巻第十八(上)
大智度初序品中般若波羅蜜第二十九
1.般若波羅蜜を讃じる
大智度初序品中釋般若相義第三十
2.般若は声聞、辟支仏、仏の智慧を摂する
3.外道の持戒、禅定、智慧
4.昆勒門、阿毘曇門、空門
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大智度初序品中般若波羅蜜第二十九
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


般若波羅蜜を讃じる

【經】於一切法不著故。應具足般若波羅蜜 一切法に於いて著せざるが故に、応に般若波羅蜜を具足すべし。
一切の、
『法』に、
『著さない!』が故に、
当然、
『般若波羅蜜』を、
『具足しなくてはならない!』。
  般若(はんにゃ):梵語 prajJaa、巴梨語 paJJaa、知ること/[特に行動の方法を]理解すること/識別する/与り知る/精通する( to know, understand (esp. a way or mode of action), discern, distinguish, know about, be acquainted with )、見抜く/気づく/認める/記憶する( to find out, discover, perceive, learn )、知恵、知性、知識、差別、判断( wisdom, intelligence, knowledge, discrimination, judgement )、認識或は理解することに関する鋭敏さ/実際的知識( cognitive acuity, know-how )、[仏教]真理/卓越した智慧( (with Buddhist) true or transcendental wisdom )の義、特に縁起/無我/空等の認識に基づく仏教徒の智慧――煩悩を消し、覚りを齎す智慧( Especially the Buddhist wisdom that is based on a realization of dependent arising, no-self, emptiness, etc.—the wisdom that is able to extinguish afflictions and bring about enlightenment. )の意。巧慧/利智と訳される時、般若は良い変化を齎すべき知識を指す( Interpretive renderings such as 'know-how' and 'cognitive acuity,' point out that prajñā is a knowledge that can be applied to the effecting of positive changes. )、例えば自意識の浄められた状態に基づく知的作用のような、良い意義を有するという意味に於いて、勝智 jJaana [理解すること/精通するようになること]と重なる( In the sense that it has a positive meaning, as a noetic function that is based on a purified state of consciousness, its meaning sometimes overlaps with that of jñāna (knowing, becoming acquainted with). )、しかしながら、勝智が、よりしばしば直接的認識的経験に言及するに反し、般若は、以前の経験に基づく識見や洞察力の類を暗示する傾向にある( However, jñāna refers more often to a direct cognitive experience, whereas prajñā tends to connote a kind of insight or discernment based on prior experience. )、般若と勝智との両者は、覚った人、或は高位の修行者の精神的状態としては、分別 vikalpa や、戯論 prapaNca 等を通して働く、凡夫の認識作用である識 vijJaana と区別される( Both prajñā and jñāna, as mental states of enlightened people or advanced practitioners, are distinguished from vijñāna, the noetic function of ordinary beings, that works through vikalpa 分別, prapañca 戲論, etc. )、智慧或は明とも漢訳され、六番目の波羅蜜多である( Translated into Chinese as 智慧 and 明 clear, intelligent. Prajñā is the sixth pāramitā. )、般若波羅蜜多経には、それは最上/最高/無比/無等/無越であると書かれている( The Prajñāpāramitā-sūtra describes it as supreme, highest, incomparable, unequalled, unsurpassed. )、それはその有らゆる事物の空を曝露することを通して、啓発することにより、涅槃を得る為の第一義であると言われている、( It is spoken of as the principal means, by its enlightenment, of attaining to nirvāṇa, through its revelation of the emptiness of all things. )。
  般若(はんにゃ):梵語 prajJaa、巴梨語 paJJaa、又波若、鉢若、斑若、般羅若、般刺若、鉢羅若、鉢刺若、鉢囉枳穣、鉢囉枳嬢、鉢羅枳嬢、或いは鉢羅腎攘に作り、慧、明、智慧、慧明、極智、勝慧、或いは黠慧と訳す。「解脱道論(巴梨文浄道論 visuddhimagga に相当)巻9分別慧品」に、「云何が慧なる。何の相、何の味、何の起、何の処、何の功徳なる。慧とは何の義ぞ、幾ばくの功徳によりて波若を得とせん、幾種の波若ありや。答う、意事如見 kusala- chitta- sarpayutta vipassanaa- JaaNa (善心安住観智)此れを波若と謂う。復た次ぎに饒益不饒益を作意し、荘厳を作意する此れを波若と謂う。阿毘曇(即ち法僧伽 dhammasangaNi) の中に説くが如き、云何が波若なる、是れ波若は是れ慧 vicaya、是れ智 pavicaya、是れ択法 dhammavicaya、妙相 sallakkhaNaa、随観 upallakkhaNaa なり。彼の観 vipassanaa は聡明 paNDicca、暁了 kosalla, nepuJJa、分別 paccupalakkhaNaa なり。思惟 vebhavyaa, cintaa、見 upasampajaJJa なり。慧鉤 patoda- paJJaa、慧根 paJJindriya、慧光 paaJJaaloka、慧明 paJJaa- obhaasa、慧灯 paJJaapajjota、慧宝 paJJaaratana なり。不愚癡 amoha、択法、正見 sammaadiTThi、此れを波若と謂う。如達を相と為し、択を味と為し、不愚癡を起と為し、四諦を処と為す。復た次ぎに了義光明を相と為し、正法に入るを味と為し、無明の闇を除くを起と為し、四辯を処と為す。何の功徳とは、波若には無量の功徳あり、以って略して此の偈を聞くべし。慧を以って諸戒を浄め、禅に入るも亦た二慧なり。慧を以って諸道を修し、慧を以って彼の果を見る。(中略)慧を以って衆悪、愛、瞋恚、無明を除き、智を以って生死を除き、余の除くべからざるを除く。問う、慧とは何の義ぞや、答う、智の義なり、能除を義と為す。幾ばくの功徳によりて慧を得とせんとは、十一の功徳あり。(中略)幾種の慧とは、答う、二種三種四種あり」と云えり。是れ般若は慧にして了達を性とし、四諦の境に於いて揀択し、能く衆悪及び生死を除くものなることを明せるなり。又「梁訳摂大乗論巻中」に、「能く一切の見行を滅し、能く邪智を除くが故に般羅と称し、能く真相を縁じ、其の品類に随って一切法を知るが故に若と称す」と云い、「同論釈巻9」に、之を解し、「見行とは謂わく六十二見なり、邪智とは謂わく世間虚妄の解なり。見行は即ち是れ惑障、邪智は即ち是れ智障なり。真如を縁ずると謂うは即ち如理智なり。品類に二種あり、謂わく有為と無為なり、及び名等の五の摂なり。若し此の法を知らば即ち如量智なり。真如の相及び品類を一切法と名づく。如理智を般若と名づく、如量智は是れ般若の果なるも亦た般若と名づく。此の二智は三蔵の所顕たり、一に対治は即ち二障なり、二に境界は即ち真相なり、三に果は即ち如量智なり。此の義を具するに由るが故に般羅若と称す」と云えり。是れ惑智二障を滅除するを般羅 pra の義とし、真如の相及び有為無為の一切の品類を知るを若 jJaa と名づくとなすの意なり。蓋し梵語 prajJaa は「知る」の義なる語根 jJaa に、「前に」若しくは「去る」の義なる前接字 pra を附加して成れる動詞 pra- jJaa の名詞形にして、智慧、叡智、智識等の義を有する語なり。「雑阿含経巻26」には、之を五根の一となして慧根 praJJ- indriya と名づけ、「同巻47」には無漏の五蘊(即ち五分法身)の一となして之を慧身 paJJaa- kkhandha と名づけ、「同巻29」には戒定の二学に対し、慧によりて如実に知見するを名づけて増上慧学 adhi- paJJaa- sikkhaa となせり。又「解脱道論巻9」には、之に世慧 lokiya- paJJaa、出世慧 lokuttara- paJJaa の二種の別ありとし、「聖道の果に相応する慧は是れ出世慧なり、余は是れ世慧なり。世慧とは有漏、有結、有縛なり、是れ流、是れ厄、是れ蓋、是れ所触、是れ趣、是れ有煩悩なり。出世慧とは無漏、無結、無縛、無流、無厄、無蓋、無所触、無趣、無煩悩なり」と云い、又「同論」並びに「大毘婆沙論巻42」等には、之を聞慧(zurutamayiiprajJaa (巴梨語 sutamayii paaJJaa)、思慧 cintaamayii p. (巴梨語 cintamayii p.)、修慧 bhaavanaamayii p. (巴梨語 bhaavanaamayii p.) の三種に分別し、又「解脱道論」の連文には、更に来暁了、去暁了、方便暁了の三慧、聚慧、不聚慧、非聚非非聚慧の三種、自作業智、随諦相応智、道等分智、果等分智の四慧、欲界慧、色界慧、無色界慧、無繋慧の四種、法智、比智、他心智、等智の四慧、有慧為聚非為非聚、有慧為非聚非為聚、有慧為聚亦為非聚、有慧非為聚非非為聚の四慧、有慧有為厭患非為達、有慧為達非為厭患、有慧為厭患亦為達、有慧不為厭患亦不為達の四慧、義辯 attha- paTisambhidaa、法辯 dhamma-p.、辞辯 nirtti-p.、 楽説辯 paaTibhaana-p. の四慧、苦智 dukkha- JaaNa、苦集智 dukkhasamudaya- J.、苦滅智 dukkhanirodha-J.、苦滅道智 dukkhanirodha- gaaminiyaa- paTipadaaya-J. の四慧の別あることを説き、又「大乗大集地蔵十輪経巻10福田相品」、及び「瑜伽師地論巻43慧品」には、菩薩の般若(或いは一切慧)に世間慧 laukikii- prajJaa、出世間慧 lokottaraa- prajJaa の二種あることを明し、「梁訳摂大乗論巻中」には、無分別加行般若、無分別般若、無分別後得般若の三種、「大乗阿毘達磨雑集論巻12」には、世俗慧、縁勝義慧、縁有情慧の三慧、「金剛頂瑜伽千手千眼観自在菩薩修行儀軌経巻下」には、人空無分別慧、法空無分別慧、俱空無分別慧の三慧ありとし、又「瑜伽師地論」の連文には、更に菩薩の一切慧に能於所知真実随覚通達慧、能於如所説五明処及三聚中決定善巧慧、能作一切有情義利慧の三種、菩薩の難行慧に甚深の法無我を知る等の三種、菩薩の一切門慧に声聞蔵及び菩薩蔵所有の勝妙聞所成の慧等の四種、菩薩の善士慧に聴聞正法所集成慧等の五種、菩薩の一切種慧に苦智等の六種、及び法智等の七種、菩薩の遂求慧に依法異門慧智等の八種、菩薩の此世他世楽慧に内明処能善明浄善安住慧等の九種、菩薩の清浄慧に真実義の二種慧等の十種ありとなせり。按ずるに大乗仏教に於いては般若を以って六波羅蜜の一とし、諸部の般若経に広く其の功用を宣説するのみならず亦た諸大乗教論に之を解明せるもの甚だ多し。「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩、一切種智を以って一切法を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし」と云い、「大智度論巻43」に、「般若は(秦に智慧と言う)一切の諸の智慧の中最も第一と為す。無上無比無等にして更に勝るる者なし」と云い、又「大宝積経巻53」に広く其の義を解し、「言う所の慧とは謂わく能く一切の善法を解了するなり。是れ現見慧なり、一切の法に随順し通達するが故なり。是れ真量慧なり、実の如く一切法に通達するが故なり。是れ通達慧なり。一切の見趣、諸の纏縛の法は障を為さざるが故なり。是れ離願慧なり、永く一切の欲求願を離るるが故なり。是れ安悦慧なり、永く一切の諸の熱悩を息むるが故なり。是れ歓喜慧なり、法を縁じて喜楽すること断絶なきが故なり。是れ依趣慧なり、諸義に於いて智皆現見するが故なり。是れ建立慧なり、一切の覚品の法を建立するが故なり。是れ証相慧なり、其の所乗に随って果を証得するが故なり。是れ了相慧なり、善く能く是の智性を照了するが故なり。是れ済度慧なり、一切の諸の瀑流を救度するが故なり。是れ趣入慧なり、能く正性無生の法に趣くが故なり。是れ策励慧なり、一切の諸の善法を振発するが故なり。是れ清浄慧なり、先の随眠煩悩の濁を離るるが故なり。是れ最勝慧なり、一切諸法の頂に昇陟するが故なり。是れ微妙慧なり、自然智を以って法を随覚するが故なり。是れ離行慧なり、更に雑染三界の法なきが故なり。是れ摂受慧なり、一切の賢聖に摂受せらるるが故なり。是れ断願慧なり、一切の相分別を除遣するが故なり。是れ捨逸慧なり、一切の愚の黒闇を遠離するが故なり。是れ方便慧なり、一切の瑜伽師地に安住する者の成就する所なるが故なり。是れ発趣慧なり、当に一切の聖智道に住すべきが故なり。是れ照明慧なり、一切の無明瀑流の翳暗の膜を除滅するが故なり。是れ施明慧なり、一切を開導すること猶お眼の如きが故なり。是れ無漏慧なり、慧眼は邪僻の路を超過するが故なり。是れ勝義慧なり、是の如き大聖諦を照了するが故なり。是れ無別慧なり、能く調順するが故なり。是れ光明慧なり、諸智の門なるが故なり。是れ無蓋慧なり、一切に遍じて随行して照らすが故なり。是れ無滅慧なり、常に広く見るが故なり。是れ解脱道慧なり、永く一切の取執の縛を断ずるが故なり。是れ不離処慧なり、一切の煩悩障法と而も同止せざるが故なり」と云えり。是れ般若は諸慧中の最第一にして、如実に一切法に通達し乃至能く永く一切取執の縛を断ずるものなることを明にせるものなり。蓋し般若波羅蜜は主として大乗菩薩の学する所なりと雖も、般若経中には声聞の人も亦た之を学すべしとなし、且つ仏は声聞たる須菩提をして般若を説かしめたるにより、「大智度論巻72」には般若に共不共の別ありとし、「般若に二種あり、一には唯大菩薩の為に説き、二には三乗共説す。声聞に共ずる説の中には須菩提は是れ仏に随って生ずとし、但だ菩薩のために説くの時は、須菩提は仏に随って生ずと説かず」と云えり。是れ即ち共般若は声聞も亦た得する所なるも、不共般若は唯大菩薩のみ学する所なるを示したるなり。又般若の語の有翻無翻に関し、吉蔵の「大品経義疏巻1」に旧の六家の説を挙げ、「次に此の土を明さば翻者同じからず、若し是れ道安法師は云わく、波若は此に清浄と云うと。放光経第二十二巻に出づ。次に敷法師は遠離と云う。大品第六巻無生品に出づ。次に有師云わく、六度集経の中に波若を翻じて明度と為すなりと。第四解は大論十八巻に波若とは秦に慧と言うと云うに依る。第五解は大論四十三巻には波若とは秦に智慧と言うと云うに依る。第六は是れ招提の解なり、大論(第七十一)釈成辦品の文に、波若は定んで実相に異にして甚深極重なり。智慧は軽薄なれば以って波若を称すべからずと云うを用う。是の意は明す、波若は深重なるも智慧は軽薄なり、故に翻ずべからず。又波若は多なるも智慧は少なり、故に小の智慧を以って多の波若を翻ずべからざるなり。又涅槃(第三十)師子吼の文を案じ、中に波若とは謂わく一切衆生なり、毘婆舎那は一切の聖人なり、闍那とは諸仏菩薩なりと云うを取るとは、波若は真に慧と云う、浅きが故に一切衆生に名づけ、毘婆舎那は見と云う、少しく深きが故に一切聖人と云い、闍那は翻じて智と為す、智は最も深きが故に諸仏菩薩と云うなり。闍那を翻じて智と為すは毘婆沙に出づ。毘婆沙(阿毘曇毘婆沙論第五)に云わく、闍那とは智と言うなりと。既に三種各自ら翻あり。若し智慧を以って波若を翻ずと言わば、復た何を以って闍那を翻ぜんや。故に知る波若は翻ずべからず」と云い、次に一一此等諸家の説を破し、波若は翻じて智慧となすべしと云えり。又菩提流支の「金剛仙論巻1」に、「般若とは乃ち是れ西国の正音なり。此に魏に翻じて慧明と云う」と云い、「大乗義章巻12」に、「般若と言うは、此の方に慧と名づく、法に於いて観達するが故に称して慧と為す」と云い、諸家多く有翻説を取れるも、玄奘は生善尊重の故に般若は梵音を存すべしとし、之を五種不翻の一に数えたりと称せらる。是れ皆大乗の般若は無比無等の最勝慧にして、声聞等の所得に同じからずとなすに由るなり。又支那の諸家は般若に二種三種及び五種の別ありとし、具に其の義旨を闡明にする所あり。「大品経義疏巻1」に依るに、羅什は直に実相の空を照らす辺を名づけて慧となし、若し空を行ずるも証せず、有に渉るも著せざるを方便となし、僧肇は直に空を照らし有を照らすを慧とし、空を行ずるも証せず、有に渉るも著なきを方便となし、又持公は実相、方便、文字の三種の波若を立つと云い、慧遠の「大乗義章巻10」、智顗の「金光明経玄義巻上」、並びに吉蔵の「大品経義疏巻1」等には、実相、観照、文字の三種般若を明し、慧浄の「般若心経疏」、窺基の「般若心経幽賛巻上」等には、実相、観照、文字、眷属、境界の五種般若の説をなせり。以って般若の義が支那に於いて如何に精研せらえたるかを見るを得べし。又「菩薩内習六波羅蜜経」、「大乗菩薩蔵正法経巻38」、「大仏頂首楞厳経巻4」、「大乗荘厳経論巻7度摂品」、「翻梵語巻2」、「金剛般若経疏」、「仁王般若経疏巻1」、「大品経遊意」、「金剛般若経疏巻1」、「仁王般若経疏巻上1」、「大慧度経宗要」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻12、13、27、47」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻1上」、「金剛般若経疏纂要巻上」等に出づ。<(望)
  般若波羅蜜(はんにゃはらみつ):梵語 prajJaa- paaramitaa、巴梨語 paJJaa- paaramii、又般若波羅蜜多、般羅若波羅蜜、鉢羅腎攘波羅蜜に作る。慧到彼岸、智度、明度、普智度無極、明度無極と訳し、或いは慧波羅蜜多、勝慧波羅蜜多、慧波羅蜜、智慧波羅蜜とも称す。六波羅蜜の一。十波羅蜜の一。諸法の実相を照了し、之を窮尽する菩薩の大慧を云う。「大品般若経巻21三慧品」に、「仏言わく、第一義を得て一切法を度り彼岸に到る。是の義を以っての故に般若波羅蜜と名づく。復た次ぎに須菩提、諸仏菩薩辟支仏阿羅漢は、是の般若波羅蜜を用って彼岸に度ることを得、是の義を以っての故に般若波羅蜜と名づく。復た次ぎに須菩提、分別籌量して一切法を破壊し、乃至微塵も是の中に堅実なるを得ず、是の義を以っての故に般若波羅蜜と名づく。復た次ぎに、須菩提、諸法如、法性、実際は皆般若波羅蜜の中に入る。是の義を以っての故に般若波羅蜜と名づく」と云い、「大智度論巻18」に、「般若は慧と言い、波羅蜜は到彼岸と言う。其れ能く智慧の大海の彼岸に到り、一切智慧の辺に到りて其の極を窮尽するを以っての故に到彼岸と名づくと」と云い、又「同巻85」に、「一切菩薩の道を菩薩行と名づく、悉く諸法の実相を遍知する智慧を般若波羅蜜と名づく」と云える是れなり。是れ一切智慧の辺際を窮極し、一切法を度りて彼岸に到るを般若波羅蜜と名づけたるなり。蓋し般若波羅蜜は六波羅蜜の根本、一切善法の淵源にして、又諸仏の母と称せらる。「大品般若経巻14仏母品」に、「是の深般若波羅蜜は能く諸仏を生じ、能く諸仏に一切智を与え、能く世間の相を示す。是を以っての故に諸仏は常に仏眼を以って是の深般若波羅蜜を視るなり。又般若波羅蜜を以って能く褝那波羅蜜乃至檀那波羅蜜を生じ、能く内空乃至無法有法空を生じ、能く四念処乃至八聖道分を生じ、能く仏の十力乃至一切種智を生ず。是の如く般若波羅蜜は能く須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢、辟支仏、諸仏を生ず。須菩提、有らゆる諸仏の已に阿耨多羅三藐三菩提を得、今得、当に得べきは、皆深般若波羅蜜の因縁に因るが故に得るなり」と云い、「勝天王般若波羅蜜経巻1顕相品」に、「一切の善法は皆般若波羅蜜に依りて生ず」と云い、又「文殊師利問経巻上般若波羅蜜品」に、「一切の声聞縁覚、一切の仏、一切の法は般若波羅蜜より生ず」と云える皆其の説なり。凡そ般若とは慧を称するものにして、声聞縁覚等も亦た得る所なりと雖も、彼等は唯速かに涅槃に趣向せんことを求め、智の辺際を窮めざるが故に波羅蜜を得ること能わず、唯菩薩のみ一切智を求め、遂に彼岸に到るを以って、名づけて般若波羅蜜を具足すとなすなり。「大智度論巻43」に、「凡夫の人は復た欲を離ると雖も、吾我の心ありて離欲の法に著す、故に般若波羅蜜を楽わず。声聞辟支仏は般若波羅蜜を欲楽すと雖も、深慈悲なきが故に大いに世間を厭い、一心に涅槃に向かう。是の故に具足して般若波羅蜜を得ること能わず。是の般若波羅蜜は成仏の時、転じて一切種智と名づく。是を以っての故に般若は仏に属せず、声聞辟支仏に属せず、凡夫に属せず、但だ菩薩にのみ属す」と云い、「優婆塞戒経巻7般若波羅蜜品」に、「是れ智慧にして波羅蜜に非ずとは、謂わゆる一切世間の智慧、声聞縁覚所行の智慧なり。是れ波羅蜜にして智慧に非ずとは是の義あることなし。是れ智慧にして是れ波羅蜜なりとは、謂わゆる一切の六波羅蜜なり。智慧に非ず波羅蜜に非ずとは、謂わゆる一切の声聞縁覚の施戒精進なり」と云い、又「菩提資糧論巻1」に、「声聞独覚と共ぜざるが故に般若波羅蜜と名づく」と云えるは、皆即ち其の義を説けるものなり。但し此の中、般若は仏に属せず、唯菩薩にのみ属すと云うに関し、「大智度論巻18」に問答を試み、「諸の菩薩は初発心より一切種智を求め、其の中間に於いて諸法実相を知るの慧は是れ般若波羅蜜なり。問うて曰わく、若し爾らば応に名づけて波羅蜜と為すべからず。何を以っての故に、未だ智慧の辺に到らざるが故なり。答えて曰わく、仏所得の智慧は是れ実の波羅蜜なり、是の波羅蜜に因るが故に菩薩の所行も亦た波羅蜜と名づく。因の中に果を説くが故なり。是の般若波羅蜜は仏心の中に在りては名を変じて一切種智と為す。菩薩は智慧を行じ、彼岸に度ることを求むるが故に、波羅蜜と名づく。仏は已に彼岸に度るが故に一切種智と名づく」と云えり。之に依るに仏所得の智慧は実の波羅蜜なりと雖も、仏心に在りては特に之を一切種智と称して、波羅蜜と名づけず。菩薩は一切種智を求め、彼岸に度らんことを期するが故に、独り即ち其の慧を名づけて般若波羅蜜となすものなるを知るべし。般若波羅蜜の自性に関しては、「大智度論巻11」に、多説を挙ぐ。一説は般若波羅蜜は無漏の慧根なり、菩薩は未だ結を断ぜざるも、其の行相は無漏の般若波羅蜜に似たるが故に般若波羅蜜を行ずと名づくることを得と云い、一説は有漏の慧なり、菩薩は先に大智慧及び無量の功徳ありと雖も諸煩悩未だ断ぜず、道樹の下に至りて初めて結を断ずるが故に其の慧は即ち有漏なりとし、一説は初発意より道樹に至る中間の所有の智慧を般若波羅蜜と名づけ、成仏の時に至り転じて此の慧を薩波若と名づくと云い、一説は菩薩の有漏無漏の智慧を総じて般若波羅蜜と名づく、菩薩は涅槃を観じ、仏道を行ずるが故に其の智慧は無漏なるべく、未だ結使を断ぜず、事未だ成辦せざるが故に亦た有漏と名づくべしと云い、一説は菩薩の般若波羅蜜は無漏無為不可見無対なりとし、一説は般若波羅蜜は不可得の相にして、陰入界の所摂に非ず、有為無為法非法に非ず、取なく捨なく、不生不滅にして有無の四句を出で、著する所なしと説くと云えり。此の中、初の両説及び第四説は恐らく阿毘曇の人等の所立なるべく、最後の説は龍樹自ら経に依りて按じたるものなるべし。又「大乗荘厳経論巻8」には、具に般若波羅蜜の自性、因及び果、業、相応及び其の品類を明し、「正択 samyakpravicayo jJcyaH とは是れ慧の自性なり、邪業及び世間所識の業を離れて出世間の法を正択するに由るが故なり。定持 samaadhaana- pratisTHitaH とは是れ慧の因なり。定持の慧に由りて実の如く法を解するが故なり。善脱 suvimokSaaya- saMklezaat とは是れ慧の果なり、謂わく染汚に於いて善解脱を得るなり。何を以っての故に、世間 laukika、出世間 hiinalokottara、大出世間 mahaalokottara の正択に由るが故なり。命説 prajJaa- jiiva- sudezana Hとは是れ慧の業なり。慧命及び善説に由る。慧命とは彼の無上の正択を以って命と為すが故なり。善説とは正しく正法を説くが故なり。諸法の上首 dharmaaNaamuttaraH とは是れ慧の相応なり、経中に般若とは一切法中の上なりと説くが如き故なり。彼れに亦た三種ありとは是れ慧の品類なり。彼の人に世間、出世間、大出世間の三品の正択あるが故なり」と云えり。是れ般若波羅蜜は出世間の法を正択するを以って其の自性となし、定持を以って其の因とし、染汚の法に於いて善解脱を得るを其の果とし、無上の正択を其の命として正しく正法を説くを其の業となすことを明し、且つ般若は一切法中の上首にして、之に世間出世間及び大出世間の三種の品類ありとなすの意なり。又諸経に般若波羅蜜の修習に関し宣説するもの多く、「金光明最勝王経巻4」には、五法を説き、「一には常に一切の諸仏菩薩及び明智の者に於いて供養し、親近して厭背を生ぜず。二には諸仏如来、甚深の法を説かば、心常に楽聞して厭足あることなく、三には真俗の勝智ありて楽うて善く分別し、四には見修の煩悩咸く速かに断除し、五には世間の技術、五明の法皆悉く通達す。善男子、是れを菩薩摩訶薩の智慧波羅蜜を成就すと名づく」と云い、「大乗宝雲経巻2」には十法を説き、「菩薩摩訶薩、十法を具足せば般若波羅蜜具足すべし。何等をか十と為す、一には善く無我の真理を解し、二には善く諸業の果報を解し、三には善く有為の法を解し、四には善く生死の相続を解し、五には善く生死の不相続を解し、六には善く声聞辟支仏の道を解し、七には善く大乗の道を解し、八には善く魔業を遠離することを解し、九には智慧倒ならず、十には智慧等しきものなし」と云い、「大乗本生心地観経巻7波羅蜜多品」には、「出家の菩薩は空閑に於いて諸仏菩薩一切智者に親近し供養し、常に楽って甚深の妙法を聴聞し、心に渇仰を生じて恒に厭足なく、善く能く二諦の真理を分別し、二障を断除し、五明に通達し、諸の法要を説きて能く衆疑を決す。是の因縁を以って即ち名づけて般若波羅蜜と為すことを得。半偈を求めんが為に身命を棄捨し、衆苦を憚らずして菩提を志求せば、即ち親近波羅蜜を成就することを得。大会の中に於いて人の為に説法するに、深妙の義に於いて秘惜する所なく、能く大菩提心を発起し、菩薩の行に於いて不退転を得しめ、常に能く我が身と蘭若と、及び菩提心と真実法身と、是の如きの四種差別あることなしと観ず。是の如く是の如く妙理を観ずるが故に、即ち名づけて真実の波羅蜜と為すことを得、善男子、是れを出家の菩薩般若波羅蜜多を成就すと名づく」と云い、又「大宝積経巻50至巻53般若波羅蜜多品」には、般若波羅蜜の正行、如理の正観、証入、如理句、並びに分別善巧等のを縷説し、「発菩提心経論巻下般若波羅蜜品」には、智慧を修習するに自利、他利及び二俱利の三種、並びに当発善欲親近善友心等の二十心あることを明し、「大智度論巻4」等には、劬嬪陀govinda婆羅門大臣が閻浮提の大地並びに若干の大城、小城、聚落、村民を尽く七分せし事縁を挙げ、之を般若波羅蜜成満の相となせり。又諸経には般若波羅蜜を讃歎し、及び其の異名を出せるもの多く、「大品般若経巻8散花品」には、摩訶波羅蜜、無量波羅蜜、無辺波羅蜜と云い、「同巻12遍歎品」には、無辺波羅蜜、等波羅蜜、離波羅蜜、乃至仏波羅蜜の九十名を挙げ、「同巻9大明品及び勧持品」には、般若波羅蜜を以って大明呪、無上明呪、無等等明呪となし、「聖八千頌般若波羅蜜多一百八名真実円義陀羅尼経」には、勝般若波羅蜜多、一切智、一切相智、乃至一切法同一味の一百八名ありとし、「大般若経巻549」には深般若波羅蜜多を行ずる菩薩を讃じて、人中の尊、人中の善士、人中の豪貴、人中の牛王、人中の蓮華、人中の龍象、人中の師子、人中の勇健、人中の調御、人中の英傑なりとなせり。以って其の尊重せられたるを見るべし。又「六度集経巻8」、「放光般若経巻4摩訶衍品、巻7遣異道士品、巻16漚惒品」、「大品般若経巻11照明品、巻21」、「大般若経巻巻71、593」、「大乗理趣六波羅蜜多経巻10」、「旧華厳経巻25、37」、「賢劫経巻2至巻6」、「解深密経巻4」、「菩薩内習六波羅蜜経」、「金剛般若論巻上」、「仏母般若波羅蜜多九頌精義論巻上」、「仏母般若波羅蜜多円集要義釈論巻1」、「弥勒菩薩所問経論巻8」、「瑜伽師地論巻43慧品」、「摂大乗論巻中」、「辯中辺論巻上」、「菩提行経巻4般若波羅蜜多品」、「大乗阿毘達磨雑集論巻11」、「大乗起信論」、「大乗義章巻12」、「法界次第初門巻下上」、「大乗入道次第章」、「大品経遊意」等に出づ。<(望)
【論】問曰。云何名般若波羅蜜。 問うて曰く、云何が、般若波羅蜜と名づくる。
問い、
何故、
『般若波羅蜜』と、
『称するのですか?』。
答曰。諸菩薩從初發心。求一切種智。於其中間知諸法實相慧是般若波羅蜜。 答えて曰く、諸の菩薩は、初発心より、一切種智を求むるまで、其の中間に於いて、諸法の実相を知る慧、是れ般若波羅蜜なり。
答え、
諸の、
『菩薩』が、
『菩提心』を、
『発した!』時より、
『一切種智』を、
『求める(得る)!』に、
『至る!』、
其の、
『中間』に於いて、
諸の、
『法の実相』を、
『知る!』、
『慧( prajJaa )』、
是の、
『慧』が、
『般若波羅蜜である!』。
問曰。若爾者不應名為波羅蜜。何以故。未到智慧邊故。 問うて曰く、若し爾らば、応に名づけて波羅蜜と為すべからず。何を以っての故に、未だ智慧の辺に到らざるが故なり。
問い、
若し、
そうならば、
当然、
『波羅蜜』と、
『呼ぶべきでない!』。
何故ならば、
未だ、
『智慧の辺』にも、
『到らないからです!』。
答曰。佛所得智慧是實波羅蜜。因是波羅蜜故。菩薩所行亦名波羅蜜。因中說果故。是般若波羅蜜在佛心中變名為一切種智。菩薩行智慧求度彼岸故。名波羅蜜。佛已度彼岸故。名一切種智。 答えて曰く、仏の所得の智慧、是れ実の波羅蜜なり。是の波羅蜜に因るが故に、菩薩の所行も亦た、波羅蜜と名づく。因中に果を説くが故なり。是の般若波羅蜜は、仏心中に在れば、名を変じて、一切種智と為し、菩薩の智慧を行ずるは、彼岸に度せんと求むるが故に、波羅蜜と名づく。仏は已に彼岸に度したまえるが故に、一切種智と名づく。
答え、
『仏』の、
『所得の智慧』は、
是れが、
『実の!』、
『波羅蜜である!』。
是の、
『波羅蜜』に、
『因る!』が故に、
『菩薩』の、
『所行の智慧』も、
『波羅蜜』と、
『呼ばれる!』のは、
『因』中に、
『果』を、
『説くからである!』。
是の、
『般若波羅蜜』は、
『仏心』中に於いては、
『変じて!』、
『一切種智』と、
『呼ばれることになる!』。
『菩薩』の、
『所行の智慧』は、
『彼岸』に、
『度(わた)る!』ことを、
『求める!』が故に、
則ち、
『波羅蜜』と、
『呼ばれる!』が、
『仏』は、
已に、
『彼岸』に、
『度られている!』が故に、
則ち、
『一切種智』と、
『呼ぶのである!』。
問曰。佛一切諸煩惱及習已斷智慧眼淨。應如實得諸法實相。諸法實相即是般若波羅蜜。菩薩未盡諸漏慧眼未淨。云何能得諸法實相。 問うて曰く、仏は、一切の諸煩悩、及び習を已に断じて、智慧の眼浄ければ、応に如実に諸法の実相を得べし。諸法の実相とは、即ち是れ般若波羅蜜なり。菩薩は、未だ諸漏を尽さざれば、慧眼未だ浄からず。云何が、能く諸法の実相を得る。
問い、
『仏』は、
一切の、
諸の、
『煩悩』と、
『習』とを、
『断じられている!』が故に、
『智慧』の、
『眼』が、
『浄められ!』、
諸の、
『法の実相』を、
『如実に!』、
『得ていられる!』。
諸の、
『法の実相』とは、
是れが、
即ち、
『般若波羅蜜なのである!』が、
『菩薩』は、
未だ、
諸の、
『漏』が、
『尽きず!』、
未だ、
『智慧の眼』が、
『浄められていない!』。
何故、
諸の、
『法の実相』を、
『得ることができるのですか?』。
答曰。此義後品中當廣說。今但略說。如人入海。有始入者。有盡其源底者。深淺雖異俱名為入。佛菩薩亦如是。佛則窮盡其底。菩薩未斷諸煩惱習。勢力少故不能深入 答えて曰く、此の義は、後の品中に当に広く説くべし。今は但だ略して説かん。人の海に入るに、有るいは始めて入る者も、有るいは其の源底を尽す者も、深浅は異なりと雖も、倶に名づけて入ると為すが如し。仏、菩薩も亦た是の如く、仏は則ち其の底を窮尽し、菩薩は未だ諸の煩悩の習を断ぜず、勢力少なきが故に、深く入る能わず。
答え、
此の、
『義』は、
『後の品』中に、
『広く説くことになる!』ので、
今は、
但だ、
『略して説こう!』、――
例えば、
『人』が、
『海』に、
『入るとして!』、
有る、
『人』は、
『海』に、
『始めて入り!』、
有る、
『人』は、
『海』の、
『底を究めている!』。
此の、
『二人』は、
『深、浅』が、
『異なっても!』、
『どちらも!』、
『入る!』と、
『称する!』が、
『仏』と、
『菩薩』も、
亦た、
是のように、
『仏』は、
諸の、
『法の実相』を、
『底まで!』、
『窮め尽されている!』のに、
『菩薩』は、
未だ、
『煩悩の習』を、
『断っていない!』ので、
『勢力』が、
『少なく!』、
故に、
『深く!』、
『入ることができないのである!』。
如後品中說。譬喻如人於闇室然燈。照諸器物皆悉分了。更有大燈益復明審。則知後燈所破之闇。與前燈合住。前燈雖與闇共住而亦能照物。若前燈無闇則後燈無所增益。 後の品中に譬喩を説くが如し、人、闇室に於いて灯を灯して、諸の器物を照らせば、皆悉く分了にして、更に大灯有れば、益す復た明審なれば、則ち後の灯の破る所の闇の、前の灯と合して住し、前の灯は、闇と共に住まると雖も、亦た能く物を照し、若し前の灯に闇無ければ、則ち後の灯の増益する所無きを知るが如し。
『後の品』中に、
『譬喩』を、こう説く通りである、――
譬えば、
『人』が、
『闇室』中に、
『灯』を、
『燃やして!』、
諸の、
『器物』を、
『照らす!』と、
皆、
『悉く!』が、
『明了になった!』が、
更に、
有る、
『大灯』を、
『燃やした!』ところ、
益々、
『もっと!』、
『明るくなった!』ので、
則ち、こう知ることになる、――
『後の灯』の、
『破る!』所の、
『闇』は、
『前の灯』と、
『合して!』、
『住まっていた!』。
『前の灯』は、
『闇』と、
『共に!』、
『住まっていた!』が、
亦た、
『物』を、
『照らすことができた!』。
若し、
『前の灯』に、
『闇』が、
『無ければ!』、
『後の灯』の、
『明るくする!』所も、
『無いことになる!』、と。
  参考:『大智度論巻79』:『須菩提所行空行。欲比菩薩空行百分不及一。問曰。法空眾生空復有何不盡而言百分不及一。答曰。佛此中自說。除佛。諸聲聞辟支佛無有及菩薩者。諸法實相有種種名字。或說空或說畢竟空或說般若波羅蜜。或名阿耨多羅三藐三菩提。此中說諸法實相名為空行。如一切聲聞弟子中。須菩提空行最勝。如是除佛諸菩薩空行勝於二乘。何以故智慧分別利鈍入有深淺故。皆名得諸法實相。但利根者得之了了。譬如破闇故然燈更有大燈明則轉勝。當知先燈雖炤微闇不盡。若盡後燈則無用。行空者亦如是。雖俱得道智慧有利鈍故。無明有盡不盡。惟有佛智能盡諸無明。』
諸佛菩薩智慧亦如是。菩薩智慧雖與煩惱習合而能得諸法實相。亦如前燈亦能照物。佛智慧盡諸煩惱習。亦得諸法實相。如後燈倍復明了。 諸仏菩薩の智慧も亦た是の如く、菩薩の智慧は、煩悩の習と合すと雖も、能く諸法の実相を得ることは、亦た前の灯の亦た能く物を照すが如し。仏の智慧の諸の煩悩の習を尽して、亦た諸法の実相を得ることは、後の灯の倍して復た明了なるが如し。
諸の、
『仏』と、
『菩薩』の、
『智慧』も、
亦た、
『是の通りである!』。
『菩薩の智慧』が、
『煩悩の習』と、
『合していながら!』、
諸の、
『法の実相』を、
『得ることができる!』のは、
亦た、
『前の灯』も、
亦た、
『物』を、
『照らすことができる!』のと、
『同じであり!』、
『仏の智慧』が、
諸の、
『煩悩の習』を、
『尽して!』、
更に、
諸の、
『法の実相』を、
『得る!』のは、
譬えば、
『後の灯』が、
倍して、
『更に明了にする!』のと、
『同じである!』。
問曰。云何是諸法實相。 問うて曰く、云何が、是れ諸法の実相なる。
問い、
何を、
諸の、
『法の実相』と、
『言うのですか?』。
答曰。眾人各各說諸法實相自以為實。此中實相者。不可破壞。常住不異無能作者。如後品中。佛語須菩提。若菩薩觀一切法。非常非無常。非苦非樂。非我非無我。非有非無等。亦不作是觀。是名菩薩行般若波羅蜜。 答えて曰く、衆人は、各各諸法の実相を説き、自らを以って実と為す。此の中の実相とは、破壊すべからず、常住不異にして、能く作す者無し。後の品中の如し、仏の須菩提に語りたまわく、『若し菩薩、一切法の非常、非無常、非苦、非楽、非我、非無我、非有、非無等を観て、亦た是の観を作さざれば、是れを菩薩の般若波羅蜜を行ずと名づく。
答え、
『衆人』は、
各各、
諸の、
『法の実相』を、
『説いて!』、
自ら、
『実である!』と、
『言う!』が、
此の中に、
『実相』とは、
『破壊されず!』、
『常住であり!』、
『変異することない!』ので、
『実法』を、
『作ることのできる!』者は、
『無い!』。
例えば、
『後の品』中に、
『仏』は、
『須菩提』に、こう語られている、――
若し、
『菩薩』が、
『一切の法』は、
『非常、非無常であり!』、
『非苦、非楽であり!』、
『非我、非無我であり!』、
『非有、非無等である!』と、
『観て!』、
亦た、
是のように、
『観た!』と、
『作さなければ(言わなければ)!』、
是れを、
『菩薩』が、
『般若波羅蜜を行う!』と、
『称する!』、と。
  (さ):作業場( workshop )、起き上がる( get up )、作る/行う( make, do )、産生/興起( arise )、創作( compose )、励起( boost )、仮装/装う/振りをする( feign )、として働く( work as )、仕える( serve as )、建築( build )、演奏( play )、芽生える/生出する( begin to grow, come into being )、培養/養育( culture )、就任( assume the office of )、発生( occur, break out )、意見を言う( emit, give out )、発動( start, launch )、似る( be similar, like )、呪詛( curse, damn )、作品/文章( works )、事情/業務( affair )。
  参考:『大品般若経巻7』:『爾時慧命舍利弗語須菩提。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜觀諸法。何等是菩薩。何等是般若波羅蜜。何等是觀。須菩提語舍利弗。汝所問何等是菩薩。為阿耨多羅三藐三菩提是人發大心。以是故名為菩薩。亦知一切法一切種相。是中亦不著。知色相亦不著。乃至知十八不共法相亦不著。舍利弗問須菩提。何等為一切法相。須菩提言。若以名字因緣和合等知諸法。是色是聲香味觸法是內是外。是有為法是無為法。以是名字相語言知諸法。是名知諸法相。如舍利弗所問何等是般若波羅蜜。遠離故是名般若波羅蜜。何等法遠離。遠離陰界入。遠離檀那波羅蜜乃至禪那波羅蜜。遠離內空乃至無法有法空。以是故遠離名般若波羅蜜。復次遠離四念處。乃至遠離十八不共法。遠離一切智。以是因緣故。遠離名般若波羅蜜。如舍利弗所問何等是觀。舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時。觀色非常非無常。非樂非苦。非我非無我。非空非不空。非相非無相。非作非無作。非寂滅非不寂滅。非離非不離。受想行識亦如是。檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜。內空乃至無法有法空。四念處乃至十八不共法。一切三昧門一切陀羅尼門。乃至一切種智。觀非常非無常非樂非苦。非我非無我非空非不空。非相非無相非作非無作。非寂滅非不寂滅非離非不離。舍利弗。是名菩薩摩訶薩行般若波羅蜜時觀諸法。』
是義捨一切觀。滅一切言語離諸心行。從本已來不生不滅如涅槃相。一切諸法相亦如是。是名諸法實相。 是の義の、一切の観を捨て、一切の言語を滅して、諸の心行を離れて、本より已来、不生不滅なること、涅槃相の如し。一切の諸法の相も亦た是の如く、是れを諸法の実相と名づく。
是の、
『般若波羅蜜の義』は、
一切の、
『言語』を、
『滅して!』、
諸の、
『心行(心の働き)』を、
『離れ!』、
本より、
『不生、不滅であり!』、
譬えば、
『涅槃の相のようなもの!』、
是れが、
『般若波羅蜜である!』が、
一切の、
『諸法の相』も、
亦た、
是の通りであり、
是れを、
『諸法の実相』と、
『称する!』。
  心行(しんぎょう):心の作用( mental functions )、梵語 caitasika, chitta- pracaara, citta- carita 等の訳、心に関連する( relating to the mind )、又は心の動き( mental roaming, mental moving, mental going )の義、心の作用( the operations of the mind )、又は心の要素/心所( mental factors )の意。
如讚般若波羅蜜偈說
 般若波羅蜜  實法不顛倒 
 念想觀已除  言語法亦滅 
 無量眾罪除  清淨心常一 
 如是尊妙人  則能見般若 
 如虛空無染  無戲無文字 
 若能如是觀  是即為見佛 
 若如法觀佛  般若及涅槃 
 是三則一相  其實無有異 
 諸佛及菩薩  能利益一切 
 般若為之母  能出生養育 
 佛為眾生父  般若能生佛 
 是則為一切  眾生之祖母 

 般若是一法  佛說種種名 
 隨諸眾生力  為之立異字 
 若人得般若  議論心皆滅 
 譬如日出時  朝露一時失 
 般若之威德  能動二種人 
 無智者恐怖  有智者歡喜 
 若人得般若  則為般若主 
 般若中不著  何況於餘法 
 般若無所來  亦復無所去 
 智者一切處  求之不能得 
 若不見般若  是則為被縛 
 若人見般若  是亦名被縛 

 若人見般若  是則得解脫 
 若不見般若  是亦得解脫 
 是事為希有  甚深有大名 
 譬如幻化物  見而不可見 
 諸佛及菩薩  聲聞辟支佛 
 解脫涅槃道  皆從般若得 
 言說為世俗  憐愍一切故 
 假名說諸法  雖說而不說 
 般若波羅蜜  譬如大火焰 
 四邊不可取  無取亦不取 
 一切取已捨  是名不可取 
 不可取而取  是即名為取 

 般若無壞相  過一切言語 
 適無所依止  誰能讚其德 
 般若雖叵讚  我今能得讚 
 雖未脫死地  則為已得出
般若波羅蜜を讃ずる偈に説けるが如し、
般若波羅蜜は、実法にして顛倒にあらず、
念想観已に除こり、言語の法も亦た滅す。
無量の衆罪除こる、清浄心は常に一なり、
是の如き尊妙の人は、則ち能く般若を見る。

虚空に染無きが如く、戯無く文字無し、
若し能く是の如く観れば、是れ即ち仏を見ると為す。
若し如法に仏、般若及び涅槃を観れば、
是の三は則ち一相にして、其の実に異有ること無し。

諸仏及び菩薩は、能く一切を利益す、
般若は之が母と為りて、能く出生し養育す。
仏は衆生の父と為り、般若は能く仏を生ず、
是れ則ち一切の、衆生の祖母と為す。

般若は是れ一法なるに、仏は種種の名を説き、
諸の衆生の力に随いて、之が為に異字を立てたもう。
若し人般若を得れば、議論の心皆滅す、
譬えば日出の時、朝露の一時に失うが如し。

般若の威徳は、能く二種の人を動かし、
無智の者は恐怖し、有智の者は歓喜す。
若し人般若を得れば、則ち般若の主と為り、
般若中にも著せず、何に況んや余法に於いてをや。

般若に来たる所無く、亦復た去る所無し、
智者一切処に、之を求むるも得る能わず。
若し般若を見ざれば、是れ則ち縛さると為す、
若し人般若を見れば、是れ亦た縛さると名づく。

若し人般若を見れば、是れ則ち解脱を得、
若し般若を見ざれば、是れも亦た解脱を得。
是の事を希有にして甚だ深しと為し、大の名有り、
譬えば幻化の物は、見れども見るべからざるが如し。

諸の仏及び菩薩、声聞、辟支仏の、
解脱と涅槃の道は、皆般若より得。
言説を世俗と為すも、一切を憐愍するが故に、
仮名して諸法を説けば、説くと雖も説かず。

般若波羅蜜は、譬えば大火焔の如く、
四辺より取るべからず、取無くも亦た取らず。
一切の取を已に捨つ是れを取るべからずと名づく、
取るべからざるを取る、是れ即ち名づけて取と為す。

般若は壊相無く、一切の言語を過ぎ、
もし依止する所無くんば、誰か能く其の徳を讃ぜん。
般若は讃えがたしと雖も、我れ今能く讃ずるを得れば、
未だ死地を脱せずと雖も、則ち已に出づるを得と為す。
例えば、
『般若波羅蜜を讃じる偈』に、こう説く通りである、――
『般若波羅蜜』が、
『実法であり!』、
『顛倒でない!』のは、
『念、想、観』を、
『心』より、
『除き!』、
『言語』の、
『法』も、
『滅したからである!』。
『無量』の、
『衆罪』が、
『除かれて!』、
『心』が、
『清浄であり!』、
『常に一である!』ような、
是のような、
『尊妙の人』には、
則ち、
『般若』を、
『見ることができる!』。
『虚空』に、
『貪染、戯論、文字』が、
『無いように!』、
若し、
是のように、
『観ることができれば!』、
是れは、
『仏』を、
『見たということである!』。
若し、
『如法に!』、
『般若、仏、涅槃』を、
『観れば!』、
是の、
『三法』は、
則ち、
『一相であり!』、
其の、
『実』は、
『異ならない!』。
『諸仏と菩薩』は、
『一切』を、
『利益する!』が、
『般若』は、
『母として!』、
是の、
『諸仏、菩薩』を、
『出生し!』、
『養育することができる!』。
『仏』は、
『衆生』の、
『父である!』が、
『般若』は、
『仏』を、
『生じることができる!』ので、
則ち、
『一切の衆生』の、
『祖母だということになる!』。
『般若』は、
『一法である!』が、
『仏』は、
種種の、
『名』を、
『説き!』、
諸の、
『衆生』の、
『力』に、
『随って!』、
是の、
『衆生』の為に、
種種の、
『異字(異名)』を、
『立てられた!』。
『人』が、
若し、
『般若』を、
『理解すれば!』、
『議論』の、
『心』は、
『皆滅するだろう!』、
譬えば、
『日』の、
『出る!』時に、
『朝露』が、
『一時』に、
『消失するように!』。
『般若』の、
『威徳』は、
『二種』の、
『人』の、
『心』を、
『動かすことができる!』、
『無智の人』は、
『心』に、
『恐怖し!』、
『有智の人』は、
『心』に、
『歓喜する!』。
『人』が、
若し、
『般若』を、
『理解すれば!』、
『般若』の、
『主となることになり!』、
『般若』中にも、
『著すことがない!』、
況して、
『他の法』は、
『尚更である!』、
『般若』は、
何処から、
『来たのでもなく!』、
亦た、
何処に、
『去るのでもない!』、
『智者』が、
一切の、
『処』に、
『求めても!』、
是の、
『般若』は、
『得られない!』。
『人』が、
若し、
『般若』を、
『見なければ!』、
則ち、
『他の法』に、
『縛られることになる!』、
若し、
『般若』を、
『見れば!』、
亦た、
『般若』に、
『縛られることになる!』。
『人』が、
若し、
『般若』を、
『見れば!』、
則ち、
『解脱』を、
『得ることになる!』、
若し、
『般若』を、
『見なければ!』、
亦た、
『解脱』を、
『得ることになる!』。
是の、
『事』は、
『希有であり!』、
『甚だ!』、
『深い!』が故に、
『般若』は、
有るいは、
『大』と、
『称される!』。
譬えば、
『幻化の物』が、
『見えても!』、
『見えないようだ!』。
諸の、
『仏、菩薩、声聞、辟支仏』が、
『解脱する!』、
『涅槃』の、
『道』は、
皆、
『般若より!』、
『得たものだ!』。
『言説』は、
『世俗の法である!』が、
一切の、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
諸の、
『法』を、
仮に、
『名づけて!』、
『説かれた!』、
『仏』は、
『説かれた!』が、
『説かれなかったのだ!』。
『般若波羅蜜』は、
譬えば、
『大火焔のように!』、
『四辺より!』、
『取ろうとしても!』、
『取れず!』、
亦た、
『取る!』ことが、
『無くても!』、
『取れない!』。
一切の、
『取』を、
『捨てる!』ことを、
『取らない!』と、
『呼べば!』、
『取れない!』ものを、
『取ろうとする!』こと、
是れを、
『取る!』と、
『呼ぶ!』。
『般若』には、
『破壊の相』が、
『無く!』、
一切の、
『言語』を、
『過ぎたものである!』が、
若し、
『依止する!』所の、
『人心』が、
『無ければ!』、
誰に、
『般若の徳』を、
『称讃できるのか?』。
『般若』は、
『讃歎し難い!』が、
わたしは、
今、
『讃歎することができた!』、
未だ、
『死地』を、
『脱れていない!』が、
則ち、
『死地』を、
『出ることができたのである!』。
  仮名(けみょう):名称的符号( designatory label )、梵語 prajJapti 巴梨語 paJJatti の訳、教授/案内/指図( teaching, information, instruction )、約束/同意/契約( an appointment, agreement, engagement )の義、名目上の確立( Nominally established )、名目的な名称/大乗の重要概念である隠喩( To nominally designate; a metaphor — is an important notion in Mahāyāna Buddhism. )、有らゆる事物は空であるが故に、決定的な本性を欠き、事物に適用されるべき名称も亦たその本性を欠く( Since all things are empty 空, —that is, devoid of a definitive, inherent nature, the names that applied to things also lack an inherent nature. )、それにも拘らず、意志の伝達の為、或はより具体的には、仏教の教義をして、多くの人に利益せしめる為に、言葉は、慣例として受容れられなくてはならず、又名称も明確にされなくてはならない( Nonetheless, for the sake of communication, and more specifically, for the purpose of making the Buddhist teaching available to most of the people, language must be accepted as a convention, and names must be designated. )。
  仮名(けみょう):二種の釈あり、一には名に就いて釈す、諸法は本より名無し。以って人の為に仮に名を付さるる者なり。故に一切の名は虚仮不実にして、実体に契わず、貧賤の人に、富貴の名を以って与うるが如し、是れ即ち仮名なり。「大乗義章巻1」に、「諸法に名無く、仮に与えて名を施す、故に仮名と曰う、貧人を仮に富貴と称するが如し」と云い、「起信論」に、「一切の言説は仮名にして実無し」と云うが如し。二には法に就いて釈す、諸法は因縁和合して成ずと為し、真実の体無し、故に自ら差別すべからず、仮に名づけて僅かに差別の諸法有り、名を離るれば則ち差別の諸法無し、故に諸法を指して仮名と為す。「注維摩経」に、「什曰わく、縁会して実無し、但だ空を仮りて名づくるのみ」と云い、「大乗義章巻1」に、「諸法は仮名して有り、故に仮名と曰う。是の義云何?名を廃して法を論ぜば、法は幻化の如し、非有非無、亦非非有、亦非非無にして、一定相の以って自ら別すべき無し、名を以って法を呼び、法は名に随うて転ず、方に種種有る、諸法の差別も仮名の故に有るべし。是の故に諸法を説いて仮名と為す」と云い、「法華経方便品」に、「但だ仮の名字を以って、衆生を引導す」と云える是れなり。<(丁)『大智度論巻41三仮品』、『大智度論巻41上注:仮名』参照。
  (しゅ):梵語 upaadaana の訳、自分自身の為に取る/着服/横領する行為( the act of taking for one's self, appropriating to one's self )、知覚する/気づく/学ぶ/[知識]を獲得する( perceiving, noticing, learning, acquiring (knowledge) )受容れる/許す/含めて考える( accepting, allowing, including )の義。[仏教では]存在を握りしめる/存在にしがみつく( (with Buddh. ) grasping at or clinging to existence )の意。
  (ちゃく):往く( go )、向ける/向く( turn towards )、嫁ぐ( marry )、かなう/適合/符合( fit, suit )、節制( control )、遇う( meet )、満足( comfortable )、まさに/ちょうど( just )、たまたま/偶然( occasionally )、ちょうど今( just now )、若し/たまたま( if )。
  参考:『大品般若経巻2三仮品』:『是菩薩行般若波羅蜜。住不壞法中。修四念處時。不見般若波羅蜜。不見般若波羅蜜字。不見菩薩。不見菩薩字。乃至修十八不共法時。不見般若波羅蜜。不見般若波羅蜜字。不見菩薩。不見菩薩字。菩薩摩訶薩如是行般若波羅蜜時。但知諸法實相。諸法實相者。無垢無淨。』



大智度初序品中釋般若相義第三十


般若は声聞、辟支仏、仏の智慧を摂する

問曰。何以獨稱般若波羅蜜為摩訶。而不稱五波羅蜜。 問うて曰く、何を以ってか、独り、般若波羅蜜を称して、摩訶と為し、而も五波羅蜜を称せざる。
問い、
何故、
独り、
『般若波羅蜜』のみを、
『摩訶()』と、
『称し!』、
『五波羅蜜』を、
『摩訶』と、
『称しないのですか?』。
答曰。摩訶秦言大。般若言慧。波羅蜜言到彼岸。以其能到智慧大海彼岸。到諸一切智慧邊窮盡其極故。名到彼岸。一切世間中十方三世諸佛第一大。次有菩薩辟支佛聲聞。是四大人皆從般若波羅蜜中生。是故名為大。 答えて曰く、摩訶を秦に大と言い、般若を慧と言い、波羅蜜を到彼岸と言う。其の能く智慧の大海の彼岸に到り、一切の智慧の辺に到りて、其の極を窮尽するを以っての故に、到彼岸と名づく。一切の世間中に、十方三世の諸仏は第一に大なり、次に菩薩、辟支仏、声聞有り、是の四大人は、皆般若波羅蜜中より生ずれば、是の故に名づけて大と為す。
答え、
『摩訶( mahaa )』を、
秦に、
『大』と、
『言い!』、
『般若( prajJaa )』を、
秦に、
『慧』と、
『言い!』、
『波羅蜜( paaramitaa )』を、
秦に、
『到彼岸』と、
『言う!』。
其れが、
『智慧の大海』の、
『彼岸』に、
『到り!』、
一切の、
『智慧』の、
『辺』に、
『到って!』、
其の、
『極み!』を、
『窮め尽す!』、
故に、
『彼岸に到る!』と、
『呼ぶ!』。
一切の、
『世間』中に、
『十方三世の諸仏』は、
『第一に!』、
『大きく!』、
次に、
『菩薩、声聞、辟支仏』が、
『有る!』が、
是の、
『四大人』は、
皆、
『般若波羅蜜』中より、
『生じる!』ので、
是の故に、
『大(摩訶)』と、
『称する!』。
  摩訶(まか):梵語 mahaa、又莫訶、摩醯に作り、大、多、勝と訳す。「大智度論巻3」に、「摩訶は秦に大、或いは多、或いは勝と言う」と云える是れなり。<(丁)
  般若(はんにゃ):梵語 prajJaa、又班若、波若、鉢若、般羅若、鉢刺若、鉢羅枳嬢、般賴若、波賴若、鉢賢禳、波羅嬢に作り、慧、智慧、明と訳す。「大智度論巻43」に、「般若とは、秦に智慧と言う。一切の諸の智慧の中、最も第一、無上無比無等、更に無勝と為す」と云い、「同巻84」に、「般若を慧と名づけ、波羅蜜を到彼岸と名づく」と云い、「慧琳音義巻12」に、「般羅若は正しく般羅枳嬢と云い、唐には慧、或いは智慧と云う」と云い、「慧苑音義巻上」に、「般若は、此に慧と云うなり。西域の慧に二名有り、一には般若と名づけ、二には末底と名づく。智は唯一名にして、之を諾般と謂う、即ち是れ第十智度の名なり」と云い、「瑜伽論記巻9」に、「梵には般若と云い、此には名づけて慧と為す。当に知るべし第六度なり。梵に若那と云うは、此に名づけて智と為す、当に知るべし第十度なり」と云い、「楞厳経巻4」に、「鉢刺若」と云い、「慧琳音義巻47」に、「鉢羅賢嬢は、唐に智慧と言う」と云えり。<(丁)
  波羅蜜(はらみつ):梵語 paaramitaa、逐語的には「[河を]越えて対岸に到る」を意味するが、より一般的には「完全」と訳される( Transliteration of the Sanskrit, which literally means 'crossing over to the other shore,' but is most commonly translated into English as perfection. )、此の語は、菩薩道に於いて、菩提を得る為に実践される修行を指す( The term refers to practices employed by those on the bodhisattva path to attain Buddhahood. )、初期の大乗文献に於いて、此の波羅蜜には二乃至十種あるが、かなり初期に於いて已に六種に統一された、即ち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧である( There were several lists of these perfections in early Mahāyāna literature, ranging from two to ten, but by a fairly early date the list was standardized into six: giving (dāna), morality (śīla), forbearance (kṣānti), vigor (vīrya), meditation (dhyāna), and wisdom (prajñā). )、漢訳の度無極は二重翻訳の事例である( The sinitic translation of the term as 度無極 is case of 'double translation.' )、印度大乗の文献では、語原と波羅蜜の意味に於いて一致せず、有る者は、度 paarm (to cross over) を語原とし、過去分詞を作る語尾 ita を加えてものであると言い、有る人は、無極 parama (excellent, supreme) に由来すると主張している( Indian Mahāyāna texts disagreed on the etymology and meaning of the term pāramitā, which some described as deriving from pāram ( 'to cross over' ) plus the past participle ita, while others asserted that it derived from parama, 'excellent, supreme.' )、竺法護等の初期の漢訳者は、論争を避けて、両義を取り、度及び無極を結合させたのである( Early translators in China such as Dharmarakṣa skirted the controversy by translating the word in a way that reflected both sides of the dispute, combining 度, 'to cross over,' with 無極, 'unexcelled, limitless.' )、又到彼岸、度、有るいは事究竟等に訳す( and is translated into Chinese as 到彼岸 (reaching the other shore), 度 (crossing over), and 事究竟 (the ultimate in phenomena). )。
  波羅蜜(はらみつ):梵語 paaramitaa、又波羅蜜多、播囉弭多に作り、訳して究竟、到彼岸、度無極と云い、又単に度とも訳す。「大智度論巻12」に、「問うて曰わく、云何が檀波羅蜜と名づくる。答えて曰わく、檀の義は上に説けるが如し。波羅(秦に彼岸と言う)蜜(秦に到と言う)は是れを布施の河を渡って、彼岸に到るを得と名づく。復た次ぎに此の岸を慳貪と名づけ、檀を河中と名づけ、彼岸を仏道と名づく」と云い、「慧琳音義巻1」に、「播囉弭多は唐に彼岸到と名づく、今は文を迴して到彼岸と云う」と云えり。<(丁)
  (しょ):於いて。
復次能與眾生大果報。無量無盡常不變異。所謂涅槃。餘五波羅蜜不能爾。布施等離般若波羅蜜。但能與世間果報。是故不得名大。 復た次ぎに、能く衆生に大果報の無量、無尽にして常に変異せざる、謂わゆる涅槃を与うるも、余の五波羅蜜は、爾ること能わず。布施等は、般若波羅蜜を離るれば、但だ能く世間の果報を与う。是の故に大と名づくるを得ず。
復た次ぎに、
『般若波羅蜜』は、
『衆生』に、
『無量、無辺であり!』、
『常であり!』、
『変異せず!』、
『大果報』、
謂わゆる、
『涅槃』を、
『与えることができる!』が、
『他の五波羅蜜』は、
そういうことができず、
『布施』等は、
『般若波羅蜜』を、
『離れれば!』、
但だ、
『世間の果報』を、
『与えるだけである!』。
是の故に、
『大』と、
『呼ばれることはない!』。
問曰。何者是智慧。 問うて曰く、何者ぞ、是れ智慧なる。
問い、
是の、
『智慧』とは、
『何者ですか?』。
答曰。般若波羅蜜攝一切智慧。所以者何。菩薩求佛道。應當學一切法得一切智慧。所謂聲聞辟支佛佛智慧。 答えて曰く、般若波羅蜜は、一切の智慧を摂す。所以は何んとなれば、菩薩は仏道を求むるに、応当に一切の法を学びて、一切の智慧を得べければなり。謂わゆる声聞、辟支仏、仏の智慧なり。
答え、
『般若波羅蜜』は、
一切の、
『智慧』を、
『摂する!』。
何故ならば、
『菩薩』が、
『仏』の、
『道』を、
『求めれば!』、
『一切の!』、
『法』を、
『学ばねばならず!』、
『一切の!』、
『智慧』を、
『得なければならない!』。
謂わゆる、
『声聞、辟支仏、仏』の、
『智慧である!』。
是智慧有三種。學無學非學非無學。非學非無學。智者如乾慧地不淨安那般那欲界繫四念處煖法頂法忍法世間第一法等。學智者苦法智忍慧乃至向阿羅漢第九無礙道中金剛三昧慧。無學智者阿羅漢第九解脫智。從是已後一切無學智。如盡智無生智等。是為無學智求辟支佛道智慧亦如是。 是の智慧には、三種有り、学と無学と非学非無学となり。非学非無学の智とは、乾慧地の不浄、安那般那、欲界繋の四念処、煖法、頂法、忍法、世間第一法等の如きなり。学の智とは、苦法智忍の慧、乃至向阿羅漢の第九無礙道中の金剛三昧等の慧なり。無学の智とは、阿羅漢の第九解脱の智、是れより已後の一切の無学の智の尽智、無生智等の如きなり。是れを無学の智と為す。辟支仏道を求むる智慧も亦た是の如し。
是の、
『智慧』には、
『三種』有り、
『学』と、
『無学』と、
『非学非無学である!』。
『非学非無学の智』とは、
例えば、
『乾慧地』の、
『不浄』や、
『安那般那!』、
『欲界繋』の、
『四念処』や、
『煖法、頂法、忍法、世間第一法等である!』。
『学の智』とは、
『苦法智忍の慧』より、
『乃至向阿羅漢の第九無礙道中の金剛三昧の慧である!』、
『無学の智』とは、
『阿羅漢』の、
『第九解脱の智』より、
是れ已後の、
『一切の無学の智』、
例えば、
『尽智、無生智等』が、
『無学の智であり!』、
『辟支仏道』を、
『求める!』、
『智慧』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  乾慧地(けんえじ):三乗共十地の初位。或いは観仏三昧を習い、或いは不浄を観じ、或いは慈悲を行い、無常等を観じ、分別して諸の善法を集めて不善法を捨つるに、智慧ありと雖も、禅定の水を得ず、則ち道を得る能わざるが故に、乾慧地と名づく。『大智度論巻4下注:三乗共十地』参照。
  不浄(ふじょう):不浄観。身の不浄を観ずる観法。『大智度論巻17下注:不浄観、九想観』参照。
  安那般那(あんなはんな):数息観。息の出入を数え心を摂して散乱せしめざる法。『大智度論巻17下注:数息観』参照。
  欲界繋(よっかいけ):欲界に繋縛するものの意。煩悩の異名。『大智度論巻8下注:繋』参照。
  四念処(しねんじょ):身受心法の四種の念処に於ける観法。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
  煖法(なんぽう):四善根位中の初位。能く具に四聖諦の境を観察し、及び具に十六行相を修むる位。『大智度論巻3下注:四善根位、巻18上注:四善根位』参照。
  頂法(ちょうぼう):前の煖の善根漸次増長し、成満の時に至りて生ずる善根にして、動(動揺不安定)善根中の最勝なること恰も人の頂の如くなるが故に頂法と名づけ、或いは進退の両際に在ること山頂の如くなるが故に頂と名づく。『大智度論巻3下注:四善根位、巻18上注:四善根位』参照。
  忍法(にんぽう):頂の善根成満の時に至りて生ずる善根にして、四諦の理に於いて忍可すること最も勝れ、又此の位に於いて動ぜず、能く忍んで悪趣に退堕することなきが故に忍法と名づく。『大智度論巻3下注:四善根位、巻18上注:四善根位』参照。
  世間第一法(せけんだいいっぽう):上忍位の無間に生ずる善根にして、上品の忍の如く、即ち欲界の苦諦を縁じて一行相を修する唯一刹那なり。有漏世間に於いて最勝なるが故に世間第一法と名づけ、之より無間に見道に入りて、無漏の聖道を生ず。『大智度論巻3下注:四善根位、巻18上注:四善根位』参照。
  四善根位(しぜんごんい):四種の善根位の意。即ち見道以前に於いて四諦を観じ、十六行相を修するに四種の位別あるを云う。又加行位と称し、順決択分の善根を修習する位なり。一に煖位 uSma- gata、二に頂位 muurdhaana、三に忍位 kSaanti、四に世第一法位 laukikaagra- dharma なり。「大毘婆沙論巻6」に、「四種の決択分とは、謂わく煖と頂と忍と世第一法となり。(中略)善根とは謂わく聖道涅槃にして、是れ真実の善なり。此の四は彼の与(た)めに初基の本となり、安足処と為るが故に名づけて根となす」と云い、「倶舎論巻23」に、「此れより煖法を生じ、具に四聖諦を観じて十六行相を修す。次に頂を生ずるも亦た然り。是の如き二善根は、皆初は法にして後は四なり。次に忍は唯法念のみなり。下中品は頂に同じ、上は唯欲の苦を観じて一行一刹那なり。世第一法も亦た然り。皆慧なり五にして得を除く」と云える是れなり。是れ蓋し見道以前七方便中の後の四位にして、前の三賢の行者が総縁共相法念住を修習し、漸次成熟して上上品に至り、之より順決択分の初の善根生ずるを煖法とし、乃至最後の善根生ずるを世第一法となすなり。就中、煖法とは能く具に四聖諦の境を観察し、及び能く具に十六行相を修する位にして、即ち苦諦を観じて非常苦空非我の四行相を修し、集諦を観じて因集生縁の四行相を修し、滅諦を観じて滅浄妙離の四行相を修し、道諦を観じて道如行出の四行相を修す。之を煖法と名づけたることは、煖は火の前相なるが如く、此の位の善根は惑の薪を焼くべき無漏聖道の火の前相に比すべきものなるが故なり。頂法とは、前の煖善根漸次増長し、成満の時に至りて生ずる善根にして、動善根の中、最勝なること恰も人の頂の如くなるが故に頂法と名づけ、或いは進退の両際に在ること山頂の如くなるが故に頂と名づく。亦た具に四諦を観じ、及び能く具に十六行相を修す。此の二種の善根は、初安足の時は唯法念住にして、後増進の時は即ち四念住を具するなり。忍法とは頂善根成満の時に至りて生ずる善根にして、四諦の理に於いて忍可すること最も勝れ、又此の位に於いて能く忍して悪趣に退堕することなきが故に忍法と名づく。初安足及び後の増進の時にも皆唯法念住なり。又此の忍法に下中上の三品ある中、下品は前の頂位に同じく具に三界四諦の境を観察し、及び能く具に十六行相を修するも、中品は其の行相と所縁とを漸減漸略し、乃至但だ二念の作意のみありて欲界苦諦の境を思惟し、上品は唯一行一刹那にして、即ち単に欲界苦諦の一行相を修するのみなり。世第一法とは上忍位の無間に生ずる善根にして、上品の忍の如く即ち欲界の苦諦を縁じて一行相を修し、唯一刹那なり。有漏世間に於いて最勝なるが故に世第一法と名づく。之より無間に見道に入り、無漏聖道を生ずるなり。之を順決択分と称するは、此の四種の善根は見道の無漏決択智に順趣するものなるが故に名づくるなり。又此の四種は皆修慧を以って体とし、四静慮及び未至、中間の六地を所依とす。「倶舎論巻23」に、「是の如きの四種は皆修所成にして聞思の所成に非ず、唯等引地なるが故なり。四の中、前の二は是れ下品の摂なり、倶に動ずべく、猶お退すべきを以っての故なり。忍は中品の摂にして前の二に勝るるが故なり。世第一ありて其の上となるが故なり。世第一法は独り是れ上品なり。此の四善根は皆六地に依る、謂わく四静慮と未至と中間となり。欲界中には無し、等引を闕くが故なり。余の上地にも亦た無し、見道の眷属なるが故なり。又無色界の心は欲界を縁ぜざるが故なり。欲界は先に遍知断すべきが故なり。此の四善根は能く色界の五蘊の異熟を感ず」と云える其の意なり。之に依るに此の四種の中、煖頂の二善根は動ずべく、且つ退すべきが故に之を総じて下品となし、忍及び世第一法は不動にして、且つ退堕なきが故に之を中上二品に摂するの意なるを知るべし。又「大乗義章巻11」には、所依の界地に関して小乗諸部の間に異説あることを挙げ、「界に就きて分別せば界とは謂わく三界なり、論者不同にして所説各異あり。若し尊者達磨多羅に依らば、煖等の善根は唯色界の摂なり。色界の中に遍縁の智ありて能く上下の四聖諦を観ずるを以っての故なり。色界の善の中に動と不動とあり、動の中の下なるを説いて名づけて煖となし、上なるを名づけて頂となす。不動の中の下なるを説いて名づけて忍となし、上を第一と名づく。何の義を以っての故に欲界の摂に非ざるや、彼の宗は欲界には一向に定なし、之に依りて修習するを得ざるが故なり。何の義を以っての故に無色の摂に非ざるや、無色界の中には遍縁の智なく、下の四聖諦を観ずること能わざるが故なり。彼の心は微弱なり、是の故に遍ぜずと。尊者瞿沙説く、此の煖等は是れ其の欲界及び色界の摂にして、無色界に非ずと、彼れ説く、欲界にも亦た六禅定あり、依として修起すべきが故に欲界の摂なり。色界は知るべし。欲界の摂は之を名づけて動となす、動中の下なる者を説いて名づけて煖となし、上を名づけて頂となす。色界の摂は名づけて不動となす、不動の中の下を説いて名づけて忍となし、上を第一と名づく。何の義を以っての故に無色の摂に非ざるや、此れは前に釈するが如し。僧祇部説く、是れ三界の摂なりと。彼れ説く、欲界に其れ禅定あり、之に依りて修起するが故に欲界の摂なり。色界は知るべし。無色は能く具に四諦を観ずるが故に無色の摂なり」と云えり。以って諸説の不同を見るべし。又大乗唯識家に於いては、此の位に四尋思及び四如実智の観を修すとし、其の所説倶舎等と異あり。「成唯識論巻9」に、「見道に入りて唯識性に住せんがために、復た加行を修して二取を伏除す。謂わく煖と頂と忍と世第一法となり。此の四を総じて順決択分と名づく。(中略)煖等の四法は四尋思と四如実智との初後の位に依りて立つ」と云える即ち其の説なり。又「発智論巻1」、「大毘婆沙論巻3至5、7」、「雑阿毘曇心論巻5」、「瑜伽師地論巻29」、「順正理論巻61、62」、「大乗阿毘達磨雑集論巻13」、「倶舎論光記巻23」、「同宝疏巻23」、「成唯識論述記巻9末」等に出づ。<(望)
  苦法智忍(くほうちにん):見道八忍八智十六心中の初心。『大智度論巻12上注:八忍八智』参照。
  向阿羅漢(こうあらかん):阿羅漢向。阿羅漢果を得るに向かう位。『大智度論巻2上注四向四果、巻40上注:十八有学』参照。
  第九無礙道(だいくむげどう):九無礙道中の最位。将に一切諸の煩悩を断ち已らんとする位。『大智度論巻4上注:九無礙道』参照。
  金剛三昧(こんごうさんまい):三乗の行人の最後に一切の煩悩を断ずるに、各各究竟の果を得る三昧。『大智度論巻4上注:金剛三昧』参照。
  第九解脱(だいくげだつ):正しく九品の修惑を断ち已って後、相続して得る所の智。『大智度論巻4上注:九無礙道』
  尽智(じんち):十智中の第九。煩悩を断ち已って四諦を証する時に生ずる自信智。『大智度論巻2上注:十智』参照。
  無生智(むしょうち):十智中の第十。知断証修の事已り、無生を覚って更に知断証修せざるを知る智。『大智度論巻2上注:十智』参照。
問曰。若辟支佛道亦如是者。云何分別聲聞辟支佛。 問うて曰く、若し辟支仏道も亦た是の如くんば、云何が声聞を辟支仏と分別する。
問い、
若し、
『辟支仏道』も、
亦た、
『是の通りならば!』、
何故、
『声聞』を、
『辟支仏道』と、
『分別するのですか?』。
  辟支仏(びゃくしぶつ):梵語 pratyeka- buddha、又辟支伽等に作り、縁覚と訳す。『大智度論巻18上注:縁覚』参照。
  縁覚(えんがく):梵語辟支仏 pratyeka- buddha の訳。巴梨語 pacceka- buddha、又辟支迦、辟支迦羅、具支迦、辟支、或いは畢勒支底迦に作り、独覚、縁一覚、因縁覚とも訳す。二乗の一。三乗の一。現身に教を受けずして無師独悟し、能く自ら調するも他を調せざる一種の聖者を云う。「慧苑音義巻上」に、「辟支は梵言に具に畢勒支底迦と云い、此に各各独行と曰う。仏は覚なり。旧に翻じて独覚となすは正に其の意を得たり。或いは翻じて縁覚と為すは訳人の謬なり、梵語を以って鉢羅底迦と云うは此に翻じて縁と為す」と云えり。是れ辟支の梵音は畢勒支底迦 pratyeka なるを以って、独覚と訳するを正となすとするなり。独覚の名義に関しては、「倶舎論巻12」に、「独覚と言うは、謂わく現身の中に至教を禀くることを離れて、唯自ら道を悟る。能く自ら調するも他を調せざるを以っての故なり」と云い、又「瑜伽師地論巻34」に、「云何が独覚種性なる。謂わく三相に由りて応に正しく了知すべし、一には本性独覚先に未だ彼の菩提を証得せざる時、塵を薄んずるの種性あり。此の因縁に由りて憒鬧の処に於いて心愛楽せず、寂静処に於いて深心に愛楽す。二には本性特価句先に未だ彼の菩提を証得せざる時、悲を薄んずるの種性あり。是の因縁に由りて正法を説き有情を利するの事に於いて心愛楽せず、少思務寂静住の中に於いて深心に愛楽す。三には本性独覚先に未だ彼の菩提を証得せざる時、中根の種性あり、是れ慢行の類なり。是の因縁に由りて深心に希願し、師なく敵なくして菩提を証す」と云えり。之に依るに独覚は現在身の中に仏の教を禀けずして無師独悟し、而も其の性寂静を愛楽するが故に、説法教化を異とせざるものなるを知るべし。其の種類に就きては、婆沙、倶舎及び瑜伽等の諸論に皆部行、麟角喩の二種ありとす。即ち「倶舎論巻12」に、「諸の独覚に二種の殊あり、一には部行、二には麟角喩なり。部行独覚は先は是れ声聞なりしも、勝果を得る時転じて独勝と名づく。有余は説く、彼れ先は是れ異生なり、曽て声聞の順決択分を修せしも、今自ら道を証して独勝の名を得。本事の中に、一の山処に総じて五百の苦行の外仙あり。一に獼猴ありて曽て独覚と相近くして住し、彼の威儀を見る。展転遊行して外仙の所に至り、先に見る所の独覚の威儀を現ず。諸仙之を覩て咸く敬慕を生じ、須臾に皆独覚菩提を証すと説くに由ればなり。若し先に是れ聖人ならば苦行を修すべからずと。麟角喩とは謂わく必ず独居す。二の独覚の中、麟角喩の者は百大劫に菩提の資糧を修することを要し、然る後方に麟角喩独覚と成る」と云える是れなり。是れ独覚に二種ある中、麟角喩は必ず百大劫に菩提の資糧を修することを要するも、部行は然らず、彼れは本声聞の人にして、而も果を得る時、教を離れて独悟するが故に独覚と名づくとし、中に於いて一説は之を元と須陀洹等の声聞となすも、有説は本事経中の苦行外仙が獼猴の威儀を傚うて独証したりというの説に基づき、之を異生凡夫となすの意を明したるものなり。此の中、苦行外仙の説話は「大毘婆沙論巻46」、「阿育王伝巻3」等にも之を出し、特に大毘婆沙論には外仙の住処を伊師迦山となせり。蓋し王舎城伊師迦iSika山に辟支仏が止住せりと云える伝説は、「増一阿含経巻32」、「賢愚経巻5」、「善見律毘婆沙巻8」等にも記する所にして、特に増一阿含経には、「此の仙人山(即ち伊師迦山)には、恒に神通の菩薩、得道の羅漢、諸仙人の住居の処あり。又辟支仏も亦た中に在りて遊戯す。我れ今当に辟支仏の名号を説くべし」云云と云い、又其の連文に「諸仏未出時、此処賢聖居、自悟辟支仏、恒居此山中、此名仙人山、辟支仏所居、仙人及羅漢、終無空欠時」の偈を出せり。之に依るに伊師迦即ち仙人山は辟支仏の住処として古くより伝えられたるを見るべし。又辟支仏が他の為に説法せざる理由に関し、「大毘婆沙論巻180」に、「彼れは寂静を愛し独処を楽うが故に、喧雑を怖畏し衆の集まるを厭うが故に、遠離の功徳、憒鬧の過失を見るが故なり。心徒衆に背く、豈に能く説法せんや」と云い、更に又多説を出し、「倶舎論巻12」には、「彼れは宿習に少しく勝解を欣楽するも、説の希望なきが故に、又有情の深法を受け難きを知る、順流既に久しくして逆流せしめ難きを以っての故に、又衆を摂することを避くるが故に、他の為に正法を宣説せず、諠雑を怖るるが故なり」と云い、又「瑜伽師地論巻32」には、「薄悲の種性あり、是の因縁に由りて、正法を説き有情を利するの事に於いて心愛楽せず」と云えり。諸由一ならずと雖も、独覚が説法教化を事とせずとなせるは即ち異なるなし。此等の記事に依るに、独覚なるものは或いは伊師迦山中に住せし外道仙人の伝説に起因せしものならざるかを疑うべく、即ち彼れの外仙等は山中に住して人間に遊行せざりしが故に、之を目して自調自度とし、又彼等は仏教を聞かず、而も自ら縁起無常の理を観じて証悟せしが故に、之を称して独覚とし、遂に之を仏教内の一種の聖者として取り入れたるものなるやも知るべからざるを以ってなり。「分別功徳論巻1」に、「迦葉は滅尽定の力を用うる最勝なる所以は、迦葉は本と是れ辟支仏なるを以っての故なり。夫れ辟支仏の法は説法教化せず、専ら神足を以って感動せしめ、三昧より変現す。大迦葉は復た羅漢にして証を取ると雖も、本識猶お存す」と云えり。是れ摩訶迦葉が本と外道仙人なりしを称して、辟支仏と名づけたるものとも見るを得べし。又「大智度論巻18」には、辟支仏に独覚と因縁覚との二種ありとし、因縁覚は先世福徳願行の因縁の故に無仏の世に出で、他に従って聞かず、自ら世間無常変壊の事を思惟し、無漏道心を生じて諸の結使を断じ、辟支仏道を得て、六神通を具す。独覚には亦た二種あり、一は本と是れ学人なるも無仏の世に出で、已に須陀洹七生を満じ、第八生すべからざるが故に自ら道を成ずることを得。此の人は仏と名づけず、阿羅漢と名づけず、小辟支仏と名づく。阿羅漢と異なることなし、或いは舎利弗等の大阿羅漢に如かざるものあり。二は大辟支迦仏にして、一百劫の中に於いて功徳を作し、智慧を増長し、三十二相分を得、或いは三十一相、乃至或いは一相あり。九種阿羅漢中に於いて智慧利勝に諸の深法中の総相別相に於いて能く入り、久しく定を修習し、常に独処を楽しむものを大辟支迦仏と称すと云えり。此の中、大辟支迦仏は上記倶舎論の麟角喩に当たり、小辟支迦仏は部行中の得果の声聞に当たり、因縁覚は部行中の異生凡夫に当たれるが如く、又「瑜伽師地論巻34」に独覚の道に三種あることを明せる中、其の第一は今の大辟支迦仏に当たり、第二は今の因縁覚に当たり、第三は今の小辟支迦仏に当たれるが如し。「四教義巻3」に今の大智度論の文を引用し、独覚に大小の二種あるが如く、因縁覚にも亦た大小の二種ありとなせるも、其の説恐らく允当ならざるべし。又「華厳経行願品疏鈔巻4」には縁覚に三種の別ありとし、一に縁覚の縁覚は因果倶に同じ。二に声聞の縁覚は、因は是れ声聞にして果は縁覚を成ずるもの。三に菩薩の縁覚は、因は是れ菩薩にして果は縁覚を成ずるものなりと云えり。又「大乗義章巻17末」には、縁覚と声聞とに就いて四句を分別し、一に声聞にして縁覚に非ず、即ち声聞の人なり。二に縁覚にして声聞に非ず、即ち麟角喩の人なり。三に声聞にして亦た縁覚なり、即ち部行なり。四に縁覚にして亦た声聞なり、即ち因縁覚なりと云い、又声聞と縁覚とを比するに五同六異ありとし、五同とは一に同じく生空を見、二に同じく四住を断じて分段を受けず、三に同じく三十七道品を修し、四に同じく尽智無生智の果を得、五に同じく有余無余の涅槃を証するを云い、六異とは、一に声聞は鈍、縁覚は利なり。二に声聞は師に依り、縁覚は師に依らず。三に声聞は教法を藉りて縁となし、縁覚は十二因縁を観ず。五に声聞には四向四果あり、縁覚には一向一果あるのみ。六に地持経に依るに、声聞は二千国土を通の境界とし、縁覚は三千国土を通の境界となすを云う。又菩薩と縁覚とを比するに一同十異ありとし、一同とは縁覚は一たび聖道に入れば永く更に退せざること菩薩に同じ。十異とは一に縁覚は宿善狭少にして仏智を求めず、菩薩の因行の広大なるが如くならず。二に縁覚は鈍根、菩薩は利根なり。三に縁覚は苦を畏れて疾く求めて滅を取り、菩薩は苦を畏れずして常に楽うて世に処す。四に縁覚は十二因縁の法を観じて生空を悟了すれども、菩薩は普く一切法を観じて具に二空を解す。五に縁覚は但だ自利の道を修し、菩薩は六度を修して自他倶に利す。六に縁覚は但だ能く煩悩障を断じ、菩薩は二障を双べ除く。七に縁覚は正しく縁覚果を得、菩薩は正しく大般涅槃を得。八に縁覚は但だ神通を現じて化を起し、菩薩は能く神通を現じて能く宣説す。九に縁覚は声聞に同じく、一心一作にして、衆心衆作なること能わざれども、諸仏菩薩は一時に十法世界の一切の色像を化現して、一時に能く五趣の身を現ずる等、通の用不同なり。十に縁覚所有の身智の功徳は悉く無常苦無我不浄なれども、菩薩の涅槃は常楽我淨なるを云うとなせり。之に依りて三乗の別を知ることを得るも、其の中亦た妥当ならざるものなきに非ず。又修行の時劫に関しては、「倶舎論巻12」等に麟角喩の者は必ず百大劫を経と云い、「大智度論巻28」に、「辟支仏は第一に疾きは四世の行、久しきは乃至百劫の行なり。声聞の如きは、疾きは三世、久しきは六十劫なり」と云い、又「倶舎論光記巻23」には、「若し独覚に拠らば、極疾は四世に加行を修し、極遅は百劫に加行を修す。四生は必ずしも利根に非ず、亦た鈍根にも通ず。若し極利の者は必ず百劫を経」と云えり。要するに縁覚は声聞よりも利にして、菩薩よりは鈍なりとす。故に「旧華厳経巻6」等には声聞を小乗、菩薩を大乗となすに対して、縁覚を中乗と名づけ、又大品十地の中には之を辟支仏地と称し、已辨地の上、菩薩地の下に置けり。又「大毘婆沙論巻7」、「大智度論巻19」、「辟支仏因縁論巻1」、「出三蔵記集巻1」、「仁王般若波羅蜜経疏巻上一(吉蔵)」、「瑜伽論略纂巻9」、「倶舎論宝疏巻12」、「玄応音義巻3」、「止観輔行伝弘決巻9之三」、「翻訳名義集巻2」等に出づ。<(望)
答曰。道雖一種而用智有異。若諸佛不出佛法已滅。是人先世因緣故。獨出智慧不從他聞。自以智慧得道。 答えて曰く、道は、一種なりと雖も、智を用うるに異有り。若しは諸仏出でたまわす、仏法已に滅するも、是の人は、先世の因縁の故に、独り智慧を出して、他より聞かず、自らの智慧を以って、道を得。
答え、
『道』は、
『一種である!』が、
『智』の、
『用い方!』に、
『異』が、
『有るからである!』。
若し、
諸の、
『仏』が、
『世』に、
『出られず!』、
『仏』の、
『法』が、
『滅していた!』としても、
是の、
『人(辟支仏)』は、
『先世』の、
『因縁』の故に、
独り、
『智慧』を、
『出して!』、
『他人より!』、
『聞かなくても!』、
自らの、
『智慧』を、
『用いて!』、
『道』を、
『得ることができる!』。
如一國王出在園中遊戲。清朝見林樹華果蔚茂甚可愛樂。王食已而臥。王諸夫人婇女。皆共取華毀折林樹。王覺已見林毀壞而自覺悟。一切世間無常變壞皆亦如是。思惟是已無漏道心生斷諸結使得辟支佛道。具六神通即飛到閑靜林間。 一国王の如し、出でて園中に在りて遊戯するに、清朝に林樹の華果の蔚茂して、甚だ愛楽すべきを見る。王は食し已りて臥したるに、王の諸夫人、婇女、皆共に華を取りて、林樹を毀折す。王覚め已りて、林の毀壊せるを見、自ら覚悟すらく、『一切の世間の無常にして変壊すること、皆亦た是の如し』、と。是れを思惟し已りて、無漏道の心生じ、諸の結使を断じて、辟支仏道を得、六神通を具えて、即ち飛びて、閑静なる林間に到れり。
例えば、
『一国王』などは、
『城』を、
『出て!』、
『園林』中に、
『遊戯し!』、
『清朝』、
『林樹の華果』が、
『華麗に繁茂する!』のを、
『見た!』。
『王』が、
『食事をして!』、
『寢ている!』間に、
『王の諸夫人、婇女』たちが、
皆共に、
『華』を、
『取って!』、
『林樹』を、
『へし折った!』。
『王』は、
『覚める!』と、
すっかり、
『林樹』が、
『破壊されていた!』ので、
自ら、
こう覚悟した、――
一切の、
『世間』が、
『無常であり!』、
『変壊する!』のも、
亦た、
『是の通りだ!』、と。
是のように思惟すると、――
『無漏道』の、
『心』が、
『生じて!』、
諸の、
『結使』を、
『断ち!』、
『辟支仏の道』を、
『得て!』、
『六神通』を、
『具え!』、
『飛んで!』、
『閑静の林間』に、
『到った!』。
  遊戯(ゆげ):景勝の地に趣きたわむれること。
  清朝(しょうちょう):晴れわたった爽やかな早朝。
  蔚茂(いも):草木がこんもりとしげるさま。華麗に茂るさま( luxuriant )。
  愛楽(あいぎょう):いつくしみたのしむ。
  夫人(ぶにん):王妃。
  婇女(さいにょ):女官。
  毀折(きせち):折り取る。
  毀壊(きえ):傷つけこわす。
  変壊(へんえ):こわれる。
  閑静(げんじょう):人気がなく静か。
如是等因緣。先世福德願行果報。今世見少因緣。成辟支佛道如是為異。 是の如き等の因縁は、先世の福徳、願行の果報なれば、今世には少しの因縁を見て、辟支仏道を成ず。是の如きを異と為す。
是れ等のような、
『因縁』は、
『先世』の、
『福徳』や、
『願、行の果報であり!』、
『今世』に、
『少し!』の、
『因縁』を、
『見るだけ!』で、
『辟支仏』の、
『道』を、
『得られるのである!』。
是のように、
『辟支仏』は、
『声聞』と、
『異なる!』。
復次辟支佛有二種。一名獨覺。二名因緣覺。因緣覺如上說。獨覺者。是人今世成道。自覺不從他聞。是名獨覺辟支迦佛。 復た次ぎに、辟支仏に二種有り、一を独覚と名づけ、二を因縁覚と名づく。因縁覚は、上に説くが如し。独覚とは、是の人は、今世に道を成ずるも、自ら覚りて、他より聞かず。是れを独覚の辟支迦仏と名づく。
復た次ぎに、
『辟支仏』には、
『二種』有り、
一を、
『独覚』と、
『称し!』、
二を、
『因縁覚』と、
『称する!』。
『因縁覚』は、
『上に!』、
『説いた通りである!』。
『独覚』とは、
是の人は、
『今世』に、
『道』を、
『成じる!』が、
自ら、
『道』を、
『覚って!』、
他より、
『聞くことがない!』ので、
是れを、
『独覚』の、
『辟支迦仏(辟支仏)』と、
『称するのである!』。
獨覺辟支迦佛有二種。一本是學人在人中生。是時無佛佛法滅。是須陀洹已滿七生。不應第八生自得成道。是人不名佛。不名阿羅漢。名為小辟支迦佛。與阿羅漢無異。或有不如舍利弗等大阿羅漢者。 独覚の辟支迦仏には、二種有り、一には本是れ学人にして、人中に在りて生ずるも、是の時、無仏にして仏法滅したれど、是の須陀洹は、已に七生を満つれば、応に第八生すべからずして、自ら成道するを得れば、是の人は仏と名づけず、阿羅漢と名づけず、名づけて小辟支迦仏と為す。阿羅漢と異無く、或は舎利弗等の大阿羅漢には如かざる者有り。
『独覚の辟支迦仏』には、
『二種』有り、
一には、
『小辟支迦仏』、
二には、
『大辟支迦仏である!』。
『小辟支迦仏』は、
本、
『学人であり!』、
『人』中に、
『生まれた!』が、
是の時、
『無仏であり!』、
『仏法』も、
『滅していた!』。
是の、
『人』が、
『須陀洹』として、
『七生』を、
『満たす!』と、
『第八生』は、
『須陀洹ではなく!』、
自ら、
『道』を、
『成すことができる!』。
是の、
『人』は、
『仏』とも、
『阿羅漢』とも、
『呼ばれず!』、
『小辟支迦仏』と、
『呼ばれる!』。
是の、
『人』は、
『阿羅漢』と、
『異なり!』が、
『無い!』が、
或は、
有る者は、
『舎利弗』等の、
『大阿羅漢』には、
『及ばない!』。
  須陀洹(しゅだおん):梵語 srota- aapanna、巴梨語 sotaapanna、又須陀般那、蘇廬多波那、窣路多阿半那、須氀多阿半那、窣路陀阿鉢嚢に作る。預流、至預、入流、或いは逆流と訳す。四沙門果の一。即ち初果の聖者にして見惑を断尽せる者を云う。「増一阿含経巻20」に、「三結の網を断じて須陀洹不退転の法を成じ、必ず滅度に至る」と云い、「倶舎論巻23」に、「彼の二聖の若し先時に於いて未だ世道を以って修断の惑を断ぜざるを名づけて具縛となし、或いは先に已に欲界の一品乃至五品を断じて此の位(見道)の中に至るを初果向と名づく。初果に趣くが故なり。初果と言うは謂わく預流果なり、此れ一切沙門果の中に於いて必ず初に得するが故なり」と云える是れなり。是れ蓋し随信行随法行の二聖が、見道以前に於いて未だ世俗智を以って修惑を断ぜず、或いは已に欲界の一品乃至五品の修惑を断じ、見道の中に入れるものを須陀洹向と名づけ、第十六心に至りて方に証する果を須陀洹果と名づくることを説けるものなり。須陀洹の名称に関しては、「大毘婆沙論巻46」に、「流は謂わく聖道なり、預は謂わく入なり。彼れ聖道に入るが故に預流と名づく」と云い、「倶舎論巻23」に、「諸の無漏道を総じて名づけて流となす、此れを因となすに由りて涅槃に趣くが故なり。預の言は最初に至得するを顕さんが為なり」と云い、又「顕揚聖教論巻3」に、「預流果とは、若し勝摂に随わば三結を永断し、若し全摂せば一切見所断の惑を永断するなり。此れに由りて聖者已に諦を見るが故に、最初に逆流の行果を証得す」と云えり。又「大般涅槃経巻36」に、「云何が三結を断ずるを須陀洹と名づくる。一には我見、二には非因見因、三には疑網なり。(中略)須陀洹の人は復た能く無量の煩悩を断ずと雖も、此の三は重きが故に、亦た一切の須陀洹の人の所断の結を摂するが故なり」と云い、又須陀洹の語義を説き、「須を無漏に名づけ、陀洹を修習に名づく、無漏を修習するを須陀洹と名づく。善男子、復た須を流と名づく。流に二種あり、一には順流、二には逆流なり。逆流を以っての故に須陀洹と名づく」と云えり。是れ流に無漏の聖道と生死の流との二義あり、前義によりて預流と称し、後義によりて逆流と名づくるの意を明にせるなり。又「五教章通路記巻50」に依るに預流果の人に三類あり、現般預流、現進預流、受生預流なり。就中、現に三界の修惑を都尽し、無学果を得て般涅槃するを現般預流と名づけ、現に進修して欲界修惑の前六品乃至九品を断じて一来果、又は不還果を証するものを現進預流と名づけ、一二生、或いは極めて多きは七返人天に往来して受生するを受生預流と名づく。順じに利中鈍の三根なりと云えり。又「中阿含巻1水喩経、巻20念身経」、「雑阿含経巻2、15、29」、「品類足論巻28」、「大毘婆沙論巻125、141」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「阿毘曇心論巻5」、「成実論巻2」、「顕揚聖教論巻3」、「瑜伽師地論巻26」、「大乗阿毘達磨雑集論巻13」、「大乗義章巻17本」、「大乗法苑義林章巻5本」、「成唯識論述記巻1本」、「倶舎論光記巻23」、「華厳五教章巻3」、「慧苑音義巻上」等に出づ。<(望)
  七生(しちしょう):須陀洹果を得た利根の者は人天を長くとも七往返する中に阿羅漢果を得るを云う。『大智度論巻2上注:四向四果、巻18上注:須陀洹』参照。
大辟支佛亦於一百劫中。作功德增長智慧。得三十二相分。或有三十一相或三十二十九相乃至一相。於九種阿羅漢中。智慧利勝於諸深法中總相別相。能入久修習定。常樂獨處。如是相名為大辟支迦佛。以是為異。 大辟支仏は、亦た一百劫中に於いて、功徳を作して、智慧を増長し、三十二相の分を得て、或は三十一相、或は三十、二十九相、乃至一相有り。九種の阿羅漢中に於いて、智慧の利に勝り、諸の深法中の総相別相に於いて、能く入りて、久しく定を修習し、常に独処を楽しむ。是の如き相を名づけて、大辟支迦仏と為し、是を以って異と為す。
『大辟支仏』も、
亦た、
『一百劫』中に、
『功徳』を、
『作して!』、
『智慧』を、
『増長し!』、
『三十二相の分』を、
『得て!』、
或は、
『三十一相』、
『有り!』、
或は、
『三十、二十九相、乃至一相』、
『有り!』、
『九種の阿羅漢』よりも、
『智慧』の、
『利さ!』で、
『勝り!』、
諸の、
『深法』中の、
『総相、別相』に、
『入ることができ!』、
久しく、
『定』を、
『修習して!』、
常に、
『独処』を、
『楽しむ!』、
是のような、
『相』を、
『大辟支迦仏』と、
『称し!』、
是れが、
『声聞』との、
『異なりである!』。
  九種阿羅漢(くしゅあらかん):阿羅漢の鈍根に思法、昇進法、不動法、退法、不退法、護法、実住法、慧解脱、九解脱の九種の差別、或いは退法、思法、護法、安住法、堪達法、不動法、不退法、独覚、仏の九種の差別有るを云う。『大智度論巻32下注:九無学』参照。
求佛道者從初發心作願。願我作佛度脫眾生。得一切佛法行六波羅蜜。破魔軍眾及諸煩惱。得一切智成佛道。乃至入無餘涅槃。隨本願行。從是中間所有智慧總相別相一切盡知。是名佛道智慧。 仏道を求むる者は、初発心より、作願すらく、『願わくは我れ、仏と作りて、衆生を度脱し、一切の仏法を得て、六波羅蜜を行じ、魔の軍衆、及び諸の煩悩を破りて、一切智を得て、仏道を成じ、乃至無余涅槃に入らん』、と。本の願に随いて行ずるに、是より中間の有らゆる智慧もて、総相別相の一切を尽く知る、是れを仏道の智慧と名づく。
『仏の道』を、
『求める!』者は、
『初発心』より、
『願』を、こう作す、――
願わくは、
わたしは、
『仏』と、
『作って!』、
『衆生』を、
『度脱しよう!』。
一切の、
『仏法』を、
『得て!』、
『六波羅蜜』を、
『行おう!』。
わたしが、
『魔の軍衆』と、
『諸の煩悩』とを、
『破った!』ならば、
『仏の道』を、
『完成させて!』、
乃至、
『無余涅槃』に、
『入ろう!』、と。
『本の願』に、
『随って!』、
『行いながら!』、
是の、
『中間』の、
『有らゆる!』、
『智慧』と、
『総相、別相』の、
『一切を!』、
『尽く知る!』こと、
是れを、
『仏道』の、
『智慧』と、
『称する!』。
是三種智慧盡能知盡到其邊。以是故言到智慧邊。 是の三種の智慧を、尽く能く知り、尽く其の辺に到れば、是を以っての故に、『智慧の辺に到る!』と言う。
是の、
『三種の智慧』を、
尽く、
『知ることができ!』、
尽く、
其の、
『辺にまで!』、
『到る!』ので、
是の故に、こう言うのである、――
『智慧』の、
『辺に!』、
『到る!』、と。
問曰。若如所說一切智慧。盡應入若世間若出世間。何以但言三乘智慧盡到其邊不說餘智。 問うて曰く、若し所説の如くんば、一切の智慧は、尽く応に若しは世間、若しは出世間に入るべし。何を以ってか、但だ『三乗の智慧は、尽く其の辺に到る』と言いて、余の智を説かざる。
問い、
若し、
『説かれた!』所の通りならば、――
一切の、
『智慧』は、
『世間』か、
『出世間』かに、
『入るはずである!』。
何故、
但だ、
『三乗の智慧』は、
其の、
『辺に到る!』と、
『言い!』、
他の、
『智慧』を、
『説かないのですか?』。
答曰。三乘是實智慧。餘者皆是虛妄。菩薩雖知而不專行。如除摩梨山一切無出栴檀木。若餘處或有好語。皆從佛法中得自非佛法。初聞似好久則不妙。譬如牛乳驢乳。其色雖同牛乳攢則成酥。驢乳攢則成尿。 答えて曰く、三乗は、是れ実の智慧なり。余は皆、是れ虚妄なり。菩薩は、知ると雖も、専行せざるは、摩梨山を除けば、一切に栴檀木を出す無きが如く、若し余処にも、或は好語有るも、皆、仏法中より得う。仏法に非ざるに自るものは、初めて聞けば好きに似たれど、久しければ則ち妙にあらず。譬えば牛乳と驢乳とは、其の色は同じと雖も、牛乳を攢ずれば則ち酥と成り、驢乳を攢ずれば則ち尿と成るが如し。
答え、
『三乗の智慧』は、
是れは、
『実の!』、
『智慧である!』が、
『他の智慧』は、
皆、
『虚妄の!』、
『智慧だからである!』。
『菩薩』は、
『知っていながら!』、
『三乗の智慧』のみを、
『専行しない!』のは、
譬えば、
『栴檀の木』は、
『摩梨山』を、
『除けば!』、
『他に!』、
『出す処』が、
『無いように!』、
若し、
『余処』に、
或は、
『好語』が、
『有れば!』、
皆、
『仏法』中より、
『得たのであり!』、
『仏法』に、
『由来しない!』、
『好語』は、
『初めて!』、
『聞いた!』時には、
『好語』に、
『似ている!』が、
『久しく!』、
『聞いていれば!』、
『妙でない!』と、
『知るからである!』。
譬えば、
『牛乳』と、
『驢乳』とは、
其の、
『色』は、
『同じである!』が、
『牛乳』を、
『撹拌すれば!』、
『酥(チーズ)』に、
『成る!』のに、
『驢乳』を、
『撹拌すれば!』、
『尿』に、
『成るようなものである!』。
  摩梨山(まりせん):山名、摩梨は梵名 malaya、又摩羅耶に作る。『巻2上注:牛頭栴檀大智度論、巻18上注:摩羅耶』参照。
  摩羅耶(まらや):梵名 malaya、又魔羅耶、摩羅延、摩梨に作る。山名。栴檀を産出する処。「慧苑音義巻下」に、「摩羅耶山は、具に摩利伽羅耶と云う。其の山は南天竺の境、摩利伽羅耶国の南界に在りて、国に因りて以って山の名を立つ。其の山中に多く白栴檀木を出すなり」と云い、「慧琳音義巻27」には、「摩羅耶山、亦た摩羅延とも云う。摩羅は此に垢と云い、耶を除と云うなり。山は南天竺の境に在り、国に因りて名と為す。其の山は白栴檀香を出し、入らば香潔なるが故に除垢と云うなり」と云い、「大智度論巻2」には、「栴檀香の摩梨山に出でて、摩梨山を除かば栴檀を出す無きが如し」と云えるにより、知るべし。<(丁)
  (せん):鑽に同じ。きりもみする。撹拌するが如き状を為す。
  (そ):牛羊等の乳を撹拌して豆腐状に固めたもの。之を干して水分を抜くと熟酥、則ちチーズに成る。



外道の持戒、禅定、智慧

佛法語及外道語。不殺不盜慈愍眾生攝心離欲觀空雖同。然外道語初雖似妙。窮盡所歸則為虛誑。 仏法の語、及び外道の語は、不殺、不盗、慈愍衆生、摂心、離欲、観空を、同じうすと雖も、然るに外道の語は、初めは妙に似たりと雖も、窮尽して帰する所は、則ち虚誑と為す。
『仏法の語』も、
『外道の語』も、
『殺すな!』、
『盗むな!』、
『衆生を慈愍せよ!』、
『心を摂(おさ)めよ!』、
『欲を離れよ!』、
『空を観よ!』と、
『言う!』ところは、
『同じである!』。
然し、
『外道の語』は、
『初め!』は、
『妙である!』ように、
『見える!』が、
『窮め尽せば!』、
『帰する!』所は、
『虚誑である!』。
一切外道皆著我見。若實有我應墮二種。若壞相若不壞相。若壞相應如牛皮。若不壞相應如虛空。此二處無殺罪無不殺福。 一切の外道は、皆我見に著す。若し実に我有れば、応に二種に堕すべし。若しは壊相、若しは不壊相なり。若し壊相なれば、応に牛皮の如くなるべし。若し不壊相なれば、応に虚空の如くなるべし。此の二処には、殺罪無く、不殺の福無し。
一切の、
『外道』は、
皆、
『我見』に、
『著する!』ので、
『壊相』か、
『不壊相』の、
『二種』に、
『堕ちるはずである!』。
若し、
『壊相』に、
『堕ちれば!』、
『我』は、
『牛皮』に、
『似ていなくてはならず!』、
若し、
『不壊相』に、
『堕ちれば!』、
『我』は、
『虚空』に、
『似ていなくてはならない!』が、
此の、
『二処(牛皮、虚空)』には、
『殺』の、
『罪』も、
『無く!』、
『不殺』の、
『福』も、
『無い!』。
若如虛空雨露不能潤。風熱不能乾。是則墮常相。若常者苦不能惱樂不能悅。若不受苦樂。不應避禍就福。若如牛皮則為風雨所壞若壞則墮無常。若無常則無罪福。外道語若實如是。何有不殺為福殺生為罪。 若し虚空の如くんば、雨露も潤す能わず、風熱も乾かす能わず、是れ則ち常相に堕すなり。若し常ならば、苦も悩ます能わず、楽も悦ばす能わず。若し苦楽を受けずんば、応に禍を避け、福を就(な)すべからず。若し牛皮の如くんば、則ち風雨に壊られん。若し壊らるれば、則ち無常に堕す。若し無常なれば、則ち罪福無し。外道の語、若し実に是の如くんば、云何が不殺にして福を為し、殺生して罪を為すこと有らん。
若し、
『虚空のようならば!』、
『雨』や、
『露』も、
『潤(うるお)せず!』、
『風』や、
『熱』も、
『乾かせない!』ので、
是れは、
則ち、
『常相』に、
『堕ちることになる!』。
若し、
『常ならば!』、
『苦』も、
『悩ますことができず!』、
『楽』も、
『悦ばすことができない!』。
若し、
『苦、楽』を、
『受けなければ!』、
『禍(わざわい)』を、
『避けて!』、
『福』を、
『成就するはずがない!』。
若し、
『牛皮のようならば!』、
『風、雨』に、
『壊される!』ので、
則ち、
『無常』に、
『堕ちることになる!』。
若し、
『無常ならば!』、
則ち、
『罪、福』は、
『無いことになる!』。
『外道の語』が、
若し、
『実に!』、
『是の通りならば!』、
何故、これが有るのか?――
『不殺生』は、
『福』を、
『為すとか!』、
『殺生』は、
『罪』を、
『為すということが!』。
問曰。外道戒福所失如是。其禪定智慧復云何。 問うて曰く、外道の戒福の失う所は是の如し。其の禅定、智慧は復た云何。
問い、
『外道』の、
『戒福』の、
『失う!』所は、
『是の通りであろう!』。
其の、
『禅定』や、
『智慧』は、
いったい、
『何うですか?』。
答曰。外道以我心逐禪故。多愛見慢故。不捨一切法故。無有實智慧。 答えて曰く、外道は、我心を以って、禅を逐うが故に、多く見を愛して、慢るが故に、一切の法を捨てざるが故に、実の智慧有ること無し。
答え、
『外道』は、
『我心』を、
『用いて!』、
『禅』を、
『追求する!』が故に、
『自見』を、
『愛する!』ことが、
『多く!』、
『慢(あなど)る!』が故に、
『一切の!』、
『法』を、
『捨てない!』が故に、
是の故に、
『実の!』、
『智慧』が、
『無い!』。
問曰。汝言外道觀空。觀空則捨一切法。云何言不捨一切法故。無有實智慧。 問うて曰く、汝が言わく、『外道は空を観る』、と。空を観れば則ち、一切の法を捨つるなり。云何が、『一切の法を捨てざるが故に、実の智慧有ること無し』、と言う。
問い、
お前は、こう言ったが、――
『外道』は、
『空』を、
『観る!』、と。
然し、
『空』を、
『観れば!』、
則ち、
『一切の法』を、
『捨てることになる!』。
何故、こう言うのですか?――
一切の、
『法』を、
『捨てない!』が故に、
『実』の、
『智慧』が、
『無いのだ!』、と。
答曰。外道雖觀空。而取空相。雖知諸法空。而不自知我空。愛著觀空智慧故。 答えて曰く、外道は、空を観ると雖も、空相を取れば、諸法の空を知ると雖も、自ら我の空なるを知らず。観空の智慧に愛著するが故なり。
答え、
『外道』は、
『空』を、
『観ても!』、
『空』に、
『相』を、
『取って!』、
諸の、
『法』が、
『空である!』ことを、
『知る!』ので、
自らの、
『我』が、
『空である!』ことを、
『知らない!』。
『空を観る!』という、
『智慧』に、
『愛著するからである!』。
問曰。外道有無想定。心心數法都滅。都滅故無有取相愛著智慧咎。 問うて曰く、外道には無想定有りて、心心数法を都べて滅す。都べて滅するが故に、相を取りて、智慧に愛著する咎有ること無し。
問い、
『外道』には、
『無想定』が、
『有り!』、
『心、心数法』の、
『都()べて!』が、
『滅する!』。
『心、心数法』の、
『都べて!』が、
『滅する!』が故に、
『相を取り!』、
『智慧を愛著する!』ような、
『咎』は、
『無い!』。
  無想定(むそうじょう):外道が心心数法を滅して入る定。滅受定、或いは滅尽定に対す。即ち無想天を以って真解脱なりと執する者が、想を厭壊して心心数法を滅せしむる定。『大智度論巻17下注:無想定、滅尽定』参照。
答曰。無想定力強令心滅。非實智慧力。又於此中生涅槃想。不知是和合作法。以是故墮顛倒中。是中心雖暫滅。得因緣還生。譬如人無夢睡時心想不行悟則還有。 答えて曰く、無想定の力は、強いて心をして滅せしむれば、実の智慧の力に非ず。又此の中に於いて、涅槃の想を生じ、是れ和合の作法なるを知らず。是を以っての故に、顛倒中に堕す。是の中に心は、暫く滅すと雖も、因縁を得れば還た生ず。譬えば、人の夢無く睡る時には、心想行ぜず、悟(さむ)れば則ち還た有るが如し。
答え、
『無想定』の、
『力』は、
『心』を、
『強いて!』、
『消滅させるものであり!』、
是れは、
『実の智慧』の、
『力ではない!』。
又、
是の、
『無想定』中には、
『涅槃』の、
『想(妄想)』を、
『生じる!』が、
『涅槃』が、
『和合の作法(有為法)である!』ことを、
『知らない!』ので、
是の故に、
『顛倒』中に、
『堕ちることになる!』。
是の、
『無想定』中に、
『心』は、
『暫時!』、
『滅している!』が、
『因縁』を、
『得れば!』、
『心』は、
『還()た!』、
『生じることになる!』。
譬えば、
『人』が、
『夢』も、
『無く!』、
『睡っている!』時には、
『心』の、
『想』が、
『働かなくても!』、
『醒めれば!』、
『還た!』、
『想』が、
『有るようなものである!』。
  (ご):覚る/理解する/覚悟( understand )、醒める/覚醒( awake )、喚起する( arouse )、相対する( meet )。
問曰無想定其失如是。更有非有想非無想定。是中無一切妄想。亦不如強作無想定滅想。是中以智慧力故無想。 問うて曰く、無想定の其の失は是の如し。更に非有想非無想定有り、是の中には、一切の妄想無く、亦た強いて無想定を作して、想を滅せしむるが如きにもあらず。是の中の智慧の力を以っての故に無想なり。
問い、
『無想定』の、
『失』は、
『是の通りである!』が、
更に、
『非有想非無想定』が、
『有る!』。
是の中には、
一切の、
『妄想』が、
『無く!』、
亦た、
『無想定』を、
『強いて!』、
『作して!』、
『想』を、
『消滅させる!』のと、
『同じではない!』。
是の中の、
『智慧』の、
『力』の故に、
『想』が、
『無くなるのです!』。
答曰。是中有想細微故不覺若無想佛弟子。復何緣更求實智慧。佛法中是非有想非無想中識。依四眾住。是四眾屬因緣故無常。無常故苦。無常苦故空。空故無我。空無我故可捨。汝等愛著智慧故不得涅槃。 答えて曰く、是の中に有る想は微細なるが故に覚らざるなり。若し無想なれば、仏弟子は復た何に縁りてか、更に実の智慧を求むる。仏法中に、是の非有想非無想中の識は、四衆に依りて住す。是の四衆は、因縁に属するが故に無常なり。無常なるが故に苦なり。無常、苦なるが故に空なり。空なるが故に無我なり。空、無我なるが故に捨つべし。汝等は、智慧を愛著するが故に、涅槃を得ず。
答え、
是の、
『非有想非無想定』中にも、
『想』は、
『有る!』が、
『微細である!』が故に、
『覚らないのである!』。
若し、
『想』が、
『無ければ!』、
いったい、
『仏弟子』は、
何のような、
『因縁』の故に、
更に、
『実の智慧』を、
『求めるのか?』。
『仏法』中には、
是の、
『非有想非無想中の識』は、
『四衆(受想行識)』に、
『依存して!』、
『住まっている!』が、
是の、
『四衆』は、
『因縁』に、
『属する!』が故に、
『無常であり!』、
『無常』の故に、
『苦であり!』、
『無常、苦』の故に、
『空であり!』、
『空』の故に、
『無我であり!』、
『空、無我』の故に、
『四衆』は、
『捨てなくてはならない!』が、
お前たちは、
『智慧』を、
『愛著する!』が故に、
『涅槃』を、
『得られないのである!』。
  四衆(ししゅ):四無色蘊、謂わゆる受想行識なり。但し「大毘婆沙論巻83」には、分別論者は無色界中にも猶お細色ありと説くと云い、又単なる定の場合は天に生ずると或いは異ありて、蓋し微細の色を有するやも知れず、その場合或いは色受想行を指すことあらん。
  非有想非無想定(ひうそうひむそうじょう):又非想非非想処定と称す。非想非非想処の定なり。『大智度論巻18上注:非想非非想処』参照。
  非想非非想処(ひそうひひそうじょ):梵語 naivasaMjJaanaasaMjJaayatana、又非有想非無想処と云い、其の異熟の果を非有想非無想処天、非想非非想天、或いは非非想天とも称す。四無色界の第四、即ち無所有処を厭患して非想非非想処定を修し、異熟の果を感ずるを云う。「中阿含巻24大因経」に、「復た次ぎに、阿難、無色の衆生あり、一切の無所有処を度して非有想非無想処なり。是の非有想非無想処に成就して遊ぶは、謂わく非有想非無想処天なり」と云い、「品類足論巻7」に、「非想非非想処とは云何、此れに二種あり、一に定、二に生なり。此の中、所繋の受想行識、是れを非想非非想処と名づく」と云える是れなり。是れ非想非非想処に定、及び生の二種あり、定は即ち非想非非想処定にして生は其の定に由りて感ずる所の非想非非想処天なることを説けるものなり。蓋し無色界には色無きが故に非想非非想処も彼れの空無辺処等に同じく、唯所繋の受想行識の四蘊を以って其の自性となし、就中、異熟生たる非想非非想処天は無覆無記の四蘊を体とし、寿八万大劫にして、三界絶高の果報なるが故に、亦た称して有頂天 bhavaagra と名づけらるるなり。非想非非想処の名義に関しては、「大毘婆沙論巻84」に、「此の地の中には明了想の相なく、亦た無想の相もなきが故に非想非非想処と名づく。明了想の相なしとは、七地の有想定の如きに非ざるが故なり。亦た無想の相なしとは、無想及び滅定の如きに非ざるが故なり。此の地の想は闇鈍羸劣にして、明了ならず決定ならざるに由るが故に非想非非想処と名づく」と云えり。是れ明了想の相なく、亦た無想の相もなく、唯闇鈍羸劣の想のみあるが故に此の称を立つることを明にせるなり。又此の地は闇鈍不決定なるが故に、無漏道あることなく、随って無学等の依地とならず。但し「大毘婆沙論巻185」に依るに、分別論者は世尊の弟子にして非想非非想処に生じ、命終の時に於いて煩悩と業と命との三事倶に尽きば、聖道に由らずして阿羅漢果を得となすと云い、一種の異説をなせり。又此の天は外道が涅槃とする所にして、「仏本行集経巻22答羅摩子品」には、優陀羅羅摩子が此の天を最上の解脱なりとして、悉達太子に其の修定を教示せしことを記し、「大毘婆沙論巻76」には、「寧ろ提婆達多と作りて無間獄に堕するも、嗢達洛迦遏羅摩子と作りて非想非非想天に生ぜざるべし」と云い、広く彼の外道の計を破する所あり。又「増一阿含経巻18」、「集異門足論巻6」、「倶舎論巻8、28」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6」等に出づ。<(望)
  無色界(むしきかい):梵語 aaruupya- dhaatu の訳。巴梨語 aruupa -dhaatu、色法無き界の意。三界の一。又無色天、或いは無色行天とも名づく。即ち色想を厭患して無色定を修する者の生ずべき方処色質なき天処を云う。「倶舎論巻8」に、「無色界の中には都て処あることなく、色法なきを以って方処あることなし。過去未来と無表と無色とは方所に住せず、理決然なるが故なり。但だ異熟生の差別に四あり、一に空無辺処、二に識無辺処、三に無所有処、四に非想非非想処なり。是の如き四種を無色界と名づく。此の四は処に上下あるに由るに非ず、但だ生に由るが故に勝劣殊あり。復た如何が彼れに方処なきを知るや、謂わく是の処に於いて彼の定を得る者は、命終して即ち是の処に於いて生ずるが故なり。復た彼れより没して欲色に生ずる時、即ち是の処に於いて中有起るが故なり」と云える是れなり。是れ此の界には都て色法なく、別の方処なきが故に無色界と名づけ、又処所の高下なきも、異熟生の勝劣差別に由りて空無辺処 aakaazaanantyaayatana、識無辺処 vijJaanaanantyaayatana、無所有処 aakiMcanyaayatana、非想非非想処 naivasaMjJaanaasaMjJaanaayatanaの四処の異あることを説けるものなり。此の中、前の三は定の加行に依り、後の一は其の定相の昧劣なるに依りて其の名を立つ。是の如く此の界には総じて四処あるが故に、亦た四無色界或いは四無色とも称するなり。又此の界に生ずる有情は色質を有せず、唯受想行識の四蘊を以って其の体とし、衆同分及び命根互いに相依りて転じて心等をして相続せしむるものなりとし、男根を成就せざるも皆男身にして、空無辺処は二万劫、識無辺処は四万劫、無所有処は六万劫、非想非非想処は八万劫の寿量を有すとなすなり。但し経量部に於いては別に衆同分等の所依あることなしとし、又「大毘婆沙論巻83」には、分別論者は無色界中にも猶お細色ありと説くと云えり。又「立世阿毘曇論巻6、7」、「大毘婆沙論巻98、137、145」、「倶舎論巻11、28」等に出づ。<(望)
譬如尺蠖屈安後足然後進前足。所緣盡無復進處而還。外道依止初禪捨下地欲。乃至依非有想非無想處。捨無所有處。上無所復依。故不能捨非有想非無想處。以更無依處恐懼失我。畏墮無所得中故。 譬えば、尺蠖の、屈んで後足を安(お)き、然る後に前足を進め、所縁尽きて、復た進む処無ければ、還るが如く、外道は、初禅に依止して、下地の欲を捨て、乃至非有想非無想処に依りて無所有処を捨つれば、上に復た依る所無きが故に、非有想非無想処を捨つる能わず、更に依る所無ければ、我を失うを恐懼して、無所得中に墮つるを畏るるが故なり。
譬えば、
『尺蠖(尺取り虫)』が、
『屈んで!』、
『後足』を、
『安置して!』、
その後、
『前足』を、
『進めながら!』、
『縁じる!』所の、
『枝』が、
『尽きて!』、
『進む!』、
『処』が、
『無くなる!』と、
復た、
『還るように!』、
『外道』は、
『初禅』に、
『依止しながら!』、
『下地の欲』を、
『捨て!』、
『乃至非有想非無想処』に、
『依止して!』、
『無所有処』を、
『捨ててしまえば!』、
上には、
もう、
『依止する!』所が、
『無い!』が故に、
是の、
『非有想非無想処』を、
『捨てることができない!』。
更に、
『依止する!』、
『処』が、
『無くなれば!』、
『我』を、
『失う!』ことを、
『恐懼し!』、
『無所有』中に、
『堕ちる!』ことを、
『畏れるからである!』。
  尺蠖(しゃくかく):尺取り虫( inchworm, looper, geometer )。
  恐懼(くく):恐怖( fear, dread )。
復次外道經中。有聽殺盜婬妄語飲酒言。為天祠咒殺無罪。為行道故。若遭急難欲自全身。而殺小人無罪。又有急難為行道故。除金餘者得盜取以自全濟。後當除此殃罪。除師婦國王夫人善知識妻童女。餘者逼迫急難得邪婬。為師及父母為身為牛為媒故。聽妄語。寒鄉聽飲石蜜酒。天祠中或聽嘗一渧二渧酒。 復た次ぎに、外道の経中には、有るいは殺、盗、婬、妄語、飲酒を聴して、言わく、『天祠を為して、咒殺するは無罪なり。道を行かんが為の故に、若し急難に遭いて、自ら身を全うせんと欲せば、小人を殺すも無罪なり。又急難有りて、道を行かんが為の故に、金を除きて余の者は、盗取するを得、自ら全済し、後に当に此の殃罪を除くべし。師婦、国王の夫人、善知識の妻、童女を除きて、余の者は、急難に逼迫すれば、邪婬するを得。師及び父母の為、身の為、牛の為、媒の為の故に、妄語を聴す。寒郷にては石蜜酒を飲むを聴す。天祠中に或は一渧、二渧の酒を嘗むるを聴す』、と。
復た次ぎに、
『外道の経』中には、
有るいは、
『殺、盗、婬、妄語、飲酒』を、
『聴(ゆる)して!』、こう言っている、――
『天』の、
『祠(まつり)』を、
『為して!』、
『人』を、
『咒殺する!』のは、
『無罪である!』。
『道』を、
『行く!』為の故に、
若し、
『急難』に、
『遭遇して!』、
自ら、
『身』を、
『全うしようとするならば!』、
『小人』を、
『殺しても!』、
『罪』は、
『無い!』。
又、
『急難』が、
『有って!』、
『道』を、
『行く!』為の故に、
『金』を、
『除けば!』、
『他の物』を、
『盗取して!』、
それで、
『自ら!』を、
『全済(完全な救済)した!』ならば、
後に、
『善』を、
『作して!』、
此の、
『殃罪(過罪)』を、
『除かねばならぬ!』。
『師の婦』、
『国王の夫人』、
『善知識の妻』、
『童女』を、
『除いて!』、
『他の者』は、
『急難』が、
『逼迫すれば!』、
『邪婬することができる!』。
『師と父母』の為、
『自身』の為、
『牛』の為、
『媒介人』の為の故ならば、
『妄語しても!』、
『聴(ゆる)される!』。
『寒郷』では、
『石蜜酒』を、
『飲んでも!』、
『聴される!』、
『天祠』中ならば、
或は、
『一滴、二滴の酒』を、
『嘗めても!』、
『聴される!』。
  (し):生贄を捧げる儀式( offer a sacrifice to )、生贄( sacrifice )、寺院( temple )。
  咒殺(じゅせつ):まじないで殺す。
  急難(きゅうなん):さしせまった難儀。
  小人(しょうにん):しもじも。庶民。
  (さい):多くの/衆多( numerous )、整然とした/美しく整った( in good order, neat, fine, nice )、河川を渡過する( cross a stream )、幇助/救助( help, assist, salve )、救出/救済( relieve )、有益/作用/発揮( bring into play )、成就/達成( achieve )、停/止( stop )、増加( increase, add )、不足を補う/完全にする( make up )、匹敵する( can compare with )、けっこうな( all right, well )、有能/有用/有効( capable, useful, effective )。
  殃罪(おうざい):罪禍。
  善知識(ぜんちしき):知識とは、其の心を知り、其の形を識るの義にして、知人乃ち朋友の義なり、博知博識の謂に非ず。善とは我れに於いて益を為す、我れを善道に導く者なり。「法華文句巻4」に、「名を聞くを知と為し、形を見るを識と為す。是の人は我が菩提の道を益するに、善知識と名づく」と云い、「法華経妙荘厳王品」に、「善知識とは、是れ大因縁なり、謂わゆる化導して仏に見え、阿耨多羅三藐三菩提心を発すことを得しむ」と云い、「有部毘奈耶雑事」には、「阿難陀の言わく、諸の修行者は、善友の力に由り、方に能く成辦すべし。善友を得るが故に、悪友を遠離す、是の義を以っての故に、方に善友を知るは是れ半ば梵行なりと。仏の言わく、是の言を作す勿かれ、善知識は是れ半ば梵行なりと。何を以っての故に、善知識は是れ全き梵行なり、此れに由りて便ち能く悪知識を離るれば、諸悪を造らず、常に修善を修めて純一清白、円満梵行の相を具足すればなり。是の因縁に由り、若し善伴を得て其れと同住せば、乃至涅槃まで事として辦ぜざる無けん、故に全き梵行と名づくと」と云える是れなり。<(丁)
  (ばい):仲立ち人/媒介人/媒人( go-between, matchmaker )、仲介者( intermediary )、媒介( medium )。
  石蜜(しゃくみつ):氷砂糖。
  (たい):しずく。滴に同じ。
佛法中則不然。於一切眾生慈心等視。乃至蟻子亦不奪命。何況殺人。一針一縷不取。何況多物無主。婬女不以指觸何況人之婦女。戲笑不得妄語。何況故作妄語。一切酒一切時常不得飲。何況寒鄉天祠。 仏法中には、則ち然らず。一切の衆生に於いて慈心もて等視すれば、乃至蟻子も亦た、命を奪わず。何に況んや人を殺すをや。一針、一縷すら取らず。何に況んや多くの物をや。無主の婬女すら、指を以って触れず。何に況んや、人の婦女をや。戯笑にすら、妄語するを得ず。何に況んや故に妄語を作すをや。一切の酒は、一切の時に、常に飲むを得ず。何に況んや、寒郷、天祠をや。
『仏法』中には、
そうではない、――
『一切の!』、
『衆生』を、
『等しく!』、
『視て!』、
乃至、
『蟻の子すら!』、
『命』を、
『奪わない!』。
況して、
『人』を、
『殺す!』など、
『尚更である!』。
『一本の!』、
『針』や、
『糸すら!』、
『取らない!』、
況して、
『多く!』の、
『物』は、
『尚更である!』。
『無主』の、
『婬女すら!』、
『指』を、
『用いて!』、
『触れない!』、
況して、
『人』の、
『婦(つま)』や、
『女(むすめ)』は、
『尚更である!』。
『戯笑(談笑)にすら!』、
『妄語してはならない!』、
況して、
『故意に!』、
『妄語する!』など、
『尚更である!』。
『一切の酒』は、
『一切の時』の、
『飲んではならない!』。
況して、
『寒郷、天祠』は、
『尚更である!』。
  等視(とうし):等しく視る。
  蟻子(ぎし):蟻の子。小虫の通称。
  (る):いと。
  婦女(ふにょ):つまとむすめ。
  戯笑(げしょう):たわむれ笑う。
  寒郷(かんごう):寒い土地。
汝等外道與佛法懸殊有若天地。汝等外道法。是生諸煩惱處。 汝等外道は、仏法と懸殊すること、有るいは天、地の若し。汝等が外道の法は、是れ諸の煩悩を生ずる処なり。
お前たちの、
『外道の法』が、
『仏法』と、
『懸け離れている!』のは、
有るいは、
『天、地』と、
『同じである!』。
お前たちの、
『外道の法』とは、
諸の、
『煩悩』を、
『生じる!』、
『処なのだ!』。



昆勒門、阿毘曇門、空門

佛法則是滅諸煩惱處。是為大異。諸佛法無量有若大海。隨眾生意故種種說法。或說有或說無或說常或說無常或說苦或說樂或說我或說無我或說懃行三業攝諸善法或說一切諸法無作相。如是等種種異說。無智聞之謂為乖錯。智者入三種法門。觀一切佛語。皆是實法不相違背。 仏法は、則ち是れ諸の煩悩を滅する処なれば、是れを大異と為す。諸の仏法は無量にして、有るいは大海の若し。衆生の意に随うが故に、種種に法を説き、或は有を説き、或は無を説き、或は常を説き、或は無常を説き、或は苦を説き、或は楽を説き、或は我を説き、或は無我を説き、或は三業を懃行するに諸の善法を摂すと説き、或は一切の諸法には作相無しと説く。是の如き等の種種の異説は、無智之を聞きて謂いて、乖錯と為し、智者は、三種の法門に入りて、一切の仏語を観れば、皆、是れ実法にして相違背せず。
『仏法』は、
諸の、
『煩悩』を、
『滅する!』、
『処であり!』、
是が、
『大いに!』、
『異なる!』。
諸の、
『仏法』は、
『無量であり!』、
譬えば、
『大海ほども!』、
『有る!』が、
皆、
『衆生の意』に、
『随って!』、
『種種に!』、
『説かれた!』、
『法である!』。
或は、
『有である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『無である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『常である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『無常である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『苦である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『楽である!』と、
『説かれ!』、
或は、
『我だ!』と、
『説かれ!』、
或は、
『無我だ!』と、
『説かれ!』、
或は、
『三業』を、
『懃行(修行)すれば!』、
諸の、
『善法を摂することになる!』と、
『説かれ!』、
或は、
一切の、
諸の、
『法』には、
『作相(所作有るの相)が無い!』と、
『説かれた!』が、
是れ等の、
種種の、
『異説』を、
『聞いて!』、
『無智の者』は、
『互に!』、
『違背している!』と、
『謂う!』が、
『有智の者』は、
『三種の法門』に、
『入って!』、
『一切の仏語』を、
『観る!』ので、
是れは、
皆、
『実の法であって!』、
『互に違背しない!』。
  三業(さんごう):十善なり。即ち不殺、不盗、不邪婬を身業と為し、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語を口業と為し、不貪、不瞋、不邪見を意業と為し、総じて三業と云う。
  作相(さそう):梵語 iGgita の訳、暗示/手まね/身振り( hint, sign, gesture )、目的/目的の見えない現実( aim, intention, real but covert purpose )の義、作 (to do, make, create) の相の意。 ceSTita- lakSaNa? 或は有為法の相 saMskRta- lakSaNa の如し。◯梵語 nimittii-√(kR) の訳、相を作成する( to construct signs )の義。◯梵語 nir-√(maa) の訳、造り出す/形成する/創造する( to build, make out of, form, fabricate, produce, create )の義。◯梵語 lakSaNaani sthaapyante の訳、相の住処( a dwelling of marks )の義、有為法 saMskRta の意。
  無作(むさ):梵語 avijJapti の訳、訴うること無しの意。因縁の造作無きを云う。『大智度論巻18上注:作無作』参照。
  作無作(さむさ):又表無表とも称す。作業と無作業との総称なり。『大智度論巻18上注:表無表』参照。
  表無表(ひょうむひょう):表業(梵語 vijJapti-karman )と無表業(梵語 avijJapti-karman )との略称。又表無表業、有表業無表業、或いは作無作、教無教とも名づく。他をして表知せしむる業を表業、表知せしむる能わざるものを無表業となすなり。「品類足論巻7」に、「身業とは云何、謂わく身表及び無表なり。語業とは云何、謂わく語表及び無表なり」と云える是れなり。是れ身語意三業の中、唯身語二業にのみ表及び無表の二種あることを説けるものなり。意業に表無表なき所以に関し、「順正理論巻33」に、「復た何の縁ありてか、唯身語業のみ表無表の性にして、意業は然らざるや。意業の中には彼の相なきを以っての故なり。謂わく能く表示するが故に名づけて表と為す、自心を表示して他をして知らしむるが故なり。思には是の事なし、故に表と名づけず。(中略)是の如く且く意業は表に非ざるを辯ず。亦た無表に非ずとは、無表業の初起は必ず生因の大種に依るを以って、此の後の無表は生因滅すと雖も、定んで同類の大種ありて依と為るが故に、後後の時無表続起す。諸の意業の起るは必ず心に依る。後後の時定んで同類の心ありて相続して起り、意の無表は彼の心に依止して多念相続すべきに非ず。心の善等は念念に殊あるを以ってなり。設い無表の思は同類続起せんも、如何ぞ前の心の意業に依止して、後念の異類の心に随って転ずべけんや。意業の心不相応あるに非ず。故に意業の中には亦た無表もなきなり。此の故に唯身語二業にのみ表無表の性あること、其の理善く成ず」と云えり。是れ意業は身語表業の如く他をして表知せしむる義なきが故に表業と名づけず。又意業の起ることは必ず心に依るものにして、身語無表業の如く初刹那は生因の大種に依り、後後の刹那は同類の大種に依りて続起するに非ず。然るに心は定んで同類相続して起るものに非ざるが故に、若し意業の無表ありとせば、彼の無表は即ち異類の心に随って転ぜざるべからざる結果となり、無表の善又は不善の性を持続すること能わず、故に意業の無表ありとするは理に応ぜずとなすの意なり。表無表業の体に関し、説一切有部に於いては身表業は形色を以って体とし、語表業は言声を以って体とし、無表は法処所摂の色を以って体とすとし、共に実有の法となすなり。又表業は善悪無記の三性に通じ、尋伺に由りて起るが故に欲界及び初禅に有り。無表業は唯善悪の二性にして無記のものなく、又欲色二界にのみ有り。「倶舎論巻13」に、「無表は唯善と不善との性に通じ、無記あるいことなし。所以は何ぞ、無記心は勢力微劣にして強業を引発して生ぜしめ、因滅する時果仍お続起すべきこと能わざるを以ってなり。余とは表及び思なり。三とは謂わく皆善悪無記に通ず。(中略)欲色二界には皆無表あり、無色の中には大種なきを以っての故なり。(中略)表色は唯二の有伺地に在り、謂わく欲界と初静慮の中に通ず。(中略)復た何の因を以って二定以上には都て表業なく、欲界の中に於いて有覆無記の表業あることなきや。発業の等起心なきを以っての故なり。尋伺の心あれば能く表業を発するも、二定以上には都て此の心なければなり。又表を発するの心は唯修所断なり。見所断の惑は内門転なるが故に、欲界の中には決定して有覆無記の修所断の惑あることなきを以ってなり。是の故に表業は上の三地に都て無く、欲界の中には有覆無記の表なし」と云える即ち其の意なり。蓋し説一切有部に於いては是の如く表無表共に別体ありとし、且つ共に之を色蘊の所摂となせるも、「成実論巻7業品並びに無作品」には、身口意三業に各作無作ありとし、又無心位に於いても無作あるが故に無作は心法に非ず、無作には悩壊の相なきが故に亦た色法に非ず、即ち非色非心の法にして、行陰の所摂なりとし、経量部にては表業は仮にして実に非ず、唯動発勝思が身門に依りて行ずるを身表とし、語門に依るを語表となすと云い、又無表は此の二の勝思に従って起る所の思の差別に過ぎざれば、別に実体あるべきに非ずとなし、唯識家に於いても亦た仮立説を取り、「成唯識論巻1」に、「身表業は定んで実有に非ず、然も心が因と為り、識所変の手等の色相をして生滅相続して余方に転趣せしめ、動作あるに似て、心を表示するが故に仮に身表と名づく。語表も亦た実有の声の性に非ず、一刹那の声は詮表なきが故に、多念相続は便ち実に非ざるが故なり。外の有対の色は前に已に破するが故なり。然も心に因るが故に識変じて声に似て、生滅相続して表示あるに似たるを仮に語表と名づけんには、理に於いて違することなし。表既に実に無し、無表寧ぞ実ならん。然れども思と願との善悪の分限に依りて、無表を仮立するも理亦た違することなし。謂わく此れ或いは勝れたる身語を発する善悪の思種の増長する位に依りて立て、或いは定中に身語の悪を止むる現行の思に依りて立つ。故に是れ仮有なり」と云えり。以って諸論の説の異同を見るべし。又「優婆塞戒経巻6」、「大毘婆沙論巻122、123」、「成実論巻89業品」、「瑜伽師地論巻53」、「雑阿毘曇心論巻3」、「倶舎論巻1、14」、「順正理論巻35」、「大乗義章巻7」、「倶舎論光記巻13、14」、「成唯識論述記巻2本」、「大乗法苑義林章巻3末」等に出づ。<(望)
  乖錯(けさく):背きたがう。
何等是三門。一者昆勒門。二者阿毘曇門。三者空門。 何等か、是れ三門なる、一には昆勒門、二には阿毘曇門、三には、空門なり。
何のような、
『三種の門なのか?』、――
一には、
『昆勒門であり!』、
二には、
『阿毘曇門であり!』、
三には、
『空門である!』。
  昆勒(こんろく):又蜫勒とも称す。摩訶迦旃延所造の論部。『大智度論巻2上注:摩訶迦旃延、巻18上注:蜫勒』参照。
  蜫勒(こんろく):梵名。筺蔵と訳す。摩訶迦旃延所造の論部の名。「大智度論巻2」に、「摩訶迦旃延は、仏の在時に仏語を解して蜫勒を作る。乃至今南天竺に行わる」と云い、又「阿毘曇に三種あり、一には阿毘曇身及び義なり、略説三十二万言あり。二には六分、略説三十二万言あり。三には蜫勒、略説三十二万言あり。蜫勒は広く諸事に比し、類を以って相従す。阿毘曇には非ず」と云い、又「同巻18」に、「智者は三種の法門に入りて一切の仏語を観ずるに、皆是れ実法にして相違背せず。何等か是れ三門なる、一には蜫勒門、二には阿毘曇門、三には空門なり。問うて曰わく、云何が蜫勒と名づけ、云何が阿毘曇と名づけ、云何が空門と名づくる。答えて曰わく、蜫勒に三百二十万言あり。仏在世の時、大迦旃延の造る所なり。仏滅度の後、人寿転た減じて憶識力少く、広く誦すること能わず。諸の得道の人は撰して三十八万四千言と為す。若し人あり、蜫勒門に入りて論議すれば則ち無窮なり。其の中、随相門、対治門等の種種の法門あり」と云える是れなり。此の中、随相門とは、一法一門の中に余の諸門の相離れざることを示すを云う。例せば仏説の偈に自浄其意と言うが如き、是の中には但だ意と説くと雖も、則ち同相同縁の故に諸の心数法も亦た已に説くと知るべし。四念処と説くが如き、是の中に四正勤、四如意足等を離れざるが故に、仏は余門を説かず、但だ四念処と説くも、則ち当に已に余門を説くと知るべし。譬えば一人ありて事を犯さば、挙家罪を受くるが如し。是の如き等を名づけて随相門と為す。対治門とは仏の四顛倒を説くが如き、是の中には四念処を説かずと雖も、当に已に四念処の義あるを知るべし。譬えば薬を説かば已に其の病を知り、病を説かば則ち其の薬を知るが如し。是の如き等の種種の相を名づけて対治門と為すと云えり。蓋し此の論は遂に漢訳せられざりしが故に、其の内容の委細を詳にすること能わずと雖も、「大智度論巻18」に阿毘曇の有と説き、空門の無と説くに対し、蜫勒門は有無と説くと云い、又蜫勒門に入りて論議すれば則ち無窮なりと云うに考うるに、此の論は一辺に就かず頗る従容の説を唱えし一派なるを知るべきが如し。天台及び嘉祥等の師は、判じて之を小乗四門中の亦有亦空門と為せり。亦た以って其の意の存する所を見るべし。蜫勒の語義に関しては、「大智度論巻2の注に秦に訳して筺蔵と言うと云えり。然るに梵語 piTaka 又は peTaka は、普通に筺蔵又は蔵と訳せらる。されば蜫勒は恐らく毘勒の写誤なるべし。「可洪音義巻10」に、「蜫勒、上の音は毘、正しくは [内+比/虫+虫](蚍?)に作るなり。梵に毘勒と言う、秦に筺蔵と言うなり。第二十八巻(大智度論第二十五巻に在り)の内に外道の名を蜫盧坻に作る。維摩経に毘羅胝子に作るもの是れなり」と云えるは即ち妥当なりというべし。又巴梨仏典中、現に三蔵外の典籍として伝うるものに、peTak'opadesa と題する書あり。緬甸にて之を大迦旃延の作と伝うと云えば、今の蜫勒は恐らく此の書を指せるものなるべし。ガイガー W.Geiger は之を西暦第一世紀の初期の作なるべしとせり。又「法華経玄義巻8下、10上」、「摩訶止観巻6、10」、「四教義巻1、3、6」、「三論玄義」、「維摩経略疏巻7」、「南海寄帰内法伝巻4」等に出づ。<(望)
問曰。云何名昆勒。云何名阿毘曇。云何名空門。 問うて曰く、云何が昆勒と名づけ、云何が阿毘曇と名づけ、云何が空門と名づくる。
問い、
何を、
『昆勒』と、
『称し!』、
何を、
『阿毘曇』と、
『称し!』、
何を、
『空門』と、
『称するのですか?』。
答曰。昆勒有三百二十萬言。佛在世時大迦栴延之所造。佛滅度後人壽轉減。憶識力少不能廣誦。諸得道人撰為三十八萬四千言。若人入昆勒門論議則無窮。其中有隨相門對治門等種種諸門。 答えて曰く、昆勒は、三百二十万言有り、仏の在世の時の大迦旃延の所造にして、仏の滅度の後、人寿転た減じて、憶識の力少く、広く誦する能わず、諸の得道の人、撰して三十八万四千言と為せば、若し人、昆勒門に入りて、論議せば、則ち無窮なり。其の中に、随相門、対治門等の種種の諸門有り。
答え、
『昆勒』は、
『仏』の、
『在世の時』に、
『大迦旃延』が、
『造り!』、
『三百二十万言』、
『有った!』が、
『仏』の、
『滅度の後』に、
『人寿』が、
『次第に!』、
『減少し!』、
『憶識』の、
『能力』も、
『少なくなった!』ので、
『三百二十万言』を、
『広く!』、
『諳誦することができなくなった!』。
是の故に、
諸の、
『得道の人』が、
『約して!』、
『三十八万四千言』を、
『撰出したのである!』。
若し、
『人』が、
『昆勒門』に、
『入って!』、
『論議すれば!』、
『結論』を、
『得られず!』、
『無窮ということになり!』、
其の中には、
『随相門』や、
『対治門』等の、
種種の、
『諸門』が、
『有る!』。
隨相門者。如佛說偈
 諸惡莫作  諸善奉行 
 自淨其意  是諸佛教
随相門とは、仏の偈を説きたまえるが如し、
諸の悪は作すこと莫かれ、諸の善を奉行して、
自ら其の意を浄めよ、是れ諸仏の教なり。
『随相門(相に随って諸法を説く!)』とは、
例えば、
『仏の説かれた偈』が、そうである、――
諸の、
『悪』を、
『作してはならない!』、
諸の、
『善』を、
『追求して!』、
自らの、
『意』を、
『浄めよ!』、
是れが、
諸の、
『仏』の、
『教である!』、と。
  随相(すいそう):◯梵語 anulakSaNa の訳、相に随う( according to marks )の義。◯梵語 nimitta- maatraanusaarin の訳、副次的状態/派生的様相( the secondary states, derivative aspects )の義、即ち有為の四相なる生住異滅の如し( i.e. of conditioned phenomena: arising 生, abiding 住, changing 異, and extinction 滅. )。
  奉行(ぶぎょう):履行/従事/執行( purshue, follow )。
是中心數法盡應說。今但說自淨其意。則知諸心數法已說。何以故。同相同緣故。如佛說四念處。是中不離四正懃四如意足五根五力。何以故。四念處中四種精進則是四正懃四種定是為四如意足。五種善法是為五根五力。佛雖不說餘門但說四念處。當知已說餘門。如佛於四諦中或說一諦或二或三。 是の中に心数法を尽く、応に説くべきも、今は但だ、『自ら其の意を浄めよ』と説けば、則ち諸の心数法の已に説かれたるを知る。何を以っての故に、同相同縁なるが故なり。仏の説きたまえる四念処の如きは、是の中に四正懃、四如意足、五根、五力を離れず。何を以っての故に、四念処中の四種の精進は、則ち是れ四正懃にして、四種の定は、是れを四如意足と為し、五種の善法は、是れを五根、五力と為せばなり。仏は余門を説きたまわずと雖も、但だ四念処を説きたまえば、当に知るべし、已に余門を説きたまえりと。仏の四諦中に於いて、或は一諦、或は二、或は三を説きたまえるが如し。
是の中には、
『心数法』の、
『尽く!』を、
『説くべきである!』のに、
今は、
但だ、こう説かれただけで、――
自らの、
『意』を、
『浄めよ!』、と。
則ち、
こう知ることになる、――
諸の、
『心数法』は、
『已に!』、
『説かれたのだ!』、と。
何故ならば、
是の、
『意』は、
諸の、
『心数法』と、
『同相であり!』、
『同縁だからである!』。
例えば、
『仏』が、
『四念処』を、
『説かれる!』と、
是の中の、
『四念処』は、
『四正懃、四如意足、五根五力』を、
『離れない!』、
何故ならば、
『四念処』中の、
『四種の精進』は、
則ち、
『四正懃であり!』、
『四種の定』は、
則ち、
『四如意足であり!』、
『五種の善法』は、
則ち、
『五根五力だからである!』。
『仏』が、
『他の門』を、
『説かなくても!』、
但だ、
『四念処』を、
『説かれれば!』、
こう知らねばならない、――
已に、
『他の門』も、
『説かれたのだ!』、と。
例えば、
『仏』が、
『四諦』中の、
或は、
『一諦』を、
『説かれたり!』、
或は、
『二、三諦』を、
『説かれるのも同じである!』。
如馬星比丘為舍利弗說偈
 諸法從緣生  是法緣及盡 
 我師大聖王  是義如是說
馬星比丘の舎利弗の為に、偈を説けるが如し、
諸法は縁より生じ、是の法は縁及びて尽くと、
我が師大聖王は、是の義を是の如く説けり。
例えば、
『馬星(阿説示)比丘』が、
『舎利弗』の為に、
『偈』を、こう説いた、――
諸の、
『法』は、
『縁』に、
『従って!』、
『生じ!』、
是の、
『法』は、
『縁』が、
『及ぶ(到る)!』と、
『滅する!』と、
わたしの
『師である!』、
『大聖の王』は、
是の、
『義』を、
是のように、
『説かれた!』、と。
  馬星(めしょう):梵語 azvajit、巴梨語 assaji の訳。五比丘の一。威儀端正を以って名あり。『大智度論巻11上注:阿説示』参照。
  参考:『大智度論巻11』:『爾時阿說示比丘。說此偈言  諸法因緣生  是法說因緣  是法因緣盡  大師如是說』
此偈但說三諦。當知道諦已在中不相離故。譬如一人犯事舉家受罪。如是等名為隨相門。 此の偈は、但だ三諦を説くも、当に知るべし、道諦は已に中に在り、相離れざるが故なり。譬えば、一人事を犯せば、家を挙げて罪を受くるが如し。是の如き等を名づけて、随相門と為す。
此の、
『偈』には、
但だ、
『三諦(二諦?)』が、
『説かれただけである!』が、
こう知らねばならない、――
『道諦』は、
是の中に、
『在る!』、
何故ならば、
『互に!』、
『離れないからだ!』、と。
譬えば、
『一人』が、
『事』を、
『犯せば!』、
『一家』中が、
『罪』を、
『受けるようなものである!』。
是れ等のようなものを、
『随相門』と、
『称する!』。
對治門者。如佛但說四顛倒。常顛倒樂顛倒我顛倒淨顛倒。是中雖不說四念處。當知已有四念處義。譬如說藥已知其病說病則知其藥。 対治門とは、仏の但だ四顛倒の常顛倒、楽顛倒、我顛倒、浄顛倒を説きたもうに、是の中に四念処を説きたまわずと雖も、当に知るべし、已に四念処の義有りと。譬えば薬を説けば、已に其の病を知り、病を説けば、則ち其の薬を知るが如し。
『対治門』とは、
例えば、
『仏』は、
但だ、
『四顛倒』の、
『常顛倒、楽顛倒、我顛倒、浄顛倒』を、
『説かれて!』、
是の中に、
『四念処』を、
『説かれなかった!』としても、
こう知らねばならない、――
已に、
『四念処の義』は、
『有るのだ!』、と。
譬えば、
『薬』を、
『説けば!』、
其の、
『病』を、
『知るのであり!』、
『病』を、
『説けば!』、
其の、
『薬』を、
『知るようなものである!』。
  四顛倒(してんどう):顛倒の妄見を四種に類別せるもの。顛倒は梵語 viparyaasa の訳。又単に四倒とも称す。(一)有為の四顛倒。即ち凡夫が生死有為の法に対して起す四種の妄見を云う。一に常顛倒 nitya- viparyaasa、二に楽顛倒 sukha-v.、三に浄顛倒 zuci-v.、四に我顛倒 aatma-v. なり。「大智度論巻31」に、「世間に四顛倒あり、不浄の中に浄顛倒あり、苦の中に楽顛倒あり、無常の中に常顛倒あり、無我の中に我顛倒あり」と云い、「倶舎論巻19」に、「応に知るべし、顛倒に総じて四種あり、一には無常に於いて常と執する顛倒なり、二には諸苦に於いて楽と執する顛倒なり、三には不浄に於いて浄と執する顛倒なり、四には無我に於いて我と執する顛倒なり」と云える是れなり。是れ凡夫は生死有為の無常法の中に於いて常想を起し、苦相の中に於いて楽想を起し、不浄相の中に於いて浄想を起し、無我法の中に於いて我想を起すを名づけて四顛倒となせるものなり。諸惑妄見の中に於いて、特に此の四を立てて顛倒となす所以に関し、「大毘婆沙論巻104」には三由を挙ぐ。一に此の四は推度の性なるが故に、二に妄に増益するが故に、三に一向に倒なるが故なり。初に推度の性とは、此の四は五見の中の三見にして、推度を性とす。即ち常顛倒は辺執見の中の常見を以って体とし、楽顛倒、浄顛倒とは見取見の中の楽計浄計を以って体とし、我顛倒は有身見の中の我見(一説には有身見の全分即ち我我所見)を以って体となすを云う。他の貪瞋等の煩悩は推度の性に非ざるが故に、余の二因を具すと雖も立てて顛倒となさず。次に妄に増益すとは、此の四は境に於いて唯妄に増益し、壊事に於いて転ぜざるを云う。邪見及び断見は余の二因を具すと雖も、壊事に於いて転ずるが故に立てて顛倒となさず。三に一向倒とは、此の四は全く妄顛倒にして、少分の実処にも転ぜざるを云う。戒禁取見は余の二因を具すと雖も、少分実処に於いて転ずるが故に立てて顛倒となさざるなり。又「大集法門経巻上」には、四顛倒に各想顛倒、心顛倒、見顛倒の三種ありとし、総じて十二種の顛倒あることを説けり。即ち彼の文に、「復た次ぎに四顛倒あり、是れ仏の所説なり。謂わく無常を常と謂う、是の故に想顛倒、心顛倒、見顛倒を生起す。苦を以って楽と謂う、是の故に想と心と見との倒を生起し、無我を我と謂う、是の故に想と心と見との倒を生起し、不浄を浄と謂う、是の故に想と心と見との倒を生起す。是の如き等を名づけて四顛倒となす」と云える其の説なり。就中、想と心とは其の性顛倒に非ざれども、見と相応して其の行相を同ずるが故に名づけて顛倒となすなり。断道に関しては異説あり、有部は十二顛倒共に見所断の法となすも、分別論者は常倒我倒の想心見と及び楽倒浄倒の見とを見所断とし、余の楽倒浄倒の想及び心は、未離欲の聖者も尚お起すことあるが故に見修所断に通ずとし、経部は四の見は唯迷理の惑なるが故に見所断、余の想と心との八は事理に迷う惑なるが故に見修二断に通ずとなせり。又「七処三観経」、「陰持入経巻上」、「南本涅槃経巻2哀歎品」、「雑阿毘曇心論巻8」、「順正理論巻47」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻25」、「成唯識論巻1」等に出づ。(二)無為の四顛倒。即ち二乗が涅槃無為の法に対して起す四種の妄見を云う。一に常を計して無常となし、二に楽を計して苦となし、三に我を計して無我となし、四に浄を計して不浄となすなり。「南本涅槃経巻2哀歎品」に、「彼の酔人が上の日月を見て、実に廻転するに非ざるも廻転の想を生ずるが如く、衆生も亦た爾り、諸の煩悩無明の為に覆われて顛倒の心を生じ、我を無我なりと計し、常を無常なりと計し、浄を不浄なりと計し、楽を計して苦となす。(中略)我とは即ち是れ仏の義、常とは是れ法身の義、楽とは是れ涅槃の義、浄とは是れ法の義なり」と云える是れなり。是れ仏は凡夫の四顛倒を除かんが為に、無常苦不浄無我なりと説けるに、二乗は仏意を解せず、涅槃も亦た無常無我不浄苦なりと計するにより、仏は更に涅槃の常楽我淨を顕示し、以って彼の執を除くとなすの意なり。「大乗義章巻5末八倒義」には、之に前記有為四顛倒を併せて八顛倒と名づけ、前の四は生死有為の法に迷うが故に、有を名づけて倒となす。若し所立に従えば無を名づけて倒となす。後の四は涅槃無為の法に迷うが故に、無を名づけて倒となす。若し所立に従えば有を名づけて倒となすと云い、二者の別を明にせり。又「南本涅槃経巻7四倒品」に、苦に於ける非苦想と、非苦に於ける苦想とを第一顛倒とし、無常に於ける常想と、常に於ける無常想とを第二顛倒とし、無我に於ける我想と我に於ける無我想とを第三顛倒とし、不浄に於ける浄想と、浄に於ける不浄想とを第四顛倒とせり。是れ亦た八顛倒を説けるものと云うべく、即ち如来涅槃は常無常等の迷執を離れたるものなれども、凡夫は常等の倒見を起すが故に無常等を説きて之を治し、又無常等に封滞するが故に常等と説きて之を治し、最後に常無常等尽く倒見なりと破して、究竟の実理を顕せるなり、此の中、有為の四倒を断ずるを二乗とし、有無為の八倒を断ずるを菩薩となすなり。又「無上依経巻上」、「仏性論巻2」、「大般涅槃経疏巻7、8」、「成唯識論枢要巻下末」、「同了義灯巻1本」等に出づ。<(望)
  四念処(しねんじょ):身受心法の四種の念処に於ける観法。即ち身は是れ不浄なりと観じ、受は是れ苦なりと観じ、心は是れ無常なりと観じ、法は是れ無我なりと観じて、常楽我淨の四顛倒を破するを云う。『大智度論巻15下注:四念処』参照。
若說四念處則知已說四倒。四倒則是邪相。若說四倒則已說諸結。所以者何。說其根本則知枝條皆得。 若し、四念処を説けば、則ち已に四倒の説かれたるを知る。四倒は則ち是れ邪相なれば、若し四倒を説けば、則ち已に諸結を説きたり。所以は何んとなれば、其の根本を説けば、則ち枝條は皆得たるを知ればなり。
若し、
『四念処』を、
『説けば!』、
已に、
『四倒』が、
『説かれた!』と、
『知り!』、
『四倒』は、
『邪相である!』が故に、
若し、
『四倒』を、
『説けば!』、
已に、
『諸の結』が、
『説かれたのである!』。
何故ならば、
其の、
『根本』が、
『説かれれば!』、
こう知るからである、――
『枝條』は、
皆、
『理解しているのだ!』と。
如佛說一切世間有三毒。說三毒當知已說三分八正道。若說三毒當知已說一切諸煩惱毒。十五種愛是貪欲毒。十五種瞋是瞋恚毒。十五種無明是愚癡毒。諸邪見憍慢疑屬無明。 仏の一切の世間に三毒有りと説きたまえるが如きは、三毒を説けば、当に知るべし、已に三分の八正道を説けりと。若し三毒を説けば、当に知るべし、已に、一切の諸の煩悩の毒を説く。十五種の愛は、是れ貪欲の毒なり、十五種の瞋は、是れ瞋恚の毒なり、十五種の無明は、是れ愚癡の毒なり、諸の邪見、憍慢、疑は、無明に属すればなり。
例えば、
『仏』が、
一切の、
『世間』には、
『三毒が有る!』と、
『説かれたならば!』、
『三毒』が、
『説かれたならば!』、こう知らねばならない、――
已に、
『八正道』を、
『三分(不貪、不瞋、不癡)して!』、
『説かれたのだ!』、と。
若し、
『三毒』が、
『説かれたならば!』、こう知らねばならない、――
一切の、
諸の、
『煩悩の毒』が、
『説かれたのだ!』、と。
何故ならば、
『十五種の愛』は、
『貪欲の毒であり!』、
『十五種の瞋』は、
『瞋恚の毒であり!』、
『十五種の無明』は、
『愚癡の毒であり!』、
諸の、
『邪見、憍慢、疑』は、
『無明』に、
『属すからである!』。
  三毒(さんどく):三種の毒の意。即ち出世の善心を毒害する三種の煩悩を云う。三不善根に同じ。一に貪毒、二に瞋毒、三に癡毒なり。又貪欲瞋恚愚癡、貪瞋癡、貪恚癡、淫怒癡、婬怒癡、欲瞋無明とも名づく。「大般涅槃経巻下」に、「三毒熾然の火は恒に諸の衆生を焼く」と云い、「別訳雑阿含経巻11」に、「能く貪瞋恚愚癡を起し、常に是の如き三毒の為に纏縛せられて遠離するを得ず」と云い、「法華経巻2譬喩品」に、「愚癡の闇蔽、三毒の火」と云い、又「大般涅槃経巻5」に、「無量劫中に婬怒癡煩悩の毒箭を被りて、大苦切を受く」と云える皆其の例なり。「大乗義章巻5末」に三毒の名義を釈して、「然るに此の三毒は通じて三界一切の煩悩を称す。一切煩悩の能く衆生を害することは其れ猶お毒蛇のごとく、亦た毒龍の如し。是の故に喩に就いて説いて名づけて毒と為す」と云い、亦た「法界次第初門巻上之上」に、「此の如く三界五行に歴れば則ち九十八使を離出す。一切の煩悩を通じて毒と名づくるは、毒は沈毒を以って義と為す。悩壊の甚だしきが故に沈毒と云う。其れ能く出世の善心を壊するを以っての故に、名づけて毒と為すなり」と云えり。又「大智度論巻34」には正三毒邪三毒の二を分別し、「貪欲に二種あり、一には邪貪欲、二には貪欲なり。瞋恚に二種あり、一に邪瞋恚、二には瞋恚なり。愚癡に二種あり、一には邪見愚癡、二には愚智なり。是の三種の邪毒の衆生は化度すべきこと難きも、余の三は度し易し。三毒の名なしとは、邪三毒の名なきなり」と云えり。是れ諸仏の浄土には正三毒あるも、邪三毒なしとするの説なり。「維摩経文疏巻27」に、「釈論の中に云うが如き、菩薩成仏の時、国に三毒の名なからしめんと欲せば、当に般若を学すべし。即ち難じて云わく、仏は是れ医王なり、世に出づるは人の病を治せんが為なり。国に三毒なくんば出世して誰をか化せん。答う、邪の三毒なしと雖も而も正の三毒あり。正の三毒ありと雖も化誨すべきこと易し。此の間の娑婆には邪三毒あり、塵労尤も重し。仏音を聞くと雖も即ち悟を得ず」と云い、又「摩訶止観巻6上」には邪正の別に関し、思惑の上の貪瞋癡を正三毒とし、見惑の上の貪瞋癡を邪三毒とす。邪三毒は悪見を起して其の上に起す所なるが故に邪と名づく。即ち背上使の惑にして其の体習気なり。正三毒は背使に非ず、又習気に非ざるが故に正と名づくと云えり。又「四分律行事鈔資持記巻中一之三」に三毒に単三複三具足一の七種あることを釈し、「三単は論の如し。互起の中、二の三とは謂わく複に三あるなり、一に貪瞋、二に貪癡、三に瞋癡なり。等分は具足一なり。上の三単に通じて共に七毒と為る」と云えり。又「大蔵法数巻15」には、二乗及び菩薩に各三毒ありとし、二乗の三毒とは、二乗の人が涅槃を忻うを貪欲、生死を厭うを瞋恚、中道に迷うを愚癡とし、菩薩の三毒とは、菩薩が広く仏法を求めんとするを貪欲、二乗を呵悪するを瞋恚、未だ仏性を了せざるを愚癡と名づくとせり。又「長阿含経巻1」、「増一阿含経巻27」、「阿閦仏国経巻上」、「止観輔行伝弘決巻6之一」等に出づ。<(望)
  三分(さんぶん):八正道を戒定慧の三種に分類せしもの。即ち一例を挙ぐれば戒品に正語、正業、正命を配し、定品に正念、正定、正精進を配し、慧品に正見、正思惟を配せるが如し。『大智度論巻18上注:八正道』参照。
  八正道(はっしょうどう):梵語 aaryaaSTaaGgika- maarga の訳。巴梨語 ariya- aTThaGgika- magga、八種の正道の意。三十七菩提分法の一科。又八支正道、八支聖道、八聖道支、八聖道分、八賢聖道、八正聖路、八正路、八正法、八直道、八品道、八直行とも名づく。即ち涅槃を求趣する道支に八種あるを云う。一に正見 samyag- dRSTi(巴梨語 sammaa- diTThi )、二に正志 samyak- saMkalpa(巴梨語 sammaa- saGkappa)、三に正語 samyag- vaac(巴梨語 sammaa- vaa- vaacaa )、四に正業 samyak- karmaanta(巴梨語 sammaa- kammanta )、五に正命 samyag-aajiiva(巴梨語 sammaa- aajiiva )、六に正方便 samyag- vyaayaama(巴梨語 sammaa- vaayaama )、七に正念 samyak- smRti(巴梨語 sammaa- sati )、八に正定 samyak- samaadhi(巴梨語sammaa-samaadhi)なり。「中阿含巻56羅摩経」に、「五比丘、当に知るべし二の辺行あり、諸の為道者は当に学ぶべからざる所なり。一に曰わく欲楽に著す、下賎の業にして凡人の所行なり。二に曰わく自ら煩い自ら苦しむ、賢聖の法に非ず、無義と相応す。五比丘、此の二辺を捨てて中道を取ることあらば明を成じ、定を成就して而も自在を得、智に趣き覚に趣き涅槃に趣く。謂わく八正道なり。正見乃至正定、是れを謂いて八と為す」と云い、「中阿含巻7分別聖諦経」に、「云何が苦滅道聖諦なる、謂わく正見正志正語正業正命正方便正念正定なり」と云える是れなり。此の中、正見とは又諦見と名づく、即ち苦は是れ苦、習は是れ習、滅は是れ滅、道は是れ道なりと見、又施あり斎あり呪説あり、善悪の業あり善悪業の報あり、此世彼世あり、父母あり、世に真人ありて善処に往至し、善く去り善く向かい、此世彼世に自ら知り自ら覚し自ら作証して成就すと見るを云う。正志とは又正思、正思惟、正分別、正覚、或いは諦念と名づく、即ち欲覚恚覚及び害覚なきを云う。正語とは又正言、或いは諦語と名づく、即ち妄言、両舌、麁言、綺語等を離るるを云う。正業とは又正行、或いは諦行と名づく、殺生、不与取及び邪婬を離るるを云う。正命とは又諦受と名づく、呪術等の邪命を捨てて、如法に衣服飲食床榻湯薬等の諸の生活の具を求むるを云う。正方便とは又正精進、正治、或いは諦法と名づく、已生の悪法は断じ、未生の悪法は生ぜざらしめ、未生の善法は生ぜしめ、已生の善法は増長満具せしめんことを発願し、能く方便を求めて精勤するを云う。正念とは又諦意と名づく、自共相を以って身受心法の四を観ずるを云う。正定とは又諦定と名づく、即ち欲悪不善の法を離れ、初禅乃至四禅を成就するを云うなり。正見等の次第に関しては、「四諦論巻4」に、「能く理に依りて聖諦を観ずるに由るが故に先づ正見を立つ。所観の法に於いて執視して捨てず、次に正覚を立つ。此れより次に正言正業正命を立つ。所観の法に於いて為に離し為に得す、次に精進を立つ。離得する所に於いて永く忘失せず、次に正念を立つ。念失せざるに由りて所見の境に於いて心散動せず、次に正定を立つ。(中略)復た次ぎに阿毘達磨蔵に説く、此の行は智慧を以って根本と為す。何を以っての故に、四諦の境は深にして智に非ずんば了せざるが故に先づ正見を立つ。心此の境に触す、次に正覚を立つ。此の二分に由りて四諦の中に於いて自に対して知らしむ、次に正言を立つ。前の二分に由りて言の如く発行す、次に正業を立つ。前の両分に由りて口説身行して四諦を受用す、次に正命を立つ。身心を勤策して諦理に進まんが為に次に精進を立つ。此の精進に由りて四諦の境に於いて心用澄浄なり。次に正念を立つ。此の正念に由りて四諦の境に於いて心及び諸法永く散動せず、次に正定を立つ」と云えり。是れ観理の次第に依りて正見乃至正定の順次を立つとなすの説なり。又「成実論巻2四諦品」に、「八聖道分とは、聞より慧を生じて能く五陰の無常苦等を信ず、是れを正見と名づく、是れ慧にして若し思より生ずるを正思惟と名づく、正思惟を以って諸の不善を断じ、諸善を修集して発行精進す。此れより漸次に出家受戒して三の道分を得、正語と正業と正命となり。此の正戒より次に念処及び諸の禅定を成じ、此の念定に因りて如実智を得るを八道分と名づけ、是の如く次第するなり。又八道分の中、戒は応に初に在るべし、所以は何ん、戒定慧品は義次第するが故なり。正念正定は是れを定品と名づく、精進は常に一切処行に遍じ、慧品は道に近きが故に後に在りて説く」と云えり。此の中に両説あり、初説は正見を聞慧、正思惟を思慧とし、正思惟を以って発行精進して乃至次第に如実智を得となし、後説は正語正業正命の三支を戒品、正念正定の二支を定品、正見正思惟正精進の三支を慧品とし、戒定慧の次第に依りて初に戒品を修し、次に定品を修し、後に慧品を修すとなすの意なり。「瑜伽師地論巻29」、「四諦論巻4」等にも、亦た今の如く八道支を戒定慧の三品に配属するの説を出せり。又此の八正道を総じて道支又は道分と名づくるに関し、「大毘婆沙論巻96」に両説を挙ぐ。一説は能く求趣するを以って道支の義とし、正見には求趣の義あるが故に之を道支と名づけ、余の七は唯道の分にして能く道に随順するが故に、勝に随って亦た道支と名づくと云い、一説は道支を道の支の義とし、正見は道にして亦た道支なり、余の七は唯道の支にして道に非ずとなせり。又「大乗義章巻16末」には三義を出し、一義は総じて見道位に約して分別し、正見は道の体なるが故に道と名づけ、亦た総見位を成ずるが故に道分と名づく。余の七は道の体に非ざるが故に道となさず、総見位を成ずるが故に道分と名づくと云い、一義は八行に就いて相対分別し、正見は唯道と名づけて道分と名づけず。余の七種は唯道分と名づけて道となさずと云い、一義は菩提を菩提を道と名づけ、此の八種は皆道の為に因となるが故に通じて道分と名づくと云えり。是れ皆正見を以って道の体となせるものなり。又「倶舎論巻25」に依るに、八支の中、正見は慧を以って体とし、正思惟は尋を以って体とし、正語正業及び正命は共に戒を以って体とし、正精進は勤を以って体とし、正念は念を以って体とし、正定は定を以って体とし、唯無漏にして有漏に通ぜず、主として見道位中に於いて増するも、亦た修道に通ずとなせり。又「転法輪経」、「雑阿含経巻28」、「仏本行集経巻34」、「維摩経巻中仏道品」、「大般涅槃経巻上」、「大方等大集経巻3」、「集異門足論巻18」、「法蘊足論巻6」、「品類足論巻5」、「大毘婆沙論巻95、97、141」、「大智度論巻19」、「解脱道論巻11」、「摩訶止観巻7上」、「同輔行伝弘決巻七之一」、「法界次第初門巻中之下」、「倶舎論光記巻25」、「大明三蔵法数巻29」等に出づ。<(望)
  十五種愛(じゅうごしゅあい):三界の見苦、集、滅、道所断、及び修所断。「阿毘達磨品類足論巻1」、『大智度論巻17下注:愛』参照。
  十五種瞋(じゅうごしゅしん):上二界には瞋結なければ、恐らく見苦、集、滅、道所断、及び修所断の五種の意ならん。「阿毘達磨品類足論巻1」、『大智度論巻18上注:瞋』参照。
  十五種無明(じゅうごしゅむみょう):三界の見苦、集、滅、道所断、及び修所断。「阿毘達磨品類足論巻1」、『大智度論巻15下注:無明』参照。
  瞋恚(しんに):又瞋と称す。『大智度論巻18上注:瞋』参照。
  (しん):梵語 pratigha の訳。又は dveSa、巴梨語 paTigha、又は dosa、心所の名。七十五法の一。百法の一。又恚、怒、瞋恚或いは瞋怒とも名づく。即ち有情に対して憎恚する精神作用を云う。「大毘婆沙論巻48」に、「有情を憎恚するは是れ瞋恚の相なり」と云い、「倶舎論巻16」に、「有情の類に於いて憎恚するを瞋と名づく。謂わく他の有情に於いて傷害の事を為さんと欲す、是の如きの憎恚を瞋業道と名づく」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が瞋と為す、苦と苦具とに於いて憎恚するを以って性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるを以って業と為す。謂わく瞋は必ず身心を熱悩して諸の悪業を起さしむ、不善の性なるが故なり」と云える是れなり。是れ蓋し自己の情に違背せる有情に対して憎恚を生じ、身心を熱悩して平安ならしめざる精神作用を名づけて瞋となすの意なり。六根本煩悩の一、十随眠の一、十悪の一、五蓋の一、三不善根の一にして、上二界に在ることなく、唯欲界繋の煩悩なり。又見の如く其の性猛利に非ざるが故に五鈍使の一に数えらる。四諦及び修道に通じて断ぜらるるものなることは、「大毘婆沙論巻112」に、「瞋不善根に五あり、即ち五部所断の恚なり」と云うによりて知るを得べし。又「成唯識論巻6」には忿、恨、悩、嫉、害等の随煩悩は皆瞋の一分を体となすと説けり。蓋し此の煩悩は修道の最も大なる障害をなすものにして、諸経論に之を誡むるもの甚だ多し。「仏遺教経」に、「瞋恚の害は則ち諸の善法を破り、好名聞を壊す。今世後世の人見ることを憘ばず。当に知るべし、瞋心は猛火よりも甚だし。常に当に防護して入ることを得しむること勿かるべし。功徳を劫むるの賊は瞋恚に過ぎたるは無し」と云い、「大智度論巻14」に、「当に瞋恚を観ずべし、其の咎最も深し。三毒の中に此れより重きものなく、九十八使の中に此れを最堅となす。諸の心病の中に第一難治なり」と云い、又仏所説の偈を挙げ、「瞋心を殺さば安穏なり、瞋恚を殺さば不悔なり。瞋を毒の根となす、瞋は一切の善を滅す。瞋を殺さば諸仏讃じ、瞋を殺さば則ち憂なし」と云える皆其の説なり。又「雑阿含経巻27、28」、「悲華経巻6」、「集異門足論巻12」、「大毘婆沙論巻27、34、44、48」、「顕揚聖教論巻1」、「順正理論巻40、45、46」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻25」、「倶舎論光記巻16、19」、「成唯識論述記巻6末」等に出づ。<(望)
  愚癡(ぐち):梵語 moha の訳。又癡とも称す。『大智度論巻18上注:癡』参照。
  (ち):梵語慕何 moha の訳。又は muuDha. 巴梨語 moha. 心所の名。七十五法の一。百法の一。又愚癡と名づく。無明に同じ。即ち事理に闇昧なる精神作用を云う。「倶舎論巻4」に、「癡とは謂わゆる愚癡なり。即ち是れ無明、無智、無顕なり」と云い、「順正理論巻11」に、「癡は謂わく愚癡なり。所知の境に於いて理の如く解するを障え、辨了の相なきを説いて愚癡と名づく。即ち是れ無明、無智、無顕なり」と云い、「成唯識論巻6」に、「云何が癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを性と為し、能く無癡を障え、一切雑染の所依たるを業と為す。謂わく無明に由りて疑と邪定と貪等の煩悩と随煩悩業とを起し、能く後生の雑染の法を招くが故なり」と云える是れなり。是れ即ち諸の事理に闇昧にして、辨了の相なきを癡と称したるなり。之を無明等と名づくるに関し、「倶舎論光記巻4」に、「照矚を明と名づけ、審決を智と名づけ、彰了を顕と名づく。此の三は皆是れ慧の別名なり。癡は無明等なり、故に名づけて無顕と為す。即ち是れ無癡の所対除の法なり」と云い、又「瑜伽師地論巻84」には、「愚癡とは不実の事に於いて妄に増益を生ず。無明とは所知の事に於いて善巧なること能わず、彼彼の処に於いて正しく了知せず」と云い、「同巻86」には癡に無智、無見、非現観、惛昧、愚癡、無明、黒闇等の異名あることを説けり。三不善根の一。大煩悩地法の一、六根本煩悩の一、十随眠の一にして、一切煩悩の所依となり、三界繋にして四諦及び修道に通じて断ぜらるるものなり。「瑜伽師地論巻58」には癡即ち無明に相応と独行の二種ありとし、相応とは貪等の諸惑と相応倶起するを云い、独行とは貪等と相応せざるを云うとし、「成唯識論述記巻6末」には、「独頭の無明は理に迷い、相応等は亦た事に迷う」と云えり。之に依るに無明には貪等と相応するものの外、別に又独頭孤起のものあるを知るべし。又「成唯識論巻5」には、無始以来第七末那識と恒に相応する我癡を特に恒行不共の無明と称し、之を前の第六意識相応の独行不共の無明と区別せり。又「瑜伽師地論巻55」に随煩悩の中、覆、誑、諂、惛沈、妄念、散乱、不正知等は皆癡の一分を以って体とすとなし、「成唯識論巻6」には、諸煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に、癡は余の九根本煩悩と定んで相応すと云えり。又「長阿含巻1大本経」、「中阿含巻29龍象経、巻33善生経」、「雑阿含経巻11、28」、「法華経巻2譬喩品」、「大般涅槃経巻5」、「悲華経巻6」、「大智度論巻34」、「集異門足論巻11」、「発智論巻1、3」、「倶舎論巻21」、「同光記巻4、21」、「順正理論巻41、42、49」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻25」、「成実論巻9煩悩相品、巻10不善根品」、「大乗阿毘達磨雑集論巻6、7」、「大乗義章巻5末」、「摩訶止観巻6上」、「法界次第初門巻上之上」、「成唯識論述記巻6末」、「翻訳名義集巻15」、「梵語雑名」等に出づ。<(望)
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻27』:『復次愛界別地別種別。廣說如解愛處。問曰。何故名身。答曰。以多故說身。不以剎那頃眼觸生愛名身。乃至多剎那眼觸生愛名身。不以一象名為象軍。乃以多象故。名為象軍。車馬步軍。亦復如是。乃至意觸生多愛。名為愛身。七使。欲愛使。恚使。有愛使。慢使。無明使。見使。疑使。問曰。七使體性是何。答曰。有九十八種。欲愛使欲界五種。愛通六識身。恚使有五種通六識身。有愛使。色無色界愛。有十種。慢使三界有十五種。在意地。無明使三界有十五種。見使欲界有十二。色界有十二。無色界有十二。合三十六種。疑使三界四種所斷。有十二種。此九十八。是七使體。乃至廣說』
  参考:『阿毘達磨品類足論巻1』:『結有九種。謂愛結恚結慢結無明結見結取結疑結嫉結慳結。愛結云何。謂三界貪。恚結云何。謂於有情能為損害。慢結云何。謂七慢類。即慢過慢慢過慢我慢增上慢卑慢邪慢。慢者。於劣謂己勝。或於等謂己等。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。過慢者。於等謂己勝。或於勝謂己等。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。慢過慢者。於勝謂己勝。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。我慢者。於五取蘊等。隨觀執我或我所。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。增上慢者。於所未得上勝證法。謂我已得。於所未至上勝證法。謂我已至。於所未觸上勝證法。謂我已觸。於所未證上勝證法。謂我已證。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。卑慢者。於他多勝謂自少劣。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。邪慢者。於實無德謂我有德。由此正慢已慢當慢。心高舉心恃篾。無明結云何。謂三界無智。見結云何。謂三見。即有身見邊執見耶見。有身見者。於五取蘊等。隨觀執我或我所。由此起忍樂慧觀見。邊執見者。於五取蘊等。隨觀執或斷或常。由此起忍樂慧觀見。邪見者。謗因謗果。或謗作用。或壞實事。由此起忍樂慧觀見。取結云何。謂二取。即見取戒禁取。見取者。於五取蘊等。隨觀執為最為勝為上為極。由此起忍樂慧觀見。戒禁取者。於五取蘊等。隨觀執為能清淨為能解脫為能出離。由此起忍樂慧觀見。疑結云何。謂於諦猶豫。嫉結云何。謂心妒忌。慳結云何。謂心鄙吝。縛云何。謂諸結亦名縛。復有三縛。謂貪縛瞋縛癡縛。隨眠有七種。謂欲貪隨眠。瞋隨眠。有貪隨眠。慢隨眠。無明隨眠。見隨眠。疑隨眠。欲貪隨眠有五種。謂欲界繫見苦集滅道修所斷貪。瞋隨眠有五種。謂見苦集滅道修所斷瞋。有貪隨眠有十種。謂色界繫五。無色界繫五。色界繫五者。謂色界繫見苦集滅道修所斷貪。無色界繫五亦爾。慢隨眠有十五種。謂欲界繫五。色界繫五。無色界繫五。欲界繫五者。謂欲界繫見苦集。滅道修所斷慢。色無色界繫各五亦爾。無明隨眠有十五種。謂欲界繫五。色界繫五。無色界繫五。欲界繫五者。謂欲界繫見苦集滅道修所斷無明。色無色界繫各五亦爾。見隨眠有三十六種。謂欲界繫十二。色界繫十二。無色界繫十二。欲界繫十二者。謂欲界繫有身見邊執見。見苦道所斷邪見見取戒禁取。見集滅所斷邪見見取。色無色界繫各十二亦爾。疑隨眠有十二種。謂欲界繫四。色界繫四。無色界繫四。欲界繫四者。謂欲界繫見苦集滅道所斷疑。色無色界繫各四亦爾。隨煩惱云何。謂諸隨眠。亦名隨煩惱。有隨煩惱不名隨眠。謂除隨眠諸餘染污。行蘊心所纏有八種。謂惛沈掉舉睡眠惡作嫉慳無慚無愧』
如是一切結使皆入三毒。以何滅之。三分八正道。若說三分八正道。當知已說一切三十七品。如是等種種相名為對治門。如是等諸法名為昆勒門。 是の如く一切の結使は、皆、三毒に入れば、何を以ってか、之を滅せん。三分の八正道なり。若し三分の八正道を説けば、当に知るべし、已に一切の三十七品を説けりと。是の如き等の種種の相を名づけて、対治門と為し、是の如き等の諸法を名づけて、昆勒門と為す。
是のように、
一切の、
『結使』は、
皆、
『三毒』に、
『入る!』が、
何を、
『用いて!』、
是の、
『三毒』を、
『滅するのか?』。
『三分の八正道』を、
『用いて!』、
『滅するのである!』。
若し、
『三分の八正道』が、
『説かれれば!』、こう知らねばならない、――
已に、
『一切の三十七品』が、
『説かれたのだ!』、と。
是れ等のような、
種種の、
『相』を、
『対治門』と、
『称し!』、
是れ等のような、
諸の、
『法』を、
『昆勒門』と、
『称する!』。
云何名阿毘曇門。或佛自說諸法義。或佛自說諸法名。諸弟子種種集述解其義。 云何が、阿毘曇門と名づくる。或は仏は、自ら諸法の義を説きたまい、或は仏は自ら諸法の名を説きたまえるに、諸弟子、種種に集めて、其の義を述解せり。
何故、
『阿毘曇門』と、
『称するのか?』、――
或は、
『仏』は、
自ら、
諸の、
『法の義』を、
『説かれ!』、
或は、
諸の、
『法の名』を、
『説かれた!』が、
諸の、
『弟子』が、
之を、
『集めて!』、
其の、
『義』を、
『述べ解いたものである!』。
  述解(じゅつげ):見解を述べる。
如佛說。若有比丘於諸有為法不能正憶念。欲得世間第一法無有是處。若不得世間第一法。欲入正位中無有是處。若不入正位。欲得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢無有是處。有比丘於諸有為法。正憶念得世間第一法斯有是處。若得世間第一法入正位。入正位得須陀洹斯陀含阿那含阿羅漢必有是處。 仏の、『若し有る比丘、諸の有為法に於いて、正憶念する能わざるに、世間第一法を得んと欲すれば、是の処有ること無し。若し世間第一法を得ずして、正位中に入らんと欲すれば、是の処有ること無し。若し正位に入らずして、須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を得んと欲せば、是の処有ること無し。有る比丘、諸の有為法に於いて、正憶念し、第一法を得れば、斯れ是の処有り。若し世間第一法を得て正位に入り、正位に入りて須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢を得れば、必ず、是の処有り』、と説きたまえるが如し。
例えば、
『仏』は、こう説かれたが、――
若し、
有る、
『比丘』が、
諸の、
『有為法』を、
『正憶念できない!』のに、
『世間の第一法』を、
『得ようとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『無い!』。
若し、
『世間の第一法』を、
『得ていない!』のに、
『正位』に、
『入ろうとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『無い!』、
若し、
『正位』に、
『入らずに!』、
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢』を、
『得ようとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『無い!』。
有る、
『比丘』が、
諸の、
『有為法』を、
『正憶念して!』、
『世間の第一法』を、
『得たとすれば!』、
是の、
『道理』は、
『有る!』。
若し、
『世間の第一法』を、
『得て!』、
『正位』に、
『入り!』、
『正位』に、
『入って!』、
『須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢』を、
『得たとすれば!』、
必ず、
是の、
『道理』は、
『有る!』、と。
  世間第一法(せけんだいいっぽう):有漏智中のの最高を云う。『大智度論巻18上注:世間第一法、四善根位』参照。
  是処(ぜしょ):如何なる場所でも( whatever place )、梵語 yatra, sthaana の訳、何処でも( any place )の義、適切な状況/正しい場所( a proper situation, the right place )の意、非処 asthaana ( the wrong place )に対す。
  正位(しょうい):決定せる者( group of the determined )、梵語 samyaktva, niyaama の訳、道を逸れない者( group of those who are in one or the same direction, in the same way )、完全( completeness, perfection )の義、仏教の修行者で、悟りを得る道を逸れないと決定する位に到達した者( Buddhist practitioners who have reached the point of being unswervingly determined to attain enlightenment. )の意。梵網経に依れば、十信位以上の全修行者を摂する( In the Sutra of Brahmā's Net this includes all practitioners above the level of the ten stages of faith )。
  正位(しょうい):小乗の涅槃なり。「維摩経問疾品」に、「諸法の不生を観ずと雖も、而も正位に入らず」と云い、「注維摩詰経巻5」に、「肇曰わく、正位取証の位なり」と云い、「同慧遠疏」に、「声聞の証を無為涅槃に見るを、正位に入ると為す」と云える是れなり。<(丁)
如佛直說。世間第一法不說相義。何界繫何因何緣何果報。從世間第一法。種種聲聞所行法乃至無餘涅槃。一一分別相義。如是等是名阿毘曇門。 仏の直説したもう、世間第一法の如きは、相義を説きたまわざれば、何界の繋なる、何の因、何の縁なる、何の果報なる、世間第一法より、種種の声聞の所行の法を、乃至無余涅槃まで、一一相義を分別する、是の如き等、是れを阿毘曇門と名づく。
『仏』の、
『直説された!』、
『世間第一法』などは、
『世間第一法』の、
『相、義』が、
『説かれていない!』ので、
『世間の第一法』とは、
何の、
『界』の、
『繋縛なのか?』、
何の、
『因なのか?』、
『縁なのか?』、
何の、
『果報なのか?』を、
『世間の第一法』より、
『乃至無余涅槃』までの、
種種の、
『声聞所行の法』の、
『一一の相、義』を、
『分別した!』もの、
是れ等を、
『阿毘曇門』と、
『称する!』。
空門者生空法空。如頻婆娑羅王迎經中。佛告大王。色生時但空生。色滅時但空滅。諸行生時但空生。滅時但空滅。是中無吾我。無人無神。無人從今世至後世。除因緣和合名字等眾生。凡夫愚人逐名求實。如是等經中佛說生空。 空門とは、生空、法空なり。頻婆娑羅王迎経中の如し、仏の大王に告げたまわく、『色の生時には、但だ空生じ、色の滅時には、但だ空滅す。諸行の生時には、但だ空生じ、滅時には、但だ空滅す。是の中に吾我無く、人無く、神無く、人の今世より、後世に至る無く、因縁の和合を除きて、名字に等しき衆生を、凡夫の愚人は、名を逐うて実を求む』、と。是の如き等の経中に、仏は生空を説きたまえり。
『空門』とは、
『生空(衆生空)と!』、
『法空(諸法空)とである!』。
例えば、
『頻婆娑羅王迎経』中には、こう説かれている、――
『仏』は、
『大王』に、こう告げられた、――
『色』の、
『生じる時』には、
但だ、
『空』が、
『生じるだけであり!』、
『色』の、
『滅する時』には、
但だ、
『空』が、
『滅するだけである!』。
『諸行(有為法)』の、
『生じる時』には、
但だ、
『空』が、
『生じるだけであり!』、
『滅する時』には、
但だ、
『空』が、
『滅するだけである!』。
是のような、
『空』中には、
『吾我』は、
『無く!』、
『人』も、
『神』も、
『無く!』、
『人』が、
『今世』より、
『後世に至る!』ことも、
『無い!』。
『因縁』の、
『和合』を、
『除けば!』、
『名字』にも、
『等しい!』、
『衆生なのに!』、
『凡夫』の、
『愚人』は、
『衆生』という、
『名のみ!』を、
『逐うて!』、
『実』を、
『求めているのである!』、と。
是れ等のような、
『経』中に、――
『仏』は、
『生空』を、
『説かれたのである!』。
  生空(しょうくう):又衆生空、我空と称す。二空の一。即ち「大智度論巻93」に、「仏法中に二種の空あり、一には衆生空、二には法空なり。衆生空を以って衆生の相を破す、謂わゆる男女等の相なり。法空を以って色等の法中の虚妄の相を破す」と云える是れなり。『大智度論巻18上注:二空』参照。
  法空(ほうくう):五衆、十二入、十八界、十二因縁、神及び世間の常、無常等の諸法の中の虚妄の相を破すことを云う。『大智度論巻18上注:生空、二空』参照。
  二空(にくう):人空、及び法空なり。又人法二空、生法二空とも称す。人空は又我空、生空とも称し、即ち人我空無の理なり。凡夫人は、妄に色受想行識等の五蘊を是れ我なりと計し、強いて主宰を立てて、煩悩を引生し、種種の業を造る。仏は此の妄執を破除せんが為の故に、五蘊無我の空無の理を説いて、謂わく我は僅かに五蘊の仮の和合と為し、並びに常一の主宰無しと。声聞縁覚の人は、之を聞いて無我の理に入るを称して人空と為す。法空とは、即ち諸法空無の理なり。二乗の人は未だ法空の理に達せざる時、猶お五蘊を計して実有なりと為せば、仏は此の妄執を破除せんが為の故に般若の深慧を説き、彼等をして五蘊の自性皆空なることを徹見せしむるに、菩薩は之を聞いて諸法皆空の理に入るを称して法空と作す。又「大智度論巻、18、31、93」、「成唯識論巻1」等に出づ。<(佛)
  参考:『仏説頻婆娑羅王経』:『爾時眾中婆羅門長者等復作是念。如是耆舊尊者優樓頻螺迦葉。猶尚於佛大沙門處修梵行耶。佛知其意。告頻婆娑羅王言。大王。當知色有生有滅。了知此色有生有滅。受想行識亦復生滅。而彼蘊法當知有生即知有滅。大王。此色蘊法。若善男子。能實了知有生即滅。色蘊本空色蘊既空生即非生。生既無生滅何所滅。色蘊如是諸蘊皆然。若善男子。了知此已。即悟諸蘊不生不滅無住無行即無有我。我說是人於無量阿僧祇劫中。為真寂靜者』
法空者。如佛說大空經中。十二因緣無明乃至老死。若有人言是老死。若言誰老死皆是邪見。生有取愛受觸六入名色識行無明亦如是。若有人言身即是神。若言身異於神。是二雖異同為邪見。佛言。身即是神。如是邪見非我弟子。身異於神亦是邪見。非我弟子。 法空とは、仏の大空経中に説きたまえるが如し、『十二因縁の無明、乃至老死を、若しは有る人の言わん、『是れ老死なり』、と。若しは言わん、『誰か老死せん』、と。皆、是れ邪見なり。生、有、取、愛、受、触、六入、名色、識、行、無明も亦た是の如し。若しは有る人の言わん、『身は、即ち是れ神なり』、と。若しは言わん、『身は、神に異なり』、と。是の二は、異なりと雖も、同じく邪見と為す。仏の言わく、『身は、即ち是れ神なりとは、是の如き邪見は、我が弟子に非ず。身は、神に異なりも亦た邪見にして、我が弟子に非ず』と、』と。
『法空』とは、
例えば、
『仏』が、
『大空経』中に、こう説かれた、――
『十二因縁』の、
『無明、乃至老死』を、
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
是れが、
『老死である!』、と。
若しは、こう言うだろう、――
誰が、
『老死するのか?』、と。
是れ等は、
皆、
『邪見であり!』、
『生、有、取、愛、受、触、六入、名色、識、行、無明』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『身』が、
即ち、
『神である!』、と。
若しは、こう言うだろう、――
『身』は、
『神』と、
『異なる!』、と。
是の、
『二種の見』は、
『異なっている!』が、
『同じく!』、
『邪見である!』。
『仏』は、
こう言われた、――
『身』は、
即ち、
『邪見である!』という、
是のような、
『邪見』は、
『わたしの弟子ではない!』。
『身』は、
『神』と、
『異なる!』という、
是のような、
『邪見』も、
『わたしの弟子ではない!』、と。
  十二因縁(じゅうにいんねん):衆生が生死に流転する因果相依の関係を無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死の十二支に分類せるもの。『大智度論巻3下注:十二因縁』参照。
  (じん):心霊の力( psychic power )、心/本質/主体( heart, essence, core )、◯梵語 Rddhi, Rddhika の訳、増加、成長、繁栄、成功、幸運、富、多量( increase, growth, prosperity, success, good fortune, wealth, abundance )、達成/完全/神通力/魔術( accomplishment, perfection, supernatural power, magic )の義、超自然的/超自然的作用( Supernatural; supernormal function )、不可解な精神的神力/能力( Inscrutable spiritual powers, or power )の意。◯梵語 deva, devataa, daivata の訳、神霊/神/神霊の/神の( spirit, god, spiritual, godly )の意。◯梵語 aatman, yakSa の訳、霊魂/亡霊/精神( soul, ghost, spirit )の義。◯梵語 jiiva, ojas の訳、生存/実存すること( living, existing, alive )の義。
  神我(じんが):霊魂( soul )、梵語 aatman, jiiva の訳、バラモン教的な衆生の自己( the self that grounds living beings in brahmanistic thought )の意。◯梵語 puruSa の訳、仏教徒以外によって、輪廻の主体であると考えられている、持続した個性[不滅の人格]に係る概念( A translation of the Sanskrit puruṣa, the notion of an enduring individuality that was understood by non-Buddhists to be the subject of transmigration. )。数論学派に於いて、 purSa は、自性 prakRti と共に、存在に関する二十五分類に基づく原理を形成する( In Sāṃkhya 數論 philosophy, puruṣa, together with prakṛti 冥性 forms the basis of the foundation of the twenty-five categories of existence 二十五諦. )。
  参考:『雑阿含経巻14(357)』:『如是我聞。一時。佛住舍衛國祇樹給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。有七十七種智。諦聽。善思。當為汝說。云何七十七種智。生緣老死智。非餘生緣老死智。過去生緣老死智。非餘過去生緣老死智。未來生緣老死智。非餘未來生緣老死智。及法住智。無常.有為.心所緣生.盡法.變易法.離欲法.滅法斷知智。如是生.有.取.愛.受.觸.六入處.名色.識.行.無明緣行智。非餘無明緣行智。過去無明緣行智。非餘過去無明緣行智。未來無明緣行智。非餘未來無明緣行智。及法住智。無常.有為.心所緣生.盡法.變易法.無欲法.滅法斷智。是名七十七種智。佛說此經已。諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
是經中佛說法空。若說誰老死。當知是虛妄是名生空。若說是老死當知是虛妄是名法空。乃至無明亦如是。 是の経中に、仏の法空を説きたまわく、『若し、誰か老死すと説かば、当に知るべし、是れ虚妄なり。是れを生空と名づく。若し是れ老死なりと説かば、当に知るべし、是れ虚妄なり。是れを法空と名づく。乃至無明も亦た是の如し』、と。
是の、
『経』中に、
『仏』は、
『法空』を、こう説かれている、――
若し、こう説けば、――
誰が、
『老死するのか?』、と。
当然、こう知らねばならない、――
是れは、
『虚妄であり!』、
是れを、
『生空』と、
『称する!』。
若し、こう説けば、――
是れが、
『老死である!』、と。
当然、こう知らねばならない、――
是れは、
『虚妄であり!』、
是れを、
『法空』と、
『称する!』、
乃至、
『無明』も、
亦た、
『是の通りである!』、と。
復次佛說梵網經中六十二見。若有人言。神常世間亦常。是為邪見。若言神無常世間無常是亦邪見。神及世間常亦無常。神及世間非常亦非非常。皆是邪見。以是故知諸法皆空是為實。 復た次ぎに、仏は、梵網経中に六十二見を説きたまわく、『若し有る人、神は常なり、世間も亦た常なりと言わば、是れを邪見と為す。若し、神は無常なり、世間は無常なりと言わば、是れも亦た邪見なり。神、及び世間は常にして、亦た無常なり。神、及び世間は常に非ず、亦た非常に非ず、皆、是れ邪見なり。是を以っての故に、諸法は皆空なりと知らば、是れを実と為す』、と。
復た次ぎに、
『仏』は、
『梵網経』中に、
『六十二見』を、こう説かれた、――
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『神』と、
『世間』とは、
『常である!』、と。
是れは、
『邪見である!』。
若しは、
有る人は、こう言うだろう、――
『神』と、
『世間』とは、
『無常である!』、と。
是れも、
亦た、
『邪見である!』。
又、
『神』と、
『世間』とは、
『常でもあり!』、
『無常でもある!』、
『神』と、
『世間』とは、
『常でもなく!』、
『無常でもない!』、
是れも、
皆、
『邪見である!』。
是の故に、こう知るならば、――
諸の、
『法』は、
皆、
『空である!』、と。
是れが、
『実である!』、と。
  梵網経(ぼんもうきょう):仏説梵網六十二見経。
  六十二見(ろくじゅうにけん):外道所執の六十二種の邪見。『大智度論巻5下注:六十二見』参照。
問曰。若言神常應是邪見。何以故。神性無故。若言世間常亦應是邪見。何以故。世間實皆無常。顛倒故言有常。若言神無常亦應是邪見。何以故。神性無故。不應言無常。若言世間無常不應是邪見。何以故。一切有為法性實皆無常。 問うて曰く、若し、『神は常なり』、と言わば、応に是れ邪見なるべし。何を以っての故に、神の性無きが故なり。若し、『世間は常なり』、と言わば、亦た応に是れ邪見なるべし。何を以っての故に、世間は、実に皆、無常なるに、顛倒の故に、有常と言えばなり。若し、『神は無常なり』、と言わば、亦た応に是れ邪見なるべし。何を以っての故に、神の性無きが故に、応に無常なりと言うべからざればなり。若し、『世間は無常なり』、と言わば、応に是れ邪見なりと言うべからず。何を以っての故に、一切の有為法は、実に、皆無常なればなり。
問い、
若し、こう言えば、――
『神』は、
『常である!』、と。
当然、
是れは、
『邪見でなくてはならない!』。
何故ならば、
『神』は、
『性』が、
『無いからである!』。
若し、こう言えば、――
『世間』は、
『常である!』、と。
当然、
是れも、
亦た、
『邪見でなくてはならない!』。
何故ならば、
『世間』は、
『実に!』、
皆、
『無常である!』のに、
『顛倒』の故に、
『有常である!』と、
『言うからである!』。
若し、こう言えば、――
『神』は、
『無常である!』と、
当然、
是れも、
亦た、
『邪見でなくてはならない!』。
何故ならば、
『神』は、
『性』が、
『無い!』が故に、
『神』は、
『無常だ!』と、
『言うべきでないからである!』。
若し、こう言えば、――
『世間』は、
『無常である!』、と。
当然、
是れは、
『邪見であるはずがない!』。
何故ならば、
一切の、
『有為法』は、
皆、
『実に!』、
『無常だからである!』。
答曰。若一切法實皆無常。佛云何說世間無常是名邪見。是故可知非實是無常。 答えて曰く、若し、一切の法にして、実に皆無常なれば、仏は云何が、『世間の無常なるは、是れを邪見と名づく』、と説きたまえる。是の故に知るべし、『実に是れ無常なるには非ず』、と。
答え、
若し、
一切の、
『法』が、
皆、
『実に!』、
『無常ならば!』、
『仏』は、
何故、こう説かれたのか?――
『世間』が、
『無常である!』とは、
是れを、
『邪見』と、
『呼ぶ!』、と。
是の故に、こう知るべきである、――
是れが、
『実に!』、
『無常だというのではない!』、と。
問曰。佛處處說觀有為法無常苦空無我令人得道。云何言無常墮邪見。 問うて曰く、仏の、処処に説きたまわく、『有為法の無常、苦、空、無我を観れば、人をして道を得しむ』、と。云何が、『無常なれば、邪見に堕す』、と言えり。
問い、
『仏』は、
処処に、こう説かれているのに、――
『有為法』の、
『無常、苦、空、無我』を、
『観察すれば!』、
『人』に、
『道』を、
『得させる!』、と。
何故、こう言われたのですか?――
『有為法』が、
『無常ならば!』、
是れは、
『邪見』に、
『堕ちる!』、と。
答曰。佛處處說無常。處處說不滅。如摩訶男釋王來至佛所白佛言。是迦毘羅人眾殷多。我或值奔車逸馬狂象鬥人時。便失念佛心。是時自念。我今若死當生何處。 答えて曰く、仏は、処処に無常を説き、処処に不滅を説きたまえり。摩訶男釈王の来たりて、仏所に至り、仏に白して言うが如し、『是の迦毘羅の人衆殷多にして、我れ或は奔車、逸馬、狂象、闘人に値いて、時に便ち、仏心を失念して、是の時自ら念ずらく、我れ今若し死すれば、当に何れの処にか生ずべしと』、と。
答え、
『仏』は、
処処に、
『無常』を、
『説かれ!』、
処処に、
『不滅』を、
『説かれた!』。
例えば、こうである、――
『摩訶男』という、
『釈王』が、
『来て!』、
『仏の所』に、
『至る!』と、
『仏』に白して、こう言った、――
是の、
『迦毘羅』の、
『人たち』は、
『非常』に、
『多い!』ので、
わたしは、
或は、
『奔車、逸馬、狂象、闘人』に、
『出会った!』時には、
すっかり、
『仏の心』を、
『失念してしまい!』、
是の時、
自ら、こう念じるでしょう、――
わたしが、
若し、
今、
『死ねば!』、
何という、
『処』に、
『生まれるのだろう?』、と。
  摩訶男(まかなん):mahaanaama、巴梨名同じ。又摩訶南、摩訶納、摩訶那摩に作り、大名と訳す。一に釈種摩訶男 sakkamhaanaama と称せられ、又摩呵南釈、或いは釈摩男に作る。中印度迦毘羅衛城釈迦種の出にして、「五分律巻15」、「有部毘奈耶破僧事巻2」等には斛飯王の子とし、「大智度論巻3」、「梵文大事 mahaavastu 」等には甘露飯王の子とせり。「五分律巻3」に依るに、仏は帰国して弥那邑阿莵林の下に住せられし時、摩男は貴族諸釈種の子が多く仏所に於いて出家学道するを見、弟阿那律に対し、我れ若し出家せば汝家事を知すべく、汝若し捨家せば我れ当に家事を断理すべしと語るに、阿那律は初摩男の出家を勧めたるも、家事を知するの難きを聞き、遂に自ら出家を望みたるを以って、摩男は留まりて家事を営むこととなれりと云えり。「佛本行集経巻58婆提唎迦等品」、「四分律巻4」、「有部毘奈耶破僧事巻9」等に記する所亦た皆之に同じ。後仏に帰して優婆塞となり、常に僧に湯薬を施与せり。「阿羅漢具徳経」に、「恒に病苦の者の為に而も湯薬を施すは大名長者是れなり。迦毘羅城に住す」と云い、「摩訶僧祇律巻24」にも施薬の事を記せり。又「増一阿含経巻26」に依るに、仏成道未だ久しからざる時、波斯匿王は王位を紹ぎ、婚を釈種に求めたるに、釈種は王と親を結ぶを好まず。仍りて摩男は其の婢の一女を与えて后となし、毘流勒を産む。毘流勒長じて後、迦毘羅衛城に至り、毀辱を蒙りしを以って之を啣み、王位に即くに及びて来たり攻め、大いに釈種を害す。時に摩男は水中に在るの間、釈種の殺害を止めんことを求め、自ら水底に入り、頭髪を以って樹根に繋ぎて命終し、為に釈種をして難を免るることを得しめたりと云えり。是れ摩男が国難に殉ぜしことを伝うるものにして、即ち仏の晩年に於ける出来事なり。又「中阿含巻25苦陰経」、「雑阿含経巻29、33」、「増一阿含経巻3、35」、「仏本行集経巻11」、「琉璃王経」等に出づ。<(望)
  殷多(いんた):盛んにして多い。
  奔車(ほんしゃ):はしる車。疾走する車の意。
  逸馬(いつめ):逃げた馬。
  狂象(ごうぞう):狂った象。
  闘人(とうにん):武器を持って争う人。
  失念(しつねん):忘れる。忘却。
佛告摩訶男。汝勿怖勿畏。汝是時不生惡趣必至善處。譬如樹常東向曲。若有斫者必當東倒。善人亦如是。若身壞死時。善心意識長夜以信戒聞施慧熏心故。必得利益上生天上。 仏の摩訶男に告げたまわく、『汝、怖るる勿かれ、畏るる勿かれ。汝は是の時、悪趣に生ぜず、必ず善処に至らん。譬えば樹の常に東に向いて曲がれるに、若し斫る者有らば、必ず当に東に倒るべきが如し。善人も亦た是の如く、若し身壊して死す時、善心の意識は長夜に、戒を信じ、施を聞いて、慧を心に薫じるを以っての故に、必ず、利益を得て、天上に上生す』、と。
『仏』は、
『摩訶男』に、こう告げられた、――
お前は、
『怖れてはならない!』し、
『畏れてもならない!』。
お前は、
是の時、
『悪趣』には、
『生まれず!』、
必ず、
『善処』に、
『至るからである!』。
譬えば、
『樹』が、
常に、
『東向きに!』、
『曲がっていれば!』、
若し、
『斫られる!』ことが、
『有っても!』、
必ず、
『東向き』に、
『倒れるように!』、
『善人』も、
是のように、
若し、
『身』が、
『壊れて!』、
『死ぬ!』時には、
『善心』の、
『意識』が、
長夜に、
『持戒』の、
『功徳』を、
『信じ!』、
『布施』の、
『福徳』を、
『聞いて!』、
『智慧』が、
『心』を、
『薫じる!』が故に、
必ず、
『利益を得て!』、
『天上』に、
『上生するからである!』、と。
若一切法念念生滅無常。佛云何言諸功德熏心故必得上生。以是故知非無常性。 若し、一切の法、念念に生滅して無常なれば、仏は云何が、『諸の功徳の心を熏ずるが故に、必ず上生するを得』、と言える。是を以っての故に知る、無常の性に非ずと。
若し、
『一切の法』が、
念念に、
『生滅して!』、
『無常ならば!』、
何故、
『仏』は、こう言われたのか?――
諸の、
『功徳』が、
『心』を、
『薫じる!』が故に、
必ず、
『天上』に、
『上生することができる!』、と。
是の故に、こう知る、――
一切の、
『法』は、
『無常』の、
『性ではない!』、と。
問曰。若無常不實。佛何以說無常。 問うて曰く、若し無常なること不実なれば、仏は何を以ってか、無常と説きたまえる。
問い、
若し、
『無常』が、
『実でなければ!』、
何故、
『仏』は、
『無常だ!』と、
『説かれたのですか?』。
答曰。佛隨眾生所應而說法。破常顛倒故說無常。以人不知不信後世故。說心去後世上生天上。罪福業因緣百千萬劫不失。是對治悉檀。非第一義悉檀。諸法實相非常非無常。 答えて曰く、仏は衆生の所応に随いて、法を説きたまえば、常の顛倒を破らんが故に、無常を説き、人の後世を知らず、信ぜざるを以っての故に、『心は後世に去りて、天上に上生す』、『罪福の業の因縁は百千万劫に失われず』と説きたまえり。是れ対治悉檀にして、第一義悉檀に非ず。諸法の実相は、常に非ず、無常に非ざればなり。
答え、
『仏』は、
『衆生』の、
『相応しい!』所に、
『随って!』、
『法』を、
『説かれた!』ので、
『衆生』の、
『常』の、
『顛倒』を、
『破る!』為には、
『無常である!』と、
『説かれ!』、
『人』が、
『後世』の、
『果報』を、
『知らずに!』、
『罪、福』を、
『信じない!』が故に、
『心』は、
『後世』に、
『去って!』、
『天上』に、
『上生する!』とか、
『罪、福』の、
『業の因縁』は、
『百千万劫』にも、
『失われない!』と、
『説かれたのである!』が、
是れは、
『対治悉檀であり!』、
『第一義悉檀ではない!』、
何故ならば、
『第一義悉檀』ならば、こう説くからである、――
諸の、
『法の実相』は、
『常でもなく!』、
『無常でもない!』、と。
佛亦處處說諸法空。諸法空中亦無無常。以是故說世間無常是邪見。是故名為法空。 仏は、亦た処処に諸法の空を説きたまえるに、諸法の空中にも、亦た無常無し。是を以っての故に説きたまわく、『世間の無常なるは、是れ邪見なり』、と。是の故に名づけて、法空と為す。
『仏』は、
亦た、
処処に、
諸の、
『法の空』を、
『説かれた!』が、
是の、
諸の、
『法の空』中にも、
『無常』は、
『無い!』ので、
是の故に、
こう説かれた、――
『世間』が、
『無常である!』とは、
是れは、
『邪見である!』、と。
是の故に、
是れを、
『法の空』と、
『称するのである!』。
復次毘耶離梵志名論力。諸梨昌等大雇其寶物令與佛論。取其雇已。即以其夜思撰五百難。明旦與諸梨昌至佛所。問佛言。一究竟道為眾多究竟道。佛言。一究竟道無眾多也。 復た次ぎに、毘耶離の梵志の論力と名づけ、諸の梨昌等に、大いに其の宝物を雇(あた)え、仏と論ぜしむるに、其の雇を取り已りて、即ち以って、其の夜に思いて、五百難を撰び、明旦、諸の梨昌と、仏所に至りて、仏に問うて言わく、『一の究竟道なりや、衆多の究竟道と為すや』、と。仏の言わく、『一究竟道にして、衆多無きなり』、と。
復た次ぎに、
『論力』と、
『呼ばれる!』、
『毘耶離』の、
『梵志』は、
諸の、
『梨昌たち』が、
大いに、
『宝物』を、
『与えて!』、
『雇い!』、
『仏』と、
『論じさせた!』。
『梵志』は、
其の、
『報酬』を、
『受取る!』と、
其の、
夜に、
『思案して!』、
『五百難』を、
『撰出し!』、
明朝、
諸の、
『梨昌たち』と、
『仏の所』に、
『至り!』、
『仏』に、
『問うて!』、こう言った、――
『究竟の道』は、
『一ですか?』、
『衆多(あまた)ですか?』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
『究竟の道』は、
『一である!』、
『衆多ではない!』、と。
  毘耶離(びやり):梵名 vaizaali、又毘舎離と称す。跋祇(梵 vajji )国に所属せし離車(梵 lichavi )族の都城。『大智度論巻2上注:毘舎離、巻3上注:十六大国』参照。
  梨昌(りしょう):梵名 lichavi、又離車に作る。毘舎離を都城とせし貴族種の名。『大智度論巻18上注:離車』参照。
  離車(りしゃ):梵名 liccavi、又利車、離奢、粟唱、隷車、黎唱、律車、利車毘、離車毘、粟呫毘等に作る。毘舎離城刹帝利種の名なり。薄皮と訳す。其の祖先は一胞肉中より生ずるに因り、此の名あり。又貴族、豪族等と訳す。「善見律毘婆沙巻10」に依れば、往昔波羅㮈国王夫人、一肉団を生ぜり。赤きこと木槿華の如し。以って恥と為し、之を器の中に盛り、金薄を作し、波羅㮈国王夫人の所生と朱書して、之を江中に投ず。一同士あり、将って帰りて、之を一処に置く、半月を過ぐるに、一肉分れて二片と為る。又半月を過ぐるに、二片は各五胞を生ず。又半月を経るに、一片は男と為り、一片は女と為る、男は黄金色、女は白銀色なり。道士、之を見て、慈心力を以っての故に、手指より自然に乳を出し、乳は子の腹に入る。道士は児に号して離車子と為す、漢に皮薄と云う。又同皮とも言う。二子長じて十六に至るに、牧牛人共に宅舎を立て、女を以って男に嫁し、男を拜して王と為し、女を夫人と為す。後に王子を多生し、三次に舎宅を開広するを以っての故に、毘舎離(毘舎離を広厳と訳す)と名づく、と云えり。「慧琳音義巻6」には、「粟舎毘王、豪族の類、之刹利種系なり。又離車毘童子とも云う、上旧の名なり」と云い、「同巻29」に、「梨車毘童子、梵語訛なり。正梵音は粟聶毘なり。唐に貴族公子と言うなり。)諸経には或いは離車子と云える是れなり。聶音は昌葉反なり」と云い、「西域記巻7」に、「栗呫(昌葉反)婆子、旧に離車子と言う、訛なり」と云える是れなり。<(丁)
  論力(ろんりき):梵志の名。
  (ご):雇用する( employ )、報酬を与える( pay )、報酬( fee )。
  思撰(しせん):思慮して択び集める。
  明旦(みょうたん):明朝。
梵志言。佛說一道。諸外道師各各有究竟道。是為眾多非一。佛言。是雖各有眾多皆非實道。何以故。一切皆以邪見著故。不名究竟道。 梵志の言わく、『仏は、一道と説きたもうも、諸の外道の師は、各各究竟の道有り。是れを衆多と為し、一に非ず』、と。仏の言わく、『是れに各有りて、衆多なりと雖も、皆実の道に非ず。何を以っての故に、一切は皆、邪見に著するを以って故に、究竟の道と名づけざればなり』、と。
『梵志』は、こう言った、――
『仏』は、
『一道だ!』と、
『説かれる!』が、
諸の、
『外道の師』には、
各各に、
『究竟の道』が、
『有る!』。
是れは、
『衆多であって!』、
『一ではない!』、と。
『仏』は、こう言われた、――
是れに、
『各の道』が、
『有り!』、
『衆多だとしても!』、
皆、
『実の!』、
『道ではない!』。
何故ならば、
一切は、
皆、
『邪見』で、
『各の道』に、
『著する!』が故に、
是れを、
『究竟の道』とは、
『呼ばないからである!』、と。
佛問梵志。鹿頭梵志得道不。答言。一切得道中是為第一。是時長老鹿頭梵志比丘在佛後扇佛。佛問梵志。汝識是比丘不。梵志識之慚愧低頭。 仏の梵志に問いたまわく、『鹿頭梵志は、道を得たりや不や』、と。答えて言わく、『一切の得道中に、是れを第一と為す』、と。是の時、長老鹿頭梵志比丘は、仏の後に在りて、仏を扇げり。仏の梵志に問いたまわく、『汝は、是の比丘を識るや不や』、と。梵志、之を識りて、慚愧し頭を低る。
『仏』は、
『梵志』に、こう問われた、――
『鹿頭梵志』は、
『道』を、
『得ているのか?』、と。
『梵志』は答えて、こう言った、――
一切の、
『道を得た!』者中に、
『鹿頭梵志』は、
『第一である!』、と。
是の時、
『鹿頭梵志比丘』は、
『仏の後』で、
『仏』を、
『扇いでいた!』。
『仏』は、
『梵志』に、こう問われた、――
お前は、
是の、
『比丘』を、
『識っているか?』、と。
『梵志』は、
之を、
『識る!』と、
『慚愧して!』、
『頭を低()れた!』。
  鹿頭(ろくづ):仏在世の弟子。「増一阿含経巻3」に、「分別等の智を恒に忘失せずとは、謂わゆる鹿頭比丘是れなり」と云えり。又「増一阿含経巻20」等に出づ。
  参考:『増一阿含経巻20(4)』:『聞如是。一時。佛在羅閱城耆闍崛山中。與大比丘眾五百人俱。爾時。世尊從靜室起下靈鷲山。及將鹿頭梵志。而漸遊行到大畏塚間。爾時。世尊取死人髑髏授與梵志。作是說。汝今。梵志。明於星宿。又兼醫藥能療治眾病。皆解諸趣。亦復能知人死因緣。我今問汝。此是何人髑髏。為是男耶。為是女乎。復由何病而取命終。是時。梵志即取髑髏反覆觀察。又復以手而取擊之。白世尊曰。此是男子髑髏。非女人也。世尊告曰。如是。梵志。如汝所言。此是男子。非女人也。世尊問曰。由何命終。梵志復手捉擊之。白世尊言。此眾病集湊。百節酸疼故致命終。世尊告曰。當以何方治之。鹿頭梵志白佛言。當取呵梨勒果。并取蜜和之。然後服之。此病得愈。世尊告曰。善哉。如汝所言。設此人得此藥者。亦不命終。此人今日命終為生何處。時。梵志聞已。復捉髑髏擊之。白世尊言。此人命終生三惡趣。不生善處。世尊告曰。如是。梵志。如汝所言。生三惡趣。生不善處。是時。世尊復更捉一髑髏授與梵志。問梵志曰。此是何人。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏。女人身也。世尊告曰。由何疹病致此命終。是時。鹿頭梵志復以手擊之。白世尊言。此女人懷妊故致命終。世尊告曰。此女人者。由何命終。梵志白佛。此女人者。產月未滿。復以產兒故致命終。世尊告曰。善哉。善哉。梵志。如汝所言。又彼懷妊以何方治。梵志白佛。如此病者。當須好酥醍醐。服之則差。世尊告曰。如是。如是。如汝所言。今此女人以取命終。為生何處。梵志白佛。此女人以取命終。生畜生中。世尊告曰。善哉。善哉。梵志。如汝所言。是時。世尊復更捉一髑髏授與梵志。問梵志曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏者。男子之身。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。由何疹病致此命終。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終飲食過差。又遇暴下故致命終。世尊告曰。此病以何方治。梵志白佛。三日之中絕糧不食。便得除愈。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。此人命終為生何處。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終生餓鬼中。所以然者。意想著水故。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。爾時。世尊復更捉一髑髏授與梵志。問梵志曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏者。女人之身。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。此人命終由何疹病。梵志復以手擊之。白世尊言。當產之時以取命終。世尊告曰。云何當產之時以取命終。梵志復以手擊之。白世尊言。此女人身。氣力虛竭。又復飢餓以致命終。世尊告曰。此人命終為生何處。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終生於人道。世尊告曰。夫餓死之人欲生善處者。此事不然。生三惡趣者可有此理。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此女人者。持戒完具而取命終。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。彼女人身。持戒完具致此命終。所以然者。夫有男子.女人。禁戒完具者。設命終時。當墮二趣。若天上.人中。爾時。世尊復捉一髑髏授與梵志。問曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此髑髏者。男子之身。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言者。此人由何疹病致此命終。梵志復以手擊之。白世尊言。此人無病。為人所害故致命終。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。為人所害故致命終。世尊告曰。此人命終為生何處。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。此人命終生善處天上。世尊告曰。如汝所言。前論.後論而不相應。梵志白佛。以何緣本而不相應。世尊告曰。諸有男女之類。為人所害而取命終。盡生三惡趣。汝云何言生善處天上乎。梵志復以手擊之。白世尊言。此人奉持五戒。兼行十善。故致命終生善處天上。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。持戒之人無所觸犯。生善處天上。世尊復重告曰。此人為持幾戒而取命終。是時。梵志復專精一意無他異想。以手擊之。白世尊言。持一戒耶。非耶。二.三.四.五耶。非耶。然此人持八關齋法而取命終。世尊告曰。善哉。善哉。如汝所言。持八關齋而取命終。爾時。東方境界普香山南有優陀延比丘。於無餘涅槃界而取般涅槃。爾時。世尊屈申臂頃。往取彼髑髏來授與梵志。問梵志曰。男耶。女耶。是時。梵志復以手擊之。白世尊言。我觀此髑髏。元本亦復非男。又復非女。所以然者。我觀此髑髏。亦不見生。亦不見斷。亦不見周旋往來。所以然者。觀八方上下。都無音嚮。我今。世尊。未審此人是誰髑髏。世尊告曰。止。止。梵志。汝竟不識是誰髑髏。汝當知之。此髑髏者。無終.無始.亦無生死。亦無八方.上下所可適處。此是東方境界普香山南優陀延比丘於無餘涅槃界取般涅槃。是阿羅漢之髑髏也。爾時。梵志聞此語已。歎未曾有。即白佛言。我今觀此蟻子之蟲。所從來處。皆悉知之。鳥獸音嚮即能別知。此是雄。此是雌。然我觀此阿羅漢。永無所見。亦不見來處。亦不見去處。如來正法甚為奇特。所以然者。諸法之本出於如來神口。然阿羅漢出於經法之本。世尊告曰。如是。梵志。如汝所言。諸法之本出如來口。正使諸天.世人.魔.若魔天。終不能知羅漢所趣。爾時。梵志頭面禮足。白世尊言。我能盡知九十六種道所趣向者。皆悉知之。如來之法所趣向者。不能分別。唯願世尊得在道次。世尊告曰。善哉。梵志。快修梵行。亦無有人知汝所趣向處。爾時。梵志即得出家學道。在閑靜之處。思惟道術。所謂族姓子。剃除鬚髮。著三法衣。生死已盡。梵行已立。所作已辦。更不復受胎。如實知之。是時。梵志即成阿羅漢。爾時。尊者鹿頭白世尊言。我今以知阿羅漢行所修之法。世尊告曰。汝云何知阿羅漢之行。鹿頭白佛。今有四種之界。云何為四。地界.水界.火界.風界。是謂。如來。有此四界。彼時人命終。地即自屬地。水即自屬水。火即自屬火。風即自屬風。世尊告曰。云何。比丘。今有幾界。鹿頭白佛。其實四界。義有八界。世尊告曰。云何四界。義有八界。鹿頭白佛。今有四界。云何四界。地.水.火.風。是謂四界。彼云何義有八界。地界有二種。或內地.或外地。彼云何名為內地種。髮.毛.爪.齒.身體.皮膚.筋.骨.髓.腦.腸.胃.肝.膽.脾.腎。是謂名為內地種。云何為外地種。諸有堅牢者。此名為外地種。此名為二地種。彼云何為水種。水種有二。或內水種.或外水種。內水種者。唌.唾.淚.尿.血.髓。是謂名為內水種。諸外軟溺物者。此名為外水種。是名二水種。彼云何名為火種。然火種有二。或內火.或外火。彼云何名為內火。所食之物。皆悉消化無有遺餘。此名為內火。云何名為外火。諸外物熱盛物。此名為外火種。云何名為風種。又風種有二。或有內風.或有外風。所謂脣內之風.眼風.頭風.出息風.入息風。一切支節之間風。此名為內風。彼云何名為外風。所謂輕飄動搖.速疾之物。此名為外風。是謂。世尊。有二種。其實有四。數有八。如是。世尊。我觀此義。人若命終時。四種各歸其本。世尊告曰。無常之法亦不與有常并。所以然者。地種有二。或內.或外。爾時。內地種是無常法.變易之法。外地種者。恒住.不變易。是謂地有二種。不與有常.無常相應。餘三大者亦復如是。不與有常.無常共相應。是故。鹿頭。雖有八種。其實有四。如是。鹿頭。當作是學。爾時。鹿頭聞佛所說。歡喜奉行』
是時佛說義品偈
 各各謂究竟  而各自愛著 
 各自是非彼  是皆非究竟 
 是人入論眾  辯明義理時 
 各各相是非  勝負懷憂喜 
 勝者墮憍坑  負者墮憂獄 
 是故有智者  不隨此二法 
 論力汝當知  我諸弟子法 
 無虛亦無實  汝欲何所求 
 汝欲壞我論  終已無此處 
 一切智難勝  適足自毀壞
是の時、仏の、義品の偈を説きたまわく、――
各各は究竟すと謂いて、而も各自ら愛著す、
各自ら是とし彼れを非とす、是れ皆究竟に非ず。
是の人論衆に入りて、義理を辯明する時、
各各相是非し、勝負して憂喜を懐く。

勝者は憍の坑に堕ち、負者は憂の獄に墮つ、
是の故に有智の者は、此の二法に堕せず。
論力汝は当に知るべし、我が諸の弟子の法に、
虚無く亦た実無きを、汝が何の求むる所をか欲する。

汝は我れを壊せんと欲して論ず、終に已に此の処無し、
一切智には勝ち難し、適ま自ら毀壊するに足るのみ。
是の時、
『仏』は、
『義品の偈』を、こう説かれた、――
各各は、
『道』を、
『究竟した!』と、
『謂いながら!』、
各各、
『自ら!』の、
『道』に、
『愛著する!』。
各各は、
自らを、
『是として!』、
彼れを、
『非とする!』が、
是れは、
皆、
『道』を、
『究竟していない!』。
是の人は、
『議論』の、
『衆』中に、
『入り!』、
『義』の、
『理』を、
『辯明する!』時にも、
各各、
『互に!』、
『是、非』を、
『諍い!』、
『勝、負して!』、
『憂、喜』を、
『懐く!』。
『議論』に、
『勝った!』者は、
『憍慢の坑』に、
『堕ち!』、
『負けた!』者は、
『憂愁の獄』に、
『堕ちる!』、
是の故に、
『智者』は、
『是、非の二法』に、
『堕ちないのである!』。
論力!
お前は、
こう知らねばならぬ、――
わたしの、
諸の、
『弟子の法』には、
『虚、実』が、
『無いということを!』。
お前は、
何が、
『求めたいのか?』。
お前が、
わたしを、
『破ろうとして!』、
『論じれば!』、
終に、
此の、
『道理』は、
『無い!』。
何故ならば、
『一切智』には、
『勝ち難く!』、
自らを、
『傷つける!』のが、
『関の山だからだ!』。
  論衆(ろんじゅ):議論する人衆。
  辯明(べんみょう):言い立てて解き明かす。
  義理(ぎり):意味と道理。
  憍坑(きょうきょう):おごりの落し穴。
  憂獄(うごく):うれいの牢獄。
  適足(ちゃくそく):ちょうど足りる。
  毀壊(きえ):傷つけこわす。
如是等處處聲聞經中說諸法空。 是の如き等、処処の声聞経中に、諸法の空を説きたまえり。
是れ等のように、
処処の、
『声聞の経』中に、
諸の、
『法の空』が、
『説かれている!』。


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