巻第十六(下)
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釋初品中毘梨耶波羅蜜義第二十七
 龍樹菩薩造
 後秦龜茲國三藏法師鳩摩羅什奉 詔譯


精進の種種相

復次菩薩精進世世勤修。求諸財寶給施眾生心無懈廢。自有財物能盡施與心亦不懈。 復た次ぎに、菩薩の精進して、世世に勤修すらく、諸の財宝を求め、衆生に給施して、心の懈廃無く、自ら有する財物を、能く尽く施与して、心も亦た懈らざるなり。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『精進して!』、
『世世に!』、
『勤修して!』、――
諸の、
『財宝』を、
『求めて!』、
『衆生』に、
『給施し!』、
『心』に、
『懈廃する!』こと、
『無く!』、
自ら、
『所有する!』、
『財物』を、
『衆生』に、
『尽く!』、
『施与しても!』、
『心』は、
『まったく!』、
『懈らない!』。
  勤修(ごんしゅ):専念すること/尽力すること( application, exertion )、梵語 abhiyoga の訳、精力的な努力( energetic effort )の義。
  給施(くせ):与え施す。
  懈廃(けはい):怠惰( indolence )、梵語 kilaasitaa の訳、怠惰な/疲労した( indolent, weary )の義。
復次精進持戒。若大若小一切能受。一切能持不毀不犯。大如毛髮。設有違失即時發露初不覆藏。 復た次ぎに、精進して持戒すらく、若しは大、若しは小なるも、一切を能く受け、一切を能く持ちて毀たず、犯さざること、大なること毛髪の如きすら、設(も)し違失有らば、即時に発露し、初より覆蔵せざるなり。
復た次ぎに、
『精進して!』、
『持戒する!』。
即ち、――
『大戒』も、
『小戒』も、
一切の、
『戒』を、
『堅持して!』、
『毀犯せず!』、
譬えば、
『毛髪』ほどの、
『大きさ!』であろうと、
若し、
『戒』に、
『違失(過失)』が、
『有れば!』、
即時に、
『発露して!』、
初より、
『犯戒』を、
『覆蔵しない!』。
  毀犯(きぼん):禁戒を犯すこと( to violate [the precepts] )、梵語 aapatti の訳、違反/違背( An infraction, an infringement )の義。
  発露(ほろ):曝露する( to disclose )、梵語 dezanaa の訳、指導( direction, instruction )の義、罪を曝露することで指導されること( to reveal in teaching )。自ら進んで犯した罪を曝露すること。
  覆蔵(ふくぞう):包み隠す( concealing )、梵語 chaadayati, praticchanna, chaadana の訳、包み隠された( covered, enveloped, hidden, concealed, disguised )の義、過失、特に比丘衆、比丘尼衆に於いて、禁戒を破ったことを包み隠すこと( The fault, especially on the part of monks and nuns, of concealing their breaking of the precepts )の意。
復次懃修忍辱。若人刀杖打害罵詈毀辱及恭敬供養。一切能忍不受不著。於深法中其心不沒亦不疑悔。 復た次ぎに、懃修して忍辱すらく、若しは人は、刀杖もて打害し、罵詈もて毀辱し、及び恭敬し供養せん、一切を能く忍びて、受けず、著せず。深法中に於いて、其の心を没せず、亦た疑悔せず。
復た次ぎに、
『精進』とは、
『懃修して!』、
『忍辱することである!』、――
謂わゆる、
若し、
『人』が、
『刀杖』で、
『打害したり!』、
『罵詈して!』、
『毀辱しても!』、
又は、
『恭敬して!』、
『供養した!』としても、
一切を、
『忍んで!』、
『受ける(受容する)こともなく!』、
『取る(執著する)こともなく!』、
又、
『深法』中に、
『心』を、
『埋没させることもなく!』、
『疑悔することもない!』。
  懃修(ごんしゅ):懸命に修練する( diligently cultivates )、梵語 aataapin の訳、熱心に( zealous )の義。勤修に同じ。
  罵詈(めり):嘲笑う( to mock )、梵語 aakroza の訳、刺のある言葉で攻撃する/叱りつける/悪口をいう/口汚く罵る( assailing with harsh language, scolding, reviling, abuse )の義。
  毀辱(きにく):悪口を言う/罵る/非難する( to revile, abuse, accuse )、梵語 kutsana の訳、非難するような、又は口汚い表現/口汚くののしる/悪口を言う/非難する( reproachful or abusive expression, abuse, reviling, reproach )の義。
  恭敬(くぎょう):尊敬する( to respect )、梵語 puujaa の訳、崇拜する/敬慕する/尊敬する/崇敬する/尊敬/敬意( To worship, venerate, honor, revere. Reverence, respect )の義。
  供養(くよう):贈物をする( to make offerings )、梵語 puujaa の訳、崇拜する/尊敬する/敬慕/敬意( To worship, respect, reverence, veneration )の義、食物、飲料、衣服等を仏、比丘、教師、先祖等に提供すること( An offering of food, drink, clothing etc. to a buddha, monk, teacher, ancestor etc. )の意。
  (にん):耐える( to bear )、梵語羼提 kSanti の訳、忍辱に同じ、我慢する(To endure, stand, put up with )の義。六波羅蜜の一。
  (じゅ):◯梵語vedaanaaの訳、知覚、感受、苦痛等の義、即ち苦受、楽受、捨受の三受。◯梵語upaadaanaの訳、又取と訳す、執著の義。the act of taking for one's self , appropriating to one's self. 自分の物にする行為、取る。執著する。十二因縁の一。◯梵語 upaadaaya の訳、受取る/取得する( receiving, acquiring )、~の助けを借りて/~を用いて/依存する( by help of, by means of, depending on )の義。◯梵語 samaadaana の訳、残さず全てを手に入れる/抱え込む/請け負う/結果を招く( taking fully or entirely, taking upon one's self. contracting, incurring )の義、容認する/容認( to accept, acceptance )の意。
  (しゅ):手に入れる/つかむ/自分のものにする( to obtain, to seize, grasp, appropriate )、◯梵語 upaadaana の訳、此の言葉の言外の意味の是/非は、文脈に従って変化する( The positive and negative connotations of this term vary according to the context )。十二因縁の第九支( he ninth of the twelve links of dependent arising )。◯梵語 graahaNa ( √(grah) ) の訳、繰り返して、握りしめる/保持する/捕える/受取る/理解することを言外の意味として、頑強にしがみつくを示唆する執の同義語として頻繁に用いられる( its connotations are once again that of seizing, holding, catching, receiving, apprehending, and quite often synonymous with that of 執, which has more clear connotations of stubborn clinging )。
  疑悔(ぎけ):疑惑と後悔( doubts and regrets )、梵語 vizaada, kaukRtya, vipratisaara, vicikitsaa の訳、落胆/意気消沈( dejection, depression, despondency )の義、絶望する( to give up hope )の意。
復次專精一心修諸禪定。能住能守得五神通及四等心勝處背捨十一切處。具諸功德得四念處及諸菩薩見佛三昧。 復た次ぎに、専精、一心に諸の禅定を修め、能く住まり、能く守りて、五神通、及び四等心、勝処、背捨、十一切処を得、諸の功徳を具えて、四念処、及び諸の菩薩の見仏三昧を得。
復た次ぎに、
『精進』とは、――
『専精』、
『一心』に、
諸の、
『禅定』を、
『修めて!』、
『住まることができ!』、
『守ることができる!』、――
謂わゆる、
『五神通』や、
『四等心』、
『八勝処』、
『八背捨』、
『十一切処』を、
『得て!』、
諸の、
『功徳』を、
『具え!』、
『四念処』と、
諸の、
『菩薩』の、
『見仏三昧』とを、
『得ることである!』。
  専精(せんしょう):精力を集中し、一志に専心すること( to focus one's energies )、梵語 tiivra, aataapin の訳、熱中する( to zealous )の義、悟りを得るための修行に心を専ら集中させる( To fully focus one's mind in practice (toward the attainment of enlightenment) )の意。
  五神通(ごじんつう):五通。五種の神通の意。『大智度論巻16(下)注:五通』参照。
  五通(ごつう):五種の神通の意。梵語 paJcaabhijJaa の訳。四根本静慮に依りて得する五種の神通を云う。具さに五神通と名づく。一に神境智証通 Rddhi- viSaya- jJaana- saaksaatkriyabhijJaa (又は Rddhy- abhijnaa )、二に天眼智証通 divya- cakSur- jJaa.- saa.、三に天耳智証通 divya- zrotra- jJaa.- saa.(又は divya- srotraabhijJaanaa )、四に他心智証通 cetaH- paryaaya- jJaa.- saa.(又は cetaH- paryaayaabhijJaa )、五に宿住随念智証通 puurve- nivaasaanusmRti- jJaa.- saa.なり。「大毘婆沙論巻141」に、「五通とは一に神境智通、二に天眼智通、三に天耳智通、四に他心智通、五に宿住随念智通なり。此の五は皆慧を以って自性と為す」と云えるこれなり。就中、神境智証通とは又神境智通、神境通、神足通、或は身如意通、如意通、又は身通とも名づく。即ち意の如く境界を変現し、又飛行自在なる通力を云う。「大智度論巻5」には之を能到と転変と聖如意の三種ありとし、而して能到に更に四種あり、一に身能く飛行すること鳥の無礙なるが如く、二に遠を移して近からしめ、往かずして而も到り、三に此に没して彼に出で、四に一念にして能く至ると云い、転変とは大を能く小と作し、小を能く大と作し、一を能く多と作し、多を能く一と作し、種種の諸物をして皆能く転変せしむるを云い、聖如意とは外の六塵の中の不可愛不浄物をして、能く観じて浄ならしめ、可愛浄物をして能く観じて不浄ならしむ。これ仏のみ独り有する所なりと云えり。天眼智証通とは又天眼智通、天眼通とも名づく。即ち此の眼に於いて色界の四大種所造の浄色を得し、能く自他及び下地の中に於ける若しは近、若しは遠、若しは麁、若しは細の諸色を見て、悉く照らさざるなきを云う。但し五眼の中の天眼は報と修との所得なるも、五通の中の天眼は唯修得にして報得に非ず。天耳智証通とは又天耳智通、天耳通とも名づく。耳に於いて色界の四大種所造の浄の色を得し、能く天声人声三悪道声等の一切遠近の声を聞くを云う。他心智証通とは又他心智通、知他心通、他心通とも名づく。他人の心の若しは有垢、若しは無垢なるを知るを云う。宿住随念智証通とは又宿住随念智通、宿住智通、識宿命通、或は宿命通とも名づく。過去世中の一世十世百世千万億世を憶念し、乃至大阿羅漢辟支仏は八万大劫、諸大菩薩及び仏は無量劫を了知するを云うなり。又此の中、前の神境等の三通を修せんと欲せば、軽(仏)と先(眼)と声(耳)とを思惟して以って加行成満し、成じ已れば自在に所応に随って為作することを得。他心智通を修せんと欲せば、先づ審に己が身心二相の前後変異し、展転して相随逐することを観じ、後更に他の身心の相を観じ、之に依りて漸次に加行成満し、初めて自心の諸色を観ぜずして能く実の如く他心を了知することを得。宿住通を修せんと欲せば、先づ審に前滅の心を観じ、漸漸に復た此の生の前前の差別を逆観して生有の結生の心に至り、乃至中有の前の一念を憶知して能く加行成満するなり。又此の中の初の神境等の四は有漏にして唯世俗智に摂し、他心智通は無漏にも通じ、法と類と道と世俗と他心との五智を摂す。又四念住の中には、前の三は身念住、他心智通は余の三念住、宿住智通は四念住に摂し、又三性の中には、天眼天耳の二は無記、余は善の性なり。又此の五通は四根本静慮によりて起す所なるが故に、独り聖者に限らず、異生凡夫も亦之を得することを得。「倶舎論巻27」に、「前の五は異生も亦得す」と云い、「成実論巻16」に、「諸の外道の人を但だ五通と名づく。皆此の真智を得ざるを以っての故なり」と云えるは其の意にして、五通仙人等と称するは之に由るなり。又「菩薩処胎経巻5」、「大薩遮尼乾子所説経巻7、巻8」、「大乗本生心地観経巻6」、「仏開解梵志阿颰経」、「大方等大集経巻19」、「大智度論巻28」、「一切如来金剛三業秘密大教王経巻3」、「倶舎論光記巻27」、「同宝疏巻27」等に出づ。<(望)
  四等心(しとうしん):慈、悲、喜、捨の四無量心なり。平等に於いて、この心を起すが故に、四等心と称す。『大智度論巻13(下)注:四無量』参照。
  勝処(しょうじょ):八勝処。『大智度論巻16(下)注:八勝処』参照。
  八勝処(はっしょうじょ):梵語 aSTaavabhibhv-aayatanaani の訳。又八除入、或は八除処と名づく。即ち欲界の色処を観じて、所縁を勝伏し、貪を対治するに八種の別あるを云う。一に内有色想観外色少勝処、二に内有色想観外色多勝処、三に内無色想観外色少勝処、四に内無色想観外色多勝処、五に内無色想観外色青勝処、六に内無色想観外色黄勝処、七に内無色想観外色赤勝処、八に内無色想観外色白勝処なり。「大毘婆沙論巻85」に、「八勝処とは、一に内に色想ありて外色の少を観じ、二に内に色想ありて外色の多を観じ、三に内に色想なく外色の少を観じ、四に内に色想なく外色の多を観ず。内に色想なく外の諸色の青黄赤白を観ずるを復た四種と為す、かくの如きの八種を八勝処と名づくるなり。(中略)所縁の境に勝るるが故に勝処と名づく。復た次ぎに諸の煩悩に勝るるが故に勝処と名づく。観行者は一切能く所縁の境に勝るるに非ずと雖も、而も所縁に於いて煩悩を起さざるを亦名づけて勝と為す」と云えるこれなり。これ観行者が欲界の色処を観じて、其の所縁若しくは煩悩を勝伏し、以って欲貪を対治するを勝処と名づけ、其の境に八種の別あるが故に之を八勝処と名づくることを明にせるなり。此の中、内有色想観外色少勝処とは、内の各別の色想未だ離捨せず、之を離捨せんが為に勝解作意に由りて、外の若しは好若しは悪の少分の色境を縁じ、勝知見を起して彼の色を勝伏し、以って欲貪を断壊し超越するを云い、内有色想観外色多勝処とは、更に外の多境を縁じて彼の色を勝伏するを云い、内無色想観外色少勝処とは、内の色想已に離捨し、之を除かんが為ならずと雖も、而も外の少分の境を縁じて彼の色を勝伏するを云い、内無色想観外色多勝処とは、更に外の多境を縁じて之を勝伏するを云い、内無色想観外色青乃至内無色想観外色白勝処とは、外の諸色の青黄赤白の四色を各各別観して之を勝伏し、以って同じく欲貪を対治するを云うなり。此の八は皆無貪善根を以って自性となし、又前の四は初二静慮、後の四は第四静慮を依地となすなり。八勝処と八解脱との別に関しては、「倶舎論巻29」に、「八の中、初の二は初解脱の如く、次の二は第二解脱の如く、後の四は第三解脱の如し、若し爾らば八勝処は何ぞ三解脱と殊あらんや。前に解脱を修するは唯能く棄背す、後に勝処を修するは能く所縁を制し、楽観する所に随って惑終に起こらざるなり」と云えり。之に依るに八勝処の中、初の二は八解脱の中の第一解脱、次の二は第二解脱、後の四は第三解脱に当り、又解脱は其の縁中に於いて能く次第に棄背するのみにして、未だ自在ならざるが故に、更に八勝処を修して能く所縁を制し、煩悩をして終に起こらざらしむるものなるを知るべし。又「中阿含巻59第一得経」、「集異門足論巻19」、「大毘婆沙論巻141」、「雑阿毘曇心論巻7」、「大智度論巻21」、「成実論巻12八勝処品」、「大乗阿毘達磨論巻13」等に出づ。<(望)
  背捨(はいしゃ):八背捨。『大智度論巻16(下)注:八解脱』参照。
  八解脱(はちげだつ):梵語 aSTau vimokSaaH の訳。又八背捨とも名づく。即ち八種の定力に由りて色貪等の心を棄背するを云う。一に内有色想観諸色解脱 ruupii ruupaaNi pazyat、二に内無色想観外色解脱 adhyaatmam aruupa- saMjJii bahirdhaa ruupaaNi pazyati、三に浄解脱身作証具足住 zubhaM vimokSaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati、四に超諸色想観有対想不思惟種種想入無辺空空無辺処具足住解脱 sa sarvazoruupa- saMjJaanaaM samatikranaat pratigha- saMjJaaNaam astaMgamaan naanaatva- saMjJaanaam amanasikaaraad anantamaakaazam ity aakaazaanantyaayatanam upasaMpadya viharati、五に超一切空無辺処入無辺識識無辺処具足住解脱 sa sarvaza aakaazaanantyaayatanaM samatikramyaanantaM vijJaanam iti vijJaanaanantyaanatanam upasaMpadya viharati、六に超一切識無辺処入無所有無所有処具足住解脱 sa sarvazo vijJaanaanantyaayatanaM samatikramya naasti kiJcid ity aakiJcanyaayatanam upasaMpadya viharati、七に超一切無所有処入非想非非想処具足住解脱 sa sarvaza aakciJcanyaayatanaM samatikramya naiivasaMjJaanaasamjJaayaayatanam upasaMpadya viharati、八に超一切非想非非想処入想受滅身作証具足住解脱 sa sarvazo naiivasaMjJaanaasaM jJaayatanaM samatikramya saMjJaa- vedita- nirodhaM kaayena saakSaatkRtvopasaMpadya viharati なり。「長阿含巻10大縁方便経」に、「阿難復た八解脱あり。云何が八なる、色観色は初解脱、内色想観外色は二解脱、浄解脱は三解脱、度色想滅有対想不念雑想住空処は四解脱、度空処住識処は五解脱、度識処住不用処は六解脱、度不用処住有相無想処は七解脱、滅尽定は八解脱なり。阿難、諸の比丘、此の八解脱に於いて逆順遊行し入出自在なる、かくの如き比丘は倶解脱を得するなり」と云い、又「倶舎論巻29」に、「解脱に八あり、一に内有色想観外色解脱、二に内無色想観外色解脱、三に浄解脱身作証具足住、四に無色定を次の四解脱と為し、滅受想定を第八の解脱と為す」と云えるこれなり。此の中、解脱の義に関し、「大毘婆沙論巻84」に、「問う、何故に解脱と名づくるや、解脱はこれ何の義ぞや。答う、棄背の義これ解脱の義なり。問う、若し棄背の故に解脱と名づくれば、何等の解脱が何等の心を棄廃するや。答う、初二の解脱は色貪の心を棄背し、第三の解脱は不浄観の心を棄背し、四無色解脱は各自に次下の地の心を棄背し、想受滅解脱は一切の有所縁の心を棄背す。故に棄背の義はこれ解脱の義なり」と云えり。これ八種の定力に依りて色貪等の心を棄背するが故に、之を八解脱と名づくることを明にせるなり。此の中、第一内有色想観外色解脱とは又有色観諸色解脱と名づく。即ち内の色想を離れんが為に、外の諸色に於いて青瘀膿爛等の不浄の観をなすを云う。第二内無色想観外色解脱とは又内無色想観外諸色解脱と名づく。已に内に色想を離れたるも、更に之を堅牢ならしめんが為に外色に於いて不浄観をなすを云う。第三浄解脱身作証具足住とは又浄解脱とも名づく。善根の成満を試練せんが為に、初二解脱の不浄観心を棄背して外の色境の浄相を修観し、而も煩悩を生ぜざるを云う。第四超諸色想滅有対想不思惟種種想入無辺空空無辺処具足住解脱とは、又空無辺処解脱と名づく。即ち有対の色想を滅し、空無辺の行相を修して之を成就するを云う。第五超一切空無辺処入無辺識識無辺処具足住解脱とは、又識無辺処解脱と名づく、空無辺の心を棄背し、識無辺の相を修して之を成就するを云う。第六超一切識無辺処入無所有無所有処具足住解脱とは、又無所有処解脱と名づく、識無辺の心を棄背し、無所有の相を修して之を成就するを云う。第七超一切無所有処入非想非非想処具足住解脱とは又非想非非想処解脱と名づく。無所有心を棄背して明勝の想無く、而も無想に非ざる相に住して之を成就するを云う。第八超一切非想非非想処入想受滅身作証具足住解脱とは、又滅受想解脱と名づく、即ち受想を厭背し、一切の心心所法を滅する滅尽定を云うなり。此の中、第一第二は通じて初禅及び第二禅に依りて顕色の貪を治し、第三は第四禅に依りて浄観を修し、共に無貪を性となし、第四より第七に至る四は四無色の定善を性となし、第八は有頂地に依り有所縁心を滅するを以って性となし、総じて棄背の義あるが故に皆之を解脱と名づけたるなり。然るに「成実論巻12八解脱品」には、初の三解脱を以って色法を空じ、次ぎに四無色解脱を以って心識を空じ、又滅尽定に煩悩尽と煩悩未尽との二種を立て、其の中、煩悩尽を以って第八解脱となし、但だ空観を以ってのみ解脱を得べきことを説き、婆沙等に於いて初二の解脱を不浄、第三の解脱を浄と名づくるを非し、不浄又は浄観を以っては解脱を得ることなしと論難せり。又「中阿含巻24大因経」、「集異門足論巻18」、「品類足論巻7」、「雑阿毘曇心論巻7」、「阿毘曇甘露味論巻下雑定品」、「顕揚聖教論巻4」、「大乗阿毘達磨雑集論巻13」、「法界次第初門巻中之上」等に出づ。<(望)
  十一切処(じゅういっさいじょ):十一切入、十徧処等。『大智度論巻11(上)注:十徧処』参照。
  四念処(しねんじょ):四種の念処の義。『大智度論巻15(下)注:四念処』参照。
  見仏三昧(けんぶつさんまい):般舟三昧、観仏三昧等の定に入って仏の境界を見るを云う。『大智度論巻9(上)注:般舟三昧』参照。
復次菩薩精進求法不懈。身心懃力供養法師。種種恭敬供給給使。初不違失亦不廢退。不惜身命 復た次ぎに、菩薩の精進は、法を求めて懈らず、身心の力を懃めて、法師を供養し、種種に恭敬し、供給し、給使し、初より違失せず、亦た廃退せず、身命を惜まず。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『精進』は、
『法』を、
『求めて!』、
『懈らず!』、
『身心』の、
『力』を、
『尽くして!』、
『法師』を、
『供養し!』、
種種に、
『恭敬し!』、
『供給し!』、
『給使して!』、
初より、
『違失せず(逃げ出さず)!』、
『廃退せず!』、
『身命を惜まない!』。
  懃力(ごんりき):力を尽くしてつとめる。努力。
  供給(くきゅう):贈物をする( to make offerings )、梵語 upasthaana の訳、食物等を供給する( to supply (a meal, etc.) )の意。
  給使(きゅうし):付き添う/世話をする( to attend )、梵語 upasthaana の訳、自分自身を近づける、又は近くへ行く行為/接近( the act of placing one's self near to, going near, approach, access )の義、召使となる/奉仕すること( to serve )の意。
  違失(いしつ):間違い( error )、梵語 un-√(muc), praNaazayati の訳、縄を解く/自分自身を解放する/逃げる( to unbind, unfasten, to unfasten one's self, get loose )、停止/中断( cessation )の義。
以為法故。誦讀問答。初中後夜思惟憶念籌量分別。求其因緣選擇同異。欲知實相一切諸法自相異相總相別相一相有相無相如實相。諸佛菩薩無量智慧心不沒不退。是名菩薩精進。如是等種種因緣。能生能辦種種善法。是故名為精進波羅蜜。波羅蜜義如先說。 法の為を以っての故に読誦し、問答し、初中後夜に思惟し、憶念し、籌量し、分別して、其の因縁を求め、同異を選択して、実相なる一切諸法の自相と、異相、総相、別相、一相、有相、無相、如実相と、諸仏菩薩の無量の智慧を知らんと欲して、心没せず、退せざる、是れを菩薩の精進と名づく。是の如き等の種種の因縁は、能く種種の善法を生じて、能く辦ずれば、是の故に名づけて、精進波羅蜜と為す。波羅蜜の義は先に説けるが如し。
『法』を、
『成就する!』為の故に、
『日中』には、
『読誦し!』、
『問答し!』、
『初、中、後夜』には、
其の、
『因縁(理由:読誦問答中の疑問)』を、
『思惟し!』、
『憶念し!』、
『籌量し(思い計る)!』、
『分別して!』、
『同』と、
『異』とを、
『選択し!』、
一切の、
『諸法』の、
『実相である!』、
『自相』、
『異相』、
『総相』、
『別相』、
『一相』、
『有相』、
『無相』、
『如実相』と、
諸の、
『仏、菩薩』の、
『無量』の、
『智慧』とを、
『知ろうとして!』、
『心』が、
『埋没することもなく!』、
『廃退することもない!』、
是れを、
『菩薩』の、
『精進』と、
『呼ぶ!』。
是れ等のような、
種種の、
『因縁』は、
種種の、
『善法』を、
『生じさせることができ!』、
『成し遂げさせることができる!』ので、
是の故に、
『精進波羅蜜』と、
『称する!』。
『波羅蜜』の、
『義(意味)』は、
先に、
説いた通りである!。
  籌量(ちゅうりょう):はかる。計量。
  自相(じそう):自相は諸法の自性に依る相。
  異相(いそう):異相は自性に依るには非ざる相。又は事物の衰退の相、即ち四相の一。
  総相(そうそう):総じて一切法に通ずる空相。
  別相(べっそう):諸法の各各殊別の相。
  一相(いっそう):謂わゆる無二の相にして、無差別相の平等にして一味なるを云う。
  有相(うそう):諸法を有無の二相に分けたる中の、その一。
  無相(むそう):諸法を有無の二相に分けたる中の、その一。
  如実相(にょじつそう):即ち真実の実相。
  (べん):成し遂げる/遂行する( carry out )。
復次菩薩精進。名為精進波羅蜜。餘人精進不名波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩の精進を名づけて、精進波羅蜜と為し、余の人の精進は、波羅蜜と名づけず。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『精進』は、
『精進波羅蜜』と、
『称される!』が、
『他の人』の、
『精進』は、
『波羅蜜』と、
『呼ばれない!』。
問曰。云何為精進滿足。 問うて曰く、云何が、精進満足すと為す。
問い、
何を、
『精進』が、
『満足する!』と、
『称するのですか?』。
答曰。菩薩生身法性身能具功德。是為精進波羅蜜滿足。滿足義如上說。 答えて曰く、菩薩の生身と法性身と、能く功徳を具う。是れを精進波羅蜜を満足すと為す。満足の義は、上に説けるが如し。
答え、
『菩薩』が、
『生身』と、
『法性身』とで、
『功徳』を、
『具足することができれば!』、
是れを、
『精進波羅蜜』を、
『満足する!』と、
『称する!』。
『満足』の、
『義』は、
先に、
説いた通りである。
  生身(しょうじん):父母所生の身の意。二身の一。法身に対す。具さに生身仏と云い、又父母生身、肉身、或は随世間身とも名づく。即ち三十二相を具足せる父母所生の仏身を云う。「増一阿含経巻44」に、「我が釈迦文仏の寿命は極めて長し。然る所以は、肉身は滅度を取ると雖も、法身は存在すればなり」と云い、「大毘婆沙論巻30」に、「如来の法身は衰退なしと雖も、而も生身の力は必ず退滅あり」と云い、「大智度論巻9」に、「仏に二種の身あり。一には法性身、二には父母生身なり。(中略)能く十方世界の衆生を度し、諸の罪報を受くるはこれ生身仏なり。生身仏は次第して説法すること人の法の如し」と云い、又「同巻29」に、「生身の為の故に三十二相を説き、法身の為の故に無相を説く。仏身は三十二相八十種形相を以って自ら荘厳し、法身は十力四無所畏四無礙智十八不共法の諸功徳を以って荘厳す」と云えるこれなり。これ迦毘羅城に降誕し、菩提樹下に成道し、寿八十にして入滅せられたる釈尊を称して生身仏と名づけたるなり。又大乗に於いては生身仏を以って化身とし、法身及び報身を仏の実身となせり。「大般涅槃経巻34」に、「如来の身に凡そ二種あり、一には生身、二には法身なり。生身と言うは即ちこれ方便応化の身なり。かくの如き身はこれ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学と言うを得べし」と云い、「法身経」に、「諸仏如来に二種の身あり、皆河沙の功徳を具す。何等をか二と為す、所謂化身と法身なり。而も化身は父母より生ずる所なるを示す。三十二相八十種好を具す」と云い、「仏地経論巻7」に、「仏に二種の身あり、一には生身、二には法身なり。若しは自性身、若しは実の受用を倶に法身と名づく、諸の功徳法の依止する所なるが故に、諸の功徳法の集成する所なるが故なり。若しは変化身、若しは他受用を倶に生身と名づく、衆の宜しき所に随って数(しばしば)生を現ずるが故なり」と云える即ち其の説なり。但し普通に生身と云えば父母生身の意なるが故に、広く凡夫及び菩薩等の肉身を指すなり。「金七十論巻中」に出せる父母生身の如き亦此の意なり。又「中阿含巻58法楽比丘尼経」、「離垢施女経」、「楞伽阿跋多羅宝経巻4」、「十住毘婆沙論巻10」、「大智度論巻10、巻16、巻29、巻33、巻34、巻88」、「雑阿毘曇心論巻10」、「大乗法苑義林章巻7本」等に出づ。<(望)
  法性身(ほっしょうじん):法身、或は法性生身とも云う。『大智度論巻16(下)注:法身、法性生身』参照。
  法身(ほっしん):梵語 dharma- kaaya の訳。法の身の意。又法仏、法身仏と云い、或は自性身、法性身、如如仏、実仏、又は第一身とも称す。二身の一、三身の一。即ち仏所説の正法及び仏所得の無漏法、並びに仏の自性たる真如如来蔵を云う。「増一阿含経巻1序品」に、「釈師世に出でて寿極めて短し。肉体逝くと雖も法身在り。当に法本をして断絶せざらしむべし」と云い、「同巻44」に、「我れ滅度の後、法当に久しく住すべし。(中略)我れ釈迦文仏は寿命極めて長し。然る所以は肉身は滅度を取ると雖も法身存在す」と云い、又「仏垂般涅槃略説教誡経」に、「我が滅度に於いて波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。(中略)今より已後我が諸弟子展転して之を行ぜば、則ちこれ如来の法身常在して而も滅せざるなり」と云えり。これ仏所説の法蘊を法身と名づけ、其の法の滅尽せざるを法身常在となせるものなり。無著の「金剛般若論巻上」に法身に言説法身、証得法身の二種あることを説き、「言説法身とは謂わく修多羅等なり」と云い、又「究竟一乗実性論巻4無量煩悩所纏品」に、「諸仏如来に二種の法身あり、何等をか二と為す、一には寂静法界身なり、無分別智の境界なるを以っての故なり。(中略)二には彼を得んが為の因なり、謂わく彼の寂静法界の説法なり。化すべき衆生に依りて説く。彼の説法は応に知るべし真如法身に依るを以って彼の説法あり。名づけて習気と為す」と云い、「梁訳摂大乗論釈巻15」に、「真身は即ち真如法及び正説法なり。正説法は真如法より流出す、正説身と名づく。此の二を法身と名づく」と云えるは、共に皆仏所説の正法を以って法身と名づけたるなり。但し仏所説の正法に関し、「雑阿毘曇心論巻10」には之に俗正法と第一義正法との二種あることを説き、俗正法は言説正法にして経律阿毘曇の三蔵を指し、第一義正法は彼の所顕にして、即ち三十七覚品を指すと云い、又「倶舎論巻29」に正法の体に二種あり、一に教とは契経調伏対法なり。二に証とは三乗の菩提分法なりと云えり。此の中、説一切有部に於いて第一義正法たる三十七覚品を以って所帰依の体とし、之を名づけて法身となせり。「大毘婆沙論巻34」に、「今此の身は父母に生長せられ、これ有漏法にして所帰依に非ざることを顕す。所帰依とは謂わく仏の無学を成ずる菩提法にして、即ちこれ法身なり」と云い、又「雑阿毘曇心論巻10」に生身法身の二身を説き、「仏所得の無学法に帰するを帰仏と名づく。仏の成就する所の無諍等の諸の有漏法に帰せず」と云える即ち其の説なり。又「大毘婆沙論巻17」には仏所得の諸の不共法等を以って法身となし、「法身は等し。謂わく一仏が十力四無畏大悲三念住十八不共法等の無辺の功徳を成就するが如く、余仏も亦爾り、故に平等と名づく」と云い、又「大智度論巻24」に、「声聞の人及び菩薩は念仏三昧を修するに、但だ仏身を念ずるのみに非ず、当に仏の種種の功徳法身を念ずべし」と云い、「同巻29」に、「生身の為の故に三十二相を説き、法身の為の故に無相と説く。仏身は三十二相八十随形好を以って而も自ら荘厳し、法身は十力四無所畏四無礙智十八不共法の諸の功徳を以って荘厳す」と云えり。これ仏の成就する所の十力四無畏等の諸の無漏の功徳を立てて法身となすの説なり。羅什の「大乗大義章巻上」に、「小乗部の者は諸の賢聖所得の無漏の功徳を以って、謂わく三十七品及び仏の十力四無所畏十八不共等を以って法身と為す。又三蔵経は此の理を顕示するを以って亦法身と名づく。この故に天竺諸国には皆云わく、仏には生身なしと雖も法身猶お存すと」と云うに依るに、小乗諸部に於いては仏所説の三蔵及び其の所詮の菩提分法、又は仏所得の無漏の功徳法を以って法身と名づけたるを知るなり。大乗に於いても此等の説を用うと雖も、亦別に仏の自性たる真如浄法界を以って法身と名づけ、法身は即ち無漏無為無生無滅なりとなせり。「維摩経巻上弟子品」に、「諸の如来の身は即ちこれ法身にして思欲の身に非ず、仏は世尊にして三界を過ぐと為す。仏身は無漏にして諸漏已に尽き、仏身は無為にして諸数に堕せず」と云い、「同巻下見阿閦仏国品」に、「自ら身の実相を観ずるが如く、仏を観ずるも亦然り。我れ如来を観ずるに前際より来たらず、後際にさらず、今則ち住せず」と云い、「大般涅槃経巻3金剛身品」に、「如来身とはこれ常住身、不可壊身、金剛の身にして雑食身に非ず、即ちこれ法身なり。(中略)如来の身は身これ身に非ず、不生不滅不習不修なり」と云い、又「大乗大義章巻上」に、「大乗部の者は謂わく、一切法は無生無滅語言道断心行処滅、無漏無為無量無辺にして、涅槃の相の如きこれを法身と名づく」と云い、「仏性論巻3事能品」に、「法身とは即ち真如の理なり」と云い、「仏地経論巻7」に、「法身は清浄真如を以って体と為す。真如は即ち諸法の実性にして法に辺際なし。法身も亦爾り、一切法に遍じて処として有らざるはなく、猶お虚空の如し」と云える皆即ち其の説なり。又「大方等如来蔵経」には、「一切衆生の貪欲恚癡諸煩悩の中に如来智、如来眼、如来身あり」と云い、「究竟一乗実性論巻3一切衆生有如来蔵品」に、「如来の法身は遍く一切の諸の衆生の身に在り」と云い、「仏性論巻4無変異品」に、「住自性仏性に因るが故に法身を説く」と云い、又「法華経論巻下」に、「法仏菩提とは、如来蔵性浄涅槃常恒清涼不変等の義なり」と云えり。これ仏性如来蔵を以って如来の法身とし、一切衆生も亦皆此の性を有すとなすの説なり。又「勝鬘経法身章」には此の中、出纏の如来蔵を以って法身と名づくることを説き、「若し無量の煩悩蔵に纏せらるる如来蔵に於いて疑惑せざる者は、無量の煩悩蔵を出づる法身に於いても亦疑惑なからん」と云い、「大乗起信論」にも、「妄心則ち滅すれば法身顕現す」と云い、又円測の「仁王経疏巻中本」に真諦三蔵の説を出し、「阿摩羅識は真如本覚を性と為す。在纏を如来蔵と名づけ、出纏を法身と名づく」と云えり。これ即ち無量の煩悩蔵に纏縛せらるるを如来蔵とし、纏縛を脱して恒沙不思議の仏法の顕現するを法身と名づけたるなり。法身の体相に関しては、「勝鬘経顛倒真実章」に、「如来の法身はこれ常波羅蜜、楽波羅蜜、我波羅蜜、浄波羅蜜なり。仏の法身に於いてこの見を作す者はこれを正見と名づく」と云い、「大般涅槃経巻34」にも、「法身は即ちこれ常楽我淨にして永く一切の生老病死を離れ、非白非黒非長非短、非此非彼非学非無学なり」と云い、「無上依経巻上菩提品」に、「惟だ仏の法身のみこれ常、これ楽、これ我、これ浄波羅蜜なり」と云い、又「究竟一乗実性論巻3」に勝鬘経の文を解し、「如来の法身は自性清浄にして、一切の煩悩障智障習気を離れたるを以っての故に名づけて浄と為す、この故に説きて唯如来の法身のみこれ浄波羅蜜なりと言うなり。寂静第一自在我を得るを以っての故に、無我の戯論を離れて究竟寂静なるが故に名づけて我と為す、この故に説きて唯如来の法身のみこれ我波羅蜜なりと言うなり、意生陰身の因を遠離することを得るを以っての故に名づけて楽と為す、この故に説きて唯如来の法身のみこれ楽波羅蜜なりと言うなり。世間涅槃平等証を以っての故に、故に名づけて常と為す、この故に説きて唯如来の法身のみこれ常波羅蜜なりと言うなり」と云えり。これ如来の法身は自性清浄にして一切の煩悩等を遠離し、寂静第一自在我を得、意生陰身の因を遠離し、世間涅槃平等証なるが故に、即ち名づけて常楽我淨となすことを明にせるなり。又「無上依経巻上」に法身は五種の相、五種の功徳と相応することを説き、「第一身とは五種の相、五種と功徳と相応す。何者か五種の相なる、一には無為、二には不相離、三には二辺を離れ、四には一切障を脱し、五には自性清浄なり。何者か五種の功徳なる、一には不可量、二には不可数、三には難思、四には不共、五には究竟清浄なり」と云い、「仏性論巻4」に之を解し、「此の五相は各何の義を顕すや。答えて曰わく、初に無為の相とは種類の義を顕さんが為なり。何を以っての故に、如来の法身は無為を以って種類相となすが故なり。二に無別異とは相の義を顕さんが為なり。如来の相を明さば当に知るべし、不一不二を相と為すが故なり。三に二辺の相を離るとは足趺の義を顕さんが為なり。足とは即ち菩薩の一切の聖道なり、趺とは聖道の所依止の処なり、二辺を捨離して能く中道の理に依らば法身に至ることを得るが故なり。四に一切の障相を離るとは、法身の功徳は諸の染汚なく、智障永く度することを顕さんが為の故なり。五に清浄法身とは法身の果は無垢澄寂なるを顕すが故なり。復た次ぎに五相次第の義は応に知るべし、初に無為相とは常住を顕し、二に無別異相とは真実の義を顕し、三に離二辺相とは対治の義を顕し、四に離一切障相とは解脱の義を顕し、五に法界清浄とは自性清浄の義を顕す。(中略)復た次ぎに五徳とは一に不可量、二に不可数、三に不可思、四に無与等、五に究竟清浄なり。一に不可量とは四義あり、一に時節久に由るが故に不可量なり、二に功用大なるが故に不可量なり、三に余の不足なきが故に不可量なり、四に中間なきが故に不可量なり。(中略)不可数とはこれ不可量の功徳なり、一とせんや多とせんや、其の数無窮にして恒沙の数に過ぐ。(中略)三に不可思とは覚観の境界に非ざるが故なり。四に無与等とは声聞独覚菩薩の三乗等と共得ならざるが故なり。五に究竟清浄とは無明住地永く滅して余なきが故なり。これを法身の五徳と名づく」と云えり。これ法身は無為常住にして不一不二を相とし、二辺の相を離れ、一切の障を解脱し、自性清浄にして不可量等の五徳を具することを説けるものなり。又「摂大乗論本巻下」に亦法身に五相あることを説き、「法身に略して五相あり、一に転依を相と為す、謂わく一切の障たる雑染分の依他起性を転滅するが故に、転じて一切の障を解脱することを得て法に於いて自在に、現前清浄分の依他起性を転ずるが故なり。二に白法の所成を相と為す、謂わく六波羅蜜多円満して十自在を得るが故なり。此の中、寿自在と心自在と衆具自在は施波羅蜜多円満するに由るが故なり、業自在と生自在は戒波羅蜜多円満するに由るが故なり、勝解自在は忍波羅蜜多円満するに由るが故なり、願自在は精進波羅蜜多円満するに由るが故なり、神力自在五遍所摂なるは静慮波羅蜜多円満するに由るが故なり、智自在と法自在は般若波羅蜜多円満するに由るが故なり。三に無二を相と為す、謂わく有無の無二を相と為すなり。一切法は無所有なるに由るが故に、空所顕の相はこれ実有なるが故に、有為無為の無二を相と為す。業煩悩の為す所に非ざるに由るが故に、自在に有為相を示現するが故に異性一性の無二を相と為す。一切仏の所依に差別なきが故に、無量の相続は現等覚なるに由るが故なり。(中略)四に常住を相と為す。謂わく真如清浄の相なるが故に、本願の所引なるが故に、所応作の事に竟るの期なきが故なり。五に不可思議を相と為す。謂わく真如清浄の自内証なるが故に、世間の喩の能く喩うるものあることなきが故に、諸の尋思の所行の処に非ざるが故なり」と云えり。これ法身は一切の障を解脱し、白法の所成にして有為無為等の二相を離れ、常住を相とし、尋伺の境界に非ずとなすの意にして、前の五相五徳の説と大旨同一なるを見るべし。又「勝鬘経一乗章」には菩提と涅槃と法身とを同格とし、「阿耨多羅三藐三菩提とは即ちこれ涅槃界なり、涅槃界とは即ちこれ如来の法身なり」と云い、「大般涅槃経巻2寿命品」には解脱と法身と般若との三法無異なるを涅槃なりとし、「解脱の法も亦涅槃に非ず、如来の身も亦涅槃に非ず、摩訶般若も亦涅槃に非ず、三法各異なるも亦涅槃に非ず。我れ今かくの如き三法に安住し、衆生の為の故に涅槃に入ると名づく」と云い、又「梁訳摂大乗論釈巻9」に、「般涅槃とは即ち法身なり」と云い、「十八空論」に、「若し仏無余に入るも而も更に心を起すは、諸仏菩薩の三身は利物無窮なるを以っての故なり。如来の法身は即ちこれ一切無漏法の依処なるが故に、散滅するも功徳を捨せずと言うなり。涅槃の中に猶お法身あるを知ることを得る所以は、用は体を証するを以ってなり。既に応化の用の尽きざるを覩るが故に、此の身の体は常に自ら湛然として永く遷壊することなきを知る」と云えるは、皆即ち寂静常住の涅槃界を以って如来法身の自相となすの説なり。但し此の中、勝鬘、涅槃等の経に般若菩提の智を以って法身となせるは、所謂智法身を説くの意なりというべし。前引「勝鬘経法身章」並びに「仏性論」等には多く唯真如如来蔵の理性を以って如来の法身となし、又「楞伽阿跋多羅宝経巻1」には如如仏智慧仏の二を別出し、「大乗起信論」にも、「色性即ち智なるが故に、色体無形を説きて智身と名づく。智性即色なるが故に説きて法身遍一切処と名づく」と云い、法身と智身とを区別せりと雖も、「合部金光明経」等には明に理智不二を以って法身となせり。即ち彼の経「巻1三身分別品」に、「惟だ如如と如如智あり、これを法身と名づく」と云い、「梁訳摂大乗論釈巻13」に、「此の三身の中、若し自性を以って法身と為さば、自性に二種あり、定んで何の自性を以って法身と為すや。一切の障滅するが故に、一切の白法円満するが故に、唯真如及び真智のみ独り存することあるを説きて法身と名づく」と云い、又「仏地経論巻7」に、「若しは自性身、若しは実の受用を倶に法身と名づく」と云い、「成唯識論巻10」にも、「此の法身は五法(浄法界と四智)を性と為す。浄法界のみ独り法身と名づくるに非ず、二転依の果を皆此に摂するが故なり」と云える皆其の説なり。これ蓋し能証の智を合せて総じて法身と名づけたるものにして、慧遠の所謂開応合真、吉蔵の所謂開迹合本の説に当れりと曰うべし。其の他、「菩薩瓔珞本業経巻上」に法性身、応化法身の二種、「同巻下」に応化法身果極法身の二種を明し、又密教にては自性受用変化等流の四身を皆法身と名づけ、更に六大法身を加えて之を五種法身となせり。又「舎利弗問経」、「大薩遮尼乾子所説経巻9」、「旧華厳経巻33」、「入楞伽経巻6法身品」、「解深密経巻5如来成所作事品」、「大乗同性経」、「大毘婆沙論巻191」、「大智度論巻99」、「大乗荘厳経論巻3菩提品、巻13敬仏品」、「入大乗論巻下」、「梁訳摂大乗論釈巻10」、「大乗義章巻19」等に出づ。<(望)
  法性生身(ほっしょうしょうじん):法性を証したる者の受くる身の意。即ち仏及び大菩薩の受くる界外化生の身を云う。「大智度論巻29」に、「或は菩薩あり、無生法忍法性生身を得て七住地に在り、五神通に住し、身を変ずること仏の如くにして衆生を教化す」と云い、「同巻43」に、「諸の虚誑取相の法を破して法性生身を受く。所謂常に化生することを得て胞胎に処せず」と云い、又「大乗大義章巻上」に、「菩薩は無生法忍を得、肉身を捨して次ぎに後身を受くるを名づけて法身と為す。所以は何ぞ、体に無生忍力ありて諸の煩悩なく、亦二乗の証を取らず、又未だ成仏せず、其の中間に於いて受くる所の身を名づけて法性生身と為す」と云えるこれなり。これ無生法忍を得たる菩薩は胞胎に処せず、即ち肉身を捨して法性生身を受くることを説けるものなり。「法華玄論巻8」には此の身を以って変易身なりとし、「三には釈論に云わく、菩薩に二種の身あり、一に肉身、二に法性生身なりと。肉身は則ち分段生死、法身は謂わく変易生死なり。若し二の生死の外に別に生死あらば、応に二身を離れて外に別に更に身あるべきなり。四には論に又云わく、阿羅漢は三界の肉身を捨して法性生身を受くと。故に羅漢には唯二身あり、則ち但だ二の生死あり。二を離れて外に別に生死なきなり」と云えり。これ彼の勝鬘経所説の三種の意生身を指して法性生身となすの意なり。又「大智度論巻33」に、「仏に二種の身あり、一には法性生身、二には随世間身なり。世間身の眷属は先に説くが如し。法性生身には無量無数阿僧祇の一生補処の菩薩ありて侍従す。所以は何ぞ、不可思議解脱経に説くが如き、仏生ぜんと欲する時、八万四千の一生補処の菩薩前に在りて導き、菩薩後よりして出づと」と云い、「同巻34」に、「法性生身仏は事として済せざるなく、願として満ぜざるなし。所以は何ぞ、無量阿僧祇劫に於いて一切の善本功徳を積集し、一切の智慧無礙にして具足し、衆聖の王たり。諸天及び大菩薩も能く見る者希れなり」と云えり。これ諸仏にも亦法性生身あることを説けるものなり。之に関し「法華玄論巻9」に、「其の生を説かば則ち本の法性なり、故に法性生身と云う。(中略)問う、法性より生ずるが故に法性生身と名づけば、釈論に云わく、二乗の人及び法身の菩薩も亦これ法性生身なりと。仏と何ぞ異ならんや。答う、仏は法性を照窮するが故に真の法性生身と名づく。菩薩二乗は分に随って称を受くるなり」と云い、又「大乗玄論巻5教迹義」に、「又論に云わく、仏に二種あり、一に父母生身仏、二に法性生身仏と。父母生身はこれ応仏、法性生身はこれ報仏なり。若し但だ法性身と言わばこれ法身なり」と云えり。これ法性生身を以って報身仏となすの説なり。蓋し法性生身は法性を証し、無生法忍を得たる者の受くる化生の身にして、胞胎に処する惑業所感の肉身に同じからず、即ち界外受生の報身なるが故に勝鬘経所説の三種の意生身に相当すと雖も、之を変易生死となすは恐らく龍樹の意に非ざるべく、彼の論に仏にも父母生身の外に法性生身ありと云うは、唯即ち肉身に非ざる界外の身を指すの意にして、若し之を三身に配せば、吉蔵の言の如く報身仏に当るとなすを得べし。又「大智度論巻60、巻74」等に出づ。<(望)



身の精進、心の精進

身心精進。不廢息故。問曰。精進是心數法。經何以名身精進。 身心は精進して、廃息せざるが故にとは、問うて曰く、精進は是れ心数法なり。経には何を以ってか、身の精進と名づくる。
『身』と、
『心』は、
『精進して!』、
『休息することもなく!』、
『廃退することもない!』が故に、とは――
問い、
『精進』は、
『心数法です!』が、
『経』には、
何故、
『身の精進』と、
『説くのですか?』。
  心数法(しんじゅほう):また心所法、或は心所有法とも称す。『大智度論巻14上注:心所有法、巻24下注:心所法』参照。
答曰。精進雖是心數法。從身力出故名為身精進。 答えて曰く、精進は、是れ心数法なりと雖も、身力より出づるが故に名づけて、身の精進と為す。
答え、
『精進』は、
『心数法である!』が、
『身の力』より、
『出る!』が故に、
是れを、
『身の精進』と、
『称する!』。
如受是心數法。而有五識相應受。是名身受有意識相應受是為心受。精進亦如是。身力懃修若手布施。口誦法言。若講說法。如是等名為身口精進。 受は是れ心数法にして、而も五識相応の受有りて、是れを身受と名づけ、意識相応の受有りて、是れを心受と為すが如し。精進も亦た是の如く、身力は懃修して、若しは手にて布施し、口にて法言を誦し、若しは法を講説す。是の如き等を名づけて、身口の精進と為す。
例えば、
『受』は、
『心数法である!』が、
有る、
『五識相応』の、
『受』を、
『身の受』と、
『呼び!』、
有る、
『意識相応』の、
『受』を、
『心の受』と、
『呼ぶように!』、
『精進』も、
是のように、
『身の力』が、
『懃修して!』、
『手』で、
『布施したり!』、
『口』で、
『法の言葉』を、
『誦したり!』、
或は、
『法』を、
『講説する!』ので、
是れ等を、
『身』と、
『口』の、
『精進』と、
『称する!』。
復次行布施持戒。是為身精進。忍辱禪定智慧是名心精進。 復た次ぎに、布施、持戒を行う、是れを身の精進と為し、忍辱、禅定、智慧は、是れを心の精進と名づく。
復た次ぎに、
『布施』や、
『持戒』を、
『行う!』ことを、
『身の精進』と、
『呼び!』、
『忍辱』や、
『禅定』や、
『智慧』を、
『行う!』ことを、
『心の精進』と、
『呼ぶ!』。
復次外事懃修是為身精進。內自專精是為心精進。麤精進名為身。細精進名為心。為福德精進名為身。為智慧精進是為心。若菩薩初發心乃至得無生忍。於是中間名身精進。生身未捨故得無生忍。捨肉身得法性身。乃至成佛。是為心精進。 復た次ぎに、外事の懃修は、是れを身の精進と為し、内に自ら専精するは、是れを心の精進と為す。麁の精進を名づけて身と為し、細の精進を名づけて心と為す。福徳の為の精進を名づけて身と為し、智慧の為の精進は是れを心と為す。若し菩薩の初発心より、乃至無生忍を得るまでの、是の中間に於けるを、身の精進と名づけ、生身を未だ捨てざるが故に、無生忍を得て、肉身を捨てて法性身を得、乃至成仏まで、是れを心の精進と為す。
復た次ぎに、
『外の事』を、
『懃修する!』のを、
『身の精進』と、
『呼び!』、
『内の事』を、
『自ら!』、
『専精する!』のを、
『心の精進』と、
『呼ぶ!』。
『麁( rough )』の、
『精進』を、
『身の精進』と、
『呼び!』、
『細( fine )』の、
『精進』を、
『心の精進』と、
『呼ぶ!』。
『福徳』の為の、
『精進』を、
『身の精進』と、
『呼び!』、
『智慧』の為の、
『精進』を、
『心の精進』と、
『呼ぶ!』。
『菩薩』が、
『初発心』より、
乃至、
『無生忍』を、
『得る!』までの、
是の、
『中間』を、
『身の精進』と、
『称し!』、
『菩薩』が、
『生身』を、
未だ、
『捨てない!』が故に、
『無生忍』を、
『得て!』、
『肉身(生身)』を、
『捨てた!』が故に、
『法性身』を、
『得た!』時より、
乃至、
『仏』と、
『成る!』まで、
是れを、
『心の精進』と、
『称する!』。
復次菩薩初發心時功德未足故。種三福因緣。布施持戒善心漸得福報。以施眾生。眾生未足。更廣修福發大悲心。 復た次ぎに、菩薩は初発心の時には、功徳未だ足らざるが故に、三の福因縁たる、布施、持戒、善心を種え、漸く福報を得て、以って衆生に施し、衆生未だ足らざれば、更に広く福を修めて、大悲心を発すらく、――
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『初発心の時』は、
『功徳』が、
未だ、
『不足である!』が故に、
『三種』の、
『福徳』の、
『因縁である!』、
『布施』と、
『持戒』と、
『善心(忍辱)』とを、
『種え!』、
やがて、
『福報』を、
『得て!』、
それを、
『衆生』に、
『施す!』が、
『衆生』には、
未だ、
『不足である!』が故に、
更に、
『福の因縁』を、
『広く!』、
『修め!』、
『大悲心』を、こう発す、――
一切眾生不足於財多作眾惡。我以少財不能滿足其意。其意不滿不能懃受教誨。不受道教不能得脫生老病死。我當作大方便給足於財令其充滿。便入大海求諸異寶。登山履危以求妙藥。入深石窟求諸異物石汁珍寶以給眾生。或作薩陀婆冒涉嶮道。劫賊師子虎狼惡獸。為布施眾生故。懃求財寶不以為難。 『一切の衆生は、財に不足して、多く衆悪を作す。我れは少財を以ってするも、其の意を満足せしむる能わず、其の意満たずんば、懃めて教誨を受くる能わず。道教を受けずんば、生老病死を脱るるを得る能わず。我れは当に、大方便を作して、財を給足し、其れをして充満せしむべし』、と。便ち大海に入りて、諸の異宝を求め、山に登り、危うきを履(ふ)みて、以って妙薬を求め、深き石窟に入りて、諸の異物、石汁、珍宝を求め、以って衆生に給し、或は薩陀婆と作りて、嶮道、劫賊、師子、虎狼、悪獣を冒渉し、衆生に布施せんが為の故に、財宝を懃求するも、以って難しと為さず。
――
一切の、
『衆生』には、
『財』が、
『不足しており!』、
多くの、
『衆生』が、、
『衆悪』を、
『作している!』。
わたしが、
『少し!』の、
『財』を、
『施しても!』、
其の、
『意』を、
『満足させることはできない!』。
若し、
其の、
『意』が、
『満足しなければ!』、
努力して、
『教誨』を、
『受けることもできないだろう!』。
若し、
『道』の、
『教え!』を、
『受けなければ!』、
『生老病死』を、
『脱れることもできまい!』。
わたしは、
『大方便』を、
『作して!』、
『財』を、
『給足し!』、
其れに、
『財』を、
『満ちさせなければならない!』、と。
そこで、
『大海』に、
『入って!』、
諸の、
『異宝(珍宝)』を、
『求め!』、
『山』に、
『登り!』、
『危(尾根)』を、
『踏んで!』、
『妙薬』を、
『求め!』、
『深い石窟』に、
『入って!』、
諸の、
『異物(珍物)』や、
『石汁』、
『珍宝』を、
『求めて!』、
『衆生』に、
『給施し!』、
或は、
『薩陀婆(大導師)』と、
『作って!』、
『劫賊』、
『師子』、
『虎狼』、
『悪獣』の、
『危険』を、
『冒(おか)して!』、
『困難』の、
『道』を、
『渉る!』。
『衆生』に、
『布施する!』、
『為である!』が故に、
『精力的に!』、
『財宝』を、
『求めて!』も、
それが、
『困難だ!』とは、
『思わないのである!』。
  異宝(いほう):珍しい宝。
  異物(いもつ):珍しい物。
  (き):尾根( ridge )、艱難困苦( difficulties and hardships )。
  石汁(しゃくじゅう):変じて金を作す液体の如し。即ち、「大智度論巻28」に、「石汁は金と作り、金は敗れて銅と為り、或はまた石と為る」と云えるこれなり。
  薩陀婆(さだば):梵語 saartha- vaaha、商主、賈客主、或は導師と訳す。隊商の主将。
  冒渉(もうしょう):危険を冒して海を渉る。
  懃求(ごんぐ):精力的に求める。
藥草咒術能令銅變為金。如是種種變化致諸財物。及四方無主物以給眾生。是為身精進。得五神通能自變化作諸美味。或至天上取自然食。如是等名為心精進。 薬草、呪術は、能く銅を変じて、金と為らしむ。是の如き種種の変化もて、諸の財物、及び四方の無主物を致し、以って衆生に給する、是れを身の精進と為し、五神通を得て、能く自ら変化し、諸の美味と作り、或は天上に至りて、自然の食を取る、是の如き等を名づけて、心の精進と為す。
『薬草』や、
『呪術』は、
『銅』を、
『変じて!』、
『金』に、
『為らせられる!』が、
是のように、
種種に、
『変化させて!』、
諸の、
『財物』や、
四方の、
『無主物』を、
『招き寄せ!』、
それを、
『衆生』に、
『給施する!』ならば、
是れを、
『身の精進』と、
『称し!』、
『五神通』を、
『得て!』、
『自ら!』、
『身』を、
『変化させて!』、
諸の、
『美味』と、
『作ったり!』、
或は、
『天上』に、
『至って!』、
『自然』の、
『食』を、
『取る!』ならば、
是れを、
『心の精進』と、
『称する!』。
能集財寶以用布施。是為身精進。以是布施之德。得至佛道。是為心精進。 能く財法を集めて、以って布施に用う、是れを身の精進と為し、是の布施の徳を以って、仏道に至るを得る、是れを心の精進と為す。
若し、
『財宝』を、
『集めることができて!』、
それを、
『布施』に、
『用いる!』ならば、
是れを、
『身の精進』と、
『呼び!』、
是の、
『布施』の、
『徳』を、
『用いて!』、
『仏』の、
『道』を、
『極めることができれば!』、
是れを、
『心の精進』と、
『称する!』。
生身菩薩行六波羅蜜。是為身精進。法性身菩薩行六波羅蜜。是為心精進(未得法身心則隨身。已得法身則心不隨身。身不累心也) 生身の菩薩の六波羅蜜を行ずる、是れを身の精進と為し、法性身の菩薩の六波羅蜜を行ずる、是れを心の精進と為す(未だ法身を得ざれば、心は則ち身に随い、已に法身を得れば、則ち心は身に随わずして、身は心を累ねざるなり)。
『生身』の、
『菩薩』が、
『六波羅蜜』を、
『行う!』、
是れを、
『身の精進』と、
『呼び!』、
『法性身』の、
『菩薩』が、
『六波羅蜜』を、
『行う!』、
是れを、
『心の精進』と、
『呼ぶ!』。
復次一切法中皆能成辦不惜身命。是為身精進。求一切禪定智慧時心不懈惓。是為心精進。 復た次ぎに、一切の法中に、皆能く成辦するまで、身命を惜まざる、是れを身の精進と為し、一切の禅定、智慧を求むる時、心懈惓せざる、是れを心の精進と為す。
復た次ぎに、
一切の、
『法』中に、
皆、
『成就する!』まで、
『身命』を、
『惜まない!』、
是れを、
『身の精進』と、
『称し!』、
一切の、
『禅定』と、
『智慧』とを、
『求める!』時、
『心』が、
『懈惓しない!』、
是れを、
『心の精進』と、
『称する!』。
  成辦(じょうべん):成し遂げる/成就( To achieve; accomplishment )、梵語 niSpatti の訳、前に進む、又は外へ出て行く/纏まる、又は成立する/完成/達成( going forth or out, being brought about or effected, completion, consummation )の義。
  懈惓(けけん):疲れうんでおこたる。
復次身精進者。受諸懃苦終不懈廢。如說。波羅柰國梵摩達王。遊獵於野林中見二鹿群。群各有主。一主有五百群鹿。一主身七寶色。是釋迦牟尼菩薩。一主是提婆達多。 復た次ぎに、身の精進とは、諸の懃苦を受けて、終に懈廃せざるなり。説の如し、波羅奈国の梵摩達王は、野林中に遊猟して、二の鹿群を見る。群には各主有り、一主に五百の群鹿有り。一主の身の七宝色なるは、是れ釈迦牟尼菩薩、一主は、是れ提婆達多なり。
復た次ぎに、
『身の精進』とは、
諸の、
『懃苦(辛苦)』を、
『受けて!』も、
『懈廃しないことである!』。
例えば、こう説かれている、――
『波羅奈国』の、
『梵摩達王』は、
『野林』中に、
『遊猟して!』、
『二の鹿群』を、
『見た!』。
『群』には、
各、
『主』が、
『有り!』、
『一主』は、
『身』が、
『七宝』の、
『色であり!』、
是れは、
『釈迦牟尼菩薩であった!』、
『一主』は、
是れは、
『提婆達多であった!』。
  懃苦(ごんく):苦しむ/悩む( to suffer )、梵語 duHkha の訳、容易ならざること/苦痛/悲嘆/心配事/困難( uneasiness, pain, sorrow, trouble, difficulty )の義、或いは梵語 parikleza の訳、辛苦/苦痛/悩み/疲労( hardship, pain, trouble, fatigue )の義。苦しませられる/悩まされる( is afflicted )、努力する( to exert oneself, endeavor )、世俗の辛苦に逆らって励む( strive against the suffering and pain of the world )、堪え難い努力/苦行/禁欲行為( difficult exertion; penance; austerities )等の意、又勤苦にも作る。
  波羅㮈(はらな):また波羅奈斯に作る。迦尸国の都城。『大智度論巻3(上)注:十六大国』参照。
  梵摩達(ぼんまだつ):また梵摩達哆に作る。即ち過去世加赦国波羅㮈城の王。『大智度論巻16(下)注:長寿王』参照。
  長寿王(ちょうじゅおう):長寿は巴梨語 diighiiti の訳。又は diighiti、或は diighati。又長生とも訳す。印度太古の王なり。「中阿含巻17長寿王本起経」に、王は過去世に出現して拘沙羅kosalaa国王となり、嘗て加赦kaasi国王梵摩達哆 brahmadatta と戦いて敗績し、四兵の軍を失う。時に王は闘を以って最悪となし、闘って剋たば敵も亦当に剋つべく、害せば敵も亦当に害すべきを思い、仍りて報復の念を絶ち、一妻と共に其の都城を逃れて加赦国波羅㮈baaraaNasii城に至り、尋いで村邑の間に在りて広く受学し、長寿博士となりて再び城中に入り、習う所の妙音伎を演じて梵志国師の為に寵せらる。時に妻懐妊し、四兵の鹵簿を見、且つ磨刀の水を得て飲まんことを欲したるにより、乃ち梵志国師に請うて其の所願を果たし、後遂に一子を生み、名づけて長生 diighaayu (或は diighaavu )と号す。長生長じて聡明猛毅に、亦伎藝を善くす。時に梵摩達哆は長寿王が都城波羅㮈に在るを知り、之を縛して斬殺せんとす、王は時に長生に諭して曰わく、宜しく忍ぶべし、怨結を起すことなかれ、当に慈を行うべしと。遂に自ら死に就きたるを以って、長生は母と共に逃れて村邑に入り、復た広く受学して長生博士となり、尋いで再び波羅㮈城に入り、妙音伎を以って梵摩達哆に寵せられ、一切の委付を受け、又後身の刀剣を授与せらる。後一日梵摩達哆は長生を従えて出猟し、疲極まりて其の膝上に眠る。時に長生は父王の久怨を報ぜんと欲し、利刀を以って達哆の頸上に擬したるも、忽ち昔時の遺言を憶いて之を止む。達哆亦夢に此の事を見、驚き覚めて之を語るに、長生為に自ら具さに前縁を説く。ここに於いて達哆は深く非行を恥じ、旧領を還付して長生を其の主となし、女を与えて之に娶し、本国に還らしめたりと云えり。「増一阿含経巻16」、「四分律巻43拘睒弥揵度」、「出曜経巻16忿怒品」等にも亦同一説話を出し、闘訟を避けて、忍辱を行ずべき事例となせり。又前引「長寿王本起経」並びに「六度集経巻1」には、当時の長寿王を釈尊、長生を阿難、梵摩達哆を調達なりとし、「コーサンビー・ジャータカ kosambii- jaataka 」並びに「ディーギティコーサラ・ジャータカ diighitikosala- jaataka 」には、長寿王を浄飯王、其の妻を摩耶夫人、長生を釈尊なりとせり。又「仏本行集経巻5賢劫王種品」に甘蔗種の王統を列ぬる中、初祖善生の第一夫人の子に長寿ありとし、端正憙ぶべきも王となるに堪えずと云い、「五分律巻15受戒法」には之を善生と名づけ、其の他、「雑阿含経巻37」に樹提長者の孫子に長寿童子ありと云えるも、此等は皆今の王と別人なるべし。又「増一阿含経巻1」、「五分律巻24羯磨法」等に出づ。<(望)
  参考:『大荘厳経巻14』:『復次菩薩大人。為諸眾生不惜身命。我昔曾聞雪山之中。有二鹿王。各領群鹿。其數五百。於山食草。爾時波羅奈城中有王名梵摩達。時彼國王到雪山中。遣人張圍圍彼雪山。時諸鹿等盡墮圍中。無可歸依得有脫處。乃至無有一鹿可得脫者。爾時鹿王其色班駁如雜寶填。作何方便使諸鹿等得免此難。復作是念。更無餘計唯直趣王。作是念已逕詣王所。時王見已敕其左右。慎莫傷害聽恣使來。時彼鹿王既到王所。而作是言。大王。莫以遊戲殺諸群鹿用為歡樂。勿為此事。願王哀愍放捨群鹿莫令傷害。王語鹿王。我須鹿肉食。鹿王答言。王若須肉我當日日奉送一鹿。王若頓殺肉必臭敗不得停久。日取一鹿。鹿日滋多。王不乏肉。王即然可。爾時菩薩鹿王語彼鹿王提婆達多言。我今共爾。日出一鹿供彼王食。我於今日出送一鹿。汝於明日復送一鹿。共為言要。迭互送鹿至於多時。後於一時提婆達多鹿王出一牸鹿懷妊垂產。向提婆達多求哀請命。而作是言我身今死不敢辭託。須待我產供廚不恨。時彼鹿王不聽其語。汝今但去。誰當代汝。便生瞋忿。時彼牸鹿既被瞋責。作是思惟。彼之鹿王極為慈愍。我當歸請脫免兒命。作是念已往菩薩所。前膝跪地向菩薩鹿王具以上事。向彼鹿王。而說偈言 我今無救護  唯願濟拔我  多有諸眾生  我今獨怖迮  願垂哀憐愍  拔濟我苦難  我更無所恃  唯來歸依汝  汝常樂利益  安樂諸眾生  我今若就死  兩命俱不全  今願救我胎  使得一全命  菩薩鹿王聞此偈已。問彼鹿言。為向汝王自陳說未。牸鹿答言。我以歸向不聽我語。但見瞋責誰代汝者。即說偈言 彼見瞋呵責  無有救愍心  見敕速往彼  唯有代汝者  我今歸依汝  悲愍為體者  是故應令我  使得免一命  菩薩鹿王語彼鹿言。汝莫憂惱隨汝意去。我自思惟。時鹿聞已踊躍歡喜還詣本群。菩薩鹿王作是思惟。若遣餘鹿當作是語。我未應去云何遣我。作是念已心即開悟。而說偈言 我今躬自當  往詣彼王廚  我於諸眾生  誓願必當救  我若以己身  用貿蚊蟻命  能作如是者  尚有大利益  所以畜身者  正為救濟故  設得代一命  捨身猶草芥  說是偈已。即集所領諸群鹿等。我於汝等諸有不足。聽我懺悔。我欲捨汝。以代他命欲向王廚。爾時諸鹿聞是語已盡各悲戀。而作是言。願王莫往我等代去。鹿王答言。我以立誓自當身去。若遣汝等必生苦惱。今我歡喜無有不悅。即說偈言 不離欲捨身  必當有生處  我今為救彼  捨身必轉勝  我今知此身  必當有敗壞  今為救愍故  便是法捨身  得為法因者  云何不歡喜  爾時諸鹿種種諫喻。遂至疲極不能令彼使有止心。時彼鹿王往詣王廚。諸鹿舉群并提婆達多鹿群。盡逐鹿王向波羅奈。既出林已報謝群鹿使還所止。唯己一身詣王廚所。時彼廚典先見鹿王者。即便識之。往白於王。稱彼鹿王自來詣廚。王聞是語身自出來向鹿王所。王告之言。汝鹿盡耶。云何自來。鹿王答言。由王擁護鹿倍眾多。所以來者。為一妊身牸鹿欲代其命身詣王廚。即說偈言 意欲有所求  不足滿其心  我力所能辦  若當不為者  與木有何異  設於生死中  捨此臭穢形  當自空敗壞  不為毫釐善  此身必歸壞  捨己他得全  我為得大利  爾時梵摩達王聞是語已。身毛皆豎。即說偈言 我是人形鹿  汝是鹿形人  具功德名人  殘惡是畜生  嗚呼有智者  嗚呼有勇猛  嗚呼能悲愍  救濟眾生者  汝作是志形  即是教示我  汝今還歸去  及諸群鹿等  莫生怖畏想  我今發誓願  永更不復食  一切諸鹿肉  爾時鹿王白王言。王若垂矜。應自往詣彼群鹿所。躬自安慰施與無畏。王聞是語。身自詣林。到鹿群所施鹿無畏。即說偈言 是我國界內  一切諸群鹿  我以堅擁護  慎莫生恐怖  我今此林木  及以諸泉池  悉以施諸鹿  更不聽殺害  是故名此林  即名施鹿林』
菩薩鹿王見人王大眾殺其部黨。起大悲心逕到王前。王人競射飛矢如雨。王見此鹿直進趣已無所忌憚。敕諸從人攝汝弓矢無得斷其來意。 菩薩の鹿王は、人王の大衆、其の部党を殺すを見て、大悲心を起し、逕(ただち)に王前に到る。王人競い射て、矢を飛ばすこと雨の如し。王は、此の鹿の直ちに進趣し已るを見るも、忌憚する所無ければ、諸の従人に勅すらく、『汝が弓矢を摂(おさ)めて、其の来意を断ずるを得る無かれ』、と。
『菩薩』の、
『鹿王』は、
『人王』の、
『大衆』が、
『鹿王』の、
『部党(郎党)』を、
『殺す!』のを、
『見て!』、
『大悲』の、
『心』を、
『起し!』、
『人王』に、
『真直ぐ!』、
『近づいた!』。
『王人(王臣)』が、
『競って!』、
『矢』を、
『射た!』ので、
『飛ぶ!』、
『矢』は、
『雨のようであった!』。
『人王』は、
『鹿王』が、
『真直ぐ!』、
『近寄ってくる!』のを、
『見た!』が、
『鹿王』には、
『忌憚(畏懼)する!』所が、
『無かった!』ので、
諸の、
『従臣』に、こう命じた、――
お前たちの、
『弓矢』を、
『摂(おさ)めて!』、
其の、
『鹿』の、
『来意』が、
『断たれないようにせよ!』、と。
  (きょう):直ちに/近づく( direct, approach )。
  王人(おうにん):天子の使臣。
  忌憚(きたん):畏れはばかる。畏懼。
鹿王既至跪白人王。君以嬉遊逸樂小事故。群鹿一時皆受死苦。若以供膳輒當差次日送一鹿以供王廚。王善其言聽如其意。 鹿王の既に至りて、跪き人王に白さく、『君の嬉遊、逸楽の小事を以っての故に、群鹿は、一時に皆、死苦を受く。若し以って膳に供せば、輒(すなわ)ち、当に差次して、日に一鹿を送れば、以って王廚に供すべし』、と。王は、其の言を善しとして、其の意の如く聴(ゆる)す。
『鹿王』は、
『跪いて!』、
『人王』に、こう白した、――
君の、
『嬉遊』や、
『逸楽』という、
『小事』の故に、
わたしの、
『群鹿』が、
一時に、
皆、
『死苦』を、
『受けている!』。
若し、
『鹿』を、
『膳』に、
『供したい!』と、
『思うならば!』、
毎日、
『一鹿』を、
『選別して!』、
『送り!』、
『王廚』に、
『供しよう!』、と。
『人王』は、
其の、
『鹿』の、
『言葉』を、
『善い!』と、
『思い!』、
其の、
『意のままにしよう!』と、
『約束した!』。
  嬉遊(きゆう):遊びたわむれる。
  逸楽(いつらく):気ままに遊び楽しむ。
  (ちょう):たやすく、つねに、すなわち。直ちに/毎次/則ち( immediately, always, then )。
  差次(さじ):次を指名して派遣する。差は選択/指名( select, assign )、派遣/使を遣る( dispatch, send on an errand )の義。等級、或は軽重の次序を分別すること。
於是二鹿群主大集差次各當一日送應次者。是時提婆達多鹿群中。有一鹿懷子來白其主。我身今日當應送死。而我懷子子非次也。乞垂料理使死者得次生者不濫。 是に於いて、二鹿群主、大いに集めて差次し、各一日当り、次に応ずる者を送る。是の時、提婆達多の鹿群中に、一鹿の子を懐ける有りて、来たりて其の主に白さく、『我が身は、今日、応に送られて死すべきに当るも、我れは子を懐けり、子は次に非ざれば、乞う、料理を垂れて、死者をして、次なるを得しめ、生者を濫(みだ)りにせざらんことを』、と。
是れにより、
『二鹿群』の、
『主』たちは、
『群鹿』を、
『大いに!』、
『集めて!』、
『選別し!』、
各、
『一日ごと!』に、
『次の者』を、
『送った!』。
是の時、
『提婆達多』の、
『鹿群』中の、
有る、
『子』を、
『懐いた!』、
『一鹿』が、
『来て!』、
『提婆達多』に、こう白した、――
わたしの、
『身』は、
今日、
『送られて!』、
『死ぬはずです!』が、
わたしは、
『子』を、
『懐いております!』ので、
『子』の、
『番ではありません!』。
お願いです!、――
『適切に!』、
『手配して!』、
『死ぬはずの者』は、
『次になされて!』、
『生れる者』を、
『無駄になさいませぬよう!』、と。
  料理(りょうり):適切に手配する( to arrange properly )、梵語 autsukyaM karoti, pratijaagarati の訳、上手く、又は適正に処理する/適切な原則に従って仕事を行う( To manage well; to process duly; to work according to proper principles )の義。
  (らん):みだる。行き過ぎる。無駄にする。
鹿王怒之言。誰不惜命。次來但去何得辭也。鹿母思惟。我王不仁不以理恕不察我辭。橫見瞋怒不足告也。即至菩薩王所以情具白。 鹿王の之を怒りて言わく、『誰か命を惜まざる。次来たらば、但だ去れ。何ぞ辞するを得んや』、と。鹿母の思惟すらく、『我が王は、不仁なり、理を以って恕(ゆる)さず、我が辞を察せず、横ざまに瞋怒せらる、告ぐるに足らざるなり』、と。即ち菩薩王の所に至りて、情を以って具(つぶさ)に白す。
『鹿王』は、
此の、
『鹿』を、
『怒って!』、こう言った、――
誰が、
『命』を、
『惜まないのか?』。
お前の、
『番』が、
『来れば!』、
『過たずに!』、
『去ればよいのだ!』。
何うして、
『辞退できよう?』、と。
『鹿母』は、
こう思惟した、――
わたしの、
『王』は、
『慈愛がない!』、
『道理』を、
『思いやろうともせず!』、
わたしの、
『言葉』を、
『察しようとしない!』、
此の、
『王』には、
『訴えても!』、
『無駄なことだ!』、と。
そこで、
『菩薩』の、
『王の所』に、
『来て!』、
『心情』を、
『具(つぶさ)に!』、
『告白した!』。
  不仁(ふにん):思いやりがない。
  (じょ):思いやってゆるす。
  (おう):横柄/狂暴、意外な/尋常でない。
  (けん):らる。受動を示す辞。
  (じょう):真心。
王問此鹿。汝主何言。鹿曰。我主不仁。不見料理而見瞋怒。大王仁及一切故來歸命。如我今日天地雖曠無所控告。 王の此の鹿に問わく、『汝が主は、何んが言える』、と。鹿の曰わく、『我が主は不仁にして、料理せられずして、而も瞋怒せられたり。大王の仁は、一切に及ぶが故に来たりて、帰命す。我が今日の如きは、天地曠(ひろ)しと雖も、控告する所無し』、と。
『王』は、
此の、
『鹿』に、こう問うた、――
お前の、
『主』は、
『何と言っているのか?』、と。
『鹿』は、こう言った、――
わたしの、
『主』は、
『慈愛がありません!』、
『適切』に、
『処理されないばかりか!』、
『瞋怒されてしまいました!』。
『大王』の、
『慈愛』は、
『一切の!』、
『鹿』に、
『及ぼされ!』、
是の故に、
『来て!』、
『帰命(帰順)するのです!』。
わたしなどは、
今日、
『天地』が、
『何れほど!』、
『広くても!』、
何処にも、
『訴える!』所が、
『無いからです!』、と。
  帰命(きみょう):逃げ込む/避難する/帰順する( to take refuge )、梵語 namas の訳、[動作、或は言葉による]お辞儀/敬虔な挨拶/崇敬( bow, obeisance, reverential salutation, adoration (by gesture or word )の義。
  控告(くうこく):告げうったえる。
菩薩思惟。此甚可愍。若我不理抂殺其子。若非次更差次未及之。如何可遣。唯有我當代之思。之既定。即自送身遣鹿母還。我今代汝汝勿憂也。 菩薩の思惟すらく、『此れは甚だ愍(あわれ)むべし。若し我れ理(ただ)さずんば、其の子を抂(みだ)りに殺さん。若し次に非ざるを、更(かわ)りに差次せば、未だ之に及ばざるを、如何が遣るべし。唯だ我れ有るのみ、当に之に代りるべし。之を思うて既に定まれば、即ち自ら身を送り、鹿母を遣りて還すらく、『我れ今、汝に代らん。汝は憂うる勿かれ』、と。
『菩薩』は、
こう思惟した、――
此れは、
『甚だ!』、
『可哀そうなことだ!』。
若し、
わたしが、
『理』を、
『正さなければ!』、
其の、
『子』を、
『無駄に!』、
『殺すことになる!』。
若し、
『次でない!』者を、
『更(かわ)りに!』、
『指名すれば!』、
未だ、
『順番』に、
『及ばない!』者を、
何故、
『遣ることができよう?』。
唯だ、
わたしだけが、
『有るのみだ!』、
わたしが、
之に、
『代ることにしよう!』、と。
是のように、
『思い!』が、
『定まる!』と、
即座に、
自ら、
『身』を、
『送ることにして!』、
『鹿母』を、
『遣り還しながら!』、
こう言った、――
わたしが、
今、
『お前に!』、
『代ることにしよう!』、
お前は、
『心配しなくてもよい!』、と。
  (り):ただす、おさめる。統治する/秩序を正す/処理する( administer, put in order, treat )。
  (ごう):みだりに。乱暴に。無駄に。濫りに。
  (きょう):替える、交替する( replace )。
鹿王逕到王門。眾人見之怪其自來以事白王。王亦怪之而命令前問言。諸鹿盡耶。汝何以來。 鹿王は逕に、王門に到り、衆人之を見て、其の自ら来たれるを怪しみ、事を以って、王に白す。王も亦た之を怪しみ、命じて前(すす)ましめ、問うて言わく、『諸の鹿は尽きたるや。汝は何を以ってか来たる』、と。
『鹿王』は、
『寄り道せず!』に、
『王の門』に、
『到った!』。
『衆人』は、
之を、
『見て!』、
其れが、
『自ら来た!』のを、
『怪しみ!』、
其の、
『事』を、
『王』に、
『白した!』。
『王』も、
亦た、
之の、
『事』を、
『怪しみ!』、
前に、
『進むよう!』、
『命じる!』と、こう言った、――
諸の、
『鹿』が、
『尽きたのか?』。
何故、
『お前が!』、
『来たのか?』、と。
鹿王言。大王仁及群鹿人無犯者。但有滋茂何有盡時。我以異部群中有一鹿懷子。以子垂產身當殂割子亦併命。歸告於我我以愍之。非分更差是亦不可。若歸而不救無異木石。是身不久必不免死。慈救苦厄功德無量。若人無慈與虎狼無異。 鹿王の言わく、『大王の仁は、群鹿に及びて、人の犯す者無く、但だ滋茂する有りて、何ぞ尽くる時有らんや。我が異部の群中に有る一鹿子を懐き、子の垂(なんな)んとして産まれんとするに、身殂割に当らば、子も亦た命を併せたらんを以って、我れに帰して告ぐるを以って、我れ以って之を愍れむ。分に非ざるを更に差(おく)らば、是れも亦た不可なり。若し帰せるものを、救わずんば、木石と異無し。是の身は久しからざれば、必ず死を免れず。慈もて、苦厄を救わば、功徳は無量なり。若し人に慈無くんば、虎狼と異無し』、と。
『鹿王』は、
こう言った、――
『大王』の、
『慈愛』は、
『群鹿に!』、
『及び!』、
『犯す!』、
『人』が、
『無くなりました!』ので、
但だ、
『群鹿』には、
『繁茂する!』ことが、
『有るだけです!』、
何うして、
『尽きる!』時が、
『有りましょうや?』。
わたしの、
『異部の群』中に、
有る、
『一鹿』が、
『子』を、
『懐いておりました!』が、
『子』の、
『産まれようとする!』時、
『殂割(屠殺)』に、
『当れば!』、
『子』も、
『運命』を、
『共にする!』ので、
是の故に、
わたしに、
『帰順して!』、
『心情』を、
『告げました!』。
わたしには、
此の、
『鹿母』が、
『哀れに!』、
『思えたのです!』。
若し、
『次の!』、
『分でない!』者を、
『更(かわ)りに!』、
『送れば!』、
是れも、
亦た、
『許されることでなく!』、
若し、
『帰順した!』者を、
『救わなければ!』、
『木石』と、
『異ならない!』。
わたしの、
是の、
『身』は、
『久しいものでなく!』、
必ず、
『死』は、
『免れません!』。
わたしの、
『慈愛』が、
『苦厄』を、
『救えば!』、
『得られる!』、
『功徳』は、
『無量です!』が、
若し、
『人』に、
『慈悲』が、
『無ければ!』、
『虎狼』と、
『異なり!』が、
『有りません!』、と。
  滋茂(じも):草木が盛にしげること。繁盛し増殖すること。
  殂割(そかつ):死して割り裂かる。
王聞是言即從坐起。而說偈言
 我實是畜獸  名曰人頭鹿 
 汝雖是鹿身  名為鹿頭人 
 以理而言之  非以形為人 
 若能有慈惠  雖獸實是人 
 我從今日始  不食一切肉 
 我以無畏施  且可安汝意
王は是の言を聞いて即ち坐より起ち、偈を説いて言わく、
我れは実に是れ畜獣なり、名づけて人頭の鹿と曰う、
汝は是れ鹿の身なりと雖も、名づけて鹿頭の人と為す。
理を以って之を言わば、形を以って人と為すに非ず、
若し能く慈恵有らば、獣なりと雖も実に是れ人なり。
我れは今日より始めて、一切の肉を食わず、
我れ無畏を以って施せば、且く汝が意を安んずべし。
『王』は、
是の、
『言葉』を、
『聞いて!』、
即ち、
『坐』より、
『起ち!』、
『偈』を説いて、こう言った、――
わたしは、
『実に!』、
『畜獣であり!』、
『人の頭』の、
『鹿』と、
『呼ばれるべきだ!』。
お前は、
『鹿』の、
『身でありながら!』、
『鹿の頭』の、
『人』と、
『呼ぶべきだ!』。
是の、
『道理』を言えば、――
『形』が、
『人だから!』、
『人なのではない!』。
若し、
『慈愛』と、
『恩恵』とが、
『有れば!』、
『獣だろうと!』、
『実に!』、
『人なのだ!』。
わたしは、
今日より、
一切の、
『肉を食わない!』ことを、
『始めよう!』。
わたしが、
『無畏』を、
『施せば!』、
お前の、
『意』を、
『安心させられるだろう!』、と。
  (え):恩恵( benefit, favor, kindness )。
  無畏(むい):怖畏しないこと( fearlessness )、梵語 abhaya, nirbhii の訳、恐れない/怖くない( fearless, not afraid )の義。
  (しゃ):殆ど( almost, nearly )、つもり( be going to, will, shall )、当分( just, for the time being )、長い間/久久に( for a long time )の義。
諸鹿得安王得仁信。 諸の鹿は、安きを得、王は仁、信を得たり。
諸の、
『鹿』は、
『心』に、
『安らぎ!』を、
『得ることができ!』、
『王』は、
『慈愛』と、
『信頼』を、
『得ることができた!』。
復次如愛法梵志。十二歲遍閻浮提。求知聖法而不能得。時世無佛佛法亦盡。有一婆羅門言。我有聖法一偈若實愛法當以與汝。答言。實愛法。 復た次ぎに、愛法梵志の如し、十二歳、閻浮提に遍く、聖法を知らんと求むるも、得る能わず。時に世に仏無く、仏法も亦た尽く。有る一婆羅門の言わく、『我れに聖法の一偈有り、若し実に法を愛せば、当に以って汝に与うべし』、と。答えて言わく、『実に法を愛す』、と。
復た次ぎに、
例えば、
『愛法梵志』は、こうであった、――
『十二年間』、
遍く、
『閻浮提』に、
『聖法』を、
『知ろう!』と、
『求めた!』が、
而し、
『知ることができなかった!』。
『時の世』には、
『仏』が、
『無く!』、
『仏』の、
『法』も、
『尽きていた!』が、
有る、
『一婆羅門』が、こう言った、――
わたしには、
『聖法』の、
『一偈』が、
『有る!』。
若し、
『実に!』、
『法』を、
『愛する!』ならば、
それを、
『お前に!』、
『与えよう!』、と。
『答えて!』、こう言った、――
わたしは、
『実に!』、
『法』を、
『愛する!』、と。
  参考:『大智度論巻49』:『所謂阿含阿毘曇毘尼雜藏摩訶般若波羅蜜等。諸摩訶衍經皆名為法。此中求法者。書寫誦讀正憶念。如是等治眾生心病故。集諸法藥不惜身命。如釋迦文佛本為菩薩時。名曰樂法。時世無佛不聞善語。四方求法精勤不懈。了不能得。爾時魔變作婆羅門而語之言。我有佛所說一偈。汝能以皮為紙以骨為筆以血為墨書寫此偈。當以與汝。樂法即時自念。我世世喪身無數不得是利。即自剝皮曝之令乾欲書其偈。魔便滅身。是時佛知其至心。即從下方踊出為說深法。即得無生法忍。』
婆羅門言。若實愛法當以汝皮為紙以身骨為筆以血書之。當以與汝。即如其言破骨剝皮以血寫偈
 如法應修行  非法不應受 
 今世亦後世  行法者安隱
婆羅門の言わく、『若し実に法を愛せば、当に汝が皮を以って紙と為し、身の骨を以って筆と為し、血を以って之を書くべし。当に以って汝に与うべし』、と。即ち其の言の如く、骨を破り、皮を剥ぎ、血を以って偈を写すらく、
如法は応に修行すべし、非法は応に受くべからず、
今世にも亦た後世にも、行法の者は安隠ならん。
『婆羅門』は、
こう言った、――
若し、
『実に!』、
『法』を、
『愛する!』ならば、
お前は、
自らの、
『皮』を、
『用いて!』、
『紙とし!』、
『身の骨』を、
『用いて!』、
『筆として!』、
『血』を、
『用いて!』、
『書写するはずであり!』、
お前には、
是の、
『一偈』を、
『与えることになろう!』、と。
即ち、
其の、
『言葉』の通りに、
自ら、
『骨』を、
『破り!』、
『皮』を、
『剥ぎ!』、
『血』を、
『出して!』、
是の、
『偈』を写した、――
『如法』ならば、
『修行せねばならぬ!』、
『非法』ならば、
『受けてはならぬ!』。
『今世』にも、
『後世』にも、
『法』を、
『行う!』者は、
『安隠である!』、と。
復次昔野火燒林。林中有一雉懃身自力。飛入水中漬其毛羽來滅大火。火大水少往來疲乏不以為苦。 復た次ぎに、昔、野火、林を焼く。林中の有る一雉、身を懃(つと)め、自ら力(つと)めて、飛びて水中に入り、其の毛羽を漬け、来たりて大火を滅す。火は大きく水は少し。往来に疲乏するも、以って苦と為さず。
復た次ぎに、
昔、
『野火』が、
『林』を、
『焼いた!』が、
『林』中の、
有る、
『一雉』は、
自ら、
『力』を、
『頼りに!』、
『身』を、
『呈して!』、
飛んで、
『水』中に、
『入り!』、
其の、
『毛、羽』を、
『水に漬けて!』、
来て、
『大火』を、
『消していた!』。
『火』は、
『大きく!』、
『水』は、
『少なく!』、
『往来に!』、
『疲労、困乏しながら!』、
其れを、
『苦だ!』とは、
『思わなかった!』。
  野火(やか):荒れた山野の地に燃焼する火( prairie fire )、地裏の野草を燃焼する火( twitchfire )、燐火/鬼火/狐火( will-o'-the wisp )。
  自力(じりき):自己の力量に依存する/自己の力量を尽くす( rely on one's own, efforts )。
  疲乏(ひぼう):疲労困乏する( weary and tired )。
  参考:『雑譬喩経巻1(23)』:『昔有鸚鵡。飛集他山中。山中百鳥畜獸。轉相重愛不相殘害。鸚鵡自念。雖爾不可久也。當歸耳便去。卻後數月大山失火四面皆然。鸚鵡遙見便入水。以羽翅取水飛上空中。以衣毛間水灑之欲滅大火。如是往來往來。天神言。咄鸚鵡。汝何以癡。千里之火寧為汝兩翅水滅乎。鸚鵡曰。我由知而不滅也。我曾客是山中。山中百鳥畜獸。皆仁善悉為兄弟。我不忍見之耳。天神感其至意。則雨滅火也』
是時天帝釋來問之言。汝作何等。答言。我救此林愍眾生故。此林蔭育處廣清涼快樂。我諸種類及諸宗親并諸眾生皆依仰此。我有身力云何懈怠而不救之。 是の時天帝釈来たりて、之に問うて言わく、『汝は、何等をか作す』、と。答えて言わく、『我れは此の林を救わんとす。衆生を愍れむが故なり。此の林は蔭育の処にして、広く清涼として快楽なり。我が諸の種類、及び諸の宗親、并びに諸の衆生は、皆此れを依仰す。我れに身力有り、云何が懈怠して、之を救わざらん』、と。
是の時、
『天帝釈』が来て、
之に問うて、こう言った、――
お前は、
何を、
『作しているのか?』、と。
答えて、こう言った、――
わたしは、
此の、
『林』を、
『救おうとしている!』、
何故ならば、
『衆生』を、
『愍れむからだ!』。
此の、
『林』は、
『子』を、
『守り育む!』、
『処として!』、
『広く!』、
『清涼として!』、
『快楽だからだ!』。
わたしの、
諸の、
『種族』も、
『親族』も、
『衆生』も、
皆、
此の、
『林』に、
『依存し!』、
『仰ぎ見てきた!』。
わたしには、
『身』も、
『力』を、
『有る!』のに、
何故、
『懈怠して!』、
此の、
『林』を、
『救わずにいられるのか?』、と。
  蔭育(おんいく):蔭に巣をかけ、子を育てる。守り育てる( protect and raise )。
  宗親(しゅうしん):一族。同族。同母の兄弟。
  依仰(えごう):依存し仰ぎ見る。
天帝問言。汝乃精懃當至幾時。雉言。以死為期。 天帝の問うて言わく、『汝が乃ち精懃すること、当に幾時にか至るべき』、と。雉の言わく、『死を以って期と為す』、と。
『天帝』は、
問うて、こう言った、――
お前は、
そのように、
『頑張っている!』が、
何れぐらいの、
『時間』、
『頑張れるのか?』、と。
『雉』は、
こう言った、――
わたしの、
『死ぬ時』が、
『限界だ!』、と。
  (ない):すなわち。そのように( so )。
  精懃(しょうごん):梵語 viiryaarambha の訳、英雄的行為( heroic deed )に於ける努力( effort, exertion )の義。
天帝言。汝心雖爾誰證知者。即自立誓。我心至誠信不虛者火即當滅。是時淨居天。知菩薩弘誓。即為滅火。自古及今唯有此林。常獨蔚茂不為火燒。 天帝の言わく、『汝が心は、爾りと雖も、誰か証知する者なる』、と。即ち自ら立ちて誓うらく、『我が心の至誠なること、信にして虚しからざれば、火即ち当に滅すべし』、と。是の時、浄居天、菩薩の弘誓を知り、即ち為めに火を滅すれば、古より今に及ぶまで、唯だ此の林の常に独り、蔚茂して、火に焼かれざる有るのみ。
『天帝』は、
こう言った、――
お前の、
『心』は、
『爾うだとしても!』、
誰が、
『証明するのか?』、と。
『雉』は、
即座に、
『立つ!』と、
自ら、こう誓った、――
わたしの、
『心』が、
『至誠であり!』、
『誠実であり!』、
『虚偽でなかった!』ならば、
『火』は、
『すぐにも!』、
『消えるはずだ!』、と。
是の時、
『浄居天』が、
『菩薩』の、
『弘誓』を、
『知り!』、
即座に、
『火』を、
『消した!』ので、
『古代』より、
『今』に至るまで、
唯だ、
此の、
『林』のみが、
常に、
『鬱蒼と茂り!』、
『火に焼かれないのである!』。
  証知(しょうち):梵語 pratyakSatva の訳、視覚的証拠、或は直接的認識の存在( the being ocular evidence or immediate perception )の義。
  至誠(しじょう):真心の至り。
  (しん):嘘いつわりの無いまこと。誠実。
  蔚茂(うつも):草木の密にして繁茂なること。
  弘誓(ぐぜい):諸仏、菩薩の広大なる誓。
如是等種種。宿世所行難為能為。不惜身命國財妻子象馬七珍頭目骨髓懃施不惓。 是の如き等の種種の宿世の所行は、為し難きを能く為して、身命、国財、妻子、象馬、七珍、頭目、骨髄を惜まず、施を懃めて倦まず。
是れ等の、
種種の、
『宿世の所行』は、
『行い難い!』、
『事』を、
『行い!』、
『身命、国財、妻子、象馬、七珍、頭目、骨髄』を、
『惜まずに!』、
『精力的に!』、
『施して!』、
『倦むことがない!』。
如說。菩薩為諸眾生。一日之中千死千生如檀尸忍禪。般若波羅蜜中所行如是。 説の如し、菩薩は、諸の衆生の為に、一日の中に千死千生す。檀、尸、忍、禅、般若波羅蜜中の所行の如きも、是の如し。
例えば、
こう説かれているが、――
『菩薩』は、
諸の、
『衆生』の為に、
『一日の中』に、
『千死して!』、
『千生する!』、と。
例えば、
『檀、尸羅、忍辱、禅、般若波羅蜜』中の、
『所行』も、
是の通りである!。
菩薩本生經中種種因緣相。是為身精進。於諸善法修行。信樂不生疑悔而不懈怠。從一切賢聖。下至凡人求法無厭。如海吞流。是為菩薩心精進。 菩薩本生経中の種種の因縁の相は、是れを身の精進と為し、諸の善法に於いて修行し、信楽して、疑悔を生ぜず、懈怠せず、一切の賢聖に従いて、下は凡人に至るまで、法を求めて厭う無きこと、海の流を呑むが如き、是れを菩薩の心の精進と為す。
『菩薩本生経』中の、
種種の、
『因縁の相』を、
『身の精進』と、
『称し!』、
諸の、
『善法』を、
『修行して!』、
『信楽し!』、
『疑悔を生じず!』、
『懈怠せず!』、
一切の、
『賢聖』に、
『従い!』、
下は、
『凡人』に、
『至る!』まで、
『従って!』、
譬えば、
『海』が、
『衆流』を、
『呑むように!』、
『法』を、
『求めて!』、
『厭きなければ!』、
是れを、
『菩薩』の、
『心の精進』と、
『称する!』。



精進して厭き足ることがない

問曰。心無厭足是事不然。所以者何。若所求事辦所願已成是則應足。若理不可求事不可辦。亦應捨廢。云何恒無厭足。如人穿井求泉。用功轉多。轉無水相。則應止息。亦如行道。已到所在不應復行。云何恒無厭足。 問うて曰く、心に厭足無き、是の事は然らず。所以は何んとなれば、若し所求の事辦じて、所願已に成らば、是れ則ち応に足るべし。若し理として求むべからず、事として辦ずべからざれば、亦た応に捨廃すべし。云何が恒に厭足無き。人の井を穿ちて、泉を求むるに、功を用うること転た多くして、転た水相無くんば、則ち応に止息すべきが如し。亦た道を行くに、已に所在に到らば、応に復た行くべからざるが如し。云何が恒に厭足無き。
問い、
『心』に、
『厭き足りる!』ことが、
『無い!』とすれば、
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
何故ならば、
若し、
『求める!』所の、
『事』が、
『成功して!』、
『願う!』所の、
『事』が、
『成就した!』ならば、
是れは、
則ち、
『足りたことになるからだ!』。
若し、
『理』として、
『求める!』ことが、
『不可能であり!』、
『事』として、
『成し遂げる!』ことが、
『不可能ならば!』、
当然、
『捨て去って!』、
『廃止すべきである!』。
何故、
恒に、
『厭き足りる!』ことが、
『無いのですか?』。
譬えば、
『人』が、
『井戸を穿つ!』時、
『労力』は、
『どんどん!』、
『多くなる!』のに、
『水相』が、
『どんどん!』、
『無くなれば!』、
当然、
『止息(廃止、休息)すべきである!』のと、
『同じことです!』。
亦た、
『道』を、
『行く!』のに、
已に、
『目的』の、
『地方』に、
『到った!』ならば、
『もう!』、
『行くべきでない!』のと、
『同じです!』。
何故、
恒に、
『厭き足りる!』ことが、
『無いのですか?』。
  (こう):つねに/いつまでも。永久( permanent, lasting )、尋常/普通/恒常的( constant, common )、経常的( always )。
  (じょう):つねに/いつも。恒久/長久不変( constant, fixed, invariable )、一般/普通/正常( ordinary, common, normal )、一定( fixed, established )、頻繁に( frequently, often )。
  所在(しょざい):特定の場所/地方[存在する地方を指して、別処に在らざるを強調する]( place, location )、到る処/処処に( everywhare )。
答曰。菩薩精進。不可以世間譬喻為比。如穿井力少則不能得水。非無水也。若此處無水餘處必有如有所至。必求至佛至佛無厭誨人不惓。故言無厭。 答えて曰く、菩薩の精進は、世間の譬喩を以って、比と為すべからず。井を穿つが如きの、力少ければ、則ち水を得る能わざるは、水無きに非ざるなり。若し此の処に水無ければ、余の処には必ず有り。至る所の有るが如く、必ず仏に至らんと求むれば、仏に至るに厭くこと無く、人に誨(おし)えて倦まざるが故に『厭くこと無し』、と言う。
答え、
『菩薩の精進』は、
『世間』の、
『譬喩』では、
『比較にならない!』、――
譬えば、
『井戸』を、
『穿つ!』のに、
『力』が、
『少ない!』ので、
『水』を、
『得られないのであって!』、
『水』が、
『無いのではない!』。
若し、
此の、
『処』に、
『水』が、
『無くても!』、
他の、
『処』には、
『必ず!』、
『有るはずである!』。
譬えば、
『至る(極める)!』所の、
『事』が、
『有る!』のと、
『同じように!』、
必ず、
『仏』に、
『至る道』を、
『求めるはずである!』。
『仏』に、
『至る!』、
『道』に於いて、
『厭きる!』ことが、
『無く!』、
『人』に、
『教えて!』、
『倦まない!』が故に、
こう言う、――
『厭きる!』ことが、
『無い!』、と。
復次菩薩精進志願弘曠。誓度一切而眾生無盡。是故精進亦不可盡。汝言事辦應止是事不然。雖得至佛眾生未盡不應休息。 復た次ぎに、菩薩の精進は志願弘曠なり。誓って一切を度せんとするも、衆生の尽くる無し。是の故に精進も亦た尽くべからず。汝が言わく、『事辦ずれば、応に止むべし』、とは、是の事然らず。仏に至るを得と雖も、衆生は未だ尽きざれば、応に休息すべからず。
復た次ぎに、
『菩薩』の、
『精進』は、
『志願』が、
『弘曠である!』。
『菩薩』は、
一切の、
『衆生』を、
『度する!』ことを、
『誓った!』が、
『衆生』は、
『尽きる!』ことが、
『無い!』。
是の故に、
『精進』も、
亦た、
『尽きるはずがない!』。
お前は、
こう言ったが、――
『事』が、
『成就すれば!』、
『止めるはずだ!』、と。
是の、
『事』は、
『間違っている!』。
若し、
『仏』に、
『至ることができた!』としても、
『衆生』が、
未だ、
『尽きていなければ!』、
『休息するはずがないからだ!』。
  志願(しがん):誓願のこころざし。
  弘曠(ぐこう):広々として果てしないさま。
譬如火相若不滅終不冷。菩薩精進亦復如是。未入滅度終不休息。以是故十八不共法中。欲及精進二事常修。 譬えば、火相の若し滅せざれば、終に冷たからざるが如く、菩薩の精進も亦た復た是の如く、未だ滅度に入らざれば、終に休息せず。是を以っての故に、十八不共法中の欲、及び精進の二事は常に修む。
譬えば、
『火相』が、
若し、
『滅していなければ!』、
終に、
『冷たくならない!』のと、
『同じように!』、
『菩薩』の、
『精進』も、
是のように、
未だ、
『滅度』に、
『入らなければ!』、
終に、
『休息することはない!』。
是の故に、
『仏』の、
『十八不共法』中の、
『欲』と、
『精進』との、
『二事』は、
『常に!』、
『修めていることになる!』。
  十八不共法(じゅうはちふぐうほう):般若経所説の仏十八不共法を指す。『大智度論巻16上注:十八不共法』参照。
復次菩薩不住法住般若波羅蜜中不廢精進。是菩薩精進非佛精進。 復た次ぎに、菩薩は不住の法もて、般若波羅蜜中に住し、精進を廃せず。是れ菩薩の精進にして、仏の精進に非ず。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『住まらない(滞留しない)!』という、
『法』で、
『般若波羅蜜』中に、
『住まっている!』ので、
『精進』を、
『廃絶しない!』が、
是れは、
『菩薩』の、
『精進であって!』、
『仏』の、
『精進ではない!』。
  不住(ふじゅう):滞留しない( does not abide )、◯梵語 apratiSThita の訳、制限の無い( unlimited )の義、◯梵語 anavasthita の訳、不安定な/行為に於いて束縛されない( unsteady, loose in conduct )の義、心に固執しないこと。
復次菩薩未得菩薩道。生死身以好事施眾生。眾生反更以不善事加之。或有眾生。菩薩讚美反更毀辱。菩薩恭敬而反輕慢。菩薩慈念反求其過。謀欲中傷。此眾生等無有力勢來惱菩薩。 復た次ぎに、菩薩は未だ菩薩道を得ずして、生死の身なれば、好事を以って衆生に施すも、衆生は反って更に、不善事を以って之に加う。或は有る衆生は、菩薩讃美すれば、反って更に毀辱し、菩薩恭敬すれば、反って軽慢し、菩薩慈念すれば、反って其の過を求め、謀りて中傷せんと欲す。此の衆生は等しく、力勢有ること無く、来たりて菩薩を悩ます。
復た次ぎに、
『菩薩』が、
未だ、
『菩薩』の、
『道』を、
『体得していない!』、
『生死』の、
『身であれば!』、――
『好事』を、
『用いて!』、
『衆生』に、
『施した!』としても、
『衆生』は、
『反って!』、
『不善事』を、
『菩薩』に、
『加えるだろう!』。
或は、
有る、
『衆生』は、
『菩薩』が、
『讃美する!』所の、
『事』を、
『反って!』、
『毀辱するだろう!』。
或は、
『菩薩』が、
『恭敬する!』所の、
『事』を、
『反って!』、
『軽慢するだろう!』。
或は、
『菩薩』が、
『衆生』を、
『慈念すれば!』、
『反って!』、
『菩薩』の、
『過失』を、
『求めて!』、
『謀って!』、
『中傷しよう!』と、
『思うだろう!』。
此の、
『衆生』は、
『等しく!』、
『力勢』が、
『無い!』のに、
『来て!』、
『菩薩』を、
『悩ますのである!』。
菩薩於此眾生發弘誓願。我得佛道要當度此惡中之惡諸眾生輩。於此惡中其心不懈生大悲心。譬如慈母憐其子病憂念不捨如是相是為菩薩精進。 菩薩は、此の衆生に於いて、弘誓の願を発すらく、『我れは仏道を得て、要(かなら)ず当に、此の悪中の悪の諸の衆生の輩を度すべし』、と。此の悪中に於いて、其の心は、大悲心を生ずるに懈らず。譬えば、慈母の其の子の病を憐れみ、憂念して捨てざるが如き、是の如き相、是れを菩薩の精進と為す。
『菩薩』は、
此の、
『衆生』に於いて、
『弘誓の願』を、こう発す、――
わたしは、
『仏』の、
『道』を、
『得て!』、
要ず、
此の、
『悪中の悪』の、
諸の、
『衆生の輩』を、
『度さねばならない!』、と。
此の、
『悪』の、
『衆生』中に於いて、
『菩薩』の、
『心』は、
『懈らず!』に、
『大悲心』を、
『生じる!』。
譬えば、
『慈母』が、
其の、
『子』が、
『病む!』のを、
『憐れみ!』、
『憂え!』の、
『念』を、
『捨てないような!』、
是のような、
『相』を、
『菩薩の精進』と、
『称する!』。
復次行布施波羅蜜時。十方種種乞兒來欲求索。不應索者皆來索之。及所愛重難捨之物。語菩薩言。與我兩眼。與我頭腦骨髓愛重妻子及諸貴價珍寶。 復た次ぎに、布施波羅蜜を行ずる時、十方の種種の乞児来たりて、求索せんと欲し、応に索(もと)むべからざる者も、皆来たりて、之に愛重する所の捨て難き物に及ぶまで索め、菩薩に語りて言わく、『我れに両の眼を与えよ』、『我れに頭脳、骨髄、愛重せる妻子、及び諸の貴価の珍宝を与えよ』、と。
復た次ぎに、
『布施波羅蜜』を、
『行う!』時、――
『十方』より、
種種の、
『乞児』が、
『来て!』、
『索取しようとする!』が、
『求めるべきでない!』者までが、
皆、
『来て!』、
此の、
『菩薩』に、
『愛重する!』所の、
『捨て難い!』、
『物』まで、
『索取しようとし!』、
『菩薩』に、
『語って!』、こう言う、――
わたしには、
『二つ!』の、
『眼』を、
『与えよ!』。
わたしには、
『頭脳』や、
『骨髄』や、
『愛重する妻子』や、
『諸の高価な珍宝』を、
『与えよ!』、と。
  乞児(こつに):乞食( beggar )、手を伸ばして食を求めるような乞食。
  求索(ぐさく):捜索/捜尋( seek )、索取/要求( ask for )。
  貴価(きげ):高価。
如是等難捨之物。乞者強索。其心不動慳瞋不起。見疑心不生。一心為佛道故布施。譬如須彌山四方風吹所不能動。如是種種相。是名精進波羅蜜。 是の如き等の捨て難き物を、乞者は強いて索むるも、其の心は、動かず、慳瞋を起さず、疑心の生ぜざるを見せ、一心に仏道の為の故に布施す。譬えば須弥山は四方の風吹くも、動かす能わざる所なるが如し。是の如き種種の相は、是れを精進波羅蜜と名づく。
是れ等の、
『捨て難い!』、
『物』を、
『乞者』が、
『強引に!』、
『索取しても!』、
『菩薩』の、
『心』は、
『動かず!』、
『慳』も、
『瞋』も、
『起らず!』、
『疑心』の、
『生じない!』ことを、
『現し!』、
『一心』に、
『仏の道』を、
『行く!』が故に、
『布施するのである!』。
譬えば、
『四方』より、
『風』が、
『吹いても!』、
『須弥山』が、
『動かされない!』のと、
『同じである!』。
是のような、
種種の、
『相』を、
『精進波羅蜜』と、
『称する!』。



精進して遍く五波羅蜜を行う

復次菩薩精進。遍行五波羅蜜。是為精進波羅蜜。 復た次ぎに、菩薩は精進して、遍く五波羅蜜を行う。是れを精進波羅蜜と為す。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
『精進して!』、
『五波羅蜜』を、
『遍く!』、
『行う!』が、
是れを、
『精進波羅蜜』と、
『称する!』。
問曰。若行戒波羅蜜時。若有人來乞三衣缽盂。若與之則毀戒。何以故佛不聽故。若不與則破檀波羅蜜。精進云何遍行五事。 問うて曰く、若しは戒波羅蜜を行ずる時、若しは有る人来たりて、三衣鉢盂を乞わん。若し之を与うれば、則ち戒を毀る。何を以っての故に、仏の聴(ゆる)したまわざるが故なり。若し与えざれば、則ち檀波羅蜜を破る。精進は、云何が遍く五事を行ぜんや。
問い、
若し、
『戒波羅蜜』を、
『行っていた!』時に、
若しは、
有る、
『人』が、
『来て!』、
『三衣』や、
『鉢盂』を、
『乞うたとしよう!』。
若し、
『与えれば!』、
『戒』を、
『破ることになる!』、
何故ならば、
『仏』は、
『三衣』や、
『鉢盂』を、
『離れる!』ことを、
『許されなかったからだ!』。
若し、
『与えなければ!』、
『檀波羅蜜』を、
『破ることになる!』。
何のように、
『精進して!』、
『遍く!』、
『五波羅蜜』を、
『行うのか?』。
  鉢盂(はちう):乞食に用いる鉢。
答曰。若新行菩薩。則不能一世一時遍行五波羅蜜。如菩薩行檀波羅蜜時。見餓虎飢急欲食其子。菩薩是時興大悲心即以身施。 答えて曰く、若し新行の菩薩なれば、則ち一世一時に遍く、五波羅蜜を行ずる能わず。菩薩の檀波羅蜜を行ずる時、餓えたる虎を見るに、飢急なれば、其の子を食わんと欲せり。菩薩は、是の時、大悲心を興して、即ち身を以って施す。
答え、
若し、
『新行の菩薩』ならば、
『一世』、
『一時』に、
『遍く!』、
『五波羅蜜』を、
『行うことはできない!』。
例えば、こうである、――
『菩薩』が、
『檀波羅蜜』を、
『行っていた!』時、
『飢えた!』、
『虎』を、
『見た!』が、
『虎』は、
『飢え!』に、
『迫られて!』、
其の、
『子』を、
『食おうとしていた!』。
『菩薩』は、
是の時、
『大悲心』を、
『興して!』、
即座に、
『身』を、
『施した!』。
  参考:『賢愚経巻1摩訶薩埵以身施虎品』:『摩訶薩埵以身施虎品第二  如是我聞。一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊。乞食時到。著衣持缽。獨將阿難。入城乞食。時有一老母。唯有二男。偷盜無度。財主捕得。便將詣王。平事案律。其罪應死。即付旃陀羅。將至殺處。遙見世尊。母子三人。俱共向佛。叩頭求哀。唯願天尊。垂濟苦厄。救我子命。誠心款篤。甚可憐愍。如來慈矜。即遣阿難。詣王請命。王聞佛教。即便放之。得脫此厄。感戴佛恩。欣踊無量。尋詣佛所。頭面禮足。合掌白言。蒙佛慈恩。得濟餘命。唯願天尊。慈愍我等。聽在道次。佛即可之。告曰。善來比丘。鬚髮自墮。身所著衣。變成袈裟。敬心內發。志信益固。佛為說法。諸垢永盡。得阿羅漢道。其母聞法。得阿那含。爾時阿難。目見此事。歎未曾有。讚說如來若干德行。又復呰嗟。母子三人。宿有何慶。值遇世尊。得免重罪。獲涅槃安。一身之中。特蒙利益。何其快哉。佛告阿難。此三人者。非但今日蒙我得活。乃往過去。亦蒙我恩。而得濟活。阿難白佛。不審世尊。過去世中。濟活三人。其事云何。佛告阿難。乃往久遠阿僧祇劫。此閻浮提。有大國王。名曰摩訶羅檀囊。秦言大寶。典領小國。凡有五千。王有三子。其第一者。名摩訶富那寧。次名摩訶提婆。秦言大天。次名摩訶薩埵。此小子者。少小行慈。矜愍一切。猶如赤子。爾時大王。與諸群臣夫人太子。出外遊觀。時王疲懈。小住休息。其王三子。共遊林間。見有一虎適乳二子。飢餓逼切。欲還食之。其王小子。語二兄曰。今此虎者。酸苦極理。羸瘦垂死。加復初乳。我觀其志。欲自噉子。二兄答言。如汝所云。弟復問兄。此虎今者。當復何食。二兄報曰。若得新殺熱血肉者。乃可其意。又復問曰。今頗有人。能辦斯事救此生命。令得存不。二兄答言。是為難事。時王小子。內自思惟。我於久遠生死之中。捐身無數。唐捨軀命。或為貪欲。或為瞋恚。或為愚癡。未曾為法。今遭福田。此身何在。設計已定。復共前行。前行未遠。白二兄言。兄等且去。我有私緣。比爾隨後。作是語已。疾從本徑。至於虎所。投身虎前。餓虎口噤。不能得食。爾時太子。自取利木。刺身出血。虎得舐之。其口乃開。即噉身肉。二兄待之經久不還。尋跡推覓。憶其先心。必能至彼。餧於餓虎。追到岸邊。見摩訶薩埵死在虎前。虎已食之。血肉塗漫。自撲墮地。氣絕而死。經於久時。乃還穌活。啼哭宛轉。迷憒悶絕。而復還穌。夫人眠睡夢有三鴿。共戲林野。鷹卒捉得其小者食。覺已驚怖。向王說之。我聞諺言。鴿子孫者也。今亡小鴿。我所愛兒。必有不祥。即時遣人。四出求覓。未久之間。二兒已到。父母問言。我所愛子。今為所在。二兒哽噎。隔塞斷絕。不能出聲。經于久時。乃復出言。虎已食之。父母聞此。[跳-兆+辟]地悶絕而無所覺。良久乃穌。即與二兒夫人婇女。馳奔至彼死屍之處。爾時餓虎。食肉已盡。唯有骸骨。狼藉在地。母扶其頭。父捉其手。哀號悶絕。絕而復穌。如是經久時。摩訶薩埵。命終之後。生兜率天。即自生念。我因何行。來受此報。天眼徹視。遍觀五趣。見前死屍。故在山間。父母悲悼。纏綿痛毒。憐其愚惑。啼泣過甚。或能於此喪失身命。我今當往諫喻彼意。即從天下。住於空中。種種言辭。解諫父母。父母仰問。汝是何神。願見告示。天尋報曰。我是王子摩訶薩埵。我由捨身濟虎餓乏。生兜率天。大王當知。有法歸無。生必有終。惡墮地獄。為善生天。生死常塗。今者何獨沒於憂愁煩惱之海。不自覺悟懃修眾善。父母報言。汝行大慈。矜及一切。捨我取終。吾心念汝。荒塞寸絕。我苦難計。汝修大慈。那得如是。於時天人。復以種種妙善偈句。報謝父母。父母於是小得惺悟。作七寶函盛骨著中。葬埋畢訖。於上起塔。天即化去王及大眾。還自歸宮佛告阿難。爾時大王。摩訶羅檀那者。豈異人乎。今我父王閱頭檀是。時王夫人。我母摩訶摩耶是。爾時摩訶富那寧者。今彌勒是第二太子摩訶提婆者。今婆修蜜多羅是。爾時太子摩訶薩埵。豈異人乎。我身是也。爾時虎母今此老母是。爾時二子。今二人是。我於久遠。濟其急厄危頓之命。令得安全。吾今成佛。亦濟彼厄。令其永離生死大苦。爾時阿難一切眾會。聞佛所說。歡喜奉行』
菩薩父母以失子故。憂愁懊惱兩目失明。虎殺菩薩亦應得罪而不籌量。父母憂苦虎得殺罪。但欲滿檀自得福德。 菩薩の父母は、子を失うを以っての故に、憂愁し、懊悩して、両の目を失明し、虎は菩薩を殺して、亦た応に罪を得べくして、籌量ならず。父母は憂い苦しみ、虎は殺罪を得、但だ檀を満たさんと欲して、自ら福徳を得るのみ。
『菩薩』の、
『父母』は、
『子』を、
『失う!』が故に、
『憂愁し!』、
『懊悩して!』、
『両眼』を、
『失明した!』。
『虎』も、
亦た、
『菩薩』を、
『殺した!』ので、
『得るはず!』の、
『罪』は、
『無量である!』。
『父母』は、
『憂いて!』、
『苦しみ!』、
『虎』は、
『殺罪』を、
『得た!』が、
『菩薩』は、
但だ、
『檀』を、
『満たそう!』と、
『思ったのである!』が、、
『自ら!』、
『得た!』のは、
『福徳のみであった!』。
  籌量(ちゅうりょう):計量。又は思量。
又如持戒比丘。隨事輕重擯。諸犯法。被擯之人愁苦懊惱。但欲持戒不愍其苦。 又、持戒の比丘の如きは、事の軽重に随いて、諸の犯法を擯(しりぞ)く。擯を被る人は、愁え苦しみて懊悩するも、但だ持戒せんと欲して、其の苦を愍まず。
又、
例えば、こうである、――
『持戒の比丘』は、
『事』の、
『軽重』に、
『随って!』、
諸の、
『犯法の者』を、
『擯斥(排斥)する!』が、
『擯斥された人』が、
『愁いて!』、
『苦しみ!』、
『懊悩した!』としても、
但だ、
『持戒する!』ことのみを、
『思って!』、
其の、
『苦しみ!』を、
『愍れまない!』。
  (ひん):しりぞける。[不要な物を]捨てる/排斥( discard )、追い払う/棄絶( get rid of, drive out )。
  擯斥(ひんせき):排斥/拒絶( reject )。
  擯治(ひんじ):悪比丘を擯斥して、之を治罰す。此に三種有り、一には擯出、本処より之を駆出し、彼の懺悔を待ちて乃ち還来を許す。二には黙擯、一切の人は、之と交語せず。三には滅擯、極悪の比丘の重罪を犯して懺せざるに、彼の名を滅除して、永く本処由り駆出す。<(丁)
或時行世俗般若息慈悲心。如釋迦牟尼菩薩。宿世為大國王太子。父王有梵志師不食五穀。眾人敬信以為奇特。 或は時に世俗の般若を行いて、慈悲の心を息む。釈迦牟尼菩薩の、宿世に大国の王の太子と為るが如し。父王の有る梵志師は、五穀を食わざれば、衆人敬信して、以って奇特と為す。
或は、
時に、
『世俗』の、
『般若』を、
『行って!』、
『慈悲』の、
『心』が、
『休息する!』、――
例えば、こうである、――
『釈迦牟尼仏』は、
『宿世』に、
『大国』の、
『王』の、
『太子であった!』。
『父王』の、
有る、
『梵志師』は、
『五穀』を、
『食わなかった!』ので、
『衆人』は、
『敬い!』、
『信じて!』、
是の、
『梵志』を、
『奇特だ!』と、
『思っていた!』。
  奇特(きどく):珍しくて優れている。
太子思惟人有四體必資五穀。而此人不食必是曲取人心非真法也。 太子の思惟すらく、『人には、四体有り、必ず五穀を資(もとで)とす。食わざるは、必ず是れ曲げて、人心を取り、真法に非ず』、と。
『太子』は、
こう思惟した、――
『人』には、
『四体(四肢 limbs )』が、
『有り!』、
必ず、
『五穀』を、
『資(もと)とする!』。
而し、
此の、
『人』は、
『食おうとしない!』。
是れは、
必ず、
『曲がった!』、
『法』で、
『人心』を、
『取った(掌握した)のであり!』、
『真の!』、
『法』で、
『人心』を、
『取ったのではない!』、と。
  四体(したい):四肢( limbs )。
父母告子此人精進不食五穀是世希有。汝何愚甚而不敬之。太子答言。願小留意。此人不久證驗自出。 父母の子に告ぐらく、『此の人は、精進して五穀を食わず。是れ世に希有なり。汝は何んが愚なること甚だしくも、之を敬わざる』、と。太子の答えて言わく、『願わくは小(しばら)く留意したまえ。此の人は久しからずして、証験自ら出でん』、と。
『父母』は、
『子』に、こう告げた、――
此の、
『人』は、
『精進して!』、
『五穀』を、
『食わないのだ!』。
是れは、
『世にも!』、
『希有である!』。
お前は、
何と、
『愚かさ!』の、
『甚だしいことか!』、
是の、
『人』を、
『敬わないとは!』、と。
『太子』は、
答えて、こう言った、――
願わくは、
『少しの間!』、
『注意していてください!』。
此の、
『人』は、
やがて、
自ら、
『証拠』が、
『出てまいりましょう!』、と。
  留意(りゅうい):用心する/注意する( be careful, look out )。
  証験(しょうけん):実証する( verify )、効験( real results )。
是時太子求其住處至林樹間。問林中牧牛人。此人何所食噉。牧牛者答言。此人夜中少多服酥以自全命。 是の時、太子は、其の住処を求めて、林樹の間に至り、林中の牧牛人に問わく、『此の人は、何の食噉する所ぞ』、と。牧牛者の答えて言わく、『此の人は、夜中に少多の酥を服し、以って自ら命を全うす』、と。
是の時、
『太子』は、
『梵志』の、
『住処』を、
『求めて!』、
『林樹の間』に、
『至る!』と、
『林中の牧牛人』に問うて、こう言った、――
此の、
『人』は、
何を、
『食っているのか?』、と。
『牧牛者』は答えて、こう言った、――
此の、
『人』は、
『夜』中に、
『少しばかり!』の、
『酥( butter )』を、
『服用して!』、
それで、
『自ら!』の、
『命』を、
『保全しています!』、と。
  牧牛人(ぼくごにん):牛飼い。
  食噉(じきたん):食う。くらう。
  (そ):梵語 ghRta の訳、澄ましバター/バター( clarified butter, butter )。
太子知已還宮欲出其證驗。即以種種諸下藥草熏青蓮華。清旦梵志入宮坐王邊。太子手執此花來供養之拜已授與。 太子は知り已りて、宮に還り、其の証験を出さんと欲し、即ち種種、諸の下薬の草を以って、青蓮華を熏ず。清旦、梵志、宮に入りて王辺に坐す。太子は手に此の花を執り、来たりて之を供養し、拜し已りて授与す。
『太子』は、
『知った!』ので、
『宮』に、
『還って!』、
其の、
『証拠』を、
『出そう!』と、
『思い!』、
即ち、
種種、
諸の、
『下剤』の、
『薬草』を、
『用いて!』、
『青蓮華』を、
『熏した!』。
早朝、
『梵志』が、
『宮』に、
『入り!』、
『王の辺』に、
『坐る!』と、
『太子』は、
此の、
『花』を、
『手』に、
『執り!』、
『梵志』を、
『供養、礼拜して!』、
『授与した!』。
  清旦(しょうたん):清々しい朝。
梵志歡喜自念。王及夫人內外大小皆服事我。唯太子不見敬信。今日以好華供養甚善無量。得此好華敬所來處。舉以向鼻嗅之。華中藥氣入腹。須臾腹內藥作欲求下處。 梵志の歓喜して自ら念ずらく、『王、及び夫人、内外の大小皆、我れに服事す。唯だ太子のみ、敬信を見(あらわ)さず。今日、好華を以って供養すること、甚だ善なること無量なり』、と。此の好華を得て、所来の処に敬いて挙げ、以って鼻に向けて之を嗅ぐ。華中の薬気腹に入り、須臾にして腹内の薬作して、下す処を求めんと欲す。
『梵志』は、
『歓喜して!』、
自ら、こう念じると、――
『王』も、
『夫人』も、
『内外の大小』も、
皆、
わたしに、
『服従している!』のに、
唯だ、
『太子』のみが、
『敬信』を、
『見せなかった!』が、
今日、
『好華』を、
『供養した!』ということは、
甚だ、
『善いことであり!』、
『無量である!』、と。
此の、
『花』を、
『所来の処(太子)』に、
『敬って!』、
『挙げ!』、
『鼻』に、
『向けて!』、
『嗅いでみた!』ところ、
『華』中の、
『薬気』が、
『腹』に、
『入って!』、
『須臾にして!』、
『腹内』の、
『薬』が、
『作用した!』ので、
『下す!』、
『処』を、
『探そうとした!』。
  服事(ふくじ):臣服聴命。服従して命じられるがまま仕事を為す。
  (さ):起す( get up )。工作を開始する( rise, do, make )。
太子言。梵志不食何緣向廁。急捉之須臾便吐王邊。吐中純酥。證驗現已。王與夫人乃知其詐。太子言。此人真賊求名故以誑一國。 太子の言わく、『梵志は食わざるに、何に縁(よ)りてか、廁に向う』、と。急ぎ之を捉らうるに、須臾にして便(すなわ)ち、王辺に吐く。吐中には酥を純らにす。証験現れ已りて、王と夫人と乃(すなわ)ち其の詐(いつわ)るを知る。太子の言わく、『此の人は真の賊なり、名を求めんが故に、以って一国を誑(たぶらか)せり』、と。
『太子』は、
こう言った、――
『梵志』は、
『食わない!』のに、
何故、
『廁(かわや)』へ、
『向われるのか?』、と。
急いで、
『梵志』を、
『捉える!』と、
須臾にして、
『吐(へど)』を、
『王の辺』に、
『ドバッと吐いた!』。
『吐』中は、
『只だ!』、
『酥ばかりであった!』。
『証拠』が、
『現れた!』ので、
『王』や、
『夫人』は、
ようやく、
『梵志』が、
『詐(いつわ)っていた!』のを、
『知った!』。
『太子』は、
こう言った、――
此の、
『人』は、
『真の!』、
『賊です!』。
『名声』を、
『求める!』が故に、
『曲がった!』、
『法』を、
『用いて!』、
『一国』を、
『誑(たぶらか)しました!』、と。
如是行世俗般若。但求滿智。寢憐愍心不畏人瞋。 是の如く世俗の般若を行ずれば、但だ智を満てんことのみを求めて、憐愍の心を寝(やす)めて、人の瞋るを畏れず。
是のように、
『世俗』の、
『般若』を、
『行う!』者は、
但だ、
『智』を、
『満たす!』ことを、
『求めるのみ!』で、
『憐愍』の、
『心』を、
『停止しており!』、
『人』の、
『怒り!』を、
『畏れない!』。
  般若(はんにゃ):梵語 prajJaa 、巴梨語 paJJaa 。又波若、鉢若、斑若、般羅若、般刺若、鉢羅若、鉢刺若、鉢囉枳穣、鉢囉枳嬢、鉢羅枳嬢、或は鉢羅腎攘に作り、慧、明、智慧、慧明、極智、勝慧、或は黠慧と訳す。「解脱道論(巴梨文浄道論 visuddhinagga に相当)巻九分別慧品」に、「云何が慧なる。何の相、何の味、何の起、何の処、何の功徳なる。慧とは何の義ぞ、幾ばくの功徳によりて波若を得とせん、幾種の波若ありや。答う、意事如見 kusala- citta- sar payutta vipassanaa- JaaNa (善心安住観智)此れを波若と謂う。復た次ぎに饒益不饒益を作意し、荘厳を作意する此れを波若と謂う。阿毘曇(即ち法僧伽 dharmmasangaNi )の中に説くが如き、云何が波若なる、これ波若はこれ慧 vicaya 、これ智 pavicaya 、これ択法 dhammavicaya 、妙相 sallakkhaNaa 、随観 upallakkhaNaa なり。彼の観 vipassanaa は聡明 paNDicca 、暁了 kosalla, nepuJJa 、分別 paccupalakkhaNaa なり。思惟 vebhavyaa, cintaa 、見 upaparikkhaa 、大易悟 bhuurii- medhaa 、牽 pariNaayikaa 、正智 sampajaJJa なり。慧鉤 patoda- paJJaa 、慧根 paJJindriya 、慧力 paJJaabala 、慧仗 paJJaasattha 、慧殿 paJJaapaasaada 、慧光 paaJJaaloka 、慧明 paJJaa- obhaasa 、慧灯 paJJaapajjota 、慧宝 paJJaaratana なり。不愚癡 amoha 、択法、正見 sammaadiTThi 、此れを波若と謂う。如達を相と為し、択を味と為し、不愚癡を起と為し、四諦を処と為す。復た次ぎに了義光明を相と為し、正法に入るを味と為し、無明の闇を除くを起と為し、四辯を処と為す。何の功徳とは、波若には無量の功徳あり、以って略して此の偈を聞くべし。慧を以って諸戒を浄め、禅に入るも亦二慧なり。慧を以って諸道を修し、慧を以って彼の果を見る。(中略)慧を以って衆悪、愛、瞋恚、無明を除き、智を以って生死を除き、余の除くべからざるを除く。問う、慧とは何の義ぞや、答う、智の義なり、能除を義と為す。幾ばくの功徳によりて慧を得とせんとは、十一の功徳あり。(中略)幾種の慧とは、答う二種三種四種あり」と云えり。これ般若は慧にして了達を性とし、四諦の境に於いて揀択し、能く衆悪及び生死を除くものなることを明にせるなり。又「梁訳摂大乗論巻中」に、「能く一切の見行を滅し、能く邪智を除くが故に般羅と称し、能く真相を縁じ、其の品類に随って一切法を知るが故に若と称す」と云い、「同論釈巻9」に之を解し、「見行とは謂わく六十二見なり、邪智とは謂わく世間虚妄の解なり。見行は即ちこれ惑障、邪智は即ちこれ智障なり。真如を縁ずと謂うは即ち如理智なり。品類に二種あり、謂わく有為と無為なり、及び名等の五の摂なり。若し此の法を知らば即ち如量智なり。真如の相及び品類を一切法と名づく。如理智を般若と名づく、如量智はこれ般若の果なるも亦般若と名づく。此の二智は三蔵の所顕たり、一に対治は即ち二障なり、二に境界は即ち真相なり、三に果は即ち如量智なり。此の義を具するに由るが故に般羅若と称す」と云えり。これ惑智二障を滅除するを般羅 pra の義とし、真如の相及び有為無為の一切の品類を知るを若 jJaa と名づくとなすの意なり。蓋し梵語prajJaaは「知る」の義なる語根 jJaa に、「前に」若しくは「去る」の義なる前接字 pra を附加して成れる動詞 pra- jJaa の名詞形にして、智慧、叡智、知識等の義を有する語なり。「雑阿含経巻26」には、之を五根の一となして慧根 paJJ- indriya と名づけ、「同巻47」には無漏の五蘊(即ち五分法身)の一となして之を慧身 paJJaa- kkhandha と名づけ、「同巻29」には戒定の二学に対し、慧によりて如実に知見するを名づけて増上慧学 adhi- paJJaa- sikkhaa となせり。又「解脱道論巻9」には、之に世慧 okiya- paJJaa 、出世慧 lokuttara- paJJaa の二種の別ありとし、「聖道の果に相応する慧はこれ出世慧なり、余はこれ世慧なり。世慧とは有漏、有結、有縛なり、これ流、これ厄、これ蓋、これ所触、これ趣、これ有煩悩なり。出世慧とは無漏、無結、無縛、無流、無厄、無蓋、無所触、無趣、無煩悩なり」と云い、又同論並びに「大毘婆沙論巻42」等には、之を聞慧 zrutamayii prajJaa (巴 sutamayii paaJJaa )、思慧 cintaamayii p. (巴 cintamayii p. )、修慧 bhaavanaamayii p. (巴 bhaavanaamayii p. )の三種に分別し、又「解脱道論の連文」には、更に来暁了、去暁了、方便暁了の三慧、聚慧、不聚慧、非聚非非聚慧の三種、自作業智、随諦相応智、道等分智、果等分智の四種、欲界慧、色界慧、無色界慧、無繋慧の四種、法智、比智、他心智、等智の四慧、有慧為聚非為非聚、有慧為非聚非為聚、有慧為聚亦為非聚、有慧非為聚非非為聚の四慧、有慧有為厭患非為達、有慧為達非為厭患、有慧為厭患亦為達、有慧不為厭患亦不為達の四慧、義辯 attha- paTisambhidaa、法辯 dhamma- p.、辞辯 nirutti- p.、楽説辯 paaTibhaana- p.の四慧、苦智 dukkha- JaaNa、苦集智 dukkhasamudaya- J.、苦滅智 dukkhanirodha- J.、苦滅道智 dukkhanirodha- gaaminiyaa- paTipadaaya- J.の四慧の別あることを説き、又「大乗大集地蔵十輪経巻10福田相品」、及び「瑜伽師地論巻43慧品」には、菩薩の般若(或は一切慧)に世間慧 laukikii-prajJaa、出世間慧lokottaraa-prajJaaの二種あることを明し、「梁訳摂大乗論巻中」には、無分別加行般若、無分別般若、無分別後得般若の三種、「大乗阿毘達磨雑集論巻12」には、世俗慧、縁勝義慧、縁有情慧の三慧、「金剛頂瑜伽千手千眼観自在菩薩修行儀軌経巻下」には、人空無分別慧、法空無分別慧、俱空無分別慧の三慧ありとし、又「瑜伽師地論の連文」には、更に菩薩の一切慧に能於所知真実随覚通達慧、能於如所説五明処及三聚中決定善巧慧、能作一切有情義利慧の三種、菩薩の難行慧に甚深の法無我を知る等の三種、菩薩の一切門慧に声聞蔵及び菩薩蔵所有の勝妙聞所成の慧等の四種、菩薩の善士慧に聴聞正法所集成慧等の五種、菩薩の一切種慧に苦智等の六種、及び法智等の七種、菩薩の遂求慧に依法異門慧智等の八種、菩薩の此世他世楽慧に内明処能善明浄善安住慧等の九種、菩薩の清浄慧に真実義の二種慧等の十種ありとなせり。按ずるに大乗仏教に於いては般若を以って六波羅蜜の一とし、諸部の般若経に広く其の功用を宣説するのみならず亦諸大乗教論に之を解明せるもの甚だ多し。「大品般若経巻1序品」に、「菩薩摩訶薩、一切種智を以って一切法を知らんと欲せば、当に般若波羅蜜を習行すべし」と云い、「大智度論巻43」に、「般若は(秦に智慧と言う)一切の諸の智慧の中最も第一と為す。無上無比無等にして更に勝るる者なし」と云い、又「大宝積経巻53」に広く其の義を解し、「言う所の慧とは謂わく能く一切の善法を解了するなり。これ現見慧なり、一切の法に随順し通達するが故なり。これ真量慧なり、実の如く一切法に通達するが故なり。これ通達慧なり。一切の見趣、諸の纏縛の法は障を為さざるが故なり。これ離願慧なり、永く一切の欲求願を離るるが故なり。これ安悦慧なり、永く一切の諸の熱悩を息むるが故なり。これ歓喜慧なり、法を縁じて喜楽すること断絶なきが故なり。これ依趣慧なり、諸義に於いて智皆現見するが故なり。これ建立慧なり、一切の覚品の法を建立するが故なり。これ証相慧なり、其の所乗に随って果を証得するが故なり。これ了相慧なり、善く能くこの智性を照了するが故なり。これ済度慧なり、一切の諸の瀑流を救度するが故なり。これ趣入慧なり、能く正性無生の法に趣くが故なり。これ策励慧なり、一切の諸の善法を振発するが故なり。これ清浄慧なり、先の随眠煩悩の濁を離るるが故なり。これ最勝慧なり、一切諸法の頂に昇陟するが故なり。これ微妙慧なり、自然智を以って法を随覚するが故なり。これ離行慧なり、更に雑染三界の法なきが故なり。これ摂受慧なり、一切の賢聖に摂受せらるるが故なり。これ断願慧なり、一切の相分別を除遣するが故なり。これ捨逸慧なり、一切の愚の黒闇を遠離するが故なり。これ方便慧なり、一切の瑜伽師地に安住する者の成就する所なるが故なり。これ発趣慧なり、当に一切の聖智道に住すべきが故なり。これ照明慧なり、一切の無明瀑流の翳暗の膜を除滅するが故なり。これ施明慧なり、一切を開導すること猶お眼の如きが故なり。これ無漏慧なり、慧眼は邪僻の路を超過するが故なり。これ勝義慧なり、かくの如き大聖諦を照了するが故なり。これ無別慧なり、善く調順するが故なり。これ光明慧なり、諸智の門なるが故なり。これ無尽慧なり、一切に遍じて随行して照らすが故なり。これ無滅慧なり、常に広く見るが故なり。これ解脱道慧なり、永く一切の取執の縛を断ずるが故なり。これ不離処慧なり、一切の煩悩障法と而も同止せざるが故なり」と云えり。これ般若は諸慧中の最第一にして、如実に一切法に通達し、乃至能く永く一切取執の縛を断ずるものなることを明にせるなり。蓋し般若波羅蜜は主として大乗菩薩の学する所なりと雖も、般若経中には声聞の人も亦之を学すべしとなし、且つ仏は声聞たる須菩提をして般若を説かしめたるにより、「大智度論巻72」には般若に共不共の別ありとし、「般若に二種あり、一には唯大菩薩のために説き、二には三乗共説す。声聞に共ずる説の中には、須菩提はこれ仏に随って生ずとし、但だ菩薩のために説くの時は、須菩提は仏に随って生ずと説かず」と云えり。これ即ち共般若は声聞も亦得する所なるも、不共般若は唯大菩薩のみ学する所なるを示したるなり。又般若の語の有翻無翻に関し、吉蔵の「大品経義疏巻1」に旧の六家の説を挙げ「次に此の土を明さば翻者同じからず、若しこれ道安法師は云わく、波若は此に清浄と云うと。放光経第二十二巻に出づ。次に敷法師は遠離と云う。大品第六巻無生品に出づ。次に有師云わく、六度集経の中に波若を翻じて明度と為すなりと。第四解は大論十八巻に波若とは秦に慧と言うと云うに依る。第五解は大論四十三巻に波若とは秦に智慧と言うと云うに依る。第六はこれ招提の解なり、大論(第七十一)釈成辦品の文に、波若は定んで実相に異にして甚深極重なり。智慧は軽薄なれば以って波若を秤すべからずと云うを用う。此の意は明す、波若は深重なるも智慧は軽薄なり、故に翻ずべからず。又波若は多なるも智慧は少なり、故に小の智慧を以って多の波若を翻ずべからざるなり。又涅槃(第三十)師子吼の文を案じ、中に波若とは謂わく一切衆生なり、毘馬舎那は一切の聖人なり、闍那とは諸仏菩薩なりと云うを取るとは、波若は真に慧と云う、浅きが故に一切衆生に名づけ、毘馬舎那は見と云う、少しく深きが故に一切聖人と云い、闍那は翻じて智と為す、智は最も深きが故に諸仏菩薩と云うなり。闍那を翻じて智と為すは毘婆沙に出づ。毘波沙(阿毘曇毘婆沙論第五)に云わく、闍那とは智と言うなりと。既に三種各自ら翻あり。若し智慧を以って波若を翻ずと言わば、復た何を以って闍那を翻ぜんや。故に知る波若は翻ずべからず」と云い、次に一一此等諸家の説を破し、波若は翻じて智慧となすべしと云えり。又菩提流支の「金剛仙論巻1」に、「般若とは乃ちこれ西国の正音なり。此に魏に翻じて慧明と云う」と云い、「大乗義章巻12」に、「般若と言うは、此の方に慧と名づく。法に於いて観達するが故に称して慧と為す」と云い、諸家多く有翻説を取れるも、玄奘は生善尊重の故に般若は梵音を存すべしとし、之を五種の不翻の一に数えたりと称せらる。これ皆大乗の般若は無比無等の最勝慧にして、声聞等の所得に同じからずとなすに由るなり。又支那の諸家は般若に二種三種及び五種の別ありとし、具さに其の義旨を闡明する所あり。「大品経義疏巻1」に依るに、羅什は直ちに実相の空を照らす辺を名づけて慧となし、若し空を行ずるも証せず、有に渉るも著せざるを方便となし、僧肇は直ちに空を照らし有を照らすを慧とし、空を行ずるも証せず、有に渉るも著なきを方便となし、又持公は実相、方便、文字の三種の波若を立つと云い、慧遠の「大乗義章巻10」、智顗の「金光明経玄義巻上」、並びに吉蔵の「大品経義疏巻1」等には実相、観照、文字の三種般若を明し、慧浄の「般若心経疏」、窺基の「般若心経幽賛巻上」等には、実相、観照、文字、眷属、境界の五種般若の説をなせり。以って般若の義が支那に於いて如何に精研せられたるかを見るを得べし。又「菩薩内習六波羅蜜経」、「大乗菩薩蔵正法経巻38」、「大仏頂首楞厳経巻4」、「大乗荘厳経論巻7度摂品」、「翻梵語巻2」、「金剛般若経疏」、「仁王般若経疏巻1」、「大品経遊意」、「金剛般若経疏巻1」、「仁王般若経疏巻上1」、「大慧度経宗要」、「慧苑音義巻上」、「慧琳音義巻12、巻13、巻27、巻47」、「仁王護国般若波羅蜜多経疏巻1上」等に出づ。<(望)
或時菩薩行出世間般若。於持戒布施心不染著。何以故施者受者所施財物。於罪不罪於瞋不瞋。於進於怠攝心散心不可得故。 或は時に菩薩は、出世間の般若を行いて、持戒、布施に於いて、心染著せず。何を以っての故に、施者、受者、所施の財物、罪と不罪とに於いて、瞋と不瞋とに於いて、進に於いて、怠に於いて、摂心と散心とは得べからざるが故なり。
或は、
時に、
『菩薩』は、
『出世間』の、
『般若』を、
『行う!』ので、
『持戒』や、
『布施』に、
『心』が、
『染著することはない!』。
何故ならば、
『施者』や、
『受者』や、
『所施の財物』は、
『認められないからであり!』、
『罪である!』とか、
『罪でない!』とかも、
『認められず!』、
『瞋である!』とか、
『瞋でない!』とかも、
『認められず!』、
『精進である!』とか、
『懈怠である!』とかも、
『認められず!』、
『摂心』とか、
『散心』とかも、
『認められないからである!』。
復次菩薩行精進波羅蜜。於一切法不生不滅非常非無常非苦非樂非空非實非我非無我非一非異非有非無。盡知一切諸法因緣和合。但有名字實相不可得。 復た次ぎに、菩薩は精進波羅蜜を、一切法の不生不滅、非常非無常、非苦非楽、非空非実、非我非無我、非一非異、非有非無に於いて行じ、尽く一切の諸法は、因縁の和合にして、但だ名字のみ有りて、実相の得べからざるを知る。
復た次ぎに、
『菩薩』は、
一切の、
『法』の、
『不生、不滅』、
『非常、非無常』、
『非苦、非楽』、
『非空、非実』、
『非我、非無我』、
『非一、非異』、
『非有、非無』に於いて、
『精進波羅蜜』を、
『行い!』、
尽く、
一切の、
『諸の法』は、
『因縁』の、
『和合であり!』、
但だ、
『名字のみ!』が、
『有って!』、
『実の相』は、
『認識できない!』と、
『知る!』。
菩薩作如是觀。知一切有為皆是虛誑心息無為。欲滅其心唯以寂滅為安隱。爾時念本願憐愍眾生故。還行菩薩法集諸功德。 菩薩の是の如き観を作して、『一切の有為は、皆、是れ虚誑にして、心息めば無為なり』、と知り、其の心を滅せんと欲して、唯だ寂滅を以ってのみ、安隠と為すも、爾の時、本願を念じて、衆生を憐愍するが故に、還って菩薩の法を行じて、諸の功徳を集む。
『菩薩』は、
是のような、
『観察』を、
『作して!』、
一切の、
『有為法』は、
皆、
『虚誑(虚偽)であり!』、
『心』の、
『想念』が、
『停止すれば!』、
則ち、
『無為である!』と、
『知って!』、
其の、
『心』を、
『滅しよう!』と、
『思い!』、
唯だ、
『寂滅』のみが、
『安隠だ!』と、
『考える!』が、
爾の時、
『本願』を、
『念じ(思い出し)て!』、
『衆生』を、
『憐愍する!』が故に、
還()た、
『菩薩』の、
『法』を、
『行い!』、
諸の、
『功徳』を、
『集める!』。
菩薩自念我雖知諸法虛誑。眾生不知是事。於五道中受諸苦痛。我今當具足行六波羅蜜。菩薩報得神通。亦得佛道三十二相八十種好。一切智慧大慈大悲無礙解脫。十力四無所畏十八不共法三達等無量諸佛法。得是法時一切眾生皆得信淨。皆能受行愛樂佛法能辦是事。皆是精進波羅蜜力。是為精進波羅蜜。 菩薩の自ら念ずらく、『我れは諸法の虚誑なるを知ると雖も、衆生は是の事を知らずして、五道中に諸の苦痛を受く。我れは今、当に具足して、六波羅蜜を行ずべし』、と。菩薩は、報の神通を得て、亦た仏の道と三十二相と八十種好、一切の智慧、大慈大悲、無礙解脱、十力、四無所畏、十八不共法三達等の、無量の諸仏の法を得。是の法を得る時、一切の衆生は皆、信を得て浄く、皆能く仏法を受行し愛楽し、能く是の事を辦ずる、皆是れ精進波羅蜜の力なり。是れを精進波羅蜜と為す。
『菩薩』は、
自ら、こう念じる、――
わたしは、
諸の、
『法』が、
『虚誑である!』と、
『知っている!』が、
『衆生』は、
是のような、
『事』を、
『知らずに!』、
『五道』中に於いて、
諸の、
『苦痛』を、
『受けている!』。
わたしは、
今、
『具足して!』、
『六波羅蜜』を、
『行わなければならない!』、と。
『菩薩』が、
『報』として、
『六神通』を、
『得て!』、
亦た、
『仏』の、
『道』と、
『三十二相、八十種好』と、
『一切の智慧、大慈大悲、無礙解脱』と、
『十力、四無所畏、十八不共法、三達』等の、
無量の、
諸の、
『仏』の、
『法』を、
『得る!』と、
是の、
『法』を、
『得た!』時、
一切の、
『衆生』は、
皆、
『信じて!』、
『心』が、
『浄くなり!』、
皆、
『仏の法』を、
『受けて!』、
『行い!』、
『愛し!』、
『楽しむことができ!』、
皆、
是の、
『事(仏事)』を、
『成就するのである!』が、
皆、
是れは、
『精進波羅蜜』の、
『力であり!』、
是れを、
『精進波羅蜜』と、
『称する!』。
  報得(ほうとく):人の果報に由りて、自然に得るを云い、修得に対して云う。<(丁)
  三達(さんたつ):三明。『大智度論巻16(下)注:三明』参照。
  三明(さんみょう):梵語 tisro vidyaaH の訳。巴梨語 tisso vijjaa 。三種の明の意。無学位に至りて愚闇を除尽し、三事に於いて通達無礙なる智明を云う。又三達、或は三証法とも名づく。一に宿命智証明 puurva- nivaasaanusmRti- jJaana- saakSaat- kriya- vidyaa 、二に生死智証明 cyuty- upapaada- j.- s.- k. 、三に漏尽智証明 aasrava- kSzaya- j.- s.- k. なり。「雑阿含経巻31」に、「三種の無学の三明あり。何等をか三と為す、謂わく無学の宿命智証明、無学の生死智証明、無学の漏尽智証明なり」と云い、「長阿含経巻8」に、「復た三法あり、謂わく三明なり。自識宿命智明、天眼智明、漏尽智明なり」と云えるこれなり。此の中、宿命智証明とは具さに宿住隨念智作証明と云い、又宿住智証明、宿住智明、宿命明、宿命智とも名づく。我れ及び衆生の一生より百千万億生に至る間に於いて、更る所の名と生と性と食と苦と楽と寿等、並びに此の処に死して余処に生じ、余処に死して此の処に生ぜる行と因と信等の種種の宿命の事に就き、皆悉く了知するを云う。生死智証明とは又死生智証明、死生智明、或は天眼明、天眼智とも名づく。諸の衆生の死時生時、善色悪色、上色下色、或は身口意三業に悪行を成就せる邪法の因縁に由りて、命終の後悪趣の中に生じ、或は身口意三業に善行を成就せる正法の因縁に由りて、命終の後善趣の中に生ずる等の事に就き、皆悉く了知するを云う。漏尽智証明とは又漏尽智明、漏尽明、漏尽智とも名づく。如実に四諦の理を証して漏心を解脱し、我が生已に尽き、梵行已に立ち、所作已に辨じ、後有を受けじと了知するを云うなり。蓋し有学身中には尚お愚闇ありて惑未だ除尽せず、暫く愚闇を伏滅することありと雖も、後還て蔽わるるが故に名づけて明と為さず。然るに無学身中に在りては愚闇を除尽し、此の三事に於いて通達解了するが故に、之を立てて明となすなり。又此の三は皆無学身中に在りて起こるが故に無学明と名づく。但し漏尽智明は無漏に通ずるが故に、其の自性即ち無学なることを得べきも、余の二は俗智を自性とし、其の体唯非学非無学なり。而も今通じて無学と名づくるは、但だ無学の相続依身中に起こるが故なり。「順正理論巻76」に、「最後が無学の名を得るは、自性相続皆無学なるが故なり。前の二種が無学の名を得るは、但だ相続に由り、自性に由らず」と云える即ち其の意なり。又此の三明は、順次に六通の中の第五と第二と第六とを以って其の自性と為す。「大毘婆沙論巻102」に依るに、宿命明は過去の事を見て厭離を生じ、天眼明は未来の事を見て厭離を生じ、漏尽明は既に厭離し已りて涅槃を欣うなり。復た次ぎに宿命明は常見を除き、天眼明は断見を除き、漏尽明は此の二辺を離れて中道に安住す。復た次ぎに宿命明は空解脱門を引き、天眼明は無願解脱門を引き、漏尽明は無相解脱門を引く。かくの如く此の三明には皆勝用あるが故に、六通の中に於いて特に之を立てて明と為すと云い、又「大智度論巻2」には通と明との異を説き、「直だ過去の宿命の事を知る、これを通と名づけ、過去の因縁行業を知る、これを明と名づく。直だ此に死して彼に生ずるを知る、これを通と名づけ、行因縁の際会して失せざるを知る、これを明と名づく。直だ結使を尽くすのみにして、更に生ずるや生ぜざるやを知らず、これを通と名づけ、若し漏尽きて更に復た生ぜじと知る、これを明と名づく」と云えり。之に依るに明は通の更に勝れたる情態を称するものなるを知るべし。又「集異門足論巻3、巻15」、「雑阿毘曇心論巻6」、「倶舎論巻27」、「同光記巻27」、「大乗義章巻20本」等に出づ。<(望)
如佛所說。爾時菩薩精進不見身不見心。身無所作心無所念。身心一等而無分別。所求佛道以度眾生。不見眾生為此岸。佛道為彼岸。一切身心所作放捨。如夢所為覺無所作。是名寂滅。諸精進故名為波羅蜜。 仏の所説の如し、爾の時、菩薩は精進して、身を見ず、心を見ず、身に所作無く、心に所念無く、身心一等にして、分別無く、所求の仏道を以って、衆生を度すも、衆生を此岸と為し、仏道を彼岸と為すを見ず、一切の身心の所作を放捨して、夢の所為の覚めて所作無きが如し。是れを諸の精進を寂滅すと名づくるが故に、名づけて波羅蜜と為す。
例えば、
『仏』は、こう説かれている、――
爾の時、
『菩薩』は、
『精進して!』、
『身』も、
『心』も、
『見ず!』、
『身の所作』も、
『心の所念』も、
『無くして!』、
『身』と、
『心』とが、
『一つに!』、
『等しくなり!』、
『分別(区別)』が、
『無くなり!』、
『求めた!』所の、
『仏の道』で、
『衆生』を、
『度す!』が、
『衆生』は、
『此岸である!』とも、
『見ない!』し、
『仏道』は、
『彼岸である!』とも、
『見ない!』、
一切の、
『身』と、
『心』の、
『所作』を、
『放捨して!』、
譬えば、
『夢』中の、
『所為のように!』、
『覚めてみれば!』、
『所作が無い!』のと、
『同じである!』。
是れを、
諸の、
『精進』を、
『寂滅する!』と、
『称する!』が故に、
是れを、
『波羅蜜』と、
『称する!』。
  参考:『持世経巻4』:『持世。何謂菩薩摩訶薩善知正精進。菩薩摩訶薩住正精進。若菩薩為斷一切精進道故。名為住正精進。何以故。一切精進皆為是邪。諸有所發有作有行皆名為邪。何以故。一切法皆是邪作。有所發作皆是虛妄。若虛妄者即亦是邪。正精進者。無發無作無行無願。一切法中斷有所作。是菩薩於一切法中斷有所作。乃至涅槃相佛相中不生有所作相。是人善知一切所作皆為虛妄。為無所作故行道。若是正者則無所作。一切法平等無差別。無有所作過所作相。是菩薩善知精進非是精進道。不取不捨故說名住正精進。正精進者。即是諸精進不可得義。即是諸法如實知見義。所謂正精進如是見者。不復分別是邪精進是正精進。是故說名正精進』
  :即ち、身心は精進して懈息せざるが故に、応に毘梨耶波羅蜜を具足すべし。
所以者何。知一切精進皆是邪偽故。以一切作法皆是虛妄不實。如夢如幻。諸法平等是為真實。平等法中不應有所求索。是故知一切精進皆是虛妄。雖知精進虛妄。而常成就不退。是名菩薩真實精進。 所以は何んとなれば、一切の精進は、皆是れ邪偽なりと知るが故なり。一切の作法は、皆是れ虚妄、不実なるを以って、夢の如く、幻の如く、諸法は平等にして、是れを真実と為す。平等の法中には、応に求索する所の有るべからず。是の故に知る、一切の精進は、皆是れ虚妄なり、と。精進の虚妄なるを知ると雖も、常に成就して退かざる、是れを菩薩の真実の精進と名づく。
何故ならば、
一切の、
『精進』は、
皆、
『邪偽である!』と、
『知るからである!』。
一切の、
『作法(有為法)』は、
皆、
『虚妄であり!』、
『不実である!』が故に、
譬えば、
『夢のように!』、
『幻のように!』、
諸の、
『法』は、
『平等であり!』、
是れが、
『真実である!』。
即ち、
『平等』という、
『法』中には、
『求める!』所が、
『有るはずがない!』。
是の故に、
こう知る、――
一切の、
『精進』は、
皆、
『虚妄である!』、と。
即ち、
『精進』は、
『虚妄である!』と、
『知りながら!』、
常に、
『精進』を、
『成就して!』、
『廃退しない!』ので、
是れを、
『菩薩』の、
『真実の精進』と、
『称する!』。
如佛言。我於無量劫中。頭目髓腦以施眾生令其願滿。持戒忍辱禪定時。在山林中身體乾枯。或持齋節食。或絕諸色味或忍罵辱刀杖之患。是故身體焦枯。 仏の言うが如し、『我れは、無量劫中に於いて、頭目、髄脳を以って衆生に施し、其の願をして満てしむ。持戒、忍辱、禅定の時には、山林中に在りて、身体乾枯し、或は斎を持して食を節し、或は諸の色、味を絶やし、或は罵辱、刀杖の患を忍べば、是の故に身体焦枯せり。
例えば、
『仏』は、こう言われている、――
わたしは、
『無量劫』中に、
『頭目、髄脳』を、
『衆生』に、
『施して!』、
『衆生』の、
『願い!』を、
『満たしてきた!』。
『持戒、忍辱、禅定の時』には、
『山林』中に於いて、
『身体』が、
『乾いて!』、
『枯れた!』が、
或は、
『斎(一日一食)』を、
『持(たも)って!』、
『食』を、
『節したからであり!』、
或は、
『食』を、
『断って!』、
『色』や、
『味』を、
『絶やしたからであり!』、
或は、
『罵辱、刀杖』の、
『患(災難)』を、
『忍んだからであり!』、
是の故に、
『身体』が、
『憔悴して!』、
『枯れたのである!』。
  (さい):少欲知足なる比丘の食法。
又常坐禪曝露懃苦以求智慧。誦讀思惟問難講說。一切諸法以智分別好惡麤細虛實多少。供養無量諸佛。慇懃精進求此功德。欲具足五波羅蜜。我是時無所得。不得檀尸羼精進禪智慧波羅蜜。 又常に坐禅、曝露し、懃苦して以って智慧を求め、読誦、思惟、問難、講説して、一切の諸法を智を以って、好悪、麁細、虚実、多少を分別し、無量の諸仏を供養して、慇懃に精進して、此の功徳を求め、五波羅蜜を具足せんと欲せり。我れは是の時所得無く、檀、尸、羼、精進、禅、智慧波羅蜜を得ず。
又、
常に、
『坐禅し!』、
『曝露し!』、
『懃苦して!』、
『智慧』を、
『求め!』、
『読誦し!』、
『思惟し!』、
『問難し!』、
『講説して!』、
『智慧』で、
一切の、
『諸の法』の、
『好悪、麁細、虚実、多少』を、
『分別し!』、
『無量』の、
諸の、
『仏』を、
『供養して!』、
『丁寧に!』、
『精進して!』、
此の、
『功徳』を、
『求めて!』、
『五波羅蜜』を、
『具足しよう!』と、
『思った!』が、
わたしは、
是の時、
『得る!』所が、
『無く!』、
『檀、尸羅、羼提、精進、禅、智慧波羅蜜』を、
『得られなかった!』。
  曝露(ばくろ):屋外に住して露に身を曝す。
見然燈佛以五華散佛。布髮泥中。得無生法忍。即時六波羅蜜滿。於空中立偈讚然燈佛。見十方無量諸佛。是時得實精進身。精進平等故得心平等。心平等故得一切諸法平等。如是種種因緣相。名為精進波羅蜜
大智度論卷第十六
然灯仏に見(まみ)えて、五華を以って、仏に散らし、髪を泥中に布(し)くに、無生法忍を得て、即時に六波羅蜜満ちて、空中に立ちて、偈もて、然灯仏を讃じ、十方の諸仏に見ゆ。是の時、実の精進を得たり。身の精進は、平等なるが故に、心に平等を得、心平等なるが故に、一切諸法の平等を得たり』、と。是の如き種種の因縁の相を、名づけて精進波羅蜜と為す。
大智度論巻第十六
『然灯仏』に、
『見(まみ)えて!』、
『五本の華』を、
『仏』に、
『散らし!』、
『髪』を、
『泥』中に、
『敷いた!』時、
『無生法忍』を、
『得て!』、
即時に、
『六波羅蜜』が、
『満ちた!』。
『空』中に、
『立って!』、
『偈』で、
『然灯仏』を、
『讃歎する!』と、
十方の、
無量の、
『仏』に、
『見えることができ!』、
是の時、
『実の!』、
『精進』を、
『得た!』。
『身』の、
『行い!』の、
『精進』が、
『平等であった!』が故に、
『心』に、
『平等』を、
『得たのであり!』、
『心』が、
『平等である!』が故に、
一切の、
諸の、
『法』を、
『平等』に
『観ることができたのである!』、と。
是のような、
種種の、
『因縁の相』を、
『精進波羅蜜』と、
『称する!』。

大智度論巻第十六
  然灯仏(ねんとうぶつ):釈尊の過去世に奉事せし所の仏。『大智度論巻4(上)注:然灯仏』参照。


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