佛法則是滅諸煩惱處。是為大異。諸佛法無量有若大海。隨眾生意故種種說法。或說有或說無或說常或說無常或說苦或說樂或說我或說無我或說懃行三業攝諸善法或說一切諸法無作相。如是等種種異說。無智聞之謂為乖錯。智者入三種法門。觀一切佛語。皆是實法不相違背。 |
仏法は、則ち是れ諸の煩悩を滅する処なれば、是れを大異と為す。諸の仏法は無量にして、有るいは大海の若し。衆生の意に随うが故に、種種に法を説き、或は有を説き、或は無を説き、或は常を説き、或は無常を説き、或は苦を説き、或は楽を説き、或は我を説き、或は無我を説き、或は三業を懃行するに諸の善法を摂すと説き、或は一切の諸法には作相無しと説く。是の如き等の種種の異説は、無智之を聞きて謂いて、乖錯と為し、智者は、三種の法門に入りて、一切の仏語を観れば、皆、是れ実法にして相違背せず。 |
『仏法』は、
諸の、
『煩悩』を、
『滅する!』、
『処であり!』、
是が、
『大いに!』、
『異なる!』。
諸の、
『仏法』は、
『無量であり!』、
譬えば、
『大海ほども!』、
『有る!』が、
皆、
『衆生の意』に、
『随って!』、
『種種に!』、
『説かれた!』、
『法である!』。
或は、
『有である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『無である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『常である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『無常である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『苦である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『楽である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『我だ!』と、
『説かれ!』、
或は、
『無我だ!』と、
『説かれ!』、
或は、
『三業』を、
『懃行(修行)すれば!』、
諸の、
『善法を摂することになる!』と、
『説かれ!』、
或は、
一切の、
諸の、
『法』には、
『作相(所作有るの相)が無い!』と、
『説かれた!』が、
是れ等の、
種種の、
『異説』を、
『聞いて!』、
『無智の者』は、
『互に!』、
『違背している!』と、
『謂う!』が、
『有智の者』は、
『三種の法門』に、
『入って!』、
『一切の仏語』を、
『観る!』ので、
是れは、
皆、
『実の法であって!』、
『互に違背しない!』。
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三業(さんごう):十善なり。即ち不殺、不盗、不邪婬を身業と為し、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語を口業と為し、不貪、不瞋、不邪見を意業と為し、総じて三業と云う。
作相(さそう):梵語 iGgita の訳、暗示/手まね/身振り( hint, sign, gesture )、目的/目的の見えない現実( aim,
intention, real but covert purpose )の義、作 (to do, make, create) の相の意。 ceSTita-
lakSaNa? 或は有為法の相 saMskRta- lakSaNa の如し。◯梵語 nimittii-√(kR) の訳、相を作成する( to
construct signs )の義。◯梵語 nir-√(maa) の訳、造り出す/形成する/創造する( to build, make out
of, form, fabricate, produce, create )の義。◯梵語 lakSaNaani sthaapyante の訳、相の住処(
a dwelling of marks )の義、有為法 saMskRta の意。
無作(むさ):梵語 avijJapti の訳、訴うること無しの意。因縁の造作無きを云う。『大智度論巻18上注:作無作』参照。
作無作(さむさ):又表無表とも称す。作業と無作業との総称なり。『大智度論巻18上注:表無表』参照。
表無表(ひょうむひょう):表業(梵語 vijJapti-karman )と無表業(梵語 avijJapti-karman )との略称。又表無表業、有表業無表業、或いは作無作、教無教とも名づく。他をして表知せしむる業を表業、表知せしむる能わざるものを無表業となすなり。「品類足論巻7」に、「身業とは云何、謂わく身表及び無表なり。語業とは云何、謂わく語表及び無表なり」と云える是れなり。是れ身語意三業の中、唯身語二業にのみ表及び無表の二種あることを説けるものなり。意業に表無表なき所以に関し、「順正理論巻33」に、「復た何の縁ありてか、唯身語業のみ表無表の性にして、意業は然らざるや。意業の中には彼の相なきを以っての故なり。謂わく能く表示するが故に名づけて表と為す、自心を表示して他をして知らしむるが故なり。思には是の事なし、故に表と名づけず。(中略)是の如く且く意業は表に非ざるを辯ず。亦た無表に非ずとは、無表業の初起は必ず生因の大種に依るを以って、此の後の無表は生因滅すと雖も、定んで同類の大種ありて依と為るが故に、後後の時無表続起す。諸の意業の起るは必ず心に依る。後後の時定んで同類の心ありて相続して起り、意の無表は彼の心に依止して多念相続すべきに非ず。心の善等は念念に殊あるを以ってなり。設い無表の思は同類続起せんも、如何ぞ前の心の意業に依止して、後念の異類の心に随って転ずべけんや。意業の心不相応あるに非ず。故に意業の中には亦た無表もなきなり。此の故に唯身語二業にのみ表無表の性あること、其の理善く成ず」と云えり。是れ意業は身語表業の如く他をして表知せしむる義なきが故に表業と名づけず。又意業の起ることは必ず心に依るものにして、身語無表業の如く初刹那は生因の大種に依り、後後の刹那は同類の大種に依りて続起するに非ず。然るに心は定んで同類相続して起るものに非ざるが故に、若し意業の無表ありとせば、彼の無表は即ち異類の心に随って転ぜざるべからざる結果となり、無表の善又は不善の性を持続すること能わず、故に意業の無表ありとするは理に応ぜずとなすの意なり。表無表業の体に関し、説一切有部に於いては身表業は形色を以って体とし、語表業は言声を以って体とし、無表は法処所摂の色を以って体とすとし、共に実有の法となすなり。又表業は善悪無記の三性に通じ、尋伺に由りて起るが故に欲界及び初禅に有り。無表業は唯善悪の二性にして無記のものなく、又欲色二界にのみ有り。「倶舎論巻13」に、「無表は唯善と不善との性に通じ、無記あるいことなし。所以は何ぞ、無記心は勢力微劣にして強業を引発して生ぜしめ、因滅する時果仍お続起すべきこと能わざるを以ってなり。余とは表及び思なり。三とは謂わく皆善悪無記に通ず。(中略)欲色二界には皆無表あり、無色の中には大種なきを以っての故なり。(中略)表色は唯二の有伺地に在り、謂わく欲界と初静慮の中に通ず。(中略)復た何の因を以って二定以上には都て表業なく、欲界の中に於いて有覆無記の表業あることなきや。発業の等起心なきを以っての故なり。尋伺の心あれば能く表業を発するも、二定以上には都て此の心なければなり。又表を発するの心は唯修所断なり。見所断の惑は内門転なるが故に、欲界の中には決定して有覆無記の修所断の惑あることなきを以ってなり。是の故に表業は上の三地に都て無く、欲界の中には有覆無記の表なし」と云える即ち其の意なり。蓋し説一切有部に於いては是の如く表無表共に別体ありとし、且つ共に之を色蘊の所摂となせるも、「成実論巻7業品並びに無作品」には、身口意三業に各作無作ありとし、又無心位に於いても無作あるが故に無作は心法に非ず、無作には悩壊の相なきが故に亦た色法に非ず、即ち非色非心の法にして、行陰の所摂なりとし、経量部にては表業は仮にして実に非ず、唯動発勝思が身門に依りて行ずるを身表とし、語門に依るを語表となすと云い、又無表は此の二の勝思に従って起る所の思の差別に過ぎざれば、別に実体あるべきに非ずとなし、唯識家に於いても亦た仮立説を取り、「成唯識論巻1」に、「身表業は定んで実有に非ず、然も心が因と為り、識所変の手等の色相をして生滅相続して余方に転趣せしめ、動作あるに似て、心を表示するが故に仮に身表と名づく。語表も亦た実有の声の性に非ず、一刹那の声は詮表なきが故に、多念相続は便ち実に非ざるが故なり。外の有対の色は前に已に破するが故なり。然も心に因るが故に識変じて声に似て、生滅相続して表示あるに似たるを仮に語表と名づけんには、理に於いて違することなし。表既に実に無し、無表寧ぞ実ならん。然れども思と願との善悪の分限に依りて、無表を仮立するも理亦た違することなし。謂わく此れ或いは勝れたる身語を発する善悪の思種の増長する位に依りて立て、或いは定中に身語の悪を止むる現行の思に依りて立つ。故に是れ仮有なり」と云えり。以って諸論の説の異同を見るべし。又「優婆塞戒経巻6」、「大毘婆沙論巻122、123」、「成実論巻89業品」、「瑜伽師地論巻53」、「雑阿毘曇心論巻3」、「倶舎論巻1、14」、「順正理論巻35」、「大乗義章巻7」、「倶舎論光記巻13、14」、「成唯識論述記巻2本」、「大乗法苑義林章巻3末」等に出づ。<(望)
乖錯(けさく):背きたがう。 |
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何等是三門。一者昆勒門。二者阿毘曇門。三者空門。 |
何等か、是れ三門なる、一には昆勒門、二には阿毘曇門、三には、空門なり。 |
何のような、
『三種の門なのか?』、――
一には、
『昆勒門であり!』、
二には、
『阿毘曇門であり!』、
三には、
『空門である!』。
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昆勒(こんろく):又蜫勒とも称す。摩訶迦旃延所造の論部。『大智度論巻2上注:摩訶迦旃延、巻18上注:蜫勒』参照。
蜫勒(こんろく):梵名。筺蔵と訳す。摩訶迦旃延所造の論部の名。「大智度論巻2」に、「摩訶迦旃延は、仏の在時に仏語を解して蜫勒を作る。乃至今南天竺に行わる」と云い、又「阿毘曇に三種あり、一には阿毘曇身及び義なり、略説三十二万言あり。二には六分、略説三十二万言あり。三には蜫勒、略説三十二万言あり。蜫勒は広く諸事に比し、類を以って相従す。阿毘曇には非ず」と云い、又「同巻18」に、「智者は三種の法門に入りて一切の仏語を観ずるに、皆是れ実法にして相違背せず。何等か是れ三門なる、一には蜫勒門、二には阿毘曇門、三には空門なり。問うて曰わく、云何が蜫勒と名づけ、云何が阿毘曇と名づけ、云何が空門と名づくる。答えて曰わく、蜫勒に三百二十万言あり。仏在世の時、大迦旃延の造る所なり。仏滅度の後、人寿転た減じて憶識力少く、広く誦すること能わず。諸の得道の人は撰して三十八万四千言と為す。若し人あり、蜫勒門に入りて論議すれば則ち無窮なり。其の中、随相門、対治門等の種種の法門あり」と云える是れなり。此の中、随相門とは、一法一門の中に余の諸門の相離れざることを示すを云う。例せば仏説の偈に自浄其意と言うが如き、是の中には但だ意と説くと雖も、則ち同相同縁の故に諸の心数法も亦た已に説くと知るべし。四念処と説くが如き、是の中に四正勤、四如意足等を離れざるが故に、仏は余門を説かず、但だ四念処と説くも、則ち当に已に余門を説くと知るべし。譬えば一人ありて事を犯さば、挙家罪を受くるが如し。是の如き等を名づけて随相門と為す。対治門とは仏の四顛倒を説くが如き、是の中には四念処を説かずと雖も、当に已に四念処の義あるを知るべし。譬えば薬を説かば已に其の病を知り、病を説かば則ち其の薬を知るが如し。是の如き等の種種の相を名づけて対治門と為すと云えり。蓋し此の論は遂に漢訳せられざりしが故に、其の内容の委細を詳にすること能わずと雖も、「大智度論巻18」に阿毘曇の有と説き、空門の無と説くに対し、蜫勒門は有無と説くと云い、又蜫勒門に入りて論議すれば則ち無窮なりと云うに考うるに、此の論は一辺に就かず頗る従容の説を唱えし一派なるを知るべきが如し。天台及び嘉祥等の師は、判じて之を小乗四門中の亦有亦空門と為せり。亦た以って其の意の存する所を見るべし。蜫勒の語義に関しては、「大智度論巻2の注に秦に訳して筺蔵と言うと云えり。然るに梵語 piTaka 又は peTaka は、普通に筺蔵又は蔵と訳せらる。されば蜫勒は恐らく毘勒の写誤なるべし。「可洪音義巻10」に、「蜫勒、上の音は毘、正しくは [内+比/虫+虫](蚍?)に作るなり。梵に毘勒と言う、秦に筺蔵と言うなり。第二十八巻(大智度論第二十五巻に在り)の内に外道の名を蜫盧坻に作る。維摩経に毘羅胝子に作るもの是れなり」と云えるは即ち妥当なりというべし。又巴梨仏典中、現に三蔵外の典籍として伝うるものに、peTak'opadesa と題する書あり。緬甸にて之を大迦旃延の作と伝うと云えば、今の蜫勒は恐らく此の書を指せるものなるべし。ガイガー W.Geiger は之を西暦第一世紀の初期の作なるべしとせり。又「法華経玄義巻8下、10上」、「摩訶止観巻6、10」、「四教義巻1、3、6」、「三論玄義」、「維摩経略疏巻7」、「南海寄帰内法伝巻4」等に出づ。<(望) |
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問曰。云何名昆勒。云何名阿毘曇。云何名空門。 |
問うて曰く、云何が昆勒と名づけ、云何が阿毘曇と名づけ、云何が空門と名づくる。 |
問い、
何を、
『昆勒』と、
『称し!』、
何を、
『阿毘曇』と、
『称し!』、
何を、
『空門』と、
『称するのですか?』。
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答曰。昆勒有三百二十萬言。佛在世時大迦栴延之所造。佛滅度後人壽轉減。憶識力少不能廣誦。諸得道人撰為三十八萬四千言。若人入昆勒門論議則無窮。其中有隨相門對治門等種種諸門。 |
答えて曰く、昆勒は、三百二十万言有り、仏の在世の時の大迦旃延の所造にして、仏の滅度の後、人寿転た減じて、憶識の力少く、広く誦する能わず、諸の得道の人、撰して三十八万四千言と為せば、若し人、昆勒門に入りて、論議せば、則ち無窮なり。其の中に、随相門、対治門等の種種の諸門有り。 |
答え、
『昆勒』は、
『仏』の、
『在世の時』に、
『大迦旃延』が、
『造り!』、
『三百二十万言』、
『有った!』が、
『仏』の、
『滅度の後』に、
『人寿』が、
『次第に!』、
『減少し!』、
『憶識』の、
『能力』も、
『少なくなった!』ので、
『三百二十万言』を、
『広く!』、
『諳誦することができなくなった!』。
是の故に、
諸の、
『得道の人』が、
『約して!』、
『三十八万四千言』を、
『撰出したのである!』。
若し、
『人』が、
『昆勒門』に、
『入って!』、
『論議すれば!』、
『結論』を、
『得られず!』、
『無窮ということになり!』、
其の中には、
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隨相門者。如佛說偈
諸惡莫作 諸善奉行
自淨其意 是諸佛教 |
随相門とは、仏の偈を説きたまえるが如し、
諸の悪は作すこと莫かれ、諸の善を奉行して、
自ら其の意を浄めよ、是れ諸仏の教なり。
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『随相門( 相に随って諸法を説く!)』とは、
例えば、
『仏の説かれた偈』が、そうである、――
諸の、
『悪』を、
『作してはならない!』、
諸の、
『善』を、
『追求して!』、
自らの、
『意』を、
『浄めよ!』、
是れが、
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随相(すいそう):◯梵語 anulakSaNa の訳、相に随う( according to marks )の義。◯梵語 nimitta- maatraanusaarin
の訳、副次的状態/派生的様相( the secondary states, derivative aspects )の義、即ち有為の四相なる生住異滅の如し(
i.e. of conditioned phenomena: arising 生, abiding 住, changing 異, and extinction
滅. )。
奉行(ぶぎょう):履行/従事/執行( purshue, follow )。 |
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是中心數法盡應說。今但說自淨其意。則知諸心數法已說。何以故。同相同緣故。如佛說四念處。是中不離四正懃四如意足五根五力。何以故。四念處中四種精進則是四正懃四種定是為四如意足。五種善法是為五根五力。佛雖不說餘門但說四念處。當知已說餘門。如佛於四諦中或說一諦或二或三。 |
是の中に心数法を尽く、応に説くべきも、今は但だ、『自ら其の意を浄めよ』と説けば、則ち諸の心数法の已に説かれたるを知る。何を以っての故に、同相同縁なるが故なり。仏の説きたまえる四念処の如きは、是の中に四正懃、四如意足、五根、五力を離れず。何を以っての故に、四念処中の四種の精進は、則ち是れ四正懃にして、四種の定は、是れを四如意足と為し、五種の善法は、是れを五根、五力と為せばなり。仏は余門を説きたまわずと雖も、但だ四念処を説きたまえば、当に知るべし、已に余門を説きたまえりと。仏の四諦中に於いて、或は一諦、或は二、或は三を説きたまえるが如し。 |
是の中には、
『心数法』の、
『尽く!』を、
『説くべきである!』のに、
今は、
但だ、こう説かれただけで、――
則ち、
こう知ることになる、――
諸の、
『心数法』は、
『已に!』、
『説かれたのだ!』、と。
何故ならば、
是の、
『意』は、
諸の、
『心数法』と、
『同相であり!』、
『同縁だからである!』。
例えば、
『仏』が、
『四念処』を、
『説かれる!』と、
是の中の、
『四念処』は、
『四正懃、四如意足、五根五力』を、
『離れない!』、
何故ならば、
『四念処』中の、
『四種の精進』は、
則ち、
『四正懃であり!』、
『四種の定』は、
則ち、
『四如意足であり!』、
『五種の善法』は、
則ち、
『五根五力だからである!』。
『仏』が、
『他の門』を、
『説かなくても!』、
但だ、
『四念処』を、
『説かれれば!』、
こう知らねばならない、――
例えば、
『仏』が、
『四諦』中の、
或は、
『一諦』を、
『説かれたり!』、
或は、
『二、三諦』を、
『説かれるのも同じである!』。
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如馬星比丘為舍利弗說偈
諸法從緣生 是法緣及盡
我師大聖王 是義如是說 |
馬星比丘の舎利弗の為に、偈を説けるが如し、
諸法は縁より生じ、是の法は縁及びて尽くと、
我が師大聖王は、是の義を是の如く説けり。
|
例えば、
『馬星( 阿説示)比丘』が、
『舎利弗』の為に、
『偈』を、こう説いた、――
諸の、
是の、
『法』は、
『縁』が、
『及ぶ(到る)!』と、
『滅する!』と、
わたしの
是の、
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馬星(めしょう):梵語 azvajit、巴梨語 assaji の訳。五比丘の一。威儀端正を以って名あり。『大智度論巻11上注:阿説示』参照。 |
参考:『大智度論巻11』:『爾時阿說示比丘。說此偈言 諸法因緣生 是法說因緣 是法因緣盡 大師如是說』 |
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此偈但說三諦。當知道諦已在中不相離故。譬如一人犯事舉家受罪。如是等名為隨相門。 |
此の偈は、但だ三諦を説くも、当に知るべし、道諦は已に中に在り、相離れざるが故なり。譬えば、一人事を犯せば、家を挙げて罪を受くるが如し。是の如き等を名づけて、随相門と為す。 |
此の、
『偈』には、
但だ、
『三諦(二諦?)』が、
『説かれただけである!』が、
こう知らねばならない、――
『道諦』は、
是の中に、
『在る!』、
何故ならば、
『互に!』、
『離れないからだ!』、と。
譬えば、
『一人』が、
『事』を、
『犯せば!』、
『一家』中が、
『罪』を、
『受けるようなものである!』。
是れ等のようなものを、
『随相門』と、
『称する!』。
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對治門者。如佛但說四顛倒。常顛倒樂顛倒我顛倒淨顛倒。是中雖不說四念處。當知已有四念處義。譬如說藥已知其病說病則知其藥。 |
対治門とは、仏の但だ四顛倒の常顛倒、楽顛倒、我顛倒、浄顛倒を説きたもうに、是の中に四念処を説きたまわずと雖も、当に知るべし、已に四念処の義有りと。譬えば薬を説けば、已に其の病を知り、病を説けば、則ち其の薬を知るが如し。 |
『対治門』とは、
例えば、
『仏』は、
但だ、
『四顛倒』の、
『常顛倒、楽顛倒、我顛倒、浄顛倒』を、
『説かれて!』、
是の中に、
こう知らねばならない、――
譬えば、
『薬』を、
『説けば!』、
『病』を、
『説けば!』、
其の、
『薬』を、
『知るようなものである!』。
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四顛倒(してんどう):顛倒の妄見を四種に類別せるもの。顛倒は梵語 viparyaasa の訳。又単に四倒とも称す。(一)有為の四顛倒。即ち凡夫が生死有為の法に対して起す四種の妄見を云う。一に常顛倒
nitya- viparyaasa、二に楽顛倒 sukha-v.、三に浄顛倒 zuci-v.、四に我顛倒 aatma-v. なり。「大智度論巻31」に、「世間に四顛倒あり、不浄の中に浄顛倒あり、苦の中に楽顛倒あり、無常の中に常顛倒あり、無我の中に我顛倒あり」と云い、「倶舎論巻19」に、「応に知るべし、顛倒に総じて四種あり、一には無常に於いて常と執する顛倒なり、二には諸苦に於いて楽と執する顛倒なり、三には不浄に於いて浄と執する顛倒なり、四には無我に於いて我と執する顛倒なり」と云える是れなり。是れ凡夫は生死有為の無常法の中に於いて常想を起し、苦相の中に於いて楽想を起し、不浄相の中に於いて浄想を起し、無我法の中に於いて我想を起すを名づけて四顛倒となせるものなり。諸惑妄見の中に於いて、特に此の四を立てて顛倒となす所以に関し、「大毘婆沙論巻104」には三由を挙ぐ。一に此の四は推度の性なるが故に、二に妄に増益するが故に、三に一向に倒なるが故なり。初に推度の性とは、此の四は五見の中の三見にして、推度を性とす。即ち常顛倒は辺執見の中の常見を以って体とし、楽顛倒、浄顛倒とは見取見の中の楽計浄計を以って体とし、我顛倒は有身見の中の我見(一説には有身見の全分即ち我我所見)を以って体となすを云う。他の貪瞋等の煩悩は推度の性に非ざるが故に、余の二因を具すと雖も立てて顛倒となさず。次に妄に増益すとは、此の四は境に於いて唯妄に増益し、壊事に於いて転ぜざるを云う。邪見及び断見は余の二因を具すと雖も、壊事に於いて転ずるが故に立てて顛倒となさず。三に一向倒とは、此の四は全く妄顛倒にして、少分の実処にも転ぜざるを云う。戒禁取見は余の二因を具すと雖も、少分実処に於いて転ずるが故に立てて顛倒となさざるなり。又「大集法門経巻上」には、四顛倒に各想顛倒、心顛倒、見顛倒の三種ありとし、総じて十二種の顛倒あることを説けり。即ち彼の文に、「復た次ぎに四顛倒あり、是れ仏の所説なり。謂わく無常を常と謂う、是の故に想顛倒、心顛倒、見顛倒を生起す。苦を以って楽と謂う、是の故に想と心と見との倒を生起し、無我を我と謂う、是の故に想と心と見との倒を生起し、不浄を浄と謂う、是の故に想と心と見との倒を生起す。是の如き等を名づけて四顛倒となす」と云える其の説なり。就中、想と心とは其の性顛倒に非ざれども、見と相応して其の行相を同ずるが故に名づけて顛倒となすなり。断道に関しては異説あり、有部は十二顛倒共に見所断の法となすも、分別論者は常倒我倒の想心見と及び楽倒浄倒の見とを見所断とし、余の楽倒浄倒の想及び心は、未離欲の聖者も尚お起すことあるが故に見修所断に通ずとし、経部は四の見は唯迷理の惑なるが故に見所断、余の想と心との八は事理に迷う惑なるが故に見修二断に通ずとなせり。又「七処三観経」、「陰持入経巻上」、「南本涅槃経巻2哀歎品」、「雑阿毘曇心論巻8」、「順正理論巻47」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻25」、「成唯識論巻1」等に出づ。(二)無為の四顛倒。即ち二乗が涅槃無為の法に対して起す四種の妄見を云う。一に常を計して無常となし、二に楽を計して苦となし、三に我を計して無我となし、四に浄を計して不浄となすなり。「南本涅槃経巻2哀歎品」に、「彼の酔人が上の日月を見て、実に廻転するに非ざるも廻転の想を生ずるが如く、衆生も亦た爾り、諸の煩悩無明の為に覆われて顛倒の心を生じ、我を無我なりと計し、常を無常なりと計し、浄を不浄なりと計し、楽を計して苦となす。(中略)我とは即ち是れ仏の義、常とは是れ法身の義、楽とは是れ涅槃の義、浄とは是れ法の義なり」と云える是れなり。是れ仏は凡夫の四顛倒を除かんが為に、無常苦不浄無我なりと説けるに、二乗は仏意を解せず、涅槃も亦た無常無我不浄苦なりと計するにより、仏は更に涅槃の常楽我淨を顕示し、以って彼の執を除くとなすの意なり。「大乗義章巻5末八倒義」には、之に前記有為四顛倒を併せて八顛倒と名づけ、前の四は生死有為の法に迷うが故に、有を名づけて倒となす。若し所立に従えば無を名づけて倒となす。後の四は涅槃無為の法に迷うが故に、無を名づけて倒となす。若し所立に従えば有を名づけて倒となすと云い、二者の別を明にせり。又「南本涅槃経巻7四倒品」に、苦に於ける非苦想と、非苦に於ける苦想とを第一顛倒とし、無常に於ける常想と、常に於ける無常想とを第二顛倒とし、無我に於ける我想と我に於ける無我想とを第三顛倒とし、不浄に於ける浄想と、浄に於ける不浄想とを第四顛倒とせり。是れ亦た八顛倒を説けるものと云うべく、即ち如来涅槃は常無常等の迷執を離れたるものなれども、凡夫は常等の倒見を起すが故に無常等を説きて之を治し、又無常等に封滞するが故に常等と説きて之を治し、最後に常無常等尽く倒見なりと破して、究竟の実理を顕せるなり、此の中、有為の四倒を断ずるを二乗とし、有無為の八倒を断ずるを菩薩となすなり。又「無上依経巻上」、「仏性論巻2」、「大般涅槃経疏巻7、8」、「成唯識論枢要巻下末」、「同了義灯巻1本」等に出づ。<(望)
四念処(しねんじょ):身受心法の四種の念処に於ける観法。即ち身は是れ不浄なりと観じ、受は是れ苦なりと観じ、心は是れ無常なりと観じ、法は是れ無我なりと観じて、常楽我淨の四顛倒を破するを云う。『大智度論巻15下注:四念処』参照。 |
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若說四念處則知已說四倒。四倒則是邪相。若說四倒則已說諸結。所以者何。說其根本則知枝條皆得。 |
若し、四念処を説けば、則ち已に四倒の説かれたるを知る。四倒は則ち是れ邪相なれば、若し四倒を説けば、則ち已に諸結を説きたり。所以は何んとなれば、其の根本を説けば、則ち枝條は皆得たるを知ればなり。 |
若し、
『四念処』を、
『説けば!』、
已に、
『四倒』は、
『邪相である!』が故に、
若し、
『四倒』を、
『説けば!』、
已に、
『諸の結』が、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
其の、
『根本』が、
『説かれれば!』、
こう知るからである、――
『枝條』は、
皆、
『理解しているのだ!』と。
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如佛說一切世間有三毒。說三毒當知已說三分八正道。若說三毒當知已說一切諸煩惱毒。十五種愛是貪欲毒。十五種瞋是瞋恚毒。十五種無明是愚癡毒。諸邪見憍慢疑屬無明。 |
仏の一切の世間に三毒有りと説きたまえるが如きは、三毒を説けば、当に知るべし、已に三分の八正道を説けりと。若し三毒を説けば、当に知るべし、已に、一切の諸の煩悩の毒を説く。十五種の愛は、是れ貪欲の毒なり、十五種の瞋は、是れ瞋恚の毒なり、十五種の無明は、是れ愚癡の毒なり、諸の邪見、憍慢、疑は、無明に属すればなり。 |
例えば、
『仏』が、
一切の、
『世間』には、
『三毒が有る!』と、
『説かれたならば!』、
『三毒』が、
『説かれたならば!』、こう知らねばならない、――
已に、
『八正道』を、
『三分(不貪、不瞋、不癡)して!』、
『説かれたのだ!』、と。
若し、
『三毒』が、
『説かれたならば!』、こう知らねばならない、――
一切の、
諸の、
『煩悩の毒』が、
『説かれたのだ!』、と。
何故ならば、
『十五種の愛』は、
『貪欲の毒であり!』、
『十五種の瞋』は、
『瞋恚の毒であり!』、
『十五種の無明』は、
『愚癡の毒であり!』、
諸の、
『邪見、憍慢、疑』は、
『無明』に、
『属すからである!』。
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三毒(さんどく):三種の毒の意。即ち出世の善心を毒害する三種の煩悩を云う。三不善根に同じ。一に貪毒、二に瞋毒、三に癡毒なり。又貪欲瞋恚愚癡、貪瞋癡、貪恚癡、淫怒癡、婬怒癡、欲瞋無明とも名づく。「大般涅槃経巻下」に、「三毒熾然の火は恒に諸の衆生を焼く」と云い、「別訳雑阿含経巻11」に、「能く貪瞋恚愚癡を起し、常に是の如き三毒の為に纏縛せられて遠離するを得ず」と云い、「法華経巻2譬喩品」に、「愚癡の闇蔽、三毒の火」と云い、又「大般涅槃経巻5」に、「無量劫中に婬怒癡煩悩の毒箭を被りて、大苦切を受く」と云える皆其の例なり。「大乗義章巻5末」に三毒の名義を釈して、「然るに此の三毒は通じて三界一切の煩悩を称す。一切煩悩の能く衆生を害することは其れ猶お毒蛇のごとく、亦た毒龍の如し。是の故に喩に就いて説いて名づけて毒と為す」と云い、亦た「法界次第初門巻上之上」に、「此の如く三界五行に歴れば則ち九十八使を離出す。一切の煩悩を通じて毒と名づくるは、毒は沈毒を以って義と為す。悩壊の甚だしきが故に沈毒と云う。其れ能く出世の善心を壊するを以っての故に、名づけて毒と為すなり」と云えり。又「大智度論巻34」には正三毒邪三毒の二を分別し、「貪欲に二種あり、一には邪貪欲、二には貪欲なり。瞋恚に二種あり、一に邪瞋恚、二には瞋恚なり。愚癡に二種あり、一には邪見愚癡、二には愚智なり。是の三種の邪毒の衆生は化度すべきこと難きも、余の三は度し易し。三毒の名なしとは、邪三毒の名なきなり」と云えり。是れ諸仏の浄土には正三毒あるも、邪三毒なしとするの説なり。「維摩経文疏巻27」に、「釈論の中に云うが如き、菩薩成仏の時、国に三毒の名なからしめんと欲せば、当に般若を学すべし。即ち難じて云わく、仏は是れ医王なり、世に出づるは人の病を治せんが為なり。国に三毒なくんば出世して誰をか化せん。答う、邪の三毒なしと雖も而も正の三毒あり。正の三毒ありと雖も化誨すべきこと易し。此の間の娑婆には邪三毒あり、塵労尤も重し。仏音を聞くと雖も即ち悟を得ず」と云い、又「摩訶止観巻6上」には邪正の別に関し、思惑の上の貪瞋癡を正三毒とし、見惑の上の貪瞋癡を邪三毒とす。邪三毒は悪見を起して其の上に起す所なるが故に邪と名づく。即ち背上使の惑にして其の体習気なり。正三毒は背使に非ず、又習気に非ざるが故に正と名づくと云えり。又「四分律行事鈔資持記巻中一之三」に三毒に単三複三具足一の七種あることを釈し、「三単は論の如し。互起の中、二の三とは謂わく複に三あるなり、一に貪瞋、二に貪癡、三に瞋癡なり。等分は具足一なり。上の三単に通じて共に七毒と為る」と云えり。又「大蔵法数巻15」には、二乗及び菩薩に各三毒ありとし、二乗の三毒とは、二乗の人が涅槃を忻うを貪欲、生死を厭うを瞋恚、中道に迷うを愚癡とし、菩薩の三毒とは、菩薩が広く仏法を求めんとするを貪欲、二乗を呵悪するを瞋恚、未だ仏性を了せざるを愚癡と名づくとせり。又「長阿含経巻1」、「増一阿含経巻27」、「阿閦仏国経巻上」、「止観輔行伝弘決巻6之一」等に出づ。<(望)
三分(さんぶん):八正道を戒定慧の三種に分類せしもの。即ち一例を挙ぐれば戒品に正語、正業、正命を配し、定品に正念、正定、正精進を配し、慧品に正見、正思惟を配せるが如し。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
八正道(はっしょうどう):梵語 aaryaaSTaaGgika- maarga の訳。巴梨語 ariya- aTThaGgika- magga、八種の正道の意。三十七菩提分法の一科。又八支正道、八支聖道、八聖道支、八聖道分、八賢聖道、八正聖路、八正路、八正法、八直道、八品道、八直行とも名づく。即ち涅槃を求趣する道支に八種あるを云う。一に正見
samyag- dRSTi(巴梨語 sammaa- diTThi )、二に正志 samyak- saMkalpa(巴梨語 sammaa- saGkappa)、三に正語
samyag- vaac(巴梨語 sammaa- vaa- vaacaa )、四に正業 samyak- karmaanta(巴梨語 sammaa-
kammanta )、五に正命 samyag-aajiiva(巴梨語 sammaa- aajiiva )、六に正方便 samyag- vyaayaama(巴梨語
sammaa- vaayaama )、七に正念 samyak- smRti(巴梨語 sammaa- sati )、八に正定 samyak- samaadhi(巴梨語sammaa-samaadhi)なり。「中阿含巻56羅摩経」に、「五比丘、当に知るべし二の辺行あり、諸の為道者は当に学ぶべからざる所なり。一に曰わく欲楽に著す、下賎の業にして凡人の所行なり。二に曰わく自ら煩い自ら苦しむ、賢聖の法に非ず、無義と相応す。五比丘、此の二辺を捨てて中道を取ることあらば明を成じ、定を成就して而も自在を得、智に趣き覚に趣き涅槃に趣く。謂わく八正道なり。正見乃至正定、是れを謂いて八と為す」と云い、「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が苦滅道聖諦なる、謂わく正見正志正語正業正命正方便正念正定なり」と云える是れなり。此の中、正見とは又諦見と名づく、即ち苦は是れ苦、習は是れ習、滅は是れ滅、道は是れ道なりと見、又施あり斎あり呪説あり、善悪の業あり善悪業の報あり、此世彼世あり、父母あり、世に真人ありて善処に往至し、善く去り善く向かい、此世彼世に自ら知り自ら覚し自ら作証して成就すと見るを云う。正志とは又正思、正思惟、正分別、正覚、或いは諦念と名づく、即ち欲覚恚覚及び害覚なきを云う。正語とは又正言、或いは諦語と名づく、即ち妄言、両舌、麁言、綺語等を離るるを云う。正業とは又正行、或いは諦行と名づく、殺生、不与取及び邪婬を離るるを云う。正命とは又諦受と名づく、呪術等の邪命を捨てて、如法に衣服飲食床榻湯薬等の諸の生活の具を求むるを云う。正方便とは又正精進、正治、或いは諦法と名づく、已生の悪法は断じ、未生の悪法は生ぜざらしめ、未生の善法は生ぜしめ、已生の善法は増長満具せしめんことを発願し、能く方便を求めて精勤するを云う。正念とは又諦意と名づく、自共相を以って身受心法の四を観ずるを云う。正定とは又諦定と名づく、即ち欲悪不善の法を離れ、初禅乃至四禅を成就するを云うなり。正見等の次第に関しては、「四諦論巻4」に、「能く理に依りて聖諦を観ずるに由るが故に先づ正見を立つ。所観の法に於いて執視して捨てず、次に正覚を立つ。此れより次に正言正業正命を立つ。所観の法に於いて為に離し為に得す、次に精進を立つ。離得する所に於いて永く忘失せず、次に正念を立つ。念失せざるに由りて所見の境に於いて心散動せず、次に正定を立つ。(中略)復た次ぎに阿毘達磨蔵に説く、此の行は智慧を以って根本と為す。何を以っての故に、四諦の境は深にして智に非ずんば了せざるが故に先づ正見を立つ。心此の境に触す、次に正覚を立つ。此の二分に由りて四諦の中に於いて自に対して知らしむ、次に正言を立つ。前の二分に由りて言の如く発行す、次に正業を立つ。前の両分に由りて口説身行して四諦を受用す、次に正命を立つ。身心を勤策して諦理に進まんが為に次に精進を立つ。此の精進に由りて四諦の境に於いて心用澄浄なり。次に正念を立つ。此の正念に由りて四諦の境に於いて心及び諸法永く散動せず、次に正定を立つ」と云えり。是れ観理の次第に依りて正見乃至正定の順次を立つとなすの説なり。又「成実論巻2四諦品」に、「八聖道分とは、聞より慧を生じて能く五陰の無常苦等を信ず、是れを正見と名づく、是れ慧にして若し思より生ずるを正思惟と名づく、正思惟を以って諸の不善を断じ、諸善を修集して発行精進す。此れより漸次に出家受戒して三の道分を得、正語と正業と正命となり。此の正戒より次に念処及び諸の禅定を成じ、此の念定に因りて如実智を得るを八道分と名づけ、是の如く次第するなり。又八道分の中、戒は応に初に在るべし、所以は何ん、戒定慧品は義次第するが故なり。正念正定は是れを定品と名づく、精進は常に一切処行に遍じ、慧品は道に近きが故に後に在りて説く」と云えり。此の中に両説あり、初説は正見を聞慧、正思惟を思慧とし、正思惟を以って発行精進して乃至次第に如実智を得となし、後説は正語正業正命の三支を戒品、正念正定の二支を定品、正見正思惟正精進の三支を慧品とし、戒定慧の次第に依りて初に戒品を修し、次に定品を修し、後に慧品を修すとなすの意なり。「瑜伽師地論巻29」、「四諦論巻4」等にも、亦た今の如く八道支を戒定慧の三品に配属するの説を出せり。又此の八正道を総じて道支又は道分と名づくるに関し、「大毘婆沙論巻96」に両説を挙ぐ。一説は能く求趣するを以って道支の義とし、正見には求趣の義あるが故に之を道支と名づけ、余の七は唯道の分にして能く道に随順するが故に、勝に随って亦た道支と名づくと云い、一説は道支を道の支の義とし、正見は道にして亦た道支なり、余の七は唯道の支にして道に非ずとなせり。又「大乗義章巻16末」には三義を出し、一義は総じて見道位に約して分別し、正見は道の体なるが故に道と名づけ、亦た総見位を成ずるが故に道分と名づく。余の七は道の体に非ざるが故に道となさず、総見位を成ずるが故に道分と名づくと云い、一義は八行に就いて相対分別し、正見は唯道と名づけて道分と名づけず。余の七種は唯道分と名づけて道となさずと云い、一義は菩提を菩提を道と名づけ、此の八種は皆道の為に因となるが故に通じて道分と名づくと云えり。是れ皆正見を以って道の体となせるものなり。又「倶舎論巻25」に依るに、八支の中、正見は慧を以って体とし、正思惟は尋を以って体とし、正語正業及び正命は共に戒を以って体とし、正精進は勤を以って体とし、正念は念を以って体とし、正定は定を以って体とし、唯無漏にして有漏に通ぜず、主として見道位中に於いて増するも、亦た修道に通ずとなせり。又「転法輪経」、「雑阿含経巻28」、「仏本行集経巻34」、「維摩経巻中仏道品」、「大般涅槃経巻上」、「大方等大集経巻3」、「集異門足論巻18」、「法蘊足論巻6」、「品類足論巻5」、「大毘婆沙論巻95、97、141」、「大智度論巻19」、「解脱道論巻11」、「摩訶止観巻7上」、「同輔行伝弘決巻七之一」、「法界次第初門巻中之下」、「倶舎論光記巻25」、「大明三蔵法数巻29」等に出づ。<(望)
十五種愛(じゅうごしゅあい):三界の見苦、集、滅、道所断、及び修所断。「阿毘達磨品類足論巻1」、『大智度論巻17下注:愛』参照。
十五種瞋(じゅうごしゅしん):上二界には瞋結なければ、恐らく見苦、集、滅、道所断、及び修所断の五種の意ならん。「阿毘達磨品類足論巻1」、『大智度論巻18上注:瞋』参照。
十五種無明(じゅうごしゅむみょう):三界の見苦、集、滅、道所断、及び修所断。「阿毘達磨品類足論巻1」、『大智度論巻15下注:無明』参照。
瞋恚(しんに):又瞋と称す。『大智度論巻18上注:瞋』参照。
瞋(しん):梵語 pratigha の訳。又は dveSa、巴梨語 paTigha、又は dosa、心所の名。七十五法の一。百法の一。又恚、怒、瞋恚或いは瞋怒とも名づく。即ち有情に対して憎恚する精神作用を云う。「大毘婆沙論巻48」に、「有情を憎恚するは是れ瞋恚の相なり」と云い、「倶舎論巻16」に、「有情の類に於いて憎恚するを瞋と名づく。謂わく他の有情に於いて傷害の事を為さんと欲す、是の如きの憎恚を瞋業道と名づく」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が瞋と為す、苦と苦具とに於いて憎恚するを以って性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるを以って業と為す。謂わく瞋は必ず身心を熱悩して諸の悪業を起さしむ、不善の性なるが故なり」と云える是れなり。是れ蓋し自己の情に違背せる有情に対して憎恚を生じ、身心を熱悩して平安ならしめざる精神作用を名づけて瞋となすの意なり。六根本煩悩の一、十随眠の一、十悪の一、五蓋の一、三不善根の一にして、上二界に在ることなく、唯欲界繋の煩悩なり。又見の如く其の性猛利に非ざるが故に五鈍使の一に数えらる。四諦及び修道に通じて断ぜらるるものなることは、「大毘婆沙論巻112」に、「瞋不善根に五あり、即ち五部所断の恚なり」と云うによりて知るを得べし。又「成唯識論巻6」には忿、恨、悩、嫉、害等の随煩悩は皆瞋の一分を体となすと説けり。蓋し此の煩悩は修道の最も大なる障害をなすものにして、諸経論に之を誡むるもの甚だ多し。「仏遺教経」に、「瞋恚の害は則ち諸の善法を破り、好名聞を壊す。今世後世の人見ることを憘ばず。当に知るべし、瞋心は猛火よりも甚だし。常に当に防護して入ることを得しむること勿かるべし。功徳を劫むるの賊は瞋恚に過ぎたるは無し」と云い、「大智度論巻14」に、「当に瞋恚を観ずべし、其の咎最も深し。三毒の中に此れより重きものなく、九十八使の中に此れを最堅となす。諸の心病の中に第一難治なり」と云い、又仏所説の偈を挙げ、「瞋心を殺さば安穏なり、瞋恚を殺さば不悔なり。瞋を毒の根となす、瞋は一切の善を滅す。瞋を殺さば諸仏讃じ、瞋を殺さば則ち憂なし」と云える皆其の説なり。又「雑阿含経巻27、28」、「悲華経巻6」、「集異門足論巻12」、「大毘婆沙論巻27、34、44、48」、「顕揚聖教論巻1」、「順正理論巻40、45、46」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻25」、「倶舎論光記巻16、19」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)
愚癡(ぐち):梵語 moha の訳。又癡とも称す。『大智度論巻18上注:癡』参照。
癡(ち):梵語慕何 moha の訳。又は muuDha. 巴梨語 moha. 心所の名。七十五法の一。百法の一。又愚癡と名づく。無明に同じ。即ち事理に闇昧なる精神作用を云う。「倶舎論巻4」に、「癡とは謂わゆる愚癡なり。即ち是れ無明、無智、無顕なり」と云い、「順正理論巻11」に、「癡は謂わく愚癡なり。所知の境に於いて理の如く解するを障え、辨了の相なきを説いて愚癡と名づく。即ち是れ無明、無智、無顕なり」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを性と為し、能く無癡を障え、一切雑染の所依たるを業と為す。謂わく無明に由りて疑と邪定と貪等の煩悩と随煩悩業とを起し、能く後生の雑染の法を招くが故なり」と云える是れなり。是れ即ち諸の事理に闇昧にして、辨了の相なきを癡と称したるなり。之を無明等と名づくるに関し、「倶舎論光記巻4」に、「照矚を明と名づけ、審決を智と名づけ、彰了を顕と名づく。此の三は皆是れ慧の別名なり。癡は無明等なり、故に名づけて無顕と為す。即ち是れ無癡の所対除の法なり」と云い、又「瑜伽師地論巻84」には、「愚癡とは不実の事に於いて妄に増益を生ず。無明とは所知の事に於いて善巧なること能わず、彼彼の処に於いて正しく了知せず」と云い、「同巻86」には癡に無智、無見、非現観、惛昧、愚癡、無明、黒闇等の異名あることを説けり。三不善根の一。大煩悩地法の一、六根本煩悩の一、十随眠の一にして、一切煩悩の所依となり、三界繋にして四諦及び修道に通じて断ぜらるるものなり。「瑜伽師地論巻58」には癡即ち無明に相応と独行の二種ありとし、相応とは貪等の諸惑と相応倶起するを云い、独行とは貪等と相応せざるを云うとし、「成唯識論述記巻6末」には、「独頭の無明は理に迷い、相応等は亦た事に迷う」と云えり。之に依るに無明には貪等と相応するものの外、別に又独頭孤起のものあるを知るべし。又「成唯識論巻5」には、無始以来第七末那識と恒に相応する我癡を特に恒行不共の無明と称し、之を前の第六意識相応の独行不共の無明と区別せり。又「瑜伽師地論巻55」に随煩悩の中、覆、誑、諂、惛沈、妄念、散乱、不正知等は皆癡の一分を以って体とすとなし、「成唯識論巻6」には、諸煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に、癡は余の九根本煩悩と定んで相応すと云えり。又「長阿含巻1大本経」、「中阿含巻29龍象経、巻33善生経」、「雑阿含経巻11、28」、「法華経巻2譬喩品」、「大般涅槃経巻5」、「悲華経巻6」、「大智度論巻34」、「集異門足論巻11」、「発智論巻1、3」、「倶舎論巻21」、「同光記巻4、21」、「順正理論巻41、42、49」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻25」、「成実論巻9煩悩相品、巻10不善根品」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6、7」、「大乗義章巻5末」、「摩訶止観巻6上」、「法界次第初門巻上之上」、「成唯識論述記巻6末」、「翻訳名義集巻15」、「梵語雑名」等に出づ。<(望) |
参考:『阿毘曇毘婆沙論巻27』:『復次愛界別地別種別。廣說如解愛處。問曰。何故名身。答曰。以多故說身。不以剎那頃眼觸生愛名身。乃至多剎那眼觸生愛名身。不以一象名為象軍。乃以多象故。名為象軍。車馬步軍。亦復如是。乃至意觸生多愛。名為愛身。七使。欲愛使。恚使。有愛使。慢使。無明使。見使。疑使。問曰。七使體性是何。答曰。有九十八種。欲愛使欲界五種。愛通六識身。恚使有五種通六識身。有愛使。色無色界愛。有十種。慢使三界有十五種。在意地。無明使三界有十五種。見使欲界有十二。色界有十二。無色界有十二。合三十六種。疑使三界四種所斷。有十二種。此九十八。是七使體。乃至廣說』
参考:『阿毘達磨品類足論巻1』:『結有九種。謂愛結恚結慢結無明結見結取結疑結嫉結慳結。愛結云何。謂三界貪。恚結云何。謂於有情能為損害。慢結云何。謂七慢類。即慢過慢慢過慢我慢增上慢卑慢邪慢。慢者。於劣謂己勝。或於等謂己等。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。過慢者。於等謂己勝。或於勝謂己等。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。慢過慢者。於勝謂己勝。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。我慢者。於五取蘊等。隨觀執我或我所。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。增上慢者。於所未得上勝證法。謂我已得。於所未至上勝證法。謂我已至。於所未觸上勝證法。謂我已觸。於所未證上勝證法。謂我已證。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。卑慢者。於他多勝謂自少劣。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。邪慢者。於實無德謂我有德。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。無明結云何。謂三界無智。見結云何。謂三見。即有身見邊執見耶見。有身見者。於五取蘊等。隨觀執我或我所。由此起忍樂慧觀見。邊執見者。於五取蘊等。隨觀執或斷或常。由此起忍樂慧觀見。邪見者。謗因謗果。或謗作用。或壞實事。由此起忍樂慧觀見。取結云何。謂二取。即見取戒禁取。見取者。於五取蘊等。隨觀執為最為勝為上為極。由此起忍樂慧觀見。戒禁取者。於五取蘊等。隨觀執為能清淨為能解脫為能出離。由此起忍樂慧觀見。疑結云何。謂於諦猶豫。嫉結云何。謂心妒忌。慳結云何。謂心鄙吝。縛云何。謂諸結亦名縛。復有三縛。謂貪縛瞋縛癡縛。隨眠有七種。謂欲貪隨眠。瞋隨眠。有貪隨眠。慢隨眠。無明隨眠。見隨眠。疑隨眠。欲貪隨眠有五種。謂欲界繫見苦集滅道修所斷貪。瞋隨眠有五種。謂見苦集滅道修所斷瞋。有貪隨眠有十種。謂色界繫五。無色界繫五。色界繫五者。謂色界繫見苦集滅道修所斷貪。無色界繫五亦爾。慢隨眠有十五種。謂欲界繫五。色界繫五。無色界繫五。欲界繫五者。謂欲界繫見苦集。滅道修所斷慢。色無色界繫各五亦爾。無明隨眠有十五種。謂欲界繫五。色界繫五。無色界繫五。欲界繫五者。謂欲界繫見苦集滅道修所斷無明。色無色界繫各五亦爾。見隨眠有三十六種。謂欲界繫十二。色界繫十二。無色界繫十二。欲界繫十二者。謂欲界繫有身見邊執見。見苦道所斷邪見見取戒禁取。見集滅所斷邪見見取。色無色界繫各十二亦爾。疑隨眠有十二種。謂欲界繫四。色界繫四。無色界繫四。欲界繫四者。謂欲界繫見苦集滅道所斷疑。色無色界繫各四亦爾。隨煩惱云何。謂諸隨眠。亦名隨煩惱。有隨煩惱不名隨眠。謂除隨眠諸餘染污。行蘊心所纏有八種。謂惛沈掉舉睡眠惡作嫉慳無慚無愧』 |
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如是一切結使皆入三毒。以何滅之。三分八正道。若說三分八正道。當知已說一切三十七品。如是等種種相名為對治門。如是等諸法名為昆勒門。 |
是の如く一切の結使は、皆、三毒に入れば、何を以ってか、之を滅せん。三分の八正道なり。若し三分の八正道を説けば、当に知るべし、已に一切の三十七品を説けりと。是の如き等の種種の相を名づけて、対治門と為し、是の如き等の諸法を名づけて、昆勒門と為す。 |
是のように、
一切の、
何を、
『用いて!』、
是の、
『三毒』を、
『滅するのか?』。
『三分の八正道』を、
『用いて!』、
『滅するのである!』。
若し、
『三分の八正道』が、
『説かれれば!』、こう知らねばならない、――
已に、
『一切の三十七品』が、
『説かれたのだ!』、と。
是れ等のような、
是れ等のような、
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云何名阿毘曇門。或佛自說諸法義。或佛自說諸法名。諸弟子種種集述解其義。 |
云何が、阿毘曇門と名づくる。或は仏は、自ら諸法の義を説きたまい、或は仏は自ら諸法の名を説きたまえるに、諸弟子、種種に集めて、其の義を述解せり。 |
何故、
『阿毘曇門』と、
『称するのか?』、――
或は、
『仏』は、
諸の、
『弟子』が、
之を、
『集めて!』、
其の、
『義』を、
『述べ解いたものである!』。
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述解(じゅつげ):見解を述べる。 |
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如佛說。若有比丘於諸有為法不能正憶念。欲得世間第一法無有是處。若不得世間第一法。欲入正位中無有是處。若不入正位。欲得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢無有是處。有比丘於諸有為法。正憶念得世間第一法斯有是處。若得世間第一法入正位。入正位得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢必有是處。 |
仏の、『若し有る比丘、諸の有為法に於いて、正憶念する能わざるに、世間第一法を得んと欲すれば、是の処有ること無し。若し世間第一法を得ずして、正位中に入らんと欲すれば、是の処有ること無し。若し正位に入らずして、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を得んと欲せば、是の処有ること無し。有る比丘、諸の有為法に於いて、正憶念し、第一法を得れば、斯れ是の処有り。若し世間第一法を得て正位に入り、正位に入りて須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を得れば、必ず、是の処有り』、と説きたまえるが如し。 |
例えば、
『仏』は、こう説かれたが、――
若し、
有る、
『比丘』が、
諸の、
『有為法』を、
『正憶念できない!』のに、
『世間の第一法』を、
『得ようとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『無い!』。
若し、
『世間の第一法』を、
『得ていない!』のに、
『正位』に、
『入ろうとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『無い!』、
若し、
『正位』に、
『入らずに!』、
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢』を、
『得ようとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『無い!』。
有る、
『比丘』が、
諸の、
『有為法』を、
『正憶念して!』、
『世間の第一法』を、
『得たとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『有る!』。
若し、
『世間の第一法』を、
『正位』に、
『入って!』、
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢』を、
『得たとすれば!』、
必ず、
是の、
『道理』は、
『有る!』、と。
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世間第一法(せけんだいいっぽう):有漏智中のの最高を云う。『大智度論巻18上注:世間第一法、四善根位』参照。
是処(ぜしょ):如何なる場所でも( whatever place )、梵語 yatra, sthaana の訳、何処でも( any place )の義、適切な状況/正しい場所(
a proper situation, the right place )の意、非処 asthaana ( the wrong place )に対す。
正位(しょうい):決定せる者( group of the determined )、梵語 samyaktva, niyaama の訳、道を逸れない者(
group of those who are in one or the same direction, in the same way )、完全(
completeness, perfection )の義、仏教の修行者で、悟りを得る道を逸れないと決定する位に到達した者( Buddhist
practitioners who have reached the point of being unswervingly determined
to attain enlightenment. )の意。梵網経に依れば、十信位以上の全修行者を摂する( In the Sutra of Brahmā's
Net this includes all practitioners above the level of the ten stages of
faith )。
正位(しょうい):小乗の涅槃なり。「維摩経問疾品」に、「諸法の不生を観ずと雖も、而も正位に入らず」と云い、「注維摩詰経巻5」に、「肇曰わく、正位取証の位なり」と云い、「同慧遠疏」に、「声聞の証を無為涅槃に見るを、正位に入ると為す」と云える是れなり。<(丁) |
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如佛直說。世間第一法不說相義。何界繫何因何緣何果報。從世間第一法。種種聲聞所行法乃至無餘涅槃。一一分別相義。如是等是名阿毘曇門。 |
仏の直説したもう、世間第一法の如きは、相義を説きたまわざれば、何界の繋なる、何の因、何の縁なる、何の果報なる、世間第一法より、種種の声聞の所行の法を、乃至無余涅槃まで、一一相義を分別する、是の如き等、是れを阿毘曇門と名づく。 |
『仏』の、
『直説された!』、
『世間第一法』などは、
『世間第一法』の、
『相、義』が、
『説かれていない!』ので、
『世間の第一法』とは、
何の、
『界』の、
『繋縛なのか?』、
何の、
『因なのか?』、
『縁なのか?』、
何の、
『果報なのか?』を、
『世間の第一法』より、
『乃至無余涅槃』までの、
種種の、
『声聞所行の法』の、
『一一の相、義』を、
『分別した!』もの、
是れ等を、
『阿毘曇門』と、
『称する!』。
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空門者生空法空。如頻婆娑羅王迎經中。佛告大王。色生時但空生。色滅時但空滅。諸行生時但空生。滅時但空滅。是中無吾我。無人無神。無人從今世至後世。除因緣和合名字等眾生。凡夫愚人逐名求實。如是等經中佛說生空。 |
空門とは、生空、法空なり。頻婆娑羅王迎経中の如し、仏の大王に告げたまわく、『色の生時には、但だ空生じ、色の滅時には、但だ空滅す。諸行の生時には、但だ空生じ、滅時には、但だ空滅す。是の中に吾我無く、人無く、神無く、人の今世より、後世に至る無く、因縁の和合を除きて、名字に等しき衆生を、凡夫の愚人は、名を逐うて実を求む』、と。是の如き等の経中に、仏は生空を説きたまえり。 |
『空門』とは、
『生空(衆生空)と!』、
『法空(諸法空)とである!』。
例えば、
『頻婆娑羅王迎経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『大王』に、こう告げられた、――
『色』の、
『生じる時』には、
但だ、
『空』が、
『生じるだけであり!』、
『色』の、
『滅する時』には、
但だ、
『空』が、
『滅するだけである!』。
『諸行( 有為法)』の、
『生じる時』には、
但だ、
『空』が、
『生じるだけであり!』、
『滅する時』には、
但だ、
『空』が、
『滅するだけである!』。
是のような、
『空』中には、
『吾我』は、
『無く!』、
『人』も、
『神』も、
『無く!』、
『人』が、
『今世』より、
『後世に至る!』ことも、
『無い!』。
『因縁』の、
『和合』を、
『除けば!』、
『名字』にも、
『等しい!』、
『衆生なのに!』、
『凡夫』の、
『愚人』は、
『衆生』という、
『名のみ!』を、
『逐うて!』、
『実』を、
『求めているのである!』、と。
是れ等のような、
『経』中に、――
『仏』は、
『生空』を、
『説かれたのである!』。
|
生空(しょうくう):又衆生空、我空と称す。二空の一。即ち「大智度論巻93」に、「仏法中に二種の空あり、一には衆生空、二には法空なり。衆生空を以って衆生の相を破す、謂わゆる男女等の相なり。法空を以って色等の法中の虚妄の相を破す」と云える是れなり。『大智度論巻18上注:二空』参照。
法空(ほうくう):五衆、十二入、十八界、十二因縁、神及び世間の常、無常等の諸法の中の虚妄の相を破すことを云う。『大智度論巻18上注:生空、二空』参照。
二空(にくう):人空、及び法空なり。又人法二空、生法二空とも称す。人空は又我空、生空とも称し、即ち人我空無の理なり。凡夫人は、妄に色受想行識等の五蘊を是れ我なりと計し、強いて主宰を立てて、煩悩を引生し、種種の業を造る。仏は此の妄執を破除せんが為の故に、五蘊無我の空無の理を説いて、謂わく我は僅かに五蘊の仮の和合と為し、並びに常一の主宰無しと。声聞縁覚の人は、之を聞いて無我の理に入るを称して人空と為す。法空とは、即ち諸法空無の理なり。二乗の人は未だ法空の理に達せざる時、猶お五蘊を計して実有なりと為せば、仏は此の妄執を破除せんが為の故に般若の深慧を説き、彼等をして五蘊の自性皆空なることを徹見せしむるに、菩薩は之を聞いて諸法皆空の理に入るを称して法空と作す。又「大智度論巻、18、31、93」、「成唯識論巻1」等に出づ。<(佛) |
参考:『仏説頻婆娑羅王経』:『爾時眾中婆羅門長者等復作是念。如是耆舊尊者優樓頻螺迦葉。猶尚於佛大沙門處修梵行耶。佛知其意。告頻婆娑羅王言。大王。當知色有生有滅。了知此色有生有滅。受想行識亦復生滅。而彼蘊法當知有生即知有滅。大王。此色蘊法。若善男子。能實了知有生即滅。色蘊本空色蘊既空生即非生。生既無生滅何所滅。色蘊如是諸蘊皆然。若善男子。了知此已。即悟諸蘊不生不滅無住無行即無有我。我說是人於無量阿僧祇劫中。為真寂靜者』 |
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法空者。如佛說大空經中。十二因緣無明乃至老死。若有人言是老死。若言誰老死皆是邪見。生有取愛受觸六入名色識行無明亦如是。若有人言身即是神。若言身異於神。是二雖異同為邪見。佛言。身即是神。如是邪見非我弟子。身異於神亦是邪見。非我弟子。 |
法空とは、仏の大空経中に説きたまえるが如し、『十二因縁の無明、乃至老死を、若しは有る人の言わん、『是れ老死なり』、と。若しは言わん、『誰か老死せん』、と。皆、是れ邪見なり。生、有、取、愛、受、触、六入、名色、識、行、無明も亦た是の如し。若しは有る人の言わん、『身は、即ち是れ神なり』、と。若しは言わん、『身は、神に異なり』、と。是の二は、異なりと雖も、同じく邪見と為す。仏の言わく、『身は、即ち是れ神なりとは、是の如き邪見は、我が弟子に非ず。身は、神に異なりも亦た邪見にして、我が弟子に非ず』と、』と。 |
『法空』とは、
例えば、
『仏』が、
『大空経』中に、こう説かれた、――
『十二因縁』の、
『無明、乃至老死』を、
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
若しは、こう言うだろう、――
是れ等は、
皆、
『邪見であり!』、
『生、有、取、愛、受、触、六入、名色、識、行、無明』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
若しは、こう言うだろう、――
是の、
『二種の見』は、
『異なっている!』が、
『同じく!』、
『邪見である!』。
『仏』は、
こう言われた、――
『身』は、
即ち、
『邪見である!』という、
是のような、
『邪見』は、
『わたしの弟子ではない!』。
『身』は、
『神』と、
『異なる!』という、
是のような、
『邪見』も、
『わたしの弟子ではない!』、と。
|
十二因縁(じゅうにいんねん):衆生が生死に流転する因果相依の関係を無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死の十二支に分類せるもの。『大智度論巻3下注:十二因縁』参照。
神(じん):心霊の力( psychic power )、心/本質/主体( heart, essence, core )、◯梵語 Rddhi, Rddhika
の訳、増加、成長、繁栄、成功、幸運、富、多量( increase, growth, prosperity, success, good fortune,
wealth, abundance )、達成/完全/神通力/魔術( accomplishment, perfection, supernatural
power, magic )の義、超自然的/超自然的作用( Supernatural; supernormal function )、不可解な精神的神力/能力(
Inscrutable spiritual powers, or power )の意。◯梵語 deva, devataa, daivata の訳、神霊/神/神霊の/神の(
spirit, god, spiritual, godly )の意。◯梵語 aatman, yakSa の訳、霊魂/亡霊/精神( soul,
ghost, spirit )の義。◯梵語 jiiva, ojas の訳、生存/実存すること( living, existing, alive
)の義。
神我(じんが):霊魂( soul )、梵語 aatman, jiiva の訳、バラモン教的な衆生の自己( the self that grounds
living beings in brahmanistic thought )の意。◯梵語 puruSa の訳、仏教徒以外によって、輪廻の主体であると考えられている、持続した個性[不滅の人格]に係る概念(
A translation of the Sanskrit puruṣa, the notion of an enduring individuality
that was understood by non-Buddhists to be the subject of transmigration.
)。数論学派に於いて、 purSa は、自性 prakRti と共に、存在に関する二十五分類に基づく原理を形成する( In Sāṃkhya 數論
philosophy, puruṣa, together with prakṛti 冥性 forms the basis of the foundation
of the twenty-five categories of existence 二十五諦. )。 |
参考:『雑阿含経巻14(357)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有七十七種智。諦聽。善思。當為汝說。云何七十七種智。生緣老死智。非餘生緣老死智。過去生緣老死智。非餘過去生緣老死智。未來生緣老死智。非餘未來生緣老死智。及法住智。無常.有為.心所緣生.盡法.變易法.離欲法.滅法斷知智。如是生.有.取.愛.受.觸.六入處.名色.識.行.無明緣行智。非餘無明緣行智。過去無明緣行智。非餘過去無明緣行智。未來無明緣行智。非餘未來無明緣行智。及法住智。無常.有為.心所緣生.盡法.變易法.無欲法.滅法斷智。是名七十七種智。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』 |
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是經中佛說法空。若說誰老死。當知是虛妄是名生空。若說是老死當知是虛妄是名法空。乃至無明亦如是。 |
是の経中に、仏の法空を説きたまわく、『若し、誰か老死すと説かば、当に知るべし、是れ虚妄なり。是れを生空と名づく。若し是れ老死なりと説かば、当に知るべし、是れ虚妄なり。是れを法空と名づく。乃至無明も亦た是の如し』、と。 |
是の、
『経』中に、
『仏』は、
『法空』を、こう説かれている、――
若し、こう説けば、――
当然、こう知らねばならない、――
是れは、
『虚妄であり!』、
是れを、
『生空』と、
『称する!』。
若し、こう説けば、――
当然、こう知らねばならない、――
是れは、
『虚妄であり!』、
是れを、
『法空』と、
『称する!』、
乃至、
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復次佛說梵網經中六十二見。若有人言。神常世間亦常。是為邪見。若言神無常世間無常是亦邪見。神及世間常亦無常。神及世間非常亦非非常。皆是邪見。以是故知諸法皆空是為實。 |
復た次ぎに、仏は、梵網経中に六十二見を説きたまわく、『若し有る人、神は常なり、世間も亦た常なりと言わば、是れを邪見と為す。若し、神は無常なり、世間は無常なりと言わば、是れも亦た邪見なり。神、及び世間は常にして、亦た無常なり。神、及び世間は常に非ず、亦た非常に非ず、皆、是れ邪見なり。是を以っての故に、諸法は皆空なりと知らば、是れを実と為す』、と。 |
復た次ぎに、
『仏』は、
『梵網経』中に、
『六十二見』を、こう説かれた、――
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『神』と、
『世間』とは、
『常である!』、と。
是れは、
『邪見である!』。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『神』と、
『世間』とは、
『無常である!』、と。
是れも、
亦た、
『邪見である!』。
又、
『神』と、
『世間』とは、
『常でもあり!』、
『無常でもある!』、
『神』と、
『世間』とは、
『常でもなく!』、
『無常でもない!』、
是れも、
皆、
『邪見である!』。
是の故に、こう知るならば、――
諸の、
『法』は、
皆、
『空である!』、と。
是れが、
『実である!』、と。
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梵網経(ぼんもうきょう):仏説梵網六十二見経。
六十二見(ろくじゅうにけん):外道所執の六十二種の邪見。『大智度論巻5下注:六十二見』参照。 |
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問曰。若言神常應是邪見。何以故。神性無故。若言世間常亦應是邪見。何以故。世間實皆無常。顛倒故言有常。若言神無常亦應是邪見。何以故。神性無故。不應言無常。若言世間無常不應是邪見。何以故。一切有為法性實皆無常。 |
問うて曰く、若し、『神は常なり』、と言わば、応に是れ邪見なるべし。何を以っての故に、神の性無きが故なり。若し、『世間は常なり』、と言わば、亦た応に是れ邪見なるべし。何を以っての故に、世間は、実に皆、無常なるに、顛倒の故に、有常と言えばなり。若し、『神は無常なり』、と言わば、亦た応に是れ邪見なるべし。何を以っての故に、神の性無きが故に、応に無常なりと言うべからざればなり。若し、『世間は無常なり』、と言わば、応に是れ邪見なりと言うべからず。何を以っての故に、一切の有為法は、実に、皆無常なればなり。 |
問い、
若し、こう言えば、――
当然、
是れは、
『邪見でなくてはならない!』。
何故ならば、
若し、こう言えば、――
当然、
是れも、
亦た、
『邪見でなくてはならない!』。
何故ならば、
『世間』は、
『実に!』、
皆、
『無常である!』のに、
『顛倒』の故に、
『有常である!』と、
『言うからである!』。
若し、こう言えば、――
当然、
是れも、
亦た、
『邪見でなくてはならない!』。
何故ならば、
『神』は、
『性』が、
『無い!』が故に、
『神』は、
『無常だ!』と、
『言うべきでないからである!』。
若し、こう言えば、――
当然、
是れは、
『邪見であるはずがない!』。
何故ならば、
一切の、
『有為法』は、
皆、
『実に!』、
『無常だからである!』。
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答曰。若一切法實皆無常。佛云何說世間無常是名邪見。是故可知非實是無常。 |
答えて曰く、若し、一切の法にして、実に皆無常なれば、仏は云何が、『世間の無常なるは、是れを邪見と名づく』、と説きたまえる。是の故に知るべし、『実に是れ無常なるには非ず』、と。 |
答え、
若し、
一切の、
『法』が、
皆、
『実に!』、
『無常ならば!』、
『仏』は、
何故、こう説かれたのか?――
『世間』が、
『無常である!』とは、
是れを、
『邪見』と、
『呼ぶ!』、と。
是の故に、こう知るべきである、――
是れが、
『実に!』、
『無常だというのではない!』、と。
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問曰。佛處處說觀有為法無常苦空無我令人得道。云何言無常墮邪見。 |
問うて曰く、仏の、処処に説きたまわく、『有為法の無常、苦、空、無我を観れば、人をして道を得しむ』、と。云何が、『無常なれば、邪見に堕す』、と言えり。 |
問い、
『仏』は、
処処に、こう説かれているのに、――
『有為法』の、
『無常、苦、空、無我』を、
『観察すれば!』、
『人』に、
『道』を、
『得させる!』、と。
何故、こう言われたのですか?――
『有為法』が、
『無常ならば!』、
是れは、
『邪見』に、
『堕ちる!』、と。
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答曰。佛處處說無常。處處說不滅。如摩訶男釋王來至佛所白佛言。是迦毘羅人眾殷多。我或值奔車逸馬狂象鬥人時。便失念佛心。是時自念。我今若死當生何處。 |
答えて曰く、仏は、処処に無常を説き、処処に不滅を説きたまえり。摩訶男釈王の来たりて、仏所に至り、仏に白して言うが如し、『是の迦毘羅の人衆殷多にして、我れ或は奔車、逸馬、狂象、闘人に値いて、時に便ち、仏心を失念して、是の時自ら念ずらく、我れ今若し死すれば、当に何れの処にか生ずべしと』、と。 |
答え、
『仏』は、
処処に、
『無常』を、
『説かれ!』、
処処に、
『不滅』を、
『説かれた!』。
例えば、こうである、――
『摩訶男』という、
『釈王』が、
『来て!』、
『仏の所』に、
『至る!』と、
『仏』に白して、こう言った、――
是の、
わたしは、
或は、
『奔車、逸馬、狂象、闘人』に、
『出会った!』時には、
すっかり、
『仏の心』を、
『失念してしまい!』、
是の時、
自ら、こう念じるでしょう、――
わたしが、
若し、
今、
『死ねば!』、
何という、
『処』に、
『生まれるのだろう?』、と。
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摩訶男(まかなん):mahaanaama、巴梨名同じ。又摩訶南、摩訶納、摩訶那摩に作り、大名と訳す。一に釈種摩訶男 sakkamhaanaama と称せられ、又摩呵南釈、或いは釈摩男に作る。中印度迦毘羅衛城釈迦種の出にして、「五分律巻15」、「有部毘奈耶破僧事巻2」等には斛飯王の子とし、「大智度論巻3」、「梵文大事
mahaavastu 」等には甘露飯王の子とせり。「五分律巻3」に依るに、仏は帰国して弥那邑阿莵林の下に住せられし時、摩男は貴族諸釈種の子が多く仏所に於いて出家学道するを見、弟阿那律に対し、我れ若し出家せば汝家事を知すべく、汝若し捨家せば我れ当に家事を断理すべしと語るに、阿那律は初摩男の出家を勧めたるも、家事を知するの難きを聞き、遂に自ら出家を望みたるを以って、摩男は留まりて家事を営むこととなれりと云えり。「佛本行集経巻58婆提唎迦等品」、「四分律巻4」、「有部毘奈耶破僧事巻9」等に記する所亦た皆之に同じ。後仏に帰して優婆塞となり、常に僧に湯薬を施与せり。「阿羅漢具徳経」に、「恒に病苦の者の為に而も湯薬を施すは大名長者是れなり。迦毘羅城に住す」と云い、「摩訶僧祇律巻24」にも施薬の事を記せり。又「増一阿含経巻26」に依るに、仏成道未だ久しからざる時、波斯匿王は王位を紹ぎ、婚を釈種に求めたるに、釈種は王と親を結ぶを好まず。仍りて摩男は其の婢の一女を与えて后となし、毘流勒を産む。毘流勒長じて後、迦毘羅衛城に至り、毀辱を蒙りしを以って之を啣み、王位に即くに及びて来たり攻め、大いに釈種を害す。時に摩男は水中に在るの間、釈種の殺害を止めんことを求め、自ら水底に入り、頭髪を以って樹根に繋ぎて命終し、為に釈種をして難を免るることを得しめたりと云えり。是れ摩男が国難に殉ぜしことを伝うるものにして、即ち仏の晩年に於ける出来事なり。又「中阿含巻25苦陰経」、「雑阿含経巻29、33」、「増一阿含経巻3、35」、「仏本行集経巻11」、「琉璃王経」等に出づ。<(望)
殷多(いんた):盛んにして多い。
奔車(ほんしゃ):はしる車。疾走する車の意。
逸馬(いつめ):逃げた馬。
狂象(ごうぞう):狂った象。
闘人(とうにん):武器を持って争う人。
失念(しつねん):忘れる。忘却。 |
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佛告摩訶男。汝勿怖勿畏。汝是時不生惡趣必至善處。譬如樹常東向曲。若有斫者必當東倒。善人亦如是。若身壞死時。善心意識長夜以信戒聞施慧熏心故。必得利益上生天上。 |
仏の摩訶男に告げたまわく、『汝、怖るる勿かれ、畏るる勿かれ。汝は是の時、悪趣に生ぜず、必ず善処に至らん。譬えば樹の常に東に向いて曲がれるに、若し斫る者有らば、必ず当に東に倒るべきが如し。善人も亦た是の如く、若し身壊して死す時、善心の意識は長夜に、戒を信じ、施を聞いて、慧を心に薫じるを以っての故に、必ず、利益を得て、天上に上生す』、と。 |
『仏』は、
『摩訶男』に、こう告げられた、――
お前は、
『怖れてはならない!』し、
『畏れてもならない!』。
お前は、
是の時、
『悪趣』には、
『生まれず!』、
必ず、
『善処』に、
『至るからである!』。
譬えば、
『樹』が、
常に、
『東向きに!』、
『曲がっていれば!』、
若し、
『斫られる!』ことが、
『有っても!』、
必ず、
『東向き』に、
『倒れるように!』、
『善人』も、
是のように、
若し、
『身』が、
『壊れて!』、
『死ぬ!』時には、
『善心』の、
『意識』が、
長夜に、
『持戒』の、
『功徳』を、
『信じ!』、
『布施』の、
『福徳』を、
『聞いて!』、
『智慧』が、
『心』を、
『薫じる!』が故に、
必ず、
『利益を得て!』、
『天上』に、
『上生するからである!』、と。
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若一切法念念生滅無常。佛云何言諸功德熏心故必得上生。以是故知非無常性。 |
若し、一切の法、念念に生滅して無常なれば、仏は云何が、『諸の功徳の心を熏ずるが故に、必ず上生するを得』、と言える。是を以っての故に知る、無常の性に非ずと。 |
若し、
何故、
『仏』は、こう言われたのか?――
諸の、
『功徳』が、
『心』を、
『薫じる!』が故に、
必ず、
『天上』に、
『上生することができる!』、と。
是の故に、こう知る、――
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問曰。若無常不實。佛何以說無常。 |
問うて曰く、若し無常なること不実なれば、仏は何を以ってか、無常と説きたまえる。 |
問い、
若し、
『無常』が、
『実でなければ!』、
何故、
『仏』は、
『無常だ!』と、
『説かれたのですか?』。
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答曰。佛隨眾生所應而說法。破常顛倒故說無常。以人不知不信後世故。說心去後世上生天上。罪福業因緣百千萬劫不失。是對治悉檀。非第一義悉檀。諸法實相非常非無常。 |
答えて曰く、仏は衆生の所応に随いて、法を説きたまえば、常の顛倒を破らんが故に、無常を説き、人の後世を知らず、信ぜざるを以っての故に、『心は後世に去りて、天上に上生す』、『罪福の業の因縁は百千万劫に失われず』と説きたまえり。是れ対治悉檀にして、第一義悉檀に非ず。諸法の実相は、常に非ず、無常に非ざればなり。 |
答え、
『仏』は、
『衆生』の、
『相応しい!』所に、
『随って!』、
『法』を、
『説かれた!』ので、
『衆生』の、
『常』の、
『顛倒』を、
『破る!』為には、
『無常である!』と、
『説かれ!』、
『人』が、
『後世』の、
『果報』を、
『知らずに!』、
『罪、福』を、
『信じない!』が故に、
『心』は、
『後世』に、
『去って!』、
『天上』に、
『上生する!』とか、
『罪、福』の、
『業の因縁』は、
『百千万劫』にも、
『失われない!』と、
『説かれたのである!』が、
是れは、
『対治悉檀であり!』、
『第一義悉檀ではない!』、
何故ならば、
『第一義悉檀』ならば、こう説くからである、――
諸の、
『法の実相』は、
『常でもなく!』、
『無常でもない!』、と。
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佛亦處處說諸法空。諸法空中亦無無常。以是故說世間無常是邪見。是故名為法空。 |
仏は、亦た処処に諸法の空を説きたまえるに、諸法の空中にも、亦た無常無し。是を以っての故に説きたまわく、『世間の無常なるは、是れ邪見なり』、と。是の故に名づけて、法空と為す。 |
『仏』は、
亦た、
処処に、
是の、
諸の、
『法の空』中にも、
『無常』は、
『無い!』ので、
是の故に、
こう説かれた、――
『世間』が、
『無常である!』とは、
是れは、
『邪見である!』、と。
是の故に、
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復次毘耶離梵志名論力。諸梨昌等大雇其寶物令與佛論。取其雇已。即以其夜思撰五百難。明旦與諸梨昌至佛所。問佛言。一究竟道為眾多究竟道。佛言。一究竟道無眾多也。 |
復た次ぎに、毘耶離の梵志の論力と名づけ、諸の梨昌等に、大いに其の宝物を雇(あた)え、仏と論ぜしむるに、其の雇を取り已りて、即ち以って、其の夜に思いて、五百難を撰び、明旦、諸の梨昌と、仏所に至りて、仏に問うて言わく、『一の究竟道なりや、衆多の究竟道と為すや』、と。仏の言わく、『一究竟道にして、衆多無きなり』、と。 |
復た次ぎに、
『論力』と、
『呼ばれる!』、
『毘耶離』の、
『梵志』は、
諸の、
『梨昌たち』が、
大いに、
『宝物』を、
『与えて!』、
『雇い!』、
『仏』と、
『論じさせた!』。
『梵志』は、
其の、
其の、
夜に、
明朝、
諸の、
『梨昌たち』と、
『仏の所』に、
『至り!』、
『仏』に、
『問うて!』、こう言った、――
『究竟の道』は、
『一ですか?』、
『衆多(あまた)ですか?』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
『究竟の道』は、
『一である!』、
『衆多ではない!』、と。
|
毘耶離(びやり):梵名 vaizaali、又毘舎離と称す。跋祇(梵 vajji )国に所属せし離車(梵 lichavi )族の都城。『大智度論巻2上注:毘舎離、巻3上注:十六大国』参照。
梨昌(りしょう):梵名 lichavi、又離車に作る。毘舎離を都城とせし貴族種の名。『大智度論巻18上注:離車』参照。
離車(りしゃ):梵名 liccavi、又利車、離奢、粟唱、隷車、黎唱、律車、利車毘、離車毘、粟呫毘等に作る。毘舎離城刹帝利種の名なり。薄皮と訳す。其の祖先は一胞肉中より生ずるに因り、此の名あり。又貴族、豪族等と訳す。「善見律毘婆沙巻10」に依れば、往昔波羅㮈国王夫人、一肉団を生ぜり。赤きこと木槿華の如し。以って恥と為し、之を器の中に盛り、金薄を作し、波羅㮈国王夫人の所生と朱書して、之を江中に投ず。一同士あり、将って帰りて、之を一処に置く、半月を過ぐるに、一肉分れて二片と為る。又半月を過ぐるに、二片は各五胞を生ず。又半月を経るに、一片は男と為り、一片は女と為る、男は黄金色、女は白銀色なり。道士、之を見て、慈心力を以っての故に、手指より自然に乳を出し、乳は子の腹に入る。道士は児に号して離車子と為す、漢に皮薄と云う。又同皮とも言う。二子長じて十六に至るに、牧牛人共に宅舎を立て、女を以って男に嫁し、男を拜して王と為し、女を夫人と為す。後に王子を多生し、三次に舎宅を開広するを以っての故に、毘舎離(毘舎離を広厳と訳す)と名づく、と云えり。「慧琳音義巻6」には、「粟舎毘王、豪族の類、之刹利種系なり。又離車毘童子とも云う、上旧の名なり」と云い、「同巻29」に、「梨車毘童子、梵語訛なり。正梵音は粟聶毘なり。唐に貴族公子と言うなり。)諸経には或いは離車子と云える是れなり。聶音は昌葉反なり」と云い、「西域記巻7」に、「栗呫(昌葉反)婆子、旧に離車子と言う、訛なり」と云える是れなり。<(丁)
論力(ろんりき):梵志の名。
雇(ご):雇用する( employ )、報酬を与える( pay )、報酬( fee )。
思撰(しせん):思慮して択び集める。
明旦(みょうたん):明朝。 |
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梵志言。佛說一道。諸外道師各各有究竟道。是為眾多非一。佛言。是雖各有眾多皆非實道。何以故。一切皆以邪見著故。不名究竟道。 |
梵志の言わく、『仏は、一道と説きたもうも、諸の外道の師は、各各究竟の道有り。是れを衆多と為し、一に非ず』、と。仏の言わく、『是れに各有りて、衆多なりと雖も、皆実の道に非ず。何を以っての故に、一切は皆、邪見に著するを以って故に、究竟の道と名づけざればなり』、と。 |
『梵志』は、こう言った、――
『仏』は、
『一道だ!』と、
『説かれる!』が、
諸の、
『外道の師』には、
各各に、
『究竟の道』が、
『有る!』。
是れは、
『衆多であって!』、
『一ではない!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
是れに、
『各の道』が、
『有り!』、
『衆多だとしても!』、
皆、
『実の!』、
『道ではない!』。
何故ならば、
一切は、
皆、
『邪見』で、
『各の道』に、
『著する!』が故に、
是れを、
『究竟の道』とは、
『呼ばないからである!』、と。
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佛問梵志。鹿頭梵志得道不。答言。一切得道中是為第一。是時長老鹿頭梵志比丘在佛後扇佛。佛問梵志。汝識是比丘不。梵志識之慚愧低頭。 |
仏の梵志に問いたまわく、『鹿頭梵志は、道を得たりや不や』、と。答えて言わく、『一切の得道中に、是れを第一と為す』、と。是の時、長老鹿頭梵志比丘は、仏の後に在りて、仏を扇げり。仏の梵志に問いたまわく、『汝は、是の比丘を識るや不や』、と。梵志、之を識りて、慚愧し頭を低る。 |
『仏』は、
『梵志』に、こう問われた、――
『鹿頭梵志』は、
『道』を、
『得ているのか?』、と。
『梵志』は答えて、こう言った、――
一切の、
『道を得た!』者中に、
『鹿頭梵志』は、
『第一である!』、と。
是の時、
『仏』は、
『梵志』に、こう問われた、――
『梵志』は、
之を、
『識る!』と、
『慚愧して!』、
『頭を低(た)れた!』。
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鹿頭(ろくづ):仏在世の弟子。「増一阿含経巻3」に、「分別等の智を恒に忘失せずとは、謂わゆる鹿頭比丘是れなり」と云えり。又「増一阿含経巻20」等に出づ。 |
参考:『増一阿含経巻20(4)』:『聞如是。一時。佛在羅閱城耆闍崛山中。與大比丘眾五百人俱。爾時。世尊從靜室起下靈鷲山。及將鹿頭梵志。而漸遊行到大畏塚間。爾時。世尊取死人髑髏授與梵志。作是說。汝今。梵志。明於星宿。又兼醫藥能療治眾病。皆解諸趣。亦復能知人死因緣。我今問汝。此是何人髑髏。為是男耶。為是女乎。復由何病而取命終。是時。梵志即取髑髏反覆觀察。又復以手而取擊之。白世尊曰。此是男子髑髏。非女人也。世尊告曰。如是。梵志。如汝所言。此是男子。非女人也。世尊問曰。由何命終。梵志復手捉擊之。白世尊言。此眾病集湊。百節酸疼故致命終。世尊告曰。當以何方治之。鹿頭梵志白佛言。當取呵梨勒果。并取蜜和之。然後服之。此病得愈。世尊告曰。善哉。如汝所言。設此人得此藥者。亦不命終。此人今日命終為生何處。時。梵志聞已。復捉髑髏擊之。白世尊言。此人命終生三惡趣。不生善處。世尊告曰。如是。梵志。如汝所言。生三惡趣。生不善處。是時。世尊復更捉一髑髏授與梵志。問梵志曰。此是何人。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏。女人身也。世尊告曰。由何疹病致此命終。是時。鹿頭梵志復以手擊之。白世尊言。此女人懷妊故致命終。世尊告曰。此女人者。由何命終。梵志白佛。此女人者。產月未滿。復以產兒故致命終。世尊告曰。善哉。善哉。梵志。如汝所言。又彼懷妊以何方治。梵志白佛。如此病者。當須好酥醍醐。服之則差。世尊告曰。如是。如是。如汝所言。今此女人以取命終。為生何處。梵志白佛。此女人以取命終。生畜生中。世尊告曰。善哉。善哉。梵志。如汝所言。是時。世尊復更捉一髑髏授與梵志。問梵志曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏者。男子之身。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。由何疹病致此命終。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終飲食過差。又遇暴下故致命終。世尊告曰。此病以何方治。梵志白佛。三日之中絕糧不食。便得除愈。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。此人命終為生何處。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終生餓鬼中。所以然者。意想著水故。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。爾時。世尊復更捉一髑髏授與梵志。問梵志曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏者。女人之身。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。此人命終由何疹病。梵志復以手擊之。白世尊言。當產之時以取命終。世尊告曰。云何當產之時以取命終。梵志復以手擊之。白世尊言。此女人身。氣力虛竭。又復飢餓以致命終。世尊告曰。此人命終為生何處。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終生於人道。世尊告曰。夫餓死之人欲生善處者。此事不然。生三惡趣者可有此理。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此女人者。持戒完具而取命終。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。彼女人身。持戒完具致此命終。所以然者。夫有男子.女人。禁戒完具者。設命終時。當墮二趣。若天上.人中。爾時。世尊復捉一髑髏授與梵志。問曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏者。男子之身。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言者。此人由何疹病致此命終。梵志復以手擊之。白世尊言。此人無病。為人所害故致命終。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。為人所害故致命終。世尊告曰。此人命終為生何處。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終生善處天上。世尊告曰。如汝所言。前論.後論而不相應。梵志白佛。以何緣本而不相應。世尊告曰。諸有男女之類。為人所害而取命終。盡生三惡趣。汝云何言生善處天上乎。梵志復以手擊之。白世尊言。此人奉持五戒。兼行十善。故致命終生善處天上。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。持戒之人無所觸犯。生善處天上。世尊復重告曰。此人為持幾戒而取命終。是時。梵志復專精一意無他異想。以手擊之。白世尊言。持一戒耶。非耶。二.三.四.五耶。非耶。然此人持八關齋法而取命終。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。持八關齋而取命終。爾時。東方境界普香山南有優陀延比丘。於無餘涅槃界而取般涅槃。爾時。世尊屈申臂頃。往取彼髑髏來授與梵志。問梵志曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。我觀此髑髏。元本亦復非男。又復非女。所以然者。我觀此髑髏。亦不見生。亦不見斷。亦不見周旋往來。所以然者。觀八方上下。都無音嚮。我今。世尊。未審此人是誰髑髏。世尊告曰。止。止。梵志。汝竟不識是誰髑髏。汝當知之。此髑髏者。無終.無始.亦無生死。亦無八方.上下所可適處。此是東方境界普香山南優陀延比丘於無餘涅槃界取般涅槃。是阿羅漢之髑髏也。爾時。梵志聞此語已。歎未曾有。即白佛言。我今觀此蟻子之蟲。所從來處。皆悉知之。鳥獸音嚮即能別知。此是雄。此是雌。然我觀此阿羅漢。永無所見。亦不見來處。亦不見去處。如來正法甚為奇特。所以然者。諸法之本出於如來神口。然阿羅漢出於經法之本。世尊告曰。如是。梵志。如汝所言。諸法之本出如來口。正使諸天.世人.魔.若魔天。終不能知羅漢所趣。爾時。梵志頭面禮足。白世尊言。我能盡知九十六種道所趣向者。皆悉知之。如來之法所趣向者。不能分別。唯願世尊得在道次。世尊告曰。善哉。梵志。快修梵行。亦無有人知汝所趣向處。爾時。梵志即得出家學道。在閑靜之處。思惟道術。所謂族姓子。剃除鬚髮。著三法衣。生死已盡。梵行已立。所作已辦。更不復受胎。如實知之。是時。梵志即成阿羅漢。爾時。尊者鹿頭白世尊言。我今以知阿羅漢行所修之法。世尊告曰。汝云何知阿羅漢之行。鹿頭白佛。今有四種之界。云何為四。地界.水界.火界.風界。是謂。如來。有此四界。彼時人命終。地即自屬地。水即自屬水。火即自屬火。風即自屬風。世尊告曰。云何。比丘。今有幾界。鹿頭白佛。其實四界。義有八界。世尊告曰。云何四界。義有八界。鹿頭白佛。今有四界。云何四界。地.水.火.風。是謂四界。彼云何義有八界。地界有二種。或內地.或外地。彼云何名為內地種。髮.毛.爪.齒.身體.皮膚.筋.骨.髓.腦.腸.胃.肝.膽.脾.腎。是謂名為內地種。云何為外地種。諸有堅牢者。此名為外地種。此名為二地種。彼云何為水種。水種有二。或內水種.或外水種。內水種者。唌.唾.淚.尿.血.髓。是謂名為內水種。諸外軟溺物者。此名為外水種。是名二水種。彼云何名為火種。然火種有二。或內火.或外火。彼云何名為內火。所食之物。皆悉消化無有遺餘。此名為內火。云何名為外火。諸外物熱盛物。此名為外火種。云何名為風種。又風種有二。或有內風.或有外風。所謂脣內之風.眼風.頭風.出息風.入息風。一切支節之間風。此名為內風。彼云何名為外風。所謂輕飄動搖.速疾之物。此名為外風。是謂。世尊。有二種。其實有四。數有八。如是。世尊。我觀此義。人若命終時。四種各歸其本。世尊告曰。無常之法亦不與有常并。所以然者。地種有二。或內.或外。爾時。內地種是無常法.變易之法。外地種者。恒住.不變易。是謂地有二種。不與有常.無常相應。餘三大者亦復如是。不與有常.無常共相應。是故。鹿頭。雖有八種。其實有四。如是。鹿頭。當作是學。爾時。鹿頭聞佛所說。歡喜奉行』 |
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是時佛說義品偈
各各謂究竟 而各自愛著
各自是非彼 是皆非究竟
是人入論眾 辯明義理時
各各相是非 勝負懷憂喜
勝者墮憍坑 負者墮憂獄
是故有智者 不隨此二法
論力汝當知 我諸弟子法
無虛亦無實 汝欲何所求
汝欲壞我論 終已無此處
一切智難勝 適足自毀壞 |
是の時、仏の、義品の偈を説きたまわく、――
各各は究竟すと謂いて、而も各自ら愛著す、
各自ら是とし彼れを非とす、是れ皆究竟に非ず。
是の人論衆に入りて、義理を辯明する時、
各各相是非し、勝負して憂喜を懐く。
勝者は憍の坑に堕ち、負者は憂の獄に墮つ、
是の故に有智の者は、此の二法に堕せず。
論力汝は当に知るべし、我が諸の弟子の法に、
虚無く亦た実無きを、汝が何の求むる所をか欲する。
汝は我れを壊せんと欲して論ず、終に已に此の処無し、
一切智には勝ち難し、適ま自ら毀壊するに足るのみ。
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是の時、
『仏』は、
『義品の偈』を、こう説かれた、――
各各は、
『道』を、
『究竟した!』と、
『謂いながら!』、
各各は、
是の人は、
『議論』の、
『衆』中に、
『入り!』、
『義』の、
『理』を、
『辯明する!』時にも、
各各、
『互に!』、
『是、非』を、
『諍い!』、
『勝、負して!』、
『憂、喜』を、
『懐く!』。
『議論』に、
『勝った!』者は、
『憍慢の坑』に、
『堕ち!』、
『負けた!』者は、
『憂愁の獄』に、
『堕ちる!』、
是の故に、
『智者』は、
『是、非の二法』に、
『堕ちないのである!』。
論力!
お前は、
こう知らねばならぬ、――
わたしの、
諸の、
『弟子の法』には、
『虚、実』が、
『無いということを!』。
お前は、
何が、
『求めたいのか?』。
お前が、
わたしを、
『破ろうとして!』、
『論じれば!』、
終に、
此の、
『道理』は、
『無い!』。
何故ならば、
『一切智』には、
『勝ち難く!』、
自らを、
『傷つける!』のが、
『関の山だからだ!』。
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論衆(ろんじゅ):議論する人衆。
辯明(べんみょう):言い立てて解き明かす。
義理(ぎり):意味と道理。
憍坑(きょうきょう):おごりの落し穴。
憂獄(うごく):うれいの牢獄。
適足(ちゃくそく):ちょうど足りる。
毀壊(きえ):傷つけこわす。 |
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如是等處處聲聞經中說諸法空。 |
是の如き等、処処の声聞経中に、諸法の空を説きたまえり。 |
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