巻第十七(下)
釈初品中禅波羅蜜義第二十八
1.四禅
2.四無色定
3.阿毘曇中の四禅、四無色定
4.禅と禅波羅蜜
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大智度論釋初品中禪波羅蜜
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


四禅

問曰。八背捨八勝處十一切入四無量心諸定三昧。如是等種種定。不名波羅蜜。何以但言禪波羅蜜。 問うて曰く、八背捨、八勝処、十一切入、四無量心、諸の定、三昧、是の如き等の種種の定は、波羅蜜と名づけずして、何を以ってか、但だ禅波羅蜜とのみ言う。
問い、
『八背捨、八勝処、十一切入、四無量心』等の、
諸の、
『定・三昧( 梵samaadhi )』、
是れ等のような、
種種の、
『定』を、
『波羅蜜』と、
『呼ばずに!』、
何故、
但だ、
『禅』のみを、
『波羅蜜』と、
『言うのですか?』。
  八背捨(はっぱいしゃ):又八解脱と名づく。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  十一切入(じゅういっさいにゅう):又十一切処、十徧処等とも名づく。即ち勝解作意に依りて色等の十法が、各一切処に周辺して間隙なしと観ずるを云う。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  四無量心(しむりょうしん):又四無量、四等心等とも名づく。即ち無量の衆生を縁じ、それをして楽を得、苦を離れしめんと思惟し、各その等至に入るを云う。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  (じょう):安定不動の意。即ち心の一境に凝住して散動せざる情態を云う。「中阿含巻58法楽比丘尼経」に、「若し善心、一なることを得ば、是れを定と謂うなり」と云い、「瑜伽師地論巻30」に、「云何が心一境性なる。謂わく数数随念して同分の所縁に流注し、無罪適悦相応し、心をして相続せしむるを三摩地と名づけ、亦た名づけて善心一境性と為す」と云い、又「六門教授習定論」に、「所縁の処に於いて心をして善く住せしむ、之を名づけて定となす。散乱せず動揺せざるに由るが故なり」と云える是れなり。蓋し定は元と梵語三摩地 samaadhi の訳にして、即ち心の一境に住する情態を名づけたるものなるも、其の進境に階降等差あり、又止観均行不均行、及び有心無心等同じからざるが為に、四禅四無色二無心定等の別を生じ、随って定は或いは禅定の総称に用いられ、或いは単に三摩地即ち心一境性の義に用いられ、或いは又三昧と別義にも使用せられ、其の語義錯綜するに至れり。「大智度論巻28」に、「復た次ぎに、一切の禅定を亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を亦た禅と名づけ、亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を除ける所余の定を亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。名づけて禅となさず」と云い、「十住毘婆沙論巻11」に、「禅とは四禅なり、定とは四無色定、四無量心等を皆名づけて定となす。(中略)有る人言わく、定は小にして三昧は大なり、是の故に一切の諸仏菩薩所得の定を皆三昧と名づく」と云えるに見て之を知るべし。又「成唯識論了義灯巻5本」に広く定の異名を挙げ、「定に七名あり、一に三摩呬多と名づく、此に等引と云う。三摩を等と云い、呬多を引と云う。二に三摩地と云い、此に等持と云う。三に三摩鉢底と云い、此に等至と云う。四に馱那演那と云い、此に静慮と云う。五に質多翳迦阿羯羅多と云い、此に心一境性と云う。質多は心と云い、翳迦は一と云い、阿羯羅は境と云い、多は性と云う。六に奢摩他は此に止と云い、七に現法楽住と云う。等引は有無心に通じ、唯定にして散に非ず。瑜伽十一に欲界に於いては心一境性に非ずと云えり。等持は有心にして定及び散に通ず。然るに経論中には勝に就き、且く空無相無願を説きて三摩地と名づく。等至は通じて有無心定に目づく。然るに経論中には勝に就き、唯五現見等相応の諸定を説きて名づけて等至と為す。静慮は通じて有無心定、漏及び無漏、染不染を摂す。色の四地にのみ依り、余処に有なるに非ず。諸処に勝に就きて色地の有心清浄の功徳を説いて名づけて静慮と為す。心一境性は即ち等持なり、心一境性を以って等持と釈するが故なり。奢摩他は唯有心の浄定にして散位に通ぜず。現法楽住は唯静慮の根本に在りて余に非ず、浄にして散に通ぜず。然るに等引は寛く通じて一切の有無心位の諸の功徳を摂するが故に、瑜伽論中には偏に地名を立つるも等至は爾らず」と云えり。是れ定に総じて七種の呼称あることを明にせるなり。此の中、三摩呬多 samaahita 即ち等引とは、惛沈掉挙を離るることに由りて身心の安和平等を引発する分位を云い、三摩地 samaadhi 即ち等持とは、定の体に名づけたるものにして、即ち心をして一境に繋属して転ぜしむるを云い、三摩鉢底 samaapatti 即ち等至とは、定の自相に名づけたるものにして、即ち定力に由りて至得せる身心安和の状態を云い、馱那演那 dhyaana 即ち静慮とは、総じて色界定(即ち四禅)に名づけたるものにして、止観均行して寂静に審慮するを云い、質多翳迦阿羯羅多とは citaaikaagrataa 即ち心一境性とは定の自性にして、心の一境に止住する状態を云い、奢摩他 zamadha 即ち止とは、心の一処に寂止して策挙を離れたるを云い、現法楽住 dRSTa- dharma- sukha- vihaara とは、四禅の根本定に名づけたるものにして、即ち浄定及び無漏定に由りて現前の法楽に住するを云うなり。之に依るに広義には静慮及び現法楽住等も亦た皆定と名づけらるるものなるを知るべし。又凡そ定に有心無心の別あり、有心定とは四禅四無色等の諸定を云い、無心定とは無想及び滅尽の二定を云う。前の七の中、等持、心一境性、止及び現法楽住の四は唯有心定に局り、等引、等至、静慮の三は有心無心定に通ず。就中、有心定を大別するに止観の二品あり。「瑜伽師地論巻30」に、「復た次ぎに是の如き心一境性は、或いは是れ奢摩他品、或いは是れ毘鉢舎那品なり。若し九種の心住の中の心一境性に於いては是れを奢摩他品と名づけ、若し四種の慧行の中の心一境性に於いては是れを毘鉢舎那品と名づく」と云える是れなり。奢摩他品の九種の心住とは、一に内住、二に等住、三に安住、四に近住、五に調順、六に寂静、七に最極寂静、八に専注一趣、九に等持なり。此の中、先づ外の攀縁を摂して内散乱を離れ、心を境に堅執せしむるを内住と云い、或いは令住、又は最初住と名づく。次に心の麁動を摂して微細に遍住せしむるを等住、又は正念住と名づけ、散乱並びに失念を離れて、心を内境に摂録安置するを安住、又は覆審住と名づけ、念住に親近して数数作意するを近住又は後別住と名づけ、心を調伏して流散せしめざるを調順又は調柔住と名づけ、深く悪尋思及び随煩悩の過患を見て、其の心を摂伏うるを寂静、又は寂静住と名づけ、失念に由る悪尋思及び随煩悩の現起を制伏するを最極寂静又は降伏住と名づけ、功力に由りて定力の相続するを専注一趣又は功用住と名づけ、数数修習の因縁により、定心の無功用に相続して転ずるを等持又は平等摂持、或いは任運住と名づくるなり。毘鉢舎那品の四種の慧行とは、一に正思択、二に最極思択、三に周遍尋思、四に周遍伺察なり。就中、浄行所縁の不浄、慈悲、縁起、界及び持息念の五種の境、善巧所縁の蘊、界、処、縁起及び処非処の五種の境、並びに浄惑所縁の世出世道等の差別の諸法に於いて思択分別するを正思択、又は簡択諸法と名づけ、差別の諸法中に於いて平等の実性を思択するを最極思択と名づけ、分別作意に依りて諸法の相を取り、遍く尋思するを周遍尋思又は普遍尋思と名づけ、彼の所縁の境に於いて具に推求するを周遍伺察又は周審観察と名づくるなり。此の中、奢摩他即ち止は前の七名の一にして、心を摂して一処に凝住せしむるを云い、毘鉢舎那即ち観は、慧を以って種種の諸境を思択観察するを称するものにして、即ち奢摩他を所依として起るものなり。「成唯識論巻5」に、「云何が定となす。所観の境に於いて心を専注して散ぜざらしむるを性となし、智の依たるを業となす。謂わく徳と失と俱非等の境を観ずる中、定に由りて心をして専注して散ぜざらしむ。斯れに依りて決択の智生ずることあり」と云い、又「大智度論巻17」に、「実智慧は一心禅定より生ず。譬えば灯を然すが如く、灯は能く照らすと雖も、大風の中に在らば用を為すこと能わず、若し之を密室に置かば其の用乃ち全し。散心の中の智慧も亦た是の如し、若し禅定の静室なくんば、智慧ありと雖も、其の用全からず。禅定を得れば則ち実智慧生ず」と云える皆即ち其の意なり。諸の有心定の中、未至中間の二定は観品増して止品減じ、四無色定は観品減じて止品増し、唯色界の四根本定のみ止観均等に和合して俱転す。故に色界の四根本定を特に四禅即ち静慮と称し、余の四無色定等は止観均行ならざるを以って総じて唯定と名づくるなり。「瑜伽師地論巻31」に、「問う、何を斉(かぎ)りて当に奢摩他毘鉢舎那の二種和合して平等に俱転し、此れに由りて説いて双運転道と名づくと言うべきや。答う、若し九相心住の中の第九相の心住を獲得するあり、謂わく三摩呬多なり。彼れ是の如き円満の三摩地を用いて所依止と為し、法観の中に於いて増上慧を修す。彼れ其の時に於いて法観に由るが故に任運に転道し、無功用にして転じて加行に由らず。毘鉢舎那は清浄鮮白にして、奢摩他に随って調柔摂受せられ、奢摩他道の如く摂受して転ず。此れを斉りて名づけて奢摩他毘鉢舎那の二種和合して平等に俱転すと為す。此れに由りて名づけて奢摩他毘鉢舎那双運転道と為す」と云えるは、即ち奢摩他品の第九心住たる三摩呬多を獲得し、之を所依止として増上慧を修し、之に依りて止観均行するを名づけて双運転道となすの意を明にせるなり。又此の中、色界初禅に在りては利鈍の十使を滅し、二禅以上は瞋を除ける余の九使を滅す。又初禅は語言を滅し、二禅以上は尋伺を滅し、又四禅に順次に憂苦喜楽等の諸受を滅し、又初禅には鼻舌の二識なく、二禅以上には五識都て無きなり。四無色定の中、初の空処定は、眼識と和合する可見有対の色想、耳鼻舌身の四識と和合する不可見有対の色想、意識と和合する不可見無対(即ち無表色)の色想を滅して無辺の虚空想に入り、第二の識処定は外空縁を捨し、唯内の心識を縁じて無辺の識行に入り、第三の無所有処定は識処広縁の苦を厭い、識想を滅して無所有の行相を作し、第四の非想非非想処定は、無所有の行相を捨して一向に非想なりと知見し、更に非想の行相も亦た尚お想なりとし、遂に非非想に達するを云う。順次に色と空と識と無所有との想を滅するなり。又此の四禅四無色の八根本定の中、下の七地には皆各味、浄及び無漏の三種の等至即ち三摩鉢底あるも、唯有頂地には無漏等至なり。就中、味等至は煩悩と相応し、浄等至は有漏の善定にして、之に順退分、順住分、順勝進分、順決択分の四種あり。順退分定は煩悩に順じ、順住分定は自地に順じ、順勝進分定は上地に順じ、順決択分定は無漏に順ず。無漏等至は出世定にして、即ち断惑の勝用あるなり。又無心定に二種ある中、無想定は外道等が無想を以って解脱なりと執し、出離の想を作して修する定を云い、滅尽定は聖者が静住を求めんが為に止息想の作意を以って修する定にして、共に久時に心心所法を滅するが故に無心定と名づくるなり。無心を定と称するに関し、「倶舎論巻5」に、「毘婆沙師説く、滅定の中には諸心皆滅す、若し都て心なくんば如何ぞ定と名づけんや。此れ大種をして平等に行ぜしむるが故に説いて名づけて定と為す。或いは心力に由りて平等に此に至るが故に名づけて定と為す」と云えり。是れ無心なるも、色の大種をして安和平等に相続して転ぜしむるの義あるが故に、名づけて定となすというの意なり。又上記諸定の中、外道所修の無想定を除き、四禅四無色及び滅尽定に至る九種の定は、異念間雑することなく、相次いで修入するを得るが故に之を九次第定、又は無間禅と名づく。但し若し定に於いて自在を得たる不時解脱の阿羅漢は、色無色の八地の等至に於いて能く一地を超えて修定することを得、之を超等至、又は超定、或いは超越三昧と名づく。「倶舎論巻28」に其の修相を明し、「本等至を分ちて二類と為す。一には有漏、二には無漏なり。上に往くを順と名づけ、下に還るを逆と名づけ、同類を均と名づけ、又異類を間と名づけ、相隣れるを次と名づけ、一を越ゆるを超と名づく。謂わく観行者超定を修する時、先づ有漏八地の等至に於いて順逆均次に現前して数習し、次に無漏七地の等至に於いて順逆均次に現前して数習し、次に有漏と無漏との等至に於いて順逆間次に現前して数習し、次に有漏に於いて順逆均超に現前して数習し、次に無漏に於いて順逆均超に現前して数習す。是れを超を修習する加行の満と名づく。後に有漏無漏等至に於いて順逆間超に至るを超定の成と名づく。此の中の超とは唯能く一を超ゆるなり。遠きが故に超えて第四に入ることなし。超等至を修するは唯人の三洲にして、不時解脱の諸の阿羅漢なり。定自在なるが故に、煩悩無きが故なり。時解脱の者は煩悩なしと雖も、定に自在ならず。諸の見至の者は定自在なりと雖も、余の煩悩あるが故に皆超等至を修すること能わず」と云えり。是れ不時解脱の利根の阿羅漢のみ超等至を修し、能く一地を超ゆることを得となすの意なり。但し「大智度論巻17」には、菩薩は更に二乃至九を超越することを得となせり。又「瑜伽師地論巻31」には、入定の加行に相応加行、串習加行、不緩加行、無倒加行、応時加行、解了加行、無厭足加行、不捨軛加行、正加行の九種ありとし、就中、貪行者は不浄観、瞋行者は慈悲観、癡行者は縁起観、憍慢行者は界差別観、尋思行者は持息念を勤修するを相応加行と云い、止観に於いて数習するを串習加行と云い、常に遠離を楽い、勤行を修習して緩慢ならざるを不緩加行と云い、法と義とに随って自己の見取を執せざるを無倒加行と云い、止と観と挙と捨との相に於いて、其の相及び修時を了知するを応時加行と云い、止観挙捨の相を了知し已り、更に定の入住捨に自在を得るを解了加行と云い、小定に於いて退屈せず、更に上勝の法を進求するを無厭足加行と云い、心を外境に馳流せしめず、極めて調柔なるを不捨軛加行と云い、所縁の境に於いて数数勝解を発起するを正加行と名づく。此の九種の加行に由るが故に、能く其の心をして速疾に定を得、次第に了相作意、乃至加行究竟果作意等の七種の作意を修習して初静慮地に証入することを得となし、又定を修する者は怯弱、蓋覆、尋思、自挙の四種の障を離るべきことを説けり。此の中、怯弱障とは出離に於いて希望せざるを云い、蓋覆障とは欲貪、瞋恚、惛眠、掉悔、疑の五蓋を云い、尋思障とは欲等の染汙の尋思を云い、自挙障とは下劣の智見に於いて高挙するを云うなり。又説一切有部の正義に於いては、欲界は散地にして修地に非ず、又離欲地に非ざるが故に定なく、定は唯色界無色界にのみ在りとし、上記の如く四禅四無色定等を説くに過ぎずと雖も、異師及び大衆部等に於いては欲界にも亦た定ありとなせり。「鞞婆沙論巻10」に、「問うて曰わく、若し正観を名づけて禅となさば、欲界の中にも亦た定あり、謂わく能く正観するなり。何を以っての故に名づけて禅と為さざるや。答えて曰わく、欲界定は定の名ありと雖も、但し定の用なし。泥の梁は梁の名ありと雖も、梁の用なきが如し。是の如く欲界定は定の名ありと雖も而も定の用なし。色界定は既に定の名ありて而も定の用あり。木の梁は既に梁の名ありて而も梁の用あるが如し。是の如く色界定は既に定の名ありて而も定の用あり。或いは曰わく、欲界定は嬈乱不定なり、四衢の道に灯を然すに、四面より風吹き、風に随って東西するが如し。是の如く欲界定は嬈乱不定なり」と云い、又「大乗義章巻11」に四善根の所依の界地に異説あることを明し、尊者達磨多羅は、欲界には一向に定なきが故に、四善根は唯色界の摂なりとし、尊者瞿沙は欲界に六禅定あり、故に之を依として四善根を修起することを得とし、摩訶僧祇部も亦た欲界に禅定あり、之を依として修起するものは即ち欲界の摂なりと説くと云える、皆其の説なり。其の他、又定の種類に関し、「梁訳摂大乗論釈巻11」には、小乗清浄道論所立の定に六十七種、大乗の所立に五百定あり、就中、大乗の五百定は大乗光、集福徳、賢護、首楞伽の四定に総摂せられ、此の四は、諸定の通業にして、之に依りて十波羅蜜を修して衆生を成熟し、能く仏土を清浄ならしむることを得と云い、又「大品般若経巻3相行品」、「同巻5問乗品」、「同巻27常啼品」、「旧華厳経巻25、27、34、38、45、49、50」等に多種の三昧定の名を出せり。三学の一にして、之に依りて正慧を発生することを得とし、諸経論に盛んに其の行法等を広説する所あるなり。又「雑阿含経巻28」、「大毘婆沙論巻3、151至155」、「四諦論巻4」、「解脱道論巻4」、「大智度論巻5、22、23」、「成実論巻12至15」、「瑜伽師地論巻11、12」、「大荘厳経論巻8」、「顕揚聖教論巻2」、「雑阿毘曇心論巻8」、「倶舎論巻25、29」、「順正理論巻77」、「大乗義章巻13」、「倶舎論光記巻28、29」、「瑜伽師地論略纂巻5」等に出づ。<(望)
  三昧(さんまい):samaadhi、梵語。巴梨語同じ。三摩地の旧音写なり。正定、又は等持等と訳す。心の一境に住して動ぜざる状態を云う。倶舎等に於いては三摩地を以って一の心所法とし、心は此の心所に摂持せらるるが故に、即ち一境に住することを得となせるも、経部及び成実論等には之を別の実有の心所となさず、唯心の一境に相続して転ずるを三摩地と名づくとせり。蓋し三摩地、解脱 vimokza、禅 dhyaana、及び三摩鉢底 samaapatti 等は、皆心の相続して一境に転ずる状態を指せるものなりと雖も、其の義は各同じからず。之に関し「大智度論巻28」に、「三昧に二種あり、声聞法の中の三昧と、摩訶衍法の中の三昧となり。声聞法の中の三昧とは所謂三三昧なり。復た次ぎに三三昧あり、空空三昧、無相無相三昧、無作無作三昧なり。復た三三昧あり、有覚有観、無覚有観、無覚無観なり。復た五支三昧、五智三昧等あり。是れを諸三昧と名づく。復た次ぎに一切の禅定を亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を亦た禅と名づけ、亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく。四禅を除ける諸余の定を亦た定と名づけ、亦た三昧と名づく、名づけて禅と為さず。十地の中の定を名づけて三昧と為す」と云い、又「十住毘婆沙論巻11」には、「禅とは四禅なり、定とは四無色定、四無量心等を皆名づけて定と為す、解脱とは八解脱なり、三昧とは諸禅解脱を除いて余の定を尽く三昧と名づく。有人言わく、三解脱門及び有覚有観定、無覚有観定、無覚無観定を名づけて三昧と為すと。有人言わく、定は小に、三昧は大なり。是の故に一切の諸仏菩薩所得の定を皆三昧と名づくと」と云えり。此の中、諸説あるも、要するに狭義には唯空無相無願及び有覚有観等の三を三昧と名づけ、広義には即ち四禅及び余の諸定をも皆亦た称して三昧となすの意なり。又「雑阿毘曇心論巻6」、「成実論巻12」、「十地経論巻5」等に亦た各其の説を出せり。故に「大乗義章巻13」に、「毘曇の如きに依らば、四禅を禅と名づけ、八解脱をば名づけて背捨と為し、四無色定と滅尽と無想とを通じて正受と名づけ、空無相無願を三摩提と名づく。故に彼の論に言わく、諸禅と及び背捨と正受と三摩提と、此の四名を用って表して諸定を別つと。若し成実に依らば、四禅を禅と名づけ、四空を定と名づけ、八解脱をば名づけて解脱と為し、一切禅定の用現在前するを三摩提と名づく。此の四名を以って名づけて諸定を別つ。若し地論に依らば、四禅を禅と名づけ、四無色定を説いて解脱となし、四無量心を名づけて三昧と為し、五神通をば三摩提と名づく。此の四名を以って名づけて諸行を別つ。又更に分別せば四禅を禅と名づけ、四空を定と名づく。空無相無願を名づけて三昧と為す、理と相応するを得るを正定と名づくるが故なり。滅尽と無想を名づけて正受と為す、是の処には心無く、身に法を納るるが故なり。四無量心を三摩提(恐らくは三摩跋か)と名づく、衆生縁の中に用現前するが故なり。八解脱をば名づけて解脱と為す、下縛を絶するが故なり。又下過に背くが故に背捨と云い、一切の禅定始習の方便に意を止めて縁に住するを奢摩他と名づく」と云えり。此の中、亦た諸説ありと雖も、禅と定と三昧と正受と三摩跋と解脱と奢摩他との七種の義を皆各別とするの意なるを見るべし。又「瑜伽師地論巻11」には、「此の地(三摩呬多地)の中に略して四種あり、一には静慮、二には解脱、三には等持、四には等至なり。静慮とは謂わく四静慮なり、一に従離生有尋有伺静慮、似に従定生無尋無伺静慮、三に離喜静慮、四に捨念清浄静慮なり。解脱とは謂わく八解脱なり、一に有色観諸色解脱、二に内無色想観外諸色解脱、三に浄解脱身作証具足住解脱、四に空無辺処解脱、五に識無辺処解脱、六に無所有処解脱、七に非想非非想処解脱、八に相受滅身作証具足住解脱なり。等持とは謂わく三三摩地なり、一に空、二に無願、三に無相なり。復た三種あり、謂わく有尋有伺、無尋唯伺、無尋無伺なり。復た三種あり、謂わく小と大と無量となり。復た二種あり、謂わく一分修と具分修となり。復た三種あり、謂わく喜俱行、楽俱行、捨俱行なり。復た四種あり、謂わく四修定なり。復た五種あり、謂わく五聖智三摩地なり。復た五種あり、謂わく聖五支三摩地なり。復た有因有具聖正三摩地あり、復た金剛喩三摩地あり、復た有学無学非学非無学等の三摩地あり。等至とは謂わく五現見三摩鉢底、八勝処三摩鉢底、十徧処三摩鉢底、四無色三摩鉢底、無想三摩鉢底、滅尽定等の三摩鉢底なり」と云い、又「倶舎論巻28」には、所依止の定の中に就いて四静慮と四無色と八等至と三等持とを別説し、四静慮は善の等持を以って自性と為す。諸の等持の中に於いて唯此れのみ支を摂し、止観均行にして最も能く審慮し、現法楽住及び楽通行の名を得るが故に、此の等持を独り静慮と名づく。四無色は亦た善の等持を以って自性となす。止増し観減ずるが故に無色には支を摂せず。此の静慮及び無色の根本等至に総じて八種あるが故に八等至と称す。中に於いて四静慮及び下三無色の七等至には、具に味等至と浄等至と無漏等至との三あり。有頂の等至には唯味と浄との二種ありて無漏なし。三等持は有尋有伺、無尋唯伺、無尋無伺なり。又空無願無相を三等持と名づけ、空空無願無願無相無相を三重等持と名づくと云い、次に定に依りて起す所の功徳に、四無量、八解脱、八勝処、十徧処等の別ありと云えり。是の如く三摩地は禅及び三摩鉢底等と其の義異ありと雖も、古訳家中には時に之を混同せしもの少からざりしが如し。玄奘訳の「発智論巻17」に、「八等至あり、謂わく四静慮四無色なり」と云えるを、苻秦訳の「阿毘曇八揵度論巻26」に、「八三昧とは四禅四無色定なり」と云える如き、又「雑阿毘曇心論巻7」に、空無願無相の三三摩地を三三摩提に作り、四静慮、四無色の八等至、並びに味浄及び無漏の三等至を皆三昧と称し、之に正受の訳語を附したるが如き、共に三摩地と三摩鉢底とを混同したる例なり。又「瑜伽論記巻4上」に、「景法師云わく、三摩呬多は又旧に三昧と名づくるは語訛なりと。泰云わく、三摩地は又旧に三摩跋提と名づくるは語訛なりと。是の二師の言には相違あるなり。今謂わく三昧即ち三摩地なることは当に基師の所説の如くなるべし。知る所以は、成実論に五聖智三昧と云えるを、此の論の第十二には五聖智三摩地と云うを以っての故なり。新羅元暁師云わく、三摩地と三昧とは名義各異なり。知る所以は、金光明経第三巻の中に十地の定を明すに、初の三地の定を三摩提と名づけ、後の七地の定を三昧と名づくるが如し。其れ若し一名にして而も訳に訛正あるならんには、何故に一師の訳経の中には或いは三昧と名づけ、或いは三摩提と名づけんや。故に知んぬ異なりと。今謂わく之れ然らず。彼の経に三摩提と言うは即ち今言う所の三摩呬多なり。此に等引と云う。彼れに三昧と言うは旧に翻じて正受と名づく。即ち今三摩地と云うは翻じて等持と名づく。二義別なるが故に上上の各名影略して互いに顕すなり。但だ恐らくは、暁公は地提の二字を別たずして濫りに斯の難を作すことを。然るに復た新翻の十巻金光明経を勘うるに、十地の定を皆三摩地と名づけたり。此れ即ち訳人の音を解する同じからざればなり」と云えるも、亦た古く三摩地、三摩呬多等の別を辯ぜざりしを示せるものを云うべし。按ずるに阿含等の中には唯四禅八定、并びに空無相無願及び有覚有観等の三昧を出すに過ぎずと雖も、大乗経中には三昧を説くこと甚だ多く、其の数実に数百千に上れり。就中、空 zuunyataa、無相 animitta、無願 apraNihita の三三昧、并びに空空 zuunyataa- zuunyataa、無相無相 animittaanimitta、無願無願 apraNihitaapraNihita の三重三昧は最も顕著なるものにして、「長阿含経巻9、10」、「中阿含経巻17」、「雑阿含経巻18」、「増一阿含経巻16、39」を始め、「大品般若経巻1、23」、「旧華厳経巻25」、「大般涅槃経巻25」、並びに「集異門足論巻6」、「発智論巻9、10、52」、「大毘婆沙論巻104、105、145、183」、「倶舎論巻28」、「大智度論巻20、23」、「成実論巻12」、「瑜伽師地論巻12」、「十地経論巻8」、「仏地経論巻1」、「成唯識論巻8」等に悉く之を出せり。是れ恐らく諸三昧中の原始的なるものにして、大乗空観の説は主として此の三昧より発展したるものなるが如し。試みに今諸大乗経を検するに、一経又は一品を通じて一種の三昧を詳述せるあり、或いは経中に略して其の相を説けるもの、或いは唯其の名称を出すに過ぎざるもの等あり。彼の「般舟三昧経」、「首楞厳三昧経」、「慧印三昧経」、「超日明三昧経」、「自誓三昧経」、「仏印三昧経」、「法華三昧経」、「如幻三昧経」、「念仏三昧経」、「観仏三昧海経」、「月灯三昧経」、「文殊師利普超三昧経」、「宝如来三昧経」、「力荘厳三昧経」、「金剛三昧経」、「等集衆徳三昧経」、「四童子三昧経」、「寂照神変三摩地経」等の如きは、各其の経中に題名の三昧及び其の功用等を詳説し、又「大品般若経巻1序品」には三昧王三昧の名を挙げ、「法華経巻1序品」には無量義処三昧 anantanirudeza- pratiSThaana- s. の名を出し、「旧華厳経巻6賢首菩薩品」には華厳三昧、「同賢首品」並びに「大方等大集経巻15虚空蔵菩薩品」等には海印三昧、「旧華厳経巻44入法界品」には師子奮迅三昧を挙げ、「文殊師利所説般若波羅蜜経巻下」並びに「大般若経巻575」等には一行三昧 ekavyuuha- s. (一相荘厳三摩地)を説き、「賢愚経巻12波婆利品」、并びに「一切智光明仙人慈心因縁不食肉経」には慈三昧を説き、「超日月三昧経巻上」には、法宝、善住、無動、度無動、宝積華、日光耀、諸利義、現在、慧光耀、勇猛伏、超日月等の十一種の三昧を挙げ、又「大品般若経巻3相行品」、「同巻5問乗品(大般若経巻414、大智度論巻43、47)」等には首楞厳 zuuraMgana (健行)、宝印 ratna- mudra、師子遊戯 siMha- vikriiDita、妙月 su- candra、月幢相 candra- dhvaja- ketu、出諸法印 sarva- dharmodgata (出諸法、一切法湧)、潅頂 vilokita- muurdha、畢法性 dharma- dhaatu-niyata (法界決定)、畢幢相 niyata- dhvaja- ketu (決定幢相)、金剛 vajra (金剛喩)、入法印 sarva- dharma- praveza- mudra、三昧王安立 samaadhi- raajaa- supratiSThita (善立定王)、放光 razmi- pramukta、力進 bala- vyuuha (精進力)、出生 samudgata (高出、等湧)、必入辯才 nirukti- niyata- praveza (入一切言詞決定)、入名字 adhivacana- praveza (釈名字、等入増語)、観方 dig- vilokita、陀羅尼印 aadhaaraNa- mudra (総持印)、不忘 asaMpramoSa (無誑、無忘失)、摂諸法海印 sarva- dharma- samavasaraNa- saagara-mudra (摂諸法海、諸法等趣海印)、遍覆虚空 aakaaza- spharaNa、金剛輪 vajra- maNDala、宝断 raNaM- jaha (離塵?)、能照耀 vairocana (能照、遍照)、不求 animiSa (不眴)、三昧無処住 aniketa- sthita (無住、無相住)、無心 nizcinta (不思惟)、浄灯 vimala- pradiipa (無垢灯)、無辺明 ananta- prabha (無辺光)、能作明 prabhaa- kari (発光)、普遍明(普照明、普照、梵?)、堅浄諸三昧 zuddha- saara (浄堅定)、無垢明三昧 vimala- prabha (無垢光)、作楽 rati- kara (歓喜、発妙楽)、電光 vidyut- pradiipa (電灯)、無尽 akSaya、威徳 tejovatii (具威光)、離尽 kSayaapagata、不動 aniJjya (無動)、荘厳 avivarta (不退、無瑕隙)、日光 suurya- pradiipa (日灯)、月浄 candra- vimala (浄月)、浄明 zuddha- prabhaasa (浄光)、能作明 aaloka- kara (発明)、作行 kaaraakaara (大般若闕)、知相 jJaana- ketu (智幢)、如金剛 vajropama (金剛鬘?)、心住 citta- sthiti (住心)、遍照 samantaaloka (普明)、安立 supratiSThita (善住)、宝頂 ratna- koTi (宝聚、宝積)、妙法印 vara- dharma- mudra、法等 sarva- dharma- samataa (一切法平等性)、生喜 ati- jaha (断喜、捨愛楽)、到法頂 dharmodgata (入法頂)、能散 vikiraNa (飄散)、壊諸法処 sarva- dharma- pada- prabheda (分別諸法句、分別法句)、字等相 samaakSaraavakaara (平等字相)、離字 akSaraapagata (離文字相)、断縁 aarambaNa- cchedana (断所縁)、不壊 avikaara (無変異)、無種相 aprakaara (無品類)、無処行 aniketa- caarin (無相行)、離闇 timiraapagata (離蒙昧、離翳闇)、無去 caaritravatii (具行?)、不動 acala (不変異、不変動)、度縁 viSaya- tiirNa (度境界)、集諸徳 sarva- guNa- saMcaya- gata (集諸功徳、集一切功徳、大般若には次に決定住あり)、住無心 sthita- nizchitta (無心住)、浄妙花 zubha- puSpita- zuddhi (浄妙華)、覚意 bodhy- aGgavatii (具覚支、大般若には次に無辺灯あり)、無量辯 ananta- pratibhaana (無辺辯)、無等等 asama- sama、度諸法 sarva- dharmaatikramaNa (超一切法)、分別諸法 pariccheda- kara (決判諸法)、散疑 vimati- vikiraNa (散疑網)、無所処 niradhiSThaana (無処、無所住)、一相 eka- vyuuha (一荘厳、一相荘厳)、生行 aakaaraabhinirhaara (引発行相)、一行 ekaakaara (一行相)、不一行 aakaaraanavakaara (離行相)、妙行(妙行相、梵?)、達一切有底散 nairvedhika- sarva- bhava- talopagata (達諸有底散壊)、入言語 saMketa- ruta- prabeza (入名語、入施設語言)、離音声字語 nirghoSaakSara- vimukta (解脱音声文字)、然炬 jvalanolka (炬熾然)、浄相 lakSaNa- parizodhana (厳浄相)、破相 anabhilakSita (無標幟)、一切種妙足 sarvaakaara- varopeta (具一切妙相)、不憙苦楽 sarva- sukha- duHkha- nirabhinandii (不喜苦楽、不憙一切苦楽)、不尽行 akSaya- karaNDa (無尽相、無尽行相)、多陀羅尼 dhaaraNiimat (陀羅尼、具陀羅尼)、取諸邪正相 samyaktva- mithyaatva- sarva- saMgrahaNa (摂諸邪正相、摂伏一切正性邪性)、滅憎愛 anurodhaapratirodha (離憎愛)、逆順 sarva- rodha- virodha- saMprazamana (静息一切違順)、浄光 vimala- prabha (無垢明)、堅固 saaravat (具堅固)、満月浄光 paripuurNa- candra- vimala- prabha、大荘厳 mahaa- vyuuha、能照一切世 sarvaakaara- prabhaa- kara (照一切世間)、等 samaadhi- samataa (三昧等、定平等性)、無諍行 araNa- saraNa- sarva- samavasaraNa (摂一切有諍無諍、有諍無諍平等理趣)、無住処 anilambha- niketa- nirata (不楽一切住処、無巣穴無標幟無愛楽?)、如住定 tathataa- sthita- nizcita (決定安住真如)、壊身 kaaya- kali- saMpramathana (壊身衰、離身穢悪)、壊語如虚空 vaak- kali- vidhvaMsana- gagana- kalpa (離語穢悪、大般若には次に離意穢悪、如虚空の二あり)、離著虚空不染 aakaazaasaGga- vimukti- nirupalepa (無染著如虚空)の所謂百八三昧を説き、「大品般若経巻27常啼品(大般若経巻399、大智度論巻97)」には、諸法性観(観一切法自性)、諸法性不可得(於一切法自性無所得)、破諸法無明(破一切法無智)、諸法不異(得一切法無差別)、諸法不壊自在(見一切法無変異)、諸法能照明(能照一切法)、諸法離暗(於一切法離闇)、諸法無異相続(得一切法無別意趣)、諸法不可得(知一切法都無所得)、散華(散一切花)、諸法無我(引発一切法無我)、如幻威勢(離幻)、得如鏡像(引発鏡像照明)、得一切衆生語言(引発一切有情語言)、一切衆生歓喜(令一切有情歓喜)、入分別音声(善随順一切有情語言)、得種種語言字句荘厳(引発種種語言文句)、無畏(無怖無断)、性常黙然(能説一切法本性不可説)、得無礙解脱、離塵垢(遠離一切塵)、名字語句荘厳(名句文詞善巧)、見諸法(於一切法起勝観)、諸法無礙頂(得一切法無礙際)、如虚空、如金剛(金剛喩)、不畏著色(雖現行色而無所犯)、得勝、転眼(得無退眼)、畢法性(出法界)、能与安隠(安慰調伏)、師子吼(師子奮迅欠呿哮吼)、勝一切衆生(映奪一切有情、大般若には次に遠離一切垢、於一切法得無染の二あり)、華荘厳(蓮花荘厳)、断疑(断一切疑)、随一切堅固(随順一切堅固)、出諸法得神通力無畏(大般若には之を出一切法と得神通力無畏の二とす)、能達諸法(現前通達一切法)、諸法財印(壊一切法印)、諸法無分別見(現一切法無差別)、離諸見(離一切見稠林)、離一切闇、離一切相、解脱一切著(脱一切著)、除一切懈怠(離一切懈怠)、得深法明(大般若はここに如妙高山を加う)、不可奪(不可引奪)、破魔(摧伏一切魔軍)、不著三界、起光明(引発一切殊勝光明)、見諸仏(現見諸仏)等の五十一種(大般若は五十四種)の三昧を挙げ、他にも「法華経巻7妙音菩薩品(正法華経巻9妙吼菩薩品)」には、妙幢相 dhvajaagra- keyuura (尊幢)、法華 saddharma- puNDariika (定法華)等の諸三昧を挙げ、又「同妙荘厳王本事品(正法華経巻10浄復浄王品)」には、菩薩浄 vimala (進遠離垢)、日星宿 nakSatra- raajaatitya (度宿日光)等の諸三昧を掲げ、又「旧華厳経巻4盧舎那仏品」には、諸仏具足功徳、普門方便、浄方便雲等の十種の三昧、並びに一切法具足、一切法来入安住菩提心等の諸三昧、「同巻18(新華厳経巻18)」には、菩薩不壊(菩薩勝定相続不断)、諸仏荘厳等の諸三昧、「同巻21(新華厳経巻31)」には、菩薩見一切仏、菩薩法界等の諸三昧を挙げ、「旧華厳経巻25」、「新華厳経巻27」並びに「十地経巻5」には、勝空 zuuniyataa (空、空性)、性空 svabhaava- z. (自性空、自性空性)等の十空三昧、及び菩薩善伏 su- vicita- vicaya (菩薩善観択、善思択菩薩)、善思義 suvicitaartha (善択擬)等の諸三昧を説き、又「同巻27(新華厳経巻39、十地経巻8)」には、菩薩離垢vimala(無垢大)、法界差別 dharmadhaatu- vibhakti- praveza(法界剖析差別)等の百万阿僧祇の三昧ありと云い、又「同巻34(新華厳経巻51、如来興顕経巻2)」には、正覚(善覚智)、離苦寂静海(明盛離垢海、離垢之印)等の諸三昧、又「同巻38(新華厳経巻54)」には、一切世界、一切衆生身(於一切衆生身)等の十種の正受三昧、又「同巻45(新華厳経巻61、華厳経普賢行願品巻3)」には、普荘厳法界 samanta- dharmadhaatu- vyuuha (普遍荘厳法界)、普照三世無礙 sarva- try- adhvaasaGga- jJaana- viSayaavabhaasa (普照一切三世無礙境界、光照三世無礙境)等の一百三種の三昧を説き、又「同巻49(新華厳経巻66、華厳経普賢行願品巻13、14)」には、覚一切(新訳、行願品及び梵本闕)、奇特幢 sarava- devayitaizvarya- dhvaja (了一切希有相、入一切安楽自在幢)等の一万、或いは十億の三昧門ありと云い、又「同巻50(新華厳経巻68、華厳経普賢行願品巻15)」には、無著境界 saGga- viSaya (菩薩無著境界)、歓喜 praamodyavat (菩薩歓喜)等の諸種の三昧を挙げ、又「同巻53(新華厳経巻70、華厳経普賢行願品巻20)」には、見現在一切諸仏 sarva- tathaagataabhimukha- vijJaapana (現見一切仏)、普照一切仏刹 sarva- kSetra- prasaraanugataavabhaasa (普照一切刹)等の一万の三昧ありと云い、又「同53(新華厳経巻71、華厳経普賢行願品巻21)」には、普照仏功徳海 tathaagata- guNa- samudraavabhaasa (普照如来功徳海)、普照一切境界 sarva- jagat- saMdarzana- samataavabhaasa- viSaya (普照一切離貪境界)等の諸三昧を挙げ、又「同巻56(新華厳経巻75、華厳経普賢行願品巻29)」には、諸仏願海 sarva- tathaagata- praNidhaana- saagara- sambhavaavabhaasa- praveza (普照一切仏願海、一切如来願海出現光明)、普照三世光蔵 try- adhvaavabhaasa- garbha (普照三世蔵、普照三世光明蔵)等の十三昧海を挙げ、又「同巻57(新華厳経巻76、華厳経普賢行願品巻30)」には、浄法虚空円満 dharma- gagana- virajo- vicaara- maNDala (法空清浄輪、法空無尽清浄輪)、観察一切方海 sarva- dik- samudraabhimukha- dakSus (観察十方海、現見十方一切諸仏刹海)等の十種の三昧門 samaadhi- nidhyapti- mukha を挙げ、其の他にも数多くの大乗経中に更に多くの名を見ることができる。又「伅真陀羅所問如来三昧経巻上」、「無希望経(象腋経)」、「無言童子経巻下」、「無極宝三昧経巻下(宝如来三昧経巻上)」、「最勝問菩薩十住除垢断結経巻4勇猛品」、「同巻7化衆生品」、「同巻8慈品」、「荘厳菩提心経巻1」、「華手経巻6三昧品」、「大樹緊那羅王所問経巻2」、「方等般泥洹経巻下如来化説法品」、「大般涅槃経巻14」、「千光眼観自在菩薩秘密法経」、「大方等無想経巻2三昧揵度」、「大方等大集経巻1瓔珞品」、「同巻28」、「悲華経巻7」、「同巻8檀波羅蜜品(大乗悲分陀利経巻7荘厳品)」、「金剛三昧本性清浄不壊不滅経」、「第一義法勝経(大威灯光仙人問疑経)」、「金剛上味陀羅尼経(金剛場陀羅尼経)」、「大方広十輪経巻1」、「大宝積経巻29文殊師利普門会(普門品経)」、「同巻90優婆離会(決定毘尼経)」、「同巻115無尽慧菩薩会(大方広菩薩十地経)」、「同巻117宝髻菩薩会」、「宝雨経巻4」、「大乗本生心地観経巻8発菩提心品」、「不空羂索神変真言経巻24執金剛秘密主問疑品」、「同巻29清浄蓮華王成就品」、「大日経巻1住心品」、「同巻2具縁品」、「同普通真言蔵品」、「同巻3悉地出現品」、「同転字輪漫荼羅行品」、「一切如来金剛三業最上秘密大教王経巻1安住一切如来三摩地大曼拏羅分」、「同菩提心分」、「同金剛荘厳三摩地分」、「同巻2一切如来真実三昧最上持明大士分」、「同巻3一切如来金剛相応三昧最上成就分」、「同金剛相応荘厳三昧真実観想正智三摩地分」、「同身語心未曽有大明句召尾日林毘多王最勝三摩地分」、「同巻4身語心未曽有大明句召毘日林毘多王最勝三摩地分」、「同巻5一切曼拏羅成就金剛現証菩提分」、「同6一切曼拏羅成就金剛現証菩提分」、「同一切如来三昧法金剛加持王分」、「同巻7一切如来三昧金剛加持王分」、「大仏頂広聚陀羅尼経巻4」、「梁訳摂大乗論巻下(魏訳摂大乗論巻下、唐訳摂大乗論巻下)」、「大毘婆沙論巻104、141、162」、「倶舎論巻4」、「同光記巻4、28」、「順正理論巻11」、「成唯識論巻5」、「同述記巻6本」、「摩訶止観巻2上」等に出づ。<(望)
答曰。此諸定功德。都是思惟修。禪秦言思惟修。言禪波羅蜜一切皆攝。 答えて曰く、此の諸定の功徳は、都べて是れ思惟修なり。禅を秦に、『思惟修』と言い、『禅波羅蜜』と言えば、一切は皆摂す。
答え、
此の、
諸の、
『定の功徳』は、
都()べて、
『思惟修(思惟修習/静慮)である!』。
『禅』を、
秦には、こう言う、――
『思惟修』、と。
故に、
『禅波羅蜜』と言えば、
一切の、
『定』を、
『摂する( absorb )ことになる!』。
  (ぜん):梵語 dhyaana の訳、瞑想/思考/内省、特に深遠にして宗教的な瞑想( meditation, thought, reflection, (esp.) profound and abstract religious meditation )、神の個性的特質に関する精神的瞑想( mental representation of the personal attributes of a deity )の義、集中/瞑想的集中( Concentration, meditative concentration )、色界の四禅の意( A reference to the Four Meditation Heavens within the world of form. )、即ち心一境に住して正審思慮し、定、慧均等なる状態をいう。『大智度論巻5上注:禅』参照。
  (じょう):梵語 samaadhi の訳、結合/集合( putting together, joining or combining with )完成/達成/帰結( completion, accomplishment, conclusion )、調和/合意/同意をもたらすこと( bringing into harmony, agreement, assent )等の義、思考の集中/深遠なる瞑想/有る対象に於ける極限的熟考( concentration of the thoughts, profound or abstract meditation, intense contemplation of any particular object )の意。『大智度論巻17下注:定』参照。
  (しょう):引きずり込む( drag )、執持する( hold )、補助/佐助する( assist, help )、取りこむ/吸収/同化/併合する( take in, absorb )、捕捉する( arrest )、吸引する( attract )、代る/代理する( represent )、扱う/治める( treat, govern, put in order )、収斂する/集中する( converge )、整理する/整頓する( arrange )、統制する( control )、保養/維持する( maintain )。
復次禪最大如王。說禪則攝一切。說餘定則不攝。何以故。是四禪中智定等而樂。未到地中間地智多而定少。無色界定多而智少。是處非樂。譬如車一輪強一輪弱則不安隱。智定不等亦如是。 復た次ぎに、禅の最大なること、王の如く、禅を説けば、則ち一切を摂するも、余の定を説けば、則ち摂せず。何を以っての故に、是の四禅中に智、定等しくして、楽なり。未到地、中間地は智多くして、定少く、無色界は定多くして、智少なければ、是の処は楽に非ず。譬えば車の一輪強く、一輪弱ければ、則ち安隠ならざるが如く。智、定等しからざれば、亦た是の如し。
復た次ぎに、
『禅』は、
譬えば、
『王のように!』、
『最大である!』。
『禅』と、
『説けば!』、
『一切を!』、
『摂することになる!』が、
『他の定』が、
『一切を!』、
『摂することはない!』。
何故ならば、
是の、
『四禅』中には、
『智』と、
『定』とが、
『等しい!』ので、
『楽である!』が、
『未到地、中間地』は、
『智』が、
『多くて!』、
『定』が、
『少なく!』、
『無色界』は、
『定』が、
『多くて!』、
『智』が、
『少ない!』ので、
是の、
『処』は、
『楽でない!』。
譬えば、
『車』の、
『一輪』が、
『強くて!』、
『一輪』が、
『弱ければ!』、
『安隠(安楽)でないように!』、
『智、定』が、
『等しくなければ!』、
亦た、
是のように、
『安隠でないからである!』。
  四禅(しぜん):色界の禅定に四種の位階あるを云う。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  未到地(みとうじ):又未到定、未至定と名づけ、初禅近分の定にして、尋(覚)、伺(観)に相応す。『大智度論巻17下注:近分定』参照。
  近分定(ごんぶんじょう):根本に近き勢分ある定の意。根本定に対す。又略して近分とも名づく。即ち下地の染を離れんが為に艱辛して功用を作し、以って其の根本の為に入門となる定を云う。「倶舎論巻28」に、「諸の近分定に亦た八種あり、八の根本のために入門と為るが故なり」と云える是れなり。根本定に八種あるが故に、近分にも亦た四禅四無色の八近分あり。此の中、初禅近分を亦た未至定と名づく。「順正理論巻78」に、「唯初の近分のみ未至と名づくるは、余の近分に簡別せんと欲するが為の故なり。此の近分は先の定に乗じて起るに非ず、又此に住し已りて愛味を起すに非ず。是の如きの義に依りて未至の名を立つ」と云えり。凡そ一切の近分は功用を作して転じ、未だ下染を離れず、怖を懐くが故に、唯一の捨受とのみ相応し、喜楽等と相応せず。又三等至の中には八は皆浄定に摂す。唯初禅近分のみ亦た無漏に通ず。離染の道なるが故に皆味定あることなし。一説には未至定にも亦た味相応ありとす、未だ曽て根本を起さず、之を貪するが故なり。又初禅近分は尋(覚)、伺(観)と相応し、余の七は尋、伺倶に有ることなきなり。又「大毘婆沙論巻129、140、164」、「雑阿毘曇心論巻7」、「瑜伽師地論巻69、100」、「顕揚聖教論巻2」、「倶舎論光記巻28」、「瑜伽論記巻19上」等に出づ。<(望)
  中間地(ちゅうげんじ):又中間定、中間静慮と名づく。即ち初禅と第二禅との中間に位する無尋(覚)、唯伺(観)の定を云う。『大智度論巻17下注:中間静慮』参照。
  中間静慮(ちゅうげんじょうりょ):梵語 dhyaanaantara の訳。中間の静慮の意。又中静慮、中間禅、中間定、静慮中間、或いは中定と名づけ、略して中間とも称す。即ち初静慮と上の七定との中間に位する無尋(覚)、唯伺(観)の定を云う。「倶舎論巻28」に、「中間静慮と諸の近分とは別義なしとせんや、亦た殊ありとせんや。義亦た殊あり。謂わく諸の近分は下の染を離るるが為に是れ入の初因なるも、中定は然らず。復た別義あり、頌に曰わく、中静慮は尋なし、三を具す、唯捨受なり。論じて曰わく、初(静慮)の本と近分とは尋伺と相応し、上の七定の中には皆尋伺なし。唯中静慮のみ伺ありて尋なし、故に彼れは初に勝るるも未だ第二に及ばず。此の義に依るが故に中間の名を立つ。此れに由りて上に中間静慮なし、一地の升降に此の如くなることなきが故なり」と云える是れなり。是れ初静慮の近分及び根本は共に尋伺と相応し、又第二静慮以上の七定は凡べて無尋無伺なるも、独り此の定のみ無尋唯伺にして、即ち初静慮と上定との中間に位する定なるが故に、之を中間静慮と名づくるの意を明せるなり。又此の定は余の近分定(未至定を除く)の唯浄定なるに反し、味と定と無漏との三等至を具し、又諸の近分に同じく唯捨受と相応し、未至定と共に苦痛行に摂せられ、且つ多く之を修習するものは能く大梵天の果を感ずることを得るなり。上引倶舎論の連文に、「此の定に具に味等の三種あり、勝徳の愛味すべきものあるを以っての故なり。諸の近分に同じく唯捨受と相応し、喜と相応するに非ず。功用して転ずるが故に、此れに由りて是れ苦痛行の摂なりと説く。此の定は能く大梵処の果を招く、多く修習すれば大梵となるが故なり」と云える即ち其の意なり。但し此の定は根本初静慮と尋伺の有無異ありと雖も、大梵処の勝因なるが故に、四禅の中には之を初禅に摂するなり。又「大毘婆沙論巻80」に、初禅を離生と名づくることを解し、「復た次ぎに初静慮の離は、二の無慮定を眷属と為すが故に独り離生と名づく。謂わく未至と静慮中間となり」と云えり。又「大毘婆沙論巻81」、「雑阿毘曇心論巻7」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「三弥底部論巻下」、「倶舎論巻25」、「順正理論巻78」、「瑜伽師地論巻4、12」、「倶舎論光記巻25、28」、「大乗法相宗名目巻1上」等に出づ。<(望)
  根本定(こんぽんじょう):梵語 dhyaana- maula の訳。根本の定の意。又根本等至(等至は梵語 samaapatti の訳、即ち~の達成の義)、或いは八等至とも名づけ、略して根本とも称す。近分定に対す。即ち各下地の修惑を離れて得する初禅乃至非想非非想の根本地所摂の定を云う。「倶舎論巻28」に、「静慮と無色との根本の等至に総じて八種あり、中に於いて前の七には各具に三あり、有頂の等至は唯二種あり」と云える是れなり。此の中、前の七には各具に三ありとは、初禅乃至無所有処定には、各各味等至と浄等至と無漏等至との三種あるを云い、有頂の等至に唯二種ありとは、彼の地は昧劣にして無漏なきが故に、唯余の二等至あるを云う。味等至とは愛と相応し、能く味著するが故に名づけて味と為す。浄等至とは有漏の善定にして、無貪等の諸の白浄の法と相応して起るが故に浄の名を立つ。即ち味相応の所味著の境なり。無漏定は出世の定にして、愛の縁ずる所に非ざるが故に所味著に非ず。又此の中、味定は但だ自地の有漏を縁じ、必ず下地上地又は無漏を縁ずることなし。浄定及び無漏定は、倶に能く遍く自地と上地と下地との有為無為を縁じて境と為すなり。又此の八定の中、初の四静慮にのみ静慮支を具し、無色の四は之を具せず。又初二禅は喜楽受と相応し、第三禅は唯楽受と相応し、第四禅以上、有頂地に至る余の五地の定は捨受と相応す。又初禅には尋(覚)、伺(観)あるも、上の七定の中には皆尋、伺あることなし。又「大毘婆沙論巻80、129、161、162、165」、「雑阿毘曇心論巻7」、「順正理論巻77」、「倶舎論光記巻28」、「成唯識論巻6」、「同述記巻6末」等に出づ。<(望)
復次是四禪處有四等心。五神通背捨勝處。一切處無諍三昧。願智頂禪自在定練禪。十四變化心般舟般。諸菩薩三昧首楞嚴等。略說則百二十。諸佛三昧不動等。略說則百八。及佛得道捨壽。如是等種種功德妙定皆在禪中。以是故禪名波羅蜜。餘定不名波羅蜜。 復た次ぎに、是の四禅処には、四等心、五神通、背捨、勝処、一切処、無浄三昧、願智、頂禅、自在定、練禅、十四変化心、般舟般、諸の菩薩の三昧の首楞厳等の略説すれば則ち百二十、諸の仏の三昧の不動等の略説すれば則ち百八有り、及び仏の道を得て、寿を捨てたもうまで、是の如き等の種種の功徳、妙定は、皆禅中に在り。是を以っての故に、禅を波羅蜜と名づけ、余の定は波羅蜜と名づけざるなり。
復た次ぎに、
是の、
『四禅処』には、
『四等心、五神通、八背捨、八勝処、十一切処』、
『無浄三昧、願智、頂禅、自在定、練禅』、
『十四変化心、般舟般』や、
諸の、
『菩薩』の、
『三昧である!』、
『首楞厳』等の、
略説すれば、
『百二十の三昧』、
諸の、
『仏』の、
『三昧である!』、
『不動』等の、
略説すれば、
『百八の三昧』が、
『有り!』、
及び、
『仏』が、
『道を得てから!』、
『寿を捨てられるまで!』の、
是れ等のような、
種種の、
『功徳』や、
『妙定』は、
皆、
『禅』中に、
『在る!』。
是の故に、
『禅』を、
『波羅蜜』と、
『呼び!』、
『他の定』は、
『波羅蜜』と、
『呼ばないのである!』。
  四禅処(しぜんじょ):色界四処の禅定。『大智度論巻7下注:四禅』参照。
  四等心(しとうしん):慈悲喜捨の四無量心。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  五神通(ごじんつう):四根本静慮に依りて得する五種の神通を云う。『大智度論巻16下注:五通』参照。
  背捨(はいしゃ):八背捨。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  勝処(しょうじょ):八勝処。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  一切処(いっさいじょ):十一切処、十一切入、十徧処等に称す。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  無諍三昧(むじょうさんまい):空理に住するが故に他と無諍なる禅定を云う。即ち「金剛般若波羅蜜経」に、「仏の説きたまわく、我れは無諍三昧を得て、人中の最も第一と為す、是れ離欲の阿羅漢なりと」と云い、「同略疏」の中に、「無諍三昧とは、其の解空を以って、則ち彼我を倶に忘れ、能く衆生を悩ませず、亦た能く衆生をして煩悩を起さざらしむるが故なり。」と云い、「大智度論巻11」に、「舎利弗は仏弟子中の智慧第一なり。須菩提は弟子中に於いて無諍三昧を得たること最も第一なり。無諍三昧の相は、常に衆生を観て、心をして悩ましめず、多く憐愍を行ず」と云い、「註維摩経巻3」に、「肇の曰わく、善吉は五百弟子中に於いて解空第一にして、常に善く法相に順じ、無違無諍なり。内に已に無諍なれば、外にも亦た善く群心に順じて、諍訟無からしむ、此の定を得るを無諍三昧と名づくるなり」と云える是れなり。<(丁)
  願智(がんち):如来共徳の一(共徳を不共徳に別する語と為す)。謂わゆる願の如くに妙智を生来するなり。「倶舎論巻27」に、「願を以って先と為し、妙智を引いて起す。願の如く了なるが故に、願智と名づく」と云える是れなり。<(丁)又「大智度論巻17」に、「願智とは、願うて三世の事を知らんと欲し、所願に随うて則ち知る。此の願智は二処に摂す、欲界、第四禅なり」と云えり。
  頂禅(ちょうぜん):不壊法阿羅漢の入る禅定。即ち「大智度論巻17」に、「二種の阿羅漢あり、壊法、不壊法なり。不壊法の阿羅漢は一切の深禅に於いて自在を得て、頂禅を起す。是の頂禅を得れば、能く寿を富に転じ、富を寿に転ず」と云える是れなり。
  自在定(じざいじょう):初禅乃至第四禅、空処定乃至非想非非想処定の各各に於いて自在に出入するを云う。則ち超越三昧是れなり。
  練禅(れんぜん):又九次第定と称す。即ち四禅、四無色定、滅尽定を次第に修習するを云う。『大智度論巻17下注:観練薫修』参照。
  十四変化心(じゅうしへんげしん):十四種の能変化の心の意。『大智度論巻6下注:十四変化心』参照。
  般舟般(はんじゅうはん):梵語 pratyutpanna 、略して般舟と称し、仏立と訳す。三昧の名。『大智度論巻9上注:般舟三昧』参照。
  首楞厳(しゅりょうごん):梵語 zuuraJgama 、健相と訳す。三昧の名。『大智度論巻30上注:首楞厳三昧』参照。
問曰。汝先言呵五欲除五蓋。行五法得初禪。修何事依何道能得初禪。 問うて曰く、汝が先に言わく、『五欲を呵して、五蓋を除き、五法を行じて、初禅を得』、と。何事を修め、何道に依りて能く初禅を得る。
問い、
お前は、
先に、こう言っている、――
『五欲』を、
『呵り!』、
『五蓋』を、
『除いて!』、
『五法』を、
『行えば!』、
則ち、
『初禅』を、
『得られる!』、と。
何のような、
『事』を、
『修めて!』、
何のような、
『道』に、
『依って!』、
『初禅』を、
『得るのですか?』。
  五欲(ごよく):色声香味触の五境。『大智度論巻17上』参照。
  五蓋(ごがい):貪欲、瞋恚、睡眠、掉悔、疑法の五煩悩。『大智度論巻17上』参照。
  五法(ごほう):初禅を得る為の欲、精進、念、巧慧、一心の五行。『大智度論巻17上』参照。
答曰。依不淨觀安那般那念等諸定門。 答えて曰く、不浄観、安那般那念等の諸定門に依る。
答え、
『不浄の観』や、
『安那般那の念』等の、
諸の、
『定の門』に、
『依る!』。
  不浄観(ふじょうかん):梵語a zubhaa- smRti の訳。身の不浄を観ずる観法の意。五停心観の一。又不浄想とも名づく。即ち自他の色身に於いて不浄を観想し、以って貪欲の障を対治する観法を云う。「大般涅槃経巻36」に、「若し是の人貪欲多きを知らば、即ち応に為に不浄観の法を説くべし」と云い、「大毘婆沙論巻40」に、「観行を修する者、是の如く繋念して眉間等に在り、死屍の青瘀等の相を観察するは即ち不浄観なり」と云い、又「坐禅三昧経巻上」に、「婬欲多き人は不浄観を習う、足より髪に至るまで不浄充満す」と云える是れなり。是れ比丘は婬欲を対治せんが為に不浄観を修すべきことを説けるものなり。又「禅法要解巻上」に不浄観を習うに二種の別ありとし、「不浄を習うに二種あり、一には死屍の臰爛不浄を観じ、我が身の不浄も亦た復た是の如しと。是の如く観じ已りて心に悪厭を生じ、是の相を取り已りて、閑静処、若しは樹下、若しは空舎に至り、所取の相を以って自ら不浄を観じ、処処遍察し、心を身中に繋けて外出せしめず。若し心馳散せば還って縁中に摂す。二には眼見せずと雖も、師に従って法を受けて憶想分別し、自ら身中に三十六物不浄充満すと観ずるなり」と云えり。之に依るに此の観を習うには、自ら死屍の臭爛不浄を観ずると、師に従って法を受けて憶想分別するとの二種の法あるを知るべし。又「大毘婆沙論巻40」には、此の観を修するに観行者の意楽に随って略と広と広略の三種の別あることを説き、「此の中、唯略を楽うとは、謂わく彼の行者は先づ塚間に往きて死屍の青瘀等の相を観察し、善く相を取り已りて退きて一処に坐し、重ねて彼の相を観ず。若し心散乱して明了ならざれば、復た塚間に往きて前の如く観察し、善く其の相を取るべし。是の如く乃至若し明了なるを得て心散乱せざれば、速かに住処に還り、足を洗い座に就きて結跏趺坐し、身心を調適して諸蓋を離れしめ、先に取る所の相を憶念観察し、勝解力を以って移して自身に属せしめ、青瘀より始めて乃ち骨鏁に至り、骨鏁の中に於いては先づ足骨を観じ、次に踝骨を観じ、次に脛骨を観じ、次に膝骨を観じ、次に䏶骨を観じ、次に臗骨を観じ、次に腰骨を観じ、次に脊骨を観じ、次に脇骨を観じ、次に膊骨を観じ、次に臂骨を観じ、次に肘骨を観じ、次に腕骨を観じ、次に手骨を観じ、次に肩骨を観じ、次に頂骨を観じ、次に頷骨を観じ、次に歯骨を観じ、後に髑髏を観ず。彼の勝解力にて是の如き不浄の相を観察し已りて、念を眉間に繋けて湛然として住す。復た此の念を転じて身念住に入り、展転して乃至法念住に入る。是れを略を楽う修観行者の不浄観成と名づく。唯広を楽うとは、謂わく彼の行者先づ塚間に往きて死屍の青瘀等の相を観察すること前に広説するが如くし、展転して乃至念を眉間に繋け、少らく止息し已りて、復た此の念を転じて先づ髑髏を観じ、次に歯骨を観じ、展転して乃至後に足骨を観ず。彼の勝解力にて自骨を観じ已り、復た外骨の自骨の辺に在るを観じ、漸く一牀一房一寺一園一邑一田一川一国に遍じ、展転して乃ち大海の辺際に至り、周く大地に遍じ、心眼の及ぶ処骨鏁充満す。復た漸に之を略して乃至唯自身の骨鏁を観じ、中に於いて漸に復た足骨を略去し、展転して乃至後に髑髏を観ず。彼の勝解力にて是の如き不浄の相を観察し已り、念を眉間に繋けて湛然として住し、復た此の念を転じて身念住に入り、展転して乃至法念住に入る。是れを広を楽う修観行者の不浄観成と名づく」と云い、更に此の三種の観法に各亦た初習業位、已熟修位、超作意位の三位あることを明し、即ち略観の中、先づ塚間に往きて死屍青瘀等の相を観察するより、乃至勝解力を以って自身に移属し、青瘀より骨鏁に至る諸相を観ずるを初習業位とし、骨鏁観に於いて足骨乃至髑髏を観じ、復た中に於いて半を除きて半を観じ、一分を除きて唯一分を観ずるを已熟修位とし、勝解力を以って是の如き不浄相を観察し已り、乃至法念住に入るを超作意位と名づくと云えり。以って其の観行の次第を知るべし。復た「禅法要解巻上」に不浄観は六種の欲を対治することを説き、「若し婬欲多き者は応に教えて不浄を観ぜしむべし。不浄に二種あり、一には悪厭の不浄、二には非悪厭の不浄なり。何を以っての故に、衆苦に六種の欲あり、一には色に著し、二には形容に著し、三には威儀に著し、四には言声に著し、五には細滑に著し、六には人相に著す。五種の欲に著する者は悪厭の不浄を観ぜしめ、人相に著する者は白骨の人相を観ぜしむ。又死屍の若しは壊、若しは不壊を観ず、不壊を観ぜば二種の欲を断ず、威儀と言声となり。已に壊するを観ぜば悉く六種の欲を断ず」と云い、「倶舎論巻22」には、此の観の所対治の貪に顕色貪、形色貪、妙触貪、供奉貪の四種ありとし、青瘀等の相を縁じて不浄を観ずれば顕色の貪を治し、死屍の鳥獣に食せらるる等の相を縁じて不浄を観ずれば形色の貪を治し、虫蛆等の相を縁じて不浄観を修すれば、妙触の貪を治し、死屍の動かざる等の相を縁じて不浄観を修すれば供奉の貪を治し、若し骨鎖を縁じて不浄観を修すれば、骨鎖の中に四貪の境なきが故に通じて四貪を対治すと云い、又「大乗義章巻12」には、自身を愛するは五不浄を以って対治し、他身を愛するは九相を以って対治すとし、他身を愛する中に亦た威儀欲、形色欲、処所欲、細触欲の四種の欲ありとなせり。蓋し不浄観は数息観と共に入道の二甘露門と称せらるるものにして、其の法は広く諸経論に散説せらる。此の観は無貪の善根を自性とし、三界の中には欲色二界を縁じ、通じて欲界と中間静慮と四静慮と四近分との十地を以って依他とし、欲界身を所依として起すものにして、勝解作意と相応し、即ち有漏観にして、四念住の中には身念住の位に当たり、又八解脱並びに八勝処の中には、立てて初禅及び二禅の観法となすなり。又「中阿含巻2漏尽経」、「巻28諸法本経」、「増一阿含経巻5」、「広義法門経」、「修行道地経巻5神足品」、「大品般若経巻1」、「菩薩地持経巻3力種性品」、「四分律巻2」、「五分律巻2」、「有部毘奈耶雑事巻17」、「薩婆多毘尼毘婆沙巻6」、「集異門足論巻18、19」、「大毘婆沙論巻85、166」、「大智度論巻19、21」、「雑阿毘曇心論巻5、8」、「瑜伽師地論巻30」、「同論記巻6下、7上」、「倶舎論巻29」、「同光記巻22、29」、「順正理論巻59」、「五門禅経要用法」等に出づ。<(望)
  九想観(くそうかん):九種の想を凝らす観の意。又九相観とも名づけ、単に九想とも云う。謂わゆる観禅不浄観の一種にして、即ち五欲の法に貪著し、美好耽恋の迷想を起せる者をして、人の不浄を覚知し、其の情欲を除かしむる観想を云う。一に想相壊、又は青瘀想(梵語 viniilaka- saMjJaa )、二に想相爛、又は膿爛想(梵 vipuuyaka- s. )、三に想相虫啖、又は虫噉想(梵 ipaDumaka- s. )、四に想相青㪍、又は肨脹(梵 vyaadhmaataka- s. )、五に想相紅腐、又は血塗想(梵 vilobitaka- s. )、六に想相虫食、又は壊爛想(梵 vikhaaditaka- s. )、七に想相解散、又は敗壊想(梵 vikSiptaka- s. )、八に想相火焼、又は焼想(梵 vidagdhaka- s. )、九に想相生、又は骨想(梵 asthi- s. )なり。就中、青瘀想は又略して青想とも名づく。人の皮肉壊爛して、黄赤の瘀が黒青の黤と化せる相を観ずるを云う。膿爛想は又綘汁想とも名づく。身上の九孔より虫蛆膿爛流出し、黄汁地に漏れ、臭気転た増せる相を観ずるを云う。虫噉想は又略して噉想、或いは食不消想とも名づく。虫蛆唼食し鳥獣咀嚼して、残欠落剥せる相を観ずるを云う。肨脹想は又略して、脹想、膨脹想、或いは新死想とも名づく。即ち死屍の膖脹水満して、韋嚢の如くなる相を観ずるを云う。血塗想は又血塗漫想、膿血想とも名づく。頭より足に至るまで遍身に膿血流溢し、汚穢塗漫せる相を観ずるを云う。壊爛想は又略して壊想とも名づく。其の死屍が風日雨露の為に変じて、皮肉裂壊し五臓腐敗し、臭穢流溢せる相を観ずるを云う。敗壊想は又散想、或いは筋纏束薪想とも名づく。皮肉已に尽きて筋骨相連なり、頭足交え横たわりて束薪に似たる相を観ずるを云う。焼想は又焼燋可悪想とも名づく。野火の為に焼かれ、或いは日月の為に化焼せられ、爆破して煙臭となり、白骨も亦た遂に灰土に帰するの相を観ずるを云う。骨想は亦た枯骨想とも名づく。筋断ち骨離れ、形骸分散して、但だ白骨の狼藉たる相を観ずるを云うなり。又此の九想を描けるものに、九想図あり。「観仏三昧海経巻2」、「大智度論巻1、巻44」、「大乗義章巻13」、「摩訶止観巻9上」、「釈禅波羅蜜次第法門巻9」、「法華経玄義巻4上」、「法界次第初門巻中之上」等に出づ。<(望)
  安那般那(あんなぱんな):梵語 aana- apaana 、数息と訳す。息の入出を数えて心を摂して散乱せしめざる法を云う。『大智度論巻17下注:数息観』参照。又『大智度論巻11上注:十六特勝』参照。
  数息観(しゅそくかん):梵語 aana- apaana- smRti の訳。巴梨語 aanaapaana- sati 、又阿那般那観、念阿那阿波那、念安般、或いは安般守意に作り、又念出入息、念無所起、息念観、持息念と訳し、或いは単に阿那波那、安般、息念、又は数息とも称す。阿那aanaは遣来の義にして入息、阿波那apaanaは遣去の義にして出息の意なり。五停心観の一。八念の一。十念の一。即ち出入の息を数えて心を一境に摂し、散乱を対治して以って正定に入る法を云う。「雑阿含経巻29」に、「爾の時、世尊、諸の比丘に告ぐ、当に安那般那の念を修すべし。若し比丘、安那般那の念を修し、多く修習せば、身止息及び心止息、有覚有観寂滅純一明分の想を得て修習満足せん」と云い、又「倶舎論巻22」に、「尋多くして乱心なるを尋行者と名づく。彼れ息念に依りて能く正しく修に入る。(中略)息念と言うは即ち契経の中に説く所の阿那阿波那念なり。阿那と言うは謂わく息の入るを持す、是れ外の風を引いて身に入らしむるの義なり。阿波那とは謂わく息の出づるを持す、是れ内の風を引いて身を出さしむるの義なり。慧は念力に由りて此れを観じて境となす、故に阿波阿波那念と名づく。慧を以って性となすも、而も念と説くことは念力持するが故なり。境に於いて分明に所作の事成ずること、念住の如くなるが故なり」と云える是れなり。是れ念力を以って息の入出を数え、数数修習すれば遂に正定に入ることを得べきを説けるものにして、即ち五停心観の中、不浄観と共に特に初心入道の要諦とせらるるものなり。又「倶舎論巻22」には此の定の依他等を明し、「通じて五地に依る、謂わく初と二と三との静慮の近分と中間と欲界となり。此の念は唯だ捨と相応するが故なり。謂わく苦楽の受は能く順じて尋を引く。此の念は尋を治するが故に俱起せず、喜楽の二受は能く専注するに違す。此の念は境に於いて専注するが故に成ず。此の相違に由るが故に俱起せず。有説は根本下三静慮の中にも亦た捨受あり、彼れ八地に依ると説く。上定現前せば息あることなきが故なり。此の定は風を縁じ、欲の身に依りて起る。唯人天の趣にして比俱盧を除く。離染得及び加行得に通じ、唯真実の作意と相応す。正法の有情は方に能く修習し、外道には有ることなし」と云えり。之に依るに此の定は下三静慮の近分及び中間と欲界とを依他とし、唯捨と相応し、又風を縁ずるものなるが故に、欲界の身に依りて起るものなるを知るべし。凡そ此の観を成就するには六種の相あり、之を六息念、或いは六妙門と称す。一に数 gaNanaa 、二に随 anugama 、三に止 sthaana 、四に観 upalakSaNaa 、五に転 vivartanaa 、六に浄 parizuddhi なり。「大毘婆沙論巻26」に、「此の持息念は六因に由る、故に応に其の相を知るべし。一に数、二に随、三に止、四に観、五に転、六に浄なり」と云える是れなり。「倶舎論巻22」に、之を解するに依るに、此の中、初に数とは心を繋けて入出の息を縁じ、凡べて加行を作さず、身心を放捨して唯其の息を憶持し、数えて一より十に至り、減ぜず増せざるを云う。若し二に於いて一と謂い、或いは一に於いて二と謂い、或いは又入に於いて出と謂い出に於いて入と謂わば正数と名づけず、即ち是の如き三種の過失を離るるを要す。又若し十の中間に於いて心散乱せば、復た一より次第に之を数え、終わりて復た始むべきなり。二に随とは又随行、随順、相随、或いは随息とも称す。即ち心を繋けて入出の息を縁じ、息入る時、彼の息は行いて身中の喉、心、脊、髄、髀、脛、乃至足指に至ると念じ、息出づる時、亦た彼の息の至る所の方に随って其の念恒に随逐するを云う。三に止とは又止住、或いは安とも称す。念を繋けて唯鼻端、或いは眉間乃至足指に在らしめ、所欲の処に随って其の心を安止するを云う。四に観とは又観相、或いは占相とも称す。此の息風を観察し、已りて更に息と倶なる大種造色、及び色に依りて住する心及び心所を観じ、具に五蘊を観じて以って境界と為すを云う。五に転とは又転還或いは還とも称す、息風を縁ずる覚を移転して念住等の後後の勝善根の中に、乃至又世第一法の位に安置するを云う。六に浄とは又清浄、或いは快浄とも称す。即ち其の覚の更に昇進して見道等に入るを云うなり。「大安般守意経巻上」には、此の中の初の三を外、後の三を内となし、「法界次第初門巻上之下六妙門の條」には、初の三を定、後の三を慧となし、又「修行道地経巻5数息品」には、此の中の止と観とを合して止観、還と浄とを合して還浄となし、総じて唯四事となせり。又「瑜伽師地論巻27」には、此の観法に算数修習、悟入諸蘊修習、悟入縁起修習、悟入聖諦修習、十六勝行修習の五種の修習ありとす。就中、算数修習とは之に四種の算数あり、一には一を以って一となす、即ち入息を第一とし、出息を第二とし、是の如く展転して数えて十に至るなり。二には二を以って一となす、即ち入息出息を合して一となし、数えて十に至るなり。三には順算数にして、即ち或いは一を以って一となし、或いは二を以って一となし、是の如く順次に一より数えて十に至る。四には逆算数にして、即ち前に反し十より逆次に数えて一に至るを云うなり。次に悟入諸蘊修習とは、即ち入息出息及び息所依の身に於いて作意思惟して色蘊に悟入し、彼の入息出息能取の念相応の領納に於いて作意思惟して受蘊に悟入し、彼の念相応の等了(共相を了するの意)に於いて作意思惟して想蘊に悟入し、彼の念若しは念相応の思及び慧等に於いて作意思惟して行蘊に悟入し、若しは彼の念相応の諸の心意識に於いて作意思惟して識蘊に悟入するを云うなり。次に悟入縁起修習とは、此の入出息は何に依り何を縁ずるかを尋求し、如実に身心に依り身心を縁となすと悟入し、又身心の依縁を尋求して命根を依縁となすと悟入し、更に命根の依縁を尋求して先行なりと悟入し、更に先行の依縁を尋求して無明なりと悟入し、又能く無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に命根滅し、命根滅するが故に身心滅し、身心滅するが故に入出息滅すと了知するを云う。次に悟入聖諦修習とは、諸法は衆縁より生ずと了知して苦諦に悟入し、衆苦は皆貪愛より生ずと了知して集諦に悟入し、寂滅は衆苦永断なりと了知して滅諦に悟入し、聖行は能く寂滅に至ると了知して道諦に悟入するを云うなり。次に十六勝行修習とは、前の修習に因りて見道所断の煩悩を永断すと雖も、尚お修道所断の煩悩あり、之を断ぜんが為に修習するものなりと云えり。即ち一に念息長、二に念息短、三に念息遍身、四に除身行、五に覚喜、六に覚楽、七に覚心行、八に除心行、九に覚心、十に令心喜、十一に令心摂、十二に令心解脱、十三に無常行、十四に断行、十五に離行、十六に滅行なり。蓋し十六勝行の説は阿含を初め、諸経論に出す所にして、又十六行、十六勝行、或いは十六特勝とも称す。「大毘婆沙論巻26」に、「契経(雑阿含経巻二十九)に説くが如し、仏は苾芻に告ぐ、我れ已に入出息を念じ、我れ已に入出息を念ずと了知し、我れ已に短入出息を念じ、我れ已に短入出息を念ずと了知し、我れ已に長入出息を念じ、我れ已に長入出息を念ずと了知し、我れ已に遍身入出息を覚し、我れ已に遍身入出息を覚すと了知し、我れ已に身行入出息を止め、我れ已に身行入出息を止むと了知し、(中略)我れ已に喜の入出息を覚し、我れ已に喜の入出息を覚すと了知し、我れ已に楽の入出息を覚し、我れ已に楽の入出息を覚すと了知し、我れ已に心行の入出息を覚し、我れ已に心行の入出息を覚すと了知し、我れ已に心行の入出息を止め、我れ已に心行の入出息を止むと了知し、(中略)我れ已に心の入出息を覚し、我れ已に心の入出息を覚すと了知し、我れ已に心をして歓喜して入出息せしめ、我れに心をして歓喜して入出息せしむと了知し、我れ已に心をして摂持して入出息せしめ、我れ已に心をして摂持して入出息せしむと了知し、我れ已に心をして解脱して入出息せしめ、我れ已に心をして解脱して入出息せしむと了知し、(中略)我れ已に随って無常と断と離と滅との入出息を観じ、我れ已に無常、断、離、滅の入出息を観ずと了知す」と云える是れなり。「成実論巻14出入息品」、「瑜伽師地論巻27」等に出す所、亦た皆之に同じ。今成実論に依りて其の名義を解せば、初に念息短とは、行者麁心の中に在りて躁疾散乱するが故に、其の息短なるを云い、二に念息長とは、行者細心の中に在るが故に其の息細長なるを云う。但し「修行道地経」には、二息を数えて一となすを短とし、一息を数えて二となすを長となせり。三に念息遍身とは、身の虚なるを信解すれば、一切の毛孔に風行出入するを見るを云い、四に除身行とは、境界力を得ば、心安隠なるが故に麁息滅するを云い、五に覚喜とは、此の定法によりて心に大喜を生ずるを云い、六に覚楽とは、心に喜を得ば身調適にして猗楽を得るを云い、七に覚心行とは、喜能く貪を生ずるの過患を見るを云い、八に除心行とは、貪を生ずる受を除滅せば心則ち安隠にして亦た麁受を滅除するを云い、九に覚心とは、受味を除くが故に心の寂滅なるを見て、没せず掉せざるを云い、十に令心喜とは、是の心若し没せば、栄発して喜ばしむるを云い、十一に令心摂とは、是の心若し掉せば、之を摂持せしむるを云い、十二に令心解脱とは、若し没掉の二法を離るれば、則ち二辺を捨離するが故に心をして解脱せしむるを云い、十三に無常行とは、是の如く心寂定なるが故に、諸法の生滅を見て無常行を生ずるを云い、十四に断行とは、無常行を以って諸の煩悩を断ずるを云い、十五に離行とは、煩悩断ずるが故に心に厭離を生ずるを云い、十六に滅行とは、心離するが故に一切滅を得るを云うとなせり。又「増一阿含経巻1」、「大安般守意経巻下」、「修行道地経巻5」、「大方等大集経巻48第一義諦品」、「大乗大集地蔵十輪経巻2」、「五分律巻2」、「摩訶僧祇律巻4」、「善見律毘婆沙巻10、11」、「坐禅三昧経巻上治思覚門」、「達磨多羅禅経巻上」、「解脱道論巻7」、「五事毘婆沙論」、「雑阿毘曇心論巻8」、「順正理論巻59、60」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻29」、「大乗義章巻12」、「摩訶止観巻上」、「六妙法門」等に出づ。
如禪經禪義偈中說
 離欲及惡法  有覺并有觀 
 離生得喜樂  是人入初禪 
 已得離婬火  則獲清涼定 
 如人大熱悶  入冷池則樂 
 如貧得寶藏  大喜覺動心 
 分別則為觀  入初禪亦然 
 知二法亂心  雖善而應離 
 如大水澄靜  波蕩亦無見 
 譬如人大極  安隱睡臥時 
 若有喚呼聲  其心大惱亂 
 攝心入禪時  以覺觀為惱 
 是故除覺觀  得入一識處 
 內心清淨故  定生得喜樂 
 得入此二禪  喜勇心大悅 
 攝心第一定  寂然無所念 
 患喜欲棄之  亦如捨覺觀 
 由受故有喜  失喜則生憂 
 離喜樂身受  捨念及方便 
 聖人得能捨  餘人捨為難 
 若能知樂患  見不動大安 
 憂喜先已除  苦樂今亦斷 
 捨念清淨心  入第四禪中 
 第三禪中樂  無常動故苦 
 欲界中斷憂  初二禪除喜 
 是故佛世尊  第四禪中說 
 先已斷憂喜  今則除苦樂
『禅経』の禅義の偈中に説くが如し、
欲及び悪法を離れ、覚有り並びに観有り、
生を離れて喜楽を得れば、是の人は初禅に入る。
已に婬火を離るるを得ば、則ち清涼の定を獲(う)、
人の大熱に悶ゆるも、冷池に入れば則ち楽なるが如し。
貧にして宝蔵を得れば、大喜の覚は心を動かし、
分別すれば則ち観を為すが如く、初禅に入るも亦た然り。
二法の心を乱すを知れば、善なりと雖も応に離るべし、
大水澄静にして、波蕩も亦た見る無きが如し。

譬えば人大いに極まり、安隠に睡臥する時、
若し喚呼の声有らば、其の心の大いに悩乱するが如し。
心を摂めて禅に入る時は、覚観を以って悩と為す、
是の故に覚観を除けば、一識処に入るを得。
内心清浄なれば、故に定生じて喜楽を得、
此の二禅に入るを得れば、喜勇心大に悦ぶ。
摂心の第一は定なり、寂然として所念無く、
喜を患いて之を棄てんと欲す、亦た覚観を捨つるが如し。

受に由るが故に喜有り、喜を失えば則ち憂を生ず、
喜楽の身受を離るれば、念及び方便を捨つるなり。
聖人は能く捨つるを得、余人の捨つるを難しと為す、
若し能く楽の患を知れば、不動の大安なるを見る。
憂喜は先に已に除こり、苦楽も今亦た断ぜり、
捨念清浄心もて、第四禅中に入る。
第三禅中の楽は、無常にして動なるが故に苦なり、
欲界中に憂を断じ、初、二禅に喜を除く。

是の故に仏世尊は、第四禅中に説きたまえり、
先に已に憂喜を断じ、今は則ち苦楽を除くと。
『禅経』の、
『禅義の偈』中に、こう説く通りである、――
若し、
『欲』と、
『悪法』とを、
『離れて!』、
『覚(覚知)、観(観察)』が、
『有り!』、
『生』を、
『離れて!』、
『喜、楽』を、
『得れば!』、
是の、
『人』は、
『初禅』に、
『入る!』。
若し、
『婬欲の火』を、
『離れられれば!』、
『清涼の定』を、
『獲()ることになる!』、
譬えば、
『大炎熱』に、
『悶える!』、
『人』が、
『冷池』に、
『入れば!』、
『楽になる!』のと、
『同じである!』。
譬えば、
『貧人』が、
『宝蔵』を、
『得れば!』、
『大喜』の、
『覚』が、
『心』を、
『動かし!』、
『分別して!』、
『宝』を、
『観るように!』、
『初禅』に、
『入れば!』、
亦た、
『是の通りである!』。
若し、
『覚、観』の、
『二法』は、
『心』を、
『乱すものである!』と、
『知れば!』、
『善であっても!』、
『離れなくてはならない!』、
譬えば、
『大水』が、
『澄んで!』、
『静かになり!』、
『波蕩すら!』、
『見えないように!』。
譬えば、
『人』が、
『非常に疲れて!』、
『安隠に!』、
『睡り!』、
『臥せっている!』時、
若し、
『喚呼する!』、
『声』が、
『有れば!』、
其の、
『心』は、
『大いに!』、
『悩乱するように!』、
若し、
『心』を、
『摂(おさ)めて!』、
『禅』に、
『入る!』時、
『覚、観』を、
『用いれば!』、
『心』は、
『悩まされる!』が、
是の故に、
『覚、観』を、
『除けば!』、
『一識の処』に、
『入ることができる!』。
若し、
『内心』が、
『清浄ならば!』、
故に、
『定』が、
『生じて!』、
『喜、楽』を、
『得!』、
此の、
『二禅』に、
『入ることができれば!』、
『喜勇の心』が、
『大いに悦ぶ!』。
若し、
『欲』を、
『離れて!』、
『心』を、
『摂めれば!』、
『第一の定である!』。
『覚、観』を、
『除いて!』、
『寂然とし!』、
『念ずる!』所が、
『無くなれば!』、
『第二の定である!』。
『喜』を、
『厭うて!』、
亦た、
『覚、観』を、
『捨てたように!』、
『捨てようとする!』、
是れは、
『第三の定である!』。
若し、
『受』に、
『由って!』、
故に、
『喜』が、
『有れば!』、
『喜』を、
『失う!』時には、
『憂』を、
『生じる!』。
『身』に、
『受ける!』、
『喜』も、
『楽』も、
『離れて!』、
『念』も、
『方便』も、
『捨てれば!』、
是れは、
『第四の定である!』。
若し、
『聖人ならば!』、
『捨てられても!』、
『余人(凡人)』が、
『捨てる!』ことは、
『難しい!』、
若し、
『楽の患』を、
『知ることができれば!』、
『動かなければ!』、
『大安である!』と、
『見る(知る)だろう!』。
先に、
已に、
『憂、喜』を、
『除き!』、
今は、
『苦、楽』も、
『断って!』、
『捨念清浄心』で、
『第四禅』中に、
『入った!』。
『第三禅』中の、
『楽』は、
『無常であり!』、
『動く!』が故に、
『苦だからだ!』。
『欲界』中に、
『憂』を、
『断ち!』、
『初、二禅』中に、
『喜』を、
『除く!』。
是の故に、
『仏、世尊』は、
『第四禅』中に、こう説かれた、――
先に已に、
『憂』と、
『喜』とを、
『断って!』、
今亦た、
『苦』と、
『楽』とを、
『除いた!』、と。
  (そく):標準/基準/法則( criterion, norm, standard, rule )、[相反]しかし( but, however )、だけれども( though )、[並列]~と( and )、[仮定]もし( if )、「時間の前後関係/条件関係]そして( then )、[肯定]だから/従って( so, according to )、直ちに( immediately )、[範囲]僅かに/只だ( only )、[譲歩]その代わりに/それどころか( instead, on the contrary )。
  波蕩(はとう):波が揺れ動くように騒然として静まらないこと。ゆれ動く。動揺。
  大極(だいごく):大病。疲極。
  喚呼(かんこ):よぶ。大声でさけぶ。
  悩乱(のうらん):心を悩まし乱すこと。
  摂心(しょうしん):心を取り締まって散乱を防ぐこと。
  一識(いっしき):二禅に入りて既に覚観を滅すれば、眼識乃至意識の別を失い、唯一識に摂せらるるを云う。即ち「禅法要解巻上」に、「念清浄とは、憂喜苦楽の四事を滅するを以っての故に念清浄なり。問うて曰わく、上の三禅中には清浄を説かず、此の中には何を以ってか独り説く。答えて曰く、初禅は覚観乱すが故に念は清浄ならず。譬えば露地風中の然灯の如し、脂炷有りと雖も、風吹くを以っての故に明は照らすことを得ず。二禅中は一識に摂すと雖も、喜大発するを以っての故に定心散乱す。是の故に念清浄と名づけず」と云えるが如し。
  (かく):(一)梵語菩提 bodhi の訳。仏陀の証得せる覚知を云う。是れ即ち究竟至極なるが故に、究竟覚、無上覚、又は正覚、大覚と称す。地上菩薩の覚知は、一分にして未だ満ぜざるが故に、随分覚と名づけ、三賢及び二乗は、相似に覚悟して、未だ真を得ざるが故に、相似覚と名づけ、凡夫は覚せざるが故に不覚と称するなり。又真如本体の覚察明了なる義を本覚と名づく。是れ理具正因に約す。此の理性を覚知するを始覚と名づく。是れ修得了因に約す。「集古今仏道論衡巻3」に、玄奘が道士と、道徳の対翻を論ずる中、道士成英は、仏陀を覚と言い、菩提を道と為すと云うに対し、玄奘は之を誤訳なりとし、仏陀は覚者、菩提は覚なり。是れ則ち人法同じからずと答えたる由を記せり。(二)梵語 vitarka の訳。心所の名。旧訳の語にして、新訳の謂わゆる尋なり。即ち尋求推度するを其の性とし、心をして怱遽にして、麁性に転ぜしむる精神作用を云う。「成実論巻6覚観品」に、若し心散の行、数ば起生するを名づけて覚となす。又散心の中に麁細あり。麁を覚と名づく。深く摂せざるを以っての故なり。初禅は未だ深く摂せざるが故に名づけて覚となすと云い、而も亦た其の中に善覚、悪覚を分つ。即ち「同論巻14不善覚品」に、不善覚とは欲覚、瞋覚、悩覚、若しは親里覚、国土覚、不死覚、利他覚、軽他覚等なり。寧ろ当に睡眠するも此等の諸の不善覚を起すこと勿かれと云い、又「同善覚品」に、出覚、無瞋覚、無悩覚を明し、出覚は謂わゆる遠離覚なり。無瞋、無悩の二覚は即ち安隠覚なりと云い、又少欲等の八大人覚を列ねて之を善覚とすと云えり。又「雑阿含経巻16」に、世尊、諸比丘に告ぐ、汝等、貪覚の覚を起すこと莫かれ。恚覚の覚、害覚の覚を起すこと莫かれ。当に苦聖諦の覚、苦集聖諦の覚、苦滅聖諦の覚、苦滅道跡聖諦の覚を起す可しとあり。<(望)
  (かん):(一)梵語毘鉢舎那 vipazyanaa の訳。又毘婆舎那、毘婆遮那に作る。分別して視るの義。止に対す。即ち慧を以って諸法の性相を分別照見するを云う。又観察とも名づく。「大般涅槃経巻31」に、「毘婆舎那は名づけて正見と為し、亦た了見と名づけ、名づけて能見と為し、名づけて遍見と曰い、次第見と名づけ、別相見と名づけ、是れを名づけて慧と為す」と云い、又「大乗起信論」に、「言う所の観とは、謂わく因縁生滅の相を分別して、毘鉢舎那観に随順する義の故なり」と云い、「往生論」に、「云何が観察なる。智慧をもて観察し、正念に彼れを観じて如実に毘婆舎那を修行せんと欲するが故なり」と云える是れなり。是れ蓋し奢摩他即ち止によりて心の散動を止め、之より生じたる慧を以って諸法の性相を照見するを観と名づくるの意なり。能観の智は勝義及び世俗に通ず、故に「瑜伽師地論巻45」に、「若し諸法の勝義理趣に於ける如実の真智、及び無量の安立理趣に於ける世俗の妙智を、当に知るべし観と名づく」と云い、「梁訳摂大乗論釈巻15」に、「如理、如量智を毘鉢舎那と名づく」と云えり。又「往生論註巻下」に観察の字義を釈して、「心に其の事を縁ずるを観と曰い、観心分明なるを察と曰う」と云い、「華厳経探玄記巻10」には観察に内心照察と挙目眄視の二義を出せり。又「成実論巻15止観品」には、広く止に対して観の義を明し、「大乗義章巻10止観捨義」の中には、止及び捨に対して具に観の別を論ぜり。然るに諸経論を案ずるに観を説くこと甚だ多く、其の方法及び目的亦た各殊あり。謂わゆる四諦を観ずるを四諦観と名づけ、十二因縁を観ずるを十二因縁観と名づけ、出入息を観ずるを数息観、不浄を観ずるを不浄観、無常を観ずるを無常観、無我を観ずるを無我観、四非常を観ずるを非常観、五停心を観ずるを五停心観、四念処を観ずるを四念処観、九想を観ずるを九想観、理を観ずるを理観、事を観ずるを事観、空を観ずるを空観、生空を観ずるを生空観、法空を観ずるを法空観、色を析して空を見るを析空観、体達して空を見るを体空観、勝義皆空を観ずるを勝義皆空観、仮を観ずるを仮観、仮より空に入るを二諦観、空より仮に入るを平等観、中道第一義諦を観ずるを中道観、次第に三観を修するを次第観、一心に三諦を観ずるを一心三観、実相を観ずるを実相観、四法界を観ずるを四法界観、五重唯識を観ずるを五重唯識観、八不中道を観ずるを八不中道観、浄菩薩心の五相を観ずるを五相成身観、阿字を観ずるを阿字観、月輪を観ずるを月輪観、水を観ずるを水想観、浄土の地を観ずるを地観、華座を観ずるを華座観、像を観ずるを像観、仏の真身を観ずるを真身観、応身を観ずるを応身観、身の総相を観ずるを総相観、別相を観ずるを別相観と称し、乃至依報観、正報観、逆観順観、邪観正観等、其の名甚だ多く、一一枚挙すべからず。但し此等の諸観は概ね毘鉢舎那の義なりと雖も、其の中、中道観の如きは止観双運なるが故に、謂わゆる優畢叉upekSaaの義に合す。故に普通に之を観と称するも、毘鉢舎那と其の意稍同じからず。又「六門教授習定論」、「倶舎論巻28」、「大乗阿毘達磨雑集論巻13」、「成唯識論巻9」、「大乗起信論義記巻下」等に出づ。(二)梵語 vicaara の訳。心所の名。七十五法の一。百法の一。旧訳には観と云い、新訳には伺と云う。即ち諸法の名義等を深細に伺察する精神作用を云う。「中阿含巻58法楽比丘尼経」に、「初禅に五支あり、覚と観と喜と楽と一心となり」と云い、「雑阿含経巻21」に、「覚あり観あるが故に則ち口語あり、是の故に覚あり観あるは是れ口行なり」と云い、又「大毘婆沙論巻42」に、「云何が伺なる、答う、諸の心の伺察して、行に随い転に随い流に随い属に随う。是れを伺と謂う。諸の心の伺察等の名異ありと雖も而も体差別なし、皆伺の自性を顕了せんが為の故なり。尋と伺と何の差別あるや、答う、心の麁性を尋と名づけ、細性を伺と名づく。(中略)尋の性は猛利にして伺の性は遅鈍なり、共に一心を助くるが故に、麁細ありと雖も而も相違せず」と云える是れなり。蓋し伺の心所は欲界及び初禅と中間定とに現起して、二禅以上には有ることなく、随って一切の心に遍ぜず、又一切の時に起らざるが故に、大小乗共に之を不定地法に摂し、其の性遅鈍なりと雖も、深く名身等を推度して、尋と共に語言を等起するの用ありとす。又小乗有部に於いては伺に別体あり、即ち心をして深細に伺察せしむる法となすも、経部及び大乗にては尋と共に仮立の法とし、唯心の麁細なる性を尋伺と名づくるに過ぎずとせり。「大毘婆沙論巻52」に、譬喩者は心の麁なる性を尋と名づけ、細なる性を伺と名づく。而して其の麁細の性には欲界より乃至有頂にも皆得べきが故に、尋伺は三界に皆有りと説くと云い、又「瑜伽師地論巻5」に、「尋と伺との体性とは、謂わく深く所縁を推度せざるは思を体性となし、若し深く所縁を推度するは慧を体性となす」と云える即ち其の説なり。又之を随煩悩となすに就き、「瑜伽師地論巻58」に、「若し極めて久しく尋求伺察することあらば、便ち身をして疲れしめ、念を失わしめて心亦た労損す。是の故に尋と伺を随煩悩と名づく」と云えり。又「法蘊足論巻7」、「大毘婆沙論巻52、90」、「成実論巻6」、「瑜伽師地論巻55」、「顕揚聖教論巻1」、「倶舎論巻4」、「順正理論巻4」、「大乗阿毘達磨雑集論巻1」、「成唯識論巻7」、「同述記巻7本」、「倶舎論光記巻4」、「異部宗輪論述記巻下」等に出づ。<(望)
  (げん):わずらう。悩まされる/苦しむ( suffer from )、憂慮する/心配する( worry about )、厭嫌する( detest )、災難/危難( clamity, trouble, peril )、疾病/病気( disease )。
  捨念清浄心(しゃねんしょうじょうしん):思考/[過去の喜びに関する]回想を捨てた清浄な心( the pure mind of abondonment of thought, or recollection (of past delights) )。第四禅の心。
  捨念清浄地(しゃねんしょうじょうじ):梵語 aakaazaanantya- aayatana の訳、思考を離れた清浄な地/天国、九地中の第五、第四禅( The pure land or heaven free from thinking, the fifth of the nine land (nava bhūmayaḥ), the forth of dhyāna region. )。
  九地(くじ):存在の九位階( nine levels of existence )、梵語 nava- bhuumika の訳、阿毘達磨倶舎論に依る欲界/色界/無色界の三界に入る意識的体験の区分( The division of sentient experience into the three realms of desire , meditation , and formless , as given in the Abhidharmakośa-bhāṣya. )、欲界は五段階の構成であり、一方色界/無色界は各四段階である( The desire realm constitutes five levels, while the meditation and formless realm constitute four each. )、阿含に於ける九有情居に別異す( This set differs from the nine states 九有情居 set forth in the Āgamas. )。即ち、
  1. 欲界五趣地:欲界は五趣を有する、謂わゆる地獄、餓鬼、畜生、人間、及び天( the desire realm with its five gati, i.e. hells, hungry ghosts, animals, men, and devas. )
  2. 離生喜楽地:地上に次ぐ天国、初禅とも云い、又瞑想の対象でもある( Paradise after earthly life, this is also the first dhyāna, or subject of meditation. )
  3. 定生喜楽地:再び生ずることのない天国、二禅( Paradise of cessation of rebirth. )
  4. 離喜妙楽地:以前の喜びに次ぐ素晴らしい喜びの世界、三禅( Land of wondrous joy after the previous joys. )
  5. 捨念清浄地:思考/[過去の喜びに関する]回想を捨てた清浄なる世界、四禅( The Pure Land of abandonment of thought, or recollection (of past delights). )
  6. 空無辺処地 梵語 aakaazaanantyaayatanam の訳:無限の空間を有する世界、( the land of infinite space. )
  7. 識無辺処地 梵語 vijJaanaanamtyaayatanam の訳:全知/無限の知覚の世界( the land of omniscience, or infinite perception. )
  8. 無所有処地 梵語 aakiJcanyaatatana の訳:無/空虚の世界( the land of nothingness. )
  9. 非想非非想処地 梵語 naivasaMjJaanaa- saMjJaayatana の訳:思考と不思考との欠如した、或は意識や無意識の存在しない、即ち両者を超越した世界( the land (of knowledge) without thinking or not thinking, or where there is neither consciousness nor unconsciousness, i.e. above either. )
  参考:『坐禅三昧経巻下』:『問曰。修行禪人得一心相。云何可知。答曰。面色悅澤徐行靖正不失一心目不著色。神德定力不貪名利擊破憍慢其性柔軟不懷毒害無復慳嫉。直信心淨論議不諍。身無欺誑易可與語。柔軟慚愧心常在法。懃修精進持戒完具。誦經正憶念隨法行。意常喜悅瞋處不瞋四供養中不淨不受。淨施則受知量止足。寤起輕利能行二施忍辱除邪。論議不自滿言語尟少。謙恪恭敬上中下座。善師善知識常親近隨順。飲食知節不著欲味。樂獨靜處若苦若樂心忍不動。無怨無競不喜鬥訟。如是等種種相得知一心相。此覺觀二事亂禪定心。如水澄靜波蕩則濁。行者如是內已一心覺觀所惱。如極得息如睡得安。是時次第無覺無觀生清淨定。內淨喜樂得入二禪。心靜默然本所不得。今得此喜。是時心觀以喜為患。如上覺觀行無喜法。乃離喜地得賢聖所說樂。一心諦知念護得入三禪。已棄喜故諦知憶念樂護。聖人言樂護。餘人難捨樂中第一。過此以往無復樂也。是故一切聖人。於一切淨地中。說慈為第一樂。樂則是患。所以者何。第一禪中心不動轉。以無事故有動則有轉。有轉則有苦。是故三禪以樂為患。復以善妙捨此苦樂。先棄憂喜除苦樂意。護念清淨得入第四禪。不苦不樂護清淨念一心。是故佛言。護最清淨第一名第四禪。以第三禪樂動故名之為苦。是故四禪除滅苦樂名不動處。漸觀空處破內外色想。滅有對想。不念種種色想。觀無量空處。常觀色過。念空處定上妙功德。習念是法逮得空處。念無量識處觀空處過。念無量識處功德。習念是法逮得識處。念無所有處觀識處過。念無所有處功德。習念是法便得無所有處。念非有想非無想處。若一切想其患甚多。若病若瘡若無想是愚癡處。是故非有想非無想。是第一安隱善處。觀無所有處過。念非有想非無想功德。習念是法便得非有想非無想處。或有行者。先從初地乃至上地。復於上地習行慈心。先自得樂破瞋恚毒。次及十方無量眾生。是時便得慈心三昧。悲心憐愍眾生之苦。能破眾惱。廣及無量眾生。是時便得悲心三昧。能破不悅。令無量眾生皆得喜悅。是時便得喜心三昧。能破苦樂。直觀十方無量眾生。是時便得護心三昧。二禪亦復如是。三禪四禪除喜。次學五通。身能飛行變化自在。行者一心欲定精進定一心定慧定。一心觀身常作輕想欲成飛行。若大若小(以欲定過為大以欲定減為小)。此二俱患精進翹懃。常能一心思惟輕觀。如能浮人心力強故而不沈沒。亦如猿猴從高上墮。心力強故身無痛患。此亦如是。欲力精進力一心力慧力令其廣大。而身更小便能運身』
復次持戒清淨閑居獨處。守攝諸根初夜後夜專精思惟。棄捨外樂以禪自娛。離諸欲不善法。依未到地得初禪。 復た次ぎに、持戒清浄にして独処に閑居し、諸根を守り摂めて、初夜、後夜にも専精思惟し、外楽を棄捨して、禅を以って自ら娯み、諸欲と不善法を離れ、未到地に依りて、初禅を得。
復た次ぎに、
『持戒して!』、
『清浄となり!』、
『独り!』の、
『処』に、
『閑居して!』、
『諸根(六根)』を、
『守り!』、
『摂め!』、
『初夜』にも、
『後夜』にも、
専ら、
『精力的に!』、
『思惟し!』、
外の、
『五境』の、
『楽』を、
『棄捨して!』、
自ら、
『禅』の、
『境地』を、
『娯み!』、
諸の、
『欲』と、
『不善法』とを、
『離れて!』、
『未到地』に、
『依って!』、
『初禅』を、
『得る!』。
  独処(どくしょ):独りの場所。独りで居る。
  閑居(げんこ):ひまにして居る。他人の訪れが無いこと。
  守摂(しゅしょう):見張って散乱させないこと。取り締まる。
  専精(せんしょう):もっぱら。専心精意。心をもっぱら一事にそそぐ。
  参考:『中阿含巻43第168経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。我今為汝說法。初妙.中妙.竟亦妙。有義有文。具足清淨。顯現梵行。謂分別意行經。如意行生。諦聽。諦聽。善思念之。時。諸比丘受教而聽。佛言。云何意行生。若有比丘離欲.離惡不善之法。有覺.有觀。離生喜.樂。得初禪成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生梵身天中。諸梵身天者。生彼住彼。受離生喜.樂。及比丘住此。入初禪。受離生喜.樂。此二離生喜.樂無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生梵身天中。如是意行生。復次。比丘覺.觀已息。內靖.一心。無覺.無觀。定生喜.樂。得第二禪成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生晃昱天中。諸晃昱天者。生彼住彼。受定生喜.樂。及比丘住此。入第二禪。受定生喜.樂。此二定生喜.樂無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生晃昱天中。如是意行生。復次。比丘離於喜欲。捨無求遊。正念正智而身覺樂。謂聖所說.聖所捨.念.樂住.室。得第三禪成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生遍淨天中。諸遍淨天者。生彼住彼。受無喜.樂。及比丘住此。入第三禪。受無喜.樂。此二無喜.樂無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生遍淨天中。如是意行生。復次。比丘樂滅.苦滅。喜.憂本已滅。不苦不樂.捨.念.清淨。得第四禪成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生果實天中。諸果實天者。生彼住彼。受捨.念.清淨樂。及比丘住此。入第四禪。受捨.念.清淨樂。此二捨.念.清淨樂無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生果實天中。如是意行生。復次。比丘度一切色想。滅有對想。不念若干想。無量空。是無量空處成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生無量空處天中。諸無量空處天者。生彼住彼。受無量空處想。及比丘住此。受無量空處想。此二無量空處想無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生無量空處天中。如是意行生。復次。比丘度無量空處。無量識。是無量識處成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生無量識處天中。諸無量識處天者。生彼住彼。受無量識處想。及比丘住此。受無量識處想。此二無量識處想無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生無量識處天中。如是意行生。復次。比丘度無量識處。無所有。是無所有處成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生無所有處天中。諸無所有處天者。生彼住彼。受無所有處想。及比丘住此。受無所有處想。此二無所有處想無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生無所有處天中。如是意行生。復次。比丘度一切無所有處想。非有想非無想。是非有想非無想處成就遊。彼此定樂欲住。彼此定樂欲住已。必有是處。住彼樂彼。命終生非有想非無想處天中。諸非有想非無想處天者。生彼住彼。受非有想非無想處想。及比丘住此。受非有想非無想處想。此二想無有差別。二俱等等。所以者何。先此行定。然後生彼。彼此定如是修.如是習.如是廣布。生非有想非無想處天中。如是意行生。復次。比丘度一切非有想非無想處想。知滅身觸成就遊。慧見諸漏盡斷智。彼諸定中。此定說最第一.最大.最上.最勝.最妙。猶如因牛有乳。因乳有酪。因酪有生酥。因生酥有熟酥。因熟酥有酥精。酥精者說最第一.最大.最上最勝.最妙。如是彼諸定中。此定說最第一.最大.最上.最勝.最妙。得此定.依此定.住此定已。不復受生老病死苦。是說苦邊。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
初禪如阿毘曇說。禪有四種。一味相應。二淨三無漏。四初禪所攝報得五眾。是中行者入淨無漏。二禪三禪四禪亦如是。 初禅は、阿毘曇に説くが如く、禅に四種有り、一には味相応、二には浄、三には無漏、四には初禅所摂の報得の五衆なり。是の中に行者は、浄、無漏に入る。二禅、三禅、四禅も亦た是の如し。
『初禅』とは、
『阿毘曇』には、こう説く、――
『禅(初禅、乃至四禅)』には、
『四種』有り、
一には、
『味相応の禅であり!』、
二には、
『浄の禅であり!』、
三には、
『無漏の禅であり!』、
四には、
『初禅所摂』の、
『報得の五衆(諸梵天の身心)である!』、と。
是の中に、
『行者』は、
『浄、無漏』の、
『禅』に、
『入り!』、
『二禅、三禅、四禅』も、
亦た、
『是の通りである!』。
  味相応(みそうおう):愛と相応し禅定の功徳を味著する禅。味等至。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三等至、三摩鉢底』参照。
  (じょう):愛味の過患を了知し愛と相応せざる禅。浄等至。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三等至、三摩鉢底』参照。
  無漏(むろ):愛と相応せず味著されない禅、四諦を観じて入る聖者の禅。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三等至、三摩鉢底』参照。
  報得五衆(ほうとくごしゅ):前世の善行の報として初禅中に得た色受想行識、則ち梵天。
如佛所說。若有比丘離諸欲及惡不善法。有覺有觀。離生喜樂入初禪。 仏の所説の如く、若し有る比丘、諸欲、及び悪不善法を離れて、覚有り、観有り、生を離れて喜楽すれば、初禅に入る。
例えば、
『仏の所説』は、こうである、――
若し、
有る、
『比丘』が、
諸の、
『欲』と、
『悪、不善の法』とを、
『離れて!』、
『覚』と、
『観』とが、
『有り!』、
『生』を、
『離れて!』、
『喜、楽すれば!』、
則ち、
『初禅』に、
『入ったのである!』、と。
諸欲者。所愛著色等五欲。思惟分別呵欲如先說。惡不善法者。貪欲等五蓋。離此內外二事故得初禪。 諸欲とは、愛著する所の色等の五欲なり。思惟し分別して欲を呵せば、先に説けるが如し。悪不善の法とは、貪欲等の五蓋なり。此の内外の二事を離るるが故に初禅を得。
『諸欲』とは、
『愛著する!』所の、
『色』等の、
『五欲である!』、
是の、
『欲』を、
『思惟し!』、
『分別して!』、
『呵れば!』、
先に、
『説いた通りである!』。
『悪、不善の法』とは、
『貪欲』等の、
『五蓋である!』。
此の、
『内の五蓋』と、
『外の五欲』という、
『二事』を、
『離れるので!』、
故に、
『初禅』を、
『得るのである!』。
初禪相有覺有觀喜樂一心。 初禅の相は、有覚、有観、喜、楽、一心なり。
『初禅』の、
『相』は、
『有覚、有観、喜、楽、一心である!』。
  初禅(しょぜん):離欲、離悪、離生にして有覚、有観、有喜、有楽の一境を云う。
有覺有觀者。得初禪中未曾所得善法功德故。心大驚悟常為欲火所燒。得初禪時如入清涼池。又如貧人卒得寶藏。 有覚有観とは、初禅中に未だ曽て得ざる所の善法の功徳を得るが故に、心大に驚悟すらく、『常に欲火に焼かれたるに、初禅を得る時には、清涼の池に入りたるが如し。又貧人の卒(にわ)かに、宝蔵を得たるが如し』、と。
『有覚、有観』とは、
『初禅』中に、
未だ、
『得たことのない!』、
『善法』や、
『功徳』を、
『得る!』が故に、
『心』が、
『大いに!』、
『驚いて()!』、
『悟るからである()!』、――
常に、
『婬欲』の、
『火』に、
『焼かれていた!』が、
『初禅』を、
『得た!』時には、
譬えば、
『清涼な!』、
『池』に、
『入ったようであり!』、
又、
譬えば、
『貧人』が、
『宝蔵』を、
『突然得たようである!』、と。
行者思惟分別欲界過罪。知初禪利益功德甚多。心大歡喜。是名有覺有觀。 行者は思惟して、欲界の過罪を分別し、初禅の利益と、功徳の甚だ多きを知り、心に大いに歓喜す。是れを有覚有観と名づく。
『行者』は、
『欲界』の、
『過罪』を、
『思惟し』、
『分別して!』、
『初禅』の、
『利益、功徳』の、
『甚だ多い!』ことを、
『知り!』、
『心』に、
『大いに!』、
『歓喜するので!』、
是れを、
『有覚有観』と、
『呼ぶのである!』。
問曰。有覺有觀為一法是二法耶。 問うて曰く、有覚有観は、一法と為すや、是れ二法たりや。
問い、
『有覚、有観』は、
『一法ですか?』、
『二法ですか?』。
答曰。二法。麤心初念是名為覺。細心分別是名為觀。譬如撞鐘初聲大時名為覺。後聲微細名為觀。 答えて曰く、二法なり。麁心の初念は、是れを名づけて、覚と為し、細心の分別は、是れを名づけて、観と為す。譬えば鐘を撞きて、初声の大なる時を名づけて、覚と為し、後声の微細なるを名づけて、観と為すが如し。
答え、
『覚』と、
『観』とは、
『二法である!』。
即ち、
『麁心(粗雑の心)』の、
『初念』を、
『覚』と、
『呼び!』、
『細心』の、
『分別』を、
『観』と、
『呼ぶ!』。
譬えば、
『鐘』を、
『撞いて!』、
『初声』の、
『大きい!』時を、
『覚』と、
『呼び!』、
『後声』の、
『微細な!』時を、
『観』と、
『呼ぶようなものである!』。
問曰。如阿毘曇說。欲界乃至初禪。一心中覺觀相應。今云何言麤心初念名為覺細心分別名為觀。 問うて曰く、阿毘曇の説の如きは、欲界、乃至初禅の一心中には、覚、観相応す。今は云何が言わく、『麁心の初念を名づけて、覚と為し、細心の分別を名づけて、観と為す』、と。
問い、
『阿毘曇』には、こう説かれている、――
『欲界、乃至初禅』の、
『一心』中に、
『覚、観』は、
『相応して!』、
『有る!』、と。
今は、
何故、こう言うのですか?――
『麁心』の、
『初念』を、
『覚』と、
『呼び!』、
『細心』の、
『分別』を、
『観』と、
『呼ぶ!』、と。
答曰。二法雖在一心二相不俱。覺時觀不明了。觀時覺不明了。譬如日出眾星不現。一切心心數法隨時受名。亦復如是。 答えて曰く、二法は一心に在りと雖も、二相は倶ならず。覚の時の観は明了ならず。観の時の覚は明了ならず。譬えば、日出に衆星現れざるが如し。一切の心心数法の、時に随うて、名を受くるも、亦復た是の如し。
答え、
『二法』は、
『一心』中に、
『在る!』が、
『二相』が、
『いっしょではない!』。
即ち、
『覚の時』に、
『観』は、
『明了( clear )でない!』し、
『観の時』に、
『覚』は、
『明了でない!』。
譬えば、
『日』が、
『出れば!』、
『多くの星』が、
『見えなくなるように!』、
一切の、
『心、心数法』が、
『時』に、
『随って!』、
『呼び名』を、
『替える!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
  明了(みょうりょう):はっきりと理解する( clearly understand )、はっきりさせる( be clear about )、明白な( clear )、意識する( sentient )。
  衆星(しゅしょう):多くの星。
  心心数法(しんしんじゅほう):受、想、思、触、欲、慧、念等種種の心の働き、及び其れ等を主宰するもの。『大智度論巻14上注:心所有法』参照。
如佛說若斷一法我證汝得阿那含。一法者。所謂慳貪。 仏の説きたまえるが如し、『若し一法を断ずれば、我れは汝が阿那含を得たるを証せん。一法とは、謂わゆる慳貪なり』、と。
『仏』が、こう説かれた通りである、――
若し、
『一法』を、
『断った!』ならば、
わたしは、
お前が、
『阿那含』を、
『得た!』と、
『証明しよう!』。
『一法』とは、
謂わゆる、
『慳貪である!』、と。
實應說五下分結盡得阿那含。云何言但斷一法。以是人慳貪偏多。諸餘結使皆從而生。是故慳盡餘結亦斷。覺觀隨時受名。亦復如是。 実に応に、『五下分結を尽さば、阿那含を得』と説くべし。云何が、『但だ、一法を断ず』と言える。是の人の慳貪の偏に多くして、諸余の結使は、皆従って生ずるを以って、是の故に、慳尽くれば、余の結も亦た断ず。覚観の時に随うて、名を受くるも亦た復た是の如し。
実には、こう説かれるべきである、――
『五下分結』が、
『尽きれば!』、
『阿那含』を、
『得る!』、と。
何故、こう言われたのか?――
但だ、
『一法』を、
『断てば!』、と。
何故ならば、
是の、
『人』は、
『慳貪』が、
『偏に!』、
『多かった!』のと、
他の、
『結使』は、
皆、
『慳貪』に、
『従って!』、
『生じるからであり!』、
是の故に、
『慳貪』が、
『尽きれば!』、
他の、
『結』も、
『断たれるのである!』。
『覚』と、
『観』という、
『心数法』が、
『時』に、
『随って!』、
『名』を、
『替える!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
  五下分結(ごげぶんけつ):下分界の五結、則ち欲界中の貪欲、瞋恚、身見、戒取見、疑を云う。『大智度論巻15上注:五下分結、五上分結』参照。
行者知是覺觀雖是善法而嬈亂定心。心欲離故呵是覺觀作是念。覺觀嬈動禪心。譬如清水波盪則無所見。又如疲極之人得息欲睡。傍人喚呼種種惱亂。攝心內定覺觀嬈動。亦復如是。如是等種種因緣呵覺觀。 行者は、是の覚観は、是れ善法なりと雖も、定心を嬈乱するを知り、心に離れんと欲するが故に、是の覚観を呵して、是の念を作さく、『覚観は、禅心を嬈動すること、譬えば清水波盪すれば、則ち所見無きが如く、又疲極の人の、息むを得て、睡らんと欲するに、傍人喚呼して、種種に悩乱するが如し。摂心内に定まるに、覚観嬈動するも亦復た是の如し』、と。是の如き等の種種の因縁は、覚観を呵すなり。
『行者』は、
是の、
『覚、観』は、
『善法ではある!』が、
『定心』を、
『嬈乱するものである!』と、
『知って!』、
『心』に、
『離れようとする!』が故に、
是の、
『覚、観』を、
『呵って!』、
是の、
『念』を、こう作す、――
『覚、観』は、
『禅心』を、
『嬈(みだ)して!』、
『動かす!』。
譬えば、
『清水』が、
『波』に、
『揺れれば!』、
則ち、
『見る!』所が、
『無くなるようなものだ!』。
又、
『疲労した人』が、
『休息』を、
『得て!』、
『睡ろう!』と、
『思っているのに!』、
『傍の人』が、
『喚呼して!』、
『種種に悩ますように!』、
『心』を、
『摂めて!』、
『内』が、
『定まっていても!』、
『覚、観』が、
『嬈して!』、
『動かせば!』、
亦た、
『是の通りなのだ!』、と。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』は、
『覚、観』を、
『呵すものである!』。
  嬈乱(にょうらん):悩して乱す。
  嬈動(にょうどう):悩して動かす。
  波盪(はとう):波が揺れ動くように騒然として静まらないこと。
  疲極(ひごく):疲れる。疲労。
覺觀滅內清淨繫心一處。無覺無觀定生喜樂入二禪。既得二禪。得二禪中未曾所得無比喜樂。 覚観滅して、内清浄なれば、心を一処に繋けて、無覚無観の定に喜楽を生じて、二禅に入る。既にして二禅を得れば、二禅中の、未だ曽て得ざる所の無比の喜楽を得。
『覚、観』が、
『滅して!』、
『内』が、
『清浄になる!』と、
『心』を、
『一処』に、
『繋()けて!』、
『無覚、無観』という、
『定』が、
『喜、楽』を、
『生じて!』、
『二禅』に、
『入る!』。
既に、
『二禅』を、
『得れば!』、
『二禅』中の、
未だ、
『得たことのない!』、
『無比の喜、楽』を、
『得る!』。
覺觀滅者。知覺觀過罪故滅。 覚観滅すとは、覚観の過罪を知るが故に滅するなり。
『覚、観』が、
『滅する!』とは、
『覚、観の過罪』を、
『知る!』が故に、
『滅したのである!』。
內清淨者。入深禪定。信捨初禪覺觀所得利重所失甚少所獲大多。繫心一緣故。名內清淨。 内に清浄なりとは、深き禅定に入り、信じて初禅の覚観を捨つれば、得る所の利は重くして、失う所は甚だ少なく、獲る所は大(はなは)だ多し。心を一縁に繋くるが故に、内の清浄と名づく。
『内』が、
『清浄である!』とは、
『深い!』、
『禅定』に、
『入り!』、
『信じて!』、
『初禅』の、
『覚、観』を、
『捨てれば!』、
『得る!』所の、
『利』は、
『重く!』、
『失う!』所は、
『甚だ少なく!』、
『獲る!』所は、
『甚だ多い!』。
『心』を、
『一縁』に、
『繋()けるからであり!』、
故に、
『内』が、
『清浄である!』と、
『称する!』。
行者觀喜之過亦如覺觀。隨所喜處多喜多憂。所以者何。如貧人得寶歡喜無量。一旦失之其憂亦深。喜即轉而成憂。是故當捨 行者の、喜の過を観るも亦た、覚観の如し。喜ぶ所の処に随いて、喜多ければ、憂多し。所以は何んとなれば、貧人の宝を得て歓喜無量なるも、一旦之を失えば、其の憂も亦た深きが如く、喜は即ち転じて、憂と成る。是の故に当に捨つべし。
『行者』が、
『喜』の、
『過』を、
『観る!』のも、
亦た、
『覚、観』と、
『同じである!』。
『喜ぶ!』所の、
『処(事物)』に、
『随って!』、
『喜』が、
『多ければ!』、
『憂』も、
『多いからである!』。
何故ならば、
譬えば、
『貧人』が、
『宝』を、
『得れば!』、
『歓喜』は、
『無量である!』が、
一旦、
之を、
『失えば!』、
其の、
『憂』も、
『深まるように!』、
『喜』は、
即ち、
『転じて!』、
『憂』と、
『成る!』ので、
是の故に、
当然、
『捨てるべきである!』。
  所喜(しょき):人を喜ばせる事物。所喜の処は所喜の存在する場所。
  一旦(いったん):ある朝。転じて他日。
離此喜。故行捨念智受身樂。是樂聖人能得能捨。一心在樂入第三禪。 此の喜を離るるが故に捨を行じ、智を念じて、身に楽を受く。是の楽を、聖人は能く得、能く捨つ。一心は、楽に在りて、第三禅に入る。
此の、
『喜』を、
『離れる!』が故に、
『捨を行い!』、
『智を念じて!』、
『身』に、
『楽』を、
『受ける!』が、
是の、
『楽』を、
『聖人』は、
『得ることもでき!』、
『捨てることもできる!』。
『唯一の心』が、
『楽』中に、
『在れば!』、
『第三禅』に、
『入ったことになる!』。
捨者捨喜心不復悔。 捨とは、喜を捨てて、心に復た悔いざるなり。
『捨』とは、――
『喜』を、
『捨てて!』、
『心』に、
復た、
『悔いないことである!』。
念智者既得三禪中樂。不令於樂生患。 念智とは、既に三禅中に楽を得て、楽に於いて患を生ぜしめざるなり。
『智を念じる!』とは、――
既に、
『第三禅』中に、
『楽』を、
『得た!』ので、
『楽』中に、
『患()』を、
『生じさせないためである!』。
受身樂者。是三禪樂遍身皆受。 身に楽を受くとは、是の三禅の楽は、遍身に皆受くればなり。
『身』に、
『楽』を、
『受ける!』とは、――
是の、
『三禅の楽』は、
遍く、
『全身』に、
『受けるからである!』。
  遍身(へんしん):身体じゅう。全身。
聖人能得能捨者。此樂世間第一能生心著。凡夫少能捨者。以是故佛說。行慈果報遍淨地中第一。 聖人は能く得、能く捨つとは、此の楽は、世間第一なれば、能く心を生じて著すればなり。凡夫には、能く捨つる者少なし。是を以っての故に仏の説きたまわく、『慈を行ずる果報は、遍浄地中第一なり』、と。
『聖人』は、
『得ることもでき!』、
『捨てることもできる!』とは、――
此の、
『楽』は、
『世間第一であり!』、
『著心』を、
『生じさせるからである!』。
『凡夫』で、
『捨てることのできる!』者は、
『少しである!』。
是の故に、
『仏』は、こう説かれた、――
『慈』を、
『行う!』、
『果報』は、
『遍浄地(遍浄天)』中に、
『生まれる!』のが、
『第一である!』、と。
  遍浄地(へんじょうじ):遍浄天の土地。遍浄天は、色界第三禅天中の第三、最上天を云う。第四禅は無喜無楽の故に、四禅中、楽を有する最高天を指す。
行者觀樂之失。亦如觀喜。知心不動處最為第一。若有動處是則有苦。行者以第三禪樂動故求不動處。以斷苦樂先滅憂喜。故不苦不樂捨念清淨入第四禪。 行者は、楽の失を観ること、亦た喜を観るが如く、心の動かざる処を最も第一と為すを知る。若し動有る処なれば、是れ則ち苦有り。行者は、第三禅の楽の動ずるを以っての故に、不動の処を求め、苦楽を断ずるに、先に憂喜を滅するを以っての故に、不苦不楽、捨念清浄にして、第四禅に入る。
『行者』が、
『楽』の、
『過失』を、
『観る!』と、
亦た、
『喜』の、
『過失』を、
『観るようである!』。
故に、こう知る、――
『心』の、
『動かない処』が、
『最も第一である!』、と。
若し、
『動』の、
『有る!』、
『処ならば!』、
是れには、
『苦』も、
『有ることになる!』。
『行者』は、
『第三禅』は、
『楽』が、
『動く!』が故に、
『動かない!』、
『処』を、
『求める!』が、
『苦』や、
『楽』を、
『断じる!』と、
先に、
『憂、喜』を、
『滅した!』が故に、
『不苦であり!』、
『不楽であり!』、
『念』を、
『捨てて!』、
『清浄となり!』、
『第四禅』に、
『入る!』。
是四禪中無苦無樂。但有不動智慧。以是故說第四禪捨念清淨。 是の四禅中には、苦無く、楽無く、但だ不動の智慧のみ有り。是を以っての故に説かく、『第四禅には、捨念清浄なり』、と。
是の、
『四禅』中には、
『苦』も、
『楽』も、
『無く!』、
但だ、
『不動』という、
『智慧』のみが、
『有る!』。
是の故に、こう説く、――
『第四禅』は、
『念』を、
『捨てて!』、
『清浄である!』、と。
第三禪樂動故說苦。是故第四禪中說斷苦樂。 第三禅の楽は動ずるが故に苦と説き、是の故に第四禅中に、苦楽を断ずと説く。
『第三禅』中の、
『楽』は、
『動く!』が故に、
『苦である!』と、
『説き!』、
是の故に、
『第四禅』中には、
『苦、楽』を、
『断つ!』と、
『説く!』。



四無色定

如佛說。過一切色相不念別相。滅有對相得入無邊虛空處。 仏の説きたもうが如し、『一切の色相を過ぎて、別相を念ぜず、有対の相を滅して、無辺虚空処に入るを得』、と。
『仏』は、こう説かれている、――
一切の、
『色相』を、
『過ぎて(超越して)!』、
『別相』を、
『念じず!』、
『有対の相』を、
『滅すれば!』、
則ち、
『無辺虚空処』に、
『入る!』、と。
  色相(しきそう):有形物の表示/標識( mark of materiality )、梵語 ruupa- lakSaNa の訳、物質/物質的外観/外面的現れ/外観( The material, material appearance, or external manifestation, the visible )の意。
  別相(べっそう):辨別的特質( distinctive characteristic )、梵語 bhinna- lakSaNa の訳、辨別的様相/特徴/区別/類型に応じた差別( Distinctive aspect; distinction, differentiation, discrimination — according to type. )、事物に関する認識可能な個別の特性( A distinct characteristic identifiable in a thing or event )の意。一切の有為法は、総相別相の二相有り、無常、無我の相の如きは、一切に通ずるが故に、之を総相と謂い、地に堅相有り、水に湿相有るが如きは、之を別相と謂う。「大智度論巻31」に出づ。<(丁)
  有対(うたい):障害物( obstruction )、梵語 pratigha, sapratigha の訳、障害物/妨害物/対抗/妨害/抵抗( hindrance, opposition, obstruction, resistance )、障害物/妨害物を有する者( having a hindrance )、所縁の境に拘束される者の義。六根の対象となるべき六境の意。無対 apratigha に対す。『大智度論巻2上注:有対、無対』参照。
  無辺虚空処(むへんこくうじょ):梵 akaazaanantaayatana の訳。又空無辺処とも称す。無色界第一処。
行者作是念。若無色則無飢渴寒熱之苦。是身色麤重弊惡虛誑非實。先世因緣和合報得此身。種種苦惱之所住處。云何當得免此身患。當觀此身中虛空。 行者の是の念を作すらく、『若し無色なれば、則ち飢渇、寒熱の苦無し。是の身色は、麁重、弊悪、虚誑にして、実に非ず。先世の因縁和合して、此の身を報得するも、種種の苦悩の所住の処なれば、云何が当に、此の身の患を免るるを得べき。当に此の身中の虚空を観るべし』、と。
『行者』は、
是の念を作す、――
若し、
『無色ならば!』、
則ち、
『飢渴、寒熱』の、
『苦』は、
『無いことになる!』。
是の
『身色』は、
『麁重であり!』、
『弊悪であり!』、
『虚誑であり!』、
『非実である!』。
『先世』の、
『因縁』が、
『和合して!』、
此の、
『身』という、
『果報』を、
『得たのである!』が、
此の、
『身』とは、
種種の、
『苦悩』の、
『住する処である!』。
何うすれば、
此の、
『身』の、
『患』を、
『免れられるのだろう!』。
当然、
此の、
『身』中の、
『虚空』を、
『観るべきだ!』、と。
  身色(しんしき):梵語 chavi- varNa, kaaya- varNa, kaaya- ruupa 等の訳,肉体的外観( physical appearance )の意。
常觀身空如籠如甑。常念不捨則得度色不復見身。如內身空外色亦爾。是時能觀無量無邊空。得此觀已無苦無樂其心轉增。如鳥閉著瓶中瓶破得出。是名空處定。 常に、身の空なること籠の如く、甑の如しと観、常に念じて捨てざれば、則ち色を度するを得て、復た身を見ず。内身の空なるが如く、外色も亦た爾り。是の時、能く無量無辺の空を観て、此の観を得已りて、苦無く、楽無き其の心転た増すこと、鳥を瓶中に閉著するに、破りて出づるを得るが如し。是れを空処定と名づく。
常に、
『身』は、
『空であり!』、
『籠か、甑(こしき)のようだ!』と、
『観て!』、
常に、
『身』の、
『空』を、
『念じて!』、
『捨てなければ!』、
『色』を、
『度する(超越する)ことができ!』、
復た(二度と)、
『身』を、
『見ることはない!』。
亦た、
『内』の、
『身』が、
『空であるように!』、
『外』の、
『色』も、
『空である!』。
是の時、
『無量、無辺』の、
『空』を、
『観ることができ!』、
此れを、
『観る!』が故に、
『苦』も、
『楽』も、
『無い!』という、
其の、
『心』が、
『増進する!』。
譬えば、
『鳥』が、
『瓶』中に、
『閉じ込められていた!』のが、
『瓶』を、
『破って!』、
『出られたようなものである!』。
是れを、
『空処定(空無辺処定)』と、
『称する!』。
  度色(どしき):有色の妄想を滅して超過するの意。
  内身(ないしん):自らの色身。内色。
  外色(げしき):他の色身。外身。
  参考:『摩訶般若波羅蜜経巻3集散品第九』:『是先尼梵志。非內觀得故見是智慧。非外觀得故。見是智慧。非內外觀得故。見是智慧。亦不無智慧觀得故見是智慧。何以故梵志不見是法。智者知法知處故。此梵志非內色中見是智慧。非內受想行識中見是智慧。非外色中見是智慧。非外受想行識中見是智慧。非內外色中見是智慧。非內外受想行識中見是智慧。亦不離色受想行識中見是智慧。內外空故。』
是空無量無邊。以識緣之緣多則散能破於定。行者觀虛空。緣受想行識。如病如癰如瘡如刺。無常苦空無我。欺誑和合則有非是實也。 是の空の無量、無辺なるに、識を以って之を縁ず。縁多ければ、則ち散じて、能く定を破ればなり。行者は、虚空を観て、受想行識を縁ずらく、『病の如く、癰の如く、瘡の如く、刺の如くして、無常、苦、空、無我なり、虚誑和合して、則ち有るも、是れ実に非ざるなり』、と。
是の、
『空』は、
『無量であり!』、
『無辺である!』のに、
『識』で、
『空』を、
『縁じる(捉える)!』のは、
『縁(所縁)』が、
『多い!』と、
『散漫になり!』、
『定』が、
『破れるからである!』。
『行者』は、
『虚空』を、
『観て!』、
『受、想、行、識』を、
『縁じてみる!』と、
『受、想、行、識』は、
譬えば、
『病のようであり!』、
『癰のようであり!』、
『瘡のようであり!』、
『刺のようであり!』、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
『空であり!』、
『無我である!』。
『受、想、行、識』は、
『虚誑の和合』の故に、
『有る!』が、
是れは、
『実ではない!』。
  (えん):梵語 pratyaya の訳。巴梨語 paccaya 、色心諸法の生起を助成するものを云う。「雑阿含経巻12」に、「無明は行に縁たり、乃至生は老死に縁たり」と云い、又「倶舎論巻7」に、「契経の中に四縁の性を説く、謂わく因縁の性、等無間縁の性、所縁縁の性、増上縁の性なり」と云える如き是れなり。就中、所縁縁は色等の境が心心所をして慮知の用を起さしむる縁由となるをいうものにして、其の境を所縁と名づけ、心心所を能縁と称せり。普通に因に対して縁の語を用うるも、此の二語は其の義互いに交渉あるを以って、或いは因を説いて縁とし、或いは縁を説いて因と名づくることあり。<(望)又攀縁の義。人の心識は、一切の境界に攀縁するなり。眼識の色境に攀縁して、之を見、乃至身識の触境に攀縁して之を覚するが如し。因にして而も心識なるを能縁と為し、其の境界を所縁と為す。其の心識の境界に向かいて動ずる作用は、之を縁と謂う、即ち心の境界に攀縁するなり。縁を、心の境に対する作用と為し、易えて之を言わば、則ち心の慮知と為す、故に常に縁慮と曰い、縁の即ち慮知なることを示す。<(丁)『大智度論巻2上注:四縁』参照。
  (えん):条件( condition )、梵語 pratyaya の訳、間接的原因/二次的原因/補助的原因/原因となるべき状況/原因となるべき条件( indirect cause; secondary cause; associated conditions; causal situation, causal condition )。有らゆる事物は、原因/結果の原理の対象であるが、結果を生じさせる原因を助ける為めの条件/状況があり、間接的原因と呼ばれる( All things are subject to the principle of cause and effect, but there are conditions/circumstances that aid the causes that produce an effect, which are called indirect causes )。仏教は一般的に因果関係に強い関心を寄せているが、特に因縁生起の法則に見られるような、原因や要因に関する事柄は、ほとんど有らゆる議論に於いて見られる( Given the strong attention that Buddhism pays in general to matters of causation, especially as seen in the theory of dependent arising, the matter of associated causes and factors is seen in almost any discussion )。因を種に喩えれば、緣は土、雨、日光等に喩えられる( Hetu is like a seed, pratyaya the soil, rain, sunshine, etc )。認識に関する仏教理論、特に唯識に於いては、縁は通常、知覚力のある対象をいい、認識機能 [識] の為めに必要なものである( In Buddhist theories of cognition, especially in Yogācāra, 緣 is used to refer to the perceptual objects that are necessary for the function of the consciousnesses 識 )。此の意味に於いて、境といわれる対象の概念と幾分重なっている( In this sense, there is some overlap with the concept of 'object' expressed in Chinese as 境 ( Skt. aalambana ) )。従って、有る対象として捉えること/把握すること/関係づけること/関係づけられること( Thus, to take as an object. To lay hold of; connect with; be connected with )。心が外界の対象に向うこと/感じること/知覚/認識( The mind facing an object of the external world. To sense, perceive or cognize )。◯梵語 nidaana の訳、原因的状況( causal situation )。四縁の一( A reference to the four kinds of causes 四緣 )。
如是念已。捨虛空緣但緣識。云何而緣現前識。緣過去未來無量無邊識。是識無量無邊。如虛空無量無邊。是名識處定。 是の如く念じ已りて、虚空の縁を捨てて、但だ識のみを縁ず。云何が、現前の識を縁ずる。過去、未来の無量、無辺の識を縁ずれば、是の識は無量、無辺にして、虚空の無量、無辺なるが如し。是れを識処定と名づく。
是のように、
『念じたならば!』、――
『虚空』の、
『縁』を、
『捨てて!』、
但だ、
『識のみ!』を、
『縁じる!』。
何のように、
『現前』の、
『識』を、
『縁じるのか?』、――
『過去、未来』の、
『無量、無辺』の、
『識』を、
『縁じれば!』、――
是の、
『識』は、
『無量であり!』、
『無辺である!』、
『虚空のように!』、
『無量であり!』、
『無辺である!』。
是れを、
『識処定』と、
『称する!』。
是識無量無邊。以識緣之識多則散能破於定。行者觀是緣識。受想行識如病如癰如瘡如刺。無常苦空無我。欺誑和合而有非實有也。 是の識は無量無辺なれば、識を以って之を縁ずるに、識多ければ則ち散じ、能く定を破る。行者は、是の縁を観て識るらく、『受、想、行、識は、病の如く、癰の如く、瘡の如く、刺の如く、無常、苦、空、無我にして、欺誑和語して有り、実に有るに非ず』、と。
是の、
『識』は、
『無量であり!』、
『無辺である!』が、
『識』で、
『識』の、
『無量、無辺』を、
『縁じる!』とき、
『識』の、
『多さに!』、
『散漫になり!』、
則ち、
『定』を、
『破ることになる!』ので、
『行者』は、
是の、
『縁(所縁=識)』を、
『観察して!』、こう識る、――
『受、想、行、識』は、
譬えば、
『病のようであり!』、
『癰のようであり!』、
『瘡のようであり!』、
『刺のようであり!』、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
『空であり!』、
『無我である!』、
『受、想、行、識』は、
『欺誑』の、
『和合』の故に、
『有る!』が、
而し、
『実に!』、
『有るのではない!』、と。
  (びょう):身体に障害を生じて健やかでないこと。病気。
  (よう):悪性のできもの。大きくて根は浅い。顔、ぼんのくぼ、背などに簇生する。腫。悪瘡。
  (そう):かさ、できもの、はれもの、皮膚病の総名。きず、創痍。刀傷。
  (し):草木のとげ。刺して傷つける。刺し傷。
如是觀已則破識相。是呵識處讚無所有處。破諸識相繫心在無所有中。是名無所有處定。 是の如く観已れば、則ち識相を破る、是れ識処を呵して、無所有処を讃じ、諸の識相を破りて、心を繋けて、無所有中に在り。是れを無所有処定と名づく。
是のように、
『観たならば!』、
則ち、
『識』の、
『相』を、
『破ることになり!』、
是の、
『識処(識無辺処)』を、
『呵って!』、
『無所有(無所有処)』を、
『讃じ!』、
諸の、
『識の相』を、
『破って!』、
『心』を、
『無所有』中に、
『繋ける!』。
是れを、
『無所有処定』と、
『称する!』。
  (ざい):に、於。
無所有處緣受想行識。如病如癰如瘡如刺。無常苦空無我。欺誑和合而有非實有也。 無所有処にて、受想行識を縁ずらく、『病の如く、癰の如く、瘡の如く、刺の如くして、無常、苦、空、無我なり。虚誑和合して有れば、実に有るに非ず』、と。
『無所有処』を、
『縁ずれば!』、――
『受、想、行、識』は、
譬えば、
『病のようであり!』、
『癰のようであり!』、
『瘡のようであり!』、
『刺のようであり!』、
『無常であり!』、
『苦であり!』、
『空であり!』、
『無我である!』、
『受、想、行、識』は、
『欺誑』の、
『和合』の故に、
『有るが!』、
『実』に、
『有るのではない!』。
如是思惟。無想處如癰。有想處如病如癰如瘡如刺。第一妙處是非有想非無想處。 是の如く思惟すらく、『無想処は癰の如く、有想処は病の如く、癰の如く、瘡の如く、刺の如し。第一の妙処は、是れ非有想非無想処なり』、と。
是のように、
『思惟する!』、――
『無想処』は、
譬えば、
『癰のようであり!』、
『有想処』は、
譬えば、
『病のようであり!』、
『癰のようであり!』、
『瘡のようであり!』、
『刺のようであった!』が、
『非有想非無想処こそ!』、
『第一』の、
『妙処である!』、と。
問曰。非有想非無想處。有受想行識。云何言非有想非無想。 問うて曰く、非有想非無想処にも、受想行識有り。云何が、非有想非無想と言う。
問い、
『非有想非無想処』にも、
『受、想、行、識』は、
『有るのに!』、
何故、
『非有想非無想』と、
『言うのですか?』。
答曰。是中有想微細難覺故。謂為非有想。有想故非無想。凡夫心謂得諸法實相。是為涅槃。佛法中雖知有想。因其本名。名為非有想非無想處。 答えて曰く、是の中に、想有り、微細にして覚り難きが故に、謂いて非有想と為し、想有るが故に非無想なり。凡夫の心は諸法の実相を得と謂いて、是れを涅槃と為すも、仏法中には、有想なるを知ると雖も、其の本の名に因って、名づけて非有想非無想処と為す。
答え、
是の中にも、
『想』は、
『有る!』が、
『微細であり!』、
『覚り難い!』が故に、
『非有想』と、
『謂い!』、
『想』の、
『有る!』が故に、
『非無想』と、
『謂う!』。
『凡夫』は、
『心』に、
諸の、
『法の実相』を、
『得る!』ことを、
『涅槃である!』と、
『謂う!』が、
『仏法』中には、
『有想である!』と、
『知りながら!』、
其の、
『本の名』に、
『因って!』、
『非有想非無想処』と、
『呼ぶのである!』。
問曰。云何是無想。 問うて曰く、云何が、是れ無想なる。
問い、
何故、
是れを、
『無想』と、
『呼ぶのですか?』。
答曰。無想有三種。一無想定。二滅受定。三無想天。凡夫人欲滅心入無想定。佛弟子欲滅心入滅受定。 答えて曰く、無想には、三種有り、一には無想定、二には滅受定、三には無想天なり。凡夫人は、心を滅して、無想定に入らんと欲し、仏弟子は、心を滅して、滅受定に入らんと欲す。
答え、
『無想』には、
『三種』有り、
一には、
『無想定であり!』、
二には、
『滅受定(滅尽定)であり!』、
三には、
『無想天である!』。
『凡夫人』は、
『心』を、
『滅して!』、
『無想定』に、
『入ろうとし!』、
『仏弟子』は、
『心』を、
『滅して!』、
『滅尽定』に、
『入ろうとする!』。
  無想定(むそうじょう):梵語 asaMjJnaa- samaapatti の訳。想なき定の意。七十五法の一。百法の一。又十四不相応行の一。二十四不相応行の一。即ち無想天を以って真解脱なりと執する者が想を厭壊して心心所法を滅せしむる定を云う。「品類足論巻1」に、「無想定とは云何、謂わく已に遍浄の染を離るるも未だ上染を離れず、出離想の作意を先と為し、心心所法を滅するなり」と云い、「倶舎論巻5」に、「復た別法あり、能く心心所法を滅せしむるを無想定と名づく。無想の者の定なれば無想定と名づく、或いは定の無想なるを無想定と名づく。(中略)此れ何の地にか在る。謂わく後の静慮、即ち第四静慮に在りて余に非ず。無想定を修するは何の所求の為なる、謂わく解脱を求むるなり。彼れ無想は是れ真の解脱なりと執し、彼れを証することを求めんが為に無想定を修す」と云える是れなり。是れ色界第三禅遍浄天の染を離れたる異生が無想を以って真の解脱なりと執し、彼れを求めんが為に修する所の法にして、即ち出離想作意を以って心心所法を滅して起こらざらしむる定なるが故に之を無想定と名づけたるなり。此の定は欲界身或いは色界身に依り、第四静慮を依地として起すものにして、唯外道異生の修する所なり。「倶舎論巻5」の連文に、「又許す此の定は唯異生のみ得して諸の聖者に非ず、諸の聖者は無想定に於いて深坑を見るが如く入ることを楽わざるを以っての故なり。要ず無想を執して真の解脱と為し、出離の想を起して而も此の定を修するなり。一切の聖者は有漏を執して真の解脱及び真の出離と為さず、故に此の定に於いて必ず修行せず」と云える即ち其の説なり。又此の定は唯善性にして、即ち能く無想天の異熟を招き、唯順生受にして順現及び順後受等に非ず。故に此の定を修する者は順次に無想天に生じ、随って必ず見道に入ること能わざるものとなすなり。説一切有部に於いては此の定に別体ありとなすも、大乗唯識家にては心心所法の暫時滅する所依の位の差別に之を仮立するなり。又「大毘婆沙論巻151、152」、「順正理論巻11」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「成唯識論巻7」等に出づ。<(望)
  滅受定(めつじゅじょう):又滅受想定、滅尽定と称す。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
  滅尽定(めつじんじょう):梵語 nirodha- samaapatti の訳。又滅尽等至、或いは滅受想定と云い、略して滅定とも名づく。十四不相応行の一。七十五法の一。百法の一。即ち無所有処の染を離れたる者の所入の定を云う。「品類足論巻1」に、「滅定とは云何、謂わく已に無所有処の染を離れ、止息想の作意を先と為して心心所を滅す」と云い、「倶舎論巻5」に、「別法あり、能く心心所をして滅せしむるを滅尽定と名づく。(中略)此の滅尽定は、静住を求めんが為に止息想の作意を以って先と為す。前の無想定は後の静慮に在るも、此の滅尽定は唯有頂に在り。即ち是れ非想非非想処なり」と云える是れなり。是れ無所有処の染を離れたる生者が想受の散動を厭い、静住を求めんが為に止息想の作意を以って先となし、心心所法を滅して無心位に住するを滅尽定と名づけたるなり。彼の無想定を共に二無心定と称せらるるものなるも、無想定が唯異生凡夫の所得なるに反し、此の定は仏及び倶解脱阿羅漢が定障を離れて得する所にして、即ち現法涅槃の勝解力を以って修入するなり。其の性は唯善にして無記及び染に非ず、必ず加行得にして離染得に非ず。又彼の無想定は無想天中の五蘊の異熟を招くに対し、此の定は唯有頂地の四蘊の異熟を招くものなり。蓋し説一切有部に於いては別物ありて能く久時に心心所法を滅せしむるものとなし、又出定の心は前の入定の心を以って等無間縁となすと説くも、経量部及び唯識家等に於いては実法を認めず、唯心心所の転ぜざる分位に此の定を仮立す。就中、経量部は色心の二法は互いに種子となることを得とし、出定の心は有根身に由りて生起するものなりと云い、分別論者等は滅尽定は唯想受のみを滅するものなるが故に、滅受想と名づくとし、其の中には尚お細心ありて滅することなしと云い、唯識家にては此の定中に亦た阿頼耶識あり、寿煗等の如く其の身を離れずとなせり。又入定の期間に関し、「大毘婆沙論巻153」に、欲界の有情は段食に由りて諸根の大種を持せらるるが故に、若し久しく定に在らば、在定の間は身を損することなきも、後出定の時身即ち散壊す、故に極めて久時なるも七昼夜を過ぐることを得ず。然るに色界の有情の諸根は段食に任持せられざるが故に、或いは半劫或いは一劫を経べしとなせり。又「中阿含経巻58」、「大毘婆沙論巻152、154」、「倶舎論巻29」、「順正理論巻12」、「大乗阿毘達磨雑集論巻2」、「成唯識論巻2、8」等に出づ。<(望)



阿毘曇中の四禅、四無色定

是諸禪定有二種。若有漏若無漏。有漏即是凡夫所行如上說。無漏是十六聖行。 是の諸の禅定には、二種有り、若しは有漏、若しは無漏なり。有漏は、即ち是れ凡夫の所行にして、上に説くが如く、無漏は、是れ十六聖行なり。
是の、
諸の、
『禅、定』には、
『二種』有り、
『有漏か!』、
『無漏である!』。
『有漏』の、
『禅定』は、
『凡夫』の、
『所行であり!』、
先に、
『説いた通りである!』が、
『無漏』の、
『禅定』は、
『十六聖行である!』。
  十六聖行(じゅうろくしょうぎょう):又十六行相、四諦十六行相とも称す。『大智度論巻11上注:四諦十六行相、巻17下注:十六行相』参照。
  十六行相(じゅうろくぎょうそう):四諦を観る時、各四種の差別有り、其の時産生する所の行相も共に十六種を有す。即ち「倶舎論巻16」に依れば、苦聖諦に四相あり、一に非常(梵 duHkha )、縁を待って成ずるが故に。二に苦(梵 samudaya )、逼迫の性の故に。三に空(梵 zuunya )、我所見と違うが故に。四に非我(梵 anaatman )、我見と違うが故に。集聖諦にも亦た四相あり、一に因(梵 hetu )、其の理は種子の如し。二に集(梵 samudaya )、顕現の理に同じ。三に生(梵prabhava)、能く続起せしむ。四に縁(梵 pratyaya )、能く成辦せしむこと、譬えば泥団、輪、縄と水等の衆縁和合して一瓶を成ずるが如し。滅聖諦にも亦た四相あり、一に滅(梵nirodha)、諸蘊尽くるが故に。二に静(梵 zaanta )、三火息むが故に。三に妙(梵 praniita )、衆患無きが故に。四に離(梵 niHsaraNa )、衆災を脱るるが故に。道聖諦にも亦た四相あり、一に道(梵 maarga )、通行の義なるが故に。二に如(梵 nyaaya )、正理に契うが故に。三に行(梵 pratipad )、正しく趣向するが故に。四に出(梵 nairyaaNika )、能く永く超ゆるが故に。<(佛)初めて聖者の流れに乗る預流向位以前の四善根位に於いて、四諦を観ずる十六の行。(1)苦諦、この世は苦であるを四種に観察する。(1-1)無常:この世は変化する。(1-2)苦:無常なるが故に、この世は苦である。(1-3)空:無常なるが故に、一切は実体が無い。(1-4)無我:我もまた実体が無い。(2)集諦、この世は苦である原因を四種に観察する。(2-1)集:愛執は苦を集める。(2-2)因:愛執は苦の原因である。(2-3)縁:苦は更なる苦の原因である。(2-4)生:苦は更なる苦を生む。(3)滅諦、苦の滅した境地を四種に観察する。(3-1)尽:愛執を尽くせば苦は滅する。(3-2)滅:苦が滅すれば生死も尽きる。(3-3)妙:生死の尽きた境地は殊妙である。(3-4)出:苦界を出て理想の境地に入る。(4)道諦、苦を滅する道を四種に観察する。(4-1)道:八正道は苦を滅する道である。(4-2)正:八正道は正しい。(4-3)行:八正道は理想の境地に行く。(4-4)跡:仏の遺跡を行けばよい。『大智度論巻11上注:四諦十六行相』参照。
若有漏道。依上地邊離下地欲。若無漏道。離自地欲及上地。以是故凡夫於有頂處不得離欲。更無上地邊故。 若し有漏道なれば、上地の辺に依りて、下地の欲を離るるも、若し無漏道なれば、自地の欲を離るれば、上地に及ぶ。是を以っての故に凡夫は、有頂処に於いて、欲を離るるを得ず、更に上地の辺無きが故なり。
若し、
『有漏道』ならば、
『上地の辺』に、
『依って!』、
『下地の欲』を、
『離れる!』が、
『無漏道』ならば、
『自地の欲』を、
『離れれば!』、
『上地』に、
『及ぶ(至る)!』ので、
是の故に、
『凡夫』は、
『有頂処(非有想非無想処)』に於いて、
『欲』を、
『離れることができない!』、
更に、
『上地の辺』が、
『無いからである!』。
  有頂処(うちょうじょ):梵語 bhavaagra の訳、有/存在の頂点( the peak of existence )の義、宇宙/有/存在の最高処、存在の限界( The highest point of the universe, of existence; the limit of existence )の意。有頂、有頂天にも作る。即ち非有想非無想処を指す。『大智度論巻2下注:有頂天』参照。
若佛弟子欲離欲界欲欲界煩惱。思惟斷九種上中下。上上.上中.上下.中上.中中.中下.下上.下中.下下。 若し仏弟子にして、欲界の欲を離れんと欲し、欲界の煩悩を離れんと欲すれば、思惟断に九種の上中下あり、上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下なり。
若し、
『仏弟子』が、
『欲界』の、
『欲』を、
『離れようとし!』、
『欲界』の、
『煩悩』を、
『離れようとすれば!』、
『思惟断』の、
『九種』の、
『上、中、下』、
『上上、上中、上下、中上、中中、中下、下上、下中、下下がある!』。
  思惟断(しゆいだん):修行中に断つべき煩悩( afflictions eliminated in the path of cultivation )、梵語 bhaavanaa- prahaatavya の訳。見断、不断と共に三断の一。『大智度論巻20下注:修所断、三断』参照。
斷此九種故。佛弟子若依有漏道欲得初禪。是時於未到地。九無礙道八解脫道中。現在修有漏道。未來修有漏無漏道。第九解脫道中。於未到地現在修有漏道。未來修未到地有漏無漏道及初禪邊地有漏。若無漏道欲得初禪亦如是。 此の九種を断ずるが故に、仏弟子は、若しは有漏道に依って、初禅を得んと欲するに、是の時は未到地の九無礙道の八解脱道中に於いて、現在には有漏道を修め、未来には有漏、無漏道を修め、第九解脱道中の、未到地に於いては、現在に有漏道を修め、未来には、未到地の有漏、無漏道、及び初禅の辺地の有漏を修む。若し無漏道に、初禅を得んと欲するも亦た、是の如し。
此の、
『九種』の、
『思惟断』を、
『断とうとする!』が故に、
『仏弟子』は、
若し、
『有漏道』に、
『依って!』、
『初禅』を、
『得ようとすれば!』、
是の時は、
『未到地(初禅の辺地)』に於いて、
『九無礙道』の、
『八解脱道』中に、
『現在』には、
『有漏道』を、
『修め!』、
『未来』には、
『有漏、無漏道』を、
『修め!』、
『第九解脱道』中の、
『現在』には、
『未到地』に於いて、
『有漏道』を、
『修め!』、
『未来』には、
『未到地』の、
『有漏、無漏道』と、
『初禅の辺地』の、
『有漏』を、
『修める!』。
若し、
『無漏道』に、
『依って!』、
『初禅』を、
『得ようとすれば!』、
亦た、
『是の通りである!』。
  九無礙道(くむげどう):正しく煩悩を断つ位の九無漏道を云う。『大智度論巻4上注:九無礙道』参照。
  八解脱道(はちげだつどう):九無礙道中の最上第九無礙道を除いた殘りを云う。
  第九無礙道(だいくむげどう):九無礙道中の最上位。まさに一切の煩悩、結使を断ち已らんとする位なり。
若依有漏道離初禪欲。於第二禪邊地。九無礙道八解脫道中。現在修二禪邊地有漏。未來修二禪邊地有漏道。亦修無漏初禪及眷屬。第九解脫道中。於第二禪邊地。現在修二禪邊地有漏道。未來修二禪邊地初禪無漏及眷屬二禪淨無漏。 若し有漏道に依って、初禅の欲を離れんとすれば、第二禅の辺地に於いて、九無礙道の八解脱道中に、現在には二禅の辺地の有漏を修め、未来には、二禅の辺地の有漏道を修めて、亦た無漏の初禅、及び眷属を修む。第九解脱道中に、第二禅の辺地に於いて、現在には二禅の辺地の有漏道を修め、未来には二禅の辺地と、初禅の無漏、及び眷属、二禅の浄、無漏を修む。
若し、
『有漏道』に、
『依って!』、
『初禅』の、
『欲』を、
『離れようとすれば!』、
『第二禅の辺地』に於いて、
『九無礙道』の、
『八解脱道』中に、
『現在』には、
『二禅の辺地』の、
『有漏道』を、
『修め!』、
『未来』には、
『二禅の辺地』の、
『有漏道』を、
『修め!』、
亦た、
『初禅』の、
『無漏及び眷属』、
『修め!』、
『第九解脱道』中に、
『現在』には、
『第二禅の辺地』の、
『有漏道』を、
『修め!』、
『未来』には、
『二禅の辺地』と、
『初禅』の、
『無漏及び眷属』を、
『修め!』、
『二禅』の、
『浄、無漏』を、
『修める!』。
若無漏道離初禪欲。九無礙道八解脫道中。現在修自地無漏道。未來修初禪及眷屬有漏無漏道。第九解脫道中。現在修自地無漏道。未來修初禪及眷屬有漏無漏道。及修二禪淨無漏乃至無所有處離欲時亦如是。 若し無漏道に初禅の欲を離れんとすれば、九無礙道の八解脱中に、現在には自地の無漏道を修め、未来には初禅及び眷属の有漏、無漏道を修め、第九解脱道中に、現在には自地の無漏道を修め、未来には初禅及び眷属の有漏、無漏道を修め、及び二禅の浄、無漏を修む。乃至無所有処の欲を離れんとする時も、亦た是の如し。
若し、
『無漏道』に、
『依って!』、
『初禅』の、
『欲』を、
『離れようとすれば!』、
『九無礙道』の、
『八解脱道』中に、
『現在』には、
『自地』の、
『無漏道』を、
『修め!』、
『未来』には、
『初禅及び眷属』の、
『有漏、無漏道』を、
『修め!』、
『第九解脱道』中に、
『現在』には、
『自地』の、
『無漏道』を、
『修め!』、
『未来』には、
『初禅及び眷属』の、
『無漏、無漏道』を、
『修め!』、
及び、
『二禅』の、
『浄、無漏』を、
『修める!』。
乃至、
『無所有処』の、
『欲』を、
『離れようとする!』時も、
亦た、
『是の通りである!』。
非有想非無想處離欲時。九無礙道八解脫道中。但修一切無漏道。第九解脫道中。修三界善根及無漏道。除無心定。 非有想非無想処の欲を離れんとする時、九無礙道の八解脱道中には、但だ一切の無漏道を修め、第九解脱道中に、三界の善根及び無漏道の無心定を除いて修む。
『非有想非無想処』の、
『欲』を、
『離れようとする!』時、
『九無礙道』の、
『八解脱道』中には、
但だ、
一切の、
『無漏道』を、
『修め!』、
『第九無礙道』中には、
『三界』の、
『善根』と、
『無心定を除いた!』、
『無漏道』を、
『修める!』。
  無心定(むしんじょう):無想定、及び滅尽定を云う。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
修有二種。一得修二行修。得修名本所不得而今得。未來世修自事亦修餘事。行修名曾得於現前修。未來亦爾不修餘。如是等種種諸禪定中修。 修には二種有り、一には得修、二には行修なり。得修を本得ざる所を今得と名づけ、未来世には自事を修め、亦た余事を修む。行修を曽て得たるを、現前に修むと名づけ、未来にも亦た爾く、余を修せず。是の如き等の種種の諸の禅定中の修なり。
『修』には、
『二種』有り、
一には、
『得修であり!』、
二には、
『行修である!』。
『得修』とは、
『本来』、
『得ていない!』所を、
『今!』、
『得ることであり!』、
『未来世』にも、
『自地』の、
『事』を、
『修め!』、
亦た、
『他の地』の、
『事』をも、
『修めるのである!』が、
『行修』とは、
『曽て!』、
『得た!』所を、  ――既に忘失せるが故に――
『現前』に、
『修めるものであり!』、
『未来』も、
亦た、
『同じように!』、
『修める!』ので、
『他の地』の、
『事』を、
『修めることはない!』。
是れ等のような、
種種の、
諸の、
『禅、定』中の、
『修である!』。
  得修(とくしゅ)行修(ぎょうしゅ):得修とは過去世の所得を忘失せず、現在亦た之を得るを云い、行修とは過去世の所得を已に忘失するが如き、劣弱の性なれば、未来世にも亦た爾るを云う。即ち「阿毘曇毘婆沙論巻54」に出づ。
  参考:『阿毘曇毘婆沙論巻54』:『若道過去。彼道已修已猗耶。答曰。若道過去已修已猗修者。謂二種修。得修行修。已猗者已過去故。頗道已修已猗。彼道不過去耶。答曰。有未來道。已修已猗。起不淨觀現在前。未來有無量刹那修。從第二刹那以後。盡名已修已猗道。謂得修以在未來故。不名過去。乃至起初盡智現在前。未來有無量盡智刹那修。從第二刹那修已後。盡名已修已猗道。謂得修。若道未來。彼道非已修非已猗耶。答曰。或道在未來。彼道非不已修。非不已猗。乃至廣作四句。云何道在未來。彼道非不已修。非不已猗。答曰。諸未來道。已修已猗。如上所說。云何道非已修非已猗。彼道非未來耶。答曰。起未曾得道現在前。起不淨觀。乃至盡智現在前。此道非已修非已猗。此道非未來非已修者。是行修故。非未來者。是現在故。云何道在未來。彼道非已修非已猗。答曰。諸未來道。非已修非已猗者。起不淨觀乃至盡智現在前。未來無量刹那修。諸未來修。與最初刹那俱者。彼道非已修已猗。所以者何。是今修今猗。謂得修而彼道在未來。云何道不在未來。彼道非不已修。非不已猗。答曰。過去道亦起曾得道現在前。曾得道者。曾得不淨觀。乃至盡智起現在前。問曰。此道是今修今猗。是行修何故說非不已修非已猗耶。答曰。此文應如是說。過去道是也。不應說起曾得道現在前。若作是說。有何意耶。答曰。此道雖是行修。今修今猗。亦是得修已修已猗。若道現在。彼道今修今猗耶。答曰。若道現在。彼道今修今猗。或具二修。謂得修行修。或有唯行修者。頗道今修今猗。彼道非現在耶。答曰。有起未曾得道現在前未來相似者。修相似有四種。一修相似。二戒相似。三界相似。四性相似。修相似者此中說起未曾得道現在前。未來相似者修此中或有說。有漏道有漏道相似修。無漏道無漏相似修。』
復次禪定相略說有二十三種。八味八淨七無漏。 復た次ぎに、禅定の相を略説すれば、二十三種有り、八は味、八は浄、七は無漏なり。
復た次ぎに、
『禅、定』の、
『相』を、
『略説すれば!』、――
『二十三種』有り、
『八』は、
『味(味相応)であり!』、
『八』は、
『浄であり!』、
『七』は、
『無漏である!』。
  八味(はちみ):愛と相応する定にして四禅、無色の各四種の相を云う。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三等至』参照。
  八浄(はちじょう):無貪等の白浄の法と相応する定にして四禅、無色の各四種の相を云う。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三等至』参照。
  七無漏(しちむろ):愛と相応せず、又味著せられざる出世の定にして四禅四種、無色の下三種の相を云う。『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三等至』参照。
  三等至(さんとうし):三種の等至の意。等至は梵語 samaapatti の訳。即ち四静慮四無色の八根本定に三種の等至の相あるを云う。一に味等至 aavaadana- samaapatti 、二に浄等至 zuddha- s. 、三に無漏等至 anaasrava- s. なり。「大毘婆沙論巻162」に、「初静慮に三種あり、謂わく味相応と浄と無漏となり。味相応とは謂わく愛相応なり。愛は能く心を持し境に於いて流注して、其の相定に順ずるが故に独り其の名を受く。所余の因縁は前に已に説くが如し。浄とは謂わく善有漏なり、無漏は謂わく聖道なり」と云い、又「倶舎論巻28」に、「此の本の等至に八あり、前の七に各三あり、謂わく味と浄と無漏となり。後は味と浄との二種なり」と云える是れなり。就中、味等至とは愛と相応する定にして、即ち鈍根貪行の人が静慮の功徳に於いて味著するを云い、浄等至とは無貪等の白浄の法と相応する定にして、即ち中根或いは利根の人が愛味の過患を了知し愛と相応せざる相を云う。前の味等至の所著の境にして、此の定滅する時、無間に能味の定を生ずるなり。無漏等至とは愛と相応せず、又味著せられざる出世の定にして、即ち随信行、随法行、或いは薄塵行の人が四諦を観じ、又は現観を修する方便として入る所の無漏定の相なり。八根本定の中、前の七には三等至の相あるも、後の一は相昧劣なるが故に無漏等至なし。所縁の境に関しては、味定は但だ自地の法のみを縁じ、既に下地の染を離れたるが故に下を縁ずることなく、又所愛味の地別なるが故に上地を縁ずることなし。浄定と無漏とは倶に能く遍く自地と上下地を縁じて境となすなり。又近分の浄定と無漏定とは能く諸の煩悩を断じ、味定は自地に繋縛せらるるが故に断惑の相なし。又「大智度論巻17」、「瑜伽師地論巻12」、「顕揚聖教論巻2、19」、「倶舎論光記巻28」等に出づ。<(望)『大智度論巻17上注:禅、巻17下注:三摩鉢底、及び定』参照。
  等至(とうし):梵語三摩鉢底 samaapatti の訳。『大智度論巻17下注:三摩鉢底』参照。
  正受(しょうじゅ):梵語三摩鉢底 samaapatti の訳。『大智度論巻17下注:三摩鉢底』参照。
  三摩鉢底(さんまはつてい):梵語 samaapatti 、又三摩鉢提、三摩拔提、三摩跋提に作る。等至、正受、又は正定現前と訳す。惛沈掉挙を離るることに由りて、身心をして平等安和の位に至らしむる定を云う。「倶舎論巻28」に、「静慮と無色との根本の等至を総じて八種あり、中に於いて前の七に各具に三あり。有頂の等至に唯二種あり、此の地は昧劣にして無漏なきが故なり」と云える是れなり。是れ四静慮四無色を根本の八等至とし、其の中、四静慮及び下三無色の前七には各味等至、浄等至、無漏等至の三あり、有頂地には無漏を除き、唯味等至、浄等至の二種あることを説けるものなり。等至の語義に関しては、「成唯識論述記巻6本」に、「其の等至とは亦た二義あり、一に云わく、等に至るなり。謂わく定に在るとき、定数の勢力により身心をして等しくして安和の相あらしむ。此の等の位に至るを名づけて等至と為す。二に言わく、等至るなり。前加行に沈掉等を伏する能力に由りて、此の安和の分位に至るを名づけて等至と為す。是れ等引と大義少しく同じ」と云い、「倶舎論光記巻6」に、「若し有心定を等至と名づけば、定前の心が沈掉を離るるに由りて、平等にして此の定に至るを謂うなり。是れ加行に従って名を立つ。又解す、即ち定の沈掉を離るるを等と名づけ、能く平等の身心に至るを至と名づく。若し無心定を等至と名づけば、還た二解を作すべし、有心定に準じて知るべし。唯無心を異と為す」と云い、元暁の「金剛三昧経論巻上」に、「三摩鉢底は此に等至と云う、等持の中、能く勝位に至るが故に等至と名づく」と云い、又「慧苑音義巻上」に、「三摩鉢底は此に等至と云う、謂わく加行に沈掉を伏するの力に由りて、其の定立ちて身心安和に至るなり」と云えり。之に依るに三摩鉢底は身心安和の状態にして、即ち三摩地の進境を称したるものなるを知るべし。三摩地(等持)と三摩鉢底との別に関しては、「大毘婆沙論巻162」に数説を挙げ、「有説は等持は一物を体と為し、等至は五蘊を体と為す。有説は等持は一刹那、等至は相続なり。有説は諸の等持は即ち等至なり、等至にして等持に非ざるあり、謂わく無想等至と滅尽等至なり。有説は亦た等持にして等至に非ざるあり、謂わく不定心相応の等持なり。此に由りて四句を作るべし、有るは等至にして等持に非ず、謂わく二無心定なり。有るは等持にして等至に非ず、謂わく不定心相応の等持なり。有るは等至にして亦た等持なり、謂わく一切有心定なり。有るは等至に非ず亦た等持に非ず、謂わく前相を除く」と云い、又「倶舎論光記巻6」に、「梵に三摩地と名づく、此に等持と云う。定散に通じ三性に通ず。唯有心平等に心を持して境に趣かしむるが故に等持と名づく。梵に三摩鉢底と名づく、此に等至と云う。有心無心定に通ず、唯定に在りて散に通ぜず」と云い、又「瑜伽師地論巻11」に、「等至とは謂わく五現見三摩鉢底、八勝処三摩鉢底、十遍処三摩鉢底、四無色三摩鉢底、無想三摩鉢底、滅尽定等三摩鉢底なり」と云い、「瑜伽論略纂巻5」に之を釈して、「三摩鉢底は通じて一切有心無心の諸定位中の所有の定体に目づく。諸経論の中には勝に就いて唯五現見等の相応の諸定を説いて名づけて等至と為す」と云えり。之に依りて等至は有心無心に通じ、又唯定に在りて散に通ぜざるを知るべし。又「梁訳摂大乗論釈巻11」には三摩鉢底の種類を挙げて、「若し広説せば、大乗蔵に立つる所の三摩跋提の如きは体類差別五百種あり。小乗清浄道に立つる所の三摩跋提は体類差別に六十七種あり、今略して説くに止だ六種の差別を明す」と云い、境と衆類と対治と随用と随引と由事との六種の差別を出せり。又「十地経論巻5」に、「三摩跋提とは五神通なり」と云えるは、即ち等至の用に約して釈したるなり。又「分別善悪報応経巻上」、「雑阿毘曇心論巻7」、「倶舎論巻5」、「唐訳摂大乗論釈巻8」、「十地経論義記巻4末」、「瑜伽論略纂巻1」、「同論記巻4上」、「玄応音義巻22」、「慧琳音義巻13、14、19、26」等に出づ。<(望)
  参考:『大毘婆沙論巻169』:『復次如前所說等至。略有二十三種。謂靜慮有十二。即四味相應四淨四無漏。無色有十一即四味相應四淨三無漏。此二十三若廣建立成六十五等至。謂前二十三加四無量。四無礙解。八解脫。八勝處。十遍處。六通。無諍願智所依。問此六十五幾唯緣自地。幾唯緣下地。幾緣自地及下地。幾緣自地及上地。幾緣一切地。答十等至唯緣自地。謂八味相應。及空識無邊處遍處。二十四等至唯緣下地。謂四無量。初三解脫。八勝處。前八遍處。及無諍。或有欲令無諍緣欲色界者。除無諍。七等至緣自地及下地。謂法詞二無礙解。五通所依。九等至緣自地及上地。謂淨無漏三無色。及下三無色解脫。此依緣有漏者說。十二等至緣一切地。謂淨無漏四靜慮義辯二無礙解漏盡通願智所依。此亦但依緣有漏者說。若通依緣無漏者說。則有二十三等至緣一切地。謂即前十二加十一無色。謂淨無漏無色及無色解脫』
復有六因。相應因.共因.相似因.遍因.報因.名因。 復た六因有り、相応因、共因、相似因、遍因、報因、名因なり。
復た、
『六因』が、
『有り!』、
『相応因』、
『共因(俱生因)』、
『相似因(同類因)』、
『遍因(遍行因)』、
『報因(異熟因)』、
『名因(能作因)である!』。
  六因(ろくいん):凡そ有為法の生は、必ず因縁の和合に依り、因の体を論ずれば、六種有り、一に能作因、二に俱有因、三に同類因、四に相応因、五に遍行因、六に異熟因なり。就中、一に能作因とは、之に二あり、謂わゆる凡そ生法の為には、与るに力を以ってする者、又障害を作さざる者となり。、故に此の因には与力と、不障との二種あり。与力とは、法の生時に、勝力を与うる者なり。眼根の眼識を生じ、大地の草木を生ずる、是れを有力能作因と為す。此の有力能作の因体は、只有為法のみに限り、無為法には通ぜず。無為法を以って無作用と為し、彼の生法に向かって力を与えざるなり。不障とは、謂わく他の生法を妨げず、他をして自在に生ぜしむる者なり。虚空の万物に于けるが如きは、是れを無力能作因と為し、故に此の無力能作因は、一切の無為法に通ずるなり。此の因の所得の果を名づけて、増上果と為す。二に俱有因とは、又共有因、共因とも称し、果の因を俱有するが故に、俱有因と名づく。謂わく是れ必ず二個以上の法が相依って生じ、蘆を束ぬるに相依るが如し、地等の四大種、生住等の四相是れなり。蓋し四大種の生は、必ず互いに相い依って生じ、一を欠くること不可なればなり。是れを同時俱有の法と為し、互いに因と為り、互いに果と為る者は、此れ謂わゆる、互いに果を為す俱有の因なり。此の因の所得の果を、士用果と名づく。三に同類因とは、又相似因、自種因とも称し、謂わゆる同類の法は、同類の法を以って因と為すなり。善法を善法の因と為し、乃至無記法を無記法の因と為すが如し。此の同類の名は、善悪の性に就きて立て、色心等の事相に就いてには非ず。善の色蘊と善の識蘊と相望むこと、猶お同類因、等流果の如きなるが故なり。蓋し此の因の所得の果は、乃ち等流果なり。四に相応因とは、心と心所との法は、必ず同時に相応して生ずるが故に相応法と名づく。此の一聚の心心所の、一を以って他を望むに就き、名づけて相応因と為すこと、彼の俱有因の如し。蓋し俱有因の中に於いて、特別に心心所の法を開きて此の因を立つるなり。故に所得の果は、俱有因を以って例と為し、称して士用果と為す。五に遍行因とは、又遍因とも称し、是れを同類因に由ると為し、特に煩悩の法を開きて立つる者なり。蓋し見惑に在りては、苦諦の下の五見、及び疑と無明と、集諦の下の邪見、見取の二見、及び疑と無明とは、遍く一切の惑を生ずるが故に、遍行因と名づくるも、是れ同類因の一種と為すに過ぎず、故に所得の果も、等類の果なり。六に異熟因とは、又報因とも称す、是れ悪と、有漏善との二法を以って体と為すこと、五逆の悪法を以って、地獄の報を感じ、十善の有漏善を以って、天上の果を招くが如し。彼の天上と地獄との果は、皆非善非悪にして、但だ無記性と為す(惟だ一は楽、一は苦なるのみ)。此の善因、悪因を以って、皆無記の果を感ずるが如き、因果の類を異にして熟す(一は因悪、果無記なり、一は因善、果無記なり)が故に、因を異熟因と為し、果を異熟果と為す。「倶舎論巻6」に、「因に六種有り、一に能作因、二に俱有因、三に同類因、四に相応因、五に遍行因、六に異熟因」と云えるが如し。旧訳には、「大智度論巻32」に、相応因(相応因)、共生因(俱有因)、自種因(同類因)、遍因(遍行因)、報因(異熟因)、無障因(能作因)と称す。<(丁)『大智度論巻2上注:六因、巻32上注:六因』参照。
  六因(ろくいん):六種類の原因( six kinds of causes )、梵語 SaDhetavaH, SaT- kaaraNa, SaTkaaraNaani 等の訳、毘婆沙師に於ける原因に関する六種の区分; 有らゆる現象は因と縁とに依っている( The sixfold division of causes of the Vaibhāṣikas; every phenomenon depends upon the union of primary cause and conditional or environmental cause; )、そしてその因には六種ある(and of the primary causes there are six kinds ):即ち、
  1. 能作因 karaNahetu :直接的効力を有する因であり、之に与力因と不障因との二種有る、与力因は譬えば大地が植物の生育に力を与えるが如く、不障因は虚空の障礙せざるが如し。即ち能動的、及び受動的な原因である( effective causes of two kinds: empowering cause, as the earth empowers plant growth, and non-resistant cause, as space does not resist, i. e. active and passive causes )
  2. 俱有因 sahabhuuhetu :同時に発生し、共同して作用する因である、譬えば自然に於ける四大の、一として欠くべからざるが如し( concurrent causes, co-operative causes, as the four elements in nature, not one of which can be omitted )
  3. 相応因 saMprayuktahetu :付随する因/相互に反応し、或は関係する因、即ち心と心所有法/客体を伴う主体の如し、例えば信念と知性がそうである( concomitant causes, mutual responsive or associated causes, e.g., mind and mental conditions, subject with object, such as faith and intelligence )
  4. 同類因 sabhaagahetu :同類を生ずるに与って効果ある因、善より善を生ずるが如き等( causes of the same kind as the effect, good producing good, etc. )
  5. 遍行因 sarvatragahetu :遍く作用する因/普遍的、或は遍在する因、即ち、幻想の如き/有らゆる行動に影響する誤った見解の如きをいう( pervasively operating causes, universal or omnipresent cause, i.e., of illusion, as of false views affecting every act )
  6. 異熟因 vipaakahetu (ripening cause) :結果に隔絶した原因/隔異した結実、即ち結果が原因と離れている、例えば地獄の悪行に由るが如し( causes that differ from their fruits, differential fruition, i. e. the effect different from the cause, as the hells are from evil deeds. )
一一無漏。七無漏因是相似因。自地中增相應因共有因 一一の無漏は、七無漏の因にして、是れ相似因なり。自地中に増するは、相応因と共有因なり。
『一一』の、
『無漏』は、
『七無漏』の、
『因であり!』、
是れは、
『相似因である!』、
『自地』中の、
『禅、定』が、
『増進する!』、
是れは、
『相応因』と、
『共有因(俱有因)である!』。
初味定初味定因乃至後味定後味定因。淨亦如是。 初の味定は、初の味定の因なり、乃至後の味定は後の味定の因なり。浄も亦た是の如し。
『初(初禅)』の、
『味定』は、
『初』の、
『味定の因であり!』、
乃至、
『後(非有想非無想処定)』の、
『味定』は、
『後』の、
『味定の因である!』。
『浄』も、
亦た、
『是の通りである!』。
四緣因緣.次第緣.緣緣.增上緣。因緣者如上說。 四縁とは、因縁、次第縁、縁縁、増上縁なり。因縁は上に説けるが如し。
『四縁』とは、
『因縁』、
『次第縁(等無間縁)』、
『縁縁(所縁縁)』、
『増上縁である!』。
『因縁』は、
『上に!』、
『説く通りである!』。
  四縁(しえん):旧訳には因縁、次第縁、縁縁、増上縁と云い、新訳には因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁と云う。一に因縁とは、謂わゆる六根を因と為し、六塵を縁と為すなり。眼根の色塵に対する時、識は即ち随って生ずるが如し。余根も亦た然り。是れを因縁と名づく。二に次第縁とは、謂わゆる心、心所法は次第無間に相続して起るを、次第縁と名づく。三に縁縁とは、謂わゆる心心所法は、縁を託するに由って、生じ還れば、是の自心の所縁の慮を、名づけて縁縁と為す。四に増上縁とは、謂わく六根は能く境を照らして識を発すに、増上の力用有りて、諸法の生時に、障礙を生ぜざるを、増上縁と名づく。又「大明法数巻1」を見よ。<(丁)『大智度論巻2上注:四縁、巻32上注:四縁』参照
  四縁(しえん):四種の縁( four conditions )、梵語 catvaaraH pratyayaaH の訳、唯識に於いて有らゆる現象を生起する偶発的縁を四種の分類( In Yogâcāra, a division into four types, of the causal conditions that produce all phenomena. )、此の場合の縁とは、仏経に於いては、一般的に条件に近似の意味であると理解されている、更に原因の意味をも含み、広義では感覚をも包括し、有らゆる種類の関連する要因、及び条件をも含む( In this case, the logograph 緣, which is more commonly understood in Buddhism to mean something like 'condition' also includes the meaning of 'cause' (因) in a broad, all-inclusive sense, including all kinds of associated factors and conditions. )、此等四縁と六因との関係を説明するに当り、唯識と倶舎との間には差異がある( The explanation of the relationship of these four conditions to the 'six causes' 六因 differs between Yogâcāra 唯識 and Abhidharma-kośa 倶舍. )。即ち四縁とは、
  1. 因縁 hetu- pratyaya :結果を生起する直接的/内在的原因( direct internal causes that produce a result )
  2. 等無間縁 samanantara- pratyaya :同類にして直前の縁/条件( Similar and immediately antecedent conditions )、先行する瞬間の精神的作用は、継続する瞬間の精神作用を引き起こすが故に、前の瞬間の心と次の瞬間の心とには間隙がない( Since the prior instant of mind/mental functioning gives rise directly to the succeeding instant of mind, there is no gap in their leading into one another. )、次第縁ともいう。
  3. 所縁縁 aalambana- pratyaya :縁となるべき対象( Object as condition )、心が生起する為には、その対象が存在する必要がある、故に有らゆる対象は、心の因と成る( For the mind to arise, its object must be present, so every object becomes a cause for the mind. )
  4. 増上縁 adhipati- pratyaya :直接的動機を超えた原因( Causes beyond direct motivation )、原因として寄与する要因( i.e., contributory factors as causes. )、此のグループは間接的/周辺的な原因と前の三縁の外側に存する偶発事を含む比較的直接的な原因である( This group includes all kinds of indirect peripheral causes and contingences that lie outside of the three prior, relatively direct types of causation. )、此れは、但だ結果の生起に寄与する諸事のみならず、単に邪魔しない事を以って助成する要因をも含む( This includes not only those things which contribute to the production of results, but also factors which aid merely by their not serving to impede or hinder. )
初禪無漏定次第生六種定。一初禪淨二無漏。二禪三禪亦如是。 初禅の無漏定は、次第に六種の定を生ず。一には諸禅の浄、二には無漏にして、二禅、三禅も亦た是の如し。
『初禅』の、
『無漏浄』は、
『次第に(次第に縁ずるが故に)!』、
『六種の定』を、
『生じる!』、
一には、
『初禅』の、
『浄定』、
二には、
『初禅』の、
『無漏定』、
亦た、
『二禅、三禅』も、
『是の通りである!』。
  参考:『阿毘曇甘露味論巻2』:『第九解脫道中現在前修無漏道。未來修無漏。及修三界繫善根二十三種定。有味八淨八無漏七一切無漏七地無漏自然因。自地無漏。自地無漏三種因。相應因共有因自然因。第一有味定。第一有味定因非他因第一淨定。第一淨定因非他因。第一無漏定。次第起六種定。第一禪二種淨無漏。如是第二第三禪。無漏第二禪次第生八地。自地二上地四下地二。無漏第三禪第四禪空處定。次第生十上地四下地四自地二。無漏識處次第生九。上地三下地四自地二。無漏不用處定次第生七。上地一下地四自地二。第四無色定次第生六。下地四自地二。淨禪亦如是。有味次第生二。自地有味亦復淨。如是一切地諸禪定淨無漏。一切緣一切法緣。有味自地。自地有味緣亦復淨。緣有味不能無漏緣諸淨。無漏無色定不緣有漏地。有味無色定自地有味緣。及緣淨不能緣無漏。四等八除入三解脫八一切入。是諸法一切欲界緣。五通欲色界緣。一切薰禪無漏禪薰有漏禪。得四禪人先薰第四禪後薰下三禪。得五淨居報。不動法阿羅漢。得一切禪定。是能得頂禪。能住壽亦能捨壽。願智從心所願。盡知去來今諸法。多知未來法。四辯法辯辭辯應辯義辯。令他心不起恚。是謂無諍。四禪中攝。亦復欲界願智第四禪攝。亦復欲界法辯辭辯欲界攝。及梵天中餘二辯九地攝。欲界四禪四無色淨禪二時。得離欲時得生時。得有味禪二時。得退時得生時。得無漏禪二種得。若退時得若離欲得九地攝。無漏能斷結使。變化有十四心。色界十心欲界四心。初禪有二變化心。初禪一欲界一。二禪有三變化心。二禪一初禪一欲界一。三禪有四變化心。三禪一二禪一初禪一欲界一。四禪有五變化心。四禪一三禪一二禪一初禪一欲界一。何等禪成就。是果下地變化心。成就三禪地住。梵天識現在前能見聞。爾時成就。即滅爾時不成就』
二禪無漏定次第生八種定。自地淨無漏初禪淨無漏。三禪四禪亦如是。 二禅の無漏定は、次第に八種の定を生ず、自地の浄と無漏、初禅の浄と無漏、三禅、四禅も亦た是の如し。
『二禅』の、
『無漏定』は、
『次第に!』、
『八種の定』を、
『生じる!』、
則ち、
『自地(二禅)』の、
『浄定』と、
『無漏定』、
『初禅』の、
『浄定』と、
『無漏定』、
『三禅、四禅』も、
亦た、
『是の通りである!』。
三禪無漏定次第生十種。自地二下地四上地四。第四禪空處亦如是。 三禅の無漏定は、次第に十種を生ず。自地の二と下地の四と、上地の四なり。第四禅と空処も亦た是の如し。
『三禅』の、
『無漏定』は、
『次第に!』、
『十種の定』を、
『生じる!』、
則ち、
『自地(三禅)』の、
『二』と、
『下地(初、二禅)』の、
『四』と、
『上地(四禅、空処定)』の、
『四である!』。
『第四禅、空処』も、
亦た、
『是の通りである!』。
識處無漏定次第生九種。自地二下地四上地三。 識処の無漏定は次第に九種を生ず、自地の二、下地の四、上地の三なり。
『識処(識無辺処)』の、
『無漏定』は、
『次第に!』、
『九種の定』を、
『生じる!』、
則ち、
『自地』の、
『二』と、
『下地』の、
『四』と、
『上地』の、
『三である!』。
無所有處無漏定次第生七種。自地二下地四上地一。 無所有処の無漏定は、次第に七種を生ず、自地の二、下地の四、上地の一なり。
『無所有処』の、
『無漏定』は、
『次第に!』、
『七種の定』を、
『生じる!』、
則ち、
『自地』の、
『二』と、
『下地』の、
『四』と、
『上地』の、
『一(無漏を欠く)である!』。
非有想非無想處淨次第生六心。自地二下地四。諸淨地亦如是。又皆益自地味。 非有想非無想処の浄は、次第に六心を生ず、自地の二、下地の四なり。諸の浄地も、亦た是の如し。又皆、自地の味を益す。
『非有想非無想処』の、
『浄定』は、
『次第に!』、
『六種の心()』を、
『生じる!』、
則ち、
『自地』の、
『二』と、
『下地』の、
『四である!』。
諸の、
『浄地』も、
亦た、
『是の通りである!』。
又、
皆、
『自地の味定』を、
『益す(生じる)!』。
初禪味次第二種味淨。乃至非想非非想處味亦如是。 初禅の味の次第は二種、味、浄なり。乃至非想非非想処の味も亦た是の如し。
『初禅』の、
『味定』は、
『次第に!』、
『二種の定』を、
『生じる!』、
則ち、
『自地』の、
『味』と、
『浄である!』。
乃至、
『非想非非想処の味』も、
亦た、
『是の通りである!』。
淨無漏禪一切處緣味禪。緣自地中味。亦緣淨愛。無無漏緣故不緣無漏。 浄、無漏禅は一切処を縁じ、味禅は、自地中の味を縁じ、亦た浄愛を縁ずるも、無漏の縁無きが故に無漏を縁ぜず。
『浄、無漏禅』は、
『一切処』の、、
『浄、無漏禅』を、
『縁じ!』、
『味禅』は、
『自地』中の、
『味』を、
『縁じ!』、
亦た、
『浄愛(愛と相応する浄禅)』を、
『縁じる!』が、
『無漏の縁』の、
『無い!』が故に、
『無漏禅』を、
『縁じない!』。
淨無漏根本無色定。不緣下地有漏。 浄、無漏の根本無色定は、下地の有漏を縁ぜず。
『浄、無漏』の、
『根本無色定(四無色定)』は、
『下地』の、
『有漏』を、
『縁じない!』。
名因增上緣。通一切 名因と増上縁とは一切に通ず。
『名因(能作因)』と、
『増上縁』とは、
『一切に!』、
『通じる!』。
四無量心三背捨八勝處。八一切處皆緣欲界五神通。緣欲色界。餘各隨所緣。滅受想定無所緣。 四無量心、三背捨、八勝処、八一切処は、皆、欲界を縁じ、五神通は、欲、色界を縁じ、余は各の所縁に随い、滅受想定は所縁無し。
『四無量心、三背捨、八勝処、八一切処』は、
皆、
『欲界』を、
『縁じ!』、
『五神通』は、
『欲、色界』を、
『縁じ!』、
『その他』は、
各の、
『所縁』に、
『随う!』。
『滅受想定』は、
『所縁』が、
『無い!』。
  四無量心(しむりょうしん):慈悲喜捨の無量心。『大智度論巻4下注:四無量』参照。
  三背捨(さんはいしゃ):八背捨中の第一乃至第三背捨。即ち、第一に内有色想外色解脱、即ち内の色想を離れんが為に、外の諸色に於いて青瘀膿爛等の不浄の観をなすを云う。第二に内無色想外識解脱、已に内に色想を離れたるも、更に之を堅牢ならしめんが為に外色に於いて不浄観をなすを云う。第三に浄解脱身作証具足住、善根の盛満を試練せんが為に、初、二解脱の不浄観を棄背して、外の色境の浄相を修観し、而も煩悩を生ぜざるを云う。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治する八種の定を云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  八一切処(はちいっさいじょ):勝解作意により地水火風、青黄赤白、空識の十法が一切処に周遍して間隙なしと観ずる十一切処の中、空識を除いた八種の定。『大智度論巻11上注:十一切処』参照。
  五神通(ごじんつう):五種の神通。『大智度論巻16下注:五通』参照。
  滅受想定(めつじゅそうじょう):無所有処の染を離れたる者の所入の定。『大智度論巻17下注:滅尽定』参照。
一切四禪中有練法。以無漏練有漏故。得四禪心自在。能以無漏第四禪。練有漏第四禪。然後第三第二第一禪。皆以自地無漏練自地有漏。 一切の四禅中に、練法有り。無漏を以って有漏を練るが故に、四禅を得れば、心自在にして、能く無漏の第四禅を以って、有漏の第四禅を練り、然る後に第三、第二、第一禅を、皆自地の無漏を以って、自地の有漏を練る。
一切の、
『四禅』中には、
『練法』が、
『有り!』、
『無漏』を、
『用いて!』、
『有漏』を、
『練る!』が故に、
『四禅』を、
『得て!』、
『心』が、
『自在になれば!』、
『無漏の第四禅』を、
『用いて!』、
『有漏の第四禅』を、
『練ることができ!』、
その後は、
『第三禅』、
『第二禅』、
『第一禅』まで、
皆、
『自地の無漏』を、
『用いて!』、
『自地の有漏』を、
『練るのである!』。
問曰。何以名練禪。 問うて曰く、何を以ってか、練禅と名づくる。
問い、
何故、
『禅』を、
『練る!』と、   ―― 即ち、九次第定である ――
『呼ばれるのですか?』。
  練禅(れんぜん):謂わゆる九次第定なり。『大智度論巻17下注:九次第定、観練薫修』参照。
  九次第定(くしだいじょう):梵語 navaanupuuva- samaapattayaH の訳。次第に無間に修する九種の定の意。又無間禅、或いは練禅、錬禅とも名づく。一に初禅次第定、二に二禅次第定、三に三禅次第定、四に四禅次第定、五に空処次第定、六に識処次第定、七に無所有処次第定、八に非想非非想処次第定、九に滅受想次第定なり。「大智度論巻21」に、「九次第定とは、初禅の心より起りて次第に第二禅に入り、余心をして入ることを得しめず。是の如くして乃ち滅尽定に至る。問うて曰わく、余者も亦た次第あり、何を以って但だ九次第定と称するや。答えて曰わく、余の功徳は皆異心ありて間に生ず。故に次第に非ず。此の中深心にして智慧利なる行者は自ら其の心を試み、一禅心より起りて次に二禅に入り、異念をして入ることを得ざらしむ」と云える是れなり。又天台智顗は之を観禅に次いで修する無漏出世間の禅定となせり。「禅波羅蜜次第法門巻10」等に、先に定多智少の根本味禅を修し、又観多定少の観禅を修したるも、定観の両輪一強一弱にして行用未だ調錬せず。随って心柔軟を欠き、出入の中間に異念あるを免れず。然るに今進みて此の定を修するに、定観均等にして定深く智利なり。定深きが故に縁に在りて散ぜず。智利なるが故に進入捷疾にして礙なく、一禅より起ちて一禅に入るに、心心相次いで諸の間雑あることなしと云える即ち其の意なり。是の如く異念間雑せざるが故に、亦た之を無間禅と称し、又此の禅を以って諸の味禅を錬し、清浄ならしむること譬えば錬金の如くなるを以って錬禅とも称するなり。又「大乗義章巻13」、「法華経玄義巻4上」、「法界次第初門巻中之上」等に出づ。<(望)
  観練熏修(かんれんくんじゅう):観と練と熏と修との併称。出世間禅の種別にして、具に観禅、練禅、熏禅、修禅と云う。就中、観禅とは境相を観照するの意にして、即ち不浄等の境を観じて婬欲等を破するを云う。九想、八背捨、八勝処、十一切処の如き是れなり。練禅とは無漏禅を以って諸の有漏味禅を練し、其の滓穢を除きて皆清浄ならしむること、猶お練金の法の如くなるを云う。九次第定の如き是れなり。但し阿毘曇熏禅の法も亦た無漏を以って有漏を練すと雖も、彼れは唯だ四禅を練するのみにして無色界に及ばず。今は初禅より乃至非想悉く皆之を練し、一切諸禅をして清浄調柔にして功徳を増益せしむるを果とす。熏禅とは能く遍く諸禅を熏熟して皆悉く通利し、転変自在ならしむるを云う。獅子奮迅三昧の如き是れなり。修禅とは超入超出順逆自在なる禅にして、超越三昧の如き是れなり。此れ最頂の禅なるが故に又頂禅とも云うなり。「釈禅波羅蜜次第法門巻10」、「法華経玄義巻4上」、「観経疏伝通記糅鈔巻12」、「釈浄土二蔵義巻2」、「二蔵義見聞巻2」等に出づ。<(望)
答曰。諸聖人樂無漏定不樂有漏。離欲時淨有漏不樂。而自得今欲除其滓穢故。以無漏練之。譬如煉金去其穢無漏練有漏亦復如是。從無漏禪起入淨禪。如是數數。是名為煉。 答えて曰く、諸の聖人は、無漏の定を楽しんで、有漏を楽しまず、欲を離るる時の浄有漏を楽しまずざるも、自ら得。今、其の滓穢を除かんと欲するが故に、無漏を以って之を練る。譬えば金を煉りて、其の穢を去るが如し。無漏の有漏を煉るも、亦復た是の如く、無漏の禅より起ちて、浄禅に入り、是の如く数数(しばしば)すれば、是れを名づけて煉と為す。
答え、
諸の、
『聖人』は、
『無漏の定』を、
『楽しんで!』、
『有漏(浄定)』を、
『楽しまず!』、
『欲』を、
『離れる!』時の、
『浄有漏』も、
『楽しまない!』が、
而し、
『自然に!』、
『得る!』ので、
今、
其の、
『滓穢(残滓)』を、
『除却する!』為の故に、
『無漏』を、
『用いて!』、
『有漏』を、
『練るのである!』。
譬えば、
『金』を、
『錬()って!』、
其の、
『滓穢』を、
『除くように!』、
『無漏』を、
『用いて!』、
『有漏』を、
『練るのも!』、
亦た、
『是れと同じである!』。
『無漏の禅』より、
『起って!』、
『浄禅(有漏禅)』に、
『入り!』
是のように、
『数数(しばしば)!』、
『入る!』ので、
是れを、
『練る!』と、
『呼ぶのである!』。
  滓穢(しえ):汚れ穢れたかす。
復次諸禪中有頂禪。何以故名頂有二種。阿羅漢壞法不壞法。不壞法阿羅漢。於一切深禪定得自在。能起頂禪。得是頂禪能轉壽為富轉富為壽。 復た次ぎに、諸禅中に頂禅有り。何を以っての故に、頂と名づくる。二種の阿羅漢有り、壊法と不壊法となり。不壊法の阿羅漢は、一切の深き禅定に於いて、自在を得、能く頂禅を起つ。是の頂禅を得れば、能く寿を転じて富と為し、富を転じて寿と為す。
復た次ぎに、
諸の、
『禅』中には、
『頂( peak )の禅』が、
『有る!』。
何故、
『頂』と、
『呼ばれるのか?』。
『阿羅漢』には、
『二種』有り、
『壊法』と、
『不壊法である!』。
『不壊法の阿羅漢』は、
一切の、
『深い禅定』に、
『自在』を、
『得ている!』ので、
『頂禅』より、
『起つことができる!』が、
是の、
『頂禅』を得れば、
『寿』を、
『富』に、
『転じたり!』、
『富』を、
『寿』に、
『転じることができる!』。
  阿羅漢(あらかん):梵語 arhat 、巴梨語 arahant 、又阿廬漢、阿羅訶、阿羅呵、阿囉呵、阿黎呵、或いは遏囉曷帝に作り、応、応供、応真と訳す。声聞四果の一。又如来十号の一。一切の煩悩を断尽して尽智を得、世人の供養を受くるに適当なる聖者を云う。「倶舎論巻24」に、「不還の者は進んで色界及び無色界の修所断の惑を断ず。初定の一品を断ずるよりを初となし、有頂の八品を断ずるに至るを後となし、応に知るべし、転じて阿羅漢向と名づく。即ち此の所説の阿羅漢向の中に有頂の惑を断ずる第九の無間道を亦た説いて名づけて金剛喩定となす、一切の随眠皆能く破するが故なり。先に已に破するが故に一切を破せざるも、実には能く一切を破する功能あり。諸の能断惑の無間道の中、此の定相応は最も勝たるが故なり。(中略)此の定は既に能く有頂地の第九品の惑を断じ、能く此の惑尽の得と俱行する尽智を引いて起らしむ。金剛喩定は是れ断惑中の最後の無間道にして、所生の尽智は是れ断惑中の最後の解脱道なり。此の解脱道に由りて諸漏尽の得と最初に俱生するが故に尽智と名づく。是の如く尽智已生の時に至れば便ち無学の阿羅漢果を成ず。既に無学応果の法を得るが故に、別果を得んが為に応に修学すべき所のもの此には有ることなし、故に無学の名を得」と云える是れなり。是れ阿羅漢向に於いて色無色界の修所断の惑を断じ、最後に金剛喩定に入りて有頂地の第九品の惑を断尽する時、尽智生じて即ち無学の阿羅漢果を成ずることを説けるものなり。但し阿羅漢は独り声聞に限らず、独覚及び仏にも共通する称号にして、即ち如来十号の一に数えらる。「成唯識論巻3」に、「阿羅漢とは通じて三乗の無学果位を摂す」と云える是れなり。阿羅漢の語義に関しては、「大毘婆沙論巻94」に、「世間の勝供養を受くるに応ずるが故に阿羅漢と名づく。謂わく世に清浄命縁の阿羅漢に非ざる所応受者あることなければなり。復た次ぎに阿羅とは謂わく一切の煩悩なり、漢を能害と名づく。利慧の刀を用って煩悩の賊を害して余なからしむ、故に阿羅漢と名づく。復た次ぎに羅漢を生と名づく、阿は是れ無の義なり。無生を以っての故に阿羅漢と名づく。彼れ諸界諸趣諸生の生死の法の中に於いて復た生ぜざるが故なり。復た次ぎに漢は一切の悪不善法に名づく、阿羅とは是れ遠離の義なり。諸悪不善法を遠離するが故に阿羅漢と名づく」と云い、又「大智度論巻2」にも阿羅呵に殺賊、不生、応受供養の三義ありと云えり。按ずるにarhanなる語は、「受くるに足る」、「何々する価あり」、若しくは「何事をも作し得る」の義なる五根 arh に at を附せる arhat(為他言現在分詞)の単数主格にして、応供の義は之に基づきて解釈せるものなるが如し。然るに前引「倶舎論巻24」の連文に、「此れ唯他の事(旧倶舎論巻18には他の利益の事)を作すに応ずるが故に、諸の有染の者の所応供なるが故に、此の義に依りて阿羅漢の名を立つ」と云い、又「大乗義章巻20末」に四義を以って阿羅呵を解し、一に仏は一切の悪法を断ずるに応ずるが故に応と名づけ、二に如来は寂滅涅槃を証するに応ずるが故に応と名づけ、三に如来は一切の衆生を化するに応ずるが故に応と名づけ、四に如来は諸過悉く已に断尽し、福田清浄にして物の供を受くるに応ずるが故に応供と名づくと云い、「成唯識論述記巻3末」にも、「阿羅漢とは此に正しく応と云う。応とは契当の義なり。煩悩を断ずるに応じ、供を受くるに応ずるが故に、復た分段の生を受けざるに応ずるが故なり。若し但だ応と言わば即ち三義に通ず、故に唯だ応と言いて応供と言わず。若し供の字を著けば唯一義を得て二義を失す」と云えり。此等は皆阿羅漢を以って単に応の義とし、応供は唯其の中の一事を挙げたるに過ぎずとなすの意なり。但し婆沙論等に阿羅漢に殺賊、又は不生等の義ありとなせるは、恐らくプラクリット語に就いて解釈を下したるが為なるべく、即ちプラクリットに於いては r なる音が分解してriとなるは極めて普通の変化なれば、今 arhan は転じて arihan となるを得べく、而して若し arihan なる語を「賊」若しくは「敵」の義なる ari と「斬る」の義なる han との二語に分解すれば殺賊の義となる。又 arhat を aruhat として解せば aruhat は「生ず」の義なる語根 ruh に打消しの a を附したるものなるが故に即ち不生の義となるを得るなり。又「大般涅槃経巻18」、「善見律毘婆沙巻4」、「雑阿毘曇心論巻2」、「法華義記巻1」、「翻梵語巻1」、「法華経文句巻1上」、「法華義疏巻1」、「阿弥陀経疏(窺基)」、「大日経疏巻1」、「玄応音義巻8」、「慧琳音義巻25至27」、「希麟音義巻4」、「翻訳名義集巻1、2」等に出づ。<(望)『大智度論巻3下六種阿羅漢』参照。
復有願智四辯無諍三昧。 復た、願智、四辯、無諍三昧有り。
復た、
『不壊法の阿羅漢』には、
『願智、四辯、無諍三昧』が、
『有る!』。
  願智(がんち):梵語 praNidhi- jJaana の訳。願の如く了ずる智の意。即ち不動羅漢が先づ誠願を発し、辺際第四静慮を加行として其れより妙智を引起し、願の如く了ずるを云う。「倶舎論巻27」に、「諸有の此の願智を起さんと欲する時、先づ誠願を発して彼の境を知らんことを求め、即ち辺際第四静慮に入りて以って加行と為し、此の無間より所入の定の勢力の勝劣に随って、先の願力の如く正智を引き起こして、所求の境に於いて皆実の如く知る」と云える是れなり。北俱盧洲を除いて余の三洲の人の身に依止し、唯だ不動種性の羅漢の能く起す所にして、世俗智を以って其の自性と為し、第四静慮を其の所依となすなり。但し此等は無諍に同じきも、無諍は限りて唯未生の欲界の有事の惑を縁ずるに対し、今は遍く一切の三界三世三性等の法を其の所縁と為すを異とす。又「成実論巻16」には之を五智の一とし、「諸法の中に於いて障礙することなき智を名づけて願智となす」と云えり。又「大毘婆沙論巻178、179」、「阿毘達磨順正理論巻75」、「倶舎論光記巻27」等に出づ。<(望)
  四辯(しべん):又四無礙解、四無礙智とも称す。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  四無礙智(しむげち):又四無礙解とも称す。『大智度論巻17下注:四無礙解』参照。
  四無礙解(しむげげ):梵語 catasraH pratisaMvidaH の訳。又四無礙辯、四無礙智と云い、略して四無礙、四解、或いは四辯とも称す。四種の無礙自在なる解智を云う。一に法無礙解 dharma= pratisaMvid 、二に義無解礙 artha- p. 、三に詞無解礙 nirukti- p. 、四に楽説無解礙 pratibhaana- p. なり。「品類足論巻5」に、「四無礙解あり、謂わく法無礙解、義無解礙、詞無解礙、辯無礙解なり」と云い、「倶舎論巻27」に、「諸の無解礙は総説するに四あり、一に法無解礙、二に義無解礙、三に詞無解礙、四に辯無礙解なり。此の四は総じて説かば、其の次第の如く名と義と言と及び説と、道とを縁ずる不可退転の智を以って自性と為す。謂わく無退智が能詮の法の名句文身を縁ずるを立てて第一となし、所詮の義を縁ずるを立てて第二と為し、方言の詞を縁ずるを立てて第三と為し、正理に応ずる無滞礙の説を縁じ、及び自在の定と慧との二道を縁ずるを立てて第四と為す」と云える是れなり。此の中、法無解礙とは又法無礙智、法無礙辯と云い、或いは単に法解、法無礙、法辯とも称す。即ち能詮の法の名句、及び文身に於いて能く領悟し、決断無礙なるを云う。義無解礙とは又義無礙智、義無礙辯と云い、或いは単に義解、義無礙、義辯とも名づく。法の所詮の義理に於いて能く領悟し、決断無礙なるを云う。詞無解礙とは又詞無礙智、四無礙辯、辞無礙智、辞無礙辯と云い、略して詞解、詞無礙、辞無礙、辞辯、或いは詞辯とも称す。諸方域の種種の言詞に於いて能く通達して、無礙自在なるを云う。楽説無解礙とは又楽説無礙智、楽説無礙辯、楽説無礙、辯無礙解、辯無礙智、辯無礙辯、或いは応辯とも云う。文義に於いて能く正しく宣揚する無滞の言詞を辯と云い、及び任運に現起する定慧二道の自在の功能を亦た辯と名づく。即ち辯及び其の因たる道を了する智を辯無礙解と称するなり。要するに能詮の名句及び所詮の義理に於いて能く通達無礙なるを法無礙義無礙とし、諸種の方言に通達して自在無礙なるを詞無礙とし、能く正しく正理に順じて滞礙する所なく辯説するを辯無礙となすなり。「大毘婆沙論巻180」に、四無礙解の加行に関し、有説は法無解礙は数論を習い、義無解礙は仏語を習い、四無礙解は声論を習い、辯無礙解は因論を習うを以って加行と為すと云い、有説は法詞の二無解礙は外論を習い、義辯の二無解礙は内論を習うを以って加行となすと云い、如是説者は四無礙解は皆仏語を習うを以って加行と為すと云えり。又四無礙解の次第に関し、同論に多説を出し、有説は義を知らんが為の故に先づ義無礙を起す。已に義を知ると雖も而も名等に於いて未だ安布を知らず、故に次に法無礙を起す。名等に於いて已に能く安布すと雖も、而も言詞に於いて未だ訓釈すること能わず、是の故に次に詞無解礙を発す、言詞既に能く訓釈すと雖も、而も未だ滞ることなく理に応じて説くこと能わず、是の故に後に辯無礙解を起すと云い、有説は名等の次第安布を知らんが為に先づ法無解礙を起す。名等の次第安布を知ると雖も、而も未だ所詮の義を了せず、是の故に次に義無解礙を起す(後の二は前説の如し)と云い、有説は先づ詞を起し、次に法を起し、次に義を起し、後に辯を起す。是れ先づ世俗の言詞に了達し、次に詞所依の名等を知り、次に名等所依の義趣を知り、三事已りて方に能く無滞に理に応じて説くべきが故なりと云えり。又「成唯識論巻9」には、四無礙解は初地已上に是れを分得し、第九地に入る時、陀羅尼と辯才とに於ける二愚及び麁重を永断して以って四無礙解を得し、仏果に至りて方に乃ち一切円成すとなせり。又「増一阿含経巻21」、「大般若経巻578」、「南本涅槃経巻15」、「舎利弗阿毘曇論巻9、12」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「大智度論巻25、50」、「成実論巻16」、「菩薩善戒経巻6」、「菩薩地持経巻7」、「瑜伽師地論巻45」、「十地経論巻11」、「順正理論巻76」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻37」、「大乗阿毘達磨雑集論巻14」、「大乗義章巻11末」、「倶舎論光記巻27」、「成唯識論述記巻10本」、「法華経玄賛巻3」等に出づ。<(望)
  無諍三昧(むじょうさんまい):空理に住するが故に他と無諍なる禅定を云う。「金剛般若経」に、「仏の説きたまわく、我れ無諍三昧を得て、人中の最も第一と為り、是れ離欲の阿羅漢なりと」と云い、「同略疏」中には、「無諍三昧とは、其の解空を以ってすれば則ち彼我を倶に忘れて、能く衆生を悩ませず、亦た能く衆生をして煩悩を起さしめざるが故なり」と云い、「大智度論巻11」に、「舎利弗は仏弟子中の智慧第一なり。須菩提は弟子の中に於いて無諍三昧を得ること最も第一なり。無諍三昧の相は、常に衆生を観じて心をして悩ましめず、多く憐愍を行ず」と云い、「註維摩経巻3」に、「肇の曰わく、善吉は五百弟子の中の解空第一にして、常に善く法相に順じ、無違無諍なり。内には既に無諍、外にも亦た能く群心に順じて、諍訟無からしむ。此の定を得るを、無諍三昧と名づく」と云える是れなり。南岳の著に「無諍三昧法門二巻」有り。<(丁)
願智者。願欲知三世事。隨所願則知。此願智二處攝。欲界第四禪 願智とは、願うて三世の事を知らんと欲するに、所願に随いて、則ち知る。此の願智は二処に摂す。欲界と第四禅となり。
『願智』とは、――
『願って!』、
『三世』の、
『事』を、
『知ろうとすれば!』、
『願う!』所に、
『随って!』、
則ち、
『知ることになる!』。
此の、
『願智』は、
『二処』に、
『摂する( treat )!』。
謂わゆる、
『欲界と!』、
『第四禅である!』。
四辯者。法辯辭辯二處攝。欲界初禪。餘二辯九地攝。欲界四禪四無色定。 四辯とは、法辯、辞辯は二処に摂す、欲界と初禅なり。余の二辯は、九地に摂す、欲界、四禅、四無色定なり。
『四辯(四無礙智)』は、
『法辯、辞辯』は、
『二処』に、
『摂する!』、
則ち、
『欲界、初禅である!』。
『他の二辯』は、
『九地』に、
『摂する!』、
則ち、
『欲界、四禅、四無色定である!』。
  四辯(しべん):妨げられない理解と表現に関する四種の能力( four abilities of unhindered understanding and expression )『大智度論巻17下注:四無礙辯』参照。
  四無礙辯(しむげべん):妨げられない理解と表現に関する四種の能力( four abilities of unhindered understanding and expression )、梵語 catuH pratisaMvid の訳、障礙なき表現に関する四種の能力/四種の修辞的能力/又勝れた洞察力に関する四種の能力とも訳される( Four abilities of unhindered articulation; four rhetorical abilities; also interpreted as four abilities of superb discernment. )、又四無礙智、四無礙解、四無礙等に作る。即ち、
  1. 法無礙 dharma- pratisaMvid :教授するに於いて過誤することなし/法に関して障げられることなし( no mistake in teaching; to be unobstructed with regard to the Dharma )
  2. 義無礙 artha- pratisaMvid :法を教授するに於いて、内容と意味に関して障げられることなし( to be unobstructed with regard to the content and meaning of the Dharma teachings )
  3. 辞無礙 nirkuti- pratisaMvid :障げられることなき演説/即ち有らゆる言語を理解すること( 'unhindered speech,' that is, the understanding of all languages )
  4. 楽説無礙 pratibhaana pratisaMvid :説法に関して障礙なく容易なこと、即ち有らゆる衆生を救済する努力に於いて、上記三種が自在であること、( 'unhindered ease in explanation' which is the free use of the above three in the effort of saving all sentient beings. )
無諍三昧者。令他心不起諍。五處攝。欲界及四禪。 無諍三昧とは、他心をして、諍を起さざらしめ、五処に摂す、欲界及び四禅なり。
『無諍三昧』とは、
『他の心』に、
『諍』を、
『起させないことであり!』、
『欲界、四禅』の、
『五処』に、
『摂する!』。
問曰。得諸禪更有餘法耶。 問うて曰く、諸の禅を得るに、更に余法有りや。
問い、
諸の、
『禅』を、
『得るには!』、
更に、
『他の法』が、
『有るのですか?』。
答曰。味定生亦得退亦得。淨禪生時得。離欲時得無漏。離欲時得。退時得 答えて曰く、味定の生ずるに亦た得、退するに亦た得。浄禅の生ずる時得、欲を離るる時得、無漏にして欲を離るる時得、退する時得。
答え、
『味定』の、
『生じる!』時にも、
『得て!』、
『退く!』時にも、
『得る!』。
『浄禅』の、
『生じる!』時にも、
『得!』、
『欲』を、
『離れる!』時にも、
『得!』、
『無漏の欲』を、
『離れる!』時にも、
『得て!』、
『退く!』時にも、
『得る!』。
九地無漏定。四禪三無色定未到地禪中間能斷結使。未到地禪中間捨根相應。 九地の無漏定なる四禅、三無色定、未到地、禅の中間は、能く結使を断じ、未到地と禅の中間は捨根相応す。
『九地の無漏定』の、
『四禅』、
『三無色定』、
『未到地』、
『禅の中間(初二、二三、三四禅の中間)』は、
『結使』を、
『断つことができ!』、
『未到地』と、
『禅の中間』は、
『捨根(離欲の性)』が、
『相応(付属)している!』。
  捨根(しゃこん):また捨受、不苦不楽受とも称す。五受の一。又二十二根の一。『大智度論巻17下注:五受、大智度論巻17下注:二十二根』参照。
  五受(ごじゅ):梵語 paJca vedanaaH の訳。五種の覚受の意。随触を領納覚受するに五種の別あるを云う。一に苦受 duHkha- vedanaa 、二に楽受 sukha- v. 、三に憂受 daurmanasya- v. 、四に喜受 saumanasya- v. 、五に捨受 upekSaa- v. なり。又此の五受は衆生をして雑染を感ぜしむるに増上の力用あるが故に立てて五根と為し、又五受根とも称す。謂わゆる苦根、楽根、憂根、喜根、捨根なり。「倶舎論巻3」に、「身は謂わく身受なり、身に依りて起るが故なり。即ち五識相応の受なり。不悦と言うは是れ損悩の義なり、身受の内に於いて能く損悩するものを名づけて苦根と為す。言う所の悦とは是れ摂益の義なり、即ち身受の内に能く摂益するものを名づけて楽根と為す。及び第三定の心相応受の能く摂益するものを亦た楽根と名づく。第三定の中には身受あることなし、五識なきが故に心悦を楽と名づく。即ち此の心悦は第三定を除いて下の三地に於いては名づけて喜根と為す。第三静慮は心悦安静にして喜貪を離るるが故に唯楽根と名づく。下三地の中には心悦麁動にして喜貪あるが故に、唯喜根と名づく。意識と相応して能く損悩する受は是れ心不悦なれば、名づけて憂根と曰う。中は謂わく非悦非不悦なり、即ち是れ不苦不楽受なり。此の処中の受を名づけて捨根と為す」と云える是れなり。是れ即ち五識相応の身不悦の受を苦受、意識相応の心不悦の受を憂受、五識相応の身悦及び第三静慮の意識相応の心悦を楽受、初二禅、及び欲界の意識相応の心悦を喜受、身心に於いて悦不悦に非ざるを捨受と名づくることを明せるなり。又「大集法門経巻下」、「阿毘達磨発智論巻14」、「大毘婆沙論巻142」、「成実論巻6」、「順正理論巻9」、「成唯識論巻5」、「大明三蔵法数巻21」等に出づ。<(望)
  二十二根(にじゅうにこん):梵語 dvaaviMzatindriyaaNi の訳。二十二種の根の意。即ち事に於いて特に増上の義ある二十二種の法を云う。根は増上の義なり。一に眼根 cakSur- indriya 、二に耳根 zrotrendriya 、三に鼻根 ghraaNendriya 、四に舌根 jihvendriya 、五に身根 kaayendriya 、六に意根 mana- indriya 、七に女根 strindriya 、八に男根 puruSendriya 、九に命根 jiivitendriya 、十に楽根 sukhendriya 、十一に苦根 duHkhendriya 、十二に喜根 saumanasyendriya 、十三に憂根 daurmanasyendriya 、十四に捨根 upekSendriya 、十五に信根 zraddhendriya 、十六に勤根 viiryendriya 、十七に念根 smRtindriya 、十八に定根 samaadhindriya 、十九に慧根 prajJendriya 、二十に未知当知根 anaajJaatam- aajJaasyaamindriya 、二十一に已知根 aajJendriya 、二十二に具知根 aajJaataavindriya なり。「倶舎論巻3」に、「伝説すらく、五は四に於いてし、四根は二種に於いてし、五と八とは染と浄との中に各別に増上たり」と云える是れなり。此の中、五は四に於いてすとは、眼耳鼻舌身の五根は各身を荘厳し、身を導養し、識等を生じ、及び不共の事の四事に於いて能く増上となるが故に立てて根となすことを明し、四根は二種に於いてすとは、女男の二根は諸の有情をして女男の類別ならしめ、又形相言音乳房等を別ならしむることに於いて増上の義あり、命根は衆用分に於いて能く続し、及び能く持するに於いて増上の義あり、意根は能く後有を続し、及び自在随行に於いて増上の義あるが故に、共に立てて根となすことを明し、五と八とは染と浄との中に各別に増上たりと云うは、楽苦喜憂捨の五受は貪等の随眠を随増せしむるものにして、染に於いて増上の義あり、信勤念定慧の五根、及び未知当知、已知、具知の三無漏根は、諸の清浄法を生長せしむるものにして、即ち浄に於いて増上の義あるが故に、共に立てて根となすことを明すの意なり。蓋し此の二十二種の外、余の法を立てて根と為さざるに関し、前引「倶舎論」の連文に、「心の所依と此れが別と、此れが住と、此れが雑染と、此れが資糧と、此れが浄となり。此の量に由りて根を立つ」と云えり。此の中、心の所依とは眼乃至意の六根にして、即ち此の内の六処は六識の所依となり、有情の根本なるが故なり。此れが別とは、女男二根は有情の性をして差別ならしむる本なるを云い、此れが住とは、命根は有情をして一期住せしむるを云い、此れが雑染とは、楽等の五受根は、雑染を成ずる本なるを云い、此れが資糧とは、信等の五根は無漏浄法の資糧なるを云い、此れが浄とは、未知当知等の三無漏根は、無漏清浄を成ずる本なるを云うなり。即ち二十二根は此の定量に由りて建立するものなるが故に、此の他に余の無明等を立てて根となさずとなすの意なり。又有余師は別に流転還滅の所依、生住及び受用の別に約して二十二根を建立すとなせり。「倶舎論」の連文に、「或るの言は此れは是れ余師の意にして、流転と還滅とに約して、二十二根を立つることを顕す。流転の所依は謂わく眼等の六なり。生は女と男とに由る。彼れより生ずるが故なり。住は命根に由る、彼れに杖りて住するが故なり。受用は五受に由る、彼れに因りて領納するが故なり。此れに約して前の十四根を建立す。還滅の位の中にも即ち此の四義の類別なるに約するが故に後の八根を立つ。還滅の所依は謂わく信等の五なり、三無漏に於いて初に由るが故に生じ、次に由るが故に住し、後に由りて受用す。根の量は此れに由りて減なく増なし、即ち此の縁に由りて経に次第を立つ」と云えり。以って其の義旨を見るべし。又此の中、男女二根は身根の一分、三無漏根は意根等の所摂なるが故に、二十二根は其の体唯十七あり。「大毘婆沙論巻142」に、「対法者言わく、名は二十二なるも実体は十七なり。中に於いて男女と三無漏根は別体なきが故なり。問う、何故に男女根は別体なきや。答う、此の二は即ち是れ身根の摂なるが故なり。説くが如き女根とは云何、謂わく身根の少分なり。男根とは云何、謂わく身根の少分なりと。問う、何故に三無漏根も亦た別体なきや。答う、此の三は即ち是れ九根の摂なるが故なり。九とは謂わく意根と楽喜捨根と信等の五根となり。此の九根は有る位には未知当知根と名づけ、有る位には已知根と名づけ、有る位には具知根と名づく。即ち見道位、修道位、無学道位なり。次の如く応に知るべし」と云える其の説なり。是れ三無漏根は意根等の九根を以って体となし、見道位には未知当知根、修道位には已知根、無学道位には具知根と称せらるることを明せるなり。又二十二根の次第は経中には前記の如く之を列ぬるも、「発智論巻14」、「品類足論巻6」等には命根の次に意根を配し、「舎利弗阿毘曇論巻5」には五受根の次に之を列せり。是れ有所縁無所縁の次第に由れるものなり。又「決定義経」、「阿毘曇八揵度論巻22」、「品類足論巻15」、「大毘婆沙論巻71」、「順正理論巻9」、「成実論巻2四諦品」、「成唯識論巻7」、「倶舎論光記巻3」、「成唯識論述記巻7末」等に出づ。<(望)
若人成就禪下地變化心亦成就。如初禪成就。有二種變化心。一者初禪。二者欲界。二禪三種三禪四種四禪五種。 若し人、禅を成就すれば、下地の変化心も亦た成就す。初禅成就すれば、二種の変化心有るが如し。一には初禅、二には欲界なり。二禅には三種、三禅には四種、四禅には五種なり。
若し、
『人』が、
『禅』を、
『成就すれば!』、
『下地』の、
『変化心』も、
『成就することになる!』。
例えば、
『初禅』が、
『成就すれば!』、
『二種の変化心』が、
『有る!』、
謂わゆる、
一には、
『初禅』、
二には、
『欲界である!』。
『二禅』に、
『三種』、
『三禅』に、
『四種』、
『四禅』には、
『五種の変化心』が、
『有る!』。
  変化心(へんげしん):下地の衆生を済度する為、下地の心に変化する能力。『大智度論巻6上注:十四変化心』参照。
  参考:『阿毘曇甘露味論巻2』:『世尊弟子若離欲愛。依未到禪地現在前修有漏道。未來修有漏無漏道。第九解脫道現在修有漏道。未來修有漏無漏。初禪及修無漏未到禪。若依未到禪現在修無漏道。未來修有漏無漏道。第九解脫道中現在前修無漏道。未來修有漏無漏道。初禪世尊弟子若離初禪愛欲。依未到二禪地現在前修有漏道。未來修有漏無漏道。第九解脫道中現在前修有漏道。未來修無漏。三種初禪及修淨無漏第二禪。若離初禪愛。依無漏道趣二禪。自地修無漏。他地修有漏無漏道。第九解脫道中現在前修無漏道。未來修無漏。三種初禪及淨無漏第二禪。乃至不用處。離欲亦復如是。有頂中離欲時。修一切無漏禪定。第九解脫道中現在前修無漏道。未來修無漏。及修三界繫善根二十三種定。有味八淨八無漏七一切無漏七地無漏自然因。自地無漏。自地無漏三種因。相應因共有因自然因。第一有味定。第一有味定因非他因第一淨定。第一淨定因非他因。第一無漏定。次第起六種定。第一禪二種淨無漏。如是第二第三禪。無漏第二禪次第生八地。自地二上地四下地二。無漏第三禪第四禪空處定。次第生十上地四下地四自地二。無漏識處次第生九。上地三下地四自地二。無漏不用處定次第生七。上地一下地四自地二。第四無色定次第生六。下地四自地二。淨禪亦如是。有味次第生二。自地有味亦復淨。如是一切地諸禪定淨無漏。一切緣一切法緣。有味自地。自地有味緣亦復淨。緣有味不能無漏緣諸淨。無漏無色定不緣有漏地。有味無色定自地有味緣。及緣淨不能緣無漏。四等八除入三解脫八一切入。是諸法一切欲界緣。五通欲色界緣。一切薰禪無漏禪薰有漏禪。得四禪人先薰第四禪後薰下三禪。得五淨居報。不動法阿羅漢。得一切禪定。是能得頂禪。能住壽亦能捨壽。願智從心所願。盡知去來今諸法。多知未來法。四辯法辯辭辯應辯義辯。令他心不起恚。是謂無諍。四禪中攝。亦復欲界願智第四禪攝。亦復欲界法辯辭辯欲界攝。及梵天中餘二辯九地攝。欲界四禪四無色淨禪二時。得離欲時得生時。得有味禪二時。得退時得生時。得無漏禪二種得。若退時得若離欲得九地攝。無漏能斷結使。變化有十四心。色界十心欲界四心。初禪有二變化心。初禪一欲界一。二禪有三變化心。二禪一初禪一欲界一。三禪有四變化心。三禪一二禪一初禪一欲界一。四禪有五變化心。四禪一三禪一二禪一初禪一欲界一。何等禪成就。是果下地變化心。成就三禪地住。』
若二禪三禪四禪中。欲聞見觸時皆用梵世識。識滅時則止。 若し二禅、三禅、四禅中に聞、見、触せんと欲する時、皆梵世の識を用い、識滅する時には則ち止む。
若し、
『二禅、三禅、四禅』中に、
『聞きたい!』、
『見たい!』、
『触れたい!』と、
『思った!』時には、
皆、
『梵世』の、
『識』を、
『用いる!』が、
『識』の、
『滅する!』時には、
『止まることになる!』。
  梵世(ぼんせ):又梵世界とも称す。色界諸天を総じて、梵世界と云い、婬欲を離れたる梵天の住処なり。「大智度論巻10」に、「梵とは離欲清浄と名づく。今梵世界と言えば、已に総じて色界諸天を説くなり」と云えるが如し。<(丁)
  参考:『雑阿毘曇心論巻7』:『問如所說上地無身識。若上地欲眼見耳聞身觸時。彼云何見聞觸耶。答梵世識現在前。問上地何故無此識耶。答前已說。上地覺觀非分故無此三識身。上地欲見欲聞欲觸。初禪識現在前則見聞觸。非欲界非修果故。問何時成就。答 隨識現在前  上地則成就  捨則不成就  心力羸劣故  乃至此識現在前。若眼識若耳識若身識。爾時成就。心羸劣不隱沒無記故。是故剎那成就。從彼起已不隨轉。』
四無量意五神通八背捨八勝處十一切入九次第定九相十想三三昧三解脫門三無漏根三十七品。如是等諸功德。皆禪波羅蜜中生。是中應廣說。 四無量意、五神通、八背捨、八勝処、十一切入、九次第定、九相、十想、三三昧、三解脱門、三無漏根、三十七品、是の如き等の、諸の功徳は、皆禅波羅蜜中より生ず。是の中に応に広説すべし。
『四無量意(四無量心)』、
『五神通』、
『八背捨』、
『八勝処』、
『十一切入』、
『九次第定』、
『九相』、
『十想』、
『三三昧』、
『三解脱門』、
『三無漏根』、
『三十七品』、
是れ等のような、
諸の、
『功徳』は、
皆、
『禅波羅蜜』中に、
『生じる!』が、
是の中にも、
『広く!』、
『説かなければならない!』。
  四無量意(しむりょうい):又、四無量、四無量心とも称す。無量の慈悲喜捨心なり。『大智度論巻8下注:四無量』参照。
  五神通(ごじんつう):五種の神通。『大智度論巻16下注:五神通』参照。
  八背捨(はっぱいしゃ):又八解脱とも称す。色貪等の心を棄背する八種の定力。『大智度論巻16下注:八解脱』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):欲界の色等を観じて所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。『大智度論巻16下注:八勝処』参照。
  十一切入
(じゅういっさいにゅう):又十遍処とも云う。勝解作意に依り、色等の十法が各一切処に周遍して間隙なしと観ずるを云う。『大智度論巻11上注:十徧処』参照。
  九次第定(くしだいじょう):次第に無間に修する九種の定の意。『大智度論巻17下注:九次第定』参照。
  九相(くそう):又九想、九相観、九相観とも称し、又不浄観とも云う。九種の不浄を観察するの意。『大智度論巻17下注:九想観』参照。
  十想(じっそう):十種の観想の意。又十思想とも名づく。一に無常想、二に苦想、三に無我想、四に食不浄想、五に一切世間不可楽想、六に死想、七に不浄想、八に断想、九に離欲想、十に尽想なり。「広義法門経」に、「若し聖弟子、自ら此の如く道理に依りて正勤を起すに十種相応法の修行あり。何等をか十と為す、一に不浄想、二に無常想、三に於無常観於苦想、四に於苦法中観無我想、五に厭悪食想、六に於一切世間無安楽想、七に生光明想、八に観離欲想、九に観滅離想、十に観死想なり」と云い、「大品般若経巻1序品」に、「十想とは無常想、苦想、無我想、食不浄想、一切世間不可楽想、死想、不浄想、断想、離欲想、尽想なり」と云える是れなり。此の中、初に無常想とは又非常思想とも名づく。即ち一切有為法は皆新新生滅し、無常にして変壊すと観ずるを云い、二に苦想とは又苦思想とも名づく。即ち一切有為法は無常にして、而も常に三苦八苦等と合するものなりと観ずるを云い、三に無我想とは又非身思想とも名づく。即ち一切諸法は苦にして、而も自在ならずと観ずるを云い、四に食不浄想とは又穢食思想、厭悪食想、厭離食想、或いは厭食想とも名づく。即ち諸の世間の飲食は皆不浄の因縁より生じ、悉く不浄なりと観ずるを云い、五に一切世間不可楽想とは又一切天下不欲楽思想、於一切世間無安楽想とも名づく。即ち一切の世間には唯過悪のみあり、楽しむべきものなしと観ずるを云い、六に死想とは又念死思想とも名づく。即ち死の相を観ずるを云い、七に不浄想とは又念不浄思想、或いは多過罪想とも名づく。即ち身内に三十六物、身外に九孔あり、悪露常に流れて不浄なりと観ずるを云い、八に断想とは又不明思想、光明想、無愛想とも名づく。即ち涅槃は煩悩を離れて清浄なり、当に結使を断じて之を証すべしと観想するを云い、九に離欲想とは又却意思想、或いは離想とも名づく。即ち涅槃は生死を離れて清浄なり、当に生死の業を離れて之を証すべしと観ずるを云い、十に尽想とは又滅思想、滅離想、或いは滅想とも名づく。即ち涅槃は結使及び生死尽きて清浄なり、永く結使及び生死の業を尽くして之を証すべしと観ずるを云う。九相観との同異に関しては、「大智度論巻21」に多説を出し、「九相は未だ禅定を得ずして、婬欲の為に覆わるるを遮せんが為の故なり。十想は能く婬欲等の三毒を除滅す。九相は賊を縛するが如く、十想は斬殺するが如し。九相は初学の為にし、十想は成就の為にす。復た次ぎに是の十想の中の小浄想に九相を摂す。有人言わく、十想の中の不浄想、食不浄想、世間不可楽想に九相を摂すと。又有人言わく、十想と九相は同じく離欲の為にし、倶に涅槃の為にす。所以は何ん、初に死相動転言語し、須臾の間に忽然として已に死し、身体膨脹し、爛壊分散して各各変異するは、是れ則ち無常なり。若し此の法に著することあらば、無常壊の時是れ即ち苦なり。若し無常苦にして自在を得ることなければ、是れ則ち無我なり。不浄無常苦無我ならば則ち不可楽なり。身を観ずること是の如し。食は口に在りと雖も脳涎流下し、唾と和合して味を成ず、而も咽と吐と異なく、下りて腹中に入る。即ち是れ食不浄想なり。此の九相を以って身は無常変異して念念皆滅すと観ずるは、即ち是れ死想なり。是の九相を以って世間の楽を厭い、煩悩断ずれば則ち安隠寂滅なりと知るは、即ち是れ断相なり。是の九相を以って諸の煩悩を遮するは即ち是れ離想なり。是の九相を以って世間を厭うが故に、此の五衆滅して更に復た生ぜず、是の処安隠なりと知るは即ち是れ尽想なりと。復た次ぎに九相を因と為し、十想を果と為す、是の故に九相を先にし、十想を後にす。復た次ぎに九相を外門と為し、十想を内門と為す」と云えり。以って其の別を見るべし。又「大智度論巻23」、「大乗義章巻14」、「法界次第初門巻中之上」等に出づ。<(望)
  三三昧(さんさんまい):則ち空三昧、無相三昧、無作三昧の総称。『大智度論巻7上注:三三昧』参照。
  三解脱門(さんげだつもん):無漏の三三昧の意。『大智度論巻20上』参照。
  三無漏根(さんむろこん):三種の無漏根の意。即ち未知当知根、已知根、具知根を云う。『大智度論巻3下注:三無漏根、巻17下注:二十二根』参照。
  三十七品(さんじゅうしちほん):又三十七道品、三十七菩提分法と称す。則ち四念処、四正懃、四如意足、五根五力、七覚分、八聖道分の総称なり。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
  三十七道品(さんじゅうしちどうほん):又、三十七品、三十七菩提分法とも称す。『大智度論巻17下注:三十七菩提分法』参照。
  三十七菩提分法(さんじゅうしちぼだいぶんぽう):梵語 saptatriMzad bodhipaakSikaa dharmaah の訳。菩提bodhiは覚、或いは道と翻じ、又 paakSikaa は支分の義にして、支又は品と訳す。故に又三十七覚支、三十七覚分、三十七覚品、三十七道品、三十七道法、三十七品道法と名づけ、又三十七助菩提分法、三十七助菩提法、三十七助道法、三十七助道、三十七品助菩提道、三十七品助道法門、或いは三十七品道諦、三十七品要行、三十七修道法とも称す。即ち菩提に順趣する法の品類に総じて三十七種あるを云う。之を七科に分つ、一に四念住、四正断、三に四神足、四に五根、五に五力、六に七等覚支、七に八正道支なり。「増一阿含経巻3」に、「云何が三十七品の道なる、謂わゆる四意止、四意断、四神足、五根、五力、七覚意、八真行なり」と云い、「大毘婆沙論巻96」に、「三十七菩提分法あり、謂わく四念住、四正勝、四神足、五根、五力、七覚支、八道支なり」と云える是れなり。菩提分法の名称に関しては、「倶舎論巻25」に、尽智無生智を説いて名づけて覚と為す。覚者の別に随って三菩提を立つ、一に声聞の菩提、二に独覚の菩提、三に無上菩提なり。無明睡眠皆永く断ずるが故に、及び如実に已に作し已り、事復た作さじと知るが故に此の二智を覚と名づく。三十七の法は菩提に順趣するが故に皆菩提分法と名づくと云えり。之に依るに声聞独覚及び仏所得の尽智無生智を菩提と名づけ、之に順趣する法なるが故に、此の三十七法を菩提分法と名づけたることを知るべし。七科の次第は、大途修行の順位に依りて建立せしものなりと雖も、亦た異説なきに非ず。「倶舎論巻25」に依るに、初業位には四念住増す、此の位の中には能く身等の四境を照らし、慧の用勝るるが故なり。煖法位の中には四正断増す、此の位には能く異品の殊勝の功徳を証し、勤の用勝るるが故なり。頂法位の中には四神足増す、此の位には能く勝善を持して無退の徳に趣き、定の用勝るるが故なり。忍法位の中には五根増す、此の位には必ず退堕せず、善根堅固にして増上の義を得るが故なり。世第一法位の中には五力増す、此の位には惑と世法との為に屈伏せられず、即ち無屈の義を得るが故なり。修道位の中には七覚支増す、菩提の位に近く覚を助くること勝るるが故なり。見道の中には八道支増す、速疾に転じて通行勝るるが故なり。此の中、八道支は見道、七覚支は修道なるを以って、若し修の次第に依らば、八を先とし七を後とすべきも、経中には増数の次第に依るが故に、先に七を説き後に八を説くと。是れ毘婆沙師の説なり。有余師は経の所説の次第を破せずして七科を立つ。謂わゆる修行者将に修行せんとする時、多境の中に於いて其の心馳散するが故に、先づ念住を修して其の心を制伏す。是の故に念住は説いて最初に在り。此の勢力に由りて勤遂に増長し、四事を成ぜんが為に正しく心を策持す。是の故に正断を説いて第二とす。精進に由るが故に憂悔の心なく、即ち能く勝定を修治するに堪うることあり、故に神足を第三とす。勝定を依と為し、信等をして出世の法のために増上縁とならしむ。故に五根を第四とす。根の義既に立たば、能く正しく所治の現行を伏除し、牽いて聖法を生ず、故に五力を第五とす。見道の位に於いて七覚支を建立す、実の如く四聖諦を覚知するが故なり。通じて見道修道の二位に於いて八道支を建立す。倶に通じて直に涅槃城に往くが故なりと云えり。又「大乗義章巻16末」には、七科の次第に就きて三門を立て、第一は行に就き人に約し位に随って其の次第を分別し、第二は一人の修入に就き、第三は位に約して其の次第を建立したるものとなせり。其の中、位に約して分別すとは、七科の中、初の五は世間に在り、後の二は出世に在り。又初の五は方便道に在り、八正は見道に在り、七覚は修道に在り。又初の一は外凡に在り、次の四は内凡に在り、八正は見道、七覚は修道に在り。又念処位中に在るを四念処とし、燸心中に在るを四正勤とし、頂心中に在るを如意足とし、忍心中に在るを五根とし、世第一法に在るを五力とし、見道に在るを八正とし、修道に在るを七覚となすと云えり。是れ前の毘婆沙師の説に同じき所なり。三十七品の体に関しては、「倶舎論巻25」に十事を以って体とすと云えり。十事とは慧と勤と定と信と念と喜と捨と軽安と戒と尋となり。此の中、四念住と五根の中の慧根及び五力の中の慧力と、七覚支の中の択法覚支と、八正道の中の正見との八法は慧を以って体とし、四正断と、五根の中の精進根と、五力の中の精進力と、七覚支の中の精進覚支と、八正道の中の正精進との八法は勤を以って体とし、四神足と、五根の中の定根及び五力の中の定力と、七覚支の中の定覚支と、八正道の中の正定との八法は定を以って体とし、五根の中の信根及び五力の中の信力は信を以って体とし、五根の中の念根及び五力の中の念力と、七覚支の中の念覚支と、八正道の中の正念との四法は念を以って体とし、七覚支の中の喜覚支は喜を以って体とし、捨覚支は行捨を以って体とし、軽安覚支は軽安を以って体とし、八正道の中の正語と正業と正命とは戒を以って体とし、正思惟は尋を以って体とす。故に体性は唯十ありとす。「雑阿毘曇心論巻8」、「大智度論巻19」等皆之に同じ。又「大毘婆沙論巻96」に依るに、有説は正語と正業とを別体とす。身業と語業と相雑すべからざるが故に、又正命は即ち正語業なるが故なりと。是れ其の体性を十一ありとなすの説なり。復た有説は正語業の外に正命ありとし、総じて十二の体ありとなせり。若し大乗に依らば、正思惟を以って慧の所摂となすが故に実体は唯九あり。「瑜伽論記巻7上」等に論ずる所の如し。又若し之に就き有漏無漏分別せば、七覚と八道支とは唯一向に是れ無漏なり。余の五科は皆有漏無漏に通ず。是れ「倶舎論巻25」等の所説なり。「大乗義章巻16末」に、菩薩の所修は初始は有漏、究竟所成は一切無漏なりと云い、「摩訶止観巻7上」に、賢位に修するは三十七品皆有漏なり、世第一法は亦有漏亦無漏、聖位は倶に無漏なりと云えるは、共に大乗特殊の説と謂うべし。又依地に約して分別せば、三界九地の中、初静慮には総じて三十七を具す。未至地には喜覚支を除いて余の三十六あり、喜を除くことは、近分地の中には力を励まして転ずるが故に下地の法に於いて猶お疑慮するが故に、喜なきこと知るべし。第二静慮には正思惟を除き、亦た三十六あり、彼の地には尋なきが故なり。第三第四静慮と中間とには、喜及び尋を除いて各三十五あり。四無色の中、前の三無色には戒の三支並びに喜尋を除く、故に各三十二あり。欲界と有頂とには、七覚八道支を除くが故に各二十二あり、此の二地には共に無漏なきを以ってなりい。蓋し此の三十七道品は元と声聞辟支仏の法なりと雖も、後大乗に於いても之を用い、菩薩所修の道となせり。「大智度論巻19」に、「問うて曰わく、三十七品は是れ声聞辟支仏の道なり、六波羅蜜は是れ菩薩摩訶薩の道なり。何を以っての故に菩薩道の中に於いて声聞の法を説くや。答えて曰わく、菩薩摩訶薩は応に一切の善法、一切の道を学すべし。(中略)復た次ぎに何の処に三十七品は但だ是れ声聞辟支仏の法にして、菩薩の道に非ずと説くや。是の般若波羅蜜摩訶衍品の中に、仏は四念処乃至八聖道分を説く、是れ摩訶衍なり。三蔵の中にも亦た三十七品は独り是れ小乗の法とのみ説かず。仏は大慈を以っての故に三十七品涅槃の道を説き、衆生の願に随い、衆生の因縁に随って各其の道を得しむ。声聞を求めんと欲する人には声聞の道を得、辟支仏の善根を種うる人には辟支仏の道を得、仏道を求むる者には仏道を得しむ」と云い、又「摩訶止観巻7上」にも、「問う道品は是れ二乗の法なり、云何ぞ是れ菩薩の道ならんや。答う、大論に此の問を呵す、誰か是の語を作すや。三蔵にも摩訶衍にも皆是の説を作さず、那んぞ独り是れ小乗の法なりと云うを得んや。浄名に云わく、道品は善知識なり、是に由りて正覚を成ず。道品は是れ道場、亦た是れ摩訶衍なりと。涅槃に云わく、能く八正道を修する者は即ち仏性を見、醍醐を得と名づくと。大集に云わく、三十七品は是れ菩薩の宝炬陀羅尼なりと。此の如き等の経に皆道品を明す。何の時か独り是れ小乗ならん」と云える即ち其の意なり。但し大乗に在りては多くは之を助道とし、又時に或いは正道となすことあり。「大乗義章巻16末」に、「助法と言うは是れ其の縁の義なり、果徳を資助するが故に名づけて助と為す。又復た諸行共に相資助するを亦た名づけて助と為す」と云い、「摩訶止観巻7上」に、「或いは言わく三十七品は是れ助道と。或いは言わく是れ正道と。大論に言わく是れ菩薩の道と。此の文は正に似たり。浄名に云わく、道品は善知識なり、是に由りて正覚を成ずと。此の文は助に似たり」と云えり。又「大乗義章巻16末」には、大小二乗所説の不同に略して十一種あることを論ぜり。十一種とは一に依地の不同、二に体性の不同、三に常無常の不同、四に漏無漏の不同、五に縁心の不同、六に浅深の不同、七に麁細の不同、八に修起の不同、九に行利の不同、又所為不同と名づく。十に治障の不同、十一に得果の不同是れなり。一一に彼れに対釈する所の如し。又「雑阿含経巻24」、「増一阿含経巻7」、「摩訶般若波羅蜜多経巻18」、「賢劫経巻4」、「法華経巻7」、「優婆塞戒経巻2」、「観仏三昧海経巻2、7」、「大般涅槃経巻21、23、25、26、28、40」、「悲華経巻7」、「坐禅三昧経巻下」、「禅行三十七品経」、「未曽有因縁経巻上」、「諸徳福田経」、「見正経」、「法海経」、「文殊師利所説不思議仏境界経」、「大毘婆沙論巻97、141」、「阿毘曇甘露味論巻下」、「分別功徳論巻1」、「大智度論巻36、39」、「菩薩善戒経巻6」、「菩薩地持経巻7、8」、「瑜伽師地論巻7、20、28、29、57、71、72」、「順正理論巻71」、「法界次第初門巻中之下」、「四念処巻1、4」、「六妙法門」等に出づ。<(望)



禅と禅波羅蜜

問曰。應說禪波羅蜜。何以但說禪。 問うて曰く、応に禅波羅蜜を説くべし。何を以ってか、但だ禅を説く。
問い、
『禅波羅蜜』を、
『説くべきなのに!』、
何故、
但だ、
『禅』を、
『説くのですか?』。
答曰。禪是波羅蜜之本。得是禪已憐愍眾生。內心中有種種禪定妙樂而不知求。乃在外法不淨苦中求樂。如是觀已生大悲心立弘誓願。我當令眾生皆得禪定內樂離不淨樂。依此禪樂已。次令得佛道樂。是時禪定得名波羅蜜。 答えて曰く、禅は是れ波羅蜜の本なり。是の禅を得已りて、衆生を憐愍すらく、『内心中に種種の禅定の妙楽有るも、求むることを知らざれば、乃ち外法の不浄、苦中に在りて、楽を求む』、と。是の如く観已りて、大悲心を生じ、弘誓の願を立つらく、『我れ当に、衆生をして、皆禅定の内楽を得、不浄の楽を離れしめ、此の禅楽に依り已れば、次いで仏道の楽を得しむべし』、と。是の時の禅定は、波羅蜜と名づくるを得。
答え、
『禅』は、
『波羅蜜』の、
『本である!』。
何故ならば、
是の、
『禅』を、
『得て!』、
『衆生』を、
『憐愍するからである!』、――
『内心』中には、
種種の、
『禅定』の、
『妙楽』が、
『有る!』が、
『衆生』は、
『求める!』ことを、
『知らずに!』、
『外法』の、
『不浄、苦』中に、
『楽』を、
『求めている!』、と。
是のように、
『衆生』を、
『観て!』、
『大悲の心』を、
『起したならば!』、
『弘誓』の、
『願』を、
『立てることになる!』、――
わたしは、
『衆生』には、
皆、
『禅定』の、
『内楽』を、
『得させて!』、
『不浄』な、
『楽』を、
『離れさせよう!』、
『衆生』が、
此の、
『禅定』の、
『楽』に、
『依るようになれば!』、
次は、
『仏』の、
『道』を、
『得させることにしよう!』、と。
是の時の、
『禅定』が、
『波羅蜜』と、
『呼ばれるのである!』。
復次於此禪中。不受味不求報不隨報生。為調心故入禪。以智慧方便還生欲界。度脫一切眾生。是時禪名為波羅蜜。 復た次ぎに、此の禅中に於いて、味を受けず、報を求めず、報に随って生ぜず、心を調えんが為の故に、禅に入り、智慧、方便を以って、便ち還って、欲界に生じ、一切の衆生を度脱す。是の時の禅を、名づけて波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
此の、
『禅』中に於いて、
『味』を、
『受けず!』、
『報』を、
『求めず!』、
『報』に、
『随って!』、
『生まれず!』、
『心』を、
『調える!』為の故に、
『禅』に、
『入り!』、
『智慧』と、
『方便』とを、
『用いて!』、
還()た、
『欲界』に、
『生まれ!』、
一切の、
『衆生』を、
『度脱する!』。
是の時の、
『禅』が、
『波羅蜜』と、
『呼ばれるのである!』。
復次菩薩入深禪定。一切天人不能知其心。所依所緣見聞覺知法中心不動。如毘摩羅詰經中。為舍利弗說宴坐法。不依身不依心不依三界。於三界中不得身心。是為宴坐。 復た次ぎに、菩薩は、深き禅定に入れば、一切の天、人も其の心を知る能わず。所依、所縁の見、聞、覚、知の法中に心動かず。毘摩羅詰経中に、舎利弗の為に、宴坐の法を説くが如し、『身に依らず、心に依らず、三界に依らず、三界中に於いて身心を得ず、是れを宴坐と為す』、と。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
深い、
『禅定』に、
『入る!』と、
一切の、
『天、人』は、
其の、
『心』を、
『知ることができない!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
『依る!』所や、
『縁じる!』所の
『見、聞、覚、知する!』、
『法』中に、
『心』が、
『動かないからである!』。
例えば、
『毘摩羅詰経』中に、説かれている通りである、――
『毘摩羅詰』は、
『舎利弗』の為に、
『宴坐(坐禅)の法』を、こう説いた、――
『宴坐』とは、
『身』にも、
『心』にも、
『三界』にも、
『依らず!』、
『三界』中に、
『身、心』を、
『認めることがなければ!』、
是れが、
『宴坐である!』、と。
  毘摩羅詰経(びまらきつきょう):維摩経/維摩詰所説経。
  宴坐(えんざ):静坐/安坐( sit at ease )。坐禅に同じ。
  参考:『維摩詰所説経巻1弟子品』:『爾時長者維摩詰自念。寢疾于床。世尊大慈寧不垂愍。佛知其意。即告舍利弗。汝行詣維摩詰問疾。舍利弗白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔曾於林中宴坐樹下。時維摩詰來謂我言。唯舍利弗。不必是坐為宴坐也。夫宴坐者。不於三界現身意。是為宴坐。不起滅定而現諸威儀。是為宴坐。不捨道法而現凡夫事。是為宴坐。心不住內亦不在外。是為宴坐。於諸見不動而修行三十七品。是為宴坐。不斷煩惱而入涅槃。是為宴坐。若能如是坐者。佛所印可。時我世尊。聞說是語默然而止不能加報。故我不任詣彼問疾』
復次若人聞禪定樂勝於人天樂。便捨欲樂求禪定。是為自求樂利不足奇也。菩薩則不然。但為眾生欲令慈悲心淨。不捨眾生菩薩禪。禪中皆發大悲心。 復た次ぎに、若し人、禅定の楽の、人天の楽に勝るるを聞き、便ち欲楽を捨てて、禅定を求むれば、是れを自ら楽の利を求むと為して、奇むに足らず。菩薩は、則ち然らず、但だ衆生の為に、慈悲心をして浄ならしめんと欲して、衆生を捨てず、菩薩の禅は、禅中に皆大悲心を発せばなり。
復た次ぎに、
若し、
『人』が、
『禅定の楽』は、
『人、天の楽』に、
『勝る!』と、
『聞いて!』、
すぐに、
『欲の楽』を、
『捨てて!』、
『禅定』を、
『求めても!』、
是れは、
『自ら!』の為に、
『楽』という、
『利』を、
『求めるものであり!』、
『奇(あやし)む!』に、
『足りない!』が、
『菩薩』は、
則ち、
そうではない!――
但だ、
『衆生』の為に、
『禅定』で、
『慈悲心』を、
『浄めるのであり!』、
『衆生』を、
『捨てることはなく!』、
『菩薩の禅』は、
『禅』中に、
皆、
『大悲心』を、
『発すものだからである!』。
禪有極妙內樂。而眾生捨之而求外樂。譬如大富盲人。多有伏藏不知不見而行乞求。智者愍其自有妙物不能知見而從他乞。眾生亦如是。心中自有種種禪定樂。而不知發反求外樂。 禅には、極妙の内楽有るも、衆生は之を捨てて外楽を求む。譬えば、大富の盲人、多く伏蔵有るも、知らず、見ざれば、行乞して求むるに、智者、其の自ら妙物有るも、知見する能わずして、他より乞うを愍れむが如し。衆生も亦た是の如く、心中に自ら種種の禅定の楽有るも、発(あば)くことを知らずして、反って外楽を求む。
『禅』には、
『極妙』の、
『内楽』が、
『有る!』のに、
『衆生』は、
之を、
『捨てて!』、
『外楽』を、
『求める!』。
譬えば、
『大富』の、
『盲人』が、
多くの、
『伏蔵(地中の蔵)』を、
『所有している!』のに、
之を、
『知ることもなく!』、
『見ることもなく!』、
『食』を、
『乞い求めて!』、
『歩いているようなものである!』。
『智者』は、
其れが、
自ら、
『妙物』を、
『所有している!』のに、
之を、
『知ることもできず!』、
『見ることもできず!』、
他より、
『食』を、
『乞うているのを!』、
『愍れむ!』が、
『衆生』も、
亦た、
是のように、
『心』中に、
種種の、
『禅定の楽』を、
『所有している!』のに、
之を、
『発掘する!』ことを、
『知らず!』に、
反って、
『外楽』を、
『求めるのである!』。
  伏蔵(ふくぞう):地中の蔵。
  (ほつ):現す。蔵を開く。
復次菩薩知諸法實相故。入禪中心安隱不著味。諸餘外道雖入禪定心不安隱。不知諸法實故著禪味。 復た次ぎに、菩薩は、諸法の実相を知るが故に、禅中に入りて、心安隠なるも、味に著せず。諸余の外道は、禅定に入ると雖も、心安隠ならずして、諸法の実を知らざるが故に、禅味に著す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知る!』が故に、
『禅』中に、
『入れば!』、
『心』が、
『安隠であり!』、
『禅』の、
『味』に、
『著することもない!』が、
その他の、
『外道』は、
『禅』に、
『入っても!』、
『心』が、
『安隠でなく!』、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『知らない!』が故に、
『禅』の、
『味』に、
『著する!』。
問曰。阿羅漢辟支佛俱不著味。何以不得禪波羅蜜。 問うて曰く、阿羅漢、辟支仏は倶に、味に著せず。何を以ってか、禅波羅蜜を得ざる。
問い、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』は、
どちらも、
『味』に、
『著さない!』のに、
何故、
『禅波羅蜜』を、
『得られないのですか?』。
答曰。阿羅漢辟支佛雖不著味。無大悲心故不名禪波羅蜜。又復不能盡行諸禪。菩薩盡行諸禪。麤細大小深淺內緣外緣一切盡行。以是故菩薩心中名禪波羅蜜。餘人但名禪。 答えて曰く、阿羅漢、辟支仏は味に著せずと雖も、大悲心無きが故に、禅波羅蜜と名づけず。又復た尽くは、諸禅を行ずる能わず。菩薩は、尽く諸禅を行じて、麁細、大小、深浅、内縁外縁、一切を尽く行ず。是を以っての故に、菩薩の心中を禅波羅蜜と名づくるも、余人は但だ禅とのみ名づく。
答え、
『阿羅漢』や、
『辟支仏』も、
『味』に、
『著さない!』が、
『大悲』の、
『心』が、
『無い!』ので、
『禅波羅蜜』と、
『呼ぶことはない!』。
又復た、
諸の、
『禅』を、
『尽くは!』、
『行うことができない!』が、
『菩薩』は、
諸の、
『禅』を、
『尽く!』、
『行い!』、
『禅』の、
『麁、細』、
『大、小』、
『深、浅』、
『内縁、外縁』に、
『拘らず!』、
一切の、
『禅』を、
『尽く!』、
『行うことができる!』
是の故に、
『菩薩』の、
『心』中を、
『禅波羅蜜』と、
『呼び!』、
『その他の人』は、
但だ、
『禅とのみ!』、
『呼ぶのである!』。
復次外道聲聞菩薩皆得禪定。而外道禪中有三種患。或味著或邪見或憍慢。聲聞禪中慈悲薄。於諸法中不以利智貫達諸法實相。獨善其身斷諸佛種。菩薩禪中無此事。欲集一切諸佛法故。於諸禪中不忘眾生。乃至昆虫常加慈念。 復た次ぎに、外道、声聞、菩薩は皆、禅定を得るも、外道の禅中には、三種の患有りて、或は味著、或は邪見、或は憍慢なり。声聞の禅中には、慈悲薄くして、諸法中に於いて、利智を以って、諸法の実相を貫達せず、独り其の身を善くして、諸の仏種を断ず。菩薩の禅中には、此の事無く、一切の諸仏の法を集めんと欲するが故に、諸禅中に於いて、衆生を忘れず、乃至昆虫まで、常に慈念を加う。
復た次ぎに、
『外道』と、
『声聞』と、
『菩薩』は、
皆、
『禅定』を、
『得る!』が、
而し、
『外道』の、
『禅』中には、
『味著』や、
『邪見』や、
『憍慢』という、
『三種の患』が、
『有り!』、
『声聞』の、
『禅』中には、
『慈悲』が、
『薄い!』が故に、
諸の、
『法』中に、
『利智』で、
『実相』を、
『貫達せず!』、
独り、
其の、
『身』を、
『善くするのみ!』で、
諸の、
『仏』の、
『種』を、
『断つのである!』が、
『菩薩』の、
『禅』中には、
此の、
『事』が、
『無く!』、
一切の、
『諸仏』の、
『法』を、
『集めようとする!』が故に、
諸の、
『禅』中に於いて、
『衆生』を、
『忘れず!』、
乃至、
『昆虫』にまで、
常に、
『慈念』を、
『加えるのである!』。
如釋迦文尼佛。本為螺髻仙人。名尚闍利。常行第四禪。出入息斷在一樹下坐兀然不動。鳥見如此謂之為木。即於髻中生卵。 釈迦文尼仏の如し、本、螺髻仙人と為りて、尚闍利と名づけ、常に第四禅を行じて、出入息を断じ、一樹の下に在りて坐し、兀然として動かず。鳥、此の如きを見て、之を謂いて木と為し、即ち髻中に卵を生ず。
例えば、
『釈迦文尼仏』は、こうであった、――
本、
『螺髻仙人であり!』、
『尚闍利』と、
『呼ばれていた!』が、
常に、
『第四禅』を、
『行って!』、
『出入息』を、
『断ち!』、
『一樹の下』に、
『坐して!』、
『兀然( towering )として!』、
『動かなかった!』。
『鳥』は、
此のような、
『尚闍利』を、
『見る!』と、
『木だ!』と、
『思い!』、
即ち、
『髻』中に、
『卵』を、
『生んだ!』。
  螺髻(らけい):梵天王は頂髪を留め、之を結いて螺の如し、称して螺髻と為す。西土の梵志は之に效いて螺髻を為す、故に螺髻仙人と曰う。「象頭精舎経」には、「螺髻仙人」と有り、異訳の「大乗伽耶山頂経」には、之を「長髻梵志」と謂い、「伽耶山頂経」には、之を「編髪梵志」と謂えり。又梵王を指しても「螺髻」と曰う。「維摩経仏国品」に曰わく、「螺髻梵王の舎利弗に語るらく」と。<(丁)
  尚闍利(しょうじゃり):螺髻梵志の名。委細不明。『大智度論巻4上』参照。
  兀然(ごつねん):高く聳えて動かないさま( towering )。
是菩薩從禪覺知頭上有鳥卵。即自思惟。若我起動鳥母必不復來。鳥母不來鳥卵必壞。即還入禪。至鳥子飛去爾乃起。 是の菩薩は、禅より覚めて、頭上に鳥の卵有るを知り、即ち自ら思惟すらく、『若し我れ起ちて動かば、鳥の母は必ず復た来たらざらん。鳥の母来たらざれば、鳥の卵は必ず壊せん』、と。即ち還って禅に入り、鳥の子の飛び去るに至るに、爾して乃ち起てり。
是の、
『菩薩』が、
『禅』より、
『覚めて!』、
『頭上』に、
『鳥の卵が有る!』のを、
『知る!』と、
即ち、こう思惟した、――
若し、
わたしが、
『起きて!』、
『動けば!』、
もう、
『鳥の母』が、
『来ることはあるまい!』。
若し、
『鳥の母』が、
『来なければ!』、
『鳥の卵』は、
『必ず!』、
『腐ってしまうだろう!』、と。
そこで、
還()た、
『禅』に、
『入り!』、
『鳥の子』が、
『飛び去る!』に、
『至って!』、
ようやく、
『禅より!』、
『起ったのである!』。
復次除菩薩。餘人欲界心不得次第入禪。菩薩行禪波羅蜜。於欲界心次第入禪。何以故。菩薩世世修諸功德。結使心薄心柔軟故。 復た次ぎに、菩薩を除いて、余人の欲界心は、次第に禅に入るを得ず。菩薩は禅波羅蜜を行ずるに、欲界心に於いて、次第に禅に入る。何を以っての故に、菩薩は、世世に諸の功徳を修めて、結使の心薄く、心柔軟なるが故なり。
復た次ぎに、
『菩薩』を、
『除けば!』、
『他の人』は、
『欲界の心』から、
『引き続いて!』、
『禅』に、
『入ることができない!』。
『菩薩』が、
『禅波羅蜜』を、
『行えば!』、
『欲界の心』から、
『引き続いて!』、
『禅』に、
『入ることができる!』。
何故ならば、
『菩薩』は、
『世世に!』、
諸の、
『功徳を修めて!』、
『心』中の、
『結使』が、
『薄くなり!』、
『心』が、
『柔軟だからである!』。
  次第(しだい):順序/次序( order, sequence )、引き続いて( one after another )。
復次餘人得總相智慧。能離欲如無常觀苦觀不淨觀。菩薩於一切法中能別相分別離欲。 復た次ぎに、余人は総相の智慧を得て、能く欲を離るること、無常観、苦観、不浄観の如し。菩薩は、一切法中に於いて、能く別相を分別して、欲を離る。
復た次ぎに、
『他の人』は、
例えば、
『無常観』、
『苦観』、
『不浄観のような!』、
『総相の智慧』を、
『得て!』、
『欲』を、
『離れることができる!』が、
『菩薩』は、
一切の、
『法』中に、
『別相』を、
『分別しながら!』、
『欲』を、
『離れることができる!』。
如五百仙人飛行時。聞甄陀羅女歌聲。心著狂醉皆失神足一時墮地。 五百仙人の如し、飛行する時、甄陀羅如の歌声を聞いて、心著し、狂酔して、皆神足を失い、一時に地に堕せり。
例えば、
『五百仙人』などは、
『飛行している!』時、
『甄陀羅の女』の、
『歌う!』、
『声』を、
『聞いて!』、
『心』に、
『著し!』、
『狂酔した!』ので、
皆、
『神通』を、
『失って!』、
『同時に!』、
『地』に、
『堕ちたのである!』。
  五百仙人(ごひゃくせんにん)五百人の飛行仙人。『大智度論巻17上』参照。
  甄陀羅(きんだら):梵語 kiMnara 歌神と訳す。『大智度論巻30上注:甄陀羅』参照。
  狂酔(ごうすい):甚だしく酔うこと。
如聲聞聞緊陀羅王屯崙摩彈琴歌聲以諸法實相讚佛。是時須彌山及諸樹木皆動。大迦葉等諸大弟子皆於座上不能自安。 声聞の如きは、緊陀羅王屯崙摩の琴を弾じて歌う声の、諸法の実相を以って、仏を讃ずるを聞く。是の時、須弥山、及び諸の樹木は皆動き、大迦葉等の諸大弟子は、皆座上に於いて、自ら安んずる能わず。
例えば、
『声聞』の場合は、こうである、――、
『緊陀羅王』の、
『屯崙摩』の、
『琴』を、
『弾きながら!』、
『歌う!』のを、
『聞く!』と、
『声』が、
諸の、
『法の実相』を、
『讃じていた!』。
是の時、
『須弥山』や、
『諸の樹木』は、
皆、
『動き!』、
『大迦葉』等の、
『諸の大弟子』は、
皆、
自ら、
『座』上に
『安んじられなかった!』。
  緊陀羅(きんだら):歌神。又緊那羅、甄陀羅等と称す。『大智度論巻17下注:緊那羅』参照。
  甄陀羅(きんだら):歌神。又緊那羅、緊陀羅等と称す。『大智度論巻17下注:緊那羅』参照。
  緊那羅(きんなら):梵語 kiMnara 、又緊娜羅、緊捺洛、緊拏羅、緊陀羅、甄陀羅、真陀羅に作る。疑人、疑神、或いは人非人と訳し、又歌神、歌楽神、音楽天とも云う。八部衆の一。 kiMnara は疑問代名詞たる「何か」の義なる kim と「人」の義なる nara との二語を結合したる名詞にして、人なりや何なりやの意義を有する語なり。又 azvamukha 、 turaMgavaktra(共に馬面の義)、或いはマユ mayu の異名あり。「華厳経探玄記巻2」に、「緊那羅は新に緊捺洛と云う。此に歌神と云う。能く歌詠を唱えて楽を作せばなり。雑心には畜生道に入れて摂す。亦た疑神と名づく。謂わく是れ畜生道の摂なるも、形貌人に似て面極めて端正に、頂上に一角あり。人見て疑を生じ、人たるか鬼たるか畜たるかを知らず。故に疑と云う」と云い、「慧琳音義巻11」に、「真陀羅は古に緊那羅と云う。音楽天なり。美妙なる音声ありて能く歌舞をなす。男は即ち馬首人身にして能く歌い、女は即ち端正にして能く舞うこと天女に次比し、多く乾闥婆天の為に妻室となる」と云い、又「華厳経疏巻5」には、「是れ天帝の執法楽神にして、即ち四王の眷属なり」と云えり。即ち帝釈天の雅楽神にして、雪山のカイラーサ kailaasa 嶺に接する俱毘羅 kuvera の天界に住し、夜叉と共に梵天の趾より生ぜられたりとし、或いは又迦葉波仙の子なりとも云う。大乗諸経中、龍及び阿修羅等と共に仏説法の聴衆として、多く其の名を列す。其の部類中には王あり眷属あり、「大樹緊那羅王所問経巻1」には、大樹緊那羅王(d ruma- kinnara- raaja )が無量の緊那羅、乾闥婆、諸天、摩睺羅伽等と共に香山より下りて仏所に来旨し、如来前に於いて琉璃琴を弾じ、大迦葉等をして此の妙調和雅の音は、我が心を鼓動すること旋嵐風の諸の樹身を吹くが如しとの歎をなさしめ、一切の諸法は寂静に向かう、かくの如く乃至上中下空静寂滅にして悩患なく、無垢最上今顕現せりと説き、又「法華経巻1序品」には、法( druma 樹の義)、妙法 sudharma 、大法 mahaadharma 、持法 dharmadhara の四緊那羅王を挙げ、「新華厳経巻1」には、善慧光明天( deva- mati )、妙華幢( kusuma- ketu )、種種荘厳( vicitra- bhuuSaNa )、悦意吼声( manojJa- nirNaada- svara )、宝樹光明( druma- ratna- zaakhaaprabha )、見者欣楽(sudarzana- priiti- kara )、最勝光荘厳( bhuuSanendra- prabha )、微妙華幢( sureNu- puSpa- dhvaja )、動地力( dhaaraNii- tala- zrii? )、摂伏悪衆の十緊那羅王を初として、無量の緊那羅王ありとせり。(今の十緊那羅王の梵名は、翻訳名義大集に出す所に拠る)又密教にては之を俱毘羅の眷属となし、「阿闍梨所伝曼荼羅図位」中には北方第三重中に列し、現図曼荼羅には外金剛部院北方、摩睺羅伽衆の北に二像を安ぜり。共に肉色にして、其の内辺に在るものは膝上に横鼓を置き、外辺に在るものは膝前に二の竪鼓を置き、共に之を撃つの勢をなせり。但し「諸説不同記巻10」、「胎蔵界七集巻下」等には、之を緊那羅とせずして摩睺羅伽衆と称せり。又「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」に依りて画ける法華曼荼羅中には、其の最外院の西方に妙法緊那羅王を出せり。又「起世経巻1」、「大智度論巻17」、「注維摩詰経巻1」、「大乗荘厳宝王経巻1」、「維摩経略疏巻5」、「法華経文句巻2下」、「同玄賛巻2本」、「玄応音義巻3」、「慧琳音義巻1、25」、「大日経疏巻6」、「経律異相巻46」等に出づ。<(望)
  屯崙摩(とんろんま):梵語 druma 、大樹と訳す。甄陀羅王の名。「大智度論巻10」に依れば、仏所に至りて琴を弾ずるに、迦葉をして其の坐に堪えざらしむる者なりと云えり。<(丁)『大智度論巻17下注:緊那羅』参照。
  弾琴(だんごん):琴をひく。
  参考:『大智度論巻11』:『又如甄陀羅王。與八萬四千甄陀羅。來到佛所彈琴歌頌以供養佛。爾時須彌山王及諸山樹木。人民禽獸一切皆舞。佛邊大眾乃至大迦葉。皆於座上不能自安。是時天須菩薩。問長老大迦葉。耆年舊宿行十二頭陀法之第一。何以在座不能自安。大迦葉言。三界五欲不能動我。是菩薩神通功德果報力故。令我如是。非我有心不能自安也。譬如須彌山四邊風起不能令動。至大劫盡時毘藍風起如吹爛草。以是事故知。二種結中一種未斷。如是菩薩等應行般若波羅蜜。是阿毘曇中。如是說。』
天須菩薩問大迦葉。汝最耆年行頭陀第一。今何故不能制心自安。大迦葉答曰。我於人天諸欲心不傾動。是菩薩無量功德報聲。又復以智慧變化作聲。所不能忍。若八方風起。不能令須彌山動。劫盡時毘藍風至。吹須彌山令如腐草。 天須菩薩の大迦葉に問わく、『汝は最も耆年にして、頭陀を行ずること第一なり。今何を以っての故にか、心を制して、自ら安んずる能わざる』、と。大迦葉の答えて曰わく、『我れは、人天の諸欲に於いては、心傾動せず。是れ菩薩の無量の功徳の報声にして、又復た智慧の変化して声と作るを以って、忍ぶ能わざる所なり。若し八方の風起こらば、須弥山をして動ぜしむる能わず、劫尽の時毘藍の風至りて、須弥山を吹かば、腐草の如くならしめん』、と。
『天須菩薩』が、
『大迦葉』に、こう問うた、――
お前は、
最も、
『耆年(年寄り)であり!』、
『頭陀の行』は、
『第一である!』のに、
今は、
何故、
『心』を、
『抑制して!』、
『自ら!』を、
『安んじられないのか?』、と。
『大迦葉』は答えて、こう言った、――
わたしは、
『人、天』の、
『諸欲(五欲)』に、
『心』が、
『動くことはない!』が、
是の、
『声』は、
『菩薩』の、
『無量の功徳』の、
『果報の声であり!』、
又、
『智慧』が、
『変化して!』、
『声』と、
『作ったものである!』ので、
之を、
『忍ぶことはできない!』。
若し、
『八方』の、
『風』が、
『起こったとしても!』、
『須弥山』を、
『動かせない!』が、
『劫の尽きる!』時の、
『毘藍の風』が、
『吹けば!』、
『須弥山』は、
『腐草のようになるのである!』、と。
  天須菩薩(てんしゅぼさつ):委細不明。『大智度論巻11上』参照。
  耆年(ぎねん):年寄。老人。
  頭陀(づだ):乞食行。『大智度論巻2上注:頭陀』参照。
  傾動(きょうどう):かたむき動く。
  毘藍(びらん):暴風の名。『大智度論巻11上注:毘嵐』参照。
  腐草(ふそう):くさった草。
以是故知。菩薩於一切法中。別相觀得離諸欲。諸餘人等但得禪之名字。不得波羅蜜。 是を以っての故に知る、菩薩は、一切法中に於いて、別相を観て、諸欲を離るるを得るも、諸の余人は等しく、但だ禅の名字を得て、波羅蜜を得ず。
是の故に、こう知ることになる、――
『菩薩』は、
一切の、
『法』中に、
『別相(非空相)』を、
『観ながら!』、
『諸欲』を、
『離れられる!』が、
諸の、
『他の人』は、
『等しく!』、
但だ、
『禅』という、
『名字』を、
『得るだけであり!』、
『禅』という、
『波羅蜜』を、
『得ることはない!』、と。
復次餘人知菩薩入出禪心。不能知住禪心所緣所到知諸法深淺。阿羅漢辟支佛尚不能知。何況餘人。譬如象王渡水。入時出時足跡可見。在水中時不可得知。 復た次ぎに、余人は、菩薩の禅心に入出するを知るも、禅心に住して、縁ずる所、到る所を知り、諸法の深浅を知る能わず。阿羅漢辟支仏すら、尚お知る能わず。何に況んや、余人をや。譬えば象王の、水を渡りて、入る時と出づる時の足跡は見るべきも、水中に在る時は知るを得べからざるが如し。
復た次ぎに、
『他の人』は、
『菩薩』が、
『禅心』に、
『入、出する!』ことは、
『知っている!』が、
『禅心』を、
『住めて!』、
『縁じる!』所や、
『到る!』所の、
『諸の法』を、
『知ることはできず!』、
『縁じる!』所の、
『諸の法』の、
『深、浅』を、
『知ることもできない!』。
『阿羅漢、辟支仏』すら、
尚お、
『知ることができない!』、
況して、
『他の人』は、
『尚更である!』。
譬えば、
『象王』が、
『水』を、
『渡る!』時、
『水』に、
『入る!』時と、
『出る!』時の、
『足跡』を、
『見ることはできる!』が、
『水』中に、
『在る!』時の、
『跡』は、
『知ることができないようなものである!』。
若得初禪同得初禪人能知。而不能知菩薩入初禪。有人得二禪。觀知得初禪心了了知。不能知菩薩入初禪心。乃至非有想非無想處亦如是。 若し初禅を得れば、同じく初禅を得る人は、能く知るも、菩薩の初禅に入るを知る能わず。有る人、二禅を得れば、初禅を得る心を観知し、了了と知るも、菩薩の初禅に入る心を知る能わず、乃至非有想非無想処も亦た是の如し。
若し、
『初禅』を、
『得れば!』、
同じく、
『初禅を得た!』、
『人』は、
『知ることができる!』が、
『菩薩』が、
『初禅』に、
『入った!』のを、
『知ることはできない!』。
有る、
『人』が、
『二禅』を
『得れば!』、
『初禅を得た!』、
『心』を、
『観て知り!』、
『明了に知る!』が、
『菩薩』の、
『初禅に入った!』、
『心』は、
『知ることはできない!』。
乃至、
『非有想非無想処』を、
『得ても!』、
亦た、
是のように、
『菩薩』の、
『初禅の心』を、
『知ることはできない!』。
復次超越三昧中。從初禪起入第三禪。第三禪中起入虛空處。虛空處起入無所有處。 復た次ぎに、超越三昧中に、初禅より起ちて、第三禅に入り、第三禅中に起ちて、虚空処に入り、虚空処に起ちて無所有処に入る。
復た次ぎに、
『超越三昧』中に、
『菩薩』は、
『初禅』より、
『起って!』、
『第三禅』に、
『入り!』、
『第三禅』中より、
『起って!』、
『虚空処』に、
『入り!』、
『虚空処』を、
『起って!』、
『無所有処』に、
『入る!』。
  超越三昧(ちょうおつさんまい):凡そ禅定の浅深の次第は、四禅、四無色、及び滅尽定と為し、出入は皆此の次第に順ずるを法と為す。例えば散心の人の如きは、直に四無色定に入る能わず、必ず先に初禅の定に入り、順次して第四禅に入り、後に四無色の初定に入るなり。又出定も直ちに出づることを得ずして、必ず逆次すること此の次第に依るべし。是れ乃ち声聞人の法なり。然るに仏及び深位の菩薩は、必ずしも此の次第を用いず、散心由り直ちに滅尽定に入るを得、滅尽定由り直ちに散心に出づるを得、之を超越三昧と謂う。「大智度論巻81」に、「問うて曰わく、超越三昧は二を超ゆるを得ず。又散心従り、滅尽定に入らず。答えて曰わく、大小乗は法異なり、二を超えずとは小乗法中の説なり。菩薩は無量の福徳の智慧、深く禅定に入る力の故に、能く随意に超越す」と云える是れなり。但し小乗有部の説に依れば、則ち前の二果を超ゆるを許せり。<(丁)
二乘唯能超一不能超二。菩薩自在超。從初禪起或入三禪如常法。或時入第四禪。或入空處識處無所有處或非有想非無想處。或入滅受想定。滅受想定起或入無所有處或識處空處四禪乃至初禪。 二乗は唯だ、能く一を超ゆるも、二を超ゆる能わず。菩薩は自在に超えて、初禅より起ちて、或は三禅に入ること、常法の如く、或は時に第四禅に入り、或は空処、識処、無所有処に入り、或は非有想非無想処、或は滅受想定に入り、滅受想定を起ちて、或は無所有処、或は識処、空処、四禅乃至初禅に入る。
『二乗(声聞辟支仏)』は、
『一』を、
『超えられる!』が、
『二』を、
『超えられない!』。
『菩薩』は、
『自在に!』、
『超えることができ!』、
『初禅』より、
『起って!』、
常法のように、
『三禅』に、
『入り!』、
或は時に、
『第四禅』に、
『入り!』、
或は、
『空処、識処、無所有処』に、
『入り!』、
或は、
『非有想非無想処』に、
『入り!』、
或は、
『滅受想定』に、
『入り!』、
『滅受想定』を、
『起って!』、
或は、
『無所有処』に、
『入り!』、
或は、
『識処、空処、四禅乃至初禅』に、
『入る!』。
或時超一或時超二。乃至超九。聲聞不能超二。何以故。智慧功德禪定力薄故。 或は時に一を超え、或は時に二を超え、乃至九を超ゆるも、声聞は、二を超ゆる能わず。何を以っての故に、智慧、功徳、禅定の力の薄きが故なり。
『菩薩』は、
或は時に、
『一』を、
『超え!』、
或は、
『二』を、
『超え!』、
乃至、
『九』を、
『超える!』が、
『声聞』は、
『二』を、
『超えることができない!』、
何故ならば、
『智慧、功徳、禅定』の、
『力』が、
『薄いからである!』。
譬如二種師子。一黃師子。二白髮師子。黃師子雖亦能超。不如白髮師子王。如是等種種因緣分別禪波羅蜜。 譬えば、二種の師子あり、一は黄なる師子、二は白髪の師子なり、黄師子は、亦た能く超ゆと雖も、白髪の師子王には如かざるが如し。是の如き等の種種の因縁は、禅波羅蜜を分別す。
譬えば、
『二種』の、
『師子』が有り、
一は、
『黄の師子』、
二は、
『白髪の師子である!』。
『黄の師子』も、
亦た、
『超えることができる!』が、
『白髪の師子王』には、
『及ばないようなものである!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』は、
『禅波羅蜜』を、
『分別する!』。
復次爾時菩薩常入禪定。攝心不動不生覺觀。亦能為十方一切眾生以無量音聲說法而度脫之。是名禪波羅蜜。 復た次ぎに、爾の時、菩薩は常に禅定に入り、心を摂して動ずるなく、覚観を生ぜしめず、亦た能く十方の一切の衆生の為に、無量の音声を以って法を説き、之を度脱す。是れを禅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
爾の時、
『菩薩』は、
常に、
『禅定』に、
『入り!』、
『心』を、
『摂して!』、
『動かすことなく!』、
『覚、観』を、
『生じさせない!』し、
亦た、
『十方』の、
一切の、
『衆生』の為に、
『無量の音声』で、
『説法して!』、
『衆生』を、
『度脱する!』。
是れを、
『禅波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰。如經中說。先有覺觀思惟然後能說法。入禪定中無語覺觀。不應得說法。汝今云何言常在禪定中不生覺觀而為眾生說法。 問うて曰く、経中に説くが如し、先に覚観有りて、思惟し、然る後に能く法を説くと。禅定中に入れば、語、覚、観無く、応に法を説くを得べからず。汝は今、云何が言わく、『常に禅定中に在りて、覚観を生ぜず、而も衆生の為に法を説く』、と。
問い、
『経』中には、こう説かれている、――
先に、
『覚、観』が、
『有って!』、
『思惟し!』、
その後、
『法』を、
『説くことができる!』、と。
即ち、
『禅定』中に、
『入れば!』、
『語、覚、観』が、
『無い!』ので、
当然、
『法』を、
『説けるはずがない!』。
お前は、
今、
何故、こう言うのか?――
常に、
『禅定』中に、
『在って!』、
『覚、観』を、
『生じない!』が、
而し、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説く!』、と。
  参考:『雑阿含巻21(568)経』:『如是我聞。一時。佛住菴羅聚落菴羅林中。與諸上座比丘俱。時。有質多羅長者詣諸上座比丘所。禮諸上座已。詣尊者伽摩比丘所。稽首禮足。退坐一面。白尊者伽摩比丘。所謂行者。云何名行。伽摩比丘言。行者。謂三行。身行.口行.意行。復問。云何身行。云何口行。云何意行。答言。長者。出息.入息名為身行。有覺.有觀名為口行。想.思名為意行。復問。何故出息.入息名為身行。有覺.有觀名為口行。想.思名為意行。答。長者。出息.入息是身法。依於身.屬於身.依身轉。是故出息.入息名為身行。有覺.有觀故則口語。是故有覺.有觀是口行。想.思是意行。依於心.屬於心.依心轉。是故想.思是意行。復問。尊者。覺.觀已。發口語。是覺.觀名為口行。想.思是心數法。依於心.屬於心想轉。是故想.思名為意行。復問。尊者。有幾法 若人捨身時  彼身屍臥地  棄於丘塚間  無心如木石  答言。長者 壽暖及與識  捨身時俱捨  彼身棄塚間  無心如木石  復問。尊者。若死.若入滅盡正受。有差別不。答。捨於壽暖。諸根悉壞。身命分離。是名為死。滅盡定者。身.口.意行滅。不捨壽命。不離於暖。諸根不壞。身命相屬。此則命終.入滅正受差別之相。復問。尊者。云何入滅正受。答言。長者。入滅正受。不言。我入滅正受。我當入滅正受。然先作如是漸息方便。如先方便。向入正受。復問。尊者。入滅正受時。先滅何法。為身行.為口行.為意行耶。答言。長者。入滅正受者。先滅口行。次身行.次意行。復問。尊者。云何為出滅正受。答言。長者。出滅正受者亦不念言。我今出正受。我當出正受。然先已作方便心。如其先心而起。復問。尊者。起滅正受者。何法先起。為身行.為口行.為意行耶。答言。長者。從滅正受起者。意行先起。次身行。後口行。復問。尊者。入滅正受者。云何順趣.流注.浚輸。答言。長者。入滅正受者。順趣於離.流注於離.浚輸於離。順趣於出.流注於出.浚輸於出。順趣涅槃.流注涅槃.浚輸涅槃。復問。尊者。住滅正受時。為觸幾觸。答言。長者。觸不動.觸無相.觸無所有。復問。尊者。入滅正受時。為作幾法。答言。長者。此應先問。何故今問。然當為汝說。比丘入滅正受者。作於二法。止以觀。時。質多羅長者聞尊者迦摩所說。歡喜隨喜。作禮而去』
答曰。生死人法入禪定。先以語覺觀然後說法。法身菩薩離生死身。知一切諸法。常住如禪定相。不見有亂。 答えて曰く、生死の人なる法は、禅定に入るも、先に語、覚、観を以ってし、然る後に法を説く。法身の菩薩は、生死の身を離れたれば、一切の諸法の常住なるを知りて、禅定相の如く、乱有るを見ず。
答え、
『生、死の人』という、
『法』は、
『禅定』に、
『入っても!』、
先に、
『語、覚、観』を、
『用いて!』、
その後、
『法』を、
『説く!』が、
『法身』の、
『菩薩』は、
『生、死の身』を、
『離れて!』、
一切の、
『諸法』は、
『常住である!』と、
『知る!』ので、
例えば、
『禅定の相のように!』、
『乱される!』ことが、
『無いからである!』。
法身菩薩變化無量身。為眾生說法。而菩薩心無所分別。 法身の菩薩は、無量の身を変化して、衆生の為に法を説くも、菩薩の心には、分別する所無し。
『法身』の、
『菩薩』は、
『無量』の、
『身』に、
『変化して!』、
『衆生』の為に、
『法』を、
『説くのである!』が、
『菩薩』の、
『心』には、
『分別する!』所が、
『無い!』。
如阿修羅琴。常自出聲隨意而作無人彈者。此亦無散心亦無攝心。是福德報生故。隨人意出聲。 阿修羅の琴の、常に自ら声を出して、随意に作すも、人の弾ずる者無きが如し。此れは亦た散心無く、亦た摂心も無し。是れ福徳の報生なるが故に、人意に随うて、声を出す。
譬えば、
『阿修羅の琴』は、
常に、
自ら、
『声』を、
『出して!』、
意のままに、
『楽』を、
『作すが!』、
誰か、
『人』が、
『弾いているのではない!』。
此れには、
『散心』や、
『摂心』という、
『心』が、
『無いが!』、
是れは、
『福徳』の、
『果報』の、
『生である!』が故に、
『人の意のままに!』、
『声』を、
『出すのである!』。
法身菩薩亦如是。無所分別亦無散心。亦無說法相。是無量福德禪定智慧因緣故。是法身菩薩。種種法音隨應而出。 法身の菩薩も亦た是の如く、分別する所無く、亦た散心も無く、亦た説法相も無けれども、是れ無量の福徳、禅定、智慧の因縁の故に、是の法身の菩薩は、種種の法音を応ずるに随いて、出す。
『法身の菩薩』も、
亦た、
是のように、
『分別する!』所が、
『無く!』、
『散乱する!』ような、
『心』も、
『無く!』、
『説法』の、
『相』も、
『無い!』が、
是の、
『菩薩』の、
無量の、
『福徳、禅定、智慧』の
『因縁』の故に、
是の、
『法身の菩薩』は、
『応じる!』所の、
『衆生』に、
『随って!』、
種種の、
『法音』を、
『出すのである!』。
慳貪心多聞說布施之聲。破戒瞋恚懈怠亂心愚癡之人。各各聞說持戒忍辱禪定智慧之聲。聞是法已各各思惟。漸以三乘而得度脫。 慳貪の心は多く、布施を説く声を聞き、破戒、瞋恚、懈怠、乱心、愚癡の人は、各各持戒、忍辱、禅定、智慧を説く声を聞き、是の法を聞き已りて、各各思惟するに、漸く三乗を以って、度脱を得。
『慳貪の心』は、
『多く!』、
『布施を説く!』、
『声』を、
『聞き!』、
『破戒、瞋恚、懈怠、乱心、愚癡』の、
『人』は、
各各、
『持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を説く!』、
『声』を、
『聞き!』、
是の、
『法』を、
『聞いて!』、
『思惟してから!』、
漸く、
『三乗』の、
『法』で、
『度脱することができるのである!』。
復次菩薩觀一切法。若亂若定皆是不二相。餘人除亂求定。何以故。以亂法中起瞋想。於定法中生著想。 復た次ぎに、菩薩は、一切法を観るに、若しは乱なるも、若しは定なるも、皆是れ不二の相なり。余人は乱を除いて、定を求む。何を以っての故に、乱法中に、瞋想を起すを以って、定法中に著想を生ずればなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『法』を、
『観て!』、
『乱だろうが!』、
『定だろうが!』、
皆、
『不二の相である!』が、
他の人は、
『乱』を、
『除いて!』、
『定』を、
『求める!』。
何故ならば、
『乱れた!』、
『法』中には、
『瞋想』を、
『起し!』、
『定まった!』、
『法』中には、
『著想』を、
『生じるからである!』。
如鬱陀羅伽仙人。得五通日日飛到國王宮中食。王大夫人如其國法捉足而禮。夫人手觸即失神通。從王求車乘駕而出。還其本處入林樹間。更求五通一心專至。垂當得時有鳥在樹上。急鳴以亂其意。捨樹至水邊求定。復聞魚鬥動水之聲。此人求禪不得。即生瞋恚。我當盡殺魚鳥。 鬱陀羅伽仙人の如きは、五通を得て、日日国王の宮中に飛到して、食し、王の大夫人は、其の国法の如く、足を捉りて礼す。夫人の手触るれば、即ち神通を失い、王より車を求む。駕に乗りて出で、其の本処に還り、林樹の間に入りて、更に五通を求め、一心専至して、垂(なんな)んとして当に得んとする時、有る鳥、樹上に在り、急に鳴いて、以って其の意を乱す。樹を捨て水辺に至りて、定を求むるに、復た魚の闘いて、水を動かす音を聞く。此の人は、禅を求めて得ざれば、即ち瞋恚を生ずらく、『我れ応に尽く、魚鳥を殺すべし』、と。
『鬱陀羅伽仙人』などは、
『五通』を、
『得て!』、
日日、
『王宮』中に、
『飛到して!』、
『食事をしていた!』が、
『王の大夫人』が、
其の、
『国』の、
『法』に、
『随い!』、
『足』を、
『捉って!』、
『礼する!』と、
『夫人』の、
『手』が、
『足』に、
『触れたひょうしに!』、
『仙人』は、
『五通を失って!』、
『飛行できなくなり!』、
『王』に、
『車を求めて!』、
『還ることになった!』。
『仙人』は、
『駕(天子の乗り物)』に、
『乗って!』、
『城を出る!』と、
其の、
『本処』に、
還って、
『林樹の間』に、
『入り!』、
更に、
『五通』を、
『求めて!』、
『一心』に、
『専ら!』、
『誠を尽した!』が、
『五通』を、
『得ようとした!』、
『ちょうどその時!』、
『樹上』の、
有る、
『鳥』が、
『急に鳴いて!』、
其の、
『意』が、
『乱された!』ので、
『樹』を、
『捨てて!』、
『水辺』に、
『至り!』、
『定』を、
『求めている!』と、
復たしても、
『魚』が、
『闘って!』、
『水を動かす!』、
『声』が、
『聞えてきた!』。
此の、
『人』は、
『禅』を、
『求めても!』、
『得られない!』ので、
即ち、
『瞋恚』を、こう生じた、――
わたしは、
『魚、鳥』を、
『殺し尽そう!』、と。
  鬱陀羅伽(うだらか):梵語、具に、鬱頭藍弗 udraka raamaputra と称し、また鬱陀羅羅摩子、優陀羅羅摩子、鬱陀伽等と云う。『大智度論巻17下注:優陀羅羅摩子』参照。
  優陀羅羅摩子(うだららまし):梵語 udraka- raama- putra 、優陀羅羅摩は梵名、子は梵語 putra の訳なり。又鬱陀羅羅摩子、鬱頭藍弗、鬱頭藍子、優藍弗、烏特迦摩羅子に作り、略して嗢達洛迦、鬱陀羅伽、鬱陀伽、鬱陀とも云う。優陀羅 udraka は雄傑、獺、又は極、猛、余行等と訳し、羅摩 raama は喜、楽、戯等と訳す。即ち羅摩の子なる優陀羅の義なり。王舎城付近の一阿蘭若林中に住せし外道仙人の名。釈尊出家の後、先づ阿羅邏迦藍を訪問し、次いで此の仙人に就き法を求め給えり。「仏本行集経巻22答羅摩子品」に、釈尊が此の仙人を訪問せられし時の状景を敍し、「爾の時、菩薩は優陀羅羅摩子の辺に於いて法を受け行を行じ、沙門の法、沙門の事を求むるが故に、恭敬合掌して白して言わく、仁者、未審、仁者所行の法は何の境界に至るや、我が為に解説せよと。其の優陀羅、菩薩に告げて言わく、大徳瞿曇よ、凡そ相及び非相を取るは、此れは是れ大患大癕、大瘡、大癡、大闇なり。若し細思惟せば即ち彼の微妙の有体を受くることを得ん。能く是の如き次第解を作さば、此れを寂定微妙最勝最上の解脱と名づく。其の解脱の果は謂わく非想非非想処に至るなり。我れ此の最勝の妙法を行ずと。其の優陀羅又復た更に言わく、此の非想非非想処に於いて過去の世にも勝れたる寂定なく、現在に既になく、当来にも亦たなし。此の行は最勝最妙最上なり、我れ此の行を行ずと。爾の時菩薩此の法を聞き已りて思惟し、久しからずして即ち此の法を証す」と云えり。之に依るに優陀羅羅摩子は、非想非非想処を以って真の解脱と思考せしものなるを見るべし。又「中阿含巻56羅摩経」、「同巻28優陀羅経」、「雑阿含経巻23」、「仏所行経巻5」、「大般涅槃経巻21、38」、「大乗大集地蔵十輪経巻3」、「阿育王経巻2」、「五分律巻15」、「四分律巻32」、「大智度論巻17」、「玄応音義巻25」、「慧琳音義巻26」、「翻梵語巻5」等に出づ。<(望)
  大夫人(だいぶにん):正夫人。
  (が):天子の乗り物。
  専至(せんし):専ら極める。
  参考:『中阿含巻28優陀羅経』:『我聞如是。一時。佛遊舍衛國。在勝林給孤獨園。爾時。世尊告諸比丘。優陀羅羅摩子。彼在眾中。數如是說。於此生中。觀此覺此。不知癰本。然後具知癰本。優陀羅羅摩子無一切知自稱一切知。實無所覺自稱有覺。優陀羅羅摩子。如是見.如是說。有者。是病.是癰.是刺。設無想者。是愚癡也。若有所覺。是止息.是最妙。謂乃至非有想非無想處。彼自樂身。自受於身。自著身已。修習乃至非有想非無想處。身壞命終。生非有想非無想天中。彼壽盡已。復來此間。生於狸中。此比丘正說者於此生中。觀此覺此。不知癰本。然後具知癰本。云何比丘正觀耶。比丘者。知六更觸。知習.知滅.知味.知患.知出要。以慧知如真。是謂比丘正觀也。云何比丘覺。比丘者。知三覺。知習.知滅.知味.知患.知出要。以慧知如真。是謂比丘覺。云何比丘不知癰本。然後具知癰本。比丘者。知有愛滅。拔其根本。至竟不復生。是謂比丘不知癰本。然後具知癰本。癰者。謂此身也。色麤四大。從父母生。飲食長養。衣被按摩。澡浴強忍。是無常法.壞法.散法.是謂癰也。癰本者。謂三愛也。欲愛.色愛.無色愛。是謂癰本。癰一切漏者。謂六更觸處也。眼漏視色。耳漏聞聲。鼻漏嗅香。舌漏嘗味。身漏覺觸。意漏知諸法。是謂癰一切漏。比丘。我已為汝說癰說癰本。如尊師所為弟子起大慈哀。憐念愍傷。求義及饒益。求安隱快樂者。我今已作。汝等亦當復自作。至無事處.山林樹下.空安靜處。燕坐思惟。勿得放逸。勤加精進。莫令後悔。此是我之教敕。是我訓誨。佛說如是。彼諸比丘聞佛所說。歡喜奉行』
此人久後思惟得定。生非有想非無想處。於彼壽盡下生作飛狸。殺諸魚鳥作無量罪墮三惡道。是為禪定中著心因緣。 是の人は、久しき後に、思惟して定を得、非有想非無想処に生じ、彼に於いて寿尽くるに、下生して、飛狸と作り、諸の魚鳥を殺して、無量の罪を作り、三悪道に堕せり。是れを禅定中の著心の因縁と為す。
此の、
『人』は、
後になって、
『思惟して!』、
『定』を、
『得て!』、
『非有想非無想処』に、
『生まれた!』が、
彼の、
『非有想非無想処』の、
『寿』が、
『尽きる!』と、
『欲界』に、
下生して、
『飛狸』と、
『作り!』、
諸の、
『魚、鳥』を、
『殺して!』、
『無量の罪』を、
『作り!』、
『三悪道』に、
『堕ちたのである!』。
是れが、
『禅定』中に、
『著する!』、
『心』の、
『因縁である!』。
  飛狸(ひり):飛ぶ山猫の意。蓋しむささびの如し。
外道如此。佛弟子中亦有 外道の此の如きこと、仏弟子中にも亦た有り。
『外道』の、
此のような事は、
亦た、
『仏弟子』中にも、
『有る!』。
一比丘。得四禪生增上慢謂得四道。得初禪時謂是須陀洹。第二禪時謂是斯陀含。第三禪時謂是阿那含。第四禪時謂得阿羅漢。恃是而止不復求進。 一比丘は、四禅を得て、増上慢を生じ、四道を得たりと謂い、初禅を得る時には、是れ須陀洹なりと謂い、第二禅の時には、是れ斯陀含なりと謂い、第三禅の時には、是れ阿那含なりと謂い、第四禅の時には、阿羅漢を得たりと謂い、是れを恃(たの)んで、止まり、復た進むことを求めず。
『一比丘』は、
『四禅』を、
『得ただけなのに!』、
『増上慢』を、
『生じて!』、
『四道を得た!』と、
『謂い!』、
『初禅』を、
『得た!』時には、
『須陀洹だ!』と、
『謂い!』、
『第二禅』を、
『得た!』時には、
『斯陀含だ!』と、
『謂い!』、
『第三禅』を、
『得た!』時には、
『阿那含だ!』と、
『謂い!』、
『第四禅』を、
『得た!』時には、
『阿羅漢を得た!』と、
『謂い!』、
是の、
『所得』を、
『恃(たの)んで!』、
『止まり!』、
更に、
『進む!』ことを、
『求めなかった!』。
  増上慢(ぞうじょうまん):七慢の一。未だ聖道を証得せざるに、已に証得すと謂う者の意。『大智度論巻2上注:七使』参照。
  四道(しどう):断惑証理の道程を四種に類別せるもの。一に加行道 prayoga- maarga 、二に無間道 aanantarya- maarga 、三に解脱道 vimukti- maarga 、四に勝進道 vizeSa- maarga なり。「倶舎論巻25」に、「加行道とは謂わく此れより後無間道を生ずるなり、無間道とは謂わく此れ能く応に断ずべき所の障を断ずるなり、解脱道とは已に応に断ずべき所の障を解脱して最初に生ずる所なり、勝進道とは謂わく三の余の道なり」と云い、「瑜伽師地論巻69」に、「又此の智を修するに略して四道あり、一に方便道、二に無間道、三に解脱道、四に勝進道なり。一切地の修道所断の輭中上等の九品の煩悩に於いて、其の品数の各各差別せるに随って能く随順して断ずる、是れを初道と名づく。能く無間に断ずるは是れ第二道なり、無間に断じ已るは是れ第三道なり。断より次後なるは是れ第四道なり。此の勝進道に復た二種あり。或いは無間に余品を断ぜんが為に方便道を修するあり、此れ前品に於いては勝進道と名づけ、後の所断に於いては方便道と名づく。或いは無間に方便を修せず、但だ前品に於いて知足の想を生じて勝進を求めず、或いは放逸に住し、或いは已断に於いて観察智を以って更に観察するあり、或いは但だ伺察作意を以って之を伺察するあり。当に知るべし、此の道を唯勝進と名づく」と云い、又「大乗阿毘達磨雑集論巻9」に、「方便道とは、謂わく此の道能く煩悩を捨するに由る。所以は何ん、正しく是の如き道を修する時、能く漸に各別上品等の煩悩所生の品類の麁重を捨離して、一分漸に転依を得るに由る。是れを修道中の方便道と名づく。無間道とは、謂わく此の道の無間に永く煩悩を断じて余す所なからしむるに由る。所以は何ん、此の道の無間に能く永く此の品の煩悩所生の品類の麁重を除遣して余あることなからしめ、又麁重の依を転じて無麁重を得るに由る。是れを修道中の無間道と名づく。解脱道とは、謂わく此の道は断煩悩所得の解脱を証するに由る。所以は何ん、此の道は能く煩悩永断所得の転依を証するに由るが故なり。勝進道とは、謂わく余品の煩悩を断ぜんが為の所有の方便無間解脱道なり。是れを勝進道と名づく。所以は何ん、此の品の後の余の煩悩を断ぜんが為の所有の方便無間解脱道を、此の品に望むるに、是れ勝進なるが故に、勝進道と名づく。又復た断煩悩の方便を棄捨し、或いは勤めて方便して諸法を思惟し、或いは勤めて方便して諸法に安住し、或いは進んで余の三摩鉢底の諸の所有の道を修するを勝進道と名づく。(中略)或いは復た先の所思所証の法の中に於いて安住観察し、或いは復た進んで余の勝品の定に入る、諸の是の如き等を勝進道と名づく。又勝品の功徳を引発せんが為に、或いは復た諸の所有の道に安住するを勝進道と名づく。所以は何ん、若し神通無量等の諸の勝品の功徳を引発せんが為に、或いは彼れ生じ已りて現前に安住す、是の如き等の道を勝進道と名づく」と云える是れなり。此の中、加行道とは又方便道と名づく。即ち種種の方便功用を加えて断道を欣求するを云う。今瑜伽等に於いては修道位に約するが故に、此の道に於いて漸次に下中上等の煩悩を断ずと説くと雖も、加行位等に在りては唯伏のみありて断の義なし。無間道とは又無礙道と名づく。前の加行道に在りては、惑品が能治の道と間隙あるに反し、此の道に於いては能く無間に正しく惑を断ずるが故に無間と名づく。解脱道とは無間道の後に離繋得を証し、已解脱の位に入るを云う。勝進道とは又勝道とも名づく、之に二種あり、一には更に余品の煩悩を断ぜんが為に進趣するものにして、前品に望むれば之を勝進道と名づけ、後の所断に望むれば即ち方便道となすなり。一は勝進を求めず、知足等の相を生じ、或いは已断に於いて但だ観察するを云うなり。又「法苑義鏡巻2」に、「資糧等の五道の中には唯修道位のみ具に四道を起す。若し見道の中には諸説不同なり。範云わく、瑜伽論六十九に依るに、見道は是れ速進道と説く、故に知る見道には四道を具せずと。又相伝に云わく、但だ方便のみなし、余の三道ありと。又唯無間と解脱との二道のみありと」と云えり。之に依るに五位の中、唯修道位にのみ此の四道を具することを知るべし。又此の四道は二乗及び菩薩によりて別と総との差別あり。「成唯識論巻10」に、「二乗は根鈍なれば漸に障を断ずる時、必ず各別に無間と解脱とを起す。加行と勝進とは或いは別にし、或いは総にす。菩薩は利根なれば漸に障を断ずる位に必ずしも別して無間と解脱とを起すには非ず、刹那刹那に能く断証するが故に、加行等の四は刹那刹那に前後相望めて皆具に有るべし」と云えり。又此の四道は有漏道にも通ず、故に「倶舎論巻24」に、「世俗の無間と及び解脱道とは、次の如く能く下地と上地とを縁じて麁苦障及び静妙離を為す。謂わく諸の無間道は、自と次下との地の諸の有漏法を縁じて、静妙等の三の行相の中の随一の行相を作す」と云い、「大乗法苑義林章巻2」に、「若し有漏の六行をもて四道と為す時は、苦と麁と障との三の随一を無間道と為し、静と妙と離との三の随一を以って解脱道と為す。加行と勝進とは前に同じく総別なり」と云えり。以って其の趣旨を知るべし。又「順正理論巻71」、「阿毘達磨蔵顕宗論巻33」、「四諦論巻4」、「倶舎論光記巻25」、「成唯識論述記巻10末」、「同枢要巻下末」、「同了義灯巻7末」等に出づ。<(望)『大智度論巻4上注:四道』参照。
  四道(しどう):梵語 catasro gatayaH の訳、倶舎論の教義に於ける四種の道。即ち、
  1. 加行道 prayoga- maarga :準備中の道( The path of preparation )、三賢/四善根に発展する為の能力を集める段階( the stage at which one gathers the energy for the development of the three stages of worthiness and the four wholesome roots )、戒定慧の実践( practicing śīla, samādhi and prajñā. )
  2. 無間道 aanantarya- maarga :間断無き道( The path of nonobstruction )、正しい知識に覚醒するを以って、欲染を破る段階( the stage where defilements are destroyed by the awakening of correct wisdom. )
  3. 解脱道 vimukti- maarga :解脱の道( The path of liberation )、此の中に於いて、正しい知識に関する思考の瞬間ごとに、真実であると自覚する( wherein one thought-moment of correct wisdom one awakens to reality. )
  4. 勝進道 vizeSa- maarga :更に発展する道( The path of superb advancement )、自覚したまま、更に上級の瞑想と知識の道に入る( Having awakened, one enters anew onto the path of meditation and wisdom. )

  須陀洹(しゅだおん):四果中の一。預流と訳す。『大智度論巻2上注:四向四果』参照。
  斯陀含(しだごん):四果中の一。一来と訳す。『大智度論巻2上注:四向四果』参照。
  阿那含(あなごん):四果中の一。不還と訳す。『大智度論巻2上注:四向四果』参照。
  阿羅漢(あらかん):四果中の一。無学と訳す。『大智度論巻2上注:四向四果』参照。
命欲盡時見有四禪中陰相來。便生邪見。謂無涅槃佛為欺我。惡邪生故失四禪中陰。便見阿鼻泥犁中陰相。命終即生阿鼻地獄。 命の尽きんと欲する時、四禅の中陰相の来たる有るを見、便ち邪見を生じて、『涅槃無し、仏は欺を我れに為せり』、と謂い、悪邪の生ずるが故に四禅の中陰を失い、便ち阿鼻泥犁の中陰相を見、命終りて即ち阿鼻地獄に生ず。
『比丘』は、
『命』が、
『尽きようとする!』時、
有る、
『四禅』の、
『中陰相』が、
『来る!』のを、
『見て!』、
たちまち、
『邪見』を、
『生じて!』、こう謂った、――
『涅槃』が、
『無い!』。
『仏』は、
わたしを、
『裏切ったのだ!』、と。
『悪邪』を、
『生じた!』が故に、
『四禅』の、
『中陰』を、
『失い!』、
たちまち、
『阿鼻地獄』の、
『中陰相』を、
『見!』、
『命』が、
『終る!』と、
ただちに、
『阿鼻地獄』に、
『生じた!』。
  (ご):裏切り( double-cross )。
  中陰(ちゅうおん):中間の存在( intermediate existence )、梵 antaraa-bhava の訳、死と生との中間の存在という状態( The state of existence between death and rebirth. )の意。『大智度論巻4下中陰』参照。
  泥犁(ないり):梵語 naraka 、地獄と訳す。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  阿鼻(あび):梵語 aviici 、無間と訳す。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  参考:『六十華厳経巻60』:『譬如有人當命終時見中陰相。所謂行惡業者。見於地獄畜生餓鬼。受諸楚毒。或見閻羅王持諸兵仗囚執將去。或見刀山或見劍樹。或見利葉割截眾生。或見鑊湯鬻治眾生。或聞種種悲苦音聲。若修善者。當命終時。悉見一切諸天宮殿。或見天女種種莊嚴遊戲快樂。見如是等諸妙勝事。而不自覺死此生彼。但見不可思議行業境界。』
諸比丘問佛。某甲比丘阿蘭若命終生何處。佛言。是人生阿鼻泥犁中。 諸の比丘の仏に問わく、『某甲比丘は阿蘭若に命終りて、何処に生ぜしや』、と。仏の言わく、『是の人は、阿鼻泥犁中に生ぜり』、と。
諸の、
『比丘』は、
『仏』に、こう問うた、――
『某甲比丘』は、
『阿蘭若』に、
『命』を、
『終りました!』が、
何処に、
『生まれたのですか?』、と。
『仏』は、こう言われた、――
是の、
『人』は、
『阿鼻地獄』中に、
『生まれた!』、と。
  某甲(むこう):其の人の名を言わないで呼ぶにいう。それがし。たれそれ。又自称の代名詞。それがし。わたくし。
  阿蘭若(あらんにゃ):梵語 araNya 、山林、荒野と訳し、閑静処と意訳す。『大智度論巻3上注:阿蘭若』参照。
諸比丘皆大驚怪。此人坐禪持戒所由爾耶。佛言。此人增上慢。得四禪時謂得四道故。臨命終時見四禪中陰相。便生邪見謂無涅槃。我是阿羅漢今還復生。佛為虛誑。是時即見阿鼻泥犁中陰相。命終即生阿鼻地獄中。 諸の比丘の、皆大いに驚怪すらく、『此の人は、坐禅、持戒せり。爾る所由ぞや』、と。仏の言わく、『此の人は、増上慢にして、四禅を得る時に、四道を得たりと謂うが故に、命の終に臨む時、四禅の中陰相を見れば、便ち邪見を生じて、『涅槃無し、我れは是れ阿羅漢なるに、今還って、復た生ぜり。仏は虚誑を為せり』、と謂い、是の時、即ち阿鼻泥犁の中陰相を見、命終れば、即ち阿鼻地獄中に生ぜり』、と。
諸の、
『比丘』は、
皆、
大いに、
『驚き怪しんで!』、こう言った、――
此の、
『人』は、
『坐禅し!』、
『持戒していた!』のに、
何のような、
『理由で!』、
『爾うなったのですか?』、と。
『仏』は、
こう言われた、――
此の、
『人』は、
『増上慢』の故に、
『四禅を得た!』時、
『四道』を、
『得た!』と、
『謂っていた!』が、
『命の終り!』に、
『臨んだ!』時、
『四禅』の、
『中陰相』を、
『見て!』、
たちまち、
『邪見を生じて!』、こう謂った、――
『涅槃』は、
『無かった!』、
わたしは、
『阿羅漢なのに!』、
今、
『復たしても!』、
『生まれてしまった!』。
『仏』は、
『嘘をついて!』、
『誑したのだ!』、と。
是の時、
ただちに、
『阿鼻地獄』の、
『中陰相』を、
『見て!』、
『命』が、
『終る!』と、
ただちに、
『阿鼻地獄』中に、
『生まれたのである!』、と。
  驚怪(きょうけ):驚いてあやしむ。
  所由(しょゆ):よるところ。其の事の由って来たるところ。
  虚誑(ここう):虚しくたぶらかす。
是時佛說偈言
 多聞持戒禪  未得無漏法 
 雖有此功德  此事不可信
是の時、仏の偈を説いて言わく、
多聞と持戒と禅は、未だ無漏法を得ざれば、
此の功徳有りと雖も、此の事を信ずべからず。
是の時、
『仏』は、
『偈』を説いて、こう言われた、――
『多聞』や、
『持戒』や、
『禅』は、
此の、
『功徳』が、
『有ったとしても!』、
未だ、
『無漏法』を、
『得ていなければ!』、
此の、
『事』を、
『信じてはならない!』、と。
是比丘受是惡道苦。是故知。取亂相能生瞋等煩惱。取定相能生著。菩薩不取亂相。亦不取禪定相。亂定相一故是名禪波羅蜜。 是の比丘は、是の悪道の苦を受くれば、是の故に知るらく、『乱相を取れば、能く瞋等の煩悩を生じ、定相を取れば、能く著を生ず』、と。菩薩は、乱相を取らず、亦た禅定の相も取らず。乱、定相一なるが故なり、是れを禅波羅蜜と名づく。
是の、
『比丘』が、
是の、
『悪道の苦』を、
『受けた!』ので、
是の故に、こう知ることになる、――
『乱相』を、
『取れば!』、
『瞋等の煩悩』を、
『生じさせられる!』し、
『定相』を、
『取れば!』、
『著』を、
『生じさせられる!』、と。
『菩薩』は、
『乱相』を、
『取らず!』、
亦た、
『禅定の相』も、
『取らない!』。
何故ならば、
『乱相』も、
『定相』も、
『一()だからである!』。
是れを、
『禅波羅蜜』と、
『称する!』。
  (しゅ):梵語 upaadaana の訳。十二因縁の一。又受とも訳す。即ち婬、食、資具等に対する渇愛増広して之を馳求するを云う。「識身足論巻3」に、「愛の増広するを即ち名づけて取となす」と云い、「大毘婆沙論巻23」に、「云何が取なる、謂わく三愛に由りて四方に追求し、多く危険を渉ると雖も、而も労倦を辞せず。然れども未だ後有の為に善悪業を起さざるは是れ取の位なり」と云える是れなり。是れ説一切有部に於ける謂わゆる分位縁起の説にして、即ち青年期に於ける婬、食等の渇愛増広し、之を得んが為に四方馳求して労倦を辞せざる位を取と名づけたるなり。然るに経部に於いては刹那縁起の義に依り、欲貪の煩悩を以って取となす。即ち「倶舎論巻9」に、「前の四種に於いて取は謂わく欲貪なり。故に薄伽梵は諸経の中に釈す、云何が取と為す、謂わゆる欲貪なりと」と云える其の説なり。是れ其の行相猛利にして、業火をして熾然たらしむるの義により名づけて取となすなり。又大乗唯識家に於いては取を以って能生支に摂し、一切の煩悩を体とし、種現に通ずとなせり。又「大乗阿毘達磨雑集論巻4」に、「能生支とは謂わく愛と取と有となり。(中略)取に二種の業あり、一に後有を取らんが為に諸の有情をして有取識を発せしめ、二に有のために縁となるなり。後有を取らんが為に有取識を発すとは、那落迦趣等の差別の後有の相続不断の為に、業の習気をして決定を得しむるが故なり。有のために縁と作るとは、此の勢力に由りて諸行の習気は転変を得るが故なり」と云えり。以って諸説の異同を見るべし。又「雑阿含経巻14」、「大毘婆沙論巻24」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「瑜伽師地論巻9」、「順正理論巻25」、「成唯識論巻8」、「倶舎論光記巻9」、「成唯識論述記巻8本」等に出づ。<(望)
如初禪相。離欲除蓋攝心一處。是菩薩利根智慧觀故。於五蓋無所捨。於禪定相無所取。諸法相空故。 初禅の相の、欲を離れて蓋を除き、心を一処に摂するが如く、是の菩薩は、利根の智慧もて観るが故に、五蓋に於いて捨つる所無く、禅定の相に於いて取る所無し。諸法の相は空なるが故なり。
『初禅の相』が、
『五欲』を、
『離れて!』、
『五蓋』を、
『除き!』、
『心』を、
『一処』に、
『摂めるように!』、
是の、
『菩薩』は、
『利根の智慧』で、
『観る!』が故に、
『五蓋』には、
『捨てる!』所が、
『無く!』、
『禅定の相』にも、
『取る!』所が、
『無い!』。
何故ならば、
諸の、
『法の相』は、
『空だからである!』。
云何於五蓋無所捨。貪欲蓋非內非外亦不兩中間。何以故。若內法有不應待外生。若外法有於我亦無患。若兩中間有兩間則無處。 云何が、五蓋に於いて捨つる所無き。貪欲蓋は、内に非ず、外に非ず、亦た両の中間にもあらざればなり。何を以っての故に、若し内に法有れば、応に外を待って生ずべからず。若し外に法有れば、我れに於いて、亦た患無し。若し両の中間に有れば、両の間は、則ち処無し。
何故、
『五蓋』には、
『捨てる!』所が、
『無いのか?』、――
『貪欲蓋』は、
『内でもなく!』、
『外でもなく!』、
『内外の中間でもないからである!』。
何故ならば、
若し、
『内()』に、
『法(貪欲蓋)』が、
『有れば!』、
『外』に、
『待つはずがない!』。
若し、
『外()』に、
『法』が、
『有れば!』、
則ち、
わたしには、
『患』が、
『無いことになる!』。
若し、
『内外の中間』に、
『法』が、
『有れば!』、
則ち、
『中間』には、
『処(場所)』が、
『無い!』。
亦不從先世來。何以故。一切法無來故。如童子無有欲。若先世有者小亦應有。 亦た先世より来たらず。何を以っての故に、一切の法は、来ること無きが故なり。童子に欲有る無きが如し。若し先世に有らば、小なるも亦た、応に有るべし。
亦た、
『先世』より、
『蓋』が、
『来たのでもない!』、
何故ならば、
一切の、
『法』は、
『来る!』ことが、
『無いからである!』。
譬えば、
『童子』には、
『欲』が、
『無いようなものである!』。
若し、
『先世』に、
『欲』が、
『有れば!』、
当然、
『小であっても!』、
『有るはずである!』。
以是故知先世不來。亦不至後世。不從諸方來。亦不常自有。不一分中。非遍身中。亦不從五塵來。亦不從五情出。無所從生無所從滅。 是を以っての故に知るらく、『先世より来たらず、亦た後世に至らず、諸方より来たらず、亦た常に自ら有らず、一分中にあらず、遍身中に非ず、亦た五塵より来たらず、亦た五情より出でず、従って生ずる所無く、従って滅する所無し』、と。
是の故に、こう知ることになる、――
『蓋』は、
『先世』より、
『来るのでもなく!』、
亦た、
『後世』に、
『至ることもない!』。
『諸方』より、
『来るのでもなく!』、
亦た、
『常に!』、
『自らに有るのでもない!』。
『一分』中に、
『有るのでもなく!』、
亦た、
『遍身』中に、
『有るのでもない!』。
『五塵』より、
『来るのでもなく!』、
亦た、
『五情』より、
『出るのでもない!』。
『生じる!』、
『処』も、
『無く!』、
亦た、
『滅する!』、
『処』も、
『無い!』、と。
是貪欲若先生若後生若一時生。是事不然。 是の貪欲は、若しは先の生、若しは後の生、若しは一時の生ならん。是の事は然らず。
是の、
『貪欲』が、
『先の生でも!』、
『後の生でも!』、
『一時の生でも!』、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何以故。若先有生後有貪欲。是中不應貪欲生。未有貪欲故。若後有生先有貪欲。則生無所生。若一時生則無生者無生處。生者生處無分別故。 何を以っての故に、若し先に生有りて、後に貪欲有らば、是の中は、応に貪欲の生なるべからず。未だ貪欲有らざるが故なり。若し後に生有りて、先に貪欲有らば、則ち生には所生無し。若し一時の生ならば、則ち生者無く、生処無し。生者と生処と分別無きが故なり。
何故ならば、
若し、
先に、
『生(生じること≒生相)』が、
『有って!』、
後に、
『貪欲』が、
『有れば!』、
是の中の、
『生』は、
『貪欲』の、
『生であるはずがない!』、
何故ならば、
未だ、
『貪欲』が、
『無いからである!』。
若し、
後に、
『生』が、
『有って!』、
先に、
『貪欲』が、
『有れば!』、
則ち、
『生』には、
『所生(生じられるもの≒貪欲)』が、
『無い!』。
若し、
『一時』の、
『生ならば!』、
則ち、
『生者(生じさせる者≒生)』も、
『生処(生の住処≒貪欲)』も、
『無いことになる!』。
何故ならば、
『生者、生処』の、
『分別』が、
『無いからである!』。
  :小乗阿毘曇に依れば貪欲等の有為法には、三相有り、謂わゆる生、住、滅である。即ち、貪欲は生相に依って生じ、住相に依って住し、滅相に依って滅する。では、貪欲と呼ばれる有為法には生相が有るかと言えば、有為法は既に存在するが故に、生相は無い。では、有為法の生ずる時、生相は先に有るのか?後に有るのか?というのが此の一段の趣旨である。詳しくは中論巻2三相品に説かれている。
復次是貪欲貪欲者不一不異。 復た次ぎに、是の貪欲と貪欲の者とは、一にあらず、異にあらず。
復た次ぎに、
是の、
『貪欲』と、
『貪欲する者』とは、
『一(同一)でもなく!』、
『異(別異)でもない!』。
何以故。離貪欲貪欲者不可得。離貪欲者貪欲不可得。是但從和合因緣生。和合因緣生法即是自性空。如是貪欲貪欲者異不可得。 何を以っての故に、貪欲を離れて貪欲の者得べからず、貪欲の者を離れて貪欲得べからず。是れは但だ和合の因縁より生じ、和合の因縁より生ずる法は、即ち是れ自性空なればなり。是の如く貪欲と貪欲の者と異なれば、得べからず。
何故ならば、
若し、こう言うならば、――
『貪欲』と、
『貪欲の者』とは、
『異である!』と、――
而し、
『貪欲』を、
『離れて!』、
『貪欲の者』は、
『認められず!』、
『貪欲の者』を、
『離れて!』、
『貪欲』は、
『認められない!』。
是の、
『貪欲、貪欲の者』は、
但だ、
『和合した!』、
『因縁』より、
『生じたのであり!』、
『和合した!』、
『因縁』の、
『生じた!』、
『法である!』が故に、
即ち、
是の、
『自性』は、
『空である!』。
是のように、
『貪欲』と、
『貪欲の者』とが、
『異である!』とは、
『認められない!』。
  :貪欲と貪欲の者の一異に就いては、中論巻2燃可燃品に詳しく説かれている。
若一貪欲貪欲者則無分別。如是等種種因緣貪欲生不可得。 若し一ならば、貪欲と貪欲の者とは、則ち分別無し。是の如き等の種種の因縁に、貪欲の生は得べからず。
若し、
『貪欲、貪欲の者』が、
『一ならば!』、
則ち、
『貪欲、貪欲の者』には、
『分別』が、
『無いことになる!』。
是れ等の、
種種の、
『因縁』は、
『貪欲』には、
『生』が、
『認められない!』。
若法無生是法亦無滅。不生不滅故則無定無亂。如是觀貪欲蓋。則與禪為一。餘蓋亦如是。 若し法に生無ければ、是の法には、亦た滅も無し。不生不滅なるが故に、則ち定無く、乱無し。是の如く貪欲蓋を観れば、則ち禅と一と為す。余の蓋も亦た是の如し。
若し、
『法』に、
『生』が、
『無ければ!』、
是の、
『法』には、
亦た、
『滅』も、
『無いことになり!』、
是の、
『法』は、
『不生、不滅である!』が故に、
則ち、
『定、乱』も、
『無いことになる!』。
是のように、
『貪欲蓋』を、
『観れば!』、
則ち、
『貪欲蓋』は、
『禅』と、
『一だということになり!』、
『その他の蓋』も、
亦た、
『是の通りである!』。
若得諸法實相觀五蓋則無所有。是時便知五蓋實相即是禪實相。禪實相即是五蓋。 若し諸法の実相を得て、五蓋を観れば、則ち無所有なり。是の時便ち知るらく、『五蓋の実相は、即ち是れ禅の実相なり。禅の実相は、即ち是れ五蓋なり』、と。
若し、
諸の、
『法』の、
『実相』を、
『認めることができて!』、
『五蓋』を、
『観たならば!』、
則ち、
『五蓋』は、
『無所有(無一物)である!』。
是の時、
たちまち、こう知ることになる、――
『五蓋』の、
『実相』とは、
是れは、
『禅』の、
『実相なのだ!』。
『禅』の、
『実相』とは、
是れは、
『五蓋なのだ!』、と。
菩薩如是能知五欲及五蓋禪定及支一相無所依入禪定。是為禪波羅蜜。 菩薩は、是の如く能く、五欲、及び五蓋、禅定及び支まで、一相なるを知り、所依無くして禅定に入る。是れを禅波羅蜜と為す。
『菩薩』が、
是のように、
『五欲』も、
『五蓋』も、
『禅定』も、
『禅支』も、
皆、
『一相()である!』と、
『知りながら!』、
『所依(四禅等)』が、
『無くても!』、
『禅定』に、
『入るならば!』、
是れが、
『禅波羅蜜である!』。
  (し):色界四禅中各禅に存する下位の分類をいう。『大智度論巻1上注:色界、同巻7下注:四禅』参照。
復次若菩薩行禪波羅蜜時。五波羅蜜和合助成。是名禪波羅蜜。 復た次ぎに、若し菩薩、禅波羅蜜を行ずる時、五波羅蜜和合助成すれば、是れを禅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
若し、
『菩薩』が、
『禅波羅蜜』を、
『行う!』時、
『五波羅蜜』が、
『和合して!』、
『助成すれば!』、
是れを、
『禅波羅蜜』と、
『称する!』。
復次菩薩以禪波羅蜜力得神通。一念之頃不起於定。能供養十方諸佛。華香珍寶種種供養。 復た次ぎに、菩薩は、禅波羅蜜の力を以って、神通を得れば、一念の頃に、定を起たずして、能く十方の諸仏を供養し、華香、珍宝もて種種に供養す。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
『禅波羅蜜』の、
『力』で、
『神通』を、
『得れば!』、
『定』を、
『起つことなく!』、
『一念の頃(あいだ)』に、
『十方』の、
『諸仏』を、
『供養することができ!』、
『華香』や、
『珍宝』で、
種種に、
『供養することができる!』。
復次菩薩以禪波羅蜜力變身無數。遍入五道以三乘法教化眾生。 復た次ぎに、菩薩は、禅波羅蜜の力を以って、身を無数に変じ、遍く五道に入りて、三乗の法を以って、衆生を教化す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『禅波羅蜜』の、
『力』で、
『身』を、
『無数』に、
『変化し!』、
遍く、
『五道』に、
『入って!』、
『衆生』を、
『三乗の法』で、
『教化する!』。
復次菩薩入禪波羅蜜中。除諸惡不善法。入初禪乃至非有想非無想定。其心調柔一一禪中行大慈大悲。以慈悲因緣。拔無量劫中罪。得諸法實相智故。為十方諸佛及大菩薩所念。 復た次ぎに、菩薩は、禅波羅蜜中に入りて、諸悪不善の法を除き、初禅、乃至非有想非無想定に入りて、其の心を調柔し、一一の禅中に大慈大悲を行じて、慈悲の因縁を以って、無量劫中の罪を抜き、諸法の実相の智を得るが故に、十方の諸仏、及び大菩薩の念ずる所と為る。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『禅波羅蜜』中に、
『入って!』、
諸の、
『悪、不善』の、
『法』を、
『除き!』、
『初禅、乃至非有想非無想定』に、
『入って!』、
其の、
『心』を、
『調柔( flexible and adaptable )にし!』、
『一一の禅』中に、
『大慈大悲』を、
『行い!』、
『大慈大悲』の、
『因縁』を、
『用いて!』、
『無量劫』中の、
『罪』を、
『除いて!』、
『諸法の実相』という、
『智慧』を、
『得る!』が故に、
『十方』の、
諸の、
『仏、大菩薩』に、
『護念される!』。
  調柔(ちょうにゅう):しなやか( pliant )、梵語 karmanyatva, karmanya の訳、素直で順応性のある/適応性/順応性( To be flexible and adaptable; flexibility, adaptability )の義。
復次菩薩入禪波羅蜜中。以天眼觀十方五道中眾生。見生色界中者受禪定樂味。還墮禽獸中受種種苦。復見欲界諸天七寶池中華香自娛。後墮鹹沸屎地獄中。見人中多聞世智辯聰。不得道故。還墮豬羊畜獸中無所別知。 復た次ぎに、菩薩は、禅波羅蜜中に入りて、天眼を以って十方の五道中の衆生を観るに、色界中に生ずる者の、禅定の楽味を受け、還って禽獣中に墮ちて種種の苦を受くるを見、復た欲界の諸天の七宝池中に、華香を自ら娯(たのし)み、後に鹹、沸屎地獄中に堕すを見、人中に多聞、世智、辯聡なるも、道を得ざるが故に、還って猪羊、畜獣中に堕ち、別知する所無きを見る。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『禅波羅蜜』中に、
『入って!』、
『天眼』で、
『十方』の、、
『五道中の衆生』を、
『観察する!』と、――
『色界』中に、
『生まれた!』者は、
『禅定』の、
『楽味』を、
『受けながら!』、
還()た、
『禽獣』中に、
『堕ちて!』、
種種の、
『苦を受けている!』のが、
『見え!』、
復た、
『欲界』の、
諸の、
『天』は、
『七宝の池中の華香』で、
『自ら!』を、
『娯ませていた!』が、
還た、
後に、
『鹹河、沸屎地獄』中に、
『堕ちる!』のが、
『見え!』、
『人』中に、
『多聞、世智、辯聡であった!』のに、
『道』を、
『得なかった!』が故に、
還た、
『猪羊、畜獣』中に、
『堕ちて!』、
『別知する!』所の、
『無い!』のが、
『見える!』。
  (かん):鹹河地獄。八炎火地獄中の一。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  沸屎(ふっし):沸屎地獄。八炎火地獄中の一。『大智度論巻16上注:地獄』参照。
  辯聡(べんそう):さとく辯才がある。辯察聡明。ことばが巧みで、かしこいこと。
如是等種種。失大樂得大苦。失大利得大衰。失尊貴得卑賤。於此眾生生悲心。漸漸增廣得成大悲不惜身命。為眾生故懃行精進以求佛道。 是の如き等の種種に、大楽を失いて大苦を得、大利を失いて大衰を得、尊貴を失いて卑賎を得るに、此の衆生に於いて、悲心を生ずれば、漸漸に増広して、大悲を成ずるを得て、身命を惜まず、衆生の為の故に、懃行精進して、以って仏道を求む。
是れ等のような、
種種に、
『衆生』は、
『大楽』を、
『失って!』、
『大苦』を、
『得!』、
『大利』を、
『失って!』、
『大衰』を、
『得!』、
『尊貴』を、
『失って!』、
『卑賎』を、
『得ている!』ので、
此の、
『衆生』に於いて、
『悲心』を、
『生じながら!』、
次第に、
『増広して!』、
『大悲』を、
『成就し!』、
『身命』を、
『惜まずに!』、
『衆生』の為に、
『懃行し!』、
『精進して!』、
『仏』の、
『道』を、
『求める!』。
復次不亂不味故。名禪波羅蜜。 復た次ぎに、乱れず、味わわざるが故に、禅波羅蜜と名づく。
復た次ぎに、
『心』は、
『乱れず!』、
『禅の楽』を、
『味わわない!』が故に、
是れを、
『禅波羅蜜』と、
『呼ぶ!』。
如佛告舍利弗。菩薩般若波羅蜜中住。具足禪波羅蜜。不亂不味故。 仏の舎利弗に告げたまえるが如し、『菩薩は、般若波羅蜜中に住して、禅波羅蜜を具足す。乱れず、味わわざるが故に』、と。
『仏』が、
『舎利弗』に、こう告げられた通りである、――
『菩薩』は、
『般若波羅蜜』中に、
『住まって!』、
『禅波羅蜜』を、
『具足する!』のは、
『心』が、
『乱れず!』、
『禅の楽』を、
『味わわないからである!』、と。
問曰。云何名亂。 問うて曰く、云何が乱と名づくる。
問い、
何故、
『乱れる!』と、
『呼ぶのか?』、――
亂有二種。一者微二者麤。微者有三種。一愛多二慢多三見多。 乱には二種有り、一には微なる、二には麁なる。微には、三種有り、一には愛多く、二には慢多く、三には見多し。
『乱』には、
『二種』有り、
一には、
『微細の乱であり!』、
二には、
『麁大の乱である!』。
『微細』には、
『三種』有り、
一には、
『愛』の、
『多い!』が故に、
『乱れ!』、
二には、
『慢』の、
『多い!』が故に、
『乱れ!』、
三には、
『見』の、
『多い!』が故に、
『乱れる!』。
云何愛多。得禪定樂其心樂著愛味。 云何が、愛多き。禅定の楽を得て、其の心に楽しみ、著し、愛して、味わう。
何故、
『愛』が、
『多い!』と、
『乱れるのか?』、――
『禅定』の、
『楽』を、
『得て!』、
其の、
『心』が、
『楽しみ!』、
『著し!』、
『愛し!』、
『味わうからである!』。
云何慢多。得禪定時自謂難事已得而以自高。 云何が慢多き。禅定を得る時、自ら、『難事を已に得たり』、と謂いて、以って自高すればなり。
何故、
『慢』が、
『多い!』と、
『乱れるのか?』、――
『禅定』を、
『得た!』時、
自ら、――
『難事』を、
『得た!』と、
『謂って!』、
自ら、
『高ぶるからである!』。
云何見多。以我見等入禪定。分別取相。是實餘妄語。是三名為微細亂。從是因緣於禪定退起三毒。是為麤亂。 云何が、見多き。我見等を以って禅定に入り、分別して『是れは実なり、余は妄語なり』、と相を取ればなり。是の三を名づけて、微細の乱と為す。是の因縁に従って、禅定より退きて、三毒を起す。是れを麁の乱と為す。
何故、
『見』が、
『多い!』と、
『乱れるのか?』、――
『我見』等のまま、
『禅定』に、
『入れば!』、
『分別して!』、
『相』を、
『取るからである!』、――
謂わゆる、
是れは、
『実である!』が、
その他は、
『妄語である!』、と。
是の、
『三』を、
『微細の乱』と、
『呼び!』、
是の、
『因縁により!』、
『禅定より!』、
『退いて!』、
『三毒』を、
『起せば!』、
是れを、
『麁大の乱』と、
『呼ぶ!』。
味者初得禪定一心愛著是為味。 味とは、初めて禅定を得て、一心に愛著す、是れを味と為す。
『味わう!』とは、
初めて、
『禅定』を、
『得て!』、
『一心に!』、
『愛著する!』が故に、
是れを、
『味わう!』と、
『呼ぶ!』。
  (み):梵語 rasa, rasana の訳、味/味わうこと( tast/ tasting, flavor/ flavoring )の義。
問曰。一切煩惱皆能染著。何以故但名愛為味。 問うて曰く、一切の煩悩は、皆能く染著す。何を以っての故にか、但だ愛を名づけて、味と為す。
問い、
一切の、
『煩悩』は、
皆、
『染著することができる!』のに、
何故、
但だ、
『愛する!』ことのみを、
『味わう!』と、
『呼ぶのですか?』。
  染著(ぜんじゃく):染汚されたる執著。『大智度論巻17下注:染汚』参照。
  (ぜん):また染汚と称す。『大智度論巻17下注:染汚』参照。
  染汚(ぜんお):梵語 kliSTa の訳。染濁汚穢の意。又雑染と云い、或いは単に染とも名づく。即ち不善及び有覆無記の法を云う。「倶舎論巻7」に、「染とは謂わく不善と有覆無記となり」と云い、又「梁訳摂大乗論釈巻3」に、「染汚と言うは、此の業は煩悩と相応するが故に染汚と名づく。又染汚より生ずるが故に染汚と名づけ、能く六道生死の染汚の果報を感ずるが故に染汚と名づく」と云える是れなり。是れ煩悩と相応する業を業染汚と名づくることを説けるものなり。「大乗荘厳経論巻3」には、衆生の染汚に煩悩染汚、業染汚、生染汚の三種ありとなせり。就中、煩悩染汚とは又煩悩雑染と名づく、即ち諸の煩悩を云い、業染汚とは又業雑染と名づく、即ち諸の不善業を云い、生染汚とは又生雑染と名づく、即ち諸の生死の果を云うなり。「辯中辺論巻下」には此の中の煩悩雑染に諸見と貪瞋癡相と後有願の三種あり、空智と無相智と無願智とを以って能対治となす。業雑染は即ち所作の善悪業にして、不作智を能対治となす。生雑染に後有の生、生已心心所念念起、後有相続の三種あり、無生智、無起智、無自性智を以って能対治となすと云えり。又「大乗阿毘達磨雑集論巻15」には、更に此の三種に障雑染を加えて総じて四種の雑染ありとなせり。又「倶舎論巻6」には諸の染汚法生起の因を明し、心心所法は異熟因を除きて余の遍行等の五因に由りて生じ、染汚の色及び不相応行は異熟因及び相応因を除き、余の遍行等の四因より生ずとなせり。是れ蓋し異熟は染汚に非ざるが故に総じて異熟因を除き、色及び不相応行は相応法に非ざるが故に相応因を除きたるなり。又「大毘婆沙論巻18」、「阿毘曇甘露味論巻上」、「入阿毘達磨論巻下」、「雑阿毘曇心論巻1、2」、「倶舎論巻18」、「順正理論巻18、20」、「瑜伽師地論巻13、81、88」、「顕揚聖教論巻1」、「唐訳摂大乗論釈巻2、3」、「大乗阿毘達磨雑集論巻3」、「成唯識論巻4」、「倶舎論光記巻6、7」等に出づ。<(望)
  (あい):(一)梵語 tRSNaa の訳。十二因縁の一。又愛支と名づく。「大毘婆沙論巻23」に、「云何が愛なる。謂わく已に食愛婬愛及び資具愛を起すと雖も、而も未だ此れが為に四方に追求して労倦を辞せざることあらず、是れ愛の位なり」と云い、「倶舎論巻9」に、「妙資具を貪して婬愛現行するも未だ広く追求せず、此の位を愛と名づく」と云える是れなり。是れ謂わゆる分位縁起の説にして、即ち青年期に及び既に婬貪の心を起すも、未だ広く追求するに至らざる間を愛支と名づけたるなり。蓋し説一切有部に於いては十二因縁に三世両重の因果を分ち、愛と取及び有の三を現在の三因とし、分位縁起の説を作すと雖も、経量部にては之を経説に違背すとなし、唯楽等の三受より三種の愛を引生するを愛支となせり。即ち「倶舎論巻9」に、「此の三受より三愛を引生す、謂わく苦逼るに由りて楽受に於いて欲愛を発生することあり、或いは楽と非苦楽との受に於いて色愛を発生することあり、或いは唯非苦楽受に於いて無色愛を生ずることあり」と云える其の説なり。是れ欲界の苦に逼悩せらるるに由り楽受に於いて欲愛 kaama- tRSNaa を生じ、色界初二三禅の楽受及び第四禅の非苦楽受に於いて色愛 ruupa- tRSNaa を生じ、或いは唯無色界の非苦楽受に於いて無色愛 aruupa- tRSNaa を生ずるを愛支となすの意なり。又唯識大乗に於いては唯一重の因果を立て、愛取有の三を能生支と名づけ、其の中、愛は第六意識相応の俱生の煩悩にして、正しく後有を縁じて起す潤生の惑をなせり。「成唯識論巻8」に、「三に能生支は謂わく愛と取と有となり。近く当来の生老死を生ずるが故なり。謂わく内の異熟果に迷う愚に縁りて正しく能く後有を招く諸業を発し、縁と為りて親しく当来生老死の位の五果を生ずる種を引発し已り、復た外の増上果に迷う愚に依りて、境界受を縁として貪愛を発起す」と云える是れなり。是れ無明によりて業を発し、業によりて識等の五果の種を引発して当果を決定せしめ、更に境界受を縁として愛を起し、此の愛の潤力によりて近く生老死の果を生ぜしむるものなるを明にするの意なり。又「識身足論巻3」、「法蘊足論巻12」、「雑阿毘曇心論巻8」、「瑜伽師地論巻93」、「倶舎論巻10、19」、「大乗阿毘達磨雑集論巻4」、「成唯識論述記巻8末」等に出づ。(二)九結の一。愛結 anunaya- saMyojana と名づけ、又随順結と訳す。即ち境に染著する貪煩悩を云う。「大毘婆沙論巻50」に、「云何が愛結なる、謂わく三界の貪なり。然るに三界の貪は九結の中に於いては総じて愛結と立て、七随眠の中には二随眠を立つ。謂わく欲界の貪を欲貪随眠と名づけ、色無色界の貪を有貪随眠と名づく。余経の中に於いては立てて三愛となす、謂わく欲愛色愛無色愛なり」と云い、「順正理論巻54」に、「何に縁りて此の貪を説いて名づけて愛と為すや。此れ染心に境を随楽する所なるが故なり」と云える是れなり。是れ三界の貪を総称して愛結となすなり。又「集異門足論巻4」に欲愛色愛無色愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪、執蔵、防護、耽著、愛染を欲愛と名づけ、諸色の中に於ける諸貪等貪等を色愛、無色の中に於ける諸貪等貪等を無色愛と名づくとし、又欲愛、有愛、無有愛の三愛を説き、諸欲の中に於ける諸貪等貪等を欲愛 kamaa- tRSNaa 、色無色界の諸貪等貪等を有愛 bhava- tRSNaa 、無有を欣う者が無有の中に於ける諸貪等貪等を無有愛 vibhava- tRSNaa と名づくと云い、又「勝鬘経」に五住地の惑を説く中、欲愛住地、色愛住地、有愛住地の名を挙げ、「大般涅槃経巻13」には四諦の中の集諦を愛とし、之に二種三種四種五種の別あることを説き、「愛に二種あり、一に己身を愛し、二に所須を愛す。復た二種あり、未だ五欲を得ざれば心を繋けて専ら求め、既に求めて得已れば堪忍して専ら著す。復た三種あり、欲愛色愛無色愛なり。復た三種あり、業因縁愛と煩悩因縁愛と苦因縁愛となり。出家の人に四種の愛あり、何等をか四となす、衣服飲食臥具湯薬なり。復た五種あり、五陰に貪著し、諸の所須に随って一切愛著す」と云えり。此等は皆貪を名づけて愛となせるものなり。又「大毘婆沙論巻48、49、56、173」、「成実論巻9貪相品」、「入阿毘達磨論巻上」、「倶舎論巻21」等に出づ。(三)梵語 preman の訳。又は priya. 即ち不染汚の心を以って法、又は師長等を愛楽するを云う。「大毘婆沙論巻29」に、「愛に二種あり、一に染汚は謂わく貪なり。二に不染汚は謂わく信なり」と云い、「倶舎論巻4」に、「愛は謂わく愛楽なり、体即ち是れ信なり。然るに愛に二あり、一に有染汚、二に無染汚なり。有染は謂わく貪なり、妻子等を愛するが如し。無染は謂わく信なり、師長等を愛するが如し」と云える是れなり。是れ不染汚の愛は信を其の体となすことを明せるなり。又「大般涅槃経巻13」に、「愛に二種あり、一には善愛、二に不善愛なり。不善愛は惟愚のみ之を求め、善法愛は諸菩薩求む。善法愛とは復た二種あり、不善と善となり。二乗を求むる者を名づけて不善となし、大乗を求むる者是れを名づけて善となす」と云い、又「大智度論巻72」に、「愛は貪欲煩悩の心にして行ずべからず、当に慈愛の心を行ずべし。世間の法は妻子牛馬等を愛念し、怨賊等を憎悪す。菩薩は此の世間の法を転じ、但だ慈愛の心を一切の衆生に行ず」と云い、「大乗荘厳経論巻9」に、「一切の世間は皆世楽及び自身の命を愛す、一切の声聞縁覚は世楽及び自身の命を愛せずと雖も、而も涅槃に於いて住著の意を起す。菩薩は爾らず、大悲自在なるが故に涅槃に於いて尚お住せず、何に況んや彼の二愛の中に住せんや。既に大悲無著を説く、次に大悲愛勝を説かん」と云えり。是れ大乗法を楽求し、又衆生を悲愍するを愛と名づけたるものにして、皆不染愛を説けるものなり。但し「梵文大乗荘厳経論」には今の愛を sneha となせり。又「大般涅槃経巻16」、「順正理論巻11」、「成唯識論巻6」等に出づ。<(望)
答曰。愛與禪相似。何以故。禪則攝心堅住愛亦專著難捨。 答えて曰く、愛は禅と相似すればなり。何を以っての故に、禅は、則ち心を摂して、堅く住め、愛も亦た専ら著して捨て難ければなり。
答え、
『愛』は、
『禅』と、
『相似するからである!』。
何故ならば、
『禅』とは、
則ち、
『心』を、
『摂めて!』、
『堅く!』、
『住めることであり!』、
『愛』も、
亦た、
『専ら!』、
『著して!』、
『捨てる!』ことが、
『難しいからである!』。
又初求禪時。心專欲得。愛之為性欲樂專求。欲與禪定不相違故。既得禪定深著不捨則壞禪定。 又、初めて禅を求むる時、心は専ら得んと欲し、之を愛するを性と為せば、楽を欲して専ら求むる、欲と禅定とは相違せざるが故に、既に禅定を得て、深く著して捨てざれば、則ち禅定を壊る。
又、
初めて、
『禅』を、
『求める!』時、
『心』は、
専ら、
『禅』を、
『得よう!』と、
『思う!』ので、
之を、
『愛する!』ということが、
『禅』の、
『性である!』。
『楽』を、
『得ようとして!』、
『専ら!』、
『求めるならば!』、
『欲』と、
『禅定』とは、
『相違しない!』が故に、
既に、
『得た!』、
『禅定』に、
『深く!』、
『著し!』、
之を、
『捨てなければ!』、
則ち、
『禅定』を、
『壊ることになる!』。
譬如施人物。必望現報則無福德。於禪受味愛著於禪。亦復如是。是故但以愛名味。不以餘結為味
大智度論卷第十七
譬えば、人に物を施すに、必ず現報を望めば、則ち福徳無きが如し。禅に於いて、味を受け、禅を愛著するも、亦復た是の如し。是の故に但だ、愛を以って味と名づけ、余の結を以って味と為さず。
大智度論巻第十七
譬えば、
『人』に、
『物』を、
『施すごとに!』、
必ず、
『現報』を、
『望めば!』、
則ち、
『福徳』は、
『無いように!』、
『禅』中に、
『味』を、
『受けて!』、
『禅』を、
『愛し!』、
『著する!』のも、
亦た、
『是の通りである!』。
是の故に、
『愛する!』ことを、
『味わう!』と、
『呼び!』、
『その他』の、
『結』を、
『味わう!』とは、
『呼ばないのである!』。

大智度論巻第十七
  現報(げんぽう):梵語 dRSTa- dharma- phala, dRSTa- dharma- vedaniiya 等の訳、現世の果報( present retribution )の義、現世の行為の果報( Retribution in this life for one's deeds. )の意。


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