愍するが故に、方便力を以って、諸法の種種の名字を分別し、衆生を度して、三乗を得しむ。
『菩薩摩訶薩』は、
是の、
諸の、
『法』を、
『知って!』、
諸の、
『法』を、
『自性空』に、
『入れたならば!』、
諸の、
『法』中に、
『著する!』所が、
『無くなり!』、
『声聞、辟支仏』の、
『地』を、
『過ぎて!』、
則ち、
『菩薩位』中に、
『入る!』。
『菩薩位』中に、
『入れば!』、
『大悲』で、
『憐愍する!』が故に、
『方便の力』を、
『用いて!』、
諸の、
『法』の、
『種種の名字』を、
『分別し!』、
『衆生』を、
『度して!』、
『三乗』を、
『得させる!』。
譬如工巧之人。以藥力故。能令銀變為金金變為銀。 譬えば、工巧の人の、薬力を以っての故に、能く銀を変じて金と為らしめ、金を変じて銀と為らしむるが如し。
譬えば、
『工巧の人』が、
『薬力』を、
『用いる!』が故に、
『銀』を、
『変じて!』、
『金に為らせ!』、
『金』を、
『変じて!』、
『銀に為らせるようなものである!』。
問曰。若諸法性真空。云何分別諸法種種名字。何以不但說真空性。 問うて曰く、若し、諸の法性にして、真空なれば、云何が諸法の種種の名字を分別し、何を以ってか、但だ真空の性を説かざる。
問い、
若し、
諸の、
『法』の、
『性』が、
『真空ならば!』、
何故、
諸の、
『法』の、
『種種の名字』を、
『分別するのか?』、
何故、
但だ、
『真空の性』を、
『説かないのか?』。
答曰。菩薩摩訶薩。不說空是可得可著。若可得可著。不應說諸法種種異相。不可得空者無所罣礙。若有罣礙是為可得。非不可得空。 答えて曰く、菩薩摩訶薩は、空の得べく、著すべきを説かず。若し、得べく、著すべくんば、応に諸法の種種の異相を説くべからず。不可得空とは、罣礙する所無し。若し罣礙有らば、是れを可得と為し、不可得空に非ず。
答え、
『菩薩摩訶薩』は、
『空』は、
『得られる(認識できる)!』とも、
『著することができる!』とも、
『説かない!』。
若し、
『得られたり!』、
『著することができれば!』、
諸の、
『法』の、
『種種の異相』を、
『説くはずがない!』。
『得られない!』という、
『空』とは、
『罣礙(妨害/分別)する!』所が、
『無いからであり!』、
若し、
『空』に、
『罣礙(所分別)』が、
『有れば!』、
是れは、
『得られるのであり!』、
則ち、
『得られない!』という、
『空ではない!』。
  不可得空(ふかとくくう):梵語 anupalambha- zuunyataa の訳、不可取得/認識/確認/認識の空( emptiness of non-obtainment, perceiving, ascertaining, recognition )の義。諸法は不可得なり/認識できないと看做せば、それも復た空なりの意。『大智度論巻18下注:十八空』参照。
   十八空(じゅうはちくう):梵語 aSTaadaza zuunyataaH の訳。十八種の空の意。即ち種種の邪見を破せんが為に十八種の空を説けるを云う。一に内空 adhyaatma- zuunyataa、二に外空 bahirdhaa- zuunyataa、三に内外空 adhyaatma- bahirdhaa- zuunyataa、四に空空 zuunyataa- zuunyataa、五に大空 mahaa- zuunyataa、六に第一義空 paramaartha- zuunyataa、七に有為空 saMskRta- zuunyataa、八に無為空 asaMskRta- zuunyataa、九に畢竟空 atyanta- zuunyataa、十に無始空 anavaraagra- zuunyataa、十一に散空 anavakaara- zuunyataa、十二に性空 prakRti- zuunyataa、十三に自相空 svalakSaNa- zuunyataa、十四に諸法空 sarva- dharma- zuunyataa、十五に不可得空 anupalambha- zuunyataa、十六に無法空 abhaava- zuunyataa、十七に有法空 svabhaava- zuunyataa、十八に無法有法空 abhaava- svabhaava- zuunyataa なり。「大品般若経巻1序品」に、「復た次ぎに舎利弗、菩薩摩訶薩は内空、外空、内外空、空空、大空、第一義空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、性空、自相空、諸法空、不可得空、無法空、有法空、無法有法空に住せんと欲せば、当に般若波羅蜜を学すべし」と云える是れなり。「大智度論巻31」に十八空を説ける所以を解し、「若し仏但だ一空を説かば、則ち種種の邪見及び諸の煩悩を破すること能わず、若し種種の邪見に随って空を説かば空則ち過多にして、人は空相に愛著し断滅に堕在すべし。十八空を説かば正に其の中を得たり」と云えり。此の中、一に内空とは眼等の六内処の中に我我所なく、及び眼等の法なきを云い、二に外空とは色等の六外処の中に我我所なく、及び色等の法なきを云い、三に内外空とは六根六境の内外十二処の中に総じて我我所なく、及び彼の法なきを云い、四に空空とは内外の空に於いて能観の心に所著なきを云い、五に大空とは十方の世界に於いて本来定方彼此の相なきを云い、六に第一義空とは又勝義空、或いは真実空とも名づく。諸法の外に別に第一義実相の自性の得べきなく、実相に於いて所著なきを云い、七に有為空とは因縁集起の法及び因縁の法相共に不可得なるを云い、八に無為空とは涅槃の法に於いて定取を離るるを云い、九に畢竟空とは又至竟空と名づく。有為空及び無為空を以って一切法を破し、畢竟遺余あることなきを云い、十に無始空とは又無限空、無際空、或いは無前後空とも名づく。即ち一切法の生起は今に非ずして無始なりと雖も、而も此の法の中に於いて取相を捨離するを云い、十一に散空とは又散無散空、不捨空、或いは不捨離空とも名づく。諸法は但だ和合仮有なるが故に畢竟別離散滅の相にして所有なきを云い、十二に性空とは又本性空、仏性空とも名づく。諸法は衆縁を離れて其の体性不可得なるを云い、十三に自相空とは又自共相空、或いは単に相空とも名づく。諸法の総別同異相の不可得なるを云い、十四に諸法空とは又一切法空と名づく。蘊処界等の一切法に於いて自相不定にして取相を離れたるを云い、十五に不可得空とは又無所有空とも名づく。即ち諸の因縁法の中に我法を求むるに不可得なるを云い、十六に無法空とは又無性空、或いは非有空とも名づく。諸法若し壊滅し已らば自性の得べきなく、未来法も亦た是の如くなるを云い、十七に有法空とは又自性空、或いは非有性空とも名づく。即ち諸法は但だ因縁に由りて有なるが故に、現在の有即ち有に非ざるを云い、十八に無法有法空とは又無性自性空とも名づく。総じて三世一切法の生滅及び無為法に於いて一切皆不可得なるを云うなり。「大乗義章巻2」には、此の十八空と「大智度論巻46」等所説の法相空、無法相空、自法空、他法空の四空との相摂を明かし、内空、外空、内外空、大空、有為空、無為空、畢竟空、無始空、散空、諸法空、有法空の十一空は、共に世法を空ずるが故に法相空に摂し、空空、第一義空及び無法空の三種は共に理無を空ずるが故に無法相空中に摂し、性空は諸法の体性自空なるが故に自法空に摂し、余の三の中、相空、無法有法空の二種は法相空と無法相空に摂し、不可得空の一種は法相空及び他法空に通じて摂すと云えり。蓋し此の十八空の説は、「大般若経巻413三摩地品」、並びに「大方等大集経巻54」等にも之を掲げ、其の名称相同じと雖も、「放光般若経」等には十四空、十六空、或いは二十一空等を説き、其の廃立互いに異あり。即ち「放光般若経巻1放光品」には、内空、外空、大空、最空、空空、有為空、無為空、至竟空、無限空、所有空、自性空、一切諸法空、無所猗空、無所有空の十四空を説き、「光讃般若経巻1光讃品」には、内空、外空、内外空、空空、大空、究竟之空、所有空、無有空、有為空、無為空、真空、無祠祀空、無因縁空、因縁空、自然相空、一切法空、不可得空、無所有空、自然空、無形自然空、因縁威神空の二十一空を説き、又「大般若経巻480舎利子品」には、今の十八空の中、不可得空及び有法空の二を除きて十六空となし、「同巻479縁起品」には、此の十六空に所縁空、増上空、及び無空の三を加えて十九空となし、又「同巻51辨大乗品」及び「同巻403観照品」には、今の十八空に無変異空及び共相空の二を加えて二十空となし、「最上大乗金剛大教宝王経巻下」には、今の十八空中、散空を除き無変異空を加えて十八空となし、「仁王般若波羅蜜経巻上観空品」には、空空、大空、畢竟空、散空、自相空乃至無法有法空の十を除き、般若波羅蜜空、因空、仏果空、空空故空の四空を加えて十二空となし、「仁王護国般若波羅蜜多経巻上観如来品」には、不可得空乃至無法有法空の四を除き、般若波羅蜜空乃至空空故空の四を加えて十八空となせり。以って其の諸説の異同を見るべし。又「法集名数経」、「大智度論巻46」、「顕揚聖教論巻15」、「中辺分別論巻上」、「十八空論」、「法華文句巻9上」、「法界次第初門巻下之上」、「解深密経疏巻7」、「辯中辺論述記巻上」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻中一」等に出づ。<(望)
  無所罣礙(むしょけいげ):梵語 avyaahata の訳、抵抗されない/妨げられない( unresisted, unimpeded )、妨害されない( non-obstructed, impeded, repelled )の義。虚空の如く妨げる者の無きの意。眼に所見の色無く、耳に所聞の声無き等の如く、空中に在っては意の分別する所無きが故に一切に於いて限りなく自在なることを云う。無対相似の概念である。
  罣礙(けいげ):梵語 vyaahata の訳、突きあたる( struck at, hit )、妨げる/通さない( obstructed, impeded, repelled, disappointed )、対立/衝突する/矛盾する/両立しない( conflicting with, contradictory )の義。有対相似の概念である。
若菩薩摩訶薩。知不可得空。還能分別諸法。憐愍度脫眾生。是為般若波羅蜜力。 若し菩薩摩訶薩、不可得空を知れば、還た能く諸法を分別して、憐愍して衆生を度脱せん。是れを般若波羅蜜の力と為す。
若し、
『菩薩摩訶薩』が、
『得られない!』という、
『空』を、
『知れば!』、
還()た、
諸の、
『法』を
『分別する!』ことが、
『可能になり!』、
『衆生』を、
『憐愍して!』、
『度脱することができる!』。
是れが、
『般若波羅蜜の力である!』。



諸法の実相、是れが般若波羅蜜である

取要言之諸法實相。是般若波羅蜜。 要を取りて之を言わば、『諸法の実相は、是れ般若波羅蜜なり』。
是の、
『要』を、
『取って!』、
『言えば!』、こういうことである、――
諸の、
『法の実相』が、
『般若波羅蜜なのである!』、と。
問曰。一切世俗經書。及九十六種出家經中。皆說有諸法實相。又聲聞法三藏中。亦有諸法實相。何以不名為般若波羅蜜。而此經中諸法實相。獨名般若波羅蜜。 問うて曰く、一切の世俗の経書、及び九十六種の出家の経中には、皆、諸法の実相有りと説き、又声聞法の三蔵中にも、亦た諸法の実相有り。何を以ってか、名づけて般若波羅蜜と為さず、而も此の経中の諸法の実相を、独り般若波羅蜜と名づくる。
問い、
一切の、
『世俗の経書』と、
『九十六種の出家の経』中には、
皆、
諸の、
『法の実相』は、
『有る!』と、
『説かれ!』、
又、
『声聞法』の、
『三蔵』中にも、
諸の、
『法の実相』が、
『有る!』が、
何故、
『般若波羅蜜』と、
『呼ばれないのか?』。
而も、
此の、
『経』中の、
諸の、
『法の実相』のみを、
独り、
『般若波羅蜜』と、
『称するのか?』。
答曰。世俗經書中。為安國全家身命壽樂故非實。 答えて曰く、世俗の経書中には、国を安んじ、家、身、命、寿を全うして、楽しまんが為の故なれば、実に非ず。
答え、
『世俗の経書』中は、
『国』を、
『安んじる!』とか、
『家、身、命、寿』を、
『全(まっと)うして!』、
『楽しむ為であり!』、
故に、
『実ではない!』。
外道出家墮邪見法中。心愛著故是亦非實。 外道の出家は、邪見の法中に墮ちて、心に愛著するが故に、是れも亦た実に非ず。
『外道の出家』は、
『邪見』の、
『法』中に、
『堕ちて!』、
『心』に、
是の、
『法』を、
『愛著する!』が故に、
亦た、
『実ではない!』。
聲聞法中雖有四諦。以無常苦空無我觀諸法實相。以智慧不具足不利。不能為一切眾生。不為得佛法故。雖有實智慧。不名般若波羅蜜。 声聞法中には、四諦有りて、無常、苦、空、無我を以って、諸法の実相を観ると雖も、智慧の具足せず、利ならざるを以って、一切の衆生の為なる能わず、仏法を得んが為めならざるが故に、実の智慧有りと雖も、般若波羅蜜と名づけず。
『声聞』の、
『法』には、
『四諦』が、
『有り!』、
『無常、苦、空、無我』で、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『観る!』が、
『智慧』が、
『具足せず!』、
『鋭利でない!』が故に、
一切の、
『衆生』を、
『成就することができず!』、
『仏』の、
『法』を、
『得ることにもならない!』が故に、
実の、
『智慧が有っても!』、
『般若波羅蜜』と、
『呼ばれることはない!』。
如說佛入出諸三昧。舍利弗等乃至不聞其名。何況能知。何以故。諸阿羅漢辟支佛初發心時。無大願無大慈大悲。不求一切諸功德。不供養一切三世十方佛。不審諦求知諸法實相。但欲求脫老病死苦故。 仏の入出したもう諸三昧を説くが如く、舎利弗等は、乃至其の名すら聞かず。何に況んや能く知るをや。何を以っての故に、諸の阿羅漢、辟支仏の初発心の時、大願無く、大慈大悲無く、一切の諸の功徳を求めず、一切の三世十方の仏を供養せず、諸法の実相を審諦し、知らんと求めず、但だ老病死の苦を脱るるを求めんと欲す。
例えば、こう説く通りである、――
『仏』の、
『入出される!』、
『諸の三昧』を、
『舎利弗』等は、
乃至、
其の、
『名すら!』、
『聞いたことがない!』。
況して、
『知ることができる!』など、
『尚更である!』、と。
何故ならば、
『諸の阿羅漢、辟支仏』は、
『初発心の時』に、
『大願』も、
『大慈』も、
『大悲』も、
『無い!』ので、
一切の、
諸の、
『功徳』を、
『求めることもなく!』、
一切の、
三世、十方の、
『仏』を、
『供養することもなく!』、
諸の、
『法の実相』を、
『審諦して!』、
『知ろう!』と、
『求めることもなく!』、
但だ、
『老、病、死の苦』を、
『脱れることのみ!』を、
『求めようとするからである!』。
  審諦(しんたい):慎重/仔細に看る( look at carefully )。


般若波羅蜜は、何のように得るのか?

諸菩薩從初發心弘大誓願有大慈悲。求一切諸功德。供養一切三世十方諸佛。有大利智求諸法實相。除種種諸觀。所謂淨觀不淨觀常觀無常觀樂觀苦觀空觀實觀我觀無我觀。捨如是等妄見心力諸觀。但觀外緣中實相。非淨非不淨非常非非常非樂非苦非空非實非我非無我。如是等諸觀不著不得世俗法故。非第一義周遍清淨不破不壞。諸聖人行處。是名般若波羅蜜。 諸の菩薩は、初発心より弘き大誓願に大慈悲有り、一切の諸の功徳を求めて、一切の三世、十方の諸仏を供養し、大利智有りて、諸法の実相を求め、種種の諸観、謂わゆる浄観、不浄観、常観、無常観、楽観、苦観、空観、実観、我観、無我観を除き、是れ等の如き妄見と心力の諸観を捨て、但だ外縁中に実相を浄に非ず、不浄に非ず、常に非ず、非常に非ず、楽に非ず、苦に非ず、空に非ず、実に非ず、我に非ず、無我に非ずと観れば、是れ等の如き諸観にも著せず、世俗の法を得ざるが故に、第一義にも非ず、周遍して清浄なれば、諸聖人の行処を破せず、壊せず、是れを般若波羅蜜と名づく。
諸の、
『菩薩』は、
『初発心』以来の、
弘い、
『大誓願』には、
『大慈悲』が、
『有る!』が故に、
一切の、
諸の、
『功徳』を、
『求めて!』、
一切の、
三世、十方の、
諸の、
『仏』を、
『供養した!』が故に、
即ち、
『大利の智慧』が、
『有り!』、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『求めて!』、
種種の、
諸の、
『観である!』、
謂わゆる、
『淨觀』、
『不淨觀』、
『常觀』、
『無常觀』、
『樂觀』、
『苦觀』、
『空觀』、
『實觀』、
『我觀』、
『無我觀』を、
『除き!』、
是れ等のような、
『妄見、心力の所観である!』、
『諸の観』を、
『捨て!』、
但だ、
『外縁』中の、
『実相』は、
『浄でも不浄でもなく!』、
『常でも非常でもなく!』、
『楽でも苦でもなく!』、
『空でも実でもなく!』、
『我でも無我でもない!』と、
『観て!』、
是れ等のような、
諸の、
『観』に、
『著することもなく!』、
『世俗』の、
『法』を、
『得ない(認識しない)!』が故に、
諸の、
『法の実相』は、
『第一義ではなくても!』、
『周遍(あまね)く清浄であり!』、
諸の、
『聖人』の、
『行処』を、
『破壊することもない!』。
是れを、
『般若波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰。已知般若體相是無相無得法。行者云何能得是法。 問うて曰く、已に般若の体相は、是れ無相、無得の法なるを知れり。行者は、云何が能く、是の法を得る。
問い、
已に、
『般若』は、
『体相(性相)』が、
『無相、無得』の、
『法である!』ことを、
『知った!』。
『行者』は、
何故、
是のような、
『法』を、
『得られるのですか?』。
答曰。佛以方便說法。行者如所說行則得。譬如絕崖嶮道假梯能上。又如深水因船得渡。 答えて曰く、仏は、方便を以って、法を説きたまえば、行者は、所説の如く行ずれば、則ち得。譬えば、絶崖の険道は、梯を仮れば能く上るが如く、又深水は、船に因れば渡るを得るが如し。
答え、
『仏』は、
『方便』を、
『用いて!』、
『法』を、
『説かれた!』ので、
『行者』は、
『所説のように!』、
『行えば!』、
『得ることになる!』。
譬えば、
『絶崖の険道』が、
『梯(はしご)』を、
『借用すれば!』、
『上ることができ!』、
『深い水』が、
『船』に、
『因れば!』、
『渡れるようなものである!』。
初發心菩薩。若從佛聞若從弟子聞若於經中聞。一切法畢竟空。無有決定性可取可著。第一實法滅諸戲論。涅槃相是最安隱。我欲度脫一切眾生。云何獨取涅槃。我今福德智慧神通力未具足故。不能引導眾生。當具足是諸因緣。行布施等五波羅蜜。 初発心の菩薩は、若しは仏より聞き、若しは弟子より聞き、若しは経中に聞かく、『一切法は、畢竟空にして、決定の性の取るべき、著すべき有ること無く、第一の実法は、諸の戯論を滅する、涅槃の相、是れ最も安隠なり』、と。『我れは、一切の衆生を度脱せんと欲す。云何が独り涅槃を取らん。我れ今福徳の智慧と、神通の力未だ具足せざれば、故に衆生を引導する能わず。当に是の諸の因縁を具足すべく、布施等の五波羅蜜を行わん』。
『初発心の菩薩』は、
若しは、
『仏』や、
『弟子』や、
『経中』に、こう聞いて、――
一切の、
『法』は、
『畢竟じて!』、
『空であり!』、
是れには、
『取ることができ!』、
『著することのできる!』ような、
『決定した性』は、
『無い!』。
諸の、
『戯論』を、
『滅する!』ことが、
『第一の実法であり!』、
『涅槃』の、
『相』が、
『最も安隠である!』、と。
そして、こう言う、――
わたしは、
一切の、
『衆生』を、
『度脱したい!』と、
『思っている!』のに、
何故、
独り、
『涅槃』を、
『取るのか?』。
わたしは、
今、
未だ、
『福徳の智慧』と、
『神通の力』が、
『具足していない!』ので、
『衆生』を、
『引導する!』、
『能力がない!』。
当然、
是の、
諸の、
『因縁』を、
『具足せねばならず!』、
『布施』等の、
『五波羅蜜』を、
『行わねばならぬ!』、と。
財施因緣故得大富。法施因緣故得大智慧。能以此二施引導貧窮眾生令入三乘道。 財施の因縁の故に、大富を得、法施の因縁の故に、大智慧を得れば、能く此の二施を以って、貧窮の衆生を引導し、三乗の道に入れしむ。
『菩薩』は、
則ち、
『財施』の、
『因縁』の故に、
『大富』を、
『得て!』、
『法施』の、
『因縁』の故に、
『大智慧』を、
『得れば!』、
此の、
『二施』を、
『用いて!』、
『貧窮の衆生』を、
『引導し!』、
『三乗』の、
『道』に、
『入らせるのである!』。
以持戒因緣故。生人天尊貴。自脫三惡道。亦令眾生免三惡道。 持戒の因縁を以っての故に、人天の尊貴に生じ、自ら三悪道を脱れて、亦た衆生をして、三悪道を免れしむ。
『持戒』の、
『因縁』の故に、
『人、天』の、
『尊貴』中に、
『生まれ!』、
自ら、
『三悪道』を、
『脱れて!』、
亦た、
『衆生』にも、
『三悪道』を、
『免れさせる!』。
以忍辱因緣故。障瞋恚毒得身色端政威德第一。見者歡喜敬信心伏。況復說法。 忍辱の因縁を以っての故に、瞋恚の毒を障え、身色の端政にして、威徳第一なるを得れば、見る者歓喜、敬信して、心伏す。況んや復た説法するをや。
『忍辱』の、
『因縁』の故に、
『瞋恚』の、
『毒』を、
『障()えぎり!』、
『身色』は、
『端政であって!』、
『威徳第一である!』が故に、
『見る!』者が、
『歓喜し!』、
『敬信して!』、
『心』より、
『屈伏する!』。
況して、
『説法すれば!』、
『尚更である!』。
以精進因緣故。能破今世後世福德道法懈怠。得金剛身不動心。以是身心破凡夫憍慢。令得涅槃。 精進の因縁を以っての故に、能く今世後世の福徳と、道法の懈怠を破り、金剛の身と、不動の心を得れば、是の身心を以って、凡夫の憍慢を破りて、涅槃を得しむ。
『精進』の、
『因縁』の故に、
『今世、後世の福徳』と、
『道法の懈怠』とを、
『破ることができ!』、
『金剛の身』と、
『不動の心』とを、
『得たならば!』、
是の、
『身、心』を、
『用いて!』、
『凡夫』の、
『憍慢』を、
『破り!』、
之に、
『涅槃』を、
『得させる!』。
以禪定因緣故。破散亂心離五欲罪。樂能為眾生說離欲法。 禅定の因縁を以っての故に、散乱心を破りて、五欲の罪の楽を離れ、能く衆生の為に離欲の法を説く。
『禅定』の、
『因縁』の故に、
『心』の、
『散乱』を、
『破って!』、
『五欲の罪』の、
『楽』を、
『離れさせ!』、
『衆生』の為に、
『離欲』の、
『法』を、
『説くことができる!』。
禪是般若波羅蜜依止處。依是禪般若波羅蜜自然而生。如經中說。比丘一心專定能觀諸法實相。 禅は、是れ般若波羅蜜の依止処なれば、是の禅に依って、般若波羅蜜は、自然に生ず。経中に説くが如し、『比丘、一心をして専ら定むれば、能く諸法の実相を観ん』、と。
『禅』は、
『般若波羅蜜』の、
『依止する!』、
『処であり!』、
是の、
『禅』に、
『依れば!』、
『般若波羅蜜』は、
『自然に!』、
『生じることになる!』。
例えば、
『経』中に、こう説く通りである、――
比丘!
専ら、
『一心』を、
『定めれば!』、
諸の、
『法の実相』を、
『観ることができるだろう!』、と。
  参考:『大品般若経巻27』:『善男子。即當觀諸法實相。何等諸法實相。所謂一切法不垢不淨。何以故。一切法自性空無眾生無人無我。一切法如幻如夢如響如影如焰如化。善男子。觀是諸法實相已當隨法師。汝不久當成就般若波羅蜜。』
復次知欲界中多以慳貪罪業閉諸善門。行檀波羅蜜時。破是二事開諸善門。欲令常開故。行十善道。尸羅波羅蜜未得禪定智慧。未離欲故。破尸羅波羅蜜。以是故行忍辱。知上三事能開福門。 復た次ぎに、欲界中には多く慳、貪の罪業を以って、諸の善門を閉づるを知りて、檀波羅蜜を行ずる時、是の二事を破りて、諸の善門を開き、常に開かしめんと欲するが故に、十善道、尸羅波羅蜜を行ずるも、未だ禅定、智慧を得ずして、未だ欲を離れざるが故に、尸羅波羅蜜を破れば、是を以っての故に忍辱を行じ、上の三事を知れば、能く福門を開く。
復た次ぎに、
『欲界中』には、
『慳、貪の罪業』で、
諸の、
『善の門』を、
『閉ざす!』者が、
『多い!』と、
『知れば!』、
『檀波羅蜜』を、
『行う!』時、
是の、
『二事(慳、貪)』を、
『破って!』、
諸の、
『善の門』を、
『開き!』、
常に、
『開かせたい!』と、
『思う!』が故に、
『十善道、尸羅波羅蜜』を、
『行い!』、
未だ、
『禅定』も、
『智慧』も、
『得られず!』、
未だ、
『欲』を、
『離れない!』が故に、
『尸羅波羅蜜』を、
『破る!』ので、
是の故に、
『忍辱』を、
『行うのである!』が、
上の、
『三事(檀、尸羅、忍辱)』を、
『知れば!』、
『福の門』を、
『開くことができる!』。
又知是福德果報無常。天人中受樂還復墮苦。厭是無常福德故。求實相般若波羅蜜。是云何當得。必以一心乃當可得。 又、是の福徳の果報は無常にして、天人中に楽を受くれば、還って復た苦に墮つるを知れば、是の無常の福徳を厭うが故に、実相の般若波羅蜜を求む。是れ云何が、当に得べき。必ず、一心を以って、乃ち当に得べし。
又、
是の、
『福徳』の、
『果報』は、
『無常であり!』、
『天、人』中に、
『楽』を、
『受けた!』後には、
還た、
『苦に堕ちる!』ことを、
『知れば!』、
是の、
『無常』の、
『福徳』を、
『厭う!』が故に、
『実相』の、
『般若波羅蜜』を、
『求めるのである!』。
是れは、
何のようにすれば、
『得られるのだろうか?』。
必ず、
『一心』という、
『力』を、
『用いるべきであり!』、
それで、
ようやく、
『得られるのである!』。
如貫龍王寶珠。一心觀察能不觸龍。則得價直閻浮提。一心禪定除卻五欲五蓋。欲得心樂大用精進。是故次忍辱說精進波羅蜜。 龍王を貫く宝珠は、一心の観察もて、能く龍に触れざれば、則ち価直閻浮提なるを得るが如く、一心の禅定もて五欲、五蓋を除却し、心楽を得んと欲して、大いに精進を用う。是の故に忍辱に次いで、精進波羅蜜を説く。
譬えば、
『龍王の髻』を、
『貫く!』、
『宝珠』は、
『一心』に、
『観察して!』、
『龍』に、
『触れなければ!』、
則ち、
『価直閻浮提の宝珠』を、
『得ることになるように!』、
『一心』という、
『禅定』に於いて!、
『五欲、五蓋(貪欲、瞋恚、惛沈、掉挙、疑)』を、
『除却して!』、
『心』に、
『楽』を、
『得たい!』と、
『思い!』、
『大いに!』、
『精進』を、
『用いることになる!』ので、
是の故に、
『忍辱』に、
『次いで!』、
『精進波羅蜜』を、
『説くのである!』。
如經中說。行者端身直坐繫念在前。專精求定正使肌骨枯朽終不懈退。是故精進修禪。 経中に説くが如く、行者は、端身直坐して、念を前に在りて繋け、専精に定を求めて、正に肌骨をして枯朽せしめ、終に懈退せず。是の故に精進して禅を修む。
例えば、
『経』中に、こう説く通りである、――
『行者』は、
『身』を、
『正して!』、
『坐り!』、
『念』を、
『前に!』、
『繋けた!』ならば、
専ら、
『禅定』を、
『求めて!』、
正しく、
『肌、骨』を、
『枯朽させる!』まで、
終に、
『懈怠することもなく!』、
『退却することもない!』、と。
是の故に、
『精進して!』、
『禅』を、
『修めるのである!』。
  端身直坐(たんしんじきざ):姿勢を正して坐る。
  繋念在前(けねんざいぜん):念を目前に置いて取り締まり、散乱させないの意。
  専精(せんしょう):もっぱら。
  肌骨(きこつ):肌と骨。骨を包む肉及び骨の意。
  枯朽(こぐ):枯れてくちる。枯れて腐るの意。
  参考:『般舟三昧経巻2』:『若復有菩薩精進者。欲學是經。當教之隨是經中法教。用是經故。不惜軀命。不望人有所得者。有人稱譽者不用喜。不大貪缽震越。無所愛慕。常無所欲。聞是經不懈怠。常精進。其人不念。我當於後當來佛所乃求索。自念使我筋骨髓肉皆使枯腐。學是三昧終不懈怠。自念我終不懈怠死也聞是經已無不歡樂。』
若有財而施不足為難。畏墮惡道恐失好名。持戒忍辱亦不為難。以是故上三度中不說精進。今為般若波羅蜜實相從心求定。是事難故應須精進。如是行能得般若波羅蜜。 若し財有れば、而も施すこと、難しと為すに足らず。悪道に堕つるを畏れ、好名を失うを恐れて持戒、忍辱するも、亦た難しと為さず。是を以っての故に、上の三度中に、精進を説かず。今、般若波羅蜜の実相の為に、心より定を求むれば、是の事難きが故に、応に精進を須(ま)つべし。是の如く行ずれば、能く般若波羅蜜を得べし。
若し、
『財』が、
『有れば!』、
『施』を、
『難しいとする!』には、
『足りない!』。
若し、
『悪道』に、
『堕ちる!』ことを、
『畏れる!』とか、
『好名』を、
『失う!』ことを、
『恐れて!』、
『持戒し!』、
『忍辱する!』ことも、
亦た、
『難しくはない!』。
是の故に、
上の、
『三度(施、持戒、忍辱)』中には、
『精進』を、
『説かなかった!』が、
今、
『般若波羅蜜』という、
『実相』の為に、
『心』より、
『定』を、
『求めているのである!』が、
是の、
『事』は、
『難しい!』が故に、
当然、
『精進』を、
『用いなくてはならない!』。
是のように、
『行えば!』、
『般若波羅蜜』を、
『得ることができるのである!』。
問曰。要行五波羅蜜然後得般若波羅蜜。亦有行一二波羅蜜。得般若波羅蜜耶。 問うて曰く、要ず五波羅蜜を行じて、然る後に般若波羅蜜を得んや。亦た有るいは一二波羅蜜を行じて、般若波羅蜜を得んや。
問い、
要(かなら)ず、
『五波羅蜜』を、
『行った!』後に、
『般若波羅蜜』を、
『得るのですか?』。
亦た、
有るいは、
『一二波羅蜜』を、
『行って!』、
『般若波羅蜜』を、
『得るのですか?』。
答曰。諸波羅蜜有二種。一者一波羅蜜中相應隨行。具諸波羅蜜。二者隨時別行波羅蜜。多者受名。譬如四大共合雖不相離以多者為名。 答えて曰く、諸の波羅蜜には、二種有り、一には、一波羅蜜中に行に相応し、随いて、諸の波羅蜜を具し、二には、時に随いて別の波羅蜜を行ず。多き者名を受く。譬えば、四大は共に合して、相離れずと雖も、多き者を以って、名と為すが如し。
答え、
諸の、
『波羅蜜』には、
『二種』有り、――
一には、
『一波羅蜜』中の、
『行』に、
『相応し!』、
『随いながら!』、
諸の、
『波羅蜜』を、
『具える!』。
二には、
『時』に、
『随って!』、
『別に!』、
『波羅蜜』を、
『行う!』。
『多い!』者が、
『波羅蜜』の、
『名』を、
『受けるのである!』が、
譬えば、
『四大』は、
例えば、
『地大』中に、
『地、水、火、風』が、
『有るように!』、
『共に!』、
『合して!』、
『離れない!』が、
『多い!』者が、
其の、
『名』を、
『受けるようなものである!』。
相應隨行者。一波羅蜜中具五波羅蜜是不離五波羅蜜。得般若波羅蜜。 行に相応し随うとは、一波羅蜜中に五波羅蜜を具れば、是の五波羅蜜を離れずして、般若波羅蜜を得。
『行』に、
『相応し!』、
『随う!』とは、――
『一波羅蜜』中に、
『五波羅蜜(檀、尸羅、羼提、毘梨耶、禅)』を、
『具える!』ので、
是の、
『五波羅蜜』を、
『離れずに!』、
『般若波羅蜜』を、
『得るのである!』。
隨時得名者。或因一因二得般若波羅蜜。若人發阿耨多羅三藐三菩提心布施。是時求布施相。不一不異非常非無常非有非無等。如破布施中說。因布施實相解。一切法亦如是。是名因布施得般若波羅蜜。 時に随いて名を得とは、或は一に因って、或は二に因って、般若波羅蜜を得。若し人、阿耨多羅三藐三菩提の心を発して布施するに、是の時、布施の相を求むれば、不一不異、非常非無常、非有非無等なり。破布施中に説くが如く、布施の実相に因りて、一切法も亦た是の如しと解す。是れを布施に因りて、般若波羅蜜を得と名づく。
『時』に、
『随って!』、
『名』を、
『得る!』とは、――
或は、
『一』に、
『因って!』、
或は、
『二』に、
『因って!』、
『般若波羅蜜』を、
『得るからである!』。
若し、
『人』が、
『阿耨多羅三藐三菩提の心』を、
『発して!』、
『布施する!』時、
是の時の、
『布施の相』を、
『求めれば!』、
『不一不異、非常非無常、非有非無等である!』が、
例えば、
『破布施』中に説かれたように、――
『布施の実相』を、
『理解する!』ことに、
『因って!』、
一切の、
『法』も、
『是の通りだ!』と、
『理解するのであり!』、
是れを、
『布施』に、
『因って!』、
『般若波羅蜜を得る!』と、
『称するのである!』。
或有持戒不惱眾生心無有悔。若取相生著則起諍競。是人雖先不瞋眾生。於法有憎愛心故而瞋眾生。 或は有るものは、持戒して、衆生を悩ませざれば、心に悔有ること無きも、若し相を取りて著を生ずれば、則ち諍競を起す。是の人は、先に衆生を瞋らずと雖も、法に於いて憎愛の心有るが故に、衆生を瞋る。
或は、
有る者は、
『持戒して!』、
『衆生』を、
『悩ませない!』ので、
『心』に、
『悔』が、
『無かった!』が、
若し、
『相』を、
『取って!』、
『著』を、
『生ずれば!』、
則ち、
『諍競』を、
『起すことになる!』。
是の、
『人』は、
先には、
『衆生』を、
『瞋らなかった!』が、
『法』に於いて、
『憎、愛』の、
『心』の、
『有る!』が故に、
『衆生』を、
『瞋ることになる!』。
是故若欲不惱眾生。當行諸法平等。若分別是罪是無罪則非行尸羅波羅蜜。何以故。憎罪愛不罪。心則自高還墮惱眾生道中。 是の故に、若し衆生を悩ませざらんと欲せば、当に諸法の平等を行ずべし。若し是れ罪、是れ無罪を分別すれば、則ち尸羅波羅蜜を行ずるに非ず。何を以っての故に、罪を愛し、不罪を愛する心は、則ち自高して、還って衆生を悩す道中に墮つればなり。
是の故に、
若し、
『衆生』を、
『悩ましたくない!』と、
『思えば!』、
諸の、
『法の平等』を、
『行わなければならない!』。
若し、
是れは、
『罪である!』とか、
『罪でない!』と、
『分別すれば!』、
則ち、
『尸羅波羅蜜』を、
『行うことにはならないからである!』。
何故ならば、
『罪』を、
『憎んで!』、
『罪でない!』者を、
『愛すれば!』、
則ち、
『心』が、
『自高することになり!』、
還って、
『衆生を悩ます!』、
『道(畜生道)』中に、
『堕ちるからである!』。
  平等(びょうどう):等しいこと/同等( equality )、梵語 sama, samataa の訳、平坦/水平/平行( even, smooth, flat, plain, level, parallel )、同じ/等しい/類似/同様/同等( same, equal, similar, like, equivalent )の義、空観に於いては、事物の間に差別を欠くの意( A reference to the lack of discrimination between things when they are seen from the standpoint of emptiness. )、無差別/無分別の領域/観点( Realm or view of nondiscrimination )、有らゆる境界を貫徹する完全なる真実( The absolute reality that penetrates all manifest phenomena. )、絶対的真実( Absolute reality )等の意。
  自高(じこう):梵語 aatmaanam utkarSayati の訳、自画自賛する( To praise oneself )の意。
是故菩薩。觀罪者不罪者心無憎愛。如是觀者。是為但行尸羅波羅蜜。得般若波羅蜜。 是の故に菩薩は、罪の者、不罪の者を観て、心に憎愛無し。是の如く観れば、是れを但だ尸羅波羅蜜を行じて、般若波羅蜜を得と為す。
是の故に、
『菩薩』は、
『罪の者』や、
『罪でない者』を、
『観ても!』、
『心』に、
『憎、愛』が、
『無い!』。
是のように、
『観れば!』、
是れを、
但だ、
『尸羅波羅蜜』を、
『行って!』、
『般若波羅蜜』を、
『得る!』と、
『称する!』。
菩薩作是念若不得法忍則不能常忍。一切眾生未有逼迫能忍。苦來切已則不能忍。譬如囚畏杖楚而就死苦。以是因緣故。當生法忍。無有打者罵者亦無受者。但從先世顛倒果報因緣故。名為受。 菩薩は、是の念を作さく、『若し法忍を得ずんば、則ち常に一切の衆生を忍ぶ能わず。未だ逼迫する有らざれば、能く忍ぶも、苦来たりて切(せま)り已れば、則ち忍ぶ能わず。譬えば囚われて、杖楚を畏れて、死苦に就くが如し。是の因縁を以っての故に、当に法忍を生ずべし。打つ者、罵る者無く、亦た受くる者も無し、但だ先世よりの、顛倒の果報の因縁の故に、名づけて受と為す』、と。
『菩薩』は、
是の念を作す、――
若し、
『法忍』を、
『得なければ!』、
則ち、
常に、
一切の、
『衆生』を、
『忍ぶことができない!』。
未だ、
『逼迫(抑圧)されていなければ!』、
『忍ぶこともできる!』が、
『苦』が来て、
『切迫すれば!』、
『忍ぶことができない!』、
譬えば、
『囚人』が、
『杖、楚を畏れながら!』、
『死苦』に、
『就くようなものだ!』。
是の、
『因縁』の故に、
当然、
『法忍』を、
『生じなければならぬ!』、
則ち、
『打つ者』も、
『罵る者』も、
『無く!』、
亦た、
『受ける者』も、
『無い!』が、
但だ、
『先世』よりの、
『顛倒』の、
『果報』という、
『因縁』の故に、
是れを、
『受ける!』と、
『呼んでいるのだ!』、と。
  杖楚(じょうそ):棒と鞭。懲らしめの為の道具の意。
  法忍(ほうにん):梵語 dharma- kSaanti の訳、法に於ける忍耐の義、法に関して非生起性に基づいた忍耐( patience [based on the cognition of the nonarising of] dharmas )の意、打者、罵者、受者は皆空にして、実有ること無し、但だ先世の顛倒果報の因縁の故に受くるのみと、打者、罵者等の一切諸法の平等を忍ぶを云う。『大智度論巻5上:等忍、同巻14上注:忍辱』参照。
  逼迫(ひっぱく):強制/強要/抑圧する、又される(force, compel, coerce)。強迫/強制/圧迫。
是時不分別是忍事忍。法者深入畢竟空故。是名法忍。得是法忍。常不復瞋惱眾生。法忍相應慧。是般若波羅蜜。 是の時、是れ忍事なりと分別せずして、法を忍べば、深く畢竟空に入るが故に、是れを法忍と名づけ、是の法忍を得れば、常に復た衆生を瞋悩せず。法忍相応の慧は、是れ般若波羅蜜なり。
是の時、
是れが、
『忍ぶ!』という、
『事だ!』と、
『分別せずに!』、
『法』を、
『忍べば!』、
深く、
『畢竟空』に、
『入る!』が故に、
是れを、
『法忍』と、
『呼ぶのであり!』、
是の、
『法忍』を、
『得れば!』、
常に、
復た(もう)、
『衆生』を、
『瞋、悩することはない!』。
是の、
『法忍』に、
『相応する!』、
『慧』、
是れが、
『般若波羅蜜である!』。
精進常在一切善法中。能成就一切善法。若智慧籌量分別諸法。通達法性。是時精進助成智慧。 精進は、常に一切の善法中に在りて、能く一切の善法を成就す。若し智慧もて、諸法を籌量し、分別して、法性に通達すれば、是の時精進は、智慧を助成す。
『精進』は、
常に、
一切の、
『善法』中に、
『在れば!』、
一切の、
『善法』を、
『成就することができる!』。
若し、
『智慧』で、
諸の、
『法』を、
『籌量し!』、
『分別して!』、
『法性』に、
『通達すれば!』、
是の時、
『精進』が、
『智慧』を、
『助成したのである!』。
又知精進實相離身心如實不動。如是精進能生般若波羅蜜。餘精進如幻如夢。虛誑非實是故不說。 又、精進の実相の身心を離れ、実の如くに不動なるを知りて、是の如く精進すれば、能く般若波羅蜜を生ず。余の精進は、幻の如く、夢の如く、虚誑にして、実に非ざれば、是の故に説かず。
又、
『精進』の、
『実相』は、
『身、心』を、
『離れたものであり!』、
『実のように!』、
『動かない!』と、
『知れば!』、
是のような、
『精進』は、
『般若波羅蜜』を、
『生じさせる!』が、
他の、
『精進』は、
『幻、夢のような!』、
『虚誑であり!』、
『実でない!』が故に、
『般若波羅蜜』を、
『生じさせる!』と、
『説かない!』。
若深心攝念。能如實見諸法實相。諸法實相者。不可以見聞念知能得。何以故。六情六塵皆是虛誑因緣果報。是中所知所見皆亦虛誑。是虛誑知都不可信。所可信者。唯有諸佛於阿僧祇劫所得實相智慧。 若し深心に念を摂すれば、能く如実に諸法の実相を見る。諸法の実相とは見、聞、念、知を以って能く得べからず。何を以っての故に、六情、六塵は、皆、是れ虚誑にして因縁の果報なれば、是の中の所知、所見も、皆、亦た虚誑なればなり。是の虚誑の知は、都て信ずべからず。信ずべき所とは、唯だ諸仏の阿僧祇劫に於いて得たもう所の実相の智慧有り。
若し、
『深心』に、
『念』を、
『摂すれば(執持すれば)!』、
『如実』に、
諸の、
『法の実相』を、
『知ることができる!』。
諸の、
『法の実相』は、
『見、聞、念、知』を、
『用いても!』、
『得られない!』。
何故ならば、
『六情、六塵』は、
皆、
『虚誑であり!』、
『因縁の果報である!』が故に、
是の中の、
『所知、所見』も、
皆、
亦た、
『虚誑だからである!』。
是の、
『虚誑の知』は、
都(すべ)て、
『信じることができない!』。
『信じられる!』所とは、
唯だ、
『諸仏』の、
『阿僧祇劫』に於いて、
『得られた!』所の、
『実相』という、
『智慧のみである!』。
以是智慧依禪定一心觀諸法實相。是名禪定中生般若波羅蜜。 是の智慧は禅定に依るを以って、一心に諸法の実相を観れば、是れを禅定中に般若波羅蜜を生ずと名づく。
是の、
『智慧』は、
『禅定』に、
『依る!』ので、
『一心』に、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『観れば!』、
是れを、
『禅定』中に、
『般若波羅蜜を生じる!』と、
『称する!』。
或有離五波羅蜜。但聞讀誦思惟籌量。通達諸法實相。是方便智中。生般若波羅蜜。或從二或三四波羅蜜。生般若波羅蜜。如聞說一諦而成道果。或聞二三四諦而得道果。 或は、五波羅蜜離れて、但だ聞、読、誦、思惟、籌量して、諸法の実相に通達する有り。是れは方便の智中に般若波羅蜜を生ずるなり。或は二、或は三、四波羅蜜により、般若波羅蜜を生ずること、一諦を説くを聞いて、道果を成じ、或は二、三、四諦を聞いて、道果を得るが如し。
或は、
有る者は、
『五波羅蜜』を、
『離れて!』、
但だ、
『聞、読、誦、思惟、籌量する!』だけで、
諸の、
『法の実相』に、
『通達する!』が、
是れは、
『方便』という、
『智』中に、
『般若波羅蜜』を、
『生じたのである!』。
或は、
『二』、
或は、
『三、四波羅蜜』より、
『般若波羅蜜』を、
『生じる!』。
譬えば、
『一諦』を、
『説く!』のを、
『聞いて!』、
而も、
『道果』を、
『成就する!』とか、
或は、
『二、三、四諦』を、
『聞いて!』、
『道果』を、
『得るようなものである!』。
有人於苦諦多惑故。為說苦諦而得道。餘三諦亦如是。 有る人は、苦諦に於いて多く惑うが故に、為に苦諦を説いて、道を得しむ。余の三諦も亦た是の如し。
有る、
『人』は、
『苦諦』に於いて、
『多く!』、
『惑(まど)う!』が故に、
『苦諦を説いて!』、
『道』を、
『得させる!』。
他の、
『三諦』も、
亦た、
『是の通りである!』。
或有都惑四諦故。為說四諦而得道。如佛語比丘。汝若能斷貪欲。我保汝得阿那含道。若斷貪欲當知恚癡亦斷。 或は、都て四諦に惑うが故に、為に四諦を説いて、道を得しむ。仏の比丘に語りたもうが如し、『汝、若し能く貪欲を断ぜば、我れは汝を保ちて、阿那含道を得しめん。若し貪欲を断てば、当に知るべし、恚癡も亦た断ずと』、と。
或は、
有る者は、
都て、
『四諦』に、
『惑う!』が故に、
『四諦』を、
『説いて!』、
『道』を、
『得させる!』。
例えば、
『仏』が、
『比丘』に、こう語られた通りである、――
お前が、
若し、
『貪欲』を、
『断てば!』、
わたしは、
お前が、
『阿那含道を得る!』ことを、
『保証しよう!』。
若し、
『貪欲』を、
『断てば!』、
こう知らねばならぬ、――
『恚、癡』も、
『断たれたのだ!』と。
六波羅蜜中亦如是。為破多慳貪故。說布施法。當知餘惡亦破。為破雜惡故具為說六。是故或一一行。或合行普為一切人故。說六波羅蜜。非為一人。 六波羅蜜中も、亦た是の如く、慳貪多きを破らんが為の故に、布施の法を説けば、当に知るべし、余の悪も亦た破るを。雑悪を破らんが為の故に、具に為に六を説く。是の故に或は一一を行じ、或は合して行ずれば、普く一切の人の為の故に、六波羅蜜を説き、一人の為に非ず。
『六波羅蜜』中も、
亦た、
是のように、
『慳、貪』の、
『多い!』のを、
『破る!』為の故に、
『布施の法』を、
『説けば!』、
当然、こう知らねばならぬ、――
他の、
『悪』も、
『破ることになるのだ!』、と。
『雑多な悪』を、
『破る!』為の故に、
具(つぶさ)に、
『六波羅蜜』が、
『説かれたのである!』から、
是の故に、
或は、
『一一』の、
『波羅蜜』を、
『行い!』、
或は、
『合して!』、
『行う!』ので、
普く、
一切の、
『人』の為に、
『六波羅蜜』は、
『説かれたのであって!』、
『一人』の為に、
『説かれたのではない!』。
復次若菩薩不行一切法不得一切法故得般若波羅蜜。所以者何。諸行皆虛妄不實。或近有過或遠有過。如不善法近有過罪。善法久後變異時。著者能生憂苦。是遠有過罪。 復た次ぎに、若し菩薩、一切法を行ぜざれば、一切法を得ざるが故に、般若波羅蜜を得。所以は何んとなれば、諸行は、皆虚妄にして、不実にして、或は近くに過有り、或は遠きに過有り、不善法の、近くに過罪有るが如く、善法は久しき後の変異する時、著する者に、能く憂苦を生ず、是れ遠くに有る過罪なり。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
一切の、
『法』を、
『行わなければ(考えなければ)!』、
一切の、
『法』を、
『得ない(認識しない)!』が故に、
則ち、
『般若波羅蜜』を、
『得る(獲得する)だろう!』。
何故ならば、
諸の、
『行(思≒有為法)』は、
皆、
『虚妄、不実であり!』、
或は、
『近くに!』、
『過』が、
『有り!』、
或は、
『遠くに!』、
『過』が、
『有って!』、
例えば、
『不善の法』が、
『近くに!』、
『過罪』が、
『有るように!』、
『善の法』は、
『久しい!』後には、
『変異する!』ので、
その時、
『著する!』者に、
『憂苦』を、
『生じさせるからである!』。
是れが、
『遠くに!』、
『有る!』、
『過罪である!』。
譬如美食惡食俱有雜毒。食惡食即時不悅。食美食即時甘悅。久後俱奪命故。二不應食。善惡諸行亦復如是。 譬えば、美食、悪食は倶に雑毒有るが如し、悪食を食えば、即時に悦ばず、美食を食えば、即時に甘悦し、久しき後には、倶に命を奪うが故に、二は応に食うべからず。善、悪の諸行も、亦復た是の如し。
譬えば、
『美食』と、
『悪食』とは、
倶に(どちらも)、
『雑毒』が、
『有るようなものである!』。
若し、
『悪食』を、
『食えば!』、
即時に、
『愉快でなくなり!』、
『美食』を、
『食えば!』、
即時に、
『愉快になる!』が、
『久しい!』後には、
倶に、
『命』を、
『奪うことになる!』が故に、
是の、
『二食』を、
『食うべきではない!』。
『善、悪の諸行』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  甘悦(かんえつ):心から称讃する( heartily admire )。
問曰。若爾者佛何以說三行梵行天行聖行。 問うて曰く、若し爾らば、仏は何を以ってか、三行の梵行、天行、聖行を説きたまえる。
問い、
若し、
そうならば、
『仏』は、
何故、
『梵行、天行、聖行の三行』を、
『説かれたのですか?』。
  参考:『仏説出生菩提心経』:『爾時世尊告迦葉婆羅門言。善哉婆羅門。諸菩薩有三種行。何等為三。所謂天行梵行聖行。婆羅門。於中何者名為天行。若有善男子善女人。以慈身業。以慈意業。以慈口業。遍滿東方無量世界慈行充滿。行此遍已。復能善入南西北方四維上下。皆以慈身業慈意業慈口業普遍充滿。是名天行。於中何者名為梵行。所謂四無量。何等為四。慈悲喜捨。是名梵行。婆羅門。於中何者名為聖行。所謂三解脫門。何者為三。空無相無願。是名聖行。』
答曰。行無行故名為聖行。何以故。一切聖行中。不離三解脫門故。梵行天行中因取眾生相故生。雖行時無過後皆有失。又即今求實皆是虛妄。若賢聖以無著心行此二行則無咎。 答えて曰く、行の無行なるが故に名づけて、聖行と為す。何を以っての故に、一切の聖行中には、三解脱門を離れざるが故なり。梵行、天行中は、衆生相を取るに因るが故に生じ、行ずる時に過無しと雖も、後には皆失有り。又即ち今、実を求めて、皆是れ虚妄なれば、若し賢聖が、無著の心を以って、此の二行を行ずれば、則ち咎無し。
答え、
『行』に、
『行が無い!』が故に、
『聖行』と、
『称するからである!』。
何故ならば、
一切の、
『聖行』中の、
『行』は、
『三解脱門(空、無相、無作)』を、
『離れない!』が、
『梵行、天行』中は、
『衆生の相』を、
『取る因縁』の故に、
『生じる!』、
『行である!』が故に、
『行う(思う)!』時、
『過』が、
『無くても!』、
後には、
皆、
『過失』が、
『有るからである!』。
又、
即ち、
今、
『実』を、
『求めて!』、
皆、
『虚妄である!』とすれば、
若し、
『賢聖』が、
『無著の心』で、
此の、
『二行(梵、天行)』を、
『行った!』としても、
則ち、
『咎』は、
『無いことになる!』。
若能如是行無行法皆無所得。顛倒虛妄煩惱畢竟不生。如虛空清淨故。得諸法實相。以無所得為得。 若し、能く是の如く、行に行無ければ、法は、皆無所得にして、顛倒、虚妄の煩悩は畢竟じて生ぜず。虚空の如く清浄なるが故に、諸法の実相を得るにも、無所得を以って、得と為す。
若し、
是のように、
『行()』に、
『行』が、
『無い!』ので、
『法(行の所得)』は、
皆、
『無所得であり!』、
『顛倒、虚妄』の、
『煩悩』は、
『畢竟じて!』、
『生じることがなく!』、
譬えば、
『虚空のように!』、
『清浄であり!』、
故に、
諸の、
『法の実相』を、
『得たとしても!』、
『無所得』を、
『得たのである!』。
  無所得(むしょとく):梵語 apraaptiva, anupalabdhi, anupalambha 等の訳。所得なきの意。略して無得とも名づく。有所得に対す。即ち畢竟空相にして一物も所得すべきものなきを云う。「般若波羅蜜多心経」に、「是の故に空の中には色もなく受想行識もなく、眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく乃至意識界もなく、無明もなく亦た無明尽もなく、乃至老死もなく亦た老死尽もなく、苦集滅道もなく、智もなく亦た得もなし。無所得を以っての故なり」と云い、又「大品般若経巻21三慧品」に、「菩薩は初発意より以来、応に空無所得の法を学すべし。是の菩薩は無所得の法を用いての故に布施持戒忍辱精進禅定あり、無所得の法を用いての故に智慧乃至一切種智を修するも亦た是の如し。(中略)無所得は是れ般若波羅蜜の相、無所得は是れ阿耨多羅三藐三菩提の相、無所得は亦た是れ行般若波羅蜜者の相なり」と云える是れなり。是れ諸法は畢竟空にして、五蘊、十二処、十八界、十二因縁乃至四諦等の差別の諸相あることなきを明し、菩薩は初発心より此の法を学すべく、是れ即ち般若波羅蜜を行ずる者の相なることを説けるものなり。有所得無所得の別に関しては、「大品般若経」の連文に、「仏は須菩提に告ぐ、諸の二ある者は是れ有所得、二あることなき者は是れ無所得なり。世尊、何等か是れ二は有所得、何等か是れ不二は無所得なる。仏言わく、眼と色とを二と為し、乃至意と法とを二と為し、乃至阿耨多羅三藐三菩提と仏とを二と為す」と云い、又「大般涅槃経巻17」に、「善男子、菩薩摩訶薩は実に無所得なり、無所得とは詞無礙に名づく。善男子、何の義を以っての故に無所得を名づけて無礙と為すや。若し有得ならば則ち名づけて礙と為す、有障礙とは四顛倒に名づく。善男子、菩薩摩訶薩は四倒なきが故に、故に無礙なることを得。是の故に菩薩を無所得と名づく」と云い、乃至広く分別する所あり。此等は皆諸法差別の相を執し、有無辺邪の見に堕するを有所得とし、一切の戯論を離れ、取捨すべき何物をも認めず、畢竟清浄なるを無所得と名づけたるなり。又「大智度論巻18」に、「諸法実相の中には、決定の相得べからざるが故に無所得と名づく」と云えり。是れ諸法は因縁生にして自性なく、自性なきが故に決定相を求むるも得べからざるを無所得と名づけたるものにして、即ち四双八計に堕せず、中道正観に住すべきことを明にせるなり。又「大般若経巻489」、「維摩経巻中」、「注維摩詰経巻8」、「大智度論巻84」、「中観論疏巻2末」等に出づ。<(望)
  所得(しょとく):取得物( aquisition )、梵語 upalambha の訳、知覚/確認/認識( perceiving, ascertaining, recognition )の義、見解/意見( view, opinion )、研究と実践との道を通じて獲得された仏法の主要な真実に関する見解( The view of the essential truth of the Buddha-dharma gained through the path of study and practice. )の意、又は選取、選出する分別心( The discriminating mind that picks and chooses. )の意。
如無所得般若中說。色等法。非以空故空從本已來常自空。色等法。不以智慧不及故無所得。從本已來常自無所得。 無所得の般若中に説くが如き、色等の法は、空を以っての故に空なるに非ず、本より已来、常に自ら空なり。色等の法は、智慧の及ばざるを以っての故に、無所得なるにあらず、本より已来、常に自ら無所得なり。
例えば、
『無所得』の、
『般若』中に、
『説かれる!』ような、
『色等の法』は、
『空』を、
『適用する!』が故に、
『空なのではない!』。
本来、
常に、
『自然に(人為無く)!』、
『空なのである!』。
『色等の法』は、
『智慧』の、
『及ばない!』が故に、
『無所得なのではない!』。
本来、
常に、
『自然に!』、
『無所得なのである!』。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻4幻学品』:『復次須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜。如是思惟。不以空色故色空。色即是空空即是色。受想行識亦如是。不以空眼故眼空。眼即是空空即是眼。乃至意觸因緣生受。不以空受。故受空。受即是空空即是受。不以空四念處故。四念處空。四念處即是空。空即是四念處。乃至不以空十八不共法故。十八不共法空。十八不共法即是空。空即是十八不共法。』
是故不應問行幾波羅蜜得般若波羅蜜。諸佛憐愍眾生隨俗故。說行非第一義。 是の故に応に、『幾ばくの波羅蜜を行じてか、般若波羅蜜を得る』、と問うべからず。諸仏は、衆生を憐愍して、俗に随うが故に、行を説きたまえば、第一義に非ざればなり。
是の故に、
こう問うてはならない、――
何れほどの、
『般若波羅蜜』を、
『行えば!』、
『般若波羅蜜』を、
『得られるのか?』、と。
諸の、
『仏』は、
『衆生』を、
『愍れんで!』、
『俗法』に、
『随われた!』が故に、
『行』という、
『法』を、
『説かれた!』が、
是の、
『法』は、
『第一義ではないからである!』。
問曰。若無所得無所行。行者何以求之。 問うて曰く、若し無所得、無所行なれば、行者は何を以ってか、之を求む。
問い、
若し、
『般若波羅蜜』が、
『無所得であり!』、
『無所行ならば!』、
『行者』は、
何故、
『求めるのですか?』。
答曰。無所得有二種。一者世間欲。有所求不如意。是無所得。二者諸法實相中。受決定相。不可得故。名無所得。非無有福德智慧增益善根。 答えて曰く、無所得には二種有り、一には、世間の欲の求むる所有るも、如意ならざる、是れ無所得なり。二には、諸法の実相中に、決定相の不可得なるを受くるが故に、無所得と名づけ、福徳の智慧の善根を増益することの有ること無きに非ず。
答え、
『無所得』には、
『二種』有り、
一には、
『世間の欲』に、
『求める!』所が、
『有る!』のに、
『意のままにならない!』という、
是の、
『無所得であり!』、
二には、
『諸法の実相』中に、
『決定の相』は、
『不可得である!』と、
『容認する!』が故に、
是れを、
『不可得』と、
『称し!』、
『福徳の智慧』が、
『善根』を、
『増益する!』ことが、
『無いというのではない!』。
如凡夫人分別世間法故有所得。諸善功德亦如是。隨世間心故說有所得。 凡夫人の、世間の法を分別するが故に所得有るが如く、諸の善功徳も亦た是の如く、世間の心に随うが故に、所得有りと説く。
例えば、
『凡夫人』が、
『世間の法』を、
『分別する!』が故に、
『所得』が、
『有るように!』、
諸の、
『善の功徳』も、
是のように、
『世間の心』に、
『随う!』が故に、
『所得が有る!』と、
『説かれたのである!』。
諸佛心中則無所得。是略說般若波羅蜜義。後當廣說
大智度論卷第十八
諸仏の心中は、則ち無所得なり。是れ般若波羅蜜の義を略説す。後に当に広く説くべし。
大智度論巻第十八
諸の、
『仏』の、
『心』中は、
『無所得だということであり!』、
是れが、
『略説した!』、
『般若波羅蜜』の、
『義である!』。
後に、
『広く!』、
『説くことになっている!』。

大智度論巻第十八


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